鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
中島キ115「剣」特殊攻撃機 2022
Search the TORIKAI LAB Network

Googleサイト内
◆中島キ115「剣」特殊攻撃機;最初で最後の特攻機

写真(上):中島特殊攻撃機キ115「剣」;車輪など着陸装置は、離陸後に投下してしまうために、事実上、帰還を許されない片道の体当で自爆する特攻機として100機以上量産された。部隊編成前に終戦。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場の量産ラインで製造された中島キ115特殊攻撃機;ここでは日本陸軍最新鋭の四式戦闘機「疾風」も製造されていた。戦勝国アメリカの占領軍がこの太田工場を見分にやってきたときの撮影。
Nakajima Ki115, Tachikawa AB, Japan, c48-50 03920003 Jack D. Canary Special Collection Photo Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1947年6月以降、東京都、立川、アメリカ軍の横田基地に展示された中島飛行機太田工場の量産ラインで製造された中島115「剣」特殊攻撃機;戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”を描いている。
09_03246 Pete Padilla Collection kamikaze planes suicide they dragged Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
1.1944年10月20日,米軍はフィリピン攻略作戦を開始した。このときに,日本軍の航空機による特攻作戦がはじめて展開された。1941年12月の真珠湾攻撃で特殊潜航艇による特別攻撃を実施していたことが,特攻を組織的作戦として 俎上に載せるのに役立ったはずだ。

太平洋戦争の開戦劈頭、1941年12月7日、日本海軍の甲標的5隻が各々1隻の伊号潜水艦の甲板から発進し、ハワイ真珠湾内の大型艦艇襲撃に向かった。これが初回の「特別攻撃隊」であり、搭乗員の生還の見込みはほとんどない、事実上の片道攻撃だった。 その後、1942年6月、オーストラリアのシドニー港を3隻の甲標的が「第一特別攻撃隊」を、マダガスカル島のディエゴ・スレス港の3隻が「第二特別攻撃隊」を実施し、ガダルカナル島でも甲標的が投入されている。いずれも大きな戦果はなかったが、特別攻撃の思想は甲標的の実戦投入の中で、当初から日本海軍が採用していた戦法だった。

写真(右):1945年1月、ソロモン群島、ガダルカナル島エスペランサ岬沖、アメリカ沿岸警備隊艦船母艦「アイアンウッド」(USCGC Ironwood :WAGL-297)のクレーンで海中から引き揚げられる日本海軍特殊潜航艇「甲標的」;艦船母艦「アイアンウッド」は、935トンの小型の艦船母艦で、救難、防潜網・魚雷防御ネットの敷設、補給などに使われた。
Description A Japanese Ko-hyoteki-class submarine raised off Cape Esperance, Guadalcanal, by the U.S. Coast Guard buoy tender USCGC Ironwood (WAGL-297), in January 1945. The submarine was raised in about 10 metres of water on 20 January, towed to Hutchinsons's Creek, Florida Island, and transferred to a crane barge on the following day. Date January 1945 Source US-LibraryOfCongress-BookLogo.svg This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID AK-44-2 HAER AK-44-2
写真は、SWikimedia Commons File:Japanese Ko-hyoteki class submarine raised at Guadalcanal 1945.jpg引用。

人間魚雷「回天」は、1人乗りの自爆体当たり特攻兵器だが、甲標的は、2人乗り小型潜航艇で艦首に45センチ魚雷2本を搭載し、雷撃できる。真珠湾に潜入し、湾内の艦艇を雷撃する計画が実施された。しかし、戦争末期の「特攻」とは異なるが、事実上、無事生還できる見込みはなかった上に、攻撃後の乗員帰還の訓練も実施していないので、「特別攻撃隊」と呼称された。つまり、開戦劈頭から特攻作戦が遂行されたのである。

 太平洋戦争では、個人的な行動としての自爆は,帰還不能に陥った航空機による自爆としてしばしば見られた。しかし,「必死」の攻撃を軍が立案する「特攻」作戦として用いたのは,1944年10月20日以降のレイテ湾の戦い(レイテ島攻防戦)からである。日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が編成され,連合軍艦艇に自爆体当たり攻撃を実施した。

しかし、たとえ特攻隊員が自ら体当たり自爆攻撃を志願したからといっても,航空機を勝手に消耗品(特攻機)として使用する裁量が,兵士個人に与えられることはない。実際,特攻実施の3ヶ月前、1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図していた。

写真(右): 1946年、アメリカ西岸、カリフォルニア州南部、サンタアナ(Santa Ana)の戦勝パレードに引き出された日本海軍特殊潜航艇「甲標的」;ハワイで鹵獲された特殊潜航艇は、戦利品としてアメリカ本土に輸送され、各地を巡回、晒し物にされた。客寄せ、士気高揚のために利用された戦利品は、戦時国債の販売促進にも繋がった。
Santa Ana, vistory parade, 1946 Japanese submarine From the Robert Pavey Collection Repository : San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives  catalog:100022869 -引用。

震洋 1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「奇襲特殊兵器」の試作方針を決定している。これは,「マルロクカナモノ」のような秘匿名称がつけられたが,事実上の特攻兵器を試作を命じるものである。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」 

㊀金物;特殊潜航艇「甲標的丁型蛟龍」として量産
㊁金物;対空攻撃用兵器
㊂金物;可潜魚雷艇(S金物,SS金物);小型特殊潜水艇「海竜」として試作・量産
㊃金物;船外機付き衝撃艇;水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物;自走爆雷
㊅金物;人間魚雷「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物;電探防止
㊈金物;特攻部隊用兵器

これは、軍による特攻「作戦」計画で、体当たり自爆攻撃の発案自体は、この命令よりも数週間は前に行われていたはずだ。たぶん、1944年6月中旬のマリアナ沖海戦での日本海軍の大敗北が契機になったものと思われる。


2.1944年7月21日,日本の大本営海軍部(軍令部)の「大海指第431号」でも,奇襲攻撃として特攻作戦が計画されている。「大海機密第261917番電」は,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,国学者本居宣長の歌に因んだ攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっている。つまり,軍上層部が250キロ爆弾搭載のゼロ戦による神風特別攻撃隊の作戦を進めていたことがわかり,これは真珠湾攻撃における特殊潜航艇による「特別攻撃」と同じである。

写真(右): 1944年11月25日、フィリピン群島、レイテ島沖、日本海軍特攻機による襲撃を受けるアメリカ海軍正規空母「エセックス」(USS Princeton (CVL-23));1944年10月の台湾沖航空戦で、日本海軍はアメリカ空母任務部隊を撃破したとの誤報が流れ、それを信じた日本陸軍は、フィリピン群島レイテ島に上陸してきたアメリカ軍を過小評価した。そして、フィリピン方面でのルソン島持久戦の方針を変更し、レイテ島決戦に切り替えた。しかし、当初の日本軍機の航空特攻を実施したのは、日本海軍艦上機であり、アメリカ軍は自爆機を「カミカゼ」とも呼んだ。
sdasm image pictionid63652406 - - titlekamikaze attack pacific wwii - filename100022147.tif---Image from the SDASM Misc Collection. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives catalog 100022147 引用。


写真(右): 1944年11月−1945年5月、アメリカ海軍艦艇を低空飛行して襲撃する日本海軍中島B6N「天山」艦上攻撃機(Nakajima B6N Jill);1944年10月の台湾沖航空戦で、日本海軍はアメリカ空母任務部隊を撃破したとの誤報が流れ、それを信じた日本陸軍は、フィリピン群島レイテ島に上陸してきたアメリカ軍を過小評価した。そして、フィリピン方面でのルソン島持久戦の方針を変更し、レイテ島決戦に切り替えた。しかし、当初の日本軍機の航空特攻を実施したのは、日本海軍艦上機であり、アメリカ軍は自爆機を「カミカゼ」とも呼んだ。
perma_002094 Perman Collection Image Japanese Suicide Plane Cruiser Santa Fe Off Formosa--Perman Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。


写真(右): 1945年3月20日、フィリピン群島、レイテ島沖、日本海軍艦上爆撃機「彗星」の襲撃を受けたアメリカ海軍インディペンデンス級軽空母「バターン」(USS Bataan(CVL-29);1945年3月17日 - 5月30日、アメリカ海軍マーク・ミッチャー中将隷下の第58空母任務部隊に所属し、沖縄攻略作戦を支援した。この軽空母「バターン」艦上機は1945年4月7日、日本海軍戦艦「大和」撃沈に貢献している。
sdasm image pictionid63652406 - - titlekamikaze attack pacific wwii - filename100022147.tif---Image from the SDASM Misc Collection. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
dan_inbox 4y CVL-29 (USS Bataan) under kamikaze attack on 1945-03-20. Near miss as a Yokosuka D4Y 'Suisei' (Judy) splashes off her stern.
写真はSDASM Archives 引用。


 海軍の初の組織的な特攻攻撃は,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎指揮下の「神風特別攻撃隊」によるもので、1944年10月に始動している。初の組織的な特攻作戦だったために、国学者本居宣長の歌からとって,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男( 23才)を特攻隊指揮官に任命した。フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,大西瀧治郎海軍中将で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられた。
 第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大きな戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを真の目的にしていたと言われる。

写真(右): 1944年10月20日、フィリピン、捷一号作戦、ルソン島クラーク基地、神風特別攻撃隊の敷島隊・大和隊員の隊員たちと水杯を交わす第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将;1944年10月初旬,フィリピンに赴任し第一航空艦隊司令長官寺岡謹平中将に特攻を採用したことを告げ、1944年10月20日に第一航空艦隊司令長官に就任。神風特別攻撃隊を編成、若い特攻隊員に「皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示し、ルソン島クラーク基地の第761航空隊、マバラカット基地の第201航空隊で最初の神風特攻を始めた。しかし、10月20日の初出撃では目標を見つけることができず、前期帰還した。1944年10月25日、神風特攻の初戦果をあげた。
Title: Japanese Kamikaze pilots prepare for battle. Caption: A group of the earliest Japanese KAMIKAZE special attack pilots receives a ceremonial cup of sake from Vice Admiral Takijiro Ohnishi, IJN, the sponsor of the corps, 1944. Description: Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Creator: Original Medium: BW Photo
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 73097引用。


しかしフィリピンで戦った第一航空艦隊司令官大西瀧治郎海軍中将は,神風特攻隊を発案したわけでもないし,特攻を時間をかけて編成,準備したわけでもない。国学者本居宣長の歌に因んだ隊名を考案したのも彼ではない。

写真(右): 1944年10月20日、フィリピン、ルソン島クラーク基地を出撃する第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将隷下の神風特別攻撃隊のゼロ戦;1944年10月20日、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」ゼロ戦各3機が特攻機となった。翌日以降は、ルソン島クラーク基地には敷島隊・大和隊、マバラカット基地に朝日隊・山桜隊が配属された。しかし、10月20日の初出撃では目標を見つけることができず、前期帰還した。1944年10月25日、神風特攻の初戦果をあげた。
Title: Japanese Kamikaze pilots prepare for battle. Caption: A Japanese Kamikaze pilot taxies his bomb-laden Mitsubishi "ZERO" Fighter on a Philippine air field in preparation for take off during the Leyte Operation, October-November 1944. His comrades cheer as the plane passes between them. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 73098引用。


日本海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。

日本海軍の統帥部は,軍令部である。これは,以前は「海軍軍令部」と呼ばれていたが,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。大海指第431号海軍軍令部の出した指示であり,そこに特攻作戦の採用が命令されている。

写真(右):1944年6月−1945年5月、アメリカ海軍艦艇を襲撃する日本海軍機:垂直尾翼の形状から単発の中島「天山」艦上攻撃機のように見える。
world war two pictionid66737137 - title--world war ii action photos japanese ships and aircraft under attack---- - filename100022852.tif --Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives - catalog 100022852引用。


