写真(右):1953年、アメリカ、コネチカット州、海軍基地に展示されていた日本海軍特殊潜航艇「海龍」;内部構造が分かるようにカットされている。
English: A Japanese Kairyu type submarine on a Connecticut naval base
Date circa 1953
Source United States Navy
Author LT Gordon Eugene Martin USNR
写真はWikimedia Commons, Category:Kairyu class submarine File:KairyuGroton.png 引用。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」自爆艇「震洋」「マルレ」:特攻兵器の開発
1.1944年10月20日,米軍はフィリピン攻略作戦を開始した。このときに,日本軍の航空機による特攻作戦がはじめて展開された。1941年12月の真珠湾攻撃で特殊潜航艇による特別攻撃を実施していたことが,特攻を組織的作戦として 俎上に載せるのに役立ったはずだ。
写真(右):1941年12月7日、ハワイ諸島オアフ島真珠湾に潜入しようとしオアフ島に擱座した日本海軍特殊潜航艇「甲標的」(HA-19);酒巻 和男(さかまき かずお、1918−1999)少尉艇長と稲垣清 二等兵曹が乗り込んだこの甲標的は、擱座し、鹵獲された。アメリカではHA-19と命名されている。酒巻少尉は太平洋戦争の捕虜第一号となって生き残ることができた。
Department of the Navy. Fourteenth Naval District. (1916 - 09/18/1947), Photographer (NARA record: 1172763)
Record creator U.S. District Court for the District of Hawaii. (1959 - )
Title
Naval photograph documenting the Japanese attack on Pearl Harbor, Hawaii which initiated US participation in World War II. Navy's caption: Beached two-man Japanese submarine at Bellows Field Hawaii, after the attack on Pearl Harbor of Dec. 7, 1941.
Description
Scope and content: This photograph was originally taken by a Naval photographer immediately after the Japanese attack on Pearl Harbor, but came to be filed in a writ of application for habeas corpus case (number 298) tried in the US District Court, District of Hawaii in 1944. The case, In Re Lloyd C. Duncan related to imposition of martial law in Hawaii during World War II.
Date 7 December 1941
Collection
National Archives and Records Administration
写真は、Wikimedia Commons File:Naval photograph documenting the Japanese attack on Pearl Harbor, Hawaii which initiated US participation in World... - NARA - 295997.jpg引用。
開戦劈頭の日本海軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃では、特殊潜航艇「甲標的」による港湾内に潜入しての攻撃が実施された。これは、大型の伊号潜水艦5隻が、各1隻、合計5隻の甲標的を真珠湾に向けて発進させた事実上の片道攻撃だった。これは、自爆特攻ではないが、事実上静観する見込みのない「特別攻撃」であり、その後の特攻作戦の原点とみなすことができる。
写真(右):1941年12月8日、ハワイ諸島オアフ島真珠湾に潜入した後、アメリカ軍に鹵獲された日本海軍特殊潜航艇「甲標的」;
world war two pearl harbor
pictionid66737647 - catalog100022869 - title--world war ii hawaii pearl harbor attack---- - filename100022869.tif --Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)
写真は、SDASM Archives catalog:100022869 -引用。
さらに、個人的な行動としての,帰還不能に陥った航空機による自爆がしばしば見られた。真珠湾空襲に際しても、帰還不能をさといったゼロ戦が飛行場格納庫に自爆したとみられている。こうした人命軽視、戦果重視の日本海軍では、「必死」の攻撃が立案され、「特攻」作戦として採用された。この最初の組織的特攻作戦が、1944年10月20日以降のレイテ湾の戦い(レイテ島攻防戦)で始まったのである。日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が編成され,連合軍艦艇に自爆体当たり攻撃を実施した。
写真(右):1944年12月、ソロモン群島、ガダルカナル島エスペランサ岬沖、アメリカ沿岸警備隊艦船母艦「アイアンウッド」(USCGC Ironwood :WAGL-297)のクレーンで海中から引き揚げられる日本海軍特殊潜航艇「甲標的」;艦船母艦「アイアンウッド」は、935トンの小型の艦船母艦で、救難、防潜網・魚雷防御ネットの敷設、補給などに使われた。
Description
English: USCGC Ironwood raises a Japanese midget submarine off Guadalcanal in 1944
Date 31 December 1944
Source https://www.loc.gov/resource/hhh.ak0506.photos/?sp=2
Author US Coast Guard
写真は、Wikimedia Commons File:USCGC Ironwood raises a Japanese midget submarine.png引用。
しかし、たとえ特攻隊員が自ら体当たり自爆攻撃を志願したからといっても,航空機を勝手に消耗品(特攻機)として使用する裁量が,兵士個人に与えられることはない。実際,特攻実施の3ヶ月前、1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図していた。
写真(右):旧遊就館に展示されていたアメリカから返還された人間魚雷「回天」一型;回天は1型以外、試作も完成していないため、隊員も「一型」とは呼ばなかった。「マル六金物」の秘匿名称で開発,製造された「回天」は、重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。
1931年(昭和6年)に竣工した旧遊就館は、翌月26日に開館記念式典が開催。太平洋戦争中、1945年5月、B-29爆撃機により損傷した。敗戦後、遊就館令が廃止され、機能を停止したというが、軍国主義的であると処罰されることを恐れ、戦利品・兵器などの展示公開を取りやめた。遊就館の建物は、1980年まで、富国生命保険の本社事務所として貸し出している。遊就館の所蔵品は、1961年から「靖国神社宝物遺品館」で陳列展示されている。当時の保守政治家は、世論の反感や選挙落選を恐れて、遊就館の再開の動きに冷淡だった。野砲・高射砲は雨の当たる野外展示で、戦車第九連隊の戦車兵生き残りがサイパン島から1975年に持ち帰った陸軍九七式中戦車も野ざらしだった。室内の小さなガラス展示ケースには、当時の写真や新聞記事があり、説明書きは簡略だった。ただし、訪問者もなく静かに時間を過ごすことができた。この時期、現在、保守愛国を気取る政治家も現役だったはずだが、彼らは英霊の顕彰にも日本人が命がけの戦いに使った兵器にも関心を示していない。兵士の思いの詰まった兵器を保管して次世代に残すというう発想を持っていなかった。選挙の票に結びつかないことは、ポピュリスト似非政治家にはどうでもよかった。選挙戦に有利になったと判断して、「日本人の戦いを顕彰する」と言い出した。旧遊就館が再開し、艦上爆撃機「彗星」、九七式中戦車なども室内展示されたのは、1986年以降だった。アメリカから返還された「回天」もここに展示された。2002年(平成14年)、旧遊就館は廃棄され、新しい遊就館ができた。今思うと、柵をして接触できない距離に隔離し、撮影禁止を命じ、豪華な解説板を並べる管理展示よりも、触れたり、写真を撮ったりできる自己責任の自由展示、手書きの丁寧な説明書きに優れた点があったと感じる。
1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「奇襲特殊兵器」の試作方針を決定している。これは,「マルロクカナモノ」のような秘匿名称がつけられたが,事実上の特攻兵器を試作を命じるものである。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」
⇒写真集Album:人間魚雷「回天」を見る。
㊀金物;特殊潜航艇「甲標的」の発展型である「甲標的丁型蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物;対空攻撃用兵器
㊂金物;可潜魚雷艇(S金物,SS金物);小型特殊潜水艇「海竜」として試作・量産
㊃金物;船外機付き衝撃艇;水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物;自走爆雷
㊅金物;人間魚雷「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物;電探防止
㊈金物;特攻部隊用兵器
これは、軍による特攻「作戦」計画で、体当たり自爆攻撃の発案自体は、この命令よりも数週間は前に行われていたはずだ。たぶん、1944年6月中旬のマリアナ沖海戦での日本海軍の大敗北が契機になったものと思われる。
2.1944年7月21日,日本の大本営海軍部(軍令部)の「大海指第431号」でも,奇襲攻撃として特攻作戦が計画されている。「大海機密第261917番電」は,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,国学者本居宣長の歌に因んだ攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっている。つまり,軍上層部が250キロ爆弾搭載のゼロ戦による神風特別攻撃隊の作戦を進めていたことがわかり,これは真珠湾攻撃における特殊潜航艇による「特別攻撃」と同じである。
写真(右): 1943年5月31日、アメリカ海軍インディペンデンス級軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);1944年10月24日,関行男大尉たちの特攻体当たりの前日に,ルソン島東部海上で通常爆撃された。特攻によるインディペンデンス級軽空母は、量産中だったクリーブランド級軽巡洋艦の船体を流用したもので、巡洋艦の高速を活かした軽空母を大量生産することができた。巡洋艦の甲板には、装甲があったが、これが航空攻撃による被害を抑えた。
軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)は、基準排水量 1万3,000 トン、全長 189.7 m、全幅 33.3 m、吃水 7.9m、最高速度 31 ノット、乗員 1,569名、兵装:ボフォース 40mm機関砲 22門、エリコン20mm機関砲 16門、搭載機 45。
Title: USS PRINCETON (CVL-23)
Caption: At sea during her shakedown cruise.
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Mon, May 31, 1943
Original Medium: BW Photo
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-65970 引用。
写真(右): 1944年10月24日、レイテ沖、日本海軍機の爆弾で被弾し、破壊されたアメリカ海軍インディペンデンス級高速軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);アメリカ軍のレイテ島侵攻の4日後、10月24日、アメリカ海軍第38任務部隊(空母機動部隊)は、ルソン島クラーク基地から飛来した日本機による大規模攻撃に直面した。特に、軽巡洋艦「レノ」の属したフレデリック・C・シャーマン少将隷下の第38.3任務群が攻撃対象となった。他の第38任務部隊の支隊は攻撃を受けなかった。特攻による戦果ではなく,通常爆撃による高速軽空母(低速の護衛空母ではない)「プリンストン」の撃沈を,日本軍は特攻を推進する障害になると深慮したのか,発表せず,翌日10月25日の敷島隊の特攻機による護衛空母「セントロー」撃沈を大々的に特攻による大戦果として発表した。
Title: Loss of USS Princeton (CVL-23), 24 October 1944
Description: View of Princeton's port midships area, showing her collapsed forward aircraft elevator and shattered flight deck, the results of explosions in her hangar deck following a Japanese bomb hit off the Philippines on 24 October 1944. Photographed from USS Birmingham (CL-62), which was coming alongside to assist with firefighting. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-270398 引用。
写真(右): 1944年10月24日、レイテ沖、日本海軍機の爆弾で被弾したアメリカ海軍インディペンデンス級高速軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)に接近して放水消火作業に従事するアトランタ級軽巡洋艦「レノ」 USS Reno (CL-96);
日本軍は第38.3任務群の軽空母「プリンストン」撃沈という大戦果を公表しなかったが、それは、特攻しなくとも戦果は挙げられると主張されるのを恐れたのであろうか。
アトランタ級軽巡洋艦「レノ」 USS Reno は、基準排水量: 8,600 トン
全長: 541 ft、全幅: 53 ft 2 in、吃水: 26 ft 6 in、最高速: 31ノット、乗員:688名、
兵装: 38口径5インチ連装砲塔4基12門、40mm砲16門、20mm砲16門、21インチ魚雷発射管8門。
Title: Loss of Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944
Description: USS Reno (CL-96) fighting fires from alongside the port quarter of the burning USS Princeton (CVL-23), 24 October 1944. Princeton had been hit by Japanese air attack earlier in the day. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-270431 引用。
写真(右): 1944年10月24日、レイテ沖、日本海軍機の爆弾で被弾したアメリカ海軍インディペンデンス級高速軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)に接近して放水消火作業に従事するアトランタ級軽巡洋艦「レノ」 USS Reno (CL-96);「リノ」は軽空母「プリンストン」の負傷者を救助、消火作業に当たったが、「プリンストン」の弾薬庫に火災が迫り、日没となったため「プリンストン」救援は放棄された。インディペンデンス級高速軽空母は 1942年から1943年にかけてインディペンデンス (USS Independence)、プリンストン、ベロー・ウッド (USS Beleau Wood)、カウペンス (USS Cowpens)、モンテレー (USS Monterey)
ラングレー[II] (USS Langley)、カボット (USS Cabot)、バターン (USS Bataan)、サン・ジャシント (USS San Jacinto)の9隻が建造された。
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944
Description: USS Reno (CL-96) stands off the starboard quarter of USS Princeton (CVL-23), while fighting fires on board the bombed carrier, 24 October 1944. Note Reno's forward 5/38 twin gun mounts in the foreground, with local fire control sights on top. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 63439 引用。
写真(右): 1944年10月24日、レイテ沖、日本海軍機の爆弾で被弾し、破壊されたアメリカ海軍インディペンデンス級高速軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)とクリーブランド級軽巡洋艦「バーミングハム」 USS Birmingham (CL-62)による消火活動;特攻による戦果ではなく,通常爆撃によるが,日本軍はこの高速の軽空母(低速の護衛空母ではない)「プリンストン」の撃沈を,特攻を推進する障害になると深慮したのか,発表せず,翌日10月25日の敷島隊の特攻機による護衛空母「セントロー」撃沈を大々的に特攻による大戦果として発表した。Title: Loss of USS Princeton (CVL-23), 24 October 1944
Description: Damage control parties standing on Princeton's forward port flight deck, during attempts to control her fires during the afternoon of 24 October 1944. Photographed from USS Birmingham (CL-62), which was assisting from alongside. Note the 40mm twin gun mount at left, whose shield has been torn off by Birmingham's Number Two gun turret as the two ships rolled and pitched while in close contact with each other. They were then operating off the Philippines. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-270375 引用。
海軍の初の組織的な特攻攻撃は,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎指揮下の「神風特別攻撃隊」として,国学者本居宣長の歌から,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(
23才)を特攻隊指揮官に任命した。フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,大西瀧治郎海軍中将で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられた。
第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大きな戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを真の目的にしていたと言われる。
写真(右): 1944年10月20日、フィリピン、捷一号作戦、ルソン島クラーク基地、神風特別攻撃隊の敷島隊・大和隊員の隊員たちと水杯を交わす第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将;1944年10月初旬,フィリピンに赴任し第一航空艦隊司令長官寺岡謹平中将に特攻を採用したことを告げ、1944年10月20日に第一航空艦隊司令長官に就任。神風特別攻撃隊を編成、若い特攻隊員に「皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示し、ルソン島クラーク基地の第761航空隊、マバラカット基地の第201航空隊で最初の神風特攻を始めた。しかし、10月20日の初出撃では目標を見つけることができず、前期帰還した。1944年10月25日、神風特攻の初戦果をあげた。
Title: Japanese Kamikaze pilots prepare for battle.
Caption: A group of the earliest Japanese KAMIKAZE special attack pilots receives a ceremonial cup of sake from Vice Admiral Takijiro Ohnishi, IJN, the sponsor of the corps, 1944.
