写真(上):1934年6月,東京、千代田、皇居内の道場「済寧館」(さいねいかん)、昭和天皇の天覧試合:1883年竣工した済寧館は、「詩経」大雅文王篇「済々たる多士、文王以て寧し」に因んだ命名、華族、宮内官、皇宮警察官の武道稽古場だった。1933年に建て直された新館は、建坪300余坪、玉座の左右に有栖川宮熾仁親王筆の扁額、横山大観筆の富士山の絵画が飾られた。
English: Emperor Showa in Saineikan
日本語: 済寧館の昭和天皇
Date June 1934
Source
English: Japanese magazine "Historical Photograph, June 1934 issue" published by Rekishi-Shasin Kai.
日本語: 歴史写真会「歴史写真(昭和9年6月号)」より。
写真は、Category:Shōwa Emperor by year File:Showa-family1941 12 7.jpg引用。
写真(上):1937年,日中戦争を始めた年の大元帥昭和天皇と皇族の11宮家・伏見宮(ふしみ)、閑院宮(かんいん)、山階宮(やましな)、北白川宮(きたしらかわ)、梨本宮(なしもと)、久邇宮(くに)、賀陽宮(かや)、東伏見宮(ひがしふしみ)竹田宮(たけだ)、朝香宮(あさか)、東久邇宮(ひがしくに):1937年7月7日の盧溝橋事件は「北支事変」から上海事件後には「支那事件」に拡大した。イギリス・アメリカの中国権益を侵害し反発を呼ぶことが危惧されたが、国民党政府の首都南京を攻略し戦争を勝利で終わらせるという侵攻作戦が現地軍主導で強行された。
English: Emperor Hirohito (Emperor Shōwa) and members of the Kyū-Miyake (Cadet Royal Families), estimated around 1937 CE.
日本語: 昭和天皇と旧宮家(1937年頃の推定)。
Date 2 January 1937
Source https://dogma.at.webry.info/201706/article_1.html
Author The photographer is unknown
写真は、Category:Shōwa Emperor by year File:Showa-family1941 12 7.jpg引用。
写真(上):1941年12月6日,世界戦争を始める前日の大元帥昭和天皇と良子妃の夫婦の子供たち:大元帥として統帥権・宣戦布告の体験を保持する昭和天皇は、国軍を率いて、アメリカ、オランダ、イギリス、イギリスのドミニオン(自治領)カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国,中国と戦争を始めるという破局的な大戦争を容認した。明日にマレー半島上陸作戦・真珠湾奇襲作戦が開始されることを知っていた大元帥は、始めた大戦争の終戦の目算は、ドイツの勝利、アメリカの厭戦気分ということだったのか。
日本語: 日米開戦前日の昭和天皇一家。
English: The Japanese Imperial Family
Date 7 December 1941
Source
日本語: 毎日新聞社「日本の肖像」より
English: From "Images of Japan" published by Mainichi Shimbun 写真は、Category:Shōwa Emperor by year File:Emperor-Hirohito-and-Miyake-Cadet-Royal-Families.png引用。
写真(右):1900年10月、明治大帝(1852-1912)、一条美子(はるこ:昭憲皇太后;1849-1914)、皇太子明宮嘉仁親王(はるのみや よしひと)など「皇室御尊影」:明治天皇には、側室との間に、稚瑞照彦尊、稚高依姫尊、梅宮薫子内親王、建宮敬仁親王、明宮嘉仁親王(第123代大正天皇)、滋宮韶子内親王、増宮章子内親王、久宮静子内親王、昭宮猷仁親王、常宮昌子内親王、周宮房子内親王、富美宮允子内親王、満宮輝仁親王、泰宮聡子内親王、貞宮多喜子内親王と女子が多い。成人に達したのは1男4女の五子のみ。唯一男子が、明宮嘉仁親王、大正天皇。
English: Emperor Meiji and his family
Date October 1900
Source http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/h?pp/jpd,ils:@field(NUMBER+@band(jpd+02532))
Author Kasai, Torajirō 写真は、Category:Taishō Emperor File:Emperor Meiji and his family.jpg引用。
写真(右):1916年,海軍大尉の正装に身を包んだ皇太子裕仁(ひろひと)親王:装飾帯(サッシュ :Sash)、総付き正肩章、袖章、 正剣帯(ベルト)、白色革製手袋を着用。大礼帽(二角帽子・仁丹帽)が右脇きに置かれている。皇太子裕仁親王は、1901年〈明治34年〉4月29日、父・大正天皇(皇太子嘉仁親王)と母・貞明皇后の間に第一皇子として生まれ、1912年(大正元年) 陸海軍少尉、1914年(大正3年) 陸海軍中尉、1916年(大正5年) 陸海軍大尉、1919年(大正8年) 陸海軍少佐、1923年(大正12年) 陸海軍中佐、1925年(大正14年) 陸海軍大佐、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大日本帝国第124代天皇として即位、即位に伴い少将・大将を飛び級し、1926年(昭和元年) 陸海軍大元帥となった。1989年〈昭和64年〉1月7日崩御。 English: Hirohito as crown prince of Japan, 1916.
Español: Hirohito, príncipe heredero de Japón, de visita en Gran Bretaña, 1916.
Source https://archive.org/details/nsillustratedwar03londuoft ; Possible copyright status: NOT_IN_COPYRIGHT
Author London Illustrated London News and Sketch, "Photo Chugai Photographic correspondence agency"
写真は、Category:Prince Hirohito in 1921 File:CrownPrinceHirohito--nsillustratedwar03londuoft.jpg引用。
写真(右):1923年9月3-13日頃,摂政宮殿下皇太子裕仁親王の関東大震災の震災地御視察:大阪毎日1923年9月15日発行『関東震災画報』に掲載。皇太子裕仁親王は、半年間の西ヨーロッパ諸国の歴訪の帰国後に摂政に就任し、大正天皇の代わりに国事行為を執行した。震災直後に、朝鮮人(鮮人)への暴行、社会主義者(主義者・アカ)の虐殺が起こったことは既知だったであろうが、どのように考えたのか。主権者たる天皇の沙汰は出ていない。
日本語: 摂政宮殿下の震災地御視察
English: H. I. H. the prince regent visiting ruined districts. HIH the Prince Regent taking a view of front street from the quay at Yokohama.
Date Published on September 15, 1923
Source
日本語: 関東震災画報
English: Earthquake Pictorial Edition
; Original file: File:HIH the Prince Regent taking a view.jpg
Author
日本語: 大阪毎日
English: Osaka Mainichi
; Restored by ZooFari
写真は、Category:Prince Hirohito in 1923 File:HIH the Prince Regent taking a view 2.jpg引用。
写真(右):1923年9月3-13日頃,摂政宮殿下皇太子裕仁親王の関東大震災の震災地御視察:大阪毎日1923年9月15日発行『関東震災画報』に掲載。皇太子裕仁親王は、半年間の西ヨーロッパ諸国の歴訪の帰国後に摂政に就任し、大正天皇の代わりに国事行為を執行した。震災直後に、朝鮮人(鮮人)への暴行、社会主義者(主義者・アカ)の虐殺が起こったことは既知だったであろうが、どのように考えたのか。主権者たる天皇の沙汰は出ていない。
日本語: 摂政宮殿下の震災地御視察
English: H. I. H. the prince regent visiting ruined districts. HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama from the site of the burned Yokohama Specie Bank Club.
