◆ウッジ・ゲットー Łódź Ghetto写真解説
写真(上)1940-43年,ポーランド・リッツマンスタットLitzmannstadt (ウッジ Łódź)のゲットーで働くユダヤ人;ドイツのポーランド占領によって,ポーランドの地名は,ドイツ語に改められた。ウッジは,リッツマンスタットと改称された。ポーランド東部は,ポーランド領からドイツ帝国領に併合されたため,ウッジも帝国領内に移された。1930年代のウッジ市の推定人口は50万人。
Litzmannstadt
Archive title: Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Arbeitseinsatz von Juden, Verlegung eines Kabels
Dating: 1940/1943 ca.
Photographer: Herrmann, Ernst撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・N_1576_Bild-001引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◇ウッジは、「ウッチ」、ドイツ語で「リッツマンスタット」と呼ばれることも多いが、本サイトでは、ポーランド語は原則「ウッジ」に統一した。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
◆2011年3月1日,親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、翌日、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
◆2010年10月30・31日,武蔵野芸能劇場の「空の記憶」で、大人になったアンネの思いが演じられた。
◆アンネの日記類は,2009年11月1日からアンネ・フランク博物館で,永久展示。これは,日記3冊、短編小説をつづったノート、気に入った言葉を書き留めていた用紙など、アンネ自身が書いたもの。1944年5月から日記を破れやすい用紙数百枚に書き直していたが、そのうちの40枚も交代展示される予定。日記類はアンネの父オットー・フランクがオランダ戦争資料館(Netherlands Institute for War Documentation)に寄付したもの。
◆2009年10月1日,ユーチューブOfficial Anne Frank Channelで,1941年,隣人の結婚式に窓から顔を出すアンネ・フランクの動画(20秒間)が無料公開された。この一日で本サイトのアクセスは1万3000件を超えた。人種民族差別への関心が高まっていることが実感できた。
◆NHK海外ドラマ「アンネの日記」が放映され,2009年7月31日-8月13日で本サイトのアクセスは3736件に達した。
◆2009年7月30日,国連教育科学文化機関(UNESCO)は、貴重資料の保存と認知度向上を目的とした「世界記憶遺産」(Memory of the world)に「アンネの日記」が「世界中で読まれた書籍トップ10のうちの1冊」として,登録したと公表した。
【2009/2/5/AFP】ローマ法王ベネディクト(Benedict)16世は,アルゼンチンの放送局が放送した,スウェーデンのTV番組でガス室は存在しなかったと発言した英国リチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教の破門を約20年ぶりに解除。アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相は3日、法王の行動は看過することはできないとし、バチカン当局に対し、ナチス・ドイツのホロコーストが「否定できない事実だと明確にすること」を求めた。
リチャード・ウィリアムソン(
Richard Williamson )司教は,「ガス室は存在しなかった」と公言するなどホロコーストを史実と認めず,ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。
しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。
ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。
1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。
写真(右)1939年9月, ポーランド,木造の家屋の前には座っている髭のあるポーランド・ユダヤ人男性:
Polen.- Menschen (Juden?) vor einem Holzgebäude, alte Männer mit Bart, sitzend; PK Lw 1
Datierung: September 1939
Fotograf: o.Ang.
Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。
ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。
ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。
ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。
法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。
ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」(Nostra Aetate:DECLARATION ON
THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。
◆2009/2010年,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』にゲスト出演。1944年7月21日(事件翌日),アンネは日記に,若いドイツの将校,伯爵によるヒトラー暗殺未遂のニュースを書きとめ,ヒトラーが倒されれば軍事独裁政権を作って連合国と講和したであろうと予測。
写真(右)1939年9-10月,ポーランド,
ワルシャワ,戦禍の後片付けを命じられたたユダヤ人男性:第二次大戦が1939年9月に勃発,ドイツが占領したポーランドには大量のユダヤ人を収容する施設として,都市にユダヤ人居住区「ゲットー」Ghettoが設けられ,ポーランド人が追い出された後に,多数のユダヤ人が強制移住させられた。蓄えのなかった貧しいユダヤ人は,ゲットー内部の後片付け,廃品・廃材工場などに働きにでるしかなかった。
市民を屈強の兵士がいじめているのは,不快だが,当時は,ドイツ民族,アーリア人の敵,ユダヤ人に対して,強固に排除できることこそが,「勇士」とされた。敵に対する同情は,兵士としての弱さの現われであって,忌むべきこととされた。
ユダヤ人とは、「ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは、ユダヤ教に改宗した者」で「他の宗教に帰依していない者」ということは適切ではない。二世代前であっても,キリスト教に改宗しても,ユダヤ人はユダヤ人として迫害されたのが,ナチスの時代だった。
Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Schulze 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-001-0251-35 引用。(他引用不許可)
◆AFP[ナチスの強制収容所とユダヤ人ゲットー、欧州全域に2万か所以上 新調査」2009年06月09日(発信地:ワシントンD.C./米国)
に次の記事がでた。
【6月9日 AFP】ナチス(Nazi)・ドイツが第二次世界大戦終結時までに欧州に建設した強制収容所やゲットー(ユダヤ人強制居住区域)などの「迫害施設」の数は、これまで考えられていたよりもはるかに多く、その分布も欧州全域に及んでいたことが、米ホロコースト記録博物館(US Holocaust Memorial Museum)の調査で明らかになった。
同博物館ではさまざまな言語で書かれ、世界中に分散しているナチスの強制収容所に関する資料を一本化するとともに、ナチスに迫害された人々が収容された場所の記憶を風化させない目的で、「Encyclopedia of Camps and Ghettos 1933-1945(強制収容所とゲットーに関する百科事典 1933-1945)」プロジェクトを立ち上げ、情報収集を開始。全7巻中の第1巻を7日に公表した。
プロジェクトを指揮するジェファリー・メガーギー(Geoffrey Megargee)氏によると、当初は迫害施設の数は5000〜7000か所と予想していたが、調査が進むにつれて数は膨れあがり、現在までに2万か所近くが確認されたという。
公開された第1巻によると、ナチスは、同党党首のアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が首相に就任した1933年、ドイツ国内で、「ナチス政権の実在・仮想の敵を拘束し虐待するための」強制収容所の建設に着手し、同年1年だけで、ナチス親衛隊(Waffen SS)や警察が運営する強制収容所の数は国内で100を超えるほどまでになった。-----
同事典によると、ナチスは政権を握った12年間で、強制収容所以外にも処刑場、ゲットー、強制労働キャンプ、捕虜収容所、再定住施設、安楽死センター、売春宿、刑務所といった迫害施設も建設した。
ナチスと友好関係にあったフランス、ルーマニア、ノルウェー、イタリアの各国も、同様の施設を導入したとも証言されている。また、迫害の主な対象はユダヤ人だったが、ロマ民族、同性愛者、レジスタンスの戦闘員、捕虜、共産党員にも迫害は及んだという。
(c)AFP/Shaun Tandon
yahooニュース「生誕80年…「アンネの日記」、世界の遺産へ」2009年7月31日配信 サーチナ:
「世界記憶遺産」(Memory of the world)は歴史文書などの記録遺産の保存と利用のために1997年から行われている、世界遺産、無形遺産と並ぶ3大遺産事業の1つである。----登録されている遺産には、第1次大戦中の捕虜リスト----などなど古今東西の貴重な文献や資料などが含まれている。
国連教育科学文化機関(UNESCO)は30日、世界の貴重な資料の保存と認知度向上を目的とした「世界記憶遺産」に「アンネの日記」が登録されると発表した。「アンネの日記」は、アンネ・フランクが第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害を逃れて送った隠れ家生活の記録。ユネスコは「世界中で読まれた書籍トップ10のうちの1冊」としている。
写真(右)1940年9月,ドイツ軍占領下ポーランド,クトゥノのユダヤ人居住区ゲット−:1940年9月,ドイツ軍占領下ポーランド,クトゥノのゲットー:ウッチから北へ50キロのクトゥノKutnoにもゲットーが設けられた。1940年3月,ワルシャワにゲットーを指定することになり,1940年10月12日,ゲットーが成立した。
瓦礫と泥で荒廃しているが,ユダヤ人は,強制移送され,インフラの未整備な地区にもバラックを建てて住むしかなかった。手前には洗濯物が干してあり,中ほどにはマット・布団があるが,これも干しているのかもしれない。
ゲットーでは,不衛生な環境のために,赤痢,発疹チフスなどの病気も蔓延しやすかった。水道,電気のインフラも整備できず,隔離されていたために,食料,資材の調達も困難だった。
Generalgouvernemet: Teil aus dem Judenghetto in Kutno.
PK-Jäger-Scherl Bilderdienst
Sept. 1940
655-41
Dating: September 1940
Photographer: Jäger
撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L25174引用(他引用不許可)。
1.ナチ党政権ドイツにおけるユダヤ人迫害
松岡誠剛の千夜千冊第九百四十六夜【0946】04年3月11日,アーサー・ケストラー『ユダヤ人とは誰か』1990 三交社には,次のようにある。
ユダヤ人にアシュケナズィ(離散したユダヤ人のうちドイツや東欧に移住した民)とスファラディ(スペインに移住した民)があることを前提にしていうと、すでにユダヤ人は13世紀には儀式殺人と聖体冒涜をする連中だとみなされていて、はやくも5000人がポグロム(大量迫害あるいは集団殺戮)にあっていた。
そうでなくともユダヤ人は、ツンフトの利益のために都市社会から締め出され、保護税と特別税を収めるという差別を強いられていた。そこへもってきて、ユダヤ人にはイエスを真のメシアとしてみとめずに見殺しにしたという非難が被せられていた。アシュケナージはしだいにポーランドに移住せざるをえなくなり、それができないユダヤ人はヴェネツィアがそうなのだが、ゲットーに入れさせられた(1516)。ゲットーはイタリア語で鋳造工場という意味で、それは最初の軟禁地区に鋳造工場があったからだった。
こうして拭いがたいスティグマを捺されたユダヤ人たちは、黒死病や魔女の犯人扱いによるユダヤ人差別が終わっても、ヨーロッパの帝国の領邦制の確立のためには、ユダヤ人を迫害することこそが領邦を均質化するためには最も効果的な政策の犠牲になりつづけたのである。そこにはたいていはユダヤ人条例というものがあって、書籍没収、追放、経済活動の制限を明記していた。-----
規則が確立するのに最も必要なこと、それは、変則を明示することだった。すなわち例外を目に見えるかたちで規定することだった。マイノリティとはその「規則」と「変則」の境界線の告示のためにつくられたといってよい。
身体的な特徴ばかりが差別されたのではなかった。精神的な障害もまったく同様の差別の対象となる。(引用終わり)
写真(右)1941年6月,ソ連,ビアリストック,戦禍の後片付けを命じられたたユダヤ人男性:独ソ戦が1941年6月22日に勃発,ドイツが占領したソ連地域にはユダヤ人がいたが,彼らユダヤ人は,登録され,町の戦禍後片付けをさせられた。その後,親衛隊アインザッツグルッペ,警察などによって,拘束されたり,処刑されたりした。
Original title: Prop.-Kp. 612
Archiv-Nr. 12/2165
Bildberichter: Maltry
Ort: Bialystock
Datum: 20.6.41 [Herausgabedatum]
Juden bei ungewohnter Tätigkeit: sie müssen arbeiten und reinigen die Straßen von Bialystock.
Dating: Juni 1941
Photographer: Maltry 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1979-113-12引用。(他引用不許可)
ファシズムの軍備拡張、領土拡張につれて、既存の秩序・権益を主張する米英仏と対立した。ヒトラー総統(Führer:フューラー)は,東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得することを1925年の『わが闘争』で公言し,ドイツ弱体化を謀るユダヤ人は,共産主義者のペストであるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝,ユダヤ人への憎悪を煽動した。
◆ナチ党は、ドイツ民族は優秀なアーリア人であり,人種汚染によってドイツを滅ぼそうとするユダヤ下等劣等人種は,排除されるべきだと主張した。
反ユダヤ主義に基づいて,1933年4月,公職追放,5月,焚書,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々と出された。1938年4月,財産の登録義務を課し、登録料を徴収。11月,ユダヤ人商店破壊(クリスタルナハトKristallnacht)。
◆人種民族差別は,ナチ党為政者の裁量によっており,似非科学な偏見,恣意的な区分,プロパガンダに基づいている。宗教と人種民族の境界も,恣意的である。厳格な区分が不可能な亜種である人種・民族を,為政者は都合よく差別し,特定の人種民族を迫害した。
◆ポーランド占領の6年前,1933年のナチス政権獲得直後からドイツ国内では強制収容所が開設され,下等劣等人種として,ドイツ・ユダヤ人に対する迫害が開始された。ナチ党が,ドイツ国籍ユダヤ人(ドイツ・ユダヤ人)を迫害したのであれば、外国籍のポーランド・ユダヤ人への迫害は一層厳しいものになる。
2.1939年ドイツ軍のポーランド占領
写真(右)1939年9月,ドイツ国防軍の2センチ対空機関砲を搭載した1トン牽引車Sd.Kfz.10/4:車体側面に弾薬ケースが片側4個,後方に2個並んでいる。
Polen.- Polenfeldzug, deutsche Soldaten auf drei leichten Zugkraftwagen 1 t mit leichter 2-cm-Flak 30 (Sd.Kfz. 10/4) beim Passieren eine Ortschaft bei Tschenstochau; KBK Lw 4
Dating: September 1939
Photographer: Greiner撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-380-0086-27引用(他引用不許可)。
ドイツ軍は1939年9月1日,ポーランドに侵攻した。ポーランド軍は,果敢に抵抗したが,1939年9月27日, ワルシャワが陥落,10月6日, ポーランドは降伏。
ワルシャワ陥落,ポーランド降伏を体験した一ユダヤ人教師は,ユダヤ人の歴史を記録するために----と自分にいい聞かせながら,苦難の中,毎日のように日記をつけ続けた。これが,カプラン,ハイム(2007)『ワルシャワ・ゲットー日記―ユダヤ人教師の記録』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan風行社
である,開戦当日の日記は,次のようである。
「ヒトラーは,ある演説で戦争が始まればヨーロッパのユダヤ人を絶滅する,と脅した。ユダヤ人は,いつかは解放されるにせよ,ヒトラーの占領地では,自分たちに何が待ち構えているかを感じ取っている。それゆえ,ユダヤ人が身をもって祖国ポーランドに献身しようとするのは,驚くべきことではない。空襲から身を守るために,市民は防空壕を掘るようにとの命令が出たときに,大勢のユダヤ人が参加した。」
写真(上)ポーランドのリボフLvov(ドイツ語レンベルク)ゲットー(ユダヤ人居住区):ポーランドにあったユダヤ人街で,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。Lvov was the third largest Jewish community in pre-war Poland. Prior to 1939 nearly 110,000 Jews lived in the town. Germany invaded Poland on 1 September 1939.
