ヘルマン・ゲーリング/Herman Goring Fighter Ace The World War I Career of German's Most Infamous Airman [ Peter Kilduff ]:1893年、ドイツ帝国外交官を父とする上流階級に誕生、恵まれたな子供時代を過ごし、1905年、カールスルーエの幼年士官学校に入学、卒業後、1909年にプロイセン士官学校に入学して、第一次大戦の始まる1914年に陸軍少尉として歩兵部隊に配属。第一次世界大戦の緒戦では 歩兵として戦ったが、10月からドイツ陸軍航空隊へ移動、当初は偵察員、1915年からは、戦闘機パイロットとして西部戦線で戦った。1918年6月の敗戦の年に最高勲章のプール・ル・メリット勲章を授与された。ヘルマン・ゲーリングがは、リヒトホーフェン戦闘隊の大隊指揮官として敗戦を迎えた。1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年のミュンヘン一揆は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。
写真(右)1914年8月3日,第一次大戦初頭,バイエルン予備歩兵連隊戦友と一緒のアドルフ・ヒトラー:後方で立っているのは,Sperl (München), Litigraph, Max Mund (München), Vergolder。座っているのは, Georg Wimmer (München), Strassenbahner, Josef Inkofer (München) Lausamer (gefallen), der Führer(ヒトラー総統)[ヒトラー専属写真家のホフマンの解説]。25歳のヒトラーは,本来,オーストリア人だったが,長らくドイツに住んでいたので,ドイツで志願兵に応募した。1914年8月16日,ヒトラーは,バイエルン歩兵連隊第16号(旧)の一員として,戦うことになった。ヒトラーは、戦争の終わりまで,この連隊にいた。 Der Führer 25 Jahre Soldat.
Unmittelbar nach der Mobilmachung, am 3. August 1914, wurde Adolf Hitlers Gesuch an den König Ludwig III. von Bayern zum Eintritt in das bayerische Heer genehmigt. Am 16. August wurde Adolf Hitler als Kriegsfreiwilliger angenommen und dem bayerischen Reserve-Infanterie-Regiment Nr. 16 (List) zugewiesen, dem Adolf Hitler bis zum Kriegsende angehört hat.
Der Führer mit seinen Kriegskameraden vom bayerischen Reserve-Infanterie-Regiment 16.
Von links nach rechts: stehend: Sperl (München), Litigraph, Max Mund (München), Vergolder, sitzend: Georg Wimmer (München), Strassenbahner, Josef Inkofer (München) Lausamer (gefallen), der Führer, liegend: Balthasar Brandmayer (Bad Aibling), Maurer.
11.8.39 [Herausgabedatum] de-li-schm 115 Presse-Hoffmann
Dating: 1914/1918
Agency: Scherl, Presse-Hoffmann ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。)
写真(右)1923年,ナチ党首アドルフ・ヒトラーの巡回プロパガンダ・チーム:自動車を使って全国を遊説したヒトラーは,民衆の注目を集め,彼らの支持を得ることで,ワイマール共和国の政治家,軍人,資本家に対抗できる力を得ようとした。しかし,合法的な範囲で選挙活動を続けても,社会民主党,共産党にはかなわなかった。そこで,突撃隊を使って,労働運動や共産党の活動を弾圧し,資本家の関心を買った。また,突撃隊によって,他政党の政治家の演説を妨害し,デモ行進を襲撃させ,選挙干渉を行った。しかし,第一党にはとてもなれず,バイエルン地方政府を使った革命,すなわちミュンヘン一揆を起こした。しかし,1923年のミュンヘン一揆は,ドイツ警察とドイツ国防軍によって鎮圧された。 Bayern.- Adolf Hitler auf einer Propagandafahrt im Auto
Dating: 1923 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ビアホール「ビュールゲルブロイケラー(Bürgerbräukeller)」に集まったバイエルン州自治政府首脳(首相カールなど三名)を人質にとって,バイエルン自治政府首脳に協力させ,ナチ党突撃隊が,国防軍・警察を率いてベルリンに進軍、第一次世界大戦の参謀総長エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍を首班とする新政権を樹立する計画だった。これは,1922年10月,ファシスト党ムッソリーニによるローマ進軍'March on Rome'と同じである。ビアホール一揆で,ヒトラーは「国民革命は開始された。臨時政府が樹立される。」と大見得を切った。
エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍は,バイエルン政府首脳三名の解放要求に,独断で応じ,三名を解放してしまうという大失策を犯した。これは,政府要人を監禁するという犯罪行為の責任を,ルーデンドルフ将軍が,回避したためである。解放されたバイエルン自治政府首脳三名は,監禁・脅迫した一揆の連中を,軍・警察によって鎮圧することを決めた。(カール首相らは,1938年「長いナイフの夜」に,ナチス親衛隊によって殺害。)
デモ隊が将軍廟前にくると,警察はデモ鎮圧のために銃撃を開始。突撃隊は10名以上の死者を出し,逃走。エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍将軍は,その場で投降,逮捕。駐屯軍司令部占拠部隊エルンスト・レームも,投降した。ルーデンドルフも,レームも将校待遇を受け,身の安全が保障された。ヒトラーは逃げたが,二日後,逮捕。
写真(右)1924年4月1日,ミュンヘン一揆(1923年11月)の参加者に対する大逆裁判
1923年11月8-9日のミュンヘン一揆失敗後,ミュンヘンで裁判を待つルーデンドルフErich Ludendorff将軍・ナチ党ヒトラーほか:左から,ハインツペルネ博士Heinz Pernet, フリードリヒウェーバーFriedrich Weber, 、ヴィルヘルムフリックWilhelm Frick(後の内務相), 、ヘルマンHermann Kriebel,エーリヒ・フォン・ルンデンドルフErich Ludendorff, アドルフヒトラーAdolf Hitler,、ヴィルヘルムエルンストErnst Röhm, Wilhelm Brückner, Röhm 、ロバートワグナーRobert Wagner。 1922年10月,ファシスト党ムッソリーニのローマ進軍'March on Rome'を模倣して,ヒトラーは,政権奪取を図った。しかし,期待していたルーデンドルフ将軍などドイツ軍からの参加者は,積極性に欠けていた。上等兵だったヒトラーが仕掛けた一揆で,首尾よく政権の座に着くことを期待していた将軍は,警察に反撃にあうと,即座に,抵抗することなく投降してしまった。有名な将軍は,捕まっても礼儀正しく将校待遇された。陸軍省を占拠していた突撃隊レームErnst Röhm指揮官も逮捕されても,元大尉の待遇を受けると期待し,警察に降伏した。突撃隊は「ならず者」「反逆者」とされる可能性もあり,伍長勤務上等兵だったヒトラー党首は逃走二日後に逮捕。ゲーリングは亡命。 Hochverratsprozeß gegen die Teilnehmer am Münchener Putsch vom 9. Nov. 1923; München 1924
Archive title: München.- nach Hitler-Ludendorff Prozess, Gruppenbild, vlnr: Heinz Pernet, Dr. Friedrich Weber, Wilhelm Frick, Hermann Kriebel, Erich Ludendorff, Adolf Hitler, Wilhelm Brückner, Ernst Röhm, Robert Wagner
Dating: 1. April 1924
Photographer: Hoffmann 撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍は,バイエルン政府首脳三名の解放要求に,独断で応じ,三名を解放してしまうという大失策を犯した。これは,政府要人を監禁するという犯罪行為の責任を,ルーデンドルフ将軍が,回避しようとしたためである。犯罪者として訴追されることを恐れた将軍は,一揆失敗の場合の言い逃れの口実をつくった。解放されたバイエルン自治政府首脳三名は,監禁・脅迫した一揆の連中を,軍・警察によって鎮圧することを決めた。 カール首相らミュンヘン一揆の裏切り者は,1938年「Der "Röhm-Putsch" 長いナイフの夜」に,ナチス親衛隊によって殺害された。
エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍は,副官とともに,堂々と警察に行進し逮捕されたとの俗説がある。実際は,将軍は,銃撃が始まる中,警察に身の安全を求めた。命惜しさに投降したようだが,ルーデンドルフ将軍は,ミュンヘン一揆に利用されただけだと責任逃れをした。将軍の無責任さは,ヒトラー党首が,裁判で熱烈な愛国者として,一揆の全責任を認めたのとは対照的だった。
写真(右)1923年3月7日,ライプチッヒのユンカースJunkers F 13 輸送機:乗員:2名、乗客数:4名。 全長:9.59 m、全幅:14.8 m、全高:3.50 m、翼面積:34.50平方メートル。 空虚重量:951 kg、ペイロード:320 kg、最大離陸重量:1,640 kg。出力荷重:14.05 kg/kW エンジン:メルセデス D.IIIa、118 kW (160馬力) 最高速度:173 km/h (107 mph)、巡航速度:160 km/h (100 mph)。航続距離:1,400 km (870 miles)、巡航高度:5,000 m。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-00007
Original title: info Flugzeugreise des Reichspr?・sidenten zur Leipziger Messe am 7. M?・rz 1923.
Start des Flugzeuges mit dem Reichspr?・sidenten auf dem Tempelhofer Feld.
