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◆ソ連赤軍T-28中戦車;量産された多砲塔の陸上戦艦
写真(上)1941年6月以降、ソビエト連邦、ドイツ軍のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦で破壊されたソ連赤軍T-28中戦車M1938年型と戦利品を見物するドイツ軍将兵
:中央の砲塔主砲は26口径76.2ミリL-10戦車砲。1939年11月30日から1940年3月13日のフィンランドとの冬戦争に参戦している。T-28戦車の発動機は、ミクーリンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500 馬力。
multi-turreted medium tank T-28 14
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。



写真(上)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型
:フィンランド国防軍の兵士が戦車を点検している。。主砲は26口径76.2ミリ戦車砲L-10で、歩兵支援用である。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT機関銃各1丁を装備し、接近戦の敵歩兵を排除する。
Hyökkäysvaunu kuvattu sivusta. Näitä keskiraskaita hyökkäysvaunuja on tuhottu kaksi ja vallattu yksi sekä kevyitä hyökkäysvaunuja tuhottu 5 kappaletta. Nuosjärvi 1941.09.05 Kuvassa on T-28 panssarivaunu kuvattuna sivusta. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。



写真(上)1941年12月2日、フィンランド、フィンランド軍のソビエト連邦侵攻「継承戦争」緒戦に鹵獲しフィンランド軍が使用したソ連赤軍ソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:ナチ党と同じ卍のハカリスティ(Hakaristi)は、反共産主義のシンボルだったので、フィンランド軍の国籍記章として採用された。フィンランド軍兵士が、戦車に乗っている。搭載しているのは、26口径76.2ミリL-10戦車砲、車体前部の銃塔2基にも7.62ミリDT機関銃各1丁を搭載している多砲塔戦車。
Panssarivaunu on mallia T-28. Oma 33t. Karhumäki 1941.12.02
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。



写真(上)2013年5月、フィンランド、ヘルシンキ北100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍の鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:(側方より撮影):反ボルシェビキの卍のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)は、継承戦争敗北後に廃止されたために、この鹵獲戦車からも消去されている。中央の砲塔には26口径76.2ミリ戦車砲L-10を1門搭載、車体前部の2基の小型砲塔に7.62ミリ機関銃1丁を搭載する多砲塔戦車。写真の展示している車両には、機関銃は未装備で、銃口のみ開いている。1939-1940年のソ連・フィンランド冬戦争において、ソ連軍が使用したT-28戦車を、フィンランド軍が鹵獲した。
Description 157 - T-28 m 1938 Date 5 July 2017, 12:21 Source 157 - T-28 m 1938 Author Richard Allen from Nottingham, UK
写真は,Category:T-28 in the Parola Tank Museum File:Parola Tank Museum 157 - T-28 m 1938 (26793855639).jpg引用。


1.ソ連赤軍 T-28中戦車

写真(右)1930年代、ソビエト連邦、45ミリ20K戦車砲M27/32を搭載したソ連赤軍T-28中戦車M1932年型:中央の砲塔に搭載した主砲は、当初T-28M1932年型は45ミリ20K戦車砲M1932型、初期T-28M1934型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、中期T-28M1938型と後期T28E1939/1940型は26口径76.2ミリL-10戦車砲と、順次火力が強化されている。車体前部の銃塔2基に各々7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を装備。
T-28 Lemberg (Lviv) July1941
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ミハイル・トゥハチェフスキーは、1893年2月16日生まれで、1909年にモスクワのロシア帝国陸軍幼年学校、士官学校を経て、1914年7月の第一次世界大戦直前に、ロシア帝国近衛連隊に少尉として配属された。そして、8月に勃発した第一次世界大戦では、前線で活躍、叙勲されたものの、1915年2月、ドイツ軍の捕虜とされた。しかし、1917年8月に脱出したミハイル・トゥハチェフスキーは、フランス、イギリスを経てロシアへ帰国した。しかし、その時は、ロシア二月革命でロマノフ王朝は退位し、アレクサンドル・ケレンスキー率いるロシア臨時政府の混乱期だった。

写真(右)1932年、ソビエト連邦、ソ連赤軍T-28中戦車M1932型試作車:排気管の煙で所在が発見されるのを防ぐために、マフラーがついている。中央の砲塔に搭載した主砲は、当初T-28M1932年型は45ミリ20K戦車砲M1932型、初期T-28M1934型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲を装備した。その後、中期T-28M1938型と後期T28E1939/1940型は26口径76.2ミリL-10戦車砲と、次第に火力は強化された。
T-28 prototype 1932
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ミハイル・トゥハチェフスキーは、十月革命後に樹立されたボリシェヴィキに入党し、赤軍の将校となった。赤軍は、労働者の軍隊だったため、軍事訓練を受けていない兵士が大半で、彼は将校としての経験を買われて、1918年6月、ミハイル・トゥハチェフスキーは、赤軍司令官として反乱を起こしたチェコ軍を討伐、その後、1919年3月には、シベリアに割拠していた帝政側の白軍司令官コルチャークの反乱軍を撃破し、赤旗勲章を授与された。

写真(右)1930年代、ソビエト連邦、市内パレードに参加したソ連赤軍T-28中戦車M1934型。主砲には、短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲を採用。:中央の砲塔には16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門、車体前部の小型銃塔2基に7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各々1丁を装備している。短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲は、1936-1938年に生産されたBT-7快速戦車(14.5トン)の主砲と同じである。
Russian tank T-28, before WW2
Source originally uploaded to English Wikipedia
Author Unknown author
写真は,Category:T-28 File:Parad v Orle 1930.jpg引用。


ソ連赤軍のT-28戦車は、イギリス軍のA6中戦車、MK.II中戦車を参考にして開発されたが、ほぼ同時期により強力な攻撃力をもつT-35重戦車も開発された。T-28中戦車の試作車が完成したのは1932年で、この時は主砲塔には45ミリ戦車砲を搭載していた。当時としては大重量の32トンもあったが、路上の最高速力は37キロで、機動性も十分あると館がられて、1933年2月のモスクワで開催されたメーデーの軍事パレードに参加し、一般公開され、この年にT-28中戦車として制式された。

写真(右)1930年代、ソビエト連邦、市内パレードに参加したソ連赤軍T-28中戦車M1934型:中央の砲塔には16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を装備している。中央の砲塔に搭載した主砲は、当初T-28M1932年型は45ミリ20K戦車砲M1932型、初期T-28M1934型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、中期T-28M1938型と後期T28E1939/1940型は26口径76.2ミリL-10戦車砲と、順次火力が強化されている。
Description Русский: Парад военной техники в Орле в конце 1930-х .
Date конец 1930-х
Source личный архив
Author Unknown author
写真は,Category:T-28 File:Parad v Orle 1930.jpg引用。


共産党ボリシェビキ政権の中で、赤軍の代表的な司令官となったミハイル・トゥハチェフスキーは、1925年から1928年までソ連赤軍参謀長の要職に就き、1931年から兵器局長として、赤軍の機械化部隊や空挺部隊の編成に着手している。そして、機械化部隊と空挺部隊を屈指した戦術として、前線から敵の奥深くに侵入する縦深戦術を提唱した。

図(右)、ソビエト連邦、量産された26口径76.2ミリL-10戦車砲搭載のソ連赤軍多砲塔T-28中戦車試作車:中央の砲塔に搭載した主砲は、当初T-28M1932年型は45ミリ20K戦車砲M1932型、初期T-28M1934型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、中期T-28M1938型と後期T28E1939/1940型は26口径76.2ミリL-10戦車砲。前部の銃塔2基には各々7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を搭載している。
Deutsch: Bleistiftzeichnung nach einer Fotografie, angefertigt für eine Propaganda-Wandzeitung anlässlich des Tages der Sowjetarmee 1978 durch den Gefr.Treudler
Date 1978 Source selbsterstellt (laut Bildbeschreibung)
Author Tobias Treudler Other versions thumb|left .
Author FOTO:Fortepan — ID 31653: Home pagePictureInformation page.
写真は,Category:T-28 File:T28-Tank.jpg引用。


ソ連T-28戦車 戦車・装甲車の開発のために、先進諸国からの技術導入も進め、フランス・イギリスから戦車を輸入し、ソビエト連邦内でライセンスによる国内生産を進めていた。イギリスのアームストロング社、ヴィッカース社、フランスのルノー社など先進国企業の戦車技術をどん欲に吸収したのである。軍事調査団も外国に派遣され、ルノー軽戦車、カーデン・ロイドMk.IV戦車、ヴィッカーズ6トン戦車などライセンスを取得し、国産化しながら、先進国の大型多砲塔戦車を参考に、1930年に同様の多砲塔戦車の開発に着手したのである。このソ連赤軍の多砲塔戦車が、心に開発が進められたTG中戦車が最も有力視された。

フランス軍は、1920年代に既に砲塔2基を有するシャール2C戦車を有していた。イギリスは、1928年、ヴィッカースA6E1「インディペンデント」として試作車を完成させた。ヴィッカースA6E1「インディペンデント」は、大型砲塔に45ミリ3ポンド砲1門を搭載、銃塔4機に7.7ミリ機関銃各1丁を搭載する合計5基の砲塔をもつ多砲塔戦車で、陸上戦艦の威容を誇った。しかし、ヴィッカースA6E1「インディペンデント」は、機動性、経済性を考慮して1輌しか製造されず、量産には至らなかった。しかし、ヴィッカースA6E1「インディペンデント」多砲塔戦車は、列国の多砲塔戦車の開発に影響を与え、ソ連も、1930年6月にミハイル・トゥハチェフスキー元帥の下で3基の砲塔を持つ多砲塔戦車の開発が進められることになった。これが、ソ連赤軍T-28中戦車の開発契機である。

図(右)26口径76.2ミリL-10戦車砲搭載のソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型:砲塔の前部に主砲26口径76.2ミリL-10戦車砲、後部に7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を装備している。車体前部には、7.62ミリDT機関銃1丁を搭載した銃塔2基が配置されている。砲塔最上部には、司令塔ハッチ。対空戦闘用の7.62ミリDT機関銃は装備されていない。T-28中戦車は、1939年11月30日から1940年3月13日のフィンランドとの冬戦争に参戦、初めて実戦投入された。
Description English: Side-View render of T-28, circa 1939 Invasion of Poland .
Date 07/03/2017.
Source Adobe Illustrator CS6 Author NotLessOrEqual .
写真は,Category:T-28 File:Kowno Panzerschlacht 1941 04 (RaBoe).jpg引用。


イギリス軍は、ヴィッカースA6E1「インディペンデント」をコンパクトにしたヴィッカース中戦車 Mk.IIIの開発に1920年代末に着手していた。これは重量16トンの3つの砲塔を持つ多砲塔戦車であるが、同時期の1930年、ソ連でもトゥハチェフスキー元帥の下でT-28中戦車の開発が始まった。T-28戦も、3基の砲塔を持つ多砲塔戦車で、装甲は10mmから20mmで、当時の小銃弾や爆発片から乗員を防ぐことが程度である。主砲は、砲塔に新開発の46口径45ミリ20K戦車砲を装備する予定だったが、これは間に合わず、当初はBT-2快速戦車と同じ45口径37ミリB-3戦車砲を搭載することになった。また、車体前部には、7.62ミリDT機関銃1丁を搭載する銃塔2基を備えたが、これは既存のT-26軽戦車の銃塔と同様の形式のもので、経済性に配慮していた。


写真(上)1940年9月、ソビエト連邦、対フィンランド冬戦争時期、第92工場で長砲身85ミリ戦車砲F-30を搭載したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:(側方より撮影):T-28中戦車の主砲は16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲あるいは26口径76.2ミリ戦車砲L-101門だった。しかし、砲口初速792m/sで対戦車戦闘能力の高い1939年開発の55口径85ミリ高射砲を改造した85ミリF-30戦車砲1門を搭載した試験車両も製造された。これはT-34/85中戦車の52口径85ミリZiS-53戦車砲の原型となった戦車砲である。車体前部の2基の砲塔には、従来と同じく7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を搭載している。
T-28 armed with F-34 gun Plant 92 October 1939
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。



写真(右)1940年9月、ソビエト連邦、対フィンランド冬戦争時期、第92工場で長砲身85ミリ戦車砲F-30を搭載したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:(側方より撮影):T-28中戦車の主砲は16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲あるいは26口径76.2ミリ戦車砲L-101門だったが、対戦車戦闘能力の高い85ミリ戦車砲F-30砲1門を搭載した試験車両も製造された。これはT-34/85中戦車と同じ戦車砲である。車体前部の2基の砲塔には、従来と同じく7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を搭載している。
TT-28 with F-30 gun September 1940
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍のT-28中戦車の主砲は、歩兵支援用の16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲あるいは26口径76.2ミリL-10戦車砲1門だった。しかし、砲口初速792m/sで対戦車戦闘能力の高い1939年開発の55口径85ミリ高射砲を改造して対戦車戦闘能力を向上させた85ミリF-30戦車砲を装備した試験車両が製造されている。この85ミリ戦車砲は、T-34/85中戦車の52口径85ミリZiS-53戦車砲の原型となった戦車砲である。

T-28 ズベズダ ソ連赤軍T-28中戦車の発動機も、当初はM-5ガソリン・エンジンを予定していたが、既にBT-7快速戦車に搭載されていて実績のあったM-17液冷V型12気筒ガソリン・エンジン(出力450馬力)が採用され、主砲も破壊力の大きい20.5口径76.2ミリPS-3戦車砲とされた。この多砲塔戦車へのソ連赤軍の期待は高く、1932年10月、T-28中戦車として制式され、レニングラード第100工場における量産が進められることになった。

他方、ソ連でT-28中戦車と同時期に開発されていたT-35重戦車は、T-28中戦車より高価であり、主砲は16.5口径76.2ミリ榴弾砲で同一で、副砲45ミリK20戦車砲2門を含めれば優れていたが、61輌の生産にとどまった。T-28中戦車は、1933年4月末までに12両が製造され、1933年5月1日メーデーのモスクワ・レニングラードの軍事パレードに参加し、1940年までにて503輌が量産されている。


Soviet Tank T-28 (Red Army) 2020/8/22末24,299 回視聴(2012/02/03掲載)

T-28の装甲は、20ミリから30ミリあり、当時の37ミリ速射砲による射撃に耐えることができた。重量28トンと当時の重戦車急だったが、ミルーキンM-17液冷V型12気筒ガソリン・エンジンを搭載する予定だったが、火砲の生産が間に合わないために、76.2ミリM1927連隊砲を狭い砲塔内で操作できるように改造した短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲を搭載することとした。


写真(上)1940年、ソビエト連邦、レニングラード、フィンランド戦祝勝の軍事パレードに参加したソ連赤軍ソ連赤軍T-28中戦車M1938年型(左手前)とT-26軽戦車
:T-2中央の砲塔には26口径76.2ミリL-10戦車砲を1門搭載、車体前部の2基の小型砲塔に7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を搭載する多砲塔戦車。T-28戦車は、1939年11月30日から1940年3月13日のフィンランドとの冬戦争に参戦している。
T-28 and T-26 tanks Leningrad 1940
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


