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◆ドルニエ(Dornier)Do-18飛行艇
写真(上)1938年、ドイツ、ドイツ空軍第406沿岸飛行隊第2飛行中隊ドイツ空軍第406沿岸偵察飛行隊第2飛行中隊ドルニエ(Dornier)Do-18D飛行艇(登録コード:60-A42)
:機首上部、胴体後方上部に、ラインメタル7.92ミリMG15旋回機銃各1挺が搭載されている。飛行艇基地の陸上に待機しているので、胴体下面に車輪付きの台車を装着して、陸上での移動が容易になるように配慮している。コックピット左主操縦席にはないが、右副操縦席には対地角度を測る白線が引かれている。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image Catalog:16_007459 - Title:Dornier Do- 18 D Nowarra  Collection - Filename:16_007459.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation. 写真はSDASM Archives・PictionID:46170028引用。


図(上)1938年、ドイツ、ドイツ空軍第406沿岸飛行隊第2飛行中隊ドルニエ(Dornier)Do-18D飛行艇(60-A42):7.92mmMG15旋回機関銃1挺を機首と胴体後上方に装備。北海における海上迷彩塗装を施しているが、垂直尾翼の赤帯白丸黒鍵十字のナチ党式国籍マークは、1939年9月の第二次大戦時には目立ちすぎるので、黒鍵十字(白縁付き)となった。
図はинтересующихся военной тематикой ГЕРМАНИЯ・DORNIER "DO-18", ЛЕТАЮЩАЯ ЛОДКА引用。

写真(上)1939-1942年頃、ドイツ、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18G飛行艇
:機首上面と胴体後上面に銃座があり、そこに各々ラインメタル7.92ミリMG15旋回機関銃1挺が装備されている。開口部があり、そこに乗員が顔を出している。後方の搭乗員は、右手を挙げて、カメラマンの乗る僚機に挨拶している。ナチ党のスワスチカ(鍵十字)が描かれていない。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46170003 - Catalog:16_007457 - Title:Dornier Do 18G Dornier photo - Filename:16_007457.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives・PictionID: 46170003引用。

1.ドルニエ(Dornier)Do-18飛行艇

写真(右)1935年3月15日初飛行したドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)V1試作1号機(D-AHIS)モンスーン(Monsun);垂直尾翼のドイツ共和国三色旗を模した国籍マークは、1935年3月のドイツ再軍備宣言まで使用された。水上機基地(飛行船母船か)のクレーンで吊り下げられたドイツ・ルフトハンザ航空の機体。
English: The German Lufthansa Dornier Do 18A flying boat (D-AHIS "Monsun"). This prototype made its first flight on 16 March 1936 and crashed on 2 November, three of the Lufthansa crew died, two were injured. Date 1935 Source Flightglobal 14 November 1935 -2- 0561.html Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do 18・File:Dornier Do 18 D-AHIS on crane.jpg引用。


ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇のエンジン配置は、Do.Jワール飛行艇で採用したのと同じ串型で、主翼中央上面に、縦に置き、3翅の牽引式プロペラと推進式プロペラ(プロペラをエンジン後部に取付ける)を備えている。

写真(右)1935年3月15日初飛行したドルニエ(Dornier)Do18 V1飛行艇試作1号機(D-AHIS)モンスーン(Monsun);エンジンは主翼上面に3翅プロペラの液冷ディーゼルエンジンを2基の串型に配備している。絵葉書ポストカード。
Postcard Dornier Do 18 A V 1, Langstreckenflugboot postally unused, excellent condition写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten ・ No 10.365.798引用。


 ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH: Deutsche Lufthansa)は、長距離の郵便航路と旅客航路に、ドルニエ(Dornier)Do-Jワール”Wal”を投入し実績を上げていた。そこで、1920年代から活躍していたDo-Jワールの発展型を、1934年に同じドルニエに開発依頼した。つまり、Do-Jワール飛行艇の後継機としてドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)は、大西洋横断可能な長距離飛行艇の開発を要求し、ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇が生まれたのである。

このドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇の特徴は、
1)支柱を使って、胴体の上部に主翼を配置するパラソル翼、
2)牽引式・推進式のプロペラで飛行する2基のユンカース(Junkers)ユモJumo 205液令6気筒ディーゼルエンジンの串型縦列タンデム配置、
3)水上安定性を確保しながら、空気抵抗を減らし、燃料タンクの容積を確保する胴体下部のバルジ式スポンソンのフロート、
であるが、これらはすでに前作ドルニエ(Dornier)Do-Jワール”Wal”で実用化済みの技術だった。

ドルニエ(Dornier)Do18の発動機は、燃費のいいディーゼルエンジンを装備したが、これはユンカースの開発したユンカース(Junkers)ユモJumo 205直列6気筒液冷ディーゼルエンジンだった。

写真(右)1936年9月、離水し機首が持ち上がったドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)ドルニエ(Dornier)Do 18 V3飛行艇試作3号機(登録コード D-ABYM:製造番号 c/n 661)アイオロス(Aelous");他の一連の写真からみて、飛行船母船に接近してきたときか、母船のカタパルトから射出されたときの撮影と思われる。
English: The German Lufthansa Dornier Do 18E flying boat (D-ABYM "Aeolus") taking off. Date 1936 Source Flightglobal 17 September 1936, p. 290 - 2523.html Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do 18・File:Dornier Do 18 D-ABYM taking off 1936.jpg引用。


第一次大戦までのドイツ帝国の国旗は、帝政の「黒・白・赤」の横縞三色国旗である。しかし、第一次大戦後は、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命、帝政が崩壊すると、ドイツ(ワイマール)共和国が樹立され、「黒・赤・金」の横縞三国旗に変更された。この国旗は、1813年のナポレオン戦争時に男爵フォン・リュッツォウ率いる義勇軍のイェーナ大学生隊「イェーナー・ブルシェンシャフト」の旗印と同じである。

写真(右)1936年、水上機基地のクレーンで吊り下げられたドルニエ(Dornier)Do 18 V3飛行艇試作3号機(登録コード D-ABYM:製造番号 c/n 661)アイオロス(Aelous);これ以前のドイツ共和国時代の国籍マークは、ドイツ共和国三色旗(黒赤金)を描いていた。ヒトラー政権の1933年1月末以降は、ドイツ帝政三色旗(黒白赤)に変更された。1935年3月、ドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設されたが、この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字のナチ党式の国籍マークが定められた。 絵葉書ポストカード。
Foto Dornier Do 18 Langstreckenflugboot am Kran in der Werft, D-ABYM, Baujahr 1936 Foto, ca. 12 x 17 cm, sehr guter Zustand
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten  Nr. 10.326.655引用。


しかし、1933年1月30日に樹立されたヒトラー政権では、ドイツ(ワイマール)共和国を否定し、事実上、ドイツ復活を企図して帝政の「黒・白・赤」の横縞三色国旗に再度改められた。そこで、ベルサイユ条約で認められたドイツ民間スポーツ機や輸送機の国籍マークも、黒・白・赤」三色旗を垂直尾翼に描いている。

その後、ヒトラーは、1935年3月、ドイツ再軍備宣言をし、ドイツ空軍・徴兵制を復活したが、この時に、「黒・白・赤」の帝政三色旗を国旗とはせずさらに、赤帯白丸黒卍鍵十字スワスチカ(ハーケンクロイツ)のナチ党式の国旗を定めた。そして、同じナチ党式国旗をドイツの民間機・軍用機の垂直びよくに描いで、国籍マークとした。

写真(右)1937年6月11日に初飛行したドルニエ(Dornier)Do18 V6飛行艇試作6号機(登録コード:D-ANHR)の左側面;ユンカース(Junkers)ユモJumo205ディーゼルエンジンを搭載したが、主翼を大型化し、燃料も増加して航続力を延長したため、Do18 Fと形式命名された。1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設された。この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字のナチ党式の国籍マークが定められた。これ以前の国籍マークは、ドイツ共和国三色旗を描いていた。絵葉書ポストカード。
Ansichtskarte / Postkarte Zweimotoriges Langstreckenflugboot Dornier Do 18, D ANHR Zustand, siehe Scan
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten  Nr. 10.428.044引用。


ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇は、1935年3月15日に初飛行した。そして、1936年9月、ハンブルクから、アゾレス諸島を経由して、ニューヨークまで4,460kmを22時間15分で飛行した。

ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH: Deutsche Lufthansa)は、1936年9月10-11日に、飛行艇母船「シュワーベン」(Schwabenland)を利用して、ドイツ・ルフトハンザ所長フォン・ガブレンツ(von Gablenz)子爵も搭乗したドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇試作機で、4,460キロ (2,270マイル)飛んで、バミューダ(Bermuda)島経由でニューヨークに22時間12分で到着した。


写真(上)1939 年9月以前、ドイツ、離水しようとするドルニエ(Dornier)Do 18E 飛行艇(D-ABYM)の右側面
;赤帯白丸黒卍十字はナチ党旗からドイツ国旗に取って代わったために、ドイツ機の国籍マークとして採用された。1939年11月9日公開の写真。
English: A German Dornier Do 18 taking off before the Second World War. Note: this is obviously a retouched photo of the civil Do 18E D-ABYM (see below). Date circa 1936 Source Flightglobal 9 November 1939 [1] Author Unknown author, post-work Cobatfor
写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do 18・Objectnummer 2157-112-018 引用。


ドイツ・ルフトハンザ航空は「世界初の西廻り大西洋横断定期郵便飛行に成功」と喧伝したが、1938年3月には、イングランドのデボン州からブラジルまでの8,391kmをノンストップ43時間で飛行し、水上機の飛行距離世界記録を達成した。

写真(右)1939年11月21日以降、海上に待機しているドルニエ(Dornier)Do 18 L飛行艇(D-ANHR);主翼を大型化し、燃料も増加して航続力を延長したDo18Fを、さらにエンジンをBMW132N空冷星形9気筒エンジン880hp2基に換装し、1939年11月21日に初飛行した。絵葉書ポストカード。
Foto Dornier Do 18 L Seefernaufklärer Flugboot Foto, ca. 13 x 18 cm, sehr guter Zustand
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten  Nr. 10.326.670引用。


1937年6月11日に初飛行したドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇V6試作6号機(登録コード:D-ANHR)は、それ以前の試作機と同じくユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン2基をタンデム配置しているが、航続距離を延長するために、主翼面積と搭載燃料を増加したため、Do18 Fと形式命名された。

1939年、ドルニエ(Dornier)Do18 V6飛行艇試作6号機(登録コード:D-ANHR)は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205CディーゼルエンジンをBMW132N空冷星形9気筒エンジン880hp2基に換装し、ドルニエ(Dornier)Do 18 Lと形式命名された。


写真(右)1939年11月21日初飛行のドイツ、ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇L型
;エンジンはユモJumo205液令ディーゼルエンジンではなく、BMW132空冷星形9気筒エンジン880hp2基に換装されている。機首上面と胴体後上面にも銃座はない。尾部には、ナチ党のスワスチカ(鍵十字:卍)を国籍指標とするドイツ国籍マークが記入されている。
SDASM Archives Wagner Collection Image
PictionID:46170065 - Catalog:16_007462 -
Title:Dornier Do- 18L Dornier photo - Filename:16_007462.TIF .
写真はSDASM Archives・PictionID:46170065引用。


1937年6月11日に初飛行したドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇V6試作6号機(D-ANHR)は、Do 18 F と形式命名されたが、主翼を大型化し、燃料も増加して航続力を延長した。これは、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)に納入された6番目、最後のドルニエ(Dornier)Do-18民間機である。そして、1938年5月27-19日、飛行時間43時間で8392kmという水上機のノンストップ長距離飛行記録を樹立した。

ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇F型は、Do 18 Dの主翼を大型化し、燃料も増量した航続距離延長型である。このドルニエDo 18 Fを原型に、エンジンをユモ(Jumo)205液令ディーゼルエンジン600hp2基からBMW132N空冷星形9気筒エンジン880hp2基に換装したのが、ドルニエ(Dornier)Do 18 Lと改名された機体で、1939年11月21日に初飛行した。このDo 18 FとLは、ともに飛行艇母船のカタパルトから射出することができる。

写真(右)1936年-1939年9月頃、海上の商船隊の上空を飛行するドルニエDo 18 飛行艇;エンジンは主翼上面に3翅プロペラのユモ(Jumo)液冷ディーゼルエンジンを2基の串型に配備している。絵葉書ポストカード。
Foto Postcard Dornier Do 18 Seeflugzeug sichert einen Geleitzug, EAS 378
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten ・No 2.647.477引用。


1934年、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH: Deutsche Lufthansa)の大西洋横断可能な長距離飛行艇の開発要求を受けたドルニエは、1935年3月15日、ユンカース(Junkers)ユモJumo 5液令6気筒ディーゼルエンジン2基搭載のドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇V1試作1号機(D-AHIS)モンスーン(Monsun)を初飛行させた。

 1936年初め、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)は、さらに4機のドルニエ(Dornier)Do18 、すなわちDo 18 V2飛行艇試作2号機(登録コード D-AANE:製造番号 c/n 677)サイクロン(Zyclon)、Do 18 V3飛行艇試作3号機(登録コード D-ABYM:製造番号 c/n 661)アイオロス(Aelous)、Do18 V4(D-AROZ:c/n 255)パンペロ(Pampero:ジャワ島の強い東風)、Do18 V5(D-ARUN c/n 663)セフィール(Zephir)、Do18 V5(D-ARUN)を受領した。これらの機体は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205 Cディーゼルエンジン600hp2基を串型タンデム配置し、主翼上面に牽引式プロペラと推進式プロペラを組み合わせた。

ドルニエ(Dornier)Do18 飛行艇の初飛行は、1935年3月15日だが、1935年3月28日には、アメリカのコンソリデーテッド(Consolidated)PBY カタリナ(Catalina)飛行艇が初飛行している。

コンソリデーテッドPBY カタリナ(Catalina)飛行艇は、パラソル翼でエンジンを主翼上に2基配置し、左右主翼にフロートを吊っている。Do-18とPBYの両機は、エンジン2基の配置は異なるが、それ以外の形状は類似している。PBY カタリナは、1937年からアメリカ海軍に配備が始まり、長距離哨戒任務にあたった。

写真(右)1940年、湖水上に待機している2機のドルニエ(Dornier)Do-Jワール”Wal”飛行艇上空を飛行するドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇の正面;機首には開放式の旋回機関銃搭載銃座が設けられている。軍事郵便絵葉書ポストカード。
Postcard Dornier Do 18, Langstrecken Flugboot sent as 1940 military mail, excellent condition
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten・No 2.111.716引用。


