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◆日本優生学のハンセン病患者差別・断種・隔離:Discrimination against Lepers 画像(上)江戸時代・天保二年(1831)、永峯晴水養広(模写)『一遍上人絵伝』巻第3(原本は鎌倉時代13世紀の作で原本消失):弘安六年(1283年)尾張国の甚目寺で,時宗創始者・一遍とその信徒・時衆の一行が、住民に飲食を施す場面ここで施し受けているグル―フ゜は、右側に裸足の庶民・農民・乞食、左側に黒い覆面をしたり瘡蓋、ができたりとらい病(ハンセン病)のように見える病人グループ。注目すべきは、ハンセン病のような患者の一団でも、排除、隔離されることなく、一遍の説く南無阿弥陀仏を信仰する一派、すなわち時衆の僧侶から、施しを受けていることである。中央に立つ白い覆面の三人の男は、らい病の感染を恐れて覆面をしているのか、隣(絵の右)の貧困者のグループと隔てている番人のように見える。
画像はC0081693:国立博物館引用。

ナチス精神障害者抹殺T4作戦/⇒ナチスのジプシー迫害
ナチス優生学と障害者・人種民族迫害/⇒キリスト教のハンセン病差別と救護

◆多様な文化や価値観を持った人々の共生が,持続可能な平和を構築するのに必要であり、多民族・多人種の共生の視点が重要になってきた。この概念は、人種民族差別,特定グループの迫害,優生学とは,真っ向から対立する。つまり,戦争と平和の問題は,サステイナビリティー(持続可能性)の議論と重なり合う部分が多い。この複合的な分野を扱う学問が環境平和学である。


1.優生学と優生保護法に基づく差別−似非科学のまやかし

人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長に人間の区分である。換言すれば、人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人「種」はなく,たかだか「亜種」(Subspecies)を区分できるに過ぎない。人種・民族あるいは能力の差異は、遺伝子よりも教育に左右される。兄弟でも大きな違いがあるのはそのためだ。人種・民族を意図的に定義し,特定の人種民族を差別,迫害するのが,人種民族差別である。


◆優生学は、人種・民族,障害・性格を遺伝子と結び付けて恣意的に特定することであり、それによって、気に入らない、自分の利益を損なうとみなした人種民族・人物の人権・自由を剥奪し、差別,迫害することを正当化する似非科学である。

肌・目・髪の色,顔面角,鼻の形,体形は,個体差,個人差が大きい。身体的能力・知能も、後天的な教育の効果が大きく影響する。にもかかわらず,優生学では、生まれながらに優劣があると、遺伝子・人種民族が意図的に区分されてきた。この優生学をもとに,支配者の白人と奴隷の黒人、アジア人とそれを指導する大和民族、健康な人間と欠陥あるハンセン病患者・精神障害者など勝手に人種民族を選別し,優劣をつけた。下位のものの人権を蹂躙し、自由を剥奪し排除した。

社会的ダーヴィニズム(社会的進化論)では,下等人種・劣等民族は、自然淘汰される存在とされた。社会的ダーヴィニズムは、優秀な人種・民族が、下等人種・劣等民族を支配するという人種民族差別が正当化された。

優生学的発想では,劣等な人間が繁殖力旺盛で、優秀な人間の繁栄の障害になる。そこで、劣等な人間を人為的な排除が主張された。とされる。人類を品種改良するには,悪性遺伝子を排除し,優良な遺伝子を残さなくてはならない,と主張する。1883年,イギリス人フランシス・ゴルトンSir Francis Galton:1822-1911)らが提唱した優生学は,コーカソイド(白人)による植民地支配を正当化する論理として,帝国主義の中で,広まった。米国では,アジア人の移民排斥に理論的根拠を与えた。

優生学に基づいて、人種・遺伝子汚染の危険があるユダヤ人、黒人、ジプシー(シンティ・ロマ)、ハンセン病患者、精神障害者など下等民族・劣等人種を選別し、排除することが、国家・国民の福祉に繋がると考えられた。人種民族の選別・排除は、国家財政の負担において行われた人種衛生的な福祉政策であり、人種民族の共生、個人の人基本的人権の保障は否定された。

米本昌平他『優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』は,優生学が、福祉国家の思想と関連が強いことを指摘している。つまり、北欧のデンマークでは、ナチス・ドイツよりも早く断種法が制定され、スウェーデンでも、強制的な優生学的な不妊手術が1930年代以降、50年代に至るまで実施された。これらの諸国に共通しておいるのは、福祉国家の形成のために、役に立たず社会的負担となる人間を排除するという発想である。

優生学は、
?人種民族に優劣をつけて、優秀な人種民族が劣等な人種民族を支配・教化する、
?優秀な人種民族が劣等な人種民族の血(遺伝子)によって汚染され、劣化するのを防ぐ、
?人種民族を遺伝的に改良しその人口増加を図ることによって、富国強兵を進める、 
という3点を主張する人種民族差別である。

◆20世紀初頭、日本人・大和民族を強化する優生学的政策も提唱されていた。
医師・大澤謙二(1905)「体質改良ト社会政策」、『東京医事新誌』第1391号には次のように健康増進、社会的に忌むべき病を特定し、そのような症状が子孫に遺伝しないように、婚姻制限・断種など、人為的な淘汰=排除を訴えている。

第一、体育ヲ奨励シテ偏重ナル知育ノ弊害ヲ軽減スルコト
第二、結核病花柳病及酒精中毒ノ如キ子々孫々ヲ毒害スベキ伝染病ト罪悪トヲ防遏スルコト
第三、婚姻法ヲ制定指定望マシキ結婚ヲ容易ナラシメ否ラザル者ヲ制限スルコト約シテ云ヘバ人為淘汰ヲ施スコト

静岡県磐田市生まれの動物学者・丘浅次郎(1905)「進化論と衛生」『国家医学会雑誌』第221号にも社会的進化論の自然淘汰を援用し、「自己の団体の自衛上極めて必要」な「人種衛生学、社会衛生学」に基づいて「劣等な人間、有害な人間を人工的に保護して生存繁殖せしめる様では其人種の進歩改良は到底望むことは出来ませぬ」、「少なくとも子孫を後に遺さぬだけの取締りは必要である」と述べている。

医学者・福原義柄(ふくはらよしえ:1875−1927)『社会衛生学』1914年発行、は「民族衛生策ハ主トシテ其根拠ヲ遺伝研究ニ 置ク」と優生学の「後天形質」が遺伝しないとしても「母ノ栄養、疾病、中毒等ガ同時ニ胎児或ハ生殖細胞ニ同様ノ第二次的影響ヲ与ヘ、有害ナル変異ノ原因トナル」とした。そして、「人類ノ進化及退化ニ影響スル諸事情」として、「強壮者ヲ弱メ(繁殖力ヲ害セザルモ)其子ヲシテ体質劣等ナラシムル疾病例之慢性伝染病及慢性虚弱状態」、「生殖腺ヲ毒シ胚種ヲ弱メ子孫ヲシテ低格児ナラシムルモノ例之酒精、梅毒、結核ノ如シ之ヲ胚種毒トモ云フ」を指摘した。

「吾人ハ一方ニ於テ社会的低格者ヲ保護シツツ、他方ニ於テ此低格ノ子孫ニ遺伝スルヲ防止セネバナラヌ、是レ篇頭ニ論ゼル消極的民族衛生策ノ必要アル所以(ゆえん)デアル」とした。この「社会的低格者」とは「精神薄弱、要扶助者、不具、癲癇、精神病、体質薄弱、病的基質アル者、犯罪者、盲唖ノ如キ心身低格者」を指す。つまり、優生学的発想から、伝染する疾患が子孫に伝播することを防止するため、劣等者を排除することを訴えた。

◆20世紀初頭、日本では優生学に基づいて、人種民族の改良が信じられ、精神障害者・身体的障害者・犯罪的傾向のあるもの、らい病(ハンセン病)患者などを国家貢献できない厄介者に選別し、断種・結婚制限などによって、排除しようとした。その優生学的発想は、優れた大和民族によるアジアの統一・支配という「大東亜共栄圏」の幻想につながってゆく。その過剰な自己中心的世界観は、人種民族的差別を正当化し、人類の共生、個々人の基本的人権の尊重、ノーマライゼーションを否定した。

第一次世界大戦敗戦後のドイツで、1920年、法学者カール・ビンディング(Karl Binding)と精神科医アルフレート・ホッヘ(Alfred Hoche)は生きるに値しない命の抹消の解禁という著書で、優生学に基づいて「?病気や負傷などで救済の見込みのない者、?不治の白痴、?重い病が原因で無意識状態に陥っているか快復してもその不幸に悩む者に対する安楽死」を求めた。しかし、この当時は、まだそこまで実施できる状況にはなかった。

◆ナチ党がドイツの政権を奪取して半年、1933年7月14日公布の断種法(遺伝病子孫予防法)は、?優生学に基づく差別、?財政負担の軽減、の2点の目的があった。
優秀であるはずのアーリア人・ドイツ民族にとって、精神障害者は民族の恥であり、同時に、健常者を人種汚染する恐怖の存在とされた。

1933年遺伝病子孫予防法「断種法」の制定後、1937年、遺伝病患者に対する鑑定審査をする秘密組織として、国家委員会が組織された。その後、1939年、子供の安楽死計画が開始されるとともに、断種から安楽死へと措置権限が強化・拡充された。

障害者安楽死計画は、「T4作戦」の秘匿名称で、終戦までに、27万5,000人の障害者をガス殺、投薬注射などによって殺害した。

スウェーデン では福祉国家の確立を訴えたハンソン社民党政権下で優生学 基づいて、1935年に「特定の精神病患者、精神薄弱者、その他の精神的無能力者の不妊化に関する法律」、すなわち断種法が制定された。第一条では、精神疾患、精神薄弱、その他の精神機能の障害によって、子どもを養育する能力がない場合、もしくはその遺伝的資質によって精神疾患ないし精神薄弱が次世代に伝達されると判断される場合、その者に対し不妊手術を実施できる、とした。

断種法の制定理由は、「生きるに値しない命」を淘汰することによって、福祉財政の負担を軽減し、健康な児童の福祉・軍人恩給などに充当し、国力向上を図るためである。つまり、財政支援対象となる「不要な人間」を減らす優生学的発想に基づいて、国家の福祉を充実するのである。

 スウェーデンでは、1941年に断種手術の同意を必要とするが対象者を反社会的生活者まで拡大したが、実情は半強制的な優生手術(断種、場合によっては妊娠中絶・堕胎)だった。
 スウェーデンの断種法は、1935年から1975年まで施行され、合計計6万2,888件の優生手術(断種)が実施された。1990年代後半に賠償問題に発展した。 

◆断種手術(優生手術)は、「生きるに値しない命」を選別・排除することによって、福祉国家や軍事国家を作ろうとする優生学的国家的戦略の一環だった。

◆日本では東京帝国大学教授・日本性学会会長永井潜医学博士がスウェーデン を視察後、1930年に日本民俗衛生學會を設立。永井潜を委員長とする委員会が建議案を内閣に提出し、1940年に国民優生法が成立、任意申請による断種が合法化。1941〜1945年で435件実施。ただし優生学が本格化するのは戦後の優生保護法成立後。(「優生学の錯綜」引用終わり)

日本の1940年国民優生法

第一条 本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防遏スルト共ニ健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加ヲ図リ以テ国民素質ノ向上ヲ期スルコトヲ目的トス

第二条 本法ニ於テ優生手術ト称スルハ生殖ヲ不能ナラシムル手術又ハ処置ニシテ命令ヲ以テ定ムルモノヲ謂フ

第三条 左ノ各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ハ其ノ子又ハ孫医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキハ本法ニ依リ優生手術ヲ受クルコトヲ得但シ其ノ者特ニ優秀ナル素質ヲ併セ有スト認メラルルトキハ此ノ限ニ在ラズ

 一 遺伝性精神病
 二 遺伝性精神薄弱
 三 強度且悪質ナル遺伝性病的性格
 四 強度且悪質ナル遺伝性身体疾患
 五 強度ナル遺伝性畸形
2 四親等以内ノ血族中ニ前項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ヲ各自有シ又ハ有シタル者ハ相互ニ婚姻シタル場合(届出ヲ為サザルモ事実上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル場合ヲ含ム)ニ於テ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキ亦前項ニ同ジ
3 第一項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル子ヲ有シ又ハ有シタル者ハ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキハ亦第一項ニ同ジ

日本は、戦後1948年の優生保護法でも優生学を堅持し、第一条で「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性 の生命健康を保護することを目的とする」としている。
そして、精神障害者、ハンセン病患者を主な対象に、優生保護法第三条「医師の認定による優生手術」では優生手術、すなわち生殖腺を除去せず生殖を不能にする手術で、精管あるいは卵管の結紮(けつさつ)による断種・避妊手術を、次の場合に行うとした。
第一号 本人若しくは配偶者が遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患若しくは遺伝性奇形を有し、又は配偶者が精神病若しくは精神薄弱を有しているもの
第二号 本人又は配偶者の四親等以内の血族関係にある者が、遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神病質、又は遺伝性畸形を有しているもの
第三号 本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの 第四号 妊娠又は分娩が、母体の生命に危険を及ぼす虞れのあるもの
第五号 現に数人の子を有し、且つ、分娩ごとに、母体の健康度を著しく低下する虞れのあるもの

第十一条 前条の規定によつて行う優生手術に関する費用は、政令の定めるところによつて、国庫の負担とする。 

1996年(平成8年)6月26日「法律第105号 優生保護法の一部を改正する法律」によって、優生保護法(昭和二十三年法律第百五十六号)は、母体保護法と改称され、らい予防法廃止と同時に、優生保護法から優生学的条項を除き、次のように条文を変更した。

 第一条中「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに」を「不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により」に改める。
 第二条第一項中「優生手術」を「不妊手術」に改める。
 「第二章 優生手術」を「第二章 不妊手術」に改める。
 第三条の見出しを削り、「優生手術」を「不妊手術」に改め、「精神病者又は精神薄弱者」を削り、同項第一号及び第二号を削除した。

◆障害者・ハンセン病患者などを選別、排除する優生学的発想は、家族の出産の意思決定、福祉財政負担の許容範囲、医療負担の許容範囲、障害者の人権・ベーシックニューマンニーズの充足、生死の自己決定権(尊厳死)、遺伝子研究、断種・人工妊娠中絶の正当化という点で、現代的な課題である。法律上、医学上の問題だけでなく、教養ある市民としてどのように障害者の人権、重病患者の安楽死を捉えるかが問われている。

◆1938年、日中戦争が本格化し、国家総動員令が発動されるなか、厚生省が、内務省の社会局・衛生局、陸軍の協力を得て設立された。その目的は、国力の基盤となる兵力・労働者を拡充するための健康な人間の人口増加政策「産めよ増やせよ」、結核など伝染病防止、戦争で負傷したり、病気になったりした兵士、すなわち廃兵の援護・救済であった。

◆厚生労働省『障害者白書』によれば、2005-2008年現在、日本には、知的障害者は合計54.7万人(人口比0.4%)、うち在宅が41.9万人(0.3%)、施設入所が12.8万人(0.1%)おり、精神障害者は合計323.3万人(2.5%)、在宅が290.0万人(2.3%)、入院が33.3万人(0.3%)いる。これに老人を中心とした身体障害者351.6万人を加えると、複数の障害者も含め、日本人の5%は障害者である。

◆精神障害者や特定の人種民族を差別・排除しようとする思想は、?優生学的偏見、?財政負担軽減、?治安回復、などを正当化の根拠としている。そして、現在、人間を生殖細胞、遺伝子レベルで詳細に分析し、生命力や治癒力の優劣を区分するという恣意的な研究も進んでいる。ヒトゲノムの解読、バイオテクノロジーの進化は、再び先端技術を装って、似非(えせ)科学の優生学を蔓延させる危険がある。 「生きるに値しない命」を選別するような優生学思想は、特定グループが自分たちの利益を損なうと考える都合の悪いグループを選別するために、恣意的に用いられるに違いない。科学的な装いの下に、自分勝手な傲慢な意図を隠して、気に入らない人間を排除することを許してはならない。

WHO(世界保健機関)の2012年105カ国の統計によれば、ハンセン病患者は、2012年初頭、18万1,941人あり、2011年には21万9,075人からハンセン病が検出されている。地域別に見ると、東・南アジア16万132人、南北アメリカ3万6832人、アフリカ1万2673人など診察・治療が困難な貧困地域にハンセン病が広がっている。
国別ハンセン病症例検出件数は、インド12万7295人、ブラジル3万3955人、インドネシア2万23人、バングラデシュ3970人、コンゴ人民共和国3949人となっている。

2006年のアジアの症例検出件数は、インド13万9252人(人口10万人当たり有病率12.09)、インドネシア1万7682人(7.73)、バングラデシュ6280人(4.03)、ネパール4253人(15.39)、ミャンマー3721人(7.69)である。

◆優生学の側面から下等人種・劣等民族の排除、経済的側面から国家財政負担の軽減、福祉国家の側面から、優良な人間への国家財政の一層の充当、富国強兵の側面から人口増加による国力向上という発想は、現在でも放棄されてはいない。日本におけるハンセン病患者の差別、すなわち強制隔離・断種(優生手術)は、人権無視であるが、優生学の立場からは、兵士・労働者・母(出産・育児)として国家貢献できる健全な人間を援護するために、ハンセン病患者の人権保護は必要ないと判断された。

アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅


2.古代のキリスト教と天皇神話にみる癩病(ハンセン病)

聖書にらい病の記述があり、キリスト教徒の多くが皮膚病をらい病とみなした。しかし、ハンセン病(らい病)患者への差別を踏まえて、「らい病」の記述を変更すべきであるとの意見が強まっている。 たとえば、国立ハンセン病療養所内にある長島曙教会牧師・大嶋得雄(2003)「何故、長島曙教会は「らい」を「ツァラアト」(Tzaraath)変えるように要請したか」が公表されている。

◆2013年6月6日付Catholic News Service、6月13日付ILEP (The International Federation of Anti-Leprosy Associations) Press Release 等によると、2013年3月に就任したローマ教皇フランシスコ(Pope Francis)は、バチカン市国で行われた教皇庁スタッフらの育成機関「教皇庁聖職者アカデミー」の演説で、神学生たちに向かって、聖職者の過度な出世主義を批判して「出世主義はハンセン病(Careerism is leprosy, leprosy! Please no careerism.)」と話し、個人的な野心からの内面の自由"great inner freedom" を重要さを強調した。

画像(右)イエスが皮膚を置かされたらい病らしい患者を癒す新約聖書の場面新約聖書のマタイ福音書(8:2–3)、ルカ福音書(5:12–13)など、イエスが御言葉、触ることで、癒したのは、皮膚病患者であるかもしれず、ハンセン病患者であるとの確証はない。
Lessons from the Leper Christ_Healing_the_Leper
画像はThe BAS Library引用。


