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◆ドイツ空軍ルフトバッフェ:Do17,Bf110,FW58,Go242;Luftwaffe 写真(上)1944年夏,フランス,西部戦線に来襲する米英の戦略爆撃機を迎撃したドイツ空軍メッサーシュミットBf-109G戦闘機敵機に発見されないように、対空用カモフラージュした場所に隠匿されていた。最高速度630-680キロの快速戦闘機だったが,30ミリ機関砲1門,13.1ミリ機銃2丁の兵装は,爆撃機を迎撃するには貧弱だった。連合軍の護衛戦闘機に対抗するには,性能はともかく,機数や燃料が足りなかった上に,パイロットも未熟練で戦力は劣っていた。
Frankreich.- Flugzeug Messerschmitt Me 109 auf Feldflugplatz; Lw Kdo West Dating: 1944 Sommer Photographer: Engelmann 撮影。
ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-496-3477-10 引用

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、徴兵復活、軍備強化、独裁政権獲得という本音のようだ。

写真(右)1941年4月21日,アドルフ・ヒトラー総統(右)と会談する海軍総司令官レーダ元帥(黒の制服),空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(薄いブルーグレーの制服),陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥(左):第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1915年までは偵察員だったが,1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。
Bauer撮影。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-L18622引用(他引用不許可)。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893?1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

1940年6月のフランス降伏で,元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。
1942-1943年冬,スターリングラード空輸を請合ったが,失敗。1944年以降のドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。

ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)の成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,の裏切りに怒り,ゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る


1.第二次大戦を戦い抜いたハインケルHe-111爆撃機 

初期型のHeinkel He 111には、輸送機時代からの設計をそのまま受け継いでいるために、機首の風防と操縦席の風防の間に段差があるが、後期型では段なしで視界の良い大型操縦席となった。

写真(右)1940年,フランスに駐留しているハインケルHe-111E爆撃機
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-401-0244-28 Archive title: Frankreich.- Bomber Heinkel He 111 E (Kennung CH+NR) auf Feldflugplatz; KBK Lw 5 Dating: 1940 Photographer: Göricke Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ハインケル社は、1922年にエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)が創立したドイツ有数の航空機メーカーである。自由百科では「第二次世界大戦中にドイツ空軍のために爆撃機を始め数多くの航空機を製造した」とされているが、実は大戦前から、ドイツ有数の航空機メーカーであり、新生ドイツ空軍の主力戦闘機He-51を量産した。大戦前、戦闘機のほかにも、偵察機He-46、水上偵察機He-59、高速輸送機He-70などを民間機も含めて量産し、スウェーデン、フィンランド、ブルガリア、ハンガリー、スペイン、日本などに輸出していたのである。

写真(右)1939年9月,ポーランドを空襲したハインケルHe-111爆撃機:Ostpreußen, Polenfeldzug.- Bomber Heinkel He 111 (Kennung V4+AU) des Kampf-geschwader 1 (KG 1) im Flug; Lw 1 Polen Dating: September 1939 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-317-0045-11A引用(他引用不許可)。

1935年4月初飛行のHe-111だが,ポーランド戦の時には,60-90機程度しか配備されておらず,ドイツ空軍の主力爆撃機は,ドルニエDo-17だった。
しかし,1年後の西方フランス侵攻では,ハインケルHe-111爆撃機が主力となった。
Heinkel He 111の生産数は1939 1940 1941 1942 1943 1944の各年で、452機、 756機、 950機、 1,337機 1.405機 756機。合計5,656 機生産された。

ポーランドの主力戦闘機は,パラソル翼のPZL-11戦闘機で,全幅10.7メートル,全長7.6メートル,全備重量1650キロ, マーキュリーエンジン630馬力,最高速度375キロ,航続距離550キロ,兵装7.92 mm機銃2丁だった。

このような低速戦闘機よりも,エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)の設計したHe-111爆撃機のほうが早く,攻撃は容易だった。電撃戦では,戦車の威力が注目されるが,ポーランド侵攻のときのドイツ軍戦車は,?号戦車,?号戦車で,決して攻撃力,防御力が高い戦車ではなかった。空軍の果たした役割が大きかったと思われる。

写真(右)1939年9月24日,破壊されたポーランド軍のPZL-11戦闘機,奥の飛行場の後方にハインケルHe-111E爆撃機2機:飛行場の後方に駐機しているハインケルHe-111爆撃機は,初期型で,機首の風防と操縦席の風防の間に段差がある。
Zahlreiche feindliche Flugzeuge wurden nicht im Luftkampf abgeschossen, sondern durch unsere Luftwaffe durch Bomben-würfe vernichtet, bevor sie überhaupt dazu kamen aufzusteigen. U.B.z.: ein durch Bombentreffer vernichtetes polnisches Flugzeug. PK (Scherl) 24.9.39 [Herausgabedatum] Archive title: Polen.- Gerippe eines zerstörten polnischen Flugzeugs auf einem Flugplatz, im Hintergrund zwei deutsche Flugzeuge Dating: September 1939 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-E11027引用(他引用不許可)。


1939年9月1日のポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置していた。
ヒトラーにとって,ワルシャワ空爆に躊躇は一切なかったと考えられる。

写真(右)1939年9月,ポーランド、ブレスト=リトフスク(Brest-Litowsk)を低空で空爆するドイツ空軍ハインケルHe-111爆撃機の機首に装備されたMG-17旋回機銃:爆撃手の視界は良好で眼下には,対戦車壕が観察できる。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-S52525 Original title: info Die deutsche Luftwaffe an der Ostfront. Neben dem sich unten nach der Mitte des Bildes hinziehenden Festungsgraben erkennt man auf dem Wall die Schützengräben. Brest-Litowsk 11576-39L [PK-Stempka Scherl Bilderdienst] Archive title: Polen.- Blick aus der Bugkanzel eines Flugzeugs Heinkel He 111 mit Maschinengewehr auf Brest-Litowsk Dating: September 1939 Photographer: Stempka Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ハインケルHe-111爆撃機諸元:全長16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル,全備重量 1.4トン,Jumo211F液冷エンジン(1200馬力)2基,最大速度 440キロ,航続距離 2800キロ,武装 7.92ミリMG15機関銃5丁 爆弾2トン。

写真(右)1939年9月,ポーランドを低空で空襲中のドイツ空軍ハインケルHe-111爆撃機の機首からの眺め:MG-17機銃を構える爆撃手の眼下には,道路上に行列をなす自動車,馬車の行列が見えるが,これが襲撃目標なのであろう。
Feldzug in Polen. Jagd auf polnische Kolonnen. Blick aus der Bugkanzel eines Kampf-flugzeuges über den Beobachter am MG hinweg auf die mit Kolonnen vollgestopfte Straße. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Stempka 11576-39 "Fr" OKW Sept. 39 Archive title: Polen.- Blick aus der Bugkanzel eines Flugzeugs Heinkel He 111 , Bordschütze an Maschinengewehr Dating: September 1939 Photographer: Stempka撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bundesarchiv Bild 183-S52525引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年夏,フランス,バトルオブブリテンの時期,ドイツ空軍の第1爆撃航空団(KG1)所属のハインケルHe-111H爆撃機(機体番号V4+BU)
ハインケルHe-111爆撃機の諸元:
全長16.4メートル,全幅22.6メートル,翼面積86.5平方メートル,重量14000キロ,最高速度440キロ,航続距離2000キロ,ユンカースJumo211液冷1350馬力2基,乗員5名,武装7.92mm機銃5丁,爆弾2.5トン。グライダーを曳航するなど輸送任務にも使用された。
Frankreich.- Bomber Heinkel He 111 (Kennung V4+BU) des Kampf-geschwader 1 (KG 1) beim Start von einem Feldflugplatz; KBK Lw 4 Dating: 1940 Sommer Photographer: Wanderer, W. 撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bundesarchiv Bild 101I-385-0560-31引用。


写真(右)1940年8-9月,フランスあるいはベルギー,ハインケルHe 111爆撃機の搭乗員:航空では気温が下がるため、搭乗員は厚手の飛行服を着ている。また、飛行服は狭い機内で機材の障害にならないようにオーバーオールで、航空地図などを身近におけるように飛行服のポケットなど収容スペースにも配慮されている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-342-0620-07A Archive title: Belgien/Frankreich.- Soldat der Luftwaffe beim Anlegen seines Fliegeranzugs mit Schwimmweste auf einem Flugplatz vor einem Flugzeug (Heinkel He 111 ?, Werksnummer 3714) stehend; KBK Lw 3 Dating: 1940 August - September Photographer: Seuffert Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・"Bild 101I-342-0620-07A"引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍ハインケルHe 111H爆撃機の諸元
原型初飛行 1935年2月,生産機数 7000機以上
全長 16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量: 1.2トン,JunkersエンジンJumo2111300馬力2基
最大時速 400キロ,航続距離 2800 キロ
兵装: 7.92ミリMG15機関銃6丁,爆弾2トン。

写真(右)1939年-1945年,ドイツ国防軍プロパガンダに登場したハインケルHe 111爆撃機と搭乗員:オリジナル解説には「ドイツ空軍の夜間飛行部隊は、基地のハインケルHe-111の前でフライトの打ち合わせをし、飛行機の状態が完全なことを確認した。「大丈夫!」出撃だ」とある。左の腕まくりをしている人物は、地上にいる基地連絡担当。右の皮のロング・コートを着込んでいるのが爆撃機の搭乗員。当時、搭乗員は、スチール製ヘルメットではなく、革製の飛行帽をかぶっている。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-2005-0067 Original title: info Die deutsche Luftwaffe übernimmt auf dem Heinkel-Werkgelände ein Kampfflugzeug der Type "He-111". "In Ordnung!" Der Nachtflieger des Reichsluftfahrt-Ministerium bestätigt nach seinem Abnahmeflug den einwandfreien Zustand des Flugzeuges und somit die erfolgte Abnahme durch die Wehrmacht. Dating: 1939/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・"Bild 146-2005-0067"引用(他引用不許可)。


ハインケルHe 111 H爆撃機の諸元
全長 16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量: 1.2トン,液冷ユンカースJumo211エンジン1300馬力2基
最大時速 400キロ,航続距離 1200-2400キロ,上昇限度8000メートル
武装:7.92ミリMG15機関銃6丁,爆弾2.5トン
乗員5人(パイロット、航法手、爆撃手・機首銃手、銃手1-2人)
原型初飛行 1935年2月24日,総生産数 6000機。
生産工場は,ビスマール,オラニエンブルクのハインケル社のほか,ドルニエ社,アラド社でもライセンス生産。
生産期間は,1936年3月から1944年9月まで。

写真(右)1940年夏,フランス,バトルオブブリテンの時期,ドイツ空軍主力爆撃機ハインケルHe-111H爆撃機:飛行場でタキシングしているハインケル爆撃機の機首風防から,視界を確保しようと,搭乗員が乗り出している。
最高速度440キロのハインケルHe-111は高速爆撃機とはいえなくなったが,信頼性のある機体のため,終戦まで爆撃機,雷撃機,V-1号発射機,輸送機などに使用された。ただし,生産は1944年に中止。
Frankreich.- Verband von Bombern Heinkel He 111 H-2 der 7./KG 1 im Anflug über dem Kanal (vorne V4+IR); PK KBK Lw4 Dating: 1940 Sommer Photographer: Dahm撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-385-0560-22引用


写真(右)1941年1月24日,オランダ、ドイツ空軍の主力爆撃機ハインケルHe-111に500キロ爆弾を搭載中の地上勤務員:戦争後期には,燃料不足,性能低下,制空権喪失によって,ドイツ空軍のHe111爆撃機は昼間出撃は困難になったため、夜間爆撃が主流になった。
Fotocollectie Spaarnestad Onderwerpen Reportage / Serie Luchtoorlog Duitsers. Beschrijving Een Duitse Heinkel HE 111 wordt op een vliegveld aan de Atlantische kust weer beladen met nieuwe bommen Datum 24 januari 1941
写真は、Nationaal Archief, het Het Genootschap voor het Nationaal Archief・ Inventarisnummer 28034 Bestanddeelnummer 28034_108 引用。


写真(右)1940年10月2日、撃墜されイギリス本土に墜落したドイツ空軍機からの金属回収。:左はドイツ空軍He-111PまたはH爆撃機、中央奥はユンカースJu-87B急降下爆撃機の胴体、右はメッサ―シュミットBf-109E戦闘機のコックピット
Catalogue number: HU 104722, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, object category: Black and white Alternative Namesobject category: Photography, Object description:Reporters examine the remains of a Heinkel He 111, Junkers Ju 87 and Messerschmitt Bf 109E, now resting in a scrapyard in Britain, 2nd October 1940. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 1988)


写真(右)1940-1941年,ドイツ空軍の主力爆撃機ハインケルHe-111:戦争後期には,燃料不足,性能低下,制空権喪失によって,ドイツ空軍の爆撃機は出撃困難だった。そこで,ハインケルHe-111は輸送機としても使用された。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_101I-408-0803-12引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年-1943年,フランス,ハインケルHe 111爆撃機の7.92ミリMG15旋回機銃の整備:ボールマウントで、銃を自由に旋回できる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-599-1001-20 Archive title: Frankreich, Kanalküste.- Mechaniker / Waffenwart bei der Wartung von Bordwaffen, im Hintergrund eine Heinkel He 111; PK KBK Lw zbV Dating: 1942/1943 Photographer: Engelmann Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・"Bild 101I-599-1001-20"引用(他引用不許可)。


7.92ミリMG15旋回機銃は、再軍備宣言が出される以前に密かに開発されていたドイツ軍の航空機搭載用旋回機銃。第二次世界大戦に使用された航空機のほぼすべての旋回機銃として搭載された。弾丸を入れる弾倉は75発入りサドルドラム式で、ドラムの半分は撃ち殻(空薬莢)入れになっている弾倉交換が容易で、ベルト給弾式とは異なり、バラの弾を装填しゼンマイ式スプリングで給弾する。

1944年7月20日,ラステンブルクにあったヒトラーの総統本営ヴォルフスシャンツェ (Wolfsschanze)を爆破して,ラステンブルク飛行場からベルリン飛行場まで,シュタウフェンベルクが搭乗したのもハインケルHe-111爆撃機だった。

しかし,このヒトラー暗殺未遂事件を題材にしたハリウッド映画「ワルキューレ」や2009年のZDFドキュメント「シュタンフェンベルク」では,この空中移動を,ユンカースJunkers Ju-52/3m輸送機で行ったことにしている。これは,飛行可能なJu-52をロケに使用したからである。

⇒写真集Album: ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機を詳しく見る。



2.第二次大戦初期に消えたドルニエ(Dornier)Do-17爆撃機と後継機のDo217/Do-317

写真(右)1940年夏,フランス,ドルニエ(Dornier)Do-17爆撃機:第76爆撃航空団(KG76)所属のDornier Do 17が飛行中。機首に乗員が集中して搭乗したので,相互の連絡がとりやすかった。機首と操縦席から7.92ミリMG17機銃が装備されている。
Frankreich.- Bomber Dornier Do 17 des KG 76 im Flug; Lw.Polen und KBK Lw.3 Datierung: 1940 Sommer Fotograf: Spieth Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍ドルニエドルニエ(Dornier)Do-17 Z爆撃機の諸元
初飛行 1934年11月
全長 16.3メートル,全幅 18メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量7650キロ,エンジン:BMW ブラモ323 空冷星型 9気筒1000馬力2基
最大時速 420キロ,航続距離 1160キロ
兵装 7.92ミリMG15機関銃5丁,爆弾1トン。
乗員4人(操縦手,爆撃手,航法・偵察員兼機銃射手2名)

写真(右):1940年夏,フランス,爆弾を投下するドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-17Z爆撃機:ポーランド侵攻時のドイツ軍の主力双発爆撃機で,ワルシャワ空襲も行った。
Dornier Do 17 Z爆撃機: 全幅18メートル,全長16.25メートル,全備重量7650キロ、BMW ブラモ323 空冷星型 9気筒1000馬力2基,最高速度427キロ,航続距離1160キロ,武装7.92ミリ機銃4丁,爆弾1トン,乗員4人,1937-1940年に1100機生産。
&Frankreich.- Bomber Dornier Do 17 Z im Flug beim Bombenabwurf; Luftwaffe (Lw) 3 "Polen" und Kriegsberichter Kompanie (KBK) Luftwaffe (Lw) 3 Dating: 1940 Sommer Photographer: Spieth撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-341-0489-13引用(他引用不許可)。


ドイツ軍は、ビラを空中散布するなどしてポーランドに降伏勧告をした。しかし、果敢な抵抗を続けるポーランドは、黙殺した。

降伏の機会を黙殺したポーランドに対して,ドイツ軍は,1939年9月25日、ワルシャワを大空襲した。これは,爆撃機400機を配備した3-4回の反復爆撃で通常爆弾560トン,焼夷弾72トンを投下した。9月27日,ポーランドは降伏した。

写真(右):1939年9月,ポーランドワルシャワ空襲:ポーランドに降伏勧告をして拒否されたドイツ軍は,9月25日にワルシャワを,爆撃機400機によって空襲、通常爆弾560トン,焼夷弾72トンを投下した。二日後日,ポーランドは降伏した。
ドイツでは、ワルシャワ爆撃の目標は、ワルシャワの軍事施設であって、一般市民を対象としたテロ爆撃ではないとも主張される。しかし、当時の水平爆撃の技術では、目標に爆弾を命中させることは困難であった。
Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939. UBz: Flugzeug-aufnahme des brennenden Warschaus, das am 27. September 1939 kapitulieren mußte. 3250-40 Dating: September 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-S56603引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年8月31日、イギリス本土、プリンスゴルフクラブに不時着した第3爆撃航空団第4戦隊所属ドルニエ(Dornier)Do-17Z-3爆撃機:ホルンチャーチで攻撃されラムスゲイト近郊に不時着し、その後炎上した。
Catalogue number: FX 68707, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Object description: Dornier Do 17Z-3 W.Nr. 2669 of 4./KG3 burning itself out after crash-landing at Princes Golf Club on Sandwich Flats, near Ramsgate, following an attack on Hornchurch, 31 August 1940.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (FX 68707)


写真(右)1940年9月7日、イギリス本土、ロンドン東、プラムステッドのテムズ川上空を飛翔するドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-217 (DO-17Z?)爆撃機:9月7日、ドイツ空軍は、それまで続けてきた航空撃滅戦が効果が上がっていないと判断し、作戦を変更して、ロンドン爆撃・電撃(ブリッツ)が始まった初日となった。
Catalogue number: C 5424, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: German Air Force photographer Object description:Two Dornier Do 217 bombers flying over the Plumstead sewer bank, Crossness pumping station and the Royal Arsenal butts on Saturday 7 September 1940, the first day of the sustained Blitz on London. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 5424)