大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

1.各種作戦
1)基地航空部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
2)空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
3)潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

写真(右):1944年6月−1945年5月、アメリカ海軍艦艇を襲撃する日本海軍機:垂直尾翼の形状から単発の中島「天山」艦上攻撃機のように見える。
world war two pictionid66737166 - - title--world war ii action photos japanese ships and aircraft under attack---- - filename100022852.tif --Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives  catalog 100022853 -引用。


特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領は次の通り。
2.奇襲作戦
1)奇襲作戦に努める。敵艦隊を前進根拠地において奇襲する。
2)潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
3)局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。


写真(右):1945年5月11日、沖縄方面、日本機の体当たりを受けて損傷したアメリカ海軍マーク・ミッチャー中将隷下の第58空母任務部隊 (Task Force 58)所属エセックス級空母「バンカーヒル」((USS Bunker Hill, CV-17)の飛行甲板:5月11日、満載36,380トンの空母「バンカーヒル」は、沖縄方面で日本海軍神風特別攻撃隊の零戦2機が突入し、大破した。その後、アメリカ本土に回航され、修理を受けたが、戦線に復帰する前に、終戦となった。左手側には、大型艦橋の後部に設置された対空用の38口径5インチ連装高射砲2基、40ミリ四連装機関砲1基が空を睨んでいる。飛行甲板には給水ホールがあって消火作業を続行している。
AL-36 USS Bunker Hill Photo_00013 From an Album (AL-39) which documents the Kamikaze attack on May 11, 1945.
写真は、SDASM Archives 引用。


以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前、1944年7月21日、大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。また,統帥権を侵犯する特攻はありえないので,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということもない。(特攻計画は報告されている)

戦局挽回のためには,体当たり自爆特攻を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものであろう。
1)優勢な米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
2)米軍に反撃しても,日本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
3)通常攻撃を仕掛けて,日本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

体当たり自爆=特攻が、自然発生的でも、個人の発案になるのでもなく、日本軍の作戦として実施された論拠は,次のようなものであろう。
1)軍隊の重要な兵器である航空機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
2)軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
3)起爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
4)特攻隊の志願者を募り,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。


写真(右):戦後,横田基地に展示された特殊攻撃機キ115「剣」;特攻専用機の開発,量産を行っていることは,軍が組織的に特攻を実施していることを意味する。

 全軍特攻化するのであれば,特攻専用の兵器(奇襲特殊兵器)の開発も軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍組織の一メンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれ手しまう。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれているといえる。

 そこで、戦局挽回のために、日本軍は 人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機中島キ115「剣」,潜水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」,体当たり自爆改造戦車,対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵,爆薬を持って海中に潜み自爆する「伏龍」など様々な奇襲特攻兵器を開発し、実戦に投入した。

  鍾馗 公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。

 つまり,1944年10月フィリピン戦以来,特攻が作戦の主流になってきたが,戦争末期になると,正攻法は一切通用しないほど戦局が悪化し,全軍特攻化するしかない状況に追い詰められたことを,日本軍は認めた。そこでは,将兵の個々の意思で特攻を志願するかどうかは,すでに課題とはなってこない。基本方針が特攻化であれば,日本軍将兵は,いやおうなく特攻隊員に組み込まれるのである。

しかし,日本軍は,特攻させる兵士に配慮をした。特攻隊員が,祖国,家族を守るために特攻するのであれば,家族のことを配慮することが,将兵の指揮を鼓舞することになる。深慮した日本軍は,特攻戦死した将兵の家族に対して,特別に遺族軍人恩給遺族年金)を割り増しした。

 軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。

つまり,特攻し戦死した将兵で,戦効をあげた者には,特殊任用令によって,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,その遺族年金を引き上げることで,家族を保護するとともに,後に続く特攻隊員確保に配慮したのである。

特攻で全軍布告することで,死後昇進すれば,遺族への軍人恩給遺族年金)は倍化し,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができたのである。


 特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟することもあったはずだ。特攻による名誉の戦死は,まさに「親孝行」につながったのである。


3.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ人間魚雷「回天」の試作命令がでている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷「回天」,人間爆弾「桜花Yokosuka MXY7 Ohka)」、人間機雷「伏龍」,特攻戦車など配備され,組織的に行われた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。純粋な犠牲的精神の発露ではあるが,事実上,出撃を強要した日本人がいた。その責任を回避するために,英霊の自生的,自発的特攻をことさら強調しているのであれば,これこそ無責任な英雄・犠牲者への侮辱である。

回天1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,「㊅金物」(マルロクカナモノ)のような秘匿名称がつけられた,事実上の特攻兵器を試作するというものである。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」改良型「蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型潜水艇「海龍」として試作(若干の量産)
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器


  ⇒◆特殊潜航艇「蛟竜」「海龍」Midget Submarinesを読む。

写真(右):1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し読谷飛行場で鹵獲した迷彩ネットに隠された人間爆弾「桜花」(MXY-7 Ohka Cherry Blossom);人間が操縦して滑空落下する人間爆弾なので、降着装置はない。練習型では、着陸できるように橇が設置されていたが、高速での接地は非常に危険な作業であり、投下された桜花の操縦訓練と度胸試しが目的だったが、着陸失敗による犠牲者も少なくなかった。
perma_002118 Perman Collection Image Yokosuka MXY-7 Ohka Cherry Blossom--Perman Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


 体当たり自爆兵器の一つである「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。1943年12月28に,海軍の特殊潜航艇甲標的第5期講習員であった黒木博司中尉、特殊潜航艇「甲標的」第6期講習員であった仁科関夫少尉が,人間魚雷計画を海軍省へ陳情しているが,自分勝手に兵器の研究に,時間・資材・金銭を費やすことのできる軍人はいるはずがない。

 海軍兵学校58期,第6艦隊(潜水艦部隊)水雷参謀鳥巣建之助中佐は,人間魚雷「回天」(回天特攻隊生還者の心中を聞かれて,「特攻は,われわれ下っ端のとやかく言う問題ではない」と責任を負う立場にはななかったと発言している。

  ⇒◆人間魚雷「回天」Human Torpedoを読む。

4.日本陸軍は、1945年になって急遽,特攻専用の中島キ-115「剣」特殊攻撃機を試作,量産した。これは,簡素なつくりで,出撃後は,着陸装置も投下してしまう片道攻撃専用の特攻機である。100機以上量産されたが,実戦では使用されなかった。


写真(上):1945年9月以降、アメリカ、終戦後、アメリカ本土に運ばれた中島特殊攻撃機キ115「剣」の右側面;Right side view of a US captured Nakajima Ki-115 Tsurugi on the ground. ID#: NASM 82-690 Source: Smithsonian's National Air and Space Museum 写真は、Smithsonian's National Air and Space Museum引用。


写真(右):中島特殊攻撃機キ115「剣」
キ115「剣」のデータ;
全長 : 8.55m,全幅 : 8.60m,全高 : 3.30m,主翼面積 : 12.40m2
全備重量: 2,630Kg,自量 : 1,640Kg,発動機 : 中島 ハ115 (1,150hp) X 1
最高速度 : 550Km/h,航続距離: 1,200Km,乗員 : 1名,武装 :なし,爆弾 : 250Kg X 1 or 500Kg X 1 or 800Kg X 1
キ−115は,特攻専用と考えられたため,迷彩塗装を一切施しておらず,簡素化,重量軽減を徹底していた。


キ-115は1945年1月20日に「特殊攻撃機」という名称で試作命令が下った。中島飛行機製作所(Nakajima Aircraft Company)で設計され、大手航空機メーカーで大量生産されえる予定だった特攻専用機中島キ-115「剣」がは、トタン板のように簡素なつくりの飛行機で、離陸に使用した車輪は、飛行中に投下して別の機体に再使用する。これは、資材の節約と重量軽減のためである。エンジンは零式艦上戦闘機と同じ三菱「栄」1100馬力である。

中島キ-115「剣」特攻用に試作されたという説には,車輪投下後も胴体着陸が可能で,行動半径(帰還を前提)を設定していたので,特攻は後に決まったと考える説もある。

しかし,試作が命じられた1945年に入ると全軍特攻化が,日本軍の方針として決定されており,設計者の意図とは別に,軍としては中島キ-115「剣」を特攻専用機として位置づけていたようだ。終戦までに115機生産されたが,実戦に使用されたことはない。

写真(左):日本陸軍の特攻専用機キ-115「剣」特殊攻撃機;戦後になってアメリカ軍が鹵獲して撮影。

日本は、海上封鎖されて、資源の輸入が途絶え、航空機の生産にも支障をきたしていた。そこで、省資源・工作節約型の簡易攻撃機キー115「剣」が考案された。しかし、攻撃の精度を上げるためには、爆弾を投下するのではなく、体当たり自爆するしかなかった。当初の意図は別に、大戦末期の陸海軍の方針は、中島キ-115「剣」のような特攻専用機を開発したことからもわかるように、当初の意図は別に、大戦末期の陸海軍の方針は、「全軍特攻」「本土死守」だった。

写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場;ここの量産ラインでは、中島キ115特殊攻撃機、四式戦闘機「疾風」が製造されていた。戦勝国アメリカの占領軍がこの太田工場を見分にやってきたときの撮影。
09_03240 Pete Padilla Collection nakajima aircraft plant ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


1945年(昭和20年)3月の東京大空襲など本土空襲が激化したことから、政府は航空機の生産維持のために、中島飛行機製作所(Nakajima Aircraft Company)をはじめとする航空機工業の国営化方針を決定した。4月第一軍需工廠に選定され国民徴用令に基づく徴用工や学徒、女子挺身隊を含む従業員25万人は軍の直接管理下となった。中島知久平が起こした中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)は,創業以来、機体25,935機、発動機46,726機を生産した。

写真(右):1945年9月以降、群馬県、アメリカ軍機の空襲によって大破した中島飛行機太田工場;ここの量産ラインでは、中島キ115特殊攻撃機、四式戦闘機「疾風」が製造されていた。戦勝国アメリカの占領軍がこの太田工場を見分にやってきたときの撮影。
09_03239 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


キ-115「剣」誕生秘話(1):青木邦弘技師の回想

私は、「キ-115 剣(つるぎ)」の主任設計者である。この飛行機は、その設計の真意が理解されないまま、始めから特攻を意図して制作された飛行機として、戦後いろいろと批判を受けている。したがって、この飛行機が問題にされる点は、技術上の極端な省略と見掛けの粗末さもさることながら、これを造った動機にあった。本機は一部の人がいうように、最初から特攻用として造った飛行機では決して無かった。----(1985年)

写真(右):1945年9月以降、群馬県、アメリカ期の空襲で大破した中島飛行機太田工場;鉄骨の骨組みは残っているが、外板は高熱で溶けたり、爆風で破損したりして外れてしまっている。
SDASM ArchivesFollow 09_03238 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


中島知久平が起こした中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)に属した三鷹研究所の発足:青木邦弘技師の回想
 戦局が次第に険しさを加えてきた昭和18年の秋、われわれ「[高高度迎撃機]キ-87」の設計チームは、[中島飛行機]太田製作所設計部の先遣部隊として、当時建設の始まって間もない三鷹研究所に転出した。この研究所は、将来中島の総合技術センターとする意図の下に建設されたと聞いていたが、とりあえずは試作工場として使用されることになった。

いつのころからか勤労動員による学生が配属されるようになり、設計室も次第に賑やかになってきた。中学生ぐらいの少年、少女たちから、高等学校級の男性や女性もいた。男子学徒は、すべて理工系の人たちで、女子学生でも上級生徒は部品図を引くのに役立った。また、[中島飛行機]太田製作所から転出の際、女子はすべて残してきたので、図面の複写、保管、その他の管理業務には、女子学徒が当ってくれた。

