Search the TORIKAI LAB Network

Googleサイト内
◆アドルフ・ヒトラー総統・ナチスの独裁者・扇動者によるユダヤ人殺戮
写真(左)1938年頃,ニュールンベルクで街頭行進する突撃隊を閲兵するアドルフ・ヒトラー総統:ナチ党大会にあわせて,全国から突撃隊が集合した。第一次大戦で復員した兵士たちの受け皿として,ナチスの準軍事的な組織として突撃隊が作られた。街頭での示威行進,選挙干渉,労働者の争議・デモの鎮圧,反ナチス派の抑圧に活躍した。突撃隊指揮官エルンスト・レームは,国民革命を主張して,突撃隊を国防軍と並ぶ世紀の軍事組織に格上げすることを主張した。そのために,ヒトラーへの謀反を企んでいるとされ,1934年「長いナイフの夜」で,同調はとともに粛清された。それ以後,突撃隊に換わって親衛隊がヒトラー総統の個人的軍事部隊として勢力を伸張した。THE SPEECHES OF ADOLF HITLER:PROBLEMS IN THE DOCUMENTARY RECORD;A WORLD FUTURE FUND STUDY IN DOCUMENTARY HISTORY 引用。
写真(右)1940年6月,フランスを降伏させ得意の絶頂にあるドイツのヒトラーAdolf Hitler 総統とイタリアのベニート・ムッソリーニBenito Mussolini 統領:ミュンヘンにて撮影。 National Archives and Records Administration :242-EB-7-38引用。大規模なパレードなど,映像にも残されれているナチスのプロパガンダは,革新的だとイメージされている。しかし,大規模なプロパガンダは,国家として,資源,施設,資源,人材,技術が動員できる状態になって,初めて可能になった。手法は,ラジオ,新聞,演説会,パレード,党大会などアメリカの大統領選挙に相当するものだった。

ヘルマン・ゲーリング/Herman Goring Fighter Ace The World War I Career of German's Most Infamous Airman [ Peter Kilduff ]:1893年、ドイツ帝国外交官を父とする上流階級に誕生、恵まれたな子供時代を過ごし、1905年、カールスルーエの幼年士官学校に入学、卒業後、1909年にプロイセン士官学校に入学して、第一次大戦の始まる1914年に陸軍少尉として歩兵部隊に配属。第一次世界大戦の緒戦では 歩兵として戦ったが、10月からドイツ陸軍航空隊へ移動、当初は偵察員、1915年からは、戦闘機パイロットとして西部戦線で戦った。1918年6月の敗戦の年に最高勲章のプール・ル・メリット勲章を授与された。ヘルマン・ゲーリングがは、リヒトホーフェン戦闘隊の大隊指揮官として敗戦を迎えた。1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年のミュンヘン一揆は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。


◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられる。
中居正広『アンネの日記』から世界平和を考える」テレビドガッチが2015年2月6日(金)21時よりTBSで放映された。その日、本研究室への新規訪問者は1万1,616人、翌7日は1,508人、8日は725人に達し、アンネの生きた戦争の時代、人種民族差別への関心がSNSでも高まっていることを実感した。しかし「実際の“隠れ家”の間取り図・断面図をフリップで見せるなどして、過酷だったその生活ぶりを検証する」というが、アンネの隠れ家の条件は最上級で、収容所のユダヤ人とは比較するまでもない。それを想像できたアンネは、ほかのユダヤ人たちを心配していたほどだった。
 気になったのは、アンネの日記を検証すれば容易にわかるような番組の錯覚が散見されたことだ。再現された隠れ家に入ったゲストが「アンネは一部屋もらっていたんですね」というが、アンネは姉と同室で、直ぐに姉と別れてデュッセル氏と同室にされた。一人一室の余裕はなかった。また、「見つかることは殺されることですね」とのゲスト発言も、収容所送り=殺害かどうかをアンネたちが議論していたことを踏まえると正確ではない。隠れた当初、労働力を提供するユダヤ人をすぐ殺すはずがないとの意見が優勢だった。解説で「ドイツ秘密警察がユダヤ人を連行した」というが、オランダ人の警察や密告者がユダヤ人捜索・移送に協力していたことは、15歳の少女も心悩ませていた。他方、ユダヤ人がイエスを殺したため、その責任をとらされて虐殺されたとの「自己責任論」が、聖書を引いて説明されたが、聖書からこの説に「都合のいい」個所だけ引用するのはいかがなものか。キリスト教会は、ユダヤ人イエス殺害説を否定しているのに、その事実も、その理由も一切触れられなかった。ヒトラーやナチスは、第一次大戦の敗戦、恐慌、汚職、政治的混乱は全てユダヤ人の陰謀であり、ユダヤ人の目的は、ドイツを堕落、隷属させることであると邪推した。そうなる前に、ユダヤ人を排除、殲滅すべきだと極論した。
 TBSは、素晴らしいメッセージを発信する良質な番組を放映したが、ゲストの発言や解説の細かな点まで監督する責任がある。世界中で読み込まれ、徹底研究されている「世界記憶遺産」に関する番組が、一般視聴者向きだから、学術研究ではないから、と安易な姿勢で作成されてはならない。「日記を破る日本人の理解はこの程度だ」と世界で誤解され、番組の中から日本に「都合の悪い」個所だけフレームアップしたプロパガンダがなされるのが心配だ。番組の言うように「アンネの書いた日記をもう一度、読み直さなければならない」

「アンネの日記破損:36歳男「心神喪失状態」で不起訴処分」(毎日新聞2014年6月20日)
 東京都内の図書館などで「アンネの日記」や関連本が相次いで破られた事件で、東京地検は20日、器物損壊容疑などで逮捕された東京都小平市の無職の男(36)を不起訴処分とした。約2カ月間の鑑定留置の結果、男は事件当時、心神喪失状態で刑事責任は問えないと判断した。都内では昨年2月以降、公立図書館38カ所などで「アンネの日記」など300冊以上が破られる被害を確認。警視庁は図書館で約40冊を破ったなどとして男を3回逮捕した。地検は「起訴は困難と判断した。人種差別的な思想に基づくとは認められなかった」とした。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、外国人・非国民の排斥、ヒトラー流の軍国主義的独裁政権確立という本音のようだ。
◆2011年7月刊行『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
そこでは、ナチ党結成、反ユダヤ主義、ホロコースト、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。

親衛隊SS黒の背衣服・儀式は,カトリック,イエズス会などの模倣である。ナチスのプロパガンダは,決してナチス独自の方法によるのではない。米英ソの文化人やメディア関係者は,ナチスのプロパガンダに対抗する必要上,敵を過大評価し,プロパガンダの予算を獲得したかった。そこで,ナチスのプロパガンダを過大評価し,情報戦の重要性を浮き立たせようとしたのではないか。(「ナチ宣伝」という神話参照)プロパガンダが効果的だった理由は,攻撃開始から2ヶ月としないうちに,強国フランスを降伏させたという,ドイツ軍の実績によるところが大きい。戦争・戦闘での勝利ほど,効果的なプロパガンダはない。

◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土)13時,9月15日(火)14時,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
◆歴史館「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess ルドルフ・ヘス」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール」を再検討。


1.ファシズム・ナチスの台頭

(1)共産主義の労兵評議会(レーテ)と国粋主義のフライコール

写真(右)1914年8月3日,第一次大戦初頭,バイエルン予備歩兵連隊戦友と一緒のアドルフ・ヒトラー:後方で立っているのは,Sperl (München), Litigraph, Max Mund (München), Vergolder。座っているのは, Georg Wimmer (München), Strassenbahner, Josef Inkofer (München) Lausamer (gefallen), der Führer(ヒトラー総統)[ヒトラー専属写真家のホフマンの解説]。25歳のヒトラーは,本来,オーストリア人だったが,長らくドイツに住んでいたので,ドイツで志願兵に応募した。1914年8月16日,ヒトラーは,バイエルン歩兵連隊第16号(旧)の一員として,戦うことになった。ヒトラーは、戦争の終わりまで,この連隊にいた。
Der Führer 25 Jahre Soldat. Unmittelbar nach der Mobilmachung, am 3. August 1914, wurde Adolf Hitlers Gesuch an den König Ludwig III. von Bayern zum Eintritt in das bayerische Heer genehmigt. Am 16. August wurde Adolf Hitler als Kriegsfreiwilliger angenommen und dem bayerischen Reserve-Infanterie-Regiment Nr. 16 (List) zugewiesen, dem Adolf Hitler bis zum Kriegsende angehört hat. Der Führer mit seinen Kriegskameraden vom bayerischen Reserve-Infanterie-Regiment 16. Von links nach rechts: stehend: Sperl (München), Litigraph, Max Mund (München), Vergolder, sitzend: Georg Wimmer (München), Strassenbahner, Josef Inkofer (München) Lausamer (gefallen), der Führer, liegend: Balthasar Brandmayer (Bad Aibling), Maurer. 11.8.39 [Herausgabedatum] de-li-schm 115 Presse-Hoffmann Dating: 1914/1918 Agency: Scherl, Presse-Hoffmann
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。)

1918年,ドイツ敗戦を契機に,ドイツ社会民主党臨時政府が樹立されたが,1919年1月,スパルタクス団Spartacus League:1918年12月以降,ドイツ共産党)による武装蜂起が起きた。ソビエト・ボルシュビキを模範した労兵評議会(革命支持の労働者と兵士の評議会:レーテ)が組織され。ミュンヘンにはドイツ共産党が指導するレーテ共和国が成立。

ドイツ敗戦を陸軍病院で迎えた陸軍上等兵伍長勤務アドルフ・ヒトラーは,退院後,ミュンヘンの所属連隊に復職の申請を出した。1919年2月,労兵評議会(レーテ)の代議員に選出されたヒトラーは,共産主義自治政府ミュンヘン・レーテ共和国の労兵評議会の宣伝部で,啓蒙活動と指令読み上げの任にあたった。

バイエルン革命政府首相の独立社会民主党クルト・アイスナーKurt Eisner)は,1918年11月8日、バイエルン王の退位を要求、共和国の成立を宣言。クルト・アイスナー(ユダヤ人)は首相は,1919年暗殺されたが,ミュンヘンでは共産主義者の反撃によって,レーテ独裁が開始。

クルト・アイスナーKurt Eisner暗殺から半年後、1919年4月,革命政府の下で,ミュンヘンの全労兵レーテが臨時会議に招集され,評議会議員の選挙が行われた。4月16日,アドルフ・ヒトラー上等兵は,大隊評議会議員に選出,共産主義政権に仕える身となった。ヒトラーが共産主義政権に加わっていた事実は,1922年3月24日『ミュンヒナー・ポスト』に掲載,ナチ党ヒトラーの日和見主義を批判した。その後のナチス政権下では,ヒトラーが共産主義政権の片棒を担いでいたことは,一切封印された。


1919年1月,ドイツ共産党の武装蜂起を,ドイツ社会民主党フリードリヒ・エーベルト(Friedrich Ebert:1871-1925)首相は,元軍人からなる愛国義勇軍フライコール(Freicorps)によって鎮圧。1919年5月初め,政府軍がミュンヘンを制圧し,共産主義者のレーテ共和国は倒された。フライコールは,政府に黙認された準軍事組織として維持された。

1919年5月末,バイエルン第四軍団司令部の啓蒙・宣伝部長に反共・反ユダヤのカール・マイル大尉が就任し,レーテ代議員から転向したヒトラーは,政治教育を受け,自らもプロパガンダを担当した。1919年9月のヒトラーの手紙には,理性に基づく反ユダヤ主義からの帰結として,「最終目標は断固として全ユダヤ人の排除でなければならない」と記された。

1919年10月16日,ドイツ労働党(1920年2月,国家社会主義ドイツ労働者党に改称)の初の公式会合で,約100名の聴衆を前に,諸国民の敵ユダヤ人に対抗せよと激昂した演説をしたのが,アドルフ・ヒトラーである。ヒトラーは,反政府勢力の監視にスパイとして派遣されたが,そのままドイツ労働者党の宣伝要員に収まった。彼の演説は魅力的で,党に300マルクの寄付が集まったのである。1921年7月,ヒトラーは,ナチ党首に選出され,24年間,自決するまでその職にあった。

◆第一次大戦後,フリードリヒ・エーベルト(Friedrich Ebert)のワイマール政府の影の軍隊あるいはドイツ参謀本部の予備軍として,維持された。敗戦で解散させられたドイツ軍将兵の就職先としても愛国義勇軍フライコール(Freicorps)は重要だった。地方自治政府も,在郷軍人会・退役軍人会として,義勇軍を黙認し,財政支援を行った。政府が統括する軍隊とは別に,私兵的なフライコール(Freicorps)が暴力装置として存続し,ナチスの突撃隊,親衛隊へと受け継がれた。

写真(右)1923年,ナチ党首アドルフ・ヒトラーの巡回プロパガンダ・チーム:自動車を使って全国を遊説したヒトラーは,民衆の注目を集め,彼らの支持を得ることで,ワイマール共和国の政治家,軍人,資本家に対抗できる力を得ようとした。しかし,合法的な範囲で選挙活動を続けても,社会民主党,共産党にはかなわなかった。そこで,突撃隊を使って,労働運動や共産党の活動を弾圧し,資本家の関心を買った。また,突撃隊によって,他政党の政治家の演説を妨害し,デモ行進を襲撃させ,選挙干渉を行った。しかし,第一党にはとてもなれず,バイエルン地方政府を使った革命,すなわちミュンヘン一揆を起こした。しかし,1923年のミュンヘン一揆は,ドイツ警察とドイツ国防軍によって鎮圧された。
Bayern.- Adolf Hitler auf einer Propagandafahrt im Auto Dating: 1923 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

(2)ミュンヘン一揆 BEER HALL PUTSCH

1923年11月8日- 9日,アドルフ・ヒトラーは,ミュンヘンで政権奪取の一揆(武力行使)を起こした。これが,ミュンヘン一揆(ビアホール・プッチ)である。

ビアホール「ビュールゲルブロイケラー(Bürgerbräukeller)」に集まったバイエルン州自治政府首脳(首相カールなど三名)を人質にとって,バイエルン自治政府首脳に協力させ,ナチ党突撃隊が,国防軍・警察を率いてベルリンに進軍、第一次世界大戦の参謀総長エーリヒ・ルーデンドルフErich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍を首班とする新政権を樹立する計画だった。これは,1922年10月,ファシスト党ムッソリーニによるローマ進軍'March on Rome'と同じである。ビアホール一揆で,ヒトラーは「国民革命は開始された。臨時政府が樹立される。」と大見得を切った。 

エーリヒ・ルーデンドルフErich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍は,バイエルン政府首脳三名の解放要求に,独断で応じ,三名を解放してしまうという大失策を犯した。これは,政府要人を監禁するという犯罪行為の責任を,ルーデンドルフ将軍が,回避したためである。解放されたバイエルン自治政府首脳三名は,監禁・脅迫した一揆の連中を,軍・警察によって鎮圧することを決めた。(カール首相らは,1938年「長いナイフの夜」に,ナチス親衛隊によって殺害。)

1923年11月9日,ビアホール「ビュールゲルブロイケラー(Bürgerbräukeller)」でのビアホール一揆の時、ヒトラーは,共和国軍(国防軍)・警察の信頼が厚い(と錯覚していた)ルーデンドルフ将軍を伴って,占拠中の陸軍省までナチ党突撃隊によるデモ行進した。軍・警察がルーデンドルフ将軍に服従すれば,形勢を一挙に逆転できるからである。

デモ隊が将軍廟前にくると,警察はデモ鎮圧のために銃撃を開始。突撃隊は10名以上の死者を出し,逃走。エーリヒ・ルーデンドルフErich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍将軍は,その場で投降,逮捕。駐屯軍司令部占拠部隊エルンスト・レームも,投降した。ルーデンドルフも,レームも将校待遇を受け,身の安全が保障された。ヒトラーは逃げたが,二日後,逮捕。

写真(右)1924年4月1日,ミュンヘン一揆(1923年11月)の参加者に対する大逆裁判 1923年11月8-9日のミュンヘン一揆失敗後,ミュンヘンで裁判を待つルーデンドルフErich Ludendorff将軍・ナチ党ヒトラーほか:左から,ハインツペルネ博士Heinz Pernet, フリードリヒウェーバーFriedrich Weber, 、ヴィルヘルムフリックWilhelm Frick(後の内務相), 、ヘルマンHermann Kriebel,エーリヒ・フォン・ルンデンドルフErich Ludendorff, アドルフヒトラーAdolf Hitler,、ヴィルヘルムエルンストErnst Röhm, Wilhelm Brückner, Röhm 、ロバートワグナーRobert Wagner。
1922年10月,ファシスト党ムッソリーニのローマ進軍'March on Rome'を模倣して,ヒトラーは,政権奪取を図った。しかし,期待していたルーデンドルフ将軍などドイツ軍からの参加者は,積極性に欠けていた。上等兵だったヒトラーが仕掛けた一揆で,首尾よく政権の座に着くことを期待していた将軍は,警察に反撃にあうと,即座に,抵抗することなく投降してしまった。有名な将軍は,捕まっても礼儀正しく将校待遇された。陸軍省を占拠していた突撃隊レームErnst Röhm指揮官も逮捕されても,元大尉の待遇を受けると期待し,警察に降伏した。突撃隊は「ならず者」「反逆者」とされる可能性もあり,伍長勤務上等兵だったヒトラー党首は逃走二日後に逮捕。ゲーリングは亡命。
Hochverratsprozeß gegen die Teilnehmer am Münchener Putsch vom 9. Nov. 1923; München 1924 Archive title: München.- nach Hitler-Ludendorff Prozess, Gruppenbild, vlnr: Heinz Pernet, Dr. Friedrich Weber, Wilhelm Frick, Hermann Kriebel, Erich Ludendorff, Adolf Hitler, Wilhelm Brückner, Ernst Röhm, Robert Wagner Dating: 1. April 1924 Photographer: Hoffmann 撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

 エーリヒ・ルーデンドルフErich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍は,バイエルン政府首脳三名の解放要求に,独断で応じ,三名を解放してしまうという大失策を犯した。これは,政府要人を監禁するという犯罪行為の責任を,ルーデンドルフ将軍が,回避しようとしたためである。犯罪者として訴追されることを恐れた将軍は,一揆失敗の場合の言い逃れの口実をつくった。解放されたバイエルン自治政府首脳三名は,監禁・脅迫した一揆の連中を,軍・警察によって鎮圧することを決めた。
カール首相らミュンヘン一揆の裏切り者は,1938年「Der "Röhm-Putsch" 長いナイフの夜」に,ナチス親衛隊によって殺害された。

斉藤茂吉は,1921-24年ドイツ留学中,ミュンヘン一揆を体験した。「戒厳令の布かれたミュンヘンの街は,底に鬱勃(うちぼつ)たるものがあるようで,薄気味悪い。私等は小道を通ってオデオン広場まで来ると,機関銃を構えたいったいの兵と,黒い毛フサある抜身の槍を持った騎馬巡査の一隊が二列に其処を固めているのを見た。ルードウィヒ大街道は,電車も止まり,馬車,自動車の往来もとまったので,薄い夜霧がこめてしずまりかえっている。」(1923年11月9日の茂吉の日記)

    をりをりに 群集のこえか 遠ひぎき
        戒厳令の街はくらしも (『遍歴』大正11年〜13年の欧州生活を歌った歌集)
以上は,ロジャー・ムーアハウス(2007)高儀進訳『ヒトラー暗殺』p.404引用。

