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石川啄木を巡る社会主義/戦争 2007
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◆石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件

浮世絵(上)1895年、日清戦争に勝利し、凱旋し東京に帰還した明治大帝「凱旋新橋ステーション御着之図 」小林清親(1847-1915)作
: Metropolitan Museum of Art所蔵。
Artist Kobayashi Kiyochika (1847–1915) Blue pencil. Title 凱旋新橋ステーション御着之図 Description Japan; Print; Prints Date 1895 Medium Triptych of polychrome woodblock prints; ink and color on paper Dimensions Each panel: 14 1/4 x 9 1/2 in. (36.2 x 24.1 cm) Collection Metropolitan Museum of Art Blue pencil.svg wikidata:Q160236 Current location Asian Art Accession number JP3258 Credit line Gift of Lincoln Kirstein, 1959
写真は、Wikimedia Commons, Category:Sensō-e by Kobayashi Kiyochika File:凱旋新橋ステーション御着之図-Illustration of the Arrival of the Emperor at Shinbashi Station Following a Victory (Gaisen Shinbashi stēshon gochaku no zu) MET DP147664.jpg引用。



写真(上)1904年、日露戦争中の朝鮮半島、平城(ピョンヤン)から鴨緑江(ヤール―ジャン)を超える馬匹を使った日本陸軍の輜重(補給)部隊
:雨除けのためか、積み荷を筵(むしろ)で覆っている。朝鮮半島内なのか、朝鮮の衣装を着た民間人が眺めている。前線の日本軍に届ける補給物資は、広島の宇品港から積み出された様だ。
English: Japanese Pontoon train moving to Yalu River from Ping-Yang. Pontoons were built in Hiroshima before the outbreak of the Russo-Japanese War in 1904 in preparation for crossing the Yalu River. The sections were later transported via horse teams. Date between 1904 and 1905 Source P.F. Collier, The Russo-Japanese War, 1905, pg 59. Author P.F. Collier, digitized by Google Books.
写真は、Wikimedia Commons, Category:Russo-Japanese War in 1904 File:Japanese pontoon train during Russo-Japanese War.jpg引用。



写真(上)1905年、日露戦争中、ロシア帝国、極東に対日戦に出征するロシア軍兵士を見送るロシア帝国ロマノフ朝第14代皇帝(ツァーリ)ニコライ2世(Tzar Nicholas II)
:兵士たちは膝をついて皇帝を迎えている。
English: Russian Tzar Nicholas II riding along his troops, Russo-Japanese War. Español: El último zar ruso, Nicolás II, cabalgando ante sus tropas durante la Guerra Ruso-Japonesa. Date 1905 Source https://www.flickr.com/photos/99377981@N03/14940228318/ http://avaxnews.net/educative/Last_Emperor_Of_Russia_2.html (direct link) Grosser Bilderatlas des Weltkrieges; Bruckmann, F. Author Karl Bulla (1855–1929)
写真は、Wikimedia Commons, Category:Russo-Japanese War in 1904 File:Japanese pontoon train during Russo-Japanese War.jpg引用。


絵葉書(右)日露戦争の日本軍がロシア巨人に馬乗りになった風刺絵はがき:MIT Visualizing Cultures引用。色つきの斬新なデザインの安価な絵葉書が出回ったことで,浮世絵戦争版画は徐々に駆逐された。日露戦争後,完全に絵葉書に取って代った。

日本の文化人と戦争:戦争賛美と反戦
中世の戦争:ボッシュ・ブリューゲル
与謝野晶子を巡る戦争文学:君死にたまふことなかれ
戦争記録画と藤田嗣治:玉砕戦の神話
魯迅の日本留学と戦争:日清戦争と日露戦争 A>
青空文庫:著者没後50年で著作権の消滅した昭和初期までの作品
マサチューセッツ工科大学美ビジュアリング:MIT Visualizing Cultures
国立国会図書館デジタルライブラリー 革命文芸雑考3 明日への考察 啄木の遺産<1>甲斐与志夫
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石川啄木論 ―「うたごころ」で読む短歌―01E1103019G 橋本恵美
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第9章 啄木と多喜二
石川啄木 エッセイ・その他(発表年順)
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啄木勉強ノート
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◆本webは,石川啄木・芥川龍之介の文学評価ではありません。日清戦争・日露戦争から日中戦争までの日本の戦争の枠組みで,文人たちの戦争感を比較,検討したものです。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日中戦争も詳述しました。ここでは,帝国主義,日露戦争も分析しました。
【戦争文学Link】【与謝野晶子Link】/【中国共産党の本】/【魯迅Link】/【沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献】/【太平洋戦争の文献


1.日清戦争の発端は,朝鮮半島を巡る日本と中国清朝の対立だった。日清戦争に勝利した日本は,台湾,澎湖諸島を領有し,朝鮮半島を勢力圏に置いた。日本も帝国主義諸国の仲間入りを果たした。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「大日本帝国万々歳 平壌激戦大勝利」MIT Visualizing Cultures引用。1894年9月,水野としたか,秋山武衛門作。Mizuno Toshikata Akiyama Buemon Ban Banzai for Great Imperial Japan: a Great Victory at Pyongyang after a Hard Fight (Dai Nippon Teikoku ban-banzai, Heijô gekisen daishô no zu) Ukiyo-e print 1894 (Meiji 27), September Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 36 x 74 cm (14 3/16 x 29 1/8 in.)夜間攻撃(夜襲)をかける日本陸軍の歩兵部隊は,黒タスキをかけて目印にしたのか。

朝鮮半島の李氏朝鮮は1392年に建国し500年以上続いた由緒ある王朝だった。李成桂は1393年に中国明朝から「権知朝鮮国事」として朝鮮王に封ぜられて国号を朝鮮と定めた。これは,朝鮮半島が,中国に服属する冊封体制に入ったことを意味した。

1592年の文禄の役では,豊臣秀吉の派遣した日本軍に国土を制圧された。しかし,占領地では抗日活動が起こり,義兵による武装抵抗がおこった。さらに,明の遠征軍が朝鮮半島に派遣され,日本と明は休戦した。
1597年、日本は再び朝鮮半島へ出兵して,慶長の役が起こったが,秀吉の死去に伴って,日本軍は撤兵した。朝鮮半島に画帰国軍隊が出現するのは,1845-46年英仏海軍が来朝したときである。

1894年5月、東学党と呼ばれたナショナリストたちが,攘夷を唱え,民生を安定することを求め,甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発した。李王朝は反乱鎮圧のため清国に派兵を要請した。清朝は日本に朝鮮派兵を通知した。日本も,公使館と在留邦人保護を理由に派兵した。

日清露戦争の浮世絵(右)「平壌夜戦我兵大勝利」MIT Visualizing Cultures引用。1894年9月。日清戦争の主な戦場は,朝鮮半島だった。Kobayashi Toshimitsu Fukuda Kumajirô Our Army's Great Victory at the Night Battle of Pyongyang (Heijô yasen wagahei daishôri) Ukiyo-e print 1894 (Meiji 27), September Woodblock print (nishiki-e); ink, color and silver on paper Vertical ôban triptych; 37.1 x 74.3 cm (14 5/8 x 29 1/4 in.)

李王朝は,甲午農民戦争の鎮圧後,日清両軍の撤兵を要請したが、日清両軍とも駐屯を続けた。日本は、自国の安全を保つために、朝鮮の中立を望むと主張した。そして,李王朝は、官僚腐敗と国土の荒廃、清国・ロシアの脅威で国家主権の保持は危ういと決め付けて,もはや国家の独立を維持するだけの国力を保持していないと,日本の勢力圏の下におくことを正当化した。こうして,日本と清朝の間のバランスをとった外交を展開していた李氏朝鮮は,窮地に立たされた。

閔妃は,日本の勢力を牽制するためにロシアに接近した。しかし、朝鮮にいた日本人の三浦梧楼公使は、宮廷の反日勢力を排除するため,王妃殺害を計画し,1895年,日本人浪士・警察官などを使って、朝鮮の親日派の協力の下で、テロによって閔妃が殺害した。王の高宗は,1896年、日本軍と組んだ宮廷の親日派勢力を恐れて、ロシア領事館に亡命した。しかし,国王のこの臆病ともいえる行動によって,王朝の権威は失墜し、外国勢力の内政干渉が激化した。 

日本は朝鮮半島を清朝の勢力を排除しようとして,軍事力を背景に、李氏朝鮮に親日政府を組織させた。清朝の李氏朝鮮への影響力排除を,朝鮮半島の中立・独立を大義名分に,推し進めようとしたのである。清は,李王朝の宗主国として,日本の介入を許さず,日中の対立が激化した。 

日清露戦争の浮世絵(右)「海洋島沖日艦大勝利」MIT Visualizing Cultures引用。1894年10月1日,中村しゅこう,関口まさじろう作。9月16日,日本海軍の連合艦隊は,豊島沖を出港、翌17日,海洋島に煤煙をあげる清国艦隊を発見。連合艦隊旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊旗艦「定遠」以下14隻と交戦した。これが,日清戦争の最大の海戦「黄海の海戦」である。日本艦は損傷4隻,清国艦隊は撃沈5隻,損傷6隻だった。Nakamura Shûkô Sekiguchi Masajirô Great Japanese Naval Victory off Haiyang Island (Kaiyôtô oki nikkan dai-shôri) Ukiyo-e print 1894 (Meiji 27), October 1 Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 35.5 x 72.3 cm

1894年7月,日清戦争が勃発,宣戦布告は9月だった。日本陸軍は,9月中に平壌を攻略、黄海海戦で清朝艦隊を撃滅した。連合艦隊司令長官伊藤祐亨中将率いる旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊は丁女昌提督率いる旗艦「定遠」以下14隻と黄海の海戦を戦った。日本艦は損傷4隻で,清国艦5隻を撃沈,6隻を破損させ勝利した。
制海権を握った日本は,朝鮮半島だけではなく,中国大陸にも陸軍兵力を輸送船で運搬することが可能になった。 

日本軍は,朝鮮半島を超えて,11月,中国の遼東半島の旅順・大連を攻略した。1895年3月には,下関講和中だったにもかかわらず,日本軍は、澎湖諸島を占領し,台湾領有の足がかりを作った。


日清露戦争の浮世絵/錦絵凹版木版画(右)「暴行清兵ヲ斬首スル図」MIT Visualizing Cultures引用
。1894年(明治27年)10月。「我軍隊は正義慈仁」だが,中国清朝兵士は「病院に闖入し自由ならざる負傷・病者を殺害するが如き」暴虐の限りを尽くした。そこで,捕虜とした後,「暴兵を引き出し止むを得ず三十八名を」(面前に?)斬首処刑した。生き残ることを許された「俘虜は感涙して我帝国軍隊の仁義慈愛に心服せしめた」。Utagawa Kokunimasa (Ryûa) Fukuda Hatsujirô,Illustration of the Decapitation of Violent Chinese Soldiers (Bôkô shihei o zanshu suru zu) Ukiyo-e print,1894 (Meiji 27), October Woodblock print (nishiki-e);35.5 x 72.3 cm ボストン美術館所蔵。

日清戦争における日本軍による清朝兵士捕虜の扱いは過酷だった。日露戦争では,ロシア兵士捕虜は厚遇されたがロシア軍スパイ容疑者(露探)とみされた中国人・韓国人は処刑された。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「我義軍清賤奴 捕虜ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。ボストン美術館所蔵。Museum of Fine Arts, Boston。日露戦争では,日本軍はロシア人捕虜を人道的に処遇したが,日清戦争のときは,中国人捕虜を過酷に処遇した。

日清戦争最中,日本軍は負傷者を襲うような暴虐な清朝兵士を捕虜にした場合,斬首のような厳罰に処した。しかし,戦闘中に降伏した清朝兵士も,その場で「成敗」されることがあった。当時の浮世絵・錦絵には,敵兵を成敗する勇敢な日本軍兵士が,緻密に描かれている。江戸時代には、切腹,斬首,打ち首,磔刑,さらし首が当然のようにおこなわれ、明治時代になっても、これなの処刑が残っていた。そのような人権軽視の時代を生きていた当時の人々にとって、敵兵・捕虜の処刑は,やはり当然のことだったようだ。処刑や敵成敗の浮世絵・錦絵は,現在の感覚では,血潮が飛びちり,日本軍将兵の残虐さが伝わってくる。しかし,当時は,刀で切り合いをすることを尊ぶ武士の世の中の余韻が残っていた時代だった。国際平和も人権尊重の概念もいきわたっていたわけでもなかった。したがって、「勇ましい兵士の活躍」の錦絵に,敵を殲滅する勇敢な日本軍兵士、大活躍する立派な勇士の姿を見ていた。

1895年4月,日本は,日清戦争に勝利し、朝鮮半島での清朝(中国)に対する優越的地位を獲得した。そして,下関条約では,清国は朝鮮の独立を確認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲、賠償金2億両(3億円)、沙市・重慶・蘇州・杭州の開港を認めた。遼東半島の割譲は,即座に独仏露の三国干渉を呼び起こした。5月,日本は,外圧を恐れて,遼東半島を中国に返還した。


浮世絵(上)1894年9月、「日清韓貴顯御肖像」、大判三枚続錦絵、清水泰五郎版、明治27年9月印刷
野津中将、朴泳孝、朝鮮国王、大院君、大鳥公使、明治天皇(無表記)、李鴻章、袁世凱、支那国王、大島少将、金玉均
: 春斎年昌[枝年昌](Utagawa (Shunsai) Toshimasa:1866-1913) 作。
年昌筆「日清韓貴顯御肖像」、大判三枚続錦絵、清水泰五郎版、明治27年9月印刷 。 大英博物館所蔵。
Artist Shunsai Toshimasa (fl. circa 1885–circa 1898) Japanese, Chinese and Korean dignitaries Description 日本語: 昌筆「日清韓貴顯御肖像」、大判三枚続錦絵、清水泰五郎版、明治27年9月印刷 野津中将、朴泳孝、朝鮮国王、大院君、大鳥公使、明治天皇(無表記)、李鴻章、袁世凱、支那国王、大島少将、金玉均 English: Lieutenant General Nozu, Pak Yung-hio, Gojong of Korea, Heungseon Daewongun, Minister Ōtori, Emperor Meiji (No notation), Li Hongzhang, Yuan Shikai, Guangxu Emperor, Major general Ōshima , Kim Ok-gyun Date 日本語: 明治27年出版 Published in 1894 Dimensions Height: 39.6 cm (15.5 in); Width: 76.1 cm (29.9 in)
写真は、Wikimedia Commons, Category:Japanese prints in the Metropolitan Museum of Art File:16126.d.2(84)-Japanese, Chinese and Korean dignitaries.jpg引用。


ロシアは,日清戦争後の1898年3月,旅順,大連の租借権,ハルピン・旅順間の鉄道敷設権を獲得した。首相伊藤博文は,4月,外相西徳二郎にロシア外相のRoman Rosen ロマン・ローゼンと西ローゼン協定を結ばせ,大韓帝国の内政不干渉、大韓帝国の軍事・財政顧問派遣につき事前承認に合意した。日本に放棄させた遼東半島を奪い取ったとして,日本国民はロシアを恨んだ。

日清露戦争の浮世絵木版画(右)「日清両国ノ大官,公命ヲ全フシテ能ク平和ノ局ヲ結ブ」MIT Visualizing Cultures引用。下関条約によって,日本は賠償金のほかに,台湾,遼東半島を領土とし,朝鮮半島を勢力化に組み込んだ。Ogata Gekkô Japanese and Chinese Dignitaries Accomplish Their Missions in Successfully Concluding a Peace Treaty (Nisshin ryôkoku no taikan kômei o mattoshite yoku heiwa no kyoku o musubu) Ukiyo-e print 1895 (Meiji 28) Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych Museum of Fine Arts, Bostonボストン美術館所蔵。

日清戦争後の1895年下関条約によって,清は,朝鮮が独立国であることを認めた。清は,李氏朝鮮からの貢・献上・典礼等を廃止した。これは、当時の朝鮮半島を日本の勢力化におこうと画策した日本外交の成果だった。しかし,李氏朝鮮では,清の冊封体制から離脱した以上,李氏朝鮮を称することは望ましくないと考えられた。1896年,グレゴリオ暦へ改暦し元号を「建陽」と改元した。1897年には,国号を大韓と改め、李氏王朝の王・高宗は,皇帝に即位した。元号は,清の冊封体制にあることを示す清朝皇帝施設の「迎恩門」「大清皇帝功徳碑」を撤去し,「独立門」を作った。

写真(右):1903年、ロシア帝国モスクワ、ロシア風衣装のロシア帝国アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)(Alexandra Feodorovna)とロマノフ朝第14代皇帝(ツァーリ)ニコライ2世(Tsar Nicholas II)アレクサンドラは、1872年、ドイツのヘッセン大公ルートヴィヒ4世とイギリスのヴィクトリア女王の次女アリスの間の四女ヴィクトリア・アリックス(Victoria Alix)として誕生、1894年に結婚。後にグリゴリー・ラスプーチンを宮廷に招いた。ニコライ2世は皇太子時代の1891年4月27日、長崎に上陸し5月19日まで日本に滞在。その間5月11日、人力車に乗って大津から京都へ戻る途中、警備していた津田三蔵巡査によりサーベルで斬りつけられ負傷。1917年3月15日、ロシア革命で退位、1918年7月17日エカテリンブルクで一家銃殺。
Nicholas II of Russia and Alexandra Fyodorovna (Alix of Hesse) in Russian dress Date 1903 Source http://www.forum.alexanderpalace.org Author Original uploader was Crimea Author A. Pasetti, St. Petersburg, created before 1901
写真は、Category:Nicholas II of Russia in 1901 (in photographs):File:Alexandra Fjodorowna and Nicholas II of Russia in Russian dress.3.jpg引用。


1900年,義和団事件では,日本は八カ国連合軍の主力として,陸軍部隊を中国に派遣し,義和団を制圧した。この義和団事件で,ロシアは,敗残兵掃討,租借地・鉄道防衛のために満州に派兵した。1901年9月の北京議定書にもとづいて,各国は,北京占領後,敗残兵掃討を名目に満州に派兵,租借地,鉄道防衛のために,軍を常時駐屯させた。しかし,ロシア軍の満州駐屯は,米国務長官ジョン・ヘイのOpen Door Policy門戸開放宣言(1899年)に反する行動とみなされた。そこで,英米日は,ロシアに撤兵を要求し,元首相伊藤博文は、12月,日露協定の交渉に入ったが,合意はならなかった。

他方,ロシアは、日本の大韓帝国への投資を妨害しないこと、日本は,ロシアが満州を勢力範囲に置くことを認めた。日露両国は,極東の勢力範囲を,その住民や主権者にお構いなく,分割したのである。

1902年1月,日本は,ロシアに対峙するイギリスと日英同盟を結び,独仏を牽制し,ロシアへの軍事支援を抑止した。そして,1903年8月,イギリスの諒解を得て,日本が朝鮮半島を、ロシアが満州を勢力範囲とする日露交渉をしたが,ロシアは,10年来蔵相を務めた不戦派Витте, Сергей Юльевич セルゲイ・ウィッテを辞職させた。10月,ロシアは,北緯39度以北を中立地帯とする南北朝鮮分割案を日本に提起した。


2.日本は,日露戦争で,朝鮮半島を勢力圏に組み込もうとした。これは,朝鮮の独立維持という名目の下の軍事行動である。日露戦争の当時は、ロシアを敵視していた歌人石川啄木は、ロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論を読み,戦争の原因となる欲望の醜さ、経済的要因、戦争プロパガンダを的確に読み取るようになった。

日露戦争の絵葉書写真(右)「満州軍総司令官 大山巌元帥」MIT Visualizing Cultures引用。大山元帥は,乃木大将に旅順攻略を命じた。しかし,機関銃を配備した堅固な洋裁を攻略するのに大損害を出し,作戦は進展しなかった。部下の日本軍兵士は,「なにをのぎのぎしていやる」(何をもたもたしてやがる)と嘲笑した。

朝鮮半島全土を支配する企図のあった日本は、ロシア帝国が動員令を発布する前、日本の攻撃への体制が整わないうちに攻撃することが有利だと判断し、1904年2月4日、明治天皇臨席の御前会議で開戦を決定,2月6日,外相小村寿太郎はロシア駐日公使ローゼンに国交断絶を宣告した。しかし、このようなやり方は、国際法上の宣戦布告と葉異なるのであって、日本は宣戦布告なしにロシアを攻撃したことになった。ロシアでは、騙し討ちをした卑怯な日本に対して、直ちに宣戦布告し、日本に反撃せよとの世論が高まった。このような経緯は、1941年12月8日の太平洋戦争の開戦時にアメリカが、真珠湾を騙し討ちにした卑怯な日本に宣戦布告したのと類似している。日露戦争で宣戦布告なしのロシア攻撃をした日本が、再度宣戦布告なしのアメリカ攻撃を行った、と見なされたのである。

1904年2月8日,日本陸軍は,朝鮮半島の仁川に上陸,海軍は付近のロシア艦と交戦した後,9日,明治天皇の宣戦詔勅が渙発された。大韓帝国は、当初局外中立を宣言していたが、日本によって、日本軍の自由行動を定めた日韓議定書(明治37年2月23日)に調印させられた。翌日,2月24日、日銀副総裁高橋是清が,戦費調達の外債募集のために,日英同盟を結んでいたイギリスのロンドンに派遣された。

大韓民国は,1938年ミュンヘン会談のチェコスロバキア同様、日露交渉に一切参加を許されず,開戦後,日本軍の自由行動を認めさせられた。日本は,ロシアの東アジア侵略の野望を阻止するためというよりも,満州からロシアを排除し,朝鮮半島を勢力範囲とするために戦ったといえる。

⇒国立公文書館アジア資料センター(http://www.jacar.go.jp)「日露戦争特別展」参照。

啄木勉強ノートによれば、石川啄木は1902年(明治35年)10月31日、十七歳で上京し、英語翻訳で生活費を得ようとした。11月11日、啄木の姉トラの夫から生活費の送金を受けた。そして、古書店で英語詩集などを買い求めた。しかし、職を得ることはできず、1903年2月26日帰郷。

