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戦争と文学:文学者の戦争 2006
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◆戦争と文学:文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
写真(右):永井荷風:戦争中も日記をつけていて、戦後になって『断腸亭日乗』として刊行された。
沖縄戦の住民:軍政と集団自決
神風特別攻撃隊:1944年10月レイテ戦
盧溝橋事件・上海事変・南京攻略:北京・上海・南京を占領
米中接近:日中戦争と枢軸国
東京初空襲と山本五十六暗殺:真珠湾攻撃の仇討ち・報復
USS GUEST DD472 OKINAWA CAMPAIGN
UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY:SUMMARY REPORT
U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945

1.日本は,日清戦争,日露戦争,朝鮮併合を通じて,朝鮮半島から大陸への利権を拡張するが,その戦争の過程で,詩人石川啄木は,時代閉塞の状況を感じた。歌人与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」と詠った。しかし,戦争の大義や日本の権益拡充に結びつく戦争に協力すべきであると考えた文化人も多かった。

1910年に,「時代閉塞の現状」を執筆した石川啄木は,1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門し,1908年から与謝野家に滞在した。1908年(明治41)5月 啄木の日記には,「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」 「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、(与謝野鉄幹)氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」とある。
啄木は与謝野晶子『みだれ髪』を愛読していたから,「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」という。(blog 漱石サロン ランデエヴウ 引用)

写真(右):石川啄木;(1886年2月20日 - 1912年4月13日)日本の歌人・詩人・評論家。本名 石川一(はじめ)。岩手県玉山村生まれ。盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名)入学。1902年盛岡中学を放校・退学。1905年1月5日、新詩社の新年会に参加。5月、第一詩集『あこがれ』を自費出版(上田敏序詩、与謝野鉄幹跋文)。1909年『スバル』創刊、『東京朝日新聞』校正係となる。ローマ字日記をつけ始める。1910年,第一歌集『一握の砂』刊行。1912年,第二歌集『悲しき玩具』を死後刊行。『ウィキペディア(Wikipedia)』石川啄木参照。

 1909年年4月12日の啄木日記には「---予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。---予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。---」とある。

石川啄木『所謂今度の事』
 「今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。
 ----今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。」

石川啄木『日露戦争論(トルストイ)』
 「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドン・タイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。
 「-----戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。----実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」
 「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。
 その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。
 しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」
『日露戦争論(トルストイ)』電子図書館引用)

2.日本は,1925年に治安維持法を制定し,反戦を唱えるような危険思想も弾圧の対象とした。プロレタリア文学作家の小林多喜二は,1933年,特高に逮捕され,死亡した。そのなかで,社会主義思想を放棄して,日本軍や国体を賛美する「転向」が進んだ。

プロレタリア文学は,1917年のロシア革命以降,社会主義的,共産主義的思想が広まる中で,それが文学に影響して生まれた。プロレタリア文学は,政治体制を批判したり,社会問題を論じたりと,社会主義思想の影響を色濃く受けていた。雑誌『種蒔く人』は,1921-23年に秋田県で発行され,「反戦平和」「被抑圧階級の解放」を謳った。このようなプロレタリア文学や社会主義思想は,普通選挙の要求の高まりとあいまって,日本の国体(天皇制)の変革に結びつくことが,大いに危惧された。

1925年に治安維持法は,国体の変革,私有財産制の否定を企てるものを処罰する法律である。普通選挙甫と同時に施工された治安維持法を担う組織が,特高警察(特高)である。1911年に警視庁(東京)に特別高等警察課が設置され,1928年には全国に設置された。特高は、1922年創設の日本共産党,労働組合,社会主義者,さらには自由主義者,民主主義者まで反政府的であるとみなされた人物を取り締まるようになる。そして,拷問,密偵・密告などによる思想弾圧を行った。

  写真(右):1933年2月20日特高により拷問死したプロレタリア文学作家小林多喜二;1925年治安維持法が成立し,1928年には全国に特高が組織される。小林多喜二は小説『1928年3月15日』の中で、特高の拷問の凄まじさを描写したことから特高の逆恨みを買っていたらしい。共産党員1932年3月以来、潜伏していたが,1933年2月20日に逮捕され,即日死亡したため,拷問死亡は確実であろう。

 プロレタリア文学作家の小林多喜二は,『蟹工船』によって,オホーツク海で創業する漁船の雇用労働者を描き,その過酷な労働環境と資本家による収奪を社会悪として描いた。小林多喜二は,1931年にに合法の日本共産党に入党した。しかし,1932年2月20日に特高に捕らえられ、築地警察で拷問された。監獄内で倒れた小林多喜二は,目を半分むいて痙攣し始めたため、築地署裏にある前田病院に担ぎ困れたが,同日死亡した(享年30歳)。家族に引き取られた遺体には、首筋やこめかみに5,6ヶ所の裂傷があり、首には縄で絞めたような痕が深く残っていた。下半身には内出血が広がり、大腿部には15〜16箇所ほど釘を刺されたように裂けていたという。

小林多喜二の死の真相を報道した新聞はない。毛利特高課長の「決して拷問した事実はない。心臓に急変をきたしたものだ」という談話、友人の江口渙の「顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血がひどく、たんなる心臓マヒとは思えません」という談話(都新聞)、家族や友人が「むごくも変わりはてた姿に死の対面をした」(読売新聞)といった表現で、真相をそれとなく匂わせたという。

小林多喜二への拷問にみられるように,特高警察など日本における同胞重罪人への処遇にも厳しいものがあった。したがって,日本人の治安維持法違反(罪人)への処遇も厳しいのであるから,1931年の満州事変で,中国大陸の「匪賊」に対する容赦ない処刑は,なんら残虐なものとは考えられていない。1932年の第一次上海事変でも,暴戻なる敵中国軍の兵士や日本に反旗を翻す中国人叛徒(ゲリラや反日活動家など)に対しては,情け容赦のない処置をとった。これも,残虐行為とは認識されなかったと考えられる。

軍を中心としたファシズム、1925年の治安維持法,特高警察による社会主義・共産主義的思想弾圧によって,プロレタリア文学は徐々に衰退した。その過程で、林房雄のようにプロレタリア文学の立場自体を放棄する「転向」が盛んに行われた。日本プロレタリア作家同盟(戦旗派)は,1934年2月22日,解体声明を出した。

社会主義思想の誤りを認めて,日本の伝統を尊重した文学を重視するようになった転向文学は,政府への迎合という側面もあった。しかし,プロレタリア文学は,政治中心の文学であり,作家の芸術的感性を軽視していたことから,転向文学では作家個人的見解やその心情を芸術表現することができるようになったともいわれる。(⇒近代日本文学概説2─昭和初期引用)

戦争にあっては,暴戻なる敵を殲滅する勇戦や英雄的行為は,軍の栄光を増すものであり,高い評価を得た。勇士は,軍隊内の処遇,昇進に優遇された。他方,敵を殲滅,刺殺,斬首できないような弱兵や臆病者は,軍隊内で軽蔑されあるいは処罰の対象となった。戦争では,敵を殺害すればするほど,勇士として遇され,昇進できた。転向者は,戦争を日本の大義を守るための勇敢な行為として理解し,国粋主義あるいは戦争賛美とも受け取れる論を展開する。

3.1931年の満州事変,1932年第一次上海事変では,戦争の大義や日本の権益拡充に結びつく戦争に協力すべきであると考えた文化人も多かった。1932年,第一次上海事変の「爆弾三勇士」の伝説は,与謝野鉄幹によって,歌唱になった。田川水泡「のらくろ」でも,「爆弾三勇士」の伝説が取り上げられた。「のらくろ」は,日本をイヌ,中国をブタ,ソ連をクマ,満州・朝鮮をヒツジに譬えた少年漫画で,日本の大陸侵攻の時代を反映しているが,軍部から見て,適切な表現ではなかった。

犠牲的精神の発露による「特攻自然発生説」は,1932年1月に勃発した第一次上海事変で,日本陸軍「爆弾三勇士」という美談となって主張されている。2月22日,日本陸軍第24旅団(久留米)が中国軍十九路軍の陣地を攻撃した際に,中国軍陣地前面にある鉄条網を破壊する破壊筒(4mの筒に爆薬20キロを装填)を運搬した兵士たちの突撃が,犠牲的精神の発露であるとされた。

長崎県出身の北川丞一等兵,佐賀県出身の江下武次一等兵、長崎県出身の作江伊之助一等兵は,第24旅団の下級兵士であり,名前はそれほど人口に膾炙したわけではないようだが,三軍神あるいは三勇士と讃えられた。

写真(右):靖国神社大灯篭基盤のレリーフ「爆弾三勇士」;第二鳥居と神門の参道両脇に,日本陸軍と日本海軍の物語を彫った大燈籠(富国生命保険の寄進)がある。灯篭の基壇に,戦争の名場面の青銅レリーフがある。太平洋戦争時,大鳥居は金属供出されたが,このレリーフは供出されずに,残された。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致 三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

北川丞一等兵,江下武次一等兵、作江伊之助一等兵という下級兵士は,『爆弾三勇士』として,荒木貞夫陸相、鳩山一郎文相、薄田泣董など有名人からも絶賛された。

1932年2月22日,第一次上海事変で,中国軍陣地の鉄条網を爆破するために,破壊筒をもって突撃した「爆弾三勇士」の行動は,犠牲的精神の発露であるとされた。三名の一等兵は,三軍神と賞賛され,マスメディア,教科書,軍歌でも頻繁に取り上げられた。


写真(左):「爆弾三勇士」の歌を作詞した歌人与謝野鉄幹;(1873年2月26日 - 1935年3月26日)京都府岡崎の生まれ。山口県徳山女学校で国語教師を4年間勤めるも女生徒と問題を起こし、退職。20歳で上京。1899年「東京新詩社」を創立し、翌年「明星」を創刊した。3度目の妻の与謝野晶子と浪漫主義運動を展開。1915年2月,大隈重信の与党の一人として衆議院選挙に立候補。選挙区は京都府18郡,候補者11人、定員5人である。1600票が当選ラインとされたが,与謝野寛(鉄幹)は99票で落選。国粋主義者として知られる三宅雪嶺は「与謝野も以前朝鮮事件で幾らか政治騒ぎをやり、馬場とても政治の事などを口にして満更の素人ではないかと思はれるが、併し代議士といふものにならねば、自己平常の主義なり理想なりを行ふことが出来ぬとあつては柳か心細い次第と思ふ。それを行ふといふ自信さへあるならば必ずしも代議士にならずとも出来さうなものだと思ふ。代議士に為らねば自分の考へが行はれぬといふ様な人ならば、代議士に為つた所で何事も仕出来さぬものであらう」と評した。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)

写真(右):『みだれ髪』を残した歌人与謝野晶子;(1878〜1942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」との評価がある。1915年1-2月,雑誌『太陽』で「あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。---合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心さを示されることをひたすら熱望する。」と述べたが,当時,夫鉄幹が衆議院選に立候補していた。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)愛の旅人によれば,二人の間には,葛藤もあったようだ。1939年9月 『新新訳源氏物語』完成。1940年5月 脳溢血で倒れ、以後右半身不随の病床生活。

「三勇士の歌」は,『朝日新聞』『毎日新聞』が公募し,三勇士の突撃から1ヵ月後の1932年3月25日に入選作が発表された。『毎日』の「爆弾三勇士の歌」には、総数8万4177編の応募があり、この中から、与謝鉄幹の作品が選ばれた。

「爆弾三勇士」与謝野寛作詞・辻順治作曲
 一、廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣 われの友隊すでに攻む 折から凍る二月(きさらぎ)の 二十二日の午前五時
 二、命令下る正面に 開け歩兵の突撃路 待ちかねたりと工兵の 誰か後れをとるべきや
 三、中にも進む一組の 江下北川作江たち 凛たる心かねてより 思うことこそ一つなれ
 四、我らが上に載くは 天皇陛下の大御稜戚(おおみいつ) うしろに負うは国民(くにたみ)の 意志に代われる重き任
 五、いざ此の時ぞ堂々と 父祖の歴史に鍛えたる 鉄より剛(かた)き「忠勇」の 日本男子を顕すは
 六、大地を蹴りて走り行く 顔に決死の微笑あり 他の戦友にのこせるも 軽く「さらば」と唯一語

 七、時なきままに点火して 抱き合いたる破壊筒 鉄条網に到り着き 我が身もろとも前に投ぐ
 十、 忠魂清き香を伝え 長く天下を励ましむ 壮烈無比の三勇士 光る名誉の三勇士

鉄幹は当選歌を発表後、(三)の「答えて『ハイ』と工兵の」の文句が「これでは上官が命令したことになり、事実と相違する」と軍から指摘され、修正したといわれる。(静岡県立大学前坂俊之教授http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/maesaka/maesaka.html引用)
月収40円があれば家族五人が生活できる時代に、新聞社が爆弾三勇士の歌を募集し、賞金500円を与謝野鉄幹に贈呈したようだ。

爆弾三勇士など,当時の日本人の戦争観に大きく影響をされた,あるいは大きな影響を与えた文化人も多い。芸術など戦争の前には動員されるに過ぎない存在なのか,戦争など芸術に資金と活動の場を提供する存在に過ぎないのか。

歌人として有名な與謝野鉄幹は,1894年日清戦争を契機に朝鮮に渡る。招かれて漢城(現ソウル)の「乙未義塾」日本教員として赴任。詩歌草新運動を唱えて1894年「亡国の音」を発表、『二六新報』に国民士気鼓舞の詩歌をしきりに掲載。「韓山(からやま)に秋かぜ立つや太刀なでて われ思うこと無きにしもあらず」1895年10月8日に三浦梧楼ら日本官憲・右翼壮士とともに朝鮮王妃の閔妃暗殺に関与したとされる。朝鮮をロシア,清国の傀儡となるのを避ける日本に必要な国防上の措置と考えたようだ。護送されて帰国する。

鉄幹の妻で,歌人としての評価が高い与謝野晶子は,『君死にたまふことなかれ』によって反戦歌人とされる。しかし,1932年『支那の近き将来』では「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」と,『日支国民の親和』では「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」と述べた。夫鉄幹が,第一次上海事変の「爆弾三勇士の歌」をつくったのは,同じ1932年である。芸術家,文人とは,その作品に宿る心情を本質としており,実生活の行動はもちろん戦争観には拘泥しなくてもいいのかもしれない。ドラマチックな戦争が,芸術家の才能をきらめかせ,プロパガンダが芸術家に活躍の場を提供することが多い。

与謝野鉄幹・晶子が,存命であったのであれば,特攻に赴いた若者をどのような意識で捉えたのか。文学作品として,短歌として名作を残すことができたのか。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致―三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

第五期国定教科書「アサヒ読本」初等科国語二の二十一に「三勇士」が記載されるようになり,次のよな美談が子供たちにも広められた。(津久井郡郷土資料館引用)
 敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。そこで班長は、まづ破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
 作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりとかかへ、鉄条網めがけて突進しました。-----すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人はぐっとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただ、その間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
 北川は、決死の勇気をふるって、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやうに、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
 三人の心は、持った破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
 もう死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」作江は答えました。「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」とさけびました。
「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。

写真(右):田川水泡『のらくろ二等兵』;1962年11月の普通社の名作リバイバル14。(定価100円が古書で1260円)。「のらくろ」作者田河水泡(本名:高見澤仲太郎)は,明治32年(1899)2月10日、東京市本所区林町に生まれ,1989年12月12日没、享年90歳 。

『少年倶楽部』昭和7年5月号(1932年)田川水泡の漫画「のらくろ」では,次のような「爆弾三勇士」の場面がある。(津久井郡郷土資料館引用)
ブル連隊長「あの鉄条網はどうしても爆弾で爆破せねば攻めとることは難しいな」
決死隊「連隊長殿 自分達三人で決死隊になります」,ブル連隊長「爆弾を投げに行ってくれるか えらいぞ」
決死隊「御国のためだ 命はいらない」
爆発音
ブル連隊長「それッ このひまに突ッ込めェ」,兵隊「突ッ込めェ」,モール中隊長「あの三人を犬死にさせるなァ」
のらくろ「一番乗り のらくろ一等兵 ここにあり」
戦死した猛犬連隊の3匹の勇士は金鵄勲章の栄誉を受ける。
似通っている別の単行本版の「のらくろ」爆弾四勇士もある。ここでも「連隊長殿,自分たち四人で決死隊になります」「猛犬連隊の名誉のためだ」「命を捨てに行くのだ。勇ましく敵陣に肉迫しろ。」と,特攻自然発生説が採用されている。

1931年から講談社『少年倶楽部』に連載された田川水泡「のらくろ」は,戦争賛美とも捉えられるが,戦争漫画は、太平洋戦争が始まった当初から次々に休刊している。「のらくろ」の連載も,昭和6年1月号から昭和16年(1941年)10月号までで,日米開戦(1941年12月)直前に執筆中止となった。決戦時期に漫画で娯楽とは不謹慎であり,用紙統制令に応じて,発行部数の多い漫画をやめ資源節約と文学報国翼賛に協力するためであろう。「戦争漫画は戦中に戦意を高揚させるためにあったのではなく、今と変わらない虚構の物語を楽しむために存在した」ともいわれる。「のらくろ」のような「出自不詳の孤児の黒いノラ犬」が,大日本帝国の将兵と対比されるのでは,娯楽というより悪ふざけが過ぎる,と軍は考えたのか。

4.日本軍による「特別攻撃」は,1941年12月の日米開戦劈頭における真珠湾奇襲に際して,特殊潜航艇による真珠湾突入,雷撃作戦として行われた。ここでは特殊潜水艦搭乗員9名が「九軍神」として大々的に賞賛された。九軍神をたたえる歌も作られた。画家藤田嗣治は,真珠湾攻撃の大作を描いた。

