◆ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
写真(上)1937-1938年頃、ドイツ上空を低空飛行するフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189 V1近接偵察機試作1号機(D-OPVN):この写真は戦時中にドイツ空軍機が飛行しているように見えるが、実際は、イギリスが刊行した戦時教本ともいえるH J Cooper, O G Thetford and D A. Russell(1941) Aircraft of the Fighting Powers Vol II Harborough Publishing Co, Leicester, England に掲載した戦前のドイツ試作機の写真を上書きしたものである。ドイツの国籍マークの鉄十字も大きさが小さすぎており、正確ではない。アルグスAs 410A空冷12気筒エンジン 465 hp が駆動しており、2翅プロペラが回転している。。 Focke Wulf Fw 189 reconnaissance aircraft (the first prototype Fw 189V1, D-OPVN). Photograph published in:
Aircraft of the Fighting Powers Vol II
Ed: H J Cooper, O G Thetford and D A. Russell
Harborough Publishing Co, Leicester, England 1941.
写真はImperial War Museums Category:Focke-Wulf Fw 189 File:Focke Wulf Fw189.jpg引用。
写真(上)1943年6月10日、フィンランドに派遣されたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf )Fw 189 A-3近距離偵察機(登録コードV7+1J);練習機も生産していたフォッケウルフ社が開発した近距離偵察機で、視界の良さを確保するために、双胴式の胴体に全面ガラス風防で覆った操縦席・偵察席を設けた。対地上攻撃機にも改修されたが、ヘンシェルHs129との競争試作に敗れて採用に至らなかった。1938年7月28日に初飛行している。しかし、大戦勃発当初、Hs123複葉機やHs126近距離偵察機で十分に戦果を挙げていたために、その後、Fw189偵察機の開発は停滞したままだった。しかし、1941年6月に東部戦線が勃発し、広大な東部戦線が広がると、地上軍との密接な連絡と近距離偵察を任務とするFe189が重宝されることとなり、上記の旧式偵察機の生産を中止し、Fw189が生産されるようになった。Fw189偵察機の生産機数は830機、大戦末期には、ソ連空軍に制空権を奪われることが多くなり、活躍の場はなくなっていた。
Kevyt saksalainen pommikone.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Kevyt saksalainen pommikone. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J.
Aineistotyyppi
?Valokuva
Kuvaustiedot:
1943-06-10
写真はSan Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives・Catalog #: 01_00081354引用。
ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。 1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。
ヘルマン・ゲーリング/Herman Goring Fighter Ace The World War I Career of German's Most Infamous Airman [ Peter Kilduff ]:1893年、ドイツ帝国外交官を父とする上流階級に誕生、恵まれたな子供時代を過ごし、1905年、カールスルーエの幼年士官学校に入学、卒業後、1909年にプロイセン士官学校に入学して、第一次大戦の始まる1914年に陸軍少尉として歩兵部隊に配属。第一次世界大戦の緒戦では 歩兵として戦ったが、10月からドイツ陸軍航空隊へ移動、当初は偵察員、1915年からは、戦闘機パイロットとして西部戦線で戦った。1918年6月の敗戦の年に最高勲章のプール・ル・メリット勲章を授与された。ゲーリングは、リヒトホーフェン戦闘隊の大隊指揮官として敗戦を迎えた。1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年のミュンヘン一揆は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、国外に亡命したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。
写真(右)1941-1942年冬頃,雪に覆われた飛行場に着陸しているドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機:主輪カバーを外してあるのは雪が主輪カバーに詰まって、主輪が回転しなくなってしまうため。垂直尾翼には、水平尾翼を支える支柱が2本伸びているのが分かる。降着装置は、主輪も尾輪も固定式である。発動機は、B.M.W. ブラモ(Bramo)323A空冷9気筒 850馬力で、余裕のある出力で、グライダーの曳航にも使用された。 hp SDASM Archives
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43932413 - Catalog:16_005350 - Title:Henschel Henschel Hs 126 Salo print - Filename:16_005350.TIF - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives・PictionID:44219304 引用(他引用不許可)。
写真(右)1943年,ソビエト連邦、ドイツ東部戦線戦線、飛行場のドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs126 A1 近距離偵察機(L2+37):敵ゲリラ部隊の根拠地・痕跡を探しだそうと低空飛行している。
Nederlands: Henschel Hs126 A1 L2+37. De tekst op de keerzijde luidt "Nahaufkklärer Hs 126 beim Tiefflug über einem Wald, in dem feindliche Widerstandsnester vermutet werden."
