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◆ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov
写真(右)1942年夏,スターリングラード近郊で撃破されたソ連軍KW-1(KV-1)重戦車
:ドイツ軍の戦車よりも,重装甲,強力な76.2ミリ長砲身カノン砲装備,大出力エンジンを搭載した重装甲の戦車だった。KV-1の砲塔装甲は前面90mm、側面75mm、後に砲塔は全周120mmに強化された。
Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1 Dating: August 1942. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchive Wikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 169-0443, Russland, bei Stalingrad, Panzer KW-1.jpg引用。



写真(上)2017年3月、イギリス南西岸、ドーセット州、ボービントン駐屯地(Bovington Camp)、ボーウィントン戦車博物館(Bovington Tank Museum )に保管展示されている冬季白色迷彩を施したソ連赤軍KV-1(KB-1)重戦車
:T-34戦車中期型M1941と同じ3.2 m長砲身42.5口径76.2ミリM1940年式戦車砲"F-34(ZiS-5)装備。
English: Bovington Tank Museum: KV-1 Date 17 March 2017 Source Own work Author Morio
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Bovington Tank Museum、File:KV-1 rear-right 2017 Bovington.jpg引用。



0.ソ連赤軍 T-28中戦車・T-35重戦車・T-100重戦車・SMK重戦車


写真(右)1942年、ソビエト連邦、ハンガリー軍の使用している鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車
:中央の砲塔には16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を装備している。
Magyar: a Magyar hadsereg által zsákmányolt T-28-as közepes harckocsi, mögötte egy Polski Fiat 618-as rádiós gépkocsi.
Location: Russia Tags: second World War, eastern front, Soviet Union, tank, Soviet brand, military, Polski Fiat-brand
Title: a Magyar hadsereg által zsákmányolt T-28-as közepes harckocsi, mögötte egy Polski Fiat 618-as rádiós gépkocsi.
Date 1942 Source http://www.fortepan.hu/_photo/download/fortepan_20345.jpg archive copy
Author FOTO:Fortepan — ID 12186: Home pagePictureInformation page
Adományozó/Donor: Unknown.
archive copy Permission (Reusing this file) The release at fortepan.hu is CC-BY-SA-3.0. As the photographer is unknown or pseudonymous, and the photograph is 78 years old, it is considered public domain both in the country of publication, Hungary, and the USA where Wikimedia Commons is hosted. See Fortepan.HU for more information on related uploads.
写真は,Category:T-28 File:A Magyar hadsereg által zsákmányolt T-28-as közepes harckocsi, mögötte egy Polski Fiat 618-as rádiós gépkocsi. Fortepan 12186.jpg引用。


⇒写真集:ソ連T-28中戦車を詳しく見る。


写真(右)1941年6月以降,ドイツ軍に鹵獲されたと思われるソ連赤軍T-35重戦車
:ソ連T-35重戦車は重量45トン、乗員11名で、発動機は500馬力ガソリンエンジンを搭載、最高速力は路上30km/hだった。砲塔の上には、戦利品に気をよくしたドイツ軍人2人が写っている。
English: Russian heavy battle tank T-35 model 1935 Deutsch: Russischer schwerer Kampfpanzer T-35 Modell 1935 Date Unknown date Source private photoarchiv Author Willi Ude, uploaded by Ude
写真は,wikipedia-commons File:T-35 model 1935.jpg引用。


ソ連赤軍T-35重戦車は1933年制式で、5砲塔装備の多砲塔戦車である。中央の大型砲塔に16.5口径1932年式76.2ミリ短砲身砲1門装備、前後の中型砲塔2基に1932年式45ミリ20K戦車砲各1門装備、小砲塔2基には7.62ミリDT機関銃各1丁が装備された。乗員11名、43トンの超大型重戦車にもかかわらず、当時の仮想敵戦車の装備する37ミリ砲に対処できる厚み11ミリから30ミリの装甲しかなかった。

T-35重戦車1936年型は、ハリコフ機関車工場で1935-1938年に35台生産された。T-35重戦車1939年型は、1938-1939年に6台生産された。モスクワの赤の広場で毎年開催される5月のメーデには、この超大型T−35重戦車が軍事パレードに参加した。


写真(右)1939年6月,ソ連赤軍T-100重戦車の試作車
:T-35重戦車の後継戦車T-35は、同時に開発されたSMK重戦車試作車と比較されたが、機動性に劣っていたために、量産には至らなかった。
English: T-100 prototype multiturret heavy tank Date 1 June 1939 Source https://www.yaplakal.com/forum2/topic1360058.html Author Unknown USSR personnel
写真は,wikipedia-commons File:T-100.jpg引用。


スターリンは、スペイン内戦での欠点を解消するために、攻撃力と防御力を両立させた重戦車に注目した。そして、スターリンの示唆で、ソ連では1930年代に多砲塔の重戦車が開発され、レニングラードにあるキーロフスキー第100工場とボルシェビク第174工場で試作された。完成した戦車は、キーロフスキー第100工場のSMK(СМК)重戦車55トン、ボルシェビク第174工場のT-100 重戦車58トンの2種類で、どちらも複数砲塔の重戦車試作車である。しかし、巨大で重量過大なために、野外走行に使用に支障があり、全高が高く標的として大きかったために隠匿性と機動性が著しく低かった。


写真(右)1939年8月,ソ連赤軍SMK (セルゲイ・ミロノヴィッチ・キーロフ) 重戦車の試作車
:T-35重戦車の後継戦車SMKは、同時に開発されたT-100重戦車試作車と比較されたが、機動性に劣っていたために、量産には至らなかった。
SMK (Sergei Mironovich Kirov) heavy tank, August 1939 Русский: Тяжелый танк СМК (Сергей Миронович Киров). Август 1939 г. Date August 1939 Source Тяжелый танк СМК in Энциклопедия бронетехники РККА Author Unknown author
写真は,wikipedia-commons File:SMK, August 1939.jpg引用。


多砲塔戦車2種、KV重戦車の試作車は、機動性を確認することを主な目的に、モスクワ郊外のクビンカ戦車試験場で装甲試験が実施された。この試作車の審査では、機動性はKV重戦車には認められたが、多砲塔戦車試作車は、不十分だったが、その攻撃力が評価された。1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、ポーランドをドイツと分割したソ連は、バルト三国に次いでフィンランドへもレニングラード周辺のカレリア地峡の領土の割譲、バルト海の要衝の軍隊駐留権を要求した。フィンランドは、これを拒否し、1939年にソ連とフィンランドの愛で「冬戦争」が始まった。ソ連は、対フィンランド冬戦争にこの3種の重戦車を投入し、実戦使用したのである。多砲塔戦車は、森林・雪原での機動性に問題が出たが、KV重戦車は重防御、攻撃力の高さを発揮したと認められた。

T-100重戦車とSMK (セルゲイ・ミロノヴィッチ・キーロフ) 重戦車は、機動性に劣っていたために、量産には至らなかった。他方、KV1重戦車は、1939年12月にソ連赤軍に制式された。KV-1重戦車の生産台数は、各種合わせて、1942年末までに3000両も量産され、さらに装甲を若干薄くして48トンにまで軽量化したKV-1Sが1943年春まで900輌生産された。

⇒写真集:ソ連T-35多砲塔重戦車を詳しく見る。


1.ソ連赤軍 KB-1,KW-1重戦車


写真(上)1942年6月,ドイツ軍東部戦線、モスクワ南500キロ、ハリコフ北東300キロのヴォロネジ、撃破されたソ連軍KW-1重戦車
:砲塔のハッチから硝煙が立ち上っている。車体前面上部左の7.62ミリ車載機銃が完全に破壊され抜け落ちている。KVの表記は、当時のソ連国防大臣クリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)に由来する。
Archive title: Sowjetunion, bei Woronesch.- Brennender sowjetischer Panzer KW-1; PK 694 Dating: Juni 1942 Photographer: Klintzsch Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-216-0412-07引用(他引用不許可)。


戦車の名称KWはロシア語ではKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。英語のKV、ドイツ語のKWである。


写真(右)1942年夏,ドイツ軍東部戦線、ハリコフ北300キロ、ヴォロネジ西300キロのクルスク、撃破されたソ連軍KW-1重戦車の前を進むドイツ軍の歩兵部隊
:砲塔のハッチから薄く硝煙が立ち上っている。
Archive title: Sowjetunion, Kursk.- Deutsche Infanterie auf dem Vormarsch, an einem abgeschossenen / brennenden sowjetischen Panzer KW-1 vorbeigehend; PK 670 Dating: 1942 Sommer Photographer: Koch Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-078-3080-38引用(他引用不許可)。


ソ連軍KW-1重戦車は、45トンと配備された時点では驚異的な重戦車だったが、車体長6.75 m、全幅3.32 m、全高2.71 mと、できるだけ小型にまとめられている。砲塔には 41.5口径76.2mm ZIS-5戦車砲(収容砲弾数98発)を搭載し、砲塔前面装甲は90 mmと分厚かった。エンジンは、12気筒液冷ディーゼルV-2K 550 馬力/2150回転/分で、最高時速は整地35キロ、不整地17キロ、航続距離335キロだった。

ソ連軍KV-1重戦車は、第二次大戦勃発直前、1939年夏に76.2mmという当時としては大口径の戦車砲を搭載する重戦車として試作され、1939年冬、フィンランド冬戦争に実戦テストを受けたとするwikipediaの記述は疑問である。数少ない試作車を、対フィンランド戦に投入し、重戦車の存在を明らかにするにはリスクが大きすぎるからである。1939年12月に制式されているが、この短期間に制式されたことからも、とても実戦テストをした期間的余裕はない。


写真(右)1942年夏,ドイツ軍東部戦線で撃破されたソ連軍KW-1重戦車
:ドイツ連邦アーカイブには、当時のドイツ軍宣伝班が撮影したKV−1重戦車の写真があるが、遠方から撮影したほぼ等しいいい構図のカラー写真3枚がある。これは、新型重戦車を発見した驚きから貴重なカラー写真を撮影したのであろうが、千歳一隅の機会を逃さないかのように、遠方から3枚も連続撮影した理由は、この戦車の攻撃力が残っていることを心配して、接近するのが躊躇されたためであろう。
Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter schwerer russischer Panzer KW-1 Dating: 1942 Sommer Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0011引用(他引用不許可)。



写真(右)1942年夏,ドイツ軍東部戦線で撃破されたソ連軍KW-1重戦車
:ソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,当初の計画では、主砲塔一基(76・2ミリ砲)と副砲塔二基(45ミリ砲)の複数砲塔戦車だった。第二次大戦が始まった1939年から生産開始,1942年までに3000両以上が生産された。戦車の名称KWはロシア語ではKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。英語のKV、ドイツ語のKWである。
Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Schwerer russischer Panzer KW-1 Dating: 1942 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 169-0012, Sowjetischer Panzer KW 1.jpg引用。



写真(右)1942年夏,ドイツ軍東部戦線で撃破されたソ連軍KW-1重戦車
:上記の写真と同時期、ほぼ同じ位置から撮影している。遠方から撮影したのは、新型重戦車の珍しさだけではなく、この戦車の攻撃力が残っていることを心配して、接近するのが躊躇されたためであろうか。
Original title: info Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter schwerer russischer Panzer KW-1 Dating: 1942 Sommer Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0013引用(他引用不許可)。


ソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,1939年開発,T-34中戦車と同じ76.2mm砲を装備していた。KB-1重戦車の30口径76.2ミリ砲は,当時の全てのドイツ軍戦車を撃破できるものだった。

