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◆ドイツ軍八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad 写真(上)1941年夏,対ソ連、東部戦線,武装親衛隊第5SS装甲師団ヴィーキング(バイキング)所属の八輪偵察装甲車(Sd.Kfz. 231 8-Rad):砲塔に砲塔には55口径2センチ(2 cm KwK 30 L55)戦車砲と同軸の7.92ミリ(7.92mmMG34)機関砲を搭載してる。手前の兵士は、迷彩服、ヘルメットも迷彩カバーを付けた武装親衛隊(Waffen-SS)で、MP38短機関銃を下げて、双眼鏡で偵察している。バルバロッサ作戦開始の時の第5SS装甲師団ヴィーキング師団長は、フェリックス・シュタイナーFelix Martin Julius Steiner, 1896-1966)大将。彼は、戦争末期のベルリン攻防戦でも活躍する。
Inventory: Bild 101 III - Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS Signature: Bild 101III-Hummel-025-22 Old signature: Bild 146-1973-087-32 Archive title: Sowjetunion.- Männer der Waffen-SS-Division "Wiking" beim Beobachten mit Ferngläsern neben Panzerspä hwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad); SS-PK Dating: 1941 Sommer Photographer: Hummel 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101III-Hummel-025-22"引用。

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真だけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものも多いです。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年9月2日・9日(金)21時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。これらはZDF「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl」をもとにした番組です。


1.再軍備宣言とドイツ軍の六輪装甲車Panzerspähwagen Pz-Spw. (Sd.Kfz. 232 6 Rad)

写真(右)1934年8月,ドイツ国防軍の兵士のヒトラー総統への新しい忠誠宣誓式:ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになった。そしてドイツ国防軍の兵士は,ドイツにではなく,ヒトラー個人に忠誠を宣誓することとなった。これは,国防大臣ブロンベルクが,ヒトラーの申し出を受け入れたためである。
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler! Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler. Dating: August 1934
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1934年8月2日に導入された新しいドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."

「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler! Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler.

ヒトラー政権は1933年1月に成立したが、それから1935年3月の再軍備宣言までは、ワイマール共和国は、ベルサイユ条約の制約の下で、小規模なドイツ国軍Reichswehr を維持していた。

六輪装甲車は、溶接構造を採用し、8mm厚の装甲板で防御されていたが、装甲板は垂直に切り立ったものではなく、上下に傾斜した複雑な形で、避弾径始を考慮して防御力が高められていた。

写真(右)1935年9月,ドイツ、バイエルン(ハノーバー)州、ドイツ陸軍第六軍所属の四輪装甲車Späh-panzer Pz-Spw. (4 Rad) Sd.Kfz. 222と六輪装甲車Panzer-spähwagen Pz-Spw. (6 Rad) (Fu) (Sd.Kfz. 232), davor Pz.Spw. (6 Rad) (Sd.Kfz. 231):ドイツ軍の四輪装甲車や六輪装甲車は、溶接構造を採用し、8mm厚の装甲板で防御されていたが、装甲板は垂直に切り立ったものではなく、上下に傾斜した複雑な形で、避弾径始を考慮して防御力が高められていた。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-04719A Original title: info Manöver des VI. Armeekorps in der Lüneburger Heide vom 2. bis 7. September 1935, Panzerspähwagen Dating: September 1935 Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 102-04719A"引用。

ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,アドルフ・ヒトラーは,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言した。これは,兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活し,空軍を新設した。

第二次大戦初期には、この六輪装甲車Sd.Kfz.231 (6-Rad)を改良して大型化した八輪装甲車Sd.Kfz.231 (8-Rad)が開発された。

Sd Kfz 231 (6-Rad) 装甲車の諸元
全長: 5.57 m
全幅: 1.82 m
全高: 2.25 m
重量:5.4 t
乗員数: 4 名

2 cm KwK 30自動砲の諸元
口径:20 mm
発射速度:120 から 280発/分
初速:780 - 1 050 m/s
有効射程:1 000 m
最大射程:4 800 m
弾丸:20 x 138B Pzgr.39/ Pzgr.40

2 cm KwK 30自動砲を搭載したドイツの戦闘車輛は次の通り。
ベルゲ・パンター工作戦車 Bergepanther SdKfz.179
II号戦車 SdKfz.121  Panzerkampfwagen II
四輪装甲車 SdKfz.222 Leichter Panzerspähwagen
四輪装甲車 SdKfz.223 Leichter Panzerspähwagen
八輪重装甲車 SdKfz.231 Schwerer Panzerspähwagen
八輪重装甲車 SdKfz.223 Schwerer Panzerspähwagen
八輪重偵察装甲車 SdKfz.234/1 Puma
半装軌式対空装甲車 SdKfz.251/17 Schützenpanzerwagen (2 cm)

兵装の2センチ砲は箱型弾倉給弾式2cm KwK30自動砲で、7.92mm MG13を同軸に装備していた。車体前部に搭載したエンジンはダイムラーベンツ社のM509、65馬力であり、フロントのラジエーターには斜めに据え付けられた装甲板が付けられていた。

写真(右)1935年9月,ドイツ、バイエルン(ハノーバー)州のドイツ陸軍第九軍所属の六輪無線指揮装甲車Panzer-späh-wagen Pz-Spw. (6 Rad) (Fu) (Sd.Kfz. 232)
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-2005-0137 Original title: info Herbstmanspöver des IX. Armeekorps in der Bayrischen Ostmark 1935, Panzerwagen Archive title: Panzerspspähwagen, gepanzerter Funkwagen (Sd.Kfz. 232), bei Fahrt durch eine Ortschaft Dating: September 1935
Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2005-0137"引用。

1935年3月16日の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどまっていた。だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認したのである。

六輪装甲車Sd Kfz 231 (6-Rad) は、第二次世界大戦前の1930年代中頃に制式になったドイツ陸軍の偵察用の六輪装甲車で、箱型弾倉給弾式2センチ自動砲を搭載する小型砲塔を備えていた。1932〜37年に期間にダイムラーベンツなどで合計123輌生産された。

実は,1922年4月のソ連とのラパロ条約秘密議定書で,ドイツはソ連奥地におい軍備を整える兵器開発・訓練をしていた。また,新型火砲の開発も,スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して行ってた。これらの兵器は,ベルサイユ条約調印前の1918年に制式されたように見せかけるために,型式を1918年型と偽称していた。つまり,ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動きは着実に進んでいたが,ヒトラーは再軍備を宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴した。

再軍備宣言から2ヵ月後,1935年5月21日に兵役法が施行され,全ドイツの男子に兵役義務が課された。そして,国防軍の最高指揮者は,総統兼首相 (Führer und Reichskanzler)がとることになった。

忠誠宣誓については,従来のように国家と憲法に忠誠を誓うのではなく,三軍最高司令官の総統兼首相に忠誠を誓うようになる。これは,親衛隊SSがヒトラー個人に忠誠宣誓をするのとほぼ同じである。

オーストリア内務大臣アルトゥル・ザイス=インクヴァルトArthur Seyss-Inquart)は、警察を支配し、ナチス勢力の騒擾的な倒閣運動を鎮圧しなかった。オーストリアは、内戦さながらの混乱に陥ってしまうとの不安が漂った。そこで、ヒトラーは、この混乱を沈めるためという理由で、オーストリアの新内務大臣に、ドイツ軍の派兵による治安維持を要求させた。1938年3月12日のドイツ軍進駐は、事実上、オーストリアの占領であり、ヒトラーは、大歓迎でオーストリアに迎え入れらたことで、勝利を確信し、1938年3月13日、ザイス=インクヴァルトとの取り決めによって、ドイツへのオーストリア併合、Anschluss)を宣言した。

1938年4月10日、アンシュルスAnschluss)によるオーストリアのドイツ併合の可否に関する国民投票の結果が報じられ、99%以上の支持を得たと投票結果が発表された。そして、ハプスブルク王朝に引き継がれていた神聖ローマ帝国の皇帝標章(冠,笏など)をドイツに返還させ,1938年9月6日に開催されたニュルンベルクのナチ党大会を「ドイツ大会」と称して,ドイツ第三帝国の復活を宣言,帝国は千年続くと大見得をきった。

◆ヒトラーは,軍の統帥権を一手に把握し,誰も介入することをできなくしたのです。ヒトラー総統は,自分以外,軍高官の承認を得ることなく,作戦から軍備まで,決定できるようになったことで、戦争を始めることが可能となった。

1938年,陸軍総司令官フリッチュ、国防大臣ブロンベルク、これに続く陸軍参謀総長ベック上級大将の追放によって、ヒトラーは国防軍最高幹部の勢力を抑制し、自らの最高司令官としての権威を高めた。国防省が解体され、陸軍総司令官の地位がヒトラー次第になったことで、国防軍の最高指揮権、統帥権は、ヒトラーが完全に掌握するようになった。ヒトラーは、国防軍最高幹部の将軍たちの顔色を伺いながら、戦争の準備をするのではなく、自らの戦争準備を遂行するように命令を下せるようになった。



2.第二次世界大戦緒戦の八輪重装甲車 Panzerspähwagen Pz-Spw. (Sd.Kfz. 231 8-Rad)

 ドイツ軍は1939年9月1日,ポーランド侵攻を開始した。ポーランド軍は,果敢に抵抗したが,1939年9月27日, ワルシャワが陥落,10月6日, ポーランドは降伏。

 ワルシャワ陥落,ポーランド降伏を体験した一ユダヤ人教師は,ユダヤ人の歴史を記録するために----と自分にいい聞かせながら,苦難の中,毎日のように日記をつけ続けた。これが,カプラン,ハイム(2007)『ワルシャワ・ゲットー日記―ユダヤ人教師の記録』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan風行社 である,開戦当日の日記は,次のようである。

「ヒトラーは,ある演説で戦争が始まればヨーロッパのユダヤ人を絶滅する,と脅した。ユダヤ人は,いつかは解放されるにせよ,ヒトラーの占領地では,自分たちに何が待ち構えているかを感じ取っている。それゆえ,ユダヤ人が身をもって祖国ポーランドに献身しようとするのは,驚くべきことではない。空襲から身を守るために,市民は防空壕を掘るようにとの命令が出たときに,大勢のユダヤ人が参加した。」

ポーランドのリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg,チェコ語ルヴフLvov)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

重装甲車  1939年9月17日,独ソ不可侵条約の秘密議定書において,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官をカチンの森などで処刑した。

ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)直後、ドイツ軍はリボフを占領。この時, リボフのユダヤ人口は16万人だった。

1939年9月,東プロイセン(現ポーランド)で,顎鬚など特徴あるユダヤ人は,集合を命じられ,ユダヤ人登録された。1940年8月になると,ユダヤ人ゲットーの仕切りとなる壁を,ユダヤ人評議会自らの負担で建設することが命じられた。そして,強制労働法が施行され,すべての12-60歳のユダヤ人が登録され,建設,沼沢地干拓,治水など重労働に無償酷使された。労働者はテントに寝泊りして,1日当たりパン250グラムを支給されただけであった。

カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1939/9/2):
「ポーランド=ドイツ戦争の第一日目。これは,最終的に世界戦争,諸国民間の大殺戮へと発展するだろう。英国はドイツへの戦線布告を急ごうとはせず,フランスも同様だ。しかし,二つの同盟国が同時に宣戦布告することは疑いない。今回は,両国ともわれわれを裏切ることはないだろう。------英仏が加わったときから戦争は局地戦ではなくなる。」

1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,保安警察特務部隊アインザッツグルッペ Einsatzgruppen)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置した。

Sd.Kfz.221軽装甲車 1934年のドイツ再軍備にあたって「四輪式」「六輪式」「八輪式」の3種類に区別された本格的な装甲車の開発が開始された。六輪以降の重装甲車は、多数のタイヤで重量を分散して、不整地での走行性能を向上させることが企図されていた。この初期型が、六輪重装甲車Sd.kfz.231である。

 その後、この後継車として計画された八輪偵察重装甲車は、途中から、六輪式と同じく偵察用にはSd.kfz.231の名称が与えられた。装輪式装甲車のSd.kfz.231とSd.kfz.232は、装甲師団の偵察大隊に配備された。

ドイツ軍の装輪式装甲車のなかで、最も多くの戦線に投入され、活動領域が広いのは、八輪重装甲車Sd.Kfz.231 8-Radである。このタイヤ八輪の大型装甲車は1934年、ヒトラー政権が誕生した翌年、ただし再軍備宣言の前に密かに開発が開始された。ドイツ国軍兵器局は、陸軍用の戦闘車輛生産計画の中に、機動力のある偵察部隊に配備する重装甲車を求め、ビーシンク社に開発を依頼した。

写真(右)1940年,西部戦線、ドイツ軍の八輪重装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 232 8-Rad) :箱型弾倉給弾式55口径2 cm KwK 30自動砲と同軸の7.92mmMG34機関砲を砲塔に搭載。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-124-0219-38 Archive title: Im Westen.- Übung / Ausbildung. Panzersoldat im Turm eines Panzerspähwagen Sd. Kfz 232 8-Rad; PK 689 Dating: 1940 Frühling Photographer: Hinz, Sph-panzer (Sd.Kfz. 232 8-Rad) vor der griechischen Nationalbibliothek; PK 690 Dating: Mai 1941 Photographer: Jesse 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivから"Bild 101I-124-0219-38"引用。

八輪重装甲車Sd.Kfz.231 8-Radは、八輪駆動で八つのタイヤで接地面の圧力を軽減して、不整地、路外走行での走行性、機動性を確保しようとした。八輪全てが方向転換に使用できるホイールハンドリング(handling)で、戦場で行進するときに便利なように操縦席は前後に二つあるデュアルドライバ(Dual Drive)を採用している。つまり、機動性が良いだけでなく、緊急時の急速対応も可能な駆動性、方向転換性、迅速性を備えていた。


3.バルカン・北アフリカ戦線の八輪重装甲車Panzerspähwagen Pz-Spw. (Sd.Kfz. 232)

Sd.Kfz.250:(Sonderーkraftfahrzeug 250; 特殊自動車輛[半装軌式装甲車])は、ドイツのデマーク社(Deutsche Maschinenbau-Aktiengesellschaft)が1tハーフトラック (Sd.Kfz.10)をベースに歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)として開発。1945年までに6600両製造された。より大型の輸送車両は、Sd.Kfz. 251と呼ばれた。

米軍のハーフトラック(M2 Half Track CarM3 Half Track)とは異なり、前輪は駆動しない。

第二次世界大戦中,ドイツ陸軍は、1トン牽引車をベースにした4人乗りの歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)Sd.Kfz 250を6000台,3トン牽引車をベースにした10人乗りの中型半装軌式装甲車Sd.Kfz.251を1万5000台以上生産した。またロケット砲,対空機銃,榴弾砲,対戦車砲などを装備した装甲車も多数作られている。

写真(右):1941年3-4月、北アフリカ、ドイツアフリカ軍団の八輪重装甲車Sd.Kfz. 231:55口径2 cm KwK 30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関砲を砲塔に搭載。後に、砲塔を撤去し、オープントップの拡大した戦闘室に火力支援可能な24口径7,5センチ短口径砲を搭載。砂漠戦用の茶色とカーキー色の迷彩塗装を施している。下記写真Bild 101I-782-0019-03Aと同一車両のようだ。砲塔上のハッチがあいている。アンテナ1本を垂直に設置している。
Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-782-0020-25A Archive title: Nordafrika.- Motorisierte Truppen in der Wüste. links Panzer-spähwagen Sd.Kfz. 231 (8-Rad), rechts im Hintergrund PKW; PK "Afrika" Dating: 1941 März - April Photographer: Moosmüller Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年3月,北アフリカ戦線、ドイツ軍の八輪重装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad) :車体後部脇にある点検扉を開けて点検しているが、エンジン故障(エンコ)でもしたのであろうか。装輪式装甲車ではあるが、タイヤが多いことで接地圧を分散させ、路外不整地での走行性能、機動性を確保していた。上記写真Bild 101I-782-0020-25Aと同一車両のようだ。55口径2センチ戦車砲(2 cm KwK 30 L/55)と同軸の7.92mmMG34機関砲を砲塔に搭載しているが、写真では重なり合っていて判別がしにくい。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-782-0019-03A Archive title: Nordafrika.- Soldaten bei Lagebesprechung neben einem Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad); PK Afrika Dating: März 1941
Photographer: Moosmüller撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivから"Bild 101I-782-0019-03A"引用。

イタリア軍は第二次大戦に参戦した1940年の9月、イタリア領リビアから見てイギリス保護国エジプトに侵攻した。しかし、イギリス軍の反撃を受けて、1941年1月には、イギリス軍にイタリア領リビアのキレナイカ占領され、2月6日、要衝ベンガジも占領された。そこで、窮地に陥ったイタリアを援助するため、ドイツは北アフリカへ派兵を決定し、装甲師団を中核とするドイツアフリカ軍団Deutsches Afrikakorps)を派遣した。

アフリカに派遣されたアフリカ軍団の指揮官は、西部戦線で実績をあげたエルヴィン・ロンメルErwin Rommel)将軍だった。ドイツ軍のバルカン侵攻前から、ドイツ軍は北アフリカでイギリス軍と対峙していた。

  写真(右)1941年3月,北アフリカ戦線、ドイツ軍の八輪重装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad) :55口径2 cm KwK 30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関砲を砲塔に搭載。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Archive title: Nordafrika.- Motorisierte Truppen auf Wüstenpiste fahrend. Vorne Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad); PK Afrika Dating: März 1941
Photographer: Moosmüller撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivから"Bild 101I-782-0020-27A"引用。

 無線設備をFu.11 無線機に増強した装甲車は、六輪式も八輪式もSd.kfz.232と命名された。八輪偵察重装甲車は、1935年に試作車が完成し、1937年に制式となった。そして、八輪重装甲車のSd.kfz.231とSd.kfz.232は、同時期の1937年からビューシング社で生産開始、1943年までに合計604輌が量産された。

八輪偵察重装甲車に長距離用Fu.11 無線機を装備したSd.kfz.232とSd.kfz.231との外見上の差異は、折り畳み式フレームアンテナの有無で容易にわかる。しかし、1942年7月、大型フレームアンテナに換えてアンテナ線が傘の骨状に広がったシュテルンアンテナ(1.4mアンテナ6本束の星型アンテナ)が登場した。

 八輪重装甲車Sd.kfz.231とSd.kfz.232は、1937年から1943年までに604両製造された。

写真(右):1941年4月、バルカン、ブルガリア、ドイツ陸軍の八輪重装甲車Sd.Kfz. 231:バルバロッサ作戦を1941年5月15日に発動する予定で、バルカン方面にドイツ軍を終結させていた。四輪駆動、独立サスペンションの贅沢な構造で密閉砲塔に2センチ対空機関砲を改造した55口径2センチ KwK 30戦車砲、同軸に7.92ミリMG34機関銃を装備。操縦席は前後に2席あり、戦地や市街の隘路でも急速に方向転換できた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-161-0258-13A Archive title: Balkan, Bulgarien.- Vormarsch, Panzer-spähwagen Sd.Kfz. 232 8-Rad bei Flußdurchfahrt; PK 690 Dating: April 1941 Photographer: Jesse Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


武装親衛隊「ライプシュタンダルテ・アドルフヒトラー」"SS-Leibstandarte Adolf Hitler"は、ヒトラーが政権を握って1か月後の1933年3月にベルリン護衛部隊として編成され、1942年7月には、武装親衛隊の装甲擲弾兵師団「ライプシュタンダルテ・アドルフヒトラー」"SS-Division "Leibstandarte-SS Adolf Hitler:LSSAH"に拡張された。 1943年10月に、SS第1装甲師団(1.SS-Panzer-Division "Leibstandarte-SS Adolf Hitler":LSSAH)と改称された。

写真(右)1941年4月,バルカン半島、未舗装道路を疾走する武装親衛隊「ライプシュタンダルテ・アドルフヒトラー」所属の八輪装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad) :55口径2 cm KwK 30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関砲を密閉砲塔に搭載。操縦席は前後に2席あるから、戦地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合など緊急時でも迅速な方向転換が可能だった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-158-0094-33 Archive title: Balkan.- Späh-panzer (Sd.Kfz. 231 8-Rad) der "SS-Leibstandarte Adolf Hitler" in Fahrt auf einer Straß e; PK 690 Dating: 1941 Photographer: Kisselbach 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-158-0094-33"引用。

八輪  八輪重装甲車Sd.Kfz.231 8-Radは、1936-1937年から生産が開始され、1942年までに607輌量産された。 Sd.Kfz.231は、全周する六角形の密閉式砲塔があり、そこに完成したばかりの2センチ対空機関砲(2cm Flak 38)を戦車砲に改造した55口径2センチ戦車砲(2 cm KwK 30 L/55)を搭載、その同軸に7.92mmMG34機関銃を搭載している。この標準型の八輪重装甲車は車体の艤装や装備した兵装によって、次の5種類のタイプの車輛が生産された。

1)八輪重偵察装甲車(八輪重装甲車Sd.Kfz.231 8-Rad):砲塔に55口径2センチ戦車砲(2 cm KwK 30 L/55)、7.92ミリ機関銃を搭載。
2)八輪無線指揮重装甲車(Sd.Kfz 232-8Rad):大型のフレームアンテナ、高性能無線装備。砲塔に2センチ戦車砲、7.92ミリ機関銃を搭載。
3)八輪火力支援重装甲車(SdSd. Kfz 233-8Rad):Sd. Kfz 231の車体に短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)搭載。砲塔撤去。1943年、チュニジア戦、東部戦線に投入。
八輪 4)八輪火力支援重装甲車「プーマ」(Sd Kfz 234/2-8Rad):Sd. Kfz 231に大型砲塔を搭載、長砲身60口径5センチ戦車砲(5cm KwK39/1)を搭載。1944年6月まで90-100輌生産された。
5)八輪無線指揮重装甲車(Sd. Kfz 263-8Rad):Sd Kfz 232の砲塔を撤去し車内容積を砲塔以上に拡大。1938年4月から1943年3月までに240輌生産された。

