◆ナチ党ヒトラー独裁政権の成立過程:ワイマール共和国のナチス
写真(上)1919年8月25日(?),ミュンヘン,マース広場のドイツ国軍とフリードリヒ・エベルト大統領:首相ヨハネス・ホフマンJohannes Hoffmann,バイエルン国防大臣エルンスト・シェペンホルストScheppenhorst,国防相グスタフ・ノスケGustav Noske,従うフライコール指揮官フランツ・フォン・エップFranz von Epp大佐も見える。
フリードリヒ・エーベルトは,ワイマール共和国時代,ドイツ社会民主党(SPD)党首で選挙によって,ドイツ共和国の初代大統領に就任。フライコール(愛国義勇軍)の存続を黙認し,それを使って,労働運動,共産主義者・革命家の運動を鎮圧した。バイエルではバイエルン軍が公式採用された。 Übernahme des bayerischen Heeres in die Reichswehr am 25.8.?1919, München, Marsfeld-Kaserne
Archive title: München, Marsfeldkaserne.- Offizielle Übernahme des bayerischen Heeres in die Reichswehr.- 1: Friedrich Ebert; 2: Johannes Hoffmann, bayer. Ministerpräsident; 3: Ernst Scheppenhorst, vorm. bayer. Kriegsminister; 4: Gustav Noske; 5: Franz von Epp, Oberst; 7: General Bunkhardt, Kommandeur der Befehlsstelle Bayern (?)
Dating: 25. August 1919 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1971-072-26引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低いロゴなし写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
写真(上)1932年4月,褐色の制服を着込んだヒトラーの私的軍隊「突撃隊」SA,それを閲兵するアドルフ・ヒトラー党首:Zu dem Verbot der S.A. der "Privat Armee" Adolf Hitlers! Adolf Hitler der oberste Führer der verbotenen S.A. bei der Abnahme eines Vorbeimarsches in Braunschweig.
Dating: April 1932 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
ゲッペルスGoebbels宣伝大臣,ルドルフ・ヘスHess副総統。ゲッペルスの主導するナチスのプロパガンダは,イエズス会以来のキリスト教の伝道,ソビエト社会主義のプロパガンダ,アメリカの大統領選挙(予備選挙)とラジオ放送・自動車・航空機の活用,名作映画の映像,古典的絵画などを応用した臨機応変なものだった。メディアや多数の党員・ヒトラーユーゲントを動員した行進・大会・式典も,1933年の政権奪取後に,大規模に展開されている。国家として,資源,施設,資源,人材,技術が動員できる状態になって,効果的になったともいえる。米英ソの文化人やメディア関係者は,ナチスのプロパガンダに対抗する必要上,敵を過大評価し,プロパガンダの予算を獲得したかった。そこで,ナチスのプロパガンダを過大評価し,情報戦の重要性を浮き立たせようとしたのではないか。(「ナチ宣伝」という神話参照)
◆2015年4月18日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。 ◆読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、軍備強化、領土拡張、議会制民主主義の破壊、独裁政権獲得という本音のようだ。
◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
1.ファシズムの台頭
(1)労兵評議会(レーテ)とフライコール
写真(右)1918年3月24日,ドイツ西部戦線、フランスの街道を進撃するドイツ軍の馬車輜重部隊:第一次世界大戦の末期、1918年3月21日に、ドイツ軍は東部戦線にあった兵力も西部戦線に回して、フランスに対して春季大攻勢をかけた。当時の陸軍では、各国で機械化は進んでおらず、前線部隊への補給物資は、馬が輸送していた。 Frankreich, bei Etricourt.- Deutsche Frühjahrsoffensive 1918 ("Operation Michael").- Deutsche Truppen und bespannte Einheiten auf einer Straße vor zwei provisorischen Brücken Title
Bei Etricourt, Truppen auf Landstraße Info non-talk.svg
I. Weltkrieg 1914-1918
Vormarschstrasse bei Etricourt (24.3.18)
Depicted place Bei Etricourt
Date 24 March 1918.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 104-0984A, Bei Etricourt, Truppen auf Landstraße.jpg引用。
1914年8月に始まった第一次世界大戦が、4年目を迎えようとしていた1918年春、ドイツ軍は東部戦線でロシア帝国、革命後のロシア・ソビエト政府とブレスト=リトフスク講和条約を締結し、ドイツに有利な条件で東部戦線を安定化させた。そして、余力の出た東部戦線配備のドイツ軍を西部戦線に移動して、1918年春に、西部戦線で大攻勢をかける作戦を立てた。またこの時、同盟国オーストリア=ハンガリー帝国は、イタリア軍と交戦し、カポレットの戦いで国境を保持していたため、イタリア戦線を心配せずにドイツ軍を西部戦線に集中することができた。
写真(右)1918年3月,ドイツ西部戦線、破壊されたフランスの町を進撃するドイツ軍の馬車輜重部隊:第一次世界大戦の時期は、陸軍の機械化は進んでおらず、前線近くでは馬が輸送の中心を担っていた。1918年の春季攻勢で前進するドイツ軍に対する補給任務は、交通網が破壊されたことで、困難が伴った。 Frankreich, Bapaume.- Bespannten Pferdewagen bei der Fahrt durch die zerstörte Ortschaft Title
Frankreich, Bapaume, bespannte Einheiten Info non-talk.svg
Original caption
For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg
Bapaune
Photo Rich. Spelling [Berlin] A.O.K. 17 März 1918
Depicted place France
Date March 1918 .
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-2008-0095, Frankreich, Bapaume, bespannte Einheiten.jpg引用。
1918年春攻勢のために、ドイツ軍は初のドイツ戦車A7Vを20輌配備し、口径21センチ長距離列車砲「パリ砲」(最大射程100km)を準備するなど、新兵器を含めて、準備を整えた。 1918年3月21日に総攻撃を開始したドイツ軍は、それまで塹壕戦で膠着状態にあった西部戦線を打ち破って進撃し、当時としては驚異的な1週間で50キロ以上、前進することに成功した。21センチ口径の「パリ砲」も1918年3月21日に射撃を開始し、パリに向けて183発の砲弾を撃ち込み、パリ市民の中には町から脱出するものが相次いだ。しかし、進撃ができた片面、ドイツ軍は大きな損失を被っていた。
写真(右)1918年5月、フランス、ドイツ西部戦線、撃破したイギリス陸軍Mark IV (Nr. 2732) 戦車の脇を進撃するドイツ軍:1917年より製造開始のイギリス陸軍Mark IV 戦車は、1,015輌も量産された。全長8.04 m、全幅3.91m、重量28トン、 兵装23口径6ポンド(57mm)砲2門あるいはルイス 0.303口径7.7ミリ軽機関銃3丁、最高速力時速5km/h。 Frankreich, bei Amiens.- Abgeschossener englischer Panzer Mark IV (Nr. 2732)
Title:Frankreich, zerstörter britischer Panzer Info non-talk.svg
Original caption
Abgeschossener engl[ischer] Tank, bei Amiens, Mai 1918
11868
Depicted place France
Date May 1918.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 102-03379A, Frankreich, zerstörter britischer Panzer.jpg引用。
連合軍は、最高司令官にフランス軍のフェルディナン・フォッシュ元帥を任命し、イギリス軍司令官ダグラス・ヘイグ隷下の兵士も統一指揮することとなり、5月に入るとアメリカ本土から到着したアメリカ・ヨーロッパ遠征軍(AEF)が実戦配備され、最終的には200万人の遠征軍が西部戦線に派遣された。こうして、ドイツ軍による1918年春季攻勢は、夏に入ると押し返されてしまった。これは、ドイツ軍の軍事的敗北である。
写真(右)1918年3月以降,ドイツ西部戦線に投入されたドイツ軍のA7V突撃戦車(A.7.V.-Sturm-panzerwagen):車体前面に57ミリ砲を装備する砲眼が開いているが、火砲は未装備であり、走行試験中の撮影のようだ。第一次大戦中期にイギリス軍が戦車をドイツ軍への攻撃に使用し効果を上げたが、このときドイツ軍はイギリス軍戦車を鹵獲した。また、ドイツ独自のA7V突撃戦車(A.7.V.-Sturm-panzerwagen)を少数生産し実戦投入を試みている。しかし、1918年の春季攻勢は、当初は効果を上げたが、アメリカ軍の援助を受けたフランス軍・イギリス軍の抵抗は激しく、夏には失敗が明らかになった。
I. Weltkrieg 1914 - 1918.- Deutscher A.7.V.-Sturm-panzerwagen, aufgenommen nach dem 21.3.1918 (Balkenkreuz!)
Title Deutscher Sturmpanzer A7V Info non-talk.svg
Description
English: a german A7V Sturm-panzerwagen (assault-tank). The picture was taken sometime after march the 21st 1918
Date 1918 .
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1970-029-31, Deutscher Sturmpanzer A7V.jpg引用。
1918年3月に開始された西部戦線におけるドイツ軍春季攻勢が失敗し、連合国軍の反撃によって、8月にはドイツの敗北が決定的となった。当時、ベルギーのスパにおかれていたドイツ軍大本営は、1918年9月29日、アメリカ合衆国ウィルソン大統領を仲介した講和交渉を始めることを決定した。そして、講和交渉を始めるために、戦争を政治主導したゲオルク・フォン・ヘルトリング首相が辞任し、10月3日、ドイツ社会民主党(SPD)のバーデン伯マックス・フォン・バーデン大公子を首相として、ドイツ軍部独裁政治が終わりをつげ、政党政治の下で、休戦交渉が始まった。
写真(右)1918年11月頃,ベルリン、ドイツ革命に参加するようにドイツ軍兵士・市民に呼び掛ける革命派のドイツ軍兵士:第一次大戦の末期に、反戦・帝政打倒・社会主義を掲げるドイツ革命が起こったが、これはドイツ本土の兵士たちが主体になった下からの革命だった。 Anwerben von Soldaten für die republikanische Soldatenwehr. Der Organisator der republikanischen Soldatenwehr hält in einer Straße Berlins eine Ansprache an Soldaten, um für den Eintritt in die Wehr zu werben.
Depicted place Revolution in Berlin
Date 1918. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-2007-0002, Revolution in Berlin, Anwerbung von Soldaten.jpg引用。
ドイツ西部戦線での春季攻勢が失敗し、1918年11月3日、無謀な出撃命令を拒否したキール軍港のドイツ海軍水兵が反乱を起こすと、ドイツ本土では兵士の蜂起がおこり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世もロシア革命の再来を恐れて、オランダに亡命し、ドイツ第二帝政は崩壊した。 1918年11月11日、敗北を認めたドイツは、フランス、コンピエーニュの森で、フランス・イギリスと休戦協定を結んだ。
写真(右)1918年11月,ベルリン、ドイツ革命に参加しベルリンを占拠した革命派のドイツ軍兵士がマキシム1908年型MG08重機関銃を配備し、記念撮影をした。:第一次大戦の末期に、反戦・帝政打倒・社会主義を掲げるドイツ革命が起こったが、これはドイツ本土の兵士たちが主体になった下からの革命だった。
Revolution in Berlin, 1918.- Maschinen-gewehrposten der Volksmarine. Division am Begas- (Neptun-/ Schloss-) Brunnen vor dem Berliner Schloss
Title Revolution in Berlin, MG-Posten vor dem Schloss Info non-talk.svg Description
Information added by Wikimedia users.
Polski: Rewolucja w berlinie, 1918 rok. Obsługa cekaemu MG08 Depicted place Revolution in Berlin
Date November 1918 .
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1971-038-54, Revolution in Berlin, MG-Posten vor dem Schloss.jpg引用。
ドイツ帝国を打倒した革命派のドイツ軍兵士は、評議会(レーテ)を中心とする共和政治を開始した。これが、ドイツ11月革命である。こうして、第一次世界大戦は終結し、ドイツに議会制民主主義のワイマル共和国が樹立された。しかし、反革命派のドイツ人は、ドイツ革命は、共産主義者とユダヤ人による陰謀であり、安全な前線後方からドイツへの「匕首の背後からの一突き」であるとして、反共産主義、反ユダヤ主義(アンチ・ゼミニズム)の感情が高まり、ワイマル共和国への反発を強めることに繋がった。
写真(右)1918年,ドイツ、ベルリン、国会議事堂を占拠した革命派のドイツ軍兵士:1917年3月12日に、ニコライ2世統治下のロマノフ朝ロシア帝国で、ロシア三月革命が勃発し、その後、ボリシェビキのロシア十月革命で共産主義政権が誕生すると、ドイツにも革命熱が伝染し、1918年1月にはドイツ全土でストライキが発生した。そして、1918年春季攻勢の失敗が明らかになると、ドイツ本土の兵士たちも、反政府の姿勢を硬化させるようになり、11月にはドイツ軍兵士の反乱が勃発した。
Das Reichstagsgebäude in Berlin als Sitz des Arbeiter- und Soldatenrates.- Wachtkommando in der Kuppelhalle am Standbild Kaiser Wilhelms I. Title
Revolution in Berlin, Soldaten im Reichstag Info non-talk.svg
Das Leben im Reichstag, dem Sitz des Arbeiter- u. Soldatenrates. Wachtkommando in der Kuppelhalle Depicted place Revolution in Berlin
Date 1918.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1970-058-20, Revolution in Berlin, Soldaten im Reichstag.jpg引用。
第一次大戦末期、社会主義思想家カール・リープクネヒト,ローザ・ルクセンブルクは,戦争反対を主張し、スパルタクス団を設立した。1918年,ドイツ敗戦を契機に,ドイツ社会民主党臨時政府が樹立されたが,スパルタクス団(1918年12月,ドイツ共産党と改称)は,ロシア革命のソビエト・ボルシュビキを模範した労兵協議会(革命支持の労働者と兵士の評議会:レーテ)を組織,武装蜂起を計画した。
写真(右)1918年11月頃,ベルリン、ドイツ革命でドイツ国会議事堂を占拠した革命派のドイツ軍兵士:ソビエト連邦を見習って、兵士を中心とするレーテ(評議会)を作り、これを中心とする革命政権を樹立したが、行政・財政面での不安定さ、イデオロギーの分裂、反革命勢力の反撃のために、安定政権とはならなかった。
Das Leben im Reichstag, dem Sitz des Arbeiter- u. Soldatenrates. Der Sicherheitsausschuss im Lesesaal. Depicted place Revolution in Berlin
Date 1918.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1970-051-43, Revolution in Berlin, Sicherheitsausschuss.jpg引用。
写真(右)1918年12月,ベルリン、休戦協定が締結され前線から帰還したドイツ軍歩兵部隊:ベルリン市民が帰還を歓迎してか、兵士の中には首に歓迎の花輪をかけてもらっている者も見える。本来、第一次大戦に敗北したドイツだったが、武装したドイツ兵が首都を行進している様は、まるで凱旋部隊のようである。ソビエト連邦を見習って、兵士を中心とするレーテ(評議会)が設けられ、新しい政府、ドイツ革命に高揚した気分なのであろうか。 Berlin, Rückkehr deutscher Truppen
ADN-ZB I. Weltkrieg 1914-1918 Nach Unterzeichnung des Waffenstillstandes von Compiegne am 11.11.1918 kehren die deutschen Fronttruppen in ihre Vorkriegsgarnisonen zurück.
UBz.: Einmarsch der Truppen Anfang Dezember in Berlin.
Depicted place Berlin
Date December 1918 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1970-051-43, Revolution in Berlin, Sicherheitsausschuss.jpg引用。
1918年に第一次世界大戦休戦協定が結ばれ、革命の起きたドイツでは労働者・兵士レーテ(評議会)によるソビエト政権が誕生した。しかし、ドイツの有力政党社会民主党のフリードリヒ・エーベルトは、前線から復員したドイツ軍兵士が武装解除せずにそのまま結成されたフライコール(義勇軍)を使って、レーテを鎮圧し、政権を奪取した。1919年、ドイツ中部、テューリンゲン州ワイマールで国民会議が開催され、2月6日に新ドイツ憲法、いわゆるワイマール憲法が制定された。そこで、この新憲法下に樹立されたドイツは、ワイマール共和国と呼ばれるようになる。2月11日、ドイツ大統領選挙が行われ、社会民主党党首エーベルトが当選し、ドイツ・ワイマール共和国の初代大統領に就任した。
写真(右)1919年8月25日,ドイツ、ミュンヘン、ドイツ共和国軍バイエルン部隊を閲兵したフリードリヒ・エーベルト(Friedrich Ebert )大統領、リッター・フォン・エッブ将軍、グスタフ・ノスケ国防大臣:第一次世界大戦敗戦後に誕生したドイツ共和国は、ワイマール共和国として有名になる。労働者・兵士レーテ(評議会)によるドイツ革命、共産主義者の蜂起を社会民主党エーベルト党首は前線から復員したドイツ軍兵士を再編したフライコール(義勇軍)を導入して鎮圧した。1919年2月6日、ワイマール国民会議で新ドイツ憲法、いわゆるワイマール憲法が制定され、俗にいうヴァイマル共和国が樹立された。2月11日の大統領選挙で、社会民主党エーベルトは、ドイツ・ワイマール共和国の初代大統領に就任した。 Übernahme des bayrischen Heeres in die Reichswehr, München, Marsfeldkaserne, 25.8.1919, Mitte von links: Oberst von Epp, Gustav Noske, Friedrich Ebert
Title
Ebert bei der Reichswehr in München Info non-talk.svg Depicted people Ebert, Friedrich: Reichspräsident, Reichskanzler, Vorsitzender der SPD, Deutschland Epp, Franz von Ritter: Reichsstatthalter von Bayern, General, Heer, Deutschland
Noske, Gustav: Reichswehrminister, Oberpräsident von Hannover, SPD, Deutschland
Date 25 August 1919 .