Gospel According to St. Matthew:マタイによる福音書 第8章

8-1 And when he was come down from the mountain, great multitudes followed him. イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。

8-2 And behold, there came to him a leper and worshipped him, saying, Lord, if thou wilt, thou canst make me clean. すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。

8-3 And he stretched forth his hand, and touched him, saying, I will; be thou made clean. And straightway his leprosy was cleansed. イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。

8-4 And Jesus saith unto him, See thou tell no man; but go, show thyself to the priest, and offer the gift that Moses commanded, for a testimony unto them. イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。

キリスト教のハンセン病差別と救護を読む。

◆ハンセン病患者や空襲・災害の避難民は、それ以前の社会的地位・職業・貴賤は関係なく、皆、似たような平等な状態に置かれた者としての連帯感が生まれる。これが『呉越春秋』同病相(あい)憐れみ、同憂相救くう。驚翔(きょうしょうする)鳥は、相い随たがいて集い、瀬の下の水は、因よりて復た倶(とも)に流ながる。」という平等意識である。自分の内なる意識の中に、差別を超える平等意識が存在するといえる。宗教家は、その連帯感に共鳴しつつ、らい病患者の信仰をくみ救護に当たった。

◆イエスがらい病患者を何人も癒し清めたのと同じように、光明皇后(701〜760)は、聖武天皇の妃で、仏教を信仰して天平2年(730年)、民間人治療・救済施設の施薬院悲田院を開設し、病人や孤児の保護・治療・援護をした。京都南禅寺の僧・虎関師練(1322)「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」によれば、光明皇后は、らい病患者の膿を自ら口で吸って清めたとされる。

光明皇后は、730年、皇太子妃(光明子)の時から施薬院悲田院を設けて貧困者の救済に当たっていたが、彼女は民間人・藤原氏から皇后となった最初の女性であり、後の藤原氏による摂関政治の嚆矢ともなる。もちろん文人・藤原不比等の三女として高い教養を身に着けていた。天武天皇の孫・長屋王との間に、皇位継承争いが起こったが、勝利し、皇族でない正妃として初めて「皇后」の称号を受けた。これは、皇后は皇族出身と決まっていたから、民間の藤原氏出身の「皇后」は異例中の異例である。

トップレディ光明皇后は、皇后宮職に施薬院を設置し、薬草園を開き、医師を集めた。聖武天皇が全国国分寺の総本山・東大寺を建立すると、光明皇后は国分尼寺の総本山・法華寺を建立した。他方、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた基王は早世したため、749年、娘の阿倍内親王を孝謙天皇として即位させた。また、756年、聖武天皇が崩御すると、遺品を東大寺に献納し、後の正倉院の宝物とさせた。

光明皇后は仏教への信仰が厚く、病人の治療・救済のために、法華寺に「からふろ」(施浴場)を作り、病人(天然痘)、貴賤を問わず1000人の垢を清める、すなわち汚れを拭うという願を立てた。「后又誓曰。我親去千人垢。」 

この1000人目の病人が、皮膚が膿んでいるらい病(ハンセン病)患者で、肉腫の臭気が部屋に充満し、垢をすることも困難であった。「徧体疥癩臭気充室。后難去垢。」光明皇后に背中の垢を摺ってもらっている時、病人は良医が言うには、口で膿みを吸いとってもらえば治癒すると。「病人言。我受悪病患此瘡者久。適有良医教曰。使人吸膿必得除愈。」皇后にお願いがある、背中の肉腫の膿を吸ってもらうことはできないかと。「願后有意乎。后不得已吸瘡吐膿自頂至踵背遍。」

光明皇后は、らい病人に自ら膿を口で吸い出してさしあげましょうと言った。「后語病人曰。我吮汝瘡慎勿語人。」すると病人が光明を放ち、我は阿閦仏なり、このことを人に語るなと言った。「于時病人放大光明告白。后去阿閦仏垢。又慎勿語人。」皇后は驚いてみたが、光輝く姿は忽然と見えなくなった。「后驚而視之。妙相端厳光躍馥郁忽然不見。后驚喜無量」
その後、光明皇后自身が、法華寺本尊・十一面観音として祀られるようになった。


虎関師練(1322)「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」の光明皇后によるらい病患者の垢摺りと膿の口吸いと同じ話が、スタジオジブリ・宮崎駿監督作品映画『千と千尋の神隠し』(せんとちひろのかみかくし)に取り込まれている。湯屋を訪れた穢れた巨体の客オクサレサマは、千(千尋)に薬湯に入れてもらい、施湯によって穢れを落としてもらう。実は、このオクサレサマは川の神であり、砂金の褒美を与えて、翁の笑顔で飛ん消えた。

光明皇后を顕彰する伝説だが、らい病患者の膿を皇后自ら吸い出すことで救い、それによって皇后自身も清められ、観音として崇拝されることになった。天皇の尊さ、仏教の有難さを伝える説ではあるが、らい病患者を隔離するのではなく、治療・救済の対象として位置づけている。宗教が重視された古代、ハンセン病患者に拘わらず、病人・貧困者・障害者などを差別することなく、神仏の前の平等、一人の人間として接する大切さが価値観となっていた。

◆聖書の古い解釈では、ハンセン病を人間が生まれながらに負う生来の罪が表れたと考えた。その意味で、ハンセン病患者は、罪人の汚れであり、心・性質の腐れとして、意志の力を失った惨状と扱った。最悪の場合、滅亡に属ける罪とされた。他方、それは不治の病ではなく、神に仕える祭司によって救うことのできる病とされた。ハンセン病患者は、警戒する必要はあるが、絶対隔離、断種の対象とはしなかった。神の前の平等から考え、救済する対象ともなった。したがって、キリスト教の歴史からみて、ハンセン病患者は差別されてきたものの、癒されうる清めの対象でもあり、扱いについても迫害・救済の二面的な扱いを受けていた。

◆聖書の「らい病」の記述にはハンセン病への差別を強化する傾向もあったが、キリスト教会は、多数のらい病患者を援護し保護してきた。現在でもハンセン病患者を援護しているThe Leprosy Mission (TLM)は130年以上の歴史がある。1949年設立のChristian Medical Fellowship (CMF)には、4,000人のイギリスの医師と800人のイギリス医学生が参加しBritish Leprosy Relief Association (LEPRA)を立ち上げている。1906年設立のAmerican Leprosy Missionsは734万ドル規模の予算を投じた援護を行っている。

『日本書紀』『今昔物語集』以来、「癩(らい)」、すなわちハンセン病患者(1980年代まではハンセン氏病)は、頭髪・まゆ毛・爪が抜け,次いで指,手足,鼻,目が腐って醜い白斑の容姿となることから恐れられていた。らい患者Leprosy)は、就職を認められず、地域・家庭で隔離されて、世の中から隠れた暮らすことを強いられた。場合によっては、隔離されることもあった。また、家族から疎まれ、あるいは家族に迷惑をかけるのを恐れて、家を出て、旅に出る「放浪癩」と呼ばれる患者もあった。

『日本書記』によれば、推古20年(612年)に次の記述がある。
「是歳ことし 、 百済国より 化来(おのづからにまうく)る者有り。其の 面身(おもてむくろ)、皆 斑白(まだら)なり。若しくは 白癩(しらはた)有る者か。其の人に 異(け)なることを 悪(にく)みて、 海中(わたなか)の嶋に棄てむとす。然るに其の人の曰はく、「若し 臣(やつかれ)の 斑皮(まだらはだ)悪みたまはば、白斑(しろまだら)なる牛馬をば、国の中に畜(か)ふべからず。 亦(また) 臣(やつかれ)、 小(いささか)なる 才(かど)有り。 能く山岳(やまをか)の形を構(つ)く。其れ臣を 留(とど)めて 用ゐたまはば、国の為に 利(くほさ)有りなむ。何ぞ空しく海の嶋に棄つるや」といふ。是に、其の辞を聴きて棄てず。仍りて 須弥山(すみのやま)の形及び 呉橋を 南庭(おほば)に構(つ)けと 令(おほ)す。時の人、其の人を號(なづ)けて、 路子工(みちこのたくみ)と曰ふ。」

顔面がまだらになり、白癩(しらはた)有る者、白斑(しろまだら)というのが、ハンセン病のことと考えられる。このような病の患者は、離れ島に排除すべきだとされた。(ただし、ここでは庭師の技術を持っていたために助かった。)

718年(養老2)、藤原不比等(光明皇后の父)らが、大宝律令を修正して編纂した養老律令の戸令・第七と第二十八には、障害者の条件として「手無二指足無三指手足無大拇指禿瘡無髪」による盲目、妻を離婚できる七つの条件の一つとしての「惡疾」として、白癩(ハンセン病)の記述がある。

「戶令第七 目盲條:凡一目盲。兩耳聾。手無二指足無三指手足無大拇指禿瘡無髪。久濡。下重。大隰隲。如此之類。皆為殘疾癡。隴。侏儒。腰背折。一支癈。如此之類。皆為癈疾惡疾。癲狂。二支癈。兩目盲。如此之類。皆為篤疾。」

「戶令廿八 七出條:凡棄妻。須有七出之狀一無子。二淫隶。三不事舅姑四口舌。五盜竊。六妬忌。七惡疾。皆夫手書棄之。與尊屬近親同署。若不解書。畫指為記。妻雖有棄狀有三不霖去。一經持舅姑之喪二娶時賤後貴。三有所受無所歸。即犯義絕。淫隶。惡疾不拘此令」

833年の『令義解』すなわち養老律令の官撰注釈書には、「白癩」の呼称でハンセン病(らい病Leprosy)の次のような記述がある。

悪疾、謂白癩也、此病、有虫食人五藏、或眉睫墮落、或鼻柱崩壊、或語聲嘶變、或支節解落也、亦能注染於傍人、故不可與人同床也、或作癘也。」(「悪疾いわゆる白癩なり。此の病人五臓の虫が食う。或いは眉・睫が落ち、或いは鼻柱が崩壊し、或いは言葉声が嘶なき、或いは関節ずれ落ち、亦能く傍らの人に伝染する。」(巻二戸令)

 白癩(しろはた・びゃくらい)は身体の一部または皮膚に白斑(しろまだら:leukoderma leprosum)ができる病(ハンセン病)であり、古代から近世まで、すぐに感染する病、仏罰による病、穢れた病、家筋・家柄が原因というようにさまざまに解釈されてきた。つまり、ハンセン病の原因が不明確なために、人々の噂や文化的価値観の中で、ハンセン病患者は、罪深い者、業を負った者として、社会の底辺に置かれていたのである。


3.中世日本における癩病(ハンセン病)患者の差別と援護の歴史

時宗(じしゅう)の開祖一遍上人一遍の生涯を描いた絵巻「一遍聖絵(ひじりえ)」には、ハンセン病患者らしい人物が描かれている。絵巻「一遍聖絵(ひじりえ)」は、正安1年(1299)に一遍の高弟聖戒(しょうかい)が選述し、法眼円伊が描いたもので、絵巻にはめずらしい絹本を用い、画面には一遍上人の行状とともに各地の情景が展開される。人物を小さく描き、背景の寺社や山水の描写に大きな比重を置くなど、名所絵のような性格をもっている。やまと絵本来の手法を基調としながら、山水の構図、樹木や岩石などの描法には宋画の影響も見られる作品。巻第七は、弘安7年(1284)、大津の関寺(せきでら)、京都の四条道場、市屋道場などを巡りながら、念仏を唱え、札を配って布教するようすが描かれる。

 京都の歓喜光寺に伝来した全12巻の一部が江戸時代後期に流出し、巻第七は原三溪らの所蔵を経て、第2次大戦後、東京国立博物館に収蔵された。

画像(上)江戸時代・天保2年(1831)、永峯晴水養広(模写)『遊行上人伝絵巻(一遍上人絵伝)(模本)』 第8巻第1段(他阿真教上人の部分)他阿真教上人(遊行上人:1237〜1319)は1277年(建治三年)、九州に豊後で一遍と出会い、弟子となり遊行に参加した。そして、1289年(正応二年)に一遍上人が亡くなると、他阿はその後継者として、北陸・関東を遊行しつつ、時衆の定住化を進めた。
画像は C0081707:国立博物館引用。


捨聖一遍上人は、1239年(延応元年)、四国の伊予国松山に、僧の一家として生まれた。十歳の時、母が亡くなり、出家し、1251年、九週の大宰府近くの原山で、法然の流れをくむ聖達に出会った。そこで、浄土宗を学ぶために、肥前国清水の華台のところへ送られた意念を過ごし、智真と名を改めた。その後、十四歳から二十五歳まで、聖達の下で所業したが、父の訃報で伊予国に帰り、武士の生活に戻り、妻も娶った。

しかし、智真は、所領争いに巻き込まれ、1271年(文永八年)、信濃国善光寺に参詣し、伊予国に戻ってからも、僧として生活した。

1274年(文永十一年)、智真は、故郷四国の伊予を妻・超一、娘・超二、下女・念仏房を連れて出立、摂津国・天王寺・高野山をへて、熊野権現を参拝した。この時、智真は、熊野権現より、「一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところなり。信・不信をえらばす、浄・浮上をきらわず、その札をくばるべし」との教示を得た。智真は、妻子を離別し、名を一遍と改め、念仏を広めるために「南無阿弥陀仏」と書いただお札を配る賦算(ふさん)の旅、すなわち遊行を始めた。

一遍は、熊野下山後、京都から西海道(山陽道)を通って、九州、四国を遊行した。その間「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、念仏の札を配布し、布教した。一遍について出家したものも増加し、一遍を聖として仰ぐ集団、すなわち時衆が生まれた。ここには、一遍とともに遊行すうる道時衆、俗人のまま念仏に励む俗時衆、道時衆の遊行を資金、食糧、宿泊などの面で支える結縁衆があった。

1279年(弘安ニ年)、一遍は、九州から京都に上り、秋には信濃で踊念仏をし、信州善光寺も参詣している。1280年(弘安三年)、奥州(東北)の白河の関から江刺郡(現在の北上市)の祖父の墓を詣でている。

画像(上)江戸時代、円伊法眼『一遍上人絵伝』第五巻・馬上の武士に鎌倉入りを拒否された一遍上人(右先頭):鎌倉幕府執権・北条時宗は、一遍一行を鎌倉に入れることを認めなかった。左側には、一遍についてきた乞食、浮浪者の一群が追い払われている。この後、鎌倉圏外に滞在することは許されたので、片瀬の地蔵堂に舞台を設けて、念仏踊りを広めた。
画像はC0044097:国立博物館引用。


1282年(弘安五年)、一遍上人と時衆の一行は、幕府のある鎌倉で布教するために、小袋坂の木戸(関所)を通り抜けようとした。しかし、鎌倉警護の武士は、時衆の一団が鎌倉に入るのを阻み、一遍上人を杖で2回敲いた。一遍上人と時衆の一行は追い返されたが、「鎌倉の外は御制の限りにあらず」と伝えられ、翌日、片瀬へと移動し時期を待つこととした。

鎌倉の外延に当たる片瀬の地蔵堂で、一遍と時衆の一行は、踊念仏を行い「南無阿弥陀仏」と唱えた。

画像(上)鎌倉時代、正安元年(1299)、法眼円伊『一遍上人伝絵巻』巻第七、踊念仏をする一遍上人と時衆弘安六年(1283年)、京都京極四条の釈迦堂で踊念仏(右の小屋舞台)をした際に、庶民や牛車に乗った高貴な男女が、一遍の下に参詣にやってきた。
前年の1282年(弘安五年)、鎌倉に入る機会を待つため、片瀬の地蔵堂に舞台を設けて、念仏踊りを広めた。一心不乱に踊念仏をする時衆の下に、見物人が集まり、らい病患者など貧困者も物乞いをしたり、施しやご利益に与ろうとがやってきた。
画像はE0016147:国立博物館引用。


画像(右)鎌倉時代、正安元年(1299)、法眼円伊『一遍上人伝絵巻』巻第七の念仏のお札を賦算(ふさん)する一遍上人(右上、肩車の上):弘安六年(1283年)、京都京極四条の釈迦堂で踊念仏(右の小屋舞台)をした際に、庶民や牛車に乗った高貴な男女が、一遍の下に参詣にやってきた。
画像はE0016147:国立博物館引用。


政治権力を握る鎌倉幕府の北条時宗に対抗するかのように、捨聖一遍上人は、鎌倉の入り口の北条時宗に舞台を設けて、男女の時衆が一心不乱に「南無阿弥陀仏」と唱え踊念仏を行い、お札を配る賦算(ふさん)をして、人々を惹きつけた。

元寇として知られるモンゴル襲来は、1274年(文永十一年)と1281年(弘安四年)の二回であるが、鎮護国家を祈ることだった。

捨聖一遍上人死後10年後に描かれた『一遍上人絵伝』には、片瀬の浜に「貴賤あめのごとく参詣(さんけい)し道俗(僧と民衆)雲のごとく群集す」とある。捨聖一遍上人は、1282年3月2日から4カ月半も鎌倉入口の片瀬に滞在しているが、これは遊行によって「南無阿弥陀仏」と布教する捨聖一遍上人と時衆にとって、異例の長期滞在だった。ここで、鎌倉幕府の御家人や有力者との関係を築き、鎌倉布教の手立てとしようとしたのかもしれない。しかし、鎌倉入りは許されることはなかった。

画像(上)国宝、鎌倉時代・正安元年(1299)『一遍上人伝絵巻』巻第七巻(いっぺんしょうにんでんえまき:縦37.8cm 全長802.0cm)、正安元年(1299)弘安六年(1283年)、京極四条釈迦堂の場面舞台を設けて、念仏踊りをする時衆を見に、見物人が集まり、らい病患者など貧困者も物乞いをしたり、施しやご利益に与ろうとがやってきた。堂を囲んでいる土塀の外側に、板を立てかけて座っているハンセン病(らい病)患者が複数描かれている。彼らは敷地内に入ることをさけているのか、一遍たち時衆が教えを説いてくれるのを外で待っているのであろうか。
画像はC0047682:国立博物館引用。


画像(上)国宝、鎌倉時代・正安元年(1299)『一遍上人伝絵巻』巻第七巻(いっぺんしょうにんでんえまき:縦37.8cm 全長802.0cm)、京極四条釈迦堂(前の絵の続き)踊念仏(中央)に集まった庶民。複数のらい病患者は、町の外の粗末な小屋(右端)で待っている。顔を布で覆っている。乞食や非人のような被差別貧困者と同じように排除されているようである。『一遍上人伝絵巻』は、時宗の開祖,一遍の生涯を描いた絵巻で,京都・歓喜光寺に伝来した12巻のうちの1巻。
画像はC0047683:国立博物館引用。