Description:
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Creator:
Original Medium: BW Photo
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 73097引用。
しかしフィリピンで戦った第一航空艦隊司令官大西瀧治郎海軍中将は,神風特攻隊を発案したわけでもないし,特攻を時間をかけて編成,準備したわけでもない。国学者本居宣長の歌に因んだ隊名を考案したのも彼ではない。
写真(右): 1944年10月20日、フィリピン、ルソン島クラーク基地を出撃する第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将隷下の神風特別攻撃隊のゼロ戦;1944年10月20日、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」ゼロ戦各3機が特攻機となった。翌日以降は、ルソン島クラーク基地には敷島隊・大和隊、マバラカット基地に朝日隊・山桜隊が配属された。しかし、10月20日の初出撃では目標を見つけることができず、前期帰還した。1944年10月25日、神風特攻の初戦果をあげた。
Title: Japanese Kamikaze pilots prepare for battle.
Caption: A Japanese Kamikaze pilot taxies his bomb-laden Mitsubishi "ZERO" Fighter on a Philippine air field in preparation for take off during the Leyte Operation, October-November 1944. His comrades cheer as the plane passes between them.
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 73098引用。
海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。
日本海軍の統帥部は,軍令部である。これは,以前は「海軍軍令部」と呼ばれていたが,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。大海指第431号は海軍軍令部の出した指示であり,そこに特攻作戦の採用が命令されている。
写真(右):日本陸軍百式重爆撃機キ-49「呑龍」;特攻機としても使用されたが,大型,低速のために,米軍戦闘機のよって捕捉,撃墜されにくいように夜間攻撃をかけるべきであったが,昼間特攻を強いられた。低速大型の爆撃機で特攻し成功した事例は、米軍からは一件も報告されていない。
大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。
1.各種作戦
1)基地航空部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
2)空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
3)潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。
写真(右):1943年11月、アメリカ海軍空母「レキシントン」USS Lexington (CV-16);左側は12.7センチ対空砲を備えた艦橋、搭載米空母任務部隊が、日本軍を強襲し、殲滅した。優勢な米海軍艦隊に正攻法が通じなくなった日本海軍の連合艦隊は、海空からの体当たり特攻を主戦法とするようになった。Title:USS Lexington (CV-16) Description:USS Lexington (CV-16) Aircraft return to the carrier during the Gilberts operation, November 1943. Crewmen in the foreground are sitting on the wing of an SBD-5, as an F6F-3 lands and a TBF-1 taxiies to a parking place on the forward flight deck. Photographed by Commander Edward Steichen, USNR. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-15290 USS Lexington (CV-16) 引用。
特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領は次の通り。
2.奇襲作戦
1)奇襲作戦に努める。敵艦隊を前進根拠地において奇襲する。
2)潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
3)局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。
以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前、1944年7月21日、大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。また,統帥権を侵犯する特攻はありえないので,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということもない。(特攻計画は報告されている)
戦局挽回のためには,体当たり自爆特攻を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものであろう。
?優勢な米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
1)米軍に反撃しても,日本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
2)通常攻撃を仕掛けて,日本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。
体当たり自爆=特攻が、自然発生的でも、個人の発案になるのでもなく、日本軍の作戦として実施された論拠は,次のようなものであろう。
1)軍隊の重要な兵器である航空機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
2)軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
3)起爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
4)特攻隊の志願者を募り,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。
⇒写真集Album:レイテ戦の神風特別攻撃隊を見る。
全軍特攻化するのであれば,特攻専用の兵器(奇襲特殊兵器)の開発も軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍組織の一メンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれ手しまう。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれているといえる。
そこで、戦局挽回のために、日本軍は
人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機中島キ115「剣」,潜水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」,体当たり自爆改造戦車,対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵,爆薬を持って海中に潜み自爆する「伏龍」など様々な奇襲特攻兵器を開発し、実戦に投入した。
公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。
つまり,1944年10月フィリピン戦以来,特攻が作戦の主流になってきたが,戦争末期になると,正攻法は一切通用しないほど戦局が悪化し,全軍特攻化するしかない状況に追い詰められたことを,日本軍は認めた。そこでは,将兵の個々の意思で特攻を志願するかどうかは,すでに課題とはなってこない。基本方針が特攻化であれば,日本軍将兵は,いやおうなく特攻隊員に組み込まれるのである。
しかし,日本軍は,特攻させる兵士に配慮をした。特攻隊員が,祖国,家族を守るために特攻するのであれば,家族のことを配慮することが,将兵の指揮を鼓舞することになる。深慮した日本軍は,特攻戦死した将兵の家族に対して,特別に遺族軍人恩給(遺族年金)を割り増しした。
軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。
つまり,特攻し戦死した将兵で,戦効をあげた者には,特殊任用令によって,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,その遺族年金を引き上げることで,家族を保護するとともに,後に続く特攻隊員確保に配慮したのである。
特攻で全軍布告することで,死後昇進すれば,遺族への軍人恩給(遺族年金)は倍化し,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができたのである。
特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟することもあったはずだ。特攻による名誉の戦死は,まさに「親孝行」につながったのである。
3.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ人間魚雷「回天」の試作命令がでている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷「回天」,人間爆弾「桜花(Yokosuka MXY7 Ohka)」、人間機雷「伏龍」,特攻戦車など配備され,組織的に行われた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。純粋な犠牲的精神の発露ではあるが,事実上,出撃を強要した日本人がいた。その責任を回避するために,英霊の自生的,自発的特攻をことさら強調しているのであれば,これこそ無責任な英雄・犠牲者への侮辱である。
1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,「㊅金物」(マルロクカナモノ)のような秘匿名称がつけられた,事実上の特攻兵器を試作するというものである。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」改良型「蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型潜水艇「海龍」として試作(若干の量産)
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器
体当たり自爆兵器の一つである「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。1943年12月28に,海軍の特殊潜航艇甲標的第5期講習員であった黒木博司中尉、特殊潜航艇「甲標的」第6期講習員であった仁科関夫少尉が,人間魚雷計画を海軍省へ陳情しているが,自分勝手に兵器の研究に,時間・資材・金銭を費やすことのできる軍人はいるはずがない。
海軍兵学校58期,第6艦隊(潜水艦部隊)水雷参謀鳥巣建之助中佐は,人間魚雷「回天」(回天特攻隊生還者の心中を聞かれて,「特攻は,われわれ下っ端のとやかく言う問題ではない」と責任を負うこのできる立場にはないとの発言をしている。
4.日本海軍は、特殊潜航艇「甲標的」を改造し,航続距離を伸ばした「甲標的丙型」や「甲標的丁型 蛟龍」を量産した。特殊潜航艇は,本来は直径45センチの九七式魚雷を2本搭載する予定であったが,魚雷不足と訓練機材の不足から,艦首に爆薬を搭載しての人間魚雷としても使用される予定だった。「蛟龍」は,水中特攻隊として部隊編成はされたものの,実戦ではほとんど使用されなかった。
写真(右):日本海軍の特殊潜航艇 甲標的丙型;電動モーターのバッテリーを充電できる小型ディーゼルエンジンを装備していた。1945年フィリピン群島南部ミンダナオ島ダバオ港で,米軍偵察機に撮影された甲標的。離島防衛用に配備されたのは,充電式に自走できる丙型が多い。
1944年には、水上航走用と充電用の機関を搭載した3人乗りの丙型が,フィリピン防衛に投入された。何隻かの輸送船を攻撃,撃沈した可能性があるが,戦果ははっきり確認されていない。
小笠原諸島の甲標的やグアム島の甲標的も確認されている。確かに,基地から発進して,帰還する事を前提とした攻撃なので,必死の特攻攻撃とはいえない。
しかし,甲標的による攻撃方法を踏まえれば,決死の兵器である。つまり,特殊潜航艇「甲標的」単独での攻撃では,魚雷2射線に過ぎないので,命中率は低く,攻撃目標に肉薄しての攻撃とならざるをえない。しかし、甲標的の運動性能も通信能力も貧弱であるから、編隊を組んでの攻撃も不可能である。そこで,近距離から発射するしかないが,魚雷発射後に甲標的が水面上に飛び出してしまうという欠点がある。船首の魚雷が無くなって重量が軽くなり,浮力が大きくなる。そして、甲標的の場合には魚雷2本の占める重量が大きいので、魚雷が無くなった場合のトリムと浮力バランスの変化が大きく崩れる。そこで,魚雷発射後、甲標的は船体前半が浮上してしまい,敵艦から発見されてしまう。米軍艦艇は単独ではなく,編隊を組んでいるいるから,攻撃目標以外の艦艇や上空哨戒機から発見,攻撃されてしまうのである。
写真(右):1945年9月8日、終戦直後、神奈川県、横須賀海軍基地、日本海軍の特殊潜航艇 甲標的丁型「蛟龍」;進駐してきたアメリカ軍の撮影。1945年には5人乗りの丁型が開発され、「蛟龍」(コウリュウ)として,横須賀海軍工廠、呉海軍工廠、長崎三菱造船所で量産された。
Title:Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarine
Description:Photo #: 80-G-339841 Japanese Type D (Koryu) Midget Submarine On the ways at the Yokosuka Naval Base, Japan, 8 September 1945. This submarine's afterbody has not been attached. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-339841 Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarine引用。
大浦崎特殊潜航艇基地跡(倉橋島)「建碑記」
八幡神社の「鳴乎特殊潜行艇」(昭和四十五年八月特殊潜行艇関係者有志建之 施工者 中田政雄 石工今井某)裏にある「建碑記」には,次のようにあるという。
「建 碑 記
昭和十六年十二月太平洋に戦端開くや長駆してハワイ軍港に潜入 米艦隊主力を強襲して緒戦を飾れるは我が特殊潜航艇甲標的なり即ち特別攻撃隊の初とす
次で西にマダガスカル南にシドニーに遠征英濠艦隊を震撼せしめ全軍の士気大いに振う
更にキスカにソロモンに転戦して戦局を支え 特運筒また前戦の補給に挺身す 時に部隊はこれを各地に迎え撃ち、ミンダナオに沖縄に蚊龍の戦果見るべきあり
回天またこの地に発して粉塵し 海龍ともども本土決戦に備う
二十年八月遂に兵を収め戦没並びに殉職の英霊三百余柱を数う 戦友ここに相計り その勇魂を仰蒸し 特殊潜航艇なり 即ち特別攻撃隊の初とす
特殊潜航艇の偉功をとどめて後世に伝う
昭和四十五年八月」
写真(右):神奈川県、横須賀海軍工廠で量産された日本海軍の特殊潜航艇 甲標的丁型「蛟龍」;1945年9月8日、戦後進駐したアメリカ軍が撮影。
Title:Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarine
Description:Photo #: 80-G-339840 Japanese Type D (Koryu) Midget Submarine On the ways at the Yokosuka Naval Base, Japan, 8 September 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-339840 Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarine引用。
元蛟龍搭乗員KORYU5の証言
1944年3月30日、この日、私は生まれて始めて馬に乗った。第14期飛行予科練習生として入隊すべく故郷を発つ日であった。
寄書きをした国旗をタスキに掛け、軍艦旗をしっかり握り、祝い酒で顔を真っ赤にして馬の背にゆられながら氏神様へ向かった。其処で集まってくれた部落の人達に何と挨拶したか、今は、もうさだかではない。あるいは、興奮した口調で「後に続いて来る事を信じます」などと言ったかも知れない。
塩山の駅で近郷の仲間と合流、甲府で山梨県下254名の予科練の卵と一緒になって、県庁の前で挙行された壮行式に臨んだ。この時私は15歳と4ヶ月、最年少であったが、どうやら体格においても大分劣っているように思えた。「なに、負けるか」と唇をかみながら、母校日川中学の列に入った。
県庁前は大変な人の波だった。 午後8時過ぎだったか、いよいよ列車に乗りこんだ。ホームもまた、人で埋まっていた。その人垣の最前列、ちょっと離れたところに母の姿が見えた。
「エイゾー、しっかりやれー、犬死するなー」と、怒鳴っている。
思わず、「オカーチャーン、がんばるよーっ」と怒鳴り返した。
写真(右):本州、広島県、呉海軍工廠で量産された日本海軍の特殊潜航艇 甲標的丁型「蛟龍」;戦後の1945年10月19日、戦後進駐したアメリカ軍が撮影。
水上航走用と充電用の機関を搭載した3人乗りの丙型を大型化し、航続距離を伸ばし、5人乗りとした。
Title:Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarines
Description:Photo #: 80-G-351877 Japanese Type D (Koryu) Midget Submarine Midbody of an incomplete Koryu in the assembly factory at Kure Naval Base, Japan, 19 October 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-351877 Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarine引用。
元蛟龍搭乗員の証言
4月5日、晴れて三重海軍航空隊奈良分遣隊に、海軍甲種飛行予科練習生として入隊した。森本分隊長は、予科練の二等兵らしく、強く、正しく、明るく」 と最初の訓示をした。通信で苦しむ者、駆け足で苦しむ者、マット体操、数学、物理と人それぞれに苦手はある。しかし、海軍では、それは許されなかった。出来るまでやらされるのだ。
昭和20年3月のある日、大阪が大規模な空襲を受けた。宿舎の屋上から見ると、南の空が真っ赤だ。---一刻も早くあの仇を打たねばと心ばかりがはやる。それから何日か後、---突然、(予科練)14期生全員宝塚に集合の命令が出た。宝塚の大劇場に集まった我々は、これは何かあるな、心中穏やかではなかったが、案の定、特攻隊行きの話であった。
やがて全員に紙が配られた。名前の上に二重丸、熱望と書くようになっているのだが、私はもう一重増やし、熱望の上に大の字をつけて、三重丸の大熱望として提出した。あの時,あのような教育を受けて、特攻を望まぬ者がいるだろうか。早く決戦の大空へと、胸さえ踊った。
