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◆ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
写真(上)1937-1938年頃、ドイツ上空を低空飛行するフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189 V1近接偵察機試作1号機(D-OPVN)
:この写真は戦時中にドイツ空軍機が飛行しているように見えるが、実際は、イギリスが刊行した戦時教本ともいえるH J Cooper, O G Thetford and D A. Russell(1941) Aircraft of the Fighting Powers Vol II Harborough Publishing Co, Leicester, England に掲載した戦前のドイツ試作機の写真を上書きしたものである。ドイツの国籍マークの鉄十字も大きさが小さすぎており、正確ではない。アルグスAs 410A空冷12気筒エンジン 465 hp が駆動しており、2翅プロペラが回転している。。
Focke Wulf Fw 189 reconnaissance aircraft (the first prototype Fw 189V1, D-OPVN).
Photograph published in: Aircraft of the Fighting Powers Vol II Ed: H J Cooper, O G Thetford and D A. Russell Harborough Publishing Co, Leicester, England 1941.
写真はImperial War Museums Category:Focke-Wulf Fw 189 File:Focke Wulf Fw189.jpg引用。


写真(上)1943年6月10日、フィンランドに派遣されたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf )Fw 189 A-3近距離偵察機(登録コードV7+1J)
練習機も生産していたフォッケウルフ社が開発した近距離偵察機で、視界の良さを確保するために、双胴式の胴体に全面ガラス風防で覆った操縦席・偵察席を設けた。対地上攻撃機にも改修されたが、ヘンシェルHs129との競争試作に敗れて採用に至らなかった。1938年7月28日に初飛行している。しかし、大戦勃発当初、Hs123複葉機やHs126近距離偵察機で十分に戦果を挙げていたために、その後、Fw189偵察機の開発は停滞したままだった。しかし、1941年6月に東部戦線が勃発し、広大な東部戦線が広がると、地上軍との密接な連絡と近距離偵察を任務とするFe189が重宝されることとなり、上記の旧式偵察機の生産を中止し、Fw189が生産されるようになった。Fw189偵察機の生産機数は830機、大戦末期には、ソ連空軍に制空権を奪われることが多くなり、活躍の場はなくなっていた。
Kevyt saksalainen pommikone. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja Kevyt saksalainen pommikone. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J. Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1943-06-10
写真はSan Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives・Catalog #: 01_00081354引用。

◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。

写真(右)1939年,供を引き連れて鹿狩りをし、獲物の角を切り取って、ご満喫の帝国狩猟長官・空軍総司令官ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相と森林専門家ヴァルター・フェーベエルト(Walter Frevert):角を自分の戦利品のように、カリンハルの別荘に腕も飾るのであろうか。狩猟の腕前は確かなものかもしれないが、ドイツ皇帝から引き継いで」御狩場を、自分個人専用にして、勢子に追わせて、自分だけが狙って猟銃を撃つなら、獲物もたくさん撮れるに違いない。御狩場は、野生動物保護や自然保護を目的とした主眼とした保護区と違い、自分の趣味を最優先した強欲の表れである。
Original caption Hermann Göring begutachtet die Hirschgeweihe Date 1939 Photographer Unknown Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1979-145-04A引用。


写真(右)1939年,ドイツ、ニーダーザクセン州、ハノーバー、州立シュプリンゲ森林保護区(Staatsforst Springe )で、供を引き連れて鹿狩りの狩猟で大物を仕留めて満喫する帝国狩猟長官・空軍総司令官ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州首相、森林専門家ヴァルター・フェーベエルト(Walter Frevert)、プロイセン州森林監督官ウーリヒ・シェリング(Ulrich Scherping):1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任したヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、自らの狩猟のために、自らの狩猟区を設定した。これは、野生動物保護や自然保護を主眼とした保護区とは全く異なるもので、自分の趣味の狩猟を最優先した政策である。
Original caption Auf der Jagd (vlnr): Oberforstmeister Walter Frevert, Hermann Göring und Oberstjägermeister Ulrich Scherping bei der Begutachtung von Hirschgeweihen ("Abwurfstangen") Reichsjägermeister Hermann Göring mit der Beute nach der Wildschweinjagd im Staatsforst Springe am 14. November 1934. Depicted people Göring , Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Depicted place Walter Frevert Date 1939 Photographer Unknown Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146)
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 146-1979-145-13A,引用。


プロイセン州首相だったヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、1936年8月には、四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、戦争経済、自給自足を進め、ユダヤ人を経済活動から排斥して、経済のアーリア化と称して蓄財に励んだ。ゲーリングが有能な指導者として計画を進めたのではなく、有能な官僚・部下が立案した計画を彼らに遂行させた。自ら計画に過剰に介入して、混乱させるよりも、有能な部下に任せるほうが「良い指導者」ということも可能ではあるが。

ゲーリングの関心は、ドイツの軍事力増強以上に、これを建前にして、権限を自分に集中し、ドイツのナンバー2の指導者として自他ともに認めさせ、自分個人の資産を増やすための蓄財に励んだのである。

ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

ヘルマン・ゲーリング/Herman Goring Fighter Ace The World War I Career of German's Most Infamous Airman [ Peter Kilduff ]:1893年、ドイツ帝国外交官を父とする上流階級に誕生、恵まれたな子供時代を過ごし、1905年、カールスルーエの幼年士官学校に入学、卒業後、1909年にプロイセン士官学校に入学して、第一次大戦の始まる1914年に陸軍少尉として歩兵部隊に配属。第一次世界大戦の緒戦では 歩兵として戦ったが、10月からドイツ陸軍航空隊へ移動、当初は偵察員、1915年からは、戦闘機パイロットとして西部戦線で戦った。1918年6月の敗戦の年に最高勲章のプール・ル・メリット勲章を授与された。ゲーリングは、リヒトホーフェン戦闘隊の大隊指揮官として敗戦を迎えた。1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年のミュンヘン一揆は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、国外に亡命したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。


ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1936年に中佐としてスペイン内戦に「コンドル軍団」の義勇兵として参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を指揮したコンドル軍団の参謀となった。1937年10月、スペインから帰還するも、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団は、ドイツに凱旋した。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。

ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)の成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説、その後の1941年6月29日の法令を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,1945年4月23日のベルリン攻防戦の最中に、ゲーリングはヒトラーに対して、連絡が取れなくなった場合、自分がドイツの最高指導者の地位を引き継ぎたいと電文を発した。しかし、ヒトラーは、これをゲーリングンの裏切りと感じ、激怒してゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

ドイツ空軍は,フランス侵攻には、アルベルト・ケッセリング将軍の第二航空軍,フーゴー・シュペルレ将軍の第三航空軍をあて,そこに双発爆撃機1120機,単発Ju-87急降下爆撃機シュツーカ342機,複葉Hs-123襲撃機42機,単発Me-109戦闘機1016機,双発Me-110戦闘機248機を配備した。1940年5月10日0430,ケルン郊外の航空基地をユンカースJu-52輸送機41機が離陸,輸送機は各々1機のDFS-230グライダーを曳航していた。グライダーには,1機当たり8-12人の降下猟兵(空挺隊員)が搭乗していた。このドイツ空軍の空挺部隊が,ベルギーのマース川の要衝マーストリヒト近くのエバン・エマール要塞に降下し,ベルギー兵士1200人の守備していた近代的な要塞を,その日のうちに攻略した。

1940年5月14日、ドイツの第54,第57爆撃航空団ハインケルHe111爆撃機100機は,停戦交渉中だったにもかかわらず,ロッテルダムを爆撃した。ウィストン・チャーチル首相は、1940年5月26日1857,大陸よりの英仏軍救出「ダイナモ作戦」(Operation Dynamo)を発動。ダイナモ作戦第一日の夕方まで,連合軍将兵7669名が救出され,5月28日だけで,1万7804人が救出された。5月29日には,4万7310名が後送,5月30日には5万3823人が大陸を去った。うちフランス兵氏は1万4874人だった。5月31日は,6万8014人が,6月1日には6万4429人が英本土に戻ることができた。敗退するフランス軍を前に、フランス政府では和平派(終戦派)が主導権をにぎった。


1.ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機

写真(右)1936年頃,ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機試作機V-3:高翼式主翼、固定式降着装置という堅実な設計のヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機の初飛行は1936年8月、試作3号機が搭載している発動機はBMW 323空冷星形エンジン。
SDASM Archives Henschel, Hs 126V-3 with BMW 323 PictionID:44219254 - Title:Henschel, Hs 126V-3 with BMW 323 - Catalog:16_005359 - Filename:16_005359.TIF
写真はSDASM Archives・PictionID:44219304 引用(他引用不許可)。

ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機は、単葉でパラソル翼で視界がよい。飛行場だけではなく、平坦な草地ど未整備な土地であっても、丈夫な脚と離着陸距離の短さのために、離着陸ができた。不整地に近い野戦飛行場で使用できたために、地上軍との協力関係も密接になった。

写真(右)1937-1938年頃,第二次世界大戦突入前のドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機:1935年のドイツ再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降、尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ (Hakenkreuz:ナチ党のカギ十字)を描いた国籍マークだった。しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、尾翼の赤帯と白丸のスワスチカ (Swastika:ハーケンクロイツ)は敵から発見されやすかったために廃止になり、ハーケンクロイツだけなった。
SDASM Archives Henschel, Hs 126 PictionID:44219292 - Title:Henschel, Hs 126 - Catalog:16_005362 - Filename:16_005362.TIF
写真はSDASM Archives・PictionID:44219292 引用(他引用不許可)。

