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◆『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年−二十世紀初頭から現在まで』青弓社
写真・ポスタ-から学ぶ戦争の百年』(2008年8月25日青弓社刊行,368頁,2100円)では,日露戦争・シベリア出兵の浮世絵,スペイン内戦の反共ポスター,1938年1月の南京陥落直後,松井石根大将が米アジア艦隊司令長官ヤーネル提督を訪問している写真,陸海空全てに設けられた米女性部隊の写真・ポスター,アンネフランクが埋められたと思われるベルゲン=ベルゼン収容所の遺体埋葬地,呉で空襲される戦艦大和の航空写真,2000年に特攻艇に爆破された米駆逐艦コールの写真など,日本ではほとんど紹介されていない図版も収めました。(⇒版元ドットコム参照)

1.毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」で,次のように紹介されました。
青弓社が『写真・ポスタ-から学ぶ戦争の百年』(鳥飼行博著、360頁、2100円)を刊行した。「戦争の世紀」といわれる20世紀から現在までの近現代史を、写真やポスター、新聞記事、公文書など225点でたどっている。

扱った戦争は日露戦争、第一次世界大戦、スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦、冷戦、朝鮮戦争、中東戦争、ベトナム戦争、ペルシャ湾岸戦争など。戦地での戦意高揚を促すプロパガンダポスターから、銃後の女性たちに戦争参加を呼びかける檄文(げきぶん)、戦地の惨状を伝える新聞記事、虐殺の様子を収める写真など、収録した図版の意味と時代性をキャプションで解説している。
2.日本経済新聞2008年9月14日・朝刊「広告欄」,朝日新聞2008年8月24日朝刊に拙著が掲載されました。
3.『旬刊 出版ニュース』2008年9月下旬号のVisual Pointに,拙著が取り上げられました。
4.朝日新聞2008年8月24日朝刊に拙著が掲載されました。
5.出版ニュース (2153) 3,2008/9/下旬 に,拙著が「Visual Point 写真・ポスターから学ぶ戦争の百年--二十世紀初頭から現在まで 鳥飼行博・著」として紹介されました。
6.本書は、オーストラリア国立図書館National Library of Australia,アメリカ議会図書館Library of Congress ,スタンフォード大学図書館Stanford University Libraries,バージニア大学図書館University of Virginia Library,トロント大学図書館University of Toronto Librariesにも所蔵・公開されました。

◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土)13時,9月15日(火)14時,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
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  はじめに

第二次大戦時のアメリカの反枢軸ポスター(右):アメリカの婦女子をカギ十字のナチスの魔手と,旭日旗の日本の魔手が襲う。か弱い家族を守るためにも「やつらの手を,引き離そう。新しい勝利公債を買おう」。兵士として戦うことだけでなく,資金協力も総力戦の重要な構成要素である。

20世紀は戦争の世紀だった。戦争をしていない時期を見つけ出すのは難しいほど、世界のどこかで戦争をしていた。では、なぜ戦争が起こったのか。どんな戦争が展開されたのか。本書の第1章から第12章で、戦争の百年を、220点余りの写真ポスター・新聞紙面を通して解説することを試みた。当時の新聞記事や公式報告も頻繁に引用した。これらは一つひとつが、歴史あるいはプロパガンダであり、英雄叙事詩、祖国の栄光を映し出すものである。戦争は、特定の国家の政治・外交手段の延長として戦われ、特定の社会階層の利害に役立つ手段ともみなされた。

写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』では、戦争のポスター、写真、新聞紙面220点は、本の片面ページいっぱいに大きく掲載し、その原資料の解説を載せ、その意味を説明した。総ページ360頁のうち半分近くが図版になっている。写真ポスターは、有名なものもあるが、本邦の紙面上、初公開の写真ポスターが7割を占める。

フィリピンゲリラを鎮圧する米海兵隊、エルサレムを守備するオスマン帝国とドイツ参謀本部元参謀総長ファンケルハイン将軍、南京占領直後に米極東軍司令官を表敬訪問した松井石根将軍、アッツ島で殲滅した日本軍将兵を埋葬しようとする米軍兵士、朝鮮戦争で捕虜になった中国人義勇兵、特攻艇により破壊されサルベージ船に運搬される米軍新鋭駆逐艦など、日本では初公開の写真がある。

第一次大戦中のアルメニア難民の救済ポスター・中国における第一次大戦の労働者募集ポスター、スペイン内戦におけるフランコ反乱軍の農民ポスター、女性海兵隊員募集の米軍ポスター、ドイツ空襲から帰還した米軍爆撃機のポスターなど、今まで注目されなかった写真ポスターを多数掲載することができた。

レーニンとは何だったか 20世紀は戦争の世紀だった。戦争をしていない時期を見つけ出すのは難しいほど、世界のどこかで戦争をしていた。では、なぜ戦争が起こったのか。どんな戦争が展開されたのか。拙著『写真ポスターから学ぶ戦争の百年』では,第1章から第12章で、220点余りの写真ポスター・新聞紙面を通して戦争を解説することを試みた。当時の新聞記事や公式報告も頻繁に引用した。これらは一つひとつが、歴史あるいはプロパガンダであり、英雄叙事詩、祖国の栄光を映し出すものである。戦争は、特定の国家の政治・外交手段の延長として戦われ、特定の社会階層の利害に役立つ手段ともみなされた。

20世紀、正義と自由のための聖戦自存自衛を目的とした祖国防衛戦争が主張された。つまり、20世紀の戦争は、理想世界建設のために、勇ましい英雄と戦士が活躍し、人類の叡智と技術の粋を集めた行為だったと信じられてもいる。
現代でこそ,戦争は,悪いことだという認識が広まっているが,20世に入ったばかりのころ,百年前は,戦争とは祖国防衛のための戦い,民族・家族のための戦いとして,戦争の大儀・正義,聖戦が語られてきたことに気づかされる。戦争を望まなかった人々も、女性子供も,戦争に巻き込まれてしまった。にも関わらず,いまだに,戦争は必要悪であり、戦争は必然的に繰り返されるものだとする戦争必然説も唱えられている。「戦争に行きますか。それとも国民やめますか。」過去の戦争を誤解し,粉飾したりしながら,戦争の百年を完全否定あるいは完全肯定する単純明快な戦争俗説がもてはやされている。
◆鳥飼行博研究室に対する権利侵害で削除された違法動画
鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者
捏造犯を追い詰める。重慶虐殺、南京虐殺 ねずさんのひとりごと
捏造犯を追い詰める 3 南京重慶淮海虐殺 ねずさんのひとりごと
捏造犯を追い詰める 4 重慶虐殺、南京虐殺 ねずさんのひとりごと
捏造犯を追い詰める 4 重慶虐殺、南京虐殺 ねずさんのひとりごと

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序章 戦争の20世紀

クラウゼヴィッツ―『戦争論』の誕生 1.第一次世界大戦まで
20世紀の初頭は、帝国主義の全盛期であり、植民地や勢力圏を巡る戦争が起こった。----帝国主義は、ナショナリズムを喚起したのである。
-----世界大戦では、戦闘員たる兵士だけではなく、後方・銃後の非戦闘員たる市民や子供も、工場労働,農作業、資源節約を通して参加した。戦争は軍民が一体となって戦う総力戦となった。総力戦を戦うためには、戦争の大義がつくりだされ、それが市民に喧伝された。大量の戦争ポスターが作成され、新聞、雑誌などメディアを活用して、オードリー・ヘプバーン物語 2.戦間期のファシズム
戦後、欧州の戦勝国・敗戦国は共に大きな戦禍を被った。そこで、----国際連盟が設立された。----しかし、ナショナリズムによる植民地独立の動き、人種平等の概念は、取り入れられず、依然として、列国本位の国際秩序が維持された。その中で、社会主義に対抗する思想としてファシズム(fascism)が興隆した。スペインでは、選挙で成立した共和国政府を共産主義者の赤(アカ)であるとして、陸軍の叛乱が起こった。-----

