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◆ヒトラー暗殺未遂事件:ワルキューレ Valkyrie作戦
写真(上)1944年7月20日,総統大本営ヴォルフスシャンツェのヒトラー暗殺未遂現場を見学するムッソリーニとヒトラー
:ヴォルフスシャンツェ(Wolfsschanze)は,ヒトラーの闘争時代の名前「狼」からとった東プロイセンにあった総統大本営・国防軍最高司令部だった。
 ここの作戦会議室に,国内予備軍参謀長シュタウフェンベルク大佐がヒトラーを暗殺する目的で,カバン式の時限爆弾を仕掛け,午後0時42分,爆発した。爆発が原因で,速記官ハインリヒ・ベルガー,陸軍参謀本部作戦課長ハインツ・ブラント大佐,空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将,副官ルドルフ・シュムント少将の4人が死亡。しかし,ヒトラーは軽傷ですんだ。暗殺未遂の直後,ヒトラーは,会談を予定していた盟友ムッソリーニを爆発現場に案内した。
Besuch Mussolinis bei Hitler im Führerhauptquartier Wolfsschanze bei Rastenburg (Ostpreußen) unmittelbar nach dem Attentatsversuch vom 20. Juli 1944.- Besichtigung der zerstörten Baracke (im Hintergrund: Dolmetscher Dr. Paul Schmidt)Dating: Juli 1944
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1970-097-76引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。

◆2015年7月6日、トム・クルーズ主演の映画(2008)「ワルキューレ」がBS-TV放映され、二日間で262名の新規アクセスがあった。
◆2010年8月5日12時,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に再出演。
◆2009年12月15日(火)20時,9月8日(火),9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
◆2008年公開のアメリカ映画「ワルキューレ」について,eiga.com inc.(2007年7月12日)の次の記事がある。
ヒトラー総統暗殺を企てたシュタウフェンベルク大佐をトム・クルーズ(1962-)が演じる、ブライアン・シンガー監督「ワルキューレ」の製作は、主演と製作を兼ねるクルーズがサイエントロジーの信者であるとして、国防省からドイツ国内の軍事施設での撮影許可が下りず,難航していた(2007年6月25日発表)。
 しかし、7月5日、ドイツ政府がドイツ連邦映画基金(DFFF)から同作へ650万ドル(約8億円)の資金援助を行うことを決定。政府側は、「国防省の管轄下にある歴史的名所での撮影許可をめぐる今回の騒動を沈静化したい」模様だ。「ワルキューレ」の製作予算は8000万ドル(約99億円)と見積もられ、その3分の2がドイツでの撮影予算に当てられる。

eiga.com inc.には,次の記事がある。
ユナイテッド・アーティスツが間もなく撮影に入る「ワルキューレ(Valkyrie)」が、独国防省から軍施設内での撮影を禁止された件に続き、旧独軍将校シュタウフェンベルク大佐の長男が、ドイツのSueddeutsche Zeitungのインタビューに答え、サイエントロジー教団に映画スターが関与していることに不快感を示し、「私の父をそっとしておいてほしい」と訴えた。
 72歳のベルトホルト・フォン・シュタウフェンベルク氏は、「ただの宣伝的な活動だとずっと望んでいた」と述べ、作られたならば「恐ろしいほど陳腐になる」と危惧を抱き、クルーズがサイエントロジー信者だと公言していることは不快であり、同教団は宗教ではなくビジネスだ、と述べた。

AFPBB News 2009年01月19日によれば,公開を前に作品を見たシュタウフェンベルク将校の子孫にあたるフランツ・フォン・シュタウフェンベルクFranz von Stauffenbergさんは、ウェルト紙日曜版(Welt am Sonntag)のインタビューに答え、「トム・クルーズは非常に警戒しているように見える。まるでこの役を演じるのを怖がっていたようだ。優雅に見せようとしているようだが、とても堅苦しくなってしまっている」と批評した。

死して屍拾う者無し dokurock.exblog.jp「シュタウフェンベルク大佐」によれば,「ドイツ人は学校でナチスドイツの歴史をとことん学ばされるから,みんなイヤというほど理解しててある意味自虐的にまで反省してる。そんな彼らにとってシュタウフェンベルク大佐は 唯一のナチスドイツ時代の良心。ある意味英雄。」としている。

毎日jp2009年3月10日によれば,映画でシュタウフェンベルクを演じたトム・クルーズTom Cruiseは,登場人物について「犠牲的な精神で正義のために立ち上がった男たちは、時代を超えて称賛されるべきだ」と話した。

eiga.com2009年3月10日「ワルキューレ」(森山京子)には,次のようにあった。
「ヒトラーは暗殺されていないので、この作戦も失敗に終わることは映画を見る前から分かっている。だから当然、なぜ失敗したのかをスリルあるドラマに仕立て、それを映画の芯にするべきなのだが、ブライアン・シンガーは、正義のために立ち上がった有志たちを真っ正面から描きすぎた。---」

速映画批評 > ワルキューレ(服部弘一郎)は次のような批評だった。
「観客は、ヒトラーが1945年にベルリンの塹壕の中で自殺した史実ぐらいは知っているはずだ。主人公たちの暗殺計画は失敗する。それは映画を観る前から誰もが知っているのだから、暗殺の成否という部分でサスペンスを生み出そうとするこの映画は根本から間違いを犯しているのだ。死んでいないヒトラーを死んだと信じ込み、「ヒトラーは死んだ!」と歓声を上げ、「ヒトラーが生きているはずがない。俺は爆発をこの目で見たのだ!」と言い張る主人公はとんだ間抜けではないか。」とする。

◆映画公開で,2009年3月20-23日の本webアクセスは1900件を超えた。「ワルキューレ」反乱失敗の原因は,テクニカルな点にあるのではない。反乱将軍たちの本心と幹部将校の行動力との乖離にある。暗殺の成否ではなく,暗殺の背景こそが問われるべきである。
ヒトラー暗殺・政権奪取のワルキューレ作戦を「正義のレジスタンス」の物語にのみ集約することはできないが,彼らがなぜ反乱を起こたのか,どのように行動したかを知ることは意義がある。映画を観賞して「そうだったのかぁ、知らなかった----」と思うことが,その先に進むきっかけになることもある。

◆映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」原題Elser(Director: Oliver Hirschbiegel)が Sony Pictures Classicsの配給で公開。日本語版リーフレットと映画パンフレットの解説を作成。映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」(Elser)はギャガ配給で2015年10月からTOHOシネマズ シャンテほか日本全国で公開。Trailerは、日本語版(短縮)予告編としてギャガyoutubeで公開。Twitter映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」 も開設されている。
◆2011年出演したBS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー: 影法師と呼ばれた男 ルドルフ・ヘスおよび映画監督 レニ・リーフェンシュター」が公開された。これらは「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess ルドルフ・ヘス」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール」を再検討したもの。

◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられる。
中居正広の金曜日のスマたちへ『アンネの日記』から世界平和を考える」テレビドガッチが2015年2月6日(金)21時よりTBSで放映された。その日、本研究室への新規訪問者は1万1,616人、翌7日は1,508人、8日は725人に達し、アンネの生きた戦争の時代、人種民族差別への関心がSNSでも高まっていることを実感した。しかし「実際の“隠れ家”の間取り図・断面図をフリップで見せるなどして、過酷だったその生活ぶりを検証する」というが、アンネの隠れ家の条件は最上級で、収容所のユダヤ人とは比較するまでもない。それを想像できたアンネは、ほかのユダヤ人たちを心配していたほどだった。
 気になったのは、アンネの日記を検証すれば容易にわかるような番組の錯覚が散見されたことだ。再現された隠れ家に入ったゲストが「アンネは一部屋もらっていたんですね」というが、アンネは姉と同室で、直ぐに姉と別れてデュッセル氏と同室にされた。一人一室の余裕はなかった。また、「見つかることは殺されることですね」とのゲスト発言も、収容所送り=殺害かどうかをアンネたちが議論していたことを踏まえると正確ではない。隠れた当初、労働力を提供するユダヤ人をすぐ殺すはずがないとの意見が優勢だった。解説で「ドイツ秘密警察がユダヤ人を連行した」というが、オランダ人の警察や密告者がユダヤ人捜索・移送に協力していたことは、15歳の少女も心悩ませていた。他方、ユダヤ人がイエスを殺したため、その責任をとらされて虐殺されたとの「自己責任論」が、聖書を引いて説明されたが、聖書からこの説に「都合のいい」個所だけ引用するのはいかがなものか。キリスト教会は、ユダヤ人イエス殺害説を否定しているのに、その事実も、その理由も一切触れられなかった。ヒトラーやナチスは、第一次大戦の敗戦、恐慌、汚職、政治的混乱は全てユダヤ人の陰謀であり、ユダヤ人の目的は、ドイツを堕落、隷属させることであると邪推した。そうなる前に、ユダヤ人を排除、殲滅すべきだと極論した。
 TBSは、素晴らしいメッセージを発信する良質な番組を放映したが、ゲストの発言や解説の細かな点まで監督する責任がある。世界中で読み込まれ、徹底研究されている「世界記憶遺産」に関する番組が、一般視聴者向きだから、学術研究ではないから、と安易な姿勢で作成されてはならない。「日記を破る日本人の理解はこの程度だ」と世界で誤解され、番組の中から日本に「都合の悪い」個所だけフレームアップしたプロパガンダがなされるのが心配だ。番組の言うように「アンネの書いた日記をもう一度、読み直さなければならない」

◆「誰がため(Flammen & Citronen)」(2008年度デンマーク・アカデミー賞受賞作品)では、第二次世界大戦末期のデンマークのパルチザン、フラメンとシトロンによるゲシュタポやドイツ協力者暗殺を描いている。デンマーク人同士の殺戮が「売国奴」の名の下に行われた背景が分かる。

読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、議会制民主主義の破壊、軍事力・警察力の強化、ヒトラー流の独裁政権獲得という本音のようだ。

◆ヒトラー暗殺事件記念日,2009年7月21日,次の47NEWS 「ヒトラー暗殺未遂から65年 ベルリンで式典」が報道された。

【ウィーン21日共同】第2次世界大戦末期にドイツ軍の将校グループがナチス総統ヒトラーの暗殺を企てた「ヒトラー暗殺未遂事件」の65周年を記念するドイツ政府主催の式典が20日、ベルリンで開かれた。-----将校グループは1944年7月20日、戦争の早期終結を目指し、東プロイセン(現ポーランド領)にあった総統大本営でヒトラーの爆殺を試みたが失敗し、多くの関係者が処刑された。

 メルケル(ドイツ)首相は(暗殺記念の)この日、連邦議会議事堂前で「ナチズムに抵抗した少数の人々の尊厳と名誉は保たれてきた」と演説した。(ベルリンにあるヒトラー暗殺未遂事件記念碑の花輪リボンを,ドイツのユング国防相が整える写真が掲載(ロイター=共同)。

◆2011年9月2日・9日(金)午後9時,NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」ルドルフ・ヘス及びレニ・リーフェンシュタールに出演。
◆2011年7月刊行『写真・ポスターに見るナチス宣ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社では、日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
◆2010年10月30・31日,武蔵野芸能劇場の「空の記憶」で、大人になったアンネの思いが演じられた。
◆2009年10月1日,ユーチューブOfficial Anne Frank Channelで,1941年,隣人の結婚式に窓から顔を出すアンネ・フランクの動画(20秒間)が無料公開された。この一日で本サイトのアクセスは1万3000件を超えた。人種民族差別への関心が高まっていることが実感できた。

◆アンネの日記類は,2009年11月1日からアンネ・フランク博物館で,永久展示。これは,日記3冊、短編小説をつづったノート、気に入った言葉を書き留めていた用紙など、アンネ自身が書いたもの。1944年5月から日記を破れやすい用紙数百枚に書き直していたが、そのうちの40枚も交代展示される予定。日記類はアンネの父オットー・フランクがオランダ戦争資料館(Netherlands Institute for War Documentation)に寄付したもの。
◆NHK海外ドラマ「アンネの日記」が放映され,2009年7月31日-8月13日で本サイトのアクセスは3736件に達した。
◆2009年7月30日,国連教育科学文化機関(UNESCO)は、貴重資料の保存と認知度向上を目的とした「世界記憶遺産」(Memory of the world)に「アンネの日記」が「世界中で読まれた書籍トップ10のうちの1冊」として,登録したと公表した。
2009/2/5/AFP】ローマ法王ベネディクト(Benedict)16世は,アルゼンチンの放送局が放送した,スウェーデンのTV番組でガス室は存在しなかったと発言した英国リチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教の破門を約20年ぶりに解除。アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相は3日、法王の行動は看過することはできないとし、バチカン当局に対し、ナチス・ドイツのホロコーストが「否定できない事実だと明確にすること」を求めた。
◆2009/2010年,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』にゲスト出演。1944年7月21日(事件翌日),アンネは日記に,若いドイツの将校,伯爵によるヒトラー暗殺未遂のニュースを書きとめ,ヒトラーが倒されれば軍事独裁政権を作って連合国と講和したであろうと予測。

◆ヒトラー,ナチスによる支配とはどのようなものだったのか,なぜドイツ国防軍の将兵たちは,ヒトラー暗殺,新政権樹立を企てたのか,そしてワルキューレ作戦は,どのように評価されるべきかを検証してみたい。


1.ヒトラー総統の第三帝国

(1)ヒトラー総統の第一の「偉業」(罪悪)は,既存の政党,労働組合,企業団体,青少年団体,キリスト教団体を,ナチスの思想に即して抑圧,解散,再編成し,指導者原理に則って挙国一致の「ナチ化」を達成したことである。

1933年5月,ナチ党政権は労働組合幹部を逮捕,組合本部を占拠し,労働組合を解散に追い込んだ。そして,軍事訓練,人種教育を進めてヒトラーユーゲント(HJ)加盟を義務付けた。個人の人格形成,自己実現など個人主義は廃され,集団の規律・服従が最優先された。

1932年,HJ(Hitler Jugend)団員数は5万5000名だったが,1933年のナチス政権樹立後は56万8000名に増加した。ナチ党は,キリスト教団体,社会民主党・共産党主導のドイツ少年少女団体を解散させ,1936年ヒトラーユーゲント法The Hitler Youth Lawによって,全ドイツ青年にヒトラーユーゲント加盟を義務付け,HJ団員数は543万7000名に膨張した。

(2)ヒトラー総統の第二の「偉業」(罪悪)は,公共事業を起こし,再軍備を宣言して,強力な軍隊を育成したことである。

ヒトラーは,巨大で威圧的なナチス様式の官庁街を整備し,建設総監フリッツ・トートFritz Todt 博士(1981-1942)に命じて,高速道路アウトバーンAutobahnを,1938年までに2000キロも建設させた。道路建設には,勤労奉仕(Reichsarbeitsdienst)が動員された。

無償奉仕が敵性人種民族に向けらて奴隷労働となった。1944年の大本営爆破ヒトラー暗殺未遂事件で真っ先に疑われたのが、技術者トート博士の作った勤労集団「トート機関」の労働者だった。

また,現代の不安感や混沌を表現する「頽廃芸術Entartete Kunst」を否定,力強いロマン古典様式を復活させた。

ナチスは,個人の思想の自由表現の自由を否定し,画一的な思想統制を行った。「一つの民族 一つの帝国,一人の総統」という挙国一致が主張された。

(3)ヒトラー総統の第三の「偉業」(罪悪)は,ドイツ人・民族ドイツ人(ドイツ系住民Volksdeutsche)の住む地域を拡張して,神聖ローマ帝国(ハプスブルク朝)・ホーエンツォレルン朝を凌駕する「グロス・ドイッチュラント」としてナチス独裁のドイツ第三帝国を復興したことである。

1938年3月11日,ヒトラー総統はクルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897-1977)に,最後通牒を発し、翌12日0800,オーストリアへ武力進駐した。
シュシニク首相は亡命、新首相ザイス=インクワルトは、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出した。 このオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,ムッソリーニの理解を得て,実施した。

1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」となり,140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章「皇帝王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣」がニュルンベルクに運ばれた。皇帝の四標章を継承したナチスは,ドイツ第三帝国(Das Dritte Reich)を復活させた。

◆「第三帝国」は,皇帝世襲の伝統的な帝国ではない。しかし,歴史的使命感を妄信するヒトラーは,共和国を否定し,神聖ローマ帝国(ハプスブルク王朝),ホーエンツォレルン朝を引き継ぐ「第三の“帝国”」にこだわった。フォルクス・ドイッチェVolksdeutsche(民族ドイツ人)を含む,かつてないほど巨大なグロス・ドイッチェラントを実現しようとした。

◆ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地ニュルンベルクに永遠に留まると誓約した。「今後千年間、ドイツは二度と革命を経験することはない」「ドイツの栄光を回復するまで,軍服を脱がない」とした。戦争を開始し,その勝利の時まで総統の地位にとどまることを公言したのである。

チェコスロバキアに対しては,民族ドイツ人300万名が居住していたズデーテンラントSudetenlandを,ドイツ領に割譲することを主張した。

1938年9月のミュンヘン会談では、英仏伊三国は,チェコスロバキアの頭越しに,ヒトラーの領土要求を認めた。英仏は,世界大戦を回避したかった。

このとき,ベック参謀総長らも,世界大戦の勃発を恐れ,反ヒトラーのクデターを準備していたという。しかし,英仏の譲歩を引き出したミュンヘン協定によって,ヒトラーは戦うことなく,1938年10月1日 チェコスロバキアのズデーテンラントSudetenland を無欠占領,併合した。

チェコスロバキアの残された地域でも,1939年3月14日,スロバキアが独立した。チェコ(ボヘミア・モラビアBohemia and Moravia)はドイツのベーメン・メーレン保護領Protectorate of Bohemia and Moraviaに組み入れられた。

(4)ヒトラー総統の第四の「偉業」(罪悪)は,1933年のナチ党政権獲得直後,ナチス反対派を収監する強制収容所を設置し,ユダヤ人を人種汚染を広め,ドイツに戦争を仕掛けてくる下等劣等人種として,迫害したことである。

1933年1月,ヒトラーのボディーガード(私兵)に過ぎなかった親衛隊ヒムラー長官が,ミュンヘン警視総監に就任,ミュンヘン近郊ダッハウに,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所「保護拘禁施設」を設置した。

また,プロイセン州内務大臣ヘルマン・ゲーリングは,反ナチス敵性分子を摘発するために,プロイセン州の政治警察を秘密警察(ゲスタポGestapo)に改編し,突撃隊や親衛隊を幹部に任命した。1934年4月20日,ゲシュタポGestapoの権限は,親衛隊に移管され,ハイドリヒReinhard Heydrichが秘密警察局長になった。

ユダヤ人は狡賢い,貪欲な資本家だ,共産主義者ボルシェビキで暴力革命を起こそうとしている,という反ユダヤの人種民族的偏見,すなわちアンチ・セミティズムAnti-Semitismも,プロパガンダで広められた。

写真(右)1943年9月12日,イタリア中部、アペニン山脈グラン・サッソ(Gran Sasso)、幽閉されていた山荘ホテル「カンポ・インペラトーレ」(Hotel Campo Imperatore)[右奥の建物]から救出された黒コートのベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)とDFS 230 C-1グライダーで飛来して救出作戦に参加したイタリア軍将校フェルナンド・ソレティ(Fernando Soleti)[ムッソリーニ後方の髭]、ドイツ空軍降下猟兵たち:山荘ホテル「カンポ・インペラトーレ」では、警備のイタリア兵との銃撃戦はなかった。イタリア軍将軍が救出作戦に同行し、イタリア軍警備兵を制したためである。
Mussolini verlässt das Gefängnis Mussolini verlässt das Gefängnis | Weltbild
Mussolini verlässt in Begleitung seiner Befreier das Gefängnis.
Gran Sasso Date 12 September 1943Technik Fotografie Datierung 17.09.19
写真は,Bildarchiv Austria Inventarnummer S 463/47 引用。


大戦勃発前,1933年以降の強制収容所における囚人の取り扱い,拷問,懲罰の経験が,大戦中のユダヤ人やソ連軍捕虜を管理するモデルになった。人種民族差別・迫害は,ナチス政権掌握と同時に芽生えはじめた。このとき,ドイツ国防軍に人種民族差別反対を訴える声は上がらなかった。

ナチスによるユダヤ人虐殺の背景には,
?下等劣等人種によるアーリア人の人種汚染(遺伝子汚染)という人種民族差別,
?財産簒奪など経済的欲望,
?反ドイツの敵性住民に対する予防戦争,
?ユダヤ人世界支配を目指す共産主義革命・煽動政治への反発,
の四点が指摘できる。

ナチスの時代,第二次大戦前であっても、ユダヤ人に対する温情を示すことは,反政府活動となり,強制収容所への収監などの処罰を受けた。ユダヤ人に対する偏見が差別を引き起こしたが,偏見・差別を改めようとしたり,批判したりすれば,自らが困難な状況に陥る。言論の自由はもはやなかった。


2.戦争を躊躇する将軍たちの罷免

ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch 将軍は,1933年,ヒンデンブルク大統領により陸軍最高位の陸軍総司令官に任命された。彼も国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクも,とともに伍長勤務上等兵に過ぎなかったヒトラー首相を軽蔑していた。

ナチス政権当初,伝統ある参謀本部出身者たちは、ナチスの政治権力は不安定であると考えた。そこで,弱小政党を牽制し操作してきた経験を踏まえて,ナチスを利用しようとした。ヒトラーが総統になり,1935年再軍備宣言をすると,ヒトラーを利用して,軍の勢力を伸ばそうと画策した。 ヒンデンブルク大統領,フォン・フロンベルク国防相に比して,ヒトラーは伍長勤務上等兵という兵卒だった。将官たちは,小物ヒトラー首相を睥睨し,操縦するつもりでいた。ヒトラーは野心を隠して,従順な首相を演じたが,二人の老将軍を,時代遅れの敗け将軍を,逆に操縦して天下をとった。

ヒトラーは,多数の民衆を味方につけて,強権的な将軍たちに圧力をかけたが,自ら政権を手にすると,強権的な政治を開始,労働運動・共産主義・自由主義を弾圧した。ナチスによる一党独裁の確立した後の目標は,ドイツ国防軍を従えることである。

ドイツ国防軍のヒトラー反逆を読む。

1934年8月2日,ヒンデンブルク大統領が死去すると,ヒトラー首相は、ドイツ大統領も兼ねる総統(Führer)の職に就いた。党の指導者「総統(フューラー)」は、新たな独裁者の称号となった。ヒトラー総統は、ドイツ国防軍の司令官を召集し、兵士をすべて総統個人に対して忠誠を誓わせることとした。総統は,陸海空三軍の総司令官を兼ねることになった。

 国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考えた。全軍に対して,ヒトラーに忠誠の宣誓させることを承諾した。このようなヒトラーへの追従が,国防軍の地位を低下させた。

◆ヒトラーは,これまで国防軍を恐れ,国防軍の将官たちの意向を尊重してきた。しかし,国防軍将兵がヒトラーへの個人的忠誠を宣誓するようになって,ヒトラーは,国防軍を意のままに操ろうとした。

写真(右)1937年の国防軍参謀総長ルートヴィヒ・ベックLudwig Beck上級大将:ヒトラー総統の再軍備に賛同してきたベック参謀総長だったが,軍事専門家として対英仏戦争に勝算はないと見ていた。これは,国防相ブロンベルク元帥と近い見解だった。
しかし,ヒトラーは,オーストリア併合,チェコのステーテンランド進駐と,戦争を辞さない覚悟で,周辺の民族ドイツ人の地域を併呑していった。ヒトラーは,「夢遊病者の確信を持って進む」として,戦争回避を優先する英仏を威圧して,意思を断固貫徹した。ベック上級大将は,1938年8月,参謀総長の辞意を表明,退役。
ADN-Zentralbild / Archiv General der Artillerie Ludwig Beck, Chef des Generalstabes des Heeres, geb.: 29.6.1880 gest.: 20.7.1944 Beck war einer der Hauptbeteiligten an der Verschwörung gegen Hitler vom 20.7.1944 und nahm sich nach dem Mißlingen des Attentats das Leben. (Aufnahme 1937) Archive title: Porträt General Ludwig Beck Dating: 1937
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・/Bild_183-C13564引用(他引用不許可)。


ルートヴィヒ・ベックLudwig Beck上級大将は戦前,参謀長として,ナチスの軍備拡充に尽力した。しかし,チェコスロバキアにズテーテンラント併合を要求をすれば,英仏相手の戦争になると予測した。そこで,ヒトラーの外交・戦争には反対だった。ベック大将は,平和愛好ではなく,勝ち目がない英仏相手の戦争に反対した。

ルートヴィヒ・ベックLudwig Beckは,国防大臣ブロンベルク将軍がスキャンダルで更迭された後(大戦前年9,チェコスロバキアへのズテーテンラント併合要求に反対して,1938年8月,参謀長職を辞職した。そして,10月に退役した。

1938年9月のミュンヘン会談で,英仏がヒトラー総統に譲歩した。ベック将軍の予測は外れてしまい,ヒトラー総統は,自分の判断力に自身をつけた。ヒトラーは,将軍ほど交戦意思の弱い生き物はいないと,将軍たちの戦略的思考の過誤を指摘した。そして,ドイツ参謀本部は尊敬に値しないと考えるようになった。

写真(右)1937年の国防軍幕僚,陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch将軍(右)とルートヴィヒ・ベックLudwig Beck上級大将(左):ドイツの軍備強化に邁進してきた将軍たちだが,ヒトラーがはじめようとしていた戦争には慎重な姿勢を示した。ヒトラー総統は,英仏相手の戦争に自信がないする将軍たちを臆病者と考え,これら二人の将軍を追放した。
ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch は,ポーランド戦役で戦死したが,ベック上級大将は,1938年8月,参謀総長辞意後,隠棲,1944年のヒトラー暗殺計画に加わった。
Wehrmachtmanöver 1937 in Mecklenburg und Pommern Die beiden großen Gegenspieler Hitlers: Der Oberbefehlshaber des Heeres, Generaloberst Frhr. von Fritsch, der den Soldatentod sucht und 1939 vor Warschau fand, und sein Generalstabschef General der Artill. Beck, erschossen 20. Juli 44. [Titel später zugefügt] Archive title: Generaloberst Freiherr Werner von Fritsch und General der Artillerie Ludwig Beck im Gespräch, stehend Dating: 1937 Photographer: Tellgmann, Oscar
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_136-B3516引用(他引用不許可)。


ドイツ参謀本部出身者たちは、ヒトラーが総統になって2年後の1935年,再軍備宣言を契機に,軍の勢力を伸ばそうと画策した。

1937年11月5日、ヒトラー総統は,ドイツ国防軍首脳にヨーロッパの戦争計画を打診した。この会議で,ヒトラーは,東方に新たに生存圏を拡大する必要があるとした。その時期は,ドイツ軍が一新された今であり,装備が旧式化しないうちに行動を開始すべきであるとした。

ヒトラーは,ドイツがオーストリア,チェコスロバキアに侵攻しても,英仏は救援には駆けつけないと判断した。根拠は次のようなものだった。
?1935年3月に再軍備宣言をし,1936年3月にラインランント進駐をしたが,英仏は介入しなかった。
?1936年7月に勃発したスペイン内戦に,独伊は義勇軍を派遣し,ファシストのフランコ将軍を軍事援助したが,英仏は厳正中立を守って,スペイン共和国政府を見捨てた,
?民主国家は,戦争を開始するには堕落しきっており,儲けにしか関心のない資本家は,他国の利益のために行動することはない,

こうして,ヒトラーは,将来西側(英仏,ベルギー,オランダ,デンマーク)に対する軍事作戦を実施するために,ドイツの側面,すなわちオーストリア,チェコスロバキアの脅威を取り除こうとした。

ヒトラーのチェコ侵攻という大胆な戦争計画に,陸軍大臣ブロンベルクBlomberg元帥,陸軍総司令官フィリッチュFritsch上級大将は,反対した。理由は,次のようなものだった。
?ドイツ軍は英仏相手に戦うことはできない,フランス軍だけでもドイツ軍よりも兵力が勝っている,
?チェコスロバキアは,ドイツ軍の侵攻に備えて防備を固めている,
?フランス軍の攻撃を食い止めるにはドイツの要塞(ジークフリート線)は不十分である。

ドイツ軍最高権威の二将軍は,ヒトラーの意に反して,チェコスロバキアとの戦争に反対した。

1937年当時,ヒトラーは,ドイツ参謀本部が戦略の専門家であると信頼していた。再軍備宣言以来,勇ましい言葉を口にしていた将軍たちは,戦争開始となると,とたんに怯え始めた。慎重論を説くようになった。

ドイツ参謀本部の将軍たちは,戦略家・軍事専門家として,チェコスロバキアとの戦争開始を時期尚早として異議を唱えた。これ以来,ヒトラーは,戦争に怯えたる弱腰将軍から,距離を置くようになる。ヒトラー総統が期待していたのは,士気旺盛な勇士であり,的確に戦争を遂行できる戦略・戦術の軍事顧問だった。

◆ヒトラーは,最高司令官として,指揮官に議論ではなく服従を求めていた。軍専門家に期待したのは,戦争計画の具体的な立案っだった。反抗的態度を示したり,戦争を回避しようとしたりした弱腰の将軍たちは,ヒトラー総統によって,罷免,追放された。

◆挙国一致の戦争開始に躊躇する陸軍総司令官フリッチュ将軍,国防大臣ブロンベルクWerner von Blomberg将軍は,ともに1938年に現役から追われた。

1)フリッチュ将軍は,同性愛の嫌疑をかけられ,名誉を失った。裁判では,有罪にはならなかったが,恥辱を受けた陸軍総司令官は追放された。
フィリッチュ将軍は,1939年9月のポーランド侵攻に加わり、戦死。事実上,名誉を守るための自決的突撃だったようだ。ポーランドに侵攻したドイツ軍は,彼が育て上げたものだった。

2)国防大臣(陸軍大臣)ブロンベルクWerner von Blomberg元帥は,いかがわしい女性との結婚が問題とされた。ヒトラーもブロンベルクの結婚式に出席していた。ヒトラーは自らの戦争計画に反対する将軍は排除するために,スキャンダルを誇大に取上げ,国防大臣(陸軍大臣)を解任した。

3)大戦勃発後,エルヴィン・フォン・ヴィツレーベン Erwin von Witzleben元帥(1881-1944/8/9処刑)も,1942年3月,西方軍最高司令官を罷免された。

◆ベック大将,ヴィツレーベン元帥など失職将軍たちが,1944年7月20日ヒトラー暗殺事件に関与した。反乱将軍たちは,暗殺後に樹立される新政権の政治的・軍事的指導者の地位を手に入れようとしたが,誰一人として,ヒトラー暗殺に手を下さず,反乱部隊を直接指揮しなかった。これがヒトラー暗殺計画がことごとく失敗した最大の原因だった。

3.第二次世界大戦の勃発

1939年1月30日の国会演説で、ヒトラー総統は,国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は,ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅であることを予言した。

ナチ党独裁の下では,反ナチスは全て的であり,それはドイツ人を人種汚染し,ドイツを破壊しようとするユダヤ人,共産主義者(ボリシェビキ),知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的犯罪者など非国民」,パルチザンとそのシンパ・予備軍である。

敵を拘束,懲罰する,あるいは敵に恐怖を与える場所が,強制収容所KL(ラーゲル)や刑務所で,ラーゲルを管理・監視したのが親衛隊国家長官ヒムラー支配下の髑髏部隊である。

ナチス政権獲得直後から始まった強制収容所の設置を読む。

◆ヒトラー総統は,大規模な公共事業・軍需拡大,勤労動員など拡張財政を推し進め挙国一致を実現したかのような印象を与えたために,一部の歴史家は,それを「偉業」としている。しかし,ヒトラーの究極目標は,『わが闘争』Mein Kampfや国会演説でも,明言しているとおり,ドイツ人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくる共産主義者(ボリシェビキ)・国際金融資本家のユダヤ人をヨーロッパから排除することである。

したがって,もしヒトラー総統が,戦争を起こさなかったなら,高い評価を得たはずだという議論は,成り立たない。ユダヤ人が戦争を仕掛ける前に,対ユダヤ人戦争を始めるつもりだった。ドイツを再興し,軍備を整えたのは,戦争のためである。ドイツのヨーロッパ支配,東方ソ連生存圏Lebensraumを獲得するためである。東方ソ連の住民(ロシア人,ポーランド人など)は下等劣等人種として,農奴,奴隷労働者へと貶められた。


写真(右)1941年5月,ワルシャワ・ゲットーのストリートチルドレン(ルンペン:浮浪者):ポーランド降伏から1年後,1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーGhettoを作る法令が出された。
ワルシャワでは,ゲットー設置命令以降,1940年10月第3・4週だけで,ポーランド人キリスト教徒11万3000人が立退かされ,13万8000人のユダヤ人が流入した。家屋・土地,家畜・家具全てを置き去りにして,抱えられるだけの荷物を携行して,移送されるユダヤ人。通貨,宝石,貴重品は携行してたであろうが,家屋・土地はもちろん,思い出の故郷と断ち切られた。
ワルシャワの2.4%の区域のゲットーに,ワルシャワ人口の30%を占めるユダヤ人が押し込められた。その結果,人家族が住んでいたアパートに2-3家族が暮らすことになった。 貧しかったもの,親のいない子供,病人は,隔離されたゲットーでの生存競争にさらされ,真っ先に亡くなった。
Polen, Warschauer Ghetto.- Auf der Straße liegendes jüdisches Kind in Lumpen (schlafend, krank oder sterbend?); PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Zermin撮影。写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・Bild_101I-134-0771A-38引用(他引用不許可)。


反ユダヤ主義に基づいて,1933年4月,公職追放,5月,焚書,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,
1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,
1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。
ユダヤ人の基本的人権を制限・侵害する法律が次々と出された。

◆ヒトラー総統は,一つの民族,一つのドイツ,一つの総統という挙国一致を理念とし,ドイツを復興させた。東方ソ連という生存圏を獲得し,ドイツ人を人種汚染し,共産主義と金融資本家・政治家を操ってソ連・米英を煽動し戦争を仕掛けてくるユダヤ人を排除する戦いが不可欠である考えた。ヒトラー著『わが闘争』には,ユダヤ人排除・追放,反共産主義,東方ソ連における生存圏の確保が明確に述べられてる。
 したがって,ヒトラー総統の国内経済政策を偉業だった,第二次大戦を起こさなかったら,ヒトラーも政治家として高く評価されたという仮定は,完全に否定される。



4.ヒトラー暗殺未遂事件 July 20 plot:Attentat vom 20. Juli 1944

(1)ヒトラーに罷免された西部方面軍総司令官フォン・ヴィツレーベン将軍

写真(右)19140-41年, ドイツ国防軍西部方面軍総司令官エルヴィン・フォン・ヴィツレーベンvon Witzleben元帥 (1881/12/4-1944/8/8) :
第一次世界大戦に,中隊長,大隊長として参戦したフォン・ヴィツレーベンは,ヒトラーと同じ第1級鉄十字章を授与された。ナチス政権下の1934年に師団長,1935年に軍団司令官に就任。
1938年,ヒトラーによるチェコに対するズデーテンラント割譲要求が世界大戦を引き起こすことを懸念し,ベック参謀総長,カナリス国防軍諜報部長,ヘプナー中将,シュテュルプナーゲル参謀次長と反ヒトラー・クーデターを計画。しかし,英仏が,ミュンヘン会談でヒトラーの要求を受け入れたために,計画は中止。
第二次世界大戦では,西部戦線の第一軍司令官として,フランスを降伏させ,騎士鉄十字章を授与され,元帥に昇進。1941年,フォン・ルントシュテット元帥の後任として,西部方面軍総司令官に就任。しかし,1941年6月22日のソ連侵攻バルバロッサ作戦に反対したために,1942年3月,西部方面軍総司令官を罷免
Generalfeldmarschall von Witzleben Archive title: Porträt Erwin von Witzleben als Generalfeldmarschall (seit 19. Juli 1940) mit Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes Dating: 1940/1941 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1978-043-13引用(他引用不許可)。


戦争を始めようしない陸軍総司令官フリッチュ将軍,国防大臣ブロンベルク将軍は,ともに1938年に現役から追われた。フリッチュ将軍は,1939年9月のポーランド侵攻のとき,戦死。事実上,名誉を守るための自決的突撃だった。

エルヴィン・フォン・ヴィツレーベン Erwin von Witzleben元帥(1881-1944/8/9処刑)も,ヒトラー総統に服従しない戦意の低い将軍として,1942年3月,西方軍最高司令官を罷免された。

ヒトラー総統は,戦争開始に躊躇する将軍たちを,弱腰と感じるようになった。総統が期待していたのは,戦意のある粗暴な将軍でありる。

1944年7月20日ヒトラー暗殺事件に関与したのは,ヒトラーに罷免・更迭された将軍たちだ。反乱将軍は,自らはヒトラーに銃を向けることをせず,反乱部隊を率いることもしなかった。暗殺とその後の政権奪取の計画は,佐官・尉官クラスの若手将校にまかせていた。しかし,反乱将軍たちは,ヒトラー暗殺後,政治的・軍事的指導者の地位を手に入れようとした。

1939年9月1日,ドイツ軍のポーランド侵攻が開始。ドイツは占領したポーランドのユダヤ人を,都市の一角に作った居住区ゲットーに詰め込んだ。これは,主にナチス親衛隊SSの仕事だったが,ドイツ国防軍も関与していた。

1940年5-6月,フランスを敗北させたヒトラー総統は,ドイツ国民の喝采を浴びた。ゲットーに対する批判,人種差別への反対を表明したドイツの軍将兵,一般市民はほとんどいなかった。シュタウフェンベルク大佐も,フランス降伏に幻惑され,戦争終結を期待した。

(2)殲滅戦争への反感

写真(右)1941年7月,ソ連中部,ベラルーシ(白ロシア)モギリョフで拘束されたユダヤ人:監視役の中央手前のドイツ軍兵士の後ろにいるユダヤ人たちは,巨大なユダヤの星(ダビデの星)の白布をつけられている。
1933年のナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)政権獲得直後にダッハウ強制収容所を開設,反ナチス的な人物を保護拘禁した。反ナチスを弾圧する方針を見せ付ける恐怖による威嚇,テロである。
強制収容所を発展させたトレブリンカ,アウシュビッツなどユダヤ人強制収容所は,独ソ戦開始後の1941年後半から稼動した。収容所を運営したのは親衛隊SSであるが,ドイツ国防軍の将兵も,ユダヤ人ゲットー,ユダヤ人強制収容所の存在は,みな知っていた。
Rußland-Mitte, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Austeilen von Spaten an Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen; Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf撮影。写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・Bild_101I-138-1083-37引用(他引用不許可)。


1941年6月22日,ドイツ軍はソ連侵攻バルバロッサ作戦を発動。西部戦線でイギリスと戦っている最中,東部戦線を新たに開くことに,ドイツ軍将官たちは懸念を示したが,東方ソ連の共産主義,ボリシェビキBolshevikを憎悪していた彼らは,8週間でソ連を降伏させるつもりだった。

当初,大戦果をあげたバルバロッサ作戦だったが,1941年12月になっても,モスクワは陥落できず,ソ連軍は冬季攻勢をかけてきた。

ヒトラーは,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。----しかし,国家社会主義が礼拝の形をとって宗教の真似事をする決してない。----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」

10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」
◆ヒトラーは,古い神聖ローマ帝国,ハプスブルク家,ホーエンツォレルン家の貴族主義を嫌悪し,新しいナチ党独裁帝国を建設しようした。弱肉強食の掟・生存競争を奉じ,弱いものを虐げ,領土を拡張して支配民族になろうとした。

11月11日:「私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。

1941年12月25日ヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。-----われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。-----こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。」

1942年1月23日:「ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。-----ユダヤ人は,何事にも障害となっている。-----だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。ユダヤ人をロシア人捕虜とは違った扱いにする必要などない。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」

◆人種民族差別,独ソの過酷な殲滅戦、占領地における治安悪化が結びつき,日米開戦を契機として,ヒトラーは,本格的なヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅戦争を強行した。ヒトラーは,ドイツに戦争を仕掛けてきた敵に責任を取らせるつもりで,ユダヤ人・ボリシェビキ絶滅のための最終戦争を戦った。


写真(右)1941年9月,ソ連北部でパルチザン容疑者6人を銃殺した直後,拳銃で止めをさすドイツ軍兵士:パルチザン容疑者が集合させられ,処刑場に向かい,銃殺された。銃殺を行うドイツ軍兵士も,精神的な負担が感じていた。相手が,女子供であれば「パルチザン」として平然と処刑することはできないだろう。後にユダヤ人絶滅収容所でガス殺し,遺体をユダヤ人囚人からなるゾンダーコマンドに処理させたが,これは処刑者の精神的負担を軽減するためだった。
 ドイツ国防軍や親衛隊による(今日の視点で)残酷な画像を,連邦アーカイブは,隠すことなく公開している。ここには処刑の写真も多数保管,公開されている。写真を一枚ずつ探してゆくと,パルチザンの集合,処刑場への連行,処刑直前,処刑の瞬間,処刑直後の一連の流れをみつけることができる。(→ソ連侵攻バルバロッサ作戦参照)
しかし,日本では国立国会図書館が資料を整理,公開しているが,web公開に十分な予算が充てられているわけではない。
一流政治家や自衛隊幕僚は,東京裁判史観はけしからん,米軍の占領政策に洗脳されたと話だけで終わるのではなく,歴史資料を収集・保管・公開するために行動してほしい。そのための予算工面に尽力してほしい。
過去の歴史に無知であれば,それを恐れるあまり,歴史を捏造しプロパガンダを展開するしかなくなってしまう。これは未知の亡霊を妄想し恐れるからだ。しかし,冷静に歴史を知り,殺害された人々にも思いを馳せることで,真実の姿が見えてくる。錯誤,罪悪の範囲が,光明が見えてくる。そうすれば過去を恐れることはない。
Sowjetunion-Nord.- Erschießung von Männern ("Partisanen"), Marsch auf Straße unter Bewachung durch deutsche Soldaten; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・Bild_101I-212-0221-08引用(他引用不許可)。


ドイツ国防軍司令部は,ソ連侵攻バルバロサ作戦の発動直前,ソ連共産党がソ連軍兵士の政治教育のために派遣していた政治委員コミサール殺害を命じていた。

写真(右)1942年3-4月,ソ連でパルチザンとして縛り首にされ見せしめに吊るされた死体:無残な姿を晒すことで,恐怖を撒き散らし,反逆を怖気させようとした。これは,恐怖による支配,すなわちテロリズムである。
しかし,このような残虐行為は,住民のドイツに対する嫌悪感を引き起こし,治安をかえって悪化させた。木の幹にある掲示板には,処刑の罪状,写真撮影禁止などと書いてある場合が多い。Rußland-Mitte.- erhängter Mann, März/April 1942; PK 689 Dating: 1942 März - April Photographer: Kroll撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・Bild_101I-146-1522-28A引用(他引用不許可)。


バルバロッサ作戦の最中,ユダヤ人や現地ロシア人・ウクライナ人など,パルチザン容疑者の大規模な処刑,ソ連軍捕虜の虐待など,人間性を疑わせるような殺戮が起こった。これは,主にナチス親衛隊SSアインザッツグルッペが引き起こしたが,ドイツ国防軍(陸軍)も,ソ連共産党政治委員(コミサール)を捜索,銃殺していた。

一般住民や捕虜の殺戮に,少なからぬドイツ国防軍将兵が反感を持ち,暴走したドイツ軍部隊による虐殺をやめさせようとしたり,抗議したりした。
しかし,虐殺は,決して現地部隊の暴走ではなく,最高位からのユダヤ人,パルチザン,敵性住民の処刑が指示されていた。それでも虐殺に反対した国防軍将官もいたが,そのような人物は罷免された。虐殺反対の抗議は沈黙させられた。

 ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。多数の将兵も,虐殺の噂を聞いていたし,自ら後方の治安維持作戦を目撃した。が,殺戮をやめさせよう声を上げたドイツ軍将兵は少なかった,多くの将兵は,やむをえない,戦争を早く終わらせたい,帰国したいと考え,殺戮は親衛隊の責任だとした。

多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。不確実で,確かなことはわからないと,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥った。これは,厭戦気分の蔓延を意味することになった。

写真(右)1943年7月,ソ連でパルチザンとして逮捕された少年:パルチザンは,見せしめに公開縛り首や銃殺にされることもあった。パルチザン(ゲリラ)の処刑(銃殺,縛り首)は,軍法上,問題ないと諭されても,善意のドイツ一般市民が目にすれば,凄惨なものと感じられたはずだ。誰も子供を処刑することを喜ばない。このような年少「パルチザン」の逮捕,集合の陰惨な画像は,次にくる処刑を予感させる恐怖がある。ドイツ連邦アーカイブに何枚も保管されている。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・Bild_101III-Niquille-067-19引用(他引用不許可)。


ドイツ軍はモスクワ前面で敗退したが,これは決して,ロシアの厳寒「冬将軍」のためではない。?ソ連軍が厖大な予備兵力を擁していたこと,
?極東方面の第一線部隊をモスクワ前面に移送・配置したこと
?ソ連侵攻中の虐殺事件にドイツ軍将兵の中に殲滅戦争継続への疑問がうまれたこと
が指摘できる。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした。

ソ連侵攻バルバロッサ作戦・パルチザン処刑を読む。

(3)ヒトラー暗殺計画

東部戦線で,ポーランド侵攻に参加した後,1942年4月から中央軍集団参謀長となったヘニング・フォン・トレシュコウHenning von Tresckow大佐は,ソ連侵攻バルバロサ作戦の最中,親衛隊アインザッツグルッペ(特別行動部隊)が,ユダヤ人やソ連軍捕虜を大量処刑していることに衝撃を受け,ヒトラーの戦争方針に反発するようになった。

1942年9月,中央軍集団総司令官ギュンター・フォン・クルーゲGünther von Kluge元帥は,反ヒトラー派の中央軍集団参謀長トレシュコウ大佐に,反ナチスのクーデターに参加するように,説得された。クルーゲは,積極的には加わらなかったが,トレシュコウの謀略を黙認した。

1943年3月,ヒトラー総統がソ連スモクレンの中央軍集団司令部を訪問する時に,暗殺する計画を立てた。これは,フォン・トレシュコウ少将の副官ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフFabian von Schlabrendorff中尉(1907-1980)が時限爆弾を仕組んだ酒ビンを,ヒトラー搭乗機に仕掛けるという爆破計画だった。しかし,信管が不調で爆発せず失敗した。時限爆弾入りの酒ビンは,輸送機から回収できたために発覚しなかった。

反乱将軍たちは,国家元首暗殺という反乱罪と暗殺失敗による処刑を恐れ,怖気づいた。ヒトラー暗殺失敗のリスクは大きく,暗殺計画は頓挫した。時限爆弾をしかけるような手間をかけなくとも,ピルトル1丁でヒトラーをを射殺できたが,これは死を覚悟しなくてはできることではなかった。

戦時下で起こるかもしれないドイツ国内の反乱に対応するために,国内予備軍司令部で反乱鎮圧「ヴァルキューレ作戦」が策定されていた。ヒトラーは,第一次大戦の敗北の原因を,後方における背後からの一突き,ドイツ国内のユダヤ人・ボリシャビキの裏切りに求めていた。そこで,第二次大戦中も,ドイツ国内の反乱に注意していた。

国内予備軍幕僚のフリードリヒ・オルブレヒトFriedrich Olbricht,クラウス・フォン・シュタウフェンベルクらは,国内反乱鎮圧計画のワルキューレ作戦を利用して,ヒトラー暗殺後,政権を奪取するクーデタを立てた。これが,1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件である。

写真(右)1944年7月,ヒトラー暗殺計画Valkyrieを企てたシュタウフェンベルクClaus Schenk Graf von Stauffenberg 大佐(1907-1944) :国内予備軍司令部参謀長の要職にあったために,ドイツ軍の反乱・内乱に備えた鎮圧計画「ヴァルキューレ作戦」を反ヒトラー政権の樹立に役立てようとした。大戦初期、ポーランド、フランス、ロシアに勤務した後,1941年12月,参謀本部作戦課に入る。1943年、北アフリカ戦線に派遣,左目,右手の指、左手の指の一部を失う。
ドイツ本土帰還後,反ヒトラー派の国内予備軍副司令官オルブリヒト将軍によって,国内予備軍参謀長に任命。クーデタ鎮圧のための「ヴァルキューレ作戦」によって,反ヒトラー政権の樹立を画策した。東プロイセンのラステンブルク総統大本営の会議室に、時限爆弾の入ったカバンを置いて逃走。会議室の大爆発によって,ヒトラー暗殺を確信。もしも,彼が爆発後,会議室に駆けつけ,現場検証していたら,生存していたヒトラーを見つけ,その場で射殺したであろう。
写真は,Haus der Geschichte Baden-Württemberg引用。夫人のニーナ・シェンクNina Schenkは,2006年4月2日死去,92歳。


クラウス・フォン・シュタウフェンベルク Claus Graf Schenk von Stauffenbergは,1939年9月のポーランド侵攻に,第6装甲師団に配属され参加した後。引き続いて,1940年5月のフランス侵攻,1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦に従軍した。一級鉄十字章を授与され,1941年末には参謀本部勤務に栄転している。その後,1943年1月,北アフリカ戦線に従軍,第10装甲師団参謀長に就任した。

写真(右)1945年6月,アメリカ軍は、オーストリア、マウトハウゼン強制収容所支所ドーラ・ミッテルバウ収容所を解放したが、V-2弾道ミサイルを作らされていた多数の囚人の遺体が見つかった。:ドーラ=ミッテンバウ収容所の地下秘密工場で製造されていたV-2ロケットは,弾頭1t,射程300kmの大陸間弾道弾で,ロンドンとアントワープを主目標に3000発が発射。ナチスの最新秘密兵器の生産を担っていたのは,ユダヤ人など1万名以上の奴隷労働者だった。ブーヘンヴァルト強制収容所における点呼では、所外に駆り出された労働作業班は,収容所に帰ってくる夕方,点呼をとられたが,1-2時間もかかったという。収容者を効率的に働かせるよりも,痛めつける懲罰,虐殺の意味合いが強かった。
Corpses of victims lie on the straw floor of a barrack of the Nordhausen concentration camp. William B. Curtis Date:April 1945
写真はU.S. Holocaust Memorial Museum , CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau Sub-camps -- Nordhausen -- LIBERATION -- Victims/Burial/Confrontation、Photograph Number: 54686 引用(他引用不許可)。


German Resistance Memorial CenterGedenkstätte Deutscher Widerstand:Claus Schenk Graf von Stauffenbergによれば,シュタウフェンベルクの反乱への参加は,次のような道筋である。

1943年4月初め,シュタウフェンベルクは,チュニジアで英空軍スピットファイア戦闘機の銃撃によって,左目,右手の指,左手の薬指・小指を失う重傷を負い,死にかけたが,これがレジスタンスResistanceに身を捧げる契機となった。シュタウフェンベルクは重傷のために,ドイツ本国に送還された。

それ以前,ユダヤ人迫害,東方ソ連での処刑・放火・略奪などの犯罪行為を,国家社会主義ナチスが進めていると考えて反感を持っており,2歳年上の兄ゲルトルードBertholdと反ナチスの行動をとることについて話し合っていたという。

1943年10月以来,国防総司令部の参謀に推挙されていたが,1944年6月にベルリンの国内予備軍Ersatzheer (Reserve Army)参謀長に就任した。これは,国内予備軍副司令官フr−ドリヒ・オルブレヒトFriedrich Olbricht大将が招聘したためである。

ドイツが総力戦を戦うためには,第一線に兵力を送り続ける必要がある。そのために,ドイツ国内(後方)において,民間人,予備役,後備役の軍人を,第一線戦力として準備をする部署が,この国内予備軍司令部である。

国内予備軍参謀長の地位を得たために,シュタウフェンベルク大佐は,東プロイセン(現ポーランド北部)のラステンブルクRastenburg(現ケントシン)にあるヒトラー総統大本営「狼の巣」"Wolf's Lair" に出向く機会が訪れた。

オルブレヒト大将は,シュタウフェンベルク大佐に,反ヒトラー反乱計画を打ち明け,彼をルートヴィヒ・ベックLudwig Beck ,元ライプチヒ市長カール・ゲルテラーCarl Friedrich Goerdelerを中心とするレジスタンスに紹介した。

シュタウフェンベルク大佐は,カリスマ性があり,反ヒトラー派を相互に連携させた。この反ヒトラー派には,軍人だけではなく,元社会民主党ユリウス・レーバーJulius Leberなどの社会民主主義者Social Democrats,外交顧問アダム・フォン・トローストAdam von Trott zu Solzのようなキリスト者・社会主義者「クラウザウ・サークル」Kreisau Circleのメンバー,さらにヤコブ・カイザーJakob Kaiserやウィルヘルム・レスナーWilhelm Leuschnerのような労働運動家もいた。(→Gedenkstätte Deutscher Widerstand German Resistance Memorial Center:Claus Schenk Graf von Stauffenberg引用)

1943年4月,北アフリカの野戦病院で療養中のシュタウフェンベルクは,叔父のファン・ウクスカル伯爵に「これまで将軍たちは何も行動してきませんでした。今度は佐官クラスが決起し,ヒトラーを倒さなければいけません」と語ったことがある。シュタウフェンベルクは,この決意を,国内予備軍参謀長に就任したことで,実行に移すべきだと考えたた。

写真(右)1943年8月,ベルリンで総力戦演説をしたドイツ啓蒙宣伝省大臣ヨーゼフ・ゲッペルス博士(左):総力戦には,銃後の国民の協力,特に労働力提供・資源節約(困窮生活)が不可欠であることを理解していたゲッペルスは,世論を形成するために会堂・メディアを使った啓蒙・宣伝に邁進した。1942年のスターリングラード敗北以降,ヒトラーは国民の前にあまