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◆日米交渉・ハルノート・ニイタカヤマノボレ一二〇八
写真(左):1942年、アメリカ、アイダホ州ツインファールの農場保安管理局(FSA)の下にある日系人収容施設:日系アメリカ人は、敵性人種として、アメリカ国籍あったものまでも、財産・不動産を簒奪され、強制収容された。Title Twin Falls, Idaho. FSA (Farm Security Administration) farm workers' camp. Row shelters in which the Japanese liveContributor Names Lee, Russell, 1903-1986, photographer Created / Published 1942 July. Subject Headings - United States--Idaho--Twin Falls County--Twin Falls Format Headings Nitrate negatives. Reproduction Number LC-USF34-073767-D引用。
写真(右):1942-43年カリフォルニア州マンサナール強制収容所の日系人;日米開戦後直ぐに,米本土の日系人とその子孫の二世・三世(アメリカ国籍のアメリカ人が大半)は,財産を事実上没収され,内陸部の強制収容所に監禁された。理由は,日本軍のためのスパイ行為,破壊工作を行うことを防止するためだった。米軍当局は,そのような危険は低いことを理解していたが,日本軍の奇襲攻撃,敗北続きという戦局では,誰も日系人の強制収用に,反対できなかった。Title Japanese-American camp, war emergency evacuation,[Tule Lake Relocation Center, Newell, Calif.]Summary Photo shows eight women standing in front of a camp barber shop.Created / Published 1942 or 1943. Subject Headings - Japanese Americans - World War, 1939-1945 - Concentration camps - Women - Barbershops - United States--California--Newell Format Headings Transparencies--Color. Reproduction Number LC-DIG-fsac-1a35014引用。

アメリカのポスター(右):騙まし討ち首謀者・山本提督:「私(日本海軍の山本)は,ワシントンのホワイトハウスで,米国との和平を統括するのを楽しみにしています」「貴様は,今アメリカ人になんというつもりだ」:偽りの和平交渉の裏で,真珠湾テロ先制攻撃をした山本を許すなと報復感情を沸き立たせた。ハワイ攻撃の立案者,連合艦隊司令長官山本五十六大将(1943年戦死後に元帥)は,米艦隊を撃滅し,米国の戦意喪失を狙ったが逆効果だった。1919-23年ハーバード大学に学び,1925-28年駐米日本大使館付武官米国。知米派と見られていたが,それが仇になった。1943年4月18日,米軍陸軍航空隊は,暗号解読により,戦闘機で待ち伏せ攻撃し,山本五十六大将の搭乗機を撃墜,暗殺に成功する。真珠湾の仇討ちである。知米派にもかかわらず,真珠湾攻撃が,米国の反日艦上を刺激し,戦意高揚につながると見抜くことができなかった。真珠湾を攻撃したという大失敗のために,山本元帥を愚将とする専門家も少なくない。

【アジア太平洋戦争インデックス】
真珠湾攻撃の経緯:損害一覧・被害艦船リンク集
真珠湾攻撃の写真集:被害艦船・復旧写真
アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」:中国における対日秘密戦争
東京初空襲と山本五十六暗殺:真珠湾攻撃の仇討ち・報復

◆2008年8月13-15日で,本研究室に4500件のアクセスがありました。終戦の前提となる日米開戦への関心の高さを感じました。
◆2007年12月21日(金曜)テレビ朝日「スーパーモーニング」において,東京裁判法廷の巨大地図にハワイ諸島が掲載されていない点につき,謎解きがありました。駆逐艦ウォードの4インチ砲射撃が,ハワイ第一弾(太平洋戦争第一弾はマレー方面での九七戦の英哨戒機撃墜)だったことを隠蔽するだけでなく,米国が日本の暗号を解読していて,戦争警報を発令していたことを隠蔽したかったようです。
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論

1.1939年9月に勃発した第二次世界大戦(欧州大戦)に中立を維持してきた米国の参戦を促すため,ルーズベルト大統領,英国,中国,ソ連は,米国連邦議会が対日・対独宣戦布告することを望んだ。日本軍が,1940年9月,インドシナ半島(北部仏印)に進駐,日独伊三国軍事同盟が成立すると,米英は,日本,ドイツへの経済制裁,侵略非難,強圧的な要求を行うようになった。1941年7月の南部仏印進駐後,8月の大西洋憲章では,日本,ドイツを敵視し,その先制攻撃や対米宣戦布告を挑発しているかのような行動をとるようになった。

真珠湾攻撃の経緯を把握した上で、日米開戦に至る道のりを検証してみましょう。米国を中心に、中国、ソ連、欧州の視点も加えて検証し、日本における評価とは違った側面を明らかにします。

写真(右)1940年9月、アメリカからイギリスに武器供与されたアメリカ海軍の旧式駆逐艦50隻のうち3隻;USS Buchnanan (DD-131), USS Crowninshield (DD-134) 、USS Abel P. Upshur (DD-193).米国は中立とはいうものの,反ドイツの立場で1941年には武器貸与法を成立させ、英国に大々的に武器も供与し,英国カナダの船団を護送もした。Collection FDR-PHOCO: Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, 1882 - 1962 Series: Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, 1882 - 1962 Item: Gunners from the British Navy are being instructed by American Naval gunners in theoperation of a secret device that is part of the guns aboard the over-age Destroyersturned over too Britain in exchange for Naval & Air bases. The photo was taken ata Canadian port, 9/12/1940
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG NAIL Control Number: NLR-PHOCO-A-7420(283) 引用。


1937年7月の日中全面戦争以来,米国は日本の中国侵略を非難しているが,1939年7月に日米通商条約を廃棄した。

ルーズベルト大統領は、1939年9月に勃発した欧州対戦には、「米国の若者を他国のために派兵し殺すようなことはしない」と公約していた。もちろん、武器を英国に貸与する、海軍部隊を英国輸送船団の護衛につかせるなどの反ドイツ的行動をとっていた。また、1940年には50隻もの駆逐艦を米国に貸与しているし、護衛中の米国艦船が(ドイツ潜水艦Uボートから英国艦と誤認され)撃沈され、米国人乗員が死亡したこともあった。それでも、欧州大戦に参戦せず中立を守ってきた米国の世論は、孤立主義というにふさわしかった。それが、ドイツの対米宣戦布告で、一気に覆されてしまう。

1941年3月、米国は武器貸与法を成立させ,「米国の防衛に不可欠と米国大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を大統領に与えるもの」とされた。武器貸与法によって,英国,中国への大規模な信用供与,それに基づく武器輸出が認められた。そして,1941年7月末-8月初頭に,米国は日本資産を凍結し,日本の在米不動産・親友資産を海外に移転できなくさせ,対日石油輸出も禁止する。そして,9月末に,対日鉄屑輸出を禁止する。

南方施策ニ関スル件  昭和16年6月24日 閣議決定

一 帝国ハ現下諸般ノ情勢ニ鑑ミ既定方針ニ準拠シテ対仏印泰施策ヲ促進ス特ニ蘭印派遣代表ノ帰朝ニ関連シ速ニ仏印ニ対シ東亜安定防衛ヲ目的トスル日仏印軍事的結合関係ヲ設定ス

仏印トノ軍事的結合関係設定ニ依リ帝国ノ把握スヘキ要件左ノ如シ

(イ)仏印特定地域ニ於ケル航空基地及港湾施設ノ設定又ハ使用並南部仏印ニ於ケル所要軍隊ノ駐屯

(ロ)帝国軍隊ノ駐屯ニ関スル便宜供与

二 前号ノ為外交交渉ヲ開始ス

三 仏国政府又ハ仏印当局者ニシテ我カ要求ニ応セサル場合ニハ武力ヲ以テ我カ目的ヲ貫徹

昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文 日付順リスト(昭和16〜17年) 南方施策ニ関スル件引用終わり

仏印ニ於ケル現地機関ノ整備ニ関スル件 昭和16年7月22日 閣議決定

時局処理上皇国南方政策ノ重要基地ノ一タル仏印ニ於ケル重要国防資源ヲ急速且全幅的ニ活用スルコト絶対二必要ナルニ鑑ミ政務、経済等ニ関スル諸施策ヲ強力且一元的ニ管掌スル現地機関ヲ設置シ且中央ニ於テ一元的ニ之ヲ指揮監督ス

該機関ハ駐屯部隊ト緊密ナル連絡ノ下ニ其任務ヲ遂行スルモノトス

昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文 日付順リスト(昭和16〜17年) 仏印ニ於ケル現地機関ノ整備ニ関スル件引用終わり

1941年7月2日(水)1000-1200,第五回御前会議で帝国国策要綱、南方施策、対英米政策を決定。
情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱
方針として「帝国は世界の情勢変転の如何に拘らす大東亜共栄圏を建設し以て世界平和の確立に寄与せんとする方針」で,「支那事変処理に邁進」「自存自衛の基礎を確立」「南方進出の歩を進め」さらに対ソ「北方問題を解決」することを企図s,その障害は排除すると決定した。
要綱では,「重慶政権に対する交戦権を行使」「支那に於ける敵性租界を接収」を進めつつ,「自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行」するが,これは「対英米戦準備を整え」て,「仏印及泰に対する諸方策を完追」その上で「南方進出の体制を強化」するとした。この結果,対米英関係が悪化することを覚悟して,「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす」と決定。
独ソ戦は「介入することなく密かに対ソ武力的準備を整え自主的に対処す」として,「独ソ戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と唯我独尊の戦略を決めた。「米国の参戦は既定方針に伴ひ外交手段其の他有ゆる方法に依り極力之を防止すへきも万一米国か参戦したる場合には帝国は三国条約に基き行動す」と,対米戦争の可能性を認めた。

7月16日,第二次近衛文麿内閣の外相松岡洋介は,対米強行外交を主導しており,日米交渉の障害となるとして,近衛首相は総辞職した。その後の第三次近衛内閣の外務大臣には豊田貞次郎が就任。

国論昂揚ニ関スル件 昭和16年8月6日 閣議決定

帝国ハ現下英米特ニ米国ノ対日圧迫頗ル急ナルニ対応シ速ニ帝国ノ毅然タル態度ヲ内外ニ明示スルト共ニ国論ノ昂揚特ニ国民ノ志気ヲ最高度ニ発揚シ以テ来ルヘキ事態ニ備フルハ刻下緊急ノ要務タリ、之力為従来ノ言論取締ノ規定ニ拘ラス左記諸項ニ準拠シ情報局ヲシテ対英米国論昂揚ノ為敏活機敏ニ所要施策ヲ講セシム

一、英米ノ不当ナル対日圧迫ニ対シ日本国民ハ断乎之ヲ排撃抗争スルノ決意ト気魄トヲ内外ニ充溢セシムルコト

二、英米ハ支那事変ノ背後的勢力タルコト及其政治的経済的軍事的対日包囲ノ形勢刻々我ヲ脅威シツツアルノ事実ヲ具体的ニ中外ニ深刻ニ徹底セシムルコト

三、大東亜共栄圏確立ノ成否カ即チ帝国死活ノ岐ルル所ナルコトヲ極力強調スルコト

四、米英ノ新聞記事其他ノ対日言論ハ努メテ之ヲ発表スルト共ニ之ニ徹底的反駁ヲ常ニ附加スルコト

五、以上輿論指導ハ煽動、挑発的言辞ヲ避ケ勉メテ冷静、理智的ニ実施スルコト

六、露骨ナル対蘇刺戟ハ別ニ指示スル迄差控フルコト

昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文 日付順リスト(昭和16〜17年) 国論昂揚ニ関スル件引用終わり

1941年8月9-13日には,米英の政府と軍の高官による大西洋会談が,カナダ(英国連邦の一員として対独参戦している)のハリファックス近くのニューファウンドランド島沖で開催された。そして,1941年8月14日,ルーズベルト大統領と英国首相チャーチルは,大西洋憲章Atlantic Charter)を世界に公表した。この米英共同声明は,領土不拡大,国境維持,反ナチス・ドイツの立場で,次のように謳われている。

写真(右):1941年8月10日から12日、イギリス海軍戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」HMS Prince of Wales艦上で大西洋会談中のアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相;米英軍の高官も話し合っている。写真には,米国陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥も見える。
WWII Atlantic Charter, 10-12 August 1941 Description:L to R (standing): GEN George C. Marshall (leaning over talking to FDR), Ernest J. King, and ADM Harold R. Stark. Sitting: President Franklin D. Roosevelt and Prime Minister Winston Churchill. Photograph taken at the conclusion of church services about HMS Prince of Wales, off Newfoundland, 10 August 1941.
写真はNaval History and Heritage Command NH 67211 WWII Atlantic Charter, 10-12 August 1941引用。


1941年8月の米英首脳による大西洋憲章の内容
第一、両国は、領土その他の拡大を求めない。
第二に、両国は、国民の自由表明意思と一致しない領土変更を欲しない。
第四、両国は、現存義務を適法に尊重し、大国たると小国たるとを問わず、また、先勝国たると戦敗国たるとを問わず、全ての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等な開放がなされるよう努力する。
第六、ナチ暴政の最終的破壊の後、両国は、全て国民に対して、自国で安全に居住することを可能とし、かつ、全て国の人類が恐怖及び欠乏から解放され、その生を全うすることを確実にする平和が確立されることを希望する。

写真(右):1941年810月12日、イギリス海軍戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」HMS Prince of Walesの甲板上で開催された大西洋会談。後方には、アメリカ海軍戦艦「アーカンサス」USS Arkansas (BB-33)が控えている。 :戦艦艦上で大西洋会談中のアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が会談した。Atlantic Charter Conference, 10-12 August 1941 Description:Church service on the after deck of HMS Prince of Wales, in Placentia Bay, Newfoundland, during the conference. Seated in the center are President Franklin D. Roosevelt (left) and Prime Minister Winston Churchill. Standing behind them are Admiral Ernest J. King, USN (between Roosevelt and Churchill); General George C. Marshall, U.S. Army; General Sir John Dill, British Army; Admiral Harold R. Stark, USN; and Admiral Sir Dudley Pound, RN. USS Arkansas (BB-33) is in the center distance. Donation of Vice Admiral Harry Sanders, USN(Retired), 1969. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. . 写真はNaval History and Heritage Command NH 67195 Atlantic Charter Conference, 10-12 August 1941 引用。

写真(右):1941年8月10日から12日、イギリス海軍戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」HMS Prince of Wales。艦上ではアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が大西洋会談を行った。;戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は起工 1937年1月1日、進水 1939年5月3日、就役 1941年1月19日、その後1941年5月24日、通商破壊のために大西洋に進出しようとしたドイツ海軍の戦艦ビスマルクと重巡洋艦プリンツ・オイゲンを、デンマーク海峡において、巡洋戦艦フッドと迎撃し、砲撃で損傷。 1941年11月には、アジアに派遣されることとなり、11月28日、コロンボ到着、12月2日、シンガポール到着。1941年12月10日、東洋艦隊の旗艦としてトーマス・フィリップス中将の隷下に日本船団の攻撃に向かった。日本海軍航空機の九六式陸攻、一式陸攻による魚雷攻撃と水平爆撃を受けて、僚艦のレパルスと共にマレー沖にて1941年12月10日に戦没した。
WWII Atlantic Charter, 10-12 August 1941 Description:HMS Prince of Wales off Argentia, Newfoundland, after bringing Prime Minister Winston Churchill across the Atlantic to meet with President Franklin D. Roosevelt. Photographed from USS Augusta (CA-31). Donation of Vice Admiral Harry Sanders, USN(Retired), 1969. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 67194-A Atlantic Charter Conference, 10-12 August 1941 引用。


