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◆独ソ戦バルバロッサ作戦と捕虜・パルチザン Unternehmen Barbarossa 写真(上):1941年夏,ソ連ウクライナ,民族衣装(ソロチカ)で盛装したウクライナの現地住民と交歓するドイツ軍兵士ドイツ側が演出したプロパガンダ写真。1940年代,ウクライナ人とドイツ人が交歓する機会はまずなかったから、ドイツ軍兵士は,ウクライナUkraine)旅行の気分に陥ったかもしれない。人種民族的な偏見や迫害よりも,好奇心や暖かな視線を感じることがある。
1941年6月22日,ドイツ軍はに則って,ソ連に侵攻した。これは,中央軍集団によるモスクワ方面への中央突破,ソ連軍撃滅を企図したバルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)作戦だった。しかし,1941年末には,ソ連軍の頑強な抵抗を受けて,攻撃は停滞,ソ連軍の冬季攻勢を受けた。敗走する部隊も出始めたが、ヒトラーは,ドイツ軍に補給,陣地が整っていない現状では,撤退を始めれば,部隊統制がとれなくなり,殲滅されると危惧した。そこで,現地死守を命じて,ドイツ軍の敗勢を食い止めようとした。これに逆らった将軍は追放された。1938年の国防大臣、陸軍参謀長の追放と同じく、ヒトラーに服従しない将軍は出世の道を断たれた。彼らのうちから、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画・クーデターに参加する将軍が生まれた。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0162 Original title: info Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年,独ソ戦開始直後,クリミア半島,砲兵用の観測双眼鏡を前にしたドイツ軍兵士Sowjetunion, Krim.- Horst Grund im Gespräch mit Gebirgsjägern neben Scherenfernrohr Dating: 1941 ca. ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

◆鳥飼行博研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。

◆2009年9月8日(火)20時,12日(土),15日(火),NHK BS-hi『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
◆2011年9月2日・9日(金)21時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess ルドルフ・ヘス」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


序.ナチスドイツによる人種差別・迫害

ファシズムの軍備拡張、領土拡張が進むにつれて、世界秩序の再編成を唱えるファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立する。ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを1925年の著作『わが闘争』で公言していた。ドイツを弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,排除すべきであるとするアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝していた。

◆ドイツ総統ヒトラーは,ロシア人やウクライナ人Ukraine)はアジア人,非文明人だとして,人種民族差別を正当化した。ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ優秀民族であり,世界の覇権を握るべきで,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人など下等人種は排除しなけらばならない,と訴えた。しかし,アーリア「人種」など,恣意的区分に過ぎない。

写真(右)1929年,ロシアの革命家レフ・ダビドビッチ・トロツキー:1879年7月11日,Ivanovka(Elisavetgrad)で生まれ,1940年8月21日,亡命先のメキシコシティで暗殺された。 ロシアとソ連の政治家、レーニンの下で,外務人民委員(人民委員外交部:外相)として働き、1918年,ドイツと和平交渉を行い,ブレスト=リトフスク条約を結んだ。その後すぐに,外務人民委員を辞任,軍事人民委員・革命軍事会議議長に就任し,赤軍を編成,内戦では反革命軍・外国軍の干渉を排除した。1924年,レーニンが死亡すると,世界への共産主義革命の輸出という「世界革命論」を唱えて,国防を重視するスターリン書記長の「一国社会主義論」と対立。政争に敗れて,トロツキーは1927年に解任,1929年,ソ連からの追放される。ヒトラーは,彼をユダヤ人共産主義者のならず者として嫌悪していた。
Leo Dawidowitsch Trotzki (eigtl. Leib Bronstein) geb: 7.11.1879 in Iwanowka bei Jelisawetgrad, ermordet: 21.8.1940 in Mexiko City russischer und sowjetischer Politiker und Staatsmann. Als Volkskommissar des Äusseren führte er die russische Abordnung bei den Friedensverhandlungen 1917/18 mit den Mittelmächten in Brest-Litowsk, seit März 1918 Volkskommissar für Krieg und Marine. Trotzki wurde 1927 ausgeschlossen und 1929 aus der Sowjetunion ausgewiesen 3201-29 Archive title: Leo Dawidowitsch Trotzki (Porträt) Dating: 1929 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はBild 183-R15068 ,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な後天的な区分,人種は遺伝・DNAが支配する先天的な区分とされる。しかし,人「種」など存在せず,亜種(Subspecies)があるに過ぎない(亜種間では繁殖可能)。

東方ソ連は,ボリシェビキ支配地域として,その土地,資源,人民をドイツ支配下におこうとした。これはロシア人,ウクライナ人,チェチェン人,ポーランド人などスラブ民族やアジア人を劣等民族と位置づけ,東方をドイツ民族のための生存圏(レーベンスラウム)とみなしたためである。

◆ナチスの人種政策は,権力と暴力を行使しながら,基本的人権の侵害,迫害,虐殺へと激化した。人種民族差別に基づいて,ソ連をドイツ第三帝国の生存圏として支配するバルバロッサ作戦を実施した。

1.ポーランド侵攻とソ連侵攻との類似点

1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリを処置。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。

1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻で破壊された都市では,住民が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。この時,労役に従事したユダヤ人を登録させた。ユダヤ人には,労役をこなして,家族の身の安全を保障しようとしたが,ユダヤ人登録はユダヤ人を把握して,ゲットーに移送するための姦計だった。

◆ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を処刑したことである。1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを逮捕、粛清、」ユダヤ人をゲットーに隔離した。独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。1941年6月22日,ドイツのソ連侵攻でも,占領下のユダヤ人やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に収監されたりした。ポーランドでも,ソ連でも,ドイツ親衛隊,警察,国防軍とともに,現地ポーランド,バルト諸国,ウクライナの警察・住民の一部は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。

写真(右):1941年10月,マウトハウゼン強制収容所に整列するソ連軍捕虜:1941年6月,バルバロッサ作戦によってソ連に侵攻したドイツ軍は緒戦で多数のソ連軍捕虜を獲得した。
しかし,1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃したとき,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力で保障占領していた。第二次大戦勃発1週間前,1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約では,ポーランドをヴィスワ川の線で独ソ二分割することが密約されていたからである。
リッベントロップ外相とモロトフ外相の二人が署名した独ソ不可侵条約によって,独ソ連両軍は友好関係にあったが,これは2年と続かなかったÖsterreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener im KZ Mauthausen, Oktober 1941 Dating: Oktober 1941 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_192-3612C_KZ_Mauthausen2C引用(他引用不許可)。

独ソ不可侵条約では,ポーランドをブーク川の線で独ソ二国で分割することが密約されていた。1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランド東部を保障するとしてソ連軍を進駐させ,武力占領した。

ブレストの町は,1939年9月17日にハインツ・グデーリアンHeinz Wilhelm Guderian:1888-1954)将軍の第19装甲軍団が占領したが,町は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ソ連に譲渡された。そして,ベラルーシ(白ロシア)の一部として併合された。

英仏はポーランドと相互条約を結んでいたため,1939年9月3日,イギリス首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain:1869-1940)は、ドイツに宣戦布告した。しかし,英仏は,その後にポーランドを占領したソ連には,宣戦布告していない.

1940年5月、ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)が辞任、新たなイギリス首相にウィンストン・チャーチルWinston Churchill)が就任した。彼は、フランス降伏後のヒトラーによる和平提案を相手にせず戦いを継続した。

 1941年6月22日,独ソ戦が勃発すると,イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)は、即時にソ連共産党書記長(事実上の最高指導者)スターリンに対する軍事援助を申し出た。


2.バルバロッサ作戦を延期させたバルカンの戦い

写真(右)1941年4月、ギリシャ侵攻、鉄道線路を利用して快進撃するドイツ陸軍III号戦車:
Catalogue number: HU 39517, Part of GROSS DEUTSCHLAND IM WELTGESCHEHEN: TAGESBILDBERICHTE (HEINRICH HOFFMANN), Production date: 1941-04, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Photography, Creator: Hoffmann, Heinrich, Object description: German Panzer III tanks advance along a railway line in pursuit of retreating British troops in Greece between 25 and 30 April 1941.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 39517)


ドイツは、1941年4月のギリシャ侵攻、ユーゴ鎮圧などバルカン半島での作戦うぃ従事したために、1941年5月に計画していたソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の発動が、予定よりも1カ月間も遅延した。その結果、モスクワ侵攻が遅れ、1941年中に占領することはできなくなった。

ルーマニアには,ドイツに石油を供給していたプロエスチ油田があり,ドイツはソ連の攻撃を恐れた。そこで,ドイツはルーマニアを誘って,1940年11月,日独伊三国同盟に加盟させた。

写真(右)1941年5月,ギリシャ、イギリス軍の占領したクレタ島を占領するために準備されたドイツ軍の降下猟兵(空挺部隊)と彼らを空輸するユンカースJu52三発輸送機:パラシュート降下や輸送機による空輸によって、地中海に浮かぶクレタ島に兵力を運んだが、輸送部隊も兵士も大きな損害を被った。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L19017 Original title: info Eine einzigartige Leistung vollbrachten unsere Truppen bei der Besetzung der Insel Kreta. Am Morgen des 20. Mai landeten die ersten Fallschirmjäger und im Laufe der nächsten Tage werden immer weitere größ ere Verbände Fallschirmjäger und Luftlandetruppen nachgezogen. Der Kampf um die schwer befestigten britischen Gebirgsstellungen erforderte bei unseren Gebirgstruppen, die mit Transportmaschinen nach Kreta befördert wurden, den höchsten Einsatz. Unser Bild zeigt Gebirgsjäger kurz vor ihrem Start nach Kreta. PK-Jesse-Scherl, 31.5.41 [Herausgabedatum], Dating: Mai 1941 Photographer: Jesse 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


イタリア軍のギリシャ侵攻は、ギリシャ軍の果敢な抵抗にあって頓挫し、地中海の覇権を重視するイギリス軍は、ギリシャを確保するために、ギリシャに侵攻した。このイギリス軍ギリシャ侵攻に対して、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を延期して、ギリシャ遠征を実施した。これに追い打ちをかけたのが、ユーゴスラビアの親ドイツ政権を倒したクーデターである。バルカンで起こった二つの反ドイツの動きは、ルーマニアの油田やソ連侵攻の補給路を確保するためにも、見逃すことはできなかった。ヒトラーは即座に、ギリシャ侵攻、そしてユーゴ侵攻を決意し、ドイツ軍を派遣した。見逃すことができなかった。

写真(右)1941年6月,ギリシャ、クレタ島、ドイツ軍に降伏したイギリス軍の捕虜:パラシュート降下や輸送機による空輸によって、地中海に浮かぶクレタ島を攻略したドイツ軍は、空軍によって、イギリス海軍艦艇を撃破して、クレタ島へのイギリス軍の増援を遮断し、クレタ島内のイギリス軍を包囲、降伏させた。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L19113 Original title: info Auf Kreta gefangene Briten werden abgeführt. Sie haben der überlegenen Gefechtsführung der deutschen Fallschirmjäger und Luftlandetruppen nicht standhalten können und sich ergeben. PK-Jesse 11.6.1941 [Herausgabedatum] "Fr" OKW Dating: Juni 1941 Photographer: Jesse 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1941年6月,バルカン、ユーゴスラビア、2両のドイツ軍III号戦車E型Sd.Kfz. 141 Pz.Kpfw. III Ausf. E :3.7センチ砲(3.7 cm KwK 36)搭載。手前には馬匹に曳かせる馬車があり、ハンド・ブレーキがついている
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-185-0137-15A Archive title: Jugoslawien.- Panzersoldaten in den Türmen zweier Panzer III (Sd.Kfz. 141; Panzerbefehlswagen); PK 691 Dating: 1941 Photographer: Grimm, Arthur 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1941年4月,ユーゴスラヴィアに反独クーデターが勃発,三国同盟を無視するかのように,ソ連と友好不可侵条約を結んだ。1941年4月6日,ドイツ軍は即座に,ユーゴスラヴィアに侵攻,4月13日,1週間でユーゴは降伏。

写真(右)1941年6-7月,バルカン,ユーゴスラビア、ドイツ軍のIII号戦車IE型(Sd.Kfz. 141 Pz.Kpfw. III Ausf. E ):3.7センチ砲(3.7 cm KwK 36)搭載。バルバロッサ作戦では、当初、1941年5月にソ連に侵攻する計画だったが、バルカンのユーゴスラビアでクーデタが発生、親ドイツ政権が倒されてしまった。そこで、ヒトラーは、急遽、バルカン侵攻を命じた。この作戦によって、ソ連侵攻が1カ月以上遅れることになり、攻撃目標に達するまえに、厳冬を迎えてることになったともいわれる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-185-0137-14A Archive title: Jugoslawien.- Panzersoldat im Turm eines Panzer III (Sd.Kfz. 141; Panzerbefehlswagen) in Fahrt; PK 691 Dating: 1941 Photographer: Grimm, Arthur撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


この同時期の1941年4月,日本の松岡洋右外相がベルリンからの帰路、モスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を締結した。ソ連は,いずれ英国が敗れれば,ドイツがソ連を攻撃してくると予測していたから,極東アジア方面での日本軍によるソ連侵攻を警戒していた。そこで,ドイツを牽制するためにり、日ソ中立条約を結び、日本とソ連が結んだ領土保全と不侵略を相互に約束した。

 ソ連指導者スターリン自らが松岡洋右外相をモスクワの駅頭に送ったのはその成果に満足し、独日双方との同盟、すなわち独ソ不可侵条約日ソ中立条約を締結したソ連の安泰を世界に誇示したかったからだった。

写真(右)1941年,バルカン、ユーゴスラビア,24口径7,5センチ砲を搭載したドイツ陸軍IV号戦車E型、車体番号11号車:戦車兵は黒の戦車兵用の戦闘服を着用しイヤホーンを付けている。24口径砲の砲身、車体前方の7.92ミリ機関銃、ハッチまで明瞭に映し出されている。IV号戦車(Sd.Kfz. 141) は、のちに43口径7,5センチ戦車砲に変換されて、攻撃力が大幅に強化された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-770-0280-20 Archive title: Balkan, Jugoslawien.- Panzer IV mit Besatzung auf Landstraße; PK OKW Dating: 1941 Photographer: Feitel, Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不可)。


バルカン侵攻がなければ,ドイツ軍は,バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)を5月に開始し,冬到来前に,モスクワを陥落できたとの俗説がある。しかし,ドイツ軍は,1941年4月,英本土航空決戦大西洋戦い(潜水艦戦),さらにユーゴスラビア,ギリシャ,北アフリカで戦っていた。イタリア戦線脱落,バルカンへの英軍による側面攻撃のリスクを冒すことは出来ない。多面戦争を戦う無理を承知で,6月にソ連に侵攻した。

1941年4月27日,バルカンで戦うドイツ軍指揮官に対して「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出された。そして,「ドイツ軍が占領したユーゴスラヴィア領土は、ドイツ軍政下に置く。軍司令官は,軍隊の安全および治安・秩序の安定のために必要な措置を取る。」とされた。

1941年4月28日,第二軍団マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)司令官の命令書では,ドイツ人への襲撃に対しては,住民に過酷な報復を行うことを通告している。「襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」

ドイツ軍によるソ連侵攻の2週間前,1941年6月6日,政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)が出た。これは,ボリシェビキの残忍さ,アジアの野蛮性を前提とした殲滅戦にあって,ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校であるコミサールは,パルチザンの温床であり,処刑すべきことを指示した。そして,政治委員コミサール射殺命令は,親衛隊特別行動部隊(アインザッツグルッペ)が担った。


3.バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossaの発動

写真(右)1940年6月,総統大本営ヴォルフシャンッツェのヒトラー総統とドイツ国防軍最高司令部の幕僚:前列ヒトラーの左に最高司令部総長ウィルヘルム・カイテル元帥,右に統帥部長アルフレート・ヨードル,その右が官房長官マルチン・ボルマン。
Zentralbild Faschistenführer Hitler mit seinem Stab im Hauptquartier Im Juni 1940 ließ sich Hitler mit seinem Gefolge, es ist anzunehmen, daß dieses Foto in der "Wolfsschanze" (gebaut von 1940-1942) aufgenommen wurde, im Führerhauptquartier fotografieren. Soweit bekannt vlnr: SA-Obergruppenführer Helmut Brückner, OKH-Adjutant Major Engel, Reichspressechef Dr. Otto Dietrich, Hitlers Begleitarzt Dr. Karl Brandt, Chef des OKW Generaloberst Wilhelm Keitel, Luftwaffenadjutant Generalmajor [Karl] Bodenschatz, Adolf Hitler, Wehrmachtsadjutant Oberst Rudolf Schmundt, SS-Adjutant SS-Gruppen-führer Julius Schaub, Chef des Wehrmacht-sführungsamtes im OKW General Alfred Jodl, Adjutant Himmler und Verbindungs-mann zu Hitlers SS-Gruppenführer Karl Wolff, Leiter der Parteikanzlei Reichsleiter Martin Bormann, Hitlers Leibarzt Prof. Dr. [Theo] Morell, OKW-Adjutant Hauptmann von Below, Reichs-bilderstatter der NSDAP Heinrich Hoffmann. Die "Wolfsschanze", ein von Hitler geprägter Name, lag in der Nähe der Stadt Ketrzyn., Wojewodschaft Olsztyn (früher Rastenburg, Amtsbezirk Allenstein), Volks-republik Polen. Archive title: Vermutlich entstand das Foto auf dem Gelände des Führerhaupt-quartiers 'Wolfsschlucht' bei Bruly-le-Peche in Belgien, nicht im Führerhaupt-quartier "Wolfsschanze" in Ostpreußen. Dating: Juni 1940 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,ソ連に侵攻した。このドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)が発動された理由は,次のようのものである。

1)バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のこと。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪する。このようにして,大ドイツ繁栄の基礎となる生存圏を形成しようとした。

2)ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナUkraine)をヒトラーに貸与するという噂があった。

3)フランス降伏後,英国が孤立しても戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。バルバロッサ作戦の準備は,英本土上陸作戦の意図を隠蔽する目的で行われる陽動だとされた。実際,ドイツ海軍軍令部は,2月18日の作戦日誌で,陽動作戦のことを記している。

写真(右)1942年,ユンカースJu-87D急降下爆撃機:ドイツ空軍の電撃戦の象徴で,対地支援任務に活躍した。左主翼に小型爆音発生用プロペラを装備している。全長11.5メートル,全幅13.8メートル,翼面積32平方メートル,重量4400キロ,最高速度385キロ,ユンカースJumo211液冷1350馬力エンジン, 乗員2名,武装 7.92mm機銃4丁,爆弾500キロ搭載。性能は標準的だが,実用性に優れていた。jumo211エンジンは,合計6万8000台が生産され,1942年秋には月産1700台を製造していた。
Sowietunion-Mitte.- Flugzeug Junkers Ju 87 des Sturzkampf-geschwader 2 (II./Stg 2; Kennung "T6+DC") mit Gruppen-abzeichen "Bamberger Reiter" und Aufschrift "Mieze" am Rumpf im Flug; KBK Lw 8 Dating: 1942 Photographer: Niermann 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラーは、対ポーランド戦争,フィンランド冬戦争に苦戦したソ連軍を弱体だと見た。対ソ戦は,1941年中に,ほぼ決着がつくと,早期勝利を確信していた。 