捨聖一遍上人は、鎌倉布教を諦め、1282年7月16日、片瀬の浜を発ち、箱根を超え、三島に向かった。1284年(弘安七年)、捨聖一遍上人時衆一行は、かつて大津にあった大寺の関寺より入洛、京極四条の釈迦堂(染殿院)に入った。そこに7日間滞在し、踊念仏をし、腑算(南無阿弥陀仏と書いたお札くばり)をした。

画像(上)鎌倉時代・正安元年(1299)国宝『一遍上人伝絵巻』巻第七(いっぺんしょうにんでんえまき)(前の絵の拡大)踊念仏の外で待つ複数のらい病患者。顔を布で覆っている。
画像はC0047682:国立博物館引用。


中世前期(鎌倉時代)、仏教僧一遍上人に関する事跡『一遍上人縁起絵』、『極楽寺絵図』のなかに、「癩者(らいしゃ)」を含む当時の「非人」、すなわち被差別民・不可触浅眠についての資料がある。

藤田,裕司(2007)「一遍と本覚思想」大阪教育大学紀要 56(1), pp.79-90によれば、一遍の南無阿弥陀仏の念仏信仰は、自分の中「己心の浄土」を求めることであるとして、次のように述べている。

 一遍上人は、伊予の豪族出身で、13歳で出家し浄土教を学び、善光寺・高野山・熊野を巡拝した。そして、熊野成道の悟りの境地を詠んだ「六十万人頌」によれば、この時期、名前を「智真」から「一遍」へ改名している。「南無阿弥陀仏」の「南無は始覚の機,阿弥陀仏は本覚の法なり。しかれば始本不二の南無阿弥陀仏なり」(『一遍上人語録』巻下「門人伝説」50)。つまり、「始覚」を「南無」と帰命する衆生に,「本覚」を真理を体現した「阿弥陀仏」に結びつけて,両者一体としたのが「南無阿弥陀仏」である。「六字名号は一遍の法なり。十界の依正は一遍の体なり。万行離念して一遍を証す,人中上々の妙好華なり」(『一遍上人語録』巻上)。 

一遍は、「南無阿弥陀仏」念仏による他力本願の往生を信仰するようになり、諸国を遊行(ゆぎょう)して、念仏札を配布、念仏布教の生涯を送った。こうして、遊行上人と呼ばれるようになった一遍は、時宗を確立した。寺院を持たずに全国を遊行する中で、農民、非人、病人まで貧困者の信仰を獲得したのである。

「一念往生」は,「弥陀国」と「衆生界」とが「平等」であることを意味し「南無阿弥陀仏」は「信ずるも信ぜざるも,となふれば他力不思議の力にて往生す」(『一遍上人語録』巻下「門人伝説」27),「決定往生の信たらずとも,口にまかせて称せば往生すべし」(25)と説く。

「念々臨終」・「念々往生」(52)を説く章段に続いて,「念仏 三昧すなはち弥陀なり」(54)これは、臨終・往生・成仏が三位一体であり、「彼此往来なし。『無来無去不可思議不可得』の法なり」(54)と続くから,この世(穢土)で臨終を迎え,あの世(浄土)に往生して成仏するのではなく、臨終・往生・成仏は,この世のこと、自分の中「己心の浄土」にあることになる。 一遍はまた,「生ながら死して,静に来迎を待べし」(68)ともいう。これを先の39の法語と対置すると,「此身は生ながら心は死して」と読むことが可能である。そして,「一切を捨離して,孤独独一なるを,死するとはいふなり。(中略)わがなくして念仏申が死するにてあるなり」(68)。「我体を捨て南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱といふなり」(16)。(藤田,裕司(2007)「一遍と本覚思想」大阪教育大学紀要 56(1), pp.79-90参照)

踊念仏を広めた捨聖一遍上人時衆は、喜捨に依存しながら遊行をして布教した。その旅の最中、らい病、浮浪者、非人など社会から疎まれた人々と接し、同宿する機会があったと思われる。らい病患者は、みすぼらしい姿の一遍と時衆の説法に耳を傾け、自我を捨てて「南無阿弥陀仏」を一心不乱に唱えれば、誰でも救われると信じたに違いない。時衆は、社会の底辺にある人々も、高貴な人々も御仏の前の同じ一人の人間として往生できると説いた。これは、差別の対極にある自由・平等・博愛につながる思想である。

画像(上)国宝・ 円伊作『一遍上人伝絵巻』巻七家の広間で一遍が説法してる。それを外れ路上で待っている乞食のような貧困者の一団。上の笠をかぶった二人の女性は、船に乗って一遍上人に会いに来た。傘(中央下)をさして、顔を隠している人物も、一遍上人に会いに向かっている。病を患っているようだ。
画像はC0047694:国立博物館引用。


空也上人が念仏はどのように唱えるべきなのか答えたことには「捨ててこそ」とだけであったと西行法師(1183)『撰集抄(せんじゅうしょう)』にある。つまり、念仏を一心不乱に唱えて、知恵も欲望も捨て、善悪の判断も捨て、貴賤という社会的身分の高低も捨て、死や地獄を恐れる心も捨て、極楽往生を願う心も捨て、悟りに至る気概も捨てる、すなわち一切を捨てて念仏を唱えることが、本願となる。ここに至れば、ハンセン病患者に対する偏見・差別も入り込む余地はない。

画像(右)国宝・ 円伊作『一遍上人伝絵巻』巻七家の広間で遊行上人(ゆぎょうしょうにん)一遍が説法してる。手前の笠をかぶった二人の女性は、船に乗って一遍上人に会いに来た。鎌倉時代の円伊の作品。
画像はC0047694:国立博物館引用。


◆1997年公開の宮崎駿監督・映画『もののけ姫』では、タタラ(製鉄所)に暮らすらい病患者が、包帯で顔を覆った姿で描かれている。タタラ(製鉄所)を支配するエボシ御前(女侍)は、家族から離れ、村・町に住みかを得られなかったらい病患者を引き取り、援護する代わりに、タタラで火縄銃(石火矢)を製造するで手工業労働者あるいは技術者として働かせている。筵の上には病状の悪化した寝たきりの患者もいる。タタラには、村・町から避難してきた農民・手工業者・婦人・遊女も暮らしており、健常者と病人との共生が図られている。『一遍上人伝絵巻』に登場するらい病患者らしい人物描写、スタジオジブリ近郊、東村山市の国立ハンセン病患者療養所「全生園」が宮崎駿の映画『もののけ姫』に影響を与えていることがわかる。

藤田 裕司(2003)「一遍とパウロ : (A↔Ā)=Aの世界」 大阪教育大学紀要 52(1), pp.65-76によれば、一遍とイエスの十二使徒の一人パウロとは、律法観, 復活観, 救済観の上で、ともに還相廻向(廻向とは自ら積んだ功徳を他人に廻し向けてその救済を図ること)に徹していると、次のように類似性を浮き彫りにしている。 

一遍は、『別願和讃』で「安養界に到りては 繊国に還て済度せん 慈悲誓願かぎりなく 長時に慈恩を報ずべし」、『西園寺殿の御妹の准后の御法名を一阿弥陀仏とさづけ奉られけるに其御尋に付て御返事』で「此体に「此体に生死無常の理をおもひしりて,南無阿弥陀仏と一度正直に帰命せし一念の後は,我も我にあらず。故に心も阿弥陀仏の御心,身の振舞も阿弥陀仏の御振舞ことばもあみだ仏の御言なれば,生たる命も阿弥陀仏の御命なり」と述べた。

使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙2:16で、「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

ガラテヤ人への手紙2:19-20で「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

キリスト教にあって、父・子・精霊の三位一体、神の国が天国にあるのではなく、この世にイエスが再臨したときに、永遠の命として蘇る。これは、臨終即往生即成仏という一遍の無阿弥陀仏の思想と似通っているといえる。つまり、一遍の念仏往生もキリストの教えも、生きること、生かされていることを感謝する絶対的な自由・平等・愛を内包したものであり、貧困者・無学者にも受け入れやすい考えであった。

全国を遊行した捨聖一遍上人らは、再臨したときに時衆という一団となり、死者を弔い、乞食・癩病患者にも支援をしたが、念仏僧一遍上人(1239-89)の没後十年、時衆の一人、聖戒は円伊を同道して一遍の全国遊行をたどる旅に出た。この時の円伊が残したスケッチをもとに『一遍上人縁起絵』ができた。

画像(上)江戸時代・天保2年(1831)、永峯晴水養広(模写)『一遍上人絵伝』巻第3:弘安六年(1283年)尾張国の甚目寺で大衆に飲食を施す場面(原本焼失):食事をしているグループは、ここには見えないが室内の中級以上、身なりの整った人々と僧侶がある。その左に、この絵があり、野外の僧侶の集団、農民・庶民の集団が施しを受けている。さらにこの左に、らい病・皮膚病を患った人々の集団がある。捨聖一遍上人下の時衆僧侶が、集団別に施しをしていたことは興味深い。
画像はC0081693:国立博物館引用。


江戸時代・天保2年(1831)、永峯晴水養広(模写)『一遍上人絵伝』巻第3「尾張甚目寺」の場面では、弘安六年(1283年)、遊行の途中の一遍と時衆の一行が、尾張、現在の愛知県あま市甚目寺を訪れた際に、境内で貧しい人々に施しをしたが、この施し受ける人々の中に、ハンセン病(らい病)患者の姿がある。法衣を着た僧侶、庶民、ハンセン病患者が各々輪になって、ご飯を振る舞われていている。社会階層別に車座になってはいるが、平等にい施しを受けられるという意味で、身分や信条に関係なく誰でも一心不乱に南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できる、という時宗の平等思想を表している。

時宗開祖・捨聖一遍の周りには、上下いずれの階層の身分の人々が集まったが、その中には、ハンセン病患者も含まれる。偏見と差別に晒され貧困にあえいでいた人々にも、時衆は教えを説き、救済の対象とした。中世、差別されてはいたがハンセン病患者を集め、救護をしていた宗教団体(NPO・NGO)ボランティアがあった。彼らは、ハンセン病患者のの支えともなった。

画像(右)江戸時代・天保2年(1831)、永峯晴水養広(模写)『一遍上人絵伝』巻第3:弘安六年(1283年)尾張国の甚目寺で大衆に飲食を施す場面食事をしているグループは、甚目寺室内の中級以上、身なりの整った人々と僧侶、屋外の3グループ。ここは、かさぶたができているらい病(ハンセン病)のような患者のグループ。左下上に、顔や皮膚に大きな瘡蓋ができている人々が描かれている。右に立っている覆面の三人の男は、らい病の感染を恐れて覆面をしているのであろうか、施しを受けている隣(絵の右)の貧困者のグループと隔てている番人のように見える。注目すべきは、ハンセン病患者でも、捨聖一遍上人下の時衆僧侶(裸足)から、施しを受けられたことである。
画像はC0081693:国立博物館引用。


江戸時代・天保2年(1831)、永峯晴水養広(模写)『一遍上人絵伝』巻第3、それより古い『一遍上人絵伝(遊行上人伝絵巻)』甲巻(重要文化財・指定名称:紙本著色遊行上人絵伝)には、尾張国の甚目寺で毘沙門天が霊験を現し、その加護により七ケ日の行法を完遂する場面と大衆に飲食を施す場面が描かれている。

時宗開祖一遍上人の一行、すなわち時衆らに食事の施しを受けている、あるいは饗応をしているグループは、次の4グループである。

1)室内の上級の位の人々:身なりの整った人々と僧侶
屋外で施しを受けているのは3グループ
2)様々な服装の僧侶:半数は下駄・草履を履いている。下駄をはいた盲人が子供に手を引かせている。
3)裸足の庶民:野良着のような服装の農民らしい
4)ハンセン病のような皮膚病の患者:皮膚がかぶれたり、顔にかさぶたができたりしているハンセン病患者らしい一団
注目すべきは、ハンセン病のような患者でも、排除あるいは隔離されることなく、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)一遍の説く南無阿弥陀仏を信仰する一派、すなわち時衆の僧侶から、施しを受けらていることである。時衆の僧侶(裸足)が、異様な容貌に多少驚いているようだが、ご飯を運んで、施しをしている。病気が感染するのを心配したり、伝染するという恐怖を感じたりはしていないようである。

画像(上)『一遍上人伝絵巻』巻第七河辺の空き地に小屋を建てかけて住んでいる乞食のような貧困者の一団に、顔を布で隠しているハンセン病(らい病)患者たちがいる。彼ら貧困者を訪ねて念仏による往生を説く一遍上人。鎌倉時代の作品に、ハンセン病患者の差別の様子がうかがわれる。『一遍上人伝絵巻』は、時宗の開祖,一遍の生涯を描いた絵巻で,京都・歓喜光寺に伝来した12巻のうちの1巻。諸国を旅しながら修行と布教活動に努めた一遍の行状とともに,各地の社寺や名所の景観が忠実に描かれる。風景描写には中国宋代山水画風の影響が指摘され,やまと絵の伝統の中に見事に融合されている。。西月山真光寺一遍上人が亡くなって10年が経過し、正安元年に弟子の聖戒が起草し,法眼円伊が描く。 画像はC0047682:国立博物館引用。

◆愛知県海部郡甚目寺町の太子山円周寺の僧侶三男として小笠原登は、1888年(明治二十一年)に生まれた。甚目寺町には尾張四観音筆頭の甚目寺観音があり、治癒祈願や施場・治療で有名だった。一遍上人と時衆の一行も、1283年(弘安六年)、この寺を訪れ、僧侶、病人、らい病患者、物乞いなどに施しをした。放浪するらい病(ハンセン病)患者にとって、巡礼者・観光客が多数訪れる門前町は、物乞いをする格好の場所であり、その近くに住んでいたのであろう。

甚目寺観音から東より100メートルの位置にあるのが太子山円周寺で、小笠原登の祖父・小笠原啓実は漢方医だった。太子山円周寺の境内にはらい病患者の住む小屋が並び、祖父・小笠原啓実は、患者の診察・治療もしたようだ。その際、らい病がそう簡単に感染するものでないことを確信したようだが、そのような医師・啓実を見て育った小笠原登も、ハンセン病患者の治療、援護に生涯を捧げる。

小笠原登は1911年(明治四十四年)京都帝国大学医学部に入学し、23歳の1915年(大正四年)に卒業し、医学部副助手に採用された。しかし、結核に苦しめられ、2年間の療養生活も送っている。その後、37歳の時、京都帝国大学で医学博士の学位を取得した。

当時のハンセン病患者の隔離政策が採用されており、ハンセン病患者隔離を強く主張していた光田健輔は、自叙伝『回春病室』の中で、一般患者と感染するハンセン病患者を一緒に診察する小笠原登の京都帝国大学大学病院を非難している。第二次大戦後、1948年60歳となった小笠原は京大を退職、厚生技官としてハンセン患者の治療を続けた。そして、1957年69歳で、国立らい療養所「奄美和光園」医官に就任、1966年まで務めた。1970年、82歳で逝去した。小笠原登の遺骨は遺言により無縁仏に納めてある。

画像(右)『一遍上人伝絵巻』巻第七:(表紙の絵の拡大):踊念仏を広める一遍上人の訪問を受ける複数のらい病患者。町の外の粗末な小屋に住んでいたようだ。
画像はC0047690:国立博物館引用。

『一遍上人絵伝』は、時宗の開祖一遍熊野での成道(じょうどう:悟り)、全国遊行、賦算(ふさん:念仏札配布)、踊り念仏、最後に兵庫の観音堂で臨終をむかえるまでの絵巻。時衆(時宗)は、念仏さえ唱えれば往生できると説き、諸国を遊行、賦算と踊念仏を行なった。念仏聖一遍の号は、「南無阿弥陀仏」の六字名号一遍法の感得に由る。空也の「捨ててこそ」の教えを実践し、捨聖(すてひじり)とも呼ばれた。「おのづから あひあふときも わかれても ひとりはおなじ ひとりなりけり」(『一遍上人絵伝』)

鎌倉時代、諸国を旅しながら修行と布教活動に努めた仏僧一遍の行状とともに,各地の社寺や名所の景観が描かれる。風景描写には中国宋代山水画風の影響が指摘され,やまと絵の伝統の中に見事に融合されている。一遍没後10年の正安元年に弟子の聖戒が起草し,法眼円伊が描く。

正応2年(1289)8月2日、重病の一遍は、心配して集まった道俗に遺戒を与えるた(巻11)。この場面に続いて、臨終の場面(巻12)がある。8月10日朝、一遍は、自らの死を予期して、所持する書籍経巻を焼却して、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と、釈迦一代の説教は南無阿弥陀仏の六字名号に尽きるとした。

画像(上)『一遍上人絵伝』巻12 :兵庫の観音堂(神戸市兵庫区の真光寺付近)で示寂(じじゃく)した時宗の宗祖一遍と死を悼む道俗正応2年(1289)8月23日辰の刻、一遍は兵庫観音堂(現・真光寺)で死を迎えた。8月10日、死を予期した一遍は、所持していた書籍経巻を焼却して、釈迦一代の説教は南無阿弥陀仏の六字名号に尽きるとした。23日朝、時衆の見守る中、念仏が唱えられる中で、時宗の開祖一遍は静かに往生した。釈迦涅槃図のように描かれているが、群衆の中には、ハンセン病患者(右下)など多数の貧困者、非差別民も描写されている。
画像はC0028543:国立博物館引用。


正応2年(1289)8月23日辰の刻、時宗の仏僧一遍は兵庫観音堂(現・真光寺)で、時衆の見守り、念仏が唱えられる中、静かに往生した。「彼の五十一年の法林、すでにつきて一千余人の弟葉むなしくのこれり。恩顔かえらず、在世にことなるは四衆恋慕のなみだ、教誡ながくたえぬ。平生におなじきは六字念仏の音ばかりなり」。

画像(右)『一遍上人絵伝』巻12 :一遍の臨終を悲しむ道俗正応2年(1289)8月23日、兵庫観音堂(現・真光寺)で死を迎えた一遍(51歳)の臨終に立ち会うハンセン病(らい病)患者とみられる一団。捨聖一遍は16年間、全国を遊行したが、その間、ハンセン病患者、障害者など社会の底辺に追いやられていた人々をも救済した。一遍の臨終には、一千余人の弟子=「弟葉」が立ち会ったという。
画像はC0028544:国立博物館引用。


『一遍上人絵伝』の描かれた鎌倉時代、皮膚の爛れたらい病に対して、不快感を感じたり、感染を恐れたりして、遠ざけようとする差別があった。ひどい場合には、前世の因果応報、悪業の報いとみなされ「天刑病」、「業病」と差別され、社会から排除しようとする動きもあった。しかし、国家・政府として、らい病患者に対する一律の排除・隔離政策が採用されたわけではなかった。