Archive title: Berlin-Tempelhof.- Flugzeug Junkers F 13 von Reichspr?・sident Friedrich Ebert
Dating: 7. M?・rz 1923
Photographer: Pahl, Georg 撮影。
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
写真(右)1927年,ニュルンベルクのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)大会に参加したヒトラー首相:旗の近くのメガネの男性は,突撃隊員旗手ハインリヒ・ヒムラー,後に親衛隊SS国家長官になり,ドイツとその占領地の警察の全権を握ることになる。党の主導権争いに敗れることになるグレゴール・シュトラッサーがヒトラーの隣にいる。ニュルンベルグナチ党大会といっても、政権獲得前は,大規模で壮麗なものではない。こうしてみると,ナチスのプロパガンダというのは,資金をつぎ込むことが出来た政権獲得後のものが印象深いだけで,実際にプロパガンダによって,大衆の心をつかんで,政権をとったのかとの疑い強まる。政権獲得は,親衛隊の粗野で容赦のない暴力によるところも大きいだろう。ただし,資本家や有名人などが,ヒトラーの強い大ドイツ復興の主張に共鳴したり,共産主義者,労働組合を鎮圧したりと,ナチスを利用しようとしたご都合主意も忘れることは出来ない。 Nürnberg.- Reichsparteitag, Gruppenaufnahme, von rechts: Franz Pfeffer von Salomon [Franz von Pfeffer], Adolf Hitler, Gregor Strasser, Rudolft Heß, Heinrich Himmler, rechts SA-Standarte
Dating: 1927
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1931年10月,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の突撃隊集会に臨むヒトラー総統(党首),続くは突撃隊最高指揮官エルンスト・レーム「ブラウン・シュワイク」-カギ十字のナチス党旗を先頭に整列した突撃隊(褐色の制服)を閲兵するヒトラーとレーム。仰々しく,みすぼらしい仮装行列のようだが,これがNazisが政権を獲得するまでのプロパガンダだった。突撃隊は,革命を標榜していたが,粗野な暴力をふるって,敵対する党,組織を襲った暴力集団だった。おなじ暴力装置でも,ドイツ国防軍に対しては,劣等感と反感を抱いていて,レームは,自ら率いる突撃隊を第二の軍隊に,さらに国防軍にとってかわる軍隊にまで高めようと画策した。そのため,国防軍と協力する道を選択したヒトラーと彼の配下の親衛隊SSは,レームたち突撃隊の過激分子を反逆者として,粛清した。これが,1934年6-7月の「長いナイフの夜」である。 [Adolf] Hitler in Braunschweig, Okt. 1931
Archive title: Braunschweig.- Adolf Hitler und Ernst Roehm beim Abschreiten einer Formation von Hakenkreuzflaggen bei einer Tagung / Treffen der NSDAP
Dating: Oktober 1931
Photographer: o.Ang.
Agency: Aktuelle-Bilder-Centrale Georg Pahl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1932年,演説のポーズをとったナチ党首アドルフ・ヒトラー:1933年に首相に就任する前,計算されつくした演説内容とプレゼンテーションをプロパガンダとして活用した。現在の視点では,滑稽芸人のようだが,真剣,熱烈な大声で,反共産主義,反ユダヤ主義(アンチセミニズム),反議会主義を訴え,大衆を煽動した。ワイマール共和国のそれまでの政治家とは異なって,秩序と規律を表象する軍隊式パレード,過激な暴力を行使する突撃隊など,力を見せ付けて,敵対者を威圧し,暴力で排除した。 Die Geste der rechten Hand ! Typische Rednergesten, bei welchen die Bewegung der rechten Hand den Höhepunkt in den Ausführungen des Redners unterstreicht. Der Führer der Nationalsozialisten Adolf Hitler in einer typischen Rednerpose.
Dating: 1932 ca. ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1933年3月21日,ポツダムでヒンデンブルク大統領,フォン・フロンベルク国防相に挨拶するヒトラー首相:いずれも第一次大戦に参加しているが,将官クラスのヒンデンブルク,フロンベルクに比して,ヒトラーは伍長勤務上等兵という兵卒だった。将官たちは,小物ヒトラー首相を睥睨し,操縦するつもりでいた。ヒトラーは野心を押し隠して,従順な首相を演じたが,二人の老将軍を,時代遅れの敗け将軍で,その戦術・戦略能力も全く評価していなかったに違いない。ヒトラーは,まず多数の民衆を味方につけて,強権的な将軍たちに圧力をかけた。しかし,自ら政権を手にすると,裏を返すように,強権的な政治を開始,労働運動,共産主義,自由主義を弾圧し,ナチスによる一党独裁の確立を目指した。次の目標は,ドイツ国防軍を従えることである。 Der historische Tag von Potsdam am 21. März 1933.