写真(右):呉海軍工廠で量産された日本海軍の特殊潜航艇 甲標的丁型「蛟龍」;全長:26.3m ,全幅:2.0m ,排水量:水中60t,最大速度:水上8kt、水中16kt ,水中航続距離:231km(125マイル)/2.5kt ,水上航続距離:1850km(1,000マイル)/8kt ,兵装:45cm魚雷発射管×2、魚雷×2 潜航限度100m。1932年の研究が開始された甲標的は,1940年に搭乗員訓練が開始,1943年7月、乙型試作、9月に丙型の生産が始まった。甲標的丁型「蛟龍」は1944年5月に試作された。
元蛟龍搭乗員KORYU5の証言
その時私を含めて、宝塚空の同期生の中から五十名が選ばれ、一週間の休暇が与えられてそれぞれ帰郷する事になった。---ところが、私が帰ったのを見て母は仰天した。どうして帰ってきた、訓練がきつくて逃げてきたのではないか、どうしたんだと----質問する。
特攻隊に行くとは言えないから、予科練の卒業休暇だと言ってやっと納得させた。---予科練の良い所、楽しいところばかりを話し、又、分隊長の私室で面会した時の事や、土曜日の夜、慰問に来る宝塚少女歌劇の事などを話したが、夜は人知れず泣いた。
少しでも故郷の山々や、畑を見ておこうと、一人田んぼに出た。付近の山に登り、大声で、「特攻隊へゆくぞーっ」と怒鳴ったりもした。休暇の最後の夜、そっと本堂へ行き (私は禅寺の三男として生まれた)、寺の過去帖の間に血書で、"さようなら、元気で喜んでやってきます"、 と書いた遺書を挟んだ。 そして翌朝、母の握ってくれた赤飯の握り飯を持って塩山を後にした。
宝塚空に帰って、あわただしいニ、三日が過ぎた後、我々五十名は残留の同期生に「先に行って待ってるぞ」と言い残して宝塚の駅に向かった。我々はよろい戸の閉まった列車に乗せられた。
写真(右):1945年10月19日、呉海軍工廠、日本海軍特殊潜航艇、甲標的丁型(蛟龍);呉海軍工廠で戦後撮影。呉や長崎で量産されたが,実戦には投入されていないようだ。完成はしていても,試運転も,実用試験も行う時間がなかったためと思われる。
Description:Japanese Type D (Koryu) Midget Submarines In an assembly shed at the Mitsubishi shipyard, Nagasaki, Japan, 17 September 1945. This shop contained approximately fifteen nearly complete boats, and assemblies for many more. Photographed by Lieutenant M.P. Ewing. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-351876 Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarines引用。
「どこへ行くのだろう」---などと話ながら、一晩中走りつづけ、翌朝四時、我々が降り立った所は柳井の駅だった。駅前にはトラックがまっていて暫らくゆられた後、隊門の前で下車した。
皆いっせいに隊門に書かれている字を見た。ところが、どう見てもそれは、 ”海軍大竹潜水学校・柳井分校” としか読めない。てっきり飛行機に乗れるとばかり思っていたが、潜るのだ。
潜校に入ると、外部とは一切遮断されるが、その代わり、それまで知らなかった色々の機密も判ってくる。我々は゛蛟龍゛に乗るのだ。---潜校の直ぐ隣には回天の基地があった。乗員は艇長(海兵または予備学生出身者)以下、航海、機械、電気、電信各1名の計五名である。私は電気の艇付きとなった。潜校での訓練も楽ではなかった。艇内の配線図を頭に入れるのに、巡検後夜遅くまで、頑張らなければならなかった---。
写真(右):須山氏・大村氏など「蛟龍」水中特攻部隊の隊員たち;1945年3月に予科練から「甲標的丁型蛟龍」特攻隊に選抜されて以降の撮影と思われる。
元蛟龍搭乗員KORYU5の証言
二ヶ月間の潜校での生活はあっという間に過ぎて、いよいよ基地隊へ配属される事になった。蛟竜隊の行き先は、小豆島か大浦(倉橋島)である。大浦には戸泉大尉がいる。転属の日、我々を乗せた秋津丸は、瀬戸内海を東に向かった。
大浦の工廠へ蛟龍の艤装を見に行く回数も段々多くなり、乗艇を受け取る日も近い事を感じ始めた頃、敵機の来襲がひんぱんになってきた。
すでに(1945年)七月に入っていたと思う。空襲があると、我々のように自分の艇を持たない者は、交替で練習艇を沈座させる任務につく。海底に退避するわけだが、実敵を前にして潜航するのは、なんとも言えぬいやな気持ちだった。深度計の針が動くのを見つめながら、その気持ちを同僚に悟られまいと必死だった。
元蛟龍搭乗員KORYU5の証言
そうする内に、いよいよ私達の艇長が決まった。兵学校七十四期の玉川少尉【蛟竜十六期艇長】だ。---その上、艇長は兵学校か、予科練習生出身の士官、艇員は予科練の中から選ばれた我々という自負があった。水中特攻部隊は急激に増え、"いまや我々こそ連合艦隊の主力" を合い言葉として、みな、誇りを持って訓練に励んだ。
巡検後海岸に出て砂浜にひっくり返り、 大村達と、波間に光る夜光虫や星を眺める時には、やはり微妙に揺れる心を感じない訳には、ゆかなかった。「おい、女の味って知っているか」
「うん、俺達、このまま出撃してしまうと、女も知らずに行ってしまう事になるんだなあ」 「今夜は皆どうかしているぞ」。星が流れる。かなり大きな流星だ。また大村が、「あの流れ星、お袋さんも見たかも知れんな」 と言う..。みんなシュウンとしてしまった。
田上大尉の蛟竜283号艇は出撃のため、三机基地に向かったが、あと少しというところで、電気系統に故障を起こし、ニッチもサッチも行かなくなってしまった。仕方がないので、電池室の板をはずして蛟竜の背にまたがり、バシャ、バシャ漕いでよたよたと桟橋に着くという、こっけいだが笑えない事故も有った。
敗戦の日、出撃の途にあった畠中艇は「上ノ命令ハ命令ト思ハズ、爾後ノ行動ハ単独行動トス」と電信を打って沖縄に向かったが、故障の為果たし得ず、従容として大隈半島沖に自決を遂げた。
蛟竜は、完成115隻、建造中496隻、隊員やく四千人を超える大部隊となっていたが時すでに遅く、八月十五日を迎えた。(引用終わり)
写真(右):長崎三菱造船所で量産された特殊潜航艇 甲標的丁型「蛟龍」;戦後の1945年9月8日、戦後進駐したアメリカ軍が撮影。
Title:Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarines
Description:Photo #: NH 65826 Japanese Type D (Koryu) Midget Submarines In an assembly shed at the Mitsubishi shipyard, Nagasaki, Japan, circa September 1945. Collection of Admiral Harry W. Hill, USN, 1968. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 65826 Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarines引用。
元蛟龍搭乗員(甲飛13期出身)の証言
柳井潜水学校での座学は、10時間程度の短期詰め込みで、特殊潜航艇「蛟龍」の構造をはじめ基礎理論を修得、土・日は体育と模擬艇操縦訓練を行い、操縦適正を審査された。この模擬艇は特眼鏡を付けた漁船で舟艇と艇付の両方の訓練を行った。主に達着訓練である。その他、実習は魚雷・電動機・発電機・羅針儀等の取り扱い、内燃機器、電信機は各専門担当者優先だった様に記録している。
海龍組は2ヶ月修了後5月末に横須賀へ転進。6月15日には、通信と内火担当が卒業、電気・水雷が6月。丙型で訓練開始、水上航行より徐々に速力と回頭訓練、惰力と舵の効きとの関係と、ジャイロの振れとの関係を各艇の癖をのみ込むのが大変、あて舵の効き、スピードとの関係、これを針の振れだけで確実に定針するのは大変で、年中指揮官に怒鳴られ、艇長は自分の目測にヘタレ参っているが、再三あった。
呉には甲標的丁型(蛟龍)が多数配備され,1945年3月に呉鎮守府に第2特攻戦隊が置かれた。そこには,瀬戸内海の島々に大浦、光、平生各突撃隊が設けられ,1945年7月には,大浦突撃隊に第52、54、56蛟龍隊が編成され、36隻の甲標的丁型「蛟龍」が配備されていた(『戦史叢書海軍軍戦備<2>』)。
写真(右):終戦直後、1945年9月、長崎造船所で建造されていた日本海軍特殊潜航艇甲標的丁型「蛟龍」;1945年9月17日に米軍による撮影。
Description:Japanese Type D (Koryu) Midget Submarines In an assembly shed at the Mitsubishi shipyard, Nagasaki, Japan, 17 September 1945. This shop contained approximately fifteen nearly complete boats, and assemblies for many more. Photographed by Lieutenant M.P. Ewing. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-6490引用。
元蛟龍搭乗員(甲飛13期出身)の証言
あて舵○度「宜候」(ヨウソロー)「戻せ」のタイミング遅れで、目標に定針しないと指導官にボヤボヤするなと艇長が怒鳴られ、腹いせが艇付にくるわけです。勘の鈍いのに当たると散々であった。ペアを組む頃になると以心伝心でスムーズであったが、それまでは大変であった。
横舵担当の水雷は、深度計と傾斜計を注意、電信は水中では水温関知計、内火は後部リレーや過負荷、遮断器の焼き付きを注意、あとバラスト要員であった。コック、バルブの開閉は、身近なものの役割であった。蛟龍での訓練の前に丙型訓練艇でやるが、後部電池室へ交代要員を乗せているので、彼らに指導官の怒鳴りと関連して失態を見られたくないと、初めはものすごく緊張したものである。
魚雷発射訓練は水雷の担当だが、魚雷用気蓄器のゲージを見ながらメイン気蓄器から充填送気高圧バルブの開閉を慎重に行った。潜航中のバランスを考えてダウンをかけて行った記憶がある。ペアを組む前は誰と組むかは分からず、勘の良し悪しにより苦労した覚えがある。
写真(右):1945年9月、三菱長崎造船所で建造されていた日本海軍特殊潜航艇、甲標的丁型(蛟龍);全長:26.3m ,全幅:2.0m ,排水量:水中60t,最大速度:水上8kt、水中16kt ,水中航続距離:231km(125マイル)/2.5kt ,水上航続距離:1850km(1,000マイル)/8kt ,兵装:45cm魚雷発射管×2、魚雷×2 潜航限度100m戦後、進駐したアメリカ軍が撮影。呉や長崎で量産されたが,実戦には投入されていないようだ。完成はしていても,試運転も,実用試験も行う時間がなかったためと思われる。
Title:Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarines
Description:Photo #: NH 65836 Japanese Type D (Koryu) Midget Submarines In an assembly shed at the Mitsubishi shipyard, Nagasaki, Japan, circa September 1945. Collection of Admiral Harry W. Hill, USN, 1968. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 65836 Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarines引用。
(少ない)訓練艇と(多い)搭乗員の数とのバランスが取れていなかったので、後期組みの方が実艇に乗るチャンスが少なかった。丙型訓練艇で電気、水雷担当と艇長が優先的に訓練を行った。通称「凧」という浮きを引っ張って、必ず監視艇が付き追走して事故の有無を見ていた。それほど事故があったと言う事である。訓練海底は起伏とヘドロ的な砂だまりがあり、そこでバランスを崩して艇尾や艇首から突き刺さったり、埋まって動けなくなったりした。
丙型で基礎の操縦を修得するため、電気(縦蛇)と水雷(横舵)の専任担当別に訓練を行った。しかし、一通りは誰でもできる。起床から就寝まで、日課が前日までに決められてあり、週間、月間、艇付の課業があった。当直と非番があり、当直は訓練、監視の作業であり、非番は学習と送気、燃料作業、防空作業。送気、蓄電作業は旧潜水艇から取った記憶がある。
燃料はあらかじめ呉周辺の防空壕にあるタンクから大発でドラム缶に入れ、これを基地の燃料防空壕に保管、その都度ギヤポンプで1缶、1缶吸い上げて蛟龍や丙型に入れた。おおむね夜間に行った。油でドロドロになる作業でその後の風呂が大変であった。
写真(右):1945年9 月8日、横須賀海軍工廠で量産されていた日本海軍特殊潜航艇 甲標的丁型「蛟龍」の艦首魚雷発射管;呉海軍工廠、長崎三菱造船所でも量産されていた。戦後進駐してアメリカ軍が撮影。呉や長崎で量産されたが,実戦には投入されていないようだ。完成はしていても,試運転も,実用試験も行う時間がなかったためと思われる。
Title:Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarine
Description:Photo #: 80-G-339831 Japanese Type D (Koryu) Midget Submarine On the ways at the Yokosuka Naval Base, Japan, 8 September 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-339831 Japanese Type D ("Koryu") Midget Submarine 引用。
蛟龍のガラス張りの流線型をした司令塔を見て、甲・丙型より大変格好いいと先づ思ったが、乗るときになって足のせと手すり以外は、手かがりがなく乗り組みにくいと思った。波よけに足をかけなければ乗りにくいが、菊水マークと日の丸があるため足かけを作るのを避けたのではないかと思う。
中は潜望鏡の足のせ台がなければ足のかかりがなく、外と中の明かりが違うので足下が見えず、慣れるまで一寸戸惑う。うっかり機巻類や弁、コソクロさわれば事故の元となると思った。---メインの電線が銅の延べ板にラバーテープの二重巻き下したものなのにはビックリした。直流なので感電の心配はないが、1800アンペア200ボルトなのでうっかりすると危険であり、工具を絶対ぶつけるなとうるさく言われた。被膜のテープが破れて漏電する事を恐れたものと思う。
「蛟龍」用特H型蓄電池取扱説明書
「海龍」用特K型蓄電池取扱説明書
電池室の板の上での仮眠することや、バラストの移動時は這って移動するのは大変だった。後部の継電機、過負荷遮断機の焼き付けの時はこじ開け等、いきなり要領と注意を狭いところで受けビックリしたのが記憶に残っている。猿の腰掛けのような便座があったが、これで用を足すのは困難なため、一斗缶で小のみをする要注意を受けた。
空気洗浄のため炭酸ガス吸収箱の取り付け方、水素ガス探知機の見方、各弁、コックの操作、スイッチの入切、計器の見方、舵とスピードと半径の関係、あて舵と聞くまでの秒数等、いろいろといっぺんに教えられ、必死になってノートにとった覚えがある。
---豆潜水艇の感が強く、必死体当たりの回天や海龍、震洋とは一味違って気持ちにゆとりの様なものが出て来たのも事実だった。
魚雷調整をやっている防空壕の奥で、整備に戻ってきてももうつむ魚雷はありませんよと言われたときは、やはり最後は爆装になるかなと思ったりもした。事実、海龍は3発目は自爆としてあったようだ。
青木飛長のノートに残された「蛟龍」特攻隊員のサイン「青木飛長の別れのノート」1945年7月記帳。特殊潜航艇の乗員は「体当たり」「一撃必中」を期した特攻隊であると,自らを認識していた。1945年1月以降,全軍特攻化,一億総特攻が日本軍の最高戦略として決定していた。多数の特殊潜航艇に搭載すべき45センチ魚雷はもはやなく,数百隻の「特殊潜航艇」の艦首には,魚雷の代わりに,爆薬を搭載するしかなかったと考えられる。
特殊潜航艇「甲標的」丁型「蛟龍」の搭乗員も,秘密兵器を扱う特攻隊として,秘密裏に募集された。そして,搭乗員は,潜水学校で講習生として2ヶ月間訓練を受け,基地隊から派遣されてい教官は「特攻長」と呼ばれていた。潜水学卒業後は,「特攻隊」に編入され,体当たり自爆を行うものと認識していた。
1945年7月,青木荘一郎飛長が大浦基地の特殊潜航艇「蛟龍」隊から淡路島守備隊に転出することになった。その際,予科練の仲間,すなわち一次特攻隊の4名,二次特攻隊8名,見送り12名の合計24名が,青木飛長のノートに別れの言葉を書き込んだ。
青木飛長の別れのノートには,特殊潜航艇「甲標的」丁型「蛟龍」部隊の予科練出身者24名が「見敵必沈 一撃一艦 体当たり」「一撃必中 轟沈」「特攻魂」「必殺必中」「一撃必殺 体当たり」「必死必沈」など,水中特攻の本領を示す言葉を書き連ねている。特殊潜航艇「甲標的」丁型「蛟龍」は,高性能小型潜水艦のようにいわれるが,?攻撃用の魚雷が整備されていなかったこと,?隊員の募集が「特攻隊員」として行われ,部隊も水中特攻部隊と称していたこと,?隊員が体当たり自爆すると認識していたことの3点から,人間魚雷として使用するものとして準備されていたといえる。特殊潜航艇蛟龍は,当時の状況では,特攻用に使用するのもやむなしとされていたし,そのことは搭乗する隊員たちにも周知の事実だったのである。
青木飛長のノートに残された「蛟龍」特攻隊員のサイン「青木飛長の別れのノート」
平成17年7月5日東京新聞・中日新聞 夕刊「青木飛長の別れのノート」
5.1944年7月21日,軍令部は「大海指第431号」で,奇襲特殊兵器の一環としてSS金物、すなわち水中有翼艇「海龍」が計画されている。「海龍」は当初は魚雷2本を装備する予定であったが,実際の部隊編成では魚雷は装備されず、艦首に600kg爆薬を仕掛けての、体当たり自爆艇、人間魚雷として本土決戦に投入されようとしていた。
写真(右)1945年9月7日、終戦後、横須賀海軍工廠で200隻量産された「海龍」Japanese "Kairyu" Type Midget Submarine;写真は,,米軍による撮影。いずれの潜航艇にも,舷側に魚雷搭載を装置したとの指摘もあるが,本式装備のない状況では、訓練専用機材を整備するだけも,日本軍には手一杯であったろう。すでにこの時期には「全軍特攻化」の方針が決定していたのである。
Title:Japanese "Kairyu" Type Midget Submarine
Description:Photo #: 80-G-339847 Japanese Kairyu Type Midget Submarine At the Yokosuka Naval Base, Japan, 7 September 1945, with grafitti added by members of the Allied occupation forces. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-339847 Japanese "Kairyu" Type Midget Submarine引用。
特殊潜航艇「海龍」戦史と開発
「海龍」は海軍工作学校教官・浅野卯一郎機関中佐(海機)の発案で開発された、二人乗りの有翼潜水艦である。80馬力の電動モーター,85馬力のガソリンエンジンを備え,充電しながら水上航行を行った。最高速度は,海中10モット,水上7.5ノット。
Propulsion was an 80 horsepower electric motor with an 85 HP gasoline engine for battery charging and surface running. Speed was 10 knots submerged and 7.5 knots on the surface.
