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◆ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III 写真(右):1942年,イギリス軍が鹵獲したドイツ軍III号突撃砲C型あるいはD型(Sturmgeschütz III Ausführung C /D)24口径7.5センチ砲を装備。1941年から就役した歩兵火力支援用の突撃砲だったが、戦争後期には、対戦車戦闘にも投入されるようになった。1942年4月,南方方面軍によって,スターリングラード,カフカスを攻撃する「ブラウ」作戦にも参加している。
English: German Sturmgeschütz III Ausf C/D assault gun. Date 2 January 1942 Source Imperial War Museums 。写真は,Imperial War Museums GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR/Catalogue numberSTT 4461/File:StuG III Ausf C-D.jpg引用。


写真(上)1944年6月4日、フィンランド、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型初期型の行進を閲兵する。
;戦闘室上面には、防盾付き機関銃が1丁装備されている。反革命・反ボリシェビキ・自由の象徴で青衛軍以来の伝統あるカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体前面下部に描いている。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118127引用


写真(上):ロシア連邦、サラトフ州、、サラトフ戦勝博物館(Saratov Military Glory Museum)に保管展示されているドイツ軍のIII号突撃砲G後期型Sturmgeschütz III :48口径7.5センチ戦車砲を装備。III号突撃砲は戦争前から終戦まで1万輌とドイツ戦車(突撃砲・駆逐戦車を含む)の中では最多生産を誇る。
Description Русский: Самоходная артиллерийская установка Date 7 September 2016, 17:15:17 Source Own work Author Vla-chuprakov
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung G in the Saratov Military Glory MuseumFile:- STUG III -.jpg引用。

『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。ナチ党の初期のポスター、社会民主党の反ナチポスターから、投票所の写真なども掲載しています。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールにゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


1.III号戦車 Pz.Kpfw III −47口径3.7センチ砲から60口径5センチ砲へ

47口径3.7cm戦車砲(KwK36:携行弾数120発)のIII号戦車Pz.Kpfw. III )D型は、最大装甲15ミリ、1938年1-6月に30両生産。III号戦車Pz.Kpfw. III )C型のサスペンションを改良し、D型では第1、第4ボギーの支持位置を車体中央に移動したため、C型の水平配置のリーフ・スプリングは、サスペンションに垂直に作動するハ字型の配置に変更。変速機はC型の前進5段、後進1段から、D型では前進6段、後進1段に改良された。1939年当時、47口径3.7cm戦車砲搭載の戦車であれば,ポーランド軍を圧倒できた。



ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車,チェコ38t戦車もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。またI号戦車を改造した歩兵支援あるいは対戦車自走砲も製造された。

ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径、3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

写真(右):1940年夏,フランス、イギリス侵攻「アシカ(シーライオン)作戦」準備のため潜水戦車仕様とされた42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車:潜水戦車仕様のIII号戦車写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101II-MW-5675-29, Übungen mit Panzer III für Unternehmen Seelöwe.jpg引用。

第二次世界大戦で機動力を重視したIII号戦車を投入したドイツ陸軍の難題が、イギリス海峡を越えて英国本土進攻作戦を実施することがった。戦車が海峡を越えるには、船舶や艀に乗せて運搬するのが一般的だが、奇襲効果を上げるために、III号潜水戦車が考案された。1935年に開発されたIII号戦車は1937年にIII号戦車A型として採用されたが、1940年にイギリス本土侵攻作戦。「あしか作戦」に投入するために、海峡を潜ってイギリスに上陸できるIII号潜水戦車が計画された。北フランスから、イギリス海峡の海底を越えて戦車をイギリス本土に上陸させるために海底を潜水した状態で走行する戦車である。

 III号戦車に防水措置・水密加工を施したIII号潜水戦車は、エンジンの吸気・換気システムを海面上まで伸ばしたゴムパイプあるいは筒状のシュノーケルで行うもので、水深15メートル程度は潜水走行できた。「あしか作戦」は中止されたため、イギリス海峡越えには投入されていないが、1941年6月22日、対ソビエト連邦侵攻バルバロッサ作戦に投入され、国境のブーク川を潜水走行して対岸のソ連領に侵攻した。

ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三軍集団あった。

北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。

中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。  

◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。
これは過激な表現のプロパガンダではなく,本心だった。

1942年1月23日,ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。


チェコ38(t)戦車の38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。チェコスロバキアを併合したドイツがスコダ社で生産していたチェコスロバキア軍の戦車を,ドイツ軍も引き続き第一線で使用した。38tはチェコのシュコダ社の設計,生産になる戦車で,tはチェコを意味する。チェコは,大戦勃発前にドイツに占領されたため,シュコダ社の戦車・火砲などは,ドイツ軍のために生産が続行された。

◆ドイツ軍司令官は弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。戦開始の時期には,ドイツ陸軍はIII号戦車,IV戦車を主力として,ソ連軍戦車よりも優れていると考えていた。しかし,戦車の数量は劣っていることが判明していたので,生産コストの高い回転砲塔を持つ戦車ではなく,突撃砲,自走砲(砲戦車)を装備して,戦車を補助あるいは歩兵支援を充実させようとした。

1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。

III号戦車の主砲は,それまでの2センチ砲より強力な3.7センチ砲で,射程1000メートルで30mmの装甲を貫徹できた。これは,当時の戦車を撃破できる威力があった。しかし,開発から5年後の1940年5月のフランス侵攻では,47口径の3.7センチ砲では英陸軍マチルダ戦車,フランス陸軍ソミュアS-35戦車の装甲には不十分だった。

 弾丸と薬莢とからなるカートリッジCartridge)が砲弾である。カートリッジCartridge)は、日本では、実包(じっぽう)あるいは弾薬筒(だんやくとう)と呼ばれる。

 弾丸は、古来、球形の鉛製であり、これと火薬を銃身に仕込んで、火薬を燃焼させて、発射していた。これが500年間も続いた銃(gun)である。19世紀になると、第一に、銃身の内側に螺旋状の溝、すなわちライフルRifling)が採用された。ライフルは、日本では施条(しじょう)あるいは腔綫(こうせん)と呼ばれる。発射された弾丸を、回転させて弾道を安定化させ、飛翔距離を長くすることができた。第二に、弾丸が球形から円錐形・紡錘形のミニエー弾(ミニ弾)がフランスで開発された。南北戦争のゲッチスバークの戦いで、ライフル銃とミニ弾が使用され、南軍に1万名の死傷者を出した。第三が、金属製薬莢によって、弾丸と薬莢が一体化されたことである、南北戦争後、弾丸と金属製薬莢を一体化したカートリッジの採用が一般化した。第四に、1880年代に黒色火薬から無煙火薬に転換したことである。ニトログリセリンを使った無煙火薬によって、弾丸の砲口初速は秒速300メートルから、600メートルに高速化した。無煙火薬で発射された弾丸は、煙が出ないので、弾道が視認できなかったので、マグネシウムを仕込んだ曳光弾を5発に1発混ぜて弾道を目視確認できるようになった。弾丸のサイズが大きくなれば、発射に必要な火薬も多く必要で、破壊力も大きくなる。

III号戦車H型Pz.Kpfw III Ausf.H)は、重量21.6t、乗員5名で、初期型は42口径5センチ戦車砲5cm KwK 38 L/42を、後期型は60口径5センチ戦車砲5cm KwK 39 L/60)を搭載している。

III号戦車H型Pz.Kpfw III Ausf.H)の諸元
全長5.41m、全幅2.95m、全高2.44m
重量21.6t、乗員5名
42口径5センチ戦車砲50 mm KwK 38 L/42 または60口径5センチ戦車砲50 KwK 39 L/60を搭載。
50 mm KwK 38 L/42の徹甲弾PzGr (Armour Piercing)は重量 2.06 kg、砲口初速 685 m/s
貫通力:距離100 mで55 mm、500 mで46 mm、1000 mで36 mm、1500 mで28 mm
車体前面装甲 30+30 mm、車体側面・砲塔 30mm
動力 マイバッハMaybach HL 120 TR 12気筒液冷ガソリンエンジン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最高速度40km/h(整地)、18 km/h(不整地) 航続距離165km
1940年10月から1941年8月までに300両製造。

III号戦車F/G型が搭載した38年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm KampfWagenKanone 38)は、徹甲弾PzGr (Armour Piercing)の重量2.06 kg、砲口初速 685 m/sで、貫通力は射程距離100 mで55 mm、500 mで46 mm、1000 mで36 mm、1500 mで28 mm厚の装甲を撃破できる。

1943年1月14日から10日間、連合国首脳はモロッコでカサブランカ会談Casablanca Conference)を開いて、枢軸国に対する無条件降伏の要求を基本方針とした。

1943年5月13日、西側連合軍は、チュニジアTunisia)の枢軸国軍25万人を降伏させ、ドイツ軍、イタリア軍は北アフリカから完全に駆逐された。

III号戦車とIII突撃砲は、ドイツ敗戦まで生産が続けられ、合計1万5,000龍輌が完成したが、これはドイツ軍戦車の中で最多生産を誇っている。

ドイツは、1941年4月のギリシャ侵攻、ユーゴ鎮圧などバルカン半島での作戦うぃ従事したために、1941年5月に計画していたソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の発動が、予定よりも1カ月間も遅延した。その結果、モスクワ侵攻が遅れ、1941年中に占領することはできなくなった。

1941年4月,ユーゴスラヴィアに反独クーデターが勃発,三国同盟を無視するかのように,ソ連と友好不可侵条約を結んだ。1941年4月6日,ドイツ軍は即座に,ユーゴスラヴィアに侵攻,4月13日,1週間でユーゴは降伏。

この同時期の1941年4月,日本の松岡洋右外相がベルリンからの帰路、モスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を締結した。ソ連は,いずれ英国が敗れれば,ドイツがソ連を攻撃してくると予測していたから,極東アジア方面での日本軍によるソ連侵攻を警戒していた。そこで,ドイツを牽制するためにり、日ソ中立条約を結び、日本とソ連が結んだ領土保全と不侵略を相互に約束した。

 ソ連指導者スターリン自らが松岡洋右外相をモスクワの駅頭に送ったのはその成果に満足し、独日双方との同盟、すなわち独ソ不可侵条約日ソ中立条約を締結したソ連の安泰を世界に誇示したかったからだった。

1941年6月22日,ドイツ国防軍は,ブレスト北方でブーク川を越えるのに,?号戦車,?号戦車に,シューノーケルを装備した潜水戦車80両を投入した。これは,渡河作業の手間を掛けずに対岸にわたることができる画期的な発明だった。

写真(右)1941年8月,ソ連でブロックを乗り越えようとして動けなくなったドイツ軍42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)装備のIII号戦車G/F型:ドイツ軍は,航空機事故や車両事故などを調査し,対策を組織的にとろうとした。そこで,事故写真を撮影することを旨としていた。現在では当然の措置だが,70近く年前の戦時中に,律儀に調査方針を守っていたようだ。戦車の登坂能力,実戦における運用の参考となるように,資料を集めていた。
戦車のキャタピラの下に差し込まれた木の板や丸太は,戦車を救出しようとしたものであろう。普段見ることのできない,戦車車体上面の様子がよくわかる。砲塔のハッチの淵が高くなっているのは,展望式ハッチで,周囲が砲塔内部から見渡せるようになっているためである。戦車長が周囲を観測しながら前進したが,視野が狭いので,通常の行軍には,ハッチから身を乗り出している。
Ein Panzer brach über einer Brücke ein zw. Bug u. Dnjepr Archive title: Vormarsch zum Dnjepr.- eingebrochener Panzer III Dating: August 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ドイツ軍のIII号戦車J型は,設計に変更を加えて本来は搭載の予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソ連の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時III号戦車に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 39)を搭載することを要求していた。

しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をIII号戦車に搭載することに消極的だった。

独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になっても、III号戦車には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。

1940年夏以降,ドイツ軍戦車にも長砲身60口径5センチ砲が装備された。しかし,実戦参加が遅れ,重装甲,76.2ミリ砲装備のT-34戦車より劣っていた。ドイツ軍の戦車は,決して強力な攻撃力・防御力を持っていたわけではないく、戦車の集団用法,戦意旺盛な機械化歩兵、強力な砲兵部隊、そして地上支援の直接協力をした空軍を組み合わせた電撃戦によって大きな戦果を収めたのである。

独ソ戦当時,ドイツ軍戦車の主力は,新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)だった。この中戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径,3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。

写真(右)1942年初期,ソ連(?)、「ヘルマンゲーリング」装甲師団の長砲身60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型第23号車。戦車の塗装が真新しいように見えるので、部隊配備されたばかりなのであろうか。ヒトラーの護衛部隊の発展した「ライプシュタンダルテ・アドルフヒトラー」と同様に、ゲーリングの護衛部隊から発展したのが、「ヘルマンゲーリング」装甲師団。対フランス戦、ロシア東部戦線、北アフリカ戦、イタリア戦線と各地に派遣されている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-639-4268-10 Archive title: Reichsgebiet / Ostfront (?).- Regiment (mot.) "Hermann Göring" (später Panzer-Division "Hermann Göring"). Ausbildung, Panzersoldat mit Fernglas im Panzerturm eines Panzer III (Turmnummer: 23); Eins Kp Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Nowak撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年夏,ソ連南部ドン川=スターリングラードを進む南方軍集団所属のIII号戦車J型:60口径5センチ戦車砲を装備して対戦車戦闘能力を向上させたタイプ。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-218-0528-06 Archive title:Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III(Sd. Kfz. 141); PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Thiede撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 ・Bild101I-218-0528-06引用(他引用不許可)。


III号戦車(Pz Kpfw III)G型からJ型では、砲塔に42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を装備し、携行砲弾数は99発あった。III号戦車は、全幅が小さく大直径のターレットを設けることができなかった。そこで、大型砲塔が搭載できず、搭載火砲の口径は5センチが限界であり、短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)ですら搭載困難だった。

1941年6月にソ連に侵攻したドイツ軍は3.7センチ砲搭載の初期型III号戦車(Pz Kpfw III)の威力不足を痛感した後になって、やっと5センチ砲へとIII号戦車の火砲攻撃力を強化した。しかし、5センチ砲搭載のIII号戦車が登場した1942年には、既にソ連軍はT-34戦車を大量に前線配備しており、III戦車がT-34戦車に有効な反撃をすることは困難になっていた。

 III号戦車(Pz Kpfw III)は,1941年から本格的な主力戦車配備され,3.7センチ砲を搭載していた。開発当初は,42口径5センチ砲を搭載していたが,ヒトラーは対戦車戦闘能力を重視し,さらに長砲身の60口径砲を搭載するように指示した。しかし,陸軍当局は,重量増加による機動性低下を嫌い,42口径砲のまま量産してしまう。60口径砲への転換が始まったのは,1941年4月にヒトラーが命令無視を知って以降である。

1941年の独ソ戦当初から,5センチ砲装備のIII号戦車(Pz Kpfw III)では,ソ連赤軍のT-34戦車やKV-1重戦車に対抗できず圧倒された。
しかし,4号戦車強化型(43口径7.5センチ砲搭載)の量産が十分ではなく,後継戦車となるはずのV号戦車「パンテル」の開発は遅れ,VI号戦車「ティーゲル」の量産も進展しなかった。1943年になっても,依然としてIII号戦車が第一線に配備され続けた。

独ソ戦の勃発1年たってIII号戦車Panzerkampfwagen III)が装備していた戦車砲は,47口径あるいは60口径5センチ砲で、ソ連軍に比較するとドイツ軍戦車の対戦車戦闘能力は低かった。
スターリングラード攻防戦ではソ連軍のT-34戦車KW-1重戦車に対抗できず,8.8センチ高射砲などの火砲や航空支援を受けながら戦った。戦車の集団用法,空軍による地上援護と組み合わせた電撃戦により,ソ連軍を奇襲,撃破できたのである。

III号戦車G-J型の搭載砲は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)で、砲弾99発を携行できた。後方には、大量の覆帯(キャタピラー)がとぐろを巻いて積まれている。大型砲が搭載不可能なIII号戦車(Pz Kpfw III)は、1943年には生産が中止された。そして、III号戦車の車体を改造した7.5センチ戦車砲搭載のIII号突撃砲の量産に資源、労働力を集中することになった。

写真(右)1942-1943年,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の長砲身60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60) を搭載したIII号戦車J/L型(Panzer III):戦車の全面には三段にもわたって覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-610-1979-23 Archive title: Sowjetunion.- Panzer III passiert auf dem Marsch eine sandige Dorfstraße; PK KBK Lw zbV Dating: 1942 Photographer: Henkels 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 ドイツ軍のIII号戦車J型は設計に変更を加えて、搭載予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソ連の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時III号戦車に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 39)を搭載することを要求していた。

しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をIII号戦車に搭載することに消極的だった。

 独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になってもIII号戦車Panzerkampfwagen III)には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。

III号戦車Panzerkampfwagen III)を改造して,歩兵に随伴して火力支援する突撃砲があった。これはIII号戦車の砲塔を取り去った車台上に,戦闘室を設けて短砲身24口径7.5センチ砲を搭載し,対戦車戦闘能力を向上したものである。

写真(右)1943年6-7月,ソ連,東部戦線中央南部、ドイツ陸軍III号戦車L型。砲塔周囲と車体の側面にツェルツェン(防御板)を装備している。ここに成形炸薬弾(ホローチャージ)が命中した場合、この装甲版で爆発し、砲塔内あるいは車体内に爆風・火炎が吹き込まないで済む。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-219-0595-03 Archive title: Sowjetunion, Mitte/Süd.- Kolonne von Panzer III mit Turm- und Seitenschützen auf freiem Feld; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Origin: Bundesarchiv
写真はWikimedia Commons ・ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-219-0595-03, Russland-Mitte-Süd, Panzer III.jpg引用。

III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)は、60口径5センチ砲を搭載したIII号戦車Panzerkampfwagen III)のL型、M型の車体をベースにして、無理に24口径7.5センチ砲(7.5 cm KwK 37 L/24)に変換した末期、最終型のIII号戦車N型

1942年6月から1943年8月に600両が生産された。

 III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)が登場した背景には、
?III号戦車の60口径5センチ砲では対戦車戦闘能力が低く、火力支援にも不十分だったこと
1942年後半からIV号戦車の24口径7.5cm戦車砲KwK37搭載型の威力不足から、対戦車戦を重視した43口径7.5cm戦車砲KwK40への変換が進み、従来の24口径7.5cm戦車砲KwK37の在庫の利用が望まれたこと
の2点が指摘できる。

III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)は、火力支援に有効と判断され、新編成の重戦車部隊にも配備された。ティーガーIを装備した重戦車大隊も、戦力を補強するために、多数が配属されている。

しかし、III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)は、おなじIII号戦車Pz.Kpfw III)の車体をベースに、43口径7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲よりも劣っていたため、1943年8月には製造中止となった。その代り、対戦車戦闘にも、火力支援にも使用可能なIII号突撃砲が、III号戦車の車体を利用して大量生産された。強力な長砲身7.5センチ砲を装備するIII号突撃砲は1万両も量産される。

24口径7.5cm戦車砲KwK37の生産は廃止されたわけではなく、第二次大戦後半では、III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2以外にも、八輪重装甲車、ハーフトラックに広く搭載されるようになり、火力支援に活躍する。

写真(右):ウクライナ共和国、キエフ、ウクライナ国防大学National Defense University of Ukraine "Ivan Chernyakhovsky"に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車G型 PzKpfw III/G:42口径5cm戦車砲搭載で対戦車戦闘能力は高くなかったため、ソ連軍T-34戦車に対抗できなかった。
Description Українська: Panzerkampfwagen III на майданчику Національного університету оборони України в Києві 19 April 2016, 08:13:10 Source Own work Author Pavlo1
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank Museum・File: PzKpfwIII, Kyiv (3).JPG引用。


III号戦車Pz.Kpfw III)は、後期型になって60口径5センチ戦車砲を搭載し、砲塔や車体前面には、リベットで追加装甲を施している。これは、対戦車戦闘能力を攻撃力、防御力の双方から向上させようとした措置だった。しかし、北アフリカ戦線では、M4シャーマン戦車の75ミリ砲、東部戦線ではソ連軍T-34戦車の76.2ミリ砲による攻撃を受け、苦戦した。結局、III号戦車は、第二次大戦後半には、対戦車戦闘には不向きであるとされ、火力支援のために若干が24口径7.5センチ砲搭載のN型が生産されたものの、1943年中に製造は中止されてしまう。

ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州にあるミュンスターには、戦前からドイツ軍の教育施設があり、現在もドイツ連邦軍の訓練・演習施設がある。ミュンスター戦車博物館には、第二次世界大戦のドイツ軍戦車として、I号戦車、II号戦車、III号戦車、IV号戦車、V号戦車パンター、VI号戦車ティーガーIIが保管展示されている。

ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州にあるミュンスター戦車博物館には、第二次世界大戦のドイツ軍自走砲として、I号戦車、II号戦車改造のヴェスペ10.5cm自走砲、III号戦車改造のIII号突撃砲、IV号戦車改造のフンメル 150mm自走砲、IV号戦車改造のIV号駆逐戦車、VI号戦車改造のシュトルムティーガーが保管展示されている。

III号戦車Pz.Kpfw III)A-F型は47口径3.7 cm KwK 36(120発)、G-J型は42口径5 cm KwK 38(99発)を搭載している。しかし、1943年に入ると明らかに攻撃力不足で、III号戦車の生産は1943年8月に終了している。これ以降は、III号戦車は、車体を活かしてIII号突撃砲としてのみ生産が続けられた。

ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州にあるミュンスター戦車博物館には、第二次世界大戦の連合軍車両として、アメリカ軍のM4A1シャーマン戦車、イギリス軍のコメット巡航戦車、ソ連赤軍のT-34/76中戦車、T-34/85中戦車が保管展示されている。

ドイツ軍のIII号戦車の発動機は、マイバッハ HL 120 TRM 4ストロークV型12気筒ガソリンエンジン 300 馬力 (221kW)を搭載、エンジンは車体後部に設置されているが、前輪駆動である。トーションバー式サスペンション(懸架)で、最高速度は40 km/h(整地)あるいは19 km/h(不整地)、航続距離150 kmである。

写真(右):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車N型 PzKpfw III/\N:III号戦車N型は、IV号戦車前期と同じ24口径7.5cm戦車砲を搭載した火力支援用の戦車。
Description Description Sd Kfz 141/2 Panzerkampfwagen III Ausf N Date 18 April 2010, 13:40 Source Sd Kfz 141/2 Panzerkampfwagen III Ausf N Uploaded by tm Author Simon Q from United Kingdom
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank MuseumFile: Sd Kfz 141 2 Panzerkampfwagen III Ausf N (4536025923).jpg引用。


