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◆ドイツ空軍総司令官ヘルマン=ゲーリング(Hermann Göring)元帥
写真(上)1944年8月3日、ドイツ、東プロイセン、1944年7月22日のシュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂で死亡した空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将の葬儀に出席した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥と海軍総司令官カール・デーニッツ元帥
:1944年7月20日1242,総統大本営の作戦会議室における爆発によって,ギュンター・コルテンGunther Korten上級大将(7月22日死亡),ドイツ国防軍副官ルドルフ・シュムントRudolf Schmundt少将(大将昇進後10月1日死亡), 参謀本部ハインツ・ブラントHeinz Brandt大佐(7月22日死亡), 速記者ハインリヒ・ベルガーHeinrich Berger(7月20日死亡)の4名が殺害された。
ヘルマン=ゲーリングHermann Göring)の階級:
1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥 1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将
Ostpreußen, Tannenberg-Denkmal.- Staatsakt für General-Oberst Gfünter Korten (nach Verwundung bei Attentat am 20.7. 1944, gest. 22.7. 1944) unter Anwesenheit von Reichsmarschall Hermann Göring. Ankunft Göring; Date 3 August 1944 Photographer Blaschka 写真はWikimedia Commons,Bundesarchiv  File:Bundesarchiv Bild 101I-676-7970-35引用。


写真(上)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥の見送りを受けて帰国しようとするフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥
:1942年6月27日、空路、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」を訪問したフィンランドのマンネルハイム元帥は、翌日、列車に乗ってヘルマン=ゲーリングHermann Göring)の元に馳せ参じたが、その時、二人とも元帥だったため、元帥杖を持って挨拶を交わしている。ゲーリングとの会談後、マンネルハイム元帥は、指し迎えのリムジンで飛行場まで送られ、そこからフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機に乗ってフィンランド、ヘルシンキに帰国した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3231引用。

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


第一次世界大戦のドイツ戦闘機部隊エースのヘルマン・ゲーリング大尉

写真(右)1918年、ドイツ陸軍飛行隊、フォッカー戦闘機のエースとして、プール・ル・メリット勲章を授与されたヘルマン・ゲーリング(右)とブルーノ・レルツァー:第一次世界大戦勃発で、ダルムシュタットの陸軍航空隊隊に配属されたブルーノ・レルツァーとヘルマン=ゲーリングHermann Göring)は、共に偵察機で活動、1915年3月、二級鉄十字章を授与。1915年、訓練を受けたレルツァーとゲーリングは共に戦闘機パイロットとして活躍する。レルツァーもゲーリングも戦闘機エースとして、プール・ル・メリット勲章を授与された。第一次大戦敗北後、フライコール(義勇軍)で活動したのも同じである。1933年1月のナチ党政権成立で、無任所大臣に就任したゲーリングは、レルツァーを航空スポーツ連盟の会長に任命、ベルサイユ条約で禁止された軍用機開発、搭乗員要請に密かに当たらせた。再軍備宣言により、1935年3月にドイツ空軍が設立、ゲーリングが総司令官に就任すると、レールツァーも入隊、1938年4月、少将として戦闘機総監に就任した。1939年2月、第二航空団司令官となり、9月1日からのポーランド侵攻に参戦した。
SDASM Archives Follow Loerzer Fokker and Goering Photo from the Lou Larson Collection. These photos were donated to the Museum in September of 2012. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive引用。



第一次大戦敗戦後のナチ党・突撃隊指導者のヘルマン・ゲーリング

写真(右)1923年9月30日,上シレジエン,フライコール「オーベルラント」を閲兵するエーリヒ・ルーデンドルフ将軍とヘルマン・ゲーリング突撃隊SA指導者 突撃隊SA以外にも,退役軍人を中核とした反共準軍事組織の義勇軍フライコールFreikorps)があった。彼らは,ミュンヘン一揆を支持したが,十分に兵器を保持しているわけではない。示威行進には有力だったが,実際の暴力革命を起こしたミュンヘン一揆では,警察力の前に,敗退した。突撃隊は,軍服のような褐色の制服を着用している。1922年10月14日,ヒトラーは600名の突撃隊員を率いてミュンヘンから,ニュルンベルクを経由(そこで同調者が乗り込んだ)し,コーブルク駅に到着した。コーブルクの町の起源は1056年にまで遡り、中心のマルクト広場周辺には,白壁のシュタットハウスなど,美しい後期ルネサンス様式の建築物が並んでいる。ここが,ナチスが正式に発足させた突撃隊による街頭支配の成功例となる。1923年11月にはヘルマン=ゲーリングHermann Göring)は、ミュンヘン一揆にヒトラーとともに参加し、負傷する。
ADN-Zentralbild - Archiv Enthüllung eines Denkmals für die in Oberschlesien gefallenen Angehörigen des Freikorps "Oberland" in Schliersee am 30. September 1923 durch den 1921 gegründeten Bund "Oberland". UBz.: General Erich Ludendorff nach seiner Ankunft am Bahnhof Schliersee im Gespräch mit österreichischen Angehörigen des Bundes. Vorn rechts der Führer der SA Fliegerhauptmann a.D. Hermann Göring 7238-23 Dating: 30. September 1923
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。



ナチ党国会議員のヘルマン・ゲーリング

写真(右)1930年,ドイツ、ナチ党の政治活動の最中(?)、乗用車の後席に一人で収まるナチ党国会議員ヘルマン・ゲーリングと助手席のナチ党ベルリン大塔管区指導者・国会議員ヨーゼフ・ゲッペルス博士
Die Eröffnung des Reichstages. Der Einzug der Nationalsozialisten in den Reichstag in Berlin Die Führer der Berliner Nationalsozialisten, die Abgeordneten Dr. Goebbels (vorn im Auto), dahinter sitzend Hauptmann Göring, begeben sich zur Eröffnungs des Reichstages. Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Goebbels, Joseph: Reichsminister für Volksaufklärung und Propaganda, Gauleiter Berlin, Deutschland Depicted place Berlin Date October 1930 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 102-10547引用。


ドイツ共和国の1928年5月の国会議員選挙で、ナチ党は70万票を獲得、国会に12議席を獲得した。この時、ナチ党からは、ヘルマン=ゲーリングHermann Göring)、ヨーゼフ・ゲッペルス、グレゴール・シュトラッサー、ヴィルヘルム・フリック、フランツ・フォン・エップ、ゴットフリート・フェーダー等が当選している。

写真(右)1931年10月11日,ハノーバー南西50キロ、ニーダーザクセン州バート・ハルツブルクにおける突撃隊の集会に参加した突撃隊幕僚長エルンスト・レーム,その奥のハインリヒ・ヒムラー,手前のヘルマン・ゲーリング:突撃隊の粗暴さは民衆に反発を受けた,そして国防軍に取って代わる新しい軍隊を目指したことで,ドイツ軍から忌み嫌われた。1931年当時,ヒムラーは,レームの部下だったが,親衛隊で権力を拡大し、1933年1月にヒトラーが首相に任命されると、レームの突撃隊と対立するようになった。
Gründung der "Harzburger Front" Bad Harzburg, 11.10.1931 Hauptmann Göring und Hptm. Röhm, ganz rechts der Preußischer Kultisminister Rust, (x) Archive title: links neben Röhm: Himmler und SA-Oberführer Korsemann Dating: 11. Oktober 1931
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ中部ニーダーザクセン州の観光地バートハルツブルクBad Harzburg)で,1931年10月、ナチスは,共闘していた右翼の国家人民党,準軍事団体「鉄兜団」と警察予備隊に相当する準軍事組織を創設。このハルツブルク戦線(国民戦線)によって,財界、軍と提携を深める機会を獲得できた。

ナチ党政権獲得前は,大規模な集会とはことなり,あふれかえるばかりの突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントや大群衆を動員できたわけではない。カトリックをまねて,悪趣味な旗・紋章,血染めの旗の洗礼式など,似非宗教的儀式を考え出した。

写真(右)1932年夏,ベルリン,テンペルホーフ空港,ヘルマン・ゲーリング,アドルフ・ヒトラー,ヒトラーの後援者で実業家のエルンスト・ハンフシュテングル(Ernst Hanfstaengl)
Adolf Hitler, der Führer der Nationalsozialisten im regen Gespräch mit seinen Mitarbeitern, diskutieren die Regierungskrise! Von rechts nach links, Hauptmann Hermann Göring, Adolf Hitler und der Pressechef der Nationalsozialisten Dr. Ernst Franz Hanfstaengl Archive title: Flughafen Berlin-Tempelhof, Sommer 1932? Dating: 1932 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1922年,ヒトラーの演説を聞きに行ったとき,エルンスト・ハンフシュテングルは、労働者からなる聴衆がヒトラーに完全に魅惑されていることに感銘を受ける。「ヒトラーは2時間半の間に聴衆に対して1万年かけても与えることのできないような一時を与えた」と彼は記した。そして,大ドイツ帝国を復興させるのは,大衆・庶民から支持を得ている強固な意志を持った指導者だと確信する。

エルンスト・ハンフシュテングル(Ernst Hanfstaengl)は,ミュンヘンの芸術出版社の子息で,幼い時から27年の間,アメリカ合衆国に滞在,ハーバード大学で学んだインテリで、ヘンリーフォードなど実業家とも知己を得ている。ドイツ帰国後,ミュンヘン大学でカール・フォン・ミュラーの下で1930年に博士号を取得、博士論文は,フランス革命のマールボロ・ミラボーについてで、その後,主にパリに滞在し,ピアノ演奏を趣味とする芸術家,実業家として活躍した。

写真(右)1932年11月,ベルリン,テンペルホーフ空港,国会議長ナチ党ヘルマン・ゲーリング,ナチ党総統アドルフ・ヒトラー,突撃隊SA幕僚長エルンスト・レーム(Ernst Röhm:1887-1934年7月1日処刑)
English: Adolf Hitler discussing the government crisis with his staff! From right to left, Hitler's chief of staff Hauptmann (Captain) Röhm [Ernst Röhm] leads the conversation with Adolf Hitler on the left of the picture listening intently; in the middle is Reichstag President Hauptmann (Captain) Göring [Hermann Göring]. Depicted place Tempelhof Date November 1932.
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1933年1月、ヒトラー政権が樹立されると,ヒムラーは親衛隊国家長官として警察権を掌握し、ゲーリングはプロイセン州内務大臣(すぐにプロイセン州首相・航空大臣)になるが,レームは,突撃隊SAを国防軍に取って代わるような軍隊にしようとして,国防軍と対立することになる。

1934年6月30日から7月2日の「長いナイフの夜」では,ヒトラーの命令で元上官のレームを粛正する側に回った。ヒトラーは,大衆,ドイツ国防軍の支持を得るために,旧友であるレームと突撃隊幹部を抹殺した。これが,「長いナイフの夜」である。


ナチ党政権、プロイセン州首相のヘルマン・ゲーリング

写真(右)1933 年1月30日、ドイツ、ベルリン、アドルフ・ヒトラー内閣の閣僚たち。前列左より、無任所大臣ヘルマン・ゲーリング(プロイセン州内務大臣)、首相アドルフ・ヒトラー、副首相フランツ・フォン・パーペン(元首相)、後列右より、経済相・食糧農業相アルフレート・フーゲンベルク(Alfred Hugenberg)、国防大臣フォン・ブロンベルク(Werner v. Blomberg )元帥、内務大臣ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)、財務大臣ヨハン・ シュヴェリン・フォン・クロージク(Johann Schwerin von Krosigk)、雇用計画国家弁務官ギュンター・ゲレケ博士
Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Ein interessanter Rückblick auf das ereignissreiche Jahr der Nationalen Erhebung in Deutschland vom 30. Januar 1933 bis jetzt! Der historische 30. Januar 1933 in Berlin. Nach der ersten Sitzung des neuen Reichkabinetts unter dem Vorsitz des Reichskanzlers Adolf Hitler um 1/2 7 Uhr Abends in der Reichskanzlei. In der ersten Reihe von links nach rechts: Ministerpräsident Hermann Göring , Reichskanzler Adolf Hitler, und Vizekanzler v. Papen. In der zweiten Reiche von links nach rechts: Reichsminister v. Schwerin-Krossik, Reichsinnenminister Dr. Frick, Reichswehrminister v. Blomberg, und der ehem. Reichsernährungsminister Dr. Hugenberg. Date 30 January 1933 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 102-15348, Reichskabinett Adolf Hitler.jpg引用。


1933年1月30日成立のヒトラー政権の下,ドイツの過半(ベルリンを含む)を占めるプロシャ,すなわちプロイセンPreußen州(自治政府Freistaat)内相に,ヘルマン・ゲーリングが就任した。ゲーリングは,警察権を手中に収め,,国会放火事件直後,ドイツ共産党本部から国会放火計画にかかわる書類を押収し,さらに全国規模で公共施設や政治家へのテロを企てていたと発表した。4月10日、プロイセン州首相フランツ・フォン・パーペンは、ナチ党の暴力支配に恐れをなしてであろうが、ヘルマンゲーリング内務大臣にプロイセン州首相の地位を譲ってしまう。

写真(右)1933 年1月30日、ドイツ、ベルリン、アドルフ・ヒトラー内閣の閣僚たち。前列左より、無任所大臣ヘルマン・ゲーリング(プロイセン州内務大臣)、首相アドルフ・ヒトラー、副首相フランツ・フォン・パーペン(元首相)、後列左より、労働大臣フランツ・ゼルテ(Franz Seldte)鉄兜団団長、財務大臣ヨハン・ シュヴェリン・フォン・クロージク(Johann Schwerin von Krosigk)、雇用計画国家弁務官ギュンター・ゲレケ博士、内務大臣ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)、国防大臣フォン・ブロンベルク(Werner v. Blomberg )元帥、経済相・食糧農業相アルフレート・フーゲンベルク(Alfred Hugenberg):ナチ党閣僚はヒトラー、ヘルマン=ゲーリングHermann Göring)、フリックの3人のみ。しかし、閣僚として終戦までとどまったのは、ナチ党プロパー以外は、財務大臣クロージク、労働大臣ゼルテのみ。
Original caption Zentralbild Die deutschen Faschisten bilden nach der Machtergreifung am 30.1.1933 ihr erstes Kabinett unter Adolf Hitler. UBz: vlnr, sitzend: Hermann Göring , Reichskommissar für Luftfahrt und das preussische Innenministerium, Adolf Hitler, Reichskanzler, Franz von Papen, Vizekanzler stehend: Franz Seldte, Arbeitsminister, Dr. Dr. Günther Gereke, Lutz Graf Schwerin von Krosigk, Reichsfinanzminister, Wilhelm Frick, Reichsinnenminister, Werner von Blomberg, Reichswehrminister, Alfred Hugenberg, Wirtschafts- und Ernährungsminister 1. Reihe sitzend, vlnr: Hermann Göring, Adolf Hitler, Franz von Papen 2. Reihe stehend vlnr: Franz Seldte, Dr. Dr. Günther Gereke (Reichskommissar für Arbeitsbeschaffung und Ostsiedlungskommissar), Lutz Graf Schwerin von Krosigk, Wilhelm Frick, Werner von Blomberg, Alfred Hugenberg
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 102-15348, Reichskabinett Adolf Hitler.jpg引用。


プロイセン内相(内務大臣)ヘルマン=ゲーリングHermann Göring)は,即座に,戒厳令によって緊急措置をとる。プロイセン州はドイツ国土、人口の6割以上を占めており、その治安警察・刑事警察を緊急出動させ,ドイツ共産党の支所を閉鎖し,共産党国会議員を逮捕するもので、さらにナチ党の暴力組織である突撃隊・親衛隊2000人も警察支援に充当させた。ナチ党の私兵が警察と同格となった。ゲーリング内務大臣は、4月10日、プロイセン州首相フランツ・フォン・パーペンからその地位を譲られたが、これはパーペンが命の危険を感じたからであろう。

写真(右)1933年3月,ベルリン郊外、ポツダム、衛戍(ギャリソン)教会、第一次大戦戦没者追悼式に参列した内務大臣ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)、首相アドルフ・ヒトラー、労働大臣フランツ・ゼルテ(Franz Seldte)鉄兜団団長、副首相フランツ・フォン・パーペン(von Papen、無任所大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州内務大臣:ギャリソン教会は、18世紀にプロイセン国王が軍人を記念して建立し、フリードリヒ大王の墓所もある。古都ポツダムは、プロシア王国以来の軍国主義の整地であった。1933年2月27日のドイツ国会議事堂放火事件後、ヒトラーは新しい国会の開会式をポツダムで催すことを決める。1933年3月21日、ポツダムのギャリソン教会を会場とし、ヒトラーの新秩序が示された。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-14434 Original title: info Die historische Reichstags-Eröringffnung in der Garnisonkirche in Potsdam! Die Ehrentribüne der Reichsregierung vor der Garnisonkirche von rechts nach links: Minister Göring, Minister Seldte, Reichskanzler Adolf Hitler. Vizekanzler von Papen und Minister Frick. Archive title: Potsdam.- Feier zur Eröffnung des Reichstages (Reichstagseröffnung, "Tag von Potsdam").- Ehrentribüne in der Garnisonkirch. Vlnr: Wilhelm Frick, Franz von Papen, Adolf Hitler, Franz Seldte, Hermann Göring Dating: 21. März 1933 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1933年2月27日の夜、ベルリン中心部のドイツ国会議事堂が放火され大炎上した。この国会放火事件を契機に、ナチ党、プロイセン州内相ヘルマン=ゲーリングHermann Göring)は、ドイツ全国での大規模テロの陰謀が開始されたとみなして、緊急事態を宣言した。この国会放火事件は、労働者の覚醒を促そうとした共産主義者ルッペの単独犯行だったようだが、ヒトラーやゲーリングは、共産主義者による国家転覆のテロ、陰謀と見なし、反政府活動を徹底的に弾圧する腹を決めたのである。4月10日、フランツ・フォン・パーペンはプロイセン州首相をゲーリングに引き渡す。

国会放火事件の翌日、1933年2月28日、ヒトラーは反政府テロの危機下にあるとして、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領を説いて「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」の二つの緊急大統領令を発布させた。こうして、ゲーリング隷下のプロイセン州警察に加えて、全国の警察が出動し、共産党議員、そのシンパの逮捕を命令した。反ナチスの共産党や労働組合活動家、さらに潜在的なナチス敵対者も含め,数千名が逮捕された。拘束された者は,強制収容所に拘禁されるなど,人権は完全に無視された。1933年12月23日,国会放火事件の判決が言い渡され,放火および反逆罪の咎でルッペは断頭台に送られた。

写真(右)1933年4月、ベルリン、テンペルホーフ飛行場、ユンカースG38(Junkers G 38) D-2500巨人旅客機に「ヒンデンブルク元帥号」と名付けてヒンデンブルク大統領に敬意を表する無任所大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州内務大臣:ユンカース G.38(Junkers G.38)は、1929年に初飛行したドイツ超大型旅客機/輸送機で、出現当時は、世界最大の陸上機だった。D-2500は、2号機で乗客34名、主翼前縁にある客室に左右各6名、胴体(2階)22名の乗客が搭乗可能だった。ルフトハンザドイツ航空は、このG38旅客機を、ベルリン、ハノーファー、アムステルダム、ロンドンを結ぶ路線に国際航路に就役させ、「ヒンデンブルク元帥」号と命名した。ドイツでは僅か2機が試作機されただけであるが、日本陸軍は爆撃機仕様にして発注し、九二式重爆撃機として採用し、三菱重工業で6機をライセンス生産している。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-14564 Original title: info Die feierliche Taufe des Luft-Hansa-Großflugzeuges "D 2500" auf den Namen "Generalfeldmarschall v. Hindenburg", fand unter Anwesenheit des Herrn Reichspräsidenten von Hindenburg, des Preußischen Ministerpr&aml;sidenten Göring und anderer hoher Persönlichkeiten auf dem Flughafen Tempelhof statt. Ministerpr& aml;sident Göring, während der feierlichen Taufe des größten deutschen Landflugzeuges "D 2500" auf den Namen Generalfeldmarschall von Hindenburg. Archive title:Berlin-Tempelhof.- Taufe des Lufthansa-Flugzeugs Junkers G 38 (Kennung: D-2500) auf den Namen "Generalfeldmarschall von Hindenburg". Hermann Göring und Teilnehmer bei "Hitlergruss" bzw. Salutieren Dating: April 1933 Photographer: Pahl, Georg 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1933年2月、第一次大戦の英雄で、ナチ党内閣のヘルマン・ゲーリング無任所大臣は、民間航空事業の促進を名目にドイツ航空委員会を設立する。同委員会は4月までに航空省に昇格し、5月には陸軍航空部を統合し、空軍再建が極秘裏に進められた。この間の空軍再建にはリペツクの基地が重要な役割を果たした。そして1935年2月、ドイツは空軍の存在を認め、同年3月、ヒトラーが再軍備宣言をし、ベルサイユ条約を一方的に破棄したことによって、ドイツ国防軍が編成され、その一軍として空軍(Luftwaffe)が設置され、初代空軍総司令官にヘルマン・ゲーリング元帥が就任した。