 ドイツ軍の偵察用八輪重装甲車(Sd Kfz 231 8-Rad)は、8輪駆動、8輪操舵、8輪独立懸架、前後に操縦席が設けられている贅沢な構造のドイッチェ・ヴェルケ社Deutsche Werke)あるいはシッヒャウ・ヴェルケ社Schichau-Werke )製の装甲車である。全周回式砲塔には2センチ砲装備した。改良型のSdKfz232は、車体上部にフレームアンテナを装備。生産は1937年から1943年9月までに231,232の合計600台。

写真(右):1941年5月、バルカン、ギリシャ、アテネ、ドイツ陸軍の八輪重装甲車Sd.Kfz. 231:バルバロッサ作戦を1941年5月15日に発動する予定が、イギリス軍のギリシャ侵攻によって、ドイツ軍は対抗上、バルカン作戦を先に始めることになった。
Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-164-0369-25A Archive title: Balkan, Griechenland, Athen.- Panzer-spähwagen (Sd.Kfz. 232 8-Rad) vor der griechischen Nationalbibliothek; PK 690 Dating: Mai 1941 Photographer: Jesse Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ブルガリアEl Alamein)は第二次大戦勃発時には参戦しておらず,ソ連軍と戦っていない。ルーマニアは,1940年11月に日独伊三国同盟に加盟,ソ連はブルガリアと相互援助条約を結んだが,1941年1月,ドイツ軍はルーマニアに保障進駐した。そして,3月,ドイツ軍はブルガリアにも進駐し,ギリシャに進駐していた英軍に対抗した。


4.対ソ戦バルバロッサ作戦の装甲車 Panzerspähwagen

八輪 1941年6月21日,バルバロッサ作戦開始の前日の,ドイツ軍東部戦線配備兵力は,兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機。
対峙するソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。

 1941年9月からドイツ軍に包囲されていたセバトポリのソ連赤軍守備隊は,翌1942年7月まで持久戦を戦い続けた。火器を装備した堅牢なトーチカ陣地に立て篭もるソ連赤軍守備隊に対して,ドイツ軍はセバトポリ要塞を砲撃戦によって破壊する作戦を計画した。これには,世界最大の火砲であるクルップ社製造の40口径80センチ砲「グスタフ」,モーゼル者製造の60センチ自走臼砲「カール」など超大口径砲など多数の重砲を配備した。また,空軍による急降下爆撃,地上襲撃も行った。

Sd.Kfz.261四輪軽装甲車 1941年6月22日以降のドイツのバルバロッサ作戦Operation Barbarossa)は,ユダヤ人など下等劣等人種殲滅戦争の第二段階だった。

既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。また,1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」

バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。

Sd.Kfz.260四輪軽装甲車  Sd.Kfz.261四輪無線指揮軽装甲車の原型は、Sd.Kfz.260四輪軽装甲車で、これはSd.Kfz.222偵察軽装甲車の派生型Sd.Kfz.223無線指揮軽装甲車と同様の発想である。大型フレームアンテナを車体上部に装備した。偵察のため敵に接近することは想定されていなかったため、砲塔はなく、車載機銃はなく、乗員の携行する小火器のみだった。

Sd.Kfz.260四輪軽装甲車諸元
重量:Weight: 4300kg
乗員:Crew: 4 men
エンジン:Engine: Horch 3.5l / 8-cylinder / 75hp (early)
Horch 3.8l / 8-cylinder / 90hp (late)
最高速度:Speed: Road: 85km/h、Cross-Country: ?km/h
航続距離:Range: Road: 310km、 Cross-Country: ?km
全長:Lenght: 4.83m
全幅:Width: 1.99m
全高:Height: 1.78m
兵装:Armament: none
装甲:Armor: 5-8mm

写真(右)1941-43年ごろ,狙撃犯として捕虜になったソ連住民・ユダヤ人:上着をきたユダヤ人ラビや一般住民もいるようだが,ユダヤ人の狙撃者・パルチザン容疑者として,一網打尽にされた。民間人の服を着用している便衣隊ゲリラ・パルチザンは,厳しく手段された。あるいは,実際に彼らユダヤ人が,ドイツ人を狙撃したのかどうかは,問題ではなく,ユダヤ人である以上,潜在的なパルチザンとみなして捕まえたのかもしれない。
Jüdische Heckenschützen. Wenig vertrauenerweckend sehen sie aus. Unter dieser Gruppe (im Bild mit Mantel) ein Rabbiner, verschmutzt und arbeitsscheu, wie alle seine Rassegenossen. G 8037 PK-Aufnahme Kriegsberichter Fritsch (Wb) Dating: o.Dat. Photographer: Fritsch, F.撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 1941年6月、対ソ侵攻バルバロッサ作戦でボリシェビキ殲滅と東方生存圏獲得のための戦争を戦ったドイツ軍の中にも,ボリシェビキの頸城(くびき)からロシアの民衆を解放する戦いと考えた兵士がいた。彼らは,ヒトラーがウクライナ人やロシア人などスラブ民族を軽蔑していたのを知っていたはずだが,ソ連赤軍(共産党の軍隊)を殲滅すれば,1917年11月のウクライナ人民共和国の独立の時のように,諸民族の独立・自治に結び付くと,自らの戦いを納得させたのかもしれない。しかし,善意のドイツ軍兵士でも,共産党員政治委員,ユダヤ人,パルチザンに対しては,厳しく処断した。

ドイツ軍が進駐したウクライナでは,ボリシェビキ圧制から解放され,第一次大戦末期と同じく,ウクライナ独立を期待する住民もあった。

1)ユダヤ人・ソ連軍捕虜抹殺・奴隷労働化の方針は,最高機密だったが,それは,迫害が知れれば次のような支障が生じるからである。

2)ユダヤ人,ソ連軍捕虜が迫害されていることがわかれば,彼らは反抗する。そこで,抵抗を予防するために,東方への移送,労働すると偽り,強制収容所やその支所(労働キャンプ)に移送した。

3)ユダヤ人・ソ連捕虜の処刑という残虐行為は,国連宣言で示された連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,処刑は秘匿する必要があった。

4)後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人・ソ連軍捕虜の処刑は,人倫に悖ると反感を買う恐れがあった。そこで,ドイツ人にも処刑を秘匿した。


1942年6月,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)は,アゾフ海に注ぐドン川の渡河地点を確保し,スターリングラード方面に進撃することになった。ソ連軍は後退し,ヒトラーはこれをソ連軍の士気阻喪,崩壊と考えた。そこで,7月13日,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)を二分して,A軍集団(ヴィルヘルム・リスト元帥)とB軍集団(フォン・ヴァイクス大将)に分けた。

写真(右):1942年6-7月,四輪装甲車Sd.Kfz. 221を先頭に行進するドイツ軍第24装甲師団:Sd.Kfz. 221はオープントップの銃塔に7.92ミリ機関銃1丁を装備していたが、改良型のSd.Kfz. 222は、大型化した砲塔に2センチ砲も追加装備している。シートの下には、7.92ミリ機関銃を搭載した銃塔がついている。したがって、この車種は車この写真はBundesArchive引用だが、下の写真は同一だが、WikipediaCommonsから引用した写真。
B軍集団第4装甲軍は,第24装甲師団などによって,1942年8月後半,スターリングラード南部でソ連軍イェレメンコ大将の第1機甲軍,第64軍,民兵が立て篭もるトーチカ,鉄条網,対戦車バリケード,塹壕で固められた陣地を攻撃し,9月2日,ソ連軍を包囲寸前まで追い込んだ。
しかし,イェレメンコ大将は,陣地を放棄,軍を率いて撤退し,包囲を免れた。
Sowjetunion.- Fahrzeugkolonne der 24. Panzerdivision in Fahrt auf unbefestigter Straße, vorne Späh-panzer (Sd.Kfz. 221); PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Dieck撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』は,第十一軍エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥のセバトポリ要塞攻撃、ケルチ半島攻略の戦術的巧妙さを高く評価している。しかし,これは,孤島に孤立した日本軍を攻撃した米軍公式戦記が,日本軍の頑強さを強調することで、それを撃破した米兵の勇敢さ,将軍の知略を評価するのと同じで,身贔屓である。
ドイツ軍はセバトポリ要塞を,1942年7月3日,攻略したが、これはスターリングラード守備隊ドイツ第六軍降伏の7ヶ月前のことだった。火砲・航空機の圧倒的な優位を得たドイツ軍が,籠城戦を長期半年間も続けた敵ソ連赤軍に大規模な反撃を受けるはずはなく,物量の勝利ともいえる。

ソ連軍は,チモシェンコ元帥にハリコフを攻撃させたが,1942年6月28日,フェードア・フォン・ボック元帥は,1942年4月5日の極秘・総統指令41号に則って,スターリングラード,カフカスを目指すブラウ作戦を開始した。
ハリコフ北方で,ドイツ軍は,激戦の結果,ソ連軍は逆包囲,敗北させた。

1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号では,作戦目的は,「東部作戦当初の原則を維持しつつ、中部では現状を守り、北部ではレニングラートを占領して,フィンランド軍と陸路連絡をつけ、南部ではカフカス地区へ突入する。冬期戦終了後でもありこの目標は集めうる兵力、資材および輸送事情により、段階的に達成されるものとする。そのためまず全兵力を南部戦区の主要作戦にむけ、ドン前面の敵を掃討し、ついで,カフカス(コーカサス)の油田およびカフカス山脈の道路を奪取するものとする。」とされた。

写真(右):1942年秋,東部戦線、ドイツ軍ヘルマン・ゲーリング装甲師団の八輪重装甲車Sd.Kfz. 231:四輪駆動、独立サスペンションの贅沢な構造で密閉式の砲塔に2センチ対空機関砲を改造した55口径2 cm KwK 30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関砲を装備している。操縦席は前後に2席あるから、戦地や市街地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合でも緊急に方向転換が可能だった。
Im Osten.- Panzer-spähwagen Sd.Kfz. 231 der Division "Hermann Göring", Aus-bildung; Eins Kp Lw zbV Dating:1942 Anfang Photographer: Nowak撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 1942年7月、空軍兵士からなる歩兵部隊ゲーリング連隊は、規模を拡張され,ヘルマン・ゲーリング旅団(Brigade Hermann Göring)が編成されたが、直ぐに師団規模にまで高められた。ヘルマン・ゲーリング師団Panzer-Division Hermann Göring)は、陸軍の装甲師団と同様に戦車、自走砲、装甲車を配備した機械化部隊である。ヘルマン・ゲーリング師団Panzer-Division Hermann Göring)は、1943-1944年までイタリア戦線で、1944年後半は対ソ連、東部戦線に投入された。

写真(右)1942年8月23日,ソ連南部ドン川、スターリングラード戦、ドイツ軍第16装甲師団の八輪重装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad) :55口径2 cm KwK 30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関銃を密閉砲塔に搭載した。
Inventory: RH 20-6 Bild - Armeeoberkommando 6.- Bildbestand Signature: RH 20-6 Bild-00216-017 Old signature: RH 20-6/216 Original title: info Erster Blick auf die Wolga Pz. Spähwg. 16. Pz. hat nördlich Stalingrad die Wolga erreicht 23.8.1942 Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad, Wladimirowka / Spartanowka (?).- Schlacht um Stalingrad.- Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231) der 16. Panzer-Division an der Wolga Dating: 23. August 1942
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivから"RH 20-6 Bild-00216-017"引用。

