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◆ヒトラーの最期The Last Days of Hitler 鳥飼行博研究室TorikaiLab

写真(上)1944年8月,総統大本営ヴォルフスシャンツェのアドルフ・ヒトラー総統と訪問にやってきたドイツ軍将校たち
:7月20日のヒトラー暗殺未遂の後,忠誠心を表明するために,多数の将校がヒトラーに面会にやってきた。訪問者たちは,左胸に一級鐵十字章を佩用している。薬物乱用,爆発の影響で,ヒトラーは右腕が震えるようになったために,将校と左手で握手をしている。その後方は,国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel:1882年-1946年処刑),左端は,官房長官マルチン・ボルマン。
ヴォルフスシャンツェ(Wolfsschanze)は,ヒトラーの闘争時代の名前「狼」からとった東プロイセンにあった総統大本営・国防軍最高司令部だった。
 ここの作戦会議室に,国内予備軍参謀長シュタウフェンベルク大佐がヒトラーを暗殺する目的で,カバン式の時限爆弾を仕掛け,午後0時42分,爆発した。爆発が原因で,速記官ハインリヒ・ベルガー,陸軍参謀本部作戦課長ハインツ・ブラント大佐,空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将,副官ルドルフ・シュムント少将の4人が死亡。しかし,ヒトラーは軽傷ですんだ。暗殺未遂の直後,ヒトラーは,会談を予定していた盟友ムッソリーニを爆発現場に案内した。
Original title: ADN-ZB/Archiv, 1944 NS-Führungsoffiziere von Adolf Hitler empfangen. In seinem Hauptquartier empfing Adolf Hitler eine Anzahl nationalsozialistischer Führungsoffiziere.- Adolf Hitler während der Begrüßung mit Generalfeldmarschall [Wilhelm] Keitel und dem Chef des NS-Führungsstabes des Heeres, General [Georg] Ritter von Hengl. 587-44 [August 1944, Wolfsschanze] Dating: August 1944 Photographer: Hoffmann, Heinrich ハインリヒ・ホフマン撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。

<恩義のあるユダヤ人を保護したヒトラー>

ヒトラー自身は、法を超えた存在の独裁者であるから、恩義から第一次大戦中の元上官のユダヤ人を保護した。 Jewish Voice From Germany Hitler’s Jewish Commander and Victim by Susanne Mauss|July 4, 2012時事通信「ヒトラー、元上官のユダヤ人保護=側近の書簡発見―ドイツ」2012年7月13日)配信によれば、ヒトラーが、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)へ突き進む中、かつて上官だったユダヤ人男性を迫害しないよう命じていた事実を示す文書が見つかった。この男性は第1次世界大戦中、ヒトラーが所属した中隊を指揮していたErnst Hess エルンスト・ヘス氏。ヒトラー側近のナチス親衛隊指導者ヒムラーが警察幹部に送った1940年8月19日付の書簡で、ヘス氏について「総統の希望により」保護すると明示している。

 書簡はドイツのユダヤ系紙ジューイッシュ・ボイスがノルトライン・ウェストファーレン州の公文書館で発見した。同紙によると、ナチスに判事の職を奪われたエルンスト・ヘス氏は1936年、ヒトラーに迫害対象からの除外を求める請願書を送り、「ユダヤ人と呼ばれ、周りから軽蔑されるのはある種の精神的な死だ」と訴えた。これ以降、同氏は年金を渡されるなど、他のユダヤ人とは異なる扱いを受けた。

 エルンスト・ヘス氏は、1937年、家族と共に一時イタリア北部の南チロル(ドイツ人住民が半数)に移り、ユダヤ人を示すJをつけていない旅券を発行してもらうこともできた。1939年6月、ドイツとイタリアの間に南チロルドイツ住民帰国協定が結ばれ、ドイツ人のヘス一家はドイツに帰国さざるを得なくなった。1940年6月、ヘスがアーリア化を申請にミュンヘンの事務所に行ったとき、ヒトラーによる庇護命令が、5月以降無効となったことが判明した。

このころ、ベルリン在住の妻マルガレーテ(Margarete)は、ヒトラーの第一次大戦中の上官でヒトラー副官となっていたヴィーデマン(Fritz Wiedemann)の保護を受け、年金を受けていたが、それも受けられなくなってた。ヘスは、ミュンヘン郊外の強制収容所に送られたが、妻マルガレーテ(Margarete)がユダヤ人でなかったため、建設労働を強制されるだけで済んだ。ヘスは、虐殺を免れ1983年9月に93歳で死去するまでドイツで暮らした。他方、1942年7月21日、ヘスの母エリザベスと妹ベルタ(Berta)は、チェコのテレジン強制収容所に送られ、その後、ベルタはアウシュビッツ強制収容所に再移送され、殺害された。母エリザベスは、1945年2月5日、テレジン収容所から解放され、列車でスイスに送られた。これは、親衛隊国家長官ヒムラーが、米英連合軍と和平交渉に入ろうとしたためだった。

 ヘスの娘ウルズラ(Ursula Hess;86歳)によると、ヘスはヒトラーについて、部隊に友人はなく、誰とも言葉を交わさなかったと振り返り、「全く取るに足らない男だった」と話していたという。ヒトラーは母親の治療に当たったユダヤ人医師エドゥアルト・ブロッホ氏を「高貴なユダヤ人」と呼んで保護した。 

写真(右)1939年9月,ポーランドを空襲したハインケルHe-111爆撃機:1935年4月初飛行のHe-111だが,ポーランド戦の時には,60-90機程度しか配備されておらず,ドイツ空軍の主力爆撃機は,ドルニエDo-17だった。
しかし,1年後の西方フランス侵攻では,ハインケルHe-111爆撃機が主力となった。
ハインケルHe-111爆撃機諸元:全長16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル,全備重量 1.4トン,Jumo211F液冷エンジン(1200馬力)2基,最大速度 440キロ,航続距離 2800キロ,武装 7.92ミリMG15機関銃5丁 爆弾2トン。
Heinkel He 111の生産数は1939 1940 1941 1942 1943 1944の各年で、452機、 756機、 950機、 1.337機 1.405機 756機。合計5.656 機生産された。
Ostpreußen, Polenfeldzug.- Bomber Heinkel He 111 (Kennung V4+AU) des Kampfgeschwader 1 (KG 1) im Flug; Lw 1 Polen Dating: September 1939 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


読売新聞2017年08月30日 01時14分「ヒトラー、動機正しくてもダメ」麻生氏が発言
 麻生副総理兼財務相は29日、横浜市内で開いた自らが会長を務める自民党麻生派の研修会で講演し、「(政治家は)結果が大事だ。何百万人殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんですよ」と述べた。同派所属議員らに政治家としての心構えを説く中で、例として言及したが、ユダヤ人を大虐殺したドイツのナチス政権の独裁者・ヒトラーを部分的に擁護したとも受け取れる発言だ。「結果を残して初めて名政治家だったと言われる」とも語った。
◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられる。
◆2011年7月下旬刊行『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、日本初公開のものも含め150点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
そこでは、反ユダヤ主義、ホロコースト、突撃隊、親衛隊、対ソ連戦争、ヒトラー自決も解説しました。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
◆2009年9月8日(火)20時,12日(土)13時,15日(火)14時,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。

1.ヒトラー総統の殲滅戦争

(1)ヒトラー総統の第一の「偉業」(罪悪)は,既存の政党,労働組合,企業団体,青少年団体,キリスト教団体を,ナチスの思想に即して抑圧,解散,再編成し,指導者原理に則って挙国一致の「ナチ化」を達成したことである。

1933年5月,ナチス政権は労働組合の幹部を逮捕,組合本部を占拠して,労働組合を解散に追い込んだ。そして,軍事訓練,人種民族教育の復興を目指してヒトラーユーゲントを拡張した。個人の人格形成,夢の実現など個人主義は廃され,集団の規律・服従が最優先された。

ヒトラーは,「英雄からは無能の子供しか生まれない,権力者の子供は甘やかされだめになる」と建築家シュペール,秘書トラウデル・ユンゲ,愛人エヴァ・ブラウンなど側近に忌憚なく語っている。

ヒトラーは,1945年4月,自殺する直前に結婚した。相手は,15年も共に暮らしたエヴァ・ブラウンだった。彼女はヒトラーとともに死ぬ覚悟だった。彼女がいたおかげで,ヒトラーは自殺できたのかもしれない。

写真(右)1938-1939年,模型飛行機の滑空を競い合うヒトラーユーゲント:空軍,航空工学への関心を高めるために,ヒトラーユーゲントでは,模型飛行機作りも行われたようだ。飛行機搭乗員になるために,グランダーによる滑空飛行訓練も行われていた。戦局が悪化した時期には,ヒトラーユーゲントの少年たちの義務である軍事訓練,勤労奉仕が増加した。そこで,このような人気取りの楽しい「お遊び」は姿を消していった。
Archive title: Hitlerjugend, Deutsches Jungvolk (Pimpfe). Jungen mit selbstgebauten Segelflugzeugmodellen bei einem Wettbewerb. Dating: 1938/1939 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

1932年,ヒトラーユーゲントHitler Jugend団員数は5万5000名だったが,1933年にナチス政権が成立すると56万8000名に増加。その後,キリスト教団体,社会民主党・共産党主導のドイツ少年少女団体を解散させた。

1936年,ヒトラーユーゲント法The Hitler Youth Lawが成立し,全ドイツ青年がヒトラーユーゲント加盟が義務付けられた。こうして,ヒトラーユーゲントの団員数は強制加盟によって,543万7000名に急増した。

写真(右)1943-1945年,連合軍による空襲の後片付け作業をさせられるヒトラーユーゲント:戦争が始まると,ヒトラーユーゲントの少年たちの義務である軍事訓練,勤労奉仕が強化された。
Archive title: Hitlerjugend / Pimpfe bei Aufräumungsarbeiten nach Bombenangriff vor der Ruine / Fassade eines zerstörten Gebäudes Dating: 1943/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

(2)ヒトラー総統の第二の「偉業」(罪悪)は,大規模な公共事業を起こし,再軍備を宣言して,壮大なモニュメントと強力な軍隊を保有したことである。

ヒトラーは,巨大で威圧的なナチス様式の官庁街を整備し,建設総監にフリッツ・トートFritz Todt 博士(1981-1942)に命じて,勤労奉仕(Reichsarbeitsdienst)によって, 高速道路アウトバーンAutobahnを,1938年までに2000キロも建設した。そして,再軍備を宣言し,電撃戦の準備をはじめた。無償奉仕が敵性人種民族に向けられれば,それは奴隷労働となる。1944年の総統大本営爆破ヒトラー暗殺未遂事件で真っ先に疑われたのが、トートの作った勤労集団「トート機関」の労働者だった。

また,現代の不安感や混沌を表現する芸術を,「退廃芸術Entartete Kunst」として否定し,力強く写実的なロマン古典様式を復活しようとした。

ナチスは,個人の思想の自由表現の自由を否定し,画一的な思想統制を行った。思想・芸術の統制は、「一つの民族 一つの帝国,一人の総統」という挙国一致の行き着くところである。

写真(右)1943年8月25日,防空消火作業を命じられたヒトラーユーゲント:空襲時に消火要請があってから10分以内に現場に駆けつけ,消火作業を開始することができる,との宣伝がなされた。
Original title: Prop.-Kp. Eins. mot., Bildberichter Genzler Ort: Düsseldorf Datum: 25.8.43 10 Minuten nach dem Terrorangriff. Einsatz des HJ-Schnellkommandos. Schon mehrere Stunden ununterbrochen sind diese Jungens mit den Löscharbeiten beschäftigt. So manches Haus konnte von ihnen den Flammen entrissen werden. Dating: 25. August 1943 Photographer: Genzler撮影。 Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

(3)ヒトラー総統の第三の「偉業」(罪悪)は,ドイツ人・民族ドイツ人(ドイツ系住民Volksdeutsche)の住む地域を拡張して,神聖ローマ帝国(→ハプスブルク朝)・ホーエンツォレルン朝を凌駕する「グロス・ドイッチュラント」として国家社会主義ドイツ第三帝国を復興し,独裁国家を作ったことである。

1938年3月11日,ヒトラー総統はクルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897-1977)に,最後通牒を発し、翌12日0800,オーストリアへ武力進駐した。
シュシニク首相は亡命、新首相ザイス=インクワルトは、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出した。

1938年3月13日のオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,ムッソリーニの理解を得て,実施した。そして,1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣をニュルンベルクに運んだ。ハプスブルク皇帝標章(四種の神器:王冠・宝珠・王笏・王剣)を継承し,第三帝国を復活させた。

