◆ドイツ国防軍ベック,ブロンベルク,フリッチュ将軍の追放
写真(上)1936年9月,ナチ党ニュルンベルク大会(ドイツ大会)ツェッペリン・フィールドにおけるドイツ国防軍(Wehrmacht)のパレード,ドイツ式敬礼(ヒトラー敬礼)をして歓喜する観衆:前年の1935年3月に,ヒトラーは,次のような内容の再軍備宣言をした。
?義務兵役制を復活:兵力36個師団,50万人を動員
?陸軍・海軍に加えて空軍(Luftwaffe)を新設
?国軍(Reichswehr)を伝統的な国防軍(Wehrmacht)に戻す。
?国防省を陸軍省(Ministry of War)と変更。
?陸軍兵務局が代行していた陸軍参謀本部の復活。
[Scherl]
Reichsparteitag 1936,
Der große Aufmarsch der Wehrmacht auf der Zeppelinwiese.
13346-36
ADN-ZB/Archiv
Faschistisches Deutschland 1933 - 1945
Reichsparteitag der faschistischen NSDAP in Nürnberg 1936
Der große Aufmarsch der Wehrmacht auf der Zeppelinwiese.
13346-36
Archive title: Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP, "Reichsparteitag der Ehre", Aufmarsch von Fahrzeugen der Wehrmacht, 8.-14. September 1936
Dating: September 1936
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1936年,ドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統,ヒトラーユーゲント指導者バルトゥール・フォン・シーラッハ,ヘルマン・ゲーリング:(Hermann Wilhelm Göring:1893年1月12日-1946年10月15日自殺):ナイフを腰にした狩猟服のゲーリングは,1933年4月,プロイセン州内務大臣に就任。1935年3月の再軍備宣言以降は,新設された空軍の総司令官に就任。四カ年計画の責任者として,財界に対するナチ党代表の地位を得た。
1939年9月1日,ポーランド侵攻にさいしては,ヒトラーは,自分が倒れればゲーリングが続くと国会で演説して,事実上の後継者に指名している。ゲーリングが倒れれば,ヘス副総統が続くとも述べている。
ヒトラーは,それまで褐色の突撃隊の制服に加えて,1933年,首相に任命されてからスーツをしばしば着用。1938年,ミュンヘン会談のときには,国防軍を掌握していて,フィールドグレイの軍服を着用するようになる。
Adolf Hitler, Hermann Göring (in Jägerkleidung mit Messer) und Baldur von Schirach auf dem Obersalzberg 1936.
Dating: 1936
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用
◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられる。
◆NHK BS-hi BShiプレミアム8 文化・芸術 2009年9月8日(火):世界史発掘!時空タイムス編集部 第6回 新証言・ヒトラー暗殺計画 にゲスト出演。ここではヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」に関連してドイツ国防軍の将軍の反ヒトラーの企ても言及されています。
1.ヒトラー反乱の今日的評価:
ヒトラー暗殺・反乱事件は,40回以上,企てられました。
1939年11月8日,指物師ヨハン・ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser)によるミュンヘンのビヤホール「ビュルガーブロイケラー」爆破事件,ポーランド地下レジスタンスによるヒトラー専用列車爆破計画,ドイツ軍将校によるヒトラー搭乗機の爆破計画,兵器展示場での自爆攻撃など,ドイツ人や敵国人によるヒトラー暗殺計画が40回以上も企てられました。1944年7月20日の,シュタウフェンベルク大佐を中心とする「ワルキューレ作戦」もその一環です。この時,元陸軍参謀総長だったベック将軍も参加し,ヒトラー排除後の新政権の首班を務める計画でした。
ドイツ人によるヒトラー暗殺(未遂)計画は,ナチスの暗黒時代にあって,ドイツ人が良心が残っており,ドイツ人がすべてナチスに共鳴していたわけではないことを示したとされています。とりわけ,ドイツ国防軍の最高幹部が参加した「ヒトラー排除のレジスタンスの動き」は,ドイツが,歴史の審判に耐えることを示した証ともいえます。
たとえば,7月20日は,ルートビッヒ・ベック上級大将を初めとするドイツ国防軍の将校が,戦争を止めようヒトラー暗殺を企てたドイツ人にとっての記念日とされ,毎年のように,式典が催されます。
1944年7月20日のワルキューレ作戦には,1933年10月から1938年10月末まで陸軍参謀総長を務めたルートビヒ・ベック上級大将などドイツ国防軍の将軍たちが参加しました。
ベルリン中心街にある国内予備軍司令部跡は,現在,国防省の建物となっていますが,ここで,銃殺されたシュタウフェンベルク大佐たち4名の記念碑があります。
反ヒトラー・クーデターが賞賛された背景には,ヒトラーやナチスとドイツ国防軍とは別個の価値観に立脚している,第二次大戦の残虐行為は親衛隊によるもので,残虐行為は,ドイツ国防軍の思想的背景は異なっているという主張が展開されるようになります。第二次大戦後のドイツ再軍備,NATO加盟を進める前提として,国防軍はナチスではないとの含意(インプリケーション)が含まれていました。
ドイツでは,戦時中の反ヒトラー・レジスタンスとしては,白バラ通信を撒いたミュンヘン大学生ショル兄妹たちも有名です。彼ら白バラグループは,学生,軍務経験者,大学教授,聖職者らなど,民間人に近い立場でした。スターリングラードにおける膨大な犠牲をもたらしたのは,ヒトラーであると決め付けるだけではなく,それを許したドイツ人こそ,現状打破のために立ち上がらなくてはならないと主張しました。
ドイツでは、学校で現代史を十分に学び,ヒトラーの著作やナチスの紋章を公にすること,ドイツ式敬礼(ヒトラー敬礼)は禁止されています。その中で,ドイツ人自身が,ヒトラーへのレジスタンスを行ったことは,ドイツ人が全てナチスであったわけではないことの証であり,ナチスの暴政,戦争に反対したドイツの良心を示しています。
ヒトラー排除の動きは,映画等でシュタウフェンベルク大佐が有名になりましたが,ルートビヒ・ベック(Ludwig Beck)も,ヒトラーへのレジスタンスを実行したドイツ人として,1964年ヒトラー暗殺未遂20周年記念切手が出されています。ヒトラーの戦争を止めようとしたドイツ人レジスタンスは,みな評価されているのです。
2.ワイマール共和国を左右したドイツ国軍:
ポスター(右):「自由時間を使おう,愛国義勇軍に参加しよう!」:1919年1月のスパルタクス団蜂起や労働者のゼネスト鎮圧に活躍した愛国義勇軍(フライコール)は,正規の職ではなく,多くは無給のボランティアだった。失業者,元軍人などのほかに,労働者や店員なども参加した。共和国軍が弱体だった当時,フライコールは,政府も一目置く軍事組織存在だった。
Zeitfreiwillige!
Kommt sofort zum G. Kav. Schützen-Korps
Dating: 1919/1933 ca.
Designer: Kulas, Josef v. 作。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。
1919年5月末,ドイツ国軍のバイエルン第四軍団司令部の啓蒙・宣伝部長に反共・反ユダヤのカール・マイル大尉が就任,レーテ代議員(労農ソビエト)から転向したヒトラーは,政治教育を受け,自らもプロパガンダを担当しました。1919年9月のヒトラーの手紙には,理性に基づく反ユダヤ主義からの帰結として,「最終目標は断固として全ユダヤ人の排除でなければならない」との見解が記されています。
1919年10月16日,ドイツ労働党(1920年2月,国家社会主義ドイツ労働者党に改称)の初の公式会合で,約100名の聴衆を前に,諸国民の敵ユダヤ人に対抗せよと激昂した演説をしたのが,アドルフ・ヒトラーです。ヒトラーは,反政府勢力の監視にスパイとして派遣されたが,そのままドイツ労働者党の宣伝要員になります。彼の演説は魅力的で,党に300マルクの寄付が集まりました。しかし,ヒトラーが,ナチ党首に選出されるのは,2年近く後(1921年7月)です。
国粋主義者クルト・リューデッケは,ナチ党が勢力を拡大するためには,イタリアのムッソリーニを参考にすべきことをヒトラーに説き,自らムッソリーニに会いにミラノに出かけました。ムッソリーニは,リーデッケをもてなし,ベルサイユ条約については,ヒトラーと同じ意見でした。ムッソリーニは,リーデッケが,イタリア政府を武力で倒すつもりか尋ねた時,自信満々に「われわれは国家になる。それが意志だ。」と堂々と答えました。
戦勝国イタリアでも,1919年、元兵士を集めた「突撃隊員協会」が発足,これは軍服を着用した義勇軍でした。ムッソリーニは突撃隊員を糾合して「戦闘ファッシ」を編成,黒シャツを制服とします。イタリアでも,保守政治家・資本家は,共産主義革命の波及を恐れて,資金を提供してファシストを操ろうとしました。
写真(右):1920年3月,ウィスマールで,カップ一揆に出動したロスバッハのフライコール(愛国義勇軍):ベルサイユ条約批准に反対する愛国義勇軍(フライコール)が反乱を起こしてベルリンを占領,カップ博士を中心とする新政権を立てた。共和国国防相ノスケは,共和国軍に鎮圧を命じたが,参謀総長フォン・ゼークトは,反乱軍を支持した。そこで,ワイマール共和国フリードリヒ・エーベルト大統領労働組合のゼネストによって新政府はあっけなく崩壊。クーデターは失敗に終わり、カップはスウェーデンへ亡命した。
。
Wismar.- Freikorps Roßbach während des Kapp-Putsches 1920
Dating: März 1920
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
フライコールは,義勇軍だったが,第一次敗戦後も、ドイツ参謀本部の隠蔽工作と,敗戦後解散させられたドイツ軍将兵の就職先として,維持されていました。地方自治政府も,在郷軍人会・退役軍人会などの義勇軍を半ば黙認したのです。ナチ党も,元将兵を取り込んだ突撃隊Sturmabteilung(SA)を組織して,労働者のデモを鎮圧し,選挙の対立候補を襲撃し,街頭を示威行進しました。軍隊のように隊列を組んだ武装集団が,ドイツの街頭を行進していたわけです。後の宣伝相ゲッベル博士は,「街頭は,現代の政治の縮図であり,街頭を支配したものが、大衆を征服できる。大衆を制したものが国家を征服する。」と考えました。
イタリアのファシズムは,ドイツの国家社会主義と類似点が多いです。ともに,国粋主義,反共産主義,反議会民主主義であり,新秩序の確立を目指しました。指導者は,ともに庶民出身で,兵士上がりだった。リーデッケは,勇気をもって行動したファシストの黒シャツ隊が,イタリア軍から好意的に扱われ,町を事実上占領することもできたことを報告しました。
ヒトラー党首は,政治的権力を奪取するのに,暴力を使い,軍を味方に引き入れることの重要性をムッソリーニから学んだのです。
1922年10月14日,ヒトラーは600名の突撃隊員を率いてミュンヘンから,ニュルンベルクを経由,そこで同調者が乗り込みました。コーブルク駅に到着し,突撃隊による街頭支配の成功例となります。ナチスは,煽動,プロパガンダによって,突撃隊に選挙干渉,ユダヤ人迫害,示威行進させました。今から思うと,圧倒的に力強く,衝撃的な映像がそれを記録しているかのごとくみえます。しかし,初期のナチスのプロパガンダは,演説会,突撃隊による行進,党機関紙の発行,若干のポスターの配布程度にすぎません。1933年の政権獲得後に,大スタジアムを建設し,自らの施設とすることができたのです。
写真(右)1926年8月,ベルリン,ドイツの日におけるドイツ国軍儀仗兵を閲兵するファン・ヒンデンブルク大統領,国防部長官ヴィルヘルム・グレーナー,軍務局長ハマースタイン:
議会での式典後,共和国広場において,国軍の儀仗兵の式典があった。突撃隊は,褐色の制服を着用していたが,国軍の制服の色はフィールドグレイだった。
Die grosse Verfassungsfeier der Reichsregierung im Reichstag in Berlin!
Reichspräsident von Hindenburg schreitet mit Reichswehrminister Groener und dem Chef der Heeresleitung von Hammerstein die Ehrenkompanie der Reichswehr nach der Feier im Reichstag auf dem Platz der Republik ab.
Dating: 11. August 1926
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ヴィルヘルム・グレーナー(Karl Wilhelm Groener:1867年11月22日-1939年5月3日)は,第一次大戦敗戦時の陸軍参謀総長で,1920-1923年には運輸大臣,1928-1932年まで,国防大臣に就任。1931年には内務大臣を兼任し,1932年5月に突撃隊を禁止します。つまり,ナチスの国軍支配に反対した将軍だったのですが,ナチ党を操ろうとしたクルト・フォン・シュライヒャー(Kurt von Schleicher)内閣のとき追放されてしまいます。
クルト・フォン・ハンマーシュタイン(Kurt von Hammerstein-Equord:1878年9月26日-1943年4月23日)は,1929年,陸軍統帥部長(事実上の陸軍総司令官に就任します。1933年のヒトラー内閣の時には,ナチ党の国軍への容喙を排除する立場だったため,親ヒトラーの国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク将軍によって,1933年12月,追放されてしまいます。後任の陸軍総司令官は,ヴェルナー・フォン・フリッチュ中将でした。
1932年1月22日(ナチスが第一党だったが政権を担っていない時期)のゲッペルスの日記:「総統(当時はナチ党主の意味でチーフと書いていた)と将来のことを話し合った。特に私の将来の役職と権限の輪郭を詳しく描いた。考えられているのは,国民教育相で,映画,ラジオ,当たらし教育施設,芸術,文化,宣伝を総括するものだ。革命的な役職で,中央から指導され,とりわけ帝国(ライヒ)の思想を最優先で代表するものだ。まったく偉大な計画で,こうしたやり方は世界中まだどこにもなかったものだ。私は,この省の基礎を入念に研究し始めた。われわれの政権の精神的基盤を作り,政府機関だけではなく,ドイツ人すべてを獲得することに役立てたい」
ナチスは,大衆動員,プロパガンダに勢力を傾けます。政策論争,党の綱領,マニフェストなど,ナチ党には重要な意味はありません。不満だらけの忌むべき現状を打破して,新しい秩序と規律を打ち立てて,ドイツ帝国の栄光を復活させようという主張,ユダヤ人,共産主義者によって,ドイツは貶められ,彼らがドイツを搾取している,だから,ユダヤ人,共産主義者を排除すべきだ,という(仮想)現状否定の政党でした。
しかし,国家社会主義ドイツ労働者党というナチ党の正式名称が示すように,国粋主義者,資本家,労働者どこにも希望を持たせるような幻想をプロパガンダで徹底します。ナチス反対派に対しては,突撃隊を使って,暴力で弾圧し,排除してゆきます。
これが,ドイツのファシズムです。
◆一国の暴力装置の代々のものは軍隊です。第一次大戦までドイツ帝国の暴力装置は,陸軍,海軍を備えた国防軍でした。第一次大戦の敗北,ベルサイユ条約によって,陸軍兵力は10万人まで,戦車・新式火砲の保有禁止など,軍備制限が敷かれます。国防軍の名称は国軍に改変され,参謀本部も解体され,その機能は,陸軍兵務局局に移されます。
第一次大戦後のドイツは,ドイツ帝国からドイツになり,ワイマール共和国と呼ばれるようになります。これは,ゲーテゆかりのワイマールで新憲法が制定されたことに因んでいます。
ドイツ・ワイマール共和国の代表的暴力装置,国軍は,ドイツ帝国時代と比較すれば十分の一未満の兵力しかありませんし,ベルサイユ条約による軍備制限で,軍用機,潜水艦も一切保有できなくなりました。ルール工業地帯のあるラインラントは,非武装知一に指定されました。そのため,ベルサイユ条約が,ドイツ軍を解体したように思ってしまいがちです。しかし,陸軍10万人規模の兵力は,ドイツ国内にあっては強大な暴力装置です。共産主義者の一揆,労働者のデモ・スト,帝政派の蜂起で混乱したワイマール共和国にあって,ドイツ国軍は,政治動向を見極める上で,重要な地位にいました。国軍が支援するか,中立で干渉しないのか,それとも鎮圧側に回るのか,は大きな問題だったのです。外国遠征軍としては弱体化したドイツ国軍でしたが,国内治安軍としては,圧倒的な暴力を手中に収めていたのです。ドイツ軍の去就が,政治動向を決めたといっても過言ではありません。
ドイツ国軍の政治力は,国内治安軍として最大限に活かされます。実際,保守の大政治家,ヒンデンブルク大統領,パーペン首相,クルト・フォン・シュライヒャー首相など全てドイツ国防軍,陸軍出身でした。
軍出身の大政治家たちは,第一次大戦のとき伍長勤務上等兵に過ぎなかったアドルフ・ヒトラーを軽蔑していました。将軍からみれば,将校でも下士官でもない,ただの兵隊の階級だったからです。(伍長からは下士官)
ポスター(右)1919-1933年,「我々の支配者!やつらは,ドイツの民族主義者を排除したがっている。」アフリカのフランス植民地出身の黒人兵士,ボリシェビキ(アカの共産主義者),ユダヤ人はドイツに仇名す敵だ。排除せよ,と訴える排外主義,反共産主義のポスター。
Unsere Herrscher!
Wer sie loswerden will, der wählt deutschnational
Dating: 1919/1933 ca.