しかし,9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランドに軍を進め,リボフLvovもソ連軍が1941年6月30日まで占領し続けた。この時期,リボフのユダヤ人口は16万人に増加していた。ソ連占領軍に協力したユダヤ人もいたが,1940年春,反ソ連のユダヤ人数百名がシベリア送りになった。独ソ戦開後直後の1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領。反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を アインザッツグルッペEinsatzgruppeCとともに虐殺。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプLvovのユダヤ人4000名が殺害された。Holocaust Education & Archive Research Team 引用。
ポーランドのリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg,チェコ語ルヴフLvov)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。
1939年9月17日,独ソ不可侵条約の秘密議定書において,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官をカチンの森などで処刑した。
ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)直後、ドイツ軍はリボフを占領。この時,リボフのユダヤ人口は16万人だった。
1939年9月,東プロイセン(現ポーランド)で,顎鬚など特徴あるユダヤ人は,集合を命じられ,ユダヤ人登録された。1940年8月になると,ゲットの仕切りとなる壁を,ユダヤ人評議会自らの負担で建設することが命じられた。そして,強制労働法が施行され,すべての12-60歳のユダヤ人が登録され,建設,沼沢地干拓,治水など重労働に無償酷使された。労働者はテントに寝泊りして,1日当たりパン250グラムを支給されただけであった。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1939/9/2):
「ポーランド=ドイツ戦争の第一日目。これは,最終的に世界戦争,諸国民間の大殺戮へと発展するだろう。英国はドイツへの戦線布告を急ごうとはせず,フランスも同様だ。しかし,二つの同盟国が同時に宣戦布告することは疑いない。今回は,両国ともわれわれを裏切ることはないだろう。------英仏が加わったときから戦争は局地戦ではなくなる。」
1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,保安警察特務部隊(アインザッツグルッペ Einsatzgruppen)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置した。
写真(右)1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワのドイツ軍戦勝パレード:将校は騎馬包上位で誇らしげである。ユダヤ人が虐げられても,ユダヤ人がドイツに戦争を仕掛けたのだから,当然の報いである,というのが,ヒトラー,ナチ党の戦争論だった。国防軍兵士の伝統も,このような人種民族差別のナチスの論理の前に,変容していった。
Ostpreußen, Polenfeldzug.- Bomber Heinkel He 111 (Kennung V4+AU) des Kampfgeschwader 1 (KG 1) im Flug; Lw 1 Polen
Dating: September 1939
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-001-0251-09引用(他引用不許可)。
ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊 Einsatzgruppenのうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士号をもつSS大隊長(中佐)だった。特別機動部隊 は,ポーランドの反ドイツ活動を弾圧しようと,パルチザン容疑者を即決銃殺していった。
写真(右)1939年11月,ポーランド,ボーゼンのヒトラー・ユーゲントの行進:ポーランドの民族ドイツ人は,ポーランド東部がドイツ帝国領に編入されたことで,フリック内務大臣の指導の下,ドイツ人として組織化された。ヴィルヘルム広場からの示威行進は,ポーランド人からは冷ややかに見られたであろう。
Die feierliche Amtseinführung des Reichsstatthalters und Gauleiters Greiser durch Reichsinnenminister Dr. Frick in Posen. Der Marsch der deutschen Jugend Posens vom Wilhelmplatz zum Festakt im Schloß.
Fot. Ho. 3.11.39
12915-39
Dating: November 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-E12089引用(他引用不許可)。
1939年9月21日,開戦から3週間,SS国家保安本部長官ハイドリヒは,ドイツ陸軍総司令部(OKH)の了解を得て,ポーランド・ユダヤ人の強制移送を,親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)に指示。これが,後のゲットーへのユダヤ人囲いこみに繋がる。
◆第二次大戦の勃発直後から,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに強制移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国,オランダ,フランスの一部の警察・住民は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。
1939年9月,東プロイセン(現ポーランド)でも,顎鬚など特徴あるユダヤ人は,集合を命じられ,ユダヤ人登録された。1940年8月になると,ゲットの仕切りとなる壁を,ユダヤ人評議会自らの負担で建設することが命じられた。そして,強制労働甫が施行され,すべての12-60歳のユダヤ人が登録され,建設,沼沢地干拓,治水など重労働に無償酷使された。労働者はテントに寝泊りして,1日当たりパン250グラムを支給されただけであった。
写真(右)1939-40年,ポーランド総督領クラクフで開催されたドイツ警察の行進に出席したポーランド総督領長官ハンス・フランク博士とドイツ治安警察クルト・ダーリュケ長官:フランク博士は,1939年9月26日,占領下のポーランド総督領長官に就任,クラクフを居城として,ワルシャワなどポーランド中西部を統治した。親衛隊SS・治安警察とともに,ゲットー管理を担った。ユダヤ人一掃をはかり,ユダヤ人の受け入れには反発し,ゲットーも撤去しようとした。
しかし,1942年になって、親衛隊によるユダヤ人虐殺など,法治国家の原則を無視するような独裁化を批判,司法の独立を要求した。このような演説を各地の大学で行い,ヒトラーの不興を買ったが,古参ナチ党員ということで,処罰されることは無かった。戦後のニュルンベルク裁判で,死刑判決。1946年10月16日処刑。
Polizei-Parade Krakau
Generalgouverneur Dr. Frank und General Daluege
Archive title: Polen, Krakau.- Polizei-Parade, Kurt Daluege und Dr. Hans Frank, Generalgouverneur von Polen im Auto sitzend
Dating: 1939/1940 ca.
Origin: Bundesarchiv
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-0268引用(他引用不許可)。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』
The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
(1940/10/12)
「我々は今日の夕方,まだ涙も乾かないうちに,新たな法令が出されたことを知った。その野蛮な法令は,これまでわれわれに対して出されたどんなものより重要であり,重大な結果をもたらすだろう。----
結論を言えば,ついにゲットー令が施行されたのである。差し当たりは開放ゲットーとされているが,すぐにも閉鎖されることは間違いない。ウッジでも,ゲットー令はすべて一挙に交付されたのではなく,段階を追って,発令されていった。----
写真(右)1939年末,ポーランド,カウナス,野外収容施設に隔離されたユダヤ人男性:ドイツは,ポーランド侵攻の最中に,ユダヤ人をゲットーをつくり強制的にそこに移住させる命令を出していた。ポーランドの全てのユダヤ人が一挙にゲットーに住まわされたわけではない。
しかし,大都市に住んでいた大半のユダヤ人は,新設させたゲットーに強制移送された。親衛隊は,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察(自警団)を通じて,ユダヤ人を管理した。
Judenlager Krakau
Archive title: Polen, Krakau.- Verhaftete / internierte polnische Juden (für Arbeitseinsatz in Deutschland ?) in einem Lager, ca. Ende 1939
Dating: 1939 Ende
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 121-0302, Krakau, Judenlager.jpg引用(他引用不許可)。
(1940年)10月31日までに,壁の外側にすんでいるユダヤ人は,一人残らず内側の通りに移り住まなくてはならない。壁の内側に住んでいるアーリア人(つまりポーランド人)は,アーリア人地区に移らなくてはならない。----ポーランド人は,ゲットーからの立ち退きを命じられただけではなく,ドイツ人地区からも移住しなければならない------。
ナチズムはあらゆる人々を分離しようとする。主人は主人,臣下は臣下,奴隷は奴隷。祝福されたものとのろわれたものが一緒に住むことはできないのだ。
ユダヤ人であろうとアーリア人であろうと,生活を変えなければならないのは,辛く苦しい。それゆえ,残虐な主人に捕らわれ,ワルシャワは,今,大パニックに陥っている。」(カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』
The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1940/10/12)引用終わり)
写真(右)1939年12月,ポーランド,カウナスを追放されるユダヤ人:野外の柵の中に収監されたユダヤ人男性。着の身着のままで追放されれば,家屋,土地を失い,家族とも引き離されてしまうかもしれない。食事,睡眠,排泄もままならない状況に置いて,ユダヤ人を辱めた。
Judenlager Krakau
Archive description
Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong. You can help by reporting errors and typos at Commons:Bundesarchiv/Error reports.
Polen, Krakau.- Verhaftete / internierte polnische Juden (für Arbeitseinsatz in Deutschland ?) in einem Lager, ca. Ende 1939
Depicted place Kraków
Date December 1939
Photographer Unknown
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
3.ドイツ第三帝国に併合されたウッジでのゲットー設置
19世紀後半,ポーランドに於ける鉄道もの発達の中で,ウッジは,ワルシャワと連絡され,織物産業の興隆から人口が流入してきた。そして,工場労働者の増加と社会主義思想の広まりと,伝統的なカトリックが相まって,ウッジは活力ある都市となった。
写真(右)1939年10月,ポーランド、蒸気機関車:ワルシャワ,クラクフ,ウッジなどポーランドの都市は,鉄道交通の拠点だった。当時は,まだ自動車が普及せず,道路よりも鉄道が,旅客,貨物の輸送を担っていた。
したがって,ゲットーあるいは強制収容所に移送されたユダヤ人も,鉄道で運ばれたものが多かった。
Aus dem besetzten Polen
Kaum sind die kriegerischen Handlungen beendet, wird deutscherseits alles darangesezt, um das normale Leben wieder in Gang zu brignen. Überall ist die deutsche Verwaltung dabei den Eisenbahnverkehr wieder aufzunehmen.
12041-39
Fot.: PK - Gofferje - (Scherl)
Okt. 1939
"Fr." OKW
Dating: Oktober 1939
Photographer: Gofferjé, Leander
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
第一次世界大戦後の1918年11月11日、べルサイユ講和条約の下、民族自決の原則にのっとって、ドイツと旧ロシアの領土から、ユゼフ・ピウスツキを国家元首とするポーランドが再生した。ポーランドは、対ソ連、対ドイツとのバルト海沿岸での戦闘や海上輸送も強く意識しており、北岸の半島要衝に、要塞を築いて防備を固めている。ポーランド製北岸、自由都市ダンツィヒ港沖合のヴェステルプラッテ(Westerplatte)要塞、ポーランド中部北岸、ヘル(Hel)半島先端のヘル基地が、この代表で、第二次世界大戦緒戦のドイツのポーランド侵攻にあって、最後までドイツ軍に抵抗し続けたのが、これら2か所である。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)を砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は第一次世界大戦勃発前1908年7月6日就役の旧式艦であったため、ベルサイユ条約の軍備制限の下でも保有が許され、再軍備宣言の1935年までは、ヴァイマルドイツの共和国海軍 (Reichsmarine) の旗艦を務めた。基準1万3,200トン、40口径28cm連装砲塔2基4門、45口径15cm砲12門、8.8cm対空砲8門、50cm(19.7インチ)魚雷発射管4基を搭載。
Polski: Schleswig-Holstein w Zakręcie Pięciu Gwizdków podczas ostrzału Westerplatte.
