◆東京初空襲と山本五十六海軍大将暗殺の検証 ◇ 4月18日の二つの報復
写真(左):日本本土空襲をするB-25爆撃機を搭載した航空母艦「ホーネット」;真珠湾空襲から4ヵ月後,1941年4月18日に,米軍陸軍航空隊所属のB-25爆撃機16機が,東京,名古屋,神戸の市街地を空襲。これは,真珠湾先制テロ攻撃に対する報復で,民間人殺害を躊躇しない都市幣別爆撃である。真珠湾の報復として,4ヶ月後の1942年4月18日,米機16機が東京,名古屋,神戸など日本本土を初空襲。
Title:Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description:View looking aft and to port from the island of USS Hornet (CV-8), while en route to the mission's launching point. USS Vincennes (CA-44) is in the distance. Several of the mission's sixteen B-25B bombers are visible. That in the foreground is tail # 40-2261, which was mission plane # 7, piloted by 2nd Lieutenant Ted W. Lawson. The next plane is tail # 40-2242, mission plane # 8, piloted by Captain Edward J. York. Both aircraft attacked targets in the Tokyo area. Lt. Lawson later wrote the book Thirty Seconds over Tokyo. Note searchlight at left. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #:NH 53293
写真(右):日本軍の捕虜POWとして連行されたドーリットル空襲部隊の爆撃機搭乗員;米爆撃機16機は,日本爆撃後,中国に逃避。しかし,15機は,空中で機外に脱出(パラシュート降下)か,不時着で,無事に中国に着陸した爆撃機は1機もない。中国で不時着し日本軍の捕虜になった搭乗員が8名いる。捕虜は,飛行機で日本に連行され、将校は民間人虐殺の咎で処刑。
写真(右):1942年4月18日、太平洋上、アメリカ海軍正規空母「ホーネット」USS Hornet (CV-8) からノースアメリカンB-25 B双発陸上爆撃機で発進に日本本土を空襲したジェームズ・ドーリットル (Brigadier General James H. Doolittle)准将(1943年撮影);日本本土を空襲した時は中佐だったが、1942年4月18日に日本本土空襲を成功させたことで、1943年には准将にまで特別に昇進している。この功績を称えると共に、アメリカ軍の航空兵の志願を募るプロパガンダ・ポスターにも登場した。
Title: Brigadier General James H. Doolittle, USAAF
Description:Poses beside an Army Air Forces recruiting poster alluding to his April 1942 bombing raid on Japan. Photograph was taken circa 1943. Official U.S. Air Force Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command:
USAF K-102 Brigadier General James H. Doolittle, USAAF 引用。
◆『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。ナチ党の初期のポスター、社会民主党の反ナチポスターから、投票所の写真なども掲載しています。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールにゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
真珠湾攻撃の研究の続編です。真珠湾攻撃をした日本(いわば騙まし討ちをしたテロリスト),真珠湾攻撃を計画した戦略家(いわばテロの首謀者)への報復が始まります。米国を中心に、中国、ソ連、欧州の視点で検証していますので、日本における評価とは全く違っていることをご承知置きください。
1.日本海軍によるハワイ諸島オアフ島の真珠湾奇襲攻撃では,3500名以上のアメリカの軍人と民間人が死傷した。そこで,日米交渉の最中に、突如「騙まし討ちの先制テロ攻撃」をした日本人に対して憎悪が高まり、日本人に報復せよとのアメリカの世論が高まった。それまで、第二次世界大戦に参戦していなかったアメリカだったが、この日本軍の騙まし討ちに怒り心頭に達し、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの要請を受けて、連邦議会は絶対的多数を以て、日本に対して宣戦布告を行った。
写真(右):1941年12月7日,真珠湾攻撃に向かう航空母艦「赤城」の零式艦上戦闘機;1941年12月7日オアフ島真珠湾に浮かぶフォード島航空基地を,日本海軍航空隊は真っ先に銃爆撃した。
真珠湾攻撃については、(日本の)戦果・(米国の)被害を扱う場合、日本では、戦艦5隻撃沈など艦船撃沈を大戦果とし、被害は航空機30機弱、特殊潜航艇5隻としている。
真珠湾に攻撃に向かう日本海軍の愛知九九式艦上爆撃機:第一航空艦隊旗艦の航空母艦「赤城」から250kg通常爆弾を抱いて,真珠湾空襲した。
真珠湾の大戦果はラジオ放送もされた。
「戦艦5、給油船1を撃沈、戦艦3、軽巡2、駆逐艦2を大破、戦艦1、乙巡(軽巡洋艦)4を中破、航空機450機炎上、撃墜14機,撃破多数、格納庫18棟を炎上または破壊」
他方,米国では,真珠湾攻撃で殺害された犠牲者2400名に最大限の敬意を払っている。正確に言うと,犠牲者というよりは,英雄の扱いである。米軍兵士は,正々堂々とした闘いでは,負けるはずがない。しかし,日本人が平和のオリーブの枝を差し出しているので,それを信じた。なのに騙まし討ちで背後から刺された。
米国では,真珠湾攻撃の死傷者氏名年齢一覧、真珠湾攻撃の民間人殺害者名簿、死傷者氏名階級一覧など、人名録が多数作成され、現在も公開されている。
ホノルル郊外の真珠湾にある戦艦アリゾナの残骸は、1962年に国営「アリゾナ・メモリアル」に指定された。これは,米国版「靖国神社」であり,英霊の精神を偲ぶ聖地である。キリスト者の死後に,死者は,神や仏にはならないし,祭礼の対象にもならない。しかし,彼らの精神は,敬われる。
写真(右):1941年12月7日以降、ハワイ諸島真珠湾で日本海軍機により撃沈された戦艦「アリゾナ」USS Arizona (BB-39);6隻の空母から雷撃機を中心とした第一波180機以上が真珠湾空襲に飛び立った(12月7日0555)。第二波は、急降下爆撃機を中心とした160機で0705に発進。
Description:USS Arizona (BB-39) sunk and burning after the Japanese attack, 7 December 1941. Her forward magazines had exploded when she was hit by a Japanese bomb, resulting in the collapse of structure below her two forward turrets and superstructure. The tug Hoga (YT-146) is alongside, fighting fires on board the wrecked battleship. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. 写真はNaval History and Heritage Command:
80-G-32485 Pearl Harbor Attack引用。
日本軍にとっては,軍人の命と引き換えに,艦艇,輸送船,戦車を撃破すれば大戦果である。しかし,米軍にとっては艦艇など補充のきく物的損害よりも,人命の損失が痛手である。これは,次のような理由からである。
写真(右):ハワイで銃撃された民間の乗用車;赤十字をつけた救急車もオアフ島で銃撃された。この他,乗用車に乗った民間人3名も,日本機に銃撃され殺害されている。真珠湾攻撃で日本人は,無辜の米国民間人40名を殺害した。「ジャップによる騙まし討ちで米国市民・軍人2300名以上が殺された。死傷者は3500名以上。」真珠湾攻撃を米国の反日プロパガンダの流儀で表現するとこうなる。
1)民主主義国では,世論,議会の影響力を無視できないので,それに配慮した戦略・戦争指導が行われる。息子を失った母親たちが,戦争批判を始めたら,政府・軍の高官は,その地位・権威を失う危機に瀕する。
2)高所得で人権が保護されている国に死傷者がでれば,医療費,葬儀費用,賠償額,保険金,遺族年金からみて,物的損失よりも高くつく。政治的にはもちろん,経済的にも一国に最も大きな打撃を与えるのが,死傷者の発生である。(だから現在のテロは人を狙う)
3)真珠湾攻撃の日米の人員被害・艦艇被害一覧からみると、日本海軍航空隊の空襲は,爆撃と魚雷攻撃[雷撃]によって、戦艦5隻撃沈など撃破12隻以上の大戦果を上げている。さらに,敵国軍人2300名以上を殺傷できた。米国に与えた人的被害は,死傷者(死亡と重傷者の合計)3500名である。日本では敵をこれだけ殺傷ても戦果とは認識していない。しかし,米国では物的被害以上に、人的被害を重視し,人命を奪った卑怯なテロリススト日本人を敵として憎んでいる。
写真(右):1942年2月13日、ハワイ諸島真珠湾で日本海軍機による空襲をうけた戦艦「カリフォルニア」修復作業;真珠湾に停泊していた米海軍の戦艦5隻は撃沈された。しかし,撃沈された戦艦のうち3隻は,引揚げられ,戦列に復帰している。つまり,真珠湾攻撃による戦艦損失は2隻である。Description:Floating crane removes the sunken battleship's "basket" mainmast, while she was under salvage at Pearl Harbor on 13 February 1942. Collection of Vice Admiral Homer N. Wallin, USN(Retired). Official U.S. Navy Photograph, Naval History and Heritage Command Collection. 写真はNaval History and Heritage Command:
NH 55038 Salvage of USS California (BB-44)引用。
日本は,民間人、一般市民を標的にしていなかったことを武士道に沿ったもののように主張する。実際,都市としてのホノルルの爆撃は,作戦計画にはなかった。しかし,日本の新聞では「ハワイ海戦」における「ホノルル爆撃」として報道された。メディアの統制が,完備していない証拠である。自ら民間人を攻撃していることを,世界に向かって公示したのだから。
写真(右):1941年末、ドゥーリットル空襲に参加することになるアメリカ海軍航空母艦「ホーネット」USS Hornet (CV-8);排水量2万トン,速力32.5ノット,搭載機90機。航空母艦「エンタープライズ」も参加したが,護衛任務だったので,日本空襲部隊のB-25爆撃機は「ホーネット」にのみ搭載された。航続距離は15ノットで12,500マイル。USS Hornet (CV-8)
Description:Photographed circa late 1941, soon after completion, probably at a U.S. east coast port. A ferry boat and Eagle Boat (PE) are in the background. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 81313 USS Hornet (CV-8)引用。
実際に,民間人が乗用車走行中に日本海軍機に銃撃され殺されている。赤十字の自動車も攻撃された。真珠湾攻撃では,米国人2400名の命が奪われているが,これには民間人48-54名が含まれている。真珠湾攻撃は、テロではないと日本人が言っても、民間人を殺害している以上、米国人には通用しない。負傷者は1178名で,民間人負傷者は38名、真珠湾攻撃の米国人の死傷者は3500名以上である。
写真(右):ジャップの野獣:「ジャップが世界をレイプしてきた道」「検閲なしの写真」。
民間人を標的としていない軍事目標への攻撃であり、真珠湾攻撃と9.11テロとは全く異なる主張しても,真珠湾攻撃で「民間人を殺害」している。このような米国の真珠湾攻撃の評価が生まれた理由,背景こそ,日本人にとって検討に値するのではないだろうか。
それまで,米国は,孤立主義の立場で,ポーランド・フランスはもちろん,英国をも攻撃したドイツにすら宣戦布告していない。しかし,真珠湾攻撃は,米国議会に,対日宣戦布告を決意させ,日米開戦に導いた。そして,米国政府が,国民を大規模に動員することを可能にした。真珠湾攻撃の意味としては,この点が最も重要であろう。
真珠湾攻撃が米国に与えた影響の第一は,(植民地ではなく)米本土の民間人80名以上を死傷させ、軍人も合わせて3500名もの死傷者を出したことで,これをもって「卑怯なテロ」という(米国による)判定が下る。2400名の命を奪った日本。民間人の乗った乗用車も銃撃して,米国人3名を殺害した日本。真珠湾攻撃の死者の半分(1177人)は、戦艦アリゾナの撃沈に伴うもので「軍艦沈没」という戦闘による。しかし、結果として、民間人も含めて多数の人命を奪った「卑怯なテロ行為」として非難された。
写真(右):ハワイ攻撃の立案者,連合艦隊司令長官山本五十六;ハワイの米艦隊を撃滅し,米国の戦意喪失を狙ったという。1919-23年ハーバード大学に学び,1925-28年駐米日本大使館付武官米国。知米派と見られていた。1943年4月18日,米軍陸軍航空隊は,暗号解読により,戦闘機で待ち伏せ攻撃し,山本五十六大将の搭乗機を撃墜,暗殺に成功する。真珠湾の仇討ちである。
真珠湾攻撃から1週間たつと,日本では「ハワイ海戦」で大戦果を挙げたと,メディアで大々的に宣伝する。新聞には「米太平洋艦隊全滅」の見出しが躍り,国民は強い(と思われていた)米国に勝ったと大喜びする。その中で,ハワイ攻撃を立案した連合艦隊司令長官山本五十六大将が,高く評価され,英雄として扱われる。日本海軍も,日本海開戦に勝利した東郷平八郎提督と同じく,山本提督を海軍の英雄となるように,喧伝する。
山本提督は,1919-23年ハーバード大学に学び,1925-28年駐米日本大使館付武官米国。知米派と見られていた。1939年の連合艦隊司令長官に就任する前から,日独伊三国軍事同盟に反対しており,日本軍の中でも空軍力をもっとも重視した将軍であった。また,日米開戦にも懸念を表明するなど,日本海軍の英雄,日本の逸材という評価も得ている。外国人からも,巧妙なハワイ真珠湾攻撃作戦を立案,実施した山本提督は,軍人,戦術家として評価されている。
しかし,真珠湾攻撃によって米軍に大損害を与え,大敗させた山本五十六大将は,米国では憎むべき敵である。「先制テロ攻撃の首謀者」であれば,「屈辱の日」の恨みを晴らすためにも,殺害なければならない。米国でも日本の名将として尊敬されているという日本の主張は,少なくとも当時は当てはまらない。
写真(右):1937年中国人の聖地五台山を蹂躙する日本兵;「騙まし討ちの先制攻撃」以前から、中国におけるう日本の侵略、残虐行為がLifeなど欧米のメディアに大きく取り上げられ、反日感情が高まっていた。真珠湾攻撃にかかわらず,米国民は日本人を嫌っていたから、真珠湾によって反日感情が生まれたという表現は適切ではない。
山本五十六提督が,米国に長らく滞在した知米派であっても,米国を騙すつもりで,親交を深めていたスパイであり,裏切り者である。米国では,このように決め付けられてしまったようだ。現在でも,戦略や太平洋戦争に通じている人物の一部が,敬意を払っているに過ぎないのではないか。日本語の本やwebでは,米国でも尊敬されているように述べているが、ハワイ真珠湾攻撃という和平交渉中の騙まし討ちを計画し、実行した罪は、万死に値する。これが、当時の平均的名米国人の山本五十六や日本軍指導部に対する感情であろう。
