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◆ナチス政権ヒトラー総統の再軍備・人種民族差別・思想統制

写真(上)1936年4月,ドイツ空軍第134戦闘航空団(Jagdgeschwader)"ホルストヴェッセル(Horst Wessel)" (JG 134)を閲兵するアドルフ・ヒトラー総統,ヘルマン・ゲーリング空軍大臣
:1935年にドイツ空軍を復活させたヒトラーは、第一次大戦のエースパイロット,航空大臣ゲーリングを空軍大臣とし,ルフルトハンザ航空出身のエルハルト・ミルヒ(Erhard Milch)中将(左端)を航空省次官とした。右端は,突撃隊SA隊長(粛清されたレームの後任)ヴィクトール・ルッツェで,軍と突撃隊との宥和を演出する。左の機首は,ハインケルHe 51複葉戦闘機で,スペイン内戦にも派遣された。
Übergabe des Jagdgeschwaders "Horst Wessel" (JG 134), vlnr: Generalleutnant Erhard Milch, General der Flieger Hermann Göring, Adolf Hitler, SA-Stabschef Viktor Lutze Dating: April 1936 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-2005-0191引用(他引用不許可)。


◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられる。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、陰謀是認、独裁政権獲得という本音のようだ。
『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。
◆歴史館「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess ルドルフ・ヘス」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール」を再検討。
◆2009年9月8日(火)20時,12日(土)13時,15日(火)14時,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。

<恩義のあるユダヤ人を保護したヒトラー>

ヒトラー自身は、法を超えた存在の独裁者であるから、恩義から第一次大戦中の元上官のユダヤ人を保護した。 Jewish Voice From Germany Hitler’s Jewish Commander and Victim by Susanne Mauss|July 4, 2012時事通信「ヒトラー、元上官のユダヤ人保護=側近の書簡発見―ドイツ」2012年7月13日)配信によれば、ヒトラーが、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)へ突き進む中、かつて上官だったユダヤ人男性を迫害しないよう命じていた事実を示す文書が見つかった。この男性は第1次世界大戦中、ヒトラーが所属した中隊を指揮していたErnst Hess エルンスト・ヘス氏。ヒトラー側近のナチス親衛隊指導者ヒムラーが警察幹部に送った1940年8月19日付の書簡で、ヘス氏について「総統の希望により」保護すると明示している。

 書簡はドイツのユダヤ系紙ジューイッシュ・ボイスがノルトライン・ウェストファーレン州の公文書館で発見した。同紙によると、ナチスに判事の職を奪われたエルンスト・ヘス氏は1936年、ヒトラーに迫害対象からの除外を求める請願書を送り、「ユダヤ人と呼ばれ、周りから軽蔑されるのはある種の精神的な死だ」と訴えた。これ以降、同氏は年金を渡されるなど、他のユダヤ人とは異なる扱いを受けた。

 エルンスト・ヘス氏は、1937年、家族と共に一時イタリア北部の南チロル(ドイツ人住民が半数)に移り、ユダヤ人を示すJをつけていない旅券を発行してもらうこともできた。1939年6月、ドイツとイタリアの間に南チロルドイツ住民帰国協定が結ばれ、ドイツ人のヘス一家はドイツに帰国さざるを得なくなった。1940年6月、ヘスがアーリア化を申請にミュンヘンの事務所に行ったとき、ヒトラーによる庇護命令が、5月以降無効となったことが判明した。

ポスター(右):1924年11月,ドイツ労働者諸君、これが君たちの悪の指導者だ。ナチ党・国家主義者の選挙ポスター;パウル・ヘルツ博士、エルンスト・シュワルツ博士、資本家ルドルフ・ヒルファーディング、ユージン・エプスタイン、アルフレッド・ヤンシェック、ヴェルナー・ショーレム、イワン·カッツ。 彼らから自由になるには、国家社会主義のナチ党を選ぶべじ!」1924年11月の選挙ポスターにおいても、ナチ党は、ユダヤ人の政治家・資本家のせいでドイツが困窮しているとし、ユダヤ人排除を訴えていた。
Deutscher Arbeiter! Das sind Deine Führer!! Dr. rer. pol. Paul Hertz, Studienrat Dr. phil Ernst Schwarz, Großkapitalist Dr. med. Rudolf Hilferding Eugen Epstein Alfred Janschek, Werner Scholem, Iwan Katz der "Schreckliche" Mach Dich frei und wähle nationalsozialistisch!! Dating:November 1924 Designer:o.Ang.(不明)
写真はPlak 002-039-007、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


このころ、ベルリン在住の妻マルガレーテ(Margarete)は、ヒトラーの第一次大戦中の上官でヒトラー副官となっていたヴィーデマン(Fritz Wiedemann)の保護を受け、年金を受けていたが、それも受けられなくなってた。ヘスは、ミュンヘン郊外の強制収容所に送られたが、妻マルガレーテ(Margarete)がユダヤ人でなかったため、建設労働を強制されるだけで済んだ。ヘスは、虐殺を免れ1983年9月に93歳で死去するまでドイツで暮らした。他方、1942年7月21日、ヘスの母エリザベスと妹ベルタ(Berta)は、チェコのテレジン強制収容所に送られ、その後、ベルタはアウシュビッツ強制収容所に再移送され、殺害された。母エリザベスは、1945年2月5日、テレジン収容所から解放され、列車でスイスに送られた。これは、親衛隊国家長官ヒムラーが、米英連合軍と和平交渉に入ろうとしたためだった。

 ヘスの娘ウルズラ(Ursula Hess;86歳)によると、ヘスはヒトラーについて、部隊に友人はなく、誰とも言葉を交わさなかったと振り返り、「全く取るに足らない男だった」と話していたという。ヒトラーは母親の治療に当たったユダヤ人医師エドゥアルト・ブロッホ氏を「高貴なユダヤ人」と呼んで保護した。 

<ユダヤ人差別を否定するローマ教皇>

リチャード・ウィリアムソンRichard Williamson )司教は,「ガス室は存在しなかった」と公言するなどホロコーストを史実と認めず,ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。
しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。

ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。

1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。

だが、ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。

 問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。

写真(右)1939年,ポーランド,ドイツ軍が集合させたユダヤ人(?)の老人:1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻直後,国家保安本部ハイドリヒは,ユダヤ人をゲットーに隔離することを命じていた。また,ポーランド侵攻には5個中隊分のアインザッツグルッペ(特別行動部隊)が国防軍に付帯され,ユダヤ人,教員,聖職者,官僚など反ドイツ容疑者を拘束,処刑した。
Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), alte Mann mit Bart; PK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Amphlett, Eduard 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。 

 ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。

 ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。

法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。

ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」Nostra Aetate:DECLARATION ON THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。

1.ナチ党ヒトラー首相の大統領緊急勅令・全権委任法によるワイマール憲法の死文化

首相の座をシュライヒャー将軍に奪われたパーペンは、社会主義(ドイツ社会民主党)・共産主義(ドイツ共産党)の勢力拡大,ドイツ国防軍の離反を恐れた。これは,ヒンデンブルク大統領も資本家も同じだった。そこで,策士パーペンは,ヒンデンブルク大統領に(御しやすいと)ヒトラーを首相にするように働きかけた。ヒンデンブルク大統領は,大統領独裁の機会を国防大臣時代のシュライヒャーに潰されており,シュライヒャー首相の軍部独裁は認めたくなかった。ヒンデンブルク大統領は,シュライヒャー首相を嫌悪していたに違いなく,パーペンを副首相にして影響力を行使しようと考え,首相の座をシュライヒャーから外し,扱いやすいヒトラーを据えた。

政治家として経験を積んでいたパーペン元首相は,ヒトラーを首相に据えて,自らは副首相として,ヒトラー首相を操るシナリオを考えた。しかし,操られたのはヒトラーではなく,逆に保守政治家,大統領,議会政党人のほうだった。


ポスター(右)1933年,パウル・フォン・ヒンデンブルクとアドルフ・ヒトラーの選挙ポスター「元帥(マーシャル)とアドルフ・ヒトラーとは、私たちと連帯して平和と平等を求めて戦っている」大統領のヒンデンブルク元帥は,上等兵上がりの首相ヒトラーを軽蔑していたようだが,議席の上で第一党で人気あるナチスを無視することはできなかった。ヒトラーを操縦して,政権維持を図ろうとしたようだが,かえってヒトラーに操られてしまう。大統領として死亡すると,自動的に首相のヒトラーが大統領職も兼務し,ここに独裁者となる「総統」が誕生した。
Adolf Hitler in Zivilkleidung auf Schreibtisch sitzend (Porträt) Dating: 1933/1939 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


◆ワイマール共和国の保守政治家たちは,自己の権力安定・拡大を優先して,権謀術数に明け暮れていた。議会の社会民主党・共産党など政党政治家も,反動・保守の大統領の権限が強く,保守政治家に対抗できなかった。このような時代閉塞の混乱した状況を打ち破るのは,革新的な行動力あるナチ党しかない----ように思われた。

国会放火事件
◆1933年2月27日夜、ベルリンで国会放火事件が起こった。火災発生で,国会の本会議場などが喪失し,現行犯でオランダ人無宿人ルッベMarinus van der Lubbeが逮捕された。彼は,共産主義者とされた。
ヒトラー首相は、ドイツ共産党弾圧の機会を狙っており,国会放火事件の真犯人が共産党員関係者かどうかにかかわりなく,共産主義者が,ドイツ国会放火という暴力革命・反乱を主導したとした。敵対する共産主義勢力を弾圧する絶好の機会を,ヒトラー首相は見逃さなかった。大統領緊急令が発動,非常事態が宣言された。過激な行動に出たドイツ共産党には,憲法・法律に拘束されない,厳しい処置も当然とされた。

ワイマール憲法第48条の大統領緊急令は, 「公共の秩序・安定が危機にあり,国家が憲法の義務を履行できない場合」,大統領は軍の支援を得て,身体の自由、住居不可侵、通信の秘密、言論の自由、集会結社の 自由、私有財産の保護という規定を停止することができるというものである。

ドイツ国会放火事件の翌日,1933年2月28日内務大臣ヴィルヘルム・フリックWilhelm Frick(1877-1946)が草案を書いた民族・国家防衛のための大統領緊急命令」に,ヒンデンブルク大統領は署名した。これによって,ワイマール憲法における人権規定は効力が停止された。つまり,民族・国家防衛のための大統領緊急命令によって,ワイマール憲法が保障していた言論・集会の自由、令状によらない逮捕の禁止など基本的人権は停止され,ワイマール憲法崩壊・警察国家の下地が準備された。

写真(右)1933年5月1日,ベルリンのメーデーに自動車に同乗して出席するドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥と首相アドルフ・ヒトラー:パウル・ルートヴィヒ・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig von Hindenburg, 1847年10月2日−1934年8月2日)は,第一次大戦の対ロシア戦タンネンベルク会戦の英雄,ドイツ陸軍参謀総長で,ドイツの軍人、政治家。ヴァイマル共和国第2代大統領(在任:1925年‐1934年)。ヒンデンブルクもヒトラーも,第一次大戦のドイツ敗戦は,広報の裏切り者,共産主義者の主導するドイツ革命が「背後からの匕首」となったとして,敗北を認めなかった。ヒトラーを首相に任命し、ナチ党独裁への道を開いたともいえるが,第一次大戦敗北時(1918年)の陸軍参謀総長が1925年の第二代ドイツ大統領に選挙で選出されたこと自体,ドイツ国民が第一次大戦敗戦のトラウマを払拭して痛がっていたことを証明している。それを過激に煽動したのが,ナチ党,突撃隊,フライコールだった。ヒンデンブルクが頻繁に発した大統領緊急令を効果的に使って一党独裁を果たしたのが,ナチ党だった。
Die große Feier des 1. Mai des Tages der Nationalen Arbeit im Lustgarten in Berlin! Reichspräsident von Hindenburg und Reichskanzler Adolf Hitler begeben sich im Auto zur Feier der Nationalen Arbeit in den Lustgarten. 1933 Archive title: Berlin, Lustgarten.- Reichspräsident Paul v. Hindenburg und Reichskanzler Adolf Hitler (beide in Zivil) im offenen Wagen sitzend Dating: 1. Mai 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1933年1月30日成立のヒトラー政権の下,ドイツの過半(ベルリンを含む)を占めるプロシャ,すなわちプロイセンPreußen州(自治政府Freistaat)内相に,ヘルマン・ゲーリングが就任した。ゲーリングは,警察権を手中に収め,,国会放火事件直後,ドイツ共産党本部から国会放火計画にかかわる書類を押収し,さらに全国規模で公共施設や政治家へのテロを企てていたと発表した。

プロイセン内相ゲーリングは,即座に,戒厳令によって緊急措置をとる。これは,治安警察・刑事警察を緊急出動させ,ドイツ共産党の支所を閉鎖し,共産党国会議員を逮捕するもので、さらにナチ党の暴力組織である突撃隊・親衛隊2000人も警察支援に充当させた。ナチ党の私兵が警察と同格となった。 

ドイツ全国での大規模テロの陰謀に加担したとして,反ナチスの共産党や労働組合活動家ばかりでなく,潜在的なナチス敵対者も含め,数千名が逮捕された。拘束された者は,強制収容所に拘禁されるなど,人権は完全に無視された。1933年12月23日,国会放火事件の判決が言い渡され,放火および反逆罪の咎でルッペは断頭台に送られた。

1933年3月5日,ナチス対立候補に対する選挙妨害の中で,総選挙が行われた。しかし,ナチスの暴力や人権無視は,ドイツ一般市民にも嫌悪感をもたた。総選挙では,ナチ党は得票率43.9%、288議席を得たが,徹底的な選挙妨害にもかかわらず,過半数には届かなかったのは,投票者のバランス感覚のためだった。弾圧対象のドイツ社会民主党は125議席,ドイツ共産党は81議席を獲得した。

国会放火事件の中,大統領緊急命令がだされ,ナチ党以外の議員は,予防拘禁されたり,議席を失ったりした。また,迫害を恐れて,亡命する議員もあった。

1933年3月5日の総選挙で,ナチ党が288議席を獲得する中,ドイツ国会における反ナチス対抗勢力を衰微させて,ナチ党独裁を認めさせる法案が提出された。

1933年3月23日、「民族・国家の危機除去のための法律(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich,Law to Remedy the Distress of the People and the Nation),すなわち全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933),別名「授権法」が議会で成立し、ワイマール憲法は死文化された。賛成441票で,反対は社会民主党議員の94票だった。ただし,出席できなかった社民党議員,議席喪失の共産党員(全81議席)は投票していない。

◆全権委任法は、ナチ党による一党独裁を法的に認めたもので,人権保護と民主主義を定めたワイマール憲法はこれによって事実上、無効になった。議場の議員には,圧力と脅迫ががかけられ,反対するのは困難だった。それでも,社会民主党の一部は,ナチス独裁に反対したが,突撃隊,親衛隊によって反対派(民主派)幹部は一斉検挙され、暴行を受けた。強制収容所に拘束された。議員たちは国外に亡命した。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立NSDAP(Nazi):ファシズムの台頭

2.ヒンデンブルク大統領死去後のヒトラー総統三軍総司令官誕生

写真(右)1934年2月25日,ベルリンのウンターデンリンデン通りでドイツ国防軍の軍楽隊を閲兵するドイツ・ワーマール共和国大統領フォン・ヒンデンブルク元帥:ヒンデンブルク元帥は,第一次大戦の英雄としてドイツ人に人気があったたが,大統領の権限は,非常大権も含め首相を上回った。ただし,今日のドイツ連邦大統領は象徴的存在である。ヒトラーも首相に任命してもらうために,ヒンデンムルク大統領に追従し,首相を解任されないためにもヒンデンブルクには一貫して服従の姿勢を示した。しかし,その黙認の下で,ユダヤ人迫害,労働運動弾圧が始まった。
Volkstrauertag in Berlin am 25. Februar 1934. Reichspräsident v. Hindenburg nimmt den Vorbeimarsch ab. Archive title: Berlin.- Volkstrauertag, Reichspräsident von Hindenburg beim Vorbeimarsch von Musikern der Reichswehr auf der Straße Unter den Linden. Dating: 25. Februar 1934
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヒンデンブルク元帥をドイツ帝国復活,ドイツ軍強化に利用しようと考えたのは,ヒトラーだけではなかった。しかし,1934年になると,ヒンデンブルクの健康が悪化し,8月2日,死去。ヒトラーは大統領職を兼務したが,8月19日の国民投票で,大統領に就任した。しかし,ヒンデンブルク大統領に敬意を表して大統領の名称を用いず,新たに帝国総統(ライヒス・フューラー:Reichsführer)と名乗った。これは,ナチ党総統からの昇格だったが,ナチ党ヒトラー総統が国家と同一視されることになり,ナチス独裁が始まった。