写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲で破壊された中島飛行機太田工場と燃料タンク車;工場の屋根は爆風のためか、吹き飛んでしまっている。
09_03236 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲で破壊された中島飛行機太田工場と焼けて破損した電柱;工場の残骸か、あるいは復旧しようとした跡か、手前には丸太が積まれている。
09_03234 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、アメリカ機空襲で大破した中島飛行機太田工場;ここの量産ラインでは、中島キ115特殊攻撃機、四式戦闘機「疾風」が製造されていた。戦勝国アメリカの占領軍がこの太田工場を見分にやってきたときの撮影。
09_03237 Pete Padilla Collection nakajima plant layo worker ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場と玄関前のアメリカ軍のジープ;戦後に工場接取に進駐してたアメリカ軍の撮影になる。
09_03233 Pete Padilla Collection looking east nakajima plant ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、戦争末期に空襲で破壊された中島飛行機太田工場;戦後に工場接取に進駐してたアメリカ軍の撮影になる。
09_03235 Pete Padilla Collection tair of nakajima plant. Areas in foreground completely caged Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲を免れた太田市のメインストリート;アメリカ軍のキャンプの東方に当たる太田市のメインストリートの様子。工場など軍事施設が第一の標的だったためか、太田市街の多くは空襲の被害を免れている。
09_03225 Pete Padilla Collection Main street Ota Japan looking east towards Camp Bernard Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲を免れた太田市の市街地;太田市の裏通りには、木造住宅が残っている。工場など軍事施設が第一の標的だったためか、太田市街の多くは空襲の被害を免れている。
09_03226 Pete Padilla Collection Look out tower in the background Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲を免れた太田市の赤ちゃんを背負った婦人;工場など軍事施設が第一の標的だったためか、太田市街の多くは空襲の被害を免れている。
09_03230 Pete Padilla Collection Typical Japanese women with kids atrapped to there back Ota Japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲を免れた太田市の国鉄駅から荷物を運搬する馬車;太田市街の多くは空襲の被害を免れたが、燃料不足と徴発によって、自動車はほとんど使用できなかったために、荷馬車が活躍したようだ。
09_03249 Pete Padilla Collection Honey Cast at ota horse Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの日本陸軍中島キ115特殊攻撃機と中島キ84四式戦闘機「疾風」;戦後なので、出撃できないように占領軍は、武装解除とともに日本航空機のプロペラを外すことを命じた。
09_03243 Pete Padilla Collection nakajima plant kamikayze Nakajima Ki-115 and KI-84 Ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


中島飛行機製作所(後の富士重工業、現スバル)で設計・生産された日本陸軍中島キ115特殊攻撃機「剣」は、尾輪は、橇式の簡易なもので固定式だが、主翼下面の主輪は、離陸後に切り離す投下式である。したがって、キ115は離陸後に主輪を投下したら、そのまま体当たり自爆することが前提になっており、帰投することは例外である。しかし、中島飛行機(Nakajima Aircraft Company)キ115が敵目標が発見できずに帰投・帰還するときは、爆弾を投棄し、胴体着陸をするしかない。その時のために、簡易な針金を使った人力の緊急の爆弾投下装置が設けられていたようだ。しかし、針金の素材も悪く、投下装置が機能しなければ、爆弾は投下できなくなり、爆弾を抱えたままの不時着は非常に危険である。

写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの中島キ115特殊攻撃機と進駐したアメリカ軍将兵の記念写真;降着装置の主輪は、着脱式だったが、写真では片方が外れているようだ。
09_03244 Pete Padilla Collection nakajima plant. Kamikaze plane L. to R. val lex and obien ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


キ-115「剣」誕生秘話(3):1944年末のB-29の来襲以降;青木邦弘技師の回想
太田では、すでに設計部門は解散したという知らせが入ってきている。[中島飛行機]太田工場[キ84]疾風の、隣の[中島飛行機]小泉工場[三菱A6M]零戦の主生産工場である。設計部を解散しても、部員の働く職場はいくらでもある。それに比べて、三鷹研究所はキ-87の試作以外に仕事を持っていない。設計部門を解散すれば部員のみならず、全工場の仕事が事実上ストップすることになる。当時、この工場には勤労学徒のほか動労動員で召集された人々を加えると、二千人以上の人が働いているのである。いまは、だれもが何かをしなければならない非常時である。----いろいろ考え抜いたあげく、行き着いた先はやはり飛行機を造ることであった。

写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの日本陸軍中島キ115特殊攻撃機と中島キ84四式戦闘機「疾風」;戦後なので、出撃できないように占領軍は、武装解除とともに日本航空機のプロペラを外すことを命じた。
09_03242 Pete Padilla Collection nakajima plant kamikayze Nakajima Ki-115 and KI-84 Ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


 チームのメンバーは、いずれも戦闘機を専門にしてきた連中である。[キ27]97戦以来、中島代々の戦闘機製作によって継承されてきた伝統技術は、いやというほど頭にたたきこまれている。その基本だけを生かして、細かい技巧を一切省いたならば、いまからでも戦争に間に合う飛行機を設計できるのではなかろうか。[高高度戦闘機]キ-87が間に合わないなら、間に合う飛行機を造ってみようじやないか。「[キ115]つるぎ」発想の原点はこんなところにあった。

四式戦  それにしても、ただ飛ぶだけでは意味をなさない。何か役に立つものでなければならない。[ボーイング]B-29の爆撃は相変わらず続いている。連日定期便のように、日本のどこかに現われ多くの都市が焼かれ、人々が殺傷されている。これを阻止できるものであれば最高であるが、それは技術の枠を尽した第一線戦闘機の仕事で、速成の飛行機の手に負える仕事ではない。このままで推移すれば、米軍はこの次に上陸作戦を試みてくることは必定である。すでにあちこちの海辺地域では、上陸に備えて陣地構築を始めているらしい。速成の飛行機が役に立つとすれば、そのときこそ最後の機会となるだろう。

われわれは、戦闘機の設計を専門にしてきた者の集団である。戦闘機の座標を離れて飛行機を考えることはできない。持ち時間からいっても小型機でなければならない。たとえ、戦闘機や軍艦には歯が立たなくても、仮にも飛行機と名がつく以上、輸送船団や上陸用舟艇を攻撃するくらいのことはできるはずだ。海岸に群がり奇せる[LST]上陸用舟艇のどまん中に、瞬発信管付きの大型爆弾を放り込むだけでいい。照準も何も要らない。命中させる必要はない。[LST]上陸用舟艇を転覆させたり衝突させる効果をあげて、大混乱を引き起こすことができればよい。あとは野となれ山となれ、トンボ返りに引き返してくるならば、操縦者の生還率も高いだろうし、機体の回収もできて反復して使用可能となる。

写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの日本陸軍中島キ84四式戦闘機「疾風」;戦後なので、主輪はパンクしてへこんでおり、出撃できないように、武装解除されたために、プロペラも外されている。
09_03241 Pete Padilla Collection nakajima plant kamikayze Nakajima Ki-115 and KI-84 Ota japan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


 われわれは、戦闘機の設計を専門にしてきた者の集団である。戦闘機の座標を離れて飛行機を考えることはできない。持ち時間からいっても小型機でなければならない。たとえ、戦闘機や軍艦には歯が立たなくても、仮にも飛行機と名がつく以上、輸送船団や上陸用舟艇を攻撃するくらいのことはできるはずだ。海岸に群がり奇せる上陸用舟艇のどまん中に、瞬発信管付きの大型爆弾を放り込むだけでいい。照準も何も要らない。命中させる必要はない。上陸用舟艇を転覆させたり衝突させる効果をあげて、大混乱を引き起こすことができればよい。あとは野となれ山となれ、トンボ返りに引き返してくるならば、操縦者の生還率も高いだろうし、機体の回収もできて反復して使用可能となる。

写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの中島キ115特殊攻撃機の半開放式コックピット操縦席;体当たり自爆特攻用の使い捨て飛行機であるため、操縦計器盤は簡易式で、降着装置の主輪は、離陸後投下され回、再使用される。
09_03245 Pete Padilla Collection cockpit of kamikaze plane these planes build ray simple with minimium of equipment points to right one of which is hove nakajima plant otajapan Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


 空戦能力を除き、航続距離を短かくすれば、構造も装備も簡単になり、重量は軽く機体は小型で済む。身を守る手段はスピードだけとし、余力はすべてスピードの向上に充てる。それは---戦闘機から剥ぎ取れるものはすべて剥ぎ取り、構造も装備も極限まで簡素化した小型機ということに帰結した。そうなると、設計上も製作上にも面倒な問題は一切無くなる。そんな飛行機だったら、いまからでも間に合わせて造ることができるかもしれない。それをやるとすれば、戦闘機の構造を知り尽しているわれわれこそ最適なはずだ。やってみようしやないか。失敗しても元々である。ただし、このような話を皆が集まって論じ合ったわけではなかったが、同じ技術を持った若者たちが、同じ環境に置き去りにされ、何かしなけれぱならないと必死になって考えたとき、以心伝心だれいうとなしに、そこに一つの小型機のイメ‐ジが浮かんできたのである。(引用終わり)


写真(上):キ-115「剣」;群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインのキ115。戦後の撮影なので,飛べないようにプロペラが外されている。



写真(右):斜め後方から見た陸軍中島キ-115「剣」特殊攻撃機;尾輪は固定式で、主翼下面の主輪は投下式で、離陸後に主輪を投下しする。もしも目標が発見できずに帰投・帰還するときは、爆弾を投棄し、胴体着陸をするしかない。


資源,労働力の不足と航空機製造工場の被爆という厳しい状況にあって,簡単に量産できる航空機が必要となった。これが,侵攻してくる米軍を撃破できる航空機として設計された中島キ-115「剣」特殊攻撃機である。直線型の主翼と尾翼とを,円筒形の胴体に装着し,エンジンとプロペラを装備して,降着装置は離着後には,投下する。降着装置は、緩衝装置を含む支柱はあるが,車輪の引き揚げ装置は不要とされ,装備されなかった。出撃後は,飛行場上空で降着装置を投下して回収・再使用するつもりだった。


写真(左):中島キ-115「剣」特殊攻撃機;全長:8.55m,全幅:8.57m
発動機:ハ-35-23(旧称ハ-115)空冷複列星形14気筒 公称1100馬力(このほかのエンジンも搭載できるように配慮していたようだ)
自重:1640kg,全備重量:2630kg
最大速度:510-550km/h,航続距離:1200km
兵装:500kg爆弾×1


製造容易な小型簡易機体の製造は、速やかに進み,1号機が完成したのは、1945年2月の末頃であった。試作機が完成すると、軍民関係者が集まって、神主さんに安全祈願の祝詞をあげてもらうが,神主の唱える祝詞では「…往きて還らざる天く翔ける奇しき器」という一句があったという。

キ-115「剣」主任設計者青木邦弘技師は,「特攻専用機として設計,試作したのではない」として,新型機進空式場で抗議したが,何の咎めも受けなかった。設計者が必死特攻機ではなく決死攻撃機として設計したことなど,軍にとっては関心がなかったのであろう。陸軍は,とにかく本土決戦で使える特攻兵器を大量生産し,部隊配備したかったのである。

キ115「剣」主任設計者青木邦弘技師は,キ‐115計画説明書の控えがへばりついているのを発見した。計画説明書を十分の一程度に圧縮したものである。

写真(右):1945年9月以降、東京都、立川市、アメリカ駐留軍の横田基地で展示された中島キ115「剣」特殊攻撃機の右側面;戦後に群馬県、戦争末期に空襲で破壊された中島飛行機太田工場でアメリカ軍が接取した機体を横田基地に運搬した時の撮影になると思われる。
Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Catalog #: 01_00086221 Title: Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Tsurugi ""Sabre"" Additional Information: Japan Yokota, Charles Daniels Photo Designation: Ki-115 Tags: Nakajima, Ki-115, Tsurgi ""Sabre"" Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。