局地防禦用の特殊潜航艇であり、その構造は従来の潜水艦や特殊潜航艇「甲標的」等とはかなりの部分で相違があった。頭部に600kgの炸薬を搭載し人間魚雷「回天」と同様に必死の特攻兵器だった。
写真(右)1945年9月7日、終戦後、横須賀海軍工廠で200隻量産された「海龍」左の艇4016号と左から3番目の艇4018号は訓練用の「海龍」であると解説している。;左から2番目の艇の艦橋には、主潜望鏡の後ろにもう1本の潜望鏡がある。舷側には、設計当初は、外装式魚雷懸架装置がついているはずだが、戦争末期の日本海軍に魚雷を準備することはできなくなっており、艦首に爆薬を装着して、体当たり、特攻することが決まっている。
Title:Japanese "Kairyu" Type Midget Submarines
Description:Photo #: 80-G-338383 Japanese Kairyu Type Midget Submarines At the Yokosuka Naval Base, Japan, September 1945. Several of these boats have numbers on their conning towers. Those with numbers 4016 (at left) and 4018 (3rd from left) are training versions, with a second periscope mounted behind the main periscope's fairing. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-338383 Japanese "Kairyu" Type Midget Submarines 引用。
1944年5月、横須賀鎮守府指令長官は「海軍工作学校長をしてSS金物一基建造せしむべし。横須賀海軍工厰長、海軍航空技術厰長をしてこれを援助せしむべし」との訓令により作業が進められ、6月27日にSS金物の試作艇が完成した。
1944年6月19日,横須賀海軍工廠長宛に「仮称SS金物実験の件の通帳」が出され、 6月28日に横須賀鎮守府、呉鎮守府、第六艦隊、それぞれの司令長官宛に、官房艦機密第四〇七五号「仮称SS金物の実験訓令」が発令された。
呉の潜水学校、第一特別基地,呉工廠および横須賀の水雷学校に、大浦の甲標的部隊(一特基)の前田冬樹大尉、久良知滋大尉(海兵71期) が派遣された。
前田冬樹大尉、久良知滋大尉は,SS金物は局地防禦用兵器として活用し、本土防衛用に量産すべきであるとした。
1944年11月、三浦半島油壷の東京帝大臨海実験場に「海龍」訓練基地が開設され、海兵士官、予備学生、甲飛13・14期生らが着任した。
写真(右):1945年9月22日、SS金物と秘匿名称で呼ばれ開発された海龍と三浦半島の基地;戦後,1945年9月22日,アメリカ海軍重巡洋艦「ボストン」Boston (CA-68)乗員たちが,鹵獲した「海龍」Japanese "Kairyu" Type Midget Submarineとその基地を訪れた。特殊潜航艇は,地下壕に引き込まれ隠匿されていた。1945年に700隻以上の生産が計画され200隻が生産された。翼を有し、飛行機のように上昇と下降を行うため、構造が単純で操縦性がよかったとされる。魚雷を2本搭載する計画だったが,魚雷と訓練機材の不足から,艦首に爆薬を詰めて人間魚雷として使用されることになっていた。本土決戦のために沿岸各地に配備が予定されたが,実戦に投入されることはなかった。
Japanese Kairyu type midget submarine
Description:Photo #: 80-G-379158 Japanese Kairyu Type Midget Submarine Outside its cave hideaway in a Japanese coastal hillside, 22 September 1945. The men alongside it are from USS Boston (CA-68), one of whose photographers took this photo. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command NH 78664 Japanese "Kaiyu" Type Midget Submarine引用
1944年12月3日付訓令では12月中に3隻、1〜3月で各5隻、計18隻の製造が認められたという。
1945年3月、第一特攻戦隊が編成され、その下に横須賀突撃隊、第十一突撃隊が編成された。
海龍は、鳥羽・江之浦・下田・油壷・勝山・小名浜に前線基地を設営し、逐次展開する予定で、
1945年6月中旬に第十一突撃隊の36隻が油壷に展開した。(⇒水中有翼艇「海龍」戦史と開発引用)
写真(右):1945年9月、横須賀海軍基地、鹵獲した日本海軍の自爆艇「震洋」(左:正面向き)
と特殊潜航艇「海龍」(右:後ろ向き)を検分するオーストラリア海軍N級駆逐艦( N class)「ネーピア」(HMAS Napier)の乗員。:「震洋」の船首には半月形の爆薬収納庫、船首には、左舷・右舷に対照的に人面が描かれている。秘匿名称「SS金物」で呼ばれた特殊潜航艇「海龍」は、1944年3月、日本海軍の軍令部が,戦局の挽回を図るために決定した「特殊奇襲兵器」の試作方針で開発が決定した。海軍は?から?の「兵器特殊緊急実験」として、「マルイチ金物」の特殊潜航艇「甲標的丁型蛟龍」、「マルサン金物」の 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)の「海龍」があった。SS「海龍」は、水中翼を使って、海中を飛行機のように上昇・下降できる操縦性を与える計画だった。当初は、胴体両側に魚雷を各1本懸架し雷撃する予定だったが、魚雷を搭載・攻撃できるだけの速力・機動力が確保できず、魚雷自体も不足した。そこで、人間魚雷「回天」と同じく、体当たり命中させる特攻兵器として生産された。
Description
Yokosuka Naval Base, Japan. September 1945. Australian naval ratings from HMAS Napier inspecting a Japanese Shinyo suicide launch and a midget submarine alongside each other in the Yokosuka Naval Base. They are, (on launch) Able Seaman (AB) Kevin Sorrenson of Coorparoo, Qld; AB Led Coad of Ballarat, Vic, AB Ian Cox of South Yarra, Vic, and (on submarine) Petty Officer Alan Mole of Mitcham, SA; AB Myer White of Prahran, Vic, and AB Max Dillon of Sygnet, Tas. Note the face painted on the bows of the launch. This is the insignia of the Japanese suicide squad.
Accession Number
019162
Collection type
Photograph
Object type
Black & white, Landscape
Physical description
Black & white, Landscape
Date made
September 1945
Conflict
Second World War
Copyright
Item copyright: Copyright expired - public domain
写真はオーストラリア海軍に1943年入隊、1964年退役したポール・メリック・デクスター(Paul Merrick Dexter)中尉が寄託したコレクリョンの一枚で、Australian War Memorial 019162 引用。
当初の計画では,水中有翼艇「海龍」は,45センチ魚雷2本を両舷側下方に取り付ける予定であったが,量産された「海龍」の写真を見ると,魚雷搭載装置が未装備である。つまり,魚雷不足のために「海龍」に魚雷を装備することはなく,艦首に爆薬600kgを装備して,体当たり特攻の人間魚雷として使用することになった。
人間魚雷「海龍」は,人間魚雷「回天」よりも速力は半分の10ノットほどで遅いが,航続距離が長く,操縦性も若干改良されていたようである。低速のために,人間魚雷「海龍」の攻撃目標は,空母や戦艦などの艦艇ではなく,低速の輸送船だった。
写真(右):横須賀海軍工廠で量産された「海龍」;1945年9月、戦後に進駐したアメリカ軍が撮影。優勢な米海軍艦隊に正攻法が通じなくなった日本海軍の連合艦隊は、海空からの体当たり特攻を主戦法とするようになった。
Title:Japanese "Kairyu" Type Midget Submarines
Description:Photo #: 80-G-338384 Japanese Kairyu Type Midget Submarines At the Yokosuka Naval Base, Japan, September 1945. Boat bearing numbers 4016 (at right) and 4018 (3rd from right) are training versions, with a second periscope mounted behind the main periscope's fairing. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives .
写真はU.S. Naval History and Heritage Command 80-G-338384 Japanese "Kairyu" Type Midget Submarines 引用。
特殊潜航艇甲標的丁型「蛟龍」の部隊は、魚雷を装備され,その調整をしていた(予備魚雷はなし)所もあったが,低性能の「海龍」の場合は,魚雷を装備し,訓練していた形跡が見られない。やはり、数百本の魚雷を準備することができず、低性能の「海龍」には装備しないで、軍艦ではなく輸送船に体当たり自爆する作戦を決めていたように思われる。
写真(右):1945年10-12月、アメリカ占領軍がトロッコに乗せられた日本海軍特殊潜航艇「海龍」を鹵獲した。;横須賀と思われる。A total of 760 boats were planned. Over 200 were delivered by August 1945, the great majority of these having been constructed at Yokosuka。実用試験も行う時間がなく、実戦には投入されていない。
Japanese Kairyu type midget submarine
Description:Photo #: NH 78664 Japanese Kaiyu Type Midget Submarine Out of the water and resting on blocks at a Japanese port, circa October-December 1945. This submarine appears to be one of the two-periscope training units. Halftone photograph, copied from the U.S. Naval Technical Mission to Japan Report S-01-7: Characteristics of Japanese Naval Vessels, Article 7: Submarines, Supplement II, January 1946, page 134, figure 153. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph
写真はNaval History and Heritage Command NH 78664 Japanese "Kaiyu" Type Midget Submarine引用
元海龍搭乗員の証言;第5期兵科予備学生、海兵74期、第3期予備学生出身者への聞き取りの記載
私は昭和19年10月、大学2年生を終えた時点で「第5期兵科予備学生」として海軍に入りました。まず武山海兵団で1200名の大学生が、海軍士官としての基礎教育を受けます。教官は海兵出身3人と予備学生出身7人くらいの割合で、早く我々第5期兵科予備学生を一人前にしようと熱心でした。
5ヶ月で基礎教育を終わり、昭和20年3月に大竹潜水学校に転じ、潜水艦に関する基礎教育を1ヶ月、続いて柳井潜水学校分校に移って教材用に外板をくりぬいた海龍に乗り込んで、操縦訓練(号令をかけるだけ、艇は陸上に座っている。)を1ヶ月。
潜水学校では予備学生340名に対し、教官はたった3名。----教育中は新聞もラジオもなく、戦争がどうなっているのか、ぼんやりしか分からなかったが、今の時点で当時(昭和20年3月)を見ると、もう日本は負けが決まっている状態で、無駄な教育を受けたわけだが、当時は「なんとかじなくちゃ」と思っていた。
写真(右)1951年5月11日、アメリカ進駐軍が1945年に横須賀海軍工廠で鹵獲した「海龍」が横須賀基地で展示された。内部構造が分かるように蓋板を外した状態で野ざらしのまま展示している。1951年5月11日,横須賀海軍基地で米重巡洋艦USS Saint Paul (CA-73)乗員による撮影。
Title:Japanese Kairyu type midget submarine
Description:On exhibit in cutaway form at the Yokosuka Naval Base, Japan, 11 May 1951. It is being examined by two U.S. Navy Sailors, including Fire Controlman 2nd Class Charles L. Carroll, who is on leave from USS Saint Paul (CA-73). A small experimental midget submarine is also on exhibit, in the right background. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. .