ソ連軍のKB-1は、重装甲で防御力は強かったが、重量が45トンと当時は超重量戦車であったため、動力としてディーゼルエンジン550馬力を搭載していた。これは、軽飛行機よりも強力なエンジンである。

1941年6月22日にドイツ軍は独ソ不可侵条約を反故にしてソ連を電撃的に侵攻した。このバルバソッサ作戦当初、ソ連赤軍KB-1は世界最強の戦車で,1942年までに3000両生産された。砲塔装甲は前面90ミリ,側面75ミリと厚く,ドイツの37ミリ対戦車砲を問題としなかった。
しかし,重量45トンという重さのため,トランスミッションの不具合が生じやすかった。

ソ連軍は,KW−1重戦車を秘密兵器扱いし,フィンランド冬戦争には,T-34と同じく投入していない。フィンランドとの国境に近いレニングラードLeningrad)の工業で製造していたにもかかわらずである。
1941年6月22日,ソ連に侵攻したドイツ軍は,国境近くで,KB−1重戦車に直面し苦戦した。ドイツ軍がティーガー重戦車を投入したのは,これから2年後と遅い。


写真(右)1942年8月,対ソ戦、スターリングラードへ侵攻するドイツ軍が南部のステップで撃破したソ連赤軍KW-1重戦車の前部左側面
:砲塔・車体の右側面には20か所もの弾痕があるが、左側面には特に命中弾、弾痕はないように見える。
Original title: info Bilder nach der Panzer-Schlacht vor Stalingrad im August 1942 in der Steppe vor der Stadt Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1 Dating: August 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0441引用(他引用不許可)。



写真(右)1942年8月,対ソ戦、スターリングラードへ侵攻するドイツ軍が南部のステップで撃破したソ連赤軍KW-1重戦車の砲塔
:20か所もの弾痕があるが、貫通したのは数発だけにとどまっているようだ。
Original title: info Bilder nach der Panzer-Schlacht vor Stalingrad im August 1942 in der Steppe vor der Stadt Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1 Dating: August 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0444引用(他引用不許可)。


KW−1重戦車の諸元
重量 43,5トン
全長 6,80 m、全幅 3,35 m、全高 2,70 m
装甲: 35-90 mm
兵装: 76,2mm-L/41 F-32 戦車砲
車載機銃3丁 × 7,62mm-DP28軽機関銃(発射速度:500-600発/分、初速:840m/s、有効射程:800m)

エンジン:V-12-ディーゼル W-2K 550 馬力
最高時速: 35 km/h、航続距離 335 km(路上)
乗員 5名


Killer Tanks The KV Tank

2.フィンランド軍が鹵獲したソ連 KB-1重戦車


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車の試乗テスト
;現地の石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122221引用。


写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車の超壕テスト;現地の石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越えられるか、実際に現地で超壕テストをした。これを参考に、ラップランドでは、対戦車壕や対戦車障害物が構築されて、防衛戦を構成した。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122226引用。


ソ連赤軍T-34戦車の搭載砲は,76.2ミリ(3インチ)砲で,砲塔は当初は,圧延鋼板溶接構造だったが,生産性の高い鋳造構造に変更された。また,砲塔は,ピロシキ形状で,傾斜装甲を全面採用し,車体周囲も傾斜装甲だった。T-34戦車は,全面的に避弾径始に配慮し,命中弾を横滑りさせて,貫通力を弱めることに成功した。装甲の厚さ以上に,防弾性能が優れていたといえる。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が構築した木製製対戦車障害物
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146659引用。


1943年7−9月に、フィンランド軍がフィンランド北部、ラップランドの防衛強化のために、対戦車障害物の有効性を実験した写真が多数残されている。現地の木材や石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃すれば、3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でもソ連重戦車を撃破できる。また、7.5センチ対戦車砲であれば、容易に重戦車の装甲の弱点を貫通し、完全に戦車を仕留めることができる、このように考えられた。

ソ連のT-34戦車は鋳造構造の避弾径始の考慮された砲塔に76.2ミリ戦車砲を搭載したが、1940年当時これは、世界最強の攻撃力を備えた量産戦車といえる。そして、1944年になると、小ドイツ軍の56口径8.8センチ砲装備のティーゲル重戦車、70口径7.5センチ砲装備のパンテル中戦車とも互角に戦うことができるようにソ連のT-34/76戦車の砲塔を大型化し、そこに85ミリ砲を装備したソ連のT-34/85戦車が部隊配備されるようになった。T-34/85戦車も避弾径始に優れている大型砲塔であり、量産性も十分に考慮されている。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が構築した木製製対戦車障害物;現地の木材や石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146679引用。


1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ:Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。車体前部の銃塔にあるべき機関銃は撤去されている。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146683引用。


1943年9月に、フィンランド軍がフィンランド北部、ラップランドの防衛強化のために、対戦車障害物の有効性を実験した。、現地の材木を切り揃えて束ねて考案した杭状の木製障害対戦車障害物、置き石の障害物、阪式の落とし穴などの有効性が、ソ連から鹵獲した戦車を実際に使って実験されている。したがって、少なくとも、この地域では、現地の木材、石材を使って多数の対戦車障害物が準備されたものと思われる。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。車体前部の銃塔にあるべき機関銃は撤去されている。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146684引用。




1943年9月に、フィンランド軍がラップランドの防衛強化のために、現地の材木を切り揃えて束ねて工夫した杭状の木製障害対戦車障害物にたいして、ソ連から鹵獲したKV-2重戦車は、それに乗り上げて、傾斜し車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。その装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃すれば、3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でもソ連重戦車を撃破できる。また、7.5センチ対戦車砲であれば、容易に重戦車の装甲の弱点を貫通し、完全に戦車を仕留めることができる、このように考えられた。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146686 引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、何種類かの即製の対戦車障害物を作った。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;ソ連製戦車なので敵と間違われて誤射を受けないように、白に青十字のフィンランド国旗を掲げている。現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146661引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作った。樹木の幹を切り揃えてワイヤーで束ねた杭状の木製障害対戦車障害物もその一つである。ここにソ連戦車が乗り上げれば、装甲の薄い車体下部が標的となり、対戦車砲で仕留めることができる、このように考えられた。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;ソ連製戦車なので敵と間違われて誤射を受けないように、白に青十字のフィンランド国旗を掲げている。現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146662引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、実際に鹵獲したKV-2戦車を使って、障害物の実地試験を行った。ソ連から鹵獲したKV-2重戦車は、対戦車障害物にキャタピラで乗り上げて、傾斜するので、車体が持ち上がり、車体下面が晒されるようになる。その装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃すれば、3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でもソ連重戦車を撃破できる。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;ソ連製戦車なので敵と間違われて誤射を受けないように、白に青十字のフィンランド国旗を掲げている。現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを。対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146690引用。


 ドイツ軍のティーガー重戦車は、高射砲を改造した8.8センチ戦車砲を搭載し、パンター戦車も70口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載していたが、ソ連軍の主力戦車T-34戦車初期型、KW-1重戦車は、42口径の長砲身76.2ミリ戦車砲を、T-34戦車後期型は高射砲を改造した55口径85ミリ砲を搭載しており、互角の攻撃力を保持している。
 さらに、部隊配備・実戦投入の時期を比較すると、ドイツ軍のティーガー重戦車やパンター戦車は1943年夏のソ連東部戦線、シタデル(城塞)作戦の時期にやっとまとまった数が実戦投入されている。つまり、タイガーやパンサーといったドイツ軍の新鋭戦車は、戦争後期になってやっと登場し、活躍期間は戦争後期に限られる。他方、ソ連T-34戦車。KV-1重戦車の実戦投球の時期は、1941年夏でドイツ軍新鋭戦車よりも2年も早く実戦に大量投入され、第二次大戦初期から終戦まで戦い続けている。
 ドイツ軍新鋭戦車の生産台数は、ティーガー重戦車は1400輌、パンター戦車は5000輌であるが、これはソ連赤軍のT-34戦車が5万8,000輌、KW-1重戦車が4,500輌も量産しているのに比較すると生産台数10%程度でしかなく問題外である。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト;現地の石材を木製枠に詰めた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを。対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146661引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、実際に鹵獲したKV-2戦車を使って、障害物の実地試験を行った。大きな岩石を並べて、傾斜させた石に戦車を乗り上げさせる対戦車障害物もその一つである。ソ連から鹵獲したKV-2重戦車のキャタピラは、傾斜面に乗り上げ、車体を持ち上げる。そこで、車体下面が晒されるようになるので、装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃できるというわけである。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト;現地の石材を木製枠に詰めた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-14666引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、実際に鹵獲したKV-2戦車を使って、障害物の実地試験を行った。木製の枠に石材を投入して傾斜させた対戦車障害物もその一つである。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-14660引用。


ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、トハチェフスキー将軍による機動力を活かした気候旅団の創設を認めただけでなく、戦闘車輛の強化にも留意した。装甲化を進め、1941年6月にドイツがソ連に侵攻した時には、重装甲、強力な火力を装備したT-34戦車とKV-1重戦車を配備していた。T-34戦車は、火力、装甲、機動力のある世界的傑作戦車となるが、当初は、そのような高い評価を各国から得ていたわけではない。他方、KV-1重戦車は、火力はT-34戦車と同等だが、重装甲で、45トンもあったために機動力が高かった。重戦車のコンセプトは、重装甲だけではなく、大口径砲を搭載して、火力も強力する形で進化していった。それが、85ミリ砲を搭載したIS-1戦車、1943年に完成した122ミリ砲を搭載したIS-2戦車である。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト;現地の石材を木製枠に詰めた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146687引用。


1943年9月、フィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、ラップランドの防衛強化を図った。この時、鹵獲したソ連製KV-2戦車を使った実地試験を行った。大きな岩石を並べて、傾斜面に戦車を乗り上げさせてしまえば、車体下面が晒されるようになるので、装甲の貧弱な車体下面や下部に対して3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でも射撃するというわけである。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍の石製対戦車障害物に乗り上げた車体後方からみたソ連製KV-1B重戦車(障害物の有効性判定テスト試験の様子);現地の石材を木製枠に詰めた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146664引用。


 ソ連製KV-1B重戦車のキャタピラの幅は広く、重戦車の接地重量・圧力を軽減することができる。それでも、悪路で45トンの戦車の機動性を確保するのは困難である。そこで、ソ連製KV-1B重戦車の車体前面下部と車体後面下部には2個の牽引用の金具がついている。ここにロープやワイヤーを結んで、トラクターや牽引車、あるいは他の戦車に繋いで、悪路で立ち往生した場合、戦車壕などに落ち込んで自力脱出できなくなった場合に、牽引、曳航、脱出するのである。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍の石材製対戦車障害物に乗り上げた正面下方からみたソ連製KV-1B重戦車(障害物の有効性判定テスト試験の様子);ソ連で大量生産されたT-34戦車の搭載した76.3ミリ(3インチ)F-34戦車砲と同じ火砲である。現地の石材を木製枠に詰めた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146669引用。


ソ連製KV-1重戦車が砲塔に搭載した火砲は、口径76.2ミリで初期型から後期型まで同じである。しかし、火砲の初速を高速化し、貫通力を増強するために、砲身が長くなっている。当初1939年型は30.5口径76mm砲L-11、中期1940年型は31.5口径76mm砲F-32、後期1941年型は41.5口径76mm戦車砲ZIS-5と、火力が強化されている。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト;現地の石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146705引用。