写真(右)1933年4月,ベルリンノテンペルホーフ飛行場でユンカースG38(Junkers G 38) D-2500巨人旅客機に「ヒンデンブルク元帥号」進空式に参加した(右より)シルクハットのヒンデンブルク大統領,指差すゲーリング・プロイセン首相,シルクハットのコンスタンティン・フォン・ノイラート外務大臣,軍服で手を振り上げたブロンベルク陸軍大臣:後方の白黒の波板は、ユンカースユンカース G.38旅客輸送機の主翼。
フォン・ノイラート( Konstantin von Neurath,1873−1956)は,1932年フォン・パーペン内閣で外相に入閣,フォン・シュライヒャー内閣、ヒトラー内閣でも外相に留任した。ヒトラーの下で,1933年の国際連盟脱退,1935年のラインラント進駐を進めた。
Die feierliche Taufe des Luft-Hansa-Großflugzeuges "D 2500" auf den Namen "Generalfeldmarschall v. Hindenburg", fand unter Anwesenheit des Herrn Reichspräsidenten von Hindenburg, des Preußischen Ministerpräsidenten Göring und anderer hoher Persönlichkeiten auf dem Flughafen Tempelhof statt. Von links nach rechts [rechts nach links]: Reichspräsident von Hindenburg, Ministerpräsident Göring, Reichsaussenminister von Neurath und der Chef der Reichswehr General von Blomberg bei der Taufe auf dem Flughafen Tempelhof. Dating: April 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

ヘルマン・ゲーリング/Herman Goring Fighter Ace The World War I Career of German's Most Infamous Airman [ Peter Kilduff ]:1893年、ドイツ帝国外交官を父とする上流階級に誕生、恵まれたな子供時代を過ごし、1905年、カールスルーエの幼年士官学校に入学、卒業後、1909年にプロイセン士官学校に入学して、第一次大戦の始まる1914年に陸軍少尉として歩兵部隊に配属。第一次世界大戦の緒戦では 歩兵として戦ったが、10月からドイツ陸軍航空隊へ移動、当初は偵察員、1915年からは、戦闘機パイロットとして西部戦線で戦った。1918年6月の敗戦の年に最高勲章のプール・ル・メリット勲章を授与された。ゲーリングは、リヒトホーフェン戦闘隊の大隊指揮官として敗戦を迎えた。1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年のミュンヘン一揆は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、国外に亡命したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。


1933年3月5日,ナチス対立候補に対する選挙妨害の中で,総選挙が行われた。しかし,ナチスの暴力や人権無視は,ドイツ一般市民にも嫌悪感をもたた。総選挙では,ナチ党は得票率43.9%、288議席を得たが,徹底的な選挙妨害にもかかわらず,過半数には届かなかったのは,投票者のバランス感覚のためだった。弾圧対象のドイツ社会民主党は125議席,ドイツ共産党は81議席を獲得した。

1933年3月5日の総選挙で,ナチ党が288議席を獲得する中,ドイツ国会における反ナチス対抗勢力を衰微させて,ナチ党独裁を認めさせる法案が提出された。

1933年3月21日、国会放火事件の中,大統領緊急命令がだされ,ナチ党以外の議員は,予防拘禁されたり,議席を失ったりした。また,迫害を恐れて,亡命する議員もあった。

1933年3月23日、「民族・国家の危機除去のための法律(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich,Law to Remedy the Distress of the People and the Nation),すなわち全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933),別名「授権法」が議会で成立し、ワイマール憲法は死文化された。賛成441票で,反対は社会民主党議員の94票だった。ただし,出席できなかった社民党議員,議席喪失の共産党員(全81議席)は投票していない。

◆1933年3月23日に制定された全権委任法は、ナチ党による一党独裁を法的に認めたもので,人権保護と民主主義を定めたワイマール憲法はこれによって事実上、無効になった。議場の議員には,圧力と脅迫ががかけられ,反対するのは困難だった。それでも,社会民主党の一部は,ナチス独裁に反対したが,突撃隊,親衛隊によって反対派(民主派)幹部は一斉検挙され、暴行を受けた。強制収容所に拘束された。議員たちは国外に亡命した。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立NSDAP(Nazi):ファシズムの台頭

写真(右)1933年9月,ドイツ、バイエルン州ニュルンベルク、ナチ党大会に出席したイタリア王国ファシスト党指導者ジュゼッペ・ボッタイ(Giuseppe Bottai)企業省大臣(右端)にユンカースJu-52輸送機前で歓迎するゲーリング・プロイセン首相:ベニート・ムッソリーニ内閣のファシストは、労使協調の協同主義を旨と支、イタリアの使用者側と被雇用者を一本化し統合し、企業省を設立した。イタリアでは、ストライキやロックアウトが禁止される一方、労働者の権利と義務が定められ、雇用者と被雇用者の間の紛争は労働審判で仲裁される。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-02912A Original title: info Der preußische Ministerpräsident Hermann Göring , rechts von ihm der italienische Korporativ-Minister Bottai , und links, der Vizesekretär der italienischen faschistischen Partei Professor Exzellenz Marcipati auf dem Parteitag in Nürnberg am 3. September 1933. Archive title: Nürnberg.- Hermann Göring mit Guiseppe Bottai (links) und Prof. Marcipati (rechts) vor dem Flugzeug Junkers JU-52 Manfred von Richthofen. Dating: 3. September 1933 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


プロイセン州内務大臣、次いでプロイセン州首相となったヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、ドイツ国内の7割の地域プロイセン州のの警察権を所持し、ゲシュタポ(国家秘密警察)を設立した。ナチ党国会議員ヘルマン・ゲーリング国会議長は、1933年1月30日のヒトラー政権で無任所大臣として入閣、プロイセン州内務大臣に就任した。ナチ党は、ドイツの7割の地域を占めるプロイセンの警察権を掌握したのである。その後、1933年4月10日、プロイセン州首相を兼ねていた副首相フランツ・パーペンは、プロイセン州首相の地位をヘルマン・ゲーリングHermann Göring)に移譲させられている。

写真(右)1934年3月、ドイツ、ベルリン、プレスボール、国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス、プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング、国防大臣フォン・ブロンベルク(Werner v. Blomberg)元帥(右端);プレスボールとは、ジャーナリスト団体がも要するソーシャルダンスイベントで、政府や軍の高官、大企業経営者などを華麗なダンスホールに誘って、会話しながら情報を得ようとする目的があった。一流有名人も長居したくなるような女、酒、食事が振舞われたが、これはエサである。
Im faschistischen Deutschland 1934 Berlin: Führende Hitlerfaschisten auf dem Presseball am Zoo: Reichspropagandaminister J. Goebbels (links), Ministerpräsident H. Göring (Mitte), Reichswehrminister W.v. Blomberg (r). Depicted place Berlin Date 8 February 1934 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 183-M0921-500, Berlin, Presseball引用。


写真(右)1934年3月、ドイツ、ベルリン、カイザーダムの1934年国際自動車展示会(モーターショー)に出向いたアドルフ・ヒトラー総統、航空大臣ヘルマン・ゲーリング大将、親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(左奥)、ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ(右)国際軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将(右端);プロイセンはドイツの三分の二を占めており、プロイセン州警察がナチ化され、突撃隊や親衛隊が補助警察として権力を握った。1933年2月28日の国会議事堂放火事件では、共産主義者の反乱を鎮圧するとの名目で、大量検挙を行い、政敵を弾圧し、強制収容所を設置して、政治犯を「保護拘束」した。1935年3月、再軍備宣言に伴い復活したドイツ空軍の総司令官に就任する。
Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-15601 Original title: info Reichskanzler Adolf Hitler eröffnet die große Internationale Automobil-Ausstellung 1934 am Kaiserdamm in Berlin! Reichskanzler Adolf Hitler und der preußische Ministerpräsident General Hermann Göring, besichtigen die neuesten Wagen auf der Ausstellung. Dating: März 1934 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 102-15601引用。


写真(右)1934年5月1日、ドイツ、ベルリン、テンペルホーフ飛行場に向けてメーデーの行進で労働第6区を率いる航空大臣ヘルマン・ゲーリング大将;労働組合は、政府御用組合の労働戦線に一元化され、労使協調、生産増強のために動員された。ゲーリングは、四か年計画の長官として、生産面での経済の軍需化、国内自給化を進めた。
Scherl Der Aufmarsch am 1. Mai [1934] Ministerpräsident Göring marschierte mitten unter den Arbeitern des Kreises 6 (Wedding) zum Tempelhofer Feld [in Berlin]. 18607-34 Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Berlin Date 1 May 1934 Photographer Unknownwikidata:Q4233718 Institution German Federal Archives
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 102-15601引用。


1933年1月30日のヒトラー政権で無任所大臣として入閣、プロイセン州内務大臣に就任したゲーリングは、1933年4月10日には副首相パーペンから委譲されプロイセン州首相に就任、同時期に新設された航空省大臣も兼ねた。プロイセンはドイツの三分の二を占めており、プロイセン州警察がナチ化され、突撃隊や親衛隊が補助警察として権力を握った。1933年2月28日の国会議事堂放火事件では、共産主義者の反乱を鎮圧するとの名目で、大量検挙を行い、政敵を弾圧し、強制収容所を設置して、政治犯を「保護拘束」した。

親衛隊SS国家指導者ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler):The Sinister Life of the Head of the SS and Gestapo;1900-1945年5月23日自殺。1933年ナチ党の政権獲得後、バイエルン州警察、1934年プロイセン州秘密国家警察(ゲシュタポ)、1936年ドイツ警察長官に任命された。


ヘルマン・ゲーリングは、1933年1月30日プロイセン州内務大臣・無任所大臣とヒトラー内閣に入閣したが、1933年4月10日、パーペンから地位を譲られプロイセン州首相としてドイツ国内の7割の地域での警察権を所持し、ゲシュタポGestapo:国家秘密警察)を設立した。しかし、ヒトラーの意向で警察権はプロイセン州首相就任の1年後、1934年4月20日、親衛隊SS国家指導者ハインリヒ・ヒムラー Heinrich Luitpold Himmler)をゲシュタポ総監に任命した。ゲーリングは、形式的には「ゲシュタポ長官」のままだったが、実権はヒムラー配下の親衛隊SS国家保安本部ハイドリヒに握られることになる。

◆ナチ党独裁の下では,ワイマール憲法、特に人権保護と民主主義の規程は独裁の障害であったため、全権委任法によって無効にされた。そして、ナチス批判者はドイツの敵とされ、警察権を掌握した親衛隊SS国家指導者ハインリヒ・ヒムラー Heinrich Himmler)隷下の親衛隊、ゲシュタポGestapo:国家秘密警察)によって弾圧された。敵の中には、ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的(根っからの)犯罪者,叛乱者など「危険な非国民」も含まれる。彼らを拘束し更正させる、あるいは廃人とする場所が,強制収容所(KL:ラーゲル)と刑務所である。ラーゲル(KZ)は、親衛隊SS髑髏部隊が監視、管理した。

写真(右):1935年10月2日,ドイツ、東プロイセン、タンネンベルクで開催されたヒンデンブルク(Paul von Hindenburg)大統領の国葬:第一次大戦初期,第八軍ヒンデンブルク司令官は,タンネンベルクの戦いでロシア軍を撃破した。この記念の地で,世界大戦のドイツ敗北を打ち消すような盛大な葬儀が行われた。ヒンデンブルクの死去は,前年8月だった。
1935 Feier im Tannenberg Denkmal während der Rede des Führers Archive title: Hohenstein / Ostpreußen.- Tannenberg-Denkmal ("Tannenberg-Nationaldenkmal" / "Reichsehrenmal Tannenberg").- Beisetzung von Paul von Hindenburg, Rede von Adolf Hitler Dating: 2. Oktober 1935
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


第一次大戦の英雄ヒンデンブルク将軍は,1932年からワイマール共和国の第二代大統領に選出され,1932年12月,国防大臣だったクルト・フォン・シュライヒャーを首相に任命した。しかし,ドイツ国防軍のクーデターを恐れ,パーペンの意を汲んで,1933年1月30日,第一党だったナチ党長ヒトラーを首相に任命した。

1934年8月2日,ヒンデンブルク大統領が死去すると,アドルフ・ヒトラー首相は、ドイツ大統領も兼ねる総統(Führer)の職に就いた。党の指導者「総統」は、新たな独裁者の称号となった。ヒトラー総統は、ドイツ国防軍の司令官を召集し、兵士をすべて総統個人に対して忠誠を誓わせることとした。

写真(右)1934年8月,ドイル、ベルリン、ドイツ国軍兵士の忠誠宣誓はドイツに対してでなく、ヒトラー総統個人に対してのものとなった。ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになった。そしてドイツ国防軍の兵士は,祖国ドイツでも憲法でもなく、アドルフ・ヒトラー個人に忠誠を宣誓することとなった。これは,国防大臣ブロンベルクが,ヒトラーの申し出を受け入れたためである。
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler auf dem Kasernenhof der Wachtruppe in Berlin 1934 Offiziere und Mannschaften leisten den feierlichen Eid durcherheben der rechten Hand. Die Reichswehr trägt Trauerflor für den verstorbenen Reichspräsidenten Date August 1934 Photographer Georg Pahl (1900-1963)
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・File:Bundesarchiv Bild 102-16107, Vereidigung von Reichswehr-Soldaten auf Hitler.jpg引用(他引用不許可)。


動画:1934年8月2日以降に導入されたドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓(1935年改訂):
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."

「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」

1935年3月16日、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、近隣諸国と平等な権利を主張して、ドイツ再軍備宣言をする。その際に、ドイツ国軍(Reichswehr)は国防軍(Wehrmacht)と名称を変えた。そして,ヒトラー総統は,陸海空三軍の総司令官を兼ねることになった。国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考えた。

1933年4月には、それまでのドイツ航空委員会がドイツ航空省へと発展させられ、ドイツ航空委員長だったヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、航空大臣となった。そして、民間航空・スポーツ航空を隠れ蓑に、ベルサイユ条約で禁じられた空軍兵力の育成に努めるようになる。1年後、1935年3月、ゲーリング航空大臣は、再軍備宣言に伴い復活したドイツ空軍の総司令官に就任する。

1919年6月28 日にフランスのヴェルサイユで調印されたベルサイユ条約の軍事制限条項では、敗戦国ドイツに対して
?陸軍兵力を10万人に以下に制限
?戦車・軍用機・潜水艦の保有禁止
?義務兵役制度の廃止
?参謀本部の廃止
を課していた。しかし、ワイマール共和国政府も、密かに組織名称や兵器名称を偽って、参謀本部を残し、火砲や軍用機など兵器開発を進めていた。また、正規軍とは別にフライコール(義勇軍)を保持し、事実上、軍との連携を図っていた。

しかし、ほとらーはこのような共和国の国防配慮を全てないものとして、共和国政府を罵倒し、1935年3月16日、近隣諸国と平等な権利を主張して、ドイツ再軍備宣言をする。その際に、ドイツ国軍(Reichswehr)は国防軍(Wehrmacht)と名称を変えた。


森林長官、狩猟長官のヘルマン・ゲーリング

写真(右)1934年11月14日,ドイツ、ニーダーザクセン州、ハノーバー、州立シュプリンゲ森林保護区、供を引き連れてイノシシ狩りの狩猟に興じる帝国狩猟長官・航空大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相:1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任し、自らの狩猟のために、自らの狩猟区を設定した。これは、野生動物保護や自然保護を主眼とした保護区とは異なり、自分の趣味の狩猟を最優先した政策である。
Original caption Reichsjägermeister Hermann Göring mit der Beute nach der Wildschweinjagd im Staatsforst Springe am 14. November 1934. Depicted people Göring , Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Date 14 November 1934 Photographer Unknown Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1979-145-13A,引用。


ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任し、自らの狩猟のために、野生動物保護や自然保護狩猟区の設置を進め、狩猟法を制定して乱獲を戒めた。これを動物愛護・自然保護の愛護家と認識することはできない。あくまでも、自らの趣味である狩猟を楽しみ、盛大なものにして、その王室並みの権威を見せつけるための手段である。人権を軽んじながら、動物の命を大切にするという矛盾は、ゲーリングの持つ権威・物質的・名誉に対する強い欲望を反映した結果である。

写真(右)1934年12月14日,ドイツ、ニーダーザクセン州、ハノーバー、州立シュプリンゲ森林保護区、供を引き連れてイノシシ狩りの狩猟に興じる帝国狩猟長官・航空大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相:1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任し、自らの狩猟のために、自らの狩猟区を設定した。これは、野生動物保護や自然保護を主眼とした保護区と葉異な自分の趣味の狩猟を最優先した政策である。
Original caption Reichsjägermeister Hermann Göring auf der Wildschweinjagd für die Winterhilfe im Staatsforst Springe bei Hannover am 14. Dezember 1934. Date 14 December 1934 Photographer Unknownwikidata:Q4233718 German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 102-04218A引用。


プロイセン州首相だったヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任し、自らの狩猟のために、プロイセン州に野生動物保護や自然保護狩猟区の設置を進め、狩猟法を制定して自分以外のものが盛大な狩猟をすることを戒めた。これは、動物愛護・自然保護と形成期的には結び付くが、江戸時代の将軍の御狩場、皇室の鴨漁と同じく、大土地所有者であり、不動産家である富裕層で権威者であることを象徴する行為である。盛大な狩猟を主催できるのは、皇室・王室の富裕な権威者だけだからである。

写真(右)1934年12月(?),ドイツ、ニーダーザクセン州、ハノーバー、州立シュプリンゲ森林保護区(Staatsforst Springe )猟犬と供を引き連れて鹿狩り、狩猟に興じる帝国狩猟長官・航空大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相:1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任し、自らの狩猟のために、野生動物保護や自然保護狩猟区の設置を進め、狩猟法を制定して乱獲を戒めた。これを動物愛護・自然保護と結び付けるのは錯覚で、自らの狩猟を盛大なものにする布石だった。1936年8月には四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、戦争経済、自給自足を進め、ユダヤ人を経済活動から排斥して、経済のアーリア化と称して蓄財に励んだ。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-16434 Original title: info Reichsjägermeister General Hermann Göring auf der Wildschweinjagd für die Winterhilfe ! Reichsjägermeister Hermann Göring mit seinen Hunden vor der Jagd im Staatsforst Springe. Archive title: Springe bei Hannover.- Wildschweinjagd, Hermann Göring mit seinen Hunden vor Beginn der Jagd Dating: 1934 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1934年12月、ドイツ、ニーダーザクセン州、ハノーバー、州立シュプリンゲ森林保護区(Staatsforst Springe )で狩猟の合間に野外で食事を摂る帝国森林長官・帝国狩猟長官・航空大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相、突撃隊幕僚長ヴィクトール・ルッツェ(Viktor Lutze)突撃隊大将、プロイセン国務院長官ルートヴィッヒ・グラウアー(Ludwig Grauert )親衛隊少将:ヴィクトール・ルッツェは、レームの反乱事件をヒトラーに密告し、突撃隊司令官ヒトラーに完全な忠誠を誓った。そこで、1934年6月30日から7月2日のレーム粛清(長いナイフの夜)によって、レームの後継者として、突撃隊幕僚長に任じられた。しかし、突撃隊の勢力は暫時縮小され、親衛隊にとってかわられることになったために、親衛隊国家長官ヒムラーに圧迫された。そこで、親衛隊が強大になるのを危惧したゲーリングに、突撃隊幕僚長ルッツェ対象は抱き込まれた様だ。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-04228A Original title: Stabschef Lutze, Staatssekretär Grauert und Reichsjügermeister Hermann Göring beim Jägerfrühstück im Staatsforsten Springe bei Hannover wührend der Wildschweinjagd fürdie Winterhilfe am 14. Dezember 1934. Archive title: Springe.- Wildschweinjagd im Staatsforst für das Winterhilfswerk 1934/35, Hermann Göring im Kreise der Jagdgesellschaft beim Frühstück, links neben Göring Ludwig Grauert und Viktor Lutze. Dating: 14. Dezember 1934 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1939年,供を引き連れて鹿狩りをし、獲物の角を切り取って、ご満喫の帝国狩猟長官・空軍総司令官ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相と森林専門家ヴァルター・フェーベエルト(Walter Frevert):角を自分の戦利品のように、カリンハルの別荘に腕も飾るのであろうか。狩猟の腕前は確かなものかもしれないが、ドイツ皇帝から引き継いで」御狩場を、自分個人専用にして、勢子に追わせて、自分だけが狙って猟銃を撃つなら、獲物もたくさん撮れるに違いない。御狩場は、野生動物保護や自然保護を目的とした主眼とした保護区と違い、自分の趣味を最優先した強欲の表れである。
Original caption Hermann Göring begutachtet die Hirschgeweihe Date 1939 Photographer Unknown Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1979-145-04A引用。


写真(右)1939年,ドイツ、ニーダーザクセン州、ハノーバー、州立シュプリンゲ森林保護区(Staatsforst Springe )で、供を引き連れて鹿狩りの狩猟で大物を仕留めて満喫する帝国狩猟長官・空軍総司令官ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相、森林専門家ヴァルター・フェーベエルト(Walter Frevert)、プロイセン州森林監督官ウーリヒ・シェリング(Ulrich Scherping):1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任したヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、自らの狩猟のために、自らの狩猟区を設定した。これは、野生動物保護や自然保護を主眼とした保護区とは全く異なるもので、自分の趣味の狩猟を最優先した政策である。
Original caption Auf der Jagd (vlnr): Oberforstmeister Walter Frevert, Hermann Göring und Oberstjägermeister Ulrich Scherping bei der Begutachtung von Hirschgeweihen ("Abwurfstangen") Reichsjägermeister Hermann Göring mit der Beute nach der Wildschweinjagd im Staatsforst Springe am 14. November 1934. Depicted people Göring , Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Depicted place Walter Frevert Date 1939 Photographer Unknown Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1979-145-13A,引用。