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1989-054-18, Ebert bei der Reichswehr in München.jpg引用。
ドイツ敗戦を陸軍病院で迎えた陸軍上等兵伍長勤務アドルフ・ヒトラーは,退院後,ミュンヘンの所属連隊に復職の申請を出した。1919年2月,労兵評議会(レーテ)の代議員に選出されたヒトラーは,共産主義自治政府ミュンヘン・レーテ共和国の労兵評議会の宣伝部で,啓蒙活動と指令読み上げの任にあたった。
写真(右)1919年1月のドイツのスパルタクス団(ドイツ共産党)の蜂起。それに対抗するフライコール。左右両派とも,正規軍ではないが,武装していた。退役した軍人は,義勇軍を維持しようとしたが,これには生計維持と,革命あるいは反革命という目的があった。ワイマール共和国政府は,このような私兵集団との取引,駆け引きあるいは私兵集団の武力鎮圧にかかわった。
第一次世界大戦末期からの反乱・革命の混乱の中で,1919年1月,共産主義政権を樹立しようとするスパルタクス団Spartakusbund(ドイツ共産党)の武装蜂起が起きた。ミュンヘンでは,武装蜂起は成功し,ドイツ共産党が指導するレーテ共和国ができた。
バイエルン革命政府首相の独立社会民主党クルト・アイスナー(ユダヤ人)は,1918年11月8日、ミュンヘンでバイエルン王ルードウィヒ?世の退位を要求し、共和国の成立を宣言した。アイスナー首相は,バイエルンの独立,自らの軍,警察,行政を求めた。しかし,1919年,アイスナー首相は暗殺され,ミュンヘンでは共産主義者の反撃によって,レーテ独裁が開始された。
写真(右):第一次大戦敗戦後の1919年3月3-12日,ベルリンの労働者ゼネスト(全面ストライキ)鎮圧に出動した国軍(ワイマール共和国軍):1919年1月のベルリンでのスパルタクス団(共産党)蜂起に対しては,フライコール愛国義勇軍が鎮圧に向かい,ドイツ共産党カール・リープクネヒト,ローザ・ルクセンブルクらを虐殺した。しかし,ベルリンでは再びゼネストが起こった。 Berlin, im März 1919: Freikorps-Stoßtrupp in Bereitschaft während der vorbereitenden Artilleriebeschießung am Bülowplatz.
ADN-Zentralbild / Archiv
Generalstreik und bewaffnete Kämpfe zur Unterstützung der streikenden mitteldeutschen Arbeiter und für die Anerkennung der ASR, Freilassung aller polititschen Gefangenen etc. vom 3. bis 12. März 1919. Durch Provokation schafft sich General von Lüttwitz den Vorwand für den Einmarsch seiner Truppen in Berlin, die am 6.3. mit Artillerie gegen die Republikanische Soldatenwehr vorgehen.
U.B.z: Freikorps-Stroßtrupp geht im Schutz eines Panzers am Bülowplatz vor.
2961-39
Dating: März 1919 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv引用。
1919年1月,ベルリンでドイツ共産党が武装蜂起した。ドイツ社会民主党のフリードリヒ・エーベルトFriedrich Ebert(1871-1925)首相は,元軍人からなる義勇兵組織のフライコール(Freicorps)によって,共産主義者の反乱を鎮圧した。この時,カール・リープクネヒト,ローザ・ルクセンブルクは,フライコールに惨殺された。1919年5月初め,政府軍がミュンヘンを制圧し,共産主義者のレーテ共和国は倒された。こうして,フライコールは,政府に黙認された準軍事組織として維持されることになった。ドイツの保守政治家・軍人・資本家は,ドイツ共産党,レーテ共和国を武力鎮圧したドイツ社会民主党を共産主義者とみなすことはなくなり,政権担当能力を評価するようになった。
◆1919年4月,革命政府の下で,ミュンヘンの全労兵レーテが臨時会議に招集され,評議会議員の選挙が行われた。4月16日,アドルフ・ヒトラー上等兵は,大隊評議会議員に選出,共産主義政権に仕える身となった。ヒトラーが共産主義政権に加わっていた事実は,1922年3月24日『ミュンヒナー・ポスト』に掲載され,ナチ党のヒトラー党首の日和見主義を批判していた。その後のナチス政権下では,ヒトラーが共産主義政権の片棒を担いでいた事実は,封印された。
写真(右)第一次大戦後のバイエルンの義勇軍:武装解除されたドイツ軍将兵は就職先としてフライコールのような義勇軍組織に入隊したものもいた。政府も彼らを利用しようとした。義勇軍は,武器を所持し続け,共産主義者の暴動鎮圧など政府の支援の任にも当たった。写真はSchützen der Alpenregion引用。
1919年5月末,バイエルン第四軍団司令部の啓蒙・宣伝部長に反共・反ユダヤのカール・マイル大尉が就任し,レーテ代議員から転向したヒトラーは,政治教育を受け,自らもプロパガンダを担当した。1919年9月のヒトラーの手紙には,理性に基づく反ユダヤ主義からの帰結として,「最終目標は断固として全ユダヤ人の排除でなければならない」との見解が記されている。
1919年10月16日,ドイツ労働党(1920年2月,国家社会主義ドイツ労働者党に改称)の初の公式会合で,約100名の聴衆を前に,諸国民の敵ユダヤ人に対抗せよと激昂した演説をしたのが,アドルフ・ヒトラーである。ヒトラーは,反政府勢力の監視にスパイとして派遣されたが,そのままドイツ労働者党の宣伝要員に収まった。彼の演説は魅力的で,党に300マルクの寄付が集まった。しかし,ヒトラーが,ナチ党首に選出されるのは,2年近く後(1921年7月)である。
ポスター(右):「自由時間を使おう,愛国義勇軍に参加しよう!」:1919年1月のスパルタクス団蜂起や労働者のゼネスト鎮圧に活躍した愛国義勇軍(フライコール)は,正規の職ではなく,多くは無給のボランティアだった。失業者,元軍人などのほかに,労働者や店員なども参加した。共和国軍が弱体だった当時,フライコールは,政府も一目置く軍事組織存在だった。 Zeitfreiwillige!
Kommt sofort zum G. Kav. Schützen-Korps
Dating: 1919/1933 ca.
Designer: Kulas, Josef v. 作。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低いロゴなし写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆第一次大戦後,義勇軍のフライコールは,政府の影の軍隊あるいはドイツ参謀本部の予備軍として,維持された。敗戦で解散させられたドイツ軍将兵の就職先としてもフライコールは重要だった。地方自治政府も,在郷軍人会・退役軍人会として,義勇軍を黙認し,財政支援を行った。政府が厳格に管理するべき軍隊とは別に,私兵的なフライコールが暴力装置として存続したが,これはナチスの突撃隊,親衛隊へと受け継がれることになった。
(2)ナチ党の興隆
戦後、欧州の戦勝国・敗戦国は共に大きな戦禍を被った。そこで、国際連盟が設立された。しかし、ナショナリズム(fascism)による植民地独立の動き、人種平等の概念は、取り入れられず、依然として、列国本位の国際秩序が維持された。その中で、社会主義が興隆したために,それを恐れた資本家の一部はファシズムに着目した。
1920年2月24日,ミュンヘンの「ホーフブロイハウス」で2000名の聴衆を相手にしたナチ党の集会が行われたが,そこには反ナチスの共産党員も野次るために集まっていた。騒ぎは,硬いゴム警棒をもった義勇軍兵士が排除した。ヒトラーは,トン単位で印刷されるハイパー・インフレと,腐敗した社会民主党政権を痛烈に非難した。買いだめをしているのはユダヤ人だ,東方からユダヤ人が攻撃してくると,表現力に富んだ粗野な演説を行った。最後に聴衆にナチ党25か条の綱領を示した。
1920年ナチ党25か条の綱領: ドイツ人の大ドイツ帝国への統合,過剰な人口を収容する植民地,諸外国とドイツの平等,ベルサイユ条約破棄,再軍備など愛国的要求。
不労所得の撤廃,戦時利得の没収,公共のための無償の土地収用,大企業の利益の再分配など労働者階級向けの要求。
健康基準の改善,大規模店舗の公営化,低利融資の拡大など中間層向けの要求。 ユダヤ人の権利制限,公職追放,1914年8月2日(世界大戦勃発)以降に入国したユダヤ人の即時国外追放などアンチセミニズムの要求。
この集会では新たに党員100名が入党した。党員名簿が整備され,党員数を多く見せかけるために,最初の党員番号は501番だった。画家ヒトラーの党員番号は555番である。エルンスト・レーム大尉は,多くの兵士を率いてナチ党に加わり,集会における秩序維持にあたり,のちの突撃隊を編成した。作家のディートリヒ・エッカートは,新しい政治指導者は機関銃の音に耐えられる人物で,婦人票を集められるように独身でなければならないとする反ユダヤ主義の作家だった。彼は,ヒトラーとレームをベルリンに送り,フライコールによるカップ一揆との連携を取らせようとした。二人は,飛行機に乗ってベルリンに向かったが,操縦したのは戦争末期,空軍総司令官に就任するリッター・フォン・グライムだった。ヒトラーは,初めて飛行機に乗ったが,悪天候のために飛行機酔いに苦しんだ。
写真(右):1920年3月,ウィスマールで,カップ一揆に出動したロスバッハのフライコール(愛国義勇軍):ベルサイユ条約批准に反対する愛国義勇軍(フライコール)が反乱を起こしてベルリンを占領,カップ博士を中心とする新政権を立てた。国防相ノスケは,共和国軍に鎮圧を命じたが,参謀総長フォン・ゼークトは,反乱軍を支持した。そこで,ワイマール共和国フリードリヒ・エーベルト大統領は労働組合にゼネストを呼びかけカップを倒した。カップはスウェーデンに亡命。 Wismar.- Freikorps Roßbach während des Kapp-Putsches 1920
Dating: März 1920
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_119-2815-20引用(他引用不許可)。
1920年のカップ一揆は,政府側の愛国義勇軍フライコールとエーベルト首相の訴えた労働者のゼネスト(大規模ストライキ)によって,一発も撃つことなく降伏した。しかし,共産主義者による騒動が勃発し,ワーマール政府は,解散を命じた義勇軍を復活し,ゼークト将軍に指揮させて,武力鎮圧を命じた。1920年3月20日には,共産軍がルール地方で蜂起し,ロシアと連携して,ドイツはソビエト共和国に移行する,世界革命と社会主義の勝利を目指して戦うことを宣言した。4月3日,義勇軍はルールの共産主義政権を武力で鎮圧し,多数の死傷者が出た。
ダダイズムの詩人ヴァルター・メーリングは,詩作でベルリンを諷刺した。1933年,彼は焚書の対象になった。
ホーホーホーと声かけて,みんなで行こう,虐殺に。 ベルトを締め直して,ユダヤ人を放り出せ。 カギ十字と毒ガスで,大量殺戮を始めよう。
エッカートは,カップ一揆に失望したが,ヒトラーをルーデンドルフ将軍,ドイツの財界人に紹介した。共産主義者の暴力革命,フライコールによる武力鎮圧という騒然とした状況にあって,粗野で力強いヒトラーは,反ワイマール共和国,反共産主義とを唱え,安定したドイツの政治を目指す点で,財界人に評価された。また,このころ,亡命ロシア人とも交流したヒトラーは,彼らの反共産主義の影響を受けた。エストニア生まれのアルフレート・ローゼンベルクAlfred Rosenbergは,ボルシュビズムは,世界革命を企てているが,これはユダヤ人による世界制覇の一環であると主張し,ナチ機関紙「フェルキッシュ・ベオバハター」に寄稿した。1920年,ここに,「シオン長老の議定書」が掲載された。これは,バーゼルで開催されたユダヤ人秘密会合の報告書であり,19世紀末にロシアで出版された。この偽書が今頃になって,ユダヤ人の世界陰謀の証拠として,もっともらしく取り上げられた。
ポスター(右)1919-23年,フライコール(退役軍人義勇軍)「デンク」:突撃隊SAは,このようなフライコールを起源とする準軍事組織だった。市民,労働者,共産主義者を威圧した。デモやストライキ,革命を鎮圧することを目的とした暴力装置で,ワイマール政府も半ば公認していた。軍服のような制服を着用したフライコールもあったが,職業は別に持っていた兼業兵士である。 Bayern auf zur Volkswehr beim Korps Denk
Dating: 1919/1923 ca.
