◆ワルシャワ・ゲットー Warsaw Ghetto;Warszawa Getto
写真(上):1940-43年,ポーランド・ワルシャワゲットーのストリートチルドレン(浮浪者);ユダヤ人は居住地から追放され,狭いユダヤ人居住区ゲットーに隔離された。家屋・土地など不動産はもちろん,家具から仕事・教育,移動の自由まで失った。ゲットーのユダヤ人は,孤児たちに助けを差し伸べることはできなかった。Polen, Warschau.- Zwei Kinder in zerlumpter Kleidung (bettelnd?) auf dem Gehsteig an einer Hauswand sitzend
Dating: 1940/1943 ca.
Photographer: Herrmann, Ernst撮影。上記写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
写真(右)1941年5月,ポーランド,ワルシャワに設けられたユダヤ人を強制隔離した居住区「ゲットー」からアーリア人(ドイツ人)の工場に派遣される労働者:第二次大戦が1939年9月に勃発,ドイツが占領したポーランドには大量のユダヤ人を収容する施設として,都市にユダヤ人居住区「ゲットー」Ghettoが設けられ,ポーランド人が追い出された後に,多数のユダヤ人が強制移住させられた。蓄えのなかった貧しいユダヤ人は,ゲットー内部の後片付け,廃品・廃材工場などに働きにでるしかなかった。 Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689
Dating: Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig
撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1943年,ナチス親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー:人種民族差別主義者だったが,人的資源が枯渇すると,外国人を兵力化するために,外国人からなる武装親衛隊を編成し,志願兵を募った。ドイツ軍のために利用しようとしたのである。ヒムラーは、1945年敗戦を迎えたドイツで逃亡中に発見され自殺した。 インド国民会議派・元議長のチャンドラ・ボースは,インドからドイツに亡命していたが,ヒムラーの助力を得て,自由インド旅団を設立,連合国と戦った。ボースは,後に潜水艦で日本に渡り,アンダマン諸島にインド仮政府を設立,その首班に任命された。終戦時,ソ連に渡航しようとして,台湾で飛行機事故で死亡。 Heinrich Himmler mit einem SS-Sturmhauptführer in der Feldkommandostelle anläßlich eines Besuchs von Subhas Chandra Bose
Dating: 1943
Photographer: Alber, Kurt撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Alber-064-27A引用(他引用不許可)。
リチャード・ウィリアムソン(
Richard Williamson )司教は,「ガス室は存在しなかった」と公言するなどホロコーストを史実と認めず,ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。 しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。
写真(右)1939年,ポーランド,ドイツ軍が集合させたユダヤ人(?)の老人:1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻直後,国家保安本部ハイドリヒは,ユダヤ人をゲットーに隔離することを命じていた。また,ポーランド侵攻には5個中隊分のアインザッツグルッペ(特別行動部隊)が国防軍に付帯され,ユダヤ人,教員,聖職者,官僚など反ドイツ容疑者を拘束,処刑した。Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), alte Mann mit Bart; PK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-317-0057-39A引用(他引用不許可)。
ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」(Nostra Aetate:DECLARATION ON
THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。
2.ドイツ軍ポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦
写真(右)1939年9月1日,ドイツ国防軍がポーランド侵攻,ダンチヒ国境ゲートを破壊:ポーランドのワシの標章がついたバーをへし折るドイツ軍兵士と国境警備隊。 Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939.