ドイツ機の国籍記章は、1933年1月末、ナチ党政権となってから、当初は、黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年以降、再軍備宣言がなされ、ドイツ空軍が創立されると、赤帯に白丸とハーケンクロイツを描いた国章が決まった。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸は目立つために敵からの標的にされやすかった。そこで、黒色のハーケンクロイツのみが小さく描かれるように変更された。

写真(右)1939年9月、ポーランド、東部戦線,対空偽装を施しているドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機( Henschel Hs 126);敵機に発見されないように、対空用カモフラージュした場所に隠匿しているが。初飛行は1936年8月で、1942年には生産中止し、後継機のFw-189 に活躍を譲っている。全長: 10.85 m、全幅: 14.50 m、全高: 3.75m、全備重量: 3,275 kg、エンジン: BMWブラモ323A空冷9気筒 850 hp、最高速力: 356 km/h、航続距離: 720 km、兵装 7.92ミリ機銃2丁、爆弾 100 kg、乗員: 2名。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-379-0015-37 Archive title: Im Osten, Polen.- Aufklärungsflugzeuge Henschel Hs 126, getarnt, in Stellung an einem Feldrand / unter den Bäumen eines Weges; KBK Lw 4 Dating: September 1939 Photographer: Rübelt Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ポーランド空軍の反撃は、あまりなかったようだが、ドイツ空軍機は、初戦から敵機に発見されないように、対空用カモフラージュした場所に隠匿されていた。1943年以降、西側連合軍がドイツ本土、占領地に空襲を掛ける時期には、この対空偽装はより厳重に徹底されることになる。

写真(右)1941年,北アフリカ,ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機:主輪カバーを外してあるのは、主輪に砂塵を巻き込み、主輪カバーに砂塵が詰まって支障が生じないようにするため。開戦前,ドイツ国防軍の将軍たちはポーランド侵攻にも大いに不安を感じていたが,1941年には,戦いは北アフリカ,ソビエト連邦まで拡大した。各方面の戦線に配備され、陸軍との共同作戦を中心に戦った近距離偵察機である。
Nordafrika.- Wartung eines Aufklärungsflugzeugs Henschel Hs 126 (Kennung 5F+FK) der Aufklärungsgruppe 14 / Nahaufklärungsgruppe 14 in der Wüste; KBK 7 Datierung: 1941 Fotograf: Doege Quelle: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

1940年5月20日,フランスでは、レノー内閣が改造され、副首相に第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が就任した。1940年5月15日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏と続き、6月10日にはパリが無防備都市を宣言した。このとき、ムッソリーニ統領の指導するイタリアも、南フランスを攻撃した。6月14日、パリにドイツ軍が無血入城した。 独仏戦では,フランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

ヘンシェル フランス休戦の場所として、アドルフ・ヒトラーは、第一次大戦のドイツ休戦が調印されたのと同じコンピエーニュの森を指定した。コンピエーニュには、ドイツ降伏調印を行ったのと同じ食堂列車をフランスの博物館から引き出し据え付けて、そこで行った。フランス勝利の記念碑もコンピエーニュにあったが、それも爆破された。第一次世界大戦の敗戦の雪辱を晴らした思いは、第一次大戦の戦闘機エースのヘルマン・ゲーリングも同じであったろう。

フランス休戦は、
1.フランス国土の北部5分の3をドイツ軍政下に置く、
2.フランス軍の武装解除、
3.大西洋側の港湾をドイツに引き渡す、
4.フランス艦船の行動停止、
5.亡命者の引渡し、
6.フランスによる占領経費の負担、
という条件で認められた。

ヘンシェル ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。

1942年初頭のドイツ側は,南部での大攻勢目指し,4月,「ブラウ」(青)作戦が決まった。この目標は,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)によって,ソ連軍の防衛力を打ち砕き,スターリングラードを制圧,ついでカフカスの油田など戦争経済資源を奪取することとされた。

ブラウ作戦は、モスクワ攻略に失敗したドイツ軍には、欲張った目標だった。その上,カフカスとスーリングラードのニ目標を追うことになり,軍集団を二分するという失策を犯してしまう。戦力を分散投入してしまったために,どちらの目標も達成できなかった。

写真(右)1941-1942年冬頃,雪に覆われた飛行場に着陸しているドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機:主輪カバーを外してあるのは雪が主輪カバーに詰まって、主輪が回転しなくなってしまうため。垂直尾翼には、水平尾翼を支える支柱が2本伸びているのが分かる。降着装置は、主輪も尾輪も固定式である。発動機は、B.M.W. ブラモ(Bramo)323A空冷9気筒 850馬力で、余裕のある出力で、グライダーの曳航にも使用された。 hp
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image
PictionID:43932413 - Catalog:16_005350 - Title:Henschel Henschel Hs 126 Salo print - Filename:16_005350.TIF - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives・PictionID:44219304 引用(他引用不許可)。

写真(右)1941-1942年頃,泥濘の飛行場に着陸しているドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機:主輪カバーを外してあるのは雪が主輪カバーに詰まって、主輪が回転しなくなってしまうため。垂直尾翼には、水平尾翼を支える支柱が2本伸びているのが分かる。降着装置は、主輪も尾輪も固定式である。
Fotocollectie Spaarnestad Onderwerpen Reportage / Serie
Duitse luchtmacht door Noord-Afrika
Beschrijving Noord-Afrika. Een Duits verkenningsvliegtuig van het type Henschel Hs 126 op een door regenbuien modderig geworden vliegveld
写真はNationaal Archief, Het Genootschap voor het Nationaal Archief en Spaarnestad Photo 引用。


写真(右)1943年,イタリア戦線,ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機:1943年には旧式で、敵の戦闘機の襲撃を受ければひとたまりもなかったはずだが、未整備の滑走路でも離着陸が可能で、前線との連絡飛行に使用されていたようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1425-11A Archive title: Italien, Sizilien.- Flugzeug Henschel Hs 126 (Seriennummer 4348) auf Feldflugplatz stehend; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Schnitzer Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


図(右)ドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 偵察機の三面図
English: Henschel Hs 126
Date 21 October 2014, 09:55:07
Source Own work
Author Kaboldy
三面図は,Category:Henschel Hs 126 File:Henschel Hs-126.svg引用。


ヘンシェル (Henschel) HS-126 近距離偵察機諸元
初飛行:1936年8月
量産期間:1938–1941年
生産機数: 935機
全長: 10.85 m
全幅: 14.50 m
全高: 3.75m
全備重量: 3,275 kg
エンジン: B.M.W. ブラモ(Bramo)323A-1 空冷9気筒 850 hp
最大速度: 356 km/h
航続距離: 720 km
武装 7.92ミリMG17前方固定機銃1丁、7.92ミリMG15旋回機銃1丁
爆弾搭載量: 100 kg
乗員: 2名

ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。------成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。

写真(右)1943年,ソビエト連邦、ドイツ東部戦線戦線、飛行場のドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs126 A1 近距離偵察機(L2+37):敵ゲリラ部隊の根拠地・痕跡を探しだそうと低空飛行している。
Nederlands: Henschel Hs126 A1 L2+37. De tekst op de keerzijde luidt "Nahaufkklärer Hs 126 beim Tiefflug über einem Wald, in dem feindliche Widerstandsnester vermutet werden." English: Henschel Hs126 A1 L2+37. The text on the card reads: "Nahaufkklärer Hs 126 beim Tiefflug über einem Wald, in dem feindliche Widerstandsnester vermutet werden." (Close-range reconnaissance aircraft Hs 126 during low level flight over a forest where enemy resistance nests are suspected.) Date between 1939 and 1945 Source Own work (scan) Author Ad Meskens
写真は,Wikimedia Commons,Category:Henschel Hs 126・File:Henschel Hs 126 Storch.jpg引用。


1941年10月10日ヒトラー卓上談話:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。

◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張した。ヒトラーは,激烈な生存闘争を生き残り,生存圏を確保するには,弱肉強食の戦争にあって,敵を殲滅する勝利が不可欠であると考えた。

写真(右)1943年,ソビエト連邦、ドイツ東部戦線戦線、飛行場のドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機(正面)とフィーゼラーFi 156連絡機シュトルヒ(Storch):パラソル翼のヘンシェルHS-126は、偵察機だが、大戦後半は、低性能のために偵察任務を避けて、後方での訓練やグライダーの曳航機としても使用された。Fw-189双発偵察機が地上部隊と協力しての偵察に当たるようになった。
Polski: Niemiecki samolot rozpoznawczy Henschel Hs 126 na lotnisku przed hangarem na froncie wschodnim. Na drugim planie widoczny samolot sanitarny Fieseler Fi 156 Storch.
Date styczeń 1943 r. Source https://audiovis.nac.gov.pl/obraz/3759/ (ze zbiorów Narodowego Archiwum Cyfrowego) Author Schmidt - Scheeder

写真は,Wikimedia Commons,Category:Henschel Hs 126・File:Henschel Hs 126 Storch.jpg引用。


⇒写真集Album:ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機偵察機を見る。


2.近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(ふくろう)

写真(右)1939-1940年頃,双胴式のドイツ空軍フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機:長距離飛行可能なロッキードP-38双発戦闘機/偵察機と同じく、双胴双発の軍用機だが、1938年7月に初飛行した小型の近距離偵察機である。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 189 Catalog #: 00079300
Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 189
Official Nickname: Uhu (owl)
写真はSDASM Archives・PictionID:38235879引用(他引用不許可)。


フォッケウルフFw-189近距離偵察機は1938年7月に試作機が初飛行し、部隊配備され実戦使用されたのは、1941年後半の対ソビエト連邦東部戦線で、ヘンシェルHs-126の後継機として投入された。