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-429385 Japanese Kairyu type midget submarine引用。
潜水学校で2ヶ月経ったとき。「海龍」組と「蛟龍」組に分かれる。ほとんど各人の希望どおりだったと思う。海龍の基地が横須賀にある事がしれていたので、関東以北の出身者が海龍を選んだようだ。
艇が小さいだけに一番我々を悩ませたのは、水上航走かた水中に潜航する一瞬のエンジン停止。動作の順序手段が間違いを起こす事が多く、艇内が真空状態になることを避けるための指導は徹することが大変だったことは、特に記憶にある。いずれは出撃するための航法と、襲撃要領などは研究の暇もないくらい、とくかく要員の要請に文字通り夜も昼もないすさまじいものでありました。
火のつくような厳しい訓練に耐えた4期予備仕官4名と甲飛13,14期の艇長、艇付24名の艇隊編制を終了、伊豆下日の第16突撃隊の前進基地に展開したのが昭和20年6月中旬だったと思います。その後、前進基地の碇泊場所の設置、艇をつなぎ止めるブイの位置変更等の作業に追われる日々の最中に米艦と攻撃機の空襲に晒される目にあったりしている-----。
写真(右):1978年に引き揚げられ呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に展示された特殊潜航艇「海龍」;呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)では、胴体の両脇に魚雷を各々1本装着している姿で展示してある。艦首に爆薬600kgを搭載して自爆艇として使用されることになっていた。1945年、艇尾部に米軍機のロケット弾(不発)の直撃を受け沈没した「海龍」を、静岡県熱海市網代港の北北東300メートルの海域からで1978年5月27日に引き揚げた。引き揚げ時の写真には、魚雷は搭載されていないようだ。「海龍」が本土決戦のために、上陸予想地点(関東圏では相模湾や九十九里浜)沿岸各地に配備されていたことが確認できる。
甲種予科飛行練習生を昭和19年3月に卒業すると同時に滋賀航空隊に別れを告げ、紫電改戦闘機の飛行場になる福知山に、整備のために派遣されたが飛行機の燃料となる松根湯を取るため、毎日松の根堀をやらされ、1ヶ月を経過しました。----福知山にて1ヶ月経たとき「○○特攻兵器志願者募集」があり、やっと実戦部隊に行けると思い志願しました。しかし何に乗るかは分からず、たぶん「桜花」ではないかと思っていましたが、山口県の柳井潜水学校分校にて初めて「海龍」に会いました。
柳井では毎日学課翌日試験の繰り返して、ほとんど学課、海龍の構造、魚雷の構造、航法、手先信号等、その後海軍体操、棒倒し等の訓練がありました。約2ヶ月あまりと思いますが、柳井潜水学校を修了し、高等科のマークを腕に付け、二等下士官となり横須賀の軍港である海龍の基地に赴任しました。
昭和20年5月に横須賀基地に転じ、ここで実際に海龍に乗っての訓練になったが、1日1回約1時間の搭乗訓練を、最初2回ほどは教官同乗、あとは教官なしで東京湾と言っても、横須賀の沖をうろちょろ潜ったり浮いたりの訓練をしていた。搭乗しない時間は、戦友の訓練艇の後から漁船に乗って追随していって監視したり、艇の回送(訓練基地から修理基地まで)をしたり、トランプをしたり、寝たりの生活であった。外出は「おまえ達は秘密兵器だから」という理由で、一切させてもらえなかった。
予科練も特攻も軍の命令ではなく、個人の志願によるものであるので、軍人として最後のご奉公であると思っていましたので、別に特別な感情はありませんでした。ただし予科練を志願し卒業し、航空隊員として先輩に続き大空に羽ばたくつもりで、懸命に努力してきたものを全部捨て、海に中に潜り潜航艇で戦うという事は予想していなかったので、残念な思いは続きました。ただし当時横須賀基地にいる地上部隊は小銃も全員に渡らず、わずか手榴弾2個だけという状況でしたので、贅沢はこの上ない我々は、海龍という特攻兵器を本土防衛のため使用できるのだ、と思いその後は不安な気持ちは一切なく、その任務に邁進できたと思います。
写真(右):後方から見た水中翼艇「海龍」;呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の「海龍」は魚雷を両舷に1本装着した状態で展示。1945年、静岡県網代湾で艇尾部に米軍機のロケット弾(不発)の直撃を受け沈没したことを裏付けるように、船尾スクリュー軸の根元上部に被弾した跡が残っている。海事博物館の展示ではあるが、予算制約、専門家不足あるいは増刊技術の重要性の認識不足のためか、どの部分がオリジナルで、どこが補修個所なのか、全く解説がなされていない。船体は復元のようだが、艦首の稚拙な溶接は、いつの製造か。艦橋はオリジナルなのか、日本の技術・戦歴を正確に伝える重要性を認識すべきであろう。
慣れてくると思うままに操縦できた。魚雷を装着し、爆薬も艇首に付けてからは一層慎重な操縦をするようになった。漏水には特に注意していた。敵大船団に対しての襲撃だから十分に雷撃も体当たりも大丈夫、成功すると考えていた。昭和20年7月30日の出撃命令の時には、部下に平時の訓練通りにやるよう指示した。
甲標的艇長講習を一応終えた同期の工藤、一迫両中尉と私は先に試行錯誤の実験を繰り返して、漸く実験艇としての見極めをえた2人乗りの水中翼艇「海龍」の教官として、横須賀工作学校に着任したのが昭和20年2月の初めでした。当時は海龍の1号艇、2号艇しかなく実験艇としての域を出ていなかった。----たとえば艇首は先が尖った鉛筆の様で、小さいながらもスマートな形をしておりました。(頭部に炸薬を詰め、魚雷発射後に敵艦に体当たりするように設計変更は、大量生産と平行して行われました。)
横須賀海軍工廠の工場内に置いてある「海龍」訓練艇に初めて乗ったときの感想は、全長17.28m、直径1.30mですので、本当に狭く座席に座って頭の上くらいも隙間はありません。艇首に600kgの炸薬を装着してありますので、訓練中障害物にぶつかり、爆発する危険がありますので、防止のため安全レバー3本が前部操縦席の右奥にありました。これは敵艦に突入するとき3本のレバーを全部引いて、ぶつかると爆発するようになっていて「安全解脱レバー」と呼んでいました。
艇内は海水と錆のにおいで良い環境と這いません。2式魚雷を2本装備していますが、発射筒の中に納められ、ロケット式に発射しその反動で発射筒がレール式で後部海中に落下する様になっていました。海上航行時エンジンを起動するとき、エンジンの吸排気弁を開けずに行うと、艇内の空気がなくなり、出入り口のハッチも開かなくなり危険状態となる。速力はおそく長距離航行するとき水上5ノット水中3ノットくらいに落ちる。性能はあまり良くないと思います。ただし、胴体に水中翼がついており、操縦桿で上下左右できるので、急速潜航は8秒くらいでできる。
(⇒元海龍搭乗員の証言
を引用)
図(右)青焼き設計図の原図から複製された日本海軍特殊潜航艇 甲標的丁型「蛟龍」と「海龍」の図面;戦後のアメリカ軍の作図になる。
Title:Japanese Midget Submarines: Type D ("Koryu") class "Kairyu" class
Description:Photo #: NH 78667 Japanese Midget Submarines: Type D (Koryu) class at top and center and Kairyu class in lower left Sketch inboard profile plans, with hull section plans for the Koryu class. Copied from Extracts from Small Battle Units of Foreign Powers, Appendix III: Japanese Midget Submarines and Explosive Motor Boats, page 38. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. .
写真はNaval History and Heritage Command NH 78667 Japanese Midget Submarines: Type D ("Koryu") class "Kairyu" class引用。
故宣仁親王高松宮は、明治38年1月3日,大正天皇の第3皇男子、大元帥昭和天皇の弟として、東京・青山の東宮御所で誕生。御名を宣仁(のぶひと),称号を光宮(てるのみや)。海軍に勤務していた。その『高松宮日記』第8巻の1945年1月以降の話題でも、特攻艇「震洋」など話題には事欠かない。海軍中央でも、1945年になると、大型艦艇よりも特攻兵器のほうが重視され、本土決戦に備えた陸戦の準備も始まっていた。
1月5日、「葉山砲台砲台普練(高等科)教程射撃。館航[館山航空隊]機モヤありて出発おくれ、発動後も射程外を飛んだりして、1300漸く終る。練習生の気力足らぬ感あり。----1500より?艇機銃装備射撃実験の経過報告。」
横須賀鎮守府で三浦半島の防衛方針の一つとして「熱海・三浦半島に、マル四・魚雷艇基地」の件を審議。
1945年1月6日、水雷学校教頭荒木傳少将が来て談話し「川棚[臨時魚雷艇訓練所]に砲術指導教官欲しいと言うこと等」となり、特攻艇のロケット弾装備や陣地の防衛の射撃練習が進んでいることがうかがわれる。
1月9日、横須賀鎮守府で三浦半島の防衛方針の一つとして「熱海・三浦半島に、マル四・魚雷艇基地」の件を審議。
1月31日、「0830荒崎8cm機銃[高角砲?]、予備生徒射撃見にゆく。」
2月4日、「機銃対魚雷射撃実験事前委員会」、2月8日、機銃対魚雷射撃実験、2月10日、「機銃対魚雷射撃委員会」
2月6日、「矢牧[章]少将より独国の情勢も迫ってきたし、カイロ米英ソ三国会談に関連し、作戦部で考えている2月下旬のマル大[桜花]による戦略攻勢がおそいのではないか、国内一致の態勢も急速に立てる要あり等きく。」
3月8日、横須賀鎮守府で「特公平に関する図演(図上演習)---図演(実は、震洋、回天、SS[金物][特殊潜航艇「海龍」]、甲標的[蛟龍]の使い方につき質疑応答、説明)---続いて、特攻基地を何処にするか打合せ。」
3月15日、前日連夜で品川から佐世保線の早岐着、自動車で「川棚訓練所へ(現在は第三特攻戦隊となっている)1615着。説明を聞いたり構内見て、1815発、[1942年1月,佐世保海軍工廠分工廠として設置された]川棚工廠の地下工場、半地下工場を見て集会所へ。」特攻隊司令部へ行き、「2230出発の局地防衛研究演習の震洋隊出発視察。」
3月17日、「0330起床、演習、マル四[?金物]夜間襲撃、松島沖に於ける特攻基地と上陸部隊との攻防演習及び特攻基地予定地(廃炭鉱トンネル利用)視察。----再び松島沖に入港。途中マル四(?)隊の昼間襲撃および噴進砲[ロケット弾]射撃。雷艇[低速魚雷艇型砲艇]にて佐世保へ。」
4月14日、「久里浜工機校にて水際戦闘用軽便潜水衣[伏龍]の実験あり。A金物[特殊潜航艇「海龍」]を見て」
4月30日、三浦半島「油壷の十一突撃隊居住施設の関係上、航海学校の普練をやめた余地を使って、泊湾に甲標的(蛟龍)を繋ぎ練習を開始せるも、やっと数隻繋留した。どうも特攻特攻も掛け声で内容おくれの例に洩れず。」
5月16日、「2230横鎮[横須賀鎮守府]特攻演習視察。2430震洋隊発動泛水。艦載水雷艇にて随動視察。漁網でマゴマゴしているうちに震洋隊を見失い、視界霧にて悪くなりアッチコッチして夜明け頃。江の島附近らしい崖が視えたが、目標隊はおらず。海龍1隻と出会う。これを監視艇はぐれておらぬのでついてゆく。波あり、大いに気持ち悪くなり、やっと今度は城ケ島を見つけて油壷に入港。」
5月28日、「明日、岩島[二三大佐]部員、空技廠にてK1号(神龍)委員会ありとて来校宿泊。夜話きく。」
5月29日、「0900K1号兵器(神龍)打合せ行こうとしたら空襲警報にて止めた。---1500空技廠の神龍打合せ。やはり専門家に言わすと、中々むつかしい点もある(離陸直後の上昇、グライディング間の低速、命中するため操縦等)。」
6月13日、「工廠、甲標的第一隻明日船おろしする由([舞鶴工廠特殊潜航艇製造]雁又工場)」
6月17日、「供覧兵器。軍令部の人もきて心細き兵器を見て、ほんとに兵隊と兵器とをむすびつけたる教育せる部隊の必要を知ったにちがいない。 之でもわからねば兵学校出た士官ではない。
0720校発。茅ヶ崎、機銃陣地に対する火焔放射実験を行いしも、距離遠く火焔とどかず、無効。-----江の島砲台を一巡して陸戦兵器供覧(杉山[元第一]総軍司令官等)、実験、不発続出、機銃連発せず、丁度よい加減の見せものなりき。農耕隊のじゃが芋、むして出した、この方が成績良好にちがいなかった。1703辻堂発、帰京。」
写真(右)1947年3月14日、造船所の残骸の中に艦首不詳の日本海軍特殊潜航艇が発見された。甲標的丁型「蛟龍」とも「海龍」とも異なって、船体上部の艦橋基部に段差がついている。(オリジナル解説には、甲標的丁型「蛟龍」とある。);甲標的の居住性を改造したとは思えないし、燃料タンクの増設でもないようだ。航法・操縦性能の向上を図って、艤装に改良を施したのであろうか。
Title:Japanese Midget Submarines: Type D ("Koryu") class "Kairyu" class
Description:Amid other debris from the demolition of Japanese warships and naval facilities, in a shipyard in Japan, 14 March 1947. Submarines appear to be of the Koryu type and its variants. This view was probably taken in the Kure Naval Base drydock also seen in Photo #s 80-G-351875, 80-G-351876 and USAF K-6023. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. .