T-28戦車 第二次世界大戦が1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻「白の事例」で勃発すると、ソ連は、ボリシェヴィキ主導にも拘わらず、戦争勃発直前にファシズム・ドイツと締結した独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきポーランドを分割するために、9月17日にソ連赤軍をポーランド東半分に進駐、占領した。名目は、ポーランド政府が亡命、解体されたために、ソ連⁼ポーランド相互援助条約は無効になったということである。そして、ドイツとの密約を得て、フィンランドに対し、国境地帯の領土交換とバルト海沿岸基地の租借を要求した。しかし、フィンランド政府は、ボリシェヴィキソ連の要求を拒否したために、1939年11月30日、レニングラード北方のフィンランド領カレリア地峡に侵攻した。これが、ソ連=フィンランド「冬戦争」である。

1939年11月30日に勃発したソ連=フィンランド「冬戦争」では、フィンランド軍はマンネルヘイム最高軍事指揮官は、要塞線に整備しつつ、奇襲包囲作戦、ゲリラ襲撃により戦った。そして、ソ連誇る陸上戦艦T-28中戦車を撃破し、鹵獲することにも成功している。また、国際連盟は、ソ連を除名し、イギリス・フランスの援軍も期待されたが、カレリア地峡北端バルト海岸の要衝ヴィプリを攻略され、戦局の悪化したフィンランドは、1940年3月13日、ソ連に降伏し講和した。


2. T-28中戦車M1934年型(16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲搭載)

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦に撃破された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のソ連赤軍T-28中戦車M1934型:ドイツ軍兵士が戦車に乗って砲塔内部を覗いて検分している。
soviet medium tank T-28
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソビエト連邦に侵攻したドイツ軍北方軍集団は、バルト海に面したリトアニア、ラドビア、エストニアを攻略した。このバルト侵攻では、16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲搭載のソ連赤軍T-28中戦車M1934年型を撃破している。T-28中戦車は、当初、砲塔には45ミリ20K戦車砲1門搭載していたが、すぐに16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲1門に換装された。車体前部にある2基の銃塔は、各々1丁の7.62ミリDT機関銃1丁を装備していた。つまり、T-28は3砲塔を有する多砲塔戦車だった。

ソ連赤軍T-28中戦車の中央砲塔に搭載された主砲は、当初M1932年型は45ミリM27/32戦車砲、初期M1934型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、後期M1939/1940型は26口径76.2ミリL-10戦車砲と、順次火力が強化されている。

写真(右)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、 独ソ戦の緒戦で、ドイツ軍に撃破された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のソ連赤軍T-28中戦車M1934年型:戦利品に気をよくしたドイツ軍兵士たちが集まって見物している。砲塔最上部に司令塔ハッチが設けられている。T-28中戦車は、1939年11月30日から1940年3月13日のフィンランドとの冬戦争に初めて実戦投入された。
T-28 tank rear view 1941.
写真は,USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍T-28中戦車M1934年型砲塔に搭載された主砲は、16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲で、砲口初速370メートル/秒、発射速度5発/分で、貫通力は、距離500メートルで31ミリ、1000メートルで28ミリで対戦車戦闘能力は高くはない。しかし、のちのT-34/76中戦車搭載の76.2ミリF-34戦車砲と砲弾重量は同じ6.5キログラムだったので、爆発力は同等だった。

写真(右)1941年6月22日以降、ソビエト連邦に併合されていたリトアニア(Lithuania)南部、アリートゥス(Alytus)、 独ソ戦の緒戦で、ドイツ軍に撃破された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲搭載のソ連赤軍T-28中戦車M1934年型:戦利品に気をよくしたドイツ軍兵士たちが集まって見物している。砲塔最上部に司令塔ハッチが設けられている。T-28戦車の発動機は、ミルーキンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500 馬力、気筒はボア160 mm×ストローク190 mm、排気量 46.9 L、乾燥重量 553 kg。
T-28 Alitus Lithuania 1941 .
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


写真(右)1941年6月22日以降、独ソ戦の緒戦で、ドイツ軍に撃破された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲搭載のソ連赤軍T-28中戦車M1934年型:周囲には、戦利品に気をよくしたドイツ軍兵士たちが集まって見物している。砲塔最上部司令塔ハッチには、対空戦闘用の7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃を装備している。T-28中戦車は、1939年11月30日から1940年3月13日のフィンランドとの冬戦争に初めて実戦投入された。
Deutsch: Zerstörter russischer Panzer T 28 nach den Kämpfen bei Kowno .
Date 1941 Source Scans alter Fotos.
Author Der Grossvater von Ra Boe
Permission (Reusing this file) --Ra Boe (talk) 21:17, 25 April 2009 (UTC) .
写真は,Category:T-28 in Finnish service File:Captured Russian Tank.jpg引用。


ソ連赤軍T-28中戦車の中央砲塔に搭載された主砲は、当初T-28M1932年型は45ミリM27/32戦車砲、初期T-28M1934型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、後期T-28M1939/1940型は26口径76.2ミリL-10戦車砲と、順次火力が強化されている。

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、ドイツ軍のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦、破壊され放棄された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲搭載のソ連赤軍T-28中戦車M1934年型
Abandoned Soviet medium tank T-28 1941
写真は,USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連が1933年に開発したT-28中戦車の主砲16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲は、砲口初速370メートル/秒、発射速度5発/分、砲弾重量6.5キログラムで、貫通力は、距離500メートルで31ミリ、1000メートルで28ミリあった。車体前部の2基の砲塔には、従来と同じく7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を搭載している。

写真(右)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、ドイツ軍のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦、撃破された16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲を装備したソ連赤軍T-28中戦車1934年型:車体前部の2基の砲塔には、従来と同じく7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を搭載している。
Destroyed T-28 8
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


初期T-28中戦車M1934年型の装甲は、砲塔前面20ミリ、車体前面30ミリ、車体側面・後面20ミリ、車体上面15ミリで、重量28トンだった。
中期T-28中戦車M1938年型の装甲は、砲塔前面50ミリ、車体前面50ミリ、車体側面・後面50ミリ、車体上面50ミリで、重量32トンに増加したが、防御力は大幅に強化された。
後期T-28E中戦車1939/1940年型は、既存のT-28中戦車を工場に戻して、追加装甲(アップリケ・アーマー)を装着した。しかし、発動機は、いずれもミルーキン(Mikulin)M-17液冷V12ガソリンエンジン(500馬力)で同じだったために、装甲強化による重量増加(4トン)により、機動性が低下した。

写真(右)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、ドイツ軍のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦、撃破、放棄された16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲を装備したソ連赤軍T-28中戦車1934年型:br>Abandoned Soviet medium tank T-28 1941
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


T-28戦車の主砲16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲は、砲口初速370メートル/秒と遅く、貫通力は距離500メートルで31ミリ、1000メートルで28ミリで低い。しかし、T-34/76中戦車の主砲76.2ミリF-34戦車砲と砲弾重量は同じ6.5キログラムで、爆発力は歩兵支援には十分にあった。車体前部の2基の砲塔には、従来と同じく7.62ミリDT機関銃1丁を搭載している。


写真(上)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦に撃破されたソ連赤軍T-28中戦車M1934年型

T-28 abandoned during the Operation Barbarossa, rear view
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍T-28中戦車M1934年型の砲塔には、短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲の1門搭載。中期T-28中戦車M1938年型は主砲を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に強化したが、車体前部の2基の小型砲塔は、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁搭載で同じである。
T-28戦車の発動機は、ミルーキンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500 馬力、気筒はボア160 mm×ストローク190 mm、排気量 46.9 L、乾燥重量 553 kg。


写真(上)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦で破壊された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲のソ連赤軍T-28中戦車M1934年型
:主砲である16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲は、砲口初速370メートル/秒と遅いために、装甲貫通力は射程500メートルで31ミリ、1000メートルで28ミリと低い。しかし、T-34/76中戦車の主砲76.2ミリF-34戦車砲と砲弾重量は同じ6.5キログラム車体前部の2基の砲塔には、従来と同じく7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を搭載している。
T-28 tank june 1941 Janara, Operation Barbarossa
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。



写真(上)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦で破壊された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲搭載のソ連赤軍T-28中戦車M1934年型
:車体前部下段に銃塔( 7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁搭載)が2基装備されているので、T-28中戦車は三砲塔戦車である。 。
Destroyed tank T-28 model 1934, Barbarossa 1941
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦に撃破された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のソ連赤軍T-28中戦車M1934型:自転車でやってきたドイツ軍兵士が戦車に乗って検分している。自転車は、車体後方に立てかけて駐輪している。
T-28 abandoned during the Operation Barbarossa, rear view
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍が1932年に開発を始めたT-28中戦車は、主砲を搭載した主砲塔1基、機関銃を搭載した銃塔2基を装備している多砲塔戦車で、戦車戦ではなく、年型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、中期T-28MM1938年型と後期T-28E1939/1940年型は26口径76.2ミリL-10戦車砲を搭載している。

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦に撃破された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のソ連赤軍T-28中戦車M1938型:ドイツ軍兵士が戦車に乗って検分している。
T-28 model 1938
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍T-28中戦車の車体前部の2基の小型砲塔は、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁で同じである。この多砲塔戦車T-28の発動機は、ミルーキンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500 馬力で、これはドイツの航空エンジンBMWIV12気筒液冷ガソリンエンジンをライセンス生産したもので、当時、既に量産されていた堅実な選択だった。


写真(上)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦で破壊された短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲搭載のソ連赤軍T-28中戦車1934年型

Destroyed tank T-28 model 1934
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍T-28中戦車は、ドイツ製の航空機用発動機BMW VI液冷V型12気筒ガソリンエンジンをライセンス生産したミルーキン(Mikulin)M-17V型12気筒液冷ガソリンエンジン500 馬力、気筒はボア160 mm×ストローク190 mm、排気量 46.9 L、乾燥重量 553 kg、を装備している。


写真(上)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦に撃破したソ連赤軍T-28中戦車M1934年型の砲塔を検分するドイツ軍兵士
:主砲は16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲で、貫通力は、距離500メートルで31ミリ、1000メートルで28ミリだが、対戦車戦ではなく歩兵支援の援護射撃をする目的には十分だった。左の車体前部上面には7.62ミリDT機関銃1丁を搭載する銃塔があり、その上面の出入り口ハッチが開いている。砲塔前面には短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲が見える。砲塔上面の司令官用はっちが開放状態で止まっているのは、搭乗員が脱出したからであろう。砲塔の周囲は、リベットでアップリケ・アーマー(追加装甲版)が創設されて防御力を向上している。
soviet tank T-28 15
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


写真(右)1942年、ソビエト連邦、枢軸国ハンガリー軍の使用している鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1934年型:中央の砲塔には短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲1門を装備している。ハンガリー軍の撮影になるようだ。
Magyar: a Magyar hadsereg által zsákmányolt T-28-as közepes harckocsi, mögötte egy Polski Fiat 618-as rádiós gépkocsi.
Location: Russia Tags: second World War, eastern front, Soviet Union, tank, Soviet brand, military, Polski Fiat-brand
Title: a Magyar hadsereg által zsákmányolt T-28-as közepes harckocsi, mögötte egy Polski Fiat 618-as rádiós gépkocsi.
Date 1942 Source http:// www.fortepan.hu/ _photo/download/ fortepan_20345.jpg archive copy
Author FOTO:Fortepan — ID 12186: Home pagePictureInformation page
Adományozó/Donor: Unknown.
archive copy Permission (Reusing this file) The release at fortepan.hu is CC-BY-SA-3.0. As the photographer is unknown or pseudonymous, and the photograph is 78 years old, it is considered public domain both in the country of publication, Hungary, and the USA where Wikimedia Commons is hosted. See Fortepan.HU for more information on related uploads.
写真は,Category:T-28 File:A Magyar hadsereg által zsákmányolt T-28-as közepes harckocsi, mögötte egy Polski Fiat 618-as rádiós gépkocsi. Fortepan 12186.jpg引用。


T-28中戦車 第二次世界大戦では、枢軸国と連合国が戦争をしたが、枢軸同盟はドイツ、イタリア、日本の三国を中枢とした。連合国を主導したのは、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦の三国を中枢とした。連合国とは異なり、外交政策や軍事政策を調整する機関を持たなかった枢軸国だったが、この契機は、1936 年11 月1日、ドイツとイタリアのベルリン=ローマ間の枢軸協定で、それから1カ月後、 1936 年11 月25日、ドイツと日本は共産主義ソ連に対抗するために、日独防共協定を締結した。

イタリアは、ムッソリーニ統領の下で、1937 年11月6日、防共協定に参加し、三国防共協定となった。そして、1939年5月22日、ドイツとイタリアは鋼鉄条約と称して、防共協定に軍事同盟化し、1940年9月27日にドイツ・イタリア・日本は三国軍事同盟を締結し、枢軸国として世界分割に乗り出した。

写真(右)1942年,枢軸国ハンガリー(マジャール)、首都ブダペスト(Budapest)に展示された、鹵獲されたソ連赤軍T-28中戦車M1934年型:ドイツ軍の戦車よりも,重装甲で,車体中央に強力な短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲1門装備の砲塔1基,車体前部に7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁装備の小型銃塔2基を搭載していた。装甲は10ミリから30ミリで、当時のドイツ戦車と同等以上の防御力があった。他方、発展型の重戦車KV-1の砲塔装甲は前面90mm、側面75mm、後に砲塔は全周120mmに強化ている。
Description Magyar: zsákmányolt szovjet gyártmányú T-28 közepes harckocsi az 1942. évi Nemzetközi Vásáron.
Location: Hungary, Budapest XIV.
Tags: tank, military, Soviet brand, international fair, Budapest
Title: zsákmányolt szovjet gyártmányú T-28 közepes harckocsi az 1942. évi Nemzetközi Vásáron.
Date 1942
Source http:// www.fortepan.hu/ _photo/download /fortepan _54161.jpg
Author FOTO:Fortepan — ID 54161: Home pagePictureInformation page
Adományozó/Donor: Nagy Gyula.
写真は,Category:1942 events in Budapest: File:Zsákmányolt szovjet gyártmányú T-28 közepes harckocsi az 1942. évi Nemzetközi Vásáron. Fortepan 54161.jpg引用。


1940年7月、フランスを降伏させたドイツは、ソ連侵攻の準備のためにも、南東ヨーロッパ諸国に対して三国軍事同盟に参加することを説いた。ドイツは、チェコと分離したスロバキア、ルーマニアに軍事的補償を与え、ハンガリーに対しては、スロバキアとルーマニアに対抗する必要を説いて、三国同盟に参加させた。

T-28中戦車 特に、ハンガリーは、第一次大戦後、オーストリアから分離独立したが、ルーマニアと領土紛争を続けており、ドイツがギリシャを占領すると、係争の地トランシルバニアの回復するためにもドイツとの同盟に踏み切り、1940年11月20日に、反ボリシェヴィキの枢軸同盟に加わった。

ルーマニアは、1940年10月、ドイツ軍進駐を受け入れたが、これはソ連が強奪した北トランシルバニアを奪回する目的があった。ドイツにとっても、ルーマニアのプロスチ油田地帯を保護する目的があった。その後、ルーマニアは、1940年11月23日に枢軸同盟に参加した。ルーマニアもハンガリーも、ドイツが1941年6月22日、ソ連に侵攻すると、それに加わってソ連を攻撃した。

スロバキアは、チェコ解体によって生まれた新ドイツ派が政府を形成しており、ドイツに依存して独立を達成した事情があった。そこで、政治的にも経済的にもドイツとの協調関係を重視し、ハンガリー、ルーマニアに続いて、1940年11月24日、反ボリシェヴィキの枢軸同盟に参加した。