プロイセン州首相だったヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、1936年8月には、四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、戦争経済、自給自足を進め、ユダヤ人を経済活動から排斥して、経済のアーリア化と称して蓄財に励んだ。ゲーリングが有能な指導者として計画を進めたのではなく、有能な官僚・部下が立案した計画を彼らに遂行させた。自ら計画に過剰に介入して、混乱させるよりも、有能な部下に任せるほうが「良い指導者」ということも可能ではあるが。

ゲーリングの関心は、ドイツの軍事力増強以上に、これを建前にして、権限を自分に集中し、ドイツのナンバー2の指導者として自他ともに認めさせ、自分個人の資産を増やすための蓄財に励んだのである。


Goering At His Hunting Lodge (1938)


女優エミー・ゾンネマンと結婚したヘルマン・ゲーリング

写真(右)1935年4月10日、ベルリンドーム(Berliner Dom:大聖堂)における空軍大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)とエミー・ゾンネマンの結婚式,式はベルリンドームのルードヴィヒ・ミューラー牧師が取り仕切った。首相アドルフ・ヒトラーも最前列で参列している。:ルートヴィッヒ・ミュラー牧師は、ドイツ民族主義の教会神学を立ち上げた親ナチ党のプロテスタント神学者だった。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-16794 Original title: info Die Hochzeit des preuüllerischen Ministerpräsidenten General der Flieger Hermann Göring mit der Staatsschauspielerin Emmy Sonnemann im Berliner Dom am 10. April 1935. Die feierliche Trauung durch Reichsbischof Müller im Berliner Dom. Das Brautpaar vor dem Altar. Im Hintergrund der Führer Adolf Hitler. Archive title: Berlin.- Hochzeit Emmy Sonnemann und Hermann Göring.- Emmy Göring und Hermann Göring bei der kirchlichen Trauung im Berliner Dom durch Bischof Ludwig Müller. Dating: 10. April 1935 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv Geography Germany: Berlin/8 Kirchen und andere Kultstätten/81 Kirchen A-Z/81 Berliner Dom 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、1920年2月20日、飛行機を操縦してスウェーデンのエリク・フォン・ローゼン(Eric von Rosen)伯爵を、ロッケルスタド城に送ったが、このときローゼン伯爵夫人マリーの姉カリン・フォン・カンツォウCarin von Kantzow :1888-1931)夫人と出会った。カリンは、スウェーデン軍人の妻だったが、第一次大戦のエースパイロットのゲーリングに恋焦がれ、息子を置いて離婚し、1923年1月25日、ゲーリングと結婚した。この年に、ミュンヘン一揆に参加したゲーリングは、一揆失敗後、カリンの助けでスウェーデンに逃亡する。ナチ党イデオロギー信奉者となっていたカリン・ゲーリングCarin Göring)は、ゲーリングの恩赦、ナチ党復帰に尽力したが、1931年10月17日、スウェーデンで病死する。

写真(右)1935年4月10日、ベルリンドーム(Berliner Dom)で結婚式を挙げた空軍大臣ヘルマン・ベーリングとエミー・ゾンネマン。式はベルリンドームのルードヴィヒ・ミューラー牧師が取り仕切った。:ベルリンドームとは、ベルリン大聖堂 のことで、ホーエンツォレルン朝のプロテスタント、ルター派福音主義教会である。ヴィルヘルム2世の治世下、1905年に高さ110mのドームのある大聖堂となった。
Hermann Göring beim Verlassen des Berliner Domes nach der Trauung Depicted place Berlin Date 1935 Photographer Schaack, Lothar Institution German Federal Archives
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051618-0010, Berlin, Trauung Hermann Göring mit Ehefrau Emmy.jpg引用(他引用不許可)。


 ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、その後、1932年にワイマールで、ドイツ人の舞台女優エミー・ゾンネマンEmmy Sonnemann)と出会い、1933年4月にゲーリングがプロイセン州首相に任命されると、彼の推薦でベルリン国立劇場の女優となった。1935年2月にドイツ空軍の存在が公認され、3月に再軍備宣言がされると、ゲーリングンは航空大臣・空軍最高司令官となった。

1935年4月10日、ベルリンでゲーリングとエミーの結婚式が催され、ルートヴィッヒ・ミュラー牧師が取り持ったが、牧師は、ドイツ民族主義の教会神学を立ち上げた親ナチ党シンパのプロテスタント神学者だった。ベルリン大聖堂で結婚した後妻エミー・ゲーリングンEmmy Göring)と空軍総司令官の頭上を、新生ドイツ空軍の戦闘機が編隊飛行を行った。


Hermann Goering and Familly

⇒1.動画:US soldiers guard Mrs. Emmy Goering and her daughter Edda at Kesselring's Headqu...HD Stock Footage (1945年アメリカ軍兵士に保護されたケーリング夫人と娘エッダ)
⇒2.動画:Interview mit Edda Göring (1938年6月2日生、ケーリングの娘エッダへの1986年のインタビュー)


空軍大臣ヘルマン・ゲーリング大将

写真(右)1935年1月、ドイツ、ベルリン、首相官邸、アドルフ・ヒトラー首相に新年の挨拶に伺った国防大臣ヴェルナー・エドゥアルト・フリッツ・フォン・ブロンベルク(Werner Eduard Fritz von Blomberg)将軍、航空大臣ヘルマン・ゲーリング名誉陸軍大将、陸軍司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ男爵(Werner Freiherr von Fritsch)大将、海軍総司令官エーリヒ・ヨーハン・アルベルト・レーダー(Erich Johann Albert Raeder)提督(海軍大将):これから2か月後の1935年3月16日、ヒトラーは再軍備を宣言、空軍を新設し、6月18日には、イギリス-ドイツ海軍協定Anglo-German Naval Agreement)によって、イギリス海軍の35パーセントのドイツ海軍の保有を認められた。ヒトラーは、ベルサイユ条約の打破に成功し、大いに評価を高めた。
Neujahrsempfang bei Hitler Die Glückwünsche der Wehrmacht von links: Der Reichs-kriegsminister und Oberbefehlshaber der Wehrmacht, Generaloberst v. Blomberg, der Oberbefehlshaber der Luftwaffe, General der Flieger Göring, der Oberfehlshaber des Heeres, General der Artillerie Frhr. v. Fritsch und der Oberbefehlshaber der Kriegsmarine, Admiral Dr.h.c. Raeder. 40183-35 Date January 1935 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-2004-1202-503, Neujahrsempfang bei Hitler.jpg引用。


 1935年3月16日、ヒトラーは、ドイツ再軍備宣言Aufrückwstung der Wehrmacht)をし、空軍を新設した。1935年6月18日、イギリス-ドイツ海軍協定Anglo-German Naval Agreement)が締結され、ドイツ海軍はイギリス海軍の35パーセントの軍艦保有を認めさせた。これによって、イギリスは単独でベルサイユ条約を無視して、ドイツの再軍備を公認したことになった。

1937年11月5日、ヒトラーは、ドイツ国防軍、陸海空三軍の司令官、外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラート(Konstantin von Neurath )を集めて、ヨーロッパにおける領土拡張のための戦争決意を伝えた。しかし、空軍のヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、ヒトラーに異議を唱えなかったものの、国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg )も陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner von Fritsch )もイギリス・フランスの軍備に対してドイツは優位にないとして、早急な戦争開始には反対した。また、外務大臣ノイラートも戦争には賛成しなかった。そこで、ヒトラーは、戦争遂行に役に立たない将官、閣僚を解任することを決める。

1938年2月4日、外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラート(Konstantin von Neurath )は解任され、新たにリンベント路プが外務大臣に任命された。そして、3月には、ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner von Fritsch )が同性愛者であるとして、1938年1月12日に結婚したヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg )元帥の新妻エルナがいかがわしい女性であるとして、ともにフレームアップされたスキャンダルで職を追われた。

1938年2月4日 、ヒトラーは、後任の国防大臣を任命せず、国防省に代えて、国防軍最高司令部Oberkommando der Wehrmacht:OKW)を設置してドイツ国防軍三軍の最高司令官におさまり、忠実な部下のヴィルヘルム・カイテル大将を、国防軍最高司令部総長Oberkommando der Wehrmacht:OKW)(Chef des Oberkommandos der Wehrmacht)に任命し、戦争準備を進め、着実に軍備・世論を整えて行く。

写真(右)1935年3月17日、国民哀悼記念日、ドイツ、ベルリン、第一次大戦の勇将マッケンジー将軍、ヒトラー首相、国防大臣ブロンベルク将軍、二列目は陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ大将、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング大将、海軍総司令官レーダー提督
Heldengedenktag in Berlin 1935. v.lks. Mackensen, Hitler, Blomberg beim Verlassen d[er] Staatsoper nach der Gedenkfeier durch Reichskriegsminister v. Blomberg. [2. Reihe v.l.: von Fritsch, Göring, Raeder] Depicted place Berlin Date 17 March 1935
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051618-0053, Berlin, Heldengedenktag, Mackensen, Hitler, Blomberg (cropped).jpg引用。


ヒトラー首相就任から3カ月、1933年4月には、ドイツ航空委員会は、ドイツ航空省へと拡充され、ドイツ航空委員長ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、航空大臣に任命された。この新設の航空省は、民間航空・スポーツ航空を管轄するが、それを隠れ蓑に、ベルサイユ条約で禁じられた軍用機、空軍兵力の開発と育成も密かに担当した。1年後、ヒトラーはベルサイユ条約の軍事制限条項を破棄、再軍備宣言、徴兵制度の復活を決定する。こうして、1935年3月、航空大臣ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、復活・新設されたドイツ空軍の総司令官に就任することになる。

写真(右)1935年3月8日、国民哀悼記念日、ドイツ、ベルリン、ウンターデンリンデン通り、英霊に花輪を捧げる第一次大戦の勇将マッケンジー将軍、ヒトラー首相、国防大臣ブロンベルク将軍、二列目は陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将、空軍総司令官ゲーリング大将、海軍総司令官レーダー提督
Berlin, Heldengedenktag, Ehrenmal Gedenkfeier in Berlin, Im Anschluss an den feierlichen Staatsakt in der Berliner Staatsoper erfolgt die Kranzniederlegung durch den Führer und Reichskanzler im Ehrenmal Unter den Linden, sowie der Vorbeimarsch von je einer Abteilung Heer, Marine und Luftwaffe. Der Führer begibt sich zur Kranzniederlegung in das Ehrenmal Unter den Linden. Scherl Bilderdienst, Berlin, 8.3.1936 Depicted place Berlin Date 8 March 1936
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-2008-0909-502, Berlin, Heldengedenktag, Ehrenmal.jpg引用。


 ゲーリングは、新設の空軍を手に入れたものの、1934年4月20日、親衛隊SS国家指導者ハインリヒ・ヒムラーゲシュタポGestapo)総監に任命、警察権を親衛隊に譲ることになる。これは、ヒトラーの意向、特にユダヤ人排除のためで、ゲーリングは、名誉上「ゲシュタポ長官」のままだったが、実権はヒムラー配下の親衛隊SS国家保安本部ハイドリヒが行使することになる。

写真(右)1935年、ユンカースJu-52タンテ輸送機を操縦する空軍大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)空軍総司令官
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-03105 Original title: info Ministerpr.[&aml;sident] Hermann Göring am Steuer seines Flugzeuges. Archive title: Hermann Göring als General am Steuer seines Flugzeuges Dating: 1935 ca. Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1935年3月、ヒトラーはベルサイユ条約を破棄して、再軍備宣言を行った。それ以前から、民間航空会社、スポーツ航空を通じてドイツ軍は空軍力を養っていたが、公然と空軍を設立し、その最高司令官には、第一次大戦のエース・パイロットで英雄のヘルマン・ゲーリングが就いた。他方、陸軍には自分に自信があり、自ら指揮権を握り、事務的副官としてヴィルヘルム・カイテルを国防軍最高司令部総長に充てた。

対照的に、日本軍では、飛行機操縦ができる将官はほぼ皆無っだったが、彼ら航空操縦・航法・偵察・通信の素人が、第二次大戦で航空戦の司令官として前線で指揮を執っている。例えば、陸軍では、南雲忠一、東条英機、富永恭次、山下奉文、菅原道大、海軍では山本五十六、豊田副武、南雲忠一、小沢治三郎、宇垣纒、大西瀧治郎などが、大規模な航空戦を指揮している。しかし、操縦のできない将官は、航法・通信の面でも素人であり、飛行機技術や航空運用を専門的に学んでおらず、悪天候でも突撃を命じたり、練度不足の搭乗員に長距離攻撃を強いたりして、航空機の整備、運用面で欠点が露呈した。

写真(右)1935年2月26日、ベルリン、ドイツ・ポーランド協会、4月にはゲーリング夫人となる舞台女優エミー・ゾンネマン、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング大将、駐ドイツ・ポーランド大使ジョセフ・リプスキ、ザクセン=コーブルク=ゴータ公カール・エドゥアルト(Carl Eduard, 1884-1954)国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス博士:カール・エドゥアルトは、ドイツ敗戦、帝制廃止で反共産主義者となり、フライコールにも参加、ナチ党に入党して突撃隊(SA)にも加わった。王族だったために、ドイツ赤十字社総裁を1933年から1945年まで、国会議員を1937年から1945年まで務めた。
Eröffnung des Deutsch-Polnischen Instituts Scherl: Festkonzert anlässlich der Eröffnung des Deutsch-Polnischen Instituts an der Lessing-Hochschule im Marmorsaal des Zoos v.l.n.r. Frau Emmy Sonnemann, Ministerpräsident Göring, polnischer Botschafter Lipski, Herzog v. Sachsen-Coburg-Gotha, Reichsminister Dr. Goebbels 26. Feb. 1935 [Herausgabedatum] ADN-ZB/Archiv Faschistisches Deutschland 1933-1945 Festkonzert am 26.2.1935 im Marmorsaal des Zoos anläßlich der Eröffnung des Deutsch-Polnischen Instituts an der Lessing-Hochschule in Berlin. V.l.n.r.: Frau Emmy Sonnemann (spätere Frau Göring), Ministerpräsident Göring, der polnische Botschafter Lipski, der Herzog v. Sachsen-Coburg-Gotha, Reichsminister Goebbels Juli 1935 Ausfahrt mit dem polnischen Aussenminister [Josef] Beck Hermann Göring und der polnische Außenminister Josef Beck mit Frauen in Kutsche sitzend Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräringsident von Preußen, Deutschland Beck, Josef: Außenminister, Oberst, Polen Date July 1935 Photographer Schaack, Lothar Institution
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051619-0037引用。


1932年7月25日、ポーランド・ソ連不可侵条約が結ばれていたが、ポーランドはソビエトとドイツに挟まれており、ドイツと協調できる可能性があった。1934年1月26日に、ドイツ・ポーランド不可侵条約が締結されている。

写真(右)1935年7月、ゴム輪の付いた馬車に乗ったドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング大将夫妻とポーランド外務大臣ヨーゼフ・ベック(Józef Beck)夫妻
Juli 1935 Ausfahrt mit dem polnischen Aussenminister [Josef] Beck Hermann Göring und der polnische Außenminister Josef Beck mit Frauen in Kutsche sitzend Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräringsident von Preußen, Deutschland Beck, Josef: Außenminister, Oberst, Polen Date July 1935 Photographer Schaack, Lothar Institution
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051619-0037引用。


ポーランドのヨゼフ・ベック(Józef Beck)は、第一次大戦では、1918年、ソ連赤軍のポーランド人部隊を組織、戦後はポーランドを率いたヨゼフ・ピウスツキ(Józef Piłsudski)の副官に任命された。1922年、駐フランス武官、1932年11月、ポーランド外務相に任命、ドイツ、ソ連との均衡の中で、ポーランドの立場を強化しようと画策した。

 1932年7月25日、ポーランド・ソ連不可侵条約が結ばれていたが、ポーランドはソビエトとドイツに挟まれており、ドイツと協調できる可能性があった。1934年1月26日に、ドイツ・ポーランド不可侵条約が締結されている。
 1935年3月,ドイツ再軍備宣言German re-armament)がなされ、ヘルマン・ゲーリングは、新設された空軍の総司令官に就任。

その後、ヒトラーは、ポーランド政府によるポーランド在住の民族ドイツ人迫害停止、ポーランド回廊の領土要求を強硬に主張し、1939年4月28日、ドイツ・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄した。1939年9月1日、ドイツはゲシュタポGestapo)によるポーランド軍越境襲撃事件を自作自演し、ポーランドに侵攻する。

写真(右)1935年10月12日、ドイツ、ベルリン、ドイツ空軍大臣ヘルマン・ゲーリング大将とドイツ空軍参謀長ヴァルター・ヴェーファー(Walther Wever)中将
Scherl: Richtfest des Reichs-luftfahrt-ministeriums Der Reichs-luftfahrtminister General der Flieger Göring und Staatssekretär Generallt. Milch während der Feier. Depicted place Berlin Date 12 October 1935
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-2006-1010-502, Berlin, Richtfest des Reichs-luftfahrministeriums.jpg引用。


ドイツ航空委員長だったヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、1933年4月、ドイツ航空省が新設され、初代の航空大臣に任命された。航空省は、民間航空・スポーツ航空を管轄しつつ、ベルサイユ条約で禁じられた空軍力を密かに育成した。1933年5月、国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは、ヒトラーのゲーリング寵愛を受けて、陸軍隷下の陸軍航空隊(Luftschutzamt)を航空省へと移管した。

ハインケル He70 F-2 偵察機全長11.7m、全高3.1m、全幅14.8m、 翼面積 36.5平方メートル、 自重 2300?、全備重量 3420kg、最高速力 360km/h 上昇限度 6000m、航続距離 1400km、発動機 BMW12気筒水冷エンジン750馬力、乗員数 4名、生産320機


ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、1935年5月21日、空軍大将 (General der Flieger)に任じられたが、それまでは名誉陸軍大将で、軍レベルの指揮を執ったことは一度もなかった。空軍参謀長ヴァルター・ヴェーファーWalther Wever)中将は、四発大型長距離重爆を開発、整備することで、ドイツ空軍による戦略爆撃、都市爆撃を重視した。これが、ナチ党政権獲得後に生まれたウラル爆撃機Ural bomber)計画で、ドルニエ社、ユンカース社に対して、四発長距離重爆撃機の開発が要請され、各々ドルニエ Do 19、ユンカース Ju 89という四発試作爆撃機を完成させた。

しかし、1936年6月3日、空軍参謀長ヴァルター・ヴェーファー中将自ら操縦したハインケルHe 70高速輸送機で離陸直後に墜落死、ウラル爆撃機Ural bomber)の構想は後継者エルンスト・ウーデットErnst Udet)の急降下爆撃機優位論の前に放棄された。

写真(右)1936年4月,ドイツ空軍の戦闘機中隊"ホルストヴェッセル" (JG 134)を閲兵するヒトラー総統,空軍司令官ヘルマンゲーリング空軍大将:それまで名誉陸軍大将だったゲーリングは、空軍設立に伴い、1935年5月21日、空軍大将 (General der Flieger)に任じられ、空軍総司令官となった。ドイツ空軍を復活させたヒトラーは、第一次大戦のエースパイロット,ゲーリングを空軍総司令官に任じ,フルトハンザ航空出身のエルハルト・ミルヒ中将(左端)を参謀長とした。右端は,突撃隊SA隊長(粛清されたレームの後任)ヴィクトール・ルッツェで,軍と突撃隊との宥和を演出する。左の機首は,ハインケルHe 51複葉戦闘機で,スペイン内戦にも派遣された。
Übergabe des Jagdgeschwaders "Horst Wessel" (JG 134), vlnr: Generalleutnant Erhard Milch, General der Flieger Hermann Göring, Adolf Hitler, SA-Stabschef Viktor Lutze Dating: April 1936 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1936年,ドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統,ヒトラーユーゲント指導者バルトゥール・フォン・シーラッハ,空軍大臣ヘルマン・ゲーリングプロイセン州首相(Hermann Wilhelm Göring:1893年1月12日-1946年10月15日自殺):ナイフを腰にした狩猟服のゲーリングは,1933年4月,プロイセン州内務大臣に就任。ヘルマン・ゲーリングは、1935年5月21日、空軍大将 (General der Flieger)の階級が与えられ、その後、1936年4月20日、上級大将 (Generaloberst)、1938年2月4日、元帥 (Generalfeldmarschall)、1940年7月、フランスを降伏後、国家元帥 (Reichsmarschall)に叙されている。
Adolf Hitler, Hermann Göring (in Jägerkleidung mit Messer) und Baldur von Schirach auf dem Obersalzberg 1936.
Dating: 1936 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。


ヒトラーによる1935年3月のドイツ再軍備宣言以降、ヘルマン・ゲーリングは,新設された空軍の総司令官に就任し、1936年8月には、新設された四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、戦争準備のための自給自足経済の推進、ユダヤ人資産・不動産・企業経営のアーリア化にも責任を負った。

戦争準備のため経済の軍事化を進める一方で、ヘルマン・ゲーリングは,私財蓄積の機会を活かして、贈収賄ともいえるような強欲な方法で富を築いた。外交面では対英穏健派であり、国内外での人気もあったが、ヒトラーに逆らわず、プロイセン州警察、ゲシュタポ(Gestapo)を使って反政府活動、反政府的言動を取り締まり、水晶の夜事件に際しても、ユダヤ人に保険金相当額以上の賠償を貸すなどして、反ユダヤ主義を躊躇なく推し進めた。ユダヤ人迫害を最終解決しないまま、親衛隊に権限を譲ったが、これはヒトラーの企図を汲んでのことであり、ヘルマン・ゲーリングがユダヤ人問題の穏健な解決を望んだわけではない。

