鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
◆特攻兵器「回天」「桜花」「震洋」 2005
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特殊奇襲兵器;人間魚雷「回天」から人間爆弾・特攻艇まで

写真(上左):人間魚雷「回天」2型/4型の混合型(?)
;1974年10月、アメリカ、ワシントン海軍工廠で野外展示されていた時期に撮影。「回天」は伊号潜水艦の甲板に搭載され、発進後、敵艦船に体当たり自爆する特攻兵器。回天1型1944年以降,約400基が製造され,約100基が特攻作戦suicide missionsに使用された。航続距離は78km/10 knots,43km/20 knots,23km/30 knots。しかし、回天2型以降は、試作途上で訓練にも使用されていない。回天2型と4型は、動力をドイツ海軍ワルター潜水艦と同様の、過酸化水素、水化ヒドラジンを混合燃焼させるワルター機関に変換し、最高速力40ノットを目指した。しかし、ワルター機関の開発に必要な技術が伴わなかった。日本敗戦後、アメリカ軍は試作された「回天」2型・4型を鹵獲し、本国に持ち帰った。これらの回天は、小灘利春大尉によると、「胴体を構成する部分の数が一つ多い。 接合部が余計にあるので外見上は四型である」という。在米の回天には型式に疑間があり、その解明のために、7名の元「回天」搭乗員が、2001年8月、現地調査を行った。
Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo On display in East Willard Park, Washington Navy Yard, Washington, D.C., in October 1974. This example is 54 1/2 feet long and 4 1/2 feet in diameter. It was built in 1945. 写真はNaval History and Heritage Command Photo #: NH 81490引用。
写真(上右):人間爆弾「桜花」;米陸軍航空隊第9爆撃軍団のB-29搭乗員が,沖縄の基地に不時着したとき撮影。9th Bomb Group Photo引用。

写真(右):人間魚雷「回天」に撃沈されたアメリカ海軍の給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59);1944年11月20日,米軍のウルシー泊地(ウルシー環礁)に停泊中、「回天」に襲撃され撃沈。排水量 2万5,425トン、全長 553 ft (169.0 m) 、全幅 75 ft (23 m) 、吃水 32 ft (9.8 m) 、機関 蒸気タービン2軸2基 3万馬力、最高速度 18.0 ノット(33 km/h)、乗員 士官21名、兵員278名。 US Naval Historical Center 引用。


◆2017年8月13日〜16日の四日間で1992名、8月22日〜23日の二日間で886名の新規アクセスがあった。
◆2015年3月29日「回天で散った命弔う 慰霊式に松前の元潜水艦乗組員出席」のニュースを受けて1077名の新規アクセスがあった。
◆2013年8月13日〜17日の四日間で2947名の新規アクセスがあった。
◆2011年8月13日、ヤフーニュースに当研究室が取り上げられた。その1日だけで4万7925人のアクセスがあり、戦後66年たっても特攻への関心が衰えていないことに感銘を受けた。
「もう、お前たちの乗る飛行機はない」。大空にあこがれて日本海軍に入った少年飛行兵に、上官は告げた。十代の少年たちを待っていたのは、小型モーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」だった。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦と戦争・平和の話を伺った。

1.日中戦争以来、日本軍のアジアへの侵略行為、残虐行為が連合軍に流布され、日本人への反感が高まっていた。しかし、ジャングル戦などでの日本兵の攻撃精神の旺盛さは、連合軍兵士を悩ませ、恐怖心や劣等感も起こさせた。士気の阻喪を懸念した司令官の中には、「よいジャップは、死んだジャップだけだ」として、日本兵の殺害を推奨するものもいた。連合軍には、日本の侵略行為・残虐行為に日本人への人種的偏見が加わって、対日戦争における欧米流の騎士道精神は期待できなかった。連合国側から見れば、日本軍の特攻作戦は、現在の自爆テロと同じく、狂信的な愚かで卑劣な行為として認識されていた。

真珠湾攻撃を受けた責任を取らされるかたちで太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルHusband Edward Kimmel:1882-1968)提督は罷免された。キンメルの代わりに,1941年12月16日,新たな太平洋艦隊司令長官としてチェスター・ウィリアム・ニミッツChester William Nimitz:1985-1966)提督(大将に相当)が任命された。高速空母部隊の主力となり任務部隊も第3艦隊に配備された。第3艦隊司令官は ウィリアム・ハルゼーWilliam "Bull" Halsey)提督であり,太平洋艦隊司令長官ニミッツは彼を指揮する上官の立場にある。

写真(右):1944年12月、フィリピン攻略作戦時、アメリカ第三艦隊旗艦アイオワ級戦艦「ニュージャージー」(USS New Jersey:BB-62)のブリッジのウィリアム・ハルゼー(William Halsey)提督;"Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' His 'bloodthirstiness' was not just a put-on to gain headlines.
ウィリアム・ハルゼー提督Admiral William F. "Bull" Halsey)の階級;February 2, 1906海軍少尉、February 2, 1909海軍中尉、February 2, 1909海軍大尉、August 29, 1916海軍少佐、February 1, 1918海軍中佐、February 10, 1927、海軍大佐、March 1, 1938海軍少将、June 13, 1940海軍中将、November 18, 1942海軍大将、December 11, 1945海軍元帥。提督は海軍元帥に相当するが、少将以上であれば陸軍で将軍と見做すのと同様、海軍は提督と呼称することもある。
Title: Admiral William F. Halsey, USN Description: Commander, Third Fleet On the bridge of his flagship, USS New Jersey (BB-62), while en route to carry out raids on the Philippines, December 1944. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-471108 引用。


 1960年に第35代アメリカ大統領に就任することになるジョン・F・ケネディJohn F. Kennedy)海軍中尉は、1943年当時、哨戒魚雷艇Patrol Torpedo boat)PT-109指揮官としての1カ月以上の任務を終えて,ソロモン群島ツラギ島に帰還した。その時、ウィリアム・ハルゼー提督Admiral William F. "Bull" Halsey)が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。そこには次のように書かれていた。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い卑怯な野獣を殺せ。」

KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT 109 - The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

ウィリアム・ハルゼーWilliam "Bull" Halsey)提督は過酷な戦場では,敵国日本人が肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定する必要性を感じた。そこで,「'Kill Japs ジャップ(日本人ども)を殺せ」Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.'のスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として人種的に侮辱し,戦意を高めた。

勇猛果敢な戦闘精神の権化ともいえるウィリアム・ハルゼーWilliam "Bull" Halsey)提督は,特攻をジャップの自爆テロとして憎悪し,日本人狩り(Japanese-hater)を辞さない敵愾心を喚起して,米兵の戦闘意欲,士気の向上に結び付けようとした。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

「米軍兵士はカミカゼ特攻隊を恐れ,畏敬の念を抱いていた」とする日本人識者は多い。しかし,当時のアメリカ兵士は、日本兵もカミカゼもテロリストと同じく憎まれ、戦利品として,戦死した特攻隊員の遺体を皿に載せ,ジャップ・ステーキとして嘲笑したり,遺骨・特攻機の破片や残骸を戦利品として持ち帰ったりしていた。現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される「美談」が報じられる。このような戦利品(spoil of war)、戦争記念品として母国に持ち帰られた一因には、日本兵への敵意や憎しみがあった。現在、「自爆テロリスト」を,愛国心のある立派な戦士とする日本人はまれである。米兵が特攻隊の死体を艦艇上で見つけ,海葬にしてたのは例外である。

冷静な研究者や軍人は別にして,カミカゼに直面した大半の米兵は,戦友や自らの命を奪うカミカゼは「自爆テロ」であり,憎悪,嫌悪の対象である。

特攻隊員たちは,米兵はカミカゼを憎悪,嫌悪していると判断していた。終戦後,特攻隊員は直ちに解散,復員した。進駐してきた米軍将兵に,尋問され,処罰・処刑されるのを避けるためであろう。

特攻隊員たちに,個々の米国人への敵愾心はなかったかもしれないが、日本に侵攻してきて、家族に危害を加える米軍,敵艦隊の撃滅を願う敵愾心があった。特攻作戦は、祖国愛、家族愛に燃えた有意な兵士による自発的な意志,志願に負う部分もあると思われる。

人が命を捧げること,祖国や家族を守るための破壊行為の善悪,それを行う個人の意思を判断するのは容易なことではない。

レイテ戦の神風特攻隊:特攻第一号と特攻の生みの親の神話。

回天 2.1944年10月20日,米軍はフィリピン攻略作戦を開始した。このときに,日本軍の航空機による特攻作戦がはじめて展開された。しかし,1944年3月には、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し,1944年7月21日,大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図した。
人間魚雷「回天」は,「㊅金物」(マルロクカナモノ)との秘匿名称で1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出された。
陸軍の突撃艇(マルレ艇)は,1944年6月15日に設計を開始し,7月11日に試験演習を隅田川で行った。
1944年8月16日には海軍航空本部が「マルダイ部品」の秘匿名称で、人間爆弾「桜花」を改正試作するように航空技術廠に下令した。このように1944年3月以降,日本軍は,特攻兵器を開発し,特攻作戦を組織的に計画,準備した。

 個人的な行動としての自爆は,帰還不能に陥った航空機による自爆としてしばしば見られた。ミッドウェー海戦でも,日本海軍攻撃隊の友永機が燃料漏れのまま出動した。珊瑚海海戦では,索敵機が,燃料不足を承知で敵空母まで日本の攻撃隊を誘導した。インド洋のアンダマン海ではニコバル島近海で,日本陸軍戦闘機一式戦が体当たり攻撃をし,ニューギニア北西のビアク島でも二式複戦が被弾したためか,敵艦に体当たり自爆した。

 「十死零生」の体当たり自爆攻撃という特攻を軍が立案し,作戦として用いたのは,1944年10月20日以降のレイテ湾の戦い(レイテ島攻防戦)からといわれる。日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が編成され,連合軍艦艇に自爆体当たり攻撃を実施した。特攻第一号は,敷島隊関行男大尉(死後中佐に昇進)とされた。

 しかし,特攻第一号と公認された海軍兵学校出身関行男大尉(死後中佐に昇進)の戦死する半年以上前,1944年3月に人間魚雷「回天」の試作が,「㊅金物」(マルロクカナモノ)として命じられている。「回天」は,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kgの特攻自爆兵器である。

2006年9月16日映画「出口のない海」(監督:佐々部清)が封切られたが,ここでも神風特攻隊の出撃の遥か以前に人間魚雷「回天」が開発,整備され,その搭乗員が募集されていることがわかる。「回天」を操縦する特攻隊員にとって,「出口のない海」は日本海軍の軍令部と連合艦隊が準備した特攻作戦そのものであり,その中に個人の思いは封じ込められてしまう。軍という組織にあって,特攻隊員が志願したとしても,航空機や特攻兵器を消耗品として使用する自由裁量が,与えられるはずがない。

1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定している。「マルロクカナモノ」のような秘匿名称がつけられ,事実上の特攻兵器を試作を命じた。
特殊奇襲兵器: 「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」 
㊀金物 潜航艇 ⇒特殊潜航艇」「甲標的」「甲標的丁型蛟龍」として量産、蛟龍の実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)⇒小型特殊潜水艇「海龍」として試作・量産,実戦参加なし
㊃金物 船外機付き衝撃艇 ⇒水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 ⇒人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器

写真(右):靖国神社「遊就館」に展示されている人間魚雷「回天」一型:本体は、アメリカ軍が鹵獲し、ハワイで保管していたものを日本に返還した。頭部は炸薬を充填する実用頭部ではなく、訓練用の駆水頭部。再使用するためにフックが付いている。尾部や内部装置は当初からかけていたが復元されている。
1961年4月より靖国会館2階を改修して「靖国神社宝物遺品館」とし、宝物遺品の陳列展示を再開。この時期は、建物の中に簡単な柵をつくり展示していた。雨に当たる野ざらしで、野砲、高射砲、戦車を展示していた。当時、訪問者は少なく、ここで訪問者に遭った記憶はない。

写真(右):靖国神社「遊就館」に展示されている人間魚雷「回天」一型の先端に吊り下げ用フックのある訓練用頭部:アメリカ軍が鹵獲し、ハワイで保管していた回天1型で、日本に返還されたもの。訓練用の駆水頭部は、訓練の時に重量のバランスと安全を考慮して、炸薬の代わ水を搭載した。フックは、再使用するために頭部を返還するもの。頭部には、実戦では、炸薬を充填した実用頭部1.5トンが装着される。
1961年4月より靖国会館2階を改修して「靖国神社宝物遺品館」とし、兵器、手紙など戦争関連の展示をしている。1986年、40年ぶりに旧遊就館が再開した。

写真(右):靖国神社「遊就館」に展示されている人間魚雷「回天」一型後部の縦舵・推進器(スクリュー):魚雷のスクリューは、2個あり、右回転と左回転の二重反転として、トクルを打ち消し安定走行を図っている。「回天」の尾部や内部装置は返還当初から欠落していたので、現在の尾部は、日本で復元したもの。艦船のスクリューは、サンドダイキャスト(鋳型)で作る場合、融点が低く溶けやすく、鋳込んだ後に切削、研磨しやすいように、アルミニウムと銅の合金が普及していた。これは、鋼よりも海水の腐蝕に強く、長期使用する上で耐久性があり、フジツボなど付着物もイオンの関係で付きにくい。他方、魚雷のスクリューは、鋼を材料として鍛造し、研磨したものを使用する。これは、一回限りの使い捨て兵器に、真鍮や銅合金のスクリューでは、高価で経費が掛かりすぎるからであろう。スクリューの形状も、魚雷ではブレードが直線的で、羽子板のようになっており、艦船のように、先端の尖った曲線状ではない。
1961年4月より靖国会館2階を改修して趣のあった「靖国神社宝物遺品館」は、2002年7月13日、全面改装され、展示手法・展示内容も一新された。映像ホールも新設され、ガラス張りの大展示室には、零戦、野砲、蒸気機関車などが収納された。

写真(右):靖国神社「遊就館」に展示されている人間魚雷「回天」の司令塔と潜望鏡:重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており,騒音を発し,操縦性も悪い日本の大型潜水艦が,米軍艦船を襲撃するのは,自殺行為だった。「回天」の技術的故障,三次元操縦の困難さも相まって,戦果は艦船2隻撃沈と少ない。

回天帰る」(昭和54年10月 小灘利春:元八丈島第二回天隊隊長 海軍大尉・海軍兵学校72期)に次の記事がある。

「ハワイの米国陸軍博物館から靖国神社へ一通の手紙が届いた。「パナマに潜入した回天を保管している。攻撃を受けたためか尾部は無くなっているが、それ以外は外形は完全である。若し希望するなら永久貸与してもよい」とあった。 靖国神社からわれわわに相談があったが、回天かパナマを攻撃した事実は無いし、その時期も昭和十六年開戦当時とある。おまけに寸法もかなり違っている。果して回天なのかどうか極めて疑わしい。そこで経歴、要目、写真など明細の通知を求めたところ、送られて来た写真は回天には違いないが明らかに大型の四型であった。『実戦に使われなかった四型なんか値打がないし断わってしまえ』と、強い反対意見を吐く人がいたが、小生等が押切って引取り交渉をすることにし、更に詳報を求めると同時に、高知県浦戸、須崎に展開していた第二三突撃隊の掌整備長寺尾多助氏が幸運にもホノルル郊外でアンスリウム栽培に従事中であることか判ったので、調査を依縮した。手違いかどうか、なかなか見せて貰えなかったが、ねばってようやく七月に辿りついたところ、尾部や内部装置は無いが倉庫の奥に埃をかふって横たわる流線型の頭部と胴体はまぎれもない回天一型であった。発端となった博物館長ウォーレン・セスラー氏からの手紙は、米国陸軍の用箋に意外にも日本文で書かれていた。水中特攻兵器である回天を、なんと陸軍が抱えこんでおり、それをオアフ島東端の人気のない倉庫の奥深く展示されることもなく眠っていて、不用品として廃棄される寸前であったという。これに目にとめて日本文の手紙を書いてくれたのは、セスラー館長の日本人妻ミチヨさんであった。この人がいなければ、恐らくは誰にも気付かれず、一片の鉄塊として空しくスクラッフになっていたであろう。(引用終わり)」

 1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウルの戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,1943年6月に大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。その後,大西中将は軍需省に転任したが、彼も航空機材の生産・整備,搭乗員の要請・補充は困難な状況にあることを身をもって悟った。

大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の1944年7月11日には,次の記述がある(保坂正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.167-168引用)
「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施,
自重1屯(?),自動機関ヲ利用,速力20節,兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩(?))航続時間五時間
右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(「サイパン」上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ,
速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ,今後ハ斯カル着想ノ下ニ,此種兵器を大量整備スルヲ要ス」 

軍による特攻作戦の計画は、1944年6月,マリアナ沖海戦での日本海軍空母機動部隊の壊滅が契機になった。サイパン戦で敗北した日本陸海軍は,米軍の航空機,空母任務部隊の威力を思い知り,正攻法で対抗することは不可能と悟った。そこで,1944年7月21日大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,特攻作戦を準備した。

海軍軍令部は,陸軍参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。

日本海軍の統帥部は,軍令部である。「海軍軍令部」は,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。作戦について天皇を輔弼する機関であり、陸軍の参謀本部に相当する。長たる海軍の軍令部総長は,陸軍の参謀総長と対等の立場で,大元帥の天皇に直隷する。

大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。軍令部総長は海軍に対して作戦に関する指揮・指示をする。陸軍では、「指揮・指示」といわず「区処」という。大海指第431号は,海軍軍令部の出した指示で,そこに特攻作戦採用が明示された。軍隊では、命令により部隊が編成され,隊名・隊長が任命される。特攻志願者が、「自発的に」軍の管理する航空機、爆弾、燃料を使用することはできない。

1944年10月5日、第一航空艦隊司令長官に海軍兵学校第40期生大西瀧治郎中将が任命された。
 第一航空艦隊司令官大西瀧治郎海軍中将は海軍航空本部総務部長など,海軍航空隊の戦術・訓練・技術に関する要職を歴任していた。1937年の上海事変では,南京空襲など中国への戦略爆撃・渡洋爆撃も実施した。

第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が、フィリピン戦の直前に特攻隊の編成を決心し、特攻隊の生みの親となった、との説が,流布されている。しかし、特攻隊の初出撃(1944/10/20)の2週間前に着任した司令官が、軍令部や連合艦隊の許可を得ることなく特攻隊を編成、出撃させることが、許されるのか。前線の兵士が,貴重な兵器である航空機を使って,自発的に体当たり自爆する作戦を、大元帥昭和天皇、日本海軍上層部(大本営海軍部[軍令部]や最高司令官)が認めるのか。

3.フィリピン戦線を指導した第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が,「特攻の生みの親」であるという俗説は,日本の大本営海軍部(軍令部)の特攻隊編成と特攻作戦の組織的実施を隠蔽するかのごときである。1944年7月21日,大本営海軍部の大海指第431号では,既に特攻作戦が計画されている。大海機密第261917番電は,大西瀧治郎中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文では「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」としている。つまり,軍上層部は,大西瀧治郎中将の第一航空艦隊司令官赴任の3ヶ月前から神風特別攻撃隊の作戦を進めていた。

 海軍の初の組織的な特攻攻撃は,「神風特別攻撃隊」として,国学者本居宣長(1730-1801) の歌から,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(23才)を特攻隊指揮官に任命した。フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,大西瀧治郎海軍中将で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられた。

海軍中将大西瀧治郎長官は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大きな戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを真の目的にしていたと言われる。

しかし大西中将は,神風特攻隊を発案したわけでもないし,特攻を時間をかけて編成,準備したわけでもない。

特攻機が出撃したのは,フィリピンのルソン島の航空基地からで,1944年10月20日,21日と連日のように出撃し,見送りが盛大に行われた。しかし,連日の出撃にもかかわらず,敵艦隊を発見できずに引き返していた。日本側の資料では,250キロ爆弾を搭載したゼロ戦特攻隊は10月25日に初めて,明確な戦果をあげ,関行男大尉が特攻第一号として公認され,敷島隊の五名だけが全軍布告された。それ以前に未帰還だった特攻隊員は,黙殺され,特攻(第一号)の認定は受けることができなかった。

写真(右):旧遊就館に展示されていたアメリカから返還された人間魚雷「回天」一型;回天は1型以外、試作も完成しておらず、訓練にも実戦にも使用されておらず、隊員も「一型」とは呼ばなかったので、回天「一型」の名称は、あくまで形式に過ぎない。
1931年(昭和6年)に竣工した旧遊就館は、翌月26日に開館記念式典が開催。太平洋戦争中、1945年5月、B-29爆撃機により損傷した。敗戦後、遊就館令が廃止され、機能を停止したというが、軍国主義的であると処罰されることを恐れ、戦利品・兵器などの展示公開を取りやめた。遊就館の建物は、1980年まで、富国生命保険の本社事務所として貸し出している。遊就館の所蔵品は、1961年から「靖国神社宝物遺品館」で陳列展示されている。当時の保守政治家は、世論の反感や選挙落選を恐れて、遊就館の再開の動きに冷淡だった。野砲・高射砲は雨の当たる野外展示で、戦車第九連隊の戦車兵生き残りがサイパン島から1975年に持ち帰った陸軍九七式中戦車も野ざらしだった。室内の小さなガラス展示ケースには、当時の写真や新聞記事があり、説明書きは簡略だった。ただし、訪問者もなく静かに時間を過ごすことができた。この時期、現在、保守愛国を気取る政治家も現役だったはずだが、彼らは英霊の顕彰にも日本人が命がけの戦いに使った兵器にも関心を示していない。兵士の思いの詰まった兵器を保管して次世代に残すというう発想を持っていなかった。選挙の票に結びつかないことは、ポピュリスト似非政治家にはどうでもよかった。選挙戦に有利になったと判断して、「日本人の戦いを顕彰する」と言い出した。旧遊就館が再開し、艦上爆撃機「彗星」、九七式中戦車なども室内展示されたのは、1986年以降だった。アメリカから返還された「回天」もここに展示された。2002年(平成14年)、旧遊就館は廃棄され、新しい遊就館ができた。今思うと、柵をして接触できない距離に隔離し、撮影禁止を命じ、豪華な解説板を並べる管理展示よりも、触れたり、写真を撮ったりできる自己責任の自由展示、手書きの丁寧な説明書きに優れた点があったと感じる。

大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

1.各種作戦
?基地航空部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
?空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
?潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
?奇襲作戦に努める。敵艦隊を前進根拠地において奇襲する。
?潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
?局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。

特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領)

以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という、250キロ爆弾を抱いたゼロ戦大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。また,統帥権を侵犯する特攻はありえないので,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということもない。(特攻計画は報告されている)

軍の統帥権を持つ大元帥昭和天皇に,特攻作戦を知らせないままに済ましていたのであれば,天皇の赤子である有意な兵士を勝手にしに至らしめ,天皇の軍隊を私兵として勝手に(自主的に)運用したという軍法違反(専権罪・叛乱罪)を犯したことになり,大本営に関与した(専権罪・軍令部総長,参謀総長,その下にある部員は,処罰されるべきである。

やむにやまれず特攻を採用したというのであれば,敗戦の後になって,「自害するなり何なり勝手になすべく」責任をとることもできた。統率の外道をおかしたと認識していた大西中将は,自刃,割腹している。宇垣纒中将も,部下を道連れにする私兵特攻という罪を重ねた。

死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人もいえる。自殺など容易にできることではない。しかし,特攻隊を編成した高級軍人の中には,参議院議員,大会社顧問に就任して,堂々としていた人物もいる。軍の名誉と特攻隊・犠牲者への思いはどうなったのか。

彼らが「自発的に体当たり攻撃を始めために特攻隊が生まれた」というのは,英霊の名誉と自己犠牲の精神に共感するからではない。大本営,軍上層部の要職にあった自分たちの,指揮官としての責任を認めないからであろう。

 戦局挽回のためには,体当たり特攻攻撃を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものである。
?優勢な米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
?米軍に反撃しても,日本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
?通常攻撃を仕掛けて,日本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

1)軍隊の重要な兵器である航空機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
2)軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
3)起爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
?特攻隊の志願者を募り,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。


  写真(右):1944年10月24日、レイテ沖で日本海軍の攻撃隊の爆撃によってり撃沈されたアメリカ海軍インディペンデンス級高速軽空母「プリンストン」(USS Princeton :CVL-23): 特攻による戦果ではなく,通常爆撃によるが,日本軍は、巡洋艦の船体を用いた高速軽空母「プリンストン」の撃沈を発表していない。特攻作戦の障害になると深慮したのか。翌日10月25日の敷島隊特攻機による護衛空母「セント・ロー」撃沈は大々的に発表した。この護衛空母「セント・ロー」は、商船の船体を利用した低速小型空母である。USS Reno (CL-96) stands off the starboard quarter of USS Princeton (CVL-23), while fighting fires on board the bombed carrier, 24 October 1944. Note Reno's forward 5"/38 twin gun mounts in the foreground, with local fire control sights on top. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval Historical Center (# NH 63439).

自発的な特攻や体当たり攻撃がやむをえない状況で行われのは確かであるが,それば「特攻隊」という部隊編成の形で行われた攻撃ではない。特攻「隊」は,軍の統率する部隊であり,自然発生的に生まれるれるものではない。特攻隊は,軍上層部の事実上の命令によって作られた。

人間魚雷「回天」一型は,アメリカから返還されたものが、靖国神社遊就館に展示されている。重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は93式魚雷 を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。 優秀な酸素魚雷を基に作られた特攻兵器である。「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は,1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。

特攻兵器を開発・量産している以上,軍が特攻作戦を推進したことは明らかであり,日本軍の作戦の一環であり,「特攻自然発生説」(現地部隊の発意による犠牲的精神の自発的な表現が特攻である)は成り立たない。

 特攻隊として出撃した若者たち,下級兵士,学徒には,その気落ちを思うと複雑な心境になる。たしかに,自己犠牲によって,命を家族や日本に捧げようと思ったり,捧げざるをえないと諦観に達したりしたのだと思うと,若者たちの健気さに圧倒される。現在の若者たちは,特攻隊員を犬死であると軽蔑していると一方的に決め付ける「識者」もいるが,そんなことはない。横山 秀夫(2004)『出口のない海』のレビューを呼んでも,特攻隊員の志は,尊重され,作戦には怒りが投ぜられている。問題は,個人の思惑,感情に拘泥されないで生み出された日本軍の特攻作戦の冷酷さと非人間性にあると思われる。

軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。つまり,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,後に続く特攻隊員の確保にも配慮した。

日本海軍は特殊任用令によって、攻撃により偉勲をたてたと認められ、全軍布告された特攻隊員について、下士官は少尉に特進させ、兵は准士官に特進させる「特別任用」を採用した。

特攻兵器(奇襲特殊兵器)の開発・量産も,一軍人のなしえることではなく,軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍のメンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれる。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれている。

公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。

 つまり,戦争末期になり,全軍特攻化するしかない状況に追い詰められた日本軍にあって、将兵の個々の意思で特攻を志願するかどうかは,すでに問題ではない。全軍特攻化であれば,将兵は,いやおうなく特攻隊員に組み込まれる。

しかし,日本軍は,特攻隊員とその家族・遺族に配慮をした。特攻隊員が,祖国,家族を守るために特攻するのであれば,家族のことを配慮することが,隊員の士気を鼓舞することになる。このように遠謀深慮した日本軍は,特攻隊員の家族・遺族に対して,特別に軍人恩給、遺族年金を割り増した。

1944年11月29日,日本陸海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布し,特攻戦死し,戦効をあげた兵士には,特殊任用として,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにした。その遺族の年金額は,引き上げられた。家族を保護して,後に続く特攻隊員を確保したのである。
特攻で全軍布告することで,死後昇進すれば,遺族への軍人恩給戦没者遺族年金)は倍増し,特攻隊員の家族は,政府・軍から経済的な保障を得ることができた。


特攻隊員たちも,特殊任用され叙位叙勲され昇進し、残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟する。特攻による名誉の戦死は,「親孝行」になった。


写真(右):1944年11月、伊号47潜水艦の甲板に搭載された回天特別攻撃隊「菊水隊」の人間魚雷「回天」と搭乗員;伊号47潜水艦は「回天特別攻撃隊・菊水隊」として1944年11月6日、大津島を出港、11月20日、ウルシー環礁近くで回天4基を発進、そのうち1基が2.5万トンのアメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) を撃沈。回天一型は、約400基が製造され,約100基が特攻作戦(suicide missions)に投入された。航続距離は,78km/10 knots,43km/20 knots,23km/30 knots 写真はKaiten

特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制度の結果、神風特攻隊敷島隊所属の関行男大尉以下5名は,特別任用の初めての対象となった。敷島隊の特攻作戦で,四階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は三級特進して少尉となった。特攻で全軍布告することで,軍人軍属の恩給戦没者遺族年金)は倍化され,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得た。

写真(右):1945年4月、「回天特別攻撃隊」天武隊の6名。左より桜の枝を手にした横田二飛曹、古川上曹、柿崎中尉、前田中尉、山口一曹、新海二飛曹。6基の回天から編成された。回天特別攻撃隊・天武隊」は、伊36潜、伊47潜の2隻から編成された。伊号第47潜水艦は、1945年(昭和20年)4月17日、呉工廠潜水艦桟橋を出航、光基地で回天、搭乗員、整備員を乗せて、1945年4月20日、光基地を出撃し、沖縄・サイパン島間の補給レーン攻撃に向かった。Yokota (far left) with Tembu Group holding cherry blossom branches.