写真(上)1942年,枢軸国ハンガリー(マジャール)、首都ブダペスト(Budapest)、枢軸国のソ連侵攻の緒戦、快進撃を続けた枢軸軍が鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1934年型
:複数の砲塔を持つ陸上戦艦T-28は、500馬力のミルーキンM-17 液冷ガソリンエンジンを装備、重量28トン、乗員6名で、路上最高速力37キロ、を撃破して、戦利品として、首都ブタペストに持ち帰って一般公開したのであろう。
Magyar: zsákmányolt szovjet gyártmányú T-28 közepes harckocsi az 1942. évi Nemzetközi Vásáron. Location: Hungary, Budapest XIV. Tags: camouflage pattern, international fair, colorful, tank, combat vehicle, Soviet brand, Red Star, Budapest Title: zsákmányolt szovjet gyártmányú T-28 közepes harckocsi az 1942. évi Nemzetközi Vásáron. Date 1942 Source http://www.fortepan.hu/_photo/download/fortepan_61683.jpg Author FOTO:Fortepan — ID 61683: Home pagePictureInformation page Adományozó/Donor: Szőke Annamária/Anonime.
写真は,Category:1942 events in Budapest: File:Zsákmányolt szovjet gyártmányú T-28 közepes harckocsi az 1942. évi Nemzetközi Vásáron. Fortepan 61683.jpg引用。


ソ連赤軍T-28中戦車は、ドイツ軍のIII号/IV号戦車よりも,重装甲,強力な76.2ミリ戦車砲1門を有しており、さらに、7.62ミリDT機関銃1丁装備の小型銃塔2基を車体前部に並列装備していた。重装甲とは言えないが、ドイツ戦車と同等以上の防御力を誇っていた。

写真(右)1942年、ソビエト連邦、独ソ線初期に破壊されたソ連赤軍T-28中戦車:中央の砲塔には45ミリM27/32カノン砲1門あるいは16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を装備していたはずだが、完全に砲塔は吹き飛んでいる。ドイツの同盟国ハンガリー軍が撃破したのかもしれない。
Description Magyar: Kilőtt szovjet T-28-as harckocsi.
Tags: wreck, tank, Soviet brand, second World War, eastern front Title: Kilőtt szovjet T-28-as harckocsi.
Date 1942 Source http:// www.fortepan.hu/ _photo/download/ fortepan_46809.jpg
Author FOTO:Fortepan — ID 31653: Home pagePictureInformation page.
Adományozó/Donor: Csorba Dániel. .
写真は,Category:T-28 File:Kilőtt szovjet T-28-as harckocsi. Fortepan 31653.jpg引用。


ソ連赤軍の多砲塔戦車T-28は、ドイツのBMW VI 航空機用V-12液冷ガソリン・エンジンをライセンス国内生産したミクーリンM-17M V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(500 馬力)を搭載した。M-17M V型12気筒4ストローク液冷ガソリンは、ソ連で1930年から1941年まで2万7000台が生産された。ミクーリンM-17エンジンは、元来航空機用だったので、1万9000台がソ連空軍機に搭載され、8000台が戦闘車両には搭載された。


3.T-28中戦車M1938 T-28E1939/1940(26口径76.2ミリL-10戦車砲搭載)

写真(上)1939年12月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」で撃破しソ連赤軍T-28中戦車M1938年型:白色冬季迷彩塗装のフィンランド国軍兵士が戦利品に気をよくして記念撮影をしている。プロパガンダ用に使用されたかもしれない。中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備している。次の写真と同一の戦車のようだ。
Puolustusvoimat: Kuvassa on T-28 panssarivaunu. Vallattu hyökkäysvaunu. Summa. 1939.12.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces Etulinjasta kotirintamalle 1939-1945引用。


フィンランドは1939年3月にソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けた。しかし、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、不当なソ連の要求を拒否し、フィンランドの尊厳維持を支持する国民の期待に応えた。しかし、ポーランドの東半分を、ヒトラードイツとの合意の下、保障占領していたスターリンは、バルト三国への圧力を強めており、ソ連の威信を失わせるような領土交換拒否というフィンランドを許さなかった、1939年11月30日、ソビエト連邦はフィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発し、12月1日に就任した新首相リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)の下で戦いうことになった。

T-28中戦車M1938年型 ソ連赤軍は、1939年9月17日にポーランド進駐した。この時は、9月1日、ドイツ軍の進攻を受けたポーランド軍は壊滅状態にあり、政府もルーマニアに亡命したため、正規戦闘は生じなかった。本格的なT-28中戦車の実戦投入は、1939年11月に勃発したソ連⁼フィンランド「冬戦争」である。この時は、雪原、森林地帯に投入され、機動性が制約された。

ソ連赤軍のT-28初期型の最大装甲は30mmしかなかったために、フィンランド軍の火砲の砲撃により装甲が貫通され、接近戦では、フィンランド軍の火炎瓶「モロトフのカクテル」によって火災が発生するなど、防御力の問題が露呈した。実際、ソ連軍のT-28中戦車がフィンランド軍に鹵獲されている。

写真(右)1939年12月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」で鹵獲した雪解け迷彩塗装をしたソ連赤軍T-28中戦車M1938年型(斜め後方より撮影):次の写真と同一の戦車のようだ。
Vallattu hyökkäysvaunu. Summa 1939.12.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


第二次世界大戦の勃発から1ヶ月後、1939年10月11日、ソビエト連邦は、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ を通じて、フィンランドに、
1)ソ連国境に面したカレリア地峡の防衛戦の撤去、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方の東カレリア領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
を要求した。しかし、交渉は決裂し、国境で発生した武力衝突を理由に、1939年11月30日、ソ連はフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。


写真(上)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソ連戦「冬戦争」で鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備している。
Kyseessä keskiraskas T-28 panssarivaunu, joka tunnettiin Varkaus 1940.04.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces Etulinjasta kotirintamalle 1939-1945引用。


1939年11月28日、ソ連はフィンランドと1932年に締結した不可侵条約を破棄し、2日後の11月30日、ソ連赤軍レニングラード方面軍司令官キリル・メレツコフKirill Meretskov)大将隷下の兵力23個師団45万名、火砲1800門、戦車2300輌、飛行機700機がフィンランドを攻撃した。これが、フィンランドの言う冬戦争の始まりであり、対するフィンランド国防軍は、当初12個師団18万名で、総動員によって30万名以上の兵士を確保たものの、火砲700門、戦車20輌、飛行機130機で劣勢であった。カヤンデル首相は親ソ的とされ、1939年12月1日、カヤンデル内閣は総辞職し、後継にリスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)首相が任命され、ソ連と対決することとなった。


写真(上)1940年4月頃、フィンランド、フィンランド軍が対ソ連戦「冬戦争」で鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備。次の写真と同一の戦車のようだ。
English: Russian tank captured by the Finns in Varkaus at the end of the Winter War.
Svenska: En rysk pansarvagn som erövrats av finnarna i slutet av vinterkriget.
Suomi: Vallattu hyökkäysvaunu Varkaudessa sodan päätyttyä.
Date 1940 Source MTV3 Author SA-kuva. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces Etulinjasta kotirintamalle 1939-1945引用。


1929年5月にソ連軍は、イギリスのビィッカース社のビィッカース 6トン戦車もライセンス購入し、改良を加えて赤軍T-26戦車として採用した。そして1932年から、レニングラードの国営戦車工場で量産を開始したが、1933年に搭載砲を、BT-5戦車と同じ45ミリ砲に変換した1933年型が開発された。1936年のスペイン内戦、1939年のノモンハン事件でも実戦投入されソ連赤軍の主力T-26戦車は、1939年11月30日から1940年3月13日、対フィンランド冬戦争にも使用された。さらに、フィンランド軍も、ソ連軍からこのT-26戦車を鹵獲して、再使用している。

写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド、ソ連赤軍の多砲塔搭載T-28戦車を鹵獲したフィンランド国防軍の兵士たち:Life誌の写真家がフィンランド陸軍戦車について読者に説明するために取材している。
Life-lehden valokuvaaja kuvaa suomalaisten sotasaaliiksi saamaa panssarivaunua vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 34 x 24 cm
Subject date 30.11.1939 - 13.3.1940 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19700410:129
Measurements 11 x 16 cm Photo info: 30.11.1939 - 13.3.1940
写真は,Museot Finna M012:HK19700410:129引用。


ソ連赤軍のT-28戦車の諸元
総重量 28トン
全長7.44 m、全幅2.87 m、全高2.82 m
乗員6名
兵装76.2ミリ榴弾砲KT-28(70発携行)、7.62ミリ機関銃DT4丁 (8,000発携行)
発動機:ミクーリンM17型Mikulin M-17)倒立V12気筒液冷エンジン(500 hp);
 重量540kg、排気量45.8L、シリンダーボア160mm×ストローク190mm、ドイツBMW VIのライセンス生産

写真(右)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」で鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型:中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。次の写真と同一の戦車のようだ。
Vallattu hyökkäysvaunu Varkaudessa.
Varkaus 1940.04.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


初期T-28中戦車M1934年型の装甲は、砲塔前面20ミリ、車体前面30ミリ、車体側面・後面20ミリ、車体上面15ミリで、重量28トンだった。
中期T-28中戦車M1938年型の装甲は、砲塔前面50ミリ、車体前面50ミリ、車体側面・後面50ミリ、車体上面50ミリで、重量32トンに増加したが、防御力は大幅に強化された。
後期T-28E中戦車1939/1940年型は、既存のT-28中戦車を工場に戻して、追加装甲(アップリケ・アーマー)を装着した。しかし,発動機はミルーキン(Mikulin)Mー17液冷V12ガソリンエンジン(500馬力)で同じだったために、装甲強化による重量増加(4トン)により、機動性が低下した。


写真(右)1940年4月、フィンランド軍が対ソ連戦「冬戦争」で鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:中央の主砲塔には26口径76.2ミリL-10戦車砲1門を、車体前部の砲塔2基には、7.62ミリDT機関銃各1丁を装備している。1939-1940年のソ連・フィンランド冬戦争の時期にソ連赤軍が使用したT-28戦車を、フィンランド軍が鹵獲し使用したものと思われる。
Description English: Soviet T-28 tank captured by Finland.
Suomi: Vallattu vih. Hv. Varkaudessa. Varkaus 1940.04.01 Kyseessä keskiraskas T-28 panssarivaunu, joka tunnettiin Suomessa myös nimellä ””postijuna””.
Date 1 April 1940
Source http://sa-kuva.fi/ id: 7827 Author SA-kuva.
写真は,Category:T-28 in Finnish service File:T-28 SA-Kuva-7827.jpg引用。


フィンランドとソ連は、第二次世界大戦の期間中、2回に分けて「冬戦争」と「継続戦争」をした。これは、ソ連が望んだレニングライドの防衛とカレリア地峡の維持という要求をフィンランドの領土侵略として捉えた争いの一環である。また、ソ連の一党独裁・ボリシェビキとフィンランドの自由主義・反共産主義というイデオロギーの上の対決でもあった。1939年11月30日から1940年3月13日に「冬戦争」、1941年6月25日から1944年9月19日の「継続戦争」とフィンランド側が呼称したした戦争だが、実際は、第二次世界大戦の一局面として扱われる。

写真(右)1939年12月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」で撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型(斜め後方より撮影):中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT1928年型機関銃各1丁を装備している。前の写真と同一の戦車のようだ。
Vallattu hyökkäysvaunu. Summa 1939.12.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になった。しかし、ソビエト連邦は、1939年9月の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、カレリアをソ連領としたい旨、フィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地峡をフィンランドがソ連に割譲するわけはなく、冬戦争が始まった。1939年11月30日に勃発した冬戦争で、1940年3月13日にフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はソ連に割譲されることが決まった。

フィンランドは、冬戦争の復讐のために、1941年6月に継続戦争を始め、フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功する。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていた。しかし、1943年には戦局が悪化し、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。

写真(右)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト「冬戦争」で鹵獲/使用したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型(後方より撮影):中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備している。前の写真と同一の戦車のようだ。
Vallattu vihollisen. hyökkäysvaunu Varkaudessa. Varkaus 1940.04.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


スウェーデンもノルウェーも、冬戦争で苦しんでいるフィンランドにたいして、中立を口実にして軍事援助をしなかった。これは、大国ソ連との戦いを回避して国内を戦争に巻き込まないための平和政策だったが、民主主義国フィンランドを助けるために、スウェーデンから義勇兵が戦いに参加した。冬戦争で、孤立無援となり敗北したフィンランドは、ボリシェヴィキへの復讐のために、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、ドイツの同盟国としてソ連に侵攻した。そして、フィンランドはソ連に奪われたカレリア地方を奪回した。

写真(右)1940年初頭から1944年初頭、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型:中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT1928年型機関銃各1丁を装備している。1939年11月30日から1940年3月13日のフィンランドとの冬戦争あるいは1941年6月末以降のソ連⁼フィンランド継承戦争の時期にソ連赤軍が使用したT-28戦車を、フィンランド軍が鹵獲し使用したものと思われる。次の写真と同一の戦車のようだ。主砲塔の16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲も26口径76.2ミリ戦車砲L-10は、対戦車戦闘用ではない。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備しているが、これは接近してくる敵歩兵を掃射するためのものである。
Description Suomi: Neuvostoliittolainen T-28-panssarivaunu
Date before 1945 Source Itsenäisyyden puolustajat, Sodan taisteluja II Weilin-Göös 2005 Author ei tiedossa.
写真は,Category:T-28 in Finnish service File:T 28.jpg引用。


冬戦争開戦当初にソ連軍の捕虜を得たフィンランドでは、捕虜を厚遇するプロパガンダを行って、投降を勧告するためのマイクによる最前線での放送も行った。ロシア人、ソ連軍兵士は、祖国防衛のためなら徹底抗戦し、士気も高かった。他方、ソ連赤軍は、フィンランド侵攻の意義もよく理解できず、フィンランド人の土地に攻めとるために命を犠牲にする覚悟はなかった。ソ連赤軍は、自ら仕掛けた戦争を推進することに士気は低かったようだ。


写真(上)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT1928年型機関銃各1丁を装備している。前の写真と同一の戦車のようだ。
Kyseessä keskiraskas T-28 panssarivaunu, joka tunnettiin Varkaus 1940.04.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


冬戦争の緒戦、森林や雪原で、フィンランド軍の奇襲や巧妙な襲撃を受けて、優勢なソ連軍は苦戦したことも多かった。この理由は、ソ連軍が冬戦争で出した捕虜の多さからも推測することができる。劣勢だったフィンランド軍が、大兵力を有したソ連軍相手に短期間とはいえ善戦できた理由としては、
1)フィンランド軍が地形・天候を活かした巧妙な攻撃・防御を行ったこと
2)ソ連赤軍兵士がフィンランド侵攻に消極的で士気が低かったこと
3)ソ連赤軍の指揮系統に共産党の派遣した政治委員(政治将校)が組み込まれ、党イデオロギー・ノルマ重視の作戦指導の悪影響で柔軟な戦術展開が妨げられたこと
が指摘できる。

写真(上)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型と5人と搭乗員(斜め前方より撮影):車体前面の操縦席、左右の銃塔、砲塔の司令塔に各1名の乗員が半身写っている。砲塔の後方に1名が腰かけている。
Vallattu vihollisen. hyökkäysvaunu Varkaudessa.
Kyseessä keskiraskas T-28 panssarivaunu, joka tunnettiin
Varkaus 1940.04.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。