写真(右)1940年、ドイツ空軍ドルニエDo17Z爆撃機の編隊飛行
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-342-0603-25 Archive title: Belgien/Frankreich.- Ein Verband Bomber Dornier Do 17 Z im Flug während eines England-Einsatzes; KBK Lw 3 Dating: 1940 ca. Photographer: Ketelhohn [Kettelhohn] Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍によるワルシャワ爆撃は、ワルシャワの軍事施設を目標としており、無差別爆撃ではないと主張される。

しかし、当時の水平爆撃の技術では、目標に爆弾を命中させることは困難であった。この低い命中率を前提に、命中しないで目標をそれて着弾した爆弾が、敵に被害を与えるように爆撃あ計画された。目標付近に、民間施設や一般市民がいて、空襲で被害を受けることを当然のように考えていた。これが軍と民間市民を区別しない「無差別」爆撃である。

写真(右)1940年夏の英本土航空決戦のときの,フランス駐留ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-17爆撃機搭乗員
Im Westen, Frankreich.- Luftschlacht um England, Do 17. Piloten und Besatzungen beim Kartenstudium. Dornier Do 17 im Hintergrund; KBK Lw.3 Dating: 1940 Sommer Photographer: Spieth 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-341-0481-39A引用(他引用不許可)。


ドルニエDo17Z(最終生産型)諸元
全長115.6メートル,全幅18メートル,翼面積 55平方メートル
全備重量8600キロ,最高速度 410キロ,航続距離 1160キロ
ブラモ 323空冷エンジン1000馬力2基装備
武装;7.92ミリ機銃7丁,爆弾1トン搭載

写真(右)1940年9-10月、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-17爆撃機:格納庫内でエンジンの調整・整備の作業中。
Inventory: Bild 101 I - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-343-0663-17 Archive title: Belgien/Frankreich.- Instandhaltung eines Flugzeugs Dornier Do 17; KBK Lw 3 Dating: 1940 September - Oktober Photographer: Gentsch Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年、イタリア、ドイツ空軍ドルニエDo17爆撃機とDFS230グライダー:DFS230グライダーの諸元;全長: 11.3m、全高: 2.8m、全幅: 21.1m、主翼面積: 38.1m2、最大離陸重量: 2100kg、乗員: 2人、輸送定員: 10人。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1407-35A Archive title: Italien, Sizilien.- Dornier Do 17 E stehen zum Schlepp des Lastenseglers DFS 230 bereit; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Macioszek Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年9-10月、ベルギーあるいはフランスの艤装を施した待避所に隠されているドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-17爆撃機:イギリス空軍による空襲を警戒してか、対空偽装を念入りに行った待避所が作られている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-343-0684-31 Archive title: Belgien/Frankreich.- stark getarntes Flugzeug Dornier Do 17; KBK Lw3 Dating: 1940 September - Oktober Photographer: Gentsch Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-343-0684-31"引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年8月5日,フランス、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-215爆撃機/偵察機:迷彩塗装を施した双尾翼式の爆撃機で当初は輸出用に開発された。
Fotocollectie Spaarnestad Onderwerpen Reportage / Serie Luchtoorlog Duitsers. Beschrijving Dornier Do 215 bommenwerper van de Luftwaffe Datum 8 april 1940 Locatie Duitsland Trefwoorden oorlog, oorlogen Fotograaf [onbekend]
写真は、Nationaal Archief, het Het Genootschap voor het Nationaal Archief・ Inventarisnummer 28034 Bestanddeelnummer 28034_040引用。


写真(右):1943年9月、ドルニエ(Dornier)Do-217 K爆撃機:空冷の1700馬力 BMW 801エンジンを搭載し、Do17Zの出力を強化した発展型。
Inventory: Bild 101 III - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Waffen-SS Signature: Bild 101III-Pachnike-041-24A Archive title: PKW der SS und PK-Filmberichter (Kameramann der Waffen-SS) vor Flugzeug Dornier Do 217 (K-02 ?) mit laufenden Motoren auf einen Feldflugplatz; SS-PK Dating: September 1943 Photographer: Pachnike Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


Dornier Do 217 爆撃機諸元:
全長: 18.19 m、全幅: 19.00 m、全高: 5.03 m、全備重量: 14,980 kg、エンジン: BMW 801MA 空冷14気筒 1,580 hp × 2、最大速度: 515 km/h、航続距離: 2,300 km、武装 7.92ミリMG 15機関銃 × 5, 15ミリMG 151機関砲 × 1, 爆弾 2トン、乗員: 4名。

写真(右):1943年9月、ドルニエ(Dornier)Do-217K-1/R4爆撃機:空冷の1700馬力 BMW 801エンジンを搭載し、両翼に対艦誘導ミサイルを懸架した艦船攻撃型。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 43933770 - Catalog: 16_005111 - Title: Dornier Do 217K-1/R4 Nowarra photo - Filename: 16_005111.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives・Catalog:16_005111 引用。


写真(右):1943年9月、ドルニエ(Dornier)Do-217E-2爆撃機:空冷の1700馬力 BMW 801エンジンを搭載し、Do17Zの出力を強化した発展型。
PictionID: 43933782 - Catalog: 16_005112 - Title: Do 217E-2 Dornier Werkfoto - Filename: 16_005112.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives・Catalog:16_005111 引用。


写真(右):1942-1943年、北アフリカ、チュニジアをドルニエ(Dornier)Do-217 K爆撃機に搭乗して訪問したドイツ航空機総監エアハルト・ミルヒ(Erhard Milch)元帥:ドイツ・ルフトハンザ航空出身のミルヒは、1939年に第5航空軍(海軍航空隊の貧弱なドイツ空軍に「飛行艦隊」というのは誤訳)司令官に就任、ノルウェー侵攻を指揮し、1940年6月のフランス降伏の功績で、アルベルト・ケッセルリンク、フーゴ・シュペレと並んで空軍元帥に昇進。1941年、航空総監に任命される。 空冷の1700馬力 BMW 801エンジンを搭載し、Do17Zの出力を強化した発展型。
Dornier Do 217 爆撃機K型諸元:
全長: 18.19 m、全幅: 19.00 m、全高: 5.03 m、全備重量: 14,980 kg、エンジン: BMW 801MA 空冷14気筒 1,580 hp × 2、最大速度: 515 km/h、航続距離: 2,300 km、武装 7.92ミリMG 15機関銃 × 5, 15ミリMG 151機関砲 × 1, 爆弾 2トン、乗員: 4名。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-421-2054-20 Archive title: Nordafrika, Tunesien.- Generalfeldmarschall Erhard Milch auf einem Luftwaffen-stützpunkt, Soldaten angetreten, im Hintergrund Flugzeug Junkers Ju 188; KBK Lw 6 Dating: 1942/1943 ca. Photographer: Karnath Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 ・Bild 101I-421-2054-20引用(他引用不許可)。


写真(右):1943年9月、ドルニエ(Dornier)Do-217M-1 爆撃機:1700馬力 BMW 801空冷エンジンに代えて、1900馬力のDB603液冷エンジンを搭載した。機体を黒で塗装した夜間爆撃型。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 43933806 - Catalog: 16_005114 - Title: Do 217M-1 Dornier Werkfoto - Filename: 16_005114.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives・PictionID:43933806引用。



3.第二次大戦の最多生産爆撃機ユンカースJu-88

写真(右)1941年,フランス、ユンカースJu-88双発急降下爆撃機:Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-388-0968-33 Archive title: Frankreich.- Mechaniker bei der Wartung von Flugzeugen Junkers Ju 88 auf einem Flughafen; PK KBK Lw4 Dating: 1941 Photographer: Reinelt Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・"Bild 101I-388-0968-33"引用(他引用不許可)。


双発だが操縦性の良いJu-88は、急降下爆撃として9000機が生産されたが、後に重戦闘機、夜間戦闘機としての改良がくわえられ、戦闘機として6000機生産された。

写真(右)1941年6月14日,「もっと急降下爆撃機を!」とユンカースJu-88双発急降下爆撃機が量産される航空機工場:スツーカ(Stuka)とは,急降下爆撃機で,単発のJu-87が有名だが,双発のJu-88も急降下爆撃ができた。
Stukas noch und noch. Teile einer im Bau befindlichen Serie der Ju 88. In riesigen Fabrikhallen entstehen diese Maschinen, die sich im Kampf gegen Russland aufs Neue bewähren. Fr.OKW. 41.6.25. Sammlung Seiler, Berlin Dating: 1941 Photographer: Seiler
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1980-122-26引用(他引用不許可)。


第二次大戦で使用されたユンカースの航空機は,1935年3月16日にヒトラーが、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し再軍備宣言をして以降、開発されている。

ヒトラーの再軍備宣言
?義務兵役制を復活:兵力36個師団,50万人を動員
?軍事組織の名称変更:陸海軍に加えて空軍Luftwaffeを新設し,国軍Reichswehrを伝統的な国防軍Wehrmachtに戻す。国防省を陸軍省(Ministry of War)と変更。陸軍参謀本部の復活。

ユンカース社Junkers & Co)は,フーゴー・ユンカースHugo Junkers)の下で,航空機用エンジンと飛行機を製造する工場を持つ巨大企業である。ナチス政権獲得の1933年,一族の株式持ち株率を51%以下にするように命じられた。フーゴー・ ユンカースが1935年2月に死亡した後,遺族に補償がなされた。

ユンカースの主要工場デッサウ(Dessau)には,4万人の従業員が雇われたが,空軍拡張に伴って,ハルバーシュタット,アッシェルスレーベン, シュタスフルト,ハレなどに工場が増設された。

1940年6月22日のフランス降伏によって,ドイツにとって,戦い続ける敵は英国だけになった。独ソ不可侵条約を締結していたヒトラー総統は,このとき,英国がすぐに休戦を申し入れてくると楽観していた。後には,ヒトラー自らがラジオによって,英国との和平交渉を行う用意があることを公言した。まだ、英国本土への大規模空襲は控えていた。英国の工場、造船所が戦備拡張に忙しかった時期、ドイツ空軍はこれらの目標を攻撃しないままに、放置していた。

ユンカースJu-88の諸元
全長 14.4メートル,全幅 20メートル,翼面積 54.5平方メートル
性能:最大速度 470キロ,航続距離 2730キロ
兵装:7.92ミリMG17機銃6丁,爆弾 2トン
生産総数 15000機(爆撃機9000機,戦闘機6000機)

写真(右)1942-1943年,フランス、ユンカースJu-88A-4双発急降下爆撃機:コックピット後方に7.92ミリMG81連装旋回機銃が2基装備されている。大型爆弾を人力で曳航しJu-88主翼下面に搭載中。白色の鉄十字マークが黒で薄められており、夜間爆撃機仕様の塗装を施されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-356-1805-24A Old signature: Bild 146-1988-084-09 Archive title: Frankreich.- Flugzeug Junkers Ju 88 A-4 der 2./KüFlGr. 106 (Küstenfliegergruppe) (Kennung M2+AK), Beladen mit schwerer Bombe; KBK Lw 3 Dating: 1942/1943 Photographer: Rompel, Johannes Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・"Bild 101I-356-1805-24A"引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年秋,降着装置を整備中のユンカースJu-88A双発急降下爆撃機:車輪は90度回転してからJumo211エンジンナセルに引き込まれる。当時の日本の軍用機ではこのような複雑な降着装置の機構を安定して起動させることはできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-367-2377-36 Archive title: Frankreich.- Fahrwerksreparatur an einer Junkers Ju 88; KBK Lw 3 Dating: 1942 Herbst Photographer: Schilling Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


英国ウィストン・チャーチル首相は,米国の武器貸与法を利用した軍事援助によって,徹底抗戦を戦う覚悟をしていた。1940年7月10日から10月31日まで,ドイツ空軍は、英国本土の軍事施設(航空基地、軍港、レーダー施設など)、工業地帯を大空襲した。これに対して、英空軍戦闘機部隊は,ドーバー海峡を挟んで,ドイツ空軍の爆撃機,戦闘機を果敢に迎撃し,「バトルオブブリテン」といわれるほどだった。イギリス空軍は,ドイツ空軍の英本土空襲を持ちこたえた。

空軍司令官ヘルマン・ゲ-リング国家元帥は,1940年8月からの英本土航空「鷲」作戦に際して,ドイツ空軍がイギリス空軍機を駆逐し,イギリスを征服してみせると豪語した。しかし,ドイツ側の被害は甚大で,イギリス戦闘機の抵抗が続いたために,1940年9月7日から,ロンドン夜間空襲を開始した。

写真(右)1940年,フランスの基地から英本土爆撃に向かう第51爆撃航空団(KG51)のユンカースJu-88A爆撃機:エーデルワイス(ウスバユキワリソウ)の可憐なエンブレムをつけた爆撃機だが,1940年当時,ドイツ空軍の最高性能の急降下爆撃機だった。
Ju-88の諸元:全長 14.4メートル,全幅 20メートル,翼面積 54.5平方メートル,最大速度 470キロ,航続距離 2730キロ,7.92mm機銃6丁,爆弾 2トン。
Englische Kanalinseln.- Bomber Junkers Ju 88 A-1 des Kampfgeschwader 51 (I./KG 51) "Edelweiß" mit Besatzung vor dem Start; PK KBK Lw5 Dating: 1940 Photographer: Pilz 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-402-0265-03A引用


写真(右)1942年春,フランス、ユンカースJu-88A爆撃機:最大速度 470キロ,航続距離 2730キロ,7.92mm機銃6丁,爆弾 2トンは、1942年当時、必ずしも高性能とは言い難い。しかし、Ju88の信頼性、操縦性は高く、ドイツ爆撃機としては最多となる1万5000機が生産(夜間戦闘機型を含む)が生産れている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-373-2619-24A Archive title: Frankreich.- zwei Flugzeuge Junkers Ju 88 auf Feldflugplatz, Frühjahr 1942; KBK Lw 3 Dating: 1942 Frühling Photographer: Seuffert Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-373-2619-24A引用


1946年1月29日,戦後のニュルンベルク国際軍事法廷で,ゲーリングは,英本土上陸作戦ができなくなったことで非難を受けたことの確認を求められた。しかし,ゲーリングはそれを否定し,「私の4個師団の空挺部隊が欲しいという要求を,陸軍の他の要求のために,貫徹できなかった。もし,ダンケルクの戦いの時期に,この4個師団をもっていたら,直ちに英本土に進撃させたであろう」と述べた。しかし,ゲーリングは,英本土航空決戦について,多くを語ろうとしなかった。

ヒトラーは,英国がソ連を当てにして戦っていると考え,イデオロギー上の敵であるボリシェビキを殲滅し,東方ソ連にドイツ民族の生存圏を獲得しようとの本心をむき出しにして,ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」を発動した。しかし,その直前の1941年4月,ユーゴスラビアで反ドイツのクーデターが勃発,急遽,ドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻した。

写真(右)1942年2月,ソ連,スモレンスク・クルスク,ドイツ空軍ユンカースJu-88A爆撃機:機首にエリコン20ミリMG-FF機銃,操縦席前方に7.92ミリMG17機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。急降下爆撃もできる双発機で,大戦後半にはハインケルHe-111を上回る配備数を誇り,ドイツの主力爆撃機となった。
Sowjetuion (Smolensk/Kursk).- Flugzeug des Typs Junkers Ju 88; KBK Lw8 Dating: Februar 1942 Photographer: Heidrich撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-452-0975-32引用(他引用不許可)。


1941年6-7月、バルバロッサ作戦でソ連軍の航空基地攻撃に大活躍したドイツ空軍だったが,1942年の東部戦線では,スターリングラード空輸作戦以外,大軍をまとめて投入することはなくなった。

写真(右)1943年,空中投下用機雷を主翼付け根のラックに懸架するユンカースJu-88A爆撃機:機首ゴンドラ先端にエリコン20ミリMG-FF機銃,ゴンドラ後端(搭乗口)に7.92ミリMG81二連装機銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-375-2710-32 Archive title: Im Westen (Niederlande).- Flugzeug Junkers Ju 88 auf Feldflugplatz.- Beladen mit Bomben; Lw PK 3 Dating: 1943 Photographer: Luben, W. O. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツは、自術力を駆使して、対艦船用の魚雷や機雷に装備する磁力反応信管、音響反応信管を開発、実用化することに成功した。新型魚雷・新型機雷は、ドイツ海軍潜水艦Uボートに搭載された。しかし、新型の音響機雷、磁気機雷は、ドイツ空軍機から、敵船舶の航路上に空中投下され、敷設された。機雷の空中投下という新機軸の戦術は、ドイツ空軍が世界で初めて大々的に実戦で行った。1945年、日本本土を空襲したアメリカ陸軍航空隊も、関門海峡、津軽海峡、港湾出入り口などを機雷封鎖するために、B-29爆撃機によって、機雷の空中投下を行った。



写真(右)1945 年4月8日、ドイツ西部、ヴンストルフ(Wunstorf)飛行場の格納庫で第6空挺師団第5パラシュート降下連隊に鹵獲されたユンカースJu-88G夜間戦闘機:爆撃型のJumo211エンジン(1470馬力)を強化したJumo213エンジン(1750馬力)に変換して搭載している。最高速度は540キロ、兵装は6丁x20ミリMG 151/20、航法旋回機銃 1丁x13.1ミリMG131。
Catalogue number: BU 3260, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Photography Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Laws (Sgt), Object description: A Junkers Ju 88 aircraft in a hangar at Wunstorf airfield, captured by the 5th Parachute Brigade, 6th Airborne Division, 8 April 1945.. Label: An abandoned Messerschmitt Bf 109G and a pair of Ju 88G night-fighters in a hangar at Wunstorf airfield in Germany, captured by 6th Airborne Division, 8 April 1945. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 3260)


写真(右)1945 年4月8日、ドイツ、ヴンストルフ飛行場の格納庫で第6空挺師団第5パラシュート降下連隊に鹵獲されたユンカースJu-88G夜間戦闘機:高出力のJumo213エンジン(1750馬力)を搭載したが最高速度は540キロどまりで、これは同程度のエンジンを装備したハインケルHe-219ウフー夜間戦闘機よりも最高速度は60km以上遅い。
Catalogue number: 3262, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Photography Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Laws (Sgt), Object description: A Junkers Ju 88 aircraft in a hangar at Wunstorf airfield, captured by the 5th Parachute Brigade, 6th Airborne Division, 8 April 1945.. Label: A Junkers Ju 88G aircraft in a hangar at Wunstorf airfield, captured by the 5th Parachute Brigade, 6th Airborne Division, 8 April 1945. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (3262)