Date 1 September 1939
Source Instytut Pamięci Narodowej
Author Autor nieznany
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
1939年9月1日、第二次世界大戦の勃発初日、1908年就役したドイツ海軍旧式戦艦Schleswig-Holstein)によるダンチヒ砲撃が行われた。戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」が自由市ダンチヒ(グダニスク)にあった理由は、第一次大戦初頭(1914年8月26日)、触雷沈没したドイツ海軍巡洋艦「マクデブルク」(排水量5000トン)の追悼式を行うという名目だった。ダンチヒ儀礼参加のために訪問をしたというのは、もちろん口実で、ドイツ海軍は、1939年9月1日に、ドイツがポーランド侵攻(Invasion of Poland)を承知の上で、ダンチヒ港ど真ん中に軍艦を送りこんで、主砲をもって至近距離からダンチヒ市街地、港湾、兵舎を砲撃した。これは、卑劣な騙し討ちそのものである。
1939年9月1日、グダニスク(ダンツィヒ)港の半島状になったヴェステルプラッテ(Westerplatte)は、防衛施設はあったが、要塞と呼べるような大規模コンクリート施設や地下壕があるわけでも、沿岸砲を備えた砲台があるわけでもない。1939年9月時点のヴェステルプラッテの兵力も、ポーランド陸軍ヘンリク・スハルスキ(Henryk Sucharski)少佐、 フランチシェク・ドンブロフスキ(Franciszek Dąbrowski)大尉の指揮する守備隊200名であり、火砲は75ミリ野砲1門、37mm対戦車砲2門、旧式歩兵砲4門のみで、主要な火器は機関銃だった。1939年9月1日4時45分、いきなりドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein)は、28センチ砲、15センチ砲でポーランドのヴェステルプラッテ(Westerplatte)守備隊を艦砲射撃した。そして、海軍陸戦突撃隊が上陸し、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)攻略を目指した。しかし、ポーランド守備隊は粘り強く抵抗し、ドイツ海軍の28センチ砲、陸軍の21cm Mrs 16榴弾砲(臼砲)、空軍ユンカースJu87による急降下爆撃の猛攻に晒された。ドイツ軍は2000人規模の歩兵も投入した。一週間後、ヴェステルプラッテのポーランド軍守備隊は、死傷者が続出し、食料、弾薬、医薬品の補給も途絶えたことから、9月7日に降伏をした。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)を砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:ドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」同型艦「シュレジエン」(Schlesien)は1908年5月5日就役。1939年9月1日のダンチヒ砲撃には参加していないが、9月21日から27日のポーランド戦終盤に、ポーランド北岸、ヘル半島に立て籠って頑強に抵抗するポーランド軍を艦砲射撃している。
Deutsch: Das deutsche Schlachtschiff Schleswig-Holstein beschießt die Westerplatte zu Beginn des Polenfeldzugs.
English: German battleship Schleswig-Holstein during a shellfire of Polish garrison Westerplatte in Gdańsk on 1 September 1939. Better quality photo:https://www.tygodnikpowszechny.pl/files/7991a9e80d8eb078dbc7198818df9f47.jpg
Polski: Schleswig-Holstein w gdańskim Zakręcie Pięciu Gwizdków.
Date September 1939
Source Apoloniusz Zawilski (1972) "Bitwy Polskiego Września" ("Battles of Polish September"), Warsaw: Nasza Księgarnia ISBN 83-218-0817-4 (current edition)
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
ドイツ海軍は、実は、第二次大戦勃発じのドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」(Schleswig-Holstein)のダンチヒ砲撃から終戦のUボート自沈まで最もヒトラーに従った忠誠心旺盛な軍隊だった。1945年4月30日、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が総統大本営(ベルリン地下壕)で死亡した後、その遺書によって、ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ(Karl Dönitz)が、ヒトラー自決の後を継いで、ドイツ大統領、啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス博士がドイツ首相に就任している。
写真(右)1939年9月1-7日,ポーランド西北岸,自由都市ダンツィヒ港沖合、砲撃するドイツ海軍の旧式弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」:1939年9月1日4時45分、宣戦布告抜きでドイツ海軍旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は主砲28cm砲4門、副砲15cm砲12門でヴェステルプラッテ(Westerplatte)のポーランド軍守備隊を艦砲射撃し、海軍陸戦隊突撃隊も上陸させた。
Description
Polski: Salwa pancernika "Schleswig-Holstein", Gdańsk, wrzesień 1939 r.
Date September 1939
Source R. Witkowski, Ostatnia reduta, Gdańsk 1973.
Author Unknown authorAuthor Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Battle of Westerplatte(File:Schleswig-Holstein podczas ostrzału Westerplatte.jpg引用)。
他方、ドイツ陸軍は、国内軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク(Claus Graf Schenk von Stauffenberg)大佐を筆頭に、元ドイツ陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック、国防軍情報部次長ハンス・オスター大佐、第三軍管区司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン(Erwin Witzleben)元帥、フランス軍政長官カール=ハインリヒ・フォン・シュチルプナーゲル(Carl-Heinrich von Stülpnagel)大将、第二十三歩兵師団長エーリヒ・ヘプナー大将高級将校、中央軍集団参謀ヘニング・フォン・トレスコウ少将、国内予備軍フリードリヒ・オルブリヒト(Friedrich Olbricht)大将、陸軍通信隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成局長ヘルムート・シュティーフ少将など将軍たちが1944年7月20日、総統大本営でヒトラー暗殺を企て、失敗、処刑されている。1945年になると、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)は、みなヒトラーを、西側連合国との講和交渉に手を染めた。この交渉は、最高指導者ヒトラー総統に内密に進めた裏切りである。二人とも、裏切りが発覚し、解任されたり、逮捕命令がだされたりしている。
写真(右)1940年,ポーランド,リッツマンスタットのゲットーに集められ囲い込まれたユダヤ人:ゲットー内を市電が通過していたが柵が張られていてユダヤ人は利用できなかった。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Männer mit Judensternen auf Gehsteig
Depicted place Poland
Date 1940
Photographer Wisniewski
撮影。
写真は,Wikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・ File:Bundesarchiv Bild 101III-Wisniewski-025-07, Polen, Ghetto Litzmannstadt, Bewohner.jpg引用。
写真(右)1940年,ポーランド,リッツマンスタットのゲットーに集められ囲い込まれたユダヤ人:ゲットー内を市電が通過していたがユダヤ人警察が配備され、ユダヤ人には利用を許さなかった。持ち出した家具や荷物を受け入れるだけの居住空間がないことも多かった。それを見越して,移住者の家具や物資を運搬したり、買い付けたりする商売が行われた。
Ghetto Litzmannstadt, Ghettopolizei
Litzmannstadt, D.[eutsches]R.[eich] Jüdischer Polizist im Ghetto in Litzmannstadt. Negativ Nr. 15928
[Polen, Ghetto Litzmannstadt.- jüdischer Ghettopolizist]
Polski: Getto Litzmannstadt. Policjant żydowskiej policji porządkowej na Hanseatenstraße (ul. Łagiewnicka).
English: Litzmannstadt Ghetto. Policeman of jewish order police at Hanseatenstraße street (Łagiewnicka street) in previously named Litzmannstadt (Lodz city).
Depicted place Łódź Ghetto
Date 1940
Photographer Holtfreter, Wilhelm撮影。
写真は,Wikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・ File:Bundesarchiv R 49 Bild-1313, Ghetto Litzmannstadt, Ghettopolizei.jpg引用。
他方,ウッジの東は,東ガリチアで,現在はウクライナ共和国だが,歴史的には,ポーランド領だった時期が長かった。東ガリツィアの住民の多くは,ウクライナ人だが,支配層は少数派のポーランド人だった。また,ウクライナ人とポーランド人のほかに,ユダヤ人も住んでいた。1930年代,ウッジの人口は66万5000人,ユダヤ人は三分の一を占めた。
1939年9月1日,ドイツ軍がポーランドに侵攻し,1週間後の9月8日には,ウッジを陥落させた。そして,1939年11月中旬には,ヴァルタ川地区は,大ドイツ帝国に併合され,ウッジもドイツ領となった。
ドイツ占領下のポーランドは,西部が大ドイツに併合され,のこりは総督領となった。ポーランド総督府長官は,ハンス・フランク博士(1900-1946)で,首都はクラコウ(クラクフ)である。
写真(右)1940年3月,ポーランド,リッツマンスタットで退去を命じられたユダヤ人:家屋・土地など不動産はもちろん,大半の家具や家畜までほとんど手放して,移住を明示された。持ち出す荷物の重量,持ち出し時間には厳しい制約が貸されていたので,強制移住は,事実上,財産の略奪でもあった。移送されてきたユダヤ人が,通りで,自分たちを受け入れてくれる住居を探しているのかもしれない。やっと持ち出した家具や荷物を受け入れるだけの居住空間がないことも多かった。それを見越して,移住者からの家具や物資を買い付ける業者が集まってきた。
Litzmannstadt, D.[eutsches]R.[eich]
Auszug der Juden aus Litzmannstadt
Negativ Nr. 819/100
Dating: März 1940
Photographer: Rode und Kiss 撮影。
写真は,Wikimedia Commons,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
ドイツに編入されたポーランドのヴァルタ地区は,ドイツ人,民族ドイツ人のための土地となった。ドイツの一部となったヴァルタ地区ウッジでも,ユダヤ人が迫害された。ウッジのユダヤ人は,ドイツ在住のユダヤ人と同じく,黄色のユダヤ星の印をつけることを命じられた。1939年大戦初頭,ポーランドのユダヤ人に,ユダヤの星の印着用義務は無かったから,ウッジのユダヤ人は,ドイツ帝国に編入されたことで,ポーランドのユダヤ人よりも先に迫害にあうことになった。
写真(右)1940年3月,ポーランド,リッツマンスタットで退去を命じられたユダヤ人:退去を命じられた家屋から、家具、食器、衣類などを持ち出したが、受け入れ居住区は、狭いので、住む場所を確保することも大変だった。家具を運び込む空間などほとんどなかった。そこで、故郷を追放されゲットーに押し込まれたユダヤ人が持ち込んだ家具などが、路上に山済みになった。すると、どこからともなく,新参移住者からの家具や物資を買い付ける業者が集まってきて、買い叩いて運び去ってしまった。
Old signature: Bild 146-1971-096-28, Bild 110
Original title: Litzmannstadt. D.[eutsches] R.[eich]
Auszug der Juden aus Litzmannstadt.
Dating: März 1940
Photographer: Rode und Kiss 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・R49-Bild-1734引用(他引用不許可)。
ハイム・A・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』
The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
(1939/11/14)
「ポーランドのユダヤ民族,とりわけヴァルタ川地区に住むユダヤ民族に潰滅的な破局が降りかかってきた。征服者が,この地区を「大ドイツ」に併合したからである。この地区は,法的,そして行政的にも,クラクフのフランク博士が治めるポーランド領からは切り離された。ヴァルタ地区は,ドイツ人のためにだけ確保され,ドイツ人以外の人々はすべてこの地から根こそぎにされようとしている。------
征服者は,優秀なドイツ文化は,ポーランド人やユダヤ人など下等な文化と並存することはできない,と主張する。ヴァルタ地区は,最初からドイツの土地だったのであり,今,神の摂理によって,本来の所有者に返された。------
ポーランドの商業の中心であったあの豊かなウッジは,その土地のユダヤ人にとって,地獄と化してしまった。そこを逃れて,ワルシャワにやってきた人々は,生気を取り戻し,ここは天国だ,と言う。------
受信機は既に取り上げられ,密かに放送を聴くものはすべて処罰の対象となる。そのため僅かなニュースしか得られず,ありとあらゆる想像が錯綜する。抑圧の時代には,想像が活発に働く。」
写真(右)1941年,ポーランド・リッツマンスタットLitzmannstadt (ウッジ Łódź)のゲットーで鉄条網越しに行列するユダヤ人:Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Menschen mit Judenstern hinter Stacheldraht; PK 689
Dating: 1941
Photographer: Zermin撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-133-0703-19引用(他引用不許可)。
ハイム・A・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』
The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
(1939/11/14)
「----5時から8時まで,ユダヤ人は自分の住所を離れることができない。これは,その時間に征服者の手先どもが,ユダヤ人の住居に入り,強制労働に連れ出すことから,彼らが身を隠すのを防ぐだめである。
クラクフには,ユダヤ人のゲットーが作られ,ユダヤ人は市の中心部に近づくことを禁じられた。ワルシャワでは,目下のところ,ゲットーの設置は延期されている。」
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』(1939/12/16)
「----ウッジでユダヤ人の少女たちが捕らえられ,強制労働に就かされた。女性に厳しい労働は与えられなかったが,その代わり,家事に類するさまざまな労働をさせられた。これらの少女は,便所掃除,つまり汚物を取り除き,綺麗にすることを命じられた。しかし,何一つ掃除用具を与えられなかった。
「用具は?」という彼女たちの問いに対して,ナチスは「お前たちのブラウスを使え」と答えた。少女たちは,ブラウスを脱ぎ,汚物を綺麗にした。仕事が終わった後,彼女たちは報酬を受け取った。汚物の残った汚いブラウスで顔を包まれ,大笑いされるという報酬を。
これはすべて,「ユダヤ人のイギリス」が,ユダヤ人の助けを借りて総統と戦っているからである。
ウッジのラビに降りかかった別の出来事がある。彼は聖なる契約の箱の中にあるトーラーの巻物につばを吐きかけることを強要された。----」
写真(右)1941年,ポーランド、リッツマン・スタットのゲットー:ゲットーのユダヤ人は,順次,トレブリンカ,ゾビブルなど絶滅収容所に移送された。シャワー室に偽装されたガス室があり,ディーゼル排気ガスによって殺害されたという。死体処理作業は,ユダヤ人囚人の労働部隊ゾンダーコマンドが使役された。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Kinder, Frauen und Männer mit Judenstern; PK 689
Dating: 1941
Photographer: Zermin撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
(1940/10/12)
「-----ついにゲットー令が施行された。差し当たりは開放ゲットーとされるが,すぐにも閉鎖されることは疑いない。ウッジでも,ゲットー令はすべてが一挙に公布されたのではなく,段階を追って発令されていった。さまざまな兆候から,ワルシャワでも同じであることが推測される。-----10月31日までに,壁の外側に住んでいるユダヤ人は,一人残らず内側の通りに移り住まなくてはならない。---」
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』(1940/10/14)
「ワルシャワのユダヤ人に対して,完全な形のゲットーが設定され,そこに約50万人のユダヤ人が住むことになる。ゲットー,数十万人の人々の避難所に指定されたのは,市の狭隘な一角であり,今後,この地区はあらゆる種類の凶行,邪悪な所業が横行する所となるだろう。混雑した狭い通りが交差するこの地区は,近郊の町からの避難民で足の踏み場もないほど埋め尽くされている。ゲットーの中は立錐の余地もない。雨露をしのぐことができる場所には,どこにも人が住み着いている。」
写真(右)1940年,ポーランドにおけるユダヤ人(?)追放:緒戦なので,バスに乗せられてゲットーに移送されるのかもしれない。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人を都市に作ったゲットーに隔離した。
Polen.- Aussiedlung / Vertreibung von Polen. Polnische Familie auf Wagen (Transport in Ghetto Dombrowa ?); ca. 1940
Depicted place Poland
Date 1940
Photographer Holtfreter, Wilhelm
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・R_49_Bild-0137引用(他引用不許可)。
1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。
ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)
写真(右)1941年初め,ポーランド,クラクフ(カジミェシュ区)でドイツ警察(親衛隊)に逮捕されたユダヤ人:家宅捜索や検問によって多数のユダヤ人が逮捕された。
老人を屈強な武装兵が逮捕しても名誉だとは思えないが,ドイツの敵であるテロ支援者の下等劣等人種を捕まえたとして,戦果を誇ったのか,同じ場面の5枚の写真がアーカイブに残されている。
Polen, Krakau (Stadtteil Kazimierz?).- Razzia von deutscher Ordnungspolizei, Kontrolle (Verhaftung?) von Juden (?); PK 666
Dating: 1941 Anfang
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-030-0780-27引用(他引用不許可)。
第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランド,バルト諸国Baltic Countriesの警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー追放に協力した。ゲット−隔離前,ドイツはユダヤ人情報を収集するユダヤ人登録をさせた。
ユダヤ人を警戒させずに登録するための名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。
写真(右)1939年9月,ポーランド,ドイツ兵士(警察?)に勤労奉仕を命じられたユダヤ人:
Zum ersten Mal können sie sich nützlich machen.