写真(右)1941年8月,ソ連レニングラード近くで整備を受けるメッサーシュミットMe-109F戦闘機:ドイツ空軍主力戦闘機で,エンジンのプロペラ軸を通して20ミリ機銃を装備していた。その銃身を清掃している。
Sowjetunion, bei Leningrad.- Wartung eines Jagdflugzeugs Messerschmitt Me 109 des Jagdgeschwader 54 "Grünherz" (II./JG 54), Oberleutnant mit Messgerät an Bordkanone; PK KBK Lw 4 Dating: August 1941 Photographer: Reiner撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-390-1220-19 引用(他引用不許可)。


バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)において、ドイツ空軍は,東部戦線に四個航空軍を配備,第一線機1280機を揃えた。内訳は,ハインケルHe-111,ユンカースJu-88など双発爆撃機510機,ユンカースJu87など急降下爆撃機290機,メッサーシュミットMe109単発戦闘機440機,Me110双発駆逐機40機,長距離偵察機120機である。
ソ連空軍は,その2倍の飛行機を保有していると予測された。

写真(右)1941年,ソ連に侵攻したドイツ軍武装親衛隊:野戦用の迷彩服を着用,浅い個人用の塹壕(タコツボ)を掘っている。
Russland.- Soldaten der Waffen-SS in Schützenlöchern auf einem Feld, im Vordergrund drei SS-Männer in Schützenloch mit Panzerbüchse; SS-PK Dating: 1941 Photographer: Extersatuei撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1941年6月,ソ連,ウクライナ,マクシミフカ=スカラ間の集落,未舗装道路を進撃する装甲車(Sd.Kfz.253),トラック,キューベルワーゲン(軍用乗用車),オートバイ:ドイツ陸軍では,機械化された歩兵部隊を,狙撃兵と呼んだ。 Russland, Ukraine, zwischen Maksymivka und Skalat.- leichter Beobachtungspanzer (Sd.Kfz. 253) und motorisierte Truppen bei Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 691 Datierung: Juni 1941 Fotograf: Otto Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)において、ドイツ陸軍兵力は,三軍集団あった。
北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。

写真(右)1941年8月,ソ連、東部戦線,ドイツ軍のハインツ・グーデリアン(Heinz Guderian)将軍:後方には、現地住民がログハウス玄関に立っている。1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦で、グーデリアン将軍は、フェードア・フォン・ボック元帥隷下の中央軍集団に所属する第2装甲軍(Panzergruppe 2)を指揮指揮した。その後、ヒトラーの命令を受けてモスクワ進撃ではなく、南下の指示を受けた。そして、南方軍集団に加わって、キエフ包囲戦を戦った。1944年7月21日、、陸軍参謀総長に任じられ、前日のヒトラー暗殺未遂事件に加わった将校を処罰した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L19885 Original title: info Generaloberst Guderian auf dem Gefechtsstand eines Panzerregiments. Ständig steht der General in der vordersten Front. Hier besucht er den Gefechtsstand eines Panzerregiments, um sich von dem planmässigen Verlauf des Vormarsches zu überzeugen. PK-Huschke-Scherl. 20.8.41 [herausgabedatum] "Fr" OKW Archive title: Russland.- Generaloberst Heinz Guderian bei Inspektion des Gefechtsstand eines Panzer-Regiments (Holzhaus), mit Panzersoldaten Dating: August 1941 Photographer: Huschke 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不可)。


ソビエト連邦Soviet Union)侵攻バルバロッサ作戦時のドイツ軍は、北方、中央、南方の三つの軍集団に分かれていた。これは、一見すると分散型の進撃で、弊職を集中できず不利なように思えるが、当時のソ連では、一方向からののみ、大軍を擁しての集中攻撃することは、補給のための鉄道も道路も不十分であるために、不可能だった。補給可能なルートを確保しようと思えば、進撃ルートを一本に絞ることは不可能だった。そこで、ドイツ軍は、北方、中央、南方の三つの軍集団に分かれてソビエト連邦Soviet Union)に侵攻したのである。

中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。
南方軍集団(フォン・ルントシュテット元帥):3個軍,1個装甲集団によってガリチア、ウクライナUkraine)西部からキエフを攻略。

写真右)1941年6-7月,バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossaに参加したドイツ軍I号指揮観測戦車:機関銃しか搭載できないI号戦車は旧式化していた、そこで、小型砲塔を取り除き,そこに密閉式の大型戦闘指揮室を設けた観測や指揮に用いることのできる戦車に改造した。この指揮戦車、観測戦車は,装甲師団の戦車部隊に随伴して行動できた。
Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Befehlspanzer I Ausf. A auf einer Landstraße; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf]撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-265-0006-31引用


写真(右)1941年6-7月,ソ連、バルバロッサ作戦に参加したドイツ陸軍I号指揮観測戦車Sd.Kfz. 265 :ドイツ軍は,装甲師団の効果的な運用を図るために、装甲師団に既存の戦車を改造した指揮専用の戦車を配備した。このI号指揮戦車は、砲塔を撤去して大型の戦闘室を設け、高性能無線を搭載した。しかし、戦闘部隊に随伴するために、戦闘室前部に7.92ミリ機関銃を搭載している。戦車と同じように第一線に立って指揮するのである。車体後部には粗朶、木製棒を積んでいるが、これは悪路や泥濘のところに敷いて、車体がのめりこむのを防ぐための工夫である。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0006-28 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Befehlspanzer I Ausf. A auf einem Feld stehend; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0006-28引用


写真(右)1941年6-7月,ソ連、バルバロッサ作戦に参加したドイツ陸軍I号指揮戦車Sd.Kfz. 265 :ドイツ軍は,装甲師団の効果的な運用を図るために、装甲師団に既存の戦車を改造した指揮専用の戦車を配備した。このI号指揮戦車は、砲塔を撤去して大型の戦闘室を設け、高性能無線を搭載した。しかし、戦闘部隊に随伴するために、戦闘室前部にボールマウントを設けて7.92ミリ機関銃を搭載している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzersoldat in Panzerbefehlswagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 265 auf Basis des Panzer I) in Gespräch mit einem Soldaten vor Gebäude; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0006-16引用


写真(右)1941年6-7月,ソ連、バルバロッサ作戦に参加したドイツ陸軍I号指揮戦車Sd.Kfz. 265 :戦車と同じように第一線に立って指揮するのである。車体後部には粗朶、木製棒を積んでいるが、これは悪路や泥濘のところに敷いて、車体がのめりこむのを防ぐための工夫である。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0007-02 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzersoldat in Panzerbefehlswagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 265 auf Basis des Panzer I) in Gespräch mit einem Soldaten vor Gebäude; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0007-02引用


写真(右)1941年6-7月,ソ連、バルバロッサ作戦に参加したドイツ陸軍チェコ製35(t)軽戦車:1935年にチェコスロバキアのシュコダ社が開発した軽戦車で、1938-1939年のチェコ併合によってドイツ軍にも配備された。 全長4.9m、車体長4.9m、全幅2.06 m、全高2.37 m、重量10.5 t、最高速度34 km/h(整地)、航続距離120 km、3.7 cm KwK34(t) (A-3 37.2mm:携行弾数72発)、7.92 mm MG37(t)機関銃2丁搭載。砲塔前面装甲25 mm、側面装甲15 mm。 チェコ製38(t)軽戦車より性能的に若干劣っていたが、ドイツ軍は1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦でも1941年末まで使用した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-209-0090-28 Archive title: Sowjetunion-Nord.- Soldaten neben Panzer 35(t) (Turmnummer 713) vor brennender Ortschaft; PK 694 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Zoll 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ソビエト連邦Soviet Union)侵攻のバルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)に投入されたドイツ陸軍は,中央軍集団の司令官フェードア・フォン・ボックFedor von Bock)元帥の下にハインツ・グデーリアンHeinz Wilhelm Guderian)ら率いる装甲部隊主力を集中していたが,ソ連軍は,資源・工業地帯である南方戦線に主力を配備した。ソビエト連邦Soviet Union)南部は、ウクライナUkraine)であり,穀物生産,石油,鉄鉱石,石炭を産出し,肥沃な土地で工業地帯もある。また,ドイツの同盟国ルーマニアのプロエスチ油田を臨む地域でもあった。

写真(右)1941年6月,ソ連侵攻バルバロッサ作戦、ドイツ軍の半装軌式兵員輸送軽装甲車(Sd.Kfz. 250) :草原の中で草木で完全に偽装している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-136-0883-29A Archive title: Rußlandfeldzug.- "Unternehmen Barbarossa". Motorisierte Truppen, u.a. getarnter, leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) und Motorrad, auf dem Vormarsch; PK 689 Dating: Juni 1941 Photographer: Cusian, Albert 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-136-0883-29A引用


写真(右)1941年6月,ソ連侵攻「バルバロッサ」作戦"Unternehmen Barbarossa"時期のウクライナ、ドイツ軍の半装軌式観測軽装甲車(Sd.Kfz. 253 / Beobachtungs-panzer) :半装軌式兵員輸送装甲車(ハーフトラック Sd.Kfz.250)をベースにした観測軽装甲車で、戦闘室の上面を装甲板で覆って密閉した。そして、観測の際して便利なように、上面に大型の円盤がタッチを設けている。最前線に進出して射撃管制を行った。他方、無線指揮車は、上面開放式の戦闘室で大型のフレームアンテナ(ロッドアンテナ)をたてている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-136-0873-20A Archive title: Rußlandfeldzug.- "Unternehmen Barbarossa". Deutsche Soldaten neben leichtem Beobachtungspanzer (Sd.Kfz.253) auf Bahngleisen; PK 689 Dating: Juni 1941 Photographer: Cusian, Albert 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-136-0873-20A引用


写真(右)1941年6月,ソ連侵攻バルバロッサ作戦、ドイツ軍の半装軌式観測軽装甲車(Sd.Kfz. 253 / Beobachtungs-panzer) :半装軌式兵員輸送装甲車(ハーフトラック Sd.Kfz.250)をベースにした観測軽装甲車で、戦闘室の上面を装甲板で覆って密閉した。そして、観測の際して便利なように、上面に大型の円盤がタッチを設けている。最前線に進出して射撃管制を行った。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-186-0199-11A Archive title: Rußland.- Soldaten mit Ferngläsern bei Beobachtung auf leichtem Beobachtungs-panzer (Sd.Kfz. 253) stehend; Motorräder unter Baum; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Springmann撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-186-0199-11A引用


半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz.250)は、ドイツ軍が第二次大戦に突入する以前に1トン牽引車をベースに開発した兵員輸送装甲車で、車体後半にキャタピラーを装備したハーフトラックであったために、路外、不整地での機動性が高かった。

半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz.250)をベースに、各種の特殊車両が開発された。この装甲車の車体後半の戦闘室上面を装甲板で覆って密閉し、観測機材を搭載したのが半装軌式観測装甲車(Sd.Kfz. 253)である。観測装甲車は、射撃観測の際して便利なように、上面に大型の円盤がタッチを設けている。最前線に進出して射撃管制を行った。他方、無線指揮車は、上面開放式の戦闘室で大型のフレームアンテナ(ロッドアンテナ)をたてている。

写真(右) 写真(右)1942-1943年,ソ連,装甲擲弾兵師団のドイツ・ハノマーク社の半装軌式無線指揮装甲車(Sd.Kfz250/3)の無線手:装甲車には,小型のSd.Kfz. 250/3 と大型のSd.Kfz. 251があった。
Russland, bei Achtyrka.- Soldaten (Panzertruppe, Nachrichtentruppe) in leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3, Funkpanzerwagen) der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland" an Funkgerät; PK ObdH Dating: 1942/1943 Photographer: Kempe Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-748-0100A-11引用(他引用不許可)。

ヒトラーは,博打的な奇襲を好んだ。ソビエト連邦Soviet Union)ロシア中部は沼沢地もあり,攻撃には不利だったが,このような地域こそ,予想外の電撃戦にふさわしいと判断した。

1940年5月,ドイツ軍がフランスを攻撃したのは,装甲師団の展開に不利なアルデンヌ林のルートだった。
ソ連侵攻バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)に投入されたドイツ陸軍にあっても,ヒトラーは,沼沢地,河川が多く,ソ連軍が攻撃を予期しない中部地域に大軍を投入した。

1941年6月21日,ソ連侵攻バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)開始の前日の,ドイツ軍東部戦線配備兵力
兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機。
対峙するソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。

写真(右)1941年6月,ロシア、バルバロッサ作戦時期のドイツ陸軍半装軌式救急装甲車Sd.Kfz.251/8:ドイツ軍は,装甲車を救護活動に投入した。最前線の患者や負傷者を救助するために、半装軌式救急装甲車を改造して担架やベットを戦闘室に備えた。しかし、独ソ戦では、お互いに赤十字記章を尊重しなかったので、後に目立った赤十字記章を付けないようになった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-534-0009-14 Original title: info Scherl Bilderdienst Krieg in Rußland Ein Verbandsplatz der Panzerwaffe PK - Kudicke 6653-41 Archive title: Rußland; Juni 1941, PK: 1. Flakkorps Dating: Juni 1941 Photographer: Kudicke 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-534-0009-14.引用(他引用不可)。


写真(右)1941年6月,ソ連侵攻「バルバロッサ」作戦"Unternehmen Barbarossa"、藁束で偽装を施したドイツ軍の半装軌式無線指揮軽装甲車(Sd.Kfz. 251/3, Funkpanzerwagen) :半装軌式兵員輸送装甲車(ハーフトラック Sd.Kfz.250)をベースに、大型のフレーム(ロッド)・アンテナした無線指揮軽装甲車で、戦闘室の上面は開放されており、観測装甲車のように装甲板で密閉されているわけではない。最前線に進出して無線で指揮を執った。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-187-0208-27 Archive title: Russland.- Panzersoldaten und Infanteristen bei Ruhepause vor stark getarntem mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/3, mittlerer Funkpanzerwagen) in Stellung auf einem Feld stehend; PK 691 Dating: September 1941 Photographer: Springmann 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-187-0208-27引用


写真(右)1941年6月,ロシア、バルバロッサ作戦時期のドイツ陸軍半装軌式兵員輸送軽装甲車Sd.Kfz.250:藁束で厳重に偽装を施して休息をとるドイツ軍兵士。ヘッドランプのガラスも光反射して敵に発見されることを避けるために布製のカバーを掛けて偽装している。
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-187-0208-33 Archive title: Russland.- Soldat, schlafend, vor stark getarntem leichten Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) in Stellung auf einem Feld stehend; PK 691 Dating: September 1941 Photographer: Springmann撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-187-0208-33 引用(他引用不可)。


写真(右)1941年10月,ソ連北部、ドイツ陸軍半装軌式兵員輸送軽装甲車Sd.Kfz.250とMP38短機関銃を手にしたドイツ軍兵士:MP38は、1938年に制式された口径9mmの19mm長パラベラム拳銃弾を使用、銃身長25cm、装弾数32発の連続発射の短機関銃。量産性を考慮して、鋼板をプレスして製造し、銃床は折畳み式の斬新な構造だった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-213-0278-37A Archive title: Sowjetunion-Nord.- Zwei Soldaten (u.a. mit Maschinenpistole) vor leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) stehend; PK 694 Dating: Oktober 1941 Photographer: Gebauer撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-213-0278-37A 引用(他引用不可)。


写真(右)1941年6-7月,ソ連侵攻「バルバロッサ」作戦"Unternehmen Barbarossa"に参加したドイツ陸軍の自動車部隊の隊列:対空標識として、ボンネット上にはカギ十字の国旗が掲げてある。左側には二輪オートバイ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0003-08A Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", motorisierte Kolonne, Kraftwagen mit MG und Hakenkreuzflagge auf K&uauml;hler, Krafträder mit Beiwagen; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0003-08A引用


写真(右)1941年6-7月,ソ連侵攻「バルバロッサ」作戦"Unternehmen Barbarossa"に参加したドイツ陸軍の自動車部隊の隊列:道のわきに撃破されているのはソ連赤軍の BA-10六輪中型装甲車で、第二次大戦当初から実戦に投入されていた。原形は、六輪トラックで量産性に優れていた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-186-0199-07A Archive title: Sowjetunion.- Deutsche Soldaten bei Fahrt in PKW (Leichter geländegängiger PKW) auf unbefestigter Straße, daneben zerstörter sowjetischer Aufklärungspanzer / Aufklärungsfahrzug BA-10; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Springmann 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-186-0199-07A引用


写真(右)1941年7月,ソ連北部、バルト、リトアニアを進撃するドイツ軍:装甲車と自転車で移動している。
Sowjetunion-Nord.- Vormarsch durch Lettland. Radfahrkompanie vor leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250 ?), Anfang Juli 1941; PK 621 Dating: Juli 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-009-0870-04A引用(他引用不許可)。


他方,ソ連軍は,北方には30個師団,8個機甲旅団,中部にフェードア・フォン・ボックFedor von Bock)率いる45個師団,14個機甲旅団,南部に64個師団,14個機甲旅団を配備し,ソ連空軍は白ロシア(ベラルーシ)に6000機を配置。

写真(右)1941年7月,ソ連北部、バルト、リトアニアを進撃するドイツのナチ武装親衛隊SS「髑髏」師団の二輪車を使った機械化歩兵部隊:武装親衛隊は、早期から迷彩塗装の軍服を装備していた。
Inventory: Bild 101 III - Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS Signature: Bild 101III-Wiegand-117-02 Old signature: Bild 146-1973-082-41 Archive title: Sowjetunion-Nord.- Motorisierte Einheit der Waffen-SS-Division "Totenkopf", Soldat auf Motorrad mit Beiwagen Dating: 1941 Photographer: Wiegand撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Wiegand-117-02引用(他引用不許可)。


ソ連侵攻バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)では,今までの空軍,陸軍の関係が逆転している。1940年5月のベルギー・フランス侵攻では,グライダー空挺部隊によるエバン・エマール要塞を奇襲攻略するために,空軍が陸軍よりも先に出撃する必要があった。攻撃開始時間は,陽光が不可欠だったのである。しかし,ソ連侵攻バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)の攻撃時間は,6月22日0315で,ドイツ陸軍は早暁に行動を起こして奇襲効果を高めた。

写真(右)1941年夏,ドイツ軍宣伝班が使用した軽量軍用車キューベルワーゲン:第二次大戦直前に開発されたキューベルワーゲンは、バケットシート、折り畳み式の幌カバーの簡易軽量の軍用車で、1940年から終戦まで5万台が生産された。原形はフォルクスワーゲンである。このキューベルワーゲンは、後方に貨物カーゴを曳いている。米軍バンタム社のジープに匹敵するが,二輪駆動の軽量車体の軍用自動車で,簡易な構造で,頑丈な上に生産性が高かった。
全長374 cm、全幅160 cm、全高165 cm (天井); 111 cm (側面)、重量 715 kg、 空冷ガソリンエンジン4気筒985 cc (23.5馬力:17.5 kW)
Einheit auf dem Marsch durch die Ukraine Sommer 1941 Archive title: Sowjetunion.- Auto einer Propagandakompanie (Berichterstaffel z.b.V. ObdH) Dating: 1941 Sommer 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0131引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年夏,不時着大破したドイツ陸軍のフィーゼラー・シュトルヒ連絡機:1937年から1945年に合計2600機生産。滑走路でない草原に離着陸できた。全長10メートル,全幅 14メートル,主翼面積 26平方メートル,全備重量1260キロ, 空冷エンジン240馬力,最大速度175キロ,航続距離 380キロ。
Ein notgelandener Fieseler Storch Sommer 1941 Archive title: Verbindungs- und Transportflugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" Dating: 1941 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0146引用


