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ブリューゲル,ボス,ゴヤの戦争画 War Pictures 2006
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◆ブリューゲル,ボス,ゴヤの戦争画 War Art
図(上):米国カー・アイビー作「難民」(第一次大戦の欧州難民と行軍する米軍兵士)
:Kerr Eby.Gift of Abbot Laboratories.NAVAL HISTORICAL CENTER引用。Kerr Ebyは1899年メソジスト宣教師の子息として東京に生まれる。第一次大戦時に米国陸軍に入隊。1941年の日米開戦後,入隊を志願したが高齢のために叶わなかった。そこで,アボット研究所Abbott Laboratoriesの戦場芸術家プログラムcombat artist programに参加し,1943年10月から1944年1月まで,南太平洋方面の海兵隊に加わった。 タラワTarawa環礁上陸作戦に参加し,3週間ブーゲンビルBougainville島の戦場で暮らした。ブーゲンビル島では熱帯病に罹患し衰弱,帰国。1946年死亡。

図(右):オーストラリア陸軍従軍画家ハル・アイボルHele Ivor1960年作「オールド・ビッカース陣地占領」(ニューギニア戦線):Taking Old Vickers Position, Bobdubi Ridge, 28 July 1943 1943年7月28日,ニューギニア島北岸ワウ-ワラモアでのオーストラリア陸軍日本軍のオールド・ビッカース陣地占領。戦時中だけではなく,戦後になっても戦死者追悼,芸術自己表現などのために戦争画が描かれた。Depicts members of the 58/59 Australian Infantry Battalion taking an old Vickers position at Bobdubi Ridge, Wau Salamaua, New Guinea, on 28 July 1943.
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写真解説:米国の兵力動員:陸軍・海兵隊・民間防衛軍の増強
20世紀の戦争画:第二次大戦
玉砕戦の真実:アッツ、タラワ、サイパン、ペリリゥー、沖縄

20世紀の戦争画から続く

1.15-16世紀の中世の宗教的名画,たとえばブリューゲルやボスの絵画が,芸術的にも戦争の持つ大量破壊・大量殺戮を的確に表現しているように思われる。かられは,ともに大国スペインの支配下に置かれ,戦争,迫害,異端審問,略奪に苦しんだネーデルランドの民衆の置かれた現状を,彼らの宗教観に照らして,的確に把握していたようだ。

ブリューゲルは,ヒエロニムス・ボスに倣ったかのようなの幻想や奇怪的な作品を制作した。細部にわたって描写しており,一部分の絵が集まって,壮大な印象を与えている。1563年にブリュッセルへ移住してからは農民を題材にした作品を数多く描き「農民画家」とも呼ばれた。しかし,農民の楽しい生活だけではなく,スペインのネーデルランド支配の時代的不安をも宗教的・説話的題材に托している。このような絵は,記録画ではなく,「絵空事」にすぎない。しかし,戦争や争いのもつ,本質を具象化しているように感じられる。

図(右):ブリューゲル「死の勝利」 The Triumph of Death;1562年,Oil on panel,117 x 162 cm,Museo del Prado, Madrid。押し寄せる骸骨の群れに絶望的な抵抗を試みる人間たち。戦争に明け暮れているので,地獄にまとめて送り込まれている。

ブリューゲルは,1563年にブリュッセルへ移住してからは農民を題材にした作品を数多く描き「農民画家」とも呼ばれた。しかし,農民の楽しい生活だけではなく,スペインのネーデルランド支配の時代的不安をも宗教的・説話的題材に托している。このような絵は,記録画ではなく,「絵空事」にすぎない。しかし,戦争や争いのもつ,本質を宗教的に具象化しているように感じられる。

敵を,反乱者を威圧するためか,残虐な処刑も行われる。後方には,杭に串刺しにされて晒された被処刑者が並んでいる。彼らの犯した罪は,どれほどのものなのか。それとも,村を隅々まで襲う地獄のからの使者たちは,災いをもたらす,死をもたらす。戦争の大量破壊・大量殺戮がそのまま現れている。

図(右):ブリューゲル「狂女フリート」;怪物たちの侵入によって阿鼻叫喚に陥った戦時の村。そこから,身の回りの鍋やフライパンくらいは持ち出して逃げようとする女フリートは,大量破壊と大量殺戮に狂わされてしまった。遁走しても,戦争の惨禍から抜け出ることは不可能だ。

他国支配も,宗主国にとっては当然の権利である。しかし,領土争い,農産物・畜・家財など個人財産目当ての武力進入など,農民,市民は戦争に苦しめられた。農民に兵士,地獄の死者を追い払うことはできない。女は逃げ出すのが精一杯だが,次々に襲ってくる敵から逃げ出すことはできないだろう。

ブリューゲル「狂女フリート」は,中国戦線の「三光作戦」を思い起こさせる。三光とは、殺光(殺し尽す)焼光(焼き尽す)槍光(そうこう=奪い尽す)の意味である。特に中世では傭兵も含めて,財産奪取,金品略奪が将兵の戦争目的ともなっている。国民意識やナショナリズムが確立していない状況では,直接的な経済的利得目当てに戦争を仕掛けたこともある。しかし,財産を領土,資源と考えれば,中世の戦争も現代の戦争も大差ないかもしれない。多くの戦争の目的が、国土防衛ではなく、覇権、利権、特殊権益、イデオロギーのために行われ、その結果、大量殺戮、大量破壊をがもたらされているように思われる。

