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◆世界記憶遺産『アンネの日記』とユダヤ人虐殺:ホロコースト Holocaust
写真(上)1944年5月,アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に到着したハンガリー・ユダヤ人:胸につけた黄色のダビデの星は,ユダヤ人を差別するために,つけさせられた。収容所に到着し,労働不能者として選別された婦女子,老人は,強制収容所(concentration camp,独語Konzentrationslager:KZラーゲルあるいはKL)のバラックに入る。しかし,そこは,殺害までの一時的な控えの場所だった。数十ヵ所ある強制収容所のうち,ガス室を完備していたのは,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなどドイツ占領下ポーランドの絶滅収容所だけだった。(オーストリアのマウトハウゼン収容所のガス室では,殺戮は限定されたものだったようだ。)ガス室での殺戮は,1942年に開始,1943-1944年に本格化し,1944年10月には中断された。アンネ・フランクは,1944年,15歳でアウシュビッツに送られ,再移送されたベルゲン=ベルゼン(Bergen-Belsen)収容所(ガス室はない)で,1945年3月頃病死。ユダヤ人絶滅は,ガス室だけでなく,銃殺・拷問などの処刑,奴隷労働・物資不足の下の過労死・病死・衰弱死によっても実行された。殺害人数は,ガス室に拠らないほうが多いとも考えられる。写真は,Photo Archives: United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)とYad Vashem :The Auschwitz Album(イスラエル・ホロコースト博物館)引用。米国ホロコースト記念博物館は,1993年にワシントンDCに建設,来訪者2500万人。

Anne Frank/B. M. Mooyaart/Eleanor Roosevelt(1993)The Diary of a Young Girl BANTAM BOOKS, USA;アンネ・フランク(1929年6月12日ドイツのフランクフルト生まれ)は、十三歳の誕生日(戦時中の1942年6月12日),テーブルに日記帳があるのを見つけた。戦時中,アムステルダムの自宅に住んでいた時のことである。1944年8月4日,アンネたちの逮捕後,支援者のオランダ人ミープ・ヒースが,部屋に散乱していた日記類を密かに回収・保管。戦後,1945年6月,収容所から唯一人生還した父オットー・フランクは,支援者ミープからアンネの日記を渡され,家族や知人に配慮して日記を編集し,関係者に少数タイプし配布した。その後,日記はHet Achterhuis(隠れ家)の書名でオランダで刊行,評価され,1952年,ルーズベルト元大統領夫人エレノアの序文を得て,英語版「一少女の日記」を出版。これがベストセラーになり,世界各国で翻訳,日本でも1952年『光ほのかに−アンネの日記』が刊行。2009年、ユネスコは、オランダに保管されている『アンネの日記』を世界記憶遺産(Memory of the World)に登録した。

◆【パリAFP=時事】フランスの学者と野党議員は1日、著作権保護期間の終了を理由に「アンネの日記」初版本と同じオランダ語版をインターネット上に公開。しかし、著作権を保有するアンネ・フランク基金は強く反発している。このニュースが報じられた2016年1月2日、本研究室への新規訪問者は881人だった。

Anne Frank: A Life in Hiding Rookie Biographies)アンネ・フランク:隠れ家での生活;アンネは、1929年6月12日、ドイツ、フランクフルト・アム・マインに生まれたドイツ人だったが、反ユダヤ主義のナチ党政権掌握後、1934年初め5歳の時に、オランダのアムステルダムへ亡命した。1939年9月に第二次世界大戦が勃発、1940年5月にオランダがドイツ軍に占領されると、ユダヤ人出頭が命令された。一家は、強制収容所への移送を恐れ、1942年7月6日、父オットー・フランクの仕事場に作った隠れ家にで潜行した。アンネは、隠れ家に来る前から日記をつけていた。その視点は、ユダヤ人迫害の全体像を提供できるものではないが、家族・同居人との出来事や伝えられてくる情報から、少女の思いが直接伝わってくる。


中居正広『アンネの日記』から世界平和を考える」テレビドガッチが2015年2月6日(金)21時よりTBSで放映された。その日、本研究室への新規訪問者は1万1,616人、翌7日は1,508人、8日は725人に達し、アンネの生きた戦争の時代、人種民族差別への関心がSNSでも高まっていることを実感した。しかし「実際の“隠れ家”の間取り図・断面図をフリップで見せるなどして、過酷だったその生活ぶりを検証する」というが、アンネの隠れ家の条件は最上級で、収容所のユダヤ人とは比較するまでもない。それを想像できたアンネは、ほかのユダヤ人たちを心配していたほどだった。
 気になったのは、アンネの日記を検証すれば容易にわかるような番組の錯覚が散見されたことだ。再現された隠れ家に入ったゲストが「アンネは一部屋もらっていたんですね」というが、アンネは姉と同室で、直ぐに姉と別れてデュッセル氏と同室にされた。一人一室の余裕はなかった。また、「見つかることは殺されることですね」とのゲスト発言も、収容所送り=殺害かどうかをアンネたちが議論していたことを踏まえると正確ではない。隠れた当初、労働力を提供するユダヤ人をすぐ殺すはずがないとの意見が優勢だった。解説で「ドイツ秘密警察がユダヤ人を連行した」というが、オランダ人の警察や密告者がユダヤ人捜索・移送に協力していたことは、15歳の少女も心悩ませていた。他方、ユダヤ人がイエスを殺したため、その責任をとらされて虐殺されたとの「自己責任論」が、聖書を引いて説明されたが、聖書からこの説に「都合のいい」個所だけ引用するのはいかがなものか。キリスト教会は、ユダヤ人イエス殺害説を否定しているのに、その事実も、その理由も一切触れられなかった。ヒトラーやナチスは、第一次大戦の敗戦、恐慌、汚職、政治的混乱は全てユダヤ人の陰謀であり、ユダヤ人の目的は、ドイツを堕落、隷属させることであると邪推した。そうなる前に、ユダヤ人を排除、殲滅すべきだと極論した。
 TBSは、素晴らしいメッセージを発信する良質な番組を放映したが、ゲストの発言や解説の細かな点まで監督する責任がある。世界中で読み込まれ、徹底研究されている「世界記憶遺産」に関する番組が、一般視聴者向きだから、学術研究ではないから、と安易な姿勢で作成されてはならない。「日記を破る日本人の理解はこの程度だ」と世界で誤解され、番組の中から日本に「都合の悪い」個所だけフレームアップしたプロパガンダがなされるのが心配だ。番組の言うように「アンネの書いた日記をもう一度、読み直さなければならない」

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人写真はYad Vashem (イスラエル・ホロコースト博物館)引用。アウシュビッツ収容所とは,アウシュビッツ第一基幹収容所,大規模なガス室のあったアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所),軍需工場のあるアウシュビッツ第三収容所ブナの総称で,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所ともいう。現在のポーランド南部オシヴェンチムにあった。ユダヤ人,ロマRoma ("Gypsies"),ソ連軍捕虜などが収監され,アンネも2ヶ月間いた。列車でアウシュビッツに到着したユダヤ人たちは,下車後,労働可能者は,収容所や工場で奴隷労働に従事させられた,労働不能者に選別されると,一時収容後あるいはそのままガス室で処刑された。しかし,それを知らないユダヤ人は,家族が一緒にいることを希望した。ユダヤ人虐殺は,冷徹に考えられた効率的な仕組みで,ユダヤ人が反抗しないように,労働すれば自由になれると錯覚させた。

1944年5月3日のアンネの日記「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」
 「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」
 アンネは,戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈していると同時に,総力戦における一般市民の重要性を認識していた。「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いていた。

 しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記末尾:「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。
                         じゃあまたね,アンネ・M・フランク」

写真(上)アンネ・フランクの第一冊目の日記原本:1942年6月12日十三歳の誕生日プレゼントアンネは,1942年12月まで,半年間,この日記帳をつけた。第一冊目なので,写真も多数貼ってある。第二冊以降は,学校ノートや紙切れ(ルーズリーフ)に日記をつけた。1944年8月,15歳でヴェステンボルクWesterbork収容所,ついでアウシュビッツ収容所に送られた。2ヶ月後,ベルゲン=ベルゼン収容所に移送され,病気で衰弱,1945年3月頃死亡。1944年3月25日「死んでしまった後も生き続ける仕事がしたい」と日記に書いたアンネは,それを果たした。日記原本の写真は,United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)引用。

Johanna Hurwitz/Vera Rosenberry(1999) Anne Frank: Life in Hiding (Avon Camelot Books) 「アンネ・フランク:隠れ家の生活」アンネは,日記に「後ろの家」と名づけ刊行する事を夢見ていた。日記の文章は,表現が軽妙で,内容も濃い。親族・同居人・友人に対する酷評,ペーターとの恋愛、男女への興味にもページを割いている。そこで,微妙な箇所を削除,修正して出版された。出版物「アンネの日記」の普及版、完全版、研究版という区分は、編集や出版社の都合による。日記原本は、日記帳、複数の学校用ノート・会計帳簿、多数の紙切れに書かれており,それらは,戦時中の潜行生活、物不足を反映して、中古で既に書き込みのある紙やノートだった。これが,日記は,アンネの筆跡でない,自作でないとの誤解を生んだ。2009年7月,国連教育科学文化機関(UNESCO)が、貴重資料の保存と認知度向上を目的とした「世界記憶遺産」(Memory of the World)に「アンネの日記」を登録し、日記の捏造説は荒唐無稽であることが明白になった。

  父オットー・フランクOtto Frank:1889-1980 )が編集した1947年初版「アンネの日記」初版(「後ろの隠れ家」:オランダ語)はそれほど注目されなかったが、1952年刊行The Diary of a Young Girl(「アンネの日記」英語版)が出版されてから,ベストセラーになり、アンネはホロコースト犠牲者の象徴になった。そこで、反ユダヤ主義者が「日記」を貶めるプロパガンダを展開した。日記を読まないうちに,日記の文書は,十三四歳の少女が書けるものではないと思い込み,姉マルゴーや他人のノート書き込み、戦後に研究者や編集者が書き込んだボールペンや鉛筆の書き込み・筆跡を取り上げて、日記が捏造だとの誤解を広めた。彼らは「アンネの日記」原本が、  父オットー・フランクOtto Frank)が誕生日プレゼントに送った日記帳の続き、複数の日記帳・中古の学校用ノート・中古の会計帳簿、中古の多数の紙切れ(ルーズリーフ)から構成されていることに、市民が思い至らないように慎重に議論している。売名行為のために「アンネの日記」は捏造だ,ユダヤ人の陰謀だと「爆弾発言」をする人もいるが、彼らはマスメディアの注目を浴びたいだけの人物であろう。

戦時中の潜行生活・物不足の中で手に入れた「日記を書いた紙」は、新品ではなく、劣悪な紙や書き込みの古紙だった。日記の真偽は,裁判・科学的検証によって明らかにされたが、日記捏造説,日記焚書の発生は,ユダヤ人虐殺の歴史を共有できていない、あるいは反ユダヤ主義が残っている証拠でもある。2009年アンネの日記がユネスコ世界記録遺産に登録された。

◆アンネ・フランクは,アムステルダムの隠れ家から一切外出ができず,親衛隊(Schutzstaffel: SS)・ドイツ秘密警察(ゲシュタポ)・オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)に発見されることを恐れていた。ユダヤ人迫害の恐怖と不安を克服しようと日記を書き進めた少女は,魂の内側で思索を深め,社会的関心を広げた。表現力も,書体も豊かになった。けれども、文才に恵まれてた作家でも,少女の生の感情を写すことはできない。

◆アンネの日記を「十三四歳の少女がかけるはずがない」と喧伝する者は,自分の文才と比較したのか、日記を読んでいないかのどちらかのいい加減な人物であろう。手にとったことのない「アンネの日記」、見たこともない1959年アカデミー賞の映画「アンネの日記」の高い評判を伝え聞いただけで、少女に世の人々に感動を与える名文の文学作品が生み出せるはずがないと誤解している。少女に高尚な「反戦平和論」を論じられるはずがないと見当違いの見解を述べている。アンネ日記を高尚な小説・文明評論と思い違いをして、そんな名作が少女に架ける筈がない、ゴーストライターに書かせたに決まっている、という誤った批判は、『日記』を手にしたことがないからである。

◆『アンネの日記』を実際に読めば、狭い隠れ家に閉じ込められていたアンネは、顔を突き合わせざるをえなかった同居者、姉や母親に対しても不平不満を書き連ねており、大上段の議論や戦争論を論じているわけでも、文学的表現力が巧みなわけでもないことがすぐわかる。日記を読んでいないままに『日記』を否定している者は、不平不満を抱えた少女の悩みを知らないし、少女の鋭敏な感覚にも,25ヶ月間の苦しい隠れ家生活の恐怖にも思い至ることがない。


アンネ・フランクは,迫害の中で身体的に拘束され、不自由に苦しんだが、そのことがかえって,アンネの魂を自由にした。少女は,限りない精神世界を形成し,その一端を「複数の日記帳や多数の紙切れ」に書き記した。それは、同居者から母親まで悪口も、若者・少女の理想主義,向学心、男の子への興味も綴られている。まさに女の子の生の文章だ。

戦争では,祖国防衛,民族・家族を守るの戦いとして,戦争の大儀,聖戦が語られてきた。戦争を望まなかった女性子供も,戦争に巻き込まれた。オットー・フランクOtto Frank:1889-1980 )の末娘アンネ・フランク(1929年6月12日ドイツのフランクフルト生まれ)も,1939年9月,僅か十歳で第二次世界大戦に直面した。

オランダは,1940年6月,ドイツに完全に占領され,連合軍による欧州解放が待望された。日記には,ラジオ放送に聞き耳を立てて,一喜一憂する隠れ家住人たちの様子が生き生きと描かれている。
しかし,アンネ・フランクは,戦争は民族栄光の歴史だという戦争英雄叙事詩、「聖戦自存自衛の戦いはなくなることがない」という戦争必然説、「人生の目的や意義は存在せず無価値である」とのニヒリズムNihilism:虚無主義)を信じてはいなかった。戦争は政治の延長線上にあるとするクラウゼヴィッツ亜流の戦略論にも陥らなかった。

Miep Gies/Alison Leslie Gold(1988)Anne Frank Remembered: The Story of the Woman Who Helped to Hide the Frank FamilyTouchstone Books :「日記」以外にも,アンネ・フランクに関する映画や演劇が作られた。しかし,隠れ家住人を助けたオランダ人の活躍も見逃せない。日記に実名で登場する(ありふれた名前の)ミープ・ヒースMiep Gies:1909-2010)が語る人間味溢れる物語からは,婦人のやさしい気遣い,ユダヤ人を危険を承知で庇護したレスキュアーズの勇気が伝わってくる。そこには,ユダヤ人迫害に協力した,あるいは協力せざるを得なかったオランダ人の話も出てくる。ミープ・ヒースMiep Gies)は,アンネ逮捕後に見つけた彼女の日記を、女性の間の信義として,アンネ本人に直接返そうと考えていた。しかし、戦後、帰還したアンネの父オットー・フランクOtto Frank)からアンネが亡くなった事を聞いて,アンネの日記を父オットーに渡した。

  <「アンネの日記」読書感想文>
 日本の学校生で,「アンネの日記」を手にした人は多い。しかし,全部読んだ人は少ない。十三四歳の少女が「アンネの日記」のような名文を書けるはずがない,という大人は,日記本文を読んでいないに違いない。日記を通読すれば,前半では,家族,隠れ家の住人の話,個人的な不満,後半は,ペーターに関することなど,日常の出来事が多い。
 読書感想には「若干の退屈なエピソード(Wikipedia)」といった読み方から,「アンネに年齢が近かったせいもあり、親近感を感じた(Amazon.co.jp)」「私は異国の少女の考え、想い、そして好きなものや嫌いなもの、夢中になれるものなどが、自分とまったく変わらないと知った」として,現在の自分と戦時中の隠れ家生活をしていたユダヤ人アンネとの親近性を示すものも多い。
 「軍事マニアから見て,興味ある部分は殆どなし。」「情勢を巡る話しもあるが、寧ろ大半は思春期の少女の内面の話しである」「戦争ものとか抜きにして、アンネの悩みながら成長しようとする姿勢はすごいなと思う。ただ、長いので飽きた。不謹慎だけど-----デュッセルさんが何者かに殺された!デュッセルさんはみんなに嫌われていたので、みんなに動機はある。犯人はこの隠れ家の中にいる!みたいな展開起こんないかな〜って、思うぐらいイベントが少ない。」

amazon.co.jp読者レビューに「とにかく前半がキツい。出版前提で書かれた後半に比べると、アンネのイヤ〜な部分がもろに出てる。わたしは頭がよくて可愛くて、モテてモテて仕方ないの。あーモテるってつれ〜…ミサワ乙。逆に後半は生まれ変わったかのようにいいコになった。これがまたウソくさい。出版されるかもって気づいた瞬間に天使に生まれ変わった。天使アンネ超いいコ。死なないでー!って思ってしまう」とある。たしかに、安全平和な日本で安楽に暮らす者は、生命の危機にさらされ、将来の不安にさいなまれた少女が、一人になる部屋もなく隠れ家に閉じ込められている状況を想像できない。その少女の思いを理解するのは難しい。「面白ポイントは、思春期の女の子の人にいえない生の声が読めるってところ」という感想も場違いではない。世界平和や人種差別に対する少女の思いは、平易な文章ではあるが学術的ではないし、日記だけ読んでもホロコーストの全体像も迫害の目的もわからない。「少女があんな反戦平和の名文を書いたはずがない、日記は贋作だ」という誤解は日記を読めばすぐ解ける。レビューで、ホロコーストについては「『夜と霧』の方が100倍」有用というのも、学校に通っていない少女と世界的な精神科医・哲学者ヴィクトール・フランクルの文章・思索を比較するなら頷ける。

 このように,日常の出来事の記載が多い「アンネの日記」の行間に示されている戦争や人種民族差別への関心は,必ずしも高くはない。アンネの置かれた状況を抜きに「日記」を読めば,親近感からくる評価が至当かもしれないし,親近感から,戦争や差別への関心に向かうこともある。実際,戦争と差別に思い至った少年少女の読書感想文も少なくない。 世慣れた大人の常識で「アンネの日記」を読むのではなく、純真な少年少女の感性で接することで、アンネの思いに共感して書かれた読書感想文が素晴らしい。

  6年B組 川口は,「『人と話したい。自由になりたい。お友達がほしい。ひとりになりたい。そしてなによりも・・・おもいきり泣きたい。たくさんの願望に胸がはちきれそうな気がしますし、泣けばずいぶんさっぱりするでしょう。でもそれができません。』どうして。今の時代にはごく自然にできることができなかったのだろう。」として迫害の時代と現代の自分との差異を明確に意識している。

 中2年・浅井は,「私には今日も学校という世界があり、私をいろいろな角度から見てくれる先生や友達がいる。これから私はどれだけたくさんの自分と出会うことだろう。新しい自分の像と出会うたびに嬉しいと思ったり、反対に深く思い悩んだりすると思う。そういうことを繰り返しながら、限られた空間と人たちの中でしか生きることのできなかったアンネの人生に時に思いをはせ、無限の空間とたくさんの人たちの中にいる自分の人生をしっかりと歩んでいきたい。」と,時代背景を理解した上で,将来の希望を掴み取った。

 1年 大河 は,「おなかが空いたら何かを食べるし、部屋が暗いと思ったら何時だって電気をつけて明るくすることができる。自分が欲しいものは、充分なお金さえあれば手に入れることができる。バスだって電車だって車だって乗れる。私は十六歳の高校一年生だけど、日本の高校生なら、ほとんどの人がこんな生活を送っているはずだ。----ごく普通の生活だ。では、これが民族だとか、宗教の違いだとかで縛られてしまったらどうなるだろうか。」とアンネを襲った人種民族差別の恐怖と不安を自分に置き,思索を深めた。

