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◆ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
写真(上)1939年頃、アメリカ、C-39輸送機
:ダグラスDC-2旅客輸送機の軍用仕様。
Two-Engine Transport
写真は, NebraskaAirCrash.com Record Name: LBS_SR01-00161 引用。



写真(上)1941-1942年初頭、太平洋戦争勃発前後、アメリカ東岸、カリフォルニア州オークランド基地、格納庫前、舗装された滑走路で待機しているアメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機(62TG20)
:主翼には、青丸白星赤スポットのアメリカ国籍記章が描かれている。アメリカの第二次大戦参戦後、1942年には、このような目立った国籍記章は、青丸白星の記章に変更された。
Douglas C-39 62TG Oakland Airport 1941 PictionID:40972886 - Title:Douglas C-39 62TG Oakland Airport 1941 Filename:15_002775.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive - Catalog:15_002775 - 引用。



写真(上)1942年-1943年6月以前、オーストラリア、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-39軍用輸送機(登録コードc/r VH-CCH、製造番号c/n 2087)
:機首に"ANA"と機体愛称が記入されている。1939年にアメリカ陸軍航空隊にs/n38-0532で登録、1942年3月9日、オーストラリアのアメリカ陸軍航空隊第5空軍に移籍、1943年6月6日、オーストラリア航空(Australia National Airlines )のc/r VH-CCHとして登録。1949年3月16日にギニア航空輸送(Guinea Air Traders)機として墜落。 。
C-39 VHCCH at Essendon with "ANA" on the nose Geoff Goodall collection
写真は, WWII AUSTRALIAN TRANSPORT AIRCRAFT RADIO CALLSIGNS Part 1: VHCAA to VHCZZ引用。


1.DC-2原型のダグラス(Douglas)DC-1 輸送機

写真(右)1934-1939年前半、トランス・ワールド航空 (Trans World Airlines: TWA)ダグラス(Douglas)DC-1 輸送機(NC-C223Y)(後上方から撮影):ダグラス(Douglas)DC-1試作機は、DC-2 輸送機の原型となった。実際にはDC-1とDC-2は同一機体の改造型といってよかった。
Douglas DC-1 SDASM CATALOG #: Blaine_00263 Title: Douglas DC-1 Collection: Miles Blaine Collection Repository : San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives  San Diego Air and Space Museum Archive SDASM CATALOG #: Blaine_00263引用。


ダグラス(Douglas)DC-1輸送機は全金属製、低翼の旅客機で1933年7月1日に試作機が初飛行した。DC-1は、引込み式脚の降着装置で、ライト(Wright)ライト・サイクロン Wright R-1820-F3 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒星型エンジン690 hp (510 kW)2基装備、12座席の旅客機で生産機数は1機のみである。

ダグラス社は新型機DC-1の売り込みのために、DC-1/DC-2輸送の実機を使ったデモンストレーション飛行を行った。このようなDC-1のような金属製の斬新な巨体が軽々と飛翔する様子は格好の宣伝材料になったといえる。また、DC-1によるアメリカ大陸横断飛行も行われ、13時間5分の記録を作った。

こうして、アメリカのトランス・ワールド航空は、エンジン出力の向上、搭乗客数の2席増員の注文を付けて、DC-1/DC-2を20機発注した。このTWA仕様DC-1改修型がDC-2と、新しい名称で新型機として登場したのである。

ダグラス(Douglas)DC-1 輸送機は1933年7月1日の初飛行で、性能は上々でDC(ダグラスコマーシャル)航空機の最初の成功作だった。テスト飛行後、DC-1は12人の乗客を輸送できる双発輸送機としてTWAトランスコンチネンタル(Transcontinental & Western Air)(後のトランスワールド)航空が採用した。

しかし、TWAトランスコンチネンタル(Transcontinental & Western Air)(後のトランスワールド)航空が採用は、DC-1を14人の乗客増員することを要求し、20機を発注した。これが、新たにDC-2と命名された輸送機となる。


2.ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機

写真(右)1935年、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、チューリッヒ=ウィーン=ザグレブ航路のスイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:DC-2機首先端には、2個の照明灯がついているが、DC-3には照明塔はついていない。機首最先端の中央にある穴は、コックピットや客室キャビンへの空気取り入れ口である。コックピット上のループアンテナは、方位測定用の航法無線受信機である。
Photographer: Swissair Title: Douglas DC-2 115-B, HB-ITI am Boden in Dübendorf Find similar records
Dating: 1935 Physical Description: Photography : nitrate-negative
Zeitgenössische Bildbeschreibung des Swissair-Marketings: "Douglas DC-2 Bodenaufnahme v
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf:
写真は, ETH-Zürich LBS_SR02-10678引用。


ダグラス(Douglas)DC-2輸送機は、DC-1の改良型で1934年5月11日に初飛行し、その直後の5月18日にTWAトランスコンチネンタル(Transcontinental & Western Air)(後のトランスワールド)航空に採用された。そして、KLMオランダ航空とパンアメリカン航空(Pan American Airways)が採用を決めた。軍用仕様のC-39輸送機35機も含めて、1934年から1939年にかけて198機が生産された。

ダグラス社が開発したDC-1は、ジェームス・キンデルバーガー、ジャック・ノースロップが設計した引き込み脚、全金属製、低翼の新技術を取り入れた双発輸送機で1933年6月1日に試作1号機のDC-1が初飛行した。発動機は、ライト・サイクロン空冷星形9気筒エンジン690hp2基で可変ピッチ金属プロペラを装備した乗客12座席の旅客輸送機であった

写真(右)1935年2月12日、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、チューリッヒ=ウィーン=ザグレブ航路のスイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:DC-2機首先端には、2個の照明灯がついているが、DC-3には照明塔はついていない。機首最先端の中央にある穴は、コックピットや客室キャビンへの空気取り入れ口である。コックピット上のループアンテナは、方位測定用の航法無線受信機である。
Photographer: Swissair Title: Douglas DC-2 115-B, HB-ITI vor dem Stationsgebäude in Dübendorf Find similar records
Caption: Dating: 12.2.1935
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf:
写真は, ETH-Zürich LBS_SR02-10679引用。


アメリカの航空会社トランス・ワールド航空 (Trans World Airline)DC-2輸送機も、全金属製、低翼、引込み式脚の降着装置の旅客輸送機であり、胴体が延長され、発動機も同じライト・サイクロン Wright R-1820-F52 サイクロン(Cyclone) 710 hp (652 kW)搭載で、1934年5月11日に試作機が初飛行した。フィアット(Fiat)G. 18 Vは、その1年後の初飛行で、エンジン出力は向上されている。

ダグラス(Douglas) DC-2輸送機は、全幅:25.78m 、全長:18.88m、 総重量:8,160kg、発動機は、アメリカ製ライト サイクロンSGR-1820-F空冷星形9気筒エンジン750馬力2基搭載、速力320km/hで、搭乗員4名、乗客14名を運搬できた。機首先端には、2個の照明灯がついているのがDC-2で、DC-3には照明灯はついていない。

写真(右)1935年2月12日、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、スイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(115-B, HB-ITI):発動機のライト(Wright)R-1820 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジンには3翅プロペラがついているが、エンジンは停止している。
Photographer: Swissair Title: Douglas DC-2 115-B, HB-ITI am Boden in Dübendorf
Dating: 12.2.1935 Physical Description: Photography : nitrate-negative
Colour: black and white Orientation: Square Format: 2.4 x 3.6 cm
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf::
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR02-10676引用。


写真(右)1935-1939年、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、空港ビル前のスイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機と乗客:移動用階段を使って胴体左後方のドアから出入りする。
Photographer: Swissair Title: Passagiere beim Ausstieg aus der Douglas DC-2 115-B, HB-ITA in Dübendorf Find similar records
Caption: Dating: 1935-1939 Physical Description: Photography : nitrate-negative
Colour: black and white Orientation: Square Format: 6 x 6 cm
写真は, ETH-Zürich LBS_SR01-01063引用。


アメリカン航空(American Airways)は、いくつかの地方航空会社が統合してアメリカ全土をカバーする航空会社として、1930年1月25日に設立された。本部は、ニューヨークで、アメリカ東海岸のボストン、五大湖のシカゴ、南部のダラスが拠点となる国内航路を開設した。また、ダラスからはアメリカ西岸のロサンゼルスへも航路を伸ばして、アメリカ大陸横断航路をも運行していた。

TWA) は、DC-1に満足したが、エンジン出力向上、機体延長による2座席増の14座席の確保を要求し、この仕様で20機を発注した。そこで、ダグラス社はDC-1を原型に若干の改修を施し、これを新鋭機DC-2と命名して、生産した。

写真(右)1936年5月、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、チューリッヒ=ウィーン=ザグレブ航路のスイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機と記念撮影をした乗客たち:DC-2機首先端には、2個の照明灯がついているが、DC-3には照明灯はついていない。機首最先端の中央にある穴は、コックピットや客室キャビンへの空気取り入れ口である。コックピット上のループアンテナは、方位測定用の航法無線受信機である。
Photographer: Swissair Title: Walter Mittelholzer auf einem Jugoslawischen Flugplatz mit einer Gruppe Männer Find similar records
Caption: Sonderflug: Zürich-Wien-Zagreb-Banyaluka (Bosnien) Dating: 22.5.1936-25.5.1936 Physical Description: Photography : nitrate-negative
Colour: black and white Orientation: Square Format: 2.4 x 3.6 cm
Flug nach Jugoslawien, ca. 1932-1936. Reportage mit 88 Bildern (alle digitalisiert) Find similar
写真は, ETH-Zürich LBS_MH02-48-0041引用。


ダグラスDouglas DC-2)の諸元
乗員Crew: 2-3名
搭載乗客数Capacity: 14名
全長Length: 61 ft 11.75 in (18.8913 m)
全幅Wingspan: 85 ft 0 in (25.91 m)
全高Height: 16 ft 3.75 in (4.9721 m)
主翼面積Wing area: 939 sq ft (87.2 m2)
空虚重量Empty weight: 12,408 lb (5,628 kg)
総重量Gross weight: 18,560 lb (8,419 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)GR-1820-F52 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン2基
プロペラPropellers: 3翅可変ピッチ金属製プロペラ(3-bladed variable-pitch metal propellers)

写真(右)1936年5月、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、チューリッヒ=ウィーン=ザグレブ航路のスイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機と記念撮影をしたユーゴスラビアの乗客たち:DC-2機首先端には、2個の照明灯がついているが、DC-3には照明灯はついていない。機首最先端の中央にある穴は、コックピットや客室キャビンへの空気取り入れ口である。コックピット上のループアンテナは、方位測定用の航法無線受信機である。
Photographer: Swissair Title: Walter Mittelholzer auf einem Jugoslawischen Flugplatz mit einer Gruppe Männer Find similar records
Caption: Sonderflug: Zürich-Wien-Zagreb-Banyaluka (Bosnien) Dating: 22.5.1936-25.5.1936 Physical Description: Photography : nitrate-negative
Colour: black and white Orientation: Square Format: 2.4 x 3.6 cm
Flug nach Jugoslawien, ca. 1932-1936. Reportage mit 88 Bildern (alle digitalisiert) Find similar
写真は, ETH-Zürich LBS_MH02-48-0042引用。


ダグラスDouglas DC-2)の性能
最高速力Maximum speed: 210 mph (340 km/h, 180 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
巡行速力Cruise speed: 190 mph (310 km/h, 170 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
航続距離Range: 1,000 mi (1,600 km, 870 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 22,450 ft (6,840 m)
上昇率Rate of climb: 1,000 ft/min (5.1 m/s)
翼面荷重Wing loading: 19.8 lb/sq ft (97 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.082 hp/lb (0.135 kW/kg)

アメリカの竜力メーカーのカーチス・ライト社は、ライト R-1820 サイクロン 9(Wright R-1820 Cyclone)空冷星形9気筒エンジンを開発し、1931年から量産に入った。このエンジンは信頼性が高く、生産しやすく、高性能だったために、アメリカの主要航空機に採用さればかりでなく、ソビエト連邦でも「シュベツォフ M-25エンジン」としてライセンス生産されるなど、世界各国で採用された。

DC-2やDC-3に搭載されたサイクロン・エンジンは、ボーイングB-17爆撃機にも採用されたが、それを二重星型14気筒として排気量を増した出力強化型が、ライト R-2600 サイクロン空冷星形14気筒エンジンである。そして、さらに二重星型18気筒化し排気量を増した強力なエンジンが第二次大戦末期に登場したライト R-3350 サイクロン空冷星形18気筒エンジンである。

写真(右)1935-1948年、スイス南東部、観光飛行前に記念写真撮影をした下士官とスイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:軍服からすると、ハンガリー軍の兵士であろうか、公務のついでに山岳観光にスイスを訪問したのであろうか。少なくとも5名の人物が指揮刀を腰の左側に佩刀している。機首に2個の照明塔を装備しSwissAirとロゴが記入されている。エンジンはアメリカ製ライト(Wright)サイクロンSGR-1820-F空冷星形9気筒エンジン750馬力2基搭載.
Instruktions-Unteroffiziere des Militärs vor Rundflug mit einer Douglas DC-2 Find similar records Photographer Swissair Dating 1935-1948
Format 6 x 6 cm
ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Swissair,
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-01011-B引用。