戦闘機メーカーとして有名になるフォッケウルフ社が開発した>Fw-189近距離偵察機は、地上軍と密接な連携をとる直接協力偵察である。

写真(右)1939-1940年頃,飛行中のドイツ空軍フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機:1938年7月に初飛行した試作機も、第二次大戦に突入した1939年9月以降、ドイツの国籍マークを変更した。大戦突入前は、垂直尾翼にナチ党カギ十字を白丸、赤帯に記入していたが、カギ十字だけに変更された。
Nederlands: Focke-Wulf Fw 189.
Date 20 May 2020 Source Own work
Author Ad Meskens
写真は,Wikimedia Commons,File:Focke-Wulf Fw 189.png File:Focke-Wulf Fw 189.png引用。


フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機の諸元
全長: 12.02 m
全幅: 18.39 m
全高: 3.10 m
翼面積: 38.00平方メートル
全備重量: 3,945 kg
自重: 2,800 kg
発動機: アルグス As 410A-1 空冷倒立12気筒エンジン(465 hp)2基
最高速力: 349 km/h(2600 m)
上昇限度: 7300 m
航続距離: 670 km
武装 7.92ミリ機銃 4丁、爆弾 200 kg
乗員: 3 名

ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 189A近距離偵察機は、ソ連軍からその特異な双胴式形状から「空飛ぶ額縁」と呼ばれた。装備していた発動機は、アルグス As 410空冷倒立V型12気筒エンジン465 hp2基である。このエンジンは、1941年5月26日初飛行の日本陸軍オートジャイロ「カ」号観測機も装備したが、日本で生産した国産エンジンは故障が多く、使い物にならず、エンジンは、空冷星形に変更されている。

写真(右)1941年頃,双胴式のドイツ空軍フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 189 Uhu (Owl) Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album
PictionID:38235879 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002313.TIF
Image from the Charles Daniels Photo Collection.----Album: German Aircraft
写真はSDASM Archives・PictionID:38235879引用(他引用不許可)。


アルグス(Argus)As 410空冷倒立V型12気筒エンジン登録の諸元
ボア×ストローク:105 mm×115 mm
排気量:11.9 L
全長:1,585 mm
全幅:660 mm
全高:970 mm
乾燥重量:315 kg
総重量:336 kg(潤滑油込み)
燃料供給方式: キャブレター
出力:465 PS (459 hp, 342 kW) /3,100 rpm

写真(右)1943年初頭,ソ連,飛行場で主翼右側に50キロ爆弾2発を搭載するフォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機機首の出入り口から乗り込もうとしているドイツ空軍ケッセリング元帥
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B13134
Original title: info Zentralbild 9222-41 / Juli 41 An der Sowjetfront. Ehemaliger Generalfeldmarschall Kesselring auf einem Feldflughafen. Archive title: Sowjetunion.- Generalfeldmarschall Albert Kesselring auf Flugzeug Focke-Wulf Fw 189 "Uhu"
Dating: Juli 1941 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189ウーフー(梟:Uhu)の各型式
Fw 189 A-0: 量産前の部隊審査型の機首で10機のみ生産。
Fw 189 A-1: 初の量産型で、武装は7.92ミリMG 15旋回機関銃で、後上方と胴体後方に各1丁装備。左右主翼付根に7.92ミリMG 17固定機関銃各1丁装備。主翼下面に50 kg (110ポンド)爆弾4発を搭載可能。偵察用航空カメラとしてRb 20/30あるいはRb 50/30を1基搭載。
Fw 189 A-1 trop: A-1型の熱帯仕様で、空気取り入れ口(air intake)にフィルターを装備。不時着用サバイバルキット(survival equipment)を搭載。
Fw 189 A-1/U2又はU3: VIP要人輸送仕様。
Fw 189 A-2: MG 15旋回機関銃を7.92ミリMG 81Z連装機関銃に換装した防御強化型。
Fw 189 A-3: A-2型の熱帯仕様。
Fw 189 A-4: 地上襲撃型。左右主翼付け根に20ミリ MG 151/20前方固定機関銃2丁を装備。機首下面と燃料タンクに防御用装甲板を装備。試作のみと思われる。
Fw 189B:練習機型で乗員5名。B-0型3機試作、B-1型量産10機、合計13機のみ生産。
Fw 189C:重装甲地上襲撃機型。ヘンシェルHs 129と競争試作。V1bとV6が試作されたが不採用。

フォッケウルフFw189 1937年と早い時期に近距離偵察機としてフォッケウルフ社で開発されたFw 189偵察機 「 ウーフー」(ミミズク)は、双胴式でエンジンから話した機首を全面ガラス張りとして良好な視界を得ていた。この機首に3名の乗員が全員密集して搭乗したために、乗員相互の連絡も容易だった。試作機は、1938年7月に初飛行し、競争試作のブローム・ウント・フォス BV 141近距離偵察機と比較された。

フォッケウルフFw 189偵察機は、双発機であり、片方のBV141よりもエンジン被弾の場合、生還率が高いから採用されたとの説もあるが、軍用機の採択は、性能以上に信頼性(ブランド力)や政治力がものをいうのであり、フォッケウルフ社の航空産業における優位性が採用の理由であろう。

フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機は、1940年から部隊配属が始まったが、本格的な活躍は、1941年6月からのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」における地上軍部隊との直接強力である。本記の生産は、1944年までに860機が生産されたが、対地攻撃型は試作のみに終わった。

写真(右)1942年6月,東部戦線,ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189ウーフー(梟:Uhu)近距離偵察機の胴体後方の7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃:双発で視界が良いフォッケウルフFw-189は、地上直接協力偵察機として東部戦線で活躍した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-605-1705-17A Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug (Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" oder Blohm + Voß BV 141?), Zwillings-Maschinengewehr im Heckstand; PK KBK Lw zbV Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Kulbe Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年6月,東部戦線,ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189ウーフー(梟:Uhu)近距離偵察機の胴体後方の7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃:ヘンシェルHs126単発偵察機の後継機として、双発で視界が良いFw-189は、地上直接協力に東部戦線で参加した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-605-1705-18A Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug (Focke-Wulf Fw 189 "Uhu"), Zwillings-Maschinengewehr im Heckstand; PK KBK Lw zbV Title Frankreich, Aufklärungsflugzeug, Heck-MG Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Kulbe Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 File:Bundesarchiv Bild 101I-605-1705-18A, Frankreich, Aufklärungsflugzeug, Heck-MG.jpg引用。


ドイツ空軍ヘンシェルHS-126偵察機は、大戦前半のみで、後半は、このフォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )が偵察任務を担った。しかし、それも1943年までで、1944年以降は、東部戦線でも制空権が確保できず、低速の近距離偵察機は使えなくなった。近距離の昼間偵察は、単発戦闘機のメッサーシュミットBf109やフォッケイルフFw190にカメラを搭載した偵察型が流用された。

写真(右)1941年夏,東部戦線近くを飛行する,近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):ヘンシェルHs126単発偵察機の後継機として、双発で視界が良いFw-189は、地上直接協力に東部戦線で参加した。ソ連軍は、この機体を「空飛ぶ額縁」と呼んだ。
Aufklärungsflugzeug Focke-Wulf Fw 189 Eule im Flug
Ein Flugzeug fliegt zur Front
Sommer 1941
Bild 169-0132
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 File:Bundesarchiv Bild 169-0132, Focke-Wulf Fw 189.jpg引用。


写真(右)1942年8月,東部戦線,近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):地上直接協力偵察機として東部戦線で活躍した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-611-2117-04
Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug
Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" im Flug; KBK Lw zbV
Dating: August 1942
Photographer: Kulbe Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年8月,東部戦線,近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):地上直接協力偵察機として東部戦線で活躍した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-611-2117-03
Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" im Flug; KBK Lw zbV
Dating: August 1942 Photographer: Kulbe Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年,フランス、近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):雪解けにあわせた白色とグリーン系統の斑迷彩塗装を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-611-2116-07
Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" im Flug; KBK Lw zbV
Dating: August 1942 Photographer: Kulbe Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


フォッケウルフFw 189偵察機は、巨大な全面ガラス張り機首で視界がよく、偵察任務に適していたため、フクロウの大きな目を思わせ。「ウーフー」(フクロウ)の愛称を付けられた。双胴式の双発機で、機首が独立していて、そこに搭乗員3名が乗るので、搭乗員相互の連絡もしやすかった。低速で敵地上空を旋回し、地上の様子を偵察し、写真を撮影した。1944年までにこの種の偵察機としては864機と多数が生産され、地上部隊との近接支援に多用された。

しかし、1943年に入ると、ドイツ空軍は制空権を失い始め、航空機燃料の不足、熟練搭乗員の不足、連合軍爆撃機によるドイツ本土空襲、連合軍戦闘機の性能向上のために、このような低速で軽武装の航空機の活躍はできなくなった。

ドイツ空軍は,東部戦線に1945機を準備した。これはドイツ空軍兵力の 61%に当たる。使用可能な第一線機は,双発爆撃機510機,単発急降下爆撃機290機,単発戦闘機440機など1280機を数えた。

東部戦線には,レープ元帥の北方軍集団に第一航空軍(ケラー),ボック元帥の中央軍集団に第二航空軍(ケッセリング),ルントシュテット元帥の南方軍集団に第四航空軍(レール)を配備し,第五航空軍(シュトンプ)はオスロに本部を置いた。つまり,バルバロッサ作戦にはドイツ空軍四個航空軍を配備した。

