◆バルカン作戦:ユーゴスラビア解体、ギリシャのパルチザン鎮圧
写真(上):1942年,ブルガリア王国,首都ソフィアの市場;:ブルガリア軍兵士がタマネギを買い込んでいる。後方に見えるのは,市内路面電車。 1941年6月22日のソ連侵攻バルバロッサ作戦に,ハンガリー,ルーマニアはドイツ軍側に参加した。しかし,親スラブ主義のブルガリアのボリス国王は,親ドイツでもあったが、同じスラブ人のソ連とは戦わなかった。ルーマニアがソ連と休戦した後に,寝返ってドイツと戦ったが,ブルガリアは、寝返ったわけではない。 Archive title: Bulgarien, Sofia.- Markt, alte Frau (Bäuerin?) mit Huhn, Verkäufer von Zwiebeln, im Hintergrund Straßenbahn
Dating: 1942 ca.
Photographer: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真だけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。。
写真(上):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリを占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン容疑者の検査:ドイツ兵士が襲撃を受けたが,この「テロリスト」容疑者を捜索する目的で,コンドマリの住民が検査された。根拠は定かではないが,コンドマリの男性住民23-25名が裁判所の審理なしに銃殺された。老人,婦女子は殺害を免れたが,村は破壊された。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1941年6月1日,ギリシャ,クレタ島コンドマリ,ドイツ降下猟兵によるパルチザン容疑者の捜索・検査:ドイツ軍兵士を襲撃した「テロリスト」容疑者として,コンドマリ村民が集められ,検査された。この村の青年,中年男性23-25名が,パルチザン容疑者として,裁判なしに銃殺された。ゲリラ活動が激しかった,ユーゴスラビアでも,同じような住民虐殺事件が起こった。治安維持の手段として,テロの恐怖を利用したのである。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆2011年9月2日・9日(金)21時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess ルドルフ・ヘス」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。2010年に再放送もされました。
◆歴史館「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess ルドルフ・ヘス」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール」を再検討。
序.ナチスドイツによるユダヤ人迫害
ファシズムの軍備拡張、領土拡張が進むにつれて、世界秩序の再編成を唱えるようになり、ファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを著作1925年の『わが闘争』で公言していた。ドイツを弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,ペストのようなものであるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人への憎悪を公言していた。
ヒトラーは,ロシア人はアジア人,非文明人だと公言していた。ヒトラーの『わが闘争』日本語版では,アジアの野蛮性に関する偏見の記述は削除された。日本人が,ヒトラーに心酔したのは皮肉である。
◆人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきであり,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人は下等劣等人種であり,排除されなけらばならないと訴えた。しかし,アーリア「人種」など,恣意的区分にしか過ぎず実在しないものだった。
写真(右)1942年6月,総統大本営ヴォルフシャンッツェのヒトラー総統とドイツ国防軍最高司令部の幕僚:左よりアドルフ・ホイジンガー中将,ファン・ヴァイクス大将,ヒトラー総統,フリードリヒ・パウルス装甲大将,マッケンゼン大将,ファン・ボック元帥。 An der Ostfront, Juni 1942
Adolf Hitler bei einer Lagebesprechnung im Hauptquartier der Heeresgruppe Süd.
Von links nach rechts: Generalleutnant Adolf Ernst Heusinger, General der Infanterie von Sodenstern, Generaloberst Max Freiherr von Weichs, Adolf Hitler, General der Panzertruppe Friedrich Paulus, Generaloberst Eberhard von Mackensen und Generalfeldmarschall Feodor von Bock.
Juni 1942
Dating: Juni 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 183-B24543, Hauptquartier Heeresgruppe Süd, Lagebesprechung.jpg引用。
◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人「種」はなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。人種・民族を意図的に定義し,特定の人種民族を差別,迫害するのが,人種民族差別である。
写真(右):1942年,ブルガリア,ソフィアの市場で鶏を持つ少女:少女は,鶏肉用のニワトリを二羽もっているが,買ったのではなく,家で育てたニワトリを市場販売しているようだ。 ヒトラーは,ソ連を訪問したとき,そこで出会った女性たちが,飾りもつけず,化粧もしていないみすぼらしい人間だと,内輪で語った。そういう下等な民族には,ガラス球でも与えて手なずけて,農奴のように,食糧供出のために働かせるか,ドイツ本国に連行して,東方労働者として使役,徴用すればよいとした。彼らに教えるのは,簡単な算数と,交通標識が読める程度の知識で十分だと述べた。 Bulgarien, Sofia.- Markt, Porträt einer jungen Frau (Bäuerin?) mit Hühnern
Datierung: 1942 ca.
Fotograf: Grund, Horst撮影。
Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
東方ソ連に対しては,共産主義ボリシェビキが支配している地域として,その土地,資源,人民をドイツの支配下におこうとした。これはロシア人,ウクライナ人などを劣等化等民族と位置づけ,東方ソ連をドイツの生存と繁栄のための生存圏とみなしたためである。
⇒ナチ党独裁政権・ナチスの人種民族差別:ホロコーストの序章
◆反ユダヤ主義は,ナチス政権成立によって,人種民族差別の偏見という意識の問題から,ユダヤ人に対する基本的人権の侵害,迫害へと移っていった。これは,ナチス党が,突撃隊・親衛隊,さらに警察も支配し,権力と暴力を行使したからである。そして,スラブ人を蔑視する人種民族差別に基づいて,ドイツ第三帝国の生存圏を東方ソ連に求め,そこを支配する計画を立てた。この戦争計画がバルバロッサ作戦だった。
1.ソ連侵攻前夜
1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリを処置。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。
1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻で破壊された都市では,住民が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。ワルシャワは1939年9月28日に陥落したが、個ここでもユダヤ人が強制されて後片付けに従事させられた。
この時,労役に従事したユダヤ人を登録し,以後,家族を含めて,労役を課さないと宣伝したようだ。ユダヤ人には,労役をこなして,家族の身を保障しようとしたが,これはユダヤ人を把握して,ゲットーに移送するための姦計だった。労役させた後に,登録したユダヤ人をゲットーに強制移送した。
1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力で保障占領した。独ソ不可侵条約では,ポーランドをブーク川の線で即ソ分割することが密約されていた。ドイツのポーランド侵攻後,ソ連もポーランドに進駐した。独ソの握手は,偽りのもので,2年と続かなかった。 ドイツとソ連は同盟国として,ポーランドをブーク川を境界として,二分したのである。英仏はポーランドと相互条約を結んでいたため,9月3日,ドイツに宣戦布告侵攻したが,ソ連にはしなかった。
◆ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を即決処刑したことである。1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。1941年6月22日,ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦で,占領下ソ連では,ユダヤ人やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に収監されたりした。ポーランドでも,ソ連でも,ドイツ親衛隊,警察,国防軍とともに,現地ポーランド,バルト諸国,ウクライナの警察・住民の一部は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。
1939年の独ソ不可侵条約には,ポーランドの独ソ分割の密約があった。1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランド東部を保障するとしてソ連軍を進駐させ,武力占領した。
英仏はポーランドと相互条約を結んでいたため,1939年9月3日,ドイツに宣戦布告侵攻した。しかし,英仏は,その後にポーランドを占領したソ連には,宣戦布告していない。
戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日、チャーチルが英首相に就任した当日,ドイツのフランス侵攻開始。
5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、6月5日ダンケルク占領。ただし,連合軍兵士34万名は,英本土に脱出。6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏。フランス降伏のちょうど一年後,ドイツ軍はソ連を攻撃することになる。
ポーランド降伏から1年,フランス降伏後の1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーGhettoを作る法令が出された。ドイツに併合されたポーランド東部では、ユダヤ人の迫害、追放が行われていた。そこから、ワルシャワに多数のユダヤ人が流入していた時期だった。
ドイツ当局は、当初、アーリア人(ポーランド人)地区、ドイツ人地区、ユダヤ人地区と、人種民族ごとの居住区を設置しりだけで、ゲットーの再来ではないと公言していた。しかし、1940年11月16日,ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーから出ることはできなくなった。
写真(右)1940年夏,フランス,バトルオブブリテンの時期,ドイツ空軍主力爆撃機ハインケルHe-111H爆撃機:全長16.4メートル,全幅22.6メートル,翼面積86.5平方メートル,重量14000キロ,最高速度440キロ,航続距離2000キロ,ユンカースJumo211液冷1350馬力2基,乗員5名,武装7.92mm機銃5丁,爆弾2.5トン。グライダーを曳航するなど輸送任務にも使用された。 Frankreich.- Verband von Bombern Heinkel He 111 H-2 der 7./KG 1 im Anflug über dem Kanal (vorne V4+IR); PK KBK Lw4
Dating: 1940 Sommer
Photographer: Dahm
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101I-385-0593-05, Flugzeug Heinkel He 111.jpg引用。
1940年6月22日のフランス降伏によって,ドイツにとって,戦い続ける敵は英国だけになった。独ソ不可侵条約を締結していたヒトラー総統は,このとき,英国がすぐに休戦を申し入れてくると楽観していた。後には,ヒトラー自らがラジオによって,英国との和平交渉を行う用意があることを公言した。まだ、英国本土への大規模空襲は控えていた。英国の工場、造船所が戦備拡張に忙しかった時期、ドイツ空軍はこれらの目標を攻撃しないままに、放置していた。
写真(右)1940年,フランスの基地から英本土爆撃に向かう第51爆撃航空団(KG51)のユンカースJu-88A爆撃機:エーデルワイス(ウスバユキソウ)の可憐なエンブレムをつけた爆撃機だが,1940年当時,ドイツ空軍の最高性能の急降下爆撃機だった。 Ju-88の大きさ・性能:全長 14.4メートル,全幅 20メートル,翼面積 54.5平方メートル,最大速度 470キロ,航続距離 2730キロ,7.92mm機銃6丁,爆弾 2トン。生産数 15000機は,ドイツ軍爆撃機(戦闘機方を含む)としては最多生産を誇る。
Englische Kanalinseln.- Bomber Junkers Ju 88 A-1 des Kampfgeschwader 51 (I./KG 51) "Edelweiß" mit Besatzung vor dem Start; PK KBK Lw5
Dating: 1940
Photographer: Pilz 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
しかし,英国チャーチル首相は,米国の武器貸与法を利用した軍事援助によって,徹底抗戦を戦う覚悟をしていた。1940年7月10日から10月31日まで,ドイツ空軍は、英国本土の軍事施設(航空基地、軍港、レーダー施設など)、工業地帯を大空襲した。これに対して、英空軍戦闘機部隊は,ドーバー海峡を挟んで,ドイツ空軍の爆撃機,戦闘機を果敢に迎撃し,「バトルオブブリテン」といわれるほどだった。英軍は,ドイツ空軍の英本土空襲を持ちこたえた。
ヒトラーは,英国がソ連を当てにして戦っていると考え,イデオロギー上の敵であるボリシェビキを殲滅し,東方ソ連にドイツ民族の生存圏を獲得しようとの本心をむき出しにして,ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」を発動した。しかし,その直前の1941年4月,ユーゴスラビアで反ドイツのクーデターが勃発,急遽,ドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻した。
ドイツ軍のユーゴスラビア侵攻の1ヶ月前,1941年3月1日,ドイツ軍は,ソ連の影響下にあるブルガリアにも進駐していた。これは,バルカン半島のおさえとしてだった。ドイツとソ連の強国にはさまれたバルカンに位置するのが,ユーゴスラヴィア,ギリシャ,ブルガリア,ルーマニアだった。
写真(右)1942年,国境警備に当たるブルガリア軍兵士:白,緑,赤の三色は,ブルガリアの国旗の表象で検問にふさわしい。 Archive title: Bulgarien, Sofia.- Bulgarischer Soldat vor Wachhäuschen
Dating: 1942 ca.
