◆ドイツ軍ポーランド侵攻:Invasion of Poland;Kampania wrześniowa
写真(上)1939年9-10月,ワルシャワで倒壊した建築物の後片付けをさせられるユダヤ人と思われる;右二人は,ドイツ軍兵士。ドイツのポーランド侵攻の最中,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド軍将兵・行政官をカチンの森などで処刑。また,ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランドでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人のゲットー押し込め,強制収容所移動に対して,反発はほとんど起きなかった。オランダのように,ユダヤ人を匿うこと,ユダヤ人に食料などを支援する動きは,弱かった。Archive title: Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Origin: Bundesarchiv
Photographer: Schulze撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻作戦「事例・白」に参加したドイツ陸軍I号戦車(Panzer I):
I号戦車A型の諸元:
全長
4.02 m、全幅
2.06 m、全高
1.72 m、重量
5.4 t 、懸架リーフスプリング方式 、最高速力(路上)37 km/h、航続距離
145 km、兵装:7.92ミリ機関銃2丁、装甲:13 mm、4気筒空冷ガソリンエンジン57 馬力/毎分2500回転、乗員2名(車長、操縦手)。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-380-0075-18
Archive title: Polen.- Soldat der Panzertruppe im Turm eines Panzer I im Kampfgebiet vor Rauchwand; KBK Lw4
Dating: September 1939
Photographer: Sturm
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-380-0075-18引用(他引用不許可)。
◆鳥飼行博研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではありません。アーカイブに直接登録,許可を得て引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、軍備拡張、独裁政権獲得という本音のようだ。 ◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
◆2011年9月2日・9日(金)21時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。これらはZDF「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl」をもとにした番組。
1.ナチスドイツによるユダヤ人迫害
リチャード・ウィリアムソン(
Richard Williamson )司教は,「ガス室は存在しなかった」と公言するなどホロコーストを史実と認めず,ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。 しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。
ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。
1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。
写真(右)1939年,ポーランド,ドイツ軍が集合させたユダヤ人(?)の老人:1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻直後,国家保安本部ハイドリヒは,ユダヤ人をゲットーに隔離することを命じていた。また,ポーランド侵攻には5個中隊分のアインザッツグルッペ(特別行動部隊)が国防軍に付帯され,ユダヤ人,教員,聖職者,官僚など反ドイツ容疑者を拘束,処刑した。 Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), alte Mann mit Bart; PK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。
ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。
ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。
ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。
法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。
ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」(Nostra Aetate:DECLARATION ON
THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。
写真(右)1939年,ポーランド,ドイツ軍が集合させたユダヤ人(?)女性:ドイツの敵とされたのは,教員,聖職者,官僚だけではなく,パルチザンとなりうる男女,それを助ける女性・子供もである。ユダヤ人は,全てパルチザンとそのシンパとされたために,拘束あるいは処刑された。イデオロギー,人種,民族が渾然となった差別が,迫害,殺戮に繋がった。 Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), zwei junge Frauen; PK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ国内での反ユダヤ的暴力事件の高まりに懸念を示してきたドイツ・ユダヤ人中央評議会(Central Council of Jews)は、法王の今回の行動は危険な前例になると指摘。同団体幹部は独週刊誌シュピーゲル(Spiegel)とのインタビューで、「極右活動家らはこれから、ローマ法王がホロコースト否定論者の司教の復権を許したぞ、と言うだろう。法王が行ったことは、ホロコースト否定論者を社会的に容認し、間違ったメッセージを送ることになった。許し難いことだ」と語った。
この問題について、ドイツのアンゲラ・メルケル(Angela Merkel)首相は3日、各国の国家指導者としては初めて、法王の批判を行った。メルケル首相は法王の行動は看過することはできないとし、バチカン当局に対し、ナチス・ドイツのホロコーストが「否定できない事実だと明確にすること」を求めた。(c)AFP/Arnaud Bouvier
ヨーゼフ・ラッツィンガー教皇は,警察官の子供として,1927年にドイツ・バイエルン州生まれ,1939年9月のポーランド侵攻から2年後,14歳でヒトラーユーゲントHJへ入団,1943年から本土防空補助員として動員された。そして,1945年4月,ドイツ降伏時には,少年擲弾兵だった。
写真(右)1939年夏,ドイツ、バイエルン州オーバーザルツベルク、ベルクホーフ山荘で、建築家アルベルト・シュペールに、生まれ故郷オーストリアのリンツ都市改造計画の説明を受けるアドルフ・ヒトラー:ナチ党支持のインテリ作家ディートリヒ・エッカートが、ヒトラーをオーバーザルツベルクに連れて行ったが、ヒトラーはオーバーザルツベルクが気に入り、1928年には山荘を月100マルクで借りることにした。この山荘の管理は、異母姉アンゲラ・ヒトラー(姪アンゲラ・ラウバルもいた)に任せた。1929年5月、ヒトラーは山荘を購入し、ベルクホーフと名付け、改名した。そして、1933年1月の政権獲得後しばらくしてから、ベルクホーフ周辺を買い占めたヒトラーは、山荘を拡張、大規模なエレベーターを含む近代的な施設に建て替えた。1939年の時点で、ヒトラーは、ポーランド侵攻を国防軍に命じており、イギリス・フランスを巻き込む第二次世界大戦を戦う覚悟をしていた。 Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-2004-1103-500
Original title: info [Scherl-Text]
Der Führer mit Prof. Speer auf d[em] Obersalzberg [Berghof] b[ei] d[er] Besprechung von Plä
nen für das neue Opernhaus in Linz.
6049-39
Dating: 1939 Sommer
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
Geography Germany: Berchtesgaden
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild183-2004-1103-500引用(他引用不許可)。
ファシズムの軍備拡張、領土拡張が進むにつれて、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。アドルフ・ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを1925年の『わが闘争』で公言していた。ドイツを弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,ペストのようなものであるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人への憎悪を公言していた。
◆ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきである。人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人は下等劣等人種であり,排除されなけらばならない。このようなドイツの反ユダヤ主義Antisemitismは,突撃隊・親衛隊の暴力を行使し,警察を支配して,広まった。が,ユダヤ人が追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の多くも,ユダヤ人差別を許容した。
写真(右)1935年,ドイツの国民啓蒙宣伝相大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels )博士と妻マグダ、長男(前夫の子)ハロルド・クバント、長女ヘルガ、次女ヒルデガルド:ヨーゼフ・ゲッペルス博士は、ナチ党政権獲得の2年前、1931年12月19日、マグダ前夫の資産家クヴァントの農場で、ヒトラーを立会人として、マクダとヨーゼフ・ゲッベルスは、黒いドレスと黒いスーツを着込んで、結婚式を挙げた。この時、ゲッベルスはカトリック教徒、マクダはプロテスタントだった。また、マグダの母アウグステはユダヤ人との再婚をしており、過激派と見なしたヨーゼフを嫌っており、結婚式には参列しなかったいた。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-R39467
Original title: info Dr. Joseph Goebbels mit seiner Familie
10681-35
Archive title: Joseph und Magda Goebbels mit ihren Töchtern Helga und Hildegard und dem Sohn von Magda Goebbels, Harald Quandt
Dating: 1935
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1933年3月14日、ヒトラーは、プロパガンダを担う省庁として、国民啓蒙宣伝省を設置し、初代担当大臣に腹心で忠実なヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)博士を任命した。宣伝大臣ゲッベルスは、3月21日、ポツダム衛戍教会のフリードリヒ大王の棺の前で、国会開会式「ポツダムの日」を開催した。これは、ナチ党がパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の信任を得た正当なドイツの新政権であることを、国内外に正当化するものだった。共和国に反感を抱いていた国粋主義者、帝政復古主義者であるヒンデンブルク大統領、貴族、保守政治家、帝国軍人はこのプロイセン復古的な国家儀式に満足し、ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領にも忠臣として受け入れられるようになった。
1934年8月2日,パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が死亡すると、ヒトラー首相は、憲法の規定を無視して、大統領職を兼ねる総統(Führer:フューラー)となり,ドイツ国防軍兵士に,総統個人に対して忠誠を誓わせた。
写真(右)1937年,ドイツの国民啓蒙宣伝相大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels )博士と妻マグダ、長男(自分の子)ヘルムート、長女ヘルガ、次女ヒルデガルド:ヨーゼフ・ゲッペルス博士は、ヘルガ 1932年生、ヒルデ 1934年生、ヘルムート 1935年生、ヘッダ 1937年生、ホルデ 1938年生、ハイデ 1940年生と6子をもうけた。マグダ前夫の子ハラルト(母マグダ19歳の出生)も養子としたから、総勢7名の子どもがいたことになる。子供は全員Hから始まる名前だが、これはゲッペルスが密かにヒトラーのHを継いだものとして意識していた。ヒトラーは独身だったために、ナチ党に古くから参加していたマクダが、ナチ政権のファーストレディとして、夫の監督するメディアで取り上げられた。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-1987-0724-503
Original title: info Magda und Joseph Goebbels mit Kindern
13518-37
Archive title: Magda und Joseph Goebbels mit Kindern Helga, Hildegard und Helmut, auf einer Bank sitzend
Dating: 1937
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆ユダヤ人差別は、1933年4月,公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止 1934年,医師.薬剤師新規就労禁止 1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々と出された 1938年4月,財産の登録義務を課し、登録料を徴収。11月、ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)宣伝相は,ユダヤ人商店の破壊(クリスタルナハトKristallnacht)を煽動した。
◆優秀民族アーリア人なる定義は似非科学に基づいており,肌の色,鼻の形,顔面の角度,目の色・形,体臭,さらにDNAによって,人種を区分しても,境界は恣意的で,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。言語や宗教によって,民族を区分しても,人種概念が入り込み,やはりその区分は恣意的である。
写真(右)1938年,ドイツ総統アドルフヒトラーと国民啓蒙宣伝相大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels )博士と妻マグダ、長男ヘルムート、長女ヘルガ、次女ヒルデガルド:戦争末期、1945年5月1日、医師の助けで、マクダは子供にモルヒネを飲ませ眠らせたうえで、青酸カリを投与して殺害した。ゲッベルス夫妻は、捕虜となっていたハロルドを除く子供全員を道連れに、ナチ党の象徴的忠臣一家として、ベルリンの総統地下壕で最期を遂げることを望んだ。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-1987-0724-502
Original title: info Der Führer wieder auf dem Obersalzberg
Bei einem Besuch auf dem Kehlstein mit seinen Güsten, Reichsminister Dr. Goebbels und Frau mit ihren Kindern Helga, Hilde und Helmut.
Archive title: Obersalzberg.- Joseph Goebbels und Magda Goebbels mit Kindern bei Adolf Hitler
Dating: 1938
Photographer: Hoffmann
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆ナチ党は、ユダヤ人がユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗しても,人種的特徴からユダヤ人とされ迫害した。宗教差別と人種民族差別の境界は,曖昧であり,恣意的である。元来,厳格に区分することが不可能な亜種にすぎない人種・民族を為政者は都合よく定義し,特定の人種民族を差別,迫害した。
◆ナチスドイツの時代,言論の自由がない状況で、ドイツ市民は,ユダヤ人差別と迫害は仕方がないと考え,自分の無力さを前提にニヒリズム(虚無主義)に陥ったのか。
親衛隊SS長官ヒムラーは、1933年,ナチス政権の警察を支配し,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク,ダッハウに設置,親衛隊髑髏部隊に管理させた。これは,反ナチス的な人物を全て収容する「保護拘禁施設」だった。
◆1933年の政権獲得直後,戦前から,「教養ある」ドイツの反ナチスの知識人・政治家やドイツ国籍のユダヤ人が迫害されてきた。この経緯から見れば,第二次大戦中に,東欧ソ連のユダヤ人に対する扱が過酷になるのは当然だった。
反ナチス的人物に対する懲罰を与え,一般市民に対する恐怖を与えて,ナチ党支配に服従させるための施設だった。恐怖による支配を目指した点で,ナチスドイツはテロ国家だったとも言える。
ナチスの時代,ユダヤ人への温情は,違法行為であり,言論の自由がない状況で、政府批判は,強制収容所送りになった。大戦前,すでにドイツ市民は,ユダヤ人迫害もポーランド人嫌悪は仕方がないと諦めていたようだ。
現在でも,弱いものを貶めていれば,自分は有利な立場を保つことができるが,十一歳のアンネ・フランクが置かれた大戦の時代と現在の状況とを比較すれば,利己的な現実主義は,自分の弱さによっている,と気づかされる。自分の無力さを前提に「しかたがない」とするニヒリズムである。
写真(右)1939-40年,ポーランド,クラコウ,ナチス親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーとブルーノ・シュトレッケンバッハSS少将 (1902-1977) :シュトレッケンバッハは治安警察出身。1939年ハイドリヒ国家保安本部長官が,ポーランド侵攻に投入するアインザッツグルッペ(特別行動部隊)を編成したが、この時,レンベルクに進駐したアインザッツグルッペ第1特別行動部隊指揮官だった。このアインザッツグルッペは、リスト大将の第十四軍の隷下におかれていた。しかし,バルバロッサ作戦のときは,シュトレッケンバッハは殺戮任務から逃れていた。 Inventory: Bild 121 - Sammlung Adolf von Bomhard
Signature: Bild 121-0273
Old signature: Bild 146-1993-022-18A
Original title: info Ankunft des Reichsführer der SS Himmler in Krakau
v.r.n.l.: Himmler, Streckenbach [?]
Archive title: Polen, Krakau.- Ankunft Heinrich Himmler, Bruno Streckenbach [?] in Ledermänteln
Dating: 1939/1940 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-0273引用(他引用不許可)。
◆ナチス指導者にとって,米英仏など列国の人権問題での介入は,貿易,投資の上でも,軍事上も最大の脅威である。そこで,ドイツのアンチセミティズムは,あくまでプロパガンダの問題であって,実際の人権差別・迫害とは異なるとの印象を,列国に持たせようとした。ユダヤ人迫害が実際に行われているとは,列国には知られたくなかった。
迫害を隠蔽しようとする秘匿性は,ユダヤ人虐殺ホロコーストも同じである。ユダヤ人絶滅指令は,口頭で行われ,文書記録上は,排除・最終解決といった隠語が使われた。
写真(右)1939年11月,ドイツ占領下ポーランド、ワルシャワ、建物の前で兵士(保安警察?)が地元の人々を登録させている様だ。:ポーランド占領から1年たたずに、ポーランドにユダヤ人ゲットーが設置され、ユダヤ人は強制移送された。ユダヤ人を隔離、排除することは第二次世界大戦の当初からヒトラーの方針だったが、実施に移す時期は、戦争の動向を見据えて決定された。
Warschau
Archive description
Warschau.- Nov. 1939; Soldaten (Sicherheitspolizei ?) und Einheimische vor einem Gebäude
Description
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English: Warsaw during World War II:
Polski: Warszawa z czasów okupacji:
Depicted place Warschau
Date November 1939
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild183-2004-1103-500引用(他引用不許可)。
◆ホロコーストの8年前,ユダヤ人への差別・迫害,強制収容所収監ですら,ナチスは秘匿しようと深謀遠慮した。米英列国の合理的な現実主義者(政治家,ビジネスマン,知識人)たちは,ユダヤ人迫害を過激な人気取りのプロパガンダであって,本当に実行するはずがないと,思い込んでいた。
ユダヤ人の基本的人権を制限する法律・規則は次々出され,1938年4月,財産の登録義務を課し、登録証を徴収するようになった。強制収容所も増設された。1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ついにユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。
写真(右)1939年3月,ポーランドで虐殺された民族ドイツ人(ドイツ系ポーランド人):チェコスロバキアでも,ズテーテンランドの民族ドイツ人を支援したヒトラーは,ポーランドでも領内の民族ドイツ人を煽動した。これは,ポーランドに対する分割統治であり,国民を対立させ,紛争を起こさせる手段である。 ナチスに優遇された民族ドイツ人は,ポーランド人から裏切り者と思われたに違いない。本来,地域あるいは国家に複数の人種民族が共生していた状況を,為政者がプロパガンダ,人種民族偏見,軍事力によって,分断し,対立させたのである。 第二次大戦がドイツの敗北に終わると,今度は民族ドイツ人が,ポーランド,チェコスロバキアなどから,ドイツに追放された。これはドイツに占領された東欧諸国の報復ともいえる。 Zu den bestialischen Geiselmorden in Bromberg
Scherl Bilderdienst, Berlin
7.9.39 [Herausgabedatum]
11273-39
18 am Bromberger Kanal gefundene Leichen nebeneinander, darunter 2 Kinder. Bis auf einen einzigen waren allen die Hände auf dem Rücken zusammen gebunden.
Archive title: Polen.- Leichen getöteter Volksdeutscher (Opfer des "Bromberger Blutsonntag")
Dating: September 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-E10593引用(他引用不許可)。
『アサヒグラフ』1939年4月19日発行は,「大独乙ついに三割半の膨張 ボヘミア・モラヴィア・メーメルの編入」と題して,「一九三九年の火の手は果然チェコスロヴァキアの内紛と共に中欧より燃上がり,-----二十二年の歴史を誇った中欧の共和国チェコスロヴァキアはここに全く世界地図から姿を抹殺されるに至った。全世界を震撼したかの独墺合邦から満一年,ズテーテンを接収してから僅かに半歳にして,又してもヒトラー総統は大ドイツの旗印も鮮やかに無流血の併合に成功したのである。-----
チュニジア,スエズ,ジブチをと叫んだイタリアは逆にアルバニアの一角より新行動を開始せんとし,独伊枢軸の圧制の下にバルト海からバルカンに及ぶ広大なる地域は今や全く口火を切られた爆弾の如く無気味な燻りを続けつつある。独爆撃機の急襲に怯える英国の姿はそのまま今日の欧州でもあり動揺する弱小国家群こそは仮面を脱いだヨーロッパの真顔であろう。」
写真(右):1939年8月23日、モスクワ、ドイツ・ソビエト不可侵条約に署名したドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)、駐ソ連ドイツ大使グラーフ・フォン・シェレンベルク(Friedrich-Werner Graf von der Schulenburg)、ソ連共産党書記長(首相)ヨシフ・スターリン、外務人民委員(外相)ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ:1939年8月23日、ドイツ・ソ連不可侵条約の秘密議定書でポーランド分割が密約された。つまり、ドイツとソビエト連邦の境界は、ナレフ(Narew)川、ヴィスワ川、サン川の線とされた。他方、英仏は、1939年8月25日、ポーランドと相互援助条約を締結しており、9月1日、ドイツのポーランド侵攻に対して、最後通牒を発し、認められなかったために、ポーランドとの相互援助条約に基づき、9月3日にドイツに対して宣戦布告した。しかし、9月17日、ソ連はポーランド政府がドイツ侵攻により壊滅したとして、ウクライナ・ベラルーシ系住民の保護を名目に、ポーランド東部に軍を進駐させた。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-H27339
Original title: info Herr von Ribbentrop (Right) enjoys a joke with M. Stalin in Moscow: With M. Molotow (left) and the german ambassador, Graf von der Schulenburg. The Illus. London News, 2.9.39
Zentralbild / 23.8.1939 / Nach der Unterzeichnung des Nichtangriffspaktes am 23. August 1939 der zwischen der Sowjetunion und dem faschistischen Deutschland abgeschlossen wurde. U.B.z.: v.l.n.r. W[jatscheslaw] M[ichailowitsch] Molotow, [Josef Wissarionowitsch] Stalin, der deutsche Botschafter in Moskau [Friedrich Werner] Graf von der Schulenburg und [Joachim] v[on] Ribbentrop der faschistische Aussenminister.