日本は10年前の満州事変以来、米国の掲げる中国の機会均等に対して、意義を唱えていた(と看做され)、中国を混乱に陥れて、中国と米国との貿易、投資に悪影響を与えていた。
また、「南京大虐殺」として有名なように、日本軍の中国における残虐行為、すなわち殺人、斬首、暴行、略奪、放火、破壊などは、米国で広く宣伝されていた。これは、マスメディアや政府による反日プロパガンダが、1930年代初頭から徐々に広まり、1937年の盧溝橋事件、第二次上海事変、南京事件以降は、日本の中国侵略を糾弾していたためでもある。
写真(左):対米戦争を開始した東條英機首相を卑下したような日本兵のポスター:「軍務についている人への贈答」「もしも日本兵に会ってしまったら---」「ロープをそいつの首に巻け。ロープの端を握って,引っ張れ。ヒック!」。
1931年満州事変以降、中国侵攻には一切宣戦布告はしていない。中立国の米国から軍需物資を輸入するためにも、戦争ではなく「事変」として扱われたのである。しかし,日中は全面戦争に突入しており,貿易取引や輸出規制などの観点から,法的には戦争ではないとしているだけである。事実上は,宣戦布告のない戦争であると誰もが知っていた。
ハワイ真珠湾攻撃の始まる前から、日本は,宣戦布告なく一方的に先制攻撃を仕掛ける好戦的な軍事国家である,捕虜や機民間人の保護を謳ったジュネーブ条約に加わらない野蛮な国である,という評価がされていた。
騙まし討ちや卑怯な日本人という評価は、真珠湾攻撃前から醸造されていたといえる。
1941年12月7日0755の真珠湾空襲については、12月1日の昭和天皇陛下ご臨席の御前会議で,日米開戦ともに最終決定していた。したがって、ハワイ真珠湾攻撃を隠すために、1週間,偽りの日米交渉を続けように装っていたことになる。これは「握手するそぶりをして、後ろに匕首を突き出す準備をしている」騙まし討ちそのものともいえる。
ポスター(右):Remember Pearl harbor「星条旗は逃げ出さない」:真珠湾攻撃のさなかにも星条旗が掲げられた。このように,我々は毅然とした態度で,勇敢に戦う。これからは反撃,報復のときだ。
テロには報復せよ,「ならず者国家」を倒せ,として,米国の連邦議会では,真珠湾攻撃の翌日,1941年12月8日に,日本へ宣戦布告する。これは,反対僅か1票で可決された。反日プロパガン流に言えば,野獣には,話し合いは通用しない。米国人を殺害しに来たテロリストは,殲滅するしかない。
⇒真珠湾攻撃の研究:「対米英宣戦布告・騙まし討ちのテロ先制攻撃」について詳しく読む。
真珠湾攻撃は,米国人は日本人に対する憎悪を一気に高めた。報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化された。米国本土に住んでいる日系人を(米国籍を取得していようと),財産没収の上,強制収容所に隔離するのも当然だ---,と米国人は考え,実行する。
日米和平を望まないのに,偽りの交渉を担当してきた日本に対して,米国は憎悪を抱き,復讐しようとする。米国政府も,実は戦争準備のため,外交交渉を時間引き延ばしと考えていたが,そんなことは国民や議会には黙って隠し通している。米国政府・メディアによる反日プロパガンダも展開される。ハワイ真珠湾攻撃が「宣戦布告無しの先制攻撃」であることは(事実?)明白だ。
「卑怯なやり方で、残虐行為を働くジャップは、人間ではない。ケダモノだ。テロリストどもは,殲滅しなくてはならない」と考えた。「いいジャップは,死んだジャップだけだ」と。
写真(右):ハワイ方面の海軍最高司令官キンメル提督(Admiral Husband Kimmel:右)と陸軍最高司令官ショート中将(Lt. General Walter Short:左);二人の司令官は,真珠湾奇襲後に設置された調査委員会で批判を一身に受け、真珠湾の大損害の責任を取らされ,罷免されてしまう。名誉が復権されたのは、戦後しばらくしてからだった。写真中央は,英国軍のマウントバッテン卿(Lord Louis Mountbatten)卿。後に,ビルマ・インド方面の最高司令官として,日本軍と戦うことになる。
ハワイ真珠湾攻撃で殺された米国人は英雄として遇される(現在では真珠湾体験者が英雄扱いされる)。戦艦アリゾナの残骸は、1962年から国の記念物・記念館「アリゾナ・メモリアル」として運営・管理されている。アリゾナ・メモリアルの年間訪問者は140万人で、うち70%が米国人である。訪問者は事前に真珠湾攻撃に関するビデオを見させられ、その後、モーター・ランチ(小型舟艇)で戦艦の残骸に「巡礼」する。
写真(右)戦後、真珠湾空襲で爆発、撃沈したアメリカ海軍戦艦「アリゾナ」は、「アリゾナメモリアル」USS Arizona Memorialとしてプラットホーム付きの国立記念碑になった。;1941年12月7日の空襲でそのまま着底した船体がメモリアルとなり、乗員の遺体もそのままに聖地とされた。消火活動をした勇敢な米兵たちの構図とともに、勇敢に戦いつつも和平交渉を続けている最中、卑怯な騙し討ちによって殺された勇士たちと見なされた。
Title:USS Arizona Memorial Collection
Caption:UA 54.01.01 - "The Aloha", the naval station's largest tour board departs the USS Arizona Memorial
Description:Collection donated by the Fourteenth Naval District at Pearl Harbor regarding the USS Arizona Memorial. Photos include various view of the memorial (including construction), as well as listings of those who died aboard the ship, Marine guards, visitors to the site, and various ceremonies.
写真はNaval History and Heritage Command: UA 54.01 USS Arizona Memorial Collection引用。
日本の旅行社は,アリゾナ・メモリアルに日本人団体観光客をほとんど連れて行かないようだ。アリゾナ・メモリアルでは「ジャップは中国を侵略し、残虐行為を働いただけでは満足せず、世界制覇をたくらんだ。そこで、世界制覇の邪魔になる正義国アメリカ合衆国を騙まし討ちした。だから、米国は自由を守る正義の戦いを開始したのである。」との要旨が伝えられる。日本の戦記が話題にするような事柄は関係ない。
・真珠湾攻撃はタラント空襲の真似か→正義に英国軍のファシスト攻撃とはちがう。
・真珠湾の浅い海面を疾走できる魚雷の開発→正義と悪が論じられている場で、技術的な課題は無関係である。
・真珠湾の第二次攻撃をすべきだったか→ハワイに日本軍が上陸したとの報告までしていた米軍の慌てぶりは伝えない
真珠湾攻撃に関して、日米の視点が全く異なることに留意すべきであろう。
国立記念物「アリゾナ・メモリアル」では、戦死者は無駄に命を落としたのではなく、任務を全うした英雄として、立派な石版に氏名が刻印され、尊敬、追悼されている。
1,177 Officers and Men were lost with the ship and remain on duty inside her rusting hulk.「1177名の将校と兵が船とともに沈んだが,残された船体で彼らは英霊として義務(任務)を果たしている」
写真(右):ルーズベルト大統領の1941年12月8日の議会演説:Pearl Harbor Address to the Nationでは,議会に対日宣戦布告するように要請した。これを受けて,連邦議会は,反対1票で,対日宣戦布告をした。連邦憲法の下では,宣戦布告の権利は,大統領にではなく,議会にある。
真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説は、演説巻頭で「屈辱の日」の表現が使われている。(→演説音声を聞く)。
"Yesterday December 7 1941-a date which will live in infamy-the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan. "
実際には、米国は1937年7月の日中全面戦争以来,日本の中国侵略を非難し,1939年7月に日米通商条約を廃棄した。1941年3月には米国は武器貸与法を成立させ,「米国の防衛に不可欠と米国大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を大統領に与えるもの」とされた。武器貸与法によって,英国,中国への大規模な信用供与,それに基づく武器輸出が認められた。
1941年7月末-8月,米国は日本資産を凍結し,日本の在米不動産・親友資産を海外に移転できなくさせ,対日石油輸出も禁止する。そして,9月末に,対日鉄屑輸出を禁止する。
他方,1941年8月9-13日には,米英の政府と軍の高官による大西洋会談が,カナダ(英国連邦の一員として対独参戦している)のハリファックス近くのニューファウンドランド島沖で開催された。そして,1941年8月14日,ルーズベルト大統領と英国首相チャーチルは,大西洋憲章(Atlantic Charter)を米巡洋艦オーガスタ艦上から世界に公表し、米英共同声明として,領土不拡大,国境維持,反ナチス・ドイツの立場を強調した。米国はまだ中立国で参戦していなかったが、事実上,英国との同盟を結んでいたに等しかった。
写真(右):雷撃機TBF「アベンジャー(復讐者)」のパイロット,ジョージ・ブッシュ(大統領);1944年撮影。「復讐者」を操縦していたブッシュは,撃墜されたが,潜水艦に救助され九死に一生を得ている。
後の米国大統領ジョージ・ブッシュは,太平洋戦争に雷撃機搭乗員として日本と戦った。硫黄島付近で撃墜されたが,米潜水艦に救助され,真珠湾に送られた。彼の搭乗した2人乗り雷撃機が,グラマンTBF「アベンジャー」Avenger(復讐者)である。真珠湾攻撃の後にアベンジャーが実用化されているので,明らかに「真珠湾テロへの復讐者」の意味である。「真珠湾の復讐者」のジュニアも米国大統領に就任した。
「真珠湾を忘れるな」とは,騙まし討ちのテロを行った日本人に報復せよという意味である。報復は,民主主義と自由を守るための「正義の戦争」とみなされた。したがって,米国の対日戦争は,日本が降伏するまで続けると,大統領,議会,国民は当然のように考えた。正義は勝つ。米国人は,日本との戦争に負けると思ったことは,(緒戦で敗北しても)一度たりともない。
写真(右)1941年2月―12月、ハワイ諸島オアフ島司令部、 太平洋艦隊司令官(Chief, U.S. Pacific Fleet)のハズバンド・キンメル(Admiral Husband E. Kimmelhis)提督;太平洋艦隊参謀長ウィリア・スミス(Captain William W. Smith)大佐など太平洋の米国海軍の指揮官の頂点に立つのがキンメル大将である。彼もハワイ軍管区の陸軍司令官ショート中将も真珠湾攻撃に警戒を怠ったとして,罷免されてしまう。予期せぬ大損害に,大統領や海軍長官,陸軍長官が部下に責任を押し付ける形になった。つまり,日本の攻撃は予期できたが,真珠湾が攻撃目標となるとはわからなかったし,大損害も予想していなかった。
Description:Photographed at his Pearl Harbor headquarters, circa February-December 1941. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command:
NH 82800 Admiral Husband E. Kimmel, USN, Commander in Chief, U.S. Fleet and Pacific Fleet 引用。
日本の先制攻撃によって,甚大な被害,特に多数の人命が失われたが、米国指導者として,情報収集能力,危機管理能力が欠如しているともみなさる。そうなれば、世論や議会から大きな非難をうける。先制攻撃は,米国参戦理由になるので好ましいが,先制攻撃の被害は,米国の政治的,軍事的指導者にとっては,個人的な責任となる危険があった。
ルーズベルト大統領が,真珠湾攻撃を知っていながら,放置したという説は,被害縮小のための対策を指示していないことから,容易に反証できる。真珠湾の大被害,人命損失の責任を回避したかったFDR,米陸海軍の最高司令官たちは,ハワイにおける最高司令官,すなわち太平洋艦隊司令長官キンメル大将,陸軍部隊司令長官ショート中将を罷免する。これは,大損害の責任を転嫁したもので,キンメルとショートへの名誉毀損に当たる。
キンメル大将,ショート中将は,後に名誉毀損で訴え,戦後(死後),名誉は回復された。しかし,軍事的失敗に対する責任追求は,米軍に限らず,英国軍も厳しいし,ソ連軍,ドイツ軍では容赦がない。それに比較して,日本軍は厳正な軍紀を誇っていたが,軍高官に対する責任追及,処罰は甘かった。階級序列,陸軍大学・海軍大学の卒業成績の序列が,昇進や重要ポストの任命の基準だった。ソロモン諸島・トッラク基地など南東方面で失敗続きだった日本海軍の作戦首脳部、山本大将、草鹿中将、南雲中将、宇垣中将、黒亀大佐、源田中佐など誰一人として、敗北の責任を押し付けられていない。米軍における賞罰の厳格化は、日本における和の統帥とは、対照的である。
写真(右)ハワイの陸軍最高指揮官ウェルター・ショート中将(Lt. Gen. Walter C. Short);ハワイの米国陸軍の指揮官の頂点に立つのはショート中将だった。彼も海軍司令官キンメル同様,陸軍航空隊の飛行機100機近くを完全に破壊されるなど,真珠湾空襲に警戒を怠ったとして,罷免された。
1941年11月25日の米国ワシントンのホワイトハウスでの首脳会議では,日本軍の先制攻撃の目標が議論され,真珠湾からすべての航空母艦と半数の航空機を移動することが賢明であると判断した。そして,大統領は,軍へ戦争警報を発するように命じた。
「これは戦争警報である。日本軍による攻撃が数日以内に予測される。-----日本軍は,フィリピン,タイ,マレー半島のクラ地峡か,ボルネオ島へ上陸を敢行するであろう。」このような指令は、日本の暗号解読によってもたらされた情報に基づいている。
当時ハワイにいた太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将,ハワイ方面陸軍司令長官ウォルター・ショート中将の陸海二人の司令官も,この戦争警報を11月25日に受け取っており,は,全航空母艦2隻を護衛部隊とともにハワイから(日本軍輸送船団に迎撃できる)西方に移動した。ハワイ西方のウェーキ島,ミッドウェー島は孤立しており,そこに日本軍が攻撃を仕掛けたり,攻略のための部隊を上陸したりすることは十分に予測できたからである。ハワイ諸島の真珠湾から日本軍侵攻方向に向かって,空母エンタープライズ、空母レキシントンは別々に西進した。つまり,米軍は日本の攻撃が差し迫っていることを察知して,米国の空母部隊2隊を,日本艦隊や輸送船団の迎撃に向けた西進させたと判断できる。
米国は、単艦の空母を駆逐艦で護衛した分散型用兵であり、多数の空母を一団とした機動艦隊はなかった。太平洋方面の航空母艦は,エンタープライズ,レキシントン,サラトガの3隻であるが,サラトガはサンディエゴ海軍基地で改装中であった。そこで,当時,真珠湾基地から,西方迎撃に向かった米空母は2隻である。米空母は,日本軍が進撃してくるであろう日本の東方海上に向けて,迎撃体制に入った。
真珠湾空襲で炎上するPBYカタリナ飛行艇;1941年12月7日の空襲から陸上に引き上げ,消火活動をする勇敢な米兵たち。この同じ飛行艇が,オアフ島の周囲を哨戒し,国籍不明潜水艦に発炎弾を投下して,駆逐艦ウォードに居場所を教え,さらに爆雷を投下した。
Description:Aircraft wreckage and a badly damaged hangar at Naval Air Station, Kaneohe Bay, Oahu, shortly after the Japanese air attack. Plane in the foreground is a PBY of Patrol Squadron 12, marked 12-P-3. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command.