エーリヒ・ルーデンドルフErich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍は,副官とともに,堂々と警察に行進し逮捕されたとの俗説がある。実際は,将軍は,銃撃が始まる中,警察に身の安全を求めた。命惜しさに投降したようだが,ルーデンドルフ将軍は,ミュンヘン一揆に利用されただけだと責任逃れをした。将軍の無責任さは,ヒトラー党首が,裁判で熱烈な愛国者として,一揆の全責任を認めたのとは対照的だった。

エーリヒ・ルーデンドルフErich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍など,栄光あるドイツ参謀本部出身者や貴族出身政治家にとって,ミュンヘン一揆は,終わりの始まりだった。犯罪には加担していない,利用されただけだ,命令に従っただけだ,同じ遁辞を25年後にニュルンベルク裁判に被告として出廷した将軍・政治家たちから聞かされることになる。

ミュンヘン一揆失敗後,ヒトラーは裁判を自己宣伝のプロパガンダに利用した。法廷で,ヒトラーは、ワイマール共和国を,第一次大戦で祖国を裏切った11月の犯罪者がつくった政府として非難し,ドイツ復興の障害となるベルサイユ条約の呪縛からのドイツ解放が一揆の目的だったと,全責任を認めた。

正々堂々とベルサイユ体制と混乱・腐敗した政府を非難したヒトラーは,ドイツに身を捧げた熱烈な愛国者,ドイツへの殉教者として振る舞い,人気を博した。劇場国家のはしりだった。

バイエルン州政府司長官フランツ・ギュルトナーFranz Gürtner (1881-1941)は,保守主義者で,ヒトラーの国家主義に同調,判決は,禁固5年,実際は9ヶ月のランツベルグ刑務所での軟禁だった。

ヒトラーに温情を示したギュルトナー博士は,1933年のナチス政権で栄転,司法大臣に任命され,新たに民族法廷を設置,ナチス主導の簡易裁判をはじめた。

写真(右)1923年3月7日,ライプチッヒのユンカースJunkers F 13 輸送機:乗員:2名、乗客数:4名。
全長:9.59 m、全幅:14.8 m、全高:3.50 m、翼面積:34.50平方メートル。
空虚重量:951 kg、ペイロード:320 kg、最大離陸重量:1,640 kg。出力荷重:14.05 kg/kW
エンジン:メルセデス D.IIIa、118 kW (160馬力)
最高速度:173 km/h (107 mph)、巡航速度:160 km/h (100 mph)。航続距離:1,400 km (870 miles)、巡航高度:5,000 m。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-00007 Original title: info Flugzeugreise des Reichspr?・sidenten zur Leipziger Messe am 7. M?・rz 1923. Start des Flugzeuges mit dem Reichspr?・sidenten auf dem Tempelhofer Feld. Archive title: Berlin-Tempelhof.- Flugzeug Junkers F 13 von Reichspr?・sident Friedrich Ebert Dating: 7. M?・rz 1923 Photographer: Pahl, Georg 撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ユンカースF-13諸元
全長 9.6メートル,全幅(スパン) 14.8メートル,翼面積 34.5平方メートル
自量 1075キロ,全備重量 1800キロ
エンジン 液冷6気筒BMW185馬力
最大時速 170キロ,巡航速度 140キロ
上昇限度 4600メートル,航続距離 1200キロ

(3)『わが闘争』 Mein Kampf

ヒトラーは,後の副総統ルドルフ・へスRudolf Heß(1894-1987)に口述筆記させ,1925年『わが闘争』を刊行した。ここに名言されている通り,ユダヤ人が共産主義と結びつき,ドイツの勢力拡大を阻止しているとヒトラーは信じていた。ユダヤ人が操る共産主義とソ連,ユダヤ金融資本・ユダヤ人メディアに踊らされている堕落した物質文明アメリカは,ナチスドイツの敵であった。

ヒトラーとナチス党にとって,ユダヤ人はドイツの敵であり,ユダヤ人排除は,ドイツのために必要な措置であった。ユダヤ人共産主義者がソ連を支配し,ユダヤ人金融資本がアメリカと大英帝国を操って,ドイツに戦争を仕掛けてくる。となれば,ドイツを発展させるためには,敵対者ユダヤ人の連合国と世界戦争を戦う準備をしなくてはならない。ドイツのユダヤ人は排除しなくてはならない。ヒトラー総統も,自己の野望達成のためには,公約を覆し豹変した。敵視していた共産主義ソ連と独ソ不可侵条約を締結した。中国国民党に派遣していた軍事顧問団を引き上げて,反英米に向かわせるために日本軍に融和的態度を示した。この現実主義を誤解した結果,ヒトラー総統が労働力として使えるユダヤ人の絶滅を命じるはずがないという誤認が生まれた。

◆ヒトラーは,目的達成のためには手段を選ばない。ユダヤ人に対する差別・迫害自体が,ヒトラーの目標だったのであり,ヨーロッパ・アーリア人を人種汚染し,敵対して勢力を拡大する非ヨーロッパ人種民族を排除あるいは絶滅するという目標は,変更されることがなかった。目標の実行時期,目標の言い回し,目標達成の手段,目標の遂行者は変化したが,人種差別の目標を変更したことはなかった。ヒトラー総統は,自らは手を血で汚すことなく,忠実な親衛隊あるいは使い勝手のいい者を煽動し,差別,迫害,排除を実行させることになる。

(4)ナチ党主ヒトラーのプロパガンダ

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党・ナチス)は,ヒトラー党首の雄雄しい演説,プロパガンダによって,ソ連のような共産主義を嫌悪しつつ,ワイマール政府の無能ぶり,ベルサイユ体制の打破を主張する革新政党だった。1929年以降の世界大恐慌によって,ドイツ国内の資本化・労働者・生活者の不満はたかまっており,現状を打破できる革新政党が求められていた。大恐慌時代のドイツで,ナチ党は,庶民の不満をプロパガンダで吸い上げ,急速に支持を高めていった。野党の革新政党として,何一つ経済・政治の実績はなかった。しかし,ワイマール政府の腐敗,大恐慌,ベルサイユ条約の頚城から自由になることを,ドイツの有権者は期待した。ドイツ復興の希望を,革新政党ナチ党に見出したように思った。

大不況の中、労働争議が頻発し,地方政府に支持された退役軍人会・政党・労働組合がフライコールに類似した準軍事的組織を結成し,暴力抗争、街頭騒擾も多発した。左右のイデオロギー対立は激化した。

写真(右)1927年,ニュルンベルクのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)大会に参加したヒトラー首相:旗の近くのメガネの男性は,突撃隊員旗手ハインリヒ・ヒムラー,後に親衛隊SS国家長官になり,ドイツとその占領地の警察の全権を握ることになる。党の主導権争いに敗れることになるグレゴール・シュトラッサーがヒトラーの隣にいる。ニュルンベルグナチ党大会といっても、政権獲得前は,大規模で壮麗なものではない。こうしてみると,ナチスのプロパガンダというのは,資金をつぎ込むことが出来た政権獲得後のものが印象深いだけで,実際にプロパガンダによって,大衆の心をつかんで,政権をとったのかとの疑い強まる。政権獲得は,親衛隊の粗野で容赦のない暴力によるところも大きいだろう。ただし,資本家や有名人などが,ヒトラーの強い大ドイツ復興の主張に共鳴したり,共産主義者,労働組合を鎮圧したりと,ナチスを利用しようとしたご都合主意も忘れることは出来ない。
Nürnberg.- Reichsparteitag, Gruppenaufnahme, von rechts: Franz Pfeffer von Salomon [Franz von Pfeffer], Adolf Hitler, Gregor Strasser, Rudolft Heß, Heinrich Himmler, rechts SA-Standarte Dating: 1927
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

◆アドルフ・ヒトラーも,ヨーゼフ・ゲッペルスも,ともに若いときには,右翼の国家主義,左翼の社会主義の間を揺れ動いていた根無し草だった。ヒトラーは共産主義の労兵評議会(レーテ)の代議員だったし,ゲッペルスもボリシェビキ・ユダヤ人を結びつけるヒトラーの演説に失望した文学博士のインテリ社会主義者だった。しかし,二人に共通しているのは,国家主義,社会主義などイデオロギーの問題を「超克」し,権力掌握を第一優先した演説・プロパガンダ・行動だった。世論の支持・大衆の煽動だった。そのためには,新機軸として,党大会の演出,ラジオ・新聞・ポスターなどマスメディアの活用,突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントのような行動的な団体を組織した。
 ヒトラー,ゲッベルスは,出世主義,権威主義,権力掌握を第一とする俗物であり,イデオロギーではなく,個人崇拝を基盤にした。ヒトラーのナチ党は,権力掌握の野望,生存圏を確立した大ドイツ帝国確立のためには,手段を選ばなかった。


写真(右)1931年10月,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の突撃隊集会に臨むヒトラー総統(党首),続くは突撃隊最高指揮官エルンスト・レーム「ブラウン・シュワイク」-カギ十字のナチス党旗を先頭に整列した突撃隊(褐色の制服)を閲兵するヒトラーとレーム。仰々しく,みすぼらしい仮装行列のようだが,これがNazisが政権を獲得するまでのプロパガンダだった。突撃隊は,革命を標榜していたが,粗野な暴力をふるって,敵対する党,組織を襲った暴力集団だった。おなじ暴力装置でも,ドイツ国防軍に対しては,劣等感と反感を抱いていて,レームは,自ら率いる突撃隊を第二の軍隊に,さらに国防軍にとってかわる軍隊にまで高めようと画策した。そのため,国防軍と協力する道を選択したヒトラーと彼の配下の親衛隊SSは,レームたち突撃隊の過激分子を反逆者として,粛清した。これが,1934年6-7月の「長いナイフの夜」である。
[Adolf] Hitler in Braunschweig, Okt. 1931 Archive title: Braunschweig.- Adolf Hitler und Ernst Roehm beim Abschreiten einer Formation von Hakenkreuzflaggen bei einer Tagung / Treffen der NSDAP Dating: Oktober 1931 Photographer: o.Ang. Agency: Aktuelle-Bilder-Centrale Georg Pahl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

ナチスは,煽動,プロパガンダによって,突撃隊に選挙干渉,ユダヤ人迫害,示威行進させた。力強く,衝撃的な映像があるが,初期のナチスのプロパガンダは,演説会,突撃隊による行進,党機関紙の発行,若干のポスターの配布程度である。1933年の政権獲得後,大スタジアムを建設,一般市民の中に(ナチ党だけではなく)国家的行事に参加しないわけには行かないとの大衆動員の集団心理をもたらした。パレードに声援を送り,党大会に出席しなければ,反ナチスとされ,政府機関や就職先企業でも不利益を被る恐れがあった。党レベルでは難しい大規模な飛行機,探照灯,消防・軍用車両あるいは,警察・軍隊の利用も,政権につくことで可能になった。映画・ラジオ・発行部数の多い新聞・雑誌で宣伝できたのは,国家予算を投入したからである。ナチスのプロパガンダが,政権獲得前から,効果的だったかどうかは,疑わしい。

1932年1月22日(第一党だったが政権奪取していない時)のゲッペルスの日記「総統(当時はナチ党主の公式的地位)と将来のことを話し合った。特に私の将来の役職と権限の輪郭を詳しく描いた。考えられているのは,国民教育相で,映画,ラジオ,当たらし教育施設,芸術,文化,宣伝を総括するものだ。革命的な役職で,中央から指導され,とりわけ帝国(ライヒ)の思想を最優先で代表するものだ。まったく偉大な計画で,こうしたやり方は世界中まだどこにもなかったものだ。私は,この省の基礎を入念に研究し始めた。われわれの政権の精神的基盤を作り,政府機関だけではなく,ドイツ人すべてを獲得することに役立てたい」

ナチ党政権獲得前,プロパガンダは,マスメディアの利用,資金,組織,宣伝対象の上で,限定されていた。大規模なプロパガンダは,ナチ党政権獲得後になって,国家資金,政府機関を通して初めて可能になった。

ヒトラーユーゲントも,大組織となったのは,ナチス政権下で,他の青少年団体が解散させられ,全ドイツの青少年の加盟が義務付けれて以降である。カトリックがナチ党加入を公認したのも,政権獲得以降である。ニュルンベルク大スタジアムの大式典も政権獲得以降である。飛行機・軍用車両を利用したパレードも,ヒトラー総統が軍最高司令官に就任して以降である。

1930年初頭まで,ナチ党プロパガンダは,突撃隊による行進・暴力,頻繁な演説会,党機関の発行など,決して独創的なものでも,洗練されたものでもなく,影響力も限られていた。
 ナチ党政権獲得には,当時のワイマール共和国(ドイツ)の保守政治家・議会政党人の権謀術数の弊害,大恐慌による生活悪化,ベルサイユ体制への批判,社会主義・共産主義勢力の拡大を恐れる資本家・米英など外部要因の影響も,大きいと考えられる。ただし,それらの要素を取り込むことができたのは,ナチスの運動と計略が功を奏したということである。


写真(右)1932年,演説のポーズをとったナチ党首アドルフ・ヒトラー:1933年に首相に就任する前,計算されつくした演説内容とプレゼンテーションをプロパガンダとして活用した。現在の視点では,滑稽芸人のようだが,真剣,熱烈な大声で,反共産主義,反ユダヤ主義(アンチセミニズム),反議会主義を訴え,大衆を煽動した。ワイマール共和国のそれまでの政治家とは異なって,秩序と規律を表象する軍隊式パレード,過激な暴力を行使する突撃隊など,力を見せ付けて,敵対者を威圧し,暴力で排除した。
Die Geste der rechten Hand ! Typische Rednergesten, bei welchen die Bewegung der rechten Hand den Höhepunkt in den Ausführungen des Redners unterstreicht. Der Führer der Nationalsozialisten Adolf Hitler in einer typischen Rednerpose. Dating: 1932 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

フライコールは,義勇軍だったが,第一次敗戦後も、ドイツ参謀本部の隠蔽工作と,敗戦後解散させられたドイツ軍将兵の就職先として,維持された。地方自治政府も,在郷軍人会・退役軍人会などの義勇軍を半ば黙認していた。ナチ党も,元将兵を取り込んだ突撃隊Sturmabteilung(SA)を組織して,労働者のデモを鎮圧し,選挙の対立候補を襲撃し,街頭を示威行進した。軍隊のように隊列を組んだ武装集団が,ドイツの街頭を行進していた。後の宣伝相ゲッベル博士は,「街頭は,現代の政治の縮図であり,街頭を支配したものが、大衆を征服できる。大衆を制したものが国家を征服する。」と考えた。

ヒトラーによれば,ユダヤ人が金融資本・マスメディアによって操っている堕落した民主主義・物質主義アメリカは,ヨーロッパとは別世界である。しかし,ギリシャ・ローマ文明を引き継ぐヨーロッパ文明も,ユダヤ人による人種汚染,アジア有色人種が旺盛な生殖力によって,没落させられようとしている。この危機を救うことこそ,自分の使命,ナチ党の目標だとヒトラーは妄信した。

2.1933年ナチスの政権獲得:ヒトラー首相の誕生

(1)1932年総選挙で第一党となったナチ党
ドイツが困難に陥っているのは,ドイツを裏切ったユダヤ人・共産主義者のためであるという主張は,ドイツ人の誇りと名誉を傷つけずに,現在の困難を説明してくれる。自己責任を認めたくない政治家,ビジネスマンも,失業者も,低所得者も,ナチスの主張に納得した。ヒトラー総統の雄雄しい演説に,ドイツ人の名誉を取り戻したように思った。未来のドイツ復興に力づけられた。

ナチスの勢力は飛躍的に伸びた。ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%から,1930年9月には18.3%で107議席を獲得,国会の第二党に躍進したのである。総選挙の得票率は,1932年7月37.4%と第一党になった。

写真(右)1933年3月21日,ポツダムでヒンデンブルク大統領,フォン・フロンベルク国防相に挨拶するヒトラー首相:いずれも第一次大戦に参加しているが,将官クラスのヒンデンブルク,フロンベルクに比して,ヒトラーは伍長勤務上等兵という兵卒だった。将官たちは,小物ヒトラー首相を睥睨し,操縦するつもりでいた。ヒトラーは野心を押し隠して,従順な首相を演じたが,二人の老将軍を,時代遅れの敗け将軍で,その戦術・戦略能力も全く評価していなかったに違いない。ヒトラーは,まず多数の民衆を味方につけて,強権的な将軍たちに圧力をかけた。しかし,自ら政権を手にすると,裏を返すように,強権的な政治を開始,労働運動,共産主義,自由主義を弾圧し,ナチスによる一党独裁の確立を目指した。次の目標は,ドイツ国防軍を従えることである。
Der historische Tag von Potsdam am 21. März 1933. Reichspräsident von Hindenburg mit Reichskanzler Hitler und Reichswehrminister von Blomberg vor der Garnisonkirche in Potsdam Archive title: Potsdam.- Paul v. Hindenburg (mit Pickelhaube), Werner v. Blomberg (mit Stahlhelm) und Adolf Hitler vor Garnisonkirche Dating: 21. März 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

第一党となったナチ党首アドルフ・ヒトラーは,1932年,大統領選挙に出馬した。1932年の大統領選挙には,1925年以来の現職パウル・フォン・ヒンデンブルクPaul von Hindenburg元帥に、共産党首エルンスト・テールマンErnst Thaelmann、国家人民党(国家主義政党)ディスターベルクが立候補し,彼らと得票を競った。得票数は,第一回目に,第一位のヒンデンブルグ1865万票、第二位のヒトラー1339万票,第二回の決選投票では,ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票で,ヒトラー党首の得票率は37%だった。

ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%,1930年9月18.3%,1932年7月37.4%と支持を伸ばした。第一党の党首ヒトラーは,カトリックを基盤とする中央党出身の首相フランツ・フォン・パーペンFranz von Papen)に首相の座を明け渡すように要求し,ナチ党のヘルマン・ゲーリングは,国会議長に選出された。
 国会では,ゲーリング議長がパーペン首相の所信表明演説を遮って,ドイツ共産党が提出した内閣不信任決議を採択,それが可決されると,フランツ・フォン・パーペンFranz von Papen)首相は,選出されたばかりの議会を解散した。1932年11月の再選挙で,ナチスは議席を減らしたものの、第一党にとどまった。

1932年11月の総選挙で,ナチ党は躍進を期待していたが,ナチ党の得票率は32.2%に低下した。これは,他政党との連携ができず,突撃隊による暴力的な選挙妨害や示威行動が,一般市民の全面的支持を得るに至らなかったこと,社会民主党共産党など他政党の支持も根強かったことがある。ヒトラー党首とナチ党幹部は,国民の支持率の低迷に衝撃を受けた。

写真(右)パーペンFranz von Papen副首相Vice-Chancellor ・ヒトラー首相・ゲッペルスGoebbels博士:1932年12月1日にヒンデンブルク大統領との協力に熱心だったパーペン首相は,国防相シュライヒャー将軍の策謀によって,退陣させられ,軍人内閣としてシュライヒャー将軍自らが後継首相におさまった。