Designer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ヒトラーによれば,ユダヤ人が金融資本・マスメディアによって操っている堕落した民主主義・物質主義アメリカは,ヨーロッパとは別世界だ。しかし,ギリシャ・ローマ文明を引き継ぐヨーロッパ文明も,ユダヤ人による人種汚染,アジア有色人種が旺盛な生殖力によって,没落させられようとしている。この危機を救うことこそ,自分の使命,ナチ党の目標だとヒトラーは妄信しました。
ドイツが困難に陥っているのは,ドイツを裏切ったユダヤ人・共産主義者のためであるという主張は,ドイツ人の誇りと名誉を傷つけずに,現在の困難を説明してくれたように錯覚します。自己責任を認めたくない政治家,ビジネスマンも,失業者も,低所得者も,ナチスの主張に同調しました。ヒトラー総統の雄雄しい演説に,ドイツ人の名誉を取り戻したように思った聴衆は,未来のドイツ復興の予測に力づけられました。
写真(右)1931年10月11日,バット・ハルツブルク,突撃隊の集会で,突撃隊SAを閲兵するドイツ国家人民党党首アルフレート・ヴィルヘルム・フーゲンベルク(Alfred Wilhelm Hugenberg:1865年6月19日-1951年3月12日,中央×印):ハルツブルク(Harzburg)戦線を結成し,国粋主義の政権を目指して,社会民主党を中核とする与党,ドイツ共産党に対抗しようとした。
1933年1月30日,ナチ党,国家人民党,中央党によるヒトラー内閣が成立した時,フーゲンベルクは,経済大臣兼農林大臣として入閣。
Gründung der "Harzburger Front" Bad Harzburg, 11.10.1931
Hauptmann Göring und Hptm. Röhm, ganz rechts der Preußischer Kultisminister Rust, (x)
Archive title: links neben Röhm: Himmler und SA-Oberführer Korsemann
Dating: 11. Oktober 1931
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
国家人民党の党首アルフレート・ヴィルヘルム・フーゲンベルク(Alfred Wilhelm Hugenberg)は,ワイマール共和国を否定し、国粋主義的な新政府を擁立すべきことを主張します。帝政復活を主張する勢力も取り込んでいました。国家人民党は,1929年世界恐慌が起こると社会不安とその中での共産主義台頭を危惧した財界から,保守勢力として支持を得ることになります。フーゲンベルクは,同じく国粋主義のナチ党に接近し,1931年10月,:ハルツブルク戦線(国民戦線:Harzburger Front))として,協力関係を結びました。
ドイツ中部の観光地バットハルツブルク(Bad Harzburg)で,1931年10月、ナチスは,共闘していた右翼の国家人民党,準軍事団体「鉄兜団」と警察予備隊に相当する準軍事組織を創設。この「ハルツブルク戦線」((国民戦線:Harzburger Front)が,ナチ党と財界、軍と提携を深める契機となりました。
ナチ党政権獲得前は,突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントを組織してはいても,一般大衆やドイツ国軍,警察を大動員できたわけではないし,大規模集会でもドイツ国軍兵士が行進することは一切なかったのです。そこで,カトリックをまねて,旗・紋章,血染めの旗の洗礼式など,似非宗教的儀式を考え出します。これは,滑稽なほど悪趣味だったのですが,それがかえって注目を浴びました。
1929年からの世界恐慌で,ドイツではハーパーインフレ,失業者の増加,労働者のデモ・ストライキの蔓延,共産党を中心としたボリシェビキの恐怖など社会不安が高まります。こうした状況で,現状打破と規律・秩序を訴えるナチスの勢力は飛躍的に伸びました。
ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%から,1930年9月には18.3%で107議席を獲得,国会の第二党に躍進したのです。総選挙の得票率は,1932年7月37.4%で第一党になりました。
第一党となったナチ党首アドルフ・ヒトラーは,1932年,大統領選挙に出馬しました。1932年の大統領選挙には,1925年以来の現職パウル・フォン・ヒンデンブルクPaul von Hindenburg元帥に、ドイツ共産党首エルンスト・テールマンErnst Thaelmann、国家人民党(国家主義政党)ディスターベルクが立候補,彼らと得票を競ったのです。
得票数は,第一回目に,第一位のヒンデンブルグ1865万票、第二位のヒトラー1339万票,第二回の決選投票では,ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票。ヒトラー党首の得票率は37%でした。
総選挙における
ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%,1930年9月18.3%,1932年7月37.4%と支持を伸ばします。第一党の党首ヒトラーは,カトリックを基盤とする中央党のフランツ・フォン・パーペン(Franz Joseph von Papen)に首相の座を明け渡すように要求し,ナチ党のヘルマン・ゲーリングは,国会議長に選出されました。
国会では,ゲーリング議長がパーペン首相の所信表明演説を遮って,ドイツ共産党が提出した内閣不信任決議を採択,それが可決されると,パーペン首相は,選出されたばかりの議会を解散しました。1932年11月の選挙で,ナチスは議席を減らしたものの、第一党にとどまります。
1932年11月の総選挙で,躍進を期待していたナチ党の得票率は32.2%に低下し,ヒトラーやゲッペルスは衝撃を受けます。他政党との連携ができず,突撃隊による暴力的な選挙妨害や示威行動が,一般市民の全面的支持を得るに至らなかったこと,社会民主党,共産党など他政党の支持も根強かったことが明らかになりました。ヒトラー党首とナチ党幹部は,国民の支持率の低迷に衝撃を受け,政権奪取のために手段を選ばないことは決意します。
写真(右)1933年3月21日,ポツダムでヒンデンブルク大統領,フォン・フロンベルク国防大臣相に挨拶するヒトラー首相:いずれも第一次大戦に参加しているが,将官クラスのヒンデンブルク,フロンベルクに比して,ヒトラーは伍長勤務上等兵という兵卒だった。将官たちは,小物ヒトラー首相を睥睨し,操縦するつもりでいた。ヒトラーは野心を押し隠して,従順な首相を演じたが,二人の老将軍を,時代遅れの敗け将軍で,その戦術・戦略能力も全く評価していなかったに違いない。
ヒトラーは,まず多数の民衆を味方につけて,強権的な将軍たちに圧力をかけた。しかし,自ら政権を手にすると,裏を返すように,強権的な政治を開始,労働運動,共産主義,自由主義を弾圧し,ナチスによる一党独裁の確立を目指した。次の目標は,ドイツ国防軍を従えることである。
Der historische Tag von Potsdam am 21. März 1933.
Reichspräsident von Hindenburg mit Reichskanzler Hitler und Reichswehrminister von Blomberg
vor der Garnisonkirche in Potsdam
Archive title: Potsdam.- Paul v. Hindenburg (mit Pickelhaube), Werner v. Blomberg (mit Stahlhelm) und Adolf Hitler vor Garnisonkirche
Dating: 21. März 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
大政治家たちは,政治経験もないヒトラーと第一党となったナチ党を操って,自分たちの思い通りの政治をしようと画策します。彼らは,栄光あるドイツ国防軍の将軍だったために,自己の能力を過信して,兵卒に過ぎなかったヒトラーを操ろうと考えたのです。しかし,これは国防軍出身政治家たちの過信,誤診でした。
軍出身の保守政治家は,首相に据えて操ろうとしたヒトラーに,逆に操られてしまいます。この後,ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)国防大臣,ルートビヒ・ベック(Ludwig August Beck, 1880-1944/7/21)参謀総長もヒトラーの術中に陥ってしまうことを思えば,ヒンデンブルク大統領とその一派が,ヒトラーを首相に任命したことが,国防軍出身の政治家・軍人が凋落する始まりでした。
写真(右)1932年10月2日,ベルリンで誕生日を祝うヒンデンブルク大統領:パウル・ルートヴィヒ・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig von Hindenburg,1847年10月2日 - 1934年8月2日)は第一次大戦のドイツ軍の英雄とされ,敗戦後の1925年からエーベルトに継いでワイマール共和国第2代大統領に就任。1934年に死去するまでに,ヒトラーを首相に任命,ユダヤ人・共産主義者の弾圧を黙認するなど、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)独裁の端緒となった。
Die erste grosse Geburtstagsfeier des 85 jährigen Reichspräsidenten von Hindenburg in Berlin ! Ergriffen und Barhäuptig verlässt der 85 jährige Reichspräsident von Hindenburg, das Gefallenen-Ehrenmal Unter den Linden. Hinter ihm General von Schleicher.
Dating: 2. Oktober 1932
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
パウル・ルートヴィヒ・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig von Hindenburg, 1847-1934/8/2)は,第一次大戦の対ロシア戦タンネンベルク会戦の英雄,ドイツ陸軍参謀総長で,1925年から1934年にワイマル共和国第二代大統領でした。ヒンデンブルクもヒトラーも,第一次大戦のドイツ敗戦は,広報の裏切り者,共産主義者の主導するドイツ革命が「背後からの匕首」となったとして,敗北を認めませんでした。ヒトラーを首相に任命したヒンデンブルクは,ナチ党独裁への道を開いたとも批判されています。
しかし,第一次大戦敗北時(1918年)の陸軍参謀総長が1925年の第二代ドイツ大統領に選挙で選出されたこと自体,ドイツ国民が第一次大戦敗戦を心的外傷(トラウマ:trauma)としていたことの証明です。第一次大戦敗北の責任をユダヤ人,ボリシェビキなど裏切り者に帰したのが,ナチ党でした。ヒンデンブルク大統領は,人権規定を停止する大統領緊急令を頻繁に発令しましたが,これを効果的に使って一党独裁を果たしたのが,ヒトラーのナチ党でした。
1933年1月30日のナチス政権樹立後,大衆を動員できたのも,一般市民の中に(ナチ党だけではなく)国家的行事に参加しないわけには行かないという集団心理が働いたためです。パレードに声援を送り,党大会に出席しなければ,反ナチスとみなされ,政府機関や就職先企業でも不利益を被る恐れが出てきのです。
党レベルでは難しい大規模な飛行機,探照灯,消防・軍用車両あるいは,警察・軍隊の利用も,政権につくことで可能になりました。映画・ラジオ・発行部数の多い新聞・雑誌で宣伝できたのも,国家予算を投入したから,ナチ党の独自資金では困難だったのは当然です。ナチスのプロパガンダが,政権獲得前から,効果的だったかどうかは,非常に疑わしいわけです。
ヒトラー内閣の副首相に就任したフランツ・フォン・パーペンは,首相経験者でもあり,第一次大戦では中東方面の参謀長で中佐,首相経験者でもあり,ヒンデンブルク将軍の寵愛を受けていました。ですから,政治的実績のないヒトラーを意のままに後ろで操ることができると過信していたのです。
実際は,操られたのは,ヒンデンブルクとパーペンなどドイツ陸軍出身の大政治家でした。この後,ブロンベルク国防大臣,ベック参謀総長もヒトラーの術中に陥ってしまうことを思えば,ヒトラー首相就任は,国防軍出身の政治家・軍人が凋落する始まりでした。
◆ナチ党(NSDAP)政権獲得前,プロパガンダは,マスメディアの利用,資金,組織,宣伝対象の上で,限定されたものに過ぎませんでした。大規模なプロパガンダは,ナチ党政権獲得後になって,国家資金,政府機関を通して初めて可能になったのです。
ヒトラーユーゲント(Hitler Jugend)も,大きな組織となったのは,ナチス政権下で,他の青少年団体が解散させられ,全ドイツの青少年のHJ(Hitler Jugend)加盟が義務付けられて以降です。カトリックがナチ党加入を公認したのも,政権獲得以降であす。ニュルンベルク大スタジアムの大式典も政権獲得以降です。飛行機・軍用車両を利用したパレードも,ヒトラー総統が,三軍総司令官となり,その後,再軍備宣言をして以降です。
1933年1月の政権獲得以前,ナチ党プロパガンダは,突撃隊による行進・暴力,頻繁な演説会,党機関の発行など,決して独創的でも,洗練されたものでもなく,影響力も限られていました。
ナチ党(NSDAP)政権獲得の背景には,
?ワイマール共和国(ドイツ)の保守政治家・議会政党人の権謀術数の弊害,
?フライコールのような義勇軍の存続とその暴力を政府が黙認したこと,
?大恐慌による生活悪化,ベルサイユ体制への批判,
?第一次大戦の敗戦,失業などの社会不安をすべてユダヤ人やボリシェビキの責任として,ドイツ人の優越感を満足させたこと,
社会主義・共産主義勢力の拡大を恐れる資本家・アメリカ・イギリスなど外部要因,
が指摘できます。このような背景を踏まえて,ナチスが世論を取り込むことができたのは,ナチスの運動と計略が功を奏したということです。
1932年の総選挙で第一党に選ばれ,1933年には,ナチ党(NSDAP)による一党独裁国家を作りました。この過程で,ナチ党は,反対勢力を,突撃隊,親衛隊によって,威嚇し,暴力で弾圧しています。
当時の政治家の身勝手な政争がヒトラーを首相の座につかせたともいえます。ヒンデンブルク大統領は第一次大戦の元参謀総長,元帥で,伍長勤務上等兵だったヒトラーを軽んじていましたが,国防大臣クルト・フォン・シュライヒャー(Kurt Ferdinand von Schleicher, 1882-1934)の権力増大を抑えるために,1933年1月,第一党のナチ党首ヒトラーを首相に指名してしまったのです。
ヒトラー内閣副首相フォン・パーペン(Franz von Papen)は,第一次大戦では中東方面の参謀長で中佐,首相経験者でもあり,フォン・ヒンデンブルク将軍の寵愛を受けていました。ですから,政治的実績のないヒトラーを意のままに後ろで操ることができると過信していたのです。実際は,操られたのは,ヒンデンブルクとパーペンのほうでした。
しかし,ナチ党(NSDAP)は,干渉選挙によっても,過半数の得票率を獲得したことは一回もありません。独裁は民主的手続きを遵守していては不可能だったのです。
そこで,ヒトラーは権力を握るや、1933年2月の国会放火事件を契機に大統領緊急令に基づいてナチスに反対する政治家,共産主義者らを拘束し,暴力の威嚇の下で,全権委任法を可決させ,ナチ党以外の政党を解体します。これは一見合法的な一党独裁ですが,突撃隊や親衛隊を使って反対勢力を暴力で抑え込んだのは明白です。
1933年1月,ヒトラー内閣が誕生すると,SA(Sturmabteilung)は,300万人規模に拡大します。そして,勢力をさらに伸ばすために,国民軍になろうとします。プロイセン貴族的指導を受けるドイツ国防軍に取って代わって,庶民的な,しかし革命的な軍隊を創立しようとしたわけです。
しかし,首相となっているヒトラーは,これ以上の革命(第二革命)をするつもりは,もはやありません。それどころか,国防軍と財界とから,協力を得ようとします。そこで,国防軍と財界が,過激化し,革命を目指す突撃隊を嫌悪していると知ると,軍と財界の反発を恐れたヒトラーは,1934年,SA指導者のレームらが,反乱(一揆)をたくらんでいるとして,彼らを粛清してしまいます。
SA("Storm detachment" )の暴力を引き継いだのが,ヒトラーの護衛隊としてスタートした親衛隊=SS(Schutzstaffel)です。
写真(右)1938年ごろ,ザクセンハウゼン強制収容所を視察する親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler ){最前列,右から二人目}:1923年のミュンヘン一揆に参加した時,ヒムラーは,レームの部下だった。しかし,突撃隊が,国防軍と対立すると,ヒトラーは突撃隊の粛清を決める。この時,ヒトラー護衛部隊だった親衛隊が,突撃隊幕僚長エルンスト・レームら幹部を殺害した。レームが,ヒトラー政権獲得後も,第二革命を主張,ドイツ国防軍に取って代わる第二の軍隊として,突撃隊を育成しようと図った。そこで,国防軍との協力を目指すヒトラーと対立し,1934年7月,反乱を理由として,処刑したのである。この「長いナイフの夜」と呼ばれる反ヒトラー派粛清で活躍,規模を拡大させたのが親衛隊である。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊は,ヒトラー護衛だけではなく,党内警察としても拡充されます。親衛隊のメンバーは,1929年末の1000人,1930年末の2700人から,1932年末の5万2000人と増員されますが,これは突撃隊に対抗するためでもありました。
1933年1月,ナチ党(NSDAP)政権が樹立されると,ハインリヒ・ヒムラーは,ミュンヘン警察長官になり,ラインハルト・ハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命します。そして,反ナチス派人物を拘束する強制収容所を設置されると,そこも親衛隊の管轄となります。
写真(右)1940年8月28日,親衛隊国家保安本部SD長官ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)(1904年3月7日-1942年6月4日暗殺):海軍士官だったが,女性問題で除隊。その後,1931年ナチ党に入党,7月に親衛隊に配属。1934年ゲシュタポ局長に就任し,6月「長いナイフの夜」で反ナチス派粛清を主導。
1939年9月,党組織だったSDと保安警察が統合され,親衛隊国家保安本部SDが設立され,ハイドリヒはそ長官に就任。
1941年9月,ベーメン・メーレン保護領副総督に就任。1942年2月,ユダヤ人の絶滅「最終的解決」を決めたヴァンゼー会議を主宰。
チェコスロバキア亡命軍人からなる暗殺団が英軍特殊工作部SOEから派遣され,1942年5月27日,プラハで,ハイドリヒ搭乗車を襲撃,暗殺。
Original title: Zentralbild
28.8.1940
SS- Gruppenführer Heydrich, Präsident der Intern. kriminalpolizeilichen Kommission.
Der Chef der Sicherheitspolizei und der Sd, SS- Gruppenführer Heydrich, hat die Leitung der
Internationalen kriminalpolizeilichen Kommission als deren Präsident übernommen.