 作戦自体を描写するよりも,作戦の意図やそれに関与し,巻き込まれた人々の立場や真意を推し量るのは重要だが,困難なことでもある。遺書には,残された家族に迷惑をかけることは一切かかれるはずがないが,その書かれなかった行間に,憂慮,苦悶,怒り,生命が隠されている。

特攻隊に任命された若者は,自分を死に向かわせた状況=敗色濃い戦争を受け入れても,特攻隊を作戦として利用するが必死からは逃れうる人々=軍司令官や部隊指揮官に対して,無感動,無感情でいられたとは思えない。しかし,軍隊の中で,上官の命令を議論しても無駄であることをみな知っていた。自分の死を有意なものしなければ,特攻から逃れたくなるかもしれない。逃れられない運命であれば,愛するもの=家族・日本を守るために,命を捧げる,として自分の死と命を一つにするしかないのではないか。

 特攻に散った若者たちには感服する。エンジンを故意に不調にさせたり,故意に不時着したりして,命を永らえたもの,特攻隊に入らないように,練習教程で手を抜いていたものに対しても,共感は持てる。特攻を拒否して,通常攻撃をかけたものには,納得できる。決して,特攻死したから犬死である、逃避したから卑怯者であると軽蔑することはできない。


4.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ人間魚雷「回天」の試作命令がでている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機中島キ115「剣」,人間機雷「伏龍」,特攻戦車など配備され,組織的に行われた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。純粋な犠牲的精神の発露ではあるが,事実上,出撃を強要した日本人がいた。その責任を回避するために,英霊の自生的,自発的特攻をことさら強調しているのであれば,これこそ無責任な英雄・犠牲者への侮辱である。

 特攻は最善の方法だったわけではないが,日本でも鉾田陸軍飛行学校が研究した跳飛爆撃などほかの手段は,特攻隊員はもちろん,大半の軍人でも選択することは不可能であった。1944年の段階で,「特攻作戦の是非」を決めることは,大元帥,将官クラスの軍人にしか許されないことであろう。

条件付降伏の提案も考慮できないような戦争指導の中で,とにかく戦機を得て敵に大打撃を与え,和平への糸口を掴むという方針で臨んだようだ。しかし,米軍にしてみれば,損害を与えられたからといって,怖気づいて和平交渉に応じるつもりは,戦争を始めてから一度たりともなかった。戦意が旺盛な米軍は,日本を無条件降伏させるという強硬な方針を貫こうとしていた。日本は,国体,すなわち天皇制の護持を最優先事項にしており,それに気がついていた米軍の軍人もいた。しかし,ひとたび参戦した以上,米英とも無条件降伏にこだわった。したがって,たとえ特攻作戦がより大きな戦果を挙げたとしても,日本は米国と和平交渉を始めることはできなかったと考えられる。

写真(右):1970年3月、アメリカ、ワシントンDC、ワシントン海軍工廠(Washington Navy Yard)で展示されていた人間魚雷「回天」2型・4型("Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo );全長54 1/2 フィート、直径 4 1/2 フィートで、1945年の製造と説明書きがされている。このワシントン海軍工廠から、現在はニュージャージー州ハッケンサックの ニュージャージー州海軍博物館に移され、そこで展示されている。
Title: Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo Description: Photo #: NH 81489 Japanese Kaiten (Type 2 or Type 4) Human Torpedo On display in East Willard Park, Washington Navy Yard, Washington, D.C., in October 1974. This example is 54 1/2 feet long and 4 1/2 feet in diameter. It was built in 1945. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 81489
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 81489 Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo 引用。


人間魚雷「回天」2型と4型は、九三式酸素魚雷の動力に代えて、ワルター機関を搭載する計画だった。回天2型・4型のワルター機関とは、過酸化水素H2O2からなる酸化剤と、ヒドラジンN2H4からなる燃料を燃料室で混合燃焼させるエンジンである。ドイツではメッサーシュミットMe163戦闘機がワルターロケットを搭載、実戦に投入された。またワルター機関搭載のUボート(潜水艦)も試作され、走行試験が行われているた。日本も、速力40ノットの高速を発揮するためにワルター機関Walter-Antrieb)を開発しようとしたが、酸化剤は危険であり、燃料も有害だったため、試作を始めたが完成してはいないと思われる。

 したがって、回天二型/四型は、ワルター機関を搭載できないまま、船体だけを増加試作したはずだ。結局、アメリカに残る「回天」は、アメリカ軍が研究用に持ち帰った試作途上の人間魚雷であり、肝心要のワルター機関を搭載した「回天」ではなかったと推論できる。試作された「回天」2型・4型で、現在残されている実機にも、過酸化水素(H2O2)の酸化剤貯蔵タンク、ヒドラジン(N2H4)の燃料タンクがともに存在せず、ワルター機関は搭載されていない。終戦までに、日本は、「回天」2型・4型の試作を数十基完成したように言われるが、これはみな外観だけで、ワルター機関が搭載された「回天」2型・4型が完成した可能性はほとんどない。

 他方、回天1型は、潜水艦の甲板に搭載され、実戦に投入されたた。1944年以降,約400基が製造され,約100基が特攻作戦(suicide missions)に使用された。回天1型の航続距離は,78km/10 knots,43km/20 knots,23km/30 knots。回天1型は、全長 14.75m(48'4") x 3'3" x 3'3" ,重量 8.3 tons,最高速力30 knots,航続距離 78 miles @ 12 knots, 弾頭 3300 lbs(1,500 kg) 。

写真(右):1970年3月、アメリカ、ワシントンDC、ワシントン海軍工廠(Washington Navy Yard)で展示されていた人間魚雷「回天」2型・4型("Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo );推進器(スクリュー)保護のための金属製のガードがあったはずだが、一部を残して、欠損している。
回天二型/四型は、結局、ワルター機関を搭載できないまま、船体だけを試作したと思われる。実用化できず、生産されたものは、稼働できるワルター機関は搭載していないようだ。戦時中の日本で、「回天」2型・4型は、10基以上試作されたように言われるが、ワルター機関が未完成であれば、動力を搭載できない。「回天」2型・3型がワルター機関を使っての陸上稼働実験をしたり、水中試験走行をしたりした記録もないようだ。このワシントン海軍工廠の回天2型・4型は、その後、ニュージャージー州ハッケンサックのニュージャージー州海軍博物館に移管され、現在はそこで展示されている。
Title: Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo Description: Photo #: NH 81491 Japanese Kaiten (Type 2 or Type 4) Human Torpedo On display in East Willard Park, Washington Navy Yard, Washington, D.C., in October 1974. This example is 54 1/2 feet long and 4 1/2 feet in diameter. It was built in 1945. Note very small rudders and partially missing propeller guard. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 81491
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 81491 Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo 引用。


海軍大尉 小灘利春「在米回天探査の旅」 平成13年9月15日 には、「在米回天の一部こは型式に疑間があり、その解明はわれわれに課せられた責務であった」として、戦後アメリカが日本から持ち帰った「回天」を平成十三年八月に元「回天」搭乗員7名で訪問し、調査した、次のような貴重な報告がある。
「ハッケンサックにある回天は以前ワシントンDCの米国海軍工廠の広場に長いあいだ屋外展示されていたもので、のち海軍歴史センターの倉庫に移された。最初からこの回天は二型とされ、種々の刊行物こも回天二型と明記されている。しかし、写真でみると胴体を構成する部分の数が一つ多い。接合部が余計にあるので外見上は四型である。しかしこ型が完成した時期の事情から、或いは呉工廠が大量生産した四型の胴体を使ってこ型を組み立てた可能性も考えられるので、中に入って内部設傭を調べないかぎりは型式の判定ができないのである。」

「前方には空気気蓄器が四本、直立して並んでいた。これはハワイのものと全く同じ四型の構造であって、二型ならば過酸化水素のタンクがある筈である。操縦席後方はかなりの長さにわたって空洞であった。ここは二型ならば水化ヒドラジンのタンクと蓄電池があり、四型であれば酸素気蓄器[酸素ボンベ]が三本横たわっている筈であるが共に存在しない。しかし奥に見えたのは、斜めに八の字の形に配置された二本の補助清水タンクである。この様式は四型のものであって二型とは異なる。なお頭部こは回天四型との刻印があったが、これは付替えのできる駆水頭部(訓練用)なので、決定的要素ではない。二型と四型では直径は同一、全長もほとんど変わらない。」

このように、二型としての特徴は何ら見受けられず、逆に四型の構造が外見、内部設備とも存在することから、この「回天二型」は事実は四型と思われる。 戦時中二型、四型の製作を担当された技術士官がたに確認をお願いした上、結論を公表したい。ただ、円型としても酸素気蓄器[酸素ボンベ]が全くないことに疑問が残るが、これを取り付けない状態で引渡したのか、または何らかの理由で艇を分解して抜き出したものであろう。」(海軍大尉 小灘利春「在米回天探査の旅」引用おわり)

写真(右) ワシントン海軍工廠に展示されていた人間魚雷「回天」2型・4型:この「回天」2型・4型は、ワルター機関を搭載して高速化を企図したものだが、日本の技術ではワルター機関を実用化することはできなかった。試作品が完成したようにも言われるが、船体だけあるいは地上での試運転を準備していた程度であり、ワルター機関を搭載した実機が海中を駆動したことはないと考えられる。現在、ニュージャージー州ハッケンサックの ニュージャージー州海軍博物館(New Jersey Naval Museum:Submarine Memorial Association, Hackensack)に展示されている。ここには、バラオ級潜水艦USS Ling 297、ドイツ海軍特殊潜航艇「ゼーフント」も展示されている。回天1型の操縦室は狭く,通気も悪かったため、6時間が運用限度であった。回天2型は大型化されたが、居住性は改良されたわけではないようだ。

写真(右):1970年3月、アメリカ、コネチカット州、ミスティック・シーポート博物館で展示されていた人間魚雷「回天」4型("Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo );ミスティック・シーポート博物館は、1929年に海洋歴史協会の手で、コネチカット州のミスティック河口造船所で設立された歴史がある。その後、ミスティック・シーポートから、太平洋方面潜水艦司令部に移管され、ハワイ州オアフ島の真珠湾に開設された潜水艦ボーフィン博物館で展示されている。
Title: Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo Description: Photo #: NH 71520 Japanese Kaiten (Type 2 or Type 4) Human Torpedo Photographed while on exhibit at Mystic Seaport, Mystic, Connecticut, in March 1970. This example was later transferred to Commander, Submarine Force, Pacific Fleet, for display at Pearl Harbor. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph .
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 71520 Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo引用。


写真(右):1970年3月、アメリカ、コネチカット州、ミスティック・シーポート博物館で展示されていた人間魚雷「回天」4型("Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo )の尾部;この回天は、現在は、ハワイ州オアフ島真珠湾に開設された潜水艦ボーフィン博物館で展示されている。ミスティック・シーポート博物館は、帆船捕鯨船「チャールズ・W・モーガン」、帆船「ジョセフ・コンラッド」、蒸気船「サビノ」なども保管・展示しているが、19世紀の港町を復元している歴史スポットとなっている。
Title: Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo Description: Photo #: NH 71518 Japanese Kaiten (Type 2 or Type 4) Human Torpedo Photographed while on exhibit at Mystic Seaport, Mystic, Connecticut, in March 1970. This example was later transferred to Commander, Submarine Force, Pacific Fleet, for display at Pearl Harbor. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 71518 Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo引用。


写真(右):1970年3月、アメリカ、コネチカット州、ミスティック・シーポート博物館で展示されていた人間魚雷「回天」4型の胴体内部("Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo );回天二型は、一型の魚雷を流用した動力をワルター機関(Walter-Antrieb)に変換し、最高速力を一型の30ノットから、二型・四型は新たに40ノットに向上する計画だった。これは、酸化剤T液(過酸化水素H2O2)と燃料C液(引火性の高いヒドラジンN2H4)を混合燃焼させる新たなワルター機関を搭載、最高速力40ノットを目指した。
Title: Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo Description: Photo #: NH 71519 Japanese Kaiten (Type 2 or Type 4) Human Torpedo View of the interior, seen through hull opening on the port side, amidships. Photographed while on exhibit at Mystic Seaport, Mystic, Connecticut, in March 1970. This example was later transferred to Commander, Submarine Force, Pacific Fleet, for display at Pearl Harbor. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 71519 .
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 71519 Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo引用。


回天一型の動力は、九三式酸素魚雷の内燃機関を流用し、燃料と酸素ボンベを多数搭載して、少しでも航続力を延長しようとしたが、最高速力は30ノットにとどまった。これでは、空母や巡洋艦などアメリカの主要艦艇の最高速力より3ノットから5ノット遅く、襲撃困難である。そこで、回天二型は、魚雷用の内燃機関に代えて、新たに非大気依存型推進が可能なワルター機関Walter-Antrieb)を搭載する計画だった。これは、酸化剤T液(高濃度の過酸化水素H2O2)と燃料C液(引火性の高いヒドラジンN2H4)を混合燃焼させる新たなワルター機関を搭載、最高速力40ノットを目指した。ワルター機関は、過酸化水素H2O2から発生する酸素O2を利用するので、自己着火、爆発的燃焼が発生し、大きな推進力を得られる反面、水中や高空にあっても、酸素ボンベ(酸素気蓄器)や過給機は必要がない。これは、潜水艦や高高度を飛行する航空機のエンジンとして応用が利いた。

写真(右):1970年3月、アメリカ、コネチカット州、ミスティック・シーポート博物館で展示されていた人間魚雷「回天」4型の中央部と司令塔("Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo );回天四型は、酸化剤T液(過酸化水素H2O2)と燃料C液(メタノール+ヒドラジンN2H4)を混合燃焼したエネルギーを利用するワルター機関を搭載する計画だった。日本も、水中で速力40ノットの高速を発揮する回天2型を実現しようと、ワルター機関Walter-Antrieb)の開発に着手した。しかし、危険で高価な酸化剤、有害で高価な引火性燃料水化ヒドラジン、混合燃焼させる技術、どれも入手困難だった。結局、回天2型/4型は試作されたものの、ワルター機関が実用化できなかったために、船体には、ワルター機関は搭載していないようだ。
Title: Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo Description: Photo #: NH 71521 Japanese Kaiten (Type 2 or Type 4) Human Torpedo View of the mid-section, port side, with hull opened to show the interior. Photographed while on exhibit at Mystic Seaport, Mystic, Connecticut, in March 1970. This example was later transferred to Commander, Submarine Force, Pacific Fleet, for display at Pearl Harbor. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 71521
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 71519 Japanese "Kaiten" (Type 2 or Type 4) Human Torpedo引用。


海軍大尉 小灘利春「在米回天探査の旅」 平成13年9月15日 には、「在米回天の一部こは型式に疑間があり、その解明はわれわれに課せられた責務であった」とある。そして、戦後アメリカが日本から持ち帰った「回天」を平成十三年八月に小灘利春氏ら元「回天」搭乗員7名で潜水艦ボーフィン博物館など各地を訪問し、調査した。そこには、次のような貴重な報告がある。
「オアフ島パールハーバーのこの[潜水艦ボーフィン]博物館で屋外展示されている回天は四型である。 本格的人間魚雷として二型に次いで回天四型の開発が始まった。九三式魚雷 と同様、純粋酸素で石油を燃焼させ発生ガスで往復動機関を駆動する方式であるが、四五年三月に製作中止となった。光海軍工廠でも「回天工作隊」を編成して四型の生産に取り組んでいたが、このときをもって打ち切られた。しかしその後、本土防衛のため量産が再開され、終戦のときは横須賀[海軍]工廠で三基完成・組み立て中が約一〇基、呉工廠でも三基が完成し、約一五基が組み立て中であったという。」

「覗き窓から胴体の内部を観察できるので、操縦席の後に酸素気蓄器が存在し、その配列状況から四型であることは一目瞭然である。前方には直立する四本の[酸素]気蓄器がならんでいる。駆水頭部の上には回天四型の雷道計器を収めた舞鶴工廠製作の頭部であることが漢字で刻印されている。前記の光工廠で回天の生産を担当された技術士官武者広吉氏も以前、ハワイを訪ねて四型と確認しておられる。横須賀[海軍]工廠で製作したものと考えられるとのこと。内部は丁寧に銀色塗装されており、保存状態は良好、部品も概ね揃っている。海の近くであるが熱心な手入れを 受けているので、長期保存の点には心配がないと思われる。」(海軍大尉 小灘利春「在米回天探査の旅」引用おわり)


写真(右):アメリカ、ハワイ州オアフ島、ホノルル郊外の潜水艦「ボーフィン」博物館に展示されている人間魚雷「回天」四型
; アメリカ海軍バラオ級潜水艦「ボーフィン」は,1944年8月19日、沖縄島北西で学童疎開船「対馬丸」(6,754トン)を撃沈、乗船していた学童など1500名近くを殺戮した。真珠湾で日本海軍空母艦上機が撃沈した戦艦「アリゾナ」の近くに展示してあるのは,報復・仕返しの意味がある。

非大気依存型推進ワルター機関Walter-Antrieb)を搭載した兵器として、ドイツ軍は、ロケット戦闘機no Me 163 コメートWalter HWK 109-509ロケット搭載)を実用化し、1944年後半に実戦に投入した。またワルターUボートXVII型Typ XVII) U 792 からU 795、U1406 、U1407など30隻以上を試作し、試験走行させている。ドイツ敗戦後、イギリス海軍もこのワルターUボートXVII型に興味を大いに示し、再調査・研究し、鹵獲したU-1407を再整備し、試験的な運用を行っている。

写真(右):1945年5月、ドイツ降伏後、西側連合軍に鹵獲されたワルター機関を搭載するドイツ海軍潜水艦(Uボート)XVIIB型 U-1406あるいはU-1407; ワルターUボートXVIIB 型のU-1406は、ブロームウントフォス(Blohm & Voss)ハンブルク造船所で1944年12月1日進水、1944年12月22日竣工。1945年5月5日、 ワルターUボートU-1406とU-1407は、西側連合軍に投降した。
Title: German Type XVIIB Submarine, August 11, 1945 Caption: German Type XVIIB Submarine is lifted from the water by a large floating crane, at Bremerhaven, Germany, August 11, 1945. Boat is probably U-1406 or U-1407. They were small, fast submarines, powered by Walter Turbines. Note large Tug THOR at left. Photographed by Private First Class W. Gedge. Catalog #: SC 210745 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Photographed by Private First Class W. Gedge. Original Date: Sat, Aug 11, 1945
写真はNaval History and Heritage Command SC 210745 German Type XVIIB Submarine, August 11, 1945引用。


ワルターUボートXVIIB 型の諸元
水上排水量:312トン
満載排水量:415トン
全長:41.45m、ビーム:4.50 m、吃水: 4.30 m
機関:ディーゼル (210 shp; 150 kW)、ワルター機関 (2,500 shp; 1,800 kW)
兵装:53.3センチ電気魚雷4本搭載
最高速力:水上8.5ノット、水中25ノット
航続距離:水上 3000マイル/8ノット(ディーゼル機関)
   水中 76マイル/2ノット(電動モーター) 
   水中 123マイル/25ノット(ワルター機関)

ドイツ海軍のワルターUボートWalter U-boat)は、ワルター機関Walter-Antrieb)に、従来型のディーゼル機関を併用搭載して、低速航行、操縦性向上、燃料節約、航続距離延長を図っている。他方、回天二型は、ワルター機関のみで、低速航行できない。そこで、もしも回天二型の実機がたとえ完成したとしても、目標を潜望鏡で確認(視認)し、方位角、深度を定めて、複雑な三次元航行をして目標を追尾、体当たりするのは困難であったと考えられる。

人間魚雷を高速化すれば、敵艦船への体当たりが容易になる、という安易な発想は、一回限りの使い捨て「特攻兵器」には、つきもなのかもしれない。しかし、「特攻隊員」使い捨ての発想は、機械の信頼性、取り扱いやすさなど操作性、機動性、搭乗員の居住性などを軽視することになり、特攻兵器の実用性を低下させ、戦果を挙げることを益々難しくした。

写真(右):1945年5月、ドイツ降伏後、西側連合軍に鹵獲されたワルター機関・ディーゼル機関併用潜水艦UボートXVIIB型 U-1407の艦尾; ワルターUボートXVIIB型U-1407の諸元:ブロームウントフォス(Blohm & Voss)ハンブルク造船所で1945年1月2日進水、1945年2月8日竣工。満載排水量415トン、全長41.45m、機関:ディーゼル (210 shp; 150 kW)+ワルター機関 (2,500 shp; 1,800 kW) 、魚雷4本搭載、最高速力:水上8.5ノット、水中25ノット。
Title: U-1407 (German type XVII submarines) Caption: View of the stern, taken soon after the end of World War II, showing the "spindle" stern design of this class of U-boat. Catalog #: NH 96274 opyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command NH 96274 U-1407 (German type XVII submarines) 引用。


  ドイツ空軍は、ロッケト戦闘機Me 163 コメートにワルター機関のロケットを搭載、1944年5月には、部隊配備し、終戦までに370機量産した。1944年夏からの迎撃戦闘では、メッサーシュミットMe 163 コメートはB-17爆撃機を撃墜するなど戦果を挙げている。しかし、Me 163 コメートは、操縦・整備など取り扱いが難しく、燃料漏れの危険が大きいため、信頼性の低い兵器とされ、実戦投入は低調だった。また、ワルター機関UボートTyp XVII)も、機関の信頼性・安全性が十分でなく、技術的課題が残っていた。しして、連合軍機の空襲の下、製造工場・輸送機関も破壊され、大量配備することはできなかった。つまり、ワルター機関を1930年代から着想し、1940年代初頭には試作したドイツですら、ワルター機関を試験的に実戦投入した程度であり、日本が急遽、ドイツから技術導入祖進めても、1945年にワルター機関を実用化するのは無理な相談だった。

写真(右):アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル郊外のボーフィン潜水艦博物館に野外展示されている回天四型。; 回天一型と回天四型を比較すると、全長(m)は14.75m対16.50m、 直径(m)1.00m対1.35m、重量(t)8.30トン対18.17トン、最高速力(kt)30ノット対40ノット、生産数400基対10基未満。搭載爆薬重量(kg)は1,550キロで同じだった。回天四型は、酸化剤のT液(過酸化水素H2O2)と引火性燃料のC液(水化ヒドラジンN2H4)を燃焼室で混合燃焼させる新たなワルター機関を搭載する計画で、最高速力40ノットを目指した。93式酸素魚雷の動力とは異なり、ワルター機関は、酸化剤から酸素を得るために、酸素ボンベを搭載する必要はなく、自己着火性があり、爆発燃焼を利用でき、潜水艦や高高度飛行機の動力として期待され、ドイツ軍が実用段階にまで達していた。しかし、日本ではワルター機関の試作のみで、実用化に至らず、回天四型が試作されてはいても、海中走行試験をしていないであろう。呉市海事歴史科学館 には、特殊潜行艇「海龍」、より小型で量産性を図り、運動性能も軽快にした「回天」十型の模型(試作品?)が展示されている。
Description Type 4 Kaiten on display at USS Bowfin submarine museum, Pearl Harbor Hawaii Date 28 January 2008 Source Own work Author Prinz.W (Prinz.W)
写真はWikimedia Commons File: Kaiten in Hawaii.JPG引用。


在米回天探査の旅:小灘利春(2001年)によれが、操縦席の前方には空気気蓄器が四本、直立して並んでいたが、これは回天4型の構造である。回天2型は、過酸化水素のタンクが設置される場所である。操縦席後方は、空洞であるが、回天二型では、水化ヒドラジンのタンクと蓄電池が置かれる場所である。回天四型では、酸素気蓄器が三本設置されている場所である。しかし、この回天の操縦席後方奥には、斜めに八の字の形に配置された二本の補助清水タンクである。この「回天」にも付替えのできる駆水頭部(訓練用)が装着されている。「二型と四型では直径は同一、全長もほとんど変わらない。このように、二型としての特徴は何ら見受けられず、逆に四型の構造が外見、内部設備とも存在することから、この「回天二型」は事実は四型と思われる」と推論しているが、「酸素気蓄器が全くないことに疑問が残るが、これを取り付けない状態で引渡したのか、または何らかの理由で艇を分解して抜き出したものであろう」とある。これは、ワルター機関がない試作途上だったと考えると合点が行く。

写真(右):アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル郊外、ボーフィン潜水艦博物館に野外展示されている回天四型。;回天四型が搭載するワルター機関は、酸化剤のT液(過酸化水素H2O2)と燃料のC液(メタノール+ヒドラジンN2H4)を燃焼室で混合し、爆発的な燃焼を利用するエンジンで、最高速力40ノットを目指した。ワルター機関は、酸化剤から酸素を得ており、酸素ボンベは搭載しないが、自己着火性がある危険性の高いエンジンだった。ドイツではロケット戦闘機Me163がワルター機関を搭載、実戦にも投入された。またディーゼルエンジンを補助機関としたワルター機関搭載のUボートXVIIA型UボートXVIIB型 も試作され、走行試験が行われた。日本でも、ロケット戦闘機Me163を模した「秋水」が試作飛行したが、墜落してしまった。結局、日本でワルター機関の試作されたが、実用化はできなかった。
アメリカ海軍バラオ級潜水艦「ボーフィン」(1500トン)は、1945年8月19日、沖縄島北西で、沖縄から本土に引き揚げる学童を乗せた疎開船「対馬丸」を撃沈し、1500名弱を殺した。
Description English: Type 4 Kaiten, on display at USS Bowfin Submarine Museum and Park- rear 3/4 view Date Taken on 15 March 2012 Source Own work Author User:J JMesserly Other versions rear view of File:Kaiten in Hawaii.JPG, File:Kaiten Type 4 side view at USS Bowfin Museum- Pearl harbor.jpg
写真はWikimedia Commons File: Kaiten Type 4 rear view at USS Bowfin Museum- Pearl harbor.jpg引用。