キ-115「剣」誕生秘話
Ki-115 'Tsurugi'
The Imperial Japanese Army Ki-115 Tsurugi (Saber)
Garber Ki-115 "Tsurugi" by Timothy Hortman
キ-115「剣」主任設計者青木邦弘技師

中島飛行機製作所(後の富士重工業、現スバル)の設計技師が記したキ-115「剣」特殊攻撃機の説明は,あくまで設計にかかわる公式文書でのことであり,それは日本陸軍から見て,民間(地方)の第三者に対するものである。公開,閲覧されることを前提にしたものである。特攻作戦を企画した軍上層部は,技師や国民に対して,体当たり自爆専用機を製造しているという本心・実態を見せる必要はないし,見せたくはない。

自爆機しか製造できないのかという軍への反発を逸らすために,あるいは日本軍が窮地に陥っているという責任を回避するために,中島知久平中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)で開発・量産したキ-115「剣」特殊攻撃機を特攻専用機でないように見せかけたかったのかもしれない。

写真(右):1945年9月以降、東京都、立川市、アメリカ駐留軍の横田基地で展示された中島キ115「剣」特殊攻撃機の右斜め側面;戦後に群馬県、戦争末期に空襲で破壊された中島飛行機太田工場でアメリカ軍が接取した機体を横田基地に運搬した時の撮影になると思われる。
Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Catalog #: 01_00086223 Title: Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Tsurugi ""Sabre"" Additional Information: Japan Yokota, Charles Daniels Photo Designation: Ki-115 Tags: Nakajima, Ki-115, Tsurgi ""Sabre"" Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。


中島飛行機製作所(後の富士重工業、現スバル)のキ‐115計画説明書の控えによれば,キ115の型式機種は「単発単座爆撃機」であり,「特攻機」「特殊攻撃機」ではない。
キ115「剣」の任務は「船舶の爆撃に任ず」である。(高速,重武装の艦船ではなく,低速,軽兵装の輸送船を主目標としている)
構造説明中の降着装置は「主脚は工作困難な引込式を排し、かつ性能の低下を来たさないように投下式とし、着陸は胴体着陸とし人命の全きを期す」(操縦者が帰還することとエンジン回収を前提としていたようにみえるが,胴体着陸した機体のエンジンを再使用することは困難であろう)

写真(右):1945年9月以降、東京都、立川市、アメリカ駐留軍の横田基地で展示された中島キ115「剣」特殊攻撃機の右斜め後方;戦後に群馬県、戦争末期に空襲で破壊された中島飛行機太田工場でアメリカ軍が接取した機体を横田基地に運搬した時の撮影になると思われる。
Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Catalog #: 01_00086220 Title: Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Tsurugi ""Sabre"" Additional Information: Japan Yokota, Charles Daniels Photo Designation: Ki-115 Tags: Nakajima, Ki-115, Tsurgi ""Sabre"" Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。


中島飛行機製作所(後の富士重工業、現スバル)のキ-115「剣」
装備中の爆弾装備は「500kg爆弾一個は胴体中央下部に懸吊され、手動投下式爆弾懸吊機は基準翼中央の二個の小骨に挟んで取りつけられる」(爆弾を投下することが前提)
行動半径は500kmとなっており、この航続力は攻撃後帰還するに十分な能力を備えることを前提とした数値である。

原文を要約したこの資料には、キ-115が帰還することを前提として造られたものであることを示唆する部分はこの程度しかない。

写真(右):1945年9月以降、東京都、立川市、アメリカ駐留軍の横田基地で展示された中島キ115「剣」特殊攻撃機の機首右斜め前方;戦後に群馬県、戦争末期に空襲で破壊された中島飛行機太田工場でアメリカ軍が接取した機体を横田基地に運搬した時の撮影になると思われる。
Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Catalog #: 01_00086222 Title: Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Tsurugi ""Sabre"" Additional Information: Japan Yokota, Charles Daniels Photo Designation: Ki-115 Tags: Nakajima, Ki-115, Tsurgi ""Sabre"" Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。


写真(右):1945年9月以降、東京都、立川市、アメリカ駐留軍の横田基地で展示された中島キ115「剣」特殊攻撃機の機首左斜め前方で記念撮影したアメリカ軍兵士;エンジン冷却用空気取り入れ口は、機首の右下方に開口部があるはずだが、左側に移っているのは、写真のネガの表裏を逆さまにした裏焼のためであろう。プロペラ取付け角度も他の写真とは反対になっているのも、ネガの裏焼のためである。戦後に群馬県、戦争末期に空襲で破壊された中島飛行機太田工場でアメリカ軍が接取した機体を横田基地に運搬した時の撮影になると思われる。
15 Daniels Album Charles M. Daniels Image (7) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
Album description Charles M. Daniels recently donated close to 30,000 aircraft images to the Museum. We are in the process of digitizing this amazing collection and posting it online.
This Album contains images from various binders. Most of the images contain the name of the binder they are from in the image description.
写真は、SDASM Archives 引用。



写真(上):1945年9月以降、アメリカ、終戦後、アメリカ本土に運ばれた中島特殊攻撃機キ115「剣」の右上側面;Nakajima Ki-115a Tsurugi (Sabre) Single-engine, single-seat, conventional layout with tailwheel-type landing gear. Date 1945 Inventory Number A19600339000 Source: Smithsonian's National Air and Space Museum 写真は、Smithsonian's National Air and Space Museum引用。


写真(右):1947年7月以降、東京都、立川市、アメリカ駐留軍の横田基地で展示された中島キ115「剣」特殊攻撃機の右側面;エンジン冷却用空気取り入れ口は、機首の右下方に開口部がある。アメリカ軍の国籍マークは、第二次世界大戦後、1947年6月以降には、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”となった。この時期に、アメリカ陸海軍に分かれていた航空兵力は、独立した空軍に統合されている。
Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Catalog #: 01_00086219 Title: Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Tsurugi ""Sabre"" Additional Information: Japan Designation: Ki-115 Tags: Nakajima, Ki-115, Tsurugi ""Sabre"" Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は、SDASM Archives 引用。


アメリカ軍機の国籍マークの変遷
第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

キ115「剣」のコックピット;米軍によって保管されている機体。Ki-115 "Tsurugi" by Timothy Hortman

中島飛行機製作所(Nakajima Aircraft Company)の陸軍 キ-115「剣」
装備中の爆弾装備は「500kg爆弾一個は胴体中央下部に懸吊され、手動投下式爆弾懸吊機は基準翼中央の二個の小骨に挟んで取りつけられる」(爆弾を投下することが前提)
行動半径は500kmとなっており、この航続力は攻撃後帰還するに十分な能力を備えることを前提とした数値である。

原文を要約したこの資料には、キ-115が帰還することを前提として造られたものであることを示唆する部分はこの程度しかない。


写真(上):中島キ-115「剣」特殊攻撃機の開放式風防と胴体後半部;金属外板に鋲が打たれているが、材質は低品質で、鋼索も粗雑でつなぎ目が歪んでいる。


The Nakajima Ki-115 'Tsurugi' (Sword) was designed from the outset as a disposable (suicide) aircraft. キ115「ツルギ」は,使い捨て(自殺)機として,設計された。The major impetus in building this aircraft was the perceived lack of available obsolete aircraft to use in kamikaze attacks should the Allies invade the home islands. 日本本土への連合国の侵略を,カミカゼ攻撃するために使用され,片道攻撃が前提であった。This aircraft had to carry a decent bomb load, and use non-strategic materials (mostly wood and steel). キ115は,十分な爆弾搭載,非戦略物資(木材と鋼鉄)による製造が求められた。While the initial batch were made from aluminum, the follow on aircraft were to primarily be made of wood and steel. 試作機はアルミニウムで製作されたが,以降の飛行機は,基本的に木材と鉄鋼で製造された。


写真(右):1945年9月以降、アメリカ、終戦後、アメリカ本土に運ばれた中島特殊攻撃機キ115「剣」のコックピット操縦席の計器盤;床板など木製部品を多用して希少金属資源を節約している。
Nakajima Ki-115a Tsurugi (Sabre) Physical Description Single-engine, single-seat, conventional layout with tailwheel-type landing gear. Materials
Overall: All-metal monocoque construction. Internal fuselage: steel covered with steel skin panels, a cowling rolled from sheet tin enclosed the engine. Tail: wooden framework covered with fabric. Wings: semi-monocoque, built entirely of aluminum. Main landing gear: steel tubes with each strut bolted directly to the wing; no shock absorbers were fitted.
Date 1945
Inventory Number A19600339000
Source: Smithsonian's National Air and Space Museum
写真は、Smithsonian's National Air and Space Museum引用。


Additionally, the aircraft was to be able to accept a number of different powerplants. さらに,キ115は,さまざまな種類のエンジンを搭載できた。The initial production aircraft (Ki-115a) were powered by 1,150 hp Nakajima Ha-35 radial engines. The offensive load of one 250, 500, or 800 Kg bomb, was carried in a recess under the forward fuselage. Flight testing began less than three months after the initial proposal in March 1945.特殊攻撃機は,1945年3月の試作要請から3ヶ月以内に初飛行テストがなされた。


写真(右):1945年9月以降、アメリカ、終戦後、アメリカ本土に運ばれた中島特殊攻撃機キ115「剣」のコックピット操縦席の木製操縦桿;床板など木製部品を多用したために、強度を保つために金属部品以上に重量が嵩んでしまったようだ。
Nakajima Ki-115a Tsurugi (Sabre) Physical Description Single-engine, single-seat, conventional layout with tailwheel-type landing gear.
Nakajima built the Sabre specifically to carry out Tokko (Japanese for 'special-attack') missions. These one-way flights consisted of a pilot deliberately crashing his airplane into U. S. Navy ships. Japanese military officials concocted this desperate scheme during the fall of 1944 as the Allies systematically destroyed Japanese forces. The tactic inflicted grievous casualties, notably in April 1945 during the invasion of Okinawa when Japan launched more than 1,500 attacks that cost the U. S. Navy 21 ships sunk and 217 damaged. The human loss was horrific. The navy suffered 5,400 crew wounded and 4,300 killed, or seven percent of all crew casualties incurred during the entire Pacific war..
Date 1945
Inventory Number A19600339000
Source: Smithsonian's National Air and Space Museum
写真は、Smithsonian's National Air and Space Museum引用。


中島飛行機製作所(Nakajima Aircraft Company)キ-115「剣」特殊攻撃機は,設計も資材も簡素化されたつくりであり,現在残っている「トタン張り」の胴体は,荒い鋲で留められている。投下式の降着装置であるが,胴体着陸には熟練が必要で,機体に着陸用の橇(ソリ)も装備されていないから,プロペラとエンジンの再使用は困難である。つまり,装備の上から見ても,攻撃後には帰還しない片道攻撃を想定していると考えざるをえない。つまり,設計当初の目的や設計者の企図にもかかわらず,日本陸軍が特殊攻撃機キ115「剣」を量産した目的は,連合軍の本土上陸部隊に対する体当たり自爆特攻を行うためであり,特攻専用機であることは,明らかである。