3.第二次世界大戦
ファシズムの軍備拡張、領土拡張が進むにつれて、世界秩序の再編成を唱えるようになり、ファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ヒトラー総統は、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めた。
-----日本も,満州,華北と中国大陸を勢力圏に組み込みながら,東亜新秩序を唱えた。日独共に米英仏との戦争は望まないとしたが、勢力均衡を破綻させる軍事力とそれを背景にした覇権主義は、列国にとって脅威であり、既得権益を侵すものであった。------

4.ナショナリズムとイデオロギーの二面戦争
第二次大戦では、民主主義・自由主義と社会主義がファシズムに勝利したが、ファシズムが打ち倒される前に、東西冷戦が始まった。原子爆弾に象徴される核兵器は、アメリカが独占し、米軍は軍事予算と軍需生産,傑出した軍事技術に支えられて、世界最強国,ピ−スメーカー(平和創造主)となった。------

5.民族紛争
イデオロギー戦争の側面は、1990年の冷戦終焉によって、収まるかに見えた。しかし、奪われた土地、財産を取り戻し、殺害された家族・友人の仇を討つ報復が紛争を長期化し、和平を困難にした。第三者が、武力行使の停止、停戦を求めても、それは報復の執念に燃える武装勢力にとって、中立の立場とは思えなかった。-----

6.国際テロ戦争
----戦後、パレスチナにユダヤ人の国家が創設され、アラブ人、イスラム教徒との対立、戦争が繰り返される。英仏の帝国主義は衰微したが、アメリカは、正義と自由を守る世界のピースメーカーとして介入し、中東和平をもたらそうとした。アメリカの中東制覇の野心を疑った武力勢力は、反米感情を高め、親米派を標的としたテロ、破壊工作を行った。ピースメーカーのアメリカは「平和を破壊した和平」をもたらしたとも批判された。-----

帝国主義とナショナリズム
文明開化を唱えた福沢諭吉は1885年から脱亜論を主張した。「不幸なるは近隣に国あり」として清朝と李氏朝鮮を儒教を墨守する旧態依然とした古い封建国家として批判し、「今の文明東漸の風潮」に際し、独立を維持することはできない非文明国と断じた。福沢諭吉は、中国・韓国のような「悪友」を謝絶し、列強の帝国主義政策に対抗して、日本の独立を維持する文明開化を推し進める道を模索した。これが日本がアジアを脱し、欧米列国と共にアジアを教化する帝国主義と結びついたのは、皮肉である。

20世紀は戦争の時代であるが、その思想的背景の一つは、帝国主義である。帝国主義とは、強大な軍事力によって、威嚇や侵略を進めて、他国を征服し、属国としたり、領土を併合したりして、主権を奪い支配すること、つまり植民地獲得を中核とする、覇権主義である。そして、植民地の資源エネルギー、労働力を搾取して、本国の国益として、吸い上げてしまう点に着目すれば、帝国主義は植民地主義とも並び称される。

  ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、資本主義が大企業による独占段階に入り、世界市場を獲得し、国内で飽和した資本を国外に投下するために、植民地を求めると考え、帝国主義を資本主義の発展段階として理解したようだ。
 しかし、帝国主義や植民地主義が、他の国民を隷属させ、人権を侵害する悪の思想であるとの認識は20世紀初頭には、あまりなかった。それどころか、文明の及ばない無知蒙昧な民族を教化する、内紛の耐えない紛争地域に秩序と安定をもたらすとして、世界の福利厚生を向上させ、平和と繁栄をもたらす恩恵的リーダーシップ論として、帝国市民に肯定的に理解され、支持されていた。そこで、外交使節を殺害し、公使館を攻撃するなど野蛮な行為を続けた義和団は暴徒であり、排外的な行動を取り、列国に宣戦布告した清朝は、野蛮な専制国家であるとされ、制裁の対象となった。帝国主義戦争は、自国の権威・文化・思想を拡張し、平和と安定を追求する行為であり、決して悪とは認識されなかった。

実際、帝国主義者は、被支配者を鷹揚に弱者、哀れな者、貧困者として処遇した。キリスト教の教義や、王室への忠誠といった正当化された思想と帝国主義とは、独占資本だけではなく、市民の要求とも調和するものであった。鉄道・電線を敷設し、学校・病院を建設し、資源を開発し、農業を振興した。植民地を近代化して、恩恵をもたらしていると考えた。ただし、産業近代化の利益は、本国の帝国主義者が吸い上げてしまったし、被支配者には、基本的人権すら認めなかった。
アメリカの帝国主義

フィリピン=アメリカ戦争(米比戦争)
児玉源太郎 アメリカは、フィリピンでのサトウキビ、ココナツ油、パイナップル、タバコなど一次産品の生産を進めると共に、キリスト教化がスペイン時代に済んでいたことをふまえて、英語によるアメリカ式教育を施し、思想文化のアメリカ化を図った。ただし,ミンダナオ地域のムスリムの多くは,アメリカ支配に抵抗した。

アジア、アフリカに対する帝国主義的な侵略は、当時は、文明化されていない野蛮人、土人に対する教化の一環であり、アジア、アフリカを文明国とはみなさないような状況では、そこで暮らす人々も文明人とは見なされなくなってしまう。 米国は、英仏に遅れて、帝国主義的な政策を採用したが、これは、マニフェスト・デスティニー(必然的な天命)として理解された。この語句は、1845年、テキサスのアメリカへの併合を主張するジョン・オサリバンが使用したが、アメリカ大陸東部から入植地が開拓され、それが西進して太平洋にまで達する膨張主義を正当化した。この西進の過程で、アメリカは、メキシコ、スペインと領土争いをした。 中南米諸国は、スペイン植民地支配に対して、19世紀に欧州移民の子孫であるメスチーソを中心に独立戦争を戦った。そして、独立を勝ち得ていた。しかし、アメリカ大陸の南西部では、アメリカがメキシコ領テキサスに侵入し、ついで1846年メキシコ=アメリカ戦争(米墨戦争)が勃発した。メキシコは敗北し、1848年のガダルーペ・イダルゴ条約では、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラドを割譲した。

1889年、キューバの独立を支援すると称して、スペイン=アメリカ戦争(米西戦争が起こった。スペインの植民地フィリピンに対しても、アメリカは攻撃を仕掛けた。1898年のパリ講和条約で、アメリカは、キューバとプエルト・リコを保護国となした。現在でもキューバのグァンタナモは米領、プエルト・リコは米自治領である。また、アジアでは、フィリピンが米植民地、グアム島が米領となった。アメリカ・スペイン戦争に際して、米軍と共に戦ってきたフィリピンは、1899年1月1日、エミリオ・アギナルドを大統領として独立を宣言したが、アメリカは独立を認めず、反乱として鎮圧した。
帝国主義の先進国である英仏米では、民主主義の普及と共に20世紀前半には、帝国主義への批判が起こった。マーク・トウェインも、フィリピンの併合に反対した。-----


第一次世界大戦−アメリカの参戦

米海軍の1916年大拡充計画とヨーマン
第一次大戦の開戦時,各国の主力艦,すなわち戦艦と巡洋戦艦(装甲を薄くし高速化した戦艦)は,英海軍51隻,独海軍26隻,米海軍16隻,仏海軍13隻,日本海軍12隻で,米海軍は世界第三位だった。しかし,米新鋭戦艦として,ニューヨーク級(排水量2万7千トン,14インチ[36センチ]砲10門,速力21ノット)が,1914年に2隻竣工,ほぼ同型のネヴァダ級が1916年に2隻竣工,ペンシルヴェニア級(排水量3万1千トン,14インチ砲12門,速力21ノット)が1916年に2隻竣工,ほぼ同型のニューメキシコ級が1917年に1隻,1918年に1隻竣工している。

