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◆フサイニのムスリム武装親衛隊と人種民族差別:Amin al-Husseini

写真(上):1943年11月,ボスニアのモスレム人武装親衛隊を視察するパレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサイニ:モーゼルKar98騎銃を射撃中だが,手前の兵士の鉄帽には武装親衛隊を示すSSの記章が入っている。最後方・左の兵士が被っているイスラム(トルコ)帽子「フェズ」は,モスレム人武装親衛隊特有のもの。少年兵も含め,武装親衛隊は,外国人,青少年を対象に志願兵募集を強行した。
Der Grossmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen der Waffen-SS. Der Grossmufti überzeugt sich von der Schiessausbildung der jungen Rekruten. 13.1.1944 [Herausgabedatum] PK-Aufnahme des SS-Kriegsberichter Gösling (Wb) Dating: November 1943 Photographer: Gösling 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。 

◆2011年9月2日・9日(金)NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」の「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)、9/7(水)、9/11(日)、9/13(水)。これらはZDF「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl」をもとにした番組。

◆2009年9月8日(火),9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』にゲスト出演。

写真(右):1941年7月,ドイツ兵に誇りあるヒゲを刈られているユダヤ人;1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で,ドイツ占領地のユダヤ人は,辱めを受けたり,強制連行されたり,あるいは虐殺されたりした。ドイツ兵は,ユダヤ人を辱めて楽しんでいる。老人を虐めても,名誉あるドイツ軍兵士とはならないが,ドイツの敵を懲らしめていると思っていたようだ。この場で殺さなかったので,慈悲を施してやったつもりなのか。
今でも日本人がブログで「ヨーロッパを旅行していると、髭をつけた黒ずくめいでたちの人達」をユダヤ人だと書いている。
Sowjetunion.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur); PK 691 Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆現代は,多様な文化や価値観を持った人々の共生が,持続可能な平和を構築するのに必要であると認識されています。これは,多民族・多人種の共生の視点であり,人種民族差別,特定グループの迫害,優生学とは,真っ向から対立する概念です。つまり,戦争と平和の問題は,サステイナビリティー(持続可能性)の議論と重なり合う部分が多いのです。この複合的な分野を扱う学問が環境平和学です。

1.優生学に基づく差別−似非科学のまやかし

20世紀前半、イタリア・ドイツのファシズム(全体主義)の独裁政治、軍備拡張、領土拡張が進み、世界秩序の再編成が唱えるようになった。そして、ファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ナチ党総統(党首)ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを、1925年の著作『わが闘争』で公言していた。ドイツを弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,ペストであると主張した。ドイツ人(アーリア人)を支配者民族とし、アンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人への憎悪を広めた。

ヒトラーは,ロシア人は野蛮なアジア人,非文明人だと公言していた。ヒトラーの『わが闘争』日本語版では,日本人の読者に受けるように、アジアの野蛮性に関する偏見に満ちた記述は削除された。現在でも、ヒトラーに心酔したり、優生学に基づく差別思想を喧伝してたりする日本人がいるのは,皮肉である。

◆ナチ党は、人種民族差別を正当化する優生学を信奉し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきであり,ユダヤ人やスラブ陣は、ドイツ民族を人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとしているとした。ユダヤ人やスラブ人は、下等民族・劣等人種であり,排除されなけらばならないと訴えた。しかし,アーリア人という「人種」は,恣意的区分にしか過ぎず、実在しない。

写真(右)1933年,ベルリンのユダヤ人商店のボイコットを撮影するナチス宣伝班:ユダヤ人は,辱めのために,首から「ドイツ人へ!ユダヤ人からは購入しない!」とかかれている。ユダヤ人の男の前にお店、男性のボイコットのSA(突撃隊)とSS(親衛隊) !ナチ党が政権をとると直ぐにユダヤ人への迫害が公的に行われた。警察も迫害を制止しなかった。
Original title: Zentralbild 1933 Boykottaktion der Nazis gegen jüdische Geschäfte, Berlin Filmleute warten auf Publikum, welches das Warenhaus betreten will (Wertheim). Archive title: Berlin.- Boykott jüdischer Geschäfte, SA- und SS-Leute vor Kaufhaus Wertheim, Mann mit Schild um den Hals "Deutsche! Wehrt Euch! Kauft nicht bei Juden!", rechts Mann mit Filmkamera filmend Dating: 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-R70355.引用(他引用不許可)。

ユダヤ人差別には,看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもあるが,法律・規則の上でも,ユダヤ人の人権が制限され,迫害が行われた。

ドイツの一連の反ユダヤ法(ユダヤ人排除のための法律)は,1933年のヒトラー首相任命直後から制定された。1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,第一次大戦後移住したのドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の定義と結婚制限),11月,ユダヤ人選挙権の剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。

1935年ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止した。ユダヤ人が定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなった。

写真(右)1933年,ベルリン,現在のアルムスタット通りにあったユダヤ人商店:ユダヤ人は,登録を命じられたが,敵性住民・下等劣等人種として,迫害を受けた。
Berlin 1933: Jüdische Händler in der Grenadierstraße (heute Almstadtstraße) im sogenannten "Scheunenviertel". Aufn.: P. Buch Dating: 1933 Photographer: Buch, P.撮影。 Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-1987-0413-502引用(他引用不許可)。

親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)は、1933年,ナチス政権の警察を支配し,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク,ダッハウに設置,親衛隊髑髏部隊に管理させた。これは,反ナチス的な人物のための「保護拘禁施設」だったが,後の強制収容所,絶滅収容所へと発展した。

1938年4月,ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々出され,財産の登録義務を課し、登録証発行料を徴収するようになった。強制収容所も、1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。

写真(右)1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査 :スカーフの女性(ローマ/ジプシー?)と国家保健局人種優生学研究センターの研究者が会話しているが,法医学的、人種的な衛生学・優生学は,下等人種・劣等民族を選別,排除することが最終目的だった。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- zwei Frauen mit weißem Kittel (Krankenschwestern, u.a. Eva Justin?) beim Abformen des Gesichts eines Mannes (Sinti/Roma?) Dating: 1936/1940 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ヨーロッパでは,移動生活を好む文化的集団を「ジプシー」と呼び習わしていた。ドイツでは,ナチ党政権下で、優生学が信奉され、ジプシーを下等人種、劣等民族として扱うようになった。現在、「ジプシー」は差別用語に当たるとして,言語の上,シンティ・ロマ,あるいはロマと呼ぶことが多くなった。

講談社現代新書『優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(米本昌平、鰓島次郎、松原洋子、市野川容孝)によれば,優生学に対して,ナチスやファシズムの専売特許だったかのように扱うのは間違いであり,社会主義者,自由主義者も,優生学が革命や社会の改良に科学的な正当化をしてくれるように錯覚していた。

「"優生学"という言葉を聞いて、すぐにヒトラーとかナチスのことを思い浮かべる人は、読者の中にもきっと多いだろう。確かに、ナチス政府が1930年代に開始した優生政策は、その規模、その暴力性において、歴史上、例を見ないものだった。しかしながら、優生学をヒトラーとナチスにだけ閉じ込めて理解するならば、歴史的事実の多くを逆に見落とすことになる。」

「ドイツでは、ナチス以前のワイマール共和国の時代に、優生政策の素地が徐々に形成されていった。北欧のデンマークでは、ナチス・ドイツよりも早く断種法が制定され、またスウェーデンでも、最近の問題となったように、実質的には強制と言える、優生学的な不妊手術が1930年代以降、50年代に至るまで実施されていた。ワイマール期のドイツと30年代の北欧諸国に共通するものは、福祉国家の形成ということである。」

◆1936年、ドイツ国家保健局人種優生学研究センター(民族衛生住民病理研究所とも訳される)は、所長のロベルト・リッター(Robert Ritter)博士の下で、人種汚染を防ぐための人種衛生活動を開始した。ジプシーは、反社会的混血人種とされ、ドイツ民族共同体にとって、人種汚染を引き起こす危険な存在とみなされた。1939年『ドイツ医師報』の「反社会的集団としてのジプシー」の中で、ジプシーのような「人種が劣等遺伝子の素質を次世代へ伝えることが必要であるが、目標は、このような性格上欠陥のある住民分子を容赦なく始末することである」とされた。

写真(右)1936-1940年,ドイツ人ロベルト・リッター(Robert Ritter)博士によるジプシー/ローマ(?)女性の調査;ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査の一環で,目的は,法医学的、優生学的に,下等人種・劣等民族を選別,排除する資料を作ることだった。当時はこの人種民族の選別が福祉につながると考えられていた。国家が、人種民族を選別することを財政上も推し進めていることからすると、人種民族の選別は福祉財政の一環ということになる。
Dr. Robert Ritter mit Aktenmappe und einer alten Frau (Sinti/Roma?), und Inspektor (?) der Ordnungspolizei Datierung: 1936/1940 ca. Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人「種」はなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。人種・民族を意図的に定義し,特定の人種民族を差別,迫害するのが,人種民族差別である。

「人種」の概念は,「種」でない以上,生物学的実体をもたない。しかし,為政者の意図や自己主張の概念が,「人種」を社会的構築物にしてしまった。人種の概念は,20世紀には,ナショナリズム,イデオロギーと結びついて,確固たる社会概念として広められ,社会的リアリティをもつと信じられてしまった。