 24口径7.5cm戦車砲を搭載した火力支援用のドイツ軍のIII号戦車N型は、トーションバー方式サスペンションを備えて、車体長5.5mで転輪は片側6個である。これに対して、IV号戦車は車体長5.9mで転輪8個なので識別できる。懸架方式(サスペンション)も、III号戦車がトーションバー式、IV号戦車がリーフスプリング式ボギーで異なっている。しかし、形状は似通っているので、III号戦車N型はIV号戦車と誤って錯覚してしまうほど似ている。

III号戦車は、IV号戦車よりも若干小型で、搭載砲は当初3.7センチ戦車砲、次いで5センチ戦車砲で対戦車戦闘を念頭に置いた。他方、IV号戦車は、7.5センチ砲を搭載して、火力支援を行うことを任務としていた。両戦車とも懸架(サスペンション)方式・スプリングは、不整地走行時の衝撃吸収の役割があるが、III号戦車はトーションバー式、IV号戦車は板バネ式でバネ(スプリング)が異なる。

 トーションバーは、車体床面に設置して金属棒の捩りを使うスプリングで、板バネは転輪と車体の間を板状の金属で繋ぐスプリング。バネを使って、揺れや振動を吸収するのが目的。戦車側面の転輪は、III号戦車はトーションバー式では一輪ずつ独立して作動するが、IV号戦車は板バネ式ではニ輪一組で作動する違いがである。他方、M4シャーマン戦車は、リーフスプリング式で、金属の板を重ねたサスペンションであった。より単純なサスペンション、すなわちコイルスプリング(バネ)もある。


2.III号突撃砲 Sturmgeschütze III −24口径7.5センチ砲搭載の初期型

3.7センチ砲を装備していたIII号戦車Pz.Kpfw.III(Sd. Kfz. 141)は,1941年後半,ソ連軍T-34に対抗するために,60口径5センチKw.K.39 L/60,その後1942年末から長砲身43口径7.5センチStuK40L/43に換装した。しかし,T-34戦車には,この程度の対戦車戦闘能力では通用しなかったため,生産中止。車体は,対戦車戦可能な突撃砲として1万台も量産された。

写真(右):1941年10月,ソ連に侵攻するドイツ軍のIII号突撃砲StuG III と装甲車:歩兵に火力支援する突撃砲は,III号戦車の車台上に,短砲身24口径7.5センチStuK37L/24榴弾砲を搭載し,ソ連軍の抵抗を排除しながら,市街地のメインストリートを走る。
An der Sowjetfront: Deutsche Sturmgeschütze und Panzerspähwagen fahren in den Hauptstrassen umher, um etwa aufflackernden Widerstand niederzukämpfen. PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Mittelstaedt 10133-41 "Fr." "Fr.OKW" Okt.41 Archive title: Charkow.- Sturmgeschütz III und leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) in Straße Dating: Oktober 1941 Photographer: Mittelstaedt, Heinz Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用他引用不許可)。


第二次大戦初期、防衛線を突破できるだけの火力、装甲、機動力を備えた歩兵直協支援装甲戦闘車輌として開発されたのが、III号突撃砲である。III号突撃砲は、III号戦車の砲塔を撤去し、シャーシに前面50mm、側面30mmの装甲を持つ固定密閉式の大型戦闘室を設けて、そこに初期のIV号戦車と同様の短砲身24口径7.5cm戦車砲を搭載した。

写真(右):1942年6-7月,ソ連に侵攻するドイツ軍のIII号突撃砲StuG III :
Sowjetunion, deutsches Sturmgeschütz auf dem Marsch über staubige Straßen; PK 689 Dating: 1941 Juni - Juli.写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


歩兵に火力支援する突撃砲は,III号戦車の車台上に,短砲身24口径7.5センチStuK37L/24大口径榴弾砲を搭載。火力は戦車よりも大きかった。1940年のフランス侵攻作戦にも,III号突撃砲は参加している。

その後,1942年以降,ソ連軍T-34に対抗するために,長砲身 43口径7.5センチStuK40L/43を搭載,装甲を厚くした対戦車戦可能な突撃砲となった。1940年から敗戦まで1万両生産された。

写真(右)1941年6月-7月,ソ連侵攻,砂埃を巻き上げて突進するドイツ陸軍III号突撃砲B/C/D型StuG III :24口径7.5センチ砲を装備した火力支援のための戦車。
Sowjetunion, deutsches Sturmgeschütz auf dem Marsch über staubige Straßen; PK 689 Dating: 1941 Juni - Juli Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


 量産初期型のIII号突撃砲B型は、1940年6月から翌年5月までに250輌が生産され、1941年4月のバルカン侵攻作戦、1941年6月のバルバロッサ対ソ侵攻作戦に投入された。配属された突撃砲大隊では、歩兵支援任務を第一とするが、ソ連軍戦車相手の戦闘が頻繁に起こるために、III号突撃砲は歩兵支援よりも対戦車戦闘を優先する装甲車両として利用されるようになった。そこで、搭載する戦車砲を短砲身24口径から長砲身48口径に強化した戦車砲を搭載するG型が開発された。

写真(右)1941年7月,バルバロッサ作戦に参加したドイツ軍の自動車部隊とIII号突撃砲B/C/D型Panzer III (Sd.Kfz. 141) :旧式化したIII号戦車の砲塔を取り除き,密閉式の戦闘室に短砲身7.5センチ砲を搭載した歩兵支援戦闘車両。機械化された歩兵をドイツ軍は,猟兵と呼称した。24口径7,5センチ砲を搭載した火力支援車輛だが、III号戦車が無用の存在になったために、1945年の敗戦まで生産された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-136-0883-27 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa". Mit Buschwerk getarnte Sturmgeschütze III in Fahrt, deutscher Soldat mit Spaten vor Auto (Cabriolet); PK 689 Dating: Juni 1941 Photographer: Cusian, Albert 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放固定式の大型戦闘室を設け,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。

写真(右):1942年9月,ソ連、中部,ドイツ軍の24口径7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲C/D型StuG III :装甲を施した自走砲は,突撃砲と呼ばれたが,戦車の代用として,敵陣地の突破や対戦車戦闘に参加した。車高の低い車体は,隠匿性が高く,陣地攻撃のときにも,正面の標的面積が小さく,有利だった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-140-1212-04A Archive title: Rußland-Mitte.- Soldaten auf Sturmgeschütze III beim Halt in einer Ortschaft; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November Photographer: Götze 撮影。
写真は,Wikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・Bundesarchiv Bild 101I-140-1212-04A, Russland-Mitte, Sturmgeschütze III in Ortschaft.jpg引用(他引用不許可)。


ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三個の軍集団,320万人,戦車3500両,火砲7000門が投入された。

突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。

ドイツのソ連侵攻2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)

写真(右):1942年9月,スターリングラードに進撃するIII号突撃砲C/D型StuG III
Kampf um Stalingrad. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Schröter-Altvater (Sch) o.Nr. "Fr" OKW "Fr.f.D." Sept. 42 [Herausgabedatum] Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Sturmgeschütz III (StuG III) Dating: September 1942 Photographer: Schröter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


搭載している短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24 は,歩兵への火力支援用だが,戦闘室は密閉されてい,全高が低いために,防御力も高かった。そこで,前線に歩兵などとともに突撃する火砲として,突撃砲と呼ばれた。したがって,歩兵支援を前提としたものだったが,対戦車戦闘能力もあった。

写真(右):1942年9月,ソビエト連邦の南部,スターリングラード戦のドイツ軍のIII号突撃砲C/D型(Sturmーgeschütze III) と歩兵:ドイツ軍歩兵と突撃砲は,スターリングラード中心部や工業地域の攻撃をした。突撃砲の車体の上には,携行ガソリンタンク,予備の転輪,ワイヤー,棒などが置かれている。
An der Sowjetfront: Infanterie vor Stalingrad.- Infanterie und Sturmーgeschütze in der Bereitstellung zum Angriff auf die Höhe 102 zwischen dem Stadtzentrum und dem Industrieviertel Barikady. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Herber (Sch) 5317-42 "Fr. Fr. OKW" September 1942 [Herausgabedatum] Archivtitel: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Infanteristen neben Sturmgeschütz III (StuG III) Datierung: September 1942 Fotograf: Herber Agentur: Scherl Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ヒトラー卓上談話(ヒトラーのテーブル・トーク)
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。

1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。ロシアの湿地帯にユダヤ人の奴等を置き去りにはできないなどと言ってくれるな。わが部隊の心配を誰がするというのか。われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。
-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。現時点でいたずらに問題を増やしても意味はない。時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。

写真(右):1942年9月,ソビエト連邦の南部,スターリングラードの戦いに加わるIII号突撃砲C/D型StuG III:装甲を施した自走砲は,突撃砲と呼ばれたが,戦車の代用として,敵陣地の突破や対戦車戦闘に加わることが多かったためである。車高の低い車体は,対戦車戦闘のとき,陣地攻撃のときにも,正面の標的面積が小さく,有利だった。
An der Sowjetfront: Kampf um Stalingrad.- Die ersten Sturmgeschütze dringen in das hartumkämpfte Stalingrad ein. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Gebauer (Sch) 5263-42 "Fr. Fr. OKW" September 1942 [Herausgabedatum] Archivtitel: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad, Datierung: September 1942, Fotograf: Gebauer, Agentur: Scherl, Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ドイツ軍の電撃作戦に投入されたIII号突撃砲B型(Sd.Kfz.142)は短砲身24口径の戦車砲を搭載し、車高を低く抑えたため、正面面積が少なく、敵から発見されにくい上に、敵弾に当たりにくい。車体上部にハッチがあり、車体には前照灯、発煙装置が装備され、フェンダー上には装備品類を格納できる。エンジンデッキには、メッシュカバー付き、側面に吸気グリルが一体成型されており。点検ハッチ類も整っている。

写真(右)1942年10-11月,ソ連中部、クレーンを使って車体を持ち上げて、覆帯(キャタピラ)を修理しているドイツ軍のIII号突撃砲C/D型(Sturmgeschütz III):III号戦車の砲塔を撤去して、車体上面に大きな戦闘室を設けそこに短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-274-0452-26 Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Reparatur eines Panzer III mit Kran; PK 697 Dating: 1942 Oktober - November Photographer: Lassberg撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-274-0452-26.引用(他引用不許可)。


ニュルンベルク法が,ユダヤ人を宗教による分別したとの俗説があるが,宗教や国籍ではなく,人種的特長,歴史を踏まえて,祖先がユダヤ人だったことを基準にしている。このような恣意的な区分は,ドイツの敵となりうる人間,潜在的な敵性住民,人種汚染を排除するため定められた。敵を排除し,ドイツ人の種族保全のために,ユダヤ人を排除したのである。

ドイツ国防軍将兵は,対ソ戦"バルバロッサ作戦"(Unternehmen Barbarossa) の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。

しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。 

写真(右):北アフリカ戦線でイギリス軍に鹵獲されたIII号突撃砲C/D型 StuG III Ausf C/Dの記録写真:
Catalogue number STT 4461 Department Photographs Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War
Object description StuG III Ausf C/D Label German Sturmgeschü tz III Ausf C/D assault gun.
写真はImperial War Museum STT 4461引用。