Photographer: Grund, Horst 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
2.バルカン半島の戦い
1940年6月,ソ連がルーマニア領ベッサラビアと北ブコヴィナを併合(ブレスト・リトフスク講和条約までロシア領)すると,バルカンを巡りドイツとソ連は対立する。ルーマニアには,ドイツに石油を供給していたプロエスチ油田があり,ドイツとルーマニアはソ連の攻撃を恐れた。ドイツはルーマニアを誘って,11月に日独伊三国同盟に加盟させた。
ブルガリアは,第一次大戦では,ドイツと同じ同盟国側に立って戦った。しかし,ブルガリア敗戦後,1918年,フェルディナンド国王は退位し、代わって長男ボリス3世が即位した。ボリス国王は,ソ連とドイツという両大国のバランスに配慮して,双方と友好関係を維持しようとした。反共産主義,反スラブのルーマニアやハンガリーとは一線を画した。ボリス国王は,ドイツとの同盟も結んだが,ソ連との関係悪化を回避しようとした。(ボリス国王は,1943年になぞの死を遂げた。)
他方,ソ連は,ブルガリアと相互援助条約を結んだため,1941年1月,ドイツ軍はルーマニアに保障進駐した。油田確保が主な目的だった。
さらに,1941年3月1日,ドイツ軍は,ソ連の影響下にあるブルガリアにも進駐した。これは,ギリシャとそこに進駐する英軍に対抗する目的があった。こうして,ドイツの強大な軍事力を恐れてか,ブルガリア、ユーゴスラヴィアも,三国同盟に加盟することとなった。
写真(右)1941年4月,バルカン,ブルガリアに進駐したドイツ軍装甲車:ブルガリアは第二次大戦勃発時には参戦しておらず,ソ連軍と戦っていない。ルーマニアは,1940年11月に日独伊三国同盟に加盟,ソ連はブルガリアと相互援助条約を結んだが,1941年1月,ドイツ軍はルーマニアに保障進駐した。そして,3月,ドイツ軍はブルガリアにも進駐し,ギリシャに進駐していた英軍に対抗した。
しかし,ブルガリアは,1941年6月の対ソ戦には参戦せず,反対に,ドイツの敗北が明らかになった1944年,ソ連側に立って,ドイツと戦うことになった。
Balkan, Bulgarien.- Soldaten (mit Löwen-Symbol auf Mütze und Ärmel vor leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 253) im Gelände; PK 690 Dating: April 1941 Photographer: Rauch撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-162-0283-11A.引用。
写真(右)1941年4月,ブルガリアに進駐したドイツ軍の半装軌式無線装甲車Sd.Kfz. 251/3:進駐するドイツ軍、目新しい装甲車を見物に集まったのか、周囲に多数のブルガリア人が怪訝そうにしている。ドイツのハノマーク社の中型兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251に大型無線機を搭載し、フレームアンテナを装備したのが無線装甲車Sd.Kfz. 251/3。戦闘室前方には、防楯を付けた7,92mmMG34機関銃を装備。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-161-0257-13A
Archive title: Bulgarien.- Vormarsch, mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/3 mittlerer Funkpanzerwagen oder Sd.Kfz 251/6 Kommandowagen) bei Fahrt durch eine Stadt, einheimische Bevölkerung am Straßenrand stehend und zuschauend; PK 690
Dating: April 1941
Photographer: Dick, Walter 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ルーマニアには,ドイツに石油を供給していたプロエスチ油田があり,ドイツはソ連の攻撃を恐れた。そこで,ドイツはルーマニアを誘って,1940年11月,日独伊三国同盟に加盟させた。
スラブ人の国ブルガリアは,ボリス国王の統治下、親ドイツの立場をとりながらも、1941年6月の対ソ戦には中立を維持した。他方、ブルガリアは,枢軸国側の軍隊の駐留を受け入れ、ソ連,ギリシャ,中立国トルコを牽制した。 しかし,ソビエト連邦がドイツ軍を圧倒する1944年,ソ連側に立って,ドイツと戦うことを決断した。
写真(右)1941年4月,バルカン半島、ブルガリア,ドイツ陸軍の半装軌式小型無線指揮装甲車(Sd.Kfz. 253):車体下方を地中に埋めて偽装している。ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3)は、大型フレームアンテナを装備しているが、支柱のように見せかけ指揮車であることを偽装している。車体は、複雑な傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期にはより単純な形状になった。戦闘室には無線機を備えた。フロントに搭載されているエンジンは、マイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジン(ディーゼルではない)。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-162-0283-15A
Archive title: Balkan, Bulgarien.- Leichter Schützenpanzer tzen-panzer (Sd.Kfz. 253) im Gelände; PK 690
Dating: April 1941
Photographer: Rauch撮影。 写真は,写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-162-0283-15A "引用。
ドイツ軍が採用したハノマーク社(Hanomag)のハーフトラック(半装軌式装甲車)Sd.Kfz.250は、第二次大戦中、ドイツ国防軍、大半は陸軍にあって、偵察、兵員・弾薬輸送に利用されたが、攻撃力を強化した自走砲としても生産された。ドイツ軍の半装軌式装甲車には、次のような形式がある。
Sd.Kfz 250/1:基本型。武装は7.92ミリ機関銃のみ。兵員4名輸送可能。
Sd.Kfz. 250/2:通信ケーブルの敷設車輛
Sd.Kfz 250/3:無線指揮車装甲車。大型フレームアンテナを設置し、戦闘室には無線機を備えた。
Sd.Kfz. 250/4:突撃砲部隊の着弾観測車輛
Sd.Kfz 250/5:無線指揮車輌
Sd.Kfz 250/6:突撃砲(7.5センチ砲)への弾薬(60-70発)運搬車輛
Sd.Kfz. 250/7:8センチ迫撃砲装備の支援車輌
Sd.Kfz. 250/8:7.5センチ24口径砲装備の支援車輌
Sd.Kfz. 250/9:2センチ自動砲装備の偵察車輌
Sd.Kfz. 250/10:3.7センチPaK36装備の対戦車車輛
Sd.Kfz. 250/11:2.8センチsPzB41装備の対戦車車輛
Sd.Kfz. 250/12:偵察部隊の小隊長用車輌。
Sd.Kfz 252:突撃砲への軽装甲弾薬運搬車輛
Sd.Kfz 253:突撃砲部隊の指揮車輛
写真(右)1941
年4月、ギリシャ侵攻、鉄道線路を利用して快進撃するドイツ陸軍III号戦車: Catalogue number: HU 39517,
Part of GROSS DEUTSCHLAND IM WELTGESCHEHEN: TAGESBILDBERICHTE (HEINRICH HOFFMANN),
Production date: 1941-04, Subject period: Second World War,
Alternative Namesobject category: Photography,
Creator: Hoffmann, Heinrich,
Object description: German Panzer III tanks advance along a railway line in pursuit of retreating British troops in Greece between 25 and 30 April 1941. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (HU 39517)
ドイツは、1941年4月のギリシャ侵攻、ユーゴ鎮圧などバルカン半島での作戦うぃ従事したために、1941年5月に計画していたソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の発動が、予定よりも1カ月間も遅延した。その結果、モスクワ侵攻が遅れ、1941年中に占領することはできなくなった。
ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)率いるイタリア軍のギリシャ侵攻は、ギリシャ軍の果敢な抵抗にあって頓挫し、地中海の覇権を重視するイギリス軍は、ギリシャを確保するために、ギリシャに侵攻した。このイギリス軍ギリシャ侵攻に対して、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を延期して、ギリシャ遠征を実施した。これに追い打ちをかけたのが、ユーゴスラビアの親ドイツ政権を倒したクーデターである。バルカンで起こった二つの反ドイツの動きは、ルーマニアの油田やソ連侵攻の補給路を確保するためにも、見逃すことはできなかった。ヒトラーは即座に、ギリシャ侵攻、そしてユーゴ侵攻を決意し、ドイツ軍を派遣した。見逃すことができなかった。
写真(右)1941年6月,バルカン、ユーゴスラビア、2両のドイツ軍III号戦車Panzer III (Sd.Kfz. 141) :手前には馬匹に曳かせる馬車があり、ハンド・ブレーキがついている Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-185-0137-15A
Archive title: Jugoslawien.- Panzersoldaten in den Türmen zweier Panzer III (Sd.Kfz. 141; Panzerbefehlswagen); PK 691
Dating: 1941
Photographer: Grimm, Arthur 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
1941年4月,ユーゴスラヴィアに反独クーデターが勃発,三国同盟を無視するかのように,ソ連と友好不可侵条約を結んだ。1941年4月6日,ドイツ軍は即座に,ユーゴスラヴィアに侵攻,4月13日,1週間でユーゴは降伏。
写真(右)1941年6-7月,バルカン,ユーゴスラビア、ドイツ軍のIII号戦車 Panzer III (Sd.Kfz. 141) :当時としては、標準できな42口径5センチ砲を搭載した。バルバロッサ作戦では、当初、1941年5月にソ連に侵攻する計画だったが、バルカンのユーゴスラビアでクーデタが発生、親ドイツ政権が倒されてしまった。そこで、ヒトラーは、急遽、バルカン侵攻を命じた。この作戦によって、ソ連侵攻が1カ月以上遅れることになり、攻撃目標に達するまえに、厳冬を迎えてることになったともいわれる。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-185-0137-14A
Archive title: Jugoslawien.- Panzersoldat im Turm eines Panzer III (Sd.Kfz. 141; Panzerbefehlswagen) in Fahrt; PK 691
Dating: 1941
Photographer: Grimm, Arthur撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
この同時期の1941年4月,日本の松岡洋右外相がベルリンからの帰路、モスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を締結した。ソ連は,いずれ英国が敗れれば,ドイツがソ連を攻撃してくると予測していたから,極東アジア方面での日本軍によるソ連侵攻を警戒していた。そこで,ドイツを牽制するためにり、日ソ中立条約を結び、日本とソ連が結んだ領土保全と不侵略を相互に約束した。
ソ連指導者スターリン自らが松岡洋右外相をモスクワの駅頭に送ったのはその成果に満足し、独日双方との同盟、すなわち独ソ不可侵条約と日ソ中立条約を締結したソ連の安泰を世界に誇示したかったからだった。
写真(右)1941年,バルカン、ユーゴスラビア,24口径7,5センチ砲を搭載したドイツ陸軍III号戦車E型、車体番号11号車:戦車兵は黒の戦車兵用の戦闘服を着用しイヤホーンを付けている。24口径7.5センチ戦車砲の砲身、車体前方の7.92ミリ機関銃、ハッチまで明瞭に映し出されている。IV号戦車(Sd.Kfz. 141) は、のちに43口径7,5センチ戦車砲に変換されて、攻撃力が大幅に強化された。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-770-0280-20
Archive title: Balkan, Jugoslawien.- Panzer IV mit Besatzung auf Landstraße; PK OKW
Dating: 1941
Photographer: Feitel, Dr. 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不可)。
◆バルカン侵攻がなければ,ドイツ軍は,バルバロッサ作戦(Unternehmen Barbarossa)を5月に開始し,冬到来前に,モスクワを陥落できたとの俗説がある。しかし,ドイツ軍は,1941年4月,英本土航空決戦,大西洋戦い(潜水艦戦),さらにユーゴスラビア,ギリシャ,北アフリカで戦っていた。イタリア戦線脱落,バルカンへの英軍による側面攻撃のリスクを冒すことは出来ない。多面戦争を戦う無理を承知で,6月にソ連に侵攻した。
1941年4月27日,バルカンで戦うドイツ軍指揮官に対して「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出された。そして,「ドイツ軍が占領したユーゴスラヴィア領土は、ドイツ軍政下に置く。軍司令官は,軍隊の安全および治安・秩序の安定のために必要な措置を取る。」とされた。
1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,ドイツ人への襲撃に対しては,住民に過酷な報復を行うことを通告している。「襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」
ドイツ軍によるソ連侵攻の2週間前,1941年6月6日,政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)が出た。これは,ボリシェビキの残忍さ,アジアの野蛮性を前提とした殲滅戦にあって,ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校であるコミサールは,パルチザンの温床であり,処刑すべきことを指示した。そして,政治委員コミサール射殺命令は,親衛隊特別行動部隊(アインザッツグルッペ)が担った。
写真(右)1941年ごろ,オーストリア,マウトハウゼンMauthausen強制収容所に着いた捕虜のユーゴスラビア軍兵士:ドイツ軍のユーゴ侵攻のときの捕虜と思われる。マウトハウゼン強制収容所には,石切り場があり,そこで収容者が酷使された。食料供給は不足し,居住環境も劣悪だったので,たくさんの囚人が死亡した。ガス室はなくとも,強制収容所の囚人多数が死亡している。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft, vermutlich jugoslawischer Häftling im KZ Mauthausen
Dating: 1941/1944 ca.
Photographer: o.Ang.撮影者不明。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
1941年4月,ユーゴスラヴィアに反独クーデターが勃発,三国同盟を破棄したわけではないが,これを無視するかのように,ソ連と友好不可侵条約を結んだ。1941年4月6日,ドイツ軍は即座に,ユーゴスラヴィアに侵攻し,4月13日,1週間でユーゴは降伏した。
ユーゴスラビアが,同兵力のドイツ侵攻に対して,僅か1週間で降伏したのは,クロアチア,モスレムの裏切りがあったためだというセルビア人もいる。
このドイツ軍ユーゴ侵攻の時,日ソ中立条約が締結さた。ソ連は,いずれ英国が敗れれば,ドイツがソ連を攻撃してくると予測していたから,極東アジア方面での日本軍によるソ連侵攻を警戒していた。
1939年に,モンゴル,満州国境のノモンハンで,日ソ両軍は激戦を繰り広げたことがあった。が,ソ連はドイツを牽制するために,日本との関係改善を決めた。松岡外相をスターリン首相自らが駅頭に送迎した破格の応対はその成果を誇るためである。
ユーゴスラビアは第二次大戦に参戦していなかったが,イタリア,ルーマニア,ハンガリー,ブルガリアがドイツと軍事同盟を締結したために,包囲されることになった。そこで,1941年3月25日にドイツと同盟を締結したが,翌日,ユーゴ軍はクーデタを起こした。
写真(右):1941年ごろ,オーストリア,マウトハウゼン収容所に到着したユーゴスラビア軍兵士の捕虜:ドイツ軍は,ソ連との同盟を図ったユーゴスラビアを懲罰するために,ユーゴを武力で占領した。マウトハウゼン強制収容所には,この後,1941年6月22日に,独ソ戦が勃発すると,ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士が大量に送り込まれた。
ドイツ軍は,ユーゴスラビアで,ドイツ傀儡軍として武装親衛隊の志願兵を募ったが,セルビア人などスラブ系民族を蔑視していた。そして,ドイツに反抗したユーゴスラビア軍兵士を,強制収容所に収監し,過酷に扱った。彼らも,石切り場の重労働を課せられ,食糧不足,病気の蔓延,体罰・懲罰によって,殺害されたと思われる。 Inventory: Bild 192 - Sammlung KZ Mauthausen
Signature: Bild 192-082
Archive title: Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft, vermutlich jugoslawische Häftlinge im KZ Mauthausen
Dating: 1941/1944 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1941年,ユーゴスラビア,パルチザン掃討戦に参加したフランス軍から鹵獲したドイツ軍のホチキスH-39戦車:ドイツ軍は,1940年のフランス降伏の戦利品であるフランス製戦車ホチキスH-39を,後方ユーゴスラビアにおけるパルチザン鎮圧のゲリラ戦,治安対策に投入した。
ドイツ軍は,ユーゴでもドイツ傀儡軍として武装親衛隊を募集した。しかし,人種民族差別によって非ゲルマン人を信頼していなかったために,配備した兵器は,旧式のものだった。このようなフランスから鹵獲した戦車ですら,現地の武装SSには配備されず,ドイツ国防軍が使用した。 Jugoslawien.- drei erbeutete französische Panzer Hotchkiss H-39 (u.a. Turmnummer 325) der deutschen Wehrmacht in Fahrt; PK 690
Dating: 1941
Photographer: Heber撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年3月25日,ユーゴは,日独伊三国同盟に加盟したが,翌日3月26日,ベオグラードで軍部がクーデターを起こした、セルビアのシモノビッチ将軍率いる反独クーデターによって,親独ユーゴ政府は転覆し,三国同盟は維持されたtものの,ソ連との友好を目指したのである。
ユーゴの反抗に激怒したヒトラーは,1941年4月6日,ユーゴ侵攻を開始した。4月6日、ヴァイクス将軍率いるドイツ第2軍,リスト将軍率いる第12軍が,オーストリア,ブルガリアから侵攻した。また,ハンガリー軍,ルーマニア軍,イタリア軍もユーゴに侵攻した。侵攻軍は,30個師団の兵力で,同数のユーゴ軍を撃破した。
写真(右)1941年4月,ユーゴスラビア,ベオグラードで隔離されたユダヤ民間人男性:城砦の中庭に集合させられ,一人ずつ検問,登録された。
Jugoslawien, Belgrad.- Erfassung von Juden für Zwangsarbeit, Männer hinter Drahtzaun; PK 691
Dating: April 1941
Photographer: Neubauer
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年4月12日,ユーゴの首都ベオグラードが陥落,4月17日,ユーゴは降伏した。ヒトラーは,このようなユーゴの反抗も,ユダヤ人による反ドイツの陰謀だと考えたのか,ユーゴでも直ちにユダヤ人迫害が始まった。
写真(右):1941年3月3日,ベルリン,ドイツ帝国議会,バルカン半島侵攻作戦で勝利後、ヒトラー総統の演説:ナチ党は,1920年に卍(ハーケンクロイツ,スワスチカ,カギ十字)を党章としたが,ナチ一党独裁になってからは,党旗をドイツの国旗とした。ハーケンクロイツは,ナチスのシンボルとして広まった。
Des Führers große Rede nach dem siegreichen Balkanfeldzug
Der Führer und oberste Befehlshaber der Wehrmacht sprach am Sonntag abend vor den Männern des Deutschen Reichstages [in Berlin]. Nach seinen Erklärungen über die einzigartige siegreiche Durchführung der Operationen auf dem Balkan gab der Führer die Enschlossenheit und Siegeszuversicht des deutschen Volkes Ausdruck.
Unser Bild zeigt eine Übersicht während der Rede des Führers.
