◆オーストリアのマウトハウゼン強制収容所 Mauthausen
写真(上)1941年10月,オーストリア,リンツ郊外,マウトハウゼン強制収容所に整列させられたソ連軍捕虜の一団:ソ連軍の進攻緒戦に,ドイツ軍はソ連軍兵士を包囲し,多数の捕虜を得た。移送途上に亡くなった捕虜もあったが,収容所についても,捕虜の命は長くはなかった。食糧不足,過酷な労働,劣悪な衛生・居住条件のために,多数の捕虜が死亡した。懲罰や処刑によって殺害された捕虜もあった。 Archive title: Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener am Appellplatz des KZ Mauthausen, Oktober 1941
Dating: Oktober 1941
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではありません。アーカイブに直接登録,許可を得て引用しています。引用は原則有料,他引用不許可となります。
◆2011年7月下旬刊行『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、日本初公開のものも含め150点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。 そこでは、ナチ党結成、反ユダヤ主義、ホロコースト、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆2015年4月18日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。 ◆2011年9月2日・9日(金)午後9時,NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」ルドルフ・ヘス及びレニ・リーフェンシュタールに出演。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
【2009/2/5/AFP】ローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)は,アルゼンチンの放送局が放送した,スウェーデンのTV番組でガス室は存在しなかったと発言した英国リチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教の破門を約20年ぶりに解除。アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相は3日、法王の行動は看過することはできないとし、バチカン当局に対し、ナチス・ドイツのホロコーストが「否定できない事実だと明確にすること」を求めた。
◆2009年9月8日(火)NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
ユダヤ人虐殺の理由は、ユダヤ人が、ドイツ帝国を崩壊させ、アーリア人を滅ぼして、世界支配を企んでいるからである。その方法は、1)人種汚染、2)ボルシェビキに代表される共産主義、3)国際金融界に代表される拝金主義、4)最終的手段としてのドイツに対する戦争、である。
◆社会的ダーヴィニズム(社会的進化論)では,下等人種・劣等民族は、自然淘汰されて当然だとした。植民地獲得の背景で,虐げられた人種・民族があっても,これは,社会進化の過程で当然起こる自然淘汰であるとされた。社会的ダーヴィニズムの上では,優勢な文明を誇る優秀な人種・民族が反映する一方で,役に立たない下等人種・劣等民族は,支配されてはじめて,社会に貢献できるようになると,人種民族差別が行われた。
優生学では,劣等な人間が繁殖力旺盛な場合,優秀な人間に障害となるので,人為的に排除する必要が生まれる。人類の遺伝的素質に注目して,品種改良するには,悪質の遺伝子を排除し,淘汰して,優良な遺伝子を残さなくてはならない,と優生学は主張する。1883年,イギリス人フランシス・ゴルトン(Sir Francis Galton:1822-1911)らが提唱したが,白色人種の優位性,植民地支配を正当化する論理として優生学は,帝国主義の中で,広まった。米国では,アジアからの移民排斥に,理論的根拠を与えたとされた。
1998年、ドイツ連邦で、第一党の社会民主党率いる連立政権の首相ゲアハルト・シュレーダー(Gerhard Schroder:1944‐)のもとで、ヒトラー政権下の外務省がユダヤ人・自由主義など反政府活動の潜在的容疑者を弾圧してしていたことが明らかにされた。例えば、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker:1920-2015)元連邦大統領は、過去と批判的に対峙し、それから未来の新しい関係を構築すべきだと訴えた。しかし、その父親のエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(Ernst Freiherr von Weizsäcker:1882-1951)外務次官は、自由主義者の1929年ノーベル文学賞者トーマス・マン(Paul Thomas Mann:1875-1955)からドイツ市民権の剥奪を進めが、この事実は隠されていたのである。つまり、戦後になって、ドイツ外務省は、ヒトラー政権への協力した過去について隠蔽し、当時のナチ党に協力した外交官がそのまま公務に残っていたのである。親衛隊SSなど戦犯にかかわる情報も把握していた外務省は、それを密かに漏洩して、外交官や当時の官吏の訴追を妨害するような行動を「国益」と考えていたようだ。
1.ナチス政権奪取,1933年の強制収容所設置
写真(右),親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Luitpold Himmler(1900年10月7日-1945年5月23日):1923年のミュンヘン一揆(Beer Hall Putsch)にも旗手として参加した古参ナチ党員。突撃隊SAの粛清に寄与して,ヒトラーの護衛隊である親衛隊SSの長として,勢力を拡大した。親衛隊は,警察,強制収容所を監視するドクロ部隊,秘密警察ゲシュタポ(Gestapo)を傘下に収め,第二次大戦が勃発すると,志願兵からなる武装親衛隊を編成して,国防軍に次ぐ軍隊となった。エルンスト・レーム(Ernst Röhm)を射殺するなど果断な行動をした親衛隊テオドール・アイケ(Theodor Eicke)は,刑務所入所経験も豊富で,強制収容所の管理を任された。ヒムラーは,アイケを強制収容所看守部隊長,すなわち親衛隊髑髏部隊最高指揮官に任命したのである。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブの写真は,アーカイブに直接登録,許可を得て引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています
(他引用不許可)。
1933年3月,ナチスは,政権獲得直後に反体制派を収監,再教育,処罰する強制収容所を開設した。
増田好純(2002)「ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成」(2002年当時東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程)『ヨーロッパ研究』第1号では,次のようにダッハウ強制収容所の沿革を記述している。
1933 年4月2日、当時バイエルン政治補助警察指導者だったヒムラーは、ダッハウ収容所(Konzentrationslager Dachau)を保安警察から SS に移管させ、同年6 月にはアイケを所長に任命した。アイケは、同年10 月1 日、捕虜収容所に関する規律・懲罰規則により、拘禁をはじめ煽動者の絞首刑または反乱者の射殺まで含む囚人対象の懲罰を体系化し、歩哨及び衛兵に関する服務規定Õ によって囚人に対する SS 衛兵の行動をも一元的に監督して、収容所内でのテロルを制度化していった。規律・懲罰規則は、衛兵教育によって徹底され、殺害をも含む暴力行為に擬似合法的な根拠を与えた。
後に KL アウシュヴィッツの所長となるルドルフ・ヘス(Rudolf Höss)は、ダッハウでの衛兵教育におけるテオドール・アイケの言葉を回想している。「諸君は平時にもまた日夜、敵に、鉄条網の背後の敵どもに立ちむかっている、唯一の兵士なのである」。
規律・懲罰規則が全ての囚人に課していた労働義務は、収容所の建設・保守管理または自給を目的とする作業場などを除いて、所内の道路を延々と整地させ続ける、あるいは砂山を移動させてから元の場所に戻させるといった方法で実行され、虐待・懲罰の側面を色濃く持っていた。(引用終わり)
写真(右)1940年8月28日,親衛隊国家保安本部SD長官ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)(1904年3月7日-1942年6月4日暗殺):海軍士官だったが,女性問題で除隊。その後,1931年ナチ党に入党,7月に親衛隊に配属。1934年ゲシュタポ局長に就任し,6月「長いナイフの夜」(Die Nacht der langen Messer)で反ナチス派粛清を主導。 1939年9月,党組織だったSDと保安警察が統合され,親衛隊国家保安本部SDが設立され,ハイドリヒはその長官に就任。 1941年9月,ベーメン・メーレン保護領副総督(Protektorat Böhmen und Mähren)に就任。1942年2月,ユダヤ人の絶滅「最終的解決」を決めたヴァンゼー会議を主宰。 チェコスロバキア亡命軍人からなる暗殺団が英軍特殊工作部SOEから派遣され,1942年5月27日,プラハで,ハイドリヒ搭乗車を襲撃,暗殺。 Original title: Zentralbild
28.8.1940
SS- Gruppenführer Heydrich, Präsident der Intern. kriminalpolizeilichen Kommission.
Der Chef der Sicherheitspolizei und der Sd, SS- Gruppenführer Heydrich, hat die Leitung der
Internationalen kriminalpolizeilichen Kommission als deren Präsident übernommen.
Dating: 28. August 1940 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
オラニエンブルクOranienburg収容所ゲートには,「働けば自由になる」"Arbeit macht frei"という標語が掲げられた。1933年3月に開設されたダッハウ強制収容所(Dachau Concentration Camp)が1936年に改築されたときにも,この標語が掲げられた。
「働けば自由になれる」とは,ナチスの作った強制収容所のモットーだった。それが,生きてでることを許さないアウシュビッツ強制収容所のゲートに掲げられたのは,入所者を騙し,混乱なく収容するためである。
1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物・インテリを処置。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。
1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害。親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。占領直後,ポーランドに、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何万人ものユダヤ人を狭い空間に押し込めた。
1939年9月21日,開戦から3週間,SS保安警察長官ハイドリヒは,ユダヤ人のゲットー強制移送を指示。
写真(右)オーストリア,マウトハウゼン強制収容所の親衛隊監視員:軍帽の正面に,親衛隊を示すドクロの記章がついている。ドクロとなるまで戦うという気概を示すのか,敵をドクロにするというのか。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Unterscharführer der SS, Unbekannter SS-Mann, Porträt
Dating: 1939/1944 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ポーランドのリボフLvov(ドイツ語レンベルク)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。しかし,9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐,リボフもソ連軍が占領した。ソ連軍が進駐していた時期に,ソ連に協力したユダヤ人・ポーランド人もいたであろうが,ソ連はユダヤ人を信用せず,1940年春,反ソ連のユダヤ人数百名をシベリアに送った。
ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)後の6月30日,ドイツが再び,リボフのソ連軍を攻撃,占領した。ドイツのリボフ占領時,リボフのユダヤ人口は16万人だった。
1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)
第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国の警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー追放に協力した。ゲット−隔離前,ドイツはユダヤ人情報を収集するためにユダヤ時に登録を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。
しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。
写真(右),1942-43年,オーストリア,マウトハウゼン強制収容所の親衛隊エドワルト・クレプスバッハ博士: Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen.- Porträt Dr. Eduard Krebsbach, Arzt des KZ Mauthausen, als SS-Sturmbannführer; ca. 1942/1943
Dating: 1942/1943 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆反ナチスとされた下等劣等人種ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的犯罪者など危険な非国民は,ドイツの敵である。彼らを拘束し,更正させる場所として,刑務所に加えて,1933年から,強制収容所KL(ラーゲル)を設置。ラーゲルを管理し,監視したのが,親衛隊SS髑髏部隊である。
ドイツ国防軍は,一時,不名誉な一般市民虐殺を阻止しようとしたが,虐殺命令が最高位からのものと知ると,治安維持任務,軍政担当の責任を負うことを回避した。親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。これは,軍の責任回避ともいえる。
<恩義のあるユダヤ人を保護したヒトラー>
ヒトラー自身は、法を超えた存在の独裁者であるから、恩義から第一次大戦中の元上官のユダヤ人を保護した。
Jewish Voice From Germany Hitler’s Jewish Commander and Victim by Susanne Mauss|July 4, 2012(時事通信「ヒトラー、元上官のユダヤ人保護=側近の書簡発見―ドイツ」2012年7月13日)配信によれば、ヒトラーが、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)へ突き進む中、かつて上官だったユダヤ人男性を迫害しないよう命じていた事実を示す文書が見つかった。この男性は第1次世界大戦中、ヒトラーが所属した中隊を指揮していたErnst Hess エルンスト・ヘス氏。ヒトラー側近のナチス親衛隊指導者ヒムラーが警察幹部に送った1940年8月19日付の書簡で、ヘス氏について「総統の希望により」保護すると明示している。
書簡はドイツのユダヤ系紙ジューイッシュ・ボイスがノルトライン・ウェストファーレン州(:Nordrhein-Westfalenエルンスト・ヘス氏は1936年、ヒトラーに迫害対象からの除外を求める請願書を送り、「ユダヤ人と呼ばれ、周りから軽蔑されるのはある種の精神的な死だ」と訴えた。これ以降、同氏は年金を渡されるなど、他のユダヤ人とは異なる扱いを受けた。
エルンスト・ヘス氏は、1937年、家族と共に一時イタリア北部の南チロル(ドイツ人住民が半数)に移り、ユダヤ人を示すJをつけていない旅券を発行してもらうこともできた。1939年6月、ドイツとイタリアの間に南チロルドイツ住民帰国協定が結ばれ、ドイツ人のヘス一家はドイツに帰国さざるを得なくなった。1940年6月、ヘスがアーリア化を申請にミュンヘンの事務所に行ったとき、ヒトラーによる庇護命令が、5月以降無効となったことが判明した。
このころ、ベルリン在住の妻マルガレーテ(Margarete)は、ヒトラーの第一次大戦中の上官でヒトラー副官となっていたフリッツ・ヴィーデマン(Fritz Wiedemann)の保護を受け、年金を受けていたが、それも受けられなくなってた。ヘスは、ミュンヘン郊外の強制収容所に送られたが、妻マルガレーテ(Margarete)がユダヤ人でなかったため、建設労働を強制されるだけで済んだ。ヘスは、虐殺を免れ1983年9月に93歳で死去するまでドイツで暮らした。他方、1942年7月21日、ヘスの母エリザベスと妹ベルタ(Berta)は、チェコのテレジン強制収容所に送られ、その後、ベルタはアウシュビッツ強制収容所に再移送され、殺害された。母エリザベスは、1945年2月5日、テレジン収容所から解放され、列車でスイスに送られた。これは、親衛隊国家長官ヒムラーが、米英連合軍と和平交渉に入ろうとしたためだった。
ヘスの娘ウルズラ(Ursula Hess;86歳)によると、ヘスはヒトラーについて、部隊に友人はなく、誰とも言葉を交わさなかったと振り返り、「全く取るに足らない男だった」と話していたという。ヒトラーは母親の治療に当たったユダヤ人医師エドゥアルト・ブロッホ氏を「高貴なユダヤ人」と呼んで保護した。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。これはあくまで過激な表現のプロパガンダに過ぎない,と誤解したドイツ人,連合国指導者もいた。
2.強制収容所の拡張
写真(右)1941年ごろ,オーストリア,マウトハウゼンMauthausen強制収容所に着いた捕虜のユーゴスラビア軍兵士:ドイツ軍のユーゴ侵攻のときの捕虜と思われる。マウトハウゼン強制収容所には,石切り場があり,そこで収容者が酷使された。食料供給は不足し,居住環境も劣悪だったので,たくさんの囚人が死亡した。ガス室はなくとも,強制収容所の囚人多数が死亡している。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft, vermutlich jugoslawischer Häftling im KZ Mauthausen
Dating: 1941/1944 ca.