 高等学校3年 斉藤は,「今になって読み返してみても、戦争の中の『日常』を私は勘違いしているのに気づいた。アンネの日記には、喧嘩の絶えないこと、支えてくれる人たちへの感謝、家族や共に暮らす人々への不満など、あらゆる感情が書かれている。私は彼女の日記から、悲しみの感情ももちろんのことだけれど、戦時下であっても、人は当り前の「日常」の感情を、簡単には手放せないのだと改めて実感した。  今も続く戦争の渦の中で暮らす人々も、きっと同じように「日常」の感情を持っている。私は、毎晩安心して眠りたいと改めて考えることはないが、世界には毎晩安心して我が家で眠れない子どもたちがいることを、新聞で知った。----夜、安心して眠りたいというのも『日常』の誰もが持っている感情だが、それを満たせる人と満たせない人がいる。満たせる人は、そんな感情も忘れてしまっているけれど、忘れてはいけないのだ。『日常』の感情が一番単純で一番大切な感情だと忘れなければ、人の命を平気で奪う戦争は起こらないのではないか。」と,平和と戦争と接点を日常に認識し,戦争の本質を読み取った。

 向陽小学校6年 辻は、「私はアンネたち、ユダヤ人がなぜあのような差別を受けなければならないのか、いまでも納得がいきません。みんな同じなのに差別するなんでおかしいです。私だったら差別なんかしたくないです。そんなことをやっても、人が傷つくだけだし、いいことなんて一つもないです。もしも、自分がユダヤ人だったら…と考えると私はぞっとします。そんなことを考えずに、こんな行動をとったヒトラーを許せないという気持ちが込み上げてきました」と差別に反対する姿勢を明らかにしている。

 新池中学校2年 中村谷は、「私の今の生活は、食べ物や衣服に不自由なく、自分の意思で行動を決めることができます。私は、それが普通で当り前の様に感じていましたが、アンネから考えてみれば、これ以上の贅沢や幸せはないと思います。アンネは日記帳に「人間は、本当は良い人だと信じます」と書いてあります。アンネはこんな恐ろしい時代の中でさえ人を信じて恨まず平和を願っていたことに、私は感動しました」と日常生活を安寧におくることへの感謝とアンネの強い意志に共感している。 

平成十六年度石巻管内読書感想文コンクール 準特選は、「『いつか殺される。』『恐ろしさでぞっとする。』という恐怖感を考えたことは一度もないと思います。だからこんなひどいことができるのだと思います。アンネも日記に、『死ぬほど、こわいわ。』と書いています。私はそういう恐怖感を味わったことはありません。今の平和な世の中では想像もつきません。そんなつらい時でも、アンネはすごいと思います。なぜかというと、こんな恐ろしい所に住んでいるのに、いつも明るくふるまっていたからです。私もアンネみたいにいつでも明るくふるまっていられたらいいなあと思います」と、恐怖の中で希望を持ち続けた少女に共感している。

立教英国学院中学部3年男子は、「初めてのジャンルに期待しつつも、どうせ一人称視点と同じ様なものだろうと軽い気持ちで本を開いてみました。ですが、それは思っていたそれとは大きく異なりました。ストーリーなんて無い。文章の流れもむちゃくちゃ。-----本の最後の最後まで続く自己中心的かつ自意識過剰な語り口調に若干の怒りを覚え、そして何の感動もなく日記が終わる。582ページもある長い本を読みきって残ったものは何もありませんでした。
 読み終わってしばらくの間、この本は何を訴えかけていたのか、何がそんなにも多くの人々に感動を与えたのかを考えてみました。-----僕は最も大事な事を見落としていたのです。それは最後のページの後、何が彼女の身に起こったのか、でした。最後のページの後に起こった事、それはすなわち日記を書くのを止めた、もしくは止めさせられた原因。それを考えた瞬間、自分の中で何か熱いものがこみ上げてきて、同時にこの日記に込められた一文字一文字の重さが、僕の心にのしかかったのです。
 実際、自分がその場に立たされた時、変わらず自分の思う事や起こった出来事を記録するような余裕があるだろうか。-----アンネ・フランクにとって日記が途切れる事はゲシュタポに逮捕され、強制収容所送りになる事を指します。収容所というのは入ってしまったら、一切の自由を奪われる、いわば死も同然の生活が待っている場所です。----
 僕の日記の空白は飽きっぽい子どもが平凡だけど幸せな日々を送っている証です。ですが、アンネの日記の空白は収容所に送られ、以後書く事ができないという悲壮感の塊。同じ空白でもその持つ意味は全く異なります。白いページは飽きっぽさの象徴、アンネの日記は僕にそんな平和な時代に生きている事に感謝させてくれました」と、非日常の、迫害の恐怖に思いを巡らすことができた。

◆『アンネの日記』を行間まで読み,ユダヤ人迫害と戦争の理由・経緯を知れば、人種民族の差異,戦争の大義が如何なるものであろうとも、差別と戦争は、人類が自ら同胞に対して犯してきた愚行であることが確信できる。差別と戦争は起こってしまったのではなく、人類自らが引き起こした。経済力と軍事力に支えられた迫害と破壊・殺戮を見れば,戦争は政治の延長にすぎないというニヒリズムの愚かさ,冷淡さに気づかされる。だが,我々の祖先も、私たち自身も加担した迫害と戦争を再び見つめるには、勇気と内省が求められる。

序 帝国主義と人種民族差別:ナチスの反ユダヤ政策

ヒトラー 1.ファシズムの台頭とナチスの政権獲得


(1)ナチスの政権獲得・反ユダヤ政策

1933年1月30日,アドルフ・ヒトラーが首相に任命され,ナチス党The Nazi Party (NSDAP)がドイツの政権をとると,突撃隊stormtroopersによるユダヤ人への迫害,ユダヤ人商店の破壊が横行した。アンチ・セミティズム(Anti-Semitism)は,人種民族差別の意識・偏見にとどまらず,ナチスドイツによる基本的人権の制限・迫害となった。
言論の自由が封じられ,ドイツ民族の優越性,ユダヤ人の邪悪性に疑念を抱く反ナチスの思想・言動は、弾圧された。

 ロシアのボルシェビキ(共産主義者)政権,その煽動による革命の波及を恐れた保守政治家・資本家・宗教家の一部は、ファシズムを反共に利用しようとした。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,ユダヤ人が狡賢い,貪欲な資本家だ,暴力革命を企てている,としてアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,第一次大戦の敗戦,ベルサイユ条約によるドイツ抑圧は,ユダヤ人の陰謀とされた。

ファシズムは,軍備と領土を拡張し、世界秩序の再編成を唱え,ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得することを1925年の著作『我が闘争』(Mein Kampf)で公言していた。ドイツ人弱体化を企てるユダヤ人は,共産主義者で,ペストと同じように人種汚染を進める下等劣等人種であるとアンチ・セミティズムAnti-Semitismを主張した。

◆ヒトラー『我が闘争』では,ユダヤ人が共産主義と結びつき,ドイツの弱体化を企てているとした。ユダヤ人が操る共産主義のソ連,ユダヤ金融資本に踊らされているアングロサクソン大英帝国と堕落した物質文明アメリカが,ドイツの勢力拡大を妨害する,と考えた。下等人種劣等民族ユダヤ人は,優秀なドイツ人を人種汚染する。ユダヤ人共産主義者がソ連を支配し,ユダヤ人金融資本がアメリカと大英帝国を操って,ドイツに戦争を仕掛けようとしている。したがって,ドイツの敵ユダヤ人を排除しなくてはならない。

ヒトラー 1933年2月27日夜、国会放火事件後、テロを企てたとして共産主義者・反体制派を一斉検挙,基本的人権を制限する大統領緊急令を発布,3月、全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933)によって、ナチ党独裁を議会に認めさせた。ナチスは,暴力を用いて,一見すると合法的な一党独裁を成立させた。

ユダヤ人虐殺の理由は、ユダヤ人が、ドイツ帝国を崩壊させ、アーリア人を滅ぼして、世界支配を企んでいるからである。その方法は、?人種汚染、?ボルシェビキに代表される共産主義、?国際金融界に代表される拝金主義、?最終的手段としてのドイツに対する戦争、である。

 1933年5月の焚書Book burning)対象は,主にユダヤ人作家だった。「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とのハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine:1797-1856)の言葉通り,8年後,ナチスによるユダヤ人虐殺が本格化する。

アンネの父資産家のオットー・フランクOtto Heinrich Frank(1889-1980)も,1933年,ドイツのユダヤ人迫害を前に,オットーは,オランダのアムステルダムで新たに事業を展開することを決めた。フランクフルト・アムマインから,オランダ国境近くのアーヘンに移り,1933-34年にオランダに亡命・移住した。のちに隠れ家に退避したフランク家を支援したミープ・ヒースMiep Gies)は、オットーの会社の事務員だった。

<アンネの国籍・市民権>
 1929年6月12日、ドイツヘッセン州Hessen)州都フランクフルトアムマインFrankfurt am Main)でドイツ人の両親の間に生まれたアンネは,ドイツ人である。しかし、ナチ党のユダヤ人迫害が強まった1934年3月、フランクの一家は、アンネ5歳の時、オランダのアムステルダムに移住した。この事実上の亡命によって、ドイツ国籍を消失したとすれば,一家は無国籍者となる。アンネは、戦時中の日記に「立派なオランダ人になりたい」と書いたが,1934年に移住してきたため、オランダの国籍は持っていない。

 BBC News(Anne Frank status campaign fails)によれば,オランダのTV局KPO(Katholieke Radio Omroep:カトリック・ラジオ・ブロードキャスト)が、「オランダの偉人」番組で,アンネを取り上げ,国籍を申請した。2004年10月,オランダ司法省は「死後の国籍取得」を却下した。実際,彼女が人生の三分の二を過ごしたフランクフルトを軸にすれば,アンネは,亡命ドイツ人である。2003年ドイツの偉人では,アンネは134番目だった。

マザーテレサの国籍についても,厳格に規定・合意できないほど,人種民族の区分は,曖昧である。人種の連続的な特徴変化・DNAをふまえれば,肌の色,鼻の形,目つき,体臭を基にした「」など存在しない。身体的特徴の違いは,「亜種」にすぎない。

(2)独裁者ヒトラー総統の誕生

1934年8月2日,国家元首ヒンデンブルク大統領が死去すると,アドルフ・ヒトラー首相は,大統領職を兼務,新たに総統(Führer:フューラー)の職に就いた。そして,ドイツ軍全兵士に陸海空総司令官を兼ねる総統への絶対忠誠を誓わせた。

ポスター左:ドイツ少女団(Bund Deutscher Mädel)「青年による総統への奉仕」Jugent dient dem FührerChris Crawford引用。
ポスター右:ヒトラーユゲント(Hitler-Jugend)「明日からの将校」Offiziere von morgenDer Zweite Weltkrieg 引用。「私は,若者から始める。われわれ大人は疲れ果てている。----ドイツの大人は,屈辱的な過去の重荷を背負わされている。---しかし,青少年たちは,実にすばらしい。この世に,これほどのものたちはいない。若者や少年を見よ。なんという逸材だろう。彼らがいれば,新しい世界を作ることができる。」1933年,ドイツの青少年は,アンネやペーター・ファン・ペルス(アンネの恋人)などユダヤ人は,下等人種と信じていたのであろうか。


ヒトラー総統の「偉業」は,第一に,全国に規律を行き渡らせたことである。労働者のストライキやデモは鎮圧され,労使協調が図られた。そして,青少年はヒトラーユーゲントHitlerjugend)で,鍛えられた。

ヒトラーユーゲントHitler Jugendは1922年設立。1932年の団員数は5万5000名に過ぎなかった。1933年にナチス政権が成立すると,団員数は1933年末に56万8000名に増加する。その後,キリスト教団体,社会民主党・共産党主導のドイツ少年少女団体は,圧迫され,解散された。1936年,解散メンバーを取り込み,ヒトラーユーゲントHitler Jugend)の団員数は543万7000名に急増,1936年ヒトラーユーゲント法The Hitler Youth Lawによって,全ドイツ青年が加盟を義務付けられた。

ローマ教皇Benedictus XVI(ドイツ人Joseph Alois Ratzinger)も1941年,14歳でヒトラーユーゲントに加盟し,1943年,16歳でミュンヘンのBMW工場を守備する高射砲部隊に配属され、ナチス・ドイツ防衛に命を懸けた。

ヒトラー総統は,ニュルンベルク党大会Reichsparteitag)で「これから千年間、ドイツは二度と革命を経験することはない」とドイツ第三帝国(Das Dritte Reich)は千年続くと予言した。

ユダヤ人差別として,1933年4月,公職追放,7月, ワイマール共和国成立後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,兵籍剥奪,9月、ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。
 ニュルンベルク法は,下等人種ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染するとした「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」人種差別法である。ユダヤ人を,似非科学で定義した上で,ドイツ国籍者・ドイツ系民族と結婚することを禁止した。

1938年11月、ナチス突撃隊(SA:Sturm Abteilung)はユダヤ人商店を破壊したが,これは,ガラスが飛び散った「クリスタルナハト」(Kristallnacht(水晶の夜):Novemberpogrome 1938 )と呼ばれた。

ナチスによれば,ユダヤ人は,共産主義者として,反ドイツの策謀を巡らしている。アメリカでは,新聞・ラジオ・金融システムを駆使して,政治家を選挙と資金を通じて操り,民主主義の名の下に衆愚政治を行っている。卑怯な悪賢いユダヤ人は,第一次大戦時,背後にいて,共産主義を広め,ドイツ民族を打ち倒す陰謀・革命を企てたと,ナチスは喧伝した。ソ連の共産主義もアメリカの拝金主義も,ユダヤ人支配の表裏である。ユダヤ人にとって,イデオロギーは優秀なドイツ人を貶め,人種汚染をするための手段である。このような人種民族差別・迫害が,ドイツ政府によって公然と行われ、ニュルンベルク法によりアーリア人とユダヤ人の交わりを完全に遮断しようとした。

ナチス政権ヒトラー総統の再軍備・人種民族差別・思想統制

写真(右)1938年6月28日,ドイツ本国のダッハウ強制収容所の囚人1933年のナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)政権獲得直後(戦前)に開設されたダッハウ強制収容所は,反ナチス的な人物を保護拘禁し,矯正する施設とされた。実際は,反ナチスを弾圧し、それを見せ付けることで、恐怖による威嚇,テロを行う施設である。ダッハウ強制収容所「指揮官」テオドール・アイケは、強制収容所の看守警備部隊として,親衛隊SS髑髏部隊を編成し,その最高指揮官となった。ダッハウ収容所は,当初は,政治犯を中心に収容したが,後に,ユダヤ人,同性愛者,聖書研究会のキリスト者も収監された。ダッハウ収容所は,他のドイツの収容所と同じく,ガス室を備え大量殺戮を行う絶滅収容所ではないが,食糧不足,不衛生な環境,虐待,奴隷労働,処刑によって,多数の囚人が死亡している。トレブリンカ,ゾビブルのような絶滅収容所は,ダッハウ収容所の運営経験を踏まえ,1941年以降,ドイツ占領下のポーランド(総督領)に設置された。Konzentrationslager / Schutzhaftlager Dachau.- angetretene Häftlinge, 28.6.1938 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。

親衛隊SS長官ヒムラーは、1933年,ナチス政権の警察を支配し,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク,ダッハウに設置,親衛隊髑髏部隊に管理させた。これは,反ナチス的な人物を全て収容する「保護拘禁施設」だった。ここでの囚人の取り扱い,拷問,懲罰などの経験が,大戦中のユダヤ人やソ連軍捕虜を収容,管理する方法のモデルになった。ユダヤ人を虐殺する以前,反ナチスの人物は,ドイツ人も虐待された。下等劣等民族であれば,殺害するとの方針は,既にナチス政権掌握直後の強制収容所で芽生えていた。

ナチスの時代,戦前でもユダヤ人への温情は,違法行為であり,言論の自由がない状況で、政府批判は,強制収容所送りになった。大戦前,すでにドイツ市民は,ユダヤ人迫害は仕方がないと諦めていたようだ。
 現在でも,弱いものを貶めていれば,自分は有利な立場を保つことができるが,十一歳のアンネが置かれた大戦の時代と現在の状況とを比較すれば,利己的な現実主義は,自分の弱さによっている,と気づかされる。自分の無力さを前提に「しかたがない」とするニヒリズムである。

2.第二次世界大戦1939/09/01

(1)ナチスの欧州支配
1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻のとき,親衛隊特別行動部隊Einsatzgruppen)が投入され,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害した。アインザッツグルッペン(特別行動部隊は,占領地の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。また,ポーランドには、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設けて、ユダヤ人を狭い空間に押し込めた。

写真(右)1939年9-10月,ワルシャワの通りを埋める瓦礫を撤去する作業を強要されるユダヤ人(?)左奥にドイツ軍兵士が監督している。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離する前に,ユダヤ人住民の情報を集める登録作業を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだったようだ。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。Archive title: Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Rieger, Alfons撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日、ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)が英首相に就任した当日,ドイツのフランス侵攻作戦開始。

1940年5月,ドイツ軍は,ベルギー経由で,侵攻し,5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、6月5日ダンケルク占領。ただし,連合軍兵士34万名は,英本土に脱出。6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏

1940年5月13日チャーチル首相就任演説(下院):「血と労苦と汗と涙のほかに、差し上げられるものはありません。----あらゆる犠牲を払って、あらゆる辛酸に耐えての勝利、いかに長く苦しい道のりであろうとも、戦い抜き抜く以外、生き残る道はないのです。」

アンネ・フランクが尊敬するイギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)首相は,ラジオ演説を通して,ドイツ占領地の被支配者の人々を勇気付けた。戦時内閣ウィンストン・チャーチルの率いるイギリスだけが、ヨーロッパの大半を支配するドイツと対峙していたのあり、アンネたちのドイツ打倒の記唯一の希望がチャーチルだったのである。

親衛隊(Schutzstaffel:SS)や秘密警察ゲシュタポは,ドイツ人にもドイツ占領下にある国民にも、連合国放送を市民が聞くことを禁止した。しかし,密かに外国放送を傍受していた住民やドイツ人は少なくなかった。他方,生活のためにドイツに協力したオランダ人,親独派として,祖国オランダの独立を守ろうと考えたオランダ人も少なからず存在した。

第二次大戦が勃発すると,ユダヤ人を示す黄色い星印を着用させ,財産を没収し,ユダヤ人を強制収容所に収監するか,排除する方針が打ち出された。これは,ドイツの親衛隊,警察,国防軍,そして,ポーランドやバルト諸国,オランダやフランスなどの警察・住民の協力の下に行われた組織的な人権蹂躙,暴力,殺害である。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

武装親衛隊オランダ人義勇旅団「ネーデルラント」募兵ポスター(右)「ネーデルランド:ソ連ボルシュビキ(共産主義者)と戦うために,武装親衛隊に参加しよう。」The European Volunteer Movement in World War II:Richard Landwehr引用:ドイツでは,ヒトラー政権樹立直後,突撃隊から親衛隊(Schutzstaffel:SS)に権力が移った。戦時中、親衛隊は,占領地の治安維持、ゲリラ・パルチザン・レジスタンスの捜索・処刑,ユダヤ人など敵性住民の収監・迫害を行い,収容所看守(警備兵)の任務を担った。そのために,連合軍は,SSを犯罪者集団に指定した。
 ドイツ陸軍とは独立した軍隊としてナチ党のSS武装親衛隊(Waffen-SS)が拡充された。ここには、ドイツ人以外に、ヨーロッパの人的資源を利用するために,フランス人武装親衛隊のほか,オランダ人,ベルギー人,ノルウェー人,エストニア人,ラトビア人,ウクライナ人,クロアチア人,モスレム人の武装親衛隊も編成された。ナチスの思想は、ドイツだけでなく、ヨーロッパ各国にも浸透した。

1941年5月にオランダがドイツに占領されると,オランダの親ナチス勢力も加わって,ユダヤ人迫害が始まった。親独のオランダ指導者アントン・ミュッセルトAnton Adriaan Mussert)は,ヒトラー総統と会談し,国家社会主義運動NSBNationaal-Socialistische Bewegingを起こした。

大戦が始まると,親衛隊は、1940年9月,オランダ人からなる武装親衛隊義勇旅団Volunteer Legion「ネーデルラント」Niederlandeを編成した。ナチスSSによる志願兵応募に対して,オランダ人2,600名が志願,ドイツSS武装親衛隊の下で,レニングラード方面でソ連軍と戦った。