ドルニエ(Dornier) Do-Jワール飛行艇(Dornier Do J "Wal")は、信頼性が高く、航続距離が長く、飛行艇として、飛行場が整備されていない地域でも利用可能だったために、1925年、ノルウェー探検家ロアール・アムンセンRoald Amundsen:1872-1928)の北極飛行、1932年のヴォルフガング・フォン・グロナウの世界一周飛行など冒険飛行に使用された。

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール飛行艇(Dornier Do J "Wal")の諸元
初飛行 1922年
  全幅:22.50m
全長:17.25m
全高:5.20m
総重量:5,700kg
  発動機:ロールス・ロイス・イーグルV型12気筒液冷エンジン360馬力2基
巡航速力:140km/h
航続距離:2,200km
乗員2名、乗客:8名

ドルニエDo-Jワール飛行艇(Dornier Do J "Wal")は、1922年11月6日に初飛行した。Do-Jワール飛行艇の生産は1932年まで続けられたが、工場はイタリアに置かれていた。

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール飛行艇の生産は、主にイタリアで行われた理由は、イタリアが飛行艇生産が盛んな国だったこともあるが、敗戦後のドイツは、ベルサイユ条約Treaty of Versailles)で飛行機生産の制限を受けていたためで、それを回避するためにイタリアでの生産が選択された。ドイツにおけるドルニエ(Dornier)Do-Jワール飛行艇の生産は、1931年から開始され、1936年に終了している。

写真(右)1940年、海上を飛行するドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇;機首には開放式の旋回機関銃の銃座が設けられている。Do.Jワール飛行艇機首には開放式の旋回機関銃搭載銃座が設けられている。を踏襲し、胴体支柱の上に串型タンデム配置のエンジンを置き、パラソル式の主翼を備え、胴体左右に水上安定を確保する図るスポンソン式浮きを張り出している。軍事郵便絵葉書ポストカード。
Postcard Dornier Do 18 Wal Flugboot im Flug postally unused, excellent condition
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten ・No 2.647.448引用。


ドルニエ(Dornier)社は、ベストセラーになったドルニエ(Dornier)Do.Jワール飛行艇の後継機として、形状を一回り大型化した輸送飛行艇を、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)のために開発した。この機体の構造は、Do.Jワール飛行艇を踏襲し、胴体支柱の上にエンジンとパラソル式の主翼を備えていた。そして、胴体左右に水上安定を確保する図る浮き「スポンソン」を張り出させている。

写真(右)1938年9月-1939年9月頃、飛翔するドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do18 飛行艇の左後方側面;Do-18軍用仕様は、1938年9月までに部隊配備された。機首に7.92mmMG15旋回機関銃1丁を装備している。1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設された。この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字(スワスチカ)のナチ党式の国籍マークが定められた。これ以前の国籍マークは、ドイツ共和国三色旗を描いていた。絵葉書ポストカード。
Ansichtskarte / Postkarte Deutsche Luftwaffe, Seefernaufklärer Flugboot Dornier Do 18 Zustand, siehe Scan, ungelaufen ca 14 cm X 9 cm
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten Nr. 10.499.605引用。


ユンカース ユモJumo 205ディーゼルエンジンを装備して、大西洋横断長距離に成功したドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇は、ドイツ空軍にも着目された。

1938年9月、ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇の軍用仕様試作1号機(D-AJII)が初飛行したが、これは民間仕様と同じユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205C液冷6気筒ディーゼルエンジン 600 hp2基を串型タンデム配置し主翼上に装備した。軍用なので機首と主翼後方胴体後上方の開放式銃座にラインメタル(Rheinmetall-Borsig)7.92mmMG15旋回機関銃各1挺を備えている。


写真(右)1938年9月以降、ドイツ、初の軍用仕様ドルニエ(Dornier)Do 18 D偵察飛行艇試作1号機(D-AJII)
;1938年9月に初飛行したDo18飛行艇の軍用仕様試作1号機(D-AJII)は、民間仕様と同じユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205C液冷6気筒ディーゼルエンジン 600 hp2基を串型タンデム配置し、主翼上に装備した。エアスクリューは、胴体中央のパラソル翼上面に牽引式プロペラと推進式プロペラを組み合わせた。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46169991 - Catalog:16_007456 - Title:Dornier Do 18 DV-1 prototype of D series Nowarra Collection - Filename:16_007456.TIF.
写真はSDASM Archives・PictionID:46169991引用。


ドイツ機の国籍記章は、1933年1月末、ナチ党政権となってから、当初は、ドイツ帝政時代の黒白赤三色国旗ストライプの国章だったが、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍創立以降、垂直尾翼にナチ党のマークを使った赤帯に白丸と鍵十字ハーケンクロイツ(スワスチカ)を描いた国籍マークが採用された。プロシア貴族、ユンカーの伝統ではなく、新たなナチ党の人種的イデオロギーを具現化した鍵十字ハーケンクロイツ(スワスチカ)は、ヒトラーンは是が非でも軍に取り込みたいと感じていた。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸は目立つために敵からの標的にされやすかった。しかし、鍵十字ハーケンクロイツ(スワスチカ)を外すことは許されず、白縁黒色の鍵十字ハーケンクロイツ(スワスチカ)のみが小さく描かれるようになった。

写真(右)1938年9月以降、ドイツ、初の軍用仕様ドルニエ(Dornier)Do 18 D偵察飛行艇試作1号機(D-AJII);エンジンは主翼上面に3翅プロペラの液冷ディーゼルエンジンを2基の串型に配備している。
SDASM Archives Dornier Do 18 Charles Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album PictionID:38235275 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002296.TIF - -------Image from the Charles Daniels Photo Collection.
写真はSDASM Archives・PictionID:38235275引用。


ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇の軍用仕様試作1号機(D-AJII)は、民間仕様と同じユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205C液冷6気筒ディーゼルエンジン 600 hp2基を串型タンデム配置し、主翼上に装備し、1938年9月に初飛行した。エアスクリューは、胴体中央のパラソル翼上面に牽引式プロペラと推進式プロペラを組み合わせ、回転トルクを打ち消す構造となっている。軍用機なので機首と主翼後方胴体後上方に2基の開放式銃座を設けて、そこにラインメタル(Rheinmetall-Borsig)7.92mmMG15旋回機関銃各1挺を装備している。

写真(右)1938年9月以降、ドイツ、初の軍用仕様ドルニエ(Dornier)Do 18 D偵察飛行艇試作1号機(D-AJII);エンジンは主翼上面に3翅プロペラの液冷ディーゼルエンジンを2基の串型に配備している。絵葉書ポストカード。
Foto Dornier Do 18 Seefernaufklärer Langstreckenflugboot, Baujahr 1936. Foto, ca. 12 x 17 cm, sehr guter Zustand
The company akpool Ltd. offers postcards from the Third Reich era for the following purposes only: civic education, the prevention of unconstitutional and anti-constitutional activities, the assistance of academic and art historical research, the reporting and clarification of events from the Third Reich era, and the research of uniforms and military history. The purchaser is obligated to only use cards for the historic and academic purposes listed above. They are in no way to be used as propaganda, particularly in regards to paragraph §86a of the StGB (Criminal Code).写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten・Nr. 10.326.656引用。


1939年の間に、軍用仕様ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇D型の発展型としてドルニエ(Dornier)Do18G飛行艇が生産に入ったが、これはユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205C液冷6気筒ディーゼルエンジン 600 hp2基を、出力を向上させたユモ(Jumo)205D液冷6気筒ディーゼルエンジン 880 hp2基に換装した発展型である。また、兵装も強化され、機首銃座には、ラインメタル(Rheinmetall-Borsig)13.1mmMG131旋回機関銃1挺、胴体後上方に新設した動力旋回機関銃座にモーゼル20mmMG151/20機関銃1挺を搭載した。

写真(右)1936年、水上機基地のクレーンで吊り下げられたドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18 D飛行艇;胴体後方側面に、白縁黒の鉄十字の国籍マークを描いている。1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設された。この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字のナチ党式の国籍マークが定められた。これ以前の国籍マークは、ドイツ共和国三色旗を描いていた。絵葉書ポストカード。
Foto Dornier Do 18 Seefernaufklärer Langstreckenflugboot am Kran in der Werft, Baujahr 1936
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten ・ Nr. 10.326.653引用。


ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇の発動機は、ユンカースユモJumo205ディーゼルエンジンで、燃費がいいために、航続距離の延長に寄与できた。

写真(右)1936年7月、飛行船母船「オスマルク」(Ostmark)の上空を飛行するドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇;他の一連の写真からみて、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)ドルニエDo 18 飛行艇(D-ABYM "Aeolus")が、飛行船母船に接近してきたときか、母船のカタパルトから射出されたときの撮影と思われる。
English: English: A German Lufthansa Dornier Do 18 flying boat circles the catapult ship Ostmark after take-off, circa 1937. Date circa 1937 Source Flightglobal 29 July 1937
写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do 18・File:Catapult of Ostmark c1937.jpg引用。


写真(右)1936年7月、飛行船母船「オスマルク」(Ostmark)の20tクレーンで船上の射出カタパルトに吊り下げられるドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)ドルニエ(Dornier)Do 18 E飛行艇(D-ABYM "Aeolus");1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設された。この時にドイツの飛行機には、民間と軍用を問わずに、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字のナチ党式の国籍マークが定められた。これ以前の国籍マークは、ドイツ共和国三色旗を描いていた。
English: The German Lufthansa Dornier Do 18E flying boat (D-ABYM "Aeolus") being hoisted aboard the catapult ship Ostmark off Lübeck. Date 1936 Source Flightglobal 4 June 1936, p. 610 - 1489.html Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do 18・File:Dornier Do 18 on crane of Ostmark 1936.jpg引用。


1934年、ドルニエ(Dornier)は、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH: Deutsche Lufthansa)の大西洋横断定期郵便事業用の飛行艇を開発要求を受けて設計された長距離飛行艇である。ドイツ・ルフトハンザ航空は、既にドルニエDo Jワール飛行艇を、ポルトガルのリスボンからブラジルに、大西洋横断便を就航させていたので、Do-J以上の飛行性能を発揮できる後継機を求めたのである。

しかし、1939年9月に第二次世界大戦がはじまると、民間旅客輸送の需要は減少し、軍用機優先の中で、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)の飛行機も軍に徴用された。

写真(右)1936年10月、飛行船母船「シュウァーベンラント」(Schwabenland)船上の射出カタパルトに据え付けられたドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)ドルニエ(Dornier)Do 18 E飛行艇(D-ABYM "Aeolus");1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設され、ゲーリング総司令官が航空兵力の管轄権を一手に掌握するようになった。この時にドイツの飛行機には、民間と軍用を問わずに、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字のナチ党式の国籍マークが定められた。これ以前の国籍マークは、ドイツ共和国三色旗を描いていた。
English: English: The German Lufthansa Dornier Do 18E flying boat (D-ABYM "Aeolus") on the catapult of MS Schwabenland. Date 1936 Source Flightglobal 22 October 1936 - 2868.html Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do 18・File:Dornier Do 18 on cat of Schwabenland 1936.jpg引用。


日本海軍 水上機母艦 秋津洲 ドイツ海軍は、航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」Graf Zeppelin)の建造を開始したものの、竣工させることができなかったために、ドイツ空軍(Luftwaffe)は、海軍に代わって自らカタパルト装備飛行艇母艦(Catapult vessels)を保有し、第二次世界大戦中に7隻を使用している。

ドイツの飛行艇母艦7隻のうち、4隻は、既にドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)が使用していた飛行艇母船を徴用したもので、3隻がドイツ空軍の発注になる。ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV-138飛行艇も、このカタパルト装備飛行艇母艦に搭載、海上哨戒任務に使われた。

写真(右)1940-1944年頃、ノルウェー、飛行艇母艦「フリースラント」(Friesenland)の18トン射出ハインケル社カタパルト上に搭載されようとしているブローム・ウント・フォス (Blohm & Voss )BV-138 B飛行艇;船尾には、飛行艇を艦船に持ち上げるための大型20トンクレーンが装備されている。
A German Blohm & Voss BV 138 float plane being lifted aboard the German aircraft tender Friesenland, in Norwegian waters, during the Second World War. Date between 1940 and 1945 Source U.S. Navy photo NH 71350 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command Author Unknown author
The depot ship Friesenland could carry two of these aircraft and she was launched at Kiel on 23 March 1937 and completed later that year. She operated in France and Norway as a seaplane tender/depot ship, and was also used as a repair ship at Trondheim. After the war, Friesenland was taken over by the Royal Navy and continued to be used as a seaplane depot. (Naval History and Heritage Command)
写真は, Category:Friesenland (ship, 1937) File:BV 138 float plane being lifted aboard the German aircraft tender Friesenland during World War II.jpg引用。


日本海軍 水上機母艦 秋津洲 ドイツ飛行艇母艦「フリースラント」(Friesenland)の諸元
1937年3月23日、ドイツ、キール進水、1937年5月13日、ブレーメン竣工
1万1500総トン
全長:140.5m、全幅:15.56m、喫水:8.24m
燃料:1620トン
ディーゼル機関5800hp、2軸
最高速力:16ノット
装備:20tンクレーン1基、18トン射出ハインケル社カタパルト1基
兵装:20mm対空機関銃4挺
乗員:49名、航空関連搭乗員:34名。

図(右)1939年、飛行艇母艦「フリースラント」(Friesenland);船尾には、飛行艇を艦船に持ち上げるための大型20トンクレーンが装備されている。18トン射出ハインケル社カタパルト上に搭載されているのはブローム・ウント・フォス (Blohm & Voss)子会社のハンブルク航空Ha 139水上機"Nordstern"(D-ASTA)
Description Lot-2275-4: German Warships, WWII. Plans for German catapult seaplane tender, Friesenland, 1939. Halftone image from Division of Naval Intelligence, Identification and Characteristics Section, June 1943. Courtesy of the Library of Congress. (2016/05/06). Date 6 May 2016, 09:46 Source Lot-2275-4 Author National Museum of the U.S. Navy
写真は, Category:Friesenland (ship, 1937) File:Plans for German catapult seaplane tender, Friesenland, 1939 (26760763932).jpg引用。


 Do18飛行艇後継機ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)Bv138C-1偵察飛行艇は、Do18飛行艇と同じユンカース(Junkers)ユモ(Jumo) 205液令6気筒ディーゼルエンジン880hpを2基ではなく3基搭載した。

ドイツの「ブッシュラント」(Bussard;SP 21)と「ファルケ」(Bussard;SP 22)は、同型のカタパルト装備飛行艇母艦で、ともに1942年竣工、排水量 2040トン、全長 98.3m、全幅14.0 mで、ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV-138のような飛行艇を2機まで搭載することが可能だった 。