Photographer: o.Ang.撮影者不明。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
1941年4月,ユーゴスラヴィアに反独クーデターが勃発,三国同盟を破棄したわけではないが,これを無視するかのように,ソ連と友好不可侵条約を結んだ。1941年4月6日,ドイツ軍は即座に,ユーゴスラヴィアに侵攻し,4月13日,1週間でユーゴは降伏した。
ユーゴスラビアが,同兵力のドイツ侵攻に対して,僅か1週間で降伏したのは,クロアチア,モスレムの裏切りがあったためだというセルビア人もいる。
このドイツ軍ユーゴ侵攻の時,日ソ中立条約が締結さた。ソ連は,いずれ英国が敗れれば,ドイツがソ連を攻撃してくると予測していたから,極東アジア方面での日本軍によるソ連侵攻を警戒していた。
1939年に,モンゴル,満州国境のノモンハンで,日ソ両軍は激戦を繰り広げたことがあった。が,ソ連はドイツを牽制するために,日本との関係改善を決めた。松岡外相をスターリン首相自らが駅頭に送迎した破格の応対はその成果を誇るためである。
ユーゴスラビアは第二次大戦に参戦していなかったが,イタリア,ルーマニア,ハンガリー,ブルガリアがドイツと軍事同盟を締結したために,包囲されることになった。そこで,1941年3月25日にドイツと同盟を締結したが,翌日,ユーゴ軍はクーデタを起こした。
写真(右):1941年ごろ,オーストリア,マウトハウゼン収容所に到着した捕虜となったユーゴスラビア軍兵士:ドイツ軍は,ソ連との同盟を図ったユーゴスラビアを懲罰するために,ユーゴを武力で占領した。マウトハウゼン強制収容所には,この後,1941年6月22日に,独ソ戦が勃発すると,ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士が大量に送り込まれた。
ドイツ軍は,ユーゴスラビアで,ドイツ傀儡軍として武装親衛隊の志願兵を募ったが,セルビア人などスラブ系民族を蔑視していた。そして,ドイツに反抗したユーゴスラビア軍兵士を,強制収容所に収監し,過酷に扱った。彼らも,石切り場の重労働を課せられ,食糧不足,病気の蔓延,体罰・懲罰によって,殺害されたと思われる。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft, vermutlich jugoslawische Häftlinge im KZ Mauthausen
Dating: 1941/1944 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年10月,オーストリア,マウトハウゼン強制収容所のソ連赤軍捕虜:ドイツ軍兵士の監視下におかれた捕虜たち。マウトハウゼンには,花崗岩の採石場があり,そこの石切り出し作業に囚人が投入された。 ドイツ軍は,ソ連との同盟を図ったユーゴスラビアを懲罰するために,ユーゴを武力で占領した。そして,ドイツに反抗したユーゴスラビア軍兵士を,強制収容所に収監し,過酷に扱った。この後,独ソ戦が始まり,ソ連赤軍の捕虜が送り込まれた。囚人は,石切り場の重労働を課せられ,食糧不足,病気の蔓延,体罰・懲罰によって,殺害された。
Archive title: Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener am Appellplatz von Gusen, Oktober 1941
Dating: Oktober 1941
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである。妄想的な宿命論を信じたヒトラーは,参戦義務がないにもかかわらず,対米宣戦布告をした。いままで,宣戦布告など一切問題としなかったヒトラーだが,世界のユダヤ人相手の最終戦争は,自ら宣戦布告すべきであると判断した。この次期に,アウシュビッツ強制収容所が大拡張されることが決定した。
ナチスは,ソ連の領土は,ドイツ人・ドイツ系民族(民族ドイツ人)の殖民する領土であると認識した。したがって,占領したソ連の肥沃な大地に,ユダヤ人を追放することは考えられない。英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画されたことはある。しかし,戦時中,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。また,早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。収容したユダヤ人の処置が緊急問題となった。
写真(右)1936-1940年,オーストリア、マウトハウゼン強制収容所の練兵場で若い受刑者が芸をさせられている。:Mauthausen-Memorial公式ページには「終戦間際の数ヶ月間は、このマウトハウゼン強制収容所の定員人数をはるかに上回る囚人の収容や日に日に悪化する食料不足などにより、収容所の状態は悲惨なものとなりました。多くの囚人たちが解放後拘留中に損なった健康がもとで野戦病院で亡くなり、収容所を生き延びた人たちも、その後彼らの人生の大きな部分を失ったことに対していまだに癒えない心の傷と戦っているのです。」とある。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Jugendliche Häftlinge am Appellplatz des KZ Mauthausen
Datierung: 1939/1944 ca.
Fotograf: o.Ang.
Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離,ユダヤ人の持つ資産を闇市や強奪によって吸い上げるとともに,ユダヤ人の自治を認めて,ユダヤ人を分割統治した。ユダヤ人評議会が,ゲットーの行政を担い,ユダヤ人警察がゲットーの治安を維持した。親衛隊は,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察を支配していたから,かれらに,ゲットーから強制収容所に移送する住民の人数を指定した。ユダヤ評議会が登録名簿から,移送者名簿を作成,ユダヤ人警察がユダヤ人を集めた。しかし,1943年になると,ゲットーを一掃する,すなわちユダヤ人全員を強制収容所に移送する命令がでるようになる。
1941年9月,チェコ保護領総督(代行)に栄転したラインハルト・ハイドリヒは,労働者の権利擁護と潜在的敵対者の排除という分断統治をし,成果を上げた。そこで,英軍は,チェコ市民がドイツ占領を許容するのを阻止するため,チェコ人暗殺特殊部隊(コマンドー)を空輸し,1942年5月27日、プラハでハイドリヒの類人猿暗殺Operation Anthropoidに成功した。ドイツ軍は,暗殺者たちを内通を得て発見し,教会の地下に追い詰めた。特殊部隊隊員たちは最後を悟り,自決した。
英軍は,ハイドリヒを暗殺すれば,ドイツがチェコを弾圧し,チェコ人とドイツ人とを離反させることができると謀略を行った。1941年6月10日,ドイツ軍は,暗殺特殊部隊(コマンド)を匿った容疑でリディツェ村を徹底的に破壊し,成人男子を虐殺,残りは強制収容所に収監した。これは,恐怖による支配を容易にするために公表された。
暗殺や諜報に優れた英軍コマンド,英国秘密諜報部(MI6
写真(右)1941年,マウトハウゼン・グーセン強制収容所を視察した親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーの一行:ナチスは政権獲得数ヶ月で,1933年初めに,強制収容所を設立した。オーストリアは,1938年にドイツに併合されたが,ここにも強制収容所を解説した。その最大のものが,リンツ郊外に設置されたマウトハウゼン強制収容所(Mauthausen concentration campÖsterreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Besuch Heinrich Himmler im Lager Gusen
Dating: April 1941 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆アウシュビッツ収容所は,占領したポーランド軍兵舎を利用し,1940年に建設が始まった。4月,アウシュビッツ収容所長となるルドルフ・ヘス(副総統とは別人)が到着,囚人を使役して,第一期工事として収容所を完成させた。ガス室はなく,銃殺,懲罰房での殺戮が行われた。1940年7月,毎日70体の死体を処理できる焼却炉が設置された。 1941年3月,親衛隊国家長官ヒムラーがアウシュビッツを視察に訪れ,収容規模を1万名から3万名に増加させるように収容所の拡張を指示した。
1941年10月に,アウシュビッツの拡張工事が始まり,12月までに,ソ連軍捕虜1万名がアウシュビッツに送り込まれた。その間,1941年9月,アウシュビッツ収容所では,試験的にチクロンBを使って,ソ連軍捕虜600名,病人300名をガス殺した。
◆1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,1941年12年11日、ヒトラーは次の国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説をしている。
We know the power behind Roosevelt. It is the same eternal Jew that believes that his hour has come to impose the same fate on us that we have all seen and experienced with horror in Soviet Russia. We have gotten to know first hand the Jewish paradise on earth. Millions of German soldiers have personally seen the land where this international Jewry has destroyed and annihilated people and property. Perhaps the President of the United States does not understand this. If so, that only speaks for his intellectual narrow-mindedness.
日独伊三国軍事同盟では,第三国から攻撃を受けた場合,共同防衛することを定めている。したがって,日本軍の攻撃で開始された太平洋戦争に,ドイツは参戦する義務はなかった。しかし,ヒトラーは,アメリカのユダヤ人の陰謀によって第二次世界大戦が開始された以上,ドイツも米国との戦争に巻き込まれるのは運命であり,世界のユダヤ人を敵として戦うべきであると果断した。
ドイツ軍は,1941年6月22日の独ソ開戦以降,ソ連赤軍に大打撃を与えたが,優秀なドイツ兵士16万名が犠牲になっている。ヒトラーは,この犠牲の責任を,ユダヤ人にとらせるつもりだった。ドイツの対米宣戦布告によって,アメリカのユダヤ人に配慮して,欧州ユダヤ人の最終解決を遅らせる必要はなくなった。ユダヤ人や敵性住民を収監する強制収容所で,最終解決の名の下に,ユダヤ人絶滅を実行すべきときがきた。
これに対して、ルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が米議会に対して、すぐに行われた。
1941年12月13日,ナチス宣伝省ゲッペルスJoseph Goebbelsの日記「総統Führerは、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと(1939年に)と予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」
With respect of the Jewish Question, the Führer has decided to make a clean sweep. He prophesied to the Jews that if they again brought about a world war, they would live to see their annihilation in it. That wasn't just a catch-word. The world war is here, and the annihilation of the Jews must be the necessary consequence. (12/12のヒトラー総統によるナチス党幹部への演説をもとにした記録)
1941年12月16日,ポーランドのクラカウ総督だったナチス党幹部ハンス・フランク Hans Frankも,ヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の命令に言及した。東方占領省ローゼンブルクRosenbergも確認している。
1941年12月18日に大本営(Wolfsschanze) でヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の口頭命令を受けて、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)は,国内外世論,処刑者の精神的苦痛,ユダヤ人の反抗・ゲリラ活動防止,治安維持に配慮して,密かに強制収容所を「絶滅」システムに組み込んだ。
1941年12月18日頃のヒムラー長官のメモ Judenfrage / als Partisanen auszurotten 英語翻訳:Jewish Question / to be exterminated like the partisans
写真(右),オーストリア,マウトハウゼン強制収容所のバラック内トイレの囚人:懲罰なのか,トイレの水道管に,首かせをつけられて,拘束されている。 Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, erhängter Häftling im Latrinenraum einer Baracke
Dating: o.Dat.
Photographer: o.Ang. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
労働可能者は,過酷な条件の下,軍需工場での奴隷労働,収容所の作業班に充当され,生きることを許される。しかし,栄養失調や病気で労働不能になれば,処刑された。収容所に到着したユダヤ人たちは,生死の選別がなされているとは気づいていない。家族が一緒のバラックで暮らすことを希望していたので,子供を離さない婦女子が多かった。 親衛隊の収容所管理者・看守は,ユダヤ人が暴動を起こさないように十分に配慮したマニュアルを作成し,ユダヤ人絶滅を細心の注意をもって,冷静に実行した。
ナチス政権の下で,ドイツとその占領下では敵性住民を収監する強制収容所(Konzentrationslager:KL)が設置され,ナチス親衛隊SSは囚人に労働を義務付けた。しかし,これは,保護拘禁による更正を目的としたものではなく,懲罰,迫害の手段であり,同時に戦局の悪化に伴って,奴隷労働を確保する手段となった。収容所における囚人労働の意味は,当初の懲罰から増産のための奴隷労働へと変化したのである。
囚人に対して恣意的に懲罰を与えるのではなく,生産増加に役立たせるために,親衛隊は収容所の囚人を組織化し,軍需企業に奴隷労働として「売り渡す」ようになった。食糧不足,過酷な労働条件の下で酷使し,囚人を奴隷労働として使い捨てにすることは,労働を通じた絶滅 (Vernichtung durch Arbeit)と呼ばれることもある。
アウシュビッツ=ビルケナウAuschwitz/Birkenau- Oswiecim-Brzezinka (絶滅収容所extermination camp -
51支所);設立時期は,アウシュビッツ収容所は1941年4月,ビルケナウ収容所は1941年10月,モノビッツMonowitz労働収容所は1942年5月設置。1943年11月,アウシュビッツは三分割され,アウシュビッツ第一収容所(基幹収容所),アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ),アウシュビッツ第三収容所(モノビッツ)と,管理上,3つの独立した収容所に分割された。それまで,アウシュビッツ収容所長だったルドルフ・ヘスは,収容所統監府の経済行政本部DI局長(1945/5/1付)に転出。
ガス室による大殺戮が行われたのは,アウシュビッツ第二ビルケナウ絶滅収容所で,初代所長はフルードリヒ・ハルテンシュタインSS上級大隊長だが,1944年5月から1944年12月1日まで,ヨーゼフ・クラーマー(1906-1946)SS突撃本隊長が所長を務めた。親衛隊長官ヒムラーは,1941年3月1日,IGファルベン首脳らとともに,アウシュビッツを視察,平時でも3万名の収容を可能にすること,IGファルベンの化学工場建設準備をヘス所長に命じた。1941年夏,ヘス所長は,ベルリンに呼び出され,ヒムラー長官からヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮の命令を伝えられた。(Crematoria and Gas Chambers引用)
写真(右)1938年,ベルヒテスガーテン,ベルクホーフ山荘でアドルフ・ヒトラー総統と打合せをする建築家アルベルト・シュペール(右):シュペールは,ヒトラーと建築への関心をともにした。ニュルンベルクのナチ党全国大会では,探照灯を用いた光の神殿を大空にくくってヒトラーを喜ばせた。後に,飛行機事故で死亡したトート博士の後任として,軍需大臣に就任。強制収容所の奴隷労働,東方労働者について,責任がある立場だったが,回想録では,劣悪な取り扱いは知らなかったと述べている。 Original title: Zentralbild
5050-50
Architekt Speer war noch vor der Machtergreifung Hitlers der persönliche Freund des Bauzeichners Hitler; nicht nur die Gemeinsamkeit der beruflichen, sondern auch der politischen Interessen brachte sie näher.