  1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,「㊅金物」(マルロクカナモノ)のような秘匿名称がついた,事実上の特攻兵器の試作である。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」改良型「蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型潜水艇「海竜」として試作(若干の量産?)
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器



写真(右):太平洋、西カロリン諸島、ウルシー基地でアメリカ軍に引き揚げられた人間魚雷「回天」1型の後部
;回天特別攻撃隊の初陣は、菊水隊によるウルシー環礁、停泊中のアメリカ軍官への攻撃である。回天を搭載した伊号第36潜水艦、伊号第47潜水艦の2艦は、アメリカ海軍空母任務部隊が停泊していると予測された西カロリン諸島ウルシー泊地を、1944年11月20日、黎明に攻撃した。発進した回天は、伊47潜の4基全部、伊36潜搭載の4基中の1基、合計計5基で、故障で発進不能となった2基の隊員は生還した。戦果はアメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) 1隻撃沈。


 体当たり自爆兵器の一つである「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。1943年12月28に,海軍の特殊潜航艇「甲標的」第5期講習員であった黒木博司中尉、特殊潜航艇「甲標的」第6期講習員であった仁科関夫少尉が,人間魚雷計画を海軍省へ陳情しているが,自分勝手に兵器の研究に,時間・資材・金銭を費やすことのできる軍人はいるはずがない。

 海軍兵学校58期,第6艦隊(潜水艦部隊)水雷参謀 鳥巣建之助中佐は,人間魚雷「回天」の作戦を担当し,回天作戦の著作も多く、経験に則った有意義な分析が含まれる。しかし,参謀クラスの有能な指揮官として,回天特攻隊生還者の心中を聞かれて,「特攻は,われわれ下っ端のとやかく言う問題ではない」と責任を負うこのできる立場にないとの発言をした。それなら責任を負うのは誰なのか。それとも、そういう時代だったのか。

写真(右):アメリカ、ワシントン州、シアトル沖30キロ、キーポート(Keyport)、アメリカ海軍海底博物館(U.S. Naval Undersea Museum )に保管してある人間魚雷「回天」1型の細部 : Imperial Japanese Navy Page KAITEN SPECIAL ATTACK SUBMARINE 引用。

1983年12月4日,日経新聞に『人間魚雷』の著者鳥巣建之助(回天部隊の元参謀)の言葉がある(という)。
「特攻は最大の愚行であり、特攻隊員の死は犬死以外の何ものでもなかった。」という考え方が戦後永く続いていますが、本当にそうでしょうか。
二十数年前に、人間魚雷回天の映画を見ましたら、出撃前夜に、特攻隊員がヤケ酒を呑んで泣いているんです。(こんなことは絶対に無かった)。これはいけないと思いました。真実を書き残しておかないと、彼等の霊は浮かばれないと思いまして、細々と書き始めたのです。神風や回天などの特攻精神は・・(新約聖書にもあるように)・・まさに自己犠牲そのものであり、至純至高の愛であった。・・(特攻隊のみならず)とことんまで頑張った人達が居たからこそ、あのような終戦が迎えられたのであって、和平派(降伏派)が前面に出過ぎていたら、ああはならなかったでしょう。あれは明らかに(無条件ではなく)有条件降伏ですよ」と。(→戦後の風潮引用)

防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 軍航空の軍備と運用(3)』では,
 「1944年3月、参謀本部はついに艦船に対する体当たり戦法の採用を決意した。----特攻兵器の開発は、射撃爆撃器材、化学兵器の研究を担任する陸軍第三航空技術研究所(正木博少将)に命じられた」(pp.264-265)。

 実際,陸軍上層部は、特攻隊の編成をめぐり,本来であれば,統帥権を保持する大元帥昭和天皇に上奏裁可を仰ぐ必要があるが,それを回避することを検討した。

しかし、その一方で、大本営参謀は語る「特攻隊は自然発生した」とも信じられている。

1944年11月9日,伊号潜水艦(基準排水量1,000トン以上の日本海軍の潜水艦)伊36,37,47の3隻が各々4隻の「回天」を搭載して,菊水隊として、アメリカ軍の根拠地・泊地の攻撃に出撃した。人間魚雷「回天」は,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kgで、伊号潜水艦の前部甲板に2基,後部甲板に2基搭載された。この時期では、「回天」に搭乗するには、潜水艦が浮上してから乗り移るしかなかったが、鈍足で、騒音のひどい大型潜水艦が、敵海域で浮上すれば,その隠密性は完全に失われ、容易に発見されてしまう。

中部太平洋のサンゴ礁には,艦船が多数停泊できるラグーンもあり,そこがアメリカ軍の前進基地になった。米軍艦艇を奇襲攻撃するために,㊅金物「回天」を搭載した伊37は,パラオPlaus環礁,伊36,伊47の2隻はウルシーUlithi環礁に向かった。(日本海軍の潜水艦は、排水量1000トン以上のクラスは「伊号潜水艦」、伊第47号潜水艦、伊37号,イ37のように呼んだ。)

写真(右):1944年11月8日,伊47潜水艦を母艦にして出撃する菊水隊の人間魚雷「回天」;人間魚雷「回天」は、当初、魚雷発射試験場があった大津島で訓練された。伊47潜は菊水隊は,11月20日、ウルシー環礁を攻撃。回天に搭乗した仁科関夫中尉、福田斎中尉、佐藤章少尉、渡辺幸三少尉が戦死。

1944年11月20日、ウルシー基地の近くで,日本海軍伊47潜が菊水隊の人間魚雷「回天」を発進したとき,アメリカ海軍マハン級駆逐艦(Mahan-class destroyer)「ケース 」(USS Case, DD-370)は,3隻の重巡洋艦,3隻の駆逐艦とともにサイパンSaipan島へ向かうために,ウルシー環礁の外側にいた。

 アメリカ海軍マハン級駆逐艦(Mahan-class destroyer)「ケース 」(USS Case, DD-370)は,潜望鏡を発見し,基地に潜入しようとする小型潜水艦Midget Submarineであると考えた。当時はまだ人間魚雷は秘密兵器だったのである。マハン級駆逐艦「ケース 」(USS Case, DD-370)は小型潜水艦に体当たり衝角攻撃をかけ,潜水艦を破壊した。環礁の内側では,クリーブランド級軽巡洋艦「モービル」(USS Mobile, CL-63) が小型潜水艦を発見し,砲火を開いた。

㊅金物「回天」の操縦は、潜望鏡(特眼鏡)の視界が狭く、狭くて劣悪な居住性、魚雷改造のため、運動性が良くなく、後進もできないなど、困難であった。サンゴ礁の浅瀬を通ってラグーンの基地に進入するのは、困難であった。後に、相対的に防備がゆるい洋上攻撃をかけることで大戦果を挙げるようになった、と日本側の記録や戦記には述べられている。しかし、米国側の資料によると、駆逐艦1隻を撃沈した程度で、輸送船への被害はほとんど与えていない。

写真(右):ウルシー環礁内に停泊中、人間魚雷「回天」に撃沈されたアメリ海軍給油艦AO「ミシシネワ」2万5000トン;Ashtabula class Fleet Oiler,排水量2万5,440トン
全長: 553',全幅: 75',全高 32'
30,400馬力Maritime Commission,2軸,速力 18 knots
兵装 1 5"/38 DP, 4 3"/50 DP, 4x2 40mm, 4x2 20mm
乗員 314名 ,搭載容量 14万6,000バーレル(1バレル = 159リットル)
建造所 Bethlehem, Sparrows Pt.
竣工 1944/05/18,沈没 1944/11/20


敵の制海権・制空権の下にある海で,鈍足で騒音も大きな日本潜水艦は、米国の護衛駆逐艦、対潜哨戒機によって制圧された。戦果を挙げることも、戦果を目視確認することも容易ではない。爆発音から戦果を判断したために、台湾沖航空戦と同じような過大戦果になったのではないかと思われる。

アメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) は,迷彩塗装を施して,潜水艦に発見されても,進路,速力が判別しにくいようにしている。しかし、人間魚雷「回天」によって,停泊中を襲われたため,逃げようがなかった。

出撃した,㊅金物「回天」搭乗員は,第一目標は空母にしていた。つまり,給油艦が人間魚雷「回天」によって攻撃されたのは,空母など大型の艦艇に見間違えたようだ。狭く暗い艦内で安定性の悪い「回天」を操縦して,視野の狭い潜望鏡を使って目標に命中させるのは困難である。人間魚雷「回天」には,機関,深度調整,配電,操舵などの故障もあったようだ。

写真(右):全備重量8.3トンの人間魚雷「回天」の命中によって黒煙を上げる米給油艦「ミシシネワ」;1944/11/20/0545,2万5000トンのアメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) が爆発し63名が犠牲になった。人間魚雷の弾頭は1.5トンの爆薬である。

0545, 44万ガロンの船舶燃料,ディーゼル油,航空燃料を満載していたアメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) は,人間魚雷「回天」の命中を受け大爆発を起こした。5分後,5インチ砲弾薬も爆発し,タンカーは沈没した。将校3名,下士官・兵60名が死亡した。

徳山沖の大津島には魚雷試験発射場があったが,そこを改造して、「回天」訓練部隊が創設された。その後、訓練基地は1944年11月に光、平生、大神と増設され、人員も急増した。「回天」部隊では,終戦までに1375名が訓練を受けた。しかし,大津島回天基地での最初の士官34名中,考案者黒木博司大尉を含めて3名が訓練中に殉職した。


写真(上):ウルシー環礁において人間魚雷「回天」の攻撃で大炎上する米給油艦「ミシシネワ」
;1944年11月20日撮影。Ulithi lagoon, 20 November 1944。

戦果が数隻の艦船だけであることを考慮すると、回天は兵器として成功したものとはいえない。若者の死は、命を懸けて家族、祖国を守ったという点で、無駄であったとはいえないが、犠牲としては大きすぎた。

ウルシー奇襲攻撃には,合計2隻の日本海軍伊号潜水艦から,合計5基の自殺潜水艦suicide subs「回天」が発進した。1基はリーフにぶつかり爆発した。1基は環礁の内部に侵入できず終わった。

アメリカ海軍マハン級駆逐艦「ケース 」(USS Case, DD-370)は3基目の人間魚雷「回天」を発見し,体当たりで撃沈した。2基の「回天」が基地に潜入したが,駆逐艦「レイル」Rall(DE-304)が爆雷攻撃で4基目の「回天」撃沈した。しかし,西田佐喜男が搭乗していたと思われる5基目の「回天」が,高速でアメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) 2万5000トンの舷側に衝突し,撃沈した。(→引用)

ウルシー奇襲攻撃では、アメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) 撃沈(人間魚雷「回天」初戦果)が唯一の戦果で、かつ「回天」の戦歴の上でも、2万5000トンの艦船撃沈と最大の戦果である。発進命令の出た3基は,潜水艦のラックが外れずに出撃できず、出撃した5基の「回天」のうち4基は戦果を挙げることなく撃破あるいは行方不明になった。


写真(上左):イ47潜水艦から出撃した人間魚雷「回天」にウルシー環礁で停泊中、撃沈された米海軍給油艦「ミシシネワ」(Mississinewa)2万5000トン
;迷彩塗装を施して,潜水艦に発見されても,進路,速力が判別しにくいようにしている。
写真(上右):1945年6月11日,人間魚雷「回天」が撃沈したメリカ海軍バックレイ級護衛駆逐艦「アンダーヒル 」(Buckley-class destroyer USS Underhill:DE-682);人間魚雷「回天」が撃沈した軍艦は駆逐艦1隻だけと思われる。輸送船(民間商船)も撃沈したかもしれないが,これは民間人無差別攻撃である。ただし,無制限潜水艦作戦は,米軍も採用した。


グアムGuam島,ニューギニア島ホーランディアHollandiaに向かった潜水艦「回天」部隊は、行方不明となった。警戒の厳重な基地を奇襲攻撃したが、戦果は給油艦1隻のみで、「回天」搭載の潜水艦は5隻が出撃、3隻撃沈。「回天」20基があったが、故障で発進できずに日本に帰還したものが3基、撃破・行方不明が15基,戦果を挙げたのは1隻。回天特攻は、大失敗だった。


写真(右):人間魚雷が唯一撃沈したアメリカ海軍バックレイ級護衛駆逐艦「アンダーヒル」 (Buckley-class destroyer USS Underhill:DE-682);1944年6月11日ボストン海軍基地the Boston Navy Yard撮影。この1年後に撃沈。 
CLASS: バークレー級駆逐艦Buckley TYPE: TE (turbine-electric drive, 3" guns)
排水量: 1,400トン(std) 1,740トン(full)
大きさ: 306' (oa), 300' (wl) x 36' 9" x 13' 6" (max)
武装: 3 x 3"/50 Mk22 (1x3), 1 x 1.1"/75 Mk2 quad AA (4x1), 8 x 20mm Mk 4 AA, 3 x 21" Mk15 TT (3x1)
1 ヘッジボッグ投射機Hedgehog Projector Mk10 (144発), 8 Mk6爆雷投射機depth charge projectors, 2 Mk9爆雷投下レールdepth charge tracks
機関: 2 "D" Express boilers, G.E. turbines with electric drive, 12000 shp, 2 screws
速力: 24 knots 航続距離: 4,940マイル @ 12 knots
乗員: 士官15 /下士官・兵198名


人間魚雷「回天」募集要綱には,学徒出身の予備士官及び予科練出身者の場合,「右特殊兵器は,挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とあるという。

海軍兵学校(海兵)・海軍機関学校(海機)出身者の場合,本人の配属希望を考慮し選考し,口頭での転勤命令(指名)による。
したがって,特殊兵器の内容は,機密事項として公表しないまま志願者を募ったり,命令によったりして,人間魚雷「回天」の搭乗員となる特攻隊員が選ばれていた。画期的な最新秘密兵器を扱うと期待感に胸膨らませた兵士たちが人間魚雷「回天」の実物を見たとき,どのように感じたのか。

人間魚雷「回天」は洋上襲撃では,輸送船も含めて10隻以上を撃沈したと日本側で言われるが,アメリカ軍の資料によればアメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) ,駆逐艦「アンダーヒル」の合計2隻しか確実な艦船被害を与えていない。アメリカ軍も戦時中は、徴用された民間輸送船など商船の撃沈・被害については、情報を公開しなかった。商船を人間魚雷「回天」が撃沈した可能性は残る。

写真(右):1944年11月20日、太平洋、ウルシー環礁、人間魚雷「回天」に撃沈された給油艦AO-59「ミシシネワ」:排水量2万5000トン;1944年11月20日にウルシー基地の給油艦を撃沈したのが人間魚雷「回天」の初戦果にして最大級の撃沈だった。

人間魚雷「回天」の操縦困難と技術的未成熟さ 
「回天」の潜望鏡(特眼鏡)の視野の狭く、倍率の上から距離感もつかみにくい。そこで,回避運動する商船に対して体当たりすることは非常に難しい。これは,世界の小型潜航艇と同じく,三次元の海中を上下左右に航行すること自体が,1-2人で対処できるだけの技術が未完成であり,機構が技術的に複雑で取り扱い困難なためであろう。

魚雷のような直進性を重視した円筒形の水中物体を目標まで30ノット近くの高速で操縦するのは難しい。特に夜間、目視に頼っていれば、目標追跡すら困難であろう。動いている敵艦船の将来位置を見越して進路を決めて航行するのは、潜水艦でも熟練した何人もの乗員がいなければできない。
電動モーターの電池が切れればそれ以上の航続はできず、進路・深度を変更し、姿勢を安定させることも不可能になる。こうなれば自爆するしかない。

潜水艦部品のような精密機械でも熱意は未熟練労働者が製造していたという事実もある。たとえば,呉第一高女生の回想にもあるが,三年・四年(1944年6月5日当時16歳)が、呉海軍工廠への勤労動員され,水雷部の操舵機工場へ配属された。1944年11月初めごろ,5人の学徒が工場長に呼ばれ、「君らには、これからマルロクの仕事をしてもらう」と言われたという。仕事の内容は人間魚雷の操舵機の調整である。彼女たちの熱意には感服するが,当時の手作業で,精巧な工作をするのには,熟練が必要であった。

写真(右):1945年7月14日「回天」を搭載して出撃する多聞隊の伊53潜水艦:1945年7月25日に勝山淳海軍少佐搭乗の「回天」が発進し,戦死。アメリカ海軍バックレイ級護衛駆逐艦「アンダーヒル」 (Buckley-class destroyer USS Underhill:DE-682)を撃沈した。

伊53潜搭乗の「回天」多聞隊として1945年7月14日〜8月8日に出撃した「勝山淳海軍少佐 航海日記」七月二十二日(1945年)に,次のような記載がある。 
今日で出撃以来十日 未だ好運に恵まれずして見参の機を得ず。段々 回天が心配だ。
一号艇は前部浮室満水。---一番心配なるは端蓋の蝋付部の不良による浸水なり。深度改調装置は明日増締めする筈。
若し端蓋ならば此所にては処置なし。唯 発進後 注水要領を変えて浮量とツリムの作成に遺憾なきを期し 轟沈を期さん。

之を要するに 出撃前の深々度確認に於て 浸水に対し最厳密に試験する要あり。長期行動の 而も潜航時間大なる潜水航行艦襲撃に於て 一番苦手なるは浸水なり。殊に九三魚雷は水上艦艇用なれば その用法に於て各部の水密気密は潜水艦用の九五魚雷のそれの如く 余り重大問題にならざるため 調整上も関心少し。
---回天のみは左に非らざるも---未だ嘗つて前部浮室 気筒 深度機室に対する浸水を考慮せるものなし---。
その因は 発射直前まで陸上にあり。発進用意終りて 水に浸りて 発射するまで数分 又訓練時間一時間而もその間 深度平均五米 浸水箇処あるも その量 潜水艦の潜航時間に対するに位べれば1/16〜1/20なり。よって抱打にて 各部に二立づつ浸水あれば 潜水艦潜航に於ては四十立づつの浸水あるなり。此の点 浸水に対し 十二分関心を持って調整する要あり。<あと略>

写真(右):短刀を受ける回天特攻「多聞隊」隊員たち伊58潜から1945年8月10日に「回天」で発進し,戦死した水井淑夫少尉(九大出身の学徒兵)との解説がある。回天特攻隊の出撃は、航空機の出撃とは違って、事前に定められた計画に従っている。つまり、敵が現れるかを待ちつづけて、不意に出撃する航空特攻とは異なる。そこで、報道班(ライター)の取材が行いやすく、写真・資料が残っている。内外の出版物やweb資料にも、回天を多数掲載している。

「勝山淳海軍少佐 航海日記」七月二十三日には,次の記載がある。 
三号艇 短絡 充電不能
二号艇 四番海水タンク下部排水口螺蓋弛緩 全然用を為さず。前部浮室下部排水口螺蓋にて代用
三号艇の螺蓋は 磨耗甚しく殆ど離脱状況 螺入し直さんとするも一号艇 前部気室 漏気箇所 チューインガムにて充填 テープにて巻き相当止まり 先づ差支なし
此の度 最不審に感ぜるは 電液0の電池相当ありたる事なり

写真(右):1945年4月20日頃、光基地沖、回天特別攻撃隊「天武隊」の出撃前、人間魚雷「回天」6基を後甲板・前甲板に分けて搭載、隊員30名ほどが鉢巻をして並んだ伊号第47潜水艦の後甲板:伊47潜は1945年4月20日、光基地から出撃し沖縄東方海域に向かった。沖縄とサイパンとを結ぶシーレーンを攻撃するためである。1945年5月2日、回天特別攻撃隊「天武隊」柿崎実中尉(海兵72期)、古川七郎上曹、山口重雄一曹が発進戦死、5月7日、前田肇中尉、発進戦死。伊号47潜水艦に搭載した6基の回天のうち、2基は故障のため発進不能。横田寛二飛曹、新海菊雄二飛曹は5月12日生還した。

人間が魚雷に搭乗して操縦するから「百発百中になるはず」というのは、当時の機材の技術水準、整備水準、搭乗員の熟練度・技術水準から見て短絡的過ぎる。狭い艦内に搭乗した乗員が,針路・深度の安定維持,操縦の複雑さを克服しても,計器・動力の故障や不調があればいかんともしがたい。
潮流の早い,波も高い外洋で操縦困難と技術的未成熟さを抱えた人間魚雷が敵艦に体当たり自爆するのは至難のわざと言える。
したがって、「回天」搭乗員や母艦となった潜水艦乗員の意思と希望とは別に、「回天」が洋上攻撃して撃沈した艦船が1隻(アメリカ海軍バックレイ級護衛駆逐艦「アンダーヒル」 (Buckley-class destroyer USS Underhill:DE-682)でもあるということのほうが驚異である。搭乗員の修練,技能の賜物であろう。

写真(右):人間魚雷「回天」に撃沈された給油艦AO-59「ミシシネワ」;1944年11月20日にウルシー基地の給油艦を撃沈したのが初戦果である。

人間魚雷「回天」の損害
 回天特別攻撃隊、菊水隊から多聞隊まで,「回天」搭乗員の死者89名,出撃前の訓練中の殉職15名、自決2名。さらに,「回天」を搭載した潜水艦の未帰還8隻,その乗組員845名,「回天」整備員35名も死亡。人間魚雷「回天」を開発し,400基量産し,部隊も編成した。その投入した資材,人員とその被害と比較して,「回天」のあげた戦果はアメリカ海軍給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59) 1隻,バックレイ級護衛駆逐艦「アンダーヒル」 (Buckley-class destroyer USS Underhill:DE-682)1隻にとどまっている。

終戦時,米海軍司令官が,「回天」がある以上は,爆弾の上に載っているようなものなので,「回天」部隊に直ちに降伏するように伝えよ、といった逸話が流布されている。この逸話によって,日本の人間魚雷の威力や特攻隊員の成果を示すしかなかったということは,とても悲しい。多数の敵艦船を撃沈するという当初の目的を,人間魚雷「回天」は達成できなかった。


<イタリア海軍の人間魚雷>
1944年7月21日の大海指第431号で奇襲特殊兵器の人間魚雷「回天」を正式に開発した日本軍であるが,イタリア,英国,ドイツでも,同様の奇襲特殊兵器「人間魚雷」Human Torpedoを,早くから開発し,実戦で使用していた。

写真(右):イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」(Siluro a Lenta Corsa Il Maiale);1940年には部隊配備され,港湾に停泊する英国艦船を攻撃して大きな戦果を挙げた。

イタリア海軍Siluro a Lenta Corsa(SLC)「マイアーレ 」(Il Maiale, 豚),イギリス海軍「チャリオット」「X艇」,ドイツ海軍「ネガー」「マーダー」がそれである。

イタリア海軍では1935年に人間魚雷の計画(Torpedo humano)が持ち上がり,1936年には試作品が完成した。そして,1940年にはイタリア第10軽装艦隊the Italian 10th Light Flotillaに,2人乗りの人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa;低速走行魚雷)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」が配備された。

写真(右):イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」;1940年には部隊配備され,港湾に停泊する英国艦船を攻撃して大きな戦果を挙げた。体当たり自爆攻撃ではなく,停泊している艦船の底に時限爆弾を仕掛けてから脱出する。

低速走行魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : Il Maiale (The Pig)」の性能
全長6,70 meters,幅 533 mm
潜行深度 15〜30 meters
電動モーター 1.6 HP
最高速度 4,5 knots - 巡航速度 2,3 knots
航続距離4.5ノットで 4 miles,2.3ノットで75 miles
兵装Mark I: 高性能爆弾 220 kg,後期型 高性能爆弾250 kg,最終型 高性能爆弾300 kg

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」を2基搭載したイタリア海軍潜水艦Gondar(ラ・スペッツァ港にて);1940年9月29日,ジブラルタル港攻撃と同日にエジプトのアレキサンドリア港の英軍艦船を「マイアーレ」で攻撃する計画だった。しかし,潜水艦「ゴンダー」Gondarは英軍に発見され,撃沈された。

低速人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」は,電動モーターで無音走行し,二人の搭乗員によって操縦される。そして,高性能爆弾を敵艦船の竜骨下の海底に配置し,時限爆破装置を作動させる。二人の搭乗員は,その爆破前に脱出するのである。

また,日本海軍の特殊潜航艇が真珠湾を攻撃して戦果を挙げることなく全滅して2週間と経っていない1941年12月19日,イタリア海軍の低速走行魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」3基は,エジプトのアレキサンドリア港攻撃を実施し,イギリス海軍戦艦「ヴァリアント 」(H.M.S Valiant) ,同じく戦艦「クイーンエリザベス 」(H.M.S. Queen Elizabeth),タンカー「サゴーナ」Sagonaの艦底に各々300kgの爆弾を仕掛けた。目標とした空母「イーグル」が不在だったので大型タンカーを爆破することにしたのである。(目標を誤認したわけではない。人間魚雷「回天」のウルシー基地攻撃の戦果もタンカーだった。)

写真(左):人間魚雷「マイアーレ」(SLC IL Maiale)の搭乗員:スキューバダイバーと同様の潜水服を着用する。爆弾装着後は,脱出する。

低速人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」指揮官ルイジ・ドゥランド・デラペンネLuigi Durand de la Penne中尉とダイバーのビアンチは,捕虜となった。そして英戦艦「ヴァリアント」に監禁された。捕虜となったイタリア海軍のデラペンネ中尉とダイバーのビアッチは,何の情報も与えなかったが,十分な時間が経過した後,この戦艦は爆破されるので,乗員を退避させるように警告した。

英軍は,その警告を聞き入れたが,デラペンネ中尉は独房に監禁されたままで,爆破時間を迎えた。イタリア海軍将兵は,捕虜になっても義務・任務を果たしたとして堂々としていた。英国海軍も敵の捕虜を虐待することなく扱ったようだ。

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」の攻撃で大破した英国戦艦「ヴァリアント」と「クイーンエリザベス」:スキューバダイバー2名の搭乗したイタリア海軍の人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」に攻撃され大損傷を受けた。攻撃日は1941年12月19日で真珠湾攻撃(12月8日)から11日後である。潜航艇の性能を比較すると,日本の甲標的のほうが速力もはるかに速く,攻撃力,航続距離も大きい。しかし,出撃後は生還も捕虜になることもできず死ぬだけであり、失敗は許されないという緊張感、死を免れないという恐怖は、沈着冷静さが必要な回天操縦にはマイナスに作用したはずだ。他方、イタリアの「マイアーレ」は、低速で航続距離も短いが、操縦性と隠密性では回天より優れていた。また,攻撃後,イタリアでは投降が認められており,勇戦の後の降伏は不名誉ではなかった。この寛容な将兵の扱いは、士気を高めると同時に、沈着冷静さを維持するのに役立った。

0600,イタリア海軍低速人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」が設置した第一発目の爆弾がタンカー「サゴーナ」で爆発し,燃料補給をしていた駆逐艦 「ジェービス」ともども大破した。「ヴァリアント」の爆弾は0620に爆発し,「クイーンエリザベス」の爆弾は0624に爆発した。

イギリス海軍戦艦「ヴァリアント 」(H.M.S Valiant)は,弾薬庫などに浸水しアレキサンドリア港で応急修理の後,ダーバンで1941年4月15日から7月7日までかけて修理された。戦艦「クイーンエリザベス 」(H.M.S. Queen Elizabeth),は着底し,引き揚げられた後,米国で1942年9月2日から1943年6月1日まで修理された。結局,17ヶ月以上,戦列を離れたことになる。

図(左):人間魚雷「マイアーレ」を搭載した秘匿商船「オルテラ」Olterra:The Olterra redesigned for Human Torpedo attacks