Soldaten zerstören den Schlagbaum an der deutsch-polnischen Grenze in der Nähe von Danzig
Archive title: Polenfeldzug, bei Danzig, Straße Zoppot-Gdingen.- Beseitigung eines Schlagbaums mit polnischem Wappen an der deutsch-polnischen Grenze durch deutsche Soldaten. [aus Serie mit mehreren (gestellten) Motiven: (1) Bild 183-E10457, (2) Bild 183-E10458, (3/4) Bild 146-1979-056-18A und Bild 183-51909-0003]
Dating: 1. September 1939
Photographer: Sönnke, Hans撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-51909-0003引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ポーランド、侵攻したドイツ軍の歩兵がバリケードを盾にしてモーゼル騎兵小銃を射撃をしている。:歩兵だけではなく、ドイツ軍は?号戦車(機銃しか装備していないうえに,装甲も薄かった)を投入した。 Polen.- Straßenkämpfe. Deutsche Infanteristen hinter Holzkarren in Deckung; PK 637 Ost
Depicted place Poland
Date September 1939
Photographer Wagner
Institution
German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753
German Federal Archives
Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I)
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Accession number Bild 101I-012-0037-23A 引用(他引用不許可)。
ドイツ軍は1939年9月1日,ポーランドに侵攻。ポーランド軍は,果敢に抵抗したが,1939年9月27日, ワルシャワ陥落,10月6日, ポーランド降伏。
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻参加したI号指揮車とそれに続く?号戦車:7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車。 Polen.- Gruppe von Panzern, PKW und LKW auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Vorne PKW, dahinter Befehlspanzer 1 Ausf. B auf Basis des Panzer I, dahinter Panzer II; KBK Lw 1
English: "Poland.- Group of tanks, cars and trucks standing in a meadow behind a village. A car at the front, behind that a Befehlspanzer 1 Ausf. B [command tank] based on the Panzer I, behind that Panzer IIs; KBK Lw [Kriegsberichter Kompanie Luftwaffe, "Luftwaffe war-reporting company"] 1"
Depicted place Poland
Date September 1939
Photographer Rascheit撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入された7.5センチ短砲身砲装備のIV号戦車:3.7センチ砲装備の対戦車用のIII号戦車を大型化して、攻撃力を増した歩兵支援用戦車で,ポーランド軍を圧倒できた。
Polen, Panzer IV in einer Stadt
Zum Vormarsch unserer Ostarmee
Die Einheiten der deutschen Panzerwaffe haben in dem schnellen Zusammenschluss der von Ostpreussen und Pommern durch den Korridor vordringenden Truppen grossen Anteil.
Scherl Bilderdienst-Hinz
6.9.39
[Polen.- Mit Zweigen getarnter Panzer IV bei Fahrt in einer Stadt]
Depicted place Poland
Date September 1939
Photographer Hinz撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ドイツ陸軍の自動車化部隊:後方に見える3トンあるいは5トン牽引車(Sd.Kfz. 6)は、18年式10.5センチ榴弾砲など8.8センチ高射砲よりも軽量の砲を牽引した。全長 4.7メートル,全幅 1.8メートル,全高 1.6メートル,重量 5トン,乗員2人,兵員乗車 6人。 Polenfeldzug.- Deutsche Truppen (Fahrzeuge) in einer Ortschaft; PK 637 (Ost)
Description
Information added by Wikimedia users.
Magyar: Lengyelország, motorizált német katonák
English: Poland, motorized German troops
Depicted place Poland
Date September 1939
Photographer Wittke撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ポーランド、ブレスト=リトフスク(Brest-Litowsk)を低空で空爆するドイツ空軍ハインケルHe-111爆撃機の機首に装備されたMG-17旋回機銃:爆撃手の視界は良好で眼下には,対戦車壕が観察できる。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-S52525
Original title: info Die deutsche Luftwaffe an der Ostfront. Neben dem sich unten nach der Mitte des Bildes hinziehenden Festungsgraben erkennt man auf dem Wall die Schützengräben. Brest-Litowsk
11576-39L
[PK-Stempka Scherl Bilderdienst]
Archive title: Polen.- Blick aus der Bugkanzel eines Flugzeugs Heinkel He 111 mit Maschinengewehr auf Brest-Litowsk