Date Published on September 15, 1923
Source
日本語: 関東震災画報
English: Earthquake Pictorial Edition
Author
日本語: 大阪毎日
English: Osaka Mainichi
写真は、Category:Prince Hirohito in 1923 File:HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama-restored-sepia.jpg引用。
写真(右):1924年3月,ご成婚の時の皇太子裕仁親王と良子妃:皇太子裕仁親王は、1912年年(大正元年)9月9日、11歳で少尉に任官、陸軍の近衛歩兵第一連隊附と海軍の第一艦隊附となる。1914年3月、学習院初等科卒業、第一次世界大戦中の1915年4月、日露戦争時の連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総裁を勤めるの東宮御学問所に入学。1915年10月、14歳で中尉、1916年10月に15歳で大尉に昇任。1915年11月3日、立太子礼を執行、皇太子に即位。1918年1月、久邇宮邦彦王の第一女子、良子(ながこ)女王が皇太子妃に内定。1919年、満18歳の5月7日に成年式、帝国議会貴族院皇族議員に就任。1920年10月、19歳で少佐、11月4日には大正天皇の名代として陸軍大演習を統監。1921年2月28日、東宮御学問所修了式、その後1921年3月3日から9月3日までイギリスを、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアのヨーロッパ5か国歴訪の旅に出る。
English: 皇太子裕仁親王(Crown Prince Hirohito/Emperor Shōwa)と良子妃(Nagako/Empress Kōjun)の成婚記念写真
Date March 1924
Source 毎日グラフ「崩御 昭和天皇」 写真は、Category:Prince Hirohito in 1924 File:Crown Prince Hirohito & Princess Nagako 1924.jpg引用。
写真(右):1924年1-3月,ご成婚の時の皇太子裕仁親王と良子妃:香淳皇后(こうじゅんこうごう)となる良子妃は、父:久邇宮邦彦王、母:邦彦王妃俔子夫妻の第一女子。1907年(明治40年)9月、学習院女学部幼稚園入園。
1909年(明治42年)、学習院女学部小学科入学。
1915年(大正4年)、学習院女学部中学科入学。
1918年(大正7年)1月14日、皇太子裕仁親王の妃に内定。
1924年(大正13年)1月26日、皇太子裕仁親王と成婚(皇太子妃冊立)。2000年(平成12年)6月16日、皇居・吹上大宮御所にて崩御。97歳没。
Emperor Hirohito and Empress Kōjun.A photograph just after marriage.
Date 1924, possibly January 24th the day of their wedding.
Source www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tennousyasinn.htm 写真は、Category:Prince Hirohito in 1924 File:Emperor Hirohito and empress Kojun of japan.JPG引用。
写真(右):1928年11月19日,『タイム』Timeの表紙を飾った11月10日の即位の大礼をした大日本帝国元首・大元帥・昭和天皇:。1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において践祚して第124代天皇として「大正(たいしょう)」から「昭和(しょうわ)」に改元。同時に、大佐から飛び級で国軍最高司令官の大元帥に昇進。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執行。1928年(昭和3年)3月8日、第二皇女(第2子)久宮祐子内親王が夭折。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼。11月14-15日、大嘗祭。
English: Hirohito on the Time Magazine Cover for November 19, 1928 Date 19 November 1928
Source Time Magazine
Author Time Magazine Permission
(Reusing this file) Time failed to renew the copyrights of many early issues 写真は、Category:Emperor Hirohito in 1928 File:Hirohito - Time Magazine Cover - November 19, 1928.jpg引用。
写真(右):1931年5月11日,東京、東京帝国大学航空研究所に臨幸した昭和天皇。左端は、斯波所長。:東京帝国大学航空研究所が開発した単発機の航研機は、長距離記録用専用機で、1938年5月13日より3日間の間、銚子・太田・平塚・木更津の三角周回飛行を29周,62時間22分49秒の長時間飛行をし、航続距離1万1,651kmの世界記録を達成した。航研機の発展型A-26は、日本戦時中のため公認はされなかったものの,無着陸で1万6,435kmを飛び,世界記録を塗り替えている.高速機の研三は、1943年12月27日、第31回の試験飛行で最高時速699.9?と日本の最高速度記録を達成した。ドイツへの戦時連絡飛行(セ号飛行)に、A-26(軍用型キ77)2号機が用いられることになった。日本とは中立関係にあったソ連を刺激しないために、A-26 長距離機は、昭南(シンガポール)経由のドイツ連絡飛行に飛び立った。6月30日、長友飛行士ら5名の朝日新聞航空部クルーと陸軍将校3人を乗せた2号機は福生飛行場を離陸、7月7日に中継地の昭南から一挙にドイツを目指したが、途中で行方不明になった。A-26(軍用型キ77)1号機は、1944年(昭和19年)7月2日、小俣寿雄機長、田中久義操縦士 以下計6名搭乗により、新京 - ハルビン - 白城子の三角コースを、57時間12分で16,435km飛行し、周回航続距離の未公認の世界記録・速度記録を達成している。
日本語: 昭和天皇の東京帝国大学航空研究所臨幸(左端が斯波所長)
Date 11 May 1931
Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売
Author Unknown author
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1931 File:Syowa emperor arrival at the University of Tokyo.png引用。
写真(右):1933年1月8日,東京代々木練兵場、昭和8年陸軍始観兵式に馬上親臨された大元帥昭和天皇:陸軍始(りくぐんはじめ)とは、毎年1月8日に行われた大日本帝国陸軍の仕事始めで、東京代々木練兵場で天皇臨席による観兵式が実施される。ここに参加できない全国各地の師団は、軍団長、師団長が参加する閲兵式が行われた。歩兵、騎兵、砲兵、戦車連隊、飛行戦地などが参加し、兵士と兵器のパレードが見ものだった。他方、陸軍の観兵式は、陸軍初だけでなく、天長節、あるときに行われていた。
日本語: 摂政宮殿下の震災地御視察
Description English: 1933 Imperial Japanese Army Parade
日本語: 昭和8年陸軍始観兵式
Date February 1933
Source
English: Japanese magazine "Historical Photograph, February 1933 issue" published by Rekishi-Shasin Kai.
日本語: 歴史写真会「歴史写真(昭和8年2月号)」」より。
Author Unknown author
写真は、Category:Prince Hirohito in 1933 File:1933 Imperial Japanese Army Parade.jpg引用。
写真(右):1922-1923年頃、清朝皇帝宣統帝・愛新覚羅溥儀と皇后の婉容:1908年、光緒帝とその母・西太后が亡くなると、旧暦11月9日、満三歳に満たない溥儀が清朝第十代皇帝・宣統帝として即位した。1911年、孫文らの武漢蜂起、辛亥革命によって、1913年2月12日、宣統帝溥儀は、袁世凱により退位を余儀なくされ、2月22日、皇帝を退位したものの、紫禁城に滞在し続け、毎年400万両の経費を支給された。しかし、溥儀にとって、267年続いた清朝を滅亡させたという思いは後に皇帝として返り咲くという強い願望に転化した。孫文を臨時大総統として中華民国臨時政府が南京に誕生したが、軍閥袁世凱が大総統に就任して実権を奪った。1906年11月13日生、婉容は、満州正白旗出身だが、天津のミッション・スクールでアメリカ人イザベル・イングラムから教育を受けた、溥儀は、1922年12月、17歳で、婉容を皇后ににした。当時、溥儀もイギリス人レジナルド・ジョンストンの教育を受けていた。二人は英語名「ヘンリー」溥儀と「エリザベス」婉容も持っているが、ともには阿片の習慣中毒になってしまう。溥儀は、執政として2年間即位した後、1934年3月1日に皇帝に即位し、婉容は皇后に即位した。
English: Puyi, last emperor of China, with his consort Wan Rong, last empress of China. Date Unknown date
Source http://blog.sina.com.cn/k9476
Author Unknown photographer
写真は、Category:Pu Yi File:溥仪和婉容.jpg引用。
写真(右)1935年,中国国民党蒋介石(Chiang, Kai-shek, 1887-1975)総統と蒋介石夫人の宋美齢(Chiang, May-ling Soong, 1897-2003):宋美齢は、アメリカではマダム・チャン(Madame Chiang)として有名。1917年にアメリカのウェルズリー大学を卒業し、英語に堪能だった。浙江財閥の総三姉妹の末っ子であるが、1927年、30歳の時に蒋介石と結婚した。 Description: This is a postcard photograph of General and Madame Chiang Kai-shek.
Date: ca. 1935
Related Collection: Frank N. Roberts Papers
ARC Keywords: Armed forces officers
HST Keywords:
People Pictured: Chiang, May-ling Soong, 1897-2003; Chiang, Kai-shek, 1887-1975
Rights: As far as the Library is aware, this item can be used freely without further permission.
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2017-539引用。
写真(右):1930年代初頭、褐色の突撃隊の制服のナチ党総統アドルフ・ヒトラーが、制服姿のヒトラーユーゲント(青年団)の子供たちと交歓する。ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマン(Heinrich Hoffmann)撮影、1933年公開。ヒトラーは、1933年1月にヒンデンブルク大統領からドイツ首相に任命されたが、第一次大戦は一塊の兵隊に過ぎず、叩き上げの苦労をした政治家だった。
English: Cropped photo (cigarette card) from page 060: Reichsjugendtag in Potsdam 1932 (Adolf Hitler, Bund Deutscher Mädel BDM girls, Nazi leaders, rally, etc.)