ダイバー2名の搭乗したイタリア海軍の人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」は,速度は遅いが,無音走行・後進もでき,操縦性も決して悪くはなかった。アレキサンドリア港の攻撃日は1941年12月19日で真珠湾攻撃(12月8日)から11日後である。日本とイタリアの特殊潜航艇「甲標的」と人間魚雷「マイアーレ」の性能を比較すると,日本の甲標的のほうが速力もはるかに速く,攻撃力,航続距離も大きい。しかし,操縦性と隠密性ではイタリアの「マイアーレ」のほうが優れていたようだ。また,攻撃後,イタリアでは投降が認められており,勇戦の後の降伏は不名誉ではなかった。この将兵の扱いの差異は、搭乗員の士気に大いに影響する。

さらに,ジブラルタルの英軍基地の近くのスペイン領に秘密基地を作ったイタリア軍は,そこから商船を改造し「マイアーレ」を搭載し,海面下の舷側の秘密扉から潜伏,発進した。そして,ジブラルタルの英国海軍艦艇や商船を攻撃したのである。軍艦を攻撃した際には,搭乗員の80%が生還しなかったが,防備の手薄な商船に対する攻撃では,少ない被害で大きな成果を上げることができた。

人間魚雷SLC「マイアーレ」の戦果は,1941年3月から実戦に参加し,終戦(1943年9月)までに連合国の軍艦 8万6,000 tを撃沈破,民間商船 13万1,527 tを撃沈破する戦果を挙げた。1943年9月にイタリアが連合国に降伏すると、イギリス海軍はイタリアのマイアーレを鹵獲し、イタリア人の教えを受けて「マイアーレ」を複製し特殊潜航艇「X艇」を建造し、イタリア人のアドバイスを受けて部隊を特殊部隊を訓練した。実戦に投入され、ノルウェーのフィヨルドに停泊していたドイツ海軍戦艦「ティルピッツ」やシンガポールの日本海軍の重巡「高雄」を撃破することに成功している。

写真(右):イタリア、ミラノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo della Scienza e della Tecnologia Leonardo da Vinci)、低速人間魚雷SLC「マイアーレ」;魚雷頭部には、触発信管はない。替わりに時限信管付きの炸薬が切り離しできるようになっている。この時限弾頭を敵艦船の船底に設置あるいはロープ等で固定して、乗員2名は潜水服とボンベを装備したまま脱出する。目標は、港湾に停泊している艦船で、航行している艦船を攻撃することはできない。航続距離は短いので、艦船や潜水艦に搭載され,目標近くまで運ばれた、密かに発進する。
Description English: siluro guidato detto maiale al Museo della scienza e tecnologia Date 19 November 2012, 13:46:09 Source Museo della Scienza e della Tecnologia "Leonardo da Vinci" Link back to Institution infobox template wikidata: Q947082 070MilanoMuseoScienza.JPG Link to OpenStreetMapLink to Google Maps wikidata:Q947082 Author Alessandro Nassiri
写真はWikimedia Commons File: IGB 005838 siluro guidato detto maiale al Museo della scienza e tecnologia.jpg引用。


写真(右):イタリア、ミラノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo della Scienza e della Tecnologia Leonardo da Vinci)に展示中の低速人間魚雷SLC「マイアーレ」; 全長 685cm、直径 68cm、高さ 110cm。1936年にS.L.C(Siluro a Lenta Corsa)、すなわち低速走行魚雷の秘匿名称で開発された。1941年以降、地中海のアレキサンドリア港,ジブラルタル港では、イギリス海軍の艦船・輸送船を攻撃、撃破して大戦果を挙げた。
Description Italiano: Siluro a lenta a corsa o Maiale - 1936 - museo della scienza e della tecnica - Milano - lunghezza 685cm - larghezza 68cm - altezza 110cm English: slow running torpedo dubbed "Maiale" - 1936 Date 3 February 2013, 16:53:05 Source Own work Author Stefano Stabile
写真はWikimedia Commons File: Siluro a lenta corsa o Maiale - 1936 - slow running torpedo dubbed Maiale - museo della scienza e della tecnica - Milano - 01.JPG引用。


写真(右):ミラノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo della Scienza e della Tecnologia Leonardo da Vinci)に展示している低速人間魚雷SLC「マイアーレ」; ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館Museo della Scienza e della Tecnologia Leonardo da Vinci)は、レオナルド・ダ・ヴィンチの生誕500年を記念して科学の発達と工業技術の進歩をテーマに1953年に作られた。3つの建物は、各々記念館、鉄道館、空と海の交通館とあいて、分類されている。特に16世紀の修道院を利用した記念館2階レオナルド・ダ・ヴィンチ・ギャラリーにはヘリコプターや城壁を攻撃するための装置などダ・ヴィンチの自筆の設計図や模型が展示されている。大人:10ユーロ、 子供:7ユーロ.
Description Italiano: Siluro a lenta a corsa o Maiale - 1936 - museo della scienza e della tecnica - Milano - lunghezza 685cm - larghezza 68cm - altezza 110cm English: slow running torpedo dubbed "Maiale" - 1936 Date 3 February 2013, 16:54:17 Source Own work Author Stefano Stabile
写真はWikimedia Commons File: Siluro a lenta corsa o Maiale - 1936 - slow running torpedo dubbed Maiale - museo della scienza e della tecnica - Milano - 03.JPG引用。


イタリア海軍が,低速人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」を駆使して大きな戦果を挙げえたのは,1943年当時のイギリス軍の戦備の甘さ,イタリア海軍の作戦の適切さもあったが,「マイアーレ」搭乗員たちの勇気と技能も寄与している。大胆不敵な作戦を実施できたのは,捕虜になっても,殺害されるわけでも,自決する必要もないという心理的負担の小ささが背景にあると考えられる。日本軍将兵の切羽詰った心理的負担は,訓練にあっても実技より精神修養(死の覚悟)に偏重し、実戦にあっても帰還できないというたった一回のチャンスという重圧があり、作戦にはマイナスに作用したであろう。


写真(上左):ドイツ海軍の人間魚雷「ネガー」Neger
:潜行はできず,水面すれすれを走行した。潜行可能に改良した「マーダー」もほぼ同型である。魚雷を流用した本体の下に魚雷を搭載し,敵艦戦に密かに接近して雷撃する。体当たり自爆攻撃を企図したものではない。
写真(上右):ドイツ海軍特殊潜航艇「ビーバー」Biber:小型魚雷2本を搭載する。体当たり自爆を企図したものではない。


写真(右):英国海軍の人間魚雷(特殊潜航艇)「X艇」X-Craft (Midget Submarine):全長 15,76 meter 全幅 1,8 meter 深さ 1,62 meter 浮上排水量 27 tons 潜水排水量 29,7 tons 舷側搭載重量 4 tons。特殊潜航艇 X5 Class midget submarine は、小型爆雷2発を搭載する。体当たり自爆を企図したものではないが英軍では「人間魚雷」と呼称する。X艇(とその改良型XE艇)は,1944年にドイツ戦艦「ティルピッツ」をノルウェーの湾内で,1945年に日本巡洋艦「高雄」をシンガポール港で航行不能に陥れている。

ドイツ海軍の人間魚雷「ネガー」(Neger:黒人),「マーダー」(テン),特殊潜航艇「ビーバー」Biberも,水上4.2kts,水中 3.2ktsという低速ながら,1944年6月の連合軍ノルマンディー上陸部隊を護衛する軽巡洋艦HMS DRAGON(4.850t), 掃海艇HMS MAGIC(1,110t),HMS PYLADES, HMS CATOと軍艦4隻を撃沈し,成果を挙げている。このような大戦果をイタリア海軍人間魚雷「マイアーレ」が揚げたのに対して,特殊潜航艇「甲標的」,人間魚雷「回天」は,被害に比して,戦果はごくわずかだった。



写真(右): アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル郊外、ボーフィン潜水艦博物館に野外展示されている回天四型
;アメリカ軍が戦後鹵獲して、本国に持ち帰ったもの。人間が1人が狭い魚雷の内部に搭乗して,目標となる敵艦船まで魚雷を操縦し,体当たり自爆する。精巧な機材を用いているが,故障が絶えず,機材が順調に機能したとしても,操縦性が極端に悪く,水中から目標を見定め操縦するのは非常に困難だったものの、回天一型は既存の九三式酸素魚雷の動力を流用し最高速力30ノットで実戦投入された。他方、改良型の回天四型は、T液(過酸化水素H2O2)とC液(メタノール+ヒドラジンN2H4)を混合燃焼させる新たなワルター機関を搭載、最高速力40ノットを目指した。しかし、ワルター機関の実用化に至らず、試作品も海中走行試験をしていないはずだ。回天一型と四型の諸元は、全長(m)14.75m対16.50m、 直径(m)1.00m対1.35m、重量(t)8.30トン対18.17トン、最高速力(kt)30ノット対40ノット、生産数400基対試作10基未満。搭載爆薬重量は1,550キロで同じだった。

人間魚雷「回天」の場合,一たび発進したら,敵艦に体当たりするしかないが,途中で機械が故障したり,目標を見失ってもどうすることもできない。自爆するのみである。故障しがちな機械を操り,訓練もつんできた搭乗員を,1回の出撃で,戦果を挙げることなく失ってしまう確率が非常に高い。また人間魚雷「回天」特攻では、たった1回の出撃で爆死してしまうために、実戦経験をつむことはできず,次回に生かされる戦訓も引き継ぐことはできない。搭乗員たちは,「回天」の状況や技術的問題に関して多くのメモや伝言を残しているが,これは1回の出撃しか許されないからである。強い将兵は、経験,実戦を経て養成されていくが、体当たり特攻の場合はそれが不可能であり,士気の高い戦士をたった1回の出撃で殺してしまうという意味で、非常に非効率的な作戦であった。

写真(右):伊53潜で出撃する「回天」多聞隊;1945年7月14日に発進した伊53潜には7月24日、アメリカ海軍駆逐艦「アンダーヒル」を体当たり撃沈した勝山淳中尉(海兵73期)も乗艦している。これら隊員たちの締めた鉢巻が,勤労女子学徒の手になる「血染めの鉢巻」と思われる。

しかし,「回天」は,その生産にかかわった人々に多くのものを残した。
勝山少佐は大津島で通信隊の担当をしていたが,呉へ出かけた時に,呉第一高女の女学生が血書で「日の丸」を書いた鉢巻と写真を、大津島回天隊の海兵同期全員に貰ってきてくれた。

勝山淳海軍少佐に贈られた血染の鉢巻は、回天の部品製造にあった呉第一高女生たちが作ったものである。彼女たちは,勤労動員された。前述のように呉海軍工廠水雷部操舵機工場で働いていたのである。その体験談が載っている。

「マルロク(回天)の仕事にも大分なれたころ、五人の中のだれの発案だったのか、ある案が示されたのです。みんな賛成して次の日曜日にTさんの家に集まってそのことを実行しました。そのある案とは、本当に純粋な乙女の願いとして、回天の突撃が成功しますようにと血染めの鉢巻を作ることでした。
物資の統制下のこととて新しい布はなく、私は母に昔の着物の袖裏の白いもみの布をもらい、それで丁寧に鉢巻を縫いました。鉢巻の中心に日の丸を血で染めました。自分で自分の小指を剃刀で切って、したたり出た血で丸く布を染めて日の丸にしたのです。
自分の血で染めた鉢巻は、自分が調整した操舵機を操縦して出撃する搭乗員にしめてもらうように指導員を通じて送りました。」(引用終わり)

">写真(右):人間魚雷「回天」操舵工場に勤労動員されていた呉第一高女の学生たちから「回天」搭乗員に贈られた血染めの鉢巻:受け取った峯眞佐雄氏は,搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に出せなかった」。大切に保管されていた血染めの鉢巻が,2002年に、回天記念館に寄贈された。

保存されていた血染の鉢巻の寄書
峯少尉 「日の丸」赤心 祈御成功
広島県呉第一高女 四年い組
見もやせぬ君のみすがた 目にうかべ 神々しさに頭さがりぬ  紀美子
一発必中  泰子
萬朶の花と咲き咲かん  典子
轟沈  登美子
生ける志るしあり  芳恵
誠心  千代子
萬古仰天皇  和子
昭和二十年一月二十一日
呉海軍工廠水雷部 縦舵機工場調整班 動員学徒佐光登美子

平成16年9月2日中國新聞に記載された血染の鉢巻の保存の経緯は,次のとおり。
体当たりで敵艦を攻撃した人間魚雷「回天」に乗り込む寸前に終戦を迎えた、千葉県本埜村の峯眞佐雄さん(80歳)が、当時の女学生から受け取った血染めの鉢巻きを、周南市大津島の回天記念館に寄贈した。

峯さんは1945年8月、出撃を控えて千葉県大原町に移動。しかし、搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に出せなかった」。

峯さんは毎年11月、回天の遺族らが大津島で開く慰霊祭に参列。偶然、鉢巻きが話題になり、遺族からも寄贈を勧められて「当時の状況を考えてもらえるなら」と決めた。長男の会社員峯一央さん(48)から鉢巻きを受け取った、記念館の小川宣館長(74)は「多くの人を巻き込んだ戦争だったことを示す証拠。大切に展示したい」と話している。(引用終わり)


写真(上):山口県熊毛郡平生町大字平生町210-1の阿多田交流館(平成16年11月6日に開館)に野外展示されている人間魚雷「回天」実物大模型(レプリカ); 松竹映画「出口のない海」(平成18年9月公開)で使用されたもの。この回天のレプリカは2基あった。岐山化工機(きさんかこうき)株式会社(1949年3月設立)新南陽工場が製作したもので、1基はモーターを搭載しており、スクリューが回転する。人間魚雷「回天」は、若者達の命を犠牲にして敵艦艇を撃沈するという必死の特攻兵器である。その訓練・出撃基地が山口県の大津島、光、そして平生に設置されていた。塩田だった阿多田半島に旧海軍潜水学校、そして人間魚雷「回天基地平生突撃隊が昭和20年3月1日が開隊、 同年4月17日より平生湾で訓練が開始。搭乗員は、目標艦の角度を測る射角表と秒時計で相手の位置を計算し、突撃した。この秒時計は自分の命の長さを刻むものでもあった。多くの若者達が訓練を受け、訓練中の事故や出撃、または自決によって9名が亡くなっている。 平生回天碑は 「訓練した海が見える場所に」という元搭乗員の方々からの希望で、 2004年(平成16年)に田名埠頭に移設された。そこには、「神啾鬼哭 回天の壮挙 若き生命 南海に挺し 莞爾として皇国に殉ず。悵恨 戦い時に利非ず 山河むなしく桑滄の変。さわれ至誠盡忠の赤心 日本民族の血脈に漲り 昭々無極の後世に輝く。碑を発祥の地に建立し 粛然 久遠の霊を祀る 昭和三十四年七月十八日 桑原用二郎」とあり、亡くなった9名の名前が刻まれている。
阿多田交流館(平生回天基地資料展示)では貴重な資料約300点を展示。住所:山口県熊毛郡平生町 大字佐賀3900-14 電話番号:0820-56-1100
Date Taken on 17 December 2006 Upload date: 28 November 2012 Source http://www.panoramio.com/photo/82687816 Author 伊部リコ
写真はWikimedia Commons File: 阿多田交流館(平生回天基地資料展示).jpg引用。


阿多田交流館(平生回天基地資料展示)には、次のようにある。
 平生回天基地があった平生町阿多田地区は、山口県の東部に位置します。かつて塩田だったのどかな瀬戸の半島、阿多田(ア タタ)。ここには、太平洋戦争中、旧海軍の潜水学校 さらに水中特別攻撃隊の 訓練・出撃基地がありました。当時の貴重な資料約300点と、回天のレプリカ(映画「出口のない海」で使用)を設置しております。

温暖で雨の少ない穏やかな瀬戸内式気候 に恵まれた 阿多田半島は、江戸時代から塩田によって栄え風光明媚な、平和な地域でした。しかし、太平洋戦争が始まり、のどかなこの地にも戦争の暗雲が立ち込めました 旧海軍の潜水学校建設のため、阿多田の住民は先祖から守ってきたこの土地から立ち退きを余儀なくされました。そして敗戦色濃くなった昭和19年早春、旧海軍の潜水学校を開校しました。その翌年の早春特殊潜航艇蛟龍(コウリュウ)」・「海龍」、人間魚雷「回天」の基地が造られました。
「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」 決して生きて還ることのない必死の特攻兵器。

出口のない海 戦況が悪化した昭和19年8月1日、人間魚雷「回天」が兵器として採用されました。阿多田交流館の敷地内には映画「出口のない海」の撮影に使われた回天のレプリカが展示されています 。回天を乗せた台座や海中で潜水艦から直接回天内部に入る搭乗口(交通筒)を忠実に再現しています。このレプリカは市川海老蔵扮する主人公並木浩二が回天の搭乗訓練をする場面で実際に海に浮かべ撮影したものです。

昭和19年8月、回天が兵器として採用された直後から、搭乗員の募集が始まりました。 昭和20年3月1日「回天基地平生突撃隊」が開隊、同年4月17日より平生湾で訓練が開始。 回天は、九三式魚雷2基を合体して考案されたもの。操縦は難しく、 大変危険を伴うものでした。 訓練 の内容をメモしたノート(写真)からは、さまざまな科学知識が叩き込まれた様子が伺い知れます。回天の操縦には、秒時計が不可欠でした。また、目標への突撃角度を図るために搭乗員は射角表を使用していました。元搭乗員より寄贈を受けて秒時計と射角表を展示しています。また、平生基地では訓練中の事故で3名が亡くなっており、その遺影が飾られています。

回天は前進しかできないばかりか、脱出装置もありませんでした。突撃したものの、海底に突き刺さって浮上できず亡くなる隊員もいたそうです。 酸欠で苦しんで死ぬこともあり、出撃の際には自決のための 短刀「護国」と拳銃が渡されたと言われます。

平生基地からは昭和20年7月、伊号第58潜水艦にて出撃。5名の搭乗員(18歳〜23歳)が、その若い命を失いました。当館では、突撃前に家族や友に宛てた手紙や手記を展示しています。搭乗員の一人は出撃直前まで、育てていた花に水をやっていたと言います。

終戦後自決した特攻隊長橋口大尉の「自啓録」:  特攻隊長の橋口大尉が海軍学校[海軍兵学校]入学から、平生基地で自決するまでが克明に記録されています。彼は、大変指導力があり、回天の操縦技術も優れていたと言われています。部下の出撃後、自らも血書を以って出撃を嘆願しよ うやく8月20日に特攻隊長として出撃命令を受けますが、終戦となりました8月18日未明、出撃して死んでいった部下達の後を追うように自ら命を絶ちました。「自啓録」には「後れても後れても亦卿達に誓ひしことばわれ忘れめや」 高杉晋作の句を引用した遺詠とともに多くの友の名を書き残しています。

また、平生では特殊潜航艇「蛟龍(コウリュウ)」・「海龍」の艇長や搭乗員の講習も行われ、その貴重な資料 も残されています。この平生の地で、延べ五千人の若い隊員が二、三ヶ月間の基礎訓練や教育を受け (回天平生)突撃隊基地に配属されました。(阿多田交流館(平生回天基地資料展示)引用終わり)

写真(上):アメリカ、ワシントン州、シアトル沖30キロ、キーポート(Keyport)のアメリカ海軍海底博物館(U.S. Naval Undersea Museum )の保管する日本海軍の人間魚雷マル六金物「回天」一型;魚雷頭部の炸薬は撤去されている。酸素魚雷を利用しているので、酸素ボンベが並んでいる。操縦室の空間は狭く、この中で数時間も三次元操作を行うのは非常な困難が伴う。
Photos by Retired CWO4 Tom Hodgins Volunteer at Naval Undersea Warfare Center Tom is an experienced Navy Diver
写真はU.S. Naval Undersea Museum/Naval Undersea Warfare Center Kaiten Type I One Man Submarine引用。


平生町観光協会「回天元搭乗員インタビュー」 は、戦争が終わり、61年が過ぎた2006年に収録されたもの。そこには、1.自己紹介 2.回天への志願 3.回天を初めて見たとき 4.平生基地への赴任 5.回天の搭乗訓練 6.平生基地の外での思い出 7.仲間の出撃 8.出撃命令を受けたとき 9.橋口大尉について 10.終戦 11.戦争、回天とは、何だったのか? 12.現代の若い世代へのメッセージ 13.平生町へのメッセージ と貴重な話が掲載されている。

山本 修一(富山県在住) 平生回天会会長。 操縦技術を教える指導官。

山本修一と申します。当時は宮下修一です。後で姓が変わり、山本になりました。 当時平生に居りました時の年齢は、数えで23歳でした。 海軍中尉で回天搭乗員として搭乗訓練を15回ぐらいやりました。

当時は、技量の上手な人を 集中的に訓練していました。というのも、回天は昭和19年8月に兵器として認められ、その後、年間1,000台くらいを量産する予定でした。でも生産が間に合わなかったので、搭乗員だけはたくさんいても、回天は少なかったんです。だいたい20〜30回訓練すると出撃しました。

ところが、私はちょっと失敗しまして、指導官という役に回されました。 回天のメカニズムや操縦法、時には回天に同乗して実際にやり方を指導していました。そしてそのまま終戦に至りました。ここにおられる中川さんや林さんは優秀でしたから、間もなく出撃、という運びになったわけです。

中川 荘冶(大阪府在住) 平生回天会事務局長。 予科練習生を経て回天隊へ。出撃命令を受けた。

昭和2年9月30日生まれです。終戦の昭和20年8月15日には、17歳と10ヶ月でした。 予科練習生で、飛行機に乗ることが目的でしたが、飛行機がないため金物、つまり回天に回されました。 一等飛行兵曹でした。

平生に参りましたのは、昭和20年の2月の末です。まだこれから平生基地をみんなで作ろうというときでした。作業をした記憶があります。 正式な平生突撃隊の開隊は3月1日だったと思います。それから終戦まで居りました。

記憶が定かではありませんが、8月4日には、出撃が決まっていました。伊36潜水艦で出撃する6人に選ばれていました。でも、伊36潜水艦が前回の作戦で損傷していたので、出撃は延期となり、呉のドッグで修理することになったのです。修理が終わってドッグから出たのは8月10日。 それから平生に向かったのですが、途中浅瀬なので潜航しないで、航行していたところをアメリカ軍のグラマン戦闘機から機銃掃射を受け、艦橋を破壊され再び修理することになりました。その間に終戦となり、かろうじて生き延びました。

もし、潜水艦が攻撃を受けずに8月10日に平生に来ていたら、翌11日には出撃していたでしょう。 目的地は沖縄周辺だったと思います。12日頃には敵艦に突っ込んでいたのではないでしょうか。

林 徳次(大阪府在住) 予科練習生を経て回天隊へ。出撃命令を受けた。

林徳治です。終戦当時の年齢は19歳、数えで20歳です。 階級は中川さんと同じ海軍一等飛行兵曹でした。後で知りましたが、奈良の予科練の畳の兵舎にいた頃は、中川さんの隣の兵舎だったようです。私もやはり乗る飛行機がなく、色々な基地を転々とした後、平生に来ました。私が3班、中川さんが4班。山本さんが指導官という間柄です。

私はこのお二人とは大変縁が深いのです。山本さんからは、回天に同乗してもらって指導を受けたことがあります。中川さんは8月4日の出撃が決まっていましたが、それを控えた7月24日に回天が岩と衝突する事故に遭い、額に大怪我を負われたのです。大変な重体と聞かされました。そこで、代わりに私が出撃者として指名されたのです。

夜中、副長(少佐)の部屋の前の廊下に呼ばれ、「某兵曹が負傷した。彼に代わって貴様が出撃準備せよ。」と言われたのを憶えています。ところが、8月4日,潜水艦に乗るとき、中川さんは這い出してきて、鉢巻をして乗り込んできました。ピンチヒッターの私の出撃は、それで自然消滅したわけです。


写真(右):アメリカ、ワシントン州、シアトル沖30キロ、キーポート(Keyport)、アメリカ海軍海底博物館(U.S. Naval Undersea Museum)が保管している人間魚雷マル六金物「回天」一型の司令塔・中央部;酸素ボンベの後端、狭い操縦室、電気配線、空気管、バルブが確認できる。
Photos by Retired CWO4 Tom Hodgins Volunteer at Naval Undersea Warfare Center Tom is an experienced Navy Diver
写真はU.S. Naval Undersea Museum/Naval Undersea Warfare Center Kaiten Type I One Man Submarine引用。


平生町観光協会 回天元搭乗員インタビュー(2)回天への志願には、次のような貴重な話が掲載されている。

〜回天搭乗員へ志願した時の状況や想いについて聞かせてください。〜

(山本)昭和16年12月8日に日本は真珠湾で相当な大勝をあげました。 特殊潜航艇も5基出て、英米軍の軍艦を沈めています。その後、昭和17年8月、ガダルカナル島に米軍が反撃してきて、日本はそこで大きく負けました。 新聞には負けたとは書かずに、軍が移動したとしか書いてありませんでしたが。でもアメリカ軍との技術や物量の差は大きく、比べ物になりませんでした。

例えばアメリカは、島を占領して飛行場をつくるのに、重機を持ち込んで2〜3日でつくってしまう。一方、日本はほとんどが人の手でつくるんだから、その差はハッキリしていました。 制空権をアメリカ軍にとられてしまい、その後戦況はどんどん悪化していったようです。昭和18年4月には、連合艦隊司令長官の山本長官が戦死しています。

また10月頃には、海軍兵学校士官学校などを出た職業軍人だけでは士官が足らなくなってしまい、学生を1年くらいの訓練で士官にし、幹部を補充するという予備学生の制度ができたんです。私は金沢高等工業専門学校(現金沢大学)の学生でした。21歳で受ける徴兵制度を学生の場合は延期されていましたが、それも廃止され、私は海軍を志願しました。陸軍にも合格していて、末はパイロットになる予定でしたが、海軍に行きました。昭和18年10月のことでした。

〜なぜ海軍を選んだのですか?〜

(山本) 若かった頃の感覚ですが、陸軍はドイツやフランスを真似ているからか、何か泥臭さを感じていたんだと想います。海軍はイギリスをモデルにしていて、スマートな印象を個人的に感じていましたね。

昭和18年10月ですぐに基礎訓練のため中国の旅順に行かされました。 大学生は最初から準士官待遇です。だから何もわからないのに士官の服を着て、軍艦に乗っていき、そこで4ヶ月間の訓練を受けました。それから、横須賀の学校で航海訓練を受け、その後日露戦争で使った「出雲」という軍艦で10週間の実習を受けました。

その頃、人間魚雷が考案されました。航海訓練が終わったときに、艦長に呼ばれて「特殊な兵器がある。この兵器ができれば日本は戦況をひっくり返すことができるかもしれない。志願しないか。」と言われました。その兵器の内容は言われませんでした。 当時は「嫌です。」とは言えないんです。もし言えば、どこかの戦地へ直ぐに行かされて、結局死ぬことになるんです。だから絶対嫌とは言えませんでした。 予科練の人の場合は、行くかどうか希望を聞かれたということです。でも、 予備学生の場合は「行かないか?」という問いかけがあっただけで、行かざるを得ないという状況でした。

〜その時、本心ではどんな風に思いましたか?〜

(山本) どんな兵器なのかという内容はわかりませんでした。しかも日本が負けてきてるということはわかっていましたから「わかりました。」と言うしかなかったんです。 後で聞いてみると、まず長男は家系を継ぐから駄目。長男ではなくて水泳ができる人で、目の良い人が選ばれたそうです。 私は視力が2.0でしたし、三男でした。それに考慮して、選ばれたようです。