ヒエロニムス・ボス Hieronymous Bosch 「快楽の園」Garden of Earthly Delights では,三連祭壇画(triptych)右翼の「地獄」の場面で,現世の快楽を求めた,あたかも戦争利得者のような強欲者たちが,地獄に突き落とされているが,果てしない人間の欲望をふまえれば,悪魔に引き渡され,終末をむかえるしかない。

中世ヨーロッパにおいては,正当なキリスト教徒以外の異端者・異教徒者は的であり,その生命・財産に関する基本的権利を認めることはない。武力をもって掠奪してもよい。

図(右):オーストラリア陸軍従軍画家ハル・アイボルHele Ivor1944年作「日本兵の死体を調査するオーストラリア軍」(ニューギニア戦線ワウ):1943年7月,ニューギニア島北岸ワウ-ワラモアでオーストラリア軍は日本軍を殲滅していった。武器も食料も不足している日本軍は,オーストラリア軍の敵ではなかったようだ。日本軍は徹底抗戦して,連合軍をニューギニア島に拘束するつもりだった。

19世紀になると,戦争のプロや傭兵による交渉しながらの戦争という形態は,「集団対集団(王族。貴族・都市国家)=軍隊対軍隊」というものだったが,この戦争のあり方が次第に変化してゆく。

やるか,やられるかという殺し合いが,ナショナリズム,国民皆兵・徴兵の動きの中で,活発になる。「国家対国家=国民対国民」という戦争であるしてしまった。対ゲリラ戦として住民虐殺は予防戦争の一環として行われる。敵が団結し交戦意志を固め,兵力を整える前に,先制攻撃するのが,「敵の反撃を予防する」戦争である。第一次大戦になると,民間人も戦争に動員されう本格的な総力戦の時代に突入した。たしかに19世紀になると、市民革命の影響もあって,財産権が尊重されるようになったし,1899年のハーグ協定では「掠奪ハ之ヲ厳禁ス」とされた。しかし,このような法的権利が戦争という極限状況で守られることは稀だったのである。

戦争,特に民間人も動員される総力戦がもたらした惨状に向き合うことなく、自己の主張する大義を芸術的に表現しても,内実の乏しい芸術作品となってしまう。そこからは,戦争の本質はつかめないであろう。殺し,殺されること,破壊し,破壊されることを抜きにした「戦争芸術」には,あまり感銘を受けない。


図(右):オーストラリア陸軍従軍画家ハル・アイボルHele Ivor1947年作「日本兵の人肉喰いの証拠」(ニューギニア戦線):ニューギニア島北岸ワウ-ワラモアでオーストラリア軍に圧迫された日本軍は,武器も食料も不足し,ついには飢餓に陥り,人肉を食らった。勇敢に戦おうにも,生活を続けられるだけの食料物資はなかったのであるから,戦意も萎えてしまう。あるいは,戦意はあっても,食べ物探しで一日が終わり,その日暮しになってしまう。

ヒエロニムス・ボスHieronymous Bosch (1450-1516年)は,ネーデルラントのセルトーヘンボスの画家の家系に生まれた。「聖母マリア兄弟会」に入会し、熱心な信徒であったという。その生涯についてはなぞが多いが、寓意を含んだ宗教画を残した。スペイン国王も彼の絵画を評価し,手元においている。絵画に描かれた奇怪な怪物やその構図は、シュルレアリズムに影響を与えた。現存する約30点の作品には年記,サインがないものが多い。

人間の愚行と罪の告発、断罪する一方で,諸外国の王侯貴族から絵の注文を受けていた。生と死の世界観のなかで、死の世界と接触している。

ボスが生きたネーデルランドはスペイン王に支配されて,異端者と魔女を迫害した。ボス「乾草車」の祭壇中央では,ネーデルラント民衆の生産した乾草が,大きな荷車に載せられてスペイン国王のもとに引き渡されている。そのおこぼれを頂こうとするたが貪欲な者が、乾草に群がってくる。乾草を巡って殺しあいを演じている。右翼では,燃え上がる町は,戦禍に焼かれている。建物に入り込んで,略奪する地獄の死者。村人を殺し,捕虜として連行する先は,地獄である。

図(右):ヒエロニムス・ボスHieronymous Bosch 「乾草車」The Hay Wain1510年の三連祭壇画「乾草車」中央には,ネーデルランドの諺「この世は乾草、強欲な人間,そこから好きなだけ奪おうとする」を描いている。その車の後ろには教皇と皇帝がいるが,乾草車の曵かれていく先は,右翼のこの「地獄」である。左翼はアダムとエヴァの創造から追放までと堕天使サタン。135 x 45 cm Prado, Madrid.