啄木日記
 1902年(明治35年)11月12日
快晴、故山の友への手紙かき初む。
 一日英語研究に費す、読みしはラムのセークスピーヤにてロメオエンドジュリエットなり。 トルストイを読む
1902年(明治35年)11月13日
快晴、 午前英語。午時より番町なる大橋図書館に行き宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み連用求覧券求めて四時かへる。
 猪川箕人兄の文杜陵より来る、人間の健康を説き文学宗教を論じ、更に欝然たる友情を展く。げにさなりき、初夏の丑みつ時の寂寥を破りて兄と中津川畔のベンチに道徳を論じニイチエを説きし日もありきよ、その夜の月今も尚輝れり、あゝ吾のみ百四十里の南にさすらひて、政友とはなるゝこの悲愁!!! まこと今は天の賜ひし貴重なる時也、さなり、思ひのまゝに勉めんかな。友よさらば安かれ。
Shakespeare's "Coriolanus" 求む。 
夜ぞふかき空のこなたの旅仮寝さてもかくての夢ならん世か。
落つる葉の身の夕枯やからなりや旅なる窓の小さき袂や。
つみて掩ふてはなたざるべき白百合のみ胸秋なる吾袖めすや。
夕星の瞬き高き雲井より落ちし光と吾恋ひむる。
 (二首十四日せつ子さまへ)

日露戦争の浮世絵(右)「日露戦争交戦紀聞」MIT Visualizing Cultures引用。「第四回 旅順外 我駆逐艦勇敵艦フ襲撃ス」
国際法を無視した宣戦布告なしの突然の攻撃を、ロシアでは卑怯なだまし討ちと見なした。
Migita Toshihide Akiyama Buemon News of Russo-Japanese Battles: For the Fourth Time Our Destroyers Bravely Attack Enemy Ships Outside the Harbor of Port Arthur (Nichiro kôsen kibun: Dai yonkai Ryojunkô gaiiki kuchikukan yû tekikan o shûgeki su) Ukiyo-e print 1904 (Meiji 37), March Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 35.8 x 70.2 cm。ボストン美術館所蔵。


『素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』

 日露戦争の開戦時、日本が旅順を攻撃したことを渋民村で知った石川啄木は、戦果を喜んだ。岩手日報「戦雲余録」(1904年年3月3日−19日)では、世界には永遠の理想があり、一時の文明や平和には安んずることができないから、文明平和の廃道を救うには、ただ革命と戦争の2つがあるのみだと言い切った。
「今の世には社会主義者などと云ふ、非戦論客があって、戦争が罪業だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある…」と書き、幸徳秋水らを与謝野晶子同様、批判した。

 石川啄木は「露国は我百年の怨敵であるから、日本人にとって彼程憎い国はない」と書いたが、「露西亜ほど哀れな国も無い」ともした。

日露戦争は、満州に対する日本の権利を確保する戦いであると同時に、東洋や世界の平和のために必要であったと考え、ロシアを光明の中に復活させたいと熱望する自由と平和の義戦であると考えていた。

日露戦争は、1905年9月のポーツマス講和によって集結した。日露戦争終結の翌年、1906年4月21日、沼宮内町で徴兵検査を受けた。筋骨薄弱のために、最上位の甲種に次ぐ、丙種合格となった。しかし、平時であるために、多くの徴兵合格者同様、徴集免除となっている。
徴兵検査日の啄木日記:「検査が午後一時頃になって、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却って頗る鎖沈して居た。新気運の動いているのは、此辺にも現れて居る。四里の夜路を徒歩で帰った」

石川啄木は、父一禎の宝徳寺住職の再任問題と、啄木自身の渋民尋常高等小学校代用教員辞令を受けていた。
⇒(素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』引用終わり)

日露戦争の浮世絵(右)「日露交戦紀聞」MIT Visualizing Cultures引用。ひそかに渡河して,ロシア軍陣地に潜入した裸の日本軍兵士。音を立てないように,銃の台尻で敵を撲殺している。

1904年(明治37)年6月27日Times掲載のレフ・トルストイ(<Ru-Lev Nikolayevich Tolstoy)">Lev Tolstoy)の非戦の日露への訴えは、幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』8月7日の第39号に「日露戦争論」として紹介された。石川啄木は、困窮していたために大学で学んだり、留学して外国渡航したりした経験はなかったが、望岡中学で学んだ秀才らしく、外国語習得の必要性は理解していたし、外国の文学にも興味・関心を抱いていた。その中で、翻訳とはいえ、ロシアの文豪レフ・トルストイ(Leo Tolstoy:1828-1910)の著作を読んで、インパクトを受けたことを期している。

ロシア文学の傑作『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』で有名なレフ・ニコラエヴィチ・トルストイLev Nikolayevich Tolstoy:1828年8月28日-1910年11月7日)は、堕落した政府・社会・宗教への批判的評論を表し、インドの非暴力ナショナリストのマハトマ・ガンジーMahatma Gandhi)ガンジーと交流しながら、非暴力・反戦思想の施策を深め、1904年の日露戦争、1905年の第一次ロシア革命での暴力に反対した。

写真(右):1887年、ロシア帝国、モスクワ南方200キロ、トゥーラ市郊外ヤースナヤ・ポリャーナ(Yasnaya Polyana)、レフ・トルストイ(Leo Tolstoy:1828-1910)の一家:トゥーラ郊外ヤースナヤ・ポリャーナの屋敷にて。
Русский: Л. Н. Толстой с женой и детьми. English: L. Tolstoy and his family.
Date 1887 Source Русский: Толстой Лев Николаевич. Собрание сочинений / Электронное издание. - ИДДК, 2001 English: Tolstoi Leo Tolstoy. Collected Works / Electronic Edition. - IDDK, 2001
Author English: Unknown
写真は、Wikimedia Commons, Category:Photographs of Leo Tolstoy File:Leo Tolstoi v kabinetie.05.1908.ws.jpg引用。


ロシアの世界的作家レフ・トルストイЛев Толстой)は、富裕な伯爵家の家系で、1862年、34歳の時、当時18歳だったソフィアと結婚した。その後、1864年に『戦争と平和』、1873年に『アンナ・カレーニナ』など傑作を執筆した。この屋敷に住むトルストイを世界の著名人が訪問したが、彼は、ここでの豪華な生活に疑念を持ち、貧困者や農奴の目線も忘れず、権威主義的で利己的な政府や宗教家を非難した。そして、社会活動にも加わり、ロシア民衆から支持されていた。


1910年、レフ・トルストイЛев Толстой)は、ソフィア夫人との不和もあって、屋敷を抜け出したが、鉄道駅で体調が不良になり、3日後、アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅)で下車したまま、客死した。享年82歳。ロシア革命後、トルストイの世界的名声を引き継いだレーニンの革命政府は、貴族出身であっても、ロシアの大地に根付いたロシア人作家トルストイを高く評価している。

写真(右):1905年1月4 日、日露戦争中、日本軍が攻略した旅順港(Port Arthur)に残骸をさらすロシア海軍の艦艇。戦艦「ポルタワ」Poltava(1万1,500トン), 戦艦「レトビザン」Retvizan(排水量1万2,700トン) ,戦艦「ポベーダ」Pobeda(排水量1万3,500トン )、巡洋艦「パルラーダ」Pallada(排水量6,630トン):戦後、鹵獲されたロシア海軍艦艇の中には、修理され日本海軍艦艇として就役したものもあった。1905年1月5日、旅順防衛最高司令官アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ(Анатолий Михайлович Стессель:1848-1915年1月18日)陸軍中将は、日本陸軍第三軍司令官乃木希典対象に降伏した。その時期、旅順港には、日本陸軍砲兵によって港湾内で撃破されたロシア海軍艦艇が大破・着底していた。イタリア海軍のエルネスト・ブルザリー(Ernesto Burzagli)が撮影した個人写真。
English: From left: Poltava battleship, Retvizan battleship, Pobeda battleship, Pallada cruiser sunk in the port of Port Arthur (Russian Empire), photographed on January 4 1905 (the day after the Japanese conquested it), as it appeared to Italian Admiral Ernesto Burzagli (1873-1944), Italian naval attaché in Tokio, who sailed from Yokohama (Japan) on a diplomatic mission to Port Arthur, during the Russo-Japanese War. The original picture, scanned by Emiliano Burzagli, belongs to the Private archive of Burzaghi family, Italy.
Italiano: Il porto di Port Arthur (Impero Russo) fotografato il 4 gennaio 1905 (il giorno successivo alla sua conquista da parte dei giapponese) dall'ammiraglio italiano Ernesto Burzagli (1873-1944), attaché navale italiano a Tokio, che partì da Yokohama (Giappone), in missione diplomatica verso Port Arthur, durante la Guerra russo-giapponese. L'immagine originale, scansita da Emiliano Burzagli, fa parte dell'Archivio privato della famiglia Burzagli.
Polski: Od lewej: wraki pancerników Połtawa, Retwizan, Pobieda i krążownika Pałłada w Port Artur, 4 stycznia 1905, zdjęcie - włoski attaché admirał Ernesto Burzagli
Date 4 January 1905  Source Private Archive of Burzagli Family.
Author Ernesto Burzagli (1873-1944).
写真は、Category:Pictures of Port Arthur in 1905 by Ernesto Burzagli:File:Porthartur (32).jpg引用。


石川啄木『日露戦争論(トルストイ)』
 「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。

レフ・トルストイ  「-----戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。----実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」

 「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。

 その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。

 しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」
『日露戦争論(トルストイ)』電子図書館引用) 


写真(上):1905年1月4日、日露戦争中、日本軍が攻略した旅順港(Port Arthur)に残骸をさらすロシア海軍の艦艇。装甲艦「ペレスヴェート」Peresvet(排水量1万2674トン)、戦艦「ポルタワ」Poltava(1万1,500トン), 戦艦「レトビザン」Retvizan(排水量1万2,700トン) ,戦艦「ポベーダ」Pobeda(排水量1万3,500トン )、巡洋艦「パルラーダ」Pallada(排水量6,630トン)
:戦後、鹵獲されたロシア海軍艦艇の中には、修理され日本海軍艦艇として就役したものもあった。イタリア海軍のエルネスト・ブルザリー(Ernesto Burzagli)が撮影した個人写真。
English: The port of Port Arthur (Russian Empire), photographed on January 4 1905 (the day after the Japanese conquested it), as it appeared to Italian Admiral Ernesto Burzagli (1873-1944), Italian naval attaché in Tokio, who sailed from Yokohama (Japan) on a diplomatic mission to Port Arthur, during the Russo-Japanese War. The original picture, scanned by Emiliano Burzagli, belongs to the Private archive of Burzaghi family, Italy. From the left, wrecks of battleships: Peresvet, Poltava, Retvizan, Pobeda and Pallada cruiser.On the right, wreck of cruiser Bayan
Italiano: Il porto di Port Arthur (Impero Russo) fotografato il 4 gennaio 1905 (il giorno successivo alla sua conquista da parte dei giapponese) dall'ammiraglio italiano Ernesto Burzagli (1873-1944), attaché navale italiano a Tokio, che partì da Yokohama (Giappone), in missione diplomatica verso Port Arthur, durante la Guerra russo-giapponese. L'immagine originale, scansita da Emiliano Burzagli, fa parte dell'Archivio privato della famiglia Burzagli.
Date 4 January 1905 Source Private Archive of Burzagli Family. Author Ernesto Burzagli (1873-1944).
写真は、Category:Pictures of Port Arthur in 1905 by Ernesto Burzagli:File:The Russo-Japanese war - medical and sanitary reports from officers attached to the Japanese and Russian forces in the field, General staff, War office, April 1908 (1908) (14586299638).jpg引用。


写真(右):1904年、日本海軍連合艦隊の装甲巡洋艦「出雲」「磐手」「敷島」「初瀬」「八雲」「吾妻」「富士」「浅間」:日露戦争では、1905年(明治38年)5月27日から5月28日に、対馬沖で、日本海軍連合艦隊とロシア海軍「バルチック艦隊」(太平洋艦隊)との間で「日本海海戦」が戦われた。
Japanese battleships in the Russo-Japanese War
1.Idzumo 2.Iwate 3.Shikishima 4.Hatsuse 5.Mikasa 6.Yakumo 7.Tokiwa 8.Azuma 9. Fuji 10.Yunshima 11.Asama 12.Asahi
Date January 1904 Source Le Patriote Illustré Author loki11
写真はCategory:Russo-Japanese War in 1904:File:Japanese battleships.jpg引用。


日露戦争では、1905年(明治38年)5月27日から5月28日に、対馬沖で、日本海軍連合艦隊とロシア海軍「バルチック艦隊」(太平洋艦隊)との間で「日本海海戦」が戦われた。回線の参加兵力は、日本側は、戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦15隻、支援艦艇他全108隻、ロシア側は、戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻、支援艦他全38隻である。回線による損害は、日本側は、水雷艇3隻撃沈、戦死117名、戦傷583名、ロシア側は、21隻撃沈、拿捕6隻、中立国抑留6隻、戦死4,830名、捕虜6,106名である。


写真(右)記念艦「三笠」:日露戦争の日本海海戦の連合艦隊旗艦となった,1902年(明治35年)、日本海軍がイギリスに88万ポンド(880万円)で発注したヴィッカース社建造の戦艦。排水量1万5千トン、全長132メートル、全幅23メートル、30サンチ砲4門、15サンチ砲14門、8サンチ砲20門、45cm魚雷発射管4門搭載。最高速力18ノット,乗員860名。1922年のワシントン軍縮会議で戦艦「三笠」は廃棄対象となった。1923年に除籍後,横須賀港で記念艦として保存が認められた。太平洋戦争敗戦後,大砲、マスト、艦橋を撤去,鉄屑扱いにすることで残された。1960年,財団法人三笠保存会の下で,再び記念艦として復元,展示された。

東京と文京区の湯島聖堂にある扁額は、伏見宮博恭王(1875-1946)の筆になる。博恭王(ひろやすおう)は、 海軍将校としてドイツ海軍大学校を卒業後、1904年に勃発した日露戦争では、戦艦「三笠」に乗艦し、黄海海戦に参加した。その後、日英同盟の縁でイギリス駐在となり、海軍大学校長、艦隊司令長官を歴任、日本海海戦時の連合艦隊司令長官東郷平八郎と並ぶ海軍二大長老となった。1932年、海軍軍令部(陸軍の参謀本部に相当)の長となり、軍令部総長を日米戦争前の1941年4月まで務めた。


写真(右):1904-1905年、日露戦争中、中国大陸で負傷した戦友を担架で搬送する日本軍兵士
:1908年、イギリス公表の写真。
Title: The Russo-Japanese war : medical and sanitary reports from officers attached to the Japanese and Russian forces in the field, General staff, War office, April 1908 Year: 1908 (1900s) Authors: Great Britain. War Office MacPherson, William Grant, Sir, 1858-1927 Subjects: Russo-Japanese War, 1904-1905 Military hygiene Publisher: London : Printed for H. M. Stationery off., by Eyre and Spottiswoode Contributing Library: Harold B. Lee Library Digitizing Sponsor: Brigham Young University View Book Page: Book Viewer About This Book: Catalog Entry
写真は、Category:Russo-Japanese War in 1904:File:The Russo-Japanese war - medical and sanitary reports from officers attached to the Japanese and Russian forces in the field, General staff, War office, April 1908 (1908) (14586299638).jpg引用。



写真(右)1904-1905年、日露戦争中の中国、満州、日本軍兵士が負傷した戦友を負ぶって搬送している。
:負ぶっている日本軍兵士は武装していないが、前の2名の兵士は小銃を担いで護衛する任務のようだ。後方の兵士は、負傷者用の外套を広げている。1908年に公表された写真。日露戦争におけるロシア軍捕虜を公正に扱ったとされる。これは、ロシアと日本が、白人対黄色人種、キリスト教対アニミズム、文明対野蛮として対比されないための国際法順守であった。
Identifier: russojapanesewar00grea (find matches) Title: The Russo-Japanese war : medical and sanitary reports from officers attached to the Japanese and Russian forces in the field, General staff, War office, April 1908 Year: 1908 (1900s) Authors: Great Britain. War Office MacPherson, William Grant, Sir, 1858-1927 Subjects: Russo-Japanese War, 1904-1905 Military hygiene Publisher: London : Printed for H. M. Stationery off., by Eyre and Spottiswoode Contributing Library: Harold B. Lee Library Digitizing Sponsor: Brigham Young University Author Internet Archive Book Images
写真は、Wikimedia Commons, Category:Photographs of Leo Tolstoy File:The Russo-Japanese war - medical and sanitary reports from officers attached to the Japanese and Russian forces in the field, General staff, War office, April 1908 (1908) (14586297578).jpg引用。



写真(右)1904-1905年、日露戦争中の中国、満州、使役された中国人らしい人夫が負傷した日本軍兵士を急増担架で搬送している。
:1名の負傷者・傷病者に、4人の人夫が当たっているが、粗末な服装で、はだしである。周囲の民家は、石垣に囲まれているが、平屋で屋根は板敷あるいは草葺(茅葺)である。
Identifier: russojapanesewar00grea (find matches) Title: The Russo-Japanese war : medical and sanitary reports from officers attached to the Japanese and Russian forces in the field, General staff, War office, April 1908 Year: 1908 (1900s) Authors: Great Britain. War Office MacPherson, William Grant, Sir, 1858-1927 Subjects: Russo-Japanese War, 1904-1905 Military hygiene Publisher: London : Printed for H. M. Stationery off., by Eyre and Spottiswoode Contributing Library: Harold B. Lee Library Digitizing Sponsor: Brigham Young University View Book Page: Book Viewer About This Book: Catalog Entry View All Images: All Images From Book Date 1908
写真は、Wikimedia Commons, Category:Photographs of Leo Tolstoy File:The Russo-Japanese war - medical and sanitary reports from officers attached to the Japanese and Russian forces in the field, General staff, War office, April 1908 (1908) (14749944316).jpg引用。



3.歌人石川啄木が感銘を受けたロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論には,日本の仙台で医学を学んでいた中国の官費留学生・魯迅も注目していた。魯迅も,文学による社会批評を重視し,社会改革を志した。中国に帰国してしばらくすると,社会主義思想に同調するようになった。これらは,石川啄木との共通点である。

魯迅の日本観:日本留学を通しての日本認識 孫長虹によれば,「藤野先生」を書き7年間の日本留学経験をもつ魯迅が有名である。1881年,中国浙江省紹興城に生まれた魯迅は,1902年4月に20歳で両江総督劉坤一によって、清朝の官費による日本への国費留学生となった。1909年8月まで7年間以上,日本に滞在した。

写真(右):1928年、中国、上海、魯迅(1881〜1936):本名は周樹人。字は予才。号を魯迅、中国の代表的な文学者。浙江省紹興の人。1902年、日本へ留学、1904年仙台医学専門学校に入学 後、国民性改造のため文学を志向し東京にもどる。1909年帰国し教員となる。1918年、狂人日記、孔乙己、阿Q世伝を発表。教育者として北京大学など教壇に立った魯迅は又、北洋軍閥の文化弾圧と衝突した学生運動三・一八事件により北京を脱出。
中文: 鲁迅,1928年3月22日摄于景云里寓中。其时鲁迅入住上海不满一年。
Date 22 March 1928 Source http://book.sohu.com/20090109/n261661945_2.shtml Author Unknown author
写真は、Category:Lu Xun File:Lu Xun3.jpg引用。


1894 年の日清戦争に敗れた中国の清朝は、明治維新に成功した日本をモデルとし、1896 年最初の日本への中国人留学生を 13 名派遣、1902年の魯迅留学の年には600名の中国人日本留学生がいた。その後、1904-195年の父路戦争に日本が勝利すると、 1906年には1万2,000名の中国人留学生に急増している。しかし,中国人留学生の髪型、弁髪は「チャンチャン坊主」といって日本人から蔑視され、中国人は不当に差別されることがあった。

◆清国留学生魯迅が1902年5月から1904年9月まで在籍していた弘文学院の留学生の半数以上は、首都の北京警務学堂から派遣された「北京官費生」である。1904年9月から1906年3月まで,日露戦争の時期,魯迅は,仙台で医学を学んだ。留学先の仙台医学専門学校(現東北大学医学部)解剖学講座講師藤野厳九郎先生から日本人の仕事や学問に対する熱心さと勤勉さを感じ取り、後に日中戦争の険悪な状況の中においても、魯迅は「日本の全部を排斥しても、真面目という薬だけは買わねばならぬ」と言った。

写真(右):1933年初夏、上海の魯迅と内山完造:1917年、内山完造は上海に渡り、内山書店を開業。書店は,左翼作家書籍の販売店で、進歩的文化人が集まるサロン的存在だった。魯迅(1881〜1936)の本名は周樹人。字は予才。号を魯迅、中国の代表的な文学者。浙江省紹興の人。1902年、日本へ留学、1904年仙台医学専門学校に入学 後、国民性改造のため文学を志向し東京にもどる。1909年帰国し教員となる。1918年、狂人日記、孔乙己、阿Q世伝を発表。教育者として北京大学など教壇に立った魯迅は又、北洋軍閥の文化弾圧と衝突した学生運動三・一八事件により北京を脱出。中山大学等で教壇に立った。民族主義文学に徹し反封建主義、反帝国主義の文学が基調。(★魯迅詩集★近代中国詩家絶句選(4)引用)
1927年10月5日、魯迅は内山書店を訪れた。これを契機に、内山完造と親交を深め,魯迅は内山に四度もかくまってもらった。郭沫若、陶行知など左翼文化人も国民党政府の追及を逃れるため、内山書店に身を寄せた。1932年から、内山書店は魯迅の著作の発行代理店になった。1936年に魯迅が逝去すると、内山完造は「魯迅文学賞」を創設、《魯迅全集》編集顧問にも選ばれた。1935年、内山完造の弟の内山嘉吉が東京で内山書店を開店。入り口の扁額は、郭沫若が書いた。(チャイナネット2007年3月「内山書店と魯迅」引用)
 

魯迅の日本留学中、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じたと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じとったと思われる。魯迅は休みに、水戸で、1665年,水戸徳川家2代藩主光圀に招かれ古今儀礼を伝授した朱舜水の遺跡「楠公碑陰記」を訪れた。泊まった旅館で、中国からの留学生だと知り、手厚い待遇をうけた。また、ある日東京から仙台に戻る列車の中で、老婦人に席をゆずったことをきっかけに、魯迅は老婦人と雑談し、さらにせんべいとお茶の差し入れをもらった。このように、日本人との日常生活における素朴な触れ合いに関する残された記録は、忘れられない経験であり、魯迅の日本観の一部を形づくった。

