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◆フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
写真(上)1939−1941年頃,ドイツ、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機とその機首7.92mmMG15旋回機関銃の銃手配置
機上作業練習機あるいは小型輸送機として1350機が量産された。
Description Deutsch: Die Deutsche Luftwaffe der Wehrmacht während eines Einsatzes (1939 - 1945). Date between 1939 and 1945 Source Self-scanned (historisches Fotoalbum vom Flohmarkt) Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Deutsche Luftwaffe.jpg引用。

写真(上)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダに飛行してきたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(D-OQYT)
:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
Objectnummer 2011-1587 Titel Duits demonstratietoestel Focke-Wulf Fw 58 Weihe op Soesterberg. Datering van 1937-10-12 Datering tot 1937-10-12 Bijzonderheden 377 Registratienr D-OQYT
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "Objectnummer 2011-1587 "引用。


写真(上)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダに飛行してきたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(D-OQYT)
:機首にはラインメタル(Rheinmetall AG)7.92ミリMG15旋回機銃を装備していない。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。
Objectnummer 2011-1589 Titel Duitse Focke-Wulf Fw 58 Weihe op Soesterberg voor het geven van demonstraties voor de LVA. Datering van 1937-10-12 Datering tot 1937-10-12 Bijzonderheden 378 Registratienr D-OQYT.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2011-1589"引用。

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、徴兵復活、軍備強化、独裁政権獲得という本音のようだ。

写真(右)1940-1941年頃,ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(薄いブルーグレーの制服)と手にした元帥杖
Bauer撮影。 SFA001011926引用。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893?1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

1940年6月のフランス降伏で,元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。
1942-1943年冬,スターリングラード空輸を請合ったが,失敗。1944年以降のドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。

ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)の成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,の裏切りに怒り,ゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。


1.フォッケウルフ Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機/輸送機

写真(右)1935年3月以降、1935年1月18日に初飛行したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(登録コード:D-ABEM):1933年1月のアドルフ・ヒトラー政権になっても、ドイツは1935年3月のドイツ再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、ドイツ機の尾翼に描いて、国籍マークとしていた。
Perma_000340 Permann Collection Image Focke Wulf FW 58 Weihe --Perman Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。


ドルニエ(Dornier)Do JワールWal飛行艇と形状が似ているフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機似たような愛称を付けられたと言えるが、共に堅牢な構造で実用性が高かったために生産終了後も長らく使用されている。

写真(右)1935年3月以降、ドイツ、飛行中のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(登録コード:D-OCRQ):1933年1月のアドルフ・ヒトラー政権になっても、ドイツは1935年3月のドイツ再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、ドイツ機の尾翼に描いて、国籍マークとしていた。
Description Focke-Wulf FW-58 Weihe (D-OCRQ) (1933-1945) Date 16 July 2021, 17:49 Source Focke-Wulf FW-58 Weihe (D-OCRQ) (1933-1945) Author tormentor4555
写真はCategory:Focke Wulf F 19 引用。


1935年のヒトラーの再軍備宣言以降は、ドイツ空軍機は、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを描いた。これは、ナチ党の政治的、人種的イデオロギーを軍人にも浸透させるためである。軍人の忠誠宣言も、ドイツに対してではなく、ヒトラー総統に対する忠誠を誓うものに変更された。また、航空機の高速化で、敵味方の識別しやすいように、機体と主翼上下面にも、白の縁取り付き黒色バルカンクロス(鉄十字)の国籍マークを記入した。

写真(右)1935年1月18日に初飛行したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ機上作業練習機:機首ガラス風防の下に流線形カバーに覆われた爆撃照準器が見える。エンジンには2翅プロペラがついているが、これは可変ピッチである。エンジンナセルの下に、引込み式の降着装置がある。コックピットのガラス風防は閉鎖されていて、その後方外側には、主翼を支える支柱が取り付けられている。
Focke-Wulf Fw 58 Catalog #: 00079297 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 58 Official Nickname: Weihe (kite) Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真はWikimedia Commons, SDASM Archives 引用。


ドイツは第一次世界大戦で敗戦国となった後、1919年11月のベルサイユ条約の軍備制限条項の下に置かれた。つまり、ドイツは、兵力数10万人以下、徴兵制禁止、軍艦保有量10万トン以下に制限され、潜水艦と空軍の保有は禁止された。しかし、1933年1月にドイツ首相に任命されたヒトラーは、1935年3月に、ベルサイユ条約を破棄して再軍備宣言をした。その後、ドイツ機の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)とされた。

写真(右)1935年1月18日に初飛行したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ機上作業練習機のコックピットのガラス風防を開放して記念撮影した搭乗員:上の機体とは機首ガラス風防の形状、爆撃照準器の流線形カバーの形状が、若干異なっている。コックピット後上方にアンテナ支柱がない。エンジンの集合排気管の筒状の形状がはっきりわかる。には2翅プロペラがついているが、これは可変ピッチである。エンジンナセルの下に、引込み式の降着装置がある。
Focke-Wulf Fw 58 Catalog #: 00079296 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 58 Official Nickname: Weihe (kite) Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。


1935年までの旧ドイツ軍の黒白赤三色の国章を、1935年のドイツ空軍設立以後は、赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)の国章に変更し、その後に、機体にバルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は敵から発見されやすいことが分かり、取りやめになったが、垂直尾翼と主翼上下面に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。

写真(右)1936-1937年頃、離陸した瞬間のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ機上作業練習機:機首はソリッド化されて、7.7mmMG15旋回機関銃1挺の付いた銃座がある。胴体後上方にも同様の銃座がある。これらは、防御用というより、機上で旋回機関銃の操作を練習するためのものである。エンジンが駆動しており、2翅可変ピッチプロペラが回転している。エンジンナセルの下の引込み式の降着装置は、まだ収納庫に引き込まれていない。
Focke-Wulf Fw 58 Catalog #: 00079298 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 58 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機諸元:
初飛行:1935年1月18日
就役:1937年
生産終了:1942年
生産機数:1668機(FWで592機)
全長: 14.2 m
全幅: 21.00 m
全高: 4.5 m
翼面積 47平方メートル
自重: 2,400 kg
全備重量: 3,600 kg
発動機:アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン(排気量:12.677 L)240 hp 2基
最高速力: 280 km/h
実用上昇限度: 5,600 m
航続距離: 800 km
乗員: 6 名

写真(右)1939年9月以降、第二次世界大戦時期、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ機上作業練習機の訓練に出発する航空兵6名が整列している。航空兵は左腰に短剣を吊るし、空軍略帽を被っている。垂直尾翼には、ハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)が白縁黒で描かれているが、これは第二次世界大戦時に導入されたドイツの国籍マークである。右端2人は制帽を被ったドイツ空軍将校で、演習を監督しているのであろう。
Focke-Wulf Fw 58 Catalog #: 00079298 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 58 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。


1933年1月末に、ヒトラー政権が成立したが、ドイツ機の国籍マークは、1935年の再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、垂直尾翼に大きく描いていた。1935年のヒトラーの再軍備宣言以降は、ドイツ機は、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを付けた。これは、ナチ党の政治的、人種的イデオロギーを軍人にも浸透させる企図があった。軍人の忠誠宣言も、ドイツに対してではなく、ヒトラー総統に対する忠誠を誓うものになった。

アラド(Arado)Ar 68 F複葉戦闘機の外観は、ハインケルHe-51と類似しているが、1930年代にアラドが設計・開発した飛行機は、ヨーロッパでは、決して評価されておらず、輸出もできていない。これは、量産能力が低かったためでもあるが、機体の性能も高くなかったことが、飛行機メーカーとしての歴史が浅くブランド力がなかったことが原因であろう。

1935年に創設されたドイツ空軍は、1933年5月初飛行のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機を制式し、ついで、1934年初飛行のアラド(Arad)Ar 68戦闘機、メッサーシュミットBf 109を制式した。そこで、旧式化したハインケル(Heinkel)He-51戦闘機隊は、第一線部隊からは退役したが、複葉機で操縦が容易だったために、練習機として使われた。1939年9月、第二次世界大戦が勃発した時にも、He51戦闘機は練習機として使われていた。

ハインケル He-51A-1 第一次大戦に敗北し、ベルサイユ条約の頸木に繋がれたドイツ航空界にとって、民間に認められた航空学校用飛行機、G-38大型輸送用機、Do-X超大型飛行艇などの民間機の開発を進めたことは、設計・量産の上で、ドイツ国内の民需航空需要を満たし、航空機輸出を盛んにし、技術開発と資本蓄積に大いに貢献した。ドイツ航空界は、ヒトラーが政権獲得前に、すでに十分な航空機開発の実績を達成し、後の第三帝国における軍用機開発にも繋がるのである。

1933年1月末、ナチ党を首班とする連立政権が成立、アドルフ・ヒトラーは、貴族的なプロシア軍の伝統を軽蔑しており、ナチ党のイデオロギーを軍に浸透させるべきであると考えていた。そこで、ドイツ軍機の国章は、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、垂直尾翼尾翼に赤帯に白丸とカギ十字(スワスチカ)を国章として描いた。

1935年までの旧ドイツ軍の黒白赤三色の国章を、1935年のドイツ空軍設立以後は、スワスチカ)の国章に変更した。つまり、ナチ党独裁ドイツでは、ドイツ機は、国籍マークとして、尾翼に赤帯に白丸とスワスチカ(ハーケンクロイツ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを採用した。スワスチカは、ナチ党のイデオロギー、政治思想を軍人にまで浸透させることを反映したもので、軍人の忠誠宣言がドイツに対してでは、ヒトラーに対する忠誠を誓うものと変更されたのと同じ動機である。また、高速の機体の国籍、敵味方の認識をしやすくするため、機体・主翼の上下にも、白の縁取り付きの黒色バルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)とした。