写真(右)1940-1942年頃,ドイツ海軍飛行艇母艦にデリック(クレーン)で吊り上げられて、艦後甲板の大型カタパルトに据え付けられようとしているドイツ海軍ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)Bv138C-1偵察飛行艇の正面 :燃費の良いユモJumo 205Dディーゼルエンジン3基搭載して長距離飛行を可能にした。プロペラは、左右主翼上のエンジンでは3翅だが、胴体中央のエンジンは、4翅で直径を小さく抑えている。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:43932695 - Catalog:16_005023 - Title: Blohm & Voss Bv 138 C-1 - Filename:16_005023.TIF
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:43932695引用。


ドイツ空軍(Luftwaffe)のカタパルト装備飛行艇母艦(Catapult vessels

日本海軍 水上機母艦 秋津洲 スペルベル (Sperber:ハイタカ;SP 11):ハンブルクで1938年11月26日進水、排水量 1086トン、全長70.25m, 全幅 14.55m、吃水1.8m、18tクレーン1基、18tカタパルト1基。

ブッシュラント(Bussard ;SP 21):ケーニヒスベルクで1940年進水、1942年5月1日竣工、排水量 2040 トン、全長 98,3m、全幅14.0 m 吃水1.8m、20tクレーン1基、20tカタパルト1基。

ファルケ(Falke :鷹;SP 22):ケーニヒスベルクで1940年7月29日進水、1942年11月22日竣工、総トン数 2040トン、全長 98.3m、全幅14.0 m、吃水2.33m、20tクレーン1基、20tカタパルト1基。

ヴェストファーレン(Westfalen):ゲーシュテミュンデ(ブレーメン北30km)で1905年11月14日進水、1906年12月30日竣工、排水量 1万700トン、全長130.54m、全幅16.08m、吃水 8.52 m、3000馬力、1軸、最高速力12ノット。

シュワーベンラント(Schwabenland):キールで1925年3月14日進水、1925年7月16日竣工, 排水量1万6200トン、全長 147.0m、全幅 18.41 m、吃水 9.95m、3600馬力、燃料:ディーゼル1600トン搭載、2軸、最高速力 11ノット、15tクレーン1基、14tカタパルト1基。

オストマルク(Ostmark):キールで1936年4月15日進水、5月16日竣工、排水量 2500トン、全長79.8m、全幅11.25m、吃水4.72m、15tクレーン1基、14tカタパルト1基。

フリースラント(Friesenland):キールで、1937年3月23日進水、5月13日竣工、排水量 1万1500トン、全長 140.5m、全幅 15.56m 、吃水8.42m、20tクレーン1基、18tカタパルト1基。

写真(右)1938年、ドイツ、ドイツ空軍第406沿岸偵察飛行隊第2飛行中隊ドルニエ(Dornier)Do-18D飛行艇(登録コード:60-A42):コックピット副操縦席に対地角度を測る白線が引かれている。機首上部、胴体後方上部に、ラインメタル7.92ミリMG15旋回機銃各1挺が搭載されている。飛行艇基地の陸上に待機しているので、胴体下面に車輪付きの台車を装着して、陸上での移動が容易になるように配慮している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46170016 - Title:Dornier Dornier Do- 18 D Dornier photo - Filename:16_007458.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真はSDASM Archives・Catalog: 16_007458引用。


1933年ナチ党政権樹立後、1935年3月のドイツ再軍備宣言まで、ドイツ三色旗だった。再軍備後は、ドイツの国籍標識には、垂直尾翼に赤帯、白丸、黒の鍵十字を描いている。これは、軍用機でもドイツルフトハンザ航空のような民間機で同じマークである。鍵十字の国籍標識は、1935年のドイツ再軍備宣言、ドイツ空軍創設、1939年9月の第二次世界大戦勃発まで続いた。

 しかし、第二次世界大戦勃発後に、目立ちすぎる華麗な赤白の国籍記章は廃止され、ナチ党逆卍を白縁取りの黒で描いている。エンジンは主翼上面に3翅プロペラの液冷エンジンを2基の串型タンデム式に配備している。

写真(右)1941年頃、海上を滑走するドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇の左側面;1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設された。この時に、総司令官に任じられたヘルマン・ゲーリングは、第一次大戦の撃墜王、ヒトラーの旧友であり、航空兵力を一手に掌握して、海軍航空隊の創設を認めなかった。絵葉書ポストカード。次の写真のトリミング。
Postcard Dornier Do 18 Langstreckenflugboot, Fernaufklärer, Luftwaffe
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten ・ No 2.647.433引用。


ドイツ空軍は沿岸や洋上の偵察・哨戒用の飛行隊を編成し、その指揮権を掌握したが、これが純粋に「ドイツ空軍」かということは、必ずしも正確でない。潜水艦や水上艦艇との共同作戦をとる場合に、海上での作戦、洋上行動は、海軍のほうが専門知識と技術を有していた分野が多かったからである。したがって、編成された沿岸飛行隊(Küstenfliegergruppe:KüFlGr.)、海上偵察隊(Seeaufklärungsgruppe:SAGr.)は、形式上はドイツ空軍であるが、実質的にはドイツ海軍部隊のように指揮される場合が多かったようだ。したがって、戦後の文献では、ドイツ空軍ともドイツ海軍とも明言せずに、ドイツ軍の沿岸偵察飛行隊、のようなあいまいな表現がなされていることがある。

写真(右)1941年、海上を滑走するドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇;エンジンは主翼上面に3翅プロペラの液冷ディーゼルエンジンを2基の串型に配備している。絵葉書ポストカード。
Postcard Dornier Do 18 Seefernaufklärer Flugboot, 1941
Foto, ca. 13 x 18 cm, excellent condition
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten ・No 10.326.663引用。


ドルニエ(Dornier)Do 18の諸元

搭乗員: 4名
全長: 19.23 m
全幅: 23.70 m
全高: 5.32 m
主翼面積: 98.0 平方メートル
空虚重量: 6,680 kg
離昇重量 8,500 kg
カタパルト射出最大重量 10,000 kg
発動機 ユンカース ユンカース ユモJumo 205C液冷6気筒ディーゼルエンジン (605 hp) 2基
最高速力: 250 km/h/海面上
巡航速力: 190 km/h
航続距離: 3,500 km
実用上昇限度: 4,350 m
上昇力:1000 m/7.5分
兵装:7.92ミリMG 15機銃2丁、搭載爆弾量:50キロ爆弾2個。

ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇の発動機は、ユンカース(Junkers)ユモJumo205ディーゼルエンジンであり、ガソリンエンジンよりも燃費がいい。そのため航続距離の延長に寄与できたといえる。

写真(右)1935年3月-1941年頃、水上機基地に引き上げられ整備を受ける台車上のドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇の正面;絵葉書ポストカード。
Postcard Dornier Do 18 Aufklärer Flugzeug auf einem Flugzeugträger, Luftwaffe
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten  No 2.647.427引用。


1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ベルサイユ条約Treaty of Versailles)を無視して、ヒトラーはドイツ空軍を創設した。この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字のナチ党式国籍マークが定められた。

Hermann Goering ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,ヒトラーは,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言し,兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活した。そして,第一次大戦の撃墜王にして1923年のミュンヘン一揆にも参加したヘルマン・ゲーリングを司令官とするドイツ空軍を新設したのである。

ここで,1936年3月の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどめており、だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認した。

1935年6月、イギリスに至っては、海軍提督エーリヒ・ヨーハン・アルベルト・レーダーErich Johann Albert Raeder: 1876-1960)総司令官率いるドイツ海軍を脅威とはみなさず、英独海軍協定Anglo-German Naval Agreement) )を結んで、ドイツ再軍備を公認した。

しかし、裏では、1922年のソ連とのラパッロ条約Treaty of Rapallo) 秘密議定書で,ドイツはソ連奥地で軍備を整える兵器開発・訓練をし、スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して新型火砲を開発した。つまり,ドイツ・ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動き、闇の国防軍は着実に強化されていたが、ヒトラーは再軍備を宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴した。

ヘルマン・ゲーリング ドイツ・ワイマール共和国の軍事組織維持の背景の中で,三軍総司令官となったアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)総統は,1935年3月16日,ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して,再軍備を宣言した。この時,国軍Reichswehrは,国防軍Wehrmachtに戻され,陸軍,海軍に加えて,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)率いる空軍が新設された。再軍備宣言から2ヵ月後,1935年5月21日に兵役法が施行。

忠誠宣誓Oath of allegiance)については,従来のように国家と憲法に忠誠を誓うのではなく,三軍最高司令官の総統兼首相のヒトラーに忠誠を誓うが、実は、この宣誓は、親衛隊(SS:Schutzstaffel)がヒトラー個人に忠誠宣誓をするのとほぼ同じである。

1936年のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合アンシュルスは,この復活させたドイツ国防軍を使って,達成された。

1938年5月23日,ベルリンの帝国官房(総統官邸)で,三軍総司令官が出席した会議で,ヒトラー総統は,「適当な機会があり次第,ポーランドを攻撃する」ことを宣言している。

写真(右)1939年9月-1941年頃、海上を滑走するドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇(登録コード:60-E52)の左側面;1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設された。この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字のナチ党式の国籍マークが定められた。これ以前の国籍マークは、ドイツ共和国三色旗を描いていた。絵葉書ポストカード。
Postcard Dornier Do 18 Flugboot für Fernaufklärung, Luftwaffe postally unused, excellent condition
写真はIhr Onlineshop füralte Ansichtskarten  No 2.647.500引用。


アメリカ、イギリス、オランダ、日本、イタリアのような海洋国は、飛行艇や水上機を多用したが、軍用飛行艇・水上機は、一般的に海軍の所属だった。しかし、ドイツの飛行機の所管は、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングHermann Goering)元帥の支配下に置かれたために、ドイツ軍の基地航空隊所属の飛行艇、水上機の多くは、空軍の隷下に置かれ、海軍艦艇、潜水艦との連携に不都合な面があった。

海軍提督レーダー ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダーErich Raeder)提督の指揮権のある海軍航空兵力は、巡洋艦以上の大型艦船が搭載する艦載水上機に限られた。

1937年、第二次大戦勃発2年前、ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダーErich Raeder)提督は、国防軍総司令官ブロンベルク元帥に対して、沿岸防衛の範囲に関して、ドイツ空軍ヘルマン・ゲーリング総司令官との海空の分担の取り決めを依頼したが、実際に海軍と空軍の責任範囲について協定文書がまとまったのは、戦争直前の1939年2月3日だった。

これは、ドイツ海軍司令部空軍代表General der Luftwaffe beim Oberbefehlshaber der Marine)を置き、戦時には海軍司令部空軍代表を海軍総司令官の指揮下に行動するというものである。

しかし、ドイツ近海を離れた海上は、ドイツ空軍の責任範囲で、ドイツ海軍が作戦行動を行う場合のみ、ドイツ海軍が哨戒偵察の責任を負うとした。また、水上艦艇同士の海戦、航空機による機雷敷設については、海軍と空軍の合意のもとに、実施するとした。

ドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」Graf Zeppelin)の諸元

ドイツ海軍 航空母艦 グラーフ・ツェッペリン 発注 1935年11月16日
起工 1936年12月28日
進水 1938年12月8日
排水量 33 550 t
全長 262.5 m
全幅 31.5 m
吃水 7.6 m
機関 タービン2基4軸、20万馬力
最高速力 35 kt
航続距離 19ノット/8,000マイル
建造中断 1940年6月
建造中止 1943年
1945年4月25日 自沈

写真(右)1939年3月22日,キール軍港で艤装中のドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」:カタパルト2基を装備した近代的な大型艦橋を備えた空母として建造されたが,未完成に終わった。ドイツ軍は,空母を1隻も保有することができなかった。
ドイツ海軍は,大型戦艦「ビスマルク」型2隻,巡洋戦艦「シャルンホルスト」型2隻,ポケット戦艦「ドイッチュラント」型3隻を建造,就役させた。
Photographer Unknown author Archive description Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong. You can help by reporting errors and typos at Commons:Bundesarchiv/Error reports. Kiel.- Flugzeugträger "Graf Zeppelin". Heckansicht mit Flugdeck, Backbordseite Title Flugzeugträger "Graf Zeppelin", Bau Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Flugzeugträger "A". Baustadium Aufgen. am 22.3.1939 Deutsche Werke Kiel Date 22 March 1939 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Hauptamt Kriegsschiffbau - Bildbestand (RM 25 Bild)
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:File:Bundesarchiv RM 25 Bild-30, Flugzeugträger "Graf Zeppelin", Bau.jpg引用不許可)


wikipediaでは、ドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」放棄の理由を次のように誤解している。

ドイツ大西洋防壁 「1940年半ばになると状況は劇的に変化し、北のノルウェーから南はスペイン国境までの長大な海岸線を敵の上陸戦から守る必要が生じた為、それまで本艦よりも優先順位の低かった沿岸要塞は突然最優先事項に浮上し、兵器、要員、そしてあらゆる種類の軍需品が迅速にこの分野に投入され、後に大西洋の壁と呼ばれる壮大な要塞線建設計画が立てられた。この為に海軍の艦艇建造計画は削減され、その資材は沿岸防衛要塞建設に投入される事となった。この段階で造船所の船台上にあったグラーフ・ツェッペリンの15cm主砲及び10.5cm高射砲は要塞や沿岸砲台に転用され、完成率90%前後に達していた本艦の艤装工事は1940年に中断された。」

Wikimedia は、要塞砲を整備を優先したために、空母「グラーフ・ツェッペリン」が解体されたと誤解している。これは、
1)ヒトラーが言い出した艦砲の沿岸砲台転換など空母1隻分では取るに足らない兵力であること(15cm55口径連装砲8基、10.5cm65口径連装高角砲6基の計画が未完成)、
2)空母本体の機関・艤装を無為にすることをどうして許容したのか説明できないこと(火砲より機関・その他の艤装のほうが重要である)、
3)ドイツ海軍とドイツ空軍の航空兵力指揮権を巡るの軋轢(海軍に対する空軍の優位)、
に思い至らないたための誤謬である。

ドイツ海軍 航空母艦 グラーフ・ツェッペリンドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」建造放棄は、次のような理由が指摘できる。
(1)1940年6月にはフランスが降伏し、僅か1隻の未経験な空母の戦力化にはあまり意味がなかった。
(2)英国本土航空決戦を戦う場合、僅か1隻の航空母艦の実用化よりも空軍兵力増強が優先された。
(3)東方ソ連侵攻の場合、僅か1隻の航空母艦が実用化しても戦局に関わらない。(実際には北極海の輸送船団攻撃に空母を使用できた。)
(4)未経験な航空母艦と空母艦載機の運用について、戦時のドイツ海軍は独力で解決することも、イギリス空母に対抗することも困難だった。