⇒写真集Album: ユンカース(Junkwes)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機を見る。


写真(右)1944年,爆弾搭載作業中のドイツ空軍ユンカースJu-188爆撃機:機首と後方にモーゼル20ミリMG151/20機銃各1丁,操縦席後方上に電動式13.1ミリMG131電動旋回機銃1基、下方ゴンドラ後部に7.92ミリMG81Z連装機銃を装備。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-496-3500-15 Archive title: Frankreich nach der Invasion.- Flugzeug Junkers Ju 188, Maschine wird mit Bombe bestückt; PK Lw Kdo West Dating: 1944 Photographer: Bankhard Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。



写真(右)1944年,爆弾搭載作業中のドイツ空軍ユンカースJu-188A爆撃機:1944年、イギリス本土爆撃を「電撃戦」と称して再開したドイツ空軍だったが、イギリスの防空網に阻まれて戦果は乏しかった。英本土上空には阻塞(そさい)気球も揚げられていた。そこで、Ju188の機首には、阻塞(そさい)気球の繋留ケーブルを切断するケーブル・カッターが装備されている。
ユカースJu88のJumo211エンジンを大型大出力のJumo 213Aに変換した発展型がJu188爆撃機。液冷エンジンのJumo213は生産数に制約があったので、より大量生産された空冷エンジンのBMW 801を搭載したJu188Eも生産された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-497-3502-20 Archive title: Westeuropa.- Besatzung eines Flugzeugs Junkers Ju 188 vor dem Start; PK Lw Kdo West Dating: 1944 Photographer: Boger Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1942年,ドイツ空軍爆撃機は,東部戦線各地の個別の戦術的な地上支援に使用され,敵の工業地帯,発電所,交通中枢への戦略爆撃は行わなかった。モスクワ空襲も,少数機が散発的に行っただけだった。

Ju-188Aの諸元
全長 14.9 メートル、全幅 22.0 メートル、全高 4.4 メートル、主翼面積56平方メートル、全備重量 14,491キロ。 最高速度513 km/h、上限高度 1,1000メートル、航続距離 1,950 km、武装; 20 mm MG 151/20 機関砲× 1、13 mm MG 131 機関銃× 3、爆弾最大搭載量 3,000 kg、乗員: 4名。

⇒写真集Album: ユンカース(Junkwes)Ju-188爆撃機/Ju-388偵察機を見る。


4.電撃戦の立役者ユンカースJu-87急降下爆撃機スツーカ

写真(右)1939年9月,ポーランド攻撃に向かうユンカースJu-87急降下爆撃機スツーカ:カプラン,ハイムの9月4日の『ワルシャワ・ゲットー日記』に次の記述がある。「今日半日は平穏に過ぎた。しかし,あとの半日は,かつてなような空襲を経験した。敵の投下する爆弾は,われわれの耳をつんざき,われわれの頭上で炸裂したかと思われることさえあった。女たちは失神に,臆病者を隠れ,小さな子供たちは泣き叫ぶ。多くの場合,公式報道がこうした空襲の実情を知らせることはない。」
Polen.- Drei Sturzkampfbomber Junkers Ju 87 ("Stuka") kurz nach dem Start; KBK Lw 1 Polen Dating: September 1939 Photographer: Koll 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_101I-318-0053-35引用(他引用不許可)。


写真(右)1939年9月,ポーランド空襲に出撃したドイツ空軍ユンカースJu-87(Junkers 87)急降下爆撃機スツーカ:ドイツ空軍のポーランド侵攻主力兵力は、アルバート・ケッセリング元帥の第一航空軍,アレクサンデル・レール第四航空軍の合計1302機だった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-320-0946-32A Archive title: Polen.- Kampfflugzeug Junkers 87 in der Luft; LwPK 1 Dating: September 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年5月,フランス,アラス近郊,ユンカースJu-87急降下爆撃機[スツーカ]前でブリーフィングをする搭乗員たち:フランス侵攻キャンペーンでは,戦車とユンカースJu87"スツーカ"を組み合わせた電撃戦によって大勝利を勝ち得た。しかし,開戦前,ドイツ国防軍の将軍たちはフランス侵攻作戦の前途に大いに不安を感じていた。
Westfeldzug, Frankreich bei Arras.- Piloten bei Lagebesprechung vor Junkers Ju 87 "Stuka"; KBK Lw 4 Dating: Mai 1940 Photographer: Stift Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_101I-383-0338-03引用(他引用不許可)。


写真(右)1940-41年,ドイツ空軍のパイロットと偵察員:複座のユンカースJu-87単発急降下爆撃機の搭乗員が鉄十字賞授与された記念撮影のようだ。
Sowjetunion.- Piloten in Flugzeugkanzel; KBK Lw5 Dating: 1940/1941 Photographer: Grosse, Helmut撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-412-1605-14A引用(他引用不許可)。


Ju-87スツーカの脚(離着陸用の車輪)には、高音を発するサイレンが装着されていた。サイレンガを鳴らしながら急降下すると、敵はその音に恐怖して動けなくなってしまった。つまり、サイレンの威嚇音によって、急降下爆撃の命中率を上げ、敵の対空射撃の精度を低下させるという効果が期待されていた。

サイレンは、Ju-87スツーカの初期型のみ装備され、後には撤去された。敵戦闘機の迎撃を受ければ、ひとたまりもなく、日中は、制空権を確保した場所でのみ、スツーカは活躍できた。後には、夜間地上襲撃機として、夜間の低空爆撃に投入された。

ポーランド侵攻に参加したドイツ空軍機は,アルベルト・ケッセリング元帥の第1航空軍,アレクサンデル・レール第4航空軍で,あわせて1302機を保有していた。さらに,空軍総司令部直轄として,輸送機,偵察機など133機があり,陸軍にも偵察機,連絡機など288機が配備されていた。また,ドイツ本土防空部隊は,216機を保有していた。

したがって,ドイツ軍は,総計1929機をポーランド戦に投入したことになる。これはドイツ空軍兵力の三分の二に相当した。当時の主力爆撃機はドルニエDo-17とユンカースJu87だった。

対するポーランドの航空兵力は,自国設計・国内生産の機体も含めて、第一線機900機(爆撃機150機,戦闘機315機,偵察機325機,海軍機50機など)だった。これは、当時の小国としては、強力な空軍力であり、イギリス、フランスは、士気の低いソ連軍よりも、勇敢なポーランド軍の方を同盟相手として選ぶことになった。イギリスもフランスもポーランドの独立を保証する順次協定を結び、これを破ってポーランドに侵攻したドイツに対して最後通牒を告げ、宣戦布告をしたのである。

ポーランド軍機は,果敢に攻撃をかけてきたが,ドイツ軍に撃退された。部品,燃料に不足をきたし,稼動機数は急速に低下した。

写真(右)1940年頃、イギリス本土、ロンドン郊外の燃料タンク攻撃に向かうドイツ空軍ユンカースJu-87Bスツーカ急降下爆撃機:ドイツ空軍は、戦闘機であれば2機編隊のロッテ(Rotte)、ロッテ2組の4基編隊シュバルムによる戦闘を採用した。他方、爆撃機であれば3機編隊のケッテ(Kette)を採用した。。
イギリスは、アメリカの武器貸与法を受けて戦闘機、トラック、弾薬、火器から石油燃料まで潤沢に補給されたが、北フランスに駐留するドイツ空軍の攻撃を受ける位置にあったために、防空に重点を置いた。
Catalogue number: MH 5591, Part of SELINGER FRANZ, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: Junkers Ju. 87 dive-bombers on way to attack British tanks at Ghobi. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (MH 5591)


ドイツ空軍は陸軍に協力しての対地直協を基本戦略としていたために、都市戦略爆撃を行うのに適した重爆撃機を保有していなかった。急降下爆撃機は、この対地直協のの主力となる単発急降下爆撃機だった。

1940年7月のバトルオブブリテンの開始の時、ドイツ空軍の対イギリス船の戦力は爆撃機1100機、急降下爆撃機300機、単発戦闘機800機で、偵察機など含めて合計2500機以上あった。ヘルマン・ゲーリングは、対フランス戦勝によって元帥となったが、対イギリス攻撃の緒戦では、目標はイギリス空軍兵力と空軍基地・レーダーだった。バトルオブブリテンは、ドイツ空軍では「鷲の日」の攻撃に始まり、その後しばらくしてから、都市爆撃、夜間爆撃が行われるようになった。

写真(右)1940年、イギリス本土、イギリス海峡の船団攻撃中にイギリス空軍スピットファイアに撃墜されたドイツ空軍ユンカースJu-87スツーカ急降下爆撃機:尾輪を上にして逆さまになった残骸の前でポーズをとる戦闘機パイロット。自ら撃墜した敵機の記念写真撮影に訪れた時のようだ。
Catalogue number: CH 2064, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: Royal Air Force official photographer. Object description: Spitfire pilots pose beside the wreckage of a Junkers Ju 87 Stuka, which they shot down as it was attacking a Channel convoy, 1940. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (CH 2064)


写真(右)1940年10月2日、イギリス本土のスクラップ置場、イギリスに撃墜されたドイツ空軍ユンカースJu-87スツーカ急降下爆撃機の胴体と主翼、ドルニエDo-17爆撃機の胴体と主翼の残骸:撃墜した機体をスクラップとして金属回収し、資源節約を図っていた。しかし、イギリスは、アメリカの武器貸与法によって戦闘機、トラック、弾薬、火器から燃料まで潤沢に補給された。
Catalogue number: HU 104724, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: The remains Dornier 17s and a Junkers Ju 87 in a scrapyard in Britain, 2nd October 1940.. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (HU 104724)


写真(右)1942年,ソ連,ドイツ空軍ユンカースJu-87A爆撃機:機首のプロペラの点検をする第3急降下爆撃航空団のユンカース急降下爆撃。白色の冬季迷彩を施しているが,機体側面はエンジン排気煤煙で汚れている。Ju-87は、大戦後半,東部戦線では,3.7センチ機関砲を両翼に吊り下げて,対戦車戦闘に投入されたり,夜間襲撃機として爆撃に使用されたりした。
Sowjetunion.- Sturzkampfflugzeug Junkers Ju 87 "Stuka" der III./ Sturzkampf-geschwader 1 (St.G.1; Kennung J9+ und Wappen der Trägergruppe 186) auf Feldflugplatz. Mechaniker bei Arbeiten am Propeller; KBK Lw 4 Dating: 1942 Anfang Photographer: Reiners 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-393-1409-18引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年10月,スターリングラード上空を飛ぶドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-87B急降下爆撃機スツーカ:第4航空軍司令官ファン・リヒトフォーヘン大将の隷下の第8航空航空軍団マルチン・フィービフ中将の下には,第2急降下爆撃航空団があり,スターリングラード近くのカルポフカに基地を持っていた。
ハンス・ウルヒリ・ルーデル中尉は,そこの第1飛行中隊長だった。彼は,東部戦線で2500回以上出撃,後にドイツ空軍最高の鉄十字章を授与された。
An der Sowjetfront: Stuka über Stalingrad.- Die Maschine des Kommandeurs, der seine Gruppe führt. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Opitz (Sch) 5703-42 "Fr.Fr.OKW" Oktober 1942 [Herausgabedatum] Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Luftangriff mit Flugzeug Junkers Ju 87 "Stuka" Dating: Oktober 1942 Photographer: Opitz撮影。 Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-J20510引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年,イタリア戦線でDFS 230 グライタダーを曳航するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-87B急降下爆撃機:旧式化した機体でも、後方の輸送任務に投入された。DFS 230は操縦者: 2人、輸送人員: 10人。全長: 11.3m、全高: 2.8m、全幅: 21.1m、翼面積: 38.1m2。最大離陸重量: 2100kg (4630lb)。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1407-31A Archive title: Italien, Sizilien.- Lastensegler DFS 230 im Schlepp einer Junkers Ju 87 "Stuka" auf Feldflugplatz; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Macioszek Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右):1942年10月2日,上空から見たドイツ空軍機に空襲されたスターリングラード市街:ボルガ川河畔にある都市で,1942年11月19日,ソ連軍の反撃が開始された。第六軍は,脱出の機会はあったが,燃料不足の上に負傷者1万5000人を運搬することは困難だった。また,ボルガ川西岸のソ連軍の攻撃によって,脱出中の敗残兵と化した第六軍が壊滅する危険もあった。そこで,パウルス司令官は,このスターリングラードに立て篭もり,空中補給を受けることを決意した。
Raum von Stalingrad - 2.10.1942 Serie: Wir stürzen auf Stalingrad. Wir beobachten im Abfliegen die Wirkung unserer Bomben "Frei" O.K.W. Freigegeben Bildpresse: 19.10.1942 5853/42 ADN-Bildarchiv II. Weltkrieg 1939-45 An der Front in der Sowjetunion; Oktober 1942 Angriff von Sturzkampfflugzeugen "Ju 87" der deutschen Luftwaffe am 2.10.auf Stalingrad - im Abflug wird die Wirkung der Bomben beobachtet Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad Dating: 2. Oktober 1942 Photographer: Klose撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-1992-0903-504引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年初頭,ソ連,ドイツ空軍第2急降下爆撃航空団(StG2"インメルマン")所属のユンカース(Junkers)Ju-87爆撃機D型(機体番号T6 +):雪の多い場所で機首のメンテナンス。白色の冬季迷彩を施しているが,機体側面はエンジン排気煤煙で汚れている。Ju-87は,両翼に各々50キロ爆弾2発,胴体に250-500キロ爆弾1発を搭載した。1943年後期から,東部戦線では,3.7cmFlak 18高射機関砲を両翼に吊り下げて,対戦車戦闘に投入されたり,夜間襲撃機としても使用された。
Sowjetunion.- Flugzeug Junkers Ju 87 des Sturzkampfgeschwader 2 "Immelmann" (T6+), Wartung auf verschneitem Platz; KBK Lw 4 Dating: 1942 Anfang Photographer: Schalber Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年,ソ連中部,飛行場で破損したユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機(機体番号"T6 +?C"):機体には多くの銃弾の穴があいている。「スツーカ」と呼ばれた急降下爆撃機は,戦車と組み合わせて,電撃戦に投入された。独ソ開戦緒戦でも,ドイツ空軍は,地奇襲攻撃によって,ソ連空軍に大打撃を与えた。
Sowjetunion-Mitte.- Feldflugplatz, beschädigtes Flugzeug Junkers Ju 87 des Sturzkampfgeschwader 2 (II./Stg 2; Kennung "T6+?C") mit zahlreichen Einschusslöchern (?); KBK Lw 8 Datierung: 1942 Fotograf: Niermann Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_101I-453-1047-24引用(他引用不許可)。


写真(右)1944年3月,バルト諸国エストニアのドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-87G急降下爆撃機:ユンカースJu-87にコンテナ式のAB 250クラスター爆弾を搭載中。AB 250には、対人馬攻撃用あるいは地上に駐機している飛行機攻撃用の爆弾であり、コンテナの内部には多数の小型爆弾が入っている。ドイツ空軍の爆弾は、徹甲弾はPCあるいはSD、通常弾はSC、クラスター爆弾はABの符号をつけ、その後に重量(kg)を表す50、250、500、1000などの数字をつけた。
AB 250には、SD1(重量1kg)224発あるいはSD2(重量2kg)108発が収容されている。コンテナは投下されしばらくすると空中で開放され、小型爆弾のSD2を散布する。
2008年12月、オスロにて署名されたクラスター爆弾禁止条約は、2010年2月に30カ国が批准したことで、2010年8月1日に発効した。「クラスター爆弾」とは、複数の子弾を内蔵し、当該複数の子弾を散布するように設計された砲弾、ロケット弾、爆弾その他の弾薬であって、クラスター爆弾禁止条約は、このクラスター爆弾の製造・保有・使用などを全面禁止にする条約であり、西ヨーロッパ諸国、日本、カナダ、オーストラリア、サブサハラのアフリカ諸国、中米諸国が加盟しているが、アメリカ、ロシア、中国は加盟していない。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-726-0224-26A Archive title: Estland, Dorpat (?).- Schlachtgeschwader 3. Flugzeugwarte bei Arbeit an einem Flugzeug Junkers Ju 87; KBZ Lw Dating: März 1944 Photographer: Doege Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-726-0224-26A引用(他引用不許可)。


写真(右)1942-1944年夏,ドイツ空軍ユンカースJu-87G対戦車攻撃機「大砲鳥」(Kanonenvogel):Ju 87 G-1の両翼に3.7センチ機関砲を各1門を懸架した。3,7 cm Flak 18高射機関砲1門当たり12発(装弾クリップ1基当たりタングステン徹甲弾6発で左右2基装備)、合計24発搭載。
全幅:15m、全長:11.5m、全高:3.84m、翼面積:33.6平方メートル。全装備重量:6,585kg。最高速度:375km/h、実用上昇限度:7,500m、上昇時間:5,000mまで19.8分、航続距離:1,530km。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-728-0323-24A Archive title: [Ohne Ortsangabe] Auf einem Feldflugplatz.- Mechaniker bei Wartung / Reparatur einer Junkers Ju 87 G "Stuka" mit 3,7-cm Flak ("Kanonenvogel"); KBK Lw24 Dating: 1942/1944 ca. Photographer: Doege Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年夏,ソ連、ドイツ空軍ユンカースJu-87G対戦車攻撃機「大砲鳥」(Kanonenvogel):1943年登場のJu 87 G-1には、両翼に3.7センチ機関砲(Panzer-abwehrkanonen)を各1門を懸架した。これは3.7cmFlak 18高射機関砲をガンポッド仕様にして1門当たり12発(装弾クリップ1基当たりタングステン徹甲弾6発で左右2基装備)、合計24発を搭載していた。搭載した機関砲の重量過多と空気抵抗の大きさから、速度は遅く、操縦性も大いに低下したため、東部戦線でのみ使用された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-655-5976-04 Archive title: Sowjetunion.- Sturzkampfbomber Junkers Ju 87 ("Stuka") mit 3,7 cm Panzerabwehrkanonen unter den Flügeln. Anlassen des Motors des Flugzeugs von Hans-Ulrich Rudel ("Kanonenvogel") mit einer Handkurbel; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1943 Sommer Photographer: Grosse Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機をみる。