ソ連軍のKV-1(KB-1)重戦車の"KV"とは、当時のソ連共産党国防委員(資本主義国の国防大臣に相当)だったクリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)の名を冠したもので、英語表記はKV、ドイツ語表記はKWである。1939年の第二次世界大戦勃発前に開発され、第二次世界大戦初期から中期にかけてソ連軍に配備された。重装甲で3インチ76.2ミリ戦車砲を装備しており、出現当時、世界唯一の量産された45トン級の重戦車だった。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト;現地の石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston-hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146707引用。


ソ連軍のKV-1(KB-1)重戦車は、重装甲で3インチ76.2ミリ戦車砲を装備しており、防御力も火力も、出現当時、けた違いに大きかった世界唯一の量産された45トン級の重戦車である。しかし、重い車体を動かすための、トランスミッションメカニズムが操作しにくく、信頼性、機動性に欠けていたため、稼働率が低くなったり、長距離移動に過分の整備負担がかかったりした。そこで、装甲の厚さは減じて、軽量・小型で、同じ76.2ミリ戦車砲を搭載するT-34戦車が、ソ連軍の主力戦車として大量生産されることになった。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト;現地の石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを。対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146704引用。


ソ連軍は、KV-1(KB-1)重戦車の砲塔を撤去して、車体に巨大な戦闘室を設けて、車体前面に152ミリ榴弾砲を搭載したSU-152自走砲を1942年に開発した。SU-152自走砲の生産は1942年3月1日から開始され、1945年までに700輌が量産された。全高は2.45mと低く、搭載した 152ミリML-20榴弾砲の威力は強力だったまた、「自走砲」の名称ではあるが、装甲は前面上部 75mm 下部 60mm 側面・後面 60mmと防御力も高く、事実上の「突撃砲」として対戦車戦闘にも投入された。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト;現地の石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146703引用。


ソ連軍KV-1重戦車の諸元
全長(砲身を含む) 6.89 m、車体長 6.75 m
全幅 3.32 m
全高 2.71 m
重量 45 t
懸架方式 トーションバー式
最高速力:35 km/h(整地)/17 km/h(不整地)
航続距離 335 km
兵装 41.5口径76.2ミリZIS-5戦車砲(携行砲弾数98発)
7.62ミリ車載機銃DT3丁(携行弾数3024発)

ソ連軍KV-1重戦車の装甲
防盾90 mm 砲塔前面75 mm
砲塔側面・後面75 mm、上面40 mm 車体前面75mm、前面傾斜40 mm
車体側面・後面75 mm
車体上・底面30-40 mm
発動機:12気筒液冷ディーゼルV-2K(550 馬力)
乗員:5 名
車長兼装填手・砲手・操縦手・ 補助操縦手兼整備手・ 通信手兼前方機銃手


3.現存するソ連赤軍KV-1重戦車


写真(右) 2007年6月、フィンランド、ヘルシンキ下100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているソ連赤軍KV-1E (KW-1)重戦車
:T-34戦車(初期型)1940年型と同じ砲身長3m短砲身30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。砲塔と車体の側方には、大型リベット止めの外装追加装甲(アップリケ装甲)が設けられて防御力の工場を図っている。
T-34戦車(初期型)1940年型と同じ短砲身長3m、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。
scription 093 - KV-1E Date 5 July 2017, 11:59 Source 093 - KV-1E Author Richard Allen from Nottingham, UK
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Moscow Central Armed Forces Museum、File:Parola Tank Museum 093 - KV-1E (38538665242).jpg引用。



写真(右) 2008年6月、フィンランド、ヘルシンキ下100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているソ連赤軍KV-1E (KW-1)重戦車
:T-34戦車(初期型)1940年型と同じ砲身長3m短砲身30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。砲塔と車体の側方には、大型リベット止めの外装追加装甲(アップリケ装甲)が設けられて防御力の工場を図っている。
T-34戦車(初期型)1940年型と同じ短砲身長3m、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。
English: KV-1E m 1941 in Parola Tank museum Suomi: KV-1E m 1941 raskastaistelupanssarivaunu "Klimi" Kuvan vaunu on vallattu Petroskoin luona Solomannissa loppuvuodesta 1941. Maalattu jatkosodan aikaiseen suomalaiseen naamioväriin. Date 1 June 2008, 10:29:53 (according to Exif data) Source Photo by me, Pitkäkaula Author Pitkäkaula
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Moscow Central Armed Forces Museum、File:KV-1E m1941 Parola tank museum.jpg引用。


パロラ戦車博物館(Parola Armour Museum)は、貴重な戦車これくりょんを誇っているが、林の中に野外展示されており、戦車の劣化が心配される。そこで、この保管している戦車に屋根・シェルター(shelters)を付けるためのクラウドファンディング(crowdfunding)を募集している。屋根を付けた保管庫の経費は、40万ユーロ(euros)で、一般寄付のクラウドファンディング(crowdfunding)で半額の20万ユーロを目指している。



KV-1:Parola Armour Museum

パロラ戦車博物館では、展示されている戦車に屋根をつけるため、クラウドファンディングを募集しております。

当館の野外展示場には、1936年から1945年に行われた冬戦争と継続戦争で活躍した個性豊かな戦車達が展示されています。しかし時間の経過とともに装甲など戦車の様々なところが激しく痛んでいます。次の世代の為にも、この歴史的価値のある戦車たちを、屋外での劣化から守るため”タンクシェルター”を建設が急務となっています。 期限が10月までと迫っておりますが、日本の戦車ファンの皆様にもお力をお借りいただければと思い、ご案内させていただきました。


パロラ戦車博物館 戦車の保護を

タンクシェルターのクラウドファンディングでの目標
パロラ戦車博物館の仕事は、フィンランド軍の歴史である機甲兵器と対戦車兵器の収集と維持です。その為に、歴史、部品、記録、を収集した後に、研究し復元する必要があります。そのうちの1つの仕事である、展示や出版活動については、非営利の財団であるパロラ戦車博物館財団が行っています。

現在のパロラ戦車博物館の資金調達では、現在の活動を維持することは可能ですが、天候から戦車を守るための気象シェルターを建設するまでの余裕はありません。パロラ戦車博物館の展示物は非常に貴重で、世界で唯一展示されている戦車をはじめ個性豊かな戦車達で構成されており、それらの歴史は言うまでもなく犠牲となった兵士や退役軍人の英雄的な行動の歴史に結びつきます。

建設予定の2つのシェルターに必要な予算は40万ユーロ(日本円で約4500万)です。クラウドワンディングの設定ではシェルター1戸分金額である、20万ユーロ(日本円で2200万)という数字で公開されています。クラウドファンディングでの最小目標金額は6万ユーロ(日本円で670万)に設定されています。この6万ユーロという数字は、気象シェルター建設に着手する為に必要最低限な金額となります。気象シェルターの建設により、次の世代に美しい状態の戦車を残すことは勿論のこと、博物館への訪問者が快適に過ごすことができ、さら に一年中博物館を開くことができるようになります。(「パロラ戦車博物館 戦車の保護を」引用終わり)

2020年8月13日現在
791funders、82300 €


写真(右)2006年7月、フィンランド、ヘルシンキ下100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているソ連赤軍KV-1E (KW-1)重戦車(車体正面)
:砲塔防盾は、大型リベット止めの装甲があり、左側に7.62ミリ同軸機関銃の銃口が開いている。車体正面左側にも、接近戦闘用の7.62ミリ機関銃が設けられている。T-34戦車(初期型)1940年型と同じ砲身長3mの短砲身30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。
Soviet KV-1E tank manufactured in 1941 and captured by the Finns in late 1941, displayed in Finnish Tank Museum (Panssarimuseo) in Parola. Photo taken on July 14, 2006. Source: Photo by me, User:Balcer. Date 14 July 2006 (according to Exif data) Source Own work Author Balcer~commonswiki
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1E at the Parola Tank Museum、File:Kv1e m1941 parola 1.jpg引用。



映画『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』予告編 377,997 回視聴•2019/08/15
ソ連軍の最強戦車T-34が、たった1車両でナチス軍の戦車隊に挑む超絶アクション映画『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』。ロシア映画史上最高のオープニング成績を記録し、最終興行収入40億円超、800万人動員という驚異的な数字を叩き出したこのロシア映画

映画「T-34」2018年製作/113分/G/ロシアは、日本で映画「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」の題名で公開されたロシア戦争映画であるニキータ・ミハルコフ製作で、映画には実物のT-34中戦車が搭乗する。第2次世界大戦中の1941年夏。ドイツのソ連侵攻でソ連軍の新任士官イヴシュキンは初の実戦で敗退、ドイツ軍の捕虜となる。しかし、ドイツ軍は、イヴシュキンが戦車指揮官だったことから、収容所で実施したドイツ軍のイェーガー将軍は、戦車演習に、鹵獲したソ連軍T-34中戦車をつかおうと捕虜ヴシュキンに操縦を命じた。このT-34中戦車は、実弾は搭載しておらず、演習ではドイツ軍の攻撃に晒されることになる。そこで、演習前にT-34戦車の整備をしていた捕虜イヴシュキンは、戦車乗員となる戦友とT-34戦車を奪って収容所を脱出することを試みる。戦車を使った戦闘シーンの迫力に加えて、自由を求める強い意志を持つ屈強なソ連兵士たちの友情が垣間見れる。ただし、使用されているのは、初期型のT-34-76中戦車でははなく、後期型の大型砲塔のT-34-85中戦車である。


写真(右)2006年7月、フィンランド、ヘルシンキ下100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているソ連赤軍KV-1E (KW-1)重戦車(車体正面)
:砲塔防盾は、大型リベット止めの装甲があり、左側に7.62ミリ同軸機関銃の銃口が開いている。車体正面左側にも、接近戦闘用の7.62ミリ機関銃が設けられている。奥に見えるのは、後期型のKV-1重戦車M1942で、砲塔の形状が異なり、装備した主砲も同じ76.2ミリだが、長砲身化している。フィンランド軍は、対ソ連のために反ユダヤと同じ反共産主義のカギ十字マークを国籍記章として採用した。
Soviet KV-1E tank manufactured in 1941 and captured by the Finns in late 1941, displayed in Finnish Tank Museum (Panssarimuseo) in Parola. Photo taken on July 14, 2006. Source: Photo by me, User:Balcer. Date 14 July 2006 (according to Exif data) Source Own work Author Balcer~commonswiki
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1E at the Parola Tank Museum、File:Kv1e m1941 parola 3.jpg引用。


2018年製作ロシア映画「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」では、捕虜イヴシュキンが砲弾6発を奪って脱出に使ったT-34中戦車をドイツ軍のイェーガー将軍が捕まえ、撃破しようと追いかける。半装軌式装甲車、フィーゼラーFi156シュトルヒ連絡機も登場するアクション映画である。使用されているのは、初期の76.2ミリ砲装備の初期型T-34-76中戦車でははなく、85ミリ砲装備の後期型T-34-85中戦車でVFXも多用されているが、狭い戦車内に小型カメラを取り付け撮影した実写には迫力がある。2018年製作「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」は、ロシア映画日本興収歴代No.1を記録した


写真(右) 2006年7月、フィンランド、ヘルシンキ下100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているソ連赤軍KV-1E (KW-1)重戦車
(斜め後方):T-34戦車(初期型)1940年型と同じ砲身長3m短砲身30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。砲塔と車体の側方には、大型リベット止めの外装追加装甲(アップリケ装甲)が設けられて防御力の工場を図っている。
T-34戦車(初期型)1940年型と同じ短砲身長3m、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。右に見えるのは、KV-1重戦車M1942(後期型)で、砲塔の構造にリペットが亡くなり、主砲も同じ76.2ミリとはいえ、短砲身30.5口径から42.5口径に長砲身になって、攻撃力が強化されているのがわかる。フィンランド軍は、対ソ連のために反ユダヤと同じ反共産主義のカギ十字マークを国籍記章として採用した。