写真はNaval History and Heritage Command:Naval History and Heritage Command:
NH 97430 Pearl Harbor Attack引用。
命令を受け,空母エンタープライズと護衛部隊の巡洋艦3隻,駆逐艦9隻は,W.ハルゼー中将に率いられ,ウェーキ島方面に,空母レキシントンと巡洋艦3隻.駆逐艦5隻はミッドウェー島方面に,別々に,真珠湾を出航した。この西方への進撃は,ハワイ西方海上で,日本軍を襲撃するための迎撃作戦である。
米軍は、航空母艦を退避させ温存するつもりであった,真珠湾攻撃を予知していて,真珠湾攻撃の損害を旧式戦艦の損失だけにとどめようとしたなど,ルーズベルト大統領の陰謀説が空想されている。「真珠湾攻撃陰謀説」は誤りである。米空母2隻は,護衛部隊を率いて,米国本土に向けて東方に退避したのではない。明らかに,日本に向け西方に進撃し,ウェーキ島方面とミッドウェ当方面で,攻撃してくる日本軍を迎撃する準備体制をとった。
写真(右)1942年5月4日、アメリカ海軍航空母艦「エンタープライズ」USS Enterprise (CV-6) 飛行甲板上の1機の SBD ドーントレス(Dauntless) 急降下爆撃機と5機のTBD-1デバステーター(Devastator)艦上雷撃機 ;アメリカ海軍は,空母を1隻ずつ分離して運用した。真珠湾攻撃がされていた時、空母「ホーネット」と同じく、前線基地の防備を固めるために、ミッドウェー島、ウェーキ島への艦上機の運搬している最中だった。したがって、ハワイでの攻撃に際して、真珠湾にはいなかった。
Description:An SBD Dauntless scout-bomber and five TBD-1 Devastator torpedo planes prepare to take-off from the carrier during operations in the south Pacific area, 4 May 1942. Note launching officer making arm signals in the lower left-center. Take-offs averaged one every thirty seconds. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-10151 USS Enterprise (CV-6) 引用。
?太平洋戦争開戦以前,米国は単艦で空母を運用しており,空母は戦艦を補助する艦艇として位置づけていた。したがって航空母艦は,海軍の主力ではない。
?航空母艦を「退避」させるなら,日本に接近する東方に航行するはずがない。真珠湾攻撃が予測される方向であるから(実際は北方から迂回攻撃)。日本軍が,ウェーキ島,グアム島,ミッドウェー島を攻撃する場合に,航空攻撃を加える,あるいは艦隊来航により日本軍上陸部隊(輸送船からなる)に威圧感を与え,退避させることが,空母を西方(日本の東方海上)に向けて「進撃」あるいは「迎撃」させた理由である。攻勢防御,撹乱攻撃の準備のために,空母を日本に向けて西に航行させたのである。事実,日本軍は,開戦劈頭にウェーキ,グアム島を攻略し,ミッドウェー島を襲撃している。真珠湾攻撃部隊からも,帰路,援軍を派遣している。
真珠湾から米空母部隊を出航させ,ウェーキ島周辺で演習を行う,というのは,空母部隊移動の口実である。日本軍の攻撃(真珠湾攻撃ではなく)を暗号解読,情報分析によって察知していた軍指揮官としは,暗号解読の事実を日本に知られてはいけないし,米軍内部でも機密扱いである。そこで,日本軍の攻撃に備えた準備行動であっても,開戦していない以上,「演習」といったに過ぎない。
写真(右)1942年5月29日、真珠湾停泊中のアメリカ海軍航空母艦「ヨークタウン」USS Yorktown (CV-5) ;真珠湾空襲のときは,ハワイ西方に移動中だったが,敵艦を見ず。Title:USS Yorktown (CV-5)
Description:In Dry Dock # 1 at the Pearl Harbor Navy Yard, 29 May 1942, receiving urgent repairs for damage received in the Battle of Coral Sea. She left Pearl Harbor the next day to participate in the Battle of Midway. USS West Virginia (BB-48), sunk in the 7 December 1941 Japanese air attack, is being salvaged in the left distance. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-13065 USS Yorktown (CV-5) 引用。
日本軍を迎撃するかのような攻勢をとったのは,太平洋艦隊司令長官キンメル大将である。キンメル大将は,ハワイの警備隊にも,敵の攻撃が差し迫っていること,敵と思われる物体(潜水艦・航空機など)へは,即座に攻撃するように事前に警告していた。この事前警告を受けていた駆逐艦ウォードは,国籍不明の潜水艦に,躊躇なく砲撃し,航空機も爆雷を投下している。
米軍が攻撃したのは、日本海軍の小型潜航艇(二人乗り、魚雷2本搭載)である。大型2500トンの伊号潜水艦5隻が、各1隻の特殊潜航艇を甲板に搭載し、真珠湾近くで、発進させた。排水量1000トン以上を伊号潜水艦,500-1000トン未満を呂号潜水艦という。特殊潜航艇の発進目的は、真珠湾内の敵艦船の雷撃である。したがって、真珠湾「空襲」で日米が戦闘を開始したというのは誤りである。
米駆逐艦の砲撃、哨戒機の爆雷投下はもちろん、真珠湾の偵察を目的とした水上偵察機の発進、特殊潜航艇の発進は、空襲部隊の発進と同じく、作戦行動であり、敵対行動、攻撃そのものである。銃火を構えて進撃すれば,発砲しなくとも「攻撃」である。米国の領海内に侵入し,空襲部隊の攻撃を準備した段階で,戦争開始とみなすことができる。
写真(右):1944年6月、マリアナ沖海戦、アメリカ海軍軽空母「モンテレー」 USS Monterey (CVL-26)飛行甲板上のTBF「アベンジャー(復讐者)」雷撃機など艦上機を誘導する管制将校だったジェラルド・フォードGerald Ford(大統領);フォード大統領は、軽空母「モンテレー」USS Montereyに勤務していた。ブッシュ大統領は、アベンジャーの搭乗員だった。このアメリカ大統領の二人が、真珠湾の復讐者として、太平洋戦争でアメリカ海軍軍人として活躍した。さらに、三人目、ケネディ大統領は、ソロモン諸島方面で、魚雷艇PTの艇長として、日本人と戦った。
Title:Marianas Operation, June 1944
Description:TBM Avenger bombers prepare to take off from USS Monterey (CVL-26) to attack targets on Tinian, June 1944. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-432851 Marianas Operation, June 1944引用。
真珠湾攻撃の米国から見た評価は、次のようにまとめることができる。
?騙まし討ちの卑怯な攻撃である(宣戦布告なく,和平交渉を続けるそぶりをして,攻撃を仕掛けてきた)
?民間人を含むアメリカ人2400名の命を殺害したテロ行為である
?米国の本土を攻撃した(米植民地フィリピンや中国駐留米軍への攻撃ではない)
?アメリカ兵は(犠牲者も生存者も)は,我々のために勇敢に戦った英雄である(Aftermath: They died for you and me.)
真珠湾攻撃「12.7テロ」は、「9.11テロ」と米国側から見れば同じ文脈で、「屈辱の日」である。平和な生活を破壊する一方的な無差別攻撃は,断じて許されない。テロを図る「ならず者国家」には報復すべきである。テロリストは殲滅すべきである。
2.アメリカ陸海軍は,日本軍による真珠湾攻撃の敗北,「屈辱の日」の恨みを晴らすために,日本本土空襲・都市無差別爆撃という報復攻撃をかけた。
写真(右):真珠湾空襲の復讐に向かうアメリカ海軍航空母艦「ホーネット」と甲板に乗せた双発陸上爆撃機のB-25「ミッチェル」:米軍は,1942年4月に,日本本土空襲計画を決行する。
1942年4月18日ドーリットル空襲(Doolittle Raid)が、ハワイ真珠湾騙し討ちに対する報復として行われた。これは、第二次世界大戦中の空母による本格的空襲で、アメリカ軍は、内外にアメリカの対日反攻が始まったことを喧伝した。アメリカ陸軍航空軍の爆撃機は、本来、陸上の飛行場から離陸するが、この時は、アメリカ海軍の空母「ホーネット」から発進し、日本の東京、横浜、名古屋、神戸などを空襲し、爆弾を落とした。これは、日本本土に対する初めての爆撃である。それ以前、日中戦争で、中国空軍機が九州を空襲したが、この時投下したのは、爆弾ではなく、戦争反対のビラ空襲だった。アメリカ軍による日本本土初空襲は、その時の空襲部隊指揮官ジミー・ドーリットル中佐に因んで、ドーリットル空襲と呼ばれている。
写真(右):1942年4月、第16任務部隊(Task Force 16)ウィリアム・ハルゼー中将隷下 空母「ホーネット」(USS Hornet:CV-8)飛行甲板の空母艦長[右]マーク・アンドリュー・"ピート"・ミッチャー(Marc Andrew "Pete" Mitscher:1887-1947)海軍大佐とジェームズ・ドーリットル(James Doolittle,:1896-1993)陸軍中佐などノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機搭乗員たち。皮の飛行ジャケットを着ている。B-25ミッチェル双発爆撃機のエンジンには、カバーがかけられている。;B-25爆撃機16機全機は、飛行甲板に野晒しで係留されていたため、風雨の影響でエンジン故障が起きないように、エンジンカバーを掛けていた。
Title:Doolittle Raid on Japan, April 1942
Description: Lieutenant Colonel James H. Doolittle, USAAF (left front), leader of the raiding force, talks with Captain Marc A. Mitscher, USN, Commanding Officer of USS Hornet (CV-8), on board Hornet sometime before the 18 April 1942 launch of the raiding airplanes. Members of the Army Air Forces flight crews, and the wing of one of their B-25B bombers, are in the background. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-41190
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-41190 Doolittle Raid on Japan, April 1942引用。
写真(右):1942年4月、アメリカ海軍第16任務部隊(Task Force 16)旗艦航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板で発進準備をするノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機;重い陸上双発爆撃機を狭い空母飛行甲板から離陸させるために、優秀な搭乗員が訓練を受け、日本本土空襲のための特別訓練が施された。
Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: Army Air Forces B-25B bombers parked on the flight deck of USS Hornet (CV-8), while en route to the mission's launching point. The plane in the upper right is tail # 40-2242, mission plane # 8, piloted by Captain Edward J. York. Note use of the flight deck tie-down strips to secure the aircraft. Location is near the forward edge of the midships aircraft elevator. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53296
写真はNaval History and Heritage Command NH 53296 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
写真(右):1942年4月、第16任務部隊(Task Force 16)旗艦アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板で発進準備をするノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機;空母は本来飛行甲板下の格納庫に艦上機を収納する。しかし、陸上双発爆撃機のB-25ミッチェルは、サイズの上で格納庫には入らない。そこで、飛行甲板に駐機させたが、波浪で空母が動揺するので、B-25爆撃機は係留されている。ただし、飛行甲板に並べたために、初めに発進するB-25爆撃機の離陸可能な飛行甲板は短く、熟練した搭乗員でないと発進させることはできない。
Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: USAAF B-25B bombers tied down on the flight deck of USS Hornet (CV-8), while the carrier was en route to the mission's launching point. View looks aft from the rear of Hornet's island. The plane in the foreground is tail # 40-2203 (mission plane # 9). Partially visible at far right is tail # 40-2250 (mission plane # 10). Piloted respectively by Second Lieutenants Harold F. Watson and Richard O. Joyce, these B-25s attacked targets in the Tokyo area. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53426
写真はNaval History and Heritage Command NH 53426 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
写真(右):1942年4月、アメリカ海軍第16任務部隊(Task Force 16)旗艦航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板に駐機するノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機;空母「ホーネット」に後方右舷から接近してきたのは、アメリカ海軍駆逐艦「グウィン」(USS Gwin :DD-433)で、その遥か遠方にみえるのは、軽巡洋艦「ナッシュビル」(USS Nashville :CL-43)。陸上双発爆撃機16機を空母飛行甲板上に係留して日本本土に接近、日本諸都市を空襲後、中国にまで飛行し、そこに着陸する一方方向の1回だけの日本本土空襲だった。
Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: View looking aft from the island of USS Hornet (CV-8), while en route to the mission's launching point. USS Gwin (DD-433) is coming alongside, as USS Nashville (CL-43) steams in the distance. Eight of the mission's sixteen B-25B bombers are parked within view, as are two of the ship's SBD scout bombers. Note midships elevator, torpedo elevator, arresting gear and flight deck barriers in the lower portion of the photo, and 1.1 quad anti-aircraft machine gun mount at left. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53289
写真はNaval History and Heritage Command NH 53289 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
写真(右):第16任務部隊(Task Force 16)旗艦アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板で発進準備をするノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機;空母から発進させるための艦上機ではないので,優秀な搭乗員が集められ,特別空襲部隊が組織された。
Title: Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: USAAF B-25B bombers tied down on the flight deck of USS Hornet (CV-8), while the carrier was en route to the mission's launching point. The plane in the center (second from the camera) is tail # 40-2283. It was mission plane # 5, piloted by Captain David M. Jones, which attacked targets in the Tokyo area. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53425
写真はNaval History and Heritage Command NH 53425 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