III号突撃砲C/D型(Sturmgeschütz III)諸元
全長:  5.40m
全幅:  2.95m
全高:  1.96m
全備重量:22t
乗員:  4名
エンジン:マイバッハHL120TRM V型12気筒液冷ガソリンエンジン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最高速度: 路上40km/h
航続距離: 165km
武装:    24口径7.5cm戦車砲 (携行砲弾数44発)、7.92mmMG34機関銃 (携行銃弾数600発)
装甲:   10〜50mm

写真(右):北アフリカ戦線でイギリス軍に鹵獲されたIII号突撃砲C/D型 StuG III Ausf C/Dの記録写真:
Catalogue number STT 4459 Department Photographs Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War
Object description StuG III Ausf C/D Label German Sturmgeschü tz III Ausf C/D assault gun.
写真はImperial War Museum STT 4459引用。


ヒトラーは,戦争当初から対戦車戦闘で有利な長射程の長砲身5センチ砲を装備するように命じていた。

しかし,保守的なドイツ参謀本部は,対戦車戦闘には3.7センチ砲で十分だと考えていた。実際,1941年まで,対戦車砲も3.7センチ砲だった。チェコのスコダ社やフランス軍は既に47ミリ対戦車砲を開発していたから,ドイツ軍の対戦車兵器は弱体だった。


3.III号突撃砲 Sturmgeschütze III −43口径7.5センチ砲搭載

1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していた英国,米国は即座にソ連支援を公言した。それまでのチャーチル英首相の関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことだった。

チャーチル英首相は,独ソ戦の勃発に,英国の危機が遠のいたと大喜びした。そして,チャーチルは反共産主義だったが,即座にソ連に軍事援助を申し込んだ。チャーチルと親密なルーズベルト大統領も,ソ連を武器貸与法の対象とした。ソ連は,米英から軍事援助を受けることができた。

写真(右)1943年8-9月、ロシア東部戦線、ドイツ陸軍III号突撃砲G型 (StuG III):3両の突撃砲が並んでいて、中央のトラック荷台に積んだガソリンを補給している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-087-3671A-16 Archive title: Rußland.- Betanken von drei Sturmgeschützen; PK 670 Dating: 1943 August - September Photographer: Pincornelly 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-087-3675A-08A, Russland, Sturmgeschütz III.jpg引用。


Karlheinz Munch(2005)The Combat History of German Heavy Anti-Tank Unit 653 in World War II Paperback によれば、フランス侵攻が勝利に終わった後の1940年11月に、第192突撃砲大隊第197突撃砲大隊が第7砲兵連隊に配備することが決まり、ベルリン南50キロのユーターボークで準備が始まった。当時のIII号突撃砲は、短砲身24口径7.5cm戦車砲(StuK 37 L/24)を装備しており、対戦車戦闘ではなく、歩兵の火力支援を目的としていた。突撃砲1個小隊は突撃砲2輌と半装軌装甲車2輌で、3個小隊で突撃砲1個中隊(突撃砲6両配備)だった。突撃砲1個大隊は3個中隊で、合計24輌の突撃砲が配備された。

突撃砲大隊の本格的訓練は、1941年1月から始まり、3月のバルカン・ユーゴスラビア侵攻に投入される予定だったが、輸送機関、特に鉄道の準備が間に合わず、バルカン侵攻作戦に参加したのは、4月初旬からだった。その後、5月には突撃砲大隊は、ポーランドに移転し、1941年6月22日のソ連侵攻バルバロッサ作戦に投入された。早朝0530、第197突撃砲大隊はブーク川を越えた。

 その後,III号突撃砲は、1942年以降,ソ連軍T-34に対抗するために,長砲身 43口径7.5センチ戦車砲(StuK40L/43)を搭載,装甲を厚くし、対戦車戦を重視す量になった。第197突撃砲大隊では、1942年8月には 43口径7.5センチ戦車砲(StuK40L/43)を装備したIII号突撃砲F/G型 (StuG III)が配備されている。III号突撃砲は、1940年から生産が始まり、短砲身24口径7.5cm戦車砲(StuK 37 L/24)搭載のIII号突撃砲C/D型(Sd.Kfz.142)が1941年4月から9月まで200輌生産されたのに続いて、各型合計で1945年の敗戦までに1万輌もが生産されている。

写真(右)1943年8-9月、ロシア東部戦線、ドイツ陸軍III号突撃砲G型 (StuG III):車体前面下部に追加装甲をリベット留めしているのが明瞭にわかる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-087-3675A-10 Archive title: Rußland.- Sturmgeschützen III in Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 670 Dating: 1943 August - September Photographer: Thiemann 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-087-3675A-08A, Russland, Sturmgeschütz III.jpg引用。


ユダヤ人絶滅の方針は,最高機密とされたが,それは,殺戮を行っていることが知れれば次のような支障が生じるからである。

?ユダヤ人が殺害されると知れば,反乱を起こす。そこで,ユダヤ人の積極的な抵抗を防止するために,東方への移送,収容所での労働を偽りの名目として,絶滅収容所へ移送した。

?ユダヤ人絶滅のような残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。

?後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人殲滅戦争は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にもユダヤ人殺戮を秘匿する必要があった。

写真(右)1943年8-9月、ロシア東部戦線、ドイツ陸軍III号突撃砲G型 (StuG III):車体前面下部に追加装甲をリベット留めしているのが明瞭にわかる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-087-3675A-08A Archive title: Rußland.- Sturmgeschützen III in Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 670 Dating: 1943 August - September Photographer: Thiemann 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-087-3675A-08A, Russland, Sturmgeschütz III.jpg引用。


1943年1月,第二次大戦における最大規模の決戦となったスターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった時期,ゲットーでユダヤ人が生きながらえていることに,ヒトラーは耐えられなかった。ついに親衛隊ヒムラー長官に,全ユダヤ人を殲滅する口頭命令を下した。

東方ソ連に対しては,共産主義ボリシェビキが支配している地域として,その土地,資源,人民をドイツの支配下におこうとした。この手段が,ソ連侵攻バルバロッサ作戦である。

ソ連占領の目的は,東方ソ連をドイツの生存と繁栄のための生存圏とし,ボリシェビキを殲滅して,ドイツ第三帝国を千年安泰ならしめるためである。1941年クリスマスに側近に「こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから」と本心を覗かせている。 

写真(右)1943年,ドイツ陸軍48口径7.5センチ砲装備のIII号突撃砲G型:冬季の白色迷彩を施している。車体上部には防楯付き7.92ミリ機関銃を搭載している。
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-089-3779-25A Archive title: Rußland.- Soldaten auf weiß gestrichenem Stumgeschütz III in verschneitem Birkenwald; PK 670 Dating: 1943 Photographer: Finke 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 ドイツ国防軍のIII号突撃砲C/D型Sturmgeschütz III:StuG III)は、歩兵への火力支援車両として大型の24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載する突撃砲として、III号戦車の車台を流用して開発された。その後III号戦車が威力不足で前線で使用できなくなると、その車体の大型戦闘室を活かして43口径7.5センチ戦車砲を搭載した対戦車用のIII号突撃砲G型StuG III Ausf. G)としても使用されるようになった。

写真(右)1943年冬、ロシア東部戦線、白色の冬季迷彩舗装を施したドイツ陸軍III号突撃砲G型 (StuG III):3両の突撃砲が並んでいて、中央のトラック荷台に積んだガソリンを補給している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-089-3779-28A Archive title: Rußland.- Soldaten auf weiß gestrichenem Sturmgeschützen III in verschneitem Birkenwald; PK 670 Dating: 1943 Photographer: Finke 撮影。
写真はWikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-089-3779-28A , Russland, Sturmgeschütz III.jpg引用。


写真(右)1944年初頭、ロシア東部戦線、雪解けのような泥道を進むドイツ陸軍III号突撃砲G型 (StuG III)とハーフトラック(中央):
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-090-3911-23 Archive title: Rußland.- Sturmgeschützen III und Schützenpanzer auf Straße mit Schneematsch in Ortschaft, Frühjahr 1944; PK 670 Dating: 1944 Anfang Photographer: Etzhold 撮影。
写真はWikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-087-3675A-08A, Russland, Sturmgeschütz III.jpg引用。


ドイツによる1941年6月のソ連侵攻では,ソ連住民に対する自由と独立,圧制や植民地からの解放という大儀がドイツ陸軍のなかで論じられていた。しかし,国防軍最高司令官ヒトラー総統は,肥沃な国土,民族ドイツ人の移住地,資源エネルギー・食料を確保することを命じており,占領した非ロシアのウクライナも独立させるつもりは,当初からなかった。ドイツ第三帝国のための生存圏の確立が最優先課題であり,現地住民,下等人種,劣等民族を蔑視,排除しようとしていたのである。

◆ドイツ国防軍の中には,ロシア人,ウクライナ人,チェチェン人など現地住民と協力関係を樹立し,反共勢力,反スターリン政権に育成するとの構想もあった。しかし,そのような構想は,東方ソ連を大ドイツの生存圏として,物資調達,強制連行・強制労働を進める強権的な植民地支配と並存することはできなかった。

ドイツは東方ソ連を生存圏として植民地化しようとしたが,これに従った現地住民は,親ドイツの裏切り者,売国奴として処断された。ドイツに食料・物資・家屋宿舎を提供し,ドイツのために労役をこなし,道案内やスパイ探しなど情報を提供するロシア人,ウクライナ人の住民は,パルチザンに脅され,殺害された。 

写真(右)1943年、イタリア戦線のドイツ陸軍III号突撃砲G型 (StuG III)の隊列:手前には略帽を被った兵士が楽しそうにしている。前面運転手のハッチの周囲に、追加装甲を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-568-1542-20A Archive title: Italien.- Italienische und deutsche Soldaten vor Reihe von Sturmgeschützen III (StuG III); PK Fs AOK Dating: 1943 Photographer: Biedermann 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


イタリアの降伏は、1943年9月8日だったが、その翌日の9月9日、西側連合軍は、イタリア本土、ナポリ南のサレルノSalerno)に上陸した。これが、奇襲を狙ったアヴァランチ作戦Operation Avalanche)であり、事前の艦砲射撃や航空地上支援を省いた速攻だった。西側連合軍は、すでにハスキー作戦Operation Husky)によって、イタリア領シシリー島に上陸し、ドイツ軍を追い詰めていたから、これは順当な作戦に思えた。

写真(右)1943年9月14日、イタリア、イギリス第2軍第40王室戦車連隊の兵士が鹵獲したドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.)を走行させている。
Catalogue number NA 6864 Department Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War Alternative name sobject name: Official photograph object category: Black and white Creator No. 2 Army Film & Photographic Unit Lambert (Sgt)
Object description Men from 40th Royal Tank Regiment try out a captured German StuG III assault gun, 14 September 1943.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (NA 15178)


1943年9月9日のサレルノ上陸、アヴァランチ作戦Operation Avalanche)は、イタリアの降伏と同じく、ドイツ軍側には、十部に予期された作戦だった。守備に就いていたドイツ陸軍第16装甲師団16. Panzer-Division )は、サレルノSalerno)に上陸した連合軍地上軍への反撃を開始し、橋頭堡に連合軍を追い詰めた。イタリア住民の歓迎を受けて、すぐにもナポリを占領、ローマへの進軍も容易であると考えた西側連合軍は、予想外の反撃を受けて、作戦を順調に進めることが難しくなった。