戦争中期以降になり、ドイツ空軍の優位が崩れると、白縁が目立ちやすいとして、黒のバルカンクロス(スワスチカ)、ハーケンクロイツの白の縁取りも廃されている。

写真(右)1937年7月30日,オランダ沿岸、ハーグ南郊外、イペンブルグ、売り込みのためにオランダに飛行してきたフォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機D-OQYT:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
全備重量: 3,600 kg、 アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基、最高速力 280 km/h、航続距離 800 km。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000663 Beschrijving Belangstellenden bij demonstratietoestel Focke-Wulf Fw 58 Weihe D-OQYT. Plaats Ypenburg, Zuid-Holland, Nederland Datering van 1937-07-30 Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger Koninklijke Luchtvaart Maatschappij N.V. Copyright KLM Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000665"引用。


オランダは、1939年9月初頭、ドイツがポーランド侵攻をし、直ぐにイギリス・フランスが宣戦布告した後も、中立の立場を表明していた。しかし、1940年5月、ドイツ軍のフランス侵攻「ゲルフ」黄色作戦では、ドイツはオランダの中立を無視して、オランダ、ベルギーにも侵攻した。しかしう、1937年の時点では、オランダは、第一次大戦のときと同じく、紛争に際して中立を守ることが可能であると考えていた。そのため、ドイツとの友好維持もあって、ドイツのフォッケウルフ社からフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"を購入したのであろう。

写真(右)1937年7月30日,オランダ沿岸、ハーグ南郊外、イペンブルグ、売り込みのためにオランダに飛行してきたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機D-OQYT
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000664 Beschrijving Belangstellenden bij demonstratietoestel Focke-Wulf Fw 58 Weihe D-OQYT. Plaats Ypenburg, Zuid-Holland, Nederland Datering van 1937-07-30 Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger Koninklijke Luchtvaart Maatschappij N.V. Copyright KLM Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000664"引用。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"を検索するとウィキペヂア(Wikipedia)「Fw58ヴァイエ は第二次世界大戦前にドイツのフォッケウルフ社で製造された双発単葉の練習機/輸送機である。元は民間輸送機として開発された。」が出てくるが、これをそのまま引用し、別のサイトであるかのようにし、アクセス数を増すことを目的とする商業的サイトが多数ある。これは、検索サイトにヒットさせて、広告に誘導する簡便で姑息な手段である。Wikipediaと同じ文章をコピペ引写しているに過ぎない理由は、誠意も知識もない金儲け主義だからであろうか。

写真(右)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダに飛行してきたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(D-OQYT):低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
Objectnummer 2011-1589 Titel Duitse Focke-Wulf Fw 58 Weihe op Soesterberg voor het geven van demonstraties voor de LVA. Datering van 1937-10-12 Datering tot 1937-10-12 Bijzonderheden 378 Registratienr D-OQYT
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "Objectnummer 2011-1589 "引用。


1933年1月末、ナチ党を首班とする連立政権が成立、アドルフ・ヒトラーは、貴族的なプロシア軍の伝統を軽蔑しており、ナチ党のイデオロギーを軍に浸透させるべきであると考えていた。そこで、ドイツ軍機の国章は、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、垂直尾翼尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は目立つために敵からの標的にされやすかったので取りやめになった。

写真(右)1937年10月12日,オランダ中部、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ(Soesterberg)、売り込みのためにオランダに飛行してきたフォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(D-OQYT)の正面:スーステルベルグ(Soesterberg)にはオランダのヘリコプター部隊の基地が起これていたが、2010年に予算削減で、廃止されている。その跡地には、2014年からオランダ国立軍事博物館(Nationaal Militair Museum)がオープンした。
Objectnummer 2011-1590 Titel Vooraanzicht van een Duitse Focke-Wulf Fw 58 Weihe op Soesterberg. Datering van 1937-10-12 Datering tot 1937-10-12 Bijzonderheden K22-379 Registratienr D-OQYT
写真は,NIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "Objectnummer2011-1590"引用。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機は、全備重量 3,600 kg、 アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基搭載、最高速力 280 km/h、航続距離 800 kmの安価で使いやすい機体だった。

そこで、フォッケウルフ社は、1937年7月と10月、オランダに売り込むためにフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 輸送機・練習機(D-OQYT)を使って、オランダに対するデモ飛行を実施した。この時に関心を持ったオランダ陸軍航空隊は、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 を軽輸送機・練習機として、複数機購入した。

写真(右)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダにデモ飛行してきたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機D-OQYT:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
Collectie Foto Technische Dienst Luchtvaartafdeeling Objectnummer 2011-1589 Beschrijving Duitse Focke-Wulf Fw 58 Weihe op Soesterberg voor het geven van demonstraties voor de LVA. Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Datering van 1937-10-12 Datering tot 1937-10-12 Trefwoorden proefnemingen, activiteiten, Foto Technische Dienst Luchtvaartafdeeling, Luchtvaartafdeeling, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, lesvliegtuigen, lesvliegtuigen, vliegtuigen, bezoeken, activiteiten Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger Onbekend Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2011-1589"引用。


オランダの購入したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 は、登録番号197、198、199の3機が知られている。その写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie に掲載、公開されている。

写真(右)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダにデモ飛行に飛来したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(D-OQYT):全長: 14.2 m、全幅: 21.00 m、全高: 4.5 m 翼面積: 47平方メートル 自重: 2,400 kg、全備重量: 3,600 kg。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000670 Beschrijving Vooraanzicht Focke-Wulf Fw 58 Weihe D-OQYT. Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Datering van 1937-10-12 Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger ML Copyright NIMH Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000670"引用。


1939年7月1日、オランダ陸軍航空隊の増強が決まったが、陸軍航空隊の配備機は200機しかなく、航空機の増加と並んで、搭乗員の急速な養成が求められたのである。そこで、空軍力を強化するために、双発練習機として、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58"Weihe"ワイエ軽輸送機・練習機を購入することを決めた。陸軍航空隊のための操縦士、航法士、通信士、銃手などの養成が本格的に始まったのである。

  写真(右)1938-1939年,オランダ中部沿岸、北ホラント州、テセル、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ軽輸送機・練習機とオランダ陸軍航空隊搭乗員たち:機首にはラインメタル(Rheinmetall AG)7.92ミリMG15旋回機銃を装備していない。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Marine Corps Photo Objectnummer 2158_083413 Beschrijving Lestoestel Focke Wulf "Weihe"van de LVA op het MVKKooy, 1938/1939 Plaats MVKK Datering van 1938 Datering tot 1939 Trefwoorden vliegtuigen, materieel Specifieke kenmerken overige Nederlandse vliegtuigen Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2158_083413 "引用。


第一次世界大戦勃発前の1913年、オランダ陸軍航空隊が創設されたが、配備された機体は、フランスから輸入したファルマン、ニューポール、コードロンなどの外国製造の機体だった。

しかし、第一次世界大戦が勃発した後も、オランダは中立を保っており、戦争には参加しないで済んだ。戦争末期には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の亡命も受け入れている。第二次世界大戦が1939年9月に勃発した時もオランダは中立を守ったが、ドイツは1940年5月に中立国オランダとベルギーに侵攻した。

写真(右)1939年10月,オランダ南部沿岸、ゼーラント州、オースト=サウブルグ、オランダ陸軍航空隊の国籍識別マークを付けたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機199号:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000672 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe 199. Plaats Souburg Datering van 1939 Specifieke kenmerken 199 Vervaardiger Bierhuijs, A. Copyright Fam. Bierhuijs Bijzonderheden Vóór oktober 1939.
写真は,NIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000672 "引用。


 第一次世界大戦後、オランダ政府は、他のヨーロッパ諸国同様、軍事予算を削減し、オランダ陸軍航空隊も縮小されたが、1930年代後半になると、ドイツの再軍備、対外膨張が危惧されるようになった。

フランシス・フランコFrancisco Franco) 将軍らが1936年7月にスペイン共和国政府に反乱を起こすと、ヒトラーはイタリアファシスト党ムッソリーニとともに、スペイン反乱軍を援助するために正規軍を「義勇軍」と称して派遣した。こうして、実戦経験を通じて、戦車、航空機の戦術的利用を深化させた。

写真(右)1939年10月,オランダ中部沿岸、ロッテルダム南西60km、ヒルゼ=レイエン飛行場、第2飛行隊第II中隊(II-2 LvR)フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機とその主翼下から除いたフォッカー(Fokker)C.5RR 複葉偵察・爆撃機598号機:1939年10月に、これらの航空機が飛行学校の最終訓練に貸し出された。手前にはFw 58の主翼とそれに繋がる支柱があり、2翅プロペラが4翅のように写っている。
Objectnummer 2161_027196 Titel Fokker C.5RR 598 van II-2 LvR op Soesterberg. Het toestel was in oktober 1939 uitgeleend aan de Eindopleiding van de Vliegschool. Foto genomen onder een Focke-Wulf Fw 58 Weihe door. Datering van 1939-10 Registratienr 598
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "Objectnummer 2161_0271961"引用。


フォッカー(Fokker)C.5 複葉偵察爆撃機は1925年に登場したが、次の5形式がある。
- C.Va: 戦術偵察機: 全幅12,03 m
- C.Vb: 戦略偵察機: 全幅13,33 m
- C.Vc: 軽地上襲撃機: 全幅14,63 m
- C.Vd: 戦闘機/戦術偵察機: 全幅12,50 m
- C.Ve: 軽爆撃機/戦略偵察機: 全幅15.3 m