写真(右):1945年9月以降、アメリカ、終戦後、アメリカ本土に運ばれた中島特殊攻撃機キ115「剣」のコックピット操縦席左側の木製のスロットルレバー;床板など木製部品を多用して、ジュラルミンなど希少金属資源を節約している。
Nakajima Ki-115a Tsurugi (Sabre) The Japanese also realized that it was only a matter of time before Allied armies invaded the home islands and the invasion fleet would provide thousands of targets. In January 1945, the Japanese Army told the Nakajima firm to develop a special attacker armed with a single bomb. A maximum speed of 515 kph (320 mph) was also required but most important, the aircraft had to be simple to build. At this time, the available laborers were often semi-skilled students who worked part-time shifts in the factories. Nakajima engineer Aori Kunihiro, helped by personnel from Mitaka Research Institute and Ota Manufacturing Co., Ltd., designed an aircraft built from a variety of materials. The internal fuselage was steel covered with steel skin panels, and a cowling rolled from sheet tin enclosed the engine. The tail consisted of a wooden framework covered with fabric. The wings were semi-monocoque and built entirely of aluminum. The main landing gear consisted of steel tubes but each strut was bolted directly to the wing and no shock absorbers were fitted. Kunihiro designed the gear to drop after takeoff. He also designed the Tsurugi to accept several types of surplus engines but all production machines used the 14-cylinder, air-cooled Nakajima Ha35-23 radial. The pilot sat in an open cockpit above the trailing edge of the wing.
Date 1945
Inventory Number A19600339000
Source: Smithsonian's National Air and Space Museum
写真は、Smithsonian's National Air and Space Museum引用。



写真(右):1945年9月以降、アメリカ、終戦後、アメリカ本土に運ばれた中島特殊攻撃機キ115「剣」のコックピット操縦席左側の木製の車輪投下レバーあるいはフラップ操作レバー、右上は緊急投下用と思われる針金製の爆弾投下装置;床板など木製部品を多用して金属資源を節約している。
Nakajima Ki-115a Tsurugi (Sabre) Physical Description Less than two months after the Army ordered it, Nakajima had the first prototype ready and flight-testing began. Initial results were disappointing. Ground handling was the major problem and led to redesign of the landing gear to accommodate simple shock absorbers. Nakajima also added auxiliary flaps to the inboard wing trailing edges. On production Sabres, the firm installed fittings beneath each wing for two solid-fuel rockets to boost speed during the final plunge. With these changes, speed jumped to a maximum of 550 kph (343 mph) while hauling a standard aerial bomb as large as 800 kg (1,764 lb). The Ki-115 could fly 1,200 km (720 miles) nonstop.
Date 1945
Inventory Number A19600339000
Source: Smithsonian's National Air and Space Museum
写真は、Smithsonian's National Air and Space Museum引用。



写真(右):1945年9月以降、アメリカ、終戦後、アメリカ本土に運ばれた中島特殊攻撃機キ115「剣」のコックピット操縦席前方の照準器;筒形の照準器は、体当たり目標を定めるために使用された。爆弾投下用照準器でも機銃射撃用照準器でもない。
Nakajima Ki-115a Tsurugi (Sabre) Nakajima built 104 Tsurugis at two factories and Mitaka Kenkyujo, one of the firms that helped design the airplane, built one. No Ki-115 saw combat before war's end. A naval variant and several improved versions did not progress from the drawing board..
Date 1945
Inventory Number A19600339000
Source: Smithsonian's National Air and Space Museum
写真は、Smithsonian's National Air and Space Museum引用。


中島飛行機(Nakajima Aircraft Company)キ-115「剣」特殊攻撃機は,側方の風防もなく,直線型の形態のために,空力的に洗練されておらず,粗悪なエンジン,工作であった。こうした理由のために,軽量小型にもかかわらず,最高速度は零戦の530kmよりも遅い515km程度にとどまったようだ。また、安定性、操縦性もとても悪かったから,未熟練搭乗員が扱って,巧く敵船舶に接近,自爆できる保証はなかった。


写真(右):1945年9月以降、アメリカ、終戦後、アメリカ本土に運ばれた中島特殊攻撃機キ115「剣」のコックピット操縦席の「噴進押釦」;ロケット推進押しボタンを意味するが、内と外と記入してある。キ115には、増速用ロケットは装備されておらず、主翼下面にロケット弾を搭載したとも思えない。
Nakajima Ki-115a Tsurugi (Sabre) We believe that the NASM Tsurugi is the only remaining example of this interesting aircraft. Another purpose-built special-attack airplane, the Kugisho Okha 22, also resides in the NASM collection. Little is known about the Sabre test program or planned deployment of these aircraft because Nakajima destroyed most records before Allied forces could intervene. U. S. Navy intelligence specialists probably picked up the NASM Ki-115a at the factory, moved it to a naval base at Yokosuka, and then shipped the airplane aboard one of the three aircraft carriers that returned Japanese aircraft to the U. S. for evaluation. The National Air Museum (later NASM) absorbed the Sabre into its collection along with about 53 other foreign aircraft in 1949...
Date 1945
Inventory Number A19600339000
Source: Smithsonian's National Air and Space Museum
写真は、Smithsonian's National Air and Space Museum引用。


写真(右):中島キ-115「剣」特殊攻撃機の三面図;全長:8.55 m、全幅:8.60 m、全高:3.30 m、重量:1,690 kg、発動機:ハ一一五1,130馬力、最高速力:550 km/h(爆弾なし)、航続距離:1,200 km、乗員:1名、機関銃なし、搭載爆弾:500kg

中島飛行機(Nakajima Aircraft Company)中島-115「剣」特殊攻撃機が特攻専用機にもかかわらず,性能が低いのであれば,その搭乗員がたとえ犠牲的精神を沸き立たせていたとしても,戦果を挙げることなく,撃墜,行方不明になるしかない。命をささげる有能な将兵がいるのであれば,その志に相応しい兵器を装備するのが軍上層部の本来の姿であろう。日本軍では,兵器の性能が低いために,前途ある若者の命を奪うことになったといえる。

 中島キ-115「剣」特殊攻撃機のエンジン出力は,1100馬力で零戦と同じであるが,機体はより軽量小型で,翼面積も小さい。したがって,最高速度は当初時速600km近くに達すると楽観されていた。

しかし、戦争末期には熟練工の不足,工作機械の減耗,疎開・空襲による混乱,原材料の不足と品質・精度の大幅低下が深刻になり,満足な機体の量産は困難であった。既に,従来の航空機を利用した特攻機にも現れていたが,故障や不具合が頻発し,搭乗員も未熟練で操作ミスも重なり,出撃しても,不調になり,不時着する期待が続出したことであろう。そのうえ,操縦性も悪く,爆弾搭載で速度も大幅に低下した,中島キ-115「剣」特殊攻撃機は,連合国の戦闘機,対空砲火に撃墜されてしまったであろう。つまり,戦争末期の状況では,中島キ-115「剣」特殊攻撃機が活躍することは,不可能であったと思われる。

戦争末期の物資欠乏の時代,陸軍 中島キ-115「剣」は,資源節約のために簡素化されていたが,それを1回の体当たり自爆で失ってしまうには,よほどの戦果が期待されなければならない。しかし,従来の「まっとうな」航空機を投入した2000機もの特攻でも,それに見合う大戦果を挙げられなかった(駆逐艦以下約36隻の撃沈)。したがって,簡素化された低性能の中島キ-115「剣」特殊攻撃機では,敵に打撃を与えるのは困難である。まさに、中島キ-115「剣」は,使い捨て機であり,その搭乗員も使い捨てにされてしまったであろう。

写真(右):1945年4月17日、沖縄本島中部、読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)アメリカ軍が鹵獲したばかりの日本海軍の特攻兵器・横須賀空技廠人間爆弾「桜花」;風防は開閉式だが、これは高速で落下するために必要な措置だった。固定用の木製支柱に乗せられている。後方にはアメリカ軍のテントが張られている。
Yokosuka, Mxy-7, Ohka (Cherry Blossom) Title: Yokosuka, Mxy-7, Ohka (Cherry Blossom) Notes: Japan Catalog #: 01_00089967 Manufacturer: Yokosuka Designation: Mxy-7 Official Nickname: Ohka (Cherry Blossom) Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Yokosuka, Mxy-7, Ohka (Cherry Blossom), USSR
写真は、SDASM Archives 引用。


日本軍は、読谷飛行場に、小さな木箱が多数残されていたが、これは桜花部隊用に部品や信管などを梱包して本土から沖縄に海路送られた様だ。「桜花」機首の桜花マークは、「桜花」特攻のオリジナルである。その後、アメリカ軍は「桜花」の個別機体に「I-18」のように異なったの登録記号を記入した。

写真(右):1945年4月17日、沖縄本島中部、読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)アメリカ軍が鹵獲した日本海軍の特攻兵器・横須賀空技廠人間爆弾「桜花」;風防は開閉式で、閉鎖状態になっている。周囲には立ち入り禁止の柵を構築中である。
Yokosuka, Mxy-7, Ohka (Cherry Blossom) Title: Yokosuka, Mxy-7, Ohka (Cherry Blossom) Notes: Japan Catalog #: 01_00089965 Manufacturer: Yokosuka Designation: Mxy-7 Official Nickname: Ohka (Cherry Blossom) Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Yokosuka, Mxy-7, Ohka (Cherry Blossom), USSR
写真は、SDASM Archives 引用。


一式陸攻 沖縄戦のころの特攻隊は,中古戦闘機,練習機,水上偵察機など旧式な航空機の寄せ集め部隊が多く,搭乗員も実戦経験のない未熟練新米パイロットが大半であった。戦闘機隊343空司令源田実大佐は,特攻隊,特に有人爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka)の開発・部隊編成に関与したにもかかわらず,戦後は特攻について語らなかった。特攻隊とは雲泥の差がある最新戦闘機「紫電改」装備のエリート部隊343空を率いてたことを誇りにしていた。

愛知特殊攻撃機「晴嵐」愛知特殊攻撃機「晴嵐」は、潜水艦搭載爆撃機だったが、超大型イ400級潜水艦でも3機しか搭載できなかった。そこで、少数機で爆撃しても効果は期待できないので、爆装したまま特攻に使用する計画だった。最高速力470km。爆弾搭載量800kg,生産数25機では、戦力化されても、訓練不足、機械的信頼性不足、整備困難から、戦果は期待できなかったであろう。

 当初、潜水艦で運搬した愛知特殊攻撃機「晴嵐」によるパナマ運河を計画していたが,1945年8月、アメリカ艦隊の停泊しているウルシー環礁泊地への奇襲攻撃に変更され出撃した。しかし,攻撃途上に終戦となり、機体は無人のままカタパルトで射出投棄。生き残った特攻隊員たちは,アメリカ軍に投降するときに憎むべき特攻隊として,処刑されることを覚悟していた。

現在、愛知特殊攻撃機「晴嵐」は、スミソニアン航空宇宙博物館に保管されている。

秘密保持のため付けられた「マルロク金物(かなもの)」と呼称された人間魚雷「回天」は、1944年7月に試作機が完成しており、1944年11月20日、アメリカ艦隊が停泊しているウルシー環礁にたいする積極的奇襲攻撃が初めて実戦参加だった。生産数は400基と大量生産型自爆兵器として海軍は搭乗員を採用した。回天は九三式酸素魚雷を改造した体当たり特攻兵器で、燃料の都合と帰投至難のため、出撃したら生きては帰れない兵器だった。

   ⇒◆人間魚雷「回天」を読む。

人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」・マルレ、中島キ-115「剣」特殊攻撃機のような特攻兵器を設計、製造し、部隊編成をしていること自体、特攻が自然発生的なものでは決してなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことを物語っている。

6.日本軍は,本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃するつもりでいた。そのために,兵器開発でも特攻が優先された。特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められ,かれらの犠牲を前提とした非道な作戦が立てられた。このような状況は、現在の自爆テロにも当てはまるように思われる。