ダグラス(Douglas) DC-2輸送機は、全幅:25.78m 、全長:18.88m、 総重量:8,160kg、発動機は、アメリカ製ライト サイクロンSGR-1820-F空冷星形9気筒エンジン750馬力2基搭載、速力320km/hで、搭乗員4名、乗客14名を運搬できた。

写真(右)1935-1952年、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、スイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機と記念撮影をした乗客たち:DC-2機首先端には、2個の照明灯がついているが、DC-3には照明塔はついていない。機首最先端の中央にある穴は、コックピットや客室キャビンへの空気取り入れ口である。コックピット上のループアンテナは、方位測定用の航法無線受信機である。
Photographer: Swissair Title: Unbekannte Personen vor einer Douglas DC-2 der Swissair in Dübendorf
Caption: Sonderflug: Zürich-Wien-Zagreb-Banyaluka (Bosnien) Dating: 1935-1952
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf:
写真は, ETH-Zürich LBS_SR01-02024-28引用。


写真(右)1935年7月8日、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機のコックピットの複式操縦席の正副操縦士
Photographer Swissair
Title: Piloten im Cockpit einer Douglas DC-2 der Swissair
Dating: 1935-1952
Format: 2,4 x 3,6 cm
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Swissair / LBS
写真は, ETH Library LBS_SR01-02021-14引用。


飛行機主翼後縁下面に設けられた平たいフラップは、揚力を高めるために、主翼から開いて空気の流れを主翼の上下で調整する動翼である。主翼後縁のフラップを下げることで揚力が高まる。主翼には、エルロン、フラップ、スポイラーといった動翼が取り付けられている。また、水平尾翼には昇降舵(エレベーター)が取り付けられている。

写真(右)1935年7月8日、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機のコックピットの複式操縦の正副操縦士席と足元の操縦用フット・バー
Photographer Swissair
Title: Piloten im Cockpit einer Douglas DC-2 der Swissair
Dating: 1935-1952
Format: 2,4 x 3,6 cm
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Swissair / LBS
写真は, ETH Library LBS_SR01-02021-14引用。


フラップは、揚力を高めるために、主翼から開いて空気の流れを主翼の上下で調整する動翼である。主翼後縁のフラップを下げることで揚力が高まる。主翼には、エルロン、フラップ、スポイラーといった動翼が取り付けられている。また、水平尾翼には昇降舵(エレベーター)が取り付けられている。

写真(右)1935年7月8日、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機のコックピットの複式操縦桿と足元のフットペダル(方向舵操作)
Photographer Swissair
Title: Piloten im Cockpit einer Douglas DC-2 der Swissair
Dating: 1935-1952
Photography : negative Colour: black and white
Orientation: Vertical Format: 2,4 x 3,6 cm
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Swissair / LBS
写真は, ETH Library LBS_SR01-02020-34引用。


飛行機の操縦桿を押せば、昇降舵(elevator)が動いて下に、引けば上に機体は動く。ただし、ハンドル(ステアリング)式の操縦桿なので、垂直尾翼の方向舵(rudder)にも連動している。操縦席の下にはペダルは、垂直尾翼の方向舵に連動していて、機体を左右に動かすものである。

ダグラス社は、DC-2の拡張型DC-3をベストセラーとして発展し第二次大戦末期にはDC-4四発大型輸送機を、戦後にはその発展型のDC-6輸送機を1946年に初飛行させ、1946年から1958年に704機を量産している。ジェット機としては、ダグラス DC-8(Douglas DC-8)輸送機を1958年6月1日に初飛行させ556機を量産している。次のDC-9輸送機は1965年2月25日に初飛行、1965年から1982年に976機も量産されている。


写真(上)1936年、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、スイス航空ダグラス(Douglas)DC-2旅客輸送機(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITE)

Douglas DC-2 115-B, HB-ITE am Boden in Dübendorf Find similar records Photographer: Swissair ating: 1936 Photography : glass-plate negative Colour: black and white Horizontal Format: 11,5 x 15,5 cm
写真は, ETH-Zürich Record Name Ans_05035-572 引用。


写真(右)1945年5月、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、格納庫で整備中のスイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-D, 登録コード:HB-IS)の発動機ライト(Wright)R-1820 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン
Photographer: Swissair Title: Douglas DC-2 der Swissair in der Werft in Dübendorf
Caption:Mechaniker an BB-Motor Dating: 1935-1948 Physical Description: Photography : nitrate-negative
Colour: black and white Orientation: Square Format: 6 x 6 cm
Categories: Reportage photography, Maintenance + Servicing + Engine test, Aerodrome Dübendorf
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-09015-42引用。


ライト(Wright)R-1820 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジンの諸元
ボア 6 ​1⁄8 in (155.6 mm)
ストローク 6 ​7⁄8 in (174.6 mm)
全長 47.76 in (1,213 mm)
直径 4.25 in (1,378 mm)
排気量 29.87L (1,823in³)
乾燥重量 1,184 lb (537 kg)
出力 1,000 hp (746 kW)

アメリカのカーチス・ライト社の開発したライト(Wright)R-1820 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジンは、1931年から生産に入り、アメリカの多数の飛行機に採用された。そして、このエンジンは、ソビエト連邦でもシュベツォフ M-25としてライセンス生産された。

ライト(Wright)R-1820 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジンは、二重星型14気筒化し排気量を増して出力を強化したライト R-2600 サイクロン空冷星形14気筒エンジンに発展し、アメリカ陸海軍のダグラス A-20攻撃機、ノースアメリカンB-25爆撃機、グラマンTBFアベンジャー(Avenger)雷撃機などに採用された。そして、さらに排気量を増すために二重星型18気筒化したライト R-3350 サイクロン空冷星形18気筒エンジンが完成し、ボーイングB-29爆撃機に採用された。

写真(右)1935-1948年、スイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITO) の2列7席合計14席の客室キャビン:乗客がいないので、座席のつくりがよくわかる。
Kabine einer Douglas DC-2 der Swissair Photographer Swissair
Dating 1935-1948 Physical Description
Fotografie : Nitratnegativ Colour schwarz/weiss
Orientation Square Format: 6 x 6 cm
Die DC-2 hatte 14 Sitze, ausschliesslich Fensterplätze
写真は, ETH-Zürich Record Name  LBS_SR01-00032 引用。


1930年代の旅客輸送機でも、乗客の座席頭部にはクッションが用意されている。かつて飛行機旅行の楽しみは、空からの眺めだった。当時の飛行機の運用高度は、数千メートルで、夜間飛行や曇天の飛行はほとんどなく、街並み、田園、山岳地、海岸など空からの景色は、乗客たちの楽しみだった。機内食ではあっても、食事を機内で温める手段は、電熱器、保温ポットの余熱を使っていたようだ。しかし、サンドイッチ、スナック、果物であれば、そのまま提供できるので、このような軽食を機内に持ち込んで、それを乗客に提供していた。

飛行機では、乗客の空腹を満たすために機内食を提供するのではなく、優雅にふるまうアイテムとして、食事や雑誌が提供され、それを見事に演出するホステスが求められたのである。これは、21世紀の大衆化された飛行機旅客輸送とは全く異なるといえる。客層が異なればそれにふさわしいスタッフが出てくるのである。

写真(右)1935-1948年、スイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITO) の客室キャビンを使った患者輸送機仕様:医師が看護している席は、後ろ向きになっているが、これは座席を反対向きに変更できるためであろう。後方には普通に座席が並んでおり、女性患者が横たわっているベッドは、客室キャビン後方右側に設置されている。
Photographer: Swissair
Title: Krankentransport in einer Douglas DC-2 der Swissair
Caption: Dating: 1935-1948 Physical Description: Photography : nitrate-negative
Colour: black and white Orientation: Square Format: 6 x 6 cm
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Swissair
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-00712 引用。


スイス航空ダグラス(Douglas) DC-2輸送機(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITO)は、一般的な旅客輸送機だったが、1934年に本気が導入された当初から、客室キャビン後尾の座席を配置を変更することで臨時の患者輸送機としても使用できた。つまり、患者が横たわることができるベッドを、客室キャビン後方右側に設置し、その隣に医師の座席を確保した。また、患者の枕もとの座席には、家族や同乗者も座ることができたが、これらの席は、後ろに横たわった患者を見守ることができるように、座席の向きが前方ではなく、後方を向くように配置された。

1932年中国大陸、特に満州での戦闘を契機に、日本陸軍は、傷病兵の空輸を担当する患者輸送機の開発を民間航空会社に依頼し、石川島がイギリス製デ・ハビランド DH.83 フォックス・モス複葉輸送機を改造し、担架を2人分搭載できる小型患者輸送機を開発した。そして、1934年4月に試作1号機を完成、審査を経た後、1935年2月から少数が生産された。

1928年3月初飛行のフォッカー・ユニバーサル(Fokker Super Universal)単発輸送機は、1924年11月初飛行のフォッカー F.VII単発輸送機の発展型で、日本も購入し、のちに中島飛行が国産化した。そして、日本航空運輸は、フォッカー・ユニバーサルを使って1929年7月から、東京-大阪-福岡間の国内線定期旅客輸送を、フォッカー F.VIIと併用して開始した。そして、フォッカー・ユニバーサル水上型によって、福岡-韓国南部の蔚山-京城(ソウル)-平壌-大連の国際線も開拓した。

日本陸軍は、民間寄付献納機として、フォッカー患者輸送機を1932年「愛國40号」、1938年「愛國268号」と命名し、合計2機を受領し、患者輸送機として運用している。しかし、スイス航空が1930年代に実用化していたようなダグラス(Douglas) DC-2 患者輸送仕様のような大型患者輸送機は、開発するつもりはなかったし、第二次大戦中には、専用の患者輸送機は就役させていない。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)DC-2旅客機を見る。


3.軍用仕様ダグラス(Douglas)C-39輸送機

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、飛行機格納庫前に駐機しているアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様C-39輸送機(07号機):1930年代に普及していた白赤ストライプのアメリカ国籍記章が垂直尾翼に描かれている。無塗装の試作機のように見える。
Douglas C-3901
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Mark Aldrich Photo Set引用。


アメリカ陸軍航空隊が採用したダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機は、全部で35機が生産されただけだったが、DC-2とDC-3のハイブリッド型輸送機であり、のちのC-47軍用輸送機の先行生産型といえる設計だった。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、飛行機格納庫前に駐機しているアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様C-39輸送機:無塗装の試作機のように見える。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012885引用。


wikipediaでは「DC-2は優秀で近代的な旅客機として世界各国の市場から高く評価されたが、これをベースに機体サイズを拡大した後続モデルのDC-3が輸送力の面でDC-2以上の大幅向上を達成し、市場のニーズがそちらに移行したため、DC-2の生産数は156機にとどまった。 」とあるが、100機以上生産されれば、当時の航空産業ではベストセラーに近い成功作である。イタリアのフィアット(Fiat)G. 18 Vは9機、後継機フィアットG.12は30機の生産に留まっている。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様C-39輸送機:DC-2機首先端にあった照明灯2個を撤去している。左翼に照明灯を装備している。
Douglas C-39 02
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Mark Aldrich Photo Set引用。


アメリカ陸軍航空隊制式のダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機は、DC-2民間輸送機よりも悪条件での戦場での使用が想定されていたために、降着装置の強度をより高めて、堅固なものとし、さらに貨物室の内装を簡易化する一方で、強度を向上している。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様C-39輸送機:DC-2機首先端にあった照明灯2個を撤去している。左翼に照明灯を装備している。
Douglas C-39 02
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012883引用。


民間旅客機DC-2は機首に照明灯2個を装備していたが、軍用輸送機ダグラス(Douglas)C-39は照明灯は、
1)敵から発見されやすいため、
2)量産性向上のため、
という2つの理由で、撤去された。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様C-39輸送機:1930年代に普及していた白赤ストライプのアメリカ国籍記章が垂直尾翼に描かれている。無塗装の試作機のように見える。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas C-39
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012892引用。


ダグラス(Douglas)DC-2輸送機の軍用仕様のダグラス(Douglas)C-39は、DC-3と同じ、大型尾翼、強固な引き込み式降着装置を装備し、出力を向上したライト(Wright)R-1820-45空冷星形9気筒エンジン 975 hp (727 kW)2基を搭載している。

しかし、生産ラインの変更を最小限におわえるために、C-39軍用輸送機でも、DC-2民間輸送機と同じような大きなガラス窓を片側7枚設けているので、搭乗者の視界は良好だった。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機(7号機):DC-2と同じく機首先端には小型の照明灯照明灯2基を装備している。無塗装の試作機か。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas C-39
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012886引用。