Reichspräsident von Hindenburg mit Reichskanzler Hitler und Reichswehrminister von Blomberg
vor der Garnisonkirche in Potsdam
Archive title: Potsdam.- Paul v. Hindenburg (mit Pickelhaube), Werner v. Blomberg (mit Stahlhelm) und Adolf Hitler vor Garnisonkirche
Dating: 21. März 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
第一党となったナチ党首アドルフ・ヒトラーは,1932年,大統領選挙に出馬した。1932年の大統領選挙には,1925年以来の現職パウル・フォン・ヒンデンブルクPaul von Hindenburg元帥に、共産党首エルンスト・テールマンErnst Thaelmann、国家人民党(国家主義政党)ディスターベルクが立候補し,彼らと得票を競った。得票数は,第一回目に,第一位のヒンデンブルグ1865万票、第二位のヒトラー1339万票,第二回の決選投票では,ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票で,ヒトラー党首の得票率は37%だった。
ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%,1930年9月18.3%,1932年7月37.4%と支持を伸ばした。第一党の党首ヒトラーは,カトリックを基盤とする中央党出身の首相フランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen)に首相の座を明け渡すように要求し,ナチ党のヘルマン・ゲーリングは,国会議長に選出された。 国会では,ゲーリング議長がパーペン首相の所信表明演説を遮って,ドイツ共産党が提出した内閣不信任決議を採択,それが可決されると,フランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen)首相は,選出されたばかりの議会を解散した。1932年11月の再選挙で,ナチスは議席を減らしたものの、第一党にとどまった。
ナチ党は,得票率を落として,危機意識を高めた反面,社会主義(ドイツ社会民主党)・共産主義(ドイツ共産党)の勢力拡大,地方政府とドイツ国防軍の離反を恐れたフランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen:1879-1969),クルト・フォン・シュライヒャーKurt von Schleicher(1882~1934),ヒンデンブルク大統領などワイマール共和国保守党政治家は内部対立していた。保守的政治家だけでなく,社会民主党の政治家も,政治家実務のないナチス(ナチ党員)とヒトラー党首は,プロパガンダによって体制批判,ユダヤ人差別をするポピュリスト(人気取り)で,実務担当能力は低いと見下していたのは間違いない。
写真(右)1933年3月,ベルリン郊外、ポツダム、衛戍(ギャリソン)教会、第一次大戦戦没者追悼式に参列した内務大臣ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)、首相アドルフ・ヒトラー、労働大臣フランツ・ゼルテ(Franz Seldte)鉄兜団団長、副首相フランツ・フォン・パーペン(von Papen、無任所大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州内務大臣:ギャリソン教会は、18世紀にプロイセン国王が軍人を記念して建立し、フリードリヒ大王の墓所もある。古都ポツダムは、プロシア王国以来の軍国主義の整地であった。1933年のドイツ国会議事堂放火事件後、ヒトラーは新しい国会の開会式をポツダムで催すことを決める。1933年3月21日、ポツダムのギャリソン教会を会場とし、ヒトラーの新秩序が示された。 Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-14434
Original title: info Die historische Reichstags-Eröringffnung in der Garnisonkirche in Potsdam!
Die Ehrentribüne der Reichsregierung vor der Garnisonkirche von rechts nach links: Minister Göring, Minister Seldte, Reichskanzler Adolf Hitler. Vizekanzler von Papen und Minister Frick.
Archive title: Potsdam.- Feier zur Eröffnung des Reichstages (Reichstagseröffnung, "Tag von Potsdam").- Ehrentribüne in der Garnisonkirch. Vlnr: Wilhelm Frick, Franz von Papen, Adolf Hitler, Franz Seldte, Hermann Göring
Dating: 21. März 1933
Photographer: Pahl, Georg
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
◆首相の座をシュライヒャー将軍に奪われたフランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen)は,ヒンデンブルク大統領にヒトラーを首相にするように働きかけた。ヒンデンブルク大統領は,大統領独裁の機会を国防大臣時代のシュライヒャーに潰されており,シュライヒャー首相・将軍による軍部独裁となり,大統領の権力が低下するのを恐れた。ヒンデンブルク大統領は,シュライヒャー首相を嫌悪していたに違いなく,フランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen)の勧めで,首相の座をシュライヒャーから外し,扱いやすい(と誤解した)ヒトラーを据えることを決める。
政治家として経験を積んでいたフランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen)元首相は,ヒトラーを首相に据え,自らは副首相として,ヒトラー首相を操るシナリオを考えた。しかし,操られたのはヒトラーではなく,逆に保守政治家,大統領,議会政党人だった。
写真(右)1933年8-9月,ニュルンベルク・ナチ党大会で突撃隊長エルンストレームに答礼するアドルフ・ヒトラー総統:1923年のミュンヘン一揆に参加し逮捕されたレームは,釈放後,再びヒトラーとともに突撃隊を再建した。が,主導権争いから,ヒトラーと対立し,1925年には軍事顧問としてボリビアに渡航。1931年から再び突撃隊の隊長に就任。レームは,ヒトラー政権獲得後も,第二革命を主張,ドイツ国防軍に取って代わる第二の軍隊として,突撃隊を育成しようと図った。そこで,国防軍との協力を目指すヒトラーと対立し,1934年7月,反乱を理由として,処刑。これが,「長いナイフの夜」と呼ばれる反ヒトラー派粛清である。 Nürnberg: Stabschef Röhm meldet die SA an Hitler, Reichsparteitag 1933
Archive title: Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP, "Reichsparteitag des Sieges", Adolf Hitler und Ernst Röhm in SA-Uniform, 30. August - 3. September 1933
Dating: 1933 August - September ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
◆1933年2月27日夜、ベルリンで国会放火事件が起こった。現行犯でオランダ人ルッベMarinus van der Lubbeが逮捕され,共産主義者とされた。 ヒトラー首相は、ドイツ国会放火という暴力革命・反乱を主導したとして,敵対する共産主義勢力を弾圧する機会を,見逃さなかった。
写真(右)1933-39年,首相官邸執務室テーブル前のヒトラー:1933年に首相に就任したが,執務室で書類を検討したり,閣僚を集めて閣議を開いたりしたのは,首相就任初期までだった。後は,指導者原理に則って,個人的な人間関係の中で,独自の判断を下し,それを断固,貫徹しようとした。文書を作成する能力は低く,口頭での命令を重視した。そこで,マルチン・ボルマンのような官房秘書官が重んじられた。行政部門に登用した人材は,適材適所と言うよりも,1923年のミュンヘン一揆前後から,ナチス運動に加わってきた古参の同志を徴用した。党管区(州長官相当)は,いずれも古参党員だったが,行政能力に門だがある人物も少なくなかったが,ヒトラーは政権獲得後にナチスに加わった迎合主義者ではなく,「古参党員」には絶対の価値を置いた。1933年以降にヒトラーに近寄って出世した党の要人はほとんどいない。
Adolf Hitler in Zivilkleidung auf Schreibtisch sitzend (Porträt)
Dating: 1933/1939 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1933年3月12日,ドイツ、ベルリン、ウンターデンリンデン、第一次大戦戦没者記念式典に、アドルフ・ヒトラー首相、ファン・パーペン副首相、へルマン・ゲーリング無任所大臣・プロイセン州内務大臣を率いて出席した大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領:この時期は、大統領、保守政治家、貴族に対して、謙虚に振舞っていたヒトラーだったが、1年後の1934年8月2日、ヒンデンブルクの死後、大統領職を兼ねた総統に就任し、独裁政治を本格的に開始した。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-14397
Original title: info Der große Volkstrauertag für die Gefallenen des Weltkrieges, fand unter Anwesenheit der gesamten deutschen Reichsregierung an der Spitze Reichspräsident und Reichskanzler Adolf Hitler in der Staats-Oper Unter den Linden in Berlin statt! Reichspräsident von Hindenburg verläßt das Ehrenmal Unter den Linden in Berlin. Hinter ihm Reichskanzler Adolf Hitler und Vizekanzler von Papen daneben Hauptmann Göring und Reichsarbeitsminister Seldte.