III号突撃砲C/D型Sturmgeschütz III:StuG III)は、旧式戦車III号の砲塔を取り除き,シャーシの上部に密閉固定式の大型戦闘室を設け、短砲身24口径7.5センチ砲を搭載した歩兵支援戦闘車両だった。しかし、1944年には対戦車戦闘能力を向上させた43口径7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲G型StuG III Ausf. G)が第一線で活躍するようになった。


写真(右)1944年2月,イタリア戦線、ドイツ軍のIII号突撃砲(StuG III)G型

Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-310-0896-06A
Archive title: Italien.- Soldaten vor und auf einem leicht getarnten Sturmgeschütz III; PK 699
Dating: Februar 1944 Photographer: Dohm撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1944年5月18日、イタリア、モンテカッシーノの激戦地で撃破されたドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.)。イギリス軍兵士が、突撃砲前面下部にある、M4シャーマン戦車の放った2発の75ミリ徹甲弾(75mm AP rounds)の弾痕、穴が開いている箇所を検分している。
Catalogue number NA 15178 Department Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War Alternative namesobject name: Official photograph object category: Black and white CreatorNo. 2 Army Film & Photographic Unit Loughlin (Sgt)
Object description Troops examine a knocked-out German StuG III assault gun near Cassino, 18 May 1944. Two 75mm AP rounds from a Sherman tank have neatly penetrated its front armour. Label British troops examine a knocked-out German StuG III assault gun near Cassino, Italy, 18 May 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (NA 15178)


写真(右)1944年7月2日、イタリア、イギリス軍が鹵獲した枢軸国側の装甲戦闘車輛。手前がドイツ軍のIV号突撃砲StuG IV。この車両の司令塔ハッチ(周囲を観測するプリズム付)には、避弾経始を考慮した跳弾版が装備。2輌目からIII号突撃砲G型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.)、マーダー対戦車自走砲(Marder)2輌、後方にはイタリア軍のM40セモベンテ自走砲(Semovente SP)2輌。イギリス軍兵士が、これらの装甲戦闘車量を検分しているが、撃破したことへの誇りも感じていたであろう。
Catalogue number NA 15779 DepartmentPhotographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War Alternative names object name: Official photograph object category: Black and white CreatorNo. 2 Army Film & Photographic Unit Menzies (Sgt)
Object description A line-up of German and Italian AFVs during a display of captured enemy equipment, 2 June 1944. In the foreground can be seen StuG IV and Stug III assault guns with two Marder tank destroyers behind. In the background two Italian Semovente SP guns can be seen. Label British troops inspect a line-up of captured German and Italian armoured fighting vehicles, Italy, 2 June 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (NA 15779)


イタリア軍の M40セモベンテ自走砲 Semovente SP)は、第二次大戦中のイタリア軍の代表的自走砲で、ドイツ軍のIII号突撃砲の影響を受けている。 M40セモベンテ自走砲 Semovente SP)は、M13/40中戦車の砲塔を取り除き、車体に密閉固定式大型戦闘室を設けて、徹甲弾も発射可能な75mm榴弾砲を搭載した。装甲は最大厚50mmもとイタリア軍戦車としては防御に意を尽くしている。実戦部隊への配備は、1941年末の北アフリカ、リビア戦線で、実戦参加は、1942年初頭のリビア戦線である。 M40セモベンテ自走砲 Semovente SP)は、北アフリカ戦線におけるイタリア軍の最強の戦闘車輌となった。


4.枢軸同盟軍フィンランドのIII号突撃砲 Sturmgeschütze III −43口径7.5センチ戦車砲搭載

1943年夏、ドイツは、本土をイギリス空軍・アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機によって空襲されていたが、陸軍地上兵力の大半を東部戦線のソ連軍に集中できる状況にあり、レニングラードの包囲網も健在だった。したがって、ドイツがソ連を敗退させる可能性は残っており、ドイツの軍事力にフィンランドの運命をゆだねて、奮闘努力するべきであると自ら意志を固めるしかなかった。この点、日本の戦争判断も同じで、戦争を始めたことではなく、戦争に敗れつつあることに不安を感じ、勝利の道が遠のいたことを嘆いていた。他方、フィンランド国防軍でも日本軍でも、下級兵士たちは、政治的指導者のような戦争の開始、休戦の意思決定に参与できるわけではなく、戦争が続いている以上、勇気をもって戦い続けるしかなかった。

写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍III号戦車G型(Ps 513)の行進を閲兵する、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-127343引用。


当時、フィンランドは、枢軸国のナチス・ドイツの同盟国であり、反ボリシェビキ(Bolshevik)を掲げて、共産主義のソビエト連邦と戦っていた。1944年の戦局悪化は明らかだったため、ソ連への攻勢を控えていた。マンネルハイムは、同盟国ドイツと運命を共にするつもりは全くなく、フィンランドの国益、すなわち独立の保障の最優先していたのである。


写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍の行進を閲兵する。
;リスト・リュティ大統領は黒い外套にハットのスタイルで、正面に立っている。ドイツ製の3号突撃砲、牽引車などが行進した。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118123引用


写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の閲兵を受けたフィンランド軍の突撃砲大隊のIII号突撃砲G型(Ps. 531);1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を搭載している。反革命・反ボリシェビキ・自由の象徴で青衛軍以来の伝統あるカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体に描いている。<
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa.
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118134引用


1944年6月、継続戦争(第二次ソ芬戦争)の末期、フィンランド軍は、ドイツから購入したIII号突撃砲Sturmgeschütz III :Sd.Kfz. 142;StuG III)G型を基幹とする突撃砲大隊(Rynnäkkötykkipataljoona)を編成した。III号突撃砲G型の48口径7.5センチ砲(7,5cm StuK 40 L/48)は、強力で、車高も低いために標的になりにくく、対戦車戦闘能力が高かった。フィンランド軍の突撃砲大隊は、以前から紙上では存在していたが、突撃砲の配備がなって、やっと実現した部隊である。フィンランドは、1944年にドイツに59輌のIII号突撃砲G型を発注した。そして、そのうち最初の30台は1944年の夏の戦いに間に合うようにフィンランドに到着し、フィンランド軍ではPs. 531と命名された。しかし、フィンランドに到着したスぺアパーツが十分ではなく、III号突撃砲13号車(Ps. 531-13)は分解され、スペアパーツをとる整備車輛とされている。 1944年6月にIII号突撃砲G型30輌程度を受領したフィンランド軍は、これを基幹として突撃砲大隊を編成したのである。この新鋭突撃砲部隊は、1944年6月4日、ミッケリ州ミッケリ州サイリラで、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)、エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)、そして国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥ら軍幹部らの前で行進し、閲兵されている。


写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド軍の突撃砲大隊のIII号突撃砲G型(Ps. 531)の行進を見物する地元のフィンランド人住民と子供たち
;反ボリシェビキ・自由の象徴である鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体前面下部に描いている。戦闘室に1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を装備、車体上面の司令塔ハッチ前に防盾付きの7.62ミリ車載機関銃を装備している。フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の閲兵を受けた
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa..
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118117引用


フィンランド軍にとっても、白丸に青の鍵十字を描いたカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、軍の国籍識別マークで、1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年9月の対ソ講和の時に廃止した。

1944年6月14日の夜、フィンランドのIII号突撃砲は、ソ連軍を攻撃してVTラインにまで進撃しようと出撃した。実際、装甲師団の突撃砲大隊は、敵を排除してVTラインにまで到達したが、損失が大きく、反撃を受けて後退せざるを得なくなった。突撃砲大隊は、カレリア地峡中部のキルピチノエ( Perkjärvi)の戦い、1944年6月25日から7月9日のタリ=イハンタラ(Tali-Ihantala)の激戦、1944年7月4日から7月17日のヴオサルミ(Vuosalmi)の戦いに参加して、1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を活かして、軍功を挙げている。最終的には、突撃砲大隊の武勲は、突撃砲8輌の損失(自軍で爆破・撤退した車輛を含む)で、敵ソ連軍車輛87台を撃破している。


写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍の8トン半装軌式牽引車(Sd.Kfz.7)の行進を閲兵する。
;ドイツのクラウス・マッファイ社の開発8トン半装軌式牽引車(Sd.Kfz.7)は、1934年に開発された重砲牽引用の車輛で、1938年から本格的に量産された。人員輸送用の際は12名を荷台の簡易ベンチに乗せることができた。牽引した火砲は、8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 18/36/37)15センチ榴弾砲(15cm sFH 18)などだが、荷台を改造して、2センチ対空機関銃四連装砲塔や3.7センチ対空機関砲などを搭載した対空車輛もある。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118118引用



写真(上)1944年6月4日、フィンランド、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型初期型の行進を閲兵する。

Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118129引用



写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型の行進を閲兵する。
;リスト・リュティ大統領は黒い外套にハットのスタイルで、マンネルヘイムと並んで正面に立っている。ドイツ製III号突撃砲、牽引車などが行進した。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118130引用


写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513):第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を搭載したIII号戦車。
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Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118112引用。


愛国的な「冬戦争」では、フィンランドは善戦したが、これはソ連赤軍の指揮系統の柔軟性がなく戦術的な失敗を繰り返したこと、ソ連赤軍の兵士の士気が低いこと、ソ連製の兵器が時代遅れで旧式なものだったこと、が原因とされた。たしかに、フィンランドは、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で敗北し、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島の港湾をソ連租借地とするなど、領土割譲要求をのまざるを得なかったが、ドイツも連合国もソ連軍が弱体であるとの認識を確認するに至った。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したのではあるが、それは、ソ連軍が弱かったからであると考えられた。

写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍がドイツから購入したIII号戦車G型(Ps 513)の車体前面には、同盟国ナチ・ドイツと同じカギ十字のフィンランド国籍記章が描かれている。:III号突撃砲は、第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を1943年と4年もたってから搭載した。
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Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118113引用。


1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ: Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。フィンランドもナチ・ドイツも同じ反共産主義、反ボリシェビキのイデオロギーを共有していたために、カギ十字を国籍記章として採用したのである。


写真(上)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513)の車列
:フィンランド大統領やフィンランド国防軍総司令官が検閲した時の撮影。
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Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118114引用。



写真(上)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513)の車列
:フィンランド大統領やフィンランド国防軍総司令官が検閲した時の撮影。
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-127340引用。



写真(上)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513)の車列

Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-127341引用。



写真(上)1944年7月9日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.)の車列;戦闘室上面には、防盾付き機関銃が1丁装備されている。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118155引用。



写真(上)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513)
:車体前面には同盟したナチ・ドイツと同じカギ卍「ハカリスティ」(Hakaristika)が描かれているが、これはフィンランド軍の国籍マークである。III号突撃砲は、第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を1943年と4年もたってから搭載した。
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118116引用。


フィンランド軍の国籍識別標識は、ナチ党と同じカギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いた。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反革命、反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513):フィンランド大統領やフィンランド国防軍総司令官が検閲した時の撮影。車体下面に描かれたカギ十字のマークは、フィンランド軍の国籍標識「ハリスティカ」で、これはナチス・ドイツと同じく、反革命・反ボリシェビキ・自由を意味するカギ十字(スワスチカ)の記章である。
Uusien Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa...
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118119引用。


同じく、第一次大戦敗戦後のドイツでも、フライコール(自由軍団)と自称する反共産主義・反革命を標榜するエアハルト団のような義義勇軍が勃興したが、彼らもカギ十字「スワスチカ」を紋章とした。ナチ党もこれを引き継いで、カギ十字「スワスチカ」を党マークとし、1933年のナチ党政権後は、民間航空機の国籍マークとして採用し、再軍備後はドイツ国防軍でも、親衛隊SSでもカギ十字を使用した。