甲標的(甲型)は、1941年12月7日に真珠湾の米軍艦艇を雷撃するために湾内に侵入しようとした。しかし、座礁した潜航艇が真珠湾攻撃の翌日に米軍により引き揚げられた。その後,米本土に運搬され,各地を巡回して展示された。これは,戦時国際の販売目的のためである。特殊潜航艇「甲標的」は真珠湾の湾口に待機していた伊号潜水艦5隻から各1隻,合計5隻が発進した。1941年12月7日(現地時間)のことである。


写真(右):真珠湾を攻撃し戦死した甲標的5隻の搭乗員は九軍神となった。;甲標的は,搭乗員2名で,出撃した5隻の10名の搭乗員のうち,戦死したのは9名。捕虜となった酒巻少尉は,日本海軍の恥部として,軍神からはずされ,闇に葬られた。中央に描かれているのは真珠湾に浮かぶフォード島Ford Island で,ヒッカム飛行場がある。作者不詳。

特別攻撃隊(司令佐々木大佐)の編成 
甲標的(伊22搭載 岩佐直治大尉 佐々木直吉一曹)
甲標的(伊16搭載 横山正治中尉 上田定二曹)
甲標的(伊18搭載 古野繁実中尉 横山薫範一曹)
甲標的(伊20搭載 広尾彰少尉  片山義雄二曹)
甲標的(伊24搭載 酒巻和男少尉 稲垣清二曹)

空母艦載機による空襲前に,特殊潜航艇が,米軍哨戒機に発見され,米海軍駆逐艦に攻撃され撃沈した。しかし,残りの甲標的は1-2隻が真珠湾内突入した。真珠湾では1-2隻が米艦船を雷撃できたようだが,戦果を挙げることはなかった。

しかし,日本では,開戦劈頭の大戦果として,特殊潜航艇も米艦船撃沈を成し遂げたように戦果が公表された。潜航艇搭乗員10名のうち,酒巻和男少尉は捕虜となったため,戦死した9名が「九軍神」として讃えられた。

写真(右):沖縄の運天港で引き揚げられた特殊潜航艇「甲標的」;1945年9月に米軍が引き揚げた。特殊潜航艇は,ガダルカナル島,マダガスカル島,シドニー港攻撃などでも使用されている。しかし,乗員の多くが戦死するだけで,戦果はほとんど揚げられなかった。使い捨ての兵器に搭乗した将兵も使い捨てにされた形になった。

 酒巻少尉と稲垣ニ曹の甲標的は,ジャイロ(羅針儀)が故障していたが,千才一遇の好機を逃したくないと強行発進した。真珠湾への突入に失敗し,座礁と離礁を繰り返すうちに魚雷発射管が故障。母艦が待つ収容地点へ向かうが再度座礁。 自爆装置に点火して稲垣清二等兵曹と共に艇から脱出し,米軍の捕虜となる(太平洋戦争での日本人捕虜第1号)。
 稲垣清ニ曹は,行方不明だが,海軍二等兵曹から二階級特進し兵曹長になり,軍神として讃えられる。1943年4月8日 合同海軍葬。日比谷公園斎場 葬儀管理者は海軍大臣嶋田繁太郎が勤めた。

1941年12月7日,真珠湾への特殊潜航艇による「特別攻撃」が行われたが、その時の特攻は,部下の志願による犠牲的精神の発露であったとする見解が、流布された。これは1944年10月以降の神風特攻神話と全く同じである。軍が命じたのではなく、戦局困難な状況で、部下が自発的に特攻を申し出て、上層部がその熱意にほだされて、特攻を認めた---。こういうありえないような理由で、1932年2月の第一次上海事変「爆弾三勇士」,1941年12月の真珠湾への特殊潜航艇による特別攻撃,1944年10月の神風特別攻撃隊が説明されている。現在でも「特攻隊自然発生説」が流布されているが,これは1932年の「爆弾三勇士」以来,軍上層部の既定の方針だったようだ。


『画報躍進之日本』海南島攻略号:1940年 東洋文化協会発行。1940年2月10日台湾混成旅団と第5艦隊の協同作戦として,海南島を攻略した。日本の南進と南シナ海沿岸封鎖という目的があった。神戸市「戦争体験を語り継ぐ貴重な資料」所蔵。

昭和17(1942)年4月発行 月刊誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(には,それなりの文人が書いた「殉忠特別攻撃隊九軍神の逸話」が載っている。

「寡い力を以て強大な敵に当たるには、この方法よりほかにありません」
「気持ちはよく判る、だが岩佐大尉、死ぬのを急いではいかん、無理をするな」-----
 特殊潜航艇は岩佐大尉が幾度か上官に懇願し,無暴にも近いこの特別攻撃実施に当たっては、これを許す上官達としてまた骨身を削る熟慮を重ね、検討に、検討が加へられそして最後に沈黙の提督山本司令官の「断」となったのだ,
成功の確算もさる事ながら、志願勇士の烈々たる熱意に深く打たれての「断」であったに違ひない。
(『画報躍進之日本』引用

----数ケ月後に来る「死」のために、猛訓練を續ける心は何といふ崇高な心情だらうか。時は遂に来た、十二月八日真珠湾攻撃「果たして自分等の微力がよく敵の艨艟を沈める事が出来るか、たゞ大君の御為に醜の御楯となればよいのだ」まことに貴い精神力と云ふよりほかはない「死よりも強し」とは此の事を云ふのだらう
勇士達は、襦袢から袴下まで新しいものに着更へ上官に最後の申告を行った。勇士達は「行って参ります」とは云はなかった、生還を期さないからだ---

----「アリゾナ型」戦艦である。それを見かけて一隻の特殊潜航艇が、海豹の如く進んで行った、瞬くうちに、遥か真珠湾内に一大爆発が起こり火焔天に沖し、灼熱した鉄片が花火のやうに高く舞ひあがった。(→昭和17(1942)年4月発行 月刊誌『画報躍進之日本』引用終わり)


1941年12月7日、真珠湾で炎上する戦艦「アリゾナ」USS Arizona (BB-39):左には、戦艦「テネシー」の甲板上で消火用ホースで消防活動に従事する人々が見える。Naval Historical Center

真珠湾を攻撃した特殊潜航艇の勇敢な乗員たちを讃える歌が作られた。米山忠雄作詞,若松巖作曲の「嗚呼特別攻撃隊」は,次のようなものである。
一、祖国を後にはるばると 太平洋の浪枕 幾夜仰いだ星月夜 ああ故郷の山や河
二、許して下さいお母さん だまって別れたあの夜の せつない思い必勝を 固く誓った僕でした
三、わがまま言った僕ですが 今こそゆきます参ります 靖国神社へ参ります さらば母さんお達者で
四、師走八日の朝まだき 僕は特別攻撃隊 男子の本懐今日の日よ 待っていましたお母さん
五、天皇陛下万歳と 叫んだはるか海の底 聞いて下さいお母さん 遠いハワイの真珠湾

文部省唱歌作詞作曲の「特別攻撃隊」は,次のようである。
一番 一挙にくだけ 敵主力 待ちしはこの日この時と 怒濤の底を矢のごとく 死地に乗り入る艇五隻
二番 朝風切りて友軍機 おそふと見るやもろともに 巨艦の列へ射て放つ 魚雷に高し 波がしら
三番 爆音天をとよもせば 潮も湧けり 真珠湾 火柱あげて つぎつぎに 敵の大艦しづみゆく
四番 昼間はひそみ 月の出に ふたたびほふる敵巨艦 爆撃まさに成功と 心しづかに打つ無線
五番 ああ 大東亜聖戦に みづくかばねと誓ひつつ さきがけ散りし若桜 仰げ 特別攻撃隊

「死地に乗り入る艇五隻」「みづくかばねと誓ひつつ さきがけ散りし若桜」など、特攻隊の犠牲的精神を高く評価している。特攻隊を称える2曲は、当時の一流の音楽家が,将兵が潔く死んでゆくさまを謳っている。開戦劈頭ではあるが,戦局の悪化した大戦末期と同じような「自己犠牲を厭わない勇士」の感覚こそが「特別攻撃」という自殺攻撃を正当化できることが読み取れる。このような特攻精神の形成と喧伝に,文化人は大きな役割を果たした。

Japan and the Second World War in Asia ;Fujita Tsuguji, "The day of the Saipan gyokusai [Saipan-to gyokusai no hi]" (oil). Theodore F. Cook, Jr. William Paterson Universityでも、多角的視点から藤田の戦争画を取り上げている。特攻という生命を祖国に捧げる行為を正当化するのには,宗教にも似た家族愛、祖国愛、天皇などの高次元の精神を体現する必要があろう。

1942年4月『画報躍進之日本』の殉忠特別攻撃隊九軍神の逸話では、特殊潜航艇の開発,真珠湾突入の作戦が一軍人に任せられ、その熱意と修練が戦果をあげたたよう書かれている。しかし、特殊潜航艇の整備,それを運搬する潜水艦との打ち合わせを一軍人が仕切ることはできない。それを軍が許すはずもない。海軍の組織として、特殊潜航艇,潜水艦,燃料,兵器を準備し,部隊を編成して作戦を実施した。

にもかかわらず、特攻について、一軍人の犠牲的精神の発露という面だけを強調・賞賛して、軍の関与を最小限に抑えた発表をしている。このような発表は、軍の関与を隠蔽しようとした所作であり、戦果不明にもかかわらず、「襲撃成功」の無電を偽装し、特別攻撃が失敗した責任を回避しようとした。軍の組織の力よりも,一軍人の精神力,努力のほうが,文化人にとっても,文学表現にふさわしい。

福田逸の備忘録に記載された「特別攻撃隊員」
昭和17年3月7日の朝日新聞に「殉忠古今に絶す軍神九柱」「偉勲輝く特別攻撃隊」「九勇士ニ階級を特進」として、次の記事が紹介されている。
 連合艦隊司令長官山本五十六大将は、1942年2月11日、ハワイへの特別攻撃隊は「多大の戦果を揚げ、帝国海軍軍人の忠烈を中外に宣揚し、全軍の士気を顕揚したることは、武勲抜群なりと認む」として、感状を授与した。

朝日新聞に,特攻九軍神を讃へた三好達治の詩「九つの真珠のみ名」、吉川英治の随筆「人にして軍神−ああ特別攻撃隊九勇士」も掲載されている。(→福田逸の備忘録に記載された「特別攻撃隊員」引用)

◆1941年12月7日(日本時間8日)の日米開戦は真珠湾攻撃を参照
◆1941年12月7日(日本時間8日)の真珠湾奇襲における特別攻撃は特殊潜航艇「甲標的と軍神」を参照
自爆テロと特攻・真珠湾の関連

真珠湾攻撃では、特別攻撃隊が「九軍神」とされたが、祖国に殉じた者は、兵士、軍属、民間人を問わず、靖国神社に御霊を合祀され、軍神となることができる。軍神は何百万人も存在し、祖国のために殉じる模範を示しておられる。

靖国神社の合祀は、殉国者とその遺族にとって最大の名誉である。祖国への犠牲は、靖国神社に御霊として合祀されることで癒される。これは、軍人恩給、遺族年金などお金では得ることのできない高次元の宗教的慰安を提供する。そして、靖国神社で命(ミコト)として永遠不滅の名誉を手に入れ顕彰される。

5.日中戦争,太平洋戦争の期間を通じて多数の文化人,作家が戦争に関連した芸術作品を残している。戦争芸術(文芸)では,従軍記録,詩作,評論から,少年少女向け雑誌,婦人向け雑誌,絵画まで,さまざまな表現を通じて,日本軍賛美,敵撃滅のための戦力強化を謳っている。文化人が,戦争協力したのは,総力戦における国家・軍の要請に応じるように強いられたためといわれる。しかし,率先して戦争に協力した文化人もいたし,消極的に参加して文化人として命を永らえた文化人もいた。いずれにせよ,日本の敗戦後,戦時中の文芸の多くは,黙殺されたり,なかったことにされてしまう。

特殊潜航艇の九軍神を讃えた「九つの真珠のみ名」を詠った三次達治は,市岡中学を中退して大阪陸軍地方幼年学校に入り、1918年(大正七年)東京の中央幼年学校本科に進んだ。そのご,軍隊を除隊して,第三高等学校(現京都大学)を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒業。処女詩集は,1930年の『測量船』で「春の岬」「乳母車」「雪」「郷愁」などが収められている。

写真(右):三好達治;(1900-1964)大阪生れ。第三高等学校(現京都大学)を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒業。萩原朔太郎の知遇をうけ、1928年詩誌「詩と詩論」の創刊に加わり、詩、翻訳等を発表し、翌年にはボードレールの散文詩集「巴里の憂鬱」全訳を出版。1930年には処女詩集「測量船」を刊行。1934年堀辰雄、丸山薫とともに編集同人となり詩誌「四季」を創刊。

 三好達治と朝鮮:「四季」派抒情の本質;印藤和寛に依拠して,特異な軍隊経験を追ってみよう。
三好達治は,幼年学校本科課程(1年半)の終了後、1920年朝鮮へ教育赴任した。同級の西田税とともに、4月2日神戸を出発し、4月9日に清津で下船、西田は羅南第19師団司令部へ、三好は会寧第19工兵大隊に赴任した。

 この間,「国境」という詩を作った。これは『測量船』に属している。半年間の教育赴任の後、1920年10月に陸軍士官学校に入学する。

1920年6月4日未明、朝鮮独立軍部隊は鐘城北方で豆満江を渡河、朝鮮を併合していた日本軍を襲撃した。日本軍は、約700人の独立軍と激戦を交えたが,豆満江の日本軍3000人の中に三好達治もいた。

1920年10月2日馬賊による琿春の日本領事館分館襲撃「琿春事件」により、日本軍は「間島出兵」する。日本政府は「不逞鮮人らが支那馬賊及び過激派露人と提携」という不穏な情勢に対処するため、中国側の承諾なしで「不逞鮮人討伐」を目的に出兵したのである。日本軍は、朝鮮羅南第19師団、シベリア派遣第13・14師団、関東軍など総兵力は2万に達した。

三好達治は、こうした朝鮮独立軍との死闘直前に教育赴任が終わり、帰国する。しかし,達治は翌1921年9月頃脱走事件を起こし、樺太へ渡るため北海道まで行ったが,憲兵に捕えられた。三好達治は、二カ月間陸軍衛戌刑務所に入れられ、退校追放となり、徴兵検査で「第二乙種」とされた。しかし,大阪に戻った達治は数カ月の勉強の後、三高へ合格する。

「神州のくろがねをもてきたえたる 火砲にかけてつくせこの賊 この賊はこころきたなし もののふのなさけなかけそ うちてしつくせ」(三好達治「馬来の奸黠」)

  三好は戦争従軍体験によって,戦闘詩を作り,現在から見れば残虐な感覚も、情緒的な日常性と併存できたといわれる。「「四季」派の詩人たちが、太平洋戦争の実体を、日常生活感性の範囲でしかとらえられなかったのは、詩の方法において、かれらが社会に対する認識と自然に対する認識とを区別できなかったこととふかくつながっている。」

このような意見に対しては,「日本内地における庶民生活の平和さ、暖かさ、やさしい美意識とかけがえのなさが、実は、最前線における敵−他民族、国民と対峙した絶滅戦争の勝利の上になり立っているという認識」を達治がもったとする考えもある。「穏和で心優しい日本人の庶民感覚が、その行き着くところでは野蛮な殺戮者になるというこの二重の構造は、このような政治構造の反映ではないだろうか。」(⇒三好達治と朝鮮:「四季」派抒情の本質;印藤和寛引用)

堀辰雄,三好達治,丸山薫,中原中也など抒情詩人たちは,『四季』に集まり,萩原朔太郎,室生犀星もこれに加わっている。

写真(右):石川達三;(1905年7月2日 - 1985年1月31日)秋田県平鹿郡横手町(現横手市)に生まれる。明治45年、秋田市の築山小学校入学。幼少期を秋田市で過ごす。早稲田大学文学部英文科中退。1930年にブラジルに渡り、数ヶ月後に帰国。「新早稲田文学」の同人となり、小説を書く。ブラジルの農場と秋田での体験を踏まえて書いた『蒼氓』で、第1回芥川賞を受賞。社会批判をテーマした小説を書くが、『生きてゐる兵隊』が新聞紙法に問われ発禁処分、禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける。

1938年3月,石川達三『生きている兵隊』は発禁とされた。作品の掲載された「中央公論」1938年3月号が発禁処分となり,作者だけでなく,編集長、発行人が起訴され、有罪判決を受けた。『生きている兵隊』は「安寧秩序ヲ紊乱スル」とされ,新聞紙法違反,発禁処分を受けた。石川達三の判決は禁固4ヶ月執行猶予3年である。
 白石喜彦著『石川達三の戦争小説』の書評によれば,石川達三は「戦争ト謂フモノノ真実ヲ国民ニ知ラセル事カ真ニ国民ヲシテ非常時ヲ認識セシメ此ノ時局ニ対シテ確乎タル態度ヲ採ラシムル為メニモ本当ニ必要タト信シテ居リマシタ」と公判調書で述べている。石川は,「あるがまゝの戦争の姿を知らせることによつて、勝利に傲つた銃後の人々に大きな反省を求めようといふつもり」(『生きてゐる兵隊』1945年),「私が知りたかったのは戦略、戦術などということではなくて、戦場における個人の姿だった」(『経験的小説論』1970年)へと結びついてゆく。戦場の《あるがまゝ》を描こうとした、主張する。