優秀な人種,支配者民族と下等人種 (Untermenschen) ,劣等民族との対比で,特定の価値観を人々に植え付けた。

「概念」は社会の抱く「現実感」と表裏一体の関係にある。肌・目・髪の色,顔面角,鼻の形,体形は,個体差,個人差が大きいにもかかわらず,生まれながらにもつ人種的表象を意味するとされてきた。これを基準に,人種を選別し,人種の優劣をつけた。

写真(右)1940年9月,ポーランド侵攻1年後,ポーランド、クトノ・ゲットーのユダヤ人男性:ドイツが1939年に占領したポーランドのワルシャワ,ウッジ(リッツマンスタット),クラコウなど大規模なゲットーが設置され,ユダヤ人はそこから外に出ることはできなくなった。人種民族汚染を防ぐ福祉政策として、ユダヤ人の隔離、すなわちゲットーへの囲い込みが行われた。この優生学に基づく人種民族差別も、国家財政の支援を受けて行われた福祉政策と認識されていた。
Generelgouvernement: Die Bewohner des Ghettos in Kutno. PK-Jäger-Scherl Bilderdienst 655-41 Sep. 1940 Archivtitel: Polen, Kutno.- Jüdische Männer im Getto Datierung: September 1940 Fotograf: Jäger Agentur: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

社会的ダーヴィニズム(社会的進化論)では,下等人種・劣等民族は、自然淘汰されて当然だとした。植民地獲得の背景で,虐げられた人種・民族があっても,これは,社会進化の過程で当然起こる自然淘汰であるとされた。社会的ダーヴィニズムの上では,優勢な文明を誇る優秀な人種・民族が反映する一方で,役に立たない下等人種・劣等民族は,支配されてはじめて,社会に貢献できるようになると,人種民族差別が行われた。

優生学では,劣等な人間が繁殖力旺盛な場合,優秀な人間に障害となるので,人為的に排除する必要が生まれる。人類の遺伝的素質に注目して,品種改良するには,悪質の遺伝子を排除し,淘汰して,優良な遺伝子を残さなくてはならない,と優生学は主張する。1883年,イギリス人フランシス・ゴルトンSir Francis Galton:1822-1911)らが提唱したが,白色人種の優位性,植民地支配を正当化する論理として優生学は,帝国主義の中で,広まった。米国では,アジアからの移民排斥に,理論的根拠を与えたとされた。

写真(右)1934年9月5-10日,ナチ党ニュルンベルク大会で点呼のため整列するヒトラーユーゲント:「ニュルンベルク党大会の団結と力を誇示するナチ党のヒトラーユーゲント」。巨大なニュルンベルク・スタジアムで指導者アドルフ・ヒトラーの前に忠誠を誓う肉体的にも精神的にも優れたアーリア人、このような優生学上の人種民族差別が国家の方針として、公的支出を得て教育された。
Der Reichsparteitag der NSDAP in Nürnberg 1934. Hitlerjugend im Nürnberger Stadion angetreten zum Appell vor ihrem Führer Adolf Hitler Archivtitel: Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP "Reichsparteitag der Einheit und Stärke", Appell von Hitler-Jugend, 5.-10. September 1934 Datierung: September 1934 Agentur: Aktuelle-Bilder-Centrale Georg Pahl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

人種優生学研究センターは、ドイツの衛生・医療・福祉を扱う国家保健局の下にある人種衛生のための機関である。つまり、ヒト、人種には優劣があるという優生学に基づいて、ドイツ人(アーリア人)を人種汚染するような下等民族・劣等人種を選別し、その排除を目指していた。当時、優生学に基づく人種民族の選別が、国家・国民の福祉に繋がると考えられていた。人種民族の選別は、国家財政の負担において行われた人種衛生的な福祉政策だった。換言すれば、人種民族の共生ではなく、選別、差別、排除が福祉であった。

ドイツ人は、支配者民族アーリア人とされたから、健康で優秀でなくてはならなかった。そこで、ドイツの青少年を鍛え上げるプログラム「ヒトラーユーゲント」が全国的に導入された。これは、健康なドイツ人をメンバーとする青年団である。1936年12月、ヒトラーユーゲント法によって、国内の全ドイツ青少年がヒトラーユーゲントに加盟させられた。そして、人種民族差別を説く優生学を学び、肉体的、精神的道徳的に国家と共同体に奉仕する教育をうけることが決められた。

写真(右)1933-1939年,ヒトラーユーゲント(HJ)の青少年による騎馬戦:ペンテコステ(イエス復活日から50日目の)聖霊降臨のキャンプで,"騎士の戦い"が模様された。優秀なアーリア人は支配民族として,厳しい訓練を受ける必要があるとされた。
Hitlerjugend.- Im Pfingstlager, "Reiterkämpfe" Datierung: 1933/1939 ca. Fotograf: Weinrother, C.撮影。
写真は ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-2004-0031引用。(他引用不許可)

優秀なアーリア人は,支配者民族となるために,ヒトラーユーゲントに加盟させられた。10歳以上の青少年男女に、勤労奉仕、小銃射撃・グライダー訓練などが施された。1939年9月の第二次世界大戦勃発以降は、ヒトラーユーゲントでは軍事教練がいっそう強化された。ただし、日本陸海軍にも15・17歳から少年兵の制度があり、アメリカ海兵隊も16歳から志願兵(ボランティア)を募っていた。

どこの国でも、若くて健康な肉体は、兵士に最適である。社会の裏表を知らない純真な青少年は、愛国心に訴えるプロパガンダに最も影響される存在である。先天的な特性,遺伝的人格,生まれながらの生物学的な能力よりも,後天的な教育の力が強い影響を与えたようだ。

ポーランド人によるポーランド在住ドイツ系住民の虐待,ポーランド軍によるドイツ側放送局の襲撃を理由に,1939年9月1日,ドイツはポーランドに侵攻した。こうして,ドイツ本国の50万人を数えるドイツ・ユダヤ人に加えて,何百万人もの「東方ユダヤ人」(Ostjuden)がドイツの支配下に入ることになった。

1939年10月6日、ヒトラーはヨーロッパにおける民族新秩序の創出を宣言し、その達成のために、ユダヤ人問題を挙げ、諸民族の再定住を進めることになった。そして、ヒトラーは、親衛隊国家長官ヒムラーに敵性民族(ユダヤ人、スラブ人など)の排除を求め、「ドイツ民族強化のための帝国全権委員」に任命した。
民族再定住のために、親衛隊員以外にも、行政官、医師、看護婦、ソーシャルワーカー、大学教授、建築家などが動員された。

写真(右)1944年,ヒトラーユーゲント軍事訓練の一環としての軍用オートバイ乗車:兵器操作を簡単に!,10人の隊員が,武装親衛隊と同じ制服を着て,軍用オートバイの体験乗車で,フィールドを疾走する。ヒトラーユーゲントとしての,騎兵のように,戦場を走り回るための,事前の自動車操縦訓練でもあった。優秀なアーリア人は、国家防衛の義務には努力を惜しんではならず、命懸けで奉仕しなくてはならない。
Waffenwahl leicht gemacht! HJ als Gäste bei der Kavallerie können sich mit allen Waffen vetraut machen und so aus Anschauung sich für "ihre Waffe" entscheiden. Zehn Mann hoch geht es nach einer Feldübungsbesichtigung in lustiger Fahrt auf dem Krad durch das Gelände. Datierung: 1944 Fotograf: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1981-052-34A引用(他引用不許可)。

ポーランドの西側は、ドイツに併合され、ポーランド人の土地・財産は没収され、東部に追放された。その空間に、民族ドイツ人が入植させられた。民族ドイツ人とは、チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどドイツ以外の地域に分布するドイツ系民族の総称である。

第二次大戦勃発直前の1939年1月の国会演説において,ヒトラーは,次にユダヤ人によって戦争が仕掛けられれば,それはユダヤ人を殲滅する戦争となると予言した。ユダヤ人がアーリア人のドイツに攻撃を仕掛けてくる前に、先制攻撃をかけるというのが、ナチスの戦争正当化の論理だった。敵が攻撃してくるから、戦争にならざるを得なかったのだと。

ドイツに敗れたポーランドは,西部のシュレジエンをドイツ帝国領に併合され,東部地域は、総督領として,ドイツ人総督ハンス・フランクの支配下に置かれた。ユダヤ人は,住んでいた場所を追われ,都市一角に作られたユダヤ人居住区「ゲットー」に囲い込まれた。

写真(右)1935年,中国,上海、国際租界の駐在ドイツ人指定から成るヒトラーユーゲントの野外行進:ヒトラーユーゲントの大会やナチ党大会に,規律ある力強いパーファーマンスを行った。このような前途とある若者たちが,優秀なアーリア人として,支配者民族,ドイツ軍将兵,親衛隊員となることが期待された。
Osterfahrt der SA und HJ Shanghai nach Wusih Osterfahrt der SA und HJ Shanghai nach Wusih, im Zeltlager [Foto erworben durch NSDAP Shanghai 1935] [China, Wusih.- Osterfahrt der SA und HJ] Depicted place China Date 1935 Photographer Unknown
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