写真(右)1936年9月、ドイツ、ニュルンベルクで開催されたナチ党大会「国防軍の日」に出席する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)上級大将、国民啓蒙宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルス博士、サクソン州首相マルチン・ムッチマン(Martin Mutschmann)、ドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront:DAF)国家指導者、ロベルト・ライ(Robert Ley)博士
Nürnberg, Reichsparteitag, Tag der Wehrmacht Tag der Wehrmacht in Nürnberg. Bildbericht von der Wehrmachtsvorfährung am Vormittag Die Befehlshaber der 3 Wehrmachtsteile von links nach rechts: Generaloberst [Hermann] Göring , Generaloberst Fhr. [Werner] v. Fritsch und Generaladmiral Dr.h.c. [Erich] Raeder [Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP "Reichsparteitag der Ehre", 8.-14. September 1936]
Abgebildete Personen: Göring , Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Goebbels, Joseph: Reichsminister fär Volksaufklärung und Propaganda, Gauleiter Berlin, Deutschland Mutschmann, Martin: Gauleiter, Reichsstatthalter in Sachsen, Deutschland (GND 117204587) Ley, Robert: Reichsorganisationsleiter, Deutsche Arbeitsfront (DAF), Generalrat der Wirtschaft, Deutschland Schwarz, Franz Xaver: Reichsschatzminister der NSDAP, Deutschland Depicted place Nuremberg Date September 1936 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H00455, 45引用。


1935年3月、ベルサイユ条約の軍事制限条項を破棄したドイツ再軍備宣言後に、陸軍総司令部(Oberkommando des Heeres:OKH)が正式に設立され、ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch)上級大将が陸軍総司令官に、参謀総長にルートヴィヒ・ベック上級大将が就任した。

写真(右)1936年9月4-14日、ドイツ、ニュルンベルクで開催されたナチ党大会「国防軍の日」に出席する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)上級大将、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch)上級大将(ゲーリング右)、海軍総司令官エーリヒ・レーダー(Erich Johann Albert Raeder)提督: Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme.
Info non-talk.svg Nürnberg, Reichsparteitag, Tag der Wehrmacht Tag der Wehrmacht in Nürnberg. Bildbericht von der Wehrmachtsvorführung am Vormittag Die Befehlshaber der 3 Wehrmachtsteile von links nach rechts: Generaloberst [Hermann] Göring , Generaloberst Fhr. [Werner] v. Fritsch und Generaladmiral Dr.h.c. [Erich] Raeder [Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP "Reichsparteitag der Ehre", 8.-14. September 1936]
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H00455, 45引用。


1935年のドイツ再軍備宣言、後に新設された陸軍総司令部(Oberkommando des Heeres:OKH)の隷下に、参謀本部(1935-1938年の参謀総長はルートヴィヒ・ベック上級大将)、人事局、兵器局、国内予備軍、各軍集団が置かれている。

写真(右)1936年12月24日、ベルリン、クリスマスイブの子供式典に参加し子供たちにプレゼントを配る空軍大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相とサンタクロース
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-17751
Original title: info Göring und Goebbels bescheren Weihnachtsgaben an Berliner Kinder. 24.12.1936 Archive title: Berlin.- Verteilung von Weihnachtsgeschenken an 500 Berliner Kinder durch Hermann Göring und Joseph Goebbels im Konzerthaus "Clou", Ehepaar Hermann und Emmy Göring mit dem Weihnachtsmann und zwei Mädchen Dating: 24. Dezember 1936 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


女優エミー・ゲーリング(Emmy Göring)夫人は、ヒトラーが独身だったため、ナチ党ファーストレディ、ドイツの女性代表としての地位を得たかった。エミー・ゲーリング(Emmy Göring)は、ゲーリングの大邸宅「カリンハル」で第三帝国の「ファーストレディ」を演出した。しかし、同じくファーストレディの役割を果たそうとした国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス夫人マグダ・ゲッペルスと対立することが多かった。

写真(右)1936年12月24日、ベルリン、クリスマスイブの子供式典に参加した空軍大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相。サンタクロース、妻のエミー,国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス博士も出席しベルリンの子供たちにクリスマスプレゼントを持参した。:クリスマスのガチョウを食べたようだ。女優エミー・ゲーリング(Emmy Göring)夫人は、ベルリン国立劇場の女優だった。ゲーリングとの間に、女優エミー・ゲーリング(Emmy Göring)は、1938年6月に一人娘のエッダを儲けている。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-17749 Original title: info Göring und Goebbels bescheren Weihnachtsgaben an Berliner Kinder. 24.12.1936 Archive title: Berlin.- Verteilung von Weihnachtsgeschenken an 500 Berliner Kinder durch Hermann Göring und Joseph Goebbels im Konzerthaus "Clou", Ehepaar Hermann und Emmy Göring mit dem Weihnachtsmann und zwei Mädchen Dating: 24. Dezember 1936 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1936-1938年頃、ドイツ、メルセデスに乗ろうとするプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring):ヒトラーがオーストリア併合の時に乗ったメルセデス 770Kは、防護装備が施されており、車体の側面と下部には装甲板が装備されていた。また、フロントガラス(シールド)は防弾ガラスを使用した。エンジンは、スーパーチャージャー付き7.7リッター直列8気筒エンジンで、最高出力230馬力と、飛行機並みだった。現在のメルセデス・ベンツは、豊富なラインナップがあり、乗車人数も価格もかなりの差がある。コンパクトタイプのAクラスから、Bクラス、Cクラス、Eクラスがあるが、車体の作り、内装は高級車として作られているので、決して戦時向きでも量産向きではない。
Hermann Göring steigt in einen Mercedes Depicted people Göring , Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 146-1979-169-07引用。


ドイツ再軍備宣言、空軍創設により空軍総司令官の地位を手にし、1935年5月21日、空軍大将 (General der Flieger:それまでは陸軍大将)に叙せられたヘルマン・ゲーリングだったが、警察権については、ヒトラーの意向で、1934年4月20日、親衛隊SS国家指導者ハインリヒ・ヒムラーをゲシュタポ総監に任命した。ゲーリングは、形式的には「ゲシュタポ長官」のままだったが、実権はヒムラー配下の親衛隊SS国家保安本部ハイドリヒに移ったのである。

写真(右)1937年7月18日、ドイツ、バイエルン州ミュンヘン、「ドイツ芸術の日」に「退廃芸術」を鑑賞するプロイセン首相ヘルマン・ゲーリング上級大将とアドルフ・ヒトラー首相兼総統:ナチ党は抽象化・超現実主義化した近代美術を退廃・堕落した芸術として烙印を押し、ロマン主義、写実主義を重んじる復古的な芸術をドイツ公認の国家芸術とし、アーリア人の優秀性を発揮する人種差別と結び付けた。
"Tag der Deutschen Kunst" in München. Der Führer beim Rundgang durch die Ausstellung. Der Führer im Gespräch mit Prof. Ziegler, links Generaloberst Göring. Fot. Mü Depicted people Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Date 18 July 1937 Photographer Unknownwikidata: Q4233718 Institution German Federal Archives
写真は Wikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 183-C10110引用。


写真(右)1938年1月12日、ドイツ、1893年生まれ45歳の誕生日、ヒトラーから美術品を贈られられるプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)上級大将:Original historic description: Scherl: Der 45. Geburtstag von Ministerpräsident Generaloberst Göring . Um die Mittagsstunde erschien der Führer in der Wohnung des Ministerpräsidenten, sprach ihm seine Glückwünsche aus und überreichte ihm ein wertvolles Gemälde als Geschenk. Fot.: Mü 12.1.1938 Zentralbild:45. Geburtstag Göring . Adolf Hitler überreicht Hermann Göring zum Geburtstag ein Gemälde. Der Hauptkriegsverbrecher Göring wurde vom Internationalen Militärgerichtshof in Nürnberg zum Tode verurteilt. Date 28 March 2009, 23:09 (UTC
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H00455, 45引用。


写真(右)1935年10月12日、ドイツ、ベルリン、ヴィルヘルム通りに建設中の航空省庁舎ビルを見上げる設計者エルンスト・ザーゲビール(Ernst Sagebiel)博士、航空大臣ヘルマン・ゲーリング大将、一人置いて航空省次官エアハルト・ミルヒ:航空省庁舎ビルを設計したエルンスト・ザーゲビールは、テンペルホーフ空港の設計も行っている。航空省庁舎ビルは、1936年8月に完成。1933年4月にドイツ航空委員会が設置され。1936年6月、エルンスト・ウーデットが技術開発部局長に就任。
Scherl: Richtfest des neuen Reichs-luftfahrt-ministeriums in Berlin am 12. Oktober 1935. vlnr: Der Baumeister Prof. Dr. Ing. [Ernst] Sagebiel, Reichsluftfahrtminister General der Flieger Hermann Göring , der Zimmerpolier Franz Hecht, der den Richtspruch sprach, Staatssekretär [Erhard] Milch beobachten das Hochziehen der großen Richtkrone. Depicted place Berlin Date 12 October 1935 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H28070, Berlin, Reichsluftfahrtministerium, Richtfest.jpg引用。


写真(右)1938年3月1日、空軍記念日、ドイツ、ベルリン、完成した航空省官邸の前で行われた祝賀パレードを閲兵する航空省大臣・空軍総司令官・プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング元帥:ゲーリング空軍大将は、1938年2月4日、元帥 (General-feldmarschall)に昇進している。右から、航空省フリードリッヒ・クリスチャンセン(Friedrich Christiansen)中将, 突撃隊幕僚長ヴィクトール・ルッツェ(Viktor Lutze)科学教育文化大臣ベルンハルト・ルスト(Bernhard Rust)博士、,陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ(Walther von Brauchitsch)上級大将、航空省次官エアハルト・ミルヒ(Erhard Milch), 海軍総司令官エーリヒ・レーダー(Erich Raeder)提督。クリスチャンセン中将は、第一次大戦で撃墜13機の海軍パイロットで、戦後1930年、ドルニエ Do X飛行艇でドイツからアメリカまでの大西洋横断初飛行をするなどして名声を馳せた。1933年、ナチ党政権で航空省が設置されると、そこに努めた。
English: Luftwaffe day parade in front of the Reich Air Ministry on Wilhelm Göring-Strasse in 1938. After Field Marshal Hermann Göring from right to left Lieutenant General Friedrich Christiansen, Chief of Staff Viktor Lutze, Minister Rust, the commander of the army, General Walther von Brauchitsch, Secretary of aviation Erhard milch, Admiral Erich Raeder. Christiansen, Friedrich: General der Flieger und Befehlshaber in den Niederlanden, Deutschland Brauchitsch, Walther von: General-feldmarschall, Oberbefehlshaber des Heeres, Deutschland (GND 116414855) Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Milch, Erhard: Generalfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Luftwaffe, Deutschland (GND 118582402) Lutze, Viktor: Stabschef der SA, Reichsleiter NSDAP, Oberpräsident Hannover, Deutschland Raeder, Erich: Großadmiral, Oberbefehlshaber der Kriegsmarine, Deutschland (GND 118743511) Rust, Bernhard: Minister für Wissenschaft, Erziehung und Volksbildung, Gauleiter, Deutschland (GND 119368617) Depicted place Berlin Date 1 March 1938 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H00455, 45引用。


写真(右)1938年3月1日、空軍記念日、ドイツ、ベルリン、完成した航空省官邸の前で行われた祝賀パレードを閲兵する航空省大臣・空軍総司令官・プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング元帥:1938年、ヴィルヘルム通りの名称は、ヘルマン・ゲーリング通りと変更された。
Tag der Luftwaffe 1.3.38. Parade der Ehrenabteilung der Luftwaffe vor dem Oberbefehlshaber der Luftwaffe Generalfeldmarschall Göring in der Wilhelmstrasse. Berlin, Wilhelmstraße.- Parade vor dem Reichs-luftfahrtministerium Depicted place Berlin Date 1 March 1938 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H02734, Berlin, Parade am Tag der Luftwaffe.jpg引用。


1935年3月16日、ヒトラーがドイツ再軍備を宣言すると、 徴兵制度が復活され、それまでの国軍(Reichswehr:ヴァイマル共和国軍)は国防軍(Wehrmacht)となり、陸軍(Heer)・海軍(Kriegsmarine)に加えて、空軍(Luftwaffe)が新設された。初代の空軍総司令官は、ヘルマン・ゲーリングで1935年5月21日、空軍大将 (General der Flieger)の階級が与えられた。
 その後、1936年4月20日、上級大将 (Generaloberst)、1938年2月4日、元帥 (Generalfeldmarschall)、1940年7月、フランスを降伏後、国家元帥 (Reichsmarschall)に叙されている。

1937年当時,ヒトラー総統は,まだドイツ参謀本部が戦略の専門家であると信頼していた。1935年3月16日のドイツ再軍備宣言German re-armament)以来,勇ましさ言葉を口にしていた将軍たちは,戦争開始となるととたんに怯え始め,慎重論を説くようになった。参謀本部の将軍たちは,戦略家を気取っていたが,戦争を時期尚早として異議を唱えた。これを,ヒトラー総統は,戦争に怯えた弱腰の将軍と感じるようになった。総統が期待していたのは,旺盛な戦意のある勇敢な戦士であり,的確に戦争開始・遂行する戦略顧問となる将軍だった。ヒトラーに忠実で、いざとなれば戦争突入を厭わないのが、ヘルマン・ゲーリングだった。

戦争を開始できない弱腰の陸軍総司令官フリッチュ将軍,国防大臣ブロンベルク(Blomberg)将軍は,ともに1938年に現役から追われた。陸軍総司令官フリッチュ将軍は,同性愛の嫌疑をかけられ,裁判では,有罪にはならなかったが,恥辱を受けた。追放されたフィリッチュ将軍は,1939年9月のポーランド侵攻に加わり、戦死。事実上,名誉を守るための自決的突撃だった。ポーランドに侵攻したドイツ軍は,彼が育て上げたものだった。

陸軍大臣ブロンベルクWerner von Blomberg)元帥は,いかがわしい評判の女性と結婚していたことが問題とされた。ヒトラー総身,結婚式に出席していたのだが,戦争計画に反対する将軍は排除されなくてはならない。ヒトラー総統は,陸軍大臣を解任した。

エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンブロンベルクErwin von Witzleben)元帥(1881-1944/8/9処刑)も,ヒトラー総統に,1942年3月,西方軍最高司令官を罷免された。

これらの失職した将軍たちの多くが,1944年7月のヒトラー暗殺事件に関与した。しかし,誰一人として,ヒトラー総統に自ら銃を向けたり,対面したりして,正々堂々と反乱を起こしたものはいなかった。将軍たちは,ヒトラー暗殺には直接手を下さず,暗殺後の政治的・軍事的指導者の地位を手に入れようとした。ヘルマン・ゲーリングは、ヒトラーに最後まで忠実だったが、ドイツの国家指導者の地位を引き継ぎたいとの希望をあらわにしたために、最後の瞬間に失脚した。


オーストリアとステーテンラント併合を果たしたドイツ空軍総司令官ゲーリング元帥

ヒトラー総統は,大ドイツ「グロス・ドイッチュラント」を復興することを目指していた。そこで、アーリア人至上主義を掲げ,ドイツ以外の国に居住するドイツ系住民、すなわちフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなし、自国に併合することを望んだ。ヒトラーは、1938年,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域を,ドイツに併合するべきだと主張して、武力をもって威嚇し始めた。

写真(右):1938年3月、アンシュルスAnschluß(オーストリア併合)を宣言したドイツ国会のアドルフ・ヒトラー総統と、右の国会中央席の国会議長のヘルマン・ゲーリング元帥:上級大将 (Generaloberst)だったゲーリングは、 1938年2月4日に元帥 (Generalfeldmarschall)に昇進している。
"Hitler accepts the ovation of the Reichstag after announcing the `peaceful' acquisition of Austria. It set the stage to annex the Czechoslovakian Sudetenland, largely inhabited by a German- speaking population." Berlin, March 1938. 1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けた。これが,ホスバッハ会議である。ブロンベルクとフリッチュは,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対した。そこで,フレームアップされたスキャンダル事件によって二将軍は,失脚,更迭されてしまう。
1938年2月、ヒトラー総統はオーストリアのシュシュニク首相とベルヒテス・ガーデンで会談し,オーストリア・ナチ党首ザイス・インクワルトを内相に任命するよう強要した。シュシュニク首相は,ドイツ合併を国民投票にかけようとしたが,ドイツは武力攻撃すると脅迫し,1938年3月,インクワルトを首相とし,彼はドイツ軍のオーストリア進駐を要請。ヒトラー総統は,3月10日、ドイツ軍のオーストリア進駐を命じた。3月12日,アンシュルス(Anschluß/Anschluss)が宣言された。NARA( National Archives and Records Administration): 208-N-39843.引用。


1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg)墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチ党首のオーストリア人ザイス=インクワルト (Arthur Seyss-Inquart)を内務大臣に任命させた。

オーストリア共和国クルト・フォン・シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせようとした。しかし、ヒトラーは、オーストリアの国民投票がオーストリア独立を選択することを恐れ、オーストリアで騒擾を引き起こすように仕向けた。こうして、選挙権を巡るオーストリア国内の内紛が起きてしまい、国民投票が実施できるかどうか危い状況になった。するとヒトラー総統は,投票前の1938年3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐を果たした。

写真(右)1938年3月,オーストリア、ウィーン、ドイツによるオーストリア共和国の併合(アンシュルス)によってドイツ空軍に編入された元オーストリア空軍を閲兵するドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)元帥、後方には、元オーストリア防空大臣アレクサンダー・レーア少将、ドイツ空軍フーゴ・シュペルレ少将(右):ヘルマン・ゲーリングは、1935年5月21日、空軍大将 (General der Flieger)の階級が与えられ、その後、1936年4月20日、上級大将 (Generaloberst)、1938年2月4日、元帥 (Generalfeldmarschall)、1940年7月、フランスを降伏後、国家元帥 (Reichsmarschall)に叙されている。
Inventory:Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-H04020 Old signature: Bild 146-1986-086-28 Original title: info Generalfeldmarschall Göring in Wien Der Generalfeldmarschall schreitet nach Eintreffen auf dem Flugplatz Aspern die Front der Ehrenkompagnie der oesterreichischen Luftwaffe ab. Phot Wag Archive title: Österreich, Wien.- Besuch von Generalfeldmarschall Hermann Göring bei der österreichischen Luftwaffe. Von links: General Alexander Löhr, General Hugo Sperrle, Generalfeldmarschall Hermann Göring Dating: März 1938 Photographer: Wagner Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


 オーストリアナチ党ザイス=インクヴァルト(Seyß-Inquart)は、ドイツの圧力でオーストリアの実験を握り、オーストリアをドイツの一州、オストマルク州とする法案に署名し、ヒトラー総統にオーストリアを差し出した。これにより、オーストリア軍は、ドイツ軍に併合され、空軍はヘルマン・ゲーリングの支配下に置かれた。

1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーン、Heldenplatz)

「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国Großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。
 私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルクOstmark(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」

写真(右) 1938年3月16日,ベルリン,併合したオーストリアから首都に帰ってきて総統官邸バルコニーで市民の歓呼に応えるヒトラー総統と空軍総司令官ゲーリング元帥:水曜日の午後,、首都ベルリンでは,大群衆が情熱的に,統一ドイツの国家指導者ヒトラーとゲーリングを迎えた。「百万の同胞のために歓呼して彼を迎える」観衆に,オールトリア併合の旅から意気揚々と引き上げて来て,ヴィルヘルム広場(Wilhelmsplatz)に現れた。ヘルマン・ゲーリングは、1936年4月20日、上級大将 (Generaloberst)、1938年2月4日、元帥 (Generalfeldmarschall)に叙されている。
Die Reichshauptstadt Berlin empfing am Mittwochnachmittag den Führer der geeinten deutschen Nation mit einer überwältigenden Begeisterung. Millionen Volksgenossen säumten den Weg, den der Führer nahm, um ihn mit ihren Jubelrufen zu begrüßen. Nach der Triumphfahrt durch das Spalier der Millionen mußte sich dann der Führer und Reichskanzler im Laufe des Abends immer wieder den jubelnden Hunderttausenden auf dem Wilhelmplatz zeigen, die ihm und seinem Generalfeldmarschall begeisterte Dankeskundgebungen bereiteten. Scherl Bilderdienst 16.3.38 Archivtitel: Berlin.- Adolf Hitler und Hermann Göring auf Balkon der Reichskanzlei nach der Rückkehr aus Österreich Datierung: 16. März 1938 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl br>ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラーは,栄光ある大ドイツの復活を宣言したが,同時に,ドイツ国内,併合したオーストリアのユダヤ人への迫害もすぐに始めた。ドイツ帝国にはないナチスの人種民族差別を採用しておきながら,第三帝国だの,栄光あるドイツの復興だの,伝統に見せかけたエセ歴史学を展開したのがナチ党で、その偽りの栄華に酔っていたのがヘルマン・ゲーリングだった。

チェコスロバキアCzechoslovakia)は,多民族国家で,民族ドイツ人300万名が居住していた。ヒトラーは,これを口実に、民族ドイツ人の多いズデーテンラントSudetenlandは,ドイツ領に編入されるべきことを主張する。