  ドイツ空軍は,ソビエト連邦Soviet Union)と戦う東部戦線に1945機を準備した。これはドイツ空軍兵力の61%に当たる。使用可能な第一線機は,双発爆撃機510機,単発急降下爆撃機290機,単発戦闘機440機など1280機を数えた。

東部戦線には,レープ元帥の北方軍集団に第一航空軍(ケラー),フェードア・フォン・ボックFedor von Bock)元帥の中央軍集団に第二航空軍(ケッセリング),ルントシュテット元帥の南方軍集団に第四航空軍(レール)を配備し,第五航空軍(シュトンプ)はオスロに本部を置いた。つまり,バルバロッサ作戦にはドイツ空軍四個航空軍を配備した。

写真(右)1941年10-11月,ソ連ビヤリストック,ドイツ軍警察師団が鹵獲したソ連空軍ヤクYak-1(Jak-1)戦闘機:ドイツ空軍は,独ソ戦当初,多数の撃墜王が誕生するほど戦果をあげたこれは,ソ連空軍の戦術的な失敗と機体の性能の低さが原因だった。しかし、ヤク戦闘機の性能は,ドイツ機に劣らなかった。この1941年から配備された新型小型高速戦闘機が,1942年からソ連空軍主力戦闘機となる。全長8.5ートル,全幅10.0メートル,翼面積17平方メートル,重量3000キロ,最高速度560キロ,航続距離650キロ,液冷1050馬力, 武装20ミリ機銃1丁,7.62ミリ機銃2丁。
Bei der Polizei- Division hinter der Ostfront (Bialystock, Minsk, Bobrujsk, Stara- Dorohi Beresina) Zerstörtes russ. Flugzeug auf dem Flugplatz vor Bialystock Archive title: Sowjetunion , bei Bialystock.- Zwei deutsche Soldaten / Polizisten bei der Untersuchung eines beschädigten sowjetischen Jagdflugzeugs (Jakowlew Jak-1 ?) Dating: 1941 Oktober - November
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-1208引用


東部戦線におけるドイツ空軍機は,1941年6月22日から8月8日までは喪失1023機,破壊657機,1941年8月3日から9月27日までは喪失580機,破壊371機だった。1941年6月22日から1942年4月8日までの10ヶ月間の合計で,喪失2951機,破壊1997機の損害で,これは同時期の航空機生産の三分の一に相当した。

写真(右)1941年夏,逆さまに燃え尽きたソ連I-153戦闘機:I-15の馬力を向上し,1938年に空冷1000馬力エンジンに換装した複葉戦闘機。1939年ノモンハン事変,フィンランド冬戦争にもソ連軍主力戦闘機として参戦している。I-153は1941年の独ソ戦の時には低速,弱武装で旧式だったが,3500機が量産された。ドイツ空軍第53戦闘航空団のシース少尉は,Bf109戦闘機で後方から攻撃すると,180度回転して正面から撃ち合いになったと報告したほど格闘性能は高かった。が,ドイツ軍戦闘機は,一撃離脱を旨としていたため,空中格闘戦はほとんど起こらなかった。
Ausgebranntes sowjetisches Flugzeug Sommer 1941 Südabschnitt der Ostfront Dating: 1941 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0915 引用


ソビエト連邦Soviet Union)国防省公式戦史『ソ連大祖国戦争史』では,ナチスは,国境近くのソ連航空基地66ヶ所が攻撃を受け,この日の正午までに,1200機の損害を受けたが,そのうち800機以上が地上で破壊された。

写真(右)1941年-1942年,ソ連、ロシア戦線、撃墜されたか地上で破壊されたかした航空機の残骸
Inventory: B 145 Bild - Presse- und Informationsamt der Bundesregierung - Bildbestand Signature: B 145 Bild-F016221-0035 Archive title: Russlandfeldzug.- Abgeschossenes Flugzeug Dating: 1941/1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・B_145_Bild-F016221-0035引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年夏,ソ連ウクライナでドイツ軍に鹵獲されたソ連軍ポリカルポフPo-2複葉爆撃機:1928年開発の複葉練習機U-2で最高速度156キロ,航続距離400キロ,シュベツォフM-11空冷100馬力エンジン,乗員2名,50kg爆弾6発搭載。1941年までに1万3000機生産され,総生産3万3000機。初等練習機だったが,扱いやすいために,大戦中は連絡,爆撃,夜間攻撃機としても使用された。
Ein sowjet. Flugzeug ist abgeschossen und setzt zur Notlandung an (Ratta) Ukraine Sommer 1941 Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Notgelandetes russisches Ausbildungs- und leichtes Bombenflugzeug Polikarpow Po-2 Dating: 1941 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0112 引用


写真(右)1941年夏,ソ連、ウクライナ西部,ドイツ軍I号砲戦車Panzer I:旧式化したI号戦車の旋回砲塔を除いて,チェコのスコダ4.7センチ対戦車砲4,7-cm-Pakを搭載したI号自走砲(第221号車)。回転砲塔ではないので,火砲の射界は狭いが、火砲の貫通力は当時は第一級品だった。Kurze Pause einer Mot-Einheit West-Ukraine 1941 Archive title: Sowjetunion, Westukraine.- Leicht getarnter Panzerjäger 1 (Selbstfahrlafette auf Fahrgestell des "Panzer I" mit 4,7-cm-Pak; Turmnummer 221) im hohen Gras Dating: 1941 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0110引用

写真(右)1941年6月,ソ連、観測用軽装甲車(Sd.Kfz. 253)を先頭に、1トン牽引車、15センチ榴弾砲を搭載したI号自走砲2両も見える。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-186-0184-02A Archive title: Rußland.- Motorisierte deutsche Truppen bei Fahrt auf Landstraße, u.a. leichter Beobachtungspanzer (Sd.Kfz. 253), Zugkraftwagen, 15-cm schweres Infanterie-Geschütz auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Otto, Albrecht Heinrich 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


独ソ戦当時,ドイツ軍戦車の主力は,II号戦車、38(t)戦車だったが、I号戦車、35(t)戦車も参戦している。新型のIII号戦車は、47口径3.7センチ砲あるいは,42口径5センチ砲を装備した対歩兵・対戦車汎用型の戦車だったが、まだ数は少なかった。

写真(右)1941年夏,ソ連、バルバロッサ作戦時期のドイツ陸軍II号指揮観測戦車:ドイツ軍は,砲撃の命中精度を高めるために、装甲師団に観測用の戦車を配備した。この観測戦車は、観測機材を搭載したために戦車砲を搭載できなかったが、それでは観測車輛と敵に識別されてしまい、攻撃を受けやすい。そこで、敵を欺いて普通の戦車と同じよう見えるように偽砲(偽物の大砲)を装着した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0003-18A Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzer II auf einer Straße außerhalb eines Ortes; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0003-18A引用


写真(右)1941年夏,ソ連中部、ドイツ空軍の2センチ対空機関砲が警戒する架橋を望むドイツ陸軍II号指揮観測戦車III(Panzer II oder Beobachtungs-panzer III) :観測機材を搭載した観測戦車が、展望の良い高台から観測している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0026A-30 Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Luftwaffen-Soldaten an leichter Flak und Panzer (Panzer II oder Beobachtungs-panzer III) zum Schutz einer Stahlbrücke; PK 697 Dating: 1941 Sommer Photographer: Bieling 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不可)。


写真(右)1941年10月,ソ連、東部戦線1938年にドイツが併合したチェコで製造されたチェコ35(t)戦車(Panzern 35t)の隊列。47口径37ミリ砲(3.7cm KwK 38)を搭載した機動力のある戦車。:全長4.61 m、車体長4.56 m、全幅2.15 m、全高2.26 m、重量9.5 t。砲塔・車体前面装甲50 mm、同側面装甲30 mm。エンジンは、プラガ EPA直列6気筒水冷ガソリンエンジン125 馬力を搭載。乗員4 名。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0185-05A Archive title: Sowjetunion.- Panzerkolonne, deutsche Soldaten auf Panzern 35t in Fahrt im Schnee; PK 697 Dating: Oktober 1941 Photographer: Böhmer 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-268-0185-05A引用


写真(右)1941年6-7月,ソ連,ドイツ軍の採用したチェコ38(t)戦車Panzer 38(t) :当時としては、強力な47口径3.7センチ砲を搭載し、装甲も最大5センチと防御力も強固だった。のちに、43口径7.5センチ戦車砲を搭載した駆逐戦車「ヘッツァー」に発展し、終戦まで生産が続行された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-006-2249-12 Archive title: Sowjetunion.- Besetzung einer Ortschaft. Panzer 38(t); PK 612 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Bauer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


独ソ戦Unternehmen Barbarossa)開始の時期には,ドイツ陸軍はIII号戦車,IV戦車を主力として,ソ連軍戦車よりも優れていると考えていた。しかし,戦車の数量は劣っていることが判明していたので,生産コストの高い回転砲塔を持つ戦車ではなく,突撃砲,自走砲(砲戦車)を装備して,戦車を補助あるいは歩兵支援を充実させようとした。

写真(右)1941年10月,ソ連北部、ドイツ陸軍チェコ製の38(t)戦車:10月というのに既に雪が降った跡が残っている。砲塔には47口径3.7センチ砲を搭載し、装甲も最大5センチと防御力も高い。
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-213-0267-12 Archive title: Sowjetunion-Nord.- Panzer 38(t) und Infanterie in einen Birkenwäldchen; PK 694 Dating: Oktober 1941 Photographer: Gebauer 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-213-0267-12引用(他引用不可)。


チェコ軍が1938年に制式したシュコダ者の開発した戦車LT-38は、優秀だったため、チェコを占領したドイツ軍でも引き続き採用され、量産された。全長4.6 m、車体長4.56 m、全幅2.15 m、全高2.26 m、重量9.5 t、最高速度42 km/h(整地)・19 km/h(不整地)、航続動距離210 km。3.7cm KwK 38(t)、7.92mm MG37(t)機関銃2丁搭載。砲塔・車体前面装甲50 mm、側面30 mm。1942年後半には生産中止となったが、車体はマルダーIII自走砲に転換生産され、さらにヘッツァ駆逐戦車に発展した。

写真(右)1941年8月,ソ連でブロックを乗り越えようとして動けなくなったドイツ軍42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)装備のIII号戦車G型:ドイツ軍は,航空機事故や車両事故などを調査し,対策を組織的にとろうとした。そこで,事故写真を撮影することを旨としていた。現在では当然の措置だが,70近く年前の戦時中に,律儀に調査方針を守っていたようだ。戦車の登坂能力,実戦における運用の参考となるように,資料を集めていたのである。
戦車のキャタピラの下に差し込まれた木の板や丸太は,戦車を救出しようとしたものであろう。普段見ることのできない,戦車車体上面の様子がよくわかる。砲塔のハッチの淵が高くなっているのは,展望式ハッチで,周囲が砲塔内部から見渡せるようになっているためである。戦車長が周囲を観測しながら前進したが,視野が狭いので,通常の行軍には,ハッチから身を乗り出している。
Ein Panzer brach über einer Brücke ein zw. Bug u. Dnjepr Archive title: Vormarsch zum Dnjepr.- eingebrochener Panzer III Dating: August 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・B_145_Bild-F016208-0012引用


ドイツ軍のIII号戦車J型は設計に変更を加えて本来は搭載の予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソビエト連邦の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時III号戦車に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲5 cm Panzerabwehrkanone 39 L/60)を搭載することを要求していた。

しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をIII号戦車に搭載することに消極的だった。

独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になっても、III号戦車には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。

1941年6月22日,ドイツ国防軍は,ソビエト連邦ブレスト北方でブーク川を越えるのに,?号戦車,?号戦車に,シューノーケルを装備した潜水戦車80両を投入した。これは,渡河作業の手間を掛けずに対岸にわたることができる画期的な発明だった。

写真(右)1941年9月,ソ連北部、東部戦線,歩兵部隊に悪路を補修してもらい通り抜けようとしているドイツ軍のIII号戦車G型:砲塔には43口径5センチ戦車砲を装備しており、当時ドイツ軍の中で最も強力な対戦車戦闘能力を持つ戦車だった。しかし、ソ連赤軍T-34戦車の76.2ミリ砲とその重装甲には全く歯が立たなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-212-0247-16A Archive title: Sowjetunion-Nord.- Nach Durchqueren eines kleinen Flusses wird für diesen Panzer III der Abhang mit Sand befestigt; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-212-0247-16A 引用(他引用不可)。


写真(右)1941年6月,ソ連、東部戦線の当初、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38:携行砲弾数99発)を搭載したIII号戦車G型:後方にみえる半半装軌式無線指揮軽装甲車(Sd.Kfz. 250/3)は、連絡用・指揮に活躍した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-185-0139-20 Archive title: Polen, Rußland.- Beginn des Ostfeldzuges, Panzersoldaten auf Panzer III (Sd.Kfz. 141) der 13. Panzer-Division [?], im Hintergrund weitere Panzer und Fahrzeuge; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Grimm, Arthur 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-185-0139-20 引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年7月,バルバロッサ作戦に参加したドイツ軍自動車部隊とIII号突撃砲Panzer III (Sd.Kfz. 141) :旧式化したIII号戦車の砲塔を取り除き,密閉式の戦闘室に短砲身7.5センチ砲を搭載した歩兵支援戦闘車両。機械化された歩兵をドイツ軍は,猟兵と呼称した。24口径7,5センチ砲を搭載した火力支援車輛だが、III号戦車が無用の存在になったために、1945年の敗戦まで生産された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-136-0883-27 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa". Mit Buschwerk getarnte Sturmgeschütze III in Fahrt, deutscher Soldat mit Spaten vor Auto (Cabriolet); PK 689 Dating: Juni 1941 Photographer: Cusian, Albert 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。

写真(右)1941年6月,ソ連東部戦線、24口径7,5センチ短砲身砲(7,5 cm Kwk L 24) 搭載のドイツ軍IV号戦車E型(Panzer IV Ausf. E)と2センチ機関砲を搭載したII号戦車:
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0040A-22A Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa". Panzer IV und Panzer II mit Besatzung in Fahrt über Felder; PK 697 Dating: Juni 1941 Photographer: Vorpahl 撮影。
写真はWikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-265-0040A-22A, Russland, Panzer IV und Panzer II.jpg引用。


写真(右)1941年夏,ソ連、東部戦線,ドイツ軍IV号戦車E型(Panzer IV Ausf. E)と軍用車輛 PK Lw 3 :24口径7,5センチ砲を搭載したIV号戦車だったが、のちに攻撃力を強化するために43口径7,5センチ戦車砲に変換された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-351-1427-21A Archive title: Sowjetunion, Witebsk.- Panzer IV Ausf. E mit Fahrzeugkolonne auf einer unbefestigten Straße; PK Lw 3 Dating: 1941 Juli - August Photographer: Jacobsen撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-351-1427-21A 引用(他引用不可)。


本来は,ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)指導のイギリス本土に上陸する際,密かに水深5-8メートル程度の浅瀬に接近し,そこに戦車を降ろして,上陸地点を奇襲する計画だったという。しかし,海流のある水深5メートルの場所に適切に戦車を沈下させることができるのか,海底地形が見えないまま,ジャイロコンパスGyrocompass)だけで,上陸地点に前進できるのかと疑問もある。実際には,ヒトラーは英国本土上陸,「あしか」作戦を実行するつもりはなく,潜水戦車は部隊編成されたものの,それまで使用されたことはなかった。

ゴムパッキンやチューブによる空気圧式密閉装置を実用化した技術は高度なものだが,潜水できるだけで火力,防御力の上では,進歩はなかった。ドイツ軍II号,III号戦車は,ソビエト連邦の新型重戦車KW-1,KW-2あるいはT-34戦車には,攻撃力,防御力の双方で太刀打ちできなかったのである。

写真(右)1941年夏,ドイツ軍のIV号戦車D型:第二次大戦初期1939年10月に登場したIV号戦車D型は短長砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5-cm-KwK 37 L/24)、独ソ戦勃発当初は少数しか配備されていなかった。
車体長5.92m、全幅2.84m、全高2.68m、重量20.0t、砲塔前面装甲35mm、マイバッハV型12気筒ガソリンエンジン300PS (224kW)、乗員5名。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0861 Original title: info Deutsche Panzer am 21. Juni 1941 auf der Fahrt zur Front Archive title: Polen.- Panzer IV auf dem Weg zum Angriff gegen die Sowjetunion Dating: 21. Juni 1941 Photographer: o.Ang. 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年夏,対ソ連、東部戦線,武装親衛隊第5SS装甲師団ヴィーキング(バイキング)所属の八輪偵察重装甲車(Sd.Kfz. 231 8-Rad):砲塔に砲塔には55口径2センチ戦車砲(2 cm KwK 30 L55)と同軸の7.92ミリ機関砲(7.92mmMG34)を搭載している。手前の兵士は、迷彩服、ヘルメットも迷彩カバーを付けた武装親衛隊(Waffen-SS)で、MR38短機関銃を下げて、双眼鏡で偵察している。バルバロッサ作戦開始の時の第5SS装甲師団ヴィーキング師団長は、フェリックス・シュタイナーFelix Martin Julius Steiner, 1896-1966)大将。彼は、戦争末期のベルリン攻防戦でも活躍する。
Inventory: Bild 101 III - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Waffen-SS Signature: Bild 101III-Hummel-025-22 Old signature: Bild 146-1973-087-32 Archive title: Sowjetunion.- Männer der Waffen-SS-Division "Wiking" beim Beobachten mit Ferngläsern neben Panzerspä hwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad); SS-PK Dating: 1941 Sommer Photographer: Hummel 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bundesarchiv Bild 101I-268-0158-07, Russland, Schützenpanzer Sd.Kfz. 253.jpg"引用。

写真(右)1941年6月,対ソ連侵攻「バルバロッサ」作戦"Unternehmen Barbarossa"時期の東部戦線、バルト諸国 Baltikum、ドイツ軍の四輪軽装甲車 Panzerspähwagen Sd.Kfz. 221。2センチ戦車砲が未装備のようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-208-0027-04A Archive title: Sowjetunion, Baltikum.- Infanterie neben Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 221) beim Marsch durch eine Ortschaft; PK 694 Dating: Juni 1941
Photographer: Nägele 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-161-0256-10"引用。

写真(右)1941年夏,対ソ連、東部戦線,武装親衛隊第5SS装甲師団ヴィーキング(バイキング)所属の八輪偵察重装甲車(Sd.Kfz. 231 8-Rad):砲塔に砲塔には55口径2センチ戦車砲(2 cm KwK 30 L55)と同軸の7.92ミリ機関砲(7.92mmMG34)を搭載している。手前の兵士は、迷彩服、ヘルメットも迷彩カバーを付けた武装親衛隊(Waffen-SS)で、MR38短機関銃を下げて、双眼鏡で偵察している。バルバロッサ作戦開始の時の第5SS装甲師団ヴィーキング師団長は、フェリックス・シュタイナーFelix Martin Julius Steiner, 1896-1966)大将。彼は、戦争末期のベルリン攻防戦でも活躍する。
Inventory: Bild 101 III - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Waffen-SS Signature: Bild 101III-Hummel-025-22 Old signature: Bild 146-1973-087-32 Archive title: Sowjetunion.- Männer der Waffen-SS-Division "Wiking" beim Beobachten mit Ferngläsern neben Panzerspä hwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad); SS-PK Dating: 1941 Sommer Photographer: Hummel 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101III-Hummel-025-22"引用。