人生論トルストイ 魯迅「藤野先生」には,日露戦争に関するトルストイの論文に関する以下の記述がある。

藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであつた。---
 ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は── 「汝悔い改めよ」
 これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、、トルストイによって引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。しかし、実際は知らぬ間に彼の影響は早くから受けていたのである。この文句の次には、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。

写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)写真「露探の斬首」:「1905年3月20日、満州開原城外」「開原は瀋陽の北、約90キロの町。写真は出所不明と説明つきで、太田進「資料一束―《大衆文芸》第1巻、《洪水》第3巻、《藤野先生》から」(中国文学研究誌「野草」第31号、1983年6月)が紹介。写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)におさめらた。(王保林「『幻灯事件』に密接な関係をもつ一枚の写真紹介」、「魯迅研究動態」1989年9月号)。同じような写真は、仙台市内で何回か開かれている日露戦争報道写真展で魯迅の目に触れた可能性がある。写真週刊誌「ファーカス」通巻762号にも同じ写真が掲載(1996年11月6日)。東北大学医学部細菌学教室から日露戦争幻灯スライド15枚と幻灯器が発見されたが,その中に処刑のスライドはなかった。日清戦争では,清国兵士を過酷に扱った日本軍だが,日露戦争ではロシア人負傷者・捕虜を人道的に処遇した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人の戦争ではないという弁明のためである。対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とされれば,処刑される危険があった。仙台に留学中の魯迅も,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑もある日露戦争スライドを教室で見た。

◆東北大学に魯迅が留学中「幻灯事件」がおきた。魯迅『吶喊』によれば,細菌学の教授が授業時間に、日露戦争のスライドを見せ,日本軍兵士が,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなした中国人の処刑(銃殺あるいは斬首)をする場面があった。中国人が取り囲んで傍観していたのに衝撃を受けた魯迅は,中国人の治療には,医学よりも、精神の再構築が不可欠だと文学を志すようになった。

◆魯迅魯迅「阿Q正伝」の末尾には、革命党員の嫌疑をかけられ捕まった阿Qが、斬首されると思いきや、銃殺されたことが書かれている。これは、魯迅が留学中に見た中国人スパイ容疑者の処刑とその中国人見物人の様子を映す心象風景である。

魯迅「藤野先生」続き

 中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺[『吶喊・自序』では斬首]を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺[『吶喊・自序』では斬首]される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。


第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。---

魯迅  だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもつとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦(う)まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。
   (魯迅「藤野先生」引用終わり)

魯迅の日本留学と戦争

◆1906年仙台医学専門学校を中退して仙台を去るときに魯迅は、社会改革を目指す批評の道を志そうとしていた。魯迅は,石川啄木も感銘を受けたトルストイの非戦論を呼んでいた。帰国した魯迅は,中国の代表的文化人になり,辛亥革命後の翌年の1912年、孫文の主導する中華民国臨時政府の教育部員となった。1927年の蒋介石による共産主義者弾圧,上海白色クデター以後は,中国国民党政府を批判するような論調から,発禁処分の対象にもなった。魯迅は,古い因習・制度・権威を打破し,新しい社会を形成したいとする欲求があり,それが,社会主義的な文学に結びついた。魯迅と石川啄木は,その思想の根源において類似した部分が多い。


4.日本は,日露戦争に際して,朝鮮半島,中国東北地方に派兵した。この出征兵士のなかにいた歌人與謝野晶子の実弟・鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)は,大阪の歩兵第八聯隊に入隊,第三軍第四師団の一員として旅順攻略に参加した。晶子は弟を思って「君死にたもうことなかれ」を詠った。

与謝野晶子が、日露戦争に出征した晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうを思って詠んだ「君死にたまふことなかれ」は有名である。一般的には、戦争に反対する平和の歌であると紹介される。しかし、反戦の歌か、それとも弟の無事を案じた個人の歌なのか議論がある。

写真(右):『みだれ髪』を残した歌人与謝野晶子;(1878〜1942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。啄木は、晶子姉を 「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」と評価する。1915年1-2月,雑誌『太陽』で「あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。---合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心さを示されることをひたすら熱望する。」と述べた。当時,夫与謝野鉄幹が衆議院選に立候補した。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)愛の旅人によれば,二人の間には,葛藤もあったようだ。1939年9月 『新新訳源氏物語』完成。1940年5月 脳溢血で倒れ、以後右半身不随の病床生活。

君死にたまうことなかれ旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも
 親はやいばをにぎらせて  人を殺せと をしへ教えしや
 人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

 堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて
 親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ
 君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ、 すめらみこと皇尊は、戦ひに
 おほみづからは出でまさね  かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこころの深ければ もとよりいかでおぼされむ

 ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に いたましく わが子を召され、家をり、
 安しときける大御代も  母のしらは まさりぬる。

 暖簾のれんのかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
 君わするるや、思へるや 十月とつきも添はで わかれたる
 少女をとめごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
 ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

◆古語「すめら」は接頭語で,天皇を表彰する語につけた。与謝野晶子は,男女の恋愛を激しく歌ったが,同時に,天皇を敬い,日本の伝統を愛し,誇りにしていた「日本女性」だった。晶子の国体尊重,天皇崇拝の認識の下で,晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうと妻セイを思って「君死にたもうこと勿れ」と歌わせたのであれば,それは家族への思慕の情,武運長久(戦争で手柄を立てて凱旋する)の願いが表現されたと見るべきであろう。

日露戦争の絵はがき写真(右)「敗残ノ露国巡洋艦パルラダ号」MIT Visualizing Cultures引用。ロシア軍要塞の旅順港は,日本軍の重砲射程範囲に入った時点で,港湾機能は麻痺した。港を見下ろす高地から,日本軍は港内のロシア軍艦を砲撃した。

◆満州軍総司令官大山巌元帥児と軍総参謀長児玉源太郎陸軍中将の下で,第三軍司令官乃木希典陸軍大将は、8月19日、遼東半島の旅順を総攻撃した。しかし、11月までの三次に渡る総攻撃はみな失敗し、多数の死傷者を出した。

第一師団軍医部長の日誌には、日本軍兵士は戦傷、脚気、伝染病で「26日来入院総数千4百名、現在77名(うち7名内科)、帰隊230、自傷80」とある。戦意を喪失し、戦場離脱のために自傷行為、発狂が現れた。冬の寒さは甚だしく、兵は「なにをのぎのぎしていやる」と作戦指導の無能さを非難し、兵士と将校の離反が問題となった。

日露戦争の浮世絵(右)「日本軍 義州占領 露兵鵯越江北岸逃避の図」MIT Visualizing Cultures引用。中国・韓国国境の義州のロシア軍に攻撃をかける日本軍歩兵部隊。突撃ラッパを吹き鳴らラッパ手に続く黒い軍服の歩兵。

児玉軍総参謀長の督戦到来前、決死の第四次総攻撃で12月5日、203高地を占領した。旅順の司令官ステッセル将軍は、1905年1月1日、降伏軍師を送った。

日本軍の明治30年制式の30年式歩兵銃(口径6.5ミリ)19万丁は、2週間の奉天戦で,銃弾2127万発を消耗,火砲744門が弾丸28万5千発を発射し、3月10日、奉天を占領した。会戦による日本軍死傷者は7万2千名で、チフス、天然痘も伝染していた。出征兵士は、物資不足,激戦・行軍に疲労困憊し,戦意も必ずしも高いとはいえなかった。 (→大濱徹也(2003)『庶民のみた日清・日露戦争−帝国への歩み』刀水書房 参照)

日露戦争の浮世絵木版凹版画(右)「日露旅順港攻撃戦」MIT Visualizing Cultures引用。ロシア軍の砲台を銃剣突撃によって占領する日本軍将兵。追い詰められたロシア将兵が手を上げて降伏している。砲台付近には,戦死したロシア兵の遺体が山積みになっている。日章旗は,海軍の旭日旗のようにデザインされている。ボストン美術館所蔵。

「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」によれば,与謝野晶子の父・宗七(善六)は、1847年(弘化4年)9月24日生まれ、大阪堺市の和菓子商駿河屋の二代目、日露戦争前年の1903年9月14日死亡。与謝野(旧姓鳳)晶子の実弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)は、1903年8月、24歳(数え年,今の23歳)で、堺せいと結婚した。 

乃木希典陸軍大将 鳳は,1905年(明治37年)の日露戦争に大阪の歩兵第八連隊に召集された。鳳籌三郎(24歳)は、第三軍の乃木希典(のぎ まれすけ)司令官の下の第四師団第八連隊に所属,旅順攻略戦に参加した。 与謝野晶子の弟・鳳籌三郎(ちゅうざぶろう)は字が書ける「特技」で、戦闘には参加せず、将官の書記役を務めた。「何と、字の知らん兵隊が如何に多いのやろう」が籌三郎の感想だったという。

[鳳]籌三郎は1900年ごろ晶子に先んじて浪華(なにわ)青年文学会堺支部に入会し、文学少女晶子のよき理解者であった。父の死、弟の堺の和菓子屋襲名、留守の母と義妹への愛情が,歌の背景にあった。晶子が「二十四までをそだてしや」と歌った時、籌三郎は数えで25歳,満24歳。籌三郎は,無事に帰国し、1944年2月25日、63歳でなくなった。
(⇒「小さな資料室」資料62 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」引用終わり)

与謝野晶子の弟・鳳籌三郎は,1905年(明治37年)の日露戦争に大阪の歩兵第八連隊に24歳で召集され、旅順攻略中の第三軍司令官乃木希典( のぎ まれすけ:1849-1912年)陸軍大将隷下の第四師団第八連隊に配属された。この乃木希典大将率いる第三軍は、第1師団・第11師団を基幹とし、任務は、遼東(リャオトン)半島先端のロシアの軍港旅順を攻略することで、それには、防衛戦の旅順要塞を陥落させる必要があった。遼東(リャオトン)半島は、日清戦争に勝利した日本が1895年の下関条約で、敗北した清朝から割譲された領土(植民地)だったが、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉で、清朝に返還を余儀なくされた。その要港の旅順・大連を、ロシアはその後、清朝から租借し、東洋支配の拠点として軍事基地化した。

写真(右)1910年頃、乃木希典(1849-1912)陸軍大将:乃木将軍が明治天皇のために殉死した後の1914年刊行『近代名士之面影』 第1集の掲載写真。水師営で旅順防衛司令官ステッセリ中将を降伏させた。1904年の日露戦争時の旅順攻防戦で、1904年8月からの乃木希典は総攻撃をかけ、旅順を1905年1月に陥落させたが、死傷者6万名の大損害を出した。殉死後、乃木神社ができて、乃木将軍は軍神に祭り上げられた。
Portrait of Nogi Maresuke (乃木希典, 1849 – 1912)
Date before 1912
Source Japanese book Kindai Meishi no Omokage vol.1 (近代名士之面影 第1集), Published in 1914
写真は、Category:Photographs of Nogi Maresuke File:Nogi Maresuke.jpg引用。


ロシア軍アナトーリイ・ステッセリ中将の防衛する旅順の攻略の大任をまかされたのは、1904年に第三軍司令官に任命された乃木希典陸軍大将である。明治の軍人乃木希典は、1894年の日清戦争では、歩兵第一旅団長として短期間で旅順攻略に成功している。日清戦争後、1896年には、清朝から日本が割譲させた台湾に赴き、台湾総督を務めた。このような経緯で、乃木を陸軍大将に昇格させ、再び旅順攻略の任務を与えたのである。

旅順要塞の防衛最高指揮官だったアナトーリイ・ステッセリ中将は、日露戦争では、1904年8月からの日本陸軍第三軍乃木希典対象のよる旅順総攻撃を4カ月持ちこたえた。しかし、完全に包囲された状況で、補給も受けることができず、12月に203高地が陥落した。要衝を失ったことで、ロシア陸軍アナトーリイ・ステッセリ中将は遂に抗戦を断念、1月1日、日本陸軍の乃木希典大将に対して降伏交渉を申し入れた。

1905年1月5日、中国、遼東半島旅順近郊の水師営会見で、ステッセリ中将は、乃木大将に降伏した。乃木は、ロシア軍に温情を示し、軍刀の帯刀を許す名誉ある降伏を認めた。しかし、乃木大将は、日本軍将兵13万名で攻撃したものの、ロシア軍の守備する旅順攻略に手間取り、死傷者6万名の損害を受けている。

日露戦争の絵葉書(右)「旅順開城ニ際シ我軍総司令官乃木将軍及ビステッセル将軍ノ会見。中央右ハステッセル,左ハ乃木将軍,最右ハ伊知地参謀,最左ハレース参謀,其他ハ幕僚ノ将校及ビ通訳官ナリ」MIT Visualizing Cultures引用

日本陸軍第3軍司令官の乃木希典陸軍大将は、1905年1月2日、時間と多大な犠牲をかけて、やっと旅順を陥落させた。中国、遼東半島、旅順の水師営会見、乃木希典陸軍大将と会見した旅順防衛司令官アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ (Анатолий Михайлович Стессель:1848-1915年1月18日)陸軍中将は、1905年1月5日、降伏した。ステッセリは、1900年の義和団の乱では、第3東シベリア狙撃旅団長、1903年8月の日露開戦の緊張が高まった時点で、旅順要塞司令官に任命された。1904年8月以降は、第3シベリア軍団長。1904年の日露戦争時のロシア関東軍司令官で、旅順要塞の最高指揮官だった。1904年8月からの日本軍との旅順攻防戦では、乃木希典の第三軍の攻撃を半年近くも持ちこたえた。しかし、12月に203高地が陥落、ステッセリは遂に抗戦を断念、1月1日に日本軍へ降伏を申し入れた。

日露戦争の時期、ロシア海軍のバルチック艦隊(太平洋艦隊)やアジア艦隊の艦艇のうち何隻もが、ウラジオストーク軍港ではなく、旅順港にあった。しかし、1904年に日本軍が旅順港を攻撃した際に、203高地などからの砲撃を受けて大半が大きな損傷を受け、1905年1月に旅順港が日本に占領されたときに、旅順港内で破損した姿を晒していた。

そこで、日本は、旅順で鹵獲した旧ロシア海軍艦艇のうち、状態の良かった2戦艦、すなわちサンクトペテルブルク造船所建造、1901年8月就役、戦艦「ペレスヴェート」、同じくサンクトペテルブルク造船所建造、1902年7月就役、戦艦「ポベーダ」を修復・整備して、日本海軍戦艦として活用した。


写真(上):1905年1月4 日、日露戦争中、日本軍が攻略した旅順港(Port Arthur)に残骸をさらすロシア海軍戦艦「ポベーダ」Pobeda(排水量1万3,500トン )、巡洋艦「パルラーダ」Pallada(排水量6,630トン)
:1905年1月5日、旅順防衛最高司令官アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ(Анатолий Михайлович Стессель:1848-1915年1月18日)陸軍中将は、日本陸軍第三軍司令官乃木希典対象に降伏した結果、鹵獲されたロシア海軍艦艇の中には、修理され日本海軍艦艇として就役したものもあった。イタリア海軍のエルネスト・ブルザリー(Ernesto Burzagli)が撮影した個人写真。
English: Left: Pobeda battleship, right: Pallada cruiser in the port of Port Arthur (Russian Empire), photographed on January 4 1905 (the day after the Japanese conquested it), as it appeared to Italian Admiral Ernesto Burzagli (1873-1944), Italian naval attaché in Tokio, who sailed from Yokohama (Japan) on a diplomatic mission to Port Arthur, during the Russo-Japanese War. The original picture, scanned by Emiliano Burzagli, belongs to the Private archive of Burzaghi family, Italy. Italiano: Il porto di Port Arthur (Impero Russo) fotografato il 4 gennaio 1905 (il giorno successivo alla sua conquista da parte dei giapponese) dall'ammiraglio italiano Ernesto Burzagli (1873-1944), attaché navale italiano a Tokio, che partì da Yokohama (Giappone), in missione diplomatica verso Port Arthur, durante la Guerra russo-giapponese. L'immagine originale, scansita da Emiliano Burzagli, fa parte dell'Archivio privato della famiglia Burzagli.
Date 4 January 1905 Source Private Archive of Burzagli Family. Author Ernesto Burzagli (1873-1944).
写真は、Category:Pictures of Port Arthur in 1905 by Ernesto Burzagli:File:Porthartur (35).jpg引用。


日露戦争の絵葉書(右)「日露海戦水中の図」MIT Visualizing Cultures引用。大ダコがロシア国旗を掲げた軍艦をつかんでいる。蛸は不気味な生き物である日本人ということになる。

ロシア海軍から鹵獲した日本海軍戦艦「相模」(旧ペレスヴェート:Peresvet)は、45口径25.4センチ連装砲2基4門・45口径15.2センチ速射砲10門を装備し、石炭専焼缶で最高速力18ノットである。また、戦艦「周防」(旧ポベーダ:Pobeda)は、45口径25.4センチ連装砲2基4門・45口径15.2センチ速射砲11門を装備、石炭専焼缶で最高速力18ノットである。これらの旧ロシア戦艦2隻は、今度は敵だった日本海軍の戦艦として活動することになったのである。

日本陸軍第三軍乃木希典大将は、1905年1月2日、時間と多大な犠牲をかけて、やっと旅順を陥落させた。旅順陥落の戦捷の報告に、日本人は熱狂した。1895年1月月3日、『東京朝日新聞』は「(東京)市中各区は直に祝捷の準備に着手し、辻々の大国旗は殊に花やかに翻へり、各新聞社前は常よりも十倍大の紙片に旅順陥落、敵将降伏など筆太に記して号外発行の混雑恰(あたか)も戦地の如し。家々は紅白又は浅黄(あさぎ)と白の幔幕を張り、燦然花の林に入るが如し」と伝えた。それから1カ月、3月10日には、日露戦争における最大の陸戦である奉天会戦で日本軍が勝利し、奉天を占領している。ここに、日露戦争における日本の勝利が確定したと、日本人の多くは早合点した。

明治の軍人乃木希典は、1894年の日清戦争では、歩兵第一旅団長として旅順を攻略している。日清戦争後、1896年には、清朝から日本が割譲させた台湾に赴き、台湾総督を務めた。1904年に始まった日露戦争では、陸軍第三軍司令官として旅順攻略という大任を任されている。日露戦争に勝利をもたらした陸軍の英雄としてもてはやされ、皇族も学ぶ学習院院長に就任した。

乃木希典と大濱徹也 乃木希典  1894年の日清戦争に出征した乃木希典は、11月24日に旅順を1日で陥落させている。1895年、日本は降伏した清朝に下関条約をみとめさせ、割譲させた台湾で独立闘争が起きると「台湾征伐」に出征した。

日露戦争開戦時、1904年2月5日の動員令で、乃木希典は、陸軍中将として留守近衛師団長の任に当たり、5月2日、第三軍司令官に任命され、6月1日、広島県の宇品港を出航し、中国大陸に出征することになった。日露戦争に出征した時、乃木希典は54歳、既に乃木の二人の息子、長男・勝典、次男・保典は出征し前線に出ていた。乃木は第三軍司令官として、東京の新橋駅を出発し、広島に到着したが、この時、長男・勝典が戦死した報告を受けた。1904年6月6日、遼東半島の塩大澳に上陸した乃木は、児玉源太郎と同時に陸軍大将に昇進した。旅順攻略戦の最終段階の12月1日は、次男・保典が203高地の攻略戦で戦死している。

◆満州軍総司令官大山巌元帥と軍総参謀長児玉源太郎陸軍中将の下で,第三軍司令官乃木希典陸軍大将は、1904年8月19日、遼東半島先端旅順を総攻撃した。しかし,11月までの三次に渡る総攻撃はみな失敗し、多数の死傷者を出した。

1912年(大正元年)9月13日の明治天皇の大喪の当日に、乃木希典大将は聖恩に報いるために夫人乃木静子を道連れに自決、殉死した。乃木希典は妻乃木静子の死を見とどけた後、自ら割腹したのである。乃木希典は享年63歳、静子は53歳。希典・静子の夫婦の間には、長男・勝典(1879-1904)、次男・保典(1881-1904)、長女・恒子(1885-1886)、三男・直典(1889-1889)の4子があったが、4人の子供には全て先立たれており、残された子供はない。

乃木希典殉死の地の脇、港区赤坂8-11-27に、1923年大正5年4月13日、英霊となった乃木将軍御夫妻を永世に祠らんと乃木神社が建てられ、忠孝・質素・仁愛を旨とした。乃木神社御祭神は、乃木希典命(のぎまれすけのみこと)・乃木静子命(のぎしずこのみこと)である。乃木神社前の坂は乃木坂に改称された。

日露戦争の浮世絵(右)「沙河奮戦」MIT Visualizing Cultures引用。戦死したロシア将兵を脇に攻撃を続ける日本軍。降伏したロシア兵は,抵抗するつもりがないので,捕らえることなく放置しているようだ。右端には,日本軍兵士の遺体。

◆与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表されると,文芸評論家の大町桂月は,1904年『太陽』十月号で,「君死にたまふこと勿れ」を危険思想と論じた。「戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の『君死にたまふこと勿れ』の一篇、是也。草莽の一女子、『義勇公に奉ずべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也。」

日露戦争の浮世絵木版画(右)博愛と大日本赤十字社衛生隊:MIT Visualizing Cultures引用

日清戦争の浮世絵とは異なって,敵兵を処断する勇士だけではなく,救助,負傷者手当てをする日本軍将兵の活躍を描いた浮世絵が何枚も出版された。ただし,日露戦争中は,在日ロシア人や正教徒の日本人も,露探とされ,収監された。ロシア皇帝ニコライ2世が皇太子時代に来日し,その警護官の滋賀県警巡査・津田三蔵が暗殺しようとした大津事件では,皇太子を守った人力車車夫・向畑治三郎と北賀市市太郎は、ロシアから勲章と報奨金・年金が与えられ,日本政府からも勲八等と年金が給与された。しかし,日露戦争時には,ロシア軍スパイ容疑者(露探)の嫌疑を受けた。戦場となった満州でも,露探とされた中国人,韓国人は,処断された。