大戦中の1916年8月29日,アメリカは海軍配分法を成立させ,どの国も決して及ばない大艦隊を作ることになった。これには,コロラド級など戦艦10隻,巡洋戦艦6隻,巡洋艦10隻,駆逐艦50隻,潜水艦72隻,その他14隻を建造する大拡充計画である。
艦隊編成に伴って,乗員も募集し,訓練しなければならない。選抜徴兵制が導入された陸軍とは異なり,海軍は志願兵に頼っていたからである。海軍将兵には,艦船乗員以外にも,港湾の工員,整備員,事務所・部隊の事務員など陸上勤務要員が多数いた。そこで,アメリカ海軍は,女子にも代替できる事務職は女子海軍予備隊を組織して,補充しようと考えた。

1917年3月,アメリカ参戦直前に,ヨーマン(Yeomen)と呼ばれる婦人部隊員の採用を決め,1917年4月末までに600名を採用した。1918年12月には,ヨーマンは1万1千名まで増加していた。大多数のヨーマンは,事務員だったが,通訳・訳者、製図工、指紋専門家、艦船カムフラージュのデザイナー,募集の代理人など専門職についた女子もいた。------
●ヨーマンは,米海軍歴史センター:World War I era Yeomen (F)(http://138.147.50.20/photos/prs-tpic/females/yeoman-f.htm)参照。



第一次世界大戦−戦費調達


「アメリカ合衆国公債。ボーイスカウト・アメリカ連盟による第三回自由ローンキャンペーン。自由のための武器。」1918年,Joseph Christian Leyendeker作,760mm×508mm(吉見俊哉編(2006)『戦争の表象』東京大学出版会p.55,46番引用)
星条旗を模したトーガをまとった自由の女神(男神?)は,アメリカの紋章の白頭ワシのついた金の盾を持ち,ボーイスカウトの少年が,準備ができた剣を渡そうとしている。資金を集めることで武器になるなら,自由公債をの販売を手助けするボーイスカウトも立派に戦争に参加していることになる。


戦費調達のための自由ローン・自由公債
戦争が長引くと,軍需品の生産から,兵士への給与支払い,遺族への軍人年金と支出がかさむから,戦費を調達するかが課題となる。増税も一つの手段であるが,市民や企業の負担を重くすると,国内経済が低迷してしまう。そこで,国民の持つ貯蓄,余裕資金を吸い上げて,戦費に充当する借入れが採用される。政府が,国民や金融機関から借金をして,資金を調達するのである。この戦時ローンを証券としたのが戦時公債(戦時国債)である。ローンや公債の利率は,高ければ多数の顧客が購入するが,国庫の負担が重くなる。利率が低ければ,国庫負担は軽いが,市場での評価は低く資金が集まらなくなる。そこで,国民の愛国心に訴えて,できるだけ低利で募集をかけるのが戦時ローンの特徴となる。

アメリカでは,1917年4月24日,緊急ローン法の下で第一回自由ローンが募集され,3.5%の利率で,50億円を募集した。第二回自由ローンは,1917年10月1日で,4%の利率で50億円を募集した。第三回自由ローンは,1918年4月5日で,4.5%の利率で30億円を募集した。第四回自由ローンは,1918年9月18日,4.25%の利率で60億円を募集した。しかし,アメリカの銀行団は,1915年10月15日,まだアメリカが中立だった時期に,英仏に利率5%で,5億ドルの論を供与し,連合軍を資金支援していた。

チンタオ要塞爆撃命令 自由ローン募集には,有名文化人も動員された。1896年に「星条旗よ永遠なれ」Stars and Stripes Forever(1987年に国家行進曲に指定)を作曲したジョン・フィリップ・スーザJohn Philip Sousa (1854–1932)は,1917年「自由公債」行進曲を作った。1918年4月,大俳優ダグラス・フェアバンクスは,ニューヨークの財務省の前で,第三回自由ローン公募に協力し,大衆の前で大演説をした。チャーリー・チャップリンSir Charles Spencer Chaplin, Jr.(1889–1977) も,1918年9月,64本目の映画として,「公債」をリリースした。----



スペイン内戦(スペイン市民戦争)−1936-1937年
スペイン共和国政府の国際旅団ポスター(右):「マドリッドの最前線は、世界が注目する最前線だ。国際旅団の兵士。」兵士の胸元についている赤い三角星は、国際旅団の標章である。Parrilla作,マドリッド, U.H.P.出版(米議会図書館,Digital ID: cph 3b52691,Call No.: POS - SP. CIV. WAR - .P27, no. 1..引用)

国際旅団の編成−スペイン共和国政府側の義勇軍
1936年8月23日、ソ連は、英仏独伊とともに不干渉合意に加わったが、国際的な孤立の中で、共和国人民戦線内閣を軍事支援することは、得策でないと考えたからである。同じように、独伊も不干渉合意に加わったが,正規軍を派遣した。
ソ連は,スペイン共和国政府の金準備(外貨準備)と交換に、戦車、航空機などを供給した。そして、ソ連共産党の指導下のコミンテルンは、共和国への救援物資や義捐金を集め、外国人義勇兵部隊の編成を計画した。ソ連内務人民委員KGB(Committee for State Security:秘密警察)も外国人義勇兵案を価値あるものと認め、各国共産党もコミンテルンの訴えに応えて、スペイン共和国側に立つ義勇軍の募集を開始した。非共産党員の義勇兵も募集したのは、兵力増強とコミンテルンの影響力を非共産党員兵士に広めようとしたためである。

10月22日、スペイン共和国政府は、各国の義勇兵を基幹とする国際旅団の結成を承認、義勇兵はフランスから、指定されたアルバセーテに集結した。ここで、義勇兵は、旅券と引き換えに身分証明書が手渡された。旅券は密かにソ連に送られ、秘密工作員用の偽造旅券として活用されたという。

1936年11月1日、初の部隊である第11国際旅団1900名が、ドイツ人、フランス・ベルギー人、ポーランド・ハンガリー・ユーゴスラビア人の3個大隊で編成された。11月7日、第12国際旅団が、ドイツ人、イタリア人、フランス・ベルギー人の3個大隊、合計1600名から編成された。12月に、第13国際旅団2300名、第14国際旅団2000名が編成された。1937年1月、第15国際旅団2750名は、米国製1914年式レミントン小銃など、中古小銃を支給され,前線に送られた。

イギリスからスペイン内戦に参加し、国際旅団に参加したのは2千名で、死者は500名、アメリカからも2千名が参加した。国際旅団には、55カ国から約4万人の義勇兵と2万人の医療部隊など非戦闘員・後方勤務者が加わった。-----
●国際旅団は、川成洋(2003)『スペイン戦争 青春の墓標−ケンブリッジの義勇兵たちの肖像』東洋書林 参照。


第二次世界大戦初期−1941年6月22日フランス降伏,その1年後にドイツのソ連侵攻

ドイツによる欧州大陸支配
1939年9月1日、ドイツは,ポーランドに侵攻した。ドイツの対英宣戦布告・攻撃はなかったが,9月3日、ネヴィル・チェンバレン英首相は対独宣戦布告した。ポーランドとの相互同盟条約があったためである。独軍は,戦車,機械化部隊からなる装甲師団,地上支援航空部隊,空挺部隊が連携をとって,機動的に兵力を集中,攻撃する電撃戦を採用した。しかし、英仏とも西部戦線で対独攻勢をかけず、ポーランドを見殺しにした。