写真(右)1941年6月,バルト、リトアニア、リガ、住民に歓迎されるドイツ軍兵士 :ソ連共産党の軍事的圧力でソ連に併合されたバルト諸国では、反ソ連感情が強く、ソ連に侵攻したドイツ軍を、共産党支配、圧政からの解放者として歓迎された。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L19397
Original title: info Scherl Bilderdienst Befreiungsjubel um die deutschen Soldaten in Riga.
Als die deutschen Truppen die Stadt Riga einnahmen, wurde die dortige Bevölkerung von einem Jubelsturm der Freude erfasst. Die Menschen, die monatelang unter dem Blutterror gelitten und sich in den letzten Wochen in den Kellern ihrer Häuser versteckt hatten, eilten nun auf die Straßen und Plätze und dr&auuml;ngten sich, um die deutschen Soldaten zu begrüßen.
PK Lette, 7.7.41 [Herausgabedatum], Archive title: Lettland, Riga.- Begrüßung deutscher Soldaten Dating: Juli 1941。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L19397引用


写真(右)1941年6月,ソ連、バルト諸国で、住民から接待、飲料水を受ける軍用トラックに乗ったドイツ軍兵士
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-208-0031-07
Archive title: Sowjetunion, Baltikum.- Kraftwagenkolonne auf unbefestigter Straße, einheimische Frauen reichen den Soldaten auf ein Krupp-Protze Milch; PK 694
Dating: Juni 1941 Photographer: Zoll撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年6月27日,ソ連,未舗装道路の脇に伏せて機関銃を構えるドイツ軍将兵、その脇を現地女性が家畜の牛を連れて避難している。
ADN-ZB/Archiv II.Weltkrieg 1939-45
Überfall der faschistischen deutschen Wehrmach auf die Sowjetunion am 22.6.1941 Die sowjetische Zivilbevölkerung flieht mit ihrer letzten habe aus dem Kampfgebiet, während Infanterie den deutschen Vormarsch sichert.
herausgegeben am 27.6.1941 Sowjetunion.- Trupp deutscher Soldaten (u.a. mit Maschinengewehr 34 (MG 34)) in Deckung liegend, dahinter Frauen mit Kühen gehend
Depicted place Russia Date June 1941 Photographer von Estorff撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-136-0883-29A引用


小型の偵察装甲車 (Sd.Kfz. 250)は,乗員2人+搭載4人だが,半装軌式中型装甲車(Sd.Kfz. 251)は乗員2人+搭載10人と大きく,兵員輸送能力が高い。しかし,エンジンは同じ出力なので,半装軌式中型装甲車Sd.Kfz.251)に比べて,機動性が高く,偵察・指揮車としては適していた。

写真(右)1942年,ソ連,未舗装道路を進撃するドイツの国防軍「大ドイツ」の自動車化部隊の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250),装甲車:半装軌式装甲車指揮車型なので兵員室上方にアンテナが張られている。ドイツ陸軍では,機械化された歩兵部隊を「狙撃兵」と呼んだ。
Russland, bei Achtyrka.- Motorisierte Truppen der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland", u.a. leichte Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/1, Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen, Spähpanzer Sd.Kfz. 222, Sd.Kfz. 263); PK ObdH Depicted place Russia Date 1942 Photographer Kempe
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-136-0883-29A引用


写真(右)1941年6月,対ソ連「バルバロッサ作戦」時の東部戦線、ドイツ陸軍半装軌式無線指揮装甲車 (Schützenpanzer (Sd.Kfz. 253)) :戦闘室の上面も防御のために装甲板によって密閉され、そこに円形ハッチが設けられている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-208-0014-15A Archive title: Sowjetunion, Baltikum.- Leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 253?) mit geschlossenem Dach und Kommandantenluke beim Überqueren einer Memelbrücke; PK 694 Dating: Juni 1941.
Photographer: Koch 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-208-0014-15A"引用。

写真(右)1941年6月,対ソ連、東部戦線北部、ドイツ国防軍第一装甲師団の半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3):装甲車の車体後方にフレーム式のアンテナが張り巡らされている。これは、支柱のように見せかけて、指揮者としは認められないようにして、標的になりにくくする工夫でもある。
Sowjetunion-Nord.- Offiziere und Besatzung auf mittlerem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251/3 oder Sd.Kfz. 251/6 mittlerer Funkpanzerwagen bzw. Flieger-Leit-Fahrzeug); PK 694. English: They are member of the 1. Panzer-Division
Tannenberg 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-209-0056-06"引用。

第二次世界大戦中,4人乗りの兵員輸送用の小型半装軌式装甲車ハーフトラックSd.Kfz 250は6000台,10人乗りの中型半装軌式装甲車Sd.Kfz.251)は1万5000台以上生産された。装甲師団の歩兵(猟兵)に優先的に配備されたが,ドイツ軍には,軍用トラックのほか馬,馬車の輸送部隊も多かった。

半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz. 250)の生産は,ドイツのデマーク社(Demag)で行われたが,多角形の複雑な車体後部装甲版は,生産性が低かった。また,重量を均等に分散して、路外走行能力、機動性を高めるために採用した千鳥足配置の転輪も機構が複雑で,製造コストが高価だった。そのために,1943年9-10月には,簡易形状に変更した装甲版の後期型が生産された。生産台数は,旧型“アルテ(Alte:Old)”4200台,新型“ノイ(Neu:New)”2300台で,合計6600台が生産された。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Beobachtungs-kraft-wagen (Sd.Kfz. 253)) :戦闘室の上面も防御のために装甲板によって密閉されている。先に見えているのは、偽装された大型の地下施設。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0158-06 Archive title: Sowjetunion.- Leichter gepanzerter Beobachtungs-kraftwagen (Sd.Kfz. 253) mit Besatzung vor einem getarnten Bunker / getarnter Stellung; PK 697 Dating: Oktober 1941.
Photographer: Utrecht, Fred Erich 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-268-0158-06"引用。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍半装軌式観測軽装甲車 (Beobachtungs-kraft-wagen (Sd.Kfz. 253)) :戦闘室の上面も防御半装軌式観測軽装甲車 のために装甲板によって密閉されている。先に見えているのは、偽装された大型の地下施設。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0158-07 Archive title: Sowjetunion.- Leichter gepanzerter Beobachtungs-kraftwagen (Sd.Kfz. 253) mit Besatzung vor einem getarnten Bunker / getarnter Stellung; PK 697 Dating: Oktober 1941.
Photographer: Utrecht, Fred Erich 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-268-0158-07"引用。

写真(右)1941年10-11月,対ソ連、東部戦線中央部、雪の中を走行するドイツ軍半装軌式砲兵無線指揮装甲車 (Beobachtungs-panzer : Sd.Kfz. 253) :兵員室上面にまで泥濘が跳ねかかっている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-140-1210-02A Archive title: Rußland-Mitte.- Soldaten auf leichtem Beobachtungspanzer (Sd.Kfz. 253) auf unbefestigter, schlammiger Dorfstraße in Ortschaft; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November
Photographer: Götze 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-140-1210-02A"引用。


ドイツ軍の東部戦線の基幹補給ルートは鉄道だった。鉄道駅まで物資・人員を大量輸送し、そこから自動車、キャタピラCaterpillar)装備のトラック、馬車を使って各部隊に補給を行った。そこで、ソビエト連邦パルチザンpartisan)は、この防備手薄な補給ルートLogistics)を攻撃、破壊しようとした。
そこで、ドイツ軍は、装甲列車を編成するとともに、日常的な鉄道防備・警戒のための軽戦闘車両を新たに準備した。新設計で新造するのではなく、既存の装甲車、特に外国軍からの鹵獲装甲車を改造して、この鉄道警備任務に充当した。

写真(右)1941年10-11月,ロシア東部戦線中央部、ドイツ軍の半装軌式砲兵指揮装甲車(Sd.Kfz. 253 / Beobachtungspanzer):泥濘の悪路を通ってきたため、キャタピラのに詰まった泥を落としている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-140-1210-26A Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 253 / Beobachtungspanzer), Soldat beim Reinigen der verschlammten Kette in einer Ortschaft; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November.
Photographer: Götze 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-140-1210-26A"引用。

写真(右)1941年10月-11月 ,ソビエト連邦の中部,"バルバロッサ作戦"が頓挫した冬のドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車(Sd.Kfz.253)とIII号突撃砲:キャタピラを装備した車両でも,泥と雪の道は走行が困難だった。タイヤ装備の自動車の輸送は,はるかに困難だったであろう。
ドイツ軍は,8週間,遅くとも冬の到来までに,電撃戦によってソ連軍を壊滅させるつもりでいた。そこで,冬に備えた衣服,機械,輸送の準備が不十分なままだった。
Rußland-Mitte.- leichter Beobachtungs-panzer (Sd.Kfz. 253) vor Sturmgeschütz III im Schnee; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November Photographer: Plenik, Bruno撮影。 Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
 

ドイツ陸軍のSd.Kfz. 251は,1937年から開発,1939年から生産された中型の兵員輸送用半装軌式装甲車ハーフトラック)で兵站Logistics)の機械化にも貢献した。Sd.Kfz 251は、複雑な多面体装甲版の旧型4600台と,1943年9月以降,簡易形状装甲版に変更して,生産性を向上したされた新型1万600台がある。合計1万5200台が生産された。

ドイツ軍が採用したハノマーク社Hanomag)の兵員輸送の半装軌式装甲車Sd.Kfz 250)は,装甲が薄く,車両上面が開放されていたが,Sd.Kfz.253は装甲を施された閉鎖式の車内空間に無線機,観測器具を装備していた。
しかし,半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251は、Sd.Kfz.250を流用することで,兵站Logistics)だけでなく、観測車として利用できた。そこで,兵員輸送用半装軌式装甲車ハーフトラック)の種類を少なくして,効率的に大量生産することが優先された結果,Sd.Kfz 250を優先して,Sd.Kfz 253の生産は1941年6月で中止された。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線中央部、雪の中を走行するドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251) :兵員室上部前方にMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0178-09 Archive title: Sowjetunion.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) in Fahrt, Schnee; PK 697.
Böhmer撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-268-0178-09"引用。

ハノマーク社Hannoversche Maschinenbau AG)の半装軌式装甲車(ハーフトラック)Sd.Kfz. 251(旧型)の年別生産台数は,1940年 337台,1941年 424台,1942年 1200台とされるから,生産の大半は1943年以降の戦争後期である。初めてこの半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)を装備したのは,1939年に第1装甲師団だった。

Sd.Kfz 251初期型の標準武装は,7.92ミリMG34機銃2丁で,弾丸2,010発を搭載。

写真(右)1941年6月,ソ連南部,バルバロッサ作戦当初、ドイツ軍に破壊されたソ連赤軍BT-7快速戦車:手前のドイツ兵が射殺したソ連兵士を検分している。BTシリーズの最終型BT-7快速戦車は、1935年から生産開始、1940年までに4600輌が量産された。 全長5.56 m、全幅2.29 m、全高2.42 m、重量13.8 t、クリスティー式懸架、最高速度52 km/h(路上)、航続距離350 km。45 mm M1934 (携行砲弾数188発)、7.62 mm DT機銃2丁(銃弾2394発)搭載。砲塔前面15 mmと軽装甲。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-020-1268-36 Archive title: Sowjetunion-Süd.- "Unternehmen Barbarossa", brennender sowjetischer Panzer BT-7, davor deutscher Infanterist vor gefallenem sowjetischen Soldaten; PK 637 Dating: Juni 1941 Photographer: Hähle, Johannes 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-020-1268-36.引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年6月,ソ連北部,ラトビア、リガ、バルバロッサ作戦当初、ドイツ軍に破壊されたソ連赤軍BT-7快速戦車:手前のドイツ兵が射殺したソ連兵士を検分している。BTシリーズの最終型BT-7快速戦車は、1935年から生産開始、1940年までに4600輌が量産された。 全長5.56 m、全幅2.29 m、全高2.42 m、重量13.8 t、クリスティー式懸架、最高速度52 km/h(路上)、航続距離350 km。45 mm M1934 (携行砲弾数188発)、7.62 mm DT機銃2丁(銃弾2394発)搭載。砲塔前面15 mmと軽装甲。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-771-0356-01 Archive title: Sowjetunion, Lettland, [Riga?].- Zerstörter sowjetischer Panzer auf einer Brücke; PK Staffel Nord Dating: 1941 Sommer Photographer: Reichelt撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月24日,北方軍集団のチューリンゲン第一装甲師団は,ソ連軍のKW-1,KW-2重戦車に出会った。ドイツ軍は800メートルで砲撃開始,しかし,重装甲のKw-1,KW-2戦車は砲弾を跳ね返して前進してきた。第一戦車連隊の戦列を突破して,歩兵に襲い掛かったのである。連隊は,戦線後方に突破したKW-1,KW-2戦車を迎撃するために,方向転換し,30-40メートルの至近距離から砲撃し,重戦車の進撃を止めた。

ソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,1939年開発,T-34中戦車と同じ76.2ミリ(3インチ)砲を装備していた。全長7メートル,装甲は砲塔90ミリ,側面75ミリと厚く,ドイツの37ミリ対戦車砲を問題としなかった。しかし,独ソ戦当初、最強の戦車で,1942年までに3000両生産。しかし,重量45トンという重さのため,トランスミッションの不具合が生じやすかったという。

写真(右)1941年6-7月,ロシア北部で撃破されたソ連軍KW-2重戦車:ソ連軍のKB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,全長 6.95メートル,全幅 3.32メートル,全高 3.24メートル,重量 52トン。 速度 34 キロ/時(整地)・15キロ(不整地),航続距離 180キロ,兵装 20口径152mm榴弾砲M10(弾数36発),1939年制式,弾頭50キロ,最大射程12000メートル。7.62ミリ機銃3丁,エンジン550馬力。乗員 6人。
Sowjetunion-Nord.- Defekter russischer Panzer KW-2 am Straßenrand wird von deutschen Soldaten untersucht; PK 694 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Nägele 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不可)。


KB-2重戦車の装備した20口径152ミリM10榴弾砲は,弾頭50キロ,最大射程12000メートル。薬莢は分離式,装甲は,砲塔110ミリ,側面75ミリ。重量52トン。ディーゼルエンジン550馬力は力不足だった。装填手2人を含め乗員は6人だった。独ソ戦当初、砲弾の装填,路外走行に難点があり,1940-41年に200台が生産されたに過ぎない。

第1装甲師団と第2装甲師団は,歩兵2個師団と協力,6月26日までに,バルト諸国の北方戦線で,ソ連戦車200台を撃破,その中には,レニングラードのコルピノ工場で製造されたKW-1,KW-2重戦車29台も含まれていた。

写真(右)1941年10月,対ソ戦初期、ドイツ軍III号突撃砲(左奥)とソ連赤軍T-34/76戦車(手前)から引き出されるソ連の戦車兵:III号戦車の砲塔を撤去して、車体に車高の低い大型装甲戦闘室を設けそこに短砲身7.5センチ砲を装備したのがIII号突撃砲である。
Archive title: Sowjetunion.- Deutsches Sturmgeschütz StuG III vor sowjetischem Panzer T-34, Gefangennahme der russischen Panzerbesatzung; PK 697 Dating: Oktober 1941 Photographer: Böhmer Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-268-0169-09引用(他引用不許可)。


T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので、クリスティー戦車方式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34-76戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34-85戦車は2万台以上が生量された。

写真(右)1942年夏,ロシア中部で撃破されたソ連軍の新鋭T-34戦車:渓谷にはまり込んだために,動けなくなり,ドイツ軍に撃破されたのかもしれない。T-34戦車は,1942年当時の全てのドイツ軍戦車に勝っていたソ連戦車だったが,1941年夏の時期には,少数しか部隊配備できなかった。しかし,1942年には大量投入されており,モスクワ攻防戦に集中投入された。
Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Mittlerer russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_169-0008 引用。(他引用不許可)


1941年6月26日早朝,ソ連軍のトラック4台を奪ったブランデンブルク連隊は,ソ連軍の軍服を着て,敵地に潜入し,ドビンスク市の架橋を奪取した。この特殊部隊は,長距離挺進偵察攻撃を任務とし,続くドイツ軍の進撃に必要な架橋・道路・鉄道を確保し,敵軍の通信網を破壊,ニセ情報を流すなどの謀略を行った。敵軍の軍服を着て,鹵獲車両を使った分隊レベルの攻撃は,国際法違反で,見つかれば即時処刑もも脱がれなかった。

ドビンスクの橋を警備していたソ連軍将校は,爆破命令がなかったので,命令なしに橋を爆破できなかった,それで,橋を奪取されたの述べた。8時,フォン・マンシュタイン将軍は,架橋確保の無線連絡を受けることができた。

写真(右)1942年夏,ロシア中部で撃破されたソ連軍の新鋭T-34戦車:ドイツ軍の戦車よりも,重装甲,強力な76.2ミリ・カノン砲装備,大出力エンジンを搭載した機動性の高い戦車だった。T-34戦車は,1942年には大量投入されており,ドイツ軍がT-34に対抗できるティガー戦車を独ソ戦に実線投入したのは,1942年暮れ以降だった。それまで,ドイツ軍戦車は,T-34戦車を撃破することは困難だった。
Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Mittlerer russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0016引用(他引用不可)。


しかし,電撃による装甲師団の前進は,ドイツ参謀本部が,ソ連軍による側面攻撃を心配したために中断させられた。マンシュタイン将軍には,前進停止,ドビンスク橋頭堡の確保の命令が出たのである。このために,装甲師団は6日間,前線できないままだった。

ドイツ軍第16装甲師団司令官フーベ少将(1890-1944)の狙撃兵旅団(自動車移動の歩兵旅団)は,3.7センチ対戦車砲でソ連軍T-34戦車を砲撃したが,20発以上の命中弾を跳ね返してしまった。ソ連の新鋭T-34中戦車は,全長6メートル,全幅3メートル,重量26トンで,長砲身30口径76.2ミリ(3インチ)砲を装備,車体前面装甲45mmだった。T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので,クリスティー戦車方式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34/85戦車は2万台以上が生量された。

1941年6月30日,中央軍集団は,激戦の末,ベラルーシ(白ロシア)のブレスト=リトフスク要塞を攻略した。ソ連軍の多くは死ぬまで戦った。ドイツ軍が得たのは,ソ連軍捕虜7000人(将校100名)で,度一群の損害は,戦士482人,負傷者1000人だった。ただし,要塞では,地下に立てこもったソ連兵士が7月末まで抵抗を続けていた。

写真(右)1941年9月,ソ連ウクライナ,キエフに陣取るドイツ国防軍兵士と3.7センチ対戦車砲
An der Front in der Sowjetunion. Die Eroberung von Kiew am 20.9.1941 durch die faschistische deutsche Wehrmacht. Deutsches Pak-Geschütz in Feuerstellung auf der Höhe der Zitadelle von Kiew. 8702-41 Dating: September 1941 Photographer: Schmidt撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L29208引用(他引用不許可)。