English: Henschel Hs126 A1 L2+37. The text on the card reads: "Nahaufkklärer Hs 126 beim Tiefflug über einem Wald, in dem feindliche Widerstandsnester vermutet werden." (Close-range reconnaissance aircraft Hs 126 during low level flight over a forest where enemy resistance nests are suspected.)
Date between 1939 and 1945
Source Own work (scan)
Author Ad Meskens 写真は,Wikimedia Commons,Category:Henschel Hs 126・File:Henschel Hs 126 Storch.jpg引用。
写真(右)1943年,ソビエト連邦、ドイツ東部戦線戦線、飛行場のドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機(正面)とフィーゼラーFi 156連絡機シュトルヒ(Storch):パラソル翼のヘンシェルHS-126は、偵察機だが、大戦後半は、低性能のために偵察任務を避けて、後方での訓練やグライダーの曳航機としても使用された。Fw-189双発偵察機が地上部隊と協力しての偵察に当たるようになった。
Polski: Niemiecki samolot rozpoznawczy Henschel Hs 126 na lotnisku przed hangarem na froncie wschodnim. Na drugim planie widoczny samolot sanitarny Fieseler Fi 156 Storch.
Date styczeń 1943 r.
Source https://audiovis.nac.gov.pl/obraz/3759/ (ze zbiorów Narodowego Archiwum Cyfrowego)
Author Schmidt - Scheeder
フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機の諸元
全長: 12.02 m
全幅: 18.39 m
全高: 3.10 m
翼面積: 38.00平方メートル
全備重量: 3,945 kg
自重: 2,800 kg
発動機: アルグス As 410A-1 空冷倒立12気筒エンジン(465 hp)2基
最高速力: 349 km/h(2600 m)
上昇限度: 7300 m
航続距離: 670 km
武装 7.92ミリ機銃 4丁、爆弾 200 kg
乗員: 3 名
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 189A近距離偵察機は、ソ連軍からその特異な双胴式形状から「空飛ぶ額縁」と呼ばれた。装備していた発動機は、アルグス As 410空冷倒立V型12気筒エンジン465 hp2基である。このエンジンは、1941年5月26日初飛行の日本陸軍オートジャイロ「カ」号観測機も装備したが、日本で生産した国産エンジンは故障が多く、使い物にならず、エンジンは、空冷星形に変更されている。
写真(右)1941年頃,双胴式のドイツ空軍フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機: SDASM Archives
Focke-Wulf Fw 189 Uhu (Owl) Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album
PictionID:38235879 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002313.TIF Image from the Charles Daniels Photo Collection.----Album: German Aircraft
写真はSDASM Archives・PictionID:38235879引用(他引用不許可)。
アルグス(Argus)As 410空冷倒立V型12気筒エンジン登録の諸元
ボア×ストローク:105 mm×115 mm
排気量:11.9 L
全長:1,585 mm
全幅:660 mm
全高:970 mm
乾燥重量:315 kg
総重量:336 kg(潤滑油込み)
燃料供給方式: キャブレター
出力:465 PS (459 hp, 342 kW) /3,100 rpm
写真(右)1941年夏,東部戦線近くを飛行する,近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):ヘンシェルHs126単発偵察機の後継機として、双発で視界が良いFw-189は、地上直接協力に東部戦線で参加した。ソ連軍は、この機体を「空飛ぶ額縁」と呼んだ。 Aufklärungsflugzeug Focke-Wulf Fw 189 Eule im Flug Ein Flugzeug fliegt zur Front Sommer 1941 Bild 169-0132 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 File:Bundesarchiv Bild 169-0132, Focke-Wulf Fw 189.jpg引用。
写真(右)1942年8月,東部戦線,近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):地上直接協力偵察機として東部戦線で活躍した。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-611-2117-04 Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" im Flug; KBK Lw zbV
Dating: August 1942
Photographer: Kulbe
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年8月,東部戦線,近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):地上直接協力偵察機として東部戦線で活躍した。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-611-2117-03
Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" im Flug; KBK Lw zbV
Dating: August 1942
Photographer: Kulbe
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1943年,フランス、近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):雪解けにあわせた白色とグリーン系統の斑迷彩塗装を施している。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-611-2116-07
Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" im Flug; KBK Lw zbV
Dating: August 1942
Photographer: Kulbe
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942-1943年頃、東部戦線、ドイツ空軍フォッケウルフFocke-Wulf Fw 189A近距離双発偵察機
Catalogue number: CH 16123,
Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION,
Subject period: Second World War,
Alternative Names object category: Black and white, Creator: German Air Force photographer Object description: Focke-Wulf Fw 189. The twin-fuselage Fw 189 was designed as a light-bomber but saw service mostly as a short-range reconnaissance and liaison aircraft on the Eastern Front. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (CH 16123)