ナチ党は1932年11月選挙で後退する中,パーペン首相は,権力基盤を固めるためにヒンデンブルク大統領による独裁を画策し,国防相シュライヒャーに協力を要請した。パーペン首相の大統領独裁案は,ヒンデンブルク大統領に、国防軍を出動させて議会を半停止、その間に改憲して大統領権限を強化し,独裁政権を樹立,ドイツの政局安定化を狙うものだった。ヒンデンブルク大統領は乗り気だったが,国防大臣シュライヒャーが、自らドイツ首相になる機会を手放すわけはなかった。シュライヒャー国防相は,ナチ党議員を取り込んだ連立内閣を主張し,国防軍も将軍による軍事内閣を望んでいるとして,ヒンデンブルク大統領に自らを首相にするように圧力をかけた。人気,権威はあっても,軍の実権がないヒンデンブルクは,大統領独裁をあきらめ,新首相にシュライヒャーを任命した。大統領には,部下に裏切られたような苦渋の選択だったであろう。

シュライヒャー首相は,第一党のナチ党を分裂させるために,ナチ党議員シュトラッサー(翌年のレーム事件で粛清)を懐柔,軍部独裁を計画した。これは,現役将軍による軍部独裁の計画である。しかし,ヒトラー党首は、シュトラッサーの内閣協力を拒否,ナチ党員シュトラッサーは辞任させられてしまう。シュトラッサーは,ヒトラー党首の意に反して入閣しようとした裏切り行為により,翌年,レーム粛清(長いナイフの夜)で殺害された。

ナチ党は,得票率を落として,危機意識を高めた反面,社会主義(ドイツ社会民主党)・共産主義(ドイツ共産党)の勢力拡大,地方政府とドイツ国防軍の離反を恐れたフランツ・フォン・パーペンFranz von Papen:1879-1969),クルト・フォン・シュライヒャーKurt von Schleicher(1882~1934),ヒンデンブルク大統領などワイマール共和国保守党政治家は内部対立していた。保守的政治家だけでなく,社会民主党の政治家も,政治家実務のないナチス(ナチ党員)とヒトラー党首は,プロパガンダによって体制批判,ユダヤ人差別をするポピュリスト(人気取り)で,実務担当能力は低いと見下していたのは間違いない。 

写真(右)1933年3月,ベルリン郊外、ポツダム、衛戍(ギャリソン)教会、第一次大戦戦没者追悼式に参列した内務大臣ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)、首相アドルフ・ヒトラー、労働大臣フランツ・ゼルテ(Franz Seldte)鉄兜団団長、副首相フランツ・フォン・パーペン(von Papen、無任所大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)プロイセン州内務大臣:ギャリソン教会は、18世紀にプロイセン国王が軍人を記念して建立し、フリードリヒ大王の墓所もある。古都ポツダムは、プロシア王国以来の軍国主義の整地であった。1933年のドイツ国会議事堂放火事件後、ヒトラーは新しい国会の開会式をポツダムで催すことを決める。1933年3月21日、ポツダムのギャリソン教会を会場とし、ヒトラーの新秩序が示された。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-14434 Original title: info Die historische Reichstags-Eröringffnung in der Garnisonkirche in Potsdam! Die Ehrentribüne der Reichsregierung vor der Garnisonkirche von rechts nach links: Minister Göring, Minister Seldte, Reichskanzler Adolf Hitler. Vizekanzler von Papen und Minister Frick. Archive title: Potsdam.- Feier zur Eröffnung des Reichstages (Reichstagseröffnung, "Tag von Potsdam").- Ehrentribüne in der Garnisonkirch. Vlnr: Wilhelm Frick, Franz von Papen, Adolf Hitler, Franz Seldte, Hermann Göring Dating: 21. März 1933 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


◆首相の座をシュライヒャー将軍に奪われたフランツ・フォン・パーペンFranz von Papen)は,ヒンデンブルク大統領にヒトラーを首相にするように働きかけた。ヒンデンブルク大統領は,大統領独裁の機会を国防大臣時代のシュライヒャーに潰されており,シュライヒャー首相・将軍による軍部独裁となり,大統領の権力が低下するのを恐れた。ヒンデンブルク大統領は,シュライヒャー首相を嫌悪していたに違いなく,フランツ・フォン・パーペンFranz von Papen)の勧めで,首相の座をシュライヒャーから外し,扱いやすい(と誤解した)ヒトラーを据えることを決める。

政治家として経験を積んでいたフランツ・フォン・パーペンFranz von Papen)元首相は,ヒトラーを首相に据え,自らは副首相として,ヒトラー首相を操るシナリオを考えた。しかし,操られたのはヒトラーではなく,逆に保守政治家,大統領,議会政党人だった。


写真(右)ヒンデンブルク大統領とともに行進するヒトラー首相:第一党のナチ党首は,パーペン元首相の働きかけで,首相に任命された。ヒンデンブルク元帥は,ヒトラー上等兵と同席している。首相経験もある熟練した保守政治家パーペン副首相は,政治実務経験のまったくないヒトラー首相を操ろうとしていた。

◆ワイマール共和国の保守政治家たちは,自己の権力安定・拡大を優先して,権謀術数に明け暮れていた。議会の社会民主党・共産党など政党政治家も,反動・保守の大統領の権限が強く,保守政治家に対抗できなかった。このような時代閉塞の混乱した状況を打ち破るのは,革新的な行動力あるナチ党しかない----と思われた。

(2)大統領緊急命令・全権委任法によるナチ党独裁

写真(右)1933年8-9月,ニュルンベルク・ナチ党大会で突撃隊長エルンストレームに答礼するアドルフ・ヒトラー総統:1923年のミュンヘン一揆に参加し逮捕されたレームは,釈放後,再びヒトラーとともに突撃隊を再建した。が,主導権争いから,ヒトラーと対立し,1925年には軍事顧問としてボリビアに渡航。1931年から再び突撃隊の隊長に就任。レームは,ヒトラー政権獲得後も,第二革命を主張,ドイツ国防軍に取って代わる第二の軍隊として,突撃隊を育成しようと図った。そこで,国防軍との協力を目指すヒトラーと対立し,1934年7月,反乱を理由として,処刑。これが,「長いナイフの夜」と呼ばれる反ヒトラー派粛清である。
Nürnberg: Stabschef Röhm meldet die SA an Hitler, Reichsparteitag 1933 Archive title: Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP, "Reichsparteitag des Sieges", Adolf Hitler und Ernst Röhm in SA-Uniform, 30. August - 3. September 1933 Dating: 1933 August - September
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

◆1933年2月27日夜、ベルリンで国会放火事件が起こった。現行犯でオランダ人ルッベMarinus van der Lubbeが逮捕され,共産主義者とされた。
ヒトラー首相は、ドイツ国会放火という暴力革命・反乱を主導したとして,敵対する共産主義勢力を弾圧する機会を,見逃さなかった。

ワイマール憲法第48条の大統領緊急令は, 「公共の秩序・安定が危機にあり,国家が憲法の義務を履行できない場合」,大統領は軍の支援を得て,身体の自由、住居不可侵、通信の秘密、言論の自由、集会結社の 自由、私有財産の保護という規定を停止することができるというものである。

ドイツ国会放火事件の翌日,1933年2月28日内務大臣ヴィルヘルム・フリックWilhelm Frick(1877-1946)が草案を書いた「民族・国家防衛のための大統領緊急命令」に,ヒンデンブルク大統領は署名した。これによって,ワイマール憲法における人権規定は効力が停止された。つまり,民族・国家防衛のための大統領緊急命令によって,ワイマール憲法が保障していた言論・集会の自由、令状によらない逮捕の禁止など基本的人権は停止され,ワイマール憲法崩壊・警察国家の下地が準備された。

1933年1月30日成立のヒトラー政権の下,ドイツの過半(ベルリンを含む)を占めるプロシャ,すなわちプロイセンPreußen州(自治政府Freistaat)内相に,ヘルマン・ゲーリングが就任した。ゲーリングは,警察権を手中に収め,国会放火事件直後,ドイツ共産党本部から国会放火計画にかかわる書類を押収し,さらに全国規模で公共施設や政治家へのテロを企てていたと発表した。プロイセン内相ゲーリングは,治安警察・刑事警察を緊急出動させ,ドイツ共産党の支所を閉鎖し,共産党国会議員を逮捕させた。 

ドイツ全国での大規模テロの陰謀に加担したとして,反ナチスの共産党や労働組合活動家ばかりでなく,潜在的なナチス敵対者も含め,数千名が逮捕された。拘束された者は,強制収容所に拘禁されるなど,人権は完全に無視された。1933年12月23日,国会放火事件の判決が言い渡され,放火および反逆罪の咎でルッペは断頭台に送られた。

写真(右)1933-39年,首相官邸執務室テーブル前のヒトラー:1933年に首相に就任したが,執務室で書類を検討したり,閣僚を集めて閣議を開いたりしたのは,首相就任初期までだった。後は,指導者原理に則って,個人的な人間関係の中で,独自の判断を下し,それを断固,貫徹しようとした。文書を作成する能力は低く,口頭での命令を重視した。そこで,マルチン・ボルマンのような官房秘書官が重んじられた。行政部門に登用した人材は,適材適所と言うよりも,1923年のミュンヘン一揆前後から,ナチス運動に加わってきた古参の同志を徴用した。党管区(州長官相当)は,いずれも古参党員だったが,行政能力に門だがある人物も少なくなかったが,ヒトラーは政権獲得後にナチスに加わった迎合主義者ではなく,「古参党員」には絶対の価値を置いた。1933年以降にヒトラーに近寄って出世した党の要人はほとんどいない。
Adolf Hitler in Zivilkleidung auf Schreibtisch sitzend (Porträt) Dating: 1933/1939 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

1933年3月5日,総選挙が,ナチス対立候補に対する選挙妨害の中で行われた。しかし,ナチスの暴力や人権無視は,ドイツ一般市民にも嫌悪感をもたれていた。3月5日の総選挙では,ナチ党は得票率43.9%、288議席を得た。しかし,徹底的な選挙妨害にもかかわらず,過半数には届かなかったのは,投票者のバランス感覚のためだった。弾圧されていたドイツ社会民主党は125議席,ドイツ共産党は81議席を獲得した。このような干渉選挙によって過半数を獲得できないことに衝撃を受けたヒトラー首相やナチ党幹部は,もはや通常の民主的手続きによって,政権を維持できないことを悟った。彼らは,人気とり迎合主義のポピュリストPopulist)だったがゆえに,世論の離反を恐れていた。

写真(右)1933年3月12日,ドイツ、ベルリン、ウンターデンリンデン、第一次大戦戦没者記念式典に、アドルフ・ヒトラー首相、ファン・パーペン副首相、へルマン・ゲーリング無任所大臣・プロイセン州内務大臣を率いて出席した大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領:この時期は、大統領、保守政治家、貴族に対して、謙虚に振舞っていたヒトラーだったが、1年後の1934年8月2日、ヒンデンブルクの死後、大統領職を兼ねた総統に就任し、独裁政治を本格的に開始した。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-14397 Original title: info Der große Volkstrauertag für die Gefallenen des Weltkrieges, fand unter Anwesenheit der gesamten deutschen Reichsregierung an der Spitze Reichspräsident und Reichskanzler Adolf Hitler in der Staats-Oper Unter den Linden in Berlin statt! Reichspräsident von Hindenburg verläßt das Ehrenmal Unter den Linden in Berlin. Hinter ihm Reichskanzler Adolf Hitler und Vizekanzler von Papen daneben Hauptmann Göring und Reichsarbeitsminister Seldte. Archive title: Berlin, Unter den Linden, Staatsoper.- Volkstrauertag / "Heldengedenktag".- Werner von Blomberg, Franz von Papen, Adolf Hitler, Hermann Göring, Franz Seldte, Paul von Hindenburg (vlnr) beim Verlassen der Staatsoper; 12. März 1933 Dating: 12. März 1933 Photographer: Pahl, Georg
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


国会放火事件の中,大統領緊急命令がだされ,それに基づく犯罪調査の結果,ナチ党以外の議員は,予防拘禁されたり,議席を失ったりした。また,迫害を恐れた議員のなかには,亡命するものもあった。

1933年3月5日の総選挙で,ナチ党が288議席を獲得する中,ドイツ国会における反ナチス対抗勢力を衰微させて,ナチ党独裁を認めさせる法案が提出された。

1933年3月23日、「民族・国家の危機除去のための法律(独語Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich,Law to Remedy the Distress of the People and the Nation),すなわち全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933),別名「授権法」が議会で成立した。賛成441票で,反対は社会民主党議員の94票だった。ただし,出席できない社民党議員,議席喪失の共産党員(全81議席)は投票していない。全権委任法は、ナチ党による一党独裁を法的に認めたもので,議場の議員には,圧力がかけられ,反対するのは困難だったようだ。それでも,社会民主党の一部は,ナチス独裁に反対したが,突撃隊,親衛隊によって反対派(民主派)幹部は一斉検挙された。

◆ナチ党は,暴力を用いることによって,半年も経たずに,「一見合法的な一党独裁政権」を成立させた。ナチス政権は,決して民主的手続きの上に成立したものではなく,暴力による選挙妨害,人権を無視した不当な逮捕という弾圧・迫害によって,成立した。

3.焚書・思想弾圧

1933年5月,ベルリンにおける焚書(右):ベルリンのウンターデンリンデン通り沿いにあるバーベル広場Bebel Platzでも、たいまつ行列が行われ,悪書2万冊が山積にされて燃やされた。現在も広場一角の穴のガラス戸の中に白い本棚が置かれている。焚書の歴史を記憶する記念碑である。ユダヤ人や退廃文学・芸術は,発禁処分になった。図書館に収蔵されていた発禁処分の蔵書は,燃やされた。「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とハイネは述べたが,これはナチスのユダヤ人虐殺に当てはまった。

 1933年1月にヒトラーは首相に任命されると,思想統制のために,言論の自由を封じた。ドイツ民族の優越性,ユダヤ人の邪悪性に反する思想や言論は、弾圧の対象となった。

1933年5月,ユダヤ人の著作を焼く焚書が行われた。これは,図書館や学校にあるユダヤ人の著作や社会主義的文献を廃棄するもので,見せしめに,本を焼いた

フランクフルトでは,ショパン「葬送行進曲」の中,荷車で運ばれた薪の火の中に,本が投げ込まれた。ミュンヘン大学でも,政府要人,大学関係者,学生が集まって、民族の誇りを取り戻し,強いドイツを作る「国民革命」という位置づけで焚書祭典が行われた。暗くなってから,市内中心部のケーニヒ広場に向けて松明行列が企画された。広場に集められた堕落作家の著作に火がかけられた。多くはユダヤ人作家だった。

アメリカでは,ユダヤ人会議が,ヒトラーの首相就任に警戒心を強めていたが,焚書を契機に,世界に向けて,ナチスの人種民族差別,思想統制を警告した。そして,ドイツ商品ボイコットを組織的にはじめ,1936年のベルリンオリンピックもボイコットするように訴えた。

言論の自由は守られなくなり,反ナチス行動・言論・思想は弾圧された。1933年5月,反ナチスの反逆裁判のための新たな民族法廷が開設された。ミュンヘン一揆当時,バイエルン州政府司長官だったフランツ・ギュルトナーは,ナチスへの共感から,一揆首謀者ヒトラーを9ヶ月の軟禁状態においただけで釈放した。彼が,内閣に司法長官として迎え入られ,新たに民族法廷を開設した。民族法廷の審理は非公開で,上告は事実上できなかった。

裁判を公開して,「犯罪者」が思想・言論の自由を訴え,メディアが報道すれば,「犯罪者」は「英雄」になってしまうからである。

ミュンヘン一揆の後に開かれたヒトラー裁判で,ヒトラーは,裁判を使って自分の主張をドイツ全土に伝え,責任を取って,収監された。これが,ヒトラーを殉教者,英雄とする過大評価を生んだ。それを熟知しているナチ党指導者は,民族法廷で秘密裏に迅速に裁くことで,反政府的人物を,闇の中で摩擦,処分しようとした。

思想言論弾圧は,反ナチスの犯罪者を拘禁する強制収容所を作らせることになった。強制収容所は,事実上,裁判無しに潜在的敵対者を拘束し,罰し,転向させる,あるいは終生拘禁するか処分する場所である。1933年5-6月,ナチス以外の政党は解散に追い込まれ,1933年7月14日(アメリカ独立記念日),ドイツにおける唯一の政党は,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)だけとなった。この時点で,強制収容所に保護拘禁された囚人は,2万6789名に達していたという。

ドイツは一党独裁となり,党は総統が指導したから,ヒトラー総統による独裁国家が誕生したのである。

宣伝相(国民啓蒙宣伝省大臣)ヨーゼフ・ゲッペルス博士は,反ナチスの新聞,ユダヤ人が編集者となっている新聞を弾圧し,発行停止・廃刊に追い込んだ。国民受信機の名の下に安価なラジオを売り出し,国営放送を聞かせた。外国放送の受信を禁止した。

写真(右)1932年7月,ベルリン、ユンカースJunkers G 31輸送機から登場したサンタクロース:1920年代に13機と少数生産されたユンカース社の当時の大型輸送機で初飛行は1926年で、ju-52の初飛行1930年より4年早い。しかし、機体の構造は、Ju-52と酷似しており、Ju-52に設計が引き継がれていることがわかる。
ユンカースJunkers G 31輸送機諸元:
乗員:パイロット2人、航法・電信員各1人、乗客15人(夜間寝台は10人)
全長: 16.50 m (54 ft 1 in)、全幅: 30.50 m (100 ft in)、全高: 6.00 m (19 ft 8 in)、主翼面積: 102.0 平方メートル
空虚重量: 5,250 kg (11,590 lb) 全備重量: 8,500 kg (18,760 lb)
エンジン: 3 × BMW-built Pratt & Whitney Hornet, 386 kW (525 hp) 
最高速度: 210 km/h (131 mph)、巡航速度: 170 km/h (106 mph)
航続距離: 850 km (528 miles)、航続時間: 5 時間
実用上昇限度: 4400 m (14,400 ft)、上昇率: 3 m/秒 (10 ft/min)
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-14104 Original title: info Wer will mit dem Weihnachtsmann mitfliegen! Berliner Kindern wurde Gelegenheit gegeben, auf dem Flughafen in Berlin f?・r 2,50 Mark einen Rundflug mit dem Weihnachtsmann zu machen. Archive title: Berlin.- Weihnachtsmann vor Backbordt?・r eines Flugzeugs Junkers G 31, Kinder Dating: Dezember 1932 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 102-14104"引用(他引用不許可)。


4.ユダヤ人迫害

1933年4月,ドイツ各地でユダヤ人商店やユダヤ人企業の商品の排斥,ボイコットが始まった。突撃隊がユダヤ人商店の前に立ち,ユダヤ人の商品を買うことを威圧した。ポスターや看板が掲げられ,ナチスによる組織的なボイコットが行われたのである。警察には,ボイコットを妨害してはならない旨,通達が出された。

ファシズムの軍備拡張、領土拡張が進むにつれて、世界秩序の再編成を唱えるようになり、ファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ヒトラー総統は、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを著作1925年の『わが闘争』で公言していた。そして,ドイツ民族を弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者で,ペストのような病原菌であるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを公言していた。アジア人も野蛮人とされ,ロシア人にも文明が及んでいないとした。
このような人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきであると訴えた。

当時,日本も中国大陸を勢力圏とする東亜新秩序を唱えた。日独は共に米英仏との戦争は望まないとしたが、勢力均衡を破綻させる軍事力,勢力圏獲得という覇権主義は、列国の既得権益を侵すものであり,脅威だった。ヒトラーは,ロシア人は、タタールと同じくアジアの蛮族であり,非文明人と公言していた。ヒトラーの『わが闘争』日本語版では,アジアの野蛮性に関する偏見の記述は削除された。アジアはイギリス人が支配すべきであり,日本人の東南アジア支配を嫌悪していた。アジアの日本人が,ヒトラー総統に心酔して日独伊三国軍事同盟に加わったのは皮肉である。