ポスター(右):1934年8月,ヒトラー首相が大統領職を兼任して総統に就任することの是非を問う信任投票:「はい!総統に従おう!」
 ドイツ第三帝国は,ファシズムの下で,ナチ党独裁,ヒトラー独裁をはじめた。これは,神聖ローマ帝国,ハプスブルク帝国に続く第三帝国であり,ニュルンベルク党大会(第一回ドイツ大会)では,ハプスブルク王朝の帝国標章をニュルンベルクにもちこんだ。そして,ドイツは二度と革命を起こすことはない,第三帝国は千年続くと宣言した。実際は10年後に悲惨な末路を迎えることになる。
Ja! Führer wir folgen Dir! Dating: August 1934
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivポスターは,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではありません。アーカイブに直接登録,許可を得て引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています(他引用不許可)。


◆ナチ党独裁の下では,ワイマール憲法、特に人権保護と民主主義の規程は独裁の障害であったため、全権委任法によって無効にされた。そして、ナチス批判者はドイツの敵とされた。敵こには、ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的(根っからの)犯罪者,叛乱者など「危険な非国民」も含まれる。彼らを拘束し更正させる、あるいは廃人とする場所が,強制収容所(KL:ラーゲル)と刑務所である。ラーゲル(KZ)は、親衛隊SSどくろ部隊が監視、管理した。

1934年6月のレーム粛清の功で,7月に強制収容所統監に就任した親衛隊テオドール・アイケ(1892.10.17-1943.2.26戦死)は,SS師団長となった。アイケは,配下の髑髏部隊に,平時でも,日夜,鉄条網の背後にいる敵に立ち向かっている,唯一の兵士であると認識し,命令絶対服従を求めた。収容所囚人の労働は,犯罪的行為から離れるための教化手段であり,囚人の間に規律を行き渡らせる。抜きん出て持続的に勤勉な作業成績をあげた抑留者は釈放するというのが,アイケ総監の当初の方針だった。これが,収容所に掲げられた「労働は自由にする」の標語である。しかし,そのよい意図も戦争で無為になったと,元アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスは戦後語った。(『アウシュビッツ収容所』講談社,152-183頁)

写真(右):1935年10月2日,タンネンベルクで開催されたヒンデンブルクPaul von Hindenburg大統領の国葬:第一次大戦初期,第八軍ヒンデンブルク司令官は,タンネンベルクの戦いでロシア軍を撃破した。この記念の地で,世界大戦のドイツ敗北を打ち消すような盛大な葬儀が行われた。ヒンデンブルクの死去は,前年8月だった。
1935 Feier im Tannenberg Denkmal während der Rede des Führers Archive title: Hohenstein / Ostpreußen.- Tannenberg-Denkmal ("Tannenberg-Nationaldenkmal" / "Reichsehrenmal Tannenberg").- Beisetzung von Paul von Hindenburg, Rede von Adolf Hitler Dating: 2. Oktober 1935
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


第一次大戦の英雄ヒンデンブルク将軍は,1932年からワイマール共和国の第二代大統領に選出され,1932年12月,国防大臣だったクルト・フォン・シュライヒャーを首相に任命した。しかし,ドイツ国防軍のクーデターを恐れ,パーペンの意を汲んで,1933年1月30日,第一党だったナチ党長ヒトラーを首相に任命した。

1934年8月2日,ヒンデンブルク大統領が死去すると,アドルフ・ヒトラー首相は、ドイツ大統領も兼ねる総統(Führer:フューラー)の職に就いた。党の指導者「総統」は、新たな独裁者の称号となった。ヒトラー総統は、ドイツ国防軍の司令官を召集し、兵士をすべて総統個人に対して忠誠を誓わせることとした。

写真(右)1934年8月,ドイル、ベルリン、ドイツ国軍兵士の忠誠宣誓はドイツに対してでなく、ヒトラー総統個人に対してのものとなった。ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになった。そしてドイツ国防軍の兵士は,祖国ドイツでも憲法でもなく、アドルフ・ヒトラー個人に忠誠を宣誓することとなった。これは,国防大臣ブロンベルクが,ヒトラーの申し出を受け入れたためである。
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler auf dem Kasernenhof der Wachtruppe in Berlin 1934 Offiziere und Mannschaften leisten den feierlichen Eid durcherheben der rechten Hand. Die Reichswehr trägt Trauerflor für den verstorbenen Reichspräsidenten Date August 1934 Photographer Georg Pahl (1900-1963)
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・File:Bundesarchiv Bild 102-16107, Vereidigung von Reichswehr-Soldaten auf Hitler.jpg引用(他引用不許可)。


1934年8月2日以降に導入されたドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓(1935年改訂):
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."

「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」

写真(右)1934年8月,ドイツ国軍の兵士のヒトラー総統への新しい忠誠宣誓式:1935年3月16日、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、近隣諸国と平等な権利を主張して、ドイツ再軍備宣言をする。その際に、ドイツ国軍(Reichswehr)は国防軍(Wehrmacht)と名称を変えた。
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler! Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler. Dating: August 1934 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-16108引用(他引用不許可)。



Wehrmacht swear 'Oath of Loyalty' to Hitler

 つまり,ヒトラー総統は,陸海空三軍の総司令官を兼ねることになった。国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考えた。全軍に対して,ヒトラーに忠誠の宣誓させることを承諾した。彼が,反ヒトラー派の人物となったのは,不名誉なブロンベルク国防相スキャンダル罷免の後である。

写真(右)1934年2月25日の英霊記念日,ベルリン,ウンターデンリンデン国立歌劇場のヨーゼフ・ゲッベルス啓蒙宣伝相,アドルフ・ヒトラー首相,ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防大臣:ヒンデンブルク大統領が存命中だった時期,ドイツ首相といえども,ドイツ国防軍に容喙することはできなかった。国防軍の意向を代表する大統領と国防大臣の権限を,ヒトラーも尊重した。しかし,1934年8月2日にヒンデンブルク大統領がなくなると,大統領の権限を首相に与える法律を8月1日に遡及させて発令し,大統領職を首相兼務とした。こして,軍事の統帥権をヒトラーは掌握することができた。
Volkstrauertag am 25. Februar 1934. Reichskanzler Adolf Hitler, Propagandaminister Dr. Goebbels, Reichswehrminister v. Blomberg. Archive title: Berlin.- Heldengedenktag, von links: Joseph Goebbels, Adolf Hitler und Werner von Blomberg vor dem Staatsakt in der Staatsoper Unter den Linden im Gespräch Dating: 25. Februar 1934 Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_102-00765引用


1934年8月2日,ヒンデンブルク大統領死去。ナチスは,1934年8月1日に違法遡及させた法律によって,大統領の死後,首相と大統領職をあわせる法律を発効させ,国民投票によって,8月19日,アドルフ・ヒトラー首相は大統領職を兼任,総統となった。

1935年10月,ヒトラー総統は,第一次大戦の対ロシア軍戦勝タンネンベルクTannenbergに記念碑を作り,ヒンデンブルクを再埋葬した。弔辞を読んだヒトラーは,自ら第三帝国の後継者となることを宣言した。

第一次世界大戦敗北,ベルサイユ条約によって,ドイツ国防軍Wehrmachtは,軍備を制限され,陸軍兵力10万人に限定,参謀本部,陸軍士官学校,戦車・軍用機・火砲の保有禁止が定められた。また,海軍兵力は1万5000人に限定,戦艦6隻,巡洋艦6隻,駆逐艦12隻の保有に制限された。そして,ドイツ陸海軍は,従来のように皇帝にではなく,国家・憲法に忠誠を誓う国軍Reichswehrと改名された。
しかし,ドイツ・ワイマール共和国にあっても,参謀本部の機能密かに残され,ラッパロ条約によってソ連軍との協力を進めて,ソ連で軍事研究・訓練を続けた。

◆ナチ党は,暴力を用いることによって,半年も経たずに,「一見合法的な一党独裁政権」を成立させた。ナチス政権は,決して民主的手続きの上に成立したものではなく,暴力による選挙妨害,人権を無視した不当な逮捕という弾圧・迫害によって,成立した。

3.ドイツ政府による焚書・思想弾圧

ゲッペルスの主導するナチスのプロパガンダは,イエズス会以来のキリスト教の伝道,ソビエト社会主義のプロパガンダ,アメリカの大統領選挙(予備選挙)とラジオ放送・自動車・航空機の活用,名作映画の映像,古典的絵画などを応用した臨機応変なものだった。メディアや多数の党員・ヒトラーユーゲントを動員した行進・大会・式典も,1933年の政権奪取後に,大規模に展開されている。国家として,資源,施設,資源,人材,技術が動員できる状態になって,効果的になったともいえる。

米英ソの文化人やメディア関係者は,ナチスのプロパガンダに対抗する必要上,敵を過大評価し,プロパガンダの予算を獲得したかった。そこで,ナチスのプロパガンダを過大評価し,情報戦の重要性を浮き立たせようとしたのではないか。(「ナチ宣伝」という神話参照)

ゲッペルスPaul Joseph Goebbelsは,離婚暦のあるマグダMagda(1901年11月1日生まれ)と1931年結婚,6人の子供に恵まれた。長女ヘルガHelga (1932年9月1日),次女ヒルデHilde (1934年4月13日),長男ヘルムートHelmut(1935年10月2日),三女ヘッダHedda (1937年2月19日),四女ホルデHolde(1938年5月1日),五女ハイデHeide (1940年10月20日)。一家は,1945年5月1日,ヒトラー自決直後,総統大本営地下壕で服毒自殺。後方の空軍将兵はマグダ先夫クヴァントの間に生まれた長男ハラルトHarald Quandt(1921年11月1日生まれ)。彼のみ生き残り,富豪となる。

ゲッペルスの主導したプロパガンダは,ドイツ・アーリア人の優越感を鼓舞し,ユダヤ人,社会主義者など下等劣等人種の文化を徹底的に貶めるものだった。その一つの表れが,焚書だった。

ドイツにおける焚書(右):ユダヤ人や退廃文学・芸術は,発禁処分になった。図書館に収蔵されていた発禁処分の蔵書は,燃やされた。「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とハイネは述べたが,これはナチスのユダヤ人虐殺に当てはまった。ハイネは,三十年戦争を背景にした「酒保の女の歌」で、戦争にもかかわらず繁盛している兵隊相手の娼婦宿をうたった。「国や宗旨は衣服であって,中身・体が問題だ」というのは,個人主義,人種民族平等の思想であり,個よりも国家・民族共同体を重視するナチスにとって由々しき危険思想と映ったであろう。

 1933年1月にヒトラーが首相に任命されると,ナチス政権は、思想統制を図るために,言論の自由を封じた。ナチスの唱えるドイツ民族の優越性,ユダヤ人の邪悪性に反する思想や言論は、弾圧の対象となった。

1933年5月,ユダヤ人の著作を焼く焚書が行われた。これは,図書館や学校にあるユダヤ人の著作や社会主義的文献を廃棄するもので,見せしめに,本を焼いた

ベルリンのウンターデンリンデン通り沿いにあるバーベル広場Bebel Platzでも、たいまつ行列が行われ,悪書2万冊が山積にされて燃やされた。現在も広場一角の穴のガラス戸の中に白い本棚が置かれている。焚書の歴史を記憶する記念碑である。

フランクフルトでは,ショパン「葬送行進曲」の中,荷車で運ばれた薪の火の中に,本が投げ込まれた。ミュンヘン大学でも,政府要人,大学関係者,学生が集まって、焚書の祭典が行われた。民族の誇りを取り戻し,強いドイツを作る「国民革命」という位置づけであった。暗くなってから,市内中心部のケーニヒ広場に向けて松明行列が企画された。広場に集められた堕落作家の著作に火がかけられた。

写真(右)1920年,父に抱かれるユリウス・ハイデッカー(Julius Heydecker)4歳Joe J. Heydecker (13. Feb 1916- 17. Mar 1997 in Wien)は、第二次大戦にドイツ軍兵士として参戦したが、のちにドイツの写真家、ジャーナリスト、作家として活動した。
Julius (1884) und Julius (1916) Heydecker Garmisch-Partenkirchen Dating: 1920 Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


焚書対象の作家の多くはユダヤ人で、社会主義思想家カール・マルクスローザ・ルクセンブルク,カール・カウツキーKarl Kautsky,レオン・トロツキーLeon Trotsky ,ウラジミル・レーニン,詩人ハインリヒ・ハイネ(Heinlich Heine:1797-1856),障害者にして社会主義的慈善活動家ヘレン・ケラー,心理学者ジクムント・フロイト(Sigmund Freud:1856-1939)、社会主義的思想家・SF作家ウェルズH.G. Wells,作家のハインリヒ・マンHeinrich Mann (1871-1950),シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig, 1881-1942),『武器よさらば』A Farewell to Arms (1929)のアーネスト・ヘミングェイErnest Hemingway,『鉄の踵』Iron Heel(1908)のジャック・ロンドンJack London,劇作家ベルトルト・ブレヒトBertolt Brecht,『西部戦線異状なし』(1929)のエーリヒ・マリア・レマルクErich Maria Remarque(1898-1970),元財務大臣・金融家ヒルファーディングRudolf Hilferding (1877-1941)が含まれる。

焚書対象作家には,ドイツ人のトーマス・マンもいた。『魔の山』(1924)では,結核で体力・気力が失われがちなハンスが,スイス山麓に安住の場所を見つけ,人と語り,思想を深めてゆく。しかし,戦争(第一次世界大戦)が勃発したことで,すべてが一変してしまう。戦争を人間の自由に対する障害とするような思想は,戦争によって東方に生存圏を確保し,人種汚染の源のユダヤ人を排除するつもりのナチスにとって,由々しき敗北主義だった。ドイツから作家2000名が亡命した。

『飛ぶ教室』Das fliegende Klassenzimmer(1933),『エミールと探偵たち』(1929)のエーリヒ・ケストナー(Erich Kästner:1899-1974)は,多くの文化人が亡命する中、ドイツに留まり、執筆を黙認された児童向け作品を書き続けた。これは,『飛ぶ教室』にあるように「愚者が勇気をもち、賢者が臆病だった時代」特記すべきことで,「勇気のある人が賢く、賢い人が勇気をもった時,初めて人類の進歩が認められるでしょう」というケストナーの信条にかなった行動だった。

写真(右)1933年,ベルリンのユダヤ人商店のボイコットを撮影するナチス宣伝班:ユダヤ人は,辱めのために,首から「ドイツ人へ!ユダヤ人からは購入しない!」とかかれている。ユダヤ人の男の前にお店、男性のボイコットのSAとSS !ナチ党が政権をとると直ぐにユダヤ人への迫害が公的に行われた。警察も迫害をとめなかった。
Original title: Zentralbild 1933 Boykottaktion der Nazis gegen jüdische Geschäfte, Berlin Filmleute warten auf Publikum, welches das Warenhaus betreten will (Wertheim). Archive title: Berlin.- Boykott jüdischer Geschäfte, SA- und SS-Leute vor Kaufhaus Wertheim, Mann mit Schild um den Hals "Deutsche! Wehrt Euch! Kauft nicht bei Juden!", rechts Mann mit Filmkamera filmend Dating: 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1933年5月10日,アメリカでは,言論の自由を侵す焚書に対して,ユダヤ人を中心に抗議行動が起きた。ニューヨークだけでなく,フィラデルフィア,シカゴ,セントルイスで焚書を非難する集会が開かれた。アメリカのユダヤ人会議が,ヒトラーの首相就任に警戒心を強めていたが,焚書を契機に,世界に向けて,ナチスの人種民族差別,思想統制を警告するように訴えた。

1933年のナチスの焚書を,週刊誌『タイム』Timeは「図書コースト」(ビブリオ・コースト),週刊誌『ニューズウィーク』Newsweekは「ホロコースト」と呼んだ。ホロコーストとは,ヘブライ語でユダヤ教の神前に供えらる焼いた生け贄のことである。詩人ハイネは,「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とハイネは言ったが,まさしくホロコーストは,ユダヤ人虐殺を意味するようになる。

1933年の焚書から8年で,ユダヤ人を中心に大量殺戮が行われたドイツ商品の排斥運動も起こった。またのちにベルリンオリンピック・ボイコット運動も起こった。ユダヤ人作家,自由主義的なドイツ人作家,社会主義作家の書籍を,燃やすという蛮行は,思想言論の自由,出版の自由を侵害するものだったからである。ただし,アメリカでは,不況で大規模な労働組合が主導するストライキもおこり,決して安定した状態とはいえなかった。