大西洋会談のために,最新鋭のイギリス海軍戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」HMS Prince of Walesに乗艦した英国首相チャーチルは,カナダにやってきた。これはドイツ戦艦「ビスマルク」Bismarckを撃沈した光栄ある艦による演出であり,ルーズベルトとの会談への熱意の表れである。大西洋会談では,米国の対独,対日戦争が,米英軍の高官も交えて話し合われている。まさに,共同謀議による戦争計画とも受け取れる。つまり,大西洋憲章は, 米英の軍の最高指揮官が集まり,事実上,米英同盟を宣言したものである。米国が,英国の側に立って,対ドイツ,対日本に宣戦布告をする前段階と推測された。まさに,米英の共同謀議による戦争計画とも解釈できる。

ルーズベルト秘録 大西洋会談の8月,ルーズベルト大統領は,「日本を赤子のようにあやしておく」"babying the Japanese along"といったと産経新聞社編『ルーズベルト秘録』にある。国務省極東部次長バレンタインは,11月に大統領が“babying”を使ったともいうが,大西洋憲章の討議の中で,FDRが日本を「子ども扱いして,あしらっておく」と誤訳されてきた。そして,「日本を赤ん坊扱い」をしたルーズベルト大統領は,当初から日本相手に陰謀をたくらんでいたと誤って解釈されてきた(真珠湾〈奇襲〉論争 [ 須藤真志 ]参照)。

実際は,FDRのニューディールNew Dealをファシズムや共産主義と同様だと批判していたJohn Thomas Flynn による次の証言がある。彼は,1920-30年代,The New Republic, Harper's Magazine, Collier's Weeklyで有名な評論家であり,FDRを支持していた。しかし,参戦反対の立場から,アメリカ第一委員会の設立者の一人となり,FDRの政策を批判するようになっていた。

Franklin D. Roosevelt John T. Flynn(1945/09,NY)The Final Secret of Pearl Harbor
In Japan the war makers were in a desperate hurry. In the United States, Roosevelt, for some reason, became impatient of delay. So much so that he actually considered sometime be]ore November 14 an invasion of China which would have put us at war with Japan. He proposed it to the Army and Navy staffs. They dissuaded him because we were not ready. So he waited a little longer -babying the Japanese along, but making it plain that they would get no agreement, save by abject surrender -terms he knew no Japanese government would dare accept. He did not nave long to wait. By November 14 the sands were running fast, as Grew had warned. Something had happened which put the play irrevocably in Roosevelt's hands.

At the Atlantic Charter meeting, Churchill had urged Roosevelt to send an ultimatum to Japan at once. He replied saying: "Let me baby her along for another three months."
Mr. Grew, our Ambassador to Tokyo, had advised Roosevelt in December, 1940, that the hope of peace had vanished in the East and that it was no longer a question of whether we would have war with Japan but when. The United States must decide whether it should be later or now. And he, Grew, was for now. To this, on January 21, 1941, Roosevelt replied that he completely agreed with Mr. Grew. And a few weeks later Admiral Stark notified Admiral Kimmel that "war with Japan is no longer a question of whether but of when."

大西洋憲章の討議の中で,FDRは日本を「あしらっておく」のではなく,「日本を赤ん坊のように大事に甘やかして」,対日交渉を三ヶ月ほど引き伸ばし,その間に,対日戦争準備を整えるという意味である。まさに,大西洋憲章の発表時期に,日米開戦が決意されたといえる。

写真(右):1941年8月大西洋会談に使われた英国海軍戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」HMS Prince of Wales ;この英国最新鋭戦艦は,1941年5月のドイツの最新鋭戦艦「ビスマルク」撃沈に活躍したばかり。大西洋会談にわざわざ貴重な戦力を割いたのは,英国首相チャーチルの熱意の表れである。大西洋会談では,米国の対独,対日戦争が,米英軍の高官も交えて話し合が行われている。

こうして,米国大統領ルーズベルトが,日本に対する経済制裁を強化しつつ,英国側にたって,第二次大戦に参戦する希望を抱いていることは,誰の目にも明らかになった。特に,日本は,艦隊を動かすにも,海外から資源を輸入する船舶を動かすためにも,石油は不可欠である。石油は米国からの輸入に70%以上を頼っており,米国からの石油輸入がなければ,国力・軍事力の維持はできない。

写真(右)1940年、アメリカ国務長官コーデル・ハル;1933年から1944年までアメリカ合衆国国務長官を11年9ヶ月務めた。1944年11月に健康問題で国務長官を辞任した。1945年、国連創設など国際平和への貢献でノーベル平和賞の受賞した「国際連合の父」。
[Cordell Hull]Contributor Names Harris & Ewing, photographer Created / Published [ca. 1940] Subject Headings - United States--District of Columbia--Washington (D.C.) Format Headings Glass negatives.
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG Physical Location LC-H22-D- 8495 [P&P]引用。


米国は,日本に対して強硬な経済制裁を行い,「ハル・ノート」によって,(満州を除く)中国からの日本軍の(期限の定めのない)撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を要求した。「ハル・ノート」が手交された時点で,日本は米国との和平交渉を諦め,開戦を決意した。近衛内閣の時期,1941年9月6日の御前会議では、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を起こすことを決定した。しかし,米国の日本への要求は,「満州の日本軍は撤退しなくともよい」「中国からの日本の撤兵は5年後からでもよい」として,日米交渉を継続することが可能であった。日独伊三国軍事同盟の解消といっても,即座に実行する必要はなかった。

写真(右):1948年1月6日、東京裁判に出廷した元首相・陸相・参謀総長・東條英機;1941年10月から陸軍大将として,内閣を組織したため,日米開戦の責任者と目された。ドイツのヒトラー,イタリアのムッソリーニと並んで,日本の指導者とされることもある。しかし,当時の首相には,内閣の任免権も,軍の最高指揮権も,宣戦布告の権利もない。
大日本帝国憲法の第四章「国務大臣及枢密顧問」は次の通り。
第五十五条 1.国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2. 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第五十六条  枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
海軍のハワイ攻撃についても,既に計画は進んでおり,東條首相が関与する余地はほとんどなかった。しかし,1941年12月1日の御前会議で,天皇の下,日米開戦の最終決定にかかわった。
Title:Far Eastern War Crimes Trials, 1946-1948 Description:Former Japanese Prime Minister General Hideki Tojo testifies during his trail before the International Military Tribunal, in the former War Ministry building, Tokyo, 6 January 1948. Catalog #:USA C-4843 . 写真はNaval History and Heritage Command USA C-4843 Far Eastern War Crimes Trials, 1946-1948引用。


しかし,開戦を決意するとした1941年10月上旬を迎えると,近衛内閣は総辞職してしまう。開戦の決定から逃げ,責任を回避したのである。そこで,国体護持,日米和平を重視する昭和天皇の意向を踏まえ,木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議の日米開戦の決定を白紙に戻す(「白紙還元の御状」)こととし,東條英機陸軍大将を内閣総理大臣に推挙した。東條大将は,近衛内閣の陸軍大臣としては,開戦賛成派であったが,天皇への忠誠心が厚く,天皇の信頼も得ていた人物である。

1941年10月に成立した東條内閣は,日米交渉を続けたが,米国は1941年11月26日には,満州事変以前の状態への復帰を要求した「極東と太平洋の平和に関する文書」を手渡してきた。この11月26日のハル・ノートが日本に手交されるにおよんで,もはや米国が日本との和平を本気で求めてはいないことが明らかになった。
しかし,日本はハルノートが提出される直前に,すでに日米開戦を決意し,軍を進めていたのである。

2.1941年11月26月(日本時間11/25),中国からの日本軍撤退を日米交渉の条件とするハルノートが,野村・来栖両大使に手渡された。これを,米国の最後通牒として,日米開戦が決定されたというのは誤解である。1941年9月6日第六回御前会議決定の帝国国策遂行要領で対米戦を決意,11月5日の第七回御前会議では,帝国国策遂行要領を確認し「現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設するため」対米英開戦を決意することを確認ていた。日本側は、対米英世論の誘導にも力を入れていた。

1941年9月6日,第六回御前会議決定の帝国国策遂行要領
ここでは,米英蘭による対日攻勢,ソ連の情勢,日本の国力を考慮して,「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と戦争準備を開始し,同時に「帝国は右に平行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む」と外交継続も平行させた。しかし,「目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す,対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む」と世界大戦を決意した。

源田 1941年11月5日(水)1030-1515,第七回御前会議が開催。昭和天皇の臨席の下,近衛首相らは対米交渉案として甲案と乙案が決定した。まず甲案を提示して交渉を進め、これが受け容れられない場合にはより譲歩した乙案を提示するとの外交方針である。

1941年11月5日1030-1515の第七回御前会議決定の帝国国策遂行要領
「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設する為比の際対米英蘭戦争を決意し」と,世界戦争開始を再確認した。そして,「武力発動の時期を十二月初旬と定め,陸海軍は作戦準備を完整す」とした。対米交渉は継続するが,「独伊との提携強化」「武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係」の樹立を図り,「対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止」とした。つまり,12月1日までに日米交渉が妥結しない以上,世界戦争が始まることになったのである。

1941年11月8日の「海軍作戦計画ノ大要」は,海軍軍令部総長永野修身大将と陸軍の参謀総長杉山元大将が、侍従武官長宛てに発信した。これには海軍軍令部次長伊藤整一と陸軍参謀本部次長塚田功から総務部長、主任部長、主任課長など作戦の中枢部の軍人が名を連ねている。

海軍の軍令部とは,陸軍の参謀本部に相当し,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部は天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。 陸海軍の総長は,天皇によって中将か大将から任命(親補)される勅任官であり,次長とは総長を補佐する者で,総長と同じく御前会議の構成員でもある。

写真(右):ハワイ攻撃に向かう空母「赤城」の零戦;1941年4月9日-1944年2月21日軍令部総長だった永野修身海軍大将(1943年6月21日から元帥)の指揮の下,ハワイ奇襲が決定した。永野元帥は,1947年極東軍事裁判公判中に病死。

1941年11月8日海軍作戦計画の上奏文では、フィリピン、マレーに対する先制空襲と同じくして、ハワイ停泊中の敵主力艦隊を、航空母艦6隻を基幹とする機動部隊によって空襲すると述べている。攻撃地点についても、オアフ島北方200マイル(1マイル{カイリ}=1.852km=経度1分)から全搭載機400機を発信して航空互換、戦艦、航空機を目標として奇襲攻撃を加えるとしている。香港,シンガポール攻略についても,作戦が述べられている。この上奏文は,陸海軍高官が認めた最終攻撃計画であり,開戦予定日(12月8日)のちょうど1ヶ月前に真珠湾攻撃計画も含め,統帥権を保有する大元帥昭和天皇に,臣下として報告がなされたのである。

真珠湾攻撃計画は,連合艦隊司令長官山本五十六大将が主導したが、短期決戦によって米主力艦隊を撃滅し、米国の戦意をますます低下させて、戦勝につなげようと意図していた。しかし、大艦隊を持って、米軍根拠地であるハワイを奇襲することは、海軍内部でも無謀な作戦として反対論が強かった。

しかし、海軍の統帥を任じる軍令部総長永野修身大将は、山本長官のハワイ攻撃作戦を許可した。そして,最終的には陸軍も同意し,天皇が裁可している。ドイツ軍,米軍と違って,日本軍は少数の軍事専門家による創意工夫よりも総意を重視したようだ。

1941年11月26日日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」を手交した。日本は,宣戦布告の最後通牒(のつもりの文書)を米国に手交する1ヶ月前,攻撃計画が決定していた。つまり,ハル・ノートが手交されるか否かにかかわらず,日米開戦が危惧されていた。

1941年11月26日に、極東と太平洋の平和に関する文書、いわゆるハル・ノートを日本に手渡した。 この最も重要と思われる部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」とある。日本が中国占領地やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則としたのである。

野村吉三郎駐米大使 と来栖三郎特命全権大使は、ハル米国務長官と会談し,ハル国務長官より乙案拒否を意味する「ハル・ノート」を受け取った。これによって乙案を最終案としていた第七回御前会議決定の日米交渉継続の前提条件が崩れた。

3.ハルノート手交前の1941年11月19日,日本外務省は,戦争危機を認識し,短波ラジオ放送による暗号機破壊指令暗号放送「ウィンド・メッセージ」を各国大使館に打電したが,これは米英に解読され,マジック情報として,日本の開戦意思が伝わっていた。実際,11月22日から,択捉島単冠(ヒトカップ)湾に南雲忠一中将率いる第一航空艦隊,すなわち空母機動部隊が集結していた。空母機動部隊の出撃は,11月26日で、これはハルノート手交の前日だった。日本の攻撃行動開始は,ハルノートの手交前から,始まっていた。

1941年11月19日,外務省は,各国大使に非常事態の特別メッセージを送信し,国際通信断絶に備えた。つまり,戦争あるいは切迫する戦争危機によって,国際通信が途絶させられた場合,短波ラジオ放送によって,暗号を送信,状況を知らせるという指令である。

これには,次の三種類の暗号“ウィンド・メッセージ”が定められた。
?日米関係が危機に陥った場合,「東の風雨」
?日ソ関係が危機に陥った場合,「北の風曇」
?日英関係が危機に陥った場合,「西の風晴」
この天気予報が二回繰り返された場合,直ちに暗号書・暗号機を処分し,官憲による暗号押収に備えるように命じられた。
付け加えとして,日本の外交が危険になりつつある場合,海外向けニュースの最初と最後に,次の暗号を5回繰り返すと電報を打った。
日米関係,「東」
日ソ関係,「北」
日英(タイ,マラヤ,蘭印を含む)関係,「西」
外務省の国際関係の認識・戦争開始を示す暗号“ウィンド・メッセージ”は,米軍がタイプB“パープル(the Purple)”と呼んだ外交暗号で送信されたが,実は,この暗号は米英軍の協力によって,傍受・解読され,1941年11月28日,“マジック(Magic)”として最高機密扱いの情報としてアメリカ側に解読されていた。香港,シンガポール(以上英領),ブレッチリーパーク(ロンドン郊外の政府暗号学校)の協力を得て,日本の外交暗号,海軍暗号(JN25)は,かなりの部分が解読されていたのである。

米陸軍省通信情報局(SIS)の数学者フリードマン(William F. Friedman)ら暗号解読チームは、1940年9月,日本の外務省が使用していた暗号機B型(米軍のコードネーム "パープル(紫)" )の複製を作成、外交暗号電報を傍受・解読し始めた。解読された日本語は、英訳され,陸軍参謀本部・陸軍情報部(Military Intelligence Division)G-2陸軍情報局(Military Intelligence Service)極東班長が精査、重要と判断されたものは,陸軍長官、陸軍参謀総長、情報部長、海軍作戦部長に回覧された。これが,"マジック"の秘匿名称で呼ばれた暗号情報である。

1941年11月26月(日本時間11/25)のハルノート手交のとき,日本海軍は,ハワイ真珠湾攻撃に向けて,空母機動部隊を出撃させていた。
1941年11月22日,択捉(エトロフ)島単冠(ヒトカップ)湾に,南雲忠一中将率いる第一航空艦隊,すなわち海軍機動部隊が終結していた。機動部隊は,航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻を基幹とし,艦載機の搭載機数は,350機(零式艦戦78機、九九式艦爆129機、九七式艦攻143機)に達していた。