Copied from Deutschland erwacht. Werden, Kampf und Sieg der NSDAP, a cigarette card album (Zigarettenbilderalbum, Sammelbilderalbum) with mounted b&w and coloured photos with captions and text, produced by Cigaretten-Bilderdienst Altona-Bahrenfeld, Germany in 1933. The propaganda photos show members, history, activities, events, etc. of the German Nazi Party (Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP) in the 1920s and early 1930s. The production of German cigarette card collector's books/scrapbooks stopped, due to the Second World War, in the early/mid 1940s. The photo studio closed down after the end of the war. See also a PDF version of the book here.
Date Album issued c. 1933
Author Die Auswahl und künstlerische Durcharbeitung der Lichtbilder übernahm Heinrich Hoffmann. Text von Wilfrid Bade. Album issued by Cigaretten-Bilderdienst Hamburg-Bahrenfeld.. 写真は、Category:Adolf Hitler in 1932 File:Deutschlanderwac00bade 0 0072 Deutschland erwacht Werden, Kampf und Sieg der NSDAP 1933 060 NS Jugendbewegung Reichsjugendtag in Potsdam 1932 Hitler HJ Nazi salutes Cigaretten-Bilderdienst USHMM No known copyright.jpg引用。
写真(右):1934年,東京、千代田九段、靖国神社、陸軍正装で拝殿した昭和天皇と伴の陸軍高官、それを先導した靖国神社の神官:靖國神社臨時大祭委員編 『靖國神社臨時大祭記念寫眞帖』に掲載。当時天皇は、神道最高祭司長であると同時に現人神(あらひとがみ)で軍最高指揮官という三位一体だった。靖国神社では、江戸時代末の戊辰戦争・明治維新で功績をあげた軍人・志士を祭り、その後、戦争で天皇に殉じた軍人・軍属戦死者を英霊として祀るようになった。明治5年に建築の本殿には、2020年現在、246万6千余柱の神霊(みたまが)祀られている。
日本語: 1934年、昭和天皇の靖国神社御親拝
English: Hirohito visit to the Yasukuni Shrine in 1934 한국어: 1934년 야스쿠니 신사를 참배한 쇼와 천황 Date April 1934
Source 《靖國神社臨時大祭記念寫眞帖》
Author 靖國神社臨時大祭委員 編
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1934 File:Hirohito visit to the Yasukuni Shrine in 1934.jpg引用。
写真(上):1936年,日中戦争が勃発する前年の大元帥昭和天皇と良子妃の夫婦の子供たち:昭和天皇と良子皇后との間には、東久邇成子(照宮成子内親王てるのみや しげこ)、久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ:夭折)、鷹司和子(孝宮和子内親王たかのみや かずこ)、池田厚子(順宮厚子内親王よりのみや あつこ)、明仁(継宮明仁親王つぐのみや あきひと)、常陸宮正仁親王(義宮正仁親王よしのみや まさひと)、島津貴子(清宮貴子内親王すがのみや たかこ )の2男5女の七子がある。
日本語: 1936年の昭和天皇一家。 English: The Japanese Imperial Family
写真は、Category:Shōwa Emperor by year File:Showa family 1936.jpg引用。
写真(右):1943年6月24日、ニューブリテン島ラバウル基地からブーゲンビル島へ一式陸攻で視察に行く途上、同島上空でアメリカ軍P-38戦闘機に待ち伏せされ、戦死した山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨を載せて横須賀軍港に帰還した戦艦「武蔵」艦上、大元帥昭和天皇の親臨した記念写真:前列左から6人目より、永野修身軍令部総長、木戸幸一内大臣、高松宮宣仁親王、昭和天皇、松平恒雄宮内大臣、嶋田繁太郎海軍大臣、古賀峯一連合艦隊司令長官、百武三郎侍従長。 周囲には、主砲爆風除けの覆いがついた九六式25ミリ三連装機関銃(左)と八九式連装高角砲(右)が並んでいる。改装後には、副砲2基が撤去され連装高角砲6基が増備されるはずだったが、高角砲増備の改造は姉妹館戦艦「大和」だけで、「武蔵」は三連装機関銃の6基の増備に変更された。
English: A photo-op aboard battleship Misashi upon her return to Yokosuka Naval Base with the remains of Isoroku Yamamoto, Commander-in-Chief of the Combined Fleet, who was killed when his plane was shot down over Bougainville Island two months earlier. On the front row, left-to-right from the 6th person: Osami Nagano, Chief of the Imperial Japanese Navy General Staff; Kōichi Kido, Lord Keeper of the Privy Seal; HIH Nobuhito, The Prince Takamatsu; HIM Emperor Shōwa (Hirohiro); Tsuneo Matsudaira, Imperial Household Minister; Shigetarō Shimada, Minister of the Navy; Mineichi Koga, Commander-in-Chief of the Combined Fleet; and Saburō Hyakutake, Grand Chamberlain.
Date 昭和十八年六月二十四日 / 24 June 1943
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1943 File:島村信政5.jpg引用。
写真(右):1937年1月8月(11月3日?),東京、代々木練兵場、 陸軍始観兵式に愛馬「白雪」号馬上で閲兵する大元帥昭和天皇: 明治19年に、日比谷練兵場に代わる新練兵場として近衛・第一両師団に所属する部隊の教連場となったのが、青山練兵場である。明治20年、明治天皇が初めて近衛兵除隊式を閲兵、以後毎年1月8日の陸軍始の観兵式、11月3日の天長節の観兵式が執行された。 Description 陸軍始観兵式で「白雪」号にまたがり閲兵を行なう昭和天皇。
English: Emperor Hirohito greets from his favorite horse (Tokyo, 1937)
Español: El emperador Hirohito saluda desde su caballo favorito (Tokio, 1937)
Date 1937
Source AP database. Acreditted by Clarín. Direct link.
Author Associated Press (AP) 写真は、Category:Emperor Hirohito in 1937 File:Emperor Hirohito on horseback (1937).jpg引用。
写真(右):1938年1月11日、第1次近衛文麿内閣の時、大元帥昭和天皇の親臨する御前会議(最高戦争指導会議):
『每日新聞』昭和二十年一月一日號 掲載写真。支那事変処理根本方針を決定。中央、陸軍の軍装の大元帥昭和天皇の右手、奥に海軍軍令部総長・伏見宮博恭王、 手前に1937年2月林銑十郎内閣・1937年6月第1次近衛文麿内閣・1939年1月平沼騏一郎内閣の海軍大臣に就任した米内光政大将が出席。1937年12月、軍令部次長に就任した古賀峰一海軍中将。昭和天皇左手、陸軍参謀総長・閑院宮載仁親王、陸軍大臣・杉山元、1937年8月に参謀次長(翌年8月まで)多田駿(ただ はやお)陸軍中将が出席。 日本語: 最高戦争指導会議(1945年1月1日以前)
English: Gozen_Kaigi (Imperial Conference) with Showa Emperor Hirohito (center), Navy officers are seated left while Army officers are seated right.
Date before 1 January 1945
Source www.cc.matsuyama-u.ac.jp/ ~tamura/gozennkaigi.htm
Author 『每日新聞』昭和二十年一月一日號 / Mainichi Shinbun 1 January 1945 issue 写真は、Category:Emperor Hirohito in 1945 File:Gozen-kaigi 14 August 1945.jpg引用。
写真(右):1930年代、中国陝西省、延安、中国共産党毛沢東(もうたくとう:Mao Zedong)主席と妻の江青(こう せい:Jiang Qing):毛沢東(1875年10月16日‐1946年8月16日):は、1933年1月、中国国民党の圧迫を受け、共産党本部を上海から江西省瑞金に移転したが、そこも共産党に反対の立場を明瞭にした蒋介石隷下の国民党軍の攻撃によって終われ、、1934年10月18日、紅軍を率いて「長征」を開始した後、周恩来から実権を奪還し、1936年、陝西省延安に共産党の根拠地を構える。毛沢東は、日本と国民党に対するゲリラ戦を指導したが、1936年12月12日の張学良による蔣介石軟禁の西安事件によって、ソ連の支援を得て、第二次国共合作を結ぶ。紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」となり、1937年からの日中戦争では、日本軍へのゲリラ攻撃を仕掛けた。江青(1914年3月‐1991年5月14日自死)は、山東省出身、1933年に共産党入党、「藍蘋」の芸名で女優となったが、延安に落ちのびた。延安では「江青」として魯迅芸術学院で働き、25歳の時、毛沢東(45歳)と出会い、1939年、毛沢東4番目の夫人となった。第二次大戦勝利後、国共内戦で共産党が勝利し中華人民共和国が勝利すると、毛沢東は最高指導者となった。1966年に始まった文化大革命の扇動者として、党指導力の強化を図ったが、1976年に失脚。1981年、死刑後減刑されたが、病気療養の仮釈放中の1991年に縊死。
English: Young Jiang Qing and Mao in Yan'an in 1930s.