Soviet KV-1E tank manufactured in 1941 and captured by the Finns in late 1941, displayed in Finnish Tank Museum (Panssarimuseo) in Parola. Photo taken on July 14, 2006. Source: Photo by me, User:Balcer. Date 14 July 2006 (according to Exif data) Source Own work Author Balcer~commonswiki
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Moscow Central Armed Forces Museum、File:Kv1e m1941 parola 4.jpg引用。



写真(右)2007年、ロシア連邦、エカテリンブルク郊外、レニングラード攻防博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-1重戦車
:T-34戦車と同じ76.2ミリM1940年F-34L/42.5戦車砲搭載。
Танк КВ-1 ? 061. Вид сзади. Диорама «Прорыв блокады Ленинграда». Экспозиция военной техники периода 1941–1944 годов под открытым небом. Date 2007 Source Own work Author Андрей!
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 Model 1941 in the Breakthrough of the Siege of Leningrad Museum、File:КВ-1 «Диорама «Прорыв блокады Ленинграда».jpg引用。



写真(右)2012年8月、ロシア連邦、エカテリンブルク郊外、レニングラード攻防博破風物館に保管展示されているソ連赤軍KW-1重戦車(後面)

Русский: Танк КВ-1. Музей "Прорыв блокады Ленинграда". Date 12 August 2012 Source Own work Author VT1978
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 Model 1941 in the Breakthrough of the Siege of Leningrad Museum、File:KV-1 Kirovsk.JPG引用。



写真(右)2012年8月、ロシア連邦、エカテリンブルク郊外、レニングラード攻防博物館、に保管展示されているソ連赤軍KW-1重戦車(左側面)
:T-34戦車と同じ76.2ミリM1940年F-34L/42.5戦車砲搭載。
> Диорама «Прорыв блокады Ленинграда». Экспозиция военной техники периода 1941–1944 годов под открытым небом. Танк КВ-1. Вид слева. Date 2007 Source Own work Author Андрей!
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 Model 1941 in the Breakthrough of the Siege of Leningrad Museum、File:КВ-1-061-слева-ЭкспозицияВоеннойТехники.JPG引用。



写真(右)2012年8月、ロシア連邦、エカテリンブルク郊外、レニングラード攻防博物、に保管展示されているソ連赤軍KW-1重戦車
:T-34戦車と同じ76.2ミリM1940年F-34L/42.5戦車砲搭載。
Русский: Танк КВ-1. Музей "Прорыв блокады Ленинграда". Date 12 August 2012 Source Own work Author VT1978
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 Model 1941 in the Breakthrough of the Siege of Leningrad Museum、File:KV-1 Kirovsk.JPG引用。



写真(右)2011年5月、ロシア連邦、エカテリンブルク郊外、レニングラード攻防博物、に保管展示されているソ連赤軍KW-1重戦車
:T-34戦車中期型M1941と同じ長砲身42.5口径76.2ミリM1940年式戦車砲"F-34(ZiS-5)装備。
Музей-панорама в Кировске Date Taken on 14 May 2011 Source https://web.archive.org/web/20161022031001/http://www.panoramio.com/photo/53350187 Author MrStepanovka
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 Model 1941 in the Breakthrough of the Siege of Leningrad Museum、File:Музей-панорама в Кировске - panoramio (5).jpg引用。



写真(右)2007年6月、ロシア連邦、エカテリンブルク郊外、レニングラード攻防博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-1重戦車(T-34戦車中期型M1941と同じ76.2ミリM1940年式L/42.5戦車砲"F-34(ZiS-5)装備)

Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007. Source Own work Author This file is lacking author information. Permission (Reusing this file) Attribution ShareAlike 2.5
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 Model 1941 in the Breakthrough of the Siege of Leningrad Museum、File:Soviet KV tank 2.jpg引用。



写真(右)2007年6月、ロシア連邦、エカテリンブルク郊外、レニングラード攻防博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-1重戦車(T-34戦車中期型M1941と同じ76.2ミリM1940年式L/42.5戦車砲"F-34(ZiS-5)装備)
:真正面
Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007. Source Own work Author This file is lacking author information. Permission (Reusing this file) Attribution ShareAlike 2.5
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 Model 1941 in the Breakthrough of the Siege of Leningrad Museum、File:Soviet KV tank 1.jpg引用。



写真(右)2003年8月、ロシア連邦、エカテリンブルク郊外、レニングラード攻防博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-1重戦車
:T-34戦車と同じ76.2ミリM1940年F-34L/42.5戦車砲搭載。
Тяжелый танк КВ-1 Date Taken on 27 August 2003 Source https://web.archive.org/ web/ 20161113233448 /http:// www.panoramio.com/ photo/48823704 Author Валерий Дед
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 Model 1941 in the Breakthrough of the Siege of Leningrad Museum、File:Тяжелый танк КВ-1 - panoramio.jpg引用。



写真(右)2003年5月、ロシア連邦、モスクワ郊外、ロシア連邦中央軍事博物館(Central Armed Forces Museum of Russian Federation)に保管展示されているソ連赤軍KV-1(KW-1)重戦車
:T-34戦車(初期型)1940年型と同じ短砲身長3m、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。
Soviet WW2 era Heavy tank Built:- 1939 to 1943 Total production:- 5,219 Main armament:- 76mm ZiS-5 tank gun The KV-1 was known for its heavy armour which was invulnerable to German tanks during the early part of the war. Known to the Germans as the KV-1C, the model 1942 had a fully cast turret and an improved engine. On display at the Central Armed Forces Museum, Moscow, Russia. 26th August 2017 Date 26 August 2017, 14:43 Source Kliment Voroshilov KV-1 model 1942 - Central Armed Forces Museum, Moscow Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1E at the Parola Tank Museum、File:Kliment Voroshilov KV-1 model 1942 - Central Armed Forces Museum, Moscow (38859717001).jpg引用。



写真(右)2012年5月、ロシア連邦、モスクワ郊外、ロシア連邦中央軍事博物館(Central Armed Forces Museum of Russian Federation)に保管展示されているソ連赤軍KV-1(KW-1)重戦車
:T-34戦車(中期型)1940年型と同じ砲身長3mの長砲身42.5口径76.2ミリ戦車砲F-34を搭載。
Русский: КВ-1 в Центральном музее вооруженных сил (г. Москва) Date 26 May 2012 Source Own work Author Gandvik
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Moscow Central Armed Forces Museum、File:КВ-1.jpg引用。



写真(右)2011年、ロシア連邦スヴェルドロフスク州、ヴェルフナヤ・ピシュマ(Verkhnyaya Pyshma)、UMMC軍事博物館(UMMC Military Museum )に保管展示されているソ連赤軍KV-1(KW-1)重戦車
:ウラル鉱業(Ural Mining and Metallurgical Company)が設立した軍事博物館で、18世紀以来の500輌以上の戦闘車両を保管・展示している。
Русский: Музей военной техники, г.Верхняя Пышма - 2011 English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 Date 4 September 2011 Source https://picasaweb.google.com/lh/photo/G0E_HB96RfvKGUSp663jetMTjNZETYmyPJy0liipFm0 Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File:Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 255.jpg引用。



写真(右)2011年9月、ロシア連邦スヴェルドロフスク州、ヴェルフナヤ・ピシュマ(Verkhnyaya Pyshma)、UMMC軍事博物館(UMMC Military Museum )に保管展示されているソ連赤軍KV-1(KW-1)重戦車の砲塔防盾
:砲塔装甲は、防盾90 mm 前面75 mm、側面75 mm 後面75 mm 上面40 mm。KV重戦車後期型は、41.5口径76.2ミリZIS-5戦車砲を搭載、弾数98発を搭載している。主砲の左側に、同軸の7.62ミリ機関銃が装備されている。ウラル鉱業(Ural Mining and Metallurgical Company)が設立した軍事博物館で、18世紀以来の500輌以上の戦闘車両を保管・展示している。
Русский: Музей военной техники, г.Верхняя Пышма - 2011 English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 Date 4 September 2011 Source https://picasaweb.google.com/lh/photo/9Nuw5hvwehhzFWkkqJ0zFdMTjNZETYmyPJy0liipFm0 Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File:Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 053.jpg引用。



写真(右)2011年9月、ロシア連邦スヴェルドロフスク州、ヴェルフナヤ・ピシシュマ(Verkhnyaya Pyshma)、UMMC軍事博物館(UMMC Military Museum )に保管展示されているソ連赤軍KV-1(KW-1)重戦車の車体正面左側の車載7.62ミリ機関銃
:車体装甲は、前面上下帯部75+25 mm、前面傾斜部40 mm、側面75mm、後面70mm、上・底面30-40 mm。砲塔の主砲の左側にも、同軸の7.62ミリ機関銃が装備されている。ウラル鉱業(Ural Mining and Metallurgical Company)が設立した軍事博物館で、18世紀以来の500輌以上の戦闘車両を保管・展示している。
Русский: Музей военной техники, г.Верхняя Пышма - 2011 English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 Date 4 September 2011 Source https://picasaweb.google.com/lh/photo/3Xc1KHN1SC5-PcUiSlP05tMTjNZETYmyPJy0liipFm0 Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File:Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 054.jpg引用。



写真(右)2011年9月、ロシア連邦スヴェルドロフスク州、ヴェルフナヤ・ピシシュマ(Verkhnyaya Pyshma)、UMMC軍事博物館(UMMC Military Museum )に保管展示されているソ連赤軍KV-1(KW-1)重戦車の車体側面下の転輪・動輪の配置
:全長:6.89 m、車体長:6.75 m 、全幅:3.32 m 、全高:2.71 m 、重量:45 t 、懸架方式:トーションバー方式。 SMK重戦車の転輪は片側8個だったが、KV重戦車では転輪が6個に減少している。がある。発動機は、12気筒液冷ディーゼルV-2K(550 馬力)を装備している。ウラル鉱業(Ural Mining and Metallurgical Company)が設立した軍事博物館で、18世紀以来の500輌以上の戦闘車両を保管・展示している。
Русский: Музей военной техники, г.Верхняя Пышма - 2011 English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 Date 4 September 2011 Source https://picasaweb.google.com/lh/photo/32UP-xyf1wSp8umLFQl2NdMTjNZETYmyPJy0liipFm0 Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File:Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 052.jpg引用。



写真(右)2010年7月、イギリス南西岸、ドーセット州、ボービントン駐屯地(Bovington Camp)、ボーウィントン戦車博物館(Bovington Tank Museum )に保管展示されている冬季白色迷彩を施したソ連赤軍KV-1重戦車(T-34戦車と同じ長砲身42.5口径76.2ミリ1940年式F-34戦車砲装備)
:第一次大戦中の1916年、イギリス陸軍はボービントン・キャンプで戦車搭乗の訓練施設を設けた。戦後の1919年には、部隊配備されていた戦車の多くが退役しフランスにあったイギリス軍戦車もボービントンに戻ってきた。その際に、歴史的、軍事的に貴重な使用となる戦車を残すことになった。そして、第二次世界大戦後になって、枢軸国から鹵獲した戦車含めて、展示することtなり、1947年に、戦車の一般公開が始まった。
Bovington Tank Museum 259 kv1b Date 7 July 2010, 14:37 Source Bovington Tank Museum 259 kv1b Author DAVID HOLT from London, England
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Bovington Tank Museum、File:Flickr - davehighbury - Bovington Tank Museum 259 kv1b.jpg引用。