フォッケウルフ Fw 189 A-0: 実用試験機
Fw 189 A-1: 初の量産型。前方7.92ミリMG 15機関銃2丁、後方2カ所に7.92ミリMG 17旋回機銃2丁、主翼下面に50 kg爆弾合計4発搭載可能。写真機はRb 20/30あるいはRb 50/30空対地カメラ1基搭載。
Fw 189 A-1 trop: 北アフリカ・地中海方面での砂塵除けなど熱帯仕様。空気取り入れ口に砂塵防止フィルターを設け、不時着用の緊急備品を備えていた。
Fw 189 A-1/U2: 要人VIP輸送機でFw 189 A-1の改造型。
Fw 189 A-2: 後方旋回機銃をMG 15から同7.92ミリ口径ながら発射速度を高めた7.92ミリ連装機銃MG 81Zに強化した。
Fw 189 A-3: Fw 189 A-2の熱帯仕様。
Fw 189 A-4: 地上攻撃型で、20ミリMG 151/20機関銃2丁を主翼付根に装備。搭乗員・エンジンへの下方装甲板も追加し防御力を向上した。

写真(右)1942-1943年頃、東部戦線、ドイツ空軍フォッケウルフFocke-Wulf Fw 189A近距離双発偵察機
Catalogue number: CH 16123,
Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION,
Subject period: Second World War,
Alternative Names object category: Black and white,
Creator: German Air Force photographer
Object description: Focke-Wulf Fw 189. The twin-fuselage Fw 189 was designed as a light-bomber but saw service mostly as a short-range reconnaissance and liaison aircraft on the Eastern Front.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (CH 16123)


写真(右)1943年,フィンランドあるいはノルウェー北部、近距離偵察に活躍したドイツ空軍フォッケウルフFw-189ウーフー(梟)とそれを移動するドイツ陸軍の半装軌式牽引車(ハーフトラック):雪の積もった極冠の地でも近接支援が必要だったのか、冬季雪原用の白色迷彩塗装を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-634-3873-35
Archive title: Nord-Nordwegen/Finnland.- Flugzeug Focke-Wulf Fw 189 mit Tarnanstrich auf einem verschneiten Feldflugplatz; EinsKp Lw zbV
Dating: 1943
Photographer: Hirschfelder Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍フォッケウルフFw-189近距離偵察機は、機首に7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。

写真(右)1943年初頭,ソ連,飛行場で主翼右側に50キロ爆弾2発を搭載するドイツ空軍フォッケウルフFw-189近距離偵察機
Sowjetunion.- Flugzeug Focke-Wulf Fw 189auf einem Flugplatz, Anhängen von Bomben; KBK Lw 1
Dating: 1943 Anfang
Photographer: Liedke Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ヘンシェルHs-126の後継機フォッケイルフFw-189双発偵察機は、主翼左右下面の爆弾ラックに50キロ爆弾2発、合計200キロを搭載し、地上攻撃の任務もこなした。さらに、フォッケウルフFw-189近距離偵察機の操縦席コックピットを小型化し、重兵装・重装甲を施した地上襲撃機型も試作された。これは、ヘンシェルHs129地上襲撃機と比較審査されたが、制式されずに終わっている。

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189A-3近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。粗く白色の冬季迷彩を施している。
Saksalainen kevyt pommikone. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1943-06-10 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真は,FINNA.FI sa-kuva-147830引用。


ドイツ空軍フォッケウルフFw-189近距離偵察機は、爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126近距離偵察機の後継機として東部戦線に投入された。

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189A-3近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。左右主翼に7.92ミリMG-17機銃各1挺、合計2挺を搭載。
Kevyt saksalainen pommikone. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A-3. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1943-06-10 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真は,FINNA.FI sa-kuva-147890引用。


写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機の機首
Saksalainen kevyt pommikone.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Saksalainen kevyt pommikone. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1943-06-10
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機は、機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189 A-3.近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Kevyt saksalainen pommikone.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Kevyt saksalainen pommikone. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A-3.
写真は,finna.fi/登録・引用


ドイツ空軍フォッケウルフFw-189 A近距離偵察機は、視界の良さを最優先し、双胴、双発で中央部に乗員用ゴンドラを備えるという特異な構造だった。1941年に部隊配備が始まり、頑丈な降着装置と堅牢な機体構造から未整備の飛行場が多い東部戦線でも実用性が高かった。また、被弾時でも高い生存性を発揮して、地上攻撃にも投入されている。

ドイツ空軍フォッケウルフFw-189 A近距離偵察機偵察任務に特化した個性的な構造だったが、BV141もそFw189以上に特異な非対称の構造を採用している。後方2カ所に旋回機銃を装備し、社会を広くし、左右主翼下面に装着した爆弾架2カ所には、50キロ爆弾を合計4個搭載することができた。ドイツ空軍のほか、ハンガリー空軍にも貸与され東部戦線で使用された。

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
写真は,.finna.fi/登録・引用


写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
写真は,.finna.fi/登録・引用


写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。
Kevyt saksalainen pommikone. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Kevyt saksalainen pommikone. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J.
写真は,.finna.fi/登録・引用


フォッケウルフFw189 1937年、ドイツ航空省は、地上部隊と連携できる近距離偵察機の開発を各社に養成し、フォッケウルフ社はそれに応じて、Fw189を開発した。このフォッケウルフFw-189近距離偵察機は、大戦後半になってから、ヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。

フォッケウルフFw189の特色は、堂々指揮として、胴体から離した機首を前面ガラス張りにした視界の良さで、その形状から"Uhu” ウーフー (ミミズク)と呼ばれた。ソ連軍は、本機を「空飛ぶ額縁」と呼んだ。

ウーフー (ミミズク:Uhu)と呼ばれたドイツ機は、ハインケルHe219夜間戦闘機も同じである。こちらは、優秀な強力な武装を持った高速夜間戦闘機だったが、航空省次官のエアハルト・ミルヒの量産性、政治性優先の配慮から生産数は抑制され、ドイツ軍航空兵からの支持があったものの270機しか生産されずに終わった。

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3近距離偵察機(登録コードV7+1J)の機首
Kevyt saksalainen pommikone. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Kevyt saksalainen pommikone. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J
Kuvaustiedot: 1943-06-10
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3近距離偵察機は、双胴式双発機で、中央部にガラス張りの機首を設け、後部までも円錐状にガラス張りとしたために、視界がとてもよかった。乗員は、3名で、全てこの機首に搭乗し、相互の連絡を取るのにも都合が良かった。また、車輪間隔も広いために、不整地であっても、安定性を維持するのが容易だった。

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J. Kone tuli Pontsalenjoelta kuvaamaan Tiiksjärven kenttää.
写真は,.finna.fi/登録・引用


写真(右)1941年,東部戦線、上空を飛行するドイツ空軍フォッケウルフFw 189近距離偵察機:双胴式の独特の形状に為識別は容易である。
Het Leven (LEVEN 022) Beschrijving Tweede Wereldoorlog. Luchtoorlog. Duitse luchtaanvallen. Een FW 189 in actie, 1941. Datum 1941
写真はNationaal Archief, Het Genootschap voor het Nationaal Archief en Spaarnestad Photo 引用。


1941年6月、ドイツ軍はソ連に侵攻し、開戦当初は奇襲により東部戦線の前線に配備されていた多数のソ連空軍機を地上で破壊した。そして、北方軍集団ではレニングラードを、中央軍集団はスモレンスクを、南方軍集団はキエフを目指し、損害を被りながらも順調に前進した。

しかし、ドイツ中央軍集団から南方軍集団へ装甲師団を増援部隊として抽出、派遣したために、中央軍集団では、計画してモスクワ侵攻が遅れてしまうこととなった。

ヒトラーは、南方の石油、鉄鉱石などの地下資源を確保したかったのだが、結局、カフカスの油田を攻略することはできなかった。ドイツ側の損害は、バルバロッサ作戦の当初から、西部戦線とは比較にならないほど膨大だったが、これはソ連赤軍が徹底抗戦し、その保有していた兵器も優れていたためである。

ドイツ東部戦線では、天候・気象要因の影響が大きかったのは事実であるが、秋雨の泥将軍、雪の冬将軍などを、ナポレオンのモスクワ攻撃の時から天候・気候はわかっていた話であり、そのためにドイツ軍がモスクワを攻略できなかったわけではない。「タイフーン作戦」のモスクワ前面の敗退した理由を天候のせいにしたり、ユーゴスラビアの裏切りでバルバロッサ作戦の発動が1カ月延期されたせいにするのは、正当ではない。これらは、ソ連赤軍の抗戦力の高さをを認めたくない軍人や知識人の俗説であろう。

フォッケウルフFw189 ドイツ空軍フォッケウルフFw-189偵察機は、ドイツ航空省が1937年に要請した近距離偵察機で、これにはフォッケウルフ社、ブロームウントフォス社が応じた。後者が開発したのが、単発非対称機ブロームウントフォス BV 141偵察機であり、前者が開発したのが、Fw189"Uhu"ウーフー(ミミズク)双発機である。ソ連軍兵士は、騒動で中央に空が見えたために「空飛ぶ額縁」と呼んだ。

双胴式の双発機のフォッケウルフFw189は視界が抜群に良く、中央部の胴体は前部、後部ともガラスで覆われていて、エンジンも離れているために視界が確保できた。乗員3名は、この広い視界が確保された機首に登場したが、これは搭乗員相互の連絡をよくすることになった。

ドイツ空軍フォッケウルフFw-189偵察機飛行性能の特徴は、低速安定が高いことで、これは地上偵察に有利である。ドイツ東部戦線で使用され始めたのは、1941年6月のドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」緒戦からで、その後、1944年までに864機が生産されている。