写真(右):1942年4月、アメリカ海軍第16任務部隊(Task Force 16)旗艦航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板に駐機するノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機(後方から)とグラマンF4F-3「ワイルドキャット」艦上戦闘機;空母「ホーネット」飛行甲板にB-25 陸上双発爆撃機16機を係留して日本本土空襲を企図した。B-25 発進後、日本を空襲し、中国に飛行し、そこに着陸する。そこで、空母の帰路を配慮して、「ホーネット」にも護衛用のグラマンF4F-3「ワイルドキャット」艦上戦闘機を搭載していた。B-25中爆撃機の尾部には12.7ミリ0.5口径M2機関銃2丁を搭載している。しかし、飛行甲板が短いために、急遽、尾部銃座を撤去、軽量化して離陸しやすいように改造した。その際、尾部に機関銃が装備されているようにモップの柄を取り付け、偽装機銃とした。
Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: USAAF B-25B bombers and Navy F4F-3 fighters on the flight deck of USS Hornet (CV-8), while she was en route to the mission's launching point. Note wooden dummy machine guns in the tail cone of the B-25 at left. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53422
写真はNaval History and Heritage Command NH 53289 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
写真(右):1942年4月、第16任務部隊(Task Force 16)旗艦アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板に駐機するノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機;空母「ホーネット」に後方左舷から接近してきたのは、アメリカ海軍軽巡洋艦「ナッシュビル」(USS Nashville :CL-43)。機体後上方に12.7ミリ0.5口径M2二連装動力銃座を備えた陸上双発爆撃機16機を空母飛行甲板上に係留して日本本土に接近、日本空襲後、中国の飛行場に飛び着地する。1回だけの日本本土空襲で、政略的な意味が強かった。
Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: View looking aft from the island of USS Hornet (CV-8), while en route to the mission's launching point. USS Nashville (CL-43) is in the distance. Eight of the mission's sixteen B-25B bombers are visible on the carrier's flight deck. Aircraft at right is tail # 40-2250, which was mission plane # 10, piloted by 2nd Lieutenant Richard O. Joyce, which attacked targets in the Tokyo area. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53421
写真はNaval History and Heritage Command NH 53421 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
写真(右):1942年4月18日、北太平洋上、アメリカ海軍第16任務部隊(Task Force 16)旗艦航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板で発進前にノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機の防御用12.7ミリ0.5口径M2機関銃の弾倉を準備する搭乗員たち;爆撃機は、防御用の12.7ミリ0.5口径M2機関銃を装備していたが、狭い飛行甲板から発進するために、尾部機銃は下ろして、弾倉に込める弾薬も減らしたりして、重量軽減に努めたようだ。双発陸上爆撃機16機が、空母から全機無事に発進できたのは快挙だった。
Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: USAAF aircrewmen preparing .50 caliber machine gun ammunition on the flight deck of USS Hornet (CV-8), while the carrier was steaming toward the mission's launching point. Three of their B-25B bombers are visible. That in the upper left is tail #s 40-2298, mission plane # 6, piloted by Lieutenant Dean E. Hallmark. That in top center is tail # 40-2283. It was mission plane # 5, piloted by Captain David M. Jones. Both attacked targets in the Tokyo area. Lt. Hallmark, captured by the Japanese in China, was executed by them at Shanghai on 15 October 1942. Note the open flight deck bomb elevator in the upper right. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53423
写真はNaval History and Heritage Command NH 53423 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
写真(右):1942年4月18日、北太平洋上、第16任務部隊(Task Force 16)旗艦アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板で、ノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機が装備する防御用12.7ミリ0.5口径M2機関銃の弾倉を整備している。
Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: USAAF aircrewmen preparing .50 caliber machine gun ammunition on the flight deck of USS Hornet (CV-8), while the carrier was steaming toward the mission's launching point. Ammunition box in center is marked A.P. M2, Incndy. M1, Trcr. M1, indicating the ammunition types inside: armor piercing, incendiary and tracer. Note wooden flight deck planking, with metal aircraft tiedown strips in place of every eighth plank. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53424
写真はNaval History and Heritage Command NH 53423 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
写真(右):1942年4月18日、北太平洋上、アメリカ海軍第16任務部隊(Task Force 16)旗艦航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板から発進するノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機
Title:Doolittle Raid on Japan, April 1942
Description:An Army Air Forces B-25B bombers awaits the takeoff signal on the flight deck of USS Hornet (CV-8), as the raid is launched, 18 April 1942. Note Flight Deck Officer holding launch flag at right, and white stripes painted on the flight deck to guide the pilot's alignment of his plane's nose and port side wheels. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. .
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-41194 Doolittle Raid on Japan, April 1942 引用。
日本海軍空母機動部隊による真珠湾空襲は、アメリカ固有の領土の正規軍に対する奇襲攻撃であり,海軍艦船、航空機,人員に甚大な被害を与えた。このような軍事的敗北の意味でも「屈辱の日」である。勇敢なアメリカ軍将兵が,劣った日本人に負けるはずがないのに,大損害を被って負けた。なんとしても雪辱戦に勝たなくてはならない。そうしないと、膨大な国家予算を獲得してきたアメリカ海軍、アメリカ陸軍の面子は丸つぶれである。政治指導者としても,グアム島,ウェーキ島が陥落し,フィリピンも攻略されそうで威信を保つのは困難である。何とかして,日本に反撃し,世論にアメリカの強さを認めさせたい。
写真(右):1942年4月18日、北太平洋上、第16任務部隊(Task Force 16)旗艦アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板から発進したノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機
Title:Doolittle Raid on Japan, April 1942
Description:An Army Air Force B-25B bomber takes off from USS Hornet (CV-8) at the start of the raid, 18 April 1942. Note men watching from the signal lamp platform at right. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-41196 Doolittle Raid on Japan, April 1942引用。
アメリカ政府や軍の高官は,地位保全のためにも,真珠湾攻撃の「屈辱の日」とそれ以降の敗北を帳消しにできるような,大戦果を国民に示す必要があった。こうして,1942年1月初旬には,ルーズベルト大統領は,中国かアラスカ南のアリューシャン諸島から日本本土を爆撃できないかと考えていた。
写真(右):1942年4月18日、北太平洋上、アメリカ海軍第16任務部隊(Task Force 16)旗艦航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板から発進したノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機
Title:Doolittle Raid on Japan, April 1942
Description:USS Hornet (CV-8) launches Army Air Force B-25B bombers, at the start of the first U.S. air raid on the Japanese home islands, 18 April 1942. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-41197 Doolittle Raid on Japan, April 1942引用。
海軍作戦部のフランシス・ロウ(Francis Low)海軍大尉は,新型空母ホーネットを視察したときに,この空母に艦上機よりも長距離飛行が可能な陸軍双発爆撃機を搭載し,日本本土を空襲できるのではないかと考えた。そして,ワシントンの海軍本部のアーネスト・キングEenest King提督に,この革新的な空襲案の提案をした。キング提督の下では、5日間計画が練られ,実現可能であると判断され、すぐに部隊編成の準備が始まった。
写真(右):1941年4月、ドーリトル日本本土空襲作戦の決行前、アメリカ海軍航空母艦「エンタープライズ」USS ENTERPRISE (CV-6) に勢ぞろいした空襲部隊の士官たち;航空母艦「エンタープライズ」は、グラマンF4F「ワイルドキャット」戦闘機、SDBドーントレス急降下爆撃機などを搭載して、B-25B爆撃機を飛行甲板に搭載している空母「ホーネット」を支援し、対潜水艦哨戒や上空援護に当たった。
Title:Bombing Squadron Three
Caption:Pilots relax on board USS ENTERPRISE (CV-6), about the time of the Halsey-Doolittle Raid on Tokyo, April 1942. The squadron was embarked to replace Scouting Squadron Six, which had suffered heavy losses in the early war period; four of these men were in fact on temp duty from Scouting six. Front row (L-R): Ensign John Q. Roberts, USNR, Lieutenant Ralph W. Arndt, USN, Lieutenant De Witt T. Shumway, USN, Lieutenant Commander Maxwell F. Leslie, USN, Lieutenant Harold S. Bottomley, Jr., USN, Ensign John C. Lough, USNR. Back row (L-R): Lieutenant Junior Grade Gordon A. Sherwood, USNR, Ensign Roy M. Isaman, USNR, Ensign John C. Butler, USNR, Ensign John Bridgers, USNR, Ensign Robert M. Elder, USNR, Ensign Carl D. Peiffer, USNR, Ensign Charles S. Lane, USNR, Ensign Bunyan R. Cooner, USNR, Ensign Richard K. Campbell, USNR, Ensign Paul W. Schlegel, USNR, Ensign, Frank W. O'Flaherty, USNR, TDY from VS-6. Six of these men later had ships named for them: JOHN C. BUTLER (DE-339), JOHN Q. ROBERTS (APD-94), COONER (DE-172), LOUGH (DE-586), PEIFFER (DE-588) and O'FLAHERTY (DE-340).
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-431 USS Hornet 引用。
陸軍航空隊でもアーノルド司令官の下で,日本の大都市への爆撃計画が検討された。そのスタッフの一人がジェームズ・ドゥーリットル(James Harold ("Jimmy") Doolittle)である。彼は,1942年4月中旬までに空母「ホーネット」から飛び立つことができる長距離飛行可能な双発爆撃機を準備することに全力を傾けた。海軍には,単発(エンジン1基)の艦上機しかなく,日本を空襲するには機体の航続距離が足りない。そこで、より長距離飛行が可能な双発爆撃機を空母から発進させることのにしたのである。
写真(右):1942年4月8日、北太平洋上、第16任務部隊(Task Force 16)の1隻として、ドーリットル空襲に参加したアメリカ海軍航空母艦「エンタープライズ」USS Enterprise (CV-6) と護衛任務にあたったマハン級駆逐艦「ファニング 」USS Fanning (DD-385): マハン級駆逐艦「ダンラップ 」は起工1935年4月10日、進水: 1936年9月18日、就役1938年10月8日。 基準排水量1,500 トン、全長 104 m、ビーム 10.7 m、吃水2.8 m、最高速力 37 ノット、乗員 158名、兵装: 5インチ(127mm)38口径単装砲5基、21インチ (533 mm) 四連装魚雷発射管3基12門。
Title:USS Dunlap (DD-384)
Description:Cuts close across the stern of USS Enterprise (CV-6) while operating at sea in the Hawaiian area, 8 April 1942, the day that Enterprise departed to take part in the Doolittle raid on Japan. SBD scout-bombers of Bombing Squadron Six (VB-6) are being spotted aft on the carrier's flight deck. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the U.S. National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-16958 USS Dunlap (DD-384) 引用。
ドーリットル日本本空襲部隊は、第16任務部隊が実施したが、この基幹はアメリカ海軍航空母艦「ホーネット」USS Hornet(CV-8)と「エンタープライズ」USS Enterprise (CV-6)の2隻で、重巡「ソルトレイクシティー」USS Salt Lake City (CA-25)など巡洋艦4隻,マハン級駆逐艦「ファニング 」USS Fanning (DD-385)、「ダンラップ 」USS Dunlap (DD-384)など駆逐艦8隻が護衛についていた。駆逐艦は、対潜水艦・対空の警戒のほかにも、海上に不時着した機体から搭乗員を救助する役目も負っていた。