Scherl-Bilderdienst 4.5.41 [Herausgabedatum]
Dating: 3. Mai 1941
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・File:Bundesarchiv Bild 183-B02607, Berlin, Reichstagssitzung, Rede Adolf Hitler.jpg引用。
敗戦国ユーゴスラヴィアは,解体され,ドイツ,ブルガリア,ハンガリー,イタリアに分割された。特に,ダルマチア,モンテネグロ,コソボ(Kosovo)は,イタリアのものとなり,クロアチアは,ウスタシャを中核とするドイツ傀儡政権が樹立された。
他方,ユーゴスラビアの反ドイツ活動は,大セルビア主義を奉じるセルビア人のチュトニク,民族融和と共産主義を奉じるチトーに率いられたパルチザンの二つがあった。この二派のパルチザンは,イデオロギー,民族の観点から対立していて,しばしば武装闘争に陥っていた。
ユーゴの傀儡政権が設立にかかわった武装親衛隊として,1943年8月のボスニア・モスレム義勇兵がクロアチアSS義勇山岳師団が編成された。これは,1943年10月,第13SS武装山岳師団,後の「SS Handschar ハントシャール」(三日月型短剣)となった。
ポスター(右):1941年,武装親衛隊の志願兵募集:「17歳以上なら武装SSに志願しよう」ヒトラーユーゲントから優秀な兵員を募兵しようと,16〜17歳の青少年を対象に志願兵を募った。ドイツ人の武装SSは,装甲師団として編制されたものも多く,装備された兵器も新型だった。 優秀な武装親衛隊には,第1SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー」,第2SS装甲師団「帝国」,第3SS装甲師団「髑髏」,第4SS警察装甲擲弾兵師団,第5SS装甲師団「ヴィーキング」,第6SS山岳師団「ノルト」などがある。 他方,ドイツ軍は,占領地で外国人武装親衛隊を傀儡軍として募兵した。しかし,ドイツ軍は,非ゲルマン人を軽蔑しており,その能力を過小評価していたから,旧式な二流兵器しか貸与しなかった。< Waffen-SS Eintritt nach dem vollendeten 17. Lebensjahr
Dating: 1941 Designer: Anton, Ottomar制作。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Plak_003-025-013引用(他引用不許可)。
ドイツの武装親衛隊は,第二の軍隊を警戒するドイツ国防軍からは疎まれたために,国防軍の徴兵・兵役義務に対して,志願兵しか認められなかった。しかし,優れたアーリア人の家系,肉体的な優越性を条件としたエリートとして,ヒトラーの信頼を得ていたために,兵器の装備や補給物資について,優遇された。
wikipediaでは「部隊は、鍛え抜かれた精強な文字通りの「エリート部隊」であったが、規模が拡大するにつれ、そのエリート性を維持するのは困難となり、中には「親衛隊の面汚し」とも言える部隊(RONA旅団やディルレヴァンガー突撃旅団など)まで抱え込んでしまう。また、半強制的に編成された部隊や降伏した敵兵から募って編成された部隊では武器の供給すら満足に行われず、訓練の水準も士気も低いままで戦力としてはあまり役に立たなかった。」と酷評されている。このような非アーリア人の武装親衛隊が戦力化できなかったの原因は,ナチスドイツの人種民族差別,アーリア人優先主義による差別のためであって,規模の拡大,訓練不足,戦局悪化とはほとんど関連ないと思われる。
ドイツ人だけに人的資源を頼ることができなかった武装親衛隊は,ドイツ占領下の外国人,民族ドイツ人に対しても,志願兵を募集した。しかし,アーリア人優先主義のために,これらの部隊に配分される兵器は旧式あるいは鹵獲兵器で,補給は劣悪だった。前線で活躍できる本格的な装甲師団は一つ編成されていない。その上,師団命名にあたっても SS師団ではなく,「SS義勇師団」(民族ドイツ人の師団)、「SS武装師団」(外国人の師団)と差別されていた。
クロアチア独立国で設立された武装親衛隊の一つ第13SS武装山岳師団(SS Handschar:1st Croatian)
は,ユーゴにおけるゲリラ鎮圧,パルチザン討伐に活躍した士気旺盛な部隊だった。パルチザン掃討は,モスレム人を襲撃するセルビア人民族主義者チュトニク(Chetnik)に対するものが中心で,相互に略奪や虐殺が行われた。
写真(右):1941年12月9日,パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインと会談するヒトラー総統:イラク,パレスチナにおける反英暴動を引き起こすために,イスラム指導者を利用しようとした。また,ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,第一次世界大戦時はオスマン帝国軍に入隊していたが,戦後は英委任統治領パレスチナ政府のアラブ人顧問となった。1921年,エルサレム・ムフティ選挙に,対英協調を主張して当選,1923年最高ムスリム評議会議長,1933年エルサレム総主教を名乗る。パレスチナにあって,アラブ人(のちのパレスチナ人)とユダヤ人の抗争を煽動、
汎アラブ主義を唱えた。第二次大戦中,ドイツ軍のエジプト攻撃に便乗して,1941年にイラクで反英クーデターを策謀するも失敗,ドイツに亡命。1941年12月,ヒトラーとも会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争と引き換えに,汎アラブ主義を認められた。パレスチナに向けての反ユダヤ放送をドイツから実施した。モスレムによる武装SSの設立に加わった。ドイツ敗戦後は,対独協力者として英軍に逮捕,1946年,脱走,翌年脱獄、再びパレスチナで汎アラブ主義を唱えた。 Der Grossmufti von Palästina vom Führer empfangen.
Der Führer empfing in Gegenwart des Reichsministers des Auswärtigen von Ribbentrop den Grossmufti von Palästina, Sayid Amin al Husseini, zu einer herzlichen und für die Zukunft der arabischen Länder bedeutungsvollen Unterredung.
9.12.41 Presse Hoffmann
Dating: Dezember 1941
Photographer: Hoffmann撮影。
Agency: Presse Hoffmann
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,1921年にムフティ選挙に当選,1923年には,最高ムスリム評議会議長に就任し,1933年エルサレム総主教として,パレスチナで,
汎アラブ主義を主張した。そして,アラブ人に対して,パレスチナのユダヤ人排除を訴えた。
武器貸与法によって、アメリカがイギリス、ソ連を支援し、そのためには中立国イランの国家主権を圧殺した時期、中東のイラク・パレスチナにおける宗教的権威としての影響力をもったイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインも、イギリスによって圧殺されようとしていた。そこで、彼もイラン皇帝と同じく、枢軸国、特にドイツの軍事力を背景にイギリスの中東支配を打破しようと画策した。
アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,第一次世界大戦時はオスマン帝国軍に入隊していたが,戦後は英委任統治領パレスチナ政府のアラブ人顧問となった。1921年,エルサレム・ムフティ選挙に,対英協調を主張して当選,1923年最高ムスリム評議会議長,1933年エルサレム総主教を名乗る。パレスチナにあって,アラブ人(のちのパレスチナ人)とユダヤ人の抗争を煽動、
汎アラブ主義を唱えた。第二次大戦中,ドイツ軍のエジプト攻撃に便乗して,1941年にイラクで反英クーデターを策謀するも失敗,ドイツに亡命。1941年12月,ヒトラーとも会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争と引き換えに,汎アラブ主義を認められた。パレスチナに向けての反ユダヤ放送をドイツから実施した。モスレムによる武装SSの設立に加わった。ドイツ敗戦後は,対独協力者として英軍に逮捕,1946年,脱走,翌年脱獄、再びパレスチナで汎アラブ主義を唱えた。
アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,1921年にムフティ選挙に当選,1923年には,最高ムスリム評議会議長に就任し,1933年エルサレム総主教として,パレスチナで,
汎アラブ主義を主張した。そして,アラブ人に対して,パレスチナのユダヤ人排除を訴えた。
フサイニは,第二次大戦中,ドイツ軍アフリカ軍団によるエジプト攻撃に便乗し,1941年にイラクで反英クーデターを策謀した。しかし,反乱は失敗,ドイツに亡命した。
1941年12月,フサイニは,ヒトラーと会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争を約束し,パレスチナからのユダヤ人排除,汎アラブ主義を認めさせた。しかし,ヒトラーは,アラブ人など非アーリア人,アジア人を野蛮人として軽蔑しており,このフサイニとの取り決めは,あくまでもドイツの勢力を増強するための方便だった。
写真(右):1943年11月,ドイツ、ベルリン、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊を閲兵している:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen der Waffen-SS. Der Großmufti schreitet die Front mit Hitlergruß ab.
SS-PK-Kriegsber. Mielke
Truppenübungsplatz Neuhammer/Schlesien.- Mohammed Amin al-Husseini (Mitte) und der Divisionskommandeur der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroatische Nr. 1), SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS Karl-Gustav Sauberzweig (links)
Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X)
Sauberzweig, Karl-Gustav: 1899-1946; SS-Brigadeführer, Deutschland
Date November 1943 写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-04A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。
大阪朝日新聞(1941-10-04)イラン、我公使館前の通信特権を停止 : 英ソの悪辣な使嗾
大阪朝日新聞
Vol: 第156巻
Page: 268
出版年
1941-10-04
【ニューヨーク特電二日発】APアテネ電報によればイラン政府は二日二本公使館に対し電信暗号使用権および外交便不可侵権を停止した、しかして右は英ソ両国がイラン政府を圧迫してかかる手段をとらしめたものといわれており、信ずべき筋では右の結果日本ならひにヴィシー政府両公使館は近くイランを退去するの余儀なきにいたるであろうと述べている
なおイギリス側では日本公使館圧迫の理由として日本公使館が反英の大立者たるエルサレムのムフチ大司教[ムハンマド・アミーン・アル=フサイニー]を匿ったと虚構の事実を捏造して日本公使館を非難している
報復措置を考究 帝国、英の不信に抗議
イラン政府の措置は英ソ両国の圧迫によるものであることは明らかであるが、テヘランにおけるわが公使館に対するイギリス側の不信行為は今回の不当措置に止らないすなわちエルサレムのムフチ大司教が日本公使館にかくまわれており、また有力なドイツ人が同様日本公使館に庇護されているとしてイギリス側はその引渡しをわが方に要求し来ったことがあり、わが外務当局でもただちに調査したところ、かかる事実は全く虚構であることが判明し、よって外務当局では不確実な情報にもとづきかかる行為にでるイギリス側の態度に対し厳重抗議した
なおわが方の公用文書に対するイギリスの検閲はエジプト、ベイルート、インドにおいてすでに実施しており、さらにテヘランにおいて実施されることになり、かかる相次ぐ外交特権に対するイギリスの侵害措置についてはわが方でも何らかの報復措置を講ずべく考究することとなった
ムフチ大司教とはどんな男?
英はテヘランの日本公使館が汎アラビア運動の大立者パレスチナのムフチ大司教[Amin al-Husseini]をかくまっているとのデマを世界的に流布したがグランデ・ムフチ[
Mohammed Amin al-Husseini]とはどんな男か、外務省欧亜局第三課長大田三郎氏は語る
グランデ・ムフチ[
Mohammed Amin al-Husseini]は前大戦当時は帝政トルコの陸軍軍人であったが、戦後イギリス人ロレンスと結んでイラク国のフェイサル一世とともにアラビア民族独立運動を起した、その後廻り廻ってパレスチナの大司教となった、クランデ・ムフチとは回教における宗教財産を管理する最高権力者の職名である、彼の就任は従来相背馳していた汎アラブ主義と汎イスラム主義とを交叉させる結果となり、全アラビア人の大きな希望をつないでいたが、次第にイギリスに睨まれてパレスチナを亡命、しばらくイラク国のバグタッドにいたが、英軍のイラク侵駐によって最近イラクに潜入したと伝えられ、それが因で日本公使館でかくまっているとの虚構の噂がひろまったものである(イラン、我公使館前の通信特権を停止 : 英ソの悪辣な使嗾引用終わり)
写真(右):1943年11月,ドイツ、ベルリン、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊を閲兵している:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen-Verbänden der Waffen-SS. Der Grossmufti ist auf dem Truppenübungsplatz eingetroffen und schreitet die Front der angetretenen Freiwilligen mit erhobenem Arm ab.
SS-PK.-Mielke
Nov.1943
Truppenübungsplatz Neuhammer/Schlesien.- Mohammed Amin al-Husseini und der Divisionskommandeur der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroatische Nr. 1), SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS Karl-Gustav Sauberzweig beim Abschreite
Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X)
Sauberzweig, Karl-Gustav: 1899-1946; SS-Brigadeführer, Deutschland
Date November 1943 写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-05A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。
1939年3月に、イラン皇太子モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(محمدرضا شاه پهلوی, Mohammad Rezā Shāh Pahlavi、1919年10月26日-1980年7月27日)は、エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚した。その直後の1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、石油資源、スエズ運河の保全の観点から中東を重視していたイギリスは、中東からのドイツ・イタリアの戦力排除を望んだ。そこで、イランに対しても、イギリスへの協力を期待したが、イランでは、イギリスの影響力を弱体化しようと、枢軸国寄りの政策をとり、連合国の軍隊駐留、イラン国内の鉄道・港湾などの使用を拒み続けた。第二次大戦初戦では、1940年6月にフランスがドイツ・イタリアに降伏し、ソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたために、ドイツの欧州大陸支配が実現する目前とみなされ、イギリスの外交力、軍事力は、中東では低下していたのである。
しかし、1941年6月22日に、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が激化すると、事情は一変した。孤立してたイギリスは、ソ連との軍事同盟を欲し、ソ連への軍事援助を、アメリカとともに約束した。そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日に、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を発動し、イランに軍事侵攻した。これは、主にイギリス軍の進駐ということだったが、領土不可侵の原則を打ち出していたアメリカもイランを見放したために、イランは大きな抵抗なしに、イギリス軍の影響下に入った。1941年9月16日、それまで反イギリスの立場を表明していたイラン皇帝レザー・シャーは退位し、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーに譲位した。そして、モハンマド・レザー・シャーとして、イランの皇帝の地位についたが、これはイギリスの監督下に皇帝が置かれたことを意味する。
フサイニは,第二次大戦中,ドイツ軍アフリカ軍団によるエジプト攻撃に便乗し,1941年にイラクで反英クーデターを策謀した。しかし,反乱は失敗し,ドイツに亡命した。
1941年12月,フサイニは,ドイツのヒトラー総統と会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争を約束し,パレスチナからのユダヤ人排除,汎アラブ主義を認めさせた。しかし,ヒトラーは,アラブ人など非アーリア人,アジア人を野蛮人として軽蔑しており,このフサイニとの取り決めは,あくまでもドイツの勢力を増強するための方便である。
写真(右):1943年11月,ボスニアのモスレム人武装親衛隊を視察するパレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサイニ:モーゼルKar98騎銃を射撃中だが,手前の兵士の鉄帽には武装親衛隊を示すSSの記章が入っている。最後方・左の兵士が被っているイスラム(トルコ)帽子「フェズ」は,モスレム人武装親衛隊特有のもの。少年兵も含め,武装親衛隊は,外国人,青少年を対象に志願兵募集を強行した。 Der Grossmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen der Waffen-SS.
Der Grossmufti überzeugt sich von der Schiessausbildung der jungen Rekruten.