1940年2月16日,英艦隊(巡洋艦1隻、駆逐艦6隻)は独民間船アルトマルクを拿捕した。独ポケット戦艦に撃破されたイギリス船員捕虜300名がアルトマルクに捕らえられていたからである。英軍は,中立国ノルウェーの領海を侵犯し,独アルトマルクを臨検,独船員を殺害した。さらに,スウェーデン産出の鉄鉱石が,ノルウェー要港ナルヴィク経由でドイツに供給されており,この海上交通を遮断するために,イギリスはノルウェー機雷封鎖,英軍進駐を計画していた。そこで,ドイツはイギリスに先んじて4月8日,ノルウェーに軍を上陸させたが,イギリスも、4月13日,英艦隊は要港ナルヴィクのあるフィヨルドに突入し,独駆逐艦8隻を撃沈,17日にナルヴィクに逆上陸した。 戦時の挙国一致内閣に改造するため,5月10日、チャーチルが英首相に就任した。奇しくも当日、ドイツのフランス侵攻作戦が開始された。

独軍は、第一次大戦と同様、ベルギー経由で,アルデンヌ林を通って侵攻した。ドイツは、5月17日オランダ、5月28日ベルギーを降伏させ、6月5日にダンケルクを占領した。ただし,連合軍兵士34万名は,英本土に脱出できた。8日,英軍はナルヴィクを撤退,10日、ノルウェーが降伏した。フランスは西部戦線が開かれてから1カ月,6月22日に降伏した。

イギリスは連敗続きだったが、チャーチルは5月13日の下院での首相就任演説で「血と労苦と汗と涙のほかに、差し上げられるものはありません。----あらゆる犠牲を払って、あらゆる辛酸に耐えての勝利、いかに長く苦しい道のりであろうとも、戦い抜き抜く以外、生き残る道はないのです。」と述べた。-----


第二次世界大戦中期−1943年4月18日山本提督暗殺

山本提督を中傷するアメリカの反日ポスター(右)「ワシントンのホワイトハウスで米国との和平を主導するのを楽しみにしています。山本提督。こう言った貴様は、アメリカに、いま何と言うつもりだ?」嘘つきの真珠湾だまし討ち首謀者山本五十六大将の主張は、まったく信頼に値しない,ということになる。(米国立公文書館NARA,ARC ID: 513823 Local ID:44-PA-371B引用)

連合艦隊司令長官山本五十六大将の暗殺
山本五十六提督は、日独伊三国同盟と対米戦に反対し,海軍航空隊を育て、卓抜な戦術を発案したとされる。1941年12月11日『朝日新聞』は「太平洋に無敵の金字塔,御嘉尚(天皇陛下によるお褒めのお言葉)に恐懼 偉勲の山本提督留守宅」と報じ、12月12日の大本営海軍部は、大元帥陛下より連合艦隊司令長官への「勅語 連合艦隊航空部隊は敵英国東洋艦隊主力を南支那海に殲滅し、威武を中外に宣揚せり。朕深く之を嘉す」を公開した。天皇が敵主力撃滅を激賞した以上,国民が,総力戦の前途に不安を抱くことなかった。しかし,アメリカ人は、2千名の命を奪ったハワイ騙し討ちの首謀者として、山本提督を憎悪し,報復を誓った。

1943年4月18日6時、前線視察と将兵の激励のため山本長官一行は、一式陸攻2機に分乗、ラバウル基地からブーゲンビル島ブイン基地に出発した。最前線視察は,損害の多い「い号作戦」を打ち切り,山本長官が後方のトラック基地に帰還するための花道である。1番機に山本長官、2番機に参謀長宇垣纏中将が搭乗した。護衛の零戦は6機のみだったが,ラバウルとブインは日本の制空権下にあり,行動も秘密だった。米軍が山本長官機を襲撃することはありえないと考えた。

しかし,米軍は暗号解読(マジックによって,山本長官の前線視察を察知し,ニミッツ提督は,FDRの合意を得て,真珠湾の報復に山本暗殺を決意する。
4月18日ロッキードP38戦闘機18機が発進し,ブイン基地近くで待ち伏せ攻撃をした。P-38は14機が上空警戒,残り4機が長官機を攻撃,撃墜した。アメリカは,暗号解読に成功していることを日本に悟られる危険を冒してまで,山本暗殺を決行した。山本提督は,米海軍に大打撃を与えた憎むべき敵首魁だったからである。提督の戦術・戦略策定能力を恐れて暗殺したわけではない。

日本海軍は、戦死した山本五十六大将を元帥に昇格させ、盛大な国葬を営んだ。1942年4月18日の 東京初空襲、1943年4月18日の 山本大将暗殺と、真珠湾の報復の倍返がなされた。日本は,暗号解読は不可能と考えただけでなく,暗号改変の手続き(暗号書の全部隊への配送)が膨大なために,改変は事実上不可能だった。


ベトナム戦争−ゲリラ戦

南ベトナム軍グエン・ゴク・ロアン警察庁長官は,対ゲリラ戦を指揮している最中,1968年2月、ベトコン兵士を路上で自ら拳銃で処刑した。これを伝えたAP通信の報道は,対ゲリラ戦において,虐殺が横行していることを印象付けた。
21世紀でもテロリストに対する処刑・暗殺は許容されているが,殺害現場が報道されることはなくなった。南ベトナム軍兵士や住民は、武器や情報をベトコンに流し、資金・物資の提供をした。南ベトナム軍の歩哨が、ベトコンに献金して、攻撃を免れる約束を取り付けた。ベトコン支配地域では、献金・食糧提供,陣地構築(地下道掘り),兵役の役務提供が強要された。


ベトナム戦争における米軍の対ゲリラ戦
太平洋戦争直前に日本軍のインドシナ進駐を受入れたフランスだったが,1945年,終戦直前に,日本軍に武装解除され,ベトナムは独立した。しかし,日本の降伏後,フランスはインドシナ植民地を再興しようとした。そして,フランス軍は,独立を目指すベトナム軍と第一次インドシナ戦争を戦った。フランスは、1949年,インドシナ植民地を分割して、ベトナム、ラオス、カンボジアを分離独立させ、勢力を確保しようとしたのである。

しかし、中国は、ソ連と共にベトナム民主共和国(北ベトナム)に軍事援助をした。これに対抗して,トルーマン米大統領は,1950年に対仏軍事援助を開始したが,1954年5月、フランス軍はディエンビエンフーの戦いで惨敗し、7月、ジュネーヴ協定によって、北ベトナム独立を承認した。

人民の戦争・人民の軍隊―ヴェトナム人民軍の戦略・戦術 しかし、アメリカは、アジアにおける連鎖的共産化というドミノ理論を信じ、1956年,北緯17度以南の親仏ベトナム政権をベトナム共和国(南ベトナム)として承認した。北ベトナムは、ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)を結成、ゲリラ戦を展開した。

その後、1961年1月に大統領に就任したジョン・ケネディは、ロバート・マクナマラ国防長官の支持を得て、南ベトナムに1万名以上の軍事顧問団(米軍)を派遣した。米地上軍兵力は,1965年春から年末までに18万名が投入され、1966年末38万5千名、1967年末48万6千名、1968年の最盛期には53万6千名が動員されていた。ベトナム戦争全期間の米軍動員兵力は、,ラオスカンボジアの作戦も合わせて378万名,そのうち約100万名が戦闘を経験したと考えられる。米軍の死者(事故・病死を含む)は,1967-1969年の3年間は,年1万1千名以上,1962-1979年合計で5万8千名だった。他方、南北ベトナム兵士の死者は100万名、民間人も含め百数十万名が死亡したと推測される。