与謝野晶子は,『明星』十一月号で,死ねよと簡単に言う事、忠君愛国の文字、教育御勅語を引用して論ずる流行の方か,かえって危険であると反論した。王朝の御世にも,人に死ねとか,畏おほく勿体きことを書き散らす文章は見当たらない。歌詠みなら、「まことの心を歌うべき」で,そうでない歌には値打ちがない、そうでない人には「何の見どころもない」と言い切った。

ひらきぶみ  与謝野晶子:「明星」新詩社 1904(明治37)年11月号

絵葉書(右)日露戦争の日本陸軍歩兵:MIT Visualizing Cultures引用。色つきの斬新なデザインの安価な絵葉書が出回ったことで,浮世絵戦争版画は徐々に駆逐されることになった。日露戦争後,完全に絵葉書に取って代った。

  私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪ろく候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅(うち)へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもます/\王朝の御代なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴(つづ)り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。御国のために止むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉(いずみ)の家の恤兵(じゆつぺい)の百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末が致してもよきほどの手わざ、聞えはおどろしき繃帯巻(ほうたいまき)を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似(まね)は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務(つとめ)は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐(ぎえん)などいふ事に冷(ひやや)かなりと候ひし嘲りは、私ひそかにわれらに係はりなきやうの心地致しても聞きをり候ひき。 

美の創作者たちの英気  君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑なき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげ/\妻のこと母のこと身ごもり候児(こ)のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。
 私が「君死にたまふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿体(もつたい)なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。

 歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き/\年月の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許し下されたく候。桂月様は弟御(おとうとご)様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様はなくとも、新橋渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。

与謝野晶子・与謝野鉄幹全集駅頭で軍隊出立を見送る親類友達が、行く子の手を握って、「無事で帰れ、気を附けよ」「万歳」と言っている。日本の各階層の市民がみな武運長久を願っている。これは「君死にたまふこと勿れ」と同じ「まことの声」である。与謝野晶子は,「まことの心をまことの声に出だし」歌をよみたいと述べた。

立派な新体詩を作る桂月様は博士、夫[与謝野鉄幹]に教えて頂き新体詩まがいを試みる私は幼稚園の生徒と卑下しつつ、汽車で大阪についた。あす天気が良ければ、長男の光に堺の浜みせてやれと母は言って寝てしまった,と旅行作家の先輩に,身近な家族あった顛末を詳細に語った。日常生活の合間に作った詩歌なので、大先輩の不興を買ってしまったが、とりなしてくれた夫・与謝野鉄幹のこともあるので、許してほしいとの謝罪の気持ちを、夫の名誉を傷つけることなく、それとなく伝えたのである。

◆兵士を出征させ,戦争に協力する市民はみな日本が勝利し,兵士が凱旋,帰郷すること,すなわち武運長久を祈った。これは,戦争遂行,祖国の勝利の枠組みの中で,家族の無事を優先する庶民的願望である。敵のロシア人や戦場となった中国人への配慮,戦争目的,国際情勢は二の次であった。戦争の大儀,大日本帝国の国益よりも,武運長久を優先した。

●教育勅語を重視する大町桂月(おおまち けいげつ:1869年3月6日-1925年6月10日)は,1905年『太陽』一月号「詩歌の真髄」で,ふたたび「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と国体の精華を汚したとして、再度,晶子の歌を非難した。しかし,晶子の夫,国粋主義の与謝野鉄幹のとりなしで,論戦は終息した。明治の元勲が政治と軍事を握っていた明治時代,列国に範をとった立憲君主制の下での富国強兵を進めていた。また、明治の元勲・政友会総裁で1906年に総理大臣に就任した西園寺 公望(さいおんじ きんもち:1849年12月7日−1940年11月24日)は、1871年にフランスに留学し西ヨーロッパに10年間も滞在した開明派であり、神がかりな皇室中心主義は,天皇側近にも、天皇自身にも支持も人気もなかった。

日露戦争の絵葉書(右)日露両国の明暗対比:MIT Visualizing Cultures引用。日論の日本が,黒熊ロシアを威圧し,アジアに光をもたらした。熊どもは,あわてて逃げてゆく。すべてが日本によって明るく照らし出される。

文部科学省の教育勅語の起草と発布によれば、次のような観点で、教育勅語が図られた。

 明治時代の天皇を元首とする政治体制は、帝国憲法によって「立憲君主制」を標榜するようになったが、道徳・教育の観点では、「教育基本法」のような方針がなく、天皇制の下で、「教育に関する勅語」(教育勅語)が下される必要が痛感された。教育勅語は、元田永孚のような勤皇的思想と伊藤博文や井上毅のような開明的近代国家的思想の混合物でもあり、現在の民主主義・自由主義の視点では、前時代的な権威主義と開明的な国家主義が見受けられる存在である。また、軍人勅諭の発案者の元老・山県有朋が、内閣総理大臣として教育勅語に関わったのは、天皇をいただく権威主義と軍国的富国強兵を教育に取り込もうとしたからでもある。

 教育勅語は、天皇の御稜威の現れた教育方針であり、国民の教育・道徳・倫理の支柱とされるべき基本方針とされた。国家主義的な国・天皇に尽くす人材、国家・天皇制の恩に報いることのできる臣民が理想とされた。日本の精神的人柱となり、尽力すべき存在が尊ばれるようになった。

しかし、欧米列強との間で結ばれた不平等条約改正問題を控えて、思想的に欧化しつつあった現状も忘れることはできない。政府・行政の力だけではなく、大正デモクラシーといわれるように、民衆の力、企業家の力も、高まっている現状で、従来の天皇中心の神話的道徳教育だけでは、教育は成り立たないのであって、道徳・教育の基本方針に関して、儒教・神道・家族を重んじる伝統派と科学・近代政治思想・学校を重んじる開明派との間の論争もあった。開明派の文部大臣森有礼は、儒教主義を排して、西欧流の倫理学を基礎とする学校教育の重要性を主張した。

日露戦争の絵葉書写真(右)日露戦争出征兵士の凱旋通り:MIT Visualizing Cultures引用。まさに、大国ロシア帝国に対する勝利は、「国体の精華」を発揮したものといってよかった。将軍を先頭に凱旋する日本軍出征兵士を迎える。日露戦争は,国家的大スペクタクル,劇場国家の端緒だった。戦争に関する物資や言論の統制も,後年ほどには厳しくなかったが,日露戦争反対を公然と唱えたのは,一部の文化人,平民新聞くらいだった。

 こうした中、主権を持つ明治天皇は、文部大臣芳川顕正に対して、徳育の基礎となる箴言の編纂を命じ、そこから、天皇の大御心を戴した教育勅語の発布が計画された。教育勅語は、内閣総理大臣山県有朋、文部大臣芳川顕正(よしかわ あきまさ)の下で起草され、法制局長官井上毅、枢密顧問官元田永孚(もとだ ながざね)らも参画して作成された。

1890年10月30日 教育勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ 此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ?器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其?ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日  御名御璽

日露戦争の絵葉書(右)「旅順港陥落記念 壕外ニ陳列セル戦利火砲」:MIT Visualizing Cultures引用。母と子を配置して、平和と並んで戦利品の大きさを強調した。

枢密顧問官元田永孚は、教育勅語が発布された後、総理大臣山県有朋に、國體ノ精華という天皇制への尊重を道徳とする点を強調し、書簡で次のように教育勅語の意義を説いた。

 「回顧スレハ維新以来教育之主旨定まらす国民之方向殆ント支離滅裂二至らんとするも幸二 聖天子叡旨之在ル所と諸君子保護之力とを以扶植匡正今日二至リタル処未夕確定之明示あらさるより方針二迷ふ者不少然ルニ今般之勅諭二而教育之大旨即チ国民之主眼ヲ明示せられ之ヲ古今二通し而不謬之ヲ中外二施して不悖実二天下万世無窮之皇極と云へし彼ノ不磨之憲法之如キモ時世二因而者修正を加へサルヲ不得も此ノ 大旨二於テは亘於万世而不可復易一字矣」

 1890年(明治23年)10月、明治天皇は山県有朋総理大臣と芳川顕正文部大臣を官中に召して「教育に関する勅語」を下賜された。この天皇の教育勅語によって、教育の淵源は「国体ノ精華」にあり、「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」など具体的徳目をあげ、「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と国民に要求が出された。つまり、日本人の道徳・教育の基本方針が定まり「国体ノ精華」という日本人の教育の官製鋳型が完成し、これを原器として国家指導の下で学校教育が全国で画一化・規格化され普及した。

中国からの留学生だった魯迅は、日本建国神話を信じ天皇のために尽くす国体の精華のための教育に心から従うつもりは毛頭なかったであろう。自由で闊達な魯迅の精神は、国体の鋳型であろうが、官製教育のような型にはまった教育を精神的障害と見なしたに違いない。教育勅語は、日本に留学に来た留学生にとって心の糧として受け入れることができるものではなかった。


写真(右):1904年、日露戦争中、ロシア帝国モスクワ、篤志看護婦として後方医療に当たる看護婦の一団
:日本が宣戦布告なく旅順を攻撃し、ロシア海軍艦艇を撃沈した。この卑怯な日本に対抗するため、ロシア帝国アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)の呼びかけもあって、ボランティアの看護婦が志願した。1910年刊行の写真。
Русский: Группа сестёр милосердия Московского городского отряда, во главе с супругой городского головы Княгиней С. Н. Голицыной в здании городской Думы. Date 1904
Source На рубеже двух веков (XIX—XX) : Бесплатная премия к газете «Московский листок» за 1910 г. — Москва: Тип. и цинкография газеты «Московский листок», 1910. — С. 50. — 184 с. Author Unknown author
写真は、Category:Nurses from the Russian Empire in Russo-Japanese War:File:Группа сестёр милосердия Московского городского отряда.jpg引用。


藤田呂志(2012)「石川啄木の日本論・対外論」によれば、石川啄木は、1907年(明治40) 3月1日発表「林中書」の中で、「予は日本人である。「今の日本人」である。」と述べたが、「「今の日本」とはどういふ「日本」の事であらう? 東洋唯一の立憲国である。東洋第一の文明国である。空前の大戦に全勝を博して一躍世界の一等国になった国である。トかいういふと「解り切ってるよ、云はれなくたって知ってらア」と大向から怒鳴られるかも知れぬ。が然し「今の日本」といふ問題は果して然く解り切った事であらうか。云はれなくたって知れている事であろうか。果して世界の大道を大跨で歩ける国であらうか。手のいい「赤毛布」国ではないだらうか。諸君!予は石塊であるから、滅多に人のいふことを信ぜられないと思ふ。」

石川啄木は、日露戦争に勝利した大日本帝国が「世界の一等国」になったと自負していることに大いに反発している。「民衆は依然として封建の民の如く、官力と金力とを個人の自由と権利との上に置いて居る無智の民衆ではないだらうか?」と日本の国民大衆が自由と人権を理解せず、国家・政府に依存しすぎており、「哀れなる日本」であると批判をしている。これは、日本留学をした魯迅が、中国民衆に抱いたのと同じ思いである。啄木は、「「哀れなる日本の教育は果してどうであらうか?」として、教育勅語のような国体の精華をもたらす臣民教育を否定した。そして、「教育の真の目的は、「人間」を作る事である。」と看破した。


浮世絵(上)1895年、日清戦争に勝利し、広島の野戦病院に後送された傷病兵を見舞う昭憲皇后(明治大帝妃)「野戦病院行幸之図 」小林清親(1847-1915)作
:1849年5月9日、左大臣・一条忠香の三女として生まれた一条美子は、1868年明治天皇より3歳年長の19歳で入内、皇后冊立。1894年(明治27年)大婚二十五年御祝典(銀婚式)。1912年(明治45年)、明治天皇崩御に伴い皇太后になる。 Metropolitan Museum of Art所蔵。
Artist Kobayashi Kiyochika (1847–1915) Blue pencil. Title 野戦病院行幸之図 Description Japan; Print; Prints Date 1895 Medium Triptych of polychrome woodblock prints; ink and color on paper Dimensions 14 3/4 x 30 in. (37.5 x 76.2cm) Collection Metropolitan Museum of Art Blue pencil.svg wikidata:Q160236 Current location Asian Art Accession number JP3274 Credit line Gift of Lincoln Kirstein, 1959
写真は、Wikimedia Commons, Category:Sensō-e by Kobayashi Kiyochika File:野戦病院行幸之図-Illustration of the Empress Visiting a Field Hospital -in Hiroshima- (Yasen byōin gyōkō no zu) MET DP147684.jpg引用。


国家主義・国体を基本とする日本には「子弟に「人間の資格」を与へる様な人」を欠いており、月給の高い処へ転任し「泣いて別を惜む子弟を土へ捨てて顧み」ない、「天才を殺して、凡人といふ地平線に転がっている石塊のみを作らうとする教育者」が多いとして、官製教育を批判した。「日本の教育は、凡人製造を以て目的として居る。日本の教育は、其精神に於て、昔の寺子屋教育よりも劣って居る。日本の教育は、人の住まぬ美しい建築物である。」つまり、日本の教育制度は、美辞麗句を並べた儒教的、神道的な調和重んじ、校舎という箱モノは立派であるが、これは国家の操り人形を作るようなものだというのである。「予は願くは日本一の代用教員となって死にたいと思う。若し其際自分の理想通の小学校でも建てる建てる必要があった時には、何卒諸君にも幾何か御寄附を願ふ。」と草の根民活に依拠した民主的な教育を希望した。

実際、石川啄木は、1906年(明治39)4月、渋民小学校に代用教員となり、7月には小説「雲は天才である」を表している。している。1907年4月、校長排斥のストライキを起こそうとして、渋民小学校を免職されてしまった。日本の官製教育を批判した石川啄木は、国家そのものを批判し、単体性的な言動を公にするようになる。1910年6月の大逆事件への石川啄木の対応は、「反権威の道」であった。


浮世絵(上)1895年5月、日清戦争に勝利し、広島の野戦病院に後送された傷病兵を見舞う昭憲皇后(明治大帝妃)「大元帥陛下開戦御帰京之図 」歌川国貞)(1848–1920) 作
:1849年5月9日、左大臣・一条忠香の三女として生まれた一条美子は、1868年明治天皇より3歳年長の19歳で入内、皇后冊立。1894年(明治27年)大婚二十五年御祝典(銀婚式)。1912年(明治45年)、明治天皇崩御に伴い皇太后になる。 Metropolitan Museum of Art所蔵。
Artist Creator:Utagawa Kunisada III Title Daigensui Heika gaisen Gokigyo (?) Description Japan; Print; Prints Date May 1895 Medium Polychrome woodblock print; ink and color on paper Dimensions 14 13/16 x 28 3/8 in. (37.6 x 72.1 cm) Collection Metropolitan Museum of Art Blue pencil.svg wikidata:Q160236 Current location Asian Art Accession number JP3274 Credit line Gift of Lincoln Kirstein, 1959
写真は、Wikimedia Commons, Category:Japanese prints in the Metropolitan Museum of Art File:Daigensui Heika gaisen Gokigyo (?)-Arrival of the Emperor at Tokyo after the Victory (Russo-Japanese War) MET DP147663.jpg(→明治28年の印刷でChina-Japanese War)引用。


石川啄木は、1909年(明治42)12月『スバル』「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」において、文学が扱ってきた国家の概念が「胡麻化し」「人としての卑怯」である批判した。

「長谷川天渓氏は、嘗て其の自然主義の立場から「国家」といふ問題を取扱った時に、一見無作に見える苦しい胡麻化しを試みたと私は信ずる。調ふが如く、自然主義者は何の理想も解決も要求せず、在るが憧に見るが故に、秋宅も国家の存在と抵触する事がないのならば、其所謂(いわゆる)旧道徳の虚偽に対して戦った勇敢な戦も、遂に同じ理由から名の無い戦になりはしないか。従来及び現在の世界を観察するに当って、道徳の性質及び発達を国家といふ組織から分離して、むし考へる事は、極めて明白な誤謬である一寧ろ日本人に最も特有なる卑怯である。」

石川啄木は、自然主義文学が、大日本帝国・国家に直面することなく、国家の権能、政府の権力、人権についての課題を避けて通っていると考えた。これが、「日本人の自然主義の事勿れ主義」への批判であり、啄木は「日本人に最も特有な卑怯である」とまで極言する。

「時代閉塞の現状」においては、石川啄木は、日本の自然主義文学の「自己主張的傾向」、自我の自覚が「科学的、運命論的、自己否定的傾向」という「純粋自然主義」といった観察者・傍観者の立場になっていると批判した。

自然主義的な日本文学が国家権威主義と共生しているとみて、「全く両者の怨敵(おんてき)たるオオソリティー国家といふものに対抗する為に政略的に行はれた結婚である」と述べて、現代日本の青年が「未だ嘗て彼[国家]の強権に対して何等(なんら)の確執をも醸した事が無い」ために、「国家が我々に取って怨敵となるべき機会も未だ嘗て無かった」ことを、青年・人民にとって不幸であると見た。「国家てふ問題が我々の脳裏に入って来るのは、ただそれそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。」 というのは、個人的利害と国家の対応・政策・法律・権力の結びつきがあった場合、国家を考える、日本とは何かを考えるが、双でなければ、国家と人権の対立、国家による人権抑圧について配慮していないと見た。「国家は強大で、なければならぬ。我々は夫(それ)を阻害すべき何等の理由も有ってゐない。但し我々だけはそれにお手伝するのは御免だ」と、人々が国に尽くすべきであるとか、教育は国家へ貢献すべき人材を育てるためにあるとか言った国家主義に基づく強権的官製教育を否定した。このことが、「今日すベ比較的教養ある殆ど総ての青年が国家と他人たる境遇に於て有ち得る愛国心の全体ではないか。」というのである。

自然主義では、人民と国家の「結合」を図ったが、「両者共敵を持たなかった。一方は敵を有つべき性質のものではなく、一方は敵を有ってゐなかった事に起因してゐたのである。」と述べた石川啄木にとって、人権抑圧、価値を押し付ける官製教育を試みる国家は敵である。これは、人々が国家に尽くす上下関係を否定し、人々と国家権威との共生や協調をも否定し、敵として国家の存在を明確に認識すべきであるとの主張である。もしも純粋自然主義が「劃一線(かくいつ戦)の態度を正確に決定し、其理論上の最後を告げて」しかるべきであるとする。自然主義と国家は「結合」ではなく、内部において「断絶」すべきであり、自分には「自己主張の強烈な欲求の残ってゐるのみ」であるとする。石川啄木は「強権あまねゆきわたの勢力」が「普く(あまねく)国内に行亘ってゐる今」、「我々青年は此自滅の状態から脱出する為に、遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達してゐるのである」と結論した。これは、石川による強権的な国家との対決姿勢を宣言したことにほかならない。

生真面目だが傍若無人な性格も併せ持つ自由人・苦労人の石川啄木は、このような「官製」鋳型の教育を思想統制と受け止め、個性と「感性」を重んじる自由な思索・詩作に明け暮れていた。戦後、日本の国会は、国家主義教育の失敗を認めて1948年「教育勅語等の失効確認に関する決議」可決しているので、現在は効力はない。

1948年6月19日衆議院「教育勅語等の失効確認に関する決議

民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の改新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。。

思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。

1948年6月19日参議院決議「教育勅語等の失効確認に関する決議

 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。

 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。

 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
 右決議する


5.石川啄木は,東京で若くして文学作品を作成,公開していた。しかし,1907年,北海道に渡り,函館,札幌,小樽,釧路と新聞社を転々とした。その間に,後の歌集の原型となるような歌を作った。

写真(右):1904年(明治37年)石川啄木(18歳)と婚約者の堀合節子:日本の歌人・詩人・評論家。本名 石川一(はじめ)。岩手県玉山村生まれ。1905年(明治38年)、新詩社で活動しつつ初詩集『あこがれ』を小田島書房より出版。他方、故郷盛岡渋民村で宝徳寺住職をしていた父・石川一禎(いってい)が借金問題で辞めざるを得なくなった。このような中、1905年5月12日、19歳の啄木は堀合節子と結婚した。婚姻届は、父が盛岡市役所に提出した。
日本語: 石川啄木 English: Takuboku Ishikawa (1986–1912) Date before 1912 Source http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/ Author Unknown author
写真は、Wikimedia Commons, Category:Takuboku Ishikawa File:Takuboku Ishikawa and his wife Setsuko.jpg引用。


石川啄木の経歴

1902年(明治35)10月『明星』に「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」 を白蘋の筆名で掲載。盛岡尋常中学校。上京,与謝野鉄幹・晶子夫妻を知る。翌年渋民村に帰郷。「岩手日報」で石川白蘋の名で評論「ワグネルの思想」を掲載。啄木の名で「明星」に詩「愁調」掲載。

1904年日露戦争勃発。『岩手日報』に「戦雲余禄』連載。翌年詩集『あこがれ』刊行。堀合節子と結婚。文芸誌『小天地』刊行。
1906年渋民尋常高等小学校の代用教員。小説『雲は天才である』執筆。小説『葬列』を『明星』に掲載。長女・京子誕生。
1907年函館市弥生尋常小学校代用教員。函館日日新聞社の遊軍記者。函館大火で失職。札幌の北門新報、小樽日報社に転職。
1908年釧路新聞社勤務。4月単身上京。11月『東京毎日新聞』に「鳥影」連載開始。翌年『スバル』創刊号発行。3月東京朝日新聞社の校正に採用。6月、妻・子・母を迎える。

1910年幸徳秋水等の「陰謀事件」を読み、『所謂今度の事』執筆。

写真(右):石川啄木(1886年2月20日 - 1912年4月13日):日本の歌人・詩人・評論家。本名 石川一(はじめ)。岩手県玉山村生まれ。母カツにとって4人の子供のうち姉妹が3人で、唯一の男児だった。盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名)入学。1902年盛岡中学を放校・退学。1905年1月5日、新詩社の新年会に参加。5月、第一詩集『あこがれ』を自費出版(上田敏序詩、与謝野鉄幹跋文)。1909年『スバル』創刊、『東京朝日新聞』校正係となる。ローマ字日記をつけ始める。1910年,第一歌集『一握の砂』刊行。1912年,第二歌集『悲しき玩具』を死後刊行。『ウィキペディア(Wikipedia)』石川啄木参照。