Designer: Frank, Sepp 撮影。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
オスヴァルト シュペングラー Oswald Spengler(1918)『西洋の没落』は,第一次大戦末期,世界史上唯一完成しようとしている文明は,ヨーロッパ・アメリカ文明(西洋文明)だけだとした。しかし,その文明が、成熟を過ぎ,歴史的過程の終焉途上にあると主張した。ヨーロッパ・アメリカ文明は,その進んだ技術・政治形態にかかわらず、活力が衰微し、未来への発展は望めない。文明の根幹である都市は,自由ではあるが,母なる大地から完全に遮断され人工空間に貶められた。ここの支配者は,通貨,金融である。土を忘れた虚弱インテリは不妊症で,人口減から衰退する。堕落した民主主義,腐敗した政治家の下で,金銭亡者が増殖し,無差別の殺戮戦争が起こり,ヨーロッパ・アメリカ文明は没落する。 『西洋の没落』は,警鐘的な意味であり,文明を維持させるような救世主,新たな血と土に基づく生命力・繁殖力,強い意思の力による規律,剛健な肉体が,ヨーロッパ文明の再生に必要だという意味で,ナチスが待望論として,曲解された。
ヒトラーは,ユダヤ人が中世以来ヨーロッパ社会に害をなしていると,大衆の反ユダヤ偏見を扇動し,ナチ党だけがユダヤ人の力からドイツを解放すると主張した。ヒトラーによればユダヤ人は,卑怯な寄生虫以上の存在であり,すべての国民を蝕む力を持った害毒であり,ユダヤ人は国際的陰謀によって,他の民族から,民族としての権利を奪うものであるとした。
ヒトラーの演説メモには,「血を好むユダヤ人。国民の精神的指導性の抹殺。ロシアの葬儀屋。」「ユダヤ人とゲルマン人の戦い。」「株式市場と冬季を通じた平時の飢饉(インフレ?)。贅沢への欲求など。」「世界革命は世界株式市場の独裁とその巨匠,すなわち「ユダヤ人への従属を意味する。」
1920年9月,ヒトラーは,「われわれは手足を縛られ,猿轡を噛まされている。しかしたとえ無防備ではあっても,フランスとの戦いを恐れはしない。」「われわれの敵は,イタリアでもほかの国でもなく,ラインの対岸にいる。」と集会で述べた。ユダヤ人と国際主義を同一視し,ユダヤ人への憎悪を,自分の論理で形成し,その論理に得心して酔いしれ,妄信した。国際ユダヤ人が世界革命を企て,世界を支配しようとしていると本当に信じ,ユダヤ人を理論的に攻撃するプロパガンダを展開した。プロパガンダを進めることで,ヒトラーのアンチセメニズムは,ますます断固たる意思・偏見に転化した。この時期,ヒトラーは共産主義者アカ=赤に対抗する党旗を制定した。共産主義者の赤旗を凌ぐ赤い旗として「カギ十字を配した赤旗」が制定された。
1921年1月22日,国家社会主義ドイツ労働者等,ナチ党の第一回全国大会がミュンヘンで開催された。しかし,党員は411名にか参集しなかったが,パリの連合国最高軍事会議は,戦時賠償請求として,ドイツに賠償金1340億マルクの支払いを命じた。金価格から換算すると,40兆-80兆円相当になる。困窮していたドイツ人は,憤怒に陥った。ミュンヘンの警視総監,バイエルン州(ババリア)政府グスタフ・リッター・フォン・カールGustav Ritter von Kahr首相(1862-1934)など官僚,政界人にも,ヒトラーのナチ党を支持するものが現れた。
1921年7月,ナチ党の国粋主義と社会主義の反目があったが,ヒトラーはこの混乱を収拾するには,自分を第一委員長として,党の全権を与える独裁体制が採用されない限り,離党するとの最後通牒をナチ党全員に突きつけた。これが,指導者原理のはじめだった。ナチ党の資金,演説会はヒトラーに依存していたため,1921年7月29日,ヒトラー委員長選任の投票が行われ,賛成543票,反対1票で,ヒトラーがナチ党首となり,以後24年間,自決するまでその職にあった。
1921年8月,ナチ党に「体育スポーツ部」と名乗る順軍事的組織が編成され,11月にそれを突撃隊Sturmabteilung (SA:シュトルク・アプタイルング)に改称した。SAの任務は,集会などの秩序維持,街頭行進をする政治道具だったが,暴力組織としても位置づけられた。彼らは,党集会や演説会を妨害に来る共産主義者,労働組合などを排除する活躍をした。
◆民主的手続きを踏んでいた古いナチ党は,ヒトラーが党首になった1921年7月以降,変容した。突撃隊SAを組織し,その暴力によって,ナチ党内外のヒトラー反対派の抑圧し,集会・演説会を妨害する敵対者を迅速に排除した。ヒトラー党首は,暴力を誇示することによって,敵対者を鎮圧し,整然たる秩序を回復して,行動力を示した。このことで,国粋的な憤激や国民の不満を吸収することができた。暴力による秩序回復を肯定したことは,ナチ党の興隆に繋がった。
連合国の賠償金増額要求をドイツは拒否したが,その結果,フランスはベルギーを誘って,ヂュイスブルク,ジュッセルドルフを占領し,賠償金支払いに応じない場合,ルール地方を保障占領するとした。ワイマールの保守派内閣は総辞職したが,引き継いだドイツ中央党の内閣は,賠償金要求を呑んだ。
1921年8月,中央党の指導者で第一次大戦の休戦条約に調印したマティアス・エルツベルガーMatthias Erzberger(1875年9月20日‐1921年8月26日)は暗殺されたが,犯人は英雄視された。 1922年6月4日,外相でユダヤ人のヴァルター・ラーテナウも,元義勇軍兵士に暗殺された。
◆ナチス興隆前のワイマール時代にあっても,ドイツでは暴力,暗殺,テロが横行していた。同日,暴動を扇動した咎で,ヒトラーはシュターデルハイム刑務所に収監され,5週間後に釈放された。
(3)1923年ミュンヘン一揆 BEER HALL PUTSCH (Bürgerbräukellerputsch)
写真(右)1923年,ミュンヘン一揆と同じ時期の突撃隊員の行進:突撃隊SAは禁止された私兵であり,示威行進をして,市民を威圧した。暴力装置であることを明確にするために,軍服のような制服を着用し,髑髏の旗を採用した。 Zu dem Verbot der S.A. der "Privat Armee" Adolf Hitlers! [Herausgabe des Fotos April 1932]
Die Totenkopf-Brigade der S.A. während eines Aufmarsches in Braunschweig
Dating: 1923 ca. ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-13376引用(他引用不許可)。
国粋主義者クルト・リューデッケは,ナチ党が勢力を拡大するためには,イタリアのムッソリーニを参考にすべきことをヒトラーに説き,自らムッソリーニに会いにミラノに出かけた。ムッソリーニは,リーデッケをもてなし,ベルサイユ条約については,ヒトラーと同じ意見だが,ユダヤ人問題については,支持を与えなかった。しかし,ムッソリーニは,リーデッケが,イタリア政府を武力で倒すつもりか尋ねた時,自信満々に「われわれは国家になる。それが意志だ。」と堂々と答えた。
戦勝国イタリアでも,1919年、元兵士を集めた「突撃隊員協会」が発足した。彼らは,軍服を着用した義勇軍であり,ドイツのフライコールに相当した。ムッソリーニは突撃隊員を糾合して「戦闘ファッシ」を編成,黒シャツを制服とした。イタリアでも,保守政治家・資本家は,共産主義革命の波及を恐れて,資金を提供してファシストを操ろうとした。
イタリアのファシズムは,ドイツの国家社会主義と驚くほど類似している。ともに,国粋主義,反共産主義,反議会民主主義であり,新秩序の確立を目指している。指導者は,ともに庶民出身で,兵士上がりだった。リーデッケは,勇気をもって行動したファシストの黒シャツ隊が,イタリア軍から好意的に扱われ,町を事実上占領することもできたことを報告した。ムッソリーニは,数ヶ月以内に,イタリアを支配するに違いないと報告した。ヒトラー党首は,政治的権力を奪取するのに,暴力を使い,軍を味方に引き入れることの重要性をムッソリーニから学んだ。
写真(右)1923年9月30日,上シレジエン,フライコール「オーベルラント」を閲兵するエーリヒ・ルーデンドルフ将軍とヘルマン・ゲーリング突撃隊SA指導者:突撃隊SA以外にも,退役軍人を中核とした反共準軍事組織の義勇軍フライコールがあった。彼らは,ミュンヘン一揆を支持したが,十分に兵器を保持しているわけではない。示威行進には有力だったが,実際の暴力革命を起こしたミュンヘン一揆では,警察力の前に,敗退した。突撃隊は,軍服のような褐色の制服を着用している。 ADN-Zentralbild - Archiv
Enthüllung eines Denkmals für die in Oberschlesien gefallenen Angehörigen des Freikorps "Oberland" in Schliersee am 30. September 1923 durch den 1921 gegründeten Bund "Oberland".
UBz.: General Erich Ludendorff nach seiner Ankunft am Bahnhof Schliersee im Gespräch mit österreichischen Angehörigen des Bundes.
Vorn rechts der Führer der SA Fliegerhauptmann a.D. Hermann Göring
7238-23
Dating: 30. September 1923
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-R99470引用(他引用不許可)。
1922年10月14日,ヒトラーは600名の突撃隊員を率いてミュンヘンから,ニュルンベルクを経由(そこで同調者が乗り込んだ)し,コーブルク駅に到着した。コーブルクの町の起源は1056年にまで遡り、中心のマルクト広場周辺には,白壁のシュタットハウスなど,美しい後期ルネサンス様式の建築物が並んでいる。ここが,ナチスが正式に発足させた突撃隊による街頭支配の成功例となる。
写真(右)1923年11月初め,ミュンヘン一揆の突撃隊員:突撃隊SAは禁止されている私兵,"民間の軍隊"だったが,ナチスはこれを暴力装置として効果的に利用した。機関銃で武装した突撃隊S.A. Zu dem Verbot der S.A. der "Privat Armee" Adolf Hitlers! Erinnerungen an den Hitler - Putsch im Jahre 1923. Mit Maschinengewehren bewaffnete S.A. Hitlers in den Strassen Neustadts an der bayrisch - thürigischen Grenze.
Dating: 1923
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-13370 引用(他引用不許可)。
ヒトラー党首は,ナチス800名を,射撃練習場に宿泊させるように要求した。そして,自ら先頭に立って,太鼓を敲いた突撃隊員を連れて市街を行進した。市民は冷たい視線を浴びせた。翌日,反ナチスの共産主義者らは反対集会を開催したが,1500名近くに膨れ上がった突撃隊員は,ふたたび行進し,反対派を四散させた。市民たちは,ナチ党と突撃隊を受け入れ声援を送った。
◆ナチス突撃隊の暴力によってコーベルクの街頭を支配したヒトラーは,「これがブルジョア世界の典型だ。危険な瞬間には卑怯者で,危険が過ぎ去ってから自慢をする」と述べた。ヒトラー党首は,ムッソリーニの黒シャツ隊を真似て,暴力を前面に押し出した街頭支配,日和見的な市民の支持獲得という成功に気を大きくした。ヒトラーは,世論や市民の支持を重視したポピュリストだが,市民の一人として自らを自覚したことはない。ヒトラーにとって,日和見主義の市民は,蔑視の対象であり,服従すべき存在だった。
写真(右)1923年11月初め,ミュンヘン一揆の時のバイエルン州,チューリンゲン近くのエーアハルト旅団:機関銃と小銃を構えるポーズをとったクーデタ参加者たち。 Scharfschützen der "Brigade Ehrhardt" in der Nähe der thüringischen Grenze in Neustadt/Bayern.
Archive title: Neustadt bei Coburg.- Maschinen-gewehrtruppe der Brigade Ehrhardt während des Hitler-Putsches.
Dating: November 1923 Anfang
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_102-01467引用。
1923年11月8日- 9日,アドルフ・ヒトラーは,ミュンヘンで政権奪取の一揆(武力行使)を起こした。これが,ミュンヘン一揆(ビアホール・プッチ)である。
ビアホール「ビュールゲルブロイケラー」にいたバイエルン州自治政府首脳(首相カール,警視総監ザイサーHans Ritter von Seisser,軍管区司令官ロッソウOtto von Lossow将軍の三名)を人質にとって,バイエルン自治政府首脳に協力させ,第一次世界大戦の参謀総長エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍とナチ党突撃隊が,ナチ党突撃隊に国防軍・警察を率いてベルリンに進軍、ルーテンドルフ将軍を首班とする新政権を樹立する計画だった。
ミュンヘン一揆の計画は,1922年10月,イタリア・ファシスト党ムッソリーニによるローマ進軍'March on Rome'と同じである。ビアホール一揆で,ヒトラーは「国民革命は開始された。臨時政府が樹立される。」と大見得を切った。
ルーテンドルフ将軍は,バイエルン政府首脳三名の解放要求に,独断で応じ,三名を解放してしまうという大失策を犯した。これは,政府要人を監禁するという犯罪行為の責任を,ルーデンドルフ将軍が,回避しようとしたためである。犯罪者として訴追されることを恐れた将軍は,一揆失敗の場合の言い逃れの口実をつくった。解放されたバイエルン自治政府首脳三名は,監禁・脅迫した一揆の連中を,軍・警察によって鎮圧することを決めた。 カール首相らミュンヘン一揆の裏切り者は,1938年「Der "Röhm-Putsch" 長いナイフの夜」に,ナチス親衛隊によって殺害された。
斉藤茂吉は,1921-24年ドイツ留学中,ミュンヘン一揆を体験した。「戒厳令の布かれたミュンヘンの街は,底に鬱勃(うちぼつ)たるものがあるようで,薄気味悪い。私等は小道を通ってオデオン広場まで来ると,機関銃を構えたいったいの兵と,黒い毛フサある抜身の槍を持った騎馬巡査の一隊が二列に其処を固めているのを見た。ルードウィヒ大街道は,電車も止まり,馬車,自動車の往来もとまったので,薄い夜霧がこめてしずまりかえっている。」(1923年11月9日の茂吉の日記)
をりをりに 群集のこえか 遠ひぎき 戒厳令の街はくらしも (『遍歴』大正11年〜13年の欧州生活を歌った歌集) 以上は,ロジャー・ムーアハウス(2007)高儀進訳『ヒトラー暗殺』p.404引用
写真(右)1923年9月11日,ミュンヘン一揆の時のオデオン広場将軍廟前:1923年11月9日,フランス軍が場ドイツの賠償金支払いを保障するためにルールを占領した。ヒトラーは,ルール占領したフランスだけではなく,無為無策のドイツ・ワーマール共和国を非難した。しかし,ベルサイユ条約に縛られたドイツ国防軍は,兵力10万人しかなく,フランス軍との対決は回避しようとしていた。しかし,ヒトラーは,ドイツ国民の不満が鬱積している状況をいかし、突撃隊を使って武装蜂起すれば,愛国義勇団,フライコール(義勇軍)の支援をえて,さらにドイツ国防軍の支持も取り付けることができると考えた。しかし,政権奪取に失敗,ナチスによる武装蜂起にいはルーデンドルフ将軍も加わっていたが,ドイツ国防軍の支持は得られなかった。軍に,武力鎮圧された一揆失敗を教訓に,ヒトラーは国防軍を取り込むことを決めた。 Hitler-Putsch, 8.-9.11.1923.- Odeonsplatz in München nach dem Zusammenstoß, 9.11.1923
Dating: 9. November 1923
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_119-1426引用(他引用不許可)。
1923年11月9日,ヒトラーは,国防軍・警察の信頼が厚い(と錯覚していた)エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff)将軍を伴って,占拠中の国防省までナチ党突撃隊によるデモ行進した。国防軍・警察がルーデンドルフ将軍に服従すれば,形勢を一挙に逆転できるからである。
デモ隊が将軍廟Temple of Honor(1947年取壊し)前にくると,対峙していた警察隊は,デモ鎮圧のために銃撃を開始した。突撃隊は10名以上の死者を出し,逃走した。ルーテンドルフ将軍は,その場で投降し,逮捕された。駐屯軍司令部占拠部隊エルンスト・レームErnst Röhmも,投降した。ルーデンドルフも,レームも投降しても,将校待遇を受け,身の安全が保障されることを知っていた。
写真(右)1923年11月,ミュンヘン一揆当時のバリケード(中央の突撃隊旗をもっているのが旗手ハインリヒ・ヒムラー):ミュンヘンのドイツ国防軍が一揆鎮圧に出動した。それを阻止しようとしたのが,ナチス突撃隊だった。突撃隊の最高指揮官は、エルンスト・レームRöhm,で,その部下の突撃隊員がヒムラーだった。ヒムラーは,後に親衛隊SS国家長官となり,警察と強制収容所の管理も行うことになる。ヒトラーは,ルーデンドルフ(Erich Ludendorff)の協力を得たが,君主制を復活させるつもりは無く,バイエルン首相など地方政府要人を人質にして革命を求めた。 Scherl?: Wachtruppe vor dem Reichswehrkommando in München, die der heutige Stabschef, damals Führer der Reichs-Kriegsflagge, Ernst Röhm kommandierte, in der Mitte mit der Fahne der heutige Reichsführer der SS Himmler.
Zentralbild: Faschistischer Putsch am 8./9. November 1923 unter Führung Adolf Hitlers und Erich Ludendorffs in München. Hitler überrumpelt im Bürgerbräukeller eine monarchistische Versammlung, ruft sich selbst zum Reichskanzler aus, erleidet aber schon am 9. November morgens in der Feldherrenhalle mit seinen Anhängern eine völlige Niederlage.
UBz: eine kleine Gruppe der Putschisten, mit Heinrich Himmler (mit Fahne), vor dem Reichswehrkommando.