識者の中には,ミュンヘン一揆の後,裁判で頭角を現した犯罪者ヒトラーをまね,ホロコースト否定論を裁判を使い喧伝するものもある。インド人,中国人のようなアジア人が,真のヨーロッパ人を人種汚染すると移民排除を唱え,さらにソ連,イラン,日本人を対ユダヤ人・イスラエル戦,対米ユダヤ戦,モンゴロイド黄色人種内紛に向けて煽動している。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,アンネ・フランク,マザー・テレサと同じように,厳格に国籍を規定・合意することはできない。
人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,身長,肌の色,目の色,鼻の形,髪の毛の質・色,肢体のバランス,足の形まで,個人差は著しく大きい。

 優秀民族アーリア人なる定義は,似非科学に基づいているし,ナチ党指導者たちは「純粋なアーリア人」ではない。肌の色,鼻の形,顔面の角度,目の色・形,体臭,さらにDNAによって,人種を区分しても,境界は恣意的である。言語や宗教によって,民族を区分しても,恣意的にならざるをえない。つまり,人種民族差別は,似非科学な偏見,錯覚,プロパガンダに基づいて為政者の裁量を基準に行われいる「政策」である。

◆ユダヤ人は,宗教・歴史の問題だと単純化することはできない。キリスト教徒に改宗しても,第一次大戦でドイツ軍兵士として戦った退役軍人でも,ドイツの敵ユダヤ人とされ迫害対象となった。為政者・扇動者は,人種・民族を自己の主張に都合よく定義し,特定の人種民族を差別,迫害するものである。
中国人・韓国人は反日だ,アメリカ人は日本を従属させようとしている,ロシア人は怠け者だ,イタリア人は勤勉さがない,白人は金髪で青い目をしている----間違った人種民族「区分」を短絡的に信じている人がいる。


1934年9月,ニュルンベルク党大会でヒトラー総統を祝福するドイツの宗教家。カトリックのシャレナー司教(左)とプロテスタントのミュラー牧師(右):Nuremberg Rally for Unity and Strength: Hitler Greets Protestant Reichs Bishop Ludwig Müller (right) and Catholic Abbott Schachleitner at the Tribune of Honor. 当初,ドイツのカトリックはナチ党への加盟を認めなかった。ドイツ中央党はカトリックを堅持し,党首フランツ・フォン・パーペンは首相にもなったほど勢力があったのである。しかし,1933年にナチス政権下で、パーペンが副首相に就任すると、ローマ教皇ピウス11世は,カトリック教徒にナチ党への加盟を認めた。見返りとして,ナチスは,1933年7月,ローマ教皇との政教条約を締結し,カトリック教徒の宗教的権利を庇護することを約束した。ナチスが,共産主義に反対していたこと,イタリアのファシスト党が宗教協約を締結して,カトリックと良好な関係を築いたことが,和解の理由である。また,政権に協力的態度をとることで,カトリック教徒をナチスの迫害から庇護することも重要な課題だった。写真は,German Historical Institute引用。

ユダヤ人差別には,看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもあるが,法律。規則の上でも,ユダヤ人の人権が制限され,迫害が行われた。反ユダヤ法としては,1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の結婚制限)制定,11月,ユダヤ人選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。

写真(右)1935年4月10日、ベルリン、大聖堂における空軍大臣ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)とエミー・ゾンネマンの結婚式。式はベルリンドームのルードヴィヒ・ミューラー牧師が取り仕切った。首相アドルフ・ヒトラー。:ルートヴィッヒ・ミュラー牧師は、ドイツ民族主義の教会神学を立ち上げた親ナチ党のプロテスタント神学者だった。劇場の女優だった女優エミー・ゾンネマンは、1932年にワイマールでヘルマン・ゲーリングと知りあい、1933年4月にゲーリングがプロイセン州首相に任命されると、彼の推薦でベルリン国立劇場の女優となった。1935年2月にドイツ空軍の存在が公認され、3月に再軍備宣言がされると、ゲーリングンは航空大臣・空軍最高司令官となった。1935年4月10日、ベルリンでゲーリングとエミーの結婚式が催され、大聖堂の上を新生ドイツ空軍の戦闘機が編隊飛行を行った。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-16794 Original title: info Die Hochzeit des preuüllerischen Ministerpräsidenten General der Flieger Hermann Göring mit der Staatsschauspielerin Emmy Sonnemann im Berliner Dom am 10. April 1935. Die feierliche Trauung durch Reichsbischof Müller im Berliner Dom. Das Brautpaar vor dem Altar. Im Hintergrund der Führer Adolf Hitler. Archive title: Berlin.- Hochzeit Emmy Sonnemann und Hermann Göring.- Emmy Göring und Hermann Göring bei der kirchlichen Trauung im Berliner Dom durch Bischof Ludwig Müller. Dating: 10. April 1935 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv Geography Germany: Berlin/8 Kirchen und andere Kultstätten/81 Kirchen A-Z/81 Berliner Dom 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止した。ユダヤ人が定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなった。

1936年のベルリンオリンピックは,偉大なドイツの祭典として,聖火リレー,大スタジアムでの壮麗な開会式など優れた演出が取り入れられた。アメリカオリンピック委員会会長エイブリー・ブランデージAvery Brundage:戦後もオリンピッック組織の大指導者)は,ドイツを訪問して「ドイツで反ユダヤ主義は見られない」と声明を出した。オリンピック期間前後は,アンチセミニズムを訴えるポスターや宣伝は行われず,公園など公共施設へのユダヤ人立ち入り禁止の看板もはずされていた。

アメリカでは,ユダヤ人迫害を行うドイツでのベルリンオリンピックをボイコットすべきであるとの意見も出された。しかし,アメリカのオリンピック委員たちは,ドイツの反ユダヤ主義は,口先だけのプロパガンダだとみなした。アメリカにも黒人差別,ユダヤ人への偏見,アジア人の移民排除という人種民族差別があった。人種民族の平等という理念をもって,オリンピックをボイコットすれば,アメリカ国内の人種民族差別にも批判が向けられてしまう。オリンピックボイコットは,アメリカの国内事情から,実行できなかった。

ナチス指導者にとって,米英仏の人権問題での介入は,貿易,投資の上でも,軍事上も最大の脅威である。そこで,ドイツのアンチセミニズムは,あくまでプロパガンダの問題であって,実際の人権差別・迫害とは異なるとの印象を,列国に持たせようとした。ユダヤ人迫害が実際に行われているとは,列国には知られたくなかった。この秘匿性は,ユダヤ人虐殺ホロコーストも同じである。ユダヤ人絶滅指令は,口頭で行われ,文書記録では,排除・最終解決といった隠語が使われた。実は,ホロコーストの8年前,ユダヤ人迫害ですら,ナチスは秘匿しようと深謀遠慮した。米英列国の合理的な現実主義者(政治家,ビジネスマン,知識人)は,ユダヤ人迫害を人気取りのプロパガンダであって,本当に実行するはずがないと,思い込んでいた。

 オリンピックが終わると,ユダヤ人の人権を制限する法律・規則が次々出された。1938年4月,財産の登録義務を課し、登録証を徴収するようになった。強制収容所も増設された。1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリアの)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。

反ユダヤ主義は,ナチス政権成立によって,人種民族差別の偏見という意識の問題から,ユダヤ人に対する基本的人権の侵害,迫害へと移っていった。これは,ナチス党が,突撃隊・親衛隊,さらに警察も支配し,権力と暴力を行使したからである。しかし,ナチス党の反ユダヤのプロパガンダは,人々の間にアンチ・セミティズムAnti-Semitismに訴え,それを増幅した側面にも注意したい。

ユダヤ人の人権を制限する迫害が始まった時,それに反対する人権・民主主義確保の動きは,弱かった。ユダヤ人が迫害,追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の中には,ユダヤ人の人権制限を許容した人たちもいた。


5.ヒトラー総統第三帝国の「偉業」(?)


写真(右)1934年3月、ドイツ、ベルリン、カイザーダムの1934年国際自動車展示会(モーターショー)に出向いたアドルフ・ヒトラー総統、航空相大臣ヘルマン・ゲーリング元帥、親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(左奥)、ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ(右)国際軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将(右端)
;1933年1月30日のヒトラー政権で無任所大臣として入閣、プロイセン州内務大臣に就任したゲーリングは、1933年4月10日には副首相パーペンから委譲されプロイセン州首相に就任、同時期に新設された航空省大臣も兼ねた。プロイセンはドイツの三分の二を占めており、プロイセン州警察がナチ化され、突撃隊や親衛隊が補助警察として権力を握った。1933年2月28日の国会議事堂放火事件では、共産主義者の反乱を鎮圧するとの名目で、大量検挙を行い、政敵を弾圧し、強制収容所を設置して、政治犯を「保護拘束」した。1935年3月、再軍備宣言に伴い復活したドイツ空軍の総司令官に就任する。
Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-15601 Original title: info Reichskanzler Adolf Hitler eröffnet die große Internationale Automobil-Ausstellung 1934 am Kaiserdamm in Berlin! Reichskanzler Adolf Hitler und der preußische Ministerpräsident General Hermann Göring, besichtigen die neuesten Wagen auf der Ausstellung. Dating: März 1934 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1934年8月2日,ヒンデンブルク大統領が死去すると,ヒトラー首相は、ドイツ大統領も兼ねる総統(Führer)の職に就いた。党の指導者「総統(フューラー)」は、新たな独裁者の称号となった。ヒトラー総統は、ドイツ国防軍の司令官を召集し、兵士をすべて総統個人に対して忠誠を誓わせることとした。総統は,陸海空三軍の総司令官を兼ねることになったのである。
 国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考えた。全軍に対して,ヒトラーに忠誠の宣誓させることを承諾した。彼が,反ヒトラー派の人物となったのは,不名誉なブロンベルク国防相スキャンダル罷免の後である。

ヒトラー総統の「偉業」の第一は,既存の政党,労働組合,企業団体,青少年団体,キリスト教団体を,ナチスの思想に即して抑圧,解散,再編成し,指導者原理に則った規律を持ち新秩序「ナチ化」し,国家社会主義ドイツ第三帝国を再興したことである。

ヒトラー総統は,「私は,若者から始める。われわれ大人は疲れ果てている。----ドイツの大人は,屈辱的な過去(第一次大戦の敗戦)の重荷を背負わされている。---しかし,青少年たちは,実にすばらしい。この世に,これほどのものたちはいない。若者や少年を見よ。なんという逸材だろう。彼らがいれば,新しい世界を作ることができる。ユダヤ人は,下等人種とされた反面,ドイツ人青少年は高く評価された。ヒトラー党首が子供好きというのは,プロパガンダであり,側近相手の卓上談話で子供の話が出たことはほとんどない。ドイツ青少年は,あくまでひとつのドイツを構成する要素であり,一人の総統に服従すべき対象だった。

ヒトラー総統は,ヒトラーユーゲント青年少年団体の統合と青少年への勤労奉仕を進め,軍事訓練,人種民族教育の復興を目指した。子供は国の宝であり,一つのドイツ,一つのドイツ人,一人の総統に尽くすべき存在である。個人の人格形成,個人的な夢の実現など個人主義は配され,集団の規律・服従が最優先だった。

しかし,ヒトラーと子供といっしょの写真が多いことをもって,ヒトラーが子供好きの好々爺だったというのは,単純すぎる。彼は,英雄からは無能の子供しか生まれない,権力者の子供は甘やかされだめになる,とシュペールやエヴァ嬢など側近に忌憚なく語っていた。

ヒトラー総統の「偉業」は,第一に,全国の青少年から労働者にまで規律を行き渡らせたことである。労働者のストライキやデモは鎮圧され,労使協調が図られた。1933年5月に,労働組合の幹部を逮捕,組合本部を占拠して,労働組合を解散に追い込んだ。

ヒトラーユーゲントHitler Jugendは1922年設立。1932年の団員数は5万5000名に過ぎなかった。1933年にナチス政権が成立すると,団員数は1933年末に56万8000名に増加する。その後,キリスト教団体,社会民主党・共産党主導のドイツ少年少女団体は,圧迫され,解散に追い込まれる。

写真(右)1936年,ドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統,ヒトラーユーゲント指導者バルトゥール・フォン・シーラッハ,空軍大臣ヘルマン・ゲーリングプロイセン州首相(Hermann Wilhelm Göring:1893年1月12日-1946年10月15日自殺):ナイフを腰にした狩猟服のゲーリングは,1933年4月,プロイセン州内務大臣に就任。1935年3月の再軍備宣言以降は,新設された空軍の総司令官に就任。1936年8月には、新設された四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、戦争準備のための自給自足経済の推進、ユダヤ人資産・不動産・企業経営のアーリア化にも責任を負った。戦争準備のための経済の軍事化を進める一方で、私財蓄積の機会を活かして、贈収賄ともいえるような強欲な方法で富を築いた。外交面では対英穏健派であり、国内外での人気もあったが、ヒトラーに逆らわず、プロイセン州警察、ゲシュタポを使って反政府活動、反政府的言動を取り締まり、水晶の夜事件に際しても、ユダヤ人に保険金相当額以上の賠償を貸すなどして、反ユダヤ主義を躊躇なく推し進めた。ユダヤ人迫害を最終解決しないまま、親衛隊に権限を譲ったが、これはヒトラーの企図を汲んでのことであり、ゲーリングがユダヤ人問題の穏健な解決を望んだわけではない。
1939年9月1日,ポーランド侵攻の時,ヒトラーは,自分が倒れればゲーリングが続くと国会で演説して,事実上の後継者に指名している。ゲーリングが倒れれば,ヘス副総統が続くとも述べている。
ヒトラーは,それまで褐色の突撃隊の制服に加えて,1933年,首相に任命されてからスーツをしばしば着用。1938年,ミュンヘン会談のときには,国防軍を掌握していて,フィールドグレイの軍服を着用するようになる。
Adolf Hitler, Hermann Göring (in Jägerkleidung mit Messer) und Baldur von Schirach auf dem Obersalzberg 1936. Dating: 1936 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。


1936年,解散させた団体メンバーを取り込み,ヒトラーユーゲントの団員数は543万7000名に急増した。ヒトラーユーゲントは,1936年ヒトラーユーゲント法The Hitler Youth Lawによって,全ドイツ青年が加盟を義務付けた。ローマ教皇Benedictus XVIになるドイツ人Joseph Alois Ratzingerも1941年,14歳で加盟,1943年,16歳でミュンヘンのBMW工場を守備する高射砲部隊に配属された。

ヒトラーユーゲントは,ハイキング,サイクリング,行軍演習などの娯楽的活動を通じて,規律と団体行動を身につた。そして,ナチス思想教育を施し,街頭宣伝活動に従事させた。農村での勤労奉仕,軍事訓練(小銃射撃,通信訓練,バイク運転,グライダー訓練,看護訓練など)も行った。

ヒトラー総統の「偉業」の第二は,大規模な公共事業を起こし,壮大なモニュメントと強力な軍隊を保有するのある国家社会主義ドイツ第三帝国をつくったことである。高速道路アウトバーンAutobahnは,1938年までに2000キロも建設され,機械化された陸軍地上部隊,地上支援に連動できる空軍を大幅に拡張し,電撃戦の考えを事項できるように準備した。

ナチ党首アドルフ・ヒトラーは,自動車好きで,自動車の輸送の中核とすべきと考えた。そこで,アウトバーンを計画し,その建設総監にフリッツ・トートFritz Todt 博士(1981-1942)を任命した。トート博士は,組織作りにも優れ,企業,資材,勤労奉仕,労働力,技術を的確に組み合わせて,道路や橋梁の建設に邁進した。公共事業による雇用拡充ともいわれるが,実は,アウトバーン建設労働には,ヒトラーユーゲントをはじめ,無償労働の勤労奉仕(Reichsarbeitsdienst) が義務付けられた。ドイツ復興のためには,優秀なアーリア人は率先して,奉仕すべきであると,祖国愛と総統への忠誠心が試された。無償の勤労奉仕が敵性人種民族に向けられれば,それは奴隷労働となる。

写真(左)ニュルンベルク党大会のヒトラー総統(党首の意味で):1936年にドイツ人の10-18歳の女子全員に加盟を義務付けた。ハーケンクロイツ(カギ十字)の紋章をそのまま,ドイツ国旗としたナチスドイツは,軍隊規律に基づく秩序を確立し,ナチス帝国建国を理想とした。ニュルンベルクで,毎年党大会を開催。しかし,大動員は,ナチ党の政権獲得後。ヒトラー総統はフェミニストであり,女子に配慮した政策を取ったとする見解も,女子を利用するだけであり,女子の自立はまったく考慮されなかった。女子の役割が変化してきたのは,大戦勃発により,労働力増強,資源節約が重要な課題になったあとである。ナチスは女子の戦争動員は,米英ソに比べて大幅に遅れていた。男らしさを強調する中,多数の女子を着飾った花を添えるように利用しただけだった。

高速道路整備は,軍隊の機動力を向上も配慮されていた。ドイツ国防軍は,トラックからオートバイまで,機械化された歩兵を増強した。装甲師団の主力となる戦車は,道路走行すると,道路を傷めてしまうために,鉄道輸送が主流だった。しかし,歩兵,軽砲兵,輸送部隊は,道路を利用した自動車輸送を重視した。

 巨大で威圧的なナチス様式の官庁街をベルリンのヴィルヘルムシュトラーセ(大通り)周辺に建築させた。ニュルンベルクでは,毎年ナチス党大会を開催し,ここに大規模なスタジアムを作らせた。当時45歳だったヒトラー総統は,スタジアムの設計を,アルベルト・シュペーア(28歳)に依頼した。また,芸術・文化も一新しようとして,思想統制とともに,プロパガンダを展開した。女流監督レニ・リーフェンシュタール(32歳)に1934年の第6回ニュルンベルク党大会の映画「意志の勝利」を撮影させた。

ヒトラー総統の「偉業」の第三は,ドイツ人・民族ドイツ人(ドイツ系住民)の住む地域を拡張して,ハプスブルク朝・ホーエンツォレルン朝を凌駕する「グロス・ドイッチュラント」として国家社会主義ドイツ第三帝国を復興したことである。ドイツ人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指すヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,大ドイツとみなした。すなわち,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域は,ドイツに武力併合されることになった。

1938年3月13日のオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,イタリア・ムッソリーニの理解を得て,実施した。そして,ハプスブルク皇帝標章(四種の神器:王冠・宝珠・王笏・王剣)を継承し,第三帝国を復活させた。

1938年3月13日,オーストリア併合とヒトラー総統を讃えるポスター(右)「1938年3月13日,ひとつの民族,ひとつの国家,一人の総統」Dave Tylcoat引用。ウィーンまでドイツに組み込んだ。オーストリアのブラウナウで生まれ,リンツに育ったアドルフ・ヒトラーにとって,オーストリア併合(Anschluss:union アンシュルス)は悲願だった。アンシュルス後も,チェコ,ポーランドへ領土要求がなされる。

1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチスのオーストリア人ザイス=インクワルト Arthur Seyss-Inquartを内務大臣に任命させた。シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりだったが,選挙権を巡る国内内紛がおきた。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐した。

シュシニク首相は亡命し、代わりに首相となった内相ザイス=インクワルトは、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出した。皮肉なことに,オーストリアを亡命することになるシュシュニク(Kurt von Schuschnigg)は,TimeMar. 21, 1938のカバーを飾った。