350 hp ヒスパノスイザ(Hispano Suiza)液冷エンジン搭載型のフォッカー C.Vd は 590号機から622号機まで、合計33機が生産された。

写真(右)1939年11月20日,オランダ中部沿岸、北ホラント州、テセル、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"軽輸送機・練習機とオランダレイク軍航空隊搭乗員たち:機首には7.92ミリMG15旋回機銃を装備していない。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001340 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe met passagiers op Texel voor vertrek naar Soesterberg op 20 november 1939. Van links naar rechts de heren Aarts, Ottes, Lub, Nijhuis en Kuhn. De vlieger was adjudant D.H. Lambermont. Plaats Texel, Noord-Holland, Nederland Datering van 1939-11-20 Namen personen Aarts, P.J.;Kuhn, J.A.;Ottes, C.R.;Nijhuis, G.;Lub, D.;Lambermont, D.H. Rang/functie Adjudant, vlieginstructeur, Sergeant-vlieger Trefwoorden groepsportretten, afbeeldingsgenres, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, lesvliegtuigen Specifieke kenmerken 198 Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH Bijzonderheden De vijf sgt.vliegers hadden hun omscholing tot jachtvlieger voltooid. Kleur/Zwart-wit Zwart-wit.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000662"引用。


1934年、ゲーリング隷下の航空省は、軽輸送・連絡機として使用できる双発多用途機の施策を命じたが、これに応えてアラド(Arado)は、Ar 77を試作した。

他方、フォッケウルフ(Focke-Wulf)は、Fw 58 V1 試作1号機(D-ABEM, 製造番号 W.Nr. 451) を試作し、1935年1月18日に初飛行させた。フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"の胴体は、鋼管溶接に金属外皮の前部、羽布張の後部からなり、高アスペクト比の主翼は金属製主桁に金属外皮の前縁、羽布張の外縁からなっている。生産機数は、1942年までに1670機が量産されている。

写真(右)1939-1940年冬,オランダ中部沿岸、北ホラント州、テセル、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機:機首に7.92ミリMG15旋回機銃を装備。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001335 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 in de sneeuw. Winter 1939-40. Plaats Texel Vervaardiger Brouwer, Cor Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000662"引用。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"は、8機がルフトハンザドイツに納入された。そして、1937年にドイツ空軍に制式され、通信・偵察・航法などの機上作業練習機として、そして機関調整など多発機の操縦訓練に用いられた。当日は引込み式降着装置と低翼単葉機が出始めたばかりで、Fw58の設計は斬新であり、決して古めかしいものではなかった。また、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"は、軽量で操作しやすいことを活かして、短距離の軽輸送・連絡から患者輸送機にも用いられた。また降着装置を双浮舟フロートに変更した水上仕様のFw58BW型が開発され、少数が生産された。

写真(右)1940年頃,オランダ、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機:機首に7.92ミリMG15旋回機銃を装備し、先端下方には、爆撃練習をする爆撃照準器が搭載されている。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。無線通信機のためのアンテナ線は、大型支柱に張られている。主翼を支える支柱が、操縦席脇から低翼式の主翼に繋がっている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000671 Beschrijving Voorzijde Focke-Wulf Fw 58 Weihe. Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000671"引用。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"は、多用途双発機として、ドイツ以外でもオランダ、ハンガリー、ルーマニアに輸出され、ブラジルではライセンス生産がなされている。


写真(上)1940年,オランダ、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 B-2 ワイエ"Weihe"練習機
:機首に7.92ミリMG15旋回機銃は装備されていない。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナは1930年代後半に実用化された先端技術だった。機首先端下方には、爆撃練習をする爆撃照準器を搭載。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。無線通信練習をするために、アンテナを張る支柱は大型である。主翼を支える支柱が、操縦席脇から低翼式の主翼に繋がっている。
Objectnummer 2160_034684 Titel Rechterzijde Focke-Wulf Fw-58B-2 Weihe van de LVA op de grond. Met oranje driehoeken. Mobilisatie Datering van 1939 Datering tot 1940 conflicten, Tweede Wereldoorlog, mobilisatie 1939-1940 materieel, vliegtuigen, lesvliegtuigen, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, Focke-Wulf Fw 58B-2 Weihe Onderwerp Oranje driehoeken Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Collectie Vliegbasis Soesterberg
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_001336"引用。


写真(右)1940年頃,オランダ、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機199号:機首の7.92ミリMG15旋回機銃は未搭載。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナで回転させて地上波の強い方向を感知することで機位を確認する航法機材である。その後にアンテナ線支柱、後上方銃座支柱。低翼式主翼を支える支柱が、操縦席脇風防枠から出ている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000673 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe 199. Specifieke kenmerken 199 Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000673"引用。


1940年5月、ドイツは、フランス侵攻のために、中立国オランダに侵入し、オランダ陸軍航空隊は、反撃を開始した。しかし、圧倒的に優勢なドイツ軍の前に、オランダ軍は1週間で壊滅状態となり、イギリス・フランスの遠征軍も退却してしまった。

しかし、オランダ陸軍航空隊のパイロットの中には、イギリスに脱出し、そこで、イギリス軍の指揮下に再起を期すものがあった。彼らが1940年6月に設立したのが、第320飛行隊、第321飛行隊である。1941年には、本国がドイツに占領されていたためにオランダ陸軍航空隊の搭乗員訓練は、アメリカでも始められている。

写真(右)1940年,ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機198号とコックピットを点検する長靴を履いた搭乗員:機首に7.92ミリMG15旋回機銃が装備されている。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ、その後にアンテナ線支柱、後上方銃座支柱。低翼式主翼を支える支柱が、操縦席脇風防枠から出ている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000674 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe, reg. 198. Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Datering van 1940 Datering tot 1940 Trefwoorden Luchtvaartafdeeling, Koninklijke Landmacht, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, lesvliegtuigen, lesvliegtuigen, vliegtuigen Specifieke kenmerken 198 Vervaardiger Bierhuijs, A. Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000674"引用。


写真(右)1940年5月(?),オランダ中部沿岸、北ホラント州、テセル、破壊されたオランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機197号の骨組み:金属骨格に羽布を張った構造なので軽量化できたが、火災などに遭うと引火、全焼してしまう。ドイツ空軍の空襲によって破壊されたのか。あるいはオランダ降伏に際して、オランダ陸軍航空隊メンバーが自らドイツ軍の手に渡さないように焼却したのであろうか。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001341 Beschrijving Wrak Focke-Wulf Fw 58 197 op Texel. Plaats Texel Datering van 1940 Specifieke kenmerken 197 Vervaardiger Onbekend Bijzonderheden Duitse foto.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_001336"引用。


写真(右)1940年6月4日,オランダ中部沿岸、ロッテルダム近郊、ドイツ空軍によって爆撃され、破壊されたワールハーフェン飛行場の飛行機格納庫、破壊されたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機195号、フォッカーCV、コールホーベン FK-51の残骸:金属骨格に羽布を張った構造なので軽量化できたが、火災などに遭うと引火、全焼してしまう。ワールハーフェン飛行場は1920年に設立されたオランダで2番目の空港である。民間だけでなく、オランダ軍も使用し、第二次大戦でドイツがオランダに侵攻した1940年には、第3フォッカーG.I飛行中隊(3rd JaVA Fokker G.I squadron)が1940年に使用していた。
Objectnummer 2189-01-35-001 Titel Een door de Luftwaffe gebombardeerde en vernielde hangar op vliegveld Waalhaven. In de hangar van links naar rechts de restanten van: de Focke-Wulf Fw 58 Weihe met registratienummer 195, een Fokker C. V en een Koolhoven FK-51. Datering van 1940-06-04.Plaats Rotterdam, Zuid-Holland, Nederland
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "Objectnummer 2189-01-35-001"引用。


写真(右)1940年6月以降,オランダ、オランダ陸軍航空隊のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58-B2 ワイエ"Weihe"輸送機・練習機の燃えた残骸:垂直尾翼にスワスチカのドイツ機マークはないが、三色オランダ国旗の縦線のオランダ軍機の国籍マークが描かれている。手前には、柵フェンスの金網が壊れているので、空襲を受けたのであろうか。支柱が胴体上から繋がれている。
Titel Het wrak en de restanten van een Focke-Wulf Fw 58 Weihe. Datering van 1940 Datering tot 1945 Registratienr Onleesbaar.Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht
写真は,NIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_068-183"引用。


1940年5月、ドイツの中立国オランダへの侵攻の為、オランダはドイツ占領下におかれることになるが、降伏、武装解除を潔しとしないオランダ陸軍航空隊の搭乗員は、自分たちの愛機を焼却処分したようだ。処分されたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58"Weihe"ワイエ軽輸送機・練習機は、少なくとも196号機、197号機の写真が残され、公開されている。


写真(上)1941年,オランダ南部、ノールトブラーバント州ウーンスドレヒト(Woensdrecht)基地、カモフラージュされた格納庫に置かれたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"輸送機・練習機と2機の第52戦闘航空団第I飛行隊のメッサーシュミットBf109E戦闘機
:ウーンスドレヒト(Woensdrecht)は、ベルギーのアントワープ北15kmにり、現在ではオランダ空軍基地が置かれている。
Objectnummer 2000-635-001 Titel Twee Messerschmitt Bf 109 en een Focke-Wulf Fw 58 Weihe van I./Jagdgeschwader 52 bij een gecamoufleerde hangar op vliegveld Woensdrecht. Datering van 1941
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "Objectnummer 2000-635-001"引用。


写真(右)1941年,オランダ中部沿岸、ロッテルダム南西60km、ヒルゼ=レイエン飛行場、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 C "Weihe"練習機:金属骨格に薄いジュラルミンを張った胴体前部のコックピットの折り畳み式ガラス風防が開放状態にあり、操縦席の搭乗者がポーズをとっている。
Objectnummer 2189-018-013-001 Titel Een Focke Wulf 58C Weihe-verbindingsvliegtuig van de Luftwaffe op Fliegerhorst Gilze-Rijen. Datering van 1941 Datering tot 1941
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "Objectnummer 2189-01-35-001"引用。