ダグラス(Douglas)DC-2民間輸送機から発展した軍用仕様ダグラス(Douglas)C-39輸送機は、1万5000機も大量産されることになるC-47軍用輸送機の原型ともいえる機体である。ダグラスは、アメリカ陸軍向けに35機のC-39Asを生産し1939年にアメリカ陸軍に納入し、第二次世界大戦初期に大活躍した。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機(71号機):1930年代に普及していた白赤ストライプのアメリカ国籍記章が垂直尾翼に描かれている。無塗装の試作機のように見える。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas C-39
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012887引用。


アメリカ陸軍航空隊Douglas C-39軍用輸送機は、1941年12月、フィリピンからオーストラリアにアメリカ人を空輸し避難させた。また、1942年1月に、アメリカ本土東端メーン州(Maine)からカナダのニューファウンドランド島(Newfoundland)にあるイギリス空軍ガンダー基地(Gander)に空輸を実施したが,これはアメリカからイギリスに対する最初の空輸任務だった。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)C-39輸送機:1930年代に普及していた青丸白星赤スポットのアメリカ国籍記章が左右主翼に、白赤ストライプのアメリカ国籍記章が垂直尾翼に描かれている。民間旅客機DC-2は機首に照明灯2個を装備していたが、軍用輸送機のC-39は照明灯をつけていない。
Douglas C-39 From the Paul Fedelchak Collection. Fedelchak was born in Brownsville PA, June 22, 1917, served as an aerial photographer in the USAAC from 1939. His duties included service at Chanute Field, Washington and Alaska where he was involved in the aerial surveys that made the Alcan Highway possible. These photos were loaned to the museum for copy by the family.
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive SC.30014 Paul Fedalchak Collection引用。


カナダのニューファウンドランド島(Newfoundland)の元イギリス空軍ガンダー基地(Gander)には北大西洋航空博物館(North Atlantic Aviation Museum)がある。ここには、ロッキード(Lockheed)ハドソン(Hudson)双発爆撃機、PBYカタリナ(Catalina)飛行艇改造爆撃機、デハビランド(de Havilland)タイガーモス(Tiger Moth)練習機,1937ビ年から32年間9000機が量産されたーチクラフト(Beechcraft)モデル 18-S軽双発輸送機、そして1.5万機量産されたダグラス(Douglas)DC-3輸送機が保管、展示されている。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、舗装された滑走路で待機しているアメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機:DC-2と同じく機首先端に照明灯2基が装備されている。主翼には、青丸白星赤スポットのアメリカ国籍記章が描かれている。アメリカの第二次大戦参戦後、1942年には、このような目立った国籍記章は、青丸白星の記章に変更された。垂直尾翼には白赤ストライプのアメリカ国籍記章が垂直尾翼に描かれているが、これは参戦後に廃止された。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas DC-2
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012891引用。


写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機の正面:DC-2の機首の照明灯2基は撤去されている。右手前に舗装滑走路が見える。1930年代、アメリカでも飛行場の大半は未舗装で、主用滑走路だけが舗装されていたようだ。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas DC-2
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012894引用。


アメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機の発動機は、DC-2民間輸送機と同型だが、出力を増強し975 hp (727 kW)としてライト(Wright) R-1820-45空冷星が9気筒エンジン2基を装備している。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機:1930年代に普及していた青丸白星赤スポットのアメリカ国籍記章が左右主翼に、白赤ストライプのアメリカ国籍記章が垂直尾翼に描かれている。胴体左後方には、大型の貨物扉が設置されているのがわかる。無塗装の試作機のように見える。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas DC-2
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012895引用。


ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機は、1934年5月11日に初飛行したDC-2輸送機と1935年12月17日に初飛行したDC-3輸送機の一部を流用したハイブリッド機だったが、軍用には、より大型のDC-3輸送機が適しているとされ、その軍用仕様C-47が実用化された。単一機首の大量生産の効率性を優先し、C-39輸送機の量産は、35機で終了している。

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、飛行機格納庫前に駐機しているアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様C-39輸送機:無塗装の試作機のように見える。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012884引用。


写真(右)1939-1942年頃、アメリカ、未舗装滑走路で待機しているアメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機:ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様。日差しが強いので主翼の下の日陰で搭乗員たちが待機しているのか。後方には、飛行格納庫やその他の施設が見えている。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas DC-2
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012890引用。


民間旅客機DC-2は機首に照明灯2個を装備していたが、軍用輸送機ダグラス(Douglas)C-39は照明灯は、敵から発見されやすいため、量産性向上のために撤去された。

写真(右)1939-1942年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機の大型貨物扉を開放して、トラックからエンジンを積み込もうとしている地上勤務員:貨物扉内側には、穴をあけた金属補強版が装着されている。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas DC-2
写真は, SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012888引用。


ダグラス(Douglas)DC-2輸送機の軍用仕様のC-39は、座席を簡易化して搭乗兵員数を16人乗りに増加し、C-33と同じく、客室キャビンの床板を強化し、小型の乗客用昇降扉をより大型の貨物積載用扉に変更している。

写真(右)1939-1942年頃、アメリカ、未舗装滑走路で待機しているアメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機の前部:ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様だが、機首先端にあった照明灯2基は撤去され完全に成型されている。後方の飛行格納庫には、ノースアメリカンT-6 テキサン(Texan)単発練習機が見える。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas DC-2
写真は, SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012889引用。


ノースアメリカン(North American Aviation )T-6 テキサン(Texan)単発練習機は、1935年4月1日初飛行のアメリカ陸軍航空隊の制式練習機で、総計1万5,000機が量産された。

写真(右)1939-1941年頃、アメリカ、未舗装滑走路で待機しているアメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機:ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様で垂直尾翼の塗装も陸軍航空隊の赤国籍マーク赤白ストライプで塗られている。ただし、このような華麗な国籍マークは、目立ちすぎるために、太平洋戦争参戦後の1942年には取りやめられ、国籍マークの白星中央の赤丸も取りやめられている。
Douglas : C-39 : Manufacturer: Douglas Designation: C-39
Source The last flying Douglas DC-2
写真は, SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00012893引用。


写真(右)1941年、太平洋戦争勃発前後、アメリカ東岸、カリフォルニア州ハマー・フィールド基地、待機しているアメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機:主翼には、青丸白星赤スポットのアメリカ国籍記章が描かれている。アメリカの第二次大戦参戦後、1942年には、このような目立った国籍記章は、青丸白星の記章に変更された。
Douglas C-39, at Hammer Fld Repository: San Diego Air and Space Museum Archive"
写真は,SDASM Archives, San Diego Air and Space Museum Archive - Catalog:15_002775 - 引用。



写真(右)1943年以降、オーストラリア東部、ニューサウスウェールズ州、オーストラリア空軍所属のダグラス(Douglas)DC-2-243軍用輸送機(登録コードc/r VH-CCG、製造番号c/n 2076)

C-39 VHCCH at Essendon with "ANA" on the nose Geoff Goodall collection
写真は, WWII AUSTRALIAN TRANSPORT AIRCRAFT RADIO CALLSIGNS Part 1: VHCAA to VHCZZ引用。


ダグラス(Douglas)C-39-519 (MSN 2076)は、1939年7月18日就役で、1942年5月9日にオーストラリア駐留のアメリカ第五空軍(5th AF)に引き渡された。1943年7月7日、オーストラリア航空(Australian National Airlines)にVH-CCGとして貸与された。その後、ダグラス(Douglas)C-39は、1944年5月3日にアメリカ陸軍航空軍(USAAF)に返還された。1946年5月29日,再びオーストラリア航空にVH-ARBとして登録された。


写真(右)1942年、ニューギニア島南東岸、ポートモレスビー基地で貨物を降ろすアメリカ陸軍空軍所属のダグラスDC-2-243軍用輸送機(登録コードc/r VH-CCG、製造番号c/n 2076)
:ダグラス(Douglas)C-39-519 (MSN 2076)は、1939年7月18日就役で、1942年5月9日にオーストラリア駐留のアメリカ第五空軍(5th AF)に引き渡された。1943年7月7日、オーストラリア航空(Australian National Airlines)にVH-CCGとして貸与された。その後、1944年5月3日にアメリカ陸軍航空軍(USAAF)に返還された。
VHCCG at Port Moresby during 1942.
写真は, WWII AUSTRALIAN TRANSPORT AIRCRAFT RADIO CALLSIGNS Part 1: VHCAA to VHCZZ引用。



写真(右)1943年以降、ニューギニア島南東岸、クイーンズランド州アーチャフィールド基地のアメリカ軍兵士とダグラスC-39軍用輸送機(登録コードc/r VH-CCH、製造番号c/n 2076)
:c/n 2076は1943-1948 1946年に、VH-ARBとして再登録された。
Douglas C-39 VH-ARB at Eagle Farm Airport, Brisbane during 1948. Photo by Gus Gruelke
Guinea Air Traders founder John Jamieson was a builder by trade and involved in other business ventures, such as importing the first Vespa motor scooters to Australia. GAT's Douglas aircraft also operated charters from New Guinea to Australia. By February 1949 five loads of sheep had been flown from Australia to the Livestock Experimental Stations at Kerowagi and Nondugi.
写真は, WWII AUSTRALIAN TRANSPORT AIRCRAFT RADIO CALLSIGNS Part 1: VHCAA to VHCZZ引用。



写真(上)1941年12月-1944年3月、オーストラリア、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-39軍用輸送機(登録コード:VHCCF、製造番号02089)
:機首に"Galahad"と機体愛称が記入されている。1944年3月にオーストラリア南東部、ヴィクトリア州(Victoria)モールズワース(Molesworth)で事故で不時着し喪失した。
C-39 VHCCF in USAAC service in Australia, name "Galahad" on nose. David Vincent collection
写真は, WWII AUSTRALIAN TRANSPORT AIRCRAFT RADIO CALLSIGNS Part 1: VHCAA to VHCZZ引用。



写真(右)1944年3月9日、オーストラリア東部、ビクトリア州モールスワース(Molesworth)、不時着したオーストラリアのダグラス(Douglas)DC-2-243軍用輸送機(登録コードc/r VH-VHCCF、製造番号c/n 2076)

VHCCF later with ANA on civil passenger services made a night forced landing at Molesworth Vic 9.3.44. John Hopton collection
写真は, WWII AUSTRALIAN TRANSPORT AIRCRAFT RADIO CALLSIGNS Part 1: VHCAA to VHCZZ引用。



写真(右)1944年3月9日、オーストラリア東部、ビクトリア州モールスワース(Molesworth)、不時着したオーストラリアのダグラス(Douglas)DC-2-243軍用輸送機(登録コードc/r VH-VHCCF、製造番号c/n 2076)

VHCCF later with ANA on civil passenger services made a night forced landing at Molesworth Vic 9.3.44. John Hopton collection
写真は, Index of /australian-aviation/dc-2/ C-39-VHCCF-38-530-Molesworth-9.3.44-HC-KOM.jpg 引用。



写真(右)1945年、オーストラリア東部、ビクトリア州エセンドン(Essendon)、オーストラリア航空ダグラス(Douglas)C-39 軍用輸送機(登録コードc/r VH-ARB)
:以前は迷彩塗装で偽装していたが、戦後には迷彩塗装を落として銀色の無塗装となった。1946年5月16日には、オーストラリア航空(Australia National Airlines)にc/r VH-ARCに変更して登録された。
Photographer: Alan Betteridge Notes: C-39 VHCCH at Essendon in 1945 after camouflage had been removed, still operated by ANA
16 May 1946 To Australia National Airlines with c/r VH-ARC. 7 December 1947 To MacAir. By 16 March 1949 To Guinea Air Traders. 16 March 1949 Crashed. Summary: The airframe was written off. Narrative: VH-ARC was withdrawn from service after a crash in 1949 and broken up at Essendon, Australia in 1951. 1951 Scrapped. At Melbourne Essendon.写真は, Index of /australian-aviation/dc-2/ C-39-VHCCH-EN-c45-Alan-Betteridge-CAHS-KOM.jpg 引用。



写真(右)1945年、オーストラリア東部、ビクトリア州エセンドン(Essendon)、ギニア航空交易ダグラス(Douglas)C-39 輸送機(登録コードc/r VH-ARC、その前は VH-CCH)
:1946年5月16日には、オーストラリア航空(Australia National Airlines)にc/r VH-ARCに変更して登録された。1949年3月16日、ギニア航空交易に移籍された。
Photographer: Alan Betteridge Notes: C-39 VHCCH at Essendon in 1945 after camouflage had been removed, still operated by ANA
16 May 1946 To Australia National Airlines with c/r VH-ARC. 7 December 1947 To MacAir. By 16 March 1949 To Guinea Air Traders. 16 March 1949 Crashed. Summary: The airframe was written off. Narrative: VH-ARC was withdrawn from service after a crash in 1949 and broken up at Essendon, Australia in 1951. 1951 Scrapped. At Melbourne Essendon.写真は, Index of /australian-aviation/dc-2/ C-39-VHCCH-EN-c45-Alan-Betteridge-CAHS-KOM.jpg 引用。


