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◆ドイツ軍の半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz.250) ハーフトラック
写真(上)1942年6月11日,北アフリカ戦線,ドイツ軍アフリカ軍団の半装軌式無線指揮装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 "Greif")
; 戦闘室にいるのは、アフリカ軍団の指揮官エルヴィン・ロンメル将軍で、彼の無線指揮装甲車の固有名詞が「グライフ"Greif"」(グリフィン)である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-443-1589-09 Archive title: Nordafrika, bei Bir Hacheim.- Generaloberst Erwin Rommel, Oberst Hermann Schulte-Heuthaus (verdeckt) und Offizier im Befehlsfahrzeug, leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 "Greif"); KBK Lw 7 Dating: 11. Juni 1942.
Photographer: Zwilling, Ernst A. 撮影。Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivの提供したWikimediaCommons:"Bild 101I-443-1589-09"引用.

写真(上)1944年4月18日以降,ラトビア、リガで開催されたラトビア人武装親衛隊兵士ボルデマーズ・ヴァイス(Voldemars Veiss:1889-1944/4/17)大佐の葬儀に参加した2cm KwK 38戦車砲を搭載したナチス武装親衛隊(Waffen-SS)の半装軌式偵察装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/9 mit 2cm KwK 38)。ロシア北部、2cm KwK 38戦車砲を砲塔に搭載したドイツ武装親衛隊所属の半装軌式偵察軽装甲車 (Sd.Kfz. 250/9);ラトビア人初の騎士鉄十字章受賞者ヴァイス大佐葬儀の行われる教会前に花輪とともに勢ぞろいした武装親衛隊・国防軍の将兵。後方には、7.5センチPak40対戦車砲搭載の対戦車自動砲マーダーII(Panzerjäger Marder II :Sd.Kfz. 131)が見える。
Photographer Foltinek Russland-Nord.- Soldaten von Waffen-SS und Wehrmacht mit Kränzen (Beerdigung), leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/9 mit 2cm KwK 38) der Waffen-SS in Ortschaft vor Kirche; PK KBZ HGr Nord Title Russland-Nord, Waffen-SS mit Kränzen, Schützenpanzer Colonel Voldemars Veiss funeral Depicted place Russland-Nord Date April 1944 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-702-0420-32A
写真は Wikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File:Bundesarchiv Bild 101I-702-0420-32A, Russland-Nord, Waffen-SS mit Kränzen, Schützenpanzer Recolored.jpg引用。

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年9月2日・9日(金)21時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。これらはZDF「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl」をもとにした番組です。


1.ドイツ軍の1トン牽引車−半装軌式兵員輸送装甲車の原型

写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻に参加したドイツ国防軍の2センチ対空機関砲を搭載した1トン牽引車Sd.Kfz.10/4:車体側面に弾薬ケースが片側4個,後方に2個並んでいる。1トン牽引車Sd.Kfz.10は小型半装軌式兵員輸送装甲車 Sd.Kfz.250(ハーフトラック)の原型となった。
Polen.- Polenfeldzug, deutsche Soldaten auf drei leichten Zugkraftwagen 1 t mit leichter 2-cm-Flak 30 (Sd.Kfz. 10/4) beim Passieren eine Ortschaft bei Tschenstochau; KBK Lw 4 Dating: September 1939 Photographer: Greiner撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 ドイツ軍は1939年9月1日,ポーランドに侵攻した。ポーランド軍は,果敢に抵抗したが,1939年9月27日, ワルシャワが陥落,10月6日, ポーランドは降伏。

ワルシャワ陥落,ポーランド降伏を体験した一ユダヤ人教師は,ユダヤ人の歴史を記録するために----と自分にいい聞かせながら,苦難の中,毎日のように日記をつけ続けた。これが,カプラン,ハイム(2007)『ワルシャワ・ゲットー日記―ユダヤ人教師の記録』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan風行社 である,開戦当日の日記は,次のようである。

「ヒトラーは,ある演説で戦争が始まればヨーロッパのユダヤ人を絶滅する,と脅した。ユダヤ人は,いつかは解放されるにせよ,ヒトラーの占領地では,自分たちに何が待ち構えているかを感じ取っている。それゆえ,ユダヤ人が身をもって祖国ポーランドに献身しようとするのは,驚くべきことではない。空襲から身を守るために,市民は防空壕を掘るようにとの命令が出たときに,大勢のユダヤ人が参加した。」

写真(右)1940年,軍需工場で生産中のドイツ軍3トン半装軌式牽引車 Zugkraftwagen 3 t (Sd.Kfz. 11) の車体。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-750-0001A-05A Archive title: Deutschland.- Rüstungsbetrieb.- Produktion / Montage von Fahrgestellen des leichten Zugkraftwagen 3 t (Sd.Kfz. 11); PK Staffel B Dating: 1940 Photographer: Wolff, Paul Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsからBild 101I-750-0001A-05A引用。


1939年9月17日,独ソ不可侵条約の秘密議定書において,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官をカチンの森などで処刑した。

1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,保安警察特務部隊アインザッツグルッペ Einsatzgruppen)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置した。 1939年9月,東プロイセン(現ポーランド)で,顎鬚など特徴あるユダヤ人は,集合を命じられ,ユダヤ人登録された。1940年8月になると,ゲットの仕切りとなる壁を,ユダヤ人評議会自らの負担で建設することが命じられた。そして,強制労働法が施行され,すべての12-60歳のユダヤ人が登録され,建設,沼沢地干拓,治水など重労働に無償酷使された。労働者はテントに寝泊りして,1日当たりパン250グラムを支給されただけであった。

写真(右)1940年,軍需工場で生産中のドイツ軍3トン半装軌式牽引車 Zugkraftwagen 3 t (Sd.Kfz. 11) の車体。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-750-0001A-09A Archive title: Deutschland.- Rüstungsbetrieb - Produktion / Montage von Fahrgestellen des leichten Zugkraftwagen 3 t (Sd.Kfz. 11); PK Staffel B Dating: 1940 Photographer: Wolff, Paul Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsからBild 101I-750-0001A-09A引用。


 カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1939/9/2):
「ポーランド=ドイツ戦争の第一日目。これは,最終的に世界戦争,諸国民間の大殺戮へと発展するだろう。英国はドイツへの戦線布告を急ごうとはせず,フランスも同様だ。しかし,二つの同盟国が同時に宣戦布告することは疑いない。今回は,両国ともわれわれを裏切ることはないだろう。------英仏が加わったときから戦争は局地戦ではなくなる。」

写真(右)1940年,軍需工場で生産中のドイツ軍3トン半装軌式牽引車 Zugkraftwagen 3 t (Sd.Kfz. 11) の車体。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-750-0001A-10A Archive title: Deutschland.- Rüstungsbetrieb - Produktion / Montage von Fahrgestellen des leichten Zugkraftwagen 3 t (Sd.Kfz. 11); PK Staffel B Dating: 1940 Photographer: Wolff, Paul Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsからBild 101I-750-0001A-10A引用。


写真(右)1942-1943年,ソビエト連邦,1トン牽引車(Sd.Kfz 10)と牽引されるネーベルベェルファー(Nebelwerfer:煙幕弾;実際にはロケット弾)発射機:戦術記号:第20号とサークルの象)、ピークトゥピーク。煙幕発射機との名前がついているが、これは秘匿名称で、実際にはロケット弾である。口径15センチ、21センチ、28センチ、30センチなど各種のロケット弾を、連装発射管に装備し、砲座や弾薬運搬車を利用した運搬車で牽引した。1941年には実用化されたが、命中精度は低く、発射音も大きく、噴煙も上がったため、発見されやすかった。1トン牽引車(Sd.Kfz.10)は半装軌式兵員輸送軽装甲車(Sd.Kfz.250)の原型となった。<
Sowjetunion.- Leichter Zugkraftwagen 1 t (Sd.Kfz. 10), mit Nebelwerfern (schweres Wurfgerät 41) beladener Anhänger bei Fahrt durch Ortschaft (taktisches Zeichen: Elefant in Kreis mit Nr.20); PK 666 Dating: 1942/1943 Photographer: Lohse, Bernd撮影。Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。



2.第二次世界大戦緒戦のドイツ軍の半装軌式装甲車(Schützenpanzer:兵員輸送装甲車)−装甲師団の機械化歩兵

写真(右)1941-1942年,フランス、パリで行進するドイツ軍の半装軌式装甲兵員輸送車Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250) :沿道ではドイツ軍将兵が整列している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-256-1228-25 Archive title: Frankreich, Paris.- Parade der Wehrmacht auf dem Champs-Élysées.- u.a. leichte Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250) vor Musikkapelle der Wehrmacht und Zuschauern; PK 696 Dating: 1941/1942 .
Photographer: Micheljack 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-783-0110-13"引用。


写真(右)1941年4月,バルカン半島、ブルガリアに配備されたドイツ軍の半装軌式観測装甲車Schützen-panzer (Sd.Kfz. 253)。:車体後部に民間乗用車を載せているが、イタリアで鹵獲した車両のようだ。半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250)の車体を利用しているため戦闘室は半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)よりかなり狭くなっているが、その分、重量が軽減でき、機動性が高い。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-162-0282-18 Archive title: Bild 101I-162-0283-14A Archive title: Balkan, Bulgarien.- Soldat (mit Löwen-Symbol auf Mütze und Ärmel auf leichtem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 253) im Gelände; PK 690 Dating: April 1941.
Photographer: Rauch 撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-162-0282-18"引用。


 観測装甲車Sd.Kfz.253は、戦車部隊や砲兵部隊の射撃観測を行う目的で1939年に開発された。Sd.Kfz.250兵員輸送装甲車、Sd.Kfz.252弾薬運搬装甲車と併用され、機械化部隊を構成する。原形は、1トン牽引車(ハーフトラック)Sd.Kfz.10である。

 観測装甲車Sd.Kfz.253は、後に、機械化砲兵として、突撃砲部隊が整備されると、そこにも射撃観測用に配備された。車体後方の戦闘室は、防御力を強化するために、兵員輸送車のように開放式ではなく、密閉式で、上面も装甲板で覆っている。上面には、円形ハッチを設おり、観測用に鋏式砲隊鏡・双眼鏡を装備している。無線機はFu.15とFu.16を搭載)

写真(右)1941年4月,バルカン半島、ブルガリアに配備されたドイツ軍の半装軌式観測装甲車Schützen-panzer (Sd.Kfz. 253):車体後部に民間乗用車を載せているが、イタリアで鹵獲した車両のようだ。半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250)の車体を利用しているため戦闘室は半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)よりかなり狭くなっているが、その分、重量が軽減でき、機動性が高い。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-162-0282-18 Archive title: Balkan, Bulgarien.- leichter Beobachtungs-pazer (Sd.Kfz.253) im Gelände; PK 690 Dating: April 1941.
Photographer: Rauch 撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-162-0282-18"引用。

第二次世界大戦中,ドイツ陸軍は、1トン牽引車(Sd.Kfz. 10)をベースにした4人乗りの歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)Sd.Kfz 250を6000台,3トン牽引車(Sd.Kfz. 11)をベースにした10人乗りの中型半装軌式装甲車Sd.Kfz.251を1万5000台以上生産した。またロケット砲,対空機銃,榴弾砲,対戦車砲などを装備した装甲車も多数作られている。

写真(右)1941年4月,バルカン,ブルガリアに進駐したドイツ軍半装軌式観測装甲車 (Sd.Kfz. 253) :Balkan, Bulgarien.- Soldaten (mit Löwen-Symbol auf Mütze und Ärmel vor leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 253) im Gelände; PK 690 Dating: April 1941
Photographer: Rauch撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ブルガリアBulgaria)は第二次大戦勃発時には参戦しておらず,ソ連軍と戦っていない。ルーマニアRomania)は,1940年11月に日独伊三国同盟Tripartite Pact)に加盟,ソ連はブルガリアと相互援助条約を結んだが,1941年1月,ドイツ軍はルーマニアに保障進駐した。そして,3月,ドイツ軍はブルガリアにも進駐し,ギリシャGreece)に進駐していた英軍に対抗した。

写真(右)1941年4月,ブルガリア,ドイツ陸軍の半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz. 250)と集まってきた現地住民:親スラブの立場にたつブルガリアは,1941年6月の対ソ戦には参戦せずに済ました。しかし、ブルガリアは枢軸国側の軍隊として,親ドイツの立場でもあり、ソ連,ギリシャ,中立国トルコを牽制した。しかし,ソビエト連邦がドイツ軍を圧倒する1944年,ソ連側に立って,ドイツと戦うことを決断した。
Balkan, Bulgarien.- leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250; Stier auf Frontseite) in einer Ortschaft, umringt von Soldaten und Zivilisten; PK 690 Dating: April 1941
Photographer: Rauch撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


スラブ人の国ブルガリアは,ボリス国王の統治下、親ドイツの立場をとりながらも、1941年6月の対ソ戦には中立を維持した。他方、ブルガリアは,枢軸国側の軍隊の駐留を受け入れ、ソ連,ギリシャ,中立国トルコを牽制した。
しかし,ソビエト連邦がドイツ軍を圧倒する1944年,ソ連側に立って,ドイツと戦うことを決断した。

写真(右)1941年4月,バルカン半島、ブルガリア,ドイツ陸軍の半装軌式無線指揮軽装甲車(Sd.Kfz. 253):車体下方を土の中に埋めて偽装しているようだ。ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3)は、大型フレームアンテナを装備しているが、支柱のように見せかけ指揮車であることを偽装している。車体は、複雑な傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期にはより単純な形状になった。戦闘室には無線機を備えた。フロントに搭載されているエンジンは、マイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジン(ディーゼルではない)。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-162-0283-15A Archive title: Balkan, Bulgarien.- Leichter Schützenpanzer tzen-panzer (Sd.Kfz. 253) im Gelände; PK 690 Dating: April 1941
Photographer: Rauch撮影。
写真は,写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-162-0283-15A "引用。


ドイツ軍が採用したハノマーク社Hanomag)のハーフトラック(半装軌式装甲車)Sd.Kfz.250は、第二次大戦中、ドイツ国防軍、大半は陸軍にあって、偵察、兵員・弾薬輸送に利用されたが、攻撃力を強化した自走砲としても生産された。ドイツ軍の半装軌式装甲車には、次のような形式がある。

Sd.Kfz 250/1:基本型。武装は7.92ミリ機関銃のみ。兵員4名輸送可能。
Sd.Kfz. 250/2:通信ケーブルの敷設車輛
Sd.Kfz 250/3:無線指揮車装甲車。大型フレームアンテナを設置し、戦闘室には無線機を備えた。
Sd.Kfz. 250/4:突撃砲部隊の着弾観測車輛
Sd.Kfz 250/5:無線指揮車輌
Sd.Kfz 250/6:突撃砲(7.5センチ砲)への弾薬(60-70発)運搬車輛
Sd.Kfz. 250/7:8センチ迫撃砲装備の支援車輌
Sd.Kfz. 250/8:7.5センチ24口径砲装備の支援車輌
Sd.Kfz. 250/9:2センチ自動砲装備の偵察車輌
Sd.Kfz. 250/10:3.7センチPaK36装備の対戦車車輛
Sd.Kfz. 250/11:2.8センチsPzB41装備の対戦車車輛
Sd.Kfz. 250/12:偵察部隊の小隊長用車輌。
Sd.Kfz 252:突撃砲への軽装甲弾薬運搬車輛
Sd.Kfz 253:突撃砲部隊の指揮車輛


3.独ソ戦勃発後のドイツ軍の半装軌式装甲車−量産簡易型の出現

写真(右)1941年6月,バルカン,ソビエト連邦侵攻"バルバロッサ作戦"に参加したドイツ軍の半装軌式無線指揮装甲車(Sd.Kfz. 253) :観測機材を搭載した観測用装甲車(Sd.Kfz.253)とドイツ兵が鉄道の線路を移動している。
Rußlandfeldzug.- "Unternehmen Barbarossa". Deutsche Soldaten neben leichtem Beobachtungs-panzer (Sd.Kfz.253) auf Bahngleisen; PK 689 Datierung: Juni 1941 Fotograf: Cusian, Albert Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ポーランドのリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg,チェコ語ルヴフLvov)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

1t牽引車 ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)直後、ドイツ軍はリボフを占領。この時,リボフのユダヤ人口は16万人だった。

歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle) (Sd.Kfz. 250)原型は,野砲牽引用の1トン牽引車Sd.Kfz.10)で,未舗装道路や路外での軌道装甲能力を活用した偵察装甲車として制式された。