図(右)1939年9月以降、荒海の上を飛翔するドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇;エンジンは主翼上面に3翅プロペラの液冷ディーゼルエンジンを2基の串型に配備している。絵葉書ポストカード。
Foto Dornier Do 18 Seefernaufklärer Langstreckenflugboot, Baujahr 1936. Foto, ca. 12 x 17 cm, sehr guter Zustand
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten ・No 2.647.427引用。


 1992年公開宮崎駿監督『紅の豚』は、第一次世界大戦後、1930年代の地中海、イタリアを舞台としたアニメ映画だが、レッドバロンと同じような紅色に塗装したマッキ M.33Macchi M.33)に似た後退翼の新鋭戦闘飛行艇を少女が設計する。その機体は、斬新な設計で高速だが、安定性が悪く実用性が低い。

1930年代に実際に活躍した飛行艇としては、1923年登場のドイツのドルニエDo-Jワール飛行艇(総生産機数250機)、イタリアのマッキ M.18Macchi M.18)複葉飛行艇(70機生産)、1935年登場のイギリスのスーパーマリン ウォーラスSupermarine Walrus(生産数740機)、ドルニエDo-18飛行艇(100機生産)のような(どれも似た外観の)堅実な設計の飛行艇が活躍していた。

1938年3月27-29日、ドルニエDo18飛行艇は、ノンストップでデボーン(Devon)から 8,391 km (5,214マイル)飛んで、ブラジルのカラベラス(Caravelas)まで飛行し、水上機の世界記録を樹立した。

図(右)1939年9月以降、雲海の切れ目から商船を発見したドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇;エンジンは主翼上面に3翅プロペラの液冷ディーゼルエンジンを2基の串型に配備している。絵葉書ポストカード。
Künstler Ansichtskarte / Postkarte Dornier Do 18 Flugboot über dem Meer, 2. WK  Zustand, siehe Scan, ungelaufen ca 15 cm X 11 cm.
写真はIhr Onlineshop für alte Ansichtskarten ・Nr. 3.259.547引用。


1930年代、ドルニエ(Dornier)Do J のような飛行艇が大活躍できたことには、いくつかの理由がある。
1)1930年代当時は、未舗装滑走をしかない飛行場が多く、滑走路も短かったために、長距離飛行する大型陸上輸送機の離着陸が制限された。他方、飛行艇であれば、内海・港湾・湖沼を利用して離水・着水が可能だった。
2)飛行機の事故や故障、天候悪化に対する脆弱性から、不時着を余儀なくされる場合が頻繁にあったが、大型陸上機の不時着適地は少ない上に、海上への着水は沈没してしまうリスクが高かった。他方、飛行艇であれば、海面への不時着水に有利である。

写真(右)1939年9月13日、オランダ、第二次大戦で初めて撃墜されたドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-18G-1飛行艇(登録コード:M2+LK);1939年9月13日、1430頃、オランダに飛来したドイツ空軍機が、イギリス海軍の空母「アークロイヤル」(Ark Royal)の艦上爆撃機ブラックバーン スクア(トウゾクカモメ)によって、撃墜され、海岸に不時着した。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Marine Objectnummer 2158_083810
Beschrijving De Dornier Do 18 (M2+LK) op het strand van Ameland
Plaats Ameland Datering van 1939-09-13 Datering tot 1939-09-13 Trefwoorden vliegtuigen, materieel Specifieke kenmerken BUITENLANDSE VLIEGTUIGEN, Dornier Do 18 Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH
写真はBeeldbankWo2.nl・Beeldnummer 175315引用。


写真(右)1939年9月13日、オランダ、第二次世界大戦で初めて撃墜されたドイツ軍ドルニエ(Dornier)Do-18G-1飛行艇(登録コード:M2+LK);1939年9月13日、1430頃、オランダに飛来したドイツ空軍機が、イギリス海軍の空母「アークロイヤル」(HMS Ark Royal)第803飛行隊の艦上爆撃機ブラックバーン スクア(Blackburn Skua:トウゾクカモメ)によって、撃墜され、海岸に不時着した。
Collectie Nationaal Bevrijdingsmuseum Groesbeek Trefwoorden Luftwaffe, Vliegboten, Duitse strijdkrachten
Locatie Naam: Friesland Land: Nederland
Bijschrift Foto van Dornier Do- 18 G-1 die op het strand ligt. Tekst: 'Een Dornier Do. 18 G-1, code M2+LK, van de Küsten Flieger Gruppe 106 van de Luftwaffe na een noodlanding op het kamp van Schiermonnikoog. Het vliegtuig werd door Nederlandse jachtvliegtuigen tot landen gedwongen in de herfst van 1939 (foto Hr. Onderwater) 13-9-1939 ± 14.30 uur'. Maar het vlieguig landde inwerkelijkheid bij paal 16 op Ameland.
Type Foto Datum 13/09/1939
写真はBeeldbankWo2.nl・Beeldnummer 175315引用。


写真(右)1939年9月-12月、オランダ、イギリス海軍の空母「アークロイヤル」の艦上爆撃機ブラックバーン スクア(Blackburn Skua)によって撃墜されたドイツ軍ドルニエ(Dornier)Do-18G-1飛行艇(登録コード:M2+LK)の残骸;1939年9月13日1430頃、オランダで海岸に不時着したDo-18G-1飛行艇(登録コード:M2+LK)は、回収は諦められて、放置された。砂に胴体が埋まってしまい、前後のエンジンは二つと破損し、被害個所が拡大している。
Collectie Verzetsmuseum Friesland Trefwoorden Wrakken, Luftwaffe, Vliegboten
Locatie Naam: Friesland Land: Nederland
Bijschrift Op 13 september 1939 strandde de Do 18 (Dornier) met rompcode M2 + Lk van de 2. Staffel van Küstenfliegergruppe 106 bij paal 16 langs de kust van Ameland. Eerder die dag was de Nederlandse T 8W, rompcode R5, door een Duitse Heinkel 115 neergeschoten, waarna de Duitse bemanning op zee landde om de Nederlanders te redden. Omdat de Heinkel 115 niet meer op kon stijgen schoot de Dornier 18 te hulp. Echter, bij de landing op zee raakte de romp lek en begon de vliegboot water te maken. Tot overmaat van ramp werd het toestel beschoten door enkele Fokker D XXI's die inmiddels boven het gebied waren gekomen. De bemanning verliet het toestel met een rubberboot en de Dornier 18 dreef naar de kust. Hier spoelde het niet lang daarna aan. Het wrak kon niet worden geborgen en de resten bleven tot 1984 liggen. Horst Rust, Otto Radons, Hans Zieschang en Otto Schenk werden geïnterneerd in Fort Spijkerboor. In mei 1940 werden ze als krijgsgevangenen naar Engeland overgebracht. Hun actieve rol in de oorlog was wel heel kort geweest.
Type Foto Periode September - December 1939
写真はBeeldbankWo2.nl・Beeldnummer 124160引用。


写真(右)1939年9月13日、イギリス海軍航空母艦「アークロイヤル」(Ark Royal)飛行甲板に並んだ6機の艦上爆撃機ブラックバーン スクア(Blackburn Skua);左手前はアイランド式艦橋前後に設置された2ポンド(4cm)39口径8連装ポムポム機関砲。1939年9月26日、追跡していたドイツ空軍Do-18飛行艇3機をイギリス海軍の空母「アークロイヤル」(Ark Royal)第803飛行隊所属の艦上爆撃機ブラックバーン スクア(Blackburn Skua:トウゾクカモメ)9機が迎撃し、1機を撃墜し、不時着水させた。
English: The Royal Navy during the Second World War Six Blackburn Skuas of No 800 Squadron Fleet Air Arm line up on deck before taking off from HMS ARK ROYAL. Date between 1939 and 1945
Author Priest, L C (Lt), Royal Navy official photographer
Associated people and organisations Royal Navy, ARK ROYAL (HMS), aircraft carrier (1937), Royal Navy, Fleet Air Arm, 800 Naval Air Squadron
写真はWikimedia Commons, Category:HMS Ark Royal (91)・File:The Royal Navy during the Second World War A3782.jpg引用。


航空母艦アークロイヤル 1939年9月26日、1430頃、ドイツ空軍機第106沿岸偵察飛行隊第2飛行中隊所属のドルニエDo18飛行艇3機が北大西洋上で、イギリス海軍空母「アークロイヤル」(HMS Ark Royal)、随伴する戦艦「ロドネー」(HMS Rodney)、「ネルソン」(HMS Nelson)、を追跡していた。空母「アークロイヤル」は、第803飛行隊所属の艦上爆撃機ブラックバーン スクア(トウゾクカモメ)9機によって攻撃された。

ドイツのDo18 飛行艇2機は被弾しながらも脱出できたが、1機は海上に不時着水させられた。そして、不時着水したDo18の搭乗員4名は、1938年12月就役の新鋭部族(トライバル)級駆逐艦イギリス海軍駆逐艦「ソマリ」(HMS Somali:F33)排水量1,921 トンによって、全員が救助され、機体は沈められた。イギリス側は、このDo-18飛行艇が、第二次世界大戦でイギリス機が初めて撃墜したドイツ機であるとしている。

戦艦ロドネー イギリス海軍航空隊(FAA)艦上爆撃機ブラックバーン スクアBlackburn Skua:トウゾクカモメ)は、1937年2月9日初飛行で、引込み降着装置、可変ピッチ3翅プロペラを装備したイギリス海軍の新鋭艦載機でブリストル・パーシュース(Bristol Perseus) XII空冷星形9気筒エンジン890 hp (660 kW)、最高速力 225 mph (362 km/h)/6,500 ft (1,981 m) 、航続距離 760 mi (1,220 km)、実用上昇限度 20,200 ft (6,200 m)、兵装は、7.7mmブローニング固定式前方機関銃4挺、7.7mmルイス後方旋回機関銃1挺、胴体下面に 500 ポンド(227Kg)爆弾1発を搭載可能。

ドイツ語U-Boot(ウーボート:Unterseeboot)とは、水面下の艦船の意味で、狭義には、ドイツ海軍の潜水艦を意味する。英語でもU-Boat(ユーボート)といわれるが、これも第一次世界大戦および第二次世界大戦でイギリス本土を封鎖しようとした敵ドイツ海軍の潜水艦を指示している。

  ドイツ海軍の潜水艦Uボートは、ハンブルクを中心としたブローム・ウント・フォスBlohm & Voss)など造船所で建造され、ドイツ海軍潜水艦隊司令長官(BdU)カール・デーニッツKarl D6ouml;nitz)提督の指揮下に置かれた。第二次大戦当初、レーダーを搭載しておらず、目標とする敵艦船を目視によって発見するしかなかった。また、海面上5メートルもない潜水艦艦橋からの視界は限られており、敵発見は天候・気象にも依存した困難な任務だった。

  写真(右)1939年9月-12月、オランダ、Do-24 K-1飛行艇の主翼上からみたドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-18飛行艇
Collectie Fotoalbums voormalig Instituut voor Maritieme Historie Beschrijving Enkele Dornier Do 18 vliegboten met Duitse kentekens en registratie op de Bodensee in 1937 gezien vanuit een Dornier Do 24 K-1 maritieme patrouillevliegboot van de MLD. Plaats Duitsland Datering van 1937 Datering tot 1937 Trefwoorden Dornier, Marine Luchtvaartdienst, Koninklijke Marine, patrouillevliegtuigen, vliegtuigen, vliegboten, watervliegtuigen Vervaardiger Dornier Copyright NIMH Materiaalsoort Ontwikkelgelatinezilverdruk Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はBeeldbankWo2.nl・Objectnummer 2173-247-012 引用。


1937年、第二次大戦勃発2年前、ドイツ海軍総司令官レーダー提督は、国防軍総司令官ブロンベルク元帥に対して、沿岸防衛の範囲に関して、ドイツ海軍とドイツ空軍との分担の取り決めを依頼したが、ドイツでは空飛ぶ兵器、軍用機はみなドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングHermann Goering)の指揮下に置くという原則があった。そこで、実際に海軍と空軍の責任範囲について協定文書がまとまったのは、戦争直前の1939年2月3日だった。

1939年2月3日のドイツ海軍とドイツ空軍との航空戦力分担の協定は、ドイツ海軍司令部空軍代表General der Luftwaffe beim Oberbefehlshaber der Marine)を置き、戦時には海軍司令部空軍代表が海軍総司令官の指揮下に行動するというものである。

しかし、ドイツ近海を離れた海上は、ドイツ空軍の責任範囲で、ドイツ海軍が作戦行動を行う場合のみ、ドイツ海軍が哨戒偵察の責任を負うとした。また、水上艦艇同士の海戦、航空機による機雷敷設については、海軍と空軍の合意のもとに、実施するとした。

カール・デーニッツ ドイツ海軍潜水艦隊司令長官(BdU)カール・デーニッツKarl D6ouml;nitz)提督の指揮する潜水艦Uボートは、当時、レーダーを搭載しておらず、敵船団の発見は容易でなかった。そこで、潜水艦の目となるような航空機によって、洋上哨戒偵察をすることが考えられた。

敵船団の発見と攻撃のためには、空中哨戒偵察が効果的であることは明白で、1941年1月になって、潜水艦の交通破壊戦を支援するための長距離海上偵察部隊として、フォッケウルフFw200コンドルCondor)を配備した第40爆撃航空団の一部をドイツ海軍総司令官の指揮下に置くことが提言された。

 ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングHermann Goering)元帥は、航空兵力は全て空軍に所属するとの原則を強硬に主張したために、海上哨戒偵察部隊は、ドイツ空軍が大西洋航空司令部の隷下として、潜水艦Uボート部司令部と協力することとなった。こうして、ドイツ海軍司令部空軍代表General der Luftwaffe beim Oberbefehlshaber der Marine)は、指揮権のない空軍の連絡絡官・副官のような立場となったが、何とか海空共同作戦が可能になった。

1941年12月、ドイツ海軍は艦載水上偵察機を除いた沿岸偵察隊(Küstenfliegergruppe:KüFlGr.)、海上飛行隊(Seeaufklärungsgruppe:SAGr.)航空兵力の指揮も執ることがでいるようになった。ただし、形式的な指揮権は空軍の指揮下に入れ、海上作戦における航空兵力の指揮権は、ドイツ空軍が独占する形とされていた。


写真(上)1940年頃、オランダ、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-18飛行艇

Collectie Fotoalbums voormalig Instituut voor Maritieme Historie Beschrijving Een Dornier Do 18 vliegboot ligt afgemeerd aan een boei. Plaats Onbekend Precisie start Circa Datering van 1936 Precisie eind Circa Datering tot 1940 Trefwoorden Dornier Do 18, vliegboten Vervaardiger Onbekend Materiaalsoort Ontwikkelgelatinezilverdruk Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はBeeldbankWo2.nl・Objectnummer 2157-112-018 引用。