写真(右)1944年,空軍将校と面談するヒトラー総統:最前線の将校と直接面談し,青い目で見据えて,温かい言葉を掛けた。このような演出に,大半の将校は,感激して,ヒトラー総統を尊敬し,忠誠心を新たにした。将校の説明する軍事技術,前線の経験談には,慎重に耳を傾けた。しかし,戦略論やユダヤ人政策への批判は,一切許さなかった。総統は命じ,われらは従う,である。Hillbilly White Trash 引用。

◆ヒトラー総統,ナチ党のDas Dritte Reichを第三帝国」と訳すのは適切ではないとの見解もある。由緒正しき皇帝・皇族が世襲するのが帝国であれば,党首が大統領・軍総司令を兼ねても「独裁国家」に過ぎず,帝国ではないとの意見である。しかし,歴史的使命感を妄信するヒトラー総統は,共和国ではなく,神聖ローマ帝国,ハプスブルク王朝を引き継ぐ正統な「第三の帝国」にこだわった。

1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,そのために140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣をニュルンベルクに運んだ。
これは,「四種のハプスブルク皇帝標章(四種の神器)」は,1848年,二月革命の最中,フランクフルト国民議会で廃止されたものである。神聖ローマ帝国を引き継ぐ皇帝の象徴は,剣、宝珠、笏、王冠であり,それをつけた「双頭の鷲」が,ハプスブルク帝国の国章だった。ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地のニュルンベルクに永遠に留まると誓約した。

オーストリアを併合したヒトラー総統の国会演説,ニュルンベルク党大会の演説は,ナチスの下での大ドイツ帝国再興を成就したとするプロパガンダだった。これが,「今後千年間、ドイツは二度と革命を経験することはない」との大演説で,ドイツ第三帝国Das Dritte Reich は千年続くと予言した(実際は約10年)。


写真(右)1934年、ヒトラー総統と個人秘書から権力を掌握したマルチン・ボルマン Martin Bormann (1900年6月17日 - 1945年5月2日?):1933年7月4日に副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書となり、1941年にヘスが和平交渉をしようとイギリスに単独飛行で飛び失脚した後、ナチ党官房長官に就任。ナチ党の総務担当者となった。ヒトラーの言葉をメモをとり、それを実行に移すことで、ヒトラーの信頼を得た。そして、ヒトラーとの面会を取り付けようとする人物の選択を任されたことで、ボルマンはヒトラーの代弁者あるいは仲介者として権力を握るようになる。ヒトラーがドイツ軍最高司令官としての多忙な軍務に当たったため、ナチ党による一党支配の政治は党官房長官のボルマンが事実上統括するようになった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-R14128A Original title: info Zentralbild Reichsleiter der NSDAP Martin Bormann, Leiter der Dienststelle des Stellvertreters Hitlers. Aufnahme 1934. 3799-34 Archive title: Porträt Martin Bormann Dating: 1934 Photographer: o.Ang. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ナチ党官房長官のマルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これが卓上談話(Hitler's Table Talk)である。  ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年7月26日ヒトラー卓上談話:「民衆は思いを集中できるアイドルを求めている。----だが平凡な君主を奉じるくらいなら,共和制のほうがいい。----君主は一度覆されると見向きもされなくなり,二度と復活することはない。」

9月21日:「王朝の望みが国家の普遍の利害と一致しなくなれば,その統治の正当性はもはやない。平安を求め,外国に行過ぎた配慮をするような方針を採用するようになっては,その王朝はおしまいだ。だからそんな(ドイツの)王族を一掃してくれた社会民主主義者に感謝している。----行動を旨とする者は信義に支えられなければならない。そして民衆の中にこそ信義がある。民衆には情けはない,無垢な純真さで突き進むだけだ。指導者があれば民衆にどれほどのことができるかは明白だ。良くも悪くも全ての可能性はここにある。国家社会主義ナチスの責務は,ここに帰す。」
◆第三帝国は,王族や貴族のいない,民衆に基盤を持つ国家社会主義ナチス帝国である。

9月23日:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----トラを人を殺そうと,トラが人を食べようと,地球は回り続ける。強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。----しかし,国家社会主義が礼拝の形をとって宗教の真似事をする決してない。----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」

10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」
◆ヒトラーは,古いハプスブルク家,ホーエンツォレルン家を貴族主義の時代遅れと認識し,それに換わり,民衆を基盤としたナチス帝国を建国しようした。第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。

11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。」

1941年12月17-18日:「すでに失われ帝国の概念が,われわれにだけではなく,全世界に第三帝国として再び明記された。いまやドイツと言う時,それは第三帝国以外の何者でもない。帝国軍は古い伝統に戻らなければならない。古いというのは,プロイセン,バイエルン,オーストリアの伝統のことだ。」
◆ヒトラー総統の下に統一されたドイツ第三帝国は,弱肉強食の掟に則って,憐憫の情を軽蔑する粗暴な軍隊を建設しようとした。ヒトラーは,歴史的使命を妄信し,戦争によって,ヨーロッパの覇権を獲得しようとしたのである。


1938年のニュルンベルク党大会の闇夜の集会では,ヒトラー総統は,ドイツの栄光を回復するまで軍服を脱がず,総統の地位にとどまると公言した。第二次大戦を1939年9月に引き起こし,1941年6月にはソ連侵攻を開始した。1945年に自決するまで,ヒトラーは総統の職にあり,戦争を戦った。

1938年3月,ドイツ総統ヒトラーのウィーン入城パレードの絵葉書(右):オーストリア合併まで,ヒトラーによるドイツ民族の祖国失地回復は広範な支持を受けていたようだ。しかし,パレードは,観客を動員したプロパガンダである。

1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルク(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」

チェコスロバキアは,多民族国家で,民族ドイツ人300万名が居住していた。ヒトラーは,民族ドイツ人の多いズデーテンラントSudetenlandは,ドイツ領に編入されるべきことを主張した。1938年9月のミュンヘン会談では、英仏伊三国の同意を取り付け,列国は,チェコスロバキアの頭越しに,ヒトラーの領土要求が認められた。英仏は,戦争の危険を冒してまで,チェコスロバキアのズテーテンランドを保障するつもりはなかった。

1938年10月,チェコスロバキアのズデーテン地方は,ドイツに割譲され,ヒトラー総統の権威はいっそう高まった。こうして,1938年10月1日 ドイツがズデーテンラントをドイツに併合した。しかし,残された地域では,1939年3月15日,スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に,組み入れられた。チェコスロバキアは,ナチスドイツによって,解体されてしまったのである。

ヒトラー総統の第四の「偉業」は,ドイツからユダヤ人の害悪を排除したことである。ユダヤ人は優秀なアーリア人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくるとして,ドイツからユダヤ人の影響力を排除する方針を打ち出したのである。

ユダヤ人は狡賢い,貪欲な資本家だ,共産主義者で暴力革命を起こそうとしている,という反ユダヤの人種民族的偏見,すなわちアンチ・セミティズムAnti-Semitismも,プロパガンダで広められた。自動車のフォード社を創設したフォードも,反ユダヤ主義の見解を表明していた。反ユダヤ主義のような人種民族差別は,決してナチスドイツによるものばかりではなかった。古くから,ロシア,ポーランド,オーストリア=ハンガリー帝国はもちろんのこと,スペインでも,フランスでも,アンチ・セミティズムは,一部の人々に根強く残っていた。20世紀になっても,一流のビジネスマン,政治家も,普通の市民も,意識しないうちに,人種民族差別の偏見を抱いていた。

1938年11月7日、パリでドイツ大使館書記官のエルンスト・ファン・ラート暗殺事件が,17歳のユダヤ人青年により起こされた。11月9日,ミュンヘン一揆記念祝賀において,宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルス Joseph Goebbels 博士(1897-1945)は,反ユダヤではあるが,新興勢力の親衛隊SSに不満を持つ突撃隊 Sturm Abteilungを煽動して,ユダヤ人商店を破壊させた。

ユダヤ人商店のガラスが飛び散った破壊の夜を,「クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜」(Novemberpogrome 1938 )と呼んだ。ナチス党のドイツ政府が人種民族差別を行い,被差別少数派に暴力を振るったのである。

TO ALL REGIONAL AND SUB-REGIONAL GESTAPO OFFICES sent at 1:20AM, November 8, 1938,SUBJECT: MEASURES AGAINST THE JEWS THIS NIGHT :1938年11月8日ハイトリッヒReinhard Heydrichからからゲシュタポ長官ヘルマン・ゲーリング宛ての水晶の夜に関する報告書
 ユダヤ教会シナゴーグの破壊は周辺のドイツ人財産に被害を与えない範囲,手段にとどめるべきである。-----シナゴーグとユダヤ人コミュニティの歴史的価値ある資料を収集すべきで,それを親衛隊SSに提供すべきである。シナゴーグは崩れ去り,ナチスとしては,ユダヤ人の記録を収集管理することが望ましい。送球に多数のできるだけ裕福なユダヤ人を逮捕すべきである。年配者ではなく,若くて健康なユダヤ人男性を捕まえること。

写真(右)1938年11月9-10日「クリスタルナハト」"Kristallnacht"Night of Crystal" で破壊されたユダヤ人商店:ドイツ各都市でユダヤ教会が焼かれ、数千件のユダヤ人の商店が破壊された。数千名のユダヤ人が不当に連行され・逮捕され,強制収容所送りになったり,暴行・虐待を受けたりした。

◆ドイツ人を人種汚染し,ドイツに敵対するユダヤ人のなかで,特に,資産家,若者が危険であるというのが親衛隊保安部長官ラインハルト・ハイドリヒの認識である。ゲシュタポ長官だったプロイセン内務大臣へルマン・ゲーリングは,資本家との付き合いも多く,ユダヤ人の商店破壊が,ドイツ人にも被害を与えることを心配していた。特に,火事延焼だけではなく,資本家,資産家に対する貧困者・突撃隊員の反感には,気を配っていたのである。貧困者の反感は,ドイツの資本家ではなく,悪賢いユダヤ人資産化に向けようとした。ドイツの労働者・貧困者の不満をそらすためために,ユダヤ人をスケープゴート(生け贄)としたのである。

1936年7月17日、スペイン人民戦線内閣に対する,フランシスコ・フランコ将軍(1982-1975)率いる叛乱が起きた。これに対抗する市民、アナキスト(無政府主義者)は、武器を取って戦い,マドリード、バルセロナ、バレンシアなどで叛乱を鎮圧した。フランコ将軍は、7月、独伊に軍事援助を求め、ヒトラーはJu52輸送機20機、ムッソリーニはサボイアSM-81爆撃機12機を第一陣として派遣した。

ヒトラーは,スペイン人民戦線内閣は,ソ連共産党の指導下のコミンテルン共産主義者に主導されているとし,その黒幕は,ユダヤ人だと考えた。スペイン市民戦争は,第二次大戦の前哨戦,新兵器の実験場と言われるが,ファシズム対社会主義というイデオロギーの戦いでもあった。

ユダヤ人虐殺は,人種民族差別,財産収奪という経済的欲望,敵性住民に対する予防戦争の局面が指摘できるが,同時に,ユダヤ人が世界をユダヤ人支配の下におく「共産主義革命」を目指していると妄想しているアドルフ・ヒトラー総統,ナチスの幹部にとっては,対ユダヤ人戦争(ユダヤ人虐殺)は,イデオロギーの戦いとしても正当化されたのである。

ナチスの時代,第二次大戦前であっても、ユダヤ人に対する温情を示すことは,反政府活動,違法行為になりかねなかった。ユダヤ人に対する偏見が差別を生む出したが,偏見・差別を改めようとしたり,批判したりすれば,自らが困難な状況に陥る。言論の自由が確保されていな状況で、政府批判は,大きな不利益となることを覚悟しなくてはならなかった。第二次大戦直前には,ドイツの一般市民も,ユダヤ人に対する差別は仕方がないと諦めていたのかもしれない。第二次大戦中は,フランス,オランダなどでもユダヤ人への迫害が行われた。

<恩義のあるユダヤ人を保護したヒトラー>

ヒトラー自身は、法を超えた存在の独裁者であるから、恩義から第一次大戦中の元上官のユダヤ人を保護した。

時事通信「ヒトラー、元上官のユダヤ人保護=側近の書簡発見―ドイツ」2012年7月13日(金)配信によれば、ヒトラーが、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)へ突き進む中、かつて上官だったユダヤ人男性を迫害しないよう命じていた事実を示す文書が見つかった。この男性は第1次世界大戦中、ヒトラーが所属した中隊を指揮していたエルンスト・ヘス氏。ヒトラー側近のナチス親衛隊指導者ヒムラーが警察幹部に送った1940年8月19日付の書簡で、ヘス氏について「総統の希望により」保護すると明示している。

 書簡はドイツのユダヤ系紙ジューイッシュ・ボイスがノルトライン・ウェストファーレン州の公文書館で発見した。同紙によると、ナチスに判事の職を奪われたエルンスト・ヘス氏は1936年、ヒトラーに迫害対象からの除外を求める請願書を送り、「ユダヤ人と呼ばれ、周りから軽蔑されるのはある種の精神的な死だ」と訴えた。これ以降、同氏は年金を渡されるなど、他のユダヤ人とは異なる扱いを受けた。

 エルンスト・ヘス氏はその後、ナチスから特別措置1941年5月に取り消されたと通告され、強制収容所に送られたが、妻がユダヤ人でなかったため虐殺は免れ1983年9月に93歳で死去するまでドイツで暮らした。

 ヘス氏の娘ウルズラさん(86)によると、同氏はヒトラーについて、部隊に友人はなく、誰とも言葉を交わさなかったと振り返り、「全く取るに足らない男だった」と話していたという。ヒトラーは母親の治療に当たったユダヤ人医師エドゥアルト・ブロッホ氏を「高貴なユダヤ人」と呼んで保護したことでも知られる。(引用終わり) 

6.ヒトラー総統による戦争を躊躇する将軍たちの罷免

写真(右)1938年,「第一回ドイツ党大会」(ナチ党ニュルンベルク全国党大会)でドイツ国防軍を閲兵する三軍総司令官ヒトラー総統 :第一次大戦で伍長勤務上等兵として西部戦線で戦った経験のある総統は,第一級鉄十次勲章を佩用して兵士と同じ目線で閲兵した。ドイツ軍兵士は,ヴィルヘルム1世以来のグース・ステップで行進。写真はWorld War 2 in Color

陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch 将軍は,1933年,ヒンデンブルク大統領により陸軍最高位の総司令官に任命されたが,同時期の国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクとともに,上等兵上がりのヒトラー首相を軽蔑していた。ナチス政権当初,伝統的な参謀本部出身者たちは、ナチスに政治的権力を独占されることを恐れ,従来の脆弱な政治基盤しかない政党を牽制し操りながら勢力維持を図ったのである。しかし,ヒトラーが総統になり,再軍備宣言をすると,ヒトラー総統を利用して,軍の勢力を伸ばそうと画策した。

1937年11月5日、ヒトラー総統は,ドイツ国防軍首脳にヨーロッパの戦争計画を打診した。この会議で,ヒトラーは,東方に新たに生存圏を拡大する必要があるとした。その時期は,ドイツ軍が一新された今であり,装備が旧式化しないうちに行動を開始すべきであるとした。国際関係については,ドイツがオーストリア,チェコスロバキアに侵攻しても,英仏は救援には駆けつけないとの判断を下した。根拠は,民主国家は,戦争を開始するには堕落しきっており,儲けにしか感心のない資本家は,他国の利益のために行動することはないというものだったろう。そして,将来西側(英仏,ベルギー,オランダ,デンマーク)に対する軍事作戦を実施するためには,ドイツの側面,すなわちオーストリア,チェコスロバキアの脅威を取り除いておく必要があるとした。

この大胆な戦争計画に,陸軍大臣ブロンベルク元帥,陸軍総司令官フィリッチュ上級大将は,ドイツ軍は英仏相手に戦うことはできない,フランス軍だけでもドイツ軍よりも兵力が勝っている,チェコスロバキアは,ドイツ軍の侵攻に備えて防備を固めている一方,フランス軍の攻撃を食い止めるにはドイツの要塞(ジークフリート線)は不十分であるとした。つまり,ドイツ軍最高権威の二将軍は,ヒトラー総統の東方に対する戦争に反対した。

1937年当時,ヒトラーは,まだドイツ参謀本部が戦略の専門家であると信頼していた。再軍備宣言以来,勇ましさ言葉を口にしていた将軍たちは,戦争開始となるととたんに怯え始め,慎重論を説くようになった。参謀本部の将軍たちは,戦略家を気取っていたが,戦争を時期尚早として異議を唱えた。これを,ヒトラーは,戦争に怯えた弱腰の将軍と感じるようになった。総統が期待していたのは,旺盛な戦意のある勇敢な戦士であり,的確に戦争開始・遂行する戦略顧問となる将軍だった。

◆ヒトラーは,最高司令官として,指揮官に議論ではなく服従を求めていたのであり,軍専門家に期待したのは,戦争計画の具体的な立案であった。総統に対する反抗的態度や戦争を回避しようとする弱腰の将軍たちは,ヒトラー総統によって,罷免,追放されることになる。

戦争を開始できない弱腰の陸軍総司令官フリッチュ将軍,国防大臣ブロンベルク将軍は,ともに1938年に現役から追われた。フリッチュ将軍は,同性愛の嫌疑をかけられ,名誉を失った。裁判では,有罪にはならなかったが,恥辱を受けた陸軍総司令官は追放された。フィリッチュ将軍は,1939年9月のポーランド侵攻に加わり、戦死。事実上,名誉を守るための自決的突撃だったようだ。ポーランドに侵攻したドイツ軍は,彼が育て上げたものだった。

陸軍将官スキャンダル陰謀事件を策謀したのが,ヒムラー指揮下にある親衛隊SSの保安諜報部SD長官ラインハルト・ハイドリヒReinhard Heydrich(1904-1942)だった。ハイドリヒ長官は,海軍士官出身だが,海軍関係者愛娘との婚約破棄という不名誉な事件で,海軍を免官された身だった。失職したハイドリヒは,1931年ナチ党に入隊し,新鋭たが創設したばかりの諜報部をまかされた。任務は,反ナチスや政敵となりそうな人物の情報収集だったが,組織は小さかったが,1931年にはSS保安諜報部ハイドリヒ親衛隊連隊長SS大佐となった。
1933年1月,ヒトラー内閣の下で,親衛隊ヒムラー長官は,ミュンヘン警視総監に就任、ミュンヘン近郊ダッハウに強制収容所を設置し,その管理を行ったのが親衛隊だった。ハイドリヒもSS将官となりミュンヘン刑事警察政治部局長に就任したが,突撃隊を上回る強固な組織を作ろうとしたヒトラー総統は,それまで空軍大臣ゲーリングが支配していた秘密警察ゲシュタポも,親衛隊の参加に組み込んだ。

1933年にプロイセン州内務大臣ヘルマン・ゲーリングは,反ナチス敵性分子を摘発するために,プロイセン州の政治警察を秘密警察とし,人事面で,突撃隊,親衛隊を幹部に任命した。しかし,1934年4月20日,ゲシュタポの権限は,親衛隊に移管され,ハイドリヒが秘密警察局長になった。