写真(上)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソ連邦「冬戦争」鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
:中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT機関銃各1丁を装備している。前の写真と同一の戦車のようだ。
Vallattu hyökkäysvaunu Varkaudessa. Varkaus 1940.04.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


写真(右)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型(前半部分):フィンランド国防軍の兵士が戦車を点検している。主砲は26口径76.2ミリ戦車砲L-10で、歩兵支援用である。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備し、接近戦の敵歩兵を排除する。
Vallattu hyökkäysvaunu Varkaudessa. Varkaus 1940.04.01
Kyseessä T-28 panssarivaunu, jonka pääaseena 76,2 mm:n tykki. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日、ボリシェヴィキのソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を戦った。フィンランド軍総司令官、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなかった。1940年3月12日、フィンランドはソ連の領土要求を受け入れて降伏し冬戦争で敗北し、領土割譲を余儀なくされた。この「冬戦争」の復讐戦が、1941年6月25日にフィンランドがソ連に侵攻した「継承戦争」である。

写真(右)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型(前半部分):フィンランド国防軍の兵士が戦車を運転している。主砲は歩兵支援用26口径76.2ミリ戦車砲L-10である。車体前部の操縦席のハッチと銃塔上面のハッチから周囲を見渡すことができる。
Kyseessä keskiraskas T-28 panssarivaunu, joka tunnettiin Suomessa myös nimellä ?postijuna?.
Vallattu hyökkäysvaunu Varkaudessa.
Varkaus 1940.04.01 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日、ソ連の攻撃を受けた。これが冬戦争(talvisota)である。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)隷下、ソ連赤軍の大兵力相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はこなかった。孤軍奮闘のため、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。フィンランドは、冬戦争に敗北し、領土割譲を余儀なくされた。これは、日露戦争後の三国干渉を臥薪嘗胆した日本と同じ状況である。フィンランドは、ソ連に対する復讐戦争を当然のこととして準備した。


写真(上)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
(前半部分):フィンランド国防軍の兵士が戦車を点検している。主砲は26口径76.2ミリ戦車砲L-10で、歩兵支援用である。フィンランド軍は、反ボルシェビキの卍の記章ハカリスティ(Hakaristi)をソ連鹵獲戦車に付けて、部隊配備した。
Korjatulla T-28 sotasaalispanssarivaunulla ajetaan Varkaudessa.
Varkaus 1940.04.01 Korjatulla T-28 sotasaalispanssarivaunulla ajetaan Varkaudessa. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。



写真(上)1940年4月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「冬戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
(前半部分):フィンランド国防軍の兵士が戦車を点検している。主砲は26口径76.2ミリ戦車砲L-10で、歩兵支援用である。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備し、接近戦の敵歩兵を排除する。
Korjatulla T-28 sotasaalispanssarivaunulla ajetaan Varkaudessa.
Vallattu hyökkäysvaunu Varkaudessa. Varkaus 1940.04.01
Kyseessä T-28 panssarivaunu, jonka pääaseena 76,2 mm:n tykki. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


1941年6月、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、フィンランドは,ルーマニア同様、積極的な攻勢に参加することを約束していた。ドイツは、フィンランド北部の戦略物資のぺツァモと近郊の希少資源ニッケル鉱床を保持したかった。また、ソ連のレニングラードと北極海の不凍港ムルマンスクを結ぶ鉄道を遮断することもドイツは企図していた。ドイツは、ノルウェー全土を占領したが、このノルウェー北部から、フィンランド北部にドイツ第21軍北方軍団を進駐させ、そこからムルマンスク方面を攻撃する計画だった。この極北でのソ連侵攻に、ドイツ軍とフィンランド軍が同盟して参戦した。さらにカレリア地峡のすべてを占領し、レニングラードを攻略するために、ラドガ湖周辺にもフィンランド軍が侵攻する計画だった。

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、撃破されドイツ陸軍第12装甲師団に道路指標を書き込まれたソ連赤軍T-28中戦車M1938年型:胴体後上方に白色ペイントでサインが記入されており、ドイツ軍兵士が車体前にいて記念撮影を受けている。中央の砲塔には26口径76.2ミリL-10戦車砲1門を搭載。車体前部の2基の砲塔には、従来と同じく、7.62ミリDT機関銃1丁を搭載している。
T-28. German troops of the 12. Panzer-Division have painted their insignia on the tank as a road sign for the location of their encampment.
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


フィンランドは、ドイツの対ソ戦争「バルバロッサ作戦」に組み込まれていったが、同時にドイツの軍事力をソ連への復讐戦に利用しようとも考えた。特に、1941年1月には、ノルウェー派遣ドイツ軍は、極北戦線で「銀狐作戦」(Silberfuchs)によって、コラ半島のソ連軍を撃滅し,補給路の要衝であるムルマンスク鉄道に沿って、白海とフィンランド湾の間にあるカレリア地峡まで進出する計画を立てていた。

写真(右)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、 独ソ戦「バルバロッサ作戦」開始直後、侵攻したドイツ国防軍兵士が撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型で記念写真を撮影した。カバーが外れているので、懸架の構造が明瞭にわかる。戦利品となったT-28が、搭載していた発動機は、ドイツ製の航空機用発動機BMW VI液冷V型12気筒ガソリンエンジンをライセンス生産したミクーリンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500 馬力だった。ソ連撮影の写真よりも、鹵獲したドイツ軍・フィンラン軍によって撮影された写真のほうが一般に出回っている。当時のソ連軍の戦場写真アーカイブは、日本軍と同じく、まったく整っていない。これは、政府・国民・企業が、戦争情報をどこまで重要と考えているかの差異を反映している。
German troops pose next to a captured and damaged T-28
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


フィンランド側は、イギリスやアメリカとは戦争をしたいとは全く思っていなかった。そこで、第二次ソ芬戦争とは、あくまで、ソ連に対して1939年の冬戦争で奪われた国土の回復を求めた防衛戦争であると主張した。しかし、ソ連がドイツの攻勢を一国で受け止めている状況で、イギリス(アメリカ)は、フィンランド側の言う「継続戦争」がイギリス・アメリカと戦う第二次大戦への参戦ではないという身勝手な論理を撥ねつけた。そこで、ヒトラーは、西側連合国と関係が悪化したフィンランドに対して、ソ連への軍事的攻勢を強化しても、これ以上、西側連合国が外交的圧力を加えることはないと説いた。そして、領土的野心を抱いているソ連を攻撃を強化し、外敵ソ連を打倒するように強く要請した。

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、ドイツ軍がソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦に鹵獲して使用したソ連赤軍のT-28中戦車M1938年型:中央の砲塔には26口径76.2ミリL-10戦車砲1門を搭載。
Finnish T-28
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


T-28中戦車は、中央の砲塔に26口径76.2ミリL-10戦車砲1門を搭載していた。搭載していた発動機は、ドイツ製の航空機用発動機BMW VI液冷V型12気筒ガソリンエンジンをライセンス生産したもので、ミクーリンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500馬力である。この液冷ガソリンエンジンは、気筒のボア160 mm×ストローク190 mm、排気量 46.9 L、乾燥重量 553 kgで、1930年代まで広汎に使用されたが、1940年代には旧式化していた。

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、対ソ連継承戦争でフィンランド軍が鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
German T-28
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍T-28中戦車の中央砲塔に搭載された主砲は、当初T-28M1932年型は45ミリM27/32戦車砲、初期T-28M1934型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、中期T-28M1938年型と後期T-28E1939/1940年型は26口径76.2ミリL-10戦車砲と、順次火力が強化されている。主砲塔の16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲も26口径76.2ミリ戦車砲L-10も、対戦車戦闘用ではない。車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT機関銃各1丁を装備しているが、これは接近してくる敵歩兵を掃射するためのものである。

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、独ソ戦の緒戦、対ソ連「バルバロッサ作戦」でドイツ軍兵士が破壊・鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型エンジン部分を検分している。
T-28 2
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


T-28中戦車の車体後方に搭載された発動機は、ドイツのBMW VI 航空機用V-12液冷ガソリン・エンジンをライセンス生産したミクーリン M-17 M V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(500 馬力)である。車体下方側面のトランスミッションは破壊されている。T-28E中戦車は、1939年から1940年に工場に送られて、追加装甲(アップリケ・アーマー)を追加装備した。

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、ウクライナ、レンベルク(Lemberg)、独ソ戦の緒戦で、放棄されていたソ連赤軍T-28M1938型:ドイツ名レンベルク(Lemberg)は、ウクライナ名リヴィウ(Львів)、ロシア名リヴォフ(Львов)、ポーランド名ルヴフ(Lwów)で、各民族の共生の地であるとともに、対立の場所でもあった。
T-28 abandoned during the Operation Barbarossa, Lemberg (Lwow) 1941
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍T-28M1934中戦車は、16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲を装備、T-28M1938中戦車は26口径76.2ミリL-10戦車砲へ換装し、装甲を前面60ミリに強化した。T-28中戦車の中には、1940年に火力を大幅に強化する目的で85ミリF-30戦車砲を搭載した試作車も1両製造された。


写真(上)1941年6月以降、ソビエト連邦、ウクライナ(?)、独ソ戦の緒戦で、放棄されたソ連赤軍T-28E1939/1940型の上に登って記念撮影をしているドイツ陸軍の4名の戦車兵たち
:16.5口径76.2ミリKT-28戦車砲を26口径76.2ミリ戦車砲L-10へ換装し、装甲を前面60ミリに強化した。
T-28 abandoned during the Operation Barbarossa, Lemberg (Lwow) 1941
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。



写真(上)1941年6月以降、ソビエト連邦、ウクライナ、レンベルク(Lemberg)、独ソ戦の緒戦で、放棄されたソ連赤軍T-28M1938型との脇を通過するドイツ陸軍チェコ製スコダ38(t)戦車
:ドイツ名レンベルク(Lemberg)は、ウクライナ名リヴィウ(Львів)、ロシア名リヴォフ(Львов)、ポーランド名ルヴフ(Lwów)で、各民族の共生の地であるとともに、対立の場所でもあった。T-28中戦車には、火力を大幅に強化する目的で85ミリF-30戦車砲を搭載した試作車も1両、1941年に製造された。
T-28 abandoned during the Operation Barbarossa, Lemberg (Lwow) 1941
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、ウクライナ、レンベルク(Lemberg)、独ソ戦の緒戦で、放棄された連赤軍T-28M1938型とより大型のKV-2自走砲:ドイツ軍兵士が巨大な2輌のソ連戦車を戦利品にして満喫している。T-28中戦車は、16.5口径76.2ミリKT-28戦車砲を26口径76.2ミリ戦車砲L-10へ換装し、装甲を前面60ミリに強化した。他方、KV-2自走砲は、152ミリM-10T榴弾砲を搭載した巨大な回転砲塔を備えている。
T-28 and KV2 tanks after capture by German forces, Summer 1941
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍KV-2自走砲は、?940-1941年に334輌が生産された。乗員6名、重量52トン、全長7.31m、全幅3.49m、全高3.93m、兵装152ミリM-10T榴弾砲1門、発動機V-2Kエンジン(600馬力)、装甲は砲塔75-110ミリ、車体前面・側面75ミリ、後方60ミリ、上面30ミリ、路上最高速力27?/h。


写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、独ソ戦の緒戦で、ドイツ軍に撃破されたソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型
:16.5口径76.2ミリKT-28戦車砲を26口径76.2ミリ戦車砲L-10へ換装し、装甲を前面60ミリに強化した。この他、T-28中戦車には、火力を大幅に強化する目的で85ミリF-30戦車砲を搭載した試作車も1両、1941年に製造された。
T-28 model 1940
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


1930-1932年に農業トラクター製造工場(VOAO)の設計者が開発したソ連赤軍 T-28は、1933-1940年にキーロフ・レニングラード工場で503台生産されたが、中央砲塔に搭載された主砲には次のような形式がある。
T-28中戦車M1932年型:45ミリM27/32戦車砲
初期T-28M1934型:短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲
後期T-28M1939/1940型:26口径76.2ミリL-10戦車砲

総計503輌生産された多砲塔T-28中戦車は、攻撃力、防御力が強化され、発展型がある。

写真(右)1941年6月以降、ソビエト連邦、独ソ戦「バルバロッサ作戦」開始直後、侵攻したドイツ軍兵士が撃破されたソ連赤軍T-28中戦車M1938年型を検分している。
T28 model 1938
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍T-28中戦車は、ドイツ製の航空機用発動機BMW VI液冷V型12気筒ガソリンエンジンをソ連がライセンス国内生産したミクーリンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500 馬力を搭載した。このエンジンの気筒はボア160 mm×ストローク190 mm、排気量 46.9 L、乾燥重量 553 kgで、1941年に生産は終了している。

T-28 ズベズダ  しかし、T-28が搭載した発動機は、ドイツ製の航空機用発動機BMW VI液冷V型12気筒ガソリンエンジンを国内ライセンス生産したミクーリンM-17V型12気筒液冷ガソリンエンジン(500馬力)、シリンダーはボア(直径)160 mm×ストローク(工程)190 mm、排気量 46.9 L、乾燥重量 553 kgで、どの形式も同じである。したがって、攻撃力、防御力が強化された反面、重量が28トンから32トンに増加し機動力は低下した。

フィンランド軍参謀総長へインリクスは,ドイツに空路訪れ、1941年5月25日から,国防軍作戦部長ヨードルらと会談し、レニングラード攻略と極北作戦について概説し,ラドガ湖周辺への攻勢、ムルマンスク攻略への協力、ハンコ租借地のソ連軍基地攻撃への参加を話し合い、情報交換をなした。こうして、フィンランドは、ドイツのソ連侵攻に際して、 軍事同盟の締結をしたわけではないが、フィンランド軍の動員、ドイツ空軍への基地提供など具体的な話題をも取り上げ、ドイツのソ連侵攻に併せて、フィンランドもソ連との戦争を始める決意があることを間接的に伝えていた。


写真(上)1941年6月以降、ソビエト連邦、独ソ戦「バルバロッサ作戦」開始してまもなく、侵攻してきたドイツ軍に撃破されたソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型
:車体中央砲塔に26口径76.2ミリL-10戦車砲1門を装備、車体前方の銃塔2基に各々7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃1丁を装備した。写真のT-28戦車は、車体左の銃塔が吹き飛ばされているが、銃塔に機関銃が装備されたままになっている。
Destroyed T-28E
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ドイツを訪問したフィンランド軍参謀総長へインリクスは, ドイツ軍に対し、1941年6月10日にフィンランドの動員が、6月28日には作戦準備が完了する伝えたがと通告した。他方、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、 19416月14日に外交委員会を召集し、ドイツとの軍事的協力を承認している。反ボルシェビキの卍ハカリスティ(Hakaristi)がフィンランド軍の国籍マークだった。フィンランドは対ソ連戦の準備万端の中で、日本同様、フィンランドも6月17日、ドイツによる対ソ侵攻が19416月22日に開始されることを暗示された。まさに、対ソ戦争の開始を固唾をのんで見守っていた。

写真(右)1941年6月22日以降、ソビエト連邦、ウクライナ、独ソ戦「バルバロッサ作戦」開始直後、ドイツ軍が撃破したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型:2輌のT-28戦車が撃破されているが、ともに砲塔の周囲に、ロッド式アンテナが巻いてある。ドイツ国防軍の兵士がT-28戦車を点検している。奥のT-28戦車の主砲26口径76.2ミリ戦車砲L-10は、左を向いている。手前のT-28中戦車の主砲塔後端にある銃口は、7.62ミリDT機関銃1丁を装備できる。
T-28 tank june 1941 Janara, Operation Barbarossa.
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は形勢を見るためにも、ドイツと同時にソ連を攻撃することを躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツの立場は明らかであり、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていた。フィンランドには、冬戦争で認めたソ連赤軍駐留軍とその同盟国ではあるが内心反目しあっているドイツ軍とがともに駐留していた。