甲標的 太平洋戦争を始める時も、日本海軍は、ハワイ奇襲に伊号潜水艦に特殊潜航艇を搭載し、特別攻撃をかけたが、攻撃隊員の機関訓練もそのための特別な装備もしていなかった。つまり、正攻法では,量,質の両面で連合軍に不利であることは、緒戦からわかっていたことだった。1943年後半には、連合国軍に太刀打ちできなくなっており,このことを戦争末期になってやっと認識した軍高官は,精神主義を振りかざして「断じて行えば鬼神もこれを避く」として,特攻を唯一の対抗手段としようとした。

大本営海軍部・軍令部、大本営陸軍部・参謀本部など日本軍上層部は、数量。質の格差から、正攻法が通じなくなった状況で、戦局打開のために頼ることのできるのは、精神主義と士気の高い下級兵士だけだった。そこで、特攻兵器として、人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機中島キ115「剣」,このほかにも潜水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」,体当たり自爆改造戦車,対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵,爆薬を持って海中に潜み自爆する「伏龍」などを開発し、若者の命をそれに供した。

このような特攻兵器は、戦術的にも戦略的にも劣勢であり、軍指揮官の能力の低さの証明ともなる。それを採用する軍指揮官は、統率の外道として恥をかく。そこで、特攻兵器は、犠牲的精神を有する将兵の発意で作られたという俗説が流布された。兵器の開発,生産はもちろん、特攻隊の編成,運用は個人で行うことはできず,軍上層部の主導、命令が不可欠である。特攻は、現地の将兵の自発的な攻撃ではなく、特攻作戦として軍上層部が策定した軍事行動である。軍事行動である以上、戦果と損失・コストが問題となるから,特攻に向かった将兵の心情・苦悩は、二義的になり、あくまでも特攻,突入、敵艦撃沈が優先される。


特攻艇 しかし、特攻兵器を技術的に見れば、信頼性の欠如、操作困難など、部隊配備する中で、欠陥・故障・不具合が続出した。特攻兵器は、低品質の素材、安易な技術を用いた使い捨て兵器だが、これは特攻隊員たちも同じく使い捨てするといういのち軽視の戦術的発想であろう。

 高松宮(大元帥昭和天皇の弟)『高松宮日記 』第8巻 1945年7月3日「特攻兵器は技術院としも乗り出す様な話であったから、それは良いが、人が乗ってゆくから安モノ兵器でよいと言うような考えがあるが、全く技術者としてけしからぬことで、犬死にならぬように、特攻なればこそ精巧なものを作るべきなりと語っておいた。」

  しかし、特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。
しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。


自爆テロの語は,日本で広く使用されるが,自殺テロSuicide Terro,自殺攻撃Suicide Attack,自爆Suicide Bombingといった英訳が当てられる。これらは,善悪の価値観をも含んだ言葉であるが本webページでは,煩雑さを避けるために,慣用となった「自爆テロ」という語句をする。

写真(右):1945年2月17日、硫黄島に上陸したアメリカ軍を運んだ戦車揚陸艦(LST:Landing Ship, Tank);海岸に並んだアメリカ軍の戦車揚陸艦や輸送船が、中島キ115の主な攻撃対象として想定されていた。
sdasm image pictionid63657536 - catalog100022533 - titleiwo jima aerial views - filename100022533.tif---Image from the SDASM Misc Collection. Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


LST-1級戦車揚陸艦(LST:Landing Ship, Tank)の諸元
基準排水量 1,625 t 満載排水量 4,050 t 全長 100 m 最大幅 15.3 m 吃水 4.4 m
主機 ディーゼルエンジン×2基2軸 出力 900 ps
最高速力 11ノット
航続距離 6,000マイル(11,000 km)
乗員211名 搭載人員150名

写真(右):1945年2月17日、硫黄島、上陸時に日本軍守備隊の反撃によって大破したアメリカ軍の戦車揚陸艦(LST:Landing Ship, Tank);船体には多数の弾痕が見える。
world war two pictionid66742659 - catalog100023052 - title--world war ii photos iwo jima---- - filename100023052.tif--Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。

このような特攻に関する分析から、現在の自爆テロを再考すると、興味深い類似点が明らかになる。特攻隊の心情を理解し、それに共感できるために、彼らを「自爆テロリスト」と同一視することはできない、したくないが。しかし、特攻隊が,戦闘的熱狂や興奮ではなく、静かな笑顔で、愛機と共に堂々粛々出撃し、突入散華できたのであれば,同じことを行う人々が現在いても軽蔑はできない。攻撃対象が一般市民であるとか,戦争中の行為ではないとかは,「攻撃成果」の観点からは問題ではないのだから。


自爆テロと特攻を再考する>

自爆テロの語は,日本で広く使用されるが,自殺テロSuicide Terror,自殺攻撃Suicide Attack,自爆Suicide Bombingといった英訳が当てられる。これらは,善悪の価値観をも含んだ言葉であるが本webページでは,煩雑さを避けるために,慣用となった「自爆テロ」という語句をする。

自爆テロ(Suicide Terror)とは、自らの命を犠牲にした爆破行為,すなわち自爆によって,物理的,心理的,社会的恐怖心を引き起こし,所与の目的を達成しようとするこういであり,目的とは,戦果をあげること,政治的主張,家族を守ること,祖国を防衛すること,民族自立を図ることなど,さまざまである。いずれにせよ,自己の生命をもって,他人の生命・財産・平和人権を破壊する行為である。しかし,自爆者の視点からみれば,そのような破壊行為は,悪のテロではなく,純粋な防衛あるいは建設的行為であり,愛国心,殉教,新世界の形成,伝統の維持,宗教的使命など積極的な意味を持っているのかもしれない。

写真(右):1941年12月7日(日本時間8日),ハワイ真珠湾奇襲攻撃で炎上したアメリカ海軍戦艦「ウェストバージニア」USS West Virginia (BB-48);アメリカでは,真珠湾騙まし討ちとして卑劣極まりない行為として,反日感情が爆発した。2001年の9.11同時多発テロのときに,真珠湾以来のテロを受けたとして,マスメディア,大統領もその憤慨を公言している。
Damaded BBS PH 1941 From the San Diego Air and Space Ship Image Collection Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。


2001年9月11日に「同時多発テロ」とされる対米攻撃Attack on the U.S.は,4機の大型旅客機がハイジャックされ,それを使った体当たり自爆という特攻が行われた。この事件は「9.11」(ナイン・イレブン)として有名な自爆テロである。3000名以上が殺害された。

図(右):ロスアンゼルスタイムズに掲載された真珠湾攻撃と世界貿易センタービルへのテロの関連図:12・7の卑劣な真珠湾へのテロが、9・11の同時テロで再び繰り返された。テロに対する戦争を喚起するために、1941年12月7日の真珠湾空襲が用いられており、真珠湾奇襲は、アメリカではテロと見なされていることが分かる。図は、Michael Ramirez, California -- The Los Angeles Times引用。

世界では,日本の特攻隊は,自爆テロ/殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。天皇陛下万歳といって体当たり自爆する。
日本軍の将兵について、多数の連合国の市民や将兵が、「日本人は天皇を守るためには死をも厭わない狂信者である」「日本人は死ぬまで戦い続ける好戦的な侍の精神を持っている」「日本人は捕虜・敵国民間人など敗者を情け容赦なく処刑する」と認識していた。

このような日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、攻撃・反抗という破壊的行為を行ういう日本人は「テロリスト」と判断される。特攻隊は自爆テロリスト集団とみなされてしまう。

写真(右):1945年2月21日,太平洋戦争末期、日本海軍機の特攻を受け大破、炎上するアメリカ海軍航空母艦「サラトガ」(USS Saratoga, CV-3);1945年2月21日、満載排水量5万トンの空母「サラトガ」は硫黄島沖で、日本海軍第二御盾隊による特攻攻撃を受けた。特攻機4機と爆弾2発により大破、死者・行方不明者123人、負傷者192人の損害を被った。
CV-3 USS Saratoga PictionID:38275587 - Catalog:AL-135B 002 CV-3 USS Saratoga c32 - Filename:AL-135B 002 CV-3 USS Saratoga c32.tif - This image is from a photo album donated to the Museum by JL Highfill which includes images taken in the Pacific during the Second World War------SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。


What was needed for America to dominate much of humanity and the world's resources, it said, was "some catastrophic and catalysing event - like a new Pearl Harbor". The attacks of 11 September 2001 provided the "new Pearl Harbor", described as "the opportunity of ages". テロ攻撃を知っていて見逃したという大統領陰謀説とあいまって,「9.11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃である」とも主張されている。(→A New Pearl HarborGeorge W Bush said what America needed was "a new Pearl Harbor"A Second Pearl Harbor?The Bush administration and September 11

On September 11, 2001, the topic of kamikaze hijackings suddenly became MUCH more interesting to everyone, as two airplanes smashed into the World Trade Center towers and utterly obliterated them, and a third crashed into the Pentagon.自爆テロとカミカゼ特攻は同じとも言われる。(→Kamikaze Jet HijackingWar on Terror Masks Bush's Grand Strategy

Suicide Attack/自殺攻撃と特攻・真珠湾攻撃との類似性
;9・11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃ANOTHER PEARL HARBORである。

写真(右):1945年7月24日,瀬戸内海、呉沖でアメリカ海軍機の空襲を受ける日本海軍重巡「利根」 ;前甲板に配置した主砲、4基の20センチ連装砲塔で応戦しているが、対艦船用火砲で対空射撃をしてもほとんど効果はなかった。
world war two pictionid66736972 - catalog100022846 - title--world war ii strike photos ijn tone japanese cruiser being bombed at kure japan 24 july 1945---- - filename100022846.tif --Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


Historical view: America has dealt with terror before
ANOTHER PEARL HARBOR!
The Korea Times

村岡到:9・11特攻テロ:「報復」ではなく<反省>を
情報考学 橋本大也
死へのダイビング
保阪正康(2005)『「特攻」と日本人 』
「自爆テロ」は言葉のイメージによるマインドコントロール
北京放送BBS フォーラム一覧

写真(右):1945年8−10月,太平洋戦争末期、7月後半、瀬戸内海、呉沖でアメリカ海軍機の空襲を受けて大破、着底した日本海軍航空戦艦「伊勢」あるいは「日向」 ;太平洋戦争開戦時の日本海軍によるハワイ真珠湾奇襲と対照的に、戦争末期には、アメリカ海軍による呉軍港強襲が実行された。前甲板の2基の36センチ連装砲塔では、対空用の三式弾による対空射撃をしてもほとんど効果はなかった。
Bogan056 Japanese Ship Damage – Kure, August-October 1945 – 88 photographs. Admiral Bogan commanded Carrier Division 4 and Task Group 39.2 during aerial attacks on the remnants of the Imperial Japanese Fleet at Kure anchorage on July 24, 25 and 28, 1945. During the course of these attacks a carrier, three battleships, two heavy cruisers, two training cruisers, and numerous other samller vessels were sunk. Additionally, two other carriers and ships were damaged and effectively taken out of the war. The photographs in Bogan’s collection are comprised of eighty-eight official USN photographs, taken of the IJN ships at Kure after the Japanese surrender, circa August-October 1945. Specifically:IJN CV Ryujo (22) IJN BB Hyuga(6) IJN BB Haruna (10) IJN BB Ise (13) IJN CV Amagi (6) IJN CC Tone (5) IJN CC Aoba (15) IJL Oyoda (1) IJL Armored Cruisers Iwate and/or Izumo (10)Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。


「Suicide Attack/自爆テロは特攻とは違う」との主張(が紹介されている)
Japanese Kamikaze vs. Islamic Suicide Bomber by Rit Nosotro
The Horror of the Human Bomb-Delivery System By DANIEL FORDFrom the Wall Street Journal, September 10, 2002;The parallels with the Sept. 11 hijackers are eerie.
'They Were Not Fanatics’ABC News Home > Nightline
20代記者が受け継ぐ戦争
〈特攻隊〉〈自爆テロ〉の違い
民主党参議院議員藤末健三公式webページ