ADN-ZB / Archiv
Sowjetunion, August 1939. Im Moskauer Kreml wird am 23.8.1939 ein Nichtangriffsvertrag zwischen dem Deutschen Reich und der UdSSR unterzeichnet. Nach der Unterzeichnung v.r. Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop, der deutsche Botschafter in Moskau Friedrich Werner Graf von der Schulenburg, J. W. Stalin und der sowjetische Volkskommissar für Auswärtige Angelegenheiten W. M. Molotow.
Aufnahme aus "Illustrated London News vom 2.9.39.
Archive title: Sowjetunion, Moskau.- Abschluss des Hitler-Stalin-Pakts (Deutsch-sowjetischer Nichtangriffspakt). Vlnr: Wjatscheslaw Molotow, Josef Stalin, Friedrich Werner Graf von der Schulenburg und Joachim von Ribbentrop
Dating: 23. August 1939
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv . 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild183-H27339引用(他引用不許可)。
ユダヤ人の人権を制限する迫害が始まった時,それに反対する人権・民主主義確保の動きは,大きくなることができなかった。ユダヤ人が迫害され,追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の中には,ユダヤ人の人権制限を許容した人たちもいた。
ナチスの起こした大規模公共事業を失業者をなくした「偉業」とする見解もある。しかし,ヒトラーの意図は,ドイツの産業を興隆させ,壮麗な建築物を配置して,ドイツの威信を世界に示すことであった。そして,優秀なドイツ人の維持・保全のために,下等劣等人種であるユダヤ人,スラブ人などを排除することだった。
写真(右):1939年、ポーランド海軍潜水艦「オジェウ」:1936年8月14日、オランダの造船所起工、1938年1月15日進水、1939年2月2日就役。基準排水量1,110トン,満載排水量1,473トン、全長 84.00 m、全幅 6.7 m、最高速力(水上)19.4 ノット、(水中)9 ノット、乗員 60名、兵装:105ミリ砲1門、40ミリ二連装対空機銃1基、13.2 ミリ対空機銃1丁、魚雷 533 mm (21.0 インチ)発射管12門、搭載魚雷20本。
1939年9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻を受けて、潜水艦「オジェウ」は、グダニヤ港から出撃、ドイツ装甲巡洋艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」を迎撃しようとしたが、爆雷攻撃を受けた。9月12日、基地との通信が途絶え、やむなく隣国エストニアのタリン港へ向かった。その後、タリンを離れた「オジェウ」は、イギリスへ亡命する。 Title: ORZEL (Polish submarine, 1938)
Caption: Photographed circa the 1939.
Description: Courtesy of Iwo Mandrysz, Rybnik, Poland, 1975.
Catalog #: NH 83446
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command 写真はNaval History and Heritage Command NH 83446 ORZEL (Polish submarine, 1938) 引用。
写真(右):1935年11月、ポーランド、国際管理に置かれているグダニスクを訪問中のドイツ海軍軽巡洋艦「ケーニヒスベルク」:建造時、ベルサイユ条約でドイツ巡洋艦の排水量は6,000トン以下とされていたために、船体軽量化を目的に、艦上構造物には軽合金を多用、船体も当時の主流だったリベット工法ではなく、最新の電気溶接を採用した。船体の85%が電気溶接で組み立てられた。 Title: Königsberg
Description: (German Light Cruiser, 1929-1940) Off Gdynia, Poland, circa November 1935. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 80966 写真はNaval History and Heritage Command NH 80966 Königsberg 引用。
バルト海に面するポモージェ(ドイツ名ポメラニア)地方のグダニア(ドイツ名グダニスク)は、1793年の第二次ポーランド分割により、プロイセン王国に併合されダンツィヒ(Danzig)に変更された。しかし、第一次世界大戦後でドイツが敗北し、ベルサイユ条約によりドイツ領ではなく国際連盟管理下の「自由都市ダンツィヒ(Danzig)」となった。住民はバルト・ドイツ人(ドイツ系住民)もいたが、ポーランドが外交権を得ている。
写真(右):1935年11月、ポーランド、国際管理に置かれているグダニスク(グダニア)を訪問中のドイツ海軍軽巡洋艦「ケーニヒスベルク」:全長 174 m、水線長 169.0 m、全幅 15.3 m、吃水 5.56 m、缶6基ギヤード・タービン4基、MANディーゼル2基2軸、最大出力 6万9,800馬力、最高速力 32.1ノット、 航続距離 17ノット/7,300マイル、乗員 514〜610名、兵装 1925年型 15センチ60口径三連装砲3基9門、1906年型 8.8センチ45口径高射砲2門。
艦尾には、ナチ党の国章のカギ十字(ハーケンクロイツ)にとまる鷲が付けられているが、海軍旗は共和国軍時代からの伝統的な三色地の鉄十字である。
Title: Königsberg
(German Light Cruiser, 1929-1940) Visiting Gdynia, Poland, circa 1935. Note the National Socialist eagle decoration on her stern and the German Navy ensign flying from her flagstaff. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. 写真はNaval History and Heritage Command NH 80969 Königsberg 引用。
写真(右):1935年11月、ポーランド、国際管理に置かれているグダニスク(グダニア)を訪問中のドイツ海軍軽巡洋艦「ケーニヒスベルク」:後甲板の二基の15.2センチ三連装砲とは、中心軸から、左右に偏らせて配備されている。艦尾には、共和国軍時代からの伝統的な三色地の鉄十字の旗がなびいている。
Title: Königsberg
(German Light Cruiser, 1929-1940) Visiting Gdynia, Poland, circa 1935. Note the offset arrangement of her after 15cm triple gun turrets. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 80970 写真はNaval History and Heritage Command NH 80970 Königsberg 引用。
ポーランド回廊の自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)にあるダンチヒ港は、第一次大戦後のベルサイユ条約でポーランド側も使用していたが、1921年、ポーランドはダンツィヒ港にかわって近隣のグディニャ(Gdynia)港を新たに大規模拡張し、ドイツに対抗できる新たな港湾都市の建設を開始した。
写真(右):1935年11月、ポーランド、ダンチヒ(国際管理自由市グダニスク(グダニア))、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」Schleswig-Holstein :第一次世界大戦前の1908年7月6日就役の戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」はユトランド沖海戦に参加し終戦まで生き残った。ベルサイユ条約でも、旧式戦艦だったためにドイツ海軍の保有を許された戦艦3隻の1艦だった。三本煙突は二本に統合するなど改装工事を請け、1926年から1935年までドイツ海軍旗艦として就役していたが、旧式だったため1936年には練習艦となった。 Title: Schleswig-Holstein
Description: SCHLESWIG-HOLSTEIN (German battleship, 1906)
Caption: View taken in August 1939, arriving at Danzig, Poland. Within one month her guns were pounding Polish defenses at point-blank range.
Catalog #: NH 80895
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command 写真はNaval History and Heritage Command NH 80895 SCHLESWIG-HOLSTEIN (German battleship, 1906) 引用。
自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)は、1930年には、ドック、埠頭、防波堤、倉庫などの港湾施設が整い、第二次大戦前には、最大級の施設を建設中だった。もっとも、第二次大戦初頭、ドイツに占領されたグディニャ(Gdynia)は、1939年から1945年までゴーテンハーフェン(Gotenhafen)と名を変えて、ドイツ軍の港となった。
1933年5月、自由都市の選挙で勝利したナチ党は、ヒトラーの知己であるヘルマン・ラウシュニングを市長に任命し、行政・生活・文化など広範な同質化が強要され、ドイツ民族主義が強化された。また、その過程で組織された民族主義的団体とポーランド側との武力衝突も引き起こされ、ドイツ系住民の住むダンチヒはドイツに併合すべきであると主張した。
写真(右):1939年9月、ポーランド、ダンチヒ(国際管理自由市グダニスク(グダニア))、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」Schleswig-Holstein :第一次世界大戦前の1908年7月6日就役の戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」はユトランド沖海戦に参加し終戦まで生き残った。ベルサイユ条約でも、旧式戦艦だったためにドイツ海軍の保有を許された戦艦3隻の1艦だった。三本煙突は二本に統合するなど改装工事を請け、1926年から1935年までドイツ海軍旗艦として就役していたが、旧式だったため1936年には練習艦となった。 Inventory: Bild 101 II - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Marine
Signature: Bild 101II-MN-1585-09A
Archive title: Danzig.- Nach der Einnahme der Westerplatte, Linienschiff "Schlesien" und Linienschiff "Schleswig-Holstein" im Hafen liegend
Dating: September 1939
Photographer: Mendel
Origin: Bundesarchiv
写真はNaval History and Heritage Command NH 80895 SCHLESWIG-HOLSTEIN (German battleship, 1906) 引用。
写真(右):1939年9月1日、ポーランド、国際管理自由市ダンチヒ(Danzig:グダニスク:グダニア)、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」"Schleswig Holstein"による28センチ砲による砲撃:
Inventory: Bild 134 - Institut für Meereskunde Signature: Bild 134-C2596 Old signature: R IX E 6301 Archive title: Gefechtsbilder des 20. Jahrhunderts, 2. Weltkrieg.- Polen, Danzig.- Beschießung der Westerplatte durch Linienschiff "Schleswig Holstein" Dating: 1. September 1939 Photographer: o.Ang Origin: Bundesarchiv 写真は,Bundesarchive Bild 134-C2596 引用。
第一次世界大戦後の1918年11月11日、べルサイユ講和条約の下、民族自決の原則にのっとって、ドイツと旧ロシアの領土から、ユゼフ・ピウスツキを国家元首とするポーランドが再生した。ポーランドは、対ソ連、対ドイツとのバルト海沿岸での戦闘や海上輸送も強く意識しており、北岸の半島要衝に、要塞を築いて防備を固めている。ポーランド製北岸、自由都市ダンツィヒ港沖合のヴェステルプラッテ(Westerplatte)要塞、ポーランド中部北岸、ヘル(Hel)半島先端のヘル基地が、この代表で、第二次世界大戦緒戦のドイツのポーランド侵攻にあって、最後までドイツ軍に抵抗し続けたのが、これら2か所である。
1939年9月1日、第二次世界大戦の勃発初日、ドイツ海軍に1908年就役した旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」によるダンチヒ砲撃が行われた。戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」が自由市ダンチヒにあった理由は、第一次大戦初頭(1914年8月26日)、触雷沈没したドイツ海軍巡洋艦「マクデブルク」(排水量5000トン)の追悼式を行うという名目だった。ダンチヒ儀礼参加のために訪問をしたというのは、もちろん口実で、ドイツ海軍は、1939年9月1日に、ドイツがポーランド侵攻(Invasion of Poland)を承知の上で、ダンチヒ港ど真ん中に軍艦を送りこんで、主砲をもって至近距離からダンチヒ市街地、港湾、兵舎を砲撃した。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)を砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は第一次世界大戦勃発前1908年7月6日就役の旧式艦であったため、ベルサイユ条約の軍備制限の下でも保有が許され、再軍備宣言の1935年までは、ヴァイマルドイツの共和国海軍 (Reichsmarine) の旗艦を務めた。基準1万3,200トン、40口径28cm連装砲塔2基4門、45口径15cm砲12門、8.8cm対空砲8門、50cm(19.7インチ)魚雷発射管4基を搭載。 Polski: Schleswig-Holstein w Zakręcie Pięciu Gwizdków podczas ostrzału Westerplatte.
Date 1 September 1939
Source Instytut Pamięci Narodowej
Author Autor nieznany
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
1939年9月1日、第二次世界大戦の勃発初日、1908年就役したドイツ海軍旧式戦艦Schleswig-Holstein)によるダンチヒ砲撃が行われた。戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」が自由市ダンチヒ(グダニスク)にあった理由は、第一次大戦初頭(1914年8月26日)、触雷沈没したドイツ海軍巡洋艦「マクデブルク」(排水量5000トン)の追悼式を行うという名目だった。ダンチヒ儀礼参加のために訪問をしたというのは、もちろん口実で、ドイツ海軍は、1939年9月1日に、ドイツがポーランド侵攻(Invasion of Poland)を承知の上で、ダンチヒ港ど真ん中に軍艦を送りこんで、主砲をもって至近距離からダンチヒ市街地、港湾、兵舎を砲撃した。これは、卑劣な騙し討ちそのものである。
1939年9月1日、グダニスク(ダンツィヒ)港の半島状になったヴェステルプラッテ(Westerplatte)は、防衛施設はあったが、要塞と呼べるような大規模コンクリート施設や地下壕があるわけでも、沿岸砲を備えた砲台があるわけでもない。1939年9月時点のヴェステルプラッテの兵力も、ポーランド陸軍ヘンリク・スハルスキ(Henryk Sucharski)少佐、 フランチシェク・ドンブロフスキ(Franciszek Dąbrowski)大尉の指揮する守備隊200名であり、火砲は75ミリ野砲1門、37mm対戦車砲2門、旧式歩兵砲4門のみで、主要な火器は機関銃だった。1939年9月1日4時45分、いきなりドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein)は、28センチ砲、15センチ砲でポーランドのヴェステルプラッテ(Westerplatte)守備隊を艦砲射撃した。そして、海軍陸戦突撃隊が上陸し、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)攻略を目指した。しかし、ポーランド守備隊は粘り強く抵抗し、ドイツ海軍の28センチ砲、陸軍の21cm Mrs 16榴弾砲(臼砲)、空軍ユンカースJu87による急降下爆撃の猛攻に晒された。ドイツ軍は2000人規模の歩兵も投入した。一週間後、ヴェステルプラッテのポーランド軍守備隊は、死傷者が続出し、食料、弾薬、医薬品の補給も途絶えたことから、9月7日に降伏をした。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)を砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:ドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」同型艦「シュレジエン」(Schlesien)は1908年5月5日就役。1939年9月1日のダンチヒ砲撃には参加していないが、9月21日から27日のポーランド戦終盤に、ポーランド北岸、ヘル半島に立て籠って頑強に抵抗するポーランド軍を艦砲射撃している。 Deutsch: Das deutsche Schlachtschiff Schleswig-Holstein beschießt die Westerplatte zu Beginn des Polenfeldzugs.
English: German battleship Schleswig-Holstein during a shellfire of Polish garrison Westerplatte in Gdańsk on 1 September 1939. Better quality photo:https://www.tygodnikpowszechny.pl/files/7991a9e80d8eb078dbc7198818df9f47.jpg
Polski: Schleswig-Holstein w gdańskim Zakręcie Pięciu Gwizdków.
Date September 1939
Source Apoloniusz Zawilski (1972) "Bitwy Polskiego Września" ("Battles of Polish September"), Warsaw: Nasza Księgarnia ISBN 83-218-0817-4 (current edition)
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
ドイツ海軍は、実は、第二次大戦勃発じのドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein)のダンチヒ砲撃から終戦のUボート自沈まで最もヒトラーに従った忠誠心旺盛な軍隊だった。1945年4月30日、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が総統大本営(ベルリン地下壕)で死亡した後、その遺書によって、ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ(Karl Dönitz)が、ヒトラー自決の後を継いで、ドイツ大統領、啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス博士がドイツ首相に就任している。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:1939年9月1日4時45分、宣戦布告抜きでドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は主砲28cm砲4門、副砲15cm砲12門でヴェステルプラッテ(Westerplatte)のポーランド軍守備隊を艦砲射撃し、海軍陸戦隊突撃隊も上陸させた。 Description
Polski: Salwa pancernika "Schleswig-Holstein", Gdańsk, wrzesień 1939 r.
Date September 1939
Source R. Witkowski, Ostatnia reduta, Gdańsk 1973.
Author Unknown authorAuthor Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
他方、ドイツ陸軍は、国内軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク(Claus Graf Schenk von Stauffenberg)大佐を筆頭に、元ドイツ陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック、国防軍情報部次長ハンス・オスター大佐、第三軍管区司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン(Erwin Witzleben)元帥、フランス軍政長官カール=ハインリヒ・フォン・シュチルプナーゲル(Carl-Heinrich von Stülpnagel)大将、第二十三歩兵師団長エーリヒ・ヘプナー大将高級将校、中央軍集団参謀ヘニング・フォン・トレスコウ少将、国内予備軍フリードリヒ・オルブリヒト(Friedrich Olbricht)大将、陸軍通信隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成局長ヘルムート・シュティーフ少将など将軍たちが1944年7月20日、総統大本営でヒトラー暗殺を企て、失敗、処刑されている。1945年になると、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)は、みなヒトラーを、西側連合国との講和交渉に手を染めた。この交渉は、最高指導者ヒトラー総統に内密に進めた裏切りである。二人とも、裏切りが発覚し、解任されたり、逮捕命令がだされたりしている。
写真(右):1942年8月1日(土曜)、東プロイセン(ポーランド占領地)、ダンチヒ近くのゴーテンハーフェン(旧グダニア)港、修理受けているドイツ海軍戦艦「クナイゼナウ」は、砲塔を外し、偽装用ネットに覆われている。:イギリス空軍の偵察機が撮影。 Title: GNEISENAU German Battleship, 1936-45
Caption: Photographed by a British Royal Air Force aircraft on 1 August 1942 at Gotenhafen (formerly Gdynia, Poland). The ship was undergoing repairs and reconstruction at this time. Note that all three main battery turrets have been removed.
Catalog #: NH 91658
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 01, 1942 写真はNaval History and Heritage Command NH 91658 GNEISENAU German Battleship, 1936-45 引用。
1939年8月の終わり、ドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein )が、親善訪問という名目でダンツィヒを訪問することになった。1939年8月25日、「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は、第一次世界大戦緒戦の1914年8月26日、触雷沈没したドイツ海軍巡洋艦「マクデブルク」(排水量5000トン)追悼式典に参加するという名目で、ポーランドの自由都市ダンツィヒに到着したのである。しかし、これは謀略であり、ポーランド侵攻はすでに決定しており、ダンチヒのヴェステルプラッテにポーランド軍の基地を攻撃することが、訪問の目的だった。1939年9月1日午前4時45分、ドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein )はポーランド軍への砲撃を開始した。
2.ドイツ軍ポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦
写真(右):1935年11月、ポーランド、ダンチヒ(国際管理自由市グダニスク(グダニア))、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」Schleswig-Holstein :第一次世界大戦前の1908年7月6日就役の戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」はユトランド沖海戦に参加し終戦まで残存し、第二次大戦にも参加し、終戦まで再び生き残った。
Title: Schleswig-Holstein
Description: (German battleship/training ship, 1908-1945) In Danzig harbor in September 1939, after the outbreak of World War II. She had fired the conflict's first shot earlier that month. The German motor minesweeper R-20 is in the left foreground, backing out away from shore. Photograph from the New York Times Paris Bureau collection in the U.S. National Archives.