◆古代・中世の時代では、ハンセン病(らい病)患者に対して、社会と完全に接点を絶つような強制収容(絶対隔離)や子孫を残せなくする断種(優生手術)が行われることはなかった。一遍と時宗の一団のように、救済の手を差し伸べた仏教徒もあった。分け隔てなく、だれでも念仏往生できるという平等思想は、ハンセン病患者への差別解消に寄与したと考えられる。仏の慈悲にすがり病からの回復を祈願しながら寺を巡礼する「お遍路さん」に、援護・救済をする住民もいた。特に、神社仏閣、名所旧跡には、よそからも人々が集まるため、その人々をあてにした物乞い(乞食)も可能だった。

◆中世のハンセン病(らい病)患者は、日本社会に広く受け入れられていたわけではないが、片隅でひっそりと物乞い(乞食)をして暮らすことができたという意味で「弱い共生」にあった。本来の乞食は、僧が托鉢して、生活のための食物を乞う修行の一つでもあった。らい病患者は、嫌われ蔑まれた場合も多かったが、それでも社会に居場所(ニッチ)を見つけることができた。中世の人々は、らい病が大流行したことがないことから、簡単に伝染するような病気ではないことを日常感覚で経験的に理解していたに違いない。

◆キリスト教・仏教のような宗教団体は、現在の非営利組織NPO:Nonprofit Organization)である。古代・中世にあっては、NPOのボランティアが、ハンセン病患者の救済に積極的役割を果たしていた。他方、国家元首(王・天皇)や貴族がお上のお慈悲をらい病患者にお与えになったことはあったが、国家が組織的にハンセン病患者を治療・救済することはなかった。けれども、らい病人を強制収容し隔離・断種するといった人権侵害の国策を採用したわけではない。国家は、ハンセン病患者に財政負担をしなかったが、彼らを積極的に差別し人権侵害をしていないという点で、消極的ではあるが、近代国家よりもまともだった。

◆近代になって、日本政府・国家は政策的にハンセン病・らい病を排除し始めた。明治時代になって、似非(エセ)科学の優生学を信奉する学者や行政官が、らい病患者やその家族の人権よりも、国家の体面や日本人が人種民族的に優れていると考えはじめ、昭和に入ると、ハンセン病患者の絶対隔離・断種(優生手術)など大規模な人権侵害が強行される。



4.近代日本の癩病(ハンセン病)患者への差別政策

白癩の病気を患った人が、ひどい差別を受けるようになったのか、については、民中の無知という偏見だけではなく、国家の福祉政策、国家財政の観点からも癩者対策が、患者の治療や人権保護ではなく、ハンセン病の感染防止、癩者患者のもたらす社会不安の解消、福祉財政予算の節約という視点で、らい病患者を社会から隔離し、閉鎖的空間に閉じ込めるという政策が採用されたことが大きい。らい病の正しい知識を普及するのではなく、らい病患者を社会から排除する方針が、1996年まで、貫かれてきたのである。

 近代国家を目指した日本が、国家の政策として「癩者対策を始める以前は、らい病および癩者が歴史の表舞台に現れることは少なく、史資料も断片的で各時代の差別・偏見の実相を窺い知ることは困難であるが、これが国家政策がらい病差別を強化、拡散した証拠ともいえる。

国立ハンセン病資料館は、「ハンセン病に対する正しい知識の普及啓発による偏見・差別の解消及び患者・元患者の名誉回復を図ることを目的とし」た国立施設であるが、トップページで、らい病を次のように説明している。
らい菌Mycobacterium leprae)による慢性の感染症です。 初期症状は皮疹と知覚麻痺です。治療薬がない時代には変形を起こしたり、治っても重い後遺症を残すことがありました。そのため、主に外見が大きな理由となって社会から嫌われてきました。現在では有効な治療薬が開発され、早期発見と早期治療により後遺症を残さずに治るようになりました。」

国立ハンセン病資料館のハンセン病(らい病)の説明では、一言、感染症であると述べてたあと、不治の病ではないことを強調している。しかし、患者に触ればうつる怖い病気であれば、患者は隔離すべきだ、となりかねない。

1897(明治30)年の第1回国際らい会議においてハンセン病の予防には隔離が有効であると提言されているが、それ以前から、日本では、異様な容姿となるらい病患者を隔離することが家庭、地域で行われていた。これを追認する形で、 1907(明治40)年、癩予防ニ関スル件が政府で決まった。これは第一に、家庭を離れて放浪するらい病患者(放浪癩)の収容・隔離から始まったが、すべてのらい病患者を死ぬまで完全に隔離する絶対隔離の方針を示しているといえる。

1907(明治40)年 癩(ライ)予防ニ関スル件

第一条 医師癩患者ヲ診断シタルトキハ患者及家人ニ消毒其ノ他予防方法ヲ指示シ且三日以内ニ行政官庁ニ届ケ出ツヘシ其転帰ノ場合及死体ヲ検案シタル時亦同シ

第二条 癩患者アル家又ハ癩病毒ニ汚染シタル家ニ於テハ医師又ハ当該吏員ノ指示ニ従ヒ消毒其ノ他予防ヲ行フヘシ

第三条 癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者ハ行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ 但シ適当ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ
必要ノ場合ニ於テハ行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ従イ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ対シテ一時相当ノ救護ヲ為スヘシ
前二項ノ場合ニ於テ行政官庁ハ必要ト認ムルトキハ市町村長(市政町村制ヲ施行セサル地ニ在リテハ市町村長ニ準スヘキ者)ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護スルコトヲ得

第四条 主務大臣ハ二以上ノ道府県ヲ指定シ其ノ道府県内ニ於ケル前条ノ患者ヲ収容スル為必要ナル療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得
前項療養所ノ設置及管理ニ関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム
主務大臣ハ私立ノ療養所ヲ以テ第一項ノ療養所ニ代用セシムルコトヲ得

第五条 救護ニ要スル費用ハ被救護者ノ負担トシ被救護者ヨリ弁償ヲ得サルトキハ其ノ扶養義務者ノ負担トス 第三条ノ場合ニ於テ之カ為要スル費用ノ支弁方法及其ノ追徴方法ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第六条 扶養義務者ニ対スル患者引取ノ命令及費用弁償ノ請求ハ扶養義務者中ノ何人ニ対シテモ之ヲ為スコトヲ得 但シ費用ノ弁償ヲ為シタル者ハ民法第九百五十五条及第九百五十六条ノ依リ扶養ノ義務ヲ履行スヘキ者ニ対シ求償ヲ為スコトヲ妨ケス

第七条 左ノ諸費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス但シ沖縄県及東京府下伊豆七島小笠原島ニ於テハ国庫ノ負担トス
一 被救護者又ハ其ノ扶養義務者ヨリ弁償ヲ得サル救護者
二 検診ニ関スル諸費
三 其他道府県ニ於テ予防上施設スル事項ニ関スル諸費
第四条第一項ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分担方法ハ関係地方長官ノ協議ニ依リ之ヲ定ム若シ協議調ハサルトキハ主務大臣ノ定ムル所ニ依ル
第四条第三項ノ場合ニ於テ関係道府県ハ私立ノ療養所ニ対シ必要ナル補助ヲ為スヘシ此ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分担方法ハ前項ノ例ニ依ル

第八条 国庫ハ前条道府県ノ支出ニ対シ勅令ノ定ムル処ニ従ヒ六分ノ一乃至二分ノ一ヲ補助スルモノトスル

第九条 行政官庁ニ於テ必要ト認ムルトキハ其ノ指定シタル医師ヲシテ又ハ其ノ疑ヒアル患者ノ検診ヲ行ハシムルコトヲ得
癩ト診断セラレタル者又ハ其ノ扶養義務者ハ行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ヲ求ムルコトヲ得
行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ニ不服アル患者又ハ其ノ扶養義務者ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ更ニ検診ヲ求ムルコトヲ得

第十条 医師第一条ノ届出ヲ為サス又ハ虚偽ノ届出ヲ為シタル者ハ五拾円以下ノ罰金ニ処ス

第十一条 第二条ニ違反シタル者ハ弐拾円以下ノ罰金ニ処ス

第十二条 行旅死亡人ノ取扱ヲ受クル者ヲ除クノ外行政官庁ニ於テ救護中死亡シタル癩患者ノ死体又ハ遺留物件ノ取扱ニ関スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム(1907(明治40)年の癩予防ニ関スル件引用終わり)

 ハンセン病に対する優生政策
第一次大戦後、日本では優生学の影響を受けて、精神障害者、身体障害者、病人、犯罪者・受刑者が社会にとっての負担、あるいは財政上の負担として位置づけられるようになった。そこで、障害者などがこれ以上増えないように、発生予防をすべきであり、そのためには、障害者などの隔離、断種、堕胎といった優生政策が採用されるべきであるとされた。この時、ハンセン病(癩病)は、花柳病、酒精中毒(アルコール依存症)、結核、精神病、精神薄弱と同じく、子孫に深刻な影響を及ぼし、日本人・大和民族を劣等化し、日本を衰退させると批判された。

ハンセン病療養所の医師光田健輔は、ハンセン病患者を断種する根拠として、妊娠出産に伴う女性患者の病状悪化、ハンセン病患者から産まれた子孫の養育困難、母体における胎内感染、乳幼児期の感染、体質的な遺伝などが危惧し、日本政府もそれを受け入れていた。1919年の公私癩療養所長の座談会で、「先ズ私ハ十数年来癩ノ伝染ヲ主張シテ居リマス、又他方ニハ十年此方癩患者ノ生ンダ子供ヲ多数ニ於キマシテ其血液内ニ黴菌ヲ持ッテ居ル、即チ母ノ体内ニ居ル時ニ黴菌ヲ持ッテ居ルトイウコトノ実験ヲモ主張シテ居リマスガ、是ハ私ガ始メテデアラウト思ヒマス、即チ私ハ癩ハ伝染ヲシ得ルガ又遺伝モアリ得ル斯ウイフ考デゴザイマス。(中略)其伝染ナリ且ツ又遺伝スルトイフコトモ確信シマスカラ子供ニ黴菌ガアルトイフコトハ非常ニ重要ナコトト私ハ考ヘテ居リマス」と述べている。

つまり、胎内感染を「遺伝」と菅井は表現しているのである。これは当時、俗に言われた「遺伝梅毒」と同じ用法であった。この菅井発言を受けて幹事の湯沢は、「遺伝的ノモノ」があるならば「精茎切断」の理屈が立ってくるのではないか、と言い、それに続けて光田は全生病院での断種実績を語っている。だれもここでの「遺伝」という用法の問題に疑問を呈していないのである。

明治期に制定された「癩(ライ)予防ニ関スル件」は1931年、癩予防法に改正され、絶対隔離の方針が明確になった。実は、世界では、ハンセン病患者に対するプロミンの治癒効果が明らかになりつつあり、絶対隔離について、疑問も出されていたのである。 

1931年「癩予防法

第一條 醫師癩患者ヲ診斷シタルトキハ患者及家人ニ消毒其ノ他豫防方法ヲ指示シ且三日以内ニ行政官廳ニ屈出ヘシ其ノ轉歸ノ場合及死體ヲ検案シタルトキ亦同シ

第二條 癩患者アル家又ハ癩病毒ニ汚染シタル家ニ於テハ醫師又當該吏員ノ指示ニ從ヒ消毒其ノ他豫防方法ヲ行フヘシ

第三條 癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官廳ニ於テ命令ノ定ムル所ニ從ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ 但シ適當ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ 必要ノ場合ニ於テハ行政官廳ハ命令ノ定ムル所ニ從ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ封シテモ一時相當ノ救護ヲ爲スヘシ
前二項ノ場合ニ於テ行政官聴ハ必要ト認ムルトキハ市町村長(市制町村制ヲ施行セザル地ニ在リテハ市町村長ニ準スヘキ者)ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又同居者ヲ一時救護セシムルコトヲ得

第四條 主務大臣ハ二以上ノ道府縣ヲ指定シ其ノ道府懸内ニ於ケル前條ノ患者ヲ収容スル爲必要ナル療養所ノ設置ヲ命ス.ルコトヲ得 前項療養所ノ設置及管理ニ關シ必要ナル事項ハ主務大巨之ヲ定ム
主務大臣ハ私立ノ療養所ヲ以テ第一項ノ療養所ニ代用セシムルコトヲ得

第五條 救護ニ要スル費用ハ被救護者ノ負擔トシ被救護者ヨリ辮償ヲ得サルトキハ其ノ扶養義務者ノ負擔トス 第三條ノ場合ニ於テ之カ爲要スル費用ノ支辮方法及其ノ追徴方法ハ勅令ヲ以テ之テ定ム

第六條 扶養義務者ニ對スル患者引取ノ命令及費用辮償ノ請求ハ扶養義務者中ノ何人ニ對シテモ之ヲ爲スコトヲ得 但シ費用ノ辮償ヲ爲シタル者ハ民法第九百五十五條及第九百五十六條二依リ扶養ノ義務ヲ履行スヘキ者ニ對シ求償ヲ爲スコトヲ妨ケス

第七條 左ノ諸費ハ北海道地方費叉ハ府縣ノ負擔トス但シ沖縄縣及東京府下伊豆七島小笠原島ニ於テハ國庫ノ負擔トス
一 被救護者又ハ其ノ扶養義務者ヨリ辮償ヲ得サル救護費
二 檢診ニスル關スル諸費
三 其ノ他道府縣ニ於テ癩豫防上施設スル事項ニ關スル諸費 第四條第一項ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分擔方法ハ關係地方長官ノ協議ニ依リ之ヲ定ム若シ協議調ハサルトキハ主務大臣ノ定ムル所ニ依ル
第四條第三項ノ場合ニ於テ關係道府縣ハ私立ノ療養所ニ對シ必要ナル補助ヲ爲スヘシ此ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分擔方法ハ前項ノ規定ニ依ル

第八條 國庫ハ前條道府縣ノ支出ニ對シ勅命ノ定ムル所ニ從ヒ六分ノ一乃至二分ノ一ヲ補助スルモノトス

第九條 行政官廳ニ於テ必要ト認ムルトキハ其ノ指定シタル醫師ノ檢診ヲシテ癩又ハ其ノ疑アル患者ノ檢診ヲ行ハシムルコトヲ得 癩ト診断セラレタル者又ハ其ノ扶養義務者ハ行政官廳ノ指定シタル醫師ノ檢診ヲ求ムルコトヲ得
行政官廳ノ指定シタル醫師ノ診斷ニ不服アル患者又ハ其ノ扶養義務者ハ命令ノ定ムル所ニ從ヒ更ニ檢診ヲ求ムルコトヲ得

第十條 醫師第一條ノ届出テ爲サス又ハ虚僞ノ届出ヲ爲シタル者ハ五十圓以下ノ罰金ニ處ス

第十一條 第二條ニ違反シタル者ハ二十圓以下ノ罰金ニ處ス

第十二條 行旅死亡人ノ取扱ヲ受クル者ヲ除クノ外行政官廳ニ於テ救護中死亡シタル癩患者ノ死體又ハ遺留物件ノ取扱ニ關スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム(癩予防法引用終わり)

しかし、日本では、絶対隔離の有効性が強調され、第二次世界大戦後もその放心を継承し、治癒者の社会復帰に対する支援もなされなかった。また、政府は、国民の間に行き渡っていたらい病は恐ろしい伝染病であるとの偏見を一掃するような啓蒙活動、社会啓発を行なわなかった。医学会も、癩患者隔離を容認した。このような状況が1996年まで続いたのである。

木鎌耕一郎「キリスト教とハンセン病についての覚書」『八戸大学紀要』第43号によれば、キリスト教徒によるハンセン病患者援護の近代史は、国による保護よりも先んじていた。

◆日本が、らい病患者の絶対隔離・断種を進めた背景には、世界の文明国・一等国・列国入りを目指す日本政府の国家対面を整える、そのために日本人・大和民族の恥を排除するという優生学的差別観が指摘できる。日本の庶民もらい病患者からの感染を恐れ、容姿に対する嫌悪感など偏見・差別を抱いていた。家族もらい病患者を家の恥と感じていたが、同じ親族としての情愛も残されていた。しかし、日本政府にはこのような親愛の情はなかった。そこで、国家が率先してハンセン病患者の絶対隔離・断種が強行された。ハンセン病に対する最初の措置は、1901年の「癩予防ニ関スル件」であり、患者は救済・治療よりも取締の対象として位置づけられた。

他方、近代日本においてもハンセン病患者の治療施設は,国家よりも先にキリスト教の宣教師が着手した。日本のキリスト教会による「救癩」は、ボランティア活動であり、クリスチャンの伝道の一環でもあった。らい病患者のための治療施設として、静岡県の神山復生病院,熊本の待労院,聖公会による熊本の回春病院などができた。またらい病患者を収容した療養所にも教会組織が作られた。

1907(明治40)年の癩予防ニ関スル件以降,県立療養所が設置され、1930年(昭和5)、国立の長島愛生園が開設された。そして、戦時中、県立の療養所も全て国立療養所になった。これらの療養所に収容されたらい病の患者に対して、キリスト境界は、宣教師を派遣し、伝道と慰問を行った。らい病患者を癒したイエスを模範に、患者の援護は、キリスト者として、隣人愛を占める行ないとみなされる。キリスト教会は,ハンセン病患者の収容あるいは絶対隔離に反対したわけではないが、施設、療養所におけるボランティアはらい病患者の救いになったと思われる。


国立ハンセン病資料館では、ハンセン病患者への差別は、政府、専門家、医師が悪いのではなく、国民、地域に広まっていた根強い偏見にも焦点を当てている。これについて、次のように述べている。

「このようなハンセン病対策の歴史について、「(絶対隔離を主張した)光田健輔が悪い」、「国も悪い」、「ハンセン病患者は気の毒だった」というように、ご自身は第三者の立場であるかのように考えてはいませんか? 