「石川達三は,日中戦争時の日本軍将兵のあるがままを描き出すことで,日中戦争最中に行われた戦争賛美の報道やプロパガンダとは一線を画した。しかし,評者は「戦場の非人間性を告発する一方、《国家の事業》としての戦争に圧倒されている」という。
 サイパン島陥落後の1944年7月14日「毎日新聞」に載った石川達三「言論を活発に 明るい批判に民意の高揚」という記事があるという。そこでは,「まず言論を活発化して民衆に声を与えよ。彼らの言論は決して事態を混乱に導くものでもなく、当局に反抗するものでもあり得ない。しかも民衆の言論は相互に是正しあって必ずや今日の道義心の低下を救い、国民総蹶起に資するところ少なからざるを信ずるのである」とある。言論統制の下にあって,これは言うことのできる最大限の表現であろう。(⇒白石喜彦著『石川達三の戦争小説』の書評引用)

 日本軍の勝利を希求し,国際関係や占領住民の実態の中で日中戦争を把握できなかったた石川達三は,戦争のもつ大量破壊・大量殺戮という陰惨な認識は薄れていたようだ。しかし,大日本帝国が呼号した聖戦,大東亜共栄圏などの大義名分が欺瞞であることを理解し,言論の自由を取り戻すべきであると考えていた。

写真(右):火野葦平;(1907年1月25日 - 1960年1月24日)小倉中学卒業後、1926年早稲田大学英文科入学、同人誌「街」を創刊。1928年、福岡第24連隊入営、のち除隊。1937年日中戦争に応召、『糞尿譚』が第6回芥川賞受賞を受賞。1938年5月、徐州作戦に一兵卒として従軍、その体験から『麦と兵隊』を書く。果てしない麦畑の 中での行軍と中国民間人への愛情ある視線を描いたとされる。120万部の大ベストセラーとなった。

弾圧された文化人もあったが,火野葦平『麦と兵隊』の成功は,中国戦線の日本軍に従軍する「ペン部隊」を活気付かせた。内閣情報部は,陸軍班14名、海軍班8名の有名作家を,漢口攻略戦へ従軍させたが,これは「文学に対する軍国主義支配の強化」「純粋な文学精神の喪失」であり,「反動文学の時代」あるいは「暗い谷間」のはじまりを象徴するとされる。「それ以後,文壇は、政府の思想統制に乗せられて、無抵抗で従順な戦争協力ヘとまっしぐらに転落していった。」と否定的に評価されている。(⇒日本労働年鑑 太平洋戦争下の労働運動 第五編 言論統制と文化運動 第五章 芸術運動引用)

 1940年には紀元2600年奉祝芸能祭祝典が開催され、文芸家協会会長・情報部参与の菊池寛が「文芸銃後運動」という講演会開催・傷病兵士慰問を展開した。これには,年内に10万人以上の聴衆を動員できたという。
 1941年12月、太平洋戦争勃発とともに行われた全国的検挙では,宮本百合子らが逮捕されたが,「大東亜戦争の理想を中外に宣揚するため」に、作家・詩人・歌人・俳人・評論家・国文学者が集まって大政翼賛会「文学者愛国大会」を開催し、挙国一致を目指した。
 1942年5月,政府外廓団体として,日本文学報国会が創設された。新会員は約3000名で、小説・評論随筆・詩・短歌・俳句・国文学・外国文学・劇文学の八部会から成り、役員は情報局・翼賛会が指名し、予算の大部分は政府の助成金であったという。(⇒日本労働年鑑 太平洋戦争下の労働運動 第五編 言論統制と文化運動 第五章 芸術運動引用)

『光太郎回想』高村豊周(著):高村光太郎;(1883年3月13日 - 1956年4月2日) 1914年、詩集『道程』出版、智恵子と結婚。1937年智恵子と死別、1941年詩集『智恵子抄』刊行。戦時中には、詩集『大いなる日に』を刊行。1945年4月、空襲によりアトリエ被災のため、5月に岩手県花巻町へ疎開。

『昭和戦争文学全集』第4巻「太平洋開戦―12月8日」では,伊藤整が東条の演説を聞いて涙を流し「言葉のいらない時が来た」と書く。高村光太郎も「陛下のみこころを恐察し奉って」落涙する。(⇒戦争と文学 西川長夫引用)

草野心平「蛙の参戦」,中勘助「戦車兵」,萩原朔太郎「日本への回帰」,高村光太郎の詩集『大いなる日に』,佐藤春夫『詩集 大東亜戦争』,文化奉公会編『大東亜戦争 陸軍報道班員手記 ジャワ撃滅戦』,三好達治『捷報いたる』などが,戦争賛美とも受け取れる文学である。

文明の毒は『平和』の仮面のもとにはびこるのである。戦争よりも恐ろしいのは平和である。平和のための戦争とは悪い洒落にすぎない。……奴隷の平和よりも王者の戦争を!」(亀井勝一郎「近代の超克」)
亀井勝一郎は,1942年、「文学界」が中心となった「近代の超克」座談会を河上徹太郎と企画し、日本文学報国会評論部門幹事となる。「大和古寺風物誌」「親鸞」は戦争中の代表作とされる。第二国民兵として軍事教練中に敗戦を迎えた。「近代の超克」は,雑誌『文学界』1942年9、10月号に分載された論文と座談会により構成され,小林秀雄、三好達治、川上徹太郎、林房雄など13名が出席している。そこでは,大東亜戦争を、哲学、文学的に肯定する論が展開された。(⇒イセーゴリア 2001.12.16 ライナーノーツ引用)

写真(右):亀井勝一郎(1907〜1966年)函館中、山形高を経て、東京大文学部美学科入学。社会主義思想にふれ、共産主義青年同盟に加わって活動。1928年、退学後、4月に、治安維持法違反で札幌で検挙。東京市ヶ谷刑務所に収監。そこで、「非合法的政治活動には向後一切関与せず」との転向上申書を書いて、釈放。2年半の獄中生活後、1932年日本プロレタリア作家同盟に加わる。しかし、1938年9月、転向者として再生をテーマとした「人間教育」を執筆するとともに、林房雄を介して「文学界」の同人となる。

「近代の超克」の周辺:伊豆利彦によれば,亀井勝一郎は,近代文明による精神の破壊の様相を分析し、「精神の危機」を招いた「文明の毒」を糾弾した。「殆ど自然的の強制力をもって襲いかかってくる文明の重圧、機械主義、それがもたらす精神のすべての疾病や衰弱、節度を失った人間の自壊作用、滅びるか、なお救済はあるか」という亀井の問題提起は、突然「民草の心に浸透さすべき最大の言葉としては、たゞ御詔勅あるのみ」「文明の毒は『平和』の仮面のもとにはびこるのである」「戦争より恐ろしいのは平和である」「奴隷の平和よりも王者の戦争を!」と言う結論にいたる。たしかに,治安維持法と転向の問題を離れて、文化人の「精神の危機」、ニヒリズムを論じることはできないのかもしれない。

敗戦後,亀井勝一郎は「我が精神の遍歴」((1948)『我が精神の遍歴』講談社)で、戦争協力を〈擬態〉であり,非国民といわれないように、本心を秘密警察・相互摘発から隠して,面従腹背の見せかけの戦争協力を行ったと弁解した。「戦中ほど『死』という言葉が、軽率に或いは威嚇的に濫用されたことはない」「愛と死は人生の根本問題」であるが,それらが粗暴に扱われ,「人間性は致命的な凌辱を蒙ったやうに思われる。結果として国民はどうなったか。巧妙な擬態を身につけていった。人の顔色をみて愛国者であり、人の見ているところで神に祈る。監督者のいるところでのみ働くやうなふりをする。鮮やかなものだ」。己の信ぜざるものを、信じたかのようにみせかけたというのである。
 「擬態は人間を疲れやすいものにする。戦いに疲れたというよりは、擬態に疲れて内部崩壊を起こしたといった方が適切かもしれぬ」「私は今まで述べた一切を、戦時の全体主義に固有の現象とのみは思はない。我々の社会生活の一切、社交、交友、家庭の生活に至るまでが擬態の連続ではないかという不安が襲ってくる」。(⇒戦後60年 日本人にとって日米開戦とはなんであったか:渋谷要引用)

亀井勝一郎は,戦争責任の問題を、社会生活一般の問題とし,個人の責任を「擬態」の名のもとに免除した。一億総特攻から一億総懺悔への転換である。

 相対主義について :三枝亮介が述べるように,日本では,明治維新以来の文明開化の波によって日本に輸入されてきた西洋文化,機械文明の力で、高い知性が獲得できた。そして,そのことが文化や社会、思想を一旦、最大限に相対化した。つまり,「復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋」という対比が明瞭になった。しかし、戦争の時代は文化人を相対主義にとどまることを許さなかった。大東亜戦争という総力戦の継続という要請の前には,天皇制・国体,聖戦,大東亜共栄圏という絶対的なものによる統一,絶対的価値の正当化が大前提となった。絶対的なものに対して,相対的に考えることは,反逆ともなりかねず,絶対的な流れの中に巻き込まれるしかなかったのか。

大東亜戦争中の「詩歌翼賛運動」では,大政翼賛会宣伝部発行のB6判60頁ほどの仮綴、これが何巻も出され,初版は3万部である。この仮綴の中には当時の詩人全員が網羅されているといってよい。たとえば,北原白秋は《とどろけよ、よろづよの道の臣、大御軍、いざふるへ、いくさびと....》,佐藤春夫は「大東亜戦争史序曲」と題して《勇猛果敢は相模太郎が膽、神速適確は源九郎が略、日本男子由来たたかひにくはし…》と書いている。(⇒文学者の戦中戦後責任―『花咲ける孤独』重本恵津子引用)

6.日本では,日米開戦後の1942年、『日本文学報国会」と「大日本言論報国会」を組織した。それは、総力戦に文学も動員するものであった、多数の作家がそれに参加したが、彼らは動員されただけなのかのか。それとも,自らの才能を開花させる場として,報国会を利用したのか。

内閣情報局の指導によって、1942年5月に文学報国会が、1942年12月に、言論報国会が設立された。それぞれ文学者、評論家が参加し、会長は徳富蘇峰。文学報国会設立に際しては、久米正雄が内閣総理大臣東條英機陸軍大将宛てに設立申請書を提出し、佐藤春夫、吉川英治などが理 事に名を連ねた。1942年度の収入は35万円である。

言論報国会の設立趣意書には「壮烈なる思想戦の展開に献身せん」とあり、発会式では「思想を弾丸としペンを必殺の銃剣として勇敢に進撃を開始されんことを」と訴える東條陸軍大将祝 辞があった。1943年3月の思想戦大講演会は、事業報告によると延べ二万人が出席し、地元新聞社が後援した。言論報国会の1943年度収入は、政府助成金20万円、新聞社などの寄付金32万3000円である。(⇒「報国会」の内部文書引用)

写真(右):「愛国百人一首」 (1942年);愛国百人一首選定委員は、佐々木信綱71歳、尾上柴舟67歳、太田水穂65歳、窪田空穂66歳、斎藤瀏64歳、斎藤茂吉61歳、川田順61歳、吉植庄亮59歳、釈迢空56歳、土屋文明53歳、松村英一54歳。北原白秋58歳は1942年12月逝去。

1942年の愛国百人一首は、文学報国会立案、大政翼賛会後援、東京日日新聞・大阪毎日新聞の協力で行われた。選定顧問 は、川面隆二(内閣情報局第五部長)、井上司朗(内閣情報局第五部長第三課長)、相川勝六(大政翼賛会実践局長)、高橋健二(大政翼賛会文化部長)、生悦住求馬(文部省社会教育局長)、大岡保三(文部省社会教育局国語課長)、谷萩那華雄(陸軍省報道部長)、平出英夫(海軍省報道部長)、関正雄(日本放送協会業務局長)、久松潜一(東京帝国大学文学部教授)、平泉澄(東京帝国大学文学部教授)、徳富蘇峰(日本文学報国会会長)、下村海南(日本文学報国会理事である。

1942年11月20日に発表された愛国百人一首には、万葉時代の歌(23首)、元寇及び吉野朝悲歌(7首)、幕末志士の歌(約20首)が選ばれている。

吉田松陰「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし日本魂」
藤田東湖「かきくらすあめりか人に天つ日のかがやく邦のてぶり見せばや」
徳川齊昭「あまざかる蝦夷をわが住む家としてならぶ千島のまもりともがな」
森迫親正(10歳代)「いのちより名こそ惜しけれもののふの道にかふべき道しなければ」
本居宣長「鈴屋集」からは、「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」が選ばれている。1944年10月の神風特攻隊の部隊名称は、この歌の敷島,大和、朝日、山桜が使用された。源田實は、命名者であるが、当然「愛国百人一首」を読んでいたか,それを知っていた海軍軍人のアドバイスを得たのであろう。

写真(左):斎藤 茂吉;(1882年5月14日 - 1953年2月25日)山形県南村山郡金瓶村に生れる。東京府立開成尋常中学校、一高を経て東京帝国大学医科大学卒業。ウィーン大学・ミュンヘン大学に4年間留学。アララギ派の歌人。『赤光』は、明治38年より大正2年に至る9年 間の作品760首を収載した第一歌集。『寒雲』1937-1939年の作品1115首を収載した『あらたま』に継ぐ第三詩集。厳粛・孤独・壮大・豊潤の感性で戦争も詠っている。

1930年、満州事変勃発の前年、斎藤茂吉は、『連山』(1930-1931年)で次のような歌を詠んだ。
  わが体に触れむばかりの支那少女巧笑倩兮といへど解せず
  夜ふけて露西亜をとめの舞踊をば暗黒背景のうちに目守りき
茂吉は、旅順・南山は日清・日露の戦いの地を訪ねた。戦で命を落とした兵士を思って詠嘆した。
  年ふれる壕の中よりわが兵の煙管出でしと聞くが悲しき
斎藤茂吉は、1941-1942年の『霜』では、勇壮な歌を詠った。
  いのちもちてつひに悲しく相せめぐものにしもあらず海はとどろく

 茂吉は戦争中は戦争を礼賛する歌をいくつも詠ったようだ。『斎藤茂吉選・佐佐木信綱選・読売新聞社編(1938)『支那事変歌集』三省堂 や、『斎藤茂吉・土屋文明編(1940)『支那事変歌集 : アララギ年刊歌集別篇 』岩波書店も刊行され、「処女われ報国の一途にいで来しを貧しき故と兵ら思ふらし」のような乙女の歌も選ばれている。
 漢口は陥りにけり穢れたる罪のほろぶる砲の火のなか
  あやまれる蒋介石の面前に武漢おちて平和建立第一歩
  茂吉は,大東亜戦争は聖戦であるとのプロパガンダを信じていたからこそ、堂々と所信を表現できた。

「和歌というのはつまり大和魂を詠むことですから、大和魂なしに和歌は作れないわけであって、だから萩原朔太郎や宮沢賢治にはあまりいい和歌がないわけですね。彼らはあまり大和魂じゃなくて西洋魂の方ですからね。だけどあまりいい歌はないですね、聖戦礼賛の歌は。あれね朝日新聞社から電話が来るんですよ。大本営発表で敵のアメリカ軍空母3隻、戦艦1隻、巡洋艦5隻沈没したそうです、先生何かいい歌作ってください−と新聞が電話をよこすんだそうです。電話口で斎藤茂吉は新聞に言うわけですね。そうすると次の日の朝、でかでかと敵空母何隻撃沈、かくかくたる戦果なんとかと出ていて、その下に斎藤茂吉戦勝をことほぐ歌と載るわけですね。そういう歌が多いので、茂吉は本当に聖戦だと思って大東亜戦争を支持はしていた。しかし、それで自分が作った歌が本当にいい歌だとはどうも思っていなかったようです。その当時から。しかし、それでも日本国民の1人として、この戦争に勝たなければ日本は破滅すると思っているわけですから、戦争が敗戦になった時に、本当に茂吉は全く白紙還元を経験したんですね。愕然としたなんていう程度のものではなくて、本当に声も出なくなった。一種の精神がカブラダザーという感じで、白紙に戻されてしまった。」(⇒『歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会-日本文学に見る河川- :芳賀徹第6回平成14年9月13日議事録引用)

斎藤茂吉は、戦後の1946年4月、知人の「先生を戦争協力者に挙げている人がいる」との忠告に「俺を戦争協力者とは一体どういうことだ。俺ばかりということはない。歌人のほとんどが皆そうじゃないか。国が戦争をすれば、誰でも勝たせたいと願うのは当然だ。国民としてそれのどこが悪い」と言っている。(写私の戦争論―還らざる父への鎮魂歌引用)

写斎藤茂吉『作歌四十年』巻末:中村稔解説
『いきほひ』から、(あるいは『のぼり路』から)、『昭和十九年抄』に至る本書の斎藤茂吉はまことに無残である。これらの作品に接して私はほとんど語るべき言葉を知らない。----戦争協力とか賛美とかを非難するわけではない。表現のあまりの空虚さ、観照の乏しさをいうのである。(斎藤茂吉には、救いがたい愚昧さともいうべきものがあって、これは『小園』、『白き山』の時期にまで、あるいは彼の生涯をつうじてかわらない類のものであった。-----)
しかも意識的な近代詩の作者としての斎藤茂吉を考えるとき、彼はあくまで、何をうたうかについては執拗に盲目であった。このことが、本書でいえば、『のぼり路』以降の無残で悲惨な作品群となってあらわれていた。と同時に、このことは、『霜』、『小園』から『白き山』へ深まりゆく孤独にその叙情を潜めることの妨げともならなかった、と私は思う。
私にとって、わが国の短歌、俳句をふくめた近代詩の歴史のなかで、斎藤茂吉ほどに偉大な詩人を他に知らない。しかも、この偉大さ(その意味は又、別に語らねばならないが、)と同時にあわせもっている悲惨さ、というものが、わが国の近代詩のもつ問題の象徴そのものとしか思われない。そして、そういう意味で又、本書こそが、私にとって詩とは何かの反省をしいる最良の書の一であると信じている。(かわうそ亭「中村稔と齋藤茂吉」March 30, 2005引用)

愛国百人一首選定委員川田順(61歳)は、「老若共に国家に尽くさねばならぬ。依つて、尾張浜主の如き百十余歳の人や、森迫親正の如き十余歳の人を採るやうにも注意した。婦人は大切の要素なるゆゑ、見落とさぬやうに努めた。又、増産を喫緊時とする聖戦下のことだから、農業に関する歌は勿論、鉱業や漁業などに関係ある歌も、採るやうに留意した。」という。

歌人斎藤茂吉「皇国民心の精華−反映した万葉歌人の心〈上代〉」朝日新聞(1942年11月21日掲載)で、「純真にして一こくなる上代皇国民の心の精華としての万葉集が、一般に親しまれる大気運に向ひつつあることを立証するものである。同時に大東亜戦争大勝利のさきがけをなすものとして、歓喜至極である」と述べた。

写真(右):菊池寛(1888年(明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日)京大卒業後、時事新報社会部記者を経て1923年「文芸春秋」を創刊。大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。

菊池寛「話の屑籠」(1943年1月)では、「文学報国会の『愛国百人一首』の選定は相当の成功であった。従来の『小倉百人一首』は、内容的にいっても文学的にいっても、あまりに低調なものが多いのである。定家卿の時代は日本の歌道の衰頽期であり、万葉集の真摯豪壮な歌調は退けられ、末梢的な感情や技巧の歌が尊重された時代である。とにかく、恋歌が二十九首あるのだから驚くの外はない。もっとも、百人一首を弄んだ青年男女などは、歌詞の意味などは分からなかったから、歌詞から影響を受ける場合などは、案外少なかったかも知れない。
 『愛国百人一首』は、万葉集から二十三首選ばれている。が、自分のごとく、日本の歌は万葉集につきていると思うものにとっては、五十首でも多しと思わないであろう。」(⇒愛国百人一首解説:竹下洋一引用)

日本文学報国会編(1943)『大東亜戦争歌集』も、協栄出版社から刊行された。

7.日本軍の大活躍は,『少年倶楽部』『少女の友』など子供向けの雑誌でも取り上げられた。そこでは,有名文化人が,執筆し,挿画を描いた。戦争プロパガンダを展開するのに動員されたのか。それとも,自らの才能を開花させる場として,戦争を利用したのか。

1942年、文学や言論を統制するために「日本文学報国会」と「大日本言論報国会」が組織された。 こんな時代もあったんだ 子供の頃の夢 童心への回顧
少年物:少年倶楽部 幼年倶楽部 譚海 日本少年
少女物:少女倶楽部 少女画報 少女の友 少女世界 少女界 少女
婦人物:婦人倶楽部 婦人之友 主婦之友 婦人世界 女学世界 日本婦人
新聞雑誌:アサヒグラフ 週刊朝日 サンデー毎日 子供報知
戦争雑誌:子供の科学 学生の科学 青年 家の光 戦争雑誌
このような雑誌で,文化人たちは執筆,挿画に活躍したが,多くは総力戦における動員に従ったような表現であり,敵愾心を沸き立たせたり,敵撃滅を企図したりすることで,結果として戦争賛美あるいは戦争協力に結びついている。

写真(右):『少年倶楽部』昭和6年12月号 満州事変特別号;1932年12月発行。9月に柳条湖の満鉄爆破を契機に、満州事変が始まった。第一次上海事変も勃発するなど,大陸での中国との戦争が,少年の冒険心をくすぐるよう表現された。津久井郡郷土資料館所蔵。「少年倶楽部」昭和4年4月号表紙は,斉藤五百枝画「或る日の鞍馬天狗と杉作」)で,『山岳党奇談』が連載中。

写真(右):『少年倶楽部』昭和16年10月号,表紙の少年飛行兵;1941年10月,日中戦争最中,日米戦争直前の発行。1941年7月,日本軍は仏領インドシナ南部(南部仏印)に進駐したため,米国から本格的な経済制裁を受けることになる。 津久井郡郷土資料館所蔵。

松岡正剛の千夜千冊:鳥越信編(2001 )『日本の絵本史』???によれば,引用作家や画家たちは,挙国一致のための絵本づくりを版元を通して要請され、内務省図書課の「指示要綱」に従う本づくりを余儀なくされた。浜田広介、与田準一、坪田譲治、百田宗治らがこの統制のなかで、想像を絶する苦闘にまみれる。---逆に「愛国・皇道・忠義」を真っ正面にかかげて一挙に絵本の世界を席巻していったのが大日本雄弁会講談社の新シリーズ「講談社の絵本」である。すでに大人向けの大衆大量販売雑誌「キング」と「少年倶楽部」「少女倶楽部」「幼年倶楽部」の青少年3大誌を当てていた講談社は、野間清治の決断で戦争賛美の絵本づくりに突き進んでいった。絵も名画主義と写実主義で、「ハワイ大作戦」「ツヨイ日本軍」「支那事変美談」などが連打された。---あれで愛国少年にならないわけはなかったというほどの影響力だった。(⇒松岡正剛の千夜千冊:鳥越信編(2001)『日本の絵本史』???引用)

 「少年倶楽部」は、少年雑誌の草分け的な存在で、創刊は大正3年10月まで遡り、1962年12月まで発行され続けた。「のらくろ」の田河水泡,サトウ・ハチロー,江戸川乱歩,井伏鱒二など、各界の著名人が執筆にあたった。太平洋戦争の開戦後,総理大臣東条英機大将も寄稿し,表紙に登場し,また軍人による「戦地からの報告」も増してゆくようになった。

発行部数は,大正9年8万部、1927年30万部、1928年45万部、1929年50万部、1925年67万部、1932年70万部と増えつづけ、1936年新年号で75万部の最高記録に達した。(⇒少年倶楽部引用)

1943年1月、理化学研究所の仁科芳雄博士を中心に、天然ウラン中のウランU235を熱拡散法で濃縮する計画がはじまり、1944年3月、理研に熱拡散塔が完成した。他方、日本海軍も1942年に核物理応用研究委員会を設け、原子爆弾の可能性を検討しはじめた。

日本軍が具体的に原子爆弾の開発を開始する以前に、科学評論や戦記小説の中で、書くエネルギーの軍事利用が注目されていた。たとえば、第一大戦直後、『新青年』大正9年7月号「将に開かれんとする世界の最大秘密の扉」では次のように、原爆の威力が語られている。
 「バーミンガム大学のアーネスト・ラザフオード教授-----は、原子(アトム)を分解する事に成功した。で、----或る「力」を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの「力」の掌中に握られてゐるのである。」
 「日本に居て米国の市街を灰燼に帰せしめる力」:「若し右の方法が成功した場合には、恰も今日無電が大洋を越える事が出来るやうに、吾々は原子力を放つて、この大地を透過させ、地球の反対の面、例へば日本から云へば亜米利加の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう。
 「原子爆弾(アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」:「若しこの原子力が、誤れる掌中に入つたならば何うか?/例へば前独逸皇帝の如き人が、この力の秘密を得たならば、其結果は何うであらうか?恐く彼れは、ポツダムの安楽椅子に腰を下して、軽く机上のボタンを押し、それに依つて容易に文明を灰燼に帰せしめることが出来やう…が、併しこれが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。何となればこの原子爆弾の威力に対しては、如何なる強国と雖も対抗できぬからである。…」(『新青年』大正9年7月号/「世界の最大秘密:モリオカ三行日記」引用終わり)

ポツダム宣言、原爆投下、ビキニ環礁の対艦船核実験は、この予言的評論から26年後以降のことである。

『新青年』(第二十五卷)七月號(1944年)米本土空襲科學小説「桑港けし飛ぶ・・立川賢 」は、戦争末期の空想科学的な戦記小説である。内容は、日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ,70万人を殲滅して、戦局を逆転するというものである。
編輯後記では「米本土空襲、爆砕の夢は吾人の抱くもののうちもっとも大いなるもの。本号では立川賢氏が科学的見地に立っていち早くそれを実現してくれた。夢を夢とするは痴人である。戦うものにとっては、あらゆる夢は現実でなければならない。ワシントン城下の誓いに拍車をかけよう。」と記しているようだ。民間人全滅という非人道的を一顧だにしない点で、戦局挽回の市民的願望がこもっている。(→)『新青年』1944年7月号/「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用) 同じ7月号には「アメリカはかく敗れる(敵國現状)・・廣野道太郎」もある。

「新青年の世界」によれば、『新青年』には次のように、一流の人物がものを書いている。

1944年の『新青年』(第二十五卷)八月號「具足一領(武士道小説)・・横溝正史」「狂人ルーズベルト・・大島謙」「前科者チヤーチル・・攝津茂和」
(第二十五卷)九月號「最後の一人最後の一銭まで・・陸軍中將本間雅晴」「讀切長篇冒險小説 無限爆彈・・守友恒」
(第二十五卷)十月號「爲武士者・・吉川英治」「平熱・・大佛次郎」「軍人援護の強化・・軍事保護院總裁 本庄繁」
(第二十五卷)十一月號「これがアメリカ人だ・・中野五郎」「米鬼吸血手帖・・廣野道太郎」
(第二十五卷)十二月號「竹槍・・横溝正史」

写真(右):『少女倶楽部』昭和19年1月号;少女の習字には「米英撃滅」とある。ここには「ニコニコ慰問帖」が掲載され,慰問品づくりのためのネタ本として、誌上漫才、駄洒落、笑い話から、前線の兵隊さんに読ませるための作文のお手本まである。次のような「なぞなぞ」もあるという。「勝ちぬくために必要な音のする箱、なんでせう」(答・貯金箱)「ぜったい不敗の山とは、どんな山でせう」(答・かちかち山)。「敵側の戦果発表」とかけて「針五本」と解く。そのこころは?「いつはり」。「東亜のまもり」とかけて「鏡餅」と解く。そのこころは?「一日一日固くなるばかり」(皇国トンデモ本引用)

実業之日本社『少女の友』(明治41年2月創刊〜昭和30年6月終刊)は、主に女学生を読者層にした雑誌であった。歴代の主筆(編集者兼作家の呼称)は、初代・星野水裏、2代・岩下小葉、3代・浅原六朗(鏡村)、4代にふたたび岩下、5代・内山基、6代・中山信夫、最後は森田淳二郎であった。
 主に、口絵、グラビア、詩、小説、様々な特集記事、読者の投稿欄で構成され、最盛期の昭和前期には、350ページ前後の内容があった。初期の執筆者には与謝野晶子、下田歌子など、昭和期には吉屋信子、川端康成、吉川英治、阿部静枝、田村泰二郎、山中峯太郎など人気作家も筆をふるった。川端康成『花日記』『乙女の港』『美しい旅』などの連載小説は、中原淳一の挿絵とともに少女たちに絶大な人気を博し、吉屋信子『桜貝』『からたちの花』『勿忘草』などの秀作も連載している。毎号載せられる数編の詩には、西条八十、室生犀星、サトー・ハチロー、三好達治などの作品があった。(⇒『少女の友』について引用)

 確かに,当時の戦局悪化,一億総特攻の状況では,終戦や戦争の行く末やその大義への疑問を呈しただけで,反政府,反軍,非国民,主義者として,処罰されたであろう。文化人も,政府・軍の統制が強化され,動員が推し進められる中で,自己の心情,思想とは反していたとしても,戦争に協力することになったであろう。
しかし,全ての文化人が,不本意ながら,動員に応じて,芸術活動に従事したわけではない。文化人の中には,政府や軍以上に,軍国主義を熱烈に鼓舞し,激烈な敵撃滅,神国日本の勝利を表現した人物もいる。

写真(右):『主婦之友』昭和20年7月号;掲載された宮城タマヨ「敵の本土上陸と婦人の覚悟」 には「敵の本土上陸、本土決戦は、地の利からも、兵員の上からも……我が方は決して不利ではありません。……一億一人残らず忠誠の結晶となり、男女混成の総特攻隊となって敢闘するならば、皇国の必勝は決して疑ひありません」とある(皇国トンデモ本引用)。

 皇国トンデモ本では,次のような事例を紹介している。
?『主婦之友』昭和19年12月号:特集「これが敵だ!野獣民族アメリカ」。巻頭の無署名記事「これが敵だ!」では「血のしたたる生の肉を喜んで食うアメリカ人は、野球。拳闘、自動車競争などを殊に好み、死人や大怪我人が出ると、女はキイキイ声を張り上げて喜び、満場大喜びで騒然となる」「貪婪にも、己がより多くの肉を喰らい、よりよき着物を着、よりよき家に住み、より淫乱に耽けらんがために、……非人道の限りを尽くして日本の首を締め続けて……」 とある。巻末に賞金30円で「米鬼絶滅を期する一億の合言葉を!」募集している。2番目の無署名記事は「敵のほざく戦後日本処分案」として「働ける男は奴隷として全部ニューギニアやボルネオ等の開拓に使うのだ。女は黒人の妻にする。子供は虚勢してしまう。かくして日本人の血を絶やしてしまえ」「日本の子供は不具にするに限る。目を抉ったり……片腕や片脚を切り取ったり、ありとあらゆる形の不具を作るのだ。こうした動物の如き子供らが街頭を右往左往するのは実に面白い観物であろう」

?『主婦の友』昭和20年7月号:宮城タマヨ「敵の本土上陸と婦人の覚悟」には「敵の本土上陸、本土決戦は、地の利からも、兵員の上からも……我が方は決して不利ではありません。……一億一人残らず忠誠の結晶となり、男女混成の総特攻隊となって敢闘するならば、皇国の必勝は決して疑ひありません」とある。編集後記に「われわれは勝つことのほかは何も考えてゐません。ほかのことを考える余裕はありません―特攻隊勇士の言葉である。皇国の必勝を信じて、ただまっしぐらに働き、まっしぐらに戦ふ。これが『勝利の特攻生活』である」と述べた。

 米国でも星条旗に忠誠を誓って、総力戦に賛意を表明し、動員に全面的に協力しなくてはならない。日米の個人的なつながり、交流は、総力戦の前に否定され、黙殺されなくてはならない。敵も親であり子供である、敵にも家族があるなどという親近感は暗黙裡に排除され、敵愾心を燃やして、戦意向上を図ることが第一となる。日米双方とも,文化人を動員した芸術上の総力戦が展開された。

 文化人は,総力戦における戦争協力,すなわち動員に参加することを求められ,強要され,あるいは自ら進んで協力を申し出た。文化人に活躍の場が与えられれば,彼らはそれを最大限に利用した場合が多かった。結果として,政府や軍の戦争方針に協力することとなったが,彼らの目的は,戦争協力というよりも,芸術表現自体にあったようだ。

 芸術に活躍する場を与えるものは全て素晴らしいという芸術活動至上主義を信奉しているのであれば,政府・軍の進める国策,動員に何の疑問も批判ももたず,所与の方針として完全に順応しながら,自己の芸術活動を展開できる。国策への従順さを退廃とは感じず,自己表現,自己実現,自己の才能を開花させる場として,戦争を歓迎するかもしれない。文化人が,純粋な芸術を追求し,活躍の場を得たいという芸術活動至上主義者であれば,戦争は資金,活躍の場を提供する格好の機会として認識される。自分の芸術活動の成功の前には,戦争が社会や個人にもたらす結果は二義的となる。

8.日本軍による大規模な特攻は,日米戦争末期の1945年3月からの沖縄攻防戦で,実施された。そして,多数の文化人が,特攻隊を報道員として訪問し,記事を書き記録した。歴史小説作家の山岡荘八,ノーベル文学賞の川端康成らが有名である。

1930年代の日中戦争から,作家がライター,従軍記者などどして,前線にも送られているが,その中には多数の有名作家がいる。吉川英治、横光利一、菊池寛、火野葦平、大宅壮一、井伏鱒二、石川達三、山本荘八などである。映画人としては小津安二郎も従軍しているという。このような従軍作家たちは,軍のお先棒担ぎの堕落した作家なのか,軍国主義者なのか。

戦争協力者として,戦争を遂行する助けになるために,戦争の大義を説明したり,自国将兵や戦争を賛美したり,戦争プロパガンダを進めたり,文化人は戦争と縁が深い。人間爆弾「桜花」を配備された特攻部隊「神雷部隊」には,作家の山岡荘八・川端康成も,報道ライターとして,派遣されている。

神雷部隊と作家たち
 山岡荘八・川端康成の両氏は1945年4月末から終戦まで、ずっと桜花隊と一緒に生活し、神雷部隊とはもっとも馴染みの深い作家だった。
 山岡はセッセと隊員の間を回って話しかけ、誰がどこで何をしているか、戦友仲間よりもよく知っていた。終戦後、鹿児島県鹿屋における体験をもとに新聞に「最後の従軍」を寄せたり、かなりまとまった一冊を書いた。「特攻隊員の心を心として、恒久平和を願って徳川家康を書いた」とも後に語っている。
 川端は山岡のように隊員とは付き合うことはしなかったが、顔を伏せ、あの深淵のような金壷眼の奥から、いつもじっと隊員の挙措を見つめていた。終戦後、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と鳥居達也候補生(要務士)に約束した。

山岡荘八『最後の従軍』昭和37年8月6日〜8月10日「朝日新聞」>(これはよく引用されるが,みな靖国神社(1996)『いざさば 我はみくにも山桜』の記述の引用。)
「沖縄を失うまでは、まだ国民のほとんどは勝つかも知れないと思っていた。少なくとも負けるだろうなどと、あっさりあきらめられる立場にはだれもおかれていなかった。何等かの形でみんな直接戦争に繋がれている。---昭和20年4月23日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。」(引用終わり)