写真(右)1942年頃,オランダ、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機/輸送機のコックピット後方:コックピットのガラス風防は、折り畳まれて開放状態になっている。低翼式主翼を支える支柱と補助支柱、ループアンテナ、無線方向探知機の環状ループアンテナ線を張るアンテナ支柱がよくわかる。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001344 Beschrijving Detail romp en cockpit Focke-Wulf Fw 58 Weihe. Trefwoorden cockpits, vliegtuigonderdelen Vervaardiger Onbekend.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_001344 "引用。


1930年代後半に実用の域に達した環状ルーアンテナは、環状(ループ)にコイル(導線)を巻いた無線探知用のアンテナで、航法用電波送信器から発せられた電波をを感知し、その感知度合いが大きい方向を検知し、目的地をまで方位を決める。 そこには、1)電波を直接検出する、2)磁場を検出する、という役目があるが、ループ面に対する両者の指向性は90度ずれる。フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"は、環状ループアンテナの操作の練習機としても使用された。

写真(右)1942年初め,ロシア、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機:機首に7.92ミリMG15旋回機銃を装備している軽輸送機型。練習機として使用するときは機上射撃訓練用にも使用できたようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-396-1623-23A Archive title: Rußland, Bereich HG Nord.- Focke-Wulf Fw 58 "Weihe"; KBK Lw 4
Dating: 1942 Anfang
Photographer: Brase、Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-396-1623-23A"引用(他引用不許可)。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機は、機上作業練習機、軽輸送・連絡機として1935年に初飛行。胴体は、鋼管溶接に前部が金属外皮、後部が羽布張りで、主翼は前部が金属外皮、中部・後部は羽布張りで軽量化を図っている。

写真(右)1942年、ブラジル南岸、リオデジャネイロ、ガレアン (Galeão)航空基地、ドイツから輸入した機体・部品を組み立て中のブラジル空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機:機首ガラス風防の先端に、半球型ガラス風防を取り付ける前に内部を組み叩ている。湯職にはエンジン取付部があるが、エンジン自体は取り付けられていない。エンジンナセルはあるが、そこに引込み式降着装置・車輪は取り付けられていない。流線形カバーはあるが、内部には爆撃照準器は取り付けられていない。コックピットのガラス風防は出入りする可動部分は未装着である。
Photographer Unknown Title Base Aérea do Galeão. Description Português: Fundo Agência Nacional. Date 1942 Collection Brazilian National Archives Blue pencil.svg wikidata:Q2860546 Accession number BR_RJANRIO_EH_0_FOT_AEO_00023_0027 Source Arquivo Nacional (in English: The Brazilian National Archives)
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Base Aérea do Galeão..tif引用。


フォッケウルフ Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機の総生産機数は、1,350機。 オランダ、アルゼンチン、ブラジル、クロアチア(親ドイツ傀儡国家)、ルーマニア(ドイツ同盟国)、スペイン(フランコ将軍のファシスト政権)、トルコでも使用された。

枢軸同盟国は、領土拡大を目指す軍事国家であり、第一次大戦後の国際秩序を打破し、共産主義ソビエト連邦を排除する方針の下に、1936年11月1日、ナチ党ヒトラー政権のドイツとファシスト党ムッソリーニ政権のイタリアが、ローマ=ベルリン枢軸協定を結び、独伊同盟が成った。その直後の1936年11月25日、ドイツと日本は、共産主義ソビエト連邦の影響力をは排除するために、防共協定を結んだ。そして、1937年11月6日、日独防共協定にイタリアが加わり、1939年5月22日、ドイツとイタリアが軍事同盟となる鋼鉄条約に調印した。

1937年7月7日、日本は、北京郊外盧溝橋事件を契機に、日通戦争が勃発し、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻に端を発した第二次世界大戦が勃発し、それまで中立だったイタリアが1940年6月10日、フランスの敗北の直前にフランスに侵攻した。こうして、ドイツがイタリアを従えて、欧州大陸を支配した1940年9月27日、ドイツ、イタリア、日本の軍事国が、三国軍事同盟を締結し、これが枢軸国として有名になる。

写真(右)1942年、ブラジル、未舗装飛行場、ドイツから輸入したブラジル海軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58-B2 ワイエ"Weihe"機上作業練習機:機首ガラス風防下面は流線形カバーで覆われた爆撃照準器。尾輪は橇式で小型である。主輪は小型で、エンジンナセルに引込み、収納される。コックピットのガラス風防は出入りする可動部分が開放されている。
Photographer Unknown Title Primeiro bimotor construído na Base de Aviação Naval. Fw 58-B2 (Focke-Wulf Fw58) matrícula D2Fw-147. Description Português: Fundo Agência Nacional. Date 1940 Collection Brazilian National Archives Blue pencil.svg wikidata:Q2860546 Accession number BR_RJANRIO_EH_0_FOT_AEO_00005_0006 Source Arquivo Nacional
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Primeiro bimotor construído na Base de Aviação Naval..tif引用。



写真(上)1941年9月,ブラジル、リオデジャネイロ、ブラジル空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
;ブラジルはドイツからFw58のライセンスを取得し生産した。
Português: A aeronave Focke-Wulf Fw 58 da Marinha do Brasil, montada na Fábrica do Galeão, Rio de Janeiro. Date 6 September 1941 Source O Cruzeiro, Ano XIII, edição 45, página 32/republicado pela Biblioteca nacional-Hemeroteca Digital Brasileira Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Focke-Wulf Fw 58-Marinha do Brasil (1941).jpg引用。


写真(右)1940年頃,オランダ、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機199号:機首の7.92ミリMG15旋回機銃は未搭載。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナで回転させて地上波の強い方向を感知することで機位を確認する航法機材である。その後にアンテナ線支柱、後上方銃座支柱。低翼式主翼を支える支柱が、操縦席脇風防枠から出ている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000673 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe 199. Specifieke kenmerken 199 Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000673"引用。


写真(右)1942年-1944年9月、対ソビエト連邦継続戦争時期、フィンランド駐留の同盟国ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ連絡機:ソリッド機首の連絡機のようだが、後上方に大型勘定ループアンテナが取り付けられている。主翼下面には、鉄十字が白で簡素に描かれているので、大戦後半の時期の撮影になる。コックピットにはカバーがかけられている。
Luftwaffen Focke-Wulf Fw 58 Weihe -yhteyskone tunnistamattomalla lentokentällä Suomessa. COLLECTION Harju-Jeanty, Raoul ORGANISATION Finnish Aviation Museum IDENTIFIER SIM VK 34:88 MEASUREMENTS 12x9 cm Vedos PHOTO INFO 1941-1944
写真はSDASM Archives 引用。


写真(右)1940年、ドイツ同盟国ハンガリー、ドイツから輸入したハンガリー空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 K ワイエ"Weihe"機上作業練習機と革製飛行帽とゴーグルを装着したハンガリー空軍搭乗員:機首ガラス風防の先端の半球型ガラス風防の一部に下方視界を確保する窓が付いている。機首下面の流線形カバーには、爆撃照準器が取り付けられている。主翼を支える支柱がコックピットガラス風防の後ろから延びている。
Magyar: Focke-Wulf Fw-58K gyakorlóbombázó repülőgép.
Tags: Royal Hungarian Air Force, Focke-Wulf-brand, German brand, airplane, pilot, airport
Title: Focke-Wulf Fw-58K gyakorlóbombázó repülőgép.
Date 1940
Source www.fortepan.hu/_photo
Author FOTO:Fortepan — ID 10467: Home page
PictureInformation page Adományozó/Donor: Unknown.
archive copy fortepan.hu is CC-BY-SA-3.0. Hungary, and the USA
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Focke-Wulf Fw-58 típusú repülőgép. Fortepan 3228.jpg引用。


ドイツの フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機は、オランダ陸軍航空隊で制式されたが、さらにアルゼンチン 3機, ブラジル 10機, ブルガリア 8機, ルーマニア 22機, スウェーデン 2機, トルコ 6機, ハンガリー 27機, オーストリア 6機が、1942年から1945年に輸出された。ドイツ航空省によれば、各国に納入したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機は、ブルガリア10機、ルーマニア5機、スウェーデン2機、スロバキア12機、ハンガリー202機である。

写真(右)1943年、ハンガリー、ドイツから輸入したハンガリー空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機:機首ガラス風防の先端の半球型ガラス風防の一部に下方視界を確保する窓が付いている。尾輪は橇式で、車輪式ではない。エンジンに取り付けられた2翅プロペラのすべての翅に会社のロゴが記入されている。エンジンナセルに引込み式降着装置・車輪が引込んだ時に、収納扉がある。機首下面の流線形カバーには、爆撃照準器が取り付けられている。主翼を支える支柱がコックピットガラス風防の後ろから延びている。
Magyar: Focke-Wulf Fw-58 típusú repülőgép. Tags: Royal Hungarian Air Force, Focke-Wulf-brand, Gerrman brand, airplane, second World War, transport Title: Focke-Wulf Fw-58 típusú repülőgép. Date 1943 Adományozó/Donor: Unknown. fortepan.hu is CC-BY-SA-3.0. Hungary, and the USA
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Focke-Wulf Fw-58 típusú repülőgép. Fortepan 3228.jpg引用。