ベトコン支配地域と米軍支配地域の間には広範な競合区があり,住民は、昼間は南ベトナム、夜はベトコンに従うという二重基準の生活だった。ベトコン支配地域で民兵を組織しようとした米軍・南ベトナム軍の包囲戦術は、抜け穴,抜け道だらけだった。イデオロギー・民族戦争の苛酷な戦場となった農村を逃れて、都市に流入する国内避難民もあったが、米軍はベトコン支配地を孤立化するために、住民を強制移住させた。

スパイはどちらの側でも処刑対象となった。ベトナム農民は、ベトコンと政府軍・米軍の間で、したたかに生き抜いた。

●米陸軍戦史センター,Richard W. Stewart(2005)American Military History, Volume 2 The U.S. Army in Vietnam: Background, Buildup, and Operations, 1950-1967参照。


終章 21世紀を戦争の百年にしないために

戦争の20世紀について、200点に及ぶ,写真ポスター・新聞紙面を用いて、時代を追ってテーマ別に検討してきたが、-----写真やポスターは、歴史的事実の断片であったり、捏造であったり、様々な解釈を許すものである。その判断力が、メディアリテラシーである。
メディアリテラシーとは、マスメディア(TV・新聞・雑誌、インターネットなど)が提供する情報に対する、受け手側の判断や判断能力、という意味で使われる。情報を媒介する手段とその管理者の意図を推し量って、情報は事実とは必ずしも一致しないことを踏まえ、情報を批判的に検討することでもある。-----

社会、個人のメディアリテラシーに対峙するのが、プロパガンダである。戦争プロパガンダは、政府・軍あるいはメディアが、思考・世論を誘導する戦争情報の管理であり、戦時には、情報戦、心理戦の技巧ともなる。戦争を政治の延長と捉えて、特定目標を達成する手段として戦争を遂行しようとする者は、プロパガンダを巧みに活用する。-----

<戦争プロパガンダの特徴>
1.情報管理
2.情報の非対象性
3.情報の受容性
4.情報共有の一体感
5.情報の迎合性・無批判性

クラウゼビッツの有名な著作『戦争論』を引き継いで、戦争を目標達成の手段として認識する立場では、特定時点において、一方の当事者の利益に配慮することになる。国家目的の追求に、戦争は有効な手段である。政府や軍あるいは軍需産業がスポンサーとなった戦争研究が肥大化する中で、学術的にも政治の延長としての戦争の価値が認められている。社会主義の階級闘争理論では、国家間の戦争を階級間の戦争に転化して、社会主義革命につなげることが関心ごとだった。しかし、政治家や革命家の意図にもかかわらず、戦争に総動員され、戦闘員も非戦闘員も、大量破壊、大量殺戮の被害を受けた。国際テロ戦争も無差別ゲリラ長期消耗戦の様相を呈してきた。

平和研究に欠陥があるとすれば、それは、20世紀の百年間、惨禍を及ぼした戦争を戦いながらも、依然として、人類が戦争を回避する方法を見出せないでいることである。だれも戦争を望まないが、それでも戦争が起こるのが現実である、という現実主義、ニヒリズムが成り立っていることである。このように、人類は戦争を繰り返すものだ、戦争が無くなることはありえないという戦争観、すなわち戦争必然説が払拭できないために、軍隊の整備、軍需生産・国防予算の維持、戦争プロパガンダが経常化し、戦争を準備し、戦争を戦う社会が普通になってしまう。-----
戦争を目的追及の有効な手段であると見なしている政治家・軍人がいる限り、戦争の原因が判明しても、戦争を根絶することはできない。人類を卑下して戦争を繰り返す愚かな生き物だとする戦争必然説が信奉される限り、戦争をなくすことはできない。----

しかし、20世紀初頭から現代に至る戦争の20世紀を、写真やポスターを見直してみると、行間・余白を埋める作業を通じて、背後にある事実やプロパガンダが徐々に見えきた。----決して、大量破壊・大量殺戮を伴う戦争は、政治の延長、政治の有効な手段として認識することはできない。また、戦争がいつの間にか始まってしまうこともありえない。-----
戦争は、権威を握る人間が、戦争ポスターによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の支持がない限り、戦争を戦い続けることはできなくなった。兵士、資金、生産、世論を担う人々は、戦争の主導権を握っているともいえる。
-----(後略)


<目次>
はじめに
序章 戦争の二十世紀
 第一次世界大戦まで
 戦間期のファシズム
 第二次世界大戦
 冷戦下の国際紛争
 国際テロ戦争

サムライの墨書―元帥東郷平八郎と三十一人の提督 第1章 二十世紀初頭の戦争
 ヨーロッパ列国によるアフリカ分割とボーア戦争
 列国によって半植民地化された中国
 アメリカの帝国主義
 フィリピン=アメリカ戦争のマッカーサー将軍
 国内軍から遠征軍に変貌したアメリカ軍
 満州・朝鮮半島における日露の対立
 日露戦争
 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
 武運長久に込められた願い
 旅順閉塞作戦の失敗と日本海海戦の大勝
 ポーツマス講和会議
 日韓協約・義兵闘争を経て日韓併合へ
 アメリカの大白色艦隊(大西洋艦隊)の世界周航

第2章 第一次世界大戦前半
 第一次世界大戦の勃発
 キッチナー陸軍と大英帝国自治領の動員
 ドイツ軍攻撃を挫折させたフランス軍ジョセフ・ジョフル将軍
 塹壕戦と大兵器の登場
 空中戦の開始
 国家総力戦における動員
 国家総力戦に対する反戦論
 東部戦線ドイツ軍とロシア軍とのタンネンベルク会戦  ドイツ軍に銃殺された看護婦エディス・キャヴェル
 オスマン帝国参戦とジハード
 中東問題とイギリス外交
 聖地エルサレムをめぐる戦い
 大英帝国を支えたイギリス領インド軍
 インドの大英帝国への戦争貢献 
 第一次世界大戦中の日本の中国大陸進出

第3章 第一次世界大戦後半――アメリカ参戦以降
 ドイツ潜水艦Uボートによるイギリス客船ルシタニア号撃沈事件
 ドイツ軍の残虐行為を非難する反ドイツプロパガンダ
 メキシコ革命へのアメリカ介入
 ドイツの無制限潜水艦作戦とアメリカ参戦
 Uボートと戦った二百隻のアメリカ海軍駆逐艦
 アメリカ海軍の艦隊拡充計画とヨーマン
 戦費調達のための自由公債募集
 中東のアラブ反乱とイギリスの思惑
 レーニンが主導したロシア革命
 シベリア出兵――ロシア革命への干渉戦争
 オスマン帝国のアルメニア人虐殺問題
 ウィルソンの十四カ条とヴェルサイユ講和条約

第4章 スペイン内戦(一九三六年七月―三九年三月)
 スペイン第二共和政への反乱
 スペイン内戦への列国の介入
 カトリック教会のスペイン内戦
 反乱軍(国民戦線軍)と共和国軍
 コンドル軍団によるゲルニカ空襲
 ゲルニカをめぐる問題
 国際旅団の編成
 国際旅団の解散
 対ドイツ宥和政策とソ連の孤立回避

第5章 日中戦争(一九三七年七月―四五年八月)
 盧溝橋事件
 第二次上海事変と日本軍の都市爆撃
 日本赤十字社の従軍看護婦  近衛文麿首相による暴支膺懲(ルビ:ぼうしようちょう)と東亜新秩序の声明
 国債による戦費調達と統制経済
 日中戦争直前の防空法
 中国空軍による日本本土初空襲
 重慶大空襲の負の遺産
 支那事変関係情報綴・新聞記事にみる南京事件
 アメリカとイギリスによる対日宥和政策