5.ドイツ空軍最多生産のメッサーシュミットBf-109戦闘機

写真(右)1939年9月,ポーランド,東部戦線に配備された二枚プロペラのメッサーシュミットBf-109B戦闘機:搭載予定のダイムラー・ベンツDaimler-Benz DB601Aエンジンが完成せず,ユンカースJumo211エンジンを搭載。
Messerschmitt Me 109 Bは,1937年のスペイン内乱において,ドイツのコンドル軍団に配備,派遣された。二機編隊ロッテを2組合わせた四機編隊シュワルムによる集団一撃離脱戦術を生み出した。兵装は7.92ミリMG17機銃4丁と貧弱に見えるが、これは当時の標準(2丁)以上の装備である。第二次欧州世界大戦にBf109DあるいはE型に改良された。航続距離が短いことや主脚幅が狭くエンジンが強力なために,未舗装滑走路における地上安定性は良くなかった。
Im Osten, Polen.- Flugzeuge Messerschmitt Me 109 B auf Feldflugplatz; KBK Lw4 Dating: September 1939 Photographer: Rübelt撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ陸軍参謀本部が立案したフランス侵攻作戦「ゲルブ」(黄)計画は,第一次大戦のシュリーフェン計画と同様であった。

しかし,1940年1月10日,ドイツ空軍第二航空軍所属の連絡機Me-108タイフーンが,悪天候によって,ベルギーに不時着する事故が発生した。この連絡機には,ドイツ軍参謀が搭乗しており,その携帯していた参謀本部のゲルブ計画書(フランス侵攻作戦計画)が,ベルギー軍にわたってしまった。本来,このような機密書類を携帯して空路を飛ぶことは禁止されていたが,連戦連勝の中,機密保持についておろそかになっていた。

ベルギー軍が入手したドイツ軍のフランス侵攻作戦計画は,当然,英仏軍に手渡されたことは疑うべくもなかった。飛行機事故で,ドイツのフランス侵攻ゲルフ計画が連合軍に明らかになってしまったために,ドイツ軍は,侵攻変更を余儀なくされた。

写真(右)1940年8-9月,フランス駐留の第51戦闘航空団(JG51)所属のメッサーシュミットMe109E戦闘機: 機首に7.92ミリMG17機銃 2丁,主翼に20ミリMGFF(エリコン)機銃2丁装備で,ダイムラー・ベンツDB601Aエンジン(1100馬力),最大速度570キロ, 航続距離 660キロ。1935年から1945年まで,総生産数3万3000機で,世界最多の戦闘機となった。
Frankreich.- Vier Jagdflugzeuge Messerschmitt Me 109 E des Jagdgeschwaders 51 "Mölders" (IV./JG 51) auf Feldflugplatz; PK 670 Dating: 1940 August - September Photographer: Eckert, Erhardt 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年7月24日、イギリス、ケント郊外に撃墜された第26戦闘航空団第3戦隊所属技術将校バルテルス(Bartels)中尉のメッサ―シュミットMesserschmitt Bf 109 E-1戦闘機:マーゲートとブロードステアーズを結ぶ鉄道脇に不時着したが、操縦技術が高かったためか、比較的原型を保っている。
Catalogue number: HU 73928, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Army officers inspect the wreckage of Messerschmitt Bf 109E-1 (W.Nr. 3367) "Red 14" of 2./JG52, which crash-landed in a wheatfield at Mays Farm, Selmeston, near Lewes in Sussex, 12 August 1940. Its pilot, Unteroffizier Leo Zaunbrecher, was captured.. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 73928)


Bf 109 Eは、愛称「エーミール」(Emil)で、ダイムラーベンツDaimler-Benz DB601A液冷エンジン1175馬力を搭載、バトルオブブリテン当時の主力戦闘機だった。E-1は、機首上面に2丁、左右主翼に各々1丁の7.92ミリMG17機銃を装備したが、プロペラ軸を通して20ミリMGFF機関砲が発射可能な構造だったが、機銃整備・調整が間に合わずに、機首プロペラ軸の機関銃(モーターカノン)は未搭載だった。

写真(右)1940年8月12日、イギリス、ヘースチング郊外に撃墜された第52戦闘航空団第2戦隊所属ゾンブレッカー(Zaunbrecher)上等兵曹(Unteroffizier )のメッサ―シュミットMesserschmitt Bf 109 E-1戦闘機:マーゲートとブロードステアーズを結ぶ鉄道脇の湿地に不時着したため、比較的原型を保っている。Bf 109 E-1戦闘機の機首上面に2丁の7.92ミリMG17機銃が搭載されていて、プロペラ・スピナーには、20ミリ機銃発射口が儲けられている。しかし、機首プロペラ軸の機関銃(モーターカノン)は、振動が大きく実用に適さないと判断されE型での搭載は見送られることになる。
A soldier examines the cockpit of Messerschmitt Bf 109E-1 (W. Nr. 6296F) of Stab III/JG 26, flown by Oblt. Bartels (Geschwader technical officer), which crash-landed in a wheatfield at Northdown beside the Margate to Broadstairs railway line in Kent, 24 July 1940. Catalogue number HU 104713  Part ofMINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用IWM (HU 104713)


E-2型は、モーターカノンとしてスイスのエリコン社の開発した20ミリMGFF機関砲を搭載した。しかし、20ミリ機関砲の発射時の振動が大きく、機種上面の7.92ミリMG17機銃と共振し大きな振動を起こしてしまう。

そこで、E-3型とE-4型では機首プロペラ軸の機関銃(モーターカノン)を撤去して、主翼内に20ミリMGFF機関砲を搭載した。E-5型とE-6型はE-4を改造し、小型カメラを搭載した偵察機である。

 また、爆撃機に随伴、護衛するには、航続距離の延長が不可欠だったため、E-7型では、胴体下面に金属製300L入り落下増槽を懸架可能にした。部隊配備は、1940年夏だった。

写真(右)1940年8月12日、イギリス、サセックスに撃墜された第52戦闘航空団第2戦隊所属レオ・ゾンブレッカー(Zaunbrecher)上等兵曹(Unteroffizier )のメッサ―シュミットMesserschmitt Bf 109 E-1戦闘機(機体番号は赤の14):サセックスのメイズ・ファームに不時着したレオ・ゾンブレッカー(Zaunbrecher)上等兵曹は捕虜となった。
Catalogue number: HU 73928, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, Production date: 1940-08, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Army officers inspect the wreckage of Messerschmitt Bf 109E-1 (W.Nr. 3367) "Red 14" of 2./JG52, which crash-landed in a wheatfield at Mays Farm, Selmeston, near Lewes in Sussex, 12 August 1940. Its pilot, Unteroffizier Leo Zaunbrecher, was captured. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 73928)


写真(右)1940年10月、撃墜された第3戦闘航空団「ウーデット」所属フランツ・フォン・ヴェラ( Franz von Werra)大尉のメッサ―シュミットMesserschmitt Bf 109 E-4 (W.Nr 1480)戦闘機の垂直尾翼に記入されたキルマーク(撃墜8機、撃破5機):検査しているのは、イギリス搭乗員(機銃員)の曹長。1940年9月5日、イギリス上空で銃撃されたフランツ・フォン・ヴェラ中尉のBf109Eは、ケント近郊に不時着し、彼は捕虜になった。機体は鹵獲されイギリス空軍は、機体を格納庫に運び込み、調査した。フランツ・フォン・ヴェラFranz von Werra)は、イギリスの捕虜収容所から逃れることができたが、再び捕縛されている。1941年1月、フランツ・フォン・ヴェラFranz von Werra)フォン・ヴェラはイギリス同盟国カナダの捕虜収容所に移される途上、列車から脱出し、当時はまだ中立国だったアメリカに逃れた。そこから、ドイツ外交官の助けを経てたが、メキシコ、ブラジルを経て、スペインに渡り、1941年4月にはドイツに帰還した。この大脱走は、ドイツ本国で大いに喧伝されたがフランツ・フォン・ヴェラFranz von Werra)は1941年10月25日、出撃し北海上空で行方不明になった。
Catalogue number: HU 106341, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, Production date: 1940-10 , Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: A sergeant air gunner inspects the 'kills' painted on the tail fin of shot-down Messerschmitt Bf 109 E-4 (W.Nr 1480) in an RAF hangar. This was the aircraft piloted by Oberleutnant Franz von Werra, the adjutant of II/JG3 "Udet", which crash-landed on 5 September 1940 at Winchet Hill, near Marden in Kent. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 106341)


写真(右)1940年8-9月,第51戦闘航空団(JG51)所属のメッサーシュミットMe109E戦闘機ダイムラー・ベンツDB601Aエンジン(1100馬力),最大速度570キロ, 航続距離 660キロ。機首に7.92ミリMG17機銃 2丁,主翼に20ミリMGFFエリコン機銃2丁装備で,1935年から1945年まで,総生産数3万3000機で,世界最多の戦闘機となった。
Frankreich.- Vier Jagdflugzeuge Messerschmitt Me 109 E des Jagdgeschwaders 51 "Mölders" (IV./JG 51) auf Feldflugplatz; PK 670 Dating: 1940 August - September Photographer: Eckert, Erhardt 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ軍の主力は,ファン・ルントシュテット総司令官が率いるA軍集団で,フォン・クライスト将軍が率いる装甲集団が,ルクセンブルク,セダンを突破して,マール川を超え,ソンム川北岸をダンケルクに向かって突進した。ベルギーにあった連合軍は,退路を遮断されるのを恐れて退却を開始したが,A軍集団の装甲軍集団は,「電撃戦」というに相応しい機動力を発揮して,連合軍がフランス本土,パリへ退却するのを阻止してしまった。そこで,連合軍は,英仏海峡に面したダンケルクへと追い詰められた。

Me109E戦闘機諸元
兵装:機首7.92ミリMG17機銃 2丁,主翼20ミリMGFF(エリコン)機銃2丁装備
ダイムラー・ベンツDB601Aエンジン (1100馬力),最大速度570キロ, 航続距離 660キロ
生産機数(1935-1945年)3万3000機

1940年5月14日、ドイツの第54,第57爆撃航空団ハインケルHe111爆撃機100機は,停戦交渉中だったにもかかわらず,ロッテルダムを爆撃した。当日,出撃した第54爆撃航空団のハインメル爆撃機に「交渉中のために爆撃延期」が打電されたが,ヘーネ中佐の部隊は,爆撃を中止できた編隊もあったが,ラックナー大佐の部隊は無電を傍受できず,爆撃を行った。

こうして,爆撃機57機がロッテルダム中心街のマース川北岸にあったオランダ群防衛陣地を50キロ爆弾1150発,250キロ爆弾158発,合計97トンによって空襲した。

1940年5月14日2030,オランダ軍総司令官ウィンケルマン将軍は,ラジオ放送を通じて,オランダ軍に全面降伏を命じた。ドイツ軍は,空挺作戦などによって,投入したJu-52輸送機430機の三分の二が破壊損傷した。

写真(右)1940-1943年,ドイツ空軍メッサーシュミットBf-109F戦闘機と撃墜王ゲルハルト・バルクホルン(中央):飛行場にある撃墜王ゲルハルト・バルクホルンの搭乗機Messerschmitt Me 109 Fには,飛行戦隊長のマーク(二重楔形)があり,三角形の航空燃料オクタン価指示マークに87(オクタン)とある。
左端の整備兵が左手をかけているのは,フタ付の手掛けで操縦席に上るときに使う。尾翼付け根には。尾翼を持ち上げる棒を差し込む穴が確認できる。
Reichsgebiet.- Der Pilot Gerhard Barkhorn (Mitte) mit Angehörigen der Luftwaffe auf einem Feldflugplatz; Einsatzkompanie Luftwaffe zbV Dating: 1940/1943 ca. Photographer: Heinz [Heins] Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1941年8月,ソ連レニングラード近くで整備を受けるメッサーシュミットMe-109F戦闘機:ドイツ空軍主力戦闘機で,エンジンのプロペラ軸を通して20ミリ機銃を装備していた。その銃身を清掃している。
Sowjetunion, bei Leningrad.- Wartung eines Jagdflugzeugs Messerschmitt Me 109 F des Jagdgeschwader 54 "Grünherz" (II./JG 54), Oberleutnant mit Messgerät an Bordkanone; PK KBK Lw 4 Dating: August 1941 Photographer: Reiner撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月21日,バルバロッサ作戦開始の前日のドイツ軍東部戦線配備兵力

兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機.

写真(右)1941年8月,ソビエト連邦,レニングラードの第54戦闘航空団(JG54)「緑のハート」(グリュン・ヘルツ)第2飛行隊所属のメッサーシュミットMe109F戦闘機:?/JG54の機体で,機首に装備した13.1ミリ機銃の弾薬を整備している。
Me109Fは,機首に15ミリまたは20ミリMG151/20機銃1門,13.1ミリMG131機銃 2丁,主翼に機銃は装備しなかった。ダイムラー・ベンツDB601エンジン (1200馬力),最大速度630キロ, 航続距離 580キロ。
Sowjetunion, bei Leningrad.- Wartung eines Jagdflugzeugs Messerschmitt Me 109 G des Jagdgeschwader 54 "Grünherz" (II./JG 54), Mechaniker mit Patronengurt; PK KBK Lw 4 Datierung: August 1941 Fotograf: Reiners Quelle: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-390-1220-21引用(他引用不許可)。


対峙するソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。

ソ連軍は,北方には30個師団,8個機甲旅団,中部に45個師団,14個機甲旅団,南部に64個師団,14個機甲旅団を配備

ソ連空軍は白ロシア(ベラルーシ)に6000機を配置。

写真(右)1942-1943年,イタリア戦線と思われるメッサーシュミットMe-109G-3戦闘機:Bf 109 Fが搭載したダイムラーベンツDaimler-Benz DB601A液冷エンジンの強化型のDB 605エンジンを搭載。機体エンジンのプロペラ軸を通して射撃するモーターカノン20ミリMG151/20機銃も、機首上面の機銃を7.92ミリMG17機銃2丁もF型と同じ。G-6になると、機首上面の機銃は13.1ミリMG131に強化され、バルジ(突出部)が付くようになる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-649-5382-31A Archive title: Italien(?).- Feldflugplatz mit Flugzeug Messerschmitt Messerschmitt Me 109 G-3; Soldaten, sitzend; Eins Kp Lw zbV Dating: 1942/1943 ca. Photographer: Lechleitner Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1942-1943年,メッサーシュミットMe109G戦闘機:機首プロペラシャフトに20ミリMG151/20機銃1丁、機首上面に13.1ミリMG131機銃2丁を装備。Me109Fは,機首上面に7.92ミリMG17機銃2丁だったが、機首上面に搭載した固定機銃が大型になったことでG標準型の機首には突出部(バルジ)がある。ダイムラー・ベンツDB601エンジン (1475馬力),最大速度630キロ, 航続距離 580キロ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7774-27 Archive title: Jagdflugzeug Messerschmitt Me 109 G mit Gallandhaube beim Start; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Grosse Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍は,東部戦線に四個航空軍を配備,第一線機1280機を揃えた。内訳は,ハインケルHe-111,ユンカースJu-88など双発爆撃機510機,ユンカースJu87など急降下爆撃機290機,メッサーシュミットMe109単発戦闘機440機,Me110双発駆逐機40機,長距離偵察機120機である。
ソ連空軍は,その2倍の飛行機を保有していると予測された。

写真(右)1943-1944年,メッサーシュミットMe-109G戦闘機パイロット:ドイツ本土防空戦の主力戦闘機で,コックピットは視界を改良したガーラント風防。エンジン上部に13,1ミリMG131機銃を装備しているため、その機銃弾装填を確保するためにバルジ(突出部)が二つ出ている。操縦席の前方には厚い防弾ガラスが装備されている。
望遠レンズを使っているので,距離感が詰まって見える。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7774-25 Archive title: Jagdflugzeug Messerschmitt Me 109 G mit Gallandhaube beim Start; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Grosse Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


バルバロッサ作戦では,今までの空軍,陸軍の関係が逆転している。1940年5月のベルギー・フランス侵攻では,グライダー空挺部隊によるエバン・エマール要塞を奇襲攻略するために,空軍が陸軍よりも先に出撃する必要があった。攻撃開始時間は,陽光が不可欠だった。

他方,ソ連侵攻バルバロッサ作戦の攻撃時間は,6月22日0315で,ドイツ陸軍は早暁に行動を起こして奇襲効果を高めた。

写真(右)1943-1944年,分厚い防弾ガラスと後方の装甲板に守られたメッサーシュミットMe-109G戦闘機パイロット:ドイツ本土防空戦の主力戦闘機で,整備兵がパイロットのベルトをはずして,パイロットがコックピットから出るのを助けている。
望遠レンズを使っているので,翼先端にあるピトー管(速度を計測する)までの距離が詰まって見える。
Pilot nach Einsatz beim Aussteigen aus Jagdflugzeug Messerschmitt Me 109; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Grosse Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-674-7775-31引用(他引用不許可)。


写真(右)1944 年1月25日、イタリア中部、アンツィオ橋頭堡で撃墜、不時着したメッサ―シュミットBf-109G戦闘機:機首が失われているが、F型では尾輪が引き込み式だったが、G型では固定式に戻された。風防前縁の枠形状から見てもG型と思われる。イギリス第2軍の映像写真部隊が撮影。垂直尾翼付根胴体には白帯の識別マークが付けられている。1941年暮れに、ソ連軍相手の東部戦線から、イギリス軍・アメリカ軍を相手とする地中海戦域に移動した第2航空艦隊の第53戦闘航空団所属機のようだ。
Catalogue number: NA 11413, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names: object category: Photography
Creator: No. 2 Army Film & Photographic Unit Menzies (Sgt),
Object description: A German Messerschmitt Bf 109 fighter shot down in the Anzio bridgehead, 25 January 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (NA 11413)


写真(右)1945年初期、ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州デトモルト、破壊されたメッサ―シュミットBf-109G戦闘機の主翼からアルミ部品を回収するイギリス軍兵士:子供のためにクリスマスお祝い用の小物を作ろうと材料を集めている。引き込み式主輪の収納部の切欠き先端が直線的になっている。主翼内に機銃は装備していないので、主翼桁は簡素な造りになっている。 
Catalogue number: CL 3544, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: All Periods, Alternative Names: object category: Photography
Creator: Royal Air Force official photographer Metcalf (Sergeant) Linder (Sergeant),
Object description: A former member of the Luftwaffe strips aluminium sheeting from the wing of a Messerschmitt Me 109. The metal will be used to make candlesticks and christmas toys for the children of British airmen stationed at Detmold in Germany.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (CL 3544)