言論の自由は守られなくなり,反ナチス行動,反政府的な言論・思想は弾圧された。1933年5月,反ナチスの反逆裁判のための新たな民族法廷が開設された。ミュンヘン一揆当時,バイエルン州政府司長官だったフランツ・ギュルトナーFranz Gürtner は,ナチスへの共感から,一揆首謀者ヒトラーを9ヶ月の軟禁状態においただけで釈放した。彼が,内閣に司法長官として迎え入られ,新たに民族法廷を開設した。民族法廷の審理は非公開で,上告は事実上できなかった。

裁判を公開して,「犯罪者」が思想・言論の自由を訴え,メディアが報道すれば,犯罪者は英雄になってしまうからである。

ミュンヘン一揆の後に開かれたヒトラー裁判で,ヒトラーは,裁判を使って自分の主張をドイツ全土に伝え,責任を取って,収監された。これが,ヒトラーを殉教者,英雄とする過大評価を生んだ。それを熟知しているナチ党指導者は,民族法廷で秘密裏に迅速に裁くことで,反政府的人物を,闇の中で抹殺しようとした。

思想言論弾圧は,反ナチスの犯罪者を拘禁する強制収容所を作らせることになった。強制収容所は,事実上,裁判無しに潜在的敵対者を拘束し,罰し,転向させる,あるいは終生拘禁するか処分する場所である。1933年5-6月,ナチス以外の政党は解散に追い込まれ,1933年7月14日(アメリカ独立記念日),ドイツにおける唯一の政党は,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)だけとなった。この時点で,強制収容所に保護拘禁された囚人は,2万6789名に達していたという。
ドイツは一党独裁となり,党は総統が指導したから,ヒトラー総統による独裁国家が誕生したのである。

宣伝相(国民啓蒙宣伝省大臣)ヨーゼフ・ゲッペルス博士は,反ナチスの新聞,ユダヤ人が編集者となっている新聞を弾圧し,発行停止・廃刊に追い込んだ。国民受信機の名の下に安価なラジオを売り出し,国営放送を聞かせた。外国放送の受信を禁止した。

ドイツはナチ党独裁国家だったために,ドイツの思想がナチズム,ドイツ軍がナチス軍のように扱われた。しかし,ナチス独裁は,暴力・脅迫を用いた選挙干渉,授権法(全権委任法)によるところが大きく,ドイツ国民の大多数が,自由な選挙で,圧倒的な支持を与えたわけではない。政権獲得前,最高の得票率だったのは1932年7月の37%だった。ナチ党は第一党だったが、議席は196議席(全584議席)で、単独過半数に達していなかった。

1933年3月14日、ヒトラーは、プロパガンダを担う省庁として、国民啓蒙宣伝省を設置し、初代担当大臣に腹心で忠実なヨーゼフ・ゲッペルスJoseph Goebbels)博士を任命した。宣伝大臣ゲッベルスは、3月21日、ポツダム衛戍教会のフリードリヒ大王の棺の前で、国会開会式「ポツダムの日」を開催した。これは、ナチ党がパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の信任を得た正当なドイツの新政権であることを、国内外に正当化するものだった。共和国に反感を抱いていた国粋主義者、帝政復古主義者であるヒンデンブルク大統領、貴族、保守政治家、帝国軍人はこのプロイセン復古的な国家儀式に満足し、ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領にも忠臣として受け入れられるようになった。

4.ドイツ政府によるユダヤ人迫害

1933年4月,ドイツ各地でユダヤ人商店やユダヤ人企業の商品の排斥,ボイコットが始まった。突撃隊がユダヤ人商店の前に立ち,ユダヤ人の商品を買うことを威圧した。ポスターや看板が掲げられ,ナチスによる組織的なボイコットが行われたのである。警察には,ボイコットを妨害してはならない旨,通達が出された。

当時,日本も中国大陸を勢力圏とする東亜新秩序を唱えた。日独は共に米英仏との戦争は望まないとしたが、勢力均衡を破綻させる軍事力,勢力圏獲得という覇権主義は、列国の既得権益を侵すものであり,脅威だった。ヒトラー総統は,ロシア人はアジア人と青味で,非文明人と公言していた。ヒトラー著『わが闘争』日本語版では,アジアの野蛮性に関する偏見の記述は削除された。アジアはイギリス人が支配すべきであり,日本人の東南アジア支配を嫌悪していた。アジアの日本人が,ヒトラー総統に心酔して日独伊三国軍事同盟に加わったのは皮肉である。

ナチ党独裁の下では,反ナチスはドイツの敵である。これが,ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的(根っからの)犯罪者,叛乱者など「危険な非国民」である。彼らを拘束し,更正させる場所が,強制収容所KL(ラーゲル)や刑務所である。ラーゲルを管理し,監視したのが親衛隊SSどくろ部隊である。

写真(右)1933年8月,ベルリン,親衛隊の大会に出席したSS長官ハインリヒ・ヒムラー,突撃隊幕僚長エルンスト・レーム(顔に傷跡),親衛隊部隊長クルト・ダーリュケ:ヒムラーは,かつて突撃隊指揮官レームの部下だったが,親衛隊に入り,「長いナイフの夜」では,ヒトラーの命令で元上官のレームを粛正してしまう。突撃隊の粗暴さは民衆に反発を受けた,そして国防軍に取って代わる新しい軍隊を目指したことで,ドイツ国防軍から忌み嫌われた。ヒトラーは,大衆,ドイツ国防軍の支持を得るために,旧友であるレームと突撃隊幹部を粛正した。これが,「長いナイフの夜」である。
Der große SS-Schutz-Staffel-Appell der Gruppe Ost der SS. in Berlin! Der Stabschef Hauptmann [Ernst] Röhm, (rechts) der Reichsführer der SS. [Heinrich] Himmler, (mitte) und der Gruppenführer der Gruppe Ost der SS. [Kurt] Daluege, (links) beim Gespräch im Lager in Döberitz. August 1933 (Ausschnitt) Dating: August 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,アンネ・フランク何人かという国籍ですら,マザー・テレサと同じように,厳格に規定し合意することはできない。
人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,身長,肌の色,目の色,鼻の形,髪の毛の質・色,肢体のバランス,足の形まで,個人差は著しく大きい。


 アーリア人の特徴は,アドルフ・ヒトラー総統のように金髪で,ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相のように長身で,親衛隊ハインリヒ・ヒムラー長官のように青く裸眼視力1.0以上の目をもち,空軍大臣ヘルマン・ゲーリング国家元帥のように質素で勤勉で,武装親衛隊ヨーゼフ[ゼップ]・ディートリッヒ親衛隊大将のように教養があり,突撃隊指揮官エルンスト・レームのように国防軍への忠誠心に溢れ,官房長官マルティン・ボルマンのように公明正大で権謀術数を用いない。この冗談から,優秀民族アーリア人なる定義が似非科学に基づいていること,ナチ党指導者たちが「純粋なアーリア人」でないことは明白である。

写真(右)1933年,ベルリン,現在のアルムスタット通りにあったユダヤ人商店:ナチ党が政権を掌握した1933年以降、ユダヤ人は,敵性住民・下等劣等人種として,迫害された。ユダヤ人は病原菌の保有者であり、人種汚染するバイ菌そのものと見做された。そして、優秀で健康なアーリア人(ドイツ民族)を人種汚染から守るために、ユダヤ人を「人種衛生学」的に浄化・排除・抹殺すべきだとした。
Berlin 1933: Jüdische Händler in der Grenadierstraße (heute Almstadtstraße) im sogenannten "Scheunenviertel". Aufn.: P. Buch Dating: 1933 Photographer: Buch, P.撮影。 Agency: Scherl
写真はBild 183-1987-0413-502,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ナチスの人種民俗学では,インド・ヨーロッパ語族のインド人は,肌の色から非アーリア人とされた。セルビア人は,ロシア系なので排除され,モスレム人は,イスラム教でも,武装親衛隊に入隊できた。その一方で,ドイツ国籍を持ち,第一次大戦に参加した退役将校でも,アンネの父オットーフランクのように,迫害対象になった。天才とされたアインシュタイン,フロイトも,ドイツ人ではなく,ユダヤ人とされ,迫害された。

写真(右)1933年,警察署中庭で警察に検問されるユダヤ人男性:ユダヤ人は,各自が登録証のような証明書を大事そうに持っている。1933年,ナチス政権奪取直後から,敵性住民・下等劣等人種として,ユダヤ人の所持する武器探しなどを名目に人種迫害が開始された。
Gross-Razzia der Polizeiabteilung zbV [zur besonderen Verwendung] in den Ostjudenvierteln um die Grenadier- und Dragonerstrasse. Die jüdische Bewohnerschaft eines Hauses in der Grenadierstraße [heute Almstadtstraße] wird auf dem Hof zur Durchsuchung nach Waffen und Prüfung der Papiere versammelt. 1933 Dating: 1933 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-R97480引用(他引用不許可)。


1934年6月のレーム粛清の功で,7月に強制収容所統監に就任した親衛隊テオドール・アイケ(1892.10.17-1943.2.26戦死)は,SS師団長となった。アイケは,配下の髑髏部隊に,平時でも,日夜,鉄条網の背後にいる敵に立ち向かっている,唯一の兵士であると認識し,命令絶対服従を求めた。収容所囚人の労働は,犯罪的行為から離れるための教化手段であり,囚人の間に規律を行き渡らせる。抜きん出て持続的に勤勉な作業成績をあげた抑留者は釈放するというのが,アイケ総監の当初の方針だった。これが,収容所に掲げられた「労働は自由にする」の標語である。しかし,そのよい意図も戦争で無為になったと,元アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスは戦後語った。(『アウシュビッツ収容所』講談社,152-183頁)

写真(右)1933年,町の広場に掲示された反ユダヤ主義のポスターを見る突撃隊員たち:ユダヤ人は,各自が登録させられ、1933年,ナチス政権奪取直後から,敵性住民・下等劣等人種として,ユダヤ人の所持する武器探しなどを名目に人種迫害が開始された。
GrossWorms, Schloßplatz (?).- NS-Presse. Männer vor einem Werbekasten der Zeitschrift "Der Stjürmer" (Nr.35, August 1935) stehend. Schaukasten mit antisemitischen Parolen: "Mit dem Stjürmer gegen Juda", "Die Juden sind unser Ungljück" Description Information added by Wikimedia users. Depicted place Worms, Schloßplatz Date August 1935 Photographer Unknown Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Gaubildarchiv Worms (Bild 133) 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 133-075, Worms, Antisemitische Presse引用(他引用不許可)。


識者の中には,ミュンヘン一揆の後,裁判で頭角を現した犯罪者ヒトラーをまね,ホロコースト否定論を裁判を使い喧伝するものもある。インド人,中国人のようなアジア人が,真のヨーロッパ人を人種汚染すると移民排除を唱え,さらにソ連,イラン,日本人を対ユダヤ人・イスラエル戦,対米ユダヤ戦,モンゴロイド黄色人種内紛に向けて煽動している。

1934年9月,ニュルンベルク党大会でヒトラー総統を祝福するドイツの宗教家。カトリックのシャレナー司教(左)とプロテスタントのミュラー牧師(右):Nuremberg Rally for Unity and Strength: Hitler Greets Protestant Reichs Bishop Ludwig Müller (right) and Catholic Abbott Schachleitner at the Tribune of Honor. 当初,ドイツのカトリックはナチ党への加盟を認めなかった。ドイツ中央党はカトリックを堅持し,党首フランツ・フォン・パーペンは首相にもなったほど勢力があったのである。しかし,1933年にナチス政権下で、パーペンが副首相に就任すると、ローマ教皇ピウス11世は,カトリック教徒にナチ党への加盟を認めた。見返りとして,ナチスは,1933年7月,ローマ教皇との政教条約を締結し,カトリック教徒の宗教的権利を庇護することを約束した。ナチスが,共産主義に反対していたこと,イタリアのファシスト党が宗教協約を締結して,カトリックと良好な関係を築いたことが,和解の理由である。また,政権に協力的態度をとることで,カトリック教徒をナチスの迫害から庇護することも重要な課題だった。写真は,German Historical Institute引用。

◆ユダヤ人は,宗教問題だと単純に考えることはできない。キリスト教徒に改宗しても,ユダヤ人とされ迫害されることが多かったからである。宗教差別と人種民族差別の境界は,多くの場合,恣意的である。もともと厳格に区分することなど不可能な人種・民族を為政者に都合よく定義し,特定の人種民族を差別,迫害した。

肌の色,鼻の形,顔面の角度,目の色・形,体臭,さらにDNAによって,人種を区分しても,境界は恣意的である。言語や宗教によって,民族を区分しても,人種概念が入り込み,やはりその区分は恣意的にならざるをえない。つまり,人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われているのであり,似非科学な偏見,錯覚,プロパガンダに基づいている。


ユダヤ人差別には,看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもあるが,法律。規則の上でも,ユダヤ人の人権が制限され,迫害が行われた。反ユダヤ法としては,1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の結婚制限)制定,11月,ユダヤ人選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。

1935年9月のニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止した。ユダヤ人が定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなった。

写真(右)1935年,ドイツの国民啓蒙宣伝相大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels )博士と妻マグダ、長男(前夫の子)ハロルド・クバント、長女ヘルガ、次女ヒルデガルド:ヨーゼフ・ゲッペルス博士は、ナチ党政権獲得の2年前、1931年12月19日、マグダ前夫の資産家クヴァントの農場で、ヒトラーを立会人として、マクダとヨーゼフ・ゲッベルスは、黒いドレスと黒いスーツを着込んで、結婚式を挙げた。この時、ゲッベルスはカトリック教徒、マクダはプロテスタントだった。また、マグダの母アウグステはユダヤ人との再婚をしており、過激派と見なしたヨーゼフを嫌っており、結婚式には参列しなかったいた。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-R39467 Original title: info Dr. Joseph Goebbels mit seiner Familie 10681-35 Archive title: Joseph und Magda Goebbels mit ihren Töchtern Helga und Hildegard und dem Sohn von Magda Goebbels, Harald Quandt Dating: 1935 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1934年8月2日,パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が死亡すると、ヒトラー首相は、憲法の規定を無視して、大統領職を兼ねる総統(Führer:フューラー)となり,ドイツ国防軍兵士に,総統個人に対して忠誠を誓わせた。

1936年、ベルリン・オリンピックに際して,アメリカオリンピック委員会会長エイブリー・ブランデージ(戦後もオリンピッック組織の大指導者)は,ドイツを訪問して「ドイツで反ユダヤ主義は見られない」と声明を出した。オリンピック期間前後は,アンチセミニズムを訴えるポスターや宣伝は行われず,公園など公共施設へのユダヤ人立ち入り禁止の看板もはずされていた。

アメリカでは,ユダヤ人迫害を行うドイツでのベルリンオリンピックをボイコットすべきであるとの意見も出されたがオリンピックをボイコットすれば,アメリカ国内の人種民族差別にも批判が向けられてしまう。オリンピックボイコットは,アメリカの国内事情から,実行できなかった。

ナチス指導者にとって,米英仏など列国の人権問題での介入は,貿易,投資の上でも,軍事上も最大の脅威である。そこで,ドイツのアンチセミニズムは,あくまでプロパガンダの問題であって,実際の人権差別・迫害とは異なるとの印象を,列国に持たせようとした。ユダヤ人迫害が実際に行われているとは,列国には知られたくなかった。この秘匿性は,ユダヤ人虐殺ホロコーストも同じである。ユダヤ人絶滅指令は,口頭で行われ,文書記録では,排除・最終解決といった隠語が使われた。

実は,ホロコーストの8年前,ユダヤ人迫害ですら,ナチスは秘匿しようと深謀遠慮した。米英列国の合理的な現実主義者(政治家,ビジネスマン,知識人)たちは,ユダヤ人迫害を過激な人気取りのプロパガンダであって,本当に実行するはずがないと,思い込んでいた。


写真(右)1937年,ドイツの国民啓蒙宣伝相大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels )博士と妻マグダ、長男(自分の子)ヘルムート、長女ヘルガ、次女ヒルデガルド:ヨーゼフ・ゲッペルス博士は、ヘルガ 1932年生、ヒルデ 1934年生、ヘルムート 1935年生、ヘッダ 1937年生、ホルデ 1938年生、ハイデ 1940年生と6子をもうけた。マグダ前夫の子ハラルト(母マグダ19歳の出生)も養子としたから、総勢7名の子どもがいたことになる。子供は全員Hから始まる名前だが、これはゲッペルスが密かにヒトラーのHを継いだものとして意識していた。ヒトラーは独身だったために、ナチ党に古くから参加していたマクダが、ナチ政権のファーストレディとして、夫の監督するメディアで取り上げられた。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-1987-0724-503 Original title: info Magda und Joseph Goebbels mit Kindern 13518-37 Archive title: Magda und Joseph Goebbels mit Kindern Helga, Hildegard und Helmut, auf einer Bank sitzend Dating: 1937 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1936年、ベルリン・オリンピックが終わると,ユダヤ人の基本的人権を制限する法律・規則は次々出され,1938年4月,財産の登録義務を課し、登録証を徴収するようになった。強制収容所も増設された。1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ついにユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。