ヒトカップ湾から,日本海軍機動部隊が出撃したのは,1941年11月26日(ハルノート手交前日)で、これは攻撃行動開始を意味する。日本は,ハルノート手交の前日に,ハワイへの大規模奇襲攻撃に向けて,空母部隊を出撃させていたのである。

真珠湾奇襲論争 陰謀説・通告遅延・開戦外交 ハルノートには,日米戦争を誘発させる目的があったと考えられ,ルーズベルト大統領は,はじめの一発を日本に撃たせたいと考えていた。11月26日にハルノートを手渡した国務長官コーデル・ハルは,翌27日早朝,スチムソン陸軍長官に電話で「日米交渉は私の手を離れた。もうそれは,あなた(スチムソン陸軍長官)とノックス(海軍長官)の手中にある。」と述べた。これはスチムソン陸軍長官の日記の記述だが,の戦争陰謀だと批判することは可能である。しかし,ハルノートは,日米戦争を引き起こしたひとつの誘引ではあっても,不可欠な要因ではない。つまり,ハルノートがなかったら,日米戦争が起こらなかった,とすることはできない。

1941年12月1日1405-1600の第八回御前会議
天皇、首相東條英機など日本の最高首脳陣が揃って出席、宮中で開催。(国会ではなく)そこで対米英戦争の開始が最終決定された。11月27日の「ハルノート」によって,日本は対米交渉を打ち切り,御前会議において、アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が正式に決定されたのである。
大元帥昭和天皇は,真珠湾攻撃計画を以前から知らされており、対米英戦を(不本意かもしれないが)主要閣僚の総意と国体護持を尊重して、裁可している。この御前会議では、宣戦布告の意図が、1941年12月7日12時44分(ホノルル時間)以前には知られないように、宣戦布告は東京時間の12月8日午前7時40分(真珠湾のあるホノルル時間の12月7日午後12時40分)とすることも決められた。

真珠湾、遙かなり―零戦隊血風録 1941年12月1日の御前会議は議論する場ではなく、総意のとれた最終決定を確認する場である。したがって、開戦の決意は、12月1日の御前会議の前に,既になされていたはずである。また,開戦するには,勝利の採算のある攻撃計画が策定されているはずだが,この計画は,遅くとも11月初頭には決定していた。つまり,真珠湾攻撃を含む「海軍作戦計画ノ大要」が大元帥昭和天皇に上奏されたのは、1941年11月8日である。

日本の最後通牒,すなわち14部のメッセージ"Fourteen Part Message" の最初の部分、暗号でワシントンの日本大使館に送信されたのは,1941年12月6日(日本時間)であるが,最終部分は12月7日で,開戦予定日前日である。つまり,最後のぎりぎりまで,和平交渉の打ち切りは告げず,真珠湾攻撃当日数時間前に,宣戦布告をするつもりだった。これは、真珠湾攻撃のための艦隊行動やマレー半島上陸を目指す輸送船団の動向を,直前まで米英に察知されないためである。そこで,結果として、直前まで和平交渉をしていると欺瞞し,既に決している攻撃意図を悟らせないようにした,と見なされる。


写真(左):真珠湾攻撃で撃墜された日本海軍機の主翼(下面)
;米議会は宣戦布告していなかったが,米軍守備隊は即座に反撃を開始した。米軍は,宣戦布告前に,日本海軍機29機を撃墜,特殊潜航艇1〜5隻を撃沈していた。


ハル・ノートは,日本では、米国の最後通牒であると認識された。しかし,ハル・ノートには日本が回答すべき期限は定められていない。最後通牒とは断定できない。また,日本は,9月と11月の帝国国策遂行要領で,対米英戦争を決意していた。これは,ハル・ノート提出前である。

しかし,米国は,日本が受諾する見込みのないような最後通牒としてハル・ノートを突きつけ,開戦の契機が欲しかった。日本の対米宣戦布告は望むところであった。

米軍情報部の「マジック」は,東京とワシントンの日本大使館あるいは世界各国の大使館や軍への無線通信を傍受・解読し,米英首脳・軍事指揮官は,日本の攻撃(日米開戦)が差し迫っていることを理解していた。国務長官コーデル・ハルCordell Hull(外務大臣に相当)も,マジック情報によって,日本の大使二人よりも先に,日本が日米交渉を打ち切ったことを理解していた。日本大使館が本国からの暗号無線を解読するよりも先に,米軍が解読できたからである。

4.日本の真珠湾攻撃は,「宣戦布告無しの先制攻撃」である。日本外務省の手違いで,対米宣戦布告が遅れたという言い訳を,日本の外務省は過去から現在まで一度も認めたことはない。したがって,日本政府が「宣戦布告無しの先制攻撃」を認めていない以上,日本の識者が宣戦布告するつもりだったといっても,米国政府はもちろん、日本政府すら黙殺し,相手にしていない。

写真(右):ハル・ノートへの回答文書を手交した来栖特命全権大使(右),野村駐米大使(中)とハル国務長官(外務大臣相当);文書を手渡したとき,真珠湾空襲から55分が経過していたが,日本人二人はこの攻撃を知らされていない。他方,ハル長官は,暗号解読によって,日本人二人よりも先に,日本が日米交渉を打ち切ったことを理解していた。しかし,この文書が,宣戦布告をした最後通牒であるという日本の主張を,米国は認めない。コーデル・ハルは,1945年に国際連合の設立の功績を評価され,「国連の父」としてノーベル平和賞を受賞している。

1941年12月7日午後1時(ワシントン時間)、日本側から国務省に面会の申し入れがあった。面会は午後1時45分とされ、日本側は20分遅刻して午後2時5分に到着。日本の二人の大使たち(野村吉三郎大使・来栖三郎特命全権大使)は、11月26日の「ハル・ノート」への回答と思われる文書を手渡した(もちろん、日本側は、宣戦布告の文書を持ってきた---とは言わない)。

写真(右)1940年、アメリカ国務長官コーデル・ハルと国務次官サムナー・ウェルズ(Sumner Welles);米国務長官コ−デル・ハルCordell Hull;1941年11月26日日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」を手交した。 日米 関 係 は ハ ル 国務長 官が い わ ゆ る ハ ル ・ノ ー トを両 大使 に 手 渡 した ll月 26日以 降 最悪 の 事態 へ と 向 か う。 この日、東 京ヘ ハ ル ・ノ ー トが打電された後、大統領と天皇との直接会談を開催して、 戦争回避を図る案が日本から提案された。来栖大使は、 特使としてワシントンに着任後、寺崎英成か ら、 スタンレー・ジョーンズ牧師が大統領に対し、電信を天皇へ送ることを働きかけていることを聞いた 。そこで、親電を天皇に送 ってもらった後、天皇が返信するという日本にとって都合のいい計画を考えたようだ。国務次官サムナー・ウェルズは、フランクリン・ルーズベルト大統領の顧問として国務長官のハルとは対抗的な存在だった。
[Cordell Hull and Sumner Welles]Contributor Names Harris & Ewing, photographer Created / Published [ca. 1940] Subject Headings - United States--District of Columbia--Washington (D.C.) Format Headings Glass negatives. .
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG Physical Location LC-H22-D- 8495 [P&P]引用。


国務長官のハルは、その場で文書を読んで(事前の暗号解読で宣戦布告を意味するとは分かってはいたが)、驚き、不快感をあらわにして「50年間の公務の中で、これほど恥知らずな文書を受け取ったことない」と次のように言わしめた。日本の大使たちは、真珠湾攻撃も、マレー半島への日本軍上陸も(のんきにも?)知らないでいる。

日本の来栖・野村の二大使が国務長官ハルに英訳に手間取った最後通牒(と日本が認識している文書)を手渡したのは、12月7日午後2時20分(ワシントンの東部時間)で、真珠湾攻撃の終わった50分から55後である。演説では遅れた時間を10分長くして,1時間遅れとした。日本の文書手交の遅れをより重大な謀略(失策ではない)としたかったからである。真珠湾攻撃と宣戦布告に関しては,反日プロパガンダが盛んに行われ,これはルーズベルト大統領の謀略あるいは巧妙な政略といえる。しかし,真珠湾攻撃を知っていたならば,「先制テロ攻撃」を許す元首はいない。

米国が日本の暗号を解読していることは極秘であるから、文書を読んではじめて宣戦布告に等しいと知ったわけである。しかし、文書の手交されたとき、すでに真珠湾「空襲」(攻撃でなく)から1時間近く経過していた。

しかし、この文書を暗号で受けて、解読,文書化し,手交するまでの日本の米国大使館員の行動は、真珠湾攻撃はおろか、日米開戦すら知らされていなかった。しかし,このような同情すべき事情を割り引いても、緊張感・焦燥感が感じられないと、現在の日本では徹底的に批判されている(当時は問われていない)。

真珠湾攻撃を知ったときは、唖然としたであろうことは想像できるが、実は文書の手交が手遅れになったことを、当日のうちに認識したかどうかも不明である。文書手交の時間と真珠湾攻撃の時間を、日曜日のラジオ(大統領演説は翌日)で識別し,その順番を認識できたのかどうか。もしかすると,最後通牒の手交が,真珠湾攻撃より遅れたのを後々までも知らないでいた可能性も残る。

写真(右)1942年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt);米国務長官コ−デル・ハルCordell Hullは、1941年11月26日、日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」いわゆるハ ル・ノートを来栖・野村の両大使に手渡 した。この時、ルーズベルトは戦争の勃発を覚悟していたし、日本が戦争を仕掛けてくるのを望んでいた。それまで、ドイツと戦うイギリスを助けるために、戦争に参加したかったルーズベルト大統領だったが、アメリカ国民の世論も連保議会の支持も得られなかった。しかし、明確に大規模なアメリカ攻撃が仕掛けられれば、敵に対する宣戦布告を議会に求めて、承認されるに違いない。
Title [Pres. Franklin D. Roosevelt, speaking: war address]Created / Published [Jan. 7, 1942] Notes - This record contains unverified, old data from caption card. - Caption card tracings: Shelf; PI. Medium 1 photograph : print. Call Number/Physical Location LOT 9428 [item] [P&P].
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG Physical Location LC-H22-D- 8495 [P&P]引用。


対照的に、上手に立ち回った米国の外交担当者に対しては、暗号解読の進展もからんで、「真珠湾奇襲を予知していて、わざと攻撃させた」という空想が「真珠湾攻撃の真相」ルーズベルト陰謀説として現在でも持てはやされている。しかし、日本のパープル暗号を部分的に解読し、宣戦布告も知っていたとしても、真珠湾が12月7日に攻撃されるという確証は得ていない。

前日の(戦後天皇の開戦責任に関する独白録に関わる)大使館員壮行会で飲みすぎたため、日曜日で寝坊していたため、暗号解読,和文英訳,タイプ打ちに不慣れなためなど、宣戦布告遅れの理由が,民間人から,いろいろ指摘されている。

駐米日本大使館では,基本的には、暗号解読と文書作成を、即座にこなす人物ではいなかった。外務省のエリートとして,誇り高く、立派な人物は、暗号解読やタイプ打ちなど雑務を軽視していたはずだ。大使館員は、単なる外交文書の取次ぎ役やメッセンジャーではない。高度な外交交渉を担当する専門家である。このような自負や誇りを重視したために、タイプを打ち、文書を手交するという単純な事務的処理の雑用が、外務省の中では軽視されていた。組織の中で業務が滞りなく進めばよいので,一人が雑務と政治・経営の判断の双方を担う必要はない。しかし,組織に大きな偏りがあると,業務が円滑に進行しなくなる。

第一航空艦隊旗艦の空母「赤城」;1941年4月、第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将は、空母「赤城」「加賀」と駆逐艦2隻を指揮することになり、ハワイ真珠湾奇襲攻撃の準備を進めることになった。1941年9月12日,海軍戦時編制として新鋭航空母艦「翔鶴」「瑞鶴」が第十一駆逐隊(吹雪、白雪、初雪)と組んで第一航空戦隊となり、航空母艦「赤城」「加賀」が第五十一駆逐隊(白雲、薄雲)と組んで第五航空戦隊なることが予定された。しかし、第一航空艦隊司令部は就役したばかりの新鋭空母「翔鶴」「瑞鶴」に不安を感じており、従来通り、空母「赤城」「加賀」は第一航空戦隊のままとされた。真珠湾に攻撃に向かう日本海軍の愛知九九式艦上爆撃機は,250kg通常爆弾を抱いて,真珠湾空襲した。戦艦「ウェスト・ヴァージニア」West Virginia (BB-48)は撃沈されたが,引揚げ,修理され,1年半後には,戦列に復帰。戦艦「テネシー」Tennessee (BB-43)は小破だった。

真珠湾「空襲」の1時間以上前、午前5時30分に日本海軍の重巡洋艦「利根」から零式水上偵察機が飛び立った。目的は、真珠湾上空を偵察して、在泊中の艦船の状況を報告することである。そして、この偵察機は、戦艦9隻の停泊、航空母艦不在を確認・報告して、目的を達した。偵察であるから,戦闘行為でないという詭弁は通用しない。上空侵犯して敵の港湾を偵察する行為自体,立派な戦闘行為であり,軍事的には,偵察したときに「真珠湾攻撃」が開始されたといってもよい。

日米交渉に関わる外務省の失策後、大使も外務省職員も処罰されていない。宣戦布告の遅れや宣戦布告とはみなせない文書の作成などは,いずれも外務省の責任ではないということ。それどころか順調にエリート・コースを邁進した。

1941年12月8日,ルーズベルト大統領は,a date which will live in infamy「屈辱の中に生きることになる日」として演説し,真珠湾12.7攻撃を騙まし討ちとして非難した。ここで真珠湾攻撃が「騙まし討ち」とされた理由は,日本が,日米和平交渉を継続すると見せかけながら,戦争の準備をし,宣戦布告無しに,米国を先制テロ攻撃したからである

5.日本も米国も、真珠湾「空襲」以前に攻撃・戦闘を始めていた。宣戦布告文書と開戦日時の問題は、外交だけの問題ではない

写真(右):1941年12月10日,日本の海軍機から撮影された攻撃当日の真珠湾、フォード島基地に並んだアメリカ海軍戦艦「メリーランド」「オクラホマ」「テネシー」「ウェストヴァージニア」の戦列
Pearl Harbor Attack, 7 December 1941. Aerial view of "Battleship Row" moorings on the southern side of Ford Island, 10 December 1941, showing damage from the Japanese raid three days earlier. Diagonally, from left center to lower right are: USS Maryland (BB-46), lightly damaged, with the capsized USS Oklahoma (BB-37) outboard. USS Tennessee (BB-43), lightly damaged, with the sunken USS West Virginia (BB-48) outboard. USS Arizona (BB-39), sunk, with her hull shattered by the explosion of the magazines below the two forward turrets. Note dark oil streaks on the harbor surface, originating from the sunken battleships. Photographed by VJ-1 at an altitude of 3,000 feet and released November 9, 1950. U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives. (9/22/2015).
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-387583: Aerial view of "Battleship Row" moorings on the southern side of Ford Island 引用。


空襲作戦の第一段階が順調にいった。真珠湾空襲部隊の第1次攻撃隊第1波183機の発進は、午前5時55分、第2波167機の発進は、午前7時5分。真珠湾口では午前6時30分に、雑役補給艦アンタレスが国籍不明の潜水艦を発見し、米海軍駆逐艦ウォード(1200トン)に連絡し、午前6時3分には哨戒機が発煙弾を投下して、潜水艦の所在を教えている。