◆Das Dritte Reich「第三帝国」とは,皇帝世襲の帝国ではない。歴史的使命感を妄信するヒトラー総統は,共和国ではなく,神聖ローマ帝国(ハプスブルク王朝),ホーエンツォレルン朝を引き継ぐ帝国にこだわった。これが,フォルクス・ドイッチェVolksdeutsche(民族ドイツ人)を包含する大ドイツ「第三“帝国”」である。

◆ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地ニュルンベルクに永遠に留まると誓約した。「今後千年間、ドイツは二度と革命を経験することはない」と大演説をした上で,「ドイツの栄光を回復するまで,軍服を脱がない」とした。これは戦争を初め,その勝利の時まで総統の地位にとどまることを意味した。

写真(右):1939年9月,ベルリンで開催されたドイツ帝国議会、ヘルマン・ゲーリング国会議長の下で、ポーランドに宣戦を布告するアドルフ・ヒトラー総統:第二次大戦は,9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻,9月3日の英仏によるドイツへの宣戦布告で始まった。
ドイツでは,1933年1月30日,第一党の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)総統(党首)ヒトラーを主要とする内閣が成立した。しかし,2月末,ドイツ国会議事堂放火事件が発生したために,大統領緊急令によって,礼状なしに共産党幹部を逮捕し,国会議員を威嚇しながら,3月に「民族・国家危機排除法」(全権委任法)を成立させた。全権委任法によって,行政府が立法権を議会から授権された。ナチ党政権の権力濫用を戒める対抗勢力は解散させられたために,ナチ党一党独裁の道が開かれた。国会議事堂は,ヒトラー総統の華麗な演台に成り下がった。
ナチ党は,1920年に卍(ハーケンクロイツ,スワスチカ,カギ十字)を党章としたが,ナチ一党独裁になってからは,党旗をドイツの国旗とした。ハーケンクロイツは,新生ドイツ第三帝国の象徴となった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E10402 Original title: info Die historische Reichstagssitzung am 1. September 1939 Der Führer spricht. 1.9.39 Fot. Wag Archive title: Berlin, Kroll-Oper.- Rede von Adolf Hitler vor dem Reichstag zum Überfall auf Polen Dating: 1. September 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-E10402引用(他引用不許可)。

チェコスロバキアに対しては,民族ドイツ人300万名が居住していたズデーテンラントSudetenlandを,ドイツ領に割譲することを主張した。

1938年9月のミュンヘン会談では、英仏伊三国は,チェコスロバキアの頭越しに,ヒトラーの領土要求を認めた。英仏は,世界大戦を回避したかった。

1938年10月1日 チェコスロバキアのズデーテンラントSudetenland をドイツが併合した。これは,ミュンヘン会談で、イギリス、フランスがチェコスロバキアを軍事支援しないどころか、チェコスロバキアにドイツによる一部領土併合を認めるように圧力をかけた結果だった。ヒトラーは、これが最後の領土要求であるとしたが、実は半年もしないうちにそれを破ることになる。

チェコスロバキアの残された領土は,ドイツ軍の武力進駐にさらされた。そこで、1939年3月14日,ドイツの策謀によって、スロバキアが独立することになり、チェコ(ボヘミア・モラビアBohemia and Moravia)はドイツのベーメン・メーレン保護領Protectorate of Bohemia and Moraviaに組み入れられた。こうして、チェコスロバキアは、ミュンヘン協定から半年もたたないうちに、解体されてしまった。

写真(右):1941年3月3日,ベルリン,ドイツ帝国議会,バルカン半島侵攻作戦で勝利後、ヒトラー総統の演説:ナチ党は,1920年に卍(ハーケンクロイツ,スワスチカ,カギ十字)を党章としたが,ナチ一党独裁になってからは,党旗をドイツの国旗とした。ハーケンクロイツは,ナチスのシンボルとして広まった。
Des Führers große Rede nach dem siegreichen Balkanfeldzug Der Führer und oberste Befehlshaber der Wehrmacht sprach am Sonntag abend vor den Männern des Deutschen Reichstages [in Berlin]. Nach seinen Erklärungen über die einzigartige siegreiche Durchführung der Operationen auf dem Balkan gab der Führer die Enschlossenheit und Siegeszuversicht des deutschen Volkes Ausdruck. Unser Bild zeigt eine Übersicht während der Rede des Führers. Scherl-Bilderdienst 4.5.41 [Herausgabedatum] Dating: 3. Mai 1941 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-B02607引用(他引用不許可)。

(4)ヒトラー総統の第四の「偉業」(罪悪)は,1933年のナチ党政権獲得直後に強制収容所を設置,ナチス反対派を収監,拘禁し,ユダヤ人はアーリア人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくるとして,排除したことである。

1933年1月,ヒトラー内閣の下,それまではヒトラーのボディーガード(私兵)隊長に過ぎなかった親衛隊ヒムラー長官が,ミュンヘン警視総監に就任,ミュンヘン近郊ダッハウに,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所「保護拘禁施設」を設置した。

1933年にプロイセン州内務大臣ヘルマン・ゲーリングは,反ナチス敵性分子を摘発するために,プロイセン州の政治警察を秘密警察(ゲスタポGestapo)とし,人事面で,突撃隊,親衛隊を幹部に任命した。1934年4月20日,ゲシュタポGestapoの権限は,親衛隊に移管,ハイドリヒReinhard Heydrichが秘密警察局長になった。

ユダヤ人は狡賢い,貪欲な資本家だ,共産主義者ボルシェビキで暴力革命を起こそうとしている,という反ユダヤの人種民族的偏見,すなわちアンチ・セミティズムAnti-Semitismも,プロパガンダで広められた。

大戦勃発前,1933年以降の強制収容所における囚人の取り扱い,拷問,懲罰の経験が,大戦中のユダヤ人やソ連軍捕虜を管理するモデルになった。人種民族差別・迫害は,ナチス政権掌握と同時に芽生えはじめた。このとき,ドイツ国防軍に人種民族差別反対を訴える声は上がらなかった。

ナチスによるユダヤ人虐殺の背景には,
?下等劣等人種によるアーリア人の人種汚染(遺伝子汚染)という人種民族差別,
?財産簒奪など経済的欲望,
?反ドイツの敵性住民に対する予防戦争,
?ユダヤ人世界支配を目指す共産主義革命・煽動政治への反発,
の四点が指摘できる。

写真(右)1940年夏,フランス,ドルニエDo-17爆撃機:第76爆撃航空団(KG76)所属のDornier Do 17が飛行中。機首に乗員が集中して搭乗したので,相互の連絡がとりやすかった。機首と操縦席から7.92ミリMG17機銃が装備されている。
ドイツ空軍ドルニエDornier Do 17 Z爆撃機の諸元
初飛行 1934年11月
全長 16.3メートル,全幅 18メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量7650キロ,エンジン:BMW ブラモ323 空冷星型 9気筒1000馬力2基
最大時速 420キロ,航続距離 1160キロ
兵装 7.92ミリMG15機関銃5丁,爆弾1トン。
乗員4人(操縦手,爆撃手,航法・偵察員兼機銃射手2名)
Frankreich.- Bomber Dornier Do 17 des KG 76 im Flug; Lw.Polen und KBK Lw.3 Datierung: 1940 Sommer Fotograf: Spieth Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_101I-341-0489-10A引用(他引用不許可)。


ナチスの時代,第二次大戦前であっても、ユダヤ人に対する温情を示すことは,反政府活動となり,強制収容所への収監などの処罰を受けた。ユダヤ人に対する偏見が差別を引き起こしたが,偏見・差別を改めようとしたり,批判したりすれば,自らが困難な状況に陥る。言論の自由はもはやなかった。

写真(右)1934年、ヒトラー総統と個人秘書から権力を掌握したマルチン・ボルマン Martin Bormann (1900年6月17日 - 1945年5月2日?):1933年7月4日に副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書となり、1941年にヘスが和平交渉をしようとイギリスに単独飛行で飛び失脚した後、ナチ党官房長官に就任。ナチ党の総務担当者となった。ヒトラーの言葉をメモをとり、それを実行に移すことで、ヒトラーの信頼を得た。そして、ヒトラーとの面会を取り付けようとする人物の選択を任されたことで、ボルマンはヒトラーの代弁者あるいは仲介者として権力を握るようになる。ヒトラーがドイツ軍最高司令官としての多忙な軍務に当たったため、ナチ党による一党支配の政治は党官房長官のボルマンが事実上統括するようになった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-R14128A Original title: info Zentralbild Reichsleiter der NSDAP Martin Bormann, Leiter der Dienststelle des Stellvertreters Hitlers. Aufnahme 1934. 3799-34 Archive title: Porträt Martin Bormann Dating: 1934 Photographer: o.Ang. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-R14128A2C_Martin_Bormann引用(他引用不許可)


ナチ党官房長官のマルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これが卓上談話(Hitler's Table Talk)である。 
ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月21日ヒトラー卓上談話:「----行動を旨とする者は信義に支えられなければならない。そして民衆の中にこそ信義がある。民衆には情けはない,無垢な純真さで突き進むだけだ。指導者があれば民衆にどれほどのことができるかは明白だ。良くも悪くも全ての可能性はここにある。国家社会主義ナチスの責務は,ここに帰す。」
◆第三帝国は,独善的な正義を振りかざした仮想民衆を基盤とりた国家社会主義ナチス帝国である。

9月23日:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----トラを人を殺そうと,トラが人を食べようと,地球は回り続ける。強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。----しかし,国家社会主義が礼拝の形をとって宗教の真似事をする決してない。----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」

10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」
◆ヒトラーは,古い神聖ローマ帝国,ハプスブルク家,ホーエンツォレルン家を貴族主義の時代遅れと認識し,それに換わるナチス独裁帝国を建国しようした。弱肉強食の掟・生存競争を奉じ,弱いものを虐げ,領土を拡張して支配民族になろうとした。


11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。

1941年12月25日:「1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。-----われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。----ボルシェビキ支配が今後二百年も続けば,われわれの作品がどのくらい子孫に残せるだろうか。-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。


写真(右)1942年6月,エルヴィン・ロンメル将軍をドイツ国防軍最年少の元帥に昇進させたヒトラー総統:ヒトラーの後方に,ヴィリヘルム・カイテル国防軍総司令部総長が見える。
Adolf Hitler empfängt den Generalfeldmarschall Rommel und übereicht ihm den Marschallstab und die Urkunde. 5485-42 Dating: Juni 1942 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-R80531引用(他引用不許可)。

1942年1月23日:「ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。-----ユダヤ人は,何事にも障害となっている。-----だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。ユダヤ人をロシア人捕虜とは違った扱いにする必要などない。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」

◆人種民族差別,独ソの過酷な殲滅戦、占領地における治安悪化が結びつき,日米開戦を契機として,ヒトラーは,本格的なヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅戦争を強行した。ヒトラーは,ドイツに戦争を仕掛けてきた敵に責任を取らせるつもりで,ユダヤ人・ボリシェビキ絶滅のための最終戦争を戦った。



2.部下たちの裏切り

写真(右)1941年3月9日,ヒトラー総統とヴィルヘルム・カイテル元帥:対フランス戦争大勝利で,ヒトラーは多数の償還を昇進させる大盤振る舞いをした。これは,ドイツ国防軍の将軍たちを「飼いならす」ためだった。ズテーテンランドを巡る紛争で,参謀総長ハルダー,陸軍総司令官ベックなど国防軍の将官たちは,対英仏世界大戦に怯えた。ヒトラーを排除するクーデターも計画された。しかし,英仏の宥和政策でクーデターは発動されなかった。その後の第二次大戦で,ドイツが勝ち続けると,反ヒトラーの勢力は霧散してしまった。
Original title: Zentralbild Generalfeldmarschall und Chef des Oberkommandos der Wehrmacht Wilhelm Keitel geb: 22.9.1882 in Helmscherode gest: hingerichtet am 16.10.1946 in Nürnberg UBz: Adolf Hitler gratuliert Wilhelm Keitel zu dessen 40-jährigem Militärdienstjubiläum am 9. März 1941 Dating: 9. März 1941
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-J1117-500-002引用(他引用不許可)。


1945年4月になると,ソ連赤軍は,ベルリン攻略を目的とした攻勢をかけたが,ドイツではヒトラー誕生日の4月20日を祝うために,将軍,政府高官が,ベルリンにある総統官邸にやってきた。戦局の悪化は,明らかだったが,最後の瞬間まで徹底抗戦し,勝機をつかむというのがヒトラーの戦略だった。