写真(右)1945 年4月8日、ドイツ西部、ヴンストルフ(Wunstorf)飛行場の格納庫で第6空挺師団第5パラシュート降下連隊に鹵獲されたメッサ―シュミットBf-109G戦闘機とユンカースJu-88G夜間戦闘機:格納庫は迷彩塗装をして偽装を施しており、内部にはユンカースJu-88G夜間戦闘機が3機以上の格納されているが、全て鹵獲されてしまった。
Catalogue number: BU 3260, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names: object category: Photography Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Laws (Sgt), Object description: Me 109 and Ju 88G aircraft in a hangar at Wunstorf airfield, captured by the 5th Parachute Brigade, 6th Airborne Division, 8 April 1945. Label: An abandoned Messerschmitt Bf 109G and a pair of Ju 88G night-fighters in a hangar at Wunstorf airfield in Germany, captured by 6th Airborne Division, 8 April 1945. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 3260)


写真(右)1945 年4月8日、ドイツ西部、ヴンストルフ(Wunstorf)飛行場の格納庫で第6空挺師団第5パラシュート降下連隊に鹵獲されたメッサ―シュミットBf-109G戦闘機:格納庫は迷彩塗装のままの機体が並んでいる。一番手前の機体は、窓枠の少ないガーラント風防だが、奥の機体は通常の角型の風防である。左奥には、ダイムラーベンツDB605エンジンが並んでいる。
Catalogue number: BU 3265, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names: object category: Photography Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Laws (Sgt), Object description: A British soldier examines a row of partially complete Messerschmitt Me 109G fuselages in a hangar at Wunstorf airfield, captured by the 5th Parachute Brigade, 6th Airborne Division, 8 April 1945. The aircraft have been disassembled and their paintwork stripped as part of a refurbishment that was never completed.
Creator Laws (Sgt) No. 5 Army Film & Photographic UnitCatalogue numberBU 3265Part ofWAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 3265)




⇒写真集Album: メッサーシュミット(Messerschmitt)Bf-109戦闘機を詳しく見る。



6.迎撃・地上攻撃に投入されたフォッケウルフFw-190戦闘機

写真(右)1941-1942年,西部戦線で整備中のフォッケウルフFw-190A-2戦闘機:1941年10月から1942年8月まで900機生産されたA-2あるいはA-3型と思われる。
エンジンナセル(カバー)と胴体側面に接して,排気管が片側7本,シリンダー(気筒)の数だけ並んでいる。推力式単排気管からの排気を推力にすることができたために,速度が10キロ程度上昇した。胴体も細く絞っていて,精悍である。
Im Westen, Reichsgebiet.- Wartung/Kontrolle? eines Flugzeugs Focke-Wulf Fw 190 Datierung: 1941/1942 Fotograf: Boback Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ最優秀のDB601液冷エンジンは,Bf-109戦闘機,Bf-110戦闘機(駆逐機)に優先配備されていた。そこで、このDB601液冷エンジンを装備できなかった弱小メーカーのフォッケウルフ社は,爆撃機用だった空冷BMW801空冷星型エンジンを搭載した戦闘機を開発せざるを得なかった。

こうして開発されたのがフォッケウルフFw-190戦闘機で,対戦闘機,対爆撃機の戦闘を念頭に、小型で速力が速く、操縦も容易な方針で設計された。

緒戦では、イギリス空軍のスーパーマリン・スピットファイア戦闘機に対して,有利に戦いを進めることができた。頑丈で,装甲板も施された機体は,爆弾搭載能力,被弾・防弾能力も高く,戦闘爆撃機としても活躍した。

フォッケウルフFw-190A諸元
全長: 9.0メート,全幅 10.5メートル
全備重量 4.8トン
最高時速 653キロ
航続距離 880キロ(300リットル落下タンク装備時には1500キロ)
武装 7.92ミリMG15機銃2丁,20ミリMG151/20機関砲2挺,20ミリMG FF/M 機関砲2門
エンジン BMW801:1800馬力
クルト・タンク設計,第二次大戦直前の1939年6月初飛行。

写真(右)1942年,西部戦線で連合軍機を迎撃したドイツ空軍フォッケウルフFw-190A戦闘機:空冷BMW801エンジン(1700馬力)を搭載した頑丈な戦闘機で、重爆撃機迎撃、対地上攻撃に従事した。主翼の付け根に20ミリMG151/20機銃、主翼中間に20ミリMG-FF機銃各2丁(合計4丁)、機首上部に7.92ミリ機銃2丁を装備。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-361-2193-25 Archive title: Im Westen.- Jagdflugzeug Focke-Wulf Fw 190 A mit laufendem Motor auf einem Flugplatz [Katwyk oder Schippol (Amsterdam)]; PK KBK Lw 3 Dating: 1942 Photographer: Doelfs Origin: Bundesarchiv
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写真(右)1942-1943年,フランス,西部戦線で連合軍機を迎撃したドイツ空軍フォッケウルフFw-190A戦闘機:巨大な空冷エンジンの機首から,尾翼にかけて,細く絞り込んだ胴体が印象的。主翼の付け根にある長方形状上の膨らみは,元来7.92ミリMG17機銃を装備していたのを,20ミリMG151/20機銃に大型化したためにできた。迷彩カモフラージュ塗装は,折れ線の二色。
Frankreich.- Jagdflugzeuge Focke-Wulf Fw 190 auf Flugplatz; PK KBK Lw zbV Datierung: 1942/1943 Fotograf: Kestner Quelle: Bundesarchiv
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写真(右)1942 年6月、イギリス西南部、イギリス空軍基地ペンブリー(Pembrey)をドイツ軍基地と誤認して着陸した第2戦闘航空団所属のフォッケウルフ190A-3戦闘機:第2戦闘航空団/第III飛行隊の飛行副隊長アルミン・ファーベル(Armin Faber)中尉は、熟練したパイロットだったが、戦闘後の混乱か安堵感か、誤って操縦していたFw-190を、イギリス・ウェールズのペンブリー(Pembrey)に着陸し、無傷で貴重な機体を鹵獲されてしまった。
Catalogue number: MH 4190, Part of ROYAL AERONAUTICAL SOCIETY, Subject periodSecond World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Focke-Wulf Fw 190A-3 of 11/JG 2 after landing in the UK by mistake in June 1942. Introduced in 1941 to supplement the ME 109, the FW 190 was probably Germany's best piston-engined fighter. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (MH 4190)


写真(右)1942 年6月23日、イギリス西南部、イギリス空軍基地Pembreyに誤着陸した第2戦闘航空団所属のフォッケウルフ190A-3戦闘機:戦闘機パイロットの第2戦闘航空団/第III飛行隊の飛行副隊長アルミン・ファーベル(Armin Faber)中尉は、熟練したパイロットだったが、戦闘後の混乱か安堵感か、イギリスのウェールズ、ペンブリー(Pembrey基地 に誤着陸し、無傷で貴重な機体を鹵獲されてしまった。
Catalogue number: MH 4191, Part of ROYAL AERONAUTICAL SOCIETY, Subject periodSecond World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Focke Wulf Fw 190A-3, Werk Nr. 313, at RAF Pembrey, Carmarthenshire, after being mistakenly landed there by its German pilot, Oberleutnant Armin Faber, the Gruppenadjutant of III/JG2, on 23 June 1942. This was the first Fw 190 to fall intact into Allied hands, and was immediately sent to the Royal Aircraft Establishment, Farnborough, where initial flight trials were conducted, and where it was also repainted in British markings and given the RAF serial number MP499. In July, MP499 was flown to the Air Fighting Development Unit at Duxford, Cambridgeshire, where its performance was extensively tested in comparative trials with Allied aircraft. The aircraft was then passed to No. 1426 (Enemy Aircraft Circus) Flight, who continued flying it from Duxford and Collyweston, Northamptonshire, before it was finally struck off charge on 18 September 1943.. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (MH 4191)


写真(右)1942年,オランダ西部、アムステルダム近くのカトウェイク、スキポール飛行場、西部戦線のドイツ空軍第1戦闘航空団第5飛行隊所属のフォッケウルフFw-190 A-3フォッケウルフFw-190戦闘機用の空冷BMW801エンジン(1700馬力):A-3型では主翼内側には20ミリMG151/20機関銃、主翼外側には20ミリMGFF機関銃を、機首上面に7.92ミリMG17機関銃2丁を装備している。
エンジンカウルリングにはBMW801エンジンと一体化したエンジンオイル冷却器を内蔵している。搭載したエンジンの各種部品・補器をモジュラー方式に内蔵させることで、他の機種にも同じエンジンを搭載し互換性を拡大することが可能になった。標準化された構成部品とすることで、航空機相互の互換性がよく、設計や製造の煩雑さを解消することに貢献している。他方、日本軍は、陸海軍との間で同種のエンジンの互換性がないだけでなく、同一機種でも工場ごとに仕様が異なるなど、標準化を怠ったために互換性が著しく低かった。これが、機材の稼働率を低下させる要因になった。
Description Information added by Wikimedia users. Eine Focke-Wulf Fw 190. Möglicherweise ist dies eine Fw 190A-3 der 5./JG 1 in Katwijk (Niederlande) im Sommer 1942. (Siehe: Ketley/Rolfe: Luftwaffen-Embleme 1939-1945. Bonn 2001 ISBN 3763759867, Fotos S. 8) Date 1942 Photographer Doelfs Institution German Federal Archives
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1944年夏,ロシア戦線のフォッケウルフFw-190戦闘機:コックピットに収まったパイロットと握手しているのも、同じ戦闘機パイロットのようだ。左腰に拳銃のホルダーを装着しているが、これは無事着した時の防御用の備えである。Fw-190には、機体、特に胴体・エンジン下面に装甲を施した地上攻撃用のF型、増加燃料タンクを両翼下面に懸架できる長距離戦闘爆撃型のG型がある。
エンジンナセルの内側に出力式の単排気管が並んでいて胴体が細く絞られていることが確認できる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-727-0285-20 Archive title: Rußland.- Flugzeug Fw 190, Pilot vor/nach dem Start; KBZ Lw 24 Dating: 1944 Sommer Photographer: Doege Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・"Bild 101I-727-0285-20"引用(他引用不許可)。


フォッケウルフFw-190A:戦闘機の最大の特徴は,エンジン調整に自動制御システムのコマンド・ゲレート(kommandogerät)を装備した点である。これは,プロペラ可変ピッチ、2段スーパーチャージャー,シリンダーに注入する混合気濃度をスロットル操作だけで自動制御するシステムだった。操作が簡便なために,操縦者が熟練していなくとも,運動性能を発揮できた。

写真(右)1943年頃、フォッケウルフFw-190G長距離戦闘爆撃機:1200ポンド(500キロ)爆弾を胴体下ETC501ラックに懸架し、両主翼の下面に300リットル入り増加タンクを装備した長距離戦闘爆撃型。主翼付け根の20ミリMG151/20機関砲2門、機首上面の13.1ミリMG131機関銃2丁を装備しており、地上銃撃もできた。戦闘爆撃機は主に東部戦線でソ連赤軍相手の地上支援戦闘に投入された。双発爆撃機よりも爆弾搭載量は劣ったが、高速を活かすことができた。
Catalogue number: CH 16121, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Creator: Royal Air Force official photographer. Object description: Focke-Wulf Fw 190G fighter-bomber. Unlike the Me 109, the Fw 190 was used extensively as a fast bomber and ground attack aircraft, especially on the Eastern Front. This aircraft carries a 1200-lb bomb and long-range underwing fuel tanks. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (CH 16121)引用。


写真(右)1942-1943年,フランス,西部戦線で連合軍機を迎撃したドイツ空軍フォッケウルフFw-190A戦闘機:巨大な空冷エンジンの機首から,尾翼にかけて,細く絞り込んだ胴体が印象的。主翼の付け根にある長方形状上の膨らみは,元来7.92ミリMG17機銃を装備していたのを,サイズの大きい20ミリMG151/20機銃に強化したためにできた。迷彩カモフラージュ塗装は,折れ線の二色。
Frankreich.- Jagdflugzeuge Focke-Wulf Fw 190 auf Flugplatz; PK KBK Lw zbV Datierung: 1942/1943 Fotograf: Kestner Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1944年,フランス,西部戦線、連合軍機を迎撃し地上部隊を襲撃したドイツ空軍フォッケウルフFw-190A戦闘機:機体は,敵機に発見されないように樹木で覆いカモフラージュ(偽装)した場所に隠匿されていた。
Frankreich.- Tarnung eines Flugzeugs Focke-Wulf Fw 190 am Waldrand; PK Lfl 3 Dating: 1944 Photographer: Engelmann撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_101I-493-3352-25引用(他引用不許可)。


写真(右)1944年、北フランス、ブレスト近くでイギリス空軍ホーカー・タイフーンTyphoon Mark IB戦闘機の銃撃を受けるフォッケウルフFw 190戦闘機:エラスムス曹長の搭乗機が撮影したガンカメラの画像。
Catalogue number: C 3847A, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: No. 266 Squadron RAF, Still from camera gun footage taken from Hawker Typhoon Mark IB, EJ917, of No. 266 Squadron RAF flown by Flight-Sergeant D Erasmus, showing his shooting down of a Focke Wulf Fw 190 which had just shot down 266's Commanding Officer, Squadron Leader A S MacIntyre, in a dogfight over the Brest peninsula, France. Here a major hit on the port wing starts an explosion in the fuel tanks which engulfs the whole aircraft. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 3847A)


フォッケウルフFw-190A8戦闘機は,後期のドイツ空軍の主力戦闘機で,最高速度650キロ,20ミリMG151/20機銃4丁,13.1ミリMG131機銃2丁の重武装。生産開始は1944年2月からで8000機以上作られた。連合軍爆撃機に大きな被害を与えた重装甲・重武装(20ミリ機銃4門,30ミリ機関砲2門)の「突撃戦闘機」も作られた。

連合軍の護衛戦闘機の数的・質的優勢が確実になった1944年後半,欧州・はもちろんドイツ本土上空の制空権まで連合軍に侵されるようになっていた。

写真(右)1944年、北フランス、ブレスト近くでイギリス空軍ホーカー・タイフーンTyphoon Mark IB戦闘機の銃撃を受けるフォッケウルフFw 190戦闘機:機体下には、増加燃料タンク(300L)あるいは500キロ爆弾を装着・投棄できる懸架が装備されている。エラスムス曹長の搭乗機が撮影したガンカメラの画像。
Catalogue number: C 3849, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: No. 266 Squadron RAF, Object description: Six stills from camera gun footage taken from Hawker Typhoon Mark IB, EJ917, of No. 266 Squadron RAF flown by Flight-Sergeant D Erasmus, showing his shooting down of a Focke Wulf Fw 190 which had just shot down 266's Commanding Officer, Squadron Leader A S MacIntyre, in a dogfight over the Brest peninsula, France. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 3849)


写真(右)1944 年、ベルギー、ゲント(ガン)上空でイギリス空軍スーパーマリーン・スピットファイアSpitfire戦闘機の銃撃を受けるフォッケウルフFw 190戦闘機:Fw-190戦闘機のパイロットはベールアウト(脱出)する直前の状態をガンカメラで撮影した。
Catalogue number: C 3621, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: Royal Air Force official photographer, Object description: Film still from gun camera footage, showing cannon and machine gun fire from a Supermarine Spitfire striking a Focke Wulf Fw 190, during a dogfight over Ghent, Blegium, just prior to the German pilot baling out and his aircraft diving to earth.. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 3621)


フォッケウルフFw-190A戦闘機は,ノルマンディーに上陸した連合軍地上部隊に対しては,250-500キロ爆弾を搭載して,地上襲撃としても使用された。

写真(右)1943・1944年,対四発重爆撃機迎撃に使用するロケット弾WfG. 21を装備するドイツ空軍フォッケウルフFw-190A8戦闘機:本土防空戦に投入されたWfG. 21は直径21センチの対空ロケット弾だが、信管は時限式だったために、爆撃機の編隊の真ん中で爆発させるのは困難だった。主翼の付け根と主翼中間に20ミリMG151/20機銃、機首上部に13.1ミリMG131機銃2丁も装備しているので重量過大となり、航続距離が低下した。胴体下面のETC-501-Rumpfpylon(爆弾搭載ラック)に金属製300リットル入りの増加燃料タンクを懸架した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7772-13A Archive title: Bewaffnung eines Jagdflugzeugs Focke-Wulf Fw 190 mit Werfergranaten 21 im Hangar eines Flughafens; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Grosse Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild 101I-674-7772-13A引用(他引用不許可)。


写真(右)1945年8月2日、ドイツ、フレンスブルク、西側連合軍に鹵獲されプロペラを外されたフォッケウルフ190A戦闘機:鹵獲された機体の大半は、Fw-190戦闘機だが、数機のBf-109戦闘機も映っている。これらの機体は、スクラップとして処分されるのを待っている。
Catalogue number: CL 3307, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Creator: Royal Air Force official photographer Saidman. Object description: A group of Focke Wulk Fw 190 fighters parked at Flensburg airfield awaiting disposal. Label: Focke Wulf Fw 190 fighters awaiting disposal at Flensburg airfield in Germany, 2 August 1945. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (CL 3307)引用。


⇒写真集Album: フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機を見る。



7.駆逐戦闘機・夜間戦闘機 メッサーシュミットBf-110

写真(右)1945年8月2日、ドイツ駆逐戦闘機メッサーシュミット(Messerschmitt) Bf 110C:扉が閉じられた格納庫の前で真横から撮影された記録用の写真。最高速度538 km/h、武装:4丁x 7.92mm MG 17機銃 (4000 発)、 2丁× 20mm MG FF/M 機関銃 (360 発)。後方旋回機銃1丁x 7.92mm MG 15機関銃 (750 発)、爆弾搭載量:2発x 250kg爆弾あるいは1発x 500kg爆弾
Catalogue number: MH 4193, Part of ROYAL AERONAUTICAL SOCIETY, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Messerschmitt Bf 110C.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (MH 4193)引用。


写真(右)1943年,夜間出撃する第1夜間航空団(NJG 1)所属のメッサーシュミットBf-110G双発戦闘機:機首のレーダー・アンテナを装備していないが、エンジンの排気炎が夜間に目立ってしまうために、大型の消炎排気管を装備している。また、胴体下面には20ミリ機銃を収納したガンパックを搭載し武装を大幅に強化ている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-658-6360-07 Archive title: Reichsgebiet.- Startvorbereitung eines Nachtjagdflugzeugs Messerschmitt Me 110; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1943 Photographer: Grosse, Helmut Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild 101I-658-6360-07引用(他引用不許可)。