Catalog #: 306-NT-1324-A-5 写真はNaval History and Heritage Command 306-NT-1324-A-5 Schleswig-Holstein引用。
自由都市ダンツィヒ(Danzig)は、ポーランドではグダニスク(グダンスク)と呼称されるが、バルト・ドイツ人(ドイツ系住民)が居住していた。彼らは、ナチ党に先導されて民族主義的な行動を拡大し、市議会では1933年にナチ党が第一党となり、突撃隊を組織して自衛団、民兵として騒擾を起こし、ポーランド政府はこれを鎮圧しようとした。1939年9月1日、ダンツィヒで暴動が起こされ、同時に港内にあったドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(SMS Schleswig-Holstein)は、市街地を砲撃し、海軍陸戦隊を上陸させた。
写真(右):1939年9月、ポーランド、グダニスク(グダニア)、ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」Schleswig-Holstein :1908年7月6日就役の旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は、基準排水量: 1万3,200トン、 満載排水量:1万4,218トン、全長: 127.6m、全幅: 22.2m、吃水: 7.7m、機関出力: 1万9,330馬力、最高速力: 19.1 ノット、乗員: 743名、兵装:28センチ連装砲塔2基4門、15センチ砲15門、8.8センチ高射砲4門。
Title: Schleswig-Holstein
Description: (German Battleship & Training Ship, 1908) Bombarding Polish shore positions, September 1939. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 82070 写真はNaval History and Heritage Command NH 82070 Schleswig-Holstein引用。
ドイツ海軍旧式戦艦(練習艦)「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(SMS Schleswig-Holstein)は、1908年7月6日就役の旧式艦で、練習艦になったとはいえ、1939年8月25日、ポーランドの自由都市ダンツィヒ(Danzig)に入港し、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)」のポーランド軍基地近くに停泊した。そして、1939年9月1日0445、ポーランド軍守備隊に向けて砲撃を開始し、第二次世界大戦初の砲火をきった。9月7日、ヴェステルプラッテ要塞を陥落させ、ポーランド占領後は、再び練習艦任務にかえった。
写真(右):1939年9月,ベルリンで開催されたドイツ帝国議会で戦争を宣言するアドルフ・ヒトラー総統:第二次大戦は,9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻,9月3日の英仏によるドイツへの宣戦布告で始まった。
ドイツでは,1933年1月30日,第一党の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)総統(党首)ヒトラーを主要とする内閣が成立した。しかし,2月末,ドイツ国会議事堂放火事件が発生したために,大統領緊急令によって,礼状なしに共産党幹部を逮捕し,国会議員を威嚇しながら,3月に「民族・国家危機排除法」(全権委任法)を成立させた。全権委任法によって,行政府が立法権を議会から授権された。ナチ党政権の権力濫用を戒める対抗勢力は解散させられたために,ナチ党一党独裁の道が開かれた。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-E10402引用(他引用不許可)。
日本外務省「わかる!国際情勢」Vol.22「ポーランドという国」では,ポーランドの歴史を次のように悲観的に記述している。
「16世紀後半から選挙王制に移行すると、地方の貴族が勢力を持つようになり、徐々に国力が低下していきます。そして18世紀後半には、隣接していたロシア、プロシア、オーストリアの三国に分割され、1795年にポーランドは消滅。第一次世界大戦が終了する1918年に独立するまでの123年間、ポーランドは世界地図から姿を消すことになります。」
「第一次世界大戦後、ポーランドは独立を回復するものの、第二次世界大戦では再びナチス・ドイツとソ連によって分割されます。終戦後、ポーランドは再度独立を果たしますが、大戦を経てソ連の影響下に組み込まれていき、1947年に行われた選挙で共産勢力が大勝し、社会主義国となりました。 」
写真(右)1939年9月1日,ドイツ国防軍がポーランド侵攻,ダンチヒ国境ゲートを破壊:ポーランドのワシの標章がついたバーをへし折るドイツ軍兵士と国境警備隊。 Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939.
Soldaten zerstören den Schlagbaum an der deutsch-polnischen Grenze in der Nähe von Danzig
Archive title: Polenfeldzug, bei Danzig, Straße Zoppot-Gdingen.- Beseitigung eines Schlagbaums mit polnischem Wappen an der deutsch-polnischen Grenze durch deutsche Soldaten. [aus Serie mit mehreren (gestellten) Motiven: (1) Bild 183-E10457, (2) Bild 183-E10458, (3/4) Bild 146-1979-056-18A und Bild 183-51909-0003]
Dating: 1. September 1939
Photographer: Sönnke, Hans撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-51909-0003引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ポーランド、ダンチヒ、ドイツ軍ADGZ装甲車(M35中型装甲車)「ズテーテンラント」"Sudetenland"と共同して戦う協力するSS親衛隊ダンチヒ防衛軍:ポーランドに住む民族ドイツ人は、ナチ党や親衛隊に先導され、ポーランド政府への反発を繰り返し、武装団体としてSS防衛軍を組織した。 ADGZ装甲車(M35 mittlerer Panzerwagen)の諸元:全長6.26 m、全幅2.16 m 、全高2.56 m 、重量12 t、乗員6名、装甲11 mm、兵装:20ミリ機関砲 (2cm KwK35 L/45)1門、7.92ミリMG34機関銃3丁、最高速力 70 km/h、 6気筒ガソリンエンジン150馬力
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-S56768
Original title: info Polenfeldzug 1939. Danzig.
11108-39
Archive title: Polen, Danzig.- Gefecht um das Polnische Postamt.- Soldaten der SS-Heimwehr Danzig in Deckung hinter Panzerspähwagen Steyr ADGZ "Sudetenland"
Dating: 1. September 1939
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-012-0016-20, Polen, Panzer IV in Ortschaft.jpg引用。
写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入されたI号戦車:歩兵を追い越してゆくI号戦車だが,機銃しか装備していないうえに,装甲も薄かった。右の煙突のある貨車は,食事を作る調理車両。 Polen.- Panzer I und Infanterie auf schlammiger Straße; PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Wagner
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-012-0035-11A引用(他引用不許可)。
1939年5月23日,ベルリンの帝国官房(総統官邸)で,三軍総司令官が出席した会議で,ヒトラー総統は,「適当な機会があり次第、ポーランドを攻撃する」ことを宣言した。8月24日,空軍は出撃準備のために駐屯地から前進基地に入った。
1939年8月25日,ドイツ軍のポーランド侵攻予定日に,イギリスがポーランドと相互防衛条約を締結したことを公表。逡巡したヒトラーは,予定していた8月26日0430のポーランド空襲「オストマルク飛行」を急遽中断。陸軍部隊にも、ポーランド攻撃中止の命令が出された。
写真(右):1939年9月,ポーランド侵攻時,ドイツ国防軍I号戦車指揮車に続くI号戦車と装軌式装甲車(ハーフトラック):I号戦車の小型砲塔を撤去して,そこに大型のアンテナと固定密閉式の戦闘指揮室を設け,通信設備を備えた指揮用戦闘車両。7.92ミリ機銃1丁を搭載。1941年6月に始まったソ連侵攻バルバロッサ作戦でも使用されている。 Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Vorne Befehlspanzer 1 Ausf. B auf Basis des Panzer I, dahinter Panzer II; KBK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Rascheit
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-318-0083-29引用(他引用不許可)。
ドイツは,西部国境からポーランドに侵攻,主力をフォン・ルントシュテット将軍率いる南方軍集団におき,ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将(1880-1958)の第十軍が中央に位置しワルシャワに向かった。
しかし,ドイツ国防軍第10軍および第14軍の突撃コマンド部隊の一部は,停止命令を受けることができず,ポーランドを攻撃してしまった。この突撃部隊は,架橋,トンネルの確保,交通通信も破壊などが任務だったが,ポーランド軍と交戦,途中で撤退した。 これによってポーランドに対するドイツ軍の奇襲攻撃は事実上不可能になった。ドイツの戦争決意が明らかになったからである。
また,ヨハネス・ブラスコヴィッツ大将の第八軍がウッチに,ヴィルヘルム・リスト大将の第十四軍がクラクフに進撃した。3個軍の兵力は34個師団である。
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻に参加したドイツ陸軍I号戦車:7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車。試験的戦車として製造されたが、ポーランド戦、フランス戦から、I号戦車を改造した派生型の指揮戦車・対戦車自走砲は、ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」にも参加している。 An den Ufern der Brahe sichern deutsche Panzer das Gelände gegen Überfälle von versprengten polnischen Truppenteilen. Angespannt beobachtet der Kommandant mit dem Glas das Gelände, um sofort auf auftauchende Polen das Feuer eröffnen zu lassen.
4.9.1939 [Herausgabedatum] "Fr.OKW"-Sche
Es mußgenannt werden: Foto: Weltbild-Schwahn
Dating: September 1939
Photographer: Schwahn 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_146-1978-120-11引用(他引用不許可)。
ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。
1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。-----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」
1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」 ◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。
写真(右)1939年9月,ワルシャワ郊外、ポーランド侵攻に参加したドイツ軍I号戦車B型(Panzer I Ausf. B)と随伴歩兵 :マイバッハ社ガソリンエンジン7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車で、生産台数400両。その内70両はI号指揮戦車に流用されている。 Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-012-0022-25
Original title: info Scherl Bilderdienst
Polen - September 1939
Erste deutsche Vorhuten erreichen die polnische Hauptstadt; Infanterie mit Panzer-unterstberfützung geht in einem Vorort von Warschau vor.
PK: Lanzinger
11846-39 ADN-Zentralbild
II. Weltkrieg 1939-1945
Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939
Warschau ist durch faschistische Truppen von allen Seiten eingeschlossen. Die regulberfären polnischen Truppen und freiwillige Arbeitsbataillone verteidigen heldenhaft die Stadt gegen eine vielfache Übermacht.
Deutsche Infanterie geht im Schutz von Panzern in einer Vorstadtstrasse vor.
11846-39
Archive title: Polen, Warschau, Stadtteil Praga.- Straßenkämpfe.- Deutsche Infanteristen hinter einem Panzer II in Deckung; PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Lanzinger, Otto撮影。
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild101I-012-0022-25引用(他引用不許可)。
1941年11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。>」 ◆ドイツ軍司令官は弱弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。
写真(右)1939年9月8日、ポーランド侵攻に参加したI号戦車B型(Panzer I Ausf. B)砲塔番号133 :マイバッハ社ガソリンエンジン7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車で、生産台数400両だが、その内70両はI号指揮戦車に流用されている。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-012-0022-26
Archive title: Polen, Warschau, Stadtteil Praga.- Straßenkämpfe.- Panzer I Ausf. B (Turmnummer 133) und deutsche Infanterie, im Hintergrund Panzer II; PK 637 (Ost)
Dating: 8. September 1939
Photographer: Lanzinger, Otto 撮影。
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻「白の事例」作戦の時に,保安警察特務部隊を投入,独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。
ポーランド侵攻「白の事例」作戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。そして、若干のIII号戦車、IV号戦車も参戦している。
写真(右):1939年9月,ポーランド侵攻「白の事例」作戦時の42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車D型(Panzer III Ausf. D): Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-318-0083-30
Archive title: Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese, Panzer III Ausf. D mit Besatzung, Panzersoldat im Turm; KBK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Rascheit 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivおよびWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II File: Bundesarchiv Bild 101I-318-0083-30, Polen, Panzer III mit Panzersoldaten.jpg引用。
写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入された47口径3.7cm戦車砲(KwK36:携行弾数120発)のIII号戦車D型:最大装甲15ミリ。1938年1-6月に30両生産。III号戦車C型のサスペンションを改良し、D型では第1、第4ボギーの支持位置を車体中央に移動したため、C型の水平配置のリーフ・スプリングは、サスペンションに垂直に作動するハ字型の配置に変更。変速機はC型の前進5段、後進1段から、D型では前進6段、後進1段に改良された。1939年当時、47口径3.7cm戦車砲搭載の戦車であれば,ポーランド軍を圧倒できた。 Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Panzersoldaten am Turm eines Panzer III(Sd. Kfz. 141) Ausf. D; KBK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Rascheit撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-318-0083-32引用(他引用不許可)。
ポーランド侵攻「白の事例」作戦に参加した47口径3.7cm戦車砲(KwK36:携行弾数120発)のIII号戦車(Pz.Kpfw. III )D型は、最大装甲15ミリ、1938年1-6月に30両生産。III号戦車(Pz.Kpfw. III )C型のサスペンションを改良し、D型では第1、第4ボギーの支持位置を車体中央に移動したため、C型の水平配置のリーフ・スプリングは、サスペンションに垂直に作動するハ字型の配置に変更。変速機はC型の前進5段、後進1段から、D型では前進6段、後進1段に改良された。1939年当時、47口径3.7cm戦車砲搭載の戦車であれば,ポーランド軍を圧倒できた。
新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)は少なかった。III号戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻「白の事例」作戦に参加した24口径7,5センチ短砲身砲(7,5 cm Kwk L 24) 搭載のドイツ軍IV号戦車A型(Panzer IV Ausf. A): Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-012-0016-20
Archive title: Polen.- Zwei Kampfpanzer IV, Modell A durch eine Ortschaft fahrend; PK 637
Dating: September 1939
Photographer: Kliem撮影。 写真はWikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-012-0016-20, Polen, Panzer IV in Ortschaft.jpg引用。
写真(右)1939年9月6日,ポーランドの旧ドイツ領の東プロシア、ポメラニア(ポンメルン)に侵攻する24口径7,5センチ短砲身砲(7,5 cm Kwk L 24) 搭載のドイツ軍IV号戦車B型(Panzer IV Ausf. B): Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-E10524
Original title: info Zum Vormarsch unserer Ostarmee
Die Einheiten der deutschen Panzerwaffe haben in dem schnellen Zusammen-schluss der von Ostpreussen und Pommern durch den Korridor vordringenden Truppen grossen Anteil.
Scherl Bilderdienst-Hinz
6.9.39
Archive title: Polen.- Mit Zweigen getarnter Panzer IV bei Fahrt in einer Stadt
Dating: September 1939
Photographer: Hinz
Origin: Bundesarchiv 写真はWikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 183-E10524, Polen, Panzer IV in einer Stadt.jpg引用。
ポーランド北西部のポメラニア(Pomerania)は、ドイツではポンメルン(Pommern)と呼ばれた地域で、北のバルト海、東のオーデル川、西のビスワ川に挟まれた土地に、ドイツ系住民(民族ドイツ人:Volksdeutsche)が多数居住していた。ドイツ軍のポーランド侵攻「白の事例」作戦によって、ポーランド全土がドイツに占領され、ポメラニア(ポンメルン:Pommern)はドイツに併合された。
写真(右)1939年11月,ポーランド,ボーゼンのヒトラー・ユーゲントの行進:ポーランドの民族ドイツ人は,ポーランド東部がドイツ帝国領に編入されたことで,フリック内務大臣の指導の下,ドイツ人として組織化された。ヴィルヘルム広場からの示威行進は,ポーランド人からは冷ややかに見られたであろう。 Die feierliche Amtseinführung des Reichsstatthalters und Gauleiters Greiser durch Reichsinnenminister Dr. Frick in Posen. Der Marsch der deutschen Jugend Posens vom Wilhelmplatz zum Festakt im Schloß.
Fot. Ho. 3.11.39
12915-39
Dating: November 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-E12089引用(他引用不許可)。
他方,シュレジエンなど,ポーランド領に住んでいたドイツ系住民(民族ドイツ人)は,優遇され,ユダヤ人,ポーランド人よりも上の権限と地位を与えられた。そして,ドイツ人の手先となって,ポーランド支配に協力するようになる。
たとえば,ポーランド第二の工業都市ウッジは,ドイツ帝国に編入され,総督領として支配されることになり,ウッジの名称は,「リッツマンスタット」とアーリア風に改名された。そして,ウッジ市内には,ユダヤ人を隔離するウッジ・ゲットーが設置された。
Volksdeutsche)は、支配者民族のドイツ人と同様に重用されることになった。しかし、占領時期に政治的、経済的に優遇された民族ドイツ人(Volksdeutsche)の大半は、ドイツ敗戦後は、財産を没収され、難民としてポーランドからドイツに追放された。
写真(右)1939年9月7日,ポーランドのグルジョンツ(ドイツ語名グラウデンツ:ワルシャワ北西200km)で歓迎を受けるポーランドに侵攻した24口径7,5センチ短砲身砲搭載のドイツ軍IV号戦車B型(Panzer IV Ausf. B):ポーランド西部には、多数の民族ドイツ人(Volksdeutsche)が居住しており、彼らは自らをドイツ人と見なし、ポーランド侵攻「白の事例」作戦で侵入してきたドイツ軍を歓迎した。占領時期に政治的、経済的に優遇された民族ドイツ人(Volksdeutsche)だったが、ドイツ敗戦後は、住処も財産もポーランド人に奪われ、難民としてドイツに追放された。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-E10600
Original title: info Überall bestes Einvernehmen zwischen Truppe und Einwohnern. Alle deutschen Einwohner, auch die anständig gesinnte polnische Bevölkerung, sieht in unseren Soldaten die Befreier von Chaos und Mißwirtschaft, denn jeder verurteilt das schändliche Treiben der Aufständischen und Franktireure und bringt den Sicherungsmaßnahmen unserer Soldaten großes Interesse und Verständnis entgegen.
UBz.: Panzerwagen werden Graudenz umjubelt
7.9.39 "Fr" OKW
Archive title: Polen, Graudenz.- Panzer IV bei Fahrt durch ein Spalier jubelnder Menschen (z.T. mit "Hitler-Gruss")
Dating: September 1939
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl 写真はWikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 183-E10600, Graudenz, jubelnde Menschen neben Panzer IV.jpg引用。
写真(右)1939年9月,18年式10.5センチ榴弾砲を牽引する5トン牽引車(Sd.Kfz. 6):8.8センチ砲よりも軽量の10.5センチ榴弾砲などを牽引した。全長 4.7メートル,全幅 1.8メートル,全高 1.6メートル,重量 5トン,乗員2人,兵員乗車 6人。 Polenfeldzug.- Mittlerer Zugkraftwagen 5 t (Sd.Kfz. 6/1) mit angehängter leichter Feldhaubitze 18 und Krupp-Protze beim Durchfahren einer Ortschaft; PK 637 Ost
Dating: September 1939
Photographer: Falk撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-012-0012-05引用(他引用不許可)。
ポーランド侵攻「Fall Weiß-Case White」に参加した北方軍集団(フォン・ボック大将)は,クルーゲ大将の第四軍,キュヒラー対象の第三軍,あわせて22個師団からなる。北方軍集団は,ドイツ領の東プロイセンから前進した。
ポーランド侵攻「Fall Weiß-Case White;白(ヴァイス)の事例」作戦の目標は,ヴィスワ川の西方でポーランド軍を包囲殲滅することである。
写真(右)1939年9月,ポーランドの泥濘の道を進撃するドイツ軍の自動車化部隊:歩兵砲を牽引する自動車,二輪車サイドカーが,悪路に苦しんでいる。しかし,2年後のソ連侵攻時には,いっそう状況の悪い道路を進撃することになった。 Der deutsche Vormarsch in Polen. Überquerung von fast unbefahrbarem Gelände.