オランダのナチスNSBは,ラントヴァハト・ニーデルランデLandwacht Niederlande、すなわち祖国オランダ防衛部隊)の編成をナチスに認められ,治安補助部隊として、オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)とともに,ユダヤ人,反政治活動家などの捜索,逮捕に当たらせた。

1941年12月7日(日本8日)、太平洋戦争Pacific War)開始の4日後の12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトFranklin Delano Roosevelt )を操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

(2)アンネの「複数の日記帳と多数の紙切れ」
1933年,ナチス・ドイツの迫害を逃れてオランダに亡命したオットー・フランクOtto Heinrich Frank:1889-1980)たが,第二次大戦勃発,1940年5月のドイツ軍によるオランダ占領で,再びユダヤ人への迫害が始まった。そこで,オットー・フランクOtto Frank)は,手遅れにならないうちに,自分の会社の倉庫を「隠れ家」として,家族四人が潜行することを決意した。彼らは,オットーの会社の従業員だったオランダ人から,食料など多大な直接支援を受け,アムステルダムの真ん中に隠れ住んだ。

1942-1944年,フランクの次女アンネ・フランク(Anne Frank:1929/6/12生)は,十三歳から十五歳にかけて,日記をつけた。その記述は,隠れ家生活を続けるにつれて,冴えてくる。『アンネの日記』の記述は,隠れ家における生活を,ユダヤ人迫害の恐怖,支えてくれるオランダ人への感謝,同居するユダヤ人との葛藤,家族,特に父への愛,同居人ペーターとの恋愛,ジェンダー・女性の自立の観念を経ることで,内面の精神世界と社会的関心が形成されていった。

1942年6月12日のアンネの日記:「これまで誰にも打ち明けることができなかったことを,あなたに打ち明けることができそうです」
日記が初めて書かれたのは,独ソ戦が開始1年後だった。彼女は,1942年6月12日の十三歳誕生日にもらった第一冊目の日記帳(赤白チェック模様で留め金つき)に日記を書き始めた。この時点では,アンネ・フランク(Anne Frank)は,アムステルダムの学校に通っており,6月15日には,誕生会を開いている。誕生会に呼んだ友達に,「名犬リンチンチン」の映画を見せている。オットー・フランクOtto Heinrich Frank)は,資産家だった。
 アンネの日記の書き始めには,クラスメートに対する辛らつな批評も長々記されている。初期の日記の内容は,心のうちを吐露しているが,個人的な事柄が多い。十三歳の誕生日に父オットー・フランクOtt Frank)からプレゼントされた一冊目の赤白チェック柄の日記帳は,1942年のうちにほぼ使い切ってしまった。

アンネは,物不足の戦時下にあった。日記を手に入れてから1ヵ月後には,隠れ家生活に入った。アンネは複数の代用日記帳,多数の紙切れに日記をつけざるを得なかった。

1941年5月,オランダを占領したドイツ軍は,ユダヤ人差別を,徐々に厳しくした。オランダでも,ナチス親衛隊SS,ゲシュタポGestapo,オランダ警察に連行されるユダヤ人も見かけるようになった。長女マルゴー・フランクMargot Frank)に出頭命令がきた時,危険を感じたオットー・フランクOtt Frank)は,娘たちには知らせずに,直ちに潜行生活に移行する決意をした。

写真(右):オランダ、アムステルダム市プリンセンフラハト263にあるアンネたちの隠れ家1階は店舗と倉庫,2階には事務室と豪華な社長室があった。3階は表側が商品倉庫で,後側に書棚の隠し扉があった。この奥が《後ろの家》隠れ家である。1942年6月-1944年8月まで3階,4階の後ろ側の部屋5スペースが,隠れ家として使われた。夜間など会社従業員が帰宅して,会社に誰もいないときには,隠れ家以外の空間も使うことがあった。アンネの父オットーは,フランク家四名のほか,ドイツ出身ユダヤ人ファン・ペルス家(ヘルマン,アウグステ,ペーター),フリッツ・ペフェファーの四名を自分の隠れ家に招いた。Anne Frank and the Holocaust - gallery引用。

1942年7月8日の「アンネの日記」に,隠れ家に移るまでの顛末が詳しく書かれている。どこか遠いところに旅立つそぶりをして,実はオットー・フランクOtt Frank:1889-1980)の所有していた貿易会社の倉庫に隠れることにした。ただし、アンネ一家は、戦争前に迫害を受けたドイツからオランダに亡命しているので、初めての脱出劇ではない。少女のアンネ・フランク(Annelies Marie Frank)は、ユダヤ人だからという理由で、迫害され、逃げ回る生活を幼い時から過ごしてきた。アンネの感性は、このような体験に遭遇して鋭くなった。

隠れ家住人
フランク家の四名:アンネの父オットー・フランクOtt Frank)、母エーディト・フランクEdith Frank)、姉マルゴー・フランクMargot Betti Frank),アンネ:1942/7/6 隠れ家入居
ファン・ペルス家(アンネの日記での変名:ファン・ダーンPeter van Pels)の三名:ヘルマン,アウグステ,ペーター:1942/7/13 隠れ家入居
フリッツ・ペフェファーFritz Pfeffer)(変名アルベルト・デュッセル):1942/11/17 隠れ家入居

隠れ家住人支援者
女子:ミープ・ヒースMiep Gies),ベップ[エリザベート]・フォスキュイルBep Voskuijl),
男子:ヨハンネス・クレイマンJohannes Kleiman),ビクトル・クレーフルVictor Kugler)、ヤン・ヒースJan Gies:1941/7/16にミープと結婚,この結婚話はアンネの日記にも出てくる。)

 アムステルダム市プリンセンフラハト263の隠れ家では,隠れ家住人の部屋の割り,食料の分配,机の利用時間,音を立てられないトイレとオマルや沐浴の利用,プライバシーの確保まで,住人相互の対立,葛藤,喧嘩があった。

1943/3/25の日記:代用トイレットペーパーの領収書がトイレに詰まった。棒を使って,汚物を取り出した。
1943/5/2の日記:衣類は洗濯できない上に,汚く,古くて繕うこともできない。子供たちの服は小さくなりすぎた。
1943/9/29の日記:「ファンダーンさんは,フランク家に内緒で肉を隠し持っている」とパパ(オットー)が怒っている。
1943/10/17の日記:ファンダーンさんは,毛皮のコート,ドレス,クツを持っているが,それらを売り(現金化すること)もせずに,オットーの会社が食料を出すべきだと要求する。
1943/12/30の日記:各家庭の所有・保管する食料に差があった。フランク家は,脂・スープを持っていなかったので,持っている家族と物々交換した。ジャガイモの料理方法について,ジャガイモの質に格差が大きく,調理油も不足しているので,隠れ家住人の間で対立があった。

しかし,問題を承知の上で,オットー・フランクOtt Frank:1889-1980)は,他のユダヤ人四名も自分の隠れ家に受け入れた。
 日本人同士だったら,「文句を言うなら,出て行け」となりそうな場面もあったが,オットーが,他のユダヤ人を隠れ家に匿う姿勢は,一貫していた。フランク家以外の隠れ家住人は,自由に議論をしている。オットー・フランクOtt Frank)は,自分にも厳しい正義の人だった。
 隠れ家8名の住人は,みな米英仏連合軍が,欧州大陸に上陸し,オランダ解放の日が来ることを願っていた。

1944年3月29日,戦時中に困難を味わった国民の日記や手紙などを集めて,苦難を後世に伝えるべきである,とのロンドンの亡命オランダ政府ラジオ放送を,隠れ家の住人は聴いた。そこで,ユダヤ人少女アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)は,「複数の日記帳と多数の紙切れ」を下にHet Achterhuis (隠れ家,後ろの家)の物語が発表できるようにと,日記や物語を推敲し,出版の準備を始めた。

 学校から締め出されたアンネだったが,隠れ家でテキストをそろえて,隠れ家住人を家庭教師に,授業日課を定めた。アンネの知識欲,好奇心は旺盛で,歴史が大好きで,英語にも熱心だった。閉鎖的な空間で自己を見つめ,勉強に励んだ少女の関心は,歴史・社会・世界に広がった。

ユダヤ人少女アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)は,ドイツの金融と商業の中心ヘッセン州Hessen)州都フランクフルトアムマインFrankfurt am Main)で生まれたドイツ・ユダヤ人だったし、姉マルゴー・フランクMargot Betti Frank)はドイツ語も完全に理解していた。しかし,アンネ本人は立派なオランダ人なることを決意する。アンネは,いつか広い世界に出て,みんなのために働きたい,たとえば,ジャーナリスト,作家になりたい,と思った。日記にも,将来,自由になって,学校に行く夢と,オランダ・ユダヤ人として「きっと人のためになることをしてみせます」(1944/4/11)と,女性の自立を意識した決意が書かれている。


写真(上)第二冊目以降のアンネ・フランクの日記原本とルーズリーフ :左より,?三冊目の学校ノート代用の日記帳。1943年12月22日から1944年4月17日までの日記が書かれている。120ページで,幅16.4cm X 縦20.7cm。?紙切れを使ったルーズリーフの一枚。リライトするために紙切れを使って,日記を整理した。?会計帳簿を代用した物語集。以上のように,ユダヤ人少女アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)は,1942年12月の十三歳の誕生日にもらった日記帳を半年で使い切って以降,学校ノート代用の日記帳,会計帳簿,紙切れをルーズリーフにして,日記や物語を書いた。中古ノートは,書き込みページは一部破いている。戦時中の隠れ家生活にあって,新しい日記帳や新品のノートを手に入れることはできなかった。トイレットペーパーも領収書を代用した。戦争直後,日記を手にした編集者・研究者が,日記に整理のために書き込みをした。「アンネの日記」偽作など問題にならず,日記も無名だった時期だった。日本語では,アンネの日記研究文献がほとんどなく,複数の中古学校ノート・多数の紙切れに日記をつけていたことに思い至らないままに,偽作説が流布された。写真は,United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)引用。

 <ユダヤ人少女アンネ・フランク(Anne Frank)の書いた自筆の日記は,6種類(その他に紛失1冊)>

 1.十三歳の誕生日にもらった赤白チェック日記帳The Red and White Diary;最も有名な「日記」は,十三歳の誕生日にもらった赤白チェック柄の留め金つき日記帳で,これは,1942年6月12日から12月5日までの分である。61ページ。大きさ:14.3 X 16.6cm

2-1.紛失した二冊目の日記帳Second Diary- the missing diary;1942年12月7日から1943年12月22日までで,これらはルーズリーフにリライトされたが,原本は残っていない。アンネは,日記に変更,修正を加え書き換えたのである。

2-2.学校ノート代用の日記帳Third Diary;ハードカバーの学校ノート代用の日記帳は2冊が現存している。ハードカバー表紙は擦り切れており,保存状態はよくない。1943年12月22日から1944年4月17日までの分。終わりの部分に,物語りも書き込んである。120ページ。大きさ:16.4cm X 20.7cm

3.学校ノート代用の未使用部分のある日記帳Fourth (Last) Diary;姉マルゴーの科学のノートの代用日記帳。破いたページも散見されるが,ノート代用日記の二冊目(現存)。後半に未使用部分がある。ルーブリーフに下書きをして,残された貴重な日記帳に清書するつもりだったのかもしれない。隠れ家生活では,もはや新しい日記帳を手に入れる見込みはない。もったいなくて,小さな字でぎっしり書き込んだ。しかし,逮捕され,残された日記帳に書き込むことはできなかった。未使用部分があることに,かえって心を掻き乱される。1944年4月18日から1944年8月1日(最後の記述)までの分。120ページ。大きさ:16.4cm X 20.7cm で,第三冊目の日記と同じ。

4.ルーズリーフLoose Sheets;ユダヤ人少女アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)は,360枚の紙切れ(ルーズリーフ/ルースシート)に,日記を編集し,リライトしている。紙の質や色はさまざまで,紙不足の中で,やりくりして集めた日記代用紙である。
 1943/7/23の日記:「まだ,ベップを通してノートが手に入ります。特に,取引日誌とか,元帳とかで,簿記を習っている姉には役立ちます。普通のノートは,いつまで手に入れることができるのかは,わかりません。どんなノートにもラベルが張ってあり,“配給切符不要”と書かれています。切符不要なものは,みんな質はお粗末な限りです。斜めにゆがんだ細い罫線の灰色の紙,それが12枚で1冊のノートになっています。」
ルーズリーフとした紙切れには,鉛筆書きのページ番号がつけられているが,これはオットー・フランクが編集したものである。
 ⇒以上の4+1タイプの日記の全ページ使い方は,Anne Frank's Diary: Page Use参照。

5.会計帳簿代用の警句集:The Favorite Quotes Notebook;オットーの会社にあった縦長の会計帳簿には,アンネのお気に入りの警句や言葉が書かれている。これも,広義のアンネの日記に含めてよいであろう。

6.会計帳簿の物語集:the“Tales” Book;アンネは創作した物語を,大きな会計簿に書き溜めた。物語は,日記帳にも書かれているので,やはり広義の「アンネの日記」に含めることができる。アンネの物語は,『アンネの童話 』として出版されている。

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人婦女子移送列車で収容所駅に到着したユダヤ人は,その場で,労働が可能かどうかで即座に2グループに選別された。労働不可能な子連れ婦女子・子供,老人は,ガス室で処刑されることになる。
労働可能者は,過酷な条件の下,軍需工場での奴隷労働,収容所の作業班に充当され,生きることを許される。しかし,栄養失調や病気で労働不能になれば,処刑された。収容所に到着したユダヤ人たちは,生死の選別がなされていること,殺害されることには気づいていない。家族が一緒のバラックで暮らすことを希望していたので,子供を離さない婦女子が多かった。
親衛隊の収容所管理者・看守は,ユダヤ人が暴動を起こさないように十分に配慮したマニュアルを作成し,ユダヤ人絶滅を細心の注意をもって,冷静に実行した。ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染しているとの妄想の下では,ユダヤ人の排除こそが優先され,その労働力としての利用は二義的なものだった。
ユダヤ人虐殺は,反ユダヤ狂信者の異常行動ではない。普通のドイツ人でも,移送列車運行などユダヤ人虐殺システムの運営に参加した。写真は,エルサレムにあるYad Vashem The Holocaust Martyrs' and Heroes' Remembrance Authority 引用。

トレブリンカの地獄 (3)ユダヤ人問題の「最終解決」=排除から絶滅へ
アンネ・フランクの十三歳の誕生日(6/12に日記帳を贈られる)の1週間前,すなわち1941年6月6日(ドイツの対ソ侵攻6/22直前)、ドイツ軍最高軍司令部は、ボルシェビキ指導者の政治委員(コミサール)射殺命令を出した。1941年4月以来、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,ヒトラー総統から、ドイツの敵を処置する特別の使命を委ねられていると公言していたが,ドイツのソ連侵攻が決定的となった時点で,イデオロギー上の強敵である共産主義指導者(コミサール)抹殺を命令した。

1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を無視して,ソ連に侵攻した。4個大隊3千名の特別行動部隊(アインザッツグルッペンEinsatzgruppenは,治安維持とユダヤ人・共産主義指導者抹殺の目的で, 1942年4月までにソ連の住民・捕虜50万名を虐殺した。また,反ボルシュビキのウクライナ人,エストニア人,ラトビア人,リトアニア人などから,補助警察を編成し,虐殺に協力させた。虐殺は口頭で命令され、文書上,ユダヤ人追放など婉曲表現が使用された。虐殺は,ガス室以外でも行われた。

1941年冬のソ連の頑強な抵抗、ヒトラーの対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・物資不足の状況で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、排除(銃殺,処刑)されることが決定した。 ⇒栗原優(1997)『ナチズムとユダヤ人絶滅政策−ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房参照

ドイツ共和国ヘッセン州Hessen)州都フランクフルトアムマインFrankfurt am Main)で生まれたユダヤ系ドイツ人少女アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)たちが,オランダ・アムステルダムAmsterdam)の隠れ家に隠れた1942年7月は,独ソ戦が激化し,ナチスによるユダヤ人弾圧が厳しくなり,虐殺が本格化していた時期だった。

写真(右)1941年7月,ラトビア、リエパーヤ要塞、ナチス親衛隊がトラックでリバウから処刑場にユダヤ人を運搬。ドイツがソ連に侵攻し、バルト諸国を占領した。その時、バルト諸国のユダヤ人が虐殺された。画像は、旧海軍将校のドキュメンタリーが、戦後の戦犯裁判に提出された。証人は、ドイツ軍のリバウ港湾司令官がユダヤ人の銃殺を阻止しようとしたができなかったため、終日、特別行動部隊(アインザッツ・グルッペンEinsatzgruppen)の行ったユダヤ人処刑の様子を撮影させた。ユダヤ人の犠牲者たちがトラックから降りようとしている。白腕章の男性は、ラトビア人のドイツ協力者、手前の軍装はSD(保安諜報部)。
Aus dem Dokumentarfilm des ehemaligen Marineoffiziers - des Zeugen Wiener - Tatzeit: Juli 1941 Tatort: Befestigungsanlagen in Libau Der Zeuge erhielt von seinem Vorgesetzten, dem Hafenkommandanten von Libau den Auftrag, die tagelangen Judenerschiesssungen des Einsatzkommandos im Film festzuhalten, nachdem es dem Hafenkommandanten nicht gelungen war, die Erschiessungen zu verhindern. Abtransport der Opfer. Auf dem LKW lett. Bewacher (weisse Armbinde) beim LKW zwei SD-Angehörige Archive title:Lettland, Libau.- Erschießung von Juden. Standbild aus dem Dokumentarfilm von Reinhard Wiener über Judenerschießungen in Libau aus dem Besitz von Fritz Rapp.- Ankunft von Personen auf einem LKW Dating:Juli 1941 Photographer:Wiener, Reinhard
写真はB 162 Bild-04997,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年7月,バルト諸国(一時期、ソ連に併合)のラトビア、リエパーヤ要塞、ナチス親衛隊によるユダヤ人処刑。巨大な壕の中に入って行くよう命じられ、そこで処刑されるユダヤ人の一群。特別行動部隊(アインザッツ・コマンド)がユダヤ人を銃殺している。
Aus dem Dokumentarfilm des ehemaligen Marineoffiziers - des Zeugen Wiener - Tatzeit: Juli 1941 Tatort: Befestigungsanlagen in Libau Der Zeuge erhielt von seinem Vorgesetzten, dem Hafenkommandanten von Libau den Auftrag, die tagelangen Judenerschiesssungen des Einsatzkommandos im Film festzuhalten, nachdem es dem Hafenkommandanten nicht gelungen war, die Erschiessungen zu verhindern. Abtransport der Opfer. Auf dem LKW lett. Bewacher (weisse Armbinde) beim LKW zwei SD-Angehörige Archive title:Lettland, Libau.- Erschießung von Juden. Standbild aus dem Dokumentarfilm von Reinhard Wiener über Judenerschießungen in Libau aus dem Besitz von Fritz Rapp.- Ankunft von Personen auf einem LKW Dating:Juli 1941 Photographer:Wiener, Reinhard
写真はB 162 Bild-05008,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 <ホロコーストの理由
1.中世以来,非キリスト教徒として,市民権を持っていないユダヤ人が多く,土地所有権・貸借権もなかった。そこで,ユダヤ人は,都市の商業・教育・医療・金融に就業せざるをえなかった。人権が制限されている人種民族は,困難な状況を克服しようとする。この「マージナルマンの論理」を信じないヒトラーは,特定少数派の人種民族の成功を,狡猾さのせいにし,人種民族的差別を正当化しようとした。

2.不況や敗戦などの国家的困難は,政治的,軍事的指導者の責任・無能さ・失敗になる場合が多いが,中には,失敗の責任を,他の人種民族に転嫁する者がいる。ヒトラーは,第一次大戦の敗北をユダヤ人の陰謀のせいにした。これは,弱い(人権が制限されている)人種民族を選んで,責任を転嫁する「スケープゴート」(生贄のヤギ)の論理である。

3.第一次大戦で,第一級鉄十字賞を授与されたヒトラー伍長勤務上等兵は,前線のドイツ軍兵士が勇戦していたにもかかわらず,後方のユダヤ人政治家や共産主義者が反乱・革命を起こし,ドイツを敗戦に陥れたと考えた。ヒトラーは,ドイツ敗北のトラウマから逃れるために,ユダヤ人・共産主義者による「背後からの匕首(あいくち)の一突き」というユダヤ人陰謀説を信じた。