ドイツ軍の装備していた対戦車砲は,口径3.7センチの小型のものだった。当時,英国は6ポンド砲,チェコスロバキアは47ミリ対戦車砲,ソ連は47ミリ対戦車砲を主力としていた。
ドイツの電撃戦,陸軍はフランス降伏など戦績をつんでいるが,その装備していた戦車,対戦車兵器は,必ずしも諸外国の兵器を上回ったものではなかった。3.7センチ対戦車砲では,重装甲のT-34戦車を貫通することはできず,「対戦車砲」は自嘲気味に「聴診器」と呼ばれた。

ドイツ軍は,その後T-34を撃破するために,5センチ対戦車砲を導入したが,これも威力不足で,7.5センチ対戦車砲の登場まで,全高が高く,大ききために露見しやすく,移動が困難な8.8センチ砲を対戦車戦に流用するしかなかった。

独ソ戦バルバロッサ作戦は,電撃戦の大成功の事例に挙げられる。しかし,東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡している。


4.ガリチア・ウクライナとユダヤ人

写真(右):1941年7月,ドイツ兵に誇りあるヒゲを刈られているユダヤ人:1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で,ドイツ占領地のユダヤ人は,辱めを受けたり,強制連行されたり,あるいは虐殺されたりした。ドイツ兵は,ユダヤ人を辱めて楽しんでいる。老人を虐めても,名誉あるドイツ軍兵士とはならないが,ドイツの敵を懲らしめていると思っていたようだ。この場で殺さなかったので,慈悲を施してやったつもりなのか。
今でも日本人がブログで「ヨーロッパを旅行していると、髭をつけた黒ずくめいでたちの人達」をユダヤ人だと書いている。
Sowjetunion.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur); PK 691 Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-187-0207-07引用(他引用不許可)。


ポーランド・ウクライナの係争の地で,ソ連領だったリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐し,レンベルク(リボフ)を占領。しかし,ドイツのソ連侵攻の一週間後の6月30日,ドイツ軍は,リボフを再占領した。

1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連の秘密警察NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)

ドイツ国防軍司令部は,ソ連侵攻バルバロサ作戦Unternehmen Barbarossaの発動直前,ソ連共産党がソ連軍兵士の政治教育のために派遣していた政治委員コミサールを捜索・拘束,殺害するよう命令を出した。

また,独ソ戦前に,1941年4月6日,ユーゴスラビア侵攻があった。ユーゴスラビアで軍部によるクーデタが勃発,ドイツ軍がユーゴを攻撃し,ユーゴは4月16日には降伏してしまった。

この戦争の最中,ユーゴのパンチェボでドイツ兵が殺害された。そこで,ドイツ軍はパンチェボ住民36人を報復,縛り首・銃殺した。独ソ戦でも,ユダヤ人殺害を命令,実行させた国防軍ライヘナウ元帥のような将軍もいる。

写真(右):1941年7月,ウクライナのレンベルク(リボフ) でドイツ兵に誇りあるヒゲを刈られているユダヤ人:老人の痛々しい表情と楽しそうなドイツ人の表情が対比される。今日の視点では,弱いものイジメであるが,敵の下等列島人種に情け無用という事なのか。
1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で,ドイツ占領地のユダヤ人は,辱めを受けたり,強制連行されたり,あるいは虐殺されたりした。ドイツ兵は,ユダヤ人を辱めるだけで,この場で殺さなかったのは,慈悲を施してやったつもりなのか。
Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur); PK 691 Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-187-0203-09 引用(他引用不許可)。


ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
ナチズムは「人間性を踏みにじる強靭な残酷さを持ち,もっとも基本的な人間的感情に対しても無常に接することができる」(1940/2/3)

「これまでも,我々は残酷な人間を数多く見てきた。しかし,ナチズムが出現するや,一つの政党,そしておそらくは一つの国民全体が,残虐という病に起こされたのである。

かつては,サディストにも羞恥心があり,サディステックな行動が極端に走るのを抑えていた。残虐行為は,隠れたところで密かに行われ,公衆の目に触れることはなった。しかし,ナチズムが登場してから,残虐行為を公然と実行するれするほど素晴らしいこととされるようになった。

ここ数日間はユダヤ人への野蛮な恐ろしい仕打ちが頂点に達し,我々は息をすることさえできない。ナチズムは狂気以外の何物でもない」(1942/5/14)

「虐殺者の背後にある動機は何なのか。それを探り出そうと,大勢のものがさまざまな憶測を重ねる。若し動機が見つかれば,我が身に起こる危険がどれほどのものなのか推し量ることができる。しかし,いかなる解釈にも根拠が見つからない。----

彼らの動機は憶測を越え,論理を逸脱している。----破壊,殺害,絶滅。これが彼らの唯一の動機である。---彼らのすさまじい怒りの前には,統治の原理など,消え去ってしまう。これまでどんな独裁国家であれ,一民族の絶滅を図ろうとしているなどと公に主張することはなかった。状況が困難になるにつれて,彼らはすさまじい怒りをわれわれに浴びせかけ,敗北が色濃くなるにつれて,われわれへの迫害も激しさを加える。----

追放者が計画的に強制退去させられるのは,彼らを絶滅するためだ,ということである。幼子や不具者,傷病者,老人,病弱な者へのいたわりなど,全く見られない。それどころか,道中を容易にするため,そのようなものたちは真っ先に殺されてしまう。」(1942/6/9)

写真(右):1941年7月,ウクライナのレンベルク(リボフ) でドイツ兵に誇りあるヒゲを刈られているユダヤ人:ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワゲットー日記』には,ナチズムは「人間性を踏みにじる強靭な残酷さを持ち,もっとも基本的な人間的感情に対しても無常に接することができる」(1940/2/3),「残虐行為は,隠れたところで密かに行われ,公衆の目に触れることはなった。しかし,ナチズムが登場してから,残虐行為を公然と実行するれするほど素晴らしいこととされるようになった。ーーーーナチズムは狂気以外の何物でもない」(1942/5/14)とある。
1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で,ドイツ占領地のユダヤ人は,辱めを受けたり,強制連行されたり,あるいは虐殺されたりした。ドイツ兵は,ユダヤ人を辱めるだけで,この場で殺さなかったのは,慈悲を施してやったつもりなのか。
Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur) Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-187-0203-10 引用(他引用不許可)。


独ソ戦に際して,ユダヤ人と同じように積極的に排除すべきだとされたのが,共産党員,ソ連軍にいた共産党員政治委員コミサールなどボリシェビキ分子である。ドイツ国防軍も,パルチザンやボリシェビキに容赦をしなかった。

第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国の警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー隔離に協力した。

ゲット−隔離前,ドイツはユダヤ人情報を収集するためにユダヤ時に登録を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。

しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。その後になって,ゲットーが閉鎖され,ついで強制収容所に移送された。こうして,ホロコーストが始まった。

写真(右)1941年6月,ロシアの民間人によるユダヤ人への暴行:バルバロッサ作戦でドイツ軍が占領したソ連の町では,ナチスのユダヤ人迫害に協力するウクライナ人,ロシア人が求められた。
Russland.- Erfassung von Juden, Gewalt gegen einen jüdischen Mann, Misshandlung durch Mann in Zivil neben einem deutschen Wachtposten; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Franke撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-186-0160-12 引用(他引用不許可)。

ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離する前に,ユダヤ人住民の情報を集める登録作業を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだったようだ。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。
しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。

ドイツのポーランド侵攻の最中,独ソ不可侵条約でドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,ポーランドに進駐。ソ連の秘密警察内務省人民委員会NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官をカチンの森などで処刑。

ドイツ軍,ソ連軍ともに,敵の捕虜に対しては,厳しく取り扱った。どちら側の兵士も,頑強に戦い続け,容易に投降することはなかった,といわれるが,これはお互いに捕虜となればどんな運命が待ち受けているか,容易に想像できたからだろう。

ユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人が,ソ連共産党ボリシェビキの下で,政治的,経済的に優位にあった,現地のポーランド人,ウクライナ人を抑圧したという偏見だった。

しかし,ナチスドイツは,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与する下等劣等人種は全て排除するつもりだった。

写真(右)1941年7月,ソ連でユダヤ人を迫害,引きずり出す民間人:ドイツ軍兵士の監視の下にユダヤ人を公衆の面前で迫害し,逆らうことを許さない姿勢を見せ付けるドイツ人。ユダヤ人への迫害の厳しさに驚く女性たちを前に,同じソ連のロシア人,ウクライナ人の民間人を煽動あるいは強要して,ユダヤ人を迫害させた。現地住民の反ユダヤ感情を扇動し,住民を分割した。本来,占領者のドイツ人に憎悪が向くはずであるが,ナチス,ドイツ軍はその矛先をマイノリティーに転嫁した。住民が,団結してドイツ人に反抗するのを防いだ「分割統治」だった。
Russland.- Erfassung von Juden, Gewalt gegen einen jüdischen Mann, Misshandlung durch Mann in Zivil neben einem deutschen Wachtposten; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Franke 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-186-0160-13引用(他引用不許可)。


ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも,現地のポーランド人,ウクライナ人の間に起こった。

ドイツ国防軍将兵は,独ソ戦の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,治安維持任務の責任を親衛隊特別行動部隊(アインザッツグルッペンEinsatzgruppen)に任せ,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないで,国防軍の名誉が守られると考えたのである。
しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。

写真(右)1941年6月,ポーランド総督領の首都クラコウ、パルチザンによる抵抗運動で炎上する市街地。手前のドイツ軍の馬車は、ソ連東部戦線へ補給を担う補給部隊であろうか。ドイツ軍へのパルチザン活動は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシだけでなく、ポーランドでも生じていたようだ。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L20721 Original title: info Scherl: Als die deutschen Truppen in die Stadt Charkow einzogen, waren viele Wohn- und Industriebauten von Partisanen in Brand gesteckt worden. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Herber 11.11.41 [Herausgabedatum] Dating: Oktober 1941 Photographer: Herber 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L20721_Charkow_deutscher_Einmarsch 引用(他引用不許可)。

ポーランドのユダヤ人は,ユダヤ人登録をして,戦禍の片付け作業に従事した。しかし,迫害は一時的な苦役の程度ではすまなかった。持ち出す財産を制限され,ドイツ軍は伝染病Epidemicの蔓延を理由にユダヤ人居住区ゲットーに強制移送させられた。
 これは,都市のユダヤ人だけではなく,郊外や農村のユダヤ人も同様だった。農地,家畜を手放し,家屋を残したまま,ゲットーに移住を命じられた。

写真(右)1941-1942年,東部戦線、ソ連、MP38短機関銃を手にしたドイツ軍兵士がソ連赤軍の兵士に両手を上げさせて捕虜にした。:兵士は、シャベルとガスマス入れの円筒ケースを腰に下げ、天幕のようなものを背負っているが軽装である。記念撮影用にポーズをとらせた写真のようだ。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1974-099-39 Original title: info Überall werden sie aus ihren Erdlöchern hervorgeholt,... Archive title: Sowjetunion.- Gefangennahme eines sowjetischen Soldaten (in Schützenloch auf freiem Feld) durch deutschen Infanteristen mit Maschinenpistole (MP 40) und feldmarschmäßiger Ausrüstung [evt. inszenierte Aufnahme: MP auf "Bild 146-1974-099-39" ohne Magazin] Dating: 1941/1942 ca. Photographer: Hähle, Johannes撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941-1942年,東部戦線、ソ連、ドイツ軍兵士がソ連赤軍の兵士を捕虜にしようとしている。:兵士は、短剣と水筒を下げ、天幕のようなものを背負っているが軽装である。2名のソ連軍兵士のうち、奥の1名はすでに死んでいるように見える。手前の兵士は恐怖にこわばっている。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1974-099-37 Original title: info Überall werden sie aus ihren Erdlöchern hervorgeholt,... Archive title: Sowjetunion.- Gefangennahme eines sowjetischen Soldaten (in Schützenloch auf freiem Feld) durch deutschen Infanteristen mit Maschinenpistole (MP 40) und feldmarschmäßiger Ausrüstung [evt. inszenierte Aufnahme: MP auf "Bild 146-1974-099-39" ohne Magazin] Dating: 1941/1942 ca. Photographer: Hähle, Johannes撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941-1944年,東部戦線、ソ連あるいはポーランド、ドイツ親衛隊の兵士が軍用犬を使って隠れているパルチザン(ゲリラ兵)あるいは敗残兵を捜索している:後方の親衛隊兵士は、モーゼル騎兵銃を構えて警戒している。
Inventory: Bild 101 III - Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS Signature: Bild 101III-Niquille-085-05 Old signature: Bild 146-2004-0086 Archive title: (Ostfront / Polen, Sowjetunion ?).- Bekämpfung von Partisanen.- Männer der SS mit Spürhund bei der Suche und Verhaftung von Partisanen; SS-PK Dating: 1941/1944 ca. Photographer: Niquille撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Niquille-085-05.引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年8月,ソ連、スモレンスク近郊、ドイツ軍に降伏し捕虜となったソ連赤軍兵士1万6000名:ドイツ中央軍集団は、モスクワへ進撃をする途上、1941年7月6日、交通の要衝スモレンスクでソ連赤軍の反撃を受けた。しかし、グデーリアン将軍の第2装甲軍は南方から迅速に反撃し、7月16日にはスモレンスクを占領。北方からは、ホート将軍率いる第3装甲軍が挟撃した。ソビエト赤軍は、包囲された30万名が降伏、捕虜となったが、20万名は包囲を脱して退却できた。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L28726 Original title: info An der Sowjetfront: Unübersehbar sind die Mengen der Sowjetgefangenen in einem Durchgangslager bei Smolensk. Zirka 16.000 Gefangnen sind in diesem Lager und täglich kommen neu hinzu aus dem großen Kessel bei Smolensk. PK-Aufnahme: Markwardt, Scherl Aug. 41 7920-41 Archive title: Sowjetunion, bei Smolensk.- Kriegsgefangene sowjetische Soldaten in einem Kriegsgefangenenlager Dating: August 1941 Photographer: Markwardt撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年7月,破壊されたソ連ベラルーシ(白ロシア)の首都ミンスクの街並:ミンスクは,現在のベラルーシ共和国の首都で,ソ連時代から連邦国家ベラルーシ共和国の首都だった。ソ連西方にあるために,1919年ポーランド・ソ連の戦争の時は,ポーランドに占領された。
Heeresfilmstelle. Zerstörtes Gebäude in Minsk 5.7.41 Minsk. Weissrussland Bildberichter: Weidner Dating: 5. Juli 1941 Photographer: Weidner撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


特定の人種民族追放が,軽い差別であるように思うのは誤りである。追放に際して,持ち出せた資産は僅かだった。不動産,書くなどのほかに,仕事も,学籍も失った。

強制移住・追放、失職、学籍喪失、財産権制限は,基本的人権の侵害であり,迫害である。 

写真(右)1941年夏,ウクライナの中心地キエフの中央駅:ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人を使役して,自らが破壊した町を清掃させた。清掃程度の差別的使役であれば,命令されたユダヤ人も従った。親衛隊は,ユダヤ人の反乱を警戒していたから,いきなりユダヤ人を追放しようとはしなかった。
ドイツは、ウクライナ人に対しても,独立を認めるようなプロパガンダを繰り返した。しかし,ヒトラーは、はっきりと,ウクライナの自治,傀儡政権の構想を避け,ドイツの植民地とすることを決定していた。
Der Bahnhof von Kiew Sommer 1941 Archive title: Sowjetunion, Kiew.- Bahnhofsgebäude Dating: 1941 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-01引用(他引用不許可)。

◆1939年9月1日,ポーランドに侵攻したドイツに対して,英仏連合国は,宣戦布告したが、1940年6月にフランスが降伏すると,ヨーロッパ大陸は,東方ソ連以外,事実上,ナチスドイツの支配下に組み込まれた。しかし,1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃,それまで反共産主義の立場を表明していた英国,米国は即座にソ連支援を発表した。

英首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)は,独ソ戦の勃発に,英国の危機が遠のいたと大喜びした。そして,チャーチルは,反共産主義だったが,即座にソ連に軍事援助を申し出た。チャーチル英首相と親密なルーズベルト米大統領も,ソ連をhttp://ktymtskz.my.coocan.jp/J/aircraft/chaina3.htm">武器貸与法の対象とした。

ポスター(右)1941年8月,「東方への進撃」を示すドイツ軍ソ連侵攻のポスター:ノルウェ−,フィンランド,オランダ,ベルギー,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニア,ユーゴスラビア,イタリア,ブルガリアが赤く塗られた枢軸側の領土。
対ソ戦には,スラブのブルガリアを除いて,ドイツ,イタリア以外からも,義勇軍が武装親衛隊として,参加している。開戦1カ月半で,広大なウクライナ,ベラルーシにまで攻め入って,モスクワにまで勢力が伸びようとしている。
Unser Vormarsch im Osten Dating: August 1941 Designer: FM; [Müller, Fritz]作。ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。(他引用不許可)


独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人Jews)1万9953名が第一陣として、ポーランドウーチ・ゲットーに強制移送された。1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人Jews)が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなるとされた。(芝健介『ヒトラーのニュルンベルク』180-193頁)

ヨーロッパ中のユダヤ人が,「東方」に続々と送られていることは,ドイツ鉄道職員にも,沿線住民にも,常識だった。東方ソ連でも,ユダヤ人Jews),スラブ人(ウクライナ人,ロシア人,セルビア人など)が,パルチザン容疑者やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に送られたりしていることを東部戦線のドイツ軍兵士は知っていた。強制収容所に移送されれば,出られないことも,みなが知っていた。が,ユダヤ人やスラブ人虐殺の話は,公の場では語らなかった。

ユダヤ人居住区ゲットーghettoに隔離されたJews)">ユダヤ人を追放する場所はなかった。ソ連軍の大量の捕虜にも,食料や監視兵力を割きたくはなかった。東方ソ連の肥沃な大地,資源は,入植するドイツ人,民族ドイツ人のためのものだった。

ナチスは,隔離したユダヤ人,ソ連軍捕虜を釈放して,ドイツにとっての災いの種にするつもりはなかった。予防戦争の論理に則って,敵が弱いうちに殲滅すべきであると考え,収容所のユダヤ人,スラブ人を,劣悪な環境に置き,順次,死ぬに任せた。後には,積極的に殺戮した。

写真(右):1941年6-7月,バルバロッサ作戦時にソ連南部でソ連男性2人を拘束したドイツ軍兵士:ドイツは,ユダヤ人,共産党員,ボリシェビキ,インテリ,将校などを占領地から排除したがった。そこで,敵性住民,潜在的な敵対者は拘束されたり,迫害されたりした。このような住民弾圧的な軍政は,反ボリシェビキだった住民も,反ドイツの側に立たせることになった。スラブ人もユダヤ人同様,下等劣等人種と見下した人種民族的な偏見は,テロ容疑者を捕らえという名目で正当化された。が,これがドイツ敗北の一つの要因となった。
Sowjetunion-Süd, "Unternehmen Barbarossa".- Deutsche Infanteristen beim Ausruhen in einer Ortschaft; Zwei gefangene / verhaftete Russen (?); PK 637 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Harschneck 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-020-1262-33 引用(他引用不許可)。


ユダヤ人Jewish people)は,アーリア人を人種汚染し,共産主義者がソ連を,国際金融資本家・マスメディア経営者がアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域は,東方ソ連にはない。逆に,東方ソ連のユダヤ人,スラブ人が,強制収容所や東方労働者として,ポーランドやドイツに連れてこられていた。ヨーロッパのユダヤ人,東方ソ連のスラブ人は,同じようには差別,迫害された。