Diese polnischen Kaftan-Juden, deren Tätigkeit bisher nur darin bestand, gegen das volksbewußte Deutschtum in der widerwärtigsten und hinterhältigsten Weise zu hetzen, erhalten nun an der Ostfront Gelegenheit, sich zum ersten Mal in ihrem Leben wirklich nützlich zu machen. Hier sieht man sie, bereits zum Abmarsch für den Arbeitseinsatz.
PK- Schwahn -(Scherl)
16.9.39 [Herausgabedatum]
11532-39
II.Weltkrieg 1939 - 1945
Judenverfolgung in Polen während der faschistischen deutschen Besetzung,
Nach dem Einmarsch der Deutschen müssen Juden in einer Kleinstadt zum Arbeizseinsatz antreten.
Aufnahme: Schwahn / Mitte September 1939
11532-39
Dating: September 1939
Agency: Schwahn撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-E10855引用(他引用不許可)。
ナチスドイツは,占領したポーランドのユダヤ人を,いきなりユダヤ人居住区ゲットーGhettoに隔離したのではない。ゲットーに移す前に,ユダヤ人の氏名・住所などの情報を集める登録作業を行った。その名目は,食料物資の配給登録、戦災の後片付け労働義務付けを理由とした。
ユダヤ人は,戦禍の片付け作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。ユダヤ人の労役を果たさなければ、家族の安全は保障されないからである。しかし,ドイツ人は、ユダヤ人に戦災の後片付けをさせて放免するつもりは、当初からなかった。本来の意図は隠していたが、ドイツは、登録によってユダヤ人を把握することに成功すると、登録したユダヤ人を市内一角に強制的に移転させた。このユダヤ人居住区が、ゲットーと呼ばれるようになる。
◆ユダヤ人は,戦災後片付けのための労働は仕方がないと登録に応じた。家族の妻や子供たちの労役は免除されているが,これは夫が家族の氏名を登録させられたからだろう。夫は,これで妻や子供は苦役から解放されたと考えたに違いない。清掃作業を終わらせれば,苦役から解放されると,頑張ったかもしれない。
しかし,清掃のような「軽」労働は,ナチスにとって問題にならなかった。登録をして住所・氏名・家族を把握されたユダヤ人は,市内一角のゲットーに強制移住させられることになる。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。
写真(右)1941年,ポーランド、リッツマンスタットLitzmannstadt (ウッジ Łódź)のゲットーを繋ぐ歩道橋を警備するドイツ軍兵士(親衛隊?):路面電車は,外部からゲットーへのやみ物資の密輸に使用された。市電運転手や車掌は,闇物資を積み込んだ袋を境界に投棄し,それをゲットーのユダヤ人がすばやく回収した。
路面電車の通っている大通りの周囲は,木製の柵と鉄条網が張られている。柵は,監獄のような頑丈なものではなく,柵を越えて強行突破することは容易だった。しかし,ゲットーを脱出しても,住むところも,仕事もなく,ポーランド人に密告されれば,逮捕され厳罰に処せられた。したがって,ゲットーのポーランド人は,脱出しても生きてゆくことは難しかった。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Menschen auf Brücke (Verbindung der Ghetto-Teile), Wachtposten auf Straße; PK 689
Dating: 1941
Photographer: Zermin撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-133-0703-12引用(他引用不許可)。
キネマ旬報社「ロッツ・ゲットー 」[原題]Lodz Ghetto[製作国]アメリカ.[製作年]1988.[配給]Box Office
には,ウッジ・ゲットーの記録を次のように紹介している。
もうひとつのホロコーストの歴史、ポーランド国内でただ一箇所残されたゲットー(ユダヤ人居留区)が設置されたウッジのケースを紹介したドキュメンタリー。
アラン・アデルソン(Alan Adelson)とキャスリン・タヴェルナ(Kathryn Taverna)の両監督はロッツのゲットーの人々が遺した日記や覚書を集め、その英語訳を切り貼りして編集した脚本をつくり、緻密に構成されたテキストをプロの俳優に読ませ、いわば声で演じさせて事実を再現するという独特の手法を用いている。これにあわせ、映像では現在の市街の光景と再現シーンや写真が、当時の記録フィルムや写真、ゲットーのなかの人々の描いた絵やスケッチと組み合わされ、構成されている。
1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドを占領。ユダヤ人隔離・絶滅政策の一貫として、20万人のユダヤ系市民がウッジのゲットーに隔離された。ドイツ軍は過酷な強制労働と極度に制限された食料配給制度でユダヤ人たちを徹底的に搾取したが、ユダヤ人たちは自分たちがドイツ軍に有益である限りドイツ軍が彼らを殺すことはあるまいというかすかな希望を持ってドイツ軍にひたすら服従し、懸命に生産力をあげようと骨身を削って働いた。ゲットーでは栄養失調と過労で死者が続出した。
ドイツ軍はさらに労働力にならないからと子供たちと高齢者を差し出すよう命令、それでもゲットーの人々は従い、10歳以下の子供たち2万人が連れ去られた。44年にもなるとドイツ軍の劣勢が明らかになったが、彼らは自分たちに協力したユダヤ人をソ連軍から守るという名目で、ついにゲットー疎開を勧告した。
多くのユダヤ人がこれに従ったが、彼らを乗せた貨物列車が向かった先は、ドイツ国内の疎開先ではなく、彼らは2度と戻ってこなかった。ごく一部の者だけは命令に抵抗し、地下室などに隠れ住んだ。45年1月17日、ソ連軍が入市してゲットーを解放したとき、最初20万人いたユダヤ人たちのうち、生き残った者は800人に満たなかった。(引用終わり)
○山形国際映画フェスティバルYIDFF '89 上映全作品リストに「ロッツ・ゲットー」も出品された。
○ポーランド語Łódźのカナ表記は,「ウッジ」「ウッヂ」「ウーチ」「ウッチ」などがあるという。映画「ロッツ・ゲットー」の日本語表記は,を英語表記を日本語読みにしたためと思われる。文章は「ウッジ」と改めた。
写真(右)1941年,ポーランド、リッツマンスタットLitzmannstadt (ウッジ Łódź)のゲットーを繋ぐ歩道橋:ワルシャワ・ゲットーにもウッジ(ウーチ)と同じような多少小型の歩道橋が,ワルシャワ・ゲットーにもあって,やはりゲットーの間を路面電車,自動車などが通行できた。ゲットーを縦貫している路面電車に,ユダヤ人は乗ることを許されない。しかし非ユダヤ人(アーリア人)は,路面電車に乗って,ゲットーの一角を見ることができた。その時に撮影した写真が何枚かアーカイブに保管されている。
1940年10月,開放式のワルシャワゲットーが設置された当初,市電を利用したいユダヤ人は,運賃25グロシュ(0.25ズロチ)に加えて,年間60ズオチ支払わねばならないとされた。
11月になっても,ドイツのラジオ放送は,ここがゲットーではないこと,単なるユダヤ人居住区に過ぎないことを繰り返し主張していた。「アーリア人」(ポーランド人)とユダヤ人の居住区の間には,高い壁が築かれたが,市電の軌道は,ユダヤ人地区から「アーリア人」(ポーランド人)地区に続いていたのである。しかし,11月17日朝以降,ユダヤ人がアーリア人畜に外出することは許されなくなった。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Menschen auf Brücke (Verbindung der Ghetto-Teile), Wachtposten auf Straße, Straßenbahn unter Brücke; PK 689
Dating: 1941
Photographer: Zermin撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-133-0703-23引用(他引用不許可)。
1940年1月19日までに,ユダヤ人は現金,商品,債券,不動産など財産登録を義務付けられ,2月10日までに,12歳から60歳まで,強制労働の対象として,ユダヤ人評議会に登録しなければならなくなった。このころから,毎日のように,数十人のユダヤ人家族が財産を奪われ,トラックで運びされれた。そして,武器の捜索を口実に,貴金属,宝石,毛布,衣類,家具までもトラックで運び去られた。
1940年3月に,ユダヤ人評議会がポーランド総督フランク博士に呼ばれ,指定されたユダヤ人居住区(後のゲットー)に強制移送される住民が出始めた。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。
写真(右)1941年,ポーランド,縫製作業に従事させられるウッジ・ゲットーのユダヤ人女性:命が保障されるのであれば,このような作業をただ働きさせられたとしても,我慢できた。しかし,奴隷労働を歓迎すること自体,著しい人種民族差別の結果である。
ドイツ連邦アーカイブには14枚のウッジの写真が保管されている。
Archive title: Polen, Lodz.- Jüdische Arbeiter in einer Schneiderei, PK 689
Dating: 1941
Photographer: Zermin撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-133-0719-12引用(他引用不許可)。
◆ウッジでは,1940年4月,ゲットーが閉鎖され,16万4000人のユダヤ人が上下水道の設備のない4万8100の部屋に押し込まれた。ウッジは,ポーランドで最初に閉鎖され,最後の1944年まで存続するゲットーとなった。ウッジのユダヤ人評議会議長はムルコムスキで,彼はナチスのためにユダヤ人を労働力化することによって,ユダヤ人を生き延びさせようとした。1941年までに,ユダヤ人評議会の経営になるゲットーの工場で,4万人のユダヤ人労働者が働いた。
1941年9月中旬,ウッジゲットーに,ユダヤ人2万人,ジプシー(ロマ)5000人の割り当てが決められた。しかし,ゲットー管理当局ヴェンツキは,ゲットーでの衛生環境の悪化が,伝染病の蔓延,秩序混乱,治安悪化につながるのではないかと懸念を示した。ウッジでは,馬具革製品,靴,金物,征服の繊維。毛皮など,国防軍の注文を受け,生産していた。戦時の労働力不足の中で,ユダヤ人の低賃金労働は,国防軍にも重要だった。
ゲットー管理当局ヴェンツキは,「ゲットーの現在の構造では,伝染病や治安警察上の理由,さらに防衛経済的,食糧政策的理由,その上空間の不足からも,これ以上のユダヤ人を受け入れることはできません。」と,県知事ユーベルヘーアにしたためた。
そして,県知事ユーベルヘーアは,1941年10月4日,ウッチゲットーへの新たなユダヤ人移送を拒否する所管を,親衛隊保安本部はハイドリヒに送った。しかし,ハイドリヒは,ユダヤ人とジプシーの追放は,「絶対必要なことであり,もはや延期できない」と10月8日にヒムラーに打電している。親衛隊国家長官ヒムラーは,1941年10月10日,県知事ユーベルヘーア宛に,「(ウッジゲットーへの)ユダヤ人の受け入れは,帝国の利益のため,またユダヤ人を西から東へと段階的に排除していくべしとする総統の意志に従うもので,ぜひとも必要だ」と,ゲットーへの移送を厳命した。
4.困窮する閉鎖ゲットー
写真(右)1940年,ポーランド,ラドム・ゲットーのユダヤ人:ポーランド東部のラドムは,1795年のポーランド分割のときにオーストリアに併合され,その後のナポレオン戦争以降は,ロシア領になった。ラドムが再びポーランド領になったのは,第一次世界大戦で,ロシアが戦線離脱をし,戦後ポーランドが独立した時である。その後,ポーランドのラドム造兵廠では,「ラドム」を冠する火器が製造された。
第二次大戦では,ラドム・ゲットーが設置されたが,後にラドムには絶滅収容所も作られ,ディーゼル排気ガスによる殺害が行われた。
Polen, Distrikt Radom.- Bevölkerung (Juden) auf Straße; PK 666
Dating: 1941 Anfang
Photographer: Brenner撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-030-0794-32A引用(他引用不許可)。
ユダヤ人は,ポーランド各地のゲットーの狭い区画の中に隔離,囲い込まれた。ウッジでは,6万2000人のユダヤ人が住んでいた地区がゲットーとされ,近郊から10万人のユダヤ人が押し込まれた。市内交通確保のため,路面電車の通りは柵と鉄条網によって,ゲットーから隔離された。
ラドム,ヘウムノのゲットーでは,当初は,ポーランド人の出入りは自由で,ユダヤ人もゲットーの外に出ることが可能だった。が,その後,出ることはできなくなった。
他方,ワルシャワでは,1940年5月のフランス軍の大敗北後,ドイツの命令で,ユダヤ人評議会が作らされ,街はアーリア人居住区,ユダヤ人居住区に区分され,ユダヤの星をつけるよう命じられたユダヤ人は,事実上,ユダヤ人居住区を出られなくなった。ワルシャワには,正式なゲットーは設置されていないが,ユダヤ人地区はできていた。1940年7月30日には,クラコウの全ユダヤ人の追放のニュースが,ワルシャワにも届いてた。
ポーランド降伏から1年後,1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを作る法令が出された。
ワルシャワでは,ゲットー設置命令以降,1940年10月第3・4週だけで,ポーランド人キリスト教徒11万3000人が立退かされ,13万8000人のユダヤ人が流入した。ワルシャワの2.4%の区域のゲットーに,ワルシャワ人口の30%を占めるユダヤ人が押し込められた。その結果,人家族が住んでいたアパートに2-3家族が暮らすことになった。
写真(右)1941年5月,ポーランド,ワルシャワ・ゲットーで倒れてしまったユダヤの老人:手やせて,病弱そうな老人は,目を瞑ってしまい,起き上がることさえ大変なようだ。
Polen, Warschauer Ghetto.- Auf der Straße zusammengebrochener alter Mann (Jude), auf dem Gehsteig liegend; PK 689
Dating: Mai 1941 ca.
Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0782-12引用(他引用不許可)。
1940年11月16日,ワルシャワ・ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーから出ることはできなくなった。
ゲットーGhetto内部の物資は不足し,配給も少なかったために,餓死や病死が増え,1941年には,ワルシャワゲットー人口の10%以上の4万3000人が死亡した。
ゲットー内で生きてゆくには,地下水道やコネをつかって,外界のポーランド人に賄賂を渡し,あるいは外に忍び出て盗みをし闇物資の密輸をしなければならなかった。闇物資を,ゲットー内で法外な価格で買い入れることのできたユダヤ人は,生きてゆくことができた。しかし,闇物資(密輸品)を入手できなければ,生活は困窮した。
1941年9月1日,ドイツで,ダビデの星Star of Davidをつけることについての警察条令が発令:満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。
ユダヤの星Juden Sternは手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左胸に縫い付けること。
しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示したものも少なくなかった。また,ユダヤ人も「誇りを持って,ユダヤの星をつけよう」"Wear It With Pride, The Yellow Badge" と訴えた。
そこで,ユダヤの星 yellow badge着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示したものに対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。
写真(右)1941年初頭,ポーランド,ラドム・ゲットーでのユダヤ教沐浴儀式(ミクウ゛ェ/ Mikwe):日本にやってきたユダヤ人が入浴していたとの証言には,次のようにある(朝日湯が無料開放した:証言5)。「昭和16年の早春頃ではなかろうか。直接見たわけではないが、当時大内町(現元町)にあった銭湯の「朝日湯」が、一般入浴営業を一日だけ休業してユダヤ人難民に浴場を無償提供したことは事実である。私たちは垢だらけの外国人の入浴した風呂は汚いし、気持ちが悪いと思ってしばらく遠いところにある銭湯まで、わざわざ歩いて行った事があった。」
Polen, Distrikt Radom.- Juden beim rituellen Baden in einer Mikwe; PK 666
Dating: 1941 Anfang
Photographer: Brenner撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-030-0794-10A引用(他引用不許可)。
写真(右)1940年,ポーランド,ラドムのユダヤ人:不当な商売をする狡賢いユダヤ人,ボルシェビキとしてドイツを破滅させようとするユダヤ人などいわれのない差別が,迫害へと繋がった。ナチス政権の下では,人権を侵害しているという認識は,ユダヤ人には当てはまらなかった。当てはめてはならないとされた。
Ost-Oberschlesien kehrt heim.
Jüdische Kaffeehamsterer werden abgeführt
12086-39
Dating: 1939
撮影者不詳。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Wisniewski-010-27A引用(他引用不許可)。
ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランドでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人のゲットー押し込め,強制収容所移動に対して,反発はほとんど起きなかった。オランダのように,ユダヤ人を匿うこと,ユダヤ人に食料などを支援する動きは,弱かった。
写真(右)1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワの避難民と警官:第二次大戦が1939年9月に勃発,ドイツが占領したポーランドにいた大量のユダヤ人は,「ユダヤ人居住区」に移転させられることになった。これは,当初は,開放的なゲットーで,出入り自由だった。ドイツ側も,ユダヤ人をゲットーに隔離するのではなく,居住区を区分しただけだと表明していた。しかし,富裕なユダヤ人も,貧しいユダヤ人も,大人も子供も,人口に比して狭い地区に押し込められた。
Polen, Warschau.- Zivilbevölkerung und Polizei; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rutkowski, Heinz
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-001-0285-22A引用(他引用不許可)。
1941年11月5日:「善良な国民が(東部の)最前線で戦死しているこの時,(人権に配慮した刑罰制度によって)犯罪者ばかりを保護すれば社会のバランスは崩れ,国家の健全さは打撃を受けるだろう。----国家が窮地に陥っている時,手厚い保護の下に置かれている一握りの犯罪者は,最前線の兵士たちの犠牲によって得た賜物を簒奪するだろう。これは1918年(第一次大戦の敗北)に経験済みだ。この対策としては,この種の犯罪者は直ちに死刑に処す,これしかない。
-----こんな屑どもに団結する機会を与えるのは非常に危険だ。」
(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年 参照)
写真(右)1940年9月,ドイツ軍占領下ポーランド,クトゥノのゲットー:ウッチから北へ50キロのクトゥノ(Kutno)にもゲットーが設けられた。1940年3月,ワルシャワにゲットーを指定することになり,1940年10月12日,ゲットーが成立した。
Judenverfolgung durch die faschistischen deutschen Besatzungstruppen in Polen.
U:B:z.: Jüdische Jugendliche auf den Straßen von Kutno.
Dating: September 1940
Photographer: Jäger撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L22965引用(他引用不許可)。
1941年11月5日,ヒトラー卓上談話:「----この戦争の終結は,ユダヤ民族の絶滅を意味する。---ユダヤ人は精神的なものに全く関心を持たない。------奴らは言葉をもてあそぶだけだ。他人を言いくるめるのだけは,実に上手い。----簡単に言えば,ユダヤ人は自分たちの人種思想に宗教的カモフラージュを施したのだ。奴らのやることなすことすべて,嘘に立脚している。
----ユダヤ人が生きるための戦いは,嘘こそが武器だった。ユダヤ人は有能だというが,奴らの能力は,他人のものを弄び騙し取ることだけだ。
----とにかく私が言いたかったのは,ユダヤ人が被創造物の中で,最も悪魔的かつ愚鈍だということなのだ。----嘘つき,詐欺師,ペテン師!やつらが成功したのは,騙された人間がいたからだ。
----アーリア人は,ユダヤ人なしで生きてゆけるが,奴らはわれわれなしでは生きてゆけない。これにヨーロッパ人が気がつけば,ヨーロッパ人として連帯意識を持てるようになるのだが,その連帯意識を邪魔しているのがこれまたユダヤ人なのだ。」
1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。,
------だが,自由意志で彼らが出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」
◆人種汚染・人種民族差別は,独ソの過酷な殲滅戦、占領地における治安悪化が結びついた。さらに日米開戦を契機とした対ユダヤ人世界戦争の開始が,ヒトラーに,本格的なヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策を強行させた。なぜなら,ユダヤ人がドイツに戦争を引き込んだからである。
ユダヤ人迫害の理由は,ヨーロッパ・ユダヤ人という下等劣等人種Untermenschが,アーリア人を人種汚染Introgressionし,後方を撹乱し,共産主義革命,パルチザン活動を起こすからである。
写真(右)1940年9月,ドイツ軍占領下ポーランド,クトゥノのゲット−における野外調理:ユダヤ人を差別するニュルンベルク法をポーランドにも適用,ユダヤ人を都市の一区画に設置したゲットーに隔離した。
ポーランドには,ドイツ人,民族ドイツ人が移住し,植民地を作る計画だった。そこで,現地住民は追放された。都市名は,全てドイツ名に変更された。ポーランド文化の根幹を成すポーランド語の地名を抹殺し,ポーランドのユダヤ人をゲットーに押し込め隔離した。ポーランド文化の担い手となる文化人,教員,インテリは抹殺されるか,強制収容所に収監された。これがポーランドのアーリア化である。
Nach der Okkupation Polens durch die faschistische deutsche Wehrmacht werden auch hier die Nürnberger Rassengesetze gegen polnische jüdische Bürger angewendet
U.B.z.: die Kochstellen unter freiem Himmel der in das Zwangsghetto in Kutno verschleppten polnischen Juden.
Dating: September 1940
Photographer: Jäger撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチス親衛隊は,ユダヤ人評議会Judenrat(Jewish Council),その配下のユダヤ人警察(自警団)や,ポーランド人警官を通じて,ゲットーのユダヤ人を管理した。
ゲットーは外界との接触が出来ないように,壁や鉄条網で囲い込まれていた。しかし,外部から密輸や物資搬入を試みようとするユダヤ人が多数あった。これは,検問所の警備兵に賄賂をつかったり,壁に穴を開けたり,市電から飛び降りたり,墓場を使ったり,地下トンネルを掘ったりしての密輸・闇取引である。これがなければ,ゲットーに囲われたユダヤ人は生きてゆくことはできなかった。
そこで,監視のために親衛隊,ドイツ人だけではなく,現地の警察,すなわちユダヤ人警察を組織して,ユダヤ人とゲットーの取り締まりに当たらせた。これは,ポーランドを分割統治し,住民同士を敵対させる手段でもあった。
ゲットーに移住するといっても,家屋,土地など不動産はもちろん,家具・食器など日常生活に必要なものも一部しか運搬することはできなかった。今日のように,一家だけのトラック引越しではなかった。職も学籍も故郷も失い,自由を奪われることになった。
写真(右):1941年5月,ポーランド北部,ドイツ警察の検問を受ける市場のユダヤ人:1939年9月にドイツのポーランド侵攻で始まった第二次大戦では,ユダヤ人迫害が激化した。ドイツ占領下のポーランドには,ユダヤ人居住区が設置された。当初,出入り自由だったユダヤ人居住区は,閉鎖され,ユダヤ人は隔離された。閉鎖ゲットーでは,食糧が不足し,居住空間も狭隘で,人々の生活は困窮した。餓死者や病死者が多数出た。その後,トレブリンカ,ベウゼッツ,ゾビブルに絶滅収容所が作られ,ゲットーのユダヤ人は,移住・強制労働を名目に,再移送された。
ナチス・ドイツは,ファシズムのナチ党ヒトラー独裁国家だが,神聖ローマ帝国,ハプスブルク帝国に続く第三帝国であり,ニュルンベルク党大会(第一回ドイツ大会)では,ハプスブルク王朝の帝国標章をニュルンベルクにもちこんだ。そして,ドイツは二度と革命を起こすことはない,第三帝国は千年続くと宣言した。実際は10年後に悲惨な末路を迎えた。
Polen (Nordpolen).- Deutscher Polizist (Polizei-Meister) bei der Kontrolle / Erfassung von Juden auf einem Markt, einen Vogel in der Hand haltend; PK 637
Dating: Mai 1941
Photographer: Wirthgen撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-019-1224-12引用(他引用不許可)。
ポーランドのユダヤ人は,ユダヤ人登録をして,戦禍の片付け作業に従事した。しかし,迫害は一時的な苦役の程度ではすまなかった。持ち出す財産を制限され,ゲットーに強制移送させられた。これは,都市のユダヤ人だけではなく,郊外や農村のユダヤ人も同様だった。農地,家畜を手放し,家屋を残したまま,ゲットーに移住を命じられた。
ユダヤ人追放は,軽い差別ではない。追放に際して,持ち出せた資産は僅かだった。不動産 (Real Estate),家具のほかに,仕事も,学籍も失った。ユダヤ人追放は,後のユダヤ人絶滅と比較すれば軽いが,現在の視点から見れば,とてつもない迫害である。
ユダヤ人のゲットー移送は,失職・失業Unemploymentし,学校から締め出され,自分の住む家から追放されることで,これだけで十分な迫害である。
◆強制的な移動,財産権の制限は,基本的人権の侵害,迫害である。ユダヤ人のゲットー生活は,外界からの物資流入が阻まれ,困窮を極めた。
<ヒトラー卓上談話(テーブル・トーク)>
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を記録をとらせ,作成された。ボルマンはこの原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。
写真(右):1940年,ポーランド,ヴァルタラント、リッツマンスタット(Litzmannstadt)・ゲットーに集められたユダヤ人の子供たち:閉鎖されたゲットーでは、過密状態の中で、寒さ、栄養失調・感染症・病気・ストレス・貧困による絶滅が企図されており、居住環境は最低だった。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Kinder mit Judenstern
Polski: Getto Litzmannstadt, zgromadzenie dzieci na Sulzfelder Straße (Wojska Polskiego) przy Blechgasse (Obrońców Westerplatte).