写真(右):1945年8−10月,太平洋戦争末期、7月後半、瀬戸内海、呉沖でアメリカ海軍機の空襲を受けて大破、着底した日本海軍航空母艦「天城」 ;昭和18年度(改五計画)で空母「飛竜」改良量産型「雲竜」型空母の増産が決まった。「天城」は起工1942年10月1日、進水1943年10月15日、竣工1944年8月10日、基準排水量1万7,460トン、全長 227.35m、水線幅 22.00m、飛行甲板上面まで20.5m、飛行甲板は216.90m x 27.00m。出撃する機会なく、1945年7月28日被爆、横転した。
Bogan064 Japanese Ship Damage – Kure, August-October 1945 – 88 photographs. Admiral Bogan commanded Carrier Division 4 and Task Group 39.2 during aerial attacks on the remnants of the Imperial Japanese Fleet at Kure anchorage on July 24, 25 and 28, 1945. During the course of these attacks a carrier, three battleships, two heavy cruisers, two training cruisers, and numerous other samller vessels were sunk. Additionally, two other carriers and ships were damaged and effectively taken out of the war. The photographs in Bogan’s collection are comprised of eighty-eight official USN photographs, taken of the IJN ships at Kure after the Japanese surrender, circa August-October 1945. Specifically:IJN CV Ryujo (22) IJN BB Hyuga(6) IJN BB Haruna (10) IJN BB Ise (13) IJN CV Amagi (6) IJN CC Tone (5) IJN CC Aoba (15) IJL Oyoda (1) IJL Armored Cruisers Iwate and/or Izumo (10)Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。


世界の著名なメディア,政治的指導者にとって、あるいは世界各地の自爆テロを計画するテロ首謀者にとって,日本の特攻隊は,自爆テロ/殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。自分のような醜いものでも、天皇陛下をお守りする盾になることができる。天皇陛下万歳といって体当たり自爆する。
日本軍の将兵について、多数の連合国の市民や将兵が、「日本人は天皇を守るためには死をも厭わない狂信者である」「日本人は死ぬまで戦い続ける好戦的な侍の精神を持っている」「日本人は捕虜・敵国民間人など敗者を情け容赦なく処刑する」と認識していた。

このような日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、攻撃・反抗という破壊的行為を行ういう日本人は「テロリスト」と判断される。特攻隊は自爆テロリスト集団とみなされてしまう。

What was needed for America to dominate much of humanity and the world's resources, it said, was "some catastrophic and catalysing event - like a new Pearl Harbor". The attacks of 11 September 2001 provided the "new Pearl Harbor", described as "the opportunity of ages". テロ攻撃を知っていて見逃したという大統領陰謀説とあいまって,「9.11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃である」とも主張されている。(→A New Pearl HarborGeorge W Bush said what America needed was "a new Pearl Harbor"A Second Pearl Harbor?The Bush administration and September 11

On September 11, 2001, the topic of kamikaze hijackings suddenly became MUCH more interesting to everyone, as two airplanes smashed into the World Trade Center towers and utterly obliterated them, and a third crashed into the Pentagon.自爆テロとカミカゼ特攻は同じとも言われる。(→Kamikaze Jet HijackingWar on Terror Masks Bush's Grand Strategy


1944年12月海軍婦人部隊WAVEsとダブル・デートする米海軍水兵。花びら占い。「彼女は愛してる,愛してない,愛してる」と花びらを取って占う,米本土では,将兵でもデートできた。「海軍勤務も楽しいよ」というプロパガンダも継続された。このような風景は,戦局の悪化から自殺攻撃を仕掛けることになった若者から見て,堕落した快楽主義者とされるのか,羨ましいと感じられるのか。しかし、このような米国の若者が特攻で殺されれば,特攻隊員は,前途ある若者の将来を奪ったテロリストとして嫌悪されるであろう。

アメリカは、犠牲的精神をもつ勇者でも、自殺攻撃をする必要はない。それどころか,本国では休暇中にデートまでできた。「自爆テロリスト」や犠牲的精神で満ち溢れた日本軍の愛国者から見れば,堕落した快楽主義者と思われるかもしれない。しかし、このような米兵が殺されれば,前途ある若者の将来を平然と奪ったテロリストを殲滅せよと、報復のヤイバが向けられる。

Suicide Attack/自殺攻撃のニュース(2006年初頭)
Afghan 'suicide bomb kills four'
The Japan Times Weekly
Abbas: Suicide attack was bid to 'sabotage'
Suicide attack, other violence kills 53 people in Iraq

Suicide Terro/自爆テロの情報
Suicide Terror: Was 9/11 Something New?
Suicide Terror- The Definitive Overview of the Threat
Terrorism: An Introduction
The War on Terrorism in 2002
Suicide Terror: The Definitive Overview of the Threat
Dying to Kill The Allure of Suicide Terror
Wide Angle . Suicide Bombers . Interactive Map

このように,自爆テロと,特攻および真珠湾攻撃と同じであるというのは,第一に,予期しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃という意味がある。そして,第二に,攻撃を,狂信的なテロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなしている点である。

特攻の「(天皇の)大御心(おおみごころ)に沿うために命を投げ出す攻撃」という狂信・軍国主義あるいは宗教的心情・愛国心の側面だけを受け入れるのであれば、「自爆テロ/殉教と特攻は同じ」である。自爆テロも特攻も,狂信と洗脳が生み出したもの、あるいは殉教精神・祖国愛・家族愛が生み出したものであると対極的に論じられてしまう。

写真(右):2001年9月11日、アメリカ、ニューヨーク市、マンハッタン、テロ組織アルカイダによるワールドトレードセンターの火災消火に出動した消防士;アルカイダの特攻隊員がハイジャック占拠し、操縦したアメリカン航空11便とユナイテッド航空175便の2機が、マンハッタンのワールドトレードセンターに突入した。午前8時46分にアメリカン航空11便がノース・タワー(北棟)に、午前9時3分にユナイテッド航空175便がサウス・タワー(南棟)に特攻し、ビルは倒壊した。
Photographer Anonymous Title New York City fire fighters amid debris following September 11th terrorist attack on World Trade Center, New York City Description [New York City fire fighters amid debris following September 11th terrorist attack on World Trade Center, New York City]. Sept. 11, 2001. Image. Retrieved from the Library of Congress, www.loc.gov/pictures/item/2002719358/. (Accessed September 03, 2016.) Call Number: LC-A05- C24 [item] [P&P] Forms part of: Collection of unattributed photographs ... The 250 color slides made at the World Trade Towers in New York City on September 11, 2001, received from the New York District Attorney's office from an unattributed photographer, are in the public domain. Privacy and publicity rights may apply. These slides were received from the New York District Attorney's office with the photographer relinquishing any and all copyright and right of attribution. Therefore, the photographer's name will not be associated with these photographs. Depicted place New York City Date 11 September 2001 Medium color photography Collection Library of Congress Blue pencil.svg wikidata:Q131454 Current location Prints and Photographs Division Accession number LC-A05- C24 [item] [P&P] Credit line Library of Congress, Prints & Photographs Division, LC-DIG-ppmsca-02142 References New York City fire fighters amid debris following September 11th terrorist attack on World Trade Center, New York City. Library of Congress Prints & Photographs Online Catalog. Retrieved on 2016-12-20. Source New York City fire fighters amid debris
写真は、Wikimedia Commons, File:New York City fire fighters amid debris (29385380206).jpg引用。


国務省『国際テロ年次報告書』テロ対策調整官室発表(2004年6月22日)によれば、2003年の国際テロ件数は208件で、最新の発表による2002年の件数198件(205件に訂正)に比べわずかに増加、また2001年の355件に比べると42%の減少となった。2003年の国際テロによる死亡者総数は625人で、2002年の725人に比べ減少した。2003年のテロによる負傷者総数は3646人で、前年の2013人に比べ急増した。この増加は、2003年には、礼拝所、ホテル、商業地区など『ソフト・ターゲット(民間の標的)』を対象に、大量の死傷者を出すことを意図した無差別テロが多かったことを反映している。2003年には、35人の米国人がテロによって死亡した。

テロ支援国家と特定の交易を行う個人または国を罰するとして、テロ支援国家として米国が指定しているのは、キューバ、イラン、イラク、リビア、北朝鮮、スーダン、シリアの7カ国である。

自爆テロと,特攻および真珠湾攻撃と同じであるというのは,第一に,予期しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃という意味がある。そして,第二に,攻撃を,狂信的なテロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなしている点である。

特攻=狂信・軍国主義の極地がもたらした自殺攻撃・自爆テロ(米軍の視点)
特攻=家族と国家を守り,(天皇の)大御心(おおみごころ)に沿うための必殺の体当たり攻撃(日本の視点)
  ⇒自爆テロ/殉教と特攻は同じ(?):自爆テロも特攻も,狂信と洗脳が生み出したもの(多国籍軍=連合国軍の視点)、あるいは殉教精神・祖国愛・家族愛が生み出したもの(反米過激派・日本軍の視点)
当事者の片方の立場から分析すれば,特攻も自爆テロも善悪の価値観や正当性の観念から,対極的に論じられてしまう。これが現状である。

◇祖国,民族のためであれば,テロも許されるのか。民族自立,国家独立,反植民地,暴政打倒,民主主義の確立,家族の保護,財産の保全,国防のためであれば,市民も含む敵の命を奪う大量殺戮,敵の軍事目標・経済基盤を攻撃する大量破壊は,正当化されるのか。


祖国防衛の英雄,独立の闘志,レジスタンス,ゲリラは英雄・立派な人物として,その敵殺害,敵財産の破壊も賞賛されるべきなのか。自爆テロと特攻の問題は,結局,戦争の本質である大量殺戮,大量破壊を肯定し,正当化できる大義があるかという問題に行き着く。

国務省『国際テロ年次報告書』テロ対策調整官室発表(2004年6月22日)によれば、2003年の国際テロ件数は208件で、最新の発表による2002年の件数198件(205件に訂正)に比べわずかに増加、また2001年の355件に比べると42%の減少となった。2003年の国際テロによる死亡者総数は625人で、2002年の725人に比べ減少した。2003年のテロによる負傷者総数は3646人で、前年の2013人に比べ急増した。この増加は、2003年には、礼拝所、ホテル、商業地区などソフト・ターゲット(民間の標的)を対象に、大量の死傷者を出すことを意図した無差別テロが多かったことを意味している。

自爆テロと日本の特攻の異なる点として、
1)自爆テロは無辜の民間人を標的にする卑劣な行為だが、特攻は軍事目標に行われた英雄的行為である、
2)自爆テロは宗教的妄信が生み出した狂信的行為だが、特攻は祖国愛・家族愛が生み出した自己犠牲的行為である、
3)自爆テロは世界を混乱させる平和を乱す攪乱的行為であるが、特攻は祖国と家族を守る平和のための防衛的行為である、
と主張されることもある。

しかし、自分の命を犠牲にしてまで、叩き潰したいなにかがあり、その敵愾心は、民族や家族を守るための冷静な判断の下に、自己犠牲的に行われる破壊行為である点は共通している。民間人も、食糧生産、兵器生産、補給、労働力として戦争に協力しており、無差別攻撃は軍事的にも、効果的である。また、敵愾心とは狂信的な一時的なものでなく、冷徹な論理一貫した憎しみである。


現代は短期決戦の時代のように言われるが、「テロとの戦い」は決して短期でも決戦でもない。長期間、経済社会基盤(生産、流通、金融、輸送、エネルギー、水供給などの生活基盤)を巻き込み、世論を誘導して戦われる総力戦である。総力戦では,一般市民も世論の支持による戦争継続,ビジネス活動,納税・国債購入による軍資金提供,生産のための労働力,個人消費節約による軍需への資源の移転など,戦争協力している。こうなればみんなが戦争協力者であり「無辜の市民」はありえない。