人種民族差別の「世界新秩序」は,既に,オーストリア,チェコスロバキアにも軍事的威嚇・併合によって推し進められていた。それが,第二次大戦勃発で,ポーランドがドイツの生存圏へと改編された。

ヒトラーの戦争の本質は、開戦当初から定まっていた。それは、エセ科学の優生学を信奉して、人種民族差別、下等人種・劣等民族の排除、人種汚染の防止に基づいてた。そして、財政負担を投じて、ユダヤ人、ジプシーと並んで、ドイツ人であっても、精神障害者を差別し告書が出された。そこでは、精神障害者安楽死計画の下で、ハダマール精神病院ハルトハイム城ブランデンブルク刑務所、グラーフェンエック、ピルナ、ベルンブルクのガス室などで、殺害された「生きるに値しない命」が、国家財政にどの程度寄与したかが計算されている。
T4作戦の第一段階が終了した1941年8月までに、患者7万273人を消毒(=殺戮)することで、ジャガイモ、肉、パン、バター、チーズ、パスタ、コーヒー、砂糖など食費が1日当たり24万5955.5ライヒスマルク節約でき、これは1年で8854万3980ライヒスマルク、10年で8億8543万9800ライヒスマルクの財政負担軽減になると推計している。

写真(右):1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターの法医学的・人種的な調査を行う-エヴァ・ユースティン:二人の女性と少年から聞き取りをしている彼女は,シンティ・ロマ/ジプシーの研究家で,ロマ語にも通じていた。ジプシーに犯罪的傾向があるのかどうかを調査し,彼らを排除することを提言した。このようなジプシー調査を基とした論文が認められ,博士号を授与された。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- Eva Justin vor einem Gebäude sitzend, mit zwei alten Frauen und einem Jungen Dating: 1936/1940 ca. Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1942年春、第二次大戦勃発から二年半たったころ、ドイツ小児科病院協会が設立された。目的は、住民1万人当たり小児科の児童ベット数を現行3.9床から8床に引き上げることである。ドイツ国家保健局長官レオナルド・コンティ(Leonard Conti)は、ドイツ小児科病院協会を講演し、協会設立総会には、総統官房を代表してビクトア・ブラックが出席した。総統官房長官フィリップ・ボーラーPhilipp BouhlerConti)は、1939年9月、ヒトラーの侍医ブラントとともに、障害者安楽死計画を遂行するよう命じられた人物で、ブラックはその代理である。

当時のドイツでは、巨大な児童施設はあったが、そこでは治療の中で、児童の心理・教育的看護が軽視されおり、それを改めることが、主張されている。専門医師が、児童に実際に面談するためには、児童が来院するのを待つのではなく、自ら児童のところへ出かけるべきであるとした。「指導的医師は、個々の地蔵の全人格に責任を負わなければならない」とされたのである。(クリスチアン・クリスチアン・プロス/ゲッツ・アリ(1989)『人間の価値−1918年から1945年までのドイツの医学』pp.75-95参照) ガス殺、致死注射により切り詰め、代わりに健康なアーリア人を兵士と労働者に養育することが選択されたのである。

ブランデンブルグの安楽死施設では、9,772人がガス殺されたというが、殺害された障害者の公式記録には、「急性統合失調症の発作」により部屋で死亡した、というように真相は隠されていた。障害者の安楽死は、障害者の苦しみや社会的な介護負担を取り除くという意味でガス殺、致死注射による「恩寵の死」とみなされたが、優生学の上の「生きるに値しない命」を国家政策として、施設・資金・人材・技術を投じて抹殺した「正反対の福祉政策」を意味していた。

T4作戦の本部のあった首都ベルリンティアガルテン4番地Tiergartenstraße.4)は、現在、世界的な楽団ベルリン・フィルハーモニーの玄関である。このベルリン・フィルハーモニーの玄関前の道沿いには、たくさんの花が捧げられている。

障害者安楽死計画は、ドイツのヒトラー総統の下で、法的根拠なしに秘密裏にガス殺、致死注射が実施されたのであるが、この計画が実施できた理由は、総統官房の行政官、一流の精神科医、優生学者(民族遺伝学者)の協力、国家財政の負担と施設の設置、物資の投入があったためである。

◆日本におけるハンセン病患者・元患者の人権回復に関しても、1996年以来公式に認められるようになったが、差別・偏見は根強い。差別・偏見は、必ずしも犯罪ではなく、処罰の対象とはなっていない。同じことは、HIVの感染者、精神障害者に対しても言える。入学拒否、診療拒否、就業拒否など人権侵害が起こっている。これに対しては、差別によって人間の尊厳や人権を損なうことが害悪であるという認識を広める啓蒙・社会啓発が必要となる。そのための教育強化、差別を禁止する法整備、人権侵害の救済機関の設置、さらには教育・医療・雇用機会の斡旋・提供、補助金支給も求められる。したがって、少数者の人権確保するために、財政負担がなされなければならない。


2.ポーランド・ユダヤ人―第二次大戦の勃発

1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリを処置。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。この特別部隊が、ポーランドのインテリ、ユダヤ人を探し出して、銃殺、処刑して回った。

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーで、トラックに乗るユダヤの若い男性:別の写真には,ドイツ兵士も写っているので,ゲットーの内外に労務者として,あるいは工場労働に派遣されるところではないかと思われる。
Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689 Dating: Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻で破壊された都市では,住民が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。

この時,労役に従事したユダヤ人を登録し,以後,家族を含めて,労役を課さないと宣伝したようだ。ユダヤ人には,労役をこなして,家族の身を保障しようとしたが,これはユダヤ人を把握して,ゲットーに移送するための姦計だった。労役させた後に,登録したユダヤ人をゲットーに強制移送した。

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーで、トラックに乗るユダヤの若い男性:別の写真には,ドイツ兵士も写っているので,ゲットーの内外に労務者として,あるいは工場労働に派遣されるところではないかと思われる。
ゲットーに押し込まれたユダヤ人たちは,ゲットー外部に労務者として派遣され,建設,清掃,工場の労働に従事した。ゲットー内部に賃金労働は限られていたから,ユダヤ人はたとえ報酬が僅かであっても,労役に従事するしかなかった。労働中に脱走することは可能だったようだが,ゲットーに残された家族に危害が及んだ。さらに,脱走に成功しても,ユダヤ人を匿ってくれるポーランド人はほとんどいなかった。ユダヤ人がゲットーの外で,生きてゆくことは困難だった。
Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689
English: Warsaw Ghetto: Truck in front of ruins of J.J. Gay palace at Grzybowska 19 street. Polski: Getto warszawskie: Ciężarówka przed ruinami pałacu J.J. Gaya na ulicy Grzybowskiej 19 (budynek z wieżyczką) w okolicy siedziby Gminy Żydowskiej (Grzybowska 26/28).
Depicted place Warschauer Ghetto
Date May 1941 Photographer Knobloch, Ludwig 撮影。
写真はWikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101I-134-0766-25, Polen, Ghetto Warschau, Juden auf LKW.jpg引用

◆ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を即決処刑したことである。1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。1941年6月22日,ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦で,占領下ソ連では,ユダヤ人やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に収監されたりした。ポーランドでも,ソ連でも,ドイツ親衛隊,警察,国防軍とともに,現地ポーランド,バルト諸国,ウクライナの警察・住民の一部は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。

ポーランド降伏から1年,フランス降伏後の1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーGhettoを作る法令が出された。ドイツに併合されたポーランド東部では、ユダヤ人の迫害、追放が行われていた。そこから、ワルシャワに多数のユダヤ人が流入していた時期だった。

ドイツ当局は、当初、アーリア人(ポーランド人)地区、ドイツ人地区、ユダヤ人地区と、人種民族ごとの居住区を設置しただけで、ゲットーの再来ではないと公言していた。しかし、1940年11月16日,ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーから出ることはできなくなった。

ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto


3.セルビア人の迫害−ユーゴスラビア占領

写真(右):1941年ごろ,オーストリア,マウトハウゼン収容所に到着した捕虜となったユーゴスラビア軍兵士:ドイツ軍は,ソ連との同盟を図ったユーゴスラビアを懲罰するために,ユーゴを武力で占領した。マウトハウゼン強制収容所には,この後,1941年6月22日に,独ソ戦が勃発すると,ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士が大量に送り込まれた。
ドイツ軍は,ユーゴスラビアで,ドイツ傀儡軍として武装親衛隊の志願兵を募ったが,セルビア人などスラブ系民族を蔑視していた。そして,ドイツに反抗したユーゴスラビア軍兵士を,強制収容所に収監し,過酷に扱った。彼らも,石切り場の重労働を課せられ,食糧不足,病気の蔓延,体罰・懲罰によって,殺害されたと思われる。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft, vermutlich jugoslawische Häftlinge im KZ Mauthausen Dating: 1941/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。 

1941年4月12日,ユーゴの首都ベオグラードが陥落,4月17日,ユーゴは降伏した。ヒトラーは,ユーゴの反抗も,ユダヤ人による反ドイツの陰謀だと考えたのか,ユーゴでも直ちにユダヤ人を迫害した。