[1938?]
Archive title: Obersalzberg.- Adolf Hitler (rechts) und Albert Speer über Plänen im Berghof, 1938
Dating: 1938 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
Geography Germany: Berchtesgaden
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
3.強制収容所の囚人による奴隷労働
アウシュビッツの囚人数は,1941年3月1日1万900名,1942年12月1万8,000名,1943年3月3万名,1943年末には8万名へと増加。内訳は,1万8,437名が基幹収容所, 4万9,114名がビルケナウ,1万3,288名がモノビッツ(IGファルベン化学工場)にいた。1944年1月,ビルケナウの女子囚人は2万7,000名だった。1944年8月の囚人数は10万5,168名。 アウシュビッツに収監された総計250万名のうち,40万5,000名に囚人番号が付与された。そのうち50%がユダヤ人で,残りはポーランドなど他国だった。その中での生存者は6万5,000名だった。アウシュビッツに収監されたる囚人のうち20万名が生き残ったと推計される。
増田好純(2002)「ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成」(2002年当時東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程)『ヨーロッパ研究』第1号によれば,次のように都市建設労働者の調達のために強制収容所KLの囚人が投入される計画になっていた。
1937年1月30日,アルベルト・シュペーアは公式にヒトラーの最大の建設課題を委託されて、帝国首都建設総監GBI に就任した。------ところが,アドルフ・ヒトラーの建設計画を実現するに当たっては最初から問題が持ちあがった。膨大な規模に上ることが予想されていた建設資材の調達である。雇用問題を解決したヒトラー政権は、1936 年を境に、一転して労働力不足に悩まされていた。それゆえ、四ヵ年計画(1936 年4 月) による重要な原材料及び労働力の統制下にあって、ドイツの建設資材産業は、ヒトラーの建設計画に伴う大規模な追加需要に応えうる状況になかった。解決策は、KL 囚人を使役する SS 建設資材工場の設立に求められた。ヒトラー、シュペーア、ヒムラーらは、KL 囚人を建設資材生産に大規模に投入することに合意し、SS は囚人を使役する建設資材工場を設立、経営することになった。-----SS 建設資材工場を設立する任務は、SS 中将に昇進していた SS 管理局長ポールに一任された。
写真(右)1941年4月,マウトハウゼン強制収容所司令官(所長)フランツ・ジーライス(Franz Ziereis){左手前}の案内で視察する親衛隊SS指導者ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)とウィーン警察長官カルテン・ブルンナー(Ernst Kaltenbrunner)SS警察中将:マウトハウゼンは,オーストリア・リンツ郊外にある収容所で,1938年8月,アンシュルス(ドイツへのオーストリア併合)後,リンツ郊外20kmに設立。 "Vernichtung durch arbeit" (労働による絶滅)をモットーとした強制収容所。地下トンネルの支所として,Gusen (I, II and III), Melk,Ebenseeがあった。マウトハウゼンは,オーストリアの収容所だが,小規模なガス室があり,1942年春頃まで時々使用された。現在もシャワー室に似せた小型ガス室が公開されている
マウトハウゼン記念館(Mauthausen-Memorial)公式ページによれば,「---1945年5月5日の解放に至るまでの間、20万人のヨーロッパ各国及び世界中の囚人たちが非人間的な拘留条件やナチの拷問方法の下で苦しみました。半分以上の人がこの拘留で命を落としたのです。囚人たちは過酷な労働や、最低の衛生管理を原因とした伝染病で死亡し、あるいはナチの警備班に射殺されたり、マウトハウゼン強制収容所(Konzentrationslager Mauthausen )のガス室やグーゼン隣接収容所、“安楽死施設”ハルトハイムなどで毒ガスによりその命を絶たれました」とある。マウトハウゼンには隣接した花崗岩の石切り場で囚人が働かされた。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Himmler, Kaltenbrunner und Ziereis in Mauthausen, April 1941
Dating: April 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ヒムラーは、1940年初頭、アウシュヴィッツに KLを設置することを決定した。---アウシュヴィッツは、東部における農業試験場になるのであり、ドイツ本国では期待できないような可能性をも秘めている。それを支える労働力も十分にある。植物実験や家畜の育種もなされねばならない。
1941年7月20日、ルブリンではヒムラー、グロボクニク、ポール及びカムラーが会談して、総督府における SS・警察の基地建設計画が話し合われた。----しかし計画の内容をみたヒムラーは、1942 年1月31日----この予定総額では過少であるとして計画の改訂を命じた。また、同じ書簡でヒムラーは、戦債を抱えるであろう政府からは支出が期待できないことを指摘し、それゆえに独力で計画を実現するため、KL 囚人たちを各種の建設工に養成するべく必要な措置をとるよう命じていた。「住居及び官公庁建造物の80パーセントを私達が、自分自身の資材と労働力で建設しなければならないのです。そうでなければ、私達はきちんとした兵営も学校も仕事場ももらえないでしょうし、ドイツ本国に SS 隊員用の住居も持てないでしょう。それに私はドイツ民族性強化全権として我々がドイツ化するべき地域での大植民を果たすことが出来ないでしょう。」
写真(右)1941年,オーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所:強制収容所を建設するのも囚人の役目だった。囚人は,奴隷労働とおして,無給で酷使された。生きるためには働くしかなかったが,「労働が自由にする」という標語は完全な偽りである。死ぬまで働かされただけだった。 マウトハウゼン記念館Mauthausen-Memorial公式ページには「マウトハウゼンの主要収容所では、1943年後特に収容者を分配し、まずは軍備生産の強制労働を目的とした外部収容所の完全組織が発展しました。」とある。 Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Bau des Kommandanturgebäudes, 1941
Dating: 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
<オーストリアAustriaのマウトハウゼン強制収容所(Konzentrationslager Mauthausen) (49 支所)>
1938年8月,アンシュルス(ドイツへのオーストリア併合)後,リンツ郊外20kmに設立。 "Vernichtung durch arbeit" (労働による絶滅)をモットーとした強制収容所。地下トンネルの支所として,Gusen (I, II and III), Melk,Ebenseeがあった。
マウトハウゼンは,オーストリアの収容所だが,小規模なガス室があり,1942年春頃まで時々使用された。現在もシャワー室に似せた小型ガス室が公開されている。
写真(右)1941年10月,オーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所に集められたソ連赤軍捕虜:
Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener im KZ Mauthausen, Oktober 1941
Dating: Oktober 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1945年5月5日,米第11機甲師団がマウトハウゼン強制収容所(Konzentrationslager Mauthausen)を解放した時,1万5,000の死体があり,数週間のうちに,飢餓・重態にあった囚人3000名が死亡した。
1939-1945年に,マウトハウゼン収容所で看守を務めた親衛隊SSは1万名を超えたが,氏名が判明しているのは818名に過ぎない。
1946年3月7日のダッハウ裁判では,親衛隊58名が死刑,3名が終身刑を宣告された。
写真(右)1941年10月,マウトハウゼン強制収容所を行進するソ連軍兵士捕虜:ナチス親衛隊は,後に,強制収容所の囚人を奴隷労働者として,大企業に貸し出した。企業は,親衛隊に奴隷労働者貸出料を支払った。もちろん,奴隷労働者への報酬は,生かさされているということだけで,支払いは皆無だった。 Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener im KZ Mauthausen, Oktober 1941
Dating: Oktober 1941
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
戦後,捕まった全てのマウトハウゼン強制収容所(Konzentrationslager Mauthausen)の看守・警備兵・監視員が有罪だったわけではない。
ただし,マウトハウゼン収容所指揮官フランツ・ザイラスFranz Ziereisは,民間人の服を着て隠れていたために,米兵によって,射殺。収容所では,推計15万名が殺害された。大規模なガス室を備えた絶滅収容所以外でも,強制労働,病気,拷問,処刑によって多数の囚人が死亡している。
写真(右),オーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所に着いたグーセン支所の囚人:囚人服を取り替えている光景だが,使い古しの囚人服でも,ボタンがとれていたり,破れていたりすると,懲罰の対象となった。囚人に規律ある収容所生活をさせるという名目で,懲罰が行われたが,このような扱いは,ユダヤ人などを下等劣等人種として人間以下の存在とみなしていたためである。労働力として効率的に利用して,軍需生産を拡大するといった経済的発想は希薄だった。ゲルマン人,アーリア人を人種汚染し,後方を撹乱し,ドイツに戦争を仕掛けてくるような下等劣等人種には,情け無用で,殲滅しなければならいとされた。世界征服をたくらむユダヤ人に対する戦争は,殲滅戦だった。 Österreich, KZ Mauthausen, Einkleidung von Neuankömmlingen im Lager Gusen
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真真(右)1942年4月,オーストリア,マウトハウゼン強制収容所の中央広場に集合した収容所勤務の親衛隊:花崗岩(大理石)で囲まれた立派な広場に集合した親衛隊髑髏部隊の隊員たち。横一行30名で奥に5行、手前に7行とすると360名となる。1万人以上の囚人を監視するために必要な監視員・警備兵は、ちょうど400人くらいであろう。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, SS-Formation, Auszeichnung im Garagenhof des KZ Mauthausen, April 1942
Dating: April 1942
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939-1944年,オーストリア,リンツ郊外マウトハウゼン強制収容所の親衛隊ドクロ部隊(強制収容所看守)宿舎:下士官あるいは兵の宿舎で,清潔な真っ白なシーツと厚いマットレスのあるベット。三人部屋らしい。中央に衣装棚あるいはロッカーがあり,中央の壁には,ヒトラー総統の肖像が掛けてある。右壁には,風景画の複製画がかかっている。 収容所の一般囚人のバラックは,棚式の多段木製ベットに囚人が押し込められていた。
Archive title: Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, SS-Baracke vermutlich in Vöcklabruck/Wagrein
Dating: 1939/1944 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
オーストリア人だったカルテンブルンナーは,ナチスのオーストリア人情報員となったが,1938年3月アンシュルス(オーストリアのドイツへの併合)によって,オーストリアの親衛隊・警察の幹部となった。
カルテンブルンナーは,ハイドリヒ暗殺を契機に,親衛隊保安本部SD長官を引き継ぎ,ゲシュタポ(秘密警察)、刑事警察、親衛隊保安部(SD)を率いた。
写真真(右)1941年4月,親衛隊国家長官ヒムラー視察一行にマウトハウゼン強制収容所を案内するフランツ・ツィライス(Franz Ziereis)所長:ツィライス・マウトハウゼン強制収容所長に付き従う右から二人目の長身の人物は,エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner)。
Archive title: Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Besuch Heinrich Himmler.- Franz Ziereis auf dem unfertigen Appellplatz des KZ Mauthausen
Dating: April 1941 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
カルテンブルンナーは,オーストリア出身,強制収容所を統監する親衛隊保安本部SD長官という地位からいっても,マウトハウゼン収容所に関心を持っていたはずだ。親衛隊国家長官ヒムラーによるマウトハウゼン収容所視察に随行したのも当然だろう。
Mauthausen-Memorial公式ページによれば,「---1945年5月5日の解放に至るまでの間、20万人のヨーロッパ各国及び世界中の囚人たちが非人間的な拘留条件やナチの拷問方法の下で苦しみました。半分以上の人がこの拘留で命を落としたのです。囚人たちは過酷な労働や、最低の衛生管理を原因とした伝染病で死亡し、あるいはナチの警備班に射殺されたり、マウトハウゼンのガス室やグーゼン隣接収容所、“安楽死施設”ハルトハイムなどで毒ガスによりその命を絶たれました。」
「マウトハウゼンの主要収容所では、1943年後特に収容者を分配し、まずは軍備生産の強制労働を目的とした外部収容所の完全組織が発展しました。----終戦間際の数ヶ月間は、このマウトハウゼン強制収容所の定員人数をはるかに上回る囚人の収容や日に日に悪化する食料不足などにより、収容所の状態は悲惨なものとなりました。多くの囚人たちが解放後拘留中に損なった健康がもとで野戦病院で亡くなり、収容所を生き延びた人たちも、その後彼らの人生の大きな部分を失ったことに対していまだに癒えない心の傷と戦っているのです。」とある。
写真(右)1941年4月,マウトハウゼン強制収容所の石切り場を見学する親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーと親衛隊管理経済本部長官オズワルド・ポール(Oswald Pohl)親衛隊中将の一行:マウトハウゼン収容所とそこに隣接している花崗岩の石切り場を見学した。写真にヒムラー長官はうつっていないが,右端は,民間のビジネスマンで,採石場の管理に加わっていたのであろう。右奥の黒服は,警察幹部と思われる。そのさらに奥の崖っぷちに,三脚のついた撮影機材がある。視察報告の参考資料を作成しているのであろう。この花崗岩で,マウトハウゼン収容所の管理施設が建築されたほか,全土に切石が供給された。1942年2月1日にオズワルド・ポールは、新設の経済管理本部長官に任命され、強制収容所の囚人奴隷の活用にも責任を負った。 Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Besuch Heinrich Himmler.- SS-Männer vor Steinbruch; April 1941