36867-33
Dating: November 1923
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。
ヒトラー上等兵は,銃撃の混乱で左肩関節が外れ,骨折もしていた。ミュンヘン突撃隊の救護隊長ヴァルター・シュルツ医師に付き添われて,銃撃現場から逃げた。そして,事前に用意してあった自動車に乗って,市内の混乱を避けながら,南のザルツブルク方向に向かった。ヒトラーは,支援者の資産家ハンフシュテングルの別荘に匿われた。ハンフシュテングルは,作家エッカート,写真家ホフマンらの自動車に同乗し,ついで単身オーストリアに脱出しようとしていた。ヒトラーの副官グラーフが銃撃で死亡し,ルーデンドルフ将軍も死んだと思った。
資産家ハンフシュテングルの別荘に警察の捜査が及ぶことを知ると,ヒトラーは自殺を考えたが,ハンフシュテングル夫人ヘレーネは,彼をたしなめ,再起する勇気を持つべきだと説得した。別荘に警察が来たとき,ヒトラーは堂々と逮捕され,ミュンヘン西80kmのランツベルク刑務所に送られた。ルーデンドルフ将軍は,ミュンヘン一揆には参加しておらず,見物人と変わりない立場だったと自ら主張して,釈放されたことを,そこで知ったであろう。捜査二日後,逮捕された。
ゲーリングは,銃撃で負傷し,市民に匿われた後,亡命。この傷が元で,痛み止めの麻薬治療を始め,モルヒネ中毒になる。ハインリヒ・ヒムラー(後の親衛隊SS国家長官,ユダヤ人絶滅を指揮)は,レームととも駐屯軍司令部占拠部隊にいたが,逮捕を免れた。
ヒトラーは,青年時代にウィーン美術アカデミーの受験失敗,母親の死,浮浪者生活に直面し,第一次大戦では,毒ガス攻撃によって,一時的に失明し病床でドイツ敗戦を迎えた。そして,ミュンヘン一揆で失敗し,反乱者として逮捕された。監獄では
ミュンヘン一揆の失敗者ヒトラーを嘲笑する新聞を目にしたはずだ。
しかし,ヒトラーの行動力と情熱をかっている支持者は,監獄に囚われたヒトラーに面会し,手紙を書いて,差し入れをして力づけた。ハンフシュテングル夫妻,ウィニフレッド・ワーグナーWinifred Wagner夫人(1897-1980),チェコスロバキア国家社会主義労働者党創設者ハンス・クニルシュなど,ヒトラー支持者に事欠かなかったのである。
獄中のヒトラーは,「ランツベルクは,私にとって国費による大学教育だった」と後に述べるほど,思想,歴史の本を読み漁った。そして,意志の力は知識よりも偉大である。神が世界を「知った」だけで,それを「意志しなかった」ならば,世界は今なお混沌から脱することはできなかった,と不遜な言葉を述べた。
第一次大戦,特に東部戦線タンネンベルクの戦いの英雄と持ち上げられたルーデンドルフ将軍は,副官とともに,堂々と警察に行進し逮捕されたとの俗説がある。
実際は,有名なルーデンドルフ将軍は,銃撃が始まる中,警察に身の安全の保護を求めた。命惜しさに投降したというのは不当かもしれないが,ルーデンドルフ将軍は,ミュンヘン一揆を見物していただけだ,ナチスが勝手に自分の名前を利用しているだけだと責任逃れをした。ルーデンドルフ将軍は,「ヒトラーは私を騙した」「ヒトラーはだたの演説屋で山師に過ぎない」とミュンヘン一揆に対する責任を一切認めなかった。
ドイツ陸軍ルーデンドルフ将軍の言い逃れは,ヒトラー党首が,裁判で熱烈な愛国者として,一揆をすべて指導したと全責任を認めたのとは対照的だった。将軍は,ミュンヘン一揆の裁判の脇役,ヒトラーの引き立て役に成り下がった。
◆ルーデンドルフ将軍など,栄光あるドイツ参謀本部出身者たちにとって,1923年のミュンヘン一揆の失敗,その無責任な態度は,終わりの始まりだった。犯罪には加担していない,利用されただけだ,命令に従っただけだ,同じ言い逃れ・遁辞を25年後にニュルンベルク裁判で再び聞かされることになる。被告として出廷した将軍・政治家たちの無責任さ,責任感の欠如は,ヒトラーの熱狂的な革新的行動,全責任を負うという指導者原理とは,対照的だった。
ミュンヘン一揆失敗後,ヒトラーは裁判をプロパガンダに利用した。法廷で,ヒトラーは、脆弱なワイマール共和国を,第一次大戦で降伏し,祖国を裏切った11月の犯罪者がつくった政府として非難した。そして,ヒトラーは,ドイツ復興の障害となるベルサイユ条約の呪縛からドイツを解放することが,自らの使命であると,一揆の首謀者としての全責任を認めた。
正々堂々とベルサイユ体制と混乱・腐敗した政府を非難したヒトラーは,ドイツに身を捧げた熱烈な愛国者,ドイツへの殉教者として振る舞い,大いに人気を博した。劇場国家のはしりだった。
バイエルン州政府司長官フランツ・ギュルトナーFranz Gürtner (1881-1941)は,保守主義者で,ヒトラーの国家主義に同調していた。判決は,禁固5年,実際は9ヶ月のランツベルグ刑務所での軟禁生活だった。後の強制収容所とはまったく異なる厚遇だった。
ヒトラーに温情を示したギュルトナー博士は,1933年のナチス政権で栄転,司法大臣に任命された。そして,新たに民族法廷を設置した。民族裁判とは,弁護・再審・公開審理,時間をかけた慎重な審議という公正な手続きによらない恣意的なナチス主導の裁判だった。
写真(右)1926年7月,ワイマールの突撃隊SA:カギ十字のナチ党旗を先頭に,トラックで移動するナチス突撃隊だが,制服もばらばらで,とても一流のプロパガンダを行うことができる風体ではない。これが,ナチス政権獲得前の突撃隊であり,制服をそろえた創刊な行進は,政権獲得後,資金を投入して成し遂げた「プレゼンテーション」である。ナチスがプロパガンダが優れているというのは,資金を投入でき,公的行事として大動員が可能になってからのことである。 Original title: Josef Terboven (in Zivil) mit Essener SA auf der Fahrt zum Reichsparteitag in Weimar, Juli 1926
Dating: Juli 1926
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_119-0779.引用(他引用不許可)。
ランツベルグ刑務所に収監されたヒトラーは,後の副総統ルドルフ・へスRudolf Heß(1894-1987)に口述筆記させ,1925年『わが闘争』を刊行した。1920年のナチ党綱領第4条は,民族同胞にだけをドイツ人と認め、信仰・宗教のいかんを問わず、ドイツ人の血統をもつ者だけを民族同胞とすると規定し,ユダヤ人は民族同胞とはなりえないことを明記していた。『わが闘争』もアンチセメニズムを反映していた。
ヒトラー著(後の副総統ルドルフ・へスの口述筆記)『わが闘争』(1925年)は,ユダヤ人が共産主義と結びつき,ドイツの勢力拡大を阻止しており,前線で敢闘していたにもかかわらず第一次大戦に敗北したのは,ユダヤ人の陰謀,裏切りのためである。敗北主義の1918年11月の犯罪者は,ユダヤ人であり,かれらは,共産主義ソ連,金融資本・メディアを通じて米英を操って,ドイツに敵対している,と考えた。ドイツ人を弱体化するユダヤ人は,共産主義ペストのような存在だと喧伝した。他方,ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進め,優秀なドイツ人の人口増やすことが,ドイツの発展に必要であるとした。
つまり,ヒトラーとナチス党にとって,ユダヤ人の排除はドイツのために必要な措置であった。ユダヤ人共産主義者がソ連を支配し,ユダヤ人金融資本がアメリカと大英帝国を操って,ドイツに戦争を仕掛けてくる。となれば,ドイツが東方に生存圏を獲得するためには,敵対するユダヤ人と世界戦争を戦う準備をしなくてはならない。
こうして,反ユダヤの人種民族的偏見,すなわちアンチ・セミティズムAnti-Semitismが,プロパガンダで広められた。反ユダヤ主義はナチスドイツによるものばかりではなく,ロシア,ポーランド,オーストリア=ハンガリー帝国,スペイン,フランス,アメリカでも,一部の人々に根強かった。
2.ナチス政権獲得への道
(1)ヒンデンブルク大統領の下でのナチ党躍進
写真(右)1925年4月,ハノーバーで愛国義勇団のパレードを閲兵するドイツ・ワーマール共和国大統領フォン・ヒンデンブルク元帥:フライコールのような愛国義勇団は,共産主義や労働運動の鎮圧に活躍した。ドイツ・ワーマール共和国大統領ヒンデンブルクは,ハノーバーに別荘を持っていた貴族出身の軍人で,共産主義や労働運動を嫌悪していたようだ。敗戦の責任を取るべき参謀総長が,再びドイツの政治と軍を指揮するようになったのは,敗戦を率直に認められないドイツ人の復活の願望あるいは復讐心があったからではないか。 Riesenkundgebung für Hindenburg, dem Kandidaten des Reichsblockes vor seiner Villa in Hannover. Von Hindenburg nahm den Vorbeimarsch von Vaterländischen Verbänden von der Treppe seiner Villa ab. Jungmannen defilieren im Parademarsch vor Hindenburg x.
Dating: April 1925
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-01301引用(他引用不許可)。
ヒトラー『わが闘争』(1925)では,アジア人も野蛮人とされ,ロシア人にも文明が及んでいないとした。当時,日本も中国大陸を勢力圏とする東亜新秩序を唱えた。日独は共に米英仏との戦争は望まないとしたが、勢力均衡を破綻させる軍事力,勢力圏獲得という覇権主義は、列国の既得権益を侵すものであり,脅威だった。ヒトラー総統は,ロシア人はアジアの野蛮人,非文明人と公言していた。
しかし,このような他人種・民族に対する侮蔑や嫌悪感は,ヒトラー特有のものではない。第一次大戦で敗戦し,混乱と苦難にあったドイツ人は,自分たちを貶めた敵を探していた。また,ヒトラーが政治の世界に大々的に登場する以前から,ヒンデンブルク大統領も,ドイツ国防軍を最高の誇りとし,愛国義勇団のような軍隊的な組織をも受け入れてきた。
写真(右)1928年3月,戦没将兵記念日にドイツ国防軍を閲兵するドイツ・ワーマール共和国大統領フォン・ヒンデンブルク元帥:帝国議会の本会議場前。第一次世界大戦,タンネンベルクの会戦でロシア軍に大勝,その後,参謀総長となったヒンデンブルク元帥は,ドイツ人の誇りだった。ワイマール共和国のドイツ人は,強かったときのドイツ帝国を懐かしんだ。ナチスが政権を握ろうとしていたワイマールの時代,すでに敗戦で失ったドイツとドイツ国防軍の栄光を復活すべきであると考えたドイツ人がたくさんいたのである。 Volkstrauertag für die Gefallenen im Weltkrieg im Plenarsitzungssaal des Reichstages unter Anwesenheit des Reichspräsidenten von Hindenburg sowie der Reichs- und Staatsregierung. Der Reichspräsident von Hindenburg beim Abschreiten der Ehrenkompagnie vor dem Reichstag. Der Reichspräsident von Hindenburg (x) begrüßt die alten Fahnen.
Dating: März 1928
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-05554引用(他引用不許可)。
パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥は,第一次大戦は後半の参謀総長で,1925年から1934年まで,ワーイマル共和国大統領の職にあった。1933年,ワイマール共和国首相にアドルフ・ヒトラーを任命したのも彼である。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)政権樹立への道を開いたというが,実は,ワイマール時代から,ドイツには栄光を取り戻そう,具ドイツ国防軍を復活させようとという欲求がたまっていた。
写真(右)1928年5月28日,帝国の基石敷設起工式典のフォン・ヒンデンブルク大統領と幹部たち:式典には,ベルリンの閣僚や州政府の行政官,帝国議会の議員などあらゆる名士が出席した。 Grundsteinlegung der Reichskanzlei. Heute Mittag fand neben der alten Reichskanzlei in Anwesenheit des Reichspräsidenten die Feier der Grundsteinlegung für den Erweiterungsbau der Reichskanzlei statt. Der Reichspräsident verlas die für den Grundstein vollzogene Urkunde, anschliessend hielt der Reichskanzler eine Ansprache. An der Feier nahmen alle in Berlin anwesenden Reichs- und Staatsminister sowie sämtliche Vertreter des Reichsrates und andere hochstehenden Persönlichkeiten teil.
Der Reichspräsident, dahinter Reichskanzler Dr. Marx und Staatssektretär Pünter begeben sich zur Feier.
Archive title: Berlin, 18. Mai 1928
Dating: 18. Mai 1928
Photographer: Wolter, H.
Agency: Keystone ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1998-013-25A引用(他引用不許可)。
1925年,ドイツ・ワーマール共和国初代大統領のフリードリヒ・エーベルトが亡くなると,次期大統領を巡る選挙が実施された。この第1回目の大統領選で投票で過半数を獲得できるような候補がおらず,ドイツ国防軍の支持もあって,第一次大戦の英雄・元参謀総長フォン・ヒンデンブルク元帥が推され,大統領に当選した。本来なら,第一次大戦の敗残将軍ははずだが,ドイツ人は戦いに負けたとは認めず,ドイツ復活の象徴として,タンネンベルク会戦の勝者ヒンデンブルクを選出した。行政や実務能力よりも,英雄として,ドイツ人の自負心を満足させる存在だったようだ。
写真(右)1928年6月,ベルリン,ホッペンガルテン・スタジアム,ドイツ・ワーマール共和国フォン・ヒンデンブルク大統領を迎えて大レース:レースの勝者は,帝国大統領賞が個人的に与えられた。フォン・ヒンデンブルク大統領は,帝国と連合クラブのメンバーのスタンドプレーに敬意を表している。1928年6月。 Das grosse Hindenburg-Rennen unter Anwesenheit des Reichspräsidenten von Hindenburg in Hoppegarten b./Berlin! Der Reichspräsdident überreichte dem Sieger des Rennens persönlich den Ehrenpreis. Der Reichspräsident von Hindenburg und Mitglieder des Union-Clubs in der Ehren-Tribüne in Hoppegarten.
Dating: Juni 1928
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-06046引用(他引用不許可)。
『わが闘争』日本語版では,アジアの野蛮性に関する偏見の記述は削除された。アジアはイギリス人が支配すべき植民地として残し,日本人によるアジア支配を嫌悪していた。ドイツが東欧・ソ連を生存圏とする見返りに,西方の米英は現状のまま放置し,そのアジア植民地支配も認めていた。ヒトラーに軽蔑されていたアジアの日本人が,ヒトラー総統に心酔したのは,皮肉である。
写真(右)1930年7月19日,ラインラント,レセプションに向かうドイツ共和国フォン・ヒンデンブルク大統領,バイエルン首相ヘルト博士。:運転手はスパイヤー。
Der jubeldene Empfang des Reichspräsidenten von Hindenburg im befreiten Rheinland! Reichspräsident von Hindenburg und der bayerische Ministerpräsident Dr. Held während der Fahrt durch Speyer.
Dating: 19. Juli 1930
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-10148引用(他引用不許可)。
しかし,ヒトラー総統は,自己の野望達成のためには,公約を覆し豹変した。敵視していた共産主義ソ連と独ソ不可侵条約を締結した。中国国民党に派遣していた軍事顧問団を引き上げて,反英米に向かわせるために日本軍に融和的態度を示した。この現実主義を誤解した結果,ヒトラー総統が労働力として使えるユダヤ人の絶滅を命じるはずがないという誤認が生まれた。
写真(右)1925-1932年,ドイツ・ワイマール共和国フォン・ヒンデンブルク大統領:大統領職在任期間7年は,大統領最長記録であり、84歳の大統領は最高齢だった。ヒトラーは「ご老体」ヒンデンブルクの体力・知力が弱るのを利用して、権勢を誇った。そして、その死を踏み台にして、総統(フューラー)としてドイツの独裁者となった。 Generalfeldmarschall von Hindenburg 7 Jahre Reichspräsident !
Ein Ueberblick über die militärische Laufbahn des 84 jährigen Präsidenten der deutschen Republik !
Reichspräsident von Hindenburg als Generalfeldmarschall und Präsident des deutschen Reiches.
Archive title: Reichspräsident Paul von Hindenburg bei einer offiziellen Veranstaltung
Dating: 1925/1932 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-13001引用(他引用不許可)。
◆ヒトラー総統は,目的達成のためには手段を選ばない。ユダヤ人に対する差別・迫害自体が,ヒトラー総統の目標だったのであり,ヨーロッパ・アーリア人を人種汚染し,敵対して勢力を拡大する非ヨーロッパ人種民族を排除あるいは絶滅するという目標は,変更されることがなかった。目標の実行時期,目標の言い回し,目標達成の手段,目標の遂行者は変化したが,人種差別という目標を変更したことはなかった。ヒトラー総統は,自らは手を血で汚すことなく,忠実な部下親衛隊あるいは使い勝手のいい者を煽動し,差別,迫害,排除を実行させることになる。
写真(右)1930年10月,突撃隊SAのパレードを閲兵するナチスのベルリン選出国会議員ヨーゼフ・ゲッペルス博士(右)とチューリンゲン選出ウィルヘルム・フリック博士(左):ワイマール時代の国家社会主義ドイツ労働者党のパレードで,周囲には突撃部SA幹部がある。ウィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick:1877-1946)は,1901年に法学博士となり,1924年にワーマール共和国の国会議員に当選。1933年のナチス政権では内相。1943年,チェコ(ベーメン・メーレン)総督に転出。1946年,ニュルンベルク戦犯裁判で死刑。
Der grosse Aufmarsch der Nationalsozialisten in Weimar vor dem Führer Adolf Hitler.
Anwesend waren der thüringische Innenminister Nationalsozialist Dr. Frick, sowie der nationalsozialistische Reichstagsabgeordnete Dr. Goebbels (Berlin).
Der thüringische Innenminister Nationalsozialist Dr. Frick (links) und der nationalsozialistische Reichstagsabgeordnete Dr. Goebbels (Berlin) rechts, grüssen die vorbeimarschierenden Hiltlerleute mit Faszistengruss.
Dating: Oktober 1930
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-10543引用(他引用不許可)。
(2)ナチ党の政権獲得−ヒトラー首相の誕生
ポスター(右)1930年9月,「禁止にもかかわらず死んではない,ドイツの自由と愛する,国家社会主義ドイツ労働者党突撃隊SA」:突撃隊は,義勇軍(フライコール)出身者が多く,エアハルト義勇軍フォン・プフェッファーの下で勢力を拡張した。役割は,敵対政党の演説妨害,選挙妨害,労働運動やデモの鎮圧などナチスの暴力装置として,ナチス国民革命の達成だった。ヒトラー総統(党首)の護衛部隊だったナチス親衛隊SSとは,別組織である。1923年のミュンヘン一揆にも主力となっている。そのため,ワイマール共和国政府は,ヒトラーの煽動的な演説や突撃隊の行動大幅に制約した。また,政権獲得後は,最大の暴力装置である共和国軍(再軍備宣言後,国防軍に改称)と対立した。 Original title: Trotz Verbot nicht tot
Der Deutsche, der die Freiheit liebt, gehört in die nationalsozialistische S.-A.