敗戦国ユーゴスラヴィアは,解体され,ドイツ,ブルガリア,ハンガリー,イタリアに分割された。ダルマチア,モンテネグロコソボ(Kosovo)は,イタリアのものとなり,クロアチアは,ウスタシャを中核とするドイツ傀儡政権が樹立された。

ユーゴの傀儡政権が設立にかかわった武装親衛隊として,1943年8月のボスニア・モスレム義勇兵がクロアチアSS義勇山岳師団が編成された。これは,1943年10月,第13SS武装山岳師団,後の「SS Handschar ハントシャール」(三日月型短剣)となった。

バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン

ポスター(右):1939-45年,「我らの勝利!」:戦局の悪化した1943年以降のポスターで,兵士と労働者との総力戦を訴えている。
Unser der Sieg! Datierung: 1939/1945 Grafiker: Morocutti, Ottokar R.; Bernhard, Fritz Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツの武装親衛隊は,第二の軍隊を警戒するドイツ国防軍からは疎まれたために,国防軍の徴兵・兵役義務に対して,志願兵しか認められなかった。しかし,優れたアーリア人の家系,肉体的な優越性を条件としたエリートとして,ヒトラーの信頼を得ていたために,兵器の装備や補給物資について,優遇された。

ドイツ人だけに人的資源を頼ることができなかった武装親衛隊は,ドイツ占領下の外国人,民族ドイツ人に対しても,志願兵を募集した。しかし,アーリア人優先主義のために,これらの部隊に配分される兵器は旧式あるいは鹵獲兵器で,補給は劣悪だった。前線で活躍できる本格的な装甲師団は一つ編成されていない。その上,師団命名にあたっても SS師団ではなく,「SS義勇師団」(民族ドイツ人の師団)、「SS武装師団」(外国人の師団)と差別されていた。

写真(右):1941年12月9日,パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインと会談する親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー:イラク,パレスチナにおける反英暴動を引き起こすだけでなく、ヨーロッパ、ユーゴスラビアのムスリムを武装親衛隊としてドイツの手先にしようとたくらんだ。ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成したのである。
Der Grossmufti von Palästina vom Führer empfangen. Der Führer empfing in Gegenwart des Reichsministers des Auswärtigen von Ribbentrop den Grossmufti von Palästina, Sayid Amin al Husseini, zu einer herzlichen und für die Zukunft der arabischen Länder bedeutungsvollen Unterredung. 9.12.41 Presse Hoffmann Dating: Dezember 1941 Photographer: Hoffmann撮影。 Agency: Presse Hoffmann
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-164-18A, Großmufti Amin al Husseini, Heinrich Himmler.jpg引用。

クロアチアで設立された武装親衛隊の一つ第13SS武装山岳師団(SS Handschar:1st Croatian) は,ユーゴにおけるゲリラ鎮圧,パルチザン討伐に活躍した士気旺盛な部隊だった。パルチザン掃討は,モスレム人を襲撃するセルビア人民族主義者チュトニク(Chetnik)に対するものが中心で,相互に略奪や虐殺が行われた。

写真(右):1941年12月9日,ドイツ、ベルリン、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが集められた親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー隷下のムスリム武装親衛隊と歓談している:イラク,パレスチナにおける反英暴動を引き起こすだけでなく、ヨーロッパ、ユーゴスラビアのムスリムを武装親衛隊としてドイツの手先にしようとたくらんだ。ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成したのである。
Berlin, Besuch Amin el Husseini Der Grossmufti von Jerusalem im Gespräch mit Islamischen Freiwilligen. Anlässlich des Id-u Adha, des grossen mohammedanischen Festes, wurde im Haus der Flieger zu Berlin eine Feier der Mohammedanischen Gemeinde veranstaltet, bei der der Grossmufti von Jerusalem das "Islamische Zentral-Institut" eröffnete. Der Grossmufti im Gespräch mit islamischen Freiwilligen die ebenfalls an der Feier teilnahmen. 19.12.42 Presse-Hoffmann [Berlin.- Amin el Husseini im Gespräch mit islamischen Freiwilligen, u.a. der "Legion Aserbaidschan"] Abgebildete Personen: Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X) Depicted place Berlin Date 19 December 1942
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 147-0483, Berlin, Besuch Amin el Husseini.jpg引用。

アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,第一次世界大戦時はオスマン帝国軍に入隊していたが,戦後は英委任統治領パレスチナ政府のアラブ人顧問となった。1921年,エルサレム・ムフティ選挙に,対英協調を主張して当選,1923年最高ムスリム評議会議長,1933年エルサレム総主教を名乗る。パレスチナにあって,アラブ人(のちのパレスチナ人)とユダヤ人の抗争を煽動、 汎アラブ主義を唱えた。第二次大戦中,ドイツ軍のエジプト攻撃に便乗して,1941年にイラクで反英クーデターを策謀するも失敗,ドイツに亡命。1941年12月,ヒトラーとも会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争と引き換えに,汎アラブ主義を認められた。パレスチナに向けての反ユダヤ放送をドイツから実施した。モスレムによる武装SSの設立に加わった。ドイツ敗戦後は,対独協力者として英軍に逮捕,1946年,脱走,翌年脱獄、再びパレスチナで汎アラブ主義を唱えた。

写真(右):1941年12月9日,パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインと会談するアドルフ・ヒトラー総統:イラク,パレスチナにおける反英暴動を引き起こすために,イスラム指導者を利用しようとした。また,ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Grossmufti von Palästina vom Führer empfangen. Der Führer empfing in Gegenwart des Reichsministers des Auswärtigen von Ribbentrop den Grossmufti von Palästina, Sayid Amin al Husseini, zu einer herzlichen und für die Zukunft der arabischen Länder bedeutungsvollen Unterredung. 9.12.41 Presse Hoffmann Dating: Dezember 1941 Photographer: Hoffmann撮影。 Agency: Presse Hoffmann
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1987-004-09A引用(他引用不許可)。

アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,1921年にムフティ選挙に当選,1923年には,最高ムスリム評議会議長に就任し,1933年エルサレム総主教として,パレスチナで, 汎アラブ主義を主張した。そして,アラブ人に対して,パレスチナのユダヤ人排除を訴えた。

フサイニは,第二次大戦中,ドイツ軍アフリカ軍団によるエジプト攻撃に便乗し,1941年にイラクで反英クーデターを策謀した。しかし,反乱は失敗,ドイツに亡命した。

1941年12月,フサイニは,ヒトラーと会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争を約束し,パレスチナからのユダヤ人排除,汎アラブ主義を認めさせた。しかし,ヒトラーは,アラブ人など非アーリア人,アジア人を野蛮人として軽蔑しており,このフサイニとの取り決めは,あくまでもドイツの勢力を増強するための方便だった。

写真(右):1943年11月,パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインとドイツ武装親衛隊との記念集合写真:イラク,パレスチナにおける反英暴動を引き起こすだけでなく、ヨーロッパ、ユーゴスラビアのムスリムを武装親衛隊としてドイツの手先にしようとたくらんだ。ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成したのである。
Der Großmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen der Waffen-SS Gruppenbild: Mohammed Amin al-Husseini mit Soldaten der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroat. Nr. 1) Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X) Date November 1943
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-164-18A, Großmufti Amin al Husseini, Heinrich Himmler.jpg引用。

">ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1985-116-19A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。

写真(右):1943年11月,ドイツ、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊を閲兵する:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti von Jerusalem [Amin al Husseini] bei den bosnischen Freiwilligen der Waffen-SS. Der Großmufti ist auf dem Truppenübungsplatz ein[getroffen] und schreitet die Front der angetretenen Freiwilligen mit erhobenem Arm ab. Truppenübungsplatz Neuhammer/Schlesien [?].- Mohammed Amin al-Husseini (Mitte) und der Divisionskommandeur der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroatische Nr. 1), SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS Karl-Gustav Sauberzweig (rec Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X) Sauberzweig, Karl-Gustav: 1899-1946; SS-Brigadeführer, Deutschland Date November 1943
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1980-036-05, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。

フサイニは,パレスチナのアラブ人に対して,反ユダヤ主義の放送をドイツから流したが,これはドイツの政策だったアンチセミティズム Antisemitismに基づくユダヤ人排除に便乗したものだった。そして,ヒトラーは,フサイニのムフティとしての宗教的権威を利用して,ユーゴ,特にボスニアに居住するモスレム(ムスリム)による武装SSの設立を支援させた。

磯村尚弘(2006)「建国初期ユーゴスラヴィアにおけるカトリック教会のクロアチア民族主義に対する姿勢の変遷」『多元文化』第6号所収によれば, 1941年4月6日のドイツ軍ユーゴスラビア侵攻後,ユーゴ王国は分割占領された。そして,クロアチアは4月10日,ドイツ傀儡政権として独立し,過激なクロアチア人優先を唱える民族主義者団体「ウスタシャ」が政権を握った。

ウスタシャ党首パヴェリッチ(Ante Pavelić)は,ポグラヴニク(国家指導者)に就任し,カトリック教会んp祝福を受けた。当時,ザグレブ大司教ステピナッツは,クロアチア独立国の建国を「クロアチア民族にとって非常に重要な出来事」と述べ,カトリック教会復権を期待した。