ヒトラーは,東西対立,すなわちソ連と米英仏の西側連合国とが,イデオロギーの対立,戦後の欧州大陸支配を巡る対立を深め,武力衝突にいたる可能性を慎重に検討していた。18世紀の七年戦争の際に,プロシアのフリードリヒ大王は,ロシア,オーストリア(新生ローマ帝国),スウェーデンと戦って苦戦していた。しかし,1762年1月,ロシアのエリザヴェータ女帝が急死し,後継者ピョートル3世は,啓蒙専制君主フリードリヒ大王を信奉していたために,プロイセンと停戦した。この「僥倖」が契機となって,1763年2月,フリードリヒ大王は七年戦争に勝利し,シレジエンを獲得した。

ヒトラーは,七年戦争のフリードリヒ大王を,自らに置き換えて,最後の瞬間まで交戦意志を抱き続けるものが,第二次大戦を制することができると信じ込んでいた。ドイツが徹底抗戦を続ければ,明日にも米英とソ連の対立が顕在化するかもしれない。その東西対立のときに,ナチス・ドイツがキャスティングボートを握り,単独講和によって,米英・ソ連のどちらかに組することができると妄想していたのである。イギリス首相チャーチルが反ソ連の言動をしていたことも、ヒトラーには東西分裂が差し迫っていることを明かしているように思われた。しかし、実際には,東西両陣営を含めた全交戦国は,枢軸国との単独講和はには一切応ずるつもりはなく,無条件降伏を求めることに合意していた。

ヒトラー誕生日の1945年4月20日,ドイツ政府は,ベルリンを撤退することが決まると,ナチ党要人たちも,死ぬ危険が高いベルリンから逃げ出した。空軍大臣ゲーリング国家元帥ら主要な幹部も立ち去っていった。しかし,ヒトラーは,側近からベルリン退去を勧められたものの,拒否し,最後までベルリンを死守するとした。一国の元首が首都を逃避したとあっては,弱肉強食の摂理に反してしまうこと,幸運の運命をてにいれるためには,命を賭ける必要があることを,ヒトラーは信じるしかなかったのである。

写真(右)1941年4月21日,アドルフ・ヒトラー総統と会談する空軍ヘルマン・ゲーリング元帥:1940年の英国本土航空決戦で,痛手を被ったドイツ空軍だったが,今度は,ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」のために,東部戦線に兵力を集中させて時期だった。
ゲーリングは,1942年冬のスターリングラード空輸を請合って失敗し,1943年からのドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。ゲーリングの成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。緒戦でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説を根拠に,自らを後継者として自認していたとすれば,状況は大きく変わっていた。
Bauer撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

ソ連軍によるベルリン攻撃によって,ベルリンに包囲されたヒトラー総統と,ドイツ政府高官,軍将官との連絡が途絶える危険があった。そこで,4月23日、ベルリンを脱出していたゲーリング国家元帥は,ベルリンの首相官邸地下壕にいるヒトラーに向けて,総統演説に基づき,万が一の場合の全権委譲を確認する電報を打った。

実際,1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻のときに,ヒトラーは次のように国会で演説していた。
「----私は今後ドイツも第一線の兵士たること以外,何も望まない。もし私が倒れれば,ヘルマン・ゲーリングが私に続く。同志ゲーリングに何かあればルドルフ・ヘスがこれに続く。-------私は,降伏という言葉を知らないし,ドイツの鉄の意思が最後の勝利を獲得するのみである。」

ヒトラーの死亡を決め付けるようなゲーリングからの電報を見た官房長官マルチン・ボルマンは,ゲーリングがヒトラーの地位を奪おうとしていると,ヒトラーに焚きつけた。ボルマンは,ナチス政権で権力掌握に執念を燃やしてきたから,ゲーリングを追い落とす絶好の機会を逃さなかったのである。ヒトラーは,ゲーリングの恥知らずな意図に激怒,ゲーリングからすべての権限を剥奪し,逮捕することを命じた。

写真(右)1944年夏,フランス,西部戦線で連合軍空襲部隊を迎撃したドイツ空軍メッサーシュミットBf-109G戦闘機:機体は,敵機に発見されないようにカモフラージュした場所に隠匿されていた。最高速度630-680キロの快速戦闘機だったが,30ミリ機関砲1門,13.1ミリ機銃2丁の兵装は,爆撃機を迎撃するには貧弱だった。連合軍の護衛戦闘機に対抗するには,性能はともかく,数が足りなかった上に,パイロットも未熟練で戦力は劣っていた。
Frankreich.- Flugzeug Messerschmitt Me 109 auf Feldflugplatz; Lw Kdo West Dating: 1944 Sommer Photographer: Engelmann 撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ本土は,1943年前半から,昼間は米陸軍航空隊B-17「フライング・フォートレス」,B-24「リベレーター」重爆撃機に,夜間は英空軍「ランカスター」「ハリファックス」重爆撃機による戦略爆撃に晒された。ドイツ本土空襲によって,ドイツの産業,交通,市民生活は,次第に困難な状況に陥った。

ドイツ空軍戦闘機部隊は,1943年前半までは,連合軍爆撃部隊を迎撃し,大きな戦果をあげていた。しかし,1944年後半には,熟練搭乗員と燃料の不足,数的劣勢,性能の相対的低下のために,連合軍の爆撃機部隊に,有効な反撃を加えることができなくなっていた。

制空権が失われた以上,連合軍による欧州侵攻を防衛することは,ドイツ軍にとって不可能なことになった。実際,1944年6月に,米英加を中心とする連合軍がノルマンディーに上陸すると,ドイツ軍はカーンで包囲され,大損害を被った。ドイツ陸軍地上部隊だけで,連合軍に反撃を加えることは,困難だった。

写真(右)1944年,フランス,西部戦線で連合軍機を迎撃し地上部隊を襲撃したドイツ空軍フォッケウルフFw-190A-5/U長距離戦闘爆撃機:機体は,敵機に発見されないようにカモフラージュした場所に隠匿されていた。最高速度650キロ,20ミリ機銃4丁,13.1ミリ機銃2丁の重武装で,1943年までは,連合軍爆撃機に大きな被害を与えることができた。しかし,連合軍の護衛戦闘機の数的・質的優勢のために,1944年には欧州の制空権を奪われていた。ノルマンディーに上陸した連合軍地上部隊に対しては,250-500キロ爆弾を搭載して,地上襲撃にも使用された。
Frankreich.- Tarnung eines Flugzeugs Focke-Wulf Fw 190 am Waldrand; PK Lfl 3 Dating: 1944 Photographer: Engelmann撮影。
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写真(右)1944年,フランス,西部戦線で英夜間爆撃機を迎撃したドイツ空軍メッサーシュミットBf-110G双発戦闘機:機首には,夜間に敵機を発見できるようにレーダー・アンテナを装備している。最高速度550-570キロの低速で鈍重な戦闘機だったが,30ミリ機関砲2門,20ミリ機銃4丁の兵装は,爆撃機を迎撃するには十分だった。しかし,連合軍の軽快な護衛戦闘機に対抗することはできなかったので,主に夜間戦闘に投入された。ドイツのレーダー性能は,1943年までは,連合軍とほぼ互角だったが,マイクロ波レーダーを実用化できなかったために,1944年には,レーダー開発競争に大幅な遅れをとった。
Frankreich.- Nachtjagdflugzeuge Messerschmitt Me 110 (Nachtjagdgeschwader 4 (NJG 4)?) mit Funkmeßgerät auf Feldflugplatz; Lfl 3 Dating: 1944 Photographer: Güntzel撮影。
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親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler)は,スウェーデン経由で西側連合国と和平交渉をしていたが,これはドイツ敗北前に,自らが主導した和平を結び,戦後もドイツの実力者として延命しようとした姑息な手段だった。ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler)は,ユダヤ人絶滅を1944年10月の末には,中止させていた。これは,和平後の戦争責任追及を恐れたことと,ユダヤ人を人質として,和平交渉を有利に運ぼうとしたためである。

写真(右)1943年,元インド国民会議議長チェンドラ・ボース(右から2人目)と会談するハインリヒ・ヒムラー親衛隊国家長官(右手前):ナチス親衛隊は,アーリア人至上主義を唱え,ユダヤ人,スラブ人,アジア人など下等劣等人種民族を差別・迫害した。しかし,インド人に対しては,インド人による反英暴動を扇動するプロパガンダのためにも,インド兵士捕虜をナチス武装親衛隊に組み込んで,戦力化した。
Bauer撮影。
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ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Luitpold Himmler)SS国家長官は,1945年に入ると,ヒトラーに無断で,米英と和平交渉をしていた。ヒムラーは,勝手にヒトラーの後継者を自認し,スウェーデン赤十字社総裁ベルナドッテ伯爵を経由して,米英連合軍と和平交渉に入ろうと画策していたのである。

ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler)による降伏の申し出は,1945年4月28-29日,西側のラジオ放送で暴露された。ヒムラーが,ソ連にも同様の和平交渉を持ちかけているとすれば,和平交渉の席に就くこと自体が,東西対立のきっかけになってしまう。これを危惧した米英連合軍は,ヒムラーの密かな和平申し込みを暴露し,ソ連を安心させ,それと同時に,ナチス・ドイツがもはや,ヒトラー総統の意のままにならなくなったことを示したのである。

ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler)の和平交渉申し出は,事実上,米英に対する降伏であった。ヒトラーは,徹底抗戦の結果,米英あるいはソ連から和平の申し込みを待望し,これを最後の望みとしていた。ヒムラーのしでかした和平交渉申し入れは,ヒトラーの戦略を台無しにした。

ベルリンでハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler)の裏切りによる降伏申し出を知ったヒトラー総統は,ヒムラーの全権限を剥奪,逮捕することを命じた。ヒムラーは,親衛隊,国民突撃隊の公式的な指揮官ではなくなったが,シンパの親衛隊を恐れた高官,軍人は,ヒムラーを逮捕しなかった。


3.ヒトラー総統の最期

写真(右)1945年3月,ベルリン,国防軍総司令部,ヒトラー総統と部下の将軍たち:第六航空軍司令官リッター・フォン・グライムRitter von Greim大将,飛行師団司令官フランツ・ロッシュFranz Reuss空軍少将,第二対空砲軍司令官ホブ・オデブレヒト Job Odebrecht将軍,第九軍司令官テオドール・ブッセTheodor Busse大将。
空軍大臣ヘルマン・ゲーリング国家元帥は,ヒトラーの死後,後継者となること確認する電報をヒトラーに打電し,ヒトラーの逆鱗に触れた。激怒したヒトラーは,ゲーリングに与えた権限を全て剝奪,グライムを空軍総司令官に任命した。グライムは,女流飛行家ハンナ・ライチュの操縦で,フィーゼラーFi156連絡機「シュトルヒ」でソ連軍に包囲されたベルリンのヒトラーの元に飛来,感激したヒトラーは,グライムをゲーリングの後任にするとともに,元帥に叙した。彼が第三帝国最後の元帥となった。
Im Hauptquartier der Heeresgruppe Weichsel Personen hinter Hitler von links: General Berlin; General der Artillerie im OKW General Ritter v. Greim; Kommandeur d. Luftflotte 6 Gneral-Major Reuß, Franz; Kommandeur einer Flieger-Div. General Odebrecht, Job , Kommandierender Gen.d. II.Flak-Korps (mot) General-Oberst Busse, Theodor; Kommandeut 9. Armee Archive title: Beim 101. AK.- Schloß Harnekop, 3.3.1945? Dating: März 1945
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1971-033-33引用(他引用不許可)。


ベルリンの地下壕にあって,ヒトラーは,個人的遺書と政治的遺書の二通を,秘書のトラウデル・ユンゲに口述筆記させた。そしてエヴァ・ブラウンEva Anna Paula Braun:1912?1945)と結婚式を挙げた。ヒトラーは,1929年10月、写真家ホフマンの引き合わせで、17歳のエヴァ・ブラウンEva Braun)とと出会ったが、23歳という年齢差もあって、ヒトラーにとって扱いやすい少女だった。ナチ党指導者のヒトラーに接近することは、エバにとって名誉なことだったが、ヒトラーは、禁欲的で強固な意志を持つ国家指導者を演出するために、エヴァ・ブラウンEva Braun)の存在を最後まで秘密にした。

エヴァ・ブラウンEva Braun)は、ヒトラーの妹パウラを追い出し、オーバーザルツベルクの山荘ベルクホーフの管理者となったが、政治には介入せず、ヒトラーの愛人としての地位に甘んじていた。1944年6月、妹グレーテルが親衛隊ヘルマン・フェーゲライン(Hans Georg Hermann Fegelein:ハインリヒ・ヒムラーの副官)と結婚してからも、ヒトラーはエバと結婚するつもりは毛頭なかった。

しかし、戦局が悪化し、ベルリン攻防戦が始まった1945年4月、エヴァ・ブラウンEva Braun)は避難していたミュンヘンからヒトラーのいるベルリンの総統地下壕へやってきた。ヒトラーは、部下や将軍たちに裏切り続けられていたため、エバの勇気を称え、自殺の前日の4月29日,結婚したのである。そして、地下壕の一室で,愛犬ブロンディをヒムラーから手渡された劇薬で試験的に処置した。

1945年4月30日午後3時30分,ヒトラーは、劇薬を飲んですぐに口に拳銃を加え頭を打って自殺した。新妻、エヴァ・ヒトラーも同じ部屋で劇薬で自殺した。

ヒトラーの遺言によって、後任は大統領兼国防軍最高司令官職としてカール・デーニッツ海軍元帥を,首相をヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相に任じた。首相と大統領を兼ねる総統の地位は、ヒトラー一代で消滅した。

総統の25歳の秘書トラウデル・ユンゲTraudl Junge(1920/3/16-2002/2/10)は,速記用紙に,ヒトラーの言葉を書き取った。「余の政治的遺言」この最初の言葉を聞いたとき,ユンゲの手が一瞬震えた.