第1夜間航空団(NJG 1)は降下する鷲のエンブレムで有名で、ドイツ空軍最初の夜間航空団(NJG)として編成された。1940年6月22日に第1駆逐航空団第I飛行隊(I./ZG 1)から第1夜間航空団第I飛行隊(I./NJG 1)、第2戦闘航空団第IV飛行隊(夜間)(IV.(N)/JG 2)から第1夜間航空団第II飛行隊(II./NJG 1)が編成され、敗戦までに夜間撃墜合計2,209機というドイツ夜間航空団中最高の撃墜数を記録。夜間戦闘航空団といっても、当初は、レーダー未装備のBf 110を装備していた。1943年以降、イギリス空軍重爆撃機による大規模夜間爆撃がはげしくなる時期にはレーダーを搭載したBf 110Gを装備。

写真(右)1944年,フランス,西部戦線で英夜間爆撃機を迎撃したドイツ空軍メッサーシュミットBf-110G双発戦闘機:機首には,夜間に敵機を発見できるようにレーダー・アンテナを装備している。
レーダー,通信装置などを増設するには,機体スペースが必要だが,Bf-110はJu-88に比べて,スペースが狭く,夜間戦闘機材や航続距離延長のための燃料タンク増設に制限があった。また,レーダーを装備したときの空気抵抗も大きくなった。そこで,1944年後半から,夜間戦闘機の主流はBf-110からJu-88Gに切り替えられた。
Frankreich.- Nachtjagdflugzeuge Messerschmitt Me 110 (Nachtjagdgeschwader 4 (NJG 4)?) mit Funkmeßgerät auf Feldflugplatz; Lfl 3 Dating: 1944 Photographer: Güntzel撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年5月,後方席からみたドイツ空軍メッサーシュミットBf-110双発戦闘機の操縦席
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L11157 Original title: info Der Flugzeugführer PK-Wundshammer-Scherl Bilderdienst 4515-40 Mai 1940 "Fr" OLF Archive title: Pilot eines Flugzeugs Messerschmitt Me 110 in Kanzel sitzend Dating: Mai 1940 Photographer: Wundshammer, Benno Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild 183-L11157引用(他引用不許可)。


Bf 110 C諸元: 
全長: 12.3 m (40 ft 6 in)、全幅: 16.3 m (53 ft 4 in)、全高: 3.3 m (10 ft 9 in)
主翼面積: 38.8平方メートル
空虚重量: 4,500 kg、全備重量: 6,700 kg
乗員: 2名
エンジン: 2 × Daimler-Benz DB 601B-1液冷V-12, 809 kW (1,085馬力)
最高速度: 560 km/h
航続距離: 2,410 km、実用上昇限度: 10,500 m 、翼面荷重: 173 kg/平方メートル
兵装:機首;2 × 20 mm MG FF/M機関砲(180発)、4 × 7.92 mm MG 17機銃 (1,000発)、後方;1 × 7.92 mm MG 15旋回機銃。爆弾:2 x 250 kg

写真(右)1943年,ロシア戦線、ドイツ空軍メッサーシュミットBf-110の後方席:操縦者と後方の偵察・航法員との間には広い空間があったために、後期の夜間戦闘機ではそこにレーダー機器を搭載した。しかし、そのために操縦席と偵察・航法員との直接連絡が取れなくなってしまった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-643-4753-13 Archive title: Rußland.- Funker / Bordschütze im Cockpit eines Flugzeugs Messerschmitt Me 110 ; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1943 ca. Photographer: Ohmayer [Ohmeyer] Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild 101I-643-4753-13 引用(他引用不許可)。


メッサーシュミットMesserschmitt Me 110 双発戦闘機は,Me-109単発戦闘機よりも優位にある「駆逐機」として開発されたが,爆撃機の護衛戦闘機として,長い航続距離を誇っていた。1939年9月ポーランド侵攻,1940年5月フランス侵攻では,敵空軍の数的劣勢と低性能の戦闘機のために,Me-110戦闘機は活躍できたが,それ以降は,活躍の場が制限された。

1940年8月以降、英国本土航空決戦(バトルオブブリテン)において,Messerschmitt Me 110 はイギリス空軍のハリケーンHurricane戦闘機,スピットファイア戦闘機に対抗することができなかった。運動性,上昇・降下速度に劣っていたためである。双発戦闘機は,もはや,単発戦闘機に対抗することはできなくなった。

写真(右)1940 年、イギリス空軍戦闘機の銃撃を受けるメッサ―シュミットMe110双発戦闘機:イギリス空軍では、1940当時からガンカメラを導入し、戦火の確認を行っていたようだが、日本では訓練用にガンカメラを使ったことはあっても、実戦に使用できるガンカメラは実用化していなかった。このようなものは余分な重量となるだけだと考え、戦果報告は、搭乗員の証言のみだった。こうした情報軽視が、戦争後半になってなって過大な戦果報告を見逃すことにつながる。
Catalogue number: C 2415, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Production date: 1940, Subject period: Second World War, Object description: Gun camera footage (4 views) of the interception and destruction of a Messerschmitt Me 110 . 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 2415)


Messerschmitt Me 110 G夜間戦闘機は,最高速度550キロの低速で鈍重な戦闘機だったが,30ミリMK 108 機関砲2門,20ミリMG 151/20 機銃4丁の兵装は,低速の爆撃機を迎撃するには十分だった。しかし,連合軍の軽快な護衛戦闘機に対抗することはできなかったので,主に夜間戦闘に投入された。ドイツのレーダー性能は,1943年までは,連合軍とほぼ互角だったが,マイクロ波レーダーを実用化できなかったために,1944年には,レーダー開発競争に大幅な遅れをとった。

写真(右)1940 年、イギリス南西部ブリストル郊外、フィルトン、イギリス空軍スパーマリン戦闘機Supermarine Spitfire Mark Iの銃撃を受けるメッサ―シュミットMe110双発戦闘機:ブリストル飛行機工場を爆撃に飛来したドイツ空軍の第55航空団のハイケルHe111、爆撃機を援護して随伴したメッサ―シュミットMesserschmitt Me 110 双発戦闘機をイギリス空軍第609戦隊の将校スタップルの乗ったスピットファイアが迎撃した際のガンカメラによる映像。
Catalogue number: CH 1834, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Production date: 1940, Subject period: Second World War, Creator: No. 609 Squadron RAF, Object description: A still from camera gun footage taken by a Supermarine Spitfire Mark I of No. 609 Squadron RAF, flown by Pilot Officer M E Staples, showing a Messerschmitt Bf 110 banking steeply to port as it tries to avoid Staples' gun fire. This aircraft belongs, either to Erprobungsgruppe 210, which bombed the Parnall aircraft factory at Yate, north-east of Bristol, or to III/ZG 76 which was providing fighter cover for Heinkel He 111s of KG 55 which attempted to attack the Bristol Aeroplane Company's factory at Filton. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (CH 1834)


メッサ―シュミットMesserschmitt Me 110 は、1939年1月より量産型のC型の生産が開始された、1939年9月のポーランド侵攻(白色作戦)の開戦時期には、実戦部隊への配備は100機程度と少なかった。1940年5月のフランス侵攻(黄色策戦)には参加したBf110は300機であるが、英仏軍が撤退を始めたダンケルク近郊での空中戦では、イギリス空軍のハリケーン戦闘機、スピットファイア戦闘機など軽量で運動性に勝る単発機との戦いになり、大型の双発戦闘機は不利な戦いを強いられた。

写真(右)1944 年2月26日、昼間に飛行していたハインツ・ヴェンクのメッサ―シュミットMe110G夜間戦闘機を撃墜するイギリス戦闘機タイフーンTyphoon:第198戦隊所属のジョージ・ハーディのタイフーン戦闘機のガンカメラで撮影された、イギリス海峡に墜落するBf-110G夜間戦闘機。ハインツ・ヴェンクのメッサ―シュミットMe110Gは、北海に不時着していたドイツ機を救難捜索中に撃墜された。
Catalogue number: C 4212 A, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Object description:Luftwaffe night-fighter ace Heinz Vinke (correct Helmut Vinke) made the fatal mistake of flying in daylight on 26 February 1944 (correct 1943). His Messerschmitt Bf 110G was caught at 1,000ft near Dunkirk by two Typhoons of No 198 Squadron and blasted out of the sky. This gun sequence, taken from Flying Officer George Hardy's aircraft, shows the Messerschmitt's starboard engine exploding, shortly before it dived to its destruction in the English Channel.. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 4212 A)


1940年後半、イギリス本土航空決戦で、メッサ―シュミットMesserschmitt Me 110双発戦闘機は大損害を被ったが、イギリスやアメリカの重爆撃機の迎撃には、重武装を活かして大きな戦果を挙げることができた。

しかし、英米爆撃機部隊に、護衛戦闘機が随伴するようになると、再びBf110の損害が増えた。そこで、メッサ―シュミットMesserschmitt Me 110 は、昼間出撃を取りやめ、もっぱら夜間戦闘機として、重武装を活かすことに活路を見出した。そして、FuG 202 リヒテンシュタインB/Cが開発された。

Bf110は、後継機のMe-210の不調により、継続して生産されることになり、エンジンを強化したBf110Gが登場した。このG型が搭載したDB605エンジンは、Me-109が搭載したエンジンと同じである。

Bf-110夜間戦闘機はF型になって機上搭載レーダーFuG 202 リヒテンシュタイン(Lichtenstein)B/Cが広く装備されるようになった。これは、機首に装備され、周囲70度の範囲を探知できる。そして、地上にある大型の対空レーダー「フライア」と「ヴィルツブルク」によって、夜間爆撃機に誘導することもできた。これが、機上と地上を連携した夜間防空システム「ヒンメルベット」(天秤)である。誘導された夜間戦闘機は、探知距離が短い機上搭載レーダー「リヒテンシュタイン」Lichtensteinを使って敵機を捕捉、襲撃するのである。

1943年夏の夜間戦闘機では、80%がFuG 202 リヒテンシュタイン(Lichtenstein)B/Cを装備していた。また1943年6月にはFuG 202 リヒテンシュタイン B/C型を改良し軽量化したFuG 212 リヒテンシュタイン(Lichtenstein)C-1リヒテンシュタイン が登場した。その後、探知角を120度の拡大したFuG 212 リヒテンシュタイン (Lichtenstein)C-1W ができたが、最大探知距離が2,000mと短かったために、より探知距離の長いFuG 220 リヒテンシュタイン(Lichtenstein)SN-2b が追加装備された。


8.長距離哨戒爆撃機・輸送機フォッケウルフFw-200コンドル

写真(右):1940年11月、フランス、第40爆撃航空団のフォッケウルフFocke-Wulf FW 200 "Condor"コンドル哨戒爆撃機「シリウス号」:大西洋を広範囲に哨戒して、イギリス周辺の輸送船の動きを探知した。自ら艦船を爆撃したり、海上のドイツ潜水艦Uボートを船団に誘導したりした。戦前から、大型旅客機で活躍していた搭乗員がこの長距離哨戒活動に充てられることが多かった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-405-0555-06 Archive title: Frankreich.- Feldflugplatz, Bodenpersonal / Mechaniker vor Flugzeug Focke-Wulf FW 200 "Condor" mit Bezeichnung "Sirius" des Kampfgeschwader 40 (KG 40) / Wartung; KBK Lw5 Dating: November 1940 Photographer: o.Ang. Photographer: Kestner Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年7月23日、イギリス空軍ロッキードLockheed ハドソン(Hudson) Mark V哨戒機に撃墜され、海上に不時着したフォッケウルフFocke-Wulf Fw 200コンドル(Kondor)哨戒機:アメリカから武器貸与法で貸与されたハドソン哨戒爆撃機は第二233戦隊に所属し、船団護衛に任じていたが、襲ってきたFw-200哨戒爆撃機を銃撃で撃墜した。撃墜されたコンドルの搭乗員の一部がライフラフト(救命筏イカダ)で脱出した。
Catalogue number: C 1988, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Production date1941-07-23 Subject periodSecond World War, Alternative Namesobject category: Photography, Creator: No. 233 Squadron RAF, Object description: A Focke-Wulf Fw 200 Kondor sinking in the Atlantic Ocean west of Ireland, after being shot down by a Lockheed Hudson Mark V of No. 233 Squadron RAF based at Aldergrove, County Antrim, while trying to attack a convoy, 23 July 1941. This oblique aerial photograph was taken from the victorious Hudson (AM536) and shows the crew of the Kondor swimming for their liferaft which is inflating to the right of the tailplane. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 1988)


写真(右):1943年4月,ソ連,ハリコフ,武装親衛隊装甲師団「ダス・ライヒ」(帝国)を視察するため、フォッケウルフFw-200コンドル輸送機で東部戦線を訪問した親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー。:ヒトラーも同型のFw-200輸送機に搭乗して,スモレンスクに飛び東部戦線を視察した。
Sowjetunion, Raum Charkow.- Reichsführer-SS Heinrich Himmler beim Aussteigen aus einem Flugzeug.- Besuch / Inspektion der schweren Pz. Abt. 502 der Waffen-SS-Div. "Das Reich"; April 1943; SS-PK Datierung: April 1943 Fotograf: Zschäckel, Friedrich Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


フォッケウルフFw-200コンドルの諸元
エンジン BMW-Bramo 323 R-2 mit je 1000 PS (1200 PS mit MW-50-Einspritzung) 4基
全幅: 32,84 m 全長: 23,87 m 全高: 6,30 m
空虚重量: 14.180 kg 全部重量: 22.600 kg
乗員: 7 人,生産機数 276機
巡航速度: 384 km/h 高度 3970 m, 405 km/h 重量17.600 kg
上昇限度: 6600 m
航続距離: 3550 km (標準) C-3/U2 最大 6400 km
武装: 2基×MG 151/20 (20 mm), 5基×MG 15 (7,92 mm)
爆弾1000 kg (爆弾倉) + 主翼下面 1400 kg,最大搭載量1800 kg

1937年7月に初飛行したフォッケウルフFw-200は、1938年8月10日にベルリンを出発、24時間後にニューヨークに到着し、帰路は20時間でベルリンに戻った。その後、東京へも訪問している。これは、商業的な売り込みのためでもあり、Fw200は、ルフトハンザ航空のほか、スウェーデン、ブラジルでも使用された。ナチ党高官も利用した。

1939年9月、第二次世界大戦の勃発後、Fw-200は長距離偵察機として軍に採用され、艦船攻撃用に250kg爆弾を搭載できるように改造された。

1940年6月、フランス占領後、フォッケウルフFw-200は大西洋の船団哨戒と船舶攻撃に活躍した。しかし、機体構造の脆弱な民間輸送機であり、作戦行動の厳しい操作性には、機体がもたなかったため、破損や機体劣化が激しく、哨戒爆撃機としての運動性には限界があった。その後、1942-43年冬、スターリングラードに孤立包囲されたドイツ第六軍への空輸任務にも投入された。

写真(右):フォッケウルフFocke-Wulf FW 200 "Condor"コンドル輸送機を視察に使用したアルベルト・シュペール:アルバート・シュペーアは、アドルフ・ヒトラーが寵愛した建築家であり、ベルリン整備計画、リンツ再建計画など都市建築だけでなく、1942年2月7日に軍需大臣(兵器・弾薬大臣)のフリッツ・トートが飛行機事故死した後、後任の軍需大臣に就任した。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-2005-0011 Archive title: Albert Speer (3. v.l.) auf einem Flugplatz vor einem Flugzeug Focke-Wulf FW 200 "Condor" Dating: 1941/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1943年3月13日,東部戦線を視察したヒトラーの乗った飛行機に,スモレンスクの飛行場で,時限爆弾が仕掛けられた。

ドイツの中央軍集団参謀のヘニング・フォン・トレシュコウ(Henning von Tresckow)大佐(当時)と同志で副官フェビアン・シュラーブレンドルフ中尉が,ヒトラー搭乗機を酒ビンに仕掛けた時限爆弾を組み込んだ。そして,それを友人の参謀本部編成課長シュティーフ(Hellmuth Stieff)大佐との賭けの負け商品だと偽って,参謀本部のハインツ・ブラント中佐に機内への持込を頼んだ。

しかし,ロシア上空の低温のせいか,時限爆弾の信管が完全に作動せず,ヒトラーが搭乗するFw-200輸送機爆破計画は失敗。Fw-200輸送機は,スモレンスクを出発して,無事にラステンブルクに到着した。

時限爆弾入りの酒瓶は,回収され,トレシュコウ大佐たちの暗殺計画は発覚しなかった。

⇒写真集Album: フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200輸送機/哨戒偵察機を見る。



9.四発重爆撃機ハインケルHe-177グライフ

写真(右)1944年秋,四発重爆撃機ハインケルHe-177:フランスの基地に展開するハインケルの部隊。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-676-7969A-24, Archive title: Reichsgebiet.- Bomber Heinkel He 177 auf Flugplatz mit Besatzung; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1944 Herbst Photographer: Schroeder Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild 101I-676-7969A-24引用(他引用不許可)。


ハインケルHe 177は、1936年ドイツ航空省(RLM)が提案した重爆撃機構想に沿って設計された。ハインケルプロジェクト(P.1041)は、ウラル爆撃機(爆弾1トン搭載、航続距離6000キロ以上)として使用できるものとされた。同様のウラル爆撃機としてはドルニエDo 19、ユンカースJu 89よりも遥かに高性能を求められた。

発動機(エンジン)4基搭載の四発重爆撃機であるが、発動機2基で大型プロペラ1基を回転させるため、一見すると双発爆撃機のように見える。双発にしたのは、急降下するときの操縦性を確保するためである。尾部に20ミリMG151/20機関砲を装備。

写真(右)1944年,四発重爆撃機ハインケルHe-177への爆弾積み込み作業:フランスの基地に展開するハインケルHe-177部隊。胴体中央に爆弾倉がある。手前、機首下面のゴンドラ後方扉は乗員の出入り口。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-676-7970A-23, Archive title: Reichsgebiet.- Beladen eines schweren Bomber Heinkel He 177 mit Bomben; Eins. Kp. Lw zbV , Dating: 1944, Photographer: Blaschka, Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild 101I-676-7970A-23 引用(他引用不許可)。


写真(右)1944年初頭,四発重爆撃機ハインケルHe-177グライフ
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe, Signature: Bild 101I-668-7161-31A, Archive title: Reichsgebiet.- schwerer Bomber Heinkel He 177 auf Flugplatz unter Tarnnetz; Eins. Kp. Lw zbV, Dating: 1944 Anfang, Photographer: Linden
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild 101I-668-7161-31A引用(他引用不許可)。