Date 1930s
Source news.boxun.com/news/gb/china/2008/04/200804171803.shtml
Author Unknown author 写真は、Category:Portrait photographs of Chiang Kai-shek File:Young Jiang Qing and Mao3.jpg参照。
写真(左):1941年8月大西洋会談中のルーズベルト大統領とチャーチル首相;英新鋭戦艦「プリンスオブウェールズ」艦上で会談した。米英軍の高官も話し合っている。両者の後ろには,米国陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥が見える。
English: President Roosevelt and Winston Churchill seated on the quarterdeck of HMS Prince of Wales for a Sunday service during the Atlantic Conference, 10 August 1941.
The President of the United States, Franklin D Roosevelt, and the Prime Minister of the United Kingdom, Winston Churchill are seated on the Quarterdeck of HMS Prince of Wales. They are chatting following a Sunday service, during the Atlantic Conference, 10 August 1941. Immediately behind them are Admiral E J King, USN and General Marshall, US Army. The President's sons, Ensign Franklin Roosevelt Jr USNR and Captain Elliot Roosevelt USAAF, along with General Arnold, USAAF, Air Chief Marshal Sir Wilfred Freeman RAF are conversing to the left of the image.
Date 10 August 1941
Author Priest, L C (Lt), Royal Navy official photographer 写真は Wikimedia Commons, Category:Franklin Delano Roosevelt in 1941 File:President Roosevelt and Winston Churchill seated on the quarterdeck of HMS PRINCE OF WALES for a Sunday service during the Atlantic Conference, 10 August 1941. A4815.jpg引用。
1941年8月14日の大西洋憲章;Atlantic Charter
第一、両国は、領土その他の拡大を求めない。
第二に、両国は、国民の自由表明意思と一致しない領土変更を欲しない。 第四、両国は、現存義務を適法に尊重し、大国たると小国たるとを問わず、また、先勝国たると戦敗国たるとを問わず、全ての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等な開放がなされるよう努力する。
第六、ナチ暴政の最終的破壊の後、両国は、全て国民に対して、自国で安全に居住することを可能とし、かつ、全て国の人類が恐怖及び欠乏から解放され、その生を全うすることを確実にする平和が確立されることを希望する。
写真(右): 1941年10月18日、第一次東條英機内閣の閣僚、大日本帝国首相東條英機陸軍大将と彼の右隣り鈴木貞一国務大臣、左端の嶋田繁太郎海軍大臣、右端の岸信介商工大臣;1941年10月から陸軍大将として,内閣を組織したため,日米開戦の責任者と目された。ドイツのヒトラー,イタリアのムッソリーニと並んで,日本の指導者とされることもある。しかし,東条英機首相には,内閣の任免権も,軍の最高指揮権も,宣戦布告の権利もなく,独裁者というには程遠い存在である。総理大臣,陸軍大臣,海軍大臣,陸軍参謀総長,海軍軍令部総長は,全て大元帥昭和天皇を輔弼するに過ぎない。大権は,大元帥一人だけが保有するものであり,閣僚,議会,軍部もその下にある。体験を持つ天皇を批判することは決して許されることではない。
日本語: 第一次東條内閣の閣僚。前列軍服姿が東條英機首相、彼の右隣りが鈴木貞一国務大臣、左端が嶋田繁太郎海軍大臣、右端が岸信介商工大臣 English: Cabinet minister of the first Tojo Cabinet. Military uniform figure of the front row is the prime minister Hideki Tojo, his right neighbor is the Minister of State Teiichi Suzuki, the left end is the Minister of Navy Shigetarō Shimada, and right end is the Minister of Commerce and Industry Nobusuke Kishi.
Date
日本語: 昭和16年
October 18th, 1941 写真は Wikimedia Commons, Category: Hideki Tōjō File:Cabinet of Hideki Tojo 3.jpg引用。
写真(右):1938年7月12日、アメリカ、ワシントンD.C., 、アメリカ国務長官コ−デル・ハル(Cordell Hull:左)とスウェーデン皇太子グスタフ・アドルフ(Crown Prince Gustaf Adolf of Sweden);1941年11月26日日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」(ハル・ノート)を手交した。1943年には連合国四カ国共同宣言 Joint Four Nation Declarationに関わるなど,国連創設に努力した。
English: Title: Corwin Prince meets Sec. of State Hull. Washington, D.C., July 12. Sec. of State Cordell Hull, left; with Crown Prince Gustaf Adolf of Sweden, snapped as the left the dining room of the Carlton Hotel, where Mrs. Hull entertained for the royal couple, the Prince is traveling incognito while in this country, 7/12/38 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller
Date 12 July 1938
Source
Library of Congress Author Harris & Ewing, photographer
写真は Wikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Corwin Prince meets Sec. of State Hull. Washington, D.C., July 12. Sec. of State Cordell Hull, left; with Crown Prince Gustaf Adolf of Sweden, snapped as the left the dining room of the LCCN2016873797.jpg引用。
国務長官ハルは、その場で文書を読んで(事前の暗号解読で宣戦布告を意味するとは分かってはいたが)、不快感をあらわにし,言った。「50年間の公務の中で、これほど恥知らずな文書を,地球上で受け取ったことない」 "----so huge that I never imagined until today that any Government on this planet was capable of uttering them."
ルーズベルト大統領は,宣戦布告なしの「卑怯な騙まし討ち」として非難し,連邦議会に対日宣戦布告を求める演説を行った。真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説巻頭に「屈辱の日」の表現が使われた。(→演説音声を聞く)。
"Yesterday December 7 1941-a date which will live in infamy-the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan. "
写真(右):941年12月8日、アメリカ、ワシントンD.C., 、ルーズベルト大統領の1議会演説:Pearl Harbor Address to the Nation.最も成功した「正義の戦争」のプロパガンダ(?)で、これによって連邦議会と世論を参戦に一本化し、人員・資源・技術を戦争のために総動員することが可能になった。以後,連合国は「騙まし討ちをした卑怯なジャップ」に和平交渉をもちかけること一切無かった。事実上,無条件降伏のみを認めたのである。Description 208-PU-168A-1: President Franklin D. Roosevelt addressing Congress on the Declaration of War, December 8, 1941. Office of War Information Collection. (2016/08/30). Date 30 August 2016, 10:21 写真は Wikimedia Commons, Category:Franklin Delano Roosevelt in 1941 File:208-PU-168-A-1 (28721602114).jpg引用。
日本の最後通牒,すなわち14部のメッセージ"Fourteen Part Message" の最初の部分が、暗号でワシントンの日本大使館に送信されたのは,1941年12月6日(日本時間)であり,最終部分は12月7日(開戦予定日前日)である。つまり,最後のぎりぎりまで,和平交渉の打ち切りは告げず,真珠湾攻撃当日数時間前に,宣戦布告をするつもりだった。これは、真珠湾攻撃のための艦隊行動やマレー半島上陸を目指す輸送船団の動向を,米英に察知されないためである。しかし,宣戦布告の遅延は,「直前まで和平交渉を模索中であると欺瞞して、攻撃意図を隠した」として,米国から非難された。
連合国共同宣言 この宣言の署名国政府は,大西洋憲章the Atlantic Charterとして知られる1941年8月14日付米国大統領並びに英国首相の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事している(a common struggle against savage and brutal forces)ことを確信し、次のとおり宣言する。
(1) 各政府は、三国条約の締約国及びその条約の加入国でその政府が戦争を行っているものに対し、その政府の軍事的又は経済的な全部の資源を使用することを誓約する。 Each Government pledges itself to employ its full resources, military or economic, against those members of the Tripartite Pact and its adherents with which such government is at war.