装甲車 1942年7月23日、ソ連軍は弱体化し、予備軍も底をついたと考えたヒトラーは、「総統指令第45号」を発令し、A軍集団にカスピ海沿岸の油田地帯のバクーの占領を命じ、同時にB軍集団にスターリングラードの占領、ボルガ川を使ったソ連の水運を遮断することを命じた。この日,総統大本営(総司令部)の一つでウクライナに設置された「ヴェアヴォルフ」で,陸軍参謀総長ハルダー大将は,ヒトラーにソ連軍は計画的に退却しているので、二つの目標を攻略することは不利であるとの推論を伝えた。しかし,ヒトラーはソ連軍は崩壊一歩手前にあると確信していた。

ヒトラーの「総統指令第45号」によるドイツ軍の兵力分散とは対照的に、ソ連のスターリンは,1942年7月12日,チモシェンコ元帥にスターリングラード正面軍の編成を明示,スターリングラードを死守することを命じた。予備兵力を投入し,防備を固めようとしたが,問題は時間が足りないことだった。

カスピ海に注ぐボルガ川河畔スターリングラードに向かう第六軍用の燃料は,カフカス戦線に回された。そのため,第六軍のスターリングラード進撃は停滞してしまった。ソ連軍はこの時間を利用して,ドン川西岸カラーチに防衛線を張り,スターリングラードのへの兵力集中が可能になった。

ソ連軍は,スターリングラード手前のカラーチでは敗れたが,その間,スターリングラードの防衛を固めることができた。カラーチ戦を戦い抜いたドイツB軍集団の第六軍は,1942年8月末になって,スターリングラード正面に到着したのである。

銃装甲車 リスト元帥率いるA軍集団は,1942年7月25日,黒海北のアゾフ海入口にあるロストフを占領した。この日,ヒトラーの「総統指令45号」がA・B軍集団に届いたが,ここではドイツ軍の包囲を逃れドン川に達したのは,ソ連のチモシェンコ軍の一部に過ぎず,A軍集団に黒海沿岸の諸港を占領し,カスピ海沿いのバクーを占領すること,B軍集団はスターリングラードを占領,ボルガ川沿いにカスピ海のアストラハニにまで前進することを命じた。

これは,まずスターリングラードを攻略,その後,カフカスに進出し,油田地帯を押さえるという「ブラウ」作戦を大修正するものだった。スターリングラード,カフカスを同時に攻撃目標としてしまったのである。

ドイツA軍集団は,8月末,黒海に臨むノボロシスクを攻撃し,9月10日には,それを占領した。しかし,9月に入ると,補給能力不足からカフカス山脈北西のクバニ,北東のチェレクの間で,戦線は膠着した。

マイコープの精油施設は破壊されたため,ドイツ軍は油田で燃料不足に悩まされたことをカレル『バルバロッサ作戦』は指摘し,補給路が伸びきってしまい,攻撃速度が低下したと説明する。

写真(右)1942-1943年,ロシア東部戦線、ウクライナ、アフトゥイルカ、装甲師団「グロス・ドイッチェラント」の四輪偵察装甲車Sd.Kfz. 222と八輪無線指揮重装甲車Sd.Kfz. 263:Sd.Kfz. 263は。偵察重装甲車Sd Kfz 232から2センチ砲を搭載した砲塔を撤去し、車体上部に戦闘室を拡大し、大型無線機を搭載、車体上部にフレーム式アンテナを設けている。Sd.Kfz. 263の兵装は、車体前部の7.92mm機MG34機関銃1丁のみ。後方には、半装軌式兵員輸送軽装甲車Sd.Kfz. 250/1と半装軌式無線指揮軽装甲車Sd.Kfz. 250/3も隊列に加わっている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-748-0100A-16 Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Motorisierte Truppen der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland", u.a. leichte Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/1, Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen, Spähpanzer Sd.Kfz. 222, Sd.Kfz. 263); PK ObdH Dating: 1942/1943. 
Photographer: Kempe撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-792-0138-21A"引用。


ソ連軍は1943年1月10日から29日までに,ドイツ軍兵士1万6800人を捕虜とし,それから2月3日までにさらに,9万1000人を捕虜とした。

1942年11月中旬,第六軍には23万3000人のドイツ兵士,同盟国兵士がいたが,降伏時は10万7800人だった。1963年までに故国に戻ったのは6000人という。

第二次大戦の最大規模の決戦であるスターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。第六軍パウルス将軍は,スターリングラード死守を命じられ,元帥に昇進させられた。しかし,その直後,ソ連に降伏してしまった。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった。ドイツ国防軍の栄光は失われた。

写真(右)1943-1944年,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍第2装甲師団と思われる半装軌式装甲車 (Sd.Kfz. 251)と奥の八輪重装甲車(Sd.Kfz. 231 8-Rad):ドイツ国防軍第2装甲師団は、1939年9月のポーランド侵攻(Invasion of Poland)にスロバキアから移動して参加、中部ポーランドで戦った。1940年5月のフランス侵攻(Battle of France)では、グーデリアン将軍の第19軍(XIX Army Corps)の下でベルギーに進出、イギリス遠征軍(British Expeditionary Army)をダンケルク(Dunkirk)に追いつめた。1941年4月のギリシャ侵攻(Invaion of Greece:Operation Marita)では西部マケドニアのサロニカ(Salonika)を攻略したのち、アテネに入城した。1941年6月のソ連侵攻(Invasion of the Soviet Union)では、モスクワ攻略(Operation Typhoon)に参加し、1943年にはクルスク攻防戦(Operation Citadel)に,第九軍の一部として加わった。 その後、1943年末に、西側連合軍の大陸反攻に備えるために、フランスに移動し、ノルマンディ攻防戦(Battle of Normandy)を戦った。
他方、武装親衛隊第2SS装甲師団は、1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦には、ボック元指揮の中央軍集団に所属するグデーリアン上級の第2装甲集団に加わっていた。スモレンスク戦、キエフ戦に参加後は、1941年末のモスクワ攻防戦で損耗し、フランスへ撤退して、休養と師団再編成に入った。1943年に入ると、東部戦線に復帰し、ハリコフ攻略戦、クルスク攻防戦(城塞作戦)に参加した。しかし、1944年には、西側連合軍の大陸反攻に備えるために、再びフランスに移動し、6月以降、侵攻してきた西側連合軍と激しい戦いを繰り広げた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-088-3712-07 Archive title: Sowjetunion.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251; 2. Panzerdivision ?) in Dorf; PK 670 Dating: 1943/1944 Photographer: Etzhold撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3712-07"引用。



5.イタリア戦線の八輪重装甲車Panzerspähwagen Pz-Spw. (Sd.Kfz. 231 8-Rad)

写真(右)1941年4月,泥濘のバルカン戦線でドイツ軍の八輪装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad) を見送るブルガリア軍将兵:55口径2 cm KwK 30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関砲を密閉式の砲塔に搭載。操縦席は前後に2席あったために、隘路や緊急時にも迅速な方向転換が可能だった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-161-0256-10 Archive title: Balkan, Bulgarien.- Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad) bei Vorbeifahrt an bulgarischen Soldaten neben einem Bach; PK 690 Dating: April 1941.
Photographer: Dick, Walter 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-161-0256-10"引用。

8輪装甲車 Sd.Kfz.231 8−Rad として制式されることになる八輪重装甲車は、1934年、ビューシンク社に開発が依頼された。当時、再軍備宣言前のヴェルサイユ条約下にあったドイツ国軍は、「標準型国軍用不整地用重貨物車」として開発を依頼した。ビューシンク社は、八輪駆動、八輪操向で、前後に二つの操縦席を備え、同社製のL8V V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(排気量7,900cc、出力150馬力)を車体後部に搭載した機動性の高い試作車を1934年中に完成させた。

二輪を一体化しリーフ・スプリングを備えた独立懸架の贅沢な構造で、八輪操向によって、旋回半径も小さく、戦場での機動に便利だった。操縦席は、前後に独立して二席あり、後進(後方に向けた走行)も「後ろを見ながら」でなく操縦することができた。た。試作車実験を1935年まで行い、1936年末から生産を開始した。生産当初の1937年では、車種番号Sd.Kfz.233と呼称されたが、六輪装甲車を代替する装甲車とみなされ、第二次大戦勃発直後からは、車種番号をSd.Kfz.231に改めた。

Sd.Kfz.231 8-Rad八輪重装甲車(Schwerer Panzerspähwagen)は、車体の装甲は前面15mm、側面8mm、後面10mm、上面5mmと小火器防御のみだったが、1942年以降は、車体装甲を前面30mmに増加した。

 Sd.Kfz.231 8−Rad八輪重装甲車(Schwerer Panzerspähwagen)の兵装は、当初は2センチ戦車砲、7.92ミリ機関銃だけであったが、大戦後期には、短砲身24口径7.5センチ戦車砲、長砲身60口径5cm KwK39/1戦車砲を搭載した後継車Sd Kfz 234/2 プーマが登場した。プーマは、1943年12月よりSd Kfz 234として生産開始され、1944年6月までに100輌が生産された。もはや大戦初期の装甲車のような活躍の場は望むことができす、大きな活躍はできないまま生産は中止された。

第二次世界大戦に参戦したイタリアが、1940年9月に北アフリカの植民地キレナイカCyrenaica:リビア東部)のイタリア軍は、イギリス属国エジプトへ侵攻した。しかし、イギリス軍に撃破され、北アフリカを失う恐れが濃厚になった。そこで、ドイツ軍の「アフリカ軍団」が派遣され、イギリス軍の攻撃を防いだ。

その後、エジプト国境エルアラメインEl Alamein)まで進撃したが、再びイギリス軍に押し返され、1943年5月にフランス・ヴィシー政府のチュニジアにまで後退して降伏した。

 1943年7月24日、久しく開かれていなかったファシズム大評議会Grand Council of Fascism)が招集されたが、ここでファシスト党幹部ディーノ・グランディDino Grandi)らは、総帥ベニート・ムッソリーニBenito Mussolini )首相を罷免し、政権を国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世Vittorio Emanuele III di Savoia)に返還することを決めた。翌日25日、ムッソリーニはサボイア朝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世Vittorio Emanuele III di Savoia)国王に解任された。

 1943年8月にイタリアのシチリア島を占領した西側連合軍は、9月3日にイタリア半島の南端に上陸、続いて、9月9日、イタリア半島中部西岸、ローマ郊外のサレルノに上陸した。この時、既にベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を追放していたピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍指導のイタリア新政府は、西側連合国との秘密交渉しており、連合軍サレルノ上陸と同時に休戦を表明した。

写真(右)1943年9月,イタリア戦線ローマ(?)市内、ドイツ軍の八輪重装甲車Späh-panzer Sd.Kfz. 231 8-Rad :操縦席は前後に2席あったために、市街地で交通渋滞や隘路に直面しても迅速な方向転換が可能だった。密閉式の六角形をした砲塔に、対空機関砲を改造した55口径2 cm KwK 30戦車砲を搭載。同軸に7.92ミリMG34機関銃も備えている。
Bild 101I-304-0634-27A Archive title: Italien, Rom (?).- Soldaten auf Späh-panzer Sd.Kfz. 231 8-Rad bei Fahrt in Stadt, im Hintergrund moderne Hochhäuser; PK699 Dating: September 1943.
Photographer: Funke 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-304-0634-27A"引用。