第6章 第二次世界大戦初期(一九三九年九月―四一年十一月)
 ナチス・ドイツによるヨーロッパ大陸侵略
 フランス降伏後のヴィシー政権
 大英帝国自治領(ドミニオン)・植民地からの派兵
 イギリスの学童疎開
 オーストラリア陸軍看護隊の海外派遣
 アメリカの中立法と中立パトロール
 アメリカの一九四〇年選抜訓練徴兵法
 民主主義の兵器廠からの武器貸与
 ドイツ軍潜水艦Uボートによる中立国のアメリカ艦船攻撃
 アメリカ参戦前の大西洋憲章
 日米交渉と帝国国策遂行要領

第7章 太平洋戦争前期(一九四一年十二月―四二年三月)
 宣戦の大詔
 宣戦布告の通告
 日米開戦の時期
 英雄とされた真珠湾攻撃のアメリカ軍死傷者
 ハワイ海戦に先行するマレー作戦
 マレー沖海戦とシンガポール攻略
 特別攻撃隊の九軍神
 アメリカ主導の国連共同宣言(連合国共同宣言)
 東南アジアでの反英宣撫工作活動
 ビルマ解放
 日本が支援した自由インド仮政府
 日本軍によるオーストラリア本土空襲
 日本の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃
 日系人強制収容所
 海軍甲事件(山本長官暗殺)

第8章 第二次世界大戦中期――アメリカの兵士動員 
 アメリカ陸軍の増強
 海軍将校養成プログラム
 アメリカの無制限潜水艦作戦による日本の海上封鎖
 ガダルカナル島攻防戦
 広範な任務をこなしたアメリカ沿岸警備隊
 アフリカ系アメリカ人(黒人)の英雄ドリス・ミラー
 アメリカ陸軍婦人部隊(WAC)と日本の国民義勇隊
 アメリカ海軍婦人予備隊(WAVES)の設立
 アメリカ海兵隊婦人予備部隊(MCWR)の設立
 アメリカ陸軍看護婦部隊
 アメリカ空軍女性パイロット部隊(WASP)

第9章 第二次世界大戦中期――アメリカの銃後の動員
   ルーズベルト大統領の一九四二年教書
 アメリカの戦時生産管理体制
 独裁国家と民主国家
 戦時標準船の大量建造
 総動員のための差別撤廃
 銃後の女性労働者のシンボル「リベット工ロージー」
 女子徴用と男女賃金格差の問題
 アメリカ陸軍のフィリピン敗退
 「バターン死の行進」での捕虜虐待
 農業増産のための戦い
 公正な分配を目指した配給制
 戦時国債の応募・押し売り

第10章 第二次世界大戦――ヨーロッパ戦線後期
 ドイツへのアメリカ・イギリス空軍による戦略爆撃
 航空機の増産競争
 ナチス・ドイツの強制収容所
 絶滅収容所でのユダヤ人虐殺
 ホロコーストを黙殺した連合軍首脳部
 アンネ・フランクが待ち焦がれたノルマンディ上陸(Dデイ)
 ノルマンディ敗退後のヒトラー暗殺未遂事件
 ドイツ降伏と難民問題

第11章 太平洋戦争後期
 アッツ島守備隊への玉砕命令
 アッツ島玉砕の大本営発表
 アッツ島玉砕の顕彰による国民の戦意高揚
 サイパン島での最後の万歳突撃
 サイパン島全員玉砕という神話
 台湾沖航空戦の誤報
 フィリピン解放を演出したマッカーサー将軍
 神風特攻隊編成三カ月前の人間魚雷の実験成功
 特攻第一号は誰か
 一九四四年十月二十五日神風特攻隊突入
 B−29重爆撃機による日本本土空襲
 沖縄戦での「軍民共生共死」の方針
 沖縄住民の集団自決・集団死
 戦艦大和の海上特攻の真相
 特攻による戦果と犠牲
 原爆投下の理由

第12章 二十世紀後半の戦争
 冷戦と東西対立の始まり
 朝鮮戦争
 第二次中東戦争(スエズ動乱)
 ベトナム戦争でのアメリカ軍の対ゲリラ戦
 ベトナム戦争での戦略爆撃
 イラン・イラク戦争  湾岸戦争
 国際テロ戦争――イラクへの武力制裁
 テロリスト殲滅戦争――アメリカ艦コール襲撃事件

終章 二十一世紀を戦争の百年にしないために

戦争論百家争鳴

APAグループは,CEO 元谷外志雄「報道されない近現代史」出版記念のメセナの一環として,平成20 年5 月10 日より「真の近現代史観」歴史論文懸賞制度を創設,募集を開始。審査委員会(渡部昇一委員長)は,第一回懸賞論文の最優秀藤誠志賞として,航空幕僚長・田母神空将の投稿を選び,懸賞金300 万円・全国アパホテル巡り招待券を授与した。その後,投稿は,現職の航空幕僚長の軽率な行為とされ,更迭,11月3日,定年退職とされた。

花岡審査員は,「審査は筆者名を伏せて進んだ」とブログで述べ,次のように続けた。「かくして、田母神氏の論文は解散攻防の中でもみくちゃにされることになる。野党側は田母神氏の国会招致を求めているが、民間人になったのだから、もう何を言っても平気だ。これが実現したらおもしろいことになるとひそかに期待している。」と,元幕僚長の思想・進退を劇場国家の中に,冷徹に位置づけている

◆持論を携えた元・幕僚長空将は,国会で発言,社会に戦争に対する関心を盛り上げ,先導役を果たした。しかし,自衛隊の最高級指揮官を突撃させる作戦は,日本の未来を真剣に考える人物がすることであろうか。最高級指揮官は,自ら指摘してきたマインドコントロールの恐ろしさを理解していたはずだ。それなら,空将捕,基地司令だった当時から,彼ら一流のビジネスマンや政治家がもてなしてくれた理由も理解できたのではないか。高級指揮官をとして扱ったことに気づかなかったのか。

◆日本の軍閥は,統帥権の独立を楯に政治化し,軍事専門家としての能力を低下させた。ドイツ国防軍は,政治家・企業家と同じく,ナチスを利用するつもりだったが,総統個人に忠誠を誓わされ,戦争に使われた。ともに,初期時点で,最高級指揮官の判断の誤りが,凋落に繋がった。

◆国防重視を主張してきた政治家やビジネスマンは,普通の自衛隊員を相手にはしてこなかった。国防を論じたが,隊員の状況や心理を重んじなかった。他方,自衛隊最高級指揮官であれば,ビジネスマン・政治家とではなく,隊員との親交を第一にし,全国を飛び回り,部隊内で信頼を得て,満足することができたはずだ。そして,戦争・軍事を担う幕僚監部として,徹頭徹尾,専門家に徹し,頼もしい存在であってほしかった。


最高級指揮官の頭脳になる戦略論は,国家レベルの軍機で,表現の自由を理由に懸賞論文目当てに投稿,漏洩することは許されないのではないか。空将は,自分の戦争論を大臣・上官,各界要人に,伝えればよかった。秘匿すべき機密を懸賞論文の題材にし,部下に懸賞論文の紹介をしなくとも,空将には,国家指導者・要人に対する発言の機会はいくらもあった。

シビリアンコントロール(文民統制)を意識して空将は「これほど大騒ぎになるとは正直予想していなかった。日本もそろそろ自由に発言ができる、という私の判断が間違っていたかもしれない」「今回のことが政治に利用され、自衛隊全体の名誉が汚されることは本意ではない」と述べた。守秘義務のある国家機密を表現の自由を理由に一般公開してよいはずがない。国家戦略と個人の思想表明の自由の分限はないというなら,自ら批判した戦後教育の問題かもしれない。