Dating: September 1930
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党・ナチス)は,ヒトラー党首の雄雄しい演説,プロパガンダによって,ソ連のような共産主義を嫌悪しつつ,ワイマール政府の無能ぶり,ベルサイユ体制の打破を主張する革新政党だった。1929年以降の世界大恐慌によって,ドイツ国内の資本化・労働者・生活者の不満はたかまっており,現状を打破できる革新政党が求められていた。
大恐慌時代のドイツで,ナチ党は,庶民の不満をプロパガンダで吸い上げ,急速に支持を高めていった。野党の革新政党として,何一つ経済・政治の実績はなかった。しかし,ワイマール政府の腐敗,大恐慌,ベルサイユ条約の頚城から自由になることを,ドイツの有権者は期待した。ドイツ復興の希望を,革新政党ナチ党に見出したように思った。
大不況の中、失業者や労働争議が頻発し,さらに地方自治政府に支持された退役軍人会・政党・労働組合がフライコール同様の準軍事的組織を結成し,暴力抗争、街頭騒擾が頻発していた。左右のイデオロギー対立は激化し,暴力沙汰が,頻発した。
写真(右)1933-40年,ゲッベルス博士と彼の娘とヒトラー:ヨセフ・ゲッベルスは,1928年,ワイマール共和国の国会議員となり,ナチス宣伝部長として,党幹部の地位を獲得した。1931年男の子ハロルド(戦後まで生き残る)を連れ離婚していたマグダと結婚。ゲッベルスは,一男五女をもうけ,模範的なドイツ家庭として賞賛された。1933年,ヒトラー政権では,新設された啓蒙宣伝省の大臣に就任。
Der Führer mit Dr. Goebbels und dessen Töchterchen in Heiligendamm
Archive title: Heiligendamm.- Adolf Hitler mit Joseph Goebbels und dessen Tochter am Strand, dem Kind die Wange tätschelnd
Dating: 1933/1940 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-2004-1202-500引用(他引用不許可)。
兵役不合格で,軍隊経験のない小柄な男が,1924年1月,『ベルリン日報』に,履歴書を添えて,求職の手紙を郵送した。彼は有力紙には就職できなかったが,国粋主義者の集会が縁で,その週刊誌『民族の自由』の編集係りに雇われた。彼こそパウル・J・ゲッペルスPaul Joseph Goebbels(1897年10月29日-1945年5月1日)で,直ぐに週刊誌編集長となり連載「政治的日記」を書き始めた。
1925年1月1日の「政治的日記」:「アドルフ・ヒトラー!われわれはあなたに敬意を表する。指導者にして英雄よ。----戦いに叫ぶ人よ,ドイツの信念と熱情の再生のための旗手よ。----ドイツの若者は再び指導者を持つ。」
1925年1月17日号で『民族の自由』は打ち切りとなった。1925年2月27日,刑期を終えたヒトラー出獄を待って,新たにナチ党が構成され,ゲッベルス博士も参加した。彼は,ナチ党機関紙『国家社会主義通信』編集の任に当たった。
1926年2月15日のゲッベルスの日記:ヒトラーとナチ党幹部の演説をきいて,驚き啞然とし,ヒトラーを信頼できなくなった。ナチ党の演説では,イタリアとイギリスは,ドイツの宿命的な盟邦である,ボルシュビズム(ソ連型共産主義)粉砕がナチ党の課題である,ボルシュビズムはユダヤ人の作り物である,と珍説が大真面目に主張された。文学博士の社会主義者ゲッベルスにとって,ナチ党幹部は,国際関係と社会主義思想を理解できない無教養な人間に思えた。ゲッペルスは。,ナチスに失望したのである。
1925年4月13日,ゲッペルス博士は,ミュンヘンで豪華接待を受け,車でビュルガーブロイに連れて行ってもらって,2時間半の演説をした。演説終了後,ヒトラーに抱擁され「僕は幸福そのものだ。列している群集の間を通って,車へ。ハイル!の叫び声。ヒトラーがホテルで一人で待っていてくれた。僕らは一緒に夕食を摂った。彼が招待してくれたのだ。そのときの彼のなんとすばらしいことか。」と日記に書いた。
◆アドルフ・ヒトラーも,ヨーゼフ・ゲッペルスも,ともに若いときには,右翼の国家主義,左翼の社会主義の間を揺れ動いていた根無し草だった。ヒトラーは共産主義の労兵評議会(レーテ)の代議員だったし,ゲッペルスもボルシェビキ Bolshevikとユダヤ人を結びつけるヒトラーの演説に失望した文学博士のインテリ社会主義者だった。 しかし,二人のナチ党指導者に共通しているのは,国家主義,社会主義などイデオロギーの問題を「超克」し,権力掌握を第一優先した演説・プロパガンダ・行動だった。世論の支持・大衆の煽動だった。そのためには,新機軸として,党大会の演出,ラジオ・新聞・ポスターなどマスメディアの活用,突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントのような行動的な団体を組織した。
ヒトラー総統,ゲッベルス宣伝相は,出世主義,権威主義,権力掌握を第一とする俗物であり,イデオロギーの論理ではなく,個人崇拝を基盤にした。ヒトラー支配下のナチ党は,権力掌握の野望,生存圏を確立した大ドイツ建国という目的のためには,手段を選ばなかった。 現在,暴力と陰謀が,ナチスの代名詞となっているが,当時の状況では,必ずしもそうは思われていなかった。
写真(右)1931年10月11日,ハノーバー南西50キロ、ニーダーザクセン州バート・ハルツブルク,突撃隊の集会に参加した突撃隊幕僚長エルンスト・レーム,その奥のハインリヒ・ヒムラー,手前のヘルマン・ゲーリング:ドイツ中部の観光地Bad Harzburgで,1931年10月、ナチスは,共闘していた右翼の国家人民党,準軍事団体「鉄兜団」と警察予備隊に相当する準軍事組織を創設。この「ハルツブルク戦線」(国民戦線)によって,財界、軍と提携を深める機会を獲得できた。ナチ党政権獲得前は,大規模な集会とはことなり,あふれかえるばかりの突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントや大群衆を動員できたわけではない。カトリックをまねて,悪趣味な旗・紋章,血染めの旗の洗礼式など,似非宗教的儀式を考え出した。 ヒトラー政権では,ヒムラーは親衛隊国家長官に,ゲーリングは空軍大臣になるが,レームは,突撃隊SAを国防軍に取って代わるような軍隊にしようとして,国防軍と対立したために,ヒトラーに粛正された。1931年当時,ヒムラーは,レームの部下だったが,親衛隊に入り,「長いナイフの夜」では,ヒトラーの命令で元上官のレームを粛正する側に回った。突撃隊の粗暴さは民衆に反発を受けた,そして国防軍に取って代わる新しい軍隊を目指したことで,ドイツ国防軍から忌み嫌われた。ヒトラーは,大衆,ドイツ国防軍の支持を得るために,旧友であるレームと突撃隊幹部を抹殺した。これが,「長いナイフの夜」である。 Gründung der "Harzburger Front" Bad Harzburg, 11.10.1931
Hauptmann Göring und Hptm. Röhm, ganz rechts der Preußischer Kultisminister Rust, (x) Archive title: links neben Röhm: Himmler und SA-Oberführer Korsemann
Dating: 11. Oktober 1931 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-02134引用(他引用不許可)。
ナチスは,煽動,プロパガンダによって,突撃隊に選挙干渉,ユダヤ人迫害,示威行進させた。今から思うと,圧倒的に力強く,衝撃的な映像がそれを記録しているかのごとくみえる。しかし,初期のナチスのプロパガンダは,演説会,突撃隊による行進,党機関紙の発行,若干のポスターの配布程度であり,1933年の政権獲得後に,大スタジアムを建設し,自らの施設とすることができた。大観衆を動員できたのも,一般市民の中に(ナチ党だけではなく)国家的行事に参加しないわけには行かないという集団心理が働いた。パレードに声援を送り,党大会に出席しなければ,反ナチスとみなされ,政府機関や就職先企業でも不利益を被る恐れが出てきた。党レベルでは難しい大規模な飛行機,探照灯,消防・軍用車両あるいは,警察・軍隊の利用も,政権につくことで可能になった。映画・ラジオ・発行部数の多い新聞・雑誌で宣伝できたのも,国家予算を投入したからであり,ナチ党の独自資金では困難だった。ナチスのプロパガンダが,政権獲得前から,効果的だったかどうかは,非常に疑わしい。
写真(右)1932年8月,ブランデンブルク,突撃隊SAの体育祭:軍事訓練と同様,スポーツを重視した。しかし,大衆を動員したスポーツ大会というより,変わり者のスポーツ愛好会のようで,滑稽に見える。ナチ党政権獲得前の突撃隊のスポーツ大会など,このように取るに足らないものだったのかもしれない。大スペクタクルのベルリン・オリンピックとナチ党が結びついたのは,政府資金,財政支援を受けて,国家予算を党の予算に投入することができるようになったからである。プロパガン技法が優れている,と感じられるのは,ナチス政権となり、財政資金が潤沢に利用できるようになって以降である。 Harnekop: SA Führerschule: Ein Hoch auf den Führer
Archive title: Schloss Harnekop bei Wriezen (Brandenburg)
Dating: 1932 August - September
Photographer: Weinrother, Carl撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・B_145_Bild-P049602引用(他引用不許可)。
1932年1月22日(ナチスが第一党だったが政権を担っていない時期)のゲッペルスの日記:「総統(当時はナチ党主の意味でチーフと書いていた)と将来のことを話し合った。特に私の将来の役職と権限の輪郭を詳しく描いた。考えられているのは,国民教育相で,映画,ラジオ,当たらし教育施設,芸術,文化,宣伝を総括するものだ。革命的な役職で,中央から指導され,とりわけ帝国(ライヒ)の思想を最優先で代表するものだ。まったく偉大な計画で,こうしたやり方は世界中まだどこにもなかったものだ。私は,この省の基礎を入念に研究し始めた。われわれの政権の精神的基盤を作り,政府機関だけではなく,ドイツ人すべてを獲得することに役立てたい」
写真(右)1929年,ベルリン,突撃隊SA中隊長ホルスト・ヴェッセル:ヴェッセル(Horst Ludwig Wessel,1907-1930)は,中隊長クラスのSA指揮官で,彼の作詞した次の「旗を高く掲げよ」Die Fahne hochがナチ党歌に採用された。
Die Fahne hoch!
Die Reihen dicht geschlossen!
SA marschiert
Mit ruhig festem Schritt
Kam'raden, die Rotfront
Und Reaktion erschossen,
Marschier'n im Geist
In unser'n Reihen mit
「旗を高く掲げよ!
固く隊列を組め!
雄雄しく毅然とした歩み
SAは行進する
赤色(共産)戦線と反対勢力の
凶弾に斃れし同志よ
その魂は
我らの隊列と共にある」
これは,1930年2月23日,彼がドイツ共産党員に射殺され,ナチ党突撃隊員の殉教者として喧伝されたためである。
Porträt Horst Wessel in der Uniform eines SA-Sturmführer des SA-Sturms 5 in Berlin
Dating: 1929
Photographer: Hoffmann, Heinrich撮影。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1978-043-14引用(他引用不許可)。
◆ナチ党政権獲得前,プロパガンダは,マスメディアの利用,資金,組織,宣伝対象の上で,限定されたものであって,大規模なプロパガンダは,ナチ党政権獲得後になって,国家資金,政府機関を通して初めて可能になった。
ヒトラーユーゲントも,大きな組織となったのは,ナチス政権下で,他の青少年団体が解散させられ,全ドイツの青少年の加盟が義務付けれて以降である。カトリックがナチ党加入を公認したのも,政権獲得以降である。ニュルンベルク大スタジアムの大式典も政権獲得以降である。飛行機・軍用車両を利用したパレードも,ヒトラー総統が,三軍総司令官となり,その後,再軍備宣言をして以降である。
写真(右)1930年3月,ベルリン,ナチス突撃隊SAホルスト・ヴェッセルの葬儀:共産党員との争いで死亡したヴェッセルは,勇敢な突撃隊の殉職者として,ナチ党によって英雄とされた。財政支援が受けられないナチ党だったが,反対派と争って死亡した隊員を,勇士として葬るプロパガンダを実行した。彼の作詞をナチ党の歌として採用した。 Die feierliche Beisetzung des Nationalsozialisten Wessel in Berlin! Der Trauerzug bewegt sich unter starker polizeilicher Bedeckung durch die Judenstrasse in Berlin.
Archive title: Das Bild zeigt die Ecke Jüdenstraße/Königstraße (heutige Rathausstraße)
Dating: März 1930
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_102-09303引用(他引用不許可)。
1933年1月の政権獲得以前,ナチ党プロパガンダは,突撃隊による行進・暴力,頻繁な演説会,党機関の発行など,決して独創的でも,洗練されたものでもなく,影響力も限られていた。
ナチ党政権獲得には,当時のワイマール共和国(ドイツ)の保守政治家・議会政党人の権謀術数の弊害,フライコールのような義勇軍の暴力黙認,大恐慌による生活悪化,ベルサイユ体制への批判,社会主義・共産主義勢力の拡大を恐れる資本家・アメリカ・イギリスなど外部要因の影響も,大きい。ただし,外部要因を踏まえたそれらの要素を取り込むことができたのは,ナチスの運動と計略が功を奏したということである。
写真(右)1931年3月19日,ドイツ装甲巡洋艦「ドイッチェラント」竣工式に出席したドイツ・ワーマール共和国大統領フォン・ヒンデンブルク元帥と海軍提督エーリヒ・レーダー:キール港で新生ドイツ海軍の第一番目の装甲巡洋艦(あるいはポケット戦艦)が作られることになった。艦名「ドイッチェラント」には,ドイツ復興の願いがこめられている。ナチ党が戦艦を整備する前に,ワイマール共和国時代に海軍強化が侵攻していたことは見逃せない。 ポケット戦艦「ドイチュラント」は,第二次大戦中,ヒトラーによってリュッツォと改名。レーダーは,大戦初期まで,ヒトラーの海軍最高司令官を務めた。ドイッチェラントは基準排水量1万トン,28センチ三連装砲塔2基を備え,ディーゼル機関(他国では蒸気タービンが主流)により速力28ノットの高速をだせ,通商破壊戦用に航続距離10ノットで2万マイルと長かった。英海軍の巡洋艦には砲撃力で勝り,戦艦には速力で勝っていた。ヒンデンブルクは,スパイク付き鉄兜を被っている。 Reichspräsident v. Hindenburg und Admiral Raeder beim Stapellauf des Panzerschiffes "Deutschland" in Kiel [1931]
17189-33
Archive title: Kiel.- Stapellauf des Panzerschiffs "Deutschland". Reichspräsident Paul v. Hindenburg (in Uniform mit Pickelhaube), Chef der Marineleitung Admiral Erich Raeder
Dating: 19. Mai 1931
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-2005-0901-503引用(他引用不許可)。
ナチス政権の1935年3月16日,ヒトラー総統は,ドイツ再軍備宣言をし,ベルサイユ条約の軍事制限条項を破棄したのは,有名である。しかし,ドイツ・ワイマール共和国は,ベルサイユ条約の下でも,10万人の兵力を持つことが許されていた。その上,参謀総長(名目上は廃止されていたが)が率先して,密かに軍備を整えようと務めていた。フォン・ゼークト参謀総長を初めとするドイツ軍幹部は,政府の黙認を得て、ヴェルサイユ条約の形骸化をもくろんで,義勇軍,愛国義勇団体を育成した。また,1922年のソ連とのラッパロ条約を結び,ソ連軍と協力して,ソ連国内で軍事研究・演習を行い,戦車や軍用機も開発していた。
ドイツ海軍は、軍艦の基準排水量1万トン以下、主砲11インチ(28.3センチ)以下に制限されたが,存在を許された。そこで,1921年,基準排水量1万トン以下,口径11インチ(28.3センチ)の軍艦を新造する計画が始まった。ドイツは,通商破壊戦を重視する海軍の意向を取り入れて,英仏などの巡洋艦を砲撃力で上回り,砲撃力の勝る戦艦には高速で退避できる装甲艦(Panzerschiff)を新造することになったのである。これが,戦後,ワイマール共和国の戦艦第一号ともいえる「ドイッチェラント」で,1929年2月5日に起工,1931年3月19日に竣工した。
敗戦後,ドイツ空軍は廃止を命じられたが,グライダー練習や航空輸送を名目に復活の機会を待っていた。ただし,航空省を設けたのは,1933年と陸海軍に比べて遅れをとっている。
写真(右)1932年,ベルリンのナチス突撃隊SAのデモ行進:街頭を制するものが,政治を制すると考えたゲッペルスやヒトラーは,突撃隊の男たちを行進させ,反対派,市民を暴力で威圧するよな皇道をとった。1932年当時,突撃隊の行進を見るベルリン市民の目は冷ややかで,歩道でも,市電でも,異様な行列に注目している。突撃隊の右には制服警官が警護あるいは警戒している。ヒトラーは,突撃隊を使って武装蜂起したミュンヘン一揆の失敗に学び,公権力,特に軍隊と警察を味方につける必要を知った。 1932 Berlin
SA-Propagandamarsch in Spandau
Dating: 1932
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・B_145_Bild-P049500引用(他引用不許可)。
フライコールは,義勇軍だったが,第一次敗戦後も、ドイツ参謀本部の隠蔽工作と,敗戦後解散させられたドイツ軍将兵の就職先として,維持された。地方自治政府も,在郷軍人会・退役軍人会などの義勇軍を半ば黙認していた。ナチ党も,元将兵を取り込んだ突撃隊Sturmabteilung(SA)を組織して,労働者のデモを鎮圧し,選挙の対立候補グループを襲撃し,該当を示威更新した。軍隊のように隊列を組んだ武装集団が,ドイツの街頭を行進していた。後の宣伝相ゲッベル博士は,「街頭は,現代の政治の縮図であり,街頭を支配したものが、大衆を征服できる。大衆を制したものが国家を征服する。」と考えたほどだった。
オスヴァルト シュペングラー Oswald Spengler(1918)『西洋の没落』は,第一次大戦末期,世界史上唯一完成しようとしている文明は,ヨーロッパ・アメリカ文明(西洋文明)だけだとした。しかし,その文明が、成熟を過ぎ,歴史的過程の終焉途上にあると主張した。ヨーロッパ・アメリカ文明は,その進んだ技術・政治形態にかかわらず、活力が衰微し、未来への発展は望めない。文明の根幹である都市は,自由ではあるが,母なる大地から完全に遮断され人工空間に成下がった。ここでの支配者は,通貨であり,金融である。土を忘れた虚弱なインテリは不妊のものであり,人口減少から衰退する。堕落した民主主義,腐敗した政治家の下で,金銭亡者が増殖し,無差別の殺戮戦争が起こり,ヨーロッパ・アメリカ文明は没落するというのである。 『西洋の没落』は,警鐘的な意味であり,文明を維持させるような救世主,新たな血と土に基づく生命力・繁殖力,強い力による規律と剛健な肉体が,ヨーロッパ・アメリカ文明の再生のために必要だという意味で,ナチスが待望されていたようにも読める。
ヒトラーによれば,ユダヤ人が金融資本・マスメディアによって操っている堕落したアメリカは,ヨーロッパとは別世界である。したがって,ヨーロッパ文明の問題は,ユダヤ人による人種汚染,アジアの有色人種が旺盛な生殖力によるヨーロッパ文明の没落ということになる。これを救うのが規律ある剛健なナチ党であり,ドイツ人をひとつにまとめ,強いドイツを復興する。そのために,ヒトラー総統に従うべきである。
写真(右)1932年,ベルリン,血染めの突撃隊旗によって新しい部隊の突撃隊旗を聖化する似非宗教儀式: 1932, Berlin-Britz: Fahnenwache durch Staf Schwarz.