その頃、戦地に行って帰ってきた人達はみんな、このままでは負ける。何か特別なことをしないと勝てない、負け戦ということが目に見えていました。でも私たちは、神がかりとでも言いましょうか。非常に不利だとは判っていましたが、日本は負けない、まさか負けるとは思っていませんでした。だから最後の兵器として、いわゆる特攻です。 空からの飛行機による特攻、海からの魚雷による特攻、この二つで戦局を挽回しようとしたわけです。回天には、世の中をひっくり返して戦局を挽回しようという意味が込められています。当時は金物と言われて、秘密を守るための暗号で呼んでいました。

〜次に中川さん、回天に志願した当時の心境をお話しください。〜

(中川)予科練は自発的に志願しました。 昭和18年の12月1日でした。 当時は 、戦意高揚のためでしょうか、真珠湾攻撃などの戦争映画が盛んに上映されていました。だから、そういうものに、よくわかりませんが、影響を受けたのだと思います。

(山本) 各中等学校には予科練に何名か出せ、というような命令があったようですよ。だから、校長は生徒を勧誘して、何人か出さなければならなかった。このお二人も、そのようにして声がかかって出てきたんだと思います。私は戦後、高等学校の教員になりましたから、後になって聞いたことですが、 当時の校長先生はそうして生徒を軍隊に出すことについて、非常に苦しんだそうです。いうなれば、このお二人は、その犠牲になったんだと思いますよ。

(中川) おそらくそのような指示があったのでしょう。 私は大阪府立豊中中学校にいまして、500人くらいいる中で2名ほどが応募して予科練に入りました。なぜ私が応募したのか、覚えていません。おそらくカッコいい戦争映画を観た、その影響だろうと、今になって思いますが、定かではありません。聞いた話では、米子中学などはクラスを挙げて予科練に何十人入ろうっていう、そういう風にしてたくさん予科練に入った学校もあったようです。

特攻というイメージではなくて、「飛行機に乗れる」という感じで入ったわけです。でも、実際には乗る飛行機がない。そこで、昭和19年の夏、みんなが講堂に呼ばれて士官の方から、回天に乗るかどうかの意思表示を求められたのです。 100%は憶えていませんが、たしか講堂の窓を全部閉めて薄暗くして、教員を外に追い出して士官の方だけが周囲を囲んで説明が始まりました。

戦況は悪いとはいわなかったが、苦しいというようなことを言われたと思います。そして、乗る飛行機はないが、特殊な兵器があるのでそれに希望しないか?と。これはあくまで任意だと言われて、紙切れを渡され、それに名前と、希望する者は○印を、希望しない者は×か、何も書くなということでした。われわれは熱望すると二重丸をして出しました 何に乗るなどは知らされてなくて、とにかく特殊なものだと、命の保証はできないと言われたかもしれません。人間魚雷「回天」なのだという意識は、当時なかったです。


先ず行きましたのは、長崎県の 川棚魚雷艇訓練所というところに行きました。金物、「震洋」(シンヨウ)というモーターボートがありました。モーターボートの前に爆薬をつけて突っ込むという特攻兵器です。そこで基礎訓練を1ヶ月受けて、それから回天の方に移りました。それは、私たちの希望ではなくて、強制的にコースとして決められていたようです。

〜そのような特攻の兵器に乗るということについて、家族には何か連絡はなかったのですか〜

(全員) それは、ありませんでした。最後までなかったです。秘密兵器ですから・・・。

〜林さんの志願の状況を聞かせてください。〜

(林) 戦後、聞くと奈良の航空隊でも中川さんとは隣の軍隊で同じ兵舎にいたようです。 中川さんと同じように講堂で一緒に聞きました。雨戸も閉めて真っ暗にして、各班長、教員、下士官も全員追い出されました。

言われた言葉は覚えてるというよりも、むしろ戦後の読んだ記録や本からの影響が大きいと思います。
映画「出口のない海」に出てきたシーンとほぼ同じだと思います。でも、 予備学生の山本さんの場合は、さっき言われたように、一期先輩ですから、逃げ道のないような志願のさせ方だったようです。

(山本) 私の同期でも希望をとったところもあるようですよ。 例えば東京大学出身の和田稔さんは、長男でした。 彼は回天を希望したけれど、長男だからという理由で一度は拒否されたそうです。でも、どうしても志願したいという希望から、許されて採用された。ということもありました。 彼は、結局、回天の訓練中に行方不明になって、戦後に、亡くなった状態で発見されましたが・・・。

〜特殊な兵器に乗るかどうかを問われたとき、その紙に×を書いた人はいたのでしょうか?〜

(全員) いないでしょう。

(林) 戦友会をしたときに、わたしが一重丸を書いたような気がすると言ったら、全員が「うそだ」と言いました。みんなが「二重丸を全員書いたじゃないか」と、言っていました。だから、×を付けた人はいなかったのでしょう。 私は、一重丸を付けたと思います。なにせ、ゼロ戦に乗りたいと思って予科練に入りましたからね。


写真(右):アメリカ、ワシントン州、シアトル沖30キロ、キーポート(Keyport)アメリカ海軍海底博物館(U.S. Naval Undersea Museum )の保管する人間魚雷マル六金物「回天」一型の中央部の操縦室;潜望鏡(ペリスコープ)が司令塔前端にある。出入り用のハッチの外側(上側)にはバルブなどの開閉装置はついておらず、ハッチ内側(下側)についている。つまり、操縦室と外気・水圧の問題がなければ、操縦者が自ら出入りできる構造になっている。ただし、外側に追加部品を装着すれば、外側からハッチの開閉が可能だった。操舵は人力で、電動で作動するのではないようだ。
Photos by Retired CWO4 Tom Hodgins Volunteer at Naval Undersea Warfare Center Tom is an experienced Navy Diver
写真はU.S. Naval Undersea Museum/Naval Undersea Warfare Center Kaiten Type I One Man Submarine引用。


平生町観光協会 回天元搭乗員インタビュー(3)回天を初めて見たとき (4) 平生基地への赴任 には、次のような貴重な話が掲載されている。

〜では、初めて回天を見たとき、どのように感じましたか?〜

(山本) 私がはじめに見たのは、倉橋島(広島県呉市)、当時はP基地と言っていました。そこの海岸に魚雷がありました。 何人かで見て「あれが、貴様らが乗る回天だ!」と言われました。その黒い鉄の塊をみて、本当にビックリしましたね。ある程度は覚悟をしていましたが・・・まさか、これに乗って行くんだとは・・・これに乗って行ったら最後だと、直ぐにわかりましたね。みんな、それを見て、黙りましたね。

(中川) 「出口のない海」で光工場の中を歩いて回天を見に行くという場面がありますが、そんなことはなかったですね。工場の中なんて、歩いたことはなかったですね。 〜映画のシーンのように、回天のハッチを開けて見せてくれましたか?〜

(林) ハッチを開けて見せてもらいましたよ。ゾッとしました。そうやって回天を見る前の話ですが・・・。 山本さんの一期後輩の方で、私の兄の親友がいました。その方と親しくしていて、いろんな情報が入りました。短波放送を聴いたりされていました。回天には、生還装置や脱出装置があるのかないのかを暗号で交信していました。それで「脱出装置はない」という事が分かったのです。私はそれを聞いて、もうゾッとしました。

〜平生基地に行ったときの印象を教えてください。〜

(山本) 2月初めでしたか、平生基地の建設時から行きました。酸素の工場を作るために穴掘りをしましたよ。造成工事ですね。穴を掘って土を運びました。回天は酸素と石油で動きます。 だから、酸素工場が必要でした。中川さんは、それが縁か、戦後は酸素の会社に勤めましたが・・・。そうやって、3月1日に開隊しました。

(林) 一言、言っておきたいのは、平生の基地の雰囲気は本当に穏やかだった。 海軍にもこんなに穏やかな基地があるのか?というぐらいでした。ビンタはないし、棒を持ってくることもないし・・・。光基地とは全然違いました。

(中川)「鬼の大津島、地獄の光」と言われまして、平生は「極楽の基地」でした。

(山本)それはねぇ、司令や特攻長の人柄ですよ。澤村司令は、自分の子供みたいな私たちが、死ぬ事が決まっているのに、何故、苦しめないといけないのか?そんな考えでした。

その前に光基地にいましたが、その時には、もう毎晩、殴られました。晩には研修会があって、「何故、そんなことをした」「お前の技術が悪い」等と強く責められて、部屋に帰っても殴られました。

(中川) 予備学生の方は、兵学校出の士官連中には、かなりいじめられていたと思います。 彼らは兵学校で3年から4年、それからしばらくして初めて少尉になれるのに、、予備学生は一年くらいで少尉になったからです。そういう妬みがあったんでしょう。

私たち予科練習生はそこまでいじめられることは無かったですよ。それでも光ではよく殴られましたが・・・。でも、平生で殴られた記憶は、一度もありません。その澤村司令と私のお袋は同じ明治32年生まれです。だから、私たちは司令にしてみれば子供みたいなものですよ。

(山本) 光基地だったら、操縦もしたことのないような上官が来て、理論だけで、二人がかりでめちゃくちゃに責めてきました。でも、平生基地の澤村司令はそんなことはありませんでした。失敗をしても、眠ったふりをしている。まるで かわいい子供のような、それが死に行くことが決まっているのに、なぜ、責めなきゃいかんのか?と、そんな人でした。


写真(右):アメリカ、ワシントン州、シアトル沖30キロ、キーポート(Keyport)、アメリカ海軍海底博物館(U.S. Naval Undersea Museum )が展示している日本海軍人間魚雷マル六金物「回天」一型の前部に並んでいる酸素ボンベ;酸素ボンベは、高圧で圧縮しているために小型だが、引火のリスクがあった。空気管・バルブも工作精度が低ければ、空気漏れのリスクがあった。
Photos by Retired CWO4 Tom Hodgins Volunteer at Naval Undersea Warfare Center Tom is an experienced Navy Diver
写真はU.S. Naval Undersea Museum/Naval Undersea Warfare Center Kaiten Type I One Man Submarine引用。


平生町観光協会 回天元搭乗員インタビュー(5)回天の搭乗訓練 には、次のような貴重な話が掲載されている。

〜そんな穏やかな雰囲気だった平生基地でも、訓練自体は厳しかったのでしょうか?〜

(山本) 訓練は、それは必死です。そんな何も考えている暇なんかないです。自分の命に関わることですから、言われなくても必死です。岩にぶつかったり、沈没して海底にぶつかったり、襲撃目標にぶつかったりして、それはもう真剣にならざるを得ませんでした。

(中川)回天に乗りましてね、むしろその後、夜、研究会というのがあってその日の報告をしたり、意見を言ったりして、回天に乗るのは苦しくはないけど、後の研究会の方が恐かったですね。

〜回天に乗ることは面白かったのですか?〜

(全員)面白いと言うより、夢中でした。とにかく夢中でした。

(山本)訓練で乗るのは選抜された優秀な人ですから、みんなは羨望していました。でも、失敗しようものなら、帰って来たときに偉い人たちが並んでいて、殴ったりして・・・

(林) 訓練中のことで、こんな話もあります。 平生回天会副会長の藤田さんが残された記録によると、訓練で駆逐艦から回天を発射させたときのこと。 同乗者と二人で乗っていて、誤って、水中5mくらいで長島の端に回天をぶつけてしまいました。 損傷して水が中に入ってきて、ハッチは水圧で中から開けることがでません。でも、水がたくさん入ったとき、回天の外と中が同じ水圧になって、ハッチが開き、助かったそうです。

〜今日は平生町の阿多田交流館から特別に秒時計をお借りしてきました。これを使って操縦されたそうですね。〜

(中川) これをこのまま首にぶら下げていましたね。この秒時計は中島さんが交流館に寄付した本物ですよ。

(林) 時々、時計が止まることがあったんですよ。 押し忘れることもあったりして。例えば時計を止めて、針を戻さなきゃいけないのに戻し忘れたりしてね。

映画「出口のない海」では操縦の様子が描かれていましたが、その動きを実際に覚えていますか?〜

(中川)「出口のない海」のシーンでは、バルブを開くと言いながら、実は手は閉める動作をしていましたね。 あれは反対です。

(山本) 回天に入るときには、上からハッチを開けて、入って、ハッチを閉めてもらって、トントンとノックしてもらって。それからだいたい20位の操作がありました。 色々な空気の弁を開いたりして。それを全部やらなきゃいけない。それからエンジンを始動します。

(中川) 何度の方向に行くかは、ジャイロスコープ(物体の角度・速度を計測する機器)が付いていたので自動的に行く方向は指してくれる。そして、操縦者はこの秒時計を使って、何秒走ったから、今はどの辺りにいるのかを計算して、動きました。だから、ジャイロスコープとこの秒時計は絶対の必需品。それがもし無かったら、水の中を潜っていて、何もわかりません。

(林)これは先ほど話した、事故をした藤田さんの航行記録です。進んだ角度が全て記されています。 このときの2号艇には、私が乗っていました。なんとそのときには、こちらの山本さんも指導官で同乗されていました。 実は、山本さんは、私の回天に同乗される1週間前に、祝島(上関町)に回天で乗り上げるという事故を起こされています。

(山本) そうです。その事故のために、出撃が後に回されて、指導官になったわけです。指導官として同乗しますが、林さんの手元を見ているだけで、何もすることはなかったですね。ただ、こんなことがありました。いくらエンジンを吹かしても前に進まないと言うんです。それで、見てみると、漁業の網に回天が引っかかって、前に進めない状態でした。でも、もし、網がなかったら、あの時は島にぶつかっていましたね。 回天は網があると、攻撃はできませんでした。当初回天は、停泊している艦艇を攻撃していました。でも、その内、敵は回りに網を張るようになりました。だから、航行中の艦艇を攻撃する訓練に変更になりました。

(中川) 網の問題もありますが、回天操縦の一番の問題点はバックできないことです。とにかく走り出したら、ぶつかるまで走り続けるのです。

(山本)回転半径も大きくて、200m位ありました。それを考えて方向を決めなければならない。

〜訓練中に、もう死ぬのかもしれないと思われたこともありますか?〜

(山本) そうですね。祝島(上関町)にのし上げたときには、もうダメだ、と思いましたね。

(林)あのときは、私も見ていましたが、3ノットくらいのとても低速でゆっくりと島に向かっていって・・・。 みんなで「なんでだろう」と言っていると、異常を知らせる発音弾も投げ込まない内に、とうとう島にのし上げてしまった。その後、潮が引いたとき、海岸べりにあったトウモロコシ畑の葉っぱをもってきて、回天を隠しました。その時に、近所の人がくれた枇杷(ビワ)が美味しかったなぁ。

(山本)実は、頭がボーとしていて、どこを走っているのか、わからない状態になっていました。というのも、回天に長い時間乗っていると、船内に炭酸ガスが溜まってしまうんです。その影響だと思います。

(林)そうだったんですか。私はボートに乗って、山本さんの回天の前を横切って、手旗を振って危険を知らせたんですよ。でも、それにも気付かずに、そのままとことこと走ってしまった。

(山本)あの時は、スピードがゆっくりだったから、良かった。もし、早かったら、死んでいますよ。


写真(右):アメリカ、ワシントン州、シアトル沖30キロ、キーポート(Keyport)アメリカ海軍海底博物館(U.S. Naval Undersea Museum )が保管・展示している日本海軍人間魚雷マル六金物「回天」一型の後部;九三式酸素魚雷の動力を利用した回天の動力装置。
Photos by Retired CWO4 Tom Hodgins Volunteer at Naval Undersea Warfare Center Tom is an experienced Navy Diver
写真はU.S. Naval Undersea Museum/Naval Undersea Warfare Center Kaiten Type I One Man Submarine引用。


平生町観光協会 回天元搭乗員インタビュー(6)平生基地の外での思い出には、次のような貴重な話が掲載されている。

〜基地の外、平生町での思い出をお話し下さい。〜

(山本) 私は、平生の街にほとんど出ることはなかったと思います。 隊内は男ばかりだったから、たまに街に出たとき女の人を見ると、みんなきれいに見えましたね。それしか、覚えていませんね。徳山[徳山海軍燃料廠があった]には偉い人が飲みに行くときに付いて行きました。徳山[徳山港を防衛する海軍徳山警備隊があった]の大きな旅館でしたね。思い出といえば、隣の潜水学校の生徒と私たちでラグビーの試合をしたことかな。実は私はラグビーの監督をやったことがあったもので・・・。回天隊のみんなはラグビーを知らなくて、最初は負けたんです。だから、何をしてるんだ!と気合を入れたら、なんと、次の試合は勝ちましたよ。

(林) 私の最初の、平生町[光市東15キロ]での思い出は、平生町[田名埠頭に回天碑がある]に佐賀という漁港がありますよね。そこにクラブがあったんです。クラブというのは海軍が民家を指定して、日曜日になるとそこにみんなが遊びに行けるようになっていました。・・・ と言ってもそこに行ってお茶を飲むだけなので、一度行ったきりでした。その時、丘を越えて行く途中、奈良の飛行隊で一緒だった二等兵曹とバッタリ出会いましてね。それが、平生町での最初の思い出です。あとは、平生の写真館へよく行きました。 美人の姉妹がそこに居たのです。そのときに撮った写真を持ってきました。一緒に写っている連中と一緒に、よく写真館に行ったものです。

それと、馬島の頂上に見張り所がありました。そこに行くときには民家の間を抜ける道を通ります。たまたま行ったときに、モンペ姿の若い女性が民家の間を横切って家に入ったのを見かけました。それをみんなに言ったら、それからは、搭乗訓練のない者たちはみんな馬島の見張りに押し寄せるようになりました。みなさんが言われるように、それはもう、女の人はみんな、天使に見えましたから。

〜毎週日曜日はお休みだったんですか?〜

(全員)日曜は訓練は休みでした。 土曜日も昼からは休みでした。

〜平生の人たちは、回天の基地があったことを知っていたんでしょうか?〜

(林)知らなかったでしょう。

(中川) 潜水学校の奥にあったわけですから、潜水艦がいたという記憶はあるでしょうね。

(林) 平生湾[海軍潜水学校柳井分校]には、ボロボロの古い潜水艦が1隻つないでありましたから。だから潜水学校がある、という意識だと思います。聞かれた事もないです。ただ、さっき話した二等兵曹に、沖でゴオーッという飛沫を出して潜るものがあるが、あれは何だと聞かれた事はあります。詳しくはいえないが、特殊兵器に乗っていると言うと、うらやましそうにしていましたね。その内、回天は改良されて、飛沫が出ないようになって、スッと潜れるようになりました。

(中川)恐らく、漁師さんは知ってたでしょうね。漁をする横を走るんですからね。

〜中川さんは外出した思い出がありますか?〜

(中川)私は基地の外に2回ほど出たことがあります。橋口大尉のオート三輪の横に乗って、橋口大尉が下宿している家へ行きました。それも平生の山手だったという記憶だけあります。 余談ですが、映画「出口のない海」の並木少尉が思いを寄せている女性がありましたね。「美奈子」さんという。実は、私の相手も「美那子」でした。当時、文通していて、初恋の人でした。一文字だけ漢字が違いましたが・・・。手紙が平生によく来ていました。だから、俺と似ているなあと、思って映画を観ました。

〜「美那子」さんは平生に会いに来られたのですか?〜

(中川)いえ、そんなことはありません。私がどこにいるのかさえ、知らなかったはずです。手紙は呉局の番号だけで、私のところに届いていました。

〜終戦後、「美那子」さんとはどうなりましたか?〜

(中川) 結婚はしてませんけど。戦後、帰ってすぐに会いました。同い年で。私も純なところがあったので・・・。

〜山本さんには、そのような思い出はありませんか?〜

(山本)僕はありませんね。話を聞いていると、私の方が年齢が上ですから、少し違うなあという気がします。


写真(上):アメリカ海軍海底博物館(U.S. Naval Undersea Museum)の保管する日本海軍の人間魚雷マル六金物「回天」一型の尾部
;九三式酸素魚雷の動力を利用した回天のスクリューと動力伝達装置。
Photos by Retired CWO4 Tom Hodgins Volunteer at Naval Undersea Warfare Center Tom is an experienced Navy Diver
写真はU.S. Naval Undersea Museum/Naval Undersea Warfare Center Kaiten Type I One Man Submarine引用。


平生町観光協会 回天元搭乗員インタビュー(7)仲間の出撃には、次のような貴重な話が掲載されている。

平生基地からは伊58潜水艦が出撃していますが、その時出撃して行った仲間の様子について教えてください。〜

(山本) 伴中尉が隊長で、水井少尉が副隊長でした。後4人は予科練の人達でした。そのうちの一人は結局、出撃できなくて、帰ってきました。

(中川) 映画にもありましたが、潜水艦が海の中を走る時に、塩水の中で、エンジンがおかしくなったり。攻撃する前に敵に見つかって、深く潜って爆雷を受けて、傷んでしまったりして、役に立たないというような事がありました。そんな時は、基地に帰ってくるしかなかったのです。でも、帰ってきた人は、また次の出撃に早く出されていました。中には2回も3回も故障で帰ってきた人もいますよ。

(山本)平生の場合は伴隊長の班がはじめて出たんですが、出る何日か前に司令官の命令で出撃する6人を別府温泉[1942年2月,軍務局令で保養地開設]に行かせました。光基地[1944年11月開設]の場合は、もし隊員に奥さんがいたら呼んで何日間か一緒に暮らさせたようです。ただし、奥さんにはその出撃のことを言わないように、という約束だったようです。

〜温泉から帰ってきた隊員の様子はどうでしたか?〜

(山本)出撃の前の日に別府温泉[フグ料理の料亭もあった]から帰ってきました。その時、私は、非常に感心しました。 特に、林(義明)なんかは、悟りきったようになって、人はこのような状況になったときに、こんな風になるものかと・・・。そもそも回天の搭乗員になって、訓練を始めたときには、とにかくビックリしますね。それからだんだんと、自分は死ななければならないと、思うようになる。平生や光の基地に桜の木がありましたが、この桜が咲く時期には、自分は生きているのかなと・・・死を覚悟するわけです。それでも人間ですから。夜中になると、一人で色々と考えてしまう。もう一回、母親に会いたい、もう一度、この姿を家族に見せてやりたいなあ。と思う。決して誰も口には出しませんが・・・。でも、そんな不安のようなものを、一生懸命訓練したり、話し合いをしたり、酒を飲んだりして、紛らわせていたと思います。そんな気持ちを誰しもがもっていたはずです。

なのに、別府温泉[亀川海軍病院 もあった]の休養から帰ってきたとき、林(義明)などは、花の鉢に水をやっていました。 明日、出撃して死ぬというのに・・・。私だったら、とてもそんな気持ちになれないな、と思いました。恐らく彼は、覚悟したんだと思います。そして、その夜、私は、出撃する小森や伴たちと酒を飲みました。いよいよ明日、出撃しますと言うので、「しっかりがんばれ。わしも後から直ぐに行くぞ」と言ったのを覚えています。そして次の日、祭壇を作って、神主さんが祝詞をあげて、彼らは鉢巻を締め、そして、連合艦隊司令長官[豊田副武]からの短刀を司令官からもらって、それから、潜水艦に乗り込みました。 潜水艦の上の自分が乗る回天の上に立って、日本刀を振りかざして、そして出て行きました。 私たちは帽子を振って見送ったのです。

当時、多くの人は、表向きには、回天に乗って早く行きたいと言っていました。選抜されて先に行く人を非常に羨むようなことを言っていました。でも、早く行きたいという理由には、私は2つあると思います。1つは、使命感。我々の家族なり恋人なりそういう人を救いたい。救うためには我々が回天に乗って行くしかないんだという使命感です。もう1つには、厳しい訓練から早く逃れて、楽になりたいという気持ちもあったと思います。 特に光基地[光海軍工廠が1940年10月開設]の場合は訓練が物凄くひどく、もう殆ど休む暇はありませんでした。そういう苦しい思い、「死ぬ」という心の中の重荷、それから早く逃れたいという気持ちです。

例えば東京大学のある予備学生なんかは、光基地の厳しい訓練で形相が変わっていたね。家族には国のためにやるんだと、言っていましたが、片方では、そういう苦しい訓練から早く逃れたい、という思いを持っていました。出撃が決まって、実は、ホッとしたという気持ちを持つ人もあったようです。

(中川)光基地[回天出撃12回]にいたころには、私も同じような思いでしたね。でも、後半の平生基地[回天出撃2回]では、極楽ですから、そのような気持ちはありませんでしたね。

平生町観光協会 回天元搭乗員インタビュー(8)出撃命令を受けたときには、次のような貴重な話が掲載されている。

(中川) 私は、出撃が決まった後に、こんな風にメモをしています。「体当たりまであと旬日。ひと目、家の者たちに、親類に、お別れしたい。これまでが人情だろう。しかし、よく考えてみよう。果たして、会うだけで心残りが飛ぶだろうか?未練が一層強く残るのではないか。こんな女々しいことで5万トンの敵を轟沈できるか?底からの声を奮い起こせ!男らしくやれ」 〜それは自分を励ましていたのですか?〜

(中川)このような状態が当たり前だと、思っていたのでしょうね。今と全然時代が違いますし、そのような軍国教育を受けてきたからなのかもしれません。とにかく早く出撃したいなというような気持ちが、ほとんど全てでした。だから「死」という意識が、恐らく無かったと思います。 行けることなら早く行きたいという感じになってました。だから終戦になって、一時、呆然としてました。終戦ということも、宿舎の前で聞いたのか、あるいは訓練に出ていたのか私は覚えていません。

(山本)そうやって、自分を納得させたんですね。もう、追い詰められて、どうにもならない状況です。 逃げるわけには行きませんし・・・。潜水艦に乗って出撃して、その潜水艦の中でも、やはり、そんな気持ちだろうと思います。

(林)たった一回ですが、潜水艦に入ったとき、異様な雰囲気を感じました。潜水艦の乗組員が私たちを見る眼が異様でした。 新米もベテランも、下士官たちは私たちを避けて通るようにして、こちらから声を掛けないと話しかけてきませんでした。 唯一、乾パンを持ってきて、「どうぞ食べてください」と言われたことがありました。 恐らく、「あいつらは死ぬのだから、話をするな」と、禁じられていたのではないかと思います。

〜林さんは出撃命令が下ったとき、どんな思いでしたか?〜

(林)まだまだ先だと思っていました。搭乗の組み合わせを見たらだいたい順番が分かりますからね。そんな時、中川さんが負傷した代わりに、出撃せよと命じられました。その時のことを、戦後に結核で入院していたときに記したメモがありますので、これを読みます。

(メモより) 昭和20年7月に突然呼び出されて副長室をノックしたところ少佐は廊下に出ていきなりこう言った。「出撃予定の某兵曹(中川さんのこと)が負傷した。貴様は彼に代わって出撃の準備をせよ」。この時のショックは言葉には出来ない。空襲を警戒して暗幕で囲った薄暗い廊下を忘れることは出来ない。この後出撃予定が延び、某兵曹の傷は治った。その後、少佐からは何の言葉もない。戦後、東京で少佐に会ったが忘れたと言われた。

今も、その廊下での光景が、未だに記憶にありますよ。その点、中川さんは純粋でしたね。 「早く行きたい。出撃したい」という気持ちが100%という感じでした。でも、私は80%もない、正直に言って60%ぐらいです。その頃、親友たちとは、「エスケープ」そういう言葉を使って、逃げ道がどこかにないかって、話していましたから。

〜人によって、意識に違いがあったわけですね。〜

(山本)そうですね。予備学生の大半は大学等で、色々なことを考えて過ごしてきています。 例えば、訓練で行方不明になって、戦後に亡くなった状態で浮かび上がった和田稔さんなども、人間魚雷が兵器として許可されていなかった時に、こんな風に言っていました。 「人間魚雷のような逃げ道のない兵器でやらなくちゃいけないような、悪い戦況になっているんだ」と・・・。 そういう事で悩んだ人もいますね。

平生町観光協会 回天元搭乗員インタビュー(11)戦争、回天とは、何だったのか?には、次のような貴重な話が掲載されている。

〜そうして戦争が終わり、61年が過ぎました。みなさんにとって戦争、回天とは一体何だったと今思われますか?〜

(山本) 日本がほとんど負けかかった時に、挽回しようとして考えたのが特攻です。 飛行機は自分の意志で帰ろう思えば帰られるかもしれない。でも、魚雷というのはそれに入ってしまうと、これは、帰ることが絶対にできないんです。もう100%死の兵器です。 飛行機は500kg位の爆弾ですが、魚雷の場合は1.5tです。だから、当時はどんなに大きな軍艦でもこれ一発で轟沈できた。この魚雷に人を乗せて眼を付ければ、百発百中できる。これが回天の発想だった。

ところが、人が乗って眼を付けたと思ったけれど、水中では何も見えないし、潜望鏡は水しぶきで曇って見えないんです。 結局、潜水艦を離れて、5分後くらいに一度、浮き上がって、敵を見てぶつかるという感じでした。そんな感じだから、百発百中ということにはならない。この兵器は机の上で考えるほど立派な兵器ではなかったという事です。だから訓練中でもたくさんの人が亡くなるということにもなりました。

〜そういう不完全だったと思う、その兵器のために、青春時代を過ごされたわけですね。〜

(山本)そうですね。 中川さんのように純粋な気持ちでした。本当に、我々が死ななければ、日本は大変な事になる、というような気持ちでした。予備学生の中には、一応志願はしてみたけど、やっぱり考えてみたら・・・。それは絶対に死ぬ兵器ですから、そこで考えますね。 普段は訓練に一生懸命でなかなか考える余裕がない。口に出す者は誰もいませんでした。でも、心の底では、やっぱりここで死んでしまうのか、もう母親の顔を見ることができないんだと、誰しも考えていたと思う。そこで悩みました。

(中川) 私にとっては、回天で出撃できるというのは、一つの大きな目的でした。それだけしか考えていませんでしたから。戦後、会社勤めをして、会社を発展させるという目的を持ったこともあります。でも、回天ほど命をかけてする目的というものは無かった。 良いか悪いか分かりませんが、青春時代の思い出というか、あれだけ一心不乱に命を捨ててかかれるような目的というものは他にはありませんでした。だからこの歳になって思えば、人生にとって大きな出来事だったんだなという想いがあります。あれほど一生懸命になれた、ということは戦後、ありません。

(林)なぜか私の場合は、最悪の事態まで行くけども、必ず救いがある。 回天もそうです。中川さんの代わりにお前が死ねと言われて、11日に出撃するはずだったけど、潜水艦が機銃にやられて引き返したでしょう。もし、中川さんが復活しても、その次は、山本さんの部隊のはずでしたし・・・。それから、戦後、専門学校に復学しましたが、結核で吐血しまして、5年ぐらい療養生活をしました。1年間に3回大手術をしてます。それでも、なんとか生き延びた。

それから和泉市役所に入りました。その頃、大学卒業者とくらべると待遇が悪かった。そこで、労働組合を作り、委員長として、5年間で、有名な賃上げを勝ち取りました。 新聞にも私の談話が載りましたよ。


写真(上左):米国の女性工場労働者米国航空機生産計画によると,生産数は1957機(前月実数1811機)で,これは英国の生産数1688機,カナダの生産数98機を上回る。そして,外国への供与予定機数は,ロシア275機,オーストラリア106機,インド40機など,世界の兵器庫として企画されている。写真(上右):1942年6月カリフォルニアの航空機工場で働く米人女性労働者。;Woman aircraft worker, Vega Aircraft Corporation, Burbank, Calif.