◆ドイツにおける反ユダヤ主義Antisemitismは,ナチス政権成立によって,人種民族差別の偏見という意識の問題から,ユダヤ人に対する基本的人権の侵害,迫害へと移っていった。これは,ナチス党が,突撃隊・親衛隊などによる暴力を使い,さらに警察も支配していたからである。しかし,ナチス党の反ユダヤのプロパガンダは,人々の反ユダヤの偏見,アンチ・セミティズムAnti-Semitismがあったことで,有効に作用したことにも注意したい。

写真(右)1938年,ドイツ総統アドルフヒトラーと国民啓蒙宣伝相大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels )博士と妻マグダ、長男ヘルムート、長女ヘルガ、次女ヒルデガルド:戦争末期、1945年5月1日、医師の助けで、マクダは子供にモルヒネを飲ませ眠らせたうえで、青酸カリを投与して殺害した。ゲッベルス夫妻は、捕虜となっていたハロルドを除く子供全員を道連れに、ナチ党の象徴的忠臣一家として、ベルリンの総統地下壕で最期を遂げることを望んだ。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-1987-0724-502 Original title: info Der Führer wieder auf dem Obersalzberg Bei einem Besuch auf dem Kehlstein mit seinen Güsten, Reichsminister Dr. Goebbels und Frau mit ihren Kindern Helga, Hilde und Helmut. Archive title: Obersalzberg.- Joseph Goebbels und Magda Goebbels mit Kindern bei Adolf Hitler Dating: 1938 Photographer: Hoffmann Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人差別は、1933年4月,公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止
1934年,医師.薬剤師新規就労禁止
1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々と出された
1938年4月,財産の登録義務を課し、登録料を徴収。11月、ヨーゼフ・ゲッペルスJoseph Goebbels)宣伝相は,ユダヤ人商店の破壊(クリスタルナハトKristallnacht)を煽動した。


◆優秀民族アーリア人なる定義は似非科学に基づいており,肌の色,鼻の形,顔面の角度,目の色・形,体臭,さらにDNAによって,人種を区分しても,境界は恣意的で,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。言語や宗教によって,民族を区分しても,人種概念が入り込み,やはりその区分は恣意的である。

写真(右):1938年6月14日,ベルリン"ラウンドスクエア"の式典に参加したヒトラー総統:式典に花を添えるために呼ばれたアーリア人の風貌をした少女たちに声をかけ握手する。現在でも容姿端麗な少女を並べて商業的に利用する試みがヒットしているが、その裏を返せば、正視に堪えないような障害者・病人・老人・肥満体を醜いとして排除することになる。日本で韓国人を起用する商業主義に対しても、ナショナリズムから過剰な反応が示される。
Hitler und Kinder anläßlich der Grundsteinlegung zu "Runder Platz" in Berlin Archive title:Berlin.- Grundsteinlegung für das Haus des deutschen Fremdenverkehrs am Runden Platz durch Adolf Hitler, Kinder bei der Begrüßung Hitlers, Angehörige der SS hinter Hitler. Dating:14. Juni 1938 Photographer:Pahl, Georg撮影。
写真はBild 102-18137、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1938年3月のドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)、9月のニュルンベルクのナチ党大会に続いて、11月には、反ユダヤ大暴動が起こった。このユダヤ人商店のガラスが飛び散った破壊の夜を,「クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜」(Novemberpogrome 1938 )と呼ぶ。ナチス党のドイツ政府が人種民族差別を行い,被差別少数派に暴力を振るったのである。


Pogromnacht 9. November 1938 (ZDF History)

クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜) は、1938年11月9日夜から10日未明にかけて、ドイツの各地で引き起こされた反ユダヤ人暴動である。ゲッペルス率いる啓蒙宣伝省が煽動し、親衛隊・突撃隊が中心となり、ユダヤ人の商店、シナゴーグ(教会)などを次々と襲撃し、放火した。警察は、暴動や放火がドイツ人住宅・商店に及ばないように警戒したが、暴動を阻止しなかった。周辺のドイツ人住民は、暴動に際して、積極的にかかわったわけではなかったが、暴動を傍観した。

結果として、ユダヤ人への暴力がドイツ国民に許容されたと判断したヒトラー、ナチ党幹部は、その後、大規模なユダヤ人差別、迫害を進めることになった。その意味で、クリルタルナハトは、ホロコースト、ユダヤ人絶滅への大きな転換点と言える。

クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜) の名称は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにキラキラきらめいていたことから、ナチ党政権が使用した用語であるが、自然発生的なものでなく、仕組まれた暴動であることを強調して、「11月9日のポグロム」と呼ぶようになった。

TO ALL REGIONAL AND SUB-REGIONAL GESTAPO OFFICES sent at 1:20AM, November 8, 1938,SUBJECT: MEASURES AGAINST THE JEWS THIS NIGHT :1938年11月8日ハイトリッヒReinhard Heydrichからからゲシュタポ長官ヘルマン・ゲーリング宛ての水晶の夜に関する報告書

写真(右):1938年,国家社会主義ドイツ労働社党(ナチスNSDA:NationalSozialistische Deutsche Arbeiterpartei)の反共ポスター「ユダヤ人の独裁による大衆の平和だと?ザクセン州に3月,1350名の大動員の集まり。」ナチスは政権獲得前から,共産主義・ボリシェビキを敵視した。しかし,ヒトラー自身,第一次大戦直後には,労兵評議会レーテの一員として,共産主義運動に参加していた。
Völkerfrieden oder Juden-Diktatur? Im März 1350 Massenversammlungen in Sachsen Dating: März 1938 Designer: FM; [Müller, Fritz] 作。Occasion: Antisemitismus, Friedensparole, Versammlungsaufruf Editor: ナチ党Ortsgruppe Mühlbach der Nationalsozialistischen Deutschen Arbeiterpartei刊行。 ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用。(他引用不許可)。


ユダヤ人の人権を制限する迫害が始まった時,それに反対する人権・民主主義確保の動きは,大きくなることができなかった。ユダヤ人が迫害され,追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の中には,ユダヤ人の人権制限を許容した人たちもいた。

卑怯な悪賢いユダヤ人は,第一次大戦時,背後にいて,共産主義を広め,ドイツ民族を打ち倒す陰謀・革命を企てた,という「背後の匕首一突き説」を,ナチスは喧伝した。共産主義思想家カール・マルクスは,労働者を煽動して,世界を混乱させようとした。ソ連の共産主義もアメリカの拝金主義も,ユダヤ人支配の表裏である。そして,ユダヤ人は,優秀なドイツ人の血を人種汚染し,滅ぼそうとしている。
 このような根拠のない反ユダヤ主義(アンチセミニズム)の人種民族差別が,ドイツ政府によって公然と表明された。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言した。
1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。

5.第三帝国ヒトラー総統の「偉業」!?

(1)秩序の回復−軍隊とヒトラーユーゲント
ヒトラー総統の「偉業」の第一は,既存の政党,労働組合,企業団体,青少年団体,キリスト教団体を,ナチスの思想に即して抑圧,解散,再編成し,指導者原理に則った規律を持ち新秩序「ナチ化」し,強い軍隊を保有する大ドイツを再興したことである。

写真(右)1936年4月20日,ヒトラー総統と陸軍大臣フォン・ブロンベルク元帥:ベルリンの軍事パレードに参加した海軍提督レーダー博士,ルントシュテット将軍も後方に見える。ヒトラーは,突撃隊SA幕僚長レームら幹部を粛正,国防軍に代わる軍隊を創設するつもりがないことを示し,ドイツ国防軍,陸軍大臣フロンベルクの信頼を得た。この時期,国防軍の威光は,ヒトラー総統でも十分に配慮しなければならないほど,強かった。
Geburtstag des Führers 1936. Adolf Hitler verabschiedet sich von Reichskriegsminister Generalfeldmarschall von Blomberg. [nach der Parade in Berlin]. Dahinter General-Admiral Dr. h.c. Raeder [und General von Rundstedt]. Archive title: Werner v. Blomberg und Adolf Hitler, Hände schüttelnd. dahinter General-Admiral Erich Raeder und General Gerd von Rundstedt Dating: 20. April 1936
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワイマール共和国の軍事組織維持の背景の中で,三軍総司令官となったヒトラー総統は,1935年3月16日,ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して,再軍備宣言を行った。この時,国軍Reichswehrは,国防軍Wehrmachtに戻され,陸軍,海軍に加えて,ヘルマン・ゲーリング率いる空軍が新設された。

再軍備宣言から2ヵ月後,1935年5月21日に兵役法が施行され,全ドイツの男子に兵役義務が課された。そして,国防軍の最高指揮者は,総統兼首相 (Führer und Reichskanzler)がとることとなった。

忠誠宣誓については,従来のように国家と憲法に忠誠を誓うのではなく,三軍最高司令官の総統兼首相に忠誠を誓うようになった。これは,親衛隊SSがヒトラー個人に忠誠宣誓をするのとほぼ同様である。

ナチ党政権以前,ワイマール共和国の時代から,ソ連とラッパロ条約を結び,ソ連において軍事研究・訓練を行っていたり,スウェーデンの子会社を通じて,禁止されていた火砲の開発・生産も行っていた。ヒトラーが,再軍備宣言をしたのは,ナチス政権獲得2年後の1935年3月16日である。

写真(右)1935年10月12日、ドイツ、ベルリン、ヴィルヘルム通りに建設中の航空省庁舎ビルを見上げる設計者エルンスト・ザーゲビール(Ernst Sagebiel)博士、航空大臣ヘルマン・ゲーリング大将、一人置いて航空省次官エアハルト・ミルヒ:航空省庁舎ビルを設計したエルンスト・ザーゲビールは、テンペルホーフ空港の設計も行っている。航空省庁舎ビルは、1936年8月に完成。1933年4月にドイツ航空委員会が設置され。1936年6月、エルンスト・ウーデットが技術開発部局長に就任。
Scherl: Richtfest des neuen Reichs-luftfahrt-ministeriums in Berlin am 12. Oktober 1935. vlnr: Der Baumeister Prof. Dr. Ing. [Ernst] Sagebiel, Reichsluftfahrtminister General der Flieger Hermann Göring , der Zimmerpolier Franz Hecht, der den Richtspruch sprach, Staatssekretär [Erhard] Milch beobachten das Hochziehen der großen Richtkrone. Depicted place Berlin Date 12 October 1935 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H28070, Berlin, Reichsluftfahrtministerium, Richtfest (cropped).jpg引用。


第一次大戦後のベルサイユ条約は,ドイツの弱体化を図る目的で,ドイツに軍備制限を課したが,これを破棄,再軍備を宣言したのである。

ポスター(右)1935-1945年,国防力増強を訴えるヒトラー総統の言葉「ドイツの若者は,国家社会主義を奉じる国家の中で晴れやかな心を満たすことができる。」:国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,軍事力を強化し,それを背景にして,ラインラント進駐,オーストリア併合,ズテーテンランド割譲と領土要求を次々と呑ませた。しかし,実際には,フランス軍には劣る兵力しかなく,誇示した兵力はハッタリだった。
Das Wort des Führers: Die deutsche Jugend aber wird strahlenden Herzens ohnehin erfüllen/was die Nation/ der nationalsozialistische Staat von ihr erwartet und fordert Dating: 1935/1945 Designer: P.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1935年3月16日,ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄するドイツ再軍備宣言は,強大な軍事大国を目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどまっていた。だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認したのである。
ヒトラーの再軍備宣言
?義務兵役制を復活-----兵力36個師団,50万人を動員
?軍事組織の名称変更:陸海軍に加えて空軍Luftwaffeを新設し,国軍Reichswehrを伝統的な国防軍Wehrmachtに戻す。国防省を陸軍省(Ministry of War)と変更。陸軍参謀本部の復活。

 1935年3月16日、ヒトラーは、ドイツ再軍備宣言Aufrückwstung der Wehrmacht)をし、空軍を新設した。1935年6月18日、イギリス-ドイツ海軍協定Anglo-German Naval Agreement)が締結され、ドイツ海軍はイギリス海軍の35パーセントの軍艦保有を認めさせた。これによって、イギリスは単独でベルサイユ条約を無視して、ドイツの再軍備を公認したことになった。

ドイツ海軍重巡洋艦 「アドミラル・ヒッパー」(Admiral Hipper)重巡「アドミラル・ヒッパー」は、1935年7月6日に建造開始、第二次大戦直前1939年4月29日に就役。英独海軍協定の基準排水量は規定の1万トン以下ではなく、密かに協定を違反した1万4,000トンの設計で建艦されている。最高速力 32.5ノット、航続距離 20ノット/6,800マイル、乗員 1,500名、兵装:60口径20.3センチ連装砲4基8門。65口径10.5センチ連装高角砲 6基12門、搭載機 アラドAr 196水上偵察機3機、カタパルト1基。


 英独海軍協定Anglo-German Naval Agreement)によって、ドイツは、今まで潜水艦も海軍航空隊も禁止され、旧式装甲艦6隻のみ保有を許されていたのが、基準排水量1万トン 以下・備砲20.3センチ以下の重巡洋艦6隻、6千トン以下15.5センチ砲の軽巡洋艦6隻、800トン以下の駆逐艦 12隻、魚雷艇12隻を保有できることとなり、フランス海軍の8割の兵力をドイツに認めることとなった。

1935年の英独海軍協定に則って、ドイツ海軍は、1935年7月6日、1番艦として、重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」(Admiral Hipper)の建造を開始した。もちろん、ベルサイユ条約を無視して、これより数年前から大型軍艦の設計・開発が進んでいたために、協定締結後に直ちに建艦に入ることができたのである。重巡「アドミラル・ヒッパー」は、1937年2月6日に進水、第二次大戦直前1939年4月29日に就役したが、実際には、1935年の英独海軍協定に則った排水量1万トンではなく1万4,000トンと協定違反だった。それを基準排水量1万トンと偽って建造したのであるた。しかし、ドイツ海軍巡洋艦の就役は3隻のみにとどまった。

そして、1935年4月、ドイツは、イギリスに対して、12隻の250トン級の小型潜水艦U boat)を建造すること、さらに中型の新鋭潜水艦を計画中であると告げた。この潜水艦Uボートが第二次大戦緒戦ではイギリス本土封鎖、交通破壊戦に大活躍し、「大西洋の戦い」の主力となった。ドイツ海軍の大型水上艦艇は、第二次大戦で戦局に寄与できなかったが、潜水艦U boat)は、連合国の海上輸送に大打撃を与えることになる。

ドイツ海軍潜水艦UボートVII/B型:排水量浮上時: 769トン、潜航時: 871トン、全長: 67.1 m、全幅: 6.2 m、全高9.60 m、吃水4.74 m、動力MANディーゼル出力1,400馬力2基、最高速力 水上: 17.7ノット、水中: 7.6ノット、航続距離:水上 10ノットで8,600マイル、水中 4ノットで81 マイル、最高潜航深度230 m、乗員 50人、兵装:53.3cm魚雷発射管 5基 (艦首4門、艦尾1門)、搭載魚雷14本、 45口径8.8cm砲1門 (弾丸220発)


1935年3月のl英独海軍協定Anglo-German Naval Agreement)は、対独宥和政策の嚆矢となったといえる。英独海軍協定は、第二次大戦に向けてドイツ海軍の発展させたものの、第二次大戦のドイツ海軍は、潜水艦U boat)以外、あまり戦局に寄与できなかった。しかし、1935年当時、イギリスが、ナチ党ヒトラー政権に譲歩し、ドイツの国際的立場を高め、ヒトラーの国内外の評価を高めて、独裁政治、戦争への道に寄与したのは確実である。

1937年11月5日、ヒトラーは、ドイツ国防軍、陸海空三軍の司令官、外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラート(Konstantin von Neurath )を集めて、ヨーロッパにおける領土拡張のための戦争決意を伝えた。しかし、空軍のゲーリングは、ヒトラーに異議を唱えなかったものの、国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg )も陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner von Fritsch )もイギリス・フランスの軍備に対してドイツは優位にないとして、早急な戦争開始には反対した。また、外務大臣ノイラートも戦争には賛成しなかった。そこで、ヒトラーは、戦争遂行に役に立たない将官、閣僚を解任することを決める。