ボス「乾草車」は,大国による植民地支配・資源の収奪,それを戦争を辞さずに行う人間の強欲さ,その結果引き起こされる地獄を描いたようにも思われる。現世では,神の裁きも正義も存在しない。地上も地獄も同じく,争いと破壊と殺戮が,支配している。このような悲観的な現世認識が窺われるが,これは他人のものでも争い奪うという人間の強欲さが,悲劇をもたらしていることを暗示しているように思われる。

ボスの絵画は,戦争画とも反戦画とも異なるが,彼の幻想,現実感覚,幻覚の中では,地獄は現世の快楽の終わりを意味するだけではなく,現世にあっても,大量破壊,大量殺戮によって,苦悩,恐怖,狂気がもたらされていることを示している。的確に現実にある「地獄」を把握できたからこそ,芸術的にもそれを表現できたのではないだろうか。

ヒエロニムス・ボスHieronymous Bosch (1450-1516年)は,ネーデルラントのセルトーヘンボスの画家の家系に生まれた。「聖母マリア兄弟会」に入会し、熱心な信徒であったという。その生涯についてはなぞが多いが、寓意を含んだ宗教画を残した。スペイン国王も彼の絵画を評価し,手元においている。絵画に描かれた奇怪な怪物やその構図は、シュルレアリズムに影響を与えた。現存する約30点の作品には年記,サインがないものが多い。

図(右):ヒエロニムス・ボス Hieronymous Bosch 「快楽の園」Garden of Earthly Delights ;三連祭壇画(triptych)右翼の「地獄」1504年,Oil on panel, 220 x 97 cm Museo del Prado, Madrid。快楽の罪を犯した人間が,胴体が卵の殻になっている男(殻の空洞内部は居酒屋)壊れかけていることに全く無関心。人間を丸呑みにしては、すぐ排泄してしまう椅子に座った鳥頭の怪物(便器に座るサタン)など,苦しめられ,苦しんでいる。しかし,このような現世の快楽を求めた戦争利得者たちが,叩き落される地獄のようにも思える。描かれたのは、果てしない人間の欲望とその行く先である終末の恐怖。

ヒエロニムス・ボス Hieronymous Bosch 「快楽の園」Garden of Earthly Delights では,三連祭壇画(triptych)右翼の「地獄」の場面で,現世の快楽を求めた,あたかも戦争利得者のような強欲者たちが,地獄に突き落とされているが,果てしない人間の欲望をふまえれば,悪魔に引き渡され,終末をむかえるしかない。

中世ヨーロッパにおいては,正当なキリスト教徒以外の異端者・異教徒者は的であり,その生命・財産に関する基本的権利を認めることはない。武力をもって掠奪してもよい。
19世紀になると,戦争のプロや傭兵による交渉しながらの戦争という形態は,「集団対集団(王族。貴族・都市国家)=軍隊対軍隊」というものだったが,この戦争のあり方が次第に変化してゆく。

やるか,やられるかという殺し合いが,ナショナリズム,国民皆兵・徴兵の動きの中で,活発になる。「国家対国家=国民対国民」という戦争であるしてしまった。対ゲリラ戦として住民虐殺は予防戦争の一環として行われる。敵が団結し交戦意志を固め,兵力を整える前に,先制攻撃するのが,「敵の反撃を予防する」戦争である。第一次大戦になると,民間人も戦争に動員されう本格的な総力戦の時代に突入した。たしかに19世紀になると、市民革命の影響もあって,財産権が尊重されるようになったし,1899年のハーグ協定では「掠奪ハ之ヲ厳禁ス」とされた。しかし,このような法的権利が戦争という極限状況で守られることは稀だったのである。

戦争,特に民間人も動員されす総力戦がもたらした惨状に向き合うことなく、自己の主張する大義を詳細に解説しても,主張しても,戦争の本質はつかめないであろう。死後の世界・滅亡と永遠の世界・至福との関連で,殺し,殺されること,破壊し,破壊されることの意味を心の奥底で考えさせ,有意義な回答を与えるのが,宗教とそれを体化した宗教施設の役割ではないか。

人間の愚行と罪の告発、断罪する一方で,諸外国の王侯貴族から絵の注文を受けていた。生と死の宗教的世界観のなかで、死の世界と接触している。

ボスが生きたネーデルランドはスペイン王に支配されて,異端者と魔女を迫害した。ボスは,ネーデルラント民衆の生産した農産物や毛織物製品が,スペイン国王のもとに引き渡されているのを知っている。そのおこぼれを頂こうとするたが強欲なものがいて,彼らが殺しあっているのを見ている。町は,戦禍に焼かれ,略奪されるさまは,地獄のようである。

ボスは,大国による植民地支配・資源の収奪,それを戦争を辞さずに行う人間の強欲さ,その結果引き起こされる地獄を宗教的に描いたが,現世にも地獄にも大差がないという宗教観が窺われる。

2.19世紀初頭、ゴヤの絵画は、戦争の惨禍を表現している。そこでには、市民をも巻き込む戦争の残虐さと不条理が、具体的に描かれている。戦争を嫌悪し厭戦気分を高めるという意味で、戦争の大儀をも否定しかねない。

戦争画は、勝利を祝う統治者とその指揮下にある軍隊の栄光を表現するものとして,古くからあった。ところが、フランス革命後,19世紀初頭,ナポレオンが,フランスを統治知るようになると,戦争が市民を巻き込んで長期間行われるようになる。戦争は,もはや統治者の軍隊と軍隊の決戦というだけではなく,占領,徴発,それに抵抗する民間人,抵抗を鎮圧するための残虐な報復と,民間人を巻き込む「国民戦争」の様子を呈してきた。