13.1.1944 [Herausgabedatum]
PK-Aufnahme des SS-Kriegsberichter Gösling (Wb)
Dating: November 1943
Photographer: Gösling
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
フサイニは,パレスチナのアラブ人に対して,反ユダヤ主義の放送をドイツから流したが,これはドイツの政策だったアンチセミティズム Antisemitismに基づくユダヤ人排除に便乗したものだった。そして,ヒトラーは,フサイニのムフティとしての宗教的権威を利用して,ユーゴ,特にボスニアに居住するモスレム(ムスリム)による武装SSの設立を支援させた。
写真(右):1941-42年,ユーゴスラビアでパルチザンを鎮圧するドイツ軍;ユーゴスラビアの抵抗運動は,セルビア人のチュトニクと共産主義者チトーに率いられたパルチザンに大別できる。この二派のパルチザンは,イデオロギー,民族の観点から対立していて,武装闘争に陥ることもあった。 ドイツ軍は,1940年のフランス降伏の戦利品であるフランス製戦車ホチキスH-39を,後方ユーゴスラビアにおけるパルチザン鎮圧のゲリラ戦,治安対策に投入した。
Jugoslawien.- Soldat mit Gewehr zielend in Deckung hinter erbeutetem französischer Panzer Hotchkiss H-39 (Nummer 4981) mit Totenkopf am Heck, in Stellung vor Gebäuden; PK 690
Dating: 1941/1942
Photographer: Baier撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
磯村尚弘(2006)「建国初期ユーゴスラヴィアにおけるカトリック教会のクロアチア民族主義に対する姿勢の変遷」『多元文化』第6号所収によれば,
1941年4月6日のドイツ軍ユーゴスラビア侵攻後,ユーゴ王国は分割占領された。そして,クロアチアは4月10日,ドイツ傀儡政権として独立し,過激なクロアチア人優先を唱える民族主義者団体「ウスタシャ」が政権を握った。ウスタシャ党首パヴェリッチ(Ante Pavelić)は,ポグラヴニク(国家指導者)に就任し,カトリック教会んp祝福を受けた。
当時,ザグレブ大司教ステピナッツは,クロアチア独立国の建国を「クロアチア民族にとって非常に重要な出来事」と述べ,カトリック教会復権を期待した。
クロアチアは,それまでクロアチアを抑圧していたことを理由に,セルビア人迫害を開始し,教育大臣ブダク(Mile Budak)は,国内のセルビア人約200万人の3分の 1を国外追放し,3分の1をカトリック教会に強制改宗させ,残りを殺害したといわれる。
1941年6月,独ソ戦開始の時期には,ヤセノバツなど強制収容へのセルビア人移送が開始された。
写真(右)1941-42年,バルカンにおけるドイツ軍のフランス・ホチキス社H-39戦車:ゲリラ鎮圧に後方で使用された。Hotchkiss Modèle 1935, H-39 Light Tanksは,重量 11.9トン,全長 4.2メートル,全幅 2メートル,全高 2.2メートル,乗員2人,兵装18口径37ミリ砲,7.5ミリ機銃,エンジン78 馬力。
ドイツ軍は,フランス軍を降伏させ,多数のホチキスH-39戦車を鹵獲した。これを,バルカンなど戦線後方のパルチザン鎮圧戦争に投入した。1941年4月,ユーゴスラヴィアでは反独クーデターが勃発,ソ連と友好不可侵条約を結んだため,ドイツ軍はユーゴスラヴィアを占領した。1941年6月の対ソ戦には,ユーゴスラビアのクロアチア,ムスリムも目立った活躍をしていないが,これはユーゴスラビアにおけるパルチザン活動が激しかったためである。チトーの率いるパルチザンは,ドイツ占領軍やユーゴ内部で対立するゲリラ組織に打ち勝って,戦後,ユーゴスラビア連邦を樹立する。
Balkan.- erbeutete französischer Panzer Hotchkiss H-39 der deutschen Wehrmacht in Flusslauf; PK 690
Dating: 1941/1942
Photographer: Wurm撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
写真(右):1942年,バルカン半島に駐留するイタリア軍の四輪駆動装甲車AB 40(AB 41):全長 5.20m,全幅 1.92m,全高 2.48m,重量 7.4t
乗員 4名,装甲 6-18ミリ
兵装:ブレダ20/65 20ミリ機銃,ブレダM38 8ミリ機銃2丁
速度 時速76キロ,80馬力エンジン装備,航続距離 400キロ(路上)
Balkan.- Kolonne italienischer Panzer-Spähwagen Autoblinda 40/41; PK KBK Lw zbV
Dating: 1942 ca.
Photographer: Gliemann撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
イタリアは,ボスニア・ヘルツェゴビィナを統治し,クロアチア独立国のウスタシャ政権は,強制収容所を設置し,反対派の共産主義者,親ソ連派あるいは敵性民族のセルビア人,スロベニア人,ユダヤ人を収監したり,処刑したりした。
クロアチア独立国は,セルビア人に対しカトリック教会に強制改宗させる政策を建国直後から実施し,カトリック教会の聖職者も強制改宗に協力したとされる。
写真(右)1943年冬,ユーゴスラビア,ボスニア戦線でパルチザンを砲撃するドイツ陸軍の対戦車砲:5センチ対戦車砲と思われるが,ユーゴスラビアのパルチザンには戦車はなかったから,建築物をトーチカ陣地としてに立て篭もるパルチザンを攻撃しているのであろうか。セルビア人パルチザンには,共産主義系のチトー,民族派のチュトニクが主導権争いをしていた。ドイツ軍も,クロアチア人に傀儡政権を樹立させ,ムスリムを親衛隊に取り込んで,パルチザンを掃討させた。 Original title: Vom Bandenkrieg in Bosnien
Mitten auf der Strasse einer von Banden besetzten Ortschaft ist deutsche schwere Pak aufgefahren und bekämpft erfolgreich die von den Banditen noch gehaltenen Widerstandnester.
PK-Kriegsberichter Thiede, Scherl Bilderdienst
12.1.1944 [Herausgabedatum]
Archive title: Jugoslawien.- Deutsche Soldaten mit weißen Tarnanzügen bei Abfeuern einer Panzerabwehrkanone
Dating: Dezember 1943
Photographer: Thiede
Agency: Scherl撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1943年12月中旬,ユーゴスラビアのパルチザン掃討戦に従事するドイツ軍将兵:南東部の戦線で,山岳地帯に浸透していたユーゴスラビア・パルチザンに対する掃討戦には,ファシスト・クロアチア軍も参加している。 Südost-Front (Jugoslawien):
Gebirgsjäger der faschistischen deutschen Wehrmacht im Einsatz gegen jugoslawische Partisanen in einem kroatischen Dorf.
Aufnahme: Mitte Dezember 1943/Fink
[Scherl Bilderdienst]
Dating: Dezember 1943
Photographer: Fink撮影。
Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)
しかし,カトリック教会聖職者は,カトリック改宗拒否のセルビア人に対するウスタシャによる迫害を目の当たりにして,ウスタシャと距離を置くようになり,一部の聖職者は教会組織から離反してパルチザンに参加した。当初ウスタシャを支持していたステピナッツも,迫害を戒める発言や態度をとったとされる。
悪名高いクロアチアの収容所は,ヤセノヴァッツ収容所である。 1945年4月22日,ヤセノヴァッツ収容所の囚人1200人は,敗北後の戦争責任追及を恐れるクロアチアとドイツの幹部の判断によって,殺害された。
1945年5月6日ドイツ降伏後,チトー率いるパルチザンが勢力範囲を広め,5月8日にザグレブに入った。カトリック教会はパルチザンに参加した聖職者を加えた使節団をチトーのもとに派遣,新政権への協力,カトリック教会による宗教教育存続をチトーに訴えた。
しかし,チトーは,クロアチア独立国にけるカトリック教会の姿勢に反発し,独立教会設置の意向を示した。そして,共産主義の旗の下でユーゴの諸民族を団結させ,ユーゴを共産主義国として統一しようとした。
磯村尚弘(2006)「建国初期ユーゴスラヴィアにおけるカトリック教会のクロアチア民族主義に対する姿勢の変遷」『多元文化』第6号所収引用終わり。
写真(右)1941-1945年,バルカン半島ユーゴスラビア、ヤセノヴァッツ(Jasenovac)強制収容所、ヒトラー傀儡アンテ・パヴェリッチ率いるクロアチア政権ウスタシャ(Ustaše:Ustasa)の兵士が逮捕したセルビア人の身体検査をしている。:ドイツ軍のユーゴ占領後に、1920年代に設立されたクロアチア民族主義政党のウスタシャ(Ustaše:Ustasa)がヒトラーに重用され、ザグレブを中心にクロアチア・ファシスト政権を樹立した。彼らは、ナチの人種思想を受け継いで セルビア人を大量殺戮した。 Ustasa guards search prisoners at Jasenovac
Ustasa (Croatian fascist) guards search prisoners and take their belongings upon arrival at Jasenovac concentration camp. Yugoslavia, between 1941 and 1945.
写真は,United States Holocaust Memorial Museum引用。
アンテ・パヴェリッチ率いるクロアチア政権ウスタシャ政権が、独立直後に設置したのが、悪名高いヤセノヴァツ収容所である。拡張工事後の1942年には、ヤセノヴァツには3カ所に分かれた強制収容所が建設され、そこに子どもを含む2万人のセルビア人、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)が拘束された。
写真(右)1942年頃,バルカン半島ユーゴスラビア、ヤセノヴァッツ(Jasenovac)強制収容所、ヒトラー傀儡アンテ・パヴェリッチ率いるクロアチア政権ウスタシャ(Ustaše:Ustasa)の兵士が逮捕したセルビア人を銃殺に処している。:ドイツ軍のユーゴ占領後に、1920年代に設立されたクロアチア民族主義政党のウスタシャ(Ustaše:Ustasa)がヒトラーに重用され、ザグレブを中心にクロアチア・ファシスト政権を樹立した。彼らは、ナチの人種思想を受け継いで セルビア人を大量殺戮した。 Ustasa guards force a prisoner into a pit
Ustasa (Croatian fascist) guards force a prisoner into a pit to be shot. Jasenovac concentration camp. Yugoslavia, probably 1942.
写真は,United States Holocaust Memorial Museum引用。
1941年4月、ヒトラーの後ろ盾を得てユーゴスラビアから独立したクロアチアに、アンテ・パヴェリッチを党首とするウスタシャ(Ustaše:Ustasa)政権が誕生した。ウスタシャは、ユーゴスラビア王政セルビア人政権の圧政の下で抑圧されてきた報復として、セルビア人を弾圧し、反クロアチアのセルビア人を,1941年5月に設置したヤセノヴァツ収容所(Jadovno concentration camp)に収容した。しかし、この設備は不十分だったため、ヤセノヴァツ収容所はいったん閉鎖され、1941年8月から1942年2月に拡張工事が行われ3カ所に分かれた新ヤセノヴァツ収容所が建設され、セルビア人、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)など合計2万人の囚人が強制収容された。
写真(右)1941-1943年,バルカン半島ユーゴスラビア、ヒトラー傀儡ミラン・ネディア率いるセルビア政権セルビア兵士が逮捕したロマ(ジプシー)を処刑するために護送している。:ユーゴスラビアのセルビア指導者ドラジャ・ミハイロヴィッチは、チェトニックを率いて、ユーゴスラビアでドイツと同盟して枢軸国に着いたクロアチア人を攻撃した。しかし、同時にイイギリスの支援を受けたチトーの率いるユーゴスラビアのパルチザンとも交戦し、ユーゴスラビアの指導権を握ろうとしていた。ドイツ軍のユーゴ占領後に独立したクロアチアは、アンテ・パヴェリッチのウスタシャ(Ustaše)がザグレブを中心に政権を樹立したが、彼らもナチの人種思想を受け継いで セルビア人を大量殺戮した。 Serbian gendarme escorts a group of Roma (Gypsies) to their execution
A Serbian gendarme serving the Serbian puppet government led by Milan Nedia escorts a group of Roma (Gypsies) to their execution. Yugoslavia, ca. 1941–1943.
.
写真は,United States Holocaust Memorial Museum引用。
1945年4月22日,ヤセノヴァッツ収容所の囚人1200人は,敗北後の戦争責任追及を恐れるクロアチアとドイツの幹部の判断によって,殺害された。
写真(右)1944年11月24日,バルカン半島ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ビシェグラード近郊の悪路でトラックを押すドイツ軍兵士: Auf den Strassen des Balkans
Weder die Tücken des Geländes noch die Launen des Wetters können die Bewegungen unserer Truppen auf dem Balkan beeinträchtigen. Dauernder Regen hat die Strassen aufgeweicht. Ein Knüppeldamm hat sie wieder befahrbar gemacht. Über ihn rollen nun die Kolonnen unbehindert weiter.
PK-Kriegsberichter Wetzel, Scherl
19.12.1944 [Herausgabedatum]
ADN-ZB/Archiv
II.Weltkrieg 1939 1945
Absetzbewegungen der faschistischen deutschen Wehrmacht im November 1944 bei Visegrad in Jugoslawien vor der siegreich vordringenden sowjetischen Armee und den jugoslawischen
Partisanen; aufgenommen am 24.November 1944.
PK: Wetzel
Archive title: PK 690
Dating: 24. November 1944
Photographer: ドイツ軍宣伝班Wetzel撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 183-J28413, Jugoslawien, deutscher Rückzug.jpg引用。
ブルガリアは同盟国としてドイツ軍がブルガリア国内通行権を得て,1941年4月10日,1月からギリシャに進駐していた英軍を攻撃,ユーゴスラビア制圧にも寄与している。
写真(右)1941年4月,ブルガリアのドイツ軍装甲車Sd.Kfz. 250と集まってきた現地住民: Balkan, Bulgarien.- leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250; Stier auf Frontseite) in einer Ortschaft, umringt von Soldaten und Zivilisten; PK 690 Dating: April 1941 Photographer: Rauch撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-162-0282-15 引用(他引用不許可)。
1941年4月27日,バルカンで戦うドイツ軍指揮官に対して「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出された。そして,「ドイツ軍が占領したユーゴスラヴィア領土は、ドイツ軍政下に置く。軍司令官は,軍隊の安全および治安・秩序の安定のために必要な措置を取る。」とされた。
1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書
「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」
ドイツ軍によるソ連侵攻の2週間前,1941年6月6日,政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)が出た。これは,ボリシェビキの残忍さ,アジアの野蛮性を前提とした殲滅戦にあって,ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校であるコミサールは,パルチザンの温床であり,処刑すべきことを支持した命令である。そして,コミサール殲滅は,親衛隊アインザッツグルッペ(特別行動部隊)が担った。
3.枢軸国ルーマニア
写真(右)1941年,ルーマニア軍歩兵の行進:ルーマニア軍の小銃は,チェコスロバキアのVz24を国産化していた。機関銃も,同じくZB30,ドイツ軍貸与のMG34などだった。しかし,国産短機関銃のオリ−タM1941も製造していた。 1942-1943年のスターリングラード攻防戦では,ソ連赤軍は,ドイツ軍側の中で弱体とみていた,連携不足といえるルーマニア軍が攻撃した。しかし,ルーマニア軍にも機甲部隊はあり,第1戦車師団を編成していた。 [Italien?].- Rumänische Soldaten bei Marsch auf einer Straße Dating: 1943 ca.