◆空将が指揮官だった小松基地などの自衛官がアパグループ第一回「真の近現代史観」懸賞論文に応募したことについて,田母神空将は「紹介はしたが、『書きなさい』とは言っていない」と弁明。これは,大将相当の空将の公言(放言),言霊のもつ重要性を卑下している。それとも,戦後教育による呪縛(出世主義,拝金主義)を示すのか。

◆自衛官幕僚監部の中枢情報を,公開することは,守秘義務違反,防衛機密漏洩罪に相当する場合がある。国家公務員法の罰則では,機密漏洩は,1年以下の懲役または3万円以下の罰金。自衛隊法の罰則では,通常隊員が自衛隊内部情報を漏らした場合,1年以下の懲役または3万円以下の罰金(自衛隊法第118条)、防衛機密を扱う職員による機密漏洩は,5年以下の懲役又は禁錮(自衛隊法第122条)である。敵前逃亡・反乱罪なら,7年以下の懲役又は禁錮(自衛隊法123条)。第86条では,政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し、又はこれに反対することを禁止し,国又は地方公共団体の機関において決定した政策の実施を妨害することを禁止している。第87条では,政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し、若しくは配布し、又は多数の人に対して朗読し、若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し、又は編集することを禁止している。法律違反なら,退職金は支給できない。

『月刊アップルタウン(Apple Town)』(アパ,1999年4月号)ビック・トーク「独立自衛の時代。グローバルな視点で「自衛隊のある日本」を考えたい。」の第六航空団司令兼小松基地司令空将補・田母神俊雄とAPAグループ代表・元谷外志雄の対談: 
田母神●日本の場合は、戦後の教育の問題もあると思いますが、第二次大戦に負けて、東京裁判以降、まず日本が悪い、もう一つは、国家、国が悪い、国民は常に善良だ、日本の国以外は、みんな、いい人ばかりで、いい国ばかりだという教え方をずっとしてきたのではないか-----私は、それが行き過ぎていると思っています。今、世界を見てみると-----悪ガキみたいな国家がたくさんある-----。これに対し私はアメリカや日本は大人の国であると考えています。現在のところ、大人の腕力(すなわち軍事力)が悪ガキの腕力より強いので国際社会の秩序が維持されていると思います。これが抑止ということなのですが、もし米国を中心とする先進諸国の軍事力がなければ国際社会は無法地帯になってしまいます。

田母神●アメリカ自体が十九世紀の後半から第二次大戦が終わるまで、執拗に日本をいじめ続けたというところがあると思います。----「排日移民法」という法律が米国議会で成立し、日系人が全ての財産を没収されたのは、わずか75年前、1924年のことなのです。[筆者注:移民法を太平洋戦争中の日系人強制収容と誤解?]。これらの日系人は第一次世界大戦ではアメリカの兵士として戦争にも参加しているのです[筆者注:WW1参戦の日系人兵士は数名,WW2の日系人連隊の活躍と誤解?]。そういう人種差別が公然と行われていたのは大昔のことではなく、20世紀に入ってからのことなのです[筆者注:19世紀中にアフリカ分割・アジア植民地化]。人種差別がタテマエ上許されなくなったのは、1948年の国連による世界人権宣言以降のことです[筆者注:1942年1月1日,生命、自由、独立及び信仰の自由を擁護する連合国共同宣言に中国,フィリピン,インド,イラン,メキシコも加盟]。日本では---------近代史はほとんど教えませんよね。そのあたり教育の問題が大きいと思っています。

北一輝 田母神●私は隊員にもよく言うのですが、自分たちのやっていることが正しいことである、正義である、という気持ちがやはり使命感だと思います。それが、おまえたちがいるから戦争になるという風潮ですと、隊員が使命感を持つのはなかなか難しいと思います。そうではなく、アメリカを中心とする今の旧西側の軍事力が世界の絶対権力となって、悪いことをすればたたくぞというにらみをきかせているから、国際社会が安定しているのだと…[注:正義の戦争・聖戦のイデオロギーによって大量破壊・大量殺戮を正当化できる?]。

田母神●----アメリカは、ベトナムで初めてゲリラ戦を体験したのだと思います。そのときに、隣にいたおばさんが突然アメリカ兵に襲いかかるということがあって、ゲリラ戦とはこんなものなのだということが初めてわかったのだと思います[注:米墨戦争,米比戦争でゲリラ戦を経験済み]。結局、戦う相手が誰かわからないわけですから…[注:戦う相手は敵の正規兵・不正規兵と敵性住民]。
元谷●そのことが過大に報道されて、本来なら北ベトナムが南ベトナムを侵略したわけですが、そういうとらえ方ではなく、いかにもアメリカが不正義な戦争をしているということで、戦う兵士自身が使命感が持てなくて、結局、自己崩壊のようなかたちで負けてしまったわけですからね。戦うときにはやはり使命感、日本の国家、国民のために私はこういうことをやっているという錦の御旗をきちんと掲げてやらなければいけないと思います。企業経営においてもそうですが、お金もうけのためにやるのだと言っても、ついてきません。
田母神●人間と動物の一番の境目はそこだと思います[筆者注:戦争・金儲け・差・迫害を正当化することに長けている悪賢い人間がいる]。

◆航空幕僚長・田母神空将(2008)「日本は侵略国家であったのか」(懸賞論文「真の近現代史観」最優秀賞)の抜粋(拙著『写真ポスターから学ぶ戦争の百年』と反する箇所のみ)
「大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。」
⇒研究室の立場:戦争の百年を振り返れば,戦争の本質は大量破壊・大量殺戮であり,「戦争は必然だった」というほど,経緯は簡単ではないことが解る。

「諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。」
自衛官・日本人がマインドコントロールされているというのは誤解。日本政府は,文化大革命(共産化,独裁化)を目指してはいない。伝統文化は「改革」で破壊されるほど弱くはない。

「日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。」
戦後63年以上たった現在,戦争経験者の考えを引き継ぐ「歴史」の視点から議論すべき。国家統一見解を強要するのではなく,賛否両論のある議論が望ましい。

「日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘や捏造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。(引用終わり)」
空将のいう「嘘や捏造」で「歴史を抹殺された国家」は「輝かしい日本の歴史」の認識とは反する。

◆更迭幕僚長の後任外薗(ほかぞの)健一朗・航空幕僚長(57歳)は,2008年11月7日、就任会見で「国民の信頼を揺るがせた」と謝罪し,投稿は「一読して不適切だと思った。憲法に関する問題もあり、シビリアンコントロール(文民統制)の観点からも適切性を欠いている」と批判した。自らは論文公表の経験はなく、自分は政府見解と同じ方針だと強調した。

自衛隊幕僚長の戦争論

◆戦争の百年を見れば、戦争の大義が如何なるものであろうとも、破壊と殺戮を繰り返す戦争は、人類が自ら同胞に対して犯してきた愚行であった。戦争の写真・ポスターや新聞記事は、聖戦の認識を広めようとしたが,同時に愚行の表象ともいえる。戦争の百年、20世紀が辿り着いた先は、戦争は人類の生存と人間性に対する脅威であるという認識である。戦争は起こってしまったのではなく、人類自らが戦争を引き起こした。産業に支えられ,破壊と殺戮を行った。戦争の百年には、目を背けてはいけないもの、知っておくべきことが、見て取れる。ただし、我々の祖先も、私たち自身も加担した戦争を見つめるには、勇気と内省が求められる。