そのため、ドイツ海軍航空隊は、海軍艦艇に搭載する偵察用艦載水上機程度しか保有を許されなかった。その後、 1941年3月にはドイツ空軍第三航空軍の下に、大西洋司令部(Fl.F.Atlantic) が置かれ、ドイツ海軍潜水艦隊司令長官(Befehlshaber der U-Boote: BdU)と連携して、水上基地をもつ沿岸偵察隊(Küstenfliegergruppe:KüFlGr.)、海上飛行隊(Seeaufklärungsgruppe:SAGr.)が活動範囲を広げるようになった。

 それに続いて、ドイツ空軍第406沿岸飛行隊第2飛行中隊、第3飛行中隊、第706沿岸飛行隊第1飛行中隊、第906沿岸飛行隊(Küstenfliegergruppe 906:KüFlGr 906)第1飛行中隊、第2飛行中隊、第3飛行中隊、ドイツ空軍第125海上偵察隊(Seeaufklärungsgruppe 125:SAGr.125)第1飛行中隊、第3飛行中隊、第126海上偵察隊第1飛行中隊、第129海上偵察隊(Seeaufklärungsgruppe 129:SAGr.129)第1飛行中隊、第130海上偵察隊第2飛行中隊、第3飛行中隊、第131海上偵察隊(Seeaufklärungsgruppe 131:SAGr.131)第1飛行中隊、第2飛行中隊、第132海上偵察隊(Seeaufklärungsgruppe 125:SAGr.125)第2飛行中隊、第3飛行中隊、第196艦載偵察隊(Bordfliegergruppe 196:BFGr.196)第1飛行中隊が編成され、ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138A-1が配属された。

 爆撃・雷撃可能なハインケル(Heinkel)He115水上偵察機、ディーゼル油で燃費の良いブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 C-1飛行艇もドイツ海軍の指揮下に置かれた。なかでも、ドイツ空軍第40爆撃航空団第1飛行隊(I/KG40)は、長距離飛行が可能なフォッケウルフFw200コンドル四発哨戒機をして、ドイツ海軍潜水艦隊司令長官(BdU)カール・デーニッツKarl D6ouml;nitz)提督隷下の潜水艦Uボートと連携した交通破壊戦を展開し、大きな戦果を挙げた。

 ドイツでは、海軍の航空兵力は、空軍優先のために冷遇され、海軍の指揮できる航空兵力は、主力水上艦艇の艦載水上機程度だった。

つまり、ドイツ海軍航空隊は、海軍艦艇に搭載する偵察用ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上機のような艦載機程度しか保有を許されなかったため、連合国の膨大な物資輸送を担う輸送船を撃沈しシーレーンを破綻させる「交通破壊作戦」に水上艦艇や潜水艦を投入しても、敵輸送船の捜索・索的能力が低く、輸送船団への有効な攻撃が困難だったのである。

  Fw200コンドル フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200 コンドル(Condor)の諸元
乗員: 5名
全長: 23.46 m
全幅: 32.86 m
全高: 6.30 m
全備重量: 22,700 kg
エンジン: ブラモ323Rファフニル 空冷星型9気筒 1,200 hp × 4
最大速度: 360 km/h
航続距離: 3,550 km
兵装:7.92 mmMG15旋回機関銃4挺、20 mmMG-FF旋回機関銃 1挺
爆弾 5,400 kg

フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200 コンドル は、第二次世界大戦勃発2か月後の1939年11月には、洋上の船舶攻撃や長距離哨戒作戦に出動したが、元来、民間輸送機として設計されているため、軍用哨戒機と使用するには強度不足だった。過重な装備・多大な燃料搭載のために、機体構造が持たず、あるいは戦時の乱暴な操縦操作のために、破損事故、墜落事故も発生した。特に、着陸時に胴体が折れる事故が多発したため、消耗も激しかった。それでも、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200 は、1944年年までに276機が生産されている。

  写真(右)1939年9月-1942年頃、オランダ上空を編隊を組んで飛行するドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-18飛行艇
Collectie NIOD
Trefwoorden Luchtmacht, Vliegtuigen
Bijschrift Do 18 Unsere Wehrmacht. Fernaufklärer auf dem Wege in Feindesland.
写真はBeeldbankWo2.nl・Beeldnummer 43331引用。


ドイツ空軍/ドイツ海軍向け軍用機として1939年9月の第二次世界大戦勃発までに、ドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇は100機量産されたところで、生産中止になった。その後、ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇は、第二次世界大戦にも投入されが、旧式化していたために、緒戦の段階で、部隊から引き上げられることのなる。

ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH: Deutsche Lufthansa)の開発要求に応じてドルニエ(Dornier)が生み出したドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇だったが、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)が受領したDo18飛行艇は6機に過ぎない。生産された100機以上のうち、大半は軍用仕様で、Do18Gが70機を占める。

写真(右)1940年1月11日、海上でエンジンを駆動しているドイツ空軍ドルニエ(Dornier)DO-24三発飛行艇;主翼の上のユンカース(Junkers)ユモJumo 205 D液令6気筒ディーゼルエンジン脇には、エンジンを点検している人物1名が写っている。機首、胴体後上方の2カ所に銃座設けられている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Beschrijving Bovenaanzicht linksachter van een Dornier Do 18 vliegboot van de Luftwaffe tijdens de start voor een verkenningsvlucht naar de Engelse oostkust.
Plaats Onbekend Datering van 1940-01-11 Datering tot 1940-01-11
Trefwoorden Luftwaffe, Duitse strijdkrachten, vliegtuigstarts, vluchten, verkenningen, inzet, Tweede Wereldoorlog, conflicten, Dornier Do 18, vliegboten Specifieke kenmerken K Vervaardiger PK.-Tews (Weltbild) Materiaalsoort Ontwikkelgelatinezilverdruk Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はNational Institute of Mental Health (NIMH) Beeldbank.defensie.nl・Objectnummer 2157-112-020引用。


1940年5月のドイツの西方侵攻の時期に作戦可能だったのは、ドイツ空軍第106沿岸飛行隊(Küstenfliegergruppe 106:KüFlGr 106)第2飛行中隊、第406沿岸飛行隊(Küstenfliegergruppe 406:KüFlGr 406)第1飛行中隊・第2飛行中隊・第3飛行中隊だった。しかし、1940年夏のイギリス本土航空決戦の時期に作戦に従事していたドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇は、ドイツ空軍第106沿岸偵察飛行隊第2飛行中隊だけになっていた。

1942年中頃までに、ドイツ軍では旧式化したドルニエDo18飛行艇は、ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 偵察飛行艇に置き換えられたが、まだ第406沿岸飛行隊(Küstenfliegergruppe 406:KüFlGr 406)第3飛行中隊にDo 18 飛行艇が残っていた。

写真(右)1940年2月23日、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇の;機首銃座の7.92ミリMG15旋回機銃、主翼中央上部のユモJumo205ディーゼルエンジンを2基装備。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Beschrijving Een Dornier Do 18 vliegboot van de Luftwaffe tijdens de start voor een verkenningsvlucht boven vijandelijk Engels gebied. Plaats Onbekend Datering van 1940-02-23 Datering tot 1940-02-23 Trefwoorden Luftwaffe, Duitse strijdkrachten, vliegtuigstarts, vluchten, Tweede Wereldoorlog, conflicten, Dornier Do 18, vliegboten Vervaardiger PK.-Tews (Weltbild) Materiaalsoort Ontwikkelgelatinezilverdruk Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はNational Institute of Mental Health (NIMH) Beeldbank.defensie.nl・Objectnummer 2157-112-019 引用。


しかし、ドルニエ(Dornier)Do 18 Hが、複式操縦装置を備えた練習飛行艇として少数生産された。そのほか, 1864年ジュネーブ条約First Geneva Convention)の国際赤十字規約にのっとって、全面白色塗装機として、大きな赤十字を描いたDo18N-1海上救難機がDo18Gから改装されて使用された。

ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇は、使いやすく信頼性ある機体だったことから、1945年の終戦まで、第二線・後方で訓練・輸送・救難の任務に使われていて、1945年5月のドイツ敗戦時に、飛行可能なDo 18G飛行艇がロシアのドイツ東部侵攻から逃れようとして、アメリカ占領地に亡命、不時着している。

写真(右)1940年2月23日、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇に装備した旋回機銃を調整する整備士7.92ミリMG15機銃は、7.92x57mmモーゼル弾使用、銃身595mm、鞍型ドラム弾倉75発、全長1,334mm、重量12.4kg、発射速度1,000発/分、銃口初速 800m/秒。機首、胴体後上方の2カ所に銃座設けられている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Beschrijving Militairen van de Luftwaffe bouwen een machinegeweer in een Dornier Do.18 vliegboot en laden munitie in. Plaats Onbekend Datering van 1940-02-23 Datering tot 1940-02-23 Trefwoorden Luftwaffe, Duitse strijdkrachten, mitrailleurs, handvuurwapens, munitie, bewapening, verkenningen, inzet, Tweede Wereldoorlog, conflicten, activiteiten, Dornier Do 18, vliegboten Vervaardiger PK.-Tews (Weltbild) Materiaalsoort Ontwikkelgelatinezilverdruk Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はNational Institute of Mental Health (NIMH) Beeldbank.defensie.nl・Objectnummer 2157-112-021 引用。


ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇の信頼性と航続力に注目したドイツ空軍は、1938年9月までにドルニエDo18飛行艇D型を哨戒偵察機として部隊配備し、生産中止とする1940年までに100機を生産した。しかし、第二次世界大戦緒戦時点で、性能的には高性能とはいえなかったが、信頼性が高いために、後方の連絡、海難救助の任務では1945年の終戦まで現役で使われた。しかし、ドルニエDo-18飛行艇は、前線任務には旧式化が歴然としていたために、1942年には後継のブローム・ウント・フォス BV 138に置き換えられた。

写真(右)1939-1942年、ドイツ、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-18飛行艇;パラソル翼で、翼を位置を高くして、水上滑走時の波の影響を受けないように配慮している。エンジンは、翼よりも高い位置に置いて、プロペラにも波が被らないように配慮した設計になっている。
Collectie NIOD Trefwoorden Luftwaffe, Vliegboten, Vliegtuigen
Locatie Naam: Federal Republic of Germany Land: Germany Bijschrift A Schulze-Mauritius-Dornier Flugboot Dornier Do- 18
DIMU-CODE: 021015696930 UUID: 7545264C-7CC4-4C51-8750-C571A00944D7
写真はBeeldbankWo2.nl・Beeldnummer 114 引用。


長時間にわたって洋上を飛行しながら、潜水艦、水上艦船、敵機を捜索するのが哨戒機である。日本海軍、アメリカ海軍は、太平洋戦争の勃発前まで、この哨戒任務を主に飛行艇に割り当てていた。海上に飛行中に着水しての救助任務、陸上滑走路のない港湾や島嶼の駐屯守備隊への輸送任務に飛行艇は便利だった。

写真(右)1940年、デンマーク北部、ユトランド半島先端、オールボー(Aalborg)、ドイツ軍のドルニエDo 18 飛行艇;機首上面の銃座部分にはカバーが掛けられている。中央の2名はドイツ海軍の将兵のようだ。
Inventory: Bild 101 II - Propagandakompanien der Wehrmacht - Marine.
Signature: Bild 101II-MN-1527-06.
Archive title: Dänemark, Aalborg / Åborg (?).- Gestrandetes / beschädigtes Flugboot Dornier Do- 18 an einem Strand / im Limfjord (?). Im Hintergrund Bergungsschiff / Flugsicherungsschiff BS 11 "Phönix" (?); PK Marine Nord.
Dating: 1940 ca.
Photographer: Eschenburg, Karl.
Origin: Bundesarchiv.
写真はBundesarchiv・Signature: Bild 101II-MN-1527-06引用。


第二次世界大戦が勃発してから、辺地や島嶼など世界各地に大型の舗装滑走路が整備され、水上機や飛行艇は、飛行性の低さもあって、哨戒任務から遠ざけられ、着水しての救助や緊急補給などの任務に転用されていった。そして哨戒任務は、飛行艇と航続距離は対等で、高速・高空の飛行性能も高く、搭載機関銃が強力で、爆弾・機雷・爆雷などの搭載量が多い、装甲板・防弾燃料タンクなど防御力も高いという優れた双発陸上爆撃機や四発重爆撃機が哨戒機として任務を担うようになった。

しかし、洋上や海面で使用する飛行艇は、波浪・海水による塩害、損傷など飛行機の保守管理に労力と経費が掛かり、材質上、耐用年数も低下してしまう。また、水上で離水・着水、水上滑走するために、造波抵抗・ポーポーズ対策、密閉性の保持など余分な工作も必要になる。そして、この海上での運用の利便性を高めれば、飛行性の低下をきたしてしまうという根本的な問題があった。

写真(右)1940-1942年頃、ノルウェー、ドイツ軍のドルニエDo-18飛行艇;エンジンは、縦列串型のタンデム配置で、プロペラは、前部が牽引式、後部が推進式で回転する。胴体中央部左右の張出し式フロートも、Do-Jワールを踏襲した構造である。しかし、装備しているのは、 ユモJumo205D(880hp)ディーゼルエンジンなどで、エンジンナセル上にはDo-Jワールのようなラジエーター(冷却器)はなく、流線型で空気抵抗に配慮したつくりとなっている。
Identifier: NL.03010004
Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum
Date published: November 21, 2014 Date updated: October 17, 2016
DIMU-CODE: 021015547819 UUID: 39A42AED-1494-4D5A-9166-DD834EDF3179.
写真はNorsk Luftfartsmuseum・Identifier: NL.03010004引用。


ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇は、1920年代から長らく使用されてきたドルニエDo.Jワール飛行艇の後継機としてルフトハンザ社の海外路線用に、ドルニエが開発した飛行艇で、初飛行は1935年3月15日である。

写真(右)1942年、ノルウェー、不時着したのか大きく破損したドイツ軍のドルニエDo-18飛行艇の胴体後半;垂直尾翼・水平尾翼には、被弾跡らしい開口部がいくつか開いている。胴体後上方のハッチの中を覗き込んでいある。エンジンも主翼も写っていない。
Fotografering: 1942 (CA.) Aksesjon: 1994 Identifier: NL.98070059
Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum
Date published: December 18, 2014 Date updated: December 18, 2014
DIMU-CODE: 021015696930 UUID: 7545264C-7CC4-4C51-8750-C571A00944D7
写真はNorsk Luftfartsmuseum・Identifier: NL.03010004引用。