写真(右)2015年12月、イギリス南西岸、ドーセット州、ボービントン駐屯地(Bovington Camp)、ボーウィントン戦車博物館(Bovington Tank Museum )に保管展示されている冬季白色迷彩を施したソ連赤軍KV-1重戦車(T-34戦車と同じ76.2ミリM1940年F-34L/42.5戦車砲装備)
:第一次大戦中の1916年、イギリス陸軍はボービントン・キャンプで戦車搭乗の訓練施設を設けた。戦後の1919年には、部隊配備されていた戦車の多くが退役しフランスにあったイギリス軍戦車もボービントンに戻ってきた。その際に、歴史的、軍事的に貴重な使用となる戦車を残すことになった。そして、第二次世界大戦後になって、枢軸国から鹵獲した戦車含めて展示。
Russia - KV-1 heavy tank with 76.2mm gun at the Bovington Tank Museum, Dorset, March 1998. Date 9 December 2015, 21:32 Source KV-1 Author Hugh Llewelyn from Keynsham, UK
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Bovington Tank Museum、File:KV-1 (23270885439).jpg引用。


イギリス南岸にあるボービントン戦車博物館(現在は戦車博物館)は、イギリス陸軍ボービントン基地の戦車訓練施設を基盤に設けられた博物館であり、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、日本など世界25カ国以上から300輌の戦車を集め、一般市民に向けて公開している。元来は、戦車訓練、戦車の保管・研究をする基地だったが、歴史的な軍事異物を展示して、国防意識を向上させること、親軍感情を育成することが目的である。世界最大規模の戦車博物館で、1947年以降に一般公開され、稼働可能な戦車も残されている。


写真(右)2017年3月、イギリス南西岸、ドーセット州、ボービントン駐屯地(Bovington Camp)、ボーウィントン戦車博物館(Bovington Tank Museum )に保管展示されている冬季白色迷彩を施したソ連赤軍KV-1重戦車(T-34戦車と同じ長砲身42.5口径76.2ミリ1940年式F-34戦車砲装備)
:第一次大戦中の1916年、イギリス陸軍はボービントン・キャンプで戦車搭乗の訓練施設を設けた。戦後の1919年には、部隊配備されていた戦車の多くが退役しフランスにあったイギリス軍戦車もボービントンに戻ってきた。その際に、歴史的、軍事的に貴重な使用となる戦車を残すことになった。そして、第二次世界大戦後になって、枢軸国から鹵獲した戦車含めて、展示することとなり、1947年に、戦車の一般公開が始まった。
English: Bovington Tank Museum: KV-1 Date 17 March 2017 Source Own work Author Morio
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Bovington Tank Museum、File:KV-1 rear-right 2017 Bovington.jpg引用。



写真(右)2013年9月、フランス、メーヌ=エ=ロワール県、ロワール川流域のソミュール市、ソミュール戦車博物館に保管展示されているソ連赤軍KV-1重戦車
:T-34戦車中期型M1941と同じ3.2 m長砲身42.5口径76.2ミリM1940年式戦車砲"F-34(ZiS-5)装備。フランス陸軍装甲部隊の軍事資料を残し、攻勢に伝える目的で設立されたソミュール戦車博物館は、陸軍人を館長とするもので、1977年に開館した。稼動する状態に戻す作業を通じて、200両以上の車両が稼働状態で保管されている。
Photographed in the Musée des Blindés, France. Date 11 September 2013, 15:32:32 Source Own work Author Alf van Beem
写真はWikimedia Commons, Category:KV-1 in the Bovington Tank Museum、File:KV1 in the Musée des Blindés, France.JPG引用。



4.ソ連赤軍 KB-2,KW-2重戦車

ソ連軍のKB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,全長 6.95メートル,全幅 3.32メートル,全高 3.24メートル,重量 52トン。 速度 34 キロ/時(整地)・15キロ(不整地),航続距離 180キロ,兵装 20口径152mm榴弾砲M10(弾数36発),1939年制式,弾頭50キロ,最大射程12000メートル。7.62ミリ機銃3丁,エンジン550馬力。乗員 6人。

KB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,1939年開発,20口径152ミリM10榴弾砲を装備。152mm榴弾砲は,弾頭50キロで,薬莢は分離していたので,装填手は2人,乗員は6人だった。全長7メートル,装甲は砲塔前面110ミリ,側面75ミリでもあった。重量52トンでディーゼルエンジン550馬力は力不足だった。KV-2は独ソ戦当初、最大級の重戦車だったが,砲弾の装填,路外走行に難点があり,1940-41年に200台が生産されたに過ぎない。

KWはロシア語ではKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。

ソ連軍のKB−1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,1939年開発,T-34中戦車と同じ76.2ミリ(3インチ)砲を装備していた。全長7メートル,装甲は砲塔90ミリ,側面75ミリと厚く,ドイツの37ミリ対戦車砲を問題としなかった。しかし,独ソ戦当初、最強の戦車で,1942年までに3000両生産。しかし,重量45トンという重さのため,トランスミッションの不具合が生じやすかったという。

KB-2重戦車の諸元
重量:52トン、乗員:6名
全長:6.95 m 、全幅: 3.32 m、全高3.25 m
装甲:60-110 mm
兵装:152mm榴弾砲M-10T152 mm M1937
車載機銃 2丁×DT7,62mm-DP28軽機関銃(発射速度:500-600発/分、初速:840m/s、有効射程:800m、収容銃弾数2,079発)
エンジン:V2-K-12気筒ディーゼル550 hp
航続距離:140 km(整地)
最高時速:28 km/h (路上)


写真(右)1941年6-7月,対ソ連東部戦線、ロシア北部で撃破されたソ連軍KW-2重戦車
:ソ連軍のKB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,全長 6.95メートル,全幅 3.32メートル,全高 3.24メートル,重量 52トン。 速度 34 キロ/時(整地)・15キロ(不整地),航続距離 180キロ,兵装 20口径152mm榴弾砲M10(弾数36発),1939年制式,弾頭50キロ,最大射程12000メートル。7.62ミリ機銃3丁,エンジン550馬力。乗員 6人。
Sowjetunion-Nord.- Defekter russischer Panzer KW-2 am Straßenrand wird von deutschen Soldaten untersucht; PK 694 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Nägele 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ドイツ軍の第1装甲師団と第2装甲師団は,歩兵2個師団と協力,6月26日までに,バルト諸国の北方戦線で,ソ連戦車200台を撃破,その中には,レニングラードのコルピノ工場で製造されたKW-1,KW-2重戦車29台も含まれていた。

ソ連軍KW-2重戦車の装備した20口径152mm榴弾砲M10Tは、威力はあったが、砲弾の装填に問題があった。装填手2名で弾丸と薬莢が分離した分離装薬式の砲弾を狭い砲塔内で装填するために、榴弾砲の発射速度は遅くなった。また、KW-2重戦車の砲塔は大型化し背が高かったが、ターレットリングは76.2ミリ砲を装備したKV-1と同じ構造であり、砲塔と搭載した大型榴弾砲の重量を支え、仰角変更、回転など砲の機動性を低下させた。トップヘビーの傾向もあったため、路肩でキャタピラーが道を外れ、車体が傾くと、普及するのが困難になった。つまり、KW-2重戦は砲の運用と機動性に問題があったといえる。


写真(右)2006年、ロシア共和国、モスクワ、モスクワ中央装甲軍軍事博物館(Central Armed Forces Museum)に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車の20口径152mm榴弾砲M-10T(弾数36発)を搭載した大型砲塔
:溶接の跡が明瞭に見えているが、後にソ連軍戦車の砲塔は鋳造構造となり、曲面を多用した装甲となった。KW-1はロシア語ではKB-1で、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。重量45トンの当時代々級の重戦車で、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 km。
English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 Date 30 September 2012 Source picasaweb.google.com Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in the Moscow Central Armed Forces Museum、File:Kliment Voroshilov KV-2 (s-n 4744) - Central Armed Forces Museum, Moscow (27083660079).jpg引用。



写真(右)2012年、ロシア共和国、モスクワ、モスクワ中央装甲軍軍事博物館(Central Armed Forces Museum)に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車の20口径152mm榴弾砲M-10T(弾数36発)を搭載した大型砲塔
:溶接の跡が明瞭に見えている。KW-2はロシア語ではKB-2で、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。重量45トンの当時代々級の重戦車で、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 km。
Русский: Тяжелый танк Кв-2 в Центральном музее вооруженных сил (г. Москва) Date 16 May 2006 Source Own work Author Johnny Rotten
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in the Moscow Central Armed Forces Museum、File:Kv-2 in the Moscow museum of armed forces.jpg引用。



写真(右)2012年、ロシア共和国、モスクワ、モスクワ中央装甲軍軍事博物館(Central Armed Forces Museum)に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車の20口径152mm榴弾砲M-10T(弾数36発)を搭載した大型砲塔
:溶接の跡が明瞭に見えている。KW-2はロシア語ではKB-2で、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。重量45トンの当時代々級の重戦車で、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 km。
Русский: Тяжелый танк Кв-2 в Центральном музее вооруженных сил (г. Москва) Date 26 May 2012 Source Own work Author Gandvik
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in the Moscow Central Armed Forces Museum、File:Кв-2 2.jpg引用。



写真(右)2012年、ロシア共和国、モスクワ、モスクワ中央装甲軍軍事博物館(Central Armed Forces Museum)に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車(20口径152mm榴弾砲M-10T:携行弾数36発)とT-34-85中戦車(56口径85ミリ戦車砲)
:溶接の跡が明瞭に見えている。KW-2はロシア語ではKB-2で、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。重量45トンの当時代々級の重戦車で、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 km。
Description техника 2-й мировой Date Taken on 27 August 2003 Author Валерий Дед
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in the Moscow Central Armed Forces Museum、File:Техника 2-й мировой - panoramio.jpg引用。



写真(右)ロシア共和国、エカテリンブルク郊外、ヴェルフナヤ・ピシュマ軍事博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車の20口径152mm榴弾砲M-10T(弾数36発)を搭載した大型砲塔

English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 Date 4 September 2011 Source picasaweb Date and time of data generation 11:02, 4 September 2011
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 056.jpg引用。


KW-2重戦車のKWとはロシア語のKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。重量45トン以上の戦車は、歴代の戦車の中でも特急の重戦車である。それでも、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 kmと機動力もある。

 KW-1重戦車は41.5口径76.2ミリZIS-5戦車砲(携行弾数98発)を搭載したのに対して、KW-2重戦車はより大口径の20口径152mm榴弾砲M10 (弾数36発)搭載した。


写真(右)ロシア共和国、エカテリンブルク郊外、ヴェルフナヤ・ピシュマ軍事博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車の20口径152mm榴弾砲M-10T(弾数36発)を搭載した大型砲塔
:溶接の跡が明瞭に見えているが、ソ連軍戦車の砲塔は鋳造構造となり、曲面を多用した装甲となった。KW-1はロシア語ではKB-1で、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)の氏名を冠した略称。重量45トンの当時代々級の重戦車で、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 km。
English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 Date 4 September 2011 Source https:// picasaweb. google.com Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 0241.jpg引用。


KB-2重戦車の装備した20口径152ミリM10榴弾砲は,弾頭50キロ,最大射程1万2000メートル。薬莢は弾頭とは分離式だった。つまり,152ミリ榴弾砲を装填するには、まず弾頭を装填し次に装薬(爆薬)の詰まった薬莢を装填しなければならず、発射には手間がかかった。しかし、152ミリという大型砲弾を人力で装填するには、分離薬莢方式を採用するしかなかった。そこで、砲弾の装填手は2人おり、乗員は合計6人と多かった。た。