4.ヒトラーは,アーリア人を至高の人種民族族と妄想し,人種汚染(混血)を引き起こすユダヤ人や知的障害者を迫害した。そして,ドイツ人の生存圏確立を妨害する人種民族を排除すべきであるとする極論に行き着いた。これが「アーリア人優位」の裏返しとなる下等人種劣等民族(ウンターメンシュ)排除である。

5.ヒトラーは,ユダヤ人は,?優秀なドイツ民族を人種汚染し,?共産主義を広めて革命の混乱に落としいれ,?ソ連・アメリカ・イギリスを操って,反ドイツの戦争を起こそうとしていると考えた。その目的は,ユダヤ人による世界支配である。共産主義者としてソ連を動かし,国際金融資本家・メディア経営者として民主主義=衆愚政治の米英を操っているユダヤ人は,ドイツを人種汚染し,破壊する永遠の敵である。東方のソ連・ロシアも,ドイツの生存圏とする予定であり,ユダヤ人の受入れ余地はない。知的障害者の安楽死(T4)計画劣等遺伝子による人種汚染からドイツ人を守るための措置だった。ヒトラーは,ユダヤ人絶滅を口頭で命じたが,,1939年の開戦直前の国会演説から1945年の政治的遺書まで,ユダヤ人殲滅戦争を遂行することは公言されていた。

6.ユダヤ人の共産主義者・金融資本家・マスメディアが,ドイツに戦争を仕掛けてくるのであれば,二度とドイツが敗北することがないように,ヨーロッパのユダヤ人を完全に抹殺するべきである,というのがヒトラーの本心だった。当初はパレスチナマダガスカル島にユダヤ人を追放する計画もあった。しかし,独ソ戦の戦局悪化,日米戦争の勃発の中,アメリカがドイツ人に戦争を仕掛けてくるのは必定である。アメリカ・ユダヤ人に(対米)宣戦布告をし,対ユダヤ殲滅戦を戦うことが,ヒトラーの自覚した宿命だった。ヒトラーは,三国軍事同盟には参戦義務がないにもかかわらず,国会で対米宣戦布告をした。ユダヤ人絶滅のための世界戦争は,ヒトラーに課せられた宿命として,自ら宣戦布告しなければならなかった。

ブラックアース 7.現実主義者のヒトラーは,ユダヤ人絶滅の崇高な使命を,善良なキリスト教徒のドイツ人が理解できるとは思わなかった。また,ユダヤ人絶滅が本当に実行されているとソ連・米英が察知すれば,ユダヤ人は全力を上げて,ドイツに抵抗するに違いない。したがって,ユダヤ人絶滅を公言はしても,実際に絶滅を開始したことは,一切秘密にしなくてはならない。ドイツのキリスト教徒の団結を維持し,敵連合国・ユダヤ人の必死の反撃を受けないように,ユダヤ人絶滅は,秘匿された。ユダヤ人絶滅は,(ドイツ国防軍ではなく)キリスト教に縛られない忠誠無比な親衛隊SSに口頭命令された。

8.ユダヤ人絶滅は,人種汚染を防ぎ,優秀なドイツ人の血を維持する目的があるが,労働力としてユダヤ人を活用することも,総力戦では重要だった。親衛隊・ナチス幹部,軍需ビジネスマンは,安上がりな労働力を必要としていた。そこで,ドイツ支配下のフランス・オランダあるいは東方のソ連・ポーランドから,労働者を徴用・強制連行した。連合軍捕虜を酷使した。ユダヤ人は,奴隷労働に従事させた。強制収容所の奴隷労働者は,病死・過労死・虐待死するまで働かされた。(人質交換や和平交渉のための釈放はあった。)つまり,ユダヤ囚人による奴隷労働も,究極目的は,軍需生産への労働力供給よりもユダヤ人絶滅を優先したものだった。

ブラックアース 9.女子供まで殺害するユダヤ人虐殺は,治安維持の任務を超えており,名誉あるドイツ国防軍の任務ではない,あるいはキリスト教徒として信義を守るべきであるとの反論や反抗が,ドイツ国防軍の将官,兵士の中に起こった。1939年9月のポーランド侵攻前夜,ポーランド指導者根絶をヒトラーから聞かされたフェードア・フォン・ボックFedor von Bock:1880-1945)上級大将は「本件に関して,同意を与える立場になく,絶滅計画遂行に煩わされる立場にない。遂行の責任は親衛隊SSにある」と回想した。1942年9月5日,国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテルWilhelm Keitel)上級大将がユダヤ人労働を全てポーランド人労働者に転換するとの命令を出すと,ポーランド総督領軍司令官クルト・ルートヴィヒ・フォン・ギーナントCurt Ludwig Freiherr von Gienanth:1876-1961)大将は,ユダヤ人排除はドイツの戦力を大幅に低下させるとして,工場労働に従事するユダヤ人の排除猶予を要請した。10月2日,ヒムラー長官は,「内心はユダヤ人と自分の事業を守りたいがために,軍需産業への影響を引き合す連中には断固たる態度で臨む」とした。国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテルクルト・フォン・ギーナントCurt von Gienanth)大将を即時罷免した。それ以後,ドイツ国防軍は,ユダヤ人絶滅に異を唱えなかった。(ただし,1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件が起きた。)ユダヤ人大量殺戮は,国家の命ずる崇高な任務となった。

10.1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数百名が,夫の収監されたローゼン通りで静かに抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人への弾圧は,士気を乱す。ヒトラーにも,婦人たちの武力排除はできなかった。1943年3月6日のゲッベルス宣伝省の日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。混血結婚したユダヤ人は釈放された。ヒトラーは「背後からの匕首の一突き」を信じていたから,ドイツの世論が反ナチス,ユダヤ人迫害反対に変化することを恐れた。1942年に,知的障害者安楽死(T4)を中断したのも,子供を殺された親類・宗教関係者の発言・世論を恐れたためだった。ドイツ一般市民が従順である,世論が反対しない限り,ユダヤ人大量殺戮は遂行された。


  ⇒ナチスドイツの強制収容所一覧

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人虐殺されることに気づかないまま,子連れの婦女子は労働不能者に選別された。このまま,直ちにガス室に送り込まれた集団もあった。Yad Vashem:The Auschwitz Album引用。

<ガス室Gas Chamberについの誤解と真相>
1.ユダヤ人虐殺というと,絶滅収容所のガス室が思い起こされる。しかし,ガス室でユダヤ人・ロマ・捕虜などを大量殺戮していたのは,少数の「絶滅」(強制)収容所だけで,それも1941年以降である。大半の強制収容所は,移送までの一時的収容,奴隷労働,捕虜・敵性住民の収監・更正・永続的拘束を目的とした施設だった。ただし,ドイツ人知的障害者安楽死(T4計画)のための一酸化炭素を利用したガス殺はドイツのコブレンツ近くのハダマルHadamar病院,オーストリア・リンツ近くのハルテンハイムHartheim研究所などで行われ,7万名がガス殺,2万名が飢餓等で殺害されたと推測される。

2.各地の強制収容所では,食料・衣類など物資の絶対的不足,病気蔓延,過酷な奴隷労働,栄養失調などで多数の囚人が死亡,殺害され,拷問や処刑も頻繁に行われた。つまり,強制収容所では,ガス室に拠らない虐殺もあった。しかし,銃殺などの従来の処刑方法,拷問・ゲットーへの収容・奴隷労働によって,ユダヤ人を絶滅することは不可能なことが明らかになって,効率的な大量殺戮の方法が模索された。

3.ガス殺は,1939-1941年当時,ドイツ・オーストリア国内で,知的障害者安楽死(T4計画)に一酸化炭素が利用され,ソ連軍捕虜の処刑に移動式排気ガス室を用いたこともある。1941年,ドイツ占領下のポーランド・ボーゼン西方ヘルムノ強制収容所に,試作的な小ガス室が作られた。1941年9月,アウシュビッツ収容所に設けられたガス室で,ソ連軍捕虜が,試験的にチクロンBによってガス殺された。1942年3月ベルゼク,4月ゾビブル,7月トレブリンカと排気ガス・一酸化炭素を利用したガス室が作られた。そして,1942年7月19日,ヒムラー長官は,ポーランド総督領の全ユダヤ人の移送を1942年12月末までに完了すべし」とゲットーのユダヤ人絶滅を指令した。その後,ビルケナウ(アウシュビッツ第二)強制収容所に「消毒室・洗面所」に見せかけたガス室が増設,1943年3月-6月に,換気装置つき大型ガス室・焼却炉群が完成,チクロンBによる大量殺戮が本格化した。

4.1941年6月の独ソ戦では,ドイツ軍の占領地の後方治安維持にあたった特別行動部隊(アインザッツグルッペンEinsatzgruppen)は,共産党政治委員(コミサール),パルチザン,教員・行政官など知識人(インテリゲンチア),敵性住民を銃殺や縛り首で処刑した。
しかし,血の流れる陰惨な処刑は,処刑者に精神的負担となった。また,銃殺が知れ渡ると,ユダヤ人捕獲が困難になり,住民によるゲリラ活動も活発化した。そこで,処刑者に負担をかけず,治安を悪化させずに,効率的に大量処刑できる「ユダヤ人絶滅のシステム」が考えられた。これは,?反ユダヤ・プロパガンダ,?ユダヤ人密告報酬,?列車移送,?移送者の財産収奪と有効利用,?奴隷労働,?ガス殺・疲労死・病死,?死体焼却の流れが,効率的に組織された。中でも,ガス室は,処刑者の心理的負担を軽減し,大量殺戮を効率化する重要な一要素で,反人間性の象徴となった。(ただし,アウシュビッツ収容所長アドルフ・へスなどは,残虐な方法ではなく,ガスで安楽死させていると考えた。)

5.ユダヤ人が収監された収容所は,一般的に「強制収容所」と呼称し,「絶滅収容所」とは言わない場合も多い。ガス室Gas Chamberを備え大量殺戮を行った絶滅収容所は,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置された。アウシュビッツ強制収容所だけでも,1940-1945年に百万十万から百五十万名が,ガス殺,栄養失調,病気放置,拷問,奴隷労働などによって,虐殺されたと考えられる。オーストリアのマウトハウゼン収容所にあるシャワー室に似せたガス室では,3500名が殺戮されたと推測される。ドイツミュンヘン郊外のダッハウ収容所にも,1943年以降,ガス室・焼却炉が建設されたが,使用されていないようだ。

6.1943年秋に収容者が14万人に達した「アウシュビッツ収容所」は,1943年11月,三分割され,アウシュビッツ第一収容所(基幹収容所),アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ),アウシュビッツ第三収容所(モノビッツ)となった。しかし,一つの収容所群としてアウシュビッツ収容所と呼ぶ場合も多い。ガス室での大殺戮が行われたのは,アウシュビッツ第二(ビルケナウ絶滅収容所(1944/5-1944/12/1所長ヨーゼフ・クラーマー)である。ガス室は,親衛隊撤退時に破壊され,現在,巨大な残骸が残っている。アウシュビッツ基幹収容所(第一収容所)のガス室は,他の施設に転用後,1944年末に破壊された。現在の第一収容所「ガス室」は復元であり,収容所の変遷を知らないと「アウシュビッツ収容所のガス室は捏造だった」と誤解する。

  7.ドイツ本国に設置された強制収容所でガス室によるユダヤ人大量殺戮はなかったが、これは「ドイツ」を現在のドイツ共和国の領域に限定した議論である。地域限定性を見逃した識者は,ドイツの強制収容所にはガス室はない,大量殺戮はないと主張するが,ドイツ支配地域のポーランドに,親衛隊SS管理のガス室付絶滅収容所があった。

写真(右)1944年,オーストリアに設置されたマウトハウゼン強制収容所バラック前に整列させられた囚人。ここには大理石(石英)の石切り場があり、親衛隊の管轄の下で全国に大理石を供給していた。マウトハウゼン強制収容所の管理棟も立派な大理石で作られたが、この労働には、ユダヤ人、反ナチ政治犯、ソ連赤軍捕虜など囚人労働が酷使された。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ポーランドでは,1940年秋までに,ウッジ,ルブリン,ワルシャワなどに次々に,ゲットーが作られ,ユダヤ人が押し込まれた。ユダヤ人の食料,物資は僅かで,多数の住民が死亡した。この時期,アウシュビッツ強制収容所は拡張建設中だった。

アウシュビッツ収容所は,占領したポーランド軍兵舎を利用し,1940年に建設が始まった。4月,アウシュビッツ収容所長となるルドルフ・ヘス(副総統とは別人)が到着,囚人を使役して,第一期工事として収容所を完成させた。ガス室はなく,銃殺,懲罰房で殺戮が行われた。1940年7月,毎日70体の死体を処理できる焼却炉が設置された。

写真(右)グーゼンあるいはマウトハウゼンの死体処分場Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Sowjetische Kriegsgefangene vor der Baracke.右は大量の死体が埋められた。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

1941年3月,親衛隊国家長官ヒムラーがアウシュビッツを視察に訪れ,収容規模を1万名から3万名に増加するように指示した。

1941年10月に,アウシュビッツの拡張工事が始まり,12月までに,ソ連軍捕虜1万名がアウシュビッツに送り込まれた。その間,1941年9月,アウシュビッツ収容所では,試験的にチクロンBを使って,ソ連軍捕虜600名,病人300名をガス殺した。

◆1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

日独伊三国軍事同盟では,第三国から攻撃を受けた場合,共同防衛することを定めているから,日本軍の米英攻撃で開始された太平洋戦争に,ドイツは参戦する義務はなかった。しかし,ヒトラー総統は,ユダヤ人の陰謀によって第二次世界大戦が開始された以上,ドイツもユダヤ人の操る米国との戦争に巻き込まれるのは必定であると考えた。自分が50歳代のうちに,機を制してユダヤ人を殲滅する世界戦争こそ宿命であると妄信した。

ドイツ軍は,東部戦線でソ連赤軍に大打撃を与えたが,優秀なドイツ兵士16万名が犠牲になっている。この犠牲の責任は,ユダヤ人にとらせるつもりである。もはやアメリカのユダヤ人に配慮して,欧州ユダヤ人の最終解決を遅らせる必要はなくなった。ユダヤ人,共産主義者,パルチザンに対して,最終解決の名の下に,殲滅戦を戦うときがきた。


これに対して、ルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が米議会に対して、直ちに行われた。1939年9月に第二次欧州大戦が勃発して以来、英国を支援したいと考えていたルーズベルト大統領は、イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)に対して、軍事物資の補給やシーレーンの交通保護という形で軍事援助を与えていた。日本のみならず、ドイツがアメリカに宣戦布告したことは、ルーズベルト大統領に参戦の口実を与えることになった。

1941年12月13日のドイツ啓蒙宣伝省ゲッペルスJoseph Goebbels の日記「総統は、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、1939年,ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」 (12/12のヒトラー総統によるナチス党幹部への演説をもとにした記録)

1941年12月16日,ポーランドのクラカウにいた総督でナチ党幹部のハンス・フランクHans Frank)も,ヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の命令に言及し,同じく,東方占領省アルフレート・ローゼンベルクAlfred Rosenberg)も確認している。

1941年12月18日に総統本営(Wolfsschanze) でヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の口頭命令を受けて、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)は,国内外世論,処刑者の精神的苦痛,ユダヤ人の反抗・ゲリラ活動防止,治安維持に配慮して,密かに強制収容所を「絶滅」システムに組み込んだ。 

1941年12月18日頃のヒムラー親衛隊国家長官のメモ
Judenfrage / als Partisanen auszurotten
和訳:ユダヤ人問題 / パルチザン(ゲリラ)同様に最終解決(殲滅)すべきこと


1942年1月20日のヴァンゼー会議(Wannseekonferenzでは,ハイドリヒ長官が、親衛隊,警察指導者に、1941年10月末までに53万7千名のユダヤ人を国外移住させ、残るソ連・欧州の1100万名に及ぶユダヤ人問題の最終解決を全権委任されたことを伝えた。9月から,ドイツ支配下のユダヤ人は,黄色のダビデの星印(Star of David)の着用が命じられ、大規模なガス室を備えた絶滅収容所が整備された。

アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘス(Rudolf Höss:1900-1947)によれば,1942年春,ユダヤ人のガス殺が開始された。ヘスは,部下がなぜ虐殺をするのかと疑問を持ったとき,「この同じ疑問を持った身でありながら,総統命令であることを理由に,彼らを説き伏せた。ユダヤ人虐殺は,ドイツを,われわれの子孫を,手ごわい敵から永遠に解放するために必要な措置であると,彼ら言わねばならなかった。」(ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,307頁 引用)

1942年6月末,ガス室・焼却炉を,消毒室・洗面所に見せかけたのは,殺害するユダヤ人たちが,騒ぎ反抗するのを防ぐためである。誘導には,ユダヤ人特別作業班「ゾンダーコマンド」を使ったが,これも殺害するユダヤ人を言葉,生き証人の上で安心させる目的がある。ゾンダーコマンドのユダヤ人は,殺されるユダヤ人を苦しませたくなかった。また,ユダヤ人が暴れれば,自分たち作業班が殺害される。彼ら作業班は,看守に協力せざるをえなかった。

1942年1月20日のヴァンゼー会議(Wannseekonferenzでは,ハイドリヒ長官が、親衛隊,警察指導者に、1941年10月末までに53万7千名のユダヤ人を国外移住させ、残るソ連・欧州の1100万名に及ぶユダヤ人問題の最終解決を全権委任されたことを伝えた。9月から,ドイツ支配下のユダヤ人は,黄色のダビデの星印(Star of David)の着用が命じられ、大規模なガス室を備えた絶滅収容所が整備された。

アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘス(Rudolf Höss:1900-1947)によれば,1942年春,ユダヤ人のガス殺が開始された。ヘスは,部下がなぜ虐殺をするのかと疑問を持ったとき,「この同じ疑問を持った身でありながら,総統命令であることを理由に,彼らを説き伏せた。ユダヤ人虐殺は,ドイツを,われわれの子孫を,手ごわい敵から永遠に解放するために必要な措置であると,彼ら言わねばならなかった。」(ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,307頁 引用)

1942年6月末,ガス室・焼却炉を,消毒室・洗面所に見せかけたのは,殺害するユダヤ人たちが,騒ぎ反抗するのを防ぐためである。誘導には,ユダヤ人特別作業班「ゾンダーコマンド」を使ったが,これも殺害するユダヤ人を言葉,生き証人の上で安心させる目的がある。ゾンダーコマンドのユダヤ人は,殺されるユダヤ人を苦しませたくなかった。また,ユダヤ人が暴れれば,自分たち作業班が殺害される。彼ら作業班は,看守に協力せざるをえなかった。

写真(右)1941年,オーストリア・リンツ郊外マウトハウゼン収容所を視察する親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー一行「この悪名高い強制収容所では、ファシストが各国の何百何千人もの人が拷問,殺戮された。野蛮なファシズムの破壊工場を立ち入り検査するヒムラー(中央) 、カルテンブルンナー,Ziereis Bachmayerマウトハウゼン強制収容所司令官。」Zentralbild, 1.3.1957 Mauthausen ... eines der berüchtigsten Konzentrationslager, in dem Hunderttausende von Menschen aller Nationen von den faschistischen Henkern zu Tode gefoltert wurden. UBz: Die faschistischen Banditen inspizieren ihr Vernichtungswerk. Himmler (Mitte), Kaltenbrunner, Eigruber, Ziereis und Bachmayer, der Kommandant des Konzentrationslagers Mauthausen. 1941- Himmler im Gespräch mit Sturmbannführer Ziereis. Dating: 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1942年7月14日,総統本営「狼の巣」(ヴォルフスシャンツェ)からユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,迅速にユダヤ人移送をすることを求めた。
7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察,オランダ・ユダヤ人のガス室でのガス殺に立ち会ったが,覗き穴から中を見ているうちに気分が悪くなり,ガス室の裏で嘔吐したとの,ユダヤ人ゾンダーコマンド(Sonderkommando:死体処理特別作業班)の証言がある。ビルケナウ絶滅収容所も,1942年秋以降,ガス室・焼却炉が稼動する。ただし,このガス室には換気扇がなく,扉を開放して,換気した。しかし,ガス室の室温が低くなる冬季には,チクロンBが気化できなくなるという問題が生じた。