Dating: 28. August 1940
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチ党政権が誕生した1933年,反ナチスを拘禁する強制収容所が設置されますが,この管理を任されたのもSS(Schutzstaffel)のドクロ部隊です。
1933年1月,ヒトラー政権が樹立した直後,反ファシスト勢力を根絶やしにしようとする強権的な取調べが始まりました。1933年2月には,最初の強制収容所がザクセンハウゼンとダッハウに作られます。社会民主党の指導者は,1933年8月,逮捕され,さっそくオラニエンブルグのザクセンハウゼン強制収容所に収監されています。
1933年4月,ゲーリングは,プロイセン州秘密警察局を創設し,ここに秘密警察「ゲシュタポ」が誕生します。1934年,既にドイツ各州の警察権力を握っていた親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーにゲシュタポ指揮権が譲渡され,ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)がゲシュタポ局長に任命されます。ゲシュタポは,後に,アーリア人を人種汚染するとして,ユダヤ人の迫害にも,積極的な役割を果たします。
ナチスは,共産主義者,社会民主党員,労働運動指導者,自由主義者,ユダヤ人など反ナチス的人物を拘束し,保護拘禁してゆきます。
写真(右),ヒトラー・ユーゲント(HitlerJugend)を「閲兵」するヒトラー総統:当初のHJは,音楽や旅行など,青少年にとって魅力ある催し物を数多くこなした。娯楽にひきつけられて入団した青少年も多かったようだ。
しかし,すぐにドイツ軍兵士あるいは親衛隊・突撃隊の隊員になることが,ドイツ青少年に求められた。反対派は,1933年1月のナチス政権獲得直後につくられた強制収容所で,保護拘禁され,更生させられた。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチ党青少年団体のヒトラーユーゲント(Hitler Jugend)は,1936年のヒトラーユーゲント法によって,ドイツの全青少年が加入を義務付けられ,ナチズムが教え込まれます。労働組合も解散を命じられ,ナチ党の労働戦線に統合されてしまいます。
当初のヒトラーユーゲントは,音楽や旅行など,青少年にとって魅力ある催し物を数多く行っていました。娯楽にひきつけられて入団した青少年も多かったようです。
しかし,ナチス政権が固まって,再軍備宣言後には,ドイツ軍兵士あるいは親衛隊・突撃隊の隊員になることが,ドイツ青少年に求められるようになります。
ドイツの対中軍事協力は,1927年にドイツ(ワイマール共和国)、戦略動員局のマックス・バウアー(Max Hermann Bauer:1887-1975)大佐が,国民党指導者蒋介石(Chiang Kai-shek:1869-1929)と会談したことから本格化する。1928年に中国軍(国民党)の兵力は225万もあったが,兵器の装備も不十分で、式も必ずしも奮っていなかった。そこで、マックス・バウアー(Max Hermann Bauer)は小規模でも装備・士気・訓練の上で、国民党軍の中核となる模範的な陸軍部隊の創設を提案する。
写真(右):1926年、ドイツ連邦、バイエルン、ビュッテンベルク、第5師団・第6師団の園主を監査する兵務局長(参謀総長)フォン・ゼークト将軍と兵務局(参謀本部)陸軍部長フォン・フィリッチュ大佐(後席左):ハンス・フォン・ゼークト( Johannes Friedrich Leopold von Seeckt:1866-1936.12)は、第一次大戦中には東部戦線で活躍し1916年夏にはガリツィアのオーストリア=ハンガリー帝国第7軍参謀長、1917年末にはオスマン帝国軍総参謀長に就任。ドイツ敗戦後の1919年、パリ講和会議にドイツ陸軍代表として参加。パウル・フォン・ヒンデンブルクを次いで参謀本部総長に就任。しかし、ヴェルサイユ条約によりドイツ陸軍は兵力10万人に制限、参謀本部は廃止され兵務局に格下げされた。
Inventory: Bild 136 - Sammlung Oscar Tellgmann
Signature: Bild 136-B1296
Original title: info Gruppenmanöver der 5. und 7. Division in Bayern, Württemberg und Baden 1926,
Gen.d.Inf. Reinhardt, Oberbefehlshaber Gruko 2 Kassel (rechts) Gen.d.Art. Bleidorn und Generaloberst von Seeckt, neben ihm Frhr. v. Fritsch
Archive title: General der Infanterie Reinhardt, Oberbefehlshaber des Gruppenkommando 2 Kassel (rechts) General der Artillerie Bleidorn und Generaloberst Hans von Seeckt, neben ihm Freiherr von Fritsch
Dating: 1926
Photographer: Tellgmann, Oscar
Origin: Bundesarchiv
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commonsa) Category: Hans von Seeckt File: Bundesarchiv Bild 136-B1296, Süddeutschland, Manöver der 5. und 7. Division.jpg引用。
こうした中、ドイツは、中国への軍事支援を開始します。1933-35年にかけて都合1年3ヶ月間,ワイマール共和国の兵務局長(事実上の参謀総長)ハンス・フォン・ゼークト( Hans von Seeckt:1866-1936.12)将軍が,中国を訪問しましたが、この目的は,中国における共産党軍の討伐、戦地における戦術実地研究と兵器の性能テストでした。そして、ドイツ軍事顧問団も派遣されますが、蒋介石の国民政府が受け入れたドイツ軍事顧問団は、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン( Alexander von Falkenhausen)将軍など20数名の元将校と10数名の民間人です。第一次大戦の敗北で,ドイツは山東省で,日本軍と戦い敗北を喫していました。ですから、ドイツ軍人には,日本に対抗しようとする中国は軍事支援するに値したのです。
写真(左):ドイツのヘルメットを被り、ドイツのモーゼル小銃を持つ中国兵(1937年上海事変):中国の国民党政府はドイツから、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン( Alexander von Falkenhausen)将軍など著名な軍事顧問を受け入れ,ドイツから借款を受け大量の武器を輸入して日本、共産党軍と戦った。
1935年貿易会社HARPO(Handelsgesellschaft zur Verwertung industrieller Produkte)が設立され,ドイツの兵器を中国に大量に輸出しました。 ドイツの小銃,下火砲,1号戦車Pz. I-A,装甲車SdKfz. 221, 222のほか,武器製造ノウハウ,鉄道技術,通信技術などが中国軍に売価腐れ、外貨獲得に貢献します。なんと戦後1950年代になっても,ファンケルスハウゼンの75歳の誕生日に 蒋介石は1万2000ドル相当のプレゼントを贈っているほどです。1936年に独中政府のハプロ条約が締結されましたが、これは、ドイツは中国に武器を供与する見返りに、モリブデン,タングステンなど希少金属を中国から安定輸入することが可能になりましたになった。加えてドイツは中国に対して1億マルクの対中借款協定もむすびます。資金を入手した中国国民政府は、ドイツの誇るクルップ社、ラインメタル社などの小火器、大砲をはじめ、ドイツ輸送機も中国軍に配備しました。1937年のドイツ武器輸出総額の37%が中国向けで、これはドイツにとって貴重な外貨をもたらします。
こうしたドイツによる中への軍事援助が、1937年7月以降,日中戦争初期に日本陸軍が中国軍に苦戦する理由の一つになります。しかし、ドイツと中国の取り決めでは,1937-38年に中国軍20コ師団を訓練することになっていたものの、実際に1937年の上海事変の時期に訓練されていたのは8コ師団だけにすぎませんでした。
写真(右)1938年4月 ,帝国外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop):親衛隊入隊は1933年だったが,1936年には大将の階級を得ている。外交官ノイラート外務大臣の下,リンベントロップは,1933年4月20日,ヒンデンブルク大統領によって,軍縮全権大使に任命され,英国との海軍協定を結ぶことに成功した。1936年9月13日,リンベントロップは,親衛隊名誉大将に昇進,10月30日,駐英ドイツ大使として,英国王エドワード8世に信任状を奉呈した。1936年11月25日,ベルリンで日独防共協定に調印した。
Reichsaussenminister Joachim von Ribbentrop (Porträt) als SS-Brigadeführer
Dating: 30. April 1938
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ヒトラー政権獲得後は,行政官・官僚・警察で,親衛隊にナチ党や親衛隊に入隊を希望するものが急増します。
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)は,1932年5月の成立のパーペン内閣で,パーペンの友人として,ヒトラーに初面会し,副首相として入閣することを要請します。会談場所は,ミュンヘン郊外のベルクホーフで,ナチ党は選挙で第一党になっていたのです。この会談で,ヒトラーは,パーペンと取引するつもりはないと切り出し,二時間にわたって,リンベントロップを圧倒します。しかし,ヒトラーは連立内閣に参加し,副首相に就任することを了承して,副首相の大役を得ようとしたともいわれます。
リンベントロップは,1932年5月,ヒトラーとの会談で打ちのめされ,第一党となったナチ党(NSDAP)に入党します。けれども,その後の選挙でナチ党は議席数を減らし,12月3日にパーペン内閣は倒れてしまいます。シュライヒャー将軍が内閣を引き継ぎましたが,ヒンデンブルクをないがしろにしたため,ヒンデンブルクは,パーペンと謀って,ヒトラーを,1933年1月30日,首相の座に据えます。当時のヒンデンブルク大統領は,首相指名に絶大な権力を持っていたのです。二人の第一次大戦中のドイツ軍の将校は,伍長勤務上等兵ヒトラーを軽蔑し,政治経験が皆無なので,ヒトラーの能力を過小評価していました。二人で,ヒトラーを操り,保守政治を続けようとしたのです。
ナチ党新参者だったリンベントロップは,ヒトラー政権樹立を喜び,箔をつけるために,親衛隊に入隊しています。
ナチ党は,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定をプロパガンダにして,躍進します。ナチ党は,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張します。
ヒトラー政権の下で,親衛隊は,従来の警察組織を,組み込んでゆきます。そして,に秘密警察のゲシュタポが設置され,反ナチスの人物を拘束するようになります。
ゲシュタポ(Gestapo:Geheime Staatspolizei)とは,反ナチス派の人物・組織を摘発し,ナチス独裁を安定ならしめるための秘密警察で,日本の特高(特別高等警察)に相当します。
1933年1月,ナチ党(NSDAP)政権が樹立された直後,まだベルリンを中心とした都市では,共産党,労働組合の勢力は強いものがありました。そこで,ヒトラーは,ベルリンを含むプロイセン州の内務大臣ヘルマン・ゲーリングを任命します。2月,国会放火事件が起こると,その背後に,ドイツ共産党員による一揆,政権奪取の陰謀があるとして,ヒンデンブルク大統領に大統領緊急令を出させ,共産党を違法化し,共産党員を逮捕させます。このときゲーリングが使ったのが,プロイセン州警察の政治警察の一部だった秘密警察部署です。
3.1934年長いナイフの夜:国防軍と対立した突撃の粛清
写真(右)1938年,レーム幕僚長殺害後のヒトラーによって突撃隊指揮官に任命されたビクトル・ルッツェ(Viktor Lutze:1890年12月28日ミュンスター生まれ-1943年5月2日事故死):長いナイフの夜で,突撃隊幕僚長エルンストレーム(Ernst Röhm)ら反ヒトラーのSA幹部が粛清された後,突撃隊はルッツェの指導にゆだねられた。かれは,ヒトラーにレームの行き過ぎを諌めるように直訴したが,まさか,レームたち突撃隊幹部が殺害されるとは思っていなかった。突撃隊幕僚長レームを裏切って,密告したおかげで,新生した突撃隊指揮官に昇格したとは,思われたくなかったであろう。
Viktor Lutze, Stabschef der SA; geb. 28.12.1890 in Bevergern/Münster
Datierung: 1938 ca.
Fotograf: o.Ang.
Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
1934年2月,突撃隊SA幕僚長エルンスト・レームは,国防軍にとって代わり,突撃隊が徴兵して自らの兵士を育成するという野望を公言します。そして,ブロンベルク国防相と衝突します。レームのSA参謀だったビクトル・ルッツェ(Viktor Lutze)は,突撃隊と国防軍の衝突を危惧し,レームをいさめてほしいとヒトラーに直訴します。ヒトラーは,親衛隊長官のヒムラーに相談し,ヒムラーはハイドリヒ(Reinhard Heydrich)に助力を求めます。同時に,ヒトラーは,突撃隊幹部に,6月30日に特別会議に出頭せよと命令します。そこで,ハイドリヒから,この日を決して,突撃隊が反乱を起こすとの情報がもたらされます。これは,謀略だったのですが,ヒトラーは知ってか,知らずか,親衛隊にミュンヘン郊外で休暇を過ごしていたレームの逮捕を命じます。そして突撃隊SA幕僚長エルンスト・レーム,ベルリン地区指揮官エドムント・ハインネスなど突撃隊の幹部10名以上を,処刑してしまいます。
1934年の粛清は,「長いナイフの夜」と呼ばれます,ヒムラー長官の下,ハイドリヒのゲシュタポが反ヒトラー派の人物を特定し,粛清しました。ヒトラーに対抗できる突撃隊幹部が粛清されたjことで,親衛隊の地位が高まり,ヒトラーが去就を気にかけるのは,ドイツ国防軍だけとなりました。
1934年の粛清は,突撃隊幹部(SA幕僚長エルンスト・レーム,ベルリン地区指揮官エドムント・ハインネス)だけでなく,反ヒトラー派の人を粛清します。SSに粛清された反ヒトラー派は,元首相クルト・フォン・シュライヒャー,
ミュンヘン一揆を裏切ったバイエルン首相カール,ナチ党反ヒトラー派グレゴール・シュトラッサーなども殺されてしまいます。これが,「長いナイフの夜」(Night of the Long Knives)と呼ばれるナチ党の粛清,親衛隊の血なまぐさい第一歩です。
1936年6月,ハインリヒ・ヒムラーは,ドイツ警察長官に就任,これを契機に,親衛隊が,州(地方政府)の権限の強かった警察部門を統合し,秩序警察を,クルト・ダリューゲに,ゲシュタポと刑事警察を保安警察として,ハイドリヒに任せることとなります。
第二次大戦が勃発した1939年9月,ラインハルト・ハイドリヒは,親衛隊情報部SD ,ゲシュタポ,刑事警察を傘下に置く国家保安本部を設置し,その長官に収まります。
4.ドイツ国防軍の復活:
ドイツワイマール共和国は,第一次大戦の敗北後に結ばれたベルサイユ条約によって,莫大な賠償金を抱え,フランス・ポーランドへの領土割譲,工業地域でもあるライン川の西側の非武装化と並んで,厳しい軍備制限を受けました。
ドイツは,監視団を受け入れたうえで,陸軍兵力を10万人に制限され,陸軍参謀本部を廃止させられます。兵器の上でも,戦車,潜水艦の保有禁止,航空部隊の廃止という制限を受けています。
1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると,大統領選挙ではなく,いきなり首相が大統領を兼任する国民投票を強行し,総統となっています。そして,軍の将兵は,全員,総統アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓うように宣誓文を改変しました。
ヒトラーが,このような粗暴な革命を強行できたのは,自分は正しいことをしているとの思い込みと,反対勢力を弾圧すれば,国民は強い者に服従するとした弱肉強食の原則を信じていたからです。
ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになります。そしてドイツ国防軍の兵士は,ドイツにではなく,ヒトラー個人に忠誠を宣誓するようにかわります。これは,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg:
1878年9月2日-1946年3月14日)が,ヒトラーの申し出を受諾したためです。
写真(右)1934年8月,ドイツ国防軍の兵士のヒトラー総統への新しい忠誠宣誓式:ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになった。そしてmドイツ国防軍の兵士は,ドイツにではなく,ヒトラー個人に忠誠を宣誓することとなった。これは,国防大臣ブロンベルクが,ヒトラーの申し出を受け入れたためである。
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler!
Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler.
Dating: August 1934
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
1934年8月2日に導入された新しいドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓:
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."
「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」
写真(右)1928年8月,ドイツ、東プロシア州、ドイツ国軍の四輪装甲車Gepanzerter Kraftwagen (SdKfz.3):ヒトラー政権は1933年1月に成立したが、それから1935年3月の再軍備宣言までは、ワイマール共和国は、ベルサイユ条約の制約の下で、小規模なドイツ国軍を維持していた。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-06342
Original title: info Die ersten großen diesjährigen Herbstmanöver der Reichswehr in Ostpreussen! Manöverbilder der I. Division zwischen Goldap und Angerapp.. in Ostpreussen. Panzerwagen der Reichswehr auf Beobachtungsstand im Manövergelände.
Dating: August 1928
Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが提供したWikimedia Commonsから"Bild 102-06342"引用。
写真(右)1932年9月,ドイツ、東プロシア州、ドイツ国軍の四輪装甲車Gepanzerter Kraftwagen (SdKfz.3):ヒトラー政権は1933年1月に成立したが、それから1935年3月の再軍備宣言までは、ワイマール共和国は、ベルサイユ条約の制約の下で、小規模なドイツ国軍Reichswehr を維持していた。
Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-13828
Original title: info Die ersten großen diesjährigen Herbstmanöver der Reichswehr in Ostpreussen! Der Chausseegraben als Infanteriedeckung während des Manövers, links auf der Chaussee ein leichter Panzerwagen der Reichswehr.
Dating: September 1932
Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが提供したWikimedia Commonsから"Bild 102-06342"引用。
陸海空三軍の総司令官を兼ねることになったヒトラー総統に、国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,自ら忠誠を誓います。そして、周辺諸国、国内の社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考え、全軍に対して,ヒトラーに忠誠の宣誓させます。このように忠誠を誓った国防軍将官たちですが,不名誉なブロンベルク国防相スキャンダル罷免の後、そして「長いナイフの夜」で元首相シュライヒャー夫妻が殺害されると、反ヒトラー派に転向し始める人物も出てきました。
写真(右)1934年3月、ドイツ、ベルリン、カイザーダムの1934年国際自動車展示会(モーターショー)に出向いたアドルフ・ヒトラー総統、航空相大臣ヘルマン・ゲーリング元帥、親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(左奥)、ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ(右)国際軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将(右端);1933年1月30日のヒトラー政権で無任所大臣として入閣、プロイセン州内務大臣に就任したゲーリングは、1933年4月10日には副首相パーペンから委譲されプロイセン州首相に就任、同時期に新設された航空省大臣も兼ねた。プロイセンはドイツの三分の二を占めており、プロイセン州警察がナチ化され、突撃隊や親衛隊が補助警察として権力を握った。1933年2月28日の国会議事堂放火事件では、共産主義者の反乱を鎮圧するとの名目で、大量検挙を行い、政敵を弾圧し、強制収容所を設置して、政治犯を「保護拘束」した。1935年3月、再軍備宣言に伴い復活したドイツ空軍の総司令官に就任する。
Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-15601
Original title: info Reichskanzler Adolf Hitler eröffnet die große Internationale Automobil-Ausstellung 1934 am Kaiserdamm in Berlin! Reichskanzler Adolf Hitler und der preußische Ministerpräsident General Hermann Göring, besichtigen die neuesten Wagen auf der Ausstellung.