真珠湾を攻撃し湾口で撃沈された甲標的;日本海軍の特別攻撃隊の1隻が,水深400mの深海で61年ぶりに,2002年8月28日12.20 p.m. ハワイ海底探査研究所Hawai‘i Undersea Research Laboratory (HURL)のJohn C. Wiltshire, Ph.D.たちが潜水艇を使用して,発見し撮影に成功した。

写真(右):1941年7月22日、真珠湾口で潜水艦に発砲した駆逐艦「ウォード」USS Ward;1941年5月撮影。2隻は同型艦で奥のDD-139がウォード。煙突が林立するのは,旧式駆逐艦の証であるが,低速でも潜水艦攻撃には有効なので,哨戒や輸送船団の護衛任務に多用された。1940年に英国に譲渡されたのもこのような旧式駆逐艦である。真珠湾で最初に敵に向けて発砲したウォードは,その後,フィリピンで特攻機の体当たり攻撃を受けている。
USS Chew (DD-106) USS Ward (DD-139) Description:Photo #: NH 80393 USS Chew (DD-106) and USS Ward (DD-139) At Hilo Sugar Docks, Territory of Hawaii, 22 July 1941. Courtesy of Mr. Jesse Pond (VP-1) via Mr. Robert Varrill. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. . 写真はNaval History and Heritage Command NH 80393 USS Chew (DD-106) USS Ward (DD-139) 引用。


それでは,真珠湾攻撃での発砲の時期はどうかというと、1941年12月7日午前6時45分に、米国駆逐艦「ウォード」が,真珠湾入り口で発見された国籍不明の潜航艇(実は日本の特殊潜航艇)を4インチ砲で砲撃し、航空機が爆雷攻撃している。つまり、真珠湾攻撃においては,日本軍ではなく,米軍が「先制砲撃」(先制攻撃ではなく)している。

写真(右):1941年12月7日、アメリカ軍にによって、真珠湾近郊で鹵獲された日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」;1947年7月、フロリダ州キーウェストで展示中の撮影。艦首に魚雷2本搭載。戦時中は、アメリカはこの鹵獲した潜航艇をトレーラーに乗せて全国を巡回展示して見世物として、戦時公債,戦時切手販売のための客寄せに使用した。
Title:Japanese Midget Submarine captured December 8, 1941 Caption:Japanese Midget (two-man) Submarine captured December 8, 1941 off Bellows Field, Hawaii; sent to Submarine Base, Key West, Florida in January 1947 from Navy Pier, Chicago, Illinois. See back of mountcard for more information about origins and Report to Curator. Description:Japanese Ships: Submarines. 写真はNaval History and Heritage Command NH 80393 USS Chew (DD-106) USS Ward (DD-139) 引用。


写真(右):1941年12月7日、アメリカ軍にによって、真珠湾近郊で鹵獲された日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」HA-19 の艦首;艦首に45センチ魚雷2本を搭載。戦時中は、アメリカはこの鹵獲した潜航艇をトレーラーに乗せて全国を巡回展示して見世物として、戦時公債,戦時切手販売のための客寄せに使用した。
Description:(Japanese Type A midget submarine) Annotated photograph of the submarine's bow, showing her two torpedo tubes (with noses of 45cm Type 97 torpedoes visible) and damaged anti-submarine net cutter, taken after salvage by U.S. forces, December 1941. HA-19 had grounded on 7 December 1941, following unsuccessful attempts to enter Pearl Harbor during the Japanese attack. Copied in 1980 from Commander Submarine Squadron Four report, Serial 0570, of 26 December 1941. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. . 写真はNaval History and Heritage CommandNH 91334 Japanese "Type A" midget submarine HA-19 引用。


日本海軍の特殊潜航艇は「甲標的」という秘匿名称で呼ばれ,艦首に45センチ魚雷を2本装備した二人乗り潜航艇である。当初,艦隊決戦のために洋上で使用することを想定していたが,真珠湾攻撃にあたって,米海軍泊地に潜入し,雷撃して艦船を撃沈しようとした。航続距離は短く,電池を使い切った後は,充電もできないので,作戦地点までは伊号潜水艦の前部甲板に載せて輸送された。

特殊潜航艇による攻撃の後は,乗員回収の予定だったというが,実際に搭乗員が生きて帰ってくるのが困難なことは自明であった。だからこそ,甲標的による攻撃は,真珠湾空襲部隊とは別個に「特別攻撃隊」と呼称していた。1944年10月から,フィリピン戦で航空機による大規模な特攻作戦が展開されるが,その萌芽は,すでに開戦劈頭に現れているといえる。

⇒真珠湾攻撃の部隊編成や経緯についは真珠湾攻撃の一日を参照。

これは、戦争が差し迫っていることを認識していたキンメル海軍大将から、疑わしき場合も、敵対的行動に対して、即座に反撃、発砲せよと事前通告が出ていたためである。暗号解読によるマジックの報告を受けたルーズベルト大統領は,キンメル大将に,日本の攻撃が差し迫っているという警告を1941年11月25日には与えていた。日米開戦を予期した米軍は,真珠湾攻撃の12日前に日本軍による奇襲を警戒し,国籍不明の敵対的行動にも躊躇せず攻撃せよとの事前通告を出していたのである。

1941年11月25日,ホワイトハウスでは,陸軍情報部ブラットン大佐は,ルーズベルト大統領ん,戦争を予測できる十分な情報を入手したことを伝えた。彼は,日本の無線を傍受して,日本海軍の暗号解読する「マジック」のメンバーで,フリードマン大佐は日本の最高機密を扱うパープル暗号を解読していたのである。11月25日のホワイトハウスでの首脳会議で,ルーズベルト大統領,スチムソン陸軍長官,ノックス海軍長官は,来週(12月1日)には日本の米国攻撃が差し迫っていることを理解しており,これは宣戦布告なく行われると考えていた。問題は,米国が甚大な損害を被ることがなく,巧みに画策して日本に対米宣戦布告させるか先制攻撃させるかである。最初の1発を撃たせるのはともかくとして,その被害を小さくするのは難しかった。

写真(右)ハワイ方面の海軍最高司令官キンメル提督Admiral Husband Kimmel(右)と陸軍最高司令官ショート中将Lt. General Walter Short(左);二人の司令官は,真珠湾の大損害の責任を取らされ,罷免されてしまう。写真中央は,英国軍のマウントバッテン卿Lord Louis Mountbatten。後のビルマ・インド方面の最高司令官;太平洋の米国海軍の指揮官の頂点に立つのがキンメル大将である。彼もハワイ軍管区の陸軍司令官のショート中将も真珠湾攻撃に警戒を怠ったとして,罷免されてしまう。予期せぬ大損害に,大統領や海軍長官,陸軍長官が部下に責任を押し付ける形になった。つまり,日本の攻撃は予期できたが,真珠湾が攻撃目標となるとはわからなかったし,大損害も予想していなかった。

日米開戦時,日本軍の先制攻撃によって,甚大な被害,特に多数の人命が失われることになれば,大統領や軍高官は,米国指導者として,情報収集能力,危機管理能力が欠如しているとみなされ,世論や議会から大きな非難をうける。先制攻撃は,米国参戦理由になるので好ましいが,先制攻撃の被害は,米国の政治的,軍事的指導者にとっては,個人的な責任を伴う危険があった。

中島 B5N2 九七式三号艦上攻撃機:全長10.3m,全幅15.52m,全備重量3.8t,エンジン「栄」11型 公称出力970馬力,最高速度378km/h,上昇時間3000mまで7分,航続距離1993km, 武装7.7mm機銃×1,800kg爆弾1発あるいは800kg航空魚雷1本

ルーズベルト大統領が,真珠湾攻撃を知っていながら,放置したという説は,被害縮小のための対策を指示していないことから,容易に反証できる。真珠湾の大被害,人命損失の責任を回避したかった大統領,米陸海軍の最高司令官たちは,ハワイにおける最高司令官,すなわち太平洋艦隊司令長官キンメル大将,陸軍部隊司令長官ショート中将を罷免する。これは,責任を転嫁したもので,キンメルとショートへの名誉毀損に当たる。

海軍キンメル大将,陸軍ショート中将は,後に名誉毀損で訴え,戦後(死後),名誉は回復された。しかし,このような失敗に対する責任追求は,米軍に限らず,英国軍も厳しいし,ソ連軍,ドイツ軍では容赦がない。それに比較して,日本軍は厳正な軍紀を誇っていたが,軍高官に対する責任追及,処罰は甘かった。階級序列,陸軍大学・海軍大学の卒業成績の序列が,昇進や重要ポストの任命の基準だった。

愛知 D3A1 九九式艦上爆撃機 11型(1号) 全長: 10.2m,全幅14.4m,エンジン「金星」公称出力1000馬力,総重量 3.7t,最大速度 375km/h,上昇時間3000mまで6分27秒,航続距離1473km,武装 7.7mm旋回機関銃×1, 7.7mm固定機関銃×2,250 kg爆弾×1または60 kg爆弾×4

1941年11月25日の米国ワシントンのホワイトハウスでの首脳会議では,日本軍の先制攻撃の目標が議論され,真珠湾からすべての航空母艦と半数の航空機を移動することが賢明であると判断した。そして,大統領は,軍へ戦争警報を発するように命じた。
「これは戦争警報である。日本軍による攻撃が数日以内に予測される。-----日本軍は,フィリピン,タイ,マレー半島のクラ地峡か,ボルネオ島へ上陸を敢行するであろう。」

当時ハワイにいた太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将,ハワイ方面陸軍司令長官ウォルター・ショート中将の陸海二人の司令官も,この戦争警報を11月25日に受け取っており,は,全航空母艦2隻を護衛部隊とともにハワイから(日本軍輸送船団に迎撃できる)西方に移動した。ハワイ西方のウェーキ島,ミッドウェー島は孤立しており,そこに日本軍が攻撃を仕掛けたり,攻略のための部隊を上陸したりすることは十分に予測できたからである。ハワイ諸島の真珠湾から日本軍侵攻方向に向かって,空母エンタープライズ、空母レキシントンは別々に西進した。米国は、護衛はつけたが単艦で空母を使用し、多数の空母を一団とした機動艦隊はなかったのである。つまり,米軍は日本の攻撃が差し迫っていることを察知して,米国の空母部隊2隊を,日本艦隊や輸送船団の迎撃に向けた西進させたと判断できる。

米国では,航空母艦を複数集めた機動部隊としての運用はしておらず,航空母艦1隻に護衛部隊をつける空母部隊を編成していた。太平洋方面の航空母艦は,エンタープライズ,レキシントン,サラトガの3隻であるが,サラトガはサンディエゴ海軍基地で改装中であった。そこで,当時,真珠湾基地から,西方迎撃に向かった米空母は2隻である。米空母は,日本軍が進撃してくるであろう日本の東方海上に向けて,迎撃体制に入ったといえる。

命令を受け,空母「エンタープライズ」と護衛部隊の巡洋艦3隻,駆逐艦9隻は,W.ハルゼー中将に率いられ,ウェーキ島方面に,空母「レキシントン」と巡洋艦3隻.駆逐艦5隻はミッドウェー島方面に,別々に,真珠湾を出航した。この西方への進撃は,ハワイ西方海上で,日本軍を襲撃するための迎撃作戦である。

米軍が航空母艦を「退避させた」というのは誤りである。たしかに,後になって航空母艦を中心にする任務部隊(機動部隊)が海軍の攻撃力の中核となったが,当時はまだ戦艦による艦隊決戦が制海権の帰趨を決定すると考えられていた。空母を集団利用する「任務部隊」(機動部隊)は米軍にはなく,空母は1隻ずつ戦艦の護衛あるいは補助攻撃力として分散利用されていた。

米国海軍は主力の航空母艦を温存するつもりであった,真珠湾攻撃を予知していて,攻撃の損害を旧式戦艦の損失だけにとどめようとした,などと邪知され,米海軍の空母が真珠湾に不在だったのはルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を予知していた証拠である,など「真珠湾攻撃の陰謀説」が謳っている。

しかし,この狭義の「真珠湾攻撃の陰謀説」は,誤りである。米空母2隻は,,米国本土に向けて東方に退避したのではない。明らかに,日本に向け西方に進撃し,ウェーキ島方面とミッドウェー方面で,攻撃してくる日本軍を迎撃する準備体制をとったのである。(空母2隻をまとめて運用する任務部隊ではなく,空母を1隻ずつ別方面に出動させた。)空母「エンタープライズ」と護衛部隊の巡洋艦3隻,駆逐艦9隻は,W.ハルゼー中将に率いられ,ウェーキ島方面に,空母「レキシントン」と巡洋艦3隻.駆逐艦5隻はミッドウェー島方面に,別々に,真珠湾を出航した。この西方への進撃は,ハワイ西方海上で,日本軍を襲撃するための迎撃作戦である。

写真(右):1941年12月7日,真珠湾攻撃に向かう航空母艦「赤城」の零式艦上戦闘機21型;ハワイ真珠湾に浮かぶフォード島航空基地を,日本海軍航空隊は真っ先に銃爆撃した。米国海軍は,空母を1隻ずつ分離して運用していたが,日本海軍は集中運用する空母機動部隊を編成していた。

1)太平洋戦争開戦以前,米国は単艦で空母を運用しており,空母は戦艦を補助する艦艇として位置づけていた。したがって航空母艦は,海軍の主力ではない。
2)航空母艦を「退避」させるなら,日本に接近する東方に航行するはずがない。真珠湾攻撃が予測される方向であるから(実際は北方から迂回攻撃)。日本軍が,ウェーキ島,グアム島,ミッドウェー島を攻撃する場合に,航空攻撃を加える,あるいは艦隊来航により日本軍上陸部隊(輸送船からなる)に威圧感を与え,退避させることが,空母を西方(日本の東方海上)に向けて「進撃」あるいは「迎撃」させた理由である。攻勢防御,撹乱攻撃の準備のために,空母を日本に向けて西に航行させたのである。事実,日本軍は,開戦劈頭にウェーキ,グアム島を攻略し,ミッドウェー島を襲撃している。真珠湾攻撃部隊からも,帰路,援軍を派遣している。

真珠湾から米空母部隊を出航させ,ウェーキ島周辺で演習を行う,というのは,空母部隊移動の口実である。日本軍の攻撃(真珠湾攻撃ではなく)を暗号解読,情報分析によって察知していた軍指揮官としは,暗号解読の事実を日本に知られてはいけないし,米軍内部でも機密扱いである。そこで,日本軍の攻撃に備えた準備行動であっても,開戦していない以上,「演習」といったに過ぎない。

日本軍を迎撃するかのような攻勢をとったのは,太平洋艦隊司令長官キンメル大将である。キンメル大将は,ハワイの警備隊にも,敵の攻撃が差し迫っていること,敵と思われる物体(潜水艦・航空機など)へは,即座に攻撃するように事前に警告していた。この事前警告を受けていた駆逐艦ウォードは,国籍不明の潜水艦に,躊躇なく砲撃し,航空機も爆雷を投下している。

米軍が攻撃したのは、日本海軍の小型潜航艇(二人乗り、魚雷2本搭載)である。大型2500トンの伊号潜水艦5隻が、各1隻の特殊潜航艇を甲板に搭載し、真珠湾近くで、発進させた。排水量1000トン以上を伊号潜水艦,500-1000トン未満を呂号潜水艦という。特殊潜航艇の発進目的は、真珠湾内の敵艦船の雷撃である。したがって、真珠湾「空襲」で日米が戦闘を開始したというのは誤りである。

写真(右):1941年12月7日0800,日本海軍機の空襲当日、飛行場格納庫越しの真珠湾には、アメリカ海軍戦艦「ネヴァダ」「アリゾナ」「テネシー」「ウェストヴァージニア」の一群があり、被弾して黒煙が立ち上っている。フォード島は、真珠湾の内部に浮かぶ飛行場の島。日本の急降下爆撃機に真っ先に攻撃された。しかし,奇襲であれば,黒煙があがる爆撃よりも先に雷撃すべきであった。信号弾の再発射が,奇襲ではなく,敵反撃を受けての「強襲」と勘違いされ,雷撃より先に爆撃が始まった。日本軍の通信機不備は,終戦まで続く。米英独では,空中戦では航空無線の混乱が問題にされたが,日本軍は使用できない場合が多すぎた。
Caption:Japanese Attack on Pearl Harbor, December 7, 1941. Burning and damaged ships in battleship row. Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives. (7/2/2014).
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-32588: "Battleship Row" 引用。


米駆逐艦の砲撃、哨戒機の爆雷投下はもちろん、真珠湾の偵察を目的とした水上偵察機の発進、特殊潜航艇の発進は、空襲部隊の発進と同じく、作戦行動であり、敵対行動、攻撃そのものである。銃火を構えて進撃すれば,発砲しなくとも「攻撃」である。米国の領海内に侵入し,空襲部隊と砲撃の準備した段階で,「攻撃した」とみなされる。

ルーズベルト大統領による日米「戦争」勃発後の「恥辱の日」の演説でも、次のように日本によるアジア太平洋の侵略を非難している。

In addition, American ships have been reported torpedoed on the high seas between San Francisco and Honolulu.
Yesterday, the Japanese government also launched an attack against Malaya. 
Last night, Japanese forces attacked Hong Kong.
Last night, Japanese forces attacked Guam.
Last night, Japanese forces attacked the Philippine Islands.
Last night, the Japanese attacked Wake Island.
And this morning, the Japanese attacked Midway Island.