11197-39
Archive title: Polen.- Motorisierte deutsche Truppen, u.a. Motorräder mit Seitenwagen (Beiwagenkrad) und PKW mit angehängtem, leichtem Infanteriegeschütz auf schlammiger, regennasser Straße
Dating: September 1939
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-2008-0415-506引用(他引用不許可)。
ポーランド軍は,ミュンヘン協定によるチェコスロバキア解体を重視し,ドイツに対しては強硬な姿勢を崩さず,英仏の軍事援助を引き出すように務めた。
そこで,国境を守り,領土を明け渡すことなく防備する決意を固めた。これは,全面戦争と言うよりも,ドイツが要求していたポーランド回廊など,領土紛争のある地域を防衛できるように,主力を配置していた。
写真(右)1939年9月,ポーランド,東部戦線、河川を渡河するドイツ軍の輜重(補給部隊):ポーランド戦だけではなく、2年後の対ソ侵攻バルバロッサ作戦の時にも大量の馬匹が輸送部隊として投入されている。 Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-S54817
Original title: info Zentralbild
Weltkrieg 1939-45
An der Ostfront (Polen)
Infanteriegeschütz auf dem Vormarsch
14289-39L
[Stempel "Photo / Rechte - ungeklärt"]
Dating: September 1939
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ポーランド,臨時架橋を使って渡河する馬車補給部隊:ポーランド戦の時にも多数の馬が輸送に活躍した。装甲車,自動車の機械化部隊は最前線に配備されたが,後方には,機械化されていない馬車,馬が多用された。
Polen.- Mit Pferden bespannte Kolonne der Wehrmacht bei Fahrt über eine von Pionieren errichtete Behelfsbrücke aus Holz; KBK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Koll撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1939年9月14日,ポーランド、グダニスク、バルト海に面したヴェステルプラッテ、対ポーランド戦でテレスコープで観測するドイツ軍兵士:第二次世界大戦緒戦のポーランド戦役は1939年9月1日にドイツ海軍の旧式戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインによるヴェステルプラッテのポーランド軍基地に対する砲撃で幕をあけた。ここには、ポーランド軍守備隊182名、野砲1門、対戦車砲2門、迫撃砲4門の兵力が配備されているだけだった。それに対して、ドイツ海軍の陸戦部隊が攻撃したが、ポーランド軍の抵抗が激しく、最終的には2000名以上の兵力と空軍を投入した。結局、9月7日、ヴェステルプラッテは降伏したが、ドイツ軍の損害は死傷者300名以上だった。この写真の撮影は、この戦いの後に撮影されたもののようだ。 A German Soldier Keeps Watch
Description: An unidentified German soldier keeps watch using his Scherenfernrohr (a type of telescope used to look over trench walls and foxholes) on the Westerplatte (Polish Peninsula on the Baltic Sea). From a series of captured German photographs.
Date: September 14, 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Soldiers; World War, 1939-1945
HST Keywords: Poland, Warsaw; World War II - General File
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-582引用。
写真(右):1939年9月18日,ポーランド、ヴィスワ (Weichsel) 川に向かって進撃するドイツ軍の1トン半装軌式牽引車(2センチ対空砲搭載)とトラック。:トルーマン図書館の解説によると、オーストリアのヴァイクセ(Weichsee)に向かう部隊とある。ヴァイクセ(Weichsee)は確かにオーストリアのドイツ国境近くの町(ザルツブルクの北40キロ)だが、これはヴィスワ (Weichsel) 川の誤記であろう。 German Offensive to Weichsee
Description: German soldiers in mechanized vehicles follow their opposition to the Weichsee, an area of modern Austria, from Poland. All are unidentified. From a series of captured German photographs.
Date: September 18, 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Soldiers; Vehicles, Military; World War, 1939-1945
HST Keywords: World War II - General File
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-566引用。
写真(右):1939年9月26日,ポーランド中東部、ドイツ陸軍3.7センチ対戦車砲 PAK35/36を射撃するドイツ軍兵士:37ミリ砲は、第二次大戦初頭の各国の代表的対戦車砲だった。車高が低く、露出部分を小さくできるので、対戦車戦闘に有利である。 German Offensive on Wlochy
Description: A German anti-tank gun fires on the town of Wlochy, Poland. All are unidentified.
Date: September 26, 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Artillery; Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Poland; World War II - General File
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-586引用。
写真(右):1939年9月26日,ポーランド、ワルシャワ南西3キロ、ドイツ陸軍3.7センチ対戦車砲を射撃するドイツ軍兵士:ラインメタル社の開発した3.7センチ対戦車砲PAK35/36は、口径:37mm 砲身長:1.67m 重量:432kg 初速:762m/s 最大射程:7,000m、装甲貫通能力:命中角0度射程100mで65mm ・ 射程500mで48mm。 German Anti-Tank Launcher Outside of Warsaw
Description: During the assault of Wolchy, Poland, an anti-tank gun fires on the opposing force some 3 kilmeters southwest of Warsaw. All people are unidentified. From a series of captured German photographs.
Date: September 26, 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Artillery; Battles; Soldiers; World War, 1939-1945
HST Keywords: World War II - General File
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-580引用。
写真(右):1939年9月24日,ポーランド、ワルシャワ、ドイツ軍による空襲・砲撃のためか火災が発生し黒煙が上がっている。: Smoke Clouds Over Warsaw
Description: Enormous smoke clouds hover over the heavily bombarded city of Warsaw, Poland. From a series of captured German photographs.
Date: September 24, 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Battles; Cities and towns; World War, 1939-1945
HST Keywords: Poland, Warsaw; World War II - General File 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-578引用。
写真(右):1939年9月,ポーランド、瓦礫となったワルシャワに突入したドイツ軍の自転車部隊と騎兵。:部隊の脇には歩哨・警備の兵士が立っている。 German Troops Marching Through Warsaw, Poland
Description: German troops march through the destroyed streets of Warsaw, Poland. All people are unidentified. From a series of captured German photographs. Date: ca. 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Battles; Cities and towns; World War, 1939-1945
HST Keywords: Poland, Warsaw; World War II - General File
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-576引用。
写真(右):1939年10月4日,ポーランド、ワルシャワ、瓦礫となったビルの脇を通るポーランド人。:天井を残さず崩れ落ちれいるので、空襲による爆弾の被害のように見える。トルーマン図書館にある、ドイツ軍兵士から押収した写真。 Destroyed Buildings in Warsaw, Poland
Description: Destroyed buildings along a street in Warsaw, Poland. All people are unidentified. From a series of captured German photographs.
Date: October 4, 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Battles; Cities and towns; World War, 1939-1945
HST Keywords: Poland, Warsaw; World War II - General File
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-576引用。
ポーランド侵攻「白(ヴァイス)の事例」作戦の第十軍司令官フォン・ライヘナウ大将,参謀長パウルス少将の先鋒である第十六軍団司令官は,エーリヒ・ヘプナー中将で,第1,第2装甲師団を擁していた。
ポーランド侵攻「Fall Weiß-Case White;白(ヴァイス)の事例」の時,ヒトラー総統警護大隊を率いていたのが,エルヴィン・ロンメル大佐である。ロンメルは,1940年5月のフランス侵攻には,ヒトラーの計らいで,第7装甲師団の師団長(少将)に抜擢され参戦した。
写真(右)1939年9月,ポーランド、ドイツ軍の貨物自動車荷台に乗せられたポーランド軍捕虜 : Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-318-0083-37
Archive title: Polen.- LKW mit kriegsgefangenen polnischen Soldaten auf der Fahrt unter Bewachung deutscher Soldaten mit Gewehren und aufgepflanztem Bajonett; KBK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Rascheit
Dating: September 1939
Photographer: Lanzinger, Otto撮影。
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild101I-318-0083-37引用(他引用不許可)。
第十軍参謀長フリードリヒ・パウルス少将は,後の1942年2月1日,第六軍司令官として,スターリングラード攻防戦で降伏するが,そのときは元帥だった。ヘプナー中将は,騎士十字章の受賞者だが,1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件に共謀していたため,軍籍剥奪後,人民裁判にかけられ死刑になった。ロンメルは,北アフリカの戦いで元帥に昇進したが,やはりヒトラー暗殺未遂事件への関与を疑われ,自決を強要された。
写真(右)1939年9月,ポーランド,ドイツ空軍ユンカースJu-52タンテ輸送機:Ju-52輸送機諸元
全長18.9ートル,全幅29.2メートル,翼面積110平方メートル
重量10500キロ,エンジンBMW132空冷650馬力3基
最高速度275キロ,航続距離1300キロ
乗員3名,兵員18人搭載。 1940年5月10日、オランダに空挺作戦を展開するためにドイツ降下猟兵を空輸したユンカースJu-52輸送機:Ju-52輸送機を使った空挺部隊の降下作戦は、ノルウェー侵攻、ベルギー・オランダ侵攻、クレタ島侵攻で大々的に実施された。 Polen, Reichsgebiet, Ostpreußen.- deutscher Feldflugplatz mit Transportflugzeugen Junkers Ju 52; PK Lw 1 Polen
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1938年,ドイツ空軍は250機のJu 52を配備していたが、ルフトハンザ航空からの移譲も含めて第二次大戦開戦時の1939年9月には、552機のJu 52を配備していた。1939年から1944年にかけて, Ju 52は2.804機もがドイツ空軍に納品された。
Ju-52輸送機の生産機数1939年: 145機; 1940年: 388機; 1941年: 502機; 1942年:503機; 1943年:887機; 1944年:379機である。1944年夏段階で、ドイツ空軍には稼働可能なJu-52輸送機100機から200機があった。
写真(右)1939年9月-10月,ポーランド侵攻を地図上で指図するドイツ空軍最高司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:たくさんの兵士が略帽を被ったゲーリング司令官の周囲にいるが、最高司令官に注目していないかのように見える。1893年、ドイツ外交官の息子としてバイエルン州に生まれ、1905年に幼年士官学校に入学、第一次大戦では、陸軍少尉として参戦したが、直ぐに陸軍航空隊に入隊し、1915年9月から戦闘機パイロットとして活躍する。1918年6月、最高勲章プール・ル・メリット勲章を授与され、リヒトホーフェン大隊の指揮官に任命された。この時の部下ウーデットを、後にドイツ空軍航空技術部長に任命している。1922年にナチ党に入党して、1923年のミュンヘン一揆では突撃隊を率いて参加し、負傷し、亡命した。1928年の国会総選挙でナチ党候補者として当選し、1932年8月には国会議長に選出された。1933年1月30日のヒトラー政権では、無任所大臣、プロイセン州内相(後に州首相)となり、ドイツの大半の警察を手中に収めた。1933年5月より航空相、1935年3月、再軍備宣言後に空軍総司令官に就任した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-S55726
Original title: info ADN-Zentralbild/Archiv
II. Weltkrieg 1939-45
Generalfeldmarschall Hermann Göring am Kartentisch während der faschistischen deutschen Invasion in Polen 1939.
302-40
(Aufnahme: Robert Kropp, Scherl )
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Kropp
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild183-S55726引用(他引用不許可)。
1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置。
写真(右):1944年9月13日,ポーランド、ワルシャワ、破壊されたヴィスワ川のポーランド初の鉄橋: Postcard Showing Destruction of the Bridge over the Vistula River in Warsaw
Description:Photo postcard showing German destruction of the bridge over the Vistula River. This had been the first steel bridge built in Warsaw, Poland. Caption reads, "Warszawa Most Kierbedzia."
Date(s)
September 13, 1944 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2229 3 x 4 inches , Black & White 引用。
ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊(アインザッツグルッペ)
のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。
写真(右)1939年9月24日,破壊されたポーランド軍のPZL-11戦闘機飛行場の後方にはドイツ空軍ハインケルHe-111爆撃機が2機見える。Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-S55726
Original title: info ADN-Zentralbild/Archiv
II. Weltkrieg 1939-45
Generalfeldmarschall Hermann Göring am Kartentisch während der faschistischen deutschen Invasion in Polen 1939.
302-40
(Aufnahme: Robert Kropp, Scherl )
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Kropp
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-E11027引用(他引用不許可)。
ポーランドの主力戦闘機は,パラソル翼のPZL-11戦闘機で,全幅10.7メートル,全長7.6メートル,全備重量1650キロ, マーキュリーエンジン630馬力,最高速度375キロ,航続距離550キロ,兵装7.92 mm機銃2丁だった。
1939年9月21日,開戦から3週間,SS保安警察長官ハイドリヒは,ドイツ陸軍総司令部(OKH)の了解を得て,ポーランド・ユダヤ人の強制移送を,アインザッツグルッペ(特別行動部隊)に指示。これが,後のゲットーへのユダヤ人囲いこみに繋がる。
ポーランド各地のゲットーには,ユダヤ人居住区のゲットーが作られ,狭い区画の中にユダヤ人は隔離され,囲い込まれ,ゲットーの外にでることはできなかった。
写真(右)1939年9月,ポーランドを低空で空襲中のドイツ空軍ハインケルHe-111爆撃機の機首からの眺め:7.92ミリMG-17機銃を構える爆撃手の眼下には,道路上に行列をなす自動車,馬車の行列が見えるが,これが襲撃目標なのであろう。 ハインケルHe-111爆撃機:全長16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル,全備重量 1.4トン,Jumo211F液冷エンジン(1200馬力)2基,最大速度 440キロ,航続距離 2800キロ,武装 7.92ミリMG15機関銃5丁 爆弾2トン。 Feldzug in Polen. Jagd auf polnische Kolonnen. Blick aus der Bugkanzel eines Kampfflugzeuges über den Beobachter am MG hinweg auf die mit Kolonnen vollgestopfte Straße.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter Stempka
11576-39 "Fr" OKW Sept. 39
Archive title: Polen.- Blick aus der Bugkanzel eines Flugzeugs Heinkel He 111, Bordschütze an Maschinengewehr
Dating: September 1939
Photographer: Stempka撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-B27833引用(他引用不許可)。
カプラン,ハイムの9月4日の『ワルシャワ・ゲットー日記』に次の記述がある。「今日半日は平穏に過ぎた。しかし,あとの半日は,かつてなような空襲を経験した。敵の投下する爆弾は,われわれの耳をつんざき,われわれの頭上で炸裂したかと思われることさえあった。女たちは失神に,臆病者を隠れ,小さな子供たちは泣き叫ぶ。多くの場合,公式報道がこうした空襲の実情を知らせることはない。」
写真(右)1939年9月,ポーランド空襲に出撃したドイツ空軍ユンカースJu-87(Junkers 87)急降下爆撃機スツーカ:ドイツ空軍のポーランド侵攻主力兵力は、アルバート・ケッセリング元帥の第一航空軍,アレクサンデル・レール第四航空軍の合計1302機だった。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-320-0946-32A
Archive title: Polen.- Kampfflugzeug Junkers 87 in der Luft; LwPK 1
Dating: September 1939
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ポーランド侵攻に参加したドイツ空軍アルベルト・ケッセリング元帥の第一航空軍,アレクサンデル・レール第四航空軍は,合計1302機を保有、空軍総司令部直轄機(輸送機,偵察機など)133機があった。ドイツ陸軍の直轄企図しても、偵察機,連絡機など288機があった。ドイツ本土防空部隊には,216機があった。したがって,ドイツ軍の航空兵力は,総計1929機をポーランド戦に投入したことになる。これは当時のドイツ空軍兵力の三分の二に相当し、主力爆撃機はドルニエDo-17とユンカースJu87だった。
対するポーランドの航空兵力は,自国設計・国内生産の機体も含めて、第一線機900機(爆撃機150機,戦闘機315機,偵察機325機,海軍機50機など)だった。これは、当時の小国としては、強力な空軍力であり、イギリス、フランスは、士気の低いソ連軍よりも、勇敢なポーランド軍の方を同盟相手として選ぶことになった。イギリスもフランスもポーランドの独立を保証する順守協定を結び、これを破ってポーランドに侵攻したドイツに対して最後通牒を告げ、宣戦布告をしたのである。
写真(右)1939年9月,ポーランド,東部戦線に配備された二枚プロペラのメッサーシュミットBf-109B戦闘機:搭載予定のダイムラーベンツDB-601エンジンが完成せず,ユンカースJumo211エンジンを搭載。 Bf-109は,1937年のスペイン内乱において,ドイツのコンドル軍団に配備,派遣された。二機編隊ロッテを2組合わせた四機編隊シュワルムによる集団一撃離脱戦術を生み出した。第二次欧州世界大戦にBf109DあるいはE型に改良された。航続距離が短いことや主脚幅が狭くエンジンが強力なために,未舗装滑走路における地上安定性は良くなかった。 Im Osten, Polen.- Flugzeuge Messerschmitt Me 109 B auf Feldflugplatz; KBK Lw4
Dating: September 1939
Photographer: Rübelt撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-379-0015-18引用(他引用不許可)。
ドイツ軍に対するポーランドの航空兵力は,第一線機900機(爆撃機150機,戦闘機315機,偵察機325機,海軍機50機など)だった。
ポーランド軍機は,果敢に攻撃をかけてきたが,ドイツ軍に撃退された。部品,燃料に不足をきたし,稼動機数は急速に低下した。
写真(右):1940年夏,フランス,爆弾を投下するドイツ空軍ドルニエDo-17Z爆撃機:ポーランド侵攻時のドイツ軍の主力双発爆撃機で,細長い胴体から「空飛ぶ鉛筆」と呼ばれた。ワルシャワ空襲から英本土空襲まで活躍したが、対ソ戦「バルバロッサ作戦」の時期は退役していた。 ドルニエDo-17Z爆撃機:
全幅18メートル,全長16.25メートル,全備重量7650キロ,ブラモ323エンジン1000馬力2基,最高速度427キロ,航続距離1160キロ,武装7.92ミリ機銃4丁,爆弾1トン,乗員4人,1937-1940年に1100機生産。 &Frankreich.- Bomber Dornier Do 17 Z im Flug beim Bombenabwurf; Luftwaffe (Lw) 3 "Polen" und Kriegsberichter Kompanie (KBK) Luftwaffe (Lw) 3
Dating: 1940 Sommer
Photographer: Spieth撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ軍は、ビラを空中散布するなどしてポーランドに降伏勧告をした。しかし、果敢な抵抗を続けるポーランドは、黙殺した。 降伏の機会を黙殺したポーランドに対して,ドイツ軍は,1939年9月25日、ワルシャワを大空襲した。これは,爆撃機400機を配備した3-4回の反復爆撃で通常爆弾560トン,焼夷弾72トンを投下した。9月27日,ポーランドは降伏した。
写真(右):1939年9月,ポーランドワルシャワ空襲:ポーランドに降伏勧告をして拒否されたドイツ軍は,9月25日にワルシャワを,爆撃機400機によって空襲、通常爆弾560トン,焼夷弾72トンを投下した。二日後日,ポーランドは降伏した。 ドイツでは、ワルシャワ爆撃の目標は、ワルシャワの軍事施設であって、一般市民を対象としたテロ爆撃ではないとも主張される。しかし、当時の水平爆撃の技術では、目標に爆弾を命中させることは困難であった。 Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939.
UBz: Flugzeugaufnahme des brennenden Warschaus, das am 27. September 1939 kapitulieren mußte.