親衛隊で抜擢されたハイドリヒは,命じられれば,参謀本部と対立するようなきわどい諜報活動・陥れ工作にも従事した。しかし,伝統ある参謀本部が,スキャンダル捏造により陸軍総司令官を解任されたとあっては,その憤慨・反発は,追い落としを策した保安諜報長官ハイドリヒに向いてしまう。軍の報復を受ける可能性があったハイドリヒ長官は,この事件以降,保身のためにも親衛隊とヒトラーの支援を必要とし,その命令を熱心に実行,出世を目指す。

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1939年4月20日,ドイツ陸軍II号戦車Panzer II によるチェコ、プラハ進駐:前年のミュンヘン協定で、ヒトラーは、チェコスロバキアからドイツ系住民(民族ドイツ人)の住むズテーテンラントを割譲させ、これが最後の領土要求だとミュンヘン協定を締結した。しかし、ヒトラーは50歳のうちに戦争を始める決意を固めており、イギリス、フランスの宥和政策が続くかどうかにかかわりなく、ポーランド、フランスに攻め入る覚悟だった。ナチスドイツのチェコ併合の尖兵となったのがII号戦車だった。貧弱な装甲で、2センチ砲と機銃しか備えていない軽戦車であり、フランス陸軍の戦車の方が対戦背や能力は遥かに高かった。チェコ併呑の時に、フランス軍がイギリス軍の支援の下にドイツに攻勢をかければ、ドイツ国防軍首脳あった英仏との戦争の危機感を高めて、第二次大戦の様相は異なったものになったかもしれない。
Catalogue number: MH 13154 Part of CHAMBERLAIN PETER (MR) COLLECTION Subject periodInterwar Alternative Namesobject category: Photography Object description: German Panzer II tanks in Wenceslas Square in Prague, 20 April 1939. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (MH 13154)


陸軍参謀長ルートヴィヒ・ベックLudwig Beck上級大将は戦前,ドイツ参謀本部の長として,ナチスの軍備拡充に尽力したが,英仏相手の戦争には反対だった。平和愛好というより,英仏相手の勝ち目がない戦いと予測したためである。そして,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク将軍(1878-1946)がスキャンダルで更迭された後,戦争責任を回避するためか,大戦前年の1938年8月に参謀長職を辞職,10月に退役した。1938年9月のミュンヘン会談で,英仏がヒトラーに譲歩したから,ベック将軍の予測は外れたことになる。ヒトラー総統は,将軍ほど交戦意思の弱い生き物はいないと,将軍たちの戦略的思考の過誤を指摘し,伝統的あるドイツ参謀本部は尊敬に値しないと確信するようになった。

国防大臣ブロンベルクBlomberg 将軍は,陸軍総司令官フィリッチュ上級大将と同じく,ヒトラー総統の戦争計画に不同意であり,ドイツ軍は英仏相手に戦うことはできない,フランス軍だけでもドイツ軍よりも兵力が勝っている,チェコスロバキアは,ドイツ軍の侵攻に備えて防備を固めている一方,フランス軍の攻撃を食い止めるにはドイツの要塞(ジークフリート線)は不十分であるとした。つまり,ドイツ軍最高権威の二将軍は,ヒトラー総統の東方に対する戦争に反対した。

ヒトラー総統は,最高司令官として,指揮官に議論ではなく服従を求めていた。軍専門家に期待したのは,戦争計画の具体的な立案であった。総統に対する反抗的態度は,二将軍を失職,追放の目にあわせることになった。

写真(右)1939年夏,ドイツ、オーバーザルツブルク/ベルクホーフヒトラーの山荘で、建築家アルベルト・シュペールに、生まれ故郷オーストリアのリンツ都市改造計画の説明を受けるアドルフ・ヒトラー:この時すでに、ポーランド侵攻を命じており、イギリス・フランスを巻き込む第二次世界大戦を戦う覚悟尾をしていた。
Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-2004-1103-500 Original title: info [Scherl-Text] Der Führer mit Prof. Speer auf d[em] Obersalzberg [Berghof] b[ei] d[er] Besprechung von Plä nen für das neue Opernhaus in Linz. 6049-39 Dating: 1939 Sommer Photographer: Hoffmann, Heinrich Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv Geography Germany: Berchtesgaden
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1937年当時,ヒトラー総統は,まだドイツ参謀本部が戦略の専門家であると信頼していた。再軍備宣言以来,勇ましさ言葉を口にしていた将軍たちは,戦争開始となるととたんに怯え始め,慎重論を説くようになった。参謀本部の将軍たちは,戦略家を気取っていたが,戦争を時期尚早として異議を唱えた。これを,ヒトラー総統は,戦争に怯えた弱腰の将軍と感じるようになった。総統が期待していたのは,旺盛な戦意のある勇敢な戦士であり,的確に戦争開始・遂行する戦略顧問となる将軍だった。

戦争を開始できない弱腰の陸軍総司令官フリッチュ将軍,国防大臣ブロンベルクBlomberg 将軍は,ともに1938年に現役から追われた。陸軍総司令官フリッチュ将軍は,同性愛の嫌疑をかけられ,裁判では,有罪にはならなかったが,恥辱を受けた。追放されたフィリッチュ将軍は,1939年9月のポーランド侵攻に加わり、戦死。事実上,名誉を守るための自決的突撃だった。ポーランドに侵攻したドイツ軍は,彼が育て上げたものだった。

陸軍大臣ブロンベルクWerner von Blomberg元帥は,いかがわしい評判の女性と結婚していたことが問題とされた。ヒトラー総身,結婚式に出席していたのだが,戦争計画に反対する将軍は排除されなくてはならない。ヒトラー総統は,陸軍大臣を解任した。

エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン Erwin von Witzleben元帥(1881-1944/8/9処刑)も,ヒトラー総統に,1942年3月,西方軍最高司令官を罷免された。

これらの失職した将軍たちの多くが,1944年7月のヒトラー暗殺事件に関与した。しかし,誰一人として,ヒトラー総統に自ら銃を向けたり,対面したりして,正々堂々と反乱を起こしたものはいなかった。将軍たちは,ヒトラー暗殺には直接手を下さず,暗殺後の政治的・軍事的指導者の地位を手に入れようとした。

7.ユダヤ人との世界戦争

1939年1月30日の国会演説で、ヒトラー総統は、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅であることを予言した。

ナチ党独裁の下では,反ナチスはドイツの敵である。これが,ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的(根っからの)犯罪者,叛乱者など「危険な非国民」である。彼らを拘束し,更正させる場所が,強制収容所KL(ラーゲル)や刑務所である。ラーゲルを管理し,監視したのが親衛隊SSどくろ部隊である。警察長官・親衛隊国家指導者ヒムラーは、親衛隊の中に髑髏部隊を作り、収容所を運営させのである。

ナチス政権獲得直後から始まった強制収容所の設置を読む。

 特定の人種・民族の人権弾圧などの差別の思想として,アンチ・セミティズムAnti-Semitismが,ユダヤ人虐殺の根幹にあった。

◆ヒトラー総統は,大規模な公共事業・軍需拡大,勤労動員など拡張財政を推し進めたために,人種民族差別を軽視した歴史家は,「偉業」としている。しかし,ヒトラーの究極目標意は,『わが闘争』や国会演説でも,明言しているとおり,ドイツ人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくる共産主義者・国際金融資本家のユダヤ人をヨーロッパから排除することである。したがって,もしヒトラー総統が,戦争を起こさなかったなら,ドイツ人から高い評価を得たはずだという議論は,成り立たない。ユダヤ人が戦争を仕掛ける前に,対ユダヤ人戦争を始めるつもりだった。ドイツを再興し,軍備を整え,ドイツ経済を復活したのは,戦争の準備のためである。ドイツのヨーロッパ支配,東方ソ連を占領し,生存圏(支配地)に組み込むためである。一つの大ドイツとは,ドイツ人を民族ドイツ人の住む領域と一つにまとめ,一人の総統の下に統一することである。

◆ナチス第三帝国の基盤は,英仏のようなアジア・アフリカ植民地ではなく,東方の陸続きソ連の生存圏を確保することであって,東方生存圏の現地住民(ロシア人など)はドイツ人の支配下の劣等民族へと貶められる。ヨーロッパ・ユダヤ人を,マダガスカル島,中東・パレスチナへの移住は,検討され,一部はシオニズムとも結びつき,実施された。しかし,第二次大戦が開始され,ドイツにとって戦局が悪化すると,ユダヤ人の追放・排除とは,ユダヤ人絶滅になった。

◆ヒトラー総統は,一つの民族,一つのドイツ,一つの総統を理念とし,ドイツを復興させた。東方ソ連という生存圏を獲得し,ドイツ人を人種汚染し,共産主義と金融資本家・政治家を操ってソ連・米英を煽動し戦争を仕掛けてくるユダヤ人を排除する戦いも必要である。したがって,ヒトラー総統の国内経済政策を偉業としたり,ヒトラー総統が第二次大戦を起こさなかったら,今日でも高く評価された政治家になったという仮定は,完全に否定される。
 ヒトラー総統の人種民族差別は,ユダヤ人,知的障害者,ロマ(ジプシー)をヨーロッパから排除・絶滅するという過激なものだった。人権を無視した人種民族差別に対して,経済政策にだけ注目して,高い評価を与えることはできない。


ナチス指導者,一般市民は,収容所に送り込まれたユダヤ人の運命を察することができた。しかし,誰もその「責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズムである。ユダヤ人絶滅は,国会演説,ラジオ放送でも公言されていたが,これは過激なプロパガンダに過ぎないと考えたドイツ人,占領下の住民,ユダヤ人が多かった。東方の強制収容所に移送されたユダヤ人が殺戮されていることを知っているナチス指導者は,何も知らないふりをした。

ポーランド総督ハンス・フランクは,自分自身を含めて「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」と後に語った(トーランド『アドルフ・ヒトラー 4』122-123頁)。

写真(右)ドイツ国防軍を閲兵する総司令官アドルフ・ヒトラー総統:ニュルンベルク大スタジアムで,ドイツ国防軍の砲兵部隊が,牽引車で大型火砲を運搬している。下の演壇にはヒトラー総統。軍事パレードには,上から見下ろすような高い位置をとらず,兵士の目線で閲兵している。ヒトラー総統は,第一次大戦で上等兵伍長勤務の第一線兵士として勇戦した。このとき授与された第一級鉄十字勲章を誇りとした。公式の席では,突撃隊褐色の制服に身を包み,鉄十字勲章を提げた。World War 2 in color引用。

8.第二次世界大戦の勃発

1939年9月1日、ドイツは,ポーランドに侵攻した。ドイツの対英宣戦布告・攻撃はなかったが,9月3日、ポーランドとの相互同盟条約に基づいて,ネヴィル・チェンバレン英首相は対独宣戦布告した。独軍は,機械化部隊からなる装甲師団,地上支援航空部隊,空挺部隊が連携をとって,兵力を迅速に集中し,攻撃する電撃戦を行った。

1939年9月1日,ドイツ軍のポーランド侵攻時に,特別行動部隊アインザッツグルッペが組織,投入された。任務は,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物・インテリを処分することである。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。 

ポスター(右):1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワで馬車を使って移動するユダヤ人(?):ゲットーに移住するといっても,家屋,土地など不動産はもちろん,家具・食器など日常生活に必要なものも一部しか運搬することはできなかった。今日のように,一家だけのトラック引越しではなかった。職も学籍も故郷も失い,自由を奪われることになった。
Polen, Warschau. - Menschen auf Pferdekarren; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Schulze 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・ Bild_101I-001-0251-29引用(他引用不許可)。

SS保安警察長官ハイドリヒは,開戦から3週間の1939年9月21日,ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置し,ユダヤ人を強制移送することを決めている。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国,オランダ,フランスの一部の警察・住民は,ユダヤ人迫害,財産強奪に加わった。ドイツ国防軍は,当初,不名誉な一般市民虐殺を阻止しようとしたが,虐殺命令が最高位からのものと知ると,治安維持任務,軍政担当の責任を回避した。親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。軍は,ユダヤ人問題の責任を回避した。

写真(右)1939年9-10月,ワルシャワで通りの後片付け・清掃をさせられるユダヤ人(?)。左端のドイツ兵は,使役するユダヤ人を監督しているが,小銃をもっていない。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人を使役して,自らが破壊したワルシャワの通りを清掃させた。この程度の差別的使役であれば,命令されたユダヤ人も従った。
ユダヤ人を清掃作業に当たらせるのには,非武装の兵士で十分だったのは,ユダヤ人にとって使役の内容が許容でき,積極的に反抗されなかったためである。親衛隊は,ユダヤ人を軽蔑しつつも,恐れていたから,ユダヤ人の反乱を警戒して,ユダヤ人迫害,絶滅の方針を隠蔽した。
Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Rutkowski, Heinz 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-001-0251-38引用


ユダヤ人を警戒させずに登録するための名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。こようにしユダヤ人は自ら出頭して使役の義務を終えて、これ以上の苦役が家族に課せられないように家族全員を登録した。登録したことでこの一家の安全を保障しようとした。しかし、ドイツ人が重視していたことは、ユダヤ人を使役することではなく、ユダヤ人全員を登録し完全に管理する準備をすることだった。

写真(右)1939年9月,ポーランド、ドイツ警察の監視下でトラックで労働作業に向かうユダヤ人男性
Polen;- Transport verhafteter Juden auf einem LKW unter Bewachung durch Polizei und SD; KBK Lw 4 Dating: September 1939 Photographer: Lifta 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-380-0069-35引用(他引用不許可)。


ナチスドイツは,占領したポーランドのユダヤ人を,いきなりユダヤ人居住区ゲットーGhettoに隔離したのではない。ゲットーに移す前に,ユダヤ人の氏名・住所などの情報を集める登録作業を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだったようだ。

ユダヤ人は,戦禍の片付け作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。しかし,清掃に従事することで生活を維持しようとしたユダヤ人は、やむを得ずユダヤ人登録に応じてしまう。こうしてユダヤ人を出頭させ登録によってユダヤ人個々人をを把握することに成功した親衛隊は,リストに載ったユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。1940年10月初旬,ゲットー設置の噂が広まっていたワルシャワでは,出入り可能な開放ゲットーが設置されることになった。ユダヤ人地区のポーランド人,ポーランド人(アーリア人)地区のユダヤ人は立ち退きを求められ,分離された。

ワルシャワ・ゲットー写真解説を読む。

1941年5月,ドイツ軍は,ベルギー,アルデンヌ経由で,フランス侵攻開始。5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、連合軍兵士34万名の英本土脱出後の6月5日ダンケルク占領。6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏。

写真(右)ヒトラー総統と空軍大臣へルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring元帥(1893-1946):ゲーリングは,第一次大戦の空軍エースで,1918年6月,最高位のプール・ル・メリット勲章を授与。外国の要人や財界とも交流があり,戦前,米英では穏健派と目されていた。プロイセン内相として警察行政や経済計画を任され,空軍部隊も指揮した。しかし,バトルオブブリテン敗北,スターリングラード空輸失敗,本土防空戦失敗で権威凋落。1945年4月,ヒトラー総統がベルリンを死守して軍の指揮を取れなくなると危惧して,ヒトラー総統に識見を譲渡するように要請。これに,ヒトラー総統は激怒に,すべての役職を解かれた。戦後,監禁されモルヒネ中毒から立ち直ったのか,ニュルンベルク軍事裁判の論戦で注目を浴びた。死刑判決を受けたが,毒物で自決。毒物の入手経路は不明。 World War 2 in color引用。

1941年6月,ヒトラー総統はフランス降伏後,パリのエッフェル塔を訪問した。建築家(後に軍需大臣)アルベルト・シュペール(Albert Speer),彫刻家アルノ・ブレイカー(Arno Breker)とともに,初めてパリを視察した。23日には,エッフェル塔で記念撮影をした。ヒトラーは,以前からベルリンをパリのような美しい都市にしたいと,シュペーアに語っていた。パリではオペラ座、ルーブル美術館、凱旋門,廃兵院のナポレオン墓所も訪問した。

◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。

◆第二次大戦初期,ドイツのヨーロッパ占領後,排除対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカを資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラー総統は考えた)。となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める世界戦争を戦うべきである。この妄想的宿命論を信じたヒトラー総統は,参戦義務がないにもかかわらず,対米宣戦布告した。いままで,宣戦布告のッ最後通牒をしなかったヒトラー総統だったが,世界のユダヤ人相手の最終戦争は,自ら宣戦布告すべきであると考えた。

写真(右)1941年4-5月,I号戦車にIG-33歩兵砲を搭載したI号15センチ自走砲:Sturmpanzer I Bison (Sd.Kfz.101); 15cm sIG33(Sf) auf Panzerkampfwagen I
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-163-0328-15 Archive title: Griechenland.- Schweres Infanterie-Gesch?・tz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausf?・hrung B der 5. Panzerdivision; PK 690 Dating: 1941 April - Mai Photographer: Jesse Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-163-0328-15引用(他引用不許可)。


ソ連領は,ドイツ人・ドイツ系民族(民族ドイツ人)の殖民する領土であり,そこにユダヤ人を追放することは考えられない。英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画された。しかし,戦時,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。緊急課題として,収容したユダヤ人の処置が問題となった。

9.ユダヤ人問題の最終解決・ホロコースト

1941年6月6日(ドイツの対ソ侵攻直前)、ドイツ軍最高軍司令部は、ボルシェビキ指導者の政治委員(コミサール)射殺命令を出した。
1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を無視し,ソ連に侵攻。4個大隊3千名の特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は,治安維持とユダヤ人・共産主義指導者抹殺の目的で, 1942年4月までにソ連の住民・捕虜50万名を虐殺した。これは口頭命令で、文書上は,ユダヤ人追放など婉曲表現を使用。

ソ連打倒が困難なことが判明した1942年10月末、ソ連人捕虜とユダヤ人をドイツの産業・農業生産工場のために,奴隷労働者として利用するようになる。 

1942年1月20日ヴァンゼー会議Wannseekonferenzでは,ハイドリヒ長官が、親衛隊,警察指導者に、1941年10月末までに53万7千名のユダヤ人を国外移住させ、残るソ連・欧州の1100万名に及ぶユダヤ人問題の最終解決を全権委任されたことを伝えた。9月から,ドイツ支配下のユダヤ人は,黄色のダビデの星印の着用が命じられた。

◆ソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・資源不足という状況の中で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、絶滅されることが決定した。
⇒栗原優(1997)『ナチズムとユダヤ人絶滅政策−ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房 参照

 1942年7月17-18日,ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を徹底的に視察した後,ヘス所長の執務室で「今は戦時であり,戦時にふさわしい考え方をすることを学ばなくてはならない。アイヒマンのプログラムは推進され,毎月上昇してゆくだろう。ジプシー殲滅を進め,働けないユダヤ人も容赦なく抹殺されなければならない。近くの軍需工場附属の労働収容所が,働けるユダヤ人を大量に引き受けるであろう。アウシュビッツでも,所内の軍需工場が建設されなければならない。----」ヒムラー長官は,飛行機でベルリンに帰った。(ルドルフ・ヘス『アウシュビッツ収容所』425-440頁引用)

 <ホロコーストの理由>
1.ヒトラーは,ユダヤ人がドイツを破壊し,第一次大戦の敗戦に追い込んだとして,人種民族差別を正当化した。

2.ヒトラーは,不況や敗戦などの国家的困難を,すべてユダヤ人の陰謀のせいにした。これは,弱い(人権が制限されている)人種民族を選んで,責任を転嫁する「スケープ・ゴート(生贄のヤギ)」である。