Dating: März 1934
Photographer: Pahl, Georg
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
写真(右)1936年4月20日,ヒトラー総統と陸軍大臣フォン・ブロンベルク元帥:ベルリンの軍事パレードに参加した海軍提督レーダー博士,ルントシュテット将軍も後方に見える。ヒトラーは,突撃隊SA幕僚長レームら幹部を粛正,国防軍に代わる軍隊を創設するつもりがないことを示し,ドイツ国防軍,陸軍大臣フロンベルクの信頼を得た。この時期,国防軍の威光は,ヒトラー総統でも十分に配慮しなければならないほど,強かった。
Geburtstag des Führers 1936.
Adolf Hitler verabschiedet sich von Reichskriegsminister Generalfeldmarschall von Blomberg.
[nach der Parade in Berlin]. Dahinter General-Admiral Dr. h.c. Raeder [und General von Rundstedt].
Archive title: Werner v. Blomberg und Adolf Hitler, Hände schüttelnd. dahinter General-Admiral Erich Raeder und General Gerd von Rundstedt
Dating: 20. April 1936
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1922年のソ連とのラパロ条約秘密議定書で,ドイツはソ連奥地におい軍備を整える兵器開発・訓練をしていました。また,新型火砲の開発も,スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して行っていました。これらの兵器は,ベルサイユ条約調印前の1918年に制式されたように見せかけるために,型式を1918年型と偽称していました。つまり,ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動きは着実に進んでいたのですが,ヒトラーは1935年3月16日に再軍備を大々的に宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴したのです。
写真(右)1935年9月,ドイツ、バイエルン(ハノーバー)州、ドイツ陸軍第六軍所属の四輪装甲車Späh-panzer Pz-Spw. (4 Rad) Sd.Kfz. 222と六輪装甲車Panzer-spähwagen Pz-Spw. (6 Rad) (Fu) (Sd.Kfz. 232), davor Pz.Spw. (6 Rad) (Sd.Kfz. 231):ドイツ軍の四輪装甲車や六輪装甲車は、溶接構造を採用し、8mm厚の装甲板で防御されていたが、装甲板は垂直に切り立ったものではなく、上下に傾斜した複雑な形で、避弾径始を考慮して防御力が高められていた。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-04719A
Original title: info Manöver des VI. Armeekorps in der Lüneburger Heide vom 2. bis 7. September 1935, Panzerspähwagen
Dating: September 1935
Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 102-04719A"引用。
ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,アドルフ・ヒトラーは,ベルサイユ条約打破の公約を実行するために,再軍備を宣言しました。これは,兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活しようというもので,すぐに空軍も新設し、第一次世界大戦のエースで、ナチ党古参のヘルマン・ゲーリングを総司令官に任命します。
写真(右)1935年9月,ドイツ、バイエルン(ハノーバー)州、ドイツ陸軍第六軍所属の六輪無線指揮装甲車Panzer-späh-wagen Pz-Spw. (6 Rad) (Fu) (Sd.Kfz. 232) と六輪装甲車Pz.Spw. (6 Rad) (Sd.Kfz. 231):
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-04757A
Original title: info Manöver des VI. Armeekorps in der Lüneburger Heide vom 2. bis 7. September 1935, Panzerspähwagen
Dating: September 1935
Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 102-04757A"引用。
第二次大戦初期には、この六輪装甲車Sd.Kfz.231 (6-Rad)を改良して大型化した八輪装甲車Sd.Kfz.231 (8-Rad)が開発されています。
写真(右)1935年9月,ドイツ、バイエルン(ハノーバー)州、ドイツ陸軍第六軍所属の六輪装甲車Panzer-spähwagen (Sd.Kfz. 232)
:2センチ機関砲と7.92mm MG13を搭載している。
Inventory:Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-04721A
Original title: info Manöver des VI. Armeekorps in der Lüneburger Heide vom 2. bis 7. September 1935,
Panzerspähwagen
Dating: September 1935
Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 102-04721A"引用。
Sd Kfz 231 (6-Rad) 装甲車の諸元
全長: 5.57 m
全幅: 1.82 m
全高: 2.25 m
重量:5.4 t
乗員数: 4 名
2 cm KwK 30機関砲の諸元
口径:20 mm
発射速度:120 から 280発/分
初速:780 - 1 050 m/s
有効射程:1 000 m
最大射程:4 800 m
弾丸:20 x 138B Pzgr.39/ Pzgr.40
2 cm KwK 30機関砲を搭載したドイツの戦闘車輛は次の通り。
ベルゲ・パンター工作戦車 Bergepanther SdKfz.179
II号戦車 SdKfz.121 Panzerkampfwagen II
四輪装甲車 SdKfz.222 Leichter Panzerspähwagen
四輪装甲車 SdKfz.223 Leichter Panzerspähwagen
八輪重装甲車 SdKfz.231 Schwerer Panzerspähwagen
八輪重装甲車 SdKfz.223 Schwerer Panzerspähwagen
八輪重偵察装甲車 SdKfz.234/1 Puma
半装軌式対空装甲車 SdKfz.251/17 Schützenpanzerwagen (2 cm)
兵装の2センチ砲は2cm KwK30機関砲で、7.92mm MG13を同軸に装備していました。車体前部に搭載したエンジンは、ダイムラーベンツ社のM509、65馬力であり、フロントのラジエーターには斜めに据え付けられた装甲板が付けられています。
写真(右)1935年9月,ドイツ、バイエルン(ハノーバー)州のドイツ陸軍第九軍所属の六輪無線指揮装甲車Panzer-späh-wagen Pz-Spw. (6 Rad) (Fu) (Sd.Kfz. 232) :
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-2005-0137
Original title: info Herbstmanspöver des IX. Armeekorps in der Bayrischen Ostmark 1935,
Panzerwagen
Archive title: Panzerspspähwagen, gepanzerter Funkwagen (Sd.Kfz. 232), bei Fahrt durch eine Ortschaft
Dating: September 1935
Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2005-0137"引用。
1935年3月16日の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,フランス、イギリスへの脅威とはいえない範囲にとどまっていましたた。だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認したのです。
写真(右)1935年9月,ドイツ、バイエルン(ハノーバー)州、ドイツ陸軍第九軍所属の六輪無線指揮装甲車Panzer-spähwagen (Sd.Kfz. 232)
:
Inventory: Bild 136 - Sammlung Oscar Tellgmann
Signature: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 136-B3093
Original title: info Herbstmanöver des IX. Armeekorps in der Bayrischen Ostmark 1935,
Panzerwagen
Archive title: Panzerspähwagen, gepanzerter Funkwagen (Sd.Kfz. 232), bei Fahrt durch eine Ortschaft
Dating: September 1935 .
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivがWikimedia Commonsに譲渡した"Bild 136-B3093"引用。
六輪装甲車Sd Kfz 231 (6-Rad) は、第二次世界大戦前の1930年代中頃に制式になったドイツ陸軍の偵察用の六輪装甲車で、2センチ機関砲を搭載する小型砲塔を備えていた。1932〜37年に期間にダイムラーベンツなどで合計123輌生産された。
ワイマール共和国の軍事組織維持の背景の中で,三軍総司令官となったヒトラー総統は,1935年3月16日,ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して,再軍備を宣言します。この時,国軍Reichswehrは,国防軍Wehrmachtに戻され,陸軍,海軍に加えて,ヘルマン・ゲーリング率いる空軍が新設されました。
再軍備宣言から2ヵ月後,1935年5月21日に兵役法が施行され,全ドイツの男子に兵役義務が課されます。そして,国防軍の最高指揮者は,総統兼首相 (Führer und Reichskanzler)がとることとされました。
忠誠宣誓については,従来のように国家と憲法に忠誠を誓うのではなく,三軍最高司令官の総統兼首相に忠誠を誓うようになります。これは,親衛隊SSがヒトラー個人に忠誠宣誓をするのとほぼ同じです。
写真(右)1936年,秋季大演習に参加したドイツ軍第2部隊の六輪無線指揮装甲車Panzer-spähwagen (Sd.Kfz. 232) とアドラー四輪装甲車 (Sd.Kfz. 13)
:
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-2005-0138
Original title: Große Herbstübung 1936 Gruppenkommando 2 (V. und IX.A.K.),
Leichter und schwerer Panzerspähwagen bei Gasalarm
Archive title: Panzerspäh-wagen (Sd.Kfz. 13) und gepanzerter Funkwagen (Sd.Kfz. 232)
Dating: 1936.
Photographer: Dick, Walter 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2005-0138"引用。
四輪装甲車 (Sd.Kfz. 13)はアドラー社の乗用車の車体を改造して、周囲に垂直装甲板(5ミリ)を施した急造の偵察用装甲車。1932年に生産開始。
アドラー四輪装甲車 (Sd.Kfz. 13)諸元
全長:4.2 m
全幅:1.7 m
全高:1.46 m
重量:2.1 t
乗員数:2 名
兵装:7.92mm MG34
路上最高速度:70 km/h
エンジン:アドラー・スタンダード6 51馬力
写真(右)1936年9月,ドイツ軍の六輪装甲車Panzer-spähwagen (Sd.Kfz. 231 6-Rad) と六輪無線指揮装甲車Funkwagen (Sd.Kfz. 232)
:六輪無線指揮装甲車の車体上部には、鉄枠でできたアンテナが展開している。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-2005-0139
Original title: info Herbstmanöver des IX. Armeekorps bei Fritzlar 1936, Parade
Archive title: Panzerspäh-wagen (Sd.Kfz. 231) und gepanzerter Funkwagen (Sd.Kfz. 232)
Dating: September 1936.
Photographer: Dick, Walter 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2005-0139"引用。
写真(右)ミュンヘン会議の前、1938年9月15日,事前交渉としてベルヒテスガーテンに会談するため,空路やってきた大英帝国アーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)首相を出迎えるドイツ帝国外務大臣アヒム・フォン・リンベントロップ:左から親衛隊の黒服のフォン・エバスタイン男爵,英首相チェンバレン,外務大臣リッベントロップ,ミュンヘン警察署長カール・フェイラー。
9月15日のベルヒテスガーテンにおけるヒトラーとチェンバレンのズテーテン帰属問題の話し合いは,ミュンヘン会談に引き継がれた。ここではドイツ、英国、フランス、イタリアとの間で交渉がされたが,チェコスロバキアはよばれなかった。
リンベントロップは,英国大使を務めたこともある。
チェンバレンは,下院議員,厚生大臣,大蔵大臣など要職を経て,1937年,保守党首となり,英首相に就任。
Zentralbild
Die Verhandlungen zwischen Deutschland, Großbritannien, Frankreich und Italien über die Sudetendeutsche Frage und die Tschechoslowakei.
UBz.: Der britische Ministerpräsident Neville Chamberlain wird am 15.9.1938 auf dem Flughafen [Oberwiesenfeld bei München zum Gespräch auf dem Obersalzberg] empfangen. V.l.n.r.: SS-Obergruppenführer Frhr. von Eberstein, Polizeipräsident von München, Neville Chamberlain, Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop, dahinter Reichsleiter Karl Fiehler
[Oberbürgermeister von München].
12205-38
[Scherl Bilderdienst]
Datierung: 15. September 1938
Fotograf: o.Ang.
Agentur: Scherl
Quelle: Bundesarchivs
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivsに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1938年10月3日,チェコスロバキアのズテーテンラント侵攻の準備をするドイツ軍の六輪装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 6-Rad) :
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-1986-042-13
Original title: info Einmarsch in das Sudetenland. Die Panzer-spähwagen voraus, überschreiten deutsche Truppen um 8.00 Uhr die Zollgrenze des tschechischen Staates.
Armored cars taking the lead German troops crossed the frontier of the Czech state on the 10th of march, 1938
3.10.1938
8.00 Uhr
Schirnding. Sudetenland
Dating: 3. Oktober 1938.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-1986-042-13"引用。
写真(右)1938年10月3日,チェコスロバキアのズテーテンラント侵攻の準備をするドイツ軍の六輪装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 6-Rad) :
Inventory: RH 82 Bild - OKH / Heeresfilmstelle.- Bildbestand
Signature: Bild 146-2003-0041
Original title: info Heeres-Filmstelle. Bildabt.
Einmarsch in das Sudetenland. Unmittelbar an der Reichsgrenze stehen die deutschen Panzerspähwagen bereit zum Einmarsch in das Sudetenland.
German armored cars standing by the Reich frontierare waiting to enter the Sudeten.
3.10.1938, 7.30 Uhr. Schirnding. Sudetenland.
Archive title: Bei Schirnding.- Besetzung des Sudetenlands, deutsche Spähpanzer (Sd.Kfz. 231 6-Rad, Sd.Kfz. 232 und Sd.Kfz. 222 ?) auf Straße
Dating: 3. Oktober 1938 .
Photographer: Dick, Walter 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2003-0041"引用。
写真(右)1938年12月8日,ドイツ、キール軍港、空母「グラーフ・ツェペリン」進水式に参列したアドルフ・ヒトラー総統、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥;後方には,親衛隊国家長官ヒムラー,ブリュックナー主席副官,大統領府長官オットー・マイスナー,ブリュックナー国務大臣,ボーデンシャツ少将,フォン・リンベントロップ外務大臣。
Kiel.- Adolf Hitler beim Abschreiten einer Ehrenformation anläßlich des Stapellaufs des Flugzeugträgers "Graf Zeppelin"; rechts: Hermann Göring
Date 8 December 1938
Photographer Unknownwikidata:Q4233718
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・Bundesarchiv Bild 183-2006-0810-500,引用(他引用不許可)。
1935年3月16日、ヒトラーは、ドイツ再軍備宣言 (Aufrückwstung der Wehrmacht)をし、空軍を新設した。1935年6月18日、イギリス-ドイツ海軍協定 (Anglo-German Naval Agreement)が締結され、ドイツ海軍はイギリス海軍の35パーセントの軍艦保有を認めさせた。これによって、イギリスは単独でベルサイユ条約を無視して、ドイツの再軍備を公認したことになった。
ドイツ海軍重巡洋艦 「アドミラル・ヒッパー」(Admiral Hipper)重巡「アドミラル・ヒッパー」は、1935年7月6日に建造開始、第二次大戦直前1939年4月29日に就役。英独海軍協定の基準排水量は規定の1万トン以下ではなく、密かに協定を違反した1万4,000トンの設計で建艦されている。最高速力 32.5ノット、航続距離 20ノット/6,800マイル、乗員 1,500名、兵装:60口径20.3センチ連装砲4基8門。65口径10.5センチ連装高角砲 6基12門、搭載機 アラドAr 196水上偵察機3機、カタパルト1基。
|
英独海軍協定 (Anglo-German Naval Agreement)によって、ドイツは、今まで潜水艦も海軍航空隊も禁止され、旧式装甲艦6隻のみ保有を許されていたのが、基準排水量1万トン 以下・備砲20.3センチ以下の重巡洋艦6隻、6千トン以下15.5センチ砲の軽巡洋艦6隻、800トン以下の駆逐艦 12隻、魚雷艇12隻を保有できることとなり、フランス海軍の8割の兵力をドイツに認めることとなった。
1935年の英独海軍協定に則って、ドイツ海軍は、1935年7月6日、1番艦として、重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」(Admiral Hipper)の建造を開始した。もちろん、ベルサイユ条約を無視して、これより数年前から大型軍艦の設計・開発が進んでいたために、協定締結後に直ちに建艦に入ることができたのである。重巡「アドミラル・ヒッパー」は、1937年2月6日に進水、第二次大戦直前1939年4月29日に就役したが、実際には、1935年の英独海軍協定に則った排水量1万トンではなく1万4,000トンと協定違反だった。それを基準排水量1万トンと偽って建造したのであるた。しかし、ドイツ海軍巡洋艦の就役は3隻のみにとどまった。
そして、1935年4月、ドイツは、イギリスに対して、12隻の250トン級の小型潜水艦 (U boat)を建造すること、さらに中型の新鋭潜水艦を計画中であると告げた。この潜水艦Uボートが第二次大戦緒戦ではイギリス本土封鎖、交通破壊戦に大活躍し、「大西洋の戦い」の主力となった。ドイツ海軍の大型水上艦艇は、第二次大戦で戦局に寄与できなかったが、潜水艦 (U boat)は、連合国の海上輸送に大打撃を与えることになる。
ドイツ海軍潜水艦UボートVII/B型:排水量浮上時: 769トン、潜航時: 871トン、全長: 67.1 m、全幅: 6.2 m、全高9.60 m、吃水4.74 m、動力MANディーゼル出力1,400馬力2基、最高速力 水上: 17.7ノット、水中: 7.6ノット、航続距離:水上 10ノットで8,600マイル、水中 4ノットで81 マイル、最高潜航深度230 m、乗員 50人、兵装:53.3cm魚雷発射管 5基 (艦首4門、艦尾1門)、搭載魚雷14本、 45口径8.8cm砲1門 (弾丸220発)
|
1935年3月のl英独海軍協定 (Anglo-German Naval Agreement)は、対独宥和政策の嚆矢となったといえる。英独海軍協定は、第二次大戦に向けてドイツ海軍の発展させたものの、第二次大戦のドイツ海軍は、潜水艦 (U boat)以外、あまり戦局に寄与できなかった。しかし、1935年当時、イギリスが、ナチ党ヒトラー政権に譲歩し、ドイツの国際的立場を高め、ヒトラーの国内外の評価を高めて、独裁政治、戦争への道に寄与したのは確実である。
1937年11月5日、ヒトラーは、ドイツ国防軍、陸海空三軍の司令官、外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラート(Konstantin von Neurath )を集めて、ヨーロッパにおける領土拡張のための戦争決意を伝えた。しかし、空軍のゲーリングは、ヒトラーに異議を唱えなかったものの、国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg )も陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner von Fritsch )もイギリス・フランスの軍備に対してドイツは優位にないとして、早急な戦争開始には反対した。また、外務大臣ノイラートも戦争には賛成しなかった。そこで、ヒトラーは、戦争遂行に役に立たない将官、閣僚を解任することを決める。
1938年2月4日、外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラート(Konstantin von Neurath )は解任され、新たにリンベント路プが外務大臣に任命された。そして、3月には、ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner von Fritsch )が同性愛者であるとして、1938年1月12日に結婚したヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg )元帥の新妻エルナがいかがわしい女性であるとして、ともにフレームアップされたスキャンダルで職を追われた。
1938年2月4日 、ヒトラーは、後任の国防大臣を任命せず、国防省に代えて、国防軍最高司令部 (Oberkommando der Wehrmacht:OKW)を設置してドイツ国防軍三軍の最高司令官におさまり、忠実な部下のヴィルヘルム・カイテル大将を、国防軍最高司令部総長 (Oberkommando der Wehrmacht:OKW)(Chef des Oberkommandos der Wehrmacht)に任命し、戦争準備を進め、着実に軍備・世論を整えて行く。
写真(右)1936年12月18日,キール軍港で建造中のドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」Graf Zeppelin:
Flugzeugträger "A". Baustadium v. 28.12.1936
Deutsche Werke Kiel
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1936年のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合アンシュルスは,この復活させたドイツ国防軍を使って達成しました。しかし,国防軍と並んで,ヒトラーは自分の護衛部隊として育成してきた親衛隊を,国防軍に次ぐ第二の軍事組織に拡張していきます。
大戦直前,親衛隊は,軍と並ぶ第一線戦闘部隊も編成し,その後,武装親衛隊として,陸海空三軍に次ぐ軍隊となっていました。SSの特徴は,ナチズムを信奉するヒトラー直属の政治的兵士であることで、SSには,最終的に30万人の警察,各々4万人の強制収容所看守とゲシュタポ,90万人の武装親衛隊が所属しました。こうして,ヒトラーは,国防軍の権威も失墜させていったのです。
他方、ドイツ海軍は,大型戦艦「ビスマルク」型2隻,巡洋戦艦「シャルンホルスト」型2隻,ポケット戦艦「ドイッチュラント」型3隻を建造,就役させたものの、航空母艦は就役させることができませんでした。こうして、ドイツ海軍の水上艦艇は、イギリス海軍艦艇には全く対抗できず、潜水艦による交通破壊戦だけが残された手段となります。その意味で、ドイツ国防軍の陸海空三軍といっても、実力の上で、陸軍と海軍がその二大柱だったわけです。
写真(右)1937年9月14日,キール軍港で建造中のドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」Graf Zeppelin:カタパルト2基を装備し、近代的な大型艦橋を備えた空母として建造されたが,未完成に終わった。ドイツ軍は,空母を1隻も保有することができなかった。
Kiel.- Flugzeugträger "Graf Zeppelin". Konstruktion des Rumpfes. Bugansicht
Date 14 September 1937
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
空母「グラーフ・ツェッペリン」諸元
基準排水量:3万4000 t
全長
262.5 m、
全幅
31.5 m
吃水
7.6 m
主機 タービン2基4軸20万馬力
最大速力 35 ノット
航続距離
19ノット/8,000マイル
乗員
1,720 名、(パイロット:306名)
兵装:
55口径15センチ連装砲8基16門
65口径10.5センチ連装高角砲6基12門
37ミリ連装対空機関砲11基22門、20ミリ機関銃28丁
装甲:舷側:100mm、 甲板:60mm
搭載機:Me109戦闘機12機
Ju87急降下爆撃機30機
合計42機。
発注
1935年11月16日
起工
1936年12月18日
進水
1938年12月8日
建造中止
1940年6月
自沈1945年4月25日
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻に参加したI号戦車:戦車搭乗員と比較すると,砲塔が小さい。7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車にすぎなかったことが分かる。第二次大戦初頭,ドイツ軍の戦車は決して強力な火砲,分厚い装甲を施していたわけではなかった。
ドイツ国防軍の将軍たちは,開戦直前,英仏の軍事介入を恐れていた。東部戦線でポーランドに侵攻している最中に,西部戦線で英仏連合軍が攻勢に移っていれば,ドイツ軍は開戦第一年目で敗北したかもしれなかった。
An den Ufern der Brahe sichern deutsche Panzer das Gelände gegen Überfälle von versprengten polnischen Truppenteilen. Angespannt beobachtet der Kommandant mit dem Glas das Gelände, um sofort auf auftauchende Polen das Feuer eröffnen zu lassen.