Archive title: Berlin, Unter den Linden, Staatsoper.- Volkstrauertag / "Heldengedenktag".- Werner von Blomberg, Franz von Papen, Adolf Hitler, Hermann Göring, Franz Seldte, Paul von Hindenburg (vlnr) beim Verlassen der Staatsoper; 12. März 1933
Dating: 12. März 1933
Photographer: Pahl, Georg
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
1933年3月23日、「民族・国家の危機除去のための法律(独語Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich,Law to Remedy the Distress of the People and the Nation),すなわち全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933),別名「授権法」が議会で成立した。賛成441票で,反対は社会民主党議員の94票だった。ただし,出席できない社民党議員,議席喪失の共産党員(全81議席)は投票していない。全権委任法は、ナチ党による一党独裁を法的に認めたもので,議場の議員には,圧力がかけられ,反対するのは困難だったようだ。それでも,社会民主党の一部は,ナチス独裁に反対したが,突撃隊,親衛隊によって反対派(民主派)幹部は一斉検挙された。
写真(右)1932年7月,ベルリン、ユンカースJunkers G 31輸送機から登場したサンタクロース:1920年代に13機と少数生産されたユンカース社の当時の大型輸送機で初飛行は1926年で、ju-52の初飛行1930年より4年早い。しかし、機体の構造は、Ju-52と酷似しており、Ju-52に設計が引き継がれていることがわかる。 ユンカースJunkers G 31輸送機諸元: 乗員:パイロット2人、航法・電信員各1人、乗客15人(夜間寝台は10人) 全長: 16.50 m (54 ft 1 in)、全幅: 30.50 m (100 ft in)、全高: 6.00 m (19 ft 8 in)、主翼面積: 102.0 平方メートル 空虚重量: 5,250 kg (11,590 lb)
全備重量: 8,500 kg (18,760 lb) エンジン: 3 × BMW-built Pratt & Whitney Hornet, 386 kW (525 hp)
最高速度: 210 km/h (131 mph)、巡航速度: 170 km/h (106 mph)
航続距離: 850 km (528 miles)、航続時間: 5 時間
実用上昇限度: 4400 m (14,400 ft)、上昇率: 3 m/秒 (10 ft/min)
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-14104
Original title: info Wer will mit dem Weihnachtsmann mitfliegen! Berliner Kindern wurde Gelegenheit gegeben, auf dem Flughafen in Berlin f?・r 2,50 Mark einen Rundflug mit dem Weihnachtsmann zu machen.