写真(右)1944年,四発重爆撃機ハインケルHe-177グライフの降着装置:巨大なゴムタイヤと支柱からなるハインケルHe-177グライフの降着装置は、エンジンナセルに収まるようにみえるが、エンジンナセル一つにエンジン2台を装着しているために、巨大な重たい車輪を治めることができなかった。そこで、巨大車輪の付いた重い脚を、飛行時、主翼の内側と外側の2カ所に分離・収納する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe, Signature: Bild 101I-676-7972A-19, Archive title: Reichsgebiet.- Wartung des Fahrwerks eines schweren Bombers Heinkel He 177 auf einem Flugplatz; Eins. Kp. Lw zbV, Dating: 1944, Photographer: Lückel, Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild 101I-676-7972A-19引用(他引用不許可)。


He 177の降着装置は、巨大な車輪が特徴で、これを飛行時には主翼の内側と外側の2カ所に分離・収納する。これは、降着装置の構造部分が大きく重くなり、主翼の強度や空力特性にとって支障をきたす。巨大なタイヤは、大重量の重爆撃機を支えるためであるが、それであれば小型車輪を複数重ねたダブルタイヤのほうが有利だった。脚を一本とし、主翼の開口部も最小限にとどめることができる。

ハインケル社は、他社に先駆けて首輪のついた軍用機、たとえばHe-219夜間戦闘機ウーフー、He280ジェット戦闘機を設計、試作している。ドイツ空軍は、首輪をもつ機体を「アメリカ式」と揶揄したが、離着陸は尾輪式よりもはるかに容易だった。現在の飛行機は、小型機でさえも尾輪式を排して、首輪しきになっている。しかし、降着装置の重量軽減、抵抗減少に効果的なダブルタイヤを使えなかったのは、大きなマイナスだった。

写真(右)1944年秋,飛行場で発進準備をする四発重爆撃機ハインケルHe-177:プロペラが2基なので全幅は短めで、操縦性がよかったといわれている。しかし、Heinkel, He 177は、エンジンナセルに2台のエンジンを収納したために、エンジン冷却能力が低下し、エンジン加熱で不調になりやすかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-676-7969A-23, Archive title: Reichsgebiet.- Besatzung auf Rollbahn vor schwerem Bomber Heinkel He 177 mit laufenden Motoren; Eins. Kp. Lw zbV, Dating: 1944 Herbst, Photographer: Schröder , Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild 101I-676-7969A-23 引用(他引用不許可)。


ハインケルHe-177(Heinkel)グライフ諸元
全長: 22.00 m、全幅: 31.44 m、全高: 6.7 m
全備重量: 31,000 kg
エンジン: ダイムラー・ベンツ DB 610 液冷24気筒 2,950 hp × 2
最大速度: 565 km/h (6,100m)
上限高度: 9,400 m
航続距離: 5,600 km (最大)
武装 20mm MG 151/20機関砲 × 2 (尾部・下部前方)、13mm MG 131機関銃 × 3 (背部)、7.92 MG 81機関銃 × 3 (機首に1、下部後方)
爆弾 6,000 kg もしくは ミサイル×3(ヘンシェル Hs 293 又は フリッツX)
乗員: 5名
ハインケルHe177には、最高速度540km、急降下爆撃が可能であることが求められたため、2基のエンジンを連結して1軸の大型プロペラを駆動する連結エンジンが採用された。また、機体構造の強化が図られ、機体表面の蒸発冷却機構、遠隔操作の銃塔の新機軸も採用された。

大西洋方面の哨戒,ドイツ潜水艦Uボートとの協力にも投入が計画された。1943年のイギリス本土爆撃にも投入された。しかし、エンジン冷却が不十分であったために加熱によるエンジン不調が頻発した。

写真(右)1945年頃,四発重爆撃機ハインケルHe-177A-7:終戦前後に西側連合軍に鹵獲されたハインケル四発重爆撃機He-177A-7は、1943年からBf-109Gと同じく、DB605液冷エンジンを結合したDB610エンジン(2基のDB605から構成)に変換したA-5が生産された。A-7は、A-5をベースに主翼を延長し、高空性能を改善したもの。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen, Signature: Bild 146-1972-065-68, Archive title: Flugzeug Heinkel He 177 (Baureihe A), Dating: 1945/1946, Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild 146-1972-065-68引用(他引用不許可)。


1944年1月から5月に、ヒトラーは、ドイツ本土無差別爆撃の報復として、イギリス本土爆撃を命じた。これが、「小電撃」と呼ばれることになるシュタインボック作戦である。大証爆撃機、戦闘爆撃機を動員してのイギリス空襲が行われ、特に双発機以上の爆撃機による夜間空襲に主眼が置かれた。これには、ドイツ空軍四発重爆撃機He-177グライフも投入されたが、二つのエンジンを一つのナセルに収めたことで、エンジン冷却効果が低下し、エンジンのオーバーヒートで稼働率は良くなかった。

 しかし、He177は大重量で、翌面積・テーパー比も小さく、緩降下爆撃をすると、最高速度600km/hを超えるために、レーダーで捕捉されても、夜間戦闘機や高射砲の被害を避けることができ、作戦参加したHe177の被弾撃墜率は低かった。シュタインボック作戦に投入されたドイツ空軍双発爆撃機は、Do 217, He111, Ju 88, Ju 188であるが、これらの双発機の損耗率は平均50%を上回った。

 このようにHe 177は損耗率10%で、低く、その潜在的な攻撃力は高かったが、高速での爆撃のために、爆撃の命中精度は低かった。さらに、ドイツ軍は、航空燃料・揮発油を石炭液化による腎臓石油に依存していたため、大量の燃料を必要とする四発爆撃機を運用、訓練するだけの供給力は、もはや1944年中頃のドイツにはなくなっていた。

⇒写真集Album:ハインケルHe-177重爆撃機を見る。



10.長距離哨戒偵察機ユンカースJu-290

写真(右)1942-1943年,長距離輸送偵察機(試作機) Ju 290 V 1:四発輸送機のJu-90を改造した大型貨物輸送機で、機体後方下部にランプ(傾斜板)を設けて自動車のような大型貨物をそのまま機内に収容することができた。しかし、輸送機としての用途には,Me323のような大型輸送機で代替できたために、ju290は大出力のBMW801空冷エンジン(1700馬力)を搭載して、装甲,武装を施した長距離偵察機として使用された。機首下面には爆撃照準器を搭載したゴンドラが張り出している。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1976-092-21 Archive title: Transport- und Fernaufklärungs-flugzeug Junkers Ju 290 V 1 (Kennung BD+TX) im Flug Dating: 1942/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1942-1943年,長距離偵察機Ju 290 A-3:四発輸送機のJu-90を改造した大型偵察機。全幅: 42.00m、全長: 28m、全高: 6.83m。主翼面積: 203.60m?、 空虚重量: 33,005 kg、最大重量(Ju 290A-5): 44,970kg、(Ju 290A-7): 45,400kg。最高速度: 440kph (273 mph)、実用上昇限度:6000 m、航続距離: 3,700 マイル (5950 km)。防御火器(290A-2):5× 20mm MG 151/20、6× 13mm MG 131
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1989-039-19A Original title: info Junkers Ju 290 A-3, Fernaufklärer Werkfoto Junkers (MBB) 290/8 Archive title: Flugzeug Junkers Ju 290 A 3 auf einem Flugplatz stehend Dating: 1942/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
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ユンカースJu-290A-7諸元
全長: 28.6メートル,全幅:42.0メートル, 翼面積:203平方メートル
自量:3.3トン,全備重量: 4.5トン
エンジン: BMW 801D 空冷14気筒 1700馬力4基
最大時速:420キロ,航続距離:6000キロ,上昇限度:6500メートル
原型Ju90輸送機は1938年8月初飛行,Ju-290試作機1942年7月初飛行,就役1942年8月,生産数:52機

写真(右)1945年暮れ-1946年,アメリカ、オハイオ州上空を飛行するアメリカ軍が鹵獲し、ドイツ空軍仕様に復元したユンカースJu-290長距離偵察爆撃機A-7型(アメリカ軍コート:FE 3400):1945年9月にはイギリスにあったが、その後、アメリカに運ばれた。1946年、オハイオ州ライトフィールド飛行場で開催されたアメリカ陸軍航空隊祭に出展された。四発輸送機のJu-90を改造して,装甲,武装を施して,偵察爆撃機とした。機首,後上方,機首下方ゴンドラ,尾部に20ミリMG151/20機関銃を装備。
大西洋方面の哨戒,ドイツ潜水艦Uボートとの協力に投入が計画されたが,投入時期が遅く,活躍できなかった。燃料不足のため,大型の長期距離偵察機の運用は制限された。
Flugzeug ユンカースJu-290A-7 (Leitwerkskennung FE 3400) im Flug Dating: 1941/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_141-2472引用(他引用不許可)。


ユンカースJu-90輸送機は,胴体の荷物の積み下ろしに際しては,大型貨物を搬出入しやすいように胴体後部ランプを備えていた。これは,胴体後部が下に開いて坂道(ランプ)となり,その開口部分から,大型貨物を出し入れする装備である。Ju-290もJu-90も胴体下方ランプをそのまま引き継いだが,偵察爆撃機としては必要のない装備だった。

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju-290哨戒偵察機を見る。



11.近距離偵察機ヘンシュルHs-126


写真(右)1941年7月,ドイツ空軍ヘンシェルHS-126偵察機を前にマイクロホンでインタビューする。マイクロホンは,現在のものより大きいがそれでも,実用化できたのは,少数の国だけだった。パラソル翼のヘンシェルHS-126偵察機は510機量産,大戦前半まで使用された。後継機は,フォッケウルフFw-189双発偵察機。
Sowjetunion.- Kriegsberichterstatter mit Mikrofon Piloten interviewend; PK 691 Dating: Juli 1941 Photographer: Fremke, Heinz撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ヘンシェルHS-126偵察機諸元
全長: 10.85 m、全幅: 14.50 m、全高: 3.75m
全備重量: 3,275 kg
エンジン: B.M.W. ブラモ 323A-1 空冷9気筒 850 hp
最大速度: 356 km/h、航続距離: 720 km
武装 7.92mm機銃2丁、爆弾 100 kg
乗員: 2名

ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。------成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。

1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。

◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張した。ヒトラーは,激烈な生存闘争を生き残り,生存圏を確保するには,弱肉強食の戦争にあって,敵を殲滅する勝利が不可欠であると考えた。

⇒写真集Album:ヘンシェルHs-126偵察機を見る。



12.近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(ふくろう)

写真(右)1942年頃(?)、舗装された飛行場滑走路に待機するドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 189A近距離偵察機:アルグスエンジンが駆動しており、2翅プロペラが回転している。
Object description: Focke-Wulf Fw 189A. The twin-fuselage Fw 189 was designed as a light-bomber but saw service mostly as a short-range reconnaissance and liaison aircraft on the Eastern Front.
Creator: Royal Air Force official photographer Materials whole: Nitrate
Catalogue number: CH 16123
Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION
写真は,Imperial War Museums 登録 GERMAN MILITARY AIRCRAFT 1939-1945; IWM CH 16123引用。


ドイツ空軍は,東部戦線に1945機を準備した。これはドイツ空軍兵力の 61%に当たる。使用可能な第一線機は,双発爆撃機510機,単発急降下爆撃機290機,単発戦闘機440機など1280機を数えた。

東部戦線には,レープ元帥の北方軍集団に第一航空軍(ケラー),ボック元帥の中央軍集団に第二航空軍(ケッセリング),ルントシュテット元帥の南方軍集団に第四航空軍(レール)を配備し,第五航空軍(シュトンプ)はオスロに本部を置いた。つまり,バルバロッサ作戦にはドイツ空軍四個航空軍を配備した。

フォッケウルフFw-189近距離偵察機を見る。


13.近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141

写真(右)1942年,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141:フォッケウルフFw-189と競争試作で敗れたとはいえ、単発3座偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は機首のエンジンと操縦席を主翼上に離して設けているために、左右非対称の世界的に珍しい形状の飛行機だった。尾翼も左側のみ通常の大きさで、右翼は垂直尾翼に固定するために僅かに突出しているに過ぎない。まるで、尾翼の右側に被弾して破損したかのような状態に見えてくる。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1980-117-02 Original title: info Das erste unsymmetrsiche Flugzeug der Welt BV 141 Archive title: Aufklärungsflugzeug Blohm und Voß BV 141 - Flugzeug auf Rollfeld Dating: 1942 Photographer: Hoffmann 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 146-1980-117-02"引用


ブロームウントフォスBlohm und Voß BV 141 B 諸元:
乗員:4人
全長:13.95 m、全巾:17.46 m、全高:3.6 m
翼面積:53.15 m平方メートル
空虚重量:4,700 kg、全備重量:5,700 kg
エンジン;BMW 801 出力:1,160 kW(1,560 hp)
最高速度:438km/h /3,510m、上昇率:570 m/分
武装:7.92ミリMG 17 旋回機関銃2丁、7.92ミリMG 15 固定機関銃2丁

初飛行は1938年2月、1940年までに、BV 141 V1から試作機8機が生産されたが、搭載したBMW 132Nエンジン865馬力と低出力であり、同程度の出力のエンジン2基を装備した競争試作機フォッケウルフ Fw 189が敗れて不採用になった。

主任設計技師は、1923年から1933年まで川崎航空機に招聘されたリヒャルト・フォークトRichard Vogt, 1894- 1979)。彼は、川崎の主任設計技師として、日本陸軍の制式になった九二式複葉戦闘機、八八式複葉偵察機などを設計している。

1941年には、エンジンをBMW 801(1700馬力)に強化したBV 141 B型が開発されたが、このような機種は、既存のもので十分間に合ったために、先行量産型として20機が生産されたにとどまった。

⇒写真集Album:ブロームウントフォスBV-141偵察機を見る。


14.指揮連絡機フィーゼラーFi-156シュトルヒ(こうもり)

写真(右)1941年夏,不時着大破したドイツ陸軍のフィーゼラー・シュトルヒ連絡機:1937年から1945年に合計2600機生産された連絡機Fieseler Fi 156 "Storch"は,滑走路でない草原に離着陸できた。全長10メートル,全幅 14メートル,主翼面積 26平方メートル,全備重量1260キロ, 空冷エンジン240馬力,最大速度175キロ,航続距離 380キロ。
Ein notgelandener Fieseler Storch Sommer 1941 Archive title: Verbindungs- und Transportflugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" Dating: 1941 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・/Bild_169-0146引用


東部戦線におけるドイツ空軍機は,1941年6月22日から8月8日までは喪失1023機,破壊657機,1941年8月3日から9月27日までは喪失580機,破壊371機だった。1941年6月22日から1942年4月8日までの10ヶ月間の合計で,喪失2951機,破壊1997機の損害で,これは同時期の航空機生産の三分の一に相当した。

1942年,ドイツ空軍爆撃機は,東部戦線各地の個別の戦術的な地上支援に使用され,敵の工業地帯,発電所,交通中枢への戦略爆撃は行わなかった。モスクワ空襲も,少数機が散発的に行っただけだった。

ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。

1941年8月,モスクワまで100キロと迫ったドイツ国防軍の中央軍集団に対して,主力となる装甲師団を南下させた。この目的は,
?南方のソ連軍から中央軍集団の側面を防備し,ハリコフでソ連軍を包囲撃滅すること,
?ソ連の戦争経済に必要なウクライナの穀物地帯,鉄鉱石鉱山,工業地帯を占領し,カフカスの油田からの石油輸送を停止させること,?クリミア半島を占領し,ルーマニアに対する黒海を利用した航空攻撃,海軍の策動を抑えること,
の3点だった。

1942年初頭のドイツ側は,南部での大攻勢目指し,4月,「ブラウ」(青)作戦が決まった。この目標は,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)によって,ソ連軍の防衛力を打ち砕き,スターリングラードを制圧,ついでカフカスの油田など戦争経済資源を奪取することとされた。

ブラウ作戦は、モスクワ攻略に失敗したドイツ軍には、欲張った目標だった。その上,カフカスとスーリングラードのニ目標を追うことになり,軍集団を二分するという失策を犯してしまう。戦力を分散投入してしまったために,どちらの目標も達成できなかった。

写真(右)1943年9月12日,イタリア、グラン・サッソに幽閉されていたベニート・ムッソリーニを救出した時のフィーゼラーFi156"シュトルヒ"連絡機:SS武装親衛隊のオットー・スコルツェニー(Otto Skorzeny)に率いられたドイツ降下猟兵を主体とするドイツ軍特殊部隊は、グライダーで突入して、ムッソリーニを救出した。そのご、荒れ地を滑走路代わりにして離着陸できるフィーゼラーFi156"シュトルヒ"Fieseler Fi 156 "Storch")で、ムッソリーニを安全地帯に空輸した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-567-1503C-03 Archive title: Gran Sasso, Befreiung von Mussolini.- Benito Mussolini im startbereiten Flugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" (Kennung SJ+LL); Fs AOK Dating: 12. September 1943 Photographer: Schneiders, Toni Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-567-1503C-03引用(他引用不許可)。


⇒写真集Album:フィーゼラーFi156連絡機を見る。


15.四発偵察機ブロム=フォスBV-142

写真(右)1940年10月,フランス,待機整備中のブロム=フォスBV-142偵察機:試作としてV1, V2, V3,V4の4機のみ生産され,郵便配達に使用されていたが,第二次大戦の勃発によって,民間機としての開発は中止となった。
Frankreich.- Feldflugplatz, Wartung eines Flugzeugs Blohm & Voss BV 142; KBK Lw5 Dating: Oktober 1940 Photographer: Ritter撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ブロム=フォスBV-142諸元
全長: 20.5メートル,全幅: 29.5メートル,翼面積: 130平方メートル
自量: 1.1トン,全備重量 1.65トン,乗員5人
エンジン BMWS132空冷 9気筒 880馬力4基,燃料: 6560リットル
最高時速: 375キロ,巡航速度: 325キロ,航続距離: 3,900キロ
実用上昇限度: 9,000 メートル,上昇率: 6.70メートル/秒
武装:7.92ミリMG15機銃5丁,爆弾:100キロ爆弾4発または50キロ爆弾8発
1938年10月初飛行,試作4機のみ生産


16.水上偵察機アラド(Arado)Ar-196

写真(右)1939-1944年,アラド社アラドAr-196水上偵察機の製造工場/格納庫:左側にメッサーシュミットBf-109戦闘機(F型?)が見える。この戦闘機は,メッサーシュミット以外にも生産が発注されていた。
Ar-196水上偵察機は,双フロートの水上偵察機で,ドイツ海軍の巡洋艦以上の艦艇の艦載機としても使用された。
機首のカウリングに7.92ミリMG17機銃2丁,主翼に20ミリMG-FF機銃2門を装備した。
Flugzeugproduktion/-wartung.- Arado Ar 196 in einer Werkhalle/Hangar Dating: 1939/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1977-108-21引用(他引用不許可)。