KB-2重戦車装甲は,砲塔110ミリ,側面75ミリ。重量52トン。搭載したディーゼルエンジン550馬力では馬力不足の傾向があった。その上、独ソ戦当初、砲弾の装填,路外走行に難点があり,1940-41年に200台が生産されたに過ぎない。


写真(右)ロシア共和国、エカテリンブルク郊外、ヴェルフナヤ・ピシュマ軍事博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車の20口径152mm榴弾砲M-10T(弾数36発)を搭載した大型砲塔
:溶接の跡が明瞭に見えているが、後にソ連軍戦車の砲塔は鋳造構造となり、曲面を多用した装甲となった。KW-1はロシア語ではKB-1で、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。重量45トンの当時代々級の重戦車で、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 km。
English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 Date 30 September 2012 Source picasaweb.google.com Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 056.jpg引用。



写真(右)ロシア共和国、エカテリンブルク郊外、ヴェルフナヤ・ピシュマ軍事博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車(側面)
:KW-1重戦車は41.5口径76.2ミリZIS-5戦車砲を搭載し、砲弾98発を携帯している。サスペンション(懸架)は、トーションバー式。
English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 Date 30 September 2012 Source picasaweb Author Владимир Саппинен Date and time of data generation 11:16, 30 September 2012
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 0049.jpg引用。


KB-2重戦車の搭載した20口径152mm榴弾砲M-10T(152 mm howitzer M1938 (M-10))は、第一次世界大戦のフランスのシュナイダー社の榴弾砲を原型としたM1909 152mm榴弾砲である。この改良型が152mm榴弾砲M-10Tである。1922年にラパッロ条約は、ソ連とヒトラー前のワイマール共和国のドイツと軍事協力の密約があった。ソ連は、ドイツ軍に兵器試作テスト場所や演習場を提供するかわりに、ドイツの軍事技術を伝えられた。そして、1930年代後半には、歩兵や砲兵の機械化、自動車化を進め、野砲の高速牽引が可能なように砲架の補強、ゴム車輪の採用が進んだ。152mm榴弾砲M-10T152 mm howitzer M1938 (M-10))は、1937年に開発され、1939年に制式になった。


写真(右)ロシア共和国、エカテリンブルク郊外、ヴェルフナヤ・ピシュマ軍事博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車(正面)
:20口径152mm榴弾砲M-10T(弾数36発)を装備。
English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 Date 30 September 2012 Source https:// picasaweb.google.com/ Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 0231.jpg引用。


KV-2重戦車の152ミリ榴弾砲は、分離薬莢方式で、砲弾も大きく、次弾装填速度が遅い。射撃しその砲火で敵から発見された場合、大型で機動性にも制約があったため、身を隠すことが難しかった。つまり、敵の反撃を受けやすいという欠点があった。重装甲の防御力を誇ってはいても、搭乗員の度胸が据わっていなければ、包囲され、反撃を受けたときに、忍耐強く反撃の機会を目らうことはできないであろう。


5.ソ連赤軍のT-34中戦車−大祖国戦争の担い手


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト
;現地に傾斜した壕を木材や石材を並べて試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。T-34戦車は、長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備しているので、砲塔を後ろに回転させて、砲身が壕にぶつからないようにして実験している。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122258引用。


 ドイツのエニグマ暗号を解読していたイギリスは,アメリカとともにソ連をドイツに対抗させたがった。そこで,1941年春,ドイツのソ連攻撃が迫っていることを告げた。しかし,ソ連は,この情報を信じなかった。イギリスが,ソ連とドイツとを離反させたがっていることは明白だったから,謀略によって独ソ戦を誘発しようとしていると疑っていた。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト;壕の底に滑り落ちたT-34戦車だが、そこから反対側の壕の斜面に登ろうとしている。壕にかかったソ連戦車が自力で脱出できるかどうかの実地試験をしている。T-34戦車は、長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備しているので、砲塔を後ろに回転させて、砲身が壕にぶつからないようにして実験している。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122259">引用。


ドイツ軍の独ソ戦バルバロッサ作戦(Unternehmen Barbarossa)初期の主力戦車であるIII号戦車が5センチ砲、最大装甲50ミリだったのに対して、ソ連赤軍が配備していたT-34戦車は76.2ミリ砲、最大装甲45ミリ、傾斜装甲による避弾径始に優れていた。機動力の上でも、ソ連軍のT-34戦車はキャタピラー(履帯)幅を広くとり、地面との接地圧力を低く抑え、機動力を確保している。



対ソ戦開始2週間の1941年6月23日の時点で、ドイツ軍は遭遇したソ連赤軍T-34戦車の撃破が困難だったことに関する次の戦闘報告書を作成している。
「半ダースの対戦車砲が、ドラムのような音を立向かってきたT-34戦車に発砲を開始した。しかし、T-34は紀元前の怪物のようにそのまま向かってきた。-----シュテープ中尉の戦車がT-34戦車に何発かの命中弾を与えた。砲弾は、戦車擲弾40(Panzergranate 40 :口径5センチL/24?)だったが、50メートルの距離で4回、20メートルの距離で1回あった。しかし、T-34戦車は被弾で損傷した様子は全くなかった。」

 1941年6月22日にドイツ軍は独ソ不可侵条約を破って、バルバソッサ作戦発動し、ドイツ軍の電撃によって、最前線のソ連軍は総崩れになった。スターリンも数日、国民の前に姿も声も揚げることができず、モロトフ外相に演説させたほどだったが、その打撃から立ち直ると、ソ連軍に前線死守を命じ、スターリン自らがモスクワにとどまって徹底抗戦を強要した。しかし、これがドイツ軍の包囲攻撃を容易にし、多数の戦死者と捕虜を出すことになった。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の超壕テスト
;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122260引用。


スターリンは、事前に1941年6月22日にドイツ軍の侵攻があるとの情報を、イギリスやスパイ情報から得ていた。しかし、これは独ソ不可侵条約を結んだばかりのドイツといさかいを起こさせる西側連合国の半ドイツの陰謀であるとみなしていた。しかし、ドイツを信用していたわけではなく、一時的な和平に過ぎないと考えていた。

1941年6月22日、バルバソッサ作戦発動したドイツが侵攻してきたとき、スターリンは、特にウクライナとベラルーシの工業設備や家畜、住民を東方のウラル山脈などへ急速疎開させる命令を出した。ウラル山脈南部、カザフスタン国境まで150キロのチェリャビンスクChelyabinsk)は、1930年代から、ソ連の「五か年計画」の重工業化によって、農業機械用の60馬力エンジン工場、ディーゼル駆動C-65 トラクター工場などが建設され、急速に拡大した。そして、第二次世界大戦勃発後2年とたたない1941年6月22日に独ソ戦が始まり、ドイツ軍が南は、ベラルーシ(白ロシア)、ウクライナを、北はバルト諸国、レニングラードを支配下に置く危機が現実のものとなると、急遽、そこにあった工場設備を、モスクワの東方、ウラル山脈あたりにまで疎開する大移動が実施に移された。

ドイツ陸軍III号戦車やIV号戦車Sd. Kfz. 161)が、キャタピラー(履帯)上部に小型転輪を、下部にも小型の転輪を装備しているのに対して、T-34戦車以降のソ連戦車は、大型転輪を採用している。懸架装置(サスペンション)は、接地している大型転輪を一つずつ車体側面に設けたコイル・スプリングで独立懸架させたクリスティー式サスペンションである。

⇒1941年6月22日ソ連侵攻バルバロッサ作戦を読む。

1942年7月23日,総統大本営(総司令部)の一つでウクライナに設置されたヴェアヴォルフ(Wolfsschanze)で,陸軍参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)大将は,ヒトラーにソ連軍が計画的に退却しているとの推論を伝えた。が,ヒトラーはソ連軍が崩壊一歩手前にあると確信していた。

フランツ・ハルダーFranz Halder)参謀総長は、ヒトラーの戦略に従わなかったために、非協力的と判断される。二ヵ月後の1942年9月24日、ハルダー上級大将は参謀総長を更迭、予備役編入。後任の陸軍参謀総長はクルト・ツァイツラー少将で、就任時には大将に特進。スターリングラード攻防戦を担うことになる。

1942年7月、ドイツ南方軍集団司令官フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)元帥は南方軍集団のAB2分割に反対し,解任させられた。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト
;壕の底に滑り落ちたT-34戦車だが、そこから反対側の壕の斜面に渡り、壕の上まで登り切った。つまり、この壕の傾斜では、ソ連のT-34戦車には有効な障害物となりえないことが判明した。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122261">引用。


  ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥が率いるA軍集団団は,7月25日,黒海北のアゾフ海入口にあるロストフを占領した。この日,ヒトラーの「総統指令45号」がA・B軍集団に届いたが,ここではドイツ軍の包囲を逃れドン川に達したのは,ソ連のチモシェンコ軍の一部に過ぎず,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥のA軍集団に黒海沿岸の諸港を占領し,カスピ海沿いのバクーを占領すること,マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将のB軍集団はスターリングラードを占領,ボルガ川沿いにカスピ海のアストラハニにまで前進することを命じた。

これは,まずスターリングラードを攻略,その後,カフカスに進出し,油田地帯を押さえるという「ブラウ」作戦を大修正するものだった。スターリングラード,カフカスを同時に攻撃目標としてしまったのである。

ソ連指導者スターリンは,1942年7月12日,セミョーン・コンスタンチーノヴィチ・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)元帥にスターリングラード正面軍の編成を明示,スターリングラード死守を命じた。予備兵力を投入,防備を固めようとしたが,問題は時間が足りないことだった。

 ソ連の新鋭T-34中戦車は,全長6メートル,全幅3メートル,重量26トンで,長砲身30口径76.2ミリ(3インチ)砲を装備,車体前面装甲45mmだった。T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので,米軍クリスティー戦車式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34/76戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34/85戦車は2万台以上が生量された。

他方、43口径7.5センチ戦車砲を搭載するドイツ陸軍のIII号突撃砲Sturmgeschütz III:StuG III)は、終戦までに1万両が生産され、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇っている。しかし、T-34戦車の5万台に比較すれば、五分の一に過ぎない生産台数である。

IV号戦車Panzer IV(Sd. Kfz. 161)は,大型砲塔に3人が搭乗できる設計で,車内空間が狭いソ連軍のT-34戦車よりも居住性ははるかによく,専任の戦車長を設けることができた。
IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)D型は,前面装甲20ミリ、1939年10月から1941年5月に229輌生産された。その後,初期に装備されていた短砲身24口径7.5センチ砲は,対戦車戦闘能力を高めるために,大型砲塔の利点を活かして,長砲身50口径5センチ砲,さらにF2型では長砲身43口径7.5センチ砲に、IV号戦車H型Pz.Kpfw IV Ausf H)では長砲身48口径7.5センチ砲変換された。

タンクデサントT-34戦車1台当たり4−6人と歩兵分隊程度で,戦車と同時に移動しながら,機動性を生かし,降りて歩兵任務を遂行する。

トラックなど自動車や半装軌式兵員輸送装甲車が不足する状況で,応急的にダンクデサント(tank desant)が取り入れられたとも言える。

しかし,戦車には歩兵搭載用の空間は乏しい。車体後部情報に平面があり,ここに歩兵が乗る場合が多いが,しがみつく程度で,安定した場所ではなく,搭載歩兵の疲労,健康に問題が多い。また,車体後部のエンジンのために,熱,排気ガス,振動も歩兵を疲労させる。不整地では,車体から落ちないようにするため,ますます移動は困難だった。