(2) 各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独の休戦又は講和を行わないことを誓約する。 Each Government pledges itself to cooperate with the Governments signatory hereto and not to make a separate armistice or peace with the enemies.
この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及び貢献している又はすることのある他の国が加入することができる。 The foregoing declaration may be adhered to by other nations which are, or which may be, rendering material assistance and contributions in the struggle for victory over Hitlerism.
(引用終わり)
当初の署名国は,United States of America, the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland, the Union of Soviet Socialist Republics, China, Australia, Belgium, Canada, Costa Rica, Cuba, Czechoslovakia, Dominican Republic, El Salvador, Greece, Guatemala, Haiti, Honduras, India, Luxembourg, Netherlands, New Zealand, Nicaragua, Norway, Panama, Poland, South Africa, Yugoslaviaの26カ国。その後、フィリピン(亡命政府),エチオピア(イタリア占領から解放),イラク(英国支配)など,1945年3月までに,メキシコ,フィリピン,エチオピア,ブラジル,ボリビア,イラン,トルコ,サウジアラビアなど19カ国が追加署名した。
France ......... Dec. 26, 1944br> 真珠湾攻撃から1ヶ月もたたない1942年1月1日の連合国共同宣言 Joint Declaration by United Nationsへの署名は,国際連合の原加盟国の必要条件である。大戦終結までにここに署名した47カ国は,全て対ドイツ,対日参戦した。1945年2月以降に参戦した南米諸国や中東諸国は,国際連合に加盟し,戦後の国際関係を有利にしようとする目的で,対日参戦した。
写真(右):1943年11月22-26日エジプトで開催されたカイロ会談Cairo Conferenceの三巨頭 "Big Three"と蒋介石夫人・宋美齢(右端):英軍マウントバッテン卿とルーズベルト後方には、蒋介石の下に派遣されていたジョセフ・スティルウェル中将(Joseph Warren Stilwell, 1883年-1946年10月12日)。ジョセフ・スティルウェル中将は、中国国民政府の腐敗ぶりを非難していたため、1945年6月18日、沖縄戦の末期に戦死した第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将の後任として、沖縄に転出させられた。カイロでは、蒋介石,ルーズベルト大統領,英首相チャーチルが,対日戦とアジアの戦後処理が話し合った。The meeting was attended by President Franklin Roosevelt of the United States, Prime Minister Winston Churchill of the United Kingdom, and Generalissimo Chiang Kai-shek of the Republic of China. 1943年12月1日に,カイロ宣言がラジオ放送された。
Description
English: This photo by Jim Hudson was taken during the Cairo Conference (Nov. 22-26, 1943) between China, UK and USA. From left to right: Generalissamo Chiang Kai Shek, US President Franklin Delano Roosevelt, British Prime Minister Winston Churchill and Madame Chiang Kai Shek served as interpreter. Back row, Chinese Generals Chang Chen and Ling Wei; American Generals Somervell, Stilwell and Arnold; and senior British officers, Field Marshal Sir John Dill, Admiral Lord Louis Mountbatten, and Major General Carton de Wiart, VC.
Date 1943
Source Source
Author US Photographer
写真は Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Cairo Conference (Chiang, Churchill, Roosevelt)1941 File:CairoConferenceParticipants.jpg引用。
1943年12月1日カイロ会談Cairo Conference 1943の概略は次の通り。br>
日本国ニ対スル将来ノ軍事行動協定:三大同盟国The Three Great Alliesハ 海路陸路及空路ニ依リ其ノ 野望ナル敵国ニ対シ 仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ。右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。
1943年12月1日に公表された「カイロ宣言」(カイロ会議)は、実行に移され、実現した。ソ連の対日参戦,日本への無条件降伏要求貫徹はもちろん,満州,台湾,朝鮮,太平洋諸島は,日本が奪取した“taken by violence and greed”地域と認定され,日本の領土とは認められなかった。1945年の日本降伏後,アジアの情勢は,カイロ会議の公表通りになった。
写真(右):1943年11月28日-12月1日,テヘラン会談;ビッグ・スリーには,10年以上,ファシスト日本と交戦している中国代表蒋介石は含まれない。所詮,第二次大戦は欧州大戦である。しかし,欧州優先のために,英国,ソ連,フランスなどは,日本占領へ介入してこなかった。つまり,日本の再建を早める役割を果たした。"The Big 3": Joseph Stalin, Franklin D. Roosevelt and Winston Churchill meeting at Tehran in 1943.
English: Teheran, Iran, Dec. 1943--Front row: Marshal Stalin, President Roosevelt, Prime Minister Churchill (wearing his air commodore's uniform) on the portico of the Russian Embassy--Back row: General H.H. Arnold, Chief of the U.S. Army Air Force; General Alan Brooke, Chief of the Imperial General Staff; Admiral Cunningham; Admiral William Leahy, Chief of staff to President Roosevelt, during the Teheran Conference
Date December 1943 Author United States Army 12th Air Force Library of Congress's Prints and Photographs division
写真は Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) File:Tehran Conference leaders Stalin, Roosevelt and Churchill at Russian Embassy in Iran, 1943 (24295403902).jpg引用。
写真(右):1945年2月4-11日,ソ連クリミア半島で開催されたヤルタ会談の三巨頭 "Big Three":Winston Churchill, Franklin D. Roosevelt and Joseph Stalin at Yalta in 1945. 日ソ中立条約の破棄が国際条約違反だという条約文言の正当性を,米英もソ連も歯牙にもかけいない。北方領土をソ連に割譲することを認めたのは,米英であり,日本は戦後,米国に頼る安全保障を選択した。北方領土問題に関して,日本は米国に謝罪を求めなくても良いのか。
English: The Yalta Conference, February 1945
The 'Big Three', Winston Churchill, President Roosevelt and Marshal Stalin, sit for a group photograph outside the Livadia Palace during the Yalta Conference. Behind them, left to right, are: an unidentified man; Lord Leathers, the British Minister of War Transport; Rt Hon Anthony Eden MP, the British Foreign Secretary; Mr Edward Stettinius, the American Secretary of State; Rt Hon Sir Alexander Cadogan, the British Permanent Under-Secretary of State for Foreign Affairs; Mr Vyacheslav Molotov, the Soviet Commissar for Foreign Affairs; and Mr Averell Harriman, the American Ambassador in Moscow. Churchill is speaking to Stettinius.
Date between 1939 and 1945
This is photograph NAM 234 from the collections of the Imperial War Museums.
写真は Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) File:Tehran Conference leaders Stalin, Roosevelt and Churchill at Russian Embassy in Iran, 1943 (24295403902).jpg引用。
写真(右):1947年、東京、A級戦犯として巣鴨拘置所に監禁、極東軍事裁判を受け終身刑の判決を受けた元内閣総理大臣小磯國昭(こいそ くにあき)陸軍大将(1880年3月22日-1950年11月3日):1939年4月7日、平沼騏一郎内閣で拓務大臣を8月30日まで勤め、1940年1月16日から米内政内閣で再び拓務大臣に7月22日まで務めた。東条政権の1942年5月29日から1944年7月22日まで朝鮮総督、東條退陣後、1944年7月22日から1945年4月7日まで首相として政権を担う。しかし,米軍の沖縄本島上陸から1週間後に辞任。戦後,A級戦犯として、東京裁判で終身刑の判決を受けるも,服役中に病死。 English: Kuniaki Koiso during the trial for war crimes at International Military Tribunal for the Far East
Date 1947
Source http://mylib.nlc.cn/web/guest/djsp/personcontent?person.id=9C74A6A1707D44F99A4CAFFC55095ED6
Author The Occupation administration
写真は、Category:Kuniaki Koiso File:Kuniaki Koiso 3.jpg引用。
7月27日にポツダム宣言が公表された日本では,7月28日に各紙が「笑止」「聖戦あくまで完遂」などと報道された。鈴木首相も,7月28日に記者会見し「ポツダム宣言はカイロ会談の焼直しであり,政府として黙殺して、断固戦争完遂に邁進する」とした。7月29日,日本の同盟通信社は,黙殺を"ignore it entirely"と、ロイターとAP通信は"Reject(拒否)"と訳し報道した。
写真(右):1943年10月5日,ニューギニア東北内陸、ラエとマダンの中間、ダンプ、オーストラリア軍が捕虜にした日本陸軍兵士;後方には、オーストラリア軍の兵士と荷物輸送に使役されているニューギニアの住民が見える。ダンプには飛行場があった。 Oceania: New Guinea, Huon Peninsula, Ramu River Finisterre Ranges Area, Ramu River Area, Dumpu
DUMPU, NEW GUINEA. 1943-10-05. SX123484 LANCE SERGEANT N. B. STUCKEY, AUSTRALIAN MILITARY HISTORY SECTION PHOTOGRAPHER (LEFT), CLOSELY EXAMINES A JAPANESE PRISONER CAPTURED BY SX12395 LANCE CORPORAL W. J. CULLEN (RIGHT), OF 2/27TH INFANTRY BATTALION. STUCKEY WAS ATTACHED TO HEADQUARTERS, 21ST INFANTRY BRIGADE.