4.9.1939 [Herausgabedatum] "Fr.OKW"-Sche
Es muß genannt werden: Foto: Weltbild-Schwahn
Dating: September 1939
Photographer: Schwahn 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
1939年5月23日,ベルリンの帝国官房(総統官邸)で,三軍総司令官が出席した会議で,ヒトラー総統は,「適当な機会があり次第,ポーランドを攻撃する」ことを宣言しています。こうして,戦争準備を始めるヒトラーですが,ドイツ国防軍,陸軍の兵力はどの程度だったのでしょうか。
ヒトラーは,共産主義者・国際金融界の劣等人種ユダヤ人が,第一次大戦を敗北させたとして,犯罪者と決め付けており,世界大戦で,ドイツの敵となる劣等人種・ボリシェビキのユダヤ人を抹殺することを決意しています。したがって,戦争を前提に軍事を整えたのですが,その兵力は,「強大」というほどではなかったのです。
?号戦車は,トラクター改造で,砲塔はありますが,搭載しているのは機銃だけです。小型砲塔だったので,ここに大砲を装備することはできなかったのです。後に,砲塔を撤去して,大型のアンテナと固定密閉式の戦闘指揮室を設け,通信設備を備えた指揮用戦闘車両に転換されてゆきます。
1939年9月のポーランド侵攻,1940年5月のフランス侵攻の時,主力はI号戦車,II号戦車,チェコ38t戦車でした。
写真(右):1941年6-7月,バルバロッサ作戦,東部戦線のドイツ軍II号戦車:砲塔上にある展望ハッチから戦車兵が頭を出している。車体と砲塔の前面には,予備のキャタピラが置かれて,補助装甲板となっている。
Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzer II auf einer Straße außerhalb eines Ortes; PK 697
Depicted place Russia
Date June 1941
Photographer Moosdorf [Mossdorf]
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
?号戦車は,主力となる?号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から量産されています。
全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。 2センチ砲装備。エンジン140馬力,乗員3人。
1938年ズテーテン侵攻から1939年ポーランド侵攻まで,ドイツ国防軍の主力戦車は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)でした。これらの戦車は,フランス,イギリスの戦車と比較して,火砲の威力と装甲の厚さで劣っていました。
新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)は,1940年当時でも部隊配備が遅れていました。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言します。
ユダヤ人絶滅は口頭命令でしたが,ヒトラー総統による,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争が公言されています。これは過激な表現のプロパガンダではなく,ヒトラーの本心だったのです。
写真(右)1941年10月,対ソ戦の東部戦線北部,チェコ38(t)戦車:チェコを併合したドイツがスコダ社で生産していたチェコスロバキア軍の戦車を,ドイツ軍も引き続き第一線で使用した。38tの“t”は重量トンではなく,チェコを意味する。
Sowjetunion.- Panzer 38 (t) (Turmnummer 1023) auf einer Dorfstraße; PK 697
Depicted place Russia
Date June 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである,このようにヒトラーは考えます。そして,東方ソ連を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴として支配しようとします。ドイツ国防軍は,このドイツの生存圏を確保するための戦争の道具です。
ドイツ陸軍38(t)戦車(チェコスロバキア軍LTvz.38)の諸元
全長 4.6メートル,全幅 2.2メートル,全高 2.3メートル
重量 9.5トン。 時速 40キロ,航続距離 200キロ
主砲 3.7センチ砲(Škoda A7 37.2mm L/47.8),7.92ミリ機銃2丁
砲塔・車体の前面装甲 50ミリ,側面30ミリ
エンジン125馬力,乗員4人
写真(右)1942年3月,ロシア、東部戦線,ユンカースJu-87D急降下爆撃機[スツーカ]:フランス侵攻キャンペーンでは,戦車とユンカースJu87"スツーカ"を組み合わせた電撃戦によって大勝利を勝ち得たが,ドイツ国防軍の将軍たちはフランス侵攻作戦の前途に大いに不安を感じていた。しかし、対ソ連戦争については、ソ連赤軍の戦闘能力を過小評価していたようだ。
Sowjetunion.- Sturzkampfflugzeug Junkers Ju 87D "Stuka" mit laufendem Motor auf Feldflugplatz; KBK Lw 4
Depicted place Russia
Date March 1942
Photographer Reiners
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ポーランド進攻からフランス侵攻まで,すなわち開戦前から,ドイツ軍戦車には,対戦車戦闘は重視されていなかったのです。しかし,ドイツ国防軍は戦車の機動力を活用した集団用法と空軍による地上近接支援によって,電撃戦を戦い,勝利します。
写真(右)1940年6月21日,フランス,第1爆撃航空団(KG1)所属ハインケルHe 111爆撃機:第1爆撃航空団(KG1)は、熟達した搭乗員を揃えたドイツ空分爆撃鯛の中核だった。He-111は視界を確保しようと,機首全体をガラス風防で覆ている。
Frankreich.- Bomber Heinkel He 111 (Kennung der vorderen Maschine V4+A?) des Kampfgeschwader 1 (KG 1) auf Feldflugplatz; KBK Lw 4
Date 21 June 1940
Photographer Wanderer, W.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ空軍ハインケルHe 111H爆撃機の諸元
原型初飛行 1935年2月,生産機数 7000機以上
全長 16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量: 1.2トン,エンジン1300馬力2基
最大時速 400キロ,航続距離 2800 キロ
兵装:7.92ミリMG15機関銃6丁,爆弾2トン。
ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。
1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。-----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」
1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」
◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持っています。生存圏を確保するためには,弱肉強食の戦争に勝ち残ることが必要です。
1941年11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。>」
◆ドイツ国防軍司令官は,弱弱肉強食の自然の掟を信奉し,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならなりません。生存闘争に勝利するには,強い意思と軍隊が必要です。
5.1938年のオーストリア併合(アンシュルス)
写真(右):1938年9月6日,ニュルンベルク党大会でアドルフ・ヒトラー総統に答礼する副総統ルドフル・ヘス(左端):ニュルンベルクでの党大会開催日は,帝国党記念日(Reichsparteitag)となった。参列したナチ党幹部は,左より,ヘス,ヒトラー,ナチ党官房長官マルティン・ボルマン,バイエルン州帝国弁務官フランツ・リッター・フォン・エップ,ヒトラー副官ユリウス・シャウプ、右端・親衛隊SS国家長官ハインリッヒ・ヒムラー。
1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けた。これが,ホスバッハ会議である。ブロンベルクとフリッチュは,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対した。そこで,1938年,二将軍は,失脚,更迭される。
"Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP. Rudolf Hess, Adolf Hitler, Martin Bormann, Franz Ritter von Epp, Julius Schaub, Heinrich Himmler (Stellv.d.F.)Stellvertreter des Führers Rudolf Hess meldet Adolf Hitler
Dating: 6. September 1938
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ヒトラー総統は,大ドイツ「グロス・ドイッチュラント」の復興を目論みます。アーリア人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指すヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなしたのです。すなわち,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域が,ドイツに併合されるべきだと主張します。
1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチ党首だったオーストリア人ザイス=インクワルト Arthur Seyss-Inquartを内務大臣に任命さます。シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりでしたが,選挙権を巡る国内内紛が起きてしまいます。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐します。
1938年3月13日のオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,それまで反対していたイタリア,ムッソリーニの理解を得て,武力進駐を行っています。
シュシニク首相は亡命し、代わりに首相となった内相ザイス=インクワルトは、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出します。皮肉なことに,オーストリアを亡命することになるシュシュニク(Kurt von Schuschnigg)は,TimeMar. 21, 1938のカバーを飾っています。
写真(右)1938年3月,ナチス・ドイツのオーストリア併合(アンシュルス)によって,追い立てられるウィーンのユダヤ人:ユダヤ人老紳士を捕まえて得意満面の兵士たち。弱いものいじめではなく,ドイツの敵を捕らえたという感覚があっただろう。
オーストリアを併合したヒトラー総統は,ハプスブルク家の皇帝標章をニュルンベルク党大会(第一回ドイツ大会)に持ち込んで,第三帝国の成立を宣言した。ナチス支配下のオーストリアでもユダヤ人迫害が始まった。
Juden.
März 1938
Archive title: Österreich, Wien.- Razzia der SS in der israelitischen Gemeinde (Gemeindehaus)
Dating: März 1938
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
Ich proklamiere nunmehr für dieses Land seine neue Mission. Sie entspricht dem Gebote, das einst die deutschen Siedler aus allen Gauen des Altreiches hieher berufen hat: Die älteste Ostmark des deutschen Volkes soll von jetzt ab das jüngste Bollwerk der deutschen Nation und damit des Deutschen Reiches sein.
オーストリアの独立という戯言(ざれごと)は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルク(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」
「ひとつの民族,ひとつの国家,一人の総統」を主張して,オーストリアをドイツに組み込んだ。オーストリアのブラウナウで生まれ,リンツに育ったアドルフ・ヒトラーにとって,オーストリア併合(Anschluss:union アンシュルス)は悲願だった。併合直後のドイツ国会,オーストリアのヒトラー総統の演説は,ナチスの下での大ドイツ再興を連想させる大演説,プロパガンダだった。
アンシュルス後も,チェコ,ポーランドへ領土要求がなされる。
近隣諸国に軍事的脅威を与えることで,ヒトラーは,ドイツの領土を拡張してゆきます。この時ヒトラーが,隣接した地域をドイツに併合すべきだと主張したに根拠は,隣接した地域にドイツ系住民(Volksdeutsche:民族ドイツ人)が住んでいる,このドイツ系住民が虐待されているという理由でした。ヒトラー自身,大ドイツの復活を,政権獲得前から主張していますが,このころは,962年の神聖ローマ帝国(1404年のオーストリア・ハプスブルク帝国に継承),1971年のドイツ帝国を継承するドイツ第三帝国(Drittes Reich)の構想が出てきます。
1938年3月,ドイツが,オーストリアのナチス勢力を使って,オーストリアを併合の要求を出させ,武力進駐してオーストリアを併合します。これをアンシュルス(Anschluss)と呼びましたが,この時,ハプスブルク王朝に引き継がれていた神聖ローマ帝国の皇帝標章(冠,笏など)をドイツに返還させ,ニュルンベルクのナチ党大会をドイツ大会と称して,ドイツ第三帝国の復活を宣言,帝国は千年続くと大見得を切ります。
ニュルンベルク党大会では夜間集会では,シュペーアの演出によって,サーチライトの光の波がはるか上空まで何十本もドイツの天空を照らし出した。ヒトラー総統は,ドイツの栄光を回復するまで軍服を脱がず,総統の地位にとどまると公言したが,実際,1945年5月にベルリンの地下壕で自決するまでその職にあった。
◆ナチスのDas Dritte Reich(ライヒ)を「第三帝国」と訳すのは適切ではないという人もいます。皇帝・皇族が世襲するのが帝国であれば,党首が大統領・軍総司令を兼ねても「独裁国家」に過ぎず,帝国ではありません。しかし,歴史的使命感を妄信するヒトラー総統は,共和国ではなく,神聖ローマ帝国,ハプスブルク王朝,ドイツ帝国を引き継ぐ正統な「第三の帝国」にこだわったのです。
1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,そのために140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝の王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣が,ニュルンベルクに運び込まれました。
これら「四種のハプスブルク皇帝標章(四種の神器)」は,1848年,二月革命の最中,フランクフルト国民議会で廃止されたものです。神聖ローマ帝国を引き継ぐ皇帝の象徴は,剣、宝珠、笏、王冠であり,それをつけた「双頭の鷲」が,ハプスブルク帝国の国章でした。ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地のニュルンベルクに永遠に留まると誓約します。
1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国Großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルクOstmark(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」
6.1938年8月ズテーテンラント危機と反ヒトラー・クーデター
写真(右):1934年,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク大将(Werner Eduard Fritz von Blomberg :1878/9/2–1946/3/14) :1933年、ヒンデンブルク大統領によって国防大臣に任命され,ナチ党の突撃隊の過激化,拡大を抑制しようとした。これが,1934年8月の長いナイフの夜の粛清につながる。
他方,1938年には,ナチスによる,国防軍からユダヤ人の追放を承認し,忠誠宣誓の対称を総統・軍最高指揮官のアドルフ・ヒトラーに対して行うように改変。1936年,陸軍元帥に昇進。
このようなヒトラー追従にもかかわらず,1937年11月,ヒトラーが,オーストリア,チェコスロバキアへの侵攻準備を命じると,軍の準備不足,英仏の介入を危惧して,ヒトラーの戦争方針に難色を示した。1938年,陸軍総司令官フリッチュとほぼ時期を同じくして,ヒトラーにより軍から追放された。
Scherl:
Auf dem Foto: Blomberg in der Uniform eine Generaloberst
ADN-ZB/Archiv
Werner von Blomberg, Generalfeldmarschall
geb.:2.9.1878
gest.:14.3.1946,
seit 1935 Reichskriegsminister und Oberbefehlshaber der faschistischen deutschen Wehrmacht, 1938 von Hitler entlassen.
Auf dem Foto: von Blomberg in der Uniform eines Generaloberst,Dezember 1934.