写真(右):1942年4月18日、北太平洋上、ドーリットル空襲の支援空母として第16任務部隊(Task Force 16)旗艦「ヨークタウン」に随伴したアメリカ海軍航空母艦「エンタープライズ」USS Enterprise (CV-6) と飛行甲板のSBDドーントレス艦上急降下爆撃機、後方は護衛任務にあたったマハン級駆逐艦「ダンラップ 」USS Dunlap (DD-384):重巡「ソルトレイクシティー」USS Salt Lake City (CA-25)から撮影。マハン級駆逐艦「ダンラップ 」は起工 1935年4月、進水 1936年4月、就役1937年6月。 基準排水量1,490 トン、全長 341 ft 4 in (104 m)、ビーム 35 ft (10.7 m)、吃水 9 ft 10 in (2.8 m)、最高速力 37 ノット (69 km/h)、乗員 158名、兵装: 5インチ(127mm)38口径単装砲5基、21インチ (533 mm) 四連装魚雷発射管3基12門。
Title:Doolittle Raid on Japan, April 1942
Description:USS Fanning (DD-385) maneuvers near USS Enterprise (CV-6) on the day the Doolittle Raid aircraft were launched, 18 April 1942. Photographed from USS Salt Lake City (CA-25). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-324232 Doolittle Raid on Japan, April 1942 引用。
真珠湾攻撃への報復として,日本本土を攻撃するのであれば,目標は,東京を含む複数の都市にして,多数の日本人にも米国の反撃を思い知らせることが望ましい。日本本土空襲の問題は,米国の陸上航空基地からでは,攻撃目標が遠距距離過ぎて,爆撃機の航続距離では,往復できないことだ。
航空母艦によって空襲すればよいが,日本本土に近づけば,空母が日本の哨戒艇や偵察機に発見され,長距離攻撃機による雷撃・爆撃を受けてしまう。そこで、長距離爆撃機を空母に搭載し,空襲部隊発艦後、空母部隊は直ぐに退避すればよい。では,爆撃空襲部隊は,どこで収容すればよいのか。
こうしてジェームズ・ドーリットルJames Harold ("Jimmy") Doolittle中佐を中心に考え出されたのが,航空母艦に長距離飛行の可能な陸軍の陸上爆撃機を搭載し,太平洋上から日本を爆撃する計画「ドゥーリットル空襲Doolittle Raid 」である。そして日本空襲後は,母艦には戻らず,そのまま東進して(日本と戦っている)中国に着陸すればよい。大型の陸上機は航空母艦に着艦できない。爆撃隊を待つために指定海域に留まるのも危険である。爆撃機を発進させた後,すぐに西進,退避して、発進した爆撃隊は中国に着陸して、搭乗員を収容すればよい。
日本空襲は,軍事的な価値よりも,米国や連合国の世論への影響を考慮した心理的・政治的作戦である。
写真(右):1942年4月18日、第16任務部隊(Task Force 16)旗艦空母「ホーネット」USS Hornet (CV-8),飛行甲板上の第16任務部隊司令官マーク・ミッチャー(Marc A. Mitscher)大佐(右)と爆撃部隊司令官ジェームズ・ドーリットル(James H. Doolittle )陸軍中佐(左):1941年4月18日に,真珠湾の報復は米海軍空母部隊と米陸軍航空隊との協力で成し遂げられた。罷免されたハワイの二人の指揮官,海軍のキンメル提督と陸軍のショート中将とは対照的に,英雄扱いされた。
Title:Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description:Lieutenant Colonel James H. Doolittle (left front), leader of the attacking force, and Captain Marc A. Mitscher, Commanding Officer of USS Hornet (CV-8), pose with a 500-pound bomb and USAAF aircrew members during ceremonies on Hornet's flight deck, while the raid task force was en route to the launching point. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-64000/NH-64472.html引用。
写真(右):航空母艦「エンタープライズ」飛行甲板上のドーントレス急降下爆撃機;1941年4月18日の日本空襲作戦では,陸軍のB-25B双発爆撃機16機を搭載した空母「ホーネット」(写真奥)を護衛した。これは,対空哨戒や対潜哨戒をすることだが,日本の特設監視艇の掃討にも急降下爆撃機が出動している。
1942年1月13日付の米陸軍航空隊司令部の命令書には,B-25爆撃機を航空母艦から発進可能にするために,熟練搭乗員による特別部隊を訓練・編成し,爆撃機の重量管理を徹底することが記されている。
日本空襲作戦は,本来は広い陸上基地で運用する陸上双発爆撃機を航空母艦上から発進させるという離れ業が求められる。そこで,1942年1-4月,米国フロリダ州,オレゴン州,カリフォルニア州の飛行場でジミー・ドゥーリットル(Jimmy Doolittle)空襲部隊の秘密訓練が行われた。この作戦は,日本では「東京初空襲」と称される場合があるが,東京以外に,横浜,横須賀,名古屋を攻撃目標としている。
写真(右):1941年4月18日、ドーリトル日本本土空襲部隊を飛行甲板に搭載したアメリカ海軍航空母艦「ホーネット」USS Hornet (CV-8), 護衛の駆逐艦「グウィン」USS Gwin (DD-433) が接近している。;遠方には、巡洋艦「ナッシュビル」 USS Nashville (CL-43) が見える。16機のB-25B爆撃機を搭載した空母「ホーネット」飛行甲板上に8機が写っている。
Title:Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description:View looking aft from the island of while en route to the mission's launching point. USS Gwin (DD-433) is coming alongside, as USS Nashville (CL-43) steams in the distance. Eight of the mission's sixteen B-25B bombers are parked within view, as are two of the ship's SBD scout bombers. Note midships elevator, torpedo elevator, arresting gear and flight deck barriers in the lower portion of the photo, and 1.1 quad anti-aircraft machine gun mount at left. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 53289 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
空母部隊は,航空母艦「ホーネット」が米陸軍航空隊ジミー・ドゥーリットル(Jimmy Doolittle)のB-25爆撃機16機を搭載し,その護衛に艦上戦闘機を搭載した航空母艦「エンタープライズ」が付いた。この空母部隊は,第18任務部隊と呼ばれ,旗艦はウィリアム・ハルゼー提督の乗艦する航空母艦「エンタープライズ」でレーダーも完備していた。
1941年4月18日に,アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)から日本空襲に飛び立ったジミー・ドゥーリットル(Jimmy Doolittle)指揮のノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機16機が全機無事に日本を爆撃した。
写真(右):航空母艦の護衛任務に就いた軽巡洋艦「ナッシュビル」;1941年4月1日撮影。日本の漁船改造の特設間監視艇を3隻撃沈した。報告書には「3-0で勝利」と誇らしげに記している。
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-324232 Doolittle Raid on Japan, April 1942 引用。
第18任務部隊The Task Force 16の編成
航空母艦2隻:USS Hornet CV-8, USS Enterprise CV-6
巡洋艦 4隻:USS Salt Lake City CA-25,USS Northampton CA-26,USS Vincennes CA-44,USS Nashville CL-43
駆逐艦 8隻:USS Balch DD-363,USS Fanning DD-385,USS Benham DD-397,USS Ellet DD-398,USS Gwin DD-433,USS Meredith DD-434,USS Grayson DD-435,USS Monssen DD-436
補給艦2隻:USS Cimarron AO-22,USS Sabine AO-25
潜水艦2隻:USS Thresher SS-200,USS Trout SS-202
そして,日本空襲に向かったが,1941年4月18日,爆撃機発進予定地点より手前で,哨戒任務中の,黒潮部隊の第23日東丸が米艦隊を発見され,無線通報する。そこで,米攻撃隊は,直ちにジミー・ドゥーリットル(Jimmy Doolittle)隷下のB-25爆撃機16機を発進させた。
写真(右):1941年4月、北太平洋上、日本本土に来寇する敵艦隊や黒潮部隊の特設監視艇「長渡丸」か;1941年4月18日に,ドゥーリットル空襲部隊を乗せた空母部隊を発見し通報したが,日本軍は,遠距離のため,当面攻撃の心配はないと油断していた。このあと監視艇は砲撃によって撃沈される。
日本の黒黒潮部隊とは,1942年初頭に編成された特設監視艇部隊である。80-150トンのカツオ・マグロ漁船を船員もろとも軍属として徴用し、旧式小銃を乗組員に支給した。交戦のための部隊ではなく,任務は監視・哨戒であった。1942年2月には76隻が配備され,常時20隻程度が東経155〜160度、北緯30〜50度付近で3週間,監視任務に就く。監視艇の乗員は14-20で半数ほどが海軍軍人、残りが船とともに徴用された漁師という。母港は,函館,銚子,焼津などである。
米軍艦艇を目視発見した第23日東丸(90トン)は,「敵飛行機三機見ユ針路南西」「敵空母三隻見ユ北緯三十六度東経一五二度」など数回打電通報した。
写真(右):1941年4月18日、アメリカ海軍第16任務部隊、航空母艦「ホーネット」飛行甲板上の双発B-25陸上爆撃機:真珠湾攻撃の仇討ちのために,16機で日本本土空襲を行ったが,1機が中立国ソ連に着陸・抑留された以外,15機が中国で機外脱出,不時着した。つまり,16機全部が喪失した。 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description:Two of the operation's sixteen USAAF B-25B bombers, parked on the flight deck of USS Hornet (CV-8), while en route to the mission launching point. The plane at right has tail # 40-2282. It is mission plane # 4, piloted by 2nd Lieutenant Everett W. Holstrom, Jr. during the raid, in which it attacked targets in Tokyo. Note protective cover over its gun turret, and wooden dummy guns mounted in its tail cone. The plane at left is warming up its engines, as was done periodically during the voyage. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 53290 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942引用。
0745;敵船(監視艇)を水平線上に目視発見
0805;巡洋艦「ナッシュビル」が敵船を砲撃開始
0807;航空母艦「ホーネット」から爆撃機を発進準備
0815;航空母艦「ホーネット」から日本空襲部隊第1番機発進
0820;航空母艦「ホーネット」から第2番機発進,空母「エンタープライズ」から上空警戒用の戦闘機F4F発進
0830;航空母艦「ホーネット」から第3番機発進,以後3-5分間隔4-11番機発進
0840:敵駆逐艦(実際には監視艇)に「ナッシュビル」の命中弾確認
0901;航空母艦「ホーネット」から第12番機発進,敵船は大破,沈みつつあり。
0916;航空母艦「ホーネット」から第16番機(最終機)発進,空母乗員がプロペラで腕を失う。
0921;巡洋艦「ナッシュビル」,2番目の敵船を砲撃で撃沈
1025;誤警報。レーダーに敵影なし。
1215;誤警報。レーダーに敵影なし。
1350;敵味方識別不明航空機,25マイル先に発見
1412;3番目の敵船発見
1415;東京からのラジオ放送がすべて停止
1416;巡洋艦「ナッシュビル」が敵船に接触。直ちに航空機2機とともに敵船追尾。
1420;敵船(長渡丸か)白旗を掲げる。巡洋艦「ナッシュビル」が敵船から捕虜(5名か)を移譲した後,敵船を撃沈。
1430;東京からの放送「本日正午前に,敵機の初空襲で,病院と学校を爆撃し,大破した」と。
日東丸は乗員14名全員が戦死。空母「エンタープライズ」の戦闘記録を見ると,艦上機を発進させ,日本の監視艇を撃沈したようで,日本側は監視艇を合計4隻喪失したようだ。エンタープライズの艦上機は,12.7mm50口径機銃1万2600発,7.7mm機銃800発,500ポンド爆弾12発,100ポンド爆弾24発も消費している。これは,対潜哨戒も含まれるるが,日本の監視艇は,貧弱,低速にもかかわらず,よく逃げ回ったようだ。火砲を装備しておらず,孤軍奮闘むなしく,撃沈されているが,監視・哨戒,敵部隊発見の連絡など,十分に任務を果たしている。日本の戦死者は33名,捕虜は5名。
写真(右):アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」艦上で、日本から戦前に授与された勲章を爆弾に結び付ける空襲部隊司令官ドゥーリットル陸軍中佐:ハワイ真珠湾の報復として,4ヶ月後の1942年4月18日に,米陸軍爆撃機16機が東京,名古屋,神戸など日本本土を初空襲し日本民間人50名を殺害した。空襲部隊司令官ドゥーリットル陸軍中佐は、日本滞在経験もあり、日本から勲章を寄与されていたが、卑怯なだまし討ちに対して、それまでの親善関係を一切蜂起した。そして、憎むべき日本への報復を実施した。これが、1941年4月18日のドーリットル日本本土空襲で,ドーリットルは爆弾とともに日本の勲章をたたき返した。
Title:Doolittle Raid on Japan, April 1942
Description:Lieutenant Colonel James H. Doolittle, USAAF (front), leader of the raiding force, wires a Japanese medal to a 500-pound bomb, during ceremonies on the flight deck of USS Hornet (CV-8), shortly before his force of sixteen B-25B bombers took off for Japan. The planes were launched on 18 April 1942. The wartime censor has obscurred unit patches of the Air Force flight crew members in the background. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-324232 Doolittle Raid on Japan, April 1942 引用。
第18任務部隊The Task Force 16では,部隊員全員が見守る中を,空襲部隊司令官ジミー・ドゥーリットル(Jimmy Doolittle)陸軍中佐が500ポンド爆弾に,日本の勲章を結びつけた。この勲章は,空襲部隊メンバーのステファン・ジュリカ中尉が,海軍武官として日本に滞在中,授与された友好勲章である。この日本政府から贈答されたメダルを,日本に投下する爆弾とともに日本に送り返すのが「東條へのエアメール」だという。
空襲部隊司令官ジェームズ・ハロルド・ドーリットル(James Harold Doolittle)陸軍中佐は、日本滞在経験もあり、日本から勲章を寄与されていたが、卑怯なだまし討ちに対して、それまでの親善関係を一切蜂起した。そして、憎むべき日本への報復を実施した。これが、1941年4月18日のドーリットル日本本土空襲で,ドーリットルは爆弾とともに日本の勲章をたたき返した。
写真(右):1941年4月18日、アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」USS Hornet (CV-8),に搭載されたノースアメリカンB-25B爆撃機側面の落書き:爆弾を運ぶ天使の落書きが描かれたのは、ロス・グレナン(Captain C. Ross Greening)大尉操縦の11号機で、横浜を空襲した。
Title:Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description:Nose art on B-25B Hari Carrier (USAAF serial # 40-2249), photographed while the plane was parked on board USS Hornet (CV-8), en route to the raid launching point. This aircraft was mission plane # 11, piloted by Captain C. Ross Greening. It attacked targets in the Yokohama area on 18 April 1942. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command.