写真(上)1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を視察する親衛隊SS国家長官ヒムラーとIGファルベン首脳陣収容所長ルドルフ・ヘスが案内し,ナチ党幹部,軍需企業IGファルベン首脳も参加した大規模で,徹底した視察だった。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。第一収容所とアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)とならんで,合成燃料と合成ゴムの工場「ブナ」の建築現場を視察した。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。

◆1942年11月8日,ミュンヘン一揆記念集会でのヒトラー総統の演説:「諸君は,(1939年の)国会演説を覚えていよう。あの時私は,宣言した。ユダヤ人が,世界戦争を引き起こしてやろうと思い違いをしているなら,その結果もたらされるのは,ヨーロッパ人種の絶滅ではなく,ヨーロッパにいるユダヤ人の絶滅である。当時,あの予言を,ユダヤ人は一笑に付したが,当時笑っていた者は,今日,もはや笑うことができなくなった。今日笑っている者も,いずれ笑わなくなるであろう。」

ビルケナウ絶滅収容所では,ガス室と焼却炉を備えた建物群が,1943年3月22日から6月25日に完成した。ここには,換気装置を備えた新式ガス室があり,換気に時間がかかる旧来のガス室にとって換えられ,チクロンB(殺虫剤が起源)を使用したガス大量殺戮が本格化した。ひとつの焼却炉に死体三体を詰め,体脂肪によってコークスを節約しながら,迅速に死体を処理する方法も考え出された。1943年末には,1日当たり8000名を処理できるようになった。遺体は,ユダヤ人から選別された200名の死体処理特別作業班(ゾンダーコマンド)が処理する。骨は砕いて,痕跡を残さないようにし,灰は河に流された。収容者から奪った所持品は,「カナダ」と呼ばれた倉庫に保管された。豊かな国のイメージである。

移送列車で到着した囚人群は,労働可能な者は,収容所の作業班での労働に加わるか,収容所近くに設置された「ブナ(モノヴィッツMonowitz)」と呼ばれた軍需工場で,奴隷労働に従事し,死ぬまで働かされた。労働不能者は,ガス室で殺戮された。

◆大戦初期1939-1941年前半の強制収容所では,大虐殺は始まっていない。1941年6月22日のドイツのソ連侵攻後,ユダヤ人,ソ連軍捕虜を銃殺する大量殺戮が始まる。1941年後半にアウシュビッツで試験的なガス殺が行われた。1941年12月11日のドイツの対米宣戦布告ご,ユダヤ人絶滅の方針が確認され,1942年後半には,アウシュビッツ収容所にガス室が整備,ガス殺が開始された。1943年,ビルケナウ絶滅収容所に,新たな大規模なガス室が増設され,1日数千名が大量殺戮された。その一方で,対ソ連の戦局が悪化した1942年10月末、ソ連人捕虜とユダヤ人が,ドイツの軍需産業・農業生産のために,奴隷労働者として大量投入されるようになった。

写真(右)ブーヘンワルト(Buchenwald)強制収容所の奴隷労働者1945年4月16日,米第80師団が解放した奴隷労働者の囚人たち。(The U.S. National Archives and Records Administration : Local Identifier: 208-AA-206K(31)引用)解放された囚人たちだったが,栄養失調で多数が死亡した。ブーヘンワルト強制収容所には,ガス室はなかったが,過酷な労働条件,栄養失調,病気の蔓延,処刑によって,多数の囚人が死亡している。

(4)強制収容所と絶滅収容所


1943年3月18日のアンネの日記:「トルコが(連合国側にたって)参戦しました。みんな大騒ぎ。ニュースが待ちきれまhttps://blog.his-j.com/volunteer/2023/05/post-f6f2.htmlせん。」十四歳の少女は,今の大学生よりも,第二次大戦中の国際関係,トルコの戦略的重要性を理解していた。ただし,翌日の日記で,トルコ参戦が誤報とわかり,落胆したと記されている。そして,ドイツ軍の放送で,ヒトラー総統に見舞ってもらったスターリングラード負傷ドイツ兵士が,感激している様子を聞いた。兵士たちの負傷を最大級の名誉としているのを知ったユダヤの少女アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)は,「ぞっとする茶番劇がラジオで流されています」とプロパガンダの虚構性を見破った。

1943年3月27日のアンネの日記:隠れ家での速記の講習が終わって,スピードを上げる練習にかかることが記されている。彼女は,ブロック体,筆記体,速記と複数の書体(筆跡)で文字を書くのを習っていた。ドイツ側が「全ユダヤ人は7月1日まで,ドイツの全占領地から追放されねばならない」と述べたことを聞いて,「ユダヤ人をゴキブリ扱いしている」と述べた。「追い立てられ気の毒な人たちは,哀れな病気の家畜さながら,どこかに送られていくのです」と書いている。1943年3月末の段階では,アンネたち隠れ家の住人は,ユダヤ人が,過酷な条件の収容所で虐殺されているとは思わなかったようだ。1943年3月は,ビルケナウ絶滅収容所に新式のガス室が完成し,大量殺戮の準備が整った時期だった。

写真(右)ブーヘンワルト強制収容所の焼却炉1945年4月16日,米第80師団が解放したブーヘンワルト強制収容所。(NARA: ARC Identifier:292597引用)絶滅収容所ではないので,大規模なガス室・焼却炉はなかった。しかし,栄養失調,病気,あるいは虐待によって多数の死者が出た。この遺体を処理する焼却炉があった。強制収容所と「絶滅」収容所の区別は,ガス室の存在で区分した便宜的なものである。

強制収容所の運営は,親衛隊(SS)髑髏部隊と,ウクライナ人などの補助警察が導入された。そして,ドイツ人刑事犯などを囚人監督「カポ」に任命し、収容者の誘導,手荷物整理,死体処理を行う作業班を管理させた。

 ナチスは,ユダヤ人を分割して,団結させないようにした。その上で,囚人に,いっそう弱い立場の新人の収容者を管理させた。

 アンネたち隠れ家の住人も,ユダヤ人密告報酬につられたのか,反ユダヤ的なオランダ人によって密告され,親衛隊SSとそれに協力するオランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)に逮捕された。卑劣な分割統治は,効果的に人種民族差別を迫害・虐殺に結びつけた。

ドイツ占領下では,住民もドイツのために戦争協力することが求められた。資源物資の供出,軍需工場への徴用,農作業への強制動員も行われた。
1943年5月18日のアンネの日記:オランダの「大学生で,学位を取得したいものは,みんな強制的に,ドイツに全面的に共鳴し,新体制を承認するという文書に署名させられています」

1943年6月15日のアンネの日記:困難な状況に耐えながら「世間ではみんな,古くて使えないようなラジオを手に入れ,それを各自の勇気の源の代わり」としている。「ラジオの奇跡の声で私たちの士気を鼓舞してくれ,もう一度,元気を出そう,最後まで頑張りぬこう,いつかはいいときが来る,そう励ましあうのを助けてくれているのは間違いありません。」


写真(上)アウシュビッツ強制収容所に収監されたユダヤ人少女の囚人登録写真
Identification pictures of a female inmate of the Auschwitz camp. between 1942 and 1945:ドイツ国内やドイツ占領地のフランス・オランダなどにあった強制収容所には,大量殺戮用のガス室はない(ダッハウ,マウトハウゼンには小規模なガス室はあった)。しかし,収容所では,栄養失調,病気,拷問,処刑によって,ユダヤ人が虐殺されていた。ガス室のあるビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなど絶滅収容所は,ドイツ占領下ポーランドに設置されていた。1944年8月,15歳でオランダ最大のヴェステンボルク収容所,ついでアウシュビッツに送られたアンネは,ベルゲン=ベルゼン収容所(ガス室はない)に強制移送され,病気で衰弱,1945年3月ごろ死亡。
アウシュビッツでの死者(ガス殺,病死,処刑など)は,ユダヤ人110万名,ポーランド人7万名,ロマ(ジプシー) 2万1,000名,ソ連軍捕虜1万5,000名とされる。写真はPhoto Archives: United States Holocaust Memorial Museum引用。


親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,ポーランドにおいて,親衛隊に対してユダヤ人に関する演説をした。これが, 1943年10月4日ボーゼン「ユダヤ人絶滅」演説Heinrich Himmler: Posener Rede vom 04.10.1943である。
 「一つの困難な課題について諸君にはっきりと語る」として,口にしてこなかったユダヤ人虐殺について「親衛隊の使命であり、自明の任務である。それ故に,我々親衛隊は,このことを話し合ったことがなかった。これが命令となり、また必要となれば、直ちに実行するだけのことである。」

 「私は‘ユダヤ人排除’、すなわちユダヤ人絶滅のことを言っているのだ。 Ich meine die "Judenevakuierung": die Ausrottung des jüdischen Volkes. この任務は,容易だとも受け取られている。‘ユダヤ人は一掃されるだろう’と。党員たちが諸君に言うには‘我々はユダヤ人を除去、絶滅すると公言してきた。些細なことだ,’と。そういった状態なら,いずれ8千万の忠実なドイツ人が各自一人のユダヤ人を連れてきてこう言うであろう。‘他のユダヤ人たちは悪い奴らです。しかし、彼は優秀です。’こんなことを見過ごし、我慢することはできない。
 諸君の前に横たわる100の屍が、500の屍が、千の屍を見るとき,それが何を意味しているか,諸君は分かるであろう。この任務に耐えること、人間的な弱さとは縁を切って,屍を前に,我々は精神を強靭にして,品位を保つ。この任務は,決して言葉では表現されないし、表現すべきでもない。この任務によって,我々は空前の栄光を歴史を残すことになる。
これは,ヒムラー長官が,ナチ党幹部,親衛隊に,ユダヤ人絶滅を公言し,彼らもその共犯とするための演説のようだ。

◆親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツ人を人種汚染するユダヤ人問題の最終解決,すなわちユダヤ人絶滅こそ,凡人の理解を超えた,親衛隊にとっての崇高な歴史的使命であると妄信した。そして,ヒトラー総統が,ユダヤ人絶滅を口頭で命じた以上,この命令は,親衛隊に誤りなく伝えられた。人種民族差別を受け入れていた親衛隊は、個人的には虐殺に疑念を抱いたとしても,命令に従い,ユダヤ人絶滅を遂行した。

 1943年10月4日,ヒムラー長官「ユダヤ人絶滅」演説(続き):ドイツは連日のように,連合国爆撃機の空襲を受けているが,このような祖国の危機に「逃げ隠れしている煽動者ユダヤ人を,祖国に置くことがいかに困難をもたらすことになるか、我々は知っている。もしユダヤ人がドイツ人に寄生すれば,ドイツが(背後からの匕首(あいくち)の一突きで敗戦した第一次大戦の末期)1916-17年と同じ状況に陥ることになる。」

「ユダヤ人の持つ資産を奪う上で私は厳しく命令した。------我々親衛隊は,ユダヤ人資産を完全に帝国に移管する。この資産を個人的に略奪してはならない。命令に反する者は、私の言ったように‘たとえ1マルクでも略奪した者は死刑’になる。

我々親衛隊が求めるものは,略奪ではなく、腐敗の撲滅である。我々がこの困難な任務を遂行するのはドイツ民族への愛のためであり,我々の魂の中、人格の中には、恥じるべきものは何一つない。

Heinrich Himmler's Speech at Poznan (Posen)ヒムラーの1943年10月4日「ユダヤ人絶滅」演説画像録音

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人の選別労働可能なものは,過酷な条件で,軍需工場での奴隷労働,収容所の管理作業に充当され,生きることを許された。しかし,写真右の列の労働不能者に選別されたものは,ガス室で処刑された。死の選別に気づかないユダヤ人たちは,家族が一緒に収容所生活することを望んだ。収容所管理者・看守は,ユダヤ人たちが暴動を起こさないように細心の注意を払って,到着者たちを処遇した。Yad Vashem:The Auschwitz Album引用。

移送列車で到着した多数のユダヤ人は,強制労働につく「労働可能者」と,抹殺される「労働不能者」と選別された。この生死の選別は,ドイツ人の医師・親衛隊が行った。体を一瞥するだけで,あるいは若干の質問をして(囚人通訳もいた),振り分けるのである。原則として,年少者,子供をつれた女子,老人は,労働不能者に選別され,ガス室に送られる。

貨物列車に満載され,食料・水不足に苦しんだユダヤ人は,アウシュビッツに到着するころには,疲労困憊していた。早く収容施設に入居したいと思ったであろう。迅速な選別ができたのは,ユダヤ人が肉体的・心理疲労状態に置かれ,荷物整理のユダヤ人「カナダ」作業班,死体処理作業班「ゾンダーコマンド」の存在と応対に安心し(ようとし)たためである。ユダヤ人は,強制収容所は,労働の場であり,絶滅の場とは思わなかった。思いたくなかった。

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人の手荷物ユダヤ人たちは,小型の手荷物だけをもって,収容所に入ることをるゆされる。放棄されたトランクなど大型の荷物は「カナダ」と呼ばれた倉庫に分類・保管され,ドイツに移送,有効利用された。この荷物仕分け作業を担当するのが,ユダヤ囚人「カナダ」作業班である。コートなど衣類,ブーツから毛布など,鉄道駅では,持ちきれない荷物が放棄された。最終的には,宝石,時計など貴金属,紙幣などすべて,ドイツのために供されることになる。写真は,Yad Vashem The Holocaust Martyrs' and Heroes' Remembrance Authority引用。

収容所「カナダ」作業班Canada warehouse )は,到着者たちの荷物を分類し,倉庫(カナダ)に集める仕事をさせられた。連行されたユダヤ人は,ここが絶滅収容所だとは気づかなかった。親衛隊は,効率的にユダヤ人を虐殺するために,虐殺の事実を秘匿するように努めた。収容所ゲートには,「労働すれば自由になれる」(中世自由都市の格言「都市の空気は自由にする」と類似)と偽りの標語が大きくかかれていた。ガス室・焼却炉には,消毒室・洗面所と書かれていた。

親衛隊は,ユダヤ人など強制収容所の囚人を奴隷労働者として,軍需企業に一人一日6マルクで貸し出した。労働者を使った企業が親衛隊に支払った借受け料は,全て親衛隊の資金となった。映画「シンドラーのリスト」でも,企業経営者シンドラーが,強制収容所のユダヤ人奴隷労働者を利用して,ドイツ軍の物資を生産する。シンドラーの目的は,ユダヤ人を虐殺から救うと同時に,ユダヤ人を労働者として安く使用し,財産をなすことだった。


写真(左)アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所近くの炭鉱を見学した収容所の親衛隊:A large group of SS officers visit a coal mine near Auschwitz. [Photograph #34827]。アルバムのオリジナル説明文は,"Besichtigung eines Kohlenbergwerks." (炭鉱訪問)。
写真(右)アウシュビッツ収容所近くのセメント工場とそこで働く奴隷労働者:東方(ポーランド)のガス室を備えた絶滅(強制)収容所(アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネック)でも,一時的収容者を含めて,囚人を奴隷労働としても利用した。写真はともに,United States Holocaust Memorial Museum. Holocaust Encyclopedia. 引用。


親衛隊は,軍需生産上,労働力を提供できないユダヤ人を,ガス室などで殺害し,労働可能なユダヤ人囚人は,衣食住を切り詰め,過酷な条件で奴隷労働者として,死ぬまで働かせた。

しかし,ユダヤ人絶滅を,経済的理由だけ説明することはできない。アンチセミティズムに基づいて,ユダヤ人をドイツ民族を滅ぼそうとする敵,病原菌であるとした人種民族差別の役割も大きい。敵ユダヤ人による人種汚染を予防するために,ユダヤ人を強制収容所」に収監し,排除・追放なければならない。

◆ユダヤ人は,ドイツ民族の生存を脅かす敵である。奴隷労働力として軍需生産・食糧生産に投入する以上に,ユダヤ人を絶滅すること自体が重要な目標となった。ユダヤ人を労働力としたのは,死ぬのを猶予した一時期だけである。これを理解できないところに,現実主義者ヒトラーが,労働力となるユダヤ人を虐殺するはずがない,という誤解が生まれた。

1941年,ヒトラーによるユダヤ人絶滅命令を口頭で受けたSS長官ヒムラーは,ドイツ人を滅ぼそうとする病原菌であるとの過激なアンチセミティズムを抱いていたので,ユダヤ人の絶滅も奴隷労働力も,合理的行為として,遂行された。

ユダヤ人虐殺の方法は,当初は,銃殺・縛り首などであったが,ユダヤ人に処刑が知れ渡ると,ユダヤ人を捕まえることは困難になり,同時に住民による反抗も活発になった。ドイツ人処刑者の中には,婦女子の処刑には精神的に耐えられないものもあった。そこで,治安を悪化させずに,処刑者に負担をかけず,効率的に大量殺戮できる「ユダヤ人絶滅システム」が作られた。

◆ユダヤ人絶滅システムとは,一般住民に反ユダヤ人プロパガンダを行い,ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪した。囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。このようなユダヤ人虐殺の重要な部分は,口頭でのみ命令され,文書化することを許さない。効率的に秘密裏に組織されたのが,ユダヤ人絶滅システムである。

ナチ強制収容所一覧を見ても,その大半にガス室はなかったが,栄養失調・病死,奴隷労働による過労死,拷問死,処刑はあった。アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘウムノChelmno),ベルゼク(Belzec),トレブリンカ(Treblinka),ゾビブル(Sobibor ),マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置された絶滅収容所は,ガス質を備え,ユダヤ人,ロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜などを大量殺戮した。

他方,ユダヤ人の婦女子まで殺戮するドイツ人は,精神的,肉体的に負担が大きかった。殺戮者となったドイツ人の負担を軽減することには,十分配慮されていた。
つまり,効率的に殺戮を進め,資産を収奪するユダヤ人絶滅システムは,人種民族差別の上に構築されていた。ユダヤ人絶滅は,冷徹に計算された人種民族差別の極限にある非人間的な暴力である。



写真(上)1944年,アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所の管理・SS病院勤務の親衛隊。:親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。写真(左)髑髏の紋章の軍帽と,ルーン文字のSS襟章の付いた軍服を着たSS親衛隊将校は,SS病院勤務と思われる。左よりDr. Enno Lolling, Commandant Richard Baer,Adjutant Karl Hoecker. [Photograph #34807]。写真(右)アウシュビッツ収容所の病院落成式に出席したドイツ軍部隊。 [Photograph #34601](Date: 1944 Locale: Auschwitz, [Upper Silesia] Poland; Birkenau; Auschwitz III; Monowitz; Auschwitz II )。United States Holocaust Memorial Museum引用。アウシュビッツ強制収容所には,病院があった。ドイツ人用の病院は,収容者用の病院とは比べ物にならないくらい整備されていようだ。強制収容所の病院には,ドイツ人看護婦も勤務していた。囚人が病院の補助作業,雑用に使われていたようだ。後方で安全な勤務生活を送るためとはいえ,ドイツ人はユダヤ人囚人をどのように思ったのか。アルバムの主カール・ヘッカーは,戦後,戦争犯罪人として裁かれたが,2000年まで生きた。そして,遺族が,2007年に,この貴重なアルバムを,米国ホロコースト記念博物館に寄贈した。


写真(上)1944年,アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所の管理・病院勤務のドイツ婦人補助部隊SS Helferinnen :"Auschwitz 21.6.1944" 親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバムAuschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp(2007年1月,ホロコースト記念博物館に寄贈。写真(左)親衛隊女子補助部隊SS Helferinnen (female auxiliaries)とSS将校カール・ヘッカー(Karl Hoecker)が,アウシュビッツ強制収容所近くの勤務者保養用の山小屋Solahuetteデッキで,ボールに入ったブルーベリーを食べている。 [Photograph #34767A]。写真(右)ナチス将校と婦人補助部隊(Helferinnen)が,橋をわたっている。[Photograph #34587](Date: 1944 Locale:Solahutte, [Upper Silesia; Auschwitz] Poland )引用。病院の落成式(1944/6/21?)の時なのか,ベリーを全部食べちゃった,という写真もアルバムに残っている。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. 引用。アウシュビッツ収容所勤務ドイツ人の表情を見ると,反ユダヤ狂信者の異常な暴力がユダヤ人虐殺を主導したのではないことに思い当たる。普通の人々も,ユダヤ人虐殺に反対を許さない組織の中で,プロパガンダに扇動されながら,業務をこなした。虐殺を知らなかったドイツ人も含まれるのかもしれない。強制収容所の男女親衛隊員は,後方勤務で,安全な生活をおくった。これは,陰惨な東部戦線で,ソ連軍相手に死闘を繰り広げるより,いい身分を手に入れることでもある。