1951(昭和26)年1月に、山梨県下において、長男がハンセン病と診断されたのを苦にして一家9人が青酸カリによる服毒心中を遂げるという、あまりにも痛ましい事件が起きました。この一家が、当時たった5つだった、末の女の子まで道連れにしたのは、ハンセン病をむやみに忌み嫌う村人から、一家もろとも村八分にされることをおそれていたからでしょう。

この事件からすでに半世紀以上が過ぎ、ハンセン病についての常識も大きく変わりました。現在では、治療を開始して数日もすると菌は感染性を失います。未治療の患者と乳幼児との濃密な接触が頻繁にくりかえされた場合を除いて、感染・発病することはまずありません。つまりハンセン病は、ほかの慢性の感染症に比べて、さらに安全な〈普通の病気〉のようなものです。

こうしたハンセン病の常識を念頭に置いて、もう一度、山梨県での一家心中事件を思い起こしてみましょう。現在の常識からすると、このような事件は起こるはずがありません。なぜなら、今の私たちは、現に治療中の患者であるか回復者であるかを問わず、一緒にいることも、ともに暮らすことも、何の問題もないことをよく知っているからです。」(国立ハンセン病資料館「ごあいさつ」引用終わり)

ハンセン病(らい病)は、1873年にノルウェー人ゲルハルト・ヘンリック・アーマー・ハンセンGerhard Henrick Armauer Hansen:1841年7月29日 - 1912年2月12日)が発見したらい菌Mycobacterium leprae)による慢性伝染病であるが、日常生活で感染する可能性はほとんどない。感染力が弱く、感染しても発病は稀である。また、遺伝病でも、不治の病でもなく、プロミンの処方など適切な治療をすれば、完治する。

20世紀前半の日本では、ハンセン病患者の絶対的な強制終生隔離(絶対隔離)の方針が行政・専門家によって採用され、患者を根絶して子孫を残さないための断種措置が強行された。断種手術は強制的であり、独身の男性も対象になった。また、断種手術は、患者の人権を軽視していたため、医師以外の看護士が担当することもあった。

癩予防ニ関スル件以降、日本で隔離施設に囲い込んだハンセン病患者に断種手術・絶対隔離を進めたのは、次のような理由からであると考えられる。
?優秀な大和民族の血を汚す劣等遺伝子の根絶
?優生学思想に基づく「支援するに値しない人物」に対する社会保障・福祉の財政負担軽減
?断種を条件に通い婚(入所結婚:男性入所者が別棟で生活している女性入所者の雑居 部屋に通う形をとる結婚。当時、夫婦部屋はなかった)を許して、入所者の逃走を防止するという管理上の姦計


1917年「保健衛生調査会第一回報告書」に関しては、第二 1907 年「癩予防ニ関スル件」「五 絶対隔離への途」に次のような解説がなされている。

1.保健衛生調査会
法律「癩予防ニ関スル件」が施行された直後、日本の衛生政策全体が大きな転機を迎える。それは、1910 年代に至り、ようやくコレラの発生が下火となり、また、1909(明治42)年、「種痘法」が公布され、天然痘ヘの予防対策が完成していたからである。さらに、1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発すると、国家総力戦を勝ち抜ける国民体力の増強と心身ともに優秀な人口の増殖を求める、大戦後を見据えた人口政策が求められた。優生政策の萌芽である。
そのため、1916(大正5)年6 月27 日、第2 次大隈内閣は、内務省に保健衛生調査会を設置、新たな衛生政策の指針を求めた。

当初、調査会は各部会に編成され調査をおこなうこととされ、調査項目は第1 部「乳児、幼児、学齢児童及青年」、第2 部「結核」、第3 部「花柳病」、第4 部「癩」、第5 部「精神病」、第6 部「衣食住」、第7 部「農村衛生状態」、第8 部「統計」であった。

調査項目を一覧してわかるように、これまでの防疫中心の衛生政策から国民の体力強化を軸にした衛生政策への転換が図られていた。結核や「花柳病」=性病、そしてハンセン病という慢性の感染症対策が重視され、さらに精神障害への新たな対策の提示も求められていた。長期的に心身ともに優秀な国民を培養するうえで、これらの疾病の予防は不可欠とされ、また、乳幼児・青少年の健康管理や兵士の供給源とされた農村の衛生状態の改善は、将来の優秀な人口確保のために不可欠とされた。第4 部の主査委員は山根正次で光田健輔も委員に名を連ねた(『保健衛生調査会第一回報告書』、1917 年)。

保健衛生調査会の成果は、1919(大正8)年公布の「結核予防法」「精神病院法」「トラホーム予防法」、そして1927(昭和2)年公布の「花柳病予防法」などに反映するが、ハンセン病対策にも重要な影響を与え、放浪する患者の隔離から全患者の生涯隔離=絶対隔離への転換を促進させた。

その転換を主導した光田健輔(Kensuke MITSUDA, 1876ー1964)は、1914(大正3)年12 月22 日、中央慈善協会で「癩予防に就て」の題で講演し、患者の逃走防止のため、離島に療養所を設置することを求めるとともに、入所者のなかの「不逞の徒」への制裁を加えることの必要を訴えていた(中央慈善協会編前掲『癩病予防に就て』)。

 光田健輔は、1915(大正4)年2 月13 日にも、内務省に「癩予防ニ関スル意見」を提出、ハンセン病予防の第1 案として全患者の離島隔離をあげている。これについて、「論者或ハ人権問題ヲ云為シテ患者ノ絶対的隔離ハ困難ナラント云フ者アレドモ今日迄ノ経験ニヨレバ一旦患者療養所ニ来リタル者ハ決シテ再ビ家郷ニ復スルモノアラズ、譬ヘ或ル事情ノ為メ一旦逃走スルコトアルモノアラズ再ビ帰院スルカ若クハ他ノ療養所ヘ入院スル者ノ如シ、故ニ人権ヲ云為スル者極メテ少数ニ過ギザルベシ」と述べべ、光田は全患者を離島隔離しても、人権問題とはならないと豪語する。

光田健輔は、この意見書のなかで、ハンセン病予防の第2 案として、連合道府県立療養所の拡張・新設をあげているが、「無籍乞丐癩」は「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ念ヲ絶ツニ如クハナシ」とも述べている。放浪する患者を「絶海ノ孤島」に隔離せよということで、光田健輔はその「絶海ノ孤島」の例として小笠原諸島をあげていた。

国立感染症研究所IASR Vol.22 No.1 January 2001によれば、ハンセン病は、抗酸菌の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)による感染症である。現在までらい菌の培養には成功していない。ハンセン病は主に皮膚、末梢神経に病変をおこす。有効な抗ハンセン病剤での治療が行われていなかった時代(1955年頃まで)には四肢や顔面などの変形が重度になったことなどで、患者は偏見や差別を受けてきた。

感染と発病、病型:人への感染は乳幼児期に、らい菌を多数排菌している患者との濃厚接触によって、らい菌が経気道的に入り起こる。感染後数年から十数年の潜伏期を経て発病する。

◆1907年(明治40年)にハンセン病に関する「癩予防ニ関スル法律」が公布され、家族から離れたらい病患者、「放浪癩」は療養所に入所させることとし、一般社会から隔離することとした。この理由は、患者救済よりも、ハンセン病の伝染予防を意図したものであった。しかし、ハンセン病患者隔離が、かえってハンセン病は伝染する恐ろしい病気であるという誤解を力が強いという誤解が広まり、ハンセン病患者が市民とともに暮らすことへの嫌悪感を強めた。つまり、ノーマライゼーションに逆行する差別を強めたといえる。

◆1929年(昭和4年)、ハンセン病患者の選別・隔離の強化をし、強制入所・絶対隔離を促進する>無癩県運動が全国展開された。1931年(昭和6年)、癩予防法が改正され、強制隔離によるハンセン病絶滅政策が進められた。つまり、在宅ハンセン病患者を療養所へ強制入所させた。入所患者者が結婚を希望する場合は、断種手術を受けなければならなかった。こうして国立療養所を全国に設置して、全てのハンセン病患者を強制入所させる絶対隔離体制が確立した。

2013.5.10[産経新聞Sankei Digital]および熊本日日新聞社「ハンセン病患者遺体から骨格標本 旧熊本医科大 2013年5月9日」によれば、熊本大学医学部の前身である熊本医科大は、1927〜1929年(昭和二年から四年)、熊本県合志市に設置された九州療養所(現在の国立ハンセン病療養所菊池恵楓園)のハンセン病患者入所者43体の遺体を解剖し、骨格標本20体を作った。 

この症例標本の作製を主導したのは、熊本医科大病理学教室鈴江懐[きたす]氏は、後に日本病理学会会長、京都大名誉教授となるが、当時、熊本医科大に勤務していた。1951年発行の京大研究誌「皮膚科紀要モノグラフ」によれば、熊本医科大でハンセン病患者の遺体50〜60体を収集、それを材料に骨格標本を作製した。「この貴重なCollection(コレクション)は、当時大学を訪れる医学会の名士に鼻高々と供覧誇示した」という。

1931年、日本病理学会総会で、この骨格標本とみられる29体のハンセン病患者の頭骸骨を計測し研究報告を行っている。これらのハンセン病患者の標本は、戦時中に紛失したらし、現存してもいない。2013年、熊大医学部が学内資料を調査したところ、一般の解剖者名簿とは別に、ハンセン病患者だけの解剖者名簿があることが判明。執刀医は鈴江懐氏で、1927年からの2年間に43体の解剖を行い、うち20体で骨格標本を作製したと記録されていた。遺体の出所は全て九州療養所だった。
 鈴江氏は、これらの骨格標本は1945年の熊本大空襲で消失したと研究誌に記述しており、熊大医学部にも標本は現存していないという。

 2005年、ハンセン病療養所入所者の胎児標本114体が保管されていることが、国が設置した第三者機関「ハンセン病問題検証会議」の調査で判明し、当時の厚生労働大臣が人権侵害を謝罪した。ハンセン病患者を標本化する行為は、患患者本人はもちろん家族の同意も得ておらず、人権侵害に当たるといえる。

◆1930年、内務省は「癩の根絶計画」として、20年計画、30年計画、50年計画の三案を発表した。これは、当初はらい病患者の隔離、後半にらい病の根絶の図るものである。内務大臣・安達謙蔵が内務省衛生局に作らせた「癩の根絶計画」では、日本のらい病(ハンセン病)患者数を1万5000人として、5000人を療養所に収容し、残り1万人を、20年・30年・50年の各案で根絶する計画である。

第1案「二十年根絶計画」では、新たにらい病患者1万人を収容する施設をつくり、10年後に全患者を隔離し、その後の10 年で収容した患者が死亡することになり、らい病を根絶できるというのである。つまり、らい病療養所は、治療・療養の場所ではなく、らい病患者抹殺の場所として認識されていた。
結局、1936(昭和11)年度より第1案「二十年根絶計画」が実施されることになる。

◆ハンセン病患者との共生を拒否する内務省の1930年「癩の根絶計画」は、1929年開始の「無癩県運動」、1931年の癩予防法改正とともに、らい病患者の絶対隔離を推進することになった。

◆1937年、日中戦争勃発後、翌年には、国家総動員法が定められた。国家総動員法の第一条では「国家総動員とは、戦時に、国防目的の達成のため国の全力を最も有効に発揮できるよう人的、物的資源を統制し運用すること」とされ、戦争遂行にカネ、モノ、ヒト。ワザが動員されるようになった。国家総動員のなかで、国家貢献できないようならい病患者は組織的に社会から排除されるようになる。これを進めたのが、陸軍の協力を得て1938年に設置された厚生省である。厚生省の目的は、日中戦争における負傷兵士(廃兵)の援護、兵力維持のための「産めよ増やせよ」(1941年閣議決定)という人口増加政策、優秀な兵士・労働者を育成するための優生学的選別を進める機関である。

◆太平洋戦争が勃発する1941年には県立らい病療養所は全て国立療養所に編成替えされ、療養所は全て厚生省の所管になった。そして、財団法人癩予防協会「癩予防に関する根本対策要綱」が発表され、「無らい県運動」の名の下にらい病患者の絶対隔離が国家財政の支援の上に徹底された。「癩豫防に關する根本對策要綱」では、「(らい病)患者の収容を励行せざるべからず而して患者収容の完全を期せんが爲には所謂無癩運動の徹底を必要なりと認む」とした。こうして1931年の癩予防法改正で示されたらい病患者の絶対隔離が戦時体制の中で強行されたのである。

◆らい病患者の療養所は当初は県立であったが、日本初の国立療養所「長島愛生園」が1930年に設置された。そして、1931年「癩予防法」(法律第58号)は、らい病患者の就業禁止、らい病患者の物品・住居の消毒・破棄を進め、らい病患者の収容・入所の経費を国家負担・県負担の財政で賄い、患者の医師に拘わらず、強制収容する方針を定めた。すなわち、癩予防法第3条は、「行政官庁ハ癩予防上必要卜認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ癩患者ニシテ病毒伝染ノ虞アルモノヲ國立癩療養所又ハ第四條ノ規定ニ依り設置スル療養所ニ入所セシムベシ」として、行政官庁ハ癩予防上必要卜認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ癩患者ニシテ病毒伝染ノ虞アルモノヲ國立癩療養所又ハ第四條ノ規定ニ依り設置スル療養所ニ入所セシムベシ」として、らい病患者に浮浪者として暮らすことも家族・宗教団体の保護下に下すことを認めずとして暮らすことも家族・宗教団体の保護下に下すことを認めず、絶対隔離する政策が採用されたのである。


5.日本の植民地・朝鮮と台湾のらい病療養所

◆日本の植民地の朝鮮(韓国)人・台湾人には、大日本帝国憲法の定めた人権・参政権などの規定は適用されなかったが、癩予防法によるらい病患者の強制収容は実行された。その代表的な収容施設が、朝鮮半島南部・全羅南道の小鹿島(ソロクト)更生園である。

小鹿島(ソロクト)更生園は、朝鮮総督府令第7号によって、1916年(大正五年)年に全羅南道・小鹿島(ソロクト)に設置された全羅南道立小鹿島慈恵医院である。ここでには「重症患者にして、療養の途を有せず、路傍又は市場等を徘徊し、病毒伝播のおそれある者に限り、これを収容すること」とされ、癩予防法に基づく隔離政策が植民地挑戦においても実行されたことがわかる。

全羅南道立小鹿島慈恵医院は、1934年(昭和九年)、朝鮮総督管理下の国立癩療養所小鹿島更生園に再編された。当時、全てのハンセン病患者を強制隔離する「絶対隔離政策」が国家政策となっており、朝鮮総督府は、1935年、朝鮮癩予防令によって、植民地朝鮮においてもハンセン病患者の絶対隔離を強制することを決めた。1938年には、大阪在住の朝鮮人ハンセン病患者19名が小鹿島更生園に強制収容された。

小鹿島(ソロクト)更生園では、日本の療養所と同様、収容した患者に、強制労働、断種・堕胎という優生手術、懲戒検束などの厳しい措置(人権侵害)が取られ、絶対隔離の中でハンセン病絶滅政策が強行された。朝鮮総督府は、プロパガンダによって朝鮮社会にハンセン病に対する恐怖心を蔓延させつつ、らい病患者の捜査、検束、強制収容を推し進めた。 

朝鮮植民地の小鹿島(ソロクト)更生園の強制労働は、次のようなものである。
1)医療看護従事者・職員の節約のため軽症患者による重症患者の付き添い看護
2)収容施設や桟橋の建設など土木事業
3)島内の煉瓦(れんが)工場における煉瓦製造(煉瓦は島外へも出荷)
4)島外への販売目的のためのかます製造(かますとは、蒲を編んだ筵(むしろ)で穀物・塩・石炭などを入れる袋)
?木炭自給のために製炭事業(調理:暖房用の燃料)
?島外への販売目的に島内の松を原材料とした松脂採取
?供出用のウサギ飼育と兎毛皮生産(兎皮は軍の防寒具や飛行兵のヘルメットに使用したと思われる)
?収書者の製造品・生活物資などの運搬荷物運送

⇒強制労働には、ノルマが課されており、その達成は身体障害のあるハンセン病患者にはきつい作業であった。このような囚人による強制労働の仕組みは、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の奴隷労働と酷似している。

朝鮮植民地の小鹿島(ソロクト)更生園では、日本国内(内地)における国立療養所と同様、結婚の条件として男性に断種が強制され、妊娠すれば堕胎が強要された。懲罰としての断種も行われた。

朝鮮植民地の小鹿島(ソロクト)更生園ではでは、内地の国立療養所と同様、施設長に懲戒検束権があり、入所者には内地より厳しい規則が課され、違反者は島内の監禁室に拘束された。また、入所者は、職員から手や棒で殴られ、恣意的に懲罰を加えられた。懲罰によって死亡した入所者もいた。断種も懲罰の一つとして行われた。

朝鮮植民地の小鹿島(ソロクト)更生園は、強制収容所であり、医療体制は貧弱だった。入所者数に比して、医療看護従事者の人数は極めて少なく、治療は施されなかった。食糧事情も劣悪で、入所者に配給されるのは、少量の穀類だけであり、入所者は常に飢餓状態にあった。また、入所者に自由な服装は認められず、汚れの目立たないグレーの支給服だけだった。

朝鮮植民地の小鹿島(ソロクト)更生園は、日本の朝鮮植民地支給を貫徹するため、朝鮮民族の文化・言語を抑圧し、信仰についても、日本の国家神道の強要、神社への強制参拝が実行された。葬儀・埋葬は、韓国式の土葬は許されず、内地と同様、火葬された。このことは、ハンセン病の感染力の高さを見せつけるもので、隔離すべき伝染病であるという偏見を植え付けた。朝鮮植民地の小鹿島更生園は、入所者に対して薬剤の試験的使用、すなわち人体実験が行われたとも言われている。

1920年代半ば、全生病院長光田健輔は、日本内地同様、外地の台湾にも多数のらい病患者がいると考え、台湾総督に「台湾癩予防法制定ニ関スル意見書」を提出した。光田は、台湾でも癩予防法を制定し、らい病患者を強制隔離すべきことを訴えた。光田は欧米のキリスト教系病院が1200名のらい病患者を救済しているのに、朝鮮のソロクト慈恵医院の収容者が100名では「朝鮮人ノ事大思想」によって、日本あ軽視され、朝鮮植民地の支配が危うくなると危惧を表している。そして、台湾でも外国人宣教師によるハンセン病治療施設の設立が先行すれば、日本の面子にかかわると、ハンセン病患者の治療、救護よりも、植民地支配の教化を優先した発想を示していた。

1926年、台湾総督に就任した上山満之進は、1927年度から三カ年計画でらい病療養所を設立する予算を計上し、1930年12月、台北州新荘に楽生院を開設した。楽生院初代院長には上川豊自らが就任した。当初、楽生院の収容者数は100名だったが、後に定員700名に増床さた。

 1910年、警察官による台湾全島癩患者一斉調査が行われ、らい病患者は800人余りだった。1930年、台北の楽生院上川院長らの住民一斉調査では1084人だった。

当初、台湾では、軽度のらい病患者は、住民とともに生活し仕事をしていたものが多かったが、台湾総督府は、らい病患者と住民の共生が「恐るべき病毒をまき散らしている」と誤って考え、台湾住民にらい病とその伝染の恐怖を喧伝し、らい病患者の強制収容、絶対隔離を図った。

1932年に台湾癩予防協会が設立され、この会長は総督府総務長官、副会長は総督府警務局長と文教局長が就任した。また「らい予防週間」を設けてらい病根絶運動を煽動し、らい病患者を官憲が称揚所まで連行した。らい病患者の住んでいた家屋は消毒され、らい病患者の家族は地域での偏見と差別に苦しんだという。
1934年、台湾に勅令「癩予防法」が公布され、警察を使った絶対隔離が一層進められることになった。