Date 5 October 1943
Source the Australian War Memorial under the ID Number: OG0729
写真は、Wikimedia Commons,Category:New Guinea campaign File:Australian soldiers Japanese POW Oct 1945.jpg引用。
写真(右):1944年2月,ニューギニア北岸、ラエ、オーストラリア軍が鹵獲した日本陸軍の九六式15センチ榴弾砲;後方には、オーストラリア軍のテントが張られている。ラエには、日本軍の飛行場があった。 English: Lae, New Guinea. C. 1944-02. Squadron Leader C. Trewen, Sydney, NSW (left), and Flying Officer N. Bartlett, Perth, WA, looking at a Japanese Type 96 15 cm howitzer captured by the AIF at Lae.
Date February 1944
Source the Australian War Memorial under the ID Number: OG0729
写真は、Wikimedia Commons,Category:New Guinea campaign File:Captured gun at Lae OG0729.JPG引用。
写真(右):1945年8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three"英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee;
米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman;
ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin:後方は,米海軍参謀長レーヒ提督Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff(日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人ガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。);
英外相ベヴィンBritish Foreign Minister Ernest Bevin;
米国務長官バーンズU.S. Secretary of State James F. Byrnes(対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治先導者);
ソ連外相モロトフSoviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov(独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結)。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。
English: Britain's new Prime Minister, Clement Attlee, with President Truman and Marshal Stalin at the Potsdam Conference in Berlin, 1 August 1945.
Clement Attlee with President Truman of the United States and Marshal Stalin of the Soviet Union at the Potsdam Conference in Berlin, shortly after winning the British General election in 1945. Standing from left to right are Admiral Leahy, Ernest Bevin, James Byrnes and Vyacheslav Molotov.
The last of the war-time summit conferences was held at Potsdam, outside Berlin from 16 July to 2 August 1945 and the results of the British General Election were announced while it was in session. Churchill and Eden initially headed the British delegation and were accompanied by Attlee who was leader of the opposition at the start of the conference but Prime Minister for the final sessions.
Date 1945
BU 9496 from the collections of the Imperial War Museums. 写真は、Wikimedia Commons,Category:Group photographs at the Potsdam Conference (Attlee, Stalin, Truman) File:Britain's new Prime Minister, Clement Attlee, with President Truman and Marshal Stalin at the Potsdam Conference in Berlin, 1 August 1945. BU9496.jpg引用。
This "Potsdam Declaration" described Japan's present perilous condition, gave the terms for her surrender and stated the Allies' intentions concerning her postwar status. It ended with an ultimatum: Japan must immediately agree to unconditionally surrender, or face "prompt and utter destruction".
ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman(61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。英首相チャーチルも、総選挙の開票で一時帰国している最中,選挙で敗北し、7月27日に英国新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。また,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には参加しておらず,中国の蒋介石が欠席しているにもかかわらず,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。
写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18〜1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける。この新方式は,元老の手中にあった内閣組閣の権限を内府に移し、政治意思統合の機能を天皇権威に求める傾向を強め,内府の権限拡大に結びついた。(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用)
1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,米国務長官バーンズJAMES F. BYRNESに降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,天皇制を前提にして,日本軍を降伏させ,武装解除すること,天皇制のその後の存続は,日本国民の意思によることが示されていた。
写真(右):1945年6月9日、日本、東京、沖縄陥落後に成立した鈴木貫太郎内閣。前列左より司法大臣松阪廣政、厚生大臣岡田忠彦、内閣総理大臣鈴木貫太郎海軍大将(1880年3月2日〜1948年4月20日)、その隣に米内光正海軍大臣、後列右、陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将 (あなみ これちか、1887年2月21日 - 1945年8月15日) :阿南惟幾大将は、鈴木貫太郎総理大臣とは、以前に侍従長と侍従武官の関係だった。1943年5月1日陸軍大将.1944年12月26日 航空総監兼軍事参議官,1945年4月7日,陸軍大臣。参謀総長梅津美治郎とともに降伏拒否、本土決戦を強硬に主張するも、昭和天皇の終戦の聖断に従う。軍事クーデターを戒め、1945年8月14日夜、ポツダム宣言受諾の直前に陸相官邸で自刃。「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」昭和二十年八月十四日夜 陸軍大将惟幾辞世。」二列目、左より内務大臣安倍源基、国務大臣櫻井兵五郎、軍需大臣豐田貞次郎、国務大臣安井藤治、農商大臣石黒忠篤、文部大臣太田耕造、外務大臣東郷茂徳(とうごう しげのり:1882-1950年7月23日)、国務大臣左近司政三、運輸大臣小日山直登、大蔵大臣廣瀬豐作、内閣綜合計画局長官秋永月三(あきなが つきぞう)、内閣書記官長迫水久常、法制局長官村瀬直養、陸軍大臣阿南惟幾 国務大臣下村宏。 Captions available at File:Suzuki cabinet.svg. The cabinet of Japanese prime minister Kantaro Suzuki posing in front of the National Diet Building of Japan. Those pictured are: Tadahiko Okada, Hiromasa Matsuzaka, Kantaro Suzuki, Mitsumasa Yonai, Genki Abe, Heigoro Sakurai, Sadajiro Toyada, Fujihara Yasui, Tadaatsu Ishiguro, Kozo Ohta, Shigenori Togo, Seizo Sakonji, Naoto Kobiyama Hosaku Hirose, Tsukizo Akinaga, Hisatsune Sakomizu, Naoyasu Murase, Korechika Anami
Date 9 June 1945
Source Japan's Longest Day (1968 English language edition), page 185
Author (Unknown). 写真は Wikimedia Commons, Category:Kantarō Suzuki File:Paul Wenneker and Mitsumasa Yonai.png引用。
写真(右):1940年1-7月頃、日本、内閣総理大臣米内光政海軍大将(1880年3月2日〜1948年4月20日)とドイツ大使館付海軍武官ソパウル・ヴェネッカー(Paul Wenneker:1890- 1979):米内は、1937年の林銑十郎内閣で海軍大臣、三国同盟に反対したはずだった。1940年1月16日から1940年7月22日、岩手県出身者で3人目の内閣総理大臣。しかし陸軍の反対で半年後に辞職。1944年7月22日には小磯内閣で4期目の海軍大臣に入閣。ソパウル・ヴェネッカー中佐は、1933年12月、ドイツ大使館在日海軍駐在武官に赴任、1935年4月に大佐に昇進。1937年8月末にドイツに帰国。第二次世界大戦勃発直後、1939年10月、准将として「ドイチュラント」艦長となり通商破壊戦に出撃。1940年2月、二度目の日本駐在海軍武官をドイツ降伏の1945年5月まで務めた。1941年9月、中将、1944年8月、大将に昇進。 English: Paul Wenneker and Mitsumasa Yonai, admirals of the Kriegsmarine and IJN.