写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189A-3近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。粗く白色の冬季迷彩を施している。 Saksalainen kevyt pommikone. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1943-06-10
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真は,FINNA.FI sa-kuva-147830引用。
写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189A-3近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。左右主翼に7.92ミリMG-17機銃各1挺、合計2挺を搭載。 Kevyt saksalainen pommikone. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A-3.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1943-06-10
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真は,FINNA.FI sa-kuva-147890引用。
写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189 A-3.近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。
7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。 Kevyt saksalainen pommikone.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Kevyt saksalainen pommikone. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A-3.
写真は,finna.fi/登録・引用。
写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。
7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。 Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
写真は,.finna.fi/登録・引用。
写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。
7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。 Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
写真は,.finna.fi/登録・引用。
写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。
7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。
Kevyt saksalainen pommikone.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Kevyt saksalainen pommikone. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J.
写真は,.finna.fi/登録・引用。
写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。
7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。 Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J. Kone tuli Pontsalenjoelta kuvaamaan Tiiksjärven kenttää.
写真は,.finna.fi/登録・引用。
写真(右)1943年冬,東部戦線、撃破されソ連赤軍将兵に検分されているフォッケウルフFw-189偵察機ウーフー(梟)の残骸とソ連軍兵士:炎上したためか、主翼表面のジュラルミンが溶けてしまったようだ。尾翼は双尾翼式で、ナチ党カギ十字スワスチカが、ドイツの国章となった。奥には、ソ連兵を運んできたトラックが写っている。 Description
Русский: Советский солдат осматривает сбитый под Сталинградом немецкий самолет-разведчик Фокке-Вульф Fw.189
Date 1943
Sergey Strunnikov (1907–1944)
写真は,Category:Photos by Sergey Strunnikov File:Сталинградская область. Сбитый немецкий самолет-разведчик.jpg引用。
1935年、新生ドイツ空軍は、新型連絡機の開発をすすめた。この時に連絡機の仕様が出され、各社の競争入札がなされることになったが、フィーゼラーは、短距離離着陸性能(STOL性)を重視し、離陸には向かい風で50m、着陸には20mで運用可能な機体を提案した。Fi 156A試作機は、1936年春に初飛行し、V型8気筒240馬力のアルグス As 10Cを搭載、地上連絡に便利なように低速の50km/hでも運用でき、離陸は45m、着陸18mはで十分な短距離離着陸が可能だった。量産型Fi 156Aは、1937年から部隊配備がはじまったので、第二次世界大戦では緒戦から大活躍している。
写真(右)1941年11月,ポーランド総督府、クラコウの大通りに着陸したドイツ軍フィーゼラー・Fi156"シュトルヒ"連絡機:周囲に集まって見物しているのは、ポーランド住民のようで、ドイツ軍は自らの技術や軍事力を見せつけるために、このような都市中心部にフィーゼラーFi156"シュトルヒ"(Fieseler Fi 156 "Storch")連絡機を乗り付けた。1941年夏には、降伏したフランスの首都パリの凱旋門の近くに、我が物顔にFi156"シュトルヒ"連絡機を乗り付けている。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-B13933
Original title: info An der Sowjetfront: Ein auf dem Dsherschinski-Platz in Charkow gelandeter Fieseler Storch wird von der Bevölkerung angestaunt. Im Hintergrund erkennen wir die im amerikanischen Stil erbauten Hochhäuser der Sowjetindustrie.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Hähle
10305-41 "Fr." "Fr.OLF" Nov. 41
Archive title: Sowjetunion, Charkow.- Landung eines Flugzeugs Fieseler Fi 156 "Storch" auf einem Platz
Dating: November 1941
Photographer: Hähle, Johannes
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 183-B13933引用。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22水上偵察機:1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、輸出用に開発された機体である。 Meritiedustelukone lähdössä. Lentokone on Dornier Do 22 (tunnus DR-195).