Archive title: Berlin-Britz.- Fahnenwache der Staffel Schwarz der SA, numerierte Hakenkreuzfahnen schwingend.
Dating: 1932
Photographer: Weinrother, Carl撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・B_145_Bild-P49620引用(他引用不許可)。
ドイツが困難に陥っているのは,ドイツを裏切ったユダヤ人・共産主義者のためであるという主張は,ドイツ人の誇りと名誉を傷つけずに,現在の困窮を説明してくれる。自己責任を認めたくない政治家,ビジネスマンも,失業者も,低所得者も,ナチスの主張に納得した。ヒトラー総統の雄雄しい演説に,ドイツ人の名誉を取り戻したように思った。未来のドイツ復興に力づけられた。
ナチスの勢力は飛躍的に伸びた。ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%から,1930年9月には18.3%で107議席を獲得,国会の第二党に躍進したのである。総選挙の得票率は,1932年7月37.4%と第一党になった。
ポスター(右):1932年4月,国家社会主義ドイツ労働社党(ナチスNSDA:NationalSozialistische Deutsche Arbeiterpartei)の初期のポスター「労働者 彼らの額,彼らの指;前線の兵士は、ヒトラーを選択する!」Original title: Arbeiter der Stirn und der Faust
Wählt den Frontsoldaten Hitler!
Dating: April 1932
Designer: Albrecht, Felix作。Eckert社Berlin発行。Editor:ナチスNationalSozialistische Deutsche Arbeiterpartei,Heinz Franke編集。 ナチスは政権をとる1933年初頭までは,ヴェルサイユ条約を破棄してのドイツの復興を唱え,ドイツ労働者の味方を演じていた。しかし,政権獲得後,労働運動を鎮圧するようになった。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Plak_002-016-051引用(他引用不許可)。
第一党となったナチ党首アドルフ・ヒトラーは,1932年,大統領選挙に出馬。この大統領選挙には,1925年以来の現職パウル・フォン・ヒンデンブルクPaul von Hindenburg元帥に、共産党首エルンスト・テールマンErnst Thaelmann、国家人民党(国家主義政党)ディスターベルクが立候補していた。得票数は,第一回目に,第一位ヒンデンブルグ1865万票、第二位ヒトラー1339万票,第二回の決選投票では,ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票で,ヒトラーの得票率は37%だった。
ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%,1930年9月18.3%,1932年7月37.4%と支持を伸ばした。第一党の党首ヒトラーは,カトリックを基盤とする中央党のフランツ・フォン・パーペンFranz von Papen(1879-1969)首相に,首相の座を明け渡すように要求したが,パーペン,ヒンデンブルクとも上等兵上りのヒトラーを嫌っていた,しかし,第一党のナチ党ヘルマン・ゲーリングが,国会議長に選出された。 国会では,ゲーリング議長がパーペン首相の所信表明演説を遮って,ドイツ共産党が提出した内閣不信任決議を採択,可決された。すると,パーペン首相は,選出されたばかりの議会を解散し対抗した。1932年11月に再び総選挙が行われた。
1932年11月の総選挙で,ナチ党は躍進を期待していたが,ナチ党の得票率は32.2%に低下してしまった。ナチ党支持率低下の理由は,突撃隊による暴力・選挙妨害が,一般市民の全面的支持を得るに至らなかったこと,社会民主党,共産党の支持も根強かったことである。ヒトラー,ナチ党幹部は,国民の支持率の低迷に衝撃を受けた。
写真(右):1924-1930年,パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領:ヒンデンブルクの1932年12月31日演説「私はタンネンベルクの戦いを思い出す。当時の状況は,今と同じく困難だった。成功を確実にするには、大いなる決断が軍に求められた。兵士たちは,思いはさまざまでも,お互い信頼し,戦友として、真の愛国心,自信をもって一つとなった。その結果、われわれの一つの決断が,この戦果をもたらした。今の困難な時期にあっても,全ドイツに対して、再度,過去と同様に忠誠と連帯を呼び掛けたい。お互いに固い決意の下に,未来へ進もう。神は,今まで何度もドイツを深い苦悩から救済された。今度も必ずや恩寵がもたらされるであろう。最後に,私は,新年の忠勇なるドイツ国民に恩寵があらんことを祈る。」
Generalfeldmarschall Paul von Beneckendorff und von Hindenburg in Uniform mit erhobenem Arm
Dating: 1924/1930 ca. ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-00120A引用(他引用不許可)。
ナチ党は1932年11月の選挙で後退する中,パーペン首相は,権力基盤を固めるためにヒンデンブルク大統領による独裁を画策し,国防相シュライヒャーに協力を要請した。パーペン首相の計画は,ヒンデンブルク大統領に、国防軍を出動させて議会を半停止、その間に改憲して大統領権限を強化,独裁政権を樹立,ドイツの政局を安定化させるというものだった。ヒンデンブルク大統領は乗り気だったが,国防大臣クルト・フォン・シュライヒャーKurt von Schleicher(1882-1934)が,自らドイツ首相になる機会を手放すわけはなかった。シュライヒャー国防相は,ナチ党議員を取り込んだ連立内閣を主張した。そして,国防軍も将軍による軍事独裁内閣を望んでいるとして,ヒンデンブルク大統領に自らを首相にするように圧力をかけた。軍の実権を握っていないヒンデンブルクは,大統領独裁をあきらめ,新首相にシュライヒャーを任命した。この時,ヒンデンブルク大統領は,部下シュライヒャーの裏切りにあったと感じたはずだ。
シュライヒャー首相は,第一党のナチ党を分裂させるために,ナチ党議員シュトラッサー(翌年のレーム事件で粛清)を懐柔,軍部独裁を計画した。大統領ではなく,首相による軍部独裁計画である。しかし,ヒトラー党首は、シュトラッサーの内閣協力を拒否,ナチ党員シュトラッサーは辞任させられてしまう。シュトラッサーは,ヒトラー党首の意に反して入閣しようとした裏切り行為により,翌1934年,レーム粛清(長いナイフの夜)の時に殺害。
パーペンは,シュライヒャー首相を追い落とそうと,ヒンデンブルク大統領を取り込んだ。ワイマール共和国の保守党政治家は内部対立しており,議会政治家も,分裂しており,第一党のナチ党に対抗できなかった。ナチ党は,得票率を落としており,保守政治家,資本家は,政治家実務のないナチス(ナチ党員)とヒトラー党首は,体制批判,ユダヤ人差別をするポピュリスト(人気取り)であり,実務担当能力は低いと見下していた。
ポスター(右):1933年2月,国家社会主義ドイツ労働社党(ナチスNSDA)の選挙ポスター「苦難のとき,帝国首相には,ヒンデンブルクか,ヒトラーを選択する。リスト1番に投票せよ。」 大統領のヒンデンブルク元帥は,上等兵上がりの首相ヒトラーを軽蔑していたようだが,議席の上で第一党で人気あるナチスを無視することはできなかった。ヒトラーを操縦して,政権維持を図ろうとしたようだが,かえってヒトラーに操られてしまう。大統領として死亡すると,自動的に首相のヒトラーが大統領職も兼務し,ここに独裁者となる「総統」が誕生した。
In grösster Not wählte auch Hindenburg Adolf Hitler zum Reichskanzler, wählt auch ihr Liste 1
Dating: Februar 1933
Designer: Wurmb, P. v.作。Publisher: Kunst im Druck, München刊行。
Editor: ナチ党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)Adolf Wagner編集。
ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他引用不許可)。ヒンデンブルクは,兵卒上がりとしてヒトラー伍長勤務上等兵を軽蔑し,ヒトラーは,ヒンデンブルク老人が衰弱するのを待っていたとすれば,両者の間に,信頼関係があったのか。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
首相の座をシュライヒャー将軍に奪われたパーペンは、社会主義(ドイツ社会民主党)・共産主義(ドイツ共産党)の勢力拡大,ドイツ国防軍の離反を恐れた。これは,ヒンデンブルク大統領も資本家も同じだった。そこで,策士パーペンは,ヒンデンブルク大統領に(御しやすいと)ヒトラーを首相にするように働きかけた。ヒンデンブルク大統領は,大統領独裁の機会を国防大臣時代のシュライヒャーに潰されており,シュライヒャー首相の軍部独裁は認めたくなかった。
ヒンデンブルク大統領は,シュライヒャー首相を嫌悪していたに違いなく,パーペンを副首相にして影響力を行使しようと考え,首相の座をシュライヒャーから外し,扱いやすいヒトラーを据えた。
政治家として経験を積んでいたパーペン元首相は,ヒトラーを首相に据えて,自らは副首相として,ヒトラー首相を操るシナリオを考えた。しかし,操られたのはヒトラーではなく,逆に保守政治家,大統領,議会政党人のほうだった。
◆ワイマール共和国の保守政治家たちは,自己の権力安定・拡大を優先して,権謀術数に明け暮れていた。議会の社会民主党・共産党など政党政治家も,反動・保守の大統領の権限が強く,保守政治家に対抗できなかった。このような時代閉塞の混乱した状況を打ち破るのは,革新的な行動力あるナチ党しかない----ように思われた。
(3)大統領緊急命令・全権委任法によるナチ党独裁
写真(右)1933年,ベルリン,突撃隊「ホルスト・ヴェッセル」Horst Wesselの突撃隊旗(カギ十字の記章)と突撃隊員たち:ベルリンの突撃隊SA中隊長ホルスト・ヴェッセル作詞のナチ党歌「旗を高く掲げよ」との関連で,突撃隊は,カギ十字のついたまがまがしい旗を先頭に街頭を示威行進した。 SA-Standarte "Horst Wessel"
Berlin, 1933
Dating: 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-03016引用(他引用不許可)。
ナチ党は,突撃隊を使って,共産主義者,ナチ党反対者に対する暴力による脅し・テロを行った。ゲッペルスも,街頭を支配するものが政治・大衆を支配すると考えた。このような野蛮な行動は,必ずしも市民の支持を得たとはいえなかった。批判を旨とする野党であれば過激な主張で人目を引いて人気を博したが,与党として政治を担うとなれば,その政策や政治手腕に懸念を示す市民も少なくなかったであろう。
しかし,ナチ党のプロパガンダが功を奏して,ドイツ国民が宣伝されたという側面も指摘できる。ナチ党遊説,党大会,スポーツ大会,ヒトラーユーゲントの奉仕活動・旅行などは,青少年や規律・秩序を重んじる中産階級,第一次大戦の敗北に倦んでいる元軍人,共産主義・労働運動の先鋭化を恐れる資本家に受け入れられた。
◆1933年2月27日夜、ベルリンで国会放火事件が起こった。火災発生で,国会の本会議場などが喪失し,現行犯でオランダ人無宿人ルッベMarinus van der Lubbeが逮捕された。彼は,共産主義者とされた。
ヒトラー首相は、ドイツ共産党弾圧の機会を狙っており,国会放火事件の真犯人が共産党員関係者かどうかにかかわりなく,共産主義者が,ドイツ国会放火という暴力革命・反乱を主導したとした。敵対する共産主義勢力を弾圧する絶好の機会を,ヒトラー首相は見逃さなかった。非常事態が宣言され,過激な行動に出たドイツ共産党には,憲法・法律に拘束されない,厳しい処置も当然とされた。
ワイマール憲法第48条の大統領緊急令は,
「公共の秩序・安定が危機にあり,国家が憲法の義務を履行できない場合」,大統領は軍の支援を得て,身体の自由、住居不可侵、通信の秘密、言論の自由、集会結社の
自由、私有財産の保護という規定を停止することができるというものである。
ドイツ国会放火事件の翌日,1933年2月28日内務大臣ヴィルヘルム・フリックWilhelm Frick(1877-1946)が草案を書いた「民族・国家防衛のための大統領緊急命令」に,ヒンデンブルク大統領は署名した。これによって,ワイマール憲法における人権規定は効力が停止された。つまり,民族・国家防衛のための大統領緊急命令によって,ワイマール憲法が保障していた言論・集会の自由、令状によらない逮捕の禁止など基本的人権は停止され,ワイマール憲法崩壊・警察国家の下地が準備された。
写真(右)1933年4月,ベルリンノテンペルホーフ飛行場でユンカースG38(Junkers G 38) D-2500巨人旅客輸送機「ヒンデンブルク元帥号」の進空式に参加した(右より)シルクハットのヒンデンブルク大統領,指差すゲーリング・プロイセン首相,シルクハットのコンスタンティン・フォン・ノイラート外務大臣,軍服で手を振り上げたブロンベルク陸軍大臣:後方の白黒の波板は、ユンカースG38旅客輸送機の主翼。 フォン・ノイラート( Konstantin von Neurath,1873−1956)は,1932年フォン・パーペン内閣で外相に入閣,フォン・シュライヒャー内閣、ヒトラー内閣でも外相に留任した。ヒトラーの下で,1933年の国際連盟脱退,1935年のラインラント進駐を進めた。 Die feierliche Taufe des Luft-Hansa-Großflugzeuges "D 2500" auf den Namen "Generalfeldmarschall v. Hindenburg", fand unter Anwesenheit des Herrn Reichspräsidenten von Hindenburg, des Preußischen Ministerpräsidenten Göring und anderer hoher Persönlichkeiten auf dem Flughafen Tempelhof statt. Von links nach rechts [rechts nach links]: Reichspräsident von Hindenburg, Ministerpräsident Göring, Reichsaussenminister von Neurath und der Chef der Reichswehr General von Blomberg bei der Taufe auf dem Flughafen Tempelhof.
Dating: April 1933 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-14567引用(他引用不許可)。
1933年1月30日成立のヒトラー政権の下,ドイツの過半(ベルリンを含む)を占めるプロシャ,すなわちプロイセンPreußen州(自治政府Freistaat)首相に,ヘルマン・ゲーリングが就任した。ゲーリングは,警察権を手中に収め,,国会放火事件直後,ドイツ共産党本部から国会放火計画にかかわる書類を押収し,さらに全国規模で公共施設や政治家へのテロを企てていたと発表した。
ドイツ全国での大規模テロの陰謀に加担したとして,反ナチスの共産党や労働組合活動家ばかりでなく,潜在的なナチス敵対者も含め,数千名が逮捕された。拘束された者は,強制収容所に拘禁されるなど,人権は完全に無視された。1933年12月23日,国会放火事件の判決が言い渡され,放火および反逆罪の咎でルッペは断頭台に送られた。
1933年3月5日,ナチス対立候補に対する選挙妨害の中で,総選挙が行われた。しかし,ナチスの暴力や人権無視は,ドイツ一般市民にも嫌悪感をもたた。総選挙では,ナチ党は得票率43.9%、288議席を得たが,徹底的な選挙妨害にもかかわらず,過半数には届かなかったのは,投票者のバランス感覚のためだった。弾圧対象のドイツ社会民主党は125議席,ドイツ共産党は81議席を獲得した。
◆干渉選挙によって過半数を獲得できないことに衝撃を受けたヒトラー首相,ナチ党幹部は,通常の民主的手続きによって,政権を維持できないことを悟った。彼らは,人気迎合主義のポピュリストだったから,世論の離反に敏感だった。
写真(右)1933年3月6日,ベルリンでナチス突撃隊SAに逮捕された共産党員:警察官に加えて,突撃隊が補助警察官に任命されて,国会議事堂の放火し,さらに全国テロを共謀した共産党員を逮捕した。愛国義勇軍,労働者,共産党など組織的な暴力が日常化していた時代,全国規模でのテロを企図している,という罪状で弾圧された。これが反ナチス勢力の動きを低迷させ,ナチス独裁に繋がった。 Original title: Verhaftung von Kommunisten durch SA in Berlin am 6.3.1933, am Tage nach den Reichstagswahlen
Dating: 6. März 1933 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
こうして,国会放火事件の中,大統領緊急命令がだされ,それに基づく犯罪調査の結果,ナチ党以外の議員は,予防拘禁されたり,議席を失ったりした。また,迫害を恐れた議員のなかには,亡命するものもあった。
1933年3月5日の総選挙で,ナチ党が288議席を獲得する中,ドイツ国会における反ナチス対抗勢力を衰微させて,ナチ党独裁を認めさせる法案が提出された。
1933年3月23日、「民族・国家の危機除去のための法律(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich,英語Law to Remedy the Distress of the People and the Nation),すなわち全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933),別名「授権法」が議会で成立した。賛成441票で,反対は社会民主党議員の94票だった。ただし,出席できない社民党議員,議席喪失の共産党員(全81議席)は投票していない。全権委任法は、ナチ党による一党独裁を法的に認めたもので,議場の議員には,圧力がかけられ,反対するのは困難だったようだ。それでも,社会民主党の一部は,ナチス独裁に反対したが,突撃隊,親衛隊によって反対派(民主派)幹部は一斉検挙された。
◆ナチ党は,暴力と詐術を用いることによって,半年も経たずに,「一見合法的な一党独裁政権」を成立させた。ナチス政権は,決して民主的手続きの上に成立したものではなく,暴力による選挙妨害,人権を無視した不当な逮捕という弾圧・迫害によって,成立した。
2.焚書・思想弾圧
ドイツにおける焚書(右):ユダヤ人や退廃文学・芸術は,発禁処分になった。図書館に収蔵されていた発禁処分の蔵書は,燃やされた。「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とハイネは述べたが,これはナチスのユダヤ人虐殺に当てはまった。ハイネは,三十年戦争を背景にした「酒保の女の歌」で、戦争にもかかわらず繁盛している兵隊相手の娼婦宿をうたった。「国や宗旨は衣服であって,中身・体が問題だ」というのは,個人主義,人種民族平等の思想であり,個よりも国家・民族共同体を重視するナチスにとって由々しき危険思想と映ったであろう。
1933年1月にヒトラーが首相に任命されると,ナチス政権は、思想統制を図るために,言論の自由を封じた。ナチスの唱えるドイツ民族の優越性,ユダヤ人の邪悪性に反する思想や言論は、弾圧の対象となった。
1933年5月,ユダヤ人の著作を焼く焚書が行われた。これは,図書館や学校にあるユダヤ人の著作や社会主義的文献を廃棄するもので,見せしめに,本を焼いた。
ベルリンのウンターデンリンデン通り沿いにあるバーベル広場Bebel Platzでも、たいまつ行列が行われ,悪書2万冊が山積にされて燃やされた。現在も広場一角の穴のガラス戸の中に白い本棚が置かれている。焚書の歴史を記憶する記念碑である。
フランクフルトでは,ショパン「葬送行進曲」の中,荷車で運ばれた薪の火の中に,本が投げ込まれた。ミュンヘン大学でも,政府要人,大学関係者,学生が集まって、焚書の祭典が行われた。民族の誇りを取り戻し,強いドイツを作る「国民革命」という位置づけであった。暗くなってから,市内中心部のケーニヒ広場に向けて松明行列が企画された。広場に集められた堕落作家の著作に火がかけられた。
焚書対象の作家の多くはユダヤ人で、社会主義思想家カール・マルクス,ローザ・ルクセンブルク,カール・カウツキーKarl Kautsky,レオン・トロツキーLeon Trotsky ,ウラジミル・レーニン,詩人ハインリヒ・ハイネ(Heinlich Heine:1797-1856),障害者にして社会主義的慈善活動家ヘレン・ケラー,心理学者ジクムント・フロイト(Sigmund Freud:1856-1939)、社会主義的思想家・SF作家ウェルズH.G. Wells,作家のハインリヒ・マンHeinrich Mann (1871-1950),シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig, 1881-1942),『武器よさらば』A Farewell to Arms (1929)のアーネスト・ヘミングェイErnest Hemingway,『鉄の踵』Iron Heel(1908)のジャック・ロンドンJack London,劇作家ベルトルト・ブレヒトBertolt Brecht,『西部戦線異状なし』(1929)のエーリヒ・マリア・レマルクErich Maria Remarque(1898-1970),元財務大臣・金融家ヒルファーディングRudolf Hilferding (1877-1941)が含まれる。
焚書対象作家には,ドイツ人のトーマス・マンもいた。『魔の山』(1924)では,結核で体力・気力が失われがちなハンスが,スイス山麓に安住の場所を見つけ,人と語り,思想を深めてゆく。しかし,戦争(第一次世界大戦)が勃発したことで,すべてが一変してしまう。戦争を人間の自由に対する障害とするような思想は,戦争によって東方に生存圏を確保し,人種汚染の源のユダヤ人を排除するつもりのナチスにとって,由々しき敗北主義だった。迫害を受けた、あるいは迫害を恐れてドイツから作家2000名が亡命した。
『飛ぶ教室』Das fliegende Klassenzimmer(1933),『エミールと探偵たち』(1929)のエーリヒ・ケストナー(Erich Kästner:1899-1974)は,多くの文化人が亡命する中、ドイツに留まり、執筆を黙認された児童向け作品を書き続けた。これは,『飛ぶ教室』にあるように「愚者が勇気をもち、賢者が臆病だった時代」特記すべきことで,「勇気のある人が賢く、賢い人が勇気をもった時,初めて人類の進歩が認められるでしょう」というケストナーの信条にかなった行動だった。
1933年5月10日,アメリカでは,言論の自由を侵す焚書に対して,ユダヤ人を中心に抗議行動が起きた。ニューヨークだけでなく,フィラデルフィア,シカゴ,セントルイスで焚書を非難する集会が開かれた。アメリカのユダヤ人会議が,ヒトラーの首相就任に警戒心を強めていたが,焚書を契機に,世界に向けて,ナチスの人種民族差別,思想統制を警告するように訴えた。
◆1933年のナチスの焚書を,週刊誌『タイム』Timeは「図書コースト」(ビブリオ・コースト),週刊誌『ニューズウィーク』Newsweekは「ホロコースト」と呼んだ。ホロコーストとは,ヘブライ語でユダヤ教の神前に供えらる焼いた生け贄のことである。詩人ハイネは,「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とハイネは言ったが,まさしくホロコーストは,ユダヤ人虐殺を意味するようになる。
1933年の焚書から8年で,ユダヤ人を中心に大量殺戮が行われたドイツ商品の排斥運動も起こった。またのちにベルリンオリンピック・ボイコット運動も起こった。ユダヤ人作家,自由主義的なドイツ人作家,社会主義作家の書籍を,燃やすという蛮行は,思想言論の自由,出版の自由を侵害するものだったからである。ただし,アメリカでは,不況で大規模な労働組合が主導するストライキもおこり,決して安定した状態とはいえなかった。
言論の自由は守られなくなり,反ナチス行動,反政府的な言論・思想は弾圧された。1933年5月,反ナチスの反逆裁判のための新たな民族法廷が開設された。ミュンヘン一揆当時,バイエルン州政府司長官だったフランツ・ギュルトナーFranz Gürtner は,ナチスへの共感から,一揆首謀者ヒトラーを9ヶ月の軟禁状態においただけで釈放した。彼が,内閣に司法長官として迎え入られ,新たに民族法廷を開設した。民族法廷の審理は非公開で,上告は事実上できなかった。
裁判を公開して,「犯罪者」が思想・言論の自由を訴え,メディアが報道すれば,ミュンヘン一揆の後のヒトラー裁判のように、犯罪者は愛国心あふれる英雄のように振舞うかもしれない。
ミュンヘン一揆の後に開かれたヒトラー裁判で,ヒトラーは,裁判を使って自分の主張をドイツ全土に伝え,責任を取って,収監された。これが,ヒトラーを殉教者,英雄とする過大評価を生んだ。それを熟知しているナチ党指導者は,民族法廷で秘密裏に迅速に裁くことで,反政府的人物を,闇の中で抹殺,処分しようとした。
ナチ党は,国家予算を党経費として潤沢に使用して,大規模なプロパガンダを展開できた。ユダヤ人の芸術を否定して,秩序・規律,力を重んじる古典的な芸術をドイツの芸術とするために,国家予算を投入した。その事例が,「(ナチス)信仰の勝利」であり,この映画は,国家的興行によって,「成功」をおさめた。 レニ・リーフェンシュタールLeni Riefenstahlのナチス賛美映画には,愛を髣髴とさせるものはない。巧妙な映像からは、力強い支配の意図が感じられる。
◆思想言論弾圧は,反ナチスの犯罪者を拘禁する強制収容所を作らせることになった。強制収容所は,事実上,裁判無しに潜在的敵対者を拘束し,罰し,転向させる,あるいは終生拘禁するか処分する場所である。1933年5-6月,ナチス以外の政党は解散に追い込まれ,1933年7月14日(アメリカ独立記念日),ドイツにおける唯一の政党は,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)だけとなった。この時点で,強制収容所に保護拘禁された囚人は,2万6789名に達していたという。 ドイツは一党独裁となり,党は総統が指導したから,ヒトラー総統による独裁国家が誕生したのである。
宣伝相(国民啓蒙宣伝省大臣)ヨーゼフ・ゲッペルス博士は,反ナチスの新聞,ユダヤ人が編集者となっている新聞を弾圧し,発行停止・廃刊に追い込んだ。国民受信機の名の下に安価なラジオを売り出し,国営放送を聞かせた。外国放送の受信を禁止した。
3.ユダヤ人迫害
写真(右)1933年8月,オラニエンブルグのザクセンハウゼン強制収容所で取調べを受ける社会民主党SPDの党員:左からクルト・マグナス、ハンス・フレッシュ、ハインリッヒ・ギーシェック、アルフレッド・ブラウン、フリードリヒ・エバートとエルンスト・ハイルマン。政府は,ヒトラーの道具と成り下がった。ナチスは,共産主義者,社会民主党員,労働運動指導者,自由主義者,ユダヤ人など反ナチス的人物を拘束し,保護拘禁した。1933年,ヒトラーの独裁政権が樹立した直後,反ファシスト勢力を根絶やしにしようとする強権的な取調べが始まったのである。1933年2月には,最初の強制収容所が設置された。社会民主主義の指導者が1933年8月,突撃隊SAによって逮捕され,オラニエンブルグのザクセンハウゼン強制収容所に収監された。 Mit der Machtübernahme durch die Hitlerregierung begannen die Jahre der faschistischen Diktatur in Deutschland, die Jahre des Terrors
Progromstimmung gegen Kommunisten, Sozialdemokraten und andere antifaschistische Kräfte, das waren die ersten Auswirkungen der Hitlerdiktatur. Bereits im Februar 1933 entstanden die ersten Konzentrationslager. Auch eine Reihe sozialdemokratischer Funktionäre wurden im August 1933 von SA-Schergen verhaftet und in das Konzentrationslager Sachsenhausen bei Oranienburg verschleppt. Unter ihnen waren - auf dem Foto von rechts nach links: Kurt Magnus, Hans Flesch, Heinrich Giesecke, Alfred Braun, Friedrich Ebert und Ernst Heilmann.
Dating: August 1933 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-R88978引用(他引用不許可)。
1933年4月,ドイツ各地でユダヤ人商店やユダヤ人企業の商品の排斥,ボイコットが始まった。突撃隊がユダヤ人商店の前に立ち,ユダヤ人の商品を買うことを威圧した。ポスターや看板が掲げられ,ナチスによる組織的なボイコットが行われたのである。警察には,ボイコットを妨害してはならない旨,通達が出された。
ファシズムの軍備拡張、領土拡張が進むにつれて、世界秩序の再編成を唱えるようになり、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ヒトラー総統は、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを著作1925年の『わが闘争』で公言していた。そして,ドイツ民族を弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,ペストのようなものであるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人への憎悪を公言していた。アジア人も野蛮人とされ,ロシア人にも文明が及んでいないとした。 このような人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきであると訴えた。
当時,日本も中国大陸を勢力圏とする東亜新秩序を唱えた。日独は共に米英仏との戦争は望まないとしたが、勢力均衡を破綻させる軍事力,勢力圏獲得という覇権主義は、列国の既得権益を侵すものであり,脅威だった。ヒトラー総統は,ロシア人はアジア人と青味で,非文明人と公言していた。ヒトラー著『わが闘争』日本語版では,アジアの野蛮性に関する偏見の記述は削除された。アジアはイギリス人が支配すべきであり,日本人の東南アジア支配を嫌悪していた。アジアの日本人が,ヒトラー総統に心酔して日独伊三国軍事同盟に加わったのは皮肉である。
ミュンヘン一揆後のヒトラーをまね,ホロコースト否定裁判を戦って,自己喧伝をする者がある。インド人,中国人のようなアジア人が,真のヨーロッパ人を人種汚染すると移民排除を唱え,さらにソ連,イラン,日本人を対ユダヤ人・イスラエル戦,対米ユダヤ戦,モンゴロイド黄色人種内紛に向けて煽動する輩がいる。
◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,アンネ・フランク何人かという国籍ですら,マザー・テレサと同じように,厳格に規定し合意することはできない。 人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,身長,肌の色,目の色,鼻の形,髪の毛の質・色,肢体のバランス,足の形まで,個人差は著しく大きい。
写真(右)1934年、ヒトラー総統と個人秘書から権力を掌握したマルチン・ボルマン Martin Bormann (1900年6月17日 - 1945年5月2日?):1933年7月4日に副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書となり、1941年にヘスが和平交渉をしようとイギリスに単独飛行で飛び失脚した後、ナチ党官房長官に就任。ナチ党の総務担当者となった。ヒトラーの言葉をメモをとり、それを実行に移すことで、ヒトラーの信頼を得た。そして、ヒトラーとの面会を取り付けようとする人物の選択を任されたことで、ボルマンはヒトラーの代弁者あるいは仲介者として権力を握るようになる。ヒトラーがドイツ軍最高司令官としての多忙な軍務に当たったため、ナチ党による一党支配の政治は党官房長官のボルマンが事実上統括するようになった。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-R14128A
Original title: info Zentralbild
Reichsleiter der NSDAP Martin Bormann, Leiter der Dienststelle des Stellvertreters Hitlers. Aufnahme 1934.
3799-34
Archive title: Porträt Martin Bormann
Dating: 1934
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-R14128A2C_Martin_Bormann引用(他引用不許可)。
ヒトラー,突撃隊指揮官エルンスト・レーム,官房長官マルティン・ボルマンのようなナチ党指導者たちが「純粋なアーリア人」でないことは明白である。またナチスの人種民族学では,インド・ヨーロッパ語族のインド人は,肌の色から非アーリア人とされた。セルビア人は,ロシア系なので排除され,モスレム人は,イスラム教でも,武装親衛隊に入隊できた。その一方で,ドイツ国籍を持ち,第一次大戦に参加したユダヤ人退役将校も,アンネの父オットーフランクのように,迫害対象になった。天才アインシュタイン,フロイトは,ドイツ人ではなく,ユダヤ人として迫害された。
他方,聖職者はカトリック,新教ともにヒトラーに宥和的な政策を採った。1934年9月,ナチス政権獲得1年後,ニュルンベルク党大会でヒトラー総統を祝福したのは,カトリックのシャレナー司教(Catholic Abbott Schachleitner)とプロテスタントのミュラー牧師(Protestant Reichs Bishop Ludwig Müller) だった。
当初,ドイツのカトリックはナチ党への加盟を認めなかった。ドイツ中央党はカトリックを堅持し,党首フランツ・フォン・パーペンは首相にもなったほど勢力があったのである。
しかし,1933年にナチス政権下で、パーペンが副首相に就任すると、ローマ教皇ピウス11世は,カトリック教徒にナチ党への加盟を認めた。見返りとして,ナチスは,1933年7月,ローマ教皇との政教条約を締結し,カトリック教徒の宗教的権利を庇護することを約束した。ナチスが,共産主義に反対していたこと,イタリアのファシスト党が宗教協約を締結して,カトリックと良好な関係を築いたことが,和解の理由である。また,政権に協力的態度をとることで,カトリック教徒をナチスの迫害から庇護することも重要な課題だった。
◆ユダヤ人は,宗教問題だと考えることはできない。キリスト教徒に改宗しても,ユダヤ人として迫害されたからである。宗教差別と人種民族差別の境界は,多くの場合,恣意的である。もともと厳格に区分することなど不可能な人種・民族を為政者に都合よく定義し,特定の人種民族を差別,迫害した。
肌の色,鼻の形,顔面の角度,目の色・形,体臭,さらにDNAによって,人種を区分しても,境界は恣意的である。言語や宗教によって,民族を区分しても,人種概念が入り込み,やはりその区分は恣意的にならざるをえない。つまり,人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われているのであり,似非科学な偏見,錯覚,プロパガンダに基づいている。
写真(右)1933年,ナチス政権獲得直後,警察署中庭で警察に検問されるユダヤ人男性:ユダヤ人は,各自が登録証のような証明書を大事そうに持っている。1933年,ナチス政権奪取直後から,敵性住民・下等劣等人種として,ユダヤ人の所持する武器探しなどを名目に人種迫害が開始された。 Gross-Razzia der Polizeiabteilung zbV [zur besonderen Verwendung] in den Ostjudenvierteln um die Grenadier- und Dragonerstrasse.