文学者として与謝野晶子を高く評価していた。1910年に,「時代閉塞の現状」を執筆した石川啄木は,1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門し,1908年から与謝野家に滞在した。1908年5月 啄木の日記には,「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」 「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、(与謝野鉄幹)氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」とある。
啄木は与謝野晶子『みだれ髪』を愛読していたから,「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」(blog 漱石サロン ランデエヴウ 引用)

 石川啄木は,1907年に教職を辞し,北海道へ引っ越し,1907年5月 5日〜9月13日まで132日間,函館で生活した。来道前、函館に創設された文学者団体苜蓿社ぼくしゅくしゃの雑誌『紅苜蓿』(れつどくろばあ:Red Clover)に「公孫樹」など3編を発表したのが縁で,雑誌編集を任された。また,函館商業会議所臨時職員や弥生尋常小学校臨時教員として働いた。その後,夏には奥さんと子供、母、妹を函館に呼ぶと,一家5人を養うために、8月18日に『函館日日新聞』の遊軍記者になった。しかし、尋常小学校,苜蓿社,『函館日日新聞』は、8月25日の函館大火で消失した。

写真(右):1908年(明治41年)10月4日、歌人・詩人・評論家となる石川啄木(22歳)と友人で言語学者になる金田一京助:啄木は、妻節子に「ローマ字日記」を焼却するように頼んでいたが、節子は日記を燃やさずに、理解者で言語学者の金田一に託している。
啄木は、1906年2月25日、長姉田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡で肺結核で死亡。3月、妻と母とともに、渋民村に帰郷し、4月から渋民尋常高等小学校の代用教員となる。4月の徴兵検査では体力不足で徴集免除となる。翌1907年5月、妻子を盛岡の妻の実家に、妹は小樽駅長の義兄に預けて、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)からの依頼原稿と函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる。松岡蕗堂に下宿し、新生活だった。5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる、1907年8月には、函館に家族を呼び寄せ、代用教員と兼職で函館日日新聞社の記者の仕事を得る。しかし、8月の函館大火で勤務先の学校も新聞社も焼失。9月、札幌の北門新報社校正係となるが、1カ月で退社し、小樽日報社『小樽日報』記者となり、野口雨情とともに働くも、1907年12月には退社せざるをえなくなる。1908年(明治41年)1月、社会主義者・西川光二郎の講演を聞き、社会主義の洗礼を受ける。そして、北海道議会議員・小樽日報社長兼釧路新聞社長の白石義郎のつてで、釧路新聞の編集長として職を得る。しかし、1908年4月には、上京し、新詩社に身を寄せ、5月、与謝野鉄幹の連れとして森鷗外宅で催された観潮楼歌会に出席した。こうして、22歳の啄木は文学に自分の進むべき道を見つけた。
日本語: 明治41年10月4日撮影。金田一京助 (左) と石川啄木 English: Kyōsuke Kindaichi (1882–1971, left) and Takuboku Ishikawa (1986–1912) Date 4 October 1908 Source http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-kajin.htm Author Unknown author
写真は、Wikimedia Commons, Category:Takuboku Ishikawa File:Kyosuke Kindaichi and Takuboku Ishikawa.jpg引用。


1906年(明治39年)2月25日、石川啄木の姉である田村サダが嫁ぎ先の秋田県鹿角郡で肺結核のため死亡し、3月、妻と母とともに、渋民村に帰郷して、4月から渋民尋常高等小学校の代用教員となった。この時二十歳になった啄木は、4月に徴兵検査を受け、体躯不良で徴集免除となる。翌1907年5月、啄木は妻子を盛岡の妻の実家堀合家に預け、妹は小樽駅長の堀合兄に預けて、函館に転居。そして、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)からの依頼原稿と函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる。1907年8月には、函館に家族を呼び寄せ、函館区立弥生尋常小学校の代用教員と兼職で函館日日新聞社の記者の仕事を得るが、8月25日で函館大火が発生し、勤務していた小学校・新聞社がともに焼失する不運に見舞われた。

1907年9月、石川啄木は、文学に繋がるとして、札幌で北門新報社の校正係としての職を得たが、1カ月で退社した。そして、小樽日報社『小樽日報』記者となり、野口雨情とともに働くこととなった。しかし、小樽でも、人間関係で問題を起こし、1907年12月に退社せざるをえなくなる。1908年(明治41年)1月、小樽「社会主義演説会」で社会主義者・西川光二郎の講演を聞き、幸運にも、啄木を評価していた北海道議会議員・小樽日報社長兼釧路新聞社長の白石義郎の誘いを受けて、釧路新聞編集長の職を得る。しかし、石川啄木は、文学への志を抑えがたく、1908年4月には、上京し、新詩社に身を寄せ、5月、与謝野鉄幹の連れとして森鴎外宅で催された観潮楼歌会に出席した。こうして、22歳の啄木は、文学に自分の進むべき道を見つけのである。

日清戦争の浮世絵(右)「日本万歳 百撰百笑」(百戦百勝)MIT Visualizing Cultures引用。カンナで削り取るのと同じく,清朝中国人の身を削る日本軍兵士。

北門新報』の校正子に転じた石川啄木は,1907年9月14日,札幌に下宿した。しかし,北門新報も三週間程度と短期間だった。
1907年9月27日,石川啄木は,小樽の『小樽日報』の記者となったが、仕事内容は、新聞の割付けと記事作成であった,取材ではない。12月16日に仕事をやめた。
1908年 1月21日21:30,釧路駅に到着。『釧路新聞』の記者になったが,啄木自身の証言がないために、啄木の記事を部分的にしか特定できていない。しかし,釧路新聞は現物が保存されているから,啄木が書いたであろう記事は残っていることになる。啄木は,22歳の三面主任(月給25円)として,釧路に76日間滞在した。

啄木散華 ―北海同時代の回顧録―沢田 信太郎(入力:新谷保人2006年12月24日公開)には,次のようにある。

啄木が好んで口にする題目に婦人解放論と個性尊重論とがあった。彼が着任早々一月の末に催された愛国婦人会釧路支部の新年互礼会に招待され、其席上で「現代の婦人に就て」と題して即席演説をやった。彼の最も得意とする婦人問題丈けに、平生の主張を其のまゝ骨子にして、滔々と捲くし立てた。それが可なり好評を博したので、社に帰ってから更に、「新時代の婦人」と題目を改めて新聞に発表した。こんな事から広くもない釧路の町では啄木の名が婦人社会にまで喧伝され、忽ちにして彼は有名の人物となって了った。其後釧路新聞の新社屋落成祝賀会の時に、其の余興として彼の書き下した脚本「無冠の帝王」で文士劇をやり、而も彼自ら其劇中の主役に扮すると云ふ熱狂ぶりを示めしたので、非常な評判となり、面白い石川さんから、偉らい石川さんに飛躍して行った。茲らは彼の釧路時代に於けるクライマックスではなかったかと思ふ。----

二月の半頃からしやも虎の酒に親しむ機会が多くなり、初めは、ぽんた、小蝶などを相手にしてゐたが、段々鹿嶋屋の方に足が向き、此家の市子と清子が彼にとって一日も欠くべからざる必要品となって了った。特に市子は容貌も美しく、芸才もあり、それに齢は十八とあって、若さを誇る啄木には最も適はしい遊び相手であった。其頃寄せた私への短信に市子の写真を添へて、左のやうに書いてあった。

午前十時頃起きて飯を食ひ乍ら新聞を読み、出社して立つづけに毎日三百行位書くなり。夕刻帰宿して郵書一束と名刺を閲し、返事を出すべきには返事を出して、飄然門を出づるや其行く所を知らず、宇宙は畢寛盃裡に在り焉、浅酌低唱の趣味真に掬すべし。妹共、よろしくと申居侯、就中シヤモ虎の小奴と鹿嶋屋の市ちゃんがよろしくと申居候。草々
   二月十六日夜
                       釧路洲崎町一の三十二 関方
                               啄 木 生
 小樽花園町十四
   沢田信太郎様

札幌『北門新報』の発行部数は6千部,『小樽日報』は1907年創刊,『釧路新聞』も1902年の創刊の地方の零細新聞屋で,発行部数は1,200部程度だったようだ。つまり,石川啄木の文芸活動は,北海道では,多くの読者を得られずに,無名の時代だった。

しかし,北海道時代に発表された歌は,後年有名となる『一握の砂』,『悲しき玩具』の元となるような秀逸な歌だった。

  北の海 白きなみ寄るあらいその 紅うれし浜茄子の花 (明40・10・15『小樽日報』)

  潮かをる北の浜辺の 砂山のかの花薔薇はまなすよ 今年も咲けるや (『一握の砂』初出)

  冬の磯 氷れる砂をふみゆけば 千鳥なくなり 月落つる時 (明41・3・10『釧路新聞』)

  さらさらと氷の屑が 波に鳴る 磯の月夜のゆきかへりかな (明43・11・1『スバル』初出)

  につたふ 涙のごはぬ君を見て 我が魂は洪水に浮く (明41・3『釧路新聞』)

  頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず (明41・6・23〜24作)

 石川啄木は,北海道の四つの新聞社を転々として10ヶ月を過ごし,1908年(明治41)4月、東京に戻った。『一握の砂』の刊行は、1910年12月である。
 (⇒小樽啄木忌の集い 講演「小樽のかたみ」のおもしろさ:新谷 保人北海道雑学百科:北海道生まれの文学・石川啄木,および〈亀井秀雄の発言〉文学館の見え方(○啄木の現実)引用)


◆代用教員・石川啄木「雲は天才である」1910年 

六月三十日、S――村尋常高等小學校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常いつもの如く極めて活氣のない懶ものうげな悲鳴をあげて、――恐らく此時計までが學校教師の單調なる生活に感化されたのであらう、――

 午後の三時、規定おきまりの授業は一時間前に悉皆すつかり終つた。平日いつもならば自分は今正に高等科の教壇に立つて、課外二時間の授業最中であるべきであるが、この日は校長から、お互月末の調査しらべもあるし、それに今日は妻さいが頭痛でヒドク弱つてるから可成なるべく早く生徒を歸らしたい、課外は休んで貰へまいかという話、といふのは、破格な次第ではあるが此校長の一家四人――妻と子供二人と――は、既に久しく學校の宿直室を自分等の家として居るので、村費で雇はれた小使が襁褓おしめの洗濯まで其職務中に加へられ、牝鷄ひんけい常に曉を報ずるといふ内情は、自分もよく知つて居る。何んでも妻君の顏色の曇つた日は、この一校の長たる人の生徒を遇する極めて酷だ、などいふ噂もある位、推して知るべしである。自分は舌の根まで込み上げて來た不快を辛くも噛み殺して、今日は餘儀なく課外を休んだ。一體自分は尋常科二年受持の代用教員で、月給は大枚金八圓也、毎月正に難有ありがたく頂戴して居る。それに受持以外に課外二時間宛づゝと來ては、他目よそめには勞力に伴ともなはない報酬、否、報酬に伴はない勞力とも見えやうが、自分は露聊つゆいさゝかこれに不平は抱いて居ない。何故なれば、この課外教授といふのは、自分が抑々生れて初めて教鞭をとつて、此校の職員室に末席を涜けがすやうになつての一週間目、生徒の希望を容れて、といふよりは寧ろ自分の方が生徒以上に希望して開いたので、初等の英語と外國歴史の大體とを一時間宛とは表面だけの事、實際は、自分の有つて居る一切の知識、(知識といつても無論貧少なものであるが、自分は、然し、自ら日本一の代用教員を以て任じて居る。)一切の不平、一切の經驗、一切の思想――つまり一切の精神が、この二時間のうちに、機を覗ひ時を待つて、吾が舌端より火箭くわせんとなつて迸しる。的(まと)なきに箭やを放つのではない。男といはず女といはず、既に十三、十四、十五、十六、といふ年齡の五十幾人のうら若い胸、それが乃すなはち火を待つばかりに紅血こうけつの油を盛つた青春の火盞ひざらではないか。火箭が飛ぶ、火が油に移る、嗚呼そのハッ/\と燃え初そむる人生の烽火のろしの煙の香ひ! 英語が話せれば世界中何處へでも行くに不便はない。ただこの平凡な一句でも自分には百萬の火箭を放つべき堅固な弦つるだ。

昔希臘ギリシヤといふ國があつた。基督が磔刑はりつけにされた。人は生れた時何物をも持つて居ないが精神だけは持つて居る。羅馬は一都府の名で、また昔は世界の名であつた。ルーソーは歐羅巴中に響く喇叭を吹いた。コルシカ島はナポレオンの生れた處だ。バイロンといふ人があつた。トルストイは生きて居る。ゴルキーが以前放浪者ごろつきで、今肺病患者である。露西亞は日本より豪い。我々はまだ年が若い。血のない人間は何處に居るか。……ああ、一切の問題が皆火の種だ。自分も火だ。五十幾つの胸にも火事が始まる。四間に五間の教場は宛然さながら熱火の洪水だ。自分の骨ほね露あらはに痩せた拳が礑はたと卓子テーブルを打つ。と、躍り上るものがある、手を振るものがある。萬歳と叫ぶものがある。完まつたく一種の暴動だ。自分の眼瞼まぶたから感激の涙が一滴溢れるや最後、其處にも此處にも聲を擧げて泣く者、上氣して顏が火と燃え、聲も得え出ださで革命の神の石像の樣に突立つ者、さながら之れ一幅ぷく生命反亂の活畫圖くわつぐわづが現はれる。涙は水ではない、心の幹をしぼつた樹脂やにである、油である。火が愈々燃え擴がる許りだ。

『千九百○六年……此年○月○日、S――村尋常高等小學校内の一教場に暴動起る』と後世の世界史が、よしや記しるさぬまでも、この一場の恐るべき光景は、自分並びに五十幾人のジャコビン黨の胸板には、恐らく「時」の破壞の激浪も消し難き永久不磨の金字で描かれるであらう。疑ひもなく此二時間は、自分が一日二十四時間千四百四十分の内、最も得意な、愉快な、幸福な時間で、大方自分が日々この學校の門を出入する意義も、全くこの課外教授がある爲めであるらしい。

然し乍ら此日六月三十日、完全なる『教育』の模型として、既に十幾年の間身を教育勅語の御前に捧げ、口に忠信孝悌の語を繰返す事正に一千萬遍、其思想や穩健にして中正、其風采や質樸無難にして具さに平凡の極致に達し、平和を愛し温順を尚ぶの美徳餘つて、妻君の尻の下に布かるゝをも敢て恥辱とせざる程の忍耐力あり、現に今このS――村に於ては、毎月十八圓といふ村内最高額の俸給を受け給ふ――田島校長閣下の一言によつて、自分は不本意乍ら其授業を休み、間接には馬鈴薯に目鼻よろしくといふマダム田島の御機嫌をとつた事になる不面目を施し、退いて職員室の一隅に、兒童出席簿と睨み合をし乍ら算盤そろばんの珠をさしたり減ひいたり、過去一ヶ月間に於ける兒童各自の出缺席から、其總數、其歩合を計算して、明日は痩犬の樣な俗吏の手に渡さるべき所謂月表なるものを作らねばならぬ。それのみなら未まだしも、成績の調査、缺席の事由、食料携帶の状況、學用品供給の模樣など、名目は立派でも殆んど無意義な仕事が少なからずあるのである。茲に於て自分は感じた、地獄極樂は決して宗教家の方便ではない、實際我等の此の世界に現存して居るものである、と。

さうだ、この日の自分は明らかに校長閣下の一言によつて、極樂へ行く途中から、正確なるべき時間迄が娑婆の時計と一時間も相違のある此の蒸むし熱あつき地獄に墮おとされたのである。算盤の珠のパチ/\/\といふ音、これが乃ち取りも直さず、中世紀末の大冒險家、地極煉獄天國の三界を跨またにかけたダンテ・アリギエリでさへ、聞いては流石に膽きもを冷した『パペ、サタン、パペ、サタン、アレッペ』といふ奈落の底の聲ではないか。自分は實際、この計算と來ると、吝嗇しみつたれな金持の爺が己の財産を勘定して見る時の樣に、ニコ/\ものでは兎とても行やれないのである。極樂から地獄! この永劫の宣告を下したものは誰か、抑々誰か。曰く、校長だ。自分は此日程此校長の顏に表れて居る醜惡と缺點とを精密に見極めた事はない。

第一に其鼻下の八字髯が極めて光澤が無い、これは其人物に一分一厘の活氣もない證據だ。----、恐らく向上といふ事を忘却した精神の象徴はこれであらう。亡國の髯だ、朝鮮人と昔の漢學の先生と今の學校教師にのみあるべき髯だ、黒子ほくろが總計三箇ある、就中大きいのが左の目の下に不吉の星の如く、如何にも目障めざはりだ。これは俗に泣黒子なきぼくろと云つて、幸にも自分の一族、乃至は平生畏敬して居る人々の顏立かほだちには、ついぞ見當らぬ道具である。宜むべなる哉、この男、どうせ將來好い目に逢ふ氣づかひが無いのだもの。……數へ來れば幾等もあるが、結句、田島校長=0という結論に歸着した。詰り、一毫の微びと雖ども自分の氣に合ふ點がなかつたのである。

 この不法なるクーデターの顛末てんまつが、自分の口から、生徒控處の一隅で、殘りなく我がジャコビン黨全員の耳に達せられた時、一團の暗雲あつて忽ちに五十幾個の若々しき天眞の顏を覆うた。樂園の光明門を閉ざす鉛色の雲霧である。明らかに彼等は、自分と同じ不快、不平を一喫したのである。無論自分は、かの妻君の頭痛一件まで持ち出したのではない、が、自分の言葉の終るや否や、或者はドンと一つ床を蹴つて一喝した、『校長馬鹿ツ。』更に他の聲が續いた、『鰻ツ。』『蒲燒にするぞツ。』最後に『チェースト』と極めて陳腐な奇聲を放つて相和した奴もあつた。自分は一盻げいの微笑を彼等に注ぎかけて、靜かに歩みを地獄の門に向けた。軈て十五歩も歩んだ時、急に後うしろの騷ぎが止やんだ、と思ふと、『ワン、ツー、スリー、泥鰻どろうなぎ――』と、校舍も爲めに動く許りの鬨の聲、中には絹裂く樣な鋭どい女生徒の聲も確かに交つて居る。

餘りの事に振向いて見た、が、此時は既に此等革命の健兒の半數以上は生徒昇降口から風に狂ふ木の葉の如く戸外へ飛び出した所であつた。恐らく今日も門前に遊んで居る校長の子供の小さい頭には、時ならぬ拳こぶしの雨の降つた事であらう。然し控處にはまだ空しく歸りかねて殘つた者がある。機會を見計つて自分に何か特にお話を請求しようといふ執心の輩てあひ、髮長き兒も二人三人見える、――總て十一二人。小使の次男なのと、女教師の下宿して居る家の兒と、(共に其縁故によつて、校長閣下から多少大目に見られて居る)この二人は自分の跡から尾ついて來たまゝ、先刻さつきからこの地獄の入口に門番の如く立つて、中の樣子を看守して居る。

   詳しく説明すれば、實に詰らぬ話であるが、問題は斯うである。二三日以前、自分は不圖した轉機はずみから思附いて、このS――村小學校の生徒をして日常朗唱せしむべき、云はゞ校歌といつた樣な性質の一歌詞を作り、そして作曲した。作曲して見たのが此時、自分が呱々の聲をあげて以來二十一年、實際初めてゞあるに關らず、恥かし乍ら自白すると、出來上つたのを聲の透る我が妻に歌はせて聞いた時の感じでは、少々巧い、と思はれた。今でもさう思つて居るが……。妻からも賞められた。その夜遊びに來た二三の生徒に、自分でヰオリンを彈き乍ら教へたら、矢張賞めてくれた、然も非常に面白い、これからは毎日歌ひますと云つて。----作歌作曲は決して盜人、僞善者、乃至一切破廉恥漢の行爲と同一視さるべきではない。マサカ代用教員如きに作曲などをする資格がないといふ規定もない筈だ。して見ると、自分は不相變あひかはらず正々堂々たるものである、俯仰して天地に恥づる所なき大丈夫である。

所が、豈あに曷いづくんぞ圖らんや、この堂々として赤裸々たる處が却つて敵をして矢を放たしむる的となつた所以であつたのだ。ト何も大袈裟に云ふ必要もないが、其歌を自分の教へてやつた生徒は其夜僅か三人(名前も明らかに記憶して居る)に過ぎなかつたが、何んでもジャコビン黨員の胸には皆同じ色――若き生命の淺緑と湧き立つ春の泉の血の色との火が燃えて居て、脣が皆一樣に乾いて居る爲めに野火の移りの早かつたものか、一日二日と見る/\うちに傳唱されて、今日は早や、多少調子の違つた處のないでもないが、高等科生徒の殆んど三分の二、イヤ五分の四迄は確かに知つて居る。

 午後三時前三――四分、今迄矢張り不器用な指を算盤の上に躍らせて、『パペ、サタン、パペ、サタン』を繰返して居た校長田島金藏氏は、今しも出席簿の方の計算を終つたと見えて、やをら頭を擡げて煙管きせるを手に持つた。ポンと卓子テーブルの縁ふちを敲たたく、トタンに、何とも名状し難い、狸の難産の樣な、水道の栓から草鞋でも飛び出しさうな、――も少し適切に云ふと、隣家の豚が夏の眞中に感冒かぜをひいた樣な奇響――敢て、響といふ――が、恐らく仔細に分析して見たら出損なつた咳の一種でゞもあらうか、彼の巨大なる喉佛の邊から鳴つた。次いで復また幽かなのが一つ。もうこれ丈けかと思ひ乍ら自分は此時算盤の上に現はれた八四・七九という數を月表の出席歩合男の部へ記入しようと、筆の穗を一寸噛んだ。此刹那、沈痛なる事晝寢の夢の中で去年死んだ黒猫の幽靈の出た樣な聲あつて、