歩兵の健康や安全を重視することのなかったソ連赤軍では,自動車が整備される1943年まで,タンクデサント(戦車搭乗軽装歩兵)は普通に用いられた。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれたソ連軍のT-34戦車だったが、搭乗員のための車内空間は狭く,砲塔も小さいので,居住性や砲塔操作性は良くなかった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122232引用。


独ソ戦が勃発する前からソ連赤軍はT-34戦車のような攻撃力、防御力、機動力のバランスのとれた戦車を開発し、部隊配備していた。他方、ドイツ陸軍の戦車はソ連軍に比較して軽装甲、短砲身で対戦車戦闘能力は低かった。しかし、独ソ戦でソ連軍のKV-1重戦車やT-34戦車と遭遇すると、それに対抗できるよう、パンテル戦車を開発した。また、既に計画は進んでいたVI号戦車のプロトタイプにも強力な8.8センチ高射砲を搭載し攻撃力を強化することになった。これが、VI号ティーゲル重戦車である。

フィンランド大使館「最近の出来事・お知らせ, 2012/06/07:フィンランド国防軍の記念日を祝って」によれば、「フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の誕生日をフラッグ・デーと定め、軍事パレードが行われている。マンネルヘイム元帥は、冬戦争や第二次世界大戦時にフィンランド国防軍総司令官、戦後に第6代大統領を務めた。70回目となる今年のパレードは、フィンランドの首都ヘルシンキで開催された」とある。フィンランドがソビエト連邦に侵攻して、第二次大戦を始めたこと、ソ連と講和して、ドイツとの同盟を破棄して、攻撃したことについて、触れていない。重要なのは、フィンランドは、フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、ソ連への侵略戦争を始めたのではなく、「国土防衛」「民主主義」「自由」を貫いたということか。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。ソ連軍のT-34戦車の登場した当初の1940年初頭、76.2ミリ砲は戦車砲としては大型強力な火砲で、一般的な戦車は37ミリ砲や50ミリ砲が標準だった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122233引用。


T-34/ 1941年式 諸元
重量:26.5トン
全長: 6.68メートル
全幅: 3.00メートル
車高 2.45メートル
乗員: 4人(車長:装填手を兼務、操縦手,砲手,無線手:前方機銃手を兼務)
装甲 52ミリ
兵装: 76.2ミリF-34戦車砲,7.62ミリ機銃2丁
エンジン:12気筒ディーゼルV-2 500馬力(370キロワット),17.5馬力/トン
航続距離:400キロ
最高速度 時速53キロ

1943年夏、フィンランド軍は、ソ連に侵攻して占領したラップランドで現地の石材や木材を利用して、対戦車障害物を考案し、対戦車壕を工夫した・そして、これらを実際に制作して、鹵獲したソ連戦車が乗り越えられるか、実際に現地で超壕テストをした。これを参考に、ラップランドでは、対戦車壕や対戦車障害物が構築されて、防衛戦を構成した。

対戦車障害物、対戦車壕を試験的に構築するなかで、傾斜した障害物上面に沿って戦車の車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを射撃すれば、3.7センチ対戦車砲や5センチ対戦車砲でも、ソ連軍の主力T-34戦車さらにKV-1重戦車でも撃破できることが判明する。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト;ネットに偽装を施し地面のように見せかけた戦車落とし穴。急傾斜に滑り込んで自力脱出できなくする。こうすれば、戦車を生け捕りにして戦利品として鹵獲し、フィンランド軍戦車として再利用できるというわけだ。実際に鹵獲したT-34戦車を墜として、自力脱出できるかどうかの壕を超える実験をしたのであろう。T-34戦車は、長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれたソ連軍のT-34戦車だったが、搭乗員のための車内空間は狭く,砲塔も小さいので,居住性や砲塔操作性は良くなかった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122234引用。


1941年6月に、独ソ戦が勃発する2年も前からソ連赤軍はT-34戦車のような攻撃力、防御力、機動力のバランスのとれた戦車を開発し、部隊配備していた。他方、ドイツ陸軍の戦車はソ連軍に比較して軽装甲、短砲身で対戦車戦闘能力は低かった。しかし、独ソ戦でソ連軍のKV-1重戦車やT-34戦車と遭遇すると、それに対抗できるよう、パンテルV号戦車を開発した。また、既に計画は進んでいたVI号戦車のプロトタイプにも強力な8.8センチ高射砲を搭載し攻撃力を強化することになった。これが、VI号ティーゲル重戦車である。

1939年の冬戦争当時,ソ連軍は命令を厳格に実行しようとするあまり,迅速な作戦変更ができなかったり,攻撃日程を墨守しようとするあまり、物資の補給が間に合わない状況でも進軍を続けたりして。戦術的欠陥をフィンランド軍に衝かれることがしばしばおこった。第二次大戦前,1937年のソ連軍内部のトハチェフスキ粛清によって,ソ連軍の軍事専門家の指導力は低下し,共産党による軍の管理,政治委員(政治将校)コミサールCommissarsによる介入が強いことが、攻撃計画や戦術の臨機応変な変更を困難にしていたのである。

しかし、1943年に入るとこのような戦術的欠陥はソ連軍にも少なくなり、フィンランド軍は、兵力不足を痛感せざる得ない状況に陥っていた。もはやフィンランド軍が巧妙な戦術で、ソ連の大軍を翻弄するような状況は稀になっていたのである。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;現地に傾斜した石材を並べて、実際にソ連軍主力T-34戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122253引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルヘイム(Carl Mannerheim)元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;現地に傾斜したや石材を並べて試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Panssarivaunu on tyyppiä T-34 (vuosimalli 1942)..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122254引用。


このようなフィンランドにおける対ソビエト「継続戦争」の戦意高揚を無視して、マンネルハイム元帥は、ヒトラーとの共闘を臨んでいなかった、ヒトラーによる誕生日訪問を迷惑に思っていたなどと邪推するのは、見当違いであろう。1917年のロシア革命後、ボリシェビキ勢力が伸長し、赤軍を組織して共産主義革命を進めたとき、フィンランドでは、、ロシア共産党のボリシェビキに賛同したフィンランド共産主義者、共産党員、赤軍が政権奪取を図った。それに対して、反革命軍、白軍を組織して、革命派を武力鎮圧したのが、マンネルハイムである。この経緯を踏まえれば、マンネルハイムもヒトラーも、フィンランドもナチス・ドイツも、ともに反共産主義として、ソビエト連邦、ヨシフ・スターリンを警戒し、チャンスがあれば、彼らを無害化、中立化したかったに違いない。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;石材が車体前部中央にぶつかって先に進めなくなった。ソ連軍主力T-34戦車でも、尖った石材を乗り越えることはできなかった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122255引用。


IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)がはじめに装備した火砲は,短砲身24口径7.5cm砲(7.5cm KwK 37 L/24)だったが,これでは,火力支援はできても,対戦車戦闘能力は低かった。24口径7.5cm砲の貫通力は,500メートルで39ミリ,1000メートルで30ミリと,敵戦車の正面装甲貫通は困難だったためである。

 そこで、独ソ戦開始前の1941年初頭に,アドルフ・ヒトラーは強力な60口径5cm砲の搭載を命じていたが,保守的な陸軍将官は,機動性を重視して,重量の増える長砲身を搭載しなかった。
 しかし,独ソ戦で直面したソ連赤軍のT-34は,37口径75ミリ砲を装備して,避弾に優れた装甲であり,ドイツ軍の対戦車砲では貫通できなかった。このためIV号戦車(Panzer IV:Sd. Kfz. 161)の短砲身24口径7.5cmセンチ戦車砲(7.5cm KwK 37 L/24)を長砲身48口7.5センチ戦車砲(7.5cm KwK 40 L/48)に変換したF型が急遽開発された。 

ソ連軍のT-34戦車の登場した当初の1940年初頭、76.2ミリ砲は戦車砲としては大型強力な火砲で、一般的な戦車は37ミリ砲や50ミリ砲が標準だった。

 他方、ドイツ陸軍では、アドルフ・ヒトラーの長砲身砲採用の命令もあって、1942年春から対戦車戦能力の向上のためIV号戦車(Panzer IVSd. Kfz. 161)とIII号突撃砲には長砲身43口径の7.5センチ戦車砲(7.5cm-KwK 40 L/43)が装備されることになった。しかし、陸軍は保守的で、長砲身砲の生産も順調ではなっかようで、実際に対戦車戦闘能力が強化されたIV号戦車が登場するのは、1942年後半になってしまった。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の超壕テスト
;現地に傾斜した石材を並べて、実際にソ連軍主力T-34戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。車体前方のハッチが開いているのは、乗員が車外に出て、状況を確認したためであろう。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Panssarivaunu on tyyppiä T-34 (vuosimalli 1942).. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122230引用。


 長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれたソ連軍のT-34戦車だったが、搭乗員のための車内空間は狭く,砲塔も小さいので,居住性や砲塔操作性は良くなかった。

7.92ミリモーゼル弾 7.92×57mm Mauser)を使用するモーゼルKar98k騎兵銃Karabiner 98k)は、ドイツ陸軍が1935年6月に制式したボルトアクション作動の槓桿式カービン銃(小型の騎兵用の小銃)で、5発装填、 全1,100mm、重量4kg、初速760 m/s、有効射程500 mの旧式銃。しかし、信頼性、生産性に優れており、命中精度も高かったために、1945年の終戦時まで量産され続け、合計1400万丁が生産された。

ドイツ軍の独ソ戦バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)初期の主力戦車であるIII号戦車が5センチ砲、最大装甲50ミリだったのに対して、T-34戦車は76.2ミリ砲、最大装甲45ミリ、傾斜装甲による避弾径始に優れていた。機動力の上でも、ソ連軍のT-34戦車はキャタピラー(履帯)幅を広くとり、地面との接地圧力を低く抑え、機動力を確保している。

T-34/85戦車の諸元
全長:8.15 m、車体長:6.10 m、全幅:3.00 m、全高:2.72 m
重量:32 t、 乗員:5 名
最高時速:55 km/h(整地)、30 km/h(不整地)
航続距離:360 km
兵装:51.6口径85mm戦車砲 D-5Tあるいは54.6口径85mm戦車砲(収容砲弾数56発)
車載機銃:2丁×7.62 mm DT機銃×2(搭載銃弾数1890発)
砲塔装甲:前面90 mm、側面75 mm(傾斜20°)、後面52 mm(傾斜10°)
車体装甲:前面45 mm(傾斜60°)、側面45 mm(傾斜50°)、後面45 mm(傾斜47°)、上面20 mm
エンジン:4ストロークV型12気筒水冷ディーゼル(500 馬)

 シタデル(城塞)作戦の計画では、ドイツ軍は1943年7月5日に攻撃をかける予定だったが、スパイ情報によって攻撃を察知していたソ連赤軍は、5日未明、先制攻撃として集結しているドイツ軍戦車部隊への大規模な砲撃を開始した、このの砲撃が終了するのを待ってドイツ軍は南北で攻撃に移ったが、ソ連軍はシタデル作戦を察知していたために後に、既に塹壕やトーチカなど防御陣地を何重にも構築し、T-34戦車を防御用に使用していたために、ドイツ軍の前進速度は遅々たるものだった。

 ドイツ軍のソ連侵攻バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)当時から部隊配備されていた76.2ミリ砲を装備したT-34/76戦車の生産台数は、1940年-1944年の間に3万5,000輌あった。
85ミリ砲を装備したT-34/85戦車の生産台数は、1944年-1945年(終戦まで)の間に2万3,000輌だった。そして、戦後も生産は続けられたが、1950年代からソ連以外でも、東欧諸国でライセンス生産が始められている。T-34/85戦車は、1950年代には旧式化して技術を漏洩の心配がない上に、生産性が高く、安価で配備しやすい戦車ということで、同盟国・衛星国での生産が認められた。