写真(右)1943年8月、対ソビエト連邦東部戦線、反ドイツの武装抵抗パルチザンの情報を得ている通信部隊と無線装置、その背景にドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"連絡機:機首ガラス風防の先端の半球型ガラス風防の一部に下方視界を確保する窓が付いている。尾輪は橇式で、車輪式ではない。エンジンに取り付けられた2翅プロペラのすべての翅に会社のロゴが記入されている。エンジンナセルに引込み式降着装置・車輪が引込んだ時に、収納扉がある。機首下面の流線形カバーには、爆撃照準器が取り付けられている。主翼を支える支柱がコックピットガラス風防の後ろから延びている。
Photographer Ahrens, Herbert Archive description Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong. You can help by reporting errors and typos at Commons:Bundesarchiv/Error reports. Sowjetunion.- Zwei Funker vor Funkgeräten auf Feldflugplatz. Im Hintergrund Focke-Wulf Fw 58 "Weihe"; SS-PK Ahrens Title Russland, Funker auf Flugplatz Info non-talk.svg [Text von Bild 183-1991-0206-500:] ADN-Bildarchiv / II. Weltkrieg 1939-45 In den von der faschistischen deutschen Wehrmacht besetzten Gebieten der Sowjetunion; August 1943 SS- und Polizei-Einheiten gemeinsam mit der Luftwaffe im Einsatz gegen Partisanen hinter dem Mittelabschnitt der Front. Die Funkstation auf dem Einsatzflughafen hat die Meldung über ein erkundetes Partisanenlager erhalten. Aufnahme: Ahrens
English: In the areas of the Soviet Union occupied by the fascist German Wehrmacht, August 1943, SS and police units together with the Luftwaffe in action against partisans behind the middle section of the front. The radio station at the operational airport received a message about a partisan camp. [Scherl Bilderdienst] Depicted place Russia Date August 1943 Collection German Federal Archives Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS (Bild 101 III) Accession number Bild 101III-AhrensH-060-04A
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Bundesarchiv Bild 183-1991-0206-500, Russland, mit Luftwaffe gegen Partisanen.jpg引用。


写真(右)1943/1944年,西ヨーロッパ、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 C ワイエ"Weihe"機上作業練習機とユンカースJu88爆撃機(左):機首の7.92ミリMG15旋回機銃のないフォッケウルフFw 58 Cは専用練習機として使用された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-594-0294-18 Archive title: Auf einem Flugplatz im Westen.- Focke-Wulf Fw 58 C "Weihe" (r.) neben Junkers Ju 88 mit Radargerät; KBK Lw z.b.V. Dating: 1943/1944 Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-594-0294-18"引用(他引用不許可)。


写真(右)1944年1月,飛行機格納庫のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機(手前)、Messerschmitt Me 323 "Gigant"(扉を開けた状態)、 Focke-Wulf Fw 190(右):この Fw 58ワイエは、機首の透明ガラス風防を廃止しロリッド化しているので、水平爆撃の照準訓練は行わず、軽輸送機、双発機練習機として使用されたようだ。
Title Reichsgebiet, Flugzeugwerft mit Me 323, Fw 58 Info non-talk.svg Archive description
Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong.
Reichsgebiet.- Reparatur- und Wartungsarbeiten an verschiedenen Flugzeugtypen der Luftwaffe auf einer Flugzeugwerft, im Hintergrund eine Messerschmitt Me 323 "Gigant"; vorn eine Focke-Wulf Fw 58 "Weihe", rechts eine Focke-Wulf Fw 190; Einsatzkompanie Lw zbV
Depicted place Reichsgebiet
Date January 1944
Photographer Sierstoopff (pp) Institution German Federal Archives Link back to Institution infobox template wikidata:Q685753 Bundesarchiv Bild 144-400-05, Koblenz, Bundesarchiv, Hauptgebäude.jpg Link to OpenStreetMapLink to Google Maps
Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-670-7418-33 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-670-7418-33引用(他引用不許可)。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"総生産機数1668機の型式会社別内訳

試作機(Versuchsmuster) 6機 (V1–V6, 製造番号W.-Nr. 451, 452, 802, 1833, 1970, 1199)
B型: FW 307機 合計395機 (B-1、B-2)
C型: FW 203機 MIAG 385機 Gotha(ゴータ)460機 合計1191機(C-1、C-2)
各種販売型: 合計76機
*MIAG(Mühlenbau und Industrie Aktiengesellschaft)は、1925年設立、ドイツ中部、ブラウンシュヴァイクにある機会航空機工場を保有していた。

写真(右)1936年2月刊行のフランス航空雑誌L'Aerophile掲載のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"連絡機の三面図:機首ガラス風防ではなく、ソリッド型の連絡機仕様。機首下面の流線形カバー(爆撃照準器)も取り付けられていない。主翼を支える支柱がコックピットガラス風防の後ろから延びている。
Description English: Focke Wulf Fw.58 3-view drawing from L'Aerophile February 1936
Date 1 February 1936
Source gallica.bnf.fr/ark:/12148/
Author L'Aerophile magazine
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Focke Wulf Fw.58 3-view L'Aerophile February 1936.jpg引用。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機諸元:
全長: 14.2 m
全幅: 21.00 m
全高: 4.5 m
翼面積 47平方メートル
自重: 2,400 kg
全備重量: 3,600 kg
発動機:アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン(排気量:12.677 L)240 hp 2基
最高速力: 280 km/h
実用上昇限度: 5,600 m、航続距離: 800 km
乗員: 6 名

⇒写真集Album:フォッケウルフFw 58 "Weihe"ワイエ練習機を見る。


2.ジーベル(Siebel)Si 104連絡機/練習機


写真(右)1937年,ドイツ、1937年刊行のフランスの航空雑誌L'Aerophileに掲載されたドイツのジーベル(Siebel)Fh 104 双発輸送機(登録コード:D-IQPG):垂直尾翼に赤帯白丸黒鍵十字のナチ党旗に由来するドイツ国籍マークが描かれている。機首は段有りのソリッド化されたものである。双翼式であることが明瞭に分かる。
Description English: Siebel Fh.104 photo from L'Aerophile July 1937 Date 1 July 1937 Source http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6554375s?rk=171674;4 Author L'Aerophile magazine
写真は Wikimedia Commons, Category:Siebel Fh 104 File:Siebel Fh.104 photo L'Aerophile July 1937.jpg引用。

ジーベル(Siebel)Fh 104 ハローレ(Hallore)輸送機は、 ドイツのジーベル(Siebel)が設計、開発、生産した双発機で、ドイツのフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 に相当する多用途双発機である。

1934年にクレム軽飛行機製造社(Klemm Leichtflugzeugbau)は、クレム(Klemm) Kl 36ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"のような軽飛行機ではなく、全金属製の双発機を開発するためにドイツ中部、ライプチッヒ北西40キロのハレ(Halle)に飛行機製造工場を新設した。そこで、新たに開発されたのが、新しいクレム Kl 104双発輸送機、すなわち後のFh 104双発輸送機である。1937年、クレムのハレ飛行機工場は、フリッツ・ジーベル(Fritz Siebel)が取得し、クレムKL 104は、新たにジーベル(Siebel)Fh 104 と改名された。

ジーベル(Siebel)Fh 104 の胴体は全金属製で、主翼は合板張り、降着装置は、エンジンナセルに収納可能な油圧式の引込み式降着装置を備えている。

ジーベル(Siebel)Fh 104双発輸送機の諸元
乗員:2名
乗客:5名
全長:9.50 m
全幅:12.06 m
全高:2.64 m
翼面積:22.3 m2
空虚重量:1,510 kg
運用重量:2,350 kg
発動機:ヒルト(Hirth)HM 508空冷倒立V型エンジン 209 kW (280 hp)2基
最大速度:350 km/h (217 mph)
巡航速度:335 km/h (208 mph)
巡航高度:6,600 m
航続距離:920 km

⇒写真集Album:ジーベル(Siebel)ジーベル(Siebel)Fh 104連絡機・練習機を見る。



3.ジーベル(Siebel)Si 204連絡機/練習機


写真(右)1940-1942年,ドイツ(?)、飛行中のジーベル(Siebel)Si 204双発連絡機(登録コード:G-ASTU):機首は段有りのソリッド化され双翼式であることが明瞭に分かる。
Perma_000349 Permann Collection Image Siebel Si 204 --Perman Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives 引用。

1938年にドイツ航空省は、全金属製双発小型輸送機の試作依頼をし、ルフトハンザドイツ航空での使用を念頭に、ハレ(Halle)にあったジーベル社が設計を始めたが、1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、民間小型輸送機の受注は見込めなくなった。

第二次世界大戦の勃発によって、民間輸送機の生産が望めない状況で、ジーベルは、試作輸送機を原型に、機首に全面ガラス張りコックピットを配した練習機を開発した。これが、第二次世界大戦勃発後の1940年5-9月に初飛行したジーベル(Siebel)Si 204で、ドイツ空軍に制式されで連絡機・練習機として使用された。フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 と同じくアルグス411エンジンを搭載した双発機で、試作3号機は1941年末から1942年初頭に初飛行している。


写真(右)1945年,ドイツ(?)、アメリカ軍が鹵獲したドイツ空軍ジーベル(Siebel)Si 204双発連絡機:戦利品の前で記念撮影をしたアメリカ軍兵士たち。このSi 204は、段無し機首で全面ガラス風防コックピットの練習機仕様である。
Perma_000166 Permann Collection Perman collection Image Siebel Si 204 in US hands--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives 引用。

ジーベル(Siebel)Si 204の量産は、占領したフランスのSNCANで行われ、先行量産型Si204 A-0、量産型Si204 A-1、Si204D-1練習機が1942年4月から1943年11月に168機生産された。またドイツ占領したのチェコのČKDでもジーベル(Siebel)Si 204 D-0練習機48機、Si204 D-1練習機447機の合計492機生産された。