Date 5 April 2020
Author Ryu_ya634. 写真は Wikimedia Commons, Category:Mitsumasa Yonai File:Paul Wenneker and Mitsumasa Yonai.png引用。
写真(右):1945年8月9日あるいは14日、国体護持を期待してポツダム宣言受諾、無条件降伏が大元帥昭和天皇の最終決定(聖断)で決まった御前会議の記念写真:会議場は地下10メートルの宮中防空壕内にあり、広さは15坪。8月9日23時に開催された御前会議の出席者は、総理大臣鈴木貫太郎海軍大将・外務・陸軍・海軍の四大臣、陸軍参謀総長・海軍軍令部総長、平沼枢密院議長の七名が正規の構成員だったが、陪席員は内閣書記官長迫水久常私、陸海軍の軍務局長、内閣綜合計画局長官の4名、合計11名だった。8月14日23時開催の御前会議は、陪席も含めて23人もが出席した。 昭和天皇は、8月14日午後11時30分12時にかけて、内廷庁舎二階の御政務室で「終戦の詔書」(玉音放送)をレコードに音した。
日本語: 終戦を決定した御前会議。
English: Gozen_Kaigi which made the formal decision for Japanese surrender.
Date 昭和20年8月14日 / 14 August 1945
Source www.cc.matsuyama-u.ac.jp/ ~tamura/gozennkaigi.htm
Author Unknown author
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1945 File:Gozen-kaigi 14 August 1945.jpg引用。
写真(右):1945年9月2日,東京湾上アメリカ海軍戦艦「ミズーリ」で日本降伏調印(Formal Surrender of Japan)を宣言する連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥(General of the Army Douglas MacArthur):戦艦「ミズーリ」USS Missouri (BB-63)艦上で ,英国Admiral Sir Bruce Fraser; ソ連Lieutenant General Kuzma Derevyanko; 豪General Sir Thomas Blamey; 加Colonel Lawrence Moore Cosgrave; 仏General Jacques LeClerc; オランダAdmiral Conrad E.L. Helfrich; ニュージーランドAir Vice Marshall Leonard M. Isitt. 米国陸軍Lieutenant General Richard K. Sutherland; 中華民国General Hsu Yung-chang; 米海軍Fleet Admiral Chester W. Nimitz. 掲げられている星条旗はペリー提督 Commodore Matthew C. Perryが,1853年に東京湾に来航した時のもの。 English: Japanese Surrender at Tokyo Bay, 2 September 1945
General of the Army, Douglas MacArthur reads the surrender terms to the Japanese representatives on board USS MISSOURI in Tokyo Bay.
Date 1945
A 30428 Imperial War Museums. 写真は、Wikimedia Commons, Category:Surrender of Japan, 2 September 1945
File:Japanese Surrender at Tokyo Bay, 2 September 1945 A30428.jpg引用。
1945年9月2日(日本3日)戦艦「ミズーリ」での降伏調印式におけるマッカーサー元帥の演説
MacArthur's Speeches: Surrender ceremony on the U.S.S. Missouri
降伏調印前 The issues, involving divergent ideals and ideologies, have been determined on the battlefields of the world and hence are not for our discussion or debate. (理想とイデオロギーを巻き込んだ問題は,戦場で片がついたのであり,もはや議論の余地は無い。)
It is my earnest hope, and indeed the hope of all mankind, that from this solemn occasion a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past ---a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish for freedom, tolerance and justice.(過去の流血と大量殺戮の後に,自由,寛容,正義を重んじる威厳ある人々の前に,よりよい世界が現れることを希望する。)
降伏調印署名後の演説
Today the guns are silent. A great tragedy has ended. A great victory has been won....(今日,銃声がやんだ。大いなる悲劇が終わり,偉大な勝利が勝ち取られた。) ----We must go forward to preserve in peace what we won in war.(我々は,戦争で勝ち取った平和を,将来まで,保持しなくてはならない。)
A new era is upon us. Even the lesson of victory itself brings with it profound concern, both for our future security and the survival of civilization. The destructiveness of the war potential, through progressive advances in scientific discovery, has in fact now reached a point which revises the traditional concepts of war.(勝利の教訓は,我々の今後の安全保障,文明の生存への強い関心を引き起こす。)
----We have had our last chance. If we do not now devise some greater and more equitable system, Armageddon will be at our door. The problem basically is theological and involves a spiritual recrudescence and improvement of human character (もしも,我々がより適切なシステムを構築できないのであれば,最終戦争ハルマゲドンはすぐやって来るであろう。問題は,基本的には,技術的ではあるが,同時に精神的再燃と人類の持つる性向の改善にも関連している。)
写真(右):1946年5月14日,東京、市ヶ谷、陸軍省・参謀本部があった建築物で開廷された極東軍事裁判(International Military Tribunal for the Far East)東京裁判:1937年6月に竣工した陸軍士官学校本部庁舎であり、1941年以降は、左側に陸軍省、右側に参謀本部が入った。自衛隊の市谷駐屯地に防衛庁が移転し,多くの建物が取り壊されたが、歴史的価値のある一号館の一部のみが記念館として移設保存された。東京裁判の法廷とされた大講堂と、旧陸軍大臣室が残されている。現在保存されている「市ヶ谷記念館」は,本来の建物の5分の一ほどしか残されていないので注意されたいが、この点を明示していないので、士官学校は矮小化されている。 English: Maj.Ben Bruce Blakenley,defense counsel,addresses the court at the International War Crimes Tribunal for the Far East
Date 14 May 1946
Source mylib.nlc.cn
Author The Occupation administration写真は Wikimedia Commons, Category:Surrender of Japan, 2 September 1945; File:IMTFE court chamber 2.jpg引用。
写真(右):1948年1月7日、日本、東京裁判にA級戦犯として出廷した元内閣総理大臣東條英機(とうじょう ひでき 1884年7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年12月23日)陸軍大将:1940年第二次近衛文麿内閣で陸軍大臣,1941年内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣,1942年外務大臣を兼務。1943年文部大臣・商工大臣・軍需大臣も兼務。1944年参謀総長も兼務。サイパン陥落後、首相辞職。予備役に就く。戦後,拳銃自殺図るも失敗。 東條首相は,天皇親政を実りあるものにするために,頻繁に上奏を繰り返し,天皇の意思を汲み取りながら国政に尽くした。忠臣として,昭和天皇からも信頼されたからこそ,首相・陸相・内務大臣・外務大臣・参謀総長など兼ねる独裁が可能になった。東條英機大将は,大元帥昭和天皇に有無を言わさず日米開戦を認めさせたとの証言をしたが,これは天皇を訴追から守るための偽証だった。東京裁判では,開戦の全責任を引き受け,処刑された。このような,ディールは,マッカーサー元帥,フェラーズ准将など米軍上層部と日本の宮中グループの協力で可能になった。東京裁判の最大の意義は,国体護持を貫徹したことにある。これを抜きにして「東京裁判史観」を論じることはできない。 English: Tojo Hideki, an Army general and Japan s political and military leader, testified at the Tokyo War Crimes trial on January 7, 1948. (238-FEC-48-138)
Date 7 January 1948
Source https://www.archives.gov/publications/prologue/2009/summer/cramer.html
Author United States Army. 写真は Wikimedia Commons, Category: Hideki Tōjō File:Tojo testifying in Tokyo.jpg引用。
写真(右):1945年9月27日、東京、連合軍総司令部に昭和天皇を呼出し、会見したGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥:昭和天皇とマッカーサーの歴史的会見であるが、身長差が大きい、服装に軽重があるといった対比は、まさに勝者と敗者の格差である。この写真は、公開され日本人に衝撃を与えた。今まで現人神として挙げめていた天皇とはこれだ。He is the one.この写真を掲載し会談の模様の記者会見記事を掲載した9月29日の朝日新聞・毎日新聞・読売報知は、日本の内務省(まだ解体されてなかった)によって発禁処分にされた。これに対しGHQは、内務省による発禁処分を直ちに取り消させた。日本政府・官僚の国際感覚、民主主義への無理解は凄まじい。敏感な日本国民は、日本政府は信頼するに足らず、GHQこそ信頼できると判断し始めた。日本国民が洗脳されたからではなく、旧態依然たる日本政府・官僚が体たらくだったのである。 Emperor Hirohito pays a precedent shattering visit to Supreme Commander MacArthur
HST Keywords
Hirohito; Japan - General file - Tokyo; MacArthur, Douglas - Ref. to
People Pictured
MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Hirohito, Emperor of Japan, 1901-1989 Rights
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Emperor Hirohito, in formal morning attire, pays precedent shattering visit to Supreme Commander Douglas MacArthur at headquarters in Tokyo. From a Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters, U. S. Army Forces, Pacific, in Tokyo, Japan, July 1946. (These photographs have also been reproduced in 8x10 and placed in the regular photo boxes).. Date(s)
July 1946. 写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3338 引用。