1トン牽引車Sd.Kfz.10)は,全長 4.7メートル,全幅 1.8メートル,全高 1.6メートル,重量 5トン,乗員2人,兵員乗車 6人

3t牽引車 第二次世界大戦中,4人乗りの兵員輸送用の小型半装軌式装甲車ハーフトラックSd.Kfz 250は1トン牽引車(Sd.Kfz 10)をベースにして6000台が生産され,10人乗りの中型半装軌式装甲車(Sd.Kfz.251)は3トン牽引車(Sd.Kfz 11)をベースにして、1万5000台以上生産された。

ドイツ軍の半装軌式装甲車は。装甲師団の歩兵(猟兵)に優先的に配備されたが,ドイツ軍には,軍用トラックのほか馬,馬車の輸送部隊も多かった。

写真(右)1941年6月,ソ連,ウクライナ,マクシミフカ=スカラ間の集落,未舗装道路を進撃するドイツの国防軍の指揮装甲車(Sd.Kfz.253),トラック,キューベルワーゲン(軍用乗用車),オートバイ:兵員室上方にフレーム式のアンテナが張り巡らされている。これは、支柱のように見せかけて、指揮者としは認められないようにして、標的になりにくくする工夫でもある。ドイツ陸軍では,機械化された歩兵部隊を「狙撃兵」と呼んだ。
Russland, Ukraine, zwischen Maksymivka und Skalat.- leichter Beobachtungs-panzer (Sd.Kfz. 253) und motorisierte Truppen bei Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 691 Datierung: Juni 1941 Fotograf: Otto Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-186-0164-30 引用。


小型の偵察装甲車 (Sd.Kfz. 250)は,乗員2人+搭載4人だが,中型の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)は乗員2人+搭載10人と大きく,兵員輸送能力が高い。しかし,エンジンは同じ出力なので,中型の装甲車Sd.Kfz.251に比べて,機動性が高く,偵察・指揮車としては適していた。

写真(右)1941年6月,対ソ連「バルバロッサ作戦」時の東部戦線、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮装甲車 (Schützenpanzer (Sd.Kfz. 253)) :戦闘室の上面も防御のために装甲板によって密閉され、そこに円形ハッチが設けられている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-208-0014-15A Archive title: Sowjetunion, Baltikum.- Leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 253?) mit geschlossenem Dach und Kommandantenluke beim Überqueren einer Memelbrücke; PK 694 Dating: Juni 1941.
Photographer: Koch 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-208-0014-15A"引用。

写真(右) 1941年6月,ソ連,半装軌式観測装甲車(Sd.Kfz.253)に立って、観測用の双眼鏡を覗くドイツ軍兵士:Sd.Kfz.253は機械化された砲兵に随伴する射撃管制・観測用の装甲車で、開戦当初の1939年に実用化されている。樹木の下にバイクがある。:Rußland.- Soldaten mit Ferngläsern bei Beobachtung auf leichtem Beobachtungs-panzer (Sd.Kfz. 253) stehend; Motorräder unter Baum; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Springmann Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-186-0199-11AおよびBild_101I-748-0100A-11 引用(他引用不許可)。

Sd.Kfz.250:(Sonderーkraftfahrzeug 250; 特殊自動車輛[半装軌式装甲車])は、ドイツのデマーク社(Deutsche Maschinenbau-Aktiengesellschaft)が1tハーフトラック (Sd.Kfz.10)をベースに歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)として開発。1945年までに6600両製造された。より大型の輸送車両は、Sd.Kfz. 251と呼ばれた。

米軍のハーフトラック(M2 Half Track CarM3 Half Track)とは異なり、前輪は駆動しない。

  1941年6月21日,バルバロッサ作戦開始の前日の,ドイツ軍東部戦線配備兵力は,兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機。
対峙するソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。

写真(右):1941年7月,現地の少年に水をもらい頭を洗う装甲車搭乗員
Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur) Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-218-0526-03 引用(他引用不許可)。


独ソ開戦バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)当初,ソ連邦に侵攻したドイツ軍を,ソ連共産党スターリンの圧制からの解放と考え,ドイツ軍を歓迎するソ連のウクライナ人,ロシア人,中央アジアトルコ系民族などがいた。ソ連の住民の中には,ドイツ軍進駐初期,スターリン支配,ボリシェビキ圧制から解放されると考え,ドイツ軍兵士を歓迎した人々も少なくなかったのである。

1941年6月22日以降のドイツのバルバロッサ作戦Operation Barbarossa)は,ユダヤ人など下等劣等人種殲滅戦争の第二段階だった。

既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。

 1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」

写真(右)1942年夏,対ソ連、南部、ドン=スターリングラード方面に進撃する途上、現地の少年に手伝わせて洗髪するドイツ陸軍の半装軌式装甲車の兵士
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-218-0526-08 Archive title: Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- leichte und mittlere Schützenpanzer (Sd.Kfz 250 und Sd.Kfz. 251) in Fahrt im Gelände; PK 694 Dating: 1942 Sommer
写真は,写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-218-0526-08"引用。


Sd.Kfz.251:(Sonderkraftfahrzeug 251; 特殊自動車輛[半装軌式装甲車])は、ドイツのハノマーク社 (Hannoversche Maschinenbau AG)が3t 半装軌車 (Sd.kfz. 11) をベースに中型半装軌式装甲車として開発された。

Sd.Kfz.251は、1939年から1945年までに1万5000両製造。
半装軌式装甲車Sd.Kfz.251には、次のような形式がある。
Sd.Kfz.251/1:基本型。武装は7.92ミリ機関銃のみ。1個分隊(10名)の兵員を輸送する車輛。
Sd.Kfz.251/2:迫撃砲装備の支援車輌
Sd.Kfz. 251/3:無線指揮車輛
ドイツ Sd.Kfz.251/4:7.5センチ歩兵砲 (leIG18) 牽引用車輌
Sd.Kfz. 251/5:工兵部隊の装甲兵員輸送車輛
Sd.Kfz. 251/6:無線指揮車輌:大型フレームアンテナ、シュテルン(星形)・アンテナとエニグマ暗号機を搭載し、装甲師団の高級司令部に配備。
Sd.Kfz. 251/7:工兵部隊の装甲兵員輸送車輛。戦闘室脇に小型架橋を搭載、戦闘室には工具、ロープ、地雷などを収容。
Sd.Kfz.251/8:負傷者・患者用の野戦救急輸送車輛
Sd.Kfz.251/9:24口径 7,5cm KwK37短砲身砲装備の支援車輌。「シュツンメル」の愛称で装甲擲弾兵連隊に配備され、火力支援に活躍。
Sd.Kfz.251/10:ラインメタル45口径3.7センチPaK36対戦車砲(携帯砲弾数168発)を搭載した対戦車車輛
Sd.Kfz.251/11:通信ケーブル敷設車輛。戦闘室に電話線架設ケーブルを巻いたリールドラムを収容。
Sd.Kfz.251/12:砲兵部隊の観測車輌。フレームアンテナを装備し、砲隊鏡など測距機、FuG8無線器を搭載。
Sd.kfz. 251/18:砲兵部隊の観測・指揮車輌
Sd.Kfz.251/21:三連装ラインメタル1.5センチ機関砲装備の対空戦闘車輛
Sd.Kfz.251/22:7.5センチPak40装備の対戦車戦闘車輌

写真(右)1941年10-11月,ソ連ミンスクのユダヤ人逮捕者:ミンスクで宣伝部隊が撮影している。ユダヤ人は,服の上にマークをつけさせられている。
Juden werden gefilmt, Minsk Archive title: Sowjetunion, bei Minsk.- Kameramann (Filmberichter der Propaganda-kompanie ?) beim Filmen von Männer mit Markierung auf ihrer Kleidung ("Judenstern") in einer Ortschaft; Okt.-Nov. 1941 Dating: 1941 Oktober - November 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。

ボリシェビキ殲滅と東方生存圏獲得のための戦争を戦ったドイツ軍の中にも,ボリシェビキの頸城(くびき)からロシアの民衆を解放する戦いと考えた兵士がいた。
彼らは,ヒトラーがウクライナ人やロシア人などスラブ民族を軽蔑していたのを知っていたはずだが,ソ連赤軍(共産党の軍隊)を殲滅すれば,1917年11月のウクライナ人民共和国の独立の時のように,諸民族の独立・自治に結び付くと,自らの戦いを納得させたのかもしれない。しかし,善意のドイツ軍兵士でも,共産党員政治委員,ユダヤ人,パルチザンに対しては,厳しく処断した。

ドイツ軍が進駐したウクライナでは,ボリシェビキ圧制から解放され,第一次大戦末期と同じく,ウクライナ独立を期待する住民もあった。

ユダヤ人・ソ連軍捕虜抹殺・奴隷労働化の方針は,最高機密だったが,それは,迫害が知れれば次のような支障が生じるからである。

1)ユダヤ人,ソ連軍捕虜が迫害されていることがわかれば,彼らは反抗する。そこで,抵抗を予防するために,東方への移送,労働すると偽り,強制収容所やその支所(労働キャンプ)に移送した。

2)ユダヤ人・ソ連捕虜の処刑という残虐行為は,国連宣言で示された連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,処刑は秘匿する必要があった。

3)後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人・ソ連軍捕虜の処刑は,人倫に悖ると反感を買う恐れがあった。そこで,ドイツ人にも処刑を秘匿した。


写真(右)1941年10月,対ソ戦,ドイツ軍の半装軌式砲兵指揮装甲車(Sd.Kfz. 253/ Beobachtungs-panzer):兵員室上部前方に機関銃を装備していない。
Sowjetunion.- Leichter gepanzerter Beobachtungs-kraft-wagen (Sd.Kfz. 253) in einem Fluss fahrend; PK 697 Dating: Oktober 1941 Photographer: Utecht / Ütrecht / Uetrecht 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 ドイツ軍が採用したハノマーク社Hanomag)のハーフトラック(半装軌式装甲車)Sd.Kfz.250は、第二次大戦中、1トン牽引車Sd.Kfz.10を原型に開発された。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線、ドイツ国防軍第一装甲師団の中型の半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3)の操縦席
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0158-13 Archive title: Sowjetunion.- Funker mit Kopfhouuml;rer in leichtem gepanzerten Beobachtungs-kraft-wagen (Sd.Kfz. 253) vor Funkgeräten; PK 697 Dating: Oktober 1941
Photographer: Utrecht, Fred Erich 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-268-0158-13"引用。

 ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3)は、支柱のように見せかけた大型フレームアンテナを装備している。車体は、複雑な傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期にはより単純な形状になった。戦闘室には無線機を備えた。フロントに搭載されているエンジンは、マイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジン(ディーゼルではない)。

写真(右)1941年10月,ソ連中部,ドイツ軍の半装軌式無線指揮軽装甲車Sd.Kfz.253の車内に搭載された無線装備:Sowjetunion.- Funker mit Kopfhörer in leichtem gepanzerten Beobachtungs-kraftwagen (Sd.Kfz. 253) vor Funkgeräten; PK 697 Dating: Oktober 1941 Photographer: Utecht / Ütrecht / Uetrecht撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年,バルカン半島、ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 253?)の操縦席:戦闘室の天井に装甲板、ハッチがあるので、Sd.Kfz. 250をベースにした無線指揮装甲車と思われる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-158-0085-23 Archive title: Balkan.- Soldat in gepanzertem Fahrzeug (Schützenpanzer ?), essend; PK 690 Dating: 1941
Photographer: Koch 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-158-0085-23"引用。

半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz. 250)の生産は,ドイツのデマーク社(Demag)で行われたが,多角形の複雑な車体後部装甲版は,生産性が低かった。また,重量を均等に分散して、路外走行能力、機動性を高めるために採用した千鳥足配置の転輪も機構が複雑で,製造コストが高価だった。そのために,1943年9-10月には,簡易形状に変更した装甲版の後期型が生産された。生産台数は,旧型“アルテ(Alte:Old)”4200台,新型“ノイ(Neu:New)”2300台で,合計6600台が生産された。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Beobachtungs-kraft-wagen (Sd.Kfz. 253)) :戦闘室の上面も防御のために装甲板によって密閉されている。先に見えているのは、偽装された大型の地下施設。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0158-06 Archive title: Sowjetunion.- Leichter gepanzerter Beobachtungs-kraftwagen (Sd.Kfz. 253) mit Besatzung vor einem getarnten Bunker / getarnter Stellung; PK 697 Dating: Oktober 1941.
Photographer: Utrecht, Fred Erich 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-268-0158-06 "引用。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍半装軌式観測軽装甲車 (Beobachtungs-kraft-wagen (Sd.Kfz. 253)) :戦闘室の上面も防御半装軌式観測軽装甲車 のために装甲板によって密閉されている。先に見えているのは、偽装された大型の地下施設。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0158-07 Archive title: Sowjetunion.- Leichter gepanzerter Beobachtungs-kraftwagen (Sd.Kfz. 253) mit Besatzung vor einem getarnten Bunker / getarnter Stellung; PK 697 Dating: Oktober 1941.
Photographer: Utrecht, Fred Erich 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-268-0158-07 "引用。

写真(右)1941年10-11月,対ソ連、東部戦線中央部、雪の中を走行するドイツ軍半装軌式砲兵無線指揮装甲車 (Beobachtungs-panzer : Sd.Kfz. 253) :兵員室上面にまで泥濘が跳ねかかっている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-140-1210-02A Archive title: Rußland-Mitte.- Soldaten auf leichtem Beobachtungspanzer (Sd.Kfz. 253) auf unbefestigter, schlammiger Dorfstraße in Ortschaft; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November
Photographer: Götze 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-140-1210-02A"引用。


ドイツ軍の東部戦線の基幹補給ルートは鉄道だった。鉄道駅まで物資・人員を大量輸送し、そこから自動車、キャタピラ式トラック、馬車を使って各部隊に補給を行った。そこで、ソ連パルチザンは、この防備手薄な補給ルートを攻撃、破壊しようとした。
そこで、ドイツ軍は、装甲列車を編成するとともに、日常的な鉄道防備・警戒のための軽戦闘車両を新たに準備した。新設計で新造するのではなく、既存の装甲車、特に外国軍からの鹵獲装甲車を改造して、この鉄道警備任務に充当した。

写真(右)1941年10-11月,ロシア東部戦線中央部、ドイツ軍の半装軌式砲兵指揮装甲車(Sd.Kfz. 253/ Beobachtungs-panzer):泥濘の悪路を通ってきたため、キャタピラのに詰まった泥を落としている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-140-1210-26A Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 253 / Beobachtungspanzer), Soldat beim Reinigen der verschlammten Kette in einer Ortschaft; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November.
Photographer: Götze 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-140-1210-26A"引用。

写真(右)1941年10月-11月 ,ソビエト連邦の中部,"バルバロッサ作戦"が頓挫した冬のドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車(Sd.Kfz.253)とIII号突撃砲:キャタピラを装備した車両でも,泥と雪の道は走行が困難だった。タイヤ装備の自動車の輸送は,はるかに困難だったであろう。
ドイツ軍は,8週間,遅くとも冬の到来までに,電撃戦によってソ連軍を壊滅させるつもりでいた。そこで,冬に備えた衣服,機械,輸送の準備が不十分なままだった。
Rußland-Mitte.- leichter Beobachtungs-panzer (Sd.Kfz. 253) vor Sturmgeschütz III im Schnee; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November Photographer: Plenik, Bruno撮影。 Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
 

ドイツ陸軍のSd.Kfz. 251は,1937年から開発,1939年から生産された中型の兵員輸送用半装軌式装甲車ハーフトラック)である。Sd.Kfz 251は、複雑な多面体装甲版の旧型4600台と,1943年9月以降,簡易形状装甲版に変更して,生産性を向上したされた新型1万600台がある。合計1万5200台が生産された。

ドイツ軍が採用したハノマーク社Hanomag)の兵員輸送の半装軌式装甲車Sd.Kfz 250)は,装甲が薄く,車両上面が開放されていたが,Sd.Kfz.253は装甲を施された閉鎖式の車内空間に無線機,観測器具を装備していた。
しかし,半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251は、Sd.Kfz.250を流用することで,観測車として利用できた。そこで,兵員輸送用半装軌式装甲車ハーフトラック)の種類を少なくして,効率的に大量生産することが優先された結果,Sd.Kfz 250を優先して,Sd.Kfz 253の生産は1941年6月で中止された。

ハノマーク社Hannoversche Maschinenbau AG)の半装軌式装甲車(ハーフトラック)Sd.Kfz. 251(旧型)の年別生産台数は,1940年 337台,1941年 424台,1942年 1200台とされるから,生産の大半は1943年以降の戦争後期である。初めてこの半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)を装備したのは,1939年に第1装甲師団だった。