Photographer: Grund, Horst撮影。Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1940年6月末,ソ連はポーランドに次いで,ルーマニアに侵略,ベッサラビアを領有してしまった。ヒトラーは,ソ連の軍事介入を恐れて,第一次大戦でルーマニアが獲得した領土をソ連に返還するように諭している。ヒトラーは,ルーマニアの国益や反共産主義のイデオロギーよりも,ソ連と宥和して,東部を安定化させようとした。
写真(右)1941年,ルーマニア,コンスタンチァのルーマニア軍兵士の行進とそれを見物する市民:背嚢とテントを背負ったルーマニア軍歩兵が,小銃を肩にして行進。 チェコスロバキアが開発したVz24を国産化した小銃を配備。しかし,国産兵器が不足したために,ドイツ軍から兵器を貸与され,部隊に配備した。 Rumänien, Konstanza (Constanta).- Marktplatz mit Ovid-Denkmal, Vorbeimarsch rumänischer Soldaten
Dating: 1941 ca.
Photographer: Grund, Horst撮影。
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
しかし,ヒトラーは,ソ連との宥和が永続するとは思っていなかったし,宥和を続けるつもりもなかった。300万以上の兵力を投入するソ連侵攻「バルバロッサ作戦」を準備していた。そして,ルーマニアにも,密かに作戦発動を伝え,協力を求めた。
1941年6月22日,ルーマニア軍は,ドイツ軍とともにソ連に侵攻。このときは,イタリア,フィンランド,ハンガリーも対ソ戦に参戦している。
写真(右)1941年,ルーマニア,ブカレストのルーマニア軍兵士の行進:ブカレストのリンクを,大隊あるいは連隊規模の歩兵が行進している。 Rumänien (Bukarest).- Kolonne von Soldaten auf dem Marsch über den Platz einer Stadt
Dating: 1941 ca.
Photographer: Grund, Horst撮影。
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
当時のルーマニアの指導者は,イオン・アントネスク(Ion Antonescu)だった。彼は, 国防相,投獄を経験した後,1940年から1944年まで首相に就任した国粋主義者である。ドイツの支援を得て,ソ連に対抗しようと親ドイツ政策を採用した。
独ソ戦に際して,アントネスクは,ルーマニア軍を派遣し,オデッサ,スターリングラードの占領に寄与したが,スターリングラード攻防戦では,ソ連軍がルーマニア軍守備範囲を攻撃し,ドイツ第六軍が包囲されたため,ルーマニア軍の評判を落とした。
写真(右):1941年冬,ルーマニア,集合を命じられ移送される直前のルーマニア・ユダヤ人:枢軸国のルーマニアは,ドイツの影響を強く受け,1941年6月の独ソ戦勃発後に,領土内のユダヤ人を大規模に排除していった。 他方,同じ枢軸国ハンガリー政府は,領土内に多数のユダヤ人が住んでいたため,その影響力に配慮して,1944年前半まで,ユダヤ人を排除しなかった。しかし,1944年中ごろには,アイヒマンの指導の下,ユダヤ人を大規模に排除し,アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に送った。 写真はWikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-2005-0128, Rumänien, Festnahme von Juden.jpg引用。
アントネスクは,ドイツの要請を受けて,ルーマニア国内のユダヤ人数万人を拘束し,強制収容所に移送した。ハンガリーは、親ドイツで対ソ戦にも軍隊を派遣していた枢軸国だったが、国内に多数のユダヤ人を抱え、その影響力に重きを置いていたために、て1944年初期までは、ドイツの要請するユダヤ人移送に反対していた。ハンガリーから大規模なユダヤ人移送が開始されたのは、1944年4月以降だった。
しかし、ルーマニアでは、国粋主義者のアントネスクが、ヒトラーの要請をすんなりと受け入れ、ユダヤ人移送を、対ソ戦に参戦した1941年から行っていたようだ。アントネスクのユダヤ人迫害は、現在でもルーマニアの大将軍として人気のあるアントネスクの評価に一抹の影をさすものである。
写真(右)1941年,ルーマニアの農村の子供たち:裸足のかわいい子供たちだが,1990年代になっても,東北部のビストリッチァ地方,マラムレッシュ地方には,民族色が農耕に残っていた。 ドイツ軍宣伝班のホルスト・グントも,ルーマニア,ブルガリア,ソ連のクリミアやウクライナ,シシリア島などを戦時中に訪れ,その地域文化に感嘆しながら,カラー写真を撮影したようだ。
Rumänien (Bukarest).- Land und Leute, Gruppe von Kindern auf unbefestigter Straße in einer Ortschaft
Dating: 1941 ca.
Photographer: Grund, Horst
撮影。
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1944年,ソ連赤軍がルーマニアに迫ると,8月23日,国王ミハイ1世は彼を解任した。この政変後,アントネスクは,ソ連軍に捕らえられ,1946年6月1日,銃殺された。
イタリアは,1943年7月24日のファシスト大評議会で,立憲王制への復帰,ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)の退陣が決定した。後継者のバドリオ将軍は,かつてエチオピア侵攻を実施した司令官だった。1943年9月,連合国軍がイタリア本土サレルノに上陸,バドリオ政権は,1943年9月3日に連合国と休戦,3年9月8日に「無条件降伏」した。
ルーマニアは,1944年8月まで戦った。ハンガリーは,1945年までドイツとともに戦っている。
4.ギリシャ占領とクレタ島の空挺部隊降下
写真(右)1941年,バルカン,ルーマニア海軍兵士がPKWのフォード車でコンスタンツァに向かう途中:ドイツ軍の宣伝班が撮影したカラー写真。1941年4月10日,ドイツ軍は,ギリシャの英軍を攻撃し,4月27日,アテネを占領した。この時,ドイツ軍は,ブルガリア,ルーマニアに駐留していた。 Rumänien.- Angehörige einer Marine-Propagandakompanie (links Horst Grund) mit PKW Ford Eifel auf dem Landweg nach Konstanza (Constanta), Pause auf Landstraße
Dating: 1941 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年3月以来ブルガリアに進駐していたドイツ軍は,裏切ったユーゴを攻撃しながら,4月10日,ブルガリアからギリシャの英軍を攻撃した。
写真(右)1941年5月,バルカン,ギリシャの首都アテネを行軍するドイツ軍将兵と装甲車:ドイツ軍は,1941年3月,ブルガリアに進駐し,ユーゴの裏切りを懲罰しながら,4月10日,ギリシャの英軍を攻撃した。4月27日,アテネを占領,4月末には,ペロポネソス半島を押さえた。 Griechenland, Athen.- Einmarsch deutscher Soldaten mit leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250); PK 690
Dating: Mai 1941
Photographer: Rauch
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ギリシャは,1940年10月28日以降,ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)率いるイタリアと戦火を交え,撃退していた。が,1941年1月,熟慮の末,英軍ギリシャ進駐を受け入れたのである。
写真(右)1941-1942年,ギリシャ,アテネを行進するドイツ陸軍IV号戦車F型:43口径長砲身7.5センチ砲を装備した新鋭戦車で,北アフリカ戦線に送られる車両かもしれない。 1936年に開発され,第二次大戦が勃発した1939年から生産された?号戦車は,大直径のターレットリング,バスケット式の大型砲塔が特徴で,ここに当初の計画にはなかったような長砲身大口径砲とそれに見合った大型砲弾を搭載することができた。また,操縦手,砲手のほかに戦闘指揮に専念できる戦車長の合計4名の乗員のために,車内通話装置が完備していた。また,昇降ハッチは,乗員分が装備されており,乗り降りはもちろん,緊急時の脱出にも配慮されていた。 はじめに装備した火砲は,短砲身24口径7.5cm砲だったが,これでは,火力支援はできても,対戦車戦闘はできなかった。1941年初頭,ヒトラーは強力な60口径5cm砲の搭載を命じていたが,保守的な陸軍将官は,機動性を重視して,重量の増える長砲身を搭載しなかった。 しかし,独ソ戦で直面したソ連赤軍のT-34は,37口径75ミリ砲を装備して,避弾に優れた装甲であり,ドイツ軍の対戦車砲では貫通できなかった。このため長砲身7.5センチ砲装備のF型が急遽開発された。 Griechenland, Athen.- Kolonne von Panzer IV passieren eine Straße; PK 690
Dating: 1941/1942
Photographer: Teschendorf撮影。
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリを占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン捜索:年寄り,婦女子はパルチザン容疑者から除かれた。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
この時期,ヒトラー総統は,ソ連侵攻バルバロサ作戦の発動を決意しており,発動直前に,ドイツ国防軍司令部は,ソ連共産党がソ連軍兵士の政治教育のために派遣していた政治委員(コミサール)を捜索・拘束,殺害するよう命令を出した。
しかし,独ソ戦前に,1941年4月6日,ユーゴスラビア侵攻があった。ユーゴスラビアで軍部によるクーデタが勃発,ドイツ軍がユーゴスラビアを攻撃し,ユーゴスラビアは,攻撃を受けてい週間後の4月16日には降伏してしまった。
このバルカンでの戦争の最中,ユーゴスラビアのパンチェボでドイツ兵が殺害された。そこで,ドイツ軍はパンチェボ住民36人を報復,縛り首・銃殺した。この事件は,現地に在住していた民族ドイツ人によって撮影され,戦後公開された縛り首を見物する映像は衝撃を与えた。
独ソ戦に際して,ユダヤ人と同じように積極的に排除すべきだとされたのが,共産党員,ソ連軍にいた共産党員政治委員コミサールなどボリシェビキ分子である。ドイツ国防軍も,パルチザンやボリシェビキに容赦をしなかった。
独ソ戦でも,ユダヤ人殺害を命令,実行させた国防軍ライヘナウ元帥のような将軍もいる。
1940年10月28日、イタリア軍によるギリシャ侵攻が開始。英軍はギリシャ本土の側面支援のために,エーゲ海クレタ島に軍を送った。ギリシャ本土では,ギリシャ軍がイタリア軍相手に善戦したが,ドイツ軍が援軍として派遣されると,ギリシャ本土は枢軸国に占領された。
写真(右):1941年5月31日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリ周辺でドイツ降下猟兵が襲撃され,テロリスト捜索が開始。コンドマリの住民が集められ,中に潜むテロリスト容疑者がより分けられた。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ギリシャ本土などバルカンの英軍,オーストラリア軍など連合軍将兵約5万7,000人は,海路,若干は空路で,クレタ島などエーゲ海の島々やエジプト,パレスチナに撤退した。
クレタ島は,東地中海の要衝であって,英海軍基地,航空基地があった。英軍は,ジブラルタル海峡,マルタ島,クレタ島,エジプト,スエズ運河,紅海,バベル・マンデブ海峡,アラビア海,アデン,インド,セイロン島,モルッカ海峡,シンガポールの海上ルートを確保したかった。
写真写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島西北岸コンドマリにおいてパルチザンを捜索するドイツ降下猟兵:青年・壮年男性はパルチザン(テロリスト)容疑者として別の集団として隔離された。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ軍にとっては,兵力手薄なバルカン方面の側面を突いてくるクレタ島の英軍は,排除すべき敵の拠点であった。ドイツ軍は,ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の発動を準備していたから,その前に,側面を防御するためにも,クレタ島は占領する必要があった。
当時,エーゲ海の浮かぶクレタ島にドイツ軍が輸送船を派遣,上陸部隊を送ることは困難だった。クレタ島,アレキサンドリア,マルタ島などに基地を持つ英海軍の地中海艦隊が制海権を握っていたからである。そこで,英海軍の妨害を受けないように,海路ではなく,空路でクレタ島にドイツ軍兵力を派遣する大空挺作戦が立案された。
写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリを占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン捜索:パルチザン容疑者からはずされたと老人,婦女子は退去を命じられた。去ってゆくコンドマリの住民は,残された男たちを気遣った。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ軍の空挺部隊は「降下猟兵」と呼ばれるが,クレタ島の航空基地のあるマレメ、イラクリオンなど飛行場に輸送機あるいはグライダーで乗りつけ,周辺にパラシュート部隊を降下させる大規模な空挺作戦が立案された。そして,敵航空基地を制圧した後,海路で上陸部隊を派遣する計画を立てたのである。
ドイツ軍空挺部隊は空軍の所属になり,空軍のクルト・シュトゥデント大将が率いる第11空挺軍団に所属する第1降下猟兵師団 を中核とする約2万人が投入された。
写真(右)1941年5月13日,ドイツ軍主力輸送機ユンカースJu-52「タンテ」でクレタ島侵攻に向かうドイツ軍部隊:パラシュート降下する空挺部隊もあったが,多くは輸送機で飛行場に着陸して降機した。搭乗する陸軍兵士たちは,ガスマスクを入れた円筒ケースなど,外装品をたくさん装備している。パラシュート降下するときには,命綱が引っかからないように,外装品は最小限にとどめているので,装備が異なった。
1936年スペイン内戦のゲルニカ爆撃に参加したが,第二次大戦では輸送機として使用。全長18.9ートル,全幅29.2メートル,翼面積110平方メートル,重量10500キロ,最高速度275キロ,航続距離1300キロ,BMW132空冷650馬力3基,乗員3名,兵員18人搭載。グライダー曳航任務にも多用された。 Original title: Eine einzigartige Leistung vollbrachten unsere Truppen bei der Besetzung der Insel Kreta. Am Morgen des 20. Mai landeten die ersten Fallschirmjäger und im Laufe der nächsten Tage werden immer weitere größere Verbände Fallschirmjäger und Luftlandetruppen nachgezogen. Der Kampf um die schwer befestigten britischen Gebirgsstellungen erforderte bei unseren Gebirgstruppen, die mit Transportmaschinen nach Kreta befördert wurden, den höchsten Einsatz.
Unser Bild zeigt Gebirgsjäger kurz vor ihrem Start nach Kreta.
PK-Jesse-Scherl,
31.5.41 [Herausgabedatum],
Dating: Mai 1941
Photographer: Jesse 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
大阪朝日新聞 1941.5.22(昭和16)に次の記事がある。 遂に現われた『音なき空中列車』−クレータ島攻撃にドイツ軍がグライダーで兵員を輸送する戦史空前の電撃作戦を開始、寝耳に水の英希(ギリシャ)軍を驚倒せしめ、世界中をあっといわせた「空中列車」とは何か?…
本社特電によれば一万名前後を空中輸送したとあるから少くとも一機に二十乃至三十名搭載出来るグライダー四百余台を夕刻既報の如くソ連式に左右に十台くらいずつV字型に曳航したもの、或はドイツ式に一線に十台くらい曳航したものと想像され、曳航機はユンカースJU五二型三発、または同八六型双発や同九〇型四発あるいはフォッケ・ウルフ・コンドル型四発の大型車爆撃機が少くとも四十機出動したものとみられる。
この新作戦の花形たるグライダーについて大阪のグライダー設計家某氏の見るところによると主翼は木製羽布張り、胴体は木製合板張、翼長は約五十メートル、全長約二十二メートルで機首には強力な着陸照明灯、曳航索取附具があり、左右主翼には着陸を自由にするためスポイラーがあり、また六千メートル以上亜成層圏飛行のため酸素吸入の設備もある、離着陸には橇のかわりに二個乃至三個の車輪が取附けられ、引込式となっている、そして「空中列車」は敵の意表に出て機先を制するため夜間が利用される,発動機(エンジン)四個の重爆機が十台のグライダーを直線に曳航するとしてその場合グライダー間の前後の距離はだいたい五十メートルだから曳航機から最後尾のグライダーまでは実に五百メートル近くになるわけだ、(引用終わり) [記事では,グライダーを曳く輸送機の性能過大,夜間作戦能力のないグライーダーの夜襲,四発重爆の使用などドイツ軍の戦力を過大評価している。]
写真(右)1941年6月,ギリシャ、クレタ島、ドイツ軍に降伏したイギリス軍の捕虜:パラシュート降下や輸送機による空輸によって、地中海に浮かぶクレタ島を攻略したドイツ軍は、空軍によって、イギリス海軍艦艇を撃破して、クレタ島へのイギリス軍の増援を遮断し、クレタ島内のイギリス軍を包囲、降伏させた。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-L19113
Original title: info Auf Kreta gefangene Briten werden abgeführt.