彼女は,罪状認知,弁明が始まるものと,真実の告白の前に緊張した。しかし,期待はかなえられなかった。総統が述べたことは,すでにドイツ国民が,世界が何度も聞かされたことだった。

1945年4月29日 ヒトラー総統の政治的遺書Adolf Hitler's Final Political Testament)の末尾に「最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。」と書いた。

写真(右)1941年3月,ヒトラー総統と友人の建築家アルベルト・シュペール:ヒトラー信奉者でもあるアルベルト・シュペールは,建築家として,ニュルンベルクのナチ党建造物,ベルリンやヒトラーの故郷リンツの再開発などの大計画を立案した。そして,軍需大臣トート博士が飛行機事故でなくなると,ヒトラーから軍需大臣に任命された。このとき37歳だった。シュペールも,1945年4月,ソ連軍包囲下にあるベルリンの総統地下壕にヒトラーに面会にやってきた。『回想録』によれば,ヒトラーから,ドイツ軍の撤退したドイツの建造物破壊命令をうけたいたが,この焦土作戦を実施しなかったことを伝えた。しかし,意気消沈していたヒトラーは,それを黙認したという。
Der Führer und Reichsminister Speer bei einer Besprechung im Führerhauptquartier. 23.3.1942 [Herausgabedatum], Presse Hoffmann Freigegeben Adjutantur des Führers Archive title: Adolf Hitler und Albert Speer (mit Aktentasche, Hakenkreuz-Binde und Armstreifen "Organisation Todt") bei Spaziergang im verschneiten Wald Dating: März 1942 Photographer: Hoffmann, Heinrich撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

◆ナチ党首・首相・大統領・国防軍総司令官をすべて兼ねる「総統」はアドルフ・ヒトラーのみで終わった。「総統」後継者は,複数の首脳に分割された。海軍総司令官カール・デーニッツ提督が大統領・国防軍総司令官に任命され,ヨーゼフ・ゲッペルスが首相に,総統の個人秘書で官房長官だったマルチン・ボルマンMartin Bormannがナチ党首に任命された。

総統は,口述が終わった後,ユンゲが清書,タイプしている最中に,彼女の部屋に来て,アドルフ・ヒトラーのレターヘッド付き用紙の遺書がどこまでタイプできたのかを点検した。この最中,ゲッペルス宣伝相も,ユンゲに総統と命を共にすることを話し,自分の遺書を総統の遺書に添えるようにと要求した。

ヒトラー総統は,何度もタイプが終わったかどうかを確かめに入ってきた。タイプし終わった遺書三部(同じもの)を,タイプライターからはぎとるようにして,会議室にもって行き,三部とも署名した。総統の遺書は,カイテル元帥あるいは新任の陸軍司令官シェルナー元帥,党本部,デーニッツ元帥(ヒトラー総統後継者)に急使が届けることになった。後継者の引きつくものは,廃墟と混乱の中で,ユダヤ人絶滅戦を戦うことだったが,これは黙殺された。

ヒトラー総統の政治的遺書Adolf Hitler's Final Political Testament

More than thirty years have now passed since I in 1914 made my modest contribution as a volunteer in the first world war that was forced upon the Reich.
In these three decades I have been actuated solely by love and loyalty to my people in all my thoughts, acts, and life. They gave me the strength to make the most difficult decisions which have ever confronted mortal man. I have spent my time, my working strength, and my health in these three decades.

わたしが1914年、帝国に仕掛けられた第一次世界大戦に、一人の志願兵として力をつくして以来、30年以上が過ぎ去った。この30年の間、わたしの一切の思考、行動、生活をわが民への愛と忠誠に従って,生きてきた。それら故に,わたしは、何人も比較できない最も困難な決断を下すことになった。わたしは、自らの時間、労力、健康を,この30年間費やしてきた。

It is untrue that I or anyone else in Germany wanted the war in 1939. It was desired and instigated exclusively by those international statesmen who were either of Jewish descent or worked for Jewish interests. I have made too many offers for the control and limitation of armaments, which posterity will not for all time be able to disregard for the responsibility for the outbreak of this war to be laid on me. I have further never wished that after the first fatal world war a second against England, or even against America, should break out. Centuries will pass away, but out of the ruins of our towns and monuments the hatred against those finally responsible whom we have to thank for everything, international Jewry and its helpers, will grow.

わたしやドイツ人が,1939年に戦争を欲したというのは真実ではない。この戦争は,意図的に,ユダヤ人やユダヤ人の利益のために働く国際的政治家によって,引き起こされた。わたしは,軍備の制限と縮小をいくつも提案したが、この善意は,私に降りかかった戦争のために無為になってしまった。戦争勃発の責任をわたしに押し付けることもできないし,わたしは,第一次世界大戦後、イギリスやアメリカに対して,第二の戦争を欲したことは一度もなかった。数世紀たてば,町や記念物の廃墟の中から、われわれを貶めたユダヤ人とその支援者たちに対して,すなわち全ての最終責任を負っている連中に対して,憎悪が蒸し返されるであろう。

Three days before the outbreak of the German-Polish war I again proposed to the British ambassador in Berlin a solution to the German-Polish problem—similar to that in the case of the Saar district, under international control. This offer also cannot be denied. It was only rejected because the leading circles in English politics wanted the war, partly on account of the business hoped for and partly under influence of propaganda organized by international Jewry.

ドイツ・ポーランド戦争勃発のつい三日前、わたしはベルリン駐在英大使にドイツ・ポーランド関係の解決を提案した。ザール地方の場合と同様,国際的監視の下に置くおく提案である。この提案は否定することはできない。和平提案が拒否されたのは,イギリスの政治家の指導者が戦争を欲したのであり,国際的ユダヤ人によるプロパガンダによって影響を受けている国際ビジネス界が戦争を欲したからである。

I have also made it quite plain that, if the nations of Europe are again to be regarded as mere shares to be bought and sold by these international conspirators in money and finance, then that race, Jewry, which is the real criminal of this murderous struggle, will be saddled with the responsibility. I further left no one in doubt that this time not only would millions of children of Europe's Aryan peoples die of hunger, not only would millions of grown men suffer death, and not only hundreds of thousands of women and children be burnt and bombed to death in the towns, without the real criminal having to atone for this guilt, even if by more humane means.

わたしは,非常に明白に,次の点を示してきた。それは、ヨーロッパの諸国民が、国際金融財政の陰謀家によって売り渡される単なる株券のように扱われるなら、このような人種民族であるユダヤ人は,殺人犯であり、責任をとらせられるべきであるということだ。さらに,疑いもないことだが,今度こそ、数百万ヨーロッパ・アーリア人の子弟が餓死し,数百万の男が死を被り,都市で数千万の婦人と子供が焼かれ空襲で殺されるのであれば,そのことは,本当に犯罪者の連中が,より人間的な手段でよってではあっても,その罪を贖うことなしには,済まされない。

------ユダヤ人によって引き起こされ、扇動された連中を喜ばすため,見世物として,敵の手中に落ちるつもりはない。わたしはベルリンに留まり、総統・首相の座が,維持できないと判断した瞬間に、自由意志で死を選ぶ決心をした。-----偉大なクラウセヴィッツの教えに忠実に則って、祖国の敵との戦争を継続すること願うのは言うまでもない。---

Finally, let them be conscious of the fact that our task, that of continuing the building of a National Socialist State, represents the work of the coming centuries, which places every single person under an obligation always to serve the common interest and to subordinate his own advantage to this end. I demand of all Germans, all National Socialists, men, women, and all the men of the Armed Forces, that they be faithful and obedient unto death to the new government and its President.

最後に,ナチス国家の建国という継続すべき任務は、個人が常に共同利益に奉仕し、ただ一人の利益をあとまわしにすることであると自覚してほしい。全ドイツ人、全ナチ党員、男女、全国防軍の将兵にわたしは望みたいことは、新政権とその代表者たちに、死に至るまで忠実かつ従順なることである。 

Above all I charge the leaders of the nation and those under them to scrupulous observance of the laws of race and to merciless opposition to the universal poisoner of all peoples, international Jewry.

以上、最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。

         ベルリンにて 1945年4月29日 午前4時  ADOLF HITLER

◆ヒトラー総統の政治的遺書には,ドイツ人を抹殺しようと戦争を仕掛けてきたユダヤ人を殲滅すべきであるとの極端な人種民族差別が,示されている。ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1914年12月の対米宣戦布告の国会演説でも,ユダヤ人の共産主義者と資本家が,ソ連と米英政治家を操ってユダヤ人世界支配のための戦争をドイツに仕掛けているので,ユダヤ人を排除・絶滅するために,ユダヤ人殲滅戦争を戦うと公言している。ヒトラー総統は,1945年4月の政治的遺書でも,戦争に責任がある殺人者ユダヤ人に対する絶滅戦争を継続するように指示し,自決した。つまり,ナチスの暴政の根幹には,人種民族差別,迫害があり,差別撤廃,人権擁護を求める運動が,反ナチス抵抗運動であるということができる。

写真(右)1941年3月,ヒトラー総統から第二級鉄十字章を授与された女流飛行家ハンナ・ライチュHanna Reitsch :ヒトラー信奉者でもあるライチュは,1945年4月,空軍のグライム将軍をソ連軍包囲下にあるベルリンの総統地下壕に空輸した。中央は,特注の灰褐色の軍服を着た空軍大臣ヘルマン・ゲーリング国家元帥。
März 1941: Adolf Hitler verleiht Flugkapitän Hanna Reitsch das Eiserne Kreuz [2. Klasse] Mitte: Hermann Göring Dating: März 1941
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・B_145_Bild-F051625-0295引用(他引用不許可)。

1945年4月30日,ベルリン総統大本営の地下壕で,ヒトラーは従兵のオットー・ギュンシェOtto Günsche(1917-2003)に自分と妻はこれから自決すると伝えた。

前日,長年付き添ってきたエバ・ブラウンEva Braun(1912.2.61945.4.30)は,ヒトラーと結婚したのである。死んだ後で,ロシア人に見世物にされないように,死体は完全に焼却するように命じた。200リットルのガソリンを調達させた。ヒトラーは拳銃自殺,エバは服毒自殺した。従兵は,遺体を外に運び出し,総統官邸の窪地に並べた。そこに,ガソリンを流し,火をかけた。黒焦げの遺骸は,キャンバスに包まれ,砲撃の穴に投げ込まれ,瓦礫の中に埋められた。

写真(右)1938年,ゲッペルス一家とヒトラー:左右にマグダ・ゲッペルス夫人,ヨ−ゼフ・ゲッペルス啓蒙宣伝大臣,中央にヒトラー総統。手前は,マグダとゲッペルス啓蒙宣伝相の子供たち。このほか,マグダと前夫との間に男子があって,彼のみが戦後まで生き残った。
ゲッペルス首相は,ヒトラー自殺後,目前に迫ったソ連との和平交渉に期待した。若いときに社会主義者だったゲッペルスは,ソ連と単独講和することで,西側と継続して戦おうとしたのかもしれない。講和の申し出は,ソ連に即座に拒否され,ゲッペルスの幻想は,潰えた。彼は,歴史に名を残すために,降伏し逮捕されることを回避,家族を道連れにして自決した。
ヒムラーの娘,ボルマンの息子,シュペールの子供たちは,戦後に何の咎めも受けていない。ゲッペルスのかわいい子供たちも,生き残ることができたはずだ。
Der Führer wieder auf dem Obersalzberg Bei einem Besuch auf dem Kehlstein mit seinen Gästen, Reichsminister Dr. Goebbels und Frau mit ihren Kindern Helga, Hilde und Helmut. Archive title: Obersalzberg.- Joseph Goebbels und Magda Goebbels mit Kindern bei Adolf Hitler Dating: 1938 ca. Photographer: Hoffmann撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-1987-0724-502引用(他引用不許可)。 

ゲッペルス首相とボルマン党首は,ソ連軍との「講和」を決め,クレープス将軍を交渉に派遣したが,ソ連軍は,3年前からの公約通り,無条件降伏を要求した。1945年5月1日,ゲッペルス博士は,デーニッツ提督にヒトラー死亡を知らせた後,6名の子供たち(マグダと先夫の長男ハラルトは同席せず,戦後も生存)を毒殺させた。そして,ゲッペルス夫妻も自決した。

後に,ソ連軍は,ゲッペルス夫妻の形状をとどめた黒こげの遺体と白のワンピースを着た子供たちの遺体を発見した。ヒトラーと夫人エヴァの遺体は,ガソリンを大量に使って,ほぼ焼却されていたが,ゲッペルス本人の遺体は,本人と十分確認できた。夫人と子供たちは,死んだそのときのままだった。

また,総統大本営にいたドイツ人の証言によって,埋葬してあったヒトラーの遺骸を掘り起こし,ヒトラー本人と確認した。しかし,このことは機密にされ,西側の米英には決して明かされなかった。末期的状況で,ドイツ人たちは,ヒトラーやゲッペルスの遺体に関心を払わなくなっていた。


4.ヒトラー総統の恐れたものとは?