English: Ghetto Litzmannstadt, a meeting of children on Sulzfelder Straße (Wojska Polskiego street) and Blechgasse (Obrońców Westerplatte street).
Depicted place Poland
Date 1940
Photographer Schilf 撮影。
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Schilf-002-29, Polen, Ghetto Litzmannstadt, Bewohner.jpg引用。
1942年1月23日ヒトラー卓上談話 Hitler's Table Talk:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」
写真(右):1940年,ポーランド,ヴァルタラント、リッツマンスタット(Litzmannstadt)・ゲットーに集められたユダヤ人の子供たち:閉鎖されたゲットーでは、過密状態の中で、寒さ、栄養失調・感染症・病気・ストレス・貧困による絶滅が企図されており、居住環境は最低だった。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Kinder mit Judenstern
Polski: Getto Litzmannstadt, zgromadzenie dzieci na Sulzfelder Straße (Wojska Polskiego) przy Blechgasse (Obrońców Westerplatte).
English: Ghetto Litzmannstadt, a meeting of children on Sulzfelder Straße (Wojska Polskiego street) and Blechgasse (Obrońców Westerplatte street).
Depicted place Poland
Date 1940
Photographer Schilf 撮影。
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Schilf-002-30, Polen, Ghetto Litzmannstadt, Bewohner.jpg引用。
1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。-----われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。
----ボルシェビキ支配が今後二百年も続けば,われわれの作品がどのくらい子孫に残せるだろうか。偉大な人物が忘れ去られるか,犯罪者やならず者のように扱われるだろう。
-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。-----時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。」
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。
◆1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。
ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした---。
5.ユダヤ人評議会・ユダヤ人警察によるゲットー管理
写真(右)1940年,ポーランド,ラドム・ゲットーのユダヤ人警察:ナチスは,ユダヤ人のゲットーを,ユダヤ人評議会,その下のユダヤ人警察によって,管理した。
Polen, Radom (Ghetto Radom ?).- Jüdische Bevölkerung.- Polnischer Polizist bei Kontrolle (auf einem Markt?); SS-PK
Dating: 1940
Photographer: Wisniewski撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1939年11月,ドイツ軍は伝染病Epidemicの蔓延を理由として,ワルシャワのユダヤ人居住区だった旧市内を立ち入り禁止にし,内部のユダヤ人を隔離した。そして,ユダヤ人自らに,ユダヤ人評議会をつくらせ,住民名簿の作成させ,命令を実施する手先機関とした。
ドイツはユダヤ人評議会,ユダヤ人警察(自警団)を使ってゲットーを間接支配した。夷をもって夷を制する方法である。後に,親衛隊は,ユダヤ人評議会に命じて,ユダヤ人を集めて収容所に移送するように強要した。
写真(右):1940年,ポーランド,ヴァルタラント、リッツマンスタット(Litzmannstadt)・ゲットーに集められたユダヤ人たち:過密状態で閉鎖されたゲットーでは、寒さ、栄養失調・感染症・病気・ストレス・貧困による絶滅が企図されており、居住環境は最低だった。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Straßenszene, Bevölkerung hinter Drahtzaun
Polski: Getto Litzmannstadt, Baluter Ring (Bałucki Rynek). Ruch uliczny na tle Inselstraße (Zawiszy).
English: Ghetto Litzmannstadt, Baluter Ring. A street Scene on the Inselstraße (Zawiszy street).
Depicted place Poland
Date 1940
Photographer Schilf撮影。
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101III-Schilf-003-09, Polen, Ghetto Litzmannstadt, Bewohner.jpg引用。
ドイツは,ゲットー内部の住民管理や行政を,ユダヤ人評議会(ユーデンラート)に代行させた。ドイツのポーランド総督Generalgouvernement für die besetzten polnischen Gebiete,親衛隊の手先として,ユダヤ人組織をつくらせた。ドイツは,ユダヤ人評議会に命令して,思い通りに動かそうとした。
写真(右):1940年3月,ポーランド,ヴァルタラント、リッツマンスタット(Litzmannstadt)・ゲットーに集められたユダヤ人たちの荷物:過密状態のゲットーでは、飢餓・不衛生・病気・ストレス・貧困による絶滅が企図されており、居住環境は最低だった。
Ghetto Litzmannstadt, Möbellieferung
Litzmannstadt, D.[eutsches]R.[eich] Auf dem Baluter-Ring im Ghetto in Litzmannstadt. Möbel, die keine Verwendung finden, werden in das Ghetto geliefert.
Negativ Nr. 15922
Polski: Getto Litzmannstadt. Przeładunek mebli na Baluter Ring (Bałucki Rynek).
English: Litzmannstadt Ghetto. Transhipment of furniture at Baluter Ring (Baluty's Market) in previously named Litzmannstadt (Lodz city).
Depicted place Łódź Ghetto
Date 1940
Photographer Holtfreter, Wilhelm
撮影。
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv R 49 Bild-1310, Ghetto Litzmannstadt, Möbellieferung.jpg引用。
永岑三千輝(2006)「東ガリツィアにおけるホロコーストの展開:Holocaust in East Galicia 1941-1942」続き:
ガリツィア地区とレンベルク市の当局は「レンベルクからのユダヤ人の移住」のための指針で合意した。---ゲットーを町の周辺部の非生産的地区と熟練労働者地区とに分けていたが,この後者の地域には手工業者と専門家を家族と共に住まわせた。労働能力ある独身のユダヤ人は男女別に親衛隊警察指導者管轄の強制労働収容所に収容した。そして,それ以外のものは「移住」するものとした。
こうした措置を議論する会議の議事録においては,カムフラージュのためユダヤ人の人口希薄な周辺地域への「移し変え」という記録された。しかし,----「移住(Aussiedlung)」は3月以前には行われない,とされた。それはベウゼッツ絶滅収容所の完成時期を示唆するものであった。「移住」が---絶滅を意味したわけである。
写真(右):1940年3月,ポーランド,ヴァルタラント、リッツマンスタット(Litzmannstadt)・ゲットー:
Polen, Ghetto Litzmannstadt, Deportation
Wartheland: Lodsch, Umzug der Juden ins Ghetto. Aufgenommen durch: Dr. Gauss Datum: März 1940
[Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Deportation von Juden ins Ghetto]
Polski: Getto Litzmannstadt. Ruch uliczny na nieistniejącym współcześnie odcinku Oststraße (ul. Wschodnia - dawna Józefa Piłsudskiego). W głębi Synagoga Alte Szil (aktualnie nie istnieje).
English: Ghetto Litzmannstadt. Oststraße street (ul. Wschodnia) traffic in previously Litzmannstadt (Lodz city Poland). Old Synagogue in background (actually not exists).
Depicted place Łódź Ghetto
Date March 1940
Photographer Gauss
撮影。
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 137-051639A, Polen, Ghetto Litzmannstadt, Deportation.jpg引用。
1942年1月1日,年頭の挨拶でヒトラーは,過ぎ去った一年が「人間の歴史で最大の勝利の年だった」と国民に語り,「1942年が神によるわが民族と同盟諸国民の救済の年」となるように祈った。兵士に対する日々命令でヒトラーは,「この戦争で流される血がヨーロッパで何世代にも渡って最後のものとなること」を期待した。----
写真(右):1940年,ポーランド,リッツマンスタット・ゲットーのユダヤ人の腕章:1940年より,ユダヤ人は目に付くように大きな黄色いユダヤの星を着けるように命じられた。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Armbinde eines jüdischen Polizisten
Dating: 1940 ca.
Photographer: Schilf 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1942年1月8日,ハイドリヒは---「ユダヤ人問題最終解決」を議題とする会議を1月20日に召集した。---ガリツィアではユダヤ人がまずは「東部への道路建設に投入」され----生き残ったものは「しかるべく処置」された。---最初は射殺され,後にはベウゼッツの絶滅収容所でガス殺されることになったからである。ハイドリヒは,会議の場で,道路建設という建設計画を示唆したが,----「最終解決」が,ポーランドに建設中のガス室で行われることはすべての会議参加者に明確になっていた。
写真(右):1941年,ポーランド,ヴァルタラント、リッツマンスタット(Litzmannstadt)・ゲットーに集められたユダヤ人たち:過密状態のゲットーでは、寒さ、栄養失調・感染症・病気・ストレス・貧困による絶滅が企図されており、居住環境は最低だった。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- jüdischer Polizist auf Straße, Menschenmenge mit Judensternen auf Gehsteig; PK 689
Polski: Getto Litzmannstadt. Policjant żydowskiej policji porządkowej na Altmarkt (Stary Rynek).
English: Litzmannstadt Ghetto. Policeman of jewish order police at Altmarkt (Old Market) in previously named Litzmannstadt (Lodz city).
Depicted place Poland
Date 1941
Photographer Zermin撮影。
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101I-133-0703-32, Polen, Ghetto Litzmannstadt, jüdischer Polizist.jpg引用。
写真(右)1941年5月,ポーランド,クラコウのユダヤ人を検問するドイツ警官:右の二人の上着を着たユダヤ人男性は,袖にユダヤの星のマークを付けている。
Judenverfolgung durch die faschistischen deutschen Besatzungstruppen in Polen.
Im Ghetto einer Stadt im Generalgouvernement; polnische Polizisten kontrollieren die Ausweise der jüdischen Einwohner an den Zugängen.
Dating: Mai 1941
Photographer: Koch撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 183-L22984引用(他引用不許可)。
1941年,クラクフにゲットーが設けられ,労働に適する者は,ゲットー近くの工場などに徴用された。オスカー・シンドラーは,ゲットー在住のユダヤ人を自分の工場で働かせ,親衛隊にユダヤ人奴隷労働者の借り入れ料(賃金)を支払った。つまり,親衛隊への資金供給とともに,ユダヤ人を無償で奴隷労働者として働かせ,軍需に依存して事業を興隆させた。ユダヤ人を奴隷労働者として酷使することは,ドイツ側にとって,戦時動員の一環だった。
しかし,ユダヤ人にしてみれば,仕事を与えられたことによって,ゲットーにとどまり,生き残ることができた。命の保障に比べれば,ただ働きなど問題にならなかったのである。シンドラーの工場で働けることを歓迎したのは,生き残ることができるからである。
1941年12月5日,ウッジゲットーからヘウムノ収容所への最初の移送が始まった。ガス発生自動車による実験的なユダヤ人殺害は,12月8日だった。1942年1月には,ジプシー(ロマ)4600人が殺害され,1941年4月初めまでにユダヤ人とあわせて4万人が殺戮対象となった。4月から5月にかけて,1万人がヘウムノでガス自動車によって殺害された。
「クラクフ・ゲットーが解体されると、ゲットーのユダヤ人はクラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ連行されることとなります。このプワシュフ収容所は、ユダヤ人の労働力搾取を目的としていたため、労働力の近く、すなわち市街地のすぐそばに設けられました。絶滅収容所ではないため、ガス室などの絶滅施設は設置されませんでしたが、それでも虐待行為は日常茶飯事であった上、日々の重労働から命を落とす人も少なくなく、囚人は毎日死と隣り合わせの生活を強いられました。
写真(右)1941年,ポーランド,クラコウのユダヤ人検問所:第二次大戦が1939年9月に勃発,ドイツ占領下のポーランドには,大量のユダヤ人を隔離するゲットーが設けられた。ユダヤ人の生活は,当初はゲットーに持ち込んだ資産で食いつなぐことができたが,次第に窮乏していった。
後に,ゲットーは解体され,閉じ込められていたユダヤ人は強制収容所に移送された。ゲットーから強制収容所への移送が始まり,そこで,奴隷労働につかされたり,殺害されたりした。
ドイツは,ゲットー住民には、強制収容所への再移送が殺害を意味することを悟られないように細心の注意が払われた。移送が殺害を意味することが暴露されれば、ゲットーのユダヤ人たちがおとなしく再移送に応じなくなるからである。
Polen, Krakau (Stadtteil Kazimierz?).- Razzia von deutscher Ordnungspolizei, Kontrolle (Verhaftung?) von Juden (?); PK 666
Dating: 1941 Anfang
Photographer: Kintscher
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-030-0780-35引用(他引用不許可)。
1943年になると,ウッジ,ワルシャワと同じく,クラクフ・ゲットーも解体されることが決まる。クラクフのユダヤ人は,郊外のプワシュフ強制収容所へ移送され始めた。この時,戦時利得者オスカー・シンドラーは,プワシュフ収容所のユダヤ人労働者を使うとして,自社工場の敷地にプワシュフ収容所のユダヤ人を収容,形式的に強制収容所の支所となる労働キャンプとした。
シンドラーの工場のユダヤ人奴隷労働者は,強制労働収容所での生活よりも待遇がよかった。過酷な労働条件ではあったが,プワシュフ収容所の虐待に比較すれば,シンドラーの工場での労働は,遥かにいい待遇だった。」(⇒ポーランドからの報告「オスカー・シンドラーの工場 Fabryka Oskara Schindlera」参照)
ポーランドからの報告「クラクフ・プワシュフ収容所(DAWNY OBÓZ PŁASZÓW)」には,次のようにある。
クラクフのユダヤ人は、クラクフ・ゲットーに集められた後、クラクフ市街に隣接する、 プワシュフ収容所(DAWNY OBÓZ PŁASZÓW) に収容されました。
1943年、クラクフ・ゲットーが解体されると、ゲットーのユダヤ人はクラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ連行されることとなります。このプワシュフ収容所は、ユダヤ人の労働力搾取を目的としていたため、労働力の近く、すなわち市街地のすぐそばに設けられました。絶滅収容所ではないため、ガス室などの絶滅施設は設置されませんでしたが、それでも虐待行為は日常茶飯事であった上、日々の重労働から命を落とす人も少なくなく、囚人は毎日死と隣り合わせの生活を強いられました。
ポーランド総督府におけるユダヤ人大量殺戮は,1942年3月中旬,ルブリン市とレンベルク市のゲットーの同時的な「立ち退き」でもって開始された。---レンベルク市では---2週間以内に約1万5000人がベウゼッツに移送され,ガス殺された。
市外農村部でも,治安警察や軍当局が連携して大量移送を遂行することになったが,時期的には後回しとなり,1942年4月にガリツィアにはまだ43万人のユダヤ人が生存していた。それまでにはそのほんの一部しかゲットーに集中させられていなかった。
この時点では,----レンベルク市労働局は以前想定されていたよりもたくさんの「労働証明書」をユダヤ人に発行していた。
この間,すなわち1942年5月に,全ユダヤ人の殺害に東ガリツィアにおけるホロコーストの展開むけてさらに決定的な展開があった。「ラインハルト作戦」のために絶滅施設の拡大が決定された。それは全総督府ユダヤ人の絶滅作戦を速やかに進めるためのものであった。総督府全体のこの展開にガリツィア地区の7 月以降の展開も平行していた。30万人ほどの労働能力あるユダヤ人を除き,総督府のユダヤ人の絶滅は,ヒムラーの命令どおり,1942年末までに完了した。(引用終わり)
6.東ガリツィアのユダヤ人・ウクライナ人
写真(右)1940年,ポーランド,ウッジ・ゲットーをオープンカーに乗って撮影するドイツ軍宣伝班:リッツマンスタットのゲットーで,宣伝用かあるいは記録用の映像を撮るドイツ武装親衛隊宣伝班。カメラは,写真と動画の2台以上が用意されている。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Soldaten der Waffen-SS Propaganda-Kompanie im offenen Wagen fahrend, jüdische Bewohner am Straßenrand fotografierend und filmend (PK-Bildberichter und PK-Filmberichter)
Dating: 1940 ca.