Sd.Kfz 251初期型の標準武装は,7.92ミリMG34機銃2丁で,弾丸2,010発を搭載。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍の2センチ対空砲搭載型1トン牽引車(1 t Zugkraftwagen ):白色のシートで車体を覆って、偽装している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0180-03 Archive title: Sowjetunion.- Soldaten auf Halbkettenfahrzeug, 1 t Zugkraftwagen (mit leichter Flak?), provisorisch für den Winter getarnt; PK697 Dating: Oktober 1941 .
Photographer: Böhmer撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3712-07"引用。


フォン・ボック元帥(1885-1945)は,中央軍集団の北方軍集団司令官として1939年ポーランド戦参加,B軍集団司令官として1940年フランス戦に参加し,軍功をあげて,元帥に昇格した。
そのフォン・ボック元帥は、1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では,主力となった中央軍集団司令官に就任,当初は大戦果を挙げたが,12月17日,モスクワの戦いで敗北している。後任はクルーゲ。

1941年6月22日のドイツ軍ソ侵攻「バルバロッサ作戦」から3ヵ月後の9月下旬,ドイツ軍は,クリミア半島東のケルチ半島を占領,南のセヴァストポリ要塞を包囲した。しかし,ソ連赤軍は1941年12月のクリスマス攻勢をかけ,クリミア半島東のケルチ半島に逆上陸を敢行し,ドイツ軍守備隊を撤退させた。当時,ドイツ軍は,クリミア半島西のセバストポリ要塞は,エーリヒ・フォン・マンシュタイン 将軍率いるドイツ第十一軍に包囲されていたが,これはソ連軍から見れば,ドイツの大軍を寡兵で拘束していたことを意味していた。

 1941年9月からドイツ軍に包囲されていたセバトポリのソ連赤軍守備隊は,翌1942年7月まで持久戦を戦い続けた。火器を装備した堅牢なトーチカ陣地に立て篭もるソ連赤軍守備隊に対して,ドイツ軍はセバトポリ要塞を砲撃戦によって破壊する作戦を計画した。これには,世界最大の火砲であるクルップ社製造の40口径80センチ砲「グスタフ」,モーゼル者製造の60センチ自走臼砲「カール」など超大口径砲など多数の重砲を配備した。また,空軍による急降下爆撃,地上襲撃も行った。

写真(右)1941-42年,ソ連,ドイツ軍の2センチ対空機銃を搭載した半装軌式対空装甲車(ハーフトラックSd.Kfz. 10/5 ):装甲車の人員収容スペースを撤去して,対空機銃を搭載した。
Russlandfeldzug.- deutsche 2-cm-Flak 38 auf Zugkraftwagen Sd.Kfz. 10/5 feuert auf Flugzeuge Dating: 1941/1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブ登録・B_145_Bild-F016224-0032A 引用(他引用不許可)。


 パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』は,第十一軍マンシュタイン元帥のセバトポリ要塞攻撃、ケルチ半島攻略の戦術的巧妙さを高く評価している。しかし,これは,孤島に孤立した日本軍を攻撃した米軍公式戦記が,日本軍の頑強さを強調することで、それを撃破した米兵の勇敢さ,将軍の知略を評価するのと同じで,身贔屓である。
ドイツ軍はセバトポリ要塞を,1942年7月3日,攻略したが、これはスターリングラード守備隊ドイツ第六軍降伏の7ヶ月前のことだった。火砲・航空機の圧倒的な優位を得たドイツ軍が,籠城戦を長期半年間も続けた敵ソ連赤軍に大規模な反撃を受けるはずはなく,物量の勝利ともいえる。

写真(右)1942年,ドイツ、ベルリン郊外ハレの工場で製造されたハノマーク社ドイツ軍半装軌式兵員輸送装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug)だが、奥はSd.Kfz. 250軽装甲車、手前4輛はSd.Kfz. 251装甲車 :兵員室上部前方には機関銃が装備されていない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Reichsgebiet, bei Berlin.- fabrikneue leichte und mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250 und Sd.Kfz. 251) vor Halle; PK PEA Potsdam. 
Wörner撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-811-2231-24"引用。

Sd.Kfz. 250やSd.Kfz. 251のような半装軌式装甲車(ハーフトラック)や歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)を開発、生産したハノマーク社Hanomag)は、正式にはハノーファーシェ・マシネンバウHannoversche Maschinenbau AG )という。ドイツのニーダーザクセン州ハノーファーに輸送機械製造工場を保有し、汽車、自動車も生産した。

写真(右)1942年,ドイツ、ベルリン郊外ハレの工場で製造されたハノマーク社ドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug)で手前2両は軽装甲車 Sd.Kfz. 250、3両目以降は装甲車 Sd.Kfz. 251:白チョークで車体ごとに番号が振られている。車体フロントにはマイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジンを搭載。兵員室上部前方には機関銃が装備されていない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Reichsgebiet, bei Berlin.- fabrikneue leichte und mittlere Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250 und Sd.Kfz. 251) vor Halle; PK PEA Potsdam. 
Wörner撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-811-2231-36"引用。

ハノーファーシェ・マシネンバウHannoversche Maschinenbau AG )が製造した半装軌式装甲車軍用ハーフトラック)には、次のようなものがある。

ドイツ Sd.Kfz. 11 Leichter Zugkraftwagen 3t(3トン半装軌式牽引車)
Sd.Kfz. 11/1 Nebel Kraftwagen 3t
Sd.Kfz. 11/2 Mittlere Entgiftungs Kraftwagen 3t
Sd.Kfz. 11/3 Mittlerer Sprüh Kraftwagen 3t
Sd.Kfz. 11/4 Nebel Kraftwagen 3t
Sd.Kfz. 11/5 Mittlerer Gassprür Wagen 3t
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Ausf A(半装軌式兵員輸送装甲車)
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Ausf B
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Ausf C
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen (IR) Falke Ausf D
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Wurfrahmen 40 Ausf B
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Wurfrahmen 40 Ausf C
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Wurfrahmen 40 Ausf D
Sd.Kfz. 251/2 mittlere Schützenpanzerwagen Granatwerfer Ausf C
Sd.Kfz. 251/2 mittlere Schützenpanzerwagen Granatwerfer Ausf D
Sd.Kfz. 251/3 mittlere Funkpanzerwagen (半装軌式無線装甲車) Ausf B
Sd.Kfz. 251/3 mittlere Funkpanzerwagen Ausf C
Sd.Kfz. 251/3 mittlere Funkpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/4 mittlere Schützenpanzerwagen (IG) Ausf A
Sd.Kfz. 251/4 mittlere Schützenpanzerwagen (IG) Ausf C
Sd.Kfz. 251/5 mittlere Schützenpanzerwagen (Pi) Ausf B
Sd.Kfz. 251/5 mittlere Schützenpanzerwagen (Pi) Ausf C
Sd.Kfz. 251/6 mittlere Kommandopanzerwagen (半装軌式無線指揮装甲車) Ausf A with built up structure
Sd.Kfz. 251/6 mittlere Kommandopanzerwagen Ausf A
Sd.Kfz. 251/6 mittlere Kommandopanzerwagen Ausf C
Sd.Kfz. 251/7 mittlere Pionierpanzerwagen (半装軌式工兵装甲車) Ausf C
Sd.Kfz. 251/7 mittlere Pionierpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/8 mittlere Krankenpanzerwagen Ausf A
Sd.Kfz. 251/8 mittlere Krankenpanzerwagen Ausf C
Sd.Kfz. 251/8 mittlere Krankenpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/9 mittlere Schützenpanzerwagen (7.5 cm) Ausf C
Sd.Kfz. 251/9 mittlere Schützenpanzerwagen (7.5 cm) Ausf D
Sd.Kfz. 251/10 mittlere Schützenpanzerwagen (3.7 cm) Pak Ausf A
Sd.Kfz. 251/10 mittlere Schützenpanzerwagen (3.7 cm) Pak Ausf B
Sd.Kfz. 251/10 mittlere Schützenpanzerwagen (3.7 cm) Pak Ausf C
Sd.Kfz. 251/10 mittlereSchützenpanzerwagen (3.7 cm) Pak Ausf D
Sd.Kfz. 251/11 mittlere Fernsprechpanzerwagen (半装軌式電話線敷設装甲車) Ausf C
Sd.Kfz. 251/12 mittlere Messtrupp und Gerätpanzerwagen (半装軌式観測装甲車)
Sd.Kfz. 251/13 mittlere Schallaufnahmepanzerwagen
Sd.Kfz. 251/14 mittlere Schallauswertepanzerwagen
Sd.Kfz. 251/15 mittlere Lichtauswertepanzerwagen (半装軌式無線指揮装甲車) Ausf D
Sd.Kfz. 251/16 mittlere Flammpanzerwagen (半装軌式火炎放射器搭載装甲車) Ausf C
Sd.Kfz. 251/16 mittlere Flammpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/17 mittlere Schützenpanzerwagen (2 cm) Flak 38 Ausf C
Sd.Kfz. 251/17 mittlere Schützenpanzerwagen (2 cm) Flak 38 Ausf D
Sd.Kfz. 251/18 mittlere Beobachtungspanzerwagen (半装軌式観測装甲車)
Sd.Kfz. 251/19 mittlere Fernsprechbetriebspanzerwagen (半装軌式電話交装甲車)
Sd.Kfz. 251/20 mittlere Schützenpanzerwagen Infrarotscheinwerfer
Sd.Kfz. 251/21 mittlere Schützenpanzerwagen Drilling MG 151S Ausf C
Sd.Kfz. 251/21 mittlere Schützenpanzerwagen Drilling MG 151S Ausf D
Sd.Kfz. 251/22 mittlere Schützenpanzerwagen (7.5 cm) PaK Ausf D
Sd.Kfz. 251/23 mittlere Schützenpanzerwagen (2 cm) KwK 38 Ausf C

写真(右)1942年,ドイツ、ベルリン郊外ハレのハノマーク社工場に並んだ完成したばかりのドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug)で左側には軽装甲車 Sd.Kfz. 250、右2両は装甲車 Sd.Kfz. 251) :兵員室上部前方には機関銃がない。工場の倉庫の上は、対空偽装のために迷彩塗装を施している。工場は迷彩塗装されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Reichsgebiet, bei Berlin.- fabrikneue leichte und mittlere Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250 und Sd.Kfz. 251) vor Halle; PK PEA Potsdam. 
Wörner撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-811-2231-38"引用。

電撃戦に必要な戦車随伴可能な歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)として、Sd.Kfz 250Sd.Kfz. 251のような半装軌式装甲車ハーフトラック)を開発,量産したドイツハノマーク社Hanomag)の技術は高度なものである。同時に,その軍事技術を何のために,誰が用いようとしたのかが問われなくてはならない。技術を開発し,それを体化させた兵器を作り出し,その兵器を運用するのは人間である。そして,その兵器のために破壊される財産や殺害される人間がいる。となれば,大量破壊,大量殺戮をもたらす技術を開発することが正当化どうかということにもなる。

写真(右)1942年,ドイツ、ベルリン郊外ハレの工場で製造されたハノマーク社ドイツ軍半装軌式軽兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 250)の車体前部:車体前面に牽引に使用する鍵が付いている。車体前面下部は、局面形状と直線形状とが区別できる。最前部に装着されたゴム車輪も真新しい。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Reichsgebiet, bei Berlin.- fabrikneue leichte und mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250 und Sd.Kfz. 251) vor Halle; PK PEA Potsdam. 
Wörner撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-811-2231-34"引用。

ドイツ軍の火砲牽引用の1トン牽引車は, 車体の後部にキャタピを装備した半装軌式の牽引車だが,装甲板はなく,乗員は無防備である。この車体をベースにして,小型の半装軌式装甲車Sd.Kfz 250),中型の半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz.251)が開発された。したがって,共通部品も多く,部品統制が進んでいて,量産向けだった。だたし,構造自体は複雑だったので,この点は生産性を低下させた。

ハノマーク社Sd.Kfz 250は、路外でも兵員を迅速に輸送できるドイツ陸軍のハーフトラックを開発した。大戦中,小型4人乗りの小型装甲車Sd.Kfz 250シリーズは6000台,10人乗りの中型兵員輸送装甲車Sd.Kfz 251シリーズは1万6000台が生産された。

写真(右)1942年,ロシア東部戦線、ハノマーク社のドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 ( Schützenpanzer Sd.Kfz. 250 "Prop.Eins"):兵員室上部に大型フレーム式アンテナを装備、4名の定員のところ、車体には6名が乗車している。前方に防楯付きの7.92mm MG34機関銃。右の道路脇の茂みに布陣しているドイツ兵もMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-792-0138-18A Archive title: Rußland.- leichter Schützenpanzer Sd.Kfz. 250 vor Horizont mit dunklen Rauchwolken; "Prop.Eins" Dating: 1942. 
Photographer: Habedank, Gerd撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-792-0138-18A"引用。

 火砲を牽引する牽引車、兵員輸送や砲兵用の観測・無線指揮をする歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle) にはキャタピラ(履帯)が装着されることがある。牽引車は、ハーフトラックとしてキャタピラ(履帯)によって路面接触面積を大きくして、牽引能力を向上させている。歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)は、戦車に随伴して歩兵を輸送したり、砲兵用の観測測距をするために、路外不整地を踏破・走行できる機動性が求められる。

 戦車もキャタピラ(履帯)を全装軌にして装備しているが、これは重量を荷重にして走行速度も制限することになり、構造も複雑化して製造経費もかさむことになる。特に、全装軌キャタピラ(履帯)の場合、方向転換には、動輪を左右で異なる回転速度とする変速機が不可欠であるが、これも重量増加、構造の複雑化を招来する。

写真(右)1942年,ロシア東部戦線、ハノマーク社のドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 ( Schützenpanzer Sd.Kfz. 250 "Prop.Eins" ):兵員室上部に大型フレーム式アンテナを装備、前方に防楯付きのMG34機関銃を備えている。手前の茂みに布陣しているドイツ兵もMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-792-0138-19A Archive title: Rußland.- leichter Schützen-panzer Sd.Kfz. 250 vor Horizont mit dunklen Rauchwolken; "Prop.Eins" Dating: 1942. 
Photographer: Habedank, Gerd撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-792-0138-19A"引用。

 他方、半装軌キャタピラ(履帯)であれば、変速機など動力伝達機構を簡易化でき、製造経費も安価になる。アメリカのM3ハーフトラックは、方向転換の操作は、前輪だけで可能で、半装軌キャタピラ(履帯)は方向転換には使用しないで済む。ドイツの半装軌式装甲車(ハーフトラック)は、接地面積を大きくするために半装軌キャタピラ(履帯)面が大きく長い。そのために、前輪タイヤだけでの方向転換はできず、半装軌キャタピラ(履帯)の回転数を変更する変速機を設けている。ドイツの半装軌式装甲車(ハーフトラック)の変速機は簡易なものであるが、それを設ける必要のないアメリカのM3ハーフトラックよりも量産性が劣っていた。

写真(右)1942年,ロシア東部戦線、ハノマーク社のドイツ軍半装軌式兵員輸送装甲車後期C型 (Sd.Kfz. 251 Ausf. C; "Prop.Eins" )と奥の半装軌式無線指揮装甲車Sd.Kfz. 250:兵員室上部前方に防楯付きのMG34機関銃を装備している。手前の茂みに布陣しているドイツ兵もMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-792-0138-21A Archive title: Rußland.- mittlerer Schützen-panzer Sd.Kfz. 251 Ausf. C; "Prop.Eins" Dating: 1942. 
Photographer: Habedank, Gerd撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-792-0138-21A"引用。

 路外走行能力が高い半装軌式装甲車ハーフトラックとして、Sd.Kfz 250Sd.Kfz. 251のような半装軌式装甲兵員輸送車がハノマーク社Hanomag)で開発された。これらの歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)は,戦車,突撃砲,自走砲に追随できる指揮車・無線通信車・観測車として,主に機械化部隊に配備された。

写真(右)1942年,ロシア東部戦線、ハノマーク社のドイツ軍半装軌式兵員輸送装甲車後期C型 (Sd.Kfz. 251 Ausf. C; "Prop.Eins")と奥の半装軌式無線指揮装甲車Sd.Kfz. 250:兵員室上部前方に防楯付きのMG34機関銃を装備している。手前の茂みに布陣しているドイツ兵もMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-792-0138-21A Archive title: Rußland.- mittlerer Schützenpanzer Sd.Kfz. 251 Ausf. C; "Prop.Eins" Dating: 1942. 
Photographer: Habedank, Gerd撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-792-0138-21A"引用。