Aufnahme: Presse Illustration Hoffmann
Dating: Dezember 1934
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
NARA( National Archives and Records Administration): 208-N-39843.引用。
ナチス政権樹立後,ヒトラーはドイツ国民から圧倒的支持を得た----,こういわれていますが,本当でしょうか。ヒトラーと彼の戦争準備,人種差別に対する不満も高まっていたのです。
ヒトラーは,大戦勃発の前年,1938年,陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg)元帥を罷免,参謀総長ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将を辞任させ,国防省を解体,自ら陸海空の三軍を直接指揮する国防軍最高司令部を新設します。
また,親衛隊SSを軍事組織に仕立て上げました。そして,大戦勃発後は,親衛隊SSによる捕虜・パルチザン容疑者やユダヤ人の処刑など残虐行為を行います。大戦当初からドイツ軍の名誉が汚されたと憤慨した将兵も少なくありません。
国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考えた。全軍に対して,ヒトラーに忠誠の宣誓させることを承諾した。このようなヒトラーへの追従が,国防軍の地位を低下させた。
◆ヒトラーは,これまで国防軍を恐れ,国防軍の将官たちの意向を尊重してきた。しかし,国防軍将兵がヒトラーへの個人的忠誠を宣誓するようになって,ヒトラーは,国防軍を意のままに操ろうとした。
1938年9月のミュンヘン会談で,英仏がヒトラー総統に譲歩した。ベック将軍の予測は外れてしまい,ヒトラー総統は,自分の判断力に自身をつけた。ヒトラーは,将軍ほど交戦意思の弱い生き物はいないと,将軍たちの戦略的思考の過誤を指摘した。そして,ドイツ参謀本部は尊敬に値しないと考えるようになった。
写真(右)1937年の国防軍幕僚,陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch将軍(右)とルートヴィヒ・ベックLudwig Beck上級大将(左):ドイツの軍備強化に邁進してきた将軍たちだが,ヒトラーがはじめようとしていた戦争には慎重な姿勢を示した。ヒトラー総統は,英仏相手の戦争に自信がないする将軍たちを臆病者と考え,これら二人の将軍を追放した。
ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch
は,ポーランド戦役で戦死したが,ベック上級大将は,1938年8月,参謀総長辞意後,隠棲,1944年のヒトラー暗殺計画に加わった。
Wehrmachtmanöver 1937 in Mecklenburg und Pommern
Die beiden großen Gegenspieler Hitlers: Der Oberbefehlshaber des Heeres, Generaloberst Frhr. von Fritsch, der den Soldatentod sucht und 1939 vor Warschau fand, und sein Generalstabschef General der Artill. Beck, erschossen 20. Juli 44.
[Titel später zugefügt]
Archive title: Generaloberst Freiherr Werner von Fritsch und General der Artillerie Ludwig Beck im Gespräch, stehend
Dating: 1937
Photographer: Tellgmann, Oscar
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ参謀本部出身者たちは、ヒトラーが総統になって2年後の1935年,再軍備宣言を契機に,軍の勢力を伸ばそうと画策した。
1937年11月5日、ヒトラー総統は,ドイツ国防軍首脳にヨーロッパの戦争計画を打診した。この会議で,ヒトラーは,東方に新たに生存圏を拡大する必要があるとした。その時期は,ドイツ軍が一新された今であり,装備が旧式化しないうちに行動を開始すべきであるとした。
ヒトラーは,1938年,国防軍を直接指揮下に置こうと,ゲシュタポのハイドリヒを使って画策します。陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch)上級大将と国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥の二人の国防軍最高幹部を追い出してしまったのです。親衛隊,ゲシュタポは,フリッチュ陸軍総司令官が男色(ホモセクシャル)であると捏造し,ブロンベルク国防相の配偶者(新妻)が,いかがわしい女性だということを暴露します。そして,二人を国防軍から追放しました。
ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch)上級大将は,1939年9月22日,ポーランド侵攻,ワルシャワ近郊で戦死した。
写真(右)1937年の国防軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将:ヒトラー総統の再軍備に賛同してきたベック参謀総長だったが,軍事専門家として対英仏戦争に勝算はないと見ていた。これは,国防相ブロンベルク元帥と近い見解だった。
しかし,ヒトラーは,オーストリア併合,チェコのステーテンランド進駐と,戦争を辞さない覚悟で,周辺の民族ドイツ人の地域を併呑していった。ヒトラーは,「夢遊病者の確信を持って進む」として,戦争回避を優先する英仏を威圧して,意思を断固貫徹した。ベック上級大将は,1938年8月,参謀総長の辞意を表明,退役。
ADN-Zentralbild / Archiv
General der Artillerie Ludwig Beck, Chef des Generalstabes des Heeres,
geb.: 29.6.1880
gest.: 20.7.1944
Beck war einer der Hauptbeteiligten an der Verschwörung gegen Hitler vom 20.7.1944 und nahm sich nach dem Mißlingen des Attentats das Leben. (Aufnahme 1937)
Archive title: Porträt General Ludwig Beck
Dating: 1937
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ルートヴィヒ・ベックLudwig Beck上級大将は戦前,参謀長として,ナチスの軍備拡充に尽力しました。しかし,チェコスロバキアにズテーテンラント併合を要求をすれば,英仏相手の戦争になると予測しました。そこで,ヒトラーの外交・戦争には反対だった。ベック大将は,平和愛好ではなかったが,勝ち目がない(と考えた)英仏相手の戦争に反対しました。
ルートヴィヒ・ベックLudwig Beckは,国防大臣ブロンベルク将軍がスキャンダルで更迭された後(大戦前年,チェコスロバキアへのズテーテンラント併合要求に反対,1938年8月,参謀長職を辞職します。そして,10月に退役。
ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich:1904年3月7日-1942年6月4日)は,1931年ナチ党に入党,7月に親衛隊に配属されています。1934年ゲシュタポ局長に就任し,6月「長いナイフの夜」で反ヒトラー派を粛清しました。1942年2月,ユダヤ人の絶滅「最終的解決」を決めたヴァンゼー会議を主宰した後,チェコスロバキア亡命軍人からなる特殊部隊によって,1942年5月27日,プラハで,搭乗車を襲撃,殺されました。
ところで,ヒトラーは,1938年に国防相を追い出した後,国防相を解体してしまいます。そして,国防軍最高司令部(OKW:Oberkommando der Wehrmacht)を設けて,参謀本部の力を弱めました。
さらに,第二次大戦の初期,1941年12月には,対ソ戦の失敗から,ワルター・フォン・ブラウヒッチュ(Walther von Brauchitsch:1881-1948)陸軍総司令官を更迭しました。後任の陸軍総司令官はヒトラー本人でした。
ヒトラーは,軍の統帥権を一手に把握して,誰もそれに介入できなくなりました。ヒトラーは,自分以外,軍高官の承認を得ることなく,作戦から軍備まで,決定できるようになったのです。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,軍事力を機械化部隊の整備,新型火砲の配備,地上攻撃用航空部隊の編成を行って近代化します。それを背景にして,ラインラント進駐,オーストリア併合,ズテーテンラント(Sudetenland)割譲と領土要求を次々と呑ませてゆきます。英仏二国の軍とは互角以下でしたが,近隣のオーストリア,チェコスロバキア,ベルギー,オランダと比較するれば,強力な軍備を整えたのです。
チェコスロヴァキアは,多民族国家で,民族ドイツ人300万名が居住していました。ヒトラーは,民族ドイツ人の多いズデーテンラントSudetenlandは,ドイツ領に編入されるべきことを主張します。
写真(右)1936年6月,ベルリン,グリューネ・ヴァルトの陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将(1880年6月29日-1944年7月21日):ゲックは,チェコスロバキアにドイツ軍を進めれば,英仏を巻き込む世界大戦となり,ドイツが敗北すると危惧していた。彼は,ハルダーなど陸軍将官たちと,ヒトラーを排除するクーデターを計画した。
しかし,英仏は,ミュンヘン協定で,チェコスロバキアにズテーテンラント割譲を飲ませた。そこで,チェコスロバキア侵攻は取りやめとなり,クーデターは未遂に終わった。1938年,ヒトラーは,ブロンベルク国防相を更迭し,ベック参謀総長をも辞職させた。
1944年7月20日,ワルキューレ作戦では,ベックは反ヒトラー政権元首を予定されていたが,計画は頓挫し,ベックはベルリンの国内軍司令部でフロム大将に逮捕された。フロム将軍は,ベックに自決の機会を与えた。ベックは、ピストル自殺に生き残ったが,そのまま銃弾を打ち込まれた。
他方,ラステンブルクの会議室爆破にもかかわらず,軽傷で済んだヒトラーは,1939年11月のミュンヘンのビュルガーブロイケラー爆発事件と同じく,再び神の摂理が巡ってきたと考えた。ヒトラーは,徹底抗戦の意思を固め,第一次大戦敗戦の原因と彼が指摘してきた「背後からの一突き」「後方の裏切り者」が第二次大戦中のドイツにもあてはまった,自分の考えは正しかったと確信した。
Archive title: Ludwig Beck (Mitte), Berlin-Grunewald, ca. Juni 1936
Dating: Juni 1936
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1940-41年,総統大本営のヒトラー総統とスタッフ:陸軍最高司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥,国防軍最高司令部(OKW)総長ウィルヘルム・カイテル元帥,陸軍総司令部参謀総長フランツ・ハルダー大将。
陸軍最高司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥と陸軍総司令部参謀総長フランツ・ハルダー大将は,ポーランド侵攻,フランス侵攻,ソ連侵攻バルバロッサ作戦に関わった。ブラウヒッチュは,1941年冬のモスクワ攻略失敗に伴って,ヒトラーと対立。1941年12月解任。陸軍総司令官の後任にはヒトラー自らが就いた。ハルダーも1942年9月24日,参謀総長更迭。1944年7月のヒトラー暗殺への関与を疑われ,逮捕。その後ダッハウ強制収容所に収監。終戦直前に処刑されるところを,米軍に救助。
Hitler im Hauptquartier des Oberbefehlshabers des Heeres Generalfeldmarschall von Brauchitsch. Vlnr am Kartentisch: Generalfeldmarschall [Wilhelm] Keitel, Generalfeldmarschall [Walther] v. Brauchitsch, [Adolf] Hitler, Gen. Oberst [Franz] Halder
Dating: 1940/1941 ca.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
当時,ルートビッヒ・ベック(Ludwig Beck)参謀長は,1938年、ヒトラーがチェコスロバキアに侵攻する作戦を実行した場合,英仏を巻き込む世界大戦となり,ドイツが再び敗北すると大いに危惧します。彼は,ハルダーなど一部の陸軍将官たちとはかり,ヒトラーがチェコスロバキアに侵攻した場合,ヒトラーを排除するクーデターを計画しました。
1938年9月のミュンヘン会談では、英仏伊三国の同意を取り付け,列国は,チェコスロバキアの頭越しに,ヒトラーの領土要求が認められてしまいます。英仏は,戦争の危険を冒してまで,チェコスロバキアのズテーテンラントを保障するつもりはなかったのです。
ドイツは,チェコスロバキアのズテーテンラントをドイツに割譲するように強硬に要求を続けました。チェコスロバキアは不当な領土割譲要求を拒否し,ドイツの恫喝に屈せず,1938年9月23日,動員令でこたえました。チェコスロバキアとの同盟関係にあったのは,フランス(1924年),ソ連(1935年)でしたから,ドイツの領土要求は,第二次世界大戦に発展する可能性があったのです。
チェコスロバキアは,ドイツ軍を迎え撃つために,総動員を開始したのですが,ドイツは,ズデーテンラントを即時引き渡すことを求め,9月28日までにチェコスロバキア軍をズテーテンラントから撤退させることまで,要求します。これは,ドイツからチェコスロバキアへの最後通牒です。
1938年9月24日,チェコスロバキアと同盟を結んでいたフランス首相ダラディエは,チェコスロバキア支援のために,動員令を発します。こうして,1938年9月,第二次世界大戦の危機にヨーロッパ中が慄いたのです。
7.1938年9月のミュンヘン会談
写真(右)1938年9月15日,ベルヒテスガーテンでヒトラーと会談するためにやってきた大英帝国アーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)首相、それを出迎えるドイツ帝国外務大臣アヒム・フォン・リンベントロップ:左から親衛隊の黒服のフォン・エバスタイン男爵,英首相チェンバレン,外務大臣リッベントロップ,ミュンヘン警察署長カール・フェイラー。
ズデーテン問題は、初めにヒトラーとベネシュが話し、次いでチェンバレンとヒトラーとがベルヒテスガーテン(ベルクホーフ)で話し合った。
それから、チェンバレンとフランス首相ダラディエがロンドンで会談した後、イタリア首相ムッソリーニを加えて、英独仏伊の四カ国首脳会談がミュンヘンで開催された。
ミュンヘン会談は、ドイツ、英国、フランス、イタリアとの間で交渉がされたが,チェコスロバキアはよばれなかった。
リンベントロップは,英国大使を務めたこともある。
チェンバレンは,下院議員,厚生大臣,大蔵大臣など要職を経て,1937年,保守党首となり,英首相に就任。
Zentralbild
Die Verhandlungen zwischen Deutschland, Großbritannien, Frankreich und Italien über die Sudetendeutsche Frage und die Tschechoslowakei.
UBz.: Der britische Ministerpräsident Neville Chamberlain wird am 15.9.1938 auf dem Flughafen [Oberwiesenfeld bei München zum Gespräch auf dem Obersalzberg] empfangen. V.l.n.r.: SS-Obergruppenführer Frhr. von Eberstein, Polizeipräsident von München, Neville Chamberlain, Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop, dahinter Reichsleiter Karl Fiehler
[Oberbürgermeister von München].
12205-38
[Scherl Bilderdienst]
Datierung: 15. September 1938
Fotograf: o.Ang.
Agentur: Scherl
Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
英仏との軍事的衝突が起これば,ドイツ軍は打ち負かされ,敗北してしまう,このように考えたドイツ陸軍参謀本部ベック(Ludwig Beck)参謀総長,フランツ・ハルダー(Franz Halder)将軍など,有力なドイツ陸軍将官たちは,ヒトラーの膨張主義に対する危機感がつのっていました。
実際には,フランス軍には劣る兵力しかなく,誇示した軍事力はハッタリだったことを,将官たち郡の最高幹部は熟知していたのです。これが,反ヒトラーのクーデター計画を起こそうというドイツ陸軍の反乱の動きにつながります。
当時の英国首相は,ネヴィル・チェンバレン(1869年3月18日-1940年11月9日)です。チェンバレンは,戦争回避を望む世論を重んじ,同時に,軍事力を強化するドイツを,ソ連ボリシェビキに対抗させるために利用しようとします。実際には,チェンバレンの下で,英空軍の四発中爆撃機が開発,量産準備中だった。イギリスは,軍事力強化の時間稼ぎをするために,対ドイツ宥和政策を採用してでも,戦争を回避あるいは先延ばしにしようと考えます。
ヒトラーは,民主主義国は,安楽な生活を望む国民の重んじているために,堕落しており,世界戦争を戦う意思はなく,厭戦気分が蔓延していて,戦争に突入できないと楽観していました。ミュンヘン協定によって,ヒトラーは民主主義国の軍事的脆弱性が明らかになったと確信します。軍事力を背景に強気に交渉する,戦争で威嚇して強硬な主張をすれば,それを貫徹できると考えたのです。
写真(右),1938年9月,ミュンヘン空港,フランス共和国エトワール・ダラディ(Edouard Daladier)首相による親衛隊SS儀仗兵の閲兵:左端にいるドイツ帝国リンゲントロップ外相が出迎えた。左中央の黒服は,警察署長 [カール・フリードリヒ・フォンエバスタイン男爵。
黒服は,ドイツ国防軍の将兵ではなく,親衛隊SSのもの(ただし戦車兵は黒服)。外交官など官僚も親衛隊に形式上,入隊する場合が多かった。リンベントロップもナチ党員かつ親衛隊将官だった。
Münchener Konferenz vom 29. September 1938:
Der französische Ministerpräsidet [Edouard] Daladier schreitet vor seinem Abflug vom Flughafen Oberwiesenthal die Front der Ehrenkompanie der SS-Standarte "Deutschland" ab. Ganz links Reichsaussenminister [Joachim] v. Ribbentrop, Mitte der Polizeipräsident von München, Frhr. [Friedrich Karl] v. Eberstein.
30.9.38
[Scherl Bilderdienst]
Datierung: 30. September 1938
Fotograf: o.Ang.
Agentur: Scherl
Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1938年9月29日から30日に開催された,ミュンヘン会談において,英仏は,戦争回避を優先しており,それを見越したヒトラーは,ドイツ民族の再統合のためであれば,戦争を辞さない覚悟を表明し,会談をリードしました。
英仏独伊は,チェコスロバキアを弱小国扱いして,会談に参加させず,チェコスロバキアのズテーテンラント割譲を話し合います。ミュンヘン会談では、1938年9月29日にミュンヘン協定が署名され,ドイツ系住民(民族ドイツ人:Volksdeutsche)が住んでいたズテーテンラント割譲をチェコスロバキアに要求することになりました。
写真(右),1938年9月29日,ミュンヘン協定に署名するイタリア統領(ドゥーチェ)ベニト・ムッソリーニ,それを見守るドイツ外務大臣リンベントロップ(右端):原文表題では「平和のために署名。
木曜日[1938年9月29日]午後遅くなって,ミュンヘンで四大国間で正義と平和のための協定が署名された」とある。
ミュンヘン協定を締結させて,ヒトラーに最大級の恩を売ったムッソリーニは,チロルのイタリア帰属をヒトラーから保障されていた。
ミュンヘン協定は,チェコスロバキアのズテーテンラントをめぐる世界大戦再発の危機を回避した条約として,ヨーロッパ市民に理解された。
1年と経過しないうちに,チェコスロバキアはズテーテンラントを割譲しただけでなく,解体されてしまうことになる。
Scherl:
Unterzeichnung für den Frieden.