Dating: September 1939
Photographer: Stempka撮影。
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan1939年9月4日:
「我々は次第に戦時を生活の場と感じ始めている。普通の生活は終わり,世界は混沌と化した。郵便物は届かず,許可なしで旅行もできない。また,銀行は預金のごく一部しか払い戻しをせず,生活費を得るすべはない。食料品店と薬局を除いて,すべての店は閉ざされ,食糧販売店と薬局には客が押し寄せる。-----
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻「白の事例」作戦時のアドルフ・ヒトラーと秘書のマルチン・ボルマン、エルヴィン・ロンメル少将、ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将:第二次大戦勃発前年の1938年、ヴェルナー・フォン・ブロンベルク将軍(ヒトラーへの忠誠宣誓を国防軍に導入)がヒトラーの戦争計画に疑念を表明して陸軍大臣を退任させられたが、このとき陸軍総司令官候補の一人にあげられたが、親ナチ党のライヒェナウだった。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-013-0064-35
Archive title: Polenfeldzug.- Martin Bormann, Adolf Hitler, Erwin Rommel und Walter von Reichenau mit Feldstechern und Scherenfern-gläsern; PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Kliem撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワのドイツ軍将官:背後には傾いた街灯があるが、これは戦争の影響であろうか。ゲッペルス博士を大臣とする啓蒙宣伝省を設立したナチスは,ポーランド占領後,宣撫を開始した。 Polen, Warschau.- Verteilung von Propagandamaterial. Auto mit deutschen Soldaten umringt von Bewohnern; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rieger, Alfons
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1939年9-10月,ポーランド、ワルシャワにおけるドイツのポーランド人宣撫工作:ゲッペルス博士を大臣とする啓蒙宣伝省を設立したナチスは,ポーランド占領後,宣撫を開始した。 Polen, Warschau.- Verteilung von Propagandamaterial. Auto mit deutschen Soldaten umringt von Bewohnern; PK 501
English: Warsaw during World War II:
Depicted place Warschau
Date September 1939 or October 1939
Photographer Schulze撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年3月,ポーランドで虐殺された民族ドイツ人(ドイツ系ポーランド人):チェコスロバキアでも,ステーテンランドの民族ドイツ人を支援したヒトラーは,ポーランドでも領内の民族ドイツ人を煽動した。これは,ポーランドに対する分割統治であり,国民を対立させ,紛争を起こさせる手段である。 ナチスに優遇された民族ドイツ人は,ポーランド人から裏切り者と思われたに違いない。本来,地域あるいは国家に複数の人種民族が共生していた状況を,為政者がプロパガンダ,人種民族偏見,軍事力によって,分断し,対立させたのである。 第二次大戦がドイツの敗北に終わると,今度は民族ドイツ人が,ポーランド,チェコスロバキアなどから,ドイツに追放された。これはドイツに占領された東欧諸国の報復ともいえる。 Herr Chamberlein! Sie haben Polen die Blanko-Vollmacht für diese Schandtaten erteilt! Auf Ihr Haupt kommt das Blut dieser Opfer! Wenn Sie noch einen Funken Gefühl für Menschlichkeit, Wahrheitsliebe und Fairneß im Leibe hätten, müßte Sie das Grausen packen beim Anblick der Bilddokumente über die Bromberger Blutopfer. UBz: Ausländische Journalisten überzeugen sich an Ort und Stelle von den furchtbaren Mordtaten der Polen in Bromberg. 9.9.39 Foto: Weltbild-Fremke 212-39
[Polen.- Deutsche Soldaten und internationale Journalisten vor Leichen getöteter Volksdeutscher (Opfer des "Bromberger Blutsonntag")]
English: Wehrmacht soldiers showing alleged German victims to journalists. One of many photos used by Nazi propaganda. The image bears editor's cropping marks, showing portion of the image that was intended to be used for publication.
Depicted place Bromberg
Date September 1939
Photographer Fremke, Heinz
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年11月、ポーランド、クラコウ、ドイツ占領下ポーランド東部を総督領(首都クラコウ)として統治したポーランド総督ハンス・ミヒャエル・フランク(Hans Michael Frank: 1900年生まれ、1946年10月処刑)法学博士:1930年の国会議員選挙でナチ党から出馬して当選した当時30歳だった。ポーランドを占領した後、1939年10月10日、ヒトラーによって、フランクはポーランド総督に任命されたが、親衛隊が各国のユダヤ人を総督領のゲットーに送り込み、総督領を掃きだめとしているとして、対立することも多く、さらにポーランドからの掠奪争いも起こしている。しかし、法律専門家としての意識を垣間見せて、親衛隊の実施しているテロを批判することもあった。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-2011-1107-500
Original title: info Der Generalgouverneur für die besetzten Gebiete, Reichsminister Dr. Frank, in seinem Arbeitszimmer auf der Burg von Krakau.