Archive title: Berlin.- Weihnachtsmann vor Backbordt?・r eines Flugzeugs Junkers G 31, Kinder
Dating: Dezember 1932
Photographer: Pahl, Georg
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 102-14104"引用(他引用不許可)。
1934年9月,ニュルンベルク党大会でヒトラー総統を祝福するドイツの宗教家。カトリックのシャレナー司教(左)とプロテスタントのミュラー牧師(右):Nuremberg Rally for Unity and Strength: Hitler Greets Protestant Reichs Bishop Ludwig Müller (right) and Catholic Abbott Schachleitner at the Tribune of Honor. 当初,ドイツのカトリックはナチ党への加盟を認めなかった。ドイツ中央党はカトリックを堅持し,党首フランツ・フォン・パーペンは首相にもなったほど勢力があったのである。しかし,1933年にナチス政権下で、パーペンが副首相に就任すると、ローマ教皇ピウス11世は,カトリック教徒にナチ党への加盟を認めた。見返りとして,ナチスは,1933年7月,ローマ教皇との政教条約を締結し,カトリック教徒の宗教的権利を庇護することを約束した。ナチスが,共産主義に反対していたこと,イタリアのファシスト党が宗教協約を締結して,カトリックと良好な関係を築いたことが,和解の理由である。また,政権に協力的態度をとることで,カトリック教徒をナチスの迫害から庇護することも重要な課題だった。写真は,German Historical Institute引用。
写真(右)1935年4月10日、ベルリン、大聖堂における空軍大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)とエミー・ゾンネマンの結婚式。式はベルリンドームのルードヴィヒ・ミューラー牧師が取り仕切った。首相アドルフ・ヒトラー。:ルートヴィッヒ・ミュラー牧師は、ドイツ民族主義の教会神学を立ち上げた親ナチ党のプロテスタント神学者だった。劇場の女優だった女優エミー・ゾンネマンは、1932年にワイマールでヘルマン・ゲーリングと知りあい、1933年4月にゲーリングがプロイセン州首相に任命されると、彼の推薦でベルリン国立劇場の女優となった。1935年2月にドイツ空軍の存在が公認され、3月に再軍備宣言がされると、ゲーリングンは航空大臣・空軍最高司令官となった。1935年4月10日、ベルリンでゲーリングとエミーの結婚式が催され、大聖堂の上を新生ドイツ空軍の戦闘機が編隊飛行を行った。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-16794
Original title: info Die Hochzeit des preuüllerischen Ministerpräsidenten General der Flieger Hermann Göring mit der Staatsschauspielerin Emmy Sonnemann im Berliner Dom am 10. April 1935.
Die feierliche Trauung durch Reichsbischof Müller im Berliner Dom. Das Brautpaar vor dem Altar. Im Hintergrund der Führer Adolf Hitler.
Archive title: Berlin.- Hochzeit Emmy Sonnemann und Hermann Göring.- Emmy Göring und Hermann Göring bei der kirchlichen Trauung im Berliner Dom durch Bischof Ludwig Müller.
Dating: 10. April 1935
Photographer: Pahl, Georg
Origin: Bundesarchiv
Geography Germany: Berlin/8 Kirchen und andere Kultstätten/81 Kirchen A-Z/81 Berliner Dom 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1934年3月、ドイツ、ベルリン、カイザーダムの1934年国際自動車展示会(モーターショー)に出向いたアドルフ・ヒトラー総統、航空相大臣ヘルマン・ゲーリング元帥、親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(左奥)、ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ(右)国際軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将(右端);1933年1月30日のヒトラー政権で無任所大臣として入閣、プロイセン州内務大臣に就任したゲーリングは、1933年4月10日には副首相パーペンから委譲されプロイセン州首相に就任、同時期に新設された航空省大臣も兼ねた。プロイセンはドイツの三分の二を占めており、プロイセン州警察がナチ化され、突撃隊や親衛隊が補助警察として権力を握った。1933年2月28日の国会議事堂放火事件では、共産主義者の反乱を鎮圧するとの名目で、大量検挙を行い、政敵を弾圧し、強制収容所を設置して、政治犯を「保護拘束」した。1935年3月、再軍備宣言に伴い復活したドイツ空軍の総司令官に就任する。
Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Signature: Bild 102-15601
Original title: info Reichskanzler Adolf Hitler eröffnet die große Internationale Automobil-Ausstellung 1934 am Kaiserdamm in Berlin! Reichskanzler Adolf Hitler und der preußische Ministerpräsident General Hermann Göring, besichtigen die neuesten Wagen auf der Ausstellung.
Dating: März 1934
Photographer: Pahl, Georg
Origin: Bundesarchiv ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
1934年8月2日,ヒンデンブルク大統領が死去すると,ヒトラー首相は、ドイツ大統領も兼ねる総統(Führer)の職に就いた。党の指導者「総統(フューラー)」は、新たな独裁者の称号となった。ヒトラー総統は、ドイツ国防軍の司令官を召集し、兵士をすべて総統個人に対して忠誠を誓わせることとした。総統は,陸海空三軍の総司令官を兼ねることになったのである。 国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考えた。全軍に対して,ヒトラーに忠誠の宣誓させることを承諾した。彼が,反ヒトラー派の人物となったのは,不名誉なブロンベルク国防相スキャンダル罷免の後である。
写真(右)1936年,ドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統,ヒトラーユーゲント指導者バルトゥール・フォン・シーラッハ,空軍大臣ヘルマン・ゲーリングプロイセン州首相(Hermann Wilhelm Göring:1893年1月12日-1946年10月15日自殺):ナイフを腰にした狩猟服のゲーリングは,1933年4月,プロイセン州内務大臣に就任。1935年3月の再軍備宣言以降は,新設された空軍の総司令官に就任。1936年8月には、新設された四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、戦争準備のための自給自足経済の推進、ユダヤ人資産・不動産・企業経営のアーリア化にも責任を負った。戦争準備のための経済の軍事化を進める一方で、私財蓄積の機会を活かして、贈収賄ともいえるような強欲な方法で富を築いた。外交面では対英穏健派であり、国内外での人気もあったが、ヒトラーに逆らわず、プロイセン州警察、ゲシュタポを使って反政府活動、反政府的言動を取り締まり、水晶の夜事件に際しても、ユダヤ人に保険金相当額以上の賠償を貸すなどして、反ユダヤ主義を躊躇なく推し進めた。ユダヤ人迫害を最終解決しないまま、親衛隊に権限を譲ったが、これはヒトラーの企図を汲んでのことであり、ゲーリングがユダヤ人問題の穏健な解決を望んだわけではない。
1939年9月1日,ポーランド侵攻の時,ヒトラーは,自分が倒れればゲーリングが続くと国会で演説して,事実上の後継者に指名している。ゲーリングが倒れれば,ヘス副総統が続くとも述べている。
ヒトラーは,それまで褐色の突撃隊の制服に加えて,1933年,首相に任命されてからスーツをしばしば着用。1938年,ミュンヘン会談のときには,国防軍を掌握していて,フィールドグレイの軍服を着用するようになる。 Adolf Hitler, Hermann Göring (in Jägerkleidung mit Messer) und Baldur von Schirach auf dem Obersalzberg 1936.