 イタリア新首相に就任したピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍は、エチオピア侵略戦争を戦った将軍だが、国王と図ってムッソリーニを逮捕させた。しかし、ドイツ軍と、ファシストの反攻を恐れて、イタリアは連合国と戦い続けると嘘をいった。しかし、ドイツはイタリアのバドリオ政権の裏切りを予測しており、事前に部隊を派遣し、バドリオが休戦を宣言した直後、即座にイタリア軍を武装解除した。そして、アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)元帥の指揮下にイタリア半島の防衛を強化した。

写真(右)1943-1944年,イタリア戦線、ドイツ陸軍の八輪重装甲車Panzer-spähwagen(Sd.Kfz. 232) :密閉式の砲塔には55口径2 cm KwK 30戦車砲と7.92mm MG13を同軸に搭載した。八輪重装甲車プーマ(SdKfz.234/1 Puma)は5cm KwK39/1戦車砲を搭載。前後2席ある操縦席のため、戦地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合など緊急時でも迅速な方向転換が可能だった。
Inventory:Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-576-1850-03 Archive title: Italien.- Offizier im Turm eines Panzer-spähfahrzeugs (Sd. Kfz 232 8-Rad) mit erhobenem Arm (Halt-Signal?); PK FS AOK Dating: 1943/1944
Photographer: Wahner撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-576-1850-03"引用。

55口径2 cm KwK 30戦車砲の諸元
口径:20 mm
発射速度:120 から 280発/分
初速:780 - 1 050 m/s
有効射程:1 000 m
最大射程:4 800 m
弾丸:20 x 138B Pzgr.39/ Pzgr.40

55口径2 cm KwK 30戦車砲を搭載したドイツの戦闘車輛は次の通り。
ベルゲ・パンター工作戦車 Bergepanther SdKfz.179
II号戦車 SdKfz.121  Panzerkampfwagen II
四輪装甲車 SdKfz.222 Leichter Panzerspähwagen
四輪装甲車 SdKfz.223 Leichter Panzerspähwagen
八輪重装甲車Schwerer Panzerspähwagen

八輪重装甲車SdKfz.223 Schwerer Panzerspähwagen (SdKfz.234/1 Puma)は1940年8月、全周式大型砲塔を設けて長砲身5cm戦車砲Kwk39/1と7.92mm機銃を同軸で搭載。ディーゼルエンジン(210馬力)で最高速度は路上80km/h。生産は1943年12月から1944年9月までで100輌と短期間、少数で終わった。戦車の防御力が向上し、もはや5センチ砲では威力不足だった。
半装軌式対空装甲車 SdKfz.251/17 Schützenpanzerwagen (2 cm)

写真(右)1943-1944年,イタリア戦線、ドイツ軍降下猟兵の搭乗する八輪駆動装甲車Sd.Kfz. 231 8-Rad:操縦席は前後に2席あるから、市街地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合でも緊急の方向転換が可能だった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-576-1849-04 Archive title: Italien, 1943/44; Fs. AOK Dating: 1943/1944.
Photographer: Wahner 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-576-1849-04"引用。


 西側連合軍は、1943年8月にイタリアのシチリア島Sicily)を攻略、9月3日にイタリア半島南端に上陸するとともに、9月9日にはローマ南郊外のカンパニア(Campania)州サレルノSalerno)に上陸したが、これに合わせてバドリオ将軍のイタリア新政府は、降伏した。

 イタリアの政権交代のクーデター直後から、イタリアのバドリオ政権の裏切りを予測していたヒトラーは、直ちに、イタリア派遣ドイツ軍にイタリア軍の武装解除を行わせた。そして、ケッセルリンク元帥を指揮官とするドイツ軍にイタリア半島を防衛させた。

ローマ南サレルノSalerno)に上陸した西側連合軍だったが、ドイツ軍アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)の築いた防衛線を突破できず、モンテカッシーノ戦線と同じく、アンツィオAnzio)戦線でもは膠着状態に陥った。

写真(右)1943-1944年,イタリア戦線、ドイツ軍降下猟兵の搭乗する八輪駆動装甲車Sd.Kfz. 231:操縦席は前後に2席あった。そこで、戦地や市街地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合など緊急時でも迅速な方向転換が可能だった。<
Bild 101I-576-1847-26A Archive title: Italien.- Fallschirmjäger auf Spähpanzer (Sd.Kfz. 231 8-Rad; Panzer-Aufklärungs-Abteilung 115 der Panzergrenadier-Division 15 ?) in Ortschaft; PK Fs AOK Dating: 1943/1944.
Photographer: Wahner 撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-576-1847-26A"引用。

 イタリア新首相ピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍は、連合国に降伏したが、イタリアでの戦闘はドイツ軍が続けることになった。そして、ドイツ軍はバドリオ政権側によってグランサッソの山荘に監禁されていたベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を救出し、ドイツ傀儡のイタリア社会共和国サロSalo政権)を樹立させた。

1943年後半、イタリア防衛を任されたドイツ軍指揮官アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)元帥は、防衛線を強化し、サレルノSalerno)からイタリアを北上する西側連合軍も、主要戦線と認められなかったために、遅々としていた。

1944年初頭にモンテカッシーノ(Monte Cassino)のドイツ軍防衛線に達した西側連合軍は、そこで膠着状態に陥り、ローマに進軍できなかった。そこで、1944年1月22日、ローマ南方、アンツィオAnzio)に上陸した。

西側連合軍が、モンテカッシーノを突破すべく大攻勢をかけたのは、1944年5月で、同月後半には、アンツィオAnzio)戦線にも攻勢をかけた。こうして、1944年6月4日、西側連合軍は、イタリア首都ローマを攻略し、8月11日にフィレンツェ(フローレンス)を占領することができた。

写真(右)1944年初頭,イタリア配備されたドイツ軍降下猟兵部隊の半装軌式装甲車Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/1)とVWシュビムワーゲンSchwimm-kübe-lwagen。:半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250/1)の車体後方の兵員室は半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251/1)より狭く、4名ほどしか乗車できない。VWシュビムワーゲンは、ジープと違い四輪駆動ではないが、簡易な軽量構造だったために、路外走行性能は悪くはない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-651-5638-22A Archive title: Italien.- VW-Schwimmkübel-wagen auf einer Landstraße an zwei leichten Schützen-panzern (Sd.Kfz. 250/1) vorbeifahrend; PK EinsKp Lw zbV Dating: 1944 Anfang.
Photographer: Sprotte 撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-651-5638-22A"引用。

八輪重装甲車Schwerer Panzerspähwagenより 小型で軽量の四輪装甲偵察車 Sd.Kfz/222は、第二次大戦初期、ヨーロッパ戦線や北アフリカ戦線で、走行性と路外機動性を活かした偵察に使われた。砲塔の上面には、投擲された手榴弾が車内に入るのを防ぐ金網が張ったあったが、上面装甲の無いオープントップの砲塔だった。砲塔には、20mm戦車砲(対空機関砲の改造)と同軸に7.92mmMG34機関銃を搭載。

Sd.Kfz/222は、75馬力のV8-108型ガソリンエンジンを搭載し、最高速度は路上80km/hだった。四輪独立縣架、四輪駆動の贅沢な構造で、四輪操向のため、小回りも利いた。他方、装甲自動車Sd.Kfz. 221は,1935年開発の四輪偵察装甲車。無限軌道ではなく車輪装備(装輪式)なので,路外走行は制限された。

 1945年1月、西連合軍はゴシック線を突破、連合軍の進撃に勝利を予期したイタリア人パルチザンは一斉蜂起し、ドイツ軍とともに脱出しようと企図したベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を愛人クラーラ・ペタッチClara Petacci)と共にとらえた。

 ムッソリーニは、国家反逆罪の容疑で裁判にかけられる予定だったが、ムッソリーニ傀儡政権のパルチザン狩りを憎悪していたパルチザンの一派によって虐殺された。死体はなぶりものにされた上で、かつて処刑されたパルチザンが吊るされたことのあるミラノのロレート広場に面したガソリンスタンド支柱に吊るされた。 


6.ユーゴスラビア戦線のドイツ軍の装甲車Panzerspähwagen Pz-Spw.

写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad):オープントップの戦闘室に大口径砲を搭載したが、当初は密閉式の砲塔を備え55口径2cmKwK30戦車砲、7.92mmMG34機関銃を搭載していた。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-049-1553-23 Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch deutscher Truppen, Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 233) Ecke "Corso Guglielmo Marconi" / "Riva A Hitler", Zivilbevölkerung am Straßenrand; PK 666 Dating: 1943 September - Oktober.
Photographer: Gruber, Dr. 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-23"引用。


第二次世界大戦でドイツ軍に占領されたユーゴスラビアでは、自由主義、王党派、共産主義のイデオロギーだけでなく、クロアチア人、セルビア人、ムスリムと民族派閥もあり、反ドイツ・親ドイツと複雑な様相を呈していた。しかし、西側連合軍とソ連の双方から支持を受けたチトー指導のパルチザンが優勢になり、「人民解放戦争」の名目の下、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を樹立することになる。

写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪重装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad)と後続する偵察用軽装甲車(Sd.Kfz.223):後方の壁のスローガンには「スムルト・ファシズム、スロボダ・ナロドゥ!」とある。これはセルビア語で「ファシズムに死を、人民に自由を!」Death to fascism, freedom to the peopleの意味である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-049-1553-14 Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch deutscher Truppen, u.a. Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 233), im Hintergrund Mauer mit Aufschrift "Smrt Fasizmu - Sloboda Narodu"; PK 666 Dating: 1943 September - Oktober.
Photographer: Gruber, Dr. 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-14"引用。


八輪重装甲車:Schwere Panzersp Sd.Kfz.233諸元
重量Weight: 8700kg
乗員Crew: 3 men
エンジンEngine: Bussing-NAG L8V / 8-cylinder / 150hp
路上最高速度Speed: Road: 80km/h
航続距離Range: Road: 300km
全長Lenght: 5.85m
全幅Width: 2.20m
全高Height: 2.25m
兵装Armament: 75mm StuK 37 L/24および7.92mmMG34
搭載弾丸数Ammo: 7.5cm砲弾数32 rounds、7.92mm機銃弾数1500 rounds
装甲厚Armor: 5-30mm

写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪重装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad)と後続する四輪軽装甲車Panzerspähwagen (Sd. Kfz. 232):操縦席は前後に2席あるから、市街地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合など緊急時でも迅速な方向転換が可能だった。<
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-049-1553-22 Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch deutscher Truppen, Panzerspähwagen (Sd. Kfz. 233) Ecke "Corso Guglielmo Marconi" / "Riva A Hitler", Zivilbevölkerung am Straß enrand; PK 666 Dating: 1943 September - Oktober.
Photographer: Gruber, Dr. 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-23"引用。