Dating: April 1941
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
オーストリア、マウトハウゼン強制収容所の囚人たちの働かされていた大理石の石切り場は、オーストリア最大級の採石場である。大理石は、日本では兵庫県の御影で多く算出されたことから「御影石」と呼ばれている。「御影石」は、地下の熱いマグマが地殻の深層部で冷却し固結して結晶化した岩石である。
大理石(マーブル)は、黒い雲母、褐色の長石、白い石英が混合した主な石室であり、結晶が顕著である。「御影石」は、美しく、耐久性に優れているために建築材として人気がある。しかし、大理石は、硬度が高く、加工が困難なために建築資材としては経費が掛かる。その一方で、大理石表面仕上げの方法は多彩であり、「本磨き仕上」・「水磨き仕上」・「バーナー仕上」・「小叩き仕上」・「ビシャン仕上」と用途に応じた仕上げ方が可能である。
写真(右)1941-42年,マウトハウゼン強制収容所の石切り場:マウトハウゼン収容所に隣接した花崗岩の石切り場で,ハインリヒ・ヒムラーが視察したときの撮影と思われる。石切り場の上部の左右に,囚人監視塔が見える。底には,着られた花崗岩が並べられているようで,トロッコとその軌道も確認できる。左端には,底の石切り場と上部をつなぐ,石でできた階段が見える。この石段を,囚人は重い切石を背負って,登らされた。 Archive title: Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Steinbruch Wiener Graben, 1941-1942
Dating: 1941/1942
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1941-42年,マウトハウゼン強制収容所の石切り場:マウトハウゼン収容所に隣接した花崗岩の石切り場で,多数の囚人・捕虜が酷使された。この底で,囚人は石を切り出し,上まで運び上げなければならなかった。この花崗岩で,マウトハウゼン強制収容所の管理施設が建築された。親衛隊SSは,ドイツと占領地における主要な切石を供給する大産業を傘下においていたのである。マウトハウゼン近郊には、グーゼン、エーベンゼーなど収容所があった。 Archive title: Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Steinbruch Wiener Graben, 1941-1942
Dating: 1941/1942
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
現在、ドナウ河畔(左岸)にあるマウトハウゼンは、中世の色合いを残す町並みの美しい観光地だが、強制収容所はここから数キロの採石場を見下ろす丘の上にあった。収容所跡には、花崗岩でできた中央広場と、収容所展示室、囚人宿舎などがある。
写真(右)1944年,オーストリアのマウトハウゼン強制収容所石切り場の石段:囚人は,186段の階段を採掘した重い花崗岩を背負って運ばなくてはならなかった。石切り場の底から,運ばれた花崗岩ブロックは,収容所の施設や外壁を作るのにも用いられた。Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Häftlinge im Steinbruch (Todesstiege)写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
マウトハウゼン記念館公式ページには,内務大臣Maria Fekterの詞が記載されている。「1945年5月5日、マウトハウゼン強制収容所は解放されました。
7年間に渡るマウトハウゼン強制収容所(Konzentrationslager Mauthausen)内で行われた悲惨事が初めてアメリカ兵によって世界に知らされたのです。この犯行の痕跡は戦争の記憶の中に刻み込まれました。しかしその責任問題は長い間触れられずに時が過ぎ去っていったのです。
この元強制収容所を保存し、ここに記念館を設立する決定がなされたのは、この記憶を残し、後世の人々にありのままを伝えていくことの使命感に対する明確な証です。この回想及びマウトハウゼンがその象徴であるナチの犯行から一線を画することが、オーストリアの新たな国民意識の重要観点となるべきなのです。
マウトハウゼン強制収容所は過去においても将来も国境を超えてヨーロッパ史の結晶点であります。マウトハウゼンはまた、ヨーロッパ内外の国民たちの運命を左右した場所でもありました。その追憶は保存されるべきものであり、共通の国際史痕跡として確定し、二度とこのようなことがおこらないように我々はすべての可能性を駆使して努力すべきなのです。」
1945年5月5日,米第11機甲師団がマウトハウゼン強制収容所(Konzentrationslager Mauthausenマウトハウゼン強制収容所(KZ Mauthausen)指揮官フランツ・ツィライス(Franz Ziereis)は,民間人の服を着て隠れていたために,米兵によって,射殺。収容所では,推計15万名が殺害。
フランツ・ツィライス(Franz Ziereis)は、1924年からドイツ・ワイマール共和国の国軍に12年勤務、下士官の軍曹に昇進。その後、強制収容所の運営担当の親衛隊髑髏部隊(SS-Totenkopf)に入隊。親衛隊中尉(SS-Obersturmführer)として髑髏部隊の訓練に当たった。1938年からはオーストリアに転勤となり、1939年2月9日、リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所の所長(指揮官)に就任。第二次世界大戦敗戦まで継続してマウトハウゼンKZ指揮官として勤務。1939年8月25日、親衛隊少佐(SS-Sturmbannführer)に昇進。
1941年4月、親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーとエルンスト・カルテンブルンナーがマウトハウゼン強制収容所の視察をした際には、所長としてマウトハウゼンKZを案内した。1944年4月20日、親衛隊大佐(SS-Standartenführer )に昇進。
1945年、アメリカ軍がマウトハウゼン強制収容所を解放した時にはオーバーエスターライヒ州に逃亡していたが、ドイツ降伏後、1945年5月23日、発見され、民間人の服装で逃走を図ったためアメリカ兵に発砲され重傷を負った。その後、マウトハウゼン強制収容所の最大支所だったグーセン州少女に移送され、死亡。フランツ・ツィライスは、マウトハウゼン強制収容所の囚人から憎悪されていたため、その死体はグーセン収容所に吊るし晒し者にされた。
写真(右)1941年4月ごろ,マウトハウゼン強制収容所の石切り場を視察する親衛隊国家長官ヒムラーの一行:最前列の右から二人目がヒムラー。右側では,縞模様の囚人服を着せられた奴隷労働者が,切り出した花崗岩を木の板に載せている。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Besuch Heinrich Himmler.- Himmler mit Offizieren der SS im Steinbruch Gusen oder Mauthausen; April 1941 (?)
Dating: April 1941 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
増田好純(2002)「ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成」は,次のように述べている。
囚人ヒエラルキーの下では、労働動員は人種主義的な差別化を伴うことになった。例えば1941/42 年冬季の KL ノイエンガンメでは、激しい寒気によって労働動員が休止された日でさえもユダヤ人だけには労働が強制された。----収容生活一般も、苛酷な労働や配給食糧の減少、疫病の蔓延によって悪化の一途を辿った。例えば、KL ダッハウでの囚人死亡率は4% (1938 年)から36% (1942 年)へ、KL ブーヘンヴァルトでは10% (1938 年)から19% (1941年)へと上昇した。
1942年1月-1942年3月に, 収容者17万5,000名がガス室で殺害された。 1942年8月に大型の新式ガス室建設計画が始まり,1943年3月末に一部が稼動可能になった。1943年4月- 1944年3月のビルケナウのガス室でチクロンBによる殺害は16万名。1944年3月-1944年11月には,他の収容所からも囚人に加えて,ハンガリー・ユダヤ人,ポーランドに残っていたゲットーからのユダヤ人を受け入れ,58万5,000名をガス室で殺戮したとされる。 1945年1月27日ソ連軍により解放した時,女物衣類83万6,525点,男物衣類 34万8,820点,クツ4万3,525点が発見された。 (増田好純(2002)「ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成」引用終わり)
写真(右)1941年4月,マウトハウゼン強制収容所の石切り場から石段を上る親衛隊国家長官ヒムラーの一行:左端には,縞模様の囚人服を着た奴隷労働者が,かしこまっている。それを無視するかのように談笑して立ち去るナチス高官たち。
KonzentrationslagerのIGÖsterreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Besuch Heinrich Himmler.- Himmler mit Offizieren der SS im Steinbruch Gusen oder Mauthausen; April 1941 (?)
Dating: April 1941 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ベルゼクBelzec(絶滅収容所 - 1 支所);1941年11月設置,1942年3-5月に一酸化炭素を使ったガス室が設置。ユダヤ人1000名を収容所作業に使役。ポーランドのルブリン,リボフのゲットーから移送したユダヤ人8万名を処理。1942年7-12月には,クラカウからのユダヤ人13万名とリボフ地区とラドムその他のユダヤ人21.5万名を処理。1943年初期の間は,遺体を焼却,埋める作業が続けられた。閉鎖,1942年3月-1942年12月まで,絶滅収容所として機能し,30万-50万名を殺戮したといわれる。証拠隠滅のために農場に転換された。200年に発見,2001年に公開されたラインハルト(Reinhard)作戦指揮官Hermann Hoefle(Höfle)の電報Höfle Telegram によれば,43万4,508名のユダヤ人を1942年12月末までに殺戮したことを伝えている。
第三収容所ブナにあったIGファルベン社 IG Farbenindustrieの化学工場Buna Werke: 数万人のアウシュビッツ囚人の奴隷労働の犠牲の上に建設された。奴隷労働者による軍需生産が行われた。ナチスの自給経済強化のために,IGファルベンは,資金,原材料,労働力,敷地などの国家による優遇・庇護を受け,1940年に上シレジアにおいて,戦略物資としての合成ゴム,石炭液化燃料の生産を担う計画が決定した。ここは,石炭,工業塩(ヴェリチカにて),水のある場所で,連合軍の空襲圏外だった。しかし,1944年後半,連合軍の爆撃を受けることになる。(ただし,収容所が空襲されたわけではない)Auschwitz-Birkenau State Museum, Poland引用。
写真(右)1943-44年,囚人が切り出した花崗岩を使って拡張中のオーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所:隣接する花崗岩の石切り場から,囚人の奴隷労働者を酷使して石を切り出して,収容所を整備した。マウトハウゼン記念館Mauthausen-Memorial公式ページには「終戦間際の数ヶ月間は、このマウトハウゼン強制収容所の定員人数をはるかに上回る囚人の収容や日に日に悪化する食料不足などにより、収容所の状態は悲惨なものとなりました。多くの囚人たちが解放後拘留中に損なった健康がもとで野戦病院で亡くなり、収容所を生き延びた人たちも、その後彼らの人生の大きな部分を失ったことに対していまだに癒えない心の傷と戦っているのです。」とある。 Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Fundament des Krankenreviers im KZ Mauthausen, 1943-1944
Dating: 1943/1944
Dating: 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
4.ユダヤ人問題の最終解決
1941年6月6日(ドイツの対ソ侵攻直前)、ドイツ軍最高軍司令部によるボルシェビキ指導者の政治委員(コミサール)射殺命令:1941年4月以来、親衛隊SS長官ハインリヒ・ヒムラーは,ヒトラー総統から、ドイツの敵を処置する特別の使命を委ねられていると公言し,ドイツのソ連侵攻が決定的となった時点で,コミサール抹殺命令が出た。
写真(右)1941年,拡張中のマウトハウゼン強制収容所の管理棟:ヒムラー長官が視察した1941年4月には,拡張中だったようだ。収容所に隣接する石切り場から,花崗岩を奴隷労働者が切り出していた。その石を運ばせて,収容所を拡張した。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Aufbau des Kommandanturgebäudes im KZ Mauthausen, 1941
Dating: 1941
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を無視して,ソ連に侵攻。4個大隊3千名の特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は,治安維持とユダヤ人・共産主義指導者抹殺の目的で, 1942年4月までにソ連の住民・捕虜50万名を虐殺。命令は口頭で、文書の場合は,ユダヤ人放逐など婉曲表現を使用。
ポーランド侵攻時に既に投入されていた特別行動部隊は,反ナチスとなりうる公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,文化・国家の維持に有益な人々を処置することを命じられていた。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持していたSS大隊長(中佐)だった。SS保安警察長官ハイドリヒは,1939年9月21,ユダヤ人のゲットーへの強制移送を指示した。
1941年6月22日以降の独ソ戦では,反ボルシュビキのウクライナ人,エストニア人,ラトビア人,リトアニア人などから,補助警察を編成し,虐殺に協力させた。しかし、ソ連打倒が困難なことが判明した1942年10月末、ソ連人捕虜とユダヤ人をドイツの産業・農業生産工場のために,奴隷労働者として投入した。 ドイツ軍支配地域では,ドイツ軍に協力しなければ,生きて行くのは困難だった。
1942年1月20日,ヴァンゼー会議Wannseekonferenzでは,ハイドリヒ長官が、親衛隊,警察指導者に、1941年10月末までに53万7千名のユダヤ人を国外移住させ、残るソ連・欧州の1100万名に及ぶユダヤ人問題の最終解決を全権委任されたことを伝えた。9月から,ドイツ支配下のユダヤ人は,黄色のダビデの星印の着用が命じられ、絶滅収容所の建設が開始された。
ソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・資源不足という状況の中で、敵性住民ユダヤ人は、絶滅されることが決定した。ただし,労働に耐えうるユダヤ人は,ソ連軍捕虜,ドイツ占領下のソ連住民と同様,ど労働力として酷使された。
ドイツ軍に捕らえられたソ連軍捕虜,ドイツ占領下のソ連住民は,ドイツ軍・親衛隊によって強制連行されたり,徴用されたりして,ドイツやポーランドの工場,農場,建設現場で働かされた。これは,人権を無視した奴隷労働として,下等劣等人種を利用したということである。