楽生院の患者通用門には守衛室があり、職員地帯と患者地帯との間には消毒用プールがあった。重病室の患者が亡くなると、遺体は屍室に運ばれ、多くはその後、解剖室に回されてから解剖された。火葬場、納骨堂もある。

韓国の療養所と同じく、台湾の楽生院収容者には強制労働が科せられ、炊事、患者介護、治療室事務、火葬、レンガ工場など、療養所内の仕事はハンセン病患者も担わされた。外出は厳しく制限され、無断外出すれば、監禁室に拘束され、療養所補導員から殴打された。

台湾では、戦後1960年頃からは、ハンセン病患者の強制隔離ではなく、外来治療に移行した。

◆国立療養所に強制収容されたハンセン病患者は、自己発見も自己実現の機会も与えられず、人生を奪われた。強制労働につかされ、懲罰を受け、断種され、人格を貶められた。生涯、故郷に帰れず家族とも会えず、絶対隔離によって人権を無視された。1950年代、韓国では、ハンセン病患者の強制隔離を廃止したが、入所者たちが故郷に帰ることはできなかった。死ぬまで、小鹿島(ソロクト)更生園において生活するしかなかったが、これは日本の国立療養所のハンセン病患者とも共通の運命だった。

◆2004年、小鹿島(ソロクト)更生園楽生院に収容されていたハンセン病患者入所者は、東京地裁に対して、2001年6月22日成立のハンセン病補償法に基づいて、補償を求める提訴をした。高齢の原告団の中には、亡くなる人が出ているため、自由民主党は、補償額を国内入所者と同額の「一人800万円」とするように、ハンセン病補償法を改正し、2006年2月10日、改正ハンセン病補償法(ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が成立した。

2006年、改正ハンセン病補償法が成立したことによって、台湾のらい病療養所「楽生院」の29名全員に補償金の支給が決定し、原告は東京高裁で台湾訴訟の訴えを取り下げた。しかし、韓国小鹿島の入所者は、入所年月の特定が資料不足で困難であり、448名中426名に補償金が支給された。

◆日本は、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦で勝利し、文明国・列国・一等国という大国意識を持ち始めた。戦争に勝利し勝ち組になった日本人は、大和民族が優秀であることを、優生学が科学的に示しているように錯覚した。明治政府は、欧米の先進国と同列となるため、昭和からは、欧米を凌ぐため、らい病(ハンセン病)患者がその外観から「国の恥」「国辱」「日本人の面汚し」と映らないように排除しようとした。ハンセン病患者を治療し彼らとの共生を図るノーマライゼーションは、財政負担がかかりすぎると判断され、国家に貢献できないらい病人の人権保護は必要ないとされた。
 つまり、ハンセン病患者に対する人権侵害(絶対隔離・断種)には、?優生学に基づく優秀な日本人という驕り、?健康な国民(兵士・労働者)育成による国力増強、?国家貢献できない人間を切り捨てる国家主義的な財政効率優先、という三点が大きく影響している。



6.戦後日本のらい病予防法に基づく差別・人権侵害

日本は、戦後1948年の優生保護法においても、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」とし、優生保護法第三条「医師の認定による優生手術」で優生手術、すなわち生殖腺を除去せず生殖を不能にする手術で、精管あるいは卵管の結紮(けつさつ)による断種・避妊手術を行うとした。

ハンセン病に正しい知識を持たない国民の偏見や無知は、ハンセン病患者の隔離・断種という人権無視を引き起こした背景として指摘できる。しかし、ハンセン病の伝染力の低さを認識し、プロミン治療を知っていた専門家や政府・行政、特に厚生省は、どのような理由から、隔離を続けたのであろうか。その理由を次にあげる。

日本の専門家・行政官が癩病患者の絶対隔離・断種を1996年まで長期継続した理由

?らい病(ハンセン病)患者の絶対隔離が専門的立場からも誤りであったと認めるだけの責任感が、専門家・行政に欠如していた。

?らい病患者の絶対隔離が誤りであったと認めれば、患者やその家族の補償問題が持ち上がり、それに対処する資金・財政上の負担を回避したかった。

?らい病患者の治療を続け社会復帰を試行錯誤する長期的、個別的対応よりも、完全隔離・断種のほうが、一まとめに対応でき、資金・財政上の負担が軽くて済む。したがって、財政負担軽減の立場からは、らい病患者完全隔離のほうが安上がりであり、その方針を、ハンセン病患者・家族の犠牲を覚悟で続行した。

?専門家・行政官自身が、優生学的発想から、下等・劣等な人物に対して「生きるに値しない命」と考え、その人権やベーシックヒューマンニーズを満たすための費用を節約した。らい病患者に資金・財政負担するよりも、健康な児童、学力の高い学生、優秀な科学者、社会貢献した退職者の年金など、他分野の福祉・社会保障に財政負担をしたほうが、日本の国力を向上させると判断した。


この?の理由は、優生学に基づく精神障害者排除と全く同じ理論となっている。国民の無知蒙昧よりも、行政官・軍人・学者・医師など専門家の優生学的偏見、非人間的な財政支出節約の発想が原因となって、ハンセン病(らい病)患者の絶対隔離・断種という政策が長期間に渡って採用されたと考えられる。

   <表 2008年現在の日本のハンセン病療養所とその入所者数>


  入所者数(人) 所在地
2008 2007 2006 2005 2004 2003 2002 1995末
国立療養所(13カ所)
松丘保養園  147  152  161  176  189  205  225  312 青森県青森市
東北新生園  144   152   158  167   177   191   208   267 宮城県迫町
栗生楽泉園  169  186   200   223  236  251  271  401 群馬県草津町
多磨全生園   319   334   358   371  417   447   481  685 東京都東村山市
駿河療養所  112   119  127  136  141   151   163   215 静岡県御殿場市
長島愛生園  369   396  424   445  471  499  522  685 岡山県瀬戸内市
邑久光明園   215   230   244  258  267  288  315  422 岡山県瀬戸内市
大島青松園   127   138   155   158   170  188  204  305 香川県高松市
菊池恵楓園  426   456   483   522   557   592  653   854 熊本県合志町
星塚敬愛園  265   279   290  319   339   359  388   531 鹿児島県鹿屋市
奄美和光園   56   59   64   68   69   76   85   131 鹿児島県名瀬市
沖縄愛楽園  276  291  309  326  341   355  407  539 沖縄県名護市
宮古南静園  92  98  107  117   126  131  142  211 沖縄県平良市
国立合計 2,717 2,890 3,080 3,286 3,500 3,733 4,064 5,558  
平均年齢(歳)   79.5   78.9   78.2   77.5   76.8
私立療養所(2カ所)
神山復生病院   8   11   11   11   11   15   15   29 静岡県御殿場市
待労院診療所   8   8   9   10   10   10   11   14 熊本県熊本市西区
私立合計   16   19   20   21   21   25   26   43  
入所者総数 2,733 2,909 3,100 3,307 3,521 3,758 4,090 5,601

【注】入所者数は、2002年以降は5月1日現在の値。
俳優吉永小百合は2013年6月11日、岡山県瀬戸内市の長島愛生園と邑久光明(おくこうみょう)園を初訪問した。
熊本市の待労院(たいろういん)診療所(琵琶崎待労病院)はカトリックのフランシスコ修道会フランス人司祭が1898年(明治三十一年)開設、小倉に勤務していた軍医・森鴎外も訪問、2013年1月閉所。
【出所】Mognet「日本のハンセン病療養所と入所者数」より作成。

沖縄戦とハンセン病患者ー重なる差別に抗して」、吉川由紀(2003)「ハンセン病患者の沖縄戦」『戦争責任研究』 (41), pp.56-64, によると、1943年以降、沖縄に大量に配備された日本軍は、将兵への感染予防のためハンセン病患者の隔離・強制収容を徹底し、「逃げたら撃つ」と銃で威嚇しながら、強行した。そして、国家非常時を理由に女性を含め塹壕・陣地の構築の重労働を強いた。1944年10月10日、アメリカ空母機動部隊による十・十空襲以降は、らい病療養所の沖縄愛楽園は少なくとも8回の空襲を受けたという。宮古島にあったらい病療養所の宮古南静園もこの時空襲を受けている。愛楽園での死者は1945年末までに288人にのぼったという。

日本政府のハンセン病患者強制隔離・断種の方針に対して、ハンセン病治療の可能性を探っていた医師小笠原登は、強制隔離や強制入所、断種に反対したが、医学界はこのような見解を避けた。第二次大戦後の1948年に成立した優生保護法(法律第156号)では、ハンセン病患者を劣等者として、強制入所を継続した。ハンセン病は遺伝疾患でないが、断種や妊娠中絶が続行され、さらに新生児を職員が殺害した場合もあった。

ハンセン病患者は、犯罪者のような扱いに抗議し、1951年、全国国立らい療養所患者協議会を結成して、優生保護法の改正を要求した。 

1907年の癩予防ニ関スル法律は、数回の改正を経て、1953年(昭和28年)に「らい予防法」になり、療養所中心の医療が行われてきた。「らい予防法」には強制入所や、外出制限、秩序維持のための所長の権限などが規定されていた。医師が患者を診察した際に、「伝染」させるおそれがある患者は療養所入所となり、そこで生涯を終えることが多かった。

1953年のらい予防法の目的は、第一条で、「らいを予防するとともに、らい患者の医療を行い、あわせてその福祉を図り、もつて公共の福祉の増進を図る」とされ、一般市民の予防に重点を置き、患者治療と救済は二次的であった。

第二条では、「国及び地方公共団体は、つねに、らいの予防及びらい患者の医療につとめ、患者の福祉を図るとともに、らいに関する正しい知識の普及を図らなければならない」とらい病を特別視した。

第三条では、患者と家族の不当な差別的取扱を禁止したが、第四条では、依然として医師による患者情報の開示を義務付けた。そして、第六条で、「都道府県知事は、らいを伝染させるおそれがある患者について、らい予防上必要があると認めるときは、当該患者又はその保護者に対し、国が設置するらい療養所に入所し、又は入所させるように勧奨することができる。
「都道府県知事は、前項の勧奨を受けた者がその勧奨に応じないときは、患者又はその保護者に対し期限を定めて、国立療養所に入所し、又は入所させることを命ずることができる」と国立療養所への強制入所を認めている。

第七条は、ハンセン病患者の従業禁止、第八条は、患者による汚染箇所の消毒、第九条は、患者の持ち物消毒を定めている。

◆1948年の優生保護法において、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」(第一条)ことを目的に、医師の認定と本人の同意の下で「癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの 」(第三条)を、医師の認定による優生手術の対象とし、「伝染の虞」のあるものを断種(優生手術)を施した。

◆1953年のらい予防法のために、ハンセン病患者はたとえ治癒したとしても、国立ハンセン病療養所に隔離された。これは、収容所やゲットーと同じく、人権を認めない空間であり、社団法人 好善社によれば、次のような特殊差別がある。
1)国立ハンセン病療養所が設置された場所は、離島、山中、海岸など人里離れた場所であり、それは囲い込み施設である。
2)ハンセン病療養所入所者の多くが実名を名乗らず、仮名・偽名で通していた。たとえ夫婦であっても別姓が当然だった。
3)ハンセン病療養所入所者は、家族と隔離あるいは絶縁しており、ふるさと・故郷がない。
4)入所者は、死亡しても一般墓地に埋葬されることはない。所内納骨堂に葬られる。ただし、所内には所内教会のような宗教施設はある。
5)入所者は、正規に結婚していても、優生手術として断種妊娠中絶・堕胎を強要され、子供を産めない。夫婦であっても子孫を残せない空間だった。しかし、入所者胎児ホルマリン漬け標本は作製された。
6)国立ハンセン病療養所では、子供が生まれず、治癒・予防が進み子供が入所者がないために、子供のいない大人だけの高齢化施設である。
7)入所規定はあっても、退所規定がない。したがって、いったん入所したら、出ることができない絶対的終身強制隔離の施設だった。

⇒ハンセン病患者に対しては、家族や地域における差別・偏見はあったが、政府と専門家が、ハンセン病患者を絶対的強制隔離・断種・堕胎する政策を採用したことが、ハンセン病患者とその家族の人権を蹂躙したと考えられる。



杉野桂子「ハンセン病差別の中で生きて」障害学会第5回大会 於:熊本学園大学

平成13年、国賠訴訟判決で国の隔離政策の誤りが断罪された。長い隔離の人生被害に対し、多額と言えるかどうか分からないが、補償金を得たことで今、格差社会の矛先を入所者に向けるような逆差別が現れている。「ただ飯を食っていて大きなことを言うな」とか、「ここは国の施設、俺たちが税金を払っている。筍でも梅でも銀杏でも、国の物は税金を払っている俺たちの物だ」等々。
 また、施設見学に訪れた多くの人が、異口同音に、広くて緑が多くきれいな所だ、医局や売店やグランドもあり、自分もここに住みたいものだと言う。強制隔離の実態を、差別の歴史を知らないで、医療も生活も向上し、建物は建て変わり、全体的に明るくなった目の前の現象だけ見ると、そんな言葉になるのかも知れないが、塀で囲まれ、自由を奪われた空間は広いと言えるだろうか? 子や孫もいない暮らしが明るくて幸せだろうか?
 恵楓園の歴史資料館には、隔離の象徴であった壁や、本妙寺部落の強制撤去、黒髪校事件や藤本事件、あらゆる人権問題と闘ってきた80年の年表や、さまざまの生活用品が展示されている。ハンセン病療養所が病院というより生活の場であったこと、その生活が入ったら最後、死ぬまで続いたこと、それが日本のハンセン病政策そのものであったことを物語っている。(杉野桂子「ハンセン病差別の中で生きて」引用終わり)

鳥取市立北中学校 親子学習会・2年生の感想「島のやまびこ」掲載

 僕は患者の人が囚人と同じ扱いだったというのにとても驚きました。加賀田さんのおっしゃった通り何も悪いことをしていない患者の人がどうしてひどい扱いを受けなければならないのだと、加賀田さんのお話を聞いて思いました。世の中からむりやり離されるというのは僕はそんなことをされた事がないのでよく分かりませんが、きっと言葉には表せないほど苦しいのだろうなあと思います。それと偏見と先入観というのがどんなに恐ろしいかよく分かりました。あと、ハンセン病だけなんで元患者というのか不思議に思います。例えばカゼ元患者とか全然言わないのにハンセン病だけが元とつくのはやっぱり人間は弱いのでそこらへんにも偏見があるのだと思いました。人間回復は今始まったばかりなので僕ももっと勉強していこうと思います。(鳥取市立北中学校 親子学習会・感想引用終わり)

◆日本のハンセン病患者数:1900年(明治33年)の3万人、1919年(大正8年)の約1万6千人へと減少した。戦後は1955年頃から公衆衛生の向上、治療剤によって新規患者数は減少し、2000年前後は毎年10名以下である。他方、外国人患者は1991年頃から増加し、毎年10名前後である。

日本人の新規患者は半数以上が高齢者(60歳以上)であるが、外国人では20〜30代の患者が多い。2000年、全国15のハンセン病療養所には約4,500名が入所している(平均年齢74歳)。ほとんどは治癒しているが、後遺症や高齢化などのため引き続き療養所にとどまっている。なお現在患者は通常半年〜数年の治療で治癒するが、再発や後遺症の経過観察のため、700名余(元療養所入所者や外来患者など)が通院している。

初めてのハンセン病療養所が1909年に設置されて以来、2008年現在、全国に療養所は13カ所、患者2764人が入所している。入所者が多かったのは、1960年で1万2000人が全国各地の療養所に入所していた。らい予防法が廃止されたのは1996年である。

WHO推奨のMDT(Multi-drug Therapy:多剤併用治療)により、1985年から1999年末までに全世界でハンセン病患者1,000万人以上が治癒した。2000年当初の有病者数は75万人、有病率は1.25/人口1万人と、1985年に比べ86%減少した。再発率は年間0.1%程度である。

ハンセン病は、「らい菌」の感染によって、主に皮膚や末梢神経が侵される感染症だが、感染力は強くはない。しかし、触っただけでうつると恐れられた。また、1943年のプロミンに始まる化学療法剤によって、治癒可能となった。これは、「病原体を化学物質の働きで殺し、またはその発育を阻止するとともに、感染を受けた人のもつ免疫力と協力し合って感染症から生体を治癒させること」であり、3種の医薬品のカクテル(ジアフェニルスルホン、リファンピシン及びクロファジミンの併用)を組み合わせた多剤併用療法(Multidrug Therapy:MDT)で行われている。

しかし、末梢神経の障害から後遺症が残り(200〜300万人)、社会生活困難な患者も多い。また、WHO推奨のMDTにもかかわらず、新規患者数はいまだに毎年約70万人である。

年間の新規ハンセン病患者登録数が多い国はインド(約52.7万人)、ブラジル(約7.3万人)、インドネシア(約2.9万人)、バングラデシュ、ミャンマー、ネパール、ナイジェリア(各約1.3万人)、フィリピン(約0.9万人)など。 


7.「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟とハンセン病元患者宿泊拒否事件

1998年(平成10年)7月、熊本地裁に、「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」が提訴され、翌1999年には東京、岡山でも訴訟が提訴された。2001年(平成13年)5月11日、熊本地裁で原告(患者・元患者)が勝訴、政府は控訴をあきらめた。そこで、201年6月、 衆参両院で次のハンセン病問題に関する決議(第一五一回国会、決議第五号)が採択された。

「去る五月十一日の熊本地方裁判所におけるハンセン病国家賠償請求訴訟判決について、政府は控訴しないことを決定した。本院は永年にわたり採られてきたハンセン病患者に対する隔離政策により、多くの患者、元患者が人権上の制限、差別等により受けた苦痛と苦難に対し、深く反省し謝罪の意を表明するとともに、多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の誠を捧げるものである。
 さらに、立法府の責任については、昭和六十年の最高裁判所の判決を理解しつつ、ハンセン病問題の早期かつ全面的な解決を図るため、我々は、今回の判決を厳粛に受け止め、隔離政策の継続を許してきた責任を認め、このような不幸を二度と繰り返さないよう、すみやかに患者、元患者に対する名誉回復と救済等の立法措置を講ずることをここに決意する。
 政府においても、患者、元患者の方々の今後の生活の安定、ならびにこれまで被った苦痛と苦難に対し、早期かつ全面的な解決を図るよう万全を期するべきである。  右決議する。 」

その後、新たに補償法が制定された。日本政府が患者・元患者に謝罪し、2002年4月、国立ハンセン病療養所を退所した元患者のための福祉政策として、国立ハンセン病療養所等退所者給与金事業が始まった。厚生労働省の平成21年度(2009年)のハンセン病対策別予算は、社会復帰・社会内生活支援33.3億年、謝罪・名誉回復措置17.2億円など合計52億9122万円である。