1807年10月、フランス皇帝ナポレオンの命を受け、二人の将軍に率いられた5万のフランス軍が、ピレネー山脈を越え、イベリア半島へと進撃した。目的は、英国の同盟国であるポルトガルを攻撃して、大陸封鎖を完成させるためである。フランス軍はリスボンを占拠が,スペイン王室では,親ナポレオンのカルロス4世に対抗して,フェルナンド7世が擁立されるクーデターが起きた。そこで,ナポレオンは,スペインの皇位継承争いを利用して,自分の弟ジョゼフ・ボナパルトを、スペイン王ホセ1世として擁立してしまう。
 王太子フェルナンド7世は、カルロス四4から王位継承したが,国境のバイヨンヌでのナポレオンとの会見で、王位継承権をナポレオンの実弟に渡すことを強いられた。

 ナポレオンは,フランス革命を促した啓蒙思想を受け継ぐ反面,共和制,議会主義を打ち壊して,帝政,絶対主義を再び打ち立てた。スペインにも実弟を王とするフランスによる支配を意図していたといえる。1808年5月2日、カルロス4世が王宮を去らなくてはならない状況に追い込まれた時,マドリード市民が蜂起したのは,フランスによる支配に抵抗するナショナリズムのためであろう。こうして,スペインでのフランス軍とスペインの戦争が,1813年まで5年以上も続く。これは,対仏独立戦争とも言われる。

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス Francisco José de Goya y Lucientes(1746年3月30日 - 1828年4月16日)は,アラゴン地方の貧しい家に生まれ、絵画を学び,イタリア留学後、10年間以上,王室のタピスリ工場の下絵描きの職について、華やかな色彩のカルトン(原寸大下絵)を制作した。1780年にスペイン王立アカデミー会員、1780年代末にはスペイン国王カルロス3世付きの「王の画家」となった。1792年の病気で全聾となったが,1799年には主席宮廷画家の名誉を手に入れた。

ゴヤは,フランスの宮廷画家としてナポレオンを描いたダヴィッドとほぼ同年代を生きた画家である。自画像も描いたが,宮廷画家として,18世紀末に,貴婦全身画『カルロス4世とその家族』,『着衣のマハ』,『裸のマハ』(プラド美術館所蔵)など人物画を描いている。(⇒世界各地に残るゴヤの絵画Spanish Rococo Era/Romantic Painter and Printmaker, 1746-1828

図(右):ゴヤ 「5月3日」Los Fusilamentos del 3 de mayo en Madrid;ナポレオン指揮下のフランス軍のマドリッド侵攻で,多数の市民が殺された。しかし,民衆はゲリラ戦で抵抗,フランス軍将兵を襲撃した。叛徒を鎮圧するために,フランス軍は,ゲリラや適性住民,そうなる恐れのある住民を抹殺しようとする。フランス軍には「無辜の市民」がいるとは思えず,兵士と民間人を区別することは,既に困難になっていた。作品は,ナポレオンがワーテルロー会戦で完敗し,スペイン王が復位していた1814年。プラド美術館所蔵。

ゴヤが戦争とのかかわり,戦争を芸術で表現した契機は,ナポレオンのフランス軍によるスペイン侵攻を体験したことである。18世紀後半、スペインでは、啓蒙主義と絶対主義的な封建主義が対立していたが,ゴヤは啓蒙思想に同調し,最初の版画集「ロス・カプリチョス(気まぐれ)」(1799年)では、スペインの政治風刺ともいえる。

しかし,フランス革命の啓蒙思想は,自由・平等・博愛を唱えながらも,周辺国の介入から戦争を引き起こした。ナポレオンのスペイン支配の時代,ゴヤは戦争の巨大な壊滅力を表現した『巨人』がある。『巨人』は,戦火逃れようとする避難民や家畜の群れを圧倒する巨人が,災いをもたらしている。この巨人は,破壊者たるナポレオンか,それとも戦争そのものか。また,フランス軍に抵抗したスペイン人とその処刑を『(1808年)5月2日』『5月3日』で描いた。

ゴヤ『5月2日』は、マドリッド市民が市中心のプエルタ・デル・ソルでフランス軍のモロッコ傭兵と戦闘する場面である。『5月3日』は、フランス軍によるスペイン叛徒処刑を描いている。栄光あるフランス陸軍歩兵は,スペイン民間人も夜陰にまぎれ銃殺した。

 ゴヤがこれら二大作品に着手したのは、実は1814年、ワーテルロー会戦でナポレオンのフランス軍が,英独連合軍に惨敗した後であり,フランスに幽閉されていたスペイン王フェルナンド7世が復位した年である。67歳のゴヤはスペイン摂政府に次のような嘆願書を送ったという。
「ヨーロッパの暴君に対する我々の輝かしき蜂起におけるもっとも注目すべき英雄的偉業の場面を、絵筆をもって永遠化したいと私は熱望しております」
 摂政府はゴヤの申し出を認可し,マドリード蜂起とスペイン抵抗者の銃殺というスペインの悲劇が描かれた。「ゴヤの嘆願書から制作意図をうかがえば、抗仏戦争における慰霊碑のようなものだと考えるべきだろう。しかし、いまやプラド美術館の至宝ともなったこの作品から、慰霊碑らしい雰囲気を感じ取るのはむずかしい。嘆願書に記された『輝かしき蜂起』や『英雄的偉業』という勇壮な形容からもほど遠い。画面から伝わってくるものは、敗者もなければ勝者もない、何かしら途方もない愚行と恐怖、ただそれだけである。」このような指摘はもっともである。