『新田さん。』 と呼んだ。校長閣下の御聲掛りである。

 自分はヒョイと顏を上げた。と同時に、他の二人――首座と女教師も顏を上げた。此一瞬からである、『パペ、サタン、パペ、サタン、アレッペ』の聲の礑はたと許り聞えずなつたのは。女教師は默つて校長の顏を見て居る。首席訓導はグイと身體をもぢつて、煙草を吸ふ準備をする。何か心に待構へて居るらしい。然り、この僅か三秒の沈默の後には、近頃珍らしい嵐が吹き出したのだもの。

『貴男あなたに少しお聞き申したい事がありますがナ。エート、生命いのちの森の……。何でしたつけナ、初の句は?(と首座訓導を見る、首座は、甚だ迷惑といふ風で默つて下を見た。)ウン、左樣々々、春まだ淺く月若き、生命いのちの森の夜の香に、あくがれ出でて、……とかいふアノ唱歌ですて。アレは、新田さん、貴男あなたが祕ひそかに作つて生徒に歌はせたのだと云ふ事ですが、眞實ほんとですか。』
『嘘です。歌も曲も私の作つたには相違ありませぬが、祕かに作つたといふのは嘘です。蔭仕事は嫌ひですからナ』
『デモさういふ事でしたつけね、古山さん先刻さつきの御話では。』と再び隣席の首座訓導を顧みる。

 此光景を目撃して、ハヽア、然うだ、と自分は早や一切を直覺した。かの正々堂々赤裸々として俯仰天地に恥づるなき我が歌に就いて、今自分に持ち出さんとして居る抗議は、蓋し泥鰻金藏閣下一人の頭腦から割出したものではない。完まつたく古山と合議の結果だ。或は古山の方が當の發頭人であるかも知れない。イヤ然うあるべきだ、------隨つて主義も主張もない、(昔から釣の名人になるやうな男は主義も主張も持つてないと相場が極つて居る。)隨つて當年二十一歳の自分と話が合はない。自分から云はせると、校長と謂ひ此男と謂ひ、營養不足で天然に立枯になつた朴ほうの木の樣なもので、松なら枯れても枝振えだぶりといふ事もあるが、何の風情もない。

 斯くの如くして、自分は常に職員室の異分子である。繼ままツ子である、平和の攪亂者と目されて居る。若し此小天地の中に自分の話相手になる人を求むれば、それは實に女教師一人のみだ。芳紀やゝ過ぎて今年正に二十四歳、自分には三歳の姉である。それが未まだ、獨身で熱心なクリスチァンで、讃美歌が上手で、新教育を享けて居て、思想が先づ健全で、顏は? 顏は毎日見て居るから別段目にも立たないが、頬は桃色で、髮は赤い、目は年に似はず若々しいが、時々判斷力が閃めく、尋常科一年の受持であるが、誠に善良なナースである。で、大抵自分の云ふ事が解る。理のある所には屹度きつと同情する。然し流石に女で、それに稍々思慮が有過ありすぎる傾があるので、今日の樣な場合には、敢て一言も口を出さない。が、其眼球の輕微なる運動は既に十分自分の味方であることを語つて居る。況んや、現に先刻この女が、自分の作つた歌を誰から聞いたものか、低聲に歌つて居たのを、確かに自分は聽いたのだもの。

 『其歌は校長さんの御認可を得たのですか。』
『イヤ、決して、斷じて、許可を下した覺えはありませぬ。』と校長は自分の代りに答へて呉れる。
 自分はケロリとして煙管を啣くはへ乍ら、幽かな微笑を女教師の方に向いて洩した。古山もまた煙草を吸ひ始める。
 校長は、と見ると、何時の間にか赤くなつて、鼻の上から水蒸氣が立つて居る。『どうも、餘りと云へば自由が過ぎる。新田さんは、それあ新教育も享けてお出でだらうが、どうもその、少々身勝手が過ぎるといふもんで……。』
『さうですか。』
『さうですかツて、それを解らぬ筈はない。一體その、エート、確か本年四月の四日の日だつたと思ふが、私が郡視學さんの平野先生へ御機嫌伺ひに出た時でした。さう、確かに其時です。新田さんの事は郡視學さんからお話があつたもんだで、遂つい私も新田さんを此學校に入れた次第で、郡視學さんの手前もあり、今迄は隨分私の方で遠慮もし、寛裕おほめにも見て置いた譯であるが、然し、さう身勝手が過ぎると、私も一校の司配を預かる校長として、』と句を切つて、一寸反り返る。此機を逸はづさず自分は云つた。 『どうぞ御遠慮なく。』
『不埓ふらちだ。校長を屁とも思つて居らぬ。』
 この聲は少し高かつた。握つた拳で卓子をドンと打つ、驚いた樣に算盤が床へ落ちて、けたゝましい音を立てた。自分は今迄校長の斯う活氣のある事を知らなかつた。或は自白する如く、今日迄は郡視學の手前遠慮して居たかも知れない。然し彼の云ふ處は實際だ。自分は實際此校長位は屁とも思つて居ないのだもの。この時、後の障子に、サと物音がした。マダム馬鈴薯が這ひ出して來て、樣子如何にと耳を濟まして居るらしい。

生ける女神めがみ――貧乏の?――は、石像の如く無言で突立つた。やがて電光の如き變化が此室内に起つた。校長は今迄忘れて居た嚴格の態度を再び裝はんとするものの如く、其顏面筋肉の二三ヶ所に、或る運動を與へた。援軍の到來と共に、勇氣を回復したのか、恐怖を感じたのか、それは解らぬが、兎に角或る激しき衝動を心に受けたのであらう。古山も面を上げた。然し、もうダメである。攻勢守勢既に其地を代へた後であるのだもの。自分は敵勢の加はれるに却つて一層勝誇つた樣な感じがした。女教師は、女神を一目見るや否や、譬へ難き不快の霧に清い胸を閉されたと見えて、忽ちに俯いた。見れば、恥辱を感じたのか、氣の毒と思つたのか、それとも怒つたのか、耳の根迄紅くなつて、鉛筆の尖さきでコツ/\と卓子テーブルを啄つついて居る。

 古山が先づ口を切つた。『然し、物には總て順序がある。其順序を踏まぬ以上は、……一足飛びに陸軍大將にも成れぬ譯ですて。』成程古今無類の卓説である。
 校長が續いた。『其正當の順序を踏まぬ以上は、たとへ校歌に採用して可いものであつても未だ校歌とは申されない。よし立派な免状を持つて居らぬにしても、身を教育の職に置いて月給迄貰つて居る者が、物の順序を考へぬとは、餘りといへば餘りな事だ。』  

不意に、若々しい、勇ましい合唱の聲が聞えた。二階の方からである。

春まだ淺く月若き
生命いのちの森の夜よるの香かに
あくがれ出でて我が魂たまの
夢むともなく夢むれば……

 あゝ此歌である、日露開戰の原因となつたは。自分は颯と電氣にでも打たれた樣に感じた。

新田さん、學校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術、國語、地理、歴史は勿論の事、唱歌、裁縫の如きでさへ、チヤンと細目が出來て居ます。私共長年教育の事業に從事した者が見ますと、現今の細目は實に立派なもので、精に入り微を穿つとでも云ひませうか。----正眞ほんたうの教育者といふものは、其完全無缺な規定の細目を守つて、一毫亂れざる底ていに授業を進めて行かなければならない、若しさもなければ、小にしては其教へる生徒の父兄、また月給を支拂つてくれる村役場にも甚だ濟まない譯、大にしては我々が大日本の教育を亂すといふ罪にも坐する次第で、完たく此處の所が、我々教育者にとつて最も大切な點であらうと私などは、既に十年の餘も、――此處へ來てからは、まだ四年と三ヶ月にしか成らぬが、――努力精勵して居るのです。尤も、細目に無いものは一切教へてはならぬといふのではない。そこはその、先刻から古山さんも頻りに主張して居られる通り、物には順序がある。順序を踏んで認可を得た上なれば、無論教へても差支へがない。若しさうでなくば、只今諄々じゆん/\と申した樣な仕儀になり、且つ私も校長を拜命して居る以上は、私に迄責任が及んで來るかも知れないのです。それでは、何うもお互に迷惑だ。のみならず吾校の面目をも傷ける樣になる。』

『大變な事になるんですね。』と自分は極めて洒々しやあ/\たるものである。尤も此お説法中は、時々失笑を禁じえなんだので、それを噛み殺すに少からず骨を折つたが。『それでつまり私の作つた歌が其完全無缺なる教授細目に載つて居ないのでせう。』

一隊の健兒は、春の曉の鐘の樣な冴え/″\した聲を張り上げて歌ひつゞけ乍ら、勇ましい歩調あしどりで、先づ廣い控處の中央に大きい圓を描いた。と見ると、今度は我が職員室を目蒐けて堂々と練ねつて來るのである。

「自主(じしゆ)」の劍つるぎを右手めてに持ち、 左手ゆんでに翳かざす「愛」の旗、 「自由」の駒に跨がりて 進む理想の路すがら、 今宵生命いのちの森の蔭 水のほとりに宿かりぬ。

そびゆる山は英傑の 跡を弔ふ墓標はかじるし、 音なき河は千載に 香る名をこそ流すらむ。 此處は何處と我問へば、 汝なが故郷と月答ふ。

勇める駒の嘶いななくと 思へば夢はふと覺めぬ。 白羽の甲かぶと銀の楯 皆消えはてぬ、さはあれど ここに消えざる身ぞ一人 理想の路に佇みぬ。

雪をいただく岩手山 名さへ優しき姫神の 山の間を流れゆく 千古の水の北上に 心を洗ひ……

と此處まで歌つたときは、恰度ちやうど職員室の入口に了輔の右の足が踏み込んだ處である。歌は止んだ。此數分の間に室内に起つた光景は、自分は少しも知らなんだ。自分はたゞ一心に歩んでくる了輔の目を見詰めて、心では一緒に歌つてゐたのである。――然も心の聲のあらん限りをしぼつて。

 不圖氣がつくと、世界滅盡の大活劇が一秒の後に迫つて來たかと見えた。校長の顏は盛んな山火事だ。そして目に見ゆる程ブル/\と震へて居る。古山は既に椅子から突立つて飢饉に逢つた仁王樣の樣に、拳を握つて矢張震へて居る。青い太い靜脈が顏一杯に脹れ出して居る。

『一寸御紹介します。この方は、私の兄とも思つて居る人からの紹介状を持つて、遙々訪ねて下すつた石本俊吉君です。』
 得意の微笑を以て自分は席に復した。石本も腰を下した。二人の目が空中に突當る。此時自分は、對手の右の目が一種拔群の眼球を備へて居る事を發見した。無論頭腦の敏活な人、智の活力の盛んな人の目ではない。が兎に角拔群な眼球である丈けは認められる。そして其拔群な眼球が、自分を見る事決して初對面の人の如くでなく、親しげに、なつかしげに、十年の友の如く心置きなく見て居るといふ事をも悟つた。ト同時に、口の歪んで居る事も、獨眼龍な事も、ナポレオンの骸骨な事も、忠太の云つた「氣をつけさつしあい」といふ事も、悉皆すつかり胸の中から洗ひ去られた。感じ易き我が心は、利害得失の思慮を運らす暇もなく、彼の目に溢れた好意を其儘自分の胸の盃で享けたのだ。いくら浮世の辛い水を飮んだといつても、年若い者のする事は常に斯うである。思慮ある人は笑ひもしよう。笑はば笑へ、敢て關するところでない。自分は年が若いのだもの。あゝ、青春幾時かあらむ。よしや頭が禿げてもこの熱あつたかい若々しい心情こゝろもちだけは何日いつまでも持つて居たいものだと思つて居る。曷いづくんぞ今にして早く蒸溜水の樣な心に成られるよう。自分と石本俊吉とは、逢會僅か二分間にして既に親友と成つた。自分は二十一歳、彼は、老ふけても見え若くも見えるが、自分よりは一歳ひとつか二歳ふたつ兄であらう。何れも年が若いのだ。初對面の挨拶が濟んだ許りで、二人の目と目とが空中で突當る。此瞬間に二つの若き魂がピタリと相觸れた。親友に成る丈けの順序はこれで澤山だ。自分は彼も亦一個の快男兒であると信ずる。

今思ひ出す、彼は嘗て斯う云うた事がある、『監獄が惡人の巣だと考へるのは、大いに間違つて居るよ、勿體ない程間違つて居るよ。鬼であるべき筈の囚人共が、政府の官吏として月給で生き劍をブラ下げた我々看守を、却つて鬼と呼んで居る。其筈だ、眞の鬼が人間の作つた法律の網などに懸るものか。囚人には涙もある、血もある、又よく物の味も解つて居る、實に立派な戰士だ、たゞ悲しいかな、一つも武器といふものを持つて居ない。世の中で美うまい酒を飮んでゐる奴等は、金とか地位とか、皆それ/″\に武器を持つて居るが、それを、その武器だけを持たなかつた許りに戰がまけて、立派な男が柿色の衣を着る。君、大臣になれば如何な現行犯をやつても、普通の巡査では手を出されぬ世の中ではないか。僕も看守だ、が、同僚と喧嘩はしても、まだ囚人の頬片ほつぺたに指も觸れた事がない。朝から晩まで夜叉の樣に怒鳴つて許り居る同僚もあるが、どうして此僕にそんな事が出來るものか。』

石本俊吉は今八戸(はちのへ)から來た。然し故郷はズット南の靜岡縣である。土地で中等の生活をして居る農家に生れて、兄が一人妹が一人あつた。妹は俊吉に似ぬ天使の樣な美貌を持つて居たが、其美貌祟りをなして、三年以前、十七歳の花盛の中に悲慘な最後を遂げた。公吏の職にさへあつた或る男の、野獸の如き貪婪どんらんが、罪なき少女の胸に九寸五分の冷鐵を突き立てたのだといふ。兄は立派な體格を備へて居たが、日清の戰役に九連城畔であへなく陣歿した。『自分だけは醜い不具者であるから未だ誰にも殺されないのです。』と俊吉は附加へた。

『天野は罷めたんですか、學校を?』『エ? 左樣々々、君はまだ御存じなかつたんだ。罷めましたよ、到頭。何でも校長といふ奴と、――僕も二三度見て知つてますが、鯰髭なまづひげの隨分變梃へんてこな高麗人かうらいじんでネ。その校長と素晴しい議論をやつて勝つたんですとサ。それでに二三日經つと突然免職なんです。今月の十四五日の頃でした。』
『さうでしたか。』と自分は云つたが、この石本の言葉には、一寸顏にのぼる微笑を禁じ得なかつた。何處の學校でも、校長は鯰髭の高麗人で、議論をすると屹度きつと敗まけるものと見える。

が兎も角、我が石本君の極めて優秀なる風采と態度とは、決して平凡な一本路を終始並足で歩いて來た人でないといふ事丈けは、完全に表はして居るといつて可い。まだ一言の述懷も説明も聞かぬけれど、自分は斯う感じて無限の同情を此悄然たる人に捧げた。自分と石本君とは百分の一秒毎に、密接の度を強めるのだ。そして、旅順の大戰に足を折られ手を碎かれ、兩眼また明を失つた敗殘の軍人の、輝く金鵄勳章を胸に飾つて乳母車で通るのを見た時と同じ意味に於ての痛切なる敬意が、また此時自分の心頭に雲の如く湧いた。

「然し天野君が云つて呉れるんです、「君も不幸な男だ、實に不幸な男だ。が然し、餘り元氣を落すな。人生の不幸を滓(かす)まで飮み干さなくては眞の人間になれるものぢやない。人生は長い暗い隧道だ、處々に都會といふ骸骨の林があるツ限きり。それにまぎれ込んで出路を忘れちや可けないぞ。そして、脚の下にはヒタ/\と、永劫の悲痛が流れて居る、恐らく人生の始よりも以前から流れて居るんだナ。それに行先を阻はゞまれたからと云つて、其儘歸つて來ては駄目だ、暗い穴が一層暗くなる許りだ。死か然らずんば前進、唯この二つの外に路が無い。前進が戰鬪だ。戰ふには元氣が無くちや可いかん。だから君は餘り元氣を落しては可けないよ。少なくとも君だけは生きて居て、そして最後まで、壯烈な最後を遂げるまで、戰つて呉れ給へ。血と涙さへ涸かれなければ、武器も不要いらぬ、軍略も不要、赤裸々で堂々と戰ふのだ。この世を厭になつては其限(それつき)りだ。少なくとも君だけは厭世的な考へを起さんで呉れ給へ。今までも君と談合かたりあつた通り、現時の社會で何物かよく破壞の斧に値せざらんやだ、全然破壞する外に、改良の餘地もない今の社會だ。建設の大業は後に來る天才に讓つて、我々は先づ根柢まで破壞の斧を下さなくては不可いかん。然しこの戰ひは決して容易な戰ひではない。容易でないから一倍元氣が要(い)る。元氣を落すな。君が赤裸々で乞食をして郷國(くに)へ歸るといふのは、無論遺憾な事だ、然し外に仕方が無いのだから、僕も賛成する。尤も僕が一文無しでなかつたら、君の樣な身體の弱い男に乞食なんぞさせはしない。然し君も知つての通りの僕だ。ただ、何日か君に話した新田君へ手紙をやるから新田には是非逢つて行き給へ。何とか心配もしてくれるだらうから、僕にはアノ男と君の外に友人といふものは一人も無いんだから喃(なあ)。」

『さうですか。天野はまた何處かへ行くと云つてましたか。アノ男も常に人生の裏路許り走つて居る男だが、甚(どんな)計劃をしてるのかネー。』
『無論それは僕なんぞに解らないんです。アノ人の言ふ事行やる事、皆僕等凡人の意想外ですからネ。然し僕はモウ頭ツから敬服してます。天野君は確かに天才です。豪い人ですよ。今度だつて左樣でせう、自身が遠い處へ行くに旅費だつて要らん筈がないのに、財産一切を賣つて僕の汽車賃にしようと云ふのですもの。これが普通の人間に出來る事こツてすかネ。さう思つたから、僕はモウ此厚意だけで澤山だと思つて辭退しました。それからまた暫らく、別れともない樣な氣がしまして、話してますと、「モウ行け。」と云ふんです。「それでは之でお別れです。」と立ち上りますと、少し待てと云つて、鍋の飯を握つて大きい丸飯ぐわんぱんを九つ拵こしらへて呉れました。僕は自分でやりますと云つたんですけれど、「そんな事を云ふな、天野朱雲が最後の友情を享けて潔よく行つて呉れ。」と云ひ乍ら、涙を流して僕には背を向けて孜々せつせと握るんです。僕はタマラナク成つて大聲を擧げて泣きました。泣き乍ら手を合せて後姿を拜みましたよ。天野君は確かに豪いです。アノ人の位豪い人は決してありません。

「お別れです。」と辛うじて云つて見ましたが、自分の聲の樣で無い、天野君は突伏した儘で、「行け。」と怒鳴るんです。僕はモウ何とも云へなくなつて、大聲に泣きながら驅け出しました。路次の出口で振返つて見ましたが、無論入口には出ても居ません。見送って呉れる事も出來ぬ程悲しんで呉れるのかと思ひますと、有難いやら嬉しいやら怨めしいやらで、丸飯の包を兩手に捧げて入口の方を拜んだとまでは知つてますが、アトは無宙むちうで驅け出したです。……人生は何處までも慘苦です。僕は天野君から眞の弟の樣にされて居たのが、自分一生涯の唯一度の幸福だと思ふのです。』
 語り來つて石本は、痩せた手の甲に涙を拭ぬぐつて悲氣かなしげに自分を見た。自分もホッと息を吐ついて涙を拭つた。女教師は卓子テーブルに打伏して居る。(「雲は天才である」引用終わり


石川啄木は、鋭敏な心で、日常の催事で心に刺さった棘、日露戦争を戦ったロシアの庶民の善良なる魂について、1910年に次のように書いている。

◆石川啄木「我が最近の興味」1910年 

 [ロシアの]ヴオルガ河岸のサラトフといふ處で、汽船アレクサンダア二世號が出帆しようとしてゐた時の事だ。客は恐ろしく込んでゐた。一二等の切符はすつかり賣切れて了つて、三等室にも林檎一つ落とす程の隙が無く、客は皆重なり合ふやうにして坐つた。汽笛の鳴つてからであつたが、船の副長があわたゞしく三等客の中を推し分けて來て、今しがた金を盜まれたと言つて訴へた一人の百姓の傍に立つた。

『ああ旦那、金はもう見めつかりましただあよ。』と彼は言つた。
『何處に有つた?』
『其處にゐる軍人の外套まんとからだに。私いさうだんべと思つて探したら、慥かにはあ四十一留ルーブルと二十哥コペエクありましただあ。』言ひながら百姓は、分捕品でゝも有るかのやうに羚羊かもしかの皮の財布を振り回し
『その軍人てのは何どれだ!』
『それ其處に寢てるだあ。』
『よし、それぢあ其奴を警察に渡さなくちやならん。』
『警察に渡すね? 何故警察に渡すだね? 南無阿彌陀佛なんまあみだぶ、止して御座らつせえ。此奴に手を付けるでねえだよ。默つて寢かして置きなせえ。』そして、飾り氣の無い、柔しい調子で付け加へた。『慥たしかに金ははあ見めつかつただもの。皆此處にあるだ。それをはあ此の上何が要るだね?』
 さうして此事件は終つた。

 右は教授パウル・ミルヨウコフ氏が嘗て市俄高大學の聘に應じて講演し、後同大學から出版された講演草稿『露西亞と其の危機』中、教授自らの屬する國民――露西亞人の性格を論じた條くだりに引用した、一外國旅行家の記述の一節である。  明治四十三年五月下旬、私は東京市内の電車の中で、次のやうな事實を目撃した。――雨あがりの日の午前の事である。品川行の一電車が上野廣小路の停留場を過ぎて間もなく、乘合の一人なる婦人――誰の目にも上流社會の人と見えるやうな服裝をした、然しながら其擧止と顏貌とに表はれた表情の決して上品でない、四十位の一婦人が、一枚の乘換切符を車掌に示して、更に次の乘換の切符を請求した。