1944年に米国は,14万機もの航空機を製造したが,航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。日本で学徒勤労動員された女子と間接的に殺しあうことになった。双方とも祖国,家族を守ることを大義名分にして。


写真(上):アメリカ海軍輸送艦「ネショーバ」NESHOBA APA 216(排水量1万4,833t)乗員のSwede Larson-Ray Allen(写真左)とWavrin-Ray Allen-Sullivan-Klein-Reiger(写真右)
;人間魚雷「回天」が撃沈しようとした米軍艦船の乗員も若者である。轟沈の響きの中で、米国人の命も失われる。「回天」特攻隊員や「回天」の生産に従事した勤労学徒は、このような米国の若者の命を奪いたかったわけではないであろう。相手への憎しみがあったのか。なぜ、日米の若者が、殺しあうことになったのか。
輸送艦「ネショーバ」は速力18ノット、貨物積載量2,900トンの大型輸送艦である。
1945年4月沖縄攻略に参加し、グアム、真珠湾、グアム、沖縄、サイパンと輸送任務に従事し、そこで終戦を迎えた。マリアナ、沖縄は、人間魚雷「回天」が頻繁に攻撃した海域である。サンフランシスコに帰還後、日本占領軍を東京湾に運んだ。NESHOBA PICTURES FROM RAY ALLEN( Amphibious Forces of WWIIより許可を得て写真掲載)


写真(右):1944年12月1日、伊号第56潜水艦で出撃する回天特別攻撃隊「金剛隊」;ニューギニア島北岸のマヌス島アドミラルティ基地に向かうも警戒厳重のため攻撃不能で,1945年2月3日帰還。しかし,多々良隊として,4隻の潜水艦で1945年3月28日に沖縄海域に出撃するも,消息不明。6名の回天乗員とともに艦長正田啓治少佐以下122名戦死。(→回天特別攻撃隊潜水艦戦死者名簿

故勝山 淳海軍少佐「最後の書簡」 
 拝啓、御両親様はじめ皆様益々御元気に御過しの事と拝察致し居り候。
降て不肖淳相変らず頑健、一意専心本務に邁進致し居り候間、御休心遊ばされ度く候。
戦局正に逼迫、真に神国興廃の決す秋、不肖、唯不撓の精神、旺盛なる体力、体得せる技を以って醜敵を撃滅致し、大御心を安んじ奉らんと期し居り候。右取急ぎ一筆相認め候。
末筆乍ら皆様の御健康を祈り上げ候。
                   敬具
                   淳拝

平成16年9月12日中國新聞に記載された人間魚雷の島の案内役は,次のとおり。
周南市大津島の回天記念館。案内役の安達辰幸さん(71)が60年も昔の記憶をたどる。この島で生まれ育ち、1944年11月8日朝、人間魚雷「回天」の菊水隊が「伊36号」など三隻の潜水艦で出撃するのを見送った。
華々しい出航という記憶はない。「生き神さま」と呼ばれた搭乗員たちに手を振ると、軍刀を振って応えてくれた。
「悲壮感はない。それが当たり前で、うらやましくもありました」

搭乗員たちは今の記念館の近く、士官宿舎に住んでいた。安達さんらも野菜を持って訪ねたこともある。回天のことは知っていたが、秘密兵器ゆえ口にできない。一方、兵士たちはひもじかったのか、住民たちに食べ物をせがんだ。ふかしたサツマイモを夜、石垣の間に差 し入れしたりしたという。(引用終わり)

写真(右):1945年2月21日、伊号第370潜水艦(輸送用大型潜水艦)に搭載され回天特攻「千早隊」が出撃。伊370潜は、輸送潜水艦で、魚雷装備は貧弱だったが、人間魚雷「回天」5基を搭載できる排水量があった。硫黄島近海に到達したが、1945年2月26日、伊370は米駆逐艦「フィネガン」により撃沈された。「回天」は発進できず、潜水艦搭乗員もろとも全滅した。

1945年2月21日、回天特攻「千早隊」
 海軍第一潜水部隊は硫黄島を包囲する米艦隊を攻撃するため、伊44(回天4基搭載)・伊368(同5基)・伊370(同5基)の3隻で「回天特別攻撃隊千早隊」を編成した。出撃は1945年2月21日で,2月25日には硫黄島近海に到着した。しかし、2月26日に伊370が、駆逐艦「フィネガン」FINNEGAN (DE-307)に、翌27日には伊368が護衛空母「アンティオ」USS ANZIO (CVE-57)搭載機によって撃沈された。

写真(右):1945年2月26日、伊370潜水艦を撃沈したアメリカ海軍エバーツ級駆逐艦「フィネガン」USS Finnegan (DE-307)排水量: 1,140 (std), 1,430 tons (full)
兵装: 3 x 3"/50 Mk22 (1x3), 1 x 1.1" / 75 cal. Mk2 quad AA (4x1), 9 x 20mm Mk 4 AA, 1 Hedgehog Projector Mk10 (144 rounds), 8 Mk6 depth charge projectors, 2 Mk9 depth charge tracks
機関: 4 GM Model 16-278A diesel engines, 6000 shp, 2 screws
速度: 19 knots 航続距離: 4,150 nm @ 12 knots 乗員: 15 / 183。


U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945
2/26の米海軍艦艇の損害
軽巡洋艦PASADENA (CL-65), by naval gunfire, 本州南部、31 d. 20'N., 141 d. 15'E.
駆逐艦 PORTERFIELD (DD-682), by naval gunfire, 本州南部、33 d. 10'N., 143 d. 30'E.
掃海艦 SAUNTER (AM-195), by mine, ルソン島近海、14 d. 17'N., 120 d. 38'E.
戦車揚陸艦 LST 121, by collision and grounding,硫黄島近海、24 d. 46'N., 141 d. 19'E
LST 760, and LST 884, by coastal defense gun, 硫黄島近海

写真(右):1945年2月26日、人間魚雷「回天」を搭載した伊368潜水艦を撃沈したアメリカ海軍カサブランカ級護衛空母「アンティオ」USS ANZIO (CVE-57):基準排水量: 7,800
兵装: 38口径5インチ高角砲1門(1 x 5"/38AA) 40ミリ対空機関砲16門(16x 40mm),20ミリ対空機銃20丁(20 x 20mm),搭載機(Aircraft)27機
機関: 9,000 IHP
速度: 19 knots 乗員: 860名
ANZIO resumed combat support operations on 16 February. Three days later, she launched a strike to the north on Chichi Jima in the Bonin Islands. From 19 February through 4 March, ANZIO followed a schedule of launching her first flight just before sunset and recovering her last just before dawn. During these nocturnal operations, she completed 106 sorties without a single accident.


2/26の日本軍艦艇の損害
潜水艦 伊-368, by aircraft (VC-82) from 護衛空母 Anzio (CVE-57), 硫黄島近海、 24 d. 43'N., 140 d. 37'E.
潜水艦 伊-370, by 護衛駆逐艦 FINNEGAN (DE-307),父島近海、22 d. 45'N., 141 d. 27'E.
潜水艦 呂-43, by aircraft (VC-82) from 護衛空母 Anzio (CVE-57)、父島近海, 24 d. 07'N., 140 d. 19'E.
海防艦 SHONAN, by 潜水艦 HOE (SS-258), 南シナ海、17 d. 08'N., 110 d. 01'E.
哨戒艇, by naval gunfire, 本州南部。

 伊44は米軍に発見されて制圧され、攻撃可能距離まで近づけず、46時間の追跡から脱出し帰還した。同艦は長時間の戦闘と潜水により艦内の酸素が不足するなど危険な状況に陥り、乗員の必死の努力で生還したが、第六艦隊司令部は「回天を発進させずに引き返した」ことを命令違反・戦意不足と判定して、艦長を更迭した。その後、伊44は回天特攻隊「多々良隊」の一艦として1945年4月に沖縄へ出撃、米駆逐艦隊と交戦して撃沈された。強行突入はなんら成果をあげることなく全乗員が戦死した。

5.米軍は,1944年3月26日沖縄諸島の慶良間列島列島に上陸した米軍は、水上自爆艇「震洋」を鹵獲し、4月1日に沖縄本島に上陸した後,嘉手納・読谷飛行場で人間爆弾を鹵獲し,Bakaと名づけた。これは, 1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになうとされた人間爆弾「桜花」である。さらに、自爆攻撃にしか使用できない車輪投下式の特攻機「剣」キ-115も設計、製造された。人間爆弾の発案者は太田少尉とされるが,このような特殊兵器の開発・部隊編成は,軍上層部が積極的に関与しない限り不可能である。ドイツでは,無人誘導爆弾,飛行爆弾が実用化され実戦に投入されていたが,それだけの技術力のない日本軍は有人爆弾を開発し,体当たり自爆攻撃を行った。

写真(右):チェコ共和国プラハ、クベリ航空博物館航空博物館(Prague Aviation Museum)展示されているドイツ空軍の誘導爆弾ヘンシェルHs293(Henschel Hs 293 )A:ドイツ空軍は、1939年に遠隔操作によって艦船に爆弾を命中させる誘導弾の開発を始め、1940年、無線誘導爆弾ヘンシェルHs293を試作,1943年に1400 FX "Fritz X" Guided BombフリッツX」も実用化した。
誘導爆弾ヘンシェルHs293(Henschel Hs 293 )の諸元
重量:1570 kg 、全長: 3,82 m
直径: 562 mm、全幅: 3,10 m
航続距離:2.2 km (高度4000m)、4km(高度5500m)
最高速度:950km/h
重量:975 kg
弾頭重量:660 kg(炸薬300 kg)
Description Henschel Hs 293A with HWK 109-507 rocket engine. Photograph taken without a tripod (was not allowed!) Date 23 June 2012, 11:39:11 Source Own work Author AlfvanBeem
写真はWikimedia Commons Henschel Hs 293A with HWK 109-507 rocket engine pic3.JPG引用。


ドイツ空軍のヘンシェルHs293誘導爆弾;500 kg爆弾を装備した無線誘導爆弾。RAF museum at Cosford.後方は,ラムジェット推進の無人飛行爆弾V1号で,1944年後半に英国に1万発前後発射されて大きな被害を与えた。写真(上右):ドイツ空軍のフリッツX誘導爆弾;1.4トン爆弾PC 1400を改造した誘導爆弾。全備重量1,650 kgで,イタリア戦艦「ローマ」を撃沈した。

 ドイツ空軍では1940年に無線誘導爆弾ヘンシェルHs293を試作し,1943年には1400 FX "Fritz X" Guided Bomb 「フリッツX」も実用化し,敵に寝返ったイタリア海軍の戦艦を撃沈している。フリッツX、Hs293は、いずれも爆撃機に搭載され,目標に投下される。そして,その爆撃機が爆弾投下後,目視による無線誘導を行う。誘導員は爆弾の尾部に取り付けられた発光体を追い,爆弾を誘導する。命中精度は誘導員の熟練度に依存するが,目標が視認できる距離内まで爆撃機を接近させる必要がある。また、無線誘導のために,妨害電波を発射され,誘導ができないなどの難点があった。

写真(右):チェコ共和国プラハ、クベリ航空博物館航空博物館(Prague Aviation Museum)展示されているドイツ空軍の誘導爆弾「フリッツX」( PC1400X 'FRITZ X' ):誘導爆弾「フリッツX」( PC1400X)の諸元
重量:1570 kg、全長: 3262 mm
直径: 562 mm、全幅: 1352 mm
航続距離5 km (3.1 マイル)
最高速度:秒速343 m (1,235 km/h)
弾頭重量:320 kg徹甲弾
Description Ruhrstahl / Kramer X-1 Fritz X (PC-1400X) with possibly depected here, the Kehl-Strassburg FuG 203/230 system. Date 23 June 2012, 12:03:43 Source Own work Author AlfvanBeem
写真はWikimedia Commons Category: Fritz X at RAF Museum London引用。


しかし,ドイツのような高度な技術を要する無人誘導兵器を実用化できなかった日本軍としては,人間が搭乗して誘導する「有人爆弾」を作成するしかなかった。技術の未熟を人間の精神力で補おうとしたため,結果として,命を粗末にし,若者の命を奪うことになった。

1944年7月21日の大海指第431号では「奇襲作戦」を重視し,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」とし,「奇襲戦=特攻」を作戦として企図していた。

航空機による自爆攻撃という必死の特攻隊が,軍上層部の命令,許可によって部隊として編成されたことは,(→人間爆弾「桜花」を配備された神雷部隊引用)の編成をみれば容易に理解できる。

 神雷部隊は、1944年10月1日新編成された第721空の別称で、戦局を挽回するために,米軍からはBakaと名づけられた人間爆弾「桜花」を配備したの特攻隊である。Over 800 Baka Bombs were built before the end of the war, but only 50 were used. Nonetheless, the weapon had its successes: in April 1945 the U.S.S. Mannert L. Abele, a destroyer, was sunk by a Baka.

写真(右):1945年4月1日、沖縄本島に上陸したアメリカ海兵隊が、日本陸軍の沖縄北飛行場(読谷村)で鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13:1945年6月26日に撮影。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval Description: color Catalog #: 80-G-K-5885 Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5885 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945引用。


Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom") の桜花11型のデータ;
乗員1名,全長 6.10 m (20 ft 0 in),全幅 5.10 m (16 ft 8 in),全高 1.20 m (3 ft 11 in)
主翼面積 6 m² (65 ft²),重量 2,140 kg (4,708 lb)
ロケットエンジン 3基×800kg, 推力7.8 kN (1,760 lbf)
最高速度 630 km/h (394 mph),航続距離 36 km (23 miles)
翼面荷重 356 kg/m² (72 lb/ft²)。爆弾1,200 kg (2,640lb)

横須賀Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom")
「有人爆弾」桜花Yokosuka MXY7 Ohka)は,偵察員大田正一少尉が考案したされるが,一下級士官が新兵器の試作を,暇な時間に自主的に行うことなど,軍隊という組織では考えられない。

有人爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka
 
海軍航空技術廠(空技廠)MXY-7「桜花」は、母機の一式陸上攻撃機に懸吊(ちょう)して運ばれ、敵艦に接近して投下される。その後は滑空を主に、ときにはロケットを噴射し、パイロットもろとも敵艦に突入する。

写真(右):1945年4月1日,沖縄本島の読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)でアメリカ軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」11型I-18。機首カバーが外され、先端にある1.2トンの弾頭がむき出しになっている。検分しているのは、アメリカ軍兵士。読谷飛行場は、戦局が悪化しだした1943年、陸軍の沖縄北飛行場として、住民を徴用して建設が開始され、1944年には1500メートル級滑走路を持つ大飛行場として完成。1945年4月1日、アメリカ軍は、飛行場を奪取するために、沖縄本島の読谷村、すなわち「沖縄北飛行場」の西海岸に上陸した。この「沖縄北飛行場」=読谷飛行場で、「桜花」4機が鹵獲された。読谷飛行場は、本来、日本陸軍の飛行場だが、日本海軍の秘密兵器人間爆弾「桜花」が送られていた。

第七二一海軍航空隊神雷部隊」の編成
  1944年10月1日、第七二一海軍航空隊(721空)「神雷部隊」は、有人飛行爆弾MXY-7桜花」を装備した「龍巻部隊」、それを運ぶ母機の陸攻隊、援護戦闘機隊の3隊から構成される。
横須賀Yokosuka MXY-7 桜花」特攻隊員の募集は最初、1944年8月中旬、全国航空隊から,隠密裏に行われた。9月15日、MXY-7「桜花」を基幹とする特攻専門部隊の編成準備に当たる正副委員長が決まり、10月1日、百里原(茨城)に第七二一海軍航空隊(721空)「神雷部隊」が編成され、横須賀鎮守府に編入された。海軍航空技術廠の開発した「桜花」特攻隊の編成準備は,レイテ戦の神風特別攻撃隊の編成(1944年10月中旬)よりも2ヶ月も早く組織的に進められていたのであり,特攻は将兵の犠牲的精神の発露,自発的行為という俗説の誤りを例証している。

1944年11月1日、「桜花」部隊は、神ノ池基地(茨城県)に移転、「神雷部隊」の門札が掲げられた。第七二一海軍航空隊(721空)に「神雷部隊」の名称がついた期日は,フィリピンで神風特攻隊「敷島隊」が空母撃沈の大戦果を挙げた10月25日から,1週間後である。
海軍航空技術廠が開発した人間爆弾「桜花」Yokosuka MXY7 Ohka)にのる搭乗員が募集され、応募者の中から約 200名が1944年10月から11月にかけて721空に着任し,11月末には4個分隊が編成された。母機の一式陸上攻撃機は、海軍航空技術廠 MXY-7桜花11型1基を胴体下に搭載し,これを2個戦闘飛行隊で援護することになっていた。
1944年11月19日,軍令部総長及川古志郎大将が「桜花」計画について大元帥昭和天皇へ上奏した。大元帥の統帥権を踏まえた厳格な軍紀が,日本軍司令部では維持されていた。  

 沖縄の日本軍は,アメリカ軍の沖縄本島上陸の直前になって、急遽,読谷飛行場,嘉手納飛行場(当時は沖縄北・中飛行場と呼称)を破壊命令を受けた。しかし,慌ただしく準備不十分だったために,飛行場は小破しただけで,多数(4機以上10基程度か)の人間爆弾 MXY-7「桜花」がほとんど無傷で米軍に鹵獲された。アメリカ軍は、この人間爆弾を"Baka"のコードネームで呼んだ。奇襲秘密兵器「桜花」に期待していたようだが,実機をアメリカ軍に多数鹵獲されているようでは,「桜花」搭乗員も「桜花」を運搬する一式陸攻搭乗員も浮かばれない。

桜花の訓練:
『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』によれば,人間爆弾「桜花」のように、重い機体に小さな翼をつけた機体は、高速でなければ失速する。しかし、高速では着陸できないので,訓練用に、爆弾・ロケットを外した軽い「桜花練習機」を作り、操縦感覚を体得することにした。しかし、着陸時は,高速になるので,陸攻から投下後、エンジンなしで飛行場に着陸することは危険で至難の技であった。

 そこで、まず事前訓練として零戦を使い、エンジンを「桜花練習機」の着陸最終パスなみの 110ノットで滑空、ねらった場所に着陸する練習を重ねた。また,別に、零戦でフルパワーの高速緩降下突撃訓練を行い、「桜花」突進時の感覚を養った。

 投下訓練は、投下後まず実機の最良滑空速度 260ノットで飛び、舵の効き具合いを試して実機の感触をつかむ。次に速度を激減し、最後はフラップを下ろし 110ノットでパスに乗る。目の高さ地上1mほどで水平飛行に移ると、間もなく橇(そり)が接地する。

写真(右):人間爆弾「桜花」を搭載した一式陸上攻撃機;三菱G4Mは最高速度430kmの攻撃機(日本海軍では水平爆撃・雷撃を行う機種をさす)であるが,1トン以上ある「桜花」を胴体下に吊り下げてたため,空気抵抗も大きくなり,速度は350km程度に低下したであろう。海軍航空技術廠の開発したMXY-7「桜花」の攻撃は数回行われ、「桜花」20機以上が出撃したが、攻撃前に母機の一式陸上攻撃機とともに撃墜されることが多く、「桜花」命中による撃沈は、駆逐艦「マナート・アベル」Mannert L. Abeleただ1隻である。

 神之池基地 特攻機・桜花の乗員養成(茨城新聞)によれば,「桜花」は「本来は着陸する必要がないから車輪は付いてなかった。訓練用は機体の下にソリを付け、着陸できるようにしていた。爆弾の代わりに水や砂を積んで、一人一回ずつ訓練した」。神雷部隊は1944年10月、戦局を一気に挽回する狙いから、人間爆弾「桜花」を主戦兵器に組織された。

神之池基地には南北と東西二本の大きな滑走路が整備されたが,隣接する内閣中央航空研究所鹿島実験場実験場には、広い砂地の野原に、南北に長さ2km以上の砂地の滑走路が造られていた。車輪を持たない桜花にとって、この滑走路が着陸するのに好都合だった。桜花隊の元分隊長(81)=神奈川県座間市=は、「ソリで着陸するのに、コンクリートの滑走路では摩擦熱で機体が炎上しかねなかった」と説明する。訓練は、母機が神之池基地内の飛行場を離陸し、上空で放たれた桜花は、同実験場内の滑走路に着陸する方法で行われた。

部隊の大部分は翌年1月、鹿児島県・鹿屋基地に移され、新たに桜花搭乗員の養成を行う竜巻部隊が組織された。

 桜花搭乗員に求められたのは、敵艦に向かって降下する技術で、着陸技術ではなかった。投下訓練を一回終了した隊員は、あらゆる状況で作戦可能とされる練度「A」の判定を受け、前線の特攻基地に送られた。

写真(右):人間爆弾「桜花」の操縦パネル;降下練習は命がけで,1回しか行わなかったようだ。連合艦隊司令長官などが視察に来るというので,模範演技を依頼された隊員も,「次に桜花で降下するのは本番だけです」といって,断った。降下,着地に失敗して死亡した隊員も少なからずいる状況では,見世物としての降下訓練は,リスクが高く,部隊指揮官たちも,再降下を見せるのを諦めた。

神雷部隊編成に至る経緯:戦友会編『海軍神雷部隊』
1944年5月1日;1081空分隊長大田正一少尉、隊司令菅原英雄中佐に「人間爆弾」の構想を明かす(大型爆弾に翼をつけ、投下後は人間が操縦して敵艦に突入する「必死・必中・必殺」の新兵器)。
1944年5-6月;大田正一少尉、菅原中佐の推薦により、構想を航空技術廠長和田操中将に提案。中将は航空本部に進達。航本の伊東裕満中佐と軍令部源田実が協議して研究を進める。
1944年6月20日頃;筑波航空隊で、戦闘機操縦教官7〜8名に対し、次の諮問があった。−どうにもならぬ戦局に対し、生還は絶対不可能であるが、成功すれば戦艦でも正規空母でも確実に撃沈できる「新兵器」の提案があった。
上層部は「非人道的」なるが故に採用をためらい、まず搭乗員の意見を聴取することになった。諸官のうち、この「新兵器」搭乗希望者が2名以上あれば研究開発を進め、1名以下の場合は廃案にするという。諸官は「新兵器」搭乗を希望するか否か、と。

1944年6月27日;岡村基春大佐(341空司令)、軍需省に航空兵器局総務局長大西瀧治郎中将を訪れ、体当たり戦法の重要性を強調し、(特攻用)航空機の開発を要望。

写真(右):人間爆弾「桜花」など特攻兵器を推奨した源田実参謀(1904-1989);真珠湾奇襲作戦、ミッドウェー作戦、南太平洋海戦、マリアナ戦、未遂の「雄」作戦などの海軍作戦に関わった有能な軍人であるから、特攻作戦にも関与していたであろう。 戦後、源田実中佐は、自衛隊将校として、その後、参議院議員として政界で活躍。

1944年8月初旬;偵察員として、南東方面で戦った大田正一少尉、民間技術者(東京大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所)の協力を得て「人間爆弾の私案」を航空本部に提出。
1944年8月16日; 航空本部、大田正一少尉の私案に「マルダイ部品」(○に大の字)の秘匿名称をつけ、航空技術廠に改正試作を下令。試作番号「MXY-7」。
1944年8月中旬; 第一線部隊を除く全国航空隊で、大田正一の協力を得て、秘密裡に特攻兵器の搭乗員希望を募る。航空技術廠が「MXY7」の単座練習機「K1」の試作を開始。
1944年8月18日; 軍令部第2部長黒島亀人少将、軍令部会議で「マルダイ兵器」を発表。
1944年8月28日;軍令部部員源田実中佐、マルダイの性能、用法、兵力について軍令部打ち合わせ会議で発言。
1944年8月下旬; 航空本部がマルダイ兵器を「桜花」と命名。
1944年9月15日; 「桜花」部隊の編成準備のため、準備委員長岡村基春大佐(341空司令)などを横浜航空隊付に発令。

(→『海軍神雷部隊』戦友会編を掲載した神雷部隊と新兵器「桜花」引用)より)

帝国海軍の逸材といわれる参謀源田実中佐が,神風特別攻撃隊に関与していなかったとは考えられない。真珠湾攻撃,ミッドウェー海戦,マリアナ沖海戦と作戦を企画してきた参謀が,フィリピン戦について寄与していないはずがない。

参謀源田実中佐(戦後は参議院議員)の名著『海軍航空隊始末記』でも、フィリピン戦や沖縄戦での特攻作戦について記述がない。にもかかわらず、1945年の日本海軍航空隊最後の花道とされる四国松山の戦闘機隊343空司令として大活躍,大戦果には詳しい。日本海軍航空隊の撃墜王を集めて編成された新鋭戦闘機「紫電改」で編成された戦闘機部隊には,新鋭偵察機「彩雲」も配備され,人材と機材を完備した。

沖縄戦のころの特攻隊は,中古戦闘機,練習機,水上偵察機など旧式な航空機の寄せ集め部隊が多く,搭乗員も実戦経験のない未熟練新米パイロットが大半であった。戦闘機隊343空司令は,特攻隊,特に人間爆弾「桜花」の開発・部隊編成に関与したにもかかわらず,戦後は特攻について語らず、特攻隊とは雲泥の差がある最強エリート部隊を率いてたことを誇りにしてた。

1945年4月11日1440、沖縄近海で 米海軍駆逐艦「マナート・アベル」DD-733 Mannert L. Abele は、日本機1機を撃墜したが,別の1機が4000ヤード離れた海面に激突した。5インチ砲と機銃の命中にもかかわらず、煙と炎をたなびかせて、三番目のカミカゼが甲板に命中し、機関室が爆発した。At about 1440 three Zekes broke orbit and closed to attack. Mannert L. Abele drove off one and splashed another about 4,000 yards out. Despite numerous hits from 5-inch bursts and antiaircraft fire, and spewing smoke and flame, the third kamikaze crashed the starboard side and penetrated the after engineroom where it exploded.

サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)は、直ぐに艦首を下にして沈没しはじめ、機械室にも浸水した。竜骨が折れて、艦橋からの管制が不能になり、動力が利かなくなった。Immediately, Mannert L. Abele began to lose headway. The downward force of the blast, which had wiped out the after engineering spaces, broke the destroyer's keel abaft No. 2 stack. The bridge lost control and all guns and directors lost power.

写真(右):駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 ;off Boston, 1 August 1944.1945年4月12日に特攻機と人間爆弾「桜花」の合計2機の命中を受けて,撃沈。大きく連装砲塔も並んでいるので,実戦経験のない特攻機搭乗員は,大型巡洋艦あるいは戦艦と見間違えたかもしれない。

特攻機と「桜花」の2発の命中を受けて撃沈したアメリカ海軍サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)のデータ
排水量3218トン,全長 376' 6"(oa) x 40' 10" x 14' 2" (Max)
武装 6門 x 5インチ/38AA (3x2), 12門 x 40mm対空機関砲, 11丁 x 20mm 対空機銃, 10門 x 21インチ魚雷発射管(2x5).
機関 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws
最高速力 36.5 Knots, 航続距離 3300馬力 20 Knots, 乗員Crew 336名.
竣工 1944/4/13,撃沈1945/4/12. 乗員73名死亡。

1分ほどしてから,4月11日1446、駆逐艦 「マナート・アベル」Mannert L. Abele DD-733)に第七二一海軍航空隊(721空)に「神雷部隊」の人間爆弾「桜花」が舷側に命中した。2600ポンドの弾頭が爆発し、艦内の通信、電灯がすべて不通になった。A minute later, at about 1446, USS Mannert L. Abele took a second and fatal hit from a baka bomb a piloted, rocket powered, glider bomb that struck the starboard waterline abreast the forward fireroom. Its 2.600 pound warhead exploded, buckling the ship, and "cutting out all power lights, and communications."

アメリカ海軍サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)は、直ぐに真っ二つに切断され、急速に沈みはじめた。生存者は敵機の爆撃した海域に漂うことになった。中型揚陸艦189号、190号がパーカー指揮官の下で、攻撃を受けながら、生存者救出という支援艦として黄金と同じ重量に匹敵する仕事をした。Almost immediately, Mannert L. Abele broke in two. her midship section obliterated. Her bow and stern sections sunk rapidly. As survivors clustered in the churning waters enemy planes bombed and strafed them. However LSMR-189 and LSMR-I90, praised by Comdr. Parker as "worth their weight in gold as support vessels," splashed two of the remaining attackers, repulsed further attacks, and rescued the survivors.

サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)は,人間爆弾「桜花」 the baka bombによって撃沈された唯一の艦艇である。沖縄方面で,レーダー警戒の任に就いている3隻が特攻機の命中を受けた。

日本軍は沖縄作戦に力を注いだが,小型艦艇によるレーダー警戒網の整備が進展していたおかげで,沖縄方面の米艦艇の防衛は成功したといってもよい。Despite the enemy's desperate efforts, the radar pickets successfully and proudly completed their mission, thus insuring the success of the campaign.

人間爆弾「桜花」の胴体後方には速力増加の火薬燃料式ロケットが装備され,敵艦めがけて突入することになっていた。しかし,出撃した数よりも,米軍に鹵獲された数のほうが多いようだ(敗戦後ではなく戦時中に)。沖縄戦では,日本軍守備隊は、米軍上陸直前に急遽,読谷飛行場,嘉手納飛行場(当時は北・中飛行場と呼称)を破壊放棄した。しかし,準備不足のために,飛行場の破壊は不十分で,格納庫も破壊していない。そして、多数(10-30基)の人間爆弾「桜花」がほぼ無傷で米軍に鹵獲されている。奇襲秘密兵器といっても,その程度の㊙扱いしか受けていなかった。これでは,第721海軍航空隊(721空)神雷部隊の「桜花」搭乗員も,運搬する一式陸攻搭乗員も浮かばれない。

写真(右):人間爆弾「桜花」;後方には速力増加の火薬燃料式ロケットが装備されている。末期の43型では、燃焼噴射推進器(ジェットエンジン)ネ20を搭載し、カタパルト発射できるように改造されたが、実用化される前に終戦となった。

桜花」は約850機製造され,その大半は11型である。その後、一式陸攻による運搬では被害が大きく、部隊編成も困難であるとして、日本海軍は「桜花」の胴体後方に、海軍航空技術廠(空技廠)が開発した燃焼噴射推進器(ジェットエンジン)ネ20を搭載する改造型で、カタパルトで発射する有翼人間爆弾「桜花43型」を考えた。

 第七二一海軍航空隊(721空)「神雷部隊」と作家たち
 山岡荘八・川端康成の両氏は1945年4月末から終戦まで、ずっと桜花隊と一緒に生活し、神雷部隊とはもっとも馴染みの深い作家だった。
山岡はセッセと隊員の間を回って話しかけ、誰がどこで何をしているか、戦友仲間よりもよく知っていた。終戦後、鹿児島県鹿屋における体験をもとに新聞に「最後の従軍」を寄せたり、かなりまとまった一冊を書いた。「特攻隊員の心を心として、恒久平和を願って徳川家康を書いた」とも後に語っている。
 川端は山岡のように隊員とは付き合うことはしなかったが、顔を伏せ、あの深淵のような金壷眼の奥から、いつもじっと隊員の挙措を見つめていた。終戦後、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と鳥居達也候補生(要務士)に約束した。だが川端は特攻隊について一字も書いていない。(→異説あり)
 三島由紀夫は自殺(1970年11月25日)の1カ月前、江田島(広島)の海上自衛隊第一術科学校教育参考館で一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は第8桜花攻撃隊陸攻隊指揮官として出撃(戦死)した古谷真二中尉である。(引用終わり)

Web上に三島由紀夫と特攻隊に関して,次の記事がある。
「私の修業時代」で三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。
「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)

昭和天皇は二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員の仲間を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。

三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。

彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。そこで彼はこう解説するのである。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」

彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」

自衛隊の決起を促すために自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し,撒いたビラの末尾には,「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と書かれていた。(引用終わり)

三島由紀夫は、作家として有名であるが、同時に愛国心、益荒男ぶり、力強い男を好んだ。日本の栄光ある歴史を自分が背負っていると考えていたようだ。自分は小さきものだが、何かしなければならない。自分のためにではなく、日本のためにである。

三島由紀夫とテロルの倫理 三島由紀夫は、作家として有名であるが、同時に愛国心、益荒男ぶり、力強い男を好んだ。日本の栄光ある歴史を自分が背負っていると考えていたようだ。自分は小さきものだが、何かしなければならない。自分のためにではなく、日本のためにである。

1972年11月25日、作家三島由紀夫は、自衛隊市谷駐屯地に民間防衛隊「楯の会」4名を率いて乱入した。日本人を堕落させ、政治的謀略でつくられた日本国憲法の下で、自衛隊は違憲である、1968年10.21国際反戦デー闘争の衝撃は、日本を脅かすものであると主張した。そして、自衛隊は、武士であるから、日本再起、憲法改正のために決起すべきだと促し、天皇中心の国家を作れと訴えた。

 しかし、集まった自衛官は、市ケ谷駐屯地東部方面総監室を不法に占拠し、大上段から勝手に演説するた文士三島由紀夫を下ろそうとした。三島由紀夫らが、東部方面総監室益田兼利総監(陸士46・陸大54首席)の身柄を拘束した無礼・無法を許さなかった。

 自衛官は、三島たち非合法の暴挙を鎮圧しようと、総監室ドアのバリケードを体当たりで破った。三島の部下は、第8代東部方面総監益田兼利陸将を縛り上げ、胸元に短刀をあて人質とした。しかし、踏み込んだ自衛官は、勇敢に隙を見て飛びかかり、押さえ込んだ。自衛官は、火器を所持せず押し入り、刀を振るう三島由紀夫らと格闘し、9人が負傷、自衛隊中央病院に搬送、うち6人が入院した。観念した三島由紀夫(45歳)と愛弟子森田必勝(25歳)は、割腹自決した。三島由紀夫は、特攻隊員は神である天皇のために,祖国を守るために死んだとし,それを至高の存在と捕らえ,自らの目標としていた。益田兼利陸将は、12月22日、三島事件の責を取り辞任した。

三島由紀夫は,特攻隊員の心情を独自の解釈で無効性に徹することによる有効性と捕らえたが,何のために特攻隊員の死が有効だったのか。いのち以上の価値の所在はどこにあるのか。

1943年9月の早慶卒業式(戦局悪化から卒業が6カ月早まった)
 翌朝の朝日新聞の記事は大きく三色旗に送られて校門を出る我々を写していた。
 午前十時から1400の新卒業生を送る卒業式は父兄、卒業生だけを講堂に集めて厳粛に開式、特に卒業生のために教育勅語をこの式場に奉讀した小泉塾長は,次のように述べた。
 「吾々は諸君とともに遠く上海、南京、徐州、漢口の捷報を聞き共に宣戦の大詔を拝し、共に陸海将兵の壮烈なる功業に泣き、いまは国家存亡の機の正に目前に在るを見る、諸君は父兄よりも更にこの機を知っている、すでに幾多の諸君の学友は軍務に服し、けふ三田の丘で卒業式行はるゝを想いつゝ猛烈なる訓練をやってゐるのである」
  「今後ももっとも激烈、困難、危険にしてもっとも信頼すべき人物を必要とする場合にはそこに慶応義塾の者が在らねばならぬ、慶応の数箇年の教育は諸君をかかる人物に育成した筈である、国家百年の士を養ふはたゞこの一日のみ、今日の一日の用をなさしめんがためであった」

この日慶応義塾卒業の前に古谷君は次のような遺書をのこしている。
 「御両親はもとより小生が大なる武勇をなすより、身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんことを、朝な夕なに神仏に懇願すべきは之親子の情にして当然なり。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干伐を執るらんの覚悟なり。」

1945年5月11日「第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」隊員として、一式陸上攻撃隊に搭乗、鹿屋基地を出撃、南西諸島で戦死した海軍少佐古谷真二君の遺書。決起を呼びかけて割腹自殺した三島由紀夫がその一カ月前これを読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と、声を出して泣いたという(三田評論10/94丸博君の記事による)。この遺書は靖国神社遊就館に展示され,三島の逸話も紹介されている。

写真(右):1945年4月海軍報道班員として人間爆弾「桜花」を装備した神雷部隊を取材した川端康成(1899-1972);川端康成年表:終戦の翌年「婦人文庫」に発表した小説「生命の樹」では,鹿屋基地にある海軍将校の親ぼく団体「水交社」で働く啓子と、思いを寄せる特攻隊員植木らの日々を描いた。1945年4月、海軍報道班員として、鹿児島県鹿屋の基地に行く。五月、鎌倉在住の文士の蔵書を基に貸本屋鎌倉文庫が開店。終戦後、大同製紙の申入れで、鎌倉文庫は出版社として発足、その重役の一人となり、老大家たちの原稿依頼に歩く。1968年、日本人として初のノーベル文学賞を受賞。1972年、交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺と同じ1972年にガス自殺。遺書はなかった。

物語の中のふるさと − 九州発によれば,川端康成は、終戦間際の1945年4月、報道班員として鹿屋海軍航空基地を訪れ、特攻隊員と接した。戦後に著したのが「生命(いのち)の樹」である。
 埼玉県在住で、鹿屋海軍航空隊の神雷部隊MXY-7桜花(おうか)隊大尉だった林冨士夫さん(82)は、川端をよく覚えている。
「背が小さくてやせ、スポーツ選手でもないのに色黒だった。無口。じっと隊員を上目遣いで観察するように見つめていました。とてもこちらから話しかける気分にはなれなかった」と電話の向こうで話してくれた。
 士官たちに「いつか必ず特攻隊の物語を書きます」と約束した川端。それは「生命の樹」で果たされた。

 〈「これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」(中略)植木さんには、ほんたうにそれが、星の見納めだつた。植木さんはその明くる朝、沖縄の海に出撃なさつた。(我、米艦ヲ見ズ)そして間もなく、(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)ニ度の無電で、消息は絶えた〉

鹿屋海軍航空基地初の特攻は1945年3月11日「菊水部隊梓特別攻撃隊」陸上爆撃機「銀河」によるウルシー環礁への「第2次丹作戦」である。それから終戦まで、16〜35歳の隊員908人が出撃した。

 神雷部隊桜花隊員は、近くの野里小に寝泊まりし、文士の川端、山岡荘八、新田潤らの報道班員は、付近に分宿していた。川端は隊員と距離を置いていたが、山岡は積極的に隊員に話しかけ交流を深めた。二人は、終戦まで桜花隊と行動を共にした。

山岡荘八『最後の従軍』昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」
あのころ――沖縄を失うまでは、まだ国民のほとんどは勝つかも知れないと思っていた。少なくとも負けるだろうなどと、あっさりあきらめられる立場にはだれもおかれていなかった。何等かの形でみんな直接戦争に繋がれている。といって、楽に勝つであろうなどと考えている者も一人もなかった。

そんな時……昭和二十年四月二十三日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。

<中略> 私たちが、野里村(現鹿屋)にはじめて行ったのは、日記によると四月二十九日、天長節の日であった。----その途中でも二度、サイレンが鳴っているが、その時の私は、敵機などより数倍おそろしい妄想を描いて震えあがっていた。他でもない。これから行く「神雷部隊――」そのものが恐ろしかったのだ。私は、戦争では、あらゆる種類の戦争を見せられている。陸戦も海戦も空中戦も潜水戦も。そして何度か、自分でもよく助かったと思う経験も持っている。しかし、まだ必ず死ぬと決定している部隊や人の中に身をおいたことはない。報道班員はある意味では、兵隊と故郷をつなぐ慰問使的な面も持っている。とりわけ「ライター班」はそうだった。

それが、こんどは必ず死ぬと決まっている人々の中へ身をおくのだ。従来の決死隊ではない……と、考えると、それだけで、私は彼らに何といって最初のあいさつをしてよいのか……その一事だけで、のどもとをしめあげられるような苦しさを感じた。(昭和三十七年八月六日)

 私は、最初の特攻隊としてフィリピンから飛び立った関大尉や中野、谷、永峰、大黒などの敷島隊員の記事が報道(昭和十九年十月二十九日)されたとき、その心事をしのんで茫然としたものだった。その時の関大尉のマフラーをつけて屹然と空をにらんで立った姿は、いかなる仏像よりも荘厳な忿怒像として目に残っている。清純な若者たちをこのように怒らせてよいものであろうか。そして、そのきびしい犠牲の陰でなければ生きられないのかと思うと、自分の生存までがいとわしかった。
 ところが、その必死隊に、いよいよ私は入ってゆかなければならない。むろん彼等には慰めの言葉などは通用すまいし、といって、話しかける術も知らず質問もなし得なければ、いったいどうして居ればよいというのか……。(昭和三十七年八月八日)(→山岡荘八「最後の従軍」昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」引用)

◆2013.7.24 「桜花」カタパルト発射台を装備する比叡山(848m)山頂付近の秘密基地の写真が見つかった。旧制中学の京都三中の生徒が戦後に撮影したとみられる。しかし、カタパルト発射可能な桜花43型は胴体後部にジェットエンジン装備で試作中ではあったが、エンジンすら実用化できていない。「幻の基地」というより幻の兵器の実用化を前提に軍が建設を強行したものである。 桜花カタパルト発射基地は、アメリカ側の記事にも出ているが、当時の写真は見つかっていなかった。

浅野昭典氏(第721海軍航空隊)証言
8月始めには、わたし、宿坊で寝泊りして、(下の)その飛行場まで(零戦の飛行)訓練に行ったでしょ。それで、日にちはよくわかりませんが、5日から、10日までの間だったんじゃないかな。カタパルトが完成してるんです。それはまぁ、今で言う、建設省かなあ。海軍じゃないんだ。建設省なんです。たぶんね。そこでもって出来たぞ」で、15日に引渡しだけど、「一遍、発射実験をやるから、皆さんね、パイロットの人は、ご覧になりませんか」っていうことで、見せてくれたわけ。それで、台車の発射実験をやって、火薬使ってね。で、それ1回だけじゃないのかな。実験っていうのは。
Q.それは、どんな風な実験だったんですか。
いや、ちゃんとほら、カタパルトができているでしょ。こっち側に飛行機を継ぐ台車っていうのがあんだ。それで、飛行機は来てませんけど、台車だけ。そこにもって、科学のロケットついて、それを噴かしていくわけだ。すると、カタパルトの前にワイヤーが張ってあって、その台車にワイヤーがぶつかる。ぶつかると台車がパタンと倒れる。それで、飛行機が浮くわけですね。それで、後は(桜花の実機があったとすれば)自分の力でもって、エンジンついてますから、それで飛ぶわけ。 
Q.その発射実験、ご覧になって、どうですか?今までの訓練と、また違ってましたか。
違うっていうか、ゼロから、ここへ来て、60メーターぐらいしかないんですから、スピードがね、それだけ出るのかなと思ったけど、やっぱり、火薬でもって噴かすから、スピードが出て、これでいった時から、(まだ見てもいないが)飛行機の方にもエンジンがついてるわけだから、これである程度飛ぶのかなあと。まぁ、そんなことしかないなあ。(引用終わり)

6.日本陸海軍は、水上特攻のための体当たり自爆用のモーターボート突撃艇を量産,配備した。そして,1945年10月から1945年2月のフィリピン戦で、水上特攻艇による自爆体当たり攻撃を、米軍艦船に対して実施した。これも, 1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになうとされた特攻艇「震洋」あるいは,陸軍のマルレ艇である。特攻艇の発案者は伝えられていない。この特殊兵器の開発・部隊編成には,軍上層部が積極的に関与したのは当然である。

特別攻撃は特攻と呼ばれ,体当たりの自爆攻撃であるが,海軍の兵士たちの志願,自発的な希望によって開始されたと言われる。しかし,軍隊で勝手な個人的行動が認められたり,兵器を勝手に開発・製造したりすることはできない。軍隊とは,すべて作戦命令によって行動するところである。

陸軍の特攻兵器には,水上特攻のための体当たり自爆用のモーター突撃艇マルレ艇」,海軍の特攻兵器には,「震洋」人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」などがあるが、これらの奇襲兵器の試作・開発・整備とその・乗員訓練・部隊編成は、軍令部の命令によっている。自由時間と資金に縁のない軍人の着想だけで,特攻兵器は開発できない。軍隊組織で、自発的な意思で特攻隊が自然発生することもありえない。

大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の1944年7月11日には,次のようにあるという(保坂正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.167-168引用)
「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施,
自重1屯(?),自動機関ヲ利用,速力20節,兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩(?))航続時間五時間
右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(サイパン上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ,
速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ,今後ハ斯カル着想ノ下ニ,此種兵器を大量整備スルヲ要ス」。


故宣仁親王高松宮は、明治38年1月3日,大正天皇の第3皇男子、大元帥昭和天皇の弟として、東京・青山の東宮御所で誕生。御名を宣仁(のぶひと),称号を光宮(てるのみや)。海軍に勤務していた。その『高松宮日記』第8巻の1945年1月以降の話題でも、特攻艇「震洋」など話題には事欠かない。海軍中央でも、1945年になると、大型艦艇よりも特攻兵器のほうが重視され、本土決戦に備えた陸戦の準備も始まっていた。

1月5日、「葉山砲台砲台普練(高等科)教程射撃。館航[館山航空隊]機モヤありて出発おくれ、発動後も射程外を飛んだりして、1300漸く終る。練習生の気力足らぬ感あり。----1500より?艇機銃装備射撃実験の経過報告。」
横須賀鎮守府で三浦半島の防衛方針の一つとして「熱海・三浦半島に、マル四・魚雷艇基地」の件を審議。
1945年1月6日、水雷学校教頭荒木傳少将が来て談話し「川棚[臨時魚雷艇訓練所]に砲術指導教官欲しいと言うこと等」となり、特攻艇のロケット弾装備や陣地の防衛の射撃練習が進んでいることがうかがわれる。
1月9日、横須賀鎮守府で三浦半島の防衛方針の一つとして「熱海・三浦半島に、マル四・魚雷艇基地」の件を審議。
1月31日、「0830荒崎8cm機銃[高角砲?]、予備生徒射撃見にゆく。」

2月4日、「機銃対魚雷射撃実験事前委員会」、2月8日、機銃対魚雷射撃実験、2月10日、「機銃対魚雷射撃委員会」
2月6日、「矢牧[章]少将より独国の情勢も迫ってきたし、カイロ米英ソ三国会談に関連し、作戦部で考えている2月下旬のマル大[桜花]による戦略攻勢がおそいのではないか、国内一致の態勢も急速に立てる要あり等きく。」

3月8日、横須賀鎮守府で「特攻兵器に関する図演(図上演習)---図演(実は、震洋、回天SS[金物][特殊潜航艇「海龍」]、甲標的[蛟龍]の使い方につき質疑応答、説明)---続いて、特攻基地を何処にするか打合せ。」
3月15日、前日連夜で品川から佐世保線の早岐着、自動車で「川棚訓練所へ(現在は第三特攻戦隊となっている)1615着。説明を聞いたり構内見て、1815発、[1942年1月,佐世保海軍工廠分工廠として設置された]川棚工廠の地下工場、半地下工場を見て集会所へ。」特攻隊司令部へ行き、「2230出発の局地防衛研究演習の震洋隊出発視察。」
3月17日、「0330起床、演習、マル四[?金物]夜間襲撃、松島沖に於ける特攻基地と上陸部隊との攻防演習及び特攻基地予定地(廃炭鉱トンネル利用)視察。----再び松島沖に入港。途中マル四(?)隊の昼間襲撃および噴進砲[ロケット弾]射撃。雷艇[低速魚雷艇型砲艇]にて佐世保へ。」

4月14日、「久里浜工機校にて水際戦闘用軽便潜水衣[伏龍]の実験あり。A金物[特殊潜航艇「海龍」]を見て」
4月30日、三浦半島「油壷の十一突撃隊居住施設の関係上、航海学校の普練をやめた余地を使って、泊湾に甲標的(蛟龍)を繋ぎ練習を開始せるも、やっと数隻繋留した。どうも特攻特攻も掛け声で内容おくれの例に洩れず。」

5月16日、「2230横鎮(横須賀鎮守府)特攻演習視察。2430震洋隊発動泛水。艦載水雷艇にて随動視察。漁網でマゴマゴしているうちに震洋隊を見失い、視界霧にて悪くなりアッチコッチして夜明け頃。江の島附近らしい崖が視えたが、目標隊はおらず。海龍1隻と出会う。これを監視艇はぐれておらぬのでついてゆく。波あり、大いに気持ち悪くなり、やっと今度は城ケ島を見つけて油壷に入港。」
5月28日、「明日、岩島[二三大佐]部員、空技廠にてK1号(神龍)委員会ありとて来校宿泊。夜話きく。」
5月29日、「0900K1号兵器(神龍)打合せ行こうとしたら空襲警報にて止めた。---1500空技廠の神龍打合せ。やはり専門家に言わすと、中々むつかしい点もある(離陸直後の上昇、グライディング間の低速、命中するため操縦等)。」

6月13日、「工廠、甲標的第一隻明日船おろしする由([舞鶴工廠特殊潜航艇製造]雁又工場)」
6月17日、「供覧兵器。軍令部の人もきて心細き兵器を見て、ほんとに兵隊と兵器とをむすびつけたる教育せる部隊の必要を知ったにちがいない。 之でもわからねば兵学校出た士官ではない。
0720校発。茅ヶ崎、機銃陣地に対する火焔放射実験を行いしも、距離遠く火焔とどかず、無効。-----江の島砲台を一巡して陸戦兵器供覧(杉山[元第一]総軍司令官等)、実験、不発続出、機銃連発せず、丁度よい加減の見せものなりき。農耕隊のじゃが芋、むして出した、この方が成績良好にちがいなかった。1703辻堂発、帰京。」

高松宮(大元帥昭和天皇の弟)『高松宮日記 』第8巻 1945年7月3日「特攻兵器は技術院としも乗り出す様な話であったから、それは良いが、人が乗ってゆくから安モノ兵器でよいと言うような考えがあるが、全く技術者としてけしからぬことで、犬死にならぬように、特攻なればこそ精巧なものを作るべきなりと語っておいた。」

沖縄戦では、1945年3月26日、アメリカ軍の慶良間列島上陸以来、日本陸海軍は、航空機による特攻と併用して、水上特攻・突撃自爆艇マルレ艇」「震洋」を出撃させた。

 米軍は,沖縄本島に上陸する前に本島西方の慶良間列島に上陸した。慶良間は座間味村と渡嘉敷村の通称で、沖縄本島から見て手前に見える渡嘉敷村を「前慶良間」、後方の座間味村を「後慶良間」と呼んでいたところである。日本軍は慶良間列島には米軍は上陸しないと考え,水上特攻隊を配備し,背後から米軍艦船を水上特攻自爆艇で襲うつもりでいた。

水上特攻艇とは,木製小型モーターボートに爆薬を搭載して体当たり攻撃するものである。海軍では「震洋」と陸軍では「マルレ」と呼ばれた。

写真(右):1945年3-4月、沖縄に侵攻したアメリカ軍が海軍水上特攻艇「震洋」を発見し検分している。; 1945年3月26日、沖縄本島隣の慶良間列島に上陸したアメリカ軍は、島内で日本海軍の水上特攻艇「震洋」を発見した。海軍の「震洋」の船首には、半月形の収納場所があり、そこに炸薬を詰めた爆弾を搭載する。沖縄方面には、日本海軍の「震洋」水上特攻隊、陸軍の「マルレ艇」海上挺進隊が置かれていた。陸軍の「マルレ艇」は船尾外側に爆雷を懸架・固縛する方式だった。日本降伏直後、長崎三菱造船所で多数の特殊潜航艇「甲標的」と水上特攻艇「震洋」がアメリカ軍に発見された。

1944年3月、軍令部(陸軍の参謀本部に相当)が「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定している。これに応じて、1944年5月27日に,?兵器の試作艇,すなわち後の「震洋」が完成。1944年7月5日,?艇第一次要員が発令,7月15日に講習が開始。

 乗員1名の特攻艇は、艇首に250?の爆薬を装備し、自動車エンジン(トヨタ自動車80馬力の中古エンジン1基)を搭載した木造合板型(ベニヤ板)の高速ボートで、敵の揚陸部隊が上陸点に侵攻してきた時、夜陰に乗じて奇襲による体当たり攻撃をするつもりでいた。

1944年8月28日に制式され「震洋」と命名された特攻艇は,1945年1月にフィリピン群島マニラ湾入り口のコレヒドール島で米軍に対して初めて使用されている。(⇒水上特攻隊のフィリピン戦での戦果

写真(右):1945年8月の敗戦直後、日本海軍の水上特攻艇「震洋」;長崎の製造工場の埠頭にて米軍が占領後撮影。 “Special Attack” was the Japanese phrase used to describe tactics that generally involved the loss of a human operator. Laden with explosives, special attack boats were used in a suicidal fashion against American vessels in the Pacific during World War II. However, very few attacks were successful, as these boats were easily spotted and were frequently destroyed before they were deployed.