図(右): マネ Edouard Manet「皇帝マキシミリアンの処刑」L'Exécution de Maximilien, 1868-1869;1864-1867年,メキシコはハプスブルク家フェルディナント・マキシミリアン大公がフランス第三帝政の皇帝ナポレオン3世によりメキシコ皇帝マキシミリアン1世として擁立された。メキシコ政府は,フランス軍駐留を認めている。メキシコ皇帝は,米英からも承認されず,1867年,ベニート・ファレス率いる共和国軍が政府軍を降す。マクシミリアン皇帝は,反逆罪でメキシコ軍事法廷により死刑。メキシコ共和国の復活がなった。1867年6月17日,メキシコ皇帝を称していたマキシミリアンは1869年「皇帝マキシミリアンの処刑」の展示が政府によって禁止されている。

戦争や侵略への憎悪は,版画集『戦争の惨禍』を描かせていた。また,公的な生活から退いたゴヤは,晩年になって『黒い絵』,すなわち悲惨な暗澹たる一連の絵画を描いていた。ゴヤは情熱を描いたロマン主義の先駆でもあるが,陰惨な戦争を表現した作品の多くは,生前には発表されなかった。

戦争と、それに苦しむ民衆の姿を目の当たりにしたゴヤは,1810年に「戦争の惨禍Los Desastres de la Guerra」の版画連作に着手した。ゴヤはこの作品を単なるフランス軍批判ではなく、戦争の持つ暗澹たる惨劇を表現したものである。2番から64番までは、戦争の客観的な記録である。フランス軍による暴行、強姦、略奪、虐殺などの戦争中に起こった残虐な場面、マドリードを襲った飢饉の様子などが写実的に描き出されています。これに対して1番と65番以降はしばしば「カプリチョス」と呼ばれることがあるように、政治批判を含んでいる。65番以降は、動物による寓意表現がある。

図(上左):フランシスコ・デ・ゴヤ FRANCISCO DE GOYA 「戦争の惨禍」"The Disasters of War" (c. 1820, published 1863):1811年,フランス軍のスペイン侵攻で,フランスに反抗するスペイン人は「平和を乱す叛徒」であり,重罪人と同じように処刑された。同じような構図は、マネ、ピカソなども踏襲している。図(上左):パブロ・ピカソ Pablo Picasso「朝鮮での虐殺」Matanza en Corea :朝鮮戦争における民間人虐殺をテーマにピカソが1951年に描いた作品。朝鮮で米軍によって共産主義者とされた市民が虐殺された場面かもしれない。110 x 210 cm,Musée Picasso, Paris.
The name by which the series is known today is not Goya's own. His handwritten title on an album of proofs given to a friend reads: Fatal consequences of Spain's bloody war with Bonaparte, and other emphatic caprices (Spanish: Fatales consequencias de la sangrienta guerra en España con Buonaparte, Y otros caprichos enfáticos). Aside from the titles or captions given to each print, these are Goya's only known words on the series. With these works, he breaks from a number of painterly traditions. He rejects the bombastic heroics of most previous Spanish war art to show the effect of conflict on individuals. In addition he abandons colour in favour of a more direct truth he found in shadow and shade.(The Disasters of War引用) 


 ピカソの戦争に対する視線は、スペイン内戦の「ゲルニカ」が原点であり,ファシズム打倒、自由と議会制民主主義擁護という米英の対ファシズム戦争、すなわち第二次世界大戦後も、「ゲルニカ」に戦争の惨禍を被る民間人の視点が引き継がれた。
 欧米では、現在、忘れられた戦争とされている1950年の朝鮮戦争では、日本支配から離脱、独立した朝鮮半島が、米英の支持する自由主義市場経済の「西側」と、中国・ソ連の支持する社会主義計画経済の「東側」とに二分されて戦った一種の内戦であった。朝鮮戦争には、英米軍に加えてフィリピン軍、タイ軍なども国連軍として参加し、北朝鮮軍、中国義勇軍,ソ連空軍などが国連軍に対峙して、戦う国際紛争である。

 朝鮮半島の住民は、あるときは、共産主義者として、あるときは資本主義者として、敵対勢力の弾圧・迫害を受け、場合によっては処刑された。

東西両軍に翻弄され、戦線も不安定な時期には、多数の避難民が移動しており,彼らがどちらの陣営に属すかは不明瞭であった。スパイやゲリラ部隊の侵入を警戒している軍隊は、避難民に敵対勢力が紛れ込み、破壊行為,敵対的煽動をすることを極度に警戒していた。そこで、疑心暗鬼に陥った将兵は、敵対勢力と見なした人物を処刑した。
 このような住民虐殺を伴う内戦の悲劇が、朝鮮戦争に内在しており,それが再び、パブロ・ピカソによって、絵画で表現された。