写真(右):1945年4月1日、沖縄でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13:「桜花」I-13は、I-18 と同じく、1945年4月1日、沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷村に1944年に建設された陸軍北飛行場で鹵獲した機体。1945年6月26日に撮影。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval District Description: color Catalog #: 80-G-K-5888 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5888 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945引用。


「桜花」は,大本営海軍部(軍令部)が1944年7月21日の「大海指第431号」で開発を決定し,部隊編成を進めながら製造した特攻兵器である。1944年6月のマリアナ沖海戦で大敗北した海軍は,挽回のための奇襲特殊兵器として体当たり自爆をする専用兵器を開発した。川端康成たち文壇有名人が取材したのも,桜花を装備する「神雷部隊」である。神雷部隊は,軍令部総長や連合艦隊司令長官の視察も受けたほど,期待が大きかった。しかし,米軍は自殺爆弾を卑下してBaka(馬鹿)と呼んだ。

このような特攻専用兵器が「太田少尉の発意によって作られた」という俗説は,軍上層部が特攻という部下に死を命ずる行為の責任を回避するための方便であろう。特攻第一号とされた関行男大尉の初出撃は1944年10月20日(敵を見ず),突入は10月25日と,「桜花」開発よりも3ヶ月もあとのことだ。桜花15機を搭載した一式陸上攻撃機15機からなる神雷桜花特別攻撃隊の初出撃は1945年3月21日。全滅した。

写真(右):1945年6月26日、沖縄本島で撮影された、アメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13:「桜花」I-13は、I-18 と同じく、1945年4月1日に沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷飛行場(陸軍の沖縄北飛行場)で鹵獲した機体。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval Description: color Catalog #: 80-G-K-5885 Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5885 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945引用。


山岡荘八は、明治40年1月11日、新潟県小出町に生まれ、本名は山内庄蔵、のち結婚し藤野姓を名乗る。高等小学校中退後、上京、逓信官吏養成所に学んだ。17歳で印刷製本業を始め、1933年「大衆倶楽部」を創刊し編集長になる。このころから山岡荘八を参加。日米開戦後、従軍作家として各地を転戦。戦後、発表した大河小説『徳川家康』で人気歴史小説作家の地位を不動のものとする。1988年9月30日没。

山岡荘八『最後の従軍』昭和37年8月6日〜8月10日「朝日新聞」
……昭和20年4月23日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。
 私たちが、野里村(鹿屋)にはじめて行ったのは、日記によると4月29日、天長節の日であった。----その時の私は、敵機などより数倍おそろしい妄想を描いて震えあがっていた。他でもない。これから行く「神雷部隊」そのものが恐ろしかったのだ。私は、戦争では、あらゆる種類の戦争を見せられている。陸戦も海戦も空中戦も潜水戦も。そして何度か、自分でもよく助かったと思う経験も持っている。しかし、まだ必ず死ぬと決定している部隊や人の中に身をおいたことはない。報道班員はある意味では、兵隊と故郷をつなぐ慰問使的な面も持っている。とりわけ「ライター班」はそうだった。
 それが、こんどは必ず死ぬと決まっている人々の中へ身をおくのだ。従来の決死隊ではない……と、考えると、それだけで、私は彼らに何といって最初のあいさつをしてよいのか……その一事だけで、のどもとをしめあげられるような苦しさを感じた。(1962年8月6日)

 私は、最初の特攻隊としてフィリピンから飛び立った関大尉や中野、谷、永峰、大黒などの敷島隊員の記事が報道(昭和19年10月29日)されたとき、その心事をしのんで茫然としたものだった。その時の関大尉のマフラーをつけて屹然と空をにらんで立った姿は、いかなる仏像よりも荘厳な忿怒像として目に残っている。清純な若者たちをこのように怒らせてよいものであろうか。そして、そのきびしい犠牲の陰でなければ生きられないのかと思うと、自分の生存までがいとわしかった。
 ところが、その必死隊に、いよいよ私は入ってゆかなければならない。むろん彼等には慰めの言葉などは通用すまいし、といって、話しかける術も知らず質問もなし得なければ、いったいどうして居ればよいというのか……。
だれも明るく親切で、のびのびしている。どこにも陰鬱な死のかげなどはない……そう書くことは出来ても「そんなはずはない」と反問されると、私にはそれを更に説得するだけの力はない。これは今の私が性急に割切って書こうとしてはならないことだ。それよりも、こうして底抜けの明るさを私に見せている人々が、最後にどのような心境で出撃してゆくか?出来るだけ自然にその筆跡を残したい……そう思って私は不案内な鹿屋の町の文房具店で、ようやく一冊、ほこりにまみれてあったわとじの署名帳を捜し出して戻って来た。……

 秋風と共に去った男 時岡鶴夫    人生恩に感ず 大木偉央
 大き夢に生きん 本田耕一    一念 吉田信
 今死を知らんとす亦楽しからずや 町田道教
 敢闘精神 石丸進一    南無阿弥陀仏 高野(次郎)中尉

和歌を書いたり、大義、撃沈、無、必中など書いて飛立った人々もあれば、きちんと官姓名だけを書き残していった人もある。---
 ---小林中尉は高野中尉と一緒に出てゆく前にせっせと麦刈りを手伝っていたが「さて、あちらで結婚式場の用意がよろしいそうで」私の肩を軽くたたいて出撃していった。
こうした思い出を書いてゆくときりがない。私はいつかアキオと同じように、この必死部隊の、明るさ親切さに魅せられ、川端さんや新田氏とわかれ、そのままここを離れ得ない迷い子になってしまっていた……。昭和37年8月8日)(→山岡荘八「最後の従軍」1962年8月6日〜8月10日「朝日新聞」引用)

写真:1945年4月海軍報道班員として人間爆弾「桜花」を装備した神雷部隊を取材した川端康成(1899-1972);川端康成年表:1945年4月、海軍報道班員として、鹿児島県鹿屋の基地に赴く。5月、鎌倉在住の文士の蔵書を基に貸本屋鎌倉文庫が開店。終戦後、大同製紙の申入れで、鎌倉文庫は出版社として発足、その重役の一人となる。終戦の翌年「婦人文庫」に発表した小説「生命の樹」では,鹿屋基地の将校の親睦団体「水交社」で働く啓子と、思いを寄せる特攻隊員植木らの日々を描いた。交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺と同じ1972年にガス自殺。遺書はない。

物語の中のふるさと − 九州発によれば,川端康成は1945年4月、報道班員として鹿屋海軍航空基地を訪れ、特攻隊員と接した。戦後に著したのが『生命(いのち)の樹』である。
 鹿屋海軍航空隊の神雷部隊桜花隊大尉だった林冨士夫さん(82)は、川端をよく覚えている。
「背が小さくてやせ、スポーツ選手でもないのに色黒だった。無口。じっと隊員を上目遣いで観察するように見つめていました。とてもこちらから話しかける気分にはなれなかった」
 士官たちに「いつか必ず特攻隊の物語を書きます」と約束した川端。それは「生命の樹」で果たされた。

 「これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」(中略)植木さんには、ほんたうにそれが、星の見納めだつた。植木さんはその明くる朝、沖縄の海に出撃なさつた。(我、米艦ヲ見ズ)そして間もなく、(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)ニ度の無電で、消息は絶えた。

 鹿屋海軍航空基地は,1945年3月11日から終戦まで、16〜35歳の隊員908人が出撃。神雷部隊桜花隊員は、基地の西側にあった野里小に寝泊まりしていた。川端のほかにも山岡荘八、新田潤らの作家が報道班員として付近に分宿していた。川端が隊員と距離を置いていたのと対照的に、山岡は積極的に隊員に話しかけ交流を深めたそうだ。川端と山岡は、終戦まで桜花隊と行動を共にした。「桜花」の悲惨な攻撃とは裏腹に「作家の人たちは、鹿屋の特攻隊員には悲壮感が全くないと話していた」と林さんは言う。

 あの基地は、特攻隊員が長くとどまつておいでになるところではなかつた。(中略)新しい隊員と飛行機とが到着しまた出撃する。補給と消耗との烈しい流れ、昨日の隊員は今日基地から消え、今日の隊員は明日見られないといふのが、原則だつた。(引用終わり)

9.日本軍による「特別攻撃」は,日米戦争後半の1944年10月,フィリピン攻防戦で,大々的に採用された。そして,第一航空艦隊司令官の大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの神話が流布されてきた。日本軍による特攻は,戦後になって文化人には黙殺される傾向にあった。しかし,高名な文学者の三島由紀夫は,特攻隊員に感服し,栄えある日本の国体に幻想を抱いた。三島由紀夫は、特攻に関して自らイリュージョンを捜索して、そのイリュージョンに呪縛された結果、自衛隊市谷駐屯地(旧大本営)を占拠し,自決するという、自己犠牲的な英雄的選択を誇示しようとした。

 三島由紀夫は、1970年10月、海軍兵学校の置かれていた江田島(広島)にある海上自衛隊第一術科学校教育参考館で、特攻隊員の一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は,日本海軍の古谷真二中尉で,彼は1945年5月11日「第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」の一式陸攻隊指揮官として鹿屋基地を出撃、沖縄方面に向かった。この一式陸攻の胴体には、自爆特攻する人間爆弾「桜花」が搭載されていた。しかし、アメリカ軍艦上戦闘機の襲撃に遭って、一式陸攻は全滅した。古谷真二中尉は、特攻戦死後,二階級特進し海軍少佐となった。

 1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫は、軍隊の保有を禁じる憲法第九条改正をもとめ、自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた。しかし、自衛隊がこのようなアジに先導され、決起するはずがなく、現場で三島を見上げた自衛官の中には三島へのヤジも飛んだ。こうして、クデターを呼びか失敗した三島由紀夫は,割腹自殺した。介錯は、仲間の楯の会の男がした。

 三島由紀夫は、割腹自殺の一カ月前,フルや中尉の遺書を読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と、声を出して泣いたという(三田評論10/94丸博君の記事による)。この遺書は靖国神社遊就館に展示され,三島の逸話も紹介されている。



写真:1972年自衛隊市谷駐屯地に乱入した三島由紀夫;自衛隊に決起を促したが,反応を得られず,部下とともに割腹自殺。特攻隊員は神である天皇のために。祖国を守るために死んだとし,それを至高の存在と捕らえ,自らの目標としたようだ。しかし、三島が「桜花」など特攻隊員の死を決した覚悟をするまでの苦悩、無責任な軍上層部への苛立ちなど苦悩や悩みに思い至れば、彼が命を捨て国を守る行動に出たからと言って、特攻隊員たちを「神」のごとく崇めることはなかったであろう。特攻隊員たちの気持ちになれば、自衛隊司令部に乱入し、人質を取って煽動し、決起を求めることはなかったであろう。彼の抱いた思想は、二・二六事件の青年将校と酷似しており、その意味で、一人死んだ---となれば世界の三島は文士としてより広い共感を得たであろう。

Web上に三島由紀夫と特攻隊に関して,次の記事がある。
「私の修業時代」で三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。
「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)

三島由紀夫はこう考えた。昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。

彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」

彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」

自衛隊の決起を促すために自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し,撒いたビラの末尾には,「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と書かれていた。(引用終わり)

三島由紀夫は,特攻隊員の心情を独自の解釈で無効性に徹することによる有効性と捕らえたが,何のために特攻隊員の死が有効だったのか。生命尊重以上の価値の所在はどこにあるのか。日常生活の単調さを嫌って,激しい戦争に躍動していたのであれば,戦争の持つ一面しか認識しないことになる。



三島由紀夫とテロルの倫理 三島由紀夫は、作家として有名であるが、同時に愛国心、益荒男ぶり、力強い男を好んだ。日本の栄光ある歴史を自分が背負っていると考えていたようだ。自分は小さきものだが、何かしなければならない。自分のためにではなく、日本のためにである。

1972年11月25日、作家三島由紀夫は、自衛隊市谷駐屯地に民間防衛隊「楯の会」4名を率いて乱入した。集まった800名から1000名の自衛隊員の前で、東部方面総監室のバルコニー上から、「政治的謀略でつくられた日本国憲法は、自衛隊を違憲の存在に貶めた、日本人を堕落させた」「1968年10.21国際反戦デー闘争以降の反戦世論の広がりは、日本を脅かすものである」と主張した。そして、自衛隊員は、武士であるから、日本再生、憲法改正のために決起すべきだと一人大演説をぶった。

 しかし、集まった自衛官は、市ケ谷駐屯地東部方面総監室を不法に占拠し、大上段から演説する文士三島由紀夫を下ろそうとした。勝手に演説する三島へのヤジ、嘲笑も飛んだ。自衛隊員たちは、三島由紀夫らが、東部方面総監室に上官の第8代益田兼利総監(陸士46・陸大54首席)の身柄を拘束した無礼・無法を許さなかった。

 自衛官は、三島たち非合法な暴挙を鎮圧しようと、総監室ドアのバリケードを体当たりで破った。三島の部下は、東部方面総監益田兼利陸将を縛り上げ、胸元に短刀をあて人質としていた。しかし、踏み込んだ自衛官は、勇敢に隙を見て飛びかかり、押さえ込んだ。自衛官は、火器を所持せず押し入り、刀を振るう三島由紀夫らと格闘し、9人が負傷、自衛隊中央病院に搬送、うち6人が入院した。観念した三島由紀夫(45歳)と愛弟子森田必勝(25歳)は割腹自決した。三島由紀夫は、特攻隊員は神である天皇のために,祖国を守るために死んだとし,それを至高の存在と捕らえ,自らの目標としていた。

 しかし、三島由紀夫が「桜花」など特攻隊員たちが、死を恐れ、人生の意義を問い直して苦悩し、無責任な軍上層部に苛立ちを感じていたこと、彼らの悩みや期待に思い至れば、特攻隊員が国を守るために命を捨てたからと言って、彼らを「神」のごとく崇めることはなかったはずだ。特攻隊員たちの気持ちになれば、自衛隊司令部に乱入し、人質を取ったり、煽動し武装蜂起を求めるなど考えもしなかったであろう。彼の抱いた思想は、二・二六事件の青年将校の昂りときょうつうしている。益田兼利陸将は、同年12月22日、三島事件の責を取り辞任した。

三島由紀夫は,特攻隊員の心情を独自に解釈し、無効性に徹することによる有効性であると捕らえた。しかし、特攻隊員がどうして死んだのか、なぜ身を挺したのか、いのち以上の価値の所在はどこにあるのか、を一流文士として追及していれば、全く異なった結果になっていたであろう。

10.日本軍による「特別攻撃」は,第一航空艦隊司令官の大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの神話が流布されてきた。しかし,戦局打開手段を模索した日本軍上層部は,大学人の協力を得ながら,計画的,組織的に特攻作戦を準備,展開した。その特攻作戦の失敗,責任を回避するために旧軍指導者が「特攻玉砕自然発生説」が唱えた。その後,特攻玉砕自然発生説,大東亜戦争肯定論は,有名文化人からも唱えられるようになった。

1943年9月の早慶卒業式(戦局悪化から卒業が6カ月早まった)
  午前十時から1400の新卒業生を送る卒業式は,父兄、卒業生だけを講堂に集めて厳粛に開式、特に卒業生のために教育勅語をこの式場に奉讀した小泉信三塾長は,次のように述べた。
 「吾々は諸君とともに遠く上海、南京、徐州、漢口の捷報を聞き共に宣戦の大詔を拝し、共に陸海将兵の壮烈なる功業に泣き、いまは国家存亡の機の正に目前に在るを見る、諸君は父兄よりも更にこの機を知っている、すでに幾多の諸君の学友は軍務に服し、けふ三田の丘で卒業式行はるゝを想いつゝ猛烈なる訓練をやってゐるのである」
  「今後ももっとも激烈、困難、危険にしてもっとも信頼すべき人物を必要とする場合にはそこに慶応義塾の者が在らねばならぬ、慶応の数箇年の教育は諸君をかかる人物に育成した筈である、国家百年の士を養ふはたゞこの一日のみ、今日の一日の用をなさしめんがためであった」

この日,慶応義塾卒業前に,桜花特攻隊に進む古谷は,次のような遺書を残した。
 「御両親はもとより小生が大なる武勇をなすより、身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんことを、朝な夕なに神仏に懇願すべきは之親子の情にして当然なり。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干伐を執るらんの覚悟なり。」

学徒は未熟練パイロットになるのが精一杯の練習時間と機材しか与えられなかった。しかし,それなるがゆえに,特攻機の搭乗員として送り出されてゆく。学徒を戦場に送り出した大学の学長たちは,有力な文化人であり,特攻出撃に関して,大学人の果たした役割は大きい。
 元慶応義塾塾長・小泉信三博士(1888(明治21)年〜1966(昭和41)年)は,経済学者にして教育家である。普通部より慶応義塾に学び、体育会庭球部の選手として活躍した。1912(大正元)年9月より1926(大正5)年3月まで、英国・ドイツへ留学。帰国後、慶応義塾大学部教授として経済学、社会思想を担当しながら庭球部長を務めた。1933-1947年,慶応義塾長。1949年より東宮御教育常時参与として皇太子殿下(今上天皇)の御教育にあたる。1959年、文化勲章受章。マルクス経済学批判の論客であり、皇室の民主化に努めたとされる保守の大教育家で,『練習は不可能を可能にす』という著作もある。