つまり、12月7日には、真珠湾以外にも、「サンフランシスコとホノルル間の複数の米国船舶が日本の潜水艦にが雷撃を受けた。マレー、香港、グアム島、フィリピン諸島、ウェーキ島も、日本軍に攻撃された。そして、今朝はミッドウェー諸島が攻撃された。」。さらに言えば,真珠湾攻撃前に、日本の南方侵攻がはじまり、艦隊司令官が英国偵察機の撃墜を命じ、陸軍航空隊もマレー半島侵攻部隊を援護して、英軍機を撃墜している(→宣戦布告と戦闘)。

・12月6日午後 インドシナ半島南端を西進する南遣艦隊は 触摂中の英哨戒偵察機に対空射撃を行っている。そして、旗艦の重巡洋艦「鳥海」に座乘する司令長官小澤治三郎中将は 無線封止を破って、南部仏印(インドシナ南部のフランス植民地)に展開中の麾下の航空部隊に撃墜を命じた。
・陸軍大将菅原道大率いる第三飛行集団の九七式戦闘機は上陸部隊を運搬する輸送船団に接近中の英国哨戒飛行艇を撃墜した。
・中国の上海では共同租界に武力進駐開始した。
・マレー半島コタバルKota Baru(現マレーシア)では南遣艦隊が上陸支援のため陸上を20センチ砲などで砲撃している。

日本は,米,英,オランダなどの厳しい経済制裁によって,石油,鉄屑などが輸入できず,在外資産も凍結されてしまったから,南方(東南アジア)の石油,ゴム,鉄鉱石など資源を手に入れることが最優先された。真珠湾攻撃は,南方に侵攻する日本軍が,太平洋方面で米国艦隊に攻撃を受けたり,米国植民地のフィリピンから,艦艇,航空機によって,南方と日本との海上交通が遮断されることを恐れての一撃ともいえる。

ポスター(右):「即座に行動を」(真珠湾を忘れるな)」 ;日本海軍の愛知九九式艦上爆撃機のような単発機の編隊がアメリカを攻撃し、海上ではアメリカ海軍沿岸警備隊の小型哨戒艇が洋上警戒中である。アメリカの沿岸警備隊の作成した反日プロパガンダの動員ポスターでも真珠湾攻撃は卑怯なだまし討ちとして、決定的な影響力を持った。これは戦略的にも日常事務手続きの上でもどちらの視点で見ても日本外交の大失策だった。
Title:Poster: "Quick action" Caption:World War II U.S. Coast Guard poster. "Quick Action; Remember Pearl Harbor." Description:Donated by Steamship Historical Society of America to curator for Department of the Navy.color .
写真はNaval History & Heritage Command NH 76331-KN Poster: "Quick action" 引用。


真珠湾を攻撃すると同時に,ハワイに上陸,占領するという作戦は,占領後のハワイへの補給が困難なためか,取り上げられなかったとされる。しかし,南方を確保することが最優先だったのであって,米国艦隊の撃滅は,そのための必要条件の一つに過ぎなかったといえる。

米国もこれら日本軍の南方侵攻は予知していたし,実際に攻撃を警戒していた英国から情報を入手しているはずで、暗号解読の状況とあわせて、日本の攻撃が差し迫っていることは容易に予想できた。

しかし、日本軍の南方への上陸作戦は,宣戦布告無しの攻撃であり、まさしく「騙まし討ち」である。その上、英国に対しては 宣戦布告は用意していない無通告攻撃である。日本軍は,真珠湾空襲以前に,(日付は翌日8日であるが)マレー半島の英国領植民地マレー2ヵ所(現マレーシア)に上陸している。日本の同盟国のタイ王国とは、開戦するつもりはなかったが、マレー半島への攻撃の意図を隠蔽するために、上陸(攻撃でなく進駐)を(事実上)事前に通告せずに行ったため,タイと日本軍との戦闘も起こっている。これらの部隊は,シンガポール攻略をめざす陸軍部隊で,航空機,海軍艦艇の援護を受けていた。

真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝 真珠湾2時間前(但し現地時間は12月8日で1日遅れる)に、マレー半島東岸(英国植民地のマレーとタイ王国)複数箇所に日本陸軍が上陸し、シンガポール攻略作戦を開始している。

1941 年 12 月 8 日午前 3 時 20 分(東京時間)、航空母艦より飛び立った日本機は真珠湾を空襲し、碇泊中の戦艦5隻を撃沈する。しかし、それよりも以前、いやそれどころか、対米最後通牒の予定伝達時間よりもよりも 45 分も以前(午前 2 時 15 分)に、マレー半島東岸(英国領マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊が上陸している。こうなると「太平洋戦争が真珠湾攻撃で始まった」という通説(俗説)も誤りである。当然、日本は、米国に宣戦布告はしていない---。それどころか、英国にもオランダにも、どの国に宣戦布告することもなく、和平交渉に熱心なふりをして、世界を騙し、突如として卑怯な攻撃を仕掛けた(と見なされている)。

今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ 昭和16年12月12日 閣議決定

一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス

二、給与、刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス

三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当リ戦地ト指定スルコトナシ
但シ帝国領土ニ在リテハ第二号ニ関スル個々ノ問題ニ付其他ノ状態ヲ考慮シ戦地並ニ取扱フモノトス

昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文 日付順リスト(昭和16〜17年) 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ引用終わり

ポスター(左):「星条旗は逃げ出さない。真珠湾を忘れるな」;日本機の空襲から逃げ出さずに果敢に反撃した真珠湾の米兵は,敗残兵ではなく,英雄である。

「ハル・ノート」への回答である14部の覚書(メッセージ)"Fourteen Part Message" の最終部分は、次のように結ばれている。

"Thus, the earnest hope of the Japanese Government to adjust Japanese-American relations and to preserve and promote the peace of the Pacific through cooperation with the American Government has finally been lost.
"The Japanese Government regrets to have to notify hereby the American Government that in view of the attitude of the American Government it cannot but consider that it is impossible to reach an agreement through further negotiations.
"December 7, 1941."

したがって、日本では「宣戦布告の最後通牒」とされる文書が、実は米国でも東京裁判でも、疑われている。14部の覚書はハル・ノートへの回答文書であり、日米交渉を打ち切ってはいるが、明確に宣戦布告を述べたメッセージがないからである。



当時の日本にもこれでは、日米交渉の打ち切りのみで、宣戦布告とは見なせないのではないか、という疑問もあったし、明確な宣戦布告のステートメントも準備されていたらしいのだが。(→宣戦布告の起草)。東郷外相や外務省では、最後通牒としての形式を備えた書簡とステートメントが必要と感じ、北米課長加瀬俊一らが準備していたらしい。しかし、日本軍は、東條首相も含めて、その通告をすれば、日本は行動の自由を得たと考えていた。

つまり、外交交渉の決裂を伝える通告文にすぎないものを手交した理由は、外交よりも真珠湾、マレー半島などへの奇襲攻撃を重視したためである。換言すれば、外交上は、日本の攻撃の意図、戦争決定を分からないように秘匿して、実は作戦準備、部隊展開を図っていた。まさに、極秘の決定的な奇襲攻撃、すなわち「騙まし討ち」こそが、日本の意図するところであった、と見なされてもしかたがない。

写真(右):真珠湾攻撃の第一航空艦隊の航路:日本時間11月26日0800に日本を出航し、日本時間12月8日0130に最接近。Pearl Harborから日本に向かって西方に伸びる赤航路は空母「エンタープライズ」、青航路は空母「レキシントン」。米国は、護衛はつけたが単艦で空母を使用し、多数の空母を一団とした機動艦隊はなかった。米国の空母部隊2隊は,ウェーキ島,ミッドウェー島を目指し,両党の基地防衛用航空機を運送した。しかし、事前の戦争警告かを踏まえれば、攻撃してくるであろう日本艦隊や輸送船団の捜索、迎撃に向かった警戒行動とも受け取ることができる。

ルーズベルト大統領は「真珠湾攻撃は、何日もあるいは何週間も前から計画、準備されていたものであり、その間、日本は平和を希求している米国と偽りの和平交渉を行い、(攻撃する意図を隠し)騙し続けていた」と演説した。

日本空母機動部隊は,11月26日に出撃しており、12月1日の時点までに日米交渉が再開できれば、引き返すつもりでいた。しかし、大艦隊の出撃自体が、動員令と同じく、戦争開始であると指摘されれば,反論するのは難しい。開戦とは、砲火を交える戦闘が起こった時点では決してない。真珠湾が日本から遠く隔てられていることを踏まえれば、問題としているのは、「宣戦布告が1時間遅れた」という短時間のテクニカルな問題では決してない。

写真(右):1941年12月7日、アメリカ軍にによって、真珠湾近郊で鹵獲された日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」の船尾推進器;一軸で旋回性能も航続能力も低い魚雷型だったために、艦首に搭載した魚雷2本を動いている艦船に命中させるのは困難だった。そこで、停泊中の艦船への雷撃を敢行したが、真珠湾に潜り込むことは困難で、運転操作が難しく、戦果は挙げられなかったと考えられる。アメリカはこの戦利品をアメリカ本土に送り、全国を巡回展示した。戦利品を見世物として、戦時公債,戦時切手販売のために活用した。2002年8月28日、真珠湾口で、特殊潜航艇「甲標的」が発見された。
Description:The Sub's Propellers are slightly damaged although part of the prop guard on the right side has disappeared. (quoted from the original caption). This midget submarine, which took part in the 7 December 1941 attack on Pearl Harbor, was recovered outside the harbor entrance in 1960. Photograph is dated 28 July 1960. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. 写真はNaval History and Heritage Command NH 97252 Japanese Type A Midget Submarine 引用。


1941年12月7日の日本海軍機動部隊による真珠湾空襲より前の0645に真珠湾入り口で,米海軍の旧式駆逐艦「ウォード」USS Ward の乗員が国籍不明の潜水艦(実は甲標的)を発見し,4インチ砲で攻撃し,撃沈したという報告が確認されたのである。このとき,駆逐艦「ウォード」の通報は,真珠湾の海軍司令部に無視されてしまったため,日本海軍空母艦載機に真珠湾を奇襲されることになった。しかし,61年ぶりに米駆逐艦が,日本の特殊潜航艇「甲標的(甲型)」を発見,司令塔に4インチ砲を命中させ撃沈

1941年11月22日,択捉島単冠(ヒトカップ)湾に,南雲忠一中将率いる第一航空艦隊(空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」他),すなわち海軍機動部隊が終結。機動部隊の単冠湾出撃は1941年11月26日、これは攻撃行動開始を意味する。機動部隊出撃は,すでに戦争を開始しているとみなされてうる状況である。1941年12月2日「ニイタカヤマノボレ1208( ヒトフタマルハチ )」電文発信以前の敵対(準備)行為がされた。

暗号「ニイタカヤマノボレ1208 」は,台湾の最高峰3,952mの玉山に登ることだが,X日,すなわち日米開戦を12月8日午前0時とすることを意味する開戦暗号である。陸軍の開戦暗号は「ヒノデハヤマガタトス」。

1941年12月2日1730,「新高山登れ1208」は、東京通信隊から発信、出撃中の機動部隊はこれを受信,ハワイ真珠湾攻撃の最終決定となった。第二航空戦隊(司令山口多聞少将)の空母「飛龍」「蒼龍」を護衛した重巡洋艦「筑摩」の無線士も,この電報を生々しく記憶している。

重巡「筑摩」(排水量1万1000t,20.3センチ砲8門,水偵6機搭載)は1939年5月三菱長崎造船所竣工、同型艦「利根」と共に第二艦隊第八戦隊に編入。1941年12月のハワイ攻撃では、「筑摩」「利根」搭載の零式水偵が、空母機動部隊の攻撃隊に先行して真珠湾を偵察。その後,1942年4月のコロンボ空襲,6月のミッドウェー海戦に参加。1942年10月,南太平洋海戦では,空襲によって損傷,呉に帰還。1943年2月,復旧工事にあわせて、電波探信儀(電探)を装備,対空用の25ミリ機銃増備。1944年10月,比島沖海戦では、第一遊撃部隊(栗田艦隊)第七戦隊に編入,25日,サーマル沖海戦で米護衛空母を砲撃するも,米艦載機の雷撃・爆撃によって撃沈。

1941年12月6日(日本時間12/7)に真珠湾口に接近した伊号潜水艦隊から特殊潜航艇「甲標的」5隻が真珠湾に向けて発進した。これは,完全な戦争開始といえる。米国海軍駆逐艦「ウォード」による発砲は12月7日0645,日米太平洋戦争の戦死第一号は,甲標的の搭乗員2名だった。駆逐艦「ウォード」はきっかり3年後の1944年12月7日に,フィリピン方面で特攻機により撃沈。 初めて日本軍の「特別攻撃」を防いだ軍艦が,3年後の開戦記念日に日本機の特攻により沈められた。  

国内外の世論形成,米国議会の支持こそが重要であり、そのためのプロパガンダの方法が問われるのである。宣戦布告をわざと遅らせたのではない--といった末葉にこだわった弁明を外交や国際関係専門家が続けているとしたら、戦争と動員,議会の支持,対日戦争、動員に有利であり、宣戦布告に関するテクニカルな弁明は、大衆の前では聞く耳をもたれない。 

統帥権をもつ日本軍の最高司令官は、大元帥(昭和天皇天皇)である、宣戦布告の権利も天皇が保有しているし、この大権を犯すことは誰にもできない。その天皇による宣戦布告は「大詔」で、東京時間12月8日午前11時40分に発せられている。これは、それ以前の軍事行動、攻撃を追認する意味しか見出せないが、攻撃後の宣戦布告となっている。日本の攻撃は、太平洋上、アジア全土で行われた。まさに12.7は、「米国にとって屈辱の日」である。 