写真(右)1941年,ソ連、東部戦線で捕まったユダヤ人たち:ユダヤ人男性は潜在的な敵、ゲリラ兵士とみなされて処断された。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1994-092-18A Original title: info Prop.-Kp. 612 Archiv-Nr. 5/2153 Bildberichter Hermann Text: Uetrecht Ort: Rosanka [Rozanka] Datum 28.6.41 Text: Selbst für eine Kugel zu schade: Diese, vertierten Judentypen haben 5 deutsche Soldaten und einige National-Polen an Rote verraten; die Verratenen wurden gefangen genommen und von den Rotarmisten zu Tode gemartert. Die hier gezeigten Juden wurden sofort erschossen. Dating: Juni 1941 Photographer: Hermann 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1994-092-18A引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年9月,ソ連、ウクライナ、ドイツ軍に降伏したソ連赤軍兵士が武装解除され引き立てられている。ヘルメットもベルトも全て取り上げられみすぼらしい姿で、徒歩で移動を命じられている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-187-0203-06A Archive title: Ukraine bei Lemberg.- Kolonne kriegsgefangener sowjetischer Soldaten neben Straßengraben marschierend; PK 691 Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-187-0203-06A引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年9月,ソ連北部でドイツ国防軍に降伏し捕虜になった3000名のソ連赤軍兵士
Signature: Bild 183-L19828 Original title: info Unser Bild zeigt einige der 3000 Gefangene, die bei den Kämpfen umd Balta gemacht wurden. PK-Brunnengräber, Scherl 14.8.41 [Herausgabedatum] Dating: August 1941 Photographer: Brunnengräber 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L19828引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年,ソ連、東部戦線でドイツ軍の捕虜となったソ連赤軍の兵士たち:彼らが手にしているのは、与えられた食料であろうか。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1989-063-30A Original title: info Russland - Shitomir, Ukraine 24.7.1941 [Herausgabedatum] Russische Kriegsgefangene im Lager. Heeresfilmstelle, Negativ-Nr.: M.229/9a Dating: 1941 Photographer: Paris, Hans Joachim撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1989-063-30A引用(他引用不許可)。


ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)発動2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)
?満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。
?ユダヤの星は手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左旨に縫い付けること。

写真(右)1941年6月,ソ連・白ロシア,ドイツ軍に降伏し行進させられるソ連赤軍捕虜:ユダヤの星を衣服の前後につけさせれた捕虜はいないようだが、これから選別されるのかもしれない。
An der Sowjet-Front: 1600 Gefangene, vielfach Ukrainer, die zwischen Luck und Wlodzimierz gekämpft hatten, gehen zur Sammelstelle. PK - Lachmann - Scherl Bilderdienst 6573-41 "Fr." OKW Juni 1941 ADN-ZB/Archiv II. Weltkrieg 1939-45 Nach dem Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf die Sowjetunion am 22.6.1941. Sowjetische Soldaten, die während der Kämpfe zwischen Luzk und Wlodimierz in den ersten Kriegstagen in deutsche Gefangenschaft gerieten, auf dem Weg zur Sammelstelle. Aufnahme: Lachmann Depicted place Russia Date June 1941 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 183-B09012引用(他引用不許可)。


しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示したものも少なくなかった。そこで,ユダヤの星着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示したものに対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。

1941年11月4日,ドイツ帝国財務省令:国民経済に重要な企業で就労していないユダヤ人は,数ヶ月以内に,東方に追放する。追放されるユダヤ人の財産は,ドイツ帝国のために没収する。

写真(右):1941年6-7月,ソ連侵攻緒戦で死亡したドイツ軍兵士:身の回り品だけ持つことを許され,家から退去させられる。そのうち戻ってくることができると思わせたのであろう。実際は,強制収容所やゲットーに移送された。その後,絶滅収容所に送られることになる。
Sowjetunion; Im Osten (am Bug), Juni/Juli 1941; KBK Lw. 3 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Freytag 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-347-1080-18引用(他引用不許可)。


◆ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人やスラブ人の運命を察することができたが,誰もその責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズム,不当な現実を受け入れてしまう不当現実主義である。不当現実主義者は,戦後になって虐殺行為や戦争犯罪の責任を,すべてヒトラー総統,親衛隊に転嫁した。彼らは、ヒトラーに命じられてやむなく従ったのだと弁解した。

1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。



5.ソ連からのユダヤ人移送とパルチザン鎮圧

写真(右):1941年7月,ソ連中部・白ロシア,モギリョフ,居住地から追放されるユダヤ人家族:身の回り品だけ持つことを許され,家から退去させられる。一時的退去のように感じたユダヤ人もいたであろうが、実際は,強制収容所やゲットーに移送後,絶滅収容所に送られることになる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-138-1091-30ASowjetunion-Mitte, Mogilew.- jüdischer Mann und Frauen (mit aufgenähtem Judenstern) auf Dorfstraße; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右):1941年7月,ソ連中部・白ロシア,モギリョフ,ドイツ軍兵士によって強制的に故郷から追放されるユダヤ人家族:左橋には、ムービーカメラを構えたドイツ宣伝部員が映っている。衣類など身の回り品だけ持ち,住み慣れた家から移送された。戦禍を避けるための一時的退去であると偽りを告げられたのかもしれない。実際は,強制収容所やゲットーに移送された。その後,絶滅収容所に送られることになる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-138-1091-08A Sowjetunion-Mitte, Mogilew.- jüdischer Mann und Frauen (mit aufgenähtem Judenstern) auf Dorfstraße; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1091-08A引用(他引用不許可)。


写真(右):1941年7月,ソ連・白ロシア,モギリョフ,故郷から追放されるユダヤ人家族:身の回り品だけ持つことを許され,家から退去させられる。そのうち戻ってくることができると思わせたのであろう。実際は,強制収容所やゲットーに移送された。その後,絶滅収容所に送られることになる。
Sowjetunion-Mitte, Mogilew.- jüdischer Mann und Frauen (mit aufgenähtem Judenstern) auf Dorfstraße; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1091-13A引用(他引用不許可)。


ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。


写真(右)1941年7月,ソ連(ロシア)逮捕され監視されているユダヤ人たち:左で小銃を構えて警戒しているのは、反ユダヤ主義・反共産主義の地元民兵であろうか。民族ドイツ人であろうか。ドイツ軍は言葉などコミュニケーション能力の不足もあり、現地でユダヤ人を見つけ拘束するには、現地人の協力が必要だった。
Russland, Festgenommene Juden ADN-Bildarchiv II Weltkrieg 1939-45 In den von faschistischen deutschen Truppen besetzten Gebieten der Sowjetunion; August 1941 Festgenommene "jüdische Heckenschützen" werden durch rumänische Soldaten bewacht. Depicted place Russia Date August 1941 Photographer Unknown 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1083-31引用(他引用不許可)。


ポーランドと同じく,ドイツは,ユダヤ人を把握するために姦計を用いた。ユダヤ人差別とは,ユダヤ人に戦火で荒廃した市内を整備させる作業を担わせることであり,そのためにユダヤ人を登録するとした。

清掃作業程度の使役なら,ユダヤ人も登録に応じ,使役を受け入れた。このような登録や使役の監督作業には,親衛隊,ドイツ警察さらにはウクライナ人や反ユダヤの現地住民も協力した。しかし,これはユダヤ人を一網打尽にするために親衛隊が仕掛けた罠だった。

ドイツ軍のソ連侵攻後,東方ソ連でもユダヤ人迫害が開始された。この第一番目の差別が,戦禍の後片付けの作業をユダヤ人に押し付けることである。戦火で荒廃した市内を整備させるユダヤ人労働部隊を編成するために,現地のユダヤ人を登録するとした。 写真(右)1941年7月,ソ連(ロシア)モギリョフ,市内整備作業に向かうユダヤ人の行列
Rußland, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Kolonne von Juden mit aufgenähten Judenstern und Spaten unter Bewachung von Wehrmachtssoldaten beim Marsch durch die Stadt; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1083-31引用(他引用不許可)。




戦禍の後片付けや道路清掃作業のような苦役なら,ユダヤ人も耐えるしかないと,ユダヤ人登録に応じ,労働作業に向かった。使役を回避すれば,厳罰に処されると知っていたユダヤ人は,使役に出ることで,身の安全を確保しようとした。

ユダヤ人に清掃させるために登録を義務付けるというのは,ユダヤ人を把握するために親衛隊が仕掛けた罠だった。ユダヤ人を登録できれば,それを集めて移送することも容易になる。



写真(右)1941年7月,ソ連・白ロシア,モギリョフ(?),強制的な市内整備作業に向かうユダヤ人の行列:大きなユダヤの星を衣服の前後につけさせれた。白布の星は,シャツの布地を裁断して作った胸像のもののようだ。モギリョフ(モギレフ)は,ドニエプル川Dnieper河畔のモギリョフは,ミンスクMinskから東に190キロのところにある。
Russland, Zwangsarbeit von Juden Scherl: Die Juden, die in dem von den Deutschen besetzten Gebiet alle durch einen gelben Punkt auf Brust und Rücken nach aussen hin kenntlich gemacht wurden, werden zur Arbeit geführt. PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Bayer (Sch) 7721-41 "Fr." Juli 41 [Russland.- Marsch von Juden zur Zwangsarbeit] Depicted place Russia Date July 1941 Photographer Bayer撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 183-B09012引用(他引用不許可)。


親衛隊の目的は,ユダヤ人の排除だったから,戦禍の後片付けの使役そのためのユダヤ人登録は,あくまで現地のユダヤ人を完全に掌握するための手段に過ぎなかった。

◆ヒトラー総統は,ソ連に侵攻,生存圏を拡張した。占領した東方ソ連の肥沃な大地に,ユダヤ人を追放することは考えられない。また,早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。

ポーランドと同じく,ドイツは,ユダヤ人を把握するために姦計を用いた。ユダヤ人差別とは,ユダヤ人に戦火で荒廃した市内を整備させる作業を担わせることであり,そのためにユダヤ人を登録するとした。この程度の使役なら,ユダヤ人も登録に応じ,使役を受け入れた。このような登録や使役の監督作業には,親衛隊,ドイツ警察さらにはウクライナ人や反ユダヤの現地住民も協力した。しかし,これはユダヤ人を一網打尽にするために親衛隊が仕掛けた罠だった。

写真(右)1941年7月,ソ連・白ロシア,モギリョフ,強制的な市内整備作業に向かうユダヤ人の行列:大きなユダヤの星を衣服の前後につけさせれた。白布の星は,シャツの布地を裁断して作った胸像のもののようだ。モギリョフ(モギレフ)は,ドニエプル川Dnieper河畔のモギリョフは,ミンスクMinskから東に190キロのところにある。
Rußland-Mitte, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Austeilen von Spaten an Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1083-15引用(他引用不許可)。


◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。
世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである。

写真(右)1941年7月,ソ連・白ロシア,モギリョフ(モギレフ),市内清掃作業を強要させられるユダヤ人男性:ユダヤの星の大きなマークを上着の前と後ろ2ヵ所につけさせられている男たちが,通りの清掃に動員された。ここで,ソ連軍兵士の武装解除が行われたようで、左の衣類の山に蛇腹の管のついたガスマスク,もう一つは右の路上におちている。
Rußland, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen beim Säubern eines Gehsteigs; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1083-33引用(他引用不許可)。


ドイツ軍のソ連侵攻バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)後,東方ソ連でもユダヤ人迫害が開始された。この第一番目の差別が,戦禍の後片付けの作業をユダヤ人に押し付けることである。
ユダヤ人に戦火で荒廃した市内を整備させる作業を担わせ,ユダヤ人労働部隊を編成するために,現地のユダヤ人を登録するとした。 

写真(右)1941年7月,ソ連モギリョフ,市内清掃作業を強制させられるユダヤ人男性:ユダヤの星の大きなマークを上着につけさせられている男たちが,道路清掃に動員された。左の男性は,右手に回収したガスマスクを持っている。
Sowjetunion, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen beim Säubern einer Straße, Beladen von Wagen; Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1083-35引用(他引用不許可)。


ポーランドと同じく,ドイツは,ユダヤ人を把握するために姦計を用いた。ユダヤ人差別とは,ユダヤ人に戦火で荒廃した市内を整備させる作業を担わせることであり,そのためにユダヤ人を登録するとした。この程度の使役なら,ユダヤ人も登録に応じ,使役を受け入れた。

写真(右)1941年7月,ソ連モギリョフ,市内整備作業の使役をさせられるユダヤ人男性:ユダヤの星の大きなマークを上着につけさせられている男たちが,道路の清掃作業なのか,木製貨車に散乱していた小銃,機銃弾薬,ガスマスクなどを貨車に載せて運んできた。ソ連軍捕虜をここで武装解除したのか。
Sowjetunion, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen beim Säubern einer Straße, Beladen von Wagen; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-138-1084-15引用(他引用不許可)。


1939年9月1日,ドイツ対ポーランド戦として第二次大戦は,始まった。これは、ドイツのポーランド侵攻という東部戦線の戦いであり、2年後の独ソ戦とは,ユダヤ人迫害,パルチザン処刑の頻発など,暗部に共通点が多い。

ヒトラー総統は,東方ソ連邦を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴扱いしたためである。ドイツ軍のソ連邦侵攻後,東方ソ連でもユダヤ人迫害が開始された。

写真(右):1941年8月,ドイツ軍に捕まったソ連軍ユダヤ人兵士: 大きなユダヤの星(ダビデの星)のマークをつけさせられており,ロシア人,ウクライナ人のソ連軍兵士の捕虜と区別された。
Sowjetunion-Mitte.- Kriegsgefangene sowjetische Soldaten mit Judenstern; PK 697 Dating: August 1941 Photographer: Friedrich撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-267-0111-36引用(他引用不許可)。


侵攻したドイツ占領軍の第一番目の差別・迫害は,戦禍の後片付けの作業をユダヤ人に押し付けることである。ユダヤ人に戦火で荒廃した市内を整備させる作業を担わせたのである。そして,ユダヤ人労働部隊を編成するために,現地のユダヤ人を登録するとした。

戦禍の後片付けや道路清掃作業のような苦役なら,ユダヤ人も耐えるしかないと,ユダヤ人登録に応じ,労働作業に向かった。使役を回避すれば,厳罰に処されると知っていたユダヤ人は,使役に出ることで,身の安全を確保しようとした。

ユダヤ人に清掃させるために登録を義務付けるというのは,ユダヤ人を把握するために親衛隊が仕掛けた罠だった。ユダヤ人を登録できれば,それを集めて移送することも容易になる。

親衛隊の目的は,ユダヤ人の排除だったから,戦禍の後片付けの使役そのためのユダヤ人登録は,あくまで現地のユダヤ人を完全に掌握するための手段に過ぎなかったのである。

一時的な苦役なら,それを済ませて身の安全を確保しようとしたユダヤ人は,自ら登録に赴いた。逃亡して家族に災難が及ぶことを恐れ,自分の家族の氏名・住所も記して,自分が苦役に出た代わりに,家族の安全を確保しようとした。

しかし,ユダヤ人登録は,苦役のための措置ではなく,ユダヤ人を一網打尽にするために親衛隊が仕掛けた罠だった。ポーランドのユダヤ人ゲットー設置のときの、はじめは戦禍の後片付け、配給を理由とした住民登録(氏名、家族、職業、住所など)が行われた。そして、それを元に、人種民族差別の延長線上に、敵性人種民族の排除が始まった。

写真(右):1941年8月,ドイツ軍に捕まったソ連軍ユダヤ人兵士:ユダヤの星のマークをつけさせられた兵士は,捕まったばかりで,体格もいい。将来に不安を覚えながらも,義務を果たし,生き延びたと安堵しているようでもある。ボリシェビキ一党独裁による強権的な政治に反発していたかもしれない。
反ファシスト・プロパガンダは,叩き込まれていたかもしれないが,それを鵜呑みにした兵士ばかりではなかったであろう。投降することを禁じたコミサール(共産党が派遣した政治将校)を射殺して,投降した兵士たちも少なくなくなかったという。
しかし,ドイツは,ユダヤ人に準じて,ソ連軍捕虜も過酷に取り扱った。そのために,ドイツ諜報部が画策したウクライナ人の反ソ連・独立運動も,生かすことはできなかった。ウクライナ人の武装親衛隊「ガリチア」師団が編成されたが,士気はあまり高くなかったようだ。
Sowjetunion-Mitte.- Kriegsgefangene sowjetische Soldaten mit Judenstern; PK 697 Dating: August 1941 Photographer: Friedrich撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-267-0111-37引用(他引用不許可)。


ドイツ軍占領地域におけるユダヤ人登録や使役の監督作業には,親衛隊,ドイツ警察さらにはウクライナ人や反ユダヤの現地住民も協力した。逃亡しようとすれば,反ユダヤ的な現地住民に密告されるリスクもあった。

また,ユダヤ人の使役するだけでなく,ユダヤ人の資産没収,不動産・家具の強奪など,ユダヤ人を迫害して,利益を上げようとするものもいた。

ドイツは,住民が反目しあうように,ユダヤ人をスケープ・ゴートの標的として,分割統治した。ソ連邦では、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、エストニア、ラトビアなどで、ドイツによる反ボリシェビキ、反ユダヤ人のプロパガンダが行われ、迫害が煽動させた。

写真(右)1941年8月,ソ連、侵攻してきたドイツ軍に出頭させられたユダヤ人男性:ユダヤ人と判別しやすいように、直ぐにユダヤの星の大きなマークを上着に無為付けるように指示が出された。その後、ゲットーに移送され囲い込まれ、強制収容所に拘束された。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L19709 Original title: info ADN-ZB II. Weltkrieg 1939-1945 Judenverfolgung durch die faschistischen deutschen Besatzungstruppen in der Sowjetunion UBz.: Geistlicher einer jüdischen Gemeinde (rechts), der als Wiederstandskämpfer von der faschistischen deutschen Wehrmacht gefangen genommen wurde. 4.8.1941 Dating: August 1941 Photographer: Henisch, Walter撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L19709引用(他引用不許可)。


しかし,ナチス・ドイツは、占領地の住民に対して、大英帝国の植民地統治のような利益誘導ができず,ユダヤ人を迫害する一方で、非ユダヤ人からも穀物・家畜を徴発し,財産を没収し,さらに強制労働に着かせるなどした。
多数のソ連の住民が、婦女子も含めてオスト(東方)労働者として、ドイツに連行された。このような圧制ために,ソ連住民も,親ドイツではなく,反ドイツの側に立つようになった。

写真(右)1934年、ヒトラー総統と個人秘書から権力を掌握したマルチン・ボルマン Martin Bormann (1900年6月17日 - 1945年5月2日?):1933年7月4日に副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書となり、1941年にヘスが和平交渉をしようとイギリスに単独飛行で飛び失脚した後、ナチ党官房長官に就任。ナチ党の総務担当者となった。ヒトラーの言葉をメモをとり、それを実行に移すことで、ヒトラーの信頼を得た。そして、ヒトラーとの面会を取り付けようとする人物の選択を任されたことで、ボルマンはヒトラーの代弁者あるいは仲介者として権力を握るようになる。ヒトラーがドイツ軍最高司令官としての多忙な軍務に当たったため、ナチ党による一党支配の政治は党官房長官のボルマンが事実上統括するようになった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-R14128A Original title: info Zentralbild Reichsleiter der NSDAP Martin Bormann, Leiter der Dienststelle des Stellvertreters Hitlers. Aufnahme 1934. 3799-34 Archive title: Porträt Martin Bormann Dating: 1934 Photographer: o.Ang. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ナチ党官房長官のマルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これが卓上談話(Hitler's Table Talk)である。  ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年7月26日ヒトラー卓上談話:「民衆は思いを集中できるアイドルを求めている。----だが平凡な君主を奉じるくらいなら,共和制のほうがいい。----君主は一度覆されると見向きもされなくなり,二度と復活することはない。」