写真はNaval History and Heritage Command SC 279216 Japanese Midget Submarines 引用。
日本軍は、戦争末期には本土を空襲され、海上交通も遮断されていたため、資材不足、製造工場の不足に悩んでいた。そこで、簡易構造で設計された特攻艇であっても、1)舟艇製造の経験のない民間軍需工場でも委託生産された、2)中古も含めてエンジン・動力関連装置の精度・品質が低かった、3)輸入途絶と熟練工の不足で材料・部品の品質が低下した、ために、量産された特攻艇には不良品も多かった。1944年後半から量産が軌道に乗り、1945年に入ると特攻艇の製造数は月数百隻に達しており、終戦までに特攻艇6,000隻が量産されたという。たしかに特攻艇を技術的に見れば、軽量高性能であり、満足できる設計だったかもしれないが、量産された特攻艇は、部隊配備するに欠陥・故障・不具合が続出した。
これらの特攻兵器は、低品質の素材、安易な技術を用いた使い捨て兵器だが、これは特攻隊員たちも同じく使い捨てするといういのち軽視の戦術的発想であろう。
高松宮(大元帥昭和天皇の弟)『高松宮日記
』第8巻 1945年7月3日「特攻兵器は技術院としも乗り出す様な話であったから、それは良いが、人が乗ってゆくから安モノ兵器でよいと言うような考えがあるが、全く技術者としてけしからぬことで、犬死にならぬように、特攻なればこそ精巧なものを作るべきなりと語っておいた。」
日本軍の特攻艇「マルレ」「震洋」が急遽設計、粗製乱造された使い捨て兵器だったのに対して、イタリア海軍の爆破高速艇MTMは、搭乗員の救助を前提としたもので、勇敢に戦って、生還する希望があった。少なくとも、自爆したり、自決したり強いられた死はなかったため、士気が高かった。アメリカ海軍は、イタリア海軍のMAS魚雷艇より遥かに遅れて第二次大戦の勃発前後から開発された。しかし、アメリカは、高速の哨戒魚雷艇PTボートを急速に実現し、大量生産して、前線に投入した。哨戒魚雷艇PTボートは、強力な魚雷を搭載しており、駆逐艦、巡洋艦など大艦を撃沈することもできた。実戦では、日本海軍艦艇を翻弄し、輸送船・小型舟艇の撃沈、哨戒・偵察に大活躍している。
「海龍」搭乗員の記憶によれば、魚雷発射後、艦首に装備された爆薬もろとも敵艦船に体当たりすることになっていたという。つまり、「海龍」に魚雷2本を搭載したようにも受け取れる。しかし、基地では、「海龍」から魚雷発射の訓練はしていないようだし、搭載する魚雷の整備・調整も行っていない。戦後の米軍の撮影になる「海龍」も、魚雷を搭載したものが1枚も写っていないし、搭載されるべき魚雷も見当たらない。したがって、水中翼艇「海龍」は、魚雷2本を搭載する予定はあったものの、特殊潜航艇「蛟龍」とおなじく、魚雷が準備できず、体当たり自爆する人間魚雷として戦備に組み込まれていたものと考えられる。
諸説があるが、日本潜水艦史によれば、特殊潜航艇、人間魚雷の生産数は、次のようである。
甲標的 甲型 36隻建造。
甲標的 丙型 40隻建造(乙型3隻を含む)。
甲標的 丁型「蛟龍」 約110隻建造。
回天 1型 420基完成。
回天 2型 200基完成(本体部のみ)。
「海龍」丸六金物(SS金物) 110隻完成
6.日本陸軍は、1945年になって急遽,特攻専用の中島キ-115「剣」特殊攻撃機を試作,量産した。これは,簡素なつくりで,出撃後は,着陸装置も投下してしまう片道攻撃専用の特攻機である。100機以上量産されたが,実戦では使用されなかった。
中島キ115は、1945年1月20日に「特殊攻撃機」という名称で試作命令が下った。中島飛行機製作所で設計され、大手航空機メーカーで大量生産されえる予定だった特攻専用機キ-115「剣」は、トタン板のように簡素なつくりの飛行機で、離陸に使用した車輪は、飛行中に投下して別の機体に再使用する。これは、資材の節約と重量軽減のためである。エンジンは零式艦上戦闘機と同じ三菱「栄」1100馬力である。
特攻用に試作されたという説には,車輪投下後も胴体着陸が可能で,行動半径(帰還を前提)を設定していたので,特攻は後に決まったと考える説もある。
しかし,試作が命じられた1945年に入ると全軍特攻化が,日本軍の方針として決定されており,設計者の意図とは別に,軍としてはキ115を特攻専用機として位置づけていたようだ。終戦までに105機生産されたが,実戦に使用されたことはない。
写真(右):日本陸軍の特攻専用機キ-115「剣」特殊攻撃機;戦後になってアメリカ軍が鹵獲して撮影。日本は、海上封鎖されて、資源の輸入が途絶え、航空機の生産にも支障をきたしていた。そこで、省資源・工作節約型の簡易攻撃機キー115「剣」が考案された。しかし、攻撃の精度を上げるためには、爆弾を投下するのではなく、体当たり自爆するしかなかった。当初の意図は別に、大戦末期の陸海軍の方針は、「全軍特攻」「本土死守」だった。
キ115「剣」のデータ;
全長 : 8.55m,全幅 : 8.60m,全高 : 3.30m,主翼面積 : 12.40m2
全備重量: 2,630Kg,自量 : 1,640Kg,発動機 : 中島 ハ115 (1,150hp) X 1
最高速度 : 550Km/h,航続距離: 1,200Km,乗員 : 1名,武装 :なし,爆弾 : 250Kg X 1 or 500Kg X 1 or 800Kg X 1
キ−115は,特攻専用と考えられたため,迷彩塗装を一切施しておらず,簡素化,重量軽減を徹底していた。
資源,労働力の不足と航空機製造工場の被爆という厳しい状況にあって,簡単に量産できる航空機が必要となった。これが,侵攻してくる米軍を撃破できる航空機として設計された中島キ-115「剣」特殊攻撃機である。直線型の主翼と尾翼とを,円筒形の胴体に装着し,エンジンとプロペラを装備して,降着装置は離着後には,投下する。降着装置は、緩衝装置を含む支柱はあるが,車輪の引き揚げ装置は不要とされ,装備されなかった。出撃後は,飛行場上空で降着装置を投下して回収・再使用するつもりだった。
写真(上):キ-115「剣」;群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインのキ115。戦後の撮影なので,飛べないようにプロペラが外されている。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲など本土空襲が激化したことから、政府は航空機の生産維持のために、中島飛行機をはじめとする航空機工業の国営化方針を決定した。4月第一軍需工廠に選定され国民徴用令に基づく徴用工や学徒、女子挺身隊を含む従業員25万人は軍の直接管理下となった。中島飛行機は,創業以来、機体25,935機、発動機46,726基を生産した。
キ115「剣」のコックピット;米軍によって保管されている機体。Ki-115 "Tsurugi"
by Timothy Hortman
キ‐115計画説明書の控えによれば,キ115の型式機種は「単発単座爆撃機」であり,「特攻機」「特殊攻撃機」ではない。
キ115「剣」の任務は「船舶の爆撃に任ず」である。(高速,重武装の艦船ではなく,低速,軽兵装の輸送船を主目標としている)
構造説明中の降着装置は「主脚は工作困難な引込式を排し、かつ性能の低下を来たさないように投下式とし、着陸は胴体着陸とし人命の全きを期す」(操縦者が帰還することとエンジン回収を前提としていたようにみえるが,胴体着陸した機体のエンジンを再使用することは困難であろう)
陸軍 中島キ-115「剣」
装備中の爆弾装備は「500kg爆弾一個は胴体中央下部に懸吊され、手動投下式爆弾懸吊機は基準翼中央の二個の小骨に挟んで取りつけられる」(爆弾を投下することが前提)
行動半径は500kmとなっており、この航続力は攻撃後帰還するに十分な能力を備えることを前提とした数値である。
原文を要約したこの資料には、キ-115が帰還することを前提として造られたものであることを示唆する部分はこの程度しかない。
The Nakajima Ki-115 'Tsurugi' (Sword) was designed from the outset as a disposable (suicide) aircraft. キ115「ツルギ」は,使い捨て(自殺)機として,設計された。The major impetus in building this aircraft was the perceived lack of available obsolete aircraft to use in kamikaze attacks should the Allies invade the home islands. 日本本土への連合国の侵略を,カミカゼ攻撃するために使用され,片道攻撃が前提であった。This aircraft had to carry a decent bomb load, and use non-strategic materials (mostly wood and steel). キ115は,十分な爆弾搭載,非戦略物資(木材と鋼鉄)による製造が求められた。While the initial batch were made from aluminum, the follow on aircraft were to primarily be made of wood and steel. 試作機はアルミニウムで製作されたが,以降の飛行機は,基本的に木材と鉄鋼で製造された。
写真(上):中島キ-115「剣」特殊攻撃機の開放式風防と胴体後半部;金属外板に鋲が打たれているが、材質は低品質で、鋼索も粗雑でつなぎ目が歪んでいる。
Additionally, the aircraft was to be able to accept a number of different powerplants. さらに,キ115は,さまざまな種類のエンジンを搭載できた。The initial production aircraft (Ki-115a) were powered by 1,150 hp Nakajima Ha-35 radial engines. The offensive load of one 250, 500, or 800 Kg bomb, was carried in a recess under the forward fuselage. Flight testing began less than three months after the initial proposal in March 1945.特殊攻撃機は,1945年3月の試作要請から3ヶ月以内に初飛行テストがなされた。
しかし,中島キ-115「剣」特殊攻撃機は,設計も資材も簡素化されたつくりであり,現在残っている「トタン張り」の胴体は,荒い鋲で留められている。投下式の降着装置であるが,胴体着陸には熟練が必要で,機体に着陸用の橇(ソリ)も装備されていないから,プロペラとエンジンの再使用は困難である。つまり,装備の上から見ても,攻撃後には帰還しない片道攻撃を想定していると考えざるをえない。つまり,設計当初の目的や設計者の企図にもかかわらず,日本陸軍が特殊攻撃機キ115「剣」を量産した目的は,連合軍の本土上陸部隊に対する体当たり自爆特攻を行うためであり,特攻専用機である。
中島キ-115「剣」特殊攻撃機は,側方の風防もなく,直線型の形態のために,空力的に洗練されておらず,粗悪なエンジン,工作であった。こうした理由のために,軽量小型にもかかわらず,最高速度は零戦の530kmよりも遅い515km程度にとどまった。また、安定性、操縦性もとても悪かった。
中島キ-115「剣」特殊攻撃機が特攻専用機にもかかわらず,性能が低いのであれば,その搭乗員がたとえ犠牲的精神を沸き立たせていたとしても,戦果を挙げることなく,撃墜,行方不明になるしかない。命をささげる有能な将兵がいるのであれば,その志に相応しい兵器を装備するのが軍上層部の本来の姿であろう。日本軍では,兵器の性能が低いために,前途ある若者の命を奪うことになった。
戦争末期の物資欠乏の時代,陸軍 中島キ-115「剣」は,資源節約のために簡素化されていたが,それを1回の体当たり自爆で失ってしまうには,よほどの戦果が期待されなければならない。しかし,従来の「まっとうな」航空機を投入した2000機もの特攻でも,それに見合う大戦果を挙げられなかった(駆逐艦以下約36隻の撃沈)。したがって,簡素化された低性能の中島キ-115「剣」特殊攻撃機では,敵に打撃を与えるのは困難である。まさに、中島キ-115「剣」は,使い捨て機であり,その搭乗員も使い捨てにされてしまったであろう。
⇒写真集Album:中島キ115「剣」特殊攻撃機を見る。
写真(上):アメリカ軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」;写真(左)は戦後,横須賀で鹵獲されたと思われる「桜花」。濃緑色の迷彩塗装あるいは橙色の練習機用塗装を施してあるようだ。写真(右)は,1945年11月21日、アメリカ海軍のボーグ級護衛空母「コア」 (USS Core, CVE-13) の飛行甲板に乗せられアメリカに送られる人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")練習複座型で,後方は日本陸軍四式重爆撃機「飛龍」。
◆人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」・マルレ、中島キ-115「剣」特殊攻撃機のような特攻兵器を設計、製造し、部隊編成をしていること自体、特攻が自然発生的なものでは決してなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことを物語っている。
写真(右):1945年4月17日、沖縄本島中部、読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)アメリカ軍が鹵獲したばかりの日本海軍の特攻兵器・横須賀空技廠人間爆弾「桜花」(移動用台車に乗せられている):飛行場には、手前にあるような小さな木箱が多数残されているが、これは桜花部隊用に部品や信管などを梱包して本土から沖縄に海路送られた様だ。「桜花」機首の桜花マークは、「桜花」特攻のオリジナルである。その後、アメリカ軍は「桜花」の個別機体に「I-18」のように異なったの登録記号を記入した。奥には、日本軍の梱包木箱が積まれている。
【原文】 Okinawa, Ryukyu Retto - 3/4 right front elevation of a Jap Baka plane. The insignia that appears on the nose of the ship is that of the Cherry Blossom Unit of the Kamikaze or suicide squadron.
【和訳】 斜め右前から見た日本軍特攻機。機首のマークは神風特攻隊または自爆中隊「桜花」を表す。沖縄。
撮影日: 1945年 資料コード: 0000112235 アルバム名: アルバム名: 米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 02
写真は, 沖縄県公文書館 写真番号:14-16-4引用。
沖縄戦のころの特攻隊は,中古戦闘機,練習機,水上偵察機など旧式な航空機の寄せ集め部隊が多く,搭乗員も実戦経験のない未熟練新米パイロットが大半であった。戦闘機隊343空司令源田実大佐は,特攻隊,特に有人爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka)の開発・部隊編成に関与したにもかかわらず,戦後は特攻について語らなかった。特攻隊とは雲泥の差がある最新戦闘機「紫電改」装備のエリート部隊343空を率いてたことを誇りにしていた。
⇒写真集Album:人間爆弾「桜花」を見る。
写真(右):愛知特殊攻撃機「晴嵐」;海軍の潜水艦搭載爆撃機だが,イ400級でも3機しか搭載できないため,少数機でも効果が発揮できるように爆装したまま特攻に使用する計画だった。最高速度470km。爆弾搭載量800kg,生産数25機。当初パナマ運河を計画していたが,1945年8月ウルシー泊地への奇襲攻撃に変更となりイ400級2隻などに搭載され出撃。しかし,攻撃途上に終戦となり、機体は無人のままカタパルトで射出投棄。生き残った特攻隊員たちは,米軍に投降するときに米軍に大損害を与えてきた憎むべき特攻隊として,処刑を覚悟していた。現在、スミソニアン航空宇宙博物館に保管されている。
6.日本軍は,本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃するつもりでいた。そのために,兵器開発でも特攻が優先された。特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められ,かれらの犠牲を前提とした非道な作戦が立てられた。このような状況は、現在の自爆テロにも当てはまるように思われる。
正攻法では,量,質の両面で連合軍にまったく太刀打ちできなくなっており,このことを戦争末期になってやっと認識した軍高官は,精神主義を振りかざして「断じて行えば鬼神もこれを避く」として,特攻を唯一の対抗手段としようとした。
大本営海軍部・軍令部、大本営陸軍部・参謀本部など日本軍上層部は、数量。質の格差から、正攻法が通じなくなった状況で、戦局打開のために頼ることのできるのは、精神主義と士気の高い下級兵士だけだった。そこで、特攻兵器として、人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機中島キ115「剣」,このほかにも潜水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」,体当たり自爆改造戦車,対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵,爆薬を持って海中に潜み自爆する「伏龍」,などを開発し、若者の命をそれに供した。
このような特攻兵器は、戦術的にも戦略的にも劣勢であり、軍指揮官の能力の低さの証明ともなる。それを採用する軍指揮官は、統率の外道として恥をかく。そこで、特攻兵器は、犠牲的精神を有する将兵の発意で作られたという俗説が流布された。兵器の開発,生産はもちろん、特攻隊の編成,運用は個人で行うことはできず,軍上層部の主導、命令が不可欠である。特攻は、現地の将兵の自発的な攻撃ではなく、特攻作戦として軍上層部が策定した軍事行動である。軍事行動である以上、戦果と損失・コストが問題となるから,特攻に向かった将兵の心情・苦悩は、二義的になり、あくまでも特攻,突入、敵艦撃沈が優先される。
しかし、特攻兵器を技術的に見れば、信頼性の欠如、操作困難など、部隊配備する中で、欠陥・故障・不具合が続出した。特攻兵器は、低品質の素材、安易な技術を用いた使い捨て兵器だが、これは特攻隊員たちも同じく使い捨てするといういのち軽視の戦術的発想であろう。
高松宮(大元帥昭和天皇の弟)『高松宮日記
』第8巻 1945年7月3日「特攻兵器は技術院としも乗り出す様な話であったから、それは良いが、人が乗ってゆくから安モノ兵器でよいと言うような考えがあるが、全く技術者としてけしからぬことで、犬死にならぬように、特攻なればこそ精巧なものを作るべきなりと語っておいた。」
しかし、特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。
しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。
自爆テロの語は,日本で広く使用されるが,自殺テロSuicide Terro,自殺攻撃Suicide Attack,自爆Suicide Bombingといった英訳が当てられる。これらは,善悪の価値観をも含んだ言葉であるが本webページでは,煩雑さを避けるために,慣用となった「自爆テロ」という語句をする。
写真(右)アメリカ海軍戦車揚陸艦LST-884号の乗員たち。;戦利品の日章旗を誇示している。1945年4月1日特攻機の被害を受けた乗員が、ウルシー環礁海軍基地に無事帰還したときに撮影。LST-884 crew photo. Notice the many different uniforms, a result of the crews lose of almost everything in the fire. This picture was taken once the crew was reunited at Ulithi.