雑誌表紙(右):ジャップの野獣:「ジャップが世界をレイプしてきた道」「検閲なしの写真」:平和のオリーブの枝を差し出すそぶりをしてきた日本人だが、本性を現して,アメリカ婦人を暴行,残虐行為の限りを尽くしていると非難する。日本が行った「鬼畜米英」のプロパガンダの裏返しである。

ハル・ノートへの回答では、日米交渉打ち切りを告げてはいるが、明確な宣戦布告を述べていない。そこで、これが真珠湾空襲以前に手交されて、「宣戦布告」が間に合っていた---としても、米国は日本から宣戦布告を受けてはいないという立場を採用したに違いない。大日本帝国憲法では,宣戦布告の権限は,統帥権をもつ日本軍の大元帥(昭和天皇天皇)がもっており,天皇による宣戦布告の「大詔」は、1941年12月8日午前11時40分(東京時間)と,真珠湾攻撃の半日後に発せられている。 

日露戦争、第一次大戦では明確な宣戦布告をしながら、1930年以降の中国侵攻には一切宣戦布告はしていない。中立国の米国から軍需物資を輸入するためにも、戦争ではなく「事変」として扱われたのである。また、1941年12月7日0755の真珠湾空襲については、1週間前から日本は米国に開戦することを決めていた(12月1日の天皇臨席の御前会議で)。したがって、ハワイ攻撃を隠すために、偽りの日米交渉を行ってきたのであって、これは米国から見て明らかに「握手するそぶりをして、後ろに匕首を突き出す準備をしている」騙まし討ちである。

日米和平交渉を誠意を持って担当してきた二人に対して,米国は軽蔑感を抱き,それを隠そうとしない。外交交渉を米国が,戦争準備のための時間引き延ばしとしていたなら,なおさらである。しかし,真珠湾攻撃が「宣戦布告無しの先制攻撃」であることは(事実?)明白だったので,反日プロパガンダによって,米国人は「卑怯なやり方で、残虐行為を働くジャップJapは、人間ではない。テロを起こすジャップは殲滅しなくてはならない」と考えた。「いいジャップは,死んだジャップだけだ」と。

真珠湾攻撃は,米国人は日本人に対する憎悪を一気に高めた。報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化された。米国本土に住んでいる日系人を(米国籍を取得していようと),財産没収の上,強制収容所に隔離するのも当然だ---,と米国人は考え,実行する。 

写真(右)1940年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト;米国務長官コ−デル・ハルは、1941年11月26日、日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」を手交し、日本はこれを拒否、対米宣戦を決意する。ルーズベルト大統領の1941年12月8日の議会演説Pearl Harbor Address to the Nation.Pearl Harbor Address to the Nationでは,議会に対日宣戦布告するように要請した。これを受けて,連邦議会は,反対1票で,対日宣戦布告をした。連邦憲法の下では,宣戦布告の権利は,大統領にではなく,議会にある。政府,議会,世論を参戦に一本化し、人員・資源・技術を戦争のために動員することが可能になった。
[President Franklin D. Roosevelt]Created / Published [ca. 1941] Format Headings Film negatives. Genre Film negatives .
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG Physical Location LC-USW33- 042784-ZC [P&P]引用。


真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説は、演説巻頭でつぎのように「屈辱の日」の表現が使われている。(→演説音声を聞く)。
"Yesterday December 7 1941-a date which will live in infamy-the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan. "

後の米国大統領ジョージ・ブッシュは,太平洋戦争に雷撃機搭乗員として日本と戦った。硫黄島付近で撃墜されたが,米潜水艦に救助され,真珠湾に送られた。彼の搭乗した2人乗り雷撃機が,グラマンTBF「アベンジャー」Avenger(復讐者)である。真珠湾攻撃の後になって,アベンジャーは,実用化されているので,明らかに「真珠湾テロへの復讐者」の意味である。復讐者の息子(ジュニア)も米国大統領に就任した。

「真珠湾を忘れるな」とは,騙まし討ちのテロを行った日本人に報復せよという意味で,民主主義と自由を守るための「正義の戦争」である,とみなされた。したがって,米国の対日戦争は,日本が降伏するまで続けると,大統領,議会,国民は当然のように考えた。正義は勝つ。米国人は,日本との戦争に負けると思ったことは,(緒戦で敗北しても)一度たりともない。1944年以降,大規模な特攻を受けたが,和平を求める声はアメリカにはなかった。

ニューヨークの世界貿易センタービル(ツインタワー)と国防省ペンタゴンに航空機の自爆テロが行われた。「9・11」(ナイン・イレブン)の時も,米国では真珠湾攻撃=騙まし討ちのテロ,という認識で,テロへの報復を誓う論評や演説が行われた。ワシントンポスト紙は翌日9月12日付社説で,「2001年9月11日」と題して,60年前の真珠湾テロ攻撃と同じく9.11も「恥辱の日」として記憶に残るだろうと指摘した。 

米国大統領ジョージ・ブッシュは、真珠湾騙まし討ちに見舞われた先人と同じく「強鉄のような意思」を持ってテロリストとその指導者に報復すべきことを訴えた。また,テロリストに避難所を提供したり支援したりする国家に対しても,断固たる報復措置が取るべきだと促した。テロリストに対して和平を求める声は,アメリカにはなかった。

アメリカのブッシュ大統領は,12日夜(日本時間13日午前)演説において9・11事件は「テロを越えた戦争行為」と位置付け,テロリストへの報復を宣言した。これに対して、同盟国日本に対する侮辱である、真珠湾攻撃はテロではない、このように日本の立場を斟してくれたマスメディアもなく、世論も出なかった。

9・11同時テロで破壊されたNY世界貿易センタービルをみれば,9/11も12/7と同じく「恥辱の日」である。真珠湾攻撃は,騙まし討ちのテロの典型として,米国人に認識されていたことが理解できる。これは、議論の正当性や日本人の感情に反しているかもしれないが、宣戦布告が遅れたのは技術的な問題である,真珠湾では市民を攻撃はしなかったなど釈明しても,プロパガンダの前では言い逃れはできない。

日本の弁明は、テロリストの弁明と同じく、聞き入れられない。非道な行いに対して、斟酌の余地はない。報復こそ最優先の課題である。こうして、9・11はanother day of infamyあるいはsecond pearl harbor attackと呼ばれることになった。多分に感情的な議論を冷静に見直すには時間が必要であろう。

真珠湾攻撃の米国から見た評価は、
1)騙まし討ちの卑怯な攻撃である(宣戦布告なく,和平交渉を続けるそぶりをして,攻撃を仕掛けてきた)
2)民間人を含む米国人2400名の命を殺害したテロ行為である
3)米国の本土を攻撃した(米植民地フィリピンや中国駐留米軍への攻撃ではない)
4)米兵は(犠牲者も生存者も)は,我々のために勇敢に戦った英雄である(Aftermath: They died for you and me.)
の4点に要約できる。真珠湾攻撃「12.7テロ」は、「9.11テロ」と米国側から見れば同じ文脈で、「屈辱の日」である。平和な生活を破壊する一方的な無差別攻撃は,断じて許されない。テロを図る「ならず者国家」には報復すべきである。 

6.日本による正式な対米英宣戦布告は,昭和天皇の大詔渙発である。これは当時の日本人,米国人の双方が認識していた。日本は大戦果に,戦争終結を期待するが,戦争は始まったばかりであった。 

1941年12月8日,日本放送協会NHKは、午前6時40分から「武士道の話」という番組を放送していた。それが終わると午前7時から開戦を知らせる臨時ニュースを流した。

写真(右):開戦のラジオ放送を整列して聴く岡山県の男子中学生:出典には「米英への宣戦布告のラジオ放送を、整列して聞く金光中学校の生徒(昭和16年)」とある。ラジオの前に,当時の5年制の中学校の学生が整列。宣戦布告に関する放送は,繰り返し流された。教師が,銃剣装備,ゲートル巻きで男子学生を校庭に整列させ,ラジオを据え付けて,放送を拝聴したようだ。前方に起立しているのは,中学校で軍事教練を指導する配属将校。

 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部発表。12月8日0600(午前6時)、帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリスと戦闘状態に入れり」1941/12/08/0700

館野守男アナウンサーが放送したが,7日午前中だけでも開戦を知らせる臨時ニュースが5回放送されたという。午後は勇壮な音楽放送が流れた。午後6時半から30分間「合唱と管弦楽」と題して、軍艦行進曲,海ゆかば、遂げよ聖戦,などが放送された。

真珠湾攻撃を伝えるラジオ放送は,12月8日の午後になってから流されている。12月8日1300の日本の大本営(海軍部)発表は、そっけない。発表者は、天皇でも首相でも、大臣、将軍ですらない。「ハワイ空襲」の世界に向けて発した第一声は,報道部長の海軍大佐である。内容は簡素で,大戦果を上げたことは,午後1時の段階では,報道されていない。 

「帝国海軍は本八日未明、ハワイ方面の米帝国艦隊ならびに航空兵力に対し決死的大空襲を決行せり」1941/12/08/1300 

宣戦布告通告の手交の遅れと同じく,真珠湾攻撃の公表の後になって,陸海軍省が大元帥昭和天皇による対米英宣言布告の勅語を公表した。勅語の公表は,12月8日1500であるが,対米英宣戦布告としては,同1900の「大詔」でも,同様の内容が詳しく述べられている。ともに,大日本帝国憲法が宣戦布告の大権を定めた天皇のお言葉であり,一字一句が重要な意味を持つ。

陸海軍省(十二月八日午後三時同時発表)(陸軍省と海軍省とは,陸海軍大臣が長となる機関であり,天皇に直属するものである)
本日陸海軍大臣を宮中に召させられ、左の勅語を賜りたり。宣戦布告の勅語を賜ったのは,内閣総理大臣でも国会議員でもない,陸海軍大臣である。但し,陸軍大臣東條英機は首相も兼務する。 

勅 語
曩ニ支那事變ノ發生ヲ見ルヤ朕カ陸海軍ハ勇奮健鬪既ニ四年有半ニ彌リ不逞ヲ膺懲シテ戰果日ニ揚ルモ禍亂今ニ至リ尚収マラス
朕禍因ノ深ク米英ノ包藏セル非望ニ在ルニ鑑ミ朕カ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ解決セシメムトシタルモ米英ハ平和ヲ顧念スルノ誠意ヲ示ササルノミナラス却テ經濟上軍事上ノ脅威ヲ?強シ以テ帝國ヲ屈服セシメムト圖ルニ至レリ
是ニ於テ朕ハ帝國ノ自存自衛ト東亞永遠ノ平和確立トノ爲遂ニ米英兩國ニ對シ戰ヲ宣スルニ決セリ
朕ハ汝等軍人ノ忠誠勇武ニ信倚シ克ク出師ノ目的ヲ貫徹シ以テ帝國ノ光榮ヲ全クセムコトヲ期ス

これは,大詔の縮小版であるが,発表は続く。
右勅語を拝受し陸海軍大臣は左の如く奉答せり
奉答文
      臣英機 
       臣繁太郎
誠恐誠懼謹テ奏ス帝國未曾有ノ難局ニ方リ優渥ナル勅語ヲ賜フ臣等咸激ノ至ニ堪ヘス
臣等協力一致死力ヲ盡シ誓テ聖旨ニ應ヘ奉ランコトヲ期ス
臣英機臣繁太郎誠恐誠懼陸海軍ヲ代表シ謹テ奉答ス
 昭和十六年十二月八日
      陸軍大臣 東條英機
         海軍大臣 嶋田繁太郎 

要するに,大元帥昭和天皇の示された勅語に納得し,感激して,死力を尽くして聖戦を推し進める覚悟を述べたのである。 


写真(右)1941年12月9日の開戦を伝える毎日新聞;夕刊が報じる日米開戦で「宣戦布告の詔書渙発」。大日本帝国では,天皇一人が宣戦布告の権利を有するのであって,首相,国会,枢密院,御前会議が宣戦布告を決めるのではない。


「ハワイ空襲」の戦果の概要は,12月8日2045に,戦果の詳細は,12月18日1500に公表される。この点については,日米開戦の劈頭にすぐ「真珠湾攻撃の大戦果が発表された」としている方が多いようだ。
午後8時45分の大本営海軍部の戦果発表は,次のようなものだ。
一、本八日早朝帝国海軍航空部隊により決行せられたるハワイ空襲において現在までに判明せる戦果左の如し
戦艦二隻轟沈、戦艦四隻大破,大型巡洋艦約四隻大破,以上確実
他に敵飛行機多数を撃墜撃破せり。わが飛行機の損害は輕微なり。
二、わが潜水艦はホノルル沖において航空母艦一隻を撃沈せるものの如きもまだ確実ならず
三、本八日早朝グアム島空襲において軍艦ペンギンを撃沈せり
四、本日敵国商船を捕獲せるもの数隻
五、本日全作戦においてわが艦艇損害なし。(1941/12/08/2045) 

写真(左):1941年12月9日読売新聞夕刊が報じる日米開戦;1941年12月8日に日本が米英に宣戦布告した。根拠は,日本の元首である大元帥昭和天皇陛下が「畏くも大詔渙発」されたこと。全文が詔書として掲載され,「ホノルル大爆撃」は右隅。

1941年12月8日1900(午後7時)になると君が代の後、日本放送協会の中村茂業務局告知課長が、昭和天皇の渙発した詔書を奉読した。そして,内閣総理大臣の東条英機陸軍大将の「大詞を拝し奉りて」という録音放送が流れた。その後,奥村喜和男情報局次長の「宣戦の布告に当りて国民に愬う」、防衛参謀長の小林浅三郎陸軍中将の「全国民に告ぐ」が立て続けに放送され、開戦の正当性を訴え、戦意高揚をねらった。

大日本帝国憲法によって,宣戦布告の大権,軍の統帥権は,天皇にあると定められている正式な宣戦布告,すなわち対米英宣戦の大詔が渙発された。翌日の新聞にも全文が記載。天皇の渙発された大詔は省略できない。 

  大詔
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 
朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス
朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ 朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ総力ヲ擧ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ違算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ 丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ 作述セル遠猷ニシテ朕カ眷々措カサル所
而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ
今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト鷽端ヲ開クニ至ル詢ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ 
中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ
幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ残存政権ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス
剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ 彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス
斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ
事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ
朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信奇シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ燮除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セシムコトヲ期ス
       御名御璽
 昭和十六年十二月八日

宣戦布告の体験は天皇が保持しているので,正式な宣戦布告はこれが放送された1941年12月8日19時である。ただし,大詔は,米英にではなく,日本の臣民に対して発せられたのであるから,外交上の宣戦布告は,最後通牒の手交時期であるとも考えられる。 

「パールハーバー 戦慄の日 / 洋画」 (マイケル・ベイMichael Bay監督,2001年5月公開のアメリカ戦争映画)は、第二次欧州大戦から真珠湾攻撃,ドーリットル空襲までを描いている。日本本土空襲は,真珠湾の報復であり,米軍が大勝利するところで終わる。「米国人にとっては911も真珠湾も似たような感覚なんでしょうか。だとしたら東京大空襲や原爆投下はどうしてくれるんだい?テロと虐殺はどっちもどっちだって気がします。でも真珠湾攻撃は民間施設を狙ってないよ。」「日本をバカにしすぎています。 時代考証はほとんど行われていません。何で日本軍が、野原でのぼり立てて作戦会議をするんですか。こんな映画を見てしまい、興行に少しでも貢献してしまったかと思うと腹立たしい限りです。戦闘シーンや音楽は良いと思いますが、それなら、他の映画でもいい作品は数多くあると思います。これを見る必要はありません。日本人は見てはいけない映画です。」あるいは「日米間の歴史認識の相違を認めざるを得ない作品です。宣戦布告が遅れての日本からの一方的な開戦に対する、当時の米国の人々の怒り、復讐心を前面に出した作品ではないでしょうか? ファシズムに傾いていた当時の日本の過ちを米国の視点で捉えることで、今までと多少違ったものも見えてきました。」との対照的な日本人の講評がある。