図(上):ゴヤ FRANCISCO DE GOYA 「戦争の惨禍」"The Disasters of War" (c. 1820, published 1863):1811年,フランス軍のスペイン侵攻で,大量のスペインの市民や兵士が処刑された。フランスに反抗するスペイン人は「平和を乱す叛徒」であり,重罪人と同じように処刑される。叛徒の仲間であり,保護者でもある婦人に,人権を認める必要はない。罰としてレイプしてもかまわない。補給を十分に受けられなかったフランス軍は,現地での挑発を行い,挑発に抵抗した民間人を処刑した。スペイン人はフランス軍を憎悪して,ゲリラ戦を開始した。それを鎮圧するためには,恐怖の報復があることを見せ付けるしかない。戦争は報復の繰り返しで,ますます憎悪の泥沼にはまってくる。そこから,抜け出すことは誰にもできない。
The Disasters of War (Spanish: Los Desastres de la Guerra) are a series of 82 prints created between 1810 and 1820 by the Spanish painter and printmaker Francisco Goya (1746–1828). Although Goya did not make known his intention when creating the plates, art historians view them as a visual protest against the violence of the 1808 Dos de Mayo Uprising, the subsequent Peninsular War of 1808–14 and the setbacks to the liberal cause following the restoration of the Bourbon monarchy in 1814. During the conflicts between Napoleon's French Empire and Spain, Goya retained his position as first court painter to the Spanish crown and continued to produce portraits of the Spanish and French rulers.(The Disasters of War引用))


   『戦争の惨禍』は,ゴヤの生前には発表されなかった。その理由は、政治的表現が問題視されることを恐れた,あるいはゴヤ自身の信条に従って出版されなかったのかもしれない。『戦争の惨禍』初版は、1863年になってやっとサン・フェルナンド王立美術アカデミーから80枚のセットとして出版される。1870年には、さらに81番と82番の存在があきらかとなり、現在は82枚で1セットとしている。

図(上):ゴヤ FRANCISCO DE GOYA 「戦争の惨禍」"The Disasters of War" (c. 1820, published 1863):1811年,フランス軍のスペイン侵攻に抵抗するスペイン人。スペイン人は侵略者とみなしたフランス軍将兵を容赦なく殺戮する。ナショナリズムを讃える「勇敢なスペイン人の抵抗」なのか。それとも,婦人ですら敵の兵士を殺害したいと思わせる憎悪を抱かせるのが戦争というものなのか。
Plates 1 to 47 consist mainly of realistic depictions of the horrors of the war fought against the French. Most portray the aftermath of battle; they include mutilated torsos and limbs mounted on trees, like "fragments of marble sculpture".[6] Both French and Spanish troops tortured and mutilated captives; evidence of such acts is minutely detailed across a number of Goya's plates.[21] Civilian death is also captured in detail. Spanish women were commonly victims of assault and rape. Civilians often followed armies to battle scenes. If their side won, women and children would search the battlefield for their husbands, fathers and sons. If they lost, they fled in fear of being raped or murdered.(The Disasters of War引用) 


『1808年』の二大作は,ナポレオン敗退後,スペインにフェルディナンド7世が帰還した1814年の作成であるが,それ以前,版画『戦争の惨禍』とは,抗仏戦争のさなか、戦時下のマドリードで制作された。この非公開の作品集には,ゴヤの戦争観が表れている。フランス軍に処刑されるスペイン人,スペイン人に処刑されるフランス将兵,愚かしくもみえるスペイン人為政者。敵味方という二分法では単純に律しきれない戦争観は,大量破壊,大量殺戮とそれを正当化する大義やナショナリズム自体にも問題があることを暗示しているようだ。生前に発表されることがなかったのは,戦争>民族自立>スペイン王室護持,という大義を具現化した芸術でなかったからであろう。

図(右):ゴヤ 1823年作「自らの子を喰らうサタン」Saturno devorando a su hijo自分の子供ですら食べてしまうサタン。自ら生み出したものを,破壊する狂気。無残に殺害される人間。戦争ではまさに,人が人を殺すのであり,それをやめない者はサタンと同じである。1820 – 1823年(70歳代)の作品。146 cm x 83 cm.プラド美術館所蔵。
Saturn Devouring His Son is the name given to a painting by Spanish artist Francisco Goya. It depicts the Greek myth of the Titan Cronus (in the title Romanised to Saturn), who, fearing that he would be overthrown by his children, ate each one upon their birth. The work is one of the 14 so-called Black Paintings that Goya painted directly onto the walls of his house sometime between 1819 and 1823. It was transferred to canvas after Goya's death and has since been held in the Museo del Prado in Madrid.(Saturn Devouring His Son引用)


ゴヤFrancisco de Goya(1746-1828)は、立憲主義対絶対主義、議会派対王制派,スペイン対フランスなど対立と弾圧の陰惨なスペインを映し出した『黒い絵』の連作も描いた。隠遁生活を送るために,1819年にはマドリード郊外に別荘「聾者の家」を購入した。1820年から1823年にかけて、この「聾者の家」を飾るために描かれた14枚の壁絵が『黒い絵』の連作である。「黒い絵」はプラド美術館の特設展示室でみることができる。

晩年,聾の家の壁に描かれた『黒い絵』は、ゴヤの人間・政治・戦争観が現れている。ゴヤ 「自らの子を喰らうサトゥルヌス」Saturno devorando a su hijoは,ルーベンスも同じ主題を描いているが,自分の子供ですら食べてしまうサタンの絵である。狂気の様子で,自ら生み出した人を,頭から食べつくすサタン(サトゥルヌス)は,無残に殺害される人間の悲劇と人を喰らうことの狂気を感じさせる。戦争ではまさに,人が人を殺すのであり,それをやめない者はサタンと同じである。1820-1823年に描かれたこの作品は,嘔吐を起こすに十分な陰惨な色彩である。

『黒い絵』の一つ「棍棒での決闘」は,お互いに殴りつけ合う2人の男が描かれている。足が大地に埋もれているので,殺し合いから逃げることはできない。戦争における報復を窺わせる。