1938年2月4日、外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラート(Konstantin von Neurath )は解任され、新たにリンベント路プが外務大臣に任命された。そして、3月には、ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner von Fritsch )が同性愛者であるとして、1938年1月12日に結婚したヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg )元帥の新妻エルナがいかがわしい女性であるとして、ともにフレームアップされたスキャンダルで職を追われた。

1938年2月4日 、ヒトラーは、後任の国防大臣を任命せず、国防省に代えて、国防軍最高司令部Oberkommando der Wehrmacht:OKW)を設置してドイツ国防軍三軍の最高司令官におさまり、忠実な部下のヴィルヘルム・カイテル大将を、国防軍最高司令部総長Oberkommando der Wehrmacht:OKW)(Chef des Oberkommandos der Wehrmacht)に任命し、戦争準備を進め、着実に軍備・世論を整えて行く。

写真(右)1938年12月8日,ドイツ、キール軍港、空母「グラーフ・ツェペリン」進水式に参列したアドルフ・ヒトラー総統、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥;後方には,親衛隊国家長官ヒムラー,ブリュックナー主席副官,大統領府長官オットー・マイスナー,ブリュックナー国務大臣,ボーデンシャツ少将,フォン・リンベントロップ外務大臣。
Kiel.- Adolf Hitler beim Abschreiten einer Ehrenformation anläßlich des Stapellaufs des Flugzeugträgers "Graf Zeppelin"; rechts: Hermann Göring Date 8 December 1938 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・Bundesarchiv Bild 183-2006-0810-500,引用(他引用不許可)。


写真(右)1938年11月26日,キール軍港で建造中のドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」Graf Zeppelin:カタパルト2基を装備し、近代的な大型艦橋を備えた空母として建造されたが,未完成に終わった。ドイツ軍は,空母を1隻も保有することができなかった。
ドイツ海軍は,大型戦艦「ビスマルク」型2隻,巡洋戦艦「シャルンホルスト」型2隻,ポケット戦艦「ドイッチュラント」型3隻を建造,就役させた。
Flugzeugträger "A". Baustadium Deutsche Werke Kiel Archive title: Kiel.- Flugzeugträger "Graf Zeppelin" am Ausrüstungskai. Bugansicht mit Flugdeck, Backbordseite Date 26 November 1938 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1936年のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合アンシュルスは,この復活させたドイツ国防軍を使って,達成されたものである。しかし,国防軍と並んで,ヒトラーは自分の護衛部隊として育成してきた親衛隊を,国防軍に次ぐ第二の軍事組織に拡張してゆく。

大戦直前,親衛隊は,軍と並ぶ第一線戦闘部隊も編成し,その後,武装親衛隊として,陸海空三軍に次ぐ軍隊となった。SSの特徴は,ナチズムを信奉するヒトラー直属の政治的兵士であることで、SSには,最終的に30万人の警察,各々4万人の強制収容所看守とゲシュタポ,90万人の武装親衛隊が所属したといわれる。こうして,ヒトラーは,国防軍の権威も失墜させていった。

写真(右)1938年11月25日,キール軍港で進水前、建造中のドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」Graf Zeppelin
Flugzeugträger "A". Baustadium Date 25 November 1938 Archive title: Kiel.- Flugzeugträger "Graf Zeppelin" am Ausrüstungskai. Bugansicht mit Flugdeck, Backbordseite Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


空母「グラーフ・ツェッペリン」諸元
基準排水量:3万4000 t。
全長 262.5 m、 全幅 31.5 m
吃水 7.6 m
主機 タービン2基4軸20万馬力
最大速力 35 ノット
航続距離 19ノット/8,000マイル
乗員 1,720 名、(パイロット:306名)
兵装: 55口径15センチ連装砲8基16門
65口径10.5センチ連装高角砲6基12門
37ミリ連装対空機関砲11基22門、20ミリ機関銃28丁
装甲:舷側:100mm、 甲板:60mm
搭載機:Me109戦闘機12機
Ju87急降下爆撃機30機
合計42機。
発注 1935年11月16日
起工 1936年12月18日
進水 1938年12月8日
建造中止 1940年6月
自沈1945年4月25日

写真(右)1940年6月21日,キール軍港で進水後、偽装中のドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」Graf Zeppelin:煙突・艦橋は外観が整ってきて、カタパルト2基を装備しているが,未完成に終わった。ドイツ軍は,空母を1隻も保有することができなかった。
ドイツ海軍は,大型戦艦「ビスマルク」型2隻,巡洋戦艦「シャルンホルスト」型2隻,ポケット戦艦「ドイッチュラント」型3隻を建造,就役させた。
Kiel.- Flugzeugträger "Graf Zeppelin" am Ausrüstungskai. Backbordseite Title Flugzeugträger "Graf Zeppelin", Bau Neubau Nr. K 252. Bauzustand Aufgen. am 21.6.1940 Date 21 June 1940 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Hauptamt Kriegsschiffbau - Bildbestand
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 File:Bundesarchiv RM 25 Bild-62, Flugzeugträger "Graf Zeppelin", Bau.jpg引用。


ファシズムの軍備拡張、領土拡張が進むにつれて、世界秩序の再編成を唱えるようになり、ファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ヒトラー総統は、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを1925年の著作『わが闘争』で公言していた。そして,ドイツ民族を弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,ペストのようなものであるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人への憎悪を公言していた。アジア人も野蛮人とされ,ロシア人にも文明が及んでいないとした。
このような人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきであると訴えた。

カイテル将軍は,1914年,ヒトラーも授与された一級鉄十字章を受けていたが,1937年当時は,砲兵大将だった。カイテルは,ブロンベルク元帥と共に反ナチスの将兵を国防軍から排除,国防軍のナチ化に協力した。

1938年,ヒトラーはスキャンダルを利用した姦計を用いて,ブロンベルク国防相,フリッチュ陸軍総司令官を解任した。後任は設けず,ヒトラー自らが国防三軍の総司令官となった。代わりに,国防軍最高司令部を親設,その総長にカイテル大将を任命した。ただし,国防軍最高司令部総長は,統帥権を保持しない官房長官のような権限しかなかった。

しかし,1936年にスペイン市民戦争Spanish Civil War)が勃発すると,間髪をいれずに,フランコ将軍の反乱軍(国民戦線)に軍事援助を行った。これは,ドイツ義勇軍の建前をとったが、実際はドイツ空軍,ドイツ陸軍の正規部隊から成るコンドル軍団( Legion Condor)の派遣である。

  1936年7月から1939年3月まで2年半も続いたスペイン内戦Spanish Civil War)の契機は、1936年の総選挙でスペイン人民戦線が勝利したことにたいして、フランシスコ・フランコ将軍らに率いられてた植民地軍が反乱を起こしたことである。反乱軍は、ファランヘ党と組んで、ファシズム政権を樹立しようとし、人民戦線・共和国政府と内戦状態に入った。イギリス、フランス、アメリカは、内政不干渉の立場に立ったが、ドイツとイタリアは、ファシスト反乱軍を軍事援助した。このとき派遣されたドイツ義勇軍(実際は正規軍)が、コンドル軍団Legion Condor)である。

ゲルニカ 1937年 -ピカソ-:スペインでは1936年の選挙でスペイン人民戦線が勝利し、政権の座に着いたが、スペイン植民地のモロッコでスペイン軍の一部が、フランシスコ・フランコ将軍らに率いられてファシズムを奉じるファランヘ党と組んで、反乱を起こした。これがスペイン内戦である。1937年4月26日、ドイツが派遣したコンドル軍団のユンカースJu52爆撃機、ハインケルHe111爆撃機がバスク地方ゲルニカ(Guernica)を空爆した。パリでゲルニカ爆撃を聞いたスペイン人画家ピカソは、1937年パリ万国博覧会のスペイン館展示予定の壁画を製作中だったが、急遽テーマを変更してゲルニカを題材に取り上げ完成させた。

 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1936年に中佐としてドイツ義勇軍・コンドル軍団Condor Legion)の指揮官としてスペイン内戦Spanish Civil War)に参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を実行したコンドル軍団の参謀となった。スペインでは、ゲルニカ空襲Bombing of Guernica)ゲルニカのような都市爆撃から、エルンスト・ウーデットErnst Udet)らが重視した急降下爆撃まで様々な戦術が実戦で試された。

1937年4月26日、バスク地方ゲルニカGuernica)が、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍コンドル軍団Condor Legion)の爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。

スペイン市民戦争Spanish Civil War)で人民戦線側の共和国軍,国際旅団と戦闘を交えるという実戦訓練によって,ドイツ軍は,航空支援の有効性,機動力を活かした電撃戦の着想を得た。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦に参加したドイツ「コンドル軍団」を率いたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)少将と握手する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(Hermann Göring)(右):第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1938年11月、少将として、コンドル軍団長としてスペイン内戦に二度目の派兵。1939年5月に、コンドル軍団は凱旋、ドイツに帰国した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06827 Original title: info ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der deutschen Interventionstruppen in Spanien, die auf der Seite des faschistischen General Franco gegen die spanische Republik kämpfte. Im Frühsommer 1939 kehrten die Angehörigen der Legion Condor nach Deutschland zurück. UBz: Rückkehr der "Legion Condor" im Hamburger Hafen. Generalfeldmarschall Göring begrüßt Generalmajor Freiherr Wolfram von Richthofen. 31.5.1939 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり、ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ヘルマン・ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦から凱旋したドイツ「コンドル軍団」司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将とともにコンドル軍団を閲兵する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1936年4月20日に上級大将 (Generaloberst)になったゲーリングは、第二次大戦1年半前、1938年2月4日に、元帥 (Generalfeldmarschall)に昇進した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06857 Original title: info ADN-ZB Legion Condor- in Hamburg Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front, der in einem riesigen Viereck auf der Moorweide angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Freiherr von Richthofen, ferner der kommandierende General des 10. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 31.5.39 ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der faschistischen deutschen Interventionstruppen zur Unterstützung des Franco-Putsches in Spanien. Das Personal (etwa 6000 Mann) wurde ständig ausgewechselt, um kriegserfahrene Manschaften und Offiziere heranzubilden. Ende Mai 1939 kehrte die Legion Condor nach Deutschand zurück. UBz: Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front der auf der Moorweide in Hamburg am 31.5.1939 angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Wolfram Freiherr von Richthofen, der kommandierende General des X. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Hugo Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 7058-39 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1937年10月、スペインから帰還したヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団は、ドイツに凱旋し,プロイセン州首相・空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥から盛大な歓迎を受け、栄誉を与えられた。

写真(右)1932年,ベルリン,HJ(ヒトラーユーゲント)団員のサイクリング:当初のHJは,財政支援が受けられない,党の下部組織に過ぎなかったし,軍事訓練のような軍の協力を得ることも無理だった。その意味で,個人やグループの裁量の範囲が大きく,娯楽中心の活動も多かったようだ。
HJ bei der Fahrt auf Rädern, Berlin 1932 Dating: 1932
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


他方,国内にあっては,ドイツ労働者のストライキやデモは鎮圧され,1933年5月に,労働組合の幹部を逮捕,組合本部を占拠して,労働組合を解散に追い込んだ。そして,ナチスの政府組織として,ドイツ労働戦線を設立し,これを唯一の合法的な労働者団体とした。共産主義,社会主義の温床となった労働組合や労働運動を官製の御用団体化して,無力化した。

1928年,ドイツの少年10歳から14歳を対象にヒトラーユーゲントが作られ,少女を同様の組織を編成した。1930年,ドイツ処女団(Bund Deutscher Mädel:BDM)が結成された。

写真(右)1935年,中国,天津を訪問したHJ(ヒトラーユーゲント)とドイツ処女団(BDM):国家の財政支援を受けて海外にまで遠征するようになったヒトラーユーゲント。中国国民党も,1931年の満州事変の教訓を踏まえ,青少年・少女を戦時動員できるように,準備した。青少年が直接兵士として訓練され,動員された。しかし,このような青少年の戦時動員が,便衣,ゲリラ,パルチザンとして,多数の現地住民が拘束,虐殺されることにも繋がった。総力戦にあって,前線と銃後,戦闘員と非戦闘員の区別はできなくなった。
Tientsin, HJ und BDM Vereidigung [Foto erworben durch NSDAP Shanghai, 1935] Archive title: China, Tientsin.- Vereidigung von Hitlerjungen und BDM Dating: 1935 ca.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ナチ党では主導権争いもあったが,1931年10月,バルドゥール・フォン・シーラッハ(Baldur von Schirach:1907-1974)が「ヒトラーユーゲント」の指導者となった。この時,シーラッハは24歳で,翌1932年7月,最年少の国会議員に当選している。
シーラッハ率いるヒトラーユーゲントHitler Jugendの1932年当時のヒトラーユーゲント団員は5万5365人に過ぎなかったが,1933年にナチス政権が成立すると,同年末,ヒトラーユーゲント団員は56万8288人と1年で10倍に増加した。これはヒトラーユーゲントが,財政資金を得て,活動範囲を拡大できたためであろう。

写真(右)1936年8月12日,グリュネワルトのHJ(ヒトラーユーゲント)スポーツ大会:ナチス政権後,党の下部組織は政府組織となった。体力増強,規律の徹底,命令服従など,軍事訓練のような活動が多くなった。その意味で,HJは,ドイツ軍将兵の予備部隊と位置づけ,大規模な動員が求められるようになった。
Berlin.- Hitlerjugend beim Sport auf dem HJ-Sportplatz im Grunewald. Dating: 12. August 1936
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1995-073-11A引用(他引用不許可)。


1936年12月1日のヒトラーユーゲント法によって,ヒトラーユーゲント以外の青少年団体は解散を命じられ,ヒトラーユーゲントは唯一の公式青少年団体へと昇格した。ドイツの青少年(10歳から18歳)は全員が加入を義務づけられた。1936年のヒトラーユーゲント団員は543万76015人となったが,これは強制加入を義務付けたためである。

その後,キリスト教団体,社会民主党・共産党主導のドイツ少年少女団体は,圧迫され,解散に追い込まれる。

解散させた団体メンバーを取り込み,ヒトラーユーゲント団員数は,1936年に543万76015名に急増した。その後,1936年ヒトラーユーゲント法(The Hitler Youth Law)によって,全ドイツ青年は,ヒトラーユーゲントへの加盟を義務付られた。

写真(右)1937年9月,ニュルンベルク・スタジアム,HJ(ヒトラーユーゲント)大会:1936年ヒトラーユーゲント法の施行によって,ドイツ青少年は全員HJに加盟しなければならなくなった。動員された団員は540万人を超えた。ナチ党シンパ,御用団体として組織されたHJは,財政支援を受けて大規模な集会,活動,軍事訓練を行い,示威行進をした。個人やグループの裁量はなくなった。
Reichsparteitag 1937. Der große Appell der HJ vor dem Führer in der Hauptkampfbahn des Stadions. Blick auf die Fahnen während der Kundgebung. Archive title: Nürnberg.- Fahnenträger der Hitlerjugend auf der Tribüne im Stadion während des Reichsparteitags. Dating: September 1937
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-C12877引用(他引用不許可)。


ヒトラーユーゲントは,ハイキング,サイクリング,行軍演習などの娯楽的活動を通じて,規律と団体行動を身につた。そして,ナチス思想教育を施し,街頭宣伝活動に従事させた。農村での勤労奉仕,軍事訓練(小銃射撃,通信訓練,バイク運転,グライダー訓練,看護訓練など)も行った。

第二次大戦中の1940年,ヒトラーユーゲント指導者にはアルトゥール・アクスマン(Artur Axmann)が就いたが,ドイツの青少年も戦時動員に巻き込まれていった。

現在のローマ法王ベネディクト16世(ラツィンガー枢機卿)も,青少年時代,ヒトラーユーゲントに所属し,戦時中は対空監視部隊に勤務していた。しかし「ローマ教皇Benedictus XVIになるドイツ人も1941年,14歳で加盟,1943年,16歳でミュンヘンのBMW工場を守備する高射砲部隊に配属された。これについて,法王庁は「法王の意思に反して所属させられたもので、彼の人生において特別な意味を持たない」としている。

写真(右)1930年代後半(?),ベルリン,ヒトラー・ユーゲントのグライダー滑空訓練:ヒトラーユーゲントでは,日曜日などを使って,ドイツ防衛に有益な軍事訓練を青少年に施した。グライダー滑空のデモンストレーションは、軍人,ナチ党員,ヒトラーユーゲント隊員,一般市民の関心を引き,国防意識を持たせたかもしれない。
Berliner Hitler-Jugend am Tag der Wehrertüchtigung. Am Sonntag wurde von allen Berliner Bannen der Tag der Wehrertüchtigung durchgeführt. Die Vorführungen, die vor zahlreichen hohen Vertretern der Wehrmacht und Partei stattfanden, vermittelten einen umfassenden Einblick in die vormilitärische Erziehung und liessen neben dem hohen Stand der Ausbildung den Ernst erkennen, mit dem die Berliner Hitler-Jugend die ihr gestellten Aufgaben erfüllt. Dating: o.Dat.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