写真(右)1941年8月,東部戦線ソ連,ウクライナ,ブーク川に侵攻したドイツ軍将兵たち:バルバロッサ作戦に危惧を示した将官も多かったが,下級将校は,対ソ戦争が開始するとは思ってもいなかった。しかし,対ソ戦当初,大戦果を挙げると,ソ連軍を過小評価して,戦争の勝利が近いと確信してしまったようだ。
Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Brückenbau über den Bug, Beratung von Offizieren, 3.v.l. Oberstleutnant Hans von Ahlfen Dating: 9. August 1941 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild-F016203-19引用(他引用不許可)。


1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数百名が,夫の収監されたローゼン通りで静かに抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人への弾圧は,士気を乱す。親衛隊による武装排除はできなかった。1943年3月6日のゲッベルス宣伝省の日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。混血結婚したユダヤ人は釈放された。

ヒトラー総統は「背後からの匕首の一突き」を信じていたから,ドイツの世論が反ナチス,ユダヤ人迫害反対に変化する兆候に敏感になっていた。1942年に,知的障害者安楽死(T4)を中断したのも,子供を殺された両親の発言を恐れたからである。ドイツ一般市民が従順である,世論が反対しないと確信できた場合にのみ,大量殺戮のような非人間的な犯罪を実行することができた。

1945年5月12日,米軍によって解放されたマウトハウゼン強制収容所グーセン支所の囚人:Starving inmate of Camp Gusen, Austria. May 12, 1945. T4c. Sam Gilbert. (Army) NARA FILE #: 111-SC-264918。T4C. SAM GILBERT撮影。Defense Visual Information Center 米国防総省ID:HD-SN-99-02761引用。

<差別と戦争プロパガンダの特徴>
1.プロパガンダとは、プロパガンダの送り手(主体)のもつ特定の価値観を、プロパガンダ受け手(受容者)の中で、短期間のうちに移転・増殖させようとする情報に関する行為。⇒特定の方向に大きな力を与える「情報の管理・操作」
2.プロパガンダの内容は、プロパガンダ主体に都合のいい情報は過大に、都合の悪い情報は歪曲する一方で、敵対集団に都合のいい情報は歪曲し、都合の悪い情報は過大に喧伝する。⇒情報の非対象性
3.プロパガンダの情報伝達は,プロパガンダ受け手のもっている感情・価値観に接合・移植して,その共感と同調を得ながら進行する。⇒受け手にとって受け入れ易い内容という「情報の受容性」
4.プロパガンダ受け手は、メディアによる情報に衝撃を受けつつ、送り手への一体感あるいは憧憬から、自分の影響力が誇示できたように錯覚する。⇒有力な代弁者として振る舞う「情報共有の一体感」
5.組織的に行われるプロパガンダに対して、受け手である個人、大衆は専門知識がなく、発言力も低いために、受動的存在でしかない。プロパガンダを批判し、反論することは、個人には困難である。⇒情報の迎合性・無批判性


写真(右)1941年7月,東部戦線ソ連,ウクライナ,モギリョフで破壊されたソ連軍トーチカの砲座:頑丈なコンクリートの半地下式陣地で,内部で爆発があったらしく,砲の根元が膨らんでいる。砲身は吹き飛ばされている。
Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Zerstörtes Panzerwerk (Bunker mit Geschützen und Maschinengewehren) über dem Dnjestr bei Bronila unterhalb von Mogilew Dating: Juli 1941 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・B_145_Bild-F016204-08引用(他引用不許可)。

平和研究に欠陥があるとすれば、それは、惨禍を及ぼした戦争を戦いながらも、依然として、人類が虐殺や戦争を回避する方法を見出せない,人種民族差別が克服できないでいることである。だれも戦争を望まないが、それでも戦争が起こるのが現実である、という現実主義、ニヒリズムが成り立っていることである。人種民族が平和に共生することはできない,戦争は繰り返されるものだ,文明は衝突を繰り返してきた,このような世界観、すなわち戦争必然説が払拭できないでいる。そこで,平和を望むといいながら,軍需生産・国防予算の維持、人種民族差別のプロパガンダが経常化し、戦争を準備し、人種民族的偏見を助長し,戦争を戦う社会が常態化してしまった。

人種民族差別は仕方がないとのニヒリズムに陥りやすいのが,自己責任を認めたくない,人間である。このような人間に対して,ヒトラーは,人種民族差別と戦争のプロパガンダを仕掛けた。政権を握ったナチスのプロパガンダは,洗脳,心理戦,情報戦の名の下に,人々の心と脳に,特定の価値観に従うように強要した。  社会、個人のメディアリテラシーに対峙するのが、プロパガンダは、政府・軍あるいはメディアが、思考・世論を誘導する戦争情報の管理であり、第二次大戦では,人種民族差別を推し進める目的でも使われた。戦争を政治の延長と捉えて、特定目標を達成する手段として戦争を遂行しようとする者は、プロパガンダにより,人種民族差別を巧みに煽動する。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえる。



5.大戦末期と戦後のドイツ人難民の大量発生 写真(右)1945年3月,対戦車擲弾「パンツァーファウスト」(対戦車拳骨)を構える国民義勇軍「グロスドイチュラント」のヒトラーユーゲント少年兵:戦争末期には,ドイツの人的資源は枯渇し,ヒトラーユーゲントに強制加盟させていた少年たちを国民突撃隊の少年兵として強制徴募した。練度が不十分なままに多数のヒトラーユーゲント出身の少年兵が,前線で戦った。この写真は,ヒトラーユーゲント少年兵士の軍事訓練だが,実戦では,命がけで訓練の成果を試された。
Original title: Zentralbild Hitlerjungen besichtigen die Kampfschule des Wachregiments "Grossdeutschland". Versuch mit der Panzerfaust. März 1945 Dating: März 1945 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-R96781引用(他引用不許可)。


連合軍は兵力補充が可能だったが,ドイツ軍は予備兵力も枯渇し,ドイツ郷土防衛軍やゲリラ部隊であるヴェアヴォルフWerwolf(人狼)部隊を増強しようとした。しかし,ドイツ本土空襲と米英軍・ソ連軍の二正面からの攻勢を押しとどめることは不可能だった。そこで,西方の米英には降伏し,東方のソ連とは戦争を継続するという東西対立を見込んだ和平交渉が打診された。

しかし,1942年1月1日、ワシントンで、米英ソなど26カ国の署名した国連宣言で,既に,徹底的な戦争遂行と、単独不講和・不休戦を誓約していたから,ドイツの打診は相手にされなかった。1944年7月20日の反ヒトラーのクーデターがたとえドイツ新政権の樹立に成功したとしても,米英仏の西側連合国と講和し,東部戦線でソ連と戦い続けることは絶対にできなかった。

1945年5月7日,連合軍総司令官アイゼンハワーとドイツ国防軍作戦部長アルフレート・ヨードル将軍は,ドイツの無条件降伏に調印し,独ソの降伏調印も5月9日に行われた。

欧州戦末期,ソ連軍のドイツ侵攻に直面した多数のドイツ住民や捕虜が,西方へ移動する途中だった。ドイツはポーランド,ソ連にドイツ人とドイツ系民族の移住を促進し,スラブ系民族の犠牲の上に,東方領土を支配することを望んだ。しかし,末期になると,ソ連軍の侵攻を恐れて,ドイツ本土,バルト海に面した東プロシャから,ドイツ人が,避難民として西方に脱出,逆流現象が起こった。

写真(右)1944年10月,少年兵として動員されたヒトラーユーゲントを閲兵するドイツ国防軍のヴァルター・モーデル元帥:陸軍軍人モーデル(1891-1945)は,1944年1月、東部戦線の北方軍集団司令官に任命され,、3月に元帥に昇進。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した西部戦線の西方軍総司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥の後任として,転任。その後,ルントシュテット元帥がが西方軍総司令官に復帰すると,モーデルは隷下のB軍集団司令官として晴雨戦線で戦った。ヒトラーに忠誠を尽くす将軍として,戦争末期になっても,徹底抗戦を続け,その命令に背いた逃亡兵や投降兵士を処断した。大戦終盤の1945年4月21日,「元帥は降伏しない」との信条に則って拳銃自決。
Original title: ADN-ZB II.Weltkrieg 1939-45 Faschistisches Deutschland: Der faschistische Generalfeldmarschall Model, Oberbefehlshaber einer Wehrmachtsheeresgruppe, spricht einem HJ-Führer seine Anerkennung für die von der faschistischen Hitlerjugend durchgeführte Schanzarbeit aus. Dating: Oktober 1944 Photographer: Jäger撮影。 Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・/Bild_183-J28036引用(他引用不許可)。

1945年1月30日ドイツ船「ヴィルヘルム・グロストロフ」(2万5千トン)は,バルト海でソ連潜水艦に雷撃され,撃沈,難民・兵士9千名が遭難した。1945年5月3日の客船「カップ・アルコナ」(2万7千トン)は,強制収容所からのロシア人捕虜など移送者6千5百名,親衛隊などの警備員6百名が乗船していたが,バルト海で英空軍戦闘爆撃機に空襲され,撃沈,5千名が犠牲となった。

写真(右)1945年3月,ドイツの国民啓蒙宣伝相のヨーゼフ・ゲッペルス博士がベルリンの戦いに臨むヒトラーユーゲント兵士に第二級鉄十字章を授与し激励している。:ヨーゼフ・ゲッペルス博士は、ドイツをナチ党文化に同質化し、ユダヤ人差別を推し進め、最後まであきらめることなく、ドイツ国民を戦争に煽り立てることに力を注いだ。
Auszeichnung des Hitlerjungen Willi Hübner ADN-ZB/Archiv 9.3.1945 II. Weltkrieg 1939-45 Deutsch-Sowjetische Front: Reichspropagandaminister Goebbels begrüßt in Lauban (Niederschlesien) den mit dem EK II ausgezeichneten 16jährigen Willi Hübner, der während der Kämpfe um die Stadt im März 1945 im Schützengraben eingesetzt wurde. [Joseph Goebbels, Willi Hübner] Depicted people Hübner, Willi: Hitlerjunge, Deutschland Goebbels, Joseph: Reichsminister für Volksaufklärung und Propaganda, Gauleiter Berlin, Deutschland GND 118540041 Depicted place Lauban Date 9 March 1945
写真はWikimedia Commons, File:Bundesarchiv Bild 183-J31305, Auszeichnung des Hitlerjungen Willi Hübner.jpg引用(他引用不許可)。


戦後,1945年8月,ポツダム会談で,米英ソは,ドイツ本国以外に居住するドイツ人の本国帰還と称して,ドイツ占領地からドイツ人とドイツ系民族を追放,移送することに合意した。こうして,終戦後も,ドイツ人1千万人以上が強制移送あるいは難民として故郷・居住地を後にした。


写真(上)1944年5月,解放後のアウシュビッツAuschwitz強制収容所バラックとソ連軍に解放された囚人:1945年1月27日,ポーランドにあった強制収容所(KZラーゲル)アウシュビッツが,ソ連軍によって解放さた。アンネとマルゴーは,1944年11月ごろソ連軍到着前に,西方の強制収容所に,強制移送された。これは,「死の行進」と呼ばれるほど,多数の囚人が犠牲になった過酷なものだった。脱落者は,射殺された。しかし,アウシュビッツに残った少数の囚人が,ソ連軍によって救出された。米軍が解放したダッハウなど西方の収容所は,写真も含めて,多数の解放時の記録が残っている。他方,ソ連軍が解放,占領した東方(ポーランド)のガス室を完備した絶滅(強制)収容所(ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネック)について,完全に親衛隊が破壊した施設もあり,記録は少ないようだ。現在でも公開資料は多くはない。写真は,United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。アンネの父オットー・フランクは,アウシュビッツ収容所で生き残り,ソ連軍に解放された。そして,1945年6月3日に,オデッサ経由でアムステルダムに帰国することができた。しかし,隠れ家の他の七名は死亡。


6.ホロコーストの戦後

(1)2008年1月のブッシュ米大統領の発言「アウシュビッツを空襲すべきだった」

The Associated Press 2008年1月11日に以下の記事がある。
President Bush had tears in his eyes during an hour-long tour of Israel's Holocaust memorial Friday and told Secretary of State Condoleezza Rice that the U.S. should have bombed Auschwitz to halt the killing, the memorial's chairman said. ブッシュ大統領は,目に涙を浮かべながら,イスラエルのホロコースト記念館を回り,同伴したライス国務長官に,殺戮を阻止するために,アウシュビッツを爆撃すべきだったと語った。

Bush emerged from a tour of the Yad Vashem memorial calling it a "sobering reminder" that evil must be resisted, and praising victims for not losing their faith.