その他の飛行機メーカーを合わせて、ジーベル(Siebel)Si 204各種合計で、1945年1月までに、総計1,216機が量産されている。


写真(右)1960年代、北アフリカ、フランス植民地アルジェリア、フランス空軍SNCAC NC.701 マルティネ (Martinet)練習機:ジーベル(Siebel)Si 204連絡機を原型にして、1944年に、エンジンをフランス製 ルノー 12S-00 空冷 倒立V型12気筒エンジン、440 kW (590 hp)に換装した。後方にはPBYカタリナ飛行艇水陸両用型が見える。
SNCAC NC.701 Martinet, French AF, North Africa, 1944 03600045 Jack D. Canary Special Collection Photo Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968. COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Martinet is a Siebel Si-204 with French Renault Snecma 12S engines Post war version (service: late 1945) 
写真は,SDASM Archives 引用。

1940年6月にドイツに降伏、占領されたフランスのブールジュで、SNCACはドイツ空軍用のジーベル(Siebel)Si 204連絡機の生産を命じられ、1942年から1944年7月の解放までに168機を生産した。そして、再び主権を取り戻したフランスでも、Si204は生産を続行することになり、新たにNC.700と命名された。そして、NC.700の試作1号機は、ジーベル(Siebel)Si 204のドイツ製アルグス As 411エンジンをフランス製ルノー 12S-00エンジンに換装し完成した。

1940年6月にドイツに降伏、占領されたフランスのブールジュで、SNCACはドイツ空軍用のジーベル(Siebel)Si 204連絡機の生産を命じられ、1942年から1944年7月の解放までに168機を生産した。そして、再び主権を取り戻したフランスでも、Si204は生産を続行することになり、新たにNC.700と命名された。そして、NC.700の試作1号機は、ジーベル(Siebel)Si 204のドイツ製アルグス As 411エンジンをフランス製ルノー 12S-00エンジンに換装し完成した。


⇒写真集Album:ジーベル(Siebel)Si 204連絡機・練習機を見る。


4.アエロ(Aero)C-3A 連絡機/練習機


写真(右)2012年7月,チェコ、博物館の格納庫ハンガーに展示されているチェコ製アエロ(Aero)C-3A双発連絡機 (NC-702) 'LB-05':ドイツ、ハレ (Halle)のジーベル社工場で製造されていたジーベル(Siebel)Si 204 D-1双発輸送機を、1943年3月からドイツ保護領ボヘミア・モラビア(Protectorate of Bohemia and Moravia)、すなわち現在のチェコで生産し、戦後も引き続きアエロ(Aero)C-3Aと命名されて生産が継続された。ソリッド化された機首ではなく、全面ガラス風防段無し機首である。戦時中350機が生産された。
Description The C-3A was a copy of the WW2 German Siebel Si-204. This is actually a French built Nord NC-702, again based on an Si-204. msn 350. On display in the Post War Hangar, Kbely Museum, Czech Republic. 07-10-2012 Date 7 October 2012, 10:21 Source Aero C-3A (NC-702) 'LB-05' Author Alan Wilson
写真は Wikimedia Commons, Category:Aero C-3A at Prague Aviation Museum File:Aero C-3A (NC-702) LB-05 (8248618342).jpg引用。


⇒写真集Album:アエロ(Aero)C-3A 連絡機を見る。


5.フォッケウルフFw-189ウーフー(ふくろう)近距離偵察機

写真(右)1941年、低空飛行するドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 189V1近距離偵察機試作1号機(D-OPVN):この写真は戦時中にドイツ空軍機が飛行しているように見えるが、実際は、イギリスが刊行した戦時教本ともいえるH J Cooper, O G Thetford and D A. Russell(1941) Aircraft of the Fighting Powers Vol II Harborough Publishing Co, Leicester, England に掲載した戦前のドイツ試作機の写真を上書きしたものである。ドイツの国籍マークの鉄十字も大きさが小さすぎており、正確ではない。アルグスAs 410A空冷12気筒エンジン 465 hp が駆動しており、2翅プロペラが回転している。
Focke-Wulf Fw 189 Catalog #: 00079300 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 189 Official Nickname: Uhu (owl) Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives 引用。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189の諸元
全長: 12.02 m
全幅: 18.39 m
全高: 3.10 m
翼面積: 38.00 m2 全備重量: 3,945 kg
自重: 2,800 kg
発動機: アルグス As 410A-1 空冷12気筒 465 hp × 2
最高速力: 349 km/h(2600 m)
上昇限度: 7300 m
航続距離: 670 km
兵装
7.92 mm機関銃 × 4
爆弾 200 kg
乗員: 3 名

フォッケウルフFw-189偵察機を見る。


6.アラド(Arado)Ar 96高等練習機

写真(右)1939年9月-1940年,第二次世界大戦初期、編隊飛行するアラド(Arado)Ar 96高等練習機(BI-AP):Fw 58双発練習機と同じ発動機アルグス(Argus)As 410空冷倒立8気筒エンジン1基を搭載した単発機操縦用の高等練習機。 ドイツの国籍マークが白縁の付いた目立つスワスチカ(鍵十字)と鉄十字なので、大戦前半の撮影になる。
Deutsch: Arado Ar 96 A mit 1 × Argus As 10C, 240 PS, (BI + AP), FFS und Standort/Flugplatz unbekannt. Flugschüler vermutlich Uffz Fritz Metzler(*) aus Bad Mergentheim, Baden-Württemberg, ca. 1939-40. Am Bildrand, links, sind Kesselwagen auf einem Abstellgleis der Flugplatzbahn zu erkennen, mit denen zuvor Flugbenzin (u.a.) angeliefert worden war. Ein Beispiel dafür, wie nahe die Flugplatzbahnen an die Flugfelder herangeführt wurden. Auf dem südöstlichen Areal des Flugplatzes Giebelstadt existierte ebenfalls ein von der Flugplatzbahn "Gaukönigshofen-Wolkshausen-Flugplatz Giebelstadt" nach Osten abzweigendes Stichgleis für die Versorgung des Treibstoffdepots. Diese Bahn, und das Depot wurde auch nach 1945 von der US Air Force bis ca. 1960 weiter betrieben. Der Eisenbahn-Gütertransport wurde je nach Bedarf von der USAF bei der DB angefordert. Die DB musste hierfür auch stärkere Lokomotiven auf die Strecke bringen, u. a. die Dampflok-Baureihe 86 der DR/DB ist für die Flugplatzbahn nach Giebelstadt nachgewiesen, sowie für 1944 im Rahmen der Bauarbeiten zur Verlängerung der Startbahn die DR-Baureihe 75 252 (Badische VI b)Author W-R-Hesse-Fotos
写真はWikimedia Commons,Category:Arado Ar 96 File:Arado Ar 96 A, 'BI+AP', FFS unbekannt, ca. 1940.jpg引用。


アラド(Arado)Ar 96高等練習機試作機は、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 双発練習機と同じく1938年に初飛行し、1939年から第二次大戦中に2891機が量産された。また、フランスでのアラド(Arado)Ar 96高等練習機生産も開始されたが、1944年6月の西側連合国軍の欧州侵攻で頓挫し、現在のチェコスロバキア、同時のドイツ隷下保護領ベーメン・メーレン保護領ボヘミア・モラビアProtektorat Böhmen und Mähren)で生産が続行された。

写真(右)1939年9月以降,第二次世界大戦中、編隊飛行するアラド(Arado)Ar 96高等練習機(86と89):Fw 58双発練習機と同じ発動機アルグス(Argus)As 410空冷倒立8気筒エンジン1基を搭載した単発機操縦用の高等練習機。 ドイツの国籍マークが白縁の付いた目立つスワスチカ(鍵十字)と鉄十字なので、大戦前半の撮影になる。
Description Deutsch: Arado Ar 96 B, Schulflugzeug der Luftwaffe (1939-1945) mit 1x Argus As 410 A-1 luftgekühlter hängender 60°-Zwölfzylinder-V-Motor. English: Arado Ar 96 B, Luftwaffe standard advanced trainer with 1x Argus As 410 engine. Date Unknown date Source http://www.nationalmuseum.af.mil; gallery; exact source for image 090211-F-1234S-001 Author U.S. Air Force photo Permission (Reusing this file) Public domain This image or file is a work of a U.S. Air Force Airman or employee
写真はWikimedia Commons,Category:Arado Ar 96 File:Arado Ar-96.jpg引用。


アラド(Arado)Ar 96高等練習機は、全金属製、単葉低翼、引込み式降着装置、密閉式コックピットを採用した近代的な高等練習機で、Bf109、Fw190戦闘機のような高速機で激しい運動をする単発飛行機に有用な練習機だった。1938年に初飛行したのも、既に存在していた高速戦闘機のための練習機として必要だったからである。

写真(右)2007年11月,ドイツ、ベルリン、ドイツ技術博物館 (Deutsches Technikmuseum)に展示されているアラド(Arado)Ar 96 B-1高等練習機の機首:Fw 58双発練習機と同じ発動機アルグス(Argus)As 410空冷倒立8気筒エンジン(340 hp)1基を搭載しているが、これは1943年に当時のドイツ保護領(現在のチェコ)、アビア社(Avia AG)プラハ工場で製造された。
Description Deutsch: Arado Ar 96 B-1, Avia AG, Prag, Baujahr 1943, Motor 410a (340 PS) English: Arado Ar 96 B-1, Avia AG, Prague, year of manufacture 1943, motor 410a (340 hp) German Museum of Technology Blue pencil.svg wikidata:Q706530 Date 1 November 2007 Source Own work Author Aconcagua Permission (Reusing this file) GFDL, Cc-by-sa-3.0
写真はWikimedia Commons,Category:Arado Ar-96 at Deutsches Technikmuseum Berlin File:Arado Ar 96.jpg引用。