青少年は,ヒトラーユーゲントで,鍛えられた。ヒトラー総統は,ヒトラーユーゲントによる青年少年団体の統合と青少年への勤労奉仕,軍事訓練,人種民族教育の復興を目指した。子供は国の宝であるが,あくまで一つのドイツ,一つのドイツ人,一人の総統に尽くすべき存在であり,個人の人格形成,個人的な夢の実現など個人主義は配され,集団としての規律・統一が求められた。

ヒトラーユーゲントでは,軍事訓練,労働奉仕,看護実習のような実務的な活動もあった。その一方で,精神的には,ファシズムを賛美し,反ユダヤ主義,反議会主義,反共産主義が教え込まれ,他民族,障害者を軽蔑し,共産主義者,ユダヤ人の陰謀を信じ込む教育が施された。ヒトラーユーゲントでは,規律と服従が優先された。

ヒトラーユゲント(Hitler-Jugend)ノルクスは,1932年1月,街頭での社会主義者との闘争に巻き込まれて死亡した。ノルスクは,ナチ党青少年の英雄とされ,小説にもなった。政権獲得後は,映画化された。アーリア人のヒトラーユーゲントは美しく,規律正しく勤労奉仕に参加する。ヒトラーユーゲントは,ドイツの予備軍であり,将来の親衛隊SSだった。

募金ポスター(右)1937年,「ユースホステルとホームを建てよう」:募金を呼びかけるナチスのポスター。ヒトラーユーゲントの活動は,募金,運動,ハイキングからグライダー,射撃練習など多様だった。秩序と規律を重んじて,男子は優秀な兵隊に,女子は兵隊を支える後方での補助業務や家庭の主婦となることが求められた。そして,健康なアーリア人を生むことが期待された。「信仰と美」など青年男女のヒトラーユーゲントが作られたが,1936年にドイツ人の10-18歳の女子全員に加盟を義務付けた。ハーケンクロイツ(カギ十字)の紋章をそのまま,ドイツ国旗としたナチスドイツは,軍隊規律に基づく秩序を確立し,大ドイツ帝国建国を理想とした。ニュルンベルクで,毎年党大会を開催,スペクタクルを見せ付けた。
Baut Jugendherbergen und Heime Dating: 1937 ポスターは,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラーユーゲントへの女子大動員は,ナチ党の政権獲得後であって,ナチスが当初より女子を運動に参加させたわけではない。ヒトラーはフェミニストであり,女子に配慮した政策を取ったとする見解についても,女子を利用するだけであり,女子の自立は考慮されていない点を忘れることはできない。

ヒトラーユーゲントにあって,女子の役割が変化してきたのは,第二次大戦勃発により,労働力増強,資源節約が重要な課題になった時期である。ナチスによる女子動員は,米英ソに比べて大幅に遅れた。男らしさを引き立たせるために,女子を花を添えるように利用した。これは,フェミニストの立場ではない。

ヒトラー総統は,「私は,若者から始める。われわれ大人は疲れ果てている。----ドイツの大人は,屈辱的な過去(第一次大戦の敗戦)の重荷を背負わされている。---しかし,青少年たちは,実にすばらしい。この世に,これほどのものたちはいない。若者や少年を見よ。なんという逸材だろう。彼らがいれば,新しい世界を作ることができる。」このように述べている。

ユダヤ人は,下等劣等人種とされた反面,ドイツ人青少年は高く評価された。ヒトラー党首が子供好きというのは,プロパガンダであり,側近相手の卓上談話で子供の話が出たことはほとんどない。ドイツ青少年は,あくまでひとつのドイツを構成する要素であり,一人の総統に服従すべき対象だった。ヒトラー総統と子供といっしょの写真が多いことをもって,ヒトラーが子供好きの好々爺だったというのは,単純すぎる。彼は,ずば抜けた英雄からは無能の子供しか生まれない,権力者の子供は甘やかされだめになる,とシュペールやエヴァ嬢など側近に忌憚なく語っていた。

写真(右)1940年3月、建設総監フリッツ・トート(Fritz Todt)博士:1922年にナチ党に入党したトート博士は,政権獲得前からの古参党員の建築家として,(日和見主義者でないとして)尊敬されていた。1933年のナチ党政権の下で,建設総監に就任。1940年に軍需大臣,兵器生産に加えて,大西洋に面したフランス港湾に,ドイツ潜水艦Uボート用の巨大なコンクリート製退避壕(ブンカー)の建設も行った。1942年2月、航空機事故死。後任の軍需大臣は,やはり建築家のアルバート・シュペール。Todt, Fritz Dr.: Generalinspektor für das Straßenwesen, Minister für Bewaffnung und Munition, Deutschland Date March 1940 Photographer Röhn
写真は,Wikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


(2)公共事業・プロパガンダの展開
ヒトラー総統の「偉業」の第二は,大規模公共事業, 国家予算を投入したナチ党ニュルンベルク大会,国策映画興行などプロパガンダの展開である。

高速道路アウトバーンAutobahnは,1938年までに2000キロも建設された。

ナチ党首アドルフ・ヒトラーは,自動車好きで,早くから,馬・鉄道ではなく,自動車が輸送の中核をなすべきだと考えた。そこで,アウトバーンを計画し,その建設総監にフリッツ・トートFritz Todt 博士(1981-1942)を任命した。トート博士は,組織作りにも優れ,企業,資材,勤労奉仕,労働力,技術を的確に組み合わせて,道路や橋梁の建設に邁進した。

写真(右)1933-37年,ニュルンベルク,ヒトラー総統と建築家アルベルト・シュペール:シュペールは,戦争開始後,トート博士が飛行機事故で死亡すると,後継者として軍需大臣に任命された。そして,近代的な企業自主運営の導入,ユダヤ人・捕虜を使った強制労働の採用によって,軍需増産に成功した。
Nürnberg, Reichsparteitagsgelände, Vorbereitungsarbeiten.- Adolf Hitler (links) mit Albert Speer (rechts), vor 1937; aus: Hitler abseits vom Alltag Bild-Nr. 75 Dating: 1933/1937
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


シュペールは,ヒトラーの友人として,ニュルンベルクのスタジアム,官庁街,パリ万国博覧会ドイツ館などを設計し,ベルリン,リンツ(ヒトラーの故郷)など主要都市を新たな巨大建築物で飾ることを命じられた。

公共事業の拡大によって,労働者の雇用機会を拡充した側面もあるが,実は,アウトバーン建設労働には,ヒトラーユーゲントをはじめ,無償労働の勤労奉仕(Reichsarbeitsdienst) が義務付けられていた。ドイツ復興のためには,優秀なアーリア人は率先して,奉仕すべきであると,祖国愛と総統への忠誠心が試された。

ドイツ国民にアウトバーン建設など無償の勤労奉仕を求めるような「強制サービス」の思想,動員を,敵性人種民族(ユダヤ人,スラブ人),強制収容所囚人(ナチス反対者,政治犯,ユダヤ人,ジプシーなど),捕虜に向けられれば,それは奴隷労働となる。

このような高速道路の整備は,軍隊の機動力を高めることにも配慮されていた。ドイツ国防軍は,トラックからオートバイまで,機械化された歩兵を増強した。装甲師団の主力となる戦車は,道路走行すると,道路を傷めてしまうので,鉄道輸送が主流だった。しかし,歩兵,軽砲兵,輸送部隊は,道路を利用した自動車輸送を重視していた。

写真(右)1934年9月5-10日,ナチ党ニュルンベルク大会:祭壇のようなステージ中央を進むのは,アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler党首,ヴィクトル・ルッツェViktor Lutze突撃隊SA幕僚長, ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler親衛隊SS国家長官。 1933年の国際連盟を脱退していたが,突撃隊SA,親衛隊SSを大動員して,ニュルンベルク・スタジアムで党勢を誇示する盛大な規律ある軍隊式大会を開催した。
現在でもニュルンベルクの新スタジアム近くに,党大会跡地の旧スタジアムが残っている。2006年4月,シンポジウム「ハーケンクロイツのもとでのサッカー」の席上,ドイツサッカー協会テオ・ツバンツィカー会長は「ナチ党はスタジアム建設などサッカーを保護し、多くの選手が協力した」と語った。ユダヤ人選手はすべて排除された。スポーツは,個人の楽しみではなく,強い兵士・多産な母親を作り,国威を発揚する手段となった。
Der Reichsparteitag der N.S.D.A.P. in Nürnberg 1934. Der große Appell der S.A. und S.S. vor dem Führer in der Luitpold Arena in Nürnberg. Blick auf das riesige Feld der S.A. und S.S. während der Heldenehrung. Im Vordergrund der Führer und der Chef des Stabes der S.A. Lutze und Reichführer der S.S. Himmler bei der erhebenden Totenfeier. Ganz im Vordergrund die Blutfahne vom 9. November. Bild 16196. Archive title: Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP "Reichsparteitag der Einheit und Stärke". Appell von SA und SS mit Adolf Hitler, Viktor Lutze, Heinrich Himmler, 5.-10. September 1934 Dating: September 1934
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ポスター(右):1933年,国家社会主義ドイツ労働社党(ナチスNSDA)プロパガンダ・ドキュメンタリー映画「信仰の勝利」Sieg des Glaubens:「信仰の勝利」(Victory of Faith)は,1933年8-9月のナチ党ニュルンベルク大会を題材とした記録映画だが,力強いナチス的精神を充満させる目的をもった視覚的プロパガンダだった。 レニ・リーフェンシュタールがナチスから依頼された第一作だった。
創世記 12:1-3の「あなたは生まれ故郷父の家を離れて,わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし,あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように,あなたを祝福する人をわたしは祝福し,あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて,あなたによって祝福に入る。」レニの映画には,愛を髣髴とさせるものはなく,力強い支配の意図が感じられる。
Publisher: Franz Lück, Berlin刊行。 Editor: レニ・リーフェンシュタールLeni Riefenstahl編集。 ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他引用不許可)。


ナチ党は,国家予算を党経費として潤沢に使用してから,大規模なプロパガンダを展開できた。ユダヤ人の芸術を否定して,代わりの秩序・規律。力を重んじる古典的な芸術をドイツの芸術とするために,国家予算を投入した。

 巨大で威圧的なナチス様式の官庁街をベルリンのヴィルヘルムシュトラーセ(大通り)周辺に建築させた。ニュルンベルクでは,毎年ナチス党大会を開催し,ここに大規模なスタジアムを作らせた。当時45歳だったヒトラー総統は,スタジアムの設計を,アルベルト・シュペーア(28歳)に依頼した。また,芸術・文化も一新しようとして,思想統制とともに,プロパガンダを展開した。

女流監督レニ・リーフェンシュタール(32歳)に,1933年8-9月のナチ党ニュルンベルク大会を題材とした記録映画「信仰の勝利」Victory of Faith)を作らせた。さらに,1934年の第6回ナチ党ニュルンベルク大会の映画を撮影させた。これが,1935年「意志の勝利」Triumph of the Will)である。

ナチスの勝利をうたった映画は,リーフェンシュタールの意図にかかわらず,ナチスが国家予算を投じて作成され,国家的興行によって,「成功」をおさめた。ナチス国家のプロパガンダとして大々的に宣伝されたのである。

写真(右)1936年2月6日,第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季オリンピック大会開会式に参加したアドルフ・ヒトラー総統とルドルフ・ヘス副総統:ベルリンは,1916年のオリンピック開催都市だったが,第一次大戦のために開催は中止された。それから20年後の1936年にドイツ復興を誇示するためにオリンピックが盛大に開催された。冬季オリンピック大会は,1922年のIOC総会で試行開催が決定した。そして,フランスのシャモニー・モンブラン地方「冬季スポーツ大会」が開かれた。1932年の米国レークプラシッド冬季オリンピック大会についで,第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会が1936年2月6-16日間,開かれた。競技技種目数はスピードスケートなど17種目,日本を含む28カ国から選手668人が参加した。
Eröffnung der IV. Winterolympiade. Der Führer, Baillet-Latour, Rudolf Hess Archive title: IV. Olympische Winterspiele 1936 in Garmisch-Partenkirchen.- Eröffnungsfeier mit Adolf Hitler und Rudolf Heß Dating: 6. Februar 1936 Agency: Presse Illustration Hoffmann
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写真(右)1936年8月1日,第11回夏期オリンピック・ベルリン大会に出席するヒトラー総統とオリンピック委員会メンバー:注目を集めるために,古代オリンピックの発祥地であるギリシアのオリンピアで聖火を採火、開会式メインスタジアムに運ぶ「聖火リレー」を初めて実施した。開催地選定にベルリンに敗れたスペイン政府は、ファシズム,ナチスのオリンピックに反対し,ボイコットした。そして,開催立候補していたバルセロナで「人民オリンピック」を開催しようとした。これは1936年7月にスペイン内戦が勃発したために中止となったが,この人民オリンピックに集まっていた選手,報道陣,観光客のなかから,反ファシズムの国際旅団を編成する動きが生まれた。
Scherl: Olympiade 1936 Vor der feierlichen Eröffnung der XI. Olympischen Spiele. Zusammen mit den Mitglieder des Internationalen und Nationalen Olympischen Komitees begibt sich der Führer und Reichskanzler durch das Marathontor in das Stadion. Links von Adolf Hitler [Henry] Graf Baillet-Latour, rechts Exzellenz [Theodor] Lewald. Dating: 1. August 1936
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写真(右)1936年7-8月,ベルリン・オリンピック大会に参加したヒトラーユーゲント:オリンピックスタジアムの式典に,多数のヒトラーユーゲント団員が華やかに参加した。
ナチ党の官製団体ヒトラーユーゲントは,1922年2月25日、ナチ党員師弟,ナチ党に共感する若者を組織した党組織だったが,根地巣政権樹立後は,政府・軍の支援を受ける官製団体となった。1933年7月,政教条約によって,カトリックと和解したヒトラーは,侵攻の自由を認める代わりに,カトリックの青少年団体を残しつつも,その他の青少年団体はヒトラーユーゲントに取り込んだ。1936年12月1日のヒトラーユーゲント法によって,10歳以上の青少年はヒトラーユーゲントに強制加入させられた。
ADN-ZB-Archiv XI. Olympische Sommerspiele 1936 Fahneneinmarsch bei den Jugendvorführungen auf dem Maifeld [Aufnahme: Scherl] Dating: 1936 Juli - August Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
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ベルリン・オリンピックは,1936年8月1-16日に開催され,21競技148種目が実施,参加国49カ国,選手3956人の大会だった。大ドイツの祭典として,聖火リレー,大スタジアムでの壮麗な開会式など優れた演出が取り入れられた。

アメリカオリンピック委員会会長エイブリー・ブランデージ(戦後もオリンピッック組織の大指導者)は,ドイツを訪問して「ドイツで反ユダヤ主義は見られない」と声明を出した。オリンピック期間前後は,反ユダヤ主義(アンチセミニズム)ポスター,宣伝は停止され,公園など公共施設へのユダヤ人立ち入り禁止看板も撤去されていた。

アメリカでは,ユダヤ人迫害を行うドイツでのベルリンオリンピックをボイコットすべきであるとの意見も出された。しかし,アメリカのオリンピック委員たちは,ドイツの反ユダヤ主義は,口先だけのプロパガンダだとみなした。アメリカにも黒人差別,ユダヤ人への偏見,アジア人の移民排除という人種民族差別があった。

人種民族の平等という理念をもって,オリンピックをボイコットすれば,アメリカ国内の人種民族差別にも批判が向けられてしまう。オリンピックボイコットは,アメリカの国内事情から,実行できなかった。

ポスター(右)1937年,歓喜力行団によるイタリア旅行「そして歓喜力行団と共にイタリアへ」:ナチ党の官製団体歓喜力行団(Kraft durch Freude:歓喜を通じた力)が企画した海外旅行のポスターで,ヴェネチア,シシリー島パレルモ,ナポリを巡るクルージング周遊旅行。
Original title: . . . und nun mit Kraft durch Freude nach Italien Dating: 1937 Designer: Götzl, Fritz作画。Occasion: Italienreisen Publisher: Verlag der Deutschen Arbeitsfront, Berlin, Druckort Nürnberg発行。 Editor: NS-Gemeinschaft Kraft durch Freude, Otto Geiger編集。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ドイツのスポーツ選手は,全員が歓喜力行団(Kraft durch Freude:歓喜を通じた力)に加盟を義務付けられた。歓喜力行団は,ロベルト・ライのドイツ労働戦線(Deutsche Arbeiterfront)の下部組織で,スポーツ,旅行,演劇,コンサートなどを管理する政府組織である。