写真(右)1944年6月4日、フィンランド大統領・フィンランド国防軍総司令官マンネルヘイム元帥の前を行進する、フィンランド軍が鹵獲・部隊配備したソ連製T-34-76戦車と後続するソ連製BT快速戦車:車体下面のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マーク「ハリスティカ」で、これはナチ党・ドイツ軍と同じカギ十字(スワスチカ)と同じく、反革命・反ボリシェビキを意味する紋章である。T-34中戦車は、76.2ミリ砲を搭載し、攻撃力、防御力、機動性、生産性のバランスの取れたソ連赤軍の傑作戦車である。
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Erilaisia hyökkäysvaunun tyyppejä ohimarssissa.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118109引用。


ドイツ軍のティーガー重戦車は、高射砲を改造した8.8センチ戦車砲を搭載し、パンター戦車も70口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載していた。他方、ソ連軍T-34戦車初期型、KW-1重戦車は、42口径の長砲身76.2ミリ戦車砲を、T-34戦車後期型は高射砲を改造した55口径85ミリ砲を搭載しており、独ソ新鋭戦車は互角の攻撃力を保持していた。
 さらに、部隊配備・実戦投入の時期を比較すると、ドイツ軍のティーガー重戦車やパンター戦車は1943年夏のソ連東部戦線、シタデル(城塞)作戦の時期にやっとまとまった数が実戦投入されている。つまり、タイガーやパンサーというドイツ新鋭戦車は、戦争後期になって登場し、活躍期間は戦争後期に限られる。他方、ソ連T-34戦車。KV-1重戦車の実戦投球の時期は、1941年夏でドイツ軍新鋭戦車よりも2年も早く実戦に大量投入され、第二次大戦初期から終戦まで戦い続けている。
 ドイツ軍新鋭戦車の生産台数は、ティーガー重戦車は1400輌、パンター戦車は5000輌であるが、これはソ連赤軍のT-34戦車が5万8,000輌、KW-1重戦車が4,500輌も量産しているのに比較すると生産台数10%程度でしかない。


5.1944年、イタリア・北フランスに侵攻した西側連合軍を迎え撃ったIII号突撃砲 Sturmgeschütze III

写真(右)1944年7月6日、北フランス、第2ランカシャー槍騎兵C中隊のF.ジェファーソンが手にした PIAT(ピアット: Projector Infantry Anti Tank)対戦車擲弾でドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.)を撃破した時の記念写真。
Catalogue number NA 15430 Department Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War Alternative namesobject name: Official photograph object category: Black and white CreatorNo. 2 Army Film & Photographic Unit Menzies (Sgt)
Object description Fusilier F Jefferson of 'C' Company, 2nd Lancashire Fusiliers in front of a German StuG III assault gun which he knocked out with a PIAT, May 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 128205)


PIAT(ピアット: Projector Infantry Anti Tank)は、第二次世界大戦中、イギリス軍が開発した歩兵携行用対戦車兵器で、バネの弾性を利用して対戦車擲弾を投擲する。PIATは成形炸薬弾(ホローチャージ)を利用した弾丸で、直接射撃の射程100mで装甲板100mm厚保を貫通できた。

写真(右)1944 年6-7月、北フランス、アンコナ戦の時期、第二ポーランド軍が撃破したドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.)の傍らを通過する。
Catalogue number HU 128200 Department Photographs Part of FOREIGN OFFICE POLITICAL INTELLIGENCE DEPARTMENT (PID) SECOND WORLD WAR PHOTOGRAPH LIBRARY: CLASSIFIED PRINT COLLECTION Production date1944-07-06 Subject period: Second World War Alternative name sobject name: print object category: Photography Creator Polish official photographer
Object description Troops of the 2nd Polish Corps passing by a knocked out German Sturmgeschütz III (StuG III) assault gun. Photograph probably taken during the Battle of Ancona, June-July 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 128200)


III号戦車には大きな砲塔を搭載できなかったため、砲塔を撤去して防御された大型戦闘室を設け,そこに7.5センチ砲を装備したのがIII号突撃砲Sturmgeschütz III)である。このIII号突撃砲は、終戦までドイツ軍の主力突撃砲となり、火力支援だけでなく、対戦車戦闘にも活躍した応急の陸戦兵器だったが、実用性も量産性も高かったために、III号突撃砲Sturmgeschütz III:StuG III)は終戦までに1万両が生産され、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇っている。

  写真(右)1944 年7月6日、北フランス、アンコナ戦の時期、第二ポーランド軍第2機甲連隊のM4シャーマン戦車が撃破したドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.)の傍らを通過する。
Catalogue number HU 128205 Department Photographs Part of FOREIGN OFFICE POLITICAL INTELLIGENCE DEPARTMENT (PID) SECOND WORLD WAR PHOTOGRAPH LIBRARY: CLASSIFIED PRINT COLLECTION Production date 1944-07 Subject period Second World War Alternative name sobject name: print object category: Photography Creator Polish official photographer
Object description The Battle of Ancona, June-July 1944. Sherman tanks of the 2nd Armoured Brigade (2nd Polish Corps) passing by a knocked out German Sturmgeschütz III (StuG III) assault gun in Montoro, 6 July 1944. The gun was destroyed by the 6th Armoured Regiment of the Brigade. Note stripes on the barrel marking six destroyed Allied tanks by the gun..
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 128205)


写真(右)1944 年8月20日、北フランス、カーン南方40キロ(ファレーズ南方20キロ)、ピュタンジュ=ポン=エクルパンで川に転落したドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.)。
Catalogue number B 9464 Department Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War Alternative names object name: Official photograph object category: Black and white CreatorNo 5 Army Film & Photographic Unit Palmer (Sgt)
Object description A German StuG III assault gun on its side in the river at Putanges, 20 August 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (B 9464)


1944年6月6日にオーバーロード作戦Operation Overlord)に従って、ノルマンディー海岸に大部隊を上陸させた西側連合軍は、6月27日に港湾のあるシェルブールを攻略、7月7日に内陸要衝のカーンを占領した。そして、8月初めに、カーン南方20キロのファレーズにドイツ軍10万名近くを包囲した。

ファレーズ・ポケット(ファレーズ包囲戦、英:、仏: Poche de Falaise、独: Kessel von Falaise)からドイツ軍は脱出しようとしたため、8月12日から21日まで、両軍の激闘が戦われた。

アメリカ軍オマール・ブラッドリー将軍は、北フランスの交通の要衝で、港湾に接続しているブルターニュ占領を企図し、7月25日、コブラ作戦を発動した。アメリカ軍はブルターニュから南方へ進撃し、7月30日、アバランシュを占領した。

 また、イギリス空軍は、四発ランカスター重爆撃機の大編隊を組織し、8月7日夜にドイツ軍地上部隊を水平爆撃し、その後、トータライズ作戦(Operation Totalize)によって、ファレーズに進撃した。8月25日、西側連合軍は、パリを解放した。

写真(右)1944 年8月21日、フランス、西側連合軍の戦闘爆撃機によって撃破されたドイツ陸軍III号突撃砲G型後期型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.)。
Catalogue number B 9581 Department Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War Alternative names object name: Official photograph object category: Black and white CreatorNo 5 Army Film & Photographic Unit Mapham J (Sgt)
Object description Knocked-out German StuG III assault gun and soft-skin vehicles shot up by Allied fighter-bombers, 21 August 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (B 9581)


 ドイツ陸軍III号突撃砲G型Sturmgeschütz III:StuG III)後期型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III')では、48口径7,5cm戦車砲の防楯は、ザウコプ(豚の頭)と言われている曲面装甲を用いて避弾径始を考慮した構造で、防御力が向上している。

写真(右)1944年頃、平面的な砲身防楯を備えたドイツ陸軍III号突撃砲G型 StuG III :ホローチャージ(成形弾)を早期爆発させる防楯を車体側面に装備し、車体前面に既存の装甲を補完する追加装甲板を鋲で装着している。
Catalogue number: STT 5729, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: StuG III Ausf G, Label: German Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 5729)


写真(右):イギリス軍に鹵獲されたIII号戦車G型 Sturmgeschü 40 Ausf G:
Catalogue number STT 5730 Department Photographs Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War
Object description StuG III Ausf G Label German Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun.
写真はImperial War Museum STT 5730引用。


III号突撃砲G型StuG III Ausf. G)の後期型では、ホローチャージ(成形炸薬弾)を早期爆発させる防楯( シュルツェン)を車体側面に装備し、車体前面に既存の装甲を補完する追加装甲板を鋲で装着している。防楯( シュルツェン)は、IV号戦車、V号戦車パンターにも装備されている。

写真(右)1944 年頃、平面的な砲身防楯を備えたドイツ陸軍III号突撃砲G型 StuG III の上面:司令塔(周囲を観測するプリズム付)には、避弾経始を考慮した跳弾版が装備されている。接近する歩兵を銃撃する戦闘室上面の車載機銃にも防楯を装備。ホローチャージ(成形弾)を早期爆発させる防楯を車体側面に装備する枠が見える。
Catalogue number: STT 7153, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: StuG III Ausf G, Label: German Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7153)


写真(右)後方から見たドイツ陸軍III号突撃砲G型:車体後部のエンジン上に転輪を置き,補完装甲代わりにしているほか、戦闘室側面上方にもキャタピラーを留めて補完装甲としている。
Catalogue number: STT 7136, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: StuG III Ausf G, Label: German Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7136)


写真(右)1944年頃、平面的な砲身防楯を備えたドイツ陸軍III号突撃砲G型 StuG III の上面:司令塔(周囲を観測するプリズム付)には、避弾経始を考慮した跳弾版が装備されている。接近する歩兵を銃撃する戦闘室上面の車載機銃にも防楯を装備。ホローチャージ(成形弾)を早期爆発させる防楯を車体側面に装備する枠が見える。
Catalogue number: STT 3046, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Sturmgeschütz IV, Label: German Sturmgeschütz IV assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 3046)


写真(右):イギリス軍に鹵獲されたIII号戦車G型 Sturmgeschütz 40 Ausf G:
Catalogue number B 15052 Department Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period Second World War Alternative names object name: Official photograph object category: Black and white CreatorNo 5 Army Film & Photographic Unit Palmer (Sgt)
Object description Men of the 4th Royal Welch Regiment construct a dug-out by the side of a knocked-out German StuG III assault gun near Weeze, 3 March 1945..
写真はImperial War Museum STT 5730引用。


1942年12月から生産が始められたアルケット社で生産されたIII号突撃砲G型StuG III Ausf. G)は、戦争後期に登場し、1942年12月から1945年4月まで7,700輌が生産された。大量生産するために、生産性向上、省資源化にも配慮された。たとえば、ゴム不足のために、本来、衝撃を吸収するゴム縁の小型転輪を、1943年11月から鋼製リムの転輪に変更した。ゴム縁の小型転輪は、1944年9月以降生産されたIII号突撃砲には使用されていない。

 後に戦訓により丸太やコンクリートブロックなどを固定戦闘室に追加装着して防御力を強化したIII号突撃砲G型StuG III Ausf. G)の動力は、マイバッハHL120TRM V型12気筒液冷ガソリンエンジン、最大出力300馬力/3,000rpm、最高速度40km/h(路上)である。