Bush was visibly moved as he toured the site, said Yad Vashem's chairman, Avner Shalev.
"Twice, I saw tears well up in his eyes," Shalev said. ブッシュ大統領が,二回,涙を浮かべているのを見た,とヤド・バシムのシャレフ館長は語った。

At one point, Bush viewed aerial photos of the Auschwitz camp taken during the war by U.S. forces and called Rice over to discuss why the American government had decided against bombing the site, Shalev said. ブッシュ大統領が,米軍が撮影したアウシュビッツの航空写真を見たときに(これは米国立公文書館が出典!),ライス長官を呼んで,なぜアメリカ政府は,収容所を爆撃するのに反対したのかを,話し合った。

The Allies had detailed reports about Auschwitz during the war from Polish partisans and escaped prisoners. But they chose not to bomb the camp, the rail lines leading to it, or any of the other Nazi death camps, preferring instead to focus all resources on the broader military effort
, a decision that became the subject of intense controversy years later. 連合軍は,ポーランドのパルチザンから,戦時中,アウシュビッツに関する詳細な報告を受けていた。しかし,連合軍は,収容所の爆撃を選択しなかったし,収容所へ続く鉄道も攻撃しなかった。その上,ナチスの死の収容所をまったく爆撃していない。これに換えて,全資源・物資を,軍事作戦に集中したのである。

アウシュビッツでは110万-150万名が殺害された。"We should have bombed it," Bush said, according to Shalev.ヤドヴェシム館長によれば,ブッシュ大統領は「われわれは,収容所を爆撃すべきだった」と発言した。
ライス国務長官は,米軍が収容所を爆撃しなかった理由を語らなかったが,収容所を爆撃すべきだといったのは,米大統領としては,初めてのことだった。

もしも,ハンガリーから収容所への鉄道を攻撃すれば,多数のユダヤ人の命を救うことになったはずだ。多数の市民は,収容所の実態を明確には知らなかったが,連合国首脳は,収容所で何が起きているかを把握していたのだから。

But Segev said the question of a bombing is not so clear cut, noting that "it wasn't clear that the United States had the ability to carry out such an operation."
Eliezer Schweid, a professor of Jewish Thought at Israel's Hebrew University, said the question of a bombing is irrelevant in retrospect.
"World Jewish leadership was afraid to ask publicly for the Allies to bomb the death camps, believing that would turn the conflict into a war for the Jews," Schweid said.

In the memorial's visitors' book, the president wrote simply, "God bless Israel, George Bush."
ホロコーストメモリアルは,厳重に警戒され,当日の一般訪問者の出入りは禁止された。警察とヘリコプターの警戒する中での,米大統領訪問だった。

"I was most impressed that people in the face of horror and evil would not forsake their God. In the face of unspeakable crimes against humanity, brave souls - young and old - stood strong for what they believe," Bush said.

"I wish as many people as possible would come to this place. It is a sobering reminder that evil exists, and a call that when evil exists we must resist it," he said.

産経ニュース2008.1.12 10:13は,2008年1月11日,中東歴訪中のブッシュGeorge Bush米大統領は,エルサレムのヤド・バシェム(ホロコースト記念館)を訪れ,館長によると、大統領は目に時折涙を浮かべながら見学。第二次世界大戦中のアウシュビッツ収容所の空撮写真の前に立った際、随行していたライス国務長官に、随行していたライス国務長官に「アウシュビッツを爆撃すべきだった」と語った。米大統領は,「(ホロコーストの歴史は)悪と遭遇した時には抵抗しなければならないということを教えている」と報じたが,これが日本のマスメディアによる最も詳細な報告である。

現在,アウシュビッツ強制収容所にあるガス室は,復元である。ビルケナウ収容所にあった大規模なガス室は,ソ連軍が迫ってきた時,証拠隠滅のために親衛隊が自らが破壊した。1944年11月以来,使用はされていなかったが,1945年1月26日,最後まで残っていた第五ガス室・焼却炉を親衛隊は爆破したのである。

写真(右)1941年夏,ソ連,東部戦線に参加したドイツ国防軍兵士:MP-38/40機関短銃を装備した兵士は,ソ連軍相手に大戦果を上げて得意満面なのであろう。1934年8月2日,ドイツ国防軍に新しい忠誠宣誓が導入された。
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."
「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」
Sowjetunion.- Oberfeldwebel der Panzertruppen mit Fernglas und Maschinenpistole (MP); PK 694 Dating: 1941 Sommer Photographer: Koch撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_101I-208-0021-24A引用(他引用不許可)。
 

(2)戦後の戦犯裁判

アンネマルゴーMargot Frankが亡くなったベルゲン・ベルゼン強制収容所ヨーゼフ・クラマーは,それ以前の1944年5月-12月はアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所ガス室管理者だった。戦後逮捕され,1945年9月17日,英軍によるベルゼン裁判で裁かれた。
公開されているベルゲン裁判記録や日本語訳の起訴状などを閲覧できる。

ベルゼン裁判では,虐殺行為の咎で,クラマー所長以下親衛隊員16名,女子看守16名、カポKapo(囚人長)12名(うち5名が女子)が起訴された。ベルゼン裁判では,クラマー所長ほか男子8名、女子3名が死刑となった。

軍事裁判によって,完全なる「正義」「公正」を確保することはできないし,裁判だけで歴史的事実を明らかにすることも無理である。これは,ひとつには,イデオロギーの上,自国や自分が所属する(と思っている)人種民族の栄光の歴史を取り戻すためであり,もうひとつは,プロパガンダとメディアリテラシーの問題でもある。

(3)ドイツ人はユダヤ人絶滅を知っていたのか

アウシュビッツなど絶滅収容所が稼動し始めた時期,ドイツの一般市民は,東方での大殺戮について,具体的には知らなかったであろう。 

反ヒトラー派のヘルムート・フォン・モルトケ伯爵は,1943年3月25日に「国民の少なくとも10人に9人はわれわれが何十万名というユダヤ人を殺戮したことを知らないでいる。ユダヤ人は隔離されただけで,前と同じように暮らしている。だた,元の出身地である春か東方へ行っただけで,多少は貧しいかもしれないが,空襲を受けることはない,などと今も考えている」と書いた。独ソ戦の当初,ヒトラー総統が,ユダヤ人を遥か東方,たとえばシベリアにでも追放するつもりだったと考える識者は多い。たしかに,ドイツ,オランダのような西欧だけでなく,ポーランドなど東欧のユダヤ人を,ポーランドのゲットーや強制収容所に拘束してていたのであるから,その行き先を予定していた可能性は残る。

しかし,ウラル山脈の西方は,ドイツの生存圏として,ドイツ人や民族ドイツ人が移住すべき場所であり,現地住民はその下僕として,処遇される。ユダヤ人を入植させる余地はないのである。ゲットー・収容所のユダヤ人を,ウラル山脈の東方に追放する計画があったのであろうか。いずれにせよ,ソ連がドイツに降伏するまで,ユダヤ人の追放は実行できない。また,ポーランド侵攻,ソ連侵攻には,すでにアインザッツグルッペのような特別部隊が編成され,ゲリラだけでなく,ユダヤ人,インテリなど敵性住民を虐殺していた。それを思えば,ゲットー・収容所に集めたユダヤ人たちを,再び分散して,ウラル山脈の東方に追放する可能性は,低い。シベリアに分散して入植させたとしても,ユダヤ人がそこに永住するとはいえない。監視の目がゆるくなれば,ふたたびヨーロッパに潜入してくるリスクもある。

◆分散したユダヤ人を監視できない点に注目すれば,ユダヤ人をウラル山脈の遥か東方に追放することは,ユダヤ人による人種汚染,戦争に対する予防には不十分である。つまり,労働可能なユダヤ人を東方に移住する計画は,戦時にも,対ソ戦勝利後にもありえないと考えられる。したがって,ゲットーに集合させ,強制収容所に拘束したユダヤ人は,労働力としてりようするが,労働不能になれば,殺戮することが予定されていたと考えるべきであろう。


写真(左)1944年,アウシュビッツAuschwitz強制収容所の親衛隊と女子補助部隊:病院勤務・事務職の親衛隊SSの乗車したバス。親衛隊カール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。写真(左)アウシュビッツ収容所勤務の親衛隊SSによる葬儀。棺にSSの旗がかけてある。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。他方,フランク一家の写真,動画も残っているのは,フランク家の資産とそのメディアへの関心を示している。

ユダヤ人大量殺戮には,次のような障害があった。
?殺戮に伴う処刑者の精神的負担
?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
?大量殺戮発覚によるユダヤ人などの抵抗勢力の増大とユダヤ人の武力蜂起
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,ユダヤ人殺戮が事実上行われていた。労働に適しないユダヤ人は,ガス室が完備する前から,処分の対象だった。

写真(右)1945年4月,アメリカ軍が解放したオーストリア、マウトハウゼン強制収容所支所ドーラ=ミッテンバウ収容所。ここでは、ユダヤ人・捕虜など奴隷労働者が最新ロケット兵器のV-1飛行爆弾・V-2弾道ミサイルの生産に従事させられていた。:ドーラ=ミッテンバウ収容所の地下秘密工場で製造されていたV-2ロケットを生産するために、多数の囚人労働者が酷使された。奴隷労働者の宿舎では多数の遺体が放置されていた。アメリカ軍はそれを近隣住民に運び出させ野外に並べた。その後、共同墓地を掘って、そこに埋葬させた。
American soldiers walk past corpses that have been laid out in rows at the newly liberated Nordhausen concentration camp.Date1945 April 11 - 1945 April 15
写真はU.S. Holocaust Memorial Museum , MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau Sub-camps -- Nordhausen -- LIBERATION 、Photograph Number: 04544引用(他引用不許可)。


ヒトラー総統や親衛隊にとって,ユダヤ人絶滅は事項すべき宿命であったが,その障害はとてつもなく大きい。現在でも,その障害の大きさ故に,ユダヤ人絶滅が実施されたはずがないと誤解する識者もいる。これは,同時のドイツやドイツ占領の一般市民,されに連合国首脳や米英の一般市民についても当てはまる。一般常識にとどまって考えれば,ユダヤ人絶滅の利益はなく,それに資源・国力を投入することは,理解できない。ヒトラー総統や親衛隊は,ユダヤ人絶滅を公言しているし,連合国の一部のメディアもそれを伝えているが,あれはプロパガンダで,誇張されている。いくらなんでもユダヤ人絶滅が実施されるはずがない。このように考えたのは,当時のドイツ市民だけではなく,連合国も含めた大多数の人々だった。

写真(右)1945年4月,アメリカ軍が解放したオーストリア、マウトハウゼン強制収容所支所ドーラ=ミッテンバウ収容所の囚人の遺体。ここでは、ユダヤ人・捕虜など奴隷労働者が最新ロケット兵器のV-1飛行爆弾・V-2弾道ミサイルの生産に従事させられていた。:ドーラ=ミッテンバウ収容所の地下秘密工場で製造されていたV-2ロケットを生産するために、多数の囚人労働者が酷使された。奴隷労働者の宿舎では多数の遺体が放置されていた。アメリカ軍はそれを近隣住民に運び出させ野外に並べた。その後、共同墓地を掘って、そこに埋葬させた。
Corpses of victims lie on the straw floor of a barrack of the Nordhausen concentration camp. Photographer:William B. Curtis DateApril 1945
写真はU.S. Holocaust Memorial Museum , MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau Sub-camps -- Nordhausen -- LIBERATION 、Photograph Number: 54684 引用(他引用不許可)。