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja 写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35191引用。
1
写真(右)1944年1月7日、フィンランド、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機:1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22はの原型は水上機で、輸出用に開発された機体である。 Suomi: DR-kone lähdössä meritiedustelulennolle. (Kuvassa on Dornier Do 22K). Kuvauspaikka: Malmin lentokenttä
Date 7 January 1944
Source SA-kuva (http://sa-kuva.fi/)
Author Sot.virk. Niilo Helander 写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・File:Dornier Do 22K at Helsinki-Malmi airport (SA-kuva 145011).jpg引用。
ドルニエ(Dornier) Do 22の諸元
乗員Crew: 3名 (操縦士、銃手、通信士)
全長Length: 13.12 m (43 ft 1 in)
全幅Wingspan: 16.2 m (53 ft 2 in)
全高Height: 4.85 m (15 ft 11 in)
主翼面積Wing area: 45 m2 (480 sq ft)
空虚重量Empty weight: 2,600 kg (5,732 lb)
総重量Gross weight: 4,000 kg (8,818 lb)
発動機Powerplant: 1 × イスパノスイザ(Hispano-Suiza) 12Ybrs 液令V-12 気筒エンジン 641 kW (860 hp)
性能Performance
最高速力Maximum speed: 350 km/h (220 mph, 190 kn) at 3,000 m (9,800 ft) 巡行速力Cruise speed: 310 km/h (190 mph, 170 kn)
航続力Range: 2,300 km (1,400 mi, 1,200 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 9,000 m (30,000 ft) 上昇時間Time to altitude: 5,000 m (16,000 ft) / 13 分
兵装Armament
2 × 7.92 mm (0.312 in) MG 15 機関銃(後上方・下方) 1 × 7.92 mm (0.312 in) MG 17 機関銃(機首固定)
Bombs: 1 × 800 kg (1,800 lb) 魚雷あるいは 4 × 50 kg (110 lb) 爆弾
写真(右)1942-1944年頃、フィンランド、トラックで牽引されるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機:1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、輸出用に開発された機体である。 Lentokonetehdas. Dornier Do 22 tiedustelukone.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
Kartto - Peronkoski, valokuvaajaa 写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35191引用。
写真(右)1942-1944年8月頃、フィンランド、トラックで牽引されるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機:スカンジナビアの青の鍵十字卍「ハカリスティ」(Hakaristi)は、反共産主義、反ボリシェビキのシンボルで、ナチ党鍵十字スワスチカと同じ起源から生まれたものである。 Lentokonetehdas. Dornier Do 22 tiedustelukone.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
Kartto - Peronkoski, valokuvaajaa 写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35191引用。
写真(右)1938-1939年9月、ドイツ本土海域、ハインケルHe 114 水上偵察機:アラドAr-196水上偵察機が、1937年5月に初飛行し、1938年11月に部隊配備されると、He114水上偵察機は、艦載機から、順次、代替されていった。 Heinkel, He 114
Catalog #: 01_00081315
Title: Heinkel, He 114
Corporation Name: Heinkel
Additional Information: Germany
Designation: He 114
Tags: Heinkel, He 114
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive- 写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081315引用。
アラドArado Ar 196 水上偵察機は、第二次大戦中にドイツ海軍で広範囲に使用された、低翼単葉、双フロートの艦載機。BMW132K空冷星型エンジン960馬力搭載、機首と後部座席の7.92mm機銃2挺、主翼内に20mm機関銃2挺、主翼下面に50kg爆弾2発搭載可能。第二次大戦の始まった1939年に部隊配備開始、戦艦ビスマルク、重巡洋艦ヒッパーなど大型水上艦艇に搭載。沿岸水上機部隊にも配備された。
写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦に参加したドイツ「コンドル軍団」を率いたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)少将と握手する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(Hermann Göring)(右):第一次世界大戦末期,
ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1938年11月、少将として、コンドル軍団長としてスペイン内戦に二度目の派兵。1939年5月に、コンドル軍団は凱旋、ドイツに帰国した。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06827
Original title: info ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der deutschen Interventionstruppen in Spanien, die auf der Seite des faschistischen General Franco gegen die spanische Republik kämpfte. Im Frühsommer 1939 kehrten die Angehörigen der Legion Condor nach Deutschland zurück.