写真(右)1944年9月30日、マーケットガーデン(Market Garden)作戦時期の西部戦線、オランダ、アルンヘイム、ドイツ陸軍10.5cm突撃榴弾砲42 型 (StuH 42):マーケットガーデン(Market Garden)作戦に投入されたイギリス軍空挺部隊を迎撃したドイツ軍が装備した火力支援用の10.5センチ榴弾砲(10.5cm le.FH.18)装備の突撃砲で、建築物の脇に隠して偽装している。手前には、意義留守軍空挺部隊の使ったパラシュートが放棄されている。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-J27759 Original title: info Scherl Bilderdienst In den Straßen von Arnheim Der Vernichtung der 1. englischen Luftlandedivision im Raum von Arnheim gingen heftige Kämpfe in den Strassen dieser niederländischen Stadt voraus. Ein Sturmgeschütz in Bereitstellung an einer Strassenecke, um noch vorhandene Widerstandspunkte zu bekämpfen; im Vordergrund hängt der Fallschirm einer Versorgungsbombe, dessen Inhalt für die Briten bestimmt war, der jedoch in deutsche Hände fiel. PK-Aufnahme, SS-Kriegsberichter Seuffert(Sch), 30.9.44 [Herausgabdatum]SS
ADN-Bildarchiv, II. Weltkrieg 1939-45, Schlacht um Arnheim (Holland) vom 17.-27.9.1944 Die am 17.9.1944 begonnene alliierte Luftlandeoperation bei Arnheim sollte die Übergänge Rhein, Maas und Waal sichern. Nach großen Verlusten wurden die gelandeten Truppen Ende September zurückgezogen. Deutsche Sturmgeschütze in Bereitstellung an einer Straßenecke in Arnheim, um noch vorhandene Widerstandspunkte zu bekämpfen; im Vordergrund der Fallschirm einer britischen Versorgungsbombe, die in deutsche Hände fiel. Afnahme : Seuffert Archive title: Niederlande, Arnheim.- Schlacht um Arnheim.- Getarnte Sturmhaubitze 42 neben alliiertem Nachschubbehälter an Fallschirm; SS-PK Dating: September 1944 Photographer: Seuffert Agency: Scherl 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 183-J27759, Russland, Sturmgeschütze III.jpg引用。



SWW2 StuG III Ausf F - F8 - G - Sturmgeschütz III - footage part 3


6.現存するIII号突撃砲 Sturmgeschütze III


写真(上):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン、ボービントン戦車博物館(Bovington Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍のドイツ製7.5センチ突撃砲G型(Sd Kfz 142 / 7.5cm Sturmgeschütz 40 Ausf G (STUG) )
:突撃砲は、歩兵用火力支援戦車として開発されたが、戦争後期には対戦車戦闘用の安価な戦闘車両として量産された。
解説 Description Bovington Tank Museum 282 sturmgeschutz 3 40 ausf g Date 7 July 2010, 14:52 Source Bovington Tank Museum 282 sturmgeschutz 3 40 ausf g Author DAVID HOLT from London, England
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Sturmgeschütz III Ausführung G (Finland) in the Bovington Tank Museum・File:Flickr - davehighbury - Bovington Tank Museum 282 sturmgeschutz 3 40 ausf g.jpg引用。


イギリス南部、ドーセット州、ボービントンには、イギリス陸軍のボービントン基地(Bovington Camp)があり、そこでは戦車や装甲車の野外演習場で部隊の訓練が実施され、さらに試作車や敵鹵獲車両などの性能試験・実験を行っていた。そこで、戦後になって、集められ保管されていた戦闘車輛をもとに、戦車博物館が開設された。

写真(右):2017年3月、イギリス南部、ドーセット州、ボービントン、ボービントン戦車博物館(Bovington Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍のドイツ製7.5センチ突撃砲G型(Sd Kfz 142 / 7.5cm Sturmgeschütz 40 Ausf G (STUG) ):車体両脇の材木は、泥濘や悪路でキャタビラーがのめり込まないように設置部分に敷かれる。左奥に見えるのは、アメリカ製M3Aスチュアート軽戦車で37ミリ砲を装備。
解説 English: Bovington Tank Museum: Sturmgeschütz III Ausführung G Date 17 March 2017 Source Own work Author Morio
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Sturmgeschütz III Ausführung G (Finland) in the Bovington Tank Museum・File:Sturmgeschutz III Ausfuhrung G front-left 2017 Bovington.jpg引用。


 第一次世界大戦に使用されたイギリス陸軍のマーク I 戦車から、第二次世界大戦中のマチルダ歩兵戦車、チャーチル歩兵戦車、コメット巡航戦車、アメリカ陸軍のM3中戦車、M4シャーマン中戦車、シャーマン ファイアフライ、M10 ウォルブリン駆逐戦車などの他、ドイツ陸軍のI号戦車、II号戦車、III号戦車Pz.Kpfw III)、IV号戦車、V号戦車パンター、VI号ティーガー重戦車、駆逐戦車ヘッツァー、ヤークトパンター駆逐戦車、ヤークトティーガー重駆逐戦車などが保管・展示されている。

写真(右):2017年3月、イギリス南部、ドーセット州、ボービントン、ボービントン戦車博物館(Bovington Tank Museum)に保管展示されているフィンランド軍のドイツ製7.5センチ突撃砲G型(Sd Kfz 142 / 7.5cm Sturmgeschütz 40 Ausf G (STUG) )の後部:車体にある多数の突起は、磁気を利用した吸着地雷が吸い付かないようにするもので、プラスチック製の磁気防止塗料と同じ機能を持っている。両脇の材木は、泥濘や悪路でキャタビラーがのめり込まないように設置部分に敷かれる。右奥に見えるのは、アメリカ製M3Aスチュアート軽戦車で37ミリ砲を装備。
解説 English: Bovington Tank Museum: Sturmgeschütz III Ausführung G Date 17 March 2017 Source Own work Author Morio
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Sturmgeschütz III Ausführung G (Finland) in the Bovington Tank Museum・File:Sturmgeschutz III Ausfuhrung G rear-left 2017 Bovington.jpg引用。


写真(右):アメリカ、メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館(The US Army Ordnance Museum)に保管展示されているドイツ軍の10.5センチ突撃榴弾砲42 型(Sturmhaubitze 42: StuH 42):トーチカ攻撃用にIII号突撃砲の7.5センチ砲を10.5センチ榴弾砲(10.5cm le.FH.18)に換装した10.5センチ突撃榴弾砲42
解説 Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007. 原典 投稿者自身による作品 作者 Mark Pellegrini
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III at the United States Army Ordnance Museum・File: Sturmhaubitze 42 2.jpg引用。


写真(右):アメリカ、メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館(The US Army Ordnance Museum)に保管展示されているドイツ軍の10.5センチ突撃榴弾砲42 型(Sturmhaubitze 42: StuH 42)
解説 Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007. 原画像データの生成日時 2007年6月12日 (火) 12:46 作者 Mark Pellegrini 5
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III at the United States Army Ordnance Museum・File: Sturmgeschütz III F-8 1.jpg引用。


1941年末、歩兵火力支援のために、強力な大口径10.5センチ軽榴弾砲(10.5cm le.FH.18)を搭載したIII号突撃砲、すなわちIII号10.5センチ突撃榴弾砲StuG III)が提案され、生産計画は1941年12月に5両、1942年1月に5両、2月に2両とされていた。トーチカ攻撃用にIII号突撃砲の7.5センチ砲を10.5センチ榴弾砲(10.5cm le.FH.18)に換装したIII号10.5センチ突撃榴弾砲StuG III Ausf. G)は火力支援を主要任務としており、対戦車戦闘は副次的である。対戦車戦闘を担当したIII号突撃砲は、48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載した。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。

写真(右):アメリカ、メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館(The US Army Ordnance Museum)に保管展示されているドイツ軍のIII号突撃砲(Sturmgeschütz III):短砲身24口径7.5センチ戦車砲を装備。
解説 Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on August 14, 2007. 日付 2007年8月14日 原典 投稿者自身による作品 作者 Mark Pellegrini
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III at the United States Army Ordnance Museum・File: Sturmgeschütz III 1.jpg引用。


写真(右):アメリカ、メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館(The US Army Ordnance Museum)に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲F型 StuG III Ausf F8:短砲身24口径7.5センチ戦車砲を装備。その後、G型からはIV号戦車と同じ43口径7.5cm戦車砲を、H型からは48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載した。後期のIII号突撃砲ほど砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。
解説 Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on August 14, 2007. 日付 2007年8月14日 原典 投稿者自身による作品 作者 Mark Pellegrini
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III at the United States Army Ordnance Museum・File: Sturmgeschütz III 1.jpg引用。


写真(右):セルビア共和国(旧ユーゴスラビア)、ベオグラード要塞、ベオグラード軍事博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲F型 StuG III Ausf F8:48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。
日付 2008年1月23日 (当初のアップロード日) 原典 Transferred from sr.wikipedia to Commons by BokicaK using CommonsHelper. 作者 セルビア語版ウィキペディアのPetarMさん
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung F/8 assault gun in the Belgrade Military Museum・File: Stug III Belgrade.JPG引用。


写真(右):セルビア共和国(旧ユーゴスラビア)、ベオグラード要塞、ベオグラード軍事博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲F型 StuG III Ausf F8:48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。
日付 2010年12月12日 原典 投稿者自身による作品 作者 Nataša Juhu Radovanović
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung F/8 assault gun in the Belgrade Military Museum・File: StuG III Ausf F8 kalemegdan 2.jpg引用。


写真(右):セルビア共和国(旧ユーゴスラビア)、ベオグラード要塞、ベオグラード軍事博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲F型 StuG III Ausf F8:48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。
解説 English: German SPG StuG III Ausf. F/8 日付 2014年9月12日 原典 投稿者自身による作品 作者 Nataša Juhu Radovanović
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung F/8 assault gun in the Belgrade Military Museum・File: SPG Tank.JPG引用。


写真(右):セルビア共和国(旧ユーゴスラビア)、ベオグラード要塞、ベオグラード軍事博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲F型 StuG III Ausf F8:48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。
解説 Sturmgeschütz III Ausf. F/8 (early), Belgrade Military Museum, Serbia. Author of the picture is user Dungodung. 日付 2006年11月9日 (当初のアップロード日)
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung F/8 assault gun in the Belgrade Military Museum・StuG III Ausf F8 kalemegdan 2.jpg引用。


写真(右):セルビア共和国(旧ユーゴスラビア)、ベオグラード要塞、ベオグラード軍事博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲F型 StuG III Ausf F8:48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。
解説 Sturmgeschütz III Ausf. F/8 (early), Belgrade Military Museum, Serbia. Author of the picture is user Dungodung. 日付 2006年11月9日 (当初のアップロード日)
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III in museums・Stug III 02.jpg引用。



写真(上):2007年11月、セルビア、ベオグラード軍事博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲F型 StuG III Ausf F8:48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。
Description StuG III Ausf. F/8 (Sd.Kfz.142/1) at Belgrade Military Museum. Author - Slaven Radovic. Date 29 November 2007 (original upload date) Source Originally from en.wikipedia; description page is/was here. Author Original uploader and author was Slaven Radovic at en.wikipedia
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・
Category: Sturmgeschütz III Ausführung F/8 assault gun in the Belgrade Military Museum・File:StuGIII-nobg.jpg引用。