14-11-39
Archive title: Polen, Krakau.- Hans Frank am Schreibtisch sitzend
Dating: November 1939
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl 写真はWikimedia Commons, File:Bundesarchiv Bild 183-J31305, Auszeichnung des Hitlerjungen Willi Hübner.jpg引用(他引用不許可)。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』
The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
(1940/10/12)
「我々は今日の夕方,まだ涙も乾かないうちに,新たな法令が出されたことを知った。その野蛮な法令は,これまでわれわれに対して出されたどんなものより重要であり,重大な結果をもたらすだろう。----
写真(右)1940年3月,ポーランド,リッツマンスタット(ウッジ)で退去を命じられたユダヤ人:家屋・土地など不動産はもちろん,大半の家具や家畜までほとんど手放して,移住を明示された。持ち出す荷物の重量,持ち出し時間には厳しい制約が貸されていたので,強制移住は,事実上,財産の略奪でもあった。移送されてきたユダヤ人が,通りで,自分たちを受け入れてくれる住居を探しているのかもしれない。やっと持ち出した家具や荷物を受け入れるだけの居住空間がないことも多かった。それを見越して,移住者からの家具や物資を買い付ける業者が集まってきた。
Old signature: Bild 146-1971-096-28, Bild 110
Original title: Litzmannstadt. D.[eutsches] R.[eich]
Auszug der Juden aus Litzmannstadt.
Dating: März 1940
Photographer: Rode und Kiss 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・R49-Bild-1734引用(他引用不許可)。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
(1940/10/14)
「ワルシャワのユダヤ人に対して,完全な形のゲットーが設定され,そこに約50万人のユダヤ人が住むことになる。ゲットー,数十万人の人々の避難所に指定されたのは,市の狭隘な一角であり,今後,この地区はあらゆる種類の凶行,邪悪な所業が横行する所となるだろう。混雑した狭い通りが交差するこの地区は,近郊の町からの避難民で足の踏み場もないほど埋め尽くされている。ゲットーの中は立錐の余地もない。雨露をしのぐことができる場所には,どこにも人が住み着いている。」
ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1939/10/10)
: 「ユダヤ人だけが強制労働に連行されている。筋骨たくましいポーランドの若者は,労苦の重荷にひざまづくユダヤ人を遠くからあざ笑う。敵はもっとも嫌われる仕事,たとえばトイレ掃除や床磨き,その他こういう類の仕事にユダヤ人だけを選んで就かせる。そして,次のような事件が起き,私は一人の若者からその話を聞かされた。------
1941年9月1日,ドイツで,ダビデの星Star of Davidをつけることについての警察条令が発令:満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。 ユダヤの星Juden Sternは手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左胸に縫い付けること。
1942年1月23日ヒトラー卓上談話 Hitler's Table Talk:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」
写真(右)1939年10月5日,ポーランドを降伏させた大ドイツ第三帝国アドルフ・ヒトラー総統と陸軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥:第一次大戦のドイツ敗北は,ドイツ軍が有閑に戦っている背後で,ユダヤ人が策謀,陰謀を働いたためである。ドイツ人の中には,ユダヤ人がドイツ人を排除しようと戦争を煽動していると考え,ユダヤ人には人権を認める必要がないとするものが少なくなかった。 Der Führer und der Oberbefehlshaber des Heeres
Wieder jährt sich der Tag, an dem durch den kühnen Entschluß des Führers eine der härtesten und drückendsten Fesseln von Versailles abgestreift wurde und Deutschland sich seine Wehrfreiheit wiedernahm.
UBz: Adolf Hitler, den Obersten Befehlshaber der Wehrmacht und Generaloberst von Brauchitsch, den Oberbefehlshaber des Heeres.
Scherl Bilderdienst 15.3.40 [Berichter Mensing]
Archive title: Polen, Warschau.- "Führerparade", Parade der Wehrmacht vor Adolf Hitler und Generälen, Walther von Brauchitsch und Adolf Hitler in Ledermänteln bei der Parade am 5. OKtober 1939
Dating: 5. Oktober 1939
Photographer: Mensing