クロアチアは,それまでクロアチアを抑圧していたことを理由に,セルビア人迫害を開始し,教育大臣ブダク(Mile Budak)は,国内のセルビア人約200万人の3分の 1を国外追放し,3分の1をカトリック教会に強制改宗させ,残りを殺害したといわれる。 1941年6月,独ソ戦開始の時期には,ヤセノバツなど強制収容へのセルビア人移送が開始された。

写真(右):1943年11月,ドイツ、ベルリン、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊少年兵に小銃の扱い方を教授している:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti Amin al Husseini überzeugt sich von der Ausbildung am Gewehr. Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X) Date November 1943 Photographer Mielke Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146)
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-164-18A, Großmufti Amin al Husseini, Heinrich Himmler.jpg引用。

">ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-05A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。

イタリアは,ボスニア・ヘルツェゴビィナを統治し,クロアチア独立国のウスタシャ政権は,強制収容所を設置し,反対派の共産主義者,親ソ連派あるいは敵性民族のセルビア人,スロベニア人,ユダヤ人を収監したり,処刑したりした。

クロアチア独立国は,セルビア人に対しカトリック教会に強制改宗させる政策を建国直後から実施し,カトリック教会の聖職者も強制改宗に協力したとされる。

写真(右):1943年11月,ドイツ、ベルリン、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊を閲兵している:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen-Verbänden der Waffen-SS. Der Grossmufti ist auf dem Truppenübungsplatz eingetroffen und schreitet die Front der angetretenen Freiwilligen mit erhobenem Arm ab. SS-PK.-Mielke Nov.1943 Truppenübungsplatz Neuhammer/Schlesien.- Mohammed Amin al-Husseini und der Divisionskommandeur der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroatische Nr. 1), SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS Karl-Gustav Sauberzweig beim Abschreite Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X) Sauberzweig, Karl-Gustav: 1899-1946; SS-Brigadeführer, Deutschland Date November 1943
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-164-18A, Großmufti Amin al Husseini, Heinrich Himmler.jpg引用。

">ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1970-041-50, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。

1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書
「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」

ドイツ軍によるソ連侵攻の2週間前,1941年6月6日,政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)が出た。これは,ボリシェビキの残忍さ,アジアの野蛮性を前提とした殲滅戦にあって,ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校であるコミサールは,パルチザンの温床であり,処刑すべきことを支持した命令である。そして,コミサール殲滅は,親衛隊アインザッツグルッペ(特別行動部隊)が担った。



写真(右):1943年11月,ドイツ、ベルリン、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊を閲兵している:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen der Waffen-SS. Der Großmufti schreitet die Front mit Hitlergruß ab. SS-PK-Kriegsber. Mielke Truppenübungsplatz Neuhammer/Schlesien.- Mohammed Amin al-Husseini (Mitte) und der Divisionskommandeur der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroatische Nr. 1), SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS Karl-Gustav Sauberzweig (links) Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X) Sauberzweig, Karl-Gustav: 1899-1946; SS-Brigadeführer, Deutschland Date November 1943
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-164-18A, Großmufti Amin al Husseini, Heinrich Himmler.jpg引用。

">ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-04A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。

4.スラブ人迫害−ソ連侵攻バルバロッサ作戦

1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,ソ連を攻撃した。このよるソ連侵攻バルバロッサ作戦が発動されたのは,次のような理由からだった。

写真(右)1942年,ソ連,クリム,軍馬を洗うドイツ軍将兵:路外悪路,山岳地帯でも荷物・兵員を輸送できる軍馬は,ドイツ軍にも大量に飼育していた。ハーフトラック,牽引車など自動車化,機械化されたイメージのドイツ軍だったが,戦線後方の輸送には,馬匹,馬車が使用されていた。。小型4人乗りの小型装甲車Sd.Kfz 250は6000台,10人乗りの大型装甲車Sd.Kfz.251は1万5000台以上生産されたが,前線で戦う装甲師団の歩兵(猟兵)に優先的に配備された。ドイツ軍には,軍用トラックのほか馬,馬車の輸送部隊も多かった。
Sowjetunion, Krim.- Erholung von der Front, Pferdewäsche, Soldaten am Strand Dating: 1942 ca. Photographer: Grund, Horst 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・N_1603_Bild-112_Russland引用(他引用不許可)。 

?ナチスは,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。

?ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。

写真(右)1941年,ルーマニアの農村の子供たち:裸足のかわいい子供たちだが,1990年代になっても,東北部のビストリッチァ地方,マラムレッシュ地方には,民族色が農耕に残っていた。
ドイツ軍宣伝班のホルスト・グントも,ルーマニア,ブルガリア,ソ連のクリミアやウクライナ,シシリア島などを戦時中に訪れ,その地域文化に感嘆しながら,カラー写真を撮影したようだ。
Rumänien (Bukarest).- Land und Leute, Gruppe von Kindern auf unbefestigter Straße in einer Ortschaft Dating: 1941 ca. Photographer: Grund, Horst 撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・N_1603_Bild-008引用(他引用不許可)。


フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。

?優生学上、ロシア人,ウクライナ人などを劣等化等民族と位置づけ,東方ソ連をドイツの生存と繁栄のための生存圏とみなした。

バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻


写真(右)1941年7月,ソ連(ロシア)モギリョフ,市内整備作業に向かうユダヤ人の行列

Rußland, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Kolonne von Juden mit aufgenähten Judenstern und Spaten unter Bewachung von Wehrmachtssoldaten beim Marsch durch die Stadt; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1083-31引用(他引用不許可)。

独ソ戦バルバロッサ作戦は,電撃戦の大成功の事例に挙げられる。しかし,東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡した。

ポーランド・ウクライナの係争の地で,ソ連領だったリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐し,レンベルク(リボフ)を占領。しかし,ドイツのソ連侵攻の一週間後の6月30日,ドイツ軍は,リボフを再占領した。

1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連の秘密警察NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)

写真(右):1941年7月,ソ連,モギリョフ,市街の戦禍後片付けを強要されるユダヤ人:大きなユダヤの星のマークをつけさせられ,清掃の使役を命じられたユダヤ人。しかし,親衛隊の目的は,市街の戦禍復旧ではなく,使役を名目にユダヤ人を登録することだった。使役をこなせば,家族の安全も保障されるという偽りに騙されて,ユダヤ人は家族の氏名,住所まで情報を提供した。これをもとに,親衛隊はユダヤ人を集めて,強制収容所に移送したり,処刑したりした。これは,ポーランド・ユダヤ人にも既に実施した手馴れた姦計だった。
Sowjetunion, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen beim Säubern einer Straße, Beladen von Wagen; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1084-03引用(他引用不許可)。

第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国の警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー隔離に協力した。

その後,ゲットーから強制収容所に移送,ホロコーストが始まった。

写真(右)1941年7月,ソ連モギリョフ,市内整備作業の使役をさせられるユダヤ人男性:ユダヤの星の大きなマークを上着につけさせられている男たちが,道路の清掃作業なのか,木製貨車に散乱していた小銃(路上に3丁以上,破損?),機銃弾薬・手榴弾(貨車の手前),ガスマスク(貨車にあり)などを貨車に載せている。ソ連軍捕虜をここで武装解除したのか。
Sowjetunion, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen beim Säubern einer Straße, Beladen von Wagen; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1084-06引用(他引用不許可)。

ドイツ軍,ソ連軍ともに,敵の捕虜に対しては,厳しく取り扱った。どちら側の兵士も,頑強に戦い続け,容易に投降することはなかった,といわれるが,これはお互いに捕虜となればどんな運命が待ち受けているか,容易に想像できたからだろう。


カラー写真(右):1941年9月,ソ連,ウクライナ,ポルタヴァのウクライナ民族衣装
:独ソ戦当初,スターリン支配,共産党の圧制に苦しんでいたウクライナでは,ドイツ人を解放者のように歓迎した住民も少なくなかった。しかし,ドイツ人の多くは,スラブ人を下等人種,劣等民族と蔑視しており,ヒトラーの被支配地への政策も,資源,食料を挑発し,強制労働を課す略奪だった。
Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Datierung: 1941 Sommer Fotograf: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

戦禍の後片付けや道路清掃作業のような苦役なら,ユダヤ人も耐えた。ユダヤ人登録に応じ,労働作業に向かった。ユダヤ人は,使役に出ることで,身の安全を確保しようとした。

ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも起こった。

ユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人が,ソ連共産党ボリシェビキの下で,政治的,経済的に優位にあった,現地のポーランド人,ウクライナ人を抑圧したという偏見だった。

写真(右):1942年,ソ連,クリム,荷車で運搬するロシア婦人たち
Sowjetunion, Krim.- sowjetische Flüchtlinge einen Holzwagen / Karren auf einer Straße ziehend und schiebend Dating: 1942 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


しかし,ナチスドイツは,優生学を信奉し、アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与する下等劣等人種は全て排除するつもりだった。