Sie haben der überlegenen Gefechtsführung der deutschen Fallschirmjöger und Luftlandetruppen nicht standhalten kännen und sich ergeben.
PK-Jesse
11.6.1941 [Herausgabedatum]
"Fr" OKW
Dating: Juni 1941
Photographer: Jesse 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリを占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン捜索:青年,中年男性はパルチザン容疑者として抑留された。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
クレタ島空挺作戦は,1941年4月25日,総統指令第28号として発動され,5月16日が開始日とされた。実際の作戦は、1941年5月20日に開始。
1941年5月20日,ドイツ空軍の空襲に続いて,0800,クレタ島マレメとチャニア近郊にドイツ軍降下猟兵の第一波がパラシュート降下,レティムノンとイラクリオンに第二派が降下した。しかし,降り立った降下猟兵は,広範囲に拡散してしまし,集合することがなかなかできず,守備する英軍の反撃によって,大損害を受けた。
写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島を占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン容疑者のコンドマリ村男性住民23-25名の拘束:青年,中年男性(右奥)はパルチザン容疑者とされ,並んで座るように申し渡された。その周囲を小銃で武装したドイツ降下猟兵が囲んでいる。身に覚えのないドイツ兵士の襲撃の罪をきせらたからか,住民の表情は,不安げである。しかし,まさかこの直後に,銃殺されるとは思っていなかったであろう。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年5月19日,ドイツ軍は輸送船に乗船させた陸軍兵士を海路,クレタ島に送ろうとした。この輸送船団は,イタリア海軍の駆逐艦2隻ほか小艦艇20隻の援護を受けていたが,英地中海艦隊は,戦艦ウォースパイト,ヴァリアントほか巡洋艦7隻を基幹とする優勢な艦隊であり,迎撃して多数の輸送船が撃沈した。
英海軍は,ドイツ軍の輸送船に大打撃を与え,撃退することができたが,ドイツ空軍の空襲を受けた。
写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリを占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン捜索:青年,中年男性はパルチザン容疑者として隔離され,この後銃殺された。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
英海軍は,クレタ島防衛に関連して,制空権を確保できず,大きな損害をこうむった。クレタ島からの撤退作戦も含めて,英海軍は,戦艦ウォースパイト,空母フォーミダブルが損害を受け,軽巡洋艦3隻,駆逐艦9隻撃沈破の大損害を受けている。英軍は,5月28日からクレタ島南岸より海路撤退を開始した。
しかし,ドイツ軍降下猟兵に包囲され,撤退ができなくなった部隊もあった。連合軍兵士は,クレタ島民に助けを求めたが,ドイツ軍は潜伏する連合軍兵士,住民パルチザンによるゲリラ攻撃を警戒した。
写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリを占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン容疑者銃殺準備:青年,中年男性はパルチザン容疑者として,この林の中で,集団銃殺された。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年5月31日,エーゲ海クレタ島の英軍は末期的抵抗を続けていたが,クレタ島北岸西部にあるコンドマリではパルチザンにより,ドイツ軍降下猟兵が殺害された。翌日,部隊はパルチザンの捜索,報復を企図した。この報復は,村の燃焼,全地域の男性の排除を考慮していたが,手続きの上では,軍事法廷など特別裁判所を通すことなしに早急に決められた。
1941年6月2日、コンドマリの村の男性23-25名が裁判所の審理なしに銃殺された。村は破壊された。
写真(右):1941年6月1日,クレタ島コンドマリでドイツ降下猟兵により銃殺処刑されたコンドマリのパルチザン容疑者の男性住民23-25名:青年,中年男性はドイツ軍将兵を襲撃したパルチザン,テロリストとして,特別な裁判手続きを経ることなく処刑された。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ降下猟兵によるコンドマリの住民虐殺は,1945年11月11日のニュルンベルク軍事法廷においても取り上げられ,当時の写真を多数撮影したWeixler, Franz Peterによって,証言がなされている。このFranz Peter Weixler証言によって,少なくとも42枚の写真がこのときにもネガから現像されていることがわかる。
写真(右):1941年6月1日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリを占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン容疑者の銃殺処刑:青年,中年男性23-25名はパルチザン容疑者として銃殺された。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
パルチザンなどの銃殺刑は,本来は軍法に基づく軍律裁判(軍法会議)を開廷し,そこで判決を受けてから執行されるものである。特に,民間人は絞首刑(縛り首),斬首など死刑執行方法だったが,軍人に対しては「名誉ある銃殺」が行われた。
ここで,「名誉ある銃殺」とは,敵国兵士の処刑の場合であり,軍律裁判で銃殺刑に処された時刻の軍人は,戦死ではなく,軍人年金や遺族年金も支払われず,不名誉な死である。
写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島を占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン容疑者のコンドマリ村男性住民23-25名の銃殺:林で銃殺された青年,中年男性住民からは,白い煙のようなものが立ち上っている。銃弾に倒れたときの土埃なのか,銃弾が貫通した衣服のチリ埃なのか,住民の怨念のように見えてくる。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
他方,パルチザンなど敵対的な破壊工作,ゲリラ活動,テロ実行犯,テロリスト隠匿者などに対しても,即決裁判で,処刑がなされることがあった。これは,占領地の住民に対する見せしめのために,公開処刑されることもあった。また,軍律裁判なしの不適法な処刑もあった。クレタ島コンドマリ住民「虐殺」は,ドイツ兵士襲撃への報復であり,テロによる支配だった。軍法会議なしという点では,国際法に悖る不適切な処刑だった。
写真(右):1941年6月1日,クレタ島コンドマリでドイツ降下猟兵により銃殺処刑されたコンドマリのパルチザン容疑者の男性住民23-25名:青年,中年男性はドイツ軍将兵を襲撃したパルチザン,テロリストとして,特別な裁判手続きを経ることなく処刑された。 Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690
Dating: 2. Juni 1941
Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
DONOVAN NUREMBERG TRIAL COLLECTION
Volume XII,Subdivision Subdivision 25 / Greece and Yugoslavia
Part 1,Section 25.02 (Weixler information, 11 Nov. 1945)
Title "Information supplied by Franz Peter Weixler / GOERING CASE"
Pages 2
Date 11 November 1945
Language English; the translator's name is Herma Plummer.
Author Franz Peter Weixler
Abstract This document is an English-language translation of an original statement made by the witness. Weixler was a prisoner of the Gestapo for almost a year and a half, imprisoned on the charge of treason for having taken photographs of the "parachute enterprise" in Crete, in 1941, during which most of the male population of a small village was summarily executed for allegedly having killed German parachutists. The document is a typewritten original of very good quality on slightly browning paper.
5.イタリアの戦い:北アフリカ・シシリー侵攻
写真(右)1942年,北アフリカ,キレナイカのイタリア軍M13/40戦車:1940年9月13日,イタリア領キレナイカ(リビア)から出撃したイタリア軍は,英国保護国エジプトに侵攻した。しかし,英軍の反撃を受けると,イタリア軍は敗退し,ドイツは2月に,北アフリカに軍を派遣することになった。 Nordafrika.- Italienischer Panzer M13/40; XI Fliegerkorps
Dating: 1942
Photographer: Seeger, Erwin撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
1940年9月13日,ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)のイタリア軍は5個師団をもって,イタリア領キレナイカ(リビア)から英国の保護国エジプトを攻撃した。(第一次大戦によりオスマン帝国は崩壊し,スルタンが任命した太守が収めていたエジプトは,事実上,占領した英国の支配下に入った。ただし形式上は独立国だったが,外交・国防の権能は,すべてイギリス人が握っていた。)
ドイツ軍にとっては,英軍本土の防衛を分散させるためにも,英国の権威失墜を図るためにも,ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)がイタリア軍にエジプト攻勢をさせたことは望むところだった。
写真(右)1941年3月,北アフリカ(キレナイカ)のトリポリを攻略したイタリア軍戦車部隊:ロンメル将軍の指揮によって英軍の根拠地だったトリポリを攻略できた。 Truppenparade vor General Rommel in Tripolis. Im Hintergrund das Reiterstandbild des Duce. Wie aus Stein gemeisselt zur Linken ein italienischer Panzerwagen.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Böcker (Sch)
3150-41 "Fr." "Fr.OKW" März 1941
Archive title: Tripolis.- Italienischer Panzersoldat in italienischem Panzer M13/40 vor Reiterstandbild von Benito Mussolini
Dating: März 1941
Photographer: Böcker 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
しかし,1940年12月以降,英軍は反撃を開始し,キレナイカに進軍し,1941年2月にはキレナイカに進軍した。そこで,ドイツは,北アフリカの英軍を撃破するために,ロンメル将軍率いるアフリカ軍団を派遣した。3月,アフリカ軍団は英軍を攻撃し敗退させたが,これは,ドイツ軍が,ギリシャ攻撃を準備していた時期だった。
他方,イタリア軍は,ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)の命令で、1940年10月28日,ギリシャを攻撃したが,ギリシャ軍に撃退された。戦線は,イタリアが占領していたアルバニアに移ったが,イタリア軍は苦戦した。そこで,ドイツは,バルカンの側面を防御するためにも,イタリア軍を援助せざるを得なくなった。 1941年4月6日、ドイツ軍は「マリータ」作戦を発動,これはブルガリアから軍を進めてギリシャを占領する作戦計画である。
ドイツ軍は北アフリカ,ユーゴスラビアでの戦闘と同時に,1941年4月10日,ギリシャの英軍をも攻撃した。この「マリタ」作戦は,電撃戦であり,4月27日アテネを攻略。4月30日,英軍はクレタ島に撤退し,ドイツ軍は,ギリシャ本土を占領した。
ブルガリアは,ドイツを支援した報酬として,ギリシャからマケドニア東部を割譲された。
しかし,ブルガリアは,1941年6月のバルバロッサ作戦には,ブルガリアは参加せず,スラブ人として,ロシア攻撃を承諾しなかった。
1944年,ブルガリアでボリス3世国王を打倒するクーデターが勃発,ソ連側に立って,ドイツと戦うことになった。
写真(右)1941年4-5月,北アフリカのドイツ・アフリカ軍団の装甲車:アンテナが見えるので,通信設備を搭載した指揮用の装甲車であろう。 Nordafrika.- Mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/11, "Fernsprechwagen"), PKW in der Wüste; PK "Afrika"
Dating: 1941 April - Mai
Photographer: Dörner撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
ドイツ軍は,1941年4月,英本土航空決戦,大西洋の潜水艦戦はもちろん,ユーゴスラビア,ギリシャ,北アフリカで戦い,さらに6月のソ連侵攻を準備していた。ユーゴスラビアのドイツ裏切りやギリシャ侵攻がなければ,ドイツ軍は,バルバロッサ作戦を6月ではなく,5月に始める予定だった。
写真(右)1941年12月,ドイツ海軍宣伝班の軍用車:ドイツ連邦アーカイブには,ホルストの撮影したカラー写真が数十枚保管されている。ホルストは,独ソ戦に宣伝班として参加,映画や写真撮影を行っていたが,人物写真とともに,風景写真を多数残している。戦争従軍宣伝班というより,個人的にロシア・ウクライナ旅行を楽しんでいるようだ。これは,独ソ戦初期,ドイツ軍が優勢だった戦線後方だから可能な「旅行」だった。 Sowjetunion.- Partisanenüberfall, durchschossene Windschutzscheibe eines PKW einer Marine-Propgandakompanie
Dating: Dezember 1941 ca.
Photographer: Grund, Horst
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このは,ドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサBarbarossa作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。
?バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のことである。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。そして,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。
?ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナをヒトラーに貸与するという噂があった。
?フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。ただし,バルバロッサ作戦の準備は,英本土上陸作戦の意図を隠蔽する目的で行われる陽動だとされた。実際,ドイツ海軍軍令部は,2月18日の作戦日誌で,陽動作戦のことを記している。
写真(右)1941年10月,ルーマニア,黒海沿岸の都市コンスタンツァ,行進するルーマニア軍兵士:Konstanza(コンスタンツァ)のMarktplatz。 Rumänien, Konstanza (Constanta).- Marktplatz mit Oviddenkmal, Vorbeimarsch rumänischer Soldaten, Offizier mit Blumen anläßlich der Feier für Einnahme von Odessa
Dating: Oktober 1941 ca.
Photographer: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
独ソ戦バルバロッサ作戦は,電撃戦の大成功の事例に挙げられる。しかし,東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡している。
ポーランド・ウクライナの係争の地で,ソ連領だったリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。
9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐し,レンベルク(リボフ)を占領。しかし,ドイツのソ連侵攻の一週間後の6月30日,ドイツ軍は,リボフを再占領した。
1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連の秘密警察NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)
第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国の警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー隔離に協力した。
その後,ゲットーから強制収容所に移送,ホロコーストが始まった。
写真(右):1941年,ルーマニア,ブカレスト,農婦:1940年,ソ連によってベッサラビアを割譲させられたため,ルーマニアは,ソ連への報復を待っていた。そこで,ドイツ軍の中流を許し,1941年6月には,ドイツ軍とともにソ連に侵攻した。しかし,戦局が悪化した1944年8月には,ソ連と和平を結び,昨日の友,ドイツ軍へ攻撃を開始した。 農村の老人,婦女子にとって,このような国際関係の変化は,どのように認識されていたのであろうか。 Rumänien, (Bukarest).- Land und Leute.- Bäuerin (Porträt)
Dating: 1941 ca. Photographer: Grund, Horst
Origin: Bundesarchiv 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも,現地のポーランド人,ウクライナ人の間に起こった。
ユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人が,ソ連共産党ボリシェビキの下で,政治的,経済的に優位にあった,現地のポーランド人,ウクライナ人を抑圧したという偏見だった。
しかし,ナチスドイツは,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与する下等人種・劣等民族は全て排除するつもりだった。
ドイツ国防軍将兵は,独ソ戦の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。
しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。
写真(右)1942年月,ソ連,クリミア半島,黒海のイタリア海軍特殊潜水艇:2人乗り,魚雷発射管が左側だけに1基ある。 Sowjetunion, Krim.- Italienisches Zwei-Mann U-Boot mit Marinepersonal im Hafen (neben Schnellboot)
Datierung: 1942 ca.