しかし、アラド(Arado)Ar 96高等練習機試作生産が本格化したのは、第二次世界大戦が勃発した後、1940年代中ごろからである。しかし、このころにはアラド社は、第一千機の委託生産に忙しかったために、アラド社でのアラド(Arado)Ar 96練習機の生産は224機で打ち切られた。その代わり、ドイツイカプローニ(Caproni)Ca.310保護領ベーメン・メーレン(現在のチェコ)のレトフ(Letov)とアビア(Avia)で委託生産され、各々生産550機、1825機を量産している。は前期型はAGO社で、後期型はチェコのレトフ社とアヴィア社で行われ、戦後もC-2という名称で数年間続けられた。合計1万1,000機以上製造されている。結局、第二次大戦終戦までに、ドイツとその隷下ドイツ隷下保護領ベーメン・メーレン保護領ボヘミア・モラビアProtektorat Böhmen und Mähren)では、アラド(Arado)Ar 96練習機は合計2890機が量産されている。

写真(右)2014年11月,ドイツ、ベルリン、ドイツ技術博物館 (Deutsches Technikmuseum)に展示されているアラド(Arado)Ar 96 B-1高等練習機の機首:Fw 58双発練習機と同じ発動機アルグス(Argus)As 410空冷倒立8気筒エンジン(340 hp)1基を搭載しているが、これは1943年に当時のドイツ保護領(現在のチェコ)、アビア社(Avia AG)プラハ工場で製造された。
English: The Deutsches Technikmuseum Berlin is a museum of general technology, ships, planes, cars and rail Date 28 November 2014, 15:43:25 Source Own work Author © Ra Boe / Wikipedia Permission (Reusing this file) raboe001-at-web.de -- Ra Boe watt?? 16:32, 9 September 2016 (UTC)
写真はWikimedia Commons,Category:Arado Ar-96 at Deutsches Technikmuseum Berlin File:Arado Ar 96.jpg引用。


アラド(Arado)Ar 96 B-2高等練習機の諸元
全幅: 11.0 m
全長: 9.13 m
全高: 2.6 m
主翼面積: 17.1 m2
機体重量: 1,695 kg
発動機: アルグス(Argus)As 410A-1空冷倒立V型12気筒エンジン465 PS (459 hp: 342 kW)1基
プロペラ:2翅可変ピッチ金属製プロペラ
最高速力: 330 km/h
航続距離: 990 km
武装
7.92mm MG17前方固定機関銃1挺
乗員: 2名


7.四発偵察機ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142

写真(右)1938年10月以降,ドイツ、舗装滑走路でエンジンを駆動するブロム=フォスBV-142輸送機:ドイツ・ルフトハンザ(Lufthansa)航空で大西洋横断郵便事業用に開発された長距離機で、双尾翼式で、主翼は軽い逆ガル構造。発動機はユンカースJu-52/3mと同じBMW 132H空冷星型9気筒エンジン655 kW (880 hp)4基を搭載。ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142試作機は、V1, V2, V3,V4の4機が完成、1938年10月11日に初飛行。しかし、第二次大戦が勃発し、量産はされなかった。
Blohm & Voss BV-142 Catalog #: 00075863_Blohm & VossDesignation_ BV-142
写真は,SDASM Archives引用。


写真(右)1938年10月以降,ドイツ、飛行中に着陸態勢に入ったブロム=フォスBV-142輸送機:フラップが下がって、降下姿勢にあることがわかる。ドイツ・ルフトハンザ(Lufthansa)航空で短期間、ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142を航空便輸送に使用したが、1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発し、民間輸送機としての開発は中止になった。
Blohm & Voss BV-142 Catalog #: 00075864 Manufacturer: Blohm & Voss Designation: BV-142
写真は,SDASM Archives引用。


写真(右)1940年頃,ドイツ、舗装飛行場に待機するドイツ・ルフトハンザ(Lufthansa)航空ブロム=フォスBV-142輸送機「カルトル」"KASTOR" (製造番号c/n 219, 登録コード D-ABUV):ドイツ・ルフトハンザ航空用の民間航空便輸送機で、ダブルタイヤの引込み式ゴム主輪、BMW空冷星形9気筒エンジン4基、3翅金属製プロペラ、しかし、ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142は、期待されたほど性能を発揮できず、哨戒機としても量産はされなかった。
Blohm & Voss BV-142 Catalog #: 00075865 Manufacturer: Blohm & Voss Designation: BV-142
写真は,SDASM Archives引用。


ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142V3 とV4は、占領したデンマークを基地として、特別任務部隊KGr.(Kampfgruppe)z.b.V. 105にユンカース(Junkers)G 38巨人輸送機とともに配備され、フル装備の兵士30名を4,000 km (2,490 mi)運び、ノルウェー侵攻に参加した。しかし、ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142V3 とV4はの最後はわかっていない。のちに試作1号機V1と試作2号機V2は、ヘンシェル(Henschel)GT 1200C誘導魚雷を搭載する計画があったが、これは実現困難と判断され、計画はキャンセルとなった。

写真(右)1940年頃,ドイツ、舗装飛行場に待機するドイツ空軍ブロム=フォスBV 142 V2/U1偵察機:ドイツ・ルフトハンザ航空用の民間機を改造、兵装を施して、最高速力375 km/h、航続距離3,900 kmの長距離海上哨戒機として、大西洋上の哨戒任務に就いた。しかし、ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142は期待されたほど性能を発揮できず、哨戒機としても量産はされなかった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43933124 - Catalog:16_005058 - Title:Blohm & Voss Bv 142V-2 Nowarra photo - Filename:16_005058.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives引用。


ドイツ空軍ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142偵察機は、防御用火力として 7.92 mm MG 15旋回機関銃を機首に1挺、後上方に左右各1挺合計2挺、下方1挺、後上方動力回転銃座2挺 を装備した。

写真(右)1940年10月,フランス,待機整備中のブロム=フォスBV 142 V2/U1偵察機:試作としてV1, V2, V3,V4の4機のみ生産され,郵便配達に使用されていたが,第二次大戦の勃発によって,民間機としての開発は中止となった。
Frankreich.- Feldflugplatz, Wartung eines Flugzeugs Blohm & Voss BV 142; KBK Lw5 Dating: Oktober 1940 Photographer: Ritter撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ブロム=フォスBV-142諸元
全長: 20.5メートル,全幅: 29.5メートル,翼面積: 130平方メートル
自量: 1.1トン,全備重量 1.65トン,乗員5人
エンジン BMWS132空冷 9気筒 880馬力4基,燃料: 6560リットル
最高時速: 375キロ,巡航速度: 325キロ,航続距離: 3,900キロ
実用上昇限度: 9,000 メートル,上昇率: 6.70メートル/秒
武装:7.92ミリMG15機銃5丁,爆弾:100キロ爆弾4発または50キロ爆弾8発
1938年10月初飛行,試作4機のみ生産


8.カプローニ(Caproni)Ca.310 リベッチオ(Libeccio:南西風)軽爆撃機

写真(右)1939年,ノルウェー、イタリアからノルウェーに輸出されたカプローニ(Caproni)Ca.310リベッチオ(Libeccio:南西風)軽爆撃機(登録コード:LN-DAK)"Brevduen"
Åpen plass, ant. lufthavn. ett fly på bakken, Caproni Ca 310, LN-DAK, "Brevduen". Flere personer, mekanikere arbeider med flyet. Høyre motor henger i en heiseanordning foran flyet.
Date: start=1939-01-01;end=1939-01-01
Institution: Norsk Luftfartsmuseum Provider: Arts Council Norway Providing Country: Norway First Published In Europeana: 2014-03-26
Is Part Of: Norsk Luftfartsmuseum Dataset: 2022608_Ag_NO_ELocal_DiMu References: 97010391 (Foto-nummer)
写真は, European Union Europeana Identifier: LMU/NL.97010391引用。


第二次世界大戦勃発直後の1939年12月22日に中立国イタリアで初飛行したカプローニ(Caproni)CA 311軽爆撃機は、チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)の設計になる。イソッタ(Isotta Fraschini)デルタ(Delta)R.C.35 I-DS空冷倒立V型エンジン 545 kW (730 hp)2基搭載、最高速力430 km/h (268 mph, 233 kn)、航続距離 1,700 km (1,050 mi, 910 nmi)、実用上昇限度 8,500 m (27,880 ft)、7.7ミリ(.303 in) ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃3丁、爆弾搭載量 400 kg (882 lb)。機体後上方に銃座のように2本のアンテナ支柱が装備されている。生産機数 271機。

写真(右)1939年頃,ノルウェー、飛行場の格納庫、イタリアからノルウェーに輸出されたカプローニ(Caproni)Ca.310リベッチオ(Libeccio:南西風)軽爆撃機(登録コード:LN-DAK) "Brevduen"
Lufthavn Lufthavn, 1 fly på bakken, Caproni (monoplan) Ca.310, LN-DAK, eier Kjeller Flyfabrikk - Leier D.N.L.
Institution: Norsk Luftfartsmuseum Provider: Arts Council Norway Providing Country: Norway First Published In Europeana: 2014-03-26
Is Part Of: Norsk Luftfartsmuseum Dataset: 2022608_Ag_NO_ELocal_DiMu References: 99180044 (Foto-nummer)
写真は, European Union Europeana Identifier: LMU/NL.99180044引用。


ノルウェーにもカプロニCa.310リベッチオ軽爆撃機が水産加工品とのバーター交易として交換されたが、ノルウェーは、カプロニCa.310が所定の性能に達していない苦情を申し出たため、その後、より強力なエンジンに換装したカプロニCa.312が12機送られることになったが、1940年6月のドイツのノルウェー侵攻によって実現しなかった。

  浮いたカプロニCa.310リベッチオ軽爆撃機は、イギリス空軍が購入を希望したが、1940年6月にイタリアがドイツ側に立って第二次世界大戦に参戦したために、これも実現しなかった。第二次大戦では、イタリア空軍は、カプロニCa.310リベッチオ軽爆撃機を北アフリカのイタリア領リビアで偵察機として使用した。