 1942年6月,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)は,アゾフ海に注ぐドン川の渡河地点を確保し,スターリングラード方面に進撃することになった。ソ連軍は後退し,ヒトラーはこれをソ連軍の士気阻喪,崩壊と考えた。そこで,7月13日,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)を二分して,A軍集団(ヴィルヘルム・リスト元帥)とB軍集団(フォン・ヴァイクス大将)に分けた。

ボック元帥は南方軍集団の分割に反対し,解任させられた。A軍集団は,カフカスに向かうことになり,B軍集団だけがスターリングラードに進撃することになった。

写真(右):1942年,ロシア南部,ドン川=スターリングラードの間,撃破されたソ連軍T-70軽戦車とドイツ軍の半装軌装甲車(Sd.Kfz. 250) :ドイツ軍歩兵が身を隠しているのは,ソ連軍T-70軽戦車で,キャタピラ(装軌)が外れている。
T-70は,46口径45ミリ砲20Kmを装備,重量は9.5トン。1942年初夏にT-70軽戦車として制式、ゴーリキー自動車工場(GAZ)で生産。
T-70軽戦車は,1942年4800台,1943年3000台以上が量産された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-218-0503-19 Archive title: Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- deutsche Infanteristen in Deckung hinter einem zerstörten sowjetischen Panzer (T-70 ?) neben leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) mit Aufschrift "Struckmann" (?); PK 694 Dating: 1942
Photographer: Klintzsch撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録:"Bild 101I-218-0503-19"引用(他引用不許可)。


半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251)は,不整地でも移動速度が速く,機動性に富んでいるために,装甲師団の戦車の後方に随伴したり,戦車攻撃後に迅速に進出したりすることが可能だった。機械化歩兵は,電撃戦に活躍した。

写真(右)1942-1943年,ソ連,アフトゥイルカ,陸軍「グロス・ドイッチェラント」"Groß-deutschland" 装甲師団の軽装甲車(Sd.Kfz. 250)。兵員室上部前方に防楯を付きの7.92ミリMG34機関銃を装備。:道路を木の棒で補強しながら進む。車体フロントに搭載されたエンジンはマイバッハ製直列6気筒エンジン。
Russland, bei Achtyrka.- Soldaten bei Wege-ausbesserungs-arbeiten vor leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) der Panzer-grenadierdivision "Groß-deutschland"; PK ObdH Dating: 1942/1943 Photographer: Kempe Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-748-0100A-07 引用。


ブルガリアBulgaria)は第二次大戦勃発時には参戦しておらず,ソ連軍と戦っていない。ルーマニアRomania)は,1940年11月に日独伊三国同盟Tripartite Pact)に加盟,ソ連はブルガリアと相互援助条約を結んだが,1941年1月,ドイツ軍はルーマニアに保障進駐した。そして,3月,ドイツ軍はブルガリアにも進駐し,ギリシャGreece)に進駐していた英軍に対抗した。

写真(右)1942年9月,ソ連南部、ウクライナ、アフトゥイルカ、ドイツ陸軍「グロスドイッチェラント」"Großdeutschland" 装甲師団の半装軌式無線指揮軽装甲車 (Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen):兵員輸送装甲車車Sd.Kfz.250に無線を搭載した型。金網は、敵が投擲した手榴弾が戦闘室に飛びこまないようにする、偽装網を掛ける、などの目的で設置されている。後続するのはII号戦車で砲塔には2センチ砲と7.92ミリ機銃を搭載している。北アフリカ戦線では、アフリカ軍団のエルヴィン・ロンメル将軍の半装軌式無線指揮軽装甲車 (Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen)は、「グライフ」(グリフィン:有翼の獅子獣)の固有名詞を付けた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-748-0100A-14 Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Oberfeldwebel in Spähpanzer, Kolonne von Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen) der der Panzer-grenadierdivision "Großdeutschland" an Funkgerät; PK ObdH Dating: 1942/1943.
Photographer: Kempe 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-748-0100A-14 "引用。

ドイツ国防軍「グロースドイッチュラント」("Groß-deutschland")装甲師団は、 1942年5月に歩兵師団(Infantry Division)「グロースドイッチュラント」として編成され、1943年5月に装甲擲弾兵師団(Panzergrenadier Division)「グロースドイッチュラント」に再編成され、戦車、自走砲を備えた有力な機甲部隊となった。1944年11月には、規模を拡大して、増設部隊も含めて、装甲軍団(Panzerkorps)「グロースドイッチュラント」("Großdeutschland")と呼ばれるようになった。

写真(右)1942年,ロシア、対ソ連東部戦線、ドイツ陸軍「グロスドイッチェラント」"Groß-deutschland" 装甲師団の半装軌式無線指揮軽装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 250/3):モーゼル7.92mmMG34機関銃は装着されていない。コンパートメント上部の柵には、アンテナコード線が設置されている。
Photographer Kempe Sowjetunion, bei Achtyrka.- Soldat vor leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3, Funk-panzerwagen) der Panzergrenadierdivision "Groß-deutschland" mit zwei Offizieren, darunter Ritterkreuz-Träger; PK ObdH Title Russland, Offiziere in Schützenpanzer Info non-talk.svg Depicted place Russia Date 1942 Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-748-0100A-08
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivがWikimedia Commonsに譲渡したCategory:Sonderkraftfahrzeug 250/3 Alteから"File:Bundesarchiv Bild 101I-748-0100A-08, Russland, Offiziere in Schützenpanzer.jpg"引用。


写真(右)1942-1943年,ソ連南部、ウクライナ、アフトゥイルカ、ドイツ陸軍「グロスドイッチェラント」"Großdeutschland" 装甲師団の半装軌式軽装甲車 (Sd.Kfz. 250 Funk-panzerwagen):グロスドイチェラント"Großdeutschland" 装甲師団の白色のヘルメットの記章が明瞭に見て取れる。上方後方にシートを掛けている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-748-0100A-12 Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Soldaten bei Wegeausbesserung-sarbeiten vor leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland"; PK ObdH Dating: 1942/1943
Photographer: Kempe 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-748-0100A-12 "引用。


ドイツ軍の電撃戦に投入された機械化歩兵とは,歩兵の輸送手段が,トラック・乗用車・オートバイなどの自動車あるいは半装軌式装甲車ハーフトラックSd.Kfz 250Sd.Kfz. 251に搭乗した歩兵部隊のことで,ドイツ軍では「狙撃兵」とも呼んだ。

ソ連軍は,チモシェンコ元帥にハリコフを攻撃させたが,1942年6月28日,フェードア・フォン・ボック元帥は,1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号に則って,スターリングラード,カフカスを目指すブラウ作戦を開始した。
ハリコフ北方で,ドイツ軍は,激戦の結果,ソ連軍は逆包囲,敗北させた。

写真(右)1942年,ロシア、対ソ連東部戦線、ドイツ陸軍「グロスドイッチェラント」装甲師団の半装軌式無線指揮軽装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 250/3)の後部コンパートメントの無線通信装置:コンパートメント上部の柵式アンテナではなく、樹木状アンテナに変更されている。
Photographer Kempe Russland, bei Achtyrka.- Soldaten (Panzertruppe, Nachrichten-truppe) in leichtem Schütze-npanzer (Sd.Kfz. 250/3, Funk-panzerwagen) der Panzer-grenadierdivision "Großdeutschland" an Funkgerät; PK ObdH Title Russland, Schützenpanzer Division Großdeutschland Depicted place Russia Date 1942 Collection German Federal Archives Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-748-0100A-11
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivがWikimedia Commonsに譲渡したCategory:Sonderkraftfahrzeug 250/3 Alteから""引用。


1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号では,作戦目的は,「東部作戦当初の原則を維持しつつ、中部では現状を守り、北部ではレニングラートを占領して,フィンランド軍と陸路連絡をつけ、南部ではカフカス地区へ突入する。冬期戦終了後でもありこの目標は集めうる兵力、資材および輸送事情により、段階的に達成されるものとする。そのためまず全兵力を南部戦区の主要作戦にむけ、ドン前面の敵を掃討し、ついで,カフカス(コーカサス)の油田およびカフカス山脈の道路を奪取するものとする。」とされた。

写真(右)1942年,ロシア、対ソ連東部戦線、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 250/3):イヤーホーンをつけて無線通信文を筆記している通信士。モーゼル7.92mmMG34機関銃は装着されていないようだ。コンパートメント上部の柵式アンテナは取りやめになり、樹木状アンテナに変更されている。
Photographer Kempe Archive description Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong. You can help by reporting errors and typos at Commons:Bundesarchiv/Error reports. Russland, bei Achtyrka.- Soldaten in leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen) der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland" an Funkgerät; PK ObdH Title Russland, Schützenpanzer Division Großdeutschland Depicted place Russia Date 1942 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-748-0100A-20
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivがWikimedia Commonsに譲渡したCategory:Sonderkraftfahrzeug 250/3 Alteから"File:Bundesarchiv Bild 101I-748-0100A-20, Russland, Schützenpanzer Division Großdeutschland.jpg"引用。


ソ連指導者スターリンは,1942年7月12日,セミョーン・チモシェンコ元帥にスターリングラード正面軍の編成を明示,スターリングラードを死守することを命じた。予備兵力を投入し,防備を固めようとしたが,問題は時間が足りないことだった。

1942年7月23日,総統大本営(総司令部)の一つでウクライナに設置された「ヴェアヴォルフ」で,陸軍参謀総長ハルダー大将は,ヒトラーにソ連軍は計画的に退却しているとの推論を伝えたが,ヒトラーはソ連軍は崩壊一歩手前にあると確信していた。

写真(右)1942年,ロシア、対ソ連東部戦線、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 250/3):防盾付きのモーゼル7.92mmMG34機関銃が装着されている。コンパートメント上部の柵式アンテナではなく、樹木状アンテナに変更されている。無線コード線が設置されている。
Photographer KempeRussland, bei Achtyrka.- Soldaten in leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 Funk-panzerwagen) der Panzer-grenadierdivision "Großdeutschland" an Funk-gerät; PK ObdH Title Russland, Schützen-panzer Division Großdeutschland Depicted place Russia Date 1942 Collection German Federal Archives Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-748-0100A-22
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivがWikimedia Commonsに譲渡したCategory:Sonderkraftfahrzeug 250/3 Alteから"File:Bundesarchiv Bild 101I-748-0100A-22, Russland, Schützenpanzer Division Großdeutschland.jpg"引用。


カスピ海に注ぐボルガ川河畔スターリングラードに向かう第六軍用の燃料は,カフカス戦線に回された。そのため,第六軍のスターリングラード進撃は停滞してしまった。ソ連軍はこの時間を利用して,ドン川西岸カラーチに防衛線を張り,スターリングラードのへの兵力集中が可能になった。

ソ連軍は,スターリングラード手前のカラーチでは敗れたが,その間,スターリングラードの防衛を固めることができた。カラーチ戦を戦い抜いたドイツB軍集団の第六軍は,1942年8月末になって,スターリングラード正面に到着したのである。

写真(右):1942年6月,ソ連,クリミア半島、砲弾の補給を受けるドイツ軍の半装軌弾薬輸送装甲車Munitions-transport-kraftwagen (Sd.Kfz. 252) :ドイツ軍兵士が、砲弾を手づかみで弾薬輸送装甲車の後部扉から搬入している。半装軌弾薬輸送装甲車は、前線にある突撃砲や戦車、あるいは火砲に弾薬を補給する。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-230-0688-05A Archive title: Sowjetunion, Krim.- Soldaten (der Panzergrenadier-Division Feldherrnhalle?) vor Munitions-transportkraftwagen (Sd.Kfz. 252) stehend, beim Aufladen von Munition; PK 695 Dating: Juni 1942
Photographer: Kripgaus 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivの提供したWikimediaCommons:"Bild 101I-230-0688-05A"引用.


リスト元帥率いるA軍集団は,1942年7月25日,黒海北のアゾフ海入口にあるロストフを占領した。この日,ヒトラーの「総統指令45号」がA・B軍集団に届いたが,ここではドイツ軍の包囲を逃れドン川に達したのは,ソ連のチモシェンコ軍の一部に過ぎず,A軍集団に黒海沿岸の諸港を占領し,カスピ海沿いのバクーを占領すること,B軍集団はスターリングラードを占領,ボルガ川沿いにカスピ海のアストラハニにまで前進することを命じた。

これは,まずスターリングラードを攻略,その後,カフカスに進出し,油田地帯を押さえるという「ブラウ」作戦を大修正するものだった。スターリングラード,カフカスを同時に攻撃目標としてしまったのである。

写真(右):1942年6月,ソ連,クリミア半島、ドイツ軍の半装軌弾薬輸送装甲車Munitions-transport-kraftwagen (Sd.Kfz. 252) 砲弾を補給するドイツ兵:ドイツ軍兵士が、砲弾を手づかみで弾薬輸送装甲車の後部扉から搬入している。半装軌弾薬輸送装甲車は、木暴力と防御力を活かして、最前線にある突撃砲や戦車、あるいは火砲に弾薬を補給する。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-230-0688-03A Archive title: Sowjetunion, Krim.- Soldaten (der Panzergrenadier-Division Feldherrnhalle?) vor Munitions-transportkraftwagen (Sd.Kfz. 252) stehend, beim Aufladen von Munition; PK 695 Dating: Juni 1942
Photographer: Kripgaus 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivの提供したWikimediaCommons:"Bild 101I-230-0688-04A "引用.


ドイツA軍集団は,1942年8月末,黒海に臨むノボロシスクを攻撃し,9月10日には,それを占領した。しかし,9月に入ると,補給能力不足からカフカス山脈北西のクバニ,北東のチェレクの間で,戦線は膠着した。

マイコープの精油施設は破壊されたため,ドイツ軍は油田で燃料不足に悩まされたことをカレル『バルバロッサ作戦』は指摘し,補給路が伸びきってしまい,攻撃速度が低下したと説明する。

写真(右):1942年6月,ソ連,クリミア半島、砲弾の補給を受けるドイツ軍の半装軌弾薬輸送装甲車Munitions-transport-kraftwagen (Sd.Kfz. 252) :ドイツ軍兵士が、砲弾を手づかみで弾薬輸送装甲車の後部扉から搬入している。半装軌弾薬輸送装甲車は、攻撃力と防御力を活かして、最前線にある突撃砲や戦車、あるいは火砲に弾薬を補給する。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-230-0688-04A Archive title: Sowjetunion, Krim.- Soldaten (der Panzergrenadier-Division Feldherrnhalle?) vor Munitions-transport-kraftwagen (Sd.Kfz. 252) stehend, beim Aufladen von Munition; PK 695 Dating: Juni 1942
Photographer: Kripgaus 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivの提供したWikimediaCommons:"Bild 101I-230-0688-04A "引用.