 猪口力平・中島正(初版1952)『神風特攻隊』は,特攻隊指揮官たちの共著として今も名高いが,そこでは着任した関行男大尉が,即日特攻任務を引き受けたこと,特攻隊に全員が志願していたことが述べられている。そして,第一線の将兵たちは,祖国に殉じる覚悟ができていた純真な若者であるとの前提で,特攻隊員たちの生への執着,家族への心残りなど苦悩を捨象してしまっている。つまり,特攻は自発的な犠牲的精神の発露であるという「特攻自然発生説」を暗に主張している。そこでは,特攻を命ずる者と特攻を命じられる者に、気持ちのズレが無く,一体化して描かれている。叙事詩的な特攻物語として,祖国愛に殉じる勇士と責任感ある司令官たちが悲壮ではあるが勇ましくそして美しく描かれる。

大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務となり、2月末、連合艦隊司令部に着任した。自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、連合艦隊の戦力低下を指摘した後、次のように特攻の自然発生説を主張している。

「しかし、帝国海軍伝統の士気は極めて旺盛であった。3月17日からの九州/沖縄航空戦、次いで3月25日の慶良間列島への米軍上陸、4月1日の沖縄本島への米軍上陸などにおいて水上特攻、空中特攻(菊水)、人間魚雷(回天)、人間爆弾(桜花)など各艦隊、各部隊、第一線の将兵が自らの発意で敵に体当たりし、国に殉ずる尊い姿には、襟を正し、感涙を禁じ得ないものがあった。
瀬島龍三中佐は,捷一号作戦(フィリピン作戦)を担当し、沖縄戦でも特攻隊を送り出した第五航空軍の作戦にあたった。瀬島中佐は、戦後,シベリア抑留から帰国後,伊藤忠商事に入社、戦後賠償に関わる援助ビジネスに関与し、伊藤忠会長にまで昇りつめた。退社後,中曽根首相の臨時教育審議会委員や臨時行政改革推進審議会長も引き受けた。「特攻は自然発生的なもの」で,特攻作戦に関する上官の責任など,一切ありえないというのが彼の特攻隊認識であった。(戦死した特攻隊員の総数には,沖縄への戦艦「大和」以下の海上特攻での戦死者も加えている。)

三島由紀夫は,特攻に関しても,自己の作り出したイリュージョンと的確に認識していたようだが,イリュージョンの束縛に自らはまり込んでしまい,自衛隊市谷駐屯地旧大本営占拠,自決という自己犠牲的な英雄的選択を誇示しようとした。特攻、さらにアジア太平洋戦争を巡っては,文化人は三島由紀夫以来,再び肯定的に語りだした。

小林よしのり(1995)『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 』も,アジア太平洋戦争までの日本の行動の正当性を主張し,愛国心,戦争を悪と考える愚かしさを訴えている。「大東亜戦争」で勇敢に戦った日本軍将兵、アジアからの白人支配解放の理念を高く評価している。日本の戦争を肯定し、「戦って破れてなお我に正義はあったのだ!」とする。
著作には事実誤認も多い。しかし,インパクトある漫画を使ったことで,戦争に関心のない世代にも「大東亜戦争の正当性を訴えて,(大量破壊・大量殺戮も)悪ではない」と信じさせることに成功した。

小林の特攻論によれば、特攻は外道で誤った戦術だが,特攻隊員の精神は誤っていなかった。高木俊朗『知覧 特攻基地』を評して,「特攻を<戦法>からだけでなく、<精神>からも犠牲者として描ききることによって、特攻隊員たちの主体性をいっさい認めない」と非難した。「あの壮大な負け戦の中で、どうしても強烈に輝くものこそが、陸に海に散った兵たちの闘争心である」と述べた。(→charisの美学日誌参照)。特攻隊員たちは「個をなくしたのではない。----公のためにあえて個を捨てたのだ!--国の未来のため,つまり我々のために死んだのだ!」(→『小林よしのり-戦争論 1』大東亜戦争肯定論の自慰史観特攻とは何か:富永正三)。

ある海軍出身者が,次のように述べている。「遺族のことを考えると、今まで本当のことをいえなかったが、特攻隊員は自ら志願したと言われているが、実は志願ではない。金モールをつけた連中は何もせず、自分達はただ命令に従っただけだと言う。しかし、自分から進んで志願した者も数多くいたことも確かである。選に漏れた下士官が上官に激しく抗議し、特攻戦死しているのも事実。
私の攻撃第五飛行隊も----1945年7月25日,第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将の命により、全員特攻隊員(神風特別攻撃隊第七御隊)となり、即日、海兵70期の森正一分隊長自ら先陣を切り出撃戦死をした。軍隊では上官の命令は絶対服従であり、当時、我々下士官は死ぬ事の価値を自分なりに達観していたものである。平和な現在の価値観で半世紀前の人権など論じてもわかってはもらえまい。」(→予科練資料館館長 川野喜一引用)

『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり(2003)の娯楽本の表紙で,操縦任務に就くには,眼鏡をかけずに1.2以上視力がないといけない,特攻隊員の飛行服は新品でない。こんな細かい間違いは,漫画プロパガンダでは表現するに値しないであろう。
ある書評に「人種の問題、宗教・文明の衝突の問題。素朴な平和主義だけでは解決できない国際社会の現実。そうした「当たり前のこと」に気付かせてくれる本書は、無条件の親米・自虐史観に偏った僕たちの眼を開かせてくれる一種のショック療法です。」とある。
別の書評には「辛い現実から逃れて、甘美な幻想に耽ることが、果たして、矜持を持った日本人を育てることになるのか?嫌な情報はプロパガンダ,自虐史観として避け、自説に都合いい情報しか採用しない。客観性はなく、ただ自己主張だけの肥大化したエゴを育むだけではないか? ---私から公への昇華はありえず、ただ批評なき迎合者の群れでぶくぶくと自我を育むだけである。」とある。

「特攻自然発生説」は、次の理由で否定される。
?直ぐに死ぬべき状況にはない人間が、国に殉ずるためとはいえ、あっさりと特攻に出撃できた若者はいなかった。残されるもの、家族のことを考え,死ぬことに苦悩し,司令官に憤り,日本の将来を心配していた。
?人間魚雷、人間爆弾を開発,生産することは、第一線の将兵には,できるない。軍上層部の命令によって,特攻兵器が開発,生産されていた。
?第一線将兵の発意で体当たりをし、陛下から頂いた航空機を「無断で」自爆、破壊させるような身勝手な行動は,軍隊という鉄の規律の前では許されない。軍上層部が,特攻「作戦」を計画し,特攻「部隊」を編成し。特攻を指揮した。
?第一線の将兵が「特攻作戦」を計画,組織,実行するだけの権限,人員,機材をもっていない。軍上層部が特攻作戦として,実施した。

1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,特殊奇襲攻撃として特攻兵器を開発し,特攻作戦を展開する計画を立てている。

特攻隊の部隊名称に関しても,戦果発表と同時に,規定の部隊名が発表されることになっていた。
「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信で,特攻の発表は,戦意高揚のため,攻撃隊名称も併せて発表すべきことを指示していた。これらは,海軍上層部が,特攻作戦を進めていた証拠である。

日本海軍は,1944年7月中に人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,特攻艇「震洋」の開発を決定した。陸軍も特攻艇「マルレ」を配備し,1945年には,特攻専用の航空機キ-115「剣(つるぎ)」を試作,量産した。

小磯国昭は,関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任し、1937年陸軍大将となった。1942年朝鮮総督後,1944年7月,東條内閣辞任を受けて首相に就任。1945年1月20日、大本営の帝国陸海軍作戦計画大綱を決め、「皇土特ニ帝国本土ヲ確保スル」目的をもって沖縄を縦深作戦遂行上の前縁として,本土防衛の準備をするとした。また,沖縄・硫黄島などに敵の上陸を見る場合においても、極力敵の出血消耗を図り、且つ敵航空基盤造成を妨害する持久戦の方針を確認した。
 こうして,海軍は「天号作戦」を、陸軍は「決号作戦」を策定し、沖縄守備軍第32軍は、住民に対して「軍民の共生共死」を強調した。

1945年1月25日には、最高戦争指導会議で「決戦非常措置要綱 」を決定し,次のように戦争方針を述べた。
第一条 帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ 以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ 之力為具体的施策ヲ更ニ強化徹底シテ 近代戦完遂ニ必要ナル国力並国力ノ維持増強ニ遺憾ナキヲ期ス

第二条 国力並戦力造成要綱:当面ノ情勢ニ鑑ミ 国力並戦力造成上ノ基本方針左ノ如シ
 一 作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス
 二 国力ノ造出ハ日、満、支資源ヲ基盤トシ自給不能ナル南方資源ヲ充足シ其ノ総合的運営ノ下ニ近代戦争遂行能力ノ確立ヲ主眼トシ 併セテ各地域毎ノ攻戦略態勢ノ強化ヲ図ル
こうして,全軍特攻化が推進されてゆく。

小磯内閣では,1944年8月4日以降最高戦争指導会議が設けられたが,これは以前の東条英機内閣のときは大本営政府連絡会議と呼ばれていた。
 最高戦争会議の出席者は,政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席した。蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長などが列席する。天皇も臨席する。さらに,天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏などのルートで最新の情報が伝達された。

1944年6-7月,マリアナ沖海戦で空母決戦に惨敗し,サイパン島を失った日本陸海軍は,米軍による本土空襲に恐れおののき,特攻兵器の開発・生産,特攻隊の編成を本格的に進める。1945年4月末,沖縄戦の敗退が明らかになると,本土決戦を目指した全軍特攻化,さらに当時の大日本帝国の版図にある人口は,大日本帝国憲法の庇護を受けない台湾人・韓国人を除くと,8000万人であるが,帝国では,「一億総特攻」を叫んでいた。全軍特攻化,一億総特攻によって,死をとして,守るべきは日本の国であり,国体である。住民の生命財産の保全は,二の次とされた。

小磯首相は,米軍の沖縄上陸から1週間もたたないうちに辞任し,1945年4月7日,鈴木貫太郎が,組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣となった。鈴木貫太郎は,慶応3年(1867)12月24日,大阪生まれで,海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任し,1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。鈴木首相は,有利な条件で対米和平交渉を進めるために,本土決戦を準備したが,有名文化人の中には,鈴木首相が組閣とともに終戦に奔走したという人もいる。鈴木首相が,一億総特攻を主張したのは,戦争推進派によるクーデターを阻止するための方便だったともする。ポツダム宣言受諾を決めたが、その前に二つの原子爆弾の投下,ソ連参戦があった。この災厄を抜きにして,終戦の決断が行われたとは思えない。鈴木貫太郎が「終戦内閣」を組閣したとの解釈は,芸術的すぎる。

写真(左):『少年倶楽部』昭和17年12月号,表紙の総理大臣東條英機陸軍大将;1942年12月,日米戦争開始1周年の発行。この時期,ソロモン群島ガダルカナル島攻防戦に敗退していた。津久井郡郷土資料館所蔵。戦時体制を強化し,1944年2月参謀総長を兼務。サイパン島陥落後,1944年7月に内閣総辞職。敗戦後、自殺を図ったが失敗。極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑。

写真(右):米国雑誌Time(1945年5月21日号)の表紙を飾った大元帥昭和天皇; このタイム誌では「米国はドイツ降伏後の欧州から太平洋に軍を回しているが,それは現人神に対する戦いのためである。わが無敵艦隊は天皇の島を壊滅させ,航空部隊は天皇の町を焼き払った。わが陸軍は,天皇の土地の侵攻する準備をしている。To the god's worshipers this would be a sacrilege such as the desecration of a church would be to the invaders. 大半の米国人にとって,日本の現人神は,がに股の薄っぺらなちびに見える。To them this god looked like a somewhat toothy, somewhat bandy-legged, thin-chested, bespectacled little man.....」と述べている。

「一憶総特攻」を計画するのであれば,陸海軍大臣,参謀総長・軍令部総長,軍司令官など高級軍人か、軍籍ある宮様が、特攻機,水上自爆艇に自ら一人乗り込んで特攻,体当たりを仕掛けるのがよい。彼らが,「一億総特攻のさくがけ」となれば,日本陸海軍の一兵卒から小国民にいたるまで、感服したはすだ。国民も、そこまで来たかと、本土決戦に向けて、より力を注いだはすだ。しかし,そんなことは起きないうちに敗戦となった。そこで,「終戦」の言葉が流布されることになる。

特攻作戦も結局は失敗し,日本は戦いに敗れた。その特攻作戦の失敗という責任,敗戦という責任をとることは,軍上層部にとって苦痛であり,軍の名誉も汚される。自らは特攻に出ず,部下に特攻を命じる司令官・参謀たちは,自己保身的な卑怯者のようで苦しかったであろう。そこで,その心理的な負担を取り除くためにも,生き残ってしまったという負い目を逃れるためにも,特攻は,第一線の将兵の発意,犠牲的精神の発露として自発的に行われたという「特攻自然発生説」を信奉するようになる。これによって,認知的不協和を軽減できる。世界に冠たる勇敢な日本軍の指揮官という名誉を保持できる。

 「新しい歴史教科書を作る会」は,アジア太平洋戦争に関して,日本の栄えある歴史を見直しえ,誤った歴史観を修正することを目的にしている。この会の2005年4月の賛同者301名には,多数の有名人文化人,ビジネスマンらが名を連ねている。作家・漫画・評論家では,阿川弘之,井沢元彦,石原慎太郎,大宅映子,加藤芳郎,黄文雄,小林よしのり,佐伯彰一,佐藤愛子,長谷川慶太郎,林真理子,深田祐介らがいる。

 「1997年1月30日趣意書]には,次のようにある。
「日本はどの時代においても世界の先進文明に歩調を合わせ、着実に歴史を歩んできました。欧米諸国の力が東アジアをのみこもうとした、あの帝国主義の時代、日本は自国の伝統を生かして西欧文明との調和の道を探り出し、近代国家の建設とその独立の維持に努力しました。----ところが戦後の歴史教育は、日本人が受けつぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものでした。特に近現代史において、日本人は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人の如くにあつかわれています。冷戦終結後は、この自虐的傾向がさらに強まり、現行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述するまでになっています。---私たちのつくる教科書は、世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。私たちの祖先の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です。---子どもたちが、日本人としての自信と責任を持ち、世界の平和と繁栄に献身できるようになる教科書です。私たちはこのような教科書をつくり、普及するために必要な一切の活動を力強く推進します。」学生時代を思い起こすと、歴史教科書をまじめに勉強した記憶はほとんどない。歴史は好きだが。

文化人は,人間の心情を解き明かし,国家の栄光や興亡というロマンに感銘し,それを芸術的に表現することに長けている。しかし,特攻や住民集団自決を含めて,戦争とその悲劇・栄光は,戦術・戦略,経済社会,生活について,実証的・理論的に分析して,初めて明確なものとなる。心情,精神,思想,宗教,伝統など文化問題だけに着目し,無形のものだけを素材にすれば,創作者たる文化人は,戦争をいかようにも芸術表現できる。

11.戦争関連の施設,芸術には,経済的収入,マーケティングに配慮したものもある。これは市場経済の中で影響を受け,あるいは社会に影響を与えるためには当然であろう。有名文化人が,現代でも戦争や特攻を巡って,資金や作品発表の機会を与えられて活躍している。

戦争記念施設や戦争・特攻を扱った芸術には,経済的な意味合いやマーケティングをも配慮したものも多い。個人の力量というより,資金,技術,人員を要した企業や政府,自治体の出番である。

広島県呉市は1889年呉鎮守府,1903年呉海軍工廠の設置以来,軍都として栄えた。そして,2005年4月開設の呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」は、教育・歴史・学術の視点から,明治以降の「呉の歴史」と造船・製鋼など「科学技術」を、「先人の努力」を紹介している。建設費65億円(建物40億円,展示20億円,外構5億円)の予算が投入された。戦艦「大和」の1/10スケールの精巧な模型も作成,展示しているが,これについては次のように「大和ミュージアムのシンボル」のなかで述べている。
 「戦艦大和建造の技術は生き続け,世界一の大型タンカー建造---自動車や家電品の生産など幅広い分野で応用され,戦後の日本の復興を支えてきました。10分の1戦艦大和は,平和の大切さや科学技術の素晴らしさを後世に語り継いでいます。」(引用終わり)

「大和ミュージアム」は,迫力ある展示で,開館から177日目の2005年11月5日に100万人目の来館者を動員し,地元の観光産業を興隆することに成功した。

2005年末,大スケールの映画「男たちの大和」が,巨匠佐藤純彌監督により「克明かつ力強い人間描写力で、“亡き魂への鎮魂歌”に取り組む」作品として完成した。佐藤純彌監督は,角川書店元社長・特別顧問の文化人角川春樹(1993年麻薬取締法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で逮捕)プロデュースの『人間の証明』(77年),『野性の証明』(78年)も監督し、今回も同じプロデュースである。「男たちの大和イントロダクション」に「桜の咲き誇るあの春の日,ただ愛する人を,家族を,友を,祖国を守りたい,その一心で水上特攻に向かい,若い命を散らしていった男たち」と文学的表現をしている。事実は,沖縄に出撃する航空特攻を成功させるために,米軍航空兵力を惹きつける囮作戦であり,統帥権を保有する大元帥の意向を受けて,軍令部総長が連合艦隊司令長官に急遽準備させた杜撰な作戦であった。(→戦艦「大和」沖縄海上特攻の真相を参照)

映画「男たちの大和」の原作は,歌人の辺見じゅん(1983)『男たちの大和』で,この著作は,新田次郎文学賞を受賞している。辺見じゅんは,角川書店の創設者・角川源義の長女,春樹の姉である。作家・歌人として活躍し,『戦場から届いた遺書』(2003年)では,「無名兵士たちが残した遺書・日記・書簡から戦争とは何かを探り、そこに込められた次世代へのメッセージを読み解く」ことができたという。1970-80年代の作品は「銀座ファイト物語」「たおやかな鬼たち」「ふるさと幻視行」「雪の座」など。