写真(右):ロシア連邦、サラトフ州、サラトフ戦勝博物館(Saratov Military Glory Museum)に保管展示されているドイツ軍のIII号突撃砲G後期型Sturmgeschütz III :48口径7.5センチ戦車砲を装備。III号突撃砲は戦争前から終戦まで1万輌とドイツ戦車(突撃砲・駆逐戦車を含む)の中では最多生産を誇る。
Description English: German StuG 40 Ausf. G in Museum of military glory, Saratov, Russia Date 22 October 2006 Source Own work Author Alex Rave
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung G in the Saratov Military Glory MuseumFile: StuG 40 Aust.G in Russia.JPG引用。


写真(右):ロシア連邦、サラトフ州、サラトフ戦勝博物館(Saratov Military Glory Museum)に保管展示されているドイツ軍のIII号突撃砲G後期型Sturmgeschütz III :正面写真。
Description Русский: Самоходная артиллерийская установка Date 7 September 2016, 17:15:17 Source Own work Author Vla-chuprakov
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung G in the Saratov Military Glory MuseumFile:- Stug 3 -.jpg引用。


写真(右):ロシア連邦、サラトフ州、サラトフ戦勝博物館(Saratov Military Glory Museum)に保管展示されているドイツ軍のIII号突撃砲G後期型Sturmgeschütz III :前上面写真。
Description Русский: Самоходная артиллерийская установка 7 September 2016, 17:17:07 Source Own work Author Vla-chuprakov
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung G in the Saratov Military Glory MuseumFile:Stug 3 --.jpg引用。


写真(右):ロシア連邦、サラトフ州、サラトフ戦勝博物館(Saratov Military Glory Museum)に保管展示されているドイツ軍のIII号突撃砲G後期型Sturmgeschütz III :側面写真。
Description Русский: Самоходная артиллерийская установка 7 September 2016, 17:16:55 Source Own work Author Vla-chuprakov
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung G in the Saratov Military Glory MuseumFile:- Stug III -.jpg引用。


サラトフ戦勝博物館は、ヴォルゴグラード(旧スターリングラード)北方200キロ、ボルガ川沿岸の戦争博物館。常設展示室 1982平米、臨時展示 70平米、ミュージアムショップ 177平米、年間訪問者15万1820人。 常勤雇用 36人。

写真(右):フィンランド南、ヘルシンキ東200キロ、ハミナ、予備士官学校博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているフィンランド軍のIV号突撃砲G型 StuG III Ausf G:48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。
解説 English: Sturmgeschütz III G Ps. 531-8 "Aili" assault gun at Hamina garrison gate, outside the Finnish reserve officer school museum. 日付 2015年8月11日 原典 投稿者自身による作品 作者 MKFI
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III in museums・Stug III 02.jpg引用。


写真(右):フィンランド南、ヘルシンキ東200キロ、ハミナ、予備士官学校博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているフィンランド軍のIV号突撃砲G型 StuG III Ausf G
解説 English: Sturmgeschütz III G Ps. 531-8 "Aili" assault gun at Hamina garrison gate, outside the Finnish reserve officer school museum. 日付 2015年8月11日 原典 投稿者自身による作品 作者 MKFI
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III in museums・Sturmgeschütz IIIG Ps. 531-8 Aili RUK-museo 06.JPG引用。


IV号突撃砲G型 StuG III Ausf Gは48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。

写真(右):ドイツ連邦共和国、バーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているドイツ陸軍のIV号突撃砲G型後期型 StuG III Ausf G (SdKfz 142):48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。
解説 StuG III Ausf G (SdKfz 142) S.P. Gun with 75mm StuK 40 L/48 anti-tank gun and "Saukopf" mantlet at the Auto & Technik Museum, Sinsheim, 6/11. 日付 2011年6月3日, 11:33 原典 StuG III Ausf G (SdKfz 142) S.P. Gun Uploaded by Oxyman
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III in the Auto und Technik Museum Sinsheim・StuG III Ausf G (SdKfz 142) S.P. Gun (6083207382).jpg引用。


1939年末に制式になりアルケット社で生産が開始されたIII号突撃砲StuG III )は、砲口初速が高速化して、貫通力を強化した48口径7.5センチ戦車砲を装備し、G後期型では、防御力を向上するために、砲身防楯を鋳造曲面装甲に変換している。G前期型までは、防楯は、角ばった平面装甲板だったが、G後期型はザウコプ("Saukopf" ブタ頭)と呼ばれる湾曲装甲を採用したのである。

写真(右):ドイツ連邦共和国、バーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲G型 StuG III Ausf G (SdKfz 142)
解説 OLYMPUS DIGITAL CAMERA 日付 2009年10月23日, 15:22:54 作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III in the Auto und Technik Museum Sinsheim・Sturmgeschutz III at Sinsheim.JPG引用。


IV号突撃砲G後期型の48口径7.5cm戦車砲KwK40の防楯は、角ばった平面装甲板ではなく、ザウコプ("Saukopf" ブタ頭)と呼ばれる湾曲装甲を採用している。


5.38(t)戦車ベースの対戦車戦闘車輛−38(t)対戦車自走砲・駆逐戦車ヘッツァー

38(t)対戦車自走砲マーダーIII(Jagdpanzer Marder III)はチェコ製のチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,開放式戦闘室を設けて,そこにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲7.62cmPak36(r)を装備した対戦車自走砲である。全長 5.9メートル,全幅2.2メートル,全高 2.5メートル,重量10.7トン。占領国チェコ製の車体に,ソ連製の火砲をつけたハイブリッド型の戦闘車両だった。

ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲H型は、チェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を撤去し、車台中央に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載。マーダーIII H型はM型とは異なり、エンジン位置を原型の戦車から変更していない。

写真(右)1944 年頃、ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd. Kfz. 138)M型:記録用写真。
Catalogue number: STT 7227, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7227)


チェコ38(t)戦車の車体に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載した。ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載した自走砲、ドイツ軍の7.5cm砲Pak40を搭載したH型に続き、エンジンを前方に移動して後方に7.5cm砲Pak40砲搭載したのが最終型のマルダーIII Ausf. Mである。

チェコ38(t)戦車の車体の後方に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載するためエンジンを前に移動している。1943年5月に生産を開始し、マーダー最終型として駆逐戦車ヘッツァーと交代するまで942輌生産された。

写真(右)1944 年に登場したドイツ陸軍チェコ、スコダ38(t)戦車をベースに開発された駆逐戦車ヘッツァー:
Catalogue number: STT 7560, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t). Label: German Jagdpanzer 38(t) tank destroyer. Also known as the 'Hetzer'. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7560)


チェコのBMM社は、小型のスコダ38(t)の生産ラインを活用して、攻撃力を増した駆逐戦車を生産することになった。既に生産されていた?号突撃砲の重量25トン以上だったが、新たな駆逐戦車ヘッツァーは38(t)戦車を基にしているためにその半分の重量だった。

駆逐戦車ヘッツァー諸元:
全長:6.27 m、車体長:4.87 m、全幅:2.63 m、全高:2.17 m
重量:15.75 t
速度:路上42 km/h、路外15 km/h、航続距離:177 km
主砲:48口径7.5cm PaK39 L/48(41発)、車載機銃:7.92mm MG34機銃1丁
装甲:車体前面60mm、側・後面20mm、底面10mm
動力:マイバッハ Hl 203 P 30直列6気筒液冷ガソリンエンジン 160 馬力
乗員:4 名


6.IV号戦車−ドイツ陸軍の最多・最良の主力戦車

1936年に開発され,第二次大戦が勃発した1939年から生産された?号戦車は,大直径のターレットリング,バスケット式の大型砲塔が特徴で,ここに当初の計画にはなかったような長砲身大口径砲とそれに見合った大型砲弾を搭載することができた。また,操縦手,砲手のほかに戦闘指揮に専念できる戦車長の合計4名の乗員のために,車内通話装置が完備していた。また,昇降ハッチは,乗員分が装備されており,乗り降りはもちろん,緊急時の脱出にも配慮されていた。

写真(右):2007年6月、アメリカ、メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館に保管展示されているドイツ軍のIV号戦車H型 PzKpfw IV/H Sd.Kfz 161:「切り株」と呼称された24口径7.5センチ戦車砲7,5-cm-KwK 37 L/24 (Stummel)搭載で火力支援を目的にした戦車だったが、最終型では対戦車戦闘を重視した戦車に発展している。
Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007. Source Own work
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Panzerkampfwagen IV Ausführung H in the United States Army Ordnance MuseumFile:Experimantal Panzerkampfwagen IV 1.jpg引用。


IV号戦車E型(PzKpfw IV Ausf.E)諸元
全備重量21トン,全長5.9メートル,全幅2.8メートル,車高2.7メートル
時速42キロ(整地),航続距離200キロ,乗員5人
兵装:7.5センチ24口径砲(KwK 37 L/24),7.92ミリMG34機銃2丁

短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24 )装備のIV号戦車は,1942年末から長砲身43口径40年式7.5センチ戦車砲に換装された。終戦まで生産続行。

1941年初頭,ヒトラーは強力な60口径5cm砲の搭載を命じていたが,保守的な陸軍将官は,機動性を重視して,重量の増える長砲身を搭載しなかった。
 しかし,独ソ戦で直面したソ連赤軍のT-34は,37口径75ミリ砲を装備して,避弾に優れた装甲であり,ドイツ軍の対戦車砲では貫通できなかった。このため長砲身7.5センチ砲装備のF型が急遽開発された。 

IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)がはじめに装備した火砲は,短砲身24口径7.5cm砲(7.5cm KwK 37 L/24)だったが,これでは,火力支援はできても,対戦車戦闘能力は低かった。24口径7.5cm砲の貫通力は,500メートルで39ミリ,1000メートルで30ミリと,敵戦車の正面装甲貫通は困難だったためである。

⇒ドイツ陸軍 IV号戦車 Panzer IV(Sd. Kfz. 161)を見る。

1942年4月12日ヒトラー卓上談話:「特にこの(対米戦と独ソ戦という)戦争では,負ければすべてを失うということを明記しなければならない。だからスローガンは唯一“勝利”である。」

1942年5月22日:「(東部の)戦場では理想主義者が次々に死んでゆくのに,銃後で犯罪者どもを野放しにしておけば,わが国の人種政策は逆行してしまう。第一次大戦の教訓を忘れてはいけない。私の結論は次の通りだ。兵士は死ぬ可能性がある。犯罪者は確実に死ななければならない。これに選択の余地はない。この原則を受け入れない国家に,理想主義に燃える兵士を戦場で市の危険にさらす権利はない。-----銃後のドイツ国民が劣等人種に成り果てることがないように監視することこそ,私の義務であると心得ている。」 1942年8月30日ヒトラー卓上談話:「ロシアでは共産主義が本性を現している。我々は1メートルごとに掃討作戦を展開し,即決裁判を行わざるを得なかった。テロリストとの戦いは,過酷な戦いである。エストニアとラトビアでは反抗は収まった。が,ゲリラの情報を担うユダヤ人を殲滅しない限り,我々の責務は完了しない。」ユダヤ人が反ドイツ謀略戦争を仕掛けているので,殲滅すべきだと考えていた。

ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れ渡れば次のような支障が生じるからである。
?敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。
?残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。
?後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。
 

虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。バルバロッサ作戦,スターリングラード攻防戦の背後には,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ませるわけにはいけないであろう。

ナチスは,人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきである。他方,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人は下等人種・劣等民族であり,排除しなければならないとした。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。

人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的なご都合主義,プロパガンダに基づいている。為政者とは,人種・民族を自分の意図に都合よく定義,特定の人種民族を差別,迫害するものである。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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