前作のドルニエDo.Jワール飛行艇を引き継いで、ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇も、パラソル主翼、胴体中部側面のスポンソン式フロート、そこに繋がる主翼支柱は同じ構造である。また、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo) 205 D液令6気筒ディーゼルエンジン880hp2基を串型縦列タンデム配置とし、牽引式と推進式のプロペラ各1基を駆動する。

写真(右)1940年4月14日、北海方面、イギリス空軍沿岸航空隊のロッキード・ハドソン(Hudson)哨戒爆撃機に襲撃されているドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇;機首上面の銃座に手動の7.92ミリMG15旋回機銃1丁、胴体後上面の動力回転式銃座に7.92ミリMG15旋回機銃1丁を装備している。尾部には、ナチ党のスワスチカ(鍵十字)のドイツ国籍マークが記入されている。
RAF COASTAL COMMAND 1939-45 One of a sequence of photographs showing a Dornier Do 18 that was attacked and forced down over the North Sea by a Hudson of Coastal Command, 14 April 1940.
Related period Second World War (production), Second World War (content) Air Force official photographer Creator Royal Air Force official photographer Catalogue number C 1217 Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION.
写真はImperial War Museums ・IWM (C 1217) 引用。


哨戒飛行艇と敵の陸上哨戒機とがお互いに哨戒任務に就いている最中に、遭遇戦となれば、攻撃力・防御力に劣っている哨戒飛行艇は容易に撃墜されてしまう。

第二次大戦中、アメリカは、当初はPBY カタリナ(Catalina)飛行艇を哨戒任務に充てたが、後に救難任務に転換した。そして、ロッキード(Lockheed)PV-1ベンチュラ(Ventura)、PV-2ハープーン(Harpoon)を哨戒爆撃機として使用した。そして、それらの後継機となる陸上哨戒機の試作開発要求を1944年4月4日に受けたロッキード(Lockheed)は、XP2V-1試作機2機を製造することになった。この新たな対潜哨戒機には、経済性と整備の容易性が求められた。XP2V-1試作機は、1945年5月17日に初飛行、1947年3月から ロッキード(Lockheed)P-2Vネプチューン(Neptune)として、アメリカ海軍哨戒部隊で運用が開始された。

他方、第二次世界大戦の後半になっても、航空兵力の数的・質的な劣勢にあった日本海軍は、敵機動部隊捜索など前線での危険な偵察任務に川西九七式大型飛行艇(H8K1)、川西二式大型飛行艇(H8K1)、零式水上偵察機を使い続けた。そこで、長距離飛行・夜間飛行が可能な優れた搭乗員を、飛行艇や水上機ごと撃墜されることになり、大きな損失を招いてしまった。

1946年9月9日、ロッキード(Lockheed)P-2ネプチューン(Neptune)対潜哨戒機(アメリカ海軍仕様P-2V(Ventura)は、1万8,227kmを55時間17分で無着陸で飛行した。この無着陸飛行世界記録は、1962年1月10日にアメリカ空軍B-52重爆撃機が2万177kmを飛行して破られたが、アメリカ海軍P-2V対潜哨戒機は、第一線の対潜哨戒機として、1978年まで使用された。

第二次世界大戦後、戦時中に実用化されたレーダーの高性能化だけでなく、ソノブイなど音響・水圧・磁気などの探知技術が向上し、潜水艦や水上艦艇を探知するのに、安価な小型海上投下式探知機が製造できるようになった、海中に潜む潜水艦を、哨戒機から使い捨て探知機を多数散布して効果的に創作できるようになったのである。もはや飛行艇もヘリコプターからm探知機を海中に吊り下げて捜索する必要ななくなった。

しかし、日本は、1967年10月24日になって新明和PS-1対潜哨戒機を初飛行させ、1970年代にあって、飛行艇による哨戒戦術を再び実行に移した。1970年代に飛行艇による哨戒任務はなくなっていたから、日本の飛行艇による対潜哨戒は、当時、稀にみる異例の戦術だった。

写真(右)1940年4月14日、北海方面、イギリス空軍沿岸航空隊のロッキード・ハドソン(Hudson)哨戒爆撃機に襲撃されているドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇;ハドソン Mk.Iは、全長19.96m、全幅14.33m、全備重量7,938kg、発動機ライトサイクロンR-1820 空冷星型9気筒エンジン(1,100馬力)2基、最高速力357km/h、実用上限高度6,400m、航続距離1,835km、爆弾搭載量724キロ(1000ポンド)、兵装7.7ミリ・ブローニング機関銃4丁、搭乗員6名。
RAF COASTAL COMMAND 1939-45 One of a sequence of photographs showing a Dornier Do 18 that was attacked and forced down over the North Sea by a Hudson of Coastal Command, 14 April 1940.
Creator Royal Air Force official photographer Catalogue number C 1220 Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION.
写真はImperial War Museums ・IWM (C 1220)引用。


飛行艇衰退の世界情勢とは裏腹に、日本では、飛行艇メーカーだった川西をつぐ新明和が、対潜水艦哨戒を主な任務とするPX-S飛行艇を膨大な国家予算をかけて試作し、1967年10月24日になって初飛行させた。これが新明和PS-1対潜哨戒機で、1970年から海上自衛隊第31航空隊(岩国航空基地)に配備された。

しかし、新明和PS-1対潜哨戒機は、飛行艇としては優れた技術を誇っていたものの、陸上双発のロッキード(Lockheed)P2V「ネプチューン」(Neptune)哨戒機に勝る点はあまりなく、海面に着水して海中に吊下式ソナーなど探知装置を使用して潜水艦探査ができるとはいっても、荒れた海に着水することはまずできない相談であった。そのうえ、1機当たりの製造コストも運用コストも、数倍の開きがあるほど高額で、海水に李着水する飛行艇の整備・運用に大きな労力と負担が必要だった。

総合的にみて、新明和PS-1対潜哨戒機の有効性は低く、23機のみの生産で終わった。1970年代には、既に陸上機に高性能レーダー、投下式潜水艦探知機を装備することが可能となり、対潜哨戒機としての飛行艇が不要となっていたのであって、その時期に、大戦飛行艇を開発、量産したのは失策だった。

P3C 日本でも1980年代になって、対潜哨戒には、陸上哨戒機のロッキード(Lockheed) P-3C「オライオン」(Orion)を当てることになり、1980年9月、防衛庁は、新明和PS-1対潜哨戒機の後続機開発を中止した。その後、残っていたPS-1は、水陸両用化したり救難機として使われたりしたが、1989年に退役し廃棄された。世界各国では1960年代で飛行艇による哨戒任務に見切りをつけていたことを踏まえると、日本の新明和の飛行艇技術は優れていたが、飛行艇による哨戒戦術は、時代錯誤であり、経費・技術・人員の効果的な使用方法ではなかった。意味があるとすれば、日本の飛行艇技術の高さの顕彰であるが、現代日本の似非愛国政治家は、PS-1の保管に関心はないようだ。

写真(右)1940年4月14日、北海方面、イギリス空軍沿岸航空隊のロッキード・ハドソン(Hudson)哨戒爆撃機に襲撃されているドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇
RAF COASTAL COMMAND 1939-45 One of a sequence of photographs showing a Dornier Do 18 that was attacked and forced down over the North Sea by a Hudson of Coastal Command, 14 April 1940.
Creator Royal Air Force official photographer Catalogue number C 1221 Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION.
写真はImperial War Museums ・IWM (C 1221)引用。


東海哨戒機 ロッキード(Lockheed)ハドソン (Hudson)哨戒爆撃機原型はロッキード L-14 スーパーエレクトラ(Lockheed L-14 Super Electra)輸送機で、初飛行は、1938年12月10日で、1937年7月29日に初飛行した。ロッキードでは114機が生産された。

航空兵力増強を急いだイギリスは、このアメリカ陸軍航空隊が不採用としたこの機体を軍用機ハドソン (Hudson)型哨戒爆撃機として採用することを決め、1939年5月から沿岸航空隊に配備した。

日本が専用の対潜沿岸哨戒機を開発したのは、太平洋戦争の勃発後で、1942年9月、渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に十七試哨戒機の開発を命じた。これは、(1)低速で長時間哨戒飛行可能飛行(10時間以上)、(2)潜水艦を急降下爆撃可能、という条件である。試作1号機は1943年12月で、増加試作機8機も生産後、1944年4月に量産が決定した。しかし、東海一一型(Q1W1)として制式されたのは、1945年1月で、大戦期としての活躍期間は短く、新技術の磁力探知機を装備していたものの、有効な機上対艦船レーダーを装備できなかったために、実績は上げられなかった。

写真(右)1942年初頭、イギリス北部、スコットランド上空を飛行するイギリス空軍第48爆撃飛行隊のロッキード(Lockheed)ハドソン (Hudson)Mark V型哨戒爆撃機(OY-K)
Description English: A Royal Air Force Lockheed Hudson Mark V (s/n AM853, 'OY-K') of No. 48 Squadron RAF based at Wick, Caithness (UK), in flight along the Scottish coastline. Date early 1942.
写真はWikimedia Commons Wikimedia Commons Category:Lockheed Hudson in British service File:248 Squadron RAF Blenheim 1940 IWM MH 140.jpg引用。


ハドソン (Hudson)Mark I型哨戒爆撃機は、乗員:6名、全長:19.96m、全幅:14.33m、全高:4.80m、主翼面積:51.19m2、自重:5,484kg、全備重量:7,938kg、発動機:ライト GR-1820-G102A 空冷星型9気筒 1,100hp×2、最高速力:357km/h(2,400m)、巡航速力250km/h、実用上限高度:6,400m、航続距離:1,835km、兵装 7.7mm旋回機銃×2、7.7mm前方固定機銃×2、爆弾 1,600ポンド(726kg)搭載、1938-1943年の生産機数2900機。

写真(右)1940年4月26日、ノルウェー方面、イギリス空軍ブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)爆撃機に襲撃されているドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 18飛行艇;機首上面の銃座に手動の7.92ミリMG15旋回機銃1丁、胴体後上面の動力回転式銃座に7.92ミリMG15旋回機銃1丁を装備している。尾部には、ナチ党のスワスチカ(鍵十字)のドイツ国籍マークが記入されている。
THE NORWEGIAN CAMPAIGN 1940 A Dornier Do 18 flying boat seen from an RAF Blenheim during a combat over the North Sea, 26 April 1940. The Blenheim was one of a number returning from a raid near Bergen. The Dornier was shot down.
Related period Second World War (production), Second World War (content) Air Force official photographer Catalogue number CS 7Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION .
写真はImperial War Museums ・IWM (CS 7)引用。


写真(右)1940年7月25日、イギリス、第25爆撃飛行隊のブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mk.I型爆撃機:原型Mark I型の初飛行は、1935年4月12日で、Mark IV型の部隊配備は1938年9月から。7.7 mm(0.303 in)機関銃を左翼付根1丁、胴体後上方回転銃塔2丁、機首下後方遠隔操作機銃2丁搭載、爆弾搭載量1,000 ポンド (450 kg)。全幅 17.17 m、全長 12.12m、翼面積 84.0 m2、自重4,441 kg、総重量 6,532 kg 発動機ブリストル(Bristol) マーキュリー (Mercury)空冷星形9気筒エンジン840 hp2基、 最高速力 418 km/h、航続距離 1810 km、乗員3名 。1,552 機生産。
English: RAF Fighter Command 1940 Blenheim Mk IFs of No. 25 Squadron at Martlesham Heath, 25 July 1940. The foreground aircraft is equipped with AI Mk III radar. The squadron was used for night fighter operations. Date 25 July 1940 (Second World War)
Author Press Agency photographer Part of Ministry of Information Second World War Press Agency Print HU 104652 Imperial War Museums.
写真はWikimedia Commons Category:Bristol Blenheim Mk.I of the Royal Air Force File:Bristol Blenheim - Martlesham - RAF Fighter Command 1940 HU104652.jpg引用。


写真(右)1940年、イギリス、第25爆撃飛行隊のブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mark IV型爆撃機(WR-B):初飛行は、1935年4月12日。1938年9月からブレニム Mk. IV爆撃機が部隊に配備された。最高速力 428 km/h、航続距離: 2350 km、7.7 mm(0.303 in)機関銃 5挺(左翼付根1丁、胴体後上方回転銃塔2丁、機首下後方遠隔操作機銃2丁)、爆弾 1,000 ポンド (450 kg)は、Do-18、Do-24、Bv-138など主なドイツ飛行艇よりも優れた性能だった。
English: IWM caption : Blenheim Mark IV, 'WR-B', of No. 248 Squadron RAF based at North Coates, Lincolnshire, in flight over the North Sea. Date 1940 .
Source IWMLondonThumbnail.jpg This is photograph MH 140 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg Author Royal Air Force Official Photographer.
写真はWikimedia Commons Category:Bristol Blenheim Mk.IV File:248 Squadron RAF Blenheim 1940 IWM MH 140.jpg引用。


ブレニム (Blenheim)Mark I ブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mark IV爆撃機の諸元
乗員: 3名 全幅: 17.17 m
全長: 12.98 m
全高: 2.99m
空虚重量: 9,790 lb (4,441 kg)
総重量:14,400 lb (6,532 kg)
発動機ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)Mk. 15 空冷9気筒空冷星形エンジン920 hp (690 kW)2基
最高速力: 428 km/h
航続距離: 1,460 マイル(2350 km)
実用上昇限度:27,260 ft (8,310 m)
兵装:7.7 mm(0.303 in)機関銃 5挺(左翼付根1丁、胴体後上方回転銃塔2丁、機首下後方遠隔操作機銃2丁)
爆弾 1,000 ポンド (450 kg)
Mark IV生産機数:3,307機。

写真(右)1940年11月、オランダ、アムステルダム郊外、ドイツ空軍のドニエ(Dornier)Do 18飛行艇;この写真は、ドイツ空軍(Luftwaffe)の宣伝用プロカメラマンのKarl Rauscherが佐作成したオリジナルネガのコレクションの一部。 彼の部隊は、アムステルダムで1940年に数ヶ月間、駐留した。原典では、「Ju88 Absturz Schellinwade、1940年11月」とある。Ju88が墜落し、ドイツ海軍(Kriegsmarine)の支援にあたり、機雷を空中投下敷設し、墜落して海上に漂うパイロットを救助した。アムステルダム東部の人工島(Zeeburg)は、1945年まで小さな偽装要塞として隠匿されていたが、オランダ沖合での海上支援のための最大の拠点に発展した。
機首上面の銃座に手動の7.92ミリMG15旋回機銃1丁、胴体後上面の動力回転式銃座に7.92ミリMG15旋回機銃1丁を装備している。尾部には、ナチ党のスワスチカ(鍵十字)のドイツ国籍マークが記入されている。
Collectie NIOD Trefwoorden Kriegsmarine, Luftwaffe, Legerbases, Camouflage Locatie Naam: Noord-Holland Land: Nederland
Type Foto Periode 1940 Negatiefsoort Origineel Vervaardiger Karl Rauscher Gebruiksrechten NIOD .
写真はNetherlands Institute for Military History (NIMH) Beeldbank.defensie.nl:Objectnummer152214 引用。