写真(左)1942年6-7月,ソ連ハリコフ北東ドン河畔ヴォロニェシでロケット弾を装甲車Sd.Kfz.251に装填する第40装甲師団の兵士
:半装軌装甲車の車体両側に木製ランチャーを取り付け,そこにネーベルベェルファー28センチ・ロケット弾,32センチロケット弾装填する。
Russland, bei Woronosch.- Soldaten bei Montage eines schweren Wurfrahmens 40 an einem mittleren Schützen-panzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) und Beladen mit Munition (Wurfkörpern); PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Dieck撮影。
写真(右)1942年夏,ドン=スターリングラード方面を進撃する第24装甲師団の装軌装甲車:小型のSd.Kfz. 250/3 と大型のSd.Kfz. 251がある。ボンネット上のドイツ国旗(ナチ党鍵十字スワスチカ)は,航空機に対する識別表。制空権を欠いている証でもある。兵員室上部前方に防楯を付きのMG34機関銃を装備している。
Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- Kolonne von leichten und mittleren Schützen-panzern (vorne Sd.Kfz. 250/3 Ausf. A und Sd.Kfz. 251) der 24. Panzer-Division in Fahrt, vorderer Schützen-panzer mit Hakenkreuz-flagge auf Motorhaube; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Dieck撮影。
写真は左はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-216-0417-05, Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer.jpg"引用。右はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ドイツ軍は,1940年に直径15センチのロケット弾(15 cm Nebelwerfer 41)を開発していた。これは,「ネーベルベェルファー(煙幕弾)」の秘匿名称で呼ばれた重量34キロのロケット弾で,全長1.3メートルのパイプからなる6連装ロケットランチャーによって,電気発火で発射された。

写真(右):1944年8-9月,ワルシャワ蜂起軍に向かって発射されるドイツ軍の28/32センチロケット弾:木製枠組みのランチャーから発射され,弾頭には火薬,あるいは焼夷剤が詰まっている。右後方には,発射後に放棄された木製枠組みのランチャーが山積になっている。
Abschuß deutscher 28 cm-Wurfkörper Archive title: Polen.- Warschauer Aufstand, Abfeuern eines Raketenwerfers (schweres Wurfgerät 41) mit 28-cm-Wurf-Körper-Spreng, Wurfkörper im Flug; KBZ HG Mitte Dating: 1944 August - September Photographer: Leher 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-696-0426-19 引用(他引用不許可)。


装甲車Sd.Kfz.251 15センチのロケット弾(15 cm NbW41):重量34キロ(爆薬7キロ),射程6800メートル

28センチロケット弾(28 cm NbW 41:28/32 cm Nebelwerfer 41):重量80キロ(爆薬50キロ),射程1900-2200メートル。
32センチロケット弾(32 cm NbW 41):重量80キロ(焼夷弾45リットル),射程1900-2200メートル,28センチ弾とあわせて,1941年1万発,1942年7万発を量産
ドイツ軍は,木製の簡易ロケット弾発射機(ランチャー)を開発し,運搬箱と発射台を一体化させた。

写真(右):1942年夏,対ソ連東部戦線、牽引する半装軌装甲車(ハーフトラック)Sd.Kfz. 250:兵員室上部前方に装備した防楯付きのMG34機関銃の仰角が大きく、対空射撃も可能なように見える。車体後半にキャタピラ(無限軌道)があるので,道路がなくとも走行可能で,火砲やカーゴなど牽引能力も高かった
Sowjetunion.- leichter Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250) mit Anhänger vor zerstörtem Gebäude; PK 670 Dating: 1942 Sommer Photographer: Sonntag 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ロケットランチャー運搬には,3.7センチ対戦車砲の砲架が流用された。1940年15万発,1941年41万発,1942年120万発を量産したという。しかし,実戦での使用はソ連赤軍に遅れた。1940年5月のフランス侵攻,1941年6月のソ連侵攻など,緒戦に投入された形跡はない。

ドイツ軍は,直径28センチと32センチの二種類のロケット弾を開発した。1942年夏に実戦に投入した。これらのドイツ軍のロケット弾は,無翼でロケット噴射口26個があった。噴射口には傾斜がつけられていて,ロケット噴射が渦巻きとなって,弾体を回転させ,安定飛行した。

写真(右)1942年8-9月,ソ連南部戦線のドイツ・ハノマーク社の半装軌式無線指揮軽装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 250/3):兵員室上部前方にはMG34機関銃が装備されている。路外でも兵員を迅速に輸送できるハーフトラック。背景の建物は燃えている。
独ソ戦当初は,ドイツ軍が大戦果を挙げたが,1941年冬には,ソ連軍の冬季攻勢によって,大損害を受けた。ドイツ人が多数死傷している状況で,ヒトラーは,後方のユダヤ人がぬくぬくと生きることを苦々しく思った。これが,ユダヤ人絶滅を決意させた。
Sowjetunion-Süd.- Offizier mit Karte in leichtem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/3), Plane auf Funkantenne; PK 694 Dating: 1942 August - September Photographer: Geller撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


歩兵部隊の最小単位は,分隊で10人程度の歩兵集団である。したがって,装甲車やハーフトラックによって戦場に運ばれる歩兵部隊も,最小限,分隊単位が望ましく,歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)にも10人以上の兵士が搭載可能な必要がある。ハノマーク社Hanomag)のSd.Kfz. 251のような半装軌式兵員輸送装甲車は,搭乗可能な人数は,運転手・副手の2人に加えて歩兵4人でしかなく,輸送能力が低く兵員輸送には適していない。

そこで,ドイツ軍は,小型半装軌式装甲車Sd.Kfz. 250のエンジンはそのまま,基本設計を踏襲して車体を延長した兵移入装用の中型ハーフトラックを開発した。これが,中型半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251である。

写真(右)1942年8-9月,ソ連南部、東部戦線、スターリングラードへ侵攻するドイツ軍B軍集団(元南方軍集団)の半装軌式無線指揮軽装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 250/3)と手前の半装軌式兵員輸送軽装甲車Sd.Kfz. 250。:
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-217-0488-02A Archive title: Sowjetunion-Süd.- Vorstoß auf Stalingrad, leichte Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250, im Hintergrund Sd.Kfz. 250/3, Funkpanzer-wagen) in offenem Gelände, Soldaten beim Beobachten, Offizier mit Ritterkreuz; PK 694 Dating: 1942 August - September.
Photographer: Sautter 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-217-0488-02A"引用。


1942年春、モスクワ攻略に充てられていたドイツ中央軍集団から、フェードア・フォン・ボックFedor von Bock)元帥率いる南方軍集団に兵力を抽出させられた。そして、1942年6月28日、「ブラウ作戦」にしたがって、南方軍集団は二分された。そして、A軍集団がドン川からカフカスの油田を攻略し、B軍集団がスターリングラードを占領、水上交通の動脈ボルガ川を封鎖することとなった。

写真(右)1942年9月,ソ連、東部戦線、スターリングラード、ドイツ軍の半装軌式兵員輸送軽装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug 前方2両はSd.Kfz. 250)とIII号戦車(Panzer III):後方に続くのは半装軌式中型兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-218-0504-36 Archive title: Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- Panzer III, leichte und mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250 und Sd.Kfz. 251) der 24. Panzerdivision in Fahrt in welligem Gelände; PK 694 Dating: September 1942.
Photographer: Dieck 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-218-0504-36"引用。

写真(右)1942-1943年,ロシア東部戦線、ウクライナ、アフトゥイルカ、装甲師団「グロス・ドイッチェラント」の半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 250/1と半装軌式無線指揮装甲車Sd.Kfz. 250/3:四輪偵察装甲車Sd.Kfz. 222と八輪重装甲車Sd.Kfz. 263も隊列に加わっている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-748-0100A-16 Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Motorisierte Truppen der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland", u.a. leichte Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/1, Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen, Späh-panzer Sd.Kfz. 222, Sd.Kfz. 263); PK ObdH Dating: 1942/1943.
Photographer: Kempe撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-748-0100A-16 "引用。

ドイツ国防軍「グロースドイッチュラント」("Groß-deutschland")歩兵師団は、優秀な兵士と装備をもって編成され、ソビエト侵攻のため、フェードア・フォン・ボック指揮の中央軍に属する第2装甲集団のグデーリアン将軍の下で、1941年6月、対ソ侵攻バルバロッサ作戦に実戦参加した。1941年12月,ソ連軍のケルチ奇襲攻撃にあわてたドイツ軍は,セバストポリ包囲に投入されていた部隊をケルチ反撃に向かわせようとしたが,すでに陣地戦に入って,部隊展開を分散していたドイツ軍は,迅速な撤収,集結,移動ができなかった。第十一軍は1942年6月までソ連赤軍を撃退できなかった。

写真(右)1942-1943年,ロシア東部戦線、ウクライナ、アフトゥイルカ、装甲師団「グロス・ドイッチェラント」の半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 250/1と半装軌式無線指揮装甲車Sd.Kfz. 250/3:フロントに描かれた白のヘルメットが「グロス・ドイッチェラント」師団の記章である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-748-0100A-17 Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Motorisierte Truppen der Panzer-grenadierdivision "Großdeutschland", u.a. leichte Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/1, Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen); PK ObdH Dating: 1942/1943. 
Photographer: Kempe撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-748-0100A-17 "引用。

 1942年には、ソ連南部でカフカス、ボルガ川、スターリングラード方面を攻略する「ブラウの事例(Fall Blau)」に投入された「グロースドイッチュラント」装甲師団は、ドン川、ヴォロネジ攻略から、スターリングラード攻防戦に加わった。

 1943年にはハリコフ攻防戦に、武装親衛隊のSS装甲擲弾兵師団とともに、投入された。1944年に入ると、グロースドイッチュラント師団は、チェルカースィ包囲戦に参加した。

写真(右)1942-1943年,対ソ連、東部戦線、ウクライナのアフトゥイルカ近郊、ドイツ軍装甲師団「グロスドイッチュラント」所属の半装軌式電話線敷設装甲車 (Sd.Kfz. 250/2)
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-748-0100-33 Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Zwei leichte Schützenpanzer (u.a. Sd.Kfz. 250/2) der Panzergrenadier-Division Großdeutschland im Gelände, Soldat mit Fernglas beobachtend; PK ObdH Dating: 1942/1943
Photographer: Kempe 撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-748-0100-33"引用。

ソ連軍は1943年1月10日から29日までに,ドイツ軍兵士1万6800人を捕虜とし,それから2月3日までにさらに,9万1000人を捕虜とした。

1942年11月中旬,第六軍には23万3000人のドイツ兵士,同盟国兵士がいたが,降伏時は10万7800人だった。1963年までに故国に戻ったのは6000人という。

第二次大戦の最大規模の決戦であるスターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。第六軍パウルス将軍は,スターリングラード死守を命じられ,元帥に昇進させられた。しかし,その直後,ソ連に降伏してしまった。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった。ドイツ国防軍の栄光は失われた。

写真(右)1943年3-5月,対ソ連、東部戦線中央部スモレンスク、III号突撃砲に7.5センチ砲弾を補給するドイツ軍半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250):車体上面は、装甲板で防御され、ハッチが二つ見える。戦闘室後面にも扉がある。機関銃を装備していない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-152-1811-09 Archive title: Sowjetunion-Mitte, Raum Smolensk.- Umladen eines Scherenfernrohrs von einem leichten Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) in ein Sturmgeschütz III, März-Mai 1943; PK 689 Dating: 1943 März - April
Photographer: Momber 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-152-1811-09"引用。

ドイツ国防軍第2装甲師団は、1939年9月のポーランド侵攻(Invasion of Poland)にスロバキアから移動して参加、中部ポーランドで戦った。1940年5月のフランス侵攻(Battle of France)では、グーデリアン将軍の第19軍(XIX Army Corps)の下でベルギーに進出、イギリス遠征軍(British Expeditionary Army)をダンケルク(Dunkirk)に追いつめた。1941年4月のギリシャ侵攻(Invaion of Greece:Operation Marita)では西部マケドニアのサロニカ(Salonika)を攻略したのち、アテネに入城した。1941年6月のソ連侵攻(Invasion of the Soviet Union)では、モスクワ攻略(Operation Typhoon)に参加し、1943年にはクルスク攻防戦(Operation Citadel)に,第九軍の一部として加わった。 その後、1943年末に、西側連合軍の大陸反攻に備えるために、フランスに移動し、ノルマンディ攻防戦(Battle of Normandy)を戦った。


4.北アフリカ戦線のドイツ軍の半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz. 250)

写真(右)1941年4-5月,北イタリアのイタリア植民地に派遣されたドイツ軍「アフリカ軍団」所属の半装軌式無線指揮装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/11, "Ferns-prechwagen") :無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/11, "Ferns-prechwagen")はフレームアンテナではなくシュテルン(星型)アンテナを装備した後期型で。後方にはフレームアンテナを装備した装甲車、III号戦車などが並んでいる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-783-0110-13 Archive title: Nordafrika.- Mittlerer Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251/11, "Ferns-prechwagen大型アンテナ・無線電話を搭載した指揮車両。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Nordafrika.- Mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/11, "Fernsprechwagen"), PKW in der Wüste; PK "Afrika". Dating: 1941 April - Mai
Italien.- Be- oder entladen eines Schiffes in einem Hafen, u.a. mit mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251); PK "Afrika".
Moosmüller撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-783-0110-13"引用。


図(右)1940年,北フランス、ドイツ陸軍A軍集団第19装甲軍団司令官ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian, 1888-1954)大将搭乗の半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3 Ausf.B左側面図:後部コンパートメント上の柵は、アンテナ支柱を兼ねている。ドイツ軍は,本装甲車を戦車隊、砲兵部隊などの指揮無線車輛として使用した。最前線の移動や部隊随伴に、半装軌装甲車は有用だったが、戦車を改造した指揮車が普及すると、前線指揮からは離れるようになった。
解説 English: heinz guderian's own armoured car 日付 2021年1月5日 原典 onlime tank museum 作者 heinz guderian
写真はWikimedia Commons, Category: Sonder-kraftfahrzeug 250 File:SdKfz-251-Ausf-B Kommando-Pzwgn.png引用。


ドイツ陸軍の半装軌式装甲車には、小型の軽装甲車Sd.Kfz. 250と中型の装甲車Sd.Kfz. 251の2種類がある。
軽装甲車Sd.Kfz. 25は、全長4.56 m、全幅1.945 m、全高1.66 m、重量5.8t、輸送兵員4名に対して、
中型の装甲車Sd.Kfz. 251は、全長5.80 m、全幅2.10 m、全高1.75 m、重量7.8t、輸送兵員10名と一回り大型である。

図(右)1942年,北アフリカ、ドイツアフリカ軍団司令官エルウィン・ロンメル元帥搭乗のドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif"の三面図: エルヴィン・ロンメル将軍の指揮装甲車の固有名詞が「グライフ"Greif"」(グリフィン)である。ドイツ軍は,装甲車を戦車隊、砲兵部隊などの指揮無線車輛として使用した。最前線の移動や部隊随伴に、半装軌装甲車は有用だったが、戦車を改造した指揮車が普及すると、前線指揮からは離れるようになった。
Description English: 롬멜의 개인장갑차 Date 5 January 2021 Source pinterest Author rommel。
写真はWikimedia Commons, Category: Sonder-kraftfahrzeug 250 File:Rommel car.png引用。


ドイツ陸軍の半装軌式装甲車には、小型の軽装甲車Sd.Kfz. 250と中型の装甲車Sd.Kfz. 251の2種類がある。
小型の軽装甲車Sd.Kfz. 250は、装軌左右転輪が外側2個・内側3個、合計5個、全長4.56 m、多角形の後部コンパートメントに対して、
中型の装甲車Sd.Kfz. 251は、装軌左右転輪が外側3個・内側4個、合計7個、全長5.80 m、直方体の後部コンパートメントなので、外見上の区別がつく。

写真(右)1942年,北アフリカ、「ドイツ・アフリカ軍団」(Deutsches Afrikakorps:DAK)司令官エルウィン・ロンメル将軍搭乗のドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" :ロンメルは、1941年2月12日に、北アフリカ・リビア北岸、トリポリ飛行場に空路到着している。
Nordafrika.- General-feldmarschall Erwin Rommel im leichten Schützenpanzer Sd.Kfz. 250/3 "Greif"; PK "Afrika" Title Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif" Depicted people Rommel, Erwin: General-feldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Depicted place North Africa Date 1942 Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-784-0249-04A Photographer: Borchert, Erich [Eric] 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-784-0249-04A, Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif".2.jpg"引用。


写真(右)1942年,北アフリカ、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" のコンパートメントのドイツ・アフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps:DAK)司令官エルウィン・ロンメル元帥と軍団参謀長フリッツ・バイエルライン大佐:コンパートメント上部の柵は、アンテナを兼ねている。1941年2月12日に、北アフリカのトリポリに空路到着したロンメルは、イタリア北アフリカ軍司令官イータロ・ガリボルディ大将(グラツィアーニ元帥の後任)とともに、北アフリカ戦線で、エジプトを本拠とするイギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍を撃破し、1942年6月22日に元帥に昇進した。
Photographer Zwilling, Ernst A. Nordafrika, bei Bir Hacheim.- Generaloberst Erwin Rommel und General Fritz Bayerlein im Befehlsfahrzeug, leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 "Greif"); KBK Lw 7 Title Nordafrika, Rommel in Befehlsfahrzeug Depicted people Rommel, Erwin: Generalfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Bayerlein, Fritz: Generalleutnant, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 121621073) Depicted place North Africa Date June 1942 Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-443-1589-07
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-784-0249-04A, Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif".2.jpg"引用。


写真(右)1942年6月,北アフリカ、「ドイツ・アフリカ軍団」(Deutsches Afrikakorps:DAK)司令官エルウィン・ロンメル元帥、参謀長フリッツ・バイエルライン大佐が搭乗のドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif"の後面: 兵員室コンパートメントの後方扉には、航続距離延長用のガソリン燃料タンククが並んで置いてある。1942年6月22日付けでロンメルは元帥に昇進した、史上最年少のドイツ陸軍元帥となった。
Description Photographer Zwilling, Ernst A. Nordafrika, bei Bir Hacheim.- Generaloberst Erwin Rommel und General Fritz Bayerlein im Befehlsfahrzeug, leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 "Greif"); KBK Lw 7 Title Nordafrika, Rommel in Befehlsfahrzeug Depicted people Rommel, Erwin: General-feldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Bayerlein, Fritz: Generalleutnant, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 121621073) Depicted place North Africa Date June 1942 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-443-1589-11
写真はWikimedia Commons, Category: Sonder-kraftfahrzeug 250 File:Rommel car.png引用。