Dating: 1936
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチスのオーストリア人ザイス=インクワルト Arthur Seyss-Inquartを内務大臣に任命させた。シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりだったが,選挙権を巡る国内内紛がおきた。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐した。
シュシニク首相は亡命し、代わりに首相となった内相ザイス=インクワルトは、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出した。皮肉なことに,オーストリアを亡命することになるシュシュニク(Kurt von Schuschnigg)は,TimeMar. 21, 1938のカバーを飾った。
写真(右)1944年,空軍将校と面談するヒトラー総統:最前線の将校と直接面談し,青い目で見据えて,温かい言葉を掛けた。このような演出に,大半の将校は,感激して,ヒトラー総統を尊敬し,忠誠心を新たにした。将校の説明する軍事技術,前線の経験談には,慎重に耳を傾けた。しかし,戦略論やユダヤ人政策への批判は,一切許さなかった。総統は命じ,われらは従う,である。Hillbilly White Trash 引用。
1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルク(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」
陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch
将軍は,1933年,ヒンデンブルク大統領により陸軍最高位の総司令官に任命されたが,同時期の国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクとともに,上等兵上がりのヒトラー首相を軽蔑していた。ナチス政権当初,伝統的な参謀本部出身者たちは、ナチスに政治的権力を独占されることを恐れ,従来の脆弱な政治基盤しかない政党を牽制し操りながら勢力維持を図ったのである。しかし,ヒトラーが総統になり,再軍備宣言をすると,ヒトラー総統を利用して,軍の勢力を伸ばそうと画策した。
写真(右)1939年4月20日,ドイツ陸軍II号戦車Panzer II によるチェコ、プラハ進駐:前年のミュンヘン協定で、ヒトラーは、チェコスロバキアからドイツ系住民(民族ドイツ人)の住むズテーテンラントを割譲させ、これが最後の領土要求だとミュンヘン協定を締結した。しかし、ヒトラーは50歳のうちに戦争を始める決意を固めており、イギリス、フランスの宥和政策が続くかどうかにかかわりなく、ポーランド、フランスに攻め入る覚悟だった。ナチスドイツのチェコ併合の尖兵となったのがII号戦車だった。貧弱な装甲で、2センチ砲と機銃しか備えていない軽戦車であり、フランス陸軍の戦車の方が対戦背や能力は遥かに高かった。チェコ併呑の時に、フランス軍がイギリス軍の支援の下にドイツに攻勢をかければ、ドイツ国防軍首脳あった英仏との戦争の危機感を高めて、第二次大戦の様相は異なったものになったかもしれない。 Catalogue number: MH 13154
Part of CHAMBERLAIN PETER (MR) COLLECTION
Subject periodInterwar
Alternative Namesobject category: Photography
Object description: German Panzer II tanks in Wenceslas Square in Prague, 20 April 1939.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (MH 13154)
写真(右)1939年夏,ドイツ、オーバーザルツブルク/ベルクホーフヒトラーの山荘で、建築家アルベルト・シュペールに、生まれ故郷オーストリアのリンツ都市改造計画の説明を受けるアドルフ・ヒトラー:この時すでに、ポーランド侵攻を命じており、イギリス・フランスを巻き込む第二次世界大戦を戦う覚悟尾をしていた。 Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-2004-1103-500
Original title: info [Scherl-Text]
Der Führer mit Prof. Speer auf d[em] Obersalzberg [Berghof] b[ei] d[er] Besprechung von Plä
nen für das neue Opernhaus in Linz.