映画「男たちの大和」の音楽は,久石譲で,国立音楽大学在学中より現代音楽の作曲家として活躍した。『風の谷のナウシカ』(84年)、『ハウルの動く城』(04年)など宮崎駿監督作品や北野武監督 『HANA-BI』(97年)など、40本以上の映画音楽を担当した。主題歌は,長渕剛で、世代を越え、ヒット曲を生み出している。2003年にはシングルの総売上が1000万枚を突破。

現代でも戦争や特攻に関しては,たくさんの有名文化人が活躍の場を与えられている。これはそれだけの市場,資金が存在することを意味するが,彼らの才能も,自らの芸術的表現を通じて,発揮されているのであろう。

戦争文学とは,政府や軍の動員といった受動的要因だけではなく,芸術家の名誉欲や自己表現への熱情が引き起こす自発的要因からも創作される。そこでは,文学作品の表現力とならんで,表現する心情・思想が問われる。その意味では,文化人の戦争認識が,作品に大きく影響しているが,現在の日本では,大戦中の文化人の戦争認識を問題にすることなく,作品自体の評価もしないまま,封印してしまった。これでは,芸術作品だけではなく,芸術家の評価はできない。

 文化人の表現したかった心情は,過去の作品を無視して評価することができないにもかかわらず,現在の作品が全てを物語るというのは,芸術至上主義である。戦争は,特異な思想・心情を兼ね備えた事象であり,戦争にかかわる文学は,作品だけではなく,文化人のもつ心情・思想を抜きに語ることはできないはずだ。芸術家の,戦争認識も作品に影響するはずだ。

国家指導者や軍上層部にとって,芸術などプロパガンダに従事する侍女(はしため)に過ぎないが,芸術家にとって,戦争は自分の活躍の場を誇示し,あるいは作品を通じて自己表現をする場に過ぎないといえる。ともに,死者の名誉を称え,追悼すると同時に,残された指導者が自己の正当性を維持し,大義を確固とするために故人の遺徳を利用しているようにも感じられる。

文化人には,戦争の持つ込み入った実情を解き明かすことだけではなく,それをさまざまな形態で,的確に表現することが求められるであろう。

12.戦争を描く作業,戦争への認識を深化させるには,軍の名誉,祖国の栄光,自虐的あるいは誇示的歴史観など,心情,精神,思想,宗教,伝統に囚われすぎては上手くいかない。虚心坦懐に,できるだけ客観的に事実を把握することが第一になるが,その場合,戦略や政略だけでなく,日常生活,戦場生活の観点,さらに戦友,住民,敵の観点も含めて,戦争を捉える必要が生まれくる。漫画家の水木しげるは,それに成功した文化人であると思われる。

『ああ玉砕―水木しげる戦記選集 (戦争と平和を考えるコミック)』:水木しげるは,本名武良茂。大正11年、鳥取県境港市生まれ。武蔵野美術大学中退。太平洋戦争中、ラバウル戦線で左腕を失う。本書は,戦後復員して描いた絵(昭和24〜26年)、昭和60年に「娘に語るお父さんの戦記」のために描いた絵、終戦と同時に移動したトーマで描いた絵から構成。『トペトロとの50年―ラバウル従軍後記 』も2002年に文庫出版されている。トペトロの好意にあまえ続けた後悔も記されている。「僕は戦記物をかくと、わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない」

水木しげるは,アジア太平洋戦争中に召集令状を受け取り,鳥取連隊で落第兵になる。21歳で南東方面ソロモン諸島ニューブリテン島ラバウルへ出征する。そこでは,食糧不足のなか,食糧生産に従事したり,上陸してきた米兵の攻撃を受けたりした。軍では落第兵であるほど敵近くに送られる。そこは“決死”“玉砕”といった言葉が飛びかう最前線で、「生きて帰りづらい場所」。軍隊では水木さんの哲学は通用せず、“ビンタの王様”とあだ名されるほど、毎日殴られた。部隊が歩く時はいつも先頭で、弾除けにされた。水木氏はラバウルで敵地近くの中隊に入れられた。中隊でも敵の矢面に立つ先発隊員に。先発隊の中ですらも皆より三十メートル程前を一人で歩く役になった。

人間と藝術には,水木しげる哲学と太平洋戦争の項目があり,ラバウルでの中退全滅にかんして,次のように述べられている。

「ある日、見張りをしていた時、敵が後ろから攻めてきて部隊が全滅したことがありました。私ひとりだけ生き残った。夜の間に敵は我々を包囲していて、私が皆を起こしに行くのを待っていた。だけど私は、オウムが面白いので望遠鏡で見ていたんです。オウムは時間がきても面白さをやめないじゃないですか。そのうちに日が昇って、しびれをきらした敵が撃ってきたんです」

---敵の銃撃につぐ銃撃にさらされ五日間彷徨し海軍のいる小屋にたどり着いた。先発隊中ただ一人の生存者と知らされた。陸軍に戻ると、兵隊たちは水木さんの奇跡の生還を喜んだ。しかし上官は言った。「なぜ、死なずに逃げたのか」。ラバウルでは大勢が死んだ。勇敢に戦って死ぬ人も多かったが、上官の無謀な命令や、死が美化されていたので、“卑怯”“生き恥”“面子”などの言葉のために死んだ人も多かった。

「左手がなくなってからは、ある程度規律もゆるくなった。私は純朴で温厚な原住民たちと妙に気があって、つきあっていました。ひとりだけフラフラと集落を訪ね、配給の煙草と果物なんかを交換したりね」

もちろん軍律違反である。集落に姿を見せない水木さんの様子を気遣って部隊にやってきた原住民が、マラリアの再発で弱って動けない水木さんに見舞いの果物を届け続けたこともあった。水木さんは彼らと「畑も、家も、嫁も世話するから、現地除隊しろ」と言われるほどの友情を結んだ。世の中から正しいと教えられることは時代によって変わる。「案外、間違いも多いです」と水木さんは言う。(引用おわり)

図(右):1943-45年、ニューブリテン島で現地住民の世話になる日本兵水木しげる;水木しげる(武良茂)は、1943年、太平洋戦争中、ラバウル戦線で米軍機の爆撃により左腕を失った。しかし、現地住民からタロイモなどの食料を提供され,交流を結ぶことで、癒され生き残った。トペトロたちとは、戦後26年経って再会することができた。『水木しげるのんのん人生―ぼくはこんなふうに生きてきた』大和書房 (2004/11) 参照。

水木しげるにきくにも,次のように記述されている。
水木しげるの所属部隊は壊滅し、マラリアを発症し,1943年熱で苦しんでいた時,爆撃を受け左手を負傷、切断した。その後暫く死ぬ思いをした。マラリアが悪化した。髪の毛が抜けた。腕の切り口が膿んだ。皮膚病になった。

 傷病兵として、あまり敵の攻撃がない同じニューブリテン島ナマレの地に送られた。土人(水木氏の言葉で土の人という意味で差別語ではない)と親しくなり、土人村に通いつめた。トライ族と親交を深め,若いトペトロとの生活が始まった。初めて本当の人間に会ったという気がした。秘密の踊りを見せてもらい、パウロというあだ名がつき、水木氏専用の畑ができた。

 終戦を迎える。23歳。土人と暮らすために現地除隊を申し出た。しかし軍医の「せめて両親に会ってからにしろ」という言葉に動かされ、帰国を決意した。土人たちは悲しんだ。お別れに、年に二、三回のごちそうであるプチ(犬)の丸焼きをふるまってくれた。七年したら戻ってくると約束し、一人一人と固い握手をした(実際に再訪するのは二十六年後になったが彼等は水木氏を覚えていて大歓迎した)。

 「私の青春はなかったです。環境が悪すぎた。戦争の犠牲の時代でした。気がつくと死が迫っている。ゆっくり考える暇がない。落ち着いてものを考えられるようになったのは戦後二十年程してからです。大変な緊張を強いられました。勇ましくなければならない。命令されて無理とは言えなかった。貸本マンガで生活してた時、年中無休で執筆時間が一日十六時間だったけど、戦争に比べれば遊びみたいなものでした。死なないからね。それに何か食べられるし。

 戦争で様々な痛みや苦しみに会い、人生観が変わりました。普通に生活できれば幸せ、耐えられない苦しみは避けようと思いました。地獄みたいな生活は、その時に逃げようと思っても遅い。地獄の入口が見えたら、なるべく早く気付いて入口に入らないようにしなければならない。戦後は何をするにも判断基準が生か死かでした。

 今は自由がある。いい時代ですよ。マッカーサーが憲法を偶然いじったおかげで非常によくなりました。ただ、抑えつけられないと刺激がないのか、今の若い人は私から見ると腰に力が入らないという気がするな。やれば何でもできるはずです。ただ、その意欲がない。やりたいことがないんじゃないか?----皆、普段好きなことをしてないんだな。好きなことが見つけられないのかも知れんけど。好きなことをするのは思い切りが要ります。---最初はやりたい内容の非常に浅い部分しか見えてないです。深い所まで行くにはやってみないといかん。やってみると意外とつまらん時もある。私はたまたまスッと命中したんです。---

  世界にはいろいろ面白いものがあってびっくりします。君らも若いんだし、面白い生き方を一杯見るといいと思う。歩き回るというのが大切です。教室と自宅の行き来では新しいものは生まれてこないんじゃないかな。書籍以外に真理があるということを、私は65歳位で気付きました。何でもないところに真理がある。外国の人と話すと、様々な人間観があって驚きますよ。

 魂は追求しても仕方がないところがある。おいそれと心の支えにはできんですよ。----うすうす感じるのが神や妖怪なんだそうです。人はそれを知りたくて形にするんです。アフリカの部族の作った木像なんてあまりに上手で感心します。専門知識だけを求めるのは神を見にくくするんです。癖のある考えに没頭してしまうから。世界の全体を追求する必要があるんです。そうしないと見えません。

 私は妖怪の絵を描く時無心になります。絵を描くと無心になりますよね。---オーストラリア原住民のアボリジニーは、絵でしか精霊や妖怪と会話ができないと言ってます。屁理屈は要らないんです。人は自分の屁理屈に無上の価値をおきます。----人の生活に価値をおいてないんです。馬鹿だから分からんというわけじゃない。宇宙的視野から見れば、たいしたことないのかも知れない。価値をおく必要がないかも知れないんです。それに重きをおきすぎるから人はおかしくなる。(水木しげるにきく引用終わり)

戦争体験を単に悲惨なものとしてのみ考えるのではなく,現地での交流を通じて,得たものがあったのだ。戦艦「大和」の海上特攻にも随伴し,撤退して生き残っていた駆逐艦「雪風」で復員。1951年29歳で紙芝居をはじめ,後の「鬼太郎」を生み出した。1957年35歳で漫画『ロケットマン』でデビューした。1968年46歳の時,テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の放映を開始した。 (→水木しげる年表引用)
経済状況が好転してからは,ラバウルに毎年のように出かけ,旧友たちと会っている。ラバウル詣ではトペトロの葬儀後まで続いた。
水木しげるの描きだした妖怪たちは,15-16世紀のネーデルランドの画家ヒエロニムス・ボスの地獄絵とそこに蠢く怪物,モンスターを思い起こさせてくれる。二人とも,戦争の悲惨さを身をもって知っていた。 

図(右):水木しげる(1973)『総員玉砕せよ!』;主人公丸山二等兵は,田所支隊の一員としてラバウルから最前線のバイエンに送られる。バイエン占拠には成功したが、米軍の反撃に備えて陣地構築が開始される。その様子や食料集め,空襲などバイエンでの戦場生活がよく描写されている。しかし,私的制裁や無理難題の命令によって殺される戦友など「僕は戦記物をかくと、わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない」という。初版は1973年講談社であるが1995年に新版が出版。

「玉砕」の出典は,北斉書元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(人間は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」とされるが,最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2600名が全滅した時である。「全滅」では,日本軍が負けたことが明らかになるから,この責任を回避するために「玉の如くに清く砕け散った」と喧伝したのである。藤田嗣二のアッツ玉砕の名作もそれに触発されたのであろう。それ以降,玉砕は,1943年11月22日タラワ,1944年2月5日クェゼリン環礁,7月3日ビアク島,7月7日サイパン島,11月24日ペリリュー島,1945年3月17日硫黄島,1945年6月23日沖縄と続いてゆく。

しかし,水木しげる(1995)『総員玉砕せよ』では,日本軍将兵と敵兵士が対峙し,打ち合う場面はない。敵兵の姿を見えない。水木しげるの配属されたニューブリテン島の戦場では,所在不明の敵に撃たれ,機銃掃射を行う敵機から逃げまどうなど、勇往な戦闘などひとつもない。陣地構築や食料集めに翻弄していたのである。小隊がゲリラの陣地を奪取したとき、米軍供与の食料を見て「敵はこんなぜいたくなもの食って戦争してたんだなあ」と感じ入っている。古兵や下士官による過酷な私的制裁をうければ,敵と見方という完全な二分法では「戦場」をはかれなくなる。(水木しげる『総員玉砕せよ!』参照)

玉砕前,「みんなこんな気持ちで死んでいったんだなあ/誰にみられることもなく誰に語ることもできず…ただわすれ去られるだけ…」と兵士が言うが,生者と死者との境すら不明瞭になっているためであろう。

 水木しげるは,後書きで「僕は戦記物をかくと,わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」と述べている。

水木しげる「幸福の七カ条」
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。→フランスの作家サンテグジュペリも,「大切なものは、目に見えない」といった。
(著書『水木サンの幸福論 妖怪漫画家の回想』より)

12.フランスのアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは,戦前から郵便飛行,軍隊入隊などの経験がある作家で,『星の王子さま』で有名である。彼は,悩みながらも戦争に協力し,任務を果たした。これは,日本の特攻隊員にも通ずるものがある。戦後に有意義な活躍がしたいと考えていたのである。

写真(右):アントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exupery

北アフリカや南米で郵便飛行の仕事をし,大戦中,P38「ライトニング」改造の偵察機パイロットとして地中海で活躍したアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは,1931年の『夜間飛行Vol de Nuit/Night Flight』のなかで,「勇気というやつは,大して立派な感情からはできておりません。憤怒が少々,虚栄心が少々,強情がたっぷり,それにありふれたスポーツ的楽しさが加わったという代物です」と述べた。勇者と勇者が戦争という極限状況ででぶつかれば,殺し合いとなり,陰惨なものとなる。
ドゥ・サンテグジュペリは,1943年の『星の王子様Le Petit Prince』で有名なフランスの作家であるが, “War is not an adventure. It is a disease. It is like typhus.”とも述べている。

アントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ(1943)『星の王子さま』あるいは Antoine Marie Roger de Saint-Exupery(1943)The Little Prince
サンテグジュペリの手になる挿絵も有名である。

王子の星は小さく,他の星を見に行くために旅たつことになる。王子は見てくれ,自惚れ、酒飲,所有する星数を数える資産家などおかしな大人の星を経た後で,地球に到着する。そこで,自分の星のものより高い山、美しいバラを見つけ、自分の星がつまらないものに思えてくる。そこに,キツネが現れる。

遊んで欲しいと頼む王子に、キツネはいう。不幸なので遊べないし,仲良しではないと。"I am so unhappy." "I cannot play with you," the fox said. "I am not tamed." キツネは「自分は王子にとってただのキツネで,何千ものキツネの一匹に過ぎない。でも,仲良くなり,お互いが必要になれば,君は世界で唯一の存在になるさ」と答える。To you, I am nothing more than a fox like a hundred thousand other foxes. But if you tame me, then we shall need each other. To me, you will be unique in all the world. To you, I shall be unique in all the world..."

写真(右):アントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ 「星の王子さま」挿画;サンテグジュペリ自ら描いた王子とキツネ。

キツネは言う。「世の中に完全なことはないんだ。単調さ。俺は鶏を狩り,人間は俺を狩る。結局,退屈なことさ。」"Nothing is perfect," sighed the fox. But he came back to his idea. "My life is very monotonous," the fox said. "I hunt chickens; men hunt me. All the chickens are just alike, and all the men are just alike. And, in consequence, I am a little bored.

「でも,君と仲良くなれば,人生に太陽がやってきて,輝いてくれるようだよ。---俺は小麦を役に立つものとは思わないし,小麦畑は何も俺には語ってくれない。これは悲しいことさ。でも,君の金髪は,実った小麦畑とおんなじさ。君が仲良くしてくれたのは,なんと素晴らしかっのかと考えてごらん。」 But if you tame me, it will be as if the sun came to shine on my life . I shall know the sound of a step that will be different from all the others. Other steps send me hurrying back underneath the ground. ---- Wheat is of no use to me. The wheat fields have nothing to say to me. And that is sad. But you have hair that is the colour of gold. Think how wonderful that will be when you have tamed me!

旅立つときが近づいて,キツネは泣いた。王子は,仲良くならならなければ悲しまなくてもよかったという。

キツネは言った。「よいことさ。なぜって小麦畑の色だよ。(君と仲良くなったことを思い出させてくれる。)もう一度君のバラを見てご覧。君のは世界で唯一のものだとわかるよ。」"It has done me good," said the fox, "because of the color of the wheat fields." And then he added: "Go and look again at the roses. You will understand now that yours is unique in all the world.----."

(これを聞いた王子は、自分がいとおしんだ小さな星はやはり素晴らしかったと理解できた。)"Goodbye," said the fox. "And now here is my secret, a very simple secret: It is only with the heart that one can see rightly; what is essential is invisible to the eye." 「大切なものは、目に見えない」 "What is essential is invisible to the eye,"the little prince repeated, so that he would be sure to remember.