写真(右)1941年12月の太平洋戦争勃発で、フィリピンからオーストラリアに脱出したアメリカ陸軍航空隊C-39軍用輸送機:POSTCARD(絵葉書)の彩色された写真。POSTCARD裏の解説には次のようにある。「DOUGLAS C-39:ライト(Wright)R-1820空冷星形9気筒エンジン975hp2基、最高速力210マイル時、航続距離900マイル、上場限度20600フィート、全幅85フィート0インチ、全長61フィート9インチ、全高16フィート1インチ、C-39は世界的に有名なC-47輸送機の前のタイプの輸送機で、ダグラスの民間機・軍用機としての成功作である。1939年にC-39輸送機35機がアメリカ陸軍航空隊に引き渡された。1942年12月の太平洋戦争勃発で、C-39 はフィリピンのアメリカ人をオーストラリアに脱出させた。」彩色された絵葉書。
Categories: Transportation,Aircraft Type: Postcard Size: 3.5" x 5.5" (9 x 14 cm) Publisher: The Air Force Museum Foundation, Inc.
写真は, Collectibles & Fine Art›Entertainment›Postcards Douglas C-39 Aircraft Original Vintage Postcard引用。


写真(右)1970年頃、アメリカ、舗装滑走路で待機しているアメリカ陸軍航空隊C-39A 軍用輸送機:この機体は、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)で1939年から1942年まで使用され、1970年7月に博物館に贈与された。
DAYTON, Ohio -- The Douglas C-39 is currently in storage at the National Museum of the United States Air Force. This photo shows N6097C "The Kansan" when it was received by the museum. (U.S Air Force photo)
The museum's C-39A was donated in July 1970. During its service life, it was based at Wright-Patterson Air Force Base, Ohio, between 1939 and 1942.
写真は, SDASM Archives, The National Museum of the U.S. Air Force Douglas C-39 Published June 05, 2015引用。


写真(右)1970年頃、アメリカ、舗装滑走路に引き出され記念撮影されたアメリカ陸軍航空隊C-39A 軍用輸送機(登録コード:N6097C)左側面:胴体後方左側面の扉は半分開いている。この残り半分も反対側に開き、大型貨物を搭載しやすくできる。この機体は、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)で1939年から1942年まで使用された。1970年7月に博物館に贈与されたときの撮影。
The C-39 transport, forerunner of the famous C-47, was a composite of Douglas military and civilian aircraft designs. Douglas built 35 C-39As and delivered them to the Air Corps in 1939. These aircraft were called upon to perform many rigorous transport duties early in World War II, including the evacuation of personnel from the Philippines to Australia in December 1941. Also, it was a C-39A that blazed the trail from Maine to Gander, Newfoundland, in January 1942, the first leg of the aerial lifeline to Great Britain.
写真は, The National Museum of the U.S. Air Force Douglas C-39 Published June 05, 2015 引用。


写真(右)2000年頃、アメリカ、舗装滑走路に引き出され記念撮影されたアメリカ陸軍航空隊C-39A 軍用輸送機(登録コード:N6097C):胴体後方左側面の扉は半分開いている。この残り半分も繋げて同じ方向に開くことで、開口部を広げて大型貨物が出し入れしやすくなる。この機体は、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)で1939年から1942年まで使用された。1970年7月に博物館に贈与されたときの撮影。
DAYTON, Ohio -- The Douglas C-39 is currently in storage at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The museum's C-39A was donated in July 1970. During its service life, it was based at Wright-Patterson Air Force Base, Ohio, between 1939 and 1942.
写真は, The National Museum of the U.S. Air Force Douglas C-39 Published June 05, 2015 引用。


写真(右)2000年頃、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)、舗装滑走路に引き出され記念撮影されたアメリカ陸軍航空隊C-39A 軍用輸送機の側面:この機体は、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)で1939年から1942年まで使用され、1970年7月に博物館に贈与された。
DAYTON, Ohio -- The Douglas C-39 is currently in storage at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The C-39 transport, forerunner of the famous C-47, was a composite of Douglas military and civilian aircraft designs. Douglas built 35 C-39As and delivered them to the Air Corps in 1939. These aircraft were called upon to perform many rigorous transport duties early in World War II, including the evacuation of personnel from the Philippines to Australia in December 1941. Also, it was a C-39A that blazed the trail from Maine to Gander, Newfoundland, in January 1942, the first leg of the aerial lifeline to Great Britain.
写真は, The National Museum of the U.S. Air Force Douglas C-39 Published June 05, 2015 引用。


民間旅客機DC-2は機首に照明灯2個を装備し、夜間着陸や夜間の運用の便を図っていた。しかし、DC-2軍用仕様のC-39輸送機は、照明灯を撤去している。その理由は、
1)敵から発見されやすいため、
2)量産性向上のため、
という2つの理由である。

写真(右)1995年9月20日、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)、格納庫で保管されているアメリカ陸軍航空隊C-39A 軍用輸送機(シリアルナンバー s/n 2072 FABr, 製造番号 c/n 02072, c/r N6097C)の左側面:この機体は、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)で1939年から1942年まで使用された。
20 September 1995 Photographer: Glenn Chatfield
Latest Model: C-39 Last Military Serial: 38-0515 USAAF Construction Number: 02072 Last Civil Registration: N6097C Latest Owner or Location: National Museum of the United States Air Force, Wright Photo Date: On 20 September 1995 Credit: Glenn Chatfield Date Uploaded: 18 November 2012 Airframe: Douglas C-39, s/n 2072 FABr, c/n 02072, c/r N6097C .
写真は, AerialVisuals Douglas C-39 Published June 05, 2015 引用。


ワシントン州シアトルにある飛行博物館(Museum of Flight)の保有するダグラスDC-2輸送機は、1934年製造(製造番号:c/n 1368)でパンアメリカン航空(Pan American Airways)が使用した後に、ダグラス歴史基金(Douglas Historical Foundation)がマグダネル・ダグラス社(McDonnell Douglas)が1997年にボーイング(Boeing Company)に合併吸収されるまで保有していた。

写真(右)1996年7月18日、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)、格納庫で保管されているアメリカ陸軍航空隊C-39A 軍用輸送機(シリアルナンバー s/n 2072 FABr, 製造番号 c/n 02072, c/r N6097C)の機首右側と胴体前半:この機体は、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)から、1970年7月に博物館に贈与された。
Photographer: Glenn Chatfield
Airframe: Douglas C-39, s/n 2072 FABr, c/n 02072, c/r N6097C Photographer: Mike Henniger Date Photographed: On 18 July 1996 Notes: Photographed at the USAF Museum in Dayton, Ohio. .
写真は, AerialVisuals Douglas C-39 Published June 05, 2015 引用。


ダグラス(Douglas DC-2)の諸元
乗員Crew: 2-3名
搭載乗客数Capacity: 14名
全長Length: 61 ft 11.75 in (18.8913 m)
全幅Wingspan: 85 ft 0 in (25.91 m)
全高Height: 16 ft 3.75 in (4.9721 m)
主翼面積Wing area: 939 sq ft (87.2 m2)
空虚重量Empty weight: 12,408 lb (5,628 kg)
総重量Gross weight: 18,560 lb (8,419 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)GR-1820-F52 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン2基
プロペラPropellers: 3翅可変ピッチ金属製プロペラ(3-bladed variable-pitch metal propellers)

写真(右)1996年7月18日、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)、格納庫で保管されているアメリカ陸軍航空隊C-39A 軍用輸送機(シリアルナンバー s/n 2072 FABr, 製造番号 c/n 02072, c/r N6097C)の尾翼と胴体後半:この機体は、アメリカ、オハイオ州ライトパターソン基地(Wright-Patterson Air Force Base)から、1970年7月に博物館に贈与された。
Airframe: Douglas C-39, s/n 2072 FABr, c/n 02072, c/r N6097C Photographer: Mike Henniger Date Photographed: On 18 July 1996 Notes: Photographed at the USAF Museum in Dayton, Ohio. Notes: Photographed at the USAF Museum in Dayton, Ohio. .
写真は, AerialVisuals Douglas C-39 Published June 05, 2015 引用。


ダグラス(Douglas DC-2)の性能
最高速力Maximum speed: 210 mph (340 km/h, 180 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
巡行速力Cruise speed: 190 mph (310 km/h, 170 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
航続距離Range: 1,000 mi (1,600 km, 870 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 22,450 ft (6,840 m)
上昇率Rate of climb: 1,000 ft/min (5.1 m/s)
翼面荷重Wing loading: 19.8 lb/sq ft (97 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.082 hp/lb (0.135 kW/kg)


4.交通機関としての飛行機の地位 (一) : 逓信省航空局技術課長 児玉 常雄
掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 2巻 Page: 21 出版年 1931-05-12/1931-05-15
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100123846
情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

 今度朝日新聞社で計画された定期航空利用世界早廻り競争太平洋無着陸横断飛行の懸賞とは斯界に大なるセンセーションを起したがこれらのものは単にスポーツ的にまた冒険的にのみ興味あるのみならず直接間接に航空交通界に裨益するところ頗る大なるものがあると思うのでそれらのうち運輸交通機関として飛行機が如何なる地位にあるものか、また太平洋横断飛行の如き長距離飛行が航空輸送事業に如何なる影響をおよぼすかということにつき二三考察して見ようと思う

諺に「氏より育ち」ということがある、航空機特に飛行機はよくこの諺に当てはまっているように思われるのである、即ち飛行機はその生れが軍用であってそれから発達したものであるから未だにその構造は軍用臭が抜け切らぬのである、

一般に軍用として造られたものは戦争という特別の目的に副うように製作されているからこれを直に実用に使うといろいろの点で不便なことがある、例えば貨物自動車のようなものでも軍用貨物自動車は道のないところや急な坂道をあがるため車体も丈夫に発動機も強馬力のものを使っているが普通に使われている貨物自動車は道路以外の山や原を走る必要がないから車体も豪奢に発動機も成るべく小馬力のものを使っている、

そこで軍用貨物自動車を使って荷物運搬業を始めたとすると成るほど丈夫に出来ているからいいようではあるが発動機の馬力が大きいため揮発油を多量に消費するし丈夫に出来ているだけ購入価格も高価となり結局差引き算盤がとれないということになる、また一般の貨物自動車を軍用に使うとなると一般に需要されているものであるから多量製作の理によって価額は安くはなるがその強さが足りないので普通の道路を走っているのには何の障りもないが一度原野や道の悪いところへ行くと用をなさないようになる、これは貨物自動車のようなものは軍用は軍用として発達し一般のは一般用として発達した結果である
[写真(児玉航空局技術課長)あり 省略]

飛行機は前にも述べたように軍用としてのみ発達しこれを運輸交通の機関として使用し始めた当時は軍用飛行機をそのまま使ったがこれに伴う不便がいつでもついて来たのであったが改良の結果輸送飛行機の構造は漸次軍用飛行機と差別がつくようになり各その目的に副うように発達はして来たものの未だに軍用臭は抜け切らぬのである

かくて、輸送機が軍用機とその構造を異にし始め、比較的経済的に運行し得るようになってから、世界各国において飛行機を交通機関として実用する時代が生れて来たのである

飛行機は運輸交通機関として何ものも追随を許さざる美点を多々具備しているのであるが、いまだに交通機関の王座を占めることの出来ないのは、いまだ軍用臭の抜け切らない点にあることと思う 然らば如何なる点を指して軍用臭というかというに、第一価格の比較的に高価なことである、第二が使用し得る期間の短いこと即ち生命が短いことである、第三は運行経費の高価なことである、第四は使用目的に完全に合致するような飛行機が出来ていないことである

一、価格の高価なこと

飛行機は空中を飛ぶ以上目方が軽く丈夫に出来ていなければならぬことは明瞭である、従ってその構造も、使用する材料も、製作方法も工芸技術の極地と科学の粋を尽して作られるのみでなく何分眼に見えない空気を対象物として研究するためこれに莫大な経費を要し製作方法も機械力よりも人手によるところが多く需要が一般向でないのみならず、進歩が非常に早いから新型機が出来ると旧型機は顧みられないなどの関係から、一般商品のように製造工場の能力に応じ既製品を販売するのではなく皆注文に応じ製作するのであるからどうしても生産費が高まるのである、であるから飛行機も自動車のように民衆化するにおいては、その価額も低下しその実用価値はますます増大するのである

二、使用し得る期間の短いこと

飛行機の普通の速力は先ず一時間百五十キロメートル前後であるから仮りにその速力を一時間百五十キロメートルとすると一秒の速さが四十二メートルとなり昨年九州地方を吹きまくった台風くらいの速さであり一時間の速力百九十キロメートルとする時は一秒間に五十三メートル、一時間二百三十キロメートルとすると一秒間に六十四メートルとなり地上の人が一寸想像のつかないようなひどい風の吹いている中に立っているようなことになりしかも軽く作ることが必要であるため各部の大きさを出来る限り小くしているから使用し得る時間が頗る短く機体の生命は約千二百時間乃至二千時間とせられている、

使用し得られる時間の少いということは商用航空機としては実に苦痛とするところであってこれがため原価消却の率が高まり従って営業費の増加を来すのでこれがまた飛行機の実用化を害しているのである、この飛行機の生命のうち発動機の生命は機体のそれよりも短くおよそその半分でありしかも百時間乃至百五十時間毎に分解手入の必要がある