Fotograf: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
ドイツ軍は,1941年4月,英本土航空決戦,大西洋の潜水艦戦,ユーゴスラビア・ギリシャのバルカン戦,北アフリカ戦を戦いながら,1941年6月のソ連侵攻を準備していた。ユーゴスラビアのドイツ裏切りやギリシャ侵攻がなければ,ドイツ軍は,バルバロッサ作戦を6月ではなく,5月に始める予定だった。そうすれば,厳寒の冬の訪れまで,1ヶ月の余裕ができて,モスクワを陥落させられたという識者もある。
◆バルカン作戦がなく,当初の予定どおり1941年5月にバルバロッサ作戦が開始されていれば,本当にソ連は屈服したのであろうか。
バルバロッサ作戦の失敗を,ロシアの気象条件,泥濘の秋,厳寒の冬に求める見解がある。特に,氷点下20度が続くような厳しい寒さと雪によって,機械の潤滑油や燃料が凍りついたり,部品が氷結して動かなくなったりと,ドイツ軍は困難に直面した。食料や武器弾薬の補給も困難になった。これが,ロシアの「冬将軍」であり,この気象条件の厳しさが,ドイツ軍の進撃を阻んだとする見解である。
しかし,気象条件は対峙するソ連軍も同じであり(補給路の長さは除くとしても),ソ連赤軍が厳冬の備えがしてあったのであれば,それはドイツ軍の装備・計画がソ連軍に劣っていたことを意味する。つまり,冬将軍のために,ドイツ軍がモスクワ前面で敗退したのではなく,ソ連軍の頑強な抵抗と,冬季攻勢の前に敗退したというのが真相であろう。
後方における輸送はゲリラによって撹乱された。こうした問題は,ドイツの過酷なパルチザン・ユダヤ人処刑,物資挑発,強制労働・強制連行という占領政策の失敗のためでもあった。
ソ連軍が,極東軍を移送して,ドイツ中央軍団に抵抗できた。英米の軍事援助物資が,イランを経由した南方ルートと,ノルウェー沖を回る回路の北方ルートによって,流入していた。そして,ドイツ支配地域のソ連住民・パルチザンに命じて,ドイツ軍の後方部隊や補給路をゲリラ攻撃させることにも成功していた,この予備兵力の投入と外国援助物資による戦力増強,国民の世論・パルチザン動員という事情は,ドイツ軍のソ連侵攻が1ヶ月早まったとしても,変わりがない。
クリミア半島の戦い,特にセバストポリ要塞の頑強な抵抗は,1942年夏まで続いていた。これは,共産党政治委員(コミサール)のテロの支配だけではなく,ドイツ軍に降伏すれば,過酷な取り扱いを受けることが恐れられていたためでもある。ドイツがロシア,ベラルーシ,ウクライナの隷属化,すなわち生存圏として資源・食料の収奪,住民の隷属化を意図していると考えたからである。
ソ連国内には,反共産主義・反ボリシェビキのナショナリスト(民族派),スターリン支配に反対する将軍・政治家(政権闘争),自由な経済活動・思想を愛する市民,強制移住や農業集団化に反対する農民,厳しい兵役を忌避したがった下級兵士など,ソ連共産党,スターリンの反対勢力は抑えられていたが,その根は深かった。これが,ソ連の弱点だったが,ドイツはそれを反スターリン勢力をドイツのために戦力化するのではなく,反スターリン勢力を祖国解放のために結集させてしまった。
したがって,ユーゴスラビア侵攻がなくとも,モスクワを陥落させることはできなかったであろう。
また,東部戦線だけではなく,北アフリカやバルカンにおけるイタリアも問題だった。キレナイカを失えば戦局悪化によって,イタリアが戦線を脱落するリスクがあった。ヒトラーも,イタリア離脱のリスクを冒してまで,ソ連侵攻を進めることはできなかった。つまり,ドイツ軍は東西二面戦争ならず東西南の多面戦争を戦っていたのであり,このような戦線の広がり,世界戦争を戦うこと自体に,無理があったと考えられる。
写真(右)1943年3月,地中海,ドイツ海軍将兵と宣伝班のアインハイト:桟橋に横付けしたた艦船で,テーブルを囲んでコーヒーを飲んでいるようだ。 Mittelmeer.- Einsatz der 6. Räumflottille, deutsche Soldaten (Matrosen, Angehörige einer Marine-PK-Einheit?) an einer Kaffeetafel auf einem Schiff am Kai, sitzend
Datierung: März 1943 ca.
Fotograf: Grund, Horst撮影。
Quelle: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
北アフリカのチュニジアに追い詰められていた枢軸軍,ドイツ・アフリカ軍団は,1943年5月に降伏。1943年7月10日,米英連合軍は,チュニジア対岸のシチリア島に上陸。ハスキー作戦に基づいて,イタリア半島南部に向かって進撃した。
写真(右)1943年,シシリア島,ドイツ・ハノマーク社の半装軌式牽引車搭載の四連装2センチ対空機銃:路外でも兵員を迅速に輸送できるハーフトラックに,対空戦闘用の機銃を搭載した。操作要員たちは,いずれも熱帯用の半そで,半ズボンの軍服を着用している。
Italien, Am Ätna.- Vierlings-Flak auf Lastkraftwagen
Dating: 1943 ca.
Photographer: Grund, Horst
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1943年7月10日,シシリー島に上陸した米陸軍パットン将軍らの連合軍地上部隊に押されて,ドイツ軍は敗退。メッシナ海峡から,イタリア半島に撤退しようとした。イタリア軍とドイツ軍は,既に5月に北アフリカで全面降伏していた。イタリア本土に撤退したドイツ軍だが,イタリア国民の支援を得ることはなく,ドイツに従ったイタリア軍の兵力も乏しかった。
イタリアは,1943年7月24日のファシスト大評議会で,立憲王制への復帰,ムッソリーニの退陣が決定した。後継者のバドリオ将軍は,かつてエチオピア侵攻を実施した司令官だった。
写真(右):1943年7月,イタリア,シシリー島,パレルモ郊外の荷牛車:1943年7月9日,米英連合軍は,イタリアのシシリー島に上陸。ハスキー作戦が始まった。1943年2月のスターリングラードでのドイツ軍の大敗北,ガダルカナル島からの日本軍の撤退と,枢軸国の形成は悪化していた。 イタリアでは,本土上陸に戦意を失い,てムッソリーニの威信は失墜,王室,軍部を中心に,連合国との和平交渉が始まった。そんな時期でも,ホルスト・グントは,シシリー島の牛車に興味を示して,カラー撮影している。 Italien, Palermo.- Deutscher Soldat beim Fotografieren eines von Rindern gezogenen Flüchtlingswagens mit Hausrat
Datierung: Juli 1943 ca. Fotograf: Grund, Horst撮影。Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
イタリアでは厭戦気分が蔓延し,1943年7月25日には,ムッソリーニ
が失脚,バドリオ将軍による新政権が樹立。バドリオは,連合軍との交戦を継続するといったが,ひそかに連合国と和平交渉に入った。 1943年9月8日,イタリア本土サレルノに連合軍が上陸すると,休戦を表明。
写真(右)1943年,イタリア軍のサボイア・マルケッティS-55飛行艇:イタリアのシチリア島あるいは黒海で,ホルストが撮影したカラー写真。イタリア空軍機を貸与されていたルーマニア空軍の所属になる飛行艇かもしれない。 操縦座席は,主翼中央部にあり,双発エンジンが,主翼上に串型配備されている。 乗員: 6人,全長 16.8メートル,全幅 24メートル,翼面積 93平方メートル,全備重量: 8260キロ。エンジン880馬力2基。 最大速度 時速279キロ,航続距離 3500キロ,武装 7.7 mm機銃4丁,魚雷または爆弾2トン。
Italienisches Doppelrumpf-Flugboot Savoia-Marchetti S-55 [der rumänischen Luftwaffe ?]
Dating: 1943 ca.
Photographer: Grund, Horst撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1943年9月8日,連合軍によるイタリア半島サレルノ上陸によって,イタリアは戦線離脱を決意した。実は,連合国軍がイタリア本土サレルノに上陸前,1943年9月3日にバドリオ将軍は,米英連合国と休戦し,1943年9月8日の連合軍サレルノ侵攻とともに「無条件降伏」した。
写真(右)1943年,イタリア軍のサボイア・マルケッティS-55飛行艇上のドイツ軍兵士ハンス・ツンドルフ,オルベルト博士,ホルスト・グント:サボイア・マルケッティ社の開発した双胴飛行艇で,1927年に実用化された。1933年,イタリア空軍大臣イタロ・バルボに率いられた24機編隊が,イタリアから米本土シカゴまでの飛行している。 撮影場所は,主翼中央部のエンジン架。 Italien.- Marine-Filmberichter (an Bord eines Wasserflugzeugs?), Hans Zündorf, Dr. Olbert, Horst Grund u.a.
Dating: 1943 ca.
Photographer: o.Ang. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
しかし,イタリア降伏を予期していたヒトラーは,翌9月9日、イタリア駐留ドイツ軍にローマ占領を命じ,イタリア本土の大半をドイツ軍勢力下に置いた。
1943年9月12日、イタリア軍バドリオ派によって,グランサッソに監禁されていたムッソリーニを,スコルツェニー率いるドイツ軍降下猟兵がグライダーを使って救出した。ムソリーニは,北イタリアにドイツ傀儡政権「イタリア社会共和国」を樹立した。
写真(右)1943年9月12日,イタリア降伏後,パルチザンによってグラン・サッソ山荘に幽閉されていたムッソリーニをオットー・スコルッツェニー中佐指揮の降下猟兵特殊部隊が救出した。イタリア政府を代表していたバドリオ将軍は,連合軍に降伏し,ドイツを裏切った。そこで,ヒトラーは,捕らわれていたムッソリーニを救出,北イタリアにサロ政権(傀儡イタリア社会共和国)をたてた。
解放され喜んでいいはずのムッソリーニだが,アーカイブに保管してあるどの写真を見ても,浮かない顔をしている。ムッソリーニは,ヒトラーの傀儡となれば,イタリア国民の信望も過去の栄光も全てを失うと理解していたに違いない。イタリアでは、ムッソリーニ失脚・傀儡復権後に,ユダヤ人迫害が始まった。ムッソリーニは、1945年4月、パルチザンに再び捉えられ,処刑された。遺体は,ミラノのスタンダードオイルの鉄塔に,愛人とともに晒された。ヒトラーはこれを知り,自決後,自分の死体を,ガソリンをかけて完全焼却することを命じた。 Gran Sasso, Befreiung von Mussolini.- Benito Mussolini vor Hotel Campo Imperatore mit deutschen Fallschirmjägern und italienischen Soldaten. links neben Mussolini Otto Skorzeny (helle Uniform, Fernglas) und Major Harald-Otto Mors. Rechts Karl Radl (mit Stahlhelm); Fs AOK
Dating: 12. September 1943
Photographer: Schneiders, Toni撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。
ムッソリーニの全盛時代,ファシストではあっても,イタリアでは,ユダヤ人迫害をしてなかった。しかし,ヒトラーの傀儡に落ちぶれたムッソリーニのイタリア社会共和国では,ドイツの意向を受けて,ユダヤ人の逮捕,強制収容所への移送を開始した。
プレモ・レービ(Primo Levi)は,トリノのユダヤ人家庭に生まれ,トリノ大学で化学を学んだ。1943年後半の時期,山中で反ナチス・パルチザン活動を行おうとしたが,つかまってしまう。
1943年に,Primo Leviは,アウシュウィッツ強制収容所に送られ,ブナの工場で,化学者として働かされた。1945年に救出され,イタリアに帰国後,『アウシュヴィッツは終わらない』を1947年に執筆した。
1944年,ソ連赤軍がルーマニアに迫ると,8月23日,国王ミハイ1世はアントネスクを解任した。この政変後,アントネスクは,ソ連軍に捕らえられ,1946年6月1日,銃殺された。
ルーマニアは,1944年8月に寝返ったが,ハンガリーは,1945年までドイツとともに戦っている。
1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。これは過激な表現のプロパガンダではなく,本心だった。
写真(右):1943年2-3月,パルチザン掃討か,焦土作戦か,燃える農家を眺める武装親衛隊の二兵士:放火,農作物略奪,住民殺傷と,パルチザンを鎮圧するためには,パルチザンの潜在的支援者,支援容疑者に対する過酷な措置が採用された。ドイツ国防軍以上に,武装SSでは,政治・世界観の教育(人種民族差別)が徹底していた。このような人権軽視,非アーリア人蔑視が,武装親衛隊の残虐性を引き出したと考えられる。 日中戦争に際して,中国軍は,日本軍による殺しつくす(殺光),焼きつくす(焼光),奪いつくす(槍光)ような治安対策を,「三光」と呼んだ。日本軍は,便衣(パルチザン)の掃討,治安回復のために,敵性住民に対して,三光作戦を展開した。
Sowjetunion, Raum Charkow.- Zwei Soldaten der Waffen-SS vor einem brennende Gebäude (Bauernhaus) stehend; SS-PK
Dating: 1943 Februar - März
Photographer: Zschäckel, Friedrich撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-186-37, Russland, bei Charkow, Soldaten der Waffen-SS.jpg引用。
ドイツは,住民が反目しあうように,ユダヤ人をスケープ・ゴートの標的として,分割統治した。 ただし,大英帝国のような利益誘導ができず,非ユダヤ人から穀物・家畜を徴発し,財産を没収し,さらに強制労働に着かせるなどした。親ドイツだったソ連住民もいたが,彼らも,反ドイツの側に立つようになった。
ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。
1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。-----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」
1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」 ◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。
写真(右)1941年7月,ソ連,東部戦線でミシンを使って被服を修繕するドイツ軍兵士:後方には,ドイツ軍の騎兵部隊が進撃している。 Sowjetunion, Vormarsch zum Dnjestr.- Deutscher Soldat im Unterhemd an Nähmaschine sitzend, im Hintergrund Kavallerie; Juli 1941
Dating: Juli 1941
写真は, Wikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv B 145 Bild-F016199-22, Russland, Soldat an Nähmaschine.jpg引用。
バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。また,1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。
バルバロッサ作戦の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。
ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の殺戮には,次のような障害があった。 ?殺戮に伴う処刑者の精神的負担 ?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備 ?大量殺戮発覚によるユダヤ人・スラブ人などの抵抗勢力の増大 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人やソ連軍捕虜を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,大量殺戮が事実上行われていた。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。
◆1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。
ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした---。
◆ユダヤ人は,アーリア人を人種汚染し,共産主義者がソ連を,国際金融資本家・マスメディア経営者がアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域は,東方ソ連にはない。逆に,東方ソ連のユダヤ人,スラブ人が,強制収容所や東方労働者として,ポーランドやドイツに連れてこられていた。ヨーロッパのユダヤ人,東方ソ連のスラブ人は,同じようには差別,迫害された。
◆虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。ルーマニアでも,イタリアでも,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ますわけにはいかない。
6.ユーゴスラビア戦線のドイツ軍の装甲車Panzerspähwagen Pz-Spw.