写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘン中央駅、ミュンヘン会談に臨む独伊代表、左から、プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)空軍総司令官イタリア首相ベニート・ムッソリーニ、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano):右から、外務大臣ウルリヒ・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Ulrich Joachim von Ribbentrop)、ヒトラーの副官ユリウス・シャウプ(Julius Schaub)
29.09.1938: Hitler + Mussolini treffen in München ein. lks. Göring, rechts Graf Ciano München.- Hermann Göring, Benito Mussolini, Adolf Hitler und Graf Galeazzo Ciano ( v.l.) beim Verlassen des Hauptbahnhofs, 2.Reihe, rechts hinter Hitler: Heinrich Himmler Depicted people Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien Ciano, Galeazzo Graf: Außenminister, Italien (GND 119178362) Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938 Photographer Unknown wikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051622-0023引用。


ドイツは,チェコスロバキア(Czechoslovakia)のズテーテンラントをドイツに割譲するように強硬に要求を続けたが、チェコスロバキアは不当な領土割譲要求を拒否した。そして,ドイツの恫喝に屈せず,1938年9月23日,動員令で答えた。チェコスロバキアとの同盟関係にあったフランス(1924年),ソ連(1935年)の出方が注目された。

チェコスロバキアは,ドイツ軍を迎え撃つために,総動員を開始しする一方で、ドイツは,ズデーテンラントを引き渡すように迫り、1938年9月28日までにチェコスロバキア軍をズテーテンラントから撤退させることを要求した。これは,過激な内政干渉であり、ドイツからチェコスロバキアへの最後通牒と見なされた。

1938年9月24日,チェコスロバキアと同盟を結んでいたフランスのエドアール・ダラディエEdouard Daladier:1884-1970)首相は,チェコスロバキア支援のために,動員令を発した。ついでイギリス首相アーサー・ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain)もフランスに加勢すれば、1938年9月,第二次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ中が危機に陥れられた。

写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘンの中央通りをミュンヘン会談に向かうイタリア首相ベニート・ムッソリーニと話すアドルフ・ヒトラー首相、左からプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)空軍総司令官、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano):通りには儀仗兵と衛兵が配置され、警備している。
Scherl: Historische Stunden in München Heute begannen in München die Besprechungen des Führers mit den führenden Staatsmännern Europas über das Schicksal des sudetendeutschen Landes. UBz: den Führer und der italienische Regierungschef Benito Mussolini kurz nach dem Verlassen des Münchener Hauptbahnhofs. Hinter dem Führer der italienische Aussenminister Graf Ciano und Generalfeldmarschall Hermann Göring. 29.9.1938 12861-38 Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 146-1976-033-06引用。


イギリス首相ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain)は,イタリアムッソリーニの仲介を経て、英仏独の首脳会談を開催して、戦争の危機を回避しようと努めた。

写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘンの中央通りをミュンヘン会談に向かうフランス首相エドゥアール・ダラディエ(左後席)を迎えた航空大臣ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)空軍総司令官:フランス首相ダラディエ1は、1919年、急進社会党の選出の下院議員となり、1924年にエリオ内閣の植民地大臣となる。1933年に首相、1936年に急進社会党の党首となり、首相レオン・ブルム率いる人民戦線内閣の国防大臣に入閣。1938年、3度目の首相に就任、9月のミュンヘン会談に参加。
Frankreichs Ministerpräsident mit Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Nach der ersten Besprechung im Führerbau in München begleitete Generalfeldmarschall Hermann Göring den franzäsischen Ministerpräsidenten Daladier im Kraftwagen zu dessen Hotel. Daladier und Göring waren Mittelpunkt lebhafter und herzlicher Kundgebungen der Tausende, die die Strassen umsäumten. UBz.: Ministerpräsident Daladier und Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Scherl Bilderdienst, Berlin 29.9.39 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H12963,引用。


こうして,英独の協議の末、チェコスロバキアにズテーテンラントをドイツに割譲させるという犠牲の下で,世界大戦を回避する方針が決定した。1938年9月18日,ロンドンで,ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相とが協議し,ドイツのズテーテンラント併合を認めるようチェコスロバキアに圧力をかけた。

1938年9月19日,プラハ駐在の英仏大使は,チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュのところに出向き,ズデーテンラントのドイツ割譲を勧告する本国指令を伝達する。

写真(右)1938年9月30日、ドイツ、ミュンヘン会談でミュンヘン協定に署名するアドルフ・ヒトラー首相、後方にイタリア首相ベニート・ムッソリーニと話すプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)空軍総司令官:右から、外務大臣ウルリヒ・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Ulrich Joachim von Ribbentrop)、ヒトラーの個人的副官ユリウス・シャウプ(Julius Schaub)
Hitler unterschreibt das Abkommen von München am 30.9.1938, v.r.n.l.: Joachim von Ribbentrop, Julius Schaub, Adolf Hitler, Benito Mussolini, Hermann Göring Depicted people Hitler, Adolf: Führer und Reichskanzler, Deutschland Schaub, Julius: SS-Gruppenführer, persönlicher Adjutant Adolf Hitlers, Deutschland Ribbentrop, Joachim von: Außenminister, NSDAP, Deutschland Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien Göring , Hermann: Ministerpräsident Preussens und Oberbefehlshaber der deutschen Luftwaffe, Deutschland Depicted place Mönchener Abkommen Date 30 September 1938 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 146-1976-033-06引用。


主権を侵害されたチェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュEdvard Beneš:1884-1448)は,怒りズテーテン割譲勧告をいったんは拒否したが、イギリスは,チェコスロバキアの運命に関連しない,とチェンバレンはベネシュを見放した。9月21日、ベネシュは、チェコが孤立したことを悟り、ドイツへの抵抗を諦め、ステーテンラント割譲という無慈悲な勧告を受諾した。

写真(右)1938年9月30日、ドイツ、ミュンヘン、ミュンヘン会談に尽力したイタリア首相ベニート・ムッソリーニが帰国する際、花束を贈るドイツ処女団(Bund Deutscher Mädel: BDM)の隊員と見守るアドルフ・ヒトラー首相、航空省大臣ヘルマン・ゲーリング空軍総司令官
Der Duce nahm herzlichen Abschied von München Unmittelbar nach Beendigung der Viermächtebesprechung im Führerhaus in München, begab sich der Duce in Begleitung des Führers zum Bahnhof, um seinen Zug zur Rückfahrt nach Italien zu besteigen. Kurz vor der Abfahrt überreichte ein BDM-Mädchen dem Duce einen Blumenstrauss. Die beiden Staatsmänner verabschiedeten sich darauf in einer besonders herzlichen Weise. UBz: den Führer, Mussolini und (ganz rechts) Generalfeldmarschall Göring. Scherl Bilderdienst, Berlin 30.9.1938 Depicted place Münchener Abkommen Date 30 September 1938 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-2005-0502-502引用。


1936年のヒトラーユーゲント法によって、全てのドイツ人未成年男女がヒトラーユーゲントに参加することが強制され、女子はドイツ処女団(Bund Deutscher Mädel::BDM)に加わった。BDMは、男性優位社会の中で、家族を支える「良妻賢母」を育成すること、兵士・労働者を増やす「産めよ育てよ」を目標としている。また、戦争のための軍事訓練として、体育を養うスポーツや徒歩行軍、看護・衛生訓練、防災訓練、軍歌練習などが取り入れられた。
1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,そのために140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝の王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣が,ニュルンベルクに運び込まれた。

「四種のハプスブルク皇帝標章(四種の神器)」は,1848年,二月革命の最中,フランクフルト国民議会で廃止された。

神聖ローマ帝国を引き継ぐ皇帝の象徴は,剣、宝珠、笏、王冠であり,それをつけた「双頭の鷲」が,ハプスブルク帝国の国章だった。ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地のニュルンベルクに永遠に留まると誓約した。

1938年3月のドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)、9月のニュルンベルクのナチ党大会に続いて、11月には、反ユダヤ大暴動が起こった。このユダヤ人商店のガラスが飛び散った破壊の夜を,「クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜」(Novemberpogrome 1938 )と呼ぶ。ナチス党のドイツ政府が人種民族差別を行い,被差別少数派に暴力を振るったのである。

クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜) は、1938年11月9日夜から10日未明にかけて、ドイツの各地で引き起こされた反ユダヤ人暴動である。ゲッペルス率いる啓蒙宣伝省が煽動し、親衛隊・突撃隊が中心となり、ユダヤ人の商店、シナゴーグ(教会)などを次々と襲撃し、放火した。警察は、暴動や放火がドイツ人住宅・商店に及ばないように警戒したが、暴動を阻止しなかった。周辺のドイツ人住民は、暴動に際して、積極的にかかわったわけではなかったが、暴動を傍観した。

結果として、ユダヤ人への暴力がドイツ国民に許容されたと判断したヒトラー、ナチ党幹部は、その後、大規模なユダヤ人差別、迫害を進めることになった。その意味で、クリルタルナハトは、ホロコースト、ユダヤ人絶滅への大きな転換点と言える。

クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜) の名称は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにキラキラきらめいていたことから、ナチ党政権が使用した用語であるが、自然発生的なものでなく、仕組まれた暴動であることを強調して、「11月9日のポグロム」と呼ぶようになった。

TO ALL REGIONAL AND SUB-REGIONAL GESTAPO OFFICES sent at 1:20AM, November 8, 1938,SUBJECT: MEASURES AGAINST THE JEWS THIS NIGHT :1938年11月8日ハイトリッヒReinhard Heydrichからからゲシュタポ長官ヘルマン・ゲーリング宛ての水晶の夜に関する報告書

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言した。
1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。


スペイン内戦に介入したドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

1936年のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合(アンシュルス)は,この復活させたドイツ国防軍を使って,達成した。しかし,国防軍と並んで,ヒトラーは自分の護衛部隊として育成してきた親衛隊を,国防軍に次ぐ第二の軍事組織に拡張していく。

大戦直前,親衛隊は,軍と並ぶ第一線戦闘部隊も編成し,その後,武装親衛隊として,陸海空三軍に次ぐ軍隊となっていた。SSの特徴は,ナチズムを信奉するヒトラー直属の政治的兵士であることで、SSには,最終的に30万人の警察,各々4万人の強制収容所看守とゲシュタポ,90万人の武装親衛隊が所属した。こうして,ヒトラーは,国防軍の権威も失墜させていったのである。

写真(右)1938年12月8日,ドイツ、キール軍港、空母「グラーフ・ツェペリン」進水式に参列したアドルフ・ヒトラー総統、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥;後方には,親衛隊国家長官ヒムラー,ブリュックナー主席副官,大統領府長官オットー・マイスナー,ブリュックナー国務大臣,ボーデンシャツ少将,フォン・リンベントロップ外務大臣。
Kiel.- Adolf Hitler beim Abschreiten einer Ehrenformation anläßlich des Stapellaufs des Flugzeugträgers "Graf Zeppelin"; rechts: Hermann Göring Date 8 December 1938 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・Bundesarchiv Bild 183-2006-0810-500,引用(他引用不許可)。


他方、ドイツ海軍は,大型戦艦「ビスマルク」型2隻,巡洋戦艦「シャルンホルスト」型2隻, ポケット戦艦「ドイッチュラント」型3隻を建造,就役させたが、航空母艦は就役させることができなかった。こうして、ドイツ海軍の水上艦艇は、イギリス海軍艦艇には全く対抗できず、潜水艦による交通破壊戦だけが残された手段となった。その意味で、ドイツ国防軍の陸海空三軍といっても、実力の上で、陸軍と海軍がその二大柱だった。

写真(右)1939年2月,ベルリン,ペルガモ博物館で日本展を訪問したヒトラー総統とゲーリング元帥;後方には,親衛隊国家長官ヒムラー,ブリュックナー主席副官,大統領府長官オットー・マイスナー,ブリュックナー国務大臣,ボーデンシャツ少将,フォン・リンベントロップ外務大臣。
Der Führer bei der Eröffnung der "Japanischen Kunstausstellung" im Deutschen Museum. Der Führer verabschiedet sich nach der Eröffnung der Ausstellung vor der zum Pergamon Museum führenden Brücke von Gen.Feldmarschall Göring. In der Umgebung des Führers sehen wir Reichsfüher der SS Himmler, Chef-Adjudant Brückner, Staatsminister Dr. Meissner, Staatssekretär Körner, Gen.Major Bodenschatz und der Reichsminister v. Ribbentrop und Rust. Phot. Ho. 28.2.39 2749-39 Dating: Februar 1939 Photographer: Ho[ffmann?]撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1936年にスペイン市民戦争Spanish Civil War)が勃発すると,ヒトラーは、間髪をいれずに, フランシス・フランコFrancisco Franco:1892-1975) 将軍の反乱軍(国民戦線)に軍事援助を行った。これは,ドイツ義勇軍との建前をとったが、実際はドイツ空軍,ドイツ陸軍の正規部隊から成るコンドル軍団Legion Condor)の派遣である。

  1936年7月から1939年3月まで2年半も続いたスペイン内戦Spanish Civil War)の契機は、1936年の総選挙でスペイン人民戦線が勝利したことに対して、 フランシス・フランコFrancisco Franco) 将軍らに率いられてた植民地軍が反乱を起こしたことである。反乱軍は、ファランヘ党と組んで、ファシズム政権を樹立しようとし、人民戦線・共和国政府と内戦状態に入った。イギリス、フランス、アメリカは、内政不干渉の立場に立ったが、ドイツとイタリアは、ファシスト反乱軍を軍事援助した。このとき派遣されたドイツ義勇軍(実際は正規軍)が、コンドル軍団Legion Condor)である。

ゲルニカ 1937年 -ピカソ-:スペインでは1936年の選挙でスペイン人民戦線が勝利し、政権の座に着いたが、スペイン植民地のモロッコでスペイン軍の一部が、フランシスコ・フランコ将軍らに率いられてファシズムを奉じるファランヘ党と組んで、反乱を起こした。これがスペイン内戦である。1937年4月26日、ドイツが派遣したコンドル軍団のユンカースJu52爆撃機、ハインケルHe111爆撃機がバスク地方ゲルニカ(Guernica)を空爆した。パリでゲルニカ爆撃を聞いたスペイン人画家ピカソは、1937年パリ万国博覧会のスペイン館展示予定の壁画を製作中だったが、急遽テーマを変更してゲルニカを題材に取り上げ完成させた。

 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1936年に中佐としてドイツ義勇軍・コンドル軍団Condor Legion)の指揮官としてスペイン内戦Spanish Civil War)に参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を実行したコンドル軍団の参謀となった。スペインでは、ゲルニカ空襲Bombing of Guernica)ゲルニカのような都市爆撃から、エルンスト・ウーデットErnst Udet)らが重視した急降下爆撃まで様々な戦術が実戦で試された。

1937年4月26日、バスク地方ゲルニカGuernica)が、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍コンドル軍団Condor Legion)の爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。

スペイン市民戦争Spanish Civil War)で人民戦線側の共和国軍,国際旅団と戦闘を交えるという実戦訓練によって,ドイツ軍は,航空支援の有効性,機動力を活かした電撃戦の着想を得た。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦に参加したドイツ「コンドル軍団」を率いたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)少将と握手する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(Hermann Göring)(右):第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1938年11月、少将として、コンドル軍団長としてスペイン内戦に二度目の派兵。1939年5月に、コンドル軍団は凱旋、ドイツに帰国した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06827 Original title: info ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der deutschen Interventionstruppen in Spanien, die auf der Seite des faschistischen General Franco gegen die spanische Republik kämpfte. Im Frühsommer 1939 kehrten die Angehörigen der Legion Condor nach Deutschland zurück. UBz: Rückkehr der "Legion Condor" im Hamburger Hafen. Generalfeldmarschall Göring begrüßt Generalmajor Freiherr Wolfram von Richthofen. 31.5.1939 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり、ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ヘルマン・ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦から凱旋したドイツ「コンドル軍団」司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将とともにコンドル軍団を閲兵する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1936年4月20日に上級大将 (Generaloberst)になったゲーリングは、第二次大戦1年半前、1938年2月4日に、元帥 (Generalfeldmarschall)に昇進した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06857 Original title: info ADN-ZB Legion Condor- in Hamburg Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front, der in einem riesigen Viereck auf der Moorweide angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Freiherr von Richthofen, ferner der kommandierende General des 10. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 31.5.39 ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der faschistischen deutschen Interventionstruppen zur Unterstützung des Franco-Putsches in Spanien. Das Personal (etwa 6000 Mann) wurde ständig ausgewechselt, um kriegserfahrene Manschaften und Offiziere heranzubilden. Ende Mai 1939 kehrte die Legion Condor nach Deutschand zurück. UBz: Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front der auf der Moorweide in Hamburg am 31.5.1939 angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Wolfram Freiherr von Richthofen, der kommandierende General des X. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Hugo Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 7058-39 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1937年10月、スペインから帰還したヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団Condor Legion)は、ドイツに凱旋し,プロイセン州首相・空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥から盛大な歓迎を受け、栄誉を与えられた。

 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1936年に中佐としてスペイン内戦にドイツ義勇軍「コンドル軍団」の指揮官として参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を実行したコンドル軍団の参謀となった。スペインでは、ゲルニカ爆撃のような都市爆撃から、エルンスト・ウーデットErnst Udet)らが重視した急降下爆撃まで様々な戦術が実戦で試された。1937年10月、スペインから帰還したヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団は、ドイツに凱旋し,プロイセン州首相・空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥から盛大な歓迎を受け、栄誉を与えられた。

動画:コンドル軍団の凱旋:German Legion Condor - Bombenfliegermarsch(Eng.Subt.)/Luftwaffe 1939

写真(右)1939年,ドイツ、ベルリン中心部、シャルロッテンブルク宮殿でユーゴスラビア王室・摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチ公夫妻(オルガ・ティス・エラザス)を迎える空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング夫妻(エミー)、ドイツ航空省次官エアハルト・ミルヒ(Erhard Milch)大将(左):シャルロッテンブルク宮殿は、17世紀、プロイセン初代国王フリードリヒ1世が妃ゾフィー・シャルロッテのために創建した「夏の離宮」だが、 ヴィリヘルム1世の墓所もある。1943年の空襲で破壊された。
Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Scherl: Generalfeldmarschall Hermann Göring und Frau Emmy Göring gaben in der Goldenen Galerie des Schlosses Charlottenburg einen Abendempfang für die jugoslawischen Gäste. Begrüßung des Prinzregentenpaares (Prinz Paul von Jugoslawien und Olga von Griechenland) durch die Gastgeber. Links Generaloberst Erhard Milch. 1939 o.Ang. Scherl Description Information added by Wikimedia users. Deutsch: Scherl: Generalfeldmarschall [Hermann] Göring und Frau [Emmy] Göring gaben in der Goldenen Galerie des Schlosses Charlottenburg einen Abendempfang für die jugoslawischen Gäste. Begrüßung des Prinzregentenpaares [Prinz Paul von Jugoslawien und Olga von Griechenland] durch die Gastgeber. Links Generaloberst [Erhard] Milch. Depicted place Berlin Date 1939
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv File:Bild 183-E07081.jpg引用。


1934年10月9日、ユーゴスラビア国王 (1929年成立)アレクサンダル1世Alexander I of Yugoslavia)、フランス外相ルイ・バルトゥーが、フランスのマルセイユで暗殺されると、アレクサンダル1世の幼い長男ペータル2世を擁した摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチPrince Paul of Yugoslavia)が政治の実権を握った。摂政パヴレは、カラジョルジェヴィチ家、ペータル2世の父アレクサンダル1世Alexander I of Yugoslavia)の従弟。その妻オルガ・ティス・エラザスは、ギリシャ王族、ゲオルギオス1世の孫娘。

 ユーゴスラビア国王摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチPrince Paul Karadjordjević)の即位の時期、ユーゴスラビア国内はセルビア人と対抗するクロアチア人がクロアチア自治州の設置を認めさせた。1941年3月25日、ドイツがフランスを降伏させ、西ヨーロッパの派遣を握り、隣国イタリアも枢軸側に立っている状況を踏まえ、摂政パヴレは、日独伊三国軍事同盟Tripartite Pact)にユーゴスラビアを加盟させた。

しかし、国王ペータル2世は、親英派の将校団によるクーデターを支持し、1941年3月27日、摂政の座からパヴレ・カラジョルジェヴィチPrince Paul of Yugoslavia)を放逐、クーデター によって、親ドイツの方針を転換した。これに激怒したヒトラーは、ソ連侵攻に先立って、バルカン侵攻を決意、1941年4月6日、ユーゴスラビアに侵攻し、ユーゴスラビア国王を解体してしまう。