三、運行の経費の高いこと

 飛行機機体の価格は八人乗(乗員六人)くらいで三万円から四万円くらい、この飛行機に装備する発動機は四百乃至五百馬力で二万五千円くらいから三万円くらいでプロペラーは木製で五、六百円、金属製で二千円くらいする。であるから商用飛行機一台の価額はまず五万五千円から七万円くらいと見たらよかろう。

 今かりに機体の価額を四万円とし、その機体生命を千二百時間とすると、一時間当りの原価銷却費は三十三円となり、その一割を修繕費と見るときは、一時間の所要経費は三十六円三十銭となる。また三万円の発動機を使い、その生命を六百時間とするときは、一時間当りの原価銷却費は五十円となり、修繕費を一割五分と見込むときは、一時間当りの経費は五十七円五十銭となる。このくらいの飛行機を飛ばすと、一時間に消費する揮発油の量は約百リットルで、揮発油一リットルの価を十八銭とし、これに滑油の費を入れると一時間の燃料費は約二十円となる。

であるから一時間このくらいの商用飛行機を飛ばせると、それに要する実費は百十三円八十銭となる。今この飛行機が一時間百七十キロメートル飛行するとすれば、一キロメートル当りの実費は約六十七銭となり、乗客六人満員とすると一キロメートルの飛行実費(人件費、物件費を含まない費用)は十一銭である。これを鉄道運賃一等一キロメートル四銭六厘八毛、二等三銭一厘一毛、三等一銭五厘六毛に比較すると、くらべものにならないのである。

 東京、大連間の定期航空を実施している日本航空輸送会社の東京大阪間の賃金は、一人片道三十円であって、随分高価であるという評判を耳にしないでもないが、六人満員でも賃金収入は百八十円であって、東京、大阪間の距離は四百二十五キロメートルあるから飛行機の原価銷却費と燃料費だけでも一キロメートル六十七銭として二百八十六円かかり、結局百六円の損失となるわけである。

 かくの如く航空輸送事業の採算の取れない主な理由は、飛行機その物の価額の高いこともその一ではあるが、最も重大な関係を持つものはその生命の短いという点にあるのである。

飛行機の価額の低下は、目下のところ飛行機が自動車の如く普及せらるるにあらざれば大した期待は出来ないが、その工作術の進歩、使用材料の研究によりその生命を倍加することはあえて困難のことではないと思う。実際においても一九一八年航空輸送事業が開始せられた当時は、飛行機機体の生命は約三百時間、発動機の生命は約百五十時間くらいとせられたものが、十数年後の今日既に四倍乃至六倍に増大せられているのである。この増加が今日航空輸送の隆盛を誘致した主な原因の一つであると思うのである。

四、商業飛行機の種類

フォッカー  交通機関として使用するものは、皆各その固有目的に適合するように設計製作せられなければならない。汽車においても汽船においても自動車においても皆然りである。即ち旅客輸送の目的に対しては、速力早く諸設備が旅行者に快適でなければならない。これが経費の点は或る程度まで犠牲とするもやむを得ないのである。又貨物輸送のためには速力は多少遅くも多量のものを安価で輸送しなければならない。これがためには経済的で丈夫なものを必要とする。飛行機も運輸交通機関の一つたる以上はその原則を無視しては発達の見込みがないのである。

然るに現在の商用飛行機は旅客貨物郵便物等混用であるが、将来は最も運送の迅速を尊ぶ郵便用飛行機は頗る軽快な一時間二百五十キロメートル以上の速力を有するものが必要となるであろう。この郵便専用飛行機は、他の交通機関の決して真似の出来ない特殊のものであって、この飛行機の利用によって初めて交通機関としての飛行機の真価を発揮し得るものである。

即ち郵便物の輸送は極めて迅速なることを希望するも汽車、汽船、自動車等にあっては仮令特殊のものを使用するも速力上旅客輸送用のものと大なる差別を附けることが出来ないのであるが、飛行機では容易にこれを実施することが出来るのである。

旅客輸送用機は先ず現在程度のもの、即ち速力は一時間二百キロメートルまでとし、強いて要求せば客室内の快適度を増し雑音を除き、喫煙の自由を許す程度にて事足るものと思われる。更に荷物輸送専用機に対しては、一層の研究を必要とする。即ち速力は一時間百五十キロメートルにて十分なるべく、弱馬力の発動機を使用し貨物室を十分広くし安価に迅速に貨物の輸送を実施すべきである。

五、航空交通機関の利用

フォッカー  さて現在の飛行機が運輸交通機関としてたとひその王座を占むることが出来ないにもせよ、また幾多の欠点があるにもせよ、欧米の空に日一日と発達して行く所以のものは奈辺に存するか。一九三一年代は実にスピード時代である。この時代の要求たる「スピード」の利用を無視しては、政治家も、実業家も、学者も皆な時代の落伍者とならなければならない。この「スピード」時代の尖端を行くものは無線電信電話である。数年前の人は東京において英首相の演説、米大統領の挨拶を親しく耳にし得ると予想せしや。これによりて世界の面積は数分の一、否数百分の一に狭められたのである。

かく通信において「スピードアップ」せられたる人間が、午前中ロンドンの事務所に事務を取り、午後ベルリンに商談をすませ、パリに夕餐をなし「オペラ」を見て夜は安らけき夢をロンドン郊外の「ホーム」に結ばんとするは、あながち無理な希望にもあらず、また欲望にもあらざるべく、かくして時代の勝利者となり得るものであろう。この要求に適応するものが即ち飛行機であって、これが発達、これが利用により始めてこれらが理想化せらるるのである。即ち交通機関として幾多の欠点あるにもせよ、航空輸送事業の発達を見、これによって航空輸送機の不断の発達を見たのである。

 欧米の空は、くもの巣を張ったように航空網が発達し、かつ利用せられている。如何にこれらが世界的に利用せられ得るかということを立証するため、朝日新聞社が現存する定期航空路を利用しての世界早廻り競争は、特殊の準備を以てする世界早廻りよりは、その意義特に深いものがあり、これにより実際世界が幾何狭められたかが解るとともに、その利用の指針を実際的に示すものであって、特に将来航空路設定の上に重大な結果をもたらすものと思う。

六、長距離飛行と輸送機

 運輸交通の機関として飛行機は幾多の特徴と他の交通機関の追随を許さない美点を具備しているが、前にも述べた通り、なお未成品たるの域を脱せないのである。これがため世界中の学者は熱心に色んな研究を続けている。それらの結晶として、吾人の期待しているものの一つは、長距離飛行用飛行機である。

 学者の研究は神聖なものであるどんな小さな発明でも、発明者たるの名誉は常にその頭上にかざされるのである。この発明を実地に応用しこれを実用化するのが技術者の職責である。学理上正しきものも、これを実用化するには又幾多の困難が伴うのである。

この困難に打勝って出来上ったもの、これを試験して予期の成績を挙げ得た時の喜びは技術者以外には味わうことの出来ない喜びである。さて、この出来上ったものを実地に使用し、克ち得たる名誉は誰が負うのであろうか。みな使用者である。しかして、この使用者の獲らるる無形有形的のものは、前二者の報いらるる所に比し、莫大の差があるのである。

スピリット・オブ・セントルイス 彼の大西洋一番乗りに成功せる「リンドバーク」の如き、長距離無着陸飛行の記録保持者たる「コスト」の如き然りである。

然れども千里の馬も伯楽に見出されざるにおいては、又名騎手を得るにあらざれば、駑馬と何等変ることなきが如く、すべて両々相待って、始めてその名をなすものである。飛行機においてもまた然り、操縦者は太平洋を横断せんとして、技術者を督励し、技術者はこの目的に副わんがため、微細なる学者の研究をもこれをゆるがせにせず、三者相待って始めてその効果を奏するのである。

 今や大西洋を征服し終りたる空界は、虎視眈々、太平洋の征服に努力している。誰かこの栄冠を獲得し得るものぞ。

 大西洋横断、太平洋横断の如きは実に一種の冒険である。スポーツである。従って一面実社会の利益に何等影響のない様にも見えるが、これ等の飛行は直接間接に飛行機の実用化に対し非常なる影響があるのである。飛行機の実用化に最も障碍を来しているものは、前述の如く運航費の高価な点にある。つまり一トンの重量のものを一キロメートルの距離だけ運ぶ運賃が高価すぎるのである。これを救済するには、一つは飛行機の速力を速くし一つは搭載する荷物の量を多くすればよいのである。

かくの如き飛行機を製作するに努力はしているものの、製作し得た後、その製作者、発明者は如何なる報酬を得らるるか。勿論航空輸送事業者は相当の報酬をなすであろう。製作会社は相当数の注文を得らるるであろう。製作者、発明者は多大の名誉を担うであろう。

しかしこれは単に斯業界においてのみであり、世間一般は殆ど無関心なのである。世界の人は恐らくは「リンドバーグ」[Charles Augustus Lindbergh]の名を知らざるものはないであろう。しかしその使用機が「ライアン」であることもその製作者が誰れであることも知らないのである。

パンナム  長距離飛行用の飛行機は、燃料を沢山積まなければならない。燃料を沢山積むためには飛行機を丈夫に作らなければならない。飛行機を丈夫に作ると全体の重量が重くなる。全体の重量が重くなると馬力の強い発動機でなければ離陸が出来なくなる。離陸させるために強馬力の発動機を積むと、一時間に消費する燃料が増加する。一時間に消費する燃料が増加すると長い時間を飛ぶためにはまた燃料を増さなければならないというように御互に関聯して、色々な困難が伴うのである。

即ち長距離飛行用飛行機は、燃料消費量の少ない発動機を使い、機体は強さ十分でしかも軽く、燃料の搭載量を多くし操縦も楽で、しかも速力が速ければよいのである。この条件は運輸交通用の飛行機の最も希望している条件であって、いま太平洋を一気に横断し得る飛行機が出来、また横断飛行が出来たとするも、直に飛行機を以て太平洋空輸のサーヴィスが始まるものではないが、この飛行機の現出によりて−勿論この飛行機を基調とし目的に合する改造をした上−航空輸送の屯キロ米の運賃の低下を実現し得るものである。

 これ等飛行機の現出は、太平洋一番乗りの勇者が「リンドバーグ」[Charles Lindbergh]の如く有形無形の栄冠を担い得るという積極的の衝動のために、使用者が製作者、発明者を督促して、その実現を計るを最も捷径とするものである。「リンドバーグ」[Charles Lindbergh]が大西洋を横断してより今日まで世界の航空技術界は長足の進歩をなしつつあり、最早太平洋横断飛行も不可能にはあらざるべしと思わる。今回朝日新聞が莫大の懸賞をなし、世界の技術者と操縦士の奮起を促したることは誠に機宜を得たるものと衷心より喜びに堪えぬと共に、これが成功の暁、その使用せられた飛行機が何等かの形式において航空運輸界に貢献せられんことを希望してやまない次第である。(完)(交通機関としての飛行機の地位 (一) : 逓信省航空局技術課長 児玉 常雄引用終わり)


5.日本の中島飛行機DC-2輸送機

写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、日本航空輸送所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機 1934/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。


中島 ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の優秀さを評価した国策会社の日本航空輸送は、1934年にDC-2を採用することを決定し、中島飛行機に発注を出した。そこで、中島飛行機は、ダグラス社からライセンスを取得し、1936年2月にエンジンから機体構造まで部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で試作1号機を完成させ納入した。

第一次世界大戦後、1920年代の日本航空揺籃期には、日本の民間航空会社はあっても、運行数も乗客数も少なく、日本陸軍の立川飛行場を併用しているだけだったが、民間旅客需要の高まりを背景に、東京中心部に飛行場を開港することとなり、羽田の干拓地に空港の建設が決まった。当時の飛行機は軽量であり、未舗装の数百メートルの長さの滑走路で十分であり、1930年1月に空港建設が始まり、翌年の1931年8月25日、逓信省航空局の管轄になる羽田飛行場(東京飛行場)が開港した。干拓地であり、降雨の影響を考慮して、コンクリート舗装の全長300メートル全幅15メートルの滑走路と未舗装の飛行機待機・駐機場が作られた。当時の日本では、無線による管制は実用化されておらず、夜間飛行も想定されていないために、誘導灯や夜間照明もなかったようだ。

1931年8月25日、開港した羽田飛行場(東京飛行場)には、日本航空輸送の東京発大連行の定期便が就航したが、運賃が高額すぎたために、乗客はほとんどなかったという。国策会社でなければ、日本航空輸送の経営は成り立たないのは常識だったのであり、このような政府の補助金依存の傾向は、戦前から戦後の日本航空にまで引き継がれており、「親方日の丸」と別称される稚拙な経営戦略、非効率な経営は改められなかった。島国とその植民地における排他的で、独占的な国策経営方針は、競争下の革新と挑戦を重んじるヨーロッパの航空界の経営とは格段の差があったのである。