43歳で宮廷画家の名声を手に入れたほどの尊王派だが,全聾者となって住んでいた家に描いた『黒い絵』の連作は,いずれも暗澹たる絵画である。ゴヤは,『黒い絵』の連作を描いた後,1824年,旧敵国フランスに亡命し、ボルドーで死去。ゴヤ最後の作品は,ボルドーの陽を浴びる「ミルク売り娘」(74 x 68 cm)。享年82歳。


図(上左):オーストラリア従軍画家マライ・グリフィンMurray Griffin1942年作「1942年1月15日,ゲマスで砲撃中の25ポンド砲」25-pounders in action at Gemas, 15 January 1942 日本軍のシンガポール侵攻に反撃するオーストラリア軍。図(上右):マライ・グリフィン 1942年作「塩水の運搬」(シンガポールのチャンギ収容所のオーストラリア軍捕虜)Salt water party, Changi,oil on plywood 36 x 82 cm 「自分たちの戦争記録画」になっている。

図(右):オーストラリア陸軍従軍画家ハル・アイボルHele Ivor作「ジャングルの行軍」(ニューギニア戦線ワウ):1943-1944年,ニューギニア島北岸ワウ-ワラモアで安達将軍率いる日本軍と戦ったオーストラリア陸軍歩兵。本来,対日戦勝利を飾った戦場なはずであるが,現地の将兵たちは大変な苦労をしていた。アイボルは,戦時中だけではなく,戦後になっても戦死者追悼,芸術自己表現などのために戦争画を描いた。
Digitised images from Ivor Hele : the heroic figure, published : Canberra, Australian War Memorial, 1997, in which the artist Ivor Hele's war art is discussed by Anne Gray in the chapter "An emotional response", and examples of his work depicting World War 2 and the Korean War are shown.


為政者に従ったり,それに賛同するだけが芸術家の活動ではないのはもちろんである。本来は,個人的心情や思想を芸術表現したいという欲求がある。オーストラリア従軍画家マライ・グリフィンMurray Griffin は,シンガポールでの対日戦争,敗退,チャンギでの捕虜生活を,芸術家らしく記憶・スケッチにとどめた。チャンギ収容所は,他の日本軍の収容所よりもはるかに,連合軍の捕虜にとって生活しやすかった場所である。そんなこともあって,収容されていた当時から身近な材料を使って,戦友の思い出や収容所の様子を描いた。戦後,解放され,帰国してからも戦争画を描いている。

図(右):1942年、アメリカ軍従軍画家ウィリアム・フランクリン・ドラッパー(William Franklin Draper)作、Tired Tigers - Umnak - Alaska 「疲弊した虎‐アラスカ州ウムナック」:1942年,アリューシャン列島はアメリカの固有の領土だが、日本軍は1942年にミッドウェー攻略と同時にアリューシャン列島、ダッチハーバーを空襲しており、キスカ島、アッツ島を攻略した。
Painting, Oil on Board; by William F. Draper; 1942; Framed Dimensions 20H x 24W
Related Content A good illustration of the primitive conditions on the fighter strip.
写真は、Naval History and Heritage Command Accession #:88-189-AF引用.


1942年6月3日、日本海軍はアラスカ、アリューシャン列島 ダッチハーバーを空母「隼鷹」「飛鷹」の艦載機で空襲すると同時に、アッツ島キスカ島の攻略が行われた。アメリカ軍は、アメリカの固有の領土を攻撃、占領されたことにショックを受けると同時に、アリューシャン列島から、アメリカ北部を攻撃されるのではないかと危機感を高めた。また、今まで侵されたことのなかったアメリカ固有の領土が敵に占領されたということは、軍の大失態を意味していた。そこで、アメリカ軍は、天候・地形の上で大規模な軍事行動が制限される極冠の地でも大反撃を計画した。1943年1月12日、アメリカ海軍重巡洋艦「インディアナポリス」の旗艦に、アメリカ軍は無人のアムチトカ島に上陸し、航空基地を構築し、アッツ島、キスカ島の日本軍基地を空襲し始めた。そして、1943年5月12日、アメリカ軍は、1万人の上陸部隊をもって、アリューシャン列島東端のアッツ島に上陸、アッツ島日本守備隊軍を壊滅した。

図(右):1944年、アメリカ軍従軍画家ウィリアム・フランクリン・ドラッパー(William Franklin Draper)作、Inferno 「炎上」:1944年,サイパン島のアメリカ軍Dデイ時、アメリカ軍海兵隊が進撃すると、チャロウ・カナン(チャロンカノア)にあった日本の製糖工場が炎上した。サイパンの経済は、沖縄と同じくサトウキビ栽培、黒糖生産に依存しており、サイパンでは沖縄からの移住者が労働者としてサトウキビ栽培に従事していた。
Description:Painting, Oil on Canvas; by William F. Draper; 1944; Framed Dimensions 35H X 45W
Related Content In the village of Charou Kanan, Saipan, the sugar mill became an inferno on D-Day. As the flames leap to the sky, Marines stealthily creep forward. Enemy mortar fire falls over the beachhead causing many casualties to the men and supplies.
写真は、Naval History and Heritage Command Accession #:88-189-DT 引用.