UBz: Rückkehr der "Legion Condor" im Hamburger Hafen. Generalfeldmarschall Göring begrüßt Generalmajor Freiherr Wolfram von Richthofen.
31.5.1939
Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln
Dating: 31. Mai 1939
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦から凱旋したドイツ「コンドル軍団」司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将とともにコンドル軍団を閲兵する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1936年4月20日に上級大将 (Generaloberst)になったゲーリングは、第二次大戦1年半前、1938年2月4日に、元帥 (Generalfeldmarschall)に昇進した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-E06857
Original title: info ADN-ZB
Legion Condor- in Hamburg
Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front, der in einem riesigen Viereck auf der Moorweide angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Freiherr von Richthofen, ferner der kommandierende General des 10. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann.
31.5.39
ADN-ZB
Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der faschistischen deutschen Interventionstruppen zur Unterstützung des Franco-Putsches in Spanien. Das Personal (etwa 6000 Mann) wurde ständig ausgewechselt, um kriegserfahrene Manschaften und Offiziere heranzubilden. Ende Mai 1939 kehrte die Legion Condor nach Deutschand zurück.
UBz: Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front der auf der Moorweide in Hamburg am 31.5.1939 angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Wolfram Freiherr von Richthofen, der kommandierende General des X. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Hugo Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann.
7058-39
Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln
Dating: 31. Mai 1939
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
1941年1月4日にフィンランド首相となったヨハン・ウィルヘルム・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻を契機として、ソ連に攻め入った。これは、1939年の冬戦争で敗れ失った国土カレリア地方を奪還するというのが目的だったが、共産主義者の反乱を鎮圧して独立したフィンランドは、当初からソビエト連邦を警戒、仮想敵としていたから、これは、脅威となっているソ連に対する弱体化の戦争とも考えられる。
1941年6月のドイツのソ連侵攻にあわせて始めた継続戦争だったが、1943年に入ると、明らかに戦局はフィンランド、ドイツに不利になってきた。ソ連に対しては、イギリス、アメリカが膨大な軍事物資を貸与しており、ソ連の生産力増強と相まって、フィンランド、ドイツは、ソ連軍の攻勢を防ぐことも困難になっていた。戦局が悪化する中で、1943年3月5日、フィンランド首相ヨハン・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は辞任し、新たにエドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)がフィンランド首相に就任したが、彼も、ソ連に降伏できない以上、ナチスとの同盟を堅持するしか選択肢はなかった。
ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)は、1867年6月4日生まれのフィンランドの軍人で、第二次世界大戦が戦われていた時期の1939年から1945年の間、フィンランド軍の最高司令官だった。当時、ソビエト連邦と戦い苦戦していた同盟国のドイツ総統ヒトラーとしては、フィンランドに対ソ戦を継続させる必要があった。
第二次大戦時のフィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の誕生日、1942年6月4日は、ヒトラーが空路お祝いに駆けつけ、マンネルハイム元帥自身が出迎えをした。フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡を奪還すると称して、1941年6月26日、「継承戦争」をはじめ、ソ連を攻撃した。
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