写真(右):P38偵察機とアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ;1944年7月31日,偵察任務から帰還できず,戦死。しかし,従軍中に書いた『星の王子さま』は不朽の名作として残っている。

王子は自分の星の配置が来た時と全く同じ配置になるとき、蛇に噛まれ、身体を離れ星に帰還するが,その前に,砂漠に不時着した僕に言う。「皆,自分の星を持っている。でも,違った人には,同じ星はないのさ。」"All men have the stars," he answered, "but they are not the same things for different people.

「自分は自分の星に帰るのだから、きみは夜空を見上げて、どこかの星が笑っていると想像すればよい。そうすれば、君は星全部が笑っているように見えるはずだから」You will always be my friend. You will want to laugh with me. And you will sometimes open your window, so, for that pleasure... and your friends will be properly astonished to see you laughing as you look up at the sky! Then you will say to them, 'Yes, the stars always make me laugh!

以上は,英語版(重)翻訳ですので,原文を味わうためには,新 訳 比 較を参照にしてください。

写真(右):アントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ 「星の王子さま」挿画;サンテグジュペリ自ら描いた王子と砂漠の井戸。

「星の王子さま」の秘密によれば,物語の「始まり」と「終わり」集中して出現する単語は、重要な意味を持。冒頭で、水を持たない主人公が、話の最後で水を湛える井戸を見つける。王子は,育てていたバラなど重要な「守るべきもの」に水を与えていた。“How could drops of water know themselves to be a river? Yet the river flows on”

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ...」“What makes the desert beautiful is that somewhere it hides a well.”という言葉は殉教者の言葉に聞こえてくる。「井戸の中の水」が生命の源であり,一見不毛の地と見られる砂漠にも,見えないところに水がある以上,生命が宿ることが可能である。砂漠も生命を育む美しいところとなることができる。

 「星の王子さま」は、寓話の形をしたサンテグジュペリの遺言(準備)である。との「星の王子さま」の秘密 の指摘は卓見である。

「星の王子さま」出版の4日後、サンテグジュペリSaint-Exuperyは戦う操縦者となるために,米国から地中海・北アフリカに出発する。“I know but one freedom and that is the freedom of the mind.”

皆が仲良くなるのとは,全く正反対に,特攻やテロは,戦争と同じく,人を殺し合いに向かわせる。とても,正当化することはできない。もし,特攻や自爆テロを,そして戦争が正当化できる大義があるのであれば,無防備な市民こそ,効果的な攻撃目標として認めることになる。特攻,自爆テロ,戦争を正当化する大義を認めれば,お互いが自己の大義を振りかざすだけで,殺しあうことになりかねず,平和は遠のいてしまう。

戦争を賛美する文化人は,人間本来の美しさを損なうばかりである。このような役目は,愚劣で悪賢い扇動者にこそふさわしい。文化人は,あくまでも純粋な平和の理念,理想を追求すべきであろう。

1944年7月31日,サンテグジュペリは,偵察任務のためにP38偵察機でコルシカ島を飛びたったが,マルセイユ沖で墜落,行方不明となった。彼の部屋には,General X宛ての手紙が残されていた。

"I do not care if I die in the war or if I get in a rage because of these flying torpedo's which have nothing to do with actual flying, and which change the pilot into an accountant by means of indicators and switches. But if I come back alive from this ungrateful but necessary "job", there will be only one question for me: What can one say to mankind? What does one have to say to mankind?"

写真(右):偵察機に搭乗するアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exupery;乗っているのは米国ロッキード社P38R「ライトニング(電光)」偵察型で,機種に大型カメラを搭載しているため,武装はない。

「私は,戦争で死んでも,憤怒に陥っても,かまわない。戦争の道具として飛ぶことは,実際の飛行とは比べ物にならない。それは,パイロットを計器とスイッチの一部にしてしまった。しかし,もし,この不快なしかし必要な任務から生きて帰れたなら,ひとつの課題が生まれるだろう。人は人類になんということができるのか,なんというべきなのか。」

サン=テグジュペリは1944年7月31日,コルシカ島を飛び立ち消息を絶ったが,戦死と公式に認定されたのは,1945年9月20日である。

「星の王子さま」の版権については日本での著作権(2005年1月まで)と,挿話2系列の挿絵を参照。

2008年3月17日朝日新聞に,童話「星の王子さま」のフランスの作家アントワーヌ・ド・サンテグジュペリが最後に操縦していた飛行機は、ドイツ軍戦闘機に撃墜されていたことが,記されている。3月15日付の仏紙プロバンス(電子版)は、戦闘機に乗っていた元ドイツ軍空軍パイロットのホルスト・リッペルト(Horst Rippert:88歳)が,第二次大戦中の1944年7月31日、レーダーが探知した敵機を求めて,南仏ミルの飛行場を発進、トゥーロン付近でマルセイユ方向へ向かうP-38ライトニング戦闘機(実際は偵察仕様)を発見。

「接近して攻撃を加え、弾が翼に命中した。機体は一直線に海へ落ちた。機内からは誰も飛び出さず、パイロットは見なかった。それがサンテグジュペリだったことを数日後に知った」と同紙に語った。リッペルトは「サンテグジュペリの作品は大好きだった。彼だと知っていたら、撃たなかった」と話した。(時事

リッペルト(Horst Rippert)氏は「マルセイユ沖の海上で敵機の翼を撃った。海に真っすぐ墜落した。操縦士の顔は見えなかった」と告白。自身もサンテグジュペリ作品の愛読者で「長い間、あの操縦士が彼でないことを願い続けた」と話した。(共同

リッペルトさんは1944年7月31日、トゥーロン(Toulon)付近の地中海上空を飛行中、サンテグジュペリが操縦するライトニング戦闘機が自身の機の下を飛行しているのを目撃。標識を確認し、後ろに回りこんで撃墜したという。  戦後、ラジオのスポーツ記者となったリッペルトさんが、当時撃墜した相手が誰だったかを知ったのはつい最近のことだった。

 事実を突き止めたのは、フランス人ダイバーLuc Vanrell氏と、戦時中に撃墜された戦闘機の行方を調査する団体の創設者Lino van Gartzen氏。両氏の調査結果は20日発売の仏語の著書「Saint-Exupery, the last secret(サンテグジュペリ、最後の秘密)」の中で詳述される。

 大戦中、自由フランス軍(Free French)空軍のコルシカ島の基地に属していたサンテグジュペリは44歳の時、作戦中に行方不明になり、その後の消息については長い間謎に包まれていた。  1998年、マルセイユ沖でサンテグジュペリのブレスレットが漁師の網に引っかかっているところを発見された。その2年後、ダイバーのVanrell氏が戦闘機を発見して引き揚げた結果、製造番号からサンテグジュペリのものだと判明した。(AFP

14.永井荷風は,英国,フランスでの滞在経験もあり,銀行員や大学教員を歴任したが,『三田文学』を主宰し,谷崎潤一郎らとともに耽美派として,感覚美・官能美を主張した。耽美派は、美を理想とし、美の実現を人生の至上の目的とし、「芸術至上主義」と呼ばれることもある。しかし、大日本帝国政府による動員や軍上層部による大陸の安定・大東亜共栄圏建設を目的にした戦争には、終始批判的で、それを黙殺するかのように芸術に耽美した。倫理からは、堕落的ともいえる生活をおくったが、戦時下にあって、それは戦争への消極的な抵抗のように思える。

永井荷風の作品としては,海外物がハイカラである。荷風は,1903-1907年(明治36-40年)、25〜29歳の4年間,米国に滞在し,『あめりか物語』を書き,横浜正金銀行リヨン支店に1年弱,海外赴任し,『ふらんす物語』を書いた。1910年(明治43年)5月,永井荷風は,森鴎外、上田敏の推薦で慶応義塾大学文学科教授を勤めるかたわら,雑誌『三田文学』を主宰した
永井荷風は,谷崎潤一郎らとともに耽美派と呼ばれ,感覚美・官能美を主張し,島崎藤村・田山花袋らの写実的な自然派文学に対抗した。美を理想とし、美の実現を人生の至上の目的としたといえる。

写真(右):永井荷風(1879年12月3日 - 1959年4月30日)本名永井壮吉。日本最高の日記文学と評される「断腸亭日乗」は、戦前から戦後へと移り行く日本を独特の視線から捉えた名作である。永井荷風は、1957年(77歳)、京成八幡駅の近くに家を新築し,しばしば近くの大黒屋(大黒家)で「並のカツ丼」「上新香」「お酒一合」を黙々と食したという。(ご近所の散歩道から(3):永井荷風引用)

  永井荷風の『断腸亭日乗』:断腸亭とは荷風の別号、日乗とは日記のこと。永井荷風は,38歳から79歳の死の直前まで42年間,日記を綴った。1930年代から永井荷風は、墨田区東向島の私娼街「玉ノ井」にあるカフェ,ストリップなどに通い,芸妓、私娼と遊び,恋仲になった。

「----彼(兄弟)は余が新橋の芸妓を妻となせる事につき同家に住居することを欲せず、母上を説き家屋改築を表向の理由となし、旧邸を取壊したり。----余は妓を家に入れたることをその当時にてもよき事とは決して思ひをらざりき。唯多年の情交俄に縁を切るに忍びず、かつまた当時余が奉職せし慶応義塾の人々も悉くこれを黙認しゐたれば、母上とも熟議の上公然妓を妻となすに至りしなり。---六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、」(1937年4月30日)

「--六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事なかりき。近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」(1937年6月20日)(→永井荷風の『断腸亭日乗』引用)

永井荷風や『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』を表した谷崎潤一郎など耽美派は、美を理想とし、美の実現を人生の至上の目的とし、「芸術至上主義」と呼ばれることもある。実生活の上でも、酒と女を愛し、美食、贅沢を好むなど、倫理的には、堕落した生活をおくっていた。しかし、大日本帝国政府による動員や軍上層部による大陸の安定・大東亜共栄圏建設を大義名分にした戦争には、終始批判的で、それを黙殺するかのように芸術に耽美したようにも思える。戦時下にあって、それは戦争への消極的な抵抗であった。

 時代閉塞感から、芸術、美に耽美した永井荷風,谷崎潤一郎らは,人生を楽しむ本性を受け入れた生活をおくり,戦争を嫌悪し、大義名分を偽りのものと見抜いていた。その虚偽の現実、すなわち権威主義的政府による圧制や軍の暴走には、とてもついてゆくことはできなかった。国家総動員に巻き込まれるぐらいなら、堕落していた方がよかった。このように、耽美派は考えたのではないか。

支那は思うように行かぬゆえ、今度は馬来(マレー)人を征服せむとする心ならんか。彼方をあらし、此方をかじり、台処中あらし回る老鼠の悪戯にも似たらずや」(1941年1月28日)
資源と土地という生命線の確保,この崇高な国家目的を征服であるとする暴論。さらに,名誉ある皇軍を蝗軍と侮辱した中国の叛徒と同じく,大ネズミの食いチラケというのは,言語道断である。

「日本軍の張作霖暗殺および満州侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て、にわかに名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用いた。」「欧州戦乱以後、英軍振わざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し、南洋進出を企図するに至れるなり。しかれどもこれは無智の軍人らおよび猛悪なくわだてる壮士らの企るところにして、----国民一般の政府の命令に服従して南京米(外米)を喰いて不平を言わざるは恐怖の結果なり。麻布連隊叛乱の状を見て恐怖せし結果なり-----」(1941年6月15日)
ただし,荷風は二・二六事件の「市中騒擾の光景を見に行きたくは思えど、降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す」とも書ている。クーデターなど、何をくだらないことを、といった感覚がうかがわれる。

余は、かくの如き傲慢無礼なる民族が武力をもって隣国に寇することを痛歎して措かざるなり。米国よ。速に起ってこの狂暴なる民族に改俊の機会を与えしめよ。」(1941年6月20日)
大陸で暴虐な蒋介石政府に反省を促しつつ、資源・市場・土地を確保する対中国戦争、それに続くフランス領インドシナ(ベトナム)への軍隊派遣、これを荷風は傲慢無礼と感じた。12月8日以降は「自存自衛・大東亜共栄圏建設のために」対米英戦争が開始されるが、これについても大義名分を鵜呑みにはしていなかったであろう。

「開戦布告と共に街上電車その他到処に掲示せられし広告文を見るに、屠れ英米我等の敵だ、進め一億火の玉だとあり。或人戯にこれをもじり、むかし英米我等の師、困る億兆火の車とかきて、路傍の共同便処内に貼りしと云う。現代人のつくる広告文には、鉄だ力だ国力だ、何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。まことにこれ駄句駄字といふべし。哺下向嶋より玉の井を歩む。両処とも客足平日に異らずといふ。」(1941年12月12日)(⇒松岡正剛の千夜千冊:永井荷風『断腸亭日乗』引用)
総力戦のための動員など人生の楽しみを損なうだけだと、借金を増やすだけだ、くだらないプロパガンダは、便所にでも落としておけ、とでもいうような「非国民」的態度である。

「晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生墓碣は震災後向嶋興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならずその頃は電車の雑踏殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。余も年ゝ病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、この日突然倉皇として家を出でしなり。」(1943年10月7日)

「-- 数日前より毎日台所にて正午南京米の煮ゆる間仏蘭西訳の聖書を読むことにしたり。米の煮ゑ始めてより能くむせるまでに四、五頁をよみ得るなり。余は老後基督教を信ぜんとするものにあらず。信ぜむと欲するも恐らくは不可能なるべし。されど去年来余は軍人政府の圧迫いよいよ甚しくなるにつけ精神上の苦悩に堪えず、遂に何らか慰安の道を求めざるべからざるに至りしなり。耶蘇教は強者の迫害に対する弱者の勝利を語るものなり。この教は兵を用いずして欧州全土の民を信服せしめたり。現代日本人が支那大陸及南洋諸嶋を侵略せしものとはまったくその趣を異にするなり。聖書の教るところ果して能く余が苦悩を慰め得るや否や。他日に待つべし。」(1943年10月11日))(⇒松岡正剛の千夜千冊:永井荷風『断腸亭日乗』引用)

「余は去年頃までは東京市中の荒廃し行くさまを目撃してもさして深く心を痛むることもなかりしが 今年になりて突然歌舞伎座の閉鎖せられし頃より何事に対しても甚しく感傷的となり、都会情調の消滅を見ると共に この身もまた早く死せん事を願ふが如き心とはなれるなり。オペラ館楽屋の人々は無智朴訥(むちぼくとつ)。あるいは遊蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど、現代社会の表面に立てる人の如く狡猾強欲傲慢ならず。深く交れば真に愛すべきところありき。されば余は時事に憤慨する折々必この楽屋を訪ひ彼らと飲食雑談して果敢(はかな)き慰安を求むるを常としたりき。然るに今や余が晩年最終の慰安処は遂に取払はれて烏有(うゆう)に帰したり。悲しまざらんとするも得べけんや。」(1944年3月31日)
戦争目的となる八紘一宇、国体護持も理解できないような下級庶民とされた人たちにも、人間味のある愛すべきところを感じていた。

写真(右):B29爆撃機による空襲で焦土と化した東京3月9-10日深夜,米陸軍航空隊のB29爆撃機 325機が東京を空襲し,4,500,000ポンドの爆弾と 267,171発の焼夷弾を投下し,10万人以上を殺戮した。第二次大戦の1日の死者としては過去最大であった。

「三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。火は初め長垂坂中ほどより起こり西北の風にあふられ忽 市部衛町二丁表通りに延焼す。余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き 日誌及草稿を入れたる手鞄包を提げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手の上がるのを見る。また遠くの北方の空にも火光の反映するあり。火星(ひのこ)は烈風に舞ひ粉々として庭上に落つ。余は四方を願望し到底禍を免るること能はざるべきを思ふ、早くも立迷ふ烟の中を表通りに走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難かるべしと言ふ。道を転じて永坂に至らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり。時に七,八歳になる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出で溜池の方へと逃しやりぬ。余は山谷町の横町より霊南坂上に出て西班牙(スペイン)公使館側の空地に憩ふ。下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇を見る。荷物を背負いて逃げ来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり。余は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中邸の門前に歩み戻るぬ。巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはずれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドルスペルゲル氏褞袍(どてら)にスリッパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ。崖下より飛来りし火にあふられその家今まさに焼けつつあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて来り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各々その住家を捨てて逃げ来りし由を告ぐ。」(1945年3月9日東京大空襲)(→永井荷風の『断腸亭日乗』引用) 

「六月廿八日。晴。---この夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひぴかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。」(1945年6月28日)<永井荷風は3度目の空襲に遭遇した。

荷風は,岡山県勝山に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねた。「八月十四日。晴。朝七時谷崎君来り東道して町を歩む。----正午招がれて谷崎君の客舎に至り午飯を恵まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。----谷崎氏方より使の人釆り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ。急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたためられたり。細君下戸ならず。談話頗興あり。九時過辞して客舎にかへる。」(1945年8月14日)
「贅沢は敵だ」一億特攻生活が文化人にも謳われていたが、堕落した耽美派の荷風、潤一郎には「贅沢は素敵だ」としか、感じられなかった。戦局の悪化の最中に,美食し祝宴を張る「非日国民」的態度は傍若無人である。戦争末期の暗黒時代とは思えない。

 「八月十五日。陰りて風涼し。-----飯後谷崎君の寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。-----駅ごとに応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る。-----新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすぴに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず。-----午後二時過岡山の駅に安着す。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、-----休戦の祝宴を張り皆酔うて蹴に就きぬ。」大元帥昭和天皇の玉音放送を拝聴することもなく,弁当を味わった。人伝に聞いて,終戦を喜ぶ荷風である。それにしても,大日本帝国の敗戦に深刻な気分に陥らならないどころか,祝宴を張るとは狂っている。それとも,深刻になって総力戦を戦っていたことが狂っていたのか。(⇒荷風 昭和20年 夏;『断腸亭日乗』引用)


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直したいと思います。
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