Photographer: Schilf撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Schilf-002-14引用(他引用不許可)。
永岑三千輝(2006)「東ガリツィアにおけるホロコーストの展開:Holocaust in East Galicia 1941–1942」(関東学院大学『経済系』第227 集(2006 年4 月)では,次のように記述されている。
独ソ戦の直接の戦闘地域ではなかった地域,すなわち,ポーランドの諸地域でも,ソ連軍の反撃の強まりと,ドイツ軍の被害の増大,進撃の停滞,総力戦の泥沼へのめりこみの状況が露呈してくる段階から,すなわち,1941年9月以降,ユダヤ人の迫害・抹殺のポテンシャリティは高まってくる。
ポーランド総督府のなかでももっとも早い時期に,ユダヤ人殺戮への動きがはじまるのが,東(あるいは東南端)に位置するガリツィアであった。-----ガリツィアは独ソの軍事対決ということで言えば,----スターリングラード,コーカサスに進軍するドイツ大軍にとっては,死活的に重要な地域ということになる。
ポーランド総督府のガリツィア地区では,1941 年10 月以降,ユダヤ人の大量射殺が始まり,後にはこの地域のユダヤ人はベウゼッツの絶滅収容所に連行され,ガス室で殺害された。その数,50 万人以上にのぼる。
ドイツの占領政策にとってはるかに重要だったのは,この地域の住民の圧倒的部分をなすウクライナ人の民族主義・ナショナリズムの運動であった。ウクライナのナショナリズムは,20 年代の初め以降右傾化し,反資本主義,反ボルシェヴィズム,公然たる反ユダヤ主義の諸要因を統合するイデオロギーとなった。その運動体であるウクライナ・ナショナリスト組織(Organisation Ukrainischer Nationalisten, OUN)は,ドイツの東部国境の修正とポーランドの弱体化を求めるドイツの右派勢力の格好の同盟相手となった。
スターリン主義のソ連の占領統治もユダヤ人を政治的経済的に迫害した。しかし,総督府に拠点を移していたウクライナ・ナショナリスト組織(OUN)は,ソ連秘密機関によるポーランド人・ウクライナ人住民へのテロルはユダヤ人の仕業だと主張した。
戦争と独ソによる占領は,この地帯の人口移動,難民化した人々の波を引き起こした。逃亡の方向の圧倒的流れは東の方向へであった。----それは,ソ連の占領地域や勢力圏にある東方地域(東ガリツィアもそれに含まれていた)から民族ドイツ人を「故郷の祖国へ」呼び込み,入植させるためであった。
1941年7月16日,ヒトラーは東ガリツィアを総督府に編入することを命じた。----ゲットーにユダヤ人を集める政策はフランク総督が拒否したので,ゲットー建設の代わりに強制労働収容所を建設する案が急速に浮上した。
写真(右):1939-1940年,ポーランド総督領クラコウでドイツ警察のパレードを閲兵するクルト・ダーリュケ警察大将:左より,突撃隊SA・アルツゥール・ネーベ刑事警察局長,ダーリュケ組織警察長官,アドルフ・ヘンライン,ベッカー。
ドイツ警察は,1936年6月,ヒムラーが警察長官に就任,その下に,政治警察(秘密国家警察ゲシュタポと改称)と刑事警察を保安警察としてハイドリヒにゆだねた。交通など行政警察,都市防衛警察は,組織警察Orpoとしてクルト・ダーリュケに譲った。
Parade im General Gouvernement in Krakau,
General Daluege und ... Persönlichkeiten bei der Parade in Krakau
Gen. Mj. O.P.[Ordnungspolizei!] Riege; SA Grf. Nölfe; Gen. Daluege; SA St. Hühnlein, Korpsführer der NSKK; Gen.Mj. O.P. Becker , SS-Brigf. (?)
Archive title: Polen, Krakau.- Polizei-Parade, Kurt Daluege, Adolf Hühnlein, Korpsführer der NSKK
Dating: 1939/1940 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-0266引用(他引用不許可)。
ポーランド総督フランクは,この頃にはまだ総督府のユダヤ人を「東方へ」移送できると確信していた。彼のそうしたの根拠国防は軍によるキエフ征服の成功であった。軍事的勝利は,総督府の「東方拡大」の実現を期待させ,縦貫道路建設でウクライナのユダヤ人を使役し,過酷な労働によるユダヤ人の絶滅で「厄介払い」できると期待した。
1941年10月はユダヤ人の絶滅政策への転換の重要な画期となった。-----追放するユダヤ人を送り込むべき地域,とくにソ連地域では,ソ連側の反撃,ドイツ軍進撃の遅延化,ドイツ軍の被害増大によって,ますますその移送地獲得の可能性がなくなってきた。それどころか----1941年6月の開戦直後からユダヤ人男性とコミュニストの一網打尽の作戦が進行し,8月中旬からは大量射殺の範囲が婦女子にまで拡大されていた。
写真(右)1940*-43年,ポーランド,ウッジ(ドイツ語名称リッツマンスタット:Litzmannstadt)の二区画を繋ぐ歩道橋:Im Ghetto in Litzmannstadt. Übergang über eine Durchfahrtstrasse
Archive title: Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Menschen auf Brücke (Verbindung der Ghetto-Teile)
Dating: 1940/1943 ca.
Photographer: Holtfreter, Wilhelm 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
永岑三千輝(2006)「東ガリツィアにおけるホロコーストの展開:Holocaust in East Galicia 1941-1942」続き:
東ガリツィア南部の境界の町スタニスラウには,1941年10月初め,民政当局がゲットーを設置することにした。----当地のゲットーのユダヤ人収容人数に合わせるため,親衛隊・警察指導者カッツマンとガリツィア地区治安警察司令官ヘルムート・タンツマンは,町の「過剰な」ユダヤ人の射殺を命じた。この命令にもとづき,1941年10月12日,約1万人のユダヤ人老若男女がスタニスラウ治安警察,第133予備警察大隊などで編成された射殺部隊によって殺された。
ドイツの占領統治条件の悪化の中で,ガリツィアでは同じような大量射殺がこのあとレンベルク(ポーランド語リボフ)でも行われた。東ガリツィア知事カール・ラッシュはすでにかなり前からレンベルク市のユダヤ人を路上から「消えうせさせ」ようとしていた。彼はそのためレンベルクにゲットーを創設しようとした。41年11月最初の週にラッシュは12万人のレンベルクのユダヤ人を市の周辺部の原始的な「住宅地区」に追放する命令を下した。この「住宅地区」の周りは有刺鉄線で閉鎖されてはいなかった。それは,ゲットー化がたんに過渡的な措置だということを示すためであった。
さらに別の要因も加わった。伝染病の発疹チフスが発生したのである。その伝染病はまたソ連戦時捕虜の大量死とドイツ食糧当局の飢餓政策によって引き起こされたものであった。----1941年の秋と冬に,東ガリツィアではすくなくとも2万人のユダヤ人が殺された。-----
こうした矛盾が最初に露呈したのは,1941年11月から12月のをレンベルクにおける大量射殺の際にであった。レンベルクのゲットーへのユダヤ人連行作戦に際して,地区や市の行政当局は特別の「熟練労働者街」を設置し,そこに集められたものにしかるべき証明書を発行した。そうした「熟練労働者証明書」を持たないものがゲットーに送り込まれた。射殺対象となったのは病人やドイツ当局のいう「労働不能者」であった。
写真(右):1939年9月,ポーランド(東プロイセン)に侵攻したドイツ軍の前に整列させられた顎鬚のポーランドの民間人(ユダヤ人?):ポーランド占領当初,ナチスドイツは,ユダヤ人に戦禍の後片付けをさせたり,道路掃除をさせたり使役を命じた。これは,掃除道具を与えられず,自分の衣類を雑巾代わりにして掃除を命じるといった辱めだった。農村部では,アーリア人(ポーランド人や民族ドイツ人を含む)の農場で農作業を命じられた。
ユダヤ人はドイツ人から命じられた使役をこなさなければ,罰金や体罰を受けたので仕方なく服従した。また,ユダヤ人は,使役の登録名簿に記載することを命じられた。自分の家族の安全を確保するためにユダヤ人は使役に参加し,名簿に家族のことも登録した。
しかし,ナチスは,こうして把握したユダヤ人をゲットーに囲い込んで,その自由を奪い,強制労働につかせ,虐待し人権を蹂躙した。そして,それでも生き残っている「屈強なユダヤ人」は危険分子として,絶滅収容所に移送し殺害した。
Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?);
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-317-0058-08A引用(他引用不許可)。
「ユダヤ人問題の最終解決」を議題とするヴァンゼー会議は,当初,41年12月9 日に予定されていた。その直前,総督府全体の高級官僚がレンベルクのゲットー問題を議論する会議に招集された。
ヒトラーは12月11日,対米宣戦布告の国会演説を行った。独ソ戦で獲得した380万人余の捕虜,2万台余の戦車,1万7000機余の飛行機の破壊ないし戦利品としての獲得といった戦果を誇ると同時に,ドイツの戦死者16万人余,負傷者57万人余,行方不明者3万3千人余も明らかにした。
その翌日のナチ党幹部(大管区指導者[ガウライター]など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。
ゲッベルスの日記が12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした---。
これをうけて1941年12月16日,ポーランド総督フランクは閣議で部下に総督府のユダヤ人の「粛清」を予告した。「ヨーロッパのユダヤ人種族が今次戦争を生き延びたら,部分的成果をあげたことにしかならない」とし,「彼らは消え去らなければならない」とした。---総督府だけでも250 万人,親類などを含めると350万にも上るようなたくさんのユダヤ人の「粛清」の方法が「射殺ではありえない」ことも明らかだった。
写真(右)1939年9月,ポーランド、東プロイセンの民間ユダヤ人の親子か。1939年9月のナチスのポーランド侵攻で,大量のユダヤ人が拘束され,ゲットーに強制移送された。下等劣等人種とし扱われ,厳しい処置をされた。
Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), Mann mit Kind; PK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-J30525引用(他引用不許可)。
永岑三千輝(2006)「東ガリツィアにおけるホロコーストの展開:Holocaust in East Galicia 1941-1942」続き:
ガリツィア地区とレンベルク市の当局は「レンベルクからのユダヤ人の移住」のための指針で合意した。---ゲットーを町の周辺部の非生産的地区と熟練労働者地区とに分けていたが,この後者の地域には手工業者と専門家を家族と共に住まわせた。労働能力ある独身のユダヤ人は男女別に親衛隊警察指導者管轄の強制労働収容所に収容した。そして,それ以外のものは「移住」するものとした。
こうした措置を議論する会議の議事録においては,カムフラージュのためユダヤ人の人口希薄な周辺地域への「移し変え」という記録された。しかし,----「移住(Aussiedlung)」は3月以前には行われない,とされた。それはベウゼッツ絶滅収容所の完成時期を示唆するものであった。「移住」が---絶滅を意味したわけである。
1942年1月1日,年頭の挨拶でヒトラーは,過ぎ去った一年が「人間の歴史で最大の勝利の年だった」と国民に語り,「1942年が神によるわが民族と同盟諸国民の救済の年」となるように祈った。兵士に対する日々命令でヒトラーは,「この戦争で流される血がヨーロッパで何世代にも渡って最後のものとなること」を期待した。----
1942年1月8日,ハイドリヒは---「ユダヤ人問題最終解決」を議題とする会議を1月20日に召集した。---
ガリツィアではユダヤ人がまずは「東部への道路建設に投入」され----生き残ったものは「しかるべく処置」された。---最初は射殺され,後にはベウゼッツの絶滅収容所でガス殺されることになったからである。
ハイドリヒは,会議の場で,道路建設という建設計画を示唆したが,----「最終解決」が,ポーランドに建設中のガス室で行われることはすべての会議参加者に明確になっていた。
ポーランド総督府におけるユダヤ人大量殺戮は,1942年3月中旬,ルブリン市とレンベルク市のゲットーの同時的な「立ち退き」でもって開始された。---レンベルク市では---2週間以内に約1万5000人がベウゼッツに移送され,ガス殺された。
写真(右)1941-42年,ソ連,ラトビアLatvija(ドイツ語Lettland)サラスプル強制収容所のユダヤ人:黄色のユダヤの星をつけさせられたユダヤ人の囚人。第一次大戦後にロシアから独立したラトビアは,1940年に再びソ連に併合された。そのとき,ボリシェビキ側に裏切ったとされたのがユダヤ人だった。
1941年,ドイツがソ連に侵攻,リトアニアを占領すると,ユダヤ人は,地元のリトアニア人からも博大を受けた。人種民族差別主義者の親衛隊は,リトアニア人の人的資源をドイツのために利用しようとして,強制収容所の看守や監視兵など,武装親衛隊の志願者を募った。