⇒栗原優(1997)『ナチズムとユダヤ人絶滅政策−ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房参照。
◆1941年冬のソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・物資不足の状況で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、排除(銃殺,処刑)されることが決定した。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。
大戦が始まると,親衛隊は、1940年9月,オランダ人からなる武装親衛隊義勇旅団Volunteer Legion「ネーデルラント」Niederlandeを編成した。ナチスSSによる志願兵応募に対して,オランダ人2,600名が志願,ドイツSS武装親衛隊の下で,レニングラード方面でソ連軍と戦った。
オランダのナチスNSBは,ラントヴァハト・ニーデルランデLandwacht Niederlande、すなわち祖国オランダ防衛部隊)の編成をナチスに認められ,治安補助部隊として、オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)とともに,ユダヤ人,反政治活動家などの捜索,逮捕に当たらせた。
◆1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。
写真(右)1939-1944年,マウトハウゼン強制収容所の柵の近くで殺害された囚人:収容所を脱走しようとしたのか,自殺しようとして柵に接近したのかは分からない。チクロンBや一酸化炭素ガスによる大量殺戮をになった絶滅収容所は、アウシュビッツ=ビルケナウ、トレブリンカなどポーランドにあった。しかし、これ以外の強制収容所でも,多数の囚人が殺害されている。ガス室には、大量殺戮用の大型と、処刑・実験用の小型の二種類がある。マウトハウゼンのガス室は、後者だった。ビルケナウ絶滅収容所の大型ガス室(クレマトリウムあるいはブンカーと秘匿名称で呼ばれた)は、草案も含めて何枚もの設計図が残っている。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Erschossener vermutlich Mauthausener Häftling
Dating: 1939/1944 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
IGファルベン とは,InteressenGemeinschaft Farbenの省略で,BASF,バイエル,ヘキストなどの複合共同体で,ドイツの化学工業の中核となる企業だった。IGファルベンはナチス政権樹立の一年前,1932年,ナチスに40万マルクの政治献金をしている。再軍備を計画したヒトラーは,火薬,化学物質を扱うIGファルベンの協力を得ることができたのである。第二次大戦後は,占領下におかれたポーランド,ノルウェー,オランダ,ベルギー,フランスの化学工業をも事実上,支配する。
1941年3月,親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,アウシュビッツを視察したが,これにはIGファルベンの幹部も同行し,アウシュビッツに新造されるIGファルベンの化学工場の建設状況を調べた。IGファルベン幹部オットー・アンブロシュは,親衛隊SSと連携して,工場用地,電力・石炭などのエネルギー,そして安価な労働力を手に入れ,企業の経済活動を拡大させた。また,アウシュビッツ=ビルケナウ絶滅収容所で使用された毒ガスのチクロンBは,IGファルベン傘下のデゲシュが製造していた。
IGファルベンは,アウシュビッツ強制収容所の奴隷労働者を親衛隊に賃貸料を支払い,労働させたが,これは強制労働,奴隷労働に等しく,労働基本権はおろか,人権まで無視された。使い捨ての労働力として,囚人を酷使した。
IGファルベンが親衛隊に支払う賃貸料(日当)は,化学者のような専門技術家4マルク,一般技術者3マルクなどで,衣類など必要経費を負担したとしても,親衛隊は奴隷労働者数千人を派遣することで,数千マルクの収益を手にすることができた。
写真(右)1939-1944年,マウトハウゼン強制収容所の柵の近くで殺害された囚人:収容所の周囲には,花が咲き乱れていた。柵の内側は,逃亡防止に草刈がなされているが,柵の外は草の丈が伸びている。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Erschossener vermutlich Mauthausener Häftling
Dating: 1939/1944 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
川島祐一(2004)「第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして」『社会思想史の窓』第135号 東京電機大学理工学部 石塚正英研究室によれば,その後のIGファルベンは次のようなものであった。
IGファルベンは自発的に第三帝国に協力し、モノビッツ収容所という700万ライヒスマルクを投資して建設した自社プラントにおいてユダヤ人・ソ連人など多くの人々に強制労働をさせ、労働力として使えない者や使えなくなった者は毒ガスにより殺害した。---IGファルベンは戦争中に、売上を急増させたのであった。ガソリン等の合成石油類は、---機械化された戦闘諸手段のエネルギー源および潤滑油等として、合成ゴム(ブナ)等の合成物質は人的物的戦闘物資の輸送手段(タイヤ類)として、軽金属は航空機(戦闘機・爆撃機)の素材等として、またチクロンB等の薬品類は戦争の大量虐殺行為の必然的随伴物としてである。
戦後,IGファルベンは、ニュルンベルク継続裁判において、民間人、戦時捕虜、強制収容所囚人労働者に関し「人道に対する罪」で、24名の会社重役や技術者が有罪判決を受けた。これは刑法上の罪であり、民法上補償義務があるかどうかは未解決のままであった。1951年11月、モノビッツのブナ工場で2年近く強制労働をさせられた元強制収容所囚人のユダヤ人ヴォルハイムが裁判を起こした。裁判は1952年1月16日に開始された。それに影響されて、1,100人が提訴した。1953年6月、ヴォルハイムは1万マルクの損害賠償と慰謝料で勝訴した。---IGファルベンは,個別企業が責任を負う必要はないとの立場から控訴した。結局1956年から和解交渉に入り、1957年2月に和解交渉が成立した。IGファルベンが強制労働の補償として3,000万マルク(2,700万マルクを対独ユダヤ人物的請求会議へ、300万マルクを非ユダヤ人強制労働者へ)支払うことで同意した。(引用終わり)
1941年6月の独ソ戦では,ドイツ占領地の治安維持にあたった特別機動部隊(アインザッツグルッペ)は,共産党政治委員(コミサール),パルチザン,教員・行政官など知識人(インテリゲンツァ),敵性住民を銃殺や絞首刑にした。しかし,流血の処刑は,処刑者に精神的負担となった。処刑が知れ渡ると,ユダヤ人捕獲が困難になり,ゲリラ活動も活発化した。そこで,処刑者に負担をかけず,治安を悪化させずに,大量殺戮可能な「絶滅システム」が考えられた。これは,?反ユダヤ人プロパガンダ,?ユダヤ人密告報酬,?列車移送,?移送者の財産収奪と有効利用,?奴隷労働,?ガス殺・疲労死・病死,?死体焼却の流れが,効率的に組織された。ガス室は,処刑者の心理的負担の軽減,大量殺戮効率化のための重要な要素で,反人間性の象徴となった。(ただし,アウシュビッツ収容所長アドルフ・へスなどは,残虐な方法ではなく,ガスで安楽死させていると考えた。
写真(上)1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を視察する親衛隊SS国家長官ヒムラーとIGファルベン首脳陣:収容所長ルドルフ・ヘスが案内し,ナチ党幹部,軍需企業IGファルベン首脳も参加した大規模で,徹底した視察だった。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。第一収容所とアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)とならんで,合成燃料と合成ゴムの工場「ブナ」の建築現場を視察。United States Holocaust Memorial Museum. Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。
1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を,親衛隊SS国家長官ヒムラーとIGファルベン首脳陣が視察した。これは2回目の視察で,このときには,ガス室における囚人ガス殺をも実際に視察し,ヒムラー長官自身,気分が悪くなってしまった。親衛隊髑髏部隊の任務の困難さを理解していた長官は,親衛隊に品格を保ち,恣意的な虐殺や殺害を楽しむサディステックな振る舞いを嫌悪していた。ユダヤ人の財産を国庫に没収するのは当然だとしたが,ユダヤ人から持ちもをを略奪する親衛隊員は厳罰に処すと明言していた。しかし,小市民的な発想は,ユダヤ人虐殺自体への疑念を生じさせなかった。
1942年7月17-18日,ヒムラーは,アウシュビッツ収容所を徹底的に視察し,拡張計画を検討した後,農場,家畜育種場,植物園を見た。ヒムラー長官は,視察終了後,ヘス所長の執務室で「私はこれで,アウシュビッツを隈なく視察した。欠陥も困難もこの目で見たし,君から聞いた。しかし,それについて,私は何一つ変えることはできない。今は戦時であり,戦時にふさわしい考え方をすることを学ばなくてはならない。アイヒマンのプログラムは推進され,毎月上昇してゆくだろう。ジプシー殲滅を進め,働けないユダヤ人も容赦なく抹殺されなければならない。近くの軍需工場附属の労働収容所が,働けるユダヤ人を大量に引き受けるであろう。アウシュビッツでも,所内の軍需工場が建設されなければならない。----君を,上級大隊長に進級させよう。」ヒムラー長官は,飛行機でベルリンに帰った。(ルドルフ・ヘス『アウシュビッツ収容所』425-440頁引用)
写真(右)1941年10月,マウトハウゼン強制収容所に到着したソ連軍兵士捕虜:服装は汚れているが,まだ元気が残っている捕虜たちだが,過酷な収容所の生活,強制労働によって,衰弱して,死に追いやられてしまう。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener am Appellplatz von Gusen, Oktober 1941
Dating: Oktober 1941
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスRudolf Höss(1900-1947)によれば,1942年春,ユダヤ人のガス殺が開始された。ヘスは,部下がなぜ虐殺をするのかと疑問を持ったとき,「この同じ疑問を持った身でありながら,総統命令であることを理由に,彼らを説き伏せた。ユダヤ人虐殺は,ドイツを,われわれの子孫を,手ごわい敵から永遠に解放するために必要な措置であると,彼らに言わねばならなかった。」( ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,307頁 引用)
写真(右)1941年10月,マウトハウゼン強制収容所に整列するソ連軍兵士捕虜:過労と食糧不足のためか,痩せていて疲れきった捕虜たちが哀れだが,親衛隊では,敵性人種,下等民族に対する同情や憐憫は,人格的な弱さの現われとして,克服することを求めていた。冷徹な論理に従って,品位をもって,下等民族,劣等人種を排除すべきであるとした。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener am Appellplatz von Gusen, Oktober 1941
Dating: Oktober 1941
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年10月,オーストリア(ドイツ合併後はオストマルク‘東方要塞’と呼称),リンツ郊外,マウトハウゼン強制収容所のソ連赤軍捕虜:ドイツ軍兵士の監視下におかれた捕虜たち。この後,過酷な労働,食糧不足,懲罰によって大半が死亡した。
Mauthausen-Memorial公式ページによれば,「1945年5月5日の解放に至るまでの間、20万人のヨーロッパ各国及び世界中の囚人たちが非人間的な拘留条件やナチの拷問方法の下で苦しみました。半分以上の人がこの拘留で命を落としたのです。囚人たちは過酷な労働や、最低の衛生管理を原因とした伝染病で死亡し、あるいはナチの警備班に射殺されたり、マウトハウゼンのガス室やグーゼン隣接収容所、“安楽死施設”ハルトハイムなどで毒ガスによりその命を絶たれました。」とある。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener am Appellplatz des KZ Mauthausen, Oktober 1941
Dating: Oktober 1941
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
川島祐一(2004)「第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして」『社会思想史の窓』第135号 東京電機大学理工学部 石塚正英研究室によれば,IGファルベンのチクロンBは次のように使われた。
親衛隊SSは,チクロン(Zyklon)をIGファルベンン傘下の殺虫剤メーカー,デゲシ
ュ社,テスタ社から購入した。1940年7月25日,アウシュビッツ基幹収容所にクレマトリウムIが建設され,チクロンBを実験した。それは41年9月3日のことだった。犠牲者となったのはアウシュビッツに連行されたソ連人の捕虜600人,その他300人(収容所内の病人など)であった。
チクロンBは,シアン化合物で,本来の目的は害虫を駆除するため,燻蒸剤として開発された。チクロンは缶を開け、部屋のなかへガスカプセルを投げ入れ使用できた。固形原料は純化されて使われた。チクロンは容器のなかで3ヶ月で変質するので,取り置きができなかった。
1941年秋最初の暫定的なガス室が建設された。1941年12月ソ連人大量虐殺のため、チクロンBが使用された。最初、基幹収容所第11ブロックの地下室に囚人を閉じ込め殺害した。しかし、ここには換気装置がないことから不適切とされ、次回からは、その装置のあるクレマトリウムIで行われた。-----
四つの大きな複合施設(クレマトリウム?・?・?・?)が、1942年の9月に建設され、1943年の3月から6月の間に稼動されはじめた。それぞれ三つの要素で構成されていた。?脱衣エリア,?巨大ガス室,?火葬炉,である。親衛隊SSは1944年の11月までビルケナウ(ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅計画の中心的役割を担っていた)のガス室を稼動した。
----強制収容所における射殺による大量虐殺もチクロンBによるそれも最初の対象は,ソ連人捕虜であった。ユダヤ人のガス殺はヘウムノにおけるガス自動車によるもので、41年12月初めだった。アウシュビッツでの毒ガスによるユダヤ人虐殺が始まったのは1942年5月4日だった。(
川島祐一(2004)「第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして」引用終わり)
写真真(右):1939-1944年,オーストリア,リンツ郊外,マウトハウゼン強制収容所:体力が衰弱して労働不能と判定されれば,医薬品もない病棟送りにされ,食事も摂れなくなったり,収容所棟で放置され起きられなくなる「ムーゼルマン」となったり,死ぬにまかせられた。裸で整列させた目的は,辱めると同時に,同道可能かどうかを判定する検査だったと思われる。労働不能者と親衛隊に判断されれば,それは死を意味した。 Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, jugendliche Häftlinge am Appellplatz des KZ Mauthausen]
Datierung: 1939/1944 ca.