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻したドイツの警察・SDが,ユダヤ人を集め整列させた。カメラマンが,手前に二人以上いて記念撮影をしている。ドイツの敵である下等劣等人種ユダヤ人を捕らえたことを戦果と考え,誇らしく感じていたようだ。現在の感覚では,社会的弱者に対するいじめであるが,ナチスの新秩序の下では,人種汚染し,ドイツを滅ぼそうとするボリシェビキ・ユダヤ人は排除されるべきであるとされた。そこで,敵を捕らえた記念撮影をしているのであろう。 Polen;- Filmen verhafteter Juden unter Bewachung durch Polizei und SD, PK-Filmberichter (?) mit Kamera bei Aufnahmen; KBK Lw 4 Dating: September 1939
Photographer: Lifta
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-380-0069-39引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年10月6日,ポーランド中部レスラウ(現在のブロツラベクWłocławek)からのユダヤ人の強制移送:バルタランドは,ドイツ第三帝国の版図となったため,そこに住むユダヤ人は追放された。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離した。 ドイツの敵である下等劣等人種ユダヤ人を捕らえた「戦果」を,誇らしく感じていたのか。現在の感覚では,社会的弱者に対するいじめだが,ナチス新秩序の下では,人種汚染し,ドイツを滅ぼそうとするボリシェビキ・ユダヤ人は排除されるべきであるとされた。 Wartheland. D.[eutsches] R.[eich]
Transport von Juden durch die Straßen von Leslau
Dating: 6. Oktober 1941
Photographer: Holtfreter, Wilhelm撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年5月25日,ポーランドのワルシャワ・ユダヤ人居住区ゲットー(Getto warszawskie):右端の制服は,ユダヤ人評議会の下でゲットー内の治安維持に当たったユダヤ人警察(自警団)。1933年,ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)はダッハウ強制収容所を開設したが,主に反ナチスのドイツ人用の懲罰的施設だった。 しかし,第二次大戦が1939年9月に勃発,ドイツが占領したポーランドにいた大量のユダヤ人を,収容する施設として,ゲットーが設置された。ドイツは,都市の一角のゲットーに,ユダヤ人を隔離した。富裕なユダヤ人も,貧しいユダヤ人も,大人も子供も,人口に比して狭い地区に押し込められた。 Polen, Warschauer Ghetto.- Angehöriger der Ghettopolizei auf einer Kreuzung den Verkehr regelnd, Passanten und Rikshas auf der Straße; PK 689
Dating: 25. Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0796-27引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワ・ゲットーの街頭で、腕章を巻いたユダヤの人々が歩道に行列している。ユダヤ人評議会は,ゲットー整備のために,仕事のない者に,清掃や瓦礫の後片付けなどの労働を命じた。 別の写真では行列の先は,ビルなので,ユダヤ評議会における仕事・住所の登録のために長蛇の列を作って待っているのかもしれない。強いられた生活を続ける中で,ユダヤ人は反目したり,ユダヤ人評議会を憎んだりしたが,団結を強め,危機を乗り切ろうとしたユダヤ人も多かった。
Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689 Dating: Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワ・ゲットーで、トラックを待つ若いユダヤ人男性の行列:左側には既にトラックに乗り込んだ男性たちが見える。ユダヤ人評議会の行政運営の下で,若いユダヤ人男性は,ゲットー内部のユダヤ人工場や土木作業に行かされた。ゲットー外部の労務作業に派遣されることもあった。しばしば集められ,トラックに乗せられ連れ去られたようだ。 隔離され,外部とのヒト,モノ,カネの取引が大幅に制限されたゲットーでは,仕事が無く,生活物資に困窮した。僅かな配給を目当てに,いわれたまま働くしかなかった。ゲットー内部にも,社会階層ができていた。ナチスは,ユダヤ人をゲットー内部で対立,反目させ,ドイツに対して団結して反抗することを防いだ。 Polen, Warschauer Ghetto.- Straßenszene, wartende Menschen auf Gehsteig vor einem Gebäude; PK 689
Dating: Mai 1941
撮影者:クノブロッフ、ルートヴィヒ(Knobloch, Ludwig)。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1940/7/8)
: 「----市内での勤労奉仕,これは征服者どもがユダヤ人評議会に責任を持たせたもので,労働部隊という特別な名称で知られているが,この労働部隊への命令が完全に実施されるようになった。
写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーの裁縫工場:ゲットーに閉じ込められたユダヤ人でも,仕事をしなくては,食べていかなかった。外部との取引は原則禁止されていたが,ドイツ側が許可した仕事を請け負うことはできた。ミシンを使った縫製をするユダヤ人女性たち。 Polen, Warschauer Ghetto.- jüdische Frauen und Männer bei der Arbeit in einer Schneiderei an Nähmaschinen; PK 689
Dating: Mai 1941 ca.