 1944年8月28日に制式され,「震洋」と命名された特攻艇は,震洋特別攻撃隊を編成し,小笠原諸島,ボルネオ島,フィリピンに進出した。
フィリピンには,1944年10月26日第九震洋隊,11月1日 第八〜十一震洋隊,11月21日 第七震洋隊,12月15日 第十二震洋隊がフィリピンに向かった。

1945年1月にフィリピン群島マニラ湾入り口のコレヒドール島で米軍に対して初めて使用。

 陸軍も同様の突撃艇マルレ艇」「○レ」と秘匿名称で整備。1945年1月9日に,フィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍に対して,陸軍海上挺身第12戦隊のマルレ艇70隻が突入。護衛駆逐艦ホッジス、輸送艦ウォーホーク、LST2隻に損傷を与え、全滅している。

 日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々にも特攻突撃艇マルレ艇」「震洋」200隻をしのばせていた。
ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸の補給基地とした。

写真(右):写真:日本海軍水上特攻艇「震洋」の体当たりを受けたアメリカ軍輸送艦AKA-67「スタール」 Starr;1945年4月9日0420に攻撃された。排水量8,635 t.(lt) 13,910 t.(fl); 速力16.5kts; 乗員 将校62名,下士官兵 333名 40mm連装対空機銃4基 16丁× 20mm対空機銃。搭載舟艇, 14隻×LCVP, 8隻×LCM; 貨物搭載量, 380,000 cu ft, (5,275 t. )

渡嘉敷島・阿波連島
△(球)海上挺進第三戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊の1個小隊
座間味島 
△(球)海上挺進第一戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊
阿嘉島・慶留間島
△(球)海上挺進第二戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊

(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍引用)

 海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」という特攻艇が,慶良間列島に配備され,沖縄本島の西部海岸(飛行場設営適地)に上陸しようとする敵海上部隊を,背後から襲撃しようとした。

写真(右):1945年4月9日0420,アメリカ軍輸送艦AKA-67「スタール」 Starr;1945年4月9日0420に攻撃された。排水量8,635 t.(lt) 13,910 t.(fl); を攻撃後,甲板に引き上げられた水上特攻艇「マルレ艇」あるいは「震洋」の残骸;米兵4名が負傷し,船体側面に穴が開いた。突撃艇の日本兵2人は,死んだ。At 0420 on April 9, 1945, the USS Starr was hit on the starboard side by a apanese suicide boat. Four men aboard the Starr were injured and a hole was put in the side of the ship. The two Japanese occupants of the boat were killed.

慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islandsあるいは渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間列島の沖縄戦は次のように要約できる。

  米軍は,慶良間列島に艦船の停泊地,補給修理基地として活用する意図で,沖縄本島上陸に先立って,慶良間列島を攻略した。米軍の攻撃のあった1945年3月27日,慶良間。しかし,戦果が不明のまま半数が戦死した。1945年4月1日にも第22震洋隊に出撃命令が下り,米軍の中型揚陸艇LMS(R)-12,歩兵揚陸艇LCI(G)-82を撃沈したようだ。

写真(右):1945年4月4日、沖縄戦緒戦、特攻艇が沖縄沖で撃沈した中型揚陸艦LMS(R)-12;LSM-12 beached, date and place unknown. 

歩兵揚陸舟艇USS LCI(G)-82は1945/04/04夜,中城湾で,レーダーによる警戒ピケを張っていた歩兵揚陸艦であるが,日本海軍の九七式艦上攻撃機を対空射撃で撃墜した。脱出したらしい救命艇の3名の乗員を捕虜にしようと接近したが,一人が手榴弾の紐を引いたようだったので,3名は殺された。

 日本海軍の九七式艦上攻撃機が搭載していたと思われる救命艇は戦利品として,引き揚げた。敵機を撃墜して数分後,自爆艇が高速で接近し,前部に命中した。舷側から甲板まで穴が開き,二つの燃料タンクから火災が発生した。艇長は乗員に対して中型揚陸艦LMS(R)-12を放棄し退艦を命じた。その際に,日本機から獲得した救命艇が役立った。(→新聞記事引用)

 1945/04/04.水上特攻艇がLSM-12を沖縄沖で撃沈。Broached on the beach at Okinawa and broke up, 4 April 1945 Decommissioned, 24 April 1945, at Okinawa Struck from the Naval Register (date unknown) Final Disposition, hulk donated, 10 July 1957 to Government of Ryukyu Islands 。

1945年4月4日,特攻艇が撃沈したLSM-12のデータ
排水量 520 t.(light), 743 t. (landing) 1,095 t.(満載時)
全長 203フィート 6インチ o.a.,全幅 34' 6"
深さ light, 3' 6" forward, 7' 8" aft, fully loaded, 6' 4" forward, 8' 3" aft
速力 13.2ノット(kts.) (max.), (928 tons displacement)
Complement 5 officers, 54 enlisted
武装 one single bow mounted 40mm gun, four single 20mm gun mounts
搭載物件 Vehicle/Boat Capacity 5 medium or 3 heavy tanks, or 6 LVT's, or 9 DUKW's
乗員Troop Capacity 2 officers, 46 enlisted
装甲Armor 10-lb. STS splinter shield to gun mounts, pilot house and conning station
機関 Propulsion two Fairbanks Morse (model 38D81/8X10, reversible with hydraulic clutch) diesels. Direct drive with 1,440 BHP each @ 720rpm, twin screws,
航続距離 Endurance, 4,900 miles @ 12kts.(928 tons displacement)
1945/04/27. USS Hutchins (DD-476)が大破し終戦後も修理されず。

写真(右): ロケット弾搭載揚陸艦LMS(R)-188;排水量758 t.(light), 983 t. (attack) 1,175 t.(fully loaded)。全長 203フィート6インチ,全幅34フィート。最高速力13.2 kts(ノット)。ジェネラル・モーターズGeneral Motors のジーゼルエンジンを2基搭載,1,440馬力(720rpm),スクリュー2基。航続距離は3,000miles @ 12kts(ノット)。

海上特攻隊の沖縄戦での戦果

米軍が慶良間列島を占領した1945年3月27日ごろ,多数の特攻艇「震洋」「マルレ」を鹵獲している。そこから推測して,慶良間列島から出撃した特攻艇は,100隻もないと思われる。既に,フィリピンのルソン島で3ヶ月前に実戦に使用しているが,機密であるはずの特攻兵器を多数米軍に鹵獲されている。人間爆弾「桜花」も,1945年4月1日の米軍沖縄本島上陸日に,読谷村の陸軍沖縄北飛行場で鹵獲されている。

こうなると,日本陸海軍は,特殊奇襲兵器を十分に秘匿したとはとてもいえないのであって,安易な精神主義が跋扈し,冷徹な科学的,合理的な作戦計画を立案していなかったように思えてくる。。

 慶良間列島には2,335名の日本軍兵士が配備されていたが,大半は水上特攻隊(海上挺進隊)Sea Raiding unitsである。彼らには,特攻艇,それに装着する爆雷だけでなく,機銃,迫撃砲も装備されていた。
慶良間列島の特攻艇は約300隻で,600名の朝鮮人労働者も作業に当たっていた。

  戦後、812隻971トンの特攻艇が中華民国に引き渡されたようだが、ベニヤ板の粗雑なつくりのボートは破損しており,すべて廃棄されたようだ。
(→中国の戦後拿捕艦艇「有"震洋"自殺艇812艘計971噸因不堪使用,全部報廢」参照)。

慶良間列島には、体当たり自爆特攻艇操縦者300名とともに、朝鮮人労働者600名と基地要員100名も残っていた。慶良間列島の日本軍には、機銃や迫撃砲なども装備されていた。(There remained on the Kerama group only about 300 boat operators of the Sea Raiding Squadrons, approximately 600 Korean laborers, and about 100 base troops. The garrison was well supplied not only with the suicide boats and depth charges but also with machine guns, mortars, light arms, and ammunition.)→Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

水上特攻隊のフィリピン戦での戦果
1945/01/10. LCI(G)-365,LCI(M)-974をルソン島リンガンエン湾で撃沈
1945/01/31. PC-1129をルソン島Nasugbuで撃沈。
1945/02/16. LCS(L)-7, LCS(L)-26, LCS(L)-49をコレヒドール島Marivelesで撃沈。

水上特攻隊の沖縄戦での戦果も,被害に比べると大きいとはいえない。

海軍の特攻兵器である自爆艇「震洋」,人間魚雷「回天」の試作・開発・乗員訓練・部隊編成は、命令によっている。一将兵には,時間も資金もなく,特攻兵器の発想があったとしても,それを具体化する開発,試作は不可能である。軍という厳格な階級では,将兵個人による特攻兵器の開発,特攻隊の編成もありえない。軍上層部の命令・許可なくして、独断で兵器の特攻仕様への改造,特攻隊の編成をすれば,命令違反の抗命罪,専権罪として,軍法会議で処罰の対象となる。

写真(右):海軍横須賀航海学校から「震洋」特攻隊に移った田英夫元議員;1923年(大正12年)6月9日東京・世田谷生まれ。1945年海軍横須賀航海学校入学、震洋特攻隊員として出征。航海学校一分隊二区隊第四班。1944年10月のある日のタ方、予備学生、生徒が突然剣道場に「総員集合」を命ぜられた。いつになくモノモノしい雰囲気で、入口には教官が立ち並び、窓はすべて閉められていた。壇上に立った田口学生隊長は、「おまえたちの中から特別攻撃隊員を募る。種類は潜水艦によるもの、魚雷によるもの、舟艇によるものである。応募者は明朝○八○○までに区隊長に申し出ろ。以上」一瞬私たちの間にピーンとした緊張感が走った。

自爆艇「震洋」は、本土決戦に向けて、日本各地にも配備された。このような部隊を編成とこの人選の経緯が、参議院外交防衛委員会(2001年5月31日)の田英夫議員の発言から窺われる。

昭和19(1944)年の10月ですか、私は横須賀の海軍航海学校というところに約400人近い予備学生と一緒に、いわゆる学徒出陣で出た同期の人と一緒に訓練を受けていた。ある日突然、総員集合、全員集まれということで、剣道場に集められました、夕方でしたが。
学生隊長というのは大佐です。その人が物々しい雰囲気の中で壇上に上がって言ったのは、おまえたちの中から特別攻撃隊員を募集すると。種類は、船舶によるもの、潜水艦によるもの、魚雷によるもの、三種類であると。希望者は明朝〇八〇〇までに当該教官に申し出ろ、以上。

 つまり一つは、船舶によるものというのは、私が行った震洋特攻隊という、小さな船で体当たりする。潜水艦というのは特殊潜航艇です。魚雷によるものというのは回天です。いわゆる人間魚雷回天です。

 夕食を食べ、最後寝てもだれも口きかない。お互いにふだんは夕食のときは楽しく談笑するんですが、その後勉強をして寝てもだれもまた一睡もしなかったと思うんです。階段ベッドで寝ているんですが、上の段の男がもう身もだえをするようにして寝返り打って寝られないでいるのが手にとるようにわかる。そのうちに、数時間たったときに、隣のベッドの上の段の戦友がベッドを出て教官室へ向かっていった。入りますと言っている。聞こえます。ああ、あいつは志願したなと思いました。ますますこっちは焦るわけですよ。と、彼は帰ってきていびきかいて寝てしまう、決断をしたから。

(航海学校一分隊二区隊第四班。寝室(居住区)では階段ベッドで私は下段、上段は松本素道君だった。すぐ隣の上段が荻野雅君、下段が蓼原一夫君だったと思う。「巡検終わり。タバコポン出せ」の号令がマイクで流れても、いつものように雑談をする者もない。一分隊二区隊第四班の私の部屋もシーンと静まりかえっていた。皆ベッドに入ってはいるが眠れない。----私の上段の松本素道君もベッドをきしませて返りをうつ。私もまったく眠れない。「走馬灯のように……という言葉のとおり、幼かつたころのこと、父母と旅行したときのこと、そして私の上段で悩みぬいていた松本素道君は「大和」で戦死してしまった。)

私はとうとう朝まで寝られませんでしたね。私の上の段の男も寝られなかった。手にとるようにわかったんですが、彼は戦艦大和で死んだんです。隣のベッドの上下志願して、やはり死にました。そのときに400人のうち40人が志願して全員死にました。そのとき志願すれば死しかないんですね。

 悶々として考えたのは、つまり自分で特攻隊を志願するということは、死を覚悟することですよ。どうせ戦況からしていつかは死ぬかもしれない状況であることは事実なんですが、やはり人間というのは、みずから決断をして特攻隊を志願するとなるとそう簡単なものじゃない。
----走馬灯のようにという言葉がありますが、本当にそうですね。-----学校の先生が国のために命をささげることは美しいことだぞと、こういうことを本当に言いましたから、我々のころは。そういうのがぽっと先生の顔と一緒に浮かんでくる。次の瞬間、家族と一緒に旅行したことがぱっと写真のようにして頭に浮かぶ。次々次々に一枚の写真のようにして変わっていく。それが結局朝まで続いたわけです。私はそのとき志願しなかったんです。それから二カ月後に、少尉に任官すると同時に特攻隊へ行きました。

 -----大和で死んだ上段の男も苦悩してそして死んだんですが、彼のことを、戦争が終わって二十年ほどたって、生き残った当時の戦友たちが集まって教官も交えて懇親会をしたら、そのときの学生隊長が、まさに募集をした学生隊長が生きておられて出てこられました。そして、懇親会の席で私に、田、おまえは次男だったなと言われたんで、そうですと言ったら、うん、おまえはだから特攻隊へ行けたんだと。君の上に寝ていた松本君というのは母一人子一人だった、だから死なしちゃいけないと思って大和に乗せたんだよ、こういう話をされました。

 そういう戦争の何というか、表に出てみんながわかる、空襲で死ぬことも含めて、あるいは、陸軍の本当に弾が飛んでくる中で死んでいくということと、そういう現象だけじゃなくて、内面的な人間の苦しみというもののひどさ、そういうことをぜひわかっていただきたいということをまず前提に申し上げておきたいと思います。(引用終わり)

写真(右):琉球諸島、慶良間群島、渡嘉敷島、渡嘉志久海岸、海上挺進第三戦隊所属と思われる特攻「マルレ艇」;日本陸海軍は,特攻艇のほか,人間爆弾「桜花」など秘匿すべき奇襲兵器を,簡単に米軍に鹵獲されていた。日本軍の特攻兵器の戦果が芳しくなかったのは,日本軍の作戦準備の不十分さにも要因がある。特攻艇は,薄いベニヤで,木製船体で,出力70-80馬力。爆雷depth charges2発,合計260ポンドを搭載。爆雷は,手動投下するか,体当たりの衝撃で爆発。艇は緑色に塗装。米軍は体当たり特攻攻撃をかける爆薬装備のモーターボートを、Sucide Boat(自殺艇)と呼んだ。これらは米軍に鹵獲されたもの。

 日本陸軍では,特攻「マルレ艇」を配備した「海上挺進隊」を編成し,沖縄本島西方の慶良間列島に展開した。(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍参照)

渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間諸島は、渡嘉敷島、前島、座間味島、阿嘉島、慶留間島、屋嘉比島、久場島、など大小20余の島々からなり、渡嘉敷村と座間味村に分かれている。日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200隻をしのばせていた。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、ついに3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保した。

 特攻艇の海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」が慶良間列島に配備され,沖縄本島に上陸する米軍を迎撃する予定だった。沖縄本島の西部海岸(飛行場設営適地)に上陸しようとする敵海上部隊を,背後から自爆体当たり艇で奇襲し撃破しようとした。この特攻艇が、慶良間列島渡嘉敷島沖で、アメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ハリガン」Fletcher-class destroyer Halligan)を撃沈した可能性がある。

 アメリカ軍は,慶良間列島が艦船の停泊に優れており,そこを補給基地,修理泊地として活用する意図で,沖縄本島への上陸に先立って攻撃した。そこで,1945年3月27日,配備されていた第22、第42震洋隊に出撃命令がでた。

1945年3月26日(日本側27日)に渡嘉敷島沖で撃沈したフレッチャー級駆逐艦「ハリガン」(DD-584 USS HALLIGAN)の撃沈については,米軍は,沖合いで機雷に触れて,島に乗り上げ座礁・沈没した Struck mine off Okinawa and sank March 26 1945 とする。

しかし,特攻艇による戦果である可能性もある。3月29日、第42震洋隊に出撃命令がでたが,戦果が不明のまま半数が戦死してしまう。1945年4月1日にも第22震洋隊に出撃命令が下ったが,このときは,歩兵揚陸艇1隻,駆逐艦1隻を撃沈したようだ。

1945年4月4日の上陸用舟艇LCI(G)-82への水上特攻艇の体当たりについて、米軍の資料にも興味深い話が記載されている。

中型揚陸艦LMS(R)-12も1945年4月4日,日本の体当たり水上艇によって撃沈された。


写真(上):特攻艇に撃沈された可能性が高いフレッチャー級駆逐艦「ハリガン」
;沈没に伴い乗員162名死亡。1945年3月26日、渡嘉敷島沖12マイルで、機雷により大破し、沈没を免れるために渡嘉敷島に乗り上げた、と報告されている。最高速度38ノットの高速艦なので、水上特攻艇よりも早いが、排水量2900トンと大型のため、喧騒の戦場では、エンジン音を響かせて突っ込んでくる小さな自爆艇を発見できなかったのかもしれない。機雷に触れたと報告しているが、自爆艇が海上で停止して待ち伏せしたのかもしれない。
On March 26 1945 Haligan was headed south from Okinawa for independent patrol when she stuck a mine which detonated beneath her forward magazines. PC-1128 and LSMR-94 took aboard the survivors. Halligan then drifted for 12 miles before pilling up on a reef off Tokashiki Island. This is an aerial view as she rests on the reef. A closeup of the destruction to the forward section of the Halligan.


写真(右):フレッチャーFLETCHER級駆逐艦「ハリガン」 ;最高速度38ノットの高速艦で、水上特攻艇よりも遥かに優速である。排水量2900トンと大型艦であり、喧騒の戦場では、エンジン音を響かせて突っ込んでくる小さな自爆艇を発見できないまま、自爆された可能性がある。優速の駆逐艦を低速ボートで追いかけても、体当たりできないので、自爆艇は海上待ち伏せ攻撃を仕掛けたのではないか。

3月26日(日本側27日)、水上特攻艇が渡嘉敷島沖で撃沈した可能性の高いフレッチャー級駆逐艦「ハリガン」DD-584 USS HALLIGANのデータ。
排水量 2924 Tons (Full), 全長, 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max)
兵装 5 x 5インチ38口径対空砲, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5).
機関出力, 60,000 馬力; General Electric Geared Turbines, 2軸
速力, 38 Knots, 航続距離 6500マイル @ 15 Knots, 乗員 273名.

米軍が慶良間列島を占領した際,多数の特攻艇を鹵獲している。既に,フィリピンのルソン島で3ヶ月前に実戦に使用しているとはいえ,軍機である奇襲特攻兵器を多数米軍に鹵獲させてしまった。さらに,人間爆弾「桜花」も沖縄本島の読谷村の北・中飛行場で鹵獲されている。

日本陸海軍は特攻兵器を優先配備したが,体当たり特攻艇「震洋」,人間爆弾「桜花」など秘匿すべき奇襲兵器をいとも簡単に米軍に鹵獲されている。奇襲兵器の秘匿性が暴露されるという失態のために,米軍は事前に特攻を警戒し、対策を強化できた。日本軍の特攻兵器の戦果が芳しくなかったのは,このような日本軍の作戦計画の不備にも原因がある。日本では,特攻作戦にあたっても,安易な精神主義が跋扈し,冷徹な科学的,合理的な作戦計画を立案していなかったようだ。

体当たり特攻艇は,劣悪な性能であり,その存在もは,米軍に知れ渡っている中で,戦果を挙げるのは容易ではない。敵艦艇よりも速度は遅く、エンジン音もやかましい。人間魚雷「回天」も、操縦と技術的故障の多発から、戦果は少ない。しかし,このような操縦困難な故障頻発の特攻兵器が、1隻でも2隻でも,戦果を挙げることができたことのほうが不思議である。まさに,特攻隊員の勇気と修練の賜物であろう。

慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islandsでは,次のように記述している。

米海軍と航空部隊の慶良間列島への攻撃は,上陸の2日前から始まっている。1945年3月24日,第58任務部隊Task Force 58の空母と戦艦の援護の下に,掃海艇による慶良間列島周囲の機雷除去を行い,3月25日にはVice Admiral William H. Blandyの支援部隊も掃海に参加した。3月26日の午前中に米陸軍第77師団の大隊上陸部隊battalion landing teams (BLT's)が慶良間列島に上陸した。戦車揚陸艦LSTから,阿嘉,慶留間,外地,座間味の四島にも上陸が行われ,巡洋艦,駆逐艦などが海岸を5インチ砲で地ならしした。空母艦載機は,日本軍の潜水艦,航空機の攻撃を警戒して上空援護にあたった。(Seizure of the Kerama Islands(慶良間諸島侵攻)引用) 

  ⇒特攻兵器:海上挺進隊・水上特攻隊 

慶良間列島座間味島(座間味村)には戦時中、特攻艇関係の陸軍部隊が約1,500名駐屯していた。1945年3月26日、米軍が上陸した。「住民の戦闘意識は激しく、女子青年隊まで組織して戦った」と軍民一体の勇敢さを誇示するweb資料もある。また,軍に半強制的に徴用され,軍に労働力や下級の兵卒として奉仕することを強要されたともいう。

渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数は,日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人とされる。一般住民368名の犠牲ののうち,集団自決あるいは追い詰められての集団死の犠牲者329名とされる(→渡嘉敷村史資料編)。

人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」「マルレ」、特攻専用機「剣」キ-115のような特攻兵器を設計、製造し、部隊編成をしていること自体、特攻が自然発生的なものでは決してなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことを物語っている。

7.日本陸軍は、特攻専用の航空機キ-115「剣」を試作,量産したが,実戦では使用されなかった。
< 特攻専用機のキ-115「剣」は,1945年1月20日に「特殊攻撃機」として試作命令が下った。中島飛行機製作所で設計され、トタン板のように簡素なつくりであって、離陸に使用した車輪は、投下回収して別の機体に再使用する。これは、資材の節約と重量軽減のためで、特攻するので帰還することを考慮しない片道切符に等しい。

戦争末期の物資欠乏の時代,陸軍 中島キ-115「剣」を,1回の体当たり自爆で失ってしまうには,よほどの戦果が期待されなければならない。しかし,従来の「まっとうな」航空機2000機の特攻でも,それに見合う大きな戦果を挙げられないのであるから,特殊攻撃機でも,敵に打撃を与えるのは困難である。キ115「剣」は,使い捨て機であり,その搭乗員も使い捨てにされてしまう。

  ⇒◆特殊攻撃機キ115「剣」と特別攻撃を読む。

1944年6月19-20日、マリアナ沖海戦で大敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を諦めた。1944年7月21日、大本営[軍令部]は大海指第431号によって、奇襲特攻を作戦として採用した。1944年3月にすでに人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」特攻舟艇「震洋」と(後日になって)名づけられた特攻兵器による作戦も決定した。桜花を配備した特攻隊の第721海軍航空隊(721空)「神雷部隊」の編成も、1944年9月に開始されている。

日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」は,航続距離は短く,操縦性も悪いので,帰還することが期待できなかったが,1941年12月の真珠湾攻撃に「特別攻撃隊」が編成された。1945年に量産された特殊潜航艇「蛟龍」「海龍」も,魚雷不足と訓練不足から,艦首に爆薬を搭載して人間魚雷として配備された。

  ⇒◆特殊潜航艇「甲標的」による特別攻撃と人間魚雷「海龍」を読む。

日本軍は,本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃するつもりでいた。そのために,兵器開発も特攻が優先された。正攻法では,量,質の両面で連合軍に対抗できなくなっており,戦争末期,軍高官は,精神主義を振りかざして,全軍特攻化を決定し,特攻を唯一の対抗手段とした。

 しかし、特攻兵器を技術的に見れば、信頼性の欠如、操作困難など、部隊配備する中で、欠陥・故障・不具合が続出した。特攻兵器は、低品質の素材、安易な技術を用いた使い捨て兵器だが、これは特攻隊員たちも同じく使い捨てするといういのち軽視の戦術的発想であろう。

 高松宮(大元帥昭和天皇の弟)『高松宮日記 』第8巻 1945年7月3日「特攻兵器は技術院としも乗り出す様な話であったから、それは良いが、人が乗ってゆくから安モノ兵器でよいと言うような考えがあるが、全く技術者としてけしからぬことで、犬死にならぬように、特攻なればこそ精巧なものを作るべきなりと語っておいた。」

 日本軍は,1945年1月18日、戦争指導大綱で、本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃することを決定した。そのために,兵器開発も特攻が優先された。正攻法では,量,質の両面で連合軍に対抗できなくなっており,戦争末期,軍高官は,精神主義を振りかざして,全軍特攻化を決定し,特攻を唯一の対抗手段とした。
 特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。


◆連合国では,ウィリアム・ハルゼー提督のように「よいジャップは、死んだジャップだけだ」と言って、日本兵の殺害を推奨した指揮官もいた。戦争と日本人への人種的偏見が相俟って、太平洋戦争では、欧米の騎士道精神は期待できなかった。アメリカ人は,日本軍の特攻作を現在の自爆テロと同じく、狂信的で卑劣な行為として認識していた。2001年の9.11同時テロに対しても、アメリカでは、真珠湾の騙し討ちの再来であり、カミカゼ特攻と同じ自爆テロであると見做して憎悪が沸き起こった。日本人は「特攻は自爆テロは違う」と信じているが、世界の人々は必ずしもそうではない。この認識の乖離を踏まえて、特攻とは何か、を考えれば、差別・憎悪を拡散して人々を煽動し、政府や軍を操ろうとする人間が、戦争を引き起こし、続けていることに思い当たる。

写真・ポスターに見るナチス宣伝術 ワイマール共和国からヒトラー第三帝国 『写真・ポスターに見るナチス宣ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社でドイツ政治を詳解。

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
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