ヒムラー長官がユダヤ人絶滅演説をした時期,1943年10月17日のアンネの日記に,隠れ家に同居するユダヤ人との喧嘩話のあとに,「こういったすべてのことを忘れるたった一つの手段,それは勉強すること。ですから私はがむしゃらに勉強に打ち込んでいます。」とある。

1943年10月29日のアンネの日記:隠れ家の父,母,姉から冷たくされ,「うちの中の空気はうっとおしく,鉛のように重苦しく,私のまぶたまで重くなります。」「私はただソファで横になり,眠ります。そうすることで時間が早く過ぎるように,そしてこの沈黙と,たまならない恐怖とが忘れられるように。なぜなら,そうする以外,時間を早送りする方法がないからです」と書いた。

ユダヤ人迫害の恐怖の中で,隠れ家にひっそり逃げることしかできない十四歳の少女は,家族との関係が崩れたとき,迫害の恐怖を忘れるには,眠るしかなかった。克己して,いつか自由になったときに,人の役に立つ働きができるように備えようと,がむしゃらに勉強することもあったが,いつも元気なわけでは,決してなかった。

ユダヤ人の少女,アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)の魂は,大きく揺れ動いていたが,隠れ家の中で,それを人に見せることはできなかった。魂の動揺を癒したりしてくれる人は,まだ,見つかっていなかった。恋人としてペーターを意識するのは,1944年2月14日のアンネの日記以降である。

(5)強制収容所囚人による奴隷労働

写真(右)オーストリアのマウトハウゼン収容所支所エベンゼー(Ebensee)収容所の奴隷労働者1945年5月7日,米第80師団が解放した。A. E. Samuelson中尉撮影。(The U.S. National Archives and Records Administration :Local Identifier: 111-SC-204480, 米国防総省Photo ID: HD-SN-99-02762引用)1944年1月,独空軍司令部用にエベンゼー地下トンネルの構築を開始。その後,トンネルは石油精製,戦車・トラックの部品製造に使用。建設作業は,マウトハウゼンMauthausen収容所から支所のエベンシー収容所に移送された労働者が担当し,解放までに8千名が死亡した。強制労働には,収容所敷地内と外部労働がある。日帰り労働は,徒歩,トラックなど,工場,鉱山に送られた。外部収容所囚人は,陣地構築,工場疎開,工場労働に就いた。外部収容所の数はダッハウ50,アウシュビッツ40,ブーヘンヴァルト70あった。1938年8月設置のマウトハウゼン強制収容所(リンツ郊外)は,伊仏・ユーゴの政治犯,チェコスロバキアやオランダのユダヤ人,オーストリアのジプシー,ポーランド・ソ連軍捕虜を収容。囚人は,花崗岩砕石場,軍需工場で酷使された。1945年5月7日,米第80師団が解放するまでに,収容者合計20万名のうち11万名が死亡した。

収容者の奴隷労働は,収容所の敷地外にもあった。労働隊が組織され,徒歩あるいはトラック・列車で,工場,鉱山に送られた。また,外部収容所から陣地構築,工場疎開,工場労働を強制された囚人もあった。ダッハウ収容所は50,アウシュビッツは40,ブーヘンヴァルトは70の外部収容所があった。

写真(右)ブーヘンワルト(Buchenwald)強制収容所の奴隷労働者1945年4月16日,米第80師団が撮影。(The U.S. National Archives and Records Administration: ARC Identifier: 531267 引用)ブーヘンヴァルト収容所のソ連,ポーランド,オランダの奴隷労働者(slave laborers)。入所時160ポンド(72キロ)あった体重は,11ヶ月の強制労働で60ポンド(32キロ)に半減した。1945年4月16日,米軍による解放後の撮影。(米国立公文書館NARA .ARC: 531267 Local: 111-SC-203648引用)オイゲン・コーゴン(1903-1987)は,1939年9月からここの囚人であり,病棟で働いた。当時,弱って横たわったままの囚人は「ムーゼルマン(ムスリム)」と呼ばれた。痩せこけた姿と生命維持を願う本能的な姿を指す収容者たちの表現である。

ハインリヒ・ヒムラーの下にある親衛隊SSは,企業からの労働者派遣の申請を審議し,奴隷労働者を派遣した。企業は,一人の一般労働者につき日当4マルク,専門技術者につき日当6から8マルクを収容所に支払う必要があった。

工場事業所の奴隷労働者受け入れ人数は,シュリーベン弾薬工場1468名,グストロフ大砲工場1453名,ユンカース航空機工場1240名,フロッセンベルク金属工場(携帯対戦車砲)1185名,BMWエンジン工場226名,BMW地下工場建設720名,オーアドルーフ建設指導部(地下道建設)9943名など様々な分野に投入され,一部は外国人労働者とともに酷使された。

ノルトハウゼン収容所のドーラ外部収容所は,1943年12月から1944年5月まで,毎月1500名以上が死亡した。ドーラは,1944年10月から強制収容所になった。これは,奴隷労働の需要が大きかったためである。また,強制収容所自体は爆撃を受けなかったが,奴隷労働者の働く軍需工場は爆撃対象となった。1944年8月24日,ブーヘンヴァルトのグストロフ大砲工場は空爆によって破壊された。

写真(右)ブーヘンワルト強制収容所の奴隷労働者の遺体1945年4月14日W. CHICHERSKY撮影。米第三軍が収容所を占領したとき,焼却寸前の遺体を発見した。(NARA:ARC Identifier:531261,米国防省,ID:HD-SN-99-02779引用)この収容所は,社会主義者など政治犯が多かったが,大戦勃発後は,各国レジスタンスも収容。1937年から1945年4月3日の間,新規収容者は合計23万8千名,物資不足,処刑などの死亡者は3万名。さらに,1945年4月8日,収容所解体・囚人移送中に死者が出た。ドイツにおける戦前のユダヤ人迫害を避けてオランダに移住したオット・フランクと娘アンネらは,ドイツのオランダ占領に伴って,1942年7月6日、アムステルダムで隠れ家生活を開始,1944年8月、保安警察に逮捕された。アンネは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で、1945年3月頃死亡。ここでは,1940年以降,ソ連軍捕虜,ユダヤ人,ポーランド人,政治犯など5万人が死亡した。

アウシュビッツ=ビルケナウ収容所では、労働不能者をガス室で絶滅する一方で、1943年12月末、収容所勤務に男子5千5百名、女子3千名、ブナ、モノヴィッツと呼ばれた軍需工場に男子1万9百名、女子5百名、建設業に男子8千4百名、女子5百名、農業に男子2千5百名、女子千4百名など、男子2万2千名、女子8千名が勤務についていた。収容所の奴隷労働者を管理するのが、カポブロック長など看守の手先となった監督役囚人、プロミネンテと呼ばれる食糧配給・労務管理などの役付囚人だった。
⇒オイゲン・コーゴン(1974)『SS国家−ドイツ強制収容所のシステム』ミネルヴァ書房

写真(右)ガーデレーゲン収容所の収容者焼死体:Burned bodies piled up inside the barn at Gardelegen. Gardelegen Massacre, 13 April 1945. Copyright 2002 Scrapbookpages.com 引用。1945年4月13日,連合侵攻直前,ドイツ軍は退却する際に,ソ連軍捕虜など囚人をバラックに閉じ込め,火をかけた。1016名が焼かれた。虐殺行為の証拠隠滅を図ったが,かえって,非人道的な扱いを示すことになった。現在のGardelegen市歴史ページは,このような囚人のIsenschnibber Feldscheune虐殺の事実を明確に伝えている。ガーデレーゲン収容所には,大戦末期1945年,ドーラ収容所などから囚人が強制移送された。


(6)収容所におけるユダヤ人虐殺
1938年8月設立のマウトハウゼン強制収容所は,オーストリアリンツ郊外にあり,伊仏,ユーゴの敵対者,チェコスロバキアやオランダから連行されたユダヤ人,オーストリアのジプシー,ポーランド・ソ連軍捕虜などを収容した。囚人は奴隷労働者として,花崗岩砕石場,軍需工場などで働かされた。1945年5月5日の解放までに,収容者合計20万名のうち11万名が死亡した。

ノルトハウゼンNordhausen強制収容所(ドーラ・ミッテンバウMittelbau-Dora収容所)は,戦後の米陸軍戦争犯罪記録によれば, 1943年夏から1945年4月までに7万5千から8万名の奴隷労働者を,1日12時時間シフト,休日なしに酷使した。1944年1月から翌年4月までに,V-2弾道ミサイル6000発製造した。1945年4月3日,米軍は,ドイツ軍の物資集積所となっていると考え爆撃を加えたが,退避することを許されなかった奴隷労働者が多数が爆死した。

ドーラ・ミッテンバウ収容所が,米第104歩兵師団によって,1945年4月12日解放された時,囚人・奴隷労働者3000名の死体があった。劣悪な生活条件,飢餓,殴打,処刑などによって,1万から1万5千名が死亡した。
 所長のクルツ・アンドリー以下,1972名が起訴される一方,米軍は,戦後,月ロケットとして有名になるサターン5型の基本設計を担当したフォン・ブラウン博士(弾道ミサイルV-2を開発)など1,500名のドイツ人科学者,技術者をペーパー・クリップ計画Operation Paperclipの下で,アメリカに連れ去った。
 しかし,V-2ロケットを製造したのは,ノルトハウゼン=ドーラ収容所の奴隷労働者だった。ドイツ最高の軍事科学技術は,ユダヤ人などの奴隷労働者に依存して,製造されたのである。

1939年9月から1942年までは,主要な収容所16カ所(各々2万名収容),収容所支所50カ所(各々千五百名収容)だった。1943年頃から増設され,主要収容所20カ所(各々2万5千名収容),収容所支所65カ所程度になった。1940年から1945年まで強制収容所の収容者総数は214万名,新規入所者119万名,飢餓、病気などの死者は111万名と推計されている。絶滅収容所とは異なり,強制収容所では,ガス室での大量殺戮はないが,劣悪な環境のため,病気が蔓延した。このほか,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所など絶滅収容所での虐殺を合わせて、総計550万名が殺害されたと推計している。

写真(右)ガーデレーゲン収容所の収容者焼死体埋葬Copyright 2002 Scrapbookpages.com 引用。1945年4月13-14日,退却するドイツ軍が殺害した囚人を埋葬させられるドイツ人住民。Gardelegen市歴史ページは,現在の記念碑の写真も公開している。ガーデレーゲン収容所には,大戦末期1945年,ドーラ収容所などから囚人が強制移送されてきた。

(7)暗号解読・諜報によってユダヤ人虐殺を知っていた連合軍首脳
英軍は,1939年9月の大戦当初からドイツの治安警察暗号を解読し,ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)英首相もドイツの無線暗号解読資料を解説付きで定期的に受け取った。1940年3月,ドイツ治安警察が,東部戦線で占領地のユダヤ人追放に協力していることを知り,1941年7月14日,ドイツ治安警察部隊に対する特殊任務の心構えのための映写説明会の意味を,敵性住民の処刑であると正確に理解していた。1941年8月24日,イギリス首相ウィストン・チャーチル(Winston Churchill)は,ラジオ演説で,ロシアの愛国者をドイツ警察軍が文字通り何万人も処刑している,とナチスによる住民虐殺を非難した。

英軍の諜報専門家は,チャーチル首相が,ナチスの虐殺について具体的な言及することによって,英国がドイツの暗号を解読していることをドイツが察知するのではないかと危惧した。そこで,リスクがある言動を,控えるように提言したのである。

しかし,ポーランドで地下活動をしていた亡命政府代表によるユダヤ人6千名の殺戮の報告が,1941年10月にロンドンに届くと,ロンドンのポーランド亡命政府は,それをマスメディアに流した。また,ドイツの最高機密を扱うエニグマ暗号電報の解読によって,1942年を通じて,アウシュビッツを含む収容所の受け入れ収容者人数を掴み,そこから出所した囚人がいないことも知っていた。

1942年11月,ポーランドのレジスタンス(諜報)は,ガス室で殺されるためにユダヤ人とソ連軍の捕虜数万名がアウシュビッツに到着していることを報じている。1944年4月4日には,航空偵察によって,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の大規模な施設も判明している。収容所の全体像を航空偵察写真に収めることにも成功している。

写真(左)アウシュビッツ=ビルケナウ絶滅収容所(Auschwitz-Birkenau Extermination Camp)の航空写真。1944年8月25日の連合軍機の撮影現在ポーランドのオシヴェンチム(Oswiecim)にある。1945年1月26日,ソ連赤軍の攻撃を前に,証拠隠滅のために施設は爆破された。アウシュビッツ収容所の連合軍の航空写真は,1944年4月4日,5月31日,8月9・12・25日,9月13日,11月29日,12月21日,1945年1月14日,2月19日に撮影されている。ビルケナウ収容所は,1944年5月31日,8月12日,11月29日,12月21日,1945年2月19日に,I.G.ファルベン(Farben)化学工場のあるブナは,1944年7月8日,12月26日,1945年1月14日の航空写真が残っている。,連合軍は早くからドイツのユダヤ人虐殺を察知していたが,収容所への航空攻撃は一切行わなかった。地図上の場所の記載は後年のもの。(米国立公文書館NARA ARC: 305905 Local:263-AUSCHWITZ-19(12)引用)

英空軍,米陸軍航空隊は,ドイツの都市や工場地帯を空爆した。しかし,大量の爆撃部隊を編成,準備していた連合軍の航空隊は,ユダヤ人強制収容所・絶滅収容収容所を空爆したことは一度もなかった。ユダヤ人代表やポーランド亡命政府は,ユダヤ人を虐殺したドイツ人とその協力者への法律による処罰を要求したが,これにも言及しなかった。

連合軍が,ユダヤ人支援の直接軍事行動に消極的だった理由は,次のようなものである。
?ユダヤ人を解放するために空爆や処罰を公言すれば,ユダヤ人が世界制覇をたくらんで英米を煽動しているというドイツのプロパガンダの信憑性が高まってしまう,
?何万名もの市民が収容されていることが知れれば,人道支援をすべきであるとの声が起こり,膨大な食料・物資の提供は,連合軍の戦力を弱めてしまう。
このように深謀遠慮した連合軍は,収容所のある軍需工場を爆撃はしたが,ユダヤ人を救うための直接行動は一切起こさなかった。戦争に勝利することが,強制収容所の囚人解放につながるとの見解だった。
?空爆可能圏内に達していないとの言い訳をした。しかし,イタリア降伏後は,主要な収容所は,連合軍の爆撃部隊の行動圏内に入っていた。

⇒リチャード・ブライトマン(1998)2000年川上光訳『封印されたホロコースト−ローズヴェルト,チャーチルはどこまで知っていたか』大月書店

(8)ドイツ被占領地の隠れ家住人が待ち焦がれた連合軍上陸作戦

1943年8月10日後のアンネの日記:「本日の共同作業−ジャガイモの皮むき」隠れ家の住人がジャガイモの皮むきをしながら,ファンダーンおばさんが「上陸作戦なんて,いつになっても始まりそうもないじゃないの」「イギリスなんて,何にもしやしない」というと,ファンダーンおじさんは「うるさい,黙れ,くそったれ」と爆弾を破裂させた。

1943年9月10日のアンネの日記:9月8日の夜,7時のニュースを聞こうとラジオの周りに集まった隠れ家の住人が,「開戦以来,最も嬉しいニュースをお伝えします。イタリアが降伏しました」との英語放送を聞き,英語放送を不正確に聞き取り,不正確な英語表現(イタリア占領?)を日記に書き記した。

写真(右):戦後生還したオットー・フランク(中央)と隠れ家生活支援者たち(1945/10);生還したオットーを迎えたヘルパーたち。左下:ミープ・ヒース,左上ヨハンネス・クレイマン(オランダ警察にユダヤ人幇助で逮捕,釈放),右上:ビクトル・クレーフル(ユダヤ人幇助で逮捕,釈放),右下:ベップ[エリザベート]・フォスキュイル。Otto Frank and the Helpers A photo taken in October 1945. From left to right: Miep Gies, Johannes Kleiman, Otto Frank, Victor Kugler, and Bep Voskuijl. Anne Frank Stichting 引用。
アンネたちの潜行生活を知っていたのは,ミープたち直接支援者だけではなかった。配給受取人一家が大切な配給を一切受け取りに来ないのであるから,配給分配係りは,ミープたち(配給代理受取人)が,ユダヤ人を匿っていることを薄々気づいていた。しかし,配給受取人を詮索せず,配給してくれた。これは,消極的なユダヤ人支援である。1944年6月のノルマンディ上陸作戦以降,連合軍がオランダに近づくと,オランダ人の対独協力は控えめになったようだ。アンネたちの支援者二人は逮捕されたが釈放あるいは逃亡した。ミープも逮捕されかけたが,親衛隊ジルベルバウアーと同郷ウィーン出身だったため,無事だった。ユダヤ人を匿っているオランダ人を密告・逮捕・殺害すれば,オランダ解放後に,裏切り者として処罰・リンチされるかもしれない。ユダヤ人支援者たちが厳罰に処されなくとも,不思議ではない。個人的には,良心上,虐殺など戦争犯罪には加担したくはないし,戦犯として裁かれたくもない。
オランダ解放目前の1944年8月,アンネたち隠れ家住人はオランダ人に密告され,逮捕されてしまう。しかし,ユダヤ人密告,オランダ警察による逮捕は,当時の合法的行為だったのであり,関係者が処罰されなくとも,(道義的には問題でも)不思議ではない。(絶滅収容所の親衛隊SS看守でも,戦犯として処刑されたのはごく一部だった。アンネの密告者の氏名が指定・公開されていなくとも,個人情報保護の観点から不思議ではない。)

アウシュビッツ収容所に収監されていたオットー・フランクは,ソ連軍に解放され,オデッサ経由で,1945年6月3日,アムステルダムに戻ることができた。ただし,隠れ家の住人を支援したオランダ人たちがいなければ,アンネの日記が書き進められることも,今日まで残ることもなかった。ミープは,アンネフランクの回顧録を出版した。


1944年2月3日のアンネの日記:「連合軍上陸を待ちこがれる気分は,日ごとに全土で高まっています。----どの新聞を見ても,上陸作戦のことで持ちきりです。もしも,英軍がオランダに上陸すれば,ドイツ軍は,防衛のために,あらゆる手段に訴える。必要ならば,(堤防を決壊して)洪水にする作戦もある,と書いてあって,国民はみんな怒っています。」
(洪水作戦では,アムステルダムも浸水し,1メートルほど水につかるようだった。)
「そうなったら,よどんだ水を歩いてわたるしかないね」
「みんなで水着を着て,海水防止を被って,水中を行くのよ。そうすればユダヤ人だって,知られないわ」
「水の中でネズミに足をかじられて,それでも泳ぎ続けられるご婦人がたがいらっしゃるのかね」(悲鳴)
「何とかしてボートを手に入れるべきですよ」
「梱包用の木箱を持ってきて,スープ用のお玉で漕げばいいさ」
「竹馬がいいな。子供のときは竹馬が得意だったから」
「ヤンがミープをおんぶすればいいよ。そうすれば,竹馬に乗ったのと同じだからね」

ドイツ軍が,アムステルダムAmsterdam)から撤退するときどうするかを心配した議論:「私たちも変装して立ち退くのよ」
「あくまでここに踏みとどまるべきだよ。ドイツ軍の力を持ってすれば,全国民をドイツに連行することだってできるさ。追い立てられて,挙句の果てに,向こうで死ぬつもりなのかい?」---