 ドイツ軍の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250)は,第二次大戦が勃発した1939年にハノマーク社Hanomag)で開発され,1940年から1945年まで生産された歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)である。エンジンは,マイバッハ(Maybach-Motorenbau)製造の水冷6気筒(4170cc)のガソリンエンジン(ディーゼルではない)で大出力の100馬力(75キロワット:watt)だった。

写真(右)1942年,北アフリカ、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" に搭乗し付近を双眼鏡で観察するドイツアフリカ軍団司令官エルウィン・ロンメル元帥:無線のアンテナは、鉄枠になっていて支柱を兼ねている。
Photographer Zwilling, Ernst A. Nordafrika, bei Bir Hacheim.- Generaloberst Erwin Rommel und General Fritz Bayerlein im Befehlsfahrzeug, leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 "Greif"); KBK Lw 7 Title Nordafrika, Rommel in Befehlsfahrzeug Info non-talk.svg Depicted people Rommel, Erwin: Generalfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Bayerlein, Fritz: Generalleutnant, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 121621073) Depicted place North Africa Date June 1942 Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-443-1589-03.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv提供写真を掲載した Wikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 250/3 Alte "Greif" "File:Bundesarchiv Bild 101I-443-1589-03, Nordafrika, Rommel in Befehlsfahrzeug.jpg"引用。


  半装軌式装甲車とは,車輪とキャタピラ(無限軌道:caterpillar track)の双方を使って走行するハイブリッド型の装甲車のこと。「半装軌」とは,車体の半分が無限軌道(キャタピラ)を装備しているという意味で,「ハーフトラック」(half truck) と呼ばれる。ただし,貨物自動車のトラック(truck)は,一般的には,装甲板がなく,銃砲撃に耐えられないが,戦闘装甲車Schützenpanzer)は,敵弾から乗員や貨物を保護する装甲版を張った自動車あるいはハーフトラックである。

写真(右)1942年,北アフリカ、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" に搭乗し食事を摂るドイツアフリカ軍団司令官エルウィン・ロンメル元帥:エニグマ暗号機(ローター式乱数表)は、狭いコンパートメントには搭載されていないようだ。無線のアンテナは、鉄枠になっていて支柱を兼ねている。
Photographer Moosmüller Nordafrika.- Generalfeldmarschall Erwin Rommel im leichten Schützenpanzer Sd.Kfz. 250/3 "Greif"; PK "Afrika" Title Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif" Info non-talk.svg Depicted people Rommel, Erwin: General-feldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Depicted place North Africa Date 1942 Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-785-0255-06.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv提供写真を掲載した Wikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 250/3 Alte "Greif" "File:Bundesarchiv Bild 101I-785-0292-17A, Nordafrika, Offizier auf Befehlsfahrzeug "Greif".jpg"引用。


エニグマ (Enigma)暗号機とは、第二次世界大戦でドイツが使用した3個のローター式乱数表を活用した換字式電気暗号機械で、1925年にはドイツ共和国軍の制式となった。3個のローターに26文字、それを三重に順次変換することで26の三乗、1万7,576文字に変換できる。ただし、元の文字は必ず他の文字に換字され、元の文字と同じにならない。

エニグマ (Enigma)暗号機が奪われた場合に備えて、ローターの文字は同じだが、暗号機に変更可能なプラグ配線を追加し、文字を一回さらに変更(単文字換字)できるようになっている。

写真(右)1942年,北アフリカ、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif"の車体前面のボンネット:操縦席の窓は、防弾ガラスがはまっているわけではないが、開閉可能である。無線のアンテナは、鉄枠になっていて支柱を兼ねている。
Photographer Tannenberg Nordafrika.- Offizier mit Karte auf leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 "Greif"?); PK "Afrika" Title Nordafrika, Offizier auf Befehlsfahrzeug "Greif" Info non-talk.svg Depicted place North Africa Date 1942 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-785-0292-17A.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv提供写真を掲載した Wikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 250/3 Alte "Greif" "File:Bundesarchiv Bild 101I-785-0255-06, Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif".jpg"引用。


1939年の大戦直前に、ポーランドは、エニグマ (Enigma)の原理を解いており、大戦直前の7月、同盟国のイギリス・フランスに、その原理を伝授している。また、1940年 2月、イギリスはドイツ潜水艦U-33からローターを鹵獲し、5月には、ドイツ空軍・海軍のエニグマ情報を解読できるようになった。1942年 1月、空軍の鍵システムであるFliegerkorps IXとFliegerkorps Xの解読に成功。また、1942年10月には、ドイツに派遣された日本海軍潜水艦伊30がドイツからエニグマ暗号機の譲渡を受けている。

イギリスは、エニグマ暗号機 (Enigma machine )の解読方法を戦後も秘匿したままにし、エニグマを活用したた各国の外交・軍事の暗号をそのまま解読していた。

写真(右)1942年,北アフリカ、疾走するドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" のドイツ・アフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps:DAK)司令官エルウィン・ロンメル(Erwin Rommel)元帥:防盾付きのモーゼル7.92mmMG34機関銃が装着されている。コンパートメント上部の柵は、アンテナコード線繋がり、アンテナ支柱を兼ねている。
Photographer Valtingojer. Nordafrika.- Generalfeldmarschall Erwin Rommel im leichten Schützenpanzer Sd.Kfz. 250/3 "Greif"; PK "Afrika" Title Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif" Info non-talk.svg Depicted people Rommel, Erwin: Generalfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Depicted place North Africa Date 1942 Collection German Federal Archives
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-785-0296-25, Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif".jpg引用。


写真(右)1942年,北アフリカ、トブルク近郊、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" のコンパートメントのドイツ・アフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps:DAK)司令官エルウィン・ロンメル元帥が部下の将兵と話をしている。:コンパートメント上部の柵は、アンテナを兼ねている。
Photographer Koch Nordafrika, vor Tobruk.- Generalfeldmarschall Erwin Rommel im leichten Schützenpanzer Sd.Kfz. 250/3 "Greif"; PK "Afrika" Title Nordafrika vor Tobruk, Rommel Die ersten Bilder vor Tobruk. Im Festungsgürtel von Tobruk spricht Generaloberst Rommel mit einigen seiner tapferen Soldaten. [herausgegeben am ] 22.6.42 PK-Aufnahme: Kriegsberichter Koch (HH) Depicted people Rommel, Erwin: Generalfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Depicted place Nordafrika vor Tobruk Date June 1942 Accession number Bild 146-1991-031-25A
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1991-031-25A, Nordafrika vor Tobruk, Rommel.jpg"引用。


第二次世界大戦に参戦したイタリアが、1940年9月に北アフリカの植民地キレナイカCyrenaica:リビア東部)のイタリア軍は、イギリス属国エジプトへ侵攻した。しかし、イギリス軍に撃破され、北アフリカを失う恐れが濃厚になった。そこで、ドイツ軍の「アフリカ軍団」が派遣され、イギリス軍の攻撃を防いだ。その後、エジプト国境エルアラメインEl Alamein)まで進撃したが、再びイギリス軍に押し返され、1943年5月に,フランス・ヴィシー政府Vichy France)のチュニジアにまで後退して降伏した。

写真(右)1942年,北アフリカ、リビア、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" のコンパートメント左側面上部とドイツ・アフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps:DAK)司令官エルウィン・ロンメル(Erwin Rommel)元帥:防盾付きのモーゼル7.92mmMG34機関銃が装着されている。コンパートメント上部の柵には、アンテナコード線が設置されている。
Photographer Tannenberg Nordafrika.- Generalfeldmarschall Erwin Rommel im leichten Schützenpanzer Sd.Kfz. 250/3 "Greif"; PK "Afrika" Title Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif" Info non-talk.svg Depicted people Rommel, Erwin: Genera-lfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Depicted place North Africa Date 1942 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-785-0271-13A
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-785-0255-09, Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif".jpg"引用。


1941年2月12日に、北アフリカのトリポリに空路到着したロンメルは、イタリア北アフリカ軍司令官イータロ・ガリボルディ大将(グラツィアーニ元帥の後任)とともに、北アフリカ戦線で、エジプトを本拠とするイギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍を撃破し、1942年6月22日に元帥に昇進した。

写真(右)1942年,北アフリカ、リビア、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" のコンパートメントのドイツ・アフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps:DAK)司令官エルウィン・ロンメル(Erwin Rommel)元帥:防盾付きのモーゼル7.92mmMG34機関銃が装着されている。コンパートメント上部の柵は、アンテナを兼ねている。
Photographer Otto Nordafrika.- General-feldmarschall Erwin Rommel im leichten Schützenpanzer Sd.Kfz. 250/3 "Greif"; PK "Afrika" Title Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif" Rommel, Erwin: General-feldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Depicted place North Africa Date August 1942 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-786-0313-21
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-786-0313-21, Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif".jpg"引用。


写真(右)1942年8月,北アフリカ、リビア、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮軽装甲車 Sd.Kfz. 250/3「グライフ」 "Greif" の前方左側面とコンパートメントのドイツ・アフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps:DAK)司令官エルウィン・ロンメル(Erwin Rommel)元帥:防盾付きのモーゼル7.92mmMG34機関銃が装着されている。コンパートメント上部の柵は、アンテナだが、折り畳み式で伏せることができる。
Photographer Moosmüller Nordafrika, Generaloberst Erwin Rommel im leichten Schützenpanzer Sd.Kfz. 250/3 "Greif"; PK "Afrika" Title Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif" Info non-talk.svg Depicted people Rommel, Erwin: Generalfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118602446) Depicted place North Africa Date 1942 Collection German Federal Archives Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-785-0255-09
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-785-0255-09, Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif".jpg"引用。


写真(右)1942年,北アフリカ戦線,ドイツ軍アフリカ軍団の半装軌式無線指揮装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3 "Greif"); 戦闘室にいるのは、アフリカ軍団の指揮官エルヴィン・ロンメル将軍で、彼の無線指揮装甲車の固有名詞が「グライフ"Greif"」(グリフィン)である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-784-0249-02A Archive title: Nordafrika.- Generalfeldmarschall Erwin Rommel im leichten Schützenpanzer Sd.Kfz. 250/3 "Greif"; PK "Afrika" Dating: 1942 Origin: Bundesarchiv.
Photographer: Valtingojer, Klemens 撮影。Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivの提供したWikimediaCommons:"File:Bundesarchiv Bild 101I-784-0249-02A, Nordafrika, Rommel im Befehlsfahrzeug "Greif".jpg"引用.


写真(右)1942年,北アフリカ戦線、ドイツ軍アフリカ軍団の半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 250の無線装備車輛とIII号戦車(あるいはIV号戦車)
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-784-0241-01 Archive title: Nordafrika.- Zwei Soldaten in leichtem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250) mit Ferngläsern, beobachten; PK Afrika Dating: 1942. 
Photographer: Moosmüller撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-784-0241-01"引用。


写真(右)1942年6月-1943年2月,北アフリカ、チュニジア,ドイツ軍用車に乗るロンメル元帥と参謀のフリッツ・バイエルライン。西側連合軍から鹵獲したアメリカのM3兵員輸送用ハーフトラックと後続する半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz. 251):フリッツ・バイエルライン Fritz Bayerlein中佐は、1941年10月にエルヴィン・ロンメルのドイツ・アフリカ軍団参謀長に任命された。1942年4月、大佐に昇進、1942年12月、アフリカ装甲軍参謀長に就任。1943年3月に少将に昇進。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1990-071-31 Old signature: Bild 146-1974-095-05 Original title: info Generalfeldmarschall Rommel PK-Seinig Archive title: Tunesien, Tunis.- Generalfeldmarschall Erwin Rommel (mit Marschallstab grüßend) und Oberstleutnant Fritz Bayerlein, im Auto stehend, bei Vorbeifahrt an motorisierten Truppen, u.a. Soldaten in erbeutetem amerikanische Halbkettenfahrzeug M3 (Personnel Carrier, Half-track M3); nach Juni 1942 - Febr. 1943 Dating: 1942/1943 ca. Photographer: Seinig撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。



5.1944年東部戦線のドイツ陸軍の半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz. 250)

写真(右)1943-1944年,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍半装軌式装甲車Schützenpanzer (軽装甲車Sd.Kfz. 250と中型装甲車Sd.Kfz. 251):兵員室上部前方には防楯付き機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-088-3712-08 Archive title: Sowjetunion.- leichte und mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250 neu und Sd.Kfz. 251) in Dorf; PK 670 Dating: 1943/1944
Photographer: Etzhold 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3711-10A"引用。

1943年初頭、スターリングラードで包囲、孤立していたドイツ第六軍は降伏し、ドイツは大敗北を喫したが、ドイツ軍はコーカサス(カフカス)地方に派遣していた軍を撤退させ、1943年夏には、ソ連赤軍の突出部を挟撃する 「ツィタデレ作戦」(クルスク戦車戦)を仕掛けた。しかし、事前にドイツ軍の反撃を予期していたソ連赤軍は、陣地を構築しドイツ軍の攻勢を跳ね返すことに成功した。

 1943年8月、一度は奪還していた、ハリコフが陥落し、ドイツ軍はソ連南部、ポーランドと接するウクライナへと撤退せざるを得なくなった。マンシュタイン指揮する南方軍集団は、農産物、地下資源に恵まれたウクライナを防衛しようとしたが、1943年9月26日、ソ連隻軍はウクライナの大都市キエフに対する攻勢を開始した。

写真(右)1944年1月,ロシア南部(ウクライナ)、東部戦線、ドイツ軍の半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/1)。車体兵員室前部に防楯付きのMG34機関銃を搭載している。右には、トレンチコートを着たドイツ軍歩兵の一団が歩いている。
Inventory: Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-711-0446-21A Archive title: [Rußland-Süd (Ukraine).- leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/1) neben Infanterie auf unbefestigter Straße; PK KBZ HGr Nordukraine Dating: Januar 1944.
Photographer: Schulz 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory: Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-711-0446-21A"引用。

ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 250/3)前期型は、大型フレームアンテナを装備し、支柱のように見せかけ指揮車であることを偽装していた。車体は、初期のA型では複雑な傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期のC型になると、より単純な形状にあらためられた。戦闘室には無線機を備えた。フロントに搭載されているエンジンは、マイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジン(ディーゼルではない)。そして、アンテナは樹木状の新型に改変された。

写真(右)1944年3-4月,ソ連の東部戦線中部、ドイツ軍の半装軌式無線指揮装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/5 Ausf. B, le.Beob.Pz.Wg.)。戦闘室で、測距儀、砲隊鏡(はさみ式測距双眼鏡:Scherenfernglas)など砲兵用の観測機材を操作するドイツ兵士。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-667-7130-39 Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Soldat im Innenraum eines leichten Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/5 Ausf. B, le.Beob.Pz.Wg.) an SF14Z Scherenfernglas; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1944 März - April.
Photographer: Hoepner 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-111-1800-10"引用。

火砲による射撃をするには、敵の発見、目標までの距離・射撃角度の測量、砲兵への指示が必要である。その際、砲隊鏡(鋏式測距双眼鏡:Scherenfernglas)は、光学距離測定器の一種で、敵の発見、目標までの距離・射撃角度の測量、砲兵への指示などに使われる。左右の双眼V字型望遠鏡で目標までの距離や角度を計測する。鋏式なのは、双眼鏡の視点が離れることでより正確に距離が測定できるからである。

 しかし戦場で、迅速な測定や直接射撃が求められる場合、誤差は多少大きくなっても、短時間で測距しなければならず、その際は、双眼鏡の視点が近くにあった方が都合がよい。

 また、銃弾や砲弾の破片が飛び交う戦場では、視界を得るために高い位置から観測すると、被害を受けやすいい。そこで、砲隊鏡は潜望鏡式になっていて、双眼鏡部分だけ高い位置にして、観測者は遮蔽物に隠れていることが有利である。

 つまり、鋏式砲隊鏡にして、2点間の距離を自由に調節でき、潜望鏡のように観測者を下にとどめたままで操作できる構造を採用している。砲隊鏡(はさみ式測距双眼鏡:Scherenfernglas)は、戦場で有用な観測機材である。測距、観測用機材を搭載した半装軌式観測装甲車Schützenpanzer)は、突撃砲部隊、砲兵部隊で重宝された。

写真(右)1944年6-7月,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍の半装軌式無線指揮軽装甲車Sd.Kfz. 250/3 Ausf.B戦闘室には大型の高性能無線を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-155-2132-37 Archive title: Sowjetunion.- Soldaten auf leichtem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/3 Ausf.B, Nr. 102, mit Notek Tarnscheinwerfer) stehend, Soldat mit Signalkelle winkend; PK 689 Dating: 1944 Juni - Juli . 
Photographer: Hoffmann 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-155-2132-37"引用。


半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251車体は、初期のA型では複雑な多面体の傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期のC型になると、より単純な形状にあらためられた。D型では、車体脇の荷物収容だなと車体が一体化されいっそう単純な形状となった。

半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251のエンジンは、車体前方フロントに、マイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジン(ディーゼルではない)を搭載している。

 1944年1月、ドニエプル川近隣で、ソ連赤軍第1ウクライナ方面軍(司令官ニコライ・ヴァトゥーチン)、第2ウクライナ方面軍(司令官イワン・コーネフ)によって、ドイツの南方軍集団(司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン)5.5万名が包囲された。マンシュタイン元帥は、8個師団を投入して、包囲されたドイツ軍を救出しようとチェルカッスィ戦コンスル包囲戦)を戦った。戦いをを決行を包囲することに成功した。そこで、包囲殲滅される前に、ドイツ軍部隊は包囲を突破する作戦を実施し、包囲された兵力の半数を脱出させることができた。

写真(右)1944年,北欧(ノルウェー・フィンランド)戦線、ドイツ軍の半装軌式無線指揮甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/5 Funkwagen) 。後部の戦闘室に備えられた無線電話(無線機は初期型がFuG8、後期型はFuG12)を操作する兵士。右側には、MG42機関銃が格納されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-111-1800-10 Archive title: Norwegen, Lappland, Finnland.- Soldat und Unteroffizier mit Fernsprechausrüstung (Feldtelefon) im Inneren eines leichten Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/5; Funkwagen) in einem Wald; PK 680 Dating: 1944 .
Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-111-1800-10"引用。

24口径75mm砲搭載 戦闘室前方に短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)は、第二次世界大戦初期からIV号戦車、III号突撃砲に装備された火砲で、対戦車戦闘ではなく、榴弾による歩兵火力支援に用いられた。

 しかし、歩兵の火力支援は戦車ではなく、突撃砲や装甲車で代用さたため、戦車にはより長砲身の7,5センチ砲が搭載された。そこで、余剰となっていた短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)を半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)に搭載した火力支援装甲車(Sd.Kfz. 251/9 (Stummel) )を開発し火力支援に充てるようになった。


6.イタリア戦線のドイツ軍半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz.250)

写真(右)1943年,イタリア配備されたドイツ軍の半装軌式観測軽装甲車Schützen-panzer (Sd.Kfz. 253)とVWシュビムワーゲンSchwimm-kübe-lwagen。:車体後部に民間乗用車を載せているが、イタリアで鹵獲した車両のようだ。ドイツ軍半装軌式観測軽装甲車 (Sd.Kfz. 253)は、初期のA型で複雑な傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期のC型になると、より単純な形状にあらためられた。搭載しているエンジンは、マイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジン(ディーゼルではない)。半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250)の車体を利用しているため戦闘室は半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)よりかなり狭くなっているが、その分、重量が軽減でき、機動性が高い。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-305-0674-32A Archive title: Italien.- leichter Schützenpanzer Sd.Kfz. 253 mit aufgesetztem Zivilauto; PK 699 Dating: 1943.
Photographer: Schmidt 撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-651-5638-22A"引用。

1943年7月24日、久しく開かれていなかったファシズム大評議会Grand Council of Fascism)が招集されたが、ここでファシスト党幹部ディーノ・グランディDino Grandi)らは、総帥ベニート・ムッソリーニBenito Mussolini )首相を罷免し、政権を国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世Vittorio Emanuele III di Savoia)に返還することを決めた。翌日25日、ムッソリーニはサボイア朝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世Vittorio Emanuele III di Savoia)国王に解任された。

 1943年8月にイタリアのシチリア島を占領した西側連合軍は、9月3日にイタリア半島の南端に上陸、続いて9月9日にサレルノに上陸した。この時、既にベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を追放していたピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍指導のイタリア新政府は、西側連合軍との秘密交渉しており、サレルノ上陸と同時に休戦を表明した。ドイツ軍は、イタリア新首相ピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍の裏切りを予測しており、事前に部隊を派遣しており、即座にイタリア軍を武装解除した。そして、アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)元帥の指揮下にイタリア半島の防衛を強化した。

写真(右)1944年初頭,イタリア配備されたドイツ軍降下猟兵部隊の半装軌式装甲車Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/1)とVWシュビムワーゲンSchwimm-kübe-lwagen。:この半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250/1)は初期のA型で、複雑な形状の傾斜装甲板装甲板(8 - 15 mm厚)で覆われている。半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250/1)の車体後方の兵員室は半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251/1)より狭く、4名ほどしか乗車できない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-651-5638-22A Archive title: Italien.- VW-Schwimmkübel-wagen auf einer Landstraße an zwei leichten Schützen-panzern (Sd.Kfz. 250/1) vorbeifahrend; PK EinsKp Lw zbV Dating: 1944 Anfang.
Photographer: Sprotte 撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-651-5638-22A"引用。

 イタリア新首相ピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍は、連合国に降伏したが、イタリアでの戦闘はドイツ軍が続けることになった。そして、ドイツ軍はバドリオ政権側によってグランサッソの山荘に監禁されていたベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を救出し、ドイツ傀儡のイタリア社会共和国サロSalo政権)を樹立させた。イタリア防衛を任されたドイツ軍指揮官アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)元帥は、防衛線を強化し、イタリアを北上する西側連合軍も、主要戦線と認められなかったために、遅々としていた。

 1944年初頭にモンテカッシーノ(Monte Cassino)のドイツ軍防衛線に達した西側連合軍は、そこで膠着状態に陥り、romani進軍できなかった。そこで、1944年1月22日、ローマ南方、アンツィオAnzio)に上陸したが、直ぐにはドイツ軍アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)の築いた防衛線を突破できず、モンテカッシーノ戦線と同じく、アンツィオAnzio)戦線でもは膠着状態に陥った。西側連合軍が、モンテカッシーノを突破すべく大攻勢をかけたのは、1944年5月で、同月後半には、アンツィオAnzio)戦線にも攻勢をかけた。こうして、1944年6月4日、西側連合軍は、イタリア首都ローマを攻略し、8月11日にフィレンツェ(フローレンス)を占領することができた。

写真(右)1944年3月,イタリア配備されたドイツ軍半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251( 路外) とSd.Kfz. 250(路上)。対空偽装のために樹木を車体の上に置いている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature:Bild 101I-311-0940-08 Archive title: Italien, bei Nettuno.- Leicht getarnte Schützenpanzer im Gelände auf offenem Feld (Sd.Kfz. 251) und auf Landstraße (Sd.Kfz. 250); PK 699 Dating: März 1944
Photographer: Koch撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-311-0940-08"引用。

 1945年1月、西連合軍はゴシック線を突破、連合軍の進撃に勝利を予期したイタリア人パルチザンは一斉蜂起し、ドイツ軍とともに脱出しようと企図したベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を愛人クラーラ・ペタッチClara Petacci)と共にとらえた。ムッソリーニは、裁判にかけられる予定だったが、ムッソリーニ傀儡政権のパルチザン狩りを憎悪していたパルチザンの一派によって虐殺された。そして、かつて処刑されたパルチザンが吊るされたミラノのロレート広場に面したガソリンスタンドの支柱に吊るされた。


7.第二次大戦末期のドイツ軍の半装軌式装甲車

写真(右)1944年6月,フランスあるいはベルギー(フランドル)、西側連合軍への反抗、西部戦線に備えるドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/5)とパンツァーヴェルファー:後方の「パンツァーヴェルファー」は、トラックの後輪部分を簡易に改造して造られたハーフトラックで、車体後部に、15センチロケット弾(ネーベルヴェルファー:Nebelwerfer)を2段上下5発合計10発搭載する自走砲。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-300-1859-21 Archive title: Frankreich / Belgien (Flandern).- Leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/5) mit Notek Tarnscheinwerfer und 15-cm-Panzerwerfer 43 in Fahrt durch eine Ortschaft; PK 698 Dating: Juni 1944.
Photographer: Speck 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-300-1859-21"引用。

武装親衛隊第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」12th SS Panzer Division Hitlerjugend)は、徴兵前のヒトラーユーゲント(Hitlerjugend)の16歳から18歳の未成年から選抜されたドイツ青年を主要メンバーとする機械化部隊で、ドイツ陸軍とは本来別個の指揮系統にある親衛隊に所属していた。武装親衛隊第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」の編成は、1943年6月から17歳、18歳のドイツ人青年を対象に開始され、ベルギー、フランスにおいて訓練がなされた。

写真(右)1944年6月,フランスあるいはベルギー(フランドル)、西側連合軍への反抗、西部戦線に備えるドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/5)とパンツァーヴェルファー:後方にある「パンツァーヴェルファー」は、トラックの後輪部分を簡易に改造して造られたハーフトラックで、車体後部に、15センチロケット弾(ネーベルヴェルファー:Nebelwerfer)を2段上下5発合計10発搭載する自走砲。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-300-1859-10 Archive title: Frankreich / Belgien (Flandern).- Leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/5) mit Notek Tarnscheinwerfer und 15-cm-Panzerwerfer 43 in Fahrt durch eine Ortschaft; PK 698 Dating: Juni 1944.
Photographer: Speck 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-300-1859-10"引用。

ノルマンデー侵攻「オーバーロード」作戦Operation Overlord)の支作戦としてトータライズ作戦(Operation 'Totalise')で、ドイツ陸軍の第7軍装甲軍と第5装甲軍をファレーズ南方で包囲した。8月7日夜、イギリス空軍の四発重爆撃機による地上支援爆撃の後、装甲歩兵が進撃し、クルト・マイヤーKurt Meyer:1910-1961)准将が指揮する第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」と戦った。「ヒトラーユーゲント」装甲師団は1926年生まれ、1943年時点で16歳あるいは17歳のドイツの少年を徴収した少年戦車師団だった。8月10日、ファレーズ北まで進撃したもののファレーズを占領することはできなかった。

写真(右)1944年夏,フランス、西側連合軍のノルマンディ侵攻に直面したドイツ軍の7.5センチ24口径砲装備の装備の半装軌式火力支援装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz 250/8)。連合軍の航空兵力、特に戦闘爆撃機(ヤーボ)による地上襲撃によって大きな被害を受けたドイツ陸軍は、生き残りをかけて、念入りな対空偽装や迷彩塗装を施している。Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-722-0416-02 Archive title: Frankreich.- Fahrzeuge, u.a. Sd.Kfz 250/8 und mit Zweigen getarnte PKW auf einer Straß e in einer Ortschaft; PK KBZ Ob West Dating: 1944 Sommer.
Photographer: Wörner 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-722-0416-02"引用。


1944年6月6日,西側連合軍がフランス、ノルマンディー海岸に上陸。その直後の6月13日、ノルマンディーのカーン南西15キロメートルで、ヴィレル・ボカージュの戦いBattle of Villers-Bocage)が起きた。これは、内陸に侵攻してきたイギリス軍がドイツ軍と衝突した戦闘で、イギリス第7装甲師団第8王室ロイヤル・アイリッシュ騎兵連隊(スチュアート軽戦車配備)、第7女王ロイヤル連隊、第5王立戦車連隊(シャーマン中戦車配備)などは、ドイツ武装SS第101重戦車大隊と装甲教導師団と衝突した。

1944年7月9日、イギリス軍は北フランス、ノルマンディーの要衝カーンCaen)を占領し、7月17日にカーンの南方向に進撃するグッドウッド作戦を開始した。、これに対応するアメリカ軍の攻撃計画がは7月25日に始まったコブラ作戦である。この作戦でドイツ軍の防衛線を突破し、ドイツ軍をファレーズFalaise)のポケット地帯に包囲することができた。

写真(右)1944年6月17日,北フランス、西側連合軍のノルマンディ侵攻で空襲を受けて破壊されたドイツ軍の半装軌式軽装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz 250):連合軍の航空兵力、特に戦闘爆撃機(ヤーボ)による地上襲撃によって大きな被害を受けたドイツ陸軍は、生き残りをかけて、念入りな対空偽装や迷彩塗装を施している。
THE BRITISH ARMY IN NORMANDY 1944 Catalogue number: B 5653 Department: Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War Alternative namesobject name: Official photograph object category: Photography CreatorNo 5 Army Film & Photographic Unit Midgley, A. N. (Sergeant).
Object description: A wrecked German SdKfz 250 half-track in the village of Christot, 17 June 1944. Associated places: Cristot, Calvados, France 撮影。 写真は Imperial War Museum から"B 5653"引用。Wikimedia Commonsにも同じ写真が所収されている。


ドイツ軍の半装軌式救急装甲車 (Sd.Kfz 251/8 Ambulance)の原型は兵員輸送装甲車Sd.Kfz.251で、野用の患者輸送・救急車を目的に、車体後方の戦闘室にあったベンチを負傷兵8名、看護兵1-2名を収容する看護室とし、重症患者を輸送する場合は、ベンチを上方に上げて、担架として利用できる病床(ベッド)を設けた。看護室には、担架を収納しており、これを二段ベットとして設置すれば、重症患者4名を収容できた。

半装軌式救急装甲車 (Sd.Kfz 251/8 Ambulance)の乗員は3名、非戦闘の救急車両として、赤十字の扱いを受けるために、機関銃など兵装は全く備えないのが普通である。Sd.Kfz.251/8救急装甲車は、半装軌式兵員輸送装甲車 (Sd.Kfz 251)のA型、B型、C型、D型の全ての派生型がある。

 1944年8月7日夜、イギリス空軍のランカスター四発重爆撃機Avro Lancaster)による地上支援爆撃の後、装甲歩兵が進撃し、クルト・マイヤーKurt Meyer:1910-1961)准将が指揮する第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」と戦った。「ヒトラーユーゲント」装甲師団は1926年生まれ、1943年時点で16歳あるいは17歳のドイツの少年を徴収した少年戦車師団だった。

 西側連合軍は、パリ解放に兵力を投入し、第二次世界大戦の末期、1944年8月25日のパリ解放Liberation of Paris)後には、市民生活回復のために大量の補給物資を必要とするようになった。こうして、連合軍のドイツ本土への攻撃力は分散され、鈍ってしまった。
 それでも、1944年9月4日にベルギーの要衝アントワープの解放Liberation of Antwerp)を達成し、オランダへの空挺作戦を軸とするマーケットガーデン作戦Operation Market Garden)を、9月17日から開始し、ドイツ本土侵攻を企図した。

写真(右)1944年9月,オランダ、アルンハイム、パラシュート降下してきた西側連合軍空挺部隊を、車体前上部の防楯付きMG42機関銃で迎え撃つドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250):後方には、降下してきた西側連合軍兵士が投棄したパラシュートがかかっている。
Inventory:Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 101II-M2KBK-771-28 Archive title: Niederlande, Oosterbeek, Dreijenseweg.- Schlacht um Arnheim.- Schützenpanzer Sd.Kfz. 250 im Einsatz; PK M2KBK Dating: September 1944
Photographer: Höppner, Willi.撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101II-M2KBK-771-28"引用。


アイントホーフェン、ナイメーヘンなどにイギリス軍の空挺師団を降下させたが、後続すべき地上部隊の進撃が遅かった。また、オランダに駐留していたドイツ陸軍も反撃したため、連合軍の攻勢は停滞し、オランダ諸都市を解放することには成功したものの、ドイツ中枢部のライン、ルール工業地帯を占領することはできなかった。

 1944年9月17日、オランダへの空挺降下作戦を基軸とするマーケットガーデン作戦Operation Market Garden)の指揮を執ったのは、1944年9月1日に元帥Field Marshal)に昇進したバーナード・モントゴメリー(Bernard Montgomery)である。

写真(右)1944年9月,オランダ、アルンハイム、降下してきた西側連合軍空挺部隊を防楯付きMG42機関銃で迎え撃つドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250):後方には投棄されたパラシュートが見える。
Inventory:Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 101II-M2KBK-771-29 Archive title: Niederlande, Oosterbeek, Dreijenseweg.- Schlacht um Arnheim.- Schützenpanzer Sd.Kfz. 250 im Einsatz; PK M2KBK Dating: September 1944
Photographer: Höppner, Willi.撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101II-M2KBK-771-29"引用。


第二次世界大戦の後期、1944年9月17日、オランダ中部、ドイツとの国境地帯へ空挺部隊を降下させるマーケット・ガーデン作戦Operation Market Garden)が開始された。

1944年9月17日、マーケットガーデン作戦Operation Market Garden)では、第一に、空挺部隊(3個空挺師団)によるベルギー・オランダの交通要衝の橋を確保する手はずになり、大規模な降下作戦が実施された。