 弾丸と薬莢とからなるカートリッジCartridge)が砲弾である。カートリッジCartridge)は、日本では、実包(じっぽう)あるいは弾薬筒(だんやくとう)と呼ばれる。

 弾丸は、古来、球形の鉛製であり、これと火薬を銃身に仕込んで、火薬を燃焼させて、発射していた。これが500年間も続いた銃(gun)である。19世紀になると、第一に、銃身の内側に螺旋状の溝、すなわちライフルRifling)が採用された。ライフルは、日本では施条(しじょう)あるいは腔綫(こうせん)と呼ばれる。発射された弾丸を、回転させて弾道を安定化させ、飛翔距離を長くすることができた。第二に、弾丸が球形から円錐形・紡錘形のミニエー弾(ミニ弾)がフランスで開発された。南北戦争のゲッチスバークの戦いで、ライフル銃とミニ弾が使用され、南軍に1万名の死傷者を出した。第三が、金属製薬莢によって、弾丸と薬莢が一体化されたことである、南北戦争後、弾丸と金属製薬莢を一体化したカートリッジの採用が一般化した。第四に、1880年代に黒色火薬から無煙火薬に転換したことである。ニトログリセリンを使った無煙火薬によって、弾丸の砲口初速は秒速300メートルから、600メートルに高速化した。無煙火薬で発射された弾丸は、煙が出ないので、弾道が視認できなかったので、マグネシウムを仕込んだ曳光弾を5発に1発混ぜて弾道を目視確認できるようになった。弾丸のサイズが大きくなれば、発射に必要な火薬も多く必要で、破壊力も大きくなる。

ソ連のT-34戦車は鋳造構造の避弾径始の考慮された砲塔に76.2ミリ戦車砲を搭載したが、1940年当時これは、世界最強の攻撃力を備えた量産戦車といえる。そして、1944年になると、小ドイツ軍の56口径8.8センチ砲装備のティーゲル重戦車、70口径7.5センチ砲装備のパンテル中戦車とも互角に戦うことができるようにソ連のT-34/76戦車の砲塔を大型化し、そこに85ミリ砲を装備したソ連のT-34/85戦車が部隊配備されるようになった。T-34/85戦車も避弾径始に優れている大型砲塔であり、量産性も十分に考慮されている。

 日本に限らず、フランスでも中国でも第二次大戦中のドイツ軍の兵器にはファンが多く、戦車と云えばドイツ陸軍のタイガー重戦車やパンサー戦車が優秀な戦車としてもてはやされているが、これは、1)攻撃力、2)防御力、3)登場時期、4)生産台数、の4点から見て、完全な過大評価である。

 たしかに、ティーガー重戦車は、高射砲を改造した8.8センチ戦車砲を搭載し、パンター戦車も70口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載してが、ソ連軍の新鋭戦車T-34戦車初期型、KW-1重戦車は、42口径の長砲身76.2ミリ戦車砲を、T-34戦車後期型は高射砲を改造した55口径85ミリ砲を搭載しており、互角の攻撃力帆保持している。 

 有名なドイツ軍戦車が本格的に実戦投入されたのは、1943年夏のソ連東部戦線、シタデル(城塞)作戦の時期である。そこで、タイガーやパンサーといった新鋭戦車は、戦争後期になって登場したため、活躍期間は戦争後期に限られる。他方、ソ連新鋭戦車の登場時期は、1941年夏でドイツ軍新鋭戦車よりも2年も早く実戦に大量投入され、第二次大戦初期から終戦まで戦い続けている。

 ドイツ軍新鋭戦車の生産台数は、ティーガー重戦車は1400輌、パンター戦車は5000輌であるが、これはソ連赤軍の新鋭戦車であるT-34戦車が5万8,000輌、KW-1重戦車が4,500輌の生産台数に比較して10%程度でしかなく、生産台数は遥かに少ない。

  写真(右)1961年5月22日、東ドイツ、ポツダムに展示されたソ連赤軍のT-34/85戦車とSu-76自走砲:東ドイツでは、ファシズムの桎梏の下にあったドイツをソ連赤軍が解放したとされ、ソ連軍が解放者として讃えられた。そこで、敗戦国であるにもかかわらず、ソ連軍の勝利、共産主義政権の樹立を讃えるように、ヨシフ・スターリンが崇拝され、ソ連製T-34戦車やSu-76自走砲が誇らしげに展示されていた。
Original title: info Zentralbild-Mittelstädt-bgm-Gr 22.5.1967 Potsdam: Auf der Terrasse des Armeemuseums... erwecken besonders der Panzer T 34 und die Selbstfahrlafette Su 76 das Interesse der Besucher. Im Hintergrund sind Geschütze und Haubitzen aus dem 2. Weltkrieg zu sehen. Dating: 22. Mai 1967 Photographer: Mittelstädt, Rainer Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons; Bundesarchiv Bild 183-F0522-0014-001引用(他引用不許可)。


Su-76自走砲は、当初、ドイツ軍に包囲されたレニングラードで旧式化したT-70軽戦車の車体を利用した強力な自走砲を急増するために誕生した。

Su 76自走砲の諸元
全長:4.97 m、全幅:2.72 m、全高:2.10 m
重量:11.2 t、乗員:4名
最高時速:整地 45 km/h、航続距離: 250 km
兵装:76.2mm ZiS-3Sh野砲、車載機銃7.62mm DT機関銃
装甲:戦闘室面:25 mm、側面10mm、車体前面:25 mm
エンジン:GAZ-203水冷ガソリンエンジン(140馬力)

写真(右)中華人民共和国,北京、軍事博物館(改装中)で野外展示されている中国軍の使用したソ連製T-34/85戦車(側面):76.2ミリ砲を搭載していたT-34/76戦車の砲塔を大型化し、54.6口径85ミリ砲を搭載したT-34/85中戦車。砲塔が大型化し、発動機は4ストロークV型12気筒液冷ディーゼルエンジン500馬力。 最大出力: 500hp/1,800rpm全備重量も32トンと増加した。
2014年12月21日筆者撮影。


ソ連侵攻バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)に準備されたドイツ陸軍兵力は,北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープRitter von Leeb元帥),中央軍集団(司令官フォン・ボックvon Bock元帥),南方軍集団(フォン・ルントシュテットvon Rundstedt元帥)に分かれていたが,主力は,中央軍集団だった。

独ソ戦 バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)開始の時期には,突撃砲,自走砲(砲戦車)も多数投入された。これは,回転式砲塔をもたず,砲塔よりも余裕のある固定式の戦闘室に,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。


写真(右)2010年、フランス、メーヌ=エ=ロワール県、ロワール川流域のソミュール市、ソミュール戦車博物館に保管展示されているソ連赤軍T-34-85 Model 1969 戦車
:フランス陸軍装甲部隊の軍事資料を残し、攻勢に伝える目的で設立されたソミュール戦車博物館は、陸軍人を館長とするもので、1977年に開館した。稼動する状態に戻す作業を通じて、200両以上の車両が稼働状態で保管されている。
Français : musée des blindés de saumur Date Summer 2010 Source Own work Author Eric 81-68
写真はWikimedia Commons, Category:KV1 in the Musée des Blindés、File:KV1 in the Musée des Blindés, France.JPG引用。


⇒写真集:ソ連T-34中戦車を詳しく見る。


6.ソ連赤軍 ヨシフ・スターリンIS-2 重戦車




タンコグラード(チェリャビンスク)・キーロフ工場、スベルドロフスク・ウラル工場は協力して、55口径85mmM1939高射砲を搭載する重戦車を計画し、高射砲を改修した51.6口径85mmD-5T戦車砲を搭載するヨシフ・スターリンIS-85重戦車が開発された。しかし、この頃、T-34/76の砲塔を改修して、51.6口径85mmD-5T戦車砲が搭載できるT-34/85が完成した。そこで、新重戦車には、より強力な122mmA-19カノン砲を搭載することとなり、ヨシフ・スターリンIS-122重戦車が計画された。

51.6口径85mmD-5T戦車砲を搭載するIS-85重戦車は「IS-1重戦車」に、122mmA-19カノン砲を搭載するIS-122重戦車は「IS-2 重戦車」に改称され、両戦車とも制式になった。こうして、IS-2重戦車1943年12月からの生産が開始され、1944年1月からは発射速度を上げた43口径122mmD-25T戦車砲に変換したタイプが生産された。

ヨシフ・スターリンIS-2 重戦車の諸元
全長:9.90 m、車体長:6.77 m、全幅:3.09 m、全高:2.73 m
重量:46 t、乗員4名
最高時速:37 km/h、航続距離:240 km
兵装:46.3口径T 122mm 戦車砲
車載機銃:12.7mmDShk 機銃1丁、7.62mmDT 機銃2丁
砲塔装甲:前面100-120mm、側面90mm
車体装甲: 前面100-120mm、側面90mm、後面 60mm
エンジン:V-2-IS液冷ディーゼルV型12気筒 513 馬力 / 2000 rpm


7.ソ連赤軍 ヨシフ・スターリンIS-3 重戦車

写真(右) 1949年、第四回対日戦勝記念日、ドイツのベルリンを行進するヨシフ・スターリンIS-3 重戦車 :1945年の戦争最終年の対ドイツ戦に投入された重戦車で、重量45.8 - 46.5トン、最高時速40 km/h(整地)、19 km/h(不整地)、航続距離190 km、兵装は122 mm D-25T L/43戦車砲を搭載。122ミリ戦車砲は、半自動の鎖栓式だったが、砲弾は、薬莢と弾頭が分離しており、狭い砲塔内部での装填は容易ではなく、発射速度は遅くなった。
GERMANY UNDER ALLIED OCCUPATION., Catalogue number: BU 10257, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: 1945-1989、 Alternative Names: object category: Black and white 
Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Christie J (Sergeant)、 Object description: Soviet IS-3 Heavy Tanks pass the saluting base on the Charlottenburg Chaussee in Berlin during the Four Nations VJ Day parade..
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (H 14786)引用。


 ヨシフ・スターリンIS-3 重戦車Joseph Stalin 重戦車)は、IS-2戦車の改良型として、1944年10月31日に試作車が完成し1945年中に1,711輌が生産され、対ドイツ戦ンの最終局面に投入された。

 1945年8月初旬のソ連軍の満州(中国東北地方)侵攻に際しては、第一極東軍に配備されて実戦投入された。もちろん、満州駐留の日本軍(関東軍)は、対アメリカ戦争、対中国戦争に引き抜かれており、弱体であり、機甲師団もなく、ヨシフ・スターリンIS-3 重戦車の威力を対戦車戦闘で示す機会はなかった。



◆ヒトラーは,モスクワ攻防戦の敗北で,多数のドイツ兵士が死亡し捕虜になった時期,ゲットーや収容所でユダヤ人やソ連軍捕虜が生きながらえていることに,耐えられなかったに違いない。親衛隊ヒムラー長官に,全ユダヤ人を殲滅する口頭命令を下した。

ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れ渡れば次のような支障が生じるからである。

?敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。

?残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。

?後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。
 

虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。バルバロッサ作戦,スターリングラード攻防戦の背後には,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ませるわけにはいけないであろう。

◆ナチスは,人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきである。他方,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人は下等人種・劣等民族であり,排除しなければならないとした。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。

人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的なご都合主義,プロパガンダに基づいている。為政者とは,人種・民族を自分の意図に都合よく定義,特定の人種民族を差別,迫害するものである。

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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