3250-40
Dating: September 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-S56603引用(他引用不許可)。
ドイツ空軍によるワルシャワ爆撃は、ワルシャワの軍事施設を目標としており、無差別爆撃ではないと主張される。
しかし、当時の水平爆撃の技術では、目標に爆弾を命中させることは困難であった。この低い命中率を前提に、命中しないで目標をそれて着弾した爆弾が、敵に被害を与えるように爆撃あ計画された。目標付近に、民間施設や一般市民がいて、空襲で被害を受けることを当然のように考えていた。これが軍と民間市民を区別しない「無差別」爆撃である。
写真(右)1939年9月-10月,破壊された鉄橋上に立ち往生するポーランドの蒸気機関車:ポーランド・ユダヤ人は,ゲットーに閉じ込められ迫害されたが,鉄骨の橋桁が破損し折れ曲がっており、列車は脱線して動けず、破損している。 Inventory: B 206 Bild - Bundesn-achrichtendienst.- Bildbestand
Signature: B 206 Bild-GD-54
Archive title: Polen.- Zerstörter / beschädigter Eisenbahnzug der polnischen Staatsbahn PKP auf eingestürzter Brücke mit wartenden Soldaten; ca. September/Oktober 1939
Dating: 1939 September - Oktober
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・B206Bild-GD-54引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月-10月,ウッジ近郊ウォヴィチ、破壊されドイツ軍に鹵獲されたポーランド軍装甲列車:前方には、石炭車と蒸気機関車が見える。装甲列車は、75ミリあるいは105ミリ級の野砲を4門搭載し、機関銃砲塔も2基備えている。 Inventory: B 206 Bild - Bundesn-achrichtendienst.- Bildbestand
Signature: B 206 Bild-GD-52
Archive title: Polen, bei Łowicz.- Beschädigter, von deutschen Truppen erbeuteter polnischer Panzerzug Nr. 11 "Danuta"
Dating: September 1939
Dating: 1939 September - Oktober
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月-10月,馬車で牽引して行進するドイツ陸軍野砲213連隊:牽引している砲車は、75ミリあるいは105ミリ級の野砲と思われる。手前では、ポーランド人か、牛の牧畜をしている。 Inventory: B 206 Bild - Bundesn-achrichtendienst.- Bildbestand
Signature: B 206 Bild-GD-05
Archive title: Polen, bei Biernaktie.- Artillerie-Regiment 213 auf dem Marsch mit bespannten Einheiten auf einer Landstraße
Dating: September 1939
Dating: 1939 September - Oktober
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月-10月,仮設架橋を渡河行進するドイツ軍歩兵部隊:歩兵は、モーゼル小銃を肩にかけているが、見る限り機械化されてはいない。 Inventory: B 206 Bild - Bundesn-achrichtendienst.- Bildbestand
Signature: B 206 Bild-GD-04
Archive title: Polen.- Deutsche Soldaten beim Überqueren einer Holzbrücke über einen Fluß
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月-10月,ポーランド侵攻に参加したドイツ軍将兵:写真の範囲には、戦禍は及んでおらず、右奥と左奥には地元のポーランド市民の男女が写っている。右手前は、車輛の後方に折りたたまれた幌である。 Inventory: B 206 Bild - Bundesn-achrichtendienst.- Bildbestand
Signature: B 206 Bild-GD-03
Archive title: Polen.- Deutsche Soldaten und Offiziere auf einem Platz
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻作戦時,ボーセンにおけるドイツ軍将兵とヒトラーユーゲントが同胞の葬儀でナチス式敬礼をしている。:ナチス親衛隊は,ポーランドの反ドイツ活動の弾圧、パルチザン容疑者の逮捕・排除を実行したが、ポーランド占領時期には大きな反抗は1943年のワルシャワゲットー蜂起迄怒らなかった。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-121-0006-07
Archive title: Polen.- Polenfeldzug. Soldatenfriedhof, Soldaten und ein Hitlerjunge salutierend an den Gräbern stehend; PK 689
Dating: September 1939
Photographer: Schwahn, Ernst
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年10月20日,ポーランド,ボーセンにおけるナチス親衛隊SS特別機動部隊によるポーランド人銃殺:ナチス親衛隊は,ポーランドの反ドイツ活動を弾圧しようと,パルチザン容疑者を即決銃殺した。 Exekution von polnischen Geiseln durch SS-Einsatzgruppe am 20.10.1939 in Kóruik/Kursnik (1939-45: Burgstadt), Krs. Schrimm?, Reichsgau Posen/Wartheland
Dating: 20. Oktober 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆1939年9月1日,第二次大戦の勃発後,ドイツ占領下ポーランドでは,すぐにドイツ人によるユダヤ人迫害が始まった。ユダヤ人は,髭をそられたり,着ていた衣類を雑巾代わり清掃作業をさせられたりした。
1941年6月22日,ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦でも,ドイツ占領下のソ連では,ユダヤ人が処理されたり,追放されたりした。
ポーランドでも,ソ連でも,ドイツ親衛隊,警察,国防軍とともに,現地ポーランド,バルト諸国,ウクライナの警察・住の一部は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。
写真(右)1940-41年,親衛隊SS国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich:1904年-1942年6月暗殺) :1939年,ハイドリヒ長官は,ポーランド侵攻に投入する5個のアインザッツグルッペ(特別行動部隊)を編成した。アインザッツグルッペ(特別行動部隊)は120-150人の中隊規模で,指揮官は,尉官ではなく,高位の少将から中佐が充てられた。 Porträt Reinhard Heydrich in der Uniform eines SS-Gruppenführers ca. 1940/1941
Dating: 1940/1941 ca.
Photographer: Hoffmann, Heinrich撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入。親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,「戦闘部隊の後方にあって,反ドイツ,反ゲルマン分子を排除し,特に政治的不審人物の逮捕,武器の押収,機密資料の収集・保全などの防諜活動を行う」としていた。 しかし,アインザッツグルッペの実際の任務は,ポーランドのインテリ,行政官,宗教関係者の抹殺だった。治安維持,ユダヤ人虐殺を担当したのである。
ドイツ軍は戦車を基幹とする装甲師団を編成,それと地上支援空軍を連携させた攻撃によって,ポーランドに侵攻した。これが,電撃戦(Blitzkrieg)であり,ポーランド軍は,果敢に抵抗したが,壊滅的打撃を被った。
ポーランド侵攻のとき,ドイツは,保安警察特務部隊を投入し,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害した。
◆1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害。親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。
写真(右)1941年,ポーランド,破壊されたワルシャワの後片付け作業:1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻で破壊された都市では,住民が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻中にゲットーにユダヤ人を閉じ込める命令が出ていた。ポーランドでは破壊された都市復旧に,ユダヤ人が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。この時,労役に従事したユダヤ人を登録し,以後,家族を含めて,労役を課さないと宣伝したようだ。ユダヤ人には,労役をこなして,家族の身を保障しようとしたが,これはユダヤ人を把握して,ゲットーに移送するための姦計だった。労役させた後に,登録したユダヤ人をゲットーに強制移送した。 Polen, Warschau.- Beseitigung von Trümmern, Aufräumungsarbeiten, Beladen eines Wagens mit Ziegeln; PK 689
Dating: 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-131-0596-24引用(他引用不許可)。
カプラン,ハイム(2007)『ワルシャワ・ゲットー日記―ユダヤ人教師の記録』風行社
には,開戦当日,次のように記されている。
「1939年9月1日の朝,ポーランドとドイツの間に,間接的に言えば英仏とドイツの間に戦争が勃発した。今回は英仏は同盟を守り,チェコスロバキアのようにポーランドを裏切ることはないだろう。しかし,ポーランドと同盟国の共同戦線は存在せず,ポーランドだけが戦争の辛苦に耐えなくてはならない。
我々は世界史に於ける新時代の幕開けを目撃している。実際,この戦争は人類の文明を破壊するだろう。しかし,それは破壊されるべき文明である。ヒトラー率いるナチスが,最終的に打ち倒されることは疑いない。ドイツの野蛮人が人類から簒奪しようとしている自由のために,最後には多くの文明国が立ち上がるだろうから。」
「ヒトラーは,ある演説で戦争が始まればヨーロッパのユダヤ人を絶滅する,と脅した。ユダヤ人は,いつかは解放されるにせよ,ヒトラーの占領地では,自分たちに何が待ち構えているかを感じ取っている。それゆえ,ユダヤ人が身をもって祖国ポーランドに献身しようとするのは,驚くべきことではない。空襲から身を守るために,市民は防空壕を掘るようにとの命令が出たときに,大勢のユダヤ人が参加した。」
写真(右)1939年9月5日,牽引車上のドイツ国防軍兵士を歓迎するポーランド在住の民族ドイツ人:ポーランド・ユダヤ人は,ゲットーに閉じ込められ迫害されたが,民族ドイツ人はアーリア人支配民族として厚遇された。ドイツ敗戦後,ポーランドなど東欧の民族ドイツ人は,ドイツに追放された。 Freudig bewegt begrüssen die Dirschauer [Tszew] die deutschen Soldaten.
Scherl Bilderdienst-Hoffmann
5.9.39 [Herausgabedatum]
"Fr" OKW
Archive title: Polen, Dirschau (Landkreis Tczew).- Frauen und Kinder vor einem mit Blumen geschmückten Zugkraftwagen beim Händeschütteln mit deutschen Soldaten
Dating: September 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild146-1979-050-21A引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月5日,牽引車のドイツ国防軍兵士が刑務所・収容所に拘束されていたポーランド在中の民族ドイツ人の女性たちを解放している。:鉄条網で囲われた内側に、木製の小屋が並んでいるが、それが収容施設と思われる。 Inventory: Bild 121 - Sammlung Adolf von Bomhard
Signature: Bild 121-0326
Old signature: Bild 146II-794
Original title: info Am Gefängnistor
Archive title: Zivilsten (Frauen) am Gefängnistor; Versorgung der Gefangenen (?); Internierungslager (!)
Dating: 1939/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-E10495引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年,ポーランド、ボズナン、ポーランド政府に対抗する防衛団はドイツのポーランド占領後も組織を拡大し民族浄化のための活動に投入された。武装組織で銃器の扱いを学ぶポーランド在住の民族ドイツ人:ポーランド・ドイツ人は,ドイツへの併合をポーランドに要求し、反政府活動を活発化させたために、ポーランド政府は彼らを弾圧した。それに対抗するために、ポーランドの民族ドイツ人は、武装組織を編成し、銃器を装備するようになった。これは、本国ドイツの援助を受けた武装闘争となった。しかし、ドイツ敗戦後,ポーランドの民族ドイツ人は,全て追放された。 Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-E11861
Original title: info Zentralbild
II: Weltkrieg 1939-1945
Nach der Eroberung Polens durch die faschistische deutsche Wehrmacht im September 1939.
UBz.: Mitglieder des "Volksdeutschen" Selbstschutzes in Poznan (Posen) werden von deutscher Polizei ausgebildet, um als Hilfspolizei eingesetzt zu werden.
12659-39
Dating: 1939
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild183-E11861引用(他引用不許可)。
ドイツは,ポーランドに住む民族ドイツ人にポーランド政府への犯行、武力闘争を示唆していたし、親衛隊をポーランドに潜入させ騒擾を引き起こしたり、煽ったりしていた。それに対抗して、ポーランド政府は、国内の民族ドイツ人を危険分子、反政府分子と見なして、逮捕したり、行動を束縛したりした。このような対立が、ポーランド国内の民族紛争を掻き立てたが、それこそヒトラーや親衛隊が企図していたことだった。
写真(右)1939年9月16日,ポーランド、ポズナン、ドイツ陸軍オートバイ部隊の兵士を歓迎するポーランド在中の民族ドイツ人の女性たち:ナチス式敬礼をして、市内を進むドイツ軍を送っている。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-2009-0406-500
Original title: info In dichten Scharen säumten die Deutschen Posens die Strassen, um den einziehenden deutschen Truppen, den Befreiern von langer Leidenszeit, begeistert zuzujubeln.
PK-Fremke-(Scherl) 16.9.1939 [Herausgabedatum]
39-14741
Archive title: Polenfeldzug.- Polen, Posen (Poznań).- Deutsche Soldaten auf Motorrädern bei Fahrt durch die Stadt, Bevölkerung am Straßenrand mit Hitlergruß grüß
end.
Dating: September 1939
Photographer: Fremke, Heinz
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
第二次大戦中でドイツ軍は走破性に優れた連絡用・偵察用の軍用自動車を配備してが、これにはBMW R75、ツュンダップKS750のようなエンジン排気量750?クラスの大型オートバイがある。ツュンダップ社KS750は排気量750cc、サイドカーを連結して運用されることも可能なように開発された。KS750は、ドラ イブシャフトの後輪駆、デフロック機構を備え、BMWの大型オートバイとギヤケース、ドライブシャフトの部品は共用だったので、生産性や整備の上で優れていた。側車(サイドカー)は、BW40、BW43の2種で、BW40は側車のサスペンションにトーションバーを、BW43はリーフスプリングが採用されている。KS750は1940年から生産が始まり、総計1万8000台が量産された。
写真(右)1939年9月5日,牽引車のドイツ国防軍兵士を歓迎するポーランド在中の民族ドイツ人の女性たち:牧場なのか金網フェンス越しに、自宅で作った食料を配っているようだ。フェンス内側まで、PK(宣伝)要員が回り込んで撮影した演出が感じられる。ユダヤ人は,ゲットーに閉じ込められ迫害されたが,民族ドイツ人はアーリア人支配民族として厚遇された。ドイツ敗戦後,ポーランドなど東欧の民族ドイツ人は,ドイツに追放された。 Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-1979-050-21A
Original title: info Ein Tag, der ihnen unvergesslich bleiben wird.
Seit dem frühen Morgen, als sich da Gerbegrücht vom Herannahen deutscher Truppen verbreitet, warteten die deutschen Frauen und Mädchen jenseits der Grenze mit Broten, Obst und Getränken auf ihre Befreier. Nach dem harten Kampf und einem langen Nachtmarsch sind die Besatzungen der Tankwagen diese Erfrischungen doppelt willkommen.
2.9.39 [Herausgabedatum]
Dating: September 1939 Anfang
Photographer: o.Ang.
Agency: Weltbild
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』1939年9月2日: 「ポーランド=ドイツ戦争の第一日目。これは,最終的に世界戦争,諸国民間の大殺戮へと発展するだろう。英国はドイツへの戦線布告を急ごうとはせず,フランスも同様だ。しかし,二つの同盟国が同時に宣戦布告することは疑いない。今回は,両国ともわれわれを裏切ることはないだろう。------英仏が加わったときから戦争は局地戦ではなくなる。-----
今日,ワルシャワには四回の空襲があった。住民はすでに空襲に慣れ,どうしたらよいのかもわかっている。全く新たな時代が訪れたのだ。我々は,そのようなこのような時代が来るのを恐れ,不安な気持ちでそれを迎えた。-----われわれの神経は一時も休まることがない。
ほとんど一日中空襲がある。しかし,それがどのような被害をもたらしたのかは分からない。なぜなら,公式報道は簡単で短く,その裏に多くのことを隠しているからである。戦時にはよくあることだが,両陣営とも勝利を宣言し,敗北を隠蔽する。しかし,どうしてポーランドの敗北がこのように大きいのか。その理由は明らかだ。敵の残忍な軍隊は,頭の先からつま先まで完全武装し,ポーランドと退治しているのに対して,同盟国から時折やってくる援助は間接的なものに過ぎないからである。-----
実際,ポーランド一国と対峙している限り,ヒトラーはムッソリーニの軍事援助など必要ない。しかし,独裁者どもは誤りを犯した。この二人は,ロシアの熊を恐れるのと同様,国際戦争になるのを恐れている。」
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』1939年9月4日:
「我々は次第に戦時を生活の場と感じ始めている。普通の生活は終わり,世界は混沌と化した。郵便物は届かず,許可なしで旅行もできない。また,銀行は預金のごく一部しか払い戻しをせず,生活費を得るすべはない。食料品店と薬局を除いて,すべての店は閉ざされ,食糧販売店と薬局には客が押し寄せる。-----
我々は,その(公式報道)の行間を読むことにより,我が軍が重要な都市を放棄しつつ,徐々に退却していることを知る。」
写真(上):1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワに入城したドイツ軍の宣撫班の車両と集まってきたポーランド人:国民啓蒙宣伝省あるいはドイツ軍によるポーランド占領後の宣撫工作。ワルシャワに自動車で乗りつけ,物資を配っている。同じ場面の宣伝写真が,ドイツ連邦アーカイブに10枚ほど保管されている。 Polen, Warschau.- Verteilung von Propagandamaterial. Auto mit deutschen Soldaten umringt von Bewohnern; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rieger, Alfons
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ポーランド占領当初,民族ドイツ人と並んで,ポーランド人も「アーリア人」扱いされたが,これはユダヤ人との対立を生じさせるためだった。ワルシャワには,「救援物資」を無償配布するドイツ軍の宣伝部隊が派遣された。宣伝用プロパガンダ写真をみると,これを取り巻く多数のポーランド人は,ドイツ軍兵士を恐れ,憎むどころか,救護者として,慕っているようにも見えてくる。
アンチ・セミティズム(Antisemitismus:反ユダヤ主義) ワルシャワは,戦禍をこうむったが,ユダヤ人が強制的に動員され,戦禍の後片付けを命令された。また,ワルシャワは,アーリア人居住区とユダヤ人居住区とに分割され,後者がゲットーとなった,ユダヤ人居住区は,貧しい地域が割り当てられた。中心街に住んでいた富裕なユダヤ人も,貧しい地区に強制移住させられた。ただし,初期のゲットーは,開放的で,閉鎖された地区ではなかった。
写真(右)1939年9月-10月,ワルシャワ,ドイツ軍の宣伝部隊の救援物資配給:ワルシャワのポーランド人に,無償で食糧などを提供している様子。治安対策を兼ねた情報戦に使用する写真,動画を撮影している最中で,同一の配給用自動車とドイツ兵士の多数の写真が残されている。民族ドイツ人と並んで,ポーランド人も「アーリア人」扱いされたが,これはユダヤ人との対立を生じさせるためだった。ワルシャワも,アーリア人居住区とユダヤ人居住区とに分割され,それがゲットーとなった。初期のゲットーは,開放的で,閉鎖された地区ではなかった。支配民族として厚遇された民族ドイツ人は,1945年5月のドイツ敗戦後,ポーランドなど東欧からドイツに追放された。 Polen, Warschau.- Verteilung von Propagandamaterial. Auto mit deutschen Soldaten umringt von Bewohnern; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rieger, Alfons撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-001-0256-03引用(他引用不許可)。
ユダヤ人居住区が,当初開放的だったのは,移住するユダヤ人たちが反乱を起こしたり,逃亡したりさせないようにするための姦計である。完全に隔離されるとしれれば,ユダヤ人を平穏にゲットーに囲い込むことはできなかったであろう。計算され組織だったユダヤ人迫害が,ゲットー設置である。
ドイツは,保安警察特務部隊を投入し,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害した。
英仏は対独攻勢をかけず、ポーランドを見殺しにした。その後,フランスに勝利した1940年には,仏領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討されたほどだった。
写真(右)1939年9月21日,ブレスト近くでドイツ軍に捕まったポーランド・ユダヤ人女性兵士として反ユダヤ主義(アンチ・セミティズム)を煽ったプロパガンダ写真:オリジナルの解説には「彼女は,ポーランド軍兵士の服を着ているが,破壊工作員,テロリストであり,逃亡しようとしていた。」として,卑怯なテロリストとみなしている。
ユダヤ人女性テロリストを捕虜として,ユダヤ人がドイツを卑怯な手段で破壊しようとしている証拠となったと考えたようだ。ポーランドから見れば,愛国女性兵といえるが,ナチスから見ればユダヤ人テロリストとされてしまう。 Jüdisches Flintenweib als Anführerin gemeiner Mordbanditen.