(ドイツ軍が撤退時に,オランダ人をドイツに強制連行する,それも列車など使わせてくれるはずもない。徒歩で歩かされるにきまっている。このような悲観論が,隠れ家の住人たちに広まっていた。)
ヤン(ミープの配偶者で,隠れ家の住人を助けていた):「イギリスもソ連も。プロパガンダで,間違いなく事実を誇張しているに違いありません。ドイツと同じにね。」
隠れ家住人:「そうじゃない,イギリスのラジオは,いつも真実を伝えているよ。かりに1割くらいは誇張していてもだね。とにかく,事実そのものが悲惨極まりないんだ。ヤン,君だって,ポーランドやソ連で,平和を愛する人々が,何百万人も殺されたり,毒ガス死させられたりしている事実は,否定できないだろ。」


1943年段階では,捕まったユダヤ人はどこか遠くに連れて収容されていると考えていた隠れ家住人たちだったが,イギリスのラジオを通じてユダヤ人虐殺・ガス殺の報道を信じるようになっていた。ユダヤ人支援者だったヤン・ヒースは,ユダヤ人大量殺戮を,誇張されたイギリスのプロパガンダであると(誤って)推測していた。

「私自身は,周囲の喧騒と議論に終始無縁で沈黙を守っています。今では,自分の生死がどうなろうとも,気にならない境地に達しました。私がこの世から消えても,地球は変わらず回転し続けるでしょうし,起こるべきことは起こるでしょう。その時になって,あがなおうとしても,どうにもならないのです。ですから,私は天の定めた運命に従って,ひたすら勉強に励みます。いつかは,全てよかったと思える終わりを迎えることを願いながら。
                         じゃあまた,アンネより」

写真(右):1942年5月のアンネ・フランク(Anne Frank:1929年6月12日-1945年3月頃)アムステルダムの倉庫での隠れ家生活1ヶ月前の撮影。ドイツのフランクフルト・アム・マイン出身で,1933-34年からオランダのアムステルダムで暮らす。1942年6月から隠れ家生活に入るが,1944年8月に逮捕され,9月3日,オランダを発った最後の移送列車でアウシュビッツ収容所に送られた。1945年3月頃,再移送先のベルゲン・ベルゼン収容所で,病気衰弱死。隠れ家住人8名のうち,生還したのはアンネの父オットー・フランクだけだった。 Anne Frank Stichting 引用。

運命に従うとは,運命が決まっていることを意味するのではない。自分の力が発揮できれば,神の力で,これから起こることは,いかようにでも起こってくる。「起こるべきことは起こるでしょう」こう考えたアンネ・フランクは,いつかは間違いなく死ぬことを視野に入れて,自分の道を切り開き,一ユダヤ人として,人々のためになることをするために,勉強に励んだ。いままで書き記した複数の日記帳と多数の紙切れをまとめて,清書した日記を作ろうとした。

1944年3月29日のアンネの日記:「ロンドンからの放送で,ボオルケステインという政治家(実は,ロンドンに亡命しているオランダ政府文部大臣)が,戦争が終わったら,戦時中の国民の日記や手紙などを集めて,集大成すべきだと言ってたんです。早速,みんなが私の日記に注目しました。もしも,この《隠れ家》の物語が発表できたなら,どんなに面白いか,考えても見てください。題だけみたら,読んだ人は探偵小説かと思うかもね。
(オランダ語ヘット・アハテルホルスHet Achterhuis は,オランダ特有の家屋後ろのスペースで,“後ろの家”の意味。これが,アンネが発表しようとした日記の題名だった。)

「まじめな話,戦後十年もたったら,私たちユダヤ人がどんなふうに暮らし,どんなものを食べ,どんな話をして過ごしていたかを話しても,奇妙に聞こえるだけで,わかってもらえないでしょう。---- <中略,ここに貴重な事例がいくつも書かれている>----連合軍の上陸作戦はいつ始まるとも知れず,男たちは(強制労働のために)徴用でドイツに連行される。子供たちはみんな病気か栄養失調。誰もがボロ服を着ていて,ボロ靴を履いていて,敗れた靴底を張り替えるだけで,闇市で7.5ギルダーもかかる-----------。」
「こういう状況ですが,一つ明るい話があります。食糧事情が悪化し,国民への締め付けが強まるにつれて,当局に対するオランダ人のサボタージュが着実に増えているということです。食料係りの役所の人や,警官,役人には,ひそかに市民を助ける一派もありますし,市民を密告し,逮捕させる一派もあり,オランダ人はどちらかです。幸いなことに,悪いオランダ人の一派は少数です。

1944年3月27日のアンネの日記:アムステルダムAmsterdam)の隠れ家の住人に,連合軍の上陸,空襲,各国指導者の演説を巡って,楽観,悲観,現実が入り混じり,際限ない論争が続いていると書いている。ドイツ国防軍の放送,BBC,特別空襲情報など,各国は虚偽の宣伝に努めていると,アンネは考え,食事と睡眠以外,ラジオを囲んで論争している隠れ家の住人を「のろまで退屈」と称した。

1944年6月6日のアンネの日記:「“本日は,その日である”今日の十二時,このような声明がイギリスのラジオから放送されました。間違いなく,まさしくDデーです。いよいよ上陸作戦が始まったのです!。」
1944年6月6日はD-day(上陸日),すなわち仏北岸ノルマンディー侵攻(オーバーロード作戦)が開始された日である。アンネも,Dデイの日記を,興奮を持って綴っている。朝8時のイギリスからのラジオ放送,10時からのドイツ語,オランダ語,フランス語,その他の外国語放送,連合軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワーDwight D. Eisenhower,イギリス首相ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)の演説を聞いていたのである。具体的に,英空挺部隊の降下,二万機の航空機の投入,4千隻の上陸用舟艇のことを書き留めた。

《隠れ家》は興奮のルツボです。いよいよ待ちに待った解放が実現するのでしょうか。上陸作戦の話はたくさん論じてきましたが,今はあまりにすばらしく,御伽噺のようで,本当とは思えないほどです。まさに今年,1944年中に,勝利がやってくると信じてよいのでしょうか。まだ,わかりませんが,それでも希望は生き続け,新たな勇気と力を私たちに与えてくれます。私たちは,あらゆる不自由,苦難に勇気を持って立ち向かわなくてはなりません。なによりも重要なのは,冷静さを保って,毅然とした態度を失わないことです。泣き叫ぶのではなく,歯を食いしばって,堪えなくてはなりません。

これまで長い間,私たちは恐ろしいドイツ軍に蹂躙されてきました。いつも喉元にナイフを突きつけられ暮らしてきたのです。しかし今や,味方の救援と解放が目前にまで迫ってきたのです。もはや問題はユダヤ人だけのものではありません。オランダ全体の問題なんです。ひょっとすると,マルゴーMargot Frank)の言ったように,九月か十月かには,ふたたび学校に行けるようになるかもしれません。
                    じゃあまた,アンネ・M・フランクより」

ノルマンディに配備されたドイツ軍には,SS第12装甲師団装甲師団「ヒトラーユゲント」があり,17-18歳のヒトラーユーゲント出身の少年兵が中核だった。アンネよりも2歳年上なだけだった。 

写真(右)ノルマンディーで降伏したドイツ軍少年兵欧州遠征軍を迎え撃つドイツ軍「ヒトラーユーゲント師団」の少年兵は,17-18歳で,1929年6月12日ドイツのフランクフルト生まれのアンネ・フランクより1-2歳年長だった。連合軍は,ヒトラーユーゲント出身者からなるSS第12装甲師団を「ベビー師団」と蔑称し,ドイツの人的資源不足の象徴のように報道した。しかし,戦う少年兵の任務は,過酷だった。降伏して捕虜となって,安堵したような表情を見せている。米海軍歴史センター Naval Historical Center Photo #: 80-G-231665引用。

1943年末,欧州連合軍最高司令官に任命されたアイゼンハワー将軍の下に,ノルマンディー侵攻 The Invasion of Normandyを開始。米軍上陸兵力は,1944年6月6日のDデイ第一日目には,9万名,15日後には41万名に達した。そして,Dデイ90日後までに,1日当たり4万トンの補給物資が必要とされたため,連合軍は,千トンのコンクリート塊40個からなる防波堤,人工港マルベリーを建設,英仏横断海底石油パイプラインを敷設した。

1944年6月27日のアンネの日記:シェルブールが陥落し,港を獲得したので,英軍の揚陸も順調に進むだろう,との記述がある。ラジオ放送を聴いていたとはいえ,補給物資の揚陸の重要性,港湾の必要性について,十五歳の少女は理解していた。
アンネの日記の深い洞察と戦略的観点には関心させられる。少女は,十分な見識と表現力とを備えていた。アンネの日記を,後世の識者が捏造していたら,後付けの浅薄な見識と駄文に終始してしまったであろう。

ノルマンディー侵攻の連合軍死傷者は,20万9千名(死者3万7千名),さらに航空作戦で1万6千名が死亡。ドイツ軍の死傷者は,20万名,捕虜は20万名。連合軍の爆撃でフランス民間人1万5千-2万名も犠牲になった。(The U.S. Army Center of Military History:http://www.army.mil/):OUTLINE OF OPERATION OVERLORD参照。)
 連合国は,政略上,パリを攻略したが,パリ占領は,兵力・物資の分散となり,オランダ解放,ドイツ降伏が遅れる一因となった。

1944年10月31日,チェコのテレジエンシュタットTheresienstadt収容所からアウシュビッツに移送したユダヤ人1700名をガス室で殺害したが,これが最後のガス殺となった。ヒムラー長官は,ガス室での大量殺戮の命令を,事実上中断したのである。これは,?ユダヤ人を人質として和平交渉に利用するため,?保身のためである。戦争犯罪人を処罰することは,連合国・国連宣言の中で,公言されていた。そこで,ドイツの敗北が明らかになると,ユダヤ人虐殺を進めることは,戦後に戦犯として処罰されることを意味するようになった。

強制収容所では,ドイツの敗色が濃くなると,食糧配給の悪化し,飢餓,病気の蔓延,虐待などで多数の囚人たちが死んでいった。他方,親衛隊長官ヒムラーは,ヒトラー総統には一切知られないように,1945年3月,スウェーデン経由で和平秘密交渉を開始した。
 しかし,1945年4月には,秘密交渉は発覚,ヒトラー総統は,ベルリンの大地下壕から,ヒムラーの逮捕を命じた。ヒムラーは,逃亡し,一兵士に変装した。終戦後の1945年5月23日,連合軍に見つかり,服毒自殺。

写真(右)1945年4月,ノルトハウゼン(Nordhausen)強制収容所の生存者1945年4月11日,米第一機甲師団が解放した。撤退する独軍が破壊。多数の死体の中,生存者二名を救出。Prisoners of war found by American 3rd Armored Div., 1st Army, when it captured the German slave labor camp at Nordhausen. From: album entitled "Nazi War Atrocities."(トルーマン大統領図書館Truman Library ,Accession #: 72-3274 引用)。

1944年10月末,連合軍のノルマンディ上陸とそれに続くドイツ軍敗退によって,ヒムラーは,西側との和平を模索し始めた。ユダヤ人を人質として,和平交渉を始めようと,ガス室での大量殺戮を中止させた。妙齢の少女は,有名人と並んで,人質としての価値が高く,アウシュビッツから移送された。

(10)アンネ・フランクの最期
 連合軍のノルマンディー上陸2ヶ月後,隠れ家住人は,オランダ人に密告され,1944年8月4日,親衛隊(警察)ジルベルバウアーKarl Silberbauer:オーストリア出身)が指揮するオランダ警察(緑色警察:Grüne Polizei)に8名全員が逮捕された。

写真(右)1944年,オランダ北西部、ホーガーレン、アンネたちが収容されたヴェステルボルク収容所(Kamp Westerbork):オランダ最大のユダヤ人収容所。創設は、1938年12月で、当時、ドイツにおけるユダヤ人迫害から逃れてきたユダヤ人難民増加に苦慮したオランダ政府は、難民受け入れを制限し、不法に入国するユダヤ人などをヴェステルボルク難民収容所( Vluchtelingenkamp Westerbork)に収容した。広い敷地に木造バラックが並び、そこにオランダで捕らえられたユダヤ人など囚人が収容された。1944年後半まで、ここの囚人はアウシュビッツ強制収容所など東部の収容所に移送され、奴隷労働者として酷使され、衰弱死したり、銃殺、ガス殺されたりした。1983年に、ヴェステルボルク収容所博物館(Camp Westerbork Museum)が設立され、特にドイツ占領時期のユダヤ人収容・移送・ オランダにいたユダヤ人14万名の 虐殺について説明がなされている。
Description Nederlands: De ‘Boulevard des Misères’, zoals de hoofdweg door de kampgevangenen werd genoemd. Langs deze weg lag de spoorlijn en vertrokken in de Tweede Wereldoorlog de treinen naar de vernietigingskampen in het oosten. Date circa 1944 Source http://www.kampwesterbork.nl/nl/museum/kampterrein/herinrichting/fietspad/index.html Author Anonymous
写真はWikimedia Commons, Camp Westerbork Museum引用。


そして,アムステルダムAmsterdam)の ウェーテリングスカンスWeteringschans)拘置所に拘禁された。隠れ家住人の逮捕を指揮したのは,ミープと同じオーストリア出身のカール・ジルベルバウアーKarl Silberbauerである。その数日後,アンネの母エーディット・フランクEdith Frank)やアンネたちは,オランダ最大のヴェステルボルク収容所Kamp Westerbork)に送られた。ここヴェステルボルク収容所Kamp Westerbork)で,アンネたちは,新しい人に会い、話し、笑うことができたという。 

 オランダのヴェステルボルク収容所Kamp Westerbork)に収容されていたアンネたちは、1944年9月3日,オランダを発った最後のユダヤ人移送列車によって1019名がアウシュビッツ行きになった。隠れ家住人8名がアウシュビッツ絶滅収容所に到着したのは,9月6日だった。半数の549名が労働不能と判断され,ガス殺された。アンネや姉マルゴー・フランクMargot Betti Frank)は,労働可能に選別された。

写真(右)1948年,戦後のアウシュビッツ強制収容所の囚人バラック:広大な敷地に木造バラックが並び、そこにユダヤ人など囚人が収容された。多くは、奴隷労働者として苦役をさせられ、そのまま衰弱死するように企図されていた
Überblick über das gesamte Lager Im neuen Polen Brzezinki (Oswiecim), Auschwitz-Birkenau, das Nazi-KZ Foto-Illus [1948] Archive title: Polen, Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau.- Gesamtansicht des Lagers mit Baracken Dating: 1948 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


 もしも,アンネやたちが,オランダのヴェステルボルク収容所Kamp Westerbork)にとどまることができれ,生き残れる可能性は高かった。したがって,密告者,ジルベルバウアーだけを責めることはできない。彼らが処断されるべきだとすれば,ユダヤ人移送を許したオランダ人のNSB政治家・警察幹部から,鉄道職員まで,有罪だろう。ユダヤ人逮捕・移送を傍観していたオランダ人も無辜の市民とはいえなくなる。

1944年10月頃,ヘルマン・ファン・ペルス(ファン・ダーン)は,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所でガス殺された。
1944年10月21日,米軍がドイツ本土アーヘンを占領,ソ連軍もアウシュビッツ収容所に近づいた。1944年10月末,ヒムラー長官は,和平交渉と保身のため,ユダヤ人ガス殺中止命令を出す。そして,ユダヤ人虐殺の証拠を隠滅し,ユダヤ人を和平交渉の人質とするために,アウシュビッツなど敵軍が接近してきた収容所の囚人を,ドイツ・オーストリアの収容所に強制移送させた。 

写真(右)1941-44年,アウシュビッツのウクライナから動員された東方OST労働者:作業服に“OST”(東方)とある。ソ連・東欧から強制連行あるいは徴用された女子労働者。ドイツの外国人労働者は、戦後の高成長時期,トルコ,旧ユーゴ,東欧から導入され,ゲスト・アルバイターと呼ばれた。しかし,ナチス政権の下では,アーリア系支配人種としてオランダ人、デンマーク人、ノルウェー人、フラマン人が最上位にあり、経済・文化水準がドイツに近い国としてイタリア人、フランス人が中位におかれた。しかし,下等劣等人種と位置づけられたスラヴ人(ポーランド人,セルビア人,ロシア人,ウクライナ人)は,「オスト」(東方)労働者として,ユダヤ人に次ぐ最下層の扱いを受けた。25 Ukrainerin Drehbank Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1944年10月末,アンネと姉マルゴー・フランクMargot Betti Frank)は,ベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送された。アンネの母エーディット・フランクEdith Frank)はアウシュビッツに残留させられ、1945年1月6日に衰弱死したが、父オットー・フランクOtt Frank)はアウシュビッツで生き残り,ソ連軍に解放された。解放後,妻の居所はわからなかったが,妻エーディット・フランクEdith Frank)がアウシュビッツで死亡したことを抑留経験者から聞いた。オデッサ,マルセイユ経由で,1945年6月3日にアムステルダムに帰国。ドイツに移送された娘たちを気遣っていた。オランダの支援者は,女同士の信義として,回収・保管していたアンネの日記を,アンネ本人に直接返すつもりだった。娘は,父に日記を読まれたくないものである。オットーは,新聞に安否確認広告を出し,抑留経験者の話を聞くことができた。オットーは,アンネが亡くなった事をミープ・ヒースMiep Gies)に話し,ミープからアンネの日記を渡された。

アンネの母エーディットEdith Frank:1900年1月16日生)は,1945年1月6日,アウシュビッツで死亡。
 フリッツ・プフェファー(ディッセル)は,ブーヘンワルト,ザクセンハウゼンに移送され,ノイエンガム収容所で,1944年12月20日に死亡。アウグステ・ファン・ペルス(ファン・ダーン)は,ベルゲン=ベルゼン,ブーヘンワルトを経て,1945年4月9日テレジエンシュタット収容所に送られ,その後,行方不明。その息子ペーターは,1945年1月16日,マウトハウゼン収容所に移送され,5月5日に死亡。

写真(右)1945年4月,ベルゲン=ベルゼン(Bergen-Belsen)強制収容所の死体埋立て場の一つ(トルーマン大統領図書館Search Photos: Truman Library,Accession #: 72-3276引用)アンネ・フランクは,1944年8月4日、逮捕され,オランダのヴェステルボルク収容所,アウシュビッツ収容所を経て、1944年10月末にベルゲン・ベルゼン強制収容所に再移送された。そして,4-5ヵ月後の1945年2-3月頃病死。アンネやマルゴーも,穴を掘って集団で埋められたと思われる。

『アンネ・フランク最後の七ヵ月』およびアンネのいとこ:バディ・エリアスさんのお話「アンネとわたし」 に,ベルゲン・ベルゼンのアンネや姉マルゴー・フランクMargot Betti Frank)たちを知る女性収容者の証言がある。
「私たちは労働のため集められました。靴はもうぼろぼろで少しの石けんが与えられて、そして少しのパンも与えられました。でも私たちの手は傷つき出血して、膿み始めていました。---
 12月のある日、私たちは特別にチーズそしてマーマレードを与えられました。----ちょうどクリスマスでした。マルゴーとアンネと私たちは一緒にこの日をお祝いしました。聖ニコラスのお祝い、ユダヤ教のハヌカのお祝い、そしてクリスマスのお祝いを私たちのやり方でお祝いしました。
友だちのジャニーが看守の台所で働いていたハンガリー人の女性を知っていたので、台所からこっそりジャガイモの皮をもらってくることができました。アンネもセロリーのような野菜を調達してきました。それから私たちは看守の女性の前で踊ったり歌ったりして見せて、その女性から少しのキャベツをもらうことができました。
その後、ジャニーと私は別のバラックへ移動しました。---そのころマルゴーがとてもひどい下痢にうなされていたのでそこを動くことができませんでした。アンネは一生懸命姉のマルゴーを看病していました。
----3月ごろだったと思います。雪が溶けはじめている頃でした。私たちはびマルゴーとアンネに会いに行きましたが、もうそこにはいませんでした。アンネとマルゴーが病棟に移っていました。---アンネは言いました。『ここに二人で横たわっていることができればそれでいいの。一緒に死ねればそれでいいの。』マルゴーはほんのかすかな声しかあげることはできませんでした。---翌日再び私たちはアンネとマルゴーに会いに行きました。マルゴーが棚から落ちてもう意識をほとんど失っていました。アンネも少し熱があるようでした。----『マルゴーはよく眠っているの。彼女が眠っていれば、私も体を休めることができるわ』とアンネは言いました。
数日後私たちはアンネとマルゴーのもとを訪ねます。でももうそこは空っぽでした。それが何を意味するのか私たちはすぐにわかりました。バラックの後ろのほうに私たちは彼女たち二人を見つけました。彼女たちのやせ細った体を、毛布でくるみ、包んであげました。それが私たちにできるすべてのことでした。」