⇒写真集Album:カプローニ(Caproni)Ca.310軽爆撃機を見る。


9.カプローニ(Caproni)Ca.311偵察爆撃機


写真(上)1940年6月以降,イタリア空軍カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃機(段有り機首ガラス風防)胴体の7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃座
(16099番);機首下面に前方固定7.7ミリ機関銃、コックピット後上方に回転銃塔、胴体下面後下方銃座の3か所がある。 写真は, AEROPLANI CAPRONI, MILANO Aeroplano CAPRONI 311 -V Serie 2 MOTORI P.VII C.35 MINISTERO DELL'AERONAUTICA [航空省] MILANO 1941引用。


図(上)1940年6月以降,イタリア空軍カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃機(段有り機首ガラス風防)胴体の7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃座
(16099番);機首下面に前方固定7.7ミリ機関銃、コックピット後上方に回転銃塔、胴体下面後下方銃座の3か所がある。 図は, AEROPLANI CAPRONI, MILANO Aeroplano CAPRONI 311 -V Serie 2 MOTORI P.VII C.35 MINISTERO DELL'AERONAUTICA [航空省] MILANO 1941引用。

イタリア爆撃機カプローニCA311 イタリア空軍カプローニ Ca311軽爆撃機(Caproni Ca 311)の諸元
1939年4月1日初飛行
Ca.310/Ca311/Ca312/Ca313の一連のカプローニ小型偵察爆撃機発展型がある。
生産機数:1943年までに335機を量産
最高速力:350km/h
航続距離:1600km
爆弾搭載量:400kg
近距離偵察や船団護衛のような後方の偵察哨戒任務には便利だった。
クロアチア、ハンガリー、ユーゴスラビアに輸出された。


図(上)1940年6月以降,イタリア空軍カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃機の構造図(段無し機首ガラス風防)

図は, Caproni Ca. 311 a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。


カプローニCa311 カプロニ(Canproni)Ca.311は、1939年4月1日に初飛行したCa.311は、1939年から部隊に配備された。 全長 11.74 m、全高 3.69 m、全幅 16.2 m、主翼面積 38.4 m2、空虚重量 3,460 kg、最大離昇重量 4,822 kg)で、アメリカ陸軍リパブリックP-47サンダーボルト戦闘機よりも若干大きいが、重量はより軽量である。総生産機数は335機。

⇒写真集Album:カプローニ(Caproni) Ca311偵察爆撃機を見る。


10.カプローニ(Caproni)Ca.313偵察爆撃機

写真(右)1940年6月以前,イタリアが第二次世界大戦に参戦する前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)CA 313偵察爆撃機:>:
Caproni Ca 313 Manufacturer: Caproni
Designation: Ca 313
写真は, SDASM Archives Catalog #: 00076699引用。


イタリア空軍の国籍記章は、垂直尾翼にあるイタリア三色旗トルコローレ緑白赤の縦縞模様である。しかし、1940年6月の第二次大戦参加以降、白十字の国籍マークに改められた。

1937年2月20日初飛行のカプローニ(Caproni)Ca. 310軽爆撃機の発展型が、Ca. 311偵察爆撃機で、同じチェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)技師の設計になり、第二次世界大戦勃発5か月前、1939年4月1日初飛行、1939年8月部隊配備。生産機数は 335機である。そして、Ca.311発展型がCa.313偵察爆撃機である。

イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.313軽爆撃機は、チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)の設計になり、第二次世界大戦勃発3か月後、1938年12月7日初飛行、1940年から部隊配備。総生産機数は271機である。

写真(右)1941年-1944年頃,イタリア、舗装飛行場に駐機しているイタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.313軽爆撃機(斜め前方より撮影):機首はコックピットと一体化して前面ガラス風防で覆われているので、視界が良さそうだ。このような全面ガラス風防は、ドイツ空軍のハインケルHe111P型、ドルニエDo-217E型が採用しているが、居住性と操作性にも優れている。問題は、敵戦闘機の攻撃を受けた際の防御力の弱さである。
Trasporti aerei - Aereo militare - Caproni Ca. 313 - Bimotore monoplano ad ala bassa - Vista laterale Dotti & Bernini Autore: Dotti & Bernini (notizie prima metà sec. XX) Luogo e data della ripresa: Italia, 1941 - 1945 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 18 x 24
Note: L'immagine era inserita in un album recante l'iscrizione "Trasporti terra mare cielo".
写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Centro per la cultura d'impresa, fondo Edison, EDS_478_095 引用。


カプロニ(Canproni)Ca.311は、1939年4月1日に初飛行し1939年から部隊に配備され、総生産機数は335機である。他方、エンジンを換装したカプロニ(Canproni)Ca.313は、1939年12月22日に初飛行し、1940年から舞台に配備され、総生産機数は271機である。両機は、発動機が空冷星形エンジンか、空冷倒立V型エンジンかが異なるが、形状も性能もあまり差異はなく、別記というより、改良型であり、ドイツや日本であれば、同名の改良形式で区分する程度であろう。

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11.カプローニ(Caproni)Ca314偵察爆撃機


図(上)イタリア、カプロニ(Canproni)Ca.314偵察爆撃機(段有り機首ガラス風防)三面図

Caproni Ca. 314 versioni A - B - C a cura di Riccardo TROTTA e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio掲載。
写真は, MINISTERO DELL'AERONAUTICA [航空省] ROMA Aeroplano Caproni 314 - 2 MOTORI I.F. DELTA Rc.35 I./D.S. ISTRUZIONE PER L'USO DELL' AEROPLANO, RELAZIONE TECNICA(発行年不詳)引用。


カプローニCa314 カプローニ(Caproni)CA 314の機体の発動機は、Ca.313と同じイソッタ・フラスキーニ(Isotta-Fraschini)デルタ(Delta )R.C.35 I-DS倒立空冷V型12気筒空冷エンジン 545 kW (730 hp) 2基装備、最高速力 430 km/h (268 mph, 233 kn)、航続距離 1,700 km (1,050 mi, 910 nmi)、実用上昇限度 8,500 m (27,880 ft)。高性能とは言えないが、少ない経費で271機が量産された。

⇒写真集Album:カプローニ(Caproni) Ca314偵察爆撃機を見る。


12.ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;二人とも元帥なので、会話の最中でも元帥杖を誇らしげに手にしたまま話そうとしない。ヒトラー内閣が、1933年1月30日に樹立されたときに、ナチ党の閣僚として入閣した3人のうちの一人で、プロイセン州内務大臣に加えて、無任所相ゲーリングとなった。しかし、ゲーリングは第一党ナチ党の閣僚として、国会議長に就任し、その後の全権委任法による一党独裁、ユダヤ人資産の掠奪・アーリア化、再軍備、ドイツ周辺の併合に大きな役割を果たした。最新の航空戦術や飛行機技術については、不十分な知識しか持たず、関心も低かったため、バトルオブブリテン以降は、ドイツ空軍高級将校からは無能扱いされることもあった。
ドイツ同盟国として、1941年6月25日から1944年9月19日にかけてソ連に侵攻し「継続戦争」を戦ったフィンランド軍の最高司令官カール・マンネルハイム元帥は、1942年6月、ドイツ空軍のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機にのって、ドイツ、東プロイセン州のナチス・ドイツ独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた。その後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。しかし、1944年9月19日にモスクワで、ソ連・イギリスに降伏して、フィンランド国内の残っていたドイツ軍を駆逐するために、1944年9月20日から1945年4月にかけて、ドイツと「ラップランド戦争」を始めた。ドイツは、フィンランドの裏切りを予期していたが、もはやドイツ本土に危機が迫っており、フィンランドに兵力を残置して置く意味はなくなっていた。
"Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Institution
写真は Museo Finna: sa-kuva-13048引用。


HermannGoering書籍 ゲーリングの経歴:
ドイツ帝国外交官を父とする上流階級に誕生、恵まれたな子供時代を過ごし、1905年、カールスルーエの幼年士官学校に入学、卒業後、1909年に士官学校Staff College)に入学して、1911年5月13日、士官候補生。第一次大戦の始まる直前の1914年1月20日、陸軍少尉として歩兵部隊に配属。第一次大戦中の1916年8月18日、中尉。

第一次世界大戦の緒戦では 歩兵として戦ったが、10月からドイツ陸軍航空隊へ移動、当初は偵察員、1915年からは、戦闘機パイロットとして西部戦線で戦い22機を撃墜。敗戦直前、1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章のプール・ル・メリット勲章Pour-le-Merite)を授与された。ヘルマン・ゲーリングは、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンManfred von Richthofen)が率いていた戦闘機大隊指揮官として半年後に敗戦を迎えた。

1920年6月8日、名誉階級大尉、1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。

1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将
1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥
1940年7月19日、国家元帥。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。
1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥 1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将。
"Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Institution
写真は Museo Finna: sa-kuva-13138引用。


Goering書籍 ドイツ空軍総司令官 ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は、戦争中盤以降、空の戦いで敗北を続け、権威を失っており、戦争後半以降、戦争指導にほとんど参加していない。1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会でヒトラーは「私が倒れたらゲーリングが続く」と演説をしていた。

1945年4月23日、ベルリン攻防戦が始まり、ヒトラーとの連絡が確保できなくなる危険な状況で、ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は、1941年6月29日にヒトラーが公布したゲーリングを総統の後継者とした法令に基づいて、指揮権継承を電文で問い合わせた。ヒトラーは、これをゲーリングの裏切りとみなし、激怒、ゲーリングを公職から追放し、監禁することを命じた。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」

日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
VI号ティーガー重戦車
ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
V号パンター戦車
ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車

イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
イギリス陸軍コメット巡航戦車

アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
ピアジオP.108重爆撃機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機


当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
2022年12月13日開設の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
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東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
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