Von den deutschen Truppen wurde in der Nähe von Brest-Litowsk diese Warschauer Gettojüdin namens Bajla Gelblung aufgegriffen. Sie versuchte, in der Uniform eines polnischen Soldaten zu flüchten und wurde als Anführerin einer der grausamsten Mordbanden wiedererkannt. Trotz ihrer echt jüdischen Frechheit gelang es ihr nicht, die Taten abzuleugnen.
21.9.1939 [Herausgabedatum]
Es ist zu nennen: PK-Boesig-Weltbild
Fr OKW
[Vgl. Bild 101I-121-0010-24]
Dating: September 1939
Photographer: Boesig, Heinz撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1974-057-51引用(他引用不許可)。
1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害。親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。
3.民族浄化:ポーランドでの姦計を用いたユダヤ人登録
ヒトラーや親衛隊は、民族ドイツ人の窮状を救うという人道的な目的を掲げて、ポーランドに難題を押し付けて、それが入れられない、交渉が破綻する状況を自ら作り出した。そのうえで、ポーランドの破壊分子がドイツを攻撃している、民族ドイツ人を虐殺しているとの名目を押し立てて、ポーランドに侵攻した。そして、占領地における民族浄化(異民族排除)、すなわちドイツ人、現地の民族ドイツ人の生存圏を確立するために、ポーランド人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ユダヤ人などを追放、殺害するなどして排除した。
写真(右)1939年,ポーランド東部、ガリチア、ナレフ(Narew)に移住して 家屋を新築・補修する民族ドイツ:生存圏拡大のためにナチ党・親衛隊の支援を受けて、ポーランド人、ウクライナ人、ベラルーシ人を追放して、ドイツ系民族を移住、植民させた。
Inventory: R 49 Bild - Reichskommissar für die Festigung deutschen Volkstums.- Bildbestand
Signature: R 49 Bild-0700
Old signature: Bild 110
Original title: info Galizien, Narew
Alte Heimat/Bei der Arbeit. Beim Hanfbrecheln in Baukental.
Dating: 1939 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ポーランドを占領したドイツ人は,ポーランド人やウクライナ人を排除した後、そこに植民するように派遣された。戦争前、ポーランドの人口の約3分の1が国家や宗教の少数派のウクライナ人、ユダヤ人、ベラルーシ人、民族ドイツ人だったが、ドイツによるポーランド占領によって、民族ドイツ人の生存圏を拡張し、他の民族を排除したのである。しかし、ドイツ敗戦後,ポ民族ドイツ人は,戦前ら現地に住み続けていた者も、移住したものも、皆追放された。その数は1400万人に達するとい。
ドイツ占領下のポーランドでは、民族ドイツ人はアーリア人支配民族として厚遇されたが、ドイツ敗戦後,ポーランドなど東欧の民族ドイツ人は,所在地から追放され、ドイツに脱出することを余儀なくさたのである。
写真(右)1939年-1941年,ポーランド西部、ヴァルタラントに住んでいたベラルーシ人・ウクライナ人などはベッサラビアに追放された。これは、ドイツに隣接するヴァルタラントを民族ドイツ人の生存圏とするための民族浄化政策である。: Inventory: R 49 Bild - Reichskommissar die Festigung deutschen Volkstums.- Bildbestand
R 49 Bild - Reichskommissar für die Festigung deutschen Volkstums.- Bildbestand
Signature: R 49 Bild-1572
Old signature: Bild 110
Original title: info Wartheland. Bessarabien. Neue Heimat/Fahrt zum neuen Dorf. Ankunft der ersten Bessarabiendeutschen auf dem Bahnhof in Kosten
Dating: 1939/1941 ca.
Photographer: Holtfreter, Wilhelm
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年11月,ポーランド,ルブリン、配給所在登録の名目で事務所に集められたと思われるポーランド・ユダヤ人男性:
Inventory: Bild 121 - Sammlung Adolf von Bomhard
Signature: Bild 121-0318
Old signature: Bild 146-1989-071-06, Bild 146-2000-026,13
Original title: info Polnische Juden Gefängnis Lublin, November 1939
Archive title: Polen, Lubin.- Verhaftete polnische Männer (Juden) im Gefängnis
Dating: November 1939
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild121-0318引用(他引用不許可)。
ドイツは、ポーランドを占領すると、戦時配給の為と称して、ユダヤ人の登録を実施したが、これは後にユダヤ人を一網打尽にするための布石だった。登録には、既にあったユダヤ人の自治組織、ユダヤ評議会に協力させた。第二次大戦初期の時点で、反ドイツ武力活動やゲリラ戦に加われば処刑されると感じていたポーランド人やユダヤ人は多かったが、ただのユダヤ人一般市民が迫害される、殺害されるとは考えていなかった。
写真(右)1939年9月,ポーランド,ゴーテンハーフェン(Gotenhafen:現在のグダニヤ: Gdynia)のサッカー場に集合させられた
追放対象となったとみられるポーランド人男性:
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-1985-0404-501
Original title: info Scherl: Poln. Gefangene nach der Besetzung Gdingens.
ADN-ZB/Archiv/ II. Weltkrieg 1939-1945 Überfall des faschistischen Deutschlands auf Polen am 1. 9. 1939: Sammelplatz für polnische Männer, die in Gdingen in Gefangenschaft der deutschen Okkupanten geraten sind.
(Aufn.: September 1939 / Sönnke)
Archive title: Polen, Gdingen (Gotenhafen, heute: Gdynia).- Gefangene polnische Männer unter Bewachung durch deutsche Soldaten auf einem Fußballplatz
Dating: September 1939
Photographer: Sönnke, Hans
Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild183-1985-0404-501引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ポーランド,ゴーテンハーフェン(Gotenhafen:現在のグダニヤ: Gdynia)、サッカー場(?)に集合させられた追放対象となったとみられるポーランド人男性:
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-1994-060-10A
Original title: info Gdingen in deutscher Hand. Am 14.9.39 wurde die polnische Hafenstadt Gdingen von deutschen Truppen besetzt.
U.B.z.: Polnische Gefangene nach der Besetzung Gdingens.
15.9.39 [Herausgabedatum] Ag.-Sche [Scherl?]
"Fr. OKW"
Archive title: Polen, Gdingens (Gdynia).- Gefangene / verhaftete polnische Männer (Zivilisten)
Dating: September 1939
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl; Weltbild, Berlin
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1939年9月の第二次大戦勃発時には,ドイツ占領下のユダヤ人に対して,ユダヤの星を着けるようにとの命令は出ていない。ユダヤの星は,占領地では1940年から,ドイツでは1941年9月1日から着用することになった。ナチスドイツは,ポーランド占領後、ユダヤ人居住区に住むことを強要した。
写真(右)1939年-1940年,ポーランドからドイツに勤労奉仕に送られたとみられるポーランド人女性:持ち出すことのできる荷物はトランク一つまでと決められているようだ。
Inventory: Bild 121 - Sammlung Adolf von Bomhard
Signature: Bild 121-0338
Old signature: Bild 146-2000-026-29
Original title: info Polnische Landarbeiter auf dem Wege nach Deutschland (Freiwillige)
Archive title: Polen.- Polnische Landarbeiter mit Gepäck auf dem Wege nach Deutschland zum Arbeitseinsatz (Zwangsarbeit?)
Dating: 1939/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild121-0338引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年-1940年,ポーランドからドイツに勤労奉仕に送られたとみられるポーランド人男性:
Inventory: Bild 121 - Sammlung Adolf von Bomhard
Signature: Bild 121-0340
Old signature: Bild 146-2000-026-31
Original title: info Polnische Landarbeiter auf dem Wege nach Deutschland (Freiwillige)
Archive title: Polen.- Polnische Landarbeiter mit Gepäck auf dem Wege nach Deutschland zum Arbeitseinsatz (Zwangsarbeit?)
Dating: 1939/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild121-0340引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年-1940年,ポーランドからドイツに勤労奉仕に送られたとみられるポーランド人男性:
Inventory: Bild 121 - Sammlung Adolf von Bomhard
Signature: Bild 121-0345
Old signature: Bild 146-2000-026-36
Original title: info Polnische Landarbeiter auf dem Weg nach Deutschland (Freiwillig)
Archive title: Polen.- Polnische Landarbeiter mit Gepäck auf dem Wege nach Deutschland zum Arbeitseinsatz (Zwangsarbeit?)
Dating: 1939/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild121-0345引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ポーランド,農業機械の前のユダヤ人男性:1939年9月の第二次大戦勃発時には,ドイツ占領下のユダヤ人に対して,ユダヤの星を着けるようにとの命令は出ていない。ユダヤの星は,占領地では1940年から,ドイツでは1941年9月1日から着用することになった。 Polen.- Kielce, Jude vor einer Flugabwehrkanone (Flak); PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Klose 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツは、占領国でユダヤ人を囲い込むゲットー(Ghetto)を設置、何万人ものユダヤ人を特定の空間に押し込めた。しかし,これを実施するには,ユダヤ人を特定,拘束するか,ユダヤ人が自らゲットーに集まるように仕向ける必要があった。
ユダヤ人は,ポーランド各地のゲットーの狭い区画の中に隔離,囲い込まれた。ウーチでは,6万2000人のユダヤ人が住んでいた地区がゲットーとされ,近郊から10万人のユダヤ人が押し込まれた。市内交通確保のため,路面電車の通りは柵と鉄条網によって,ゲットーと仕切られた。
ラドム,ヘウムノなどのゲットーは,当初は,ポーランド人の出入りは自由で,ユダヤ人もゲットーの外に出ることが可能だったが,その後,出ることはできなくなった。
写真(右):1939年9月,ポーランド(東プロイセン)に侵攻したドイツ軍の前に整列させられた顎鬚のポーランドの民間人(ユダヤ人?)。Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), alte Mann mit Bart; PK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1940年1月19日までに,ユダヤ人は現金,商品,債券,不動産など財産登録を義務付けられ,2月10日までに,12歳から60歳まで,強制労働の対象として,ユダヤ人評議会に登録しなければならなくなった。このころから,毎日のように,数十人のユダヤ人家族が財産を奪われ,トラックで運びされれた。そして,武器の捜索を口実に,貴金属,宝石,毛布,衣類,家具までもとっラックで運び去られた。
1940年3月に,ユダヤ人評議会がポーランド総督フランク博士に呼ばれ,指定された居住区ゲットーに強制移送される住民が出始めた。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。
1940年5月のフランス軍の大敗北後,ワルシャワの通りを分断する壁が築かれたが,これhドイツの命令で,ユダヤ人評議会が作らされ,街はアーリア人居住区,ユダヤ人居住区に区分され,ユダヤの星をつけるよう命じられたユダヤ人は,事実上,ユダヤ人居住区を出られなくなった。ワルシャワには,正式なゲットーは設置されていないが,実質的なゲットーはできていた。1940年7月30日には,クラコウの全ユダヤ人の追放のニュースが,ワルシャワにも届いてた。
ポーランド降伏から1年後,1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを作る法令が出された。
ワルシャワでは,ゲットー設置命令以降,1940年10月第3・4週だけで,ポーランド人キリスト教徒11万3000人が立退かされ,13万8000人のユダヤ人が流入した。ワルシャワの2.4%の区域のゲットーに,ワルシャワ人口の30%を占めるユダヤ人が押し込められた。その結果,1家族が住んでいたアパートに2-3家族が暮らすことになった。
1940年11月16日,ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーから出ることはできなくなった。
ゲットーGhetto内部の物資は不足し,配給も少なかったために,餓死や病死が増え,1941年には,ワルシャワゲットー人口の10%以上の4万3000人が死亡した。
ゲットー内で生きてゆくには,地下水道やコネをつかって,外界のポーランド人に賄賂を渡し,あるいは外に忍び出て盗みをし闇物資持ち込みをしなければならなかった。闇物資を,ゲットー内で法外な価格で買い入れることのできたユダヤ人は,生きてゆくことができた。しかし,闇物資を入手できなければ,生活は困窮した。
写真(右)1939年9月,ポーランド,東プロイセンのユダヤ人(?)の子供たち:1933年のナチスドイツ成立以降,ユダヤ人は下等劣等人種として差別され,財産・職を奪われ,追放されるようになった。第二次大戦が勃発すると,ドイツが占領した領土のユダヤ人も迫害された。Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), zwei Kinder; PK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-317-0057-13A引用(他引用不許可)。
1941年9月1日,ドイツで,ユダヤの星をつけることについての警察条令が発令:満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。 ユダヤの星は手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左旨に縫い付けること。
しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示したものも少なくなかった。そこで,ユダヤの星着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示したものに対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。
写真(右)1939年9-10月,ワルシャワの通りを埋める瓦礫を撤去する作業を強要されるユダヤ人(?)ユダヤ人に対して星のマークを着ける命令は,まだ出ていない。左奥にドイツ軍兵士が監督している。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離する前に,ユダヤ人住民の情報を集める登録作業を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだったようだ。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。Archive title: Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rieger, Alfons撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年11月4日,ドイツ帝国財務省令:国民経済に重要な企業で就労していないユダヤ人は,数ヶ月以内に,東方に追放する。追放されるユダヤ人の財産は,ドイツ帝国のために没収する。
1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」
1939年9月,東プロイセン(現ポーランド)でも,顎鬚など特徴あるユダヤ人は,集合を命じられ,ユダヤ人登録され,ゲットーに送られた。労働不能なユダヤ人は,トレブリンカ,ソビブルなどドイツ占領下のポーランドに設置された絶滅収容所で殺害されたることになったが,これは1941年独ソ戦開始以降のことである。
ポーランドのリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg,チェコ語ルヴフLvov)、には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。しかし,9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐,リボフもソ連軍が占領した。ソ連軍が進駐していた時期に,ソ連に協力したユダヤ人・ポーランド人もいたであろうが,ソ連はユダヤ人を信用せず,1940年春,反ソ連のユダヤ人数百名がシベリアに送った。
ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)後の6月30日,ドイツが再び,リボフのソ連軍を攻撃,占領した。ドイツのリボフ占領時,リボフのユダヤ人口は16万人だった。
1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)
写真(右)1939年9-10月,ワルシャワで倒壊した建築物の後片付けをさせられるユダヤ人と思われる。左三人は,ドイツ軍兵士。ユダヤ人を集める名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,片付け作業が終わるまでの一時的な苦役・使役と考えたに違いない。 しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まったPolen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rutkowski, Heinz 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランド,バルト諸国Baltic Countriesの警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー追放に協力した。ゲット−隔離前,ドイツはユダヤ人情報を収集するためにユダヤ人登録を行った。
写真(右)1939年9-10月,ワルシャワで通りの後片付け・清掃をさせられるユダヤ人(?)。右は,ドイツ軍兵士だが,ユダヤ人を使役するドイツ兵は,小銃をもっていない。ユダヤ人を監督して清掃作業に当たらせるのには,非武装の兵士で十分なのだが,これは使役の内容がユダヤ人にとって許容できるものだったからである。Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rutkowski, Heinz 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
ユダヤ人を警戒させずに登録するための名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。
写真(右)1939年9-10月,ワルシャワで倒壊した建築物の後片付けをさせられるユダヤ人(?):Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501
Description
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English: Warsaw during World War II:
Polski: Warszawa z czasów okupacji:
Depicted place Warschau
Date September 1939 or October 1939
Photographer Rieger, Alfons
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
ナチスドイツは,占領したポーランドのユダヤ人を,いきなりゲットーに隔離したのではない。ゲットーに移す前に,ユダヤ人の氏名・住所などの情報を集める登録作業を行った。
ユダヤ人を登録させる名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。
◆ユダヤ人は,戦災後片付けのための労働は仕方がないと登録に応じた。家族の妻や子供たちの労役は免除されているが,これは夫が家族の氏名を登録させられたからだろう。夫は,これで妻や子供は苦役から解放されたと考えたに違いない。清掃作業を終わらせれば,苦役から解放されると,頑張ったかもしれない。
しかし,戦災の後片付け程度の労働は,ナチスにとって問題にならなかった。登録をして住所・氏名・家族を把握されたユダヤ人は,市内一角のゲットーに強制移住させられることになる。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。
写真(右)1939年9-10月,ワルシャワの通りを埋める瓦礫を撤去する作業を強要されるユダヤ人(?)。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人を使役して,自らが破壊したワルシャワの通りを清掃させた。この程度の差別的使役であれば,命令されたユダヤ人も従った。親衛隊は,ユダヤ人を軽蔑しつつも,恐れていたから,ユダヤ人の反乱を警戒して,ユダヤ人迫害,絶滅の本心をあらわにすることはなかった。Archive title: Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rieger, Alfons撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツは占領直後,ポーランドに、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何万人ものユダヤ人を狭い空間に押し込めた。ドイツ本国のユダヤ人も追放された。1940年には,降伏させたフランス領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討された。
ユダヤ人迫害の理由は,ヨーロッパ・ユダヤ人が,ドイツに敵対する下等劣等人種であり,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与すると考えたためである。
写真(右)1939年,ポーランド,上シレジア(シュレジエン)東部,ユダヤ人が蓄えていたコーヒー豆を没収したドイツ兵士:不当な商売をする狡賢いユダヤ人商人から,不正に蓄えたコーヒー豆を募集した,と得意満面。
ナチス政権の下では,民間人の財産を不当に没収し,人権を侵害して使役させている,といった認識は,ユダヤ人には当てはまらない,当てはめてはならないとされた。 Ost-Oberschlesien kehrt heim.