図(右):1944年、アメリカ軍従軍画家ウィリアム・フランクリン・ドラッパー(William Franklin Draper)作、A Warrior Homeward Bound 「故郷に帰る担架の英雄」:1944年,グアム島攻略に参加したアメリカ軍兵士が負傷し、担架に乗せられ小型のLVT(歩兵揚陸艇)から大型のLST(戦車揚陸艦)に移し替えられている。グアム島は、元来、アメリカ領だった。他のマリアナ諸島は、第一次大戦まではドイツ領だったが、ドイツ敗戦後、国際連盟の委託統治領となった。
Description:Painting, Oil on Canvas; by William F. Draper; 1944; Framed Dimensions 34H X 29W
Accession #:88-189-DR
Related Content This wounded Marine, a casualty of the assault wave on the beaches of Guam, is tenderly hoisted by his comrades from an LVT to an LST where he will receive the best of care from Navy doctors.
写真はNaval History and Heritage Command Accession #:88-189-DT 引用.


ウィリアム・フランクリン・ドラッパー(William Franklin Draper) は、1912年12月24日生れ、2003年死去。太平洋戦域で、ブーゲンビル島(Bougainville)の攻略に参加した後、アメリカ海軍空母「ヨークタウン」USS Yorktown (CV-10)に乗艦、航空攻撃を経験し、グアム・サイパン・パラウ攻撃に参加。, ニューギニア北岸ホーランジア(Hollandia)攻略、トラック諸島(Truk island)空襲に参加。サイパン・グアム攻略に参加した時は、アメリカ戦艦「テネシー」USS Tennessee (BB-43)に乗艦していた。戦後、1962年にドラッパーは、ジョン・ケネディ(John F. Kennedy)のただ一人の肖像画家になったが、これは二人が太平洋戦争の時、海軍で戦った共通の経験があったからであろう。

図(右):1944年、アメリカ軍従軍画家ウィリアム・フランクリン・ドラッパー(William Franklin Draper)作、Hangar Deck of Carrier (Palau Strike Series) 「空母飛行格納庫」:1944年,パラオ諸島ペリリュー島など日本軍の航空基地や泊地を空母艦載機が空襲する。1933年に国際連盟から脱退した日本だったが、第一次大戦後に統治委任領となったパラオ諸島やマリアナ諸島はそのまま日本の委任統治が続いた。日本の委任統治では、公的教育は日本語となり、現地住民に対しても日本語教育が始まった。1944年9月15日、アメリカ軍はフィリピン侵攻拠点の前進基地を確保するために。パラオ攻略ステールメイトII作戦(Operation Stalemate II) を開始し、軍事拠点のペリリュー島に上陸した。11月24日、日本軍守備隊は全滅を覚悟し、歩兵第2連隊長中川州男大佐は自決、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電信を発した。 11月27日、アメリカ軍はペリリュー島の占領を宣言した。
Description:Painting, Oil on Canvas; by William F. Draper; 1944; Framed Dimensions 34H X 44W
Related Content Preparing for a Strike on Palau in the Pacific Ocean
写真は、Naval History and Heritage Command Accession #:88-189-EB 引用.


図(右):1945年、アメリカ軍従軍画家ミッチェル・ジェイソン(Mitchell Jamieson)作、The Beach at Dusk 「夕暮の砂浜」:絵の背景となっている摺鉢山には、日本海軍の砲兵陣地・洞窟陣地・が構築されていた。硫黄島の日本軍守備隊の中核は、日本陸軍小笠原兵団の1万4000人だが、日本海軍7000人も、兵団長栗林忠道陸軍中将の隷下にあった。1945年2月16日、アメリカ軍は新鋭戦艦3隻、旧式戦艦3隻、巡洋艦5隻を中核とする艦砲射撃を硫黄島に加え、2月19日、リッチモンド・ターナー海軍中将隷下の海兵隊第4海兵師団、第5海兵師団が硫黄島に上陸を開始した。3月15日、アメリカ軍は硫黄島占領を宣言した。1968年6月26日、硫黄島を含む小笠原諸島の施政権がアメリカから日本に返還された。
Painting, Watercolor and Crayon on Paper; by Mitchell Jamieson; 1945; Framed Dimensions 31H X 39W
Related Content As darkness closes in at Iwo, the tragic section of beach below Suribachi becomes unearthly and ghostlike in the fading light. The beach is deserted except for the wrecks, which litter its entire length, rusted and partially buried in the sand.
写真は、Naval History and Heritage Command Accession #:88-193-NQ 引用.


ミッチェル・ジェイソン(Mitchell Jamieson :1915-1976) は、メリーランド州(Maryland)生まれで、ワシントンDCのアボット芸術学校(Abbott School of Fine and Commercial Arts)、コーコラン芸術学校(Corcoran School of Art)で学び、1942年から海軍予備隊に入った。そして、北アフリカ上陸作戦に参加、敵地に上陸し、その記録を描いた。そして、1944年6月のヨーロッパ侵攻ノルマンディー上陸作戦に参加し、戦車揚陸艦 LSTで敵地に上陸した。その後、ミッチェル・ジェイソン(Mitchell Jamieson )は、太平洋戦線に移り、1945年2月の硫黄島(Iwo Jima)攻略作戦に参加し、日本降伏調印式は、東京湾でアメリカ海軍新鋭戦艦「ミズーリ」U.S.S. Missouri艦上で立ち会っている。


◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直したいと思います。
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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