写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad):オープントップの戦闘室に大口径砲を搭載したが、当初は密閉式の砲塔を備え55口径2cmKwK30戦車砲、7.92mmMG34機関銃を搭載していた。 Inventory: Bild 101 I -Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-049-1553-23
Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch deutscher Truppen, Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 233) Ecke "Corso Guglielmo Marconi" / "Riva A Hitler", Zivilbevölkerung am Straßenrand; PK 666
Dating: 1943 September - Oktober. Photographer: Gruber, Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-23"引用。
第二次世界大戦でドイツ軍に占領されたユーゴスラビアでは、自由主義、王党派、共産主義のイデオロギーだけでなく、クロアチア人、セルビア人、ムスリムと民族派閥もあり、反ドイツ・親ドイツと複雑な様相を呈していた。しかし、西側連合軍とソ連の双方から支持を受けたチトー指導のパルチザンが優勢になり、「人民解放戦争」の名目の下、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を樹立することになる。
写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪重装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad)と後続する偵察用軽装甲車(Sd.Kfz.223):後方の壁のスローガンには「スムルト・ファシズム、スロボダ・ナロドゥ!」とある。これはセルビア語で「ファシズムに死を、人民に自由を!」Death to fascism, freedom to the peopleの意味である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-049-1553-14
Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch deutscher Truppen, u.a. Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 233), im Hintergrund Mauer mit Aufschrift "Smrt Fasizmu - Sloboda Narodu"; PK 666
Dating: 1943 September - Oktober. Photographer: Gruber, Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-14"引用。
八輪重装甲車:Schwere Panzersp Sd.Kfz.233諸元
重量Weight: 8700kg
乗員Crew: 3 men
エンジンEngine: Bussing-NAG L8V / 8-cylinder / 150hp
路上最高速度Speed: Road: 80km/h
航続距離Range: Road: 300km
全長Lenght: 5.85m
全幅Width: 2.20m
全高Height: 2.25m
兵装Armament: 75mm StuK 37 L/24および7.92mmMG34
搭載弾丸数Ammo: 7.5cm砲弾数32 rounds、7.92mm機銃弾数1500 rounds
装甲厚Armor: 5-30mm
写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪重装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad)と後続する四輪軽装甲車Panzerspähwagen (Sd. Kfz. 232):操縦席は前後に2席あるから、市街地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合など緊急時でも迅速な方向転換が可能だった。< Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-049-1553-22
Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch deutscher Truppen, Panzerspähwagen (Sd. Kfz. 233) Ecke "Corso Guglielmo Marconi" / "Riva A Hitler", Zivilbevölkerung am Straß
enrand; PK 666
Dating: 1943 September - Oktober. Photographer: Gruber, Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-23"引用。
第二次大戦初めに、ドイツ軍は八輪重装甲車Sd.Kfz.231を開発した。その一つの派生型八輪重装甲車Sd.Kfz.232は、大型無線機をもち、車体上部にアンテナとは思えない枠のような折り畳み式フレームアンテナを装備した。兵装は、砲塔に2cm対空機関砲を社債型に改造した55口径2センチ戦車砲と同軸の7.92ミリMG34機関銃を搭載した。八輪駆動で、ステアリングも八輪可能で、不整地も走行性能は高かった。最大速度は整地でなら90km/hの大型の装甲車だが、後進にも便利なように後方簡易操縦席を設けている。しかし、複雑な構造のため製造経費が高くなり、メンテナンスにも労力が必要になった。
八輪重装甲車Sd.Kfz.232は、東西ヨーロッパ、バルカン、南ヨーロッパ、北アフリカ、ソ連とドイツ陸軍の行動範囲と一致していおり、大戦中期まで大いに活躍した。特に、装甲師団のための偵察任務に威力を発揮した。しかし、大戦後期には、戦車、突撃砲、自走砲に資源エネルギーを集中するために、生産は中止された。部隊配備されていた八輪重装甲車も、ガソリン節約のために、次第に現役から退くことになった。。
写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad):Sd.Kfz. 231当初は砲塔を備え55口径2cmKwK30戦車砲、7.92mmMG34機関銃を搭載していたが、この砲塔を撤去し、オープントップの拡大した戦闘室に火力支援可能な24口径7,5センチ短口径砲を搭載した。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-049-1553-24
Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch deutscher Truppen, Panzerspähwagen (Sd. Kfz. 233) vor Gebäude mit Aufschrift "Zivjelo Oruzano Bratstvo Srpskog i Hrvatskog Naroda"; PK 666
Dating: 1943 September - Oktober. Photographer: Gruber, Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-24"引用。
大戦前に設計された八輪重装甲車Sd.Kfz 231は、贅沢な機構、複雑な構造だったために、量産性が低かった。そこで、大戦後半には、後継車両としてより量産性を向上させるために、簡易化した機構・構造のSd.Kfz 234が開発された。これは、モノコックシャーシと単純化した車体設計を採用した改良型である。
写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad)とドイツ軍がフランで鹵獲したホチキスHotchkiss H 38戦車:対ゲリラ戦用にドイツ軍が投入された。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-049-1553-06
Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch motorisierter Truppen, u.a. Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 233), französischer Beutepanzer Hotchkiss H 38; PK 666 Zivilbevölkerung am Straßenrand; PK 666
Dating: 1943 September - Oktober. Photographer: Gruber, Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-06 "引用。
Sd.Kfz.234の兵装は、砲塔式の20mm機関砲を装備の標準型八輪重装甲車Sd.Kfz.234/1、長砲身60口径5センチ戦車砲を搭載したSd.Kfz.234/2「プーマ」、余剰となっていた短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)を搭載した火力支援装甲車Sd.Kfz.234/3が生産された。
後にヒトラーの攻撃力強化の命令を受けて、大戦末期に長砲身46口径7.5センチ対戦車砲 (PaK40)を搭載した八輪対戦車装甲車Sd Kfz 234/4 (PaK40)が、Sd.Kfz.234/3から転換生産された。しかし、46口径7.5センチ対戦車砲 (7.5 cm PaK 40)を搭載したために、高初速、高貫通力ではあったが、重量は1トン以上、射撃反動も大きいために、運用には大きな制約があったと考えられる。生産台数も90台と少量に留まった。
写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の24口径7,5センチ短口径砲装備の八輪装甲車(Sd.Kfz. 233 8-Rad):対ゲリラ戦用にドイツ軍は旧式戦車、鹵獲戦車、装甲車を投入した。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-049-1553-06
Archive title: Kroatien, Split.- Einmarsch motorisierter Truppen, u.a. Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 233), französischer Beutepanzer Hotchkiss H 38; PK 666 Zivilbevölkerung am Straßenrand; PK 666
Dating: 1943 September - Oktober. Photographer: Gruber, Dr. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-36 "引用。
八輪偵察重装甲車は、前述の6輪装甲車の後継車で、Sd.Kfz.番号も六輪装甲車と同じである。1939年に登場し、当初は55口径2cmKwK30戦車砲、7.92mmMG34機関銃を装備。1943年9月までにSd.Kfz.231/232合計607両が製造された。
車体の装甲は前面15mm、側面8mm、後面10mm、上面5mmの厚さで、砲塔の装甲厚は前面14.5mm、側面・後面とも8mm、上面6mmである。つまり、装甲車の防御力は機銃弾を防ぐ程度であり、火砲には非力であった。そこで、1942年には車体前面と砲塔前面の装甲を2倍の30mmに増加した。しかし、装甲強化による重量増加によって、機動性は低下した。
写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の八輪重装甲車(Sd.Kfz. 231 8-Rad):車体後面には予備タイヤを搭載している。操縦席は前後に2席あるから、戦地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合など緊急時でも迅速な方向転換が可能だった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-049-1553-37
Archive title: Kroatien, Split.- Spähpanzer (Sd.Kfz. 231 8-Rad) bei Bergabfahrt; PK 666
Dating: 1943 September - Oktober.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-37"引用。
八輪偵察重装甲車の兵装は、砲塔に55口径2cmKwK30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関銃を搭載した。しかし、後期には、砲塔を大型化して7,5センチ長砲身砲を搭載した「プーマ」、7,5センチ短砲身砲を搭載した「シュトゥンプフ」 Stumpfも生産された。
スプリト(Split)は、クロアチア南、アドリア海に面したダルマチアの主都で、1941年4月、ドイツ軍のユーゴスラビア侵攻に伴って、占領下に置かれ、イタリアに引き渡された。
しかし、1943年9月、イタリアのバドリオ政権が、連合国に降伏したため、スプリト(Split)はチトーのパルチザンによって解放されたものの、イタリア軍を武装解除し、イタリアを占領するために行動を開始したドイツ軍によって制圧された。そして、スプリト(Split)はドイツ傀儡政権クロアチアに引き渡された。結局、イタリア半島中部に連合軍が進出してきた1944年10月末になって、パルチザンの支配下にはいった。
写真(右)1943年9-10月,クロアチア、スプリット市内、ドイツ軍の四輪軽装甲車 Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 222):チトーのパルチザンが使用していたユーゴスラビアの旗を鹵獲し検分しているドイツ軍将兵。腰には、ルガーP-08自動拳銃を入れたホルスターを下げている。ルガーP-08はドイツ軍が第一次大戦当時から使用していたもので、第二次大戦中も生産された軍用拳銃である。弾丸は、9mm パラベラム弾で、後継のワルサ―P-38自動拳銃と同じ。ただし、生産工程が多く、量産には不利であり、泥や埃によって作動不良になることがしばしばあった。四輪軽装甲車Sd.Kfz. 222は、八輪重装甲車Sd.Kfz. 231と同じ2センチ戦車砲と7.92ミリ機関銃を砲塔に装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-049-1553-34
Archive title: Kroatien, Split.- Deutsche Soldaten montieren niedergeholte Flagge der Partisanen Titos auf Spähpanzer (Sd.Kfz. 222); PK 666
Dating: 1943 September - Oktober
Photographer: Gruber, Dr.撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-049-1553-34 "引用。
Sd.Kfz.221の改良型/武装強化型がSd.Kfz.222四輪装甲車で、車内は若干大型になり、兵装を強化して、砲塔には55口径2-cm-KwK 30 L/55 戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関銃を装備した。ホルヒ 3.8リットル水冷V型8気筒89馬力(Horch 3.8 V8 petrol 90 PS (66 kW; 89 hp) ガソリンエンジンを搭載し、路上最高速度80km、航続距離300km。
Sd.Kfz. 222は1936年-1943年にかけて、1,000輌生産されたが、大戦後期には旧式化しており、第一線というより、後方でのパルチザン掃討戦などに投入されているようだ。
写真(右)1943/1944年,ユーゴスラビアのドイツ警察師団とイタリア軍兵士、イタリア軍の四輪軽装甲車Autoblindo AB41:重量7.5トン、兵装は砲塔に20ミリBreda35自動砲(456発)と同軸8ミリBreda 38機関銃1丁、さらに後方に8ミリBreda 38機関銃1丁。装甲は最大18ミリ。チトーのパルチザン掃討作戦など、後方の対ゲリラ戦には、フランスやチェコから鹵獲した装甲車や戦車も投入された。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-005-0018-07
Archive title: Jugoslawien.- Polizeieinsatz, Polizeitruppe mit italienischem Panzer-spähwagen Autoblindo AB41
Dating: 1943/1944。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-005-0018-07"引用。
アウトブリンド(Autoblindo) AB41は、1940年、イタリア軍が制式した四輪装甲車AB 40(Autoblinda AB40)が原型で、イタリアが連合国に降伏する1943年9月まで550輌が量産された。その後も、ムッソリーニが率いたサロ政権(イタリア社会共和国:Italian Social Republic )の部隊で使用されたが、連合軍との第一線に投入するには威力不足だったため、ユーゴスラビアでの対ゲリラ戦に用いられた。
写真(右)1943/1944年,ユーゴスラビアのドイツ警察師団とイタリア軍兵士、イタリア軍の四輪軽装甲車Autoblindo AB41:チトーのパルチザン掃討作戦など、後方の対ゲリラ戦には、フランスやチェコから鹵獲した装甲車や戦車が投入された。兵装は砲塔に20ミリBreda35自動砲(456発)と同軸8ミリBreda 38機関銃1丁、さらに後方に8ミリBreda 38機関銃1丁。装甲は最大18ミリ。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-005-0018-05
Archive title: Jugoslawien.- Polizeieinsatz, Polizeitruppe mit italienischem Panzer-spähwagen Autoblindo AB41
Dating: 1943/1944。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-005-0018-05"引用。
Autoblinda 40, Autoblinda 41諸元
重量:Weight
7518キログラム
全長:Length
5.21 m
全幅:Width
1.93 m
全高:Height
2.48 m
乗員:Crew
4 人
装甲:Armour
最大18 mm 兵装:
AB 40: 2 × 8 mm Breda mod. 38 machine guns
AB 41, 43: 1 × 20 mm Breda mod. 35 autocannon
456 発
2 × 8 mm Breda mod. 38 machine guns (後方および同軸coaxial)
1,992 発
エンジン:
AB 40, 41: SPA I6 ガソリンエンジン
88 hp (AB 40) あるいは 120 hp (AB 41)
航続距離:Operational
range
400 km 最高速度:
78 km/h
写真(右)1943/1944年,ユーゴスラビアのドイツ警察師団とイタリア軍兵士、イタリア軍の四輪軽装甲車Autoblindo AB41:チトーのパルチザン掃討作戦など、後方の対ゲリラ戦には、フランスやチェコから鹵獲した装甲車や戦車が投入された。たとえばフランスが使用していたPanhard P 178装甲車をドイツ軍は鹵獲してPzSpw. P.204 (f)として使用した。これは、25ミリ砲と機関銃を砲塔に装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-005-0018-06
Archive title: Jugoslawien.- Polizeieinsatz, Polizeitruppe mit italienischem Panzer-spähwagen Autoblindo AB41
Dating: 1943/1944。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-005-0018-06"引用。
写真(右)1943/1944年,ユーゴスラビアのドイツ警察師団とイタリア軍兵士、イタリア軍の四輪軽装甲車Autoblindo AB41:兵装は砲塔に20ミリBreda35自動砲(456発)と同軸8ミリBreda 38機関銃1丁、さらに後方に8ミリBreda 38機関銃1丁。装甲は最大18ミリ。1940-1943年に550輌生産。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-005-0018-16
Archive title: Jugoslawien.- Polizeieinsatz, Polizeitruppe mit italienischem Panzers-pähwagen Autoblindo AB41
Dating: 1943/1944。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-005-0018-16"引用。
写真(右)1943/1944年,ユーゴスラビアのドイツ警察師団とイタリア軍兵士、イタリア軍の四輪軽装甲車Autoblindo AB41:チトーのパルチザン掃討作戦など、後方の対ゲリラ戦には、フランスやチェコから鹵獲した装甲車や戦車が投入された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-005-0018-15
Archive title: Jugoslawien.- Polizeieinsatz, italienischer Panzer-spähwagen Autoblindo AB41, Soldaten auf LKW
Dating: 1943/1944 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-005-0018-05"引用。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。 バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車 ⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車 ⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank ⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail ⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇 ⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 ⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
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