写真(右)1943年冬,東部戦線、ソ連軍に鹵獲されたフォッケウルフFw-189偵察機ウーフー(梟):ヘンシェルHs126単発偵察機の後継機として、双発で視界が良いFw-189は、地上直接協力に東部戦線で参加した。
Description Русский: Немецкий самолет-разведчик Focke-Wulf Fw 189, захваченный советскими войсками под Сталинградом
Author Sergey Strunnikov (1907–1944)
Date 1943
写真は,Category:Photos by Sergey Strunnikov File:Сталинград. Focke-Wulf Fw 189.jpg引用。


写真(右)1943年冬,東部戦線、撃破されソ連赤軍将兵に検分されているフォッケウルフFw-189偵察機ウーフー(梟)の残骸:ヘンシェルHs126単発偵察機の後継機として、双発で視界が良いFw-189は、地上直接協力に東部戦線で参加した。
Description Русский: Советский солдат осматривает разбитый немецкий самолет-разведчик Фокке-Вульф Fw.189
Date 1943 Sergey Strunnikov (1907–1944)
写真は,Category:Photos by Sergey Strunnikov File:Сталинградская область. Сбитый немецкий самолет-разведчик. Кадр 2.jpg引用。


写真(右)1943年冬,東部戦線、撃破されソ連軍に検分されているフォッケウルフFw-189偵察機ウーフー(梟)の残骸とソ連軍兵士:地上直接協力のために、主翼下面には50キロ爆弾懸架2基が設けられているのがわかる。
Description Русский: Боец РККА у сбитого немецкого самолета-разведчика Фокке-Вульф Fw.189
Date 2 January 2019, 13:17:43
Sergey Strunnikov (1907–1944)
写真は,Category:Photos by Sergey Strunnikov File:Сталинградская область. Сбитый немецкий самолет-разведчик. Кадр 3.jpg引用。


写真(右)1943年冬,東部戦線、撃破されソ連赤軍将兵に検分されているフォッケウルフFw-189偵察機ウーフー(梟)の残骸とソ連軍兵士:炎上したためか、主翼表面のジュラルミンが溶けてしまったようだ。尾翼は双尾翼式で、ナチ党カギ十字スワスチカが、ドイツの国章となった。奥には、ソ連兵を運んできたトラックが写っている。
Description Русский: Советский солдат осматривает сбитый под Сталинградом немецкий самолет-разведчик Фокке-Вульф Fw.189 Date 1943 Sergey Strunnikov (1907–1944)
写真は,Category:Photos by Sergey Strunnikov File:Сталинградская область. Сбитый немецкий самолет-разведчик.jpg引用。


フォッケウルフ フォッケウル(Focke-Wulf)Fw 189 離偵察機は双発エンジンであるために、たとえ片方のエンジンが被弾し停止したとしても、もう片方のエンジン1基だけで帰還でしたために、発動機1基の単発機よりも生存率が高まると考えられている。

つまり、競争試作相手ブローム&フォスBV 141偵察機よりも、Fw-189偵察機の方がより高い生還率が期待できた。また、コックピット操縦席。偵察席の全周型大型ガラス風防は、全て平面ガラスであり、歪みがないために視界は非常によく、全面平面ガラス張りコックピットから、周囲、下方・上方の良好な視界が確保されている。

図(右)ドイツ空軍フォッケウル(Focke-Wulf) Fw 189 A-1近距離偵察機の三面図:1940年から部隊配属が開始され、あらゆる戦線で、偵察、連絡、地上攻撃などの用途で使用された。
English: Focke Wulf Fw 189A-1 Date 20 November 2012, 16:58:40 Source Own work Author Kaboldy
三面図は,Category:Henschel Hs 126 Focke Wulf Fw 189A-1.svg引用。


フォッケウル(Focke-Wulf)Fw 189 A-1近距離偵察機の諸元
乗員Crew: 3名
全長Length: 11.9 m (39 ft 1 in)
全幅Wingspan: 18.4 m (60 ft 4 in)
全高Height: 3.1 m (10 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 38 m2 (410 sq ft)
空虚重量Empty weight: 2,690 kg (5,930 ポンド) 総重量Gross weight: 3,950 kg (8,708 ポンド)
発動機Powerplant: 2 × アルグス(Argus)As 410A-1 V型12気筒空冷(air-cooled)エンジン465 PS (459 hp; 342 kW)
プロペラPropellers: 2-翅可変ピッチ

性能Performance
最高速力Maximum speed: 344 km/h (214 mph, 186 kn) /2,500 m (8,202 ft)
巡航速力Cruise speed: 317 km/h (197 mph, 171 kn)
着陸距離Landing speed: 120 km/h (75 mph; 65 kn)
航続距離Range: 940 km (580 mi, 510 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,000 m (23,000 ft)
上昇率Rate of climb: 5.17 m/s (1,018 ft/min)
上昇時間Time to altitude: 4,000 m (13,123 ft)/8'18”

兵装Armament:
2 × 7.92 mm (.312 in) MG 17翼内前方固定期間銃
1 × 7.92 mm (.312 in) MG 15後上方旋回機関銃
1 × 7.92 mm (.312 in) MG 15 後方旋回機関銃
爆弾搭載量Bombs: 4 × 50 kg (110 lb)




3.近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141

写真(右)1942年,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1980-117-02 Original title: info Das erste unsymmetrsiche Flugzeug der Welt BV 141 Archive title: Aufklärungsflugzeug Blohm und Voß BV 141 - Flugzeug auf Rollfeld Dating: 1942 Photographer: Hoffmann 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 146-1980-117-02"引用


フォッケウルフFw-189と競争試作で敗れたとはいえ、単発3座偵察機ブロームウントフォス(Blohm & Voß BV-141は機首のエンジンと操縦席を主翼上に離して設けているために、左右非対称の世界的に珍しい形状の飛行機だった。尾翼も左側のみ通常の大きさで、右翼は垂直尾翼に固定するために僅かに突出しているに過ぎない。まるで、尾翼の右側に被弾して破損したかのような状態に見えてくる。

写真(右)1942年初期、後方から見た単発3座偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1227-17A Archive title: Reichsgebiet.- Aufklärungsflugzeug Blohm + Voß BV 141, Maschine auf Flugplatz, Rückansicht; KBK Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-602-B1227-17A"引用


エンジンの搭載された機首と操縦席・偵察席を別個に設けており、左右非対称のブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は、操縦性や安定性を確保するのが難しそうである。他方、地上・下方視界は最大限に広げられているので、近距離偵察、地上部隊との共同作戦には便利である。

ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141のエンジンは、当初の搭載したBMW 132Nエンジンが865馬力と力不足だったために、B型ではフォッケウルフFw-190戦闘機と同系のBMW 801(出力1,560馬力)にエンジンを強化した。しかし、BMW 801のような高出力エンジンを近距離の直協任務の機体に使用することは、ドイツ空軍の戦闘力を低下させると判断され、量産はされなかった。

ブロームウントフォスBV141 側面から見たブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141近距離偵察機は、エンジンを装備した胴体機首と主翼上に設けられた操縦席・偵察員席のあるコックピットが重なって見える。これは、BV-141が、左右非対称の形状であるためで、胴体から離したコックピット配置は、良好な視界を保証したという。非対称の形状は、独創的なアイディアだったが、量産性・整備性と搭乗員の信頼感の上からは、問題があったようだ。結局、BV-141採用されることなく終わった。

ブロームウントフォスBlohm und Voß BV 141 B 諸元:
乗員:4人
全長:13.95 m、全巾:17.46 m、全高:3.6 m
翼面積:53.15 m平方メートル
空虚重量:4,700 kg、全備重量:5,700 kg
エンジン;BMW 801 出力:1,160 kW(1,560 hp)
最高速度:438km/h /3,510m、上昇率:570 m/分
武装:7.92ミリMG 17 旋回機関銃2丁、7.92ミリMG 15 固定機関銃2丁

写真(右)1942年,近距離偵察機Blohm & Voß BV-141に乗り込むかのような搭乗員:あたかも実戦部隊に配備された機体のように見せている。左右非対称の特異なブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141を実用化したドイツ空軍の演出をしたプロパガンダ写真である。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-2005-0725-526 Original title: info Blohm & Voss - BV 141 kurz vor dem Start Foto : P.K. Luftwaffe 2722-42 Archive title: Aufklärungsflugzeug Blohm + Voß BV 141 vor dem Start.- Piloten vor der Maschine Dating: 1942 Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 183-2005-0725-526"引用


写真(右)1942年,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141:格納庫にある3機の全容と1機の右主翼が、格納庫のすぐ前に1機が駐機している。格納庫内の機体には、プロペラを外しているものがある。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1227-09A Archive title: Reichsgebiet.- Aufklärungsflugzeug Blohm & Voss , Maschinen im Hangar; KBK Lw zbV Dating: 1942 Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・http://www.bild.bundesarchiv.de/archives/barchpic/search/_1459083196/?search%5Bform%5D%5BSIGNATUR%5D=Bild+101I-602-B1227-09A引用


ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は、近距離偵察機の競争試作機として、フォッケウルフFw-189偵察機ウーフーと同時期に開発された左右非対称の偵察機。空冷エンジンを搭載した機体から、コックピット・偵察員席を離して設けることで、良好な視界、特に下方の地上視界を最大限に確保している。しかし、試作機製造にのみにとどまり、大量生産されることはなかった。

初飛行は1938年2月、1940年までに、BV 141 V1から試作機8機が生産されたが、搭載したBMW 132Nエンジン865馬力と低出力であり、同程度の出力のエンジン2基を装備した競争試作機フォッケウルフ Fw 189が敗れて不採用になった。

主任設計技師は、1923年から1933年まで川崎航空機に招聘されたリヒャルト・フォークトRichard Vogt, 1894- 1979)。彼は、川崎の主任設計技師として、日本陸軍の制式になった九二式複葉戦闘機、八八式複葉偵察機などを設計している。