『これは可けません、これは廣小路の乘換ぢやありませんか?』
『おや、さうですか? 私は江戸川へ行くんですから、須田町で乘換へたつて可いゝぢやありませんか?」
『須田町から回ってても行けますが、然し此の切符は廣小路の乘換に切つてありますから、此方へ乘ると無効になります。』
『ですけども行先は江戸川に切つて有るでせう?』
『行先は江戸川でも乘換は廣小路です。』
『同じ江戸川へ行くんなら、何處で乘換へたつて可いゝぢやありませんか?』
『さうは行きません。切符の裏にちやんと書いてあります。』
『それぢやあこれは無効ですか? まあ何て私は馬鹿だらう、田舍者みたいに電車賃を二度取りされてさ!』
『誰も二度取りするたあ言ひやしません。切符は無効にや無効ですけれど、貴方が知らずにお間違ひになつたのですから、切符は別に須田町からにして切つて上げます。』
『いいえ要りません。』貴婦人はさう言つた。犬が尾を踏まれて噛み付く時のやうな調子だつた。『私が間違つたのが惡いのですから、別に買ひます。』

 そして帶の間から襤褸錦(つゞれにしき)の紙入を取出し、『まあ、細(こま)かいのが無かつたかしら。』と言ひながら、態とらしく幾枚かの紙幣の折り重ねたのを出して、紙入の中を覗いた。
『そんな事をなさらなくても可いんです。切符は上げると言つてるのですから。』言ひながら車掌は新らしい乘換切符に鋏を入れた。 『いゝえ可う御座んす。私が惡いのですから。』と貴婦人は復言つた。
 幾度の推問答の末に、車掌は今切つた乘換切符を口に啣へて、職務に服從する恐ろしい忍耐力を顏に表しながら、貴婦人の爲に新らしく往復切符を切らされた。
 そればかりでは濟まなかつた。車掌が無効に歸した先せんの乘換切符を其儘持つて行かうとすると、貴婦人は執念くも呼び止めて、
『それは私が貰つて行きます。こんな目に遭つたのは私は始めてゞすから、記念に貰つて行きます。
家(うち)の女中共に話して聞かせる時の種にもなりますから。』と言つた。
『不用になつた乘換切符は車掌が頂くのが規則です。』
『車掌さん方の規則は私は知らないけれど、用に立たない物なら一枚位可(いい)ぢやありませんか?』
『さうですか!』卒氣なく言つて、車掌は貴婦人の意に從つた。そして近づきつゝある次の停留場の名を呼びながら車掌臺に戻つた。
 貴婦人は其一枚の切符を丁寧に四つに疊んで、紙入の中に藏しまつた。それでも未だ心が鎭らぬと見えて、『何て物の解らない車掌だらう。』とか、『私が不注意だから爲方がないけれども。』とかぶつぶつ呟いてゐた。
『待合の女將おかみでえ!』突然さう言つた者が有つた。私は驚いて目を移した。其處には吸ひさしの卷煙草を耳に挾んだ印半纏を着た若い男が、私と同じ心を顏に表して、隅の方から今の婦人を睨めて居た。

 其の時の心は、蓋し、此の文を讀む人の想像する通りである。そして私は、其烈しい厭惡の情の間に、前段に抄譯した、ヴオルガ河の汽船の中に起つた事件を思ひ起してゐた。――日本人の國民的性格といふ問題に考へを費すことを好むやうになつた近頃の私の頭腦(あたま)では、此事件を連想する事が必ずしも無理でなかつた。
 私は毎日電車に乘つてゐる。此電車内に過ごす時間は、色々の用事を有つてゐる急がしい私の生活に取つて、民衆と接觸する殆ど唯一の時間である。私は此時間を常に尊重してゐる。出來るだけ多くの觀察を此の時間にしたいと思つてゐる。――そして私は、殆ど毎日のやうに私が電車内に於て享ける不快なる印象を囘想する毎に、我々日本人の爲に、竝びに我々の此の時代の爲に、常に一種の悲しみを催さずには居られない。――それらの數限りなき不快なる印象は、必ずしも我々日本人の教化カルチユアの足らぬといふ點にばかり原因してはゐない、我々日本人が未だ歐羅巴的の社會生活に慣れ切つてゐないといふ點にばかり原因してはゐない。私はさう思ふ。若しも日露戰爭の成績が日本人の國民的性格を發揮したものならば、同じ日本人によつて爲さるゝそれ等市井の瑣事も亦、同樣に日本人の根本的運命を語るものでなければならぬ。
 若しも讀者の中の或人が、此處に記述した二つの事件によつて、私が早計にも日露兩國民の性格を比較したものと見るならば、それは甚だしい誤解である。――私は私の研究をそんな單純な且つ淺いものにしたくない。此處には唯、露西亞の一賤民の愛すべき性情と、明治四十三(1910年)年五月下旬の某日、私が東京市内の電車に於て目撃した一事件とを、アイロニカルな興味を以て書き列べて見たまでである。(五月四日夜東京に於て)

(明43・7「曠野」)


6.石川啄木は,資本主義の発展の中で,学生,知識人が無気力感、虚無主義(ニヒリズム)に苛まれている状況を,「時代閉塞の現状」で吐露した。

1908年1月4日「啄木メモ」には,「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。」とある。6月赤旗事件。
1909年4月12日の啄木日記には「---予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。---予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。---」とある。

石川啄木「時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」  

新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格(かんかく)があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。

 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。

 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

 我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦(わがくに)において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。

「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰(いわ)く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」

 かの早くから我々の間に竄入(ざんにゅう)している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。

けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤(せんしょう)として一部の間に認められているごとく、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)

 樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。

 この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新に建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁に堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠を得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐(きゅうこう)の天に飛翔することを許さなかったのである。

 第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」

 かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒(しゅんきょ)して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

 さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。

 文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚(さま)してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

  (青空文庫:底本「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社 1967年 引用)


7.日本では,1910年に社会主義者による天皇暗殺未遂事件,いわゆる「大逆事件」が起こった。国体を脅かす危険思想は取り締まり・弾圧の対象とされた。その筆頭が社会主義者,社会主義思想だった。しかし,石川啄木は,「所謂今度の事」で,思想統制に反発し,社会主義者に同調した。詩集『あこがれ』(1905)、歌集『一握の砂』(1910)など名作を生んだ啄木は、大逆事件を契機に社会主義思想に目ざめたが、肺疾患と窮乏のうちに死んだ。

権力と愛 石川啄木『所謂今度の事』

やがて彼等はまた語り出した。それは「今度の事」についてであった。今度の事の何たるかはもとより私の知らぬ所、また知ろうとする気も初めは無かった。すると、ふと手にしている夕刊のある一処に停まったまま、私の眼は動かなくなった。「今度の事はしかし警察で早く探知したからよかったさ。焼討とか赤旗位ならまだいいが、あんな事を実行されちゃそれこそ物騒極まるからねえ。」そう言う言葉が私の耳に入って来た。「僕は変な事を聞いたよ。首無事件や五人殺しで警察が去年からさんざん味噌を付けてるもんだから、今度の事はそれ程でも無いのをわざとあんなに新聞で吹聴させたんだって噂もあるぜ。」そう言う言葉も聞えた。「しかし僕等は安心して可なりだね。今度のような事がいくら出て来たって、殺される当人が僕等でないだけは確かだよ。」そう言って笑う声も聞えた。私は身体中を耳にした。今度の事と言うのは、実に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈弾事件の事だったのである。

 ---三人の紳士が、日本開闢以来の新事実たる意味深き事件を、ただ単に「今度の事」と言った。これもまた等しく言語活用の妙で無ければならぬ。「何と巧い言い方だろう!」私は快く冷々するコップを握ったまま、一人幽かに微笑んで見た。

 間もなく私もそこを出た。そうして両側の街灯の美しく輝き始めた街に静かな歩を運びながら、私はまた第二の興味に襲われた。それは我々日本人のある性情、二千六百年の長き歴史に養われて来たある特殊の性情についてであった。--この性情は蓋し我々が今日までに考えたよりも、なお一層深く、かつ広いものである。かの偏えにこの性情に固執している保守的思想家自身の値踏みしているよりも、もっともっと深くかつ広いものである。--そして、千九百余年前のユダヤ人が耶蘇キリストの名をあからさまに言うを避けてただ「ナザレ人」と言った様に、ちょうどそれと同じ様に、かの三人の紳士をして、無政府主義という言葉を口にするを躊躇してただ「今度の事」と言わしめた、それもまた恐らくはこの日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。

レーニン 二 蓋し無政府主義という語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機会は、今日までの所、前後二回しかない。無政府主義という思想、無政府党という結社のある事、及びその党員が時々凶暴なる行為をあえてする事は、書籍により、新聞によって早くから我々も知っていた。中には特にその思想、運動の経過を研究して、邦文の著述をなした人すらある。しかしそれは洋を隔てた遥か遠くの欧米の事であった。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間にその主義を信じ、その党を結んでいる者のある事を知った機会はついに二回しかない。

 その一つは往年の赤旗事件である。
帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して、警吏の為に捕われた者の中には、数名の若き婦人もあった。その婦人等--日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、よろづに控え目であるべきはずの婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

 ---少数の識者があって、多少芝居の筋を理解して、翌る日の新聞に劇評を書いた。「社会主義者諸君、諸君が今にしてそんな軽率な挙動をするのは、決して諸君のためではあるまい。そんな事をするのは、ようやく出来かかった国民の同情を諸君自ら破るものではないか。」と。---今日になってみれば、そのいわゆる識者の理解なるものも、決して徹底したものであったとは思えない。「我は無政府主義者なり。」と言う者を「社会主義者諸君。」と呼んだ事が、取りも直さずそれを証明しているではないか。

帝国主義 三 そうして第二は言うまでもなく今度の事である。
 今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に、検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。----新聞も、ただ叙上の事実と、及び彼等被検挙者の平生について多少の報道をなす外にしかたがなかった。--そしてかく言う私のこの事件に関する知識も、ついに今日までに都下の各新聞の伝えた所以上に何物をももっていない。

 もしも単に日本の警察の成績という点のみを論ずるならば、今度の事件のごときは蓋し空前の成功と言ってもよかろうと思う。ただに迅速に、かつ遺漏なく犯罪者を逮捕したというばかりでなく、事を未然に防いだという意味において特にそうである。過去数年の間、当局は彼等いわゆる不穏の徒のために、ただに少なからざる機密費を使ったばかりでなく、専任の巡査数十名を、ただ彼等を監視させるために養って置いた。かくのごとき心労と犠牲とを払っていて、それで万一今度の様な事を未然に防ぐことが出来なかったなら、それこそ日本の警察がその存在の理由を問われてもしかたのない処であった。幸いに彼等の心労と犠牲とは今日の功を収めた。

 それに対しては、私も心から当局に感謝するものである。蓋し私は、---極端なる行動というものは真に真理を愛する者、確実なる理解をもった者の執るべき方法で無いと信じているからである。正しい判断を失った、過激な、極端な行動は、例えば導火力の最も高い手擲弾のごときものである。未だ敵に向って投げざるに、早く已に自己の手中にあって爆発する。---私は、たとえその動機が善であるにしろ、悪であるにしろ、観劇的興味を外にしては、我々の社会の安寧を乱さんとする何者に対しても、それを許すべき何等の理由をもっていない。もしも今後再び今度の様な計画をする者があるとするならば、私はあらかじめ当局に対して、今度以上の熱心をもってそれを警戒することを希望して置かねばならぬ。

 しかしながら、警察の成功は警察の成功である。そして決してそれ以上ではない。日本の政府がその隷属する所の警察機関のあらゆる可能力を利用して、過去数年の間、彼等を監視し、拘束し、ただにその主義の宣伝ないし実行を防遏したのみでなく、時にはその生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加えたに拘わらず、彼等の一人といえどもその主義を捨てた者はなかった。主義を捨てなかったばかりでなく、かえってその覚悟を堅めて、ついに今度の様な凶暴なる計画を企て、それを半ばまで遂行するに至った。今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。

四 ヨーロッパにおける無政府主義の発達及びその運動に多少の注意を払う者の、まず最初に気の付く事が二つある。一つは無政府主義と言わるる者の今日までなした行為は凡て過激、極端、凶暴であるに拘わらず、その理論においては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると、共産的たるとを問わず、ほとんど何等の危険な要素を含んでいない事である。----も一つは、それら無政府主義者の言論、行為の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の関係を保っている事である。--これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの様な有名な地理学者があるからという洒落ではない。

 前者については、私は何もここに言うべき必要を感じない。必要を感じないばかりでなく、今の様な物騒な世の中で、万一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうける様な事があっては、迷惑至極な話である。そしてまた、結局私は彼等の主張を誤りなく伝える程に無政府主義の内容を研究した学者でもないのである。--が、もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人があって、その人が他日かの無政府主義者等の所説を調べてみるとするならば、きっと入口を間違えて別の家に入って来たような驚きを経験するだろうと私は思う。彼等のある者にあっては、無政府主義というのはつまり、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで発達した状態に対する、熱烈なる憧憬に過ぎない。またある者にあっては、相互扶助の感情の円満なる発現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言ってるに過ぎない。私慾を絶滅した完全なる個人と言い、相互扶助の感情と言うがごときは、いかに固陋なる保守道徳家にとっても左まで耳遠い言葉であるはずがない。もしこれらの点のみを彼等の所説から引離して見るならば、世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている、無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。人類の未来に関する我々の理想は蓋し一である--洋の東西、時の古今を問わず、畢竟一である。ただ一般教育家および倫理学者は、現在の生活状態のままでその理想の幾分を各人の犠牲的精神の上に現わそうとする。個人主義者は他人の如何に拘わらずまず自己一人の生涯にその理想を体現しようとする。社会主義者にあっては、人間の現在の生活がすこぶるその理想と遠きを見て、因を社会組織の欠陥に帰し、主としてその改革を計ろうとする。而してかの無政府主義者に至っては、実に、社会組織の改革と人間各自の進歩とを一挙にして成し遂げようとする者である。--以上は余り不謹慎な比較ではあるが、しかしもしこのような相違があるとするならば、無政府主義者とは畢竟「最も性急なる理想家」の謂でなければならぬ。既に性急である、故に彼等に、その理論の堂々として而して何等危険なる要素を含んでいないに拘わらず、未だ調理されざる肉を喰らうがごとき粗暴の態と、小児をして成人の業に就かしめ、その能わざるを見て怒ってこれを蹴るがごとき無謀の挙あるは敢えて怪しむに足るのである。

 五 ----地理的分布--言う意味は、無政府主義とヨーロッパに於ける各国民との関係という事である。
 凡そ思想というものは、その思想所有者の性格、経験、教育、生理的特質及び境遇の総計である。而して個人の性格の奥底には、その個人の属する民族ないし国民の性格の横たわっているのは無論である。-----ある民族ないし国民とある個人の思想との交渉は、第一、その民族的、国民的性格に於てし、第二、その国民的境遇(政治的、社会的状態)に於てする。そして今ここ無政府主義に於ては、第一は主としてその理論的方面に、第二はその実行的方面に関係した。

 第一の関係は、我々がスチルネル、プルウドンクロポトキン三者の無政府主義の相違を考える時に、直ぐ気の付く所である。蓋しスチルネルの所説の哲学的個人主義的なるプルウドンの理論のすこぶる鋭敏な直観的傾向を有して、而して時に感情にはしらんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各々の属する国民--ドイツ人、フランス人、ロシア人--という広漠たる背景を考うることなしには、我々の正しく理解する能わざる所である。

 そして第二の関係--その国の政治的、社会的状態と無政府主義の関係は、第一の関係よりもなお一層明白である。  (→(青空文庫 石川啄木『所謂今度の事』引用終わり)

写真(右):1905年頃、社会主義ジャーナリスト・幸徳 秋水(こうとく しゅうすい:1871年11月5日-1911年(明治44年)1月24日):高知県の酒造名家の出身、中村中学校を退学後、1887年上京、翌年から同郷の中江兆民宅に門弟として住み込む。
高知出身の板垣退助率いる『自由新聞』に就職後、1898年『萬朝報』の新聞記者となる。1901年『二十世紀の怪物帝国主義』表し、1903年、日露戦争開戦を主張するようになった『萬朝報』を社会主義思想家の堺利彦、クリスチャン内村鑑三とともに退社し、すぐに11月、堺と平民社を立ち上げ、非戦論を主張する。
1910年、明治天皇暗殺未遂計画「大逆事」の首班として冤罪で逮捕され、1911年に11名の累犯者とともに冤罪で処刑された。39歳。石川啄木は、大逆事件では冤罪で党徳秋水が処刑されたと確信し、社会主義に接近する中で「時代閉塞の現状」を執筆した。
写真は、Wikimedia Commons, Category:Shūsui Kōtoku File:KotokuShusui.jpg引用。


所謂今度の事「大逆事件」では,幸徳秋水伝次郎を首領とする無政府主義者Anarchistの一団が、天皇暗殺を企て,密かに爆弾を製造していたが、その一団と通じていた無政府主義者も検挙された。その事を何人も知らぬ間に、検事局は新聞記事差止の命令を発した。つまり,警察ないし法律の力は、人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを証明した。このように,石川啄木は,言論の自由とそれを抑圧する政府の弊害を痛烈に批判した。

8.日本では,資本主義の発達とともに,労働者の不満も高まっていた。これが,赤旗事件のような,公然たる社会主義的示威活動を引き起こした。芥川龍之介などの日本の代表的な文化人は,社会主義者に同調していた。しかし,社会主義は,国体に反する危険思想であり,弾圧された。この時代閉塞の状況に,不安を感じていた芥川龍之介は,自ら命を絶った。

赤旗事件の回顧   堺利彦


回顧すれば、すでにほとんど二〇年の昔である。----
 神田錦町の錦輝館(きんきかん)の二階の広間、正面の舞台には伊藤痴遊君が着席して、明智光秀の本能寺襲撃か何かの講演をやってる。それに聞きほれたり、拍手したり、喝采したり、まぜかえしたり、あるいは身につまされた感激の掛け声を送ったりしている者が、婦人や子供をまじえて五、六十人、それが当時の社会主義運動の常連であった。

 この集会は、山口孤剣(やまぐちこけん・義三)君の出獄歓迎会であった。当時の社会主義運動には「分派」の争いが激しく、憎悪、反感、罵詈(ばり)、嘲笑、批難、攻撃が、ずいぶんきたならしく両派の間に交換されていた。しかし山口君は、その前年皆が大合同で日刊平民新聞をやっていたころから、いくばくも立たないうちに入獄したので、この憎悪、反感の的からはずれていた。そこで彼の出獄を歓迎する集会には、両派の代表者らしい者がほとんどみな出席していた。時は明治41年6月22日、わたしは紺がすりのひとえを着ていたことを覚えている。

 久しぶり両派の人々がこうした因縁で一堂に会したのだから、自然そこに一脈の和気も生じたわけだが、しかし一面にはやはり、どうしても、対抗の気分、にらみあいの気味があった。けれども会はだいたい面白く無事に終わって、散会が宣告された。皆がそろそろ立ちかけた。するとたちまち一群の青年の間に、赤い、大きな、旗がひるがえされた。彼らはその二つの旗を打ち振りつつ、例の○○歌か何か歌いながら、階段を降りて、玄関の方に出て行った。会衆の一部はそれに続き、一部はあとに残っていた。玄関口の方がだいぶん騒がしいので、わたしも急いで降りてみると、赤旗連中はもう表の通りに出て、そこで何か警察官ともみあいをやっていた。わたしが表に飛び出した時には、一人の巡査がだれかの持っている赤旗を無理やり取りあげようとしていた。多くの男女はそれを取られまいとして争っていた。わたしはすぐその間に飛び込んで、そんな乱暴なまねをしないでもいいだろうという調子で、いろいろ巡査をなだめたところ、それでは旗を巻いて行け、よろしいということになり、それでそこは一トかたついた。錦輝館の二階を見あげると、そこにはあとに残った人たちがみな縁側に出て来て見物していた。

 しかしわたしはすぐ別の方面に目を引かれた。少し離れた向こうの通りに、そこでもまた、赤旗を中心に、一群の男女と二、三人の巡査が盛んにもみあっていた。わたしはまた飛んで行って、その巡査をなだめた。あちらでも旗を巻いて行くことに話ができたのだからと、ヤットのことで彼らを説きふせた。しかし騒ぎはそれで止まらなかった。巻いた旗が再び自然にほぐれた。巡査らはまたそれに飛びかかった。あちらにも、こちらにも、激しいもみあいが続いた。錦輝館の前通りから一ツ橋通りにかけて、まっ黒な人だかりになった。その中に二つの赤旗がおりおり高くひるがえされたり、すぐにまた引きずりおろされたりした。目の血ばしった青年、片そでのちぎれた若者、振りみだした髪を背になびかせて走っている少女などが、みな口々にワメキ叫んでいた。そして巡査らがいちいちそれを追いまわしたり、引っつかまえたり、ネジふせたりしていた。わたしは最後に一ツ橋の通りで、また巡査をいろいろになだめすかし、一つの赤旗を巻いて若い二人の婦人にあずけ、決して再びそれをほぐらかさぬこと、そしてまた決してそれを他の男に渡さず、おとなしく持って帰ることという堅い約束をして、それでヤット始末をつけた。その時、今一つの赤旗はすでに、それを取られまいと守っていた数人の青年と一緒に、巡査に引きずられて行ってしまった。

 -------イタズラの張本人は大杉君で、荒畑寒村君なども参謀の一人だったろう。山川君も顧問くらいの地位に居たかしれない。赤旗というのは、二尺に三尺くらいの赤いカナキンを、短い太い竹ざおにゆわえつけたもので、一つには○○○(無政府)、一つには○○○○○(無政府共産)と白い布を切ってこしらえた五つの文字が張りつけられてあった。

 当時の「分派」を言えば、その前年(明治40年)いわゆる大合同の日刊平民新聞が倒れてから以後、一方には片山潜、西川光二郎、田添鉄二らを代表とする議会政策派があり、一方には幸徳秋水、山川、大杉らを代表者とする直接行動派があった。そして前者は東京で社会新聞(一時は週刊)を出だし、後者は大阪で(森近運平の経営で)大阪平民新聞(月刊、後に日本平民新聞)を出だし、さらに前者は後分裂して西川の東京社会新聞を現出した。