2001年5月11日、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟の熊本地裁判決

1998年来の「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決
 患者の隔離は、患者に対し、継続的で極めて重大な人権の制限を強いるものであるから、少なくとも、ハンセン病予防という公衆衛生上の見地からの隔離の必要性を認め得る限度で許されるべきものである。らい予防法が制定された1948年前後の医学的知見を総合すると、遅くとも1950年以降においては、ハンセン病は、隔離政策を用いなければならないほどの特別の疾患ではなくなっており、すべての入所者及びハンセン病患者について、隔離の必要性が失われた。

 したがって、厚生省としては、隔離政策の抜本的な変換等をする必要があったが、新法廃止まで、これを怠った。この点で、厚生大臣の職務行為に国家賠償法上の違法性及び過失があると認めるのが相当である。

 らい予防法は、伝染させるおそれがある患者の隔離を規定しているが、この隔離規定は1950年には、合理的根拠を全く欠いており、違憲性が明白となっていた。したがって、らい予防法の隔離規定を改廃しなかった国会議員に立法上の不作為があり、国家賠償法上の違法性及び過失を認める。

慰謝料額は、初回入所時期と入所期間に応じて、一四〇〇万円、一二〇〇万円、一〇〇〇万円及び八〇〇万円の四段階とする。認容額の総額は,一八億二三八〇万円(うち慰謝料が一六億五八〇〇万円,弁護士費用が一億六五八〇万円)である。

21世紀に入っても、ハンセン病患者や元患者に対する差別は、過去のものとはなっていない。感染力が弱いことが判明したとしても、気持ち悪いと顧客が予測するような人物を受け入れることは、経済的利益や営業収入を本命とするビジネスマンには受け入れがたいものである。企業人の間では「うちはボランティアじゃない」の論理は以前として根強い。この一つの事例が、2003年におきたハンセン病患者宿泊拒否事件である。

2003年ハンセン病患者宿泊拒否事件

熊本県阿蘇郡南小国町アイレディース宮殿黒川温泉ホテルは、国立ハンセン病療養所の一つである菊池恵楓園(菊池郡合志町)の宿泊を拒否した。
 このホテルは、2003年9月19日、熊本県の社会復帰支援策「ふるさと訪問里帰り事業」に応募した菊池恵楓園元患者18人、付き添い4人の宿泊予約を受けたが、入所者であることが判明すると、ホテル側は県に対し「他の宿泊客に迷惑がかかることが一番心配」との理由で電話で宿泊の遠慮を求めた。県は、感染の恐れがないこと、ハンセン病患者への偏見解消を説明、また同ホテルを経営するアイスター東京本社を訪問、潮谷知事の抗議文を渡し、再考を求めた。しかし、社長は会社の判断としてお断りする、と伝えた。

アイスターホテルハンセン病患者宿泊拒否事件の経緯
2003年9月17日 熊本県、「ふるさと訪問里帰り事業」としてアイレディース宮殿黒川温泉ホテルに明治42年設立の国立ハンセン病療養所である菊池恵楓園入所者22 人の宿泊を予約
11月7日県、アイレディース宮殿黒川温泉ホテルにFAXで宿泊者名簿を送付し、宿泊予定者が国立ハンセン病療養所入所者であることを伝達
11月13日 ホテル、ハンセン病元患者であることを理由に宿泊拒否を県に伝達
11月14日 県職員、化粧品訪問販売会社「アイスター」(本社・東京)に出向き、知事名の申入書を提出するが、宿泊拒否の回答を受ける
11月15日 熊本県が、菊池恵楓園にホテル宿泊拒否について報告
11月17日 ふるさと訪問里帰り事業参加者に宿泊ホテル変更を説明
菊池恵楓園入所者自治会、ホテルに出向き抗議するが、ホテル側は宿泊拒否の姿勢を変えず
11月18日 熊本県知事、定例記者会見でアイレディース宮殿黒川温泉ホテルが恵楓園入所者の宿泊拒否を公表
県、宿泊場所を熊本県長陽村のホテルに変更してふるさと訪問里帰り事業を実施(一泊)
11月20日 ホテル総支配人、菊池恵楓園を訪れ謝罪、菊池恵楓園入所者自治会は受け入れを拒否
11月21日 ホテル側の謝罪を拒否した菊池恵楓園入所者自治会に抗議の電話と手紙が殺到
熊本地方法務局と県、旅館業法違反でアイレディース宮殿黒川温泉ホテルを熊本地検に告発(25 日に受理)
南小国町及び黒川温泉観光旅館組合、菊池恵楓園入所者自治会を謝罪訪問

2003年12月 1日 アイレディース宮殿黒川温泉ホテルにおける宿泊問題に関する会見
「この度は世間の皆様方をお騒がせし、大変申し訳ありませんでした。 」
同席者:株式会社アイスター代表取締役 江口 忠雄、株式会社アイスター取締役 渡邊榮三郎、黒川温泉ホテル総支配人 前田篤子、黒川温泉ホテル支配人 津行由道
前任の代表取締役西山栄一は高齢による健康上の問題と、激務に対する体力の限界を感じ、株式会社アイスターの一切の役職を辞任いたしました。
 「私共は、今回の一件におきまして、恵楓園入所の方々の人権問題と宿泊拒否問題に関しては別々の問題と考えております。人権問題に関しましては、一切の人権を侵害したり無視したりという意思は全くございません。宿泊拒否問題に関しましては、ホテル業として当然の判断であったと考えています。
 その理由は、私たちが恵楓園入所の方々であると知ったのは直前であり、 ホテルの認識不足もあって、他のお客様との調整を取る時間がなかったのです。予約から2ヶ月近くの間、ひた隠しにしていた県側に責任があると考えます。もちろん恵楓園入所の方々にご迷惑をおかけしたという事実はございますが、 ご迷惑をおかけせざるを得なかったわけです。予約の段階で、県側から恵楓園入所の方々であると知らされていたなら、他のお客様とのコミュニケーションをとり、お互いが納得してご利用していただける環境を作ることができたのです。今回のように直前になって知ったことで、時間的余裕もなく、また認識不足もあり、ホテル側も受け入れる事が出来なかったのが事実です。
この点を是非ご理解いただきたいと存じます。黒川温泉ホテルでは今後の方針と致しまして、全てのお客様にご満足いただけるよう、受け入れ体制を整えてまいります。」

2004年1月20日 熊本県化粧品訪問販売会社「アイスター」(本社・東京)江口忠雄社長を事情聴取、社長は「宿泊拒否は間違いだったが、県に責任がある」と主張
2月14日 熊本県知事、高齢者や障害者の人権を考える県民シンポで「過去の無らい県運動などの過ちを認め、さらに啓発運動を推進し、私たち自身が人権意識を見つめ直す必要がある」と講演
2月15日 西日本新聞、「ホテルの3 日間の営業停止処分の方針を県が決定」と報道
2月16日 熊本日々新聞、「県がホテル4 日間営業停止の方針を固めた」と報道
化粧品訪問販売会社「アイスター」(本社・東京)江口忠雄社長は「宿泊を断ったことに対する最大かつ最善の謝罪」として廃業することをアイレディース宮殿黒川温泉ホテル従業員38 人に説明
この後、菊池恵楓園ハンセン病患者には、傲慢、やりすぎとの抗議と励ましの双方の電話が殺到

3月12日 アイレディース宮殿黒川温泉ホテル宿泊問題に関する声明文
株式会社アイスター代表取締役 江口忠雄、代理人弁護士 松尾翼
 かねてから当社がハンセン氏病元患者の方々の宿泊の拒否をしたということが問題となっており、このため、ハンセン氏病元患者の方々及びその関係者御一同に対して大変御迷惑をかけたことについて、心から謝罪の意思を表明しておりましたところ、熊本県から来る3月15日から3日間にわたるホテルの営業禁止の行政処分の通知をされました。
 この行政処分につきまして、当社は以下の通り、重ねて謝罪の意を明らかに し、かつ、当社の会社の方針及び理念を明らかにいたします。 

1.当社は上記熊本県の行政処分に対し、行政訴訟を提起いたしません。
2.当社は既に公式にハンセン氏病元患者関係者に心からなる謝罪をしました。現在もハンセン病の方々には、今回の宿泊拒否の件に関し心から申し訳なく思っております。
3.当社が、上記意思表明するに至りましたいきさつ及び理由は、以下の通りです。
1) 今回の熊本県の行政処分については、違法であり、不当であると存じております。それは、第1に県が用いた欺計行為についてであり、第2に県がハンセン氏病に関する啓発活動を本件に関して故意に怠ったことであり、第3に憲法に定める「法の正当な手続条項」に違反し、行政手続法の公平性と透明性に違反したからであり、第4にこの真実を公にせず一方的な情報リークを行ったからであります。私共はホテルに宿泊される一般の方々のごく普通のお客様としての感情と、人権とについても配慮しなければなりません。
2) 心から残念に思うのは熊本県が9月18日の最初の時から嘘を言わず、且つハンセン氏病に関する啓発活動に当社の協力を求め、更にこれを黒川温泉ホテルの全体の問題として捉えて旅館組合に啓発活動についての、協力を求めて下さっていたならば全国的にも歴史的にもハンセン氏病関係者の方にも一般宿泊者の方にも、非常に良い進展があったろうにと思えますことです。本当に残念に存じます。
3) 当社は真剣に行政処分取消訴訟を提起し、全て公開の法廷で明かにし、県の違法不当行為を明らかにしようとも考えました。しかし、当社は行政処分取消訴訟の提起を取りやめました。理由はその訴訟の過程で真実を明らかにする事により、傷つく人々が出て来るのは避けられないことが明らかだからです。
4) 当社の社是及び理念は「全ての人を愛せ」と言うに尽きます。古代ギリシャでソクラテスの処刑の時も充分な弁明のチャンスがありました。しかし、最後にもう一度繰り返します。私共は既に心からなる謝罪をしました。5月の連休明けにはホテルも廃業し、閉鎖し、取り壊します。県の行政処分については納得しておりませんが、私共はたとえそれが訴訟という合法的な形をとるにせよ、結果として他人の人権を傷つけるような行動はしません。
4.歴史の審判を待ち当社の「全ての人を愛する」社是と理念をご理解戴きたく存じます。

5月1日 黒川温泉ホテル閉館のお知らせ
「2004年5月5日(水) 弊社 アイレディース宮殿黒川温泉ホテルにおいて最後のお客様 をホテル従業員全員でお見送りさせて戴き、 5月 6日付けをもって当ホテルを閉館させ て戴く事になりました。」

ハンセン病患者・元患者の人権回復が公式に認められたが、依然として差別・偏見は根強い。差別・偏見は、必ずしも犯罪ではなく、処罰の対象ではないからである。同じことは、HIVの感染者、精神障害者についても言える。入学拒否、診療拒否、就業拒否など人権侵害が起こっているが、これに対しては、差別によって人間の尊厳や人権を損なうことが害悪であるという認識を広める啓蒙・社会啓発が必要となる。そのための教育強化、差別を禁止する法整備、人権侵害の救済機関の設置、さらには教育・医療・雇用機会の斡旋・提供、補助金支給も求められる。したがって、少数者の人権確保するために、財政負担がなされなければならない。


8.天皇皇后両陛下のお慈悲:ご訪問のあったハンセン病療養所・精神障害者施設
(宮内庁「国内のお出まし:福祉施設などのご訪問 」)


平成4年5月10日、在宅心身障害児療育訓練施設 やすらぎ荘(福岡県夜須町)
家庭にいる心身障がい児(者)たちが通園で訓練をする施設

平成6年10月27日、重症心身障害児施設第一びわこ学園(滋賀県草津市)
18歳以上の中重度の知的障害のある方を対象に地域社会への参加に向けた取組

平成6年11月18日、精神薄弱者更生施設桑の木園(島根県金城町)
入所施設支援35名/短期入所5名/生活介護40名)

平成10年12月9日、社会福祉法人 愛光(身体障害者療護施設「ルミエール」・重度身体障害者更生援護施設「リホープ」・精神薄弱者更生施設「めいわ」(千葉県佐倉市)
利用者個人のあるべき姿を想定し、その支援方法をさぐる。軽度・中度領域の知的障害を併せ持つ視覚障害者ならびに地域の身体障害者

平成12年12月7日、社会福祉法人からしだね・知的障害児通園施設「うめだ・あけぼの学園」(東京都足立区)発達障害乳幼児とリスク児の発達支援とその家族を支援するため、ドイツ人のイエズス会神父 ペトロ・ハイドリッヒによって 1977年2月に設立されたこども発達支援センター

平成13年11月29日、三重県立養護学校「玉城わかば学園」(三重県玉城町)
天皇、皇后両陛下、地方事業視察のため来校、トイレ新設、第8回卒業式 小学部6名、中学部5名、高等部21名卒業

平成14年11月16日、県立虹の原養護学校(長崎県大村市)
知的障害児を対象とした長崎県立久原養護学校(昭和46年開校)が前身。
校舎は小学部・中学部・高等部と作業棟ゾーン、体育館、寄宿舎棟から構成。子どもたち一人一人が学校生活の主役となれるよう、「自尊・自主・自立」の校訓のもと、社会の一員として自立をしていくために必要な態度や能力、健康で心豊かな人格が育まれるように支援。

平成14年12月11日、知的障害者更生施設、愛名やまゆり園(身体障害者の日にちなみ)(神奈川県厚木市)
施設入所支援:指定障害者支援施設、定員110名

平成15年11月16日、国立療養所奄美和光園(ハンセン病療養所)(鹿児島県名瀬市)
入園者52名(H21.4.1)、平均年齢82才、平均在園年数50年余、ほぼ全員が奄美群島出身者。
入所者が療養生活を行う居住棟は、一般舎・不自由者棟(ゆらいの郷)・病棟で、病状や不自由度に応じて看護及び生活の介護が行われる。
病棟は、一般舎、不自由者棟(ゆらいの郷)入居者が疾病集中治療が必要になった場合、合併症悪化の場合に入室するが、現在では長期入室者が多い。不自由者棟(ゆらいの郷)は、高度の後遺症や合併症をもった患者で、生活介護。一般舎は、機能障害などの後遺症があるが、自立生活可能者の居住棟。
入所者高齢化に伴って、看護、介護度も増大。定期健康診断を年2回実施。誕生会、敬老会、クリスマス会、夏祭り、お花見等の行事、園外へのバスレクリエーションの催しあり。同好会には、ゲートボールクラブ、カラオケクラブなど。畑仕事は、園内の菜園。入所者は、クリスチャンが多いが、仏教信者もいる。

平成16年1月25日、国立療養所宮古南静園(沖縄県平良市)
基本方針:
1.入所者一人一人の「生きがい」を共に追求します。
2.安心で信頼できるチーム医療を提供します。
3.地域との交流を図り、ハンセン病の啓発活動に努めます。
4.職員の質の向上のため、教育・研修に努めます。

平成16年12月9日、知的障害者授産施設「済美職業実習所」(障害者の日にちなみ)(東京都杉並区)
福祉施設や作業所に通っている知的障害者を対象に、地域社会の中に生活の場を提供し、日常生活を送るために必要な支援を行う。

平成17年6月4日、知的障害者通所更生施設 松の木学園(茨城県鹿嶋市)
○在宅の知的障がい者が,日々保護者のもとから通所,一人ひとりの心身の状況に応じた生活訓練,作業訓練を通して社会的自立を図る。
○生活訓練…集団による行動を通して社会性を養い,言語・感覚・運動機能などの伸長を支援する。社会生活への適応力を高めるために,食事・排泄・衣類の着脱・移動など生活面での自立を促す。
○作業訓練…収穫や物を作り出す喜び・達成感・満足感の充足を図るために,野菜や草花の栽培・室内での創作作業を行なう。
□主な行事:○明るく生きがいの感じられる学園生活を提供するために,四季折々の遠足,学園祭,運動会,成人を祝う会,誕生会。

平成17年8月22日、重度障害者多数雇用事務所・知的障害者能力開発センター 阪神友愛食品株式会社(兵庫県西宮市)
働く意思と能力を持ちながら就職の機会に恵まれない重度の障害者に職場を確保し、自立した生活が営めるよう促すことを目的に設立。
知的障害者の能力開発センターを併設し、一年間の訓練の後、公共職業安定所と連携しながら、阪神7市1町の各企業様に就職を斡旋・紹介。

平成17年10月23日、国立療養所長島愛生園(岡山県瀬戸内市)
現在300人近い入所者の病気治療を行い、生活のお世話をすることが愛生園の役目。
ハンセン病は完治し菌のある人はいないが、後遺症のために目が見えなかったり、手・足の動きや感覚が鈍くなったりと障害者が大半である。平均年齢82.8歳で、体が不自由である。
故郷や家族のもとに帰ることができないのは、体の障害のためだけではない。1930年に長島愛生園がハンセン病の患者を集めて治療する目的で設立されたが、国の療養所13カ所の第1号だった。1948年頃から治療薬が使用され、若くて障害の少ない人は退所し、ハンセン病であったことを隠して生活した。外見で障害がわかる人は、家族に偏見・差別の被害が及ぶのを恐れて退所できなかった。
1996年、入所者が自由に社会に出ることができるようになったが、この時入所者の平均年齢は70歳以上に達していた。差別もあり生涯を療養所で過ごすしかなかった。
2003年8月、長島愛生園歴史館を開館、愛生園の資料を展示しハンセン病とそれを取り巻く問題についてわかりやすく説明している。

平成17年10月23日、国立療養所邑久光明園(岡山県瀬戸内市)
光明園のある瀬戸内市邑久町は、大正ロマンの画家竹久夢二の生まれた町。
ハンセン病は慢性の感染症で、らい菌は神経組織との親和性が高く、末梢神経がおかされ神経障害症状が起こる。現在、抗生剤を中心とする治療法が確立され完治するが、1943年までは有効な治療法がなかった。
現在、当園入所者はそれ以前に罹病したため、後遺症とが残っている。早期診断と早期治療によって、最近診断を受けた患者の多くは、障害を残さずに治癒。
看護部は、看護師・准看護師96名、看護助手・賃金看護助手(介護員)90名で構成。


9.2006年改正ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律(ハンセン病補償法
2001年平成十三年六月二十二日法律第六十三号、最終改正:2006年平成一八年二月一〇日法律第二号)

 ハンセン病の患者は、これまで、偏見と差別の中で多大の苦痛と苦難を強いられてきた。我が国においては、昭和二十八年制定の「らい予防法」においても引き続きハンセン病の患者に対する隔離政策がとられ、加えて、昭和三十年代に至ってハンセン病に対するそれまでの認識の誤りが明白となったにもかかわらず、なお、依然としてハンセン病に対する誤った認識が改められることなく、隔離政策の変更も行われることなく、ハンセン病の患者であった者等にいたずらに耐え難い苦痛と苦難を継続せしめるままに経過し、ようやく「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されたのは平成八年(1996年)であった。