3.第一次大戦で,第一級鉄十字賞を授与されたヒトラー上等兵は,前線のドイツ軍兵士が勇戦していた状況で,銃後のユダヤ人政治家や共産主義者が反乱・革命を起こして,ドイツを敗戦に陥れたとする「背後からの匕首の一突き」陰謀説を信じた。

4.ヒトラーは,ヨーロッパ・アーリア人を至高の人種民族族と妄想し,ユダヤ人はアーリア人を人種汚染するとして,「劣等下等人種民族(ウンターメンシュ)の抹殺正当化」をした。

5.ヒトラーは,ユダヤ人の目的は,世界支配で,共産主義者としてソ連を動かし,金融資本家・メディア経営者として民主主義=衆愚政治の米英を操っているとした。ヒトラーは,1939年の開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,ユダヤ人殲滅戦争の遂行を訴えた。

6.ユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのであれば,ヨーロッパ・ユダヤ人を抹殺するべきである,とヒトラーは決意した。三国軍事同盟には参戦義務がないにもかかわらず,国会で対米宣戦布告をしたのは,ユダヤ人絶滅の世界戦争を,宿命だと妄想したためである。


7.ヒトラーは,キリスト教徒ドイツ人の団結を維持し,敵ユダヤ人の必死の反撃を受けないように,ユダヤ人絶滅を秘匿した。ユダヤ人絶滅を,(ドイツ国防軍ではなく)キリスト教に縛られない忠誠無比な親衛隊SSに口頭命令した。

8.労働力としてユダヤ人を活用することも,総力戦では重要だった。ただし,ユダヤ囚人による奴隷労働も,究極目的は,ユダヤ人絶滅である。

9.女子供まで殺害するユダヤ人虐殺は,名誉ある軍人の任務ではない,キリスト教徒の信義を守るべきであるとの反論が,ドイツ国防軍の将兵の中に起こった。1944年7月,ヒトラー暗殺未遂事件も勃発した。ヒトラーは「背後からの匕首の一突き」を信じていたから,ドイツ世論が反ナチス・反戦に転化するのを恐れ,ドイツ市民が従順で,世論が反対しない限り,ユダヤ人殺戮を遂行した。


写真(右)1941年6月-7月,ソ連侵攻,砂埃を巻き上げて突進するドイツ陸軍III号突撃砲StuG III :24口径7.5センチ砲を装備した火力支援のための戦車。
突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。
Sowjetunion, deutsches Sturmgeschütz auf dem Marsch über staubige Straßen; PK 689 Dating: 1941 Juni - Juli Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月の独ソ戦では,ドイツ軍の占領地の後方治安維持にあたった特別機動部隊(アインザッツグルッペ)は,共産党政治委員(コミサール),ゲリラ,教員・行政官など知識人(インテリゲンチア),敵性住民を銃殺や縛り首で処刑した。しかし,血の流れる陰惨な処刑は,処刑者に精神的負担となった。また,銃殺が知れ渡ると,ユダヤ人捕獲が困難になり,住民によるゲリラ活動も活発化した。そこで,処刑者に負担をかけず,治安を悪化させずに,効率的に大量処刑できる「ユダヤ人絶滅のシステム」が考えられた。これは,?反ユダヤ人プロパガンダ,?ユダヤ人密告報酬,?列車移送,?移送者の財産収奪と有効利用,?奴隷労働,?ガス殺・疲労死・病死,?死体焼却の流れが,効率的に組織された。中でも,ガス室は,処刑者の心理的負担を軽減し,大量殺戮を効率化する重要な一要素で,反人間性の象徴となった。(ただし,アウシュビッツ収容所長アドルフ・へスなどは,残虐な方法ではなく,ガスで安楽死させていると考えた。

写真(右)1941年12月11日,ベルリン,クロル・オペラのドイツ国会、アメリカ合衆国に宣戦布告演説をするドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統:後上方には,国会議長ヘルマン・ゲーリング。国会は審議機能を停止し,ヒトラーの施政方針演説の場に過ぎなくなっていた。ポーランドとの戦争,ソビエト連邦との戦争を始めたとき,宣戦布告などしなかったヒトラーだが,世界戦争を自ら開始し,ドイツ第三帝国を千年安泰にするための戦争,すなわち世界のユダヤ人=国際金融資本家=共産主義者(ボリシェビキ),に対する戦争は,最終戦争であり,自ら戦線を布告した。これは,ヒトラーの歪んだ世界観,人種民族差別が生んだ妄想だった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B06275A Original title: info Die welthistorische Sitzung des Grossdeutschen Reichstags am 11. Dezember 1941. Immer wieder muss der Führer dem ihn entgegen brandenden Jubel des ganzen Hauses danken. Archive title: Berlin, Kroll-Oper.- Adolf Hitler vor dem Reichstag.- Rede zur Kriegserklärung an die Vereinigten Staaten von Amerika Dating: 11. Dezember 1941 Photographer: Hoffmann Origin: Bundesarchiv Photographer: Hoffmann Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,1941年12年11日,ヒトラー総統は対米宣戦を決意、次のように国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説(ラジオ放送)をした。

We know the power behind Roosevelt. It is the same eternal Jew that believes that his hour has come to impose the same fate on us that we have all seen and experienced with horror in Soviet Russia. We have gotten to know first hand the Jewish paradise on earth. Millions of German soldiers have personally seen the land where this international Jewry has destroyed and annihilated people and property.

日独伊三国軍事同盟では,第三国から攻撃を受けた場合,共同防衛することを定めているから,日本軍の米英攻撃で開始された太平洋戦争に,ドイツは参戦する必要はなかった。しかし,ドイツのヒトラー総統は、イギリス首相チャーチルと同じくアメリカ大統領ルーズベルトもユダヤ金融資本やマスメディアに踊らされており、ドイツと敵対するのは必然であると考えた。アメリカのユダヤ人の陰謀によって第二次世界大戦が開始された以上,ドイツも米国との戦争に巻き込まれるのは必定であり,ヒトラーは、機を制して世界,アメリカのユダヤ人を敵として戦うべきであると判断した。


GERMANY´S DECLARATION OF WAR ON THE USA 11 DEC 1941

1941年12月11日、クロル・オペラ臨時国会議事堂において、ゲーリング国会議長の司会で、ヒトラー総統は、ユダヤ人に操られているルーズベルト大統領がドイツ民族を滅ぼそうと戦争を挑発しているが、もはや我慢ならないとして、アメリカに宣戦布告した。これに対して、アメリカの連邦議会ではルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が行われたが、対日参戦のFDR演説とは異なり、対独参戦FDR演説の動画は公開されていない。


December 11, 1941 US Congress declares War on Germany

写真(右):1941-42年,バルカン半島のドイツ軍IV号戦車:42口径7.5センチ戦車砲を装備して対戦車戦闘も可能なPanzer IV (Sd. Kfz. 161)戦車。バルカン地域には,休養か訓練のために配備されていたのであろうか。
Balkan, Griechenland.- Panzer IV Ausf. G mit Besatzung in Fahrt auf freiem Feld; PK 690 Dating: 1941/1942 Photographer: Teschendorf撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ドイツ軍は,東部戦線でソ連赤軍に大打撃を与えたが,優秀なドイツ兵士16万名が犠牲になっている。この犠牲の責任は,ユダヤ人にとらせるつもりである。もはやアメリカのユダヤ人に配慮して,ヨーロッパ・ユダヤ人の最終解決を遅らせる必要はなくなった。ユダヤ人や敵性住民を収監する強制収容所で,最終解決の名の下に,ユダヤ人絶滅を実行すべきときがきた。

これに対して、ルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が米議会に対して、すぐに行われた。

1941年12月13日のナチス宣伝省ゲッペルスJoseph Goebbels の日記「総統Führerは、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと(1939年に)と予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」 (12/12のヒトラー総統によるナチス党幹部への演説をもとにした記録)

1941年12月18日,総統大本営(Wolfsschanze) でヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の口頭命令を受けた親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)は,国内外世論,処刑者の精神的苦痛,ユダヤ人の反抗・ゲリラ活動防止,治安維持に配慮して,密かに強制収容所を「絶滅」システムに組み込んだ。 

1941年12月18日頃のヒムラー長官のメモ
Judenfrage / als Partisanen auszurotten
英語翻訳:Jewish Question / to be exterminated like the partisans


絶滅収容所には,大規模なガス室・焼却炉があった。しかし,ガス室を備えていない一般の強制収容所でも,栄養失調,病気,あるいは虐待によって多数の死者が出た。虐殺は,ガス室だけで行われたわけではない。

ヒトラー卓上談話(ヒトラーのテーブル・トーク)>
ナチ党官房長官のマルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。

1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。ロシアの湿地帯にユダヤ人の奴等を置き去りにはできないなどと言ってくれるな。わが部隊の心配を誰がするというのか。われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。----われわれの世界でもユダヤ人は,ショーペンハウエル,ニーチェ,カントを直ぐにも抹殺しかねなかった。ボルシェビキ支配が今後二百年も続けば,われわれの作品がどのくらい子孫に残せるだろうか。偉大な人物が忘れ去られるか,犯罪者やならず者のように扱われるだろう。-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。現時点でいたずらに問題を増やしても意味はない。時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。

1941年11月5日:「善良な国民が最前線で戦死しているこの時,(人権に配慮した刑罰制度によって)犯罪者ばかりを保護すれば社会のバランスは崩れ,国家の健全さは打撃を受けるだろう。これは衆愚政治だ。国家が窮地に陥っている時には,このような手厚い保護の下に置かれている一握りの犯罪者どもに,最前線の兵士たちの犠牲によって得た賜物を簒奪する恐れが高い。これは1918年(第一次大戦の敗北)に経験済みだ。この対策としては,この種の犯罪者は直ちに死刑に処す,これしかない。-----こんな屑どもに団結する機会を与えるのは非常に危険だ。」(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年 参照)

1941年11月5日,ヒトラー卓上談話:「イギリスはなんと愚かしい戦争を戦っているのだろう。もし負ければ,国内では反ユダヤ主義が起こるだろう。今のところ,反ユダヤ主義は休眠中だが,ひとたび起これば,これは想像を絶する激しいものになるに違いない。
この戦争の終結は,ユダヤ民族の絶滅を意味する。ユダヤ人というのは,エゴイズムそのものだ。---ユダヤ人は精神的なものに全く関心を持たない。もしドイツに住んでいるユダヤ人が文学や芸術に関心があるように見えるとすれば,それは紳士気取りか投機目的のどちらかだ。-----ユダヤ人は,タルムードをほざく三百だ代言だ。ドイツ人は物事の深層を究め,表現できないことを表現しようと試みるが,奴らは言葉をもてあそぶだけだ。他人を言いくるめるのだけは,実に上手い。----ユダヤ人の最大の誤魔化しは,宗教でもなんでもないユダヤ教を,宗教のごとく偽っていることだ。簡単に言えば,ユダヤ人は自分たちの人種思想に宗教的カモフラージュを施したのだ。奴らのやることなすことすべて,嘘に立脚している。
ギリシャ・ローマ世界の崩壊の責任は,ユダヤ人が負うべきである。----ユダヤ人が生きるための戦いは,嘘こそが武器だった。
ユダヤ人は有能だというが,奴らの能力は,他人のものを弄び騙し取ることだけだ。
 ユダヤ人というものは,何もかもごちゃ混ぜにして,本来はなんでもないことに,大混乱を引き起こすのが得意だ。そして,物事の本質が何かをわからなくさせてしまう。----とにかく私が言いたかったのは,ユダヤ人が被創造物の中で,最も悪魔的かつ愚鈍だということなのだ。ユダヤ人には音楽家も思想かもいない。奴らは無,いやそれ以下だ。嘘つき,詐欺師,ペテン師!やつらが成功したのは,騙された人間がいたからだ。----アーリア人は,ユダヤ人なしで生きてゆけるが,奴らはわれわれなしでは生きてゆけない。これにヨーロッパ人が気がつけば,ヨーロッパ人として連帯意識を持てるようになるのだが,その連帯意識を邪魔しているのがこれまたユダヤ人なのだ。」

1941年11月11日:「第一次大戦を戦った国で真に宗教的だったのは,ドイツだけだ。しかし,この事実が,ドイツを敗戦から救ってくれはしなかった。あの嫌らしいフリーメーソンのルーズベルトが,キリスト教についてしゃべるときの我慢ならない偽善!世界の教会が,どうしてあの男に反対し立ち上がらないのか不思議だ!奴はキリスト教徒は全く正反対の原理に則って行動しているというのに。」

1941年11月19日ヒトラー卓上談話:「私は,常にいかなる犠牲を払ってでも,要求を主張し通すという唯一の目標を掲げて歩んできた。権力闘争におけるわれわれの基本理念は正しかったことが証明された。そして,今日のわれわれが世界を相手に戦っている戦争の理念も,それと同じものなのだ。」

1941年12月1日ヒトラー卓上談話:「おそらくユダヤ人の多くは自分の持つ破壊的要素に気付いていない。他人に破壊をもたらすものたちが今,自ら死に瀕している,これがユダヤ人どもに起こっている現実なのだ。-----このユダヤ人の破壊的役割は,自然の摂理といってよいだろう。もし,自然が人間を腐らせる腐敗菌としてユダヤ人をつくり,それゆえに人類が帰って健康志向で生きられるようになるとすれば,(キリスト教をボリシェビキに変えた)使徒パウロや(共産主義革命家)トロツキーですら価値ある人間だということになる。腐敗菌が存在するおかげで,生体は防衛機能を発揮できるからだ。
全ての生き物は,互いに食うか食われるかという関係にあるというと眉をしかめる向きもあるだろうが,これは自然の法則だ。---だからこそ,自然の法則を知ることは有益だ。知れば知るほど従うようになる。従わないのは点に対する反逆だ。私に許容できる十戒があるとすれば,第一は「汝,種を保全せよ」だ。

1941年12月13日:「今,わが親衛隊SSには,全く宗教に無関心な人間ばかり集めた部隊が六隊ある。無宗教だからといって,彼らが魂の平安なしに死んでゆくということはない。
イエス・キリストはアーリア人だった。パウロがイエスの教えを利用して犯罪者どもを動員し,原始共産主義を組織したのだ。。この時,それまでの天才,ギリシャ・ローマ人の時代が終わったのだ。----
キリスト教,これは腐った脳味噌の産物だ。これ以上に無意味でひどいやり方で神を馬鹿にした宗教はない。---われわれの側にも,神の祝福がなくては戦勝はありえないなどと信じている連中がいると思うと,わたしは人間への敬意をなくしてしまいそうになる。まだ何も知らない子供ならともかく,大臣や将軍がそうなのだから。----
全ての人間が自分の種族のために生き,そして死ぬということを知っている社会の実現,それが私の夢だ。そして主のために尽くしたものこそ最高の栄誉を受けるに値する,という思想を広めることが私の仕事である。

1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。歯を抜くときは一気に抜いたほうが痛みが少なくて済む。ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。-----だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。-----アーリア人でも間抜けな連中が「ユダヤ人でもいい奴はいるんだぜ」と言い出すのだ。」人種汚染・人種民族差別に,独ソの過酷な殲滅戦、占領地における治安悪化が結びつき,さらに日米開戦を契機とした対ユダヤ人世界戦争の開始が,ヒトラーに,本格的なヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策を強行させた。

1942年5月17日:「戦争は生きるか死ぬかの戦いであり,肝心なのは勝つことである。そのためには悪魔とも手を結ぶ。客観的に見て,日本との同盟には,我々に計り知れない価値がある。」ヒトラーは,蔑視した日本民族を対米英の軍事力として利用した(『ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944 <下>』三交社,1994年 参照)。

1942年3月7日:ドイツ語には母音が少なく,音楽性に乏しいが,「キャッキャッカーカーという日本語」よりはましで,「あんな言葉でどうやって歌が歌えるというのだ」と日本語を蔑視している。ヒトラー総統は,日本人にも人種的偏見を抱いていており,9月26日には「オランダ人はなんと美しい人種だろう。娘たちは素晴らしく,私の好みだ。オランダ人の欠点は,マレー人との混血によって生じたものだ」と述べた。アジア人を劣等人種とみなしていたのである。

1942年4月12日:「特にこの戦争では,負ければすべてを失うということを明記しなければならない。だからスローガンは唯一“勝利”である。」
そして,1942年5月17日には「戦争は生きるか死ぬかの戦いであり,肝心なのは勝つことである。そのためには悪魔とも手を結ぶ。客観的に見て,日本との同盟には,我々に計り知れない価値がある。」と述べた。ヒトラーは,蔑視した日本民族を対米英の軍事力として利用した(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(下)』三交社,1994年 参照)。

1942年4月23日:「ベルヒスガーテンでも親衛隊SSの血を注入することができて喜んでいる。あそこの人口は混血で,きわめてレベルが低いのだ。----今では相当護衛部隊がいることで,近隣にはかわいい健康な子供たちが増えている。----退廃の気配が見受けられる地域には,エリートを送り込む,十年,二十年後には血統が見違えるほどよくなるに違いない。だから,ドイツの兵士が健康な子供を生むように,若い女を口説くことを国家の義務として心得ていると知って,大変に嬉しい。特に優れた血が大量に流されているこの戦時に,人種の維持は死命を決する問題である。-----わが民族は,何よりも戦士の民族でなければならない。これには特権と義務が伴う。義務とは極めて厳しい教育を受けること,特権とは健康で愉快な生活のことである。ドイツ将兵はいつでも問題なく命を捧げる覚悟をしているのだから,自由に何の規制もなく女を愛する権利がある。人生では戦いと愛とは隣り合わせである。----戦士はいつでも戦闘可能状態にいなければならないのだから,肉欲の節制を命じる宗教戒律などにかかわりあう必要はない。

1942年4月24日:「結婚そのものは,当事者双方が健康で人種的に非の打ち所がないこと肝心である。両親の絆が子供にどのように決定的な影響を与えるかは,孤児院出身で優秀な人々を思うとき,痛感させられる。彼らの両親は,愛し合いながらも社会的制約から結婚できなかった。孤児院は最も価値ある施設である。未婚の母も社会から爪弾きされる恐れがあるが,彼らにとって孤児院は避難所となり,子供を人知れず安心して任せることができ,愛情を持って面倒を見てもらえる。----国家社会主義教育センターは,寄宿学校と連携して,人種的に健康な私生児を受け入れ,能力に応じて教育を施す用意がある。」私生児の父をもつヒトラーは,放蕩生活を経験し,優秀なドイツ民族を反映させるためには,キリスト教的教義に拘束されない自由恋愛と私生児の出産奨励・育児保護による人口増加政策を採用した。ユダヤ人絶滅政策と対照的である。

1942年5月22日ヒトラー卓上談話:「戦場では理想主義者が次々に死んでゆくのに,銃後で犯罪者度もを野放しにしておけば,わが国の人種政策は逆行してしまう。第一次大戦の教訓を忘れてはいけない。私の結論は次の通りだ。兵士は死ぬ可能性がある。犯罪者は確実に死ななければならない。これに選択の余地はない。この原則を受け入れない国家に,理想主義に燃える兵士を戦場で市の危険にさらす権利はない。-----銃後のドイツ国民が劣等人種に成り果てることがないように監視することこそ,私の義務であると心得ている。」ヒトラーは,共産主義者・国際金融界の劣等人種ユダヤ人が,第一次大戦を敗北させたとして,犯罪者どもと決め付けており,第二次大戦では,ドイツを勝利させるために,劣等人種・犯罪者のユダヤ人を抹殺することを決意していた。
→『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(下)』三交社,1994年 参照