Fotograf: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右),1942年,オーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所に裸で整列させられた収容所囚人たち:労働可能者を装うために,運動を命じられれば,すばやくそれに対応した。遅れたり,規律を乱すものは,懲罰の対象となった。暴行や鞭打ちの刑を受けたり,独房に閉じ込められ,重労働を命じられたりした。労働不能者に選別されないように,食料を盗んででも確保し,体力を温存しようとした Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Jugendliche auf dem Appellplatz im Lager Mauthausen, 1942
Dating: 1942 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
マウトハウゼン強制収容所では,下等人種,劣等民族を人間以下の存在とみなしていたから,効率的な労務管理はされていない。ドイツを破壊しようとする下等劣等人種は,死ぬまで働かせる方針だった。そのため,医薬はもちろん,食料,衣類も絶対的に不足していた。囚人相互の助け合いと,盗みが共存していた。
写真(右),1942年,オーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所に裸で整列させられた収容所囚人たち:体力が衰弱して労働不能と判定されれば,医薬品もない病棟送りにされ,食事も摂れなくなったり,収容所棟で放置され起きられなくなる「ムーゼルマン」となったり,死ぬにまかせられた。裸で整列させた目的は,辱めると同時に,同道可能かどうかを判定する検査だったと思われる。 Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Jugendliche auf dem Appellplatz im Lager Mauthausen, 1942
Dating: 1942 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
しかし,強制収容所の囚人は,体力がなく労働不能者に選別されれば,処刑,懲罰の対象となり,栄養・衛生状態がますます悪化させられた。囚人たちは,親衛隊員に,自分たちは労働するだけの能力がある,体力がある,規律・命令を遵守するということを,身をもって示さなければ,収容所を生き抜くことはできなかった。
写真(右)1941年10月,オーストリア(ドイツ合併後はオストマルク‘東方要塞’と呼称),リンツ郊外,マウトハウゼンMauthausen強制収容所に全裸で整列させられたユダヤ囚人:マウトハウゼンには1941年秋に1ヶ所のガス室が作られ,チクロンBを使用した。一酸化炭素を使うガス室も,マウトハウゼンの支所グーセンGusen収容所にあった。併せて,4000名がガス殺された。 マウトハウゼン収容所跡に,現在もシャワー室に似せた小型ガス室が公開されている。 1938年8月,アンシュルス(ドイツへのオーストリア併合)後,リンツ郊外20kmに設立。 "Vernichtung durch arbeit" (労働による絶滅)をモットーとした強制収容所。地下トンネルの支所として,Gusen (I, II and III), Melk,Ebenseeがあった。
Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Jugendliche auf dem Appellplatz im Lager Mauthausen, 1942
Dating: 1942
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
<収容所の日常>
ブナの収容所(ラーゲル)は一辺600mで,鉄条網で二重に囲まれており,1万2000名の囚人がいた。内側の鉄条網には高圧電流が流れていた。木造バラックは60棟あり,「ブロック」と呼ばれ,レンガ工房,上位の囚人の管理する実験農場,6-8棟ごとに配置されるシャワーと便所のバラックがある。加えて,診療所と病棟,放送患者用の第24ブロック,特権的囚人(プロミネンツ)用の第7ブロック,ドイツ人政治犯・刑事犯用の第47ブロック,囚人監督カポ用の第49ブロックがあった。第12ブロックは,半分がドイツ囚人とカポ用,半分が酒保(タバコなどの配給所)である。第37ブロックは,補給事務所・労働事務所である。第29ブロックは,ポーランド女囚のいる売春小屋で,ドイツ囚人専用だった。
居住ブロックは,一棟200-250名で,二部屋ある。一方には,棟長とその取り巻きが住んでおり,イス・ベンチがあり,写真,装飾もある。他方は,寝室で,三段作りの木製簡易寝台148個がある。天井までいっぱいに,一寝台を二人以上で使用する。薄い藁布団と上掛けが二枚,通路は一人が通れるほどの空間しかない。
収容所の中央に点呼広場がある。朝,約200名で一作業班となる労働部隊を編成しカポの指揮を受ける。楽な仕事とされた電気工,金属工,溶接工,レンガ工,機械工,セメント工など技能労働者は合計でも300-400名しかいない。特殊技能者は,ドイツ人かポーランド人の監督に指揮された。労働作業振り分けは,ブナの民間人管理部と連絡を取った,労役部が決める。買収が横行していたから,うまく食料を手に入れるものが,楽な作業を手に入れることができた。
労働時間は,明るい時間帯なので,季節によって変わる。夏は630-1200,1300-1800だった。逃亡が危惧される霧の日は囚人は仕事に就けないが,暴風でも働くのが規則だった。夕方に点呼を取るために集合させられる。点呼広場の前には,花壇があり,必要なときは絞首刑台が立てられた。
写真(右)1941年4月,親衛隊国家長官ヒムラーのマウトハウゼン強制収容所の視察に随伴する親衛隊:Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Besuch Heinrich Himmler.- Offiziere der SS aus der Wäschereibaracke des KZ Mauthausen kommend
Dating: April 1941 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
毎朝,寝台をしわひとつなく完全に平らにし,木底のクツ・服から泥や泥のしみを落とさなくてはならない。夕方には,足が洗ってあるか,ノミがいるか,検査を受けなくてはならない。土曜日には,髪と髭を剃り,服の修繕をし,ボタン5つがついているかどうかの検査を受けなくてはならない。寝るときも,便所に行くときも,すべての財産(クツ,食器など)をみな持っている必要がある。そうでないと,持ち物は一瞬にして盗まれてしまう。(レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』28-34頁)
ブナで化学技師として働いていたプリーモ・レーヴィは,収容所では与えられる命令を実行し,配給だけで生活し,労働規律を守るだけで,よい場合でも三ヶ月で「ムーゼルマン」になり死ぬことになる,と述べている。食料,衣類,クツは必需品であるが,配給だけでは不足するので,禁止されている物資を調達し,物々交換したり,賄賂として提供しなくてはならない。タバコ,ヤスリ,ペンチ,電球,石鹸,金歯,空き缶,容器,食器,電線,ほうき,糸,手袋,物品につけるセルロイドの色つきラベル,針金(クツを縛る),ほろ着れ(足に当てる),紙(防寒用に上着の中に詰める)など,収容所で有益なものを調達し,それと交換で,食料など必需品を獲得し,カポ・収容棟長に楽な作業,まともなスープ(バケツの底で身が濃い部分),寝台を割り当ててもらうのである。
同郷者・友人など団結した囚人グループを形成し,物質的優位を確保し,組織化して物品を収容所あるいは囚人から盗み出す。こうした狡猾な組織者(オルガニザトール),結合者(コンビナトール),名士(プロミネンツ)と呼ばれたものが,過酷な収容所で生き残ることができた。単に善良で,組織化できない収容者は,生きた屍「回教徒(ムーゼルマン)」になってで死ぬ。体力が劣れば,労働収容所で,時折行われる囚人の第二次選別で,労働不能者に区分されれば,ガス室送りになることは,収容期間の長い古参囚人にとって,常識だった。大半の収容者同士は,敵対的な関係に貶められており,団結して看守やカポに立ち向かうことはできなかった。(レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』106-107,152-153,178-182頁)
1943年3月27日のアンネの日記:ドイツ側が「すべてのユダヤ人は7月1日まで,ドイツの全占領地から追放されねばならない」と述べ,オランダのユダヤ人も駆逐,掃討すると宣言したことを聞いている。「追い立てられ気の毒な人たちは,哀れな病気の家畜さながら,どこかに送られていくのです」と書いているので,1943年3月時点では,アンネたちは,ユダヤ人が,過酷な条件の収容所で虐殺されているとは知らなかった。絶滅収容所におけるガス室での大量殺戮が始まる直前の時期だった。
親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,親衛隊に対して 1943年10月4日ボーゼン「ユダヤ人絶滅」演説(Heinrich Himmler: Posener Rede vom 04.10.1943)をした。 「一つの困難な課題について諸君にはっきりと語る」として,口にしてこなかったユダヤ人虐殺について「親衛隊の使命であり、自明の任務である。それ故に,我々親衛隊は,このことを話し合ったことがない。これが命令となり、また必要なものとなれば、みな直ちに実行するだけである。」
「私は‘ユダヤ人排除’、すなわちユダヤ人絶滅のことを言っているのだ。 Ich meine die "Judenevakuierung": die Ausrottung des jüdischen Volkes.( I am talking about the "Jewish evacuation": the extermination of the Jewish people.) この任務は,容易なだとも受け取られている。‘ユダヤ人は一掃されるだろう’と。党員たちが諸君に言うには‘我々はユダヤ人を除去、絶滅すると公言してきた。些細なことだ,’と。そのような状態だといずれ8千万の忠実なドイツ人各人一人のユダヤ人を連れてきてこう言うであろう。‘他のユダヤ人たちは悪い奴らです。しかし、彼は優秀です。’こんなことを見過ごし、我慢することはできない。 諸君の前に横たわる百の屍が、五百の屍が、千の屍を見るとき,それが何を意味しているか,諸君は分かるであろう。この任務に耐えること、人間的な弱さとは縁を切って,屍を前に,我々は精神を強靭にして,品位を保つ。この任務は,決して言葉では表されないし、表すべきでもない。この任務によって,我々は空前の栄光を歴史を残すことになる。」 これは,ヒムラー長官が,ナチ党幹部,親衛隊に,ユダヤ人絶滅を公言し,かれらもその共犯とするための演説のようだ。
◆親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツの災いとなるユダヤ人問題の最終解決,すなわちユダヤ人絶滅こそ,凡人の理解を超えた,親衛隊にとっての偉大な歴史的使命である,と妄想していた。このヒトラーと自分のユダヤ人絶滅の妄想が,1943年10月,ユダヤ人虐殺の口頭命令として,親衛隊に伝えられた。人種民族差別・迫害を受け入れた、あるいは命令に逆らえなかったドイツ人と非ドイツ人は、虐殺を実行し、実行させられた。
写真(右),マウトハウゼン強制収容所の親衛隊宿舎あるいは管理棟:ナチス親衛隊は,ドクロ部隊を編成して,強制収容所を管理,監視させた。強制収容所の囚人奴隷労働者にたいして,小さな総統のように,完全に自由に振舞うことが要求された。同情や憐憫は,人格的な弱さとして,蔑まれた。 Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, SS-Männer im Inneren einer Baracke des Lagers Vöcklabruck
Dating: o.Dat.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
親衛隊SS国家長官ヒムラーは,次のように述べた。ドイツは連日のように,連合軍爆撃機の空襲を受けているが,このような祖国の危機のとき,「逃げ隠れしている扇動者のユダヤ人を,祖国に置くことがいかに困難をもたらすか、我々は知っている。もしユダヤ人がドイツ民族に寄生すれば,ドイツが(背後からの匕首の一突きで敗戦した第一次大戦の末期)1916-17年と同じ状況に陥ることになる。」
「ユダヤ人の持つ資産を奪う上で私は厳しく命令した。------我々親衛隊は,ユダヤ人資産を完全に帝国に移管する。この資産を個人的に略奪してはならない。命令に反する者は、私の言ったように‘たとえ1マルクでも略奪した者は死刑’になる。
「我々親衛隊が求めるものは,略奪ではなく、腐敗の撲滅である。我々がこの困難な任務を遂行するのはドイツ民族への愛のためであり,我々の魂の中、人格の中には、恥じるべきものは何一つないのである。」 ⇒Heinrich Himmler's Speech at Poznan (Posen)ヒムラーによる1943年10月4日ボーゼン「ユダヤ人絶滅」演説記録画像・録音
写真(右),マウトハウゼン強制収容所の親衛隊宿舎の洗面所:ナチス親衛隊ドクロ部隊の宿舎は,質素だった。しかし,これとても,前線勤務と比べれば,安全で快適だった。収容所の囚人棟に比べれば,衛生,広さなど居住環境は,格段によかった。 Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, SS-Männer im Inneren einer Baracke des Lagers Vöcklabruck
Dating: o.Dat.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
移送列車で到着した多数のユダヤ人は,強制労働につかせる「労働可能者」と,労働に耐えられない「労働不能者」と二分された。この生死の選別は,ドイツ人の医師・親衛隊が行った。体の状態を一瞥するだけで,あるいは若干の質問をして(囚人の通訳もいた),どちらかに振り分けるのである。原則として,年少者,子供をつれた女子,老人は,働けない側に選別され,そのままガス室に送られたこともあった。
持参した多数の荷物は置くようにいわれ,囚人「カナダ」作業班が,分類,整理して,倉庫に保管した。そして,ドイツ本国の物資不足を補うのに充当された。ユダヤ人から,看守が財産・物資を掠め取ることは,厳重に禁止されていた。ただし,看守が,ユダヤ人から掠奪することは,珍しくなかったようだ。
収容所の「カナダ」作業班は,到着者たちが持参した多数の荷物を分類し,集める仕事をさせられた。ユダヤ人は,ここが絶滅収容所だとは気づかなかったが,これはドイツ側が,秩序だってユダヤ人を虐殺するために,虐殺の事実を秘匿するように勤めたからである。収容所の入り口ゲートには,「労働すれば自由になれる」(中世自由都市の格言「都市の空気は自由にする」と類似)と偽りの標語が大きくかかれていた。
写真(右)1942-1944年,バルト海に面したペーネミュンデ秘密実験基地のV-2号ロケット:戦後のアポロ計画に多大な寄与をしたフォン・ブラウン博士など,ドイツの最高技術が活かされているとされる弾道弾だが,その生産に当たったのは,強制収容所の囚人だった。トンネル式の地下工場が,ノルトハウゼン強制収容所の奴隷労働者によって作られ,彼らがV-2生産にも強制的に働かされた。 Archive title: Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. Arbeiten an der aufgerichteten Rakete vom Eisenbahn-Meillerwagen aus.