In den späten Abendstunden des Donnerstag [29.9.38]wurde das Abkommen für Gerechtigkeit und Frieden zwischen den vier Mächten im Führerbau in München unterzeichnet. Der Duce unterzeichnet, rechts Aussenminister von Ribbentrop.
30-9-38
12895-38
Dating: 29. September 1938
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
英仏は,ミュンヘン会談で宥和政策を採用し,チェコスロバキアにズテーテンラントの割譲を認めさせ,ズテーテンラントの民族ドイツ人は,ドイツに併合,保護されました。
1938年9月29日のミュンヘン協定では,チェコスロバキアのズテーテンラント割譲という犠牲を払ったものの,世界大戦を回避することができました。チェンバレン,ダラディエ,ムッソリーニ,そしてヒトラーも平和をもたらした英雄として,国民から高く評価され,支持を集めました。チェンバレンは,帰英すると,その足ですぐにウィンザー城の英国国王に謁見,その手腕を絶賛されています。
ミュンヘン協定では,チェコスロバキアの国家主権・領土保全を保障した一方で,ドイツへのズデーテンラント割譲を認めさせます。英仏のドイツへの譲歩,すなわち対独融和政策の頂点が,ミュンヘン会談といわれるゆえんです。
宥和政策が,ナチスの台頭を許し,世界戦争を誘発したと非難されるのは,第二次大戦が始まってからのことで,ミュンヘン会談直後は,世界戦争が回避できたことを,イギリス人もドイツ人も大喜びしていたのです。
1938年9月29日のミュンヘン協定によって,領土割譲が認められ,ヒトラーのチェコスロバキア侵攻の口実はなくなりました。こうして,ズテーテンラント侵攻を契機としたベック将軍,ハルダー将軍たちの反ヒトラー・クーデターは,実行に移されずに終わってしまいます。
1938年10月,チェコスロバキアのズデーテン地方は,ドイツに割譲され,ヒトラー総統の権威はいっそう高まりました。1938年10月1日 ドイツがズデーテンラントをドイツに併合し,残された地域では,1939年3月15日,スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に,組み入れられてしまいます。チェコスロバキアは,ナチスドイツによって,解体されてしまったのです。
1938年,ヒトラーは,ブロンベルク(Werner von Blomberg)国防相を更迭し,ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)参謀総長をも辞職させましたが,1944年7月20日のワルキューレ作戦では,反ヒトラー政権の元首となる予定でした。しかし,1944年7月20日,シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺が失敗し,ベックはベルリンの国内軍司令部でフロム大将に逮捕されてしまいます。フリーリヒ・フロム(Friedrich Fromm)将軍は,ベックに自決の機会を与え,ベックは、ピストル自殺に生き残ったが,そのまま銃弾を打ち込まれました。
写真(右):1938年10月3日,野外で将軍たちと会食するアドルフ・ヒトラー総統: 右から国防軍総司令部総長カイテルWilhelm Keitel将軍,ステーテンラント・ナチ指導者コンラート・ヘンライン Konrad Henlein, ヒトラー, ライヘナウWalter von Reichenau将軍, 親衛隊国家指導者Reichsführer-SSヒムラー Heinrich Himmle、クルーゲGünther von Kluge将軍.
第二次大戦では,マンシュタイン計画に基づいて、1940年5月10日にフランス侵攻作戦が発動。ドイツ陸軍は,マジノ線の要塞群に立て籠もるフランス軍を迂回,ベルギー,オランダ方面と、アルデンヌ方面から装甲軍が侵攻した。
Nach der Okkupation des Sudetenlandes durch die deutschen Faschisten vom 1. bis 7. Oktober 1938.
UBz.: Adolf Hitler auf der Fahrt nach dem durch deutsche Truppen besetzten Eger bei einer Imbis-Pause auf der Straße zwischen Franzensbad und Eger am 3.10.1938.
von rechts: General Wilhelm Keitel, Konrad Henlein, Adolf Hitler, General Walter von Reichenau, Reichsführer-SS Heinrich Himmler und General Günther von Kluge.
13018-38
Dating: 3. Oktober 1938 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ミュンヘン会談でのヒトラーの外交的勝利と,ヒトラーに対抗できた国防軍のブロンベルク元帥,ベック上級大将の追放によって,ドイツ第三帝国の政治的・軍事的指導者は唯一,アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)だけになりました。
写真(右):1938年7月1日,ドイツ中部、クヴェードリンブルク宮殿を視察した親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー:936年に、貴族令嬢のためのクヴェードリンブルク女子修道院が設立され、神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世が拡張し、帝国の宮殿とした。現在、世界遺産となっている。
Heinrichs Feier in Quedlinburg
Anlässlich des Todestages von Heinrich I. fand am 1. Juli wie in den Vorjahren, eine nächtliche Feierstunde statt.
UBz: Der Reichführer SS (Mitte) Gauleiter und Reichsstatthalter Jordan (links) und Obergruppenführer Heissmeyer begeben sich um 24 Uhr zum Dom.
Rudolf Jordan, Heinrich Himmler und August Heißmeyer passieren SS-Männer mit aufgepflanztem Bajonett
Depicted people Himmler, Heinrich: Reichsführer der SS, Deutschland (GND 11855123X)
Jordan, Rudolf: Gauleiter, Reichsstatthalter Magdeburg-Anhalt, Deutschland
Heißmeyer, August: SS-Obergruppenführer, Chef des SS-Hauptamtes, Deutschland
Depicted place Quedlinburg
Date 1 July 1938
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
突撃隊粛清後,ヒトラーに忠誠を誓った親衛隊SS、その最高指導者ハインリヒ・ヒムラーの力が強まり、ヒトラーに対抗できたのはドイツ国防軍だけとなりました。しかし、ヒトラーは、戦争に躊躇する反ヒトラー派の将軍たちを軍から追放して,ヒトラーは,国防軍を自ら操ることができるようになります。こうして,1939年8月,ポーランドのシレジエン,東プロシアへのポーランド回廊の割譲を要求し,それが拒否されると,ドイツ側放送局がポーランド人に襲撃されたと自作自演し,これを口実に,9月1日,ドイツ軍をポーランドに侵攻しました。
英仏はポーランドと同盟を結んでいましたから,1939年9月3日,ドイツに宣戦布告し,第二次世界大戦が勃発します。
1940年5月に開始されたフランス侵攻は大成功し,ドイツはフランスを降伏させ,第一次大戦の報復を成し遂げします。ドイツ国民は,戦争に勝った,戦争は終わったと早合点したようですが,1941年6月22日,ソ戦侵攻を始めます。これは,資源エネルギー,食料,領土を擁する生存圏を確保し,ドイツを仇名すボリシェビキ,ユダヤ人を殲滅するための戦争です。
ドイツが戦争を続けるのは,ヒトラーが,次のような歪んだ世界観を持っていたからです。
1)ドイツ人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくるユダヤ人は排除しなければならないという人種民族差別をもっていた,
2)ヨーロッパ大陸を包含し,ドイツの完全に自給できる範囲の領土を生存圏として確保し,そこにドイツ人が支配者として君臨する,住民は労働者,農民として服従させる,
3)広大な生存圏を支配するドイツ人が堕落しないように,10年に一度は戦争をして英気を養い,武威を新たに,軍備を固める,
このような妄想的な世界観を根底に,ヒトラーは,戦争を始めます。したがって,戦争に終止符を打つためには,ヒトラーを排除するしか方法はありませんでした。
一方で,ヒトラーは,彼に忠誠を尽くす親衛隊,国防軍将兵に囲まれています。ですから,ヒトラーを逮捕することも,無理でした。
国防軍は,ヒトラーを排除して,合法的な権威の継承を望んでいましたが,このような手段は容易に計画,実行できるはずがありません。実際,1943年のヒトラー搭乗機爆破計画,自爆攻撃,1944年のワルキューレ作戦は,みな失敗します。
ヒトラー暗殺以外,ヒトラーの戦争をとめることはできない,これは,1943年,1944年になって,国防軍の反ヒトラー派将校たちが到達した結論でした。この単純しかし重大な行為を,ドイツ人将校シュタウフェンベルクが,1944年7月20日に実行するまで,5年以上もかかりました。
8.ドイツ軍ポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦
写真(右):1939年、ポーランド海軍潜水艦「オジェウ」:1936年8月14日、オランダの造船所起工、1938年1月15日進水、1939年2月2日就役。基準排水量1,110トン,満載排水量1,473トン、全長 84.00 m、全幅 6.7 m、最高速力(水上)19.4 ノット、(水中)9 ノット、乗員 60名、兵装:105ミリ砲1門、40ミリ二連装対空機銃1基、13.2 ミリ対空機銃1丁、魚雷 533 mm (21.0 インチ)発射管12門、搭載魚雷20本。
1939年9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻を受けて、潜水艦「オジェウ」は、グダニヤ港から出撃、ドイツ装甲巡洋艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」を迎撃しようとしたが、爆雷攻撃を受けた。9月12日、基地との通信が途絶え、やむなく隣国エストニアのタリン港へ向かった。その後、タリンを離れた「オジェウ」は、イギリスへ亡命する。
Title: ORZEL (Polish submarine, 1938)
Caption: Photographed circa the 1939.
Description: Courtesy of Iwo Mandrysz, Rybnik, Poland, 1975.
Catalog #: NH 83446
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command NH 83446 ORZEL (Polish submarine, 1938) 引用。
写真(右):1935年11月、ポーランド、国際管理に置かれているグダニスクを訪問中のドイツ海軍軽巡洋艦「ケーニヒスベルク」:建造時、ベルサイユ条約でドイツ巡洋艦の排水量は6,000トン以下とされていたために、船体軽量化を目的に、艦上構造物には軽合金を多用、船体も当時の主流だったリベット工法ではなく、最新の電気溶接を採用した。船体の85%が電気溶接で組み立てられた。
Title: Königsberg
Description: (German Light Cruiser, 1929-1940) Off Gdynia, Poland, circa November 1935. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 80966
写真はNaval History and Heritage Command NH 80966 Königsberg 引用。
バルト海に面するポモージェ(ドイツ名ポメラニア)地方のグダニア(ドイツ名グダニスク)は、1793年の第二次ポーランド分割により、プロイセン王国に併合されダンツィヒ(Danzig)と名称を変更されます。しかし、第一次世界大戦後でドイツが敗北し、ベルサイユ条約によりドイツ領ではなく国際連盟管理下の「自由都市ダンツィヒ(Danzig)」となりました。ダンチヒの住民の大半は、バルト・ドイツ人(ドイツ系住民)ですが、ポーランドが外交権を得たのです。
写真(右):1935年11月、ポーランド、国際管理に置かれているグダニスク(グダニア)を訪問中のドイツ海軍軽巡洋艦「ケーニヒスベルク」:全長 174 m、水線長 169.0 m、全幅 15.3 m、吃水 5.56 m、缶6基ギヤード・タービン4基、MANディーゼル2基2軸、最大出力 6万9,800馬力、最高速力 32.1ノット、 航続距離 17ノット/7,300マイル、乗員 514〜610名、兵装 1925年型 15センチ60口径三連装砲3基9門、1906年型 8.8センチ45口径高射砲2門。
艦尾には、ナチ党の国章のカギ十字(ハーケンクロイツ)にとまる鷲が付けられているが、海軍旗は共和国軍時代からの伝統的な三色地の鉄十字である。
Title: Königsberg
(German Light Cruiser, 1929-1940) Visiting Gdynia, Poland, circa 1935. Note the National Socialist eagle decoration on her stern and the German Navy ensign flying from her flagstaff. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 80969 Königsberg 引用。
写真(右):1935年11月、ポーランド、国際管理に置かれているグダニスク(グダニア)を訪問中のドイツ海軍軽巡洋艦「ケーニヒスベルク」:後甲板の二基の15.2センチ三連装砲とは、中心軸から、左右に偏らせて配備されている。艦尾には、共和国軍時代からの伝統的な三色地の鉄十字の旗がなびいている。
Title: Königsberg
(German Light Cruiser, 1929-1940) Visiting Gdynia, Poland, circa 1935. Note the offset arrangement of her after 15cm triple gun turrets. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 80970
写真はNaval History and Heritage Command NH 80970 Königsberg 引用。
ポーランド回廊の自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)にあるダンチヒ港は、第一次大戦後のベルサイユ条約でポーランド側も自由市のために使用してましたが、1921年、ポーランドはダンツィヒ港にかわって近隣のグディニャ(Gdynia)港を新たに大規模拡張し、ドイツに対抗して新たな港湾都市の建設を開始します。
写真(右):1935年11月、ポーランド、ダンチヒ(国際管理自由市グダニスク(グダニア))、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」Schleswig-Holstein :第一次世界大戦前の1908年7月6日就役の戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」はユトランド沖海戦に参加し終戦まで生き残った。ベルサイユ条約でも、旧式戦艦だったためにドイツ海軍の保有を許された戦艦3隻の1艦だった。三本煙突は二本に統合するなど改装工事を請け、1926年から1935年までドイツ海軍旗艦として就役していたが、旧式だったため1936年には練習艦となった。
Title: Schleswig-Holstein
Description: SCHLESWIG-HOLSTEIN (German battleship, 1906)
Caption: View taken in August 1939, arriving at Danzig, Poland. Within one month her guns were pounding Polish defenses at point-blank range.
Catalog #: NH 80895
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command NH 80895 SCHLESWIG-HOLSTEIN (German battleship, 1906) 引用。
自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)は、1930年には、ドック、埠頭、防波堤、倉庫などの港湾施設が整い、第二次大戦前には、最大級の施設が建設中でした。もっとも、第二次大戦初頭、ドイツに占領されたグディニャ(Gdynia)は、1939年から1945年までゴーテンハーフェン(Gotenhafen)と名を変えて、ドイツ軍の港となりました。ポーランドは、結果として敵ドイツのためにグダニア港を整備したことになってしまいます。
1933年5月、自由都市ダンチヒの選挙で勝利したナチ党は、ヒトラーの知己であるヘルマン・ラウシュニングをダンチヒ市長に任命し、行政・生活・文化など広範な同質化が強要します。ドイツ民族主義が強化され、その過程で組織された民族主義的団体とポーランド側との武力衝突も引き起きました、そこで、ドイツ系住民の住むダンチヒはドイツに併合すべきであると主張が強まってきます。
写真(右):1939年9月、ポーランド、ダンチヒ(国際管理自由市グダニスク(グダニア))、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」Schleswig-Holstein :第一次世界大戦前の1908年7月6日就役の戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」はユトランド沖海戦に参加し終戦まで生き残った。ベルサイユ条約でも、旧式戦艦だったためにドイツ海軍の保有を許された戦艦3隻の1艦だった。三本煙突は二本に統合するなど改装工事を請け、1926年から1935年までドイツ海軍旗艦として就役していたが、旧式だったため1936年には練習艦となった。
Inventory: Bild 101 II - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Marine
Signature: Bild 101II-MN-1585-09A
Archive title: Danzig.- Nach der Einnahme der Westerplatte, Linienschiff "Schlesien" und Linienschiff "Schleswig-Holstein" im Hafen liegend
Dating: September 1939
Photographer: Mendel
Origin: Bundesarchiv
写真はNaval History and Heritage Command NH 80895 SCHLESWIG-HOLSTEIN (German battleship, 1906) 引用。
写真(右):1939年9月1日、ポーランド、国際管理自由市ダンチヒ(Danzig:グダニスク:グダニア)、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」"Schleswig Holstein"による28センチ砲による砲撃:
Inventory: Bild 134 - Institut für Meereskunde Signature: Bild 134-C2596 Old signature: R IX E 6301 Archive title: Gefechtsbilder des 20. Jahrhunderts, 2. Weltkrieg.- Polen, Danzig.- Beschießung der Westerplatte durch Linienschiff "Schleswig Holstein" Dating: 1. September 1939 Photographer: o.Ang Origin: Bundesarchiv
写真は,Bundesarchive Bild 134-C2596 引用。
第一次世界大戦後の1918年11月11日、べルサイユ講和条約の下、民族自決の原則にのっとって、ドイツと旧ロシアの領土から、ユゼフ・ピウスツキを国家元首とするポーランドが再生します。ポーランドは、対ソ連、対ドイツとのバルト海沿岸での戦闘や海上輸送も強く意識しており、北岸の半島要衝に、要塞を築いて防備を固めました。ポーランド西北岸、自由都市ダンツィヒ港沖合のヴェステルプラッテ(Westerplatte)要塞、ポーランド中部北岸、ヘル(Hel)半島先端のヘル基地が、この代表で、第二次世界大戦緒戦のドイツのポーランド侵攻にあって、要衝を守備したポーランド守備隊は、寡兵ながら、最後までドイツ軍に抵抗し続けました。
1939年9月1日、第二次世界大戦の勃発初日、ドイツ海軍に1908年就役した旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」がダンチヒを砲撃します。戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」が自由市ダンチヒにあった理由は、第一次大戦初頭(1914年8月26日)、触雷沈没したドイツ海軍巡洋艦「マクデブルク」(排水量5000トン)の追悼式を行うという名目でした。ダンチヒ儀礼参加のために訪問をしたというのは、もちろん口実で、ドイツ海軍は、1939年9月1日に、ドイツがポーランド侵攻(Invasion of Poland)を承知の上で、ダンチヒ港ど真ん中に軍艦を送りこんで、主砲をもって至近距離からダンチヒ市街地、港湾、兵舎を砲撃したのです。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)を砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は第一次世界大戦勃発前1908年7月6日就役の旧式艦であったため、ベルサイユ条約の軍備制限の下でも保有が許され、再軍備宣言の1935年までは、ヴァイマルドイツの共和国海軍 (Reichsmarine) の旗艦を務めた。基準1万3,200トン、40口径28cm連装砲塔2基4門、45口径15cm砲12門、8.8cm対空砲8門、50cm(19.7インチ)魚雷発射管4基を搭載。
Polski: Schleswig-Holstein w Zakręcie Pięciu Gwizdków podczas ostrzału Westerplatte.