写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、メディアに公開された日本航空輸送のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:主輪は、エンジンナセル後方に引き込まれ、飛行中の空気抵抗を減少することができた。ただし、主輪の三分の一は機外に露出しているので完全な引き込み式ではない。しかし、当時は固定客が常識だったから、このような引き込み式は斬新な技術だった。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機 1934/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。


中島飛行機は、1934年にダグラス(Douglas)DC-2 輸送機をノックダウン生産し、6機を国策会社の日本航空輸送に納入した。日本航空輸送は、購入したED-2輸送機6機を就役させたが、日中戦争が長期化することが明らかになった1938年に日本陸軍によって徴用された。そして、日本力陸軍は、銀色無塗装だったDC-2民間輸送機に迷彩塗装を色を施して、中国大陸と日本との定期連絡空路に使用した。

国策会社の日本航空輸送は、ダグラスDC-2輸送機を採用することとし、1936年に国内航路、台湾航路に就役させた。日本が輸入したDC-2輸送機は8機で、機体固有名称として「富士」「新高」「霧島」「愛宕」「阿蘇」「金剛」「筑波」「伊吹」という山の名前が与えられた。DC-2は、新鋭の大型長距離輸送機として、福岡=台北など内地と外地(植民地の朝鮮・満州・台湾)を結ぶ長距離航路に導入された。

日本航空輸送株式会社は、1938年(昭和13年)11月に会社を解散し、国際航空が合併して新たに独占的な日本の国策航空会社として、大日本航空株式会社となった。そして、日本の地方航空を担っていた日本海航空株式会社、東京航空株式会社などもすべての航空輸送は、大日本航空が担うこととなった。大日本航空は、「株式会社」とはいっても、日本政府が丸抱えの国策会社であり、独占的国営企業である。


図(上)1939年以降、日本植民地の台湾の台北と中国南部の廣東を結ぶ定期航路を就航した大日本航空(旧日本航空輸送)ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「新高」の絵葉書と「台北−廣東 定期航路開始 大日本航空」のチラシ
:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。
Aeroplanes on Lydda Air Port Reproduction Number: LC-DIG-matpc-17833 (digital file from original)
写真は, Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room >Aeroplanes on Lydda Air Port LC-DIG-matpc-17833 引用及びWikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:LOT DC-2 LOC matpc 17833u.jpg引用。


事変というのは、戦争状態にあるとアメリカとの貿易・投資が制約を受けるための方便であって、事実上の戦争である。日本軍は、1938年初頭に中華民国(中国)の首都南京を陥落させたが、中国は奥地の重慶に遷都して徹底抗戦をした。中国は、イギリス、アメリカ、さらにはドイツ、イタリア、ソ連からも兵器を含む軍事物資を購入・輸入し、軍事顧問も迎えて、日本と戦った。そこで、日本は、中国大陸を海上封鎖する必要があると新たに戦線を拡張する戦略を採用した。これが、「泥沼の長期戦」に繋がったのである。

そこで、1938年9月、日本軍は、華中の武漢攻略と同時に、華南の廣東(広州)攻略を決め、1938年10月12日、日本海軍塩沢幸一海軍中将隷下の第五艦隊の支援を受けて、古荘幹郎中将隷下の日本陸軍第21軍(主力は、第18師団・と第104師団)が、白耶士(バイヤス)湾に奇襲上陸し、10月21日に廣東(広州)に突入した。そして、珠湾の海上交通を遮断するとともに、珠江を遡上して、12月までに廣東付近の要衝を確保した。

こうした中で、日本植民地の台湾の台北と、1938年末に新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。


6.スイス航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機

写真(右)1935-1936年2月28日、スイス中部、オーバーイベルク近くの雪景色の上空を飛翔するスイス航空ダグラス(Douglas)DC-2旅客輸送機(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITI)
Douglas DC-2 115-B, HB-ITI, Flug über Schneelandschaft bei Oberiberg, Blick nach Westnordwesten Caption: Unter der Mitte: Hügel Guggeren, links halb unten: Oberiberg, links oben: Kleiner Photographer: Swissair ating: ca. 1936 Photography : glass-plate negative Colour: black and white Horizontal Format: 6 x 9 cm Unter der Mitte: Hügel Guggeren, links halb unten: Oberiberg, links oben: Kleiner Mythen, oben
写真は, ETH-Zürich Record Name Ans_05035-585引用。


ダグラス(Douglas) DC-2をアメリカ大陸横断飛行する夜間寝台機として改装する企画が持ち上がったが、客室キャビンに寝台を並列配置するには、胴体幅が狭かった。DC-2の乗客座席は、2列7行の14座席だったからである。そこで、胴体幅を拡張する大きな改造が実施され、DST(Douglas Sleeper Transport)が開発され、1935年12月17日に初飛行した。

写真(右)1937年、冬のアルプスを飛行するスイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(115-B,HB-ITA):手前は両機の窓枠。
Photographer Swissair
Title: Douglas DC-2 115-B, HB-ITA im Flug
Dating: 1937
Photography : negative Colour: black and white
Orientation: Vertical Format: 2,4 x 3,6 cm
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Swissair / LBS
写真は, ETH Library LBS_SR01-00139-01引用。


写真(右)1938年1月28日午前、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港にロンドンから到着したスイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ISI):(115-B,HB-ITA):後方には、気流を計測する吹き流しと飛行機格納庫が見える。
Photographer Swissair
Title: Douglas DC-2-115-D, HB-ISI in Samedan während des Winterbetriebes der Swissair 1938/39
Caption: Die DC-2, HB-ISI vor dem Hangar in Samedan, am 27.01.1938 war die Erstlandung eines Dating: 1938
Photography : negative Colour: black and white
Orientation: Vertical Format: 2,4 x 3,6 cm
Is Part Of: Winterbetrieb in Samedan, Winter 1937/38. Reportage mit ca. 110 Bildern (Auswahl
写真は, ETH Library LBS_SR01-00891-01引用。


写真(右)1937-1938年、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港飛行機格納庫、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ITA):エンジンに保温カバーで覆っている。
Photographer: Swissair Zuschauer vor der Douglas DC-2 115-B, HB-ITA in Samedan Caption: Erste Landung einer Swissair DC-2 auf dem Flugplatz Samedan Dating: 1937-1938 Is Part Of: Winterbetrieb in Samedan, Winter 1937/38. Reportage mit ca. 110 Bildern (Auswahl digitalisiert, keine zusätzlichen Motive vorhanden) . Douglas DC-2 115-B, HB-ITA, Reportage photography, Samedan, Snow, Aerodrome Samedan, Spectators Impressum: Physical Description: Photography : nitrate-negative Colour:black and white Format: 6 x 6 cm
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-00842引用。


写真(右)1937-1938年、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港飛行機格納庫、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ITA):エンジンに保温カバーで覆っている。
Photographer: Swissair Zuschauer vor der Douglas DC-2 115-B, HB-ITA in Samedan Caption: Erste Landung einer Swissair DC-2 auf dem Flugplatz Samedan Dating: 1937-1938 Is Part Of: Winterbetrieb in Samedan, Winter 1937/38. Reportage mit ca. 110 Bildern (Auswahl digitalisiert, keine zusätzlichen Motive vorhanden) . Douglas DC-2 115-B, HB-ITA, Reportage photography, Samedan, Snow, Aerodrome Samedan, Spectators Impressum: Physical Description: Photography : nitrate-negative Colour:black and white Format: 6 x 6 cm
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-00842引用。


DST(Douglas Sleeper Transport)は、寝台14名分を二段ベットとして2列14寝台を配置した。DSTは、アメリカン航空で1936年6月25日に就航した。そして、DSTの寝台を乗客座席に変更したのがDC-3輸送機で、座席配置は3列7行21座席を確保することができた。DC-3輸送機もアメリカン航空によって採用され1936年9月に就航したのである。DC-3は、DC-2の拡張型で、胴体幅が若干拡大され座席数は14席から21席に5割も増加したが、技術的にはDC-2と変わりがなく、燃費と製造コストはそれほど悪化しなかった。

つまり、旅客機の乗客さえ確保できれば、DC-2よりもDC-3の方が経済効率が高く、収益を上げることができた。こうして、DC-3輸送機は、戦前から1941年6月の太平洋戦争勃発までに、アメリカのTWA、ユナイテッド航空、イースタン航空、デルタ航空のほかにも、スイス航空、KLMオランダ航空、日本航空輸送から採用された。
写真(上)1935年、スイス北部、チューリッヒ郊外、ハイタースベルク(Heitersberg)を低空飛行するスイス航空のダグラスDC-2(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITO)
(手前):
Douglas DC-2 115-B, HB-ITO im Flug über dem Heitersberg Find similar records Dating ca. 1935 Format 2.4 x 3.6 cm Heitersberg, links: Neuenhof (AG), rechts: Limmatwerk Wettingen (ferner Eisenbahn- und Holzbrücke),
写真は, ETH-Zürich Bildidentifikation Quelle: L. 172引用。



写真(上)1935年、スイス北部、チューリッヒ郊外、ハイタースベルク(Heitersberg)を低空飛行しロンドンに向かうスイス航空のダグラスDC-2(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITO)
(手前):
Douglas DC-2 115-B, HB-ITO im Flug über dem Limmattal Find similar records Dating ca. 1935 Format 2.4 x 3.6 cm Scheint anlässlich eines Fluges nach London entstanden zu sein
写真は, ETH-Zürich LBS_SR01-00192引用。


ダグラス(Douglas) DC-2をアメリカ大陸横断飛行する夜間寝台機として改装する企画が持ち上がったが、客室キャビンに寝台を並列配置するには、胴体幅が狭かった。DC-2の乗客座席は、2列7行の14座席だったからである。そこで、胴体幅を拡張する大きな改造が実施され、DST(Douglas Sleeper Transport)が開発され、1935年12月17日に初飛行した。


写真(上)1937年、スイス、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港の空港ビルを背景にしたスイス航空のダグラスDC-2(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITE) とスイス航空のユンカースJu-86 B-1輸送機(機体コード:216 登録コード:HB-IXE)
(手前):
Douglas DC-2 115-B, HB-ITE und Junkers Ju-86 B-1, HB-IXE am Boden in Dübendorf Find similar records Dating ca. 1937 Format 6 x 6 cm ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Swissair / LBS_SR01-00563 /
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-00563 引用。




写真(右)1938年2月、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港の飛行機格納庫前、ロンドンから直行便として到着したスイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ISI):ロンドン初の直行便-ダグラスDC-2-115-D、HB-ISI。エンジンに冷却防止のカバーがかかっている。
Photographer: Swissair Douglas DC-2-115-D, HB-ISI am Boden in Samedan
Caption: Winterbetrieb der Swissair in Samedan. Erster Direktflug London - Samedan mit Find similar records
Dating: 2/1938 Is Part Of: Winterbetrieb in Samedan, Winter 1937/38.
Douglas DC-2-115-D, HB-ISI, Reportage photography, Samedan, Aerodrome Samedan, Propeller-driven aircraft, Swissair, Swissair, Hangars + Aircraft hangars
Impressum: Physical Description: Photography : nitrate-negative
Colour: black and white Orientation: Square Format: 2.4 x 3.6 cm
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-02088-28引用。
写真(右)1937-1938年冬、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港飛行機格納庫、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機のエンジン整備作業(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ISI):ロンドンから到着した。エンジンに冷却防止のカバーがかかっている。
Erster Direktflug London - Samedan mit der Douglas DC-2-115-D, HB-ISI Find similar records Photographer Swissair Dating 1937-1938
Format 8 x 11 cm Colour schwarz/weiss Orientation Querformat
Winterbetrieb in Samedan, Winter 1937/38. Reportage mit ca. 110 Bildern (Auswahl digitalisiert,
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-01018引用。


写真(右)1937-1938年冬、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港飛行機格納庫、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機のエンジン整備作業(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ISI):エンジンに冷却防止のカバーがかかっている。ロンドンから到着した。
Nach der Landung im Hangar. Zeitgenössische Bildbeschreibung des Swissair-Marketings: "Douglas DC-2 Photographer Swissair Dating 1937-1938
Nach der Landung im Hangar. Zeitgenössische Bildbeschreibung des Swissair-Marketings: "Douglas DC-2 Format 8.3 x 11 cm Colour schwarz/weiss Orientation Querformat
Winterbetrieb in Samedan, Winter 1937/38. Reportage mit ca. 110 Bildern (Auswahl digitalisiert,
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-01014引用。


写真(右)1938年2月、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港にロンドンから到着したスイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機のエンジン保守備作業(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ISI):エンジンに梯子をかけてエンジンカバーを装着している。
Frostschutzdecke der Douglas DC-2-115-D, HB-ISI wird von der Motorengondel entfernt Find similar Photographer Swissair Dating 1935-1948
Caption Winterbetrieb in Samedan, Winter 1937/38. Reportage mit ca. 110 Bildern (Auswahl digitalisiert,
Physical Description Fotografie : Nitratnegativ Format 2,4 x 3,6 cm Colour schwarz/weiss Orientation Querformat
Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf:
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-02086-26引用。