写真(上)1941年6月以降、ソビエト連邦に侵攻したドイツ軍兵士が撃破したソ連赤軍T-28中戦車1939/1940年型を通り過ぎる。
:車体中央砲塔に26口径76.2ミリL-10戦車砲1門を装備、車体前方の銃塔2基に各々7.62ミリDT1928年型機関銃1丁を装備した。
soviet tank T-28 13
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


実際、フィンランドはドイツと軍事同盟を結んでおり、動員令も発したから、フィンランドのソ連に対する敵対的行動は明らかだった。フィンランド南部のソ連国境からレニングラードまで100キロしかなく、ソ連に対する空襲は容易だった。そこで、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を掣肘するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、ソ連にとって、当然の認められるべき防衛行動と考えられた。ソ連攻撃を待ち望んでいたフィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に宣戦布告した。もちろん、フィンランドの本心は、ソ連に対する領土奪回であり、戦争を仕掛けられたとの口実で、復讐戦「継承戦争」を開始したのである。

写真(右)1941年7月8日、フィンランド、対ソビエト連邦「継承戦争」時、森林の中のフィンランド軍が鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型(26口径76.2ミリ戦車砲L-10搭載):フィンランド国防軍は、ナチ党の卍スワスチカと同じ反ボルシェビキの卍のハカリスティ(Hakaristi)を自国の国籍記章として採用した。国産戦車がなかったフィンランドは、ソ連から鹵獲したT-28戦車を使用した。
Venäläisiltä vallattuja hyökkäysvaunuja suomalaisine miehistöineen. Lappeen pitäjä 1941.07.08
Kuvassa sotasaaliina saatu panssarivaunu tyyppiä T-28.SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドは、1940年3月に冬戦争でソビエト連邦に敗れたが、1941年6月にドイツと同盟して、二度目の対ソビエト継続戦争に入った。この時,フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ラジオ放送で国民にソ連侵攻を正当化して、次のように訴えた。

1)冬戦争の終結以来、ソ連はフィンランドに対して侵略的行為を重ねてきたが、これはフィンランドの独立を打ちこわし、フィンランド人を隷属化させる目的がある。したがって、自衛するための戦争は、フィンランド人の当然の義務である、

2)ソ連によるフィンランドに対する侵略行為は、1939年の冬戦争、第二次世界大戦の中の行為に留まらず、過去数百年にわたって断続 して行われてきたのであって、ロシアによるフィンランド侵略は、歴史的な宿命であり、東方からのこの脅威の状態は、次代の国民のためにも、最強国ドイツのソ連侵攻という現在、ソ連を粉砕する絶好の機会であり、これに乗じた自衛戦争が求められる、

と説いた。つまり、フィンランドは、歴史的にフィンランドを圧迫してきたロシア人・ソビエト連邦を弱体化し、フィンランドの独立を確固たるものにするために,予防戦争を仕掛けたといってよい。反ボルシェビキの卍のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)がこのような軍事認識を表している。

写真(右)1941年7月8日、フィンランド、対ソビエト連邦「継承戦争」時、森林の中のフィンランド軍が鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型の砲塔(26口径76.2ミリ戦車砲L-10搭載):フィンランド国防軍は、ハカリスティ(Hakaristi)卍を自国の国籍記章として採用した。国産で戦車を製造しなかったフィンランドは、輸入戦車や鹵獲戦車を配備した。
Kuvassa sotasaaliina saatu panssarivaunu tyyppiä T-28.
Venäläisiltä vallattuja hyökkäysvaunuja suomalaisine miehistöineen. Lappeen pitäjä 1941.07.08..SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,戦争遂行にあたって、イギリス・アメリカとの対決には至らないように配慮していた。そこで、1941年7月4日のアメリカ独立記念日に,フィンランドの戦争目的について、次のように釈明している。
1) フィンランドは, ドイツを軍事同盟国としてではなく、共同交戦国として、ソ連と戦争をしている。
2) 1940 年の冬戦争の講和は、フィンランドの戦略的な立場を大幅に低下させ、独立を危機に陥れた。そこで、自国の防衛を全うするためには、カレリア地峡の確保が必要である。ただし、ソ連のレニングラードの戦略的な立場を理解し、国境は1939年の冬戦争開戦時よりも東には進ませない。
3) ドイツの侵攻を受けたソ連の敗北は確実であり,ポリシェヴイズム・共産主義の完璧な粉砕は世界全体に利益をもたらす。

写真(右)1942年8月16日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型(後方より撮影):
Os. Laguksen taisteluharjoitukset.
Äänislinna 1942.08.16
Kuvan panssarivaunu on T-28.
Panssarivaunu on tyyppiä T-28. Os. Laguksen taisteluharjoitukset. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドでは、継続戦争開始後、 IKL (愛国人民同盟)、AKS(カレリア学徒会〉といっ反ポリシェヴイズムの右翼団体は, フィンランド軍が新たにソ連の東カレリアまで進軍し、そこに住む同族のフィン人を併合して、ボスニア湾から白海にわ たる「大フィンランド」(Suur-Suomi) を建設することを提唱した。反ボルシェビキの卍のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)は、対ソ戦争を始めたドイツとの同盟をも表彰するものであり、復讐戦に臨むフィンランドにふさわしい国籍マークである。


写真(上)1941年8月26日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型
:反ボルシェビキの卍のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)を砲塔に描いた戦車をフィンランド軍兵士が運転している。T-28車体中央の運転手席のハッチを開いていて、運転手が外を見ている。
Tankki (33t.) ylittää joen kapulasillan. Vitele 1941.08.26 Tankki (33t.) ylittää joen kapulasillan. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


1941年6月末に始まった継続戦争に於て、ソ連、ポリシェヴイズムの打倒を企図したフィンランド軍は、瞬く間に1939年当時の旧国境まで進軍し、1940年の冬戦争で失った国土を取り返した。そして、1939年の旧国境を越えて、引き続き弱体化しているソ連軍を追って進撃を続けた。フィンランドは,中東部の東カレリア地方では、旧国境を遥かに超えて占領地を拡大しており、これは当初の戦争目的である失地回復・国土奪回を超えた侵略的行為である。


写真(上)1941年8月26日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に鹵獲・反ボルシェビキの卍ハカリスティ(Hakaristi)の国籍マークを描いて使用したソ連赤軍T-28中戦車1938年型
:湿地帯を木材架橋で補強して通過している。T-28は、26口径76.2ミリ戦車砲L-10を主砲に、歩兵攻撃用に7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備した銃塔2基を装備している。
Tankki (33t.) ylittää joen kapulasillan. Vitele 1941.08.26 Tankki (33t.) ylittää joen kapulasillan. Kuvassa on panssarivaunu tyyppiä T-28. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


ソ連赤軍T-28中戦車1938年型の発動機は、ミクーリン(Микулин)M-17の原型は、ドイツ製BMW VI液冷ガソリンエンジンで、航空機用の強力なものだった。ソ連は、1930年に、この液冷V型12気筒液冷エンジンのライセンスを取得し、国産化した。第二次大戦勃発時には旧式化しており、1941年に生産は中止された。

写真(右)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍ソ連赤軍T-28M1938年型あるいはT-28E中戦車1939/1940年型:フィンランド国防軍の兵士が戦車を点検している。主砲は26口径76.2ミリ戦車砲L-10で、歩兵支援用である。T-28車体前部の小型銃塔2基には、7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃各1丁を装備で切るが、配備されていなこともある。
Rintamakirjeenvaihtaja vänrikki L.Karanto tutustuu 33 tonnin hyökkäysvaunuun.
Nuosjärvi 1941.09.05
Rintamakirjeenvaihtaja vänrikki L.Karanto tutustuu 33 tonnin hyökkäysvaunuun. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


しかし、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、占領地の拡大は、フィンランドの領土と国境を守るための正当な外延的防御線の移動であり、防衛的な行動であると弁明した。1941年8月21日、フィンランド外務大臣ヴィッティングは、アメリカ公使に対して、フィン ランド政府は,東カレリア地方の占領地拡大は、軍事戦略上、ドイツ軍によるレニングラード占領に重なるものであること、その時に、フィンランドは,ソ連と単独和平をすることはなく,1918年から1921年にかけてのロシア革命と反革命の時代と同じように、武装平和を維持する必要があること、を説いた。換言すれば、ドイツが対ソ戦争で、ポリシェヴイズムに勝利を収めれば、ソビエト連邦が崩壊し、共産主義ボリシェビキも壊滅させられるのであって、この将来構想を前提に、フィンランドの独立は、確固たる基盤を持つに至ると予言したのである。

写真(右)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破した主砲は26口径76.2ミリ戦車砲L-10搭載のソ連赤軍T-28M1938年型あるいはT-28E中戦車1939/1940年型:車体側面のトランスミッションの装甲覆いが外れている。
33 tonnin hyökkäysvaunu tuhottu Nuosjärven eteläpuolella.
Nuosjärvi 1941.09.05
Kuvassa oleva tuhoutunut vaunu on T-28 panssarivaunu. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


たしかに、1941年夏の継続戦争勃発当時、アメリカの軍事指導者の多くもソ連に侵攻したドイツ軍の進撃速度、100万をこえる捕虜の獲得、ソ連軍の壊滅的損害に目を奪われ、ソ連の崩壊は間近であると予測していたのであるから、フィンランドが同様に継続戦争に勝利するまで、戦争を闘い続けることは、十分予測できたのである。楽観視していたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、対ソ連戦争勝利の後に、イギリス、その後参戦したアメリカと講和すればよいと考えており,ソ連との戦争途中の休戦や講和は問題外であるとし、強気の姿勢で外交に臨んでいたのである。

写真(右)1941年9月8日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に鹵獲・使用したソ連赤軍T-28M1938年型あるいはT-28E中戦車1939/1940年型
Vaimennettu 30 tonnin tankki.
Prääzä 1941.09.08
Vaimennettu 30 tonnin tankki.
Kuvassa on T-28 panssarivaunu, paino n. 28 tonnia (lisäpanssarointi nostanut painoa).
SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


1917年のロシア社会主義革命によって、ロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世は、1917年3月15日に退位した。そして、ロシア帝国の内紛とレーニン率いるボリシェビキの民族独立の方針に乗じて、フィンランド国会が設置され、11月15日にはフィンランド独立宣言が発せられ、共和制憲法の下で、独立国となった。継続戦争末期に、フィンランド大統領に就任することになるカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)は、ロシア帝国の将校で、フィンランド独立に際しては、共産主義者を撲滅する騎兵大将としてフィンランド白軍(青衛軍)の司令官だった。

新ロシア政府も1917年12月22日、フィンランドの独立を承認した。こうして、フィンランドが、革命後のロシアから独立したときに、レニングラード北西方のカレリア地方は、フィンランド領となった。

  その後、1939年11月30日、フィンランドは、冬戦争でソ連と戦うことになり、1940年3月13日の冬戦争敗戦を迎えた。この対ソ連「冬戦争」敗北の結果、フィンランド領だったカレリア地方は、ソ連に奪われた。しかし、1941年8月、復讐戦となった継承戦争の緒戦で、フィンランドは攻勢をかけて、カレリア地峡をソ連から奪還した。フィンランドは郷土回復を祝った。

T-28中戦車とT-35重戦車の主砲は、同じ16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲で、砲口初速370メートル/秒、発射速度5発/分、貫通力は、距離500メートルで31ミリ、1000メートルで28ミリで対戦車戦闘能力は高くはない。しかし、1930年代の戦車搭載の火砲としては、最大級の口径であり、歩兵支援用には十分な火力を備えていた。

ロシア7.62ミリDT(Degtyaryov)29機関銃は、口径7.62mm、ヴァシリ・A・デグチャレフ技師の設計になる軽機関銃である。


写真(上)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型
:フィンランド国防軍の兵士が戦車を点検している。
33 tonnin hyökkäysvaunu vallattu. Tämä oli ajanut miinoihimme vaurioituen ainoastaan vähäisesti telaketjujen ohjauspyörään.
Nuosjärvi 1941.09.05 33 tonnin hyökkäysvaunu vallattu. Tämä oli SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


1939-1940年の冬戦争でフィンランドはカール・グスタフ・マンネルヘイム(Mannerheim)司令官の善戦にもかかわらず、ソ連に敗北し、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)をソ連に奪われた。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。

写真(右)1941年9月7日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時、鹵獲・使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型(前半部分):フィンランド国防軍の兵士が戦車を点検している。T-28の主砲は26口径76.2ミリ戦車砲L-10で、対戦車専用ではない。
Ryssiltä vallattu 32 tonnin hyökkäysvaunu suomalaisten käsissä. Nuosjärvi 1941.09.07 Ryssiltä vallattu 32 tonnin hyökkäysvaunu suomalaisten käsissä. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


愛国的な「冬戦争」では、フィンランドは善戦したが、これはソ連赤軍の指揮系統の柔軟性がなく戦術的な失敗を繰り返したこと、ソ連赤軍の兵士の士気が低いこと、ソ連製の兵器が時代遅れで旧式なものだったこと、が原因とされた。たしかに、フィンランドは、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で敗北し、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島の港湾をソ連租借地とするなど、領土割譲要求をのまざるを得なかったが、ドイツも連合国もソ連軍が弱体であるとの認識を確認するに至った。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したのではあるが、それは、ソ連軍が弱かったからであると考えられた。


写真(上)1941年9月7日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時、鹵獲・使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型
(前半部分):主砲は26口径76.2ミリ戦車砲L-10、車体前部の小型銃塔2基は、7.62ミリDT機関銃各1丁を装備。
Ryssiltä vallattu 32 tonnin hyökkäysvaunu suomalaisten käsissä. Nuosjärvi 1941.09.07 Sotilaat ovat kerääntyneet T-28 panssarivaunun ympärille. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


当時のフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti), 首相ランゲル(J. W. Rangell),外相ヴイツティング(R.J. Witting)は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻を歓迎したようだ。1943年にリュティ大統領の下で首相に就任したリユノコミエスは,回顧録の中で,独ソ戦争の第一報を受けた6月22日について、次のように述べている。「その時すぐに私は,フィンランドが戦争の埒外に留まることはない, と結論した。----私にとって、この成行きを拒否する態度はありえなかった。ドイツが比較的短期間にソ連を打ちのめし,それに伴って,あらゆる権利を踏みにじり、フィンランドから暴力でもぎ取ったカレリアを奪回する機会がフィンランドに訪れるのは礎実と思われた。」

写真(右)1941年9月8日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型(26口径76.2ミリ戦車砲L-10搭載):フィンランド国防軍は、自国で戦車を製造できなかったので、ソ連から鹵獲した戦車に、反ボルシェビキの卍ハカリスティ(Hakaristi)を付けて使用した。
Kolme päivää sitten ryssiltä vallattu 33 tonnin hyökkäysvaunu matkalla tulittamaan entisiä isäntiään.
Nuosjärvi 1941.09.08
Kolme päivää sitten ryssiltä vallattu 33 tonnin hyökkäysvaunu matkalla tulittamaan entisiä isäntiään.
Kuvan panssarivaunu on T-28. SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィンランド語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ポリシェヴイズム、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。