 真珠湾攻撃の生き残り米軍兵士は,「我々が後に残したものを,死と痛みの中で,考えよ。彼にとって,残してきたことを忘れれば,無駄死になってしまう。」と述べた。"Think of those we left behind, in death or angquished pain, For he that remains forgotten, has truly died in vain. ---Art Morsch, USS New Orleans (CA-32), Pearl Harbor Survivor

米国の新聞が伝える12月7日は,「戦争」と「ジャップ」の非道・憎しみである。戦後の戦争責任追求の際,大詔に含まれた天皇の意思が問題になったが,侵略による拡大主義,植民地獲得,中国支配を謳っているわけではない。日本は,皇祖からの伝統を守り,国体を安んじるために、米国と戦争は回避したかった。 

1945年になって終戦が国内で論じされる際にも,最重要課題は,中国の権益,アジア太平洋の平和というよりも,国体の護持であった。大詔は,国体護持の切り札となる。それにしても,真珠湾攻撃の戦果公表の後に,昭和天皇の渙発した開戦の大詔が放送されたことは象徴的である。

1941年11月26日,ハル・ノートで「中国とインドシナからの撤退」を突きつけてきた。これでは日本がアジアの平和のためになしてきた事業が無駄になってしまう。暴虐な中国は,東アジアの平和を撹乱している。米英は,中国の反日活動,抗日戦争を支援し,東洋の覇権を握ろうとしている。そして,強硬な姿勢で,和平交渉には譲歩せず,経済的圧力と軍事脅威によって,日本を屈従刺せようとしている。そので,日本は,自存自衛,国体の保持,アジアの平和という帝国の光栄をかけて,宣戦布告をした。これが,大詔の主張である。 

日本でも今日,ハル・ノートはとても受け入れられなかったと述べているが,国体を護持できる,武装解除もしない,戦争責任者の処罰もしないという和平提案は,1945年のポツダム宣言受諾に比べれば,造作もないことだった。中国(満州を除く)とインドシナにおける日本軍の撤退は,可能だった。もし,これを受け入れてていれば,米国の対日宣戦布告の機会は訪れなかったかもしれない。しかし,ハル・ノートを受け入れても,米国が石油禁輸などの制裁措置を続ければ,日本は窮したであろう。 

記憶としてのパールハーバー しかし,日本が対米攻撃をした後,米国が日本に経済制裁を課し,ハル・ノートで中国, インドシナからの撤兵を求めたことはもちろん,大詔の内容,天皇の国体護持と平和の意思も,米国では,話題にならない。後日,真珠湾攻撃による米国側死傷者は3500名と判断されるが,新聞では3800名の事実より多い死傷者が出たと報道し,ジャップによる爆撃を受けた,何の前触れもなくいきなり日本が米国を攻撃した,として真珠湾攻撃が描かれている。

ワシントンの二人の大使にとって,最後の職務は,対米宣戦布告を伝えるという元首のメッセンジャー役である。高度な外交交渉をする専門家であると誇りを優先した組織だったために,最後通牒手交という事務手続きを攻撃後に遅らせてしまったようだ。しかし,勅任官(天皇に直接任命する)の外務省高官も高等文官試験を合格した外務省職員も,誰一人職務怠惰で処罰されることがなかった。こうなると,宣戦布告を遅らせたのは,国家の最高意思決定であり,わざとやったとしか思わない。「宣戦布告が遅れたのは,事務手続きのミス」と主張するのであれば,責任者の処罰がされるはずだ。そうならないのであれば,宣戦布告の遅れは計画的であり,真珠湾攻撃は「騙まし討ち」ということされてもしかたがない。 

写真(右):航空母艦「ホーネット」USS Hornet (CV-8) ;日米戦争開戦直後、1942年初頭の撮影。B-25を搭載して,ハワイ攻撃の報復として,東京初空襲を行った。USS Hornet (CV-8)
Description:Photographed circa late 1941, soon after completion, probably at a U.S. east coast port. A ferry boat and Eagle Boat (PE) are in the background.
写真はU.S. Naval History and Heritage Command NH 81313 USS Hornet (CV-8)引用。


12月8日2045には,真珠湾攻撃による戦果は,あっさりとラジオ発表された。「真珠湾」といえば,日本では真珠養殖の盛んな志摩半島かと錯覚されてしまう。軍軍事に通じていない日本以外,「真珠湾」の地名には馴染みがない。そこで,「ハワイ海戦」「ホノルル空襲」という表現が使われる。また,真珠湾攻撃の大戦果を延々と発表すれば,天皇の渙発した大詔を軽んじているようにみえる。さらに,マレー半島上陸という「地味な話題」しかもたない陸軍の戦果との均衡がとれない。しかし,当時を生きた人々には,宣戦布告発表と同時に,真珠湾における米艦隊撃滅の大戦果を聞いた,記事を見たという人もいる。

12月9日午前九時の大本営海軍部のラジオ発表
一、本日軍令部総長および海軍大臣は連合艦隊司令長官、航空部隊指揮官、潜水部隊指揮官に對し左の祝電を発せり
  航空部隊および潜水部隊が周密適切なる計画の下に、長躯ハワイに決死的大攻撃を敢行し、所在戦艦隊主力および航空兵力に殲滅的打撃を与え 未曾有の大戦果を収めたる偉功に対し慶祝の意を表す
二、本日軍令部総長および海軍大臣は連合艦隊司令長官、マレー方面作戦艦隊司令長官に対し左の祝電を発せり 
陸海緊密なる協同の下にマレー半島上陸作戰に成功、帝国軍の偉力を南海の一角に顕揚せるを祝すると共に将兵各員の一層の健鬪を祈る。(1941/12/09/0900)

写真(右):航空母艦「ホーネット」USS Hornet (CV-8) 飛行甲板上のアメリカ陸軍航空隊B-25爆撃機;上空警戒用のグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機も見える。日米戦争開戦直後、1942年初頭の撮影。B-25を搭載して,ハワイ攻撃の報復として,東京初空襲を行った。「ドーリットル空襲」は,米軍の本格的反抗ではなく,日本のハワイ攻撃への報復として,実施された。敗北続きの米軍を鼓舞する目的があった。
Title:Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 Description:USAAF B-25B bombers and Navy F4F-3 fighters on the flight deck of USS Hornet (CV-8), while she was en route to the mission's launching point. Note wooden dummy machine guns in the tail cone of the B-25 at left. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #:NH 53422 . 写真はU.S. Naval History and Heritage Command NH 53422 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。


日本では,戦果の公表は,大本営発表として,国会ではなく,ラジオ放送されるのが常である。ハワイ海戦の大戦果もラジオで,その後新聞で国民に下達された。1942年1月1日毎日新聞には,「米太平洋艦隊忽ち全滅」「ハワイ海戦」の大見出しの一面記事も出た。真珠湾攻撃は大戦果を挙げたとして,日本国民は有頂天になる。米国との戦争には不安もあった国民,政府,軍であるが,緒戦の大勝利に酔いしれた。

1942年夏には、内務省でも盆踊り開催の緩和を各府県の警察部長に対し通達した。徳島県内では既に農漁村の盆踊りについては前年から許可されていたが、これを受けて阿波踊り開催への機運も一気に盛り上がった。

日本人は米太平洋艦隊は全滅したので,嫌な戦争は,すぐ終わると錯覚したのであろうか。大勝利にかこつけて,憂さ晴らし祭りを行いたかっただろうか。日本は中国より強いが,米国よりも強かったのかと自信をつけた日本人もいるであろう。4年前の1937年12月の中華民国の首都南京を陥落させたときもお祭り騒ぎを演じた。また,歓喜する様を演じるように仕向けられた。皇居前で集会に人員を動員し,児童も動員したパレードもしている。特別に,学校に鞠(ゴムボール)も配っている。

当時の日本が軍部独裁であったとしても,国民のご機嫌を損なう米英との大戦争には,異常に機を配っていた。米英への攻撃が大失敗すれば,開戦劈頭に負け戦をしでかした大ウツケ,弱い日本軍として,国民が政府高官・軍を軽んじてしまう。そうなれば,共産主義革命が起こるかもしれない,中堅将校のクーデター・叛乱が起こるかもしれない。非民主的な国家にとって,国民に戦争協力させる手段は,厳罰を持ってする統制(動員と思想統制を含む)であるが,戦勝なくしては,統制も行き届かない。 

首都南京を陥落させても降伏しない中国と戦争を継続し,さらにより経済力・軍事力のある米国相手に,先制攻撃をしかけたことを心配していた国民もいた。ドイツも,英国に和平を拒否さているのにソ連に侵攻し,ソ連が降伏しないのに,米国に宣戦布告している。中国は広いが,太平洋はなお広い。総力戦は,会戦(一大決戦)で勝敗がつくということはない。工業生産力,兵員の動員など,国民が一丸となった戦いである。太平洋戦争は始まったばかりであった。
 
真珠湾攻撃部隊「第一航空艦隊」(機動部隊) 司令長官 南雲忠一中将

任務 

 艦種

 隻数

 艦艇名称

 損害

 空襲隊

空母

6隻

赤城(3万7000トン)、加賀、蒼龍(1万7000トン)、飛龍、瑞鶴(2万7000トン)、翔鶴

 

 支援隊

戦艦

2隻

比叡(3万1000トン)、霧島

 

支援隊

重巡洋艦

2隻

利根(1万2000トン)、筑摩

 

警戒隊

軽巡洋艦

1隻

阿武隈(6000トン)

警戒隊

駆逐艦

9隻

谷風(1800トン)、浜風、磯風 陽炎、霞、霰、秋雲ほか

 

 哨戒・攻撃

潜水艦

8隻

伊19 伊21 伊23
伊16(2200トン) 伊18 伊20 伊22 伊24

特殊潜航艇5隻

 補給隊

特設補給艦

8隻

極東丸、國洋丸、健洋丸、神国丸、東邦丸ほか

 

 

空母搭載機

350機

零式艦上戦闘機78機、九九式艦上爆撃機129機、九七式艦上攻撃機143機

戦闘機9機、爆撃機15機、攻撃機5機

真珠湾空襲部隊(特別攻撃部隊)の編成

 

 

 指揮官氏名・階級

 機数

 搭載母艦

 損害

第1次攻撃隊

 第1波

淵田美津雄中佐

183機 

 

 9機 

 

水平爆撃隊
(800kg徹鋼弾)

淵田中佐 

48機 

赤城 加賀 蒼龍 飛龍

 

 

雷撃隊
(800kg航空魚雷)

村田重治中佐

39機 

赤城 加賀 蒼龍 飛龍

 5機  

 

急降下爆撃隊
(250kg通常弾)

高橋赫一少佐

51機 

翔鶴 瑞鶴

 1機  

 

制空零戦隊
(20ミリ機銃、7.7ミリ機銃)

板谷茂少佐 

45機 

赤城 加賀 蒼龍 飛龍 翔鶴 瑞鶴

 3機  

第1次攻撃隊

 第2波

嶋崎重和少佐

168機 

 

 20機 

 

水平爆撃隊

嶋崎少佐 

 54機 

 翔鶴 瑞鶴

 

 

急降下爆撃隊

江草隆繁少佐

 78機 

 赤城 加賀 蒼龍 飛龍

 15機  

 

制空零戦隊

進藤三郎大尉 

 36機 

 赤城 加賀 蒼龍 飛龍

 5機  

 特別攻撃隊

特殊潜航艇「甲標的」
(800kg魚雷2本)

 

 5隻 

伊16 伊18 伊20 伊22 伊24

5隻 



南方経済対策要綱 昭和16年12月16日 閣議報告

第一 方針

一、重要資源ノ需要ヲ充足シテ当面ノ戦争遂行ニ寄与セシムルヲ主眼トシ併セテ大東亜共栄圏自給自足体制ヲ確立シ速カニ帝国経済ノ強化充実ヲ図ルニ在ルモノトス

二、本要綱ニ於テ対象トスル地域ハ蘭印、英領馬来及「ボルネオ」、比律賓、「ビルマ」其他皇軍ノ占領地域(以上甲地域)、仏印、泰(以上乙地域)トス

三、甲地域ニ対シテハ対策ヲ二段ニ分チ第一次対策及第二次対策トシ夫々左ノ方針ニ依ルモノトス

(一)第一次対策
(イ)資源獲得ニ重点ヲ置キ之ガ実施ニ方リテハ戦争遂行上緊要ナル資源ノ確保ヲ主眼トス
(ロ)南方特産資源ノ敵性国家ニ対スル流出ヲ防止スベク凡ユル措置ヲ講ズ
(ハ)資源獲得ニ方リテハ極力在来企業ヲ利導協力セシメ且帝国経済力ノ負担ヲ最少限度ニ迄軽減セシムル如ク努ム
(二)第二次対策
大東亜共栄圏自給自足体制ヲ完成スルコトヲ目途トシ其ノ恒久的整備ヲ行フ

四、乙地域ニ対シテハ概ネ既定方針ニ基キ速カニ実数ヲ挙グル如ク措置シ甲地域ニ於ケル情勢ノ展開ニ依リ増加スベキ威圧ヲ利用シ重要資源特ニ食糧資源ノ確保其ノ他我方要求ノ貫徹ヲ策トスルモノトシ尚情勢急変セル場合ハ別ニ方針ヲ定ム

第二、甲地域対策要領

第一次対策

一、総則

(一)取得又ハ開発シタル物資ハ凡テ物資動員計画ニ組入ルルモノトス
作戦初期ニ方リテハ陸海軍ノ定ムル所ニ依リ所在ノ重要物資ヲ蒐集確保ス右物資ノ処理ニ関シテハ前項ニ同ジ
(二)物資開発ノ順位ハ戦局ノ推移ト資源ノ緊急度トヲ勘考シ中央ニ於テ之ヲ決定ス
(三)昭和十七年度ニ於ケル資源取得ノ基準並昭和十九年度ニ於ケル取得予想別紙第一及第二ニ示ス如シ
(四)現地石油及其ノ他鉱物資源開発ニ必要ナル人員、資金(差当リ予算ニ依ル)、資材等ハ差当リ原則トシテ陸海軍ニ之ヲ配当ス
(五)各地区不足資源ハ左ニ依リ充足ス
(イ)生活必需品ハ成シ得ル限リ自給ヲ計画シ
(ロ)努メテ南方相互ノ交流ニ依ル
(ハ)止ムヲ得ザルモノニ限リ帝国ニ依存ス
(六)右ニ基ク南方資源ノ相互交流ハ政府調整ノ下ニ現地中央陸海軍協議ニ依ルモノトス