写真はNaval History and Heritage Command NH 97501 Doolittle Raid on Japan, April 1942引用。
写真(右):1941年4月18日、アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」USS Hornet (CV-8)に搭載されたノースアメリカンB-25B爆撃機:B-25B爆撃機の側面には、爆弾を運ぶ天使の落書きが描かれている。16機の双発爆撃機を搭載した空母「ホーネット」艦上は、搭載する艦上機の飛行甲板の離着陸はできず、戦闘行動に使用があった。そこで、随伴する空母「エンタープライズ」にはB-25 B爆撃機を一切搭載せず、飛行甲板を自由に使い支援をさせた。
Title:Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description:Nose of one of the raiding force's B-25B bombers, which is tied down on the flight deck of USS Hornet (CV-8) while en route to the takeoff point. This aircraft is mission plane # 11 (USAAF serial # 40-2249), nicknamed Hari Carrier and decorated accordingly. The plane's pilot was Capt. C. Ross Greening. It attacked targets in Yokohama. Note slippage mark on the nosewheel and tire, and inscription on the wheel cover: Inflating instructions inside check tire pressure daily. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 53287 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
日米友好の勲章も,いまや日本人を殺害する爆弾の一部となった。戦争となったとたん,米国人ジェームズ・ハロルド・ドーリットル(James Harold Doolittle)の空襲部隊のメンバーは,日本人との個人的親交も否定してしまったのか。日本の記録では,銀座に爆弾が落とされたり,児童が銃撃で殺害されたりと,作戦計画では軍事目標を狙ったかもしれないが,乗員たちは極度の緊張状態にあって,目標確認に時間を割くことはできない。機長の判断で,大型建造物を狙って500ポンド爆弾を投下したのであろう。
写真(右):1942年2月、アメリカ、バージニア州ノーフォーク海軍基地、空母「ホーネット」USS Hornet (CV-8)、飛行甲板にグラマンF4F「ワイルドキャット」戦闘機が搭載されている。;ドーリットル空襲では、空母「エンタープライズ」搭載のF4F戦闘機が空母「ホーネット」のB-25爆撃機が発進する際に,上空援護に当たった。
Title:USS Hornet
Description:USS Hornet (CV-8) At the Norfolk Naval Base, Virginia, in February 1942, just before departing for the Pacific. Note the Grumman F4F Wildcat fighters parked on her flight deck. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-431 USS Hornet 引用。
真珠湾攻撃も,当初は奇襲の場合は,最初に雷撃をし,次に急降下爆撃をすることになっていた。しかし,日本機の乗員たちは,極度の緊張状態にあって,信号弾の視認と発射の錯誤から,強襲の場合攻撃方法,すなわち最初に急降下爆撃を実施してしまう。日本空襲部隊の米軍機の乗員も,とにかく大型目標に投下して,早く機体を軽くして,燃料を節約しながら中国大陸に撤退したかったに違いない。日本上空で被弾したり,不調になれば,生き残れても,冷酷な都市爆撃を行った捕虜として,虐待されることは知っていたであろう。英雄としての振る舞いは,あくまでも身の安全が確保されれてからのことである。
写真(右):航空母艦「エンタープライズ」上のグラマンF4F「ワイルドキャット」戦闘機と急降下爆撃機;1941年4月18日撮影。F4F戦闘機は,空母「ホーネット」のB-25爆撃機が発進する際に,上空援護に発進している。
写真はNavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive 引用。
日本本土空襲に出撃したジェームズ・ハロルド・ドーリットル(James Harold Doolittle)のB-25爆撃機16機には,各機搭乗員5名が乗ったので,合計で80名の搭乗員が日本に報復したことになる。日本から見れば,婦女子を殺害したテロリストであるが,米国では「80名の勇士」80 Brave Menとして,当時も現在も顕彰されている。
例えば,空襲部隊1番機(機体シリアル番号Plane # 40-2244)には,ジェームズ・ハロルド・ドーリットル(James Harold Doolittle)中佐自らが,パイロットとして乗り込んでいる。副操縦士Co-Pilot Lt. R.E. Cole,航法仕Navigator Lt. H.A. Potter ,爆撃手Bombardier SSgt. F.A. Braemer,機関士Engineer Gunner SSgt. P.J. Leonard の5名である。似本への出撃前に,各機ごとに搭乗員の記念写真が撮影されている。全16機の搭乗員は,真珠湾の仇討ちをした英雄として扱われることが決まっていた。
写真(右):1942年4月、アメリカ海軍第16任務部隊(Task Force 16)旗艦航空母艦「ホーネット」(USS Hornet,:CV-8)飛行甲板に駐機するノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機;空母「ホーネット」に後方右舷から接近してきたのは、アメリカ海軍駆逐艦「グウィン」(USS Gwin :DD-433)で、その遥か遠方にみえるのは、軽巡洋艦「ナッシュビル」(USS Nashville :CL-43)。陸上双発爆撃機16機を空母飛行甲板上に係留して日本本土に接近、日本諸都市を空襲後、中国にまで飛行し、そこに着陸する一方方向の1回だけの日本本土空襲だった。
Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942
Description: View looking aft from the island of USS Hornet (CV-8), while en route to the mission's launching point. USS Gwin (DD-433) is coming alongside, as USS Nashville (CL-43) steams in the distance. Eight of the mission's sixteen B-25B bombers are parked within view, as are two of the ship's SBD scout bombers. Note midships elevator, torpedo elevator, arresting gear and flight deck barriers in the lower portion of the photo, and 1.1 quad anti-aircraft machine gun mount at left. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 53289
写真はNaval History and Heritage Command NH 53289 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
図(右):1942年4月18日のアメリカ海軍第16任務部隊(Task Force 16)から発進したドーリットル空襲部隊のノースアメリカンB-25B ミッチェル爆撃機の侵入経路;空母「ホーネット」から飛び立ち、中国大陸にまで抜けて、そこで不時着して、同盟国の中華民国に救助される予定だった。1機は、航続距離の不足を着ずして、ソ連に亡命したが、抑留された。日本本土に接近、日本諸都市を空襲後、中国にまで飛行し、そこに着陸する一方方向の1回だけの日本本土空襲だった。
写真はNaval History and Heritage Command NH 53289 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942 引用。
ジェームズ・ハロルド・ドーリットル(James Harold Doolittle)中佐は,日本上空に初めて爆撃機を飛ばし,日本時間の午後12:30(1230)に爆弾4発を投下した。その後,中国まで飛行したが,中国大陸の海岸線が見えてきたのは夕方になってからである。燃料が残り少なくなり,濃霧のために飛行場を見つけることもできなくなった。中佐は,搭乗員に機外に脱出することを命じた。機体は墜落し,山に激突した。しかし,現地の中国人がChuchowに連れて行ってくれた。そこから,米国に帰還できた。
3.日本空襲部隊(爆撃機16機)の損害は,機外脱出11機,不時着4機,ウラジ・オストーク着陸(ソ連に抑留)1機である。したがって,日本空襲による損害に比して,米軍の損害のほうが大きかった。しかし,日本空襲の政治的効果,世論への効果は,絶大であった。
真珠湾空襲から4ヵ月後,米軍陸軍航空隊所属のB-25爆撃機16機が,東京,名古屋,神戸の市街地を攻撃するために航空母艦「ホーネット」を発進した。日本の死者は50名である。B-25爆撃機は,爆弾投下後,日本上空を飛び去ったが,中国での不時着で,乗員の死者3名、捕虜8名の被害を出した。日本の被害は,真珠湾攻撃による死者2400名の2%であるが,神国があっさりと爆撃され,敵を取り逃がしたという点で,日本軍の衝撃は大きかった。
写真(右):日本空襲後に中国で救助されたB-25爆撃機搭乗員;防空壕のような隠れ家に滞在した米軍の爆撃機搭乗員。1941年4月18日に日本西方海上で爆撃機16機を発進させた。空襲部隊は,日本爆撃後,中国に向けて東進した。但し,1機のみはソ連のウラジ・オストークに向かった。
The Doolittle Tokyo Raiders Photos引用。
ジェームズ・ハロルド・ドーリットル(James Harold Doolittle)中佐指揮の空襲部隊のB-25爆撃機は,南京の南200マイルの内陸部への不時着が11機で,上海の南100マイルの海岸への不時着が4機で,不時着地点は分散している。つまり,単機で日本から逃走してきた。
私の明治生まれの祖母も埼玉県豊岡町で,アメリカ国籍マークの爆撃機が飛び去るのを目撃し,(爆撃さるのニュースを聞いてか)「日本は開戦後すぐにアメリカに爆撃されてしまった」と述べていた。東京空襲をした爆撃機で,国分寺以北を通過した可能性があるのは,ジミー・ドゥーリットル中佐の乗る1番機(#40-2344),3番機(#40-2270),ソ連のウラジオストークに向かった8番機(#40-2242)である。
写真(右):日本空襲後に中国で救助されたB-25爆撃機搭乗員;中国人たちに防空壕のような隠れ家に滞在した米軍の爆撃機搭乗員。1941年4月18日に,中国上空で,パラシュート降下したり,不時着したりと,中国に無事着陸できた機体は1機もなかった。しかし,大半の乗員は,中国人に助けられ,米国に帰還できた。The Doolittle Tokyo Raiders Photos引用。
東京都狛江市の日記には,次のような記載がある
昭和十七年四月十八日 土曜日 晴
八時ニ十分、警戒警報発令さる。珍しい事だと別に気にも止めず。十ニ時三十分昼休み帰宅中空襲警報発令さる。すは空襲と巻脚半(まききゃはん)に戦闘帽で役場へ出かける。役場は未だ悠然たるもの。軍へ対しての絶対信頼からである。味方機の爆音しきり、空襲警報たりとかく悠然としている日本人の姿が嬉しく感ぜらる。ニ時近く爆発音聞ゆ。「やっ高射砲の音だ。」と皆外を見やる。収入役が「やっ変な飛行機だ。馬鹿に早い。敵機かな。」等といふ。いよいよ敵機来たかと緊張す。されど、こちらへは飛来し来らず、やがて四時頃解除となる。
防衛司令部発表によれば、十機内外の敵機数方向より京浜方面に飛来、各方面に無法爆撃するも我が方損害軽微といふ。遂に敵機襲ひ来る。されど我勝てり。隣組鉄壁の護りは敵をして何事をもなさせしめず、我が軍によりて多くは撃墜されたのみであらう。(引用終わり)
「東京初空襲」は,真珠湾先制テロ攻撃に対する報復で,民間人殺害を躊躇しない都市幣別爆撃であった。日本軍に中国で捕らえられたドゥーリットル空襲部隊の隊員8名は,日本の都市を爆撃し,民間人を,児童を殺害したテロリストとして扱われた。もちろん,大日本帝国の都市,特に帝都を爆撃することは,日本の誇りを傷つけるものであり,断じて許されない--と考えられた。
写真(右):1943年4月18日,ドーリットル空襲に参加したアメリカ陸軍航空隊ノースアメリカンB-25B爆撃機の搭乗員が日本本土を空襲後、中国まで飛来し不時着、中国人に助けられた。:日本陸海軍の防空部隊は、日本本土上空ではドーリットル空襲部隊のB-25爆撃機を撃墜することはできなかった。しかし、中国に脱出したB-25爆撃機も無事な機体はなく、不時着、ベールアウトですべて失われた。当時、中立国だったソ連のウラジオストークに伐出した機体も、乗員事ソ連に抑留され、アメリカ帰国には時間がかかった。
Title:Doolittle Raid on Japan, April 1942
Description:Lieutenant Colonel James H. Doolittle, USAAF, (center) with members of his flight crew and Chinese officials in China after the 18 April 1942 attack on Japan. Those present are (from left to right): Staff Sergeant Fred A. Braemer, Bombardier; Staff Sergeant Paul J. Leonard, Flight Engineer/Gunner; General Ho, director of the Branch Government of Western Chekiang Province; Lieutenant Richard E. Cole, Copilot; Lt.Col. Doolittle, Pilot and mission commander; Henry H. Shen, bank manager; Lieutenant Henry A. Potter, Navigator; Chao Foo Ki, secretary of the Western Chekiang Province Branch Government. Official U.S. Army Air Forces Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command.
写真はNaval History and Heritage Command NH 97502 Doolittle Raid on Japan, April 1942 引用。
日本本土を昼間、堂々とアメリカ軍機に爆撃され,多数の国民にそれを目撃された上に、日本陸海軍は、1機も侵入した敵機を撃墜できなかった。至高の大元帥昭和天皇のおわします帝都を攻撃されたことは、日本陸海軍にとって最大の恥辱だった。日本国民に、敵機の侵入を許し、爆弾を落とされたことも目撃されてしまった。このように、日本軍は,名誉を傷つけられ、国民指導を行ってきた面子を完全につぶされたと慌て、怒った。そこで、中国に不時着したドーリットル空襲部隊のアメリカ兵を捉えると、民間人への非道な攻撃をした卑劣な捕虜として、日本に連行し、ニュース映画で公開し、裁判に附した。日本軍は,侵入したアメリカ軍の爆撃機を撃墜出来なかったが、9機を撃墜したと過大な虚報を喧伝し、国民を欺こうとした。
写真(左):日本に空輸されてきたドゥーリットル空襲の捕虜;日本本土を昼間、堂々とアメリカ軍機に爆撃され,多数の国民にそれを目撃された上に、日本陸海軍は、1機も侵入した敵機を撃墜できなかった。面子丸つぶれの日本軍は,中国で捕らえたアメリカ兵捕虜を日本に連行し、ニュース映画で公開した。また,侵入したアメリカ軍の爆撃機9機を撃墜したと虚報を流して,国民を欺こうとした。ドーリットル空襲の爆撃機搭乗員の多くは、中国・ソ連で助けられ,米国に帰還し,英雄扱いされた。
日本軍の捕虜になった空襲部隊の隊員は8名で,爆撃機2機からの搭乗員である。この中国で捕まえた俘虜を東京に空路輸送するという異例の手段を使ったのは,早急に,日本を爆撃した米軍機を撃墜したことを証明する必要があったからだ。テロと撃墜された爆撃機の証人である。
ドーリットル空襲の爆撃機搭乗員の将校たちは、無辜の民間人を殺害する目的で日本の都市を爆撃した責任を負わされ、日本の軍事法廷で裁判にかけられ、処罰された。
写真(右):1941年4月の日本本土空襲に参加し日本軍の捕虜になった爆撃隊員;日本上空では1機も撃墜されなかったが,中国では不時着した機体も多い。中国人に助け出された隊員もいたが,日本軍につかまった隊員も8名いる。無辜の市民を殺害したテロリストとして,中国から日本に輸送機で送り,取調べ後,将校は処刑された。
米国の空襲部隊の捕虜8名は軍事裁判にかけられ,3名は死刑,残りは終身刑の判決が出た。捕虜3名の処刑は,1942年10月15日,上海の刑務所で銃殺刑が執行された。1名は1943年12月1日,南京の刑務所で獄死した。4名は終戦まで40ヶ月間,南京の刑務所入獄していた。戦後,上海に移され,救出される)。
写真(右)1942年、アメリカ、ワシントンD.C.、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)から名誉勲章を叙勲される東京発空襲(1942年4月18日)指揮官ジェームズ・ドーリットル(James H. Doolittle)中佐、アメリカ陸軍航空隊総司令官ヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド (Henry Harley "Hap" Arnold: 1886-1950)中将(左端)、ドーリットル婦人、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・キャトレット・マーシャル(George Catlett Marshall:1880ー1959)大将(右端):マーシャルは、1918年にヨーロッパ派遣軍最高司令部の作戦参謀、1918年8月に大佐、ヨーロッパ派遣軍総司令官ジョン・パーシング大将の副官。 1933年9月1日に大佐、 1939年9月1日に陸軍参謀総長・大将、、1944年12月16日に元帥。アメリカが推進する対日戦争計画推進に積極的に関わることでフランクリン・ルーズベルト大統領より一気に第15代陸軍参謀総長に指名される。参謀総長就任に伴い、合わせて大将に昇進した。
English: 208-PU-52-LL-12: Doolittle Raid on Japan, April 18, 1942. Brigadier General James H. Doolittle, famous speed flyer who won his wings in World War I, shown receiving the Medal of Honor from President Franklin D. Roosevelt for leading a squadron of Army bombers in a raid on Tokyo and other Japanese cities. Looking on (left to right) are Lieutenant General H.H. Arnold, Chief of Army Air Forces, Mrs. Doolittle, and then Chief of Staff, General George C. Marshall. Office of War Information Photograph, now in the collections of the National Archives. (2017/05/02).