歓喜力行団は余暇を有意義に過ごす「歓喜」を通じて労働の「力」を回復させることを目的として,ナチス政権下で1933年以降政府組織となった。旅行、クルーズなどの保養は,労働に新しい「歓喜力行」を提供したが,これはドイツ民族を一つに統合する手段でもあった。

一つの民族,一つの帝国ができれば,それを一人の総統が指導して,下等劣等人種を排除し,軍備を強化して,東方のソ連・東欧を生存圏とする大ドイツを形成する計画だった。

◆ナチスでは,スポーツ,旅行が交流し,ドイツ国民もそれを歓迎したという識者が多いが,国家予算を投じて,国民に余暇レジャーを与えたのは,健康増進,勤労意欲の維持を通して,ドイツ民族を増やして,軍事力を強化し,ヨーロッパを支配するためだった。ナチ党は,その前段階として,国民の動員,国民のスポーツ余暇の管理をはじめたのである。

(3)領土要求−大ドイツ第三帝国の復活


写真(右):1938年3月、アンシュルスAnschluß(オーストリア併合)を宣言したドイツ国会のアドルフ・ヒトラー総統:"Hitler accepts the ovation of the Reichstag after announcing the `peaceful' acquisition of Austria. It set the stage to annex the Czechoslovakian Sudetenland, largely inhabited by a German- speaking population." Berlin, March 1938. 1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けた。これが,ホスバッハ会議である。ブロンベルクとフリッチュは,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対した。そこで,フレームアップされたスキャンダル事件によって二将軍は,失脚,更迭されてしまう。
1938年2月、ヒトラー総統はオーストリアのシュシュニク首相とベルヒテス・ガーデンで会談し,オーストリア・ナチ党首ザイス・インクワルトを内相に任命するよう強要した。シュシュニク首相は,ドイツ合併を国民投票にかけようとしたが,ドイツは武力攻撃すると脅迫し,1938年3月,インクワルトを首相とし,彼はドイツ軍のオーストリア進駐を要請。ヒトラー総統は,3月10日、ドイツ軍のオーストリア進駐を命じた。3月12日,アンシュルスが宣言された。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。




ヒトラー総統の「偉業」の第三は,偉大なドイツ「グロス・ドイッチュラント」の復興である。ドイツ人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指すヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなした。すなわち,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域である。これらの地域はドイツ人の住む地域であり,ドイツに併合されるべきだと領土要求を行った。

1938年3月13日のオーストリア併合,すなわちAnschluss アンシュルス(union)は,それまで反対していたイタリア,ムッソリーニの理解を得て,武力進駐を行った。

ポスター(右)1938年11月,オーストリア・ナチ党首コンラート・ヘンライン(Konrad Henlein)がドイツのヒトラー総統にオーストリア併合を要求する。ヒトラーは,オーストリアを強奪したり,無理やりドイツが領有したりしたのではなく,あくまでもオーストリア国民による大ドイツ復興の総意に基づいて,オーストリア人が併合を要望し,ヒトラーがそれに応じたとの建前をとった。
オーストリアを併合したヒトラー総統は,ハプスブルク家の皇帝標章をニュルンベルク党大会(第一回ドイツ大会)に持ち込んで,第三帝国の成立を宣言した。ナチス支配下のオーストリアでもユダヤ人迫害が始まった。
Konrad Henlein einte uns! Der Führer befreite uns! Dating: November 1938
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチスのオーストリア人ザイス=インクワルト Arthur Seyss-Inquartを内務大臣に任命させた。

シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりだったが,選挙権を巡る国内内紛がおきた。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐した。

シュシニク首相は亡命し、代わりに首相となった内相ザイス=インクワルトは、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出した。皮肉なことに,オーストリアを亡命することになるシュシュニク(Kurt von Schuschnigg)は,TimeMar. 21, 1938のカバーを飾っている。

「ひとつの民族,ひとつの国家,一人の総統」を主張して,オーストリアをドイツに組み込んだ。オーストリアのブラウナウで生まれ,リンツに育ったアドルフ・ヒトラーにとって,オーストリア併合(Anschluss:union アンシュルス)は悲願だった。併合直後のドイツ国会,オーストリアのヒトラー総統の演説は,ナチスの下での大ドイツ再興を連想させる大演説,プロパガンダだった。
アンシュルス後も,チェコ,ポーランドへ領土要求がなされる。

1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
Ich proklamiere nunmehr für dieses Land seine neue Mission. Sie entspricht dem Gebote, das einst die deutschen Siedler aus allen Gauen des Altreiches hieher berufen hat: Die älteste Ostmark des deutschen Volkes soll von jetzt ab das jüngste Bollwerk der deutschen Nation und damit des Deutschen Reiches sein.
「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国Großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルクOstmark(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」

ドイツへの併合を歓迎したオーストリア人も多かったが,ハリウッド映画The Sound of Music(1965)は,トラップTrapp家を反ナチスの宣伝に使った。

映画「サウンドオブミュージック」では,新婚旅行から帰還したトラップGeorg von Trapp大佐とマリアが、ザルツブルクの自宅に帰ると,ナチスのハーケンクロイツ旗が掲げられていた。大佐は激怒して旗を引きずりおろしたが,海軍大佐の彼にはドイツ海軍から出頭命令がきていた。出頭しないでいると,それまで信頼していたロルフが,突撃隊の制服を着て,「ハイル・ヒトラー」とナチ式敬礼をして,再び出頭命令の電報を渡した。オーストリアのナチ化に危機感を抱いたトラップ家は、ひそかにアルプスを越えて亡命した。

実際,迫害される恐れのあったユダヤ人(資産家も中間層も)には,ウィーンの各国大使館に行列して,入国ビザを給付してもらおうとした者も多かった。しかし,併合当初,一般のオーストリア人への弾圧は,イデオロギーの上,共産主義者,労働組合活動家,以前からの反ナチ活動家などが対象だった。資産家のオーストリア人貴族トラップ家が迫害されるというのは,架空の設定である。

オーストリア一般人でも言論思想の自由は弾圧されたが,貴族の富豪トラップ家は,1938年9月オーストリアを列車で出国し,アルプスを山越えして亡命してはいない。映画では,「自由への弾圧」という局面を過大に取り上げ,人種民族差別・迫害を軽視しているようにも見受けられる。美しい山並みのサウンドオブミュージックの撮影現場スキーリゾートは,(オーストリア貴族が亡命したという架空の)悲劇の場所となっているようだ。

オーストリアを併合したヒトラー総統の国会演説,ニュルンベルク党大会の演説は,ナチスの下での大ドイツ帝国再興を成就したとするプロパガンダだった。これが,「今後千年間、ドイツは二度と革命を経験することはない」との大演説で,ドイツ第三帝国Das Dritte Reich は千年続くと予言した(実際は約10年)。

写真(右)1938年アンシュルス後のウィーン市街で道路清掃させられるユダヤ人:ナチの支配下に入ると,直ぐにユダヤ人への迫害が開始された。当初は,ユダヤ人を捕まえて,道路掃除を強要したり,中傷文を書いた看板を首からぶら下げさせ市外を引き回したりする辱めが行われた。オーストリアでもアンチセミニズムが残っていたから,ユダヤ人に対する迫害に表立った抵抗はなかった。これは,後年のオランダ,ベルギー,フランスとは異なる。戦前から大戦初期のナチスは,ポピュリストとして人気取りをしていたから,世論に敏感であり,市民の表立った反発を買うような行動をいきなり採用することはまずなかった。計画的に段階を踏んで,ユダヤ人に対する差別を強化し,迫害,追放,殺戮へと追いやっていった。洗脳という側面だけでなく,人々の抵抗を受けないように巧妙に段階的にひそかに迫害を強めていった。人権が重視されない国家主義のファシズム体制では,次第に強化される統制の中で,自由な言論は抑えられた。批判的言動は,強制収容所送りになった。
Holocaust Education & Archive Research Team引用。


ニュルンベルク党大会では夜間集会では,シュペーアの演出によって,サーチライトの光の波がはるか上空まで何十本もドイツの天空を照らし出した。ヒトラー総統は,ドイツの栄光を回復するまで軍服を脱がず,総統の地位にとどまると公言したが,実際,1945年に自決するまでその職にあった。

◆ナチスのDas Dritte Reich(ライヒ)を「第三帝国」と訳すのは適切ではないとの見解もある。由緒正しき皇帝・皇族が世襲するのが帝国であれば,党首が大統領・軍総司令を兼ねても「独裁国家」に過ぎず,帝国ではない。しかし,歴史的使命感を妄信するヒトラー総統は,共和国ではなく,神聖ローマ帝国・ハプスブルク王朝、第二帝政を引き継ぐ正統な「第三の帝国」にこだわった。

写真(右)1938年9月6-12日,ナチ党ニュルンベルク大会に参加したヒトラーユーゲントの楽団:ニュルンベルクのスタジアムで,ヒトラーユーゲント帝国指導者バルドゥール・フォン・シーラハの監督下,ヒトラーユーゲント青少年リーダーが,リハーサルする。
10. Reichsparteitag der NSDAP vom 6.-12. September 1938 in Nürnberg UBz: den Reichsleiter Baldur von Schirach, Reichsjugendführer der NSDAP bei der Generalprobe der Hitler-Jugend zum Reichsparteitag im Stadion in Nürnberg. H 0122/501/ 1 N Datierung: September 1938 Fotograf: o.Ang.
写真はBild 183-H0122-0501-001,ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。(他引用不許可)


1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,そのために140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝の王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣をニュルンベルクに運んだ。
これは,「四種のハプスブルク皇帝標章(四種の神器)」は,1848年,二月革命の最中,フランクフルト国民議会で廃止されたものである。神聖ローマ帝国を引き継ぐ皇帝の象徴は,剣、宝珠、笏、王冠であり,それをつけた「双頭の鷲」が,ハプスブルク帝国の国章だった。ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地のニュルンベルクに永遠に留まると誓約した。

フランツ・ヨーゼフ :ハプスブルク帝国「最後」の皇帝 :フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I.:1830年8月18日 -1916年11月21日)は、オーストリア皇帝(在位:1848-1916)・ハンガリー国王を兼ねた。第一次世界大戦の最中、肺炎のためウィーンで86歳で崩御。オーストリア・ハプスブルク帝国が第一次大戦の敗戦で崩壊するのを見ずに済んだ


1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,そのために140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝の王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣が,ニュルンベルクに運び込まれた。

「四種のハプスブルク皇帝標章(四種の神器)」は,1848年,二月革命の最中,フランクフルト国民議会で廃止された。

神聖ローマ帝国を引き継ぐ皇帝の象徴は,剣、宝珠、笏、王冠であり,それをつけた「双頭の鷲」が,ハプスブルク帝国の国章だった。ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地のニュルンベルクに永遠に留まると誓約した。

ヒトラーは,オーストリア併合についで,1938年にドイツ系住民(民族ドイツ人)300万名が居住していたチェコスロバキアズデーテンラントSudetenlandは,ドイツ領に編入されるべきことを主張した。

チェコスロバキアは当然拒否し,ドイツの恫喝に屈せず,動員令でこたえた。チェコスロバキアと同盟関係にあったフランス(1924年),ソ連(1935年)と,ドイツとの間で,第二次世界大戦が勃発する危険が迫っていた。

第一次大戦の惨禍に倦んでいた英ネヴィル・チェンバレン首相,仏ダラディエ首相は,戦争勃発を恐れるあまり,伊ムッソリーニ統領の仲介を受けて,ミュンヘンでチェコスロバキア問題(ズテーテンラント割譲)について,独アドルフ・ヒトラー総統と話し合った。

写真(右)1938年9月29日,ミュンヘン会談のときの,英首相チェンバレン,仏首相ダラディエ,ドイツ総統ヒトラー,イタリア統領ムッソリーニ,イタリア外相(ムッソリーニ娘婿)チアノ:チェコスロバキアの代表を呼ばないまま,ドイツへのステーテンランド割譲を,チェコスロバキアに要請することが決まった。チェコスロバキアは,英仏と同盟関係を結んでいたから,このドイツへの「宥和政策」は裏切りともいえる措置だった。
Zentralbild Das Münchner Abkommen vom 29.9.1938. Das am 29.9.1938 in München zwischen dem britischen Ministerpräsidenten Neville Chamberlain, dem französischen Ministerpräsidenten Edouard Daladier, dem italienischen Staatschef Benito Mussolini und Adolf Hitler geschlossene Abkommen ermächtigte das faschistische Deutschland zur Annexion tschechoslowakischen Gebietes. UBz: von links: Chamberlain, Daladier, Hitler, Mussolini, und der italienische Außenminister Graf Galeazzo Ciano. Im Hintergrund von Ribbentrop und von Weizsäcker. 12 766-38 [Scherl Bilderdienst] Dating: 29. September 1938 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1938年9月のミュンヘン会談では、英仏伊三国の同意を取り付け,列国は,チェコスロバキアの頭越しに,ヒトラーの領土要求が認められた。英仏は,戦争の危険を冒してまで,チェコスロバキアのズテーテンランドを保障するつもりはなかった。

写真(左)1938年9月,チェコスロバキア領ズテーテンラントに武力進駐するドイツ国防軍とヒトラーの法律顧問ウィルヘルム・フリック博士を歓迎するズテーテンラントの民族ドイツ人:1938年3月12日のオーストリア進駐についで,隣国に再び領土要求をした。このときも,他国に住む民族ドイツ人に対する迫害,人権弾圧があるとして強行非難し,自国民として,ドイツに編入すると一方的に宣言した。Sudetenland.- Besuch Wilhelm Frick, stehend in Auto Maybach [SW 42, 1939?] bei Fahrt durch eine Ortschaft, Bevölkerung mit Hitlergruß Depicted people Frick, Wilhelm Dr.: NSDAP, MdR, Reichsinnenminister, 1946 hingerichtet, Deutschland Depicted place Sankt-Joachimsthal, Sudetenland Date 23 September 1938 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 File:Bundesarchiv Bild 121-0016, Sudetenland, Besuch Wilhelm Frick.jpg引用。


1938年10月1日、ドイツがズデーテンラントを併合した。残された地域では,1939年3月15日,スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に,組み入れられた。チェコスロバキアは,ナチスドイツによって,解体されてしまった。

ナチスの領土拡張:オーストリア併合(アンシュルス)・ズテーテン危機・ミュンヘン会談を読む。


6.ヒトラー総統の過激な民族人種思想−テーブルトークに記録された本心

写真(右)1938年10月30日,マクデブルク,ミッテルラント運河の開会式に出席した帝国大臣ルドルフ・ヘス, 党管区指導者(Gauleiter)ヨルダン、帝国運輸大臣ドルプミュラー(Dorpmüller)博士;式典に集まった突撃隊SAを閲兵する。
Feier zur Eröffnung des Mittellandkanales bei Magdeburg an der Schleuse Rothensee, Reichsminister Hess, Gauleiter Jordan, Reichsverkehrsminister Dr. Dorpmüller und links dahinter Reichsminister Seldte schreiten beim Eintreffen die Front der Marine-SA ab. (Ho) 14230-38, 30.10.38 Dating: 30. Oktober 1938 Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年3月9日,ヒトラー総統とヴィルヘルム・カイテル元帥:対フランス戦争大勝利で,ヒトラーは多数の将官を元帥に昇進させる大盤振る舞いをした。1940年7月19日に元帥以上に昇進したのは、陸軍は9人で、ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍総司令官、ヴィルヘルム・カイテル国防軍最高司令部総長、ギュンター・フォン・クルーゲ第4軍司令官、ヴィルヘルム・フォン・レープ C軍集団司令官、フェドア・フォン・ボック B軍集団司令官、ヴィルヘルム・リスト 第12軍司令官、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン 第1軍司令官、ヴァルター・フォン・ライヒェナウ 第6軍司令官、ゲルト・フォン・ルントシュテット 南方軍集団司令官、空軍は4人でヘルマン・ゲーリング空軍総司令官(国家元帥)アルベルト・ケッセルリング第1航空軍司令官、エアハルト・ミルヒ航空省次官、フーゴ・シュペルレ第3航空軍司令官である。 これは,ドイツ国防軍の将軍たちを「飼いならす」ためだった。ズテーテンランドを巡る紛争で,参謀総長ハルダー,陸軍総司令官ベックなど国防軍の将官たちは,対英仏世界大戦に怯えた。ヒトラーを排除するクーデターも計画された。しかし,英仏の宥和政策でクーデターは発動されなかった。その後の第二次大戦で,ドイツが勝ち続けると,反ヒトラーの勢力は霧散してしまった。
Original title: Zentralbild Generalfeldmarschall und Chef des Oberkommandos der Wehrmacht Wilhelm Keitel geb: 22.9.1882 in Helmscherode gest: hingerichtet am 16.10.1946 in Nürnberg UBz: Adolf Hitler gratuliert Wilhelm Keitel zu dessen 40-jährigem Militärdienstjubiläum am 9. März 1941 Dating: 9. März 1941
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラー卓上談話(テーブルトーク)>
ナチ党官房長官のマルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。