ドイツ国防軍将兵は,独ソ戦の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。

ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ人を憎むようになった。

特定の人種民族追放が,軽い差別であるように思うのは誤りである。追放に際して,持ち出せた資産は僅かだった。不動産,書くなどのほかに,仕事も,学籍も失った。

たしかにユダヤ人追放というのは,後のユダヤ人絶滅と比較すれば,「軽い」が,現在の視点から見れば,完全な迫害である。失職し,学校に通うことができず,自分の住む家から追い出される,これはとてつもない困難を引き起こす。

強制移動、失職、財産権の制限を伴う追放は,それだけで基本的人権の侵害であり,迫害というに値する。 

独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人1万9953名が第一陣として、ポーランドのウーチ・ゲットーに強制移送された。1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなる。(芝健介『ヒトラーのニュルンベルク』180-193頁)

写真(右)1941年12月-1942年1月,ロシア中部における防寒具を着込んだ男たち:手袋を脱いで足を組んで座っている男性は,小さな器で酒を飲んでいるらしい。
Rußland-Mitte (bei Orel).-Dez. 1941/Jan.1942; PK 698 Dating: 1941/1942 Dezember - Januar Photographer: Koll撮影。
写真は ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_101I-287-0872-14引用。(他引用不許可)

ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人の財産没収,強制収容所への移送は当然のように知っていた。ドイツだけでなく,ヨーロッパ中のユダヤ人が,「東方」に続々と送られていることは,ドイツ鉄道職員にも,沿線住民にも,常識だった。

東方ソ連でもユダヤ人,スラブ人(ウクライナ人,ロシア人,セルビア人など)が,パルチザン容疑者やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に送られたりしていることを東部戦線のドイツ軍兵士は知っていた。強制収容所に移送されれば,出られないことも,みなが知っていた。が,虐殺の話は,公の場では語られなかった。

居住地を追われてゲットーに押し込められ,隔離されたユダヤ人を追放する場所はなかった。ソ連軍の大量の捕虜にも,食料や監視兵力を割きたくはなかった。東方ソ連の肥沃な大地,資源は,入植するドイツ人,民族ドイツ人のための生存圏だった。

ナチスは,隔離したユダヤ人,ソ連軍捕虜を釈放して,ドイツにとっての災いの種にするつもりはなかった。予防戦争の論理に則って,敵が弱いうちに殲滅すべきであると考え,収容所のユダヤ人,スラブ人を,劣悪な環境に置き,順次,死ぬに任せた。後には,積極的に殺戮した。


5.ユダヤ人迫害

◆ドイツのソ連侵攻2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)

?満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。
?ユダヤの星は手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左旨に縫い付けること。

しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示した人もいた。そこで,ユダヤの星着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示した人物に対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。

1941年11月4日,ドイツ帝国財務省令:国民経済に重要な企業で就労していないユダヤ人は,数ヶ月以内に,東方に追放する。追放されるユダヤ人の財産は,ドイツ帝国のために没収する。


国家財政を投じて行われた福祉政策が、優生学の枠の中で実施された結果、下等人種・劣等民族や精神障害者を排除することが、健康な国民養成に必要であるとされた。

写真(右)1941年,ベルギー、オステンドから西に通信用ケーブルを敷設する強制労働
Belgien.- Verlegung eines Kabels von Ostende nach Westende; Arbeitseinsatz von Zwangsarbeitern Datierung: 1941 Fotograf: Herrmann, Ernst Quelle: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆ユダヤ人は,アーリア人を人種汚染し,共産主義者がソ連を,国際金融資本家・マスメディア経営者がアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域は,東方ソ連にはない。逆に,東方ソ連のユダヤ人,スラブ人が,強制収容所や東方労働者として,ポーランドやドイツに連れてこられていた。ヨーロッパのユダヤ人,東方ソ連のスラブ人は,同じようには差別,迫害された。ユダヤ人,スラブ人は,奴隷労働者として酷使され,使えなくなれば廃棄された。

ドイツが占領したポーランド東半分を統治したポーランド総督ハンス・フランクは,後に,自分自身を含めて「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのでだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」(ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー 4 奈落の底へ』122-123頁)

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラーは,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。これはナチズムの本質だった。

写真(右)1941-1944年,ソ連,身分証明書と女性を照らし合わせるドイツ軍将兵:ソ連女性はドイツ軍兵士に敵性住民の嫌疑をかけられ,逮捕されたのか。ユダヤ人として拘束されたのか。スラブ人として辱められるのか。
Gefangene, der Ausweis beweist ihre Zugehörigkeit zur Sowjet-Truppe. (Hauptreferat Bildpresse VI/697) Archive title: Sowjetunion.- Deutsche Soldaten bei der Festnahme einer sowjetischen Frau (kriegsgefangene Soldatin ?) Dating: 1941/1944 ca. Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。 

ドイツのナチ党政権は,下等人種・劣等民族に対して,初めに,戦禍の後片付けの作業を強要した。ユダヤ人に戦災で荒廃した市内を整備させる作業を担わせたのである。そして,ユダヤ人労働部隊を編成するために,現地のユダヤ人を登録した。登録したユダヤ人は,これで家族の身の安全が保障されたように錯覚した。ユダヤ人は,使役に出ることで,身の安全を確保しようとした。

親衛隊の目的は,ユダヤ人の排除だったから,戦禍の後片付けの使役,そのためのユダヤ人登録は,現地のユダヤ人を完全に掌握するための手段に過ぎなかった。

ドイツ軍占領地域におけるユダヤ人登録や使役の監督作業には,親衛隊,ドイツ警察さらにはウクライナ人や反ユダヤの現地住民も協力した。逃亡しようとすれば,反ユダヤ的な現地住民に密告されるリスクもあった。

また,ユダヤ人の使役するだけでなく,ユダヤ人の資産没収,不動産・家具の強奪など,ユダヤ人を迫害して,利益を上げようとするものもいた。

写真(右):1942年8月,ソ連,ドン地方,住民が互いにシラミを採っているのを眺めるドイツ軍兵士:住民へのあたったかな視線が感じられる写真。二人のドイツ軍兵士は,リラックスしてロシアの家族を眺めているが,住民もドイツ軍兵を受け入れているように見える。ドイツのプロパガンダかもしれないが,当時,ロシアの田舎の人々とドイツ人が出会う機会なかった。ドイツ人にとっては,世界旅行のような気分だった。
人種民族的な偏見ではなく,好奇心,暖かな視線を感じることができる。1942年8月,同じ人物を同じ場所で撮影したカラー写真が Bundesarchiv にBild169-0643 からBild169-0647まで5枚も保管されている。ナチスの人種民族差別が,すべてのドイツ人を毒してしまったわけではない。ドイツ国防軍の中には,ロシア人と友人のような関係を取り結びたいと思っていた兵士も少なくなかった。

1941年6月22日,ドイツ軍はバルバロッサ作戦に則って,ソ連に侵攻した。これは,中央軍集団によるモスクワ方面への中央突破,ソ連軍撃滅を企図した作戦だった。しかし,1941年末には,ソ連軍の頑強な抵抗を受けて,攻撃は停滞,ソ連軍の冬季攻勢を受けて,敗走する部隊も出始めた。ヒトラーは,ドイツ軍に補給も陣地が整っていない現状では,撤退を始めれば,敗走が続き,殲滅されると考えた。そこで,現地死守を命じた。
Die Einwohner entlausen sich gegenseitig Dorf am Don, August 1942 Dating: August 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ国防軍以上に,武装SSでは,優生学に基づく政治・世界観の教育(人種民族差別)が徹底していた。このような人権軽視,非アーリア人蔑視の人種民族差別が,残虐性を引き出したと考えられる。

日中戦争に際して,中国軍は,日本軍による殺しつくす(殺光),焼きつくす(焼光),奪いつくす(槍光)ような治安対策を,「三光」と呼んだ。日本軍は,便衣(パルチザン)の掃討,治安回復のために,敵性住民に対して,三光作戦を展開した。捕虜や抵抗運動の幇助者に対する厳しい取り調べ(拷問)や処断(処刑)は、裁判・司法を経ずしても行われた。日本にも、支那人(中国人)・朝鮮人(コリアン)に対する蔑視、大和民族の優位という優生学的発想があった。そして、初等教育から高等教育まで、このようなえせ科学の優生学に基づく大和民族の優秀性を教え込んでいた。

写真(右)1938年9月6-12日,ナチ党ニュルンベルク大会に参加したヒトラーユーゲントの楽団:ニュルンベルクのスタジアムで,ヒトラーユーゲント帝国指導者バルドゥール・フォン・シーラハの監督下,ヒトラーユーゲント青少年リーダーが,リハーサルする。
10. Reichsparteitag der NSDAP vom 6.-12. September 1938 in Nürnberg UBz: den Reichsleiter Baldur von Schirach, Reichsjugendführer der NSDAP bei der Generalprobe der Hitler-Jugend zum Reichsparteitag im Stadion in Nürnberg. H 0122/501/ 1 N Datierung: September 1938 Fotograf: o.Ang.
写真はWikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・File:Bundesarchiv Bild 183-H0122-0501-001, Nürnberg, Reichsparteitag, HJ-Generalprobe.jpg引用。