 我らは、これらの悲惨な事実を悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め、深くおわびするとともに、ハンセン病の患者であった者等に対するいわれのない偏見を根絶する決意を新たにするものである。

 ここに、ハンセン病の患者であった者等のいやし難い心身の傷跡の回復と今後の生活の平穏に資することを希求して、ハンセン病療養所入所者等がこれまでに被った精神的苦痛を慰謝するとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図り、あわせて、死没者に対する追悼の意を表するため、この法律を制定する。

(趣旨) 第一条  この法律は、ハンセン病療養所入所者等の被った精神的苦痛を慰謝するための補償金(以下「補償金」という。)の支給に関し必要な事項を定めるとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復等について定めるものとする。

(定義) 第二条  この法律において「ハンセン病療養所入所者等」とは、次に掲げる者をいう。
一  らい予防法の廃止に関する法律(平成八年法律第二十八号。以下「廃止法」という。)によりらい予防法(昭和二十八年法律第二百十四号)が廃止されるまでの間に、国立ハンセン病療養所(廃止法第一条の規定による廃止前のらい予防法(以下「旧らい予防法」という。)第十一条の規定により国が設置したらい療養所をいう。)その他の本邦に設置された厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所(以下「国内ハンセン病療養所」という。)に入所していた者であって、この法律の施行の日(以下「施行日」という。)において生存しているもの
二  昭和二十年八月十五日までの間に、行政諸法台湾施行令(大正十一年勅令第五百二十一号)第一条の規定により台湾に施行された旧らい予防法附則第二項の規定による廃止前の癩予防法(明治四十年法律第十一号)第三条第一項の国立癩療養所、朝鮮癩予防令(昭和十年制令第四号)第五条の朝鮮総督府癩療養所その他の本邦以外の地域に設置された厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所(以下「国外ハンセン病療養所」という。)に入所していた者であって、施行日において生存しているもの(前号に掲げる者を除く。)


(補償金の支給) 第三条  国は、ハンセン病療養所入所者等に対し、その者の請求により、補償金を支給する。

(請求の期限) 第四条  補償金の支給の請求は、次の各号に掲げるハンセン病療養所入所者等の区分に従い、当該各号に掲げる日から起算して五年以内に行わなければならない。

(補償金の額) 第五条  補償金の額は、次の各号に掲げるハンセン病療養所入所者等の区分に従い、当該各号に掲げる額とする。
一  昭和三十五年十二月三十一日までに、初めて国内ハンセン病療養所に入所した者 千四百万円
二  昭和三十六年一月一日から昭和三十九年十二月三十一日までの間に、初めて国内ハンセン病療養所に入所した者 千二百万円
三  昭和四十年一月一日から昭和四十七年十二月三十一日までの間に、初めて国内ハンセン病療養所に入所した者 千万円
四  昭和四十八年一月一日から平成八年三月三十一日までの間に、初めて国内ハンセン病療養所に入所した者 八百万円
五  第二条第二号に掲げる者 八百万円

2  前項の規定にかかわらず、同項第一号から第三号までに掲げる者であって、昭和三十五年一月一日から昭和四十九年十二月三十一日までの間に国内ハンセン病療養所から退所していたことがあるものに支給する補償金の額は、次の表の上欄に掲げるハンセン病療養所入所者等の区分及び同表の中欄に掲げる退所期間(昭和三十五年一月一日から昭和四十九年十二月三十一日までの間に国内ハンセン病療養所から退所していた期間を合計した期間をいう。以下同じ。)に応じ、それぞれ、同表の下欄に掲げる額を同項第一号から第三号までに掲げる額から控除した額とする。
ハンセン病療養所入所者等の区分 退所期間 額
前項第一号に掲げる者 二十四月以上百二十月未満 二百万円
百二十月以上二百十六月未満 四百万円
二百十六月以上 六百万円
前項第二号に掲げる者 二十四月以上百二十月未満 二百万円
百二十月以上 四百万円
前項第三号に掲げる者 二十四月以上 二百万円

(支払未済の補償金) 第六条  ハンセン病療養所入所者等が補償金の支給の請求をした後に死亡した場合において、その者が支給を受けるべき補償金でその支払を受けなかったものがあるときは、これをその者の配偶者(届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)、子、父母、孫、祖父母又は兄弟姉妹であって、その者の死亡の当時その者と生計を同じくしていたもの(以下「遺族」という。)に支給し、支給すべき遺族がないときは、当該死亡した者の相続人に支給する。

(譲渡等の禁止) 第八条  補償金の支給を受ける権利は、譲渡し、担保に供し、又は差し押さえることができない。

(非課税) 第九条  租税その他の公課は、補償金を標準として課することができない。

名誉の回復等) 第十一条  国は、ハンセン病の患者であった者等(第二条第二号に掲げる者を除く。次項において同じ。)について、名誉の回復及び福祉の増進を図るとともに、死没者に対する追悼の意を表するために必要な措置を講ずるよう努めなければならない。 2  前項の措置を講ずるに当たっては、ハンセン病の患者であった者等の意見を尊重するものとする。 (ハンセン病補償法引用終わり)


10.2008年ハンセン病問題の解決の促進に関する法律:ハンセン病問題基本法
(2008年平成二十年六月十八日法律第八十二号

大阪府健康医療部 保健医療室健康づくり課の作成した「ハンセン病問題を理解するために(ハンセン病回復者の被害と名誉の回復を目指して)」では、次のように述べている。

2001(平成13)年5月11日、熊本地方裁判所において、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」(ハンセン病国賠訴訟)の判決が言い渡されました。この判決は、89年にわたり、国によって行われてきたハンセン病対策が「誤っていた」ことを認めるものでした。
 1907(明治40)年法律第11号「癩予防ニ関スル件」が制定されてから、1996(平成8)年に「らい予防法」が廃止されるまで、国は、患者の強制隔離収容を基本としたハンセン病対策を続けてきました。そして、この法律にもとづいて、患者やその家族の人権を省みず、患者を強制的に療養所へ送り込んだのは、大阪府も含めた地方自治体であり、患者の情報を提供したのは、市町村や地域の住民でした。
 このように、国、地方自治体、住民が一体となって、自分たちの故郷からハンセン病患者を療養所へ送り込む、いわゆる「無癩(らい)県運動」を展開し、ハンセン病患者やその家族の方に大きな苦痛と苦難を強いてきたのです。
 こうした反省を踏まえ、現在、国や地方自治体は、入所者の方が療養所から生まれ育った地域に帰るための「里帰り事業」の充実や「社会復帰」するための支援に取り組んでいます。( 大阪府「ハンセン病問題を理解するために(ハンセン病回復者の被害と名誉の回復を目指して)」引用終わり)

 ハンセン病で苦しむ患者・元患者を社会から排除し、強制隔離することは、患者とその家族に対する偏見、差別を生む。1907(明治40)年の法律第11号「癩予防ニ関スル件」、改定を重ねた「らい予防法」は、89年間も継続し、その結果、ハンセン病患者の人権は無視され続けることになった。

 ハンセン病患者が療養所に収容されると、現金は園内通用券(療養所内だけで通用する貨幣)に替えられる。園名を名乗るよう強制され、絶対隔離が一生涯続くことを自覚させられた。中には、ハンセン病患者を収容する際に、消毒液の入った「消毒風呂」に入れさせる療養所もあった。

 療養所各園において、入所者は、「患者作業」(重症患者の看護・建設労働・火葬場の仕事)を強いられ、体力を消耗し、手足に傷をつくることで、重い後遺症を残した。

 療養所では、外出・退所は厳しく制限され、手紙の開封・検閲も行われた。1916〔大正5〕年、療養所所長に懲戒検束権(刑罰・自由の拘束の権限)が与えられ、各療養所には監房(牢屋)が設置された。

 大阪府健康医療部 保健医療室健康づくり課「ハンセン病問題を理解するために(ハンセン病回復者の被害と名誉の回復を目指して)」は、「このような人権・人格を無視した誤った政策は、どんな病気に対しても二度と行われるようなことがあってはなりません」と結んでいる。

ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(2008年6月18日法律第82号)

 「らい予防法」を中心とする国の隔離政策により、ハンセン病の患者であった者が地域社会において平穏に生活することを妨げられ、身体及び財産上の被害、生活上の人権制限、差別を受けた。このことを2001年6月、我々は悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め、深くお詫びし、ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」を制定し、精神的苦痛の慰謝、名誉の回復及び福祉の増進を図り、あわせて、死没者に対する追悼の意を表することとした。

 しかしながら、国の隔離政策に起因してハンセン病の患者であった者等が受けた身体及び財産上の被害、生活上の被害の回復には、未解決の問題がある。特にハンセン病患者が、地域社会から孤立することなく、良好かつ平穏な生活を営むための基盤整備は緊急の課題である。ハンセン病元患者に対する偏見と差別のない社会の実現に向けて、真摯に取り組んでいかなければならない。

 ここに、ハンセン病元患者の福祉の増進、名誉の回復のための措置を講ずることにより、ハンセン病問題の解決の促進を図るため、この法律を制定する。 

     第一章 総則

(趣旨)第一条  この法律は、国によるハンセン病の患者に対する隔離政策に起因して生じた問題であって、ハンセン病の患者であった者等の福祉の増進、名誉の回復等に関し現在もなお存在するもの(以下「ハンセン病問題」)の解決の促進に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、ハンセン病問題の解決の促進に関し必要な事項を定めるものとする。

(定義)第二条  「国立ハンセン病療養所」とは、厚生労働省設置法(平成十一年法律第九十七号)第十六条第一項に規定する国立ハンセン病療養所をいう。
3  「入所者」とは、らい予防法の廃止に関する法律(平成八年法律第二十八号。以下「廃止法」)によりらい予防法(昭和二十八年法律第二百十四号。以下「予防法」)が廃止されるまでの間に、ハンセン病を発病した後も相当期間日本国内に住所を有していた者であって、現に国立ハンセン病療養所等に入所しているものをいう。

(基本理念)第三条  ハンセン病問題に関する施策は、国によるハンセン病の患者に対する隔離政策によりハンセン病の患者であった者等が受けた身体及び財産に係る被害その他社会生活全般にわたる被害に照らし、その被害を可能な限り回復することを旨として行われなければならない。
2  ハンセン病問題に関する施策を講ずるに当たっては、入所者が、現に居住する国立ハンセン病療養所等において、その生活環境が地域社会から孤立することなく、安心して豊かな生活を営むことができるように配慮されなければならない。
3  何人も、ハンセン病の患者であった者等に対して、ハンセン病の患者であったこと又はハンセン病に罹患していることを理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない

(国及び地方公共団体の責務) 
第四条  国は、前条に定める基本理念にのっとり、ハンセン病の患者であった者等の福祉の増進等を図るための施策を策定し、及び実施する責務を有する。
第五条  地方公共団体は、基本理念にのっとり、国と協力しつつ、その地域の実情を踏まえ、ハンセン病の患者であった者等の福祉の増進等を図るための施策を策定し、及び実施する責務を有する。

(ハンセン病元患者と関係者の意見の反映のための措置)
第六条  国は、ハンセン病問題に関する施策の策定及び実施に当たっては、ハンセン病の患者であった者等その他の関係者との協議の場を設ける等これらの者の意見を反映させるために必要な措置を講ずるものとする。

   第二章 国立ハンセン病療養所等における療養及び生活の保障

国立ハンセン病療養所における療養)
第七条  国は、国立ハンセン病療養所において、入所者(国立ハンセン病療養所に入所している者に限る。第九条及び第十四条を除き)に対して、必要な療養を行うものとする。

(国立ハンセン病療養所への再入所及び新規入所)
第八条  国立ハンセン病療養所の長は、廃止法により予防法が廃止されるまでの間に、国立ハンセン病療養所等に入所していた者であって、現に国立ハンセン病療養所等を退所しており、かつ、日本国内に住所を有するもの(以下「退所者」)又は廃止法により予防法が廃止されるまでの間に、ハンセン病を発病した後も相当期間日本国内に住所を有したことがあり、かつ、国立ハンセン病療養所等に入所したことがない者であって、現に国立ハンセン病療養所等に入所しておらず、かつ、日本国内に住所を有するもののうち、厚生労働大臣が定める者(以下「非入所者」)が、必要な療養を受けるために国立ハンセン病療養所への入所を希望したときは、入所させないことについて正当な理由がある場合を除き、国立ハンセン病療養所に入所させるものとする。
2  国は、前項の規定により国立ハンセン病療養所に入所した者に対して、必要な療養を行うものとする。

国立ハンセン病療養所以外のハンセン病療養所における療養に係る措置)
第九条  国は、入所者(第二条第二項の厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所に入所している者に限る)に対する必要な療養が確保されるよう、必要な措置を講ずるものとする。

意思に反する退所及び転所の禁止
第十条  国は、入所者の意思に反して、現に入所している国立ハンセン病療養所から当該入所者を退所させ、又は転所させてはならない。 

(国立ハンセン病療養所における医療及び介護に関する体制の整備のための措置)
第十一条  国は、医師、看護師及び介護員の確保等国立ハンセン病療養所における医療及び介護に関する体制の整備のために必要な措置を講ずるよう努めるものとする。
2  地方公共団体は、前項の国の施策に協力するよう努めるものとする。

(良好な生活環境の確保のための措置等)
第十二条  国は、入所者の生活環境が地域社会から孤立することのないようにする等入所者の良好な生活環境の確保を図るため、国立ハンセン病療養所の土地、建物、設備等を地方公共団体又は地域住民等の利用に供する等必要な措置を講ずることができる。
2  国は、前項の措置を講ずるに当たっては、入所者の意見を尊重しなければならない。

(福利の増進)
第十三条  国は、入所者の教養を高め、その福利を増進するよう努めるものとする。

   第三章 社会復帰の支援並びに日常生活及び社会生活の援助

(社会復帰の支援のための措置)
第十四条  国は、国立ハンセン病療養所等からの退所を希望する入所者(廃止法により予防法が廃止されるまでの間に、国立ハンセン病療養所等に入所していた者に限る。)の円滑な社会復帰に資するため、退所の準備に必要な資金の支給等必要な措置を講ずるものとする

ハンセン病療養所退所者給与金及びハンセン病療養所非入所者給与金の支給
第十五条  国は、退所者に対し、その者の生活の安定等を図るため、ハンセン病療養所退所者給与金を支給するものとする。
2  国は、非入所者に対し、その者の生活の安定等を図るため、ハンセン病療養所非入所者給与金を支給するものとする。
3  前二項に定めるもののほか、第一項のハンセン病療養所退所者給与金及び前項のハンセン病療養所非入所者給与金(以下「給与金」)の支給に関し必要な事項は、厚生労働省令で定める。
4  租税その他の公課は、給与金を標準として、課することができない。

(ハンセン病等に係る医療体制の整備)
第十六条  国及び地方公共団体は、退所者及び非入所者が、国立ハンセン病療養所等及びそれ以外の医療機関において、安心してハンセン病及びその後遺症その他の関連疾患の治療を受けることができるよう、医療体制の整備に努めるものとする。

(相談及び情報の提供等)
第十七条  国及び地方公共団体は、退所者及び非入所者が日常生活又は社会生活を円滑に営むことができるようにするため、これらの者からの相談に応じ、必要な情報の提供及び助言を行う等必要な措置を講ずるものとする。

   第四章 名誉の回復及び死没者の追悼

第十八条  国は、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復を図るため、国立のハンセン病資料館の設置、歴史的建造物の保存等ハンセン病及びハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及啓発その他必要な措置を講ずるとともに、死没者に対する追悼の意を表するため、国立ハンセン病療養所等において収蔵している死没者の焼骨に係る改葬費の遺族への支給その他必要な措置を講ずるものとする。

   第五章 親族に対する援護

(親族に対する援護の実施)
第十九条  都道府県知事は、入所者の親族(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)のうち、当該入所者が入所しなかったならば、主としてその者の収入によって生計を維持し、又はその者と生計を共にしていると認められる者で、当該都道府県の区域内に居住地(居住地がないか、又は明らかでないときは、現在地)を有するものが、生計困難のため、援護を要する状態にあると認めるときは、これらの者に対し、この法律の定めるところにより、援護を行うことができる。ただし、これらの者が他の法律(生活保護法(昭和二十五年法律第百四十四号)を除く。)に定める扶助を受けることができる場合においては、その受けることができる扶助の限度においては、その法律の定めるところによる。
2  前項の規定による援護(以下「援護」という。)は、金銭を支給することによって行うものとする。ただし、これによることができないとき、これによることが適当でないとき、その他援護の目的を達するために必要があるときは、現物を支給することによって行うことができる。
3  援護のための金品は、援護を受ける者又はその者が属する世帯の世帯主若しくはこれに準ずる者に交付するものとする。
4  援護の種類、範囲、程度その他援護に関し必要な事項は、政令で定める。

(都道府県の支弁)
第二十条  都道府県は、援護に要する費用を支弁しなければならない。

(費用の徴収)
第二十一条  都道府県知事は、援護を行った場合において、その援護を受けた者に対して、民法(明治二十九年法律第八十九号)の規定により扶養の義務を履行しなければならない者(入所者を除く。)があるときは、その義務の範囲内において、その者からその援護の実施に要した費用の全部又は一部を徴収することができる。
2  生活保護法第七十七条第二項及び第三項の規定は、前項の場合に準用する。

(国庫の負担)
第二十二条  国庫は、政令で定めるところにより、第二十条の規定により都道府県が支弁する費用の全部を負担する。

(公課及び差押えの禁止)
第二十三条  租税その他の公課は、援護として支給される金品を標準として、課することができない。
2  援護として支給される金品は、既に支給を受けたものであるとないとにかかわらず、差し押さえることができない。
   ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(2008年6月18日法律第82号)引用終わり)

◆Ohne Angst verschieden(異なることを恐れるな:ドイツ語)はインクルージョン(„Inklusion“、Inclusion)の標語である。つまり、学校と社会・地域における教育にあって、障害を持った人々と健常者がともに学ぶ多様性のある教育を目指す状況であり、ノーマライゼーションNormalization)、すなわち障害者や多民族を含めたあらゆる多様な人々が支障なく暮らせる社会の一要素である。換言すれば、障害者を含めたあらゆる人々にとっての人権として認められるべきものである。
 インクルージョン教育は、男女を問わず、社会的、文化的な起源、性、才能、障害など、全ての人々が、社会の中で平等な参加の機会を与えることを求めている。障害の有無にかかわらず、子どもたちが一緒に学ぶことができることが望まれる。


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