Photographer: Knobloch, Ludwig
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0769-34引用。
ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1940/3/27)
:
「われわれの苦難を増し,危害を大きくする新たな一幕が始まった。伝染病を防ぐための業務規則が定められたのである。-----災いなるかな,伝染病の発生した中庭付き集合住宅に住む者たちよ。病人が運び出された後も,その集合住宅は,二週間閉鎖され,隔離期間が終わると,アパートはすべて消毒される。------
写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーにあった秘密のカフェあるいはナイトクラブ:初期のゲットーでは,閉じ込められたユダヤ人の中にも,富裕な者な階層の人たちもあった。ドイツ連邦アーカイブには,ゲットー内部にあったナイトクラブ,劇場の画像もある。 しかし,これをもって,ユダヤ人たちがゲットーで通常の社会生活を送っていたと誤解したり,ゲットー内部の贅沢を非難することはできない。 囲い込まれても豊かな生活が可能だったユダヤ人が,少数あった。これは人間性を残そうと,苦渋と不安の生活を忘れようとしたのであろう。ゲットーにナイトクラブがあったことを知ったとき,驚くとともに,人間味が残っていたことに安堵した。Polen, Warschauer Ghetto.- Juden beim Feiern in einem Nachtclub an Tischen sitzend; PK 689 Dating: Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0794-06A引用。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
(1942/1/7):
「ゲットー住民の中には,少数ながら,同胞の窮乏につけ込んで商売をし,富を蓄えるものがいる。守ることが事実上不可能な厳しい制限は,向こう見ずな密輸業者や闇承認を多数生み出した。彼らの商売は,文字通り命がけだが,得るものも大きい。-----とりわけわれわれの閾値を吸い取るのは,ナチスと提携して殻らの目論見を助長し,略奪品を山分けする大物の密輸業者である。 危機の時代でも「飲み食いして陽気に騒ごう」という衝動は,少しも衰えることがない。これが人間の本性なのだ。----
写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーのカフェあるいはナイトクラブに集う男女:ユダヤの星の綺麗な腕章を巻いている男女だが,このマーク自体に反発はなかったのだろうか。ウイスキーなど洋酒ガラスボトルが35本くらい並んでいる。左のガラス瓶に巻いて入っているのは,紙ナプキンか(注文請求書?)。右の壁は,ガラスが敷き詰めてあるらしく,ナイトクラブに集う男女の背中を映し出している。 ゲットーの貧困者に比べれば,贅沢の極みかもしれないが,今日でも,世界中の生活水準の格差を踏まえれば,非難することはできないだろう。 豊かな生活に憧れ,それをゲットーに持ち込んだ少数のユダヤ人富裕層は,人間性を映し出している。Polen, Warschauer Ghetto.- Juden beim Feiern in einem Nachtclub an Tischen sitzend;
Dating: Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0794-02A引用。
写真(右)1939-40年,ポーランド,クラコウのポーランド総督ハンス・フランク博士(1900年5月23日 - 1946年10月16日):1939年,ドイツ占領下のポーランドにゲットーが作られ,ユダヤ人が押し込められた。貧しかったもの,親のいない子供,病人は,隔離されたゲットーでの生存競争にさらされ,まっさきに亡くなった。 Generalgouverneur Dr. Frank
Archive title: Polen, Krakau.- Polizei-Parade, Porträt Dr. Hans Frank, Generalgouverneur von Polen
Dating: 1939/1940 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-0270引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワ・ゲットーのストリートの行倒れ(ルンペン:浮浪者):1939年,ドイツ占領下のポーランドにゲットーが作られ,ユダヤ人が押し込められた。貧しかったもの,親のいない子供,病人は,隔離されたゲットーでの生存競争にさらされ,まっさきに亡くなった。 Polen, Warschauer Ghetto.- Zwei auf dem Gehweg liegende, zusammengebrochenen jüdischen Kinder in Lumpen (krank oder tot?) vor einem Geschäft; PK 689 Dating: Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1941年5月25日,ポーランド、ワルシャワゲットーの死体置き場と死体を管理するユダヤ人係員:腕章を巻いたユダヤ人が,奥の死体置き場で記録をとっている。このような悲惨な状況に陥るくらいなら,強制収容所に移送され,労働に従事して生きるほうがよいと考えるユダヤ人もいた。このような遺体とその埋葬を利用して、閉鎖ゲットーに闇物資を持ち込む密輸が行われた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Zwei Männer (Juden) mit Armbinden mit Judenstern vor Leichen in einer Halle; PK 689 Dating: 25. Mai 1941
Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0783-06引用(他引用不許可)。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』
The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
(1941/10/9) 「確かに,ゲットーの外とされたプラガへ続く道は,フェンスに囲いもまれている。しかし,ゲンシャ街のユダヤ人共同墓地とアーリア人畜との間には,実質的な境界は存在しない。------
写真(右):1941年ー1943年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーからトレブリンカなど絶滅収容所に移送されるユダヤ人たち:ゲットーからユダヤ人の移送が始まった当初は、東方の労働収容所に移送すると宣伝されていた。しかし、移送された知人・親類たちから便りがこないために疑いが深まった。移送先は絶滅収容所であるとのうわさも広まったが、これはアウシュビッツ収容所から脱走した囚人がゲットー戻って悲惨な末路の情報を伝えたためでもあった。しかし、口伝の情報だけでは信じられないゲットー住民も少なくなかった。他方、西側連合軍は、収容所解放を目的とした空中攻撃も解放工作も実施しなかった。戦争に勝つことが、このような虐殺を停止させるとして、強制収容所における人権侵害や虐殺にたいして、軍事作戦を発動しなかった。 Jews during a deportation from the Warsaw Ghetto.