第二次世界大戦に突入したドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

写真(右):1939年9月,ベルリンで開催されたドイツ帝国議会、ヘルマン・ゲーリング国会議長の下で、ポーランドに宣戦を布告するアドルフ・ヒトラー総統、その真後ろ最上段のヘルマン。ゲーリング国会議長:ドイツでは,1933年1月30日,第一党の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)総統(党首)ヒトラーを主要とする内閣が成立した。しかし,2月末,ドイツ国会議事堂放火事件が発生したために,大統領緊急令によって,礼状なしに共産党幹部を逮捕し,国会議員を威嚇しながら,3月に「民族・国家危機排除法」(全権委任法)を成立させた。全権委任法によって,行政府が立法権を議会から授権された。ナチ党政権の権力濫用を戒める対抗勢力は解散させられたために,ナチ党一党独裁の道が開かれた。国会議事堂は,ヒトラー総統の華麗な演台に成り下がった。
ナチ党は,1920年に卍(ハーケンクロイツ,スワスチカ,カギ十字)を党章としたが,ナチ一党独裁になってからは,党旗をドイツの国旗とした。ハーケンクロイツは,新生ドイツ第三帝国の象徴となった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E10402 Original title: info Die historische Reichstagssitzung am 1. September 1939 Der Führer spricht. 1.9.39 Fot. Wag Archive title: Berlin, Kroll-Oper.- Rede von Adolf Hitler vor dem Reichstag zum Überfall auf Polen Dating: 1. September 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild 183-E10402引用(他引用不許可)。


写真(右)1939年9月-10月,ポーランド侵攻を地図上で指図するドイツ空軍最高司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:たくさんの兵士が略帽を被ったゲーリング司令官の周囲にいるが、最高司令官に注目していないかのように見える。1893年、ドイツ外交官の息子としてバイエルン州に生まれ、1905年に幼年士官学校に入学、第一次大戦では、陸軍少尉として参戦したが、直ぐに陸軍航空隊に入隊し、1915年9月から戦闘機パイロットとして活躍する。1918年6月、最高勲章プール・ル・メリット勲章を授与され、リヒトホーフェン大隊の指揮官に任命された。この時の部下ウーデットを、後にドイツ空軍航空技術部長に任命している。1922年にナチ党に入党して、1923年のミュンヘン一揆では突撃隊を率いて参加し、負傷し、亡命した。1928年の国会総選挙でナチ党候補者として当選し、1932年8月には国会議長に選出された。1933年1月30日のヒトラー政権では、無任所大臣、プロイセン州内相(後に州首相)となり、ドイツの大半の警察を手中に収めた。1933年5月より航空相、1935年3月、再軍備宣言後に空軍総司令官に就任した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-S55726 Original title: info ADN-Zentralbild/Archiv II. Weltkrieg 1939-45 Generalfeldmarschall Hermann Göring am Kartentisch während der faschistischen deutschen Invasion in Polen 1939. 302-40 (Aufnahme: Robert Kropp, Scherl ) Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Kropp Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


第二次大戦は,1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻,9月3日の英仏によるドイツへの宣戦布告で始まった。この9月1日,ヒトラーは,自分が倒れればゲーリングが続くと国会で演説して,事実上の後継者に指名している。ゲーリングが倒れれば,ヘス副総統が続くとも述べている。

写真(右)1940年6月23日、フランス、コンピエーニュでフランス降伏調印式に臨んだ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥と親衛隊国家指導者ハインリヒ・ヒムラーが握手をする。:プロイセン州内務大臣・州首相としてドイツ国内の7割の地域での警察権を所持し、ゲシュタポ(国家秘密警察)を設立したゲーリングだったが、ヒトラーの意向で警察権はナチ党政権獲得1年後の1934年4月20日に、親衛隊SS国家指導者ハインリヒ・ヒムラーをゲシュタポ総監に任命した。ゲーリングは、形式的には「ゲシュタポ長官」のままだったが、実権はヒムラー配下の親衛隊SS国家保安本部ハイドリヒに握られることになる。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L05400
Original title: info 59612 Die historische Stunde im Walde von Compiègne
Unser Bild zeigt Generalfeldmarschall [Hermann] Göring , Reichsführer SS [Heinrich] Himmler, (dahinter) den Stellvertreter des Führers Reichsminister Rudolf Hess am Nachmittag des historischen 21. Juni auf dem Denkmalsplatz im Walde von Compiègne, wo der Führer der franz&oml;sischen Abordnung die deutschen Waffenstillstandsbedingungen übergab.
PK - Reichelt - Scherl 59 612 23.6.40 "Fr" OKW Dating: 21. Juni 1940 Photographer: Reichelt Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

写真(右)1940年,ドイツ、東プロシア、、ホーエンツォレルン家の以来の狩猟場ロミンテンで鹿狩りに興じるヘルマン・ゲーリング空軍総司令官、陸軍動員局長フリードリヒ・フロム(Friedrich Fromm)大将、森林監督官ヴァルター・フォン・クーデル(Walter von Keudell ):第二次大戦中にもかかわらず、ゲーリングが趣味の狩猟に時間と資金を充てることのできたのは余裕からなのか、それとも航空技術、兵器、空軍の戦術・戦略にも関心や専門性を欠いていたからなのであろうか。
vlnr: Friedrich Fromm, Hermann Göring, Generalforstmeister Walter von Keudell auf der Jagd; im Vordergrund erlegter Hirsch. Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Preußischer Ministerpräsident, Deutschland Fromm, Friedrich: Generaloberst, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118843338) Keudell, Walter von: Reichsinnenminister (Januar 1927-Juni 1928), Deutschnationale Volkspartei (DNVP), ab 1933 NSDAP, Generalforstmeister (1934-1937), Deutschland Depicted place Rominten Date 1940 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv Bild 183-M1112-500 引用。


1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。
ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)のドイツ空軍は,フランス侵攻には、アルベルト・ケッセリングAlbert Kesselring)将軍の第二航空軍,フーゴー・シュペルレ将軍の第三航空軍をあて,そこに双発爆撃機1120機,単発Ju-87急降下爆撃機シュツーカ342機,複葉Hs-123襲撃機42機,単発Me-109戦闘機1016機,双発Me-110戦闘機248機を配備した。1940年5月10日0430,ケルン郊外の航空基地をユンカースJu-52輸送機41機が離陸,輸送機は各々1機のDFS-230グライダーを曳航していた。グライダーには,1機当たり8-12人の降下猟兵(空挺隊員)が搭乗していた。このドイツ空軍の空挺部隊が,ベルギーのマース川の要衝マーストリヒト近くのエバン・エマール要塞に降下し,ベルギー兵士1200人の守備していた近代的な要塞を,その日のうちに攻略した。

ドイツ空軍ハインケル He111 H-6双発爆撃機:1940年のイギリス本土航空決戦に出撃、イギリス空軍戦闘機から迎撃を受けて、大きな損害を出した。


1940年5月14日、ドイツ空軍ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)の第54,第57爆撃航空団ハインケルHe111爆撃機100機は,停戦交渉中だったにもかかわらず,ロッテルダムを爆撃した。ウィストン・チャーチルWinston Churchill)首相は、1940年5月26日1857,大陸よりの英軍救出命令ダイナモ作戦Operation Dynamo)を発動。ダイナモ作戦第一日の夕方まで,連合軍将兵7669名が救出され,5月28日だけで,1万7804人が救出された。5月29日には,4万7310名が後送,5月30日には5万3823人が大陸を去った。うちフランス兵氏は1万4874人だった。5月31日は,6万8014人が,6月1日には6万4429人が英本土に戻ることができた。敗退するフランス軍を前に、フランス政府では和平派(終戦派)が主導権をにぎった。

1940年5月20日,フランスでは、ポール・レノーPaul Reynaud)内閣が改造され、副首相に第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタンPhilippe Pétain)元帥が就任した。1940年5月15日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏と続き、6月10日にはパリが無防備都市を宣言した。このとき、ムッソリーニ統領の指導するイタリアも、南フランスを攻撃した。6月14日、パリにドイツ軍が無血入城した。 独仏戦では,フランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

写真(右)1940年6月21日,コンピエーニュ林、フランスの降伏式(休戦協定調印)を第一次大戦の降伏調印式をドイツが強いられた列車で行ったドイツの首脳陣:リンベントロップ(Ribbentrop, Joachim von)外務大臣、ヒトラー総統(Hitler, Adolf)、ゲーリング空軍総司令官、レーダー(Raeder, Erich)、ブラウヒッチュ(Brauchitsch, Walther von)陸軍総司令官、ルドルフ・ヘス副総統が写っている。
English: 21 June 1940, Hitler speaks with high-ranked Nazis and Generals before the 1918 Wagon de l'Armistice in the Compiègne forest, before launching the negotiations of the 1940 Armistice, which will be signed the next day.
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv Bild 101III-Pleißer-001-19 引用。


フランス休戦の場所として、アドルフ・ヒトラーは、第一次大戦のドイツ休戦が調印されたのと同じコンピエーニュの森を指定した。コンピエーニュには、ドイツ降伏調印を行ったのと同じ食堂列車をフランスの博物館から引き出し据え付けた。フランス勝利の記念碑もコンピエーニュにあったが、それも爆破された。第一次世界大戦の敗戦の雪辱を晴らした思いは、第一次大戦の戦闘機エースのヘルマン・ゲーリングも同じであったろう。

写真(右)1940年6月21日,コンピエーニュ林、フランスの降伏式(休戦協定調印)を第一次大戦の降伏調印式を終えたドイツが強いられた列車で行ったドイツの首脳陣:リンベントロップ(Ribbentrop, Joachim von)外務大臣、ヒトいらー総統(Hitler, Adolf)、ゲーリング空軍総司令官、レーダー(Raeder, Erich)、ブラウヒッチュ(Brauchitsch, Walther von)陸軍総司令官、ルドルフ・ヘス副総統が写っている。
English: 21 June 1940, Hitler speaks with high-ranked Nazis and Generals before the 1918 Wagon de l'Armistice in the Compiè gne forest, before launching the negotiations of the 1940 Armistice, which will be signed the next day.
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv Bild 183-M1112-500 引用。


1940年6月のフランス休戦は、
1.フランス国土の北部5分の3をドイツ軍政下に置く、
2.フランス軍の武装解除、
3大西洋に面した港湾をドイツに引き渡す、
4.フランス海軍艦船の行動停止、
5.亡命者の引渡し、
6.ドイツによる占領経費のフランス側負担、
という条件で認められた。

写真(右)1940年9月,西部戦線を訪問した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥と空軍将校
Im Westen (Belgien/Frankreich).- Hermann Göring mit hohen Offizieren der Luftwaffe vor herrschaftlichem Gebäude (Schloss?); PK KBK Lw 3 Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland
Depicted place Westfront Date September 1940 Photographer Dreesen
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv Bundesarchiv Bild 101I-343-0678-13,引用。


写真(右)1940年,ドイツ空軍部隊の検閲を行う第2航空軍司令官ブルーノ・レールツァー(Bruno Loerzer)中将、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥、第26戦闘航空団第3飛行戦隊指揮官アドルフ・ガーラント(Adolf Galland)少佐
Im Westen (Belgien/Frankreich).- Bruno Loerzer, Hermann Göring, Adolf Galland bei Inspektion eines Luftwaffen-Stützpunkts; PK KBK Lw 3.
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ BundesarchivBild 101I-343-0674-16 引用。


写真(右)1940年9月,西部戦線を訪問した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥と第2航空軍司令官アルベルト・ケッセルリンク(Albert Kesselring)元帥(ゲーリングの奥):第2航空軍を率いたケッセリングは、イギリス本土航空決戦に参加したが、イギリスを屈服させることはできなかった。その後、1941年6月に、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」に備えてポーランドに移駐した。その後、北アフリカ戦線で戦い、イギリスの地中海の戦略要衝マルタ島への空襲を指揮した。
Im Westen (Belgien/Frankreich).- Hermann Göring und Albert Kesselring bei der Inspektion von Soldaten (mit freiem Oberkörper); KBK Lw.3
Date September 1940 Photographer Dreesen
Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv Bundesarchiv Bild 101I-343-0667-35引用。


写真(右)1940年9月13日,西部戦線を訪問した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥と第2航空軍司令官アルベルト・ケッセルリンク(Albert Kesselring)元帥(手前):ゲーリングの足元には、通信機とイヤホーンが見える。第2航空軍を率いたケッセリングは、1941年にロンメルのアフリカ軍団への支援に失敗し、1943年の連合国軍のイタリア侵攻に直面した。この時期、空軍だけでなく陸軍部隊の指揮も執り、複数の防衛戦を構築して頑強に持久戦をつづけた。ローマを無防備都市とし、戦災から救ったといわれるが、これはイギリス空襲には容赦しなかった将軍が、ドイツ敗戦とその後の身の振り方を慮った結果であろう。
Der Reichsmarschall auf einem Gefechtsstand an der Kanalküste. 13.9.1940
Depicted people Göring , Hermann: Reichsmarschall , Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Date September 1940
Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv Bundesarchiv Bild 146-1976-043-24, 引用。


写真(右)1941年3月,ヒトラー総統から第二級鉄十字章を授与された女流飛行家ハンナ・ライチュ(Hanna Reitsch)を見守る空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥:ヒトラー信奉者でもあるライチュは,1945年4月,空軍のグライム将軍をソ連軍包囲下にあるベルリンの総統地下壕に空輸した。中央は,特注の灰褐色の軍服を着た空軍大臣ヘルマン・ゲーリング国家元帥。
Inventory: B 145 Bild - Presse- und Informationsamt der Bundesregierung - Bildbestand Signature: B 145 Bild-F051625-0295
Original title: info März 1941: Adolf Hitler verleiht Flugkapitän Hanna Reitsch das Eiserne Kreuz [2. Klasse]
Mitte: Hermann Göring Dating: März 1941
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1940年6月のフランス降伏で,ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。

写真(右)1941年4月21日,アドルフ・ヒトラー総統と会談する空軍ヘルマン・ゲーリング国家元帥:Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L18622
Original title: info Scherl: Der FGl¨hrer beging seinen 52. Geburtstag in seinem Hauptquartier, wo er¨ber den Rundfunk die Glückwunschansprache des Stellvertreters des F¨hrers Rudolf Hess und dann in Gegenwart der Oberbefehlshabe aller drei Wehrmachtsteile die Gl¨ckwGlünsche der Front entgegennahm.
UBz den FGl¨hrer im Gespräch mit Reichsmarschall Hermann Göring, Generalfeldmarschall von Brauchitsch (links) und Generaladmiral Raeder.
Scherl Bilderdienst (Bauer) "Fr" OKW 21.4.41 [Herausgabedatum]
ADN-ZB 21.4.1941: Deutschland unter dem faschistischen Terrorregime 1933-45 W&aml;hrend Adolf Hitler seinen 52. Geburtstag im Hauptquartier beging, und die Glückwünsche der Oberbefehlshaber der drei Wehrmachtsteile entgegennahm, wurde von seinen Truppen das griechische Volk Glü berfallen, das am 22.4.1941 kapitulieren musste.
UBz: Hitler im Gespräch mit Reichsmarschall Gö:g, Generalfeldmarschall von Brauchitsch (links) und Groß admiral Raeder (neben Hitler).
Dating: 21. April 1941 Photographer: Bauer Agency: Scherl撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ軍は,東部戦線でソ連赤軍に大打撃を与えたが,優秀なドイツ兵士16万名が犠牲になっている。この犠牲の責任は,ユダヤ人にとらせるつもりである。もはやアメリカのユダヤ人に配慮して,ヨーロッパ・ユダヤ人の最終解決を遅らせる必要はなくなった。ユダヤ人や敵性住民を収監する強制収容所で,最終解決の名の下に,ユダヤ人絶滅を実行すべきときがきた。

1941年7月31日、ヒトラーの指示を受けたプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)国家元帥は、親衛隊SS国庫保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒに対して「ユダヤ人問題の最終的解決」を実行するために必要な措置を計画することを命じた。戦争勃発によって、プロイセン州首相として保持していた警察権、ゲシュタポなどの権限を、占領地に及ぼすために、ゲーリングは、治安・警察権限を、親衛隊SSに譲渡させられた。それに伴って、ユダヤ人問題の最終解決のための権限も親衛隊SSのものになった。

のちにヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、 「自らがユダヤ人虐殺を望んだことはない」とし、ユダヤ人大量殺戮・ホロコーストには大量虐殺については実際に行われていたとは知らなかったと嘯いた。戦争末期には、イギリスからのラジオ放送によって、ドイツがユダヤ人大量殺戮・ホロコーストを実施していること、この犯罪に関与したものは罰せられることが示唆されていたが、ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)はそれを信じようとしなかった、あるいは関知しなかった。

写真(右)1941年7月25日,ドイツ、ベルリン、アドルフ・ヒトラー総統、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥、ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥が、ドイツ軍最高のエースのヴェルナー・メルダース大佐(右)に柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を授与した。:メルダースは、ドイツ軍最高のエースとして100機撃墜を果たし、柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を授与されたが、これはドイツ国防軍で第一号だった。メルダースは、ドイツ空軍創立時、1935年に空軍戦闘機パイロット養成コースを受け、1936年勃発のスペイン内戦には、1938年からコンドル軍団の戦闘機パイロットとして参戦した。1940年3月、20機撃墜の最高エースとして、騎士鉄十字章を授与された。しかし、1940年6月5日、フランス戦闘機に撃墜され捕虜となったものの、フランス降伏に伴い解放され、少佐に昇進し、第51戦闘航空団司令官に就任、イギリス本土航空決戦に加わった。
Der erfolgreiche deutsche Jagdflieger beim Führer. Der Führer im Gespräch mit Oberst Mölders, nebem dem Führer Reichsmarschall Göring und Generalfeldmarschall Keitel. 25.7.41 [Herausgabedatum].
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv File:Bundesarchiv Bild 146-1980-110-23, Berlin, Beisetzung von Ernst Udet.jpg引用。


写真(右)1941年11月1日,ドイツ、ベルリン、ドイツ航空省技術局長・航空機総監エルンスト・ウーデット大将の葬儀に参列する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥、第26戦闘航空団第3飛行戦隊指揮官アドルフ・ガーラント(Adolf Galland)中佐(犠打里最前列):
Beisetzung von Ernst Udet (Staatsakt) im Reichsluftfahrt-ministerium vorne rechts: Hermann Göring, vorne links am Sarg: Galland, Adolf.
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv File:Bundesarchiv Bild 146-1980-110-23, Berlin, Beisetzung von Ernst Udet.jpg引用。


写真(右)1941年11月1日,ドイツ、ベルリン、ドイツ航空省技術局長・航空機総監エルンスト・ウーデット大将の葬儀で追悼の辞を述べる空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥、第26戦闘航空団第3飛行戦隊指揮官アドルフ・ガーラント(Adolf Galland)中佐(左列の最前列):
Berlin: Staatsbegräbnis für den Generalluftzeugmeister Generaloberst Udet. Reichsmarschall Hermann Göring bei seiner Rede. PK. Aufnahme: Kriegsberichter: Eitel (Sch).
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv File:Bundesarchiv Bild 146-1980-110-23, Berlin, Beisetzung von Ernst Udet.jpg引用。


写真(右)1941年12月11日,ドイツ、ベルリン、クロルオペラの臨時国会議事堂、対明宣戦布告をするヒトラー総統、と国会議長・空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥 :右から、外務大臣リンベントロップ(v. Ribbentrop),海軍総司令官レーダー(Raeder)元帥, 陸軍総司令官ブラウヒッチ(v. Brauchitsch)元帥,国防軍司令部総長カイテル(Keitel)元帥,内務大臣フリック(Frick)博士、国民啓蒙宣伝大臣ゲッペルス(Goebbels)博士、二段目右より、財務大臣グロジーク(Graf Schwerin-Krosigk),フンク(Funk),食糧農業大臣リヒャルト・ダレ(Dareé),文部科学大臣ベルンハルト・ルスト(Bernhard Rust), カール(Kerrl),ポーランド総督フランク(Frank)博士、運輸大臣ユリウス・ドルプミュラー(Dorpmüller)博士、オランダ国家執行官ザイス・インクヴァルト(Seyss-Inquart)、兵器弾薬大臣フリッツ・トート(Fritz Todt)博士。
Berlin, Reichstagssitzung, Rede Adolf Hitler Die welthistorische Sitzung des Grossdeutschen Reichstags am 11.Dezember 1941. Während der Rede des Führers. Auf den Regierungsbänken von rechts nach links. Reichsaussenminister v. Ribbentrop, Grossadmiral Raeder, Generalfeldmarschall v. Brauchitsch, Generalfeldmarschall Keitel, die Reichsminister Dr. Frick und Dr. Goebbels. Zweite Reihe: die Reichsminister Graf Schwerin-Krosigk, Funk, Dareé, Rust, Kerrl, Dr. Frank, Dr. Dorpmüller, Dr. Seyss-Inquart und Dr. Todt. [Berlin, Kroll-Oper.- Adolf Hitler vor dem Reichstag.- Rede zur Kriegserkälrung an die Vereinigten Staaten von Amerika] Ostpreußen, Fhrerhauptquartier Wolfschanze.- Adolf Hitler im Gespräch mit Robert Ley, Ferdinand Porsche und Hermann Göring , Depicted place Wolfschanze Date 1942
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 101III-Reprich-012-08, Wolfschanze, Hitler, Ley, Porsche und Göring.jpg引用(他引用不許可)。


動画:国会議長ゲーリング司会とヒトラー対米宣戦布告:GERMANY´S DECLARATION OF WAR ON THE USA 11 DEC 1941

1941年12月11日、クロル・オペラ臨時国会議事堂において、プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)国会議長の司会で、ヒトラー総統は、ユダヤ人に操られているルーズベルト大統領がドイツ民族を滅ぼそうと戦争を挑発しているが、もはや我慢ならないとして、アメリカに宣戦布告した。これに対して、アメリカの連邦議会ではルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が行われたが、対日参戦のFDR演説とは異なり、対独参戦FDR演説の動画は公開されていない。