目撃証言によれば,ベルゲン=ベルゼン強制収容所で,1944年2月末か3月,姉マルゴーが亡くなり,それに気落ちしたのか,アンネも数日後、死亡。遺体が収容所裏に積まれた。現在,アンネと姉マルゴー・フランクMargot Frank)の記念碑(墓)が,ベルゲン=ベルゼン収容所の共同墓地(遺体埋葬場)にある。遺骸は発見されていない。

1929年6月12日、ドイツのフランクフルトに生まれたアンネ・フランクは,十六歳になる3ヶ月前,発疹チフスと思われる病気にかかり,ドイツのベルゲンベルゼン強制収容所で病死した。収容所は2週間後解放され,2ヶ月後に終戦。 

  しかし、2015/4/1AFPによれば、アンネ・フランクは、この公式な死亡日よりも少なくとも1か月早く亡くなっていたという。アムステルダムの博物館「アンネ・フランクの家」(Anne Frank House)が2015年3月31日に「新たな調査によって、アンネ、姉マルゴットは1945年2月に死亡したとみられる」と発表した。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所から、1944年11月、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送された姉妹は、赤十字社が3月1日から31日の間に死亡し、オランダは3月31日を公式な死亡日としていた。しかし、新たな調査の結果、強制収容所の生存者4人の証言によれば、アンネと姉マルゴー・フランクMargot Frank)は、1945年1月末までに発疹チフスの症状をみせるようになっていた。
オランダ国立公衆衛生環境研究所(Dutch National Institute for Public Health and the Environment)は、チフス患者は、症状が出始めてから12日前後で死亡するしており、博物館は「2人が3月末まで生存していた可能性は低い」と判断した。

BBC2004/10/10によると,オランダ・ユダヤ人女子高生ヘルハ・デーン Helga Deen(18歳)がケース・ヴァンデンベルフ(Kees van den Berg)に宛てたヘルハの日記(学校ノート代用) が公開された。1943年4月,オランダ南部ティルブルフの Tilburgで家族とともに逮捕,ヴフト収容所に収監された。日記は収監後 6月1日からのもので,7 月の移送決定も記載されている。7月にゾビボル Sobibor 絶滅収容所に移送され,7月16日に殺害。ヘルハの日記はヴァンデンベルフ子息コンラート (Conrad)が預かっていたものが公開された。

2007年6月7日AFPによると,エルサレムのヤド・バシェム にアンネと同じ1929年生まれのポーランド・ユダヤ人少女ルトゥカ・ラスケル(Rutka Laskier)の日記が展示された。ラスケルの日記は,1943年1月19日から1943年4月24日まで,ポーランド語で,ノート60ページに書かれている。

ラスケルの一家はポーランド南部シレジアのベンジン(Bedzin/Będzin)でサピンスカの一家が経営するアパートに住んでいた。日記は、ラスケルが町のユダヤ人居住区のゲットーGhettoに強制連行される直前まで書かれている。ポーランド人の友人スタニスラワ・サピンスカ(Stanislawa Sapinska)が保管していたラスケルの日記を公開し,Rutka's Notebook - January-April 1943として,刊行した。

写真(左):ポーランド・ユダヤ人ルトゥカ・ラスケル;ポーランド南部シレジアのベンジンで,1943年1月から4月まで,4ヶ月の日記を残した。アンネと同じ1929年生まれ。1943年にアウシュビッツ収容所で死亡。十四歳。Copyright ©2007 Yad Vashem The Holocaust Martyrs' and Heroes' Remembrance Authority

 『ラスケルのノートブック』Rutka's Notebook - January-April 1943(「ポーランドのアンネの日記」)
1943年2月5日"The rope around us is getting tighter and tighter. Next month there should already be a ghetto, a real one, surrounded by walls.(私たちたちを縛っているロープは,ますますきつくなっています。来月には,本当に,壁に囲まれたゲットーに入っていることでしょう。) In the summer it will be unbearable. To sit in a gray locked cage, without being able to see fields or flowers, and it reminded me that one day I would be able to go to Malachowska Street without taking the risk of being deported. Being able to go to the cinema in the evening. I'm already so "flooded" with the atrocities of the war that even the worst reports have no effect on me.(私はもう,戦争の惨禍で溢れ返ってしまったので,最悪の事態ですら,これ以上ひどいとは思えません。)-----"(Feb. 5, 1943)

1943年2月20日“I have a feeling that I am writing for the last time. (どうやら日記をつけるのも最後のときが来たように感じています。)There is an Aktion in town.(町ではユダヤ人狩りが行われています。) I’m not allowed to go out and I’m going crazy, imprisoned in my own house…(もはや外出することは許されませんし,家に閉じ込められて,狂いそうです。) For a few days, something’s in the air… The town is breathlessly waiting in anticipation, and this anticipation is the worst of all. I wish it would end already! This torment; this is hell. I try to escape from these thoughts, of the next day, but they keep haunting me like nagging flies…(もう終わりにしたい。ここはまさに地獄です。次々浮かぶ悪い考えから逃げようとするのですが,直ぐに,悪い考えがまたまとわりつくハエのように頭から離れなくなるのです。)” (20 February 1943).

ラスケルは,ゲットーに連行される時点で,アパートの友人サピンスカに日記を預けた。この「ポーランドのアンネの日記」Polish 'Anne Frank' diary revealedとも証される四ヶ月間の記録を書き綴った少女ラスケルは,アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所で1943年に死亡。十四歳だった。
ユダヤ人の抵抗の記録は,Jewish Historical Institute 参照。

『アウシュヴィッツを越えて―少女アナの物語』(東洋書林)
【内容情報】 第二次世界大戦中、アウシュビッツのガス室で十三年の生涯をおえた、ハンナ・ブレディ。半世紀後、偶然、ハンナがのこした旅行かばんと日本でであった、石岡ふみ子。ハンナはどんな少女だったのか。そして、彼女に何がおきたのか-?ふみ子のハンナ探しがはじまった。小学校上級から。
【目次】 二〇〇〇年冬 東京-かばんに書かれた白い文字/一九三〇年代 ノブ・メスト-美しい故郷、幸せな家族/一九九八年から二〇〇〇年 東京-かばんとの出会い/一九三八年 ノブ・メスト-仲の良い兄と妹/二〇〇〇年三月 東京-ハンナってどんな女の子?/一九三九年 ノブ・メスト-しのびよる恐怖/二〇〇〇年三月 東京-ふみ子を動かす十三歳の死/一九四〇年秋から一九四一年春 ノブ・メスト-たった一人の学校/二〇〇〇年四月 東京-ハンナがかいた絵が残っていた!/一九四一年秋 ノブ・メスト-母のいない日々、そして…〔ほか〕
【著者情報】レビン,カレン(Levine,Karen): カナダでラジオ番組の作成にたずさわり、数々の賞を受賞。ドキュメンタリー番組“Children of the Holocaust”では、Peabody Awardを受賞。CBCの番組“As It Happens”では総監督をつとめた。その他にもホロコーストに関する番組を多数作成
石岡史子(イシオカフミコ): 東京生まれ。英国のリーズ大学院開発学部にて南北問題や女性の人権、教育問題を学ぶ。修士課程を修了後、帰国して、1997年、子どものためのアンネ・フランク展示館を開設しようというNGO団体に事務局スタッフとして参加。1998年10月、ホロコースト教育資料センターと改名、移転後、代表に就任。2004年、ヨーク大学(カナダ)より名誉博士号授与
著者アナ・ハイルマン(Heilman,Anna:1928-)は,14歳のとき,アウシュビッツ収容所に収監されたポーランド・ユダヤ人で,姉とともに反独地下組織と連携した抵抗運動の準備工作にかかわった。収容所に収監された家族4名の中で、ただ一人生還した。戦後は,イスラエルで社会福祉の学位を取得、1960年、カナダに移住。児童救済組織で働き、2001年、当時の日記と記憶をもとに『アウシュヴィッツを越えて―少女アナの物語』(カルガリー大学出版局)を刊行した。

Hana's Suitcase: A True Story(ハンナのかばん−真実のものがたり):チェコ・ユダヤ人の少女ハンナ・ブレイディは,モラビア地方メブ・メスト中心の、町で一番の雑貨商の娘だった。1942年5月,ハンナと兄のジョージはテレジェンシュタットTheresienstadt収容所に収監された。1944年9月,ジョージが,10月,ハンナがアウシュビッツに移送された。ハンナは,労働不能者に選別され,23日到着後,ガス室に送られた。13歳だった。

「ハンナ・ブレイディ」「孤児」と白く書いた皮のスーツケースを残した。アウシュビッツ収容所に到着時,所持品を後で回収しやすいように,名前を書いたのである。列車で,収容者が到着する度,収容者は,名前,誕生日年月日,出身地などを置いてゆく荷物に記入したが,実際には収容者が所持品を回収できるはずがない。すべて親衛隊によって,ドイツの国庫に納入された。
 ハンナのかばんは,アウシュビッツ博物館が保管していたが,貸し展示中に焼失。複製を借り受けたホロコースト教育資料センターが,兄George Bradyジョージ・ブレイディがカナダに存命中ことを突き止めた。2001年3月,兄ジョージは,来日し、57年ぶりに、妹のスーツケースを見た。この「ハンナのカバン」が,日本・チェコ・カナダを結ぶ,新たな繋がりを形成した。

1945年5月7日,ドイツの無条件降伏。

もしもアンネが生き残り,十分な時間を手にすることができたなら、現在のようには,有名にはならなかったかもしれない。1944年5月11日のアンネの日記に「最大の望みは,ジャーナリストになり,それから有名な作家になりること」,日記をもとに「戦争が終わったら,《隠れ家》という題名の本を書きたい」「(オランダ親ナチスの恋人が登場する)《キャディーの生涯》も書き上げないと」とある。たしかに,「複数の日記帳や多数の紙切れ」をまとめて,戦後に推敲・リライトされたアンネの著作は,優れた文学作品となったであろうが,今日ほどは,読まれなかったかもしれない。
しかし,アンネが,生き残っていれば,日記が有名になることよりも,もっと大切な「いのち」を手に入れたはずだ。それは,大きなく開かれた未来の中で自分を発見し,女性の自己実現を図ることである。自由は,彼女に大いなる希望と世界を与え,理想とする自分のあり方を模索し,「たくさん人々の何か役に立つこと」をしたであろう。世界的な著名人とはならなくとも,有意義な生涯を過ごしたはずだ。

補論.ユダヤ人差別を否定するローマ教皇

リチャード・ウィリアムソンRichard Williamson )司教は,「ガス室は存在しなかった」と公言するなどホロコーストを史実と認めず,ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。
しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。

ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。

1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ教皇(ローマ法王)ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。

写真(右)1941年7月,ソ連,ウクライナ,リヴィウのユダヤ人の顎鬚を切り落として楽しんでいるドイツ軍兵士ユダヤ人の風体を軽蔑し,老人をいじめている屈強なドイツ軍将兵は,楽しそうに笑っている。
Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur); PK 691 Datierung: Juli 1941 Fotograf: Gehrmann, Friedrich Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。

 ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。 

ローマ教皇が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。

 ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世ローマ教皇(ローマ法王)就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世はローマ教皇(ローマ法王)就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回の英国リチャード・ウィリアムソンRichard Williamson)司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。

ローマ教皇(ローマ法王)は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。

ローマ教皇(ローマ法王) べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」Nostra Aetate:DECLARATION ON THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。

NKHwebNewsによれば、2016年7月26日午前2時、相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員植松聖容疑者(26歳)が入所者19人を刺殺する悲惨な事件が起きた。
◆日本テレビニュース2016年7月28日17:39「「ヒトラーの思想が降りてきた」19人殺害」よれば、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、容疑者の男が今年2月に措置入院をしていた時、「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話していたことがわかった。また警察は28日、死亡した入所者19人のうち17人の死因が、「首を刺されたことによる失血死」だったと発表した。
26日未明、施設の元職員・植松聖容疑者(26)が「津久井やまゆり園」で入所者を刃物で襲い、19人が死亡、26人が重軽傷を負った。相模原市への取材で、植松容疑者が今年2月、精神科の病院に措置入院していた際、医師に対し「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話していたことがわかった。さらに治療中、「重複障害者がいなくなることで、国家的に経済的な負担が軽くなる。自身が抹殺事件を起こせば、法律が変わるきっかけにもなる」とも話していたという(引用終り)
◆警察は、動機の解明を急いでいるが、植松聖容疑者が衆議院議長あての手紙では、総理大臣に相談を持ちかけてほしいと訴える手紙を読むと、この事件は、ナチスの障害者安楽死T4作戦:Aktion T4 と類似した歪んだ発想が見て取れる。障害者を保護し世話をするのは、社会に貢献できない役立たずの人間は、国家財政の無駄遣いだ、日本の恥だという人種衛生学や優生思想に基づく偏見があり、ナチの行った障害者殺害T4作戦を髣髴とさせる凶行である。彼は、夜間に抵抗できない入所者を相次いで刺してたが、強い殺意に基づく「作戦」として実行したと述べている。
 ヒトラーの発想は、戦時下の不安、焦燥感を拭い去るために、兵士としても労働者としても民族共同体に尽くすことができない障害者を抹殺して、障害者保護に使われていた国家予算を、戦争に充当せよというものが、容疑者が手紙で訴えた「日本軍の設立」の訴えは、ヒトラーの人権無視、人命軽視の歪んだ国家主義、人種衛生学の発想を髣髴とさせる。この点について2016年7月28日2300の日本テレビNEWS ZERO「19人刺殺「ヒトラー思想降りてきた」 心の闇ナゼ」に出演、解説をした。
◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられた。
ヘイトスピーチ
30代男、関与ほのめかす供述=「アンネの日記」事件―被害書店に侵入容疑逮捕(時事通信 3月13日)
 図書館や書店で「アンネの日記」などユダヤ人迫害の関連書籍が相次いで破られた事件で、被害に遭った東京都豊島区の大型書店に不法に侵入したとして建造物侵入容疑で逮捕された30代の無職男が、図書館で本を破いたことをほのめかす供述をしていることが13日、捜査関係者への取材で分かった。
 男は取り調べの際に不可解なことを話したり、言動に不安定な面が見られたりするという。図書館で破られた本から男の指紋は検出されておらず、警視庁杉並署捜査本部は事実関係とともに、男の責任能力の有無を含めて一連の事件との関連を慎重に調べている。捜査関係者によると、男は2月19日と同22日の2度、豊島区南池袋の「ジュンク堂書店池袋本店」にビラを貼り付ける目的で侵入したとして、今月7日に建造物侵入容疑で逮捕された。売り場には、「アシスタントとゴーストライターは違います」などと意味不明の内容が手書きされたビラが数枚貼られていたという。
 この書店では2月21日に、売り場にあったアンネの日記2冊がそれぞれ数十ページにわたって破られているのが見つかった。1月中旬にも破れた本が店内で数冊発見されており、捜査本部が店内の防犯カメラを解析したところ、この男が売り場をうろついたり、無断でビラを貼り付けたりする姿が写っていた。
 男は調べに対し、ビラを貼ったことを認め、図書館で本が破られた事件についても関与をほのめかしているという。ただ、この書店で破られた本は図書館の被害と破り方が異なっており、破り取られたページなどの証拠品も男の家から見つかっていないことから、捜査本部は慎重に供述の裏付けを進めている。 (Yahooニュース引用終わり)
⇒「日記」を一流ゴーストライターが書いたとでも錯覚しているのか、ヨーロッパでは人種差別主義者が日記焚書、贋作裁判を起こし、日本では人種差別のwebsite作りに勤しむ人がいる。このような陰謀喧伝が偽りであることを見抜けないまま、嘘を真に受け「日記」を読むこともなく、破り捨てたのであろう。「日記」を読めば、自分の心の内を無遠慮に吐露した感傷的な文章から、少女の作品だとすぐわかるであろうに。しかし、日記の背景にある人種民族差別の恐ろしさ、その偽りを信じ込む人間の愚かさに気づけば、当時の世相に隠れて生き続けざるを得なくなり、周囲に反抗する少女の健気な姿勢に共感できる。

読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、外国人・非国民の排斥、軍事力を強化しての領土拡張、ヒトラー流の独裁政権を望んでいるようだ。
◆2012年4月「アンネの追憶」が公開される。これはアンネの親友Hannah Goslarの証言を記録したAlison Leslie Gold著Memories of Anne Frank: Reflections of a Childhood Friendを映像化したもの。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時,NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」ルドルフ・ヘス及びレニ・リーフェンシュタールに出演。
◆2011年7月刊行 『写真・ポスターに見るナチス宣ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社では、日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服着用でのTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者に謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
◆2010年10月30・31日,武蔵野芸能劇場「空の記憶」で、大人になったアンネの思いが演じられた。
◆2009年10月1日,ユーチューブOfficial Anne Frank Channelで,1941年,隣人の結婚式に窓から顔を出すアンネ・フランクの動画(20秒間)が無料公開された。この一日で本サイトのアクセスは1万3000件を超えた。人種民族差別への関心が高まっていることが実感できた。
◆UNESO世界記憶遺産になったアンネの日記類は,2009年11月1日からアンネ・フランク博物館で,永久展示。これは,日記3冊、短編小説をつづったノート、気に入った言葉を書き留めていた用紙など、アンネ自身が書いたもの。1944年5月から日記を破れやすい用紙数百枚に書き直していたが、そのうちの40枚も交代展示される予定。日記類はアンネの父オットー・フランクがオランダ戦争資料館(Netherlands Institute for War Documentation)に寄付したもの。
◆NHK海外ドラマ「アンネの日記」が放映され,2009年7月31日-8月13日で本サイトのアクセスは3736件に達した。
◆2009年7月、ユネスコ(国連教育科学文化機関:UNESCO )は、『アンネの日記』を貴重資料の保存と認知度向上を目的とした世界記憶遺産(Memory of the World)に登録した。アンネの日記がユネスコ世界記録遺産に登録されことで、捏造説主張者たちは声を潜めるようになった。
2009/2/5/AFP】ローマ法王ベネディクト16世Benedict XVI)は,アルゼンチンの放送局が放送した,スウェーデンのTV番組でガス室は存在しなかったと発言した英国リチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教の破門を約20年ぶりに解除。アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相は3日、法王の行動は看過することはできないとし、バチカン当局に対し、ナチス・ドイツのホロコーストが「否定できない事実だと明確にすること」を求めた。
◆2009/2010年,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』にゲスト出演。1944年7月21日(事件翌日),アンネは日記に,若いドイツの将校,伯爵によるヒトラー暗殺未遂のニュースを書きとめ,ヒトラーが倒されれば軍事独裁政権を作って連合国と講和したであろうと予測。
《Anne Frank and the Holocaust - related Web sites》アンネのいとこバディ・エリアスさんのお話福山市ホロコースト記念館アンネ・フランクの年譜》/アンネの恋人ペーター・シフの写真

終章 再びアンネ・フランクをださないために(要旨)

平和研究に欠陥があるとすれば、それは、人類が虐殺や戦争を回避する方法を見出せない,人種民族差別が克服できないでいることである。だれも戦争を望まないが、それでも戦争が起こるという現実主義・ニヒリズムが成り立っていることである。平和を望むといいながら,プロパガンダを行い、戦争を準備し、人種民族差別を煽動す指導者がいることである。

アンネは、ドイツのフランクフルト生まれのドイツ人だが、オランダに事実上の亡命した。そして、大戦中は、イギリス首相ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)のドイツに対する徹底抗戦を支持し、十五歳にして,ユダヤ人であるという人種民族の特性を保持しながら,いかにして世界の人々とともに暮らすことができるのかを模索し,「人種民族の共生」を考えていた。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。歪曲した事実を証拠と称して、アンネの日記は贋作だ、ホロコーストはなかったと荒唐無稽な主張を繰り返す輩は、その追随者である。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を続け,戦争を戦うことはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえる。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。



ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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