写真(右)1942-1943年,イタリア戦線と思われるメッサーシュミットMe-109G-3戦闘機:Bf 109 Fが搭載したダイムラーベンツDaimler-Benz DB601A液冷エンジンの強化型のDB 605エンジンを搭載。機体エンジンのプロペラ軸を通して射撃するモーターカノン20ミリMG151/20機銃も、機首上面の機銃を7.92ミリMG17機銃2丁もF型と同じ。G-6になると、機首上面の機銃は13.1ミリMG131に強化され、バルジ(突出部)が付くようになる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-649-5382-31A Archive title: Italien(?).- Feldflugplatz mit Flugzeug Messerschmitt Messerschmitt Me 109 G-3; Soldaten, sitzend; Eins Kp Lw zbV Dating: 1942/1943 ca. Photographer: Lechleitner Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。しかし,ガス室の室温が低くなる冬季には,チクロンBが気化できなくなるという問題が生じた。

  1942年8月30日ヒトラー卓上談話:「ロシアでは共産主義が本性を現している。我々は1mごとに掃討作戦を展開し,即決裁判を行わざるを得なかった。テロリストとの戦いは,過酷な戦いである。エストニアとラトビアでは反抗は収まった。が,ゲリラの情報を担うユダヤ人を殲滅しない限り,我々の責務は完了しない。」ユダヤ人が反ドイツ謀略戦争を仕掛けているので,殲滅すべきだと考えていたのである。

1942年8月31日ヒトラー卓上談話:「反ドイツ運動は,資金源のユダヤ人に命令されたチャーチルが中心となり,イーデン,バンシュタートなどその仲間も加担した。ユダヤ人は,すでにマスコミを支配し,広告収入を押さえてロザミア[新聞経営者]を封じ込めた。---ユダヤ人を根絶し損ねた国は,早晩食い尽くされてしまうに違いない。

1942年6月17日ヒトラー卓上談話:「聖書がドイツ語訳されたのは,実に嘆かわしい。こんな間違いを犯したために,ドイツ民族がユダヤ教の迷信に惑わされるようになった。-----まともなドイツ人なら,同胞が汚いユダヤ人の嘘に乗せられ,宗教的熱狂に陥っている現状を知れば,唖然とするだろう。これは侮蔑のまなざしを向けているトルコ人や黒人の異教の恍惚状態とほとんど変わらないものだ。」

  写真(右)1943・1944年,対四発重爆撃機迎撃に使用するロケット弾WfG. 21を装備するドイツ空軍フォッケウルフFw-190A8戦闘機:本土防空戦に投入されたWfG. 21は直径21センチの対空ロケット弾だが、信管は時限式だったために、爆撃機の編隊の真ん中で爆発させるのは困難だった。主翼の付け根と主翼中間に20ミリMG151/20機銃、機首上部に13.1ミリMG131機銃2丁も装備しているので重量過大となり、航続距離が低下した。胴体下面のETC-501-Rumpfpylon(爆弾搭載ラック)に金属製300リットル入りの増加燃料タンクを懸架した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7772-13A Archive title: Bewaffnung eines Jagdflugzeugs Focke-Wulf Fw 190 mit Werfergranaten 21 im Hangar eines Flughafens; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Grosse Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild 101I-674-7772-13A引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年2月,左より,マンシュタイン元帥、ヒトラー総統、テオドール・ブッセ少将、エドワルト・フォン・クライスト元帥:作戦会議は,大戦略を議論するよりも,ヒトラー総統の戦略方針の詳細を立案し,実行状況を確認する場所になりつつあった。 HowStuffWorks引用。

    ヒトラーは,1944年11月29日の卓上談話で,「パウロの生み出した宗教は,のちにキリスト教徒と呼ばれたが,今日の共産主義となんら変わることがない。」と述べ,ナチ党官房長マルチン・ボルマンは「反キリスト教,反共産主義であるがゆえに,国家社会主義は,最大限に反ユダヤ的です。国家社会主義は堅固で,その力は反ユダヤの一点に集中しています。ただの社会問題や民族の福利向上にかかわる事柄でも,その精神は同じです。」と口を挟んだ。ヒトラーは「(共産主義とキリスト教の)両者の致命的な関係が日々,人々の目に明らかになってゆくのは喜ばしい」と結論した(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(下)』三交社,1994年 参照)。

1941年12月中旬,ヒトラー総統は,対米宣戦布告と同時に,ドイツ民族の敵ユダヤ人絶滅を決意していた。(→Hitler's Table Talk

ナチス親衛隊は,軍需生産上,労働力を提供できない労働不能ユダヤ人を,ガス室などで殺害した。そして,労働可能なユダヤ人囚人は,衣食住の物資も切り詰めて,過酷な条件で,奴隷労働者として,死ぬまで働かせた。

しかし,ユダヤ人絶滅を,経済的理由だけ説明することはできない。アンチセミティズムに基づいて,ユダヤ人をドイツ民族を滅ぼそうとする敵,病原菌であると決め付けた人種民族差別の役割も大きい。

 ユダヤ人が,ドイツ人の生存を脅かす敵である以上,軍需生産・食糧生産を担う奴隷労働力として利用することと並んで,ユダヤ人絶滅も重要な目標となる。ユダヤ人を労働力として無償利用することは,永続的目的ではなかった。これを理解できないところに,現実主義者ヒトラーが,労働力として有用なユダヤ人を虐殺するはずがない,という誤解が生まれる。

ヒトラー総統,そのユダヤ人絶滅命令を口頭で受けた親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツ民族を滅ぼそうとする病原菌として,ユダヤ人を認識していた。この人種民族的偏見を抱く限り,ユダヤ人虐殺もユダヤ人の奴隷労働もともに,合理的行為として,実行された。

ユダヤ人虐殺方法は,当初は,銃殺・縛り首だったが,ユダヤ人に処刑が知れ渡ると,ユダヤ人を捕まえることは困難になり,同時に住民による反抗も活発になった。また,ドイツ人処刑者の中には,婦女子の処刑には精神的に耐えられないものもあった。そこで,処刑者に負担をかけないで,大量殺戮できるような「ユダヤ人絶滅システム」が作られた。

◆ユダヤ人絶滅システムとは,一般住民に反ユダヤ人プロパガンダを行い,ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪した。囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。このようなユダヤ人虐殺の重要な部分は,口頭でのみ命令され,文書化することを許さない。効率的に秘密裏に組織されたのが,ユダヤ人絶滅システムである。

アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカTreblinka ,ゾビブルSobibor ,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置されたガス室を備えていた絶滅収容所は,ユダヤ人,ロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜などを大量殺戮した。このほかの強制収容所には,ガス室はなかったが,栄養失調・病気による衰弱死,奴隷労働による過労死,拷問による死亡,処刑があった。

処刑者のドイツ人にとって,ユダヤ人婦女子まで銃殺することは,大きな精神的,肉体的負担だった。そこで,処刑者の負担を軽減するように,ガス殺が導入され,遺体処理は強制収容所の囚人特別部隊(ゾンダーコマンド)に強要した。
つまり,人種民族差別の上に,効率的に殺戮を進め,資産を収奪するユダヤ人絶滅システムが,構築された。ユダヤ人絶滅は,冷徹に計算された人種民族差別の極限にある非人間的な暴力である。


1944年10月末以降,ヒムラー長官は,ガス室大量殺戮の命令を中断した。これは,ユダヤ人を人質として和平交渉に利用するため,もうひとつは,自己の保身のためである。戦争犯罪人を処罰することが,連合国・国連宣言の中で,公言され,ドイツ敗北が明らかになると,ヒムラーは,戦後に戦犯として処罰されることを恐れ,虐殺を停止させた。しかし,強制収容所では,ドイツ敗色前,食糧配給が悪化,飢餓,病気の蔓延,虐待によって多数の囚人が死んだ。

他方,親衛隊長官ヒムラーは,ヒトラー総統に知られないように,1945年3月,スウェーデン経由で和平秘密交渉を開始した。しかし,1945年4月に秘密交渉は発覚,ヒトラー総統は,ベルリンの大地下壕から,ヒムラーの逮捕を命じた。ヒムラーは,逃亡,一兵士に変装したが,終戦後1945年5月23日,連合軍に見つかり,服毒自殺。

写真(右)1943年5月―6月,ロシア、ブリャンスクの新鋭VI号重戦車「ティーゲル」 Panzer VI "Tiger I" ブリャンスクは、ベラルーシとウクライナとの国境の街なので、スターリンの農業集団化・農地私有廃止に反対する親ドイツ派のウクライナ女性たちなのか、?号戦車「ティーガーI」の車体に上って、ドイツ軍の戦車兵たちと交歓している。8,8センチ砲は長大で、当時最高の対戦車戦闘能力を備えていたが、戦車の重量が過大で燃費が悪く、機動性も低いのが欠点だった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-199-1444-33 Archive title: Rußland bei Brjansk.- Panzer VI "Tiger I". Einheimische Frauen und M?・nner in Tracht mit deutschen Panzersoldaten auf dem Panzer; PK 693 Dating: 1943 Mai - Juni Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-199-1444-33引用(他引用不許可)


10.ヒトラー暗殺未遂事件(要旨)

 ヒトラー総統は,第二次大戦直前,英仏相手の戦争を躊躇した将軍たちを失職させた。将軍たちは,ヒトラーへの怨恨もあって,1944年7月のヒトラー暗殺事件に関与した。しかし,誰一人として,ヒトラー総統に自ら銃を向け,堂々と反乱を起こしたものはいなかった。将軍たちは,ヒトラー暗殺には直接手を下さず,暗殺後の政治的・軍事的指導者の地位を手に入れようとした。

ヒトラー暗殺未遂事件(全文)を読む。

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1944 年、ベルギー、ゲント(ガン)上空でイギリス空軍スーパーマリーン・スピットファイアSpitfire戦闘機の銃撃を受けるフォッケウルフFw 190戦闘機:Fw-190戦闘機のパイロットはベールアウト(脱出)する直前の状態をガンカメラで撮影した。
Catalogue number: C 3621, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: Royal Air Force official photographer, Object description: Film still from gun camera footage, showing cannon and machine gun fire from a Supermarine Spitfire striking a Focke Wulf Fw 190, during a dogfight over Ghent, Blegium, just prior to the German pilot baling out and his aircraft diving to earth.. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 3621)


11.ヒトラー総統の最期

(1)ヒトラー総統の政治的遺書Adolf Hitler's Final Political Testament

わたしが1914年、帝国に仕掛けられた第一次世界大戦に、一人の志願兵として力をつくして以来、30年以上が過ぎ去った。この30年の間、わたしの一切の思考、行動、生活をわが民への愛と忠誠に従って,生きてきた。それら故に,わたしは、何人も比較できない最も困難な決断を下すことになった。わたしは、自らの時間、労力、健康を,この30年間費やしてきた。

わたしやドイツ人が,1939年に戦争を欲したというのは真実ではない。この戦争は,意図的に,ユダヤ人やユダヤ人の利益のために働く国際的政治家によって,引き起こされた。-----わたしは,第一次世界大戦後、イギリスやアメリカに対して,第二の戦争を欲したことは一度もなかった。数世紀たてば,町や記念物の廃墟の中から、われわれを貶めたユダヤ人とその支援者たちに対して,すなわち全ての最終責任を負っている連中に対して,憎悪が蒸し返されるであろう。

-----和平提案が拒否されたのは,イギリスの政治家の指導者が戦争を欲したのであり,国際的ユダヤ人によるプロパガンダによって影響を受けている国際ビジネス界が戦争を欲したからである。

わたしは,非常に明白に,次の点を示してきた。それは、ヨーロッパの諸国民が、国際金融界の陰謀家によって売り渡される単なる株券のように扱われるなら、このような人種民族であるユダヤ人は,殺人犯であり、責任をとらせられるべきであるということだ。さらに,疑いもないことだが,今度こそ、数百万ヨーロッパ・アーリア人の子弟が餓死し,数百万の男が死を被り,都市で数千万の婦人と子供が焼かれ空襲で殺されるのであれば,そのことは,本当に犯罪者の連中が,------その罪を贖うことなしには,済まされない。

------ユダヤ人によって引き起こされ、扇動された連中を喜ばすため,見世物として,敵の手中に落ちるつもりはない。わたしはベルリンに留まり、総統・首相の座が,維持できないと判断した瞬間に、自由意志で死を選ぶ決心をした。-----偉大なクラウセヴィッツの教えに忠実に則って、祖国の敵との戦争を継続すること願うのは言うまでもない。-----

以上、最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。

         ベルリンにて 1945年4月29日 午前4時  ADOLF HITLER

(2)自決したヒトラー総統

総統秘書トラウデル・ユンゲTraudl Junge(1920/3/16-2002/2/10)は,「余の政治的遺言」この最初の言葉を聞いたとき,手が一瞬震えた。罪状認知,真実の告白の前に緊張したのである。しかし,総統が述べたことは,すでにドイツ国民が,世界が何度も聞かされたことの蒸し返しだった。

◆政治的遺書の中で,ヒトラー総統の後継者は,実は存在しない。ナチ党首・首相・大統領・国防軍総司令官をすべて兼ねる「総統」は一人アドルフ・ヒトラーのみで終わった。ナチスの後継者は,複数の首脳に分割された。海軍総司令官カール・デーニッツ提督が大統領・国防軍総司令官に任命され,ヨーゼフ・ゲッペルスが首相に,総統の個人秘書で官房長官だったマルチン・ボルマンMartin Bormannがナチ党首に任命された。

ヒトラーは,口述が終わった後,ユンゲが清書,タイプしている最中に,彼女の部屋に来て,アドルフ・ヒトラーのレターヘッド付き用紙の遺書がどこまでタイプできたのかを点検した。この最中,ゲッペルス宣伝相も,ユンゲに総統と命を共にすることを話し,自分の遺書を総統の遺書に添えるようにと要求した。

タイプし終わった遺書三部(同じもの)とも署名され,遺書は,カイテル元帥あるいは新任の陸軍司令官シェルナー元帥,党本部,デーニッツ元帥(ヒトラー総統後継者)に急使が届けることになった。

写真(右)1944年秋,四発重爆撃機ハインケルHe-177:フランスの基地に展開するハインケルの部隊。ハインケル四発重爆撃機He-177A-7は、1943年からBf-109Gと同じく、DB605液冷エンジンを結合したDB610エンジン(2基のDB605から構成)に変換したA-5が生産された。A-7は、A-5をベースに主翼を延長し、高空性能を改善したもの。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-676-7969A-25 Archive title: Reichsgebiet.- Bomber Heinkel He 177 auf Flugplatz mit Besatzung; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1944 Herbst Photographer: Schroeder Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild 101I-676-7969A-25引用(他引用不許可)。


発動機(エンジン)4基搭載の四発重爆撃機であるが、発動機2基で大型プロペラ1基を回転させるため、一見すると双発爆撃機のように見える。双発にしたのは、急降下するときの操縦性を確保するためである。尾部に20ミリMG151/20機関砲を装備。

◆ヒトラー総統の政治的遺書には,ドイツ人を抹殺しようと戦争を仕掛けてきたユダヤ人を殲滅すべきであるとの極端な人種民族差別が,示されている。ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1914年12月の対米宣戦布告の国会演説でも,ユダヤ人の共産主義者と資本家が,ソ連と米英政治家を操ってユダヤ人世界支配のための戦争をドイツに仕掛けているので,ユダヤ人を排除・絶滅するために,ユダヤ人殲滅戦争を戦うと公言している。ヒトラー総統は,1945年4月の政治的遺書でも,戦争に責任がある殺人者ユダヤ人に対する絶滅戦争を継続するように指示し,自決した。つまり,ナチスの暴政の根幹には,人種民族差別,迫害があり,差別撤廃,人権擁護を求める運動が,反ナチス抵抗運動であるということができる。

1945年4月30日,ベルリン総統大本営の地下壕で,ヒトラーは従兵オットー・ギュンシェOtto Günsche(1917-2003)に自分と妻はこれから自決すると伝えた。
前日,長年付き添ってきたエバ・ブラウンEva Braun(1912.2.61945.4.30)は,ヒトラーと結婚した。死体は完全に焼却するように命じ,200リットルのガソリンを調達させた。

ヒトラーは拳銃自殺,エバは服毒自殺した。従兵は,遺体を外に運び出し,ガソリンを流し,火をかけた。遺骸は,キャンバスに包まれ,砲撃の穴に投げ込まれ,瓦礫の中に埋められた。

ゲッペルス首相とボルマン党首は,ソ連軍との「講和」を決め,クレープス将軍を交渉に派遣したが,ソ連軍は,無条件降伏を要求した。1945年5月1日,ゲッペルスは,デーニッツ提督にヒトラー死亡を知らせた後,6名の子供たちを毒殺,ゲッペルス夫妻も自決した。

ソ連軍は,ゲッペルス夫妻の形状をとどめた黒こげの遺体と白のワンピースを着た子供たちの遺体を発見し,ヒトラーの遺骸を掘り起こし,ヒトラー本人と確認した。しかし,これは機密にされた。

ヒトラーの最後(全文)を読む。

1945年5月12日,米軍によって解放されたマウトハウゼン強制収容所グーセン支所の囚人:Starving inmate of Camp Gusen, Austria. May 12, 1945. T4c. Sam Gilbert. (Army) NARA FILE #: 111-SC-264918。T4C. SAM GILBERT撮影。Defense Visual Information Center 米国防総省ID:HD-SN-99-02761引用。

<差別と戦争プロパガンダの特徴>
1.プロパガンダとは、プロパガンダの送り手(主体)のもつ特定の価値観を、プロパガンダ受け手(受容者)の中で、短期間のうちに移転・増殖させようとする情報に関する行為。⇒特定の方向に大きな力を与える「情報の管理・操作」
2.プロパガンダの内容は、プロパガンダ主体に都合のいい情報は過大に、都合の悪い情報は歪曲する一方で、敵対集団に都合のいい情報は歪曲し、都合の悪い情報は過大に喧伝する。⇒情報の非対象性
3.プロパガンダの情報伝達は,プロパガンダ受け手のもっている感情・価値観に接合・移植して,その共感と同調を得ながら進行する。⇒受け手にとって受け入れ易い内容という「情報の受容性」
4.プロパガンダ受け手は、メディアによる情報に衝撃を受けつつ、送り手への一体感あるいは憧憬から、自分の影響力が誇示できたように錯覚する。⇒有力な代弁者として振る舞う「情報共有の一体感」
5.組織的に行われるプロパガンダに対して、受け手である個人、大衆は専門知識がなく、発言力も低いために、受動的存在でしかない。プロパガンダを批判し、反論することは、個人には困難である。⇒情報の迎合性・無批判性


ヒトラーは,人種民族差別と戦争のプロパガンダを仕掛けた。政権を握ったナチスのプロパガンダは,洗脳,心理戦,情報戦の名の下に,人々の心と脳に,特定の価値観に従うように強要した。
  社会、個人のメディアリテラシーに対峙するのが、プロパガンダは、政府・軍あるいはメディアが、思考・世論を誘導する戦争情報の管理であり、第二次大戦では,人種民族差別を推し進める目的でも使われた。戦争を政治の延長と捉えて、特定目標を達成する手段として戦争を遂行しようとする者は、プロパガンダにより,人種民族差別を巧みに煽動する。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえる。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。

連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,1117 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
東海大への行き方|How to go
free counters


Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright © Torikai Yukihiro, Japan. 2008 All Rights Reserved.