写真(右)1942年3月21日,西部戦線、カフェで寛ぐ空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥と第3航空軍司令官フーゴ・シュペルレ(Hugo Sperrle:1885-1953)元帥(中央の横顔):1939年9月に、西部戦線で戦う第3航空軍司令官となったフーゴ・シュペルレ元帥だったが、イギリス本土航空決戦では敗退し、第3航空軍司令官を解任される。
Im Westen.- Hermann Göring , Hugo Sperrle u. a. rauchend und Kaffee trinkend in einem Salon; LwPK 3 Date 21 March 1942
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1940年6月にフランスを降伏させ勝利した大功績によって、元帥より上の国家元帥の称号を得たヘルマン・ゲーリングHermann Göring)空軍総司令官だったが、イギリス本土航空決戦で,痛手を被った。1941年6月22日、ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」のために,東部戦線に兵力を集中させて時期だった。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」から列車に乗ってドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥の下に到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;二人とも元帥で元帥杖を持って挨拶を交わしている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3231引用。


1941年6月22日、ドイツが独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻した。すると、それから4日後、6月27日には、フィンランドも、ソビエト連邦に侵攻した。これは、1939-1940年の対ソ連「冬戦争」で奪われた国土を取り返すということが名目だった。フィンランドは、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、対ソ連・反ボリシェビキの戦争協力を話し合った。マンネルハイムは、1942年6月時点で、ヨーロッパを支配するドイツ後押しを受け、ソ連に復習戦争を仕掛けることを大変に喜んだはずだ。フィンランドは、恨み重なるソ連打倒の好機として、継続戦争を自ら開始した。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がゲーリング国家元帥に別れの握手をしている。;二人とも元帥なので、会話の最中でも元帥杖を誇らしげに手にしたまま話そうとしない。マンネルハイム元帥は、ドイツ空軍のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機にのって、ドイツ、東プロイセン州のナチス・ドイツ独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13040引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日、ドイツ空軍の遣わしたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機に乗って、東プロイセン州ラステンブルクの同島大本営「狼の巣」にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統を訪問、作戦会議に出席した。

そして、翌6月28日には、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)国家元帥の下にも参じて、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。こうなれば、マンネルハイム元帥が、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連ボリシェビキの弱体化を真剣に望んでいたのは明らかである。

1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連赤軍・ボルシェビズムを敲く最良の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦した。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥がヒトラー総統の元を訪問した後のフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥をもてなしている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13044引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月4日の誕生日にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統の表敬訪問を受け、彼も誕生会に招待し、対ソ戦争について会談した。そして、6月27日、ドイツの東プロイセン州ラス店ブル区の総統大本営「狼の巣」を訪れ、そこで開かれていた最高指導作戦会議に出席した。マンネルハイムは、総統大本営のヒトラーを訪問しばかりではなく、引き続いて、列車でドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも馳せ参じて、彼の下で祝宴に参加している。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がゲーリング国家元帥に別れの握手をしている。;マンネルハイムは、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。対ソビエト連邦との戦争協力を話し合ったマンネルハイムは、1942年6月時点で、ヨーロッパを支配するドイツ後押しを受けられることを大変に喜んだはずだ。、フィンランドは、、恨み重なるソ連打倒の好機として、継続戦争を自ら開始したのである。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3249引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。

フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥が、ヒトラー総統のラステンブルク司令部「狼の巣」を訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥を大鹿の頭部を飾った部屋で、持て成している。;王侯貴族のように狩猟が趣味で、森林監督官も務めていたゲーリングは、部屋に獲物の大鹿をトロフィーとして飾っていた。にもかかわらず、ナチスは自然保護・動物愛護だったと誤解している理由は、自らの狩猟の獲物を独占するために、自然を保護し、動物を大切にしていたという点を見逃している。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3260引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がゲーリング国家元帥に別れの握手をしている。;マンネルハイムは、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。対ソビエト連邦との戦争協力を話し合ったマンネルハイムは、1942年6月時点で、ヨーロッパを支配するドイツ後押しを受けられることを大変に喜んだはずだ。、フィンランドは、、恨み重なるソ連打倒の好機として、継続戦争を自ら開始したのである。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3283引用。


このような対ソビエト戦争の戦意高揚を無視して、マンネルハイム元帥は、ヒトラーとの共闘を臨んでいなかった、1942年6月4日のヒトラーによる誕生日訪問を迷惑に思っていたなどと判断するのは、全くの見当違いである。1917年のロシア革命後、ボリシェビキ勢力が伸長し、赤軍を組織して共産主義革命を進めたとき、フィンランドでは、ロシア共産党のボリシェビキに賛同したフィンランド共産主義者、共産党員、赤軍が政権奪取を図った。それに対して、反革命軍、白軍を組織して、革命派を武力鎮圧したのが、グスタフ・マンネルハイム将軍である。

フィンランドにおける反ボリシェビキの内戦の激しさを踏まえれば、マンネルハイムもヒトラーも、フィンランドもナチス・ドイツも、ともに反共産主義、反ボルシェビズムを奉じて、ソビエト連邦、ヨシフ・スターリン、ソ連赤軍を警戒し、チャンスがあれば、彼らを無害化、中立化したかったに違いない。ドイツのソ連侵攻という絶好のチャンス・好機を逃すほど、マンネルハイム将軍は愚かではない。

写真(右)1942年,ドイツ、東プロイセン、ラステンブルク総統大本営「狼の巣」(Wolfschanze)、ヒトラー、ドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront:DAF)国家指導者ロベルト・ライ(Robert Ley)博士、フェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche)博士、空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥、
Ostpreußen, Führerhauptquartier Wolfschanze.- Adolf Hitler im Gespräch mit Robert Ley, Ferdinand Porsche und Hermann Göring Depicted place Wolfschanze Date 1942 Photographer Reprich Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS (Bild 101 III)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv,File:Bundesarchiv Bild 101III-Reprich-012-08引用。


レーシングカーの設計で功績をあげたフェルディナント・ポルシェFerdinand Porsche)博士は、1933年、ヒトラーから国民車(フォルクスワーゲン)の設計を依頼され、1936年、排気量1,000ccの試作車を完成した。これが「ビートル」(甲虫)の愛称で有名になる大衆車だった。1938年、国営自動車会社フォルクスワーゲン(Volkswagenwerk GmbH )が設立され、そこで国民車の製造が始まった。 ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は1936年の第二次四カ年計画全権として、ポルシェの国民車の生産に関わった。

 1939年9月、第二次世界大戦の勃発により、フォルクスワーゲンでは、国民車の生産は中止され、それを流用した軍用自動車キューベルワーゲンKubelwagen)の量産に転換した。また、フェルディナント・ポルシェFerdinand Porsche)博士は、ハイブリッド・エンジンのタイガー重戦車の設計もしたが、量産向きではなく、成功した設計とはならなかった。

写真(右)1943年1月12日,ドイツ、プロイセン、ベルリン郊外、ゲーリングの邸宅「カリンハル」にある趣味の鉄道ゲージモデルに興じる空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥:ドイツでは1835年に、本物を縮小した金属製の鉄道模型が誕生し、1887年には縮尺1/22・軌間65mm、縮尺1/12・軌間115mmの蒸気機関車と客車と線路の販売を開始した。その後、鉄道模型の標準化・規格化によりゲージモデルが一般化した。1935年に今日に通ずるOゲージモデルの発売が開始された。
Title Carinhall, 50. Geburtstag Hermann Göring Info non-talk.svg Archive description Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong. You can help by reporting errors and typos at Commons:Bundesarchiv/Error reports. Vorführung Trix-Eisenbahn ( 12.1.43, Carinhall) Hermann Göring führt seinen Gästen die Eisenbahn vor. Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Carinhall Date 12 January 1943 Photographer Unknownwikidata:Q4233718 Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 German Federal Archives wikidata:Q685753 Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1979-178-17引用(他引用不許可)。


1941年12月13日のナチス国民啓蒙宣伝省大臣ゲッペルス(Joseph Goebbels)の日記「総統Führerは、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと(1939年に)と予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」 (12/12のヒトラー総統によるナチス党幹部への演説をもとにした記録)

1941年12月18日,総統大本営(Wolfsschanze) でヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の口頭命令を受けた親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)は,国内外世論,処刑者の精神的苦痛,ユダヤ人の反抗・ゲリラ活動防止,治安維持に配慮して,密かに強制収容所を「絶滅」システムに組み込んだ。 


ドイツ本土空襲を防げなかった空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥

写真(右)1943年8月21日,ドイツ、ベルリン、空軍参謀総長ハンス・イェショネック(Hans Jeschonnek)大将の葬儀に参列し追悼の辞を述べる空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥ほかの主要メンバー:1943年8月のハンブルクへの連合軍機1000機の大空襲依頼、空軍のゲーリングやハンス・イエショネク(Hans Jeschonnek)の権威は落ちていたが、ゲーリングは保身のために責任を参謀総長イェションネクに押し付けた。また、1943年8月17日深夜、ドイツ軍の秘密兵器実験場ペーネミュンデへの空襲でショックを受けたイエショネク大将は、ラステンブルクの総統大本営(狼の巣)で自殺した。ただし、ペーネミュンデのとの関係は秘匿され、イェショネク大将の死亡日は、その前日の1943年8月19日として公表された。後任の参謀総長ははギュンター・コルテン大将。
Deutschland gedenkt seiner gefallenen Söhne. Der Führer beim Staatsakt in Berlin Ganz Deutschland gedachte am Heldengedenktag 1943, am Sonntag, 21.3.1943, seiner auf dem Felde der Ehre gefallenen Helden. Im Berliner Zeughaus fand aus diesem Anlaß eine Staatsakt statt, an dem auch der Führer teilnahm. Blick in das Zeughaus während des Staatsaktes. Neben dem Führer sitzend Reichsmarschall Göring, Generalfeldmarschall Keitel, Groß admiral Dönitz, Reichsführer SS und Chef der deutschen Polizei, H. Himmler, Generalfeldmarschall Milch, Generalfeldmarschall Bock und Reichskriegsopferführer Oberlindober. Atlanic-Boesig, 21.3.1943 Depicted place Berlin Date 21 March 1943 Photographer Boesig, Heinz Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 wikidata:Q685753 Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146) Accession number Bild 146-1983-0117-06
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv File:Bundesarchiv Bild 183-J15155, Beisetzung von Generaloberst Jeschonnek.jpg引用。


写真(右)1943年8月22日,ドイツ空軍参謀総長ハンス・イェショネック(Hans Jeschonnek)大将の葬儀に参列し追悼の辞を述べる空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
English: Burial Service for Generaloberst Hans Jeschonnek on 19 August 1943 in the presence of Reichsmarschall Hermann Göring. The Luftwaffe flag is in foreground.Date 19 August 1943 Photographer Lange, Eitel Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 wikidata:Q685753 Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-J15155
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv、File:Bundesarchiv Bild 183-J15155, Beisetzung von Generaloberst Jeschonnek.jpg引用。


1943年8月のハンブルクの大空襲、1943年8月17日の陸軍秘密兵器実験場ペーネミュンデへの空襲でショックを受けたドイツ空軍参謀総長ハンス・イェショネクHans Jeschonnek)大将は、ラステンブルクの総統大本営(狼の巣)で自殺した。ただし、ペーネミュンデとの関連性を秘匿するために、イェショネク大将の死亡日は、その前日の1943年8月19日として公表された。後任の参謀総長に任命されたのはギュンター・コルテン大将だが、彼も1年たたない1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件に巻き込まれ、総統大本営で爆死した。

ドイツ空軍参謀総長の初代ヴェーフェル、2代ケッセルリンク、3代シュトゥンプ、4代イェショネク、5代コルテン、6代クライプ、7代コラーと続くが、権力の永続化を狙う総司令官ゲーリングとの信頼関係を気づくことは難しかったようだ。

写真(右)1943年8月10日,軍需大臣アルベルト・シュペーア、アドルフ・ヒトラー総統、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥:1942年2月7日、軍需相(兵器・弾薬大臣)フリッツ・トート博士が飛行機事故で死亡すると、その後任として、ヒトラーの建築家だったアルベルト・シュペールが後任となった。1943年5月、ヒトラー自らシュペールにフリッツ・トート・リングを授与している。
(1 Reihe vlnr) Reichsminister Hermann Göring, Adolf Hitler, Reichsminister Albert Speer bei Spaziergang, 10.8.1943 Photographer Lange, Eitel Date 10 August 1943 Photographer Heinrich Hoffmann (1885-1957)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・Bild 146-1977-149-13引用。


写真(右)1943年8月25日,ドイツ、軍需大臣アルベルト・シュペーア、ドイツ空軍人事局長ブルーノ・レールツァー上級大将、戦闘機隊総監アドルフ・ガーランド少将、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥 :ナチ党政権下では、労使紛争や階級闘争は否定され、1933年5月2日のメーデーに、労働組合を解散し、その財産を没収したうえで、ナチ党のロベルト・ライ博士を指導者とする「ドイツ労働戦線」(DAF)を設立した。
Der Reichsmarschall im Gespräch mit Generalmajor Galland, Generaloberst Loerzer und Reichsminister Speer. Achtung! PK-Aufnahme! PK-Kriegsberichter Eitel Lange 25.8.43 [Herausgabedatum] Date August 1943 Photographer Lange, Eitel
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 183-J15189引用。


ゲーリングは,1942年冬、スターリングラードに包囲されたドイツ陸軍第6軍に対するへの空輸を請合って失敗し,1943年からのドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。ゲーリングの成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。緒戦でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説を根拠に,自らを後継者として自認していたとすれば,状況は大きく変わっていた。

写真(右)1942-1945年、ドイツ、ベルリン北東、ゲーリングの別荘カリンハル、水陸両用車シュビムワーゲンでカリンハル親衛隊SS警備隊長に挨拶する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)元帥(後ろ向き、帽子に羽根):
Archive title: Carinhall.- Hermann Göring bei der Begrüßung eines SS-Führers im Hof von Carinhall (Karinhall), im Vordergrund ein VW-Schwimmkübelwagen Dating: 1942/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はWikimedia Commons, Wikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 146-1979-175-10引用。


贅沢好みのヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、亡き先妻カリン・ゲーリングを偲ぶという名目で、庭園、調度品、織物類、カーペット、美術品、絵画に至るまで贅を凝らした豪華な別荘を建設した。ブルガリア王ボリス3世、ハンガリー王国摂政ホルティ、ギリシア王ゲオルギオス2世、イギリスのウィンザー公などもこのカリンハルを訪問し、ゲーリングと舞台女優の後妻エマ・"エミー"・ゲーリングが、歓待している。


写真(右)1943年3月、ドイツ、ベルリンで鹵獲兵器展示場を視察したアドルフ・ヒトラー総統、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥、親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(左奥)、ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ(右)国際軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将(右端)
;展示されているソ連軍120ミリ迫撃砲PM-38は、ドイツ軍の迫撃砲より、威力、取り扱いの上で優秀で、ドイツ陸軍はこれをコピーして12センチGrW42迫撃砲として装備している。砲身は、76.2ミリ師団砲M1942で、発射速度は毎分25発、最大射程13,200mの優れた長砲身カノン砲だった。第二次世界大戦中にソビエト連邦が開発した師団砲兵用軽カノン砲(野砲)である。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-J05695 Original title: info Heldengedenktag 1943 UBz: Der Führer besichtigt im Anschluss an den Festakt die Ausstellung im Zeughaus [Berlin]. 21.3.1943 1472-43 Archive title: Berlin.- Heinrich Himmler (2 von links, halbverdeckt), Adolf Hitler, Hermann Göring u.a. bei der Besichtigung einer Ausstellung mit Beutewaffen im Zeughaus Dating: 21. März 1943 Photographer: Schwahn, Ernst Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1942年11月がら、ソ連南部のスターリングラード攻防戦が始まり、フリードリヒ・パウルス上級大将の指揮する第6軍は、ソ連軍によってスターリングラードに孤立、包囲されてしまった。この時、空軍総司令官ゲーリング国家元帥は、スターリングラード包囲下の第6軍に対する空輸補給作戦に自信があるとして、第6軍はスターリングラードの死守を命じられ、第六軍パウルスは、1943年1月30日、元帥に昇進させられた。

 しかし、スターリングラード空中補給は、全く不十分であり、1943年1月30日から2月2日、第6軍の守備隊は、ソ連赤軍に降伏、投降してしまう。これは、ドイツ軍始まって以来の大敗北であり、戦局打開のために、ドイツ国内では、本格的な国家総動員が求められた。1943年2月18日、何ドイツの直面した困難を率直に示し、国民の最大限の努力を求める総力戦大演説をぶったのは国民啓蒙宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルス博士であり、総動員に対しても、戦局好転に対しても、何ら寄与できないゲーリングの政治的地位は低下した。


権威を失墜した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥

写真(右)1944年7月20日、ドイツ、東プロイセン、爆破された総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」の作戦会議室、ヒトラー爆殺未遂現場を見学する官房長官マルチン・ボルマン,空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥,空軍人事局長ブルーノ・レルツァー上級大将:ヴォルフスシャンツェの会議室における大爆発にもかかわらず,軽症で済んだヒトラーは,これを「どでかい幸運」,運命の摂理と考えた。ヒトラーは,連合軍相手に徹底抗戦する意思を固めると同時に,第一次大戦敗戦の原因と彼が指摘してきた「背後からの一突き」「後方の裏切り者」が第二次大戦中のドイツにもいると考えた。反逆者に対する血なまぐさい報復が始まった。
Attentat vom 20. Juli 1944 Besichtigung der zerstörten Baracke im Führerhauptquartier "Wolfsschanze" bei Rastenburg, Ostpreußen (v.l.n.r.: X, Bormann, X, Göring, Bruno Loerzer - Generaloberst der Luftwaffe; X)
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1944年8月3日、ドイツ、東プロイセン、タンネンベルク戦勝記念碑で開かれたドイツ空軍参謀総長ギュンター・コルテン(Günter Korten)上級大将の葬儀に参列した元帥杖をもつ空陸海三軍の指揮官官たち。中央は、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥、その背後に、海軍総司令官カール・デーニッツ元帥。陸軍は、1941年12月19日,陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥が解任され、後任にはヒトラー自らが就任した。そこで、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥が参列している。:
Archive description Ostpreußen, Tannenberg-Denkmal.- Staatsakt fü r General-Oberst Günter Korten (nach Verwundung bei Attentat am 20.7. 1944, gest. 22.7. 1944) unter Anwesenheit von Reichsmarschall Hermann Gö ring (salutierend mit Marschallstab; rechts Generalfeldmarschall English: Tannenberg Memorial (not exists anymore), East Prussia (now Poland), General Günther Korten's funeral, 22.07.1944.. Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I)
写真はWikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv, File:Bundesarchiv Bild 101I-676-7968-12A, Beerdigung von Generaloberst Günter Korten.jpg引用。


イギリスからソビエト連邦に対する軍需品の輸送船団は、ノルウェー沖を航行するが、1942年12月30日、その対ソ補給船団JW51B (輸送船14隻・護衛艦艇10隻以上)の一部がバレンツ海を航行しているのをドイツ海軍潜水艦U-354が発見、ドイツ海軍オスカー・クメッツ (Oskar Kummetz) 中将率いる重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」、ポケット戦艦「リュッツォウ」、駆逐艦6隻がノルウェー北部アルテンフィヨルドを出撃した。これがバレンツ海海戦 (Battle of the Barents Sea)である。 しかし、クメッツ中将のドイツ艦隊は、イギリス軍の護衛艦2隻を撃沈したものの、輸送船を無傷で取り逃がしてしまった。

1943年正月、スターリングラード包囲で東部戦線の戦局が悪化する中、バレンツ海海戦 (Battle of the Barents Sea)でのドイツ艦隊の不甲斐なさに激怒したヒトラーは、士気の上がらない水上部隊を解体することを海軍総司令官エーリヒ・レーダー (Erich Raeder)提督に命じた。レーダー提督は、水上艦艇解体・廃艦命令を拒否して、1943年1月30日、海軍総司令官を辞任した。そこで、潜水艦隊司令官だったカール・デーニッツ (Karl Doenitz)海軍大将(提督)が元帥に昇進し、レーダー元帥後任の海軍総司令官に就任、ヒトラーの遂行艦艇解体命令を取り消させることに成功した。

写真(右)1944年8月3日、ドイツ、東プロイセン、タンネンベルク戦勝記念碑で開かれたドイツ空軍参謀総長ギュンター・コルテン(Günther Korten)上級大将の葬儀に出席した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1944年7月20日1242,シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂で、総統大本営「狼の巣」の作戦会議室が爆発し死亡したギュンター・コルテンは7月22日に死亡した。
English: Tannenberg Memorial (not exists anymore), East Prussia (now Poland), General Günther Korten's funeral, 22.07.1944. Date 3 August 1944 Photographer Schröder Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-676-7968-25A
写真はWikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv, File:Bild 101I-676-7968-31A,引用。


 1944年7月20日1242,シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂で、東プロイセン州のラステンブルク総統大本営「狼の巣」の作戦会議室が爆発した。ヒトラーは、軽傷で済んだものの、ギュンター・コルテン上級大将が7月22日に死亡,ドイツ国防軍副官ルドルフ・シュムントRudolf Schmundt)少将が大将昇進後10月1日に死亡、 参謀本部ハインツ・ブラントHeinz Brandt)大佐が7月22日に死亡, 速記者ハインリヒ・ベルガー(Heinrich Berger)が7月20日に死亡している。