『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。
このような特攻に関する分析から、現在の自爆テロを再考すると、興味深い類似点が明らかになる。特攻隊の心情を理解し、それに共感できるために、彼らを「自爆テロリスト」と同一視することはできない、したくないが。しかし、特攻隊が,戦闘的熱狂や興奮ではなく、静かな笑顔で、愛機と共に堂々粛々出撃し、突入散華できたのであれば,同じことを行う人々が現在いても軽蔑はできない。攻撃対象が一般市民であるとか,戦争中の行為ではないとかは,「攻撃成果」の観点からは問題ではないのだから。
<自爆テロと特攻を再考する>
写真(右):2002年5月20日に開催されたカミカゼ特攻の生存者の会Kamikaze Reunion :「大戦中のカミカゼ生き残り歓迎。悲哀・勇気・名誉」とある。駆逐艦「スーブリック」は1945年5月29日0013に沖縄方面で特攻機の命中を受け損傷した。USS Shubrick Photos
自爆テロの語は,日本で広く使用されるが,自殺テロSuicide Terror,自殺攻撃Suicide Attack,自爆Suicide Bombingといった英訳が当てられる。これらは,善悪の価値観をも含んだ言葉であるが本webページでは,煩雑さを避けるために,慣用となった「自爆テロ」という語句をする。
自爆テロ(Suicide Terror)とは、自らの命を犠牲にした爆破行為,すなわち自爆によって,物理的,心理的,社会的恐怖心を引き起こし,所与の目的を達成しようとするこういであり,目的とは,戦果をあげること,政治的主張,家族を守ること,祖国を防衛すること,民族自立を図ることなど,さまざまである。いずれにせよ,自己の生命をもって,他人の生命・財産・平和人権を破壊する行為である。しかし,自爆者の視点からみれば,そのような破壊行為は,悪のテロではなく,純粋な防衛あるいは建設的行為であり,愛国心,殉教,新世界の形成,伝統の維持,宗教的使命など積極的な意味を持っているのかもしれない。
写真(右)1941年12月7日(日本時間8日),ハワイ真珠湾奇襲攻撃で炎上したアメリカ海軍戦艦「ウェストバージニア」USS West Virginia (BB-48), ;アメリカでは,真珠湾騙まし討ちとして卑劣極まりない行為として,反日感情が爆発した。2001年の9.11同時多発テロのときに,真珠湾以来のテロを受けたとして,マスメディア,大統領もその憤慨を公言している。
USS Tern (AM-31) fighting fires aboard the sunken USS West Virginia (BB-48), on 7 December 1941, immediately after the Japanese raid. Note radar antenna, paravanes and 16/45 twin gun turrets on the battleship. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command.
写真は、Naval History and Heritage Command: NH 64477 Pearl Harbor Attack 引用。
2001年9月11日に「同時多発テロ」とされる対米攻撃Attack on the U.S.は,4機の大型旅客機がハイジャックされ,それを使った体当たり自爆という特攻が行われた。この事件は「9.11」(ナイン・イレブン)として有名な自爆テロである。3000名以上が殺害された。
図(右):ロスアンゼルスタイムズに掲載された真珠湾攻撃と世界貿易センタービルへのテロの関連図:12・7の卑劣な真珠湾へのテロが、9・11の同時テロで再び繰り返された。テロに対する戦争を喚起するために、1941年12月7日の真珠湾空襲が用いられており、真珠湾奇襲は、アメリカではテロと見なされていることが分かる。図は、Michael Ramirez, California -- The Los Angeles Times引用。
世界では,日本の特攻隊は,自爆テロ/殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。天皇陛下万歳といって体当たり自爆する。
日本軍の将兵について、多数の連合国の市民や将兵が、「日本人は天皇を守るためには死をも厭わない狂信者である」「日本人は死ぬまで戦い続ける好戦的な侍の精神を持っている」「日本人は捕虜・敵国民間人など敗者を情け容赦なく処刑する」と認識していた。
このような日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、攻撃・反抗という破壊的行為を行ういう日本人は「テロリスト」と判断される。特攻隊は自爆テロリスト集団とみなされてしまう。
1944年12月海軍婦人部隊WAVEsとダブル・デートする米海軍水兵。花びら占い。「彼女は愛してる,愛してない,愛してる」と花びらを取って占う,米本土では,将兵でもデートできた。「海軍勤務も楽しいよ」というプロパガンダも継続された。このような風景は,戦局の悪化から自殺攻撃を仕掛けることになった若者から見て,堕落した快楽主義者とされるのか,羨ましいと感じられるのか。しかし、このような米国の若者が特攻で殺されれば,特攻隊員は,前途ある若者の将来を奪ったテロリストとして嫌悪されるであろう。
What was needed for America to dominate much of humanity and the world's resources, it said, was "some catastrophic and catalysing event - like a new Pearl Harbor". The attacks of 11 September 2001 provided the "new Pearl Harbor", described as "the opportunity of ages". テロ攻撃を知っていて見逃したという大統領陰謀説とあいまって,「9.11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃である」とも主張されている。(→A New Pearl Harbor,George W Bush said what America needed was "a new Pearl Harbor",A Second Pearl Harbor?,
The Bush administration and September 11)
On September 11, 2001, the topic of kamikaze hijackings suddenly became MUCH more interesting to everyone, as two airplanes smashed into the World Trade Center towers and utterly obliterated them, and a third crashed into the Pentagon.自爆テロとカミカゼ特攻は同じとも言われる。(→Kamikaze Jet Hijacking,
War on Terror Masks Bush's Grand Strategy )
1944年海軍婦人部隊WAVEsとダブル・デートする米海軍水兵。米国は、犠牲的精神をもつ勇者でも、自殺攻撃をする必要はない。それどころか,本国では休暇中にデートまでできた。「自爆テロリスト」や犠牲的精神で満ち溢れた日本軍の愛国者から見れば,堕落した快楽主義者と思われるかもしれない。しかし、このような米兵が殺されれば,前途ある若者の将来を平然と奪ったテロリストを殲滅せよと、報復のヤイバが向けられる。
Suicide Attack/自殺攻撃のニュース(2006年初頭)
Afghan 'suicide bomb kills four'
The Japan Times Weekly
Abbas: Suicide attack was bid to 'sabotage'
Suicide attack, other violence kills 53 people in Iraq
Suicide Terro/自爆テロの情報
Suicide Terror: Was 9/11 Something New?
Suicide Terror- The Definitive Overview of the Threat
Terrorism:
An Introduction
The War on Terrorism in 2002
Suicide Terror: The Definitive Overview of the Threat
Dying to Kill The Allure of Suicide Terror
Wide Angle . Suicide Bombers . Interactive Map
Suicide Attack/自殺攻撃と特攻・真珠湾攻撃との類似性
;9・11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃ANOTHER PEARL HARBORである。
Historical view: America has dealt with terror before
ANOTHER PEARL HARBOR!
The Korea Times
村岡到:9・11特攻テロ:「報復」ではなく<反省>を
⇒写真集Album:自爆テロと特攻・真珠湾攻撃を見る。
情報考学
橋本大也
死へのダイビング
保阪正康(2005)『「特攻」と日本人 』
「自爆テロ」は言葉のイメージによるマインドコントロール
北京放送BBS フォーラム一覧
「Suicide Attack/自爆テロは特攻とは違う」との主張(が紹介されている)
Japanese Kamikaze vs. Islamic Suicide Bomber by Rit Nosotro
The Horror of the Human
Bomb-Delivery System By DANIEL FORDFrom the Wall Street Journal, September 10, 2002;The parallels with the Sept. 11 hijackers are eerie.
'They Were Not Fanatics’ABC News Home > Nightline
20代記者が受け継ぐ戦争
〈特攻隊〉〈自爆テロ〉の違い
民主党参議院議員藤末健三公式webページ
写真(右):1945年4月初旬、沖縄方面、戦車揚陸艦LST-884号に突入した特攻機残骸;1945年4月1日、沖縄上陸当日に特攻機の被害を受けた。日本機搭乗員の遺体の跡にしるしが付けられている。Damage to LST-884 from Japanese kamikaze attack at Okinawa on 1 April 1945. Note twisted remains of aircraft and charred outline of Japanese pilot in the damaged area
世界の著名なメディア,政治的指導者にとって、あるいは世界各地の自爆テロを計画するテロ首謀者にとって,日本の特攻隊は,自爆テロ/殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。自分のような醜いものでも、天皇陛下をお守りする盾になることができる。天皇陛下万歳といって体当たり自爆する。
日本軍の将兵について、多数の連合国の市民や将兵が、「日本人は天皇を守るためには死をも厭わない狂信者である」「日本人は死ぬまで戦い続ける好戦的な侍の精神を持っている」「日本人は捕虜・敵国民間人など敗者を情け容赦なく処刑する」と認識していた。
このような日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、攻撃・反抗という破壊的行為を行ういう日本人は「テロリスト」と判断される。特攻隊は自爆テロリスト集団とみなされてしまう。
What was needed for America to dominate much of humanity and the world's resources, it said, was "some catastrophic and catalysing event - like a new Pearl Harbor". The attacks of 11 September 2001 provided the "new Pearl Harbor", described as "the opportunity of ages". テロ攻撃を知っていて見逃したという大統領陰謀説とあいまって,「9.11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃である」とも主張されている。(→A New Pearl Harbor,George W Bush said what America needed was "a new Pearl Harbor",A Second Pearl Harbor?,
The Bush administration and September 11)
On September 11, 2001, the topic of kamikaze hijackings suddenly became MUCH more interesting to everyone, as two airplanes smashed into the World Trade Center towers and utterly obliterated them, and a third crashed into the Pentagon.自爆テロとカミカゼ特攻は同じとも言われる。(→Kamikaze Jet Hijacking,
War on Terror Masks Bush's Grand Strategy )
このように,自爆テロと,特攻および真珠湾攻撃と同じであるというのは,第一に,予期しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃という意味がある。そして,第二に,攻撃を,狂信的なテロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなしている点である。
特攻の「(天皇の)大御心(おおみごころ)に沿うために命を投げ出す攻撃」という狂信・軍国主義あるいは宗教的心情・愛国心の側面だけを受け入れるのであれば、「自爆テロ/殉教と特攻は同じ」である。自爆テロも特攻も,狂信と洗脳が生み出したもの、あるいは殉教精神・祖国愛・家族愛が生み出したものであると対極的に論じられてしまう。
写真(右):パレスチナの特攻隊員;ガザ地区で対イスラエル攻撃の訓練に従事する「アルアクサ殉教団」のメンバー。この組織は、イスラエル軍人や民間人を標的とした数多くの銃撃や自殺攻撃を実行している。
国務省『国際テロ年次報告書』テロ対策調整官室発表(2004年6月22日)によれば、2003年の国際テロ件数は208件で、最新の発表による2002年の件数198件(205件に訂正)に比べわずかに増加、また2001年の355件に比べると42%の減少となった。2003年の国際テロによる死亡者総数は625人で、2002年の725人に比べ減少した。2003年のテロによる負傷者総数は3646人で、前年の2013人に比べ急増した。この増加は、2003年には、礼拝所、ホテル、商業地区など『ソフト・ターゲット(民間の標的)』を対象に、大量の死傷者を出すことを意図した無差別テロが多かったことを反映している。2003年には、35人の米国人がテロによって死亡した。
テロ支援国家と特定の交易を行う個人または国を罰するとして、テロ支援国家として米国が指定しているのは、キューバ、イラン、イラク、リビア、北朝鮮、スーダン、シリアの7カ国である。
自爆テロと,特攻および真珠湾攻撃と同じであるというのは,第一に,予期しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃という意味がある。そして,第二に,攻撃を,狂信的なテロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなしている点である。
特攻=狂信・軍国主義の極地がもたらした自殺攻撃・自爆テロ(米軍の視点)
特攻=家族と国家を守り,(天皇の)大御心(おおみごころ)に沿うための必殺の体当たり攻撃(日本の視点)
⇒自爆テロ/殉教と特攻は同じ(?):自爆テロも特攻も,狂信と洗脳が生み出したもの(多国籍軍=連合国軍の視点)、あるいは殉教精神・祖国愛・家族愛が生み出したもの(反米過激派・日本軍の視点)
当事者の片方の立場から分析すれば,特攻も自爆テロも善悪の価値観や正当性の観念から,対極的に論じられてしまう。これが現状である。
◇祖国,民族のためであれば,テロも許されるのか。民族自立,国家独立,反植民地,暴政打倒,民主主義の確立,家族の保護,財産の保全,国防のためであれば,市民も含む敵の命を奪う大量殺戮,敵の軍事目標・経済基盤を攻撃する大量破壊は,正当化されるのか。
祖国防衛の英雄,独立の闘志,レジスタンス,ゲリラは英雄・立派な人物として,その敵殺害,敵財産の破壊も賞賛されるべきなのか。自爆テロと特攻の問題は,結局,戦争の本質である大量殺戮,大量破壊を肯定し,正当化できる大義があるかという問題に行き着く。
国務省『国際テロ年次報告書』テロ対策調整官室発表(2004年6月22日)によれば、2003年の国際テロ件数は208件で、最新の発表による2002年の件数198件(205件に訂正)に比べわずかに増加、また2001年の355件に比べると42%の減少となった。2003年の国際テロによる死亡者総数は625人で、2002年の725人に比べ減少した。2003年のテロによる負傷者総数は3646人で、前年の2013人に比べ急増した。この増加は、2003年には、礼拝所、ホテル、商業地区などソフト・ターゲット(民間の標的)を対象に、大量の死傷者を出すことを意図した無差別テロが多かったことを意味している。