Date:October 1940 - May 1943
Locale:Warsaw, Poland
Variant LocaleWarszawa
Varshava
Warschau 写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 05541 引用。
1942年7月22日,ワルシャワゲットーは,ドイツ軍とそれに協力するウクライナ兵,ラトビア兵に包囲され,ユダヤ人の強制移送が始まった。これは,ハインリヒ・ヒムラーHimmlerが「12月31日までに,ポーランド総督領のユダヤ人を全員再移送すること」"the resettlement of the entire Jewish population of the General Government be carried out and completed by December 31." とのゲットー・ユダヤ人の一掃命令を受けたものである。
ワルシャワゲットーから強制収容所への移送が続いた1942年夏の間に,ゲットー内のユダヤ人30万人が集められた。これは,ユダヤ人警察が,ラトビア兵,ドイツ兵士などの指揮の下で駆り集めたユダヤ人だった。そして,ウムシュラークプラッツの駅から,貨物車・家畜運搬車に詰め込まれ,100キロ先のトレブリンカ絶滅収容所に列車輸送された。
写真(右)1942-44年,ポーランド・トレブリンカ絶滅収容所の概念図:1)収容者を降車させる鉄道と駅プラットフォーム,2)駅舎:主要者に違和感をもたれないように普通の駅のように錯覚させた。3)兵舎,4)ガス室:ここでディーゼル排気を用いたガス殺が行われた。5)ピット:死体焼却場所。Das Nazi-Konzentrationslager Treblinka. - Zur Verhaftung des ehemaligen Kommandanten Franz Stangl in Brasilien
Nicht weit von der Eisenbahnstation Malkinia, nordöstlich von Warschau, liegt Treblinka, wo die Nazi-Kriegsverbrecher eines der schrecklichsten Konzentrationslager errichteten, in dem annähernd 750.000 Juden aus allen Ländern Europas vernichtet wurden. Unter härtesten Bedingungen und bei strengster Aufsicht von Nazipolozisten mußten die Gefangenen hier arbeiten.
Das Straflager Treblinka II war gerade fertiggestellt, als die Massendeportation aus dem Warschauer Ghetto begann. Eine besondere Eisenbahnstation mit Umkleidehalle wurde errichtet. Die Opfer erhielten Seife und wurden zum "Bad" geführt, in dem die Gaskammern eingebaut waren. Täglich kamen die Transporte an, die Menschen waren in Güterwagen - sogenannte Viehwagen - gepreßt, hatten weder Nahrung, Wasser noch frische Luft. Wenn sich die Transporte häuften, wurden die Opfer unter Schlägen mit Reitgerten zu den Gaskammern getrieben.
UBz: Lageplan des Todeslagers in Treblinka.
1) Auslade-Bahnsteig. 2) Eine falsche Bahnstation. 3) Baracken, in denen sich die Opfer entkleiden mußten. 4) Gaskammern. 5) Gruben in denen die vergasten Opfer verbrannt wurden.
Dating: 1942/1944 ca.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-F0918-0201-001引用(他引用不許可)。
アウシュビッツでは110万-150万名が殺害された。"We should have bombed it," Bush said, according to Shalev.ヤドヴェシム館長によれば,ブッシュ大統領は「われわれは,収容所を爆撃すべきだった」と発言した。
ライス国務長官は,米軍が収容所を爆撃しなかった理由を語らなかったが,収容所を爆撃すべきだといったのは,米大統領としては,初めてのことだった。
2009年2月10日開設の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。 ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
連絡先:
torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博 TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,1117 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292 Fax: 0463-50-2078
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.