図(上)1940年、ドイツ空軍第106沿岸偵察飛行隊第2飛行中隊ドルニエ(Dornier)Do-18 G-1飛行艇(RZ-AT):緑系統の二色迷彩塗装を施し、機首にラインメタル7.92mmMG15旋回機関銃1挺、胴体後上方にモーゼル20mmMG151/20旋回機関銃1挺搭載の動力旋回銃塔を設けている。Trojpohledový náčrtek a barevné schéma Do 18 G-1 Zdroje uvedeny výše URL : https://www.valka.cz/Dornier-Do-18-G-t6502#213833
図はARMED CONFLICTS.COM Military history website・Dornier Do 18 G用。


図(上)1941年、ドイツ空軍第506沿岸偵察飛行隊第2飛行中隊ドルニエ(Dornier)Do-18 D-1飛行艇(60−D052):緑系統の二色迷彩塗装を施し、機首と胴体後上方とにラインメタル7.92mmMG15旋回機関銃1挺搭載。
図はинтересующихся военной тематикой ГЕРМАНИЯ・DORNIER "DO-18", ЛЕТАЮЩАЯ ЛОДКА引用。


写真(右)1940年11月、オランダ、アムステルダム郊外、ドイツ軍のドニエ(Dornier)Do 18飛行艇;この写真は、ドイツ空軍(Luftwaffe)の宣伝用プロカメラマンのKarl Rauscherが佐作成したオリジナルネガのコレクションの一部。 彼の部隊は、アムステルダムで1940年に数ヶ月間、駐留した。原典では、「Ju88 Absturz Schellinwade、1940年11月」とある。Ju88が墜落し、ドイツ海軍(Kriegsmarine)の支援にあたり、機雷を空中投下敷設し、墜落して海上に漂うパイロットを救助した。アムステルダム東部の人工島(Zeeburg)は、1945年まで小さな偽装要塞として隠匿されていたが、オランダ沖合での海上支援のための最大の拠点に発展した。
Collectie NIOD Trefwoorden Kriegsmarine, Legerbases, Luftwaffe, Binnenvaart, Vliegtuigen Locatie Naam: Schellingwoude Land: Nederland
Bijschrift Deze foto maakt onderdeel uit van een collectie originele negatieven gemaakt door Karl Rauscher, beroepsfotograaf in dienst van de Luftwaffe. De divisie van Rauscher is in 1940 enkele maanden gestationeerd op de Fliegerhorst Schellingwoude, Amsterdam. Het originele bijschrift luidt: 'Ju88 Absturz Schellinwade, November 1940'. Een Junker 88 is neergestort. Het team van Rauscher is verantwoordelijk voor de berging ervan. Tijdens de bezetting was in Schellingwoude een steunpunt voor watervliegtuigen van de Duitse Kriegsmarine voor het leggen van zeemijnen en het redden van neergestorte piloten. Het in de IJmond gelegen kunstmatige eiland Zeeburg ten oosten van Amsterdam is tot 1945 als een kleine gecamoufleerde vesting ingericht. Deze zogenaamde Fliegerhorst Schellingwoude werd uitgebouwd tot de grootste basis voor watervliegtuigen en -boten in Nederland.
Type Foto Periode november 1940 Negatiefsoort Origineel Vervaardiger Karl Rauscher Gebruiksrechten NIOD
写真はNetherlands Institute for Military History (NIMH) Beeldbank.defensie.nl:Objectnummer 152016 引用。


写真(右)1940年11月、オランダ、アムステルダム郊外、ドイツ軍のドニエ(Dornier)Do 18飛行艇
Bijschrift Deze foto maakt onderdeel uit van een collectie originele negatieven gemaakt door Karl Rauscher, beroepsfotograaf in dienst van de Luftwaffe. De divisie van Rauscher is in 1940 enkele maanden gestationeerd op de Fliegerhorst Schellingwoude, Amsterdam. Tijdens de bezetting was in Schellingwoude een steunpunt voor watervliegtuigen van de Duitse Kriegsmarine voor het leggen van zeemijnen en het redden van neergestorte piloten. Het in de IJmond gelegen kunstmatige eiland Zeeburg ten oosten van Amsterdam is tot 1945 als een kleine gecamoufleerde vesting ingericht. Deze zogenaamde Fliegerhorst Schellingwoude werd uitgebouwd tot de grootste basis voor watervliegtuigen en -boten in Nederland.
Collectie NIOD Trefwoorden Kriegsmarine, Legerbases, Luftwaffe, Vliegtuigen Locatie Naam: Schellingwoude Land: Nederland .
写真はNetherlands Institute for Military History (NIMH) Beeldbank.defensie.nl:Objectnummer 152023引用。


オランダは、海洋国家として、東インドシナ植民地(インドネシア)との交易が盛んだったが、オランダ本土でもアムステルダムやロッテルダムの港湾・運河など海上交通が盛んだった。それを引き継ぐかのように、戦前、Do24をドイツに発注したり、航空機の時代になっても、飛行艇を重んじたりした。

写真(右)1940年11月、オランダ、アムステルダム郊外、中破して沈みかかっているドイツ軍のドニエ(Dornier)Do 18飛行艇
Collectie NIOD
Deze foto maakt onderdeel uit van een collectie originele negatieven gemaakt door Karl Rauscher, beroepsfotograaf in dienst van de Luftwaffe. De divisie van Rauscher is in 1940 enkele maanden gestationeerd op de Fliegerhorst Schellingwoude, Amsterdam. Het originele bijschrift luidt: 'Ju88 Absturz Schellinwade, November 1940'. Een Junker 88 is neergestort. Het team van Rauscher is verantwoordelijk voor de berging ervan. Tijdens de bezetting was in Schellingwoude een steunpunt voor watervliegtuigen van de Duitse Kriegsmarine voor het leggen van zeemijnen en het redden van neergestorte piloten. Het in de IJmond gelegen kunstmatige eiland Zeeburg ten oosten van Amsterdam is tot 1945 als een kleine gecamoufleerde vesting ingericht. Deze zogenaamde Fliegerhorst Schellingwoude werd uitgebouwd tot de grootste basis voor watervliegtuigen en -boten in Nederland.
Trefwoorden Kriegsmarine, Legerbases, Luftwaffe, Vliegtuigen Locatie Naam: Schellingwoude Land: Nederland .
写真はNetherlands Institute for Military History (NIMH) Beeldbank.defensie.nl:Objectnummer 152023引用。


第二次大戦中、1940年5月にオランダに侵攻したドイツは、対イギリス船を戦うためにも、オランダに陸上航空基地と水上機基地を整備した。アムステルダム東部の人工島(Zeeburg)は、1945年まで小さな偽装要塞として隠匿されていたが、オランダ沖合での海上支援のための最大の拠点に発展した。ベルギーも、アフリカのコンゴ植民地との交易を重視し、アントワープ(アントウェルペン)のような良港を有している。


写真(右)1939-1944年頃、ドイツ、地上のゴム車輪付き台座からクレーンで吊り上げられたドイツ空のドルニエDo 18飛行艇G型;機首上面の銃座に手動の7.92ミリMG15旋回機銃1丁、胴体後上面の銃座に7.92ミリMG15旋回機銃1丁を装備している。尾部には、ナチ党のスワスチカ(鍵十字)のドイツ国籍マークが記入されている。
SDASM Archives Wagner Collection Image
PictionID:46170040 - Catalog:16_007460 -
Title:Dornier Do 18G Nowarra Collection - Filename:16_007460.TIF .
写真はSDASM Archives・PictionID:46170065引用。


第一次大戦敗北後、ドイツの飛行機の国籍マークは、ドイツ・ワイマール共和国時代の国籍マークは、ドイツ共和国三色旗(黒赤金)を描いていた。ヒトラー政権の1933年1月末以降は、ドイツ帝政三色旗(黒白赤)に変更された。1935年3月、ドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設されたが、この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字スワスチカというナチ党式国籍マークが定められた。

写真(右)1945年、ドイツ、ドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇;ドイツ人3人がロシア軍から逃亡しようとして陸地に不時着したドルニエDo 18G飛行艇:アメリカ第9軍第45歩兵師団の撮影。尾翼には、ナチ党のスワスチカ(鍵十字)が描かれていないが、これはアメリカ軍に亡命するための措置だったのであろうか。
SDASM Archives PictionID:46170052 - Catalog:16_007461 - Title:Dornier Do 18G carrying 3 Germans fleeing Russians, crash landed. Photo by 9th Army, 45 Inf. Div -(Maj. Gen. Louis A. Craig (August 1944 ? May 1945) Filename:16_007461.TIF .
写真はSDASM Archives・PictionID:46170052 引用。


 ドルニエDo18飛行艇は、戦前からルフトハンザ航空などの民間航路で活躍し、1939年に第二次世界大戦が勃発してからも、信頼性と航続力の高さを活かして、ドイツ空軍で当初は、哨戒偵察機として、後には、後方における連絡用務輸送、海難救助の任務で活躍した。生産機数は100機と飛行艇としては、それなりに量産されているが、旧式で鈍足のドルニエDo18飛行艇が、1945年のドイツ敗戦時まで現役で使われていたのには驚かされる。

図(右)1938-1939年、ドイツ、軍用仕様ドルニエ(Dornier)Do 18 D-0飛行艇の左側面構造図:Do 18D-0は、軍用仕様の先行生産型でユンカース(Junkers)ユモJumo205C液令ディーゼルエンジン600hp2基を搭載して、1939年に登場した。機首と胴体後上方には、銃座を設ける準備工作を施しているが、機関銃は未装備である。
English: Dornier Do.18 3-view drawing from L'Aerophile August 1936 Date 1 August 1936 Source http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6553445p Author L'Aerophile magazine .
写真はGerman aircraft used between 1919 to 1945 DORNIER Dornier Werke GmbH.・Dornier Do 18引用。


図(右)1939年に部隊配備がはじまった、ドイツ、軍用仕様ドルニエ(Dornier)Do 18 G飛行艇の左側面構造図:Do 18G飛行艇は、100機生産されたDo18のうち70機を占める主要量産型で、ユンカース(Junkers)ユモJumo205D液令ディーゼルエンジン880hp2基に出力を強化し、さらに機首銃座を13.1mmMG131旋回機関銃1挺、胴体後上方に20mmMG151/20旋回機関銃1挺搭載の動力回転銃座を設置して、防御力を強化した。
English: Dornier Do.18 3-view drawing from L'Aerophile August 1936 Date 1 August 1936 Source http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6553445p Author L'Aerophile magazine .
写真はGerman aircraft used between 1919 to 1945 DORNIER Dornier Werke GmbH.・Dornier Do 18引用。


写真(右)1936年、ドイツ、ドルニエ(Dornier)Do 18 V3飛行艇試作3号機(登録コード D-ABYM:製造番号 c/n 661)アイオロス(Aelous)の三面図
English: Dornier Do.18 3-view drawing from L'Aerophile August 1936 Date 1 August 1936 Source http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6553445p Author L'Aerophile magazine .
写真はWikimedia Commons,Categories: Dornier Do 18・File:Dornier Do.18 3-view L'Aerophile August 1936.jpg 引用。


ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH: Deutsche Lufthansa)は、1920年代にドルニエ(Dornier)Do-Jワール”Wal”飛行艇による長距離の郵便航路と旅客航路を開拓したが、1934年にDo-J飛行艇の発展型の開発を再びドルニエに依頼した。

これを受けて、ドルニエ社は、ドルニエ(Dornier)Do 18 V1飛行艇試作1号機(登録コード D-AHIS)モンスーン(Monsun)を完成させ、ユンカース(Junkers)ユモJumo5液令ディーゼルエンジン2基を主翼上面に串型タンデム配置し、1935年3月15日初飛行させた。

続いて、1936年に、エンジンをユンカース(Junkers)ユモJumo205C液令ディーゼルエンジン600hp2基換装してDo 18 V2飛行艇試作2号機(登録コード D-AANE:製造番号 c/n 677)サイクロン(Zyclon)、Do 18 V3飛行艇試作3号機(登録コード D-ABYM:製造番号 c/n 661)アイオロス(Aelous)、Do18 V4(D-AROZ:c/n 255)パンペロ(Pampero:ジャワ島の強い東風)、Do18 V5(D-ARUN c/n 663)セフィール(Zephir)の4試作機を製造し、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)に納入した。

写真(右)ドルニエ(Dornier)Do 18 V飛行艇試作機の三面図:非武装のドイツ・ルフトハンザ航空(DLH: Deutsche Lufthansa)向け民間型を改造し、機首と胴体後上方に銃座を設けたのが軍用仕様である。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモJumo205C液令ディーゼルエンジン600hp2基で同じままである。
Dornier Do 18 Details: Date Added: 03.01.2013 00:45 Hits: 487 Downloads: 13 Rating: 0.00 (0Vote(s)) File size: 68.5 KB File: dornier do 18 Link to URL: http://blueprintbox.com/details.php?image_id=27503 .
写真は,BlueprintBox・Dornier Do 18 Blueprint category: modern-df-dz引用。


ドルニエDornier Do 18 D, G飛行艇の諸元
全長Länge 19,25 m bzw. 19,38 m
全幅Flügelspannweite 23,70 m bzw. 26,3 m (Do 18 F)
主翼面積Tragflügelfläche 98 m² bzw. 111,2 m²
全高Höhe 5,35 m
発動機Antrieb zwei Jumo 205 C, je 600 PS; später auch D-Motoren mit je 880 PS (648 kW)
最高速力Höchstgeschwindigkeit 260 km/h
航続距離Reichweite 3.500 km
実用上昇限度Dienstgipfelhöhe 4.200 m
空虚重量Leergewicht 5.850 kg
総重量Fluggewicht 10.000 kg
兵装Bewaffnung
7.92mm MG 15あるいは13.1mm MG 131旋回機関銃1丁(機首)
20mm-MG 151旋回機関銃1丁(胴体後上方の動力回転銃座)
爆弾搭載量 50kg爆弾2発


Dornier Do 18 :ドルニエDo-18飛行艇の映像


The S.S. Schwabenland catapults a 10 ton Dornier Do-18 flying boat. HD Stock Footage :飛行艇母船からカタパルト発射されるドルニエDo-18飛行艇の映像