ドイツの市民も連合国の市民は,人間性を無視する忌むべきユダヤ人絶滅が行われているかどうか,知りたいとは思わなかった。知りたいのは,戦いに勝っているかどうかだった。ドイツ人は,ユダヤ人絶滅について,知りたくはなかった。知っていれば処罰されることも,予測できたから,知らないふりをしたかった。当時の日本人は,ユダヤ人絶滅が同盟国で行われているとは,思いもしなかった。日本軍による虐殺も,噂話や敵のプロパガンダであって,決して知りたい情報ではなかった。
虐殺という忌むべき情報は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。

ただし,ドイツ人であれば,ヒトラー総統,親衛隊国家長官ヒムラーが,ユダヤ人殲滅を公言していること,ユダヤ人が迫害され,連れ去られていることは確実に知っていた。ラジオや新聞で全国に情報が伝播されていた。

写真(右)1945年6月,アメリカ軍は、オーストリア、マウトハウゼン強制収容所支所ドーラ・ミッテルバウ収容所で鹵獲したドイツ軍のロケット兵器V-2弾道ミサイルをアメリカ本土に運搬した。:ドーラ=ミッテンバウ収容所の地下秘密工場で製造されていたV-2ロケットは,弾頭1t,射程300kmの大陸間弾道弾で,ロンドンとアントワープを主目標に3000発が発射。ナチスの最新秘密兵器の生産を担っていたのは,ユダヤ人など1万名以上の奴隷労働者だった。ブーヘンヴァルト強制収容所における点呼では、所外に駆り出された労働作業班は,収容所に帰ってくる夕方,点呼をとられたが,1-2時間もかかったという。収容者を効率的に働かせるよりも,痛めつける懲罰,虐殺の意味合いが強かった。
Shipyards in Antwerp where V-2 rockets, manufactured at Dora-Mittelbau, are being crated for trans-shipment to the United States.The rockets were quickly removed from the camp before the Soviets could capture them. PhotographerJames Baker Date June 1945
写真はU.S. Holocaust Memorial Museum , MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau Sub-camps -- Nordhausen -- LIBERATION 、Photograph Number: 04544引用(他引用不許可)。


 強制収容所・絶滅収容所の焼却場の建設にかかわった労働者,ガス室・焼却炉の設計をした技師クルト・プリューファー,チクロンBを大量生産したテッシュ&シュタベノウ社,デゲッシュ社の首脳陣は,明らかに,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所におけるユダヤ人虐殺を知っていた。IGファルベンも合成ゴム工場,合成燃料工場に安価な(奴隷)労働力を数万名も投入しており,その待遇が苛酷であることを熟知していた。多数の労働者を次々に動員しながら,動員を解除し帰郷した労働者が皆無だったを知っていたはずだ。多数の奴隷労働者が死亡していることは知りたくなかったであろうが,容易に知ることができた。

 ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。多数の将兵も,警察出身の部隊も虐殺の噂を聞いていたし,自ら後方治安維持作戦を支援したこともあった。

 多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。不確実で,確かなことはわからないと,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥っていた。

独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、ヂュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人1万9953名が第一陣として、ポーランドのウーチ・ゲットーに強制移送された。

1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなるとされた。

ナチ党大会が開催されたニュルンベルクから強制収容所に送られたユダヤ人が多数いた。1941年11月25-26日、ニュルンベルクのユダヤ人512名が集められた。戦後1951年の戦犯裁判において、ニュルンベルクから移送されたユダヤ人の死者は4854名である。また、ニュルンベルク市内に限っても、移送されたユダヤ人1931名のうち、生き残ったのは72名であり、生還率は4.4%に過ぎなかった。(芝健介『ヒトラーのニュルンベルク』180-193頁)

ドイツ市民たちの中には、ユダヤ人に同情を感じたものも少なくなく、移送した警察・親衛隊が、暴力的だったわけでもないようだ。しかし、彼らは、ユダヤ人移送は仕方がないとのニヒリズムに陥っていた。

ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人の財産没収,強制収容所への移送は当然のように知っていた。1943年に入って,戦局が悪化する中,ユダヤ人が外国やドイツ軍占領地に追放されているのではない,収容所に収監されていることも,明白だった。ドイツ軍が後退している以上,ソ連の独軍占領地であるはずがなく,ユダヤ人は強制収容所から外に出ることはできないと予測できた。

次々に,ドイツだけでなく,ヨーロッパ中のユダヤ人が,東方に送られていることは,ドイツの鉄道職員には,常識だった。フランス,オランダ,ドイツなどのユダヤ人を満載した貨車や客車が,ドイツを通って,東方に移送されていることは,沿線の住民も知っていた。噂話から,ヨーロッパ中のユダヤ人は,強制収容所に移送され,そこから外に出られないことは,みなが知っていた。

ユダヤ人問題の「最終解決」は,戦前は,ユダヤ人のドイツからの追放だったが,戦時中は,強制収容所に拘束し奴隷労働に従事させ,疲弊し病気になった労働不能者を処分することだった。アーリア人を人種汚染し,ユダヤ人共産主義者がソ連を,ユダヤ人金融資本家・マスメディアがアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域もない。このような状況で,ヨーロッパのユダヤ人排除とは,ユダヤ人殺戮・処分,すなわち絶滅に至ってしまう。

ナチス指導者,一般市民は,収容所に送り込まれたユダヤ人の運命を察することができた。しかし,誰もその「責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズムである。

ユダヤ人絶滅は,国会演説,ラジオ放送でも公言されていたが,これは過激なプロパガンダに過ぎないと考えたドイツ人,占領下の住民,ユダヤ人が多かった。しかし,ナチス指導者の中には,東方の強制収容所に移送されたユダヤ人が殺戮されていることを知っているものもいたが,知っているものは,知らないふりをした。

ポーランド総督になったハンス・フランクは,自分自身を含めて「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのでだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」(トーランド『アドルフ・ヒトラー 4』122-123頁)

(4)強制収容所の囚人と解放者による報復

写真(右)1945年4月29日,アメリカ軍が解放したドイツ、ダッハウ強制収容所に停車していた囚人死体運搬貨物列車:囚人宿舎にも多数の遺体が放置されていた。アメリカ軍はそれを近隣住民に無理に見学させ、ドイツの蛮行を知らしめた。
Corpses in a death train in Dachau. PhotographerPaul Averitt Date1945 April 29
写真はU.S. Holocaust Memorial Museum , MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dachau -- LIBERATION -- Victims -- Death Train Photograph Number: 57815引用(他引用不許可)。


<ダッハウ収容所解放と看守の処刑>

写真(右)1945年4月29日,アメリカ軍の解放を喜ぶドイツ、ダッハウ強制収容所の囚人たち:囚人宿舎にも多数の遺体が放置されていた。アメリカ軍はそれを近隣住民に無理に見学させ、ドイツの蛮行を知らしめた。
Survivors of the Dachau concentration camp cheer their American liberators. Date1945 April 29
写真はU.S. Holocaust Memorial Museum , MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dachau -- LIBERATION -- Liberators/Greeting Liberators/Celebrations Photograph Number: 01100B 引用(他引用不許可)。




 米兵たちには,正義と自由の戦いを信じて,ナチスの野蛮行為を処断しようと果敢に戦っていたものが多かった。報復,復讐の機会があれば,それを逃さず行使したものもいた。「捕虜はとらない」である。

1933年設立のミュンヘン郊外ダッハウ強制収容所は,連合軍将兵の間でも悪名をはせていたが,連合軍首脳が,強制収容所を解放する作戦を立案したことはなかった。1944年2月にすでに「敵によく抑圧されている犠牲者の救出に,戦闘部隊を投入することは考えられない」と,戦闘部隊はあくまで敵軍に対決するために動員したことを明示していた。

 しかし,前線の将兵は,ダッハウ強制収容所KZ Dachau)近くで,ブーヘンワルト収容所から数千名の囚人が強制移送された「残骸」を目にした。囚人たちは,何の補給もないまま,貨車に押し込められて,窮屈な状態で死ぬに任されていた。悲しみ,次に怒りに駆られた第157連隊の米兵たちは,これからは「捕虜をとらない」と決めた。ダッハウ収容所につくと,収容所バラックから囚人が飛び出してきて,鉄条網を押し倒した。みなが歓声をあげた。

写真(右)1945年4月29日,アメリカ軍に逮捕されたダッハウ強制収容所のドイツ人看守たち:囚人宿舎にも多数の遺体が放置されていた。アメリカ軍はそれを近隣住民に無理に見学させ、ドイツの蛮行を知らしめた。
German personnel at Dachau are rounded up by American soldiers. Date April 1945
写真はU.S. Holocaust Memorial Museum , MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dachau -- LIBERATION -- Perpetrators/Surrender Photograph Number: 55039 引用(他引用不許可)。




 ダッハウ強制収容所KZ Dachau)を解放した米兵たちは,収容所看守から武力抵抗をほとんど受けなかったようだが。しかし,収容所にはしばらく銃声が響いたという。目撃証言によれば,ダッハウ強制収容所親衛隊看守たち数十名から500名が,米兵によって銃殺され,あるいは,囚人によるリンチによって殺害された。解放者・収容者中には,報復,復讐に走ったものがいた。収容者や米兵の仲には,このような報復,復讐が無意味に思えて,証言したものがいたのである。米兵の中には,親衛隊将校を囚人に引渡し,気の済むまで報復させたり,看守をいきなり銃殺してしまったりするものがあった。降伏した捕虜を,軍事裁判にかけることなく,即刻処刑,リンチしてしまったのである。


写真(左)1945年4月14日,米第3機甲師団に解放された後,強制収容所で,ソ連軍捕虜の元囚人に糾弾される親衛隊看守。:Russian slave laborer among prisoners liberated by 3rd Armored Division points out fromer Nazi guard who brutally beat prisoners. Germany, April 14, 1945. T4c. Harold M. Roberts. (Army) NARA FILE #: 111-SC-203466 。写真(右)1945年4月29日,米第三軍の命令によって,ナチス親衛隊が虐殺した囚人遺体掘り出し,再埋葬させられるドイツ市民:Civilians of Neunburg bear victims of SS killings to burial ground, after bodies were exhumed from mass grave where their murderers had dumped them. Chaplains of U.S. Third Army will conduct burial services. April 29, 1945. Pfc. Wendell N. Hustead. (Army) NARA FILE #: 111-SC-266656 。Defense Visual Information Center 米国防総省HD-SN-99-02770引用。

 解放当時、ダッハウ強制収容所KZ Dachau)の看守は,大半が強制収容所勤務に就いたばかりの若者だった。裁判抜きの収容所看守の即刻処刑やリンチ殺害は,明白な戦争犯罪であるが,看守を処刑した米兵たちの犯罪捜査は,パットン将軍の介入によって中止された。パットン将軍は、ブーヘンワルト収容所KZ Buchenwald)を解放した後,近くのワイマールの土市一般市民を,正装させ丘上にある収容所にくるように命じた。将軍は,ドイツ市民に,自らの親衛隊が行った残虐行為を見せて,反省させようとした。


写真(左)1945年5月4日,米第9軍に解放されたヴォッベリンWobbelin強制収容所の囚人。これから,米軍によって病院に搬送されると知り,泣いて喜んでいる。:Pvt. Ralph Forney. (Army) NARA FILE #: 111-SC-206391。写真(右)1945年5月7日,米第71歩兵師団によって解放されたオーストリアのランバッハLambach収容所のユダヤ人の子供たち。飢餓などの原因で,毎日200-300名が死亡していたという。:Sgt. Robert Holliway. (Army) NARA FILE #: 111-SC-266491 。Defense Visual Information Center 米国防総省HD-SN-99-02767引用。

他方、アメリカ軍は、ドイツ国防軍の高級将校の捕虜を厚遇していた側面もある。
 1945年5月7日0241、フランス・シャンパーニュ、ランスにあった西側連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force, SHAEF) で、大統領カール・デーニッツ元帥から降伏全権とされた国防軍作戦部長アルフレート・ヨードル大将は、ドワイト・D・アイゼンハワー元帥に対して、無条件降伏の書類に署名した。しかし、オーベルザルツブルク別荘にいたヘルマン・ゲーリングHermann Göring)国家元帥は、アイゼンハワー元帥と直接降伏交渉あるいは自分の処遇について考慮してもらう交渉をすべくアメリカ軍との連絡を取ろうとした。しかし、親衛隊SSに拘束されれば交渉不可能となってしまう危険があるため、自動車を使ってアメリカ軍の下に出向いて、直接交渉しようと図った。アメリカ軍は、遭遇したドイツ空軍総司令官ゲーリング国家元帥に感激して、彼を賓客かVIPのように厚遇した。ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、国家元帥の服装、元帥杖を手にしたまま、アメリカ軍将校と食事を共にした。翌5月8日、アメリカ第七軍(VII Corps)司令部へ連行されたゲーリング国家元帥は、そこで、アメリカ陸軍航空隊司令官カール・スパーツ大将から歓迎された。彼もドイツ最高位の軍人が、自らの軍門に下ったことに気をよくしたに違いない。ゲーリングは、集まった西側連合国と記者会見も許されている。ゲーリングは、自分がヒトラー亡き後、西側連合国にとって最重要人物となっているのに満足、安心しきっていた。