写真(上)1941年9月8日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に鹵獲し部隊配属したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型(横方向より撮影):反ボルシェビキの卍のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)を大きく描いている。これは、ナチ党と関係ないという英語・日本語の開設は、当時のフィンランドの反共産主義を強さを認識できていないようだ。フィンランド独立時の内戦では、反共の白衛軍(青衛軍)がロシアのボリシェビキと連携したフィンランド赤軍の武力闘争を鎮圧したのは、1920年代で、当時の記憶は生々しいものだった。
Kolme päivää sitten ryssiltä vallattu 33 tonnin hyökkäysvaunu matkalla tulittamaan entisiä isäntiään. Nuosjärvi 1941.09.08
Kolme päivää sitten ryssiltä vallattu 33 tonnin hyökkäysvaunu matkalla tulittamaan entisiä isäntiään.SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


写真(右)1941年10月18日、ソビエト連邦、独ソ戦「バルバロッサ作戦」の緒戦、フィンランド軍が「継続戦争」でソ連領に攻め入り、破壊・鹵獲し使用したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型。エンジン部分の冷却ファンが1基見えている。
53 tonnin hyökkäysvaunu, joka oli ajanut omaan miinaan Äänislinnan esikaupungissa. Äänislinna 1941.10.18
写真は,World War Photos 2013-2020, USSR/Tank T-28 photo gallery引用。


ソ連赤軍のT-28中戦車は、車体後方にドイツBMW VI 航空機用V-12液冷ガソリン・エンジンをライセンス生産したミクーリンM-17M V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(500 馬力)を搭載していた。M-17M V型12気筒4ストローク液冷ガソリンは、ソ連で1930年から1941年まで2万7000台が生産された。ミクーリンM-17M液冷ガソリンエンジンは、本来航空機用だったので、ソ連空軍機に1万9000台が搭載され、戦闘車両には8000台が搭載された。


写真(上)1941年10月18日、フィンランド、フィンランド軍が撃破したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型
:反共産主義カギ十字ハカリスティ(Hakaristi)はフィンランド国軍の国籍記章で、ナチ党支配下ドイツと同盟して、対ソビエト連邦「継承戦争」を始めた。そして、冬戦争の失地を回復し、さらに領土を拡張しようと侵攻をつづけた。
53 tonnin hyökkäysvaunu, joka oli ajanut omaan miinaan Äänislinnan esikaupungissa. Äänislinna 1941.10.18 Kuvassa T-28 panssarivaunu. .SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。



フィンランド軍の使用したT-28中戦車:Russian T-28 Medium Tank
2020/8/22末15,692 回視聴(•2011/03/13掲載)

フィンランド軍とフィンランド派遣ドイツ軍の間には、連絡将校も配置され、協力関係が構築されていた。しかし、フィンランドは,レニングラードに対する積極的攻撃は行わなかった。これに対して,国防軍総長ヴィルヘルム・カイテルは、カレリア地峡(Karelian Isthmus)でフィンランド軍が有利な地位にあることから、 1941年8月下旬,フィンランド軍総可令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥に対して、北方からレニングラードを攻撃し、南方から攻撃するドイツ軍と挟撃することを提案した。

写真(右)1941年12月6日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型:反共産主義卍十字のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)は、ナチ党と同じ形状なので、継承戦争後には廃止された。これは、ドイツとの同盟関係から、ドイツとの戦争状態に寝返ったからである。
Raskaita hyökkäysvaunujamme Karhumäessä. Karhumäki 1941.12.06
Sotilaiden takana on T-28 panssarivaunu.
JR 25 Karhumäen pohjoiskaistalla, Karhumäki ja Poventsa. Sot.virk. Hans O. Lindh SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,レニングラードへの積極的な攻撃は、フィンランド国民からの支持を得られるとは考えておらず、なによりドイツ軍が独力でレニングラードを陥落させ、フィンランドはソ連崩壊の利益を享受できると予測していた。そこで、マンネルへイム元帥も、その意向を組んで、1941年8月28日、フィンランド軍によるレニングラード(Leningrad)攻撃は実施できないことをドイツ側に伝えた。しかし、このことは、フィンランド軍をカレリア地峡に展開し、間接的にレニングラード包囲網を構築することを放棄したものではない。

写真(右)1941年12月7日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型
Iso leveä katu, jonka varrella pieniä rakennuksia on Leninin katu. Karhumäen katutaisteluista. Hyökkäysvaunun ohjaaja V. Heino. Kuva otettu 7.12.1941 -37 -40° pakkasessa.
JR 25 Karhumäen pohjoiskaistalla, Karhumäki ja Poventsa. 1941.12.07
Sotilaiden takana on T-28 panssarivaunu.
JR 25 Karhumäen pohjoiskaistalla, Karhumäki ja Poventsa. Tauno Norjavirta SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


反ボルシェビキの卍のハカリスティ(Hakaristi)は、フィンランド国軍の国籍記章だが、ナチ党と同じなので、継承戦争にソ連・イギリスに降伏した後には廃止された。フィンランド人ならだれでも、ナチ党記章卍の意味を知っていたのである。フィンランドの卍ハカリスティ(Hakaristi)とドイツの卍スワスチカと違うというのは、完全な「嘘も方便」である。マンネルハイムは、独ソ戦勃発時にドイツ軍と密約を結び、対ソ連侵攻を事前に約束していた。ただし、侵略国として疑われないように、ソ連軍が先制攻撃をかけてくるのを待っていた。1943年には、ヒトラー誕生日を祝うために、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルク総統大本営に飛んでいた。

フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、フィンランド国軍マンネルハイム将軍の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。

写真(右)1941年12月15日、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型:主砲の26口径76.2ミリ戦車砲L-10は取り外されているが、この装着部分を、車体に乗ったフィンランド国軍兵士が検分している。車体前部の小型銃塔2基の7.62ミリDT機関銃各1丁も外されている。ソ連戦車兵は、火砲・機関銃を取り外して持ち帰ったのか。
Äänislinnaan vievällä tiellä on ``sotamuistomerkit´´
peittyneet lumella.
Äänislinna 1941.12.15
Kuvassa panssarivaunu T-28. josta on poistettu aseistus.
Äänislinnaan vievällä tiellä on ``sotamuistomerkit´´ SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。アメリカも中立でドイツと孤立無援で戦っていたイギリスは、ソ連との同盟関係を是が非でも成立させる必要があった。

写真(右)1941年12月15日、フィンランド、フィンランド軍兵士が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型を検分している。:主砲の26口径76.2ミリ戦車砲L-10は取り外されている。車体前部の小型銃塔2基の7.62ミリDT機関銃各1丁も外されている。ソ連戦車兵は、火砲・機関銃を取り外して持ち帰ったのか。
Äänislinnaan vievällä tiellä on ``sotamuistomerkit´´ peittyneet lumella.
Äänislinna 1941.12.15
Kuvassa panssarivaunu T-28. josta on poistettu aseistus.
Äänislinnaan vievällä tiellä on ``sotamuistomerkit´SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。フィンランド軍の飛行機や戦闘車両には、ドイツと同じ反共産主義の卍ハカリスティ(Hakaristi)を国籍記章として記入されている。しかし、継続戦争に敗北後は、ドイツ軍と同じなのでフィンランド軍は卍ハカリスティ(Hakaristi)の国籍記章を廃止している。

図(右)1944年1月28日、フィンランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型を修復、稼働状態に整備している。:砲塔側面、車体前面に描いた反共産主義の卍ハカリスティ(Hakaristi)は、フィンランド軍の国籍記章だが、継続戦争に敗北後は、ドイツ軍と同じなので廃止された。
Martti Santala: Postivaunu (T-28) korjaamossa. (TK-piirros) Äänislinna 1944.01.28 Kuvassa T-28 panssarivaunu. .SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


反共産主義・反ボリシェビキのフィンランド国防軍は、1941年6月末にソ連に侵攻して、領土拡張、安全保障を目指す「継承戦争」を開始した。緒戦ではフィンランド軍は快調に進撃して、冬戦争で失った領土を取り返した。そして、さらにソ連領を占領して、大フィンランドを樹立する希望も生まれた。しかし、1943年末から戦局は悪化し、ドイツとの同盟関係を見直すべきだとする政治家も出てきた。こうして、対ソビエト連邦「継承戦争」は講和(降伏)に向かっている。冬戦争の失地回復、領土拡張の大フィンランドをつくることは夢と終わり、いかにしてドイツとの同盟関係を解消し、第二次世界大戦からフィンランドを離脱させるかが問題となった。端的に言えば、寝返りが企図されたのである。

写真(右)1944年1月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に撃破・鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型(斜め後方より撮影):後方の建物の屋根にはもはや雪はほとんど残っていないので、雪解け時期と思われる。主砲塔の26口径76.2ミリ戦車砲L-10は、対戦車戦闘用ではない。車体前部の小型銃塔2基の7.62ミリDT機関銃と同じく、歩兵支援用だった。砲塔側面、車体前面に反共産主義の卍ハカリスティ(Hakaristi)をフィンランド軍の国籍記章として描いている。
Yksikkö 9438 (E/Ps.Koul.K). Everstiluutnantti K.
Kuvan panssarivaunu on T-28.
Yksikkö 9438 (E/Ps.Koul.K). Everstiluutnantti K. J. Haatajan pyynnöstä kuvattu sotasaalis ps-vaunuja. Opetuskuvia lähitorjuntaa varten.
Äänislinna 1944.01.30 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これに馴染んだ住民を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に参加している。

写真(右)1944年1月、フィンランド、フィンランド軍が対ソビエト連邦「継承戦争」時に鹵獲し反共産主義カギ十字ハカリスティ(Hakaristi)を描いてフィンランド軍が使用したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型(斜め後方より撮影):中央砲塔16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲1門を26口径76.2ミリ戦車砲L-10に変換し攻撃力を強化した。前の写真と同一の戦車のようだ。
Yksikkö 9438 (E/Ps.Koul.K). Everstiluutnantti K.
Kuvan panssarivaunu on T-28.
Yksikkö 9438 (E/Ps.Koul.K). Everstiluutnantti K. J. Haatajan pyynnöstä kuvattu sotasaalis ps-vaunuja. Opetuskuvia lähitorjuntaa varten.
Äänislinna 1944.01.30 SA-kuva.
写真は,The Finnish Defence Forces From the front line to the home front 1939-1945引用。


ソ連赤軍 1941年6月の第二次ソ芬戦争、継続戦争の緒戦、フィンランド軍は、ソ連に侵攻した。この時、フィンランド中東部からは、1917年の独立以来、フィンランド領となったことのなかった旧ロシア領・ソ連の東カレリアに軍を進めた。例えば、カルフマキ(Karhumäki:フィンランド語)は、オネガ湖最北岸の町で、レニングラードと北極海に面した要港ムルマンスクを結ぶ交通路に当たる。現在はロシア連邦カレリア共和国にに属し、メドヴェジエゴルスク(旧名メドヴェジヤ・ゴラ)と呼ばれるが、フィンランドはここを占領してフィンランド防衛拠点とした。これは、失地回復、固有の領土の奪還というには大きく拡張された領土であるが、フィンランドは、歴史的に侵略を受けてきたロシア帝国・ソビエト連邦ボリシェビキに対する恐怖から、彼らを弱体化、中立化し、フィンランドの防衛戦を国境よりも先に前進させて、予防的に防衛することが必要であると考えていた。

⇒写真集:フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」を見る。


4.現存するソ連赤軍 T-28中戦車

写真(右)2013年5月、フィンランド、ヘルシンキ北100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍の鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車初期型:主砲は、45ミリM1932カノン砲なので、これは初期型である。後に1938年になってから、主砲は、短砲身とはいえ大口径で破壊力のある16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲に換装された。1939-1940年のソ連・フィンランド冬戦争において、ソ連軍が使用したT-28戦車を、フィンランド軍が鹵獲した。
English: A T-28 tank in the Karkialampi barracks area in Mikkeli, Finland.
Suomi: T-28-panssarivaunu Mikkelissä Karkialammen varuskunta-alueen Panssarikumpareella.
Date 31 May 2013 Source Own work
Author Methem (Mikko J. Putkonen)
写真は,Category:T-28 in the Karkialampi barracks File:T-28 tank in Mikkeli 20130531 001.jpg引用。


ソ連赤軍T-28中戦車はソ連赤軍が1933年に制式した中戦車だが、砲塔3基を備えた事実上の多砲塔重戦車である。主砲は、当初45ミリM27/32戦車砲、1938年の後期型M1934は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲を1門を中央の大型砲塔に搭載した。その前部下段に、7.62ミリDT機関銃装備の小砲塔2基を備えている。

写真(右)2008年9月、ロシア連邦、モスクワ、中央軍事博物館(Central Armed Forces Museum, Moscow )に保管展示されている短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のT-28中戦車M1934年型/多砲塔戦車:主砲塔右には旋回機関銃(同軸ではない)の銃座が、車体前部右の銃塔の銃口は蓋をされている。キャタピラが地面に接する転輪は、片側6組12個あるので、同じ多砲塔のT-35戦車の転輪4組8個よりも多い。右側にはT-34/76中戦車が置かれている。
Description Средний танк Т-28 1933
Date Taken on 27 August 2003 Source http://www.panoramio.com/photo/48823622
Author Валерий Дед
写真は,Category:T-28 in the Moscow Central Armed Forces Museum File:Средний танк Т-28 1933 - panoramio.jpg引用。


ソ連赤軍T-28中戦車1934年型は、1932年にソビエト連邦、レニングラードのキーロフ(Kirov)工場で開発された多砲塔である。原型として参考にされたのは、イギリスのA6中戦車とドイツのNbFzトラクターである。中央の砲塔には45ミリM27/32戦車砲を搭載した試作車が1933年8月11日にソ連赤軍に制式された。その後、主砲口径を大きくして16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲を1門が搭載するようになった。主砲塔の後部にも7.62ミリDT機関銃1丁を搭載している。車体後方には、ドイツのBMW航空機用エンジンを改造しライセンス生産したミルーキンV型12気筒M-17Lガソリンエンジン(500馬力/372kW)を搭載した。

写真(右)2017年8月、ロシア連邦、モスクワ、中央軍事博物館(Central Armed Forces Museum, Moscow )に保管展示されている短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のT-28中戦車M1934年型/多砲塔戦車:車体後部に、V型12気筒M-17Lガソリンエンジン(500馬力/372kW)を搭載しており、エンジンラジエーター用のスリットが開いている。T-28戦車のキャタピラが地面に接する転輪は、2個6組12個あるので、同じ多砲塔のT-35戦車の転輪4組8個と異なり、容易に区別できる。
Description Русский: Т-28 в Центральном музее Вооружённых Сил в Москве (задняя часть)
Source Own work
Author Mike1979 Russia
写真は,Category:T-28 in the Moscow Central Armed Forces Museum File:T-28 Moscow 2.JPG引用。


ソ連赤軍T-28中戦車は、ドイツ製の航空機用発動機BMW VI液冷V型12気筒ガソリンエンジンをライセンス生産したミルーキンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500馬力、気筒はボア160 mm×ストローク190 mm、排気量 46.9 L、乾燥重量 553 kg、を装備している。

Испытание танка Т-28 в реставрационной мастерской Арьергард / Test T-28 tank in the workshop: It may not be entirely original components, but it's the only functional T-28 in the world. Instead of the old M-17 gasoline engine, this tank uses a modern YaMZ diesel engine.