8輪  第二次大戦初めに、ドイツ軍は八輪重装甲車Sd.Kfz.231を開発した。その一つの派生型八輪重装甲車Sd.Kfz.232は、大型無線機をもち、車体上部にアンテナとは思えない枠のような折り畳み式フレームアンテナを装備した。兵装は、砲塔に2cm対空機関砲を社債型に改造した55口径2センチ戦車砲と同軸の7.92ミリMG34機関銃を搭載した。八輪駆動で、ステアリングも八輪可能で、不整地も走行性能は高かった。最大速度は整地でなら90km/hの大型の装甲車だが、後進にも便利なように後方簡易操縦席を設けている。しかし、複雑な構造のため製造経費が高くなり、メンテナンスにも労力が必要になった。

八輪重装甲車Sd.Kfz.232は、東西ヨーロッパ、バルカン、南ヨーロッパ、北アフリカ、ソ連とドイツ陸軍の行動範囲と一致していおり、大戦中期まで大いに活躍した。特に、装甲師団のための偵察任務に威力を発揮した。しかし、大戦後期には、戦車、突撃砲、自走砲に資源エネルギーを集中するために、生産は中止された。部隊配備されていた八輪重装甲車も、ガソリン節約のために、次第に現役から退くことになった。。

写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad):Sd.Kfz. 231当初は砲塔を備え55口径2cmKwK30戦車砲、7.92mmMG34機関銃を搭載していたが、この砲塔を撤去し、オープントップの拡大した戦闘室に火力支援可能な24口径7,5センチ短口径砲を搭載した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-049-1553-24 Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch deutscher Truppen, Panzerspähwagen (Sd. Kfz. 233) vor Gebäude mit Aufschrift "Zivjelo Oruzano Bratstvo Srpskog i Hrvatskog Naroda"; PK 666 Dating: 1943 September - Oktober.
Photographer: Gruber, Dr. 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-24"引用。


大戦前に設計された八輪偵察重装甲車Sd.Kfz 231は、贅沢な機構、複雑な構造だったために、量産性が低かった。そこで、大戦後半には、後継車両としてより量産性を向上させるために、簡易化した機構・構造のSd.Kfz 234が開発された。これは、モノコックシャーシと単純化した車体設計を採用した改良型である。

写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad)とドイツ軍がフランで鹵獲したホチキスHotchkiss H 38戦車:対ゲリラ戦用にドイツ軍が投入された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-049-1553-06 Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch motorisierter Truppen, u.a. Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 233), französischer Beutepanzer Hotchkiss H 38; PK 666 Zivilbevölkerung am Straßenrand; PK 666 Dating: 1943 September - Oktober.
Photographer: Gruber, Dr. 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-06 "引用。


Sd.Kfz.234の兵装は、砲塔式の20mm機関砲を装備の標準型八輪偵察重装甲車Schwerer Panzerspähwagen)Sd.Kfz.234/1、長砲身60口径5センチ戦車砲を搭載したSd.Kfz.234/2「プーマ」、余剰となっていた短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)を搭載した火力支援装甲車Sd.Kfz.234/3が生産された。

 後にヒトラーの攻撃力強化の命令を受けて、大戦末期に長砲身46口径7.5センチ対戦車砲 (PaK40)を搭載した八輪対戦車装甲車Sd Kfz 234/4 (PaK40)が、Sd.Kfz.234/3から転換生産された。しかし、46口径7.5センチ対戦車砲 (7.5 cm PaK 40)を搭載したために、高初速、高貫通力ではあったが、重量は1トン以上、射撃反動も大きいために、運用には大きな制約があったと考えられる。生産台数も90台と少量に留まった。

写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad):対ゲリラ戦用にドイツ軍は旧式戦車、鹵獲戦車、装甲車を投入した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-049-1553-06 Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch motorisierter Truppen, u.a. Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 233), französischer Beutepanzer Hotchkiss H 38; PK 666 Zivilbevölkerung am Straßenrand; PK 666 Dating: 1943 September - Oktober.
Photographer: Gruber, Dr. 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-36 "引用。


 八輪偵察重装甲車Schwerer Panzerspähwagen)は、前述の6輪装甲車の後継車で、Sd.Kfz.番号も六輪装甲車と同じである。1939年に登場し、当初は55口径2cmKwK30戦車砲、7.92mmMG34機関銃を装備。1943年9月までにSd.Kfz.231/232合計607両が製造された。

 八輪偵察重装甲車Schwerer Panzerspähwagen)の車体の装甲は前面15mm、側面8mm、後面10mm、上面5mmの厚さで、砲塔の装甲厚は前面14.5mm、側面・後面とも8mm、上面6mmである。つまり、装甲車の防御力は機銃弾を防ぐ程度であり、火砲には非力であった。そこで、1942年には車体前面と砲塔前面の装甲を2倍の30mmに増加した。しかし、装甲強化による重量増加によって、機動性は低下した。

写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の八輪重装甲車(Sd.Kfz. 231 8-Rad):車体後面には予備タイヤを搭載している。操縦席は前後に2席あるから、戦地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合など緊急時でも迅速な方向転換が可能だった。
Inventory: Bild 101 I -Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-049-1553-37 Archive title: Kroatien, Split.- Spähpanzer (Sd.Kfz. 231 8-Rad) bei Bergabfahrt; PK 666 Dating: 1943 September - Oktober.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-37"引用。


八輪偵察重装甲車Schwerer Panzerspähwagen)の兵装は、砲塔に55口径2cmKwK30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関銃を搭載した。しかし、後期には、砲塔を大型化して7,5センチ長砲身砲を搭載した「プーマ」、7,5センチ短砲身砲を搭載した「シュトゥンプフ」 Stumpfも生産された。

スプリトSplit)は、クロアチア南、アドリア海に面したダルマチアの主都で、1941年4月、ドイツ軍のユーゴスラビア侵攻に伴って、占領下に置かれ、イタリアに引き渡された。

 しかし、1943年9月、イタリアのバドリオ政権が、連合国に降伏したため、スプリトSplit)はチトーのパルチザンによって解放されたものの、イタリア軍を武装解除し、イタリアを占領するために行動を開始したドイツ軍によって制圧された。そして、スプリトSplit)はドイツ傀儡政権クロアチアに引き渡された。結局、イタリア半島中部に連合軍が進出してきた1944年10月末になって、パルチザンの支配下にはいった。

 Sd.Kfz.221の改良型/武装強化型がSd.Kfz.222四輪装甲車で、車内は若干大型になり、兵装を強化して、砲塔には55口径2-cm-KwK 30 L/55 戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関銃を装備した。ホルヒ 3.8リットル水冷V型8気筒89馬力(Horch 3.8 V8 petrol 90 PS (66 kW; 89 hp) ガソリンエンジンを搭載し、路上最高速度80km、航続距離300km。

Sd.Kfz. 222は1936年-1943年にかけて、1,000輌生産されたが、大戦後期には旧式化しており、第一線というより、後方でのパルチザン掃討戦などに投入されているようだ。

写真(右)1943/1944年,ユーゴスラビアのドイツ警察師団とイタリア軍兵士、イタリア軍の四輪軽装甲車Autoblindo AB41:重量7.5トン、兵装は砲塔に20ミリBreda35自動砲(456発)と同軸8ミリBreda 38機関銃1丁、さらに後方に8ミリBreda 38機関銃1丁。装甲は最大18ミリ。チトーのパルチザン掃討作戦など、後方の対ゲリラ戦には、フランスやチェコから鹵獲した装甲車や戦車も投入された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-005-0018-07 Archive title: Jugoslawien.- Polizeieinsatz, Polizeitruppe mit italienischem Panzer-spähwagen Autoblindo AB41 Dating: 1943/1944。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-005-0018-07"引用。


アウトブリンド(Autoblindo) AB41は、1940年、イタリア軍が制式した四輪装甲車AB 40(Autoblinda AB40)が原型で、イタリアが連合国に降伏する1943年9月まで550輌が量産された。その後も、ムッソリーニが率いたサロ政権(イタリア社会共和国:Italian Social Republic )の部隊で使用されたが、連合軍との第一線に投入するには威力不足だったため、ユーゴスラビアでの対ゲリラ戦に用いられた。

Autoblinda 40, Autoblinda 41諸元
重量:Weight 7518キログラム
全長:Length 5.21 m
全幅:Width 1.93 m
全高:Height 2.48 m
乗員:Crew 4 人
装甲:Armour 最大18 mm
兵装: AB 40: 2 × 8 mm Breda mod. 38 machine guns
AB 41, 43: 1 × 20 mm Breda mod. 35 autocannon
456 発
2 × 8 mm Breda mod. 38 machine guns (後方および同軸coaxial) 1,992 発
エンジン: AB 40, 41: SPA I6 ガソリンエンジン
88 hp (AB 40) あるいは 120 hp (AB 41) 航続距離:Operational range 400 km
最高速度: 78 km/h


7.現存するドイツ軍の八輪装甲車Panzerspähwagen Pz-Spw. (Sd.Kfz. 231 8 Rad)

写真(右)ドイツ連邦共和国コブレンツにある軍事技術学習博物館に展示されているドイツ軍の八輪駆動装甲車SdKfz 231 8 rad Type GS:車輪は、独立懸架、方向転換のための操向可能。前後二つの操縦席を備え、迅速な後進ができた。装甲板は、多角形で、傾斜しており、避弾径始を考慮した先進的な設計だった。ただし、複雑な構造は、製造経費を高くしてしまい、量産性は劣っていた。前輪カバー上に、車体を障害物に充てないようにするフェンダーポールが立っている。
SdKfz 231 8 rad at the Wehrtechnische Studiensammlung Koblenz
原画像データの生成日時: 2010年2月26日, 13:00:08
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:SdKfz 231 Type GS pic3.JPG"引用。

  八輪偵察重装甲車Schwerer Panzerspähwagen)より軽量、小型の四輪軽装甲車Sd Kfz 222の原型、Sd.Kfz.221は、四輪駆動、独立サスペンションの贅沢な構造だったが、兵装はオープントップの砲塔に、初期に7.92mm MG13機関銃、後に7.92mm MG34機関銃1丁だけだった。そこで、兵装を強化するために、砲塔を大型化し、2センチ戦車砲と同軸7.92ミリ機関銃を搭載したのが、Sd.Kfz.222で、砲塔大型化に伴って、車体も若干大型化している。砲塔上面はオープントップで、手榴弾除けの開閉式金網を装備している。機関銃1丁だけのSd.Kfz.221は、威力不足のため、1935年から1940年5月までに330輌生産されたところで、生産中止になった。Sd.Kfz.222は、1943年まで900輌両が生産された。

写真(右)ドイツ連邦共和国コブレンツにある軍事技術学習博物館に展示されているドイツ軍の八輪駆動装甲車SdKfz 231 8 rad Type GS:前輪覆(フロントフェンダー)の隅に装着されている先端に白い球の付いた棒は、運転時に車幅を確認して、走行や駐車の際に、車体を障害物に充てないようにするフェンダーポール。
SdKfz 231 8 rad at the Wehrtechnische Studiensammlung Koblenz
原画像データの生成日時: 2010年2月26日 (金) 13:01
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:SdKfz 231 Type GS pic4.JPG"引用。


四輪装甲車Sd.Kfz.223は、大型高性能無線機を搭載した無線指揮軽装甲車で、1944年まで、500輌が量産された。兵装は、小型化したオープントップの砲塔に7.92ミリ機関銃1丁を装備した。砲塔上面には手榴弾除けに開閉式の金網カバーを備えている。無線アンテナは、鉄枠のフレームアンテナで、折り畳み可能だった。