Date 1 September 1939
Source Instytut Pamięci Narodowej
Author Autor nieznany
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
1939年9月1日、第二次世界大戦の勃発初日、1908年就役したドイツ海軍旧式戦艦Schleswig-Holstein)によるダンチヒへの艦砲射撃が行われ、第二次世界大戦の砲火が切られました。これは、ドイツ海軍による卑劣な騙し討ちです。
1939年9月1日、グダニスク(ダンツィヒ)港の半島状になったヴェステルプラッテ(Westerplatte)は、防衛施設はありました。しかし、「要塞」と呼べるような大規模トーチカ、巨大な地下壕があるわけでも、沿岸砲を備える砲台があるわけでもありません。1939年9月時点のヴェステルプラッテのポーランド軍守備兵力は、ポーランド陸軍ヘンリク・スハルスキ(Henryk Sucharski)少佐、 フランチシェク・ドンブロフスキ(Franciszek Dąbrowski)大尉の指揮する守備隊200名だけで、火砲は75ミリ野砲1門、37mm対戦車砲2門、歩兵砲4門のみで、主要な火器は機関銃でした。
1939年9月1日4時45分、いきなりドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein)は、28センチ砲、15センチ砲でポーランドのヴェステルプラッテ(Westerplatte)守備隊を艦砲射撃しました。そして、艦上に待機していたドイツ海軍陸戦突撃隊が上陸し、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)攻略を目指しました。しかし、ポーランド守備隊は粘り強く抵抗し、ドイツ海軍の28センチ砲、陸軍の21cm Mrs 16榴弾砲(臼砲)、空軍ユンカースJu87による急降下爆撃の猛攻に晒されました。ドイツ軍は2000人規模の歩兵も投入します。こうして、一週間後、ヴェステルプラッテのポーランド軍守備隊は、死傷者が続出し、食料、弾薬、医薬品の補給も途絶えたことから、9月7日に降伏をしました。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)を砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:ドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」同型艦「シュレジエン」(Schlesien)は1908年5月5日就役。1939年9月1日のダンチヒ砲撃には参加していないが、9月21日から27日のポーランド戦終盤に、ポーランド北岸、ヘル半島に立て籠って頑強に抵抗するポーランド軍を艦砲射撃している。
Deutsch: Das deutsche Schlachtschiff Schleswig-Holstein beschießt die Westerplatte zu Beginn des Polenfeldzugs.
English: German battleship Schleswig-Holstein during a shellfire of Polish garrison Westerplatte in Gdańsk on 1 September 1939. Better quality photo:https://www.tygodnikpowszechny.pl/files/7991a9e80d8eb078dbc7198818df9f47.jpg
Polski: Schleswig-Holstein w gdańskim Zakręcie Pięciu Gwizdków.
Date September 1939
Source Apoloniusz Zawilski (1972) "Bitwy Polskiego Września" ("Battles of Polish September"), Warsaw: Nasza Księgarnia ISBN 83-218-0817-4 (current edition)
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
ドイツ海軍は、実は、第二次大戦勃発じのドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein)のダンチヒ砲撃から終戦のUボート自沈まで最もヒトラーに従った忠誠心旺盛な軍隊で、裏切りはありませんでした。1945年4月30日、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が総統大本営(ベルリン地下壕)で死亡した後、その遺書によって、ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ(Karl Dönitz)が、ヒトラー自決の後を継いで、ドイツ大統領、啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス博士がドイツ首相に就任しています。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:1939年9月1日4時45分、宣戦布告抜きでドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は主砲28cm砲4門、副砲15cm砲12門でヴェステルプラッテ(Westerplatte)のポーランド軍守備隊を艦砲射撃し、海軍陸戦隊突撃隊も上陸させた。
Description
Polski: Salwa pancernika "Schleswig-Holstein", Gdańsk, wrzesień 1939 r.
Date September 1939
Source R. Witkowski, Ostatnia reduta, Gdańsk 1973.
Author Unknown authorAuthor Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
他方、ドイツ陸軍は、国内軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク(Claus Graf Schenk von Stauffenberg)大佐を筆頭に、元ドイツ陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック、国防軍情報部次長ハンス・オスター大佐、第三軍管区司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン(Erwin Witzleben)元帥、フランス軍政長官カール=ハインリヒ・フォン・シュチルプナーゲル(Carl-Heinrich von Stülpnagel)大将、第二十三歩兵師団長エーリヒ・ヘプナー大将高級将校、中央軍集団参謀ヘニング・フォン・トレスコウ少将、国内予備軍フリードリヒ・オルブリヒト(Friedrich Olbricht)大将、陸軍通信隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成局長ヘルムート・シュティーフ少将などたくさんの将軍たちが1944年7月20日、総統大本営でヒトラー暗殺を企て、失敗、処刑されています。
1945年になると、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)も、みなヒトラーを見限り、西側連合国との講和交渉に手を染めました。この交渉は、最高指導者ヒトラー総統に内密に進めた裏切りでしたが、露見したために、ヒトラーは二人を、解任し、逮捕する命令を出しています。
写真(右):1942年8月1日(土曜)、東プロイセン(ポーランド占領地)、ダンチヒ近くのゴーテンハーフェン(旧グダニア)港、修理受けているドイツ海軍戦艦「クナイゼナウ」は、砲塔を外し、偽装用ネットに覆われている。:イギリス空軍の偵察機が撮影。
Title: GNEISENAU German Battleship, 1936-45
Caption: Photographed by a British Royal Air Force aircraft on 1 August 1942 at Gotenhafen (formerly Gdynia, Poland). The ship was undergoing repairs and reconstruction at this time. Note that all three main battery turrets have been removed.
Catalog #: NH 91658
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 01, 1942
写真はNaval History and Heritage Command NH 91658 GNEISENAU German Battleship, 1936-45 引用。
1939年8月の終わり、ドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein )が、親善訪問という名目でダンツィヒを訪問しました。1939年8月25日、「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は、第一次世界大戦緒戦の1914年8月26日、触雷沈没したドイツ海軍巡洋艦「マクデブルク」(排水量5000トン)追悼式典に参加するという名目で、ポーランドの自由都市ダンツィヒに到着したのです。しかし、これは謀略であり、ポーランド侵攻の日程は決まっており、ダンチヒのヴェステルプラッテにあるポーランド軍を攻撃することが、訪問の真の目的だったのです。1939年9月1日午前4時45分、ドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein )はダンチヒでポーランドへの砲撃を開始し、これが1945年5月まで続く第二次世界大戦の口火となったのです。
写真(右):1935年11月、ポーランド、ダンチヒ(国際管理自由市グダニスク(グダニア))、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」Schleswig-Holstein :第一次世界大戦前の1908年7月6日就役の戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」はユトランド沖海戦に参加し終戦まで残存し、第二次大戦にも参加し、終戦まで再び生き残った。
Title: Schleswig-Holstein
Description: (German battleship/training ship, 1908-1945) In Danzig harbor in September 1939, after the outbreak of World War II. She had fired the conflict's first shot earlier that month. The German motor minesweeper R-20 is in the left foreground, backing out away from shore. Photograph from the New York Times Paris Bureau collection in the U.S. National Archives.
Catalog #: 306-NT-1324-A-5
写真はNaval History and Heritage Command 306-NT-1324-A-5 Schleswig-Holstein引用。
自由都市ダンツィヒ(Danzig)は、ポーランドではグダニスク(グダンスク)と呼称されるが、バルト・ドイツ人(ドイツ系住民)が居住していた。彼らは、ナチ党に先導されて民族主義的な行動を拡大し、市議会では1933年にナチ党が第一党となり、突撃隊を組織して自衛団、民兵として騒擾を起こし、ポーランド政府はこれを鎮圧しようとした。1939年9月1日、ダンツィヒで暴動が起こされ、同時に港内にあったドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(SMS Schleswig-Holstein)は、市街地を砲撃し、海軍陸戦隊を上陸させた。
写真(右):1939年9月、ポーランド、グダニスク(グダニア)、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」Schleswig-Holstein :1908年7月6日就役の旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は、基準排水量: 1万3,200トン、 満載排水量:1万4,218トン、全長: 127.6m、全幅: 22.2m、吃水: 7.7m、機関出力: 1万9,330馬力、最高速力: 19.1 ノット、乗員: 743名、兵装:28センチ連装砲塔2基4門、15センチ砲15門、8.8センチ高射砲4門。
Title: Schleswig-Holstein
Description: (German Battleship & Training Ship, 1908) Bombarding Polish shore positions, September 1939. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 82070
写真はNaval History and Heritage Command NH 82070 Schleswig-Holstein引用。
ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(SMS Schleswig-Holstein)は、1908年7月6日就役の旧式艦で、練習艦になったとはいえ、1939年8月25日、ポーランドの自由都市ダンツィヒ(Danzig)に入港し、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)」のポーランド軍基地近くに停泊した。そして、1939年9月1日0445、ポーランド軍守備隊に向けて砲撃を開始し、第二次世界大戦初の砲火をきった。9月7日、ヴェステルプラッテ要塞を陥落させ、ポーランド占領後は、再び練習艦任務にかえった。
9.1943年3月のヒトラー暗殺未遂事件
写真(右)1941年12月11日,ベルリン,ドイツ国会でアメリカ合衆国に宣戦布告の演説をするドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統:左手前は,啓蒙宣伝大臣ゲッベルス,左後には,海軍総司令官レーダー提督,外務大臣リンベントロップ。中央最上壇の議長席にヘルマン・ゲーリング。国会は審議機能を停止し,ヒトラーの施政方針演説の場に過ぎなくなっていた。ポーランドとの戦争,ソビエト連邦との戦争を始めたとき,宣戦布告などしなかったヒトラーだが,世界戦争を自ら開始し,ドイツ第三帝国を千年安泰にするための戦争,すなわち世界のユダヤ人=国際金融資本家=共産主義者(ボリシェビキ),に対する戦争は,最終戦争であり,自ら戦線を布告した。これは,ヒトラーの歪んだ世界観,人種民族差別が生んだ妄想だった。
Rumänien, Konstanza (Constanta).- Schiff im Hafen-Dock
Dating: 1941 ca.
Photographer: Grund, Horst
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
1943年3月13日には,東部戦線を視察したヒトラーの乗った飛行機に,スモクレン飛行場で,時限爆弾を仕掛けました。中央軍集団参謀のヘニング・フォン・トレシュコウ(Henning von Tresckow)大佐(当時)と同志で副官フェビアン・シュラーブレンドルフ中尉が,ヒトラー搭乗機を酒ビンに仕掛けた時限爆弾をしかけ,それを友人の参謀本部編成課長シュティーフ(Hellmuth Stieff)大佐との賭けの商品だと,参謀本部のハインツ・ブラント中佐に機内への持込を頼んだのです。
つまり,トレシュコウ(Henning von Tresckow)同志のシュティーフ(Hellmuth Stieff )大佐への贈り物として,酒ビンに時限爆弾を仕込んで,ヒトラー暗殺計画を,実行に移したのですが,このときは爆発は起きず,ヒトラー搭乗機は無事に,東プロイセンEast Prussia)のラステンブルクWolfsschanzeに帰着しています。ロシア上空の寒さのためか,信管が起動しなかったためと思われます。
この酒ビンに仕掛けた事件爆弾は,シュラーブレンドルフがすぐに回収に行きました。まちがった酒をシュティーフに送ってしまったといって,爆弾を取り戻したのです。
1943年3月21日には,ベルリンでの英雄記念日式典に訪れたヒトラーを,鹵獲兵器展示場で自爆攻撃する計画が実行されました。これも,ルドルフ・フォン・ゲルスドルフ大佐が時限式自爆装置を起動させたのですが,ヒトラーが,展示に興味を見せず,あっさりと通り過ぎてしまい失敗でした。自爆による暗殺を試みたゲルスドルフは,あわてて場所を探して,時限装置を解除して,何とか助かりました。
10.国民の全面的支持を得られたわけではない総力戦
ヒトラーは,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定を唱え,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張しました。ユダヤ人・スラブ人を下等人種・劣等民族として迫害したドイツ人だが,習俗・言語の違いこそ,人類の文明・文化を多様な豊かなものにします。敵性住民・下等劣等人種として,迫害しても,そこで生まれるのは,報復と,自分を貶める人間性の喪失だけでしょう。
写真(右)1943年1月24日,南フランス,強制収容所に移送されるフランス・ユダヤ人:親衛隊の警察,フランス軍兵士が,鉄道駅で,フランスのユダヤ人を自動車から降ろし,貨物列車に移乗させている。フランスの軍・警察の協力があって,フランスに住んでいたユダヤ人を特定し,彼らを登録して,強制収容所に収監することが可能になった。
Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649
Dating: 24. Januar 1943
Photographer: Vennemann, Wolfgang
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
戦争は政治の延長だというクラウゼビッツの教えに,ヒトラーは政治的遺書で言及し,ユダヤ人に対する戦争を継続することを命じました。この遺言は,ヒトラーの死後,無視されましたが,その理由は,戦争の延長が大量破壊・大量殺戮である以上,戦争と政治はことなることに国民が気づいたからです。人種民族差別のもたらす惨禍に誰もが嫌悪感を抱いたからです。
総力戦では,軍人も民間人も動員され,戦争に協力し,その結果,軍民を区別しない大量破壊,大量殺戮が起こりました。それを食い止めようと命を懸けたドイツ人がいたわけです。
写真(右)1944年1月14日,西部方面総司令官フォン・ルントシュテット元帥とB軍集団司令官ロンメル元帥:カール・フォン・ルントシュテット(Karl von Rundstedt)元帥(1875年12月12日-1953年2月24日)は,1939年9月の第二次世界大戦勃発により現役復帰。ポーランド・フランス侵攻に軍司令官として参戦。
1940年10月,フランス占領軍を統括する西部方面軍総司令官に就任。1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では,南方軍集団司令官。しかし,部隊を独断後退させたために,12月,予備役に降格。
1942年3月,西部方面軍総司令官に再任。ルントシュテットは,連合軍を上陸させた後,艦砲射撃の射程外の内陸で反撃する計画だった。1945年3月、レマーゲン鉄橋を喪失,再度罷免
他方,B軍集団司令官ロンメル元帥は,敵航空機による攻撃が困難な水際で反撃すること主張。1944年7月,ヒトラー暗殺未遂事件にかかわったとして,自決を強要された。実際,ヒトラー暗殺後の新政権では,英仏の西側連合国との和平交渉を取り仕切るつもりだった。
このような高官たちのヒトラー打倒あるいはドイツ存続のためのクーデターの計画は,エルザーとは比較にならないほど,練られた緻密なものだった。しかし,ヒトラー暗殺自体の計画は,貧弱だった。
Generalfeldmarschall Rommel beim Oberbefehlshaber West
Im Rahmen seiner Besichtigungsreise zu den europäischen Westbefestigungen, die er im Auftrage des Führers unternahm, stattete Generalfeldmarschall Rommel (links) dem Oberbefehlshaber West, Generalfeldmarschall von Rundstedt (rechts), in dessen Hauptquartier einen Besuch ab.
UBz: die beiden Marschälle bei einer Besprechung.
PK-Aufnahme Kriegsberichter Jesse
14.1.44
Dating: 14. Januar 1944
Photographer: Jesse
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
野蛮な戦争を犯罪であると認識し,行動することは,持続可能な平和の構築につながると思います。ヒトラーの戦争をやめさせようとしたドイツ国防軍の将軍たちの行動は,テロ,反逆ともいえ,その意味では犯罪的行為,刑罰の対象です。けれども,ヒトラーとナチ党が,突撃隊の暴力,強制収容所への拘束,ユダヤ人の虐殺,戦争による大量破壊・大量殺戮を続けたことをふまえると,それを食い止める手段が他にあったのでしょうか。幾十倍も大きい大量殺戮,暴力,迫害の前に,独裁者相手であっても暗殺は殺人であり刑罰対象だと騒ぎ立てることに違和感を伴うのも事実です。
◆人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものです。けれども,多数の国民の支持,資源,資金がない限り継続することはできません。決して,一握りの政治家たち,軍人たちが,政治を左右できるわけではないのです。祖国のため,国民のために,暴虐な敵から家族を守るために正義の戦争を戦う,このように敵と味方が主張しあうのが,総力戦です。大量破壊,大量殺戮も正義のため,戦争を終わらせるためだとして,正当化されてしまいました。
近現代の総力戦は,大量破壊・大量殺戮を伴う戦争です。そして,それを煽動し,戦争を指導する人物に服従している限り,戦争を止めること,戦争を廃絶することはできません。総力戦では,世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているのですが,その事実が敵への憎悪を煽り,報復を叫ぶプロパガンダ隠蔽されてきたのです。
ここで,自分が一人では無力であるとあきらめるのは,ニヒリズムです。ここから国民が主導する平和は構築できません。
一人だけでできることは,戦争を扇動する要人を排除する「暗殺」だ,と考えれば,ゲオルク・エルザーのような選択があるかもしれません。
しかし,国民が力を合わせて,大量破壊・大量殺戮に組しないで,国際関係を少しでも友好的なものに変えてゆくことができれば,それに越したことはないのです。そして,そのためには,戦争・平和の主導権を握っているのが,我々一人ひとりなのだという自覚と覚悟が大切です。戦争は避けられない必然的なものだ,昔から戦争は繰り返し戦われており,人類の歴史から戦争をなくすことはできない,このようなニヒリズムに基づく戦争必然説は排除しなくてはなりません。戦争必然説を説くプロパガンダを糾弾しなければなりません。
戦争・平和の主権者である我々一人ひとりが平和構築への目配りをして,プロパガンダに流されずに行動する,こんな単純なことを諦めないことが,大切なのではないでしょうか。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
2009年9月22日開設の鳥飼行博研究室当サイトへのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
連絡先:
torikai007@yahoo.co.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1
東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
東海大への行き方|How to go
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 5000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials
from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the
URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai
Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright (C) 2009 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.