T-28中戦車の諸元
全長:7.44m、全幅:2.66m、全高:2.86m
重量:当初32.0トン、後期32.5トン 装甲:最厚;中期T-28M1938年型50mm、後期T-28E1939/1940年型80mm
乗員:6名
発動機:ミルーキンM-17L V型12気筒液冷ガソリンエンジン(500馬力/372kW/1400rpm)
主砲:45ミリM27/32戦車砲あるいは16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲;携行弾数:70発、後期T-28C型;26口径76.2ミリ戦車砲L-10
副兵装:7.62ミリDT機関銃3丁(主砲塔同軸機関銃と小砲塔2基に搭載);携行弾数:7938発
最高速力:路上37km/h、路外20km/h
航続距離220km

写真(右)2008年9月、ロシア連邦、モスクワ、中央軍事博物館(Central Armed Forces Museum, Moscow )に保管展示されている短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のT-28中戦車1934年型/多砲塔戦車:車体後部に、V型12気筒M-17Lガソリンエンジン(500馬力/372kW)を搭載しており、エンジンラジエーター用のスリットが開いている。
Description Русский: Т-28 в Центральном музее Вооружённых Сил в Москве
Source Own work Author Mike1979 Russia
写真は,Category:T-28 in the Moscow Central Armed Forces Museum File:T-28 Moscow.JPG引用。


ソ連赤軍T-28中戦車は、レニングラードのキーロフ工場で、1932年から1941年まで503両が生産された歩兵支援用の中戦車で、より大型のT-35重戦車と同時に開発された。T-28中戦車のキャタピラが地面に接する転輪は、2個6組12個あるので、同じ多砲塔のT-35重戦車の転輪4組8個と異なり、容易に区別できる。

写真(右)2017年8月、ロシア連邦、モスクワ、中央軍事博物館(Central Armed Forces Museum, Moscow )に保管展示されている短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のT-28中戦車M1934年型/多砲塔戦車
Soviet WW2 era Multi-turreted medium Tank Manufacturer:- Kirov Factory, Leningrad Built:- 1932 to 1941 Total Production:- 503 Main Armament:- 76.2mm KT-28 Howitzer A similar design to the single British Vickers A1E1 Independent tank built in 1926, the T-28 was originally designed as an infantry support tank to complement the heavier T-35, which was also multi-turreted. The T-28 was not a great success in combat, however, but did prove useful as a development project. Many solutions that were tested on the T-28 became part of later tank designs. On display at the Central Armed Forces Museum, Moscow, Russia. 26th August 2017 Date 26 August 2017, 14:42 Source T-28 - Central Armed Forces Museum, Moscow Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真は,Category:T-28 in the Moscow Central Armed Forces Museum File:T-28 - Central Armed Forces Museum, Moscow (38829241592).jpg引用。



Labels: modern, T-28 Поисковый Клуб Арьергард Подъем корпуса танка Т-28 для дальнейшей реставрации в мастерской Арьергард

初期T-28中戦車M1934年型の装甲は、砲塔前面20ミリ、車体前面30ミリ、車体側面・後面20ミリ、車体上面15ミリで、重量28トンだった。
中期T-28中戦車M1938年型の装甲は、砲塔前面50ミリ、車体前面50ミリ、車体側面・後面50ミリ、車体上面50ミリで、重量32トンに増加したが、防御力は大幅に強化された。
後期T-28E中戦車1939/1940年型は、既存のT-28中戦車を工場に戻して、追加装甲(アップリケ・アーマー)を装着した。しかし、発動機は、いずれもミルーキン(Mikulin)M-17液冷V12ガソリンエンジン(500馬力)で同じだったために、装甲強化による重量増加(4トン)により、機動性が低下した。


写真(上)2003年8月、ロシア連邦、モスクワ、中央軍事博物館(Central Armed Forces Museum, Moscow )に保管展示されている短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲装備のT-28中戦車M1934年型/多砲塔戦車(中央)、T-34/76中戦車M1941型(右)、BT-7快速戦車M1935型 (左)
:T-28中戦車は、レニングラードのキーロフ工場で、1932年から1941年まで503両が生産された歩兵支援用の中戦車。T-28中戦車より大型のT-35重戦車も開発されたものの、量産はされなかった。
Description Бронетанковая "мощь" - БТ7, Т28, Т34-76 Date Taken on 27 August 2003 Source http://www.panoramio.com/photo/48823236 Author Валерий Дед
写真は,Category:T-28 in the Moscow Central Armed Forces Museum File:T-28 - Central Armed Forces Museum, Moscow (38829241592).jpg引用。


ソ連赤軍BT-7快速戦車M1935型の諸元
全長5.56 m 、全幅2.29 m 、全高2.42 m
重量13.8 t
主砲 45ミリ20K戦車砲M1934
乗員 3名
発動機ミルーキンM-17T V型12気筒水冷ガソリンエンジン(450馬力)
最高速力 路上装軌52 km/h、路上装輪72 km/h

BT-7快速戦車の主砲 45ミリ20K戦車砲M1934は、T-28中戦車M1934年型の主砲と同じである。

写真(右)2006年7月、フィンランド、ヘルシンキ北100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍の鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型(26口径76.2ミリL-10戦車砲搭載):写真の展示している車両には、機関銃は未増備で、銃口のみ開いている。砲塔の後部背面にも7.62ミリ機関銃1丁を搭載することができる。反ボルシェビキの卍のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)は、継承戦争敗北後に廃止されたために、この鹵獲戦車からも消去されている。
Description Soviet T-28 tank, displayed in Finnish Tank Museum (Panssarimuseo) in Parola.
Photo taken on July 14, 2006.
Source: Photo by me, User:Balcer. Date 14 July 2006 (according to Exif data)
Source Own work Author Balcer~commonswiki
写真は,Category:T-28 in the Parola Tank Museum File:T28 parola 1.jpg引用。


 1936年7月から1939年3月まで続いたスペイン内戦では、ドイツ・イタリアは反乱軍を支援して派兵した一方で、ソ連は共和国政府を支援して派兵した。このとき、ソ連赤軍派遣したT-26 軽戦車、BT快速戦車は、37ミリ、45ミリ戦車砲の攻撃力は認められたが、装甲が薄く防御力に問題があった。

写真(右)2013年5月、フィンランド、ヘルシンキ北100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍の鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型(斜め右後方より撮影):中央の砲塔には26口径76.2ミリL-10戦車砲(前型は16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲)を1門搭載、砲塔の後部背面にも7.62ミリ機関銃1丁を搭載する。写真の展示している車両には、機関銃は未装備で、銃身を伸ばす銃口が開いている。1939-1940年のソ連・フィンランド冬戦争において、ソ連軍が使用したT-28戦車を、フィンランド軍が鹵獲した。
155 - T-28 m 1938
Date 5 July 2017, 12:20 Source 155 - T-28 m 1938
Author Richard Allen from Nottingham, UK
写真は,Category:T-28 in the Parola Tank Museum File:Parola Tank Museum 155 - T-28 m 1938 (37682173905).jpg引用。


ソ連赤軍T-28中戦車の中央砲塔に搭載された主砲は、当初T-28M1932年型は45ミリM27/32戦車砲、初期T-28M1934年型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、中期T-28M1938年型と、追加装甲(アップリケ・アーマー)を装着した後期T-28E1939/1940年型は26口径76.2ミリL-10戦車砲を搭載している。順次攻撃力と防御力が着実に強化されているが、機動性が犠牲にされた。

写真(右)2013年5月、フィンランド、ヘルシンキ北100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍の鹵獲したソ連製T-28多砲塔中戦車:中央の砲塔には16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲を1門搭載、車体前部下段の左右の砲塔には、7.62ミリ機関銃1丁を搭載する。写真の展示している車両には、機関銃は撤去されており、銃身穴のみ開いている。反ボルシェビキの卍のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)は、継承戦争敗北後に廃止されたために、この鹵獲戦車からも消去されている。
Description 156 - T-28 m 1938
Date 5 July 2017, 12:20 Source 156 - T-28 m 1938
Author Richard Allen from Nottingham, UK
写真は,Category:T-28 in the Parola Tank Museum File:Parola Tank Museum 156 - T-28 m 1938 (37682191495).jpg引用。


初期T-28中戦車M1934年型の装甲は、砲塔前面20ミリ、車体前面30ミリ、車体側面・後面20ミリ、車体上面15ミリで、重量28トンだった。
中期T-28中戦車M1938年型の装甲は、砲塔前面50ミリ、車体前面50ミリ、車体側面・後面50ミリ、車体上面50ミリで、重量32トンに増加したが、防御力は大幅に強化された。
後期T-28E中戦車1939/1940年型は、既存のT-28中戦車を工場に戻して、追加装甲(アップリケ・アーマー)を装着した。しかし、発動機は、いずれもミルーキン(Mikulin)M-17液冷V12ガソリンエンジン(500馬力)で同じだったために、装甲強化による重量増加(4トン)により、機動性が低下した。

写真(右)2013年5月、フィンランド、ヘルシンキ北100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍の鹵獲したソ連赤軍T-28中戦車M1938年型:中央の砲塔には26口径76.2ミリL-10戦車砲(前型は16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲)を1門搭載、砲塔の後部背面にも7.62ミリ機関銃1丁を搭載する。写真の展示している車両には、機関銃は未増備で、銃口のみ開いている。1939-1940年のソ連・フィンランド冬戦争において、ソ連軍が使用したT-28戦車を、フィンランド軍が鹵獲した。
Description 159 - T-28 m 1938
Date 5 July 2017, 12:21 Source 159 - T-28 m 1938
Author Richard Allen from Nottingham, UK
写真は,Category:T-28 in the Parola Tank Museum File:Parola Tank Museum 156 - T-28 m 1938 (37682191495).jpg引用。


写真(右)2006年7月、フィンランド、ヘルシンキ北100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍の鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型:中央の砲塔には26口径76.2ミリL-10戦車砲を1門搭載、車体前部下段の左右の砲塔には、7.62ミリ機関銃1丁を搭載する。写真の展示している車両には、機関銃は未装備で、銃口のみ開いている。
Soviet T-28 tank, displayed in Finnish Tank Museum (Panssarimuseo) in Parola. Photo taken on July 14, 2006.
Source: Photo by me, User:Balcer.
Date 14 July 2006 (according to Exif data)
Source Own work Author Balcer~commonswiki
写真は,Category:T-28 in the Parola Tank Museum File:T28 parola 4.jpg引用。


ソ連赤軍T-28中戦車は、ドイツ製の航空機用発動機BMW VI液冷V型12気筒ガソリンエンジンをライセンス生産したミルーキン(Mikulin)M-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン500 馬力、気筒はボア160 mm×ストローク190 mm、排気量 46.9 L、乾燥重量 553 kg、を装備している。
ソ連赤軍T-28中戦車の中央砲塔に搭載された主砲は、当初T-28M1932年型は45ミリM27/32戦車砲、初期T-28M1934型は短砲身16.5口径76.2ミリKT-28榴弾砲、後期T-28M1939/1940型は26口径76.2ミリL-10戦車砲と、順次火力が強化されている。

写真(右)2013年5月、フィンランド、ヘルシンキ北100キロ、パロラ戦車博物館(Parola Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍の鹵獲したソ連赤軍T-28E中戦車1939/1940年型(後方):中央の砲塔には16.5口径76.2ミリ短砲身榴弾砲を1門搭載、砲塔の後部背面にも7.62ミリ機関銃1丁を搭載する。車体後方背面には、ドイツ製の航空機用発動機BMW VI液冷V型12気筒ガソリンエンジンをライセンス生産したミクーリンM-17M V型12気筒液冷ガソリンエンジン(500馬力/372kW)が搭載されているために、冷却換気用の開閉式スリットが設けられている。開放して、V型12気筒M-17Lガソリンエンジンの換装にも使用される。写真の展示している車両には、機関銃は未装備で、銃身を出す銃口のみ開いている。反ボルシェビキの卍のフィンランド軍記章ハカリスティ(Hakaristi)は、継承戦争敗北後に廃止されたために、この鹵獲戦車からも消去されている。
Description Soviet T-28 tank, displayed in Finnish Tank Museum (Panssarimuseo) in Parola. Photo taken on July 14, 2006.
Source: Photo by me, User:Balcer.
Date 14 July 2006 (according to Exif data) Source Own work
Author Balcer~commonswiki
写真は,Category:T-28 in the Parola Tank Museum File:T28 parola 3.jpg引用。


多砲塔戦車2種、KV重戦車の試作車は、機動性を確認することを主な目的に、モスクワ郊外のクビンカ戦車試験場で装甲試験が実施された。この試作車の審査では、機動性はKV重戦車には認められたが、多砲塔戦車試作車は、不十分だったが、その攻撃力が評価された。1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、ポーランドをドイツと分割したソ連は、バルト三国に次いでフィンランドへもレニングラード周辺のカレリア地峡の領土の割譲、バルト海の要衝の軍隊駐留権を要求した。フィンランドは、これを拒否し、1939年にソ連とフィンランドの間で「冬戦争」が始まった。ソ連は、対フィンランド冬戦争にこの3種の重戦車を投入し、実戦使用したのである。多砲塔戦車は、森林・雪原での機動性に問題が出たが、KV重戦車は重防御、攻撃力の高さを発揮したと認められた。


Soviet Tank T-28 (Red Army)
The T-28 was the first Soviet medium tank to enter mass production. Designed between 1931 -- 1932. It's principal battlefield role was to support infantry and other ground troops against enemy strong points. The armament was housed in three turrets, following the then prevailing views amongst tank designers of the time, which favored the multi-turret concept. The main turret was armed with the KT-28 (76.2 mm) gun, which was specifically designed for this tank to devastate enemy strong points and armor. The two remaining small turrets were each armed with a DT (7.62 mm) machine-gun which was used mainly against infantry and light-armor. The production line was located in the Kirov factory, Leningrad and the tank was produced in several series from 1938 onwards. The new L-10 (76.2 mm) long barrel gun became the standard armament later. All in all, a total of 503 tanks were built between 1938 -- 1940.