四輪偵察装甲車Sd.Kfz.222は、4輪独立縣架、4輪駆動、4輪ステアリングという凝った贅沢な構造で、路外機動性も高かったため、ロンメル将軍のアフリカ軍団にも配備され、北アフリカの砂漠戦でも活躍した。

第二次世界大戦前から使用されたドイツ軍の四輪偵察装甲車Sd.Kfz.222は、砲塔式に2センチ戦車砲と同軸の7.92ミリ機関銃を搭載し、砲塔上面はオープントップに開閉式の手榴弾よけメッシュカバーで覆われていた。出力は液冷ガソリンエンジン90馬力で、車体後部に搭載されている。路上整地最高速度は80km/h、路外不整地では40km/hだった。

 四輪独立懸架の軽装甲車Sd.Kfz.221の車体と砲塔を大型化し、車載機関銃1丁だけだったSd.Kfz.221の武装を、2センチ対空機関砲を改造した2センチ戦車砲(2 cm KwK 30)を追加して強化した。搭載エンジンは、排気量3.5リットルまたは3.8リットルのホルヒ水冷V型8気筒ガソリンエンジン80-90馬力である。Sd.Kfz.221は、1935年から1940年まで300輌が生産され、Sd.Kfz.221の後継車Sd.Kfz.222は、1944年まで550輌生産された。

写真(右)ドイツ連邦共和国コブレンツにある軍事技術学習博物館に展示されているドイツ軍の八輪駆動装甲車SdKfz 231 8 rad Type GS:車体前面のバルジ(張出)は、補助装甲板で、エンジンフロントと補助装甲板の間は荷物を搭載するラックになっている。このラックに荷物を搭載すれば、その荷物も補助装甲として活用できる。
SdKfz 231 8 rad at the Wehrtechnische Studiensammlung Koblenz
原画像データの生成日時: 2010年2月26日 (金) 13:03
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:SdKfz 231 Type GS pic6.JPG"引用。

War & Peace Showは、毎年7月に一週間、イギリス、ロンドン南東50kmのベルトリングBeltringで開催される巨大なイベントで、世界中の稼働可能な軍用車両、戦車、装甲車からトラック、乗用車、二輪オートバイまでが集う。2010年には、四発重爆撃機ランカスターの実機も飛翔した。2012年までは、the War and Peace Showと称していたが、2013年以降は、The War and Peace Revivalと改称された。ただし、八輪重装甲車は、実物が残っていないために登場しない。

Sd.Kfz._231は、八輪駆動、八輪操向(タイヤがカーブする)、独立懸架(バネ圧がタイヤごとに調整可能)、前後の操縦席(後ろを向いて後進しないですむ)、大馬力ガソリンエンジンを装備した贅沢な大型の装輪式装甲車。製造コストは高く、戦争中期以降、装輪式装甲車の威力不足、資源不足の中で、生産台数は引き下げられた。砲塔には55口径2 cm KwK 30戦車砲(対空機関砲改造)と同軸のモーゼル7.92mmMG34機関砲を搭載しているだけで、攻撃力は大きいとは言えない。

写真(右)ドイツ連邦共和国コブレンツにある軍事技術学習博物館に展示されているドイツ軍の八輪駆動装甲車SdKfz 231 8 rad Type GS正面:SdKfz 231 8 rad at the Wehrtechnische Studiensammlung Koblenz
原画像データの生成日時: 2010年2月26日 (金) 13:04:14
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:SdKfz 231 Type GS pic1.JPG"引用。

八輪偵察重装甲車Sd.Kfz.231 8-Rad)諸元
全長:    5.85m
全幅:    2.20m
全高:    2.35m
全備重量: 8.3t
乗員:    4名
エンジン:  ビーシンクNAG L8V V型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 180hp/3,000rpm
最大速度: 90km/h
航続距離: 300km
兵装:    55口径2cmKwK38戦車砲、7.92mmMG34機関銃

写真(右)ドイツ連邦共和国コブレンツにある軍事技術学習博物館に展示されているドイツ軍の八輪駆動装甲車SdKfz 231 8 rad Type GSの後部:車体後方上面には、エンジン点検用の大型ハッチ、後方操縦席用の窓がある。前後2席ある操縦席のため、戦地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合など緊急時でも迅速な方向転換が可能だった。 エンジン排気管は、放熱のために金属板に○穴を多数開けた板に固定されている。
SdKfz 231 Type GS 2010年2月26日 (金) 15:36
原画像データの生成日時: 2010年2月26日 (金) 13:03
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:SdKfz 231 Type GS pic9.JPG"引用。

ドイツ軍の東部戦線の基幹補給ルートは鉄道だった。鉄道駅まで物資・人員を大量輸送し、そこから自動車、キャタピラ式トラック、馬車を使って各部隊に補給を行った。

また、ドイツ軍は、現地の住民に、物資輸送の手伝いや道路の補修など、ドイツ軍に協力するように強要した。そこで、ソ連パルチザンは、この防備手薄な補給ルートを攻撃、破壊しようとした。そして、ドイツに協力した現地住民を摘発し、時には殺害した。

 ソ連のパルチザンに対抗しようと、ドイツ軍は、装甲列車を編成するとともに、日常的な鉄道防備・警戒のための軽戦闘車両を新たに準備した。新設計で新造するのではなく、既存の装甲車、特に外国軍からの鹵獲装甲車を改造して、この鉄道警備任務に充当した。

写真(右)イギリス、ボービントン戦車博物館Bovington Tank Museumに展示されているドイツ軍の八輪火力支援重装甲車(Sd Kfz 234/3):偵察装甲車から砲塔を撤去し、車体前部上面に短砲身24口径7,5cm戦車砲を搭載。後方は、ドイツ陸軍のティーゲルII重戦車(ポルシェ製造)で、長砲身8,8cm戦車砲を装備。
Germany - Panzerpahwagen Rad 8 "Puma" (or SdKfz 234/3) armoured car with 75mm at the Bovington Tank Museum, Dorset, March 1998. 日付 2015年12月9日, 20:22 原典 Panzerpahwagen Rad 8 (SdKfz 234/3) 。原典にはPumaとあるが、これは入力ミスと思われる。
作者 Hugh Llewelyn from Keynsham, UK
原画像データの生成日時: 2015年12月9日, 20:22
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:Panzerpahwagen Rad 8 "Puma" (SdKfz 234-3) "引用。


偵察部隊の火力支援装甲車Sd.Kfz.234/3 シュツンメル は、上面を開放したオープントップ型戦闘室にIV号戦車の初期型が搭載して余剰となっていた短砲身24口径 7,5cm戦車を搭載した八輪重装甲車で、Sd.kfz.231を改装した派生型である。ただし、大戦後期には、経費節減、量産性向上のために、複雑な機構を持つSd.Kfz 231を簡易化したSd.Kfz.234が生産されるようになっていた。これは、シューシのモノコック構造、直線や垂直な装甲板を使った車体外観に簡易化した上に、動力をガソリンエンジンからタトラ社空冷V型12気筒ディーゼルエンジンに変換して、燃費を向上させたものである。

写真(右)イギリス、ボービントン戦車博物館Bovington Tank Museumに展示されているドイツ軍の八輪火力支援重装甲車(Sd Kfz 234/3):偵察装甲車から砲塔を撤去し、車体前部上面に短砲身24口径7,5cm戦車砲を搭載。この火砲は、第2次世界大戦時のドイツ軍のIV号戦車の初期型、III号突撃砲の初期型、III号戦車N型、さらに半装軌式装甲車Sd.kfz.251/9の主砲として搭載された。装甲車の後方に車体前部のみ見えているのは、アメリカ軍の水陸両用車両LVT(Landing Vehicle Tracked)。
English: Schwerer Panzerspähwagen Sd.Kfz. 234/3 of the Wehrmacht in the Bovington Tank Museum/England
日付 2010年4月18日, 12:31 原典 Sd Kfz 234/3 Schwerer Panzerspähwagen
作者 Simon Q from United Kingdom
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:Panzerspähwagen Sd.Kfz. 234-3.jpg"引用。


八輪重装甲車Sd.Kfz.234は、砲塔式2cm KwK38戦車砲を搭載したSd.Kfz 234/1偵察装甲車の攻撃力を大幅に強化するために60口径5cm KwK39戦車砲を搭載したSd.Kfz 234/2「プーマ」が生産された。しかし、プーマが前線に投入されるようになった1943年後半には、5cm戦車砲は威力不足で、重量過大なために機動性は低下してしまった。そこで、プーマの生産は中止されて代わって、火力支援にも使用できる重装甲車として24口径7,5cm戦車砲を搭載したSd.Kfz.234/3 シュツンメルが開発された。

Sd.Kfz.234/3 シュツンメルは、Sd.Kfz 234の後期派生型で、砲塔を撤去して、上面を開放したオープントップの大型戦闘室に余剰のあった短砲身24口径7,5cm K51戦車砲を搭載した。Sd.Kfz 234/3の24口径7.5センチ砲は、大戦初期のIV号戦車初期型が搭載していた戦車砲で、大戦後期には余剰扱いされていたため、重装甲車に搭載することになったともいえる。大口径のため、榴弾の威力は大きく、火力支援に活用された。この短砲身砲は、火砲の初速が低く貫通能力が劣り、装甲車の防御力は軽戦車以下であり、対戦車戦闘には向いていない。

しかし、24口径7,5センチ戦車砲には、ホローチャージ・成型炸薬を活用した対戦車榴弾が使用できたために、防御力の不利を忍んで、戦局悪化の中、対戦車戦闘にも投入された。そして、この対戦車戦闘の実績が評価され、対戦車攻撃力を一層向上させたのが、次の派生型Sd.Kfz 234/4であり、これは無理を承知で、46口径7,5cm対戦車砲を搭載した八輪重装甲車である。

写真(右)ドイツ・ミュンスター戦車博物館Bovington Tank Museumに展示されているドイツ軍の八輪対戦車重装甲車(Sd.Kfz 234/4):偵察装甲車から砲塔を撤去し、車体前部上面に24口径7,5cm戦車砲を搭載した八輪対戦車重装甲車(Sd.Kfz 234/3)は、46口径7.5cmPaK40対戦車砲に変換した八輪対戦車重装甲車(Sd.Kfz 234/4)。
解説 English: Sd.Kfz 234/4, Deutsches Panzermuseum Munster 日付 2014年5月11日, 15:51:59 原典 投稿者自身による作品。
作者 Veppar
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:SdKfz 234 4 Munster 1.jpg"引用。


1944年10月、ヒトラーは、陸軍の対戦車攻撃能力を向上するために、半装軌式兵員輸送装甲車、装輪式重装甲車に、IV号戦車に搭載していた長砲身48口径7.5 cm KwK 40戦車砲を搭載するよう求めた。これは、重量過大であり、防御力にも機動力にも不安があったものの、ビューシンク社は、1944年11月中に46口径7.5cm PaK40対戦車砲を搭載することを設計案を提案した。他方、アルベルト・シュペーア率いる軍需省は、7.5cm PaK40対戦車砲もこれらの装甲車の搭載には重量過大で現実的でないと判断していため、量産準備はすぐには進まなかった。