  写真(右)1944年9月,オランダ、アルンハイム、降下してきた西側連合軍空挺部隊を迎え撃つドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250)。車体前上部には防楯を付きのMG42機関銃が装備されている。前方には、パラシュートがかかっている。
Inventory:Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 101II-M2KBK-771-30 Archive title: Niederlande, Oosterbeek, Dreijenseweg.- Schlacht um Arnheim.- Schützenpanzer Sd.Kfz. 250 im Einsatz; PK M2KBK Dating: September 1944
Photographer: Höppner, Willi.撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101II-M2KBK-771-30"引用。

 マーケットガーデン作戦Operation Market Garden)は当初は順調で、1944年9月18日、アメリカ第101空挺師団(US 101st Airborne Division)は、オランダのアイントホーフェンを解放し、住民は広場にこぞってダンスをするほどだった。翌19日には、イギリス第30軍団(British XXX Corps)がグレーヴを確保しネイメーヘンに迫ったものの、降下した空挺部隊と合流できず、ネイメーヘンを確保することも困難だった。こうして、連合軍は、兵力が分散してしまった上に、ドイツ軍の反撃は素早かった。
 また、連合軍空挺部隊の装備は軽火器のみであり、連合軍地上部隊が進撃してくる前に戦車や対戦車砲を備えたドイツ軍によって掃討されてしまう危険があった。

 1944年9月24日、ドイツ軍の戦車を投入した反撃に抗しきれず、連合軍はマーケット・ガーデン作戦を中止し、前線から離れた地点に降下していたイギリス第1空挺師団は撤退することになったが、ドイツ軍に阻まれて、多数の損害、捕虜を出した。

写真(右)1944年9月,オランダ、アルンハイム、降下してきた西側連合軍空挺部隊を撃破したドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250)。車体後方の左側に扉がある。周囲には西側連合軍の兵士の投げ捨てたパラシュートがかかっている。
Inventory:Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 101II-M2KBK-771-31 Archive title: Niederlande, Oosterbeek, Dreijenseweg.- Schlacht um Arnheim.- Schützenpanzer Sd.Kfz. 250 im Einsatz; PK M2KBK Dating: September 1944
Photographer: Höppner, Willi.撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101II-M2KBK-771-31"引用。

ドイツ本土への西側連合軍の本格的な侵攻は、1945年に入ってからと遅れた。そのために、ソ連赤軍によるベルリン攻略に余裕を与え、戦後のドイツ分割統治において西側は大きな不利益を被ることになった。このように、ドイツ心臓部への攻撃が遅れた理由は、次の2点が指摘できる。

1)1944年9月17日に開始されたオランダ中部への空挺部隊降下を中心とするマーケット・ガーデン作戦Operation Market Garden)が不調であったこと、
2)1944年12月17日にドイツ軍の「ラインの守り作戦」によるアルデンヌ侵攻・バルジの戦いで大きな損害を被り、ドイツへの侵攻に慎重になったこと、

 マーケットガーデン作戦Operation Market Garden)による連合軍の侵攻を喰いとめたものの、1944年9月には、ドイツに保護を求めて亡命してくるフランス・オランダ・ベルギーの対独協力者、北フランス・ベルギー戦線で疲労困憊して退却してくるドイツ軍兵士が、アーヘンに退却してきていた。そこで、アーヘン住民は戦局の悪化、故郷が破壊されることへの不安を募らせていった。

第二次大戦緒戦でドイツが併合したフランス領ストラスブルクのナチ党指導者は「一番困るのは敗走してきた兵士の撒き散らす噂話だ。−退却してきた兵隊たちが民衆をひどく不安にさせている」と1944年9月初めに報告し、同様の報告がケルンからナチ党本部にも送られている。

 1944年9月10日、アーヘンを視察した親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、党・軍の幹部と民衆に向かって「敵軍は決してアーヘンに到達できない。市民の一斉避難は全く問題にならない」と演説したが、コートニー・ホッジス将軍指揮下のアメリカ第一軍は,9月11日にドイツ国境に達し、9月12日には、アーヘン突入を試みた。

⇒Album:ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251:ハーフトラックを見る。


8.現存するドイツ軍の半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz.250)

写真(右)2013年9月、ロシア連邦、モスクワ郊外、クビンカ戦車博物館に展示されているドイツ陸軍半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd. Kfz. 250/1): 隣に1941年に登場したドイツ軍小型装軌式オートバイケッテンクラート(Kettenkrad)が並んでいる。
Description Deutsch: Tank Museum, Kubinka Date 1 September 2013, 10:56:38 Source Own work Author Hornet Driver
写真はWikimedia Commons のCategory:SdKfz 250/1 Alte in the Kubinka Tank Museum File:Sd Kfz 250 in the Kubinka Tank Museum.jpg引用。

 ドイツ軍の配備したSd.Kfz. 251は、装甲師団に随伴して、歩兵10名を輸送可能な兵員輸送用の装甲車。ドイツのハノマーク社が3トン半装軌車 (Sd.Kfz. 11) をベースに1937年から開発し、A型は1939年6月から生産開始。B型/C型を大幅に簡易化し生産工数を減らして量産を容易にしたのがD型で、1943年9月から生産開始。半装軌式指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251)は1万5,000輌も大量生産されたが、アメリカ陸軍のM3ハーフトラックとは異なり、前輪駆動ではないために、不整地における機動性能は若干低かった。M3ハーフトラックは総計5万3,000輌とドイツ軍Sd.Kfz. 251の3倍以上も量産されている。

写真(右)2017年8月、ロシア連邦、モスクワ郊外、クビンカ戦車博物館に展示されているドイツ陸軍半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd. Kfz. 250/1):車体側面のスペースを利用して工具収納スペースが設けられているが、これは装甲として防御力の向上に繋がっている。奥に1942年末に登場したドイツ陸軍V号戦車ティーガーが並んでいる。
German WW2 era Half-Track Armoured Personel Carrier Official designatin:- Sonderkraftfahrzeug (Sd.Kfz.) 250 Manufacturer:- DEMAG Built:- 1941 to 1945 Total production:- 6,628. This is the standard troop carrier variant of this light Half-Track, which was employed on all fronts throughout WW2 and for a variety of purposes. On display in Hall 10 of the Patriot Museum Complex. Park Patriot, Kubinka, Moscow Oblast, Russia. 25th August 2017 Date 25 August 2017, 11:54 Source Sd.Kfz.250/1 - Patriot Museum, Kubinka Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons のCategory: SdKfz 250/1 Alte in the Patriot Museum Complex, Kubinka File:Sd.Kfz.250-1 - Patriot Museum, Kubinka (26553360669).jpg引用。

ドイツ軍は第二次世界大戦で兵力の機動力を高めるため1tハーフトラックをベースに軽装甲のボディを装備してSd.Kfz.250装甲兵員輸送車が開発された。1941年から生産が開始され、戦時中、車体形状を簡略化した量産型が1943年から終戦まで生産された。 当初から、Sd.kfz250兵員輸送車だけではなく、多様なタイプが生み出されている。その中でも、Sd.Kfz.222装甲車と同じ2cmKwK30機関砲装備の開放式全周砲塔を搭載したのが、Sd.Kfz.250/9偵察装甲車である。その後、新型車体を流用したB型が開発され、既存のSd.Kfz.234/1の大型砲塔を搭載した。主な活動戦域は、対ソ連東部戦線で、250/9は機動性を活かして、Sd.Kfz222の後継車種となり、敗戦まで使用され続けた。

写真(右)2017年8月、ロシア連邦、モスクワ郊外、クビンカ戦車博物館に展示されているドイツ陸軍半装軌式偵察装甲車Schützenpanzer (Sd. Kfz. 250/9):四輪装甲車が実用化していた2cmKwK30機関砲装備の開放式全周砲塔を搭載し、攻撃力を強化した。車体側面のスペースを利用して工具収納スペースが設けられているが、これは装甲として防御力の向上に繋がっている。奥に1942年末に登場したドイツ陸軍V号戦車ティーガーが並んでいる。
German WW2 era Half-Track Armoured Personel Carrier Official designatin:- Sonderkraftfahrzeug (Sd.Kfz.) 250 Manufacturer:- DEMAG Built:- 1941 to 1945 Total production:- 6,628. This is the standard troop carrier variant of this light Half-Track, which was employed on all fronts throughout WW2 and for a variety of purposes. On display in Hall 10 of the Patriot Museum Complex. Park Patriot, Kubinka, Moscow Oblast, Russia. 25th August 2017 Date 25 August 2017, 11:54 Source Sd.Kfz.250/1 - Patriot Museum, Kubinka Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons のCategory: SdKfz 250/9 Neu in the Kubinka Tank Museum/A> File: SdKfz 250 in the Kubinka Tank Museum.jpg引用。

写真(右)2013年9月、フランス、メーヌ=エ=ロワール県ソミュール市、ソミュール戦車博物館 (Musée des Blindés)に展示されているドイツ陸軍半装軌式偵察装甲車Schützenpanzer (SdKfz 250/9 Ausf. A):II戦車、四輪装甲車がソ搭載していた2cmKwK30機関砲装備の開放式全周砲塔を搭載し、指揮と偵察に使用した。
Français : SdKfz 250/9 Ausf. A du Musée des Blindés de Saumur. Date 23 August 2008, 16:04:16 Source Own work Author Duch.seb
写真はWikimedia Commons のCategory: SdKfz 250/9 Ausf. A in the Musée des Blindés File:Sd Kfz 250 in the Kubinka Tank Museum.jpg引用。

写真(右)2006年9月、セルビア、ベオグラード、軍事博物館に展示されているドイツ陸軍60口径5 cm PaK 38 (L/60) 対戦車砲搭載の半装軌式装甲車Schützen-panzer(SdKfz 250? Ausf.B):III戦車後期型に搭載された対戦車砲を搭載したが、量産型の装甲車を現地で大幅に改修し、装軌部分の車輪配置、ボンネット部分の形状など、原型とは大きく異なっている。現地改造車であるが、ベースはSdKfz 250軽装甲車ではなく、SdKfz 251装甲車の可能性がある。
Description SdKfz.250 - Sfl 5cm Pak 38 L/60, Belgrade Military Museum, Serbia. Date Uploaded to the english wikipedia at 18 September 2006. Author Marko_M Permission (Reusing this file) Uploaded to the english wikipedia as GFDL-self
写真はWikimedia Commons のCategory: Sonderkraftfahrzeug 250 Neu armoured halftrack in the Belgrade Military Museum File:SdKfz-250.jpg引用。

ドイツ軍の60口径5 cm PaK 38(L/60)対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)は、第二次世界大戦直前、1938年にドイツのラインメタル社が既存の3.7 cm PaK 36対戦車砲の発展型として開発に着手した対戦車砲である。ただし、既にドイツ再軍備宣言前の1935年にラインメタルでは、5 cm PaK 37対戦車砲の開発を開始しており、この制式されなかった火砲の貫徹力、操作性の向上を企図した。第二次大戦勃発後に完成した5 cm PaK 38対戦車砲は、1940年から量産が開始され、1943年後半に口径の7.5cmPak40対戦車砲に更新されるまでに、9,568門が量産されている。

写真(右)2006年9月、セルビア、ベオグラード、軍事博物館に展示されているドイツ陸軍 60口径5 cm PaK 38(L/60)対戦車砲搭載の半装軌式装甲車Schützen-panzer(SdKfz 250 Ausf.B?):III戦車後期型に搭載された対戦車砲を搭載した自走砲として使用された。ただし、車体後半の装軌の車輪配置、エンジン収納ボンネット部分の形状は、原型とは大きく異なっている。車体側面の収納スペースの形状から後期型がベースになっている。
SdKfz-250, Belgrade Military Museum, Serbia. Author of the picture is user Marko M.   Date 2 September 2006 (according to Exif data) Author No machine-readable author provided. Marko M~commonswiki assumed (based on copyright claims).
写真はWikimedia Commons のCategory: Sonderkraftfahrzeug 250 Neu armoured halftrack in the Belgrade Military Museum File:SdKfz250 001.jpg引用。

60口径5 cm PaK 38(L/60)対戦車砲の諸元
重量:1,000 kg (2,200 lb)
全長Length 4.75 m (15.6 ft)
砲身長Barrel length 300 cm (120 in) bore (60口径)
全幅Width 1.85 m (6 ft 1 in)
全高Height 1.05 m (3 ft 5 in)
操作要員Crew 5名
弾薬Shell 50×419mm R
弾薬重量Shell weight 2.25 kg (4 lb 15 oz)
口径Caliber 50 mm (2.0 in)
装弾Action 半自動Semi-automatic
砲口初速Muzzle velocity 550-1,130 m/s (1,804-3,707 ft/s)
最大射程Maximum firing range 2,700 m (3,000 yd)

写真(右)2012年4月、セルビア、ベオグラード、軍事博物館に展示されているドイツ陸軍60口径5 cm PaK 38(L/60)対戦車砲搭載の半装軌式装甲車Schützen-panzer(SdKfz 250 Ausf.B?):III戦車後期型に搭載された対戦車砲を搭載したが、量産型の装甲車を現地で改修した改造車である。装軌部分の車輪配置、ボンネット部分の形状は大きく変更されて、原型とは異なっている。もしかするとSdKfz 250軽装甲車ではなく、SdKfz 251装甲車をベースに現地で改造したのかもしれない。
Türkçe: SdKfz panzerwagen Date 23 April 2012, 11:08:33 Source Own work Author Vikiçizer
写真はWikimedia Commons のCategory: Sonderkraftfahrzeug 250 Neu armoured halftrack in the Belgrade Military Museum 引用。

 西側連合軍は、1943年8月にイタリアのシチリア島Sicily)を攻略、9月3日にイタリア半島南端に上陸するとともに、9月9日にはローマ南郊外のサレルノ(Operation Avalanche)に上陸したが、これに合わせてバドリオ将軍のイタリア新政府は、降伏した。イタリアの裏切りを予測していたヒトラーは、直ちに、イタリア派遣ドイツ軍にイタリア軍の武装解除を行わせた。そして、ケッセルリンク元帥を指揮官とするドイツ軍にイタリア半島を防衛させた。

  写真(右)2008年7月、セルビア、ベオグラード、軍事博物館に展示されているドイツ陸軍対戦車砲搭載の半装軌式装甲車Schützen-panzer(SdKfz 250 Ausf.B?):III戦車後期型に搭載された対戦車砲を搭載したが、ドイツ軍から鹵獲した半装軌装甲車を現地で改修した自走砲。装軌部分は、原型では千鳥足型で内輪と外輪が交互に組合わせられた複雑な構造だったが、車輪は単純にな配列に変更されている。
Description Српски / srpski: 0 Date 7 July 2008 (original upload date) Source Transferred from sr.wikipedia to Commons. Author The original uploader was Aleksej fon Grozni at Serbian Wikipedia.
写真はWikimedia Commons のCategory: Sonderkraftfahrzeug 250 Neu armoured halftrack in the Belgrade Military Museum File:Sd.Kfz. 250 - Belgrade.jpg引用。

写真(右)2015年8月、セルビア、ベオグラード、軍事博物館に展示されているドイツ陸軍60口径5 cm PaK 38(L/60)対戦車砲対戦車砲搭載の半装軌式装甲車Schützen-panzer(SdKfz 250 Ausf.B?):III戦車後期型の対戦車砲を搭載した。量産型の装甲車を現地で改修した改造車だが、原型はドイツ軍から鹵獲した半装軌装甲車であっても、その装軌部分の車輪個数からみて、ベースになったのはSdKfz 250軽装甲車ではなく、SdKfz 251装甲車だった可能性も残る。
English: Sonder-kraftfahrzeug 250 Neu armoured halftrack in the Belgrade Military Museum Date 25 August 2015, 12:35:08 Source Own work Author Jklamo
写真はWikimedia Commons のCategory: Sonderkraftfahrzeug 250 Neu armoured halftrack in the Belgrade Military Museum File:Sonderkraftfahrzeug 250 Belgrade Military Museum.JPG 引用。

イタリア戦線で戦ったドイツ軍降下猟兵の主力は、第1降下猟兵師団で、イタリア南部のサレルノ(Salerno)からターラントまでの連合軍上陸予想地点に配備された。そして、イタリアを北進するイギリス陸軍モントゴメリー将軍指揮下の第8軍をローマの南のグスタフ線Gustav Line)で迎え撃った。また、激戦となった1944年前半のモンテカッシーノMonte Cassino)の防衛線にも投入されている。また、1943年3月に編成されたドイツ軍第2降下猟兵師団もイタリア戦線に派遣された。そして、沿いの防衛任務に就いた。1943年9月9日には、ローマのイタリア陸軍を武装解除し、ローマがバドリオ政権側勢力を排除した。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
アンネの日記とユダヤ人
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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