6049-39
Dating: 1939 Sommer
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
Geography Germany: Berchtesgaden
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)ドイツ国防軍を閲兵する総司令官アドルフ・ヒトラー総統:ニュルンベルク大スタジアムで,ドイツ国防軍の砲兵部隊が,牽引車で大型火砲を運搬している。下の演壇にはヒトラー総統。軍事パレードには,上から見下ろすような高い位置をとらず,兵士の目線で閲兵している。ヒトラー総統は,第一次大戦で上等兵伍長勤務の第一線兵士として勇戦した。このとき授与された第一級鉄十字勲章を誇りとした。公式の席では,突撃隊褐色の制服に身を包み,鉄十字勲章を提げた。World War 2 in color引用。
写真(右)ヒトラー総統と空軍大臣へルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring元帥(1893-1946):ゲーリングは,第一次大戦の空軍エースで,1918年6月,最高位のプール・ル・メリット勲章を授与。外国の要人や財界とも交流があり,戦前,米英では穏健派と目されていた。プロイセン内相として警察行政や経済計画を任され,空軍部隊も指揮した。しかし,バトルオブブリテン敗北,スターリングラード空輸失敗,本土防空戦失敗で権威凋落。1945年4月,ヒトラー総統がベルリンを死守して軍の指揮を取れなくなると危惧して,ヒトラー総統に識見を譲渡するように要請。これに,ヒトラー総統は激怒に,すべての役職を解かれた。戦後,監禁されモルヒネ中毒から立ち直ったのか,ニュルンベルク軍事裁判の論戦で注目を浴びた。死刑判決を受けたが,毒物で自決。毒物の入手経路は不明。 World War 2 in color引用。
写真(右)1941年4-5月,I号戦車にIG-33歩兵砲を搭載したI号15センチ自走砲:Sturmpanzer I Bison (Sd.Kfz.101); 15cm sIG33(Sf) auf Panzerkampfwagen I Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-163-0328-15
Archive title: Griechenland.- Schweres Infanterie-Gesch?・tz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausf?・hrung B der 5. Panzerdivision; PK 690
Dating: 1941 April - Mai
Photographer: Jesse
Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-163-0328-15引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年6月-7月,ソ連侵攻,砂埃を巻き上げて突進するドイツ陸軍III号突撃砲StuG III :24口径7.5センチ砲を装備した火力支援のための戦車。 突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。
Sowjetunion, deutsches Sturmgeschütz auf dem Marsch über staubige Straßen; PK 689
Dating: 1941 Juni - Juli
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年12月11日,ベルリン,クロル・オペラのドイツ国会、アメリカ合衆国に宣戦布告演説をするドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統:後上方には,国会議長ヘルマン・ゲーリング。国会は審議機能を停止し,ヒトラーの施政方針演説の場に過ぎなくなっていた。ポーランドとの戦争,ソビエト連邦との戦争を始めたとき,宣戦布告などしなかったヒトラーだが,世界戦争を自ら開始し,ドイツ第三帝国を千年安泰にするための戦争,すなわち世界のユダヤ人=国際金融資本家=共産主義者(ボリシェビキ),に対する戦争は,最終戦争であり,自ら戦線を布告した。これは,ヒトラーの歪んだ世界観,人種民族差別が生んだ妄想だった。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-B06275A
Original title: info Die welthistorische Sitzung des Grossdeutschen Reichstags am 11. Dezember 1941.
Immer wieder muss der Führer dem ihn entgegen brandenden Jubel des ganzen Hauses danken.
Archive title: Berlin, Kroll-Oper.- Adolf Hitler vor dem Reichstag.- Rede zur Kriegserklärung an die Vereinigten Staaten von Amerika
Dating: 11. Dezember 1941
Photographer: Hoffmann
Origin: Bundesarchiv
Photographer: Hoffmann
Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
We know the power behind Roosevelt. It is the same eternal Jew that believes that his hour has come to impose the same fate on us that we have all seen and experienced with horror in Soviet Russia. We have gotten to know first hand the Jewish paradise on earth. Millions of German soldiers have personally seen the land where this international Jewry has destroyed and annihilated people and property.
1941年12月13日のナチス宣伝省ゲッペルスJoseph Goebbels の日記「総統Führerは、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと(1939年に)と予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」 (12/12のヒトラー総統によるナチス党幹部への演説をもとにした記録)
写真(右)1943年5月―6月,ロシア、ブリャンスクの新鋭VI号重戦車「ティーゲル」 Panzer VI "Tiger I" :ブリャンスクは、ベラルーシとウクライナとの国境の街なので、スターリンの農業集団化・農地私有廃止に反対する親ドイツ派のウクライナ女性たちなのか、?号戦車「ティーガーI」の車体に上って、ドイツ軍の戦車兵たちと交歓している。8,8センチ砲は長大で、当時最高の対戦車戦闘能力を備えていたが、戦車の重量が過大で燃費が悪く、機動性も低いのが欠点だった。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-199-1444-33
Archive title: Rußland bei Brjansk.- Panzer VI "Tiger I". Einheimische Frauen und M?・nner in Tracht mit deutschen Panzersoldaten auf dem Panzer; PK 693
Dating: 1943 Mai - Juni
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-199-1444-33引用(他引用不許可)。
写真(右)1944
年、ベルギー、ゲント(ガン)上空でイギリス空軍スーパーマリーン・スピットファイアSpitfire戦闘機の銃撃を受けるフォッケウルフFw 190戦闘機:Fw-190戦闘機のパイロットはベールアウト(脱出)する直前の状態をガンカメラで撮影した。
Catalogue number: C 3621,
Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION,
Subject period: Second World War,
Alternative Names object category: Black and white,
Creator: Royal Air Force official photographer,
Object description: Film still from gun camera footage, showing cannon and machine gun fire from a Supermarine Spitfire striking a Focke Wulf Fw 190, during a dogfight over Ghent, Blegium, just prior to the German pilot baling out and his aircraft diving to earth.. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 3621)
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