写真(右)ドイツ・ミュンスター戦車博物館Bovington Tank Museumに展示されているドイツ軍の八輪対戦車重装甲車(Sd.Kfz 234/4):偵察装甲車から砲塔を撤去し、車体前部上面に24口径7,5cm戦車砲を搭載した八輪対戦車重装甲車(Sd.Kfz 234/3)は、46口径7.5cmPaK40対戦車砲に変換した八輪対戦車重装甲車(Sd.Kfz 234/4)。このSd.Kfz.234/4(PAK40対戦車砲搭載型)は、戦後アメリカ軍が鹵獲した車体をアメリカ本土アバディーンに持ち帰って検分した車体。その後、東西ドイツ統合後20周年を記念して、アメリカ軍から返還、ドイツに寄贈された。そこで、ミュンスター戦車博物館で展示されることになった。
解説 English: Sd.Kfz 234/4, Deutsches Panzermuseum Munster 日付 2014年5月11日, 15:51:59 原典 投稿者自身による作品。
作者 Veppar
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:SdKfz 234 4 Munster 2.jpg"引用。


しかし、1944年6月にノルマンディーに上陸した西側連合国は、10月にはドイツ本土西部のアーヘンに突入しており、戦局悪化の中でヒトラーは、攻撃力強化を強硬に主張したため、Sd.Kfz.251とSd.Kfz.234に1941年から生産されている46口径7.5cm PaK40対戦車砲を搭載することが決定した。ビューシンク社は、24口径7.5cm戦車砲を搭載していた八輪重装甲車Sd.Kfz.234/3の生産を90輌で中止し、1945年から46口径7.5cm PaK40対戦車砲対戦車砲を搭載する八輪重装甲車Sd.Kfz.234/4の生産に切り替えた。

1944年12月以降に短砲身24口径7,5センチ砲を搭載して完成させるはずだったSd.Kfz.234/3重装甲車は、長砲身46口径7.5cm PaK40対戦車砲を搭載するように改造して生産された。Sd.Kfz.234/4の転換生産は、搭載砲の大型化によって、設計変更を伴うが、簡易的な改造で済まされたようで、Sd.Kfz.234/4は1945年4月までに90輌が転換生産された。

写真(右)ドイツ・ミュンスター戦車博物館Bovington Tank Museumに展示されているドイツ軍の八輪対戦車重装甲車(SdKfz234/3-4)の:偵察装甲車から砲塔を撤去し、車体前部上面に24口径7,5cm戦車砲を搭載した八輪対戦車重装甲車(SdKfz234/3)、46口径7.5cmPaK40対戦車砲に変換した八輪対戦車重装甲車(Sd.Kfz 234/4)が搭載したディーゼルエンジン。後方に車体下部だけ見えるのは、38(t)戦車をベースに生産された対戦車自走砲ヘッツァー。
解説 Svenska: Dieselmotor som användes för SdKfz234/3-4 och Jagdpanzer 38 日付 2010年7月29日 原典 投稿者自身による作品 作者 Hal9001
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) から"File:SdKfz 234 4 Munster 1.jpg"引用。


大戦前に原型が完成していた八輪重装甲車Sd.Kfz 231は、複雑な機構を持ち、傾斜や多角形を多用した装甲板に覆われていたために、製造コストがかさんだ。そこで、大戦後期には、構造を簡易化し量産性を高めた八輪重装甲車Sd.Kfz.234が開発された。これは、シューシのモノコック型、車体外観の簡略化を図った上に、動力をガソリンエンジンからタトラ社空冷V型12気筒ディーゼルエンジンに変換して、燃費を向上させたものである。


8.装輪式装甲車に勝る半装軌式装甲車の活躍

ドイツ軍の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250)は,第二次大戦が勃発した1939年にハノマーク社Hanomag)で開発され,1940年から1945年まで生産された歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)である。エンジンは,マイバッハ(Maybach-Motorenbau)製造の水冷6気筒(4170cc)のガソリンエンジン(ディーゼルではない)で大出力の100馬力(75キロワット:watt)だった。

装甲車 半装軌式装甲車とは,車輪とキャタピラ(無限軌道:caterpillar track)の双方を使って走行するハイブリッド型の装甲車のこと。「半装軌」とは,車体の半分が無限軌道(キャタピラ)を装備しているという意味で,「ハーフトラック」(half truck) と呼ばれる。ただし,貨物自動車のトラック(truck)は,一般的には,装甲板がなく,銃砲撃に耐えられないが,戦闘装甲車Schützenpanzer)は,敵弾から乗員や貨物を保護する装甲版を張った自動車あるいはハーフトラックである。

 歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle) (Sd.Kfz. 250)原型は,野砲牽引用の1トン牽引車Sd.Kfz.10)で,未舗装道路や路外での軌道装甲能力を活用した偵察装甲車として制式された。

1トン牽引車Sd.Kfz.10)は,全長 4.7メートル,全幅 1.8メートル,全高 1.6メートル,重量 5トン,乗員2人,輸送兵士 6人

小型の偵察装甲車 (Sd.Kfz. 250)は,乗員2人+搭載4人だが,中型の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)は乗員2人+搭載10人と大きく,兵員輸送能力が高い。しかし,エンジンは同じ出力なので,中型の装甲車Sd.Kfz.251に比べて,機動性が高く,偵察・指揮車としては適していた。

第二次世界大戦中,4人乗りの兵員輸送用の小型半装軌式装甲車ハーフトラックSd.Kfz 250は6000台,10人乗りの中型半装軌式装甲車(Sd.Kfz.251)は1万5000台以上生産された。装甲師団の歩兵(猟兵)に優先的に配備されたが,ドイツ軍には,軍用トラックのほか馬,馬車の輸送部隊も多かった。

半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz. 250)の生産は,ドイツのデマーク社(Demag)で行われたが,多角形の複雑な車体後部装甲版は,生産性が低かった。

 ドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車重量を均等に分散して、路外走行能力、機動性を高めるために採用した千鳥足配置の転輪も機構が複雑で,製造コストが高価だった。そのために,1943年9-10月には,簡易形状に変更した装甲版の後期型が生産された。生産台数は,旧型“アルテ(Alte:Old)”4200台,新型“ノイ(Neu:New)”2300台で,合計6600台が生産された。

 ドイツ軍が採用したハノマーク社Hanomag)のSd.Kfz. 251は,1937年から開発,1939年から生産された中型の兵員輸送用半装軌式装甲車ハーフトラック)である。Sd.Kfz 251は、複雑な多面体装甲版の旧型4600台と,1943年9月以降,簡易形状装甲版に変更して,生産性を向上したされた新型1万600台がある。合計1万5200台が生産された。

 しかし,半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251Sd.Kfz 250を流用することで,観測車として利用できた。そこで,兵員輸送用半装軌式装甲車ハーフトラック)の種類を少なくして,効率的に大量生産することが優先された結果,Sd.Kfz 250を優先して,Sd.Kfz 253の生産は1941年6月で中止された。

ハノマーク社Hannoversche Maschinenbau AG)の半装軌式装甲車(ハーフトラック)Sd.Kfz. 251(旧型)の年別生産台数は,1940年 337台,1941年 424台,1942年 1200台とされるから,生産の大半は1943年以降の戦争後期である。初めてこの半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)を装備したのは,1939年に第1装甲師団だった。

Sd.Kfz 251初期型の標準武装は,7.92ミリMG34機銃2丁で,弾丸2,010発を搭載。

ドイツ軍の火砲牽引用の1トン牽引車は, 車体の後部にキャタピを装備した半装軌式の牽引車だが,装甲板はなく,乗員は無防備である。この車体をベースにして,小型の半装軌式装甲車Sd.Kfz 250),中型の半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz.251)が開発された。したがって,共通部品も多く,部品統制が進んでいて,量産向けだった。だたし,構造自体は複雑だったので,この点は生産性を低下させた。

ハノマーク社Sd.Kfz 250は、路外でも兵員を迅速に輸送できるドイツ陸軍のハーフトラックを開発した。大戦中,小型4人乗りの小型装甲車Sd.Kfz 250シリーズは6000台,10人乗りの中型兵員輸送装甲車Sd.Kfz 251シリーズは1万6000台が生産された。

 火砲を牽引する牽引車、兵員輸送や砲兵用の観測・無線指揮をする歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle) にはキャタピラ(履帯)が装着されることがある。牽引車は、ハーフトラックとしてキャタピラ(履帯)によって路面接触面積を大きくして、牽引能力を向上させている。歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)は、戦車に随伴して歩兵を輸送したり、砲兵用の観測測距をするために、路外不整地を踏破・走行できる機動性が求められる。

半装軌装甲車 戦車もキャタピラ(履帯)を全装軌にして装備しているが、これは重量を荷重にして走行速度も制限することになり、構造も複雑化して製造経費もかさむことになる。特に、全装軌キャタピラ(履帯)の場合、方向転換には、動輪を左右で異なる回転速度とする変速機が不可欠であるが、これも重量増加、構造の複雑化を招来する。

 他方、半装軌キャタピラ(履帯)であれば、変速機など動力伝達機構を簡易化でき、製造経費も安価になる。アメリカのM3ハーフトラックは、方向転換の操作は、前輪だけで可能で、半装軌キャタピラ(履帯)は方向転換には使用しないで済む。

 ドイツの半装軌式装甲車(ハーフトラック)は、接地面積を大きくするために半装軌キャタピラ(履帯)面が大きく長い。そのために、前輪タイヤだけでの方向転換はできず、半装軌キャタピラ(履帯)の回転数を変更する変速機を設けている。ドイツの半装軌式装甲車(ハーフトラック)の変速機は簡易なものであるが、それを設ける必要のないアメリカのM3ハーフトラックよりも量産性が劣っていた。

歩兵部隊の最小単位は,分隊で10人程度の歩兵集団である。したがって,装甲車やハーフトラックによって戦場に運ばれる歩兵部隊も,最小限,分隊単位が望ましく,歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)にも10人以上の兵士が搭載可能な必要がある。

 ハノマーク社Hanomag)のSd.Kfz. 251のような半装軌式兵員輸送装甲車は,搭乗可能な人数は,運転手・副手の2人に加えて歩兵4人でしかなく,輸送能力が低く兵員輸送には適していない。

 そこで,ドイツ軍は,小型半装軌式装甲車Sd.Kfz. 250のエンジンはそのまま,基本設計を踏襲して車体を延長した兵移入装用の中型ハーフトラックを開発した。これが,中型半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251である。

半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251)は,不整地でも移動速度が速く,機動性に富んでいるために,装甲師団の戦車の後方に随伴したり,戦車攻撃後に迅速に進出したりすることが可能だった。機械化歩兵は,電撃戦に活躍した。

戦闘室前方に短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)は、第二次世界大戦初期からIV号戦車、III号突撃砲に装備された火砲で、対戦車戦闘ではなく、榴弾による歩兵火力支援に用いられた。

 しかし、歩兵の火力支援は戦車ではなく、突撃砲で代用さたため、戦車にはより長砲身の7,5センチ砲が搭載された。そこで、余剰となっていた短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)を半装軌式装甲車に搭載し火力支援に充てるようになった。

ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック


『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)
『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)


ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ソ連赤軍T-34戦車

VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
アンネの日記とユダヤ人
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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