1941年には、エンジンをBMW 801(1700馬力)に強化したBV 141 B型が開発されたが、このような機種は、既存のもので十分間に合ったために、先行量産型として20機が生産されたにとどまった。


⇒写真集:Albumドイツ空軍ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141を詳しく見る。


4.指揮連絡機フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ(Storch:こうもり)

写真(右)1940年5月-6月,フランス侵攻作戦、野外地に着陸したドイツ空軍フィーゼラー・Fi156"シュトルヒ"連絡機
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-126-0322-13 Archive title: Frankreich, Westfeldzug.- Flugzeug Fieseler Storch Fi 156 auf einem Feld, Soldaten; PK 689 Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Boesig, Heinz Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1933年2月、第一次大戦の英雄で、ナチ党内閣のヘルマン・ゲーリング無任所大臣は、民間航空事業の促進を名目にドイツ航空委員会を設立する。同委員会は4月までに航空省に昇格し、5月には陸軍航空部を統合し、空軍再建が極秘裏に進められた。この間の空軍再建にはリペツクの基地が重要な役割を果たした。そして1935年2月、ドイツは空軍の存在を認め、同年3月、ヒトラーが再軍備宣言をし、ベルサイユ条約を一方的に破棄したことによって、ドイツ国防軍が編成され、その一軍として空軍(Luftwaffe)が設置され、初代空軍総司令官にヘルマン・ゲーリング元帥が就任した。

1935年、新生ドイツ空軍は、新型連絡機の開発をすすめた。この時に連絡機の仕様が出され、各社の競争入札がなされることになったが、フィーゼラーは、短距離離着陸性能(STOL性)を重視し、離陸には向かい風で50m、着陸には20mで運用可能な機体を提案した。Fi 156A試作機は、1936年春に初飛行し、V型8気筒240馬力のアルグス As 10Cを搭載、地上連絡に便利なように低速の50km/hでも運用でき、離陸は45m、着陸18mはで十分な短距離離着陸が可能だった。量産型Fi 156Aは、1937年から部隊配備がはじまったので、第二次世界大戦では緒戦から大活躍している。

写真(右)1941年11月,ポーランド総督府、クラコウの大通りに着陸したドイツ軍フィーゼラー・Fi156"シュトルヒ"連絡機:周囲に集まって見物しているのは、ポーランド住民のようで、ドイツ軍は自らの技術や軍事力を見せつけるために、このような都市中心部にフィーゼラーFi156"シュトルヒ"Fieseler Fi 156 "Storch")連絡機を乗り付けた。1941年夏には、降伏したフランスの首都パリの凱旋門の近くに、我が物顔にFi156"シュトルヒ"連絡機を乗り付けている。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B13933 Original title: info An der Sowjetfront: Ein auf dem Dsherschinski-Platz in Charkow gelandeter Fieseler Storch wird von der Bevölkerung angestaunt. Im Hintergrund erkennen wir die im amerikanischen Stil erbauten Hochhäuser der Sowjetindustrie. PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Hähle 10305-41 "Fr." "Fr.OLF" Nov. 41 Archive title: Sowjetunion, Charkow.- Landung eines Flugzeugs Fieseler Fi 156 "Storch" auf einem Platz Dating: November 1941 Photographer: Hähle, Johannes Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 183-B13933引用。


写真(右)1941年夏,不時着大破したドイツ陸軍のフィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機
Ein notgelandener Fieseler Storch Sommer 1941 Archive title: Verbindungs- und Transportflugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" Dating: 1941 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ドイツ陸軍フィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機(Fieseler Fi 156 "Storch")は、全長10メートル,全幅 14メートル,主翼面積 26平方メートル,全備重量1260キロ, 空冷エンジン240馬力,最大速度175キロ,航続距離 380キロ。
1937年から1945年に合計2600機生産されたFi-156"シュトルヒ"連絡機は,滑走路でない草原にも離着陸できたので、地上部隊との連絡に重宝された。

ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。

写真(右)1942年5月,ソ連南部,クリミア,ケルチ半島のステップを進撃するドイツ軍牽引車と空を飛ぶフィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機
Krim, Anfang Mai 1942 Aufmarsch zum Angriff auf die Halbinsel Kertsch Archive title: Rußland.- Aufmarsch zum Angriff auf die Halbinsel Kertsch. Flugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" über motorisierter Kolonne (PKW, Busse) Dating: Mai 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1941年8月,モスクワまで100キロと迫ったドイツ国防軍の中央軍集団に対して,主力となる装甲師団を南下させた。この目的は,
1)南方のソ連軍から中央軍集団の側面を防備し,ハリコフでソ連軍を包囲撃滅すること,
2)ソ連の戦争経済に必要なウクライナの穀物地帯,鉄鉱石鉱山,工業地帯を占領し,カフカスの油田からの石油輸送を停止させること,
3)クリミア半島を占領し,ルーマニアに対する黒海を利用した航空攻撃,海軍の策動を抑えること,
の3点だった。

写真(右)1942年,フィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機:頑丈な脚(着陸装置)を備えていたフィーゼラーFi156"シュトルヒ"Fieseler Fi 156 "Storch")は滑走路が未舗装であっても、離着陸が可能だった。そこで、東部戦線では、前線への要人空輸に使われた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-323-2723-28A Archive title: Sowjetunion.- Offiziere bei Begrüßung vor Flugzeug Fieseler Storch Fi-156 "Storch"; KBK Lw1 Dating: 1942 Photographer: Hennig Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1941年6-7月、バルバロッサ作戦でソ連軍の航空基地攻撃に大活躍したドイツ空軍だったが,1942年の東部戦線では,スターリングラード空輸作戦以外,大軍をまとめて投入することはなくなった。

1942年,ドイツ空軍爆撃機は,東部戦線各地の個別の戦術的な地上支援に使用され,敵の工業地帯,発電所,交通中枢への戦略爆撃は行わなかった。モスクワ空襲も,独ソ戦緒戦以外、少数機が散発的に行っただけだった。

写真(右)1943年9月12日,イタリア、グラン・サッソに幽閉されていたベニート・ムッソリーニを救出した時のフィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機:SS武装親衛隊のオットー・スコルツェニー(Otto Skorzeny)に率いられたドイツ降下猟兵を主体とするドイツ軍特殊部隊は、グライダーで突入して、ムッソリーニを救出した。そのご、荒れ地を滑走路代わりにして離着陸できるフィーゼラーFi156"シュトルヒ"Fieseler Fi 156 "Storch")で、ムッソリーニを安全地帯に空輸した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-567-1503C-03 Archive title: Gran Sasso, Befreiung von Mussolini.- Benito Mussolini im startbereiten Flugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" (Kennung SJ+LL); Fs AOK Dating: 12. September 1943 Photographer: Schneiders, Toni Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-567-1503C-03引用




⇒写真集Album:フィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch)連絡機を詳しく見る。


5.フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do22偵察機


写真(右)1942年7月23日、フィンランド、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22水上偵察機
:1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、輸出用に開発された機体である。
Meritiedustelukone lähdössä. Lentokone on Dornier Do 22 (tunnus DR-195). Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-07-23 Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35191引用。


1938年7月15日初飛行のドイツの輸出仕様パラソル単葉ドルニエDo-22偵察機は、陸上型と水上機型がある。1939年9月の第二次世界大戦勃発で戦備増強を図ったギリシアがDo22Kg偵察機12機を、ユーゴスラビアがDo22Kj偵察機12機を輸入した。しかし、1941年4月にドイツがイタリア軍を援助するためにバルカン半島に侵攻、ギリシャ、ユーゴスラビアを占領した。そのときう鹵獲したドルニエDo-22偵察機は、ドイツ同盟国フィンランドに貸与され、フィンランド空軍はDo22K偵察機とDo22水上偵察機を部隊配備して、ソ連軍とたたかった。

1
写真(右)1944年1月7日、フィンランド、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機
:1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22はの原型は水上機で、輸出用に開発された機体である。
Suomi: DR-kone lähdössä meritiedustelulennolle. (Kuvassa on Dornier Do 22K). Kuvauspaikka: Malmin lentokenttä Date 7 January 1944 Source SA-kuva (http://sa-kuva.fi/) Author Sot.virk. Niilo Helander
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・File:Dornier Do 22K at Helsinki-Malmi airport (SA-kuva 145011).jpg引用。


ドルニエ(Dornier) Do 22の諸元
乗員Crew: 3名 (操縦士、銃手、通信士)
全長Length: 13.12 m (43 ft 1 in)
全幅Wingspan: 16.2 m (53 ft 2 in)
全高Height: 4.85 m (15 ft 11 in)
主翼面積Wing area: 45 m2 (480 sq ft)
空虚重量Empty weight: 2,600 kg (5,732 lb)
総重量Gross weight: 4,000 kg (8,818 lb)
発動機Powerplant: 1 × イスパノスイザ(Hispano-Suiza) 12Ybrs 液令V-12 気筒エンジン 641 kW (860 hp)
性能Performance
最高速力Maximum speed: 350 km/h (220 mph, 190 kn) at 3,000 m (9,800 ft)
巡行速力Cruise speed: 310 km/h (190 mph, 170 kn)
航続力Range: 2,300 km (1,400 mi, 1,200 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 9,000 m (30,000 ft)
上昇時間Time to altitude: 5,000 m (16,000 ft) / 13 分
兵装Armament
2 × 7.92 mm (0.312 in) MG 15 機関銃(後上方・下方)
1 × 7.92 mm (0.312 in) MG 17 機関銃(機首固定)
Bombs: 1 × 800 kg (1,800 lb) 魚雷あるいは 4 × 50 kg (110 lb) 爆弾