9月21日:「王朝の望みが国家の普遍の利害と一致しなくなれば,その統治の正当性はもはやない。平安を求め,外国に行過ぎた配慮をするような方針を採用するようになっては,その王朝はおしまいだ。だからそんな(ドイツの)王族を一掃してくれた社会民主主義者に感謝している。----行動を旨とする者は信義に支えられなければならない。そして民衆の中にこそ信義がある。民衆には情けはない,無垢な純真さで突き進むだけだ。指導者があれば民衆にどれほどのことができるかは明白だ。良くも悪くも全ての可能性はここにある。国家社会主義ナチスの責務は,ここに帰す。」
◆第三帝国は,王族や貴族のいない,民衆に基盤を持つ国家社会主義ナチス帝国である。

9月23日:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----トラを人を殺そうと,トラが人を食べようと,地球は回り続ける。強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。----しかし,国家社会主義が礼拝の形をとって宗教の真似事をする決してない。----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」

写真(右)1942年,ドイツ,ベルリンのアドルフ・ヒトラー総統
Reichsgebiet, Berlin.- Adolf Hitler bei Rede (Porträt); Prop. Ers. Abt. (PEA) Potsdam Dating: 1942 Photographer: Wagner撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-811-1881-31引用(他引用不許可)。


ヒトラーは,1941年,独ソ戦バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」
◆ヒトラーは,古いハプスブルク家,ホーエンツォレルン家を貴族主義の時代遅れと認識し,それに換わり,民衆を基盤としたナチス帝国を建国しようした。第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。

11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。」

1941年12月17-18日:「すでに失われ帝国の概念が,われわれにだけではなく,全世界に第三帝国として再び明記された。いまやドイツと言う時,それは第三帝国以外の何者でもない。帝国軍は古い伝統に戻らなければならない。古いというのは,プロイセン,バイエルン,オーストリアの伝統のことだ。」
◆ヒトラー総統の下に統一されたドイツ第三帝国は,弱肉強食の掟に則って,憐憫の情を軽蔑する粗暴な軍隊を建設しようとした。ヒトラーは,歴史的使命を妄信し,戦争によって,ヨーロッパの覇権を獲得しようとしたのである。

ソ連のウクライナ人の独立、反ボリシェビキ政権の樹立といった「自治・独立」は、バルバロッサ作戦の当初から、まったく考慮されていない。一部のドイツの軍人が、計画を「弄んだ」だけである。


6.ウクライナ独立の失望とパルチザン鎮圧

写真(右):1941年7月,現地の少年に水をもらい頭を洗う装甲車搭乗員:少年の行為は,ドイツの演出したプロパガンダ写真なのか。それとも,ボリシェビキの圧制から解放してくれたドイツ兵士を歓迎しているのか。あるいは,頼まれたので,率直に頭を洗うのを手伝っているのか。人種民族,文明文化,イデオロギーの視点から物事を解釈するのは,意外に容易なことである。が,人の感情,心の動きを把握するのは困難だ。率直に人に物事を頼み,親切にそれに応えてもらえたなら,人種民族,文化思想の違いを理由に,その人を迫害・殺害する気分にはなれなくなるだろう。
Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur) Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月22日以降のドイツのバルバロッサ作戦Operation Barbarossa)は,ユダヤ人など下等劣等人種殲滅戦争の第二段階だった。

既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。また,1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。

バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。


ボリシェビキ殲滅と東方生存圏獲得のための戦争を戦ったドイツ軍の中にも,ボリシェビキの頸城(くびき)からロシアの民衆を解放する戦いと考えた兵士がいた。
彼らは,ヒトラーがウクライナ人やロシア人などスラブ民族を軽蔑していたのを知っていたはずだが,ソ連赤軍(共産党の軍隊)を殲滅すれば,1917年11月のウクライナ人民共和国の独立の時のように,諸民族の独立・自治に結び付くと,自らの戦いを納得させたのかもしれない。

写真(右)1941-43年,ソ連ロシア人の葬儀,それに参加するドイツ軍兵士:手前の棺から遺体を出して土に埋め,毛布を掛けたロシアの葬儀。死体を棺から出して埋葬、地上に毛布をかける。ヤブの向こう側に,ヘルメットを被ったドイツ軍兵士(2人?)が,葬儀に参加している。
Beerdigung eines Russen. Die Leiche wurde aus dem Sarg genommen und in einer Decke der Erde übergeben Archive title: Sowjetunion.- Bestattung eines Russen durch Zivilbevölkerung Dating: 1941/1943 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ連邦アーカイブの保管する第二次大戦中のカラー写真の中に,旧ソ連邦の風土・民俗に関する興味深い写真が残っている。これは,反ボリシェビキ,アンチセミニズム,親ドイツのプロパガンダも含まれるが,撮影者の教養や社会的な関心を反映した写真もある。

たとえば,1941-43年撮影のソ連邦の葬儀の様子を写したカラー写真だが,これは戦火に巻き込まれて亡くなったロシア人に同情してのか,ドイツ軍兵士が葬儀に参列している。葬儀とそれを執り行う家族・友人を尊重するように,接近して遺体を興味本位で撮影したのではなく,遠慮がちに後方から写している。構図として芸術的なわけではないが,現地の様子をそのまま記録したいとの気持ちが感じられるような機がする。ロシアの習慣に感じ入って,カラー写真を撮影したようだ。

写真(右)1941-43年,ソ連ロシア人の葬儀(続き):手前に空になった棺があり,埋葬場所に毛布を掛けている。ヤブの向こう側のドイツ軍兵士らも葬儀を尊重しているようだ。プロパガンダ用の宣伝写真ではなく,ロシアの葬儀に関心をもったか,あるいは家族に同情したドイツ人が,それなりの眼差しでカラー写真を撮影したのではないだろうか。
Beerdigung eines Russen. Die Leiche wurde aus dem Sarg genommen und in einer Decke der Erde übergeben Archive title: Sowjetunion.- Bestattung eines Russen durch Zivilbevölkerung Dating: 1941/1943 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


独ソ開戦バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)当初,ソ連邦に侵攻したドイツ軍を,ソ連共産党スターリンの圧制からの解放と考え,ドイツ軍を歓迎するソ連のウクライナ人,ロシア人,中央アジアトルコ系民族などがいた。ソ連の住民の中には,ドイツ軍進駐初期,スターリン支配,ボリシェビキ圧制から解放されると考え,ドイツ軍兵士を歓迎した人々も少なくなかったのである。

写真(右)1941年9月,ウクライナ,ポルタワでドイツ軍兵士を歓迎する民族衣裳ソロチカ(SOROCHKA)で正装したウクライナ人:普段着ではないので撮影のために着替えたのかもしれないもが,ウクライナ人は,ドイツ軍進駐初期には,ボリシェビキ圧制から解放され,第一次大戦末期と同じく,ウクライナ独立が期待された。ドイツ軍兵士の中にも,ウクライナの自由のために共産主義と戦うと考えたまじめな兵士もいたに違いない。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0160 Original title: info Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年9月,ウクライナ,ポルタワでドイツ軍兵士を歓迎する民族衣装で正装したウクライナ人:ドイツは,肥沃な国土,民族ドイツ人の移住地を必要としており,ウクライナを独立させるつもりは,当初からなかった。物資供出,強制労働を命じられたウクライナ人たちは,反ドイツの側に回った。
Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Dating: 1941 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年9月,ウクライナ,ポルタワでドイツ軍兵士を歓迎する民族衣装、刺繍が美しいソロチカで着飾ったウクライナ人(ウクライィーンツィ):普段着ではないので撮影のために着替えたのかもしれない。が,ウクライナ人は,ドイツ軍進駐初期には,ボリシェビキ圧制から解放され,第一次大戦末期と同じく,ウクライナ独立が期待された。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0163 Original title: info Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年9月,ウクライナ,ポルタワ、花の刺繍ワンピース(ソロチカ)のウクライナ女性:ウクライナ民族衣装でドイツ軍兵士を歓迎するというプロパガンダ写真。民族衣裳ソロチカ(SOROCHKA)の名前の由来は、 ウクライナ語の「40」の数字を意味する「сорок (ソーロク)」から来る。40は、糸の太さを表すが、細い糸をつかって刺繍、縫製した高級感ある衣裳である。花冠(フラワークラウン/ヘッドドレス)ではなく、白い布を巻いている。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0162 Original title: info Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


第一次大戦の最中,1917年,ロシア革命が起こり,皇帝ニコライ2世が退位すると,キエフではナショナリスト評議会(中央ラーダ)が結成され,モスクワのケレンスキーKerenskyの臨時政府が派遣した軍を圧倒し,1917年11月,ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。

こういった第一次世界大戦時の認識を引き継いで,善意のドイツ軍兵士でも,共産党員政治委員,ユダヤ人,パルチザンに対しては,厳しく処断した。

ドイツ軍が進駐したウクライナでは,ボリシェビキ圧制から解放され,第一次大戦末期と同じく,ウクライナ独立を期待する住民もあった。

他方、ヒトラー、ナチ党、親衛隊は、ウクライナの独立など宣伝材料としても公言することを許さず、ウクライナをドイツの生存圏として取り込み、住民は奴隷や労働者として、ドイツ人のために酷使する方針だった。

写真(右)1941年9月,ウクライナ,ポルタワでドイツ軍兵士を歓迎する民族衣装ソロチカで着飾ったウクライナ人(ウクライィーンツィ):花の刺繍ワンピース(ソロチカ)にわざわざ着替えたプロパガンダ写真のようだが、花冠(フラワークラウン/ヘッドドレス)ではなく、白い布を巻いている。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0164 Original title: info Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年9月,ウクライナ,ポルタワでドイツ軍兵士を歓迎するウクライナ人(ウクライィーンツィ):刺繍が美しい民族衣装、ソロチカで着飾っているウクライナ人は,ドイツ軍が共産主義の強権政治から解放してくれると、さらにはウクライナの独立を認めてくれると淡い期待を抱いたのかもしれない。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0165 Original title: info Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


共産党ボルシェビキは,1918年1月28日,「労農赤軍(RKKA)の組織に関する布告」を出した。この赤軍とは,
?革命で樹立されたソビエトを防衛する,
?従前の常備軍を改編し人民武装部隊とする,
?ヨーロッパへの革命の輸出をする、
という3点を特徴とした労働者と農民を出自とする人民義勇軍組織だった。

写真(右)1941年夏,ソ連ウクライナで粘土小屋を作る女性:ウクライナでは家を作るのに粘土が多用されていた。戦時中でも,ウクライナの風土に興味を持ったドイツ人は少なくなかったであろう。ウクライナの家屋構造を知ってなるほどと納得し,カラー写真で撮影したのではないだろうか。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0153 Original title: info Bau einer Lehmbaracke an einem Haus in der Ukraine Sommer 1941 Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Frau beim Bau einer Baracke aus Lehm Dating: 1941 Sommer. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年夏,ソ連ウクライナで粘土小屋を作る女性:ウクライナでは家を作るのに粘土が多用されていた。戦時中でも,ウクライナの風土に興味を持ったドイツ人は少なくなかったであろう。ウクライナの家屋構造を知ってなるほどと納得し,カラー写真で撮影したのではないだろうか。
Bau einer Lehmbaracke an einem Haus in der Ukraine Sommer 1941 Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Frau beim Bau einer Baracke aus Lehm Dating: 1941 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


レーニンは,ウクライナに赤軍を派遣,1918年初頭,キエフを再占領した。そこで,赤軍に対抗するウクライナ人ナショナリストの中央ラーダは,第一次大戦でロシアと戦っていたドイツ軍と和平を結んで,ボシシェビキと対抗しキエフを再攻略した。

しかし,ドイツ革命が勃発すると,ドイツは戦争終結を決心し,1918年末までには,ウクライナから撤兵する。ウクライナ人ナショナリストは,再び赤軍攻撃に圧倒され,1919年に再びキエフを失ってしまった。

写真(右)1942年夏,ソ連ウクライナで水辺で日光浴するビキニのウクライナ女性:少女は写真をドイツの男に写真を撮られるのを恥ずかしがって,困惑しているようだ。しかし,ドイツ人に恐怖しているわけではない。クリミヤ半島南端ヤルタは,夏のリゾートあるいは避寒地として,スターリンの社会主義時代にも賑わっていた。ここは,ウクライナの内陸のようだが,湖沼や河川で泳いで,日光浴したのであろう。
当時から斬新なビキニの水着をウクライナ女性が着ていた。それをドイツ軍兵士が注目して,カラー写真に撮影したようだ。ウクライナを蔑視する視線で撮られたものではないように見える。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0480 Original title: info Ukrainerinnen beim Sonnenbaden Sommer 1942 Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Frauen mit Bikini beim Sonnenbaden Dating: 1942 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


この間,シベリア出兵に見られるように,周辺諸国の干渉戦争に巻き込まれたが,1922年,ウクライナにもソヴィエト政権に組み込まれた。ソヴィエト社会主義共和国連邦の成立である。

オーストリア・ハプスブルク帝国支配下ガリチアにも、1918年11月,西ウクライナ人民共和国が樹立された。これは,ウクライナ人を中核としたが,ガリチアのポーランド人,ユダヤ人は,ウクライナ人ナショナリストに反発し,隣国ポーランドのピウスーツキ将軍は,ガリチアをポーランドに併合した。

ウクライナは,ロシア・ソ連,ポーランドと係争の歴史があり,ウクライナ人には独立の気運もあった。また,ソ連に電撃侵攻したドイツ軍兵士の中にも,ウクライナの自由のために共産主義と戦うと考えたまじめな兵士もいたに違いない。

このような自由と独立,圧制や植民地からの解放という大儀は,大東亜戦争を戦った大日本帝国の場合にも主張された。しかし,ドイツは,肥沃な国土,民族ドイツ人の移住地を必要としており,ウクライナを独立させるつもりは,当初からなかった。大日本帝国が,石油の豊富なオランダ領インドネシア,要衝シンガポール,ゴム・スズ産地の英領マラヤを,日本への資源供給地と位置づけ,民度が低いことを名目に独立させなかったのと同じである。

名目的な自治・独立,既存権力からの自由を大儀とした占領軍だったが,占領支配下の住民に,新たに物資供出,強制労働を命じ,物資・人員を徴発するようになれば,住民は反発する。反抗する住民を処罰すれば,さらなる抵抗を呼び起こす。こうなれば,抑圧からの解放を謳った占領軍も,一つの支配から,別の支配への移行に過ぎない,あるいは以前の支配のほうがまだましだったと,占領軍への憎悪が強まってくる。

ドイツの占領当初,スターリン共産党支配の圧制から解放してくれるとして,ドイツ郡の進駐を歓迎したウクライナ人,ロシア人もあったが,治安維持パトロール,容疑者処罰,強制動員が占領地住民の反ドイツ感情を高めた。ドイツ軍をスターリンの独裁支配からの解放者として讃える住民はいなくなった。

ガリチアGaliciaは,現在,東ガリチアがウクライナ,西ガリチアがポーランドの領土であるが,歴史的には,オーストリア・ハプスブルク帝国領だった。オーストリアは多民族国家だったために,東ガリチアにはユダヤ人が多かったが,第一次大戦の時には,身の安全を確保するために,ウィーンに避難するユダヤ難民となったものも多かった。

しかし,1918年11月の敗戦で、オーストリア帝国が崩壊すると,ポーランド人,チェコ人,ハンガリー人が民族自決から独立国家を設立した。ガリチアはユダヤ人はポーランドに組み込まれることになった。

写真(右)1941-43年ごろ,狙撃犯として捕虜になったソ連住民・ユダヤ人:上着をきたユダヤ人ラビや一般住民もいるようだが,ユダヤ人の狙撃者・パルチザン容疑者として,一網打尽にされた。軍服ではなく民間人の服を着用している便衣隊ゲリラ・パルチザンは,厳しく手段された。あるいは,実際に彼らユダヤ人が,ドイツ人を狙撃したのかどうかは,問題ではなく,ユダヤ人である以上,潜在的なパルチザンとみなして捕まえたのかもしれない。
Jüdische Heckenschützen. Wenig vertrauenerweckend sehen sie aus. Unter dieser Gruppe (im Bild mit Mantel) ein Rabbiner, verschmutzt und arbeitsscheu, wie alle seine Rassegenossen. G 8037 PK-Aufnahme Kriegsberichter Fritsch (Wb) Dating: o.Dat. Photographer: Fritsch, F.撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1939年9月の第二次大戦勃発で,ポーランドは西側をドイツに,東側をソ連に占領された。このとき,ソ連軍がポーランドに進駐,西半分を占領しても,英仏は,ソ連に宣戦布告しなかった。これは,ソ連=フィンランドの冬戦争の時の失敗,ドイツの脅威の前の妥協ということが理由であろう。

しかし,1941年6月22日,ドイツがソ連に侵攻すると,英米は即座にソ連に対する軍事援助をすると発表し,モスクワのスターリンの下に援助使節団を派遣した。

独ソ戦によって,東ガリチアのソ連軍は駆逐され,ドイツ占領下に置かれたが,実は,米英のソ連の軍事支援が,即座になされたことが,ソ連の抗戦力向上に寄与したと考えられる。

写真(右)1941年9月,ドイツ軍に捕らえられたユダヤ人・ソ連住民・パルチザン捕虜:1941年6月22日にバルバロッサ作戦にしたがって,ドイツはソ連に進攻,多数の捕虜を得た。捕虜は,収容所に後送されたが,現地で射殺されることも少なくなかった。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-212-0221-03引用

ナチスは,共産党,ボリシェビキを敵とみなし,容赦なく殲滅するつもりだった。バルバロッサ作戦発動直前,ドイツ国防軍にもソ連軍の共産党員や政治将校を射殺することが命じられている。パルチザンが拡大する前に,予防戦争を開始した。

予防戦争とは,敵が強くなる前に打撃を与える戦争であり,病原菌のような敵が猛威を振るう前に排除,浄化しておくという意味合いで使われる。弱いものいじめはいけないことではなく,弱いうちにたたきつけておこうという発想である。そこには,人間性や同情は見られない。

写真(右)1941年9月,ソ連北部でドイツ国防軍兵士(右後方)がパルチザン容疑者を処刑場所に連行する。共産党からソ連軍に派遣された政治委員(政治将校),ソ連軍ユダヤ人兵士など敵性下等劣等人種とされた人間が,銃殺された。治安対策の意味もあったが,このような虐殺が,共産党に反対していた親独ロシア人・ウクライナ人にまで,ドイツ抵抗運動,パルチザン(ゲリラ)に向かわせた。
Sowjetunion-Nord.- Erschießung von Männern ("Partisanen"),Signature: Bild 183-L19828 Original title: info Unser Bild zeigt einige der 3000 Gefangene, die bei den Kämpfen umd Balta gemacht wurden. PK-Brunnengräber, Scherl 14.8.41 [Herausgabedatum] Dating: August 1941 Photographer: Brunnengräber 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-212-0221-05引用(他引用不許可)。