写真(右):1946年6月日、フィリピン、マニラ、フィリピン共和国マニュエル・ロハス大統領にフィリピン独立を祝福するGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥:1944年10月のレイテ島上陸で、1942年に脱出したフィリピンに「帰ってきたと」と宣言し、フィリピン全土を日本軍の支配から解放したと自称できたマッカーサーは、満面の笑みを浮かべている。自分がフィリピンを日本の弾圧的支配から解放し、独立させてやったのだ、ということであろう。週に、マッカーサーの支援を当てにしてきたロハス大統領は、マッカーサーに媚態を示しているように見える。しかし、内心は誇り高く、正面切ってマッカーサーに反抗しなくとも、戦後のフィリピン人の対日協力に関しては、フィリピンの独自の意向、すなわち日本に協力したフィリピン人たちは、日本の抑圧や略奪を少しでも食い止めようとした消極的抵抗者だった、との立場をとった。旧態依然たる日本政府・官僚がマッカーサーに媚びたことを見れば、フィリピン政府の態度のほう真っ当だった。 General MacArthur greets President Manuel Roxas on his arrival in Manila for the Independence Ceremonies
Related Collection
Robert E. Hannegan Papers
Keywords
Armed forces officers ; Generals ; Presidents
HST Keywords
Philippines - Manila
People Pictured
MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Roxas, Manuel A., 1892-1948 General Douglas MacArthur (right) greets President Manuel Roxas of the Philippines on his arrival in Manila for the Independence Ceremonies. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946
Date(s)
July 1946. 写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 98-2425 引用。
日本占領を担った連合国最高司令官総司令部(General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers, GHQ/SCAP)とは、日本のポツダム宣言受諾を受けて、1945年8月14日、アメリカ大統領ハリートルーマンは、アメリカ太平洋陸軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥を、連合軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers: SCAP)に任命した。そして、1945年9月2日調印の降伏文書に基づき、この連合国最高司令官が日本政府・日本軍を管理することとなり、1945年10月2日、ダグラス・マッカーサー元帥の布告した一般命令第一号によって、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が設置された。
写真(右):1949年10月11日、インド、飛行場で報道陣とアメリカ大統領ハリー・トルーマンを迎えて演説をするインド首相ジャワハルラール・ネルー(Nehru, Jawaharlal, 1889-1964):後方は、ダグラス(Douglas)DC-6を流用したVC-118 「インディペンデンス」 "The Independence" (シリアルナンバー:s/n 46-505)四発大統領専用機。 Prime Minister Nehru Addressing Reporters Keywords
Airports ; Journalists ; Presidential aircraft ; Presidents ; Prime ministers ; Speeches, addresses, etc. ; Visitors, Foreign ; Visits of state
HST Keywords
Airplanes - Independence; Truman - Dignitaries - Foreign - India
People Pictured
Nehru, Jawaharlal, 1889-1964 ; Truman, Harry S., 1884-1972 Description: Prime Minister Jawaharlal Nehru of India is addressing reporters after landing in Washington, D.C. for an official visit. President Harry S. Truman is to his right. The presidential plane "Independence" is in the background. Others are unidentified.
October 11, 1949 写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 73-3163 引用。
写真(右):1948年8月14日(アメリカ時間)、韓国、ソウル、大韓民国成立記念式典、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥と大韓民国初代大統領の李承晩(り しょうばん:イ・スンマン:이승만):キリスト教ミッションスクール培材学堂の在学中、韓国皇帝高宗の退位を要求、投獄されるも教団の力で特赦による出獄。1904年、渡米しし、1907年、ジョージ・ワシントン大学卒業、1908年、ハーバード大学で修士号取得。その後もアメリカで亡命生活を送り、1945年10月、日本降伏後に解放された朝鮮半島に帰国。朝鮮駐留アメリカ軍による軍政下、
1946年に大韓独立促進国民会の総裁に就任。1948年8月15日、大韓民国樹立に伴い初代大統領に就任。
Syngman Rhee and General Douglas MacArthur
HST Keywords
Korea - Cities - Seoul
People Pictured
MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Rhee, Syngman, 1875-1965
Description
Syngman Rhee (right), first President of Korea, sits beside General Douglas MacArthur, Supreme Allied Commander in Japan, as they attend the August 14, 1948 ceremony in Seoul inaugurating the new Republic of Korea. From: Pershing Touseley, Reorganized Church of Jesus Christ of Latter Day Saints.
Date(s)
August 14, 1948. 写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2002-106 引用。
写真(右):1949年10月1日、中国、北京、天安門広場前で中華人民共和国の成立を宣言する共産党書記長毛沢東(Mao Zedong):毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した時期、実際には、中国各地で、国民党の抵抗が続いていた。これが、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が武力をもって対峙する国共内戦である。しかし、共産党の紅軍は、1949年11月30日に中華民国の首都重慶を攻略、その後蒋介石の国民党政府は台湾に逃亡した。国共内戦は、1950年6月には共産党の勝利で終わる。
Mao Zedong Makes Announcement
HST Keywords
China - Peiping
People Pictured
Mao, Zedong, 1893-1976
People Pictured
MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Hirohito, Emperor of Japan, 1901-1989 Mao Tse Tung (now called Mao Zedong) proclaims the People's Republic of China in Peking. From: Photos used in the 1984 Truman Centennial Exhibit. Date(s)
October 1, 1949. 5x7 inches (13x18 cm) , Black & White 写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-3732 引用。
写真(右):1949年 、ソビエト連邦、モスクワ、儀仗兵を閲兵する北朝鮮の労働党書記長金日成(キム・イルソン)指導者と外務大臣アンドレイ・グロムイコ:1912年4月15日生まれの金日成(キム・イルソン:きん・にっせい:김일성)は、1930年代から1945年まで、共産主義を報じる革命闘士だったが、1940年には、日本軍の掃討作戦に耐えきれず、ソ連に亡命している。1950年6月25日、ソ連と中国の支援を受けて、大韓民国を攻撃し、朝鮮半島を起こした。 Andrei Gromyko and North Korean Premier
Il Song People Pictured
Gromyko, Andrei Andreevich, 1909- ; Kim Il-song, 1912-1994 Description: Andrei Gromyko (in dark military cap) was delegated to guide Kim Il Song (hatless, at left, of official party reviewing troops), the North Korean Premier, during Kim's visit to Moscow. From: Photos used in the 1984 Truman Centennial Exhibit. Library of Congress Photo Number: LC-USZ62-80619.
Date(s)
1949 写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-3703 引用。
写真(右):1950年9月15日(アメリカ時間)、朝鮮半島仁川(インチョン)沖、揚陸指揮艦「マウント・マッキンリー」(排水量1万2000t)艦橋上の連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥:大韓民国(韓国)ソウル西20キロの仁川(インチョン)河口へ「クロマイト作戦」(Operation Chromite)に従って、アメリカ軍を中核とする国連軍が上陸し、北朝鮮軍に大反攻を開始した。この写真は、アメリカ第7艦隊旗艦オレゴン級重巡洋艦3番艦「ロチェスター」(USS Rochester, CA-124)ではない。
General Douglas MacArthur and members of his staff during Korean War
Keywords
Armed forces officers ; Generals ; Korean War, 1950-1953 ; Ships
HST Keywords
Korean War - General File
People Pictured
MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Whitney, Courtney ; Almond, Edward M. (Edward Mallory), 1892-1979 ; Wright, Edwin K. (Edwin Kennedy), 1898-1983 General Douglas MacArthur (seated) Commander in Chief, United Nations forces in Korea, and members of his staff view pre-landing bombardment and air strikes from the flag bridge of the U.S.S. Mt. McKinley in Korean waters off Inchon, as United Nations forces begin their offensive in that section. Left to right: Brigadier General Courtney Whitney, Chief, Government Section GHQ Scap; General MacArthur; Brigadier General E. K. Wright, Assistant Chief of Staff, G-3 Section, GHQ FEC; and Major General Edward M. Almond, CG X Corps. Date(s)
September 15, 1950. 写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2007-448引用。
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