Dating: 1942/1945 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ノルトハウゼンNordhausen強制収容所(ドーラ=ミッテンバウ収容所)は,1943年ブーヘンヴァルト強制収容所の支所として設置された。戦後の米陸軍戦争犯罪記録によれば, 1943年夏から1945年4月までに7万5千から8万名の奴隷労働者を,1日12時時間シフト,休日なしに酷使していた。そして,1944年1月から翌年4月までに,最新秘密兵器であるV-2ロケット(ミサイル)6千発も製造した。
ドーラ=ミッテンバウ収容所を,米第104歩兵師団が,1945年4月12日に解放したとき,囚人・奴隷労働者3000名の死体が発見された。劣悪な生活条件,飢餓,殴打,処刑などによって,1万から1万5千名が死亡したとされる。
ドーラ=ミッテンバウ収容所長クルツ・アンドリー以下,1972名が起訴されたが,米軍は1,500名のドイツ人科学者,技術者をペーパー・クリップ計画の下で,アメリカに連れ去った。
月ロケット「アポロ計画」サターン5型の基本設計を担当したフォン・ブラウン Wernher von Braun(1912 -1977) 博士は,ロケット爆弾(弾道弾)のV-2ロケットを完成させたが,これを製造したのは,ノルトハウゼン=ドーラ収容所の奴隷労働者だった。ドイツ最高の軍事科学技術は,ユダヤ人などの奴隷労働者に依存して,生産を行った。
写真(右)1942-1944年,バルト海に面したペーネミュンデ秘密実験基地から発射されたV-2号ロケット:1944年後半,ノルトハウゼン=ドーラ収容所の囚人の奴隷労働によって生産されたV-2ロケットが,鉄道によって発射基地に運搬され,イギリス本土,ベルギーの港アントワープなどを目標に発射された。 Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. V2-Rakete (Aggregat 4) auf Startrampe / Abschussrampe
Dating: März 1942/1945
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
フォン ブラウンは,V2の資料を集め,それを持って米第44師団に投降することができた。「宇宙旅行」の夢を実現する有人ロケット開発はすばらしい。しかし,ユダヤ人など奴隷労働の利用を免責してもらう条件として,ドイツの最高機密V-2の技術資料を,米軍に譲渡した。これは国家機密書類の窃盗,国家反逆罪に相当するが,同時に,米軍もユダヤ人などの奴隷労働に関して,「正義の裁き」よりロケット兵器開発,対ソ封じ込めを優先した。
米軍は、V2ロケット情報と生産工具をノルトハウゼンに求め,大量のV2の部品鹵獲を優先した。米軍は,奴隷労働者の救出よりも,V2ロケットの情報収集と部品・生産工具の回収に力を注いだようだ。
親衛隊SSは,強制収容所の囚人を奴隷労働者として,軍需企業に一人一日6マルクで貸し出した。奴隷労働者を使った企業は,ナチス親衛隊(SS)に借り受け料を支払ったが,これは全て親衛隊SSの資金となった。映画で有名になった「シンドラーのリスト」でも,軍需企業の経営者シンドラーが,強制収容所のユダヤ人奴隷労働者を利用して,ドイツ軍のための物資を生産する。シンドラーの目的は,ユダヤ人を虐殺から救うことと,ユダヤ人を労働者を使用して,財産をなすことだった。また,収容所囚人の中には,ポンドやドルなどの連合軍の偽札作りを強要されたユダヤ人職人もいた。
写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者と思われる。 Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Zwangsarbeiter (KZ-Häftlinge ?) beim Positionieren eines Spannbetonbogens mit Eisenstangen
Dating: 1944撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチス親衛隊は,軍需生産上,労働力を提供できない労働不能ユダヤ人を,ガス室などで殺害した。そして,労働可能なユダヤ人囚人は,衣食住の物資も切り詰めて,過酷な条件で,奴隷労働者として,死ぬまで働かせた。
しかし,ユダヤ人絶滅を,経済的理由だけ説明することはできない。ユダヤ人をドイツ民族を滅ぼそうとする敵,病原菌であると決め付けていたという人種民族差別の役割も大きい。敵ユダヤ人は,ドイツ民族を弱らせるペスト菌のような存在であるから,撲滅しなければならない。
ユダヤ人が,ドイツ民族の生存を脅かす敵である以上,軍需生産・食糧生産を担う奴隷労働力として利用することと並んで,ユダヤ人を絶滅すること自体も重要な目標となる。ユダヤ人を労働力として無償利用することは,永続的目的ではなかった。これを理解できないところに,現実主義者ヒトラーが,労働力として役に立つユダヤ人を虐殺するはずがない,という誤解が生まれる。
ヒトラー総統,そのユダヤ人絶滅命令を口頭で受けた親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツ民族を滅ぼそうとする病原菌として,ユダヤ人を認識していた。この人種民族的偏見を抱く限り,ユダヤ人虐殺もユダヤ人の奴隷労働もともに,現実的な合理的行為として,実行に移された。
ユダヤ人虐殺の方法は,当初は,銃殺・縛り首などであったが,ユダヤ人に処刑が知れ渡ると,ユダヤ人を捕まえることは困難になり,同時に住民による反抗も活発になった。また,ドイツ人処刑者の中には,婦女子の処刑には精神的に耐えられないものもあった。そこで,治安を悪化させずに,処刑者に負担をかけないで,効率的に大量殺戮できるような「ユダヤ人絶滅システム」が作られた。
◆ユダヤ人絶滅システムとは,一般住民に反ユダヤ人プロパガンダを行い,ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪した。囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。このようなユダヤ人虐殺の重要な部分は,口頭でのみ命令され,文書化することを許さない。効率的に秘密裏に組織されたのが,ユダヤ人絶滅システムである。
写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ海軍潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者。連合軍の空襲からUボートを守るために,港にUボートを退避させる巨大なコンクリート製防空壕(ブンカー)が建設された。連合軍のフランス侵攻後の1944年9月ごろ,ナチス親衛隊は,絶滅収容所におけるユダヤ人ガス大量殺戮を中止。これは,戦局悪化による奴隷労働力確保と,収容所のユダヤ人を米英との和平交渉の人質として使う目的があった。このときのガス殺中止を,ユダヤ人絶滅は無かった証拠だと錯覚するのは,完全な誤りである。 Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Montage eines Stahlbogens mit Hilfe eines Portralkrans
Dating: 1944
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
強制収容所の多くには,ガス室はなかったが,栄養失調・病気による衰弱死,奴隷労働による過労死,拷問による死亡,処刑があった。また,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカTreblinka ,ゾビブルSobibor ,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置されたガス室を備えていた絶滅収容所は,ユダヤ人,ロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜などを大量殺戮した。
他方,ユダヤ人の婦女子まで殺戮するドイツ人は,精神的,肉体的に負担が大きかった。殺戮者となったドイツ人の負担を軽減することには,十分配慮されていた。 つまり,効率的に殺戮を進め,資産を収奪するユダヤ人絶滅システムは,人種民族差別の上に構築されていた。ユダヤ人絶滅は,冷徹に計算された人種民族差別の極限にある非人間的な暴力である。
写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ海軍潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者。連合軍の空襲からUボートを守るために,港にアーチ式のやなを備えて,そこにコンクリート防御を施したUボート退避基地を建設している。 Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Montage eines Stahlbogens mit Hilfe eines Portralkrans
Dating: 1944
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
<絶滅収容所でのガス殺(Killing People Through Gas:In Extermination Camps引用)>
クルムホフKulmhof(チェルムノChelmno):1941年12月-1942年秋,1944年5-8月,一酸化炭素carbon monoxide gasにより,ユダヤ人15万名,ロマ5000名を殺害。
ベルゼクBelzec (ルブリンLublin): from march to December 1942年3-12月,当初3ヵ所のガス室,後に6ヶ所のガス室で,一酸化炭素によりユダヤ人60万名を殺害。
ゾビボルSobibor (ルブリンLublin):1942年4月に3ヵ所,9月に6ヶ所のガス室によって,1943年10月までに,ユダヤ人20万名を一酸化炭素で殺害。
トレブリンカTreblinka :1942年7月に3ヶ所のガス室,9月には10ヵ所のガス室で,1943年11月までに,一酸化炭素によって, 70万名のユダヤ人を殺害。
マイダネックMajdanek (ルブリン):1941年9月に収容所を解説,1942年4月-1943年11月まで,大量銃殺ユダヤ人2万4,000名を殺害。1942年10月より,当初2ヵ所のガス室,後に3ヶ所のガス室で,1944年3月までにユダヤ人5万名を殺害。使用したガスは,当初は一酸化炭素,後にチクロンB(シアン化ガスcyan hydrogen).
アウシュビッツ=ブルケナウAuschwitz-Birkenau (当初ポーランド領だったが,上シレジアに編入): 1940年5月開設,1942年1月,5ヶ所のガス室で,1943年6月からは,さらに4ヵ所の大型ガス室で,1944年11月までに,チクロンBによって,ユダヤ人100万名,ロマ4000名を殺害。
<強制収容所でのガス殺(Jewish Virtual Library引用)>
以下の強制収容所は,大量殺戮を目的に作られた絶滅収容所ではなく,囚人を拘束し,奴隷労働させるための強制収容所であるが,労働不能者などを処置するガス室があった。
マウトハウゼンMauthausen (オーストリア): 1941年秋に1ヶ所のガス室でチクロンBを使用。一酸化炭素を使うガス室がグーセンGusen支所にあった。併せて,4000名がガス殺された。
ノイエンガメNeuengamme (ハンブルク南東): 1942年秋から「ブンカー」"Bunker"でチクロンBを使用して,450名を殺害。
ザクセンハウゼンSachsenhausen (ベルリン北) :1943年3月から,チクロンBを使用する1ヵ所ガス室で,数千名を殺害。
ナトワイザーNatzweiler(仏語Natzwiller:ストラスブルク南東50km,エルザス): 1943年8月-1944年8月,1ヶ所のガス室で,120-200名をチクロンBで殺害。遺体はストラスブルク大学解剖学研究所ヒルトAugust Hirt博士の元に送られた。
シュツォホフStutthof (タンチヒ東34km) :1944年6月に,1ヶ所のガス室を開設,チクロンBによって1000命を殺害。
レーベンスブリュックRavensbruck (べルリン北80km):1945年1月,1ヶ所のガス室が設置され,少なくとも 2,300名を殺害。
ダッハウDachau (ミュンヘン北東):1942年に新焼却炉設置,それに隣接して ガス室を建設。医学実験のために親衛隊ライシャーRascher博士が試験的にガス殺を実施。 大規模なガス殺は実施されていない。
◎以上は,ガス室における一酸化炭素ガスあるいはチクロンBによる殺害数で,奴隷労働,食料不足による過労死,病死,餓死あるいは拷問そのたの処刑は含まない。出所の違いから,数値・記述が一致しない所がある。
ドイツは,戦局が悪化する中,戦後を見据えて,ユダヤ人を和平交渉の人質として使うことを考えた。収容所でのガス室使用が中断されると,虐殺速度は一時的に鈍った。ドイツ敗戦を見越し,うまく立ち回ろうとする看守もいた。ただし,1945年になると,囚人のドイツ本国への強制移送は,「死の行進」と呼ばれるほど,多数の死者を出し,収容者急増で,本国の収容所の居住環境が悪化,やはり多数が病気・栄養失調で死亡しているので,虐殺が終わったわけではない。
<虐殺数を示す証拠は隠滅された>
アウシュビッツ収容所長・DI局長を務めたルドルフ・ヘスは,戦後の戦犯裁判の訊問で,アウシュビッツで虐殺されたユダヤ人の数を,戦争末期にアイヒマンが伝えた数字から250万名と述べた。 ヘス元所長の証言「大規模な作戦の後,いつも虐殺数の推定の手がかりになるような証拠は,全てヒムラーの命令で焼却された。DI局長として,自分は部署の手がかりは全て,自分で始末した。他の部署でも同じことが行われた。----仮に怠惰によって,どこかの部署に,個別的な記録断片,電話,電信が残されていたとしても,虐殺総数については,手がかりにはならないはずである。私自身,総数についてはまったく知らず,それを再現できる手がかりも持っていない。今でもわずかに覚えているのは,アイヒマンやその代理から繰り返し命じられた,大規模作戦の時の数字だけである。 上シレジアと総督領-----25万名 ドイツとテレジェンシュタット----10万名 オランダ-----9万5000名 ベルギー-----2万名 フランス-----11万名 ギリシャ-----6万5000名 ハンガリー-----40万名 スロヴァキア-----9万名 私としては250万名という数字は,多く見積もりすぎていると考えている。」
(ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,399-400頁 引用)
6.ユダヤ人虐殺の終末
英軍は,1939年9月の大戦当初からドイツの治安警察暗号を解読し,チャーチル英首相もドイツの無線暗号解読資料を解説付きで定期的に受け取った。1940年3月,ドイツ治安警察が,東部戦線で占領地のユダヤ人追放に協力していることを知り,1941年7月14日,ドイツ治安警察部隊に対する特殊任務の心構えのための映写説明会の意味を,敵性住民の処刑であると正確に理解していた。1941年8月24日,チャーチルは,ラジオ演説で,ロシアの愛国者をドイツ警察軍が文字通り何万人も処刑している,とナチスによる住民虐殺を非難した。
英軍の諜報専門家は,チャーチル首相が,ナチスのユダヤ人虐殺を具体的に非難すことによって,英国がドイツの暗号を解読していることをドイツが察知するのではないかと危惧した。そこで,リスクがある言動を,控えるように提言したのである。
しかし,ポーランドで地下活動をしていた亡命政府代表によるユダヤ人6千名の殺戮の報告が,1941年10月にロンドンに届くと,ロンドンのポーランド亡命政府は,それをマスメディアに流した。また,ドイツの最高機密を扱うエニグマ暗号電報の解読によって,1942年を通じて,アウシュビッツを含む収容所の受け入れ収容者人数を掴み,そこから出所した囚人がいないことも知っていた。
1942年11月,ポーランドのレジスタンスは,ガス室で殺されるためにユダヤ人とソ連軍の捕虜数万名がアウシュビッツに到着していることを報じている。1944年4月4日には,航空偵察によって,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の大規模な施設も判明している。収容所の全体像の航空偵察写真撮影にも成功している。
当時,英空軍,米陸軍航空隊は,ドイツの都市や工場地帯を空爆していた。1943年に,一日に千機の爆撃機を「動員して,大空襲をかけることもあった。しかし,大量の爆撃部隊を編成,準備していた連合軍の航空隊は,ユダヤ人強制収容所・絶滅収容収容所を空爆したことは一度もなかった。それどころか,ユダヤ人代表やポーランド亡命政府が求めたように,ユダヤ人虐殺などのテロを働いたドイツ人とその協力者への法律による処罰にも言及しなかった。
写真(右)アウシュビッツ第三収容所ブナBunaの航空写真。1944年5月31日,連合軍機の撮影:Auschwitz III. Allied aerial reconnaissance photograph of May 31, 1944.現在ポーランドのオシヴェンチム(Oswiecim)に1942年に設置されたアウシュビッツ収容所支所ブナには,1944年,1万人が奴隷労働slave laborをさせられていた。アウシュビッツ収容所の連合軍の航空写真は,1944年4月4日,5月31日,8月9・12・25日,9月13日,11月29日,12月21日,1945年1月14日,2月19日に撮影されている。ビルケナウ収容所は,1944年5月31日,8月12日,11月29日,12月21日,1945年2月19日に,I.G.ファルベン(Farben)化学工場のあるブナは,1944年7月8日,12月26日,1945年1月14日の航空写真が残っている。連合軍は早くからドイツのユダヤ人虐殺を察知していたが
In November 1943, the Buna sub-camp was transformed into a separate administrative unit designated Auschwitz III. It included other Auschwitz concentration camp sub-camps at industrial plants. 1945年1月18日,施設は放棄されたが,囚人たちは解放されることなく,強制移送された。1月27日,ソ連赤軍がアウシュビッツ収容所を解放。(米国立公文書館NARA .ARC: 305905 Local:263-AUSCHWITZ-19(12)引用)
連合軍が,ユダヤ人支援のための軍事行動に消極的だった理由は,次のようなものである。
?ユダヤ人解放のために空爆や処罰を公言すれば,ユダヤ人が世界制覇をたくらんで英米を煽動しているというドイツのプロパガンダの信憑性が高まってしまう, ?何万名もの市民が収容されていることが知れれば,人道支援をすべきであるとの声が起こり,膨大な食料・物資の提供は,連合軍の戦力を弱めてしまう。 このように深謀遠慮した連合軍は,収容所のある軍需工場を爆撃はしたが,ユダヤ人を救うための直接行動は一切起こさなかった。戦争に勝利することが,強制収容所の囚人解放につながるとの見解だった。 ?空爆可能圏内に達していないとの言い訳をした。しかし,イタリア降伏後は,主要な収容所は,連合軍の爆撃部隊の行動圏内に入っていた。 ⇒リチャード・ブライトマン(1998)2000年川上光訳『封印されたホロコースト−ローズヴェルト,チャーチルはどこまで知っていたか』大月書店
The Associated Press 2008年1月11日に以下の記事がある。
President Bush had tears in his eyes during an hour-long tour of Israel's Holocaust memorial Friday and told Secretary of State Condoleezza Rice that the U.S. should have bombed Auschwitz to halt the killing, the memorial's chairman said. ブッシュ大統領は,目に涙を浮かべながら,イスラエルのホロコースト記念館を回り,同伴したライス国務長官に,殺戮を阻止するために,アウシュビッツを爆撃すべきだったと語った。
ブッシュ大統領が,米軍が撮影したアウシュビッツの航空写真を見たときに(これは米国立公文書館が出典!),ライス長官を呼んで,なぜアメリカ政府は,収容所を爆撃するのに反対したのかを,話し合った。