5.ソ連赤軍 T-35重戦車

1914年勃発の第一次世界大戦に投入された世界初の戦車イギリス陸軍Mk.1型戦車は、農業用トラクターのキャタピラーを装備した大型戦闘車輛だったが、車体側方に57ミリ砲を搭載しており回転式砲塔は装備していなかった。その後、この陸上軍艦のような重戦車の発展型が、イギリス陸軍が1925年に開発したA1E1インディペンデント戦車である。これは5基の回転砲塔を持つ重戦車で、それに対抗するかのように、ソ連赤軍は多砲塔戦車の開発を開始した。これがソ連T-35重戦車で1933年に制式された。しかし、生産台数は61輌にとどまった。前形式のT-28中戦車で十分間に合ったのであろう。


写真(右)1939年6月,ソ連赤軍T-35重戦車
:T-35重戦車はソ連赤軍が1933年に制式した多砲塔戦車で、16.5口径76.2ミリ短砲身砲装備の大型砲塔1基、42口径45ミリ戦車砲装備の中型砲塔2基、7.62ミリ機関銃装備の小砲塔2基を備えている。装甲は11ミリから30ミリ。
English: A T-35 heavy tank. Date 1933-1939?
Source http://www. morozov.com. ua /eng/body /tanks t-35.php?menu =history5.php Author Unknown author
写真は,wikipedia-commons File:P68l.jpg引用。


ソ連赤軍T-35重戦車は1933年制式で、5砲塔装備の多砲塔戦車である。中央の大型砲塔に16.5口径1932年式76.2ミリ短砲身砲1門装備、前後の中型砲塔2基に1932年式45ミリ20K戦車砲各1門装備、小砲塔2基には7.62ミリDT機関銃各1丁が装備された。乗員11名、43トンの超大型重戦車にもかかわらず、当時の仮想敵戦車の装備する37ミリ砲に対処できる厚み11ミリから30ミリの装甲だった。これは、1930年代の戦車としては、平均以上の防御力だった。

T-35重戦車 T-35重戦車1936年型は、ハリコフ機関車工場で1935-1938年に35台生産された。T-35重戦車1939年型は、1938-1939年に6台生産された。モスクワの赤の広場で毎年開催される5月1日のメーデには、この超大型T−35重戦車が軍事パレードに参加した。

ソ連T-35重戦車は、重量45トン、乗員11名で、発動機は航空機用エンジンを改造した500馬力の液冷ガソリンエンジンを搭載、最高速力は路上30km/hだったが、機構上、トランスミッション・メカニズムが重量負荷に耐えられず、脆弱だったために、故障が頻発した。

 しかし、外見上のインパクトはまさに多砲塔陸上戦艦というに等しく、威圧的な外観には力強さがあったために、ソ連赤軍は1933年にT-35重戦車として制式し、1939年までに40輌以上が量産され、1939年対フィンランド冬戦争に初めて実戦投入されている。

T-35重戦車  ソ連赤軍のT-35重戦車は、後継車両のT-100重戦車、SMK重戦車の試作車と比較すると、機動性に劣っており、攻撃力も低かったが、61輌もが量産され、一部は、1941年6月のドイツ侵攻バルバロッサ作戦の時期にも、部隊配備されていた。

ソ連赤軍T-35重戦車の前後の中型砲塔に装備した1門の42口径45ミリ戦車砲は、1932年式45ミリ20K戦車砲で、当時としては、大口径長砲身で攻撃力は抜きんでていた。前後の小型砲塔の7.62ミリDT機関銃は、戦車に接近する歩兵を攻撃する小火器である。T-35重戦車の重量は43トンあったが、500馬力ガソリンエンジンを装備しており、路上最高速力は30キロメートル、航続距離は150キロメートルあった。


写真(上)2017年8月,ロシア連邦、モスクワ郊外、クビンカ戦車博物館に保管されているソ連赤軍T-35A重戦車
:ドイツ軍の戦車よりも,重装甲,強力な76.2ミリ短砲身榴弾砲1門装備の大型砲塔1基,長砲身45ミリK20戦車砲1門装備の中型砲塔2基、7.62ミリ機関銃1丁装備の小型砲塔2基を装備していた。重装甲とは言えないが、当時としては防御力は平均以上あり、ドイツ戦車と同等以上の装甲があった。他方、発展型の重戦車KV-1の砲塔装甲は前面90mm、側面75mm、後に砲塔は全周120mmに強化ている。
Designer:- OKMO Tank Design Bureau Manufacturer:- KhPZ Built:- 1933-1938 In service:- 1935-1941 Total production:- 61 Main armament:- 76.2mm gun model 27/32. The T-35 was the only five-turreted heavy tank ever to reach production, but was expensive, slow and mechanically unreliable. Already obsolete by 1941, they did see action during Operation Barbarossa, with the last recorded action being during the early stages of the Battle of Moscow. This is the only remaining example and survives because it was one four used for training and therefore never saw frontline service. On display in what is best known as Hall1 of the Kubinka Tank Museum, although its official title is now Pavilion 1 in Area 2 of the Park Patriot museum. Kubinka, Moscow Oblast, Russia.
24th August 2017.
Date 24 August 2017, 12:22 Source T-35A Heavy Tank
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真は,Category: T-35 in the Kubinka Museum: File:T-35 in the Kubinka Museum.jpg引用。


ソ連T-35重戦車は、車体上面中央に大型回転砲塔、その前後に中型・小型砲塔各2基を配置した多宝塔戦車である。中央砲塔には、主砲の16.5口径 76.2ミリ短砲身榴弾砲を装備し、前後の中型砲塔には副砲の42口径 45ミリカノン砲を装備した。そして、前後の小型砲塔には7.62ミリ機関銃を装備して、歩兵攻撃用とした。

ソ連赤軍T-28多砲塔中戦車を大型化したT-35重戦車M1938年型
全長 9.72m x 全幅 3.2m x 全高 3.43m
戦闘重量 54 トン
乗員数 9 名
発動機 ミルーキン M-17L V型12気筒4ストローク液冷ガソリン・エンジン
兵装 口径16.5口径76.2ミリ KT-28榴弾砲
副砲 2門 x 45ミリK-20戦車砲
機関銃 6丁x 7.62ミリDT(Degtyaryov:デグチャレフ)1928年型機関銃

ソ連赤軍T-35重戦車(多砲塔戦車)を見る。


6.ソ連赤軍T-100重戦車・TSMK重戦車の試作


写真(右)1939年6月,ソ連赤軍T-100重戦車の試作車
:T-35重戦車の後継戦車T-35は、同時に開発されたSMK重戦車試作車と比較された。しかし、ともにKV-1重戦車と比較すると、機動性に劣っており、防御性能にも問題があったためか、量産には至らなかった。
English: T-100 prototype multiturret heavy tank
Date 1 June 1939 Source https:// www.yaplakal.com/ forum2/ topic1360058.html
Author Unknown USSR personnel

写真は,wikipedia-commons File:T-100.jpg引用。


スターリンは、スペイン内戦に共和国政府援軍を送ったが、その内容は航空機(戦闘機・爆撃機)のほか、軽戦車・BT快速戦車も送った。この実戦投入で明らかになった戦車の欠点を解消するために、攻撃力と防御力を両立させた重戦車の開発が加速された。そして、スターリンの示唆で、ソ連では1930年代に多砲塔の重戦車が設計され、レニングラードにあるキーロフスキー第100工場とボルシェビク第174工場で試作された。完成した戦車は、キーロフスキー第100工場のSMK(СМК)重戦車55トン、ボルシェビク第174工場のT-100 重戦車58トンの2種類で、どちらも複数砲塔の重戦車試作車である。しかし、巨大で重量過大なために、野外走行に使用に支障があり、全高が高く標的として大きかったために隠匿性と機動性が著しく低かった。


写真(上)1939年12月,ソ連赤軍SMK (セルゲイ・ミロノヴィッチ・キーロフ) 重戦車の試作車
:T-35重戦車の後継戦車SMKは、1939年のソ連・フィンランド冬戦争に実戦投入されたが、防御力・攻撃力は実証されたものの、雪原での機動性が制約された。しかし、試作重戦車を鹵獲されたら、司令官としては粛清対象になる。ソ連赤軍は、再攻勢をかけて、行動不能になっていたSMKを回収した。
English: photography profile smk
Français : photographie de profil du smk
Date 1939/12/xx Source http://ww2armor.jexiste.fr/Files/Allies/Allies/1-Vehicles/USSR/4-HeavyTanks/SMK/SMK.htm Author ussr
写真は,wikipedia-commons File:SMK, August 1939.jpg引用。


しかし、多砲塔の陸上戦艦のような威容にインパクトを受けたのか、スターリンは、さらなる開発を求め、砲塔の数を減らすよう示唆した。また、重戦車の新形式が発案され、当時の共産党国防委員、世界で言えば、国防大臣に相当するクリメント・ヴォロシーロフKliment Yefremovich Voroshilov)の名を冠した「KV」は、多砲塔をやめ、大型砲塔1基とした重戦車として試作された。


写真(右)1939年8月,ソ連赤軍SMK (セルゲイ・ミロノヴィッチ・キーロフ) 重戦車の試作車
:T-35重戦車の後継戦車SMKは、同時に開発されたT-100重戦車試作車と比較されたが、機動性に劣っていたこと、KV-1重戦車の優位性のために、量産には至らなかった。
SMK (Sergei Mironovich Kirov) heavy tank, August 1939
Русский: Тяжелый танк СМК (Сергей Миронович Киров). Август 1939 г. Date August 1939
Source Тяжелый танк СМК in Энциклопедия бронетехники РККА
Author Unknown author
写真は,wikipedia-commons File:SMK, August 1939.jpg引用。


多砲塔戦車2種、KV重戦車の試作車は、機動性を確認することを主な目的に、モスクワ郊外のクビンカ戦車試験場で装甲試験が実施された。この試作車の審査では、機動性はKV重戦車には認められたが、多砲塔戦車試作車は、不十分だったが、その攻撃力が評価された。1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、ポーランドをドイツと分割したソ連は、バルト三国に次いでフィンランドへもレニングラード周辺のカレリア地峡の領土の割譲、バルト海の要衝の軍隊駐留権を要求した。フィンランドは、これを拒否し、1939年にソ連とフィンランドの間で「冬戦争」が始まった。ソ連は、対フィンランド冬戦争にこの3種の重戦車を投入し、実戦使用したのである。多砲塔戦車は、森林・雪原での機動性に問題が出たが、KV重戦車は重防御、攻撃力の高さを発揮したと認められた。

T-100重戦車とSMK (セルゲイ・ミロノヴィッチ・キーロフ) 重戦車は、機動性に劣っていたために、量産には至らなかった。他方、KV1重戦車は、1939年12月にソ連赤軍に制式された。KV-1重戦車の生産台数は、各種合わせて、1942年末までに3000両も量産され、さらに装甲を若干薄くして48トンにまで軽量化したKV-1Sが1943年春まで900輌生産された。


7.ソ連赤軍 KV-1,KW-1重戦車

ソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,1939年開発,T-34中戦車と同じ76.2mm砲を装備していた。KB-1重戦車の30口径76.2ミリ砲は,当時の全てのドイツ軍戦車を撃破できるものだった。

ソ連軍KV-1重戦車は、第二次大戦勃発直前、1939年夏に76.2mmという当時としては大口径の戦車砲を搭載する重戦車として試作され、1939年冬、フィンランド冬戦争に実戦テストを受けたとするwikipediaの記述は疑問である。数少ない試作車を、対フィンランド戦に投入し、重戦車の存在を明らかにするにはリスクが大きすぎるからである。1939年12月に制式されているが、この短期間に制式されたことからも、とても実戦テストをした期間的余裕はない。

ソ連軍KW-1重戦車は、45トンと配備された時点では驚異的な重戦車だったが、車体長6.75 m、全幅3.32 m、全高2.71 mと、できるだけ小型にまとめられている。砲塔には 41.5口径76.2mm ZIS-5戦車砲(収容砲弾数98発)を搭載し、砲塔前面装甲は90 mmと分厚かった。エンジンは、12気筒液冷ディーゼルV-2K 550 馬力/2150回転/分で、最高時速は整地35キロ、不整地17キロ、航続距離335キロだった。

戦車の名称KWはロシア語ではKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。英語のKV、ドイツ語のKWである。

共産党国防委員長、すなわち国防大臣クリメント・ヴォロシーロフKliment Yefremovich Voroshilov;1881—1969)の名を冠したソ連軍のKB-1は、重装甲で防御力は強かったが、重量が45トンと当時は超重量戦車であったため、動力としてディーゼルエンジン550馬力を搭載していた。これは、軽飛行機よりも強力なエンジンである。

国防委員長クリメント・ヴォロシーロフKliment Yefremovich Voroshilov)の名をとったソ連赤軍のKB−1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,1939年開発,T-34中戦車と同じ76.2ミリ(3インチ)砲を装備していた。全長7メートル,装甲は砲塔90ミリ,側面75ミリと厚く,ドイツの37ミリ対戦車砲を問題としなかった。しかし,独ソ戦当初、最強の戦車で,1942年までに3000両生産。しかし,重量45トンという重さのため,トランスミッションの不具合が生じやすかったという。

KW−1重戦車の諸元
重量 43,5トン
全長 6,80 m、全幅 3,35 m、全高 2,70 m
装甲: 35-90 mm
兵装: 76,2mm-L/41 F-32 戦車砲
車載機銃3丁 × 7,62mm-DP28軽機関銃(発射速度:500-600発/分、初速:840m/s、有効射程:800m)

エンジン:V-12-ディーゼル W-2K 550 馬力
最高時速: 35 km/h、航続距離 335 km(路上)
乗員 5名

ソ連軍は,KW−1重戦車を秘密兵器扱いし,フィンランド冬戦争には,T-34と同じく投入していない。フィンランドとの国境に近いレニングラードLeningrad)の工業で製造していたにもかかわらずである。
1941年6月22日,ソ連に侵攻したドイツ軍は,国境近くで,KB−1重戦車に直面し苦戦した。ドイツ軍がティーガー重戦車を投入したのは,これから2年後と遅い。

1941年6月22日にドイツ軍は独ソ不可侵条約を反故にしてソ連を電撃的に侵攻した。このバルバソッサ作戦当初、ソ連赤軍KB-1は世界最強の戦車で,1942年までに3000両生産された。砲塔装甲は前面90ミリ,側面75ミリと厚く,ドイツの37ミリ対戦車砲を問題としなかった。
しかし,重量45トンという重さのため,トランスミッションの不具合が生じやすかった。

ソ連赤軍KV-1重戦車を見る。


8.ソ連赤軍T-34中戦車

ソ連軍のT-34戦車の登場した当初の1940年初頭、76.2ミリ砲は戦車砲としては大型強力な火砲で、一般的な戦車は37ミリ砲や50ミリ砲が標準だった。

 長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれたソ連軍のT-34戦車だったが、搭乗員のための車内空間は狭く,砲塔も小さいので,居住性や砲塔操作性は良くなかった。

 他方、ドイツ陸軍では、アドルフ・ヒトラーの長砲身砲採用の命令もあって、1942年春から対戦車戦能力の向上のためIV号戦車(Panzer IVSd. Kfz. 161)とIII号突撃砲には長砲身43口径の7.5センチ戦車砲(7.5cm-KwK 40 L/43)が装備されることになった。しかし、陸軍は保守的で、長砲身砲の生産も順調ではなっかようで、実際に対戦車戦闘能力が強化されたIV号戦車が登場するのは、1942年後半になってしまった。

ドイツ軍の独ソ戦バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)初期の主力戦車であるIII号戦車が5センチ砲、最大装甲50ミリだったのに対して、T-34戦車は76.2ミリ砲、最大装甲45ミリ、傾斜装甲による避弾径始に優れていた。機動力の上でも、ソ連軍のT-34戦車はキャタピラー(履帯)幅を広くとり、地面との接地圧力を低く抑え、機動力を確保している。

T-34/85戦車の諸元
全長:8.15 m、車体長:6.10 m、全幅:3.00 m、全高:2.72 m
重量:32 t、 乗員:5 名
最高時速:55 km/h(整地)、30 km/h(不整地)
航続距離:360 km
兵装:51.6口径85mm戦車砲 D-5Tあるいは54.6口径85mm戦車砲(収容砲弾数56発)
車載機銃:2丁×7.62 mm DT機銃×2(搭載銃弾数1890発)
砲塔装甲:前面90 mm、側面75 mm(傾斜20°)、後面52 mm(傾斜10°)
車体装甲:前面45 mm(傾斜60°)、側面45 mm(傾斜50°)、後面45 mm(傾斜47°)、上面20 mm
エンジン:4ストロークV型12気筒水冷ディーゼル(500 馬)

ソ連赤軍T-34戦車を詳しく見る。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
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