Jüdische Kaffeehamsterer werden abgeführt
12086-39
Dating: 1939
撮影者不詳。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ポーランド侵攻の際,親衛隊SSを中心とするユダヤ人殺害に対して,ドイツ国防軍の将兵の中には,一時,不名誉な一般市民虐殺を阻止しようとしたものもあった。
ナチス・ドイツは,ポーランド攻撃最中に,敵性住民ユダヤ人をゲットーをつくり隔離する命令を出した。全てのユダヤ人がゲットーに移送されたわけではないが,都市に住んでいた多数のユダヤ人は,ゲットーに移送された。当初は,ゲットーが鉄条網や壁に囲い込まれることもなく,外出も容易だった。
ナチス親衛隊は,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察(自警団)を通じて,ゲットーに住むユダヤ人に対する規制を強化した。
写真(右)1939年末,ポーランド,クラコウ,野外収容施設に隔離されたユダヤ人男性:ドイツは,ポーランド侵攻の最中に,ユダヤ人をゲットーをつくり強制的にそこに移住させる命令を出していた。ポーランドの全てのユダヤ人がゲットーに住まわされたわけではない。しかし,大都市に住んでいた大半のユダヤ人は,新設させたゲットーに強制移送された。親衛隊は,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察(自警団)を通じて,ユダヤ人を管理した。 Judenlager Krakau
Archive title: Polen, Krakau.- Verhaftete / internierte polnische Juden (für Arbeitseinsatz in Deutschland ?) in einem Lager, ca. Ende 1939
Dating: 1939 Ende
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-0299引用(他引用不許可)。
ドイツ占領下のポーランドでは,地方にあっても,多数のユダヤ人が拘束され,強制移送された。ユダヤ人は,鉄条網や柵に囲まれた露天の収容施設(ラーゲル)に集められ,そこからゲットーや収容所に移送されたようだ。
ドイツ国防軍に,弱いものイジメのユダヤ人迫害に戸惑った将兵も少なくなかったようだ。しかし,ユダヤ人殺害が最高位からの命令と知ると,治安維持任務の責任を親衛隊に任せ,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,できるだけ責任を負うことを回避しようとした。
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻したドイツの警察・SDが,ユダヤ人を集め整列させた。カメラマンが,手前に二人以上いて記念撮影をしている。ドイツの敵である下等劣等人種ユダヤ人を捕らえたことを戦果と考え,誇らしく感じていたようだ。現在の感覚では,社会的弱者に対するいじめであるが,ナチスの新秩序の下では,人種汚染し,ドイツを滅ぼそうとするボリシェビキ・ユダヤ人は排除されるべきであるとされた。そこで,敵を捕らえた記念撮影をしているのであろう。 Polen;- Filmen verhafteter Juden unter Bewachung durch Polizei und SD, PK-Filmberichter (?) mit Kamera bei Aufnahmen; KBK Lw 4
Dating: September 1939
Photographer: Lifta
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-380-0069-39引用(他引用不許可)。
親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないで,国防軍の名誉が守られると考えたのである。しかし,これは,軍の責任回避ともいえる。
ドイツ人にとって,敵性住民・下等劣等人種とされた全てのユダヤ人は,ゲットーに収容されることになった。地方では目立たないかたちで,あるいは隠れるように家に残っていたユダヤ人も少なくなかったようだが,ユダヤ人であると発覚した場合の処罰を恐れて,身の安全のため自らユダヤ人であると名乗り出るものもいたようだ。
写真(右)1939-41年,ポーランド・グニェズノにおけるユダヤ人(?)追放(?)。鉄道駅に向かっている難民の行列の脇道に監視するドイツ軍兵士3名以上見える。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離した。 Wartheland
Polenevakuierung
Evakuierte Polen auf dem Wege zum Bahnhof. Schwarzenau bei Gnesen.
Fotograf: Holtfreter
Dating: 1939/1941 ca.
Photographer: Holtfreter, Wilhelm
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・R_49_Bild-0131引用(他引用不許可)。
ポーランドのユダヤ人は,ユダヤ人登録をして,戦禍の片付け作業に従事した。この清掃作業は,成人男性が命じられたもので,婦人,子供は免除された。夫・父親は,妻や家族のために,苦役に参加した。妻・家族に苦役免除してもらい,きちんと義務を果たして処罰されないように,妻・家族の氏名・住所まで登録してしまった。
しかし,ユダヤ人迫害は,清掃作業のような一時的な苦役程度ではすまなかった。ユダヤ人登録によって,氏名・住所を把握したナチス・ドイツは,ユダヤ人を追放した。
ユダヤ人は,持ち出す財産を制限され,土地・家屋を奪われ,職・学籍を失い,ゲットーに強制移送させられた。これは,都市のユダヤ人だけではなく,郊外や農村のユダヤ人も同様だった。農地,家畜を手放し,家屋を残したまま,ゲットーに移住を命じられた。
写真(右)1939-1941年,ポーランド,ドイツ軍により追放されるポーランド占領地のポーランド人:明日で強制移転させられたようだ。ヒトラーは、ドイツ支配地・植民地を東方に拡大して、自給自足経済圏、すなわち生存圏を獲得すること、共産主義・ユダヤ人を絶滅することを目的で、戦争を始めた。 Inventory: R 49 Bild - Reichskommissar für die Festigung deutschen Volkstums.- Bildbestand
Signature: R 49 Bild-0137
Old signature: Bild 110; Bild 146-1974-078-04
Original title: info Polenevakuierung
Polen verlassen in Autobussen das Dorf Blonie.
Dating: 1939/1941 ca.
Photographer: Holtfreter, Wilhelm撮影.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ドイツはポーランド占領地からのユダヤ人排除、ポーランド人追放を進め、ドイツ系住民(ファルクス。ドイッチェのような在外ドイツ系住民)を併合したポーランドに移住させた。バルバロッサ作戦は、ドイツ支配地・植民地を東方に拡大すること、共産主義・ユダヤ人を絶滅すること、地下資源・食糧を確保することが目的である。ヒトラーの持論は、ドイツ支配地・植民地を東方に拡大して、自給自足経済圏、すなわち生存圏を獲得することである。
家屋・土地,家畜・家具全てを置き去りにして,抱えられるだけの荷物を携行して,移送されるユダヤ人。かさばらない通貨,宝石,貴重品なども携行していたであろう。しかし,追放されたユダヤ人が持ち出せた資産は僅かだった。家屋・土地はもちろん,思い出の故郷と断ち切られた。
4.対ポーランド戦祝勝パレードに参加したヒトラー
写真(右)1939年9月,ポーランドにドイツ国防軍総司令部の国防軍最高指揮官アドルフ・ヒトラー総統の一行を空輸したドイツ空軍ユンカースJu-52タンテ輸送機:左から右に、陸軍参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)大将、ヒトラー秘書官マルチン・ボルマン(Martin Bormann)、南方軍集団(第8軍、第10軍、第14軍)司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット(Gerd von Rundstedt)上級大将、陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチ(Walther von Brauchitsch)上級大将、国防軍最高司令部(OKW)総長ウィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)上級大将、アドルフ・ヒトラー、総統警護大隊エルヴィン・ロンメル(Erwin Romme)大佐、第10軍司令官ヴァルター・フォン・ライヒェナウ(Walter von Reichenau)大将、第10軍参謀長フリードリヒ・パウスル(Friedrich Paulus)少将、親衛隊SS連絡将校カール・ヴォルフ(Karl Wolff)SS中将、南方軍集団参謀長エーリヒ・ファン・マンシュタイン(Erich von Manstein)中将、ヒトラー副官ルドルフ・シュムント(Rudolf Schmundt)中佐 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-013-0060-20
Archive title: Polen.- Polenfeldzug, Adolf Hitler bei Ankunft in Begleitung mehrerer Generäle. Erste und zweite Reihe von links: Franz Halder, Martin Bormann, Gerd von Rundstedt, Walther von Brauchitsch, Wilhelm Keitel, Adolf Hitler, Erwin Rommel, Walter von Reichenau, Friedrich Paulus, desweiteren Wolff, Erich von Manstein und Rudolf Schmundt vor Flugzeug Junkers Ju 52; PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Falk
Origin: Bundesarchiv 。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-013-0060-20引用(他引用不許可)。
写真(右):1939年9月,対ポーランド戦の現場を訪問しドイツ軍の進撃を臨むアドルフ・ヒトラー総統 :10.5センチle.FH. 18榴弾砲を馬車で牽引しているようだ。場所はワルシャワから離れた野戦のようだ。 Führerparade in Warschau
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-S55480
Original title: info Scherl Bilderdienst:
Aus dem Film "Feldzug in Polen".
UBz: eine der packendsten Szenen; deutsche Soldaten, die während ihres Vormarsches am Führer vorüberziehen.
4.2.1940 [Herausgabedatum]
Archive title: Polenfeldzug.- Vorbeimarsch von deutschen Truppen an Adolf Hitler (auf einer Böschung erhüht stehend und grüßend), Sept. 1939
Dating: September 1939
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild183-S55480引用(他引用不許可)。
写真(右):1939年10月5日,対ポーランド戦勝祝賀パレードに臨むアドルフ・ヒトラー総統 :10.5センチle.FH. 18榴弾砲を牽引する装軌式牽引車(ハーフトラック)の後に騎兵隊が続いている。 Führerparade in Warschau
Archive title: Polen, Warschau.- "Führerparade", Parade der Wehrmacht vor Adolf Hitler und Generälen, Vorbeimarsch bespannter Artillerie mit 10,5-cm leichte Feldhaubitze 18 Dating: 5. Oktober 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild183-S55480引用(他引用不許可)。
ドイツ軍の主力野砲は,10.5センチle.FH. 18榴弾砲で,重量2トン,発射速度 4-6発/分,初速470メートル/秒,射程10,675メートルだった。砲架が重く,独ソ戦勃発後の東部戦線では移動に不便だったので,砲架を軽量化したものに改良された。また,II号戦車の砲塔を取り去って,車台に開放式戦闘室をつくり,そこに榴弾砲を搭載したヴェスペもあった。
写真(右):1939年10月2日,ポーランド,ワルシャワで凱旋パレードを執り行うドイツ軍:右のII号戦車の行進を、左に騎馬上の将校が閲兵している。 Inventory: RH 82 Bild - OKH / Heeresfilmstelle.- Bildbestand
Signature: RH 82 Bild-00076
Original title: info Heeresfilmstelle-Bildarchiv. 358.119 355.123.4
Einmarsch der 31. Inf.Div. in Warschau.
Generalleutnant Kämpf nimmt den Vorbeimarsch der Pzkw. ab
Aufnahme: 2.10.39
Ort: Warschau; Land: Polen.
Negativ-Nr. U 53/2
Aufnahme H.F.; Bildberichter: Mensing
Archive title: Polen, Warschau.- Rudolf Kämpfe auf Pferd sitzend bei Einmarsch der 31. Infanterie-Division. Vorbeifahrt eines Panzer II
Dating: 2. Oktober 1939
Photographer: Mensing
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・RH82Bild-00081引用(他引用不許可)。
写真(右):1939年10月5日,ポーランド,ワルシャワでパレードするドイツ陸軍II号戦車(Panzer II):大通りに式台を置き、そのうえで将校が行進をする戦車の隊列を閲兵している。 Inventory: RH 82 Bild - OKH / Heeresfilmstelle.- Bildbestand
Signature: RH 82 Bild-00081
Old signature: Bild 146-1975-081-04
Original title: info Heeresfilmstelle-Bildarchiv. 355.16 358.119
Führerparade. Pzkw. im Vorbeimarsch.
Aufnahme: 5.10.39
Ort: Warschau; Land: Polen.
Negtiv-Nr. U 68/26
Aufnahme H.F.; Bildberichter: Mensing
Archive title: Polen, Warschau.- Siegesparade, Vorbeifahrt von Panzer II
Dating: 5. Oktober 1939
Photographer: Mensing
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ陸軍II号戦車は、1936年に始まったスペイン内戦に、I号戦車とともに試験的に投入されたが、あくまで次期の本格的戦車であるIII号戦車、IV号戦車の臨時的な小型戦車として生産された。しかし、III号戦車、IV号戦車の生産が遅れたために、第二次世界大戦の緒戦の1939年のポーランド侵攻、1940年のフランス侵攻から、1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」までドイツ戦車の中核として参戦している。当初、電撃戦では、機動性が従事され、戦車には、対戦車戦闘をほとんど期待していなかったのである。
第二次大戦は,ドイツのポーランド侵攻という東部戦線から始まった。この戦いと,2年後の独ソ戦とは,ユダヤ人迫害,パルチザン処刑の頻発など,暗部に共通点が多い。ヒトラー総統は,東方ソ連を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴扱いしたためである。
写真(右):1939年10月5日,対ポーランド戦勝祝賀パレードで行進するドイツ軍兵士を閲兵するアドルフ・ヒトラー: Adolf Hitler Watching Over a Parade
Description: Adolf Hitler (right, saluting) salutes as a parade of vehicles and troops go past on review in Warsaw, Poland. All others are unidentified. From a series of captured German photographs.
Date: October 5, 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Armed forces officers; Military ceremonies, honors, and salutes; Parades; Vehicles, Military; World War, 1939-1945
HST Keywords: Poland, Warsaw; World War II - General File
People Pictured: Hitler, Adolf, 1889-1945 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-581引用。
写真(右):1939年10月5日,対ポーランド戦勝祝賀パレードで行進するドイツ軍兵士: A Parade of German Soldiers
Description: German soldiers parade through Warsaw, Poland in honor of Adolf Hitler. All are unidentified. From a series of captured German photographs.
Date: October 5, 1939
Related Collection: John M. Redding Papers
ARC Keywords: Military ceremonies, honors, and salutes; Parades; Soldiers; World War, 1939-1945
HST Keywords: Poland, Warsaw; World War II - General File 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-579引用。
◆移動と財産権の制限は,それだけで基本的人権の侵害であり,迫害というに値する。しかし,ユダヤ人迫害は,その程度では済まなかった。ゲットーでの生活は,外界からの物資流入が阻まれたことで,困窮を極めたのである。
写真(右):1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワに入城パレードを執り行うドイツ軍将兵。Polen, Warschau.- Parade deutscher Truppen. Offizier grüßend auf Pferd; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Schulze撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-001-0251-04引用(他引用不許可)。
ユダヤ人追放が,軽い差別であるように思うのは誤りである。追放に際して,持ち出せた資産は僅かだった。不動産,家具などのほかに,仕事も,学籍も失った。たしかにユダヤ人追放は,後のユダヤ人絶滅と比較すれば,軽い。
しかし,現在の視点から見れば,とてつもない迫害である。
ユダヤ人のゲットーへの追放は,失職し,学校から締め出され,自分の住む家から追い出されることであり,これだけで十分な迫害である。
5.ポーランドに進駐したソ連軍
写真(右)1939年9月,ポーランド,ルブリンで出会った独ソ両軍兵士:後方は,BA-6装甲車で,全長4.9メートル,重量5トン,40馬力エンジン,最高速度43キロ,航続距離200キロ,兵装は42口径45ミリ砲(60発),7.62ミリ機関銃2丁,装甲 3〜8ミリだった。 1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力で保障占領した。第二次大戦勃発1週間前の1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約では,ポーランドをヴィスワ川の線で独ソ二分割することが密約されていた。 ブレスト=リトフスクは,1939年9月17日にハインツ・グデーリアン将軍の第19装甲軍団が占領したが,町は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ソ連に譲渡,併合されベラルーシ(白ロシア)の一部となった。 リッベントロップ外相とモロトフ外相の二人が署名した独ソ不可侵条約によって,独ソ連両軍は友好関係にあったが,これは2年と続かなかった。 Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten; PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Höllenthal撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-013-0068-06A引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月22日,ポーランド,ブレスト=リトフスク(Brest-Litovsk)に進駐したソ連赤軍T-26戦車:T-26軽戦車は,全長 4.9メートル,重量 9.4トン,航続距離 175キロ,45 ミリ砲装備で,車体前装甲15ミリ,乗員3 名だった。 ドイツとソ連は同盟国として,ポーランド分割したが,ポーランドと相互条約を結んでいた英仏は,9月3日,ドイツにだけ宣戦布告し,ソ連には宣戦しなかった。 Polen, Brześć Litewski (heute Brest in Weißrussland).- deutsch-russische Siegesparade, russischer Panzer (T-26 TU ?) neben deutscher Motorrad-Abteilung ; PK [?]
Dating: 22. September 1939撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-121-0012-30引用(他引用不許可)。
ドイツのポーランド侵攻の最中,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官を,カチンの森で処刑。
写真真(右)1939年9月,ポーランド,ルブリンに進駐したソ連軍BA-20装甲車ののパレード:1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力保障占領した。ドイツとソ連は同盟国として,ポーランドをブーク川を境界として,二分したのである。英仏はポーランドと相互条約を結んでいたため,9月3日,ドイツに宣戦布告侵攻したが,ソ連にはしなかった。 Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten. Besichtigung sowjetischer Panzerspähwagen; PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Höllenthal撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-013-0068-33引用(他引用不許可)。
1939年9月17日、ドイツ軍のポーランド侵攻に呼応して,ソ連軍はポーランドに武力進駐を開始した。これは,同年締結した独ソ不可侵条約秘密議定書に基づいて,東欧を分割するためである。東西から挟み撃ちにされたポーランドは,まだ中立国だった隣国ルーマニア,ハンガリーに脱出を図った。
写真(右):1939年12月,ポーランド,ルブリンでソ連軍とドイツ軍が握手する。この都市に結ばれた独ソ不可侵条約では,ポーランドを,ブーク川の線で即ソ分割することが密約されていた。ドイツのポーランド侵攻後,ソ連もポーランドに進駐した。独ソの握手は,偽りであり,独ソの平和は2年と続かなかった。 Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten. Deutsche und sowjetische Offiziere begrüßen sich; PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Höllenthal 撮影。 ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・Bild_101I-013-0068-33A引用。(他引用不許可)。
結局,ポーランドは,ドイツとソ連に分割占領され,ドイツ軍とソ連軍は,9月28日,独ソ不可侵条約の秘密議定書を改め,ブーク川の線で東西分割することが決められた。そして,国境となるソ連領ブレスト=リトフスクで,ドイツ軍とソ連赤軍が,軍事行進を行い,その緊密振りを内外に誇示した。
写真(右)1939年9月22日,ポーランド,ルブリンに進駐したソ連赤軍BA-10装甲車::重量5トン、45ミリ20-K砲(弾丸49発装備、最大射程4km)、7.62ミリ機銃2丁。1939年7-8月ノモンハン事件でも80両が部隊配備されていた。装甲が薄いために、戦闘では、あまり活躍できなかった。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-013-0068-18A
Old signature: Bild 183-E11261
Original title: info Russischer Offiziersbesuch in Lublin. Die sowjetrussischen Offiziere, die zu Verhandlungen mit den deutschen Militärbehörden über die Festsetzung der Grenze zwischen den beiderseitigen Interessengebieten im besetzten Polen in Lublin eintrafen, waren von zwei Panzerspähwagen der russischen Armee begleitet.
Wie unser Bild zeigt, fand[en] diese Fahrzeuge bei unseren Soldaten verständliches Interesse.
Urhebervermerk: PK-Scherl
3.10.39 [Herausgabedatum]
12026-39
ADN-ZB/Archiv
II.Weltkrieg 1939 - 45; Der Feldzug in Polen, September 1939
Deutsche Soldaten besichtigen zwei sowjetische Panzerspähwagen, mit denen Offiziere der Roten Armee am 22.9. nach Lublin zu Verhandlungen über die Demarkationslinie zwischen Deutschland und der UdSSR gekommen sind.