写真(右)1942-1944年頃、フィンランド、トラックで牽引されるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機
:1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、輸出用に開発された機体である。
Lentokonetehdas. Dornier Do 22 tiedustelukone. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Kartto - Peronkoski, valokuvaajaa
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35191引用。


フィンランドが継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。


写真(右)1942-1944年8月頃、フィンランド、トラックで牽引されるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機
:スカンジナビアの青の鍵十字卍「ハカリスティ」(Hakaristi)は、反共産主義、反ボリシェビキのシンボルで、ナチ党鍵十字スワスチカと同じ起源から生まれたものである。
Lentokonetehdas. Dornier Do 22 tiedustelukone. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Kartto - Peronkoski, valokuvaajaa
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35191引用。


1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。Do-22のような旧式偵察機は、第一線で活動してはいないはずだが、このような古い機種についても国籍マークの変更を行っている。後に、白縁が目立ちやすいとして、黒のバルカンクロス(スワスチカ)、ハーケンクロイツの白の縁取りは廃されている。


6.ハインケルHe 114 艦載水上偵察機

写真(右)1938-1939年9月、ドイツ本土海域、ハインケルHe 114 水上偵察機:アラドAr-196水上偵察機が、1937年5月に初飛行し、1938年11月に部隊配備されると、He114水上偵察機は、艦載機から、順次、代替されていった。
Heinkel, He 114 Catalog #: 01_00081315 Title: Heinkel, He 114 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 114 Tags: Heinkel, He 114 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive-
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081315引用。


⇒写真集Album:ハインケル(Heinkel)He 114艦載水上偵察機を見る。


7.アラドAr-196艦載水上偵察機




写真(上)1939-1941年頃、ドイツ海軍巡洋戦艦「シャルンホルスト」 (DKM Scharnhorst)煙突後方の後部艦橋前付近のデリックで艦上に引き上げられるアラド(Arado)Ar-196 A艦載水上偵察機
;「シャルンホルスト」のカタパルトは、煙突後方の後部艦橋前付近と最後尾28.3cm(54.5口径)3連装砲C砲塔上の2か所に2基が設置されている。
Arado Ar 196 seaplane Role: Reconnaissance aircraft Manufacturer: Arado Flugzeugwerke Arado Ar-196A being retrieved by the crew of the Scharnhorst 01
写真は, Arado Ar 196 main list:引用。



アラドAr 196水上偵察機は、ドイツ海軍の巡洋艦以上の艦艇用の艦載水上偵察機として1937年にHe-60水上偵察機の後継機として開発され、BMW132空冷星型9気筒エンジン(880馬力)を装備した。双フロートのAr196A型、単フロートのAr196B型が試作され、1938年に、双フロート式のA型が採用された。

アラドAr-196艦上水上偵察機は、主翼を90度回転させて折りたためるので、狭い艦船上での搭載・運用が容易だった。

アラドAr 196水上偵察機が部隊配備されたのは、第二次世界大戦の勃発した1939年9月からである。その後、主翼の7.92ミリMG17機関銃(左右合計2丁)を20ミリMG-FF機関銃(合計2丁)にう強化したA-2型が主力となった。活動海域は、主に大西洋、北海、バルト海だが、黒海、地中海方面でも使用されている。アラドAr 196水上偵察機は、1944年までに500機が製造された。第二次大戦の全期間を通じて、ドイツ海軍の水上偵察機として活躍した。

アラドArado Ar 196 水上偵察機は、第二次大戦中にドイツ海軍で広範囲に使用された、低翼単葉、双フロートの艦載機。BMW132K空冷星型エンジン960馬力搭載、機首と後部座席の7.92mm機銃2挺、主翼内に20mm機関銃2挺、主翼下面に50kg爆弾2発搭載可能。第二次大戦の始まった1939年に部隊配備開始、戦艦ビスマルク、重巡洋艦ヒッパーなど大型水上艦艇に搭載。沿岸水上機部隊にも配備された。

アラドAr196 アラドAr-196水上偵察機諸元
乗員:2名
全長: 11.0メートル,全幅: 12.5メートル
翼面積: 28.4平方メートル
自量: 2トン,全備重量: 3.7トン
エンジン: BMW132 空冷 960馬力1基
最高時速: 320キロ
航続距離: 1000キロ,上昇限度: 7,000メートル
武装: 20ミリMG-FF機関砲2門,7.92ミリMG17機銃2丁
50キロ爆弾2発
初飛行1937年5月
生産開始1938年11月からで、1944年3月までに540機が産された。

⇒写真集Album:アラドAr-196水上偵察機を見る。


8.スペイン内戦とドイツ・コンドル軍団(Legion Condor)

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦に参加したドイツ「コンドル軍団」を率いたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)少将と握手する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(Hermann Göring)(右):第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1938年11月、少将として、コンドル軍団長としてスペイン内戦に二度目の派兵。1939年5月に、コンドル軍団は凱旋、ドイツに帰国した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-E06827 Original title: info ADN-ZB
Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der deutschen Interventionstruppen in Spanien, die auf der Seite des faschistischen General Franco gegen die spanische Republik kämpfte. Im Frühsommer 1939 kehrten die Angehörigen der Legion Condor nach Deutschland zurück. UBz: Rückkehr der "Legion Condor" im Hamburger Hafen. Generalfeldmarschall Göring begrüßt Generalmajor Freiherr Wolfram von Richthofen.
31.5.1939
Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


フランコ 1936年にスペイン市民戦争Spanish Civil War)が勃発すると,ヒトラーは、間髪をいれずに, フランシス・フランコFrancisco Franco:1892-1975) 将軍の反乱軍(国民戦線)に軍事援助を行った。これは,ドイツ義勇軍との建前をとったが、実際はドイツ空軍,ドイツ陸軍の正規部隊から成るコンドル軍団Legion Condor)の派遣である。

  1936年7月から1939年3月まで2年半も続いたスペイン内戦Spanish Civil War)の契機は、1936年の総選挙でスペイン人民戦線が勝利したことに対して、 フランシス・フランコFrancisco Franco) 将軍らに率いられてた植民地軍が反乱を起こしたことである。

フランコ将軍率いる反乱軍は、ファランヘ党と組んで、ファシズム政権を樹立しようとし、人民戦線・共和国政府と内戦状態に入った。イギリス、フランス、アメリカは、内政不干渉の立場に立ったが、ドイツとイタリアは、ファシスト反乱軍を軍事援助した。このとき派遣されたドイツ義勇軍(実際は正規軍)が、コンドル軍団Legion Condor)である。

 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1936年に中佐としてドイツ義勇軍・コンドル軍団Condor Legion)の指揮官としてスペイン内戦Spanish Civil War)に参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を実行したコンドル軍団の参謀となった。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦から凱旋したドイツ「コンドル軍団」司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将とともにコンドル軍団を閲兵する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1936年4月20日に上級大将 (Generaloberst)になったゲーリングは、第二次大戦1年半前、1938年2月4日に、元帥 (Generalfeldmarschall)に昇進した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06857 Original title: info ADN-ZB Legion Condor- in Hamburg Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front, der in einem riesigen Viereck auf der Moorweide angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Freiherr von Richthofen, ferner der kommandierende General des 10. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 31.5.39 ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der faschistischen deutschen Interventionstruppen zur Unterstützung des Franco-Putsches in Spanien. Das Personal (etwa 6000 Mann) wurde ständig ausgewechselt, um kriegserfahrene Manschaften und Offiziere heranzubilden. Ende Mai 1939 kehrte die Legion Condor nach Deutschand zurück. UBz: Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front der auf der Moorweide in Hamburg am 31.5.1939 angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Wolfram Freiherr von Richthofen, der kommandierende General des X. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Hugo Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 7058-39 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


スペインでは、ゲルニカ空襲Bombing of Guernica)ゲルニカのような都市爆撃から、エルンスト・ウーデットErnst Udet)らが重視した急降下爆撃まで様々な戦術が実戦で試された。

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring): 第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。

1936年に勃発したスペイン内戦に、ドイツは、正規軍を義勇軍コンドル軍団としては派兵したが、ハインケル(Heinkel)He46 C偵察爆撃機は、スペイン内戦勃発直後1936年9月に28機が投入され、実戦テストに供されている。また、1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻を契機とする第二次大戦にも、ドイツ軍は2個飛行隊のハインケル(Heinkel)He46偵察爆撃機を配備していた。

1937年4月26日、バスク地方ゲルニカGuernica)が、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍コンドル軍団Condor Legion)の爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。

スペイン市民戦争Spanish Civil War)で人民戦線側の共和国軍,国際旅団と戦闘を交えるという実戦訓練によって,ドイツ軍は,航空支援の有効性,機動力を活かした電撃戦の着想を得た。

ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1936年に中佐としてスペイン内戦に「コンドル軍団」の義勇兵として参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を指揮したコンドル軍団の参謀となった。1937年10月、スペインから帰還するも、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団は、ドイツに凱旋した。

ポーランド空軍の反撃は、あまりなかったようだが、ドイツ空軍機は、初戦から敵機に発見されないように、対空用カモフラージュした場所に隠匿されていた。1943年以降、西側連合軍がドイツ本土、占領地に空襲を掛ける時期には、この対空偽装はより厳重に徹底されることになる。13.1ミリ機銃2丁の兵装は,爆撃機を迎撃するには貧弱だった。連合軍の護衛戦闘機に対抗するには,性能はともかく,機数や燃料が足りなかった上に,パイロットも未熟練で戦力は劣っていた。