ヒトラー卓上談話1941年7月26日:「民衆は思いを集中できるアイドルを求めている。----だが平凡な君主を奉じるくらいなら,共和制のほうがいい。----君主は一度覆されると見向きもされなくなり,二度と復活することはない。」

9月21日:「王朝の望みが国家の普遍の利害と一致しなくなれば,その統治の正当性はもはやない。平安を求め,外国に行過ぎた配慮をするような方針を採用するようになっては,その王朝はおしまいだ。だからそんな(ドイツの)王族を一掃してくれた社会民主主義者に感謝している。----行動を旨とする者は信義に支えられなければならない。そして民衆の中にこそ信義がある。民衆には情けはない,無垢な純真さで突き進むだけだ。指導者があれば民衆にどれほどのことができるかは明白だ。良くも悪くも全ての可能性はここにある。国家社会主義ナチスの責務は,ここに帰す。」
◆第三帝国とは,世襲の王族や貴族など特権階級のいない,民衆に基盤を持つ国家社会主義ナチス帝国のことある。

9月23日:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----トラを人を殺そうと,トラが人を食べようと,地球は回り続ける。強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。----しかし,国家社会主義が礼拝の形をとって宗教の真似事をする決してない。----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」

10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間ない闘争は,自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」
◆ヒトラーは,古いハプスブルク家,ホーエンツォレルン家を貴族主義の時代遅れと認識し,それに換わり,民衆を基盤としたナチス帝国を建国しようした。第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。

11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。」

1941年12月17-18日:「すでに失われ帝国の概念が,われわれにだけではなく,全世界に第三帝国として再び明記された。いまやドイツと言う時,それは第三帝国以外の何者でもない。帝国軍は古い伝統に戻らなければならない。古いというのは,プロイセン,バイエルン,オーストリアの伝統のことだ。」
◆ヒトラー総統の下に統一されたドイツ第三帝国は,弱肉強食の掟に則って,憐憫の情を軽蔑する粗暴な軍隊を作り上げるが,これは,戦争によって,ヨーロッパの覇権を掌握するためである。
(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年 参照)


写真(右)1938年10月28日,ドイツ・ニュルンベルクから追放されるユダヤ人:立派なコートを着ている中間層以上のビジネスマンのようだが,家屋・土地を没収され,着の身着のままで追放される。
ポーランド占領の6年前,1933年のナチス政権獲得直後からドイツ国内でドイツ・ユダヤ人に対する迫害が開始された。ユダヤ人を財産を没収し大金を支払わせて外国追放にしたり,強制収容所に収監したりした。Ausweisung der poln. Juden aus Nürnberg Freitag 28. Okt. 1938 H. Großberger, Nürnberg Bildarchiv Franken Dating: 28. Oktober 1938 Photographer: Großberger, H. 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1938年11月7日、パリでドイツ大使館書記官のエルンスト・ファン・ラート暗殺事件が,17歳のユダヤ人青年により起こされた。11月9日,ミュンヘン一揆記念祝賀において,宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルス Joseph Goebbels 博士(1897-1945)は,反ユダヤではあるが,新興勢力の親衛隊SSに不満を持つ突撃隊 Sturm Abteilungを煽動して,ユダヤ人商店を破壊させた。

ユダヤ人商店のガラスが飛び散った破壊の夜を,「クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜」(Novemberpogrome 1938 )と呼んだ。ナチス党のドイツ政府が人種民族差別を行い,被差別少数派に暴力を振るったのである。

Kristallnacht(クリスタル・ナハト:水晶の夜) は、1938年11月9日夜から10日未明にかけて、ドイツの各地で引き起こされた反ユダヤ人暴動である。ゲッペルス率いる啓蒙宣伝省が煽動し、親衛隊・突撃隊が中心となり、ユダヤ人の商店、シナゴーグ(教会)などを次々と襲撃し、放火した。警察は、暴動や放火がドイツ人住宅・商店に及ばないように警戒したが、暴動を阻止しなかった。周辺のドイツ人住民は、暴動に際して、積極的にかかわったわけではなかったが、暴動を傍観した。

結果として、ユダヤ人への暴力がドイツ国民に許容されたと判断したヒトラー、ナチ党幹部は、その後、大規模なユダヤ人差別、迫害を進めることになった。その意味で、クリルタルナハトは、ホロコースト、ユダヤ人絶滅への大きな転換点と言える。

クリスタルナハトの名称は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにキラキラきらめいていたことから、ナチ党政権が使用した用語であるが、自然発生的なものでなく、仕組まれた暴動であることを強調して、「11月9日のポグロム」と呼ぶようになった。

写真(右)1939年2月,ベルリン,ペルガモ博物館で日本展を訪問したヒトラー総統とゲーリング元帥;後方には,親衛隊国家長官ヒムラー,ブリュックナー主席副官,大統領府長官オットー・マイスナー,ブリュックナー国務大臣,ボーデンシャツ少将,フォン・リンベントロップ外務大臣。
Der Führer bei der Eröffnung der "Japanischen Kunstausstellung" im Deutschen Museum. Der Führer verabschiedet sich nach der Eröffnung der Ausstellung vor der zum Pergamon Museum führenden Brücke von Gen.Feldmarschall Göring. In der Umgebung des Führers sehen wir Reichsfüher der SS Himmler, Chef-Adjudant Brückner, Staatsminister Dr. Meissner, Staatssekretär Körner, Gen.Major Bodenschatz und der Reichsminister v. Ribbentrop und Rust. Phot. Ho. 28.2.39 2749-39 Dating: Februar 1939 Photographer: Ho[ffmann?]撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

写真(右):1940年,啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)博士(1897年10月29日-ベルリンで1945年5月1日自殺):ヨーゼフゲッベルスは,ファシスト政治家で大規模な戦争犯罪を煽動した。プロパガンダの先達者の文学博士として,1933年に帝国啓蒙宣伝大臣に,1944年に"帝国総力戦全権"に就任。
Joseph Goebbels, faschistischer Politiker und Hauptkriegsverbrecher, geb. 29.10.1897 in Rheydt, gest.(Selbstmord) 1.5.1945 in Berlin, u.a. Propagandaleiter der NSDAP, Reichspropagandaminister (seit 1933) und "Reichsbevollmächtigter für den totalen Kriegseinsatz" (seit 1944). [Aufnahme 1940] Archivtitel: Joseph Goebbels, sitzend Datierung: 1940 Fotograf: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


TO ALL REGIONAL AND SUB-REGIONAL GESTAPO OFFICES sent at 1:20AM, November 8, 1938,SUBJECT: MEASURES AGAINST THE JEWS THIS NIGHT :1938年11月8日ハイトリッヒReinhard Heydrichからからゲシュタポ長官ヘルマン・ゲーリング宛ての水晶の夜に関する報告書

That only such measures were to be taken that would not endanger German lives or property (e.g. the burning of synagogues was only to be carried out if there was no danger of fire spreading to the surrounding district). Businesses and residences of Jews may be damaged but not looted. Particular care is to be paid in business sections and surrounding streets. Non-Jewish businesses are to be protected from damage under all circumstances. Police are to seize all archives from synagogues and offices of community organizations, this refers to material of historical significance. Archives are to be handed over to the SS. (Because the synagogues were to be burned to the ground, the Nazis wanted the records of the Jews.) As soon as possible, officials are to arrest as many Jews especially wealthy ones - in all districts as can be accommodated in existing cells. For the time being, only healthy male Jews of not too advanced age are to be arrested.

 ユダヤ教会(シナゴーグ)の破壊は周辺のドイツ人財産に被害を与えない範囲・手段にとどめるべきである。ユダヤ人のビジネスと居住には,大きな損害を与えることができるが,根絶やしにすることはできない。街頭での破壊行為には周到な配慮が不可欠である。非ユダヤ人のビジネスは周囲の混乱から保護すべきである。シナゴーグとユダヤ人コミュニティの歴史的価値ある資料を収集すべきで,それを親衛隊SSに提供すべきである。シナゴーグは崩れ去り,ナチスとしては,ユダヤ人の記録を収集管理することが望ましい。送球に多数のできるだけ裕福なユダヤ人を逮捕すべきである。年配者ではなく,若くて健康なユダヤ人男性を捕まえること。

写真(右)1936-1944年,ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所の囚人;胸に着けた三角形の標識は,犯罪者の罪状を色分けしたもの。黒:知的障害者・ルンペン・ロマ(ジプシー)・売春婦,緑:刑事犯,ピンク:同性愛者,紫:エホバの証人,赤:政治犯・共産主義者。また,女性向け強制収容所としては,レーベンスブリュック強制収容所があった。
Zentralbild 20.12.1960 Zur Einweihung der Mahn- und Gedenkstätte Sachsenhausen am 23. April 1961. - Vor den Toren Berlins, auf dem Gelände des ehemaligen faschistischen Konzentrationslagers Sachsenhausen bei Oranienburg, in das von 1936 bis Kriegsende 200.000 Menschen verschleppt wurden, entsteht - wie in Buchenwald und Ravensbrück - eine würdige Mahn- und Gedenkstätte. Jeder Quadratmeter Boden ist hier vom Blut der 100.000 Toten durchtränkt, die im KZ Sachsenhausen mit seinen 73 aussenkommandos erschlagen, erhängt, erschossen, zu Tode geprügelt, durch erbarmunslose Sklavenarbeit zu Grunde gerichtet und vergast wurden. Doch gelang es den SS-Mördern nicht, den Widerstandswillen der politischen Häftlinge zu brechen. So wurde Sachsenhausen auch zur Stätte der großen internationalen Solidarität und des mutigen Kampfes gegen Faschismus und Krieg. UBz: Häftlinge während eines Zählappells Dating: 1936/1944 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・File:Bundesarchiv Bild 183-78612-0007, KZ Sachsenhausen, Häftlinge bei Zählappel.jpg引用。

◆ドイツ人を人種汚染し,ドイツに敵対するユダヤ人のなかで,特に,資産家,若者が危険であるというのが親衛隊保安部長官ラインハルト・ハイドリヒの認識である。ゲシュタポ長官だったプロイセン内務大臣へルマン・ゲーリングは,資本家との付き合いも多く,ユダヤ人の商店破壊が,ドイツ人にも被害を与えることを心配していた。特に,火事延焼だけではなく,資本家,資産家に対する貧困者・突撃隊員の反感には,気を配っていたのである。貧困者の反感は,ドイツの資本家ではなく,悪賢いユダヤ人資産家に向けようとした。ドイツの労働者・貧困者の不満をそらすためために,ユダヤ人をスケープゴート(生け贄)としたのである。

7.アンチセミティズムからホロコーストへ

ユダヤ人は狡賢い,貪欲な資本家だ,共産主義者で暴力革命を起こそうとしている,という反ユダヤの人種民族的偏見,アンチ・セミティズムAnti-Semitismが,プロパガンダで広められた。

アンチ・セミティズムとは、反セム人主義で、ユダヤ人、ヘブライ人、アラブ人、シリア人など中東の人々をさすが、特に反ユダヤ主義を指す語句として使われる。

アンネの父資産家のオットー・フランクOtto Heinrich Frank(1889-1980)も,1933年,ドイツのユダヤ人迫害を前に,アムステルダムで新たに事業を展開することを決めた。フランクフルト・アムマインから,オランダ国境近くのアーヘンに移り,1933-34年にオランダに亡命・移住した。

親衛隊SSヒムラー長官は、1933年,ナチス政権の警察を支配し,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク,ダッハウに設置,親衛隊髑髏部隊に管理させた。これは,反ナチス的な人物を全て収容する「保護拘禁施設」だった。

1933年のナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)政権獲得直後に開設されたダッハウ強制収容所は,反ナチス的な人物を保護拘禁し,矯正する施設とされた。実際は,反ナチスを弾圧する方針を見せ付ける恐怖による威嚇,テロである。このダッハウ強制収容所「司令官」が,テオドール・アイケで,彼は強制収容所の看守警備部隊として,親衛隊SS髑髏部隊を編成し,その最高指揮官となった。

ダッハウ収容所は,当初は,政治犯を中心に収容したが,後に,ユダヤ人,同性愛者,聖書研究会のキリスト者も収監された。ダッハウ収容所は,レーゲンスブルクなど他のドイツの収容所と同じく,ガス室を備え大量殺戮を行う絶滅収容所ではない。しかし,囚人は,食糧不足,不衛生な環境,虐待,奴隷労働,処刑によって,多数が死亡している。トレブリンカ,ゾビブル,アウシュビッツのようなユダヤ人絶滅収容所は,ダッハウ収容所の運営経験を踏まえ,1941年以降,ポーランドに設置された。

強制収容所KZでの囚人の取り扱い,拷問,懲罰などの経験が,大戦中のユダヤ人やソ連軍捕虜を収容,管理する方法のモデルになった。ユダヤ人を虐殺する以前,反ナチスの人物は,ドイツ人であろうとも虐待された。下等劣等民族であれば,殺害するとの方針は,既にナチス政権掌握直後の強制収容所で芽生えていた。

1939年1月30日の国会演説で、ヒトラーは、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅であることを予言した。

◆ヒトラー総統の偉業は,適材適所,大規模な財政資金投入,勤労動員などによっている。ユダヤ人への人種民族差別を軽視した歴史家は,「偉業」としている。しかし,究極の目標は,ドイツ人に豊かな生活をさせることではない。

◆『わが闘争』や国会演説でも,明言しているとおり,ドイツ人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくる共産主義者あるいは国際金融資本家のユダヤ人のヨーロッパ排除である。したがって,もしヒトラー総統が,戦争を起こさなかったなら,ドイツ人から高い評価を得たはずだという議論は,成り立たない。ユダヤ人が仕掛けてくるであろう戦争に準備し,機会あれば,ユダヤ人が戦争を仕掛ける前に,対ユダヤ人戦争を始めるつもりだった。ドイツを再興し,軍備を整え,ドイツ経済を復活したのは,戦争の準備のためである。ドイツのヨーロッパ支配,東方ソ連を占領し,生存圏(支配地)に組み込むためである。一つの大ドイツとは,ドイツ人を民族ドイツ人の住む領域と一つにまとめ,一人の総統の下に統一することである。

ポスター(右)1938-1939年,「一つの民族,一つの帝国,一人の総統」を実現したヒトラー総統を讃えるプロパガンダ:ラインラント進駐,オーストリア併合,ズテーテンランド割譲と領土要求を次々と呑ませて,大ドイツ帝国を復興しようとした。しかし,その方法は軍事力に訴える恫喝であり,ドイツ国民を扇動し,反対派を容赦なく弾圧,強制収容に収監した。非民主的な独裁国家,警察国家だった。
Ein Volk, ein Reich, ein Führer! Dating: 1938/1939
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


◆ヒトラー総統は,一つの民族,一つのドイツ,一つの総統を理念とし,ドイツを復興させた。東方ソ連という生存圏を獲得し,ドイツ人を人種汚染し,共産主義と金融資本家・政治家を操ってソ連・米英を煽動し戦争を仕掛けてくるユダヤ人を排除する戦いも必要である。したがって,ヒトラーの国内経済政策を偉業としたり,ヒトラーが第二次大戦を起こさなかったら,今日でも高く評価された政治家になったという仮定は,完全に否定される。
 ヒトラーは,支配するヨーロッパからユダヤ人,知的障害者,ロマ(ジプシー)を排除・絶滅するという過激な人種民族差別を実行した。ヒトラーは,人権無視の人種民族差別を行っており,ドイツ復興にだけ注目して,業績を高く評価することはできない。


1939年3月,チェコスロヴァキアに進駐したドイツ軍に、英国は危機感を強め、4月にポーランドと相互援助条約を締結した。9月1日、ドイツ軍は,ポーランドでドイツ系民族が虐待されている,ポーランド軍が越境攻撃してきたとして,ポーランドに侵攻した。

1939年9月3日,ネヴィル・チェンバレン英首相(1869-1940)は、フランスとともに対独宣戦布告した。ヒトラーは,英仏がポーランドを見捨てる可能性に期待していたが,英仏相手の戦争を戦う覚悟は決めていた。ヒトラーは、自分が50歳とまだ体力があり,ドイツ国民に戦争決意をさせるだけの信頼・権威があるうちに,世界戦争を始めることが,自らの使命であり、神の摂理に則っていると確信していた。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。



ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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