12026-39 [Fotograf: Höllenthal]
Archive title: Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten. Besichtigung sowjetischer Panzerspähwagen; PK 637 (Ost)
Dating: 22. September 1939
Photographer: Höllenthal
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-013-0068-18A引用(他引用不許可)。
ポーランド分割は,歴史的には,1772年の第一次分割で,プロイセン王国フリードリヒ2世,オーストリア(神聖ローマ)帝国ヨーゼフ2世,ロシア帝国エカチェリーナ2世の間で行われ,1795年,プロイセン,オーストリア,ロシアによってポーランドは完全に分割されつくして消滅した。その後,第一次世界大戦後の1919年に民族自決が認められ再興したが,20年後の1939年9月にドイツとソ連にニ分割されてしまった。ポーランド政府は,英国に亡命した。
写真(右):1939年9月28日、モスクワ、ドイツ・ソビエト境界友好条約に署名するドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)と見守るソ連首相ヨシフ・スターリン、外務大臣モロトフ:
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-S52480
Original title: info Scherl: Die Unterzeichnung in Moskau. Als Ergebnis der Moskauer Besprechungen wurde vom Reichsminister des Auswärtigen v. Ribbentrop und vom Vorsitzenden des Rates der Volkskommissare und Außenkommissar Molotow im Kreml eine gemeinsame politische Erklärung und der Freundschaftsvertrag zwischen der Reichsregierung und der Regierung der UdSSR unterzeichnet. Unser Bild zeigt Reichsaußenminister v. Ribbentrop während der Unterzeichnung. Links neben ihm der sowjetrussische Botschafter in Berlin Schkarzew; dahinter (von rechts) Stalin, Außenkommissar Molotow und der Generalstabschef der sowjetrussischen Armee Stapostnikow.
ADN-ZB/Archiv
Sowjetunion, September 1939
In Moskau wird am 28.9.1939 zwischen dem Deutschen Reich und der UdSSR ein Grenz- und Freundschaftsvertrag sowie eine gemeinsame politische Erklärung unterzeichnet. Der deutsche Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop während der Unterzeichnung; stehend v.r. J. W. Stalin, der Vorsitzende des Rates der Volkskommissare W. M. Molotow, der sowjetische Botschafter in Berlin Schkwarzew und der sowjetische Generalstabschef B. M. Schaposchnikow. 11983-39
Archive title: Sowjetunion, Moskau.- Deutsch-Sowjetischer Grenz- und Freundschaftsvertrag (Ergänzung zum Deutsch-sowjetischen Nichtangriffspakt ("Hitler-Stalin-Pakt", "Molotow-Ribbentrop-Pakt")).- Unterzeichnung, ganz links am Rand: Friedrich Gaus, links im Hintergrund (links von Schaposchnikow) Friedrich-Werner Graf von der Schulenburg, rechts von Gaus: Gustav Hilger
Dating: 28. September 1939
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
. 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1939年8月23日,ドイツ・ソ連不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact)の秘密議定書に基づいて、9月17日、ソ連は、ポーランド政府がドイツ侵攻により壊滅したとして、ウクライナ・ベラルーシ系住民の保護を名目に、ポーランド東部に軍を進駐させた。これは、ドイツとの秘密議定書の分割境界を前提とした進駐だった。しかし、実際にはドイツの占領地が、分割境界を越えてルブリンにまで達しており、ソ連の勢力圏に入り込んでいた。
そこで、1939年9月28日、分割境界を若干変更したドイツ・ソビエト境界友好条約(German-Soviet Boundary and Friendship Treaty)が締結された。これは、ルブリンをドイツ占領地とすることを認めさせる代わりに、ソ連のリトアニア領有を認めたのである。英仏は、秘密協定について知らなかった上に、ソ連に対しては、対ドイツ勢力として引きとどめようと画策していたために、ソ連の東欧における横暴な支配を黙認したのである。
ドイツ軍がポーランドに侵攻、ドイツはルブリン、ワルシャワなどポーランド東部の支配したものの、遅れて進駐したソ連軍は、そこに達していなかった。しかし、モロトフ・リッベントロップの結んだ独ソ不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact)によると、ルブリンはソビエトの勢力圏とされていたから、ここをドイツ占領地とするために、代替的にソ連にリトアニアを勢力範囲として認めた。こうして独ソ境界友好条約(German-Soviet Boundary and Friendship Treaty)によって、ルブリンをドイツに引き渡し、同意を取り付けたソ連は、1940年6月15日、リトアニアを占領、リトアニア・ソビエト社会主義共和国との名目でソビエト連邦に併合した。
写真(右)1940年1月,ポーランド西部,ポズナンのウィルヘルム広場:ディスプレイされている15センチ榴弾砲sFH 18は,口径149.1ミリ,重量5.5トン,射程距離13キロの重砲。 ポーランド回廊を取り戻し大ドイツを復活を宣言,ヒトラー総統の指導によって勝利がもたらされたことを新兵に告げた。 Auf dem mit den Fahnen Grossdeutschlands geschmückten Wilhelmplatz in Posen fand in Anwesenheit des Kommandierenden Generals und Befehlshabers sowie des Reichsstatthalters die erste Vereidungung der Rekruten des Heeres des Standortes Posen statt. In seiner Rede an die jungen Soldaten betonte der General, dass bei allen vom jüngsten Rekrut bis zum obersten Füherer der Glaube an den Sieg unserer gerechten Sache unerschütterlich ist.
Unser Bild zeigt den Kommandierenden General währen seiner Ansprache an die Soldaten.
Scherl Bilderdienst
AV 57730
205-40
Dating: Januar 1940 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L00131引用(他引用不許可)。
1941年6月22日,ドイツによるソ連侵攻「バルバロッサ作戦」が発動した後,ドイツ軍はポーランドのソ連軍を攻撃,壊滅させた。このとき,反ユダヤの動きが,顕在化した。ドイツ人は,ポーランド人を扇動し,ユダヤ人がソ連占領下のポーランド統治に加わったあるいは協力した裏切り者とした。そこで,イェドヴァブネ事件など,ポーランド人によるユダヤ人虐殺が起こった。
6.独ソ戦前に出されていたソ連軍政治委員コミサール抹殺命令
ヨーロッパの中で,アンチセミティズムが強かったポーランドでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人のゲットー押し込め,強制収容所移送に対して,反発はほとんど起きなかった。オランダのように,ユダヤ人を匿うこと,ユダヤ人に食料などを支援する動きは,弱かった。
写真(右)1939年9月13日,ポーランド東部戦線を視察する(右より)国防軍最高司令部参謀総長ウィルヘルム・カイテル大将,フォン・ライヘナウ大将,ボーデンシャッツ少将,クルト・ダーリュケ警察大将:Von der deutschen Ostfront
Unser Bild zeigt (von rechts nach links) Generaloberst Keitel, General der Artillerie von Reichenau, Generalmajor Bodenschatz und General der Polizei Daluege bei einer Kartenbesprechung im Operationsgebiet.
PK-Gregor
13.9.1939 [Herausgabedatum]
Dating: September 1939
Photographer: Gregor撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_183-E10796引用(他引用不許可)。
1941年4月27日,バルカンで戦うドイツ軍指揮官に対して「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出された。そして,「ドイツ軍が占領したユーゴスラヴィア領土は、ドイツ軍政下に置く。軍司令官は,軍隊の安全および治安・秩序の安定のために必要な措置を取る。」とされた。
1941年4月28日,第二軍団マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)司令官の命令書
「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」
ドイツ軍によるソ連侵攻の2週間前,1941年6月6日,政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)が出た。これは,ボリシェビキの残忍さ,アジアの野蛮性を前提とした殲滅戦にあって,ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校であるコミサールは,パルチザンの温床であり,処刑すべきことを支持した命令である。そして,コミサール殲滅は,親衛隊アインザッツグルッペ特別行動部隊が担ったのである。
写真(右)1941年夏,ソ連侵攻時の親衛隊SS騎兵師団と装甲車;:現代風の迷彩服は,1941年当時,親衛隊くらいしか採用しておらず,斬新なものだった。そこで,迷彩服を着用しているドイツ兵士が捕虜となると,残虐な親衛隊員として,厳しい取扱いを受けたという。 Sowjetunion, SS-Kavallerie-Division, Vorgehen mit Unterstützung von Panzerspähwagen, eine leichte Pak wird in Stellung gebracht; SS-PK
Dating: 1941 Sommer
Photographer: Büschel撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
1941年6月22日,ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」が開始された。ヒトラー自身は,ユダヤ人とソ連軍捕虜は同じように厳しく処断すべきであると考えていた。ユダヤ人,パルチザン(ゲリラ,便衣兵),ボルシェビキは同じものであり,排除されるべきであると公言していた。ドイツ占領下のソ連では,ユダヤ人やソ連軍捕虜は強制収容所に収監されたり,処刑されたりした。
「彼はまさに私が探していた人物だ」とヒトラーがいったウィルヘルム・カイテル元帥は,ドイツ国防軍総司令部総長となったが,「ラカイテル(追従者カイテル)」と蔑視されるほど,ヒトラーに追随した。
写真(右)1941年7月,白ロシア(ベラルーシBelarus),モギリョフで拘束されたユダヤ人:市街の清掃作業に借り出されたユダヤ人。大きなユダヤの星を衣服の前後につけさせれた。白布の星は,シャツの布地を裁断して作った胸像のもののようだ。モギリョフ(モギレフ)は,ドニエプル川Dnieper河畔のモギリョフは,ミンスクMinskから東に190キロのところにある。Rußland-Mitte, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden.- Aufnähen von Judensternen; PK 689
Dating: Juli 1941
Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年9月16日のカイテル命令:「占領地における共産主義者の蜂起運動に関して」
1.対ソ戦開始後,共産主義者の抵抗・蜂起の運動が勃発。宣伝,軍関係者襲撃から、反乱,パルチザン戦争にまで拡大している。これらは,モスクワから統一的な指導によって起こされた運動である。 占領地では,民族主義者が共産主義者の反乱に連帯する可能性を考慮すべきである。
2.反乱鎮圧のために,最大限の厳罰で臨むこと。
3.ドイツ占領軍に対する反乱の源にコミュニストがいる。陰謀を摘むために厳罰で臨むこと。ドイツ兵士一人の命が奪われれば,50-100人のコミュニストを死刑にすること。処刑は,恐怖を引き起こす方法で行うこと。
◆ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を即決処刑したことである。
7.ユダヤ人隔離ゲットーの設置
◆1939年9月1日,第二次大戦の勃発後,ドイツ占領下ポーランドのユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに強制移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。
ポーランドでも,ソ連でも,ドイツ親衛隊,警察,国防軍とともに,現地ポーランド,バルト諸国,ウクライナの警察・住民の一部は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。
ポーランド侵攻直前,ヒトラーはオーバーザルツブルクの総統大本営で「批判めいた詞を口にするものは,全て銃殺体に処刑させる。 ------われわれの戦争目的は国境の拡張ではなく,敵の殲滅である。当面は,東欧だけを対象とする。だが,準備は万全である。ポーランド人,ポーランド語を話す成人,子供を容赦なく死に至らしめる命令を下した。ドイツに必要な生存圏を確保するには,これ以外の方法はない。アルメニア人が,この世から消えたところで,嘆くものがいるだろうか。」と述べた。
1940年5月20日付けの機密文書「東欧の異人種取り扱い」の中で,親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,「東欧の非ドイツ人には,初等教育4年間までの教育で十分である。算数は500以上の数を使わない簡単な計算だけ,国語は自分の名前が書ければよい。そして,ドイツ人に服従することは神によって定められた法であるという原則を教える。」と述べた。
写真(右)1939年12月30日,ポーランド,ルブリン・ゲットーのユダヤ人婦人:1940年3月,映画「シンドラーのリスト」に登場する親衛隊SSアーモン・ゲートは,ポーランドのカトヴィツに派遣、1942年8月からはルブリン地区警察指導者オディロ・グロボクニクの下で働いた。そして、ルブリン・ゲットー解体,すなわちゲットー住民の強制首相所への移送・虐殺に関与した。。1943年5月にはクラクフ・ゲットーの解体をも陣頭指揮をした。 30.12.39, Juden aus dem Ghetto von Lublin
Dating: 30. Dezember 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・B_145_Bild-F051638-0714">引用。
ゲットーから出るには三つの方法があった。
ゲットーの影の内側で死ぬか,ゲットーを脱出するか,絶滅収容所に再移送されるかである。1941年には,ワルシャワゲットー住民の三分の一が死亡した。
脱出しても,生き残るための資産と身を隠す場所,支援者が必要だった。ユダヤ人を匿ったポーランド人は処刑されたから,隠れ住んでいたユダヤ人は密告の危険におびえた。金目当てのポーランド人は,ユダヤ人を匿って報酬を得たり,ドイツ側に密告して報酬を得たりしたようだ。
写真右):1941年5月,ポーランド北部,市場でユダヤ人女性の登録を確認するドイツ警察:ユダヤ人の取引は,警察によって規制,管理されていた。 Polen (Nordpolen).- Zwei deutsche Polizisten (Polizei-Wachtmeister und Polizei-Meister mit Notizblock) bei der Kontrolle / Erfassung von Juden auf einem Markt, mit jüdischer Frau (mit Armbinde mit Judenstern); PK 637
Dating: Mai 1941
Photographer: Wirthgen撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-019-1224-11引用(他引用不許可)。
1939年9月21日,開戦から3週間,SS国家保安長官ハイドリヒは,ドイツ陸軍総司令部(OKH)の了解を得て,ポーランド・ユダヤ人の強制移送を,アインザッツグルッペ(特別行動部隊)に指示。これが,後のゲットーへのユダヤ人囲いこみに繋がる。
ポーランド降伏から1年後,1940年10月12日,ワルシャワではゲットーを作る法令が出された。1940年11月16日,ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーから出ることはできなくなった。
ゲットー内部の物資は不足し,配給も少なかったために,餓死や病死が増え,1941年には,ワルシャワゲットー人口の10%以上の4万3000人が死亡した。
ゲットー内で生きてゆくには,地下水道やコネをつかって,外界のポーランド人に賄賂を渡し,あるいは外に忍び出て盗みをし闇物資持ち込みをしなければならなかった。
闇物資を,ゲットー内で法外な価格で買い入れることのできたユダヤ人は,生きてゆくことができた。しかし,闇物資を入手できなければ,生活は困窮した。
他方、当時の日本政府は、ユダヤ人を迫害しなかった。『アサヒグラフ』1941年3月19日発行は「国を追われた人々 流転するユダヤ人」と題して,「春いまだ浅い阪神間の哀憔の色濃く繰る国際的話題−いま神戸には夥しいユダヤ人が,日本にただひとつしかないユダヤ協会をはじめ山手外人街に溢れて異色ある情景を描き出している。これは『護るべき祖国』なき人々が,戦後のポーランドその他北欧諸国を離れ,安住の地をいづれかにもとめようとする途すがら,日本に立ち寄った淋しい流浪の姿である」とした。
写真(右):1939-1940年,ポーランド総督領クラコウでドイツ警察のパレードを閲兵するクルト・ダーリュケ警察大将:左より,突撃隊SA・アルツゥール・ネーベ刑事警察局長,ダーリュケ組織警察長官,アドルフ・ヘンライン,ベッカー。
ドイツ警察は,1936年6月,ヒムラーが警察長官に就任,その下に,政治警察(秘密国家警察ゲシュタポと改称)と刑事警察を保安警察としてハイドリヒにゆだねた。交通など行政警察,都市防衛警察は,組織警察Orpoとしてクルト・ダーリュケに譲った。 Parade im General Gouvernement in Krakau,
General Daluege und ... Persönlichkeiten bei der Parade in Krakau
Gen. Mj. O.P.[Ordnungspolizei!] Riege; SA Grf. Nölfe; Gen. Daluege; SA St. Hühnlein, Korpsführer der NSKK; Gen.Mj. O.P. Becker , SS-Brigf. (?)
Archive title: Polen, Krakau.- Polizei-Parade, Kurt Daluege, Adolf Hühnlein, Korpsführer der NSKK
Dating: 1939/1940 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-0266">引用(他引用不許可)。
しかしこの『アサヒグラフ』は,「一片の国土をもたむに拘らず世界九十余国に渉って恐るべき支配勢力うぃお張っているユダヤ民族のことだ。いづれかは同族からの救援の手によって何処かに落ち着くであろうし,それどころか不屈の魂をもってそこに大きな根を下ろすことを思えば,必ずしも同情と憐憫をばかり注ぐにはあたらぬかも知れない」と結んでいる。
1941年9月1日,ユダヤの星をつけることについての警察条令が発令:満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。 ユダヤの星は手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左胸に縫い付けること。
しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示したものも少なくなかった。そこで,ユダヤの星着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示したものに対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。
写真(右):1940年,ポーランド,リッツマンスタット(ウッジ)・ゲットーのユダヤ人の腕章:1940年より,ユダヤ人は目に付くように大きな黄色いユダヤの星を着けるように命じられた。 Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Armbinde eines jüdischen Polizisten
Dating: 1940 ca.
Photographer: Schilf 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Schilf-003-06">引用(他引用不許可)。
1941年11月4日,ドイツ帝国財務省令:国民経済に重要な企業で就労していないユダヤ人は,数ヶ月以内に,東方に追放する。追放されるユダヤ人の財産は,ドイツ帝国のために没収する。
1942年1月23日ヒトラー卓上談話: 「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜と区別する必要があるのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」
写真(右)1941年5月,ワルシャワゲットーの三人のストリートチルドレン(ルンペン:浮浪者):1939年,ドイツ占領下のポーランドにゲットーが作られ,ユダヤ人が押し込められた。貧しかったもの,親のいない子供,病人は,隔離されたゲットーでの生存競争にさらされ,まっさきに亡くなった。 Polen, Warschauer Ghetto.- Zwei auf dem Gehweg liegende, zusammengebrochenen jüdischen Kinder in Lumpen (krank oder tot?) vor einem Geschäft; PK 689
Dating: Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0793-20">引用(他引用不許可)。
ヤヌシュ・コルチャックは,戦前,児童書,子供新聞を刊行していて,ラジオ番組でも紹介されていた。彼は,ワルシャワゲットーの孤児院で働いた。
コルチャック先生は,孤児に,衣食住を提供し,教育を施すなど,ベーシックヒューマンニーズの充足に務めたが,1942年8月6日,192人の子供たちとともにトレブリンカ絶滅収容所に送られた。そして,ガス室に入れられた。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。
◆1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。
写真(右)1939年11月、ポーランド、クラコウ、ドイツ占領下ポーランド東部を総督領(首都クラコウ)として統治したポーランド総督ハンス・ミヒャエル・フランク(Hans Michael Frank: 1900年生まれ、1946年10月処刑)法学博士:1930年の国会議員選挙でナチ党から出馬して当選した当時30歳だった。ポーランドを占領した後、1939年10月10日、ヒトラーによって、フランクはポーランド総督に任命されたが、親衛隊が各国のユダヤ人を総督領のゲットーに送り込み、総督領を掃きだめとしているとして、対立することも多く、さらにポーランドからの掠奪争いも起こしている。しかし、法律専門家としての意識を垣間見せて、親衛隊の実施しているテロを批判することもあった。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-2011-1107-500
Original title: info Der Generalgouverneur für die besetzten Gebiete, Reichsminister Dr. Frank, in seinem Arbeitszimmer auf der Burg von Krakau.
14-11-39
Archive title: Polen, Krakau.- Hans Frank am Schreibtisch sitzend
Dating: November 1939
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl 写真はWikimedia Commons, File:Bundesarchiv Bild 183-J31305, Auszeichnung des Hitlerjungen Willi Hübner.jpg">引用(他引用不許可)。
ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした---。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車 ⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車 ⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank ⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail ⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇 ⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 ⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
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