ズザンネ・ハイム (Susanne Heim:川喜田敦子訳「ナチ体制下のホロコーストと科学」には次のようにある。

「過剰人口の問題に対してある特殊な‘処方’を案出したのはドイツの科学者であった。彼らは ‘非ユダヤ化’ こそがポーランドの社会的経済的構造を安定化させるための第一歩であると考えたのである。占領下ポーランドの経済相は将来の経済政策構想を次のように略述している。経済活動の成長の前提条件’は‘経済構造全体の根本的な変革’であり、それはまず何よりも‘ユダヤ部門の大幅な合理化’である。」

「‘ユダヤ部門を縮小することにより、ポーランド部門が遅れを取り戻す機会が生じるであろう。[…]無論、この商業移住は無秩序、無規律に行われることがないよう適切に組織されなければならない。’------この計画の前提条件は大規模な再定住、ヒムラーの言葉を借りるならば‘民族集団全体の移植’であった。このような民族的思考は住民を ‘価値’ に応じて階層化することと分かちがたく結びついていた。そしてこのヒエラルキーの最下層に位置したのがユダヤ人であった。」(引用終わり)

 <ユダヤ人虐殺の理由>
1.中世以来,市民権を持っていない非キリスト教徒ユダヤ人が多く,土地所有権・貸借権もなかった。そこで,ユダヤ農民は少なく,都市の商業・教育・医療・金融などに就業せざるをえなかった。このように権利が制限されている人種民族は,困難な状況を克服しようとする。これが「マージナルマンの論理」である。しかし、ナチスは,特定少数派の人種民族の成功を卑怯な陰謀のためであると邪推した。

2.不況や敗戦などの国家的困難は,政治的,軍事的指導者の責任・無能さ・失敗が原因であり、事業の失敗は経営者の責任である。しかし,失敗の責任を他人に転嫁する者も多い。多数のドイツ人が,第一次大戦の敗北を、1918年ドイツ革命、それを仕組んだユダヤ人のせいにした。これは,少数派を選んで,責任を転嫁する「スケープ・ゴート(生贄のヤギ)の論理」である。

3.第一次大戦で,第一級鉄十字賞を授与されたヒトラーは,前線のドイツ軍兵士が勇戦していたにもかかわらず,後方のユダヤ人政治家や共産主義者が1918年ドイツ革命を起こして,ドイツを敗戦に陥れたと考えた。ドイツ人は,ドイツ敗北のトラウマから逃れるために,ユダヤ人・共産主義者による「背後からの匕首(アイクチ)の一突き」、すなわち敗戦の原因は国内の陰謀・裏切りにあると信じた。

4.ナチスは,自分たちを至高のアーリア人であると妄想し,人種汚染を引き起こすユダヤ人や知的障害者を迫害した。これがアーリア人優位の裏返しの「下等人種民族(ウンターメンシュ)排除論」である。

5.ナチスは,ユダヤ人は,?優秀なドイツ民族を人種汚染し,?共産主義を広めて革命の混乱に落としいれ,?ソ連・アメリカ・イギリスを操って,反ドイツの戦争を起こしていると考えた。その目的は,ユダヤ人による世界支配である。共産主義者としてソ連を動かし,金融資本家・メディア経営者として民主主義=衆愚政治の米英を操っているユダヤ人は,ドイツを人種汚染し,破壊する敵である。したがって、ユダヤ人は,ヨーロッパから排除しなくてならない。知的障害者の安楽死(T4)計画も,劣等遺伝子による人種汚染からドイツ人を守るための措置だった。ヒトラーは、1939年1月の開戦直前の国会演説から,1945年4月の政治的遺書まで,ユダヤ人殲滅戦争の遂行を公言している。

6.ユダヤ人の共産主義者・金融資本家・マスメディアが,ドイツに戦争を仕掛けてくるのであれば,第一次大戦のように「背後の裏切り」によってドイツが敗北しないように,ヨーロッパ・ユダヤ人を排除すべきである。しかし,独ソ戦の戦局悪化,日米戦争の勃発で,アメリカ・ユダヤ人もドイツ人に戦争を仕掛けてくる。ドイツには三国軍事同盟で参戦義務がないにもかかわらず,国会で対米宣戦布告をし,ユダヤ人殲滅戦を宣言した。対ポーランド戦,対ソ戦の宣戦布告はしていないのにもかかわらず。つまり,ユダヤ人殲滅の世界戦争は,ヒトラーに課せられた宿命だった。

7.現実主義者のヒトラーは,ユダヤ人絶滅の崇高な使命を,善良なキリスト教徒のドイツ人が理解できるとは思わなかった。また,ユダヤ人絶滅が実行されていると敵が察知すれば,各国は全力を上げて,ドイツに反撃するに違いない。したがって,ユダヤ人絶滅を公言はしても,実際に絶滅を開始したていることは,一切秘密にされた。ドイツのキリスト教徒の団結を維持し,敵連合国・ユダヤ人の必死の反撃を受けないように,ユダヤ人絶滅計画はひそかに行われた。

8.ユダヤ人絶滅は,人種汚染を防ぎ,優秀なドイツ人の血を維持するためで、労働力としてユダヤ人を活用することはあったが、この奴隷労働者は,病死・過労死・虐待死するまで働かされた。つまり,ユダヤ囚人による奴隷労働も,究極目的は,軍需生産への労働力供給よりもユダヤ人絶滅を優先したものだった。

9.女子供まで殺害するユダヤ人虐殺は,治安維持の任務を超えており,名誉あるドイツ国防軍の任務ではない。キリスト教徒の信義を守るべきであるとの反論や反抗もドイツ国防軍の将官,兵士の中に起こった。しかし、1942年9月5日,陸軍参謀総長カイテル将軍がユダヤ人労働者を全てポーランド人労働者に転換するとの命令を出した。10月2日,親衛隊国家長官ヒムラーは,「内心はユダヤ人と自分の事業を守りたいがために,軍需産業への影響を引き合す連中には断固たる態度で臨む」とした。ドイツ国防軍,警察,官僚,政治家などドイツ人有力者によるユダヤ人虐殺反対運動は弱かった。

10.1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数百名が,夫の収監されたローゼン通りで静かに抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人への弾圧は,士気を乱す。ヒトラーにも,婦人たちを武力排除できなかった。1943年3月6日のゲッベルス宣伝省の日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。混血結婚したユダヤ人は釈放されたのである。ヒトラーは「背後からの匕首の一突き」を信じていたから,ドイツの世論が反ナチス,ユダヤ人迫害反対に変化することを恐れた。1942年に知的障害者安楽死(T4)を中断したのも,子供を殺された親類・宗教関係者の発言・世論を恐れたためだった。ドイツ一般市民が従順で,世論の反対がない場合,ユダヤ人大量殺戮は着実に遂行された。

アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅

写真(右)1941年5月25日,ポーランドのワルシャワ、ゲットー(ユダヤ人を囲い込んだ居住区)の死体置き場:腕章を巻いたユダヤ人が,奥の死体置き場で記録をとっている。このような悲惨な状況に陥るくらいなら,強制収容所に移送され,労働に従事して生きるほうがよいと考えるユダヤ人もいた。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』 The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan (1941/10/9)
「ゲットーの外とされたプラガへ続く道は,フェンスに囲いもまれている。しかし,ゲンシャ街のユダヤ人共同墓地とアーリア人畜との間には,実質的な境界は存在しない。------
ゲットーでは,死が大きな利益をもたらす大産業になっている。平和な時代には,ユダヤ人共同体の手によって葬儀が行われた,-----いかし,今ではそうではない。どこを向いても葬儀屋の事務所があり,店先には黒塗りの荷車が置かれている。これは,飢えとチフスによって死んだ者への緊急援助であり,そのような死者は,今では数万にも及んでいる。
死者が出ると,会葬者は葬儀屋に商品(遺体)を引渡し,葬儀屋がその子を取り仕切る。こうして,馬が引くあるいは,葬儀屋に雇われた者が人力車のように引く黒塗りの荷車が,遺体を次々と受け取って,積めるだけ積み込み,山となった遺体を墓地へ運んで行く。-----
この死の行列に心を動かすものは一人もいない。死は,ジョイント(米国援助団体)のスープ給食所やパンの配給カード,ドイツ兵に向かって帽子を脱ぐことと同様,日常的な出来事になってしまったからである。-----
清めの建物は,数百者遺体を収容しきれない。既にいっぱいなのに,遺体はなおも運び込まれ,墓地の馬小屋が死体安置所として使われている。異体は最小のスペースに最多の商品が納められるよう,見事な手並みで並べられる。-----
ユダヤ人評議会の共同墓地には,数百人もの職員が配置され,利権を貪る。---我々は評議会ではなく,墓地の会計係りに像儀の支払いをしなくてはならない。より正確に言えば,墓地の係員に支払い,彼はその金を自分の懐に入れてしまう。係員の男は,遺体を埋葬する指示を与えるが,一定の場所を指定することはない。共同墓地事務所は,区画の割り当てをせず,埋葬の許可を与えるだけである。-----
許可を手に入れた後,会葬者と埋葬を行う者たち,すなわち埋葬を委託された業者との間で,個人的に折衝しなければならない。」
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Zwei Männer (Juden) mit Armbinden mit Judenstern vor Leichen in einer Halle; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0783-06.引用(他引用不許可)。