1938年1月、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ISI)は、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港ロンドン初の直行便として到着ダグラスDC-2-115-D、HB-ISI、ロンドンから直行便として到着した。ロンドン=サメーダン直行便には、ダグラス(Douglas) DC-2 115-D、HB-ISIが使用された。

サメダンには、カトリックの聖心教会とフンダズィウン・デ・プランタ図書館 (Library of Fundaziun de Planta) というスイスの国指定史跡がある。イアン・フレミングの小説・映画『女王陛下の007』において撮影現場となった。

⇒写真集Album:スイス航空ダグラス(Douglas)DC-2旅客機を見る。


ダグラス DC3 7.胴体拡張型ダグラス(Douglas)DC-3輸送機

2機のDC-3輸送機(機体コード:216, 登録コード:HB-IRA)と(機体コード:216, 登録コード:HB-IRA)は、1937年6月にスイス航空が1機当たり52万7000スイス・フランで新規購入した機体である。前者・後者ともに、1955年3月にアメリカのオザーク航空(Ozark Air Lines)売却された。オザーク航空は1986年10月にTWAに買収され、TWAは2001年にアメリカン航空に合併された。

DC-2をアメリカ大陸横断飛行する夜間寝台機として改装する企画が持ち上がったが、客室キャビンに寝台を並列配置するには、胴体幅が狭かった。DC-2の乗客座席は、2列7行の14座席だったからである。そこで、胴体幅を拡張する大きな改造が実施され、ダグラスDSTDouglas Sleeper Transport)は1935年12月17日に初飛行した。

ダグラスDSTDouglas Sleeper Transport)として開発されたダグラスDC-3は、輸送機としては世界最多の1万機以上が量産されたベストセラーであり、使用した国も、アメリカ、イギリス、フランス、オランダのような連合国でも、日本、イタリアのような枢軸国でも使用された。ただし、形式の上では、DC-3輸送機の軍用仕様C-47輸送機として生産されたものが多く、その中で戦後まで生き残った機体は、戦後に民間輸送機に改造されたものも少なくない。

ダグラス C47 ダグラスDSTDouglas Sleeper Transport)は、寝台14名分を二段ベットとして2列14寝台を配置し、1936年6月25日にアメリカン航空初就航した。DSTの寝台を乗客座席に変更したのがDC-3輸送機で、座席配置は3列7行21座席を確保することができた。DC-3輸送機もアメリカン航空によって採用され1936年9月に就航した。こうして、DC-3は、1941年末の太平洋戦争勃発までに、アメリカのTWA、ユナイテッド航空、イースタン航空、デルタ航空、スイス航空、KLMオランダ航空、日本航空輸送から採用された。

ダグラスDSTDouglas Sleeper Transport)が開発され、1935年12月17日に初飛行した。

ダグラスDSTDouglas Sleeper Transport)として開発されたダグラスDC-3は、輸送機としては世界最多の1万機以上が量産されたベストセラーであり、使用した国も、アメリカ、イギリス、フランス、オランダのような連合国でも、日本、イタリアのような枢軸国でも使用された。ただし、形式の上では、DC-3輸送機の軍用仕様C-47輸送機として生産されたものが多く、その中で戦後まで生き残った機体は、戦後に民間輸送機に改造されたものも少なくない。

Douglas DC3 民間輸送機ダグラスDC-3は、1936年にアメリカン航空に就役して以来、ヨーロッパ、南アメリカなどの航空会社に就航した。そして、第二次世界大戦が1939年9月に勃発すると、アメリカは軍備拡張を本格化し、前線への輸送力増強のため、DC-3を徴用するだけでは不十分と判断され、1940年9月16日にDC-3陸軍仕様C-47輸送機を147機を発注した。

アメリカ陸軍航空隊のC-47輸送機は、太平洋戦争勃発直後の1941年12月23日に引き渡しが始まった。また、アメリカ海軍もDC-3海軍仕様R4Dを制式し、イギリス空軍は貸与されたDC-3/C-47輸送機を、ダコタ(Dakota)と命名して採用した。C-47輸送機を基本とするこれらの各型式は、1万機以上が量産された。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)DC-3輸送機を見る。


8.グラス(Douglas)DC-4輸送機

写真(右)1946年から1954年頃、パン・アメリカン航空(Pan American Airlines)所属のダグラス(Douglas) DC-4旅客輸送機(登録コード:N88951)
Bilstein_00967 Douglas DC-4 N88951 Pan American Airlines
mage from the Roger Belstein Collection
写真はSmugMug+Flickr, SDASM Archives・Roger Belstein Collection引用。


ダグラス(Douglas)DC-4旅客輸送機は、前輪式の引込み式降着装置を備えている。引込み方は、まず最初に、機首下面に出ていた首輪(前輪)を前方に引き上げて、完全に機首の格納庫に収納し、それから収納庫の扉を閉鎖する。次に、左右主翼付け根の主輪を前方に引揚げ、エンジンナセルに設けた格納スペースに収納し、扉を閉鎖する。

ダグラスDC4(C54E) 1945年、第二次世界大戦が連合国の勝利のうちに終わったことで、軍用機ダグラス(Douglas)C-54 四発輸送機は、一部は軍用に残されたが、多くは民間に払い下げられ、ダグラスDC-4四発輸送機として、世界中を飛び回った。

戦時中、ダグラスDC-4輸送機は、民間機DC-4としてはほとんど使用されず、主に軍用輸送機C-54「スカイマスター」として採用され、1947年8月までに、DC-4として80機、C-54として 1000機以上が製造された。しかし、戦後には、民間航空で大活躍した。

⇒写真集Album:民間航空ダグラス(Douglas)DC-4旅客輸送機を見る。

⇒写真集Album:アメリカ海軍R5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機を見る。


9.DC-2の手本ボーイング(Boeing)247輸送機

写真(右)1934-1938年頃、飛行しているボーイング(Boeing)247 D 輸送機(登録コードc/r NC13361):胴体後部側面には、ユナイテッド航空のロゴ(中央にアメリカ合衆国)が描かれている。当時は、金属骨格に木製あるいは羽布張、複葉、固定脚の飛行機が多かったことを思うと、民間旅客輸送機で、このような最新技術を実用化したのは、驚異的だった
Boeing : 247 Manufacturer: Boeing Designation: 247
Official Nickname: Notes: On the ground Repository : San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00061507引用。


ボーイング(Boeing)247輸送機は、全金属構造、引き込み脚の降着装置、低翼の最新技術を実用化した高速輸送機で1933年2月8日に初飛行した。

アメリカで国産され広く使用されていた1926年6月11日初飛行の肩翼式フォード・トライモータ(Ford Trimotor)三発輸送機は最高速力212 km/h、ボーイング(Boeing)247輸送機は,それより100 km/hも高速で、航続距離820kmより長距離の1207kmを飛ぶことができた。客室キャビンの座席は、2列5行の10席が確保され、アメリカ大陸飛行も可能だった。

写真(右)1934-1938年頃、飛行しているボーイング(Boeing)247 D 輸送機(登録コードc/r NC13361):胴体後部側面には、ユナイテッド航空のロゴ(中央にアメリカ合衆国)が描かれている。
Boeing : 247 Manufacturer: Boeing Designation: 247
Official Nickname: Notes: On the ground Repository : San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00061580引用。


ボーイング(Boeing)247 輸送機の客室キャビンには、乗客1名ずつに日除けカーテン付きのガラス窓が設けられている。座席は、クッションとひじ掛けがあり、座席ベルトも備わっている。上部に小型荷物用のネット、側面に帽子掛けがついている。

⇒写真集Album:ボーイング(Boeing)247輸送機を見る。


10.DC2を手本にしたフィアット(Fiat)G. 18 輸送機

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(ION)とイタリア空軍フィアットB.50戦闘機(右上):フィアット(Fiat)G. 18 双発輸送機は、1935年3月18日初飛行で、生産数9機のみ。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo Fiat G 18 V delle Avio Linee italiane; in posizione sopraelevata aereo da caccia Fiat G 50
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_212引用。


アメリカのダグラス(Douglas)DC-2輸送機は、全金属製、引込み脚式降着装置を備え低翼式で、1934年5月11日に初飛行した。1年後、1935年3月11日初飛行のイタリアのG.18輸送機は、アメリカで1年前に開発されたDC-2と前後反対の低翼形状(空力学的には同様の効果がある)、同じ構造の引込み式降着装置と尾翼を備え、スケールも似ている。フィアットG.18は、このダグラスDC-2輸送機の技術を取り込んで開発されたイタリア機であると考えられる。

フィアット(Fiat)G. 18旅客輸送機は、ジュゼッペ・ガブリエッリGiuseppe Gabrielli)技師の設計でフィアット A.59空冷星形9気筒エンジン750hpを装備した原型で3機製造された。全金属製低翼機、引込み式降着装置を装備し、ダグラスDC-2に匹敵する斬新なデザインだった。

G.18は1937年2月26日に初飛行したが、発動機の出力が低かったため、換装してフィアットA.80空冷星型14気筒エンジン 1,000 hp(750 kW)(排気量45.72L)2基を搭載した発展型G.16Vが作られた。しかし、初期型G.16は3機、発展型G.16Vも6機が製造されただけだった。

写真(右)フィアット(FIAT) G 18輸送機の三面図:客席9座席左右2列18席分の窓ガラスがついている。
Fiat G.12, transport. (Regia Aeronautica Photos).
写真は, Alchetron.com ~ Free Social Encyclopedia for the World Alchetron Fiat G.18引用。


フィアット(Fiat)G. 18の空冷星形9気筒エンジンから18気筒エンジンに強化・換装した発展型が、フィアット(Fiat)G. 18 V輸送機である。G.18Vは、最高速力400 km/h (250 mph)、乗客用18席、航続距離:1,675 km (1,041 マイル)の高性能機で、アメリカのダグラスDC-2輸送機と比較しても遜色のない性能だった。

ダグラス(Douglas)DC-2フィアット(Fiat)G. 18 Vの比較
初飛行 1934年5月11日 1935年3月11日
全長: 19.1 m  18.81 m
全幅: 25.9 m  25.00 m
全高: 4.8 m  5.01 m
主翼面積: 87.3m2  88.3 m2
空虚重量: 5,650 kg  7,200 kg
総重量: 8,420 kg  10,800 kg
発動機:ライトR-1820サイクロン空冷星型9気筒(29.88 L)  フィアットA.80空冷星型18気筒(45.72 L)
出力: 730 hp (540 kW)  1,000 hp(750 kW)
最高速力: 338km/h  400 km/h
実用上昇限度: 6,930 m   8,700 m
航続距離: 1,750 km  1,675 km
乗客座席数: 14人  18人
生産機数: 198機  9機

⇒写真集Album:フィアット(Fiat)G. 18 輸送機を見る。


11.フィアット(Fiat) G.12輸送機


図(右)イタリア、フィアット(Fiat) G.12 C 輸送機の側面図


Fiat G. 12 C a cura di Horvàth BALAZS e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio
図は,MINISTERO DELL' AERONAUTICA AEROPLANO FIAT G. 12 C (Motor FIAT A. 74 RC. 42 S) SRIE II, S.A. :AERONAUTICA D'ITALIA - TORINO ISTRUZIONE E NORME PER IL MONTAMENT 引用。


フィアット(Fiat)G. 18旅客輸送機は、フィアット A.59空冷星形9気筒エンジン750hpを装備した原型で3機製造された。その後、出力不足と判断され、発動機を強化したフィアットG.18Vは、フィアット A.80空冷星形18気筒エンジン1,000 hp(750 kW )を装備し、6機が製造された。

イタリア参戦時の1940年6月時点では、既にサボイア・マルケッティSM.73、SM.85などの固定脚の輸送機、SM.75、SM82、SM.83など引込み脚の輸送機が完成しており、フィアット(Fiat)G.12は、イタリア参戦直後の1940年10月15日であったために、量産する意義は乏しかった。結局、944年年までに30機が生産されたにとどまった。フィアット(Fiat)G.12は、発展型のフィアット G.212の原型となり、第二次大戦後のイタリアの民間航空で活躍した。

wikipediaでは「DC-2は優秀で近代的な旅客機として世界各国の市場から高く評価されたが、これをベースに機体サイズを拡大した後続モデルのDC-3が輸送力の面でDC-2以上の大幅向上を達成し、市場のニーズがそちらに移行したため、DC-2の生産数は156機にとどまった。 」とあるが、100機以上生産されれば、当時の航空産業ではベルトセラーに近い成功作である。イタリアのフィアット(Fiat)G. 18 Vは9機、後継機フィアットG.12は30機の生産に留まっている。


図(右)イタリア、フィアット(Fiat) G.12 C 輸送機の三面図


Fiat G. 12 C a cura di Horvàth BALAZS e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio
図は,MINISTERO DELL' AERONAUTICA AEROPLANO FIAT G. 12 C (Motor FIAT A. 74 RC. 42 S) SRIE II, S.A. :AERONAUTICA D'ITALIA - TORINO ISTRUZIONE E NORME PER IL MONTAMENT 引用。