連合軍は,ポーランドのパルチザンから,戦時中,アウシュビッツに関する詳細な報告を受けていた。しかし,連合軍は,収容所の爆撃を選択しなかったし,収容所へ続く鉄道も攻撃しなかった。その上,ナチスの死の収容所をまったく爆撃していない。これに換えて,全資源・物資を,軍事作戦に集中した。
We should have bombed it," Bush said, according to Shalev.ヤドヴェシム館長によれば,ブッシュ大統領は「われわれは,収容所を爆撃すべきだった」と発言した。
ライス国務長官は,米軍が収容所を爆撃しなかった理由を語らなかったが,収容所を爆撃すべきだといったのは,米大統領としては,初めてのことだった。
もしも,ハンガリーから収容所への鉄道を攻撃すれば,多数のユダヤ人の命を救うことになったはずだ。多数の市民は,収容所の実態を明確には知らなかったが,連合国首脳は,収容所で何が起きているかを把握していたのだから。
絶対服従が,親衛隊の規律だった。ヒムラーは,ひるむことなく,品位をもってユダヤ人を絶滅することが,ドイツにとって輝かしい栄光の歴史になると演説した。しかし,戦争末期,ヒトラーの命令に反して,ユダヤ人を人質として西側と和平交渉を行った。この前提として,1944年10月末,ユダヤ人のガス室での殺戮を中止させた。ただし,食糧不足,過酷な労働,病気の蔓延,処刑によって,多数の囚人が殺害され続けた。したがって,ガス殺中止後もユダヤ人大量殺戮は続いた。
1944年10月末以降,ヒムラーは,ガス室での大量殺戮の命令を,事実上中断した。戦局が悪化する中,ユダヤ人を人質として和平交渉に利用するため,もうひとつは,自己の保身のためである。戦争犯罪人を処罰することは,連合国・国連宣言の中で,公言されていた。ユダヤ人虐殺を進めて,戦後に戦犯として処罰されたくはなかった。
強制収容所では,ドイツの敗色が濃くなると,食糧配給の悪化し,飢餓,病気の蔓延,虐待などで多数の囚人たちが死んでいった。他方,ヒムラーは,ヒトラーには一切知られないように,1945年3月,スウェーデン経由で和平秘密交渉を開始した。しかし,1945年4月に秘密交渉は発覚,ヒトラーは,ベルリンの大地下壕から,ヒムラーの逮捕を命じた。ヒムラーは,逃亡,一兵士に変装した。終戦後の1945年5月23日,連合軍に見つかり,服毒自殺。
写真(上)1941年10月,オーストリア(ドイツ合併後はオストマルク‘東方要塞’と呼称),リンツ郊外,マウトハウゼン強制収容所の死体埋葬場所:過酷な労働,食糧不足,懲罰によって多数の囚人が死亡した。 Archive title: Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, offenes Massengrab in Gusen oder Mauthausen
Dating: o.Dat.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ヒトラーの政治的遺書(Adolf Hitler's Final Political Testament)
わたしやドイツ人が,1939年に戦争を欲したというのは真実ではない。この戦争は,意図的に,ユダヤ人やユダヤ人の利益のために働く国際的政治家によって,引き起こされた。-----数世紀たてば,町や記念物の廃墟の中から、われわれを貶めたユダヤ人とその支援者たちに対して,すなわち全ての最終責任を負っている連中に対して,憎悪が蒸し返されるであろう。
----和平提案が拒否されたのは,イギリスの政治家の指導者が戦争を欲したのであり,国際的ユダヤ人international Jewryによるプロパガンダによって影響を受けている国際ビジネス界が戦争を欲したからである。
わたしは,非常に明白に,次の点を示してきた。それは、ヨーロッパの諸国民が、国際金融財政の陰謀家によって売り渡される単なる株券のように扱われるなら、このような人種民族であるユダヤ人は,殺人犯であり、責任をとらせられるべきであるということだ。さらに,疑いもないことだが,今度こそ、数百万ヨーロッパ・アーリア人の子弟が餓死し,数百万の男が死を被り,都市で数千万の婦人と子供が焼かれ空襲で殺されるのであれば,そのことは,本当に犯罪者の連中が,より人間的な手段でよってではあっても,その罪を贖うことなしには,済まされない。
------ユダヤ人によって引き起こされ、扇動された連中を喜ばすため,見世物として,敵の手中に落ちるつもりはない。-----クラウセヴィッツの教えに忠実に則って、祖国の敵との戦争を継続すること願うのは言うまでもない。-------
以上、最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。
ベルリンにて 1945年4月29日 午前4時 ADOLF HITLER
写真(右)1945年4月11日以降,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区ブーヘンワルト強制収容所でアメリカ軍によって解放された囚人たち:アメリカ軍第104歩兵師団が1945年4月11日にブーヘンワルト強制収容所を解放し、3000人の囚人の遺体が放置されているのを発見した。Arbeit macht frei(労働は自由への道)と収容所のゲートに刻んだが、これは囚人に反乱を起こさせないようにする方便だった。奴隷労働に従事させ死ぬまで酷使し、こき使ったために、栄養失調・罹患・下痢などで多数の囚人が死亡した。 Survivors lie in the top two tiers of a wooden bunk in a barracks in the Buchenwald concentration camp..Photographer Donald R. Ornitz
Date1945 April 11 - 1945 April 23 Locale Buchenwald, [Thuringia] Germany Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Mary Dickinson 写真は、USHMM Photograph Number: 78713A 引用。
◆ホロコースト否定,ユダヤ人大量殺率否定は、?政治的意図をもったプロパガンダ,?歴史的事実を見据える重圧に絶えられない弱さ,?思考能力・知識不足,が背景にある。
ホロコースト否定論・ユダヤ人虐殺否定論の解答
1.ソ連が解放したガス室があったアウシュウィッツ絶滅収容所の画像は少なく,米英軍の解放した「ガス室のない」ベルゲンベルゼン,ブヘンワルト,オラニエンブルク収容所の画像は多い。後者では,死因は発疹チフスなど病死,餓死,拷問死などであり,ガス大量殺戮はなかった。ドイツ占領下のポーランドの絶滅収容所だけで毒ガスによる大量殺戮が行われた。
2.アウシュビッツ収容所のガス室には,天井に煙突状のチクロンB(固体)投入口がある。ここから室内に入ると,常温で気化する。シャワー部分からガスが流れる構造にはなっていない。
3.毒ガスでも,大気に混ざれば,僅かな量で人間を殺すのは難しい。サリン、タブンのような強力な毒ガスでもである。チクロンBのような殺虫剤タイプでは,ガス室に充満させても,殺害まで数十分かかった。毒ガスが充満している部屋には,換気をして,死体処理のために中に入った。この作業は,強制収容所の囚人がゾンダーコマンドとして使役された。毒ガスの強さを非化学的に過大に見積もってはならない。
4.遺体を焼却処分する焼却炉が小さすぎることはない。葬儀ではないので,炉に複数の死体を投入,次々に連続処理した。野焼きもされた。膨大な量の骨は砕き,灰とともに,川に投げ捨てられた。この作業にも,囚人ゾンダーコマンドが使役された。遺体が敬意を払われることは一切無かった。
5.アウシュビッツ絶滅収容所の囚人は、ゾンダーコマンド以外,ガス室に近づくことはできない。しかし,囚人の多くがガス殺,焼却炉のことを知っていた。だから,健康に見えるように装って,労働不能者に選別されないように気を配っていた。
6.ヨーロッパユダヤ人迫害は、東方ソ連領内に強制移住させる事ではない。東方ソ連は,肥沃な農業地帯,鉱物資源供給地であり,ドイツとドイツ系民族(民族ドイツ人)の生存圏である。ロシア人は農奴として存続を許されたが,ユダヤ人はアーリア人を人種汚染する下等劣等人種として,抹殺されることになった。
7.ナチスのユダヤ人虐殺命令は,ドイツ市民,ドイツ国防軍兵士から,反対される恐れがあった。ユダヤ人や連合国が虐殺を知れば,ドイツに対して和平を求めるどころか,敵愾心を燃やし,士気を高めてしまう。そこで,虐殺は,口頭で命令された。ヒトラー,ヒムラーの演説で,ユダヤ人絶滅を明確に指示していた。一つの民族,一つの国家を一人の総統が支配する指導者原理の下では,ヒトラーの下した命令が全てだった。
◆ヒトラー総統の政治的遺書を読めば,ユダヤ人が,ドイツ人を滅ぼそうと仕掛けてきた第二次世界大戦の当然の報復として,ユダヤ人絶滅が決定されたこと,極端な人種民族差別が,大量殺戮を引き起こしたことが明確に認識できる。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ハンセン病Leprosy差別
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
⇒魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
⇒文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
⇒戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
⇒統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
⇒フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
⇒ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov
⇒フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
⇒ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック ⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
⇒ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
⇒ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
⇒ドイツ陸軍2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
⇒ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
⇒ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III ⇒ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV) ⇒ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車
⇒イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
⇒M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒イギリス陸軍コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒ユンカース(Junkers)F.13輸送機
⇒ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
⇒ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
⇒ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
⇒ユンカース(Junkers)K43f水上機 ⇒巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.31輸送機
⇒ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
⇒ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
⇒ハインケル(Heinkel)He111輸送機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機 ⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇 ⇒カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
⇒NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇 ⇒軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
⇒NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇 ⇒スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
⇒サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇 ⇒ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
⇒ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇 ⇒スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇 ⇒スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇 ⇒シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇 ⇒シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇 ⇒シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper" ⇒マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇 ⇒ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"
⇒フィンランド内戦:Finnish Civil War
⇒フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota ⇒ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
⇒フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」 ⇒第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
⇒第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
⇒ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
⇒ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935) ⇒フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
⇒フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
⇒フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
⇒フィンランド軍の防空監視哨
⇒ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇 ⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
⇒ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
⇒ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
⇒ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
⇒ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242 ⇒ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
⇒ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
⇒ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
⇒ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機 ⇒フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機 ⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
⇒ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
⇒ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
⇒メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機 ⇒メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
⇒ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
⇒ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機 ⇒ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
⇒ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
⇒ムッソリーニ救出作戦
⇒イタリア独裁者ムッソリーニ
⇒独裁者ムッソリーニ処刑
⇒ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
⇒マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」
⇒サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
⇒カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
⇒カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
⇒サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機 ⇒サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機 ⇒フィアット(Fiat)G.18V輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
⇒サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
⇒フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
⇒サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
⇒カント(CANT)Z.1007爆撃機 ⇒カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機 ⇒ピアジオP.108重爆撃機 ⇒マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
⇒マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
⇒マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機
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