総力戦にあっては攻撃目標が、軍艦か輸送船か、兵士か民間人かは、問題とされない。敵の戦力,経済力,世論,生産基盤、金融、通貨の信用力などに、効果的な打撃を与えられるかどうかが、攻撃目標選定の基準となる。


写真(上):1945年4月12日、九州南端、鹿児島県、知覧町、陸軍知覧飛行場、第二十振武隊中島キ43一式戦闘機「隼」三型甲、穴澤利夫少尉搭乗機を桜で見送る知覧高女の女子学生たち
;毎日新聞掲載写真。English: Chiran high school girls are waving farewell with cherry blossom branches to a taking-off kamikaze pilot. The pilot is Second Lieutenant Toshio Anazawa of Army Special Attack Unit (20th Shinbu party). The aircraft, an Army Type 1 fighter "Hayabusa" III- type-Ko holding a 250kg bomb, is departing towards Okinawa on April 12, 1945. 日本語: 中島キ43一式戦闘機「隼」三型甲、第二十振武隊穴澤利夫少尉搭乗機、知覧飛行場、昭和二十年四月十二日 Date Taken on 12 April 1945 Source 1. originally:「毎日グラフ」1965年11月25日臨時増刊号〜続日本の戦歴 米軍が押収した戦場写真集/8月5日の連合艦隊 , 2. Mainichi.jp
写真はWikimedia Commons, File:Chiran high school girls wave kamikaze pilot.jpg引用。


日本の高等師範学校などに在籍していた女子学生は、1945年には、女子挺身隊として将兵の身の回りの世話(洗濯,裁縫,宿舎の掃除)や飛行機の整備、出撃の見送りに動員された。勤労動員された若者は、祖国と国民を愛し、犠牲的精神で特攻隊に志願した若者を尊敬し、英雄と見なしていた。純真な乙女と若者であったと思う。しかし、米軍から見れば、特攻隊員は、日本の特攻機を操縦する卑劣な自爆テロリストであり、勤労学徒は、それを助けるテロシンパとされてしまう。そうでないという主張が,旧連合国軍(多国籍軍)に受け入れられているのは,年月がたったことと,現在の日本の親米的立場が原因かもしれない。

総力戦であれば,軍艦乗員であっても,軍需生産,補給物資の運搬を担う労働者であっても,重要な戦力として,攻撃対象となる。自分の命をかけて,祖国,家族を守るために,敵に打撃を与える必要があり,その攻撃目標は,航空母艦・駆逐艦など敵艦艇,輸送船,あるいは金融センター・ターミナル・国防省など敵経済・軍事中枢など様々である。効果的な攻撃目標の選定が重要となり,民間人が含まれるかどうかは問題ではない。

一般市民がテロの標的にならないように,防御するのであれば,膨大なコストを負担しなくてはならない。一般市民へのテロとその恐怖は,市民を守ろうとする政府や軍隊に,多大な負担をかける。敵に負担を強要するには,一般市民を標的にして,殺害するテロが効果的である。トラック,戦車はいくらでも生産できるし,軍艦の代わりもあるが,殺された人間の代わりはいないという意味で,テロの被害は大きい。

写真(右):2016年3月22日、ベルギーのブリュッセル空港、EU(欧州連合)本部近くマールベーク駅で起きた連続爆破テロ事件の追悼場所
Description Bruselas - plaza de la bolsa Date 23 March 2016, 09:31 Source Bruselas - plaza de la bolsa Author Paco from Badajoz, España
写真は、Wikimedia Commons,Category: Street memorials to the 2016 Brussels bombings in Brussels File:Bruselas - plaza de la bolsa (26042001825).jpg引用。


軍艦,軍用機,軍人を攻撃しようとしても,防備が固く、警戒しているため、攻撃しても戦果を揚げるのは困難である。軍事施設,戦車に自爆テロを仕掛けても、多くは事前に発見,阻止されてしまう。
「人の命の値段」=遺体捜索・運搬費用,葬儀費用,国家補償,生命保険,遺族年金などの負担は,高所得で人権を重視している先進国では,非常に重い。負傷者の医療や看護の費用も政府や家族が負担する必要がある。「人命は地球より重い」。人命が高価な敵に対しては,特攻による攻撃も人を対象にすることが,もっとも費用対効果が大きいといえる。


1944年後半の米軍に対する特攻も,空母や戦艦ではなく,ヒトを大量に殺すことを目的に、輸送艦、商船を攻撃するほうが,米国の負担も大きかったであろう。兵器の損害は回復できるが、失った兵士の命は取り戻せない。日本本土侵攻作戦に際しても,自国の若者の死傷者を如何に少なくするかが問題となっていた。原子爆弾の投下を正当化する第一の理由も,日本本土上陸作戦に伴う死傷者を抑えるため,というものである。(現実には,戦後の対ソ戦略や最新兵器の実戦使用への誘惑の影響が大きいが。)
米国に大損害を与えるためには、米軍将兵,米国市民を効率的に殺害すればよい。大量殺戮が可能になれば,戦局を挽回できる。味方の物資,人員,資金を節約しつつ、効果的に敵を大量殺戮することが、戦争の目標となる。戦争の本質とは,大量殺戮,大量破壊である。20世紀の大戦以降,戦争は決して外交の延長手段などではない。

中には、特攻隊を使い捨てのごとく扱った厚顔無恥な司令官や参謀も若干いたようだが,自爆攻撃を計画し、特攻隊員を訓練し、特攻隊を編成する司令は,心中穏やかではいられないだろう。自分は死なないのに、若者に死を前提に特攻を命じる司令官,高級将校の心のうちは苦しかったはずだ。だからこそ、特攻を命ずる指揮官は,自らの心理的負担を軽くするため、自らの心理操作をするしかない。心理的負担のかかる事実(=不協和)を受け入れるために認識を改める、すなわち「認知的不協和の理論」である。これが「特攻自然発生説」を信じ込んでいる理由である。

自分は意思が弱くて特攻に出撃できないが、若者は自己犠牲を厭わず、愛国心を持って大御心に自ら殉じようとしている。特攻は、若者の発意で志願によって行われた。特攻を命じた指揮官たちには,「特攻の自然発生説」が心理的負担が小さく,受け入れやすい。
こういった「認知的不協和の理論」が当てはまる心理状態から,特攻を命じた指揮官たちは,事実ではない「特攻自然発生説」を信じ込んでいったのであろう。 

他方,特攻隊・テロ実行犯として指名されたり、志願を強要されたりした若者は、運命を受け入れて、祖国、民族、家族、神の栄光のためと思って、死ぬことを自分に納得させる以外の道はない。

死から逃走、逃亡しようと思えば,特攻/自爆をやめて、同僚・周囲から非難され,家族を窮地に陥れ、さらに自分も抹殺されることを覚悟しなくてはならない。これが分かっている特攻隊員は、苦しんだ末、やはり特攻出撃するしかないのではないか。認知的不協和の理論からいって,自分の特攻死に意味がないとは,犬死だとは認める分けにはいかない。祖国のため,家族のために何か役に立てると信じ,あるいは残された者に期待できたからここそ,諦観し,特攻に出撃したのであろう。


写真(右):2017年4月8日、ストックホルムトラックテロ事件の追悼場所;2017年4月7日にスウェーデンの首都ストックホルムで、奪われたトラックが大通りり突っ込み、歩行者を殺害し、デパートに突入した。犯人アキロフはウズベキスタンでイスラム国(ISIS)の隊員だったという。5人が死亡、15人が負傷した。
Svenska: 8 april, dagen efter terrorattacken i Stockholm 2017. English: The day after the terrorist attack in Stockholm in april 2017. Date 8 April 2017, 15:04:49 Source Own work Author Frankie Fouganthin
写真は、Wikimedia Commons,Category:Aftermath of the 2017 Stockholm attack  File:The day after the terrorist attack in Stockholm in 2017-24.jpg引用。


北アフリカや南米で郵便飛行の仕事をし,大戦中,偵察機パイロットとして地中海で活躍したアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは,1931年の『夜間飛行 Vol de Nuit』のなかで,「勇気というやつは,大して立派な感情からはできておりません。憤怒が少々,虚栄心が少々,強情がたっぷり,それにありふれたスポーツ的楽しさが加わったという代物です」と述べた。勇者と勇者が戦争という極限状況ででぶつかれば,殺し合いとなり,陰惨なものとなる。
ドゥ・サンテグジュペリは,1943年の『星の王子様Le Petit Prince』で有名なフランスの作家であるが, “War is not an adventure. It is a disease. It is like typhus.”「---戦争はチフスのようなもの」とも述べている。1944年7月31日,彼の乗ったP38「ライトニング」改造偵察機は,マルセイユ沖で墜落,彼は戦死した。彼の部屋には,General X宛ての手紙が残されていた。

"I do not care if I die in the war or if I get in a rage because of these flying torpedo's which have nothing to do with actual flying, and which change the pilot into an accountant by means of indicators and switches. But if I come back alive from this ungrateful but necessary "job", there will be only one question for me: What can one say to mankind? What does one have to say to mankind?"
「私は,戦争で死んでも,憤怒に陥っても,かまわない。戦争の道具として飛ぶことは,実際の飛行とは比べ物にならないのだから。それは,パイロットを計器とスイッチの一部にしてしまった。しかし,もし,この不快なしかし必要な任務から生きて帰れたなら,ひとつの問題が生まれるだろう。人は人類になんということができるのか,なんというべきなのか。」 

特攻やテロ行為は,戦争と同じく正当化することはできない。もし,特攻や自爆テロを,そして戦争が正当化できる大義があるのであれば,無防備な市民を効果的な攻撃目標として認めることになる。特攻,自爆テロ,戦争を許せば,平和は遠のいてしまう。しかし,最も非難され、追及されるべき人物は、特攻隊員・自爆者ではないし,特攻隊員・自爆者の抱く犠牲的精神、祖国愛、殉教精神ではない。

非難されるべき人物・行為とは次のようなものである。

1)特攻隊・自爆者(殉教者)を平然と送り出している司令官・参謀(テロ首謀者)たち、彼らこそ無防備な市民を殺害し,悲しみと報復を招来し,防衛措置をしいて,社会に余分な負担を負わせる。
2)特攻隊・殉教者を送り出したにもかかわらず「特攻・殉教は自然発生的に行われた」として特攻/自爆テロ作戦の責任を回避しようとする「特攻/自爆しない」司令官・参謀たち、彼らこそが特攻/自爆テロの現実的果実を不当に独占する。(特攻隊員・自殺攻撃者は死んでいる)
3)特攻・自爆のもつ「大義に殉じ、家族を守ろうとする犠牲的精神の発露」という一面を英雄的行為として過大に賛美し、プロパガンダを展開して、純真な若者に特攻(自爆テロ)を志願させ、愛国者,殉教者の名のもとにテロリストを育成、編成する行為、それを画策する政治的指導者・軍司令官(テロ首謀者)たち、彼らこそ,エセ大義のもとに社会から平和を奪う扇動者である。

彼らやその行為こそ憎むべきものである。特攻隊員の抱いた忠誠心・祖国愛・家族愛だけではなく,彼らの苦衷と特攻/自爆テロを展開した司令官への憤怒を心に留めることが,現代の我々には必要なのではないか。




2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
キ115 自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機

◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。

当サイトへのご訪問ありがとうございます。2022年8月25日開設です。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
連絡先: torikai007@yahoo.co.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学社会環境課程HK 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
東海大への行き方|How to go
Flag Counter
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.


Copyright (C) 2022 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.