フィアット(Fiat) G.12 C輸送機(原型)の諸元
乗員:3名 (正副操縦士、通信士)
設計者:ジュゼッペ・ガブリエッリ(Giuseppe Gabrielli)
初飛行:1940年10月15日
就役開始:1941年
生産機数:30機
全長:20,16 m
全幅:26,80 m
全高:4,90 m
主翼面積:113,50 m²
空虚重量:8 890 kg
最大離昇重量:12 800 kg
乗客:14名
発動機: フィアット(Fiat) A.74 RC.42空冷星形エンジン3基 770 馬力 (566 kW)
最高速力:396 km/h
巡航速力:308 km/h
航続距離:1 740 km
実用上昇限度:8 000 m (26 247 ft)
兵装:12.7ミリ ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃2丁

⇒写真集Album:フィアット(Fiat)G.12/G.212を見る。


12.サヴォイア・マルケッティSM.75三発輸送機


図(上)1940年6月以前,イタリア、イタリア空軍サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-85(Marsupiale:有袋類)三発輸送機
:搭載人員は、豪華な民間仕様なら18人、簡易な軍用仕様なら25人、生産期間は1937年から1943年までと長いが94機の量産に終わった。
図は、MINISTERO DELL'AERONAUTICA Savoia Marchetti S.M. 75 a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio 引用。


SM.75bis: アルファロメオ(Alfa Romeo)126 RC.34空冷星形9気筒エンジン559 kw (750hp) をアルファロメオ(Alfa Romeo)126 RC.18空冷星形14気筒エンジン 641kw(860hp)に強化。生産11機のみ。
SM.75 GA: 長距離飛行仕様
SM.76: 1939年にイタリア航空LATIが受領したSM.75を1940年にSM.76として登録。
SM.87: 1939年にSM.75を水上機仕様とし、発動機を フィアット(Fiat)A.80空冷星形18気筒エンジン746 kW (1,000 hp) に換装。最高速力365 km/h、上昇限度6,250 m、航続距離2,200 km、乗客24名。生産4機のみ。
SM.90: のアルファロメオ 135 R.C.32空冷星形18気筒エンジン1,044 kW (1,400 hp)に換装、胴体延長型

サヴォイア・マルケッティSM 73輸送機の後継機が、同じ会社のサヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 75輸送機であり、旅客と貨物の双方に利用する民間機として、イタリア航空(アラリットリオ:Ala Littoria)の要望に応えた機体で、設計はアレッサンドロ・マルケッティ技師である。前作のSM 73は、固定脚だったが、後継機SM.75では空気抵抗を減少させ、より高出力のエンジンを搭載して、引込み脚の降着装置を備えた。

⇒写真集Album:サボイア・マルケッティSM.75輸送機を見る。


13.サヴォイア・マルケッティSM.82輸送機

図(右)イタリア、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82カングロ(Canguro:Kangaroo)三発輸送機の上面図:サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.82カングロ(Canguro)三発爆撃機/輸送機マニュアルの掲載。
Savoia Marchetti S.M. 82 a cura di Natale LAPEDOTA e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio
写真は, MINISTERO DFLL' AERONAUTICA dell' AEROPLANO SAVOIA-MARCHETTI Tipo S M.82TRIMOTORE DA BOMBARDAMENTO E DA TRANSPORTO TRUPPA E MATERIAU VII Serie引用。


サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82(Canguro:Kangaroo)三発輸送機は、1938年10月30日初飛行の民間長距離旅客機で、爆弾4トンを搭載できる爆撃機としても生産された。総生産機数は875機。同じような仕様の輸送機フィアット(Fiat) G.12は、1940年10月15日初飛行の民間輸送機で、1940年6月に第二次世界大戦に参戦し、戦時体制にあったイタリア空軍で乗客24名の輸送機として採用された。総生産機数30機のみ。

サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM82カングロ輸送機の諸元
発動機:アルファ・ロメオ(Alfa Romeo)128 RC21 空冷星型9気筒 950馬力3基
全備重量: 9,300 kg
全幅: 29.68m
全長 22.95m
全高: 6.00m
主翼面積: 118.60m2
空虚重量: 輸送機型 10,550 kg (23,259 lb) 、爆撃機型 11,200 kg (24,692 lb)
最大離昇重量: 輸送機型 18,020 kg (39,727 lb)、爆撃機型 18,410 kg (40,587 lb)
最高速力: 347-370Km/h(4,000m)
航続距離: 2,100 km-3,000km
実用上昇限度 6,000 m
乗客:40名

⇒写真集Album:サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM-82輸送機を詳しく見る。


14.サヴォイア・マルケッティSM.83輸送機

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア空軍ブレダ(Breda)Ba 65(Nibbio)(左単発機)とサヴォイア・マルケッティSM-83三発輸送機試作機(登録コード:I-LUCE)(左端、機体前半分):展示ドームの下には、企業別のボードが吊下げられている。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: Veduta di vari stand del settore italiano. Fra gli stand: Savoia Marchetti (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI), Caproni Vizzola e Piaggio
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_238引用。


サボイア・マルケッティSM-79三発爆撃機(Savoia-Marchetti SM.79)は、元来はスピードレース参加用する旅客輸送機機として開発され、原型機は1934年10月に初飛行した。その高性能からイタリア空軍はSM.79輸送機を爆撃機として使用することを考えたが、これはドイツで民間機のハインケルHe-111輸送機、ユンカースJu-86輸送機、Do-17郵便機がいずれも双発爆撃機に転換されたのと同じである。サボイア・マルケッティSM-79爆撃機試作機が初飛行は、1936年7月に初飛行したが、1937年のスペイン内戦に実験的に実戦使用に投入され、その高い飛行性能と信頼性が高く評価された。

イタリア空軍ブレダ(Breda)Ba 65(Nibbio)地上攻撃機は、フィアット(Fiat)A.80 R.C.41空冷星形18気筒エンジン1基搭載、1935年9月初飛行、最高速力430 km/h (270 mph, 230 kn)、航続距離 550 km (340 mi, 300 nmi)、12.7 mm ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁、7.7 mm ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁、爆弾 500 kg (1,102 lb) 搭載。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.83三発輸送機試作機(登録コード:I-LUCE):右端にブレダ(Breda)Ba 65(Nibbio)の左翼と機首。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Visitatori Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_181引用。


イタリアのSM.79輸送機は、イタリア軍の要請で軍用爆撃機として改造され、好成績をあげて、量産された。その後、サボイア・マルケッティ社は、高性能のSM.79を再び輸送機仕様に改造し、SM.83三発輸送機を開発した。この機体は、大量生産されなかったが、要人輸送機として使われた。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM.83 輸送機:民間輸送機SM.79は軍用機に改造され量産されたが、これを再び輸送機仕様にしたのが、SM.83三発輸送機である。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Visitatori
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937

Misure: 13 x 18
Note: In primo piano l'aereo Savoia Marchetti SM 83 (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI).
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_266 引用。


サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83は、全く新しい機体のように、形式名称は新規だが、主翼・尾翼の構造は原型のSM.79を流用して、発動機も同じアルファ・ロメオ126RC34(750馬力)3基である。イタリアにおける民間空路の需要は大きくなかったため、乗客数を増やすよりも、室内居住性の向上と高速化に重きを置いた高速輸送機として、小改造によって、イタリアの航空技術の優秀性を世界に喧伝すことを選んだのである。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.83輸送機(登録コード:I-LUCE)と手前の推進式プロペラを搭載したエンテ型のアンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.3(SCAMM372)実験機
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Visitatori Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: In primo piano alcuni visitatori nel settore italiano del Salone. Sullo sfondo l'aereo Savoia Marchetti SM 83 (Società idrovolanti Alta Italia-SIAI).
写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_170 引用。


アンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.3(SCAMM372)実験機は胴体先頭機首でなく胴体後端機尾にエンジンを搭載し、推進式プロペラを装備し、水平尾翼は胴体前方に設けたエンテ型・搭載したエンテ型=カナード型(canard)の前翼飛行機で1937年初飛行。プロペラを機首に設けると、胴体・主翼・尾翼を速い速度で空気が流れ、空気抵抗が生じたり、機体の安定が損なわれたりするが、プロペラを機尾の胴体後方に設けた推力式であれば、プロペラ効率が向上する。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.83輸送機(登録コード:I-LUCEと手前のアンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.3(SCAMM372)実験機 :後者はエンテ(Ente)型あるいは飛行機で、尾翼ではなく、主翼の前方に前翼(カナード)があり、機尾に搭載したエンジンで推進プロペラを駆動する。1937年初飛行。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Visitatori Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: In primo piano l'aereo SS3 "Anitra" della SAI (Società aeronautica italiana). Sulla destra particolare dell'aereo Caproni Ca 100 Caproncino.
写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_245 引用。


アンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.3(SCAMM372)実験機は、前翼(カナード)式で胴体後方のエンジンで推進プロペラを回転させ、1937年に飛行に成功した。そこで、この高効率の推進式プロペラをもつ戦闘機として、アンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.4が試作機され、1939年3月7日に初飛行した。日本、アメリカも前翼式飛行機を試作したが、飛行は4年以上遅いので、イタリアの航空技術の高さが示されたといえる。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM 79爆撃機(Sparviero)と奥のSM.79を流用したSM.83輸送機:イタリアのセクターのさまざまなスタンドが設けられている。右から左へ:、サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)、イタリアの水上飛行機会社(SIAI)、その奥にSM 79(Sparviero)が展示されている。アドリア海の造船所。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: Veduta di vari stand del settore italiano. Da destra a sinistra gli stand: Savoia Marchetti (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI), con in mostra l'aereo SM 79 Sparviero; Aeronautica Lombarda; Cantieri Riuniti dell'Adriatico.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_227引用。


サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-79は、乗客席8席の高速旅客輸送機で、第二次大戦前から爆撃機として量産されていた。そこで、このSM.79を原型に、再度、乗客10席の高速旅客機としたのが、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83旅客輸送機で、1937年10月2-17日に開催された,ミラノ・航空展示会で展示され、世界に向けてイタリアの航空技術の優秀性を誇示した。しかし、実際に、SM.83が初飛行したのは、ミラノ航空展示会終了後の1937年11月19日である。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.83三発輸送:イタリアのセクターのさまざまなスタンドが設けられている。右から左へ:、サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)、イタリアの水上飛行機会社(SIAI)、その奥にSM 79(Sparviero)が展示されている。アドリア海の造船所。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: Veduta di vari stand del settore italiano. Da destra a sinistra gli stand: Savoia Marchetti (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI), con in mostra l'aereo SM 79 Sparviero; Aeronautica Lombarda; Cantieri Riuniti dell'Adriatico.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_230引用。


写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM.83輸送機:民間輸送機SM.79は軍用機に改造され量産されたが、これを再び輸送機仕様にしたのが、SM.83三発輸送機である。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: In primo piano alcuni visitatori nel settore italiano del Salone. Sullo sfondo l'aereo Savoia Marchetti SM 83 (Società idrovolanti Alta Italia-SIAI).
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_175引用。


したがって、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83輸送機の量産は、大戦前に43機であり、これにはイタリア空軍の発注13機も含まれる。しかし、イタリア以外にも、ベルギーのサベナ国際航空が4機を購入、ベルギー本土とアフリカ植民地領コンゴとの輸送用に使用した。また、ルーマニアも、民家航空用に3機を購入した。

写真(右)1938-1939年頃,イタリア、サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.83三発輸送試作機(登録コード:I-LUCE; 製造番号 c/n 34001):1937年11月3日初飛行の民間長距離旅客機として開発されたが、当初は、外務大臣チアーノの専用機として使われた。その後、大戦中期、イタリア降伏の1943年まで、軍用輸送機として使用された。
Savoia-Marchetti SM.83 Savoia-Marchetti SM.83 (I-LUCE c/n 34001). The SM.83 long range civil transport stemmed directly from the famous bomber SM.79. The photograph depicts the prototype, registered as I-LUCE it was first flown on November 3, 1937. As I-E
-PictionID: 42002948 - Title: Savoia-Marchetti SM.83 Savoia-Marchetti SM.83 (I-LUCE c/n 34001). The SM.83 long range civil transport stemmed directly from the famous bomber SM.79. The photograph depicts the prototype, registered as I-LUCE it was first flown on November 3, 1937. As I-ESTE (from June 13 to August 8, 1939) this aircraft was used by Galeazzo Ciano (son-in-law of Benito Mussolini). Then, with the registration I-ESTO (from April 20, 1940) this aircraft was pressed in military service and was used until 1943 for special transport missions. - Catalog:15_003031 - Filename:15_003031.TIF - Image from the Charles Daniel's Collection Italian Aircraft Album.
写真はÖsterreichische Nationalbibliothek,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog:15_003031 引用。


1940年6月に、イタリアが第二次世界大戦に参戦すると、民間航路も軍の管理統制の下に置かれ、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83三発輸送機は、政府専用機とイタリア空軍輸送飛行中隊に編入され、高速人員輸送機としてしようされた。イタリア外務大臣チャーノの専用機は、SM-83三発輸送機(登録コード:I-LUCE; 製造番号 c/n 34001)である。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
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ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇 ダグラス DC3
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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