写真(右)1944年8月3日、ドイツ、東プロイセン、1944年7月22日のシュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂で死亡した空軍参謀総長ギュンター・コルテン(Günther Korten)上級大将の葬儀に出席した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1944年7月20日1242,東プロイセンの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」の会議室において国内軍参謀長シュタウフェンベルク大佐が時限爆弾を爆発させた。その時、会議室にいたヒトラーは軽傷を負っただけで助かったが、ギュンター・コルテン上級大将が7月22日に死亡,ドイツ国防軍副官ルドルフ・シュムント(Rudolf Schmundt)少将が大将昇進後10月1日死亡、 参謀本部ハインツ・ブラント(Heinz Brandt)大佐が7月22日に死亡, 速記者ハインリヒ・ベルガー(Heinrich Berger)が7月20日に死亡している。
English: Tannenberg Memorial (not exists anymore), East Prussia (now Poland), General Günther Korten's funeral, 22.07.1944. Date 3 August 1944 Photographer Schröder Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-676-7968-25A
写真はWikimedia Commons,Bundesarchiv, File:Bundesarchiv Bild 101I-676-7970-35引用。


1914年、第一次大戦初頭、ドイツ帝国がロシア帝国を打ち破ったタンネンベルクの戦いを記念した「タンネンベルク戦勝記念碑」は、戦いの当事者だったパウル・フォン・ヒンデンブルクPaul von Hindenburg)大統領の葬儀がとり行われた場所でもある。その場所で、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に巻き込まれ爆死したドイツ空軍参謀総長ギュンター・コルテン(Günter Korten)上級大将の葬儀がとり行われた。

写真(右)1944年8月3日、ドイツ、東プロイセン、タンネンベルク戦勝記念碑、ヒトラー暗殺未遂で死亡した空軍参謀総長ギュンター・コルテン(Günther Korten)上級大将の棺の前で元帥杖を持ち敬礼するドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1944年7月20日,国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐は、東プロイセンの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」での会議に出席、時限爆弾を仕掛けて立ち去った。この時限爆弾の爆発によって,ギュンター・コルテン(Günther Korten)上級大将(7月22日死亡),ドイツ国防軍副官ルドルフ・シュムント(Rudolf Schmundt)少将(大将昇進後10月1日死亡), 参謀本部ハインツ・ブラント(Heinz Brandt)大佐(7月22日死亡), 速記者ハインリヒ・ベルガー(Heinrich Berger)(7月20日死亡)の4名が犠牲になったが、ヒトラーも他の同室者も軽傷で済んだ。
English: Tannenberg Memorial (not exists anymore), East Prussia (now Poland), General Günther Korten's funeral, 22.07.1944. Date 3 August 1944 Photographer Schröder Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-676-7968-25A
写真はWikimedia Commons,Bundesarchiv  File:Bundesarchiv Bild 101I-676-7968-24A引用。


写真(右)1944年8月3日、ドイツ、東プロイセン、タンネンベルク戦勝記念碑で開かれた空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将の葬儀に出席した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1944年7月20日1242,総統大本営の作戦会議室における爆発によって,ギュンター・コルテンGunther Korten上級大将(7月22日死亡),ドイツ国防軍副官ルドルフ・シュムントRudolf Schmundt少将(大将昇進後10月1日死亡), 参謀本部ハインツ・ブラントHeinz Brandt大佐(7月22日死亡), 速記者ハインリヒ・ベルガーHeinrich Berger(7月20日死亡)の4名が殺害された。
English: Tannenberg Memorial (not exists anymore), East Prussia (now Poland), General Günther Korten's funeral, 22.07.1944. Date 3 August 1944 Photographer Blaschka Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-676-7971-19A
写真はWikimedia Commons,Bundesarchiv  File:Bundesarchiv Bild 101I-676-7971-19A,引用。



写真(右)1944年8月3日、ドイツ、東プロイセン、タンネンベルク戦勝記念碑で開かれた空軍参謀総長ギュンター・コルテン(Günther Korten)大将の葬儀に出席した空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
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English: Tannenberg Memorial (not exists anymore), East Prussia (now Poland), General Günther Korten's funeral, 22.07.1944. Date 3 August 1944 Photographer Blaschka Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-676-7970-06
写真はWikimedia Commons,Bundesarchiv  File:Bundesarchiv Bild 101I-676-7970-06引用。


ドイツ、東プロイセンのタンネンベルク戦勝記念碑は、第一次世界大戦緒戦の1914年8月から9月、パウル・フォン・ヒンデンブルク司令官、エーリヒ・ルーデンドル参謀長のドイツ帝国第8軍がロシア帝国第1軍・第2軍を撃破し、東部戦線の優位を確立したタンネンベルクの戦いを記念して建てられた。ナチ党政権下でも、栄光の場所として位置づけられた。

空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将の葬儀の動画 GERMAN CONFISCATED FILM, 1939 - 1945

1934年8月2日、パウル・フォン・ヒンデンブルクは、ドイツ共和国の大統領として天寿を全うした。その時の首相ヒトラーは、関係を用いて、大統領職と首相を兼ねる「総統」に就任する。そして、巨大なタンネンベルク戦勝記念碑を建設し、ヒンデンブルクの死後1年後、1935年10月にヒンデンブルグ大統領の国葬をここでとり行った。これは、ヒトラー総統が大統領以上の存在であることを暗にアピールするプロパガンダとなった。この場所は、第二次世界大戦末期、進攻してきたソ連赤軍が破壊し、ドイツ敗戦後にポーランド領となった。戦後、ポーランド政府は、この記念碑を完全に撤去した。

写真(右)1945年4月,ベルリン攻防戦でドイツ軍あるいは武装親衛隊の民族ドイツ人・外国人義勇兵を激励するヒトラーと空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥・プロイセン州首相、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥(左半分):ヴィルヘルム・カイテルは、1938年、スキャンダルを利用してブロンベルク国防相、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュというプロイセン的保守的軍人を解任し、陸海空三軍を指揮し、国防省の仕事も引き継ぐ国防軍最高司令部(OKW)を設けた。この国防軍最高司令部の初代そして最後の総長がカイテルである。1946年10月16日処刑。
ADN-ZB/Archiv II.Weltkrieg 1939 - 1945 Hitler (r. ) besucht Anfang April 1945 in Begleitung von Göring (m.) und dem Chef des OKW, Generalfeldmarschall Keitel (halbverdeckt), eine Truppeneinheit der faschistischen deutschen Wehrmacht. Depicted people Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland Göring, Hermann:Reichs?mar?schall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Date April 1945 Photographer Hoffmann, Heinrich Institution German Federal Archives
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・Bundesarchiv Bild 183-1983-0331-500引用(他引用不許可)。


ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)の成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説、その後の1941年6月29日の法令を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,1945年4月23日のベルリン攻防戦の最中に、ゲーリングはヒトラーに対して、連絡が取れなくなった場合、自分がドイツの最高指導者の地位を引き継ぎたいと電文を発した。しかし、ヒトラーは、これをゲーリングンの裏切りと感じ、激怒してゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

ヒトラーが語っていたように、ゲーリングは強欲・残虐な性質の中にも社交的で楽観的性格も混じっており、西側連合国との和平、その後の対ソ連防衛にドイツが大きな役割を果たすと考えたようだ。自分には、戦争犯罪にはかかわっているとの認識がなかったため、西側連合軍に投降して、ヒトラー亡き後、デーニッツ大統領を差し置いて、軍人最上位階級(国家元帥)の自分が西側連合軍司令官ドワイト・アイゼンハワー元帥との和平交渉に大きな役割を果たすと思い込んでいた。

1945年5月7日0241、フランス・シャンパーニュ、ランスにあった西側連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force, SHAEF) で、大統領カール・デーニッツ元帥から降伏全権とされた国防軍作戦部長アルフレート・ヨードル大将は、ドワイト・D・アイゼンハワー元帥に対して、無条件降伏の書類に署名した。しかし、オーベルザルツブルク別荘にいたヘルマン・ゲーリングHermann Göring)国家元帥は、アイゼンハワー元帥と直接降伏交渉あるいは自分の処遇について考慮してもらう交渉をすべくアメリカ軍との連絡を取ろうとした。しかし、親衛隊SSに拘束されれば交渉不可能となってしまう危険があるため、自動車を使ってアメリカ軍の下に出向いて、直接交渉しようと図った。

アメリカ軍は、1945年5月7日に遭遇したドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)国家元帥に感激して、彼を賓客かVIPのように厚遇した。彼は、国家元帥の服装、元帥杖を手にしたまま、アメリカ軍将校と食事を共にした。翌5月8日、アメリカ第七軍(VII Corps)司令部へ連行されたゲーリング国家元帥は、そこで、アメリカ陸軍航空隊司令官カール・スパーツ大将から歓迎された。アメリカ人はドイツ最高位の軍人が、自らの軍門に下ったことに気をよくしたに違いない。ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、集まった西側連合国と記者会見も許されている。ゲーリングは、自分がヒトラー亡き後、西側連合国にとって最重要人物となっているのに満足、安心しきっていた。


Hermann Göring in Custody on May 7 (15?), 1945 (in color and HD)

⇒1.動画:米軍に投降したゲーリング;Goering in Kitzbuhel, Austria. (May, 1945) For Goering arrest(RobertHJacksonCenter)
⇒2.動画:ゲーリングを捕まえたアメリカ兵士の証言;Thomas Kysor (2005): on Arresting Goering(RobertHJacksonCenter)

アメリカ軍現地司令官は、名声あるヘルマン・ゲーリングHermann Göring)が自分に降伏してきたことに感激して、ゲーリングを賓客のように扱ったが、これを知ったアイゼンハワー元帥は激怒し、敵の捕虜相応の扱いをすることを命じた。しかし、アメリカ軍は、ゲーリングに限らず、1945年5月に投降してきた有名ドイツ軍高級将校を厚遇している。戦闘機総監ガーラント(Galland)中将,イタリア戦線を指揮したケッセリング(Kesselring)元帥しかりである。
⇒動画:厚遇されるドイツ軍高級将校捕虜;Captured High Ranking Nazis Including Göring, Galland, Kesselring, Bodenschatz (RobertHJacksonCenter)


ドイツ敗戦後ニュルンベルク戦犯裁判の被告人第1号

1945年11月以降,ドイツ、ニュルンベルグ国際軍事裁判に出廷したドイツ指導者たち、 上段手前から、海軍総司令官デーニッツ元帥、前海軍総司令官レーダー元帥、ヒトラーユーゲント指導者シーラッハ、二段目は空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥・プロイセン州首相、元副総統ルドルフ・ヘス、外務大臣リンベントロップ、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥、親衛隊SS国家保安本部エルンスト・カルテンブルンナー長官:1933年4月21日にナチ党の副総統に任命されたルドルフ・ヘスは、マルティン・ボルマンを秘書・副官としてたヒトラーへの取次係としての地位を確保したほかは、1933年12月1日以降、無任所大臣としての地位を得ただけで、基盤となる組織を持たなかった。戦争が始まると、軍務に専念するヒトラーの寵愛を失い焦ったヘスは、イギリスとの和平交渉に自らの命を懸けて臨んだ。1941年5月10日、ヘスは一人でBf110を操縦して、見事にイギリスにパラシュート降下した。しかし、捕らえら尋問されただけで、和平交渉に入ることはできなかった。
German War Crimes Trials, Nuernberg and Dachau National Archives Identifier: 292601 Creator(s): Department of Defense. Department of the Army. Fort Leavenworth, Kansas. 9/18/1947- (Most Recent)
Scope & Content:The prosecution charges the defendants with conspiring to destroy the independence of other nations. Goering is in the defendant's box. The defendants, surrounded by American military police, Goering, Hess, Von Ribbentrop, Keiter, Rosenberg, Frank, Frick, Streicher, Funk, Schacht; back row, Donitz, Raeder, Von Schirach, Sauckel, Jodl, Von Papen, Seyss-Inquart, Speer, Von Neurath, and Hans Fritsche. 11/23/45. ARC Identifier: 292601 NAIL Control Number: NRE-338-FTL(EF)-3161(1)
写真は NATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 292601 引用。


1943年10月20日、ロンドンで17カ国が集まる国際会議において、連合国戦争犯罪委員会(UNWCC:United Nations War Crimes Commission )の設置が決まり、ドイツ指導者の裁判は、国際戦争犯罪裁判で裁くことを申し合わせた。1945年8月8日、米英仏ソの四大国はロンドンで国際軍事裁判所憲章に署名、国際軍事裁判所の構成や役割について合意し、戦争犯罪を「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」「共同謀議」の4点とし、ニュルンベルグ国際軍事裁判で裁くことが決まった。

写真(右)1945年11月以降,ドイツ、ニュルンベルク、国際軍事裁判に出廷したドイツ指導者たち、 上段手前から、海軍総司令官デーニッツ元帥、前海軍総司令官レーダー元帥、ヒトラーユーゲント指導者シーラッハ、二段目は空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥・プロイセン州首相、外務大臣リンベントロップ、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥、親衛隊SS国家保安本部エルンスト・カルテンブルンナー長官
Nürnberger Prozess, Angeklagte Zentralbild Strafprozeß vor dem Internationalen Militärgerichtshof in Nürnberg vom 20.11.1945 bis 1.10.1946 gegen führende Personen (Hauptkriegsverbrecher) des faschistischen Deutschlands wegen Kriegsverbrechen, Verbrechen gegen den Frieden und gegen die Menschlichkeit; abgeschlossen durch Urteil vom 30.9./1.10.1946. Urteilsvollstreckung am 16.10.1946. UBz: Die Bank der Angeklagten; von links: Hermann Göring, Karl Dönitz, Joachim von Ribbentrop, Erich Raeder, Wilhelm Keitel, dahinter Baldur von Schirach, Ernst Kaltenbrunner.Depicted place Nürnberger Prozess Date 1945 Photographer Unknown Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-V01732
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・Bundesarchiv Bild 183-V01732引用(他引用不許可)。


第二次世界大戦で降伏したドイツの戦争犯罪を裁くために、1945年11月20日から1946年10月1日まで、国際軍事裁判で、開催地は、ナチ党党大会が例年開催されていたニュルンベルクとされたため、ニュルンベルグ国際軍事裁判と呼ばれている。被告となったのは24名の主要戦犯で、判事は、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の四カ国から各2名を選出した。

写真(右)1945年11月以降,ドイツ、ニュルンベルク、ニュルンベルグ国際軍事裁判に出廷したドイツ指導者たち、中央手前から、空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥・プロイセン州首相、外務大臣リンベントロップ、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥、親衛隊SS国家保安本部エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner)長官、ポーランド総督ハンス・フランク、上段手前から、海軍総司令官デーニッツ元帥、前海軍総司令官レーダー元帥、ヒトラーユーゲント指導者シーラッハ、労働総監フリッツ・ザウケル、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将、元副首相・駐トルコ大使フランツ・フォン・パーペン、元オーストリア首相・オーストリア国家執行官アルトゥル・ザイス=インクヴァルト博士、軍需大臣アルベルト・シュペーア
Nürnberger Prozess, Angeklagte Zentralbild Strafprozeß vor dem Internationalen Militärgerichtshof in Nürnberg vom 20.11.1945 bis 1.10.1946 gegen führende Personen (Hauptkriegsverbrecher) des faschistischen Deutschlands wegen Kriegsverbrechen, Verbrechen gegen den Frieden und gegen die Menschlichkeit; abgeschlossen durch Urteil vom 30.9./1.10.1946. Urteilsvollstreckung am 16.10.1946. UBz: Den Stand der Angeklagten. Hintere Reihe von links: Karl Dönitz, Erich Raeder, Baldur von Schirach, Fritz Sauckel, Alfred Jodl, Franz von Papen, Arthur Seyß-Inquart, Alfred Speer. vordere Reihe von links: Hermann Göring , Joachim von Ribbentrop, Wilhelm Keitel, Ernst Kaltenbrunner, Alfred Rosenberg, Hans Frank. Depicted place Nürnberger Prozess Date 1945 Photographer Unknown Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・Bundesarchiv Bild 183-1983-0331-500引用(他引用不許可)。


ニュルンベルグ国際軍事裁判では、犯罪組織(犯罪集団)に所属していると訴追対象となったが、これは、ナチ党指導部、内閣(政府)、親衛隊(SS)、突撃隊(SA)、親衛隊保安本部(ゲシュタポ・SD)、参謀本部・国防軍最高司令部の6組織である。また、事犯としては、ユダヤ人大量殺戮、ホロコーストが未曽有の殺戮と認識され、C級戦犯の「人道に対する罪」として裁かれた。死刑対象者は、1946年10月16日に絞首刑にされ、有期刑対象者はベルリン郊外のシュパンダウ刑務所Spandau Prison)に収監された。

写真(右)1945年11月以降,ドイツ、ニュルンベルク、戦争犯罪裁判に出廷したドイツ指導者たち、 上段手前から、海軍総司令官デーニッツ元帥、親衛隊SS国家保安本部エルンスト・カルテンブルンナー長官、前海軍総司令官レーダー元帥、ヒトラーユーゲント指導者シーラッハ、労働総監フリッツ・ザウケル、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル(Alfred Jodl)上級大将、元副首相・駐トルコ大使フランツ・フォン・パーペン、元オーストリア首相・オーストリア国家執行官アルトゥル・ザイス=インクヴァルト博士、軍需大臣アルベルト・シュペーア、元外務大臣・コンスタンティン・フォン・ノイラート、ハンス・フリック、二段目は空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥・プロイセン州首相、元副総統ルドルフ・ヘス、外務大臣リンベントロップ、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥、ポーランド総督ハンス・フランク、:上段手前から、前海軍総司令官レーダー元帥、ヒトラーユーゲント指導者シーラッハ、労働総監フリッツ・ザウケル、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル(Alfred Jodl)上級大将、元副首相・駐トルコ大使フランツ・フォン・パーペン、元オーストリア首相・オーストリア国家執行官アルトゥル・ザイス=インクヴァルト博士、軍需大臣アルベルト・シュペーア。
Nürnberger Prozess, Angeklagte Zentralbild Strafprozeß vor dem Internationalen Militärgerichtshof in Nürnberg vom 20.11.1945 bis 1.10.1946 gegen führende Personen (Hauptkriegsverbrecher) des faschistischen Deutschlands wegen Kriegsverbrechen, Verbrechen gegen den Frieden und gegen die Menschlichkeit; abgeschlossen durch Urteil vom 30.9./1.10.1946. Urteilsvollstreckung am 16.10.1946. Urteilsvollstreckung am 16.10.1946. UBz: Den Stand der Angeklagten. Hintere Reihe von Links: Karl Dönitz, Erich Raeder, Baldur von Schirach, Fritz Sauckel, Alfred Jodl, Franz von Papen, Arthur Seyß-Inquart, Albert Speer, Konstantin von Neurath, Hans Fritzsche. Vordere Reihe von links: Hermann Göring , Rudolf Heß, Joachim von Ribbentrop, Wilhelm Keitel, Ernst Kaltenbrunner, Alfred Rosenberg, Hans Frank, Wilhelm Frick, Julius Streicher, Walter Funk und Hjalmar Schacht. Depicted place Nürnberger Prozess Date 1945 Photographer Unknown Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・Bundesarchiv Bild 183-V01057-3引用(他引用不許可)。


ニュルンベルグ国際軍事裁判において、ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は被告人第1号とされ、最も指導的な地位についていた戦争犯罪容疑者と見なされ、当初から注目を浴びた。


Nuremberg Day 83-84 Goering (RobertHJacksonCenter)

ゲーリングの証言 ニュルンベルグ国際軍事裁判, 1945年10月
「いいえ、それは全く正しくありません。」 「それではあなたの解釈を話してください。」
「...移住または立退きによりユダヤ人問題を解決するという、時間が許す範囲内で最も望ましい解決策としてあなたに与えられた使命は1939年1月24日の命令にすでに含まれています。したがって、その遂行を準備するにあたり、組織的、機能的、および物質的対策の総合的な計画を行う権利を与えます。ここで、これまで誤って訳されてきた決定的な言葉についてですが、ここで述べられているのは、最終的解決ではなく、完全な解決、つまり、ヨーロッパでドイツの影響が及ぶ全範囲にわたるユダヤ人問題の完全な解決です。」
「この件自体は治安警察および親衛隊と親衛隊大将ハイドリヒに対して指示されたものと解釈していいですね。」 「その通りです。」

⇒動画:ゲーリングの最終弁論:Statements of Nuremberg defendants (Aug. 31, 1946) (Trial Day 216)

ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、ヒトラーとナチ党を称賛して、検察に対して論戦を挑んだ。また、自らゲッペルスやヒムラーのような過激な反ユダヤ主義者ではなく、ホロコーストにも関与していないと弁護した。ニュルンベルグ国際軍事裁判において、ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は絞首刑の死刑判決を受けたが、刑務所内に内通者があったためか、処刑される2時間前にシアン化水素を服毒し自殺してしまった。服毒自殺に使ったシアン化水素を入れていた真鍮容器が残され、被告人の健康管理・監視に当たっていたアメリカ軍のジョン・K・ラティマー(John K. Lattimer)軍医がそれを保管してた。

ニュルンベルグ国際軍事裁判で裁判官は1946年10月1日に判決を言い渡した。有罪判決には裁判官4人のうち3人の合意が必要だった。死刑判決は12人、ただし、ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は自殺によって絞首刑を逃れた。終身刑は3人、10年から20年の禁固刑を4人に言い渡した。無罪判決は3人だった。


Hitler's Henchmen - The Marshall - Hermann Goering


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日米開戦も分析しました。

ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
アンネの日記とユダヤ人
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機

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