Captured High Ranking Nazis Including Göring, Galland, Kesselring, Bodenschatz (RobertHJacksonCenter)

アメリカ軍現地司令官は、名声あるヘルマン・ゲーリングHermann Göring)が自分に降伏してきたことに感激して、ゲーリングを賓客のように扱ったが、これを知ったアイゼンハワー元帥は激怒し、捕虜相応の扱いをすることを命じた。しかし、アメリカ軍は、ゲーリングに限らず、1945年5月に投降してきた高位の有名ドイツ軍人を厚遇している。戦闘機総監ガーラント(Galland)中将,イタリア戦線を指揮したケッセリング(Kesselring)元帥しかりである。


7.プロパガンダとメディアリテラシー

第二次大戦時のアメリカの反日人種民族差別ポスター(右):「軍務についている人への贈答」「もしも日本兵に会ってしまったら---。ロープをそいつの首に巻け。ロープの端を握って,引っ張れ。ヒック!」このような反日プロパガンダが展開された。ドイツや日本への嫌悪感を煽るアメリカのブラックプロパガンダ。しかし,絵をユダヤ人風に変更するだけで,アンチセミティズムの人種民族差別プロパガンダとなる。

<差別と戦争プロパガンダの特徴>

1.プロパガンダとは、プロパガンダの送り手(主体)のもつ特定の価値観を、プロパガンダ受け手(受容者)の中で、短期間のうちに移転・増殖させようとする情報に関する行為。⇒特定の方向に大きな力を与える「情報の管理・操作」 

2.プロパガンダの内容は、プロパガンダ主体に都合のいい情報は過大に、都合の悪い情報は歪曲する一方で、敵対集団に都合のいい情報は歪曲し、都合の悪い情報は過大に喧伝する。⇒情報の非対象性

3.プロパガンダの情報伝達は,プロパガンダ受け手のもっている感情・価値観に接合・移植して,その共感と同調を得ながら進行する。⇒受け手にとって受け入れ易い内容という「情報の受容性」

4.プロパガンダ受け手は、メディアによる情報に衝撃を受けつつ、送り手への一体感あるいは憧憬から、自分の影響力が誇示できたように錯覚する。⇒有力な代弁者として振る舞う「情報共有の一体感」

5.組織的に行われるプロパガンダに対して、受け手である個人、大衆は専門知識がなく、発言力も低いために、受動的存在でしかない。プロパガンダを批判し、反論することは、個人には困難である。⇒情報の迎合性・無批判性


GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1944- 1945年,イギリス軍に鹵獲されたドイツ陸軍V号戦車PzKpfw V Panther パンテルAと IV号戦車Pz Kpfw IV(後方):車体側面情報には、対戦車弾(ホローチャージ)の降下を減殺するツェルテェンが装着されている。車体後方側面には予備のキャタピラを装着して、補助装甲版替わりにしている。車体前面に、磁力吸着爆弾が吸い付くのを防止するプラスチックコーティングが塗装されている。
Catalogue number: STT 6796), Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names: object category; Black and white, Creator: Makowski, Zygmunt, Object description: British soldier poses beside a Panther Ausf A (and a Pz Kpfw IV in the background) 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 6796))


ヒトラーも心酔したクラウゼビッツ著『戦争論』は高く評価されているが,戦争を目標達成の手段として認識する立場では、特定時点において、一方の当事者の利益に配慮することになる。国家目的の追求に、戦争は有効な手段である。政府や軍あるいは軍需産業がスポンサーとなった戦争研究が肥大化する中で、学術的にも政治の延長としての戦争の価値が認められている。社会主義の階級闘争理論では、国家間の戦争を階級間の戦争に転化して、社会主義革命につなげることが関心ごとだった。しかし、政治家や革命家の意図にもかかわらず、人種民族差別が行われつつ,戦闘員も非戦闘員も、大量破壊、大量殺戮の被害を受けた。国際テロ戦争も,人種民族差別の延長線上に,文明の衝突を「させられた」結果のように思われる。

平和研究に欠陥があるとすれば、それは、惨禍を及ぼした戦争を戦いながらも、依然として、人類が虐殺や戦争を回避する方法を見出せない,人種民族差別が克服できないでいることである。だれも戦争を望まないが、それでも戦争が起こるのが現実である、という現実主義、ニヒリズムが成り立っていることである。人種民族が平和に共生することはできない,戦争は繰り返されるものだ,文明は衝突を繰り返してきた,このような世界観、すなわち戦争必然説が払拭できないでいる。そこで,平和を望むといいながら,軍需生産・国防予算の維持、人種民族差別のプロパガンダが経常化し、戦争を準備し、人種民族的偏見を助長し,戦争を戦う社会が常態化してしまった。ニヒリズムNihilism)に陥り、戦争のない世界等あり得ない、人類は愚かしい存在であると、平和の追及をあきらめてしまった。

写真(右):1945年ガルデレーゲン収容所で焼き殺されたソ連軍捕虜;納屋に火を掛け焼き殺したが,逃げ出そうとした囚人は撃ち殺された。米軍が占領したときの撮影。他方,親衛隊・ドイツ国防軍も,西側すなわち米英仏の捕虜POWを大虐殺することはほとんどなかった。(バルジの戦いでのマルメディ虐殺は有名だが。)Scrapbookpages.com 引用。米軍が解放したときの様子は,Gardelegen:United States Holocaust Memorial Museumに掲載された。1945年4月13-14日,殺害された囚人たちの埋葬場所が墓地となり,現在もメモリアルとして維持されている様子は,Gardelegen市公式ページ参照。

人種民族差別を社会の不安はけ口として利用し,戦争を目的追及の政治の延長と見なしている政治家・軍人がいる限り、迫害や戦争を根絶することはできない。人類を卑下して,迫害や戦争を繰り返す愚かな生き物だとする戦争必然説が信奉される限り、迫害や戦争をなくすことはできない。

人種民族差別を仕方がないとするニヒリズムNihilism)に陥りやすいのが,自己責任を認めたくない,人間である。そして,人種民族差別に陥るようなプロパガンダも盛んに行われる。体制側の強力な戦争プロパガンダは,洗脳,心理戦,情報戦の名の下に,人々の心と脳に,特定の思考を植え込んだ。

メディアリテラシーとは、マスメディア(TV・新聞・雑誌、インターネットなど)が提供する情報に対する、受け手側の判断や判断能力、という意味で使われる。情報を媒介する手段とその管理者の意図を推し量って、情報は事実とは必ずしも一致しないことを踏まえ、情報を批判的に検討することでもある。

社会、個人のメディアリテラシーに対峙するのが、プロパガンダである。戦争プロパガンダは、政府・軍あるいはメディアが、思考・世論を誘導する戦争情報の管理であり、第二次大戦では,人種民族差別を推し進める目的でも使われた。戦争を政治の延長と捉えて、特定目標を達成する手段として戦争を遂行しようとする者は、プロパガンダにより,人種民族差別を巧みに煽動する。

写真(右)ガルデレーゲン収容所者虐殺墓地の米軍による追悼式Scrapbookpages.com 引用。米軍が解放したときの様子は,Gardelegen:United States Holocaust Memorial Museumに掲載された。1945年4月13-14日,殺害された囚人たちの埋葬場所が墓地となり,現在もメモリアルとして維持されている。Gardelegen市公式ページは,記念碑の写真が掲載されている。

アンネの日記』を読むと、彼女の澄んだ瞳,明晰な頭脳が,早くも戦後,平和な世の中をどのように構築するかを考えていたことがわかる。 アンネ・フランクは,十五歳にして,ユダヤ人であるという人種民族の特性を保持しながら,いかにして世界の人々とともに暮らすことができるのかを模索し,「人種民族の共生」を考えていた。

『アンネの日記』の行間・余白を埋める試みを通じて、平和の大切さが身にしみてわかってきた。十五歳の少女でも,平和のために行きたいと願っていたことに感銘を受ける。それを思えば,政府,メディア,学会を通じた人種民族差別,大量破壊・大量殺戮を伴う戦争を助長することはできない。人種民族差別を煽動,利用したり,政治の延長として戦争を公然と賛美したりすることも,許せないと思う。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間がプロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえる。


アンネ・フランクは,隠れ家生活を通じて,差別と戦争の悲惨さと愚かさを実感していた。人種民族に基づく差別が,いかに不条理で,人間を貶めた存在にするかを理解していた。もう一度『アンネの日記』を読み直して,少女の考えたことを,自分の中で,反芻してみたい。

1944年5月3日のアンネ・フランクの日記:「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」→戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈している。
 「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」と,戦争に協力している一般人の重要性,総力戦の現実を認識しつつ,「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いている。

 しかし,アンネ・フランクは絶望してはいない。同じ日の日記の末尾に「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。                        じゃあまたね,アンネ・M・フランク」

写真(右)1939年9月,ポーランド、東プロイセンのユダヤ人らしい少女:1939年9月のナチスのポーランド侵攻で,大量のユダヤ人が拘束され,ゲットーに強制移送された。下等劣等人種とし扱われ,厳しい処置をされた。
Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), Kind; PK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Amphlett, Eduard撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-317-0057-19A引用(他引用不許可)。

人類が虐殺や戦争を回避する方法はない,だれも戦争を望まないが,それでも戦争が起こるのが現実である、という不当現実主義やニヒリズムを信奉している人々がいる。戦争は繰り返されるものだ,文明は衝突を繰り返してきた,このような世界観、すなわち戦争必然説が払拭できないでいる。そこで,平和を望むといいながら,軍需生産・国防予算の維持、人種民族差別のプロパガンダが経常化した。戦争を政治の延長と捉えて、戦争を準備し,戦争を戦う社会が常態化してしまった。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っている。ここにレジスタンスの意義が見出せる。

1944年5月3日のアンネ・フランクの日記:「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」→戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈している。
 
 「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」と,戦争に協力している一般人の重要性,総力戦の現実を認識しつつ,「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いている。

人種民族差別と戦争がもたらした惨状に向き合うことなく、戦争の大義,人種民族の優秀性,祖国の栄光を説いても,平和の本質はつかめない。人種民族的イデオロギー,まがい国益,利権の前に,俗説を捏造したり,人種民族差別を煽動したりする者もいる。しかし,第二次大戦中,人間性を保とうと抵抗した人々がいた。レジスタンスの記録を読めば,平和人権の確立がいかに大切かが,情熱を持って,冷静に理解できる。

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1945 年4月8日、ドイツ西部、ヴンストルフ(Wunstorf)飛行場の格納庫で第6空挺師団第5パラシュート降下連隊に鹵獲されたメッサ―シュミットBf-109G戦闘機:格納庫は迷彩塗装のままの機体が並んでいる。一番手前の機体は、窓枠の少ないガーラント風防だが、奥の機体は通常の角型の風防である。左奥には、ダイムラーベンツDB605エンジンが並んでいる。
Catalogue number: BU 3265, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names: object category: Photography Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Laws (Sgt), Object description: A British soldier examines a row of partially complete Messerschmitt Me 109G fuselages in a hangar at Wunstorf airfield, captured by the 5th Parachute Brigade, 6th Airborne Division, 8 April 1945. The aircraft have been disassembled and their paintwork stripped as part of a refurbishment that was never completed. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 3265)


ベルリン,旧国内予備軍司令部の中庭の壁にある追悼碑文

    1944年7月20日に ドイツのために ここに死す

 ルートヴィヒ・ベック上級大将
 フリードリヒ・オルブリヒト歩兵大将
 クラウス・グラーフ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐
 アルブレヒト・リッター・メルツ・ヴォン・クヴィルンハイム大佐
 ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉

あなた達は恥辱に甘んじなかった
あなた達は抵抗した
あなた達は送った
改心の偉大で目覚めた合図を
自由と正義と名誉のために
あなた達の熱い命を犠牲にして

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
 
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。2008年1月31日以来Counter名の訪問者があります。写真,データなどを引用する際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
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東海大への行き方|How to go
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