天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容とこの1年のご動静(平成17年12月19日): 
陛下は病の治療を続けられながら,戦後60年に当たってサイパンを慰霊訪問されるなど,数多くの公務に取り組まれました。初めての海外での慰霊についてのお気持ちや,かの地で感じたこと,今後の慰霊の在り方,次世代への継承などについて陛下のお考えをお聞かせください。
  天皇陛下  質問に従って十分にお答えができるよう紙にまとめましたので,それに従ってお話したいと思います。
 先の大戦では非常に多くの日本人が亡くなりました。全体の戦没者310万人の中で外地で亡くなった人は240万人に達しています。戦後60年に当たって,私どもはこのように大勢の人が亡くなった外地での慰霊を考え,多くの人々の協力を得て,米国の自治領である北マリアナ諸島のサイパン島を訪問しました。そこにはこの地域で亡くなった戦没者のために国が建てた中部太平洋戦没者の碑があります。
 ドイツ領であったサイパン島は,第一次世界大戦後,国際連盟により日本の委任統治領となり,多くの日本人が移住し,砂糖産業や農業,漁業に携わっていました。
 昭和19年6月15日,米軍がサイパン島へ上陸してきた時には日本軍は既に制海権,制空権を失っており,大勢の在留邦人は引き揚げられない状態になっていました。このような状況下で戦闘が行われたため,7月7日に日本軍が玉砕するまでに,陸海軍の約4万3千人と在留邦人の1万2千人の命が失われました。軍人を始め,当時島に在住していた人々の苦しみや島で家族を亡くした人々の悲しみはいかばかりであったかと計り知れないものがあります。この戦闘では米軍にも3500人近い戦死者があり,また900人を超えるサイパン島民が戦闘の犠牲になりました。またこの戦闘では朝鮮半島出身の人々も命を落としています。この度の訪問においては,それぞれの慰霊碑にお参りし,多くの人々が身を投じたスーサイド・クリフバンザイ・クリフを訪れ,先の大戦において命を落とした人々を追悼し,遺族の悲しみに思いを致しました。
 61年前の厳しい戦争のことを思い,心の重い旅でした。ただ,高齢のサイパン島民にはかつて日本の移住者が島民のために尽くしたことを今も大切に思っている人がいることはうれしいことでした。私どもが島民から温かく迎えられた陰にはかつての移住者の努力があったことと思われます。
 この度のサイパン島訪問に携わった日本側の関係者を始め,米国側並びに北マリアナ諸島側の関係者に深く感謝しています。
 日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって,また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。
 戦後60年に当たって過去の様々な事実が取り上げられ,人々に知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により過去の事実についての知識が正しく継承され,将来にいかされることを願っています。


参考文献・資料引用

『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』の序章、終章と全般的記述・統計に関しては、次の文献を参考にした。 
[1] アメリカ合衆国戦略爆撃調査団編(1972)正木千冬訳『 日本戦争経済の崩壊 第2版 』日本評論社
[2]池尾靖志編(2002)『平和学をはじめる』晃洋書
[3]A.ラパポート(1969)関寛治訳『現代の戦争と平和の理論』岩波書店
[4]金子常規(1979)『兵器と戦術の世界史』原書房
[5]小林正弥(2003)『戦争批判の公共哲学』勁草書房
[6]東海大学教養学部国際学科編(2005)『日本の外交と国際社会−日本は世界にどう向き合ってきたのか』東海大学出版会
[7]矢野恒太記念会編(1991)『数字で見る日本の100年』国勢社

2.第1章から12章では、各項目に関連する参考文献・資料(webページなど)を、項目末尾に記入した。ただし、参考文献・資料の考察は、本書の考察と必ずしも一致するわけではないので、注意されたい。----

3.本書の写真、ポスター、グラフ誌の画像の大半は、下記の機関が作成、保管、公開しているデジタル画像資料を引用した。機関の名称とURL(ここでは省略)は、次の通り。

[1]アラスカデジタルアーカイブ:Alaska's Digital Archives
[2]オーストラリア戦争記念館:Australian War Memorial
[3]英国立公文書館:The National Archives
[4]国防総省U.S. Department of Defense
[5]国立公文書館アジア歴史資料センター
[6]サンディエゴ大学歴史学部:History Department at the University of San Diego
[7]帝国戦争博物館コレクション:Imperial War Museum Collections
[8]トルーマン大統領図書館:The Harry S. Truman Library and Museum
[9]ナッブソース海軍史:NavSource Naval History
姿なき敵
[10]フランクリン・ルーズベルト図書館(FDR図書館):The Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum
[11]米海軍歴史センター:The Naval Historical Center
[12]米議会図書館印刷写真局:The Library of Congress、Prints & Photographs Division
[13]米国立公文書館記録管理局(NARA):The U.S. National Archives & Records Administration

4.本書のビラ(伝単)、戦争ポスターの一部は、下記の出版物の画像を取り込み引用・掲載した。ここには、戦争プロパガンダの記述で参考にした書籍も含んでいる。
[1]大田昌秀(2004)『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店
[2]恒石重嗣(1978)『心理作戦の回想』東宣出版
[3]里見脩(2005)『姿なき敵−プロパガンダの研究』イプシロン出版企画
絵はがき
[4]泰風(2006)『鉄蹄下的南京』広西師範大学出版社
[5]富永謙吾(1970)『大本営発表にみる太平洋戦争の記録−開戦1号から終戦846まで/大本営発表の真相史』自由国民社
[6]富田昭次(2005)『絵はがきで見る日本近代』青弓社
[7] 平櫛孝(2006)『大本営報道部 言論統制と戦意昂揚の実際』光人社
[8]吉見俊哉編(2006)『戦争の表象−東京大学情報学環所蔵第一次世界大戦期プロパガンダ』東京大学出版会

4.本書に掲載した新聞画面および紹介した新聞記事は、下記の縮刷版、CD-ROMから引用し、資料を参考にした。
[1]『朝日新聞 縮刷版』朝日新聞社
[2]「朝日戦前紙面データベース」CD-ROM 昭和10年〜20年編 朝日新聞社
[3]「終戦前後2年間の新聞切り抜き帳
[4]「昭和の読売新聞 戦前1」CD-ROM 読売新聞社
[5]「昭和の読売新聞 戦前2」CD-ROM 読売新聞社

2008年10月17日現在,『写真ポスターから学ぶ戦争の百年』を所蔵している主な公立図書館。
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◆誠に申し訳ございません。拙著の写真ポスター解説の誤りをいくつか訂正させていただきます。
1.横書きを縦書き自動変換したときに,八八(ハチハチ)艦隊を八十八艦隊,六六(ロクロク)を六十六と誤変換してしまいました。
2.p.147:1ポンド=450gで,500ポンド爆弾は225キロ爆弾です。
3.p.153:『写真週報』は,第21号(1938年7月6日発行)の誤りです。
4.p.160:九六陸攻(中攻)の爆弾搭載量は800キロ程度なので,「爆弾1万5千トン」は「爆弾1万5千発」の誤りです。
5.p.215:フランス塔は仏塔の誤変換です。
6.p.219:日本軍ラバウル占領は,1941年ではなく,1942年1月23日の誤記です。
7.p.231:参戦は,2月ではなく,1941年12月7日の誤記です。
8.p.259:「Bf109戦闘機」は「Bf110双発戦闘機のような軍用機」に訂正します。
9.p.279:「物価統制局発行」に訂正します。
10.アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の撮影時期は,英文説明(写真に書き込み)の通り9月13日の誤りです。
11.p.305:「アッツ島に皇軍の神髄を発揮」に訂正します。
12.挺身を「挺進」に訂正します。
13.第二次中東戦争当時,「チーフテン」戦車はありませんでした。「センチュリオン」戦車の誤りです。
連絡先: torikai@tokai-u.jpが最良の連絡方法です。
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東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
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