1941年6月22日以降のドイツのソ連侵攻は,優生学に基づいた下等人種殲滅戦争の第二段階だった。 既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。また,1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。

バルバロッサ作戦の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として処刑した。


◆優生学の観点からは、人種汚染をする敵ユダヤ人,スラブ人は,労働可能であっても,解放することは考えられない。彼らは強制収容所に拘束し,奴隷労働者として使い捨てにするか,殺戮することになった。

写真(右)1929年,ロシアの革命家レフ・ダビドビッチ・トロツキー:1879年7月11日,Ivanovka(Elisavetgrad)で生まれ,1940年8月21日,亡命先のメキシコシティで暗殺された。 ロシアとソ連の政治家、レーニンの下で,外務人民委員(人民委員外交部:外相)として働き、1918年,ドイツと和平交渉を行い,ブレスト=リトフスク条約を結んだ。その後すぐに,外務人民委員を辞任,軍事人民委員・革命軍事会議議長に就任し,赤軍を編成,内戦では反革命軍・外国軍の干渉を排除した。1924年,レーニンが死亡すると,世界への共産主義革命の輸出という「世界革命論」を唱えて,国防を重視するスターリン書記長の「一国社会主義論」と対立。政争に敗れて,トロツキーは1927年に解任,1929年,ソ連からの追放される。ヒトラーは,彼をユダヤ人共産主義者のならず者として嫌悪していた。
Leo Dawidowitsch Trotzki (eigtl. Leib Bronstein) geb: 7.11.1879 in Iwanowka bei Jelisawetgrad, ermordet: 21.8.1940 in Mexiko City russischer und sowjetischer Politiker und Staatsmann. Als Volkskommissar des Äusseren führte er die russische Abordnung bei den Friedensverhandlungen 1917/18 mit den Mittelmächten in Brest-Litowsk, seit März 1918 Volkskommissar für Krieg und Marine. Trotzki wurde 1927 ausgeschlossen und 1929 aus der Sowjetunion ausgewiesen 3201-29 Archive title: Leo Dawidowitsch Trotzki (Porträt) Dating: 1929 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

 ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。多数の将兵も,虐殺の噂を聞いていたし,自ら後方の治安維持作戦を支援したこともあった。多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。不確実で,確かなことはわからないと,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥っていた。

写真(右)1920年,父に抱かれるユリウス・ハイデッカー(Julius Heydecker)4歳:のちにジャーナリストとして活躍。
Julius (1884) und Julius (1916) Heydecker Garmisch-Partenkirchen Dating: 1920 Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


6.人種差別撤廃条約
International Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination


人権の尊重に間して、国際連合憲章第1条は、国連の目的として、「人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように奨励することについて、国際協力を達成すること」と規定している。また、1948年採択の世界人権宣言は、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と宣言している。

 しかし、1959-1960年にかけて、アーリア人(ゲルマン人)の優越性を主張して、反ユダヤ主義思想を扇動したりするネオ・ナチズムの活動が、ヨーロッパを中心に続発し、南アフリカ共和国では、アパルトヘイトがなされていた。

 こうした憂慮すべき事態を背景に、1960年の第15回国連総会において、社会生活における人種的、宗教的及び民族的憎悪のあらゆる表現と慣行は、国連憲章及び世界人権宣言に違反することを確認し、すべての政府がそのような慣行等を防止するために必要な措置をとるよう要請した「人種的、民族的憎悪の諸表現」と題するナチズム非難決議が全会一致で採択された。

さらに,植民地主義及びこれに関連する分離及び差別のすべての慣行を終結しなければならない旨の内容を盛り込んだ「植民地及びその人民に対する独立の付与に関する宣言」が採択された。

 しかし、人種、民族に対する差別は依然として続き、人種差別を撤廃するためには、各国に対し、差別を撤廃するためのより具体的な措置の履行を義務づける文書の採択が必要とされた。

こうして、1962年の第17回国連総会において、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する宣言案及び条約案の作成」に関する決議が採択、1963年の第18回国連総会には、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国連宣言」が採択された。その後、1965年、第20回国連総会において、この人種差別撤廃条約が全会一致で採択され、1969年1月4日に発効した。

第1条

1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。

2 この条約は、締約国が市民と市民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優先については、適用しない。

3 この条約のいかなる規定も、国籍、市民権又は帰化に関する締約国の法規に何ら影響を及ぼすものと解してはならない。ただし、これらに関する法規は、いかなる特定の民族に対しても差別を設けていないことを条件とする。

4 人権及び基本的自由の平等な享有又は行使を確保するため、保護を必要としている特定の人種若しくは種族の集団又は個人の適切な進歩を確保することのみを目的として、必要に応じてとられる特別措置は、人種差別とみなさない。ただし、この特別措置は、その結果として、異なる人種の集団に対して別個の権利を維持することとなってはならず、また、その目的が達成された後は継続してはならない。

第2条

1 締約国は、人種差別を非難し、また、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策及びあらゆる人種間の理解を促進する政策をすべての適当な方法により遅滞なくとることを約束する。このため、

(a)各締約国は、個人、集団又は団体に対する人種差別の行為又は慣行に従事しないこと並びに国及び地方のすべての公の当局及び機関がこの義務に従って行動するよう確保することを約束する。

(b)各締約国は、いかなる個人又は団体による人種差別も後援せず、擁護せず又は支持しないことを約束する。

(c)各締約国は、政府(国及び地方)の政策を再検討し及び人種差別を生じさせ又は永続化させる効果を有するいかなる法令も改正し、廃止し又は無効にするために効果的な措置をとる。

(d)各締約国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む。)により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる。

(e)各締約国は、適当なときは、人種間の融和を目的とし、かつ、複数の人種で構成される団体及び運動を支援し並びに人種間の障壁を撤廃する他の方法を奨励すること並びに人種間の分断を強化するようないかなる動きも抑制することを約束する。

2 締約国は、状況により正当とされる場合には、特定の人種の集団又はこれに属する個人に対し人権及び基本的自由の十分かつ平等な享有を保障するため、社会的、経済的、文化的その他の分野において、当該人種の集団又は個人の適切な発展及び保護を確保するための特別かつ具体的な措置をとる。この措置は、いかなる場合においても、その目的が達成された後、その結果として、異なる人種の集団に対して不平等な又は別個の権利を維持することとなってはならない。

第3条

 締約国は、特に、人種隔離及びアパルトヘイトを非難し、また、自国の管轄の下にある領域におけるこの種のすべての慣行を防止し、禁止し及び根絶することを約束する。

第4条

 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。

(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。

(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

(c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

第5条

 第2条に定める基本的義務に従い、締約国は、特に次の権利の享有に当たり、あらゆる形態の人種差別を禁止し及び撤廃すること並びに人種、皮膚の色又は民族的若しくは種族的出身による差別なしに、すべての者が法律の前に平等であるという権利を保障することを約束する。

(a)裁判所その他のすべての裁判及び審判を行う機関の前での平等な取扱いについての権利

(b)暴力又は傷害(公務員によって加えられるものであるかいかなる個人、集団又は団体によって加えられるものであるかを問わない。)に対する身体の安全及び国家による保護についての権利

(c)政治的権利、特に普通かつ平等の選挙権に基づく選挙に投票及び立候補によって参加し、国政及びすべての段階における政治に参与し並びに公務に平等に携わる権利

(d)他の市民的権利、特に

(i)国境内における移動及び居住の自由についての権利

(ii)いずれの国(自国を含む。)からも離れ及び自国に戻る権利

(iii)国籍についての権利

(iv)婚姻及び配偶者の選択についての権利

(v)単独で及び他の者と共同して財産を所有する権利

(vi)相続する権利

(vii)思想、良心及び宗教の自由についての権利

(viii)意見及び表現の自由についての権利

(ix)平和的な集会及び結社の自由についての権利

(e)経済的、社会的及び文化的権利、特に、

(i)労働、職業の自由な選択、公正かつ良好な労働条件、
   失業に対する保護、同一の労働についての同一報酬
   及び公正かつ良好な報酬についての権利

(ii)労働組合を結成し及びこれに加入する権利

(iii)住居についての権利

(iv)公衆の健康、医療、社会保障及び社会的サービスについての権利

(v)教育及び訓練についての権利

(vi)文化的な活動への平等な参加についての権利

(f)輸送機関、ホテル、飲食店、喫茶店、劇場、公園等一般公衆の使用を目的とするあらゆる場所又はサービスを利用する権利

第6条

 締約国は、自国の管轄の下にあるすべての者に対し、権限のある自国の裁判所及び他の国家機関を通じて、この条約に反して人権及び基本的自由を侵害するあらゆる人種差別の行為に対する効果的な保護及び救済措置を確保し、並びにその差別の結果として被ったあらゆる損害に対し、公正かつ適正な賠償又は救済を当該裁判所に求める権利を確保する。

第7条

 締約国は、人種差別につながる偏見と戦い、諸国民の間及び人種又は種族の集団の間の理解、寛容及び友好を促進し並びに国際連合憲章、世界人権宣言、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際連合宣言及びこの条約の目的及び原則を普及させるため、特に教授、教育、文化及び情報の分野において、迅速かつ効果的な措置をとることを約束する。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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