Date 2 May 2017, 10:52
Source 208-PU-52-LL-12
Author National Museum of the U.S. Navy
.写真はWikimedia Commons, Category:George Marshall File:208-PU-52-LL-12 (34371208606).jpg引用。
ルーズベルト大統領は,日本本土空襲の成果を代替的に喧伝し,米国市民も米軍による日本軍への反撃に大喜びする。ただし,大統領は,爆撃機がどこから飛び立ったのかについては,「理想郷シャングリラからだ」と述べてとぼけた。1年間,空母部隊から陸上爆撃機が発進したことを秘匿したのである。
写真(左):日本に空輸されてきたドゥーリットル空襲の捕虜;帝都を爆撃され,敵機を撃墜できなかった日本軍は,面子を潰される。そこで,捕虜を公開して,爆撃機を9機撃墜したと,国民を欺こうとした。しかし,大半の乗員は,中国で助けられ,米国に帰還し,英雄扱いされた。
4.米陸海軍は,真珠湾攻撃の敗北,「屈辱の日」の恨みを晴らすために,真珠湾攻撃の発案者=先制テロ攻撃を命じた山本五十六提督を暗殺した。テロリストの首魁山を捕らえて裁判にかけたいが、捕縛できないなら、暗殺するまでである。真珠湾攻撃の立案者として、山本提督が米国で尊敬されたことはなかった。ハルゼー提督のモットーは、「ジャップを殺せ。もっとジャップを殺せ」である。
テロにはテロで報復するのが効果的だ。真珠湾攻撃で大損害を被った米国には,「先制テロ攻撃の首謀者」として山本五十六を憎む者も多い。米国の世論は,テロの成功者がいつまでも光栄ある地位にあることを苦々しく思う。誇りある米国に「屈辱の日」を演じさせた軍人を許さないということだ。負け戦だった真珠湾の報復をするために,首謀者(立案者)は消し去らなくてはならない。英雄は,真珠湾で勇敢に戦った米国人だけであり,「いいジャップは死んだジャップだけだ」。
山本五十六は、1884年(明治17年)4月、旧長岡藩士高野貞吉の六男として誕生、父が56歳だったために、五十六と名付けられた。1901年(明治34年)に長岡中学を卒業し、海軍兵学校に入学した。1905年の日露戦争の日本海海戦には、巡洋艦「日進」に乗り参戦したが、砲撃を受けて、左指を失い重傷を負った。1916年に旧長岡藩家老の山本家の後を継いで、山本姓を名乗ることとなる。1918年、元会津藩士三橋康守の三女禮子と結婚した。このように、家系。教育、経歴の上で山本五十六は常にエリート街道の表舞台にあった。
写真(右):1925-28年、アメリカ、ワシントンDC、海軍省、海軍武官としてアメリカを訪問した山本五十六海軍大佐とアメリカ海軍長官カーティス・ウィルバー (Curtis Dwight Wilbur:1867-1954)):カーティス・ドワイト・ウィルバーは、アメリカの政治家・裁判官で、1923年から1924年まで第19代カリフォルニア州最高裁判所長官を務めた。その後、1924年から1929年まで第43代アメリカ海軍長官に就任し、その時に山本五十六とあっている。
Title:Captain Isoroku Yamamoto, U.S. Secretary of the Navy Curtis D. Wilbur
Description:Captain Isoroku Yamamoto, Japanese Navy, (left) with U.S. Secretary of the Navy Curtis D. Wilbur (right). Photographed at the Navy Department, Washington, DC, circa 1925-28, while Capt. Yamamoto was serving as Japanese Naval Attache to the U.S. Photograph received from the U.S. Embassy, Tokyo, Japan, 1973. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 78628 Captain Isoroku Yamamoto, U.S. Secretary of the Navy Curtis D. Wilbur 引用。
山本五十六(やまもと いそろく)は、1919年(大正8年)4月、アメリカ駐在を命じられ、1921年5月まで、ハーバード大学に留学した。その間、アメリカ国内の視察を繰り返し、石油、自動車、飛行機などアメリカの基幹産業の興隆に衝撃を受け、アメリカ市民の豊かな消費生活を身を持って体験した。そのため、日本に帰国後も、高級志向、消費性向が強く、ぜいたくな生活をつづけた。帰国直後の1922年には、井出謙治大将の随員として、山本五十六は、ヨーロッパにも足を延ばし、1922年のワシントン海軍軍縮会議では、戦艦の保有制限がかかったため、日本の劣勢を打ち破るために、航空兵力を強化することを主張した。そして、1924年9月、航空兵力強化のために、自ら霞ヶ浦航空隊に赴任し、教頭として采配を振るった。
山本五十六は、1929年、ロンドン軍縮会議では、巡洋艦など補助艦の建艦制限の議論に随員として加わり、11月、海軍少将に昇格した。1934年のロンドン軍縮会議予備交渉では、日本海軍代表として参加している。1935年11月に海軍中将に昇進し、12月に海軍航空本部長に就任したが、その就任期間は1年と短い。
1936年12月、山本五十六は、海軍次官に就任し、海軍大臣米内光政、軍務局長井上成美らととも「海軍三羽烏」として、日独伊三国軍事同盟の締結に反対し続けた。1939年8月、第二次欧州大戦勃発直前、連合艦隊司令長官に就任し、1940年11月に海軍大将に昇進。その後、アメリカへの先制攻撃を前提に、ハワイ真珠湾奇襲攻撃の計画を練り、海軍軍令部に認めさせている。
ポスター(右):騙まし討ちの山本提督:「私(日本海軍の山本)は,ワシントンDCホワイトハウスで,米国との和平をまとめるのを楽しみにしています」「貴様は,今アメリカ人になんというつもりだ」。偽りの和平交渉の裏で,真珠湾テロ先制攻撃をした山本を許すな。
山本五十六提督は,真珠湾攻撃の後も,大規模なミッドウェー海戦を企図し,自ら出撃する。これは,真珠湾攻撃で損傷を与えることができなかった,空母部隊をミッドウェーを攻撃しておびき寄せ,撃破する作戦である。しかし,日本の作戦は,暗号解読により,米軍に知られていた。米空母部隊は日本艦隊を迎撃し,空母全部(4隻)を撃沈する。日本は,300機の航空機と熟練搭乗員を失った。
山本五十六大将は、博打好きで、腕もかなりのものであったようだ。特に、将棋とポーカーは仲間内でも右に出る者はおらず、軍艦内でもよく副官などと将棋に興じていたという。また除隊後はモナコへ行ってカジノを経営したいと多くの人間に語っていたようだ。このような賭博好きの将軍が考案したのが、ハワイ真珠湾攻撃であり、1942年6月4日(米国時間)のミッドウェー島攻略・米空母撃滅両刀作戦である。
1942年4月18日、空母ホーネットよりドゥーリットル空襲を受けた、帝都東京が爆撃されると、空襲による被害は微小であっても、敵機の侵入を帝都に許してしたという大失策に、山本提督は驚愕する。また、大元帥昭和天皇の玉体に以上はなかったとはいえ、国体に最大の恥辱を加えられたと日本の軍人は考えた。帝都防衛ができない無能な軍人という評価を恐れたのである。
写真(右):1940年代初頭、海図を前にポーズをとる連合艦隊司令長官山本五十六提督(海軍中将あるいは大将):山本五十六は、1939年8月30日、第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任した。聯合艦隊司令長官山本五十六がハワイ真珠湾先生奇襲攻撃を時期の海軍最高幹部は、永野修身軍令部総長、及川古志郎海軍大臣、米内光政海軍大臣、井上成美海軍省軍務局長、宇垣纏聯合艦隊参謀長、黒島亀人聯合艦隊先任参謀、南雲忠一第一航空艦隊司令長官 兼 第一航空戦隊司令官、山口多聞第二航空戦隊司令官という配役だった。
Title:Admiral Isoroku Yamamoto
Description:Imperial Japanese Navy Portrait photograph, taken during the early 1940s, when he was Commander in Chief, Combined Fleet. Original photograph was in the files of Rear Admiral Samuel Eliot Morison, USNR. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 63430 Admiral Isoroku Yamamoto引用。
日本海軍の軍令部(陸軍の参謀本部に相当)は、ミッドウェー攻略作戦には懐疑的であったが、東京初空襲に会うと、急遽、山本長官発案のミッドウェイ作戦を承認した。米国の航空基地のあるミッドウェー島を占領すれば、日本の哨戒機の活動範囲が拡張され、日本本土空襲のための米軍前進基地も奪うことになる。そこで、ミッドウェー島攻略が目標に入れられた。
しかし、ミッドウェー島攻略だけではなく、それを防衛する米国艦隊、特に航空母艦を壊滅する機会も与えられる。戦力を過信した日本軍は、ミッドウェー攻略・米空母壊滅という両刀作戦を開始する。
アメリカ海軍が、第16任務部隊によって、1942年4月18日にドーリットル日本本土空襲に成功すると、連合艦隊司令長官山本五十六は、大元帥昭和天皇の帝都を空襲されたことで、苦境に立った。日本国民に見えを切っていた日本海軍の立場も悪化し、山本五十六提督は、二度と日本本土空襲をさせないためにも、太平洋上に前進基地を確保し、アメリカ海軍任務部隊の基幹空母を撃破する必要性を痛感した。これが、急遽、ミッドウェー攻略作戦を進めた理由である。また、1942年5月8日、珊瑚海海戦で日本軍は空母「翔鶴」が大破、特設空母「祥鳳」が撃沈して、ニューギニア西部要衝ポートモレスビーの攻略に失敗した。これは、進攻作戦の蹉跌であり、攻撃続行を主張してきた山本提督にとっては、新たな構成の必要性を痛感させることになった。
連合艦隊司令長官山本五十六は、このミッドウェー攻略・米空母壊滅という両刀作戦を強く進言し、大本営も5月5日に「連合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」と指令を出す。
ハワイ攻略の前哨戦として司令長官山本五十六、参謀長宇垣纏を主軸に艦艇約350隻、航空機約1000機、参加将兵10万人からなる大艦隊が編成された。南雲忠一中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一機動艦隊が広島湾柱島から5月27日午前5時に出港し(主力部隊は二日後)、6月5日午後1時に作戦海域に到達。同時30分よりミッドウェーへ攻撃が行われた。
戦艦「大和」他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃したのはこの作戦が始めてであった(真珠湾攻撃の際にもこの戦艦部隊は出撃したが、南雲部隊を迎えるための、いわば点数稼ぎ的な、加俸目的の出撃であった。実際に作戦に参加したのは、この作戦が始めてである)
しかし,連合艦隊司令長官は,アジア太平洋の艦隊の指揮を執るためには,日本本土の通信施設,情報・事務処理能力の整った陸上に司令部を置くべきだった。連合艦隊司令長官は,連合艦隊旗艦の戦艦「長門」あるいは「大和」に乗艦している。戦闘用の一艦船から,アジア太平洋全域を指揮するのに不便は感じなかったのか。司令長官自らが,砲撃戦や空母部隊の護衛に参加するつもりだったのか。
実際に,司令長官が旗艦に乗艦したミッドウェー海戦では,後方に大部隊を擁して出撃したが,砲撃や空母部隊の護衛はしていない。まるで,連合艦隊司令長官を護衛する大部隊のようだ。後に,日本海軍も軽巡洋艦「大淀」の通信・情報施設を充実して,連合艦隊旗艦とし,最後には日吉台の陸上司令部に移動した。「陸に上がった連合艦隊」と嘲笑されたが,連合艦隊旗艦の伝統・誇りに囚われ過ぎた。
写真(右):ラバウル基地で海軍航空隊の搭乗員を激励する山本五十六提督:1943年4月撮影。ラバウル基地の山本長官など連合艦隊司令部の高官は,白の軍服を着用し続けた。山本長官の写真も何枚もあるが,ラバウル基地に滞在していたのは,1943年4月3日-4月18日の15日間のみ。それでも雲の上の人,連合艦隊司令長官を拝見できた兵士の感激は大きかったようだ。指揮の鼓舞に有効だったのであろう。
ミッドウェー海戦は日本海軍の大敗北で終わる。しかし、その敗北にもかかわらずラバウルのあるソロモン諸島なお南東方面の作戦は,拡大し,ガダルカナル島攻防戦The Guadalcanal Campaign が激化する。ガダルカナル島から日本軍は撤退したが,1943年2月に入るとソロモン諸島・ニューギニア島方面の攻勢を始める。そして,1943年3月26日に,日本の連合艦隊は「い」号作戦を発令した。これは,航空母艦の艦載機をニューブリテン島ラバウル基地に終結させて,航空撃滅戦を展開しようというものである。
艦上機と陸上攻撃機を主体とする基地航空部隊とが協同で,ソロモン諸島の航空基地,輸送船団、艦艇およびニューギニア島ポートモレスビー航空基地に攻勢をかけた。
4月初旬には航空機350機が集結し,4月3日には連合艦隊司令長官の山本五十六大将もラバウルに進出した。しかし,4回の攻撃で50機の損害を出した日本海軍は,い号作戦を4月16日で打ち切った。(成果を挙げたので打ち切ったといわれるが,戦果を挙げたのであれば,それを拡大するのが筋)
写真(右):日本海軍のラバウル基地の零式艦上戦闘機:1942-43年撮影。ラバウル基地に艦上機を集中して,敵を空襲したが,被害が大きかった。後方は,火山の花噴山で,火山灰のため機体整備が大変だったが,いい航法目標になった。山本長官の護衛には,熟練パイロットの零戦6機が護衛に就いた。零式戦闘機は,20mm機銃2門,7.7mm機銃2丁を装備する運動性能のよい戦闘機であった。
1943年4月18日0600、「前線視察と将兵の激励」のため長官の一行は一式陸上攻撃機(G4M)2機に分乗しラバウル基地からブーゲンビル島ブイン基地に向け飛び立った。この最前線視察は,い号作戦打ち切りに伴って,山本長官が,ラバウルから後方基地のトラック諸島に帰還するための花道のようである。1番機に山本長官、2番機に参謀長宇垣纏中将が搭乗したが、護衛戦闘機は熟練パイロットの操縦する零戦6機のみだった。これは,ラバウル基地とブイン基地はともに日本の戦闘機部隊があり,その間の秘密飛行なので,山本長官の前線訪問を知らない米軍による長官襲撃はありえないと判断したからである。日本は,暗号が解読され,山本五十六暗殺計画が急遽策定されたとは,最後まで思ってもいない。
写真(右):真珠湾攻撃の立案者山本五十六大将を撃墜した(とされた)ランファイアLanphier大尉(右端);ロッキードp-38「ライトニング」戦闘機で,山本大将の搭乗していた攻撃機を撃墜した。連合艦隊司令長官というよりも真珠湾テロ先制攻撃の首謀者を殺害したとして,ランファイアはシルバースター勲章を授与され進級した。真珠湾の恨みを晴らしたということだ。
米国海軍のニミッツ提督Admiral Nimitzは,山本長官の前線視察を,暗号解読によって察知する。これは,以下のような1943年4月14日の情報である。
"Yamamoto was flying to Bouganville, an island off New Guinea, in a Betty, twin engined bomber on the 18th. of April. He would be escorted by 6 Zero fighters, and was due to arrive at 0800 (8 AM) and leave by boat for the Shortland Islands at 0840. (8.40 AM)
「山本長官は,1機の一式陸上攻撃機(一式陸攻)に搭乗し,1943年4月18日に,ブーゲンビル島に飛行する。護衛は,零式戦闘機6機で,0800に到着する。そして,ボートでショートランド諸島に0840に出発する。」
真珠湾攻撃立案者・責任者を見つけ出し殺害する絶好の機会が廻ってきた。米国は,真珠湾を先制攻撃され,大損害を被った「屈辱の日」を忘れられない。真珠湾を忘れるなとは,ジャップに報復せよの意味である。テロ首謀者の殺害は,9.11のテロ首謀者の殺害と同じく,「正義の戦争」に組み込まれることだ。暗号解読の事実が察知されてしまう危険を冒して,山本提督暗殺計画The execution of Japanese Admiralを遂行した。
写真(右):山本五十六暗殺に使用されたロッキードP-38「ライトニング」戦闘機;長距離高速戦闘機であり,最高時速640kmで日本の零式艦上戦闘機よりも時速100kmも早い。
ニミッツ提督は,ルーズベルト大統領Rooseveltと海軍長官ノックスSecretary o the Navy Knoxの合意を得て,真珠湾攻撃の仇討ちとして山本長官の殺害を決意する。そして,第13航空軍the 13th Air Force第339飛行隊のミッチェル少佐Major John Mitchellに,山本暗殺を命じた。ミッチェル隊長は,ロッキード「ライトニング」LightningP-38戦闘機をガダルカナルGuadalcanalの基地に配備しており,そこから425マイル彼方のブーゲンビル島で,山本機を迎撃する作戦を立てる。P-38戦闘機は,20mm機関砲1門,12.7mm50口径機銃4門を装備し,長距離侵攻作戦用の300ガロン追加燃料タンクも装備した。
1943年4月18日,暗殺部隊のP-38戦闘機18機が発進し,山本長官機が着陸予定のブイン基地近くで,待ち伏せ攻撃をする。暗殺部隊は14機が上空警戒・護衛を担当し,残り4機が山本長官たちを運ぶ一式陸上攻撃機を攻撃することになった。しかし,予期していた1機の陸攻ではなく,2機の陸攻がいたため,2機をP-38戦闘機4機で襲撃する。
写真(右):山本五十六提督の搭乗機(同型機)の一式陸攻G4M;長距離飛行できるが,防弾装備が不備で直ぐ火がつくので,「ライター」と称された。最高時速はP-38戦闘機より200km遅い450km。
日本機がブーゲンビル島ブイン基地に近づいた時、P38ライトニング戦闘機4機は1番機(山本長官搭乗)をブーゲンビル島に墜落させ,2番機を海上に不時着させる。山本長官の乗る陸攻1番機は全員死亡,2番機は宇垣参謀長以下3名のみが救助され,残りは死亡した。