二、開発

(一)石油
(1)開発ノ重点ヲ石油ニ置キ資金、資材等ノ優先配置其ノ他之ニ必要ナル万般ノ措置ヲ講ズルモノトス
(2)石油事業ハ初期軍ノ直営トシ状況之ヲ許ス限リ速カニ民営ニ移行スルモノトス
(3)取得及輸送等ノ難易ヲ勘案シ適当ナル地域ヲ開発スルモノトシ併セテ特ニ航空揮発油適性油ノ取得ニ努ム
(4)現地製油ニ付テハ残存施設ノ状態ニ応ジ且日満ノ処理能力ト照合シ所要ノ施設ヲ復旧スルモノトス

(二)其ノ他鉱物資源

(1)鉱産企業ハ重点ニ開発力ヲ集中シ最少数ノ企業ニ依リ良好ナル能率ノ下ニ最大量ノ資源ヲ開発スルヲ主眼トス
(イ)能フ限リ速カニ現状程度ノ設備能力ヲ復旧シ更ニ進ミテ新規地点ノ開発企業ヲモ促進スベキモノ
ニッケル鉱、銅鉱、ボーキサイト、クロム鉱、マンガン鉱、雲母、燐鉱石、其ノ他特殊鉱原鉱石及非鉄金属(錫ヲ除ク)
(ロ)新規地点ノ開発企業ハ一時中止セシムベキモノ
錫鉱、鉄鉱石
(2)新ニ重要鉱物資源ノ開発ヲ担当セシムベキ企業者ノ選定ハ概ネ左記各項ノ趣旨ニ依ルヲ原則トス
(イ)一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト
(ロ)現地若クハ他ノ方面ニ於テ同種企業ノ優秀確実ナル経験ヲ有スルモノナルコト
(ハ)資源開発ニ必要ナル能力ヲ具ヘアルコト
(ニ)南方全般ヲ通ジ、同種資源ハ二以上ノ企業者ニ分担セシメ、一品種ヲ一商社独占ノ弊ニ陥ラシメザルコト、但シ特殊ノ資源ハ此ノ限リニアラズ
(三)農、林、水産業
(1)農、林、水産企業ハ特ニ必要ナルモノヲ除キ差当リ新ナル邦人企業者ノ進出ヲ抑止ス
(2)各地区毎ニ食糧資源ノ略 自給ヲ計ルニ努ムルモノトス

(四)工業
工業ハ特殊ノモノ(例ヘバ造船、資源開発設備ノ修理工場)ヲ除キ現地ニ培養セザルヲ本旨トス
但シ輸送量ノ軽減ニ効果大ニシテ設備ヲ現有スルモノハ此ノ限ニアラズ

三、通貨
能フ限リ速ニ現地通貨ノ利用ニ努ムルトスルモ
(一)当初ニ於テハ
(イ)軍票ヲ使用シ軍票ハ各地域別現地通貨表示ト為ス
(ロ)軍票ハ現地通貨ト等価ニ通用セシム之ガ為強行措置ヲ講ズ
(ハ)中央及現地ニ軍票ヲ処理スベキ機構ノ整備ヲ考慮ス
(ニ)主要ナル現地資源獲得及開発費ハ差当リ軍事予算ニ依ル
(二)占領地把握ノ段階ニ応ジ
(イ)現地発券制度ヲ可及的速ニ把握スルコトニ努メ之ト軍票制度トノ機能ヲ調整シ逐次統一ニ進ム右ニ伴ヒ現地通貨ニ依リ既発軍票ヲ回収セシム
(ロ)右ニ依ル統一乃至回収ニ伴フ決済ハ原則トシテ以下ニ依リ処理ス
(1)発券銀行ヨリノ借上金、起債等ノ手段ヲ用フ
(2)敵性資産ニシテ没収スベキモノヲ充当ス
(3)政庁又ハ公共団体等ニ国防費分担金ヲ命ズ
(ハ)主要ナル現地資源ノ獲得及開発資金ノ調達ニ付テハ追テ別ニ之ヲ定ム
(三)現地ニ於ケル為替管理ヲ可及的速ニ整備シ資金ノ移動ヲ統制ス
備考

(イ)(一)ノ(ロ)ニ関シ差当リ軍票ガ現地通貨ト等価ニテ流通スルヲ促進スル為軍票ニ依ル物資購買等ヲ円滑ナラシムル様適当ナル措置ヲ講ズ
(ロ)予算上軍票ト日円トハ差当リ比率一対一トスルモ現地物価ノ実状ニ応ジ予算ノ編成上並ニ経理上考慮ヲ払フト共ニ予算ノ実行ニ付各地域別区分計画ニ努メ諸般ノ施策ニ齟齬ナカラシム
(ハ)軍票ノ発行ヲ可及的ニ減少セシムル為一般通貨ノ外鉱山農園等ノ敵国財産ヲ没収シ及敵国人財産(華僑ヲ除キ又国別報復主義ニ依ル)ヲ管理(敵性アルモノハ没収)シ之ニ依ル物資獲得ニ努ム
(ニ)通貨工作ニ即応シ政庁財政ニ対スル把握指導ニ努ム
(ホ)国防分担金ノ標準ハ概ネ従来ノ国防費並ニ従来本国ニ支払ヒタル官吏恩給金、資本利息、其ノ他各種負担等貿易外支払額ヲ目途トスルモ能フレバ其レ以上分担セシムルニ努ムルモノトス

四、蒐貨、配給、交易
(一)蒐貨物資ノ対日供給ハ差当リ政府ノ会計ニ於テ買収輸入ヲ為ス
対現地供給物資ノ輸出ニ付亦同ジ
右輸入ニ付テハ原則トシテ本邦統制機関ト緊密ナル連繋ヲ保持スルモノトス (二)現地ニ於ケル重要物資ノ中間蒐貨及配給ニ於テハ極力華僑及現地商人ノ信用及組織ヲ活用シ自由取引ノ方式ヲ採ルモノトス
(三)本邦業者ヲ中間蒐貨及配給ニ活動セシムルトキハ前項ノ趣旨ニ則シ組織的ニ配置シ漸進的ニ之ガ発展ヲ助長ス
(四)対現地供給物資ノ配給ニ付テハ現地中間機構ノ活用ニ努ムルモ鉱山農園等対日供給物資ヲ生産スル作業場従業員ニ対シ優先的ニ且ツ計画的ニ配給スルモノトス
(五)現地相互間ノ物資交流ニ付テモ右各項ニ準ズルモノトス

五、輸送
(一)南方方面ノ輸送ニ充当シ得ベキ船腹ハ毎月陸海軍ニ之ヲ配当ス
(二)徴傭船腹ヲ資源輸送ニ活用ス
(三)現地ニ於テ押収セル船舶ハ五百噸以上ノモノハ中央ノ処理ニ移シ、五百噸未満ノモノハ中央ノ指示ニ基キ之ヲ活用ス
(四)輸送スベキ南方資源ハ重要度ヲ顧慮シテ輸送ノ順序、数量ヲ定ム

六、資源調査及研究
(一)資源ノ調査研究ハ夫々陸海軍ノ定ムル所ニ依リ之ヲ行フ
(二)資源調査ノ重要資源名左ノ除シ
(1)ニツケル、銅、コバルト、モリブデン、タングステン、バナジウム、鉛 (2)亜鉛、水銀、マンガン、クロム、雲母
(3)ボーキサイト、含ニツケル鉄鉱、石油
(4)タンニン材料、牛皮

(三)研究項目ノ主要ナルモノ左ノ如シ
綿花(目標約三〇〇万担年産)、黄麻及ワツトル樹ノ栽培、緬羊ノ飼育 七、対米英経済圧迫
対英米経済戦ニ資セントスル物資左ノ如シ
ゴム、錫、石油、キナ、タングステン、マニラ麻、コプラ、パーム油

八、陸海軍現地自活
(一)軍自活現地物資ハ軍作戦ノ必要ニ依リ決定セラルベキモ主トシテ左ノ品目ト予想ス
(1)食糧及馬糧(努メテ現地物資ノ蒐集ニ依ル)
(2)燃料
(3)被服建築材料ノ一部
石油ノ如キ重要物資ニ在リテハ極力節用スルハ勿論物動計画ニ基キ軍中央ヨリ配当セル範囲内ニ於テ使用スルモノトス

(二)軍現地自活ノ為工業ヲ要スルトキハ既存設備ニ依リ軍ニ於テ自営スル程度ニ限定スルモノトス

第二次対策
大東亜共栄圏自給自足体制ノ完成ヲ目標トシ国土計画的基礎ノ下ニ邦人ノ南方ニ於ケル経済発展ヲ助長シ且共栄圏諸地域相互間ノ経済的交流ヲモ進捗セシムルヲ主眼トシ其ノ詳細ハ別ニ之ヲ定ム

第三、乙地域対策
概ネ第五委員会決定ノ施策ニ依ルモノトシ情勢ニ応ジ改訂ヲ要スベキトキハ別ニ之ヲ定ム
海上輸送ニ関シテハ甲地域ニ準ズ
(別紙第一及第二ハ添付省略ス)

昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文 日付順リスト(昭和16〜17年) 南方施策ニ関スル件引用終わり


◆東南アジアへの侵攻へ ◇ 1941/12/08

1941年11月26日に、極東と太平洋の平和に関する文書、いわゆるハル・ノートを日本に手渡した。 この最も重要と思われる部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」とある。日本が中国占領地やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則としたのである。日本からは、米国の最後通牒であると認識された。ハルノートには日本が回答すべき期限は定められていないから、最後通牒であったとしても、宣戦布告ではない。日米双方が、これは了解していた。しかし、日本に絶対にできない(可能かも?)であろうことを突きつけてきたのであり、これに対して、日本は、宣戦布告を準備した。もともと、米国としては日本が受諾する見込みのないような最後通牒としてハル・ノートを突きつけたから、その結果、日米戦争となっても、米国は驚かない。逆に、日本の対米攻撃あるいは宣戦布告は望むところであった。

日本は、太平洋・アジアを侵略し、ドイツと並んで世界制覇を企てる悪の枢軸である、と見なされた

1941年12月7日、真珠湾奇襲以外にも、「サンフランシスコとホノルル間の複数の米国船舶が日本の潜水艦にが雷撃を受けた。マレー、香港、グアム島、フィリピン諸島、ウェーキ島も、日本軍に攻撃された。そして、今朝はミッドウェー諸島が攻撃された。」。さらに言えば,真珠湾攻撃前に、日本の南方侵攻がはじまり、艦隊司令官が英国偵察機の撃墜を命じ、陸軍航空隊もマレー半島侵攻部隊を援護して、英軍機を撃墜している(→宣戦布告と戦闘)。

写真(右):香港上空を飛ぶ日本陸軍の川崎キ32九八式軽爆撃機:1941年12月25日,香港は陥落する。
全長: 11.64m、全幅: 15.00 m
全高: 2.90 m
主翼面積: 34平方メートル
自重: 2,349 kg
全備重量: 3,762 kg
発動機: 川崎九八式850馬力ハ9-II乙液冷V12気筒エンジン
最高速度: 423 km/h
航続距離: 1,220km
上昇限度: 8,900 m
乗員: 2名
兵装: 7.7ミリ機関銃2丁
爆弾搭載量:450kg


・1941年12月6日午後 インドシナ半島南端を西進する南遣艦隊は 触摂中の英哨戒偵察機に対空射撃を行っている。そして、旗艦の重巡洋艦「鳥海」に座乘する司令長官小澤治三郎中将は 無線封止を破って、南部仏印(インドシナ南部のフランス植民地)に展開中の麾下の航空部隊に撃墜を命じた。
・菅原道大陸軍大将率いる第三飛行集団の中島キ27九七式戦闘機は上陸部隊を運搬する輸送船団に接近中の英国哨戒飛行艇を撃墜した。
・中国の上海では共同租界に武力進駐開始した。
・マレー半島(現マレーシア)コタバル(Kota Baru)では南遣艦隊が上陸支援のため陸上を巡洋艦搭載の20センチ砲などで砲撃している。

アメリカもこれらの情報を英国から入手しているはずで、暗号解読の状況とあわせて、日本の攻撃が差し迫っていることは容易に予想できた。しかし、これらの攻撃は、宣戦布告以前のものであり、「騙まし討ち」である。その上、イギリスに対しては 宣戦布告は用意していない無通告攻撃である。日本の同盟国のタイ王国とは、開戦するつもりはなかったが、マレー半島への攻撃の意図を隠蔽するために、上陸(攻撃でなく進駐)を(事実上)事前に通告せずに行ったため,タイと日本軍との戦闘も起こっている。

騙まし討ちは、真珠湾だけではない。2時間前(但し現地時間は12月8日で1日遅れる)に、マレー半島東岸(英国植民地のマレーとタイ王国)複数箇所に日本陸軍が上陸し、シンガポール攻略作戦を開始している。

1941 年 12 月 8 日午前 3 時 20 分(東京時間)、航空母艦より飛び立った日本機は真珠湾を空襲し、碇泊中の戦艦5隻を撃沈する。しかし、それよりも以前、いやそれどころか、対米最後通牒の予定伝達時間よりもよりも 45 分も以前(午前 2 時 15 分)に、マレー半島東岸(英国領マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊が上陸している。こうなると「太平洋戦争が真珠湾攻撃ではじまった」という通説(俗説)も誤りである。当然、日本は、アメリカに宣戦布告はしていない---。それどころか、どの国に宣戦布告することもなく、和平交渉に熱心なふりをして、世界を騙し、突如として卑怯な攻撃を仕掛けてた(と見なされている)。

写真(右)1943年5月1日、ワシントン州プーゲットサウンド海軍工廠で修理・改装されている戦艦「テネシー」Tennessee (BB-43);ハワイ諸島のオアフ島真珠湾で撃沈された戦艦のうち,廃棄されたのはオクラホマとアラバマの2隻だけ。撃沈され残り3隻の戦艦は修理され,陸上砲撃に活躍している。
戦艦「テネシー」Tennessee (BB-43)の籠状マストは撤去され,四角い大型の艦橋に改装され,レーダーなど電子通信機器が装備された。Title:USS TENNESSEE (BB-43) Caption:USS TENNESSEE (BB-43) at Puget Sound Navy Yard, 1 May 1943, showing various radar antenna. Description: Catalog #:NH 64663 Copyright Owner:Naval History and Heritage Command Original Creator: Original Date:Sat, May 01, 1943 .
写真はNaval History and Heritage Command NH 64663 USS TENNESSEE (BB-43)引用。




ルーズベルト大統領は、1939年9月に勃発した欧州対戦には、「米国の若者を他国のために派兵し殺すようなことはしない」と公約していた。もちろん、武器を英国に貸与する、海軍部隊を英国輸送船団の護衛につかせるなどの反ドイツ的行動をとっていた。また、1940年には50隻もの駆逐艦を米国に貸与しているし、護衛中の米国艦船が(ドイツ潜水艦Uボートから英国艦と誤認され)撃沈され、米国人乗員が死亡したこともあった。それでも、欧州大戦に参戦せず中立を守ってきた米国の世論は、孤立主義というにふさわしかった。それが、1941年12月11日ドイツの対米宣戦布告で、一気に覆されてしまう。米国国民も、「日本とドイツは世界を征服しようとしている」というプロパガンダを信じてしまう。なんといっても、日本とドイツは、中立だった米国に進んで先制攻撃を仕掛けたのだから。日本はアジアに大東亜共栄圏、ドイツは欧州支配と東欧・ソ連に東方生存圏をつくるだけでも精一杯だったのに、南北アメリカ、オーストラリアを含む世界を支配しようと大戦争を仕掛けてきた、このように「連合国」の国民は信じることになり,厳しい動員にも積極的に戦争協力するのである。

◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,真珠湾攻撃についても詳述しました。
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