ネヴィル・チェンバレン 1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain:1869–1940)は,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。

1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)は,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

メッサーシュミットBf110 C ドイツ空軍は,フランス侵攻には、アルベルト・ケッセリング将軍の第二航空軍,フーゴー・シュペルレ将軍の第三航空軍をあて,そこに双発爆撃機1120機,単発Ju-87急降下爆撃機シュツーカ342機,複葉Hs-123襲撃機42機,単発Me-109戦闘機1016機,双発Me-110戦闘機248機を配備した。

1940年5月10日0430,ケルン郊外の航空基地をユンカースJu-52輸送機41機が離陸,輸送機は各々1機のDFS-230グライダーを曳航していた。グライダーには,1機当たり8-12人の降下猟兵(空挺隊員)が搭乗していた。このドイツ空軍の空挺部隊が,ベルギーのマース川の要衝マーストリヒト近くのエバン・エマール要塞に降下し,ベルギー兵士1200人の守備していた近代的な要塞を,その日のうちに攻略した。

ムッソリーニ 1940年5月14日、ドイツの第54,第57爆撃航空団ハインケルHe111爆撃機100機は,停戦交渉中だったにもかかわらず,ロッテルダムを爆撃した。ウィストン・チャーチル首相は、1940年5月26日1857,大陸よりの英軍救出命令ダイナモ作戦(Operation Dynamo)を発動した。

ダイナモ作戦第一日の夕方まで,連合軍将兵7669名が救出され,5月28日だけで,1万7804人が救出された。5月29日には,4万7310名が後送,5月30日には5万3823人が大陸を去った。うちフランス兵は1万4874人だった。5月31日は,6万8014人が,6月1日には6万4429人が英本土に戻ることができた。敗退するフランス軍を前に、フランス政府では和平派(終戦派)が主導権をにぎった。

1940年5月20日,フランスでは、ポール・レノー(Paul Reynaud)内閣が改造され、副首相に第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン(Philippe Pétain)元帥が就任した。1940年5月15日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏と続き、6月10日にはパリが無防備都市を宣言した。このとき、イタリア統領(Duce)ベニート・ムッソリーニの指導するイタリアも、南フランスを攻撃した。6月14日、パリにドイツ軍が無血入城した。 独仏戦では,フランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

フランス休戦の場所として、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は、第一次大戦のドイツ休戦が調印されたのと同じコンピエーニュの森を指定した。コンピエーニュには、ドイツ降伏調印を行ったのと同じ食堂列車をフランスの博物館から引き出し据え付けて、そこで行った。フランス勝利の記念碑もコンピエーニュにあったが、それも爆破された。第一次世界大戦の敗戦の雪辱を晴らした思いは、第一次大戦の戦闘機エースのヘルマン・ゲーリングも同じであったろう。

ヒトラー ドイツのアドルフ・ヒトラーは、降伏後のフランス休戦の条件として、
1.フランス国土の北部5分の3をドイツ軍政下に置く、
2.フランス軍の武装解除、
3大西洋側の港湾をドイツに引き渡す、
4.フランス艦船の行動停止、
5亡命者の引渡し、
6.フランスによる占領経費の負担、
という思いのほか寛大な講和条件を認めた。

ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は,フランス降伏後の戦勝報償として、元帥以上の階級として特別に定められた国家元帥に昇進した。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説、その後の1941年6月29日の法令を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,大戦末期、1945年4月23日のベルリン攻防戦の最中に、ゲーリングはヒトラーに対して、連絡が取れなくなった場合、自分がドイツの最高指導者の地位を引き継ぎたいと電文を発した。しかし、ヒトラーは、これをゲーリングンの裏切りと感じ、激怒してゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。


9.フィンランドとナチ・ドイツの軍事同盟関係

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と出迎えたフィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領(黒コートにハット)。後方は、ヒトラーが乗っていたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);ヒトラーは、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日を祝いにドイツからFw-200コンドルに乗ってフィンランドのマルミ飛行場に到着した。コンクリート舗装された駐機場の奥には巨大な飛行機格納庫が見える。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Tasavallan presidentti Risto Ryti ja valtakunnankansleri Adolf Hitler..
写真はMuseot Finna・sa-kuva-129567引用。


ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦では、1941年6月22日早朝に攻撃が始まったが、北方軍集団の目標は、レニングラード攻略だった。レニングラードは、ソ連海軍バルト艦隊の基地であり、フィンランド湾、バルト海にあったソ連海軍潜水艦は脅威だった。また、ナチ党の反共産主義のイデオロギーの上で、ボルシェビキの本拠地と見なされ、ヒトラーは当初より、レニングラードの徹底的壊滅を指示していた。北方軍集団司令官レープ元帥隷下、第16軍司令官ブッシュ将軍、第18軍司令官キュッヒラー将軍ともにナチ党イデオロギーに心酔していた軍人だった。

1942年6月4日、フィンランドに、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が降り立った。フィンランド訪問の名目は、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日の祝いだった。ヒトラーは、ドイツ、ラステンブルク飛行場からドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に乗り、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に到着した。それをフィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領が出迎え、ヒトラーはフィンランド軍儀仗兵をリティと閲兵した。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と出迎えたフィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領(黒コートにハット)。後方は、ヒトラーが乗っていたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);ヒトラーは、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日を祝いにドイツからFw-200コンドルに乗ってフィンランドのマルミ飛行場に到着した。会談は、場所を移動、秘匿するために、線路上の食堂列車で行われた。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Tasavallan presidentti Risto Ryti ja valtakunnankansleri Adolf Hitler..
写真はMuseot Finna・sa-kuva-129567引用。


フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim)元帥は、ソビエト連邦を相手に1939年に冬戦争を、1941年7月から第二次世界大戦時にソ連と戦ったが、その時期にフィンランド国防軍総司令官を勤めた。

1941年1月4日にフィンランド首相となったヨハン・ウィルヘルム・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻を契機として、ソ連に攻め入った。これは、1939年の冬戦争で敗れ失った国土カレリア地方を奪還するというのが目的だったが、共産主義者の反乱を鎮圧して独立したフィンランドは、当初からソビエト連邦を警戒、仮想敵としていたから、これは、脅威となっているソ連に対する弱体化の戦争とも考えられる。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、ドイツに帰国するドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を見送るフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。ヒトラー乗機となったのは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード: KE+IX)
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Marsalkka Mannerheim (vas.) hyvästelemässä valtakunnankansleri Adolf Hitlerin. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15850引用。


1941年6月のドイツのソ連侵攻にあわせて始めた継続戦争だったが、1943年に入ると、明らかに戦局はフィンランド、ドイツに不利になってきた。ソ連に対しては、イギリス、アメリカが膨大な軍事物資を貸与しており、ソ連の生産力増強と相まって、フィンランド、ドイツは、ソ連軍の攻勢を防ぐことも困難になっていた。戦局が悪化する中で、1943年3月5日、フィンランド首相ヨハン・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は辞任し、新たにエドウィン・リンコミエスEdwin Linkomies)がフィンランド首相に就任したが、彼も、ソ連に降伏できない以上、ナチスとの同盟を堅持するしか選択肢はなかった。

ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)は、1867年6月4日生まれのフィンランドの軍人で、第二次世界大戦が戦われていた時期の1939年から1945年の間、フィンランド軍の最高司令官だった。当時、ソビエト連邦と戦い苦戦していた同盟国のドイツ総統ヒトラーとしては、フィンランドに対ソ戦を継続させる必要があった。

1941年6月26日にソ連侵攻「継続戦争」を指揮したフィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥だったが、戦局悪化の中、1944年8月4日、第6代フィンランド大統領に就任した。そして、1944年9月19日、ソ連と講和し、ドイツ軍を裏切った。フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の誕生日(1867年)6月4日を「フラッグ・デー」と定めている。6月4日は、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥を記念して、軍事パレードが行われる。

第二次大戦時のフィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の誕生日、1942年6月4日は、ヒトラーが空路お祝いに駆けつけ、マンネルハイム元帥自身が出迎えをした。フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡を奪還すると称して、1941年6月26日、「継承戦争」をはじめ、ソ連を攻撃した。

フィンランド政府は、1941年に始めた継続戦争についてソ連との冬戦争の続きであり、二国間戦争であるとの詭弁を弄した。つまり、第二次大戦へ枢軸国(ドイツ)側としてイギリスに参戦したのではないとの形式論を主張したのである。しかし、イギリスはドイツ軍の兵力のほとんどを相手に地上戦を戦うソ連を軍事支援しており、ソ連に対する政略の上からも、フィンランドがイギリス、アメリカとは戦うつもりがないとの一方的な宣言を認めなかった。

写真(右)1942年6月27日、ドイツ、東プロイセン州ラステンブルク大本営「狼の巣」、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の下を答礼訪問し、大本営の作戦会議に出席するフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;マンネルハイム将軍の乗機となったのは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機である。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.Photo Valokuva Organisaatio Sotamuseo.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13066引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイムCarl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日、ドイツ空軍の遣わしたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機に乗って、東プロイセン州ラステンブルク大本営「狼の巣」にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統を訪問、作戦会議に出席した。
そして、1942年6月28日には、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥の下にも参じたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイムCarl Mannerheim)元帥は、ナチスと共闘して、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。マンネルハイム元帥が、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連ボリシェビキの弱体化を真剣に望んでいた。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連赤軍・ボルシェビズムを敲く最良の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦した。

ヒトラーを訪問したフィンランド軍カール・マンネルへイム(Mannerheim)司令官のFw200コンドル輸送機を見る。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論 ヘンシェル
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ヘンシェル HS-126ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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