Rußland, Lettland 1941/42, KZ Salaspils [Die Identifizierung des KZ Salaspils erfolgte durch Yad Vashem]
Dating: 1941/1942 Winter
Photographer: Dürr
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Duerr-056-11A引用(他引用不許可)。
市外農村部でも,治安警察や軍当局が連携して大量移送を遂行することになったが,時期的には後回しとなり,1942年4月にガリツィアにはまだ43万人のユダヤ人が生存していた。それまでにはそのほんの一部しかゲットーに集中させられていなかった。
この時点では,----レンベルク市労働局は以前想定されていたよりもたくさんの「労働証明書」をユダヤ人に発行していた。
この間,すなわち1942年5月に,全ユダヤ人の殺害に東ガリツィアにおけるホロコーストの展開むけてさらに決定的な展開があった。「ラインハルト作戦」のために絶滅施設の拡大が決定された。それは全総督府ユダヤ人の絶滅作戦を速やかに進めるためのものであった。総督府全体のこの展開にガリツィア地区の7 月以降の展開も平行していた。30万人ほどの労働能力あるユダヤ人を除き,総督府のユダヤ人の絶滅は,ヒムラーの命令どおり,1942年末までに完了した。(永岑三千輝(2006)「東ガリツィアにおけるホロコーストの展開:Holocaust in East Galicia 1941-1942」引用終わり)
写真(右)1941-42年冬,ドイツ占領下のソ連,ラトビア(第一次大戦後のバルト三国の1つ),サラスピル強制収容所:ドイツ,ポーランドだけではなく,ナチス占領下のフランス,リトアニア,チェコ,ユーゴスラビアなどに強制収容所が設置され,反ドイツ的な人物やユダヤ人が収監された。
Rußland, Lettland.- KZ Salaspils, Juden beim Essenempfang an einer Feldküche im Freien
Dating: 1941/1942 Winter
Photographer: Dürr
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Duerr-053-27引用(他引用不許可)。
7.ゲットー・ユダヤ人絶滅のためのラインハルト作戦
ユダヤ人評議会は,ゲットーの行政を担い,ユダヤ人警察がゲットーの治安を維持した。親衛隊は,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察を支配し,彼らに,ゲットーから強制収容所に移送する人数を指定した。ユダヤ評議会が登録名簿から,移送者名簿を作成,ユダヤ人警察が移送すべきユダヤ人を集めた。
1942年,トレブリンカ,ベウゼッツ,ゾビブルに絶滅収容所が完成,ゲットーのユダヤ人は,順次,絶滅収容所に再移送された。名目は,東方への移住,労働収容所への移送だった。もちろん,移送されるユダヤ人の反抗,逃亡を防ぐための偽りだった。
しかし,1943年に入ると,強制収容所への移送が死を意味することを悟ったユダヤ人も増えた。再移送に協力すべきユダヤ人評議会・ユダヤ人警察も,引渡しを遅延させた。
1943年1-5月,強制収容所への再移送が死を意味することに気がついたユダヤ青年たちは,移送を拒否し,反乱を起こした。これがワルシャワ・ゲットー蜂起である。
しかし,シュトロープ将軍は,5月には
ワルシャワゲットー蜂起Warsaw Ghetto Uprisingを鎮圧した。
ベウゼッツ・ソビボール・トレブリンカ絶滅収容所解体報告書:ラインハルト作戦を遂行したグロボチニクの親衛隊ヒムラー長官宛の書簡(1943年11月4日付け)
「私が総督府で遂行したラインハルト作戦を1943年10月19日を持って終了いたしました。そして、すべての収容所を解体しました。」
収容所のバラック,柵など施設を撤去するために,親衛隊,ウクライナ人が残り,トレブリンカでは囚人にも破壊をさせ,作業終了後,殺害した。収容所の痕跡をなくすために,植林がなされ,農家が建てられた。
ゲットーに集合させたユダヤ人を東方に分散,移住させれば,反ドイツのパルチザン活動を監視できなくなる。したがって,ユダヤ人の東方追放は,ユダヤ人による人種汚染,戦争に対する予防措置とはならない。ナチスは,強制収容所に拘束したユダヤ人は,労働力として使い捨てにするか,殺戮するつもりだった。
◆ユダヤ人大量殺戮には,次のような障害があった。
?殺戮に伴う処刑者の精神的負担
?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
?大量殺戮発覚によるユダヤ人などの抵抗勢力の増大とユダヤ人の武力蜂起
したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,ユダヤ人殺戮が事実上行われていた。労働に適しないユダヤ人は,ガス室が完備する前から,処分の対象だった。
ヒトラー総統や親衛隊にとって,ユダヤ人絶滅は,人種汚染排除の掟を中核とする弱肉強食の自然の摂理に即した組織的殺戮だった。が,その過度の残虐性,非合理性の故に,ユダヤ人絶滅が実施されたはずがないと誤解する者もいる。これは,当時のドイツ人,ドイツ占領地の市民,連合国の市民についても当てはまる。ヒトラーやヒムラーの公言したユダヤ人絶滅は,誇張されたプロパガンダにちがいない,このように考えたくなる。
◆ヒトラー総統の政治的遺書には,ドイツ人を抹殺しようと戦争を仕掛けてきたユダヤ人を殲滅すべきであるとの人種民族差別が示されている。ヒトラーは,1939年1月の国会演説,1914年12月の対米宣戦布告の国会演説でも,ユダヤ人の共産主義者と国際金融資本が,ソ連と米英政治家を操ってユダヤ人世界支配のための戦争をドイツに仕掛けている,よってユダヤ人を殲滅するために世界戦争を戦うと公言した。1945年4月のヒトラーの政治的遺書でも,戦争に責任があるユダヤ人に対する絶滅戦争を継続するように指示し,自決した。
写真(右)1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワ飛行場のルントシュテット(左),ライヘナウ,ブラスコビッチ(右)の三将軍:カール・フォン・ルントシュテット(Karl von Rundstedt)は,1875年生まれ,ポーランド侵攻では,南方軍集団司令官,フランス侵攻ではA軍集団司令官として参戦。1940年7月,元帥に昇進。10月,フランスで西方軍総司令官に就任。1941年のソ連侵攻バルバロッサ作戦では南方軍集団司令官。
ヴァルター・フォン・ライヘナウ(Walter von Reichenau)は,1884生まれで,1939年のポーランド侵攻作戦では第十軍司令官を務め,10月1日に戦勝により上級大将に昇進。対仏戦勝により,1940年7月19日,元帥に昇進。1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では第六軍司令官として参加。1942年1月,飛行機事故により死亡。
ヨハネス・ブラスコビッツ(Johannes Blaskowitz)は,1883年生まれ。ポーランド侵攻には第八軍司令官として参戦。ただし,捕虜・民間人を処刑した親衛隊を批判したために,1940年罷免。1948年逮捕後に自殺。
Rundstedt, Reichenau, Blaskowitz auf dem Flugplatz von Warschau in Erwartung des Führers.
Archive title: Polen, Flughafen Warschau.- General Gerd von Rundstedt, General Walter von Reichenau und General Johannes Blaskowitz im Gespräch (vor Ankunft von Adolf Hitler); ca. Ende September / Anfang Oktober 1939
Dating: 1939 September - Oktober
Scherl:
Rundstedt, Reichenau, Blaskowitz auf dem Flugplatz von Warschau in Erwartung des Führers.
Archive title: Polen, Flughafen Warschau.- General Gerd von Rundstedt, General Walter von Reichenau und General Johannes Blaskowitz im Gespräch (vor Ankunft von Adolf Hitler); ca. Ende September / Anfang Oktober 1939
Dating: 1939 September - Oktober
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-2004-0910-500引用(他引用不許可)。
ユダヤ人問題の「最終解決」は,戦前は,ユダヤ人のドイツからの追放だったが,戦時中は,強制収容所に拘束し奴隷労働に従事させ,疲弊し病気になった労働不能者を処分することだった。アーリア人を人種汚染し,ユダヤ人共産主義者がソ連を,ユダヤ人金融資本家・マスメディアがアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域もない。このような状況で,ヨーロッパのユダヤ人排除とは,ユダヤ人殺戮に至ってしまう。
ゲットー内部にも,今までの社会階層がそのまま持ち込まれた。しかし,これはゲットーが開設された初期,おそらく1942年までだったであろう。壁で囲い込まれて,外界との取引ができなくなっていたゲットーでは,僅かな密輸・闇取引以外,外界から物資,資源の搬入はできなかった。蓄えていた資源が減少するにつれて,物資の価格は急上昇した。インフレのために資産を使い尽くしてしまえば,それまでだった。
◆ナチス・ドイツの開設したユダヤ人居住区ゲットーでは,生産・流通・消費・リサイクルの循環的な流れをもつ持続可能な社会を構築することは不可能だった。資源・物資・資金を使い。消費するだけのワンウェイ型社会では,蓄えていたものを使い尽くせば,それで終わりだった。
1942-43年中に,ゲットーのユダヤ人は全員,強制収容所あるいはトレブリンカなどの絶滅収容所に移送された。ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人の財産没収,強制収容所への移送は当然のように知っていた。1943年に入って,戦局が悪化する中,ユダヤ人が外国やドイツ軍占領地に追放されているのではない,収容所に収監されていることも,明白だった。
ドイツ軍が後退している以上,ソ連の独軍占領地であるはずがなく,ユダヤ人は強制収容所から外に出ることはできないと予測できた。
次々に,ドイツだけでなく,ヨーロッパ中のユダヤ人が,東方に送られていることは,ドイツの鉄道職員には,常識だった。フランス,オランダ,ドイツなどのユダヤ人を満載した貨車や客車が,ドイツを通って,東方に移送されていることは,沿線の住民も知っていた。噂話から,ヨーロッパ中のユダヤ人は,強制収容所に移送され,そこから外に出られないことは,みなが知っていた。
ドイツの市民も連合国の市民は,人間性を無視する忌むべきユダヤ人絶滅が行われているかどうかよりも,戦いに勝っているかに関心があった。ユダヤ人絶滅について,知っているドイツ人は,処罰されることも,予測できた。そこで,虐殺には,知らないふりをした。
当時の日本人も,ユダヤ人絶滅が同盟国で行われているとは,思いもしなかった。日本軍による虐殺の噂話やプロパガンダも,決して知りたい情報ではなかった。
◆虐殺の噂は,人々にとって,歓迎される話ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものだからである。当時の人々は,虐殺の事実を認めようとしなかったし,認めたくなかった。ドイツ人は,虐殺の責任を回避しかった。ユダヤ人は,自分が殺害されるとは思いたくなかった。
◆「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と不当な現実を肯定する無力なニヒリズムに陥った人々がいた。
◆ニヒリズムが蔓延する一方,ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人教師ハイム・A・カプランは,冷静に事実を見つめ,ナチスがユダヤ人に戦争を始めた責任を取らせようとして,ユダヤ人を殺戮していることを理解した。そして,人種民族差別に基づく組織的迫害を,記録し,後世に残そうとした。囚われの身にあり,困窮していたカランにとっては,日記の継続が,できる最大限のことだった。これを思うと,現代の自由なわれわれには,何ができるのかを考えさせられる。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒アンネの日記とユダヤ人
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇を
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
2009年2月10日開設の鳥飼行博研究室当サイトへのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
連絡先:
torikai007@yahoo.co.jpp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1
東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
東海大への行き方|How to go
: 0463-50-2078
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright © Torikai Yukihiro, Japan. 2009 All Rights Reserved.