写真(右):アメリカの雑誌『ライフ』に掲載された戦利品の日本兵の骸骨を贈られたナタリー;ニューギニア前線の米海軍中尉が海岸で見つけた日本への髑髏「トージョー:東條」と名づけサインして、フェニックス市に住む恋人ナタリー(Natalie Nickerson、20歳)に贈った。ナタリーは、日本兵の髑髏を楽しげに眺め不気,返事のラブレターを書く。Life掲載写真。
自爆テロと日本の特攻の異なる点として、
1)自爆テロは無辜の民間人を標的にする卑劣な行為が、特攻は軍事目標に行われた英雄的行為である、
2)自爆テロは狂信的な宗教的妄信が生み出したが、特攻は祖国愛・家族愛が生み出した、
3)自爆テロは世界を混乱させる平和を乱す行為であるが、特攻は祖国と家族を守る平和のための行為である、
と主張されることもある。。
しかし、自分の命を犠牲にしてまで、叩き潰したいなにかがあり、その敵愾心は、民族や家族を守るための冷静な判断の下に、自己犠牲的に行われる破壊行為である点は共通している。民間人も、食糧生産、兵器生産、補給、労働力として戦争に協力しており、無差別攻撃は軍事的にも、効果的である。また、敵愾心とは狂信的な一時的なものでなく、冷徹な論理一貫した憎しみである。
現代は短期決戦の時代のように言われるが、「テロとの戦い」は決して短期でも決戦でもない。長期間、経済社会基盤(生産、流通、金融、輸送、エネルギー、水供給などの生活基盤)を巻き込み、世論を誘導して戦われる総力戦である。総力戦では,一般市民も世論の支持による戦争継続,ビジネス活動,納税・国債購入による軍資金提供,生産のための労働力,個人消費節約による軍需への資源の移転など,戦争協力している。こうなればみんなが戦争協力者であり「無辜の市民」はありえない。
総力戦にあっては攻撃目標が、軍艦か輸送船か、兵士か民間人かは、問題とされない。敵の戦力,経済力,世論,生産基盤、金融、通貨の信用力などに、効果的な打撃を与えられるかどうかが、攻撃目標選定の基準となる。
写真(右):本州西端、山口県、小月飛行場にいた特攻隊員と女子学生;Life掲載写真。山口県下関市の小月飛行場には、1944年7月、第十二飛行師団司令部が置かれ、西部地区防衛を担当。女子学生は、女子挺身隊として将兵の身の回りの世話(洗濯,裁縫,宿舎の掃除)や飛行機の整備、出撃の見送りに動員された。勤労動員された若者は、祖国と国民を愛し、犠牲的精神で特攻隊に志願した若者を尊敬し、英雄と見なしていた。純真な乙女と若者であったと思う。しかし、米軍から見れば、特攻隊員は、日本の特攻機を操縦する卑劣な自爆テロリストであり、勤労学徒は、それを助けるテロシンパとされてしまう。そうでないという主張が,旧連合国軍(多国籍軍)に受け入れられているのは,年月がたったことと,現在の日本の親米的立場が原因かもしれない。
総力戦であれば,軍艦乗員であっても,軍需生産,補給物資の運搬を担う労働者であっても,重要な戦力として,攻撃対象となる。自分の命をかけて,祖国,家族を守るために,敵に打撃を与える必要があり,その攻撃目標は,航空母艦・駆逐艦など敵艦艇,輸送船,あるいは金融センター・ターミナル・国防省など敵経済・軍事中枢など様々である。効果的な攻撃目標の選定が重要となり,民間人が含まれるかどうかは問題ではない。
写真(右)1944年8月17日,アメリカ、ベスレヘム・スチール造船所で進水を控えたアメリカ海軍空母「ワスプ」USS Wasp (CV-18);排水量2万7000トン,速力33ノット,搭載機80機。エセックス級航空母艦には,エセックス,ヨークタウン,イントレピッド,ホーネット,フランクリン,レキシントン ,バンカーヒル,ワスプ ,ベニントンなど12隻が建造された。空母が何隻か撃沈されても,米軍は日本と講和するつもりなどなかったのであろう。無条件降伏を求める方針は3年も前から決まっていて,世界に公言されていた。
Title:USS Wasp (CV-18)
Description:USS Wasp (CV-18) Ready for launching, at the Bethlehem Steel Company shipyard, Quincy, Massachusetts, 17 August 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14048 USS Wasp (CV-18) 引用。
一般市民がテロの標的にならないように,防御するのであれば,膨大なコストを負担しなくてはならない。一般市民へのテロとその恐怖は,市民を守ろうとする政府や軍隊に,多大な負担をかける。敵に負担を強要するには,一般市民を標的にして,殺害するテロが効果的である。トラック,戦車はいくらでも生産できるし,軍艦の代わりもあるが,殺された人間の代わりはいないという意味で,テロの被害は大きい。
軍艦,軍用機,軍人を攻撃しようとしても,防備が固く、警戒しているため、攻撃しても戦果を揚げるのは困難である。軍事施設,戦車に自爆テロを仕掛けても、多くは事前に発見,阻止されてしまう。
「人の命の値段」=遺体捜索・運搬費用,葬儀費用,国家補償,生命保険,遺族年金などの負担は,高所得で人権を重視している先進国では,非常に重い。負傷者の医療や看護の費用も政府や家族が負担する必要がある。「人命は地球より重い」。人命が高価な敵に対しては,特攻による攻撃も人を対象にすることが,もっとも費用対効果が大きいといえる。
1944年後半の米軍に対する特攻も,空母や戦艦ではなく,ヒトを大量に殺すことを目的に、輸送艦、商船を攻撃するほうが,米国の負担も大きかったであろう。兵器の損害は回復できるが、失った兵士の命は取り戻せない。日本本土侵攻作戦に際しても,自国の若者の死傷者を如何に少なくするかが問題となっていた。原子爆弾の投下を正当化する第一の理由も,日本本土上陸作戦に伴う死傷者を抑えるため,というものである。(現実には,戦後の対ソ戦略や最新兵器の実戦使用への誘惑の影響が大きいが。)
米国に大損害を与えるためには、米軍将兵,米国市民を効率的に殺害すればよい。大量殺戮が可能になれば,戦局を挽回できる。味方の物資,人員,資金を節約しつつ、効果的に敵を大量殺戮することが、戦争の目標となる。戦争の本質とは,大量殺戮,大量破壊である。20世紀の大戦以降,戦争は決して外交の延長手段などではない。
中には、特攻隊を使い捨てのごとく扱った厚顔無恥な司令官や参謀も若干いたようだが,自爆攻撃を計画し、特攻隊員を訓練し、特攻隊を編成する司令は,心中穏やかではいられないだろう。自分は死なないのに、若者に死を前提に特攻を命じる司令官,高級将校の心のうちは苦しかったはずだ。だからこそ、特攻を命ずる指揮官は,自らの心理的負担を軽くするため、自らの心理操作をするしかない。心理的負担のかかる事実(=不協和)を受け入れるために認識を改める、すなわち「認知的不協和の理論」である。これが「特攻自然発生説」を信じ込んでいる理由である。
自分は意思が弱くて特攻に出撃できないが、若者は自己犠牲を厭わず、愛国心を持って大御心に自ら殉じようとしている。特攻は、若者の発意で志願によって行われた。特攻を命じた指揮官たちには,「特攻の自然発生説」が心理的負担が小さく,受け入れやすい。こういった「認知的不協和の理論」が当てはまる心理状態から,特攻を命じた指揮官たちは,事実ではない「特攻自然発生説」を信じ込んでいったのであろう。
写真(右):飛行場で別れの杯を交わす特攻隊員と指揮官;Life掲載写真。航空機を隠す掩護覆いのついた格納庫が整っているので内地の飛行場であろう。出撃の見送りをする指揮官は、大きな戦果を揚げてくれることを期待すると同時に、特攻隊員を目の前にして、死にに行く若者を立派であると感じていたのではないか。しかし、特攻に出すもの,出されるもの苦衷は、彼らの顔からは読み取れない。特攻に出されるものは,この期に及んで恥をさらすわけにはいかず、同僚たちと同じく、にっこり笑って死ぬしかない。このように考えたのではないか。
他方,特攻隊・テロ実行犯として指名されたり、志願を強要されたりした若者は、運命を受け入れて、祖国、民族、家族、神の栄光のためと思って、死ぬことを自分に納得させる以外の道はない。
死から逃走、逃亡しようと思えば,特攻/自爆をやめて、同僚・周囲から非難され,家族を窮地に陥れ、さらに自分も抹殺されることを覚悟しなくてはならない。これが分かっている特攻隊員は、苦しんだ末、やはり特攻出撃するしかないのではないか。認知的不協和の理論からいって,自分の特攻死に意味がないとは,犬死だとは認める分けにはいかない。祖国のため,家族のために何か役に立てると信じ,あるいは残された者に期待できたからここそ,諦観し,特攻に出撃したのであろう。
北アフリカや南米で郵便飛行の仕事をし,大戦中,偵察機パイロットとして地中海で活躍したアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは,1931年の『夜間飛行 Vol de Nuit』のなかで,「勇気というやつは,大して立派な感情からはできておりません。憤怒が少々,虚栄心が少々,強情がたっぷり,それにありふれたスポーツ的楽しさが加わったという代物です」と述べた。勇者と勇者が戦争という極限状況ででぶつかれば,殺し合いとなり,陰惨なものとなる。
ドゥ・サンテグジュペリは,1943年の『星の王子様Le Petit Prince』で有名なフランスの作家であるが, “War is not an adventure. It is a disease. It is like typhus.”「---戦争はチフスのようなもの」とも述べている。1944年7月31日,彼の乗ったP38「ライトニング」改造偵察機は,マルセイユ沖で墜落,彼は戦死した。彼の部屋には,General X宛ての手紙が残されていた。
"I do not care if I die in the war or if I get in a rage because of these flying torpedo's which have nothing to do with actual flying, and which change the pilot into an accountant by means of indicators and switches. But if I come back alive from this ungrateful but necessary "job", there will be only one question for me: What can one say to mankind? What does one have to say to mankind?"
「私は,戦争で死んでも,憤怒に陥っても,かまわない。戦争の道具として飛ぶことは,実際の飛行とは比べ物にならないのだから。それは,パイロットを計器とスイッチの一部にしてしまった。しかし,もし,この不快なしかし必要な任務から生きて帰れたなら,ひとつの問題が生まれるだろう。人は人類になんということができるのか,なんというべきなのか。」
特攻やテロ行為は,戦争と同じく正当化することはできない。もし,特攻や自爆テロを,そして戦争が正当化できる大義があるのであれば,無防備な市民を効果的な攻撃目標として認めることになる。特攻,自爆テロ,戦争を許せば,平和は遠のいてしまう。しかし,最も非難され、追及されるべき人物は、特攻隊員・自爆者ではないし,特攻隊員・自爆者の抱く犠牲的精神、祖国愛、殉教精神ではない。
非難されるべき人物・行為とは次のようなものである。
1)特攻隊・自爆者(殉教者)を平然と送り出している司令官・参謀(テロ首謀者)たち、彼らこそ無防備な市民を殺害し,悲しみと報復を招来し,防衛措置をしいて,社会に余分な負担を負わせる。
2)特攻隊・殉教者を送り出したにもかかわらず「特攻・殉教は自然発生的に行われた」として特攻/自爆テロ作戦の責任を回避しようとする「特攻/自爆しない」司令官・参謀たち、彼らこそが特攻/自爆テロの現実的果実を不当に独占する。(特攻隊員・自殺攻撃者は死んでいる)
3)特攻・自爆のもつ「大義に殉じ、家族を守ろうとする犠牲的精神の発露」という一面を英雄的行為として過大に賛美し、プロパガンダを展開して、純真な若者に特攻(自爆テロ)を志願させ、愛国者,殉教者の名のもとにテロリストを育成、編成する行為、それを画策する政治的指導者・軍司令官(テロ首謀者)たち、彼らこそ,エセ大義のもとに社会から平和を奪う扇動者である。
彼らやその行為こそ憎むべきものである。特攻隊員の抱いた忠誠心・祖国愛・家族愛だけではなく,彼らの苦衷と特攻/自爆テロを展開した司令官への憤怒を心に留めることが,現代の我々には必要なのではないか。
7. 日中戦争勃発30年前,日本軍は,日露戦争劈頭の「旅順港閉塞作戦」を美化して,軍神廣瀬中佐を顕彰した。この廣瀬中佐の勇気は讃えられる反面、軍による軍神プロパガンダは,夏目漱石にとっても,胡散臭い卑劣なものであった。そのことは,次の「東京朝日新聞 文芸欄」1910(明治43)年7月20日「艇長の遺書と中佐の詩」に現れている。
昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此遺書に比して甚だ月並なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人《ごじん》の脳裏に一種痛ましい対照を印《いん》した。
露骨に云へば中佐の詩は拙悪と云はんより寧ろ陳套《ちんたう》を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥《ぶんてんしやう》の正気《せいき》の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨《かうがい》家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄《できばえ》である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有してゐる以上は(又|如何に高等な翫賞《くわんしやう》家でも此誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉《く》れたならと思ふだらう。
まづいと云ふ点から見れば双方ともに下手《まづ》いに違ない。けれども佐久間大尉のは已《やむ》を得ずして拙《まづ》く出来たのである。呼吸が苦しくなる。部屋が暗くなる。鼓膜が破れさうになる。一行書くすら容易ではない。あれ丈《だけ》文字を連らねるのは超凡の努力を要する訳《わけ》である。従つて書かなくては済まない、遺《のこ》さなくては悪いと思ふ事以外には一画と雖《いへど》も漫《みだ》りに手を動かす余地がない。平安な時あらゆる人に絶えず附け纏はる自己広告の衒気《げんき》は殆ど意識に上る権威を失つてゐる。従つて艇長の声は尤《もつと》も苦しき声である。又|尤《もつと》も拙《せつ》な声である。いくら苦しくても拙でも云はねば済まぬ声だから、尤も娑婆気を離れた邪気のない事である。殆んど自然と一致した私《わたくし》の少い声である。そこに吾人は艇長の動機に、人間としての極度の誠実心を吹き込んで、其一言一句を真の影の如く読みながら、今の世にわが欺かれざるを難有く思ふのである。さうして其文の拙なれば拙なる丈|真の反射として意を安んずるのである。
其上艇長の書いた事には嘘を吐《つ》く必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此等の現象に自己広告は平時と雖ども無益である。従つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡ての苦悶を忍んだので、他《ひと》によく思はれるがために、徒《いたづ》らな言句《げんく》を連ねたのでないと云ふ結論に帰着する。又|其報告が実際当局者の参考になつた効果から見ても、彼は自分のために書き残したのでなくて他《ひと》の為に苦痛に堪へたと云ふ証拠さへ立つ。
広瀬中佐の詩に至つては毫も以上の条件を具《そな》へてゐない。已《やむ》を得ずして拙な詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已《やむ》を得るにも拘《かゝ》はらず俗な句を並べたといふ疑ひがある。艇長は自分が書かねばならぬ事を書き残した。又自分でなければ書けない事を書き残した。中佐の詩に至つては作らないでも済むのに作つたものである。作らないでも済む時に詩を作る唯一の弁護は、詩を職業とするからか、又は他人に真似《まね》の出来ない詩を作り得るからかの場合に限る。(其外徒然《とぜん》であつたり、気が向いたりして作る場合は無論あるだらうが)中佐は詩を残す必要のない軍人である。しかも其詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼《あ》の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其内容が如何にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。幸ひにして中佐はあの詩に歌つたと事実の上に於て矛盾しない最期を遂げた。さうして銅像|迄建てられた。吾々は中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗悪で陳腐で生きた個人の面影《おもかげ》がないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だと思ふ。
道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其《その》言辞を実現し得たるとき始めて他《た》をして其誠実を肯《うけが》はしむるのが常である。余に至つては、更に懐疑の方向に一歩を進めて、其言辞を実現し得たる時にすら、猶且《なほかつ》其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである。微《かす》かなる陥欠《かんけつ》は言辞詩歌の奥に潜むか、又はそれを実現する行為の根に絡んでゐるか何方かであらう。余は中佐の敢てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟《さしはさ》むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁《か》するのである。
(→インターネットの電子図書館、青空文庫引用)
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
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