ランファイア中尉Lt. Tom Lamphierは,陸攻を襲撃したP-38戦闘機4機の隊長であり,自ら1番機を撃墜(山本暗殺)したと主張し,認められた。海軍のシルバースター勲章も授与されている。しかし,襲撃時の敵機からの応戦,ちぎれた翼などの証言は,陸攻撃(1番機)の墜落の状況や日本軍の護衛戦闘機(全機無傷)パイロットの証言と合致しない。襲撃隊のバーバー中尉Lt. Rex Barberは,自分が1番機を撃墜したと主張していたが,現在ではそれが事実らしいと判明している。
写真(右):2003年、アメリカ国立航空宇宙博物館 (National Air and Space Museum)スミソニアン博物館に展示されているロッキードP-38ライトニングンLockheed P-38 Lightning戦闘機:1943年4月18日,一式陸攻に乗って前線のブーゲンビル島部員基地を視察にやってくる途上の連合艦隊司令長官山本五十六大将を、暗号解読によって待ち伏せし、暗殺したのと同型機で、長距離飛行ができ、火力にも優れていた。
Description
English: P-38 in the National Air and Space Museum Steven F.Udvar-Hazy center. Pictured at front side view.
Date 15 July 0003 11:05
Source Own work
Author Alistair Fernandez
写真はWikimedia Commons, the Category: P-38 Lightning museum aircraft
File:P-38 at the National Air and Space Museum.jpg引用。
米国が暗号解読に成功していることを日本に悟られてしまう危険を冒して,山本提督暗殺を決行したのは,真珠湾テロ先制攻撃の首謀者殺害という大きな価値があったためである。山本提督は,栄光ある米国海軍に大打撃を与えた敵将であり,憎むべきテロ首謀者である。
図(右):1943年4月18日,アメリカ陸軍航空隊ロッキードP-38戦闘機18機が連合艦隊司令長官山本五十六大将の乗機である一式陸上攻撃機を襲撃している。:日本海軍の護衛は、零式艦上戦闘機6機のみで、宇垣纒参謀長の乗機の一式陸攻も撃墜された。ただし、この絵画では、一式陸攻がロッキードエレクトラ輸送機のように描かれている。
Title:Death of Japanese Admiral Isoroku Yamamoto
Description:Painting by Sergeant Vaughn A. Bass, of the 4th Air Force Historical Section, based on information provided by Lieutenant Colonel Thomas G. Lanphier, Jr. It depicts then-Captain Lanphier's P-38 Lightning fighter shooting down a Betty bomber that was carrying Admiral Yamamoto. Another P-38 is attacking one of the Zero fighters that formed the Admiral's escort. This action took place near Kahili, Bougainville, on 18 April 1943. U.S. Air Force Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command USAF 11462 AC Death of Japanese Admiral Isoroku Yamamoto 引用。
テロリストの首魁として指名手配された山本を暗殺することは,真珠湾騙まし討ちの報復・仇討ちであり,暗号解読暴露の危険を冒しても,遂行する価値がある。山本提督のもつ戦術・戦略策定能力の高さを米軍が恐れていたために,山本五十六提督を暗殺したわけではない。
日本海軍は、山本五十六大将を死後元帥に昇格させ、盛大な国葬を営んだ。前線視察中に機上にて戦死として、暗殺されえたことは全く気づかなかった。このような立派な戦略家としての山本五十六元帥の評価は、日本では成り立つが、米国ではテロリスト処刑といった意味合いが強いといえる。対照的な認識のギャップがある。
1942年4月18日の日本本土初空襲、1943年4月18日の真珠湾攻撃立案者山本五十六大将の暗殺と、二つの真珠湾騙まし討ちの報復が行われたのが、同じ4月18日である。
山本元帥国葬の葬儀委員長は、海軍兵学校同期の塩澤幸一である。彼は、1932年の第一次上海事変に際し、上海特別陸戦隊司令官として、中国第十九路軍と戦った。第一次上海事変では、列国の租界、経済的利益の集中する中国最大の都市で、日本軍が軍事行動を起こしたとして、非難され、国際連盟も停戦決議を行った。(1931年の満州事変に関して、日本は国連を脱退するが)この対中国戦争の火付け役とみなされる海軍軍人が、山本五十六元帥国葬の葬儀委員長を務めたことを知った米軍首脳は、何を思ったのであろうか。
写真(右):山本五十六機を護衛した零戦パイロット柳谷謙治飛行兵長;山本長官機を護衛した6機の零戦パイロットは,日高義巳上等飛行兵曹の1943年6月7日戦死から,343空の撃墜王杉田庄一飛行兵長の1945年4月15日戦死まで,柳谷謙治飛行兵長以外の5名は全て戦死した。北海道美深町出身の柳谷兵長は,1943年5月13日、ガダルカナル島の手前のルッセル島の米軍飛行場を攻撃した際、空戦で右手首切断の重傷を負い、内地へ送還された。海軍病院を退院後、右手に義手をつけて、操縦学生の教育に当たり終戦を迎えた。1988年4月、米国で開かれた山本機撃墜に関するシンポジウムで山本五十六司令長官の搭乗機を発見、撃墜した(未公認)とされるP-38パイロットのレックス・バーバー米空軍退役大佐と対面。バーバー退役大佐は2001年7月26日、老衰のため米オレゴン州の自宅で84歳で死亡。
山本大将の搭乗機を撃墜しても,米国陸軍航空隊は,山本殺害計画に成功したことを秘匿した。暗号解読の秘密を守るためである。米国が日本の暗号解読したことを,日本が知った場合,日本は新しい暗号を採用してしまうであろう。このような米軍にとって不利な事態は避けなくてはならなかった。だから,「テロ首謀者を討ち取った」事実をメディアで公開してはいないし,暗殺者への褒章も公開しなかった。
日本は,山本長官機襲撃を海軍甲事件として調査したが,暗号解読はされていないと判断した。この調査も適切に行ったのかどうか疑わしい。暗号が解読されていたのであれば,責任者を処罰しなくてはならない。暗号の変換をするには,アジア太平洋全域にわたって暗号書を配布するなど暗号変換のため労力・資金もかかる。このような手間を省きたくなった海軍が,暗号解読の危険を放置して,暗号を変換しなかったといえる。暗号が解読されていなくとも暗号を変換するといった手間は,貧乏で賢すぎた海軍にはできない話だった。安全第一であれば,暗号解読の恐れがあるだけで,暗号を変換すればよかった。
長官の死亡から1ヵ月後,1943年5月21日に山本元帥(死後昇進)が機上にて壮烈な戦死を遂げたと公表した。そして,国葬扱いにした。「元帥の仇を討て」として,日本で航空機増産に,女子,学生も含めて大動員がかけられた。暗号変換に手間隙かけなかった分だけ,国民の士気高揚を狙ったプロパガンダには手間をかけた。
大本営発表は、過大な戦果な戦果報告という嘘の塊のように酷評されるが、山本長官の機上戦死の報は、国民に戦況が尋常ならざる状態にあることを察知させた。その意味では、長官を暗殺されて意気消沈し、面子を潰された日本海軍ではあったが、総力戦遂行のための動員強化に山本長官の戦死を利用し、挽回を図ったのである。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ハンセン病Leprosy差別
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
⇒魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
⇒文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
⇒戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
⇒統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
⇒フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
⇒ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov
⇒フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
⇒ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
⇒ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
⇒ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
⇒ドイツ陸軍2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
⇒ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
⇒ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
⇒ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
⇒ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車
⇒イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
⇒M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒イギリス陸軍コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒ユンカース(Junkers)F.13輸送機
⇒ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
⇒ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
⇒ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
⇒ユンカース(Junkers)K43f水上機
⇒巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.31輸送機
⇒ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
⇒ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
⇒ハインケル(Heinkel)He111輸送機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
⇒カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
⇒NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
⇒軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
⇒NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
⇒サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
⇒ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
⇒ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
⇒マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
⇒ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"
⇒フィンランド内戦:Finnish Civil War
⇒フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
⇒ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
⇒フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
⇒第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
⇒第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
⇒ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
⇒ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
⇒フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
⇒フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
⇒フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
⇒フィンランド軍の防空監視哨
⇒ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
⇒ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
⇒ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
⇒ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
⇒ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
⇒ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
⇒ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
⇒ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
⇒ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
⇒フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
⇒ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
⇒ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
⇒メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
⇒メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
⇒ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
⇒ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
⇒ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
⇒ムッソリーニ救出作戦
⇒イタリア独裁者ムッソリーニ
⇒独裁者ムッソリーニ処刑
⇒ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
⇒マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」
⇒サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
⇒カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
⇒カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
⇒サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
⇒サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.18V輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
⇒サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
⇒フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
⇒サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
⇒カント(CANT)Z.1007爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
⇒ピアジオP.108重爆撃機
⇒マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
⇒マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
⇒マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機
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