2.ドルニエ(Dornier)Do-18原型のDo-Jワール飛行艇

写真(右)1933−1938年、ドイツ第三帝国、ドルニエ(Dornier)Do-Jワール(Whale)飛行艇(コード:60-G12);操縦席前にある機首と胴体後上方に、7.92ミリMG15旋回機関銃の銃座があるが、機首銃座には機銃は装着されていない。ナチ党政権になってから、ドイツ軍機の国籍マークは、胴体側面には白縁付き黒の鉄十字、垂直尾翼に赤帯、白丸に黒のナチ党スワスチカ(カギ十字)が描かれている。主翼上面のディーゼルエンジンは2基を縦列串型に配備している。前部のプロペラは、2翅プロペラ2組を重ねた4翅プロペラだが、後部の推進式プロペラは2翅プロペラで、前後が異なっているように見える。キリル文字でCCCPとあるが、これはローマ字のUSSR、すなわち疎に絵と社会主義共和国連邦の略称である。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46169354 - Catalog:16_007405 - Title:Dornier Do J Wal 33 Nowarra photo - Filename:16_007405.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. .
写真はSDASM Archives・PictionID:46169354引用。


ドルニエDo-Jワール飛行艇(Dornier Do J "Wal")は、ドイツ、イタリア、スイスのほか、大日本航空、アルゼンチン海軍航空隊(Argentine Naval Aviation)、ブラジルのヴァリグ(Varig)航空・シンジカト・コンドル航空(Syndicato Condor)、中華民国空軍、コロンビア空軍、デンマーク海軍、オランダ海軍航空隊、ソ連空軍、ポルトガル空軍、スペイン空軍、ユーゴスラビア海軍が採用している世界的傑作飛行艇である。

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3.ドルニエ(Dornier)Do-24 飛行艇

写真(右)1941年、オランダ領インドシナ(蘭印:インドネシア)、スラバヤの飛行艇基地に陸揚げされたオランダ海軍航空隊所属のドルニエ(Dornier)Do 24K-1 三発飛行艇;1942年に日本軍の蘭印侵攻に反撃を加えたが、当時、既にオランダ本国はドイツに降伏しており、日本陸海軍の圧倒的兵力を前に、オランダ植民地軍は敗退した。ドルニエDo 24飛行艇もこの時に全滅した。
Fotoafdrukken Koninklijke Marine
Beschrijving Marinevliegkamp Morokrembangan met een zijaanzicht van een Dornier Do-24K (1937-1942) van de vliegschool op het droge.
Plaats Soerabaja, Java, Nederlands-Indië Datering van 1941 Datering tot 1941
Trefwoorden Dornier Do 24, vliegboten, Marinevliegkamp Morokrembangan, marinevliegkampen Vervaardiger
Onbekend Copyright NIMH
写真はNetherlands Institute for Military History (NIMH) Beeldbank.defensie.nl・Objectnummer 2158_072012 引用。


ドルニエ(Dornier)社の開発したDo-24飛行艇の主翼はパラソル式で胴体の肩より上についていて、さらに、その上にエンジン3基が装備されている。高い位置にエンジンが置かれたために、離水・着水の水上滑走時に、プロパラの位置が水面よりもかなり上になり、波浪や飛沫の影響が小さくなる。また、Do-24飛行艇は、前作のDo-J、Do-18飛行艇と同じく、胴体中部には、水上安定性を保つためにバルジ・スポンンソン方式のフロート(浮き)が設けられている。このフロートは、パラソル式の主翼を支える支柱の基盤にもなっており、内部は、燃料タンクとして使われている。

写真(右)1940-1941年頃,オランダ、ロッテルダム(?)、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier) Do 24 T-1飛行艇 :機首銃座は7.92ミリMG15気腔を搭載できるが、動力回転式ではない。胴体後上方には20ミリMG151 /20機関銃1丁を搭載した動力銃座が見える。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46170316 - Catalog:16_007482 - Title:Dornier Do 24T-1 Dornier photo - Filename:16_007482.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:46170316引用。


オランド海軍用にドイツのドルニエ社が開発したDo-24飛行艇は、初期型以外はオランダで生産された。1940年5月に、第二次大戦でオランダがドイツに降伏、オランダを占領後のドイツが工場を摂取して、ドイツ空軍用にDo24飛行艇の生産を続けた。

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4.ドルニエ(Dornier)Do 26飛行艇

写真(右)ドイツ,飛行中のドルニエ(Dornier) Do 26 A V1試作1号機「ゼーアドラー」(Seeadler:海鷲)(登録コード: D-AGNT):初飛行は、1938年5月21日。肩翼上面にユンカース ユモ 205C ディーゼルエンジン600馬力2基を縦列串型タンデムで2セット配置し、四発4基を搭載。空気抵抗の少ない細長い流線型だが、輸送用飛行艇としては、容積が少なく、大型貨物も積み込み困難である。
Ett fly i lufta. Dornier Do. 26 D-AGNT Fotografering: 1935 - 1945 Identifier: NL.03050036 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: November 21, 2014 Date updated: December 18, 2014 DIMU-CODE: 021015548164 UUID: 9F31302E-D429-49B8-93EA-A6BD45EB08E7
写真はNorsk Luftfartsmuseum・Identifier: NL.03120010 引用。


1930年初頭、既にドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)は、大西洋上に飛行艇母船を配置し、そこを中継基地として、アフリカから南アメリカに大西洋を横断する郵便航路を開いていた。使用していたのは、ドルニエDo-Jワール飛行艇、Do-Rズーパーワール四発飛行艇で、飛行艇母船にデリックで引き上げて、そこで、機体の燃料補給・整備、搭乗員の休息を行い、天候に左右されないように、船上の大型カタパルトから射出発進するというシステムである。これをより高速化・安全性を高めようと、1937年にドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)は、ドルニエ社に新飛行艇を発注した。これに答えてドルニエ社が開発したのが、斬新な設計のDo-26四発飛行艇である。

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写真(右)1930−1940年頃,飛行技師クロード・ドルニエ(Claude Dornier)博士:1884年5月14日生まれ、- 1969年12月5日死去。
SDASM Archives Myhra_00300
David Myhra Collection Image Claudius Dornier (1884)
-Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives,Myhra_00300引用。


クラウディウス・ドルニエ(Claudius Dornier、1884年5月14日 - 1969年12月5日)は、ドイツ南部、バイエルン州生まれ、ミュンヘン工科大学を卒業後、ツェッペリン工場で、飛行艇の開発に従事した。

1918年の第一次世界大戦のドイツ敗戦後、パリ講和会議で、1919年べルサイユ条約が締結され、ドイツの航空機開発・生産が制限された。そこで、ドイツ企業は、外国企業と提携して飛行機や兵器の開発・生産を行った。

 1922年11月6日初飛行のドルニエDo-J飛行艇は、イタリアCMASAで生産が開始された。その後、ヒトラー政権の成立した1933年以降、ドイツでもDo-Jが生産されるようになったが、既に旧式化しつつあったため、Do-J飛行艇の総生産数300機のうち多くは、先のイタリアでの生産だった。

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5.ドルニエ(Dornier)Do-X大型飛行艇

写真(右)1930-1931年頃、海上を離水したドイツのドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇(登録コード:D-1929);Do-Jワール、Do-18飛行艇と同じく、水上安定性を確保するために、胴体中央部左右に浮きを張り出し、胴体上部に主翼をパラソル式に配備し、主翼中央上面にカーチス社コンカラー(Curtiss Conqueror) V型12気筒液冷エンジン610馬力12基を2機ずつ箱型ナセルに縦列串タンデム式に搭載している。
SDASM Archives Dornier Do X Charles Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album PictionID:38235241 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002295.TIF .
写真はSDASM Archives・PictionID:38235241引用。


Do-Jワール、Do-18飛行艇と同じく、ドルニエDo-X 12発巨人型飛行艇は、(登録コード:D-1929)水上安定性を確保するために、胴体中央部左右に浮きを張り出し、胴体上部に主翼をパラソル式に配備し、その上にエンジンを縦列縦型に配置している。正面から見ると、主翼上面にエンジンナセル6基が見えるが、これは前後2基のエンジンを縦列串型にエンジン12基を配置したため。エンジンは、シーメンスのジュピター・カーチス・ライト(Jupiter-Curtis-Wright)9気筒空冷星型エンジン525馬力で、流線型ナセルに縦列串型配置、12基の合計出力は6600馬力となる。プロペラは4翅木製一体構造である。

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6.Do18後継機ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 飛行艇

ブローム・ウント・フォス社として、BV 138V1試作1号機が初飛行したのは、第二次大戦半年前の1939年2月と遅れたために、民間航空での使用されることはなく、軍用に回された。1941年に改良型のBV 138Cが登場し、実用に耐えると判断され、偵察飛行艇として採用された。Blohm & Voss Bv 138飛行艇は、227機生産され、大西洋、地中海でUボートと連携し船団捜索・攻撃に投入され、一部は、機雷掃海、物資兵員輸送の任務にも就いた。

写真(右)1943年秋、ノルウェー沖で、ドイツ海軍潜水艦Uボートと会合、ディーゼル油の補給を受けるブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 C-1飛行艇
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-507-B0102-03A Archive title: Norwegen, Eismeer.- Bergung / Versorgung eines Wasserflugzeugs Blohm & Voss BV 138 C-1 mit Hilfe eines U-Boots; PK Lfl 5 Dating: 1943 Herbst Photographer: Hirschfelder Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 飛行艇の原型は、ハンブルク航空機 (Hamburger Flugzeugbau)の企画になる中型長距離旅客機として計画された機体である。しかし、ブローム・ウント・フォッス社は、ドルニエ Do 18と同じく燃費の良いユンカース ユモ 205ディーゼルエンジン3基搭載することとして、長距離飛行を可能にした。1937年に完成したHa 138飛行艇は、双ビーム構造で太い胴体の為か、空中でも海上でも安定性が悪く、強度不足だった。そこで、その欠点を直すための大規模な改修作業が行われ、ブローム・ウント・フォス社が、ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 V1試作1号機を初飛行させたのは、第二次大戦半年前の1939年2月にまでずれ込んでしまった。そのため、当初の目的だった民間旅客飛行艇として使用されることはなく、軍用に回された。

1941年に改良型のブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 C型が登場し、実用に耐えると判断され、偵察飛行艇として採用された。BV138飛行艇は、227機生産され、大西洋、地中海でUボートと連携し船団捜索・攻撃に投入され、一部は、機雷掃海、物資兵員輸送の任務にも就いた。

ドイツのブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 偵察飛行艇飛行艇は、海上の哨戒偵察のために、燃費の良いユンカース ユモ 205ディーゼルエンジン3基搭載していた。軽油(ディーゼル油)は燃費がいいだけでなく、ドイツ海軍で普及していたディーゼル機関搭載の艦船と同じ燃料を使うことも都合が良かった。特に、ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)Bv138飛行艇は、海上で密かにドイツ海軍潜水艦Uボート(ディーゼル機関搭載)と会合し、同じ軽油の燃料をゴムホースをつないで給油することができ。これによって、陸上の水上機・飛行艇基地に帰還することなく、長距離索敵飛行をすることができるようになった。

ブローム・ウント・フォス (Blohm & Voss )BV-138C飛行艇の諸元
全長: 19.85 m、全幅: 27.00 m
全高: 5.90 m
全備重量: 15,480 kg
発動機: ユンカース ユモJumo205Dディーゼルエンジン(880 馬力)3基
最高速力: 290 km/h
航続距離: 4,023 km
兵装:機首動力銃座 20ミリMG151/20 機関銃1丁、胴体後上方動力銃座 20ミリMG151/20 機関銃1丁、中央エンジンナセル後上方銃座:13.1ミリMG131旋回機関銃 1丁
搭載量:150キロ爆雷 4発
乗員: 6名

⇒写真集Album:ブロームウントフォス(Blohm & Voss)BV-138飛行艇を詳しく見る。


7.イタリア空軍の飛行艇

写真(右)1933年7月1日、イタリア東岸、ローマ北100キロのオルベテッロ(Orbetello)からアメリカ、シカゴに飛び立ったイタリア空軍大臣イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥率いるがサヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)S.55飛行艇
Italo Balbo
写真は,Europeana experience  Identifier: Attualita Attualita IL 0010033081-man0引用。


1926年11月6日、イタリア空軍大臣として、ムッソリーニからイタリア空軍を任されたイタロ・バルボは、1928年8月19日に空軍大将の地位を得た。そして、空軍元帥となって、1933年7月1日、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.55飛行艇24機の編隊を率いてイタリア半島東岸のオルベテッロから、アメリカのシカゴまで48時間の長距離高速遠征飛行を成功させた。そして、シカゴ万国博覧会に参加し、イタリア航空機の優秀さを世界に示した。

イタリア空軍サボイアS55 サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.55の諸元
搭乗員:6名
全長:16.75m、全幅:24.00m、全高:5.00m
主翼面積:93.0m2
空虚重量:5,750kg、最大離陸重量:8,260kg
発動機:イソッタ(Isotta-Fraschini)アッソ(Asso)液令12気筒エンジン656kW(880hp)2基
最高速力:279km/h
続距離:3,500km

サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.55(S.55)飛行艇は、1924年8月初飛行で243機が量産された。第一線での活躍は1930年代までで、第二次世界大戦には第二線の予備的機体として残っていた。

写真(右)1937年版カント(CANT)Z.501飛行艇マニュアル・カタログ掲載の陸上に待機するカント(CANT) Z.501ガッビアーノ(Gabbiano)飛行艇側面:垂直尾翼には、第二次世界大戦参戦前のイタリア三色旗トルコローレの国籍記章が描かれている。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z. 501 a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore C.R.D.A. Cant. Z. 501 serie I - 1935 ; serie IX-XI - 1940 ; serie IX - 1941引用。


図(右)1940年版カント(CANT)Z.501飛行艇マニュアル・カタログ掲載のカント(CANT) Z.501ガッビアーノ(Gabbiano)飛行艇側面図
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z. 501 Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA C.R.D.A. Cant. Z. 501 serie I - 1935 ; serie IX-XI - 1940 ; serie IX - 1941引用。


イタリア空軍カント(CANT)Z.501飛行艇1940年6月、イタリアが第二次世界大戦に参戦した時期には、カント(CANT)Z.501飛行艇は、旧式で低速になったしまったため、長距離偵察には不向きだったが、使いやすい機体で信頼性もあったために、1943年9月のイタリア敗戦まで多数が使用されていた。そして、海上に不時着した航空機や難破・撃沈された艦船の漂流者の救命作業に使われた。これは、ドルニエ(Dornier)Do 18 飛行艇と同じである。

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飛行艇ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
アラドAr196ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
2018年9月9日開設、2021年11月11日増補の鳥飼研究室「ドルニエ(Dornier)Do-18飛行艇」へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
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