アラドAr-196水上偵察機諸元
乗員:2名 全長: 11.0メートル,全幅: 12.5メートル,翼面積: 28.4平方メートル
自量: 2トン,全備重量: 3.7トン
エンジン: BMW132 空冷 960馬力1基
最高時速: 320キロ,航続距離: 1000キロ,上昇限度: 7,000メートル
武装: 20ミリMG-FF機関砲2門,7.92ミリMG17機銃2丁,50キロ爆弾2発
初飛行1937年5月,量産開始1938年11月より540機生産

⇒写真集Album:水上偵察機アラド(Arado)Ar-196を見る。

⇒写真集Album: ハインケル(Heinkel)He-60/He 114水上偵察機を見る。


17.ドルニエDo-24飛行艇

写真(右)1937-1938年頃,飛行中のドルニエ(Dornier) Do 24V-2 飛行艇試作機2号機 :Do24飛行艇試作機1号機V1は、1937年初飛行なので試作2号機V2の飛行写真は、それ以降のものである。オランダへの輸出向け機体。エンジンは、ドルニエでの開発当初、燃費のいいユンカース社ディーゼルエンジンを搭載していた。しかし、発注者のオランダ軍は、自国で普及しているライト・サイクロン空冷星形エンジンを搭載することを求めたた。そこで、Do 24V-2 飛行艇試作機2号機では、エンジンを変換し、要求に応じた。垂直尾翼にナチ党のマークを引用した赤帯に白丸とハーケンクロイツを描いた国籍マークが描かれている。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46170291 - Catalog:16_007480 - Title:Dornier Do 24V-2 Dornier photo - Filename:16_007480.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:46170291引用。


⇒写真集Album:ドルニエ(Dornie)Do-24飛行艇を見る。


18.双発水上偵察機ハインケルHe-115

写真(右)1940年夏,ベルギー、フランス、給油中のハインケルHe 115水上偵察機:左手前のドラム缶には航空燃料が入っていて,そこからパイプを使って,主翼付け根にある給油口に燃料を送っている。1937年試作機完成,1939年より138機生産。右奥にある単発水上機は,アラドAr-196偵察機。
Belgien, Frankreich.- Betanken eines Wasserflugzeugs Heinkel He 115; KBK Lw 3 Dating: 1940 Sommer Photographer: Jütte撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-342-612-13A引用(他引用不許可)。


He-115は,飛行艇ではなく,フロートを2本つけた水上偵察機で,雷撃装備も可能だった。機首の下に20ミリ機銃を搭載した銃撃型もある。
戦前,スウェーデン,フィンランド,ノルウェーにも輸出された。

1988年,ノルウェーのベルゲン海底で戦時中に沈んだHe-115水上偵察機(機体番号S4+EH)が破損した状態で発見された。

He-115諸元
全長 17.3メートル,全幅 22.3メートル,全備重量 1.1トン
エンジン BMW132 960馬力2基
最大時速 320キロ,航続距離 2800キロ
武装 7.92ミリMG17機銃4丁,爆弾 1トンあるいは航空魚雷1本
乗員: 3名

⇒写真集Album: ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察機を見る。


19.ハインケルHe 59双発水上偵察機

写真(右)1942年,フランス沿岸水上機基地、トラクターで移動中の迷彩塗装を施したハインケル(Heinkel)He 59双発水上救難機 :奥には海から水上機を陸地に引揚げるためのランプ(坂道)が作られているが、これは飛行艇・水上機基地の特徴である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-357-1857-28A Archive title: Reichsgebiet oder Frankreich.- Ein Wasserflugzeug Heinkel He 59 (Kennung: +BN) wird mit Hilfe eines Traktors an Land gezogen; KBK Lw 3 Dating: 1942 Photographer: Doelfs Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


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20.ドイツのブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138飛行艇

写真(右)1943年秋、ノルウェー沖の氷の海で、ドイツ海軍潜水艦Uボートと会合して、軽油燃料の補給を受けようとするブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 飛行艇:手前の鉄棒は、Uボート艦橋後部の機銃台の手摺。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-507-B0111-10 Archive title: Norwegen, Eismeer.- Bergung / Versorgung eines Wasserflugzeugs Blohm & Voss Bv 138 C-1 mit Hilfe eines U-Boots; PK Lfl 5 Dating: 1943 Herbst Photographer: Hirschfelder Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ハンブルク航空機の中型長距離旅客飛行艇として開発されたHa-138旅客輸送飛行艇は、社名変更によりブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 飛行艇となった。Blohm & Voss Bv 138飛行艇は、ドルニエ Do 18と同じく燃費の良いユンカース ユモ 205ディーゼルエンジン3基搭載する形で長距離飛行を可能にしたが、中央部のエンジンは、主翼上面に搭載され、主翼・胴体とのクリアランスを確保するために、羽根の短い四本プロペラ(他の2基は羽根の長い三枚プロペラ)と変則的配置にされた。

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21.大型飛行艇BV-222ヴィーキング

写真(右)1940-1944年、正面から撮影されたブローム・ウント・フォス (Blohm & Voss )BV-222 V2大型輸送機「ヴィーキング」"Wiking"試作2号機の6基のブラモ(Bramo)323空冷星形エンジン(1000馬力)
Ray Wagner Collection Image PictionID:43932965 - Catalog:16_005045 - Title:Blohm & Voss Bv 222V-2 Nowarra photo - Filename:16_005045.TIF
写真はFlikers, SDASM Archives PictionID: 43932965引用。


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22.ドイツの主力輸送機ユンカースJu-52「タンテ」(おばさん)

ユンカース社は,第一次大戦中の1917年に,当時有名飛行機メーカーだったフォッカー社と提携して,本格的な航空機生産に乗り出し,1919年6月初飛行のユンカースF-13で独自設計の航空機の量産を開始した。このユンカースF-13は,世界初の全金属製民間機で,斬新な単発(エンジン1基)の低翼単葉機で、乗客4人の輸送機として使用された。

写真(右)1940年-1944年,ドイツ空軍のユンカースJunkers Ju 52輸送機"Ewald Seidel":ドイツ空軍の二人の飛行兵(搭乗員)と比較すると輸送機の大きさが強調される。波板の箱のような構造で強度を維持すると同時に、人員や貨物の搭載を楽に行えるような空間を確保している。速度は遅いが、使いやすく、信頼性が高かったために、ユンカースJunkers Ju 52輸送機は終戦まで使用された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-806-2115A-04 Archive title: Feldflugplatz.- Zwei Soldaten der Luftwaffe (u.a. Pilot) vor Flugzeug Junkers Ju 52 "Ewald Seidel"; KBK Lw 7, PK West, KBZ21 u. a. Dating: 1940/1944 ca. Photographer: Bockelmann, Werner Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-806-2115A-04"引用(他引用不許可)。


ユンカースJu-52輸送機は,1937年のスペイン内戦で、スペイン領モロッコから,イベリア半島にフランコ将軍の反乱軍(国民戦線)兵士を空輸するのに使われた。この時は,ヒトラーが,スペインのファシスト,ファランヘ党に,ムッソリーニとともに軍事援助したのである。Ju-52輸送機は,爆撃機としても使われた。

当初Ju52は,機首の単発エンジンだったが,馬力不足のために,両翼に各々1基のエンジンを搭載し,3発のJu-52/3mになった。初飛行は,1931年4月で,スペイン内戦では,アフリカ軍団のムーア兵(モロッコ人兵士)1万人以上を空輸,爆弾6000トンを投下した。

Ju-52輸送機諸元
全長18.9ートル,全幅29.2メートル,翼面積110平方メートル
重量10500キロ,エンジンBMW132空冷650馬力3基
最高速度275キロ,航続距離1300キロ
乗員3名,兵員18人搭載。グライダー曳航任務にも多用された。

ドイツ軍にとっては,兵力手薄なバルカン方面の側面を突いてくるクレタ島の英軍は,排除すべき敵の拠点であった。ドイツ軍は,ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の発動を準備していたから,その前に,側面を防御するためにも,クレタ島は占領する必要があった。

ドイツ軍の空挺部隊は「降下猟兵(Fallschirmjäger)」と呼ばれるが,クレタ島の航空基地のあるマレメ、イラクリオンなど飛行場に輸送機あるいはグライダーで乗りつけ,周辺にパラシュート部隊を降下させる大規模な空挺作戦が立案された。そして,敵航空基地を制圧した後,海路で上陸部隊を派遣する計画を立てたのである。

ドイツ軍空挺部隊は空軍の所属になり,空軍のクルト・シュトゥデント大将が率いる第11空挺軍団に所属する第1降下猟兵師団を中核とする約2万人が投入された。

写真(右)1943年頃、北フランス、ロリアン駐屯の磁気機雷掃海用ユンカースJu-52がイギリス空軍タイフーン戦闘機(Typhoon Mark IB)に銃撃されているガンカメラ映像:輸送機の機体に発電機や電池を装備して、機体に周囲に円形リング式に磁力コイルを張り、電磁誘導によって強力な磁場を作る。磁気機雷は、その磁力を艦船の金属船体が発する磁力と認識して誤作動し爆発する。こうして、磁場を移動させながら磁気機雷を爆破し、掃海する。
Catalogue number: C 4095, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period:, Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, CreatorRoyal Air Force official photographer, Object description: Still from camera-gun footage shot from a Hawker Typhoon Mark IB flown by Flying Officer W V Mollett of No. 266 Squadron RAF, showing the shooting down of a Junkers Ju 52/3mg6e minesweeping aircraft of the Minensuchgruppe off Lorient, France. Cannon shells from Mollett's aircraft are striking the sea and the fuselage of the Ju 52, which crashed into the sea shortly afterwards. Mollet shared the destruction of the Ju 52 with Flying Officer N J Lucas, also of 266 Squadron. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (C 4095)


艦船の金属船体が帯びている時期に反応する磁気機雷は、ドイツ海軍もイギリス海軍も使用していた。ドイツもイギリスもこの磁気機雷を空中から爆破し掃海するために、大型機にコイルを巻いたの大型金属製リングを装着して、電磁誘導によって時期を発生させた。そして、艦船が発する時期と同じレベルとして、磁気機雷の信管を働かせ、爆破するのである。

ドイツ空軍ユンカース Ju52/3m輸送機「タンテ」:原型機のJu52/1mは、単発機で1930年に初飛行。しかし、馬力不足の為に1932年にBMW空冷星形エンジン3基とした三発機が完成、Ju 52/3mとなった。mは"Motor"(モター)の頭文字である。


大阪朝日新聞 1941.5.22(昭和16)に次の記事がある。
遂に現われた『音なき空中列車』−クレータ島攻撃にドイツ軍がグライダーで兵員を輸送する戦史空前の電撃作戦を開始、寝耳に水の英希(ギリシャ)軍を驚倒せしめ、世界中をあっといわせた「空中列車」とは何か?…  

本社特電によれば一万名前後を空中輸送したとあるから少くとも一機に二十乃至三十名搭載出来るグライダー四百余台を夕刻既報の如くソ連式に左右に十台くらいずつV字型に曳航したもの、或はドイツ式に一線に十台くらい曳航したものと想像され、曳航機はユンカースJU五二型三発、または同八六型双発や同九〇型四発あるいはフォッケ・ウルフ・コンドル型四発の大型車爆撃機が少くとも四十機出動したものとみられる。

 ユンカースJu-52輸送機は,1940年代には旧式化していたが,大量生産されていた上に,信頼性が高く,使い易い飛行機だった。後継機は,搭載量,速度,航続距離の上でも,より高性能だったが,ドイツ軍の主力輸送機は,終戦までJu-52だった。

1938年,ドイツ空軍は250機のJu 52を配備していたが、ルフトハンザ航空からの移譲も含めて第二次大戦開戦時の1939年9月には、552機のJu 52を配備していた。1939年から1944年にかけて, 2.804機のJu 52がドイツ空軍に納品された。

Ju-52輸送機の生産機数1939年: 145機; 1940年: 388機; 1941年: 502機; 1942年:503機; 1943年:887機; 1944年:379機である。1944年夏段階で、ドイツ空軍には稼働可能なJu-52輸送機100機から200機があった。

⇒写真集Album:世界のユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機を見る。

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機の戦争を見る。


23.メッサーシュミット Me 323 ギガント輸送機

写真(右)1943年頃、東部戦線、メッサ―シュミットMe 323 "Gigant"輸送機:1942年末から中近東で北アフリカにあったロンメル将軍隷下アフリカ軍団への補給策戦に投入された6発エンジンの巨大輸送機。前身のメッサ―シュミットMe321貨物グライダーにフランスで鹵獲したノームローンGnome-Rhône 14Nエンジンを6発装備して自力飛行可能な輸送機としたメッサーシュミットMe 343 ギガント"Gigant"。機首が観音開きになるために、大型車両、戦車もそのまま貨物室に搬入し空輸することができた。
Catalogue number: 15670, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, PHOTOGRAPH LIBRARY: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, Production date: 1940-05-10 Subject period: Second World War, Creator: Royal Air Force official photographer, Object description: A Messerschmitt Me 323 "Gigant" (Giant) in flight, banking towards the camera. This hugh six-engined transport was developed from the Me 321 glider and entered service in late 1942 in the Middle East, helping to supply Rommel's Afrika Korps from bases in Sicily. Me 323s were also used on the Eastern Front. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (CH 15670)


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24.フォッケウルフ Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機/輸送機

フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機諸元:
全長: 14.2 m、全幅: 21.00 m、全高: 4.5 m
翼面積: 47平方メートル
自重: 2,400 kg、全備重量: 3,600 kg
エンジン: アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒 240 hp ×2
最大速度: 280 km/h
実用上昇限度: 5,600 m、航続距離: 800 km
乗員: 6 名

写真(右)1944年1月,飛行機格納庫のFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機(手前)、Messerschmitt Me 323 "Gigant"(扉を開けた状態)、 Focke-Wulf Fw 190(右):この Fw 58ワイエは、機首の透明ガラス風防を廃止しソリッド化しているので、水平爆撃の照準訓練は行わず、軽輸送機、双発機練習機として使用されたようだ。
Title Reichsgebiet, Flugzeugwerft mit Me 323, Fw 58 Info non-talk.svg Archive description
Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong.
Reichsgebiet.- Reparatur- und Wartungsarbeiten an verschiedenen Flugzeugtypen der Luftwaffe auf einer Flugzeugwerft, im Hintergrund eine Messerschmitt Me 323 "Gigant"; vorn eine Focke-Wulf Fw 58 "Weihe", rechts eine Focke-Wulf Fw 190; Einsatzkompanie Lw zbV
Depicted place Reichsgebiet
Date January 1944
Photographer Sierstoopff (pp) Institution German Federal Archives Link back to Institution infobox template wikidata:Q685753 Bundesarchiv Bild 144-400-05, Koblenz, Bundesarchiv, Hauptgebäude.jpg Link to OpenStreetMapLink to Google Maps
Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-670-7418-33
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-670-7418-33(??)引用(他引用不許可)。


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25.兵員輸送グライダーDFS 230

写真(右)1943年,イタリア戦線のLastensegler DFS 230 兵員輸送用グライダー(滑空機):迷彩塗装が施されている。機体側方に大型扉があって、着陸した直後に緊急に降下猟兵が地上で戦闘態勢に入れるよう配慮されている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1407-04A Archive title: Italien, Sizilien.- Luftwaffen-Soldaten vor Lastensegler DFS 230 (Kennung ?+1-86) mit Zusatzpropeller auf dem Dach auf Feldflugplatz; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Macioszek Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:Signature;"Bild 101I-565-1407-04A"登録・引用(他引用不許可)。


DFS 230 A-1諸元
主翼面積: 41,3 平方メートル
全長: 11,24 m
全高: 2,74 m、 全幅: 20,87 m
最高曳航速度: 210 km/h
空虚重量: 860 kg、最大全備重量: 2100 kg
乗員: パイロット1名、降下猟兵 9名。
生産数は、A型654機、B型936機、その他合計1.603機。

DFS 230グライダーは、胴体が角型断面の鋼管羽布張り、主翼が前部は木造合板、後部は羽布張りで軽量化されている。車輪は、離陸後に切り離され、曳航時の空力抵抗の減少が図られている。着陸時は、機体下部に装備した木製の橇を使用する。

⇒写真集Album:ドイツ空軍(Luftwaffe)DFS 230 グライダーを見る。



25.大型輸送グライダー ゴータGo-242

写真(右)1942年冬,東部戦線のゴータGotha Go 242輸送用グライダー
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1407-15A Archive title: Italien, Sizilien.- Lastensegler DFS 230 mit Zusatzpropeller auf dem Dach auf Feldflugplatz; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Macioszek Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-565-1407-15A引用(他引用不許可)。


ドイツ本土は,1943年前半から,昼間は米陸軍航空隊B-17「フライング・フォートレス」,B-24「リベレーター」重爆撃機に,夜間は英空軍「ランカスター」「ハリファックス」重爆撃機による戦略爆撃に晒された。

ドイツ本土爆撃に際し、アメリカ陸軍航空隊は、軍需工場など軍事施設を爆撃目標として狙う昼間精密爆撃を行った。これは、?操縦に連動する精密なノルデン爆撃照準器に信頼を置いた、?爆撃機に12.7ミリ機銃を多数装備し防御に地震があった、という理由である。

他方、イギリス空軍は、中型爆撃機による昼間爆撃を行った際に大きな損害を受けており、四発の重爆撃機は米軍爆撃機より低速であったため、夜間の絨毯爆撃、都市爆撃を行った。

 こうして、米英二つの航空兵力が行ったドイツ本土空襲によって,ドイツの産業,交通,市民生活は,次第に困難な状況に陥った。

ドイツ空軍戦闘機部隊は,1943年前半までは,連合軍爆撃部隊を迎撃し,大きな戦果をあげていた。
 しかし,1944年後半には,熟練搭乗員と燃料の不足,数的劣勢,性能の相対的低下のために,連合軍の爆撃機部隊に,有効な反撃を加えることができなくなっていた。

制空権が失われた以上,連合軍による欧州侵攻を防衛することは,ドイツ軍にとって不可能なことになった。

実際,1944年6月に,米英加を中心とする連合軍がノルマンディーに上陸すると,ドイツ軍はカーンで包囲され,大損害を被った。ドイツ陸軍地上部隊だけで,連合軍に反撃を加えることは,困難だった。

⇒写真集Album: ドイツ空軍ゴーダ(Gotha)Go 242輸送用グライダーを詳しく見る。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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