Die jüdische Bewohnerschaft eines Hauses in der Grenadierstraße [heute Almstadtstraße] wird auf dem Hof zur Durchsuchung nach Waffen und Prüfung der Papiere versammelt.
1933
Dating: 1933
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-R97480引用(他引用不許可)。
◆ユダヤ人差別には,看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもあるが,法律。規則の上でも,ユダヤ人の人権が制限され,迫害が行われた。反ユダヤ法としては,1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の結婚制限)制定,11月,ユダヤ人選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。
1935年ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止した。ユダヤ人が定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなった。
ヒムラー親衛隊SS長官は、1933年,ナチス政権の警察を支配し,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク,ダッハウに設置,親衛隊髑髏部隊に管理させた。これは,反ナチス的な人物のための「保護拘禁施設」だった。これが,後の強制収容所,ユダヤ人絶滅収容所へと発展した。
1938年4月,ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々出され,財産の登録義務を課し、登録証発行料を徴収するようになった。強制収容所も増設された。1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ついにユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。
◆ナチス指導者にとって,米英仏など列国の人権介入は,貿易・投資,軍事にとって,最大の脅威である。そこで,ドイツのアンチセミニズムは,名目的なプロパガンダであって,実際の人権差別・迫害とは異なるとの印象を,列国に持たせようとした。ユダヤ人迫害が実際に行われているとは,列国には知られたくなかった。この秘匿性は,ユダヤ人虐殺ホロコーストも同じである。ユダヤ人絶滅指令は,口頭で行われ,文書記録では,排除・最終解決といった隠語が使われた。ホロコーストの8年前,ユダヤ人迫害ですら,ナチスは秘匿しようと深謀遠慮した。米英列国の合理的な現実主義者(政治家,ビジネスマン,知識人)たちは,ユダヤ人迫害を過激な人気取りのプロパガンダであって,本当に実行するはずがないと,思い込んでいた。
◆ドイツにおける反ユダヤ主義Antisemitismは,ナチス政権成立によって,人種民族差別の偏見から,ユダヤ人に対する基本的人権の侵害,迫害へと悪化した。これは,ナチス党が,突撃隊・親衛隊などによる暴力を使い,さらに警察も支配していたからである。しかし,人々の反ユダヤの偏見,アンチ・セミティズムAnti-Semitismは,ナチ党の反ユダヤのプロパガンダを広める土壌だった。
ユダヤ人迫害が始まった時,それに反対する人権・民主主義確保の動きは,大きくなれなかった。ユダヤ人追放で,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の中には,ユダヤ人差別を許容した人たちもいた。
第一次大戦時,背後にいて,共産主義を広め,ドイツ民族を打ち倒す陰謀・革命を企てた,という「背後の匕首一突き説」は,ヒンデンブルク大統領が広めたが,ナチ党首ヒトラーも同じことを信じていた。彼らは,反共産主義で,反議会主義だった。ヒトラーは,ソ連の共産主義もアメリカの拝金主義も,ユダヤ人支配の表裏である,と考えた。そして,卑怯なユダヤ人は,優秀なドイツ人の血を人種汚染し,滅ぼそうとしているとして,根拠のない過激な反ユダヤ主義(アンチセミニズム)の人種民族差別を公然と実行した。
4.ヒトラー総統の「偉業」(?)
◆『わが闘争』や国会演説でも,明言しているとおり,ドイツ人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくる共産主義者あるいは国際金融資本家のユダヤ人のヨーロッパ排除である。したがって,もしヒトラー総統が,戦争を起こさなかったなら,ドイツ人から高い評価を得たはずだという議論は,成り立たない。ユダヤ人が仕掛けてくるであろう戦争に準備し,機会あれば,ユダヤ人が戦争を仕掛ける前に,対ユダヤ人戦争を始めるつもりだった。ドイツを再興し,軍備を整え,ドイツ経済を復活したのは,戦争の準備のためである。ドイツのヨーロッパ支配,東方ソ連を占領し,生存圏(支配地)に組み込むためである。一つの大ドイツとは,ドイツ人を民族ドイツ人の住む領域と一つにまとめ,一人の総統の下に統一することである。
◆ヒトラー総統は,一つの民族,一つのドイツ,一つの総統を理念とし,東方ソ連を生存圏とする大ドイツ帝国を復興するつもりだった。ドイツ人を人種汚染し,共産主義と金融資本家・政治家を操ってソ連・米英を煽動し戦争を仕掛けてくるユダヤ人を排除するつもりだった。したがって,ヒトラーの国内経済政策を偉業としたり,ヒトラーが第二次大戦を起こさなかったら,今日でも高く評価された政治家になったという仮定は,完全に否定される。 ヒトラーは,支配するヨーロッパからユダヤ人,知的障害者,ロマ(ジプシー)を排除・絶滅するという過激な人種民族差別を実行し,人権無視する人種民族差別を行った。したがって,ヒトラーの「業績」を高く評価することはできない。
<恩義のあるユダヤ人を保護したヒトラー>
ヒトラー自身は、法を超えた存在の独裁者であるから、恩義から第一次大戦中の元上官のユダヤ人を保護した。
Jewish Voice From Germany Hitler’s Jewish Commander and Victim by Susanne Mauss|July 4, 2012(時事通信「ヒトラー、元上官のユダヤ人保護=側近の書簡発見―ドイツ」2012年7月13日)配信によれば、ヒトラーが、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)へ突き進む中、かつて上官だったユダヤ人男性を迫害しないよう命じていた事実を示す文書が見つかった。この男性は第1次世界大戦中、ヒトラーが所属した中隊を指揮していたErnst Hess エルンスト・ヘス氏。ヒトラー側近のナチス親衛隊指導者ヒムラーが警察幹部に送った1940年8月19日付の書簡で、ヘス氏について「総統の希望により」保護すると明示している。
書簡はドイツのユダヤ系紙ジューイッシュ・ボイスがノルトライン・ウェストファーレン州の公文書館で発見した。同紙によると、ナチスに判事の職を奪われたエルンスト・ヘス氏は1936年、ヒトラーに迫害対象からの除外を求める請願書を送り、「ユダヤ人と呼ばれ、周りから軽蔑されるのはある種の精神的な死だ」と訴えた。これ以降、同氏は年金を渡されるなど、他のユダヤ人とは異なる扱いを受けた。
エルンスト・ヘス氏は、1937年、家族と共に一時イタリア北部の南チロル(ドイツ人住民が半数)に移り、ユダヤ人を示すJをつけていない旅券を発行してもらうこともできた。1939年6月、ドイツとイタリアの間に南チロルドイツ住民帰国協定が結ばれ、ドイツ人のヘス一家はドイツに帰国さざるを得なくなった。1940年6月、ヘスがアーリア化を申請にミュンヘンの事務所に行ったとき、ヒトラーによる庇護命令が、5月以降無効となったことが判明した。
このころ、ベルリン在住の妻マルガレーテ(Margarete)は、ヒトラーの第一次大戦中の上官でヒトラー副官となっていたヴィーデマン(Fritz Wiedemann)の保護を受け、年金を受けていたが、それも受けられなくなってた。ヘスは、ミュンヘン郊外の強制収容所に送られたが、妻マルガレーテ(Margarete)がユダヤ人でなかったため、建設労働を強制されるだけで済んだ。ヘスは、虐殺を免れ1983年9月に93歳で死去するまでドイツで暮らした。他方、1942年7月21日、ヘスの母エリザベスと妹ベルタ(Berta)は、チェコのテレジン強制収容所に送られ、その後、ベルタはアウシュビッツ強制収容所に再移送され、殺害された。母エリザベスは、1945年2月5日、テレジン収容所から解放され、列車でスイスに送られた。これは、親衛隊国家長官ヒムラーが、米英連合軍と和平交渉に入ろうとしたためだった。
ヘスの娘ウルズラ(Ursula Hess;86歳)によると、ヘスはヒトラーについて、部隊に友人はなく、誰とも言葉を交わさなかったと振り返り、「全く取るに足らない男だった」と話していたという。ヒトラーは母親の治療に当たったユダヤ人医師エドゥアルト・ブロッホ氏を「高貴なユダヤ人」と呼んで保護した。
<ユダヤ人大量殺戮否定説を拒否する>
ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。 しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。
ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。
1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。
写真(右):1939年9月,ポーランド(東プロイセン)に侵攻したドイツ軍の前に整列させられた顎鬚のポーランドの民間人(ユダヤ人?):ポーランド占領当初,ナチスドイツは,ユダヤ人に戦禍の後片付けをさせたり,道路掃除をさせたり使役を命じた。これは,掃除道具を与えられず,自分の衣類を雑巾代わりにして掃除を命じるといった辱めだった。農村部では,アーリア人(ポーランド人や民族ドイツ人を含む)の農場で農作業を命じられた。 ユダヤ人はドイツ人から命じられた使役をこなさなければ,罰金や体罰を受けたので仕方なく服従した。また,ユダヤ人は,使役の登録名簿に記載することを命じられた。自分の家族の安全を確保するためにユダヤ人は使役に参加し,名簿に家族のことも登録した。 しかし,ナチスは,こうして把握したユダヤ人をゲットーに囲い込んで,その自由を奪い,強制労働につかせ,虐待し人権を蹂躙した。そして,それでも生き残っている「屈強なユダヤ人」は危険分子として,絶滅収容所に移送し殺害した。 Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?);
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。
ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。
ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。
ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。
法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。
ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」(Nostra Aetate:DECLARATION ON
THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。
◆ホロコースト否定,ユダヤ人大量殺戮否定は、?政治的意図をもったプロパガンダ,?歴史的事実を見据える重圧に絶えられない弱さ,?思考能力・知識不足,が背景にある。
ホロコースト否定論・ユダヤ人虐殺否定論の解答
1.ソ連が解放したガス室があったアウシュウィッツ絶滅収容所の画像は少なく,米英軍の解放した「ガス室のない」ベルゲンベルゼン,ブヘンワルト,オラニエンブルク収容所の画像は多い。後者では,死因は発疹チフスなど病死,餓死,拷問死などであり,ガス大量殺戮はなかった。ドイツ占領下のポーランドの絶滅収容所だけで毒ガスによる大量殺戮が行われた。
2.アウシュビッツ収容所のガス室には,天井に煙突状のチクロンB(固体)投入口がある。ここから室内に入ると,常温で気化する。シャワー部分からガスが流れる構造にはなっていない。
3.毒ガスでも,大気に混ざれば,僅かな量で人間を殺すのは難しい。サリン、タブンのような強力な毒ガスでもである。チクロンBのような殺虫剤タイプでは,ガス室に充満させても,殺害まで数十分かかった。毒ガスが充満している部屋には,換気をして,死体処理のために中に入った。この作業は,強制収容所の囚人がゾンダーコマンドとして使役された。毒ガスの強さを非化学的に過大に見積もってはならない。
4.遺体を焼却処分する焼却炉が小さすぎることはない。葬儀ではないので,炉に複数の死体を投入,次々に連続処理した。野焼きもされた。膨大な量の骨は砕き,灰とともに,川に投げ捨てられた。この作業にも,囚人ゾンダーコマンドが使役された。遺体が敬意を払われることは一切無かった。
5.アウシュビッツ絶滅収容所の囚人は、ゾンダーコマンド以外,ガス室に近づくことはできない。しかし,囚人の多くがガス殺,焼却炉のことを知っていた。だから,健康に見えるように装って,労働不能者に選別されないように気を配っていた。
写真(右)1941年7月17日,ロシアにおけるユダヤ人の強制移送:ドイツ軍は,肥沃な東方ソ連を生存圏(レーベンスレウム)とするために,余分な下等劣等人種を強制収容所に収監したり,追放したりした。ユダヤ人の場合は,沼沢地・渓谷で殺害されたり,絶滅収容所で殺される場合も多かった。ロシア人やウクライナ人でも,ドイツや東欧の工場に強制連行され,東方労働者として酷使された男女が多数あった。Rußland, Judenverfolgung
Judenfrauen werden rückbefördert
17.7.1941
Archive title: Rußland.- Deportation von Juden
Dating: 17. Juli 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・B_145_Bild-F016206-0003引用(他引用不許可)。
ただし、ヒトラー自身は、法を超えた存在の独裁者であるから、恩義から第一次大戦中の元上官のユダヤ人を保護した。
時事通信「ヒトラー、元上官のユダヤ人保護=側近の書簡発見―ドイツ」2012年7月13日(金)配信によれば、ヒトラーが、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)へ突き進む中、かつて上官だったユダヤ人男性を迫害しないよう命じていた事実を示す文書が見つかった。この男性は第1次世界大戦中、ヒトラーが所属した中隊を指揮していたエルンスト・ヘス氏。ヒトラー側近のナチス親衛隊指導者ヒムラーが警察幹部に送った1940年8月19日付の書簡で、ヘス氏について「総統の希望により」保護すると明示している。
書簡はドイツのユダヤ系紙ジューイッシュ・ボイスがノルトライン・ウェストファーレン州の公文書館で発見した。同紙によると、ナチスに判事の職を奪われたエルンスト・ヘス氏は1936年、ヒトラーに迫害対象からの除外を求める請願書を送り、「ユダヤ人と呼ばれ、周りから軽蔑されるのはある種の精神的な死だ」と訴えた。これ以降、同氏は年金を渡されるなど、他のユダヤ人とは異なる扱いを受けた。
エルンスト・ヘス氏はその後、家族と共に一時イタリア北部に移り、その後ドイツに戻ったが、そこでヒトラーによる庇護命令が無効となったことが判明。ナチスから特別措置1941年5月に取り消されたと通告され、強制収容所に送られたが、妻がユダヤ人でなかったため虐殺は免れ1983年9月に93歳で死去するまでドイツで暮らした。
ヘス氏の娘ウルズラさん(86)によると、同氏はヒトラーについて、部隊に友人はなく、誰とも言葉を交わさなかったと振り返り、「全く取るに足らない男だった」と話していたという。ヒトラーは母親の治療に当たったユダヤ人医師エドゥアルト・ブロッホ氏を「高貴なユダヤ人」と呼んで保護したことでも知られる。(引用終わり)
6.ヨーロッパユダヤ人迫害は、東方ソ連領内に強制移住させる事ではない。東方ソ連は,肥沃な農業地帯,鉱物資源供給地であり,ドイツとドイツ系民族(民族ドイツ人)の生存圏である。ロシア人は農奴として存続を許されたが,ユダヤ人はアーリア人を人種汚染する下等劣等人種として,抹殺されることになった。
7.ナチスのユダヤ人虐殺命令は,ドイツ市民,ドイツ国防軍兵士から,反対される恐れがあった。ユダヤ人や連合国が虐殺を知れば,ドイツに対して和平を求めるどころか,敵愾心を燃やし,士気を高めてしまう。そこで,虐殺は,口頭で命令された。ヒトラー,ヒムラーの演説で,ユダヤ人絶滅を明確に指示していた。一つの民族,一つの国家を一人の総統が支配する指導者原理の下では,ヒトラーの下した命令が全てだった。
◆ヒトラー総統の政治的遺書を読めば,ユダヤ人が,ドイツ人を滅ぼそうと仕掛けてきた第二次世界大戦の当然の報復として,ユダヤ人絶滅が決定されたこと,極端な人種民族差別が,大量殺戮を引き起こしたことが明確に認識できる。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
◆NKHwebNewsによれば、2016年7月26日午前2時、相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員植松聖容疑者(26歳)が入所者19人を刺殺する悲惨な事件が起きた。
◆日本テレビニュース2016年7月28日17:39「「ヒトラーの思想が降りてきた」19人殺害」よれば、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、植松容疑者が今年2月、精神科の病院に措置入院していた際、医師に対し「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話していたことがわかった。さらに治療中、「重複障害者がいなくなることで、国家的に経済的な負担が軽くなる。自身が抹殺事件を起こせば、法律が変わるきっかけにもなる」とも話していたという(引用終り)。 ◆植松聖容疑者が衆議院議長あての手紙では、総理大臣に相談してほしいと訴え、障害者のように社会に貢献できない役立たずの人間は、国家財政の無駄遣いだ、日本の恥だという人種衛生学や優生思想に基づく偏見をもち、抵抗できない入所者を殺害する「作戦」として実行したと述べている。 ヒトラーの発想は、戦時下の不安、焦燥感を拭い去るために、兵士や労働者として民族共同体に尽くすことができない障害者を抹殺して、障害者支援の国家予算を、戦争に充当せよというものだが、「日本軍の設立」の訴える容疑者の犯行には、ヒトラーの人権無視、人命軽視の歪んだ国家主義、人種衛生学の発想が見て取れる。この点について2016年7月28日2300の日本テレビNEWS ZERO「19人刺殺「ヒトラー思想降りてきた」 心の闇ナゼ」、2016年7月30日0600フジテレビ「めざましどようび」「19人殺害「ヒトラー」影響か? 」に出演、解説をした。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。 バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車 ⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車 ⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank ⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail ⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇 ⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 ⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
当サイトへのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
連絡先:
torikai007@yahoo.co.jpp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博 TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292 Fax: 0463-50-2078 東海大への行き方|How to go
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials
from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the
URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai
Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright © Torikai Yukihiro, Japan. 2008 All Rights Reserved.
|
|