  ---- しかしわたしとしては、幸徳君とは毎日毎晩、会えば必ず議論するというほどで、決して友情のために主義主張を曖昧にしてはいなかった。ただわたしとしては、できるだけ純真な○○的態度を維持せねばならぬと考え、それにはできるだけアナキストと提携を続けねばならぬと考え、議会政策に反対する理由はあっても、直接行動に反対する理由はないと考えていた。-----社会主義はどこまでも無政府主義を包容していくべきだと考えていた。当時、直接行動派の元気な青年の中には、堺のおやじをなぐってしまえなどという者もあったそうだが、実際上、多くの人たちは社会主義と無政府主義の合いの子であった。-----

 そこで再び赤旗事件当日のことに立ちもどる。わたしは山川君とふたり、錦町の警察に連れて行かれてみると、そこの留置場にはすでに大杉、荒畑、森岡、百瀬、村木、宇都宮、佐藤などの猛者が来ており、外に神川、管野、小暮、大須賀などの婦人連も来ていた。留置場は三室あって、それが廊下を中心にして向かい合っていた。わたしの室にはわたしと外にだれか一人、隣の室には婦人連、そして向かい側の大部屋にはその他の大勢という割当てであったが、その大部屋はまるで動物園のおりよろしくで、皆が鉄ごうしにつかまって怒鳴る、わめく、笑いくずれるの大騒ぎであった。巡査の態度があんまりむちゃなので、みなとうとうこうしの中からつばを吐きかけることをもって唯一の戦闘手段とした。-----

皆はこうしの中から声を限りにののしりわめいた。○○○! ○○○! ○○! ○○!。巡査らはようやく少し態度を改めて大杉君を室内に入れた。皆が極度に興奮していたが、ことに荒畑君の興奮は容易に鎮静しなかった。巡査らは荒畑君をわたしの室に入れて、そして水を持って来た。わたしは荒畑君の頭を水で冷やした。向いの室では、小便に行くから戸をあけろあけろと怒鳴るが、巡査らは寄りつきもしなかった。そこでとうとう小便のはずんだ人たちは、こうしの中から廊下に向かってジャアジャアとやり出した。廊下は小便の池になってしまった。
それから皆は警視庁に移され、東京監獄(今の市ケ谷=いちがや)に移され、そして青鬼とあだ名された河島判事の予審に付せられた。罪名は官吏抗拒、および治安警察法違犯であった。公判の結果は、たかだが二カ月以上四カ月くらいなものだという見当だった。あんな何でもない、つまらん事件だもの、それ以上になりっこはないという、被告らの輿論だった。ところが意外にも、判決申し渡しは一年、一年半、二年の三種だった。それを聞いた時、わたしはほんとに「オヤ!」と思った。多くの被告は「無政府主義万歳!」を唱えて退廷した。婦人連のうち、二人は免訴となり、二人は執行猶予となった。

 わたしは監獄に帰ってから考えた。二年ということになっちゃ、これはチョット冗談でない。俺はおまけに新聞紙法違犯で別に二カ月の刑をしょわされてる。これから二年二カ月! だいぶんシッカリしないと、やりきれないぞ。そう考えると、妙なもので、気分がスット引きしまってきた。勇気が出た。というよりはむしろ、落ちつきが出てきた。翌日からはモウ存外平気で、皆が申し合わせて控訴などいっさいやらぬことにし、そしてすぐに赤になって、「すずめおどりを見るような編みがさ姿」で千葉監獄に護送された。

 ここに一つエピソードがある。我々が前記の錦町署の留置場を出たあとで、そこの板壁にある落書きの中に、何か知らんが「不敬」な文字が発見されたそうだ。そしてそれが佐藤君に対する嫌疑となった。彼はそれがため、別に不敬罪として起訴された。我々はそのことを市ケ谷の未決監で聞いて大いに心配した。心配したのは、佐藤君の刑期が二つ重なってたいへん永くなるということばかりでなく、実際その責任者が佐藤君であるかどうかが不分明であったからである。----しかし裁判は決定して、佐藤君は不敬罪の方でも有罪となり、我々はみな一緒に千葉に送られた。ところで我々の問題が起こった。佐藤君は冤罪を着ているのではないか。もしそうだとすれば、今一人の男がけしからぬ。我々の多数はついに今一人の男を有罪と認め、それに絶交を申し渡した。我々はみな独房であったけれども、それが隣り合ったり、向かいあったりしているので、それにまた、運動や入浴の時など一緒に出されるので、ちょいちょい内証話をすることはできたのである。その時、わたしとしては、やはり今一人の男を疑ってはいたのだけれども、充分確かな証拠があるわけではなし、それを獄中で絶交するのはあまりひどいと考え、わたしだけはその絶交に加わらなかった。

 この赤旗事件の時、幸徳君は郷里(土佐中村)に帰っていた。彼はほどなく上京してあとの運動を収拾しようとした。しかし形勢は大いに変化していた。同年七月、西園寺内閣が倒れて桂内閣がそれに代わった。西園寺内閣の倒れた原因の一つは、社会主義を寛容し過ぎて、ついに赤旗事件まで起こさせたという非難であったという。したがって桂新内閣の反動ぶりは盛んなものであった。そこで一方には赤旗事件で金曜会の連中が一掃され、一方にはまた、電車問題の凶徒聚衆事件が確定して、西川、山口等、多くの同志が投獄され、その他の人々は手も足も出しようがなく、運動は全く頓挫の姿を呈した。幸徳君はこの形成の下にあって、ますますその無政府主義的態度を鮮明にし、ますます極端に走って行った。そして明治四三年九月、わたしが出獄した時にはすでにいわゆる大逆事件が起こっていた。  (昭和2年6月『太陽』臨時号所載)
(⇒青空文庫:底本「堺利彦全集 第三巻」法律文化社, 1970年発行 引用)

写真(右)日露戦争の従軍看護婦:MIT Visualizing Cultures引用

与謝野晶子 「電車の中」 大正十二年 1923年の社会主義・労働者に関連する歌

生暖かい三月半の或夜あるよ
東京駅の一つの乗場プラツトホーム
人の群で黒くなつてゐる。
停電であるらしい、
久しく電車が来ない。
乗客は刻一刻に殖えるばかり、
皆、家庭へ下宿へと
急ぐ人々だ。
誰れも自制してはゐるが、
心のなかでは呟いてゐる、
或はいらいらとしてゐる、
唸り出したい気分になつてゐる者もある。
じつとしては居られないで、
線路を覗く人、
有楽町の方を眺める人、
頻りに煙草たばこを強く吹かす人、
人込みを縫つて右往左往する人もある。
誰れの心もじれつたさに
なんとなく一寸険悪になる。
其中に女の私もゐる


おほよそ廿分ののちに、
やつと一台の電車が来た。
人々は押合ひながら
乗ることが出来た。
ああ救はれた、
電車は動き出した。

けれど、私の車の中には
鳥打帽をかぶつた、
汚れたビロオド服の大の男が
五人分の席を占めて、
ふんぞり反つて寝てゐる。
この満員の中で
その労働者は傍若無人のていである。
酔つてゐるのか

恐らくさうでは無からう。
乗客は其男の前に密集しながら、
誰も喚び起さうとする者はない。
男達は皆其男と大差のない
プロレタリアでありながら、
仕へてゐる主人の真似をして
ブルジヨア風の服装みなりをしてゐるために、
其男に気兼し、
其男を怒らせることを恐れてゐる。

電車は走つて行く。
其男は呑気にふんぞり反つて寝てゐる。
乗客は窮屈な中に
忍耐の修行をして立ち、
わざと其男の方を見ない振をしてゐる。
その中に女の私もゐる


一人で五人分の席を押領する……
人人がこんなに込合つて
息も出来ないほど困つてゐる中で……
あゝ一体、人間相互の生活は
かう云ふ風でよいものか知ら……
私は眉を顰めながら、
反動時代の醜さと怖ろしさを思ひ
我々プロレタリアの階級に
よい指導者の要ることを思つてみた


併しまた、私は思つた、
なんだ、一人の、酔つぱらつた、
疲れた、行儀のない、
心の荒んだ、
汚れたビロオド服の労働者が
五人分の席に寝そべることなんかは。
昔も、今も、
少数の、狡猾な、遊惰な、
暴力と財力とを持つ人面獣が、
おのおの万人分の席を占めて、
どれ位われわれを飢させ、
病ませ、苦めてゐるか知れない。
電車の中の五人分の席は
吹けば飛ぶ塵ほどの事だ


かう思つて更に見ると、
大勢の乗客は皆、
自分達と同じ弱者の仲間の
一人の兄弟の不作法を、
反抗的な不作法を、
その傍に立塞がつて
庇護かばつてゐるやうに見える。
その中に女の私もゐる。


◆平民新聞,その支持する社会主義,無政府主義について,与謝野晶子は「ひらきぶみ」で「下様(しもざま)の下司(げす)」「今時(いまどき)の」「あさまし」い読み物には「身震いがする」といって嫌悪感をあらわにた。他方,石川啄木,芥川龍之介は,当時の社会主義の持つリベラルな側面,現実批判精神,理想主義の側面に多大な関心を示した。与謝野晶子の議会制民主主義,労働者や社会主義に関連する歌は,石川啄木,芥川龍之介の思いに反する部分と同調する部分が混在している

写真(右):1926年、作家・芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ:1892年〈明治25年〉3月1日ー1927年〈昭和2年〉7月24日):東京市京橋区の出身、生後すぐに母フクが精神障害となり、東京市本所の母の実家・芥川家に預けられ、伯母のフキに養育され、叔父・芥川道章(フクの実兄)の養子となる。東京府立第三中学校、第一高等学校に学び、1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。1915年『羅生門』を「芥川龍之介」のペンネームで『帝国文学』に発表。卒業後、海軍機関学校の嘱託英語教官となる。1918年のいは「蜘蛛の糸」「地獄変」「邪宗門」「奉教人の死」など短編を立て続け発表。1919年3月、海軍少佐・塚本善五郎の娘・文と結婚。義父・塚本善五郎は、1904年5月、日露戦争中、旅順港閉塞作戦で乗艦していた戦艦「初瀬」がロシア軍の機雷に触雷し撃沈、戦死。1920年には「南京の基督」「杜子春」など中国ものを発表。 1921年2月、横須賀海軍大学校を退職、菊池寛と大阪毎日新聞の客外社員となり、中国視察では、北京で胡適と会見。1925年、与謝野晶子・鉄幹らの興した文化学院文学部講師。1927年には、「河童」「文芸的な、余りに文芸的な」「或阿呆の一生」「西方の人」を発表するも、服毒自殺。
English: Ryunosuke Akutagawa 日本語: 芥川龍之介 Date 1926 Source English: Japanese book "Showa Literature Series: Vol.20 (September 1953 issue)" published by Kadokawa Shoten. 日本語: 角川書店「昭和文学全集20巻(1953年9月発行)」より。 Author Unknown author br>写真は、Wikimedia Commons, Category:Shūsui Kōtoku File:Ryunosuke Akutagawa 02.jpg引用。


或社会主義者  芥川龍之介 1926年/大正15年

彼は若い社会主義者だつた。或小官吏だつた彼の父はそのためにかれを勘当しようとした。が、彼は屈しなかつた。それは彼の情熱が烈しかつたためでもあり、又一つには彼の友だちが彼を激励したためでもあつた。
 彼等は或団体をつくり、十ペエジばかりのパンフレツトを出したり、演説会を開いたりしてゐた。彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出した上、時々そのパンフレツトへ彼の論文を発表した。彼の論文は彼等以外に誰も余り読まないらしかつた。しかし彼はその中の一篇、――「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇に多少の自信を抱いてゐた。それは緻密ちみつな思索はないにしても、詩的な情熱に富んだものだつた。
 そのうちに彼は学校を出、或雑誌社へ勤めることになつた。けれども彼等の会合へ顔を出すことは怠らなかつた。------

彼の家は実際小さかつた。が、彼は不満どころか、可なり幸福に感じてゐた。妻、小犬、庭先のポプラア、――それ等は彼の生活に何か今まで感じなかつた或親しみを与へたのだつた。
 彼は家庭を持つたために、一つには又寸刻を争ふ勤め先の仕事に追はれたために、いつか彼等の会合へ顔を出すのを怠るやうになつた。しかし彼の情熱は決して衰へたわけではなかつた。少くとも彼は現在の彼も決して数年以前の彼と変らないことを信じてゐた。が、彼等は――彼の同志は彼自身のやうには考へなかつた。殊に彼等の団体へ新にはひつて来た青年たちは彼の怠惰を非難するのに少しも遠慮を加へなかつた。
 ----そこへ彼は父親になり、いよいよ家庭に親しみ出した。けれども彼の情熱はやはり社会主義に向つてゐた。彼は夜更の電燈の下に彼の勉強を怠らなかつた。同時に又彼が以前書いた十何篇かの論文には、――就中なかんづく「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇にはだんだん物足らなさを感じ出した。
 ----が、実は彼自身もいつかただ俗人の平和に満足してゐたのに違ひなかつた。

 それから何年かたつた後、彼は或会社に勤め、重役たちの信用を得るやうになつた。従つて今では以前よりも兎角大きい家に住み、何人かの子供を育てるやうになつた。しかし彼の情熱は、――そのどこにあるかといふことは神の知るばかりかも知れなかつた。彼は時々籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出した。それは妙に彼の心を憂鬱にすることもない>訣ではなかつた。けれども東洋の「あきらめ」はいつも彼を救ひ出すのだつた。
 彼は確に落伍者だつた。が、彼の「リイプクネヒトを憶ふ」は或青年を動かしてゐた。
それは株に手を出した挙句、親譲りの財産を失つた大阪の或青年だつた。その青年は彼の論文を読み、それを機縁に社会主義者になつた。が、勿論そんなことは彼には全然わからなかつた。彼は今でも籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出してゐる、人間的に、恐らくは余りに人間的に。
        (大正15年12月10日)
(⇒青空文庫:芥川龍之介「或社会主義者」引用。底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房 1971年発行 引用)

9.日本は,1925年に治安維持法を制定し,国体の変革,反戦を唱えるような危険思想も弾圧の対象とした。プロレタリア文学作家の小林多喜二は,1933年,特高に逮捕,死亡した。社会主義思想を放棄して,日本軍や国体を賛美する「転向」が進むと,自由主義思想も弾圧されるようになった。石川啄木の指摘した思想弾圧に下の「時代閉塞の状況」が日本全土を覆った。

プロレタリア文学は,1917年のロシア革命以降,社会主義的,共産主義的思想が広まる中で,それが文学に影響して生まれた。プロレタリア文学は,政治体制を批判したり,社会問題を論じたりと,社会主義思想の影響を色濃く受けていた。雑誌『種蒔く人』は,1921-23年に秋田県で発行され,「反戦平和」「被抑圧階級の解放」を謳った。このようなプロレタリア文学や社会主義思想は,普通選挙の要求の高まりとあいまって,日本の国体(天皇制)の変革に結びつくことが,大いに危惧された。

1925年に治安維持法は,国体の変革,私有財産制の否定を企てるものを処罰する法律である。普通選挙甫と同時に施工された治安維持法を担う組織が,特高警察(特高)である。1911年に警視庁(東京)に特別高等警察課が設置され,1928年には全国に設置された。特高は、1922年創設の日本共産党,労働組合,社会主義者,さらには自由主義者,民主主義者まで反政府的であるとみなされた人物を取り締まるようになる。そして,拷問,密偵・密告などによる思想弾圧を行った。

写真(右):1904年(明治37年)、与謝野晶子の夫・与謝野鉄幹(寛)(1873年(明治6年)2月26日-1935年(昭和10年)3月26日):日本の歌人・詩人・評論家。与謝野晶子は、「1927年の祖国大日本帝国と統治者天皇陛下を讃える歌」で国体の精華を謳い、転送性を賛美している。夫・与謝野鉄幹(寛)は、1932年(昭和7年)、第一次上海事変を題材の毎日新聞が公募した歌詞に「爆弾三勇士の歌」を出し、有名人として見事に一等入選を果たした。

与謝野晶子 〔無題〕 1927年の祖国大日本帝国と統治者天皇陛下を讃える歌

粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
いまだ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語

   ×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。

世は変る、変る、
偏すること無く変る
愛と正義の中に変る

   ×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外うちと
   ×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処いづこぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ

世界は如何に動くべき、
国民くにたみは何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
   ×
我等は陛下の赤子せきし
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心みこゝろに集まる

陛下は地上の太陽、
唯だ光もておほひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
   ×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界をるるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生せいせいとして常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします

   ×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労いそしむ者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
   ×
眠りつるは覚めよ、
たゆみつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
れつるは本にかへれ。
ひとの国にはひとの振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来る、
は明けんとす、ひんがしに。
   ×
我等が行くべき方は
陛下今指さし給ふ。
めよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。


青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/2558_15785.html)より底本「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社,1980年および「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社,1980年を引用掲載

◆天皇中心の国家形態,すなわち国体を賛美した与謝野晶子の歌を,社会主義に同調し社会改革を志していた石川啄木が聞いたなら,どのように反応するであろうか。晶子を姉として慕い続けるのであろうか。

写真(右):1933年2月20日特高により拷問死したプロレタリア文学作家小林多喜二:1925年治安維持法が成立し,1928年には全国に特高が組織される。小林多喜二は小説『1928年3月15日』の中で、特高の拷問の凄まじさを描写したことから特高の逆恨みを買っていたらしい。共産党員1932年3月以来、潜伏していたが,1933年2月20日に逮捕され,即日拷問死亡。

プロレタリア文学作家は,社会主義を突き詰めて,労働者・農民を主体とした革命を追求するようになる。小林多喜二は,『蟹工船』冒頭で「『おい地獄さ行ぐんだで!』二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。」と書いた。オホーツク海で創業する漁船の雇用労働者を描き,その過酷な労働環境と資本家による搾取・収奪を社会悪として描いたのである。

「手前(てめ)え、何んだ。あまり威張ったことを云わねえ方がええんだで。漁に出たとき、俺達四、五人でお前えを海の中さタタキ落す位朝飯前だんだ。――それッ切りだべよ。カムサツカだど。お前えがどうやって死んだって、誰が分るッて!」
 そうは云ったものはいない。それをガラガラな大声でどなり立ててしまった。誰も何も云わない。今まで話していた外のことも、そこでプッつり切れてしまった。
 然(しか)し、こういうようなことは、調子よく跳(は)ね上った空元気(からげんき)だけの言葉ではなかった。それは今まで「屈従」しか知らなかった漁夫を、全く思いがけずに背から、とてつもない力で突きのめした。突きのめされて、漁夫は初め戸惑いしたようにウロウロした。それが知られずにいた自分の力だ、ということを知らずに。
 ――そんなことが「俺達に」出来るんだろうか? 然し成る程出来るんだ。 
 そう分ると、今度は不思議な魅力になって、反抗的な気持が皆の心に喰い込んで行った。今まで、残酷極まる労働で搾(しぼ)り抜かれていた事が、かえってその為にはこの上ない良い地盤だった。――こうなれば、監督も糞もあったものでない! 皆愉快がった。一旦この気持をつかむと、不意に、懐中電燈を差しつけられたように、自分達の蛆虫(うじむし)そのままの生活がアリアリと見えてきた。

吃りの漁夫が、一寸(ちょっと)高い処に上った。皆は手を拍(たた)いた。
「諸君、とうとう来た! 長い間、長い間俺達は待っていた。俺達は半殺しにされながらも、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。
「諸君、まず第一に、俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと、仲間を裏切らないことだ。これだけさえ、しっかりつかんでいれば、彼奴等如きをモミつぶすは、虫ケラより容易(たやす)いことだ。――そんならば、第二には何か。諸君、第二にも力を合わせることだ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者、一人の寝がえり者を出さないということだ。たった一人の寝がえりものは、三百人の命を殺すということを知らなければならない。一人の寝がえり……(「分った、分った」「大丈夫だ」「心配しないで、やってくれ」)……
「俺達の交渉が彼奴等をタタキのめせるか、その職分を完全につくせるかどうかは、一に諸君の団結の力に依るのだ」
   (⇒青空文庫:底本「蟹工船・党生活者」新潮社 1953年 引用終わり)
小林多喜二は,目を半分むいて痙攣したため、築地署裏にある前田病院に担ぎ込まれたが,同日死亡(享年30歳)。家族に引き取られた遺体には、首筋やこめかみに5,6ヶ所の裂傷があり、首には縄で絞めたような痕が深く残っていた。下半身には内出血が広がり、大腿部には15〜16箇所ほど釘を刺されたように裂けていたという。

小林多喜二の死の真相を報道した新聞はない。毛利特高課長の「拷問した事実はない。心臓に急変をきたしたものだ」という談話、友人の江口渙の「顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血がひどく、たんなる心臓マヒとは思えません」という談話(都新聞)、家族や友人が「むごくも変わりはてた姿に死の対面をした」(読売新聞)といった表現で、真相を匂わせた。

小林多喜二への拷問にみられるように,日本人の治安維持法違反(罪人)への処遇も厳しいのであるから,1931年の満州事変における「匪賊」「敵兵」に対する容赦ない処刑は,残虐なものとは考えられていない。1932年の第一次上海事変でも,暴戻なる敵中国軍の兵士や日本に反旗を翻す中国人叛徒(「便衣隊」ゲリラ兵・民兵,反日活動家)に対しては,情け容赦のない処置がとられた。

1925年の治安維持法,特高警察による社会主義・共産主義的思想弾圧によって,プロレタリア文学は徐々に衰退した。その過程で、林房雄のようにプロレタリア文学の立場自体を放棄する「転向」が盛んになった。日本プロレタリア作家同盟(戦旗派)は,1934年2月22日,解体声明を出し,社会主義思想も,公然と支持されることはなくなった。

思想弾圧の時代は,1931年の満州事変、1932年の第一次上海事変を経て国家総動員の総力戦の時代へと繋がった。まさに石川啄木の指摘した「時代閉塞の現状」の完成である。


写真(上):1932年第一次上海事変における日本海軍陸戦隊のヴィッカース社(Vickers)クロスレー(Crossley)装甲車。日本海軍の旭日旗のマークを描いている。右は、ガスマスクをかぶった日本海軍陸戦隊。写真(中):左は、砲身後座式の四一式山砲(口径75ミリ、射程6千メートル)で射撃する日本軍。1932年から配備され「連隊砲」とも呼ばれた。右は、対空機関銃を構える中国軍兵。写真(下):左は、四一式山砲、右は、上海市内でバリケードを築いて射撃する中国兵士。


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