しかし,ナチス親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)の世界観の下,下等劣等人種民族のロシア人,ウクライナ人に対する物資徴発,強制労働が大規模に行われた。ドイツ国防軍の中には,住民と協力関係を樹立し,反共勢力に育成するとの構想もあったが,それは物資略奪,強制連行と並存することはできなかった。

写真(右)1941年9月,ソ連北部でパルチザン容疑者を銃殺する直前のドイツ国防軍兵士。ドイツ連邦アーカイブは,ドイツ国防軍や親衛隊による,(今日の視点で)残酷な写真でも,隠すことなく公開している。しかし,Bundesarchivの画像を使った写真集としては,グロースドイッチュランド師団写真史,西部戦線―SS未公開写真集,クルスクの戦い―戦場写真集,戦場のタイガー戦車,など,兵器テクノロジーの画像が多い。総力戦の大量破壊,大量殺戮も無視できないだろう。
Sowjetunion-Nord.- Erschießung von Männern ("Partisanen"), Marsch auf Straße unter Bewachung durch deutsche Soldaten; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


独ソ戦開始バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)直後からSS国家長官ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Luitpold Himmler)指揮下の親衛隊は、ユダヤ人など下等劣等人種に対する殲滅戦争を開始,住民の家畜,食料を徴発し,住民を追放した。過酷な扱いを続けたドイツに対して,占領下の住民は,パルチザンとなり,武器を取って,ドイツ占領軍を襲撃し,ドイツの通信交通網を破壊した。さらに,ドイツに協力する現地の住民にも報復した。

写真(右)1941年9月,ソ連北部でパルチザン容疑者を銃殺した瞬間のドイツ国防軍兵士:硝煙が上がる中,凄惨な銃殺刑が撮影された。撮影したThiedeは,どのような意図で写真撮影したのであろうか。残酷な処刑と考えたのか,極悪なテロリストの排除と考えたのか。
銃殺を行うドイツ軍兵士には,アルコール類が特別配給されたが,処刑の精神的な負担が大きかった。相手が,女子供であれば「パルチザン」として平然と処刑することはできないだろう。
後にユダヤ人絶滅収容所でガス殺をし,遺体をユダヤ人囚人からなるゾンダーコマンドに処理させたが,これは処刑者の精神的負担を軽減するためだった。
Sowjetunion-Nord.- Erschießung von Männern ("Partisanen"), Erschießungskommando bei der Exekution von sechs Männern; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年9月,ソ連北部でパルチザン容疑者6人を銃殺した直後,拳銃で止めをさすドイツ軍兵士:パルチザン容疑者が集合させられ,処刑場に向かい,銃殺された。この一連の流れが,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivの写真として保管,公開されている。ただし,写真は,この処刑の順番に整理され並んでいるわけではないので,今一枚ずつ探してゆくしかない。
ドイツ国防軍や親衛隊による(今日の視点で)残酷な画像を,連邦アーカイブは,隠すことなく公開している。しかし,日本では国立国会図書館が資料を整理,公開しているが,web公開には,十分な予算が充てられているわけではないようだ。
一流政治家や自衛隊幕僚は,東京裁判史観はけしからん,米軍の占領政策に洗脳されたなどいう話をして終わるのではなく,歴史資料を収集・保管・公開するために行動してほしい。吉田松陰の「草莽崛起」を唱えるなら,誰でも利用できる歴史の資料整備の予算を工面できるように尽力してほしい。
Sowjetunion-Nord.- Erschießung von Männern ("Partisanen"), Marsch auf Straße unter Bewachung durch deutsche Soldaten; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツに食料・物資・家屋宿舎を提供し,ドイツのために労役をこなし,道案内やスパイ探しなど情報を提供するロシア人,ウクライナ人の住民は,パルチザンに脅され,殺害された。 

ポスター(右):1943年,ウクライナ人に対してボリシェビキ殲滅を訴えるドイツ親衛隊のポスター「ボシシェビキを殲滅せよ」;ナイフを持った赤い悪魔の共産主義者(ボリシェビキ)を刺殺するドイツ軍兵士。レンベルクで発行されたもの。
Stavajte do borot'by z bol'sevizmom Dating: 1943 Designer: MM作。Occasion:Freiwilligenwerbung Ukrainer, Antibolschewismus Publisher: ZKW-Druckereibetrieb, Lemberg Editor: SS-Schützendivision Galizien編集。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ占領地ソ連のパルチザンは,ゲリラと同じく非正規兵士だったが,ドイツ軍やドイツ協力者を攻撃した。ソ連軍は,ドイツ占領下の住民に,武器を取って戦うように命じた。そして,パルチザンを後方撹乱を行うゲリラ部隊として組織しようと,連絡員や諜報員を送り込んだ。

ナチス親衛隊ラインハルト・ハイドリヒは,パルチザンを掃討し,反ドイツ抵抗運動を鎮圧するために,住民に対して容赦ない措置をとった。また,占領下住民から物資を徴発し,強制労働を課した。「オスト」東方労働者として,ドイツ本国やポーランドの工場,強制収容所付属工場に,強制連行された住民もあった。

ナチスは,ソ連の領土は,ドイツ人・ドイツ系民族(民族ドイツ人)の殖民する領土であると認識した。ウクライナ人の中には,第一次大戦末期と同じく,ロシア・ソ連が後退したのに乗じて,ウクライナ独立を目指すナショナリストも勢力を増した。

しかし,ヒトラー総統は,ソ連に侵攻,領土を拡張して板敷きでも,ウクライナの独立を認めるつもりはなかった。プロパガンダとして,ウクライナ独立を期待させ,協力させる程度の譲歩をしただけだった。


7.ホロコースト

写真(右)1941年8-9月,ソ連住民・パルチザンの絞首刑:見せしめに縛り首のまま公開された。パルチザン(ゲリラ)の処刑(銃殺,縛り首)は住民を威嚇して従順にさせ、パルチザン活動を抑制する目的もあった。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


戦時中,何万名ものユダヤ人やソ連軍捕虜をどのように処置するかが問題になった。早期にドイツが勝利できない以上,戦後のシベリア追放を議論するのも無益である。

人種汚染(遺伝子汚染)Introgression,煽動,パルチザンなど反ドイツの温床となる下等劣等人種は,処刑するか,奴隷労働者として処遇することになった。

写真(右)1943年1月,ソ連側住民・パルチザンの絞首刑:見せしめに縛り首のまま公開されたが,写真撮影禁止とのドイツ語は,ドイツ軍兵士への警告であろう。パルチザン(ゲリラ)の処刑(銃殺,縛り首)は,軍法上,問題ないと諭されても,善意のドイツ一般市民が目にすれば,凄惨なものと感じられたはずだ。誰も夫や父親が縛り首にされたり,したりすることを喜ばない。このような残酷な画像が,ドイツ連邦アーカイブに何枚も保管されている。
Sowjetunion.- erhängte Partisanen (nach dem 21.1.1943). Im Hintergrund deutsche Soldaten und Zivilbevölkerung; PK 666 Dating: Januar 1943 Photographer: Koch撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


永岑三千輝(2006)「東ガリツィアにおけるホロコーストの展開:Holocaust in East Galicia 1941–1942」(関東学院大学『経済系』第227 集(2006 年4 月)では,次のように記述されている。

 独ソ戦の直接の戦闘地域ではなかった地域,すなわち,ポーランドの諸地域でも,ソ連軍の反撃の強まりと,ドイツ軍の被害の増大,進撃の停滞,総力戦の泥沼へのめりこみの状況が露呈してくる段階から,すなわち,1941年9月以降,ユダヤ人の迫害・抹殺のポテンシャリティは高まってくる。

ガリツィアは独ソの軍事対決ということで言えば,----ドイツ大軍の前線への中継地点であり,ウクライナからソ連南方,スターリングラード,コーカサスに進軍するドイツ大軍にとっては,死活的に重要な地域ということになる。

ポーランド総督府のガリツィア地区では,1941年10月以降,ユダヤ人の大量射殺が始まり,後にはこの地域のユダヤ人はベウゼッツの絶滅収容所に連行され,ガス室で殺害された。その数,50万人以上にのぼる。

ドイツの占領政策にとってはるかに重要だったのは,この地域の住民の圧倒的部分をなすウクライナ人の民族主義・ナショナリズムの運動であった。ウクライナのナショナリズムは,20 年代の初め以降右傾化し,反資本主義,反ボルシェヴィズム,公然たる反ユダヤ主義の諸要因を統合するイデオロギーとなった。その運動体であるウクライナ・ナショナリスト組織(Organisation Ukrainischer Nationalisten, OUN)は,ドイツの東部国境の修正とポーランドの弱体化を求めるドイツの右派勢力の格好の同盟相手となった。

スターリン主義Stalinism)のソ連の占領統治もユダヤ人を政治的経済的に迫害した。しかし,総督府に拠点を移していたウクライナ・ナショナリスト組織(OUN)は,ソ連秘密機関によるポーランド人・ウクライナ人住民へのテロルはユダヤ人の仕業だと主張した。 

戦争と独ソによる占領は,この地帯の人口移動,難民化した人々の波を引き起こした。逃亡の方向の圧倒的流れは東の方向へであった。ポーランド人とユダヤ人は何十万人もポーランドの西部や中央部から逃亡し,東ガリツィアへ流れ込んだ。しかし逆に,東ガリツィアのウクライナ人,そしてユダヤ人さえもが,ロシア人の手から逃れようと西 へ,総督府,さらにはドイツが併合した地帯へと逃げ込んだ。さらに占領権力による追放,移送が重なった。

1941年10月はユダヤ人の絶滅政策への転換の重要な契機となった。いまや,ソ連を征服した後,白ロシア(ベラルーシ)湿地帯,シベリアその他へユダヤ人を大量に連行しようという構想は,この間の軍事的展開からして,挫折したのである。

追放するユダヤ人を送り込むべき地域,とくにソ連地域では,ソ連側の反撃,ドイツ軍進撃の遅延化,ドイツ軍の被害増大によって,ますますその移送地獲得の可能性がなくなってきた。それどころか----1941年6月の開戦直後からユダヤ人男性とコミュニストの一網打尽の作戦が進行し,8月中旬からは大量射殺の範囲が婦女子にまで拡大されていた。

1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

 ヒトラーの1941年12月11日、対米宣戦布告国会演説においては、独ソ戦で獲得した380万人余の捕虜,2万台余の戦車,1万7 機余の飛行機の破壊ないし戦利品としての獲得といった戦果を誇ると同時に,ドイツの戦死者16 万人余,負傷者57万人余,行方不明者3万3千人余も明らかにした。

その翌12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした---。


1942年1月1日,年頭の挨拶でヒトラーは,過ぎ去った一年が「人間の歴史で最大の勝利の年だった」と国民に語り,「1942年が神によるわが民族と同盟諸国民の救済の年」となると祈った。兵士に対する日々命令でヒトラーは,「この戦争で流される血がヨーロッパで何世代にも渡って最後のものとなること」を期待した。

しかし,---東部戦線はソ連の冬の攻撃で防衛戦に追い込まれていた。 

1942年1月8日,ハイドリヒは---「ユダヤ人問題最終解決」を議題とする会議を1月20日に召集した。---「ラインハルト作戦」のために絶滅施設の拡大が決定された。それは全総督府ユダヤ人の絶滅作戦を速やかに進めるためのものであった。総督府全体のこの展開にガリツィア地区の7月以降の展開も平行していた。30万人ほどの労働能力あるユダヤ人を除き,総督府のユダヤ人の絶滅は,ヒムラーの命令どおり,1942年末までに完了した。(永岑三千輝(2006)「東ガリツィアにおけるホロコーストの展開:Holocaust in East Galicia 1941-1942」引用終わり)

ベウゼッツ・ソビボール・トレブリンカ絶滅収容所解体報告書:ラインハルト作戦を遂行したグロボチニクの親衛隊ヒムラー長官宛の書簡(1943年11月4日付け)

ユダヤ人・ソ連軍捕虜抹殺・奴隷労働化の方針は,最高機密だったが,それは,迫害が知れれば次のような支障が生じるからである。

?ユダヤ人,ソ連軍捕虜が迫害されていることがわかれば,彼らは反抗する。そこで,抵抗を予防するために,東方への移送,労働すると偽り,強制収容所やその支所(労働キャンプ)に移送した。

?ユダヤ人・ソ連捕虜の処刑という残虐行為は,国連宣言で示された連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,処刑は秘匿する必要があった。

?後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人・ソ連軍捕虜の処刑は,人倫に悖ると反感を買う恐れがあった。そこで,ドイツ人にも処刑を秘匿した。


写真(右)1941年10-11月,ソ連ミンスクのユダヤ人逮捕者:ミンスクで宣伝部隊が撮影している。ユダヤ人は,服の上にマークをつけさせられている。
Juden werden gefilmt, Minsk Archive title: Sowjetunion, bei Minsk.- Kameramann (Filmberichter der Propaganda-kompanie ?) beim Filmen von Männer mit Markierung auf ihrer Kleidung ("Judenstern") in einer Ortschaft; Okt.-Nov. 1941 Dating: 1941 Oktober - November 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年の秋,ドイツは,ワルシャワにゲットーが設置され,独ソ戦の戦局悪化後には,ユダヤ人の強制収容所への移送を強行した。名目は東方への移住,労働従事ということだった。ユダヤ人を移住させる,労働させるとの名目で集めて,登録をし,ゲットーや強制収容所に送るのは,ナチスの姦計だった。

◆一度隔離した敵ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜は,労働可能であっても,解放することは考えられない。強制収容所に拘束したユダヤ人,ソ連軍捕虜は,奴隷労働者として使い捨てにするか,殺戮することになった。

ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の殺戮には,次のような障害があった。
?殺戮に伴う処刑者の精神的負担
?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
?大量殺戮発覚によるユダヤ人・スラブ人などの抵抗勢力の増大
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人やソ連軍捕虜を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がなくとも強制収容所では大量殺戮が行われていた。


写真(右)1941年9月21日,ソ連北部エストニアにおいて負傷したドイツ軍兵士:ソ連軍あるいは民兵,パルチザンによる攻撃で死傷したたくさんのドイツ兵がいた。独ソ戦開始から1ヶ月で,ドイツ軍の死者は8800人に達していた。戦友を死傷させた敵を許さないという報復感情が生まれた。報復の連鎖で,ドイツ人とソ連人がいがみ合い,憎しみあうようになった。
Kuressaare (Ahrensburg) Insel Ösel, S.S.R. Estland 21.9.1941 Angriff auf Kuressaare. Der Film-truppführer Ltn. Klier ist beim Angriff gefallen. II./I.R.151 Neg. Nr. : Kl. 17/24 Bildberichter: Barschdorff Dating: 21. September 1941 Photographer: Barschdorff撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)に参加したドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。将兵も,虐殺の噂を聞いていたし,自ら治安維持作戦を支援したこともあった。多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。虐殺の責任を回避したかった。「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥っていた。

しかし,スターリングラードで降伏したドイツ軍捕虜は,自分たちが捕まえたソ連赤軍捕虜と同じく,過酷な扱いを受けることになる。

1942年1月20日,ヴァンゼー会議Wannseekonferenzでは,ハイドリヒ長官が、親衛隊,警察指導者に、1941年10月末までに53万7千名のユダヤ人を国外移住させ、残るソ連・欧州の1100万名に及ぶユダヤ人問題の最終解決を全権委任されたことを伝えた。9月から,ドイツ支配下のユダヤ人は,黄色のダビデの星印の着用が命じられ、絶滅収容所の建設が開始された。

写真(右)1941年11月,ソ連,モスクワに向かって進撃するドイツ軍の輜重:機械化された補給部隊は多くはなく、馬車、馬匹が多用されていた。輸送の基幹は、自動車ではなく鉄道だった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-140-1226-06 Original title: info Scherl Bilderdienst Rußland - bei Targowi Sawod Vormarsch unserer Truppen durch die Winter-landschaft vor Moskau. Die Wege sind gefroren und trotz der Kälte geht es leicht vorwärts. Kriegsberichter Cusian 21.11.41 [Herausgabedatum] 10322-41 Archive title: Rußand, bei Targowi Sawod.- bespannte Truppen (Pferdewagen) beim Marsch auf verschneiter Straße Dating: November 1941 Photographer: Cusian, Albert撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。この時期は,独ソ戦でドン川西岸にあった南方軍集団が,ロストフから,カフカスに南下,スターリングラードに東進していた時期だった。「ブラウ」作戦の時期に,ユダヤ人絶滅,ボリシェビキ殲滅戦が本格的化した。


8.「ブラウ」作戦スターリングラード侵攻

 1941年12年から1942年1月,ドイツ軍は,レニングラード,モスクワの戦いでソ連軍に敗退した。南部では,ハリコフ方面がソ連軍の反撃を受けた。1941年12月26日,ソ連軍はクリスマス攻勢によって,黒海のケルチ半島西部に逆上陸し,橋頭堡を築いた。

クリミア半島・セバストポリ攻防(ブラウ作戦準備)を読む。

1942年初頭,ドイツ側は,各地でソ連軍の攻撃を受けていたが,南部での逆転を目指して,4月に「ブラウ」(青)作戦を実施することに決まった。この目標は,南方軍集団(ボック元帥)によって,ソ連軍の防衛力を打ち砕き,スターリングラードを制圧,カフカスの油田など戦争経済資源を除くことである。

写真(右)1942年,ドイツ軍のIV号戦車F/G型、車輛番号431号車と424号車:第二次大戦中期に開発された長砲身43口径7.5センチ戦車砲(7,5cm KwK 40)、携行砲弾87発を搭載したIV号戦車は、独ソ戦勃発中盤になってから部隊配備された。
全長7.02 m、車体長5.89 m、全幅2.88 m、全高2.68 m、重量25.0 t、砲塔前面装甲50mm、車体前面装甲80mm、マイバッハV型12気筒ガソリンエンジン300PS (224kW)、乗員5名。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0084 Original title: info Deutsche Panzereinheit in Bereitschaft in der Ukraine Sommer 1941 Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Zwei Panzer IV (Turmnummer 424 und 431) der 14. Panzerdivision neben einem Gebäude Dating: 1942 ca. Photographer: o.Ang. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1942年7月23日,総統大本営(総司令部)の一つでウクライナに設置された「ヴェアヴォルフ」で,陸軍参謀総長フランツ・ハルダー大将は,ヒトラーにソ連軍が計画的に退却しているとの推論を伝えた。が,ヒトラーはソ連軍が崩壊一歩手前にあると確信していた。

 ハルダー参謀総長は、ヒトラーの戦略に従わなかったために、非協力的と判断される。二ヵ月後の1942年9月24日、ハルダー上級大将は参謀総長を更迭、予備役編入。後任の陸軍参謀総長はクルト・ツァイツラー少将で、就任時には大将に特進。

スターリングラード攻防戦を読む。

◆虐待・殺戮という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎されるべき情報ではない。バルバロッサ作戦,スターリングラード攻防戦の背後には,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ませるわけにはいけない。

◆過去の歴史に無知であれば,それを恐れるあまり,歴史を捏造しプロパガンダを展開するしかなくなってしまう。歴史認識を洗脳された,陰謀だと他人のせいにし不平を言うしかなくなってしまう。このような責任転嫁は,妄想をたくましくして,未知不詳の歴史の亡霊を恐れるからだ。
しかし,冷静に歴史を学び,殺害された人々,殺害した人々の苦渋にも思いを馳せることで,真実の姿が見えてくる。過ち,罪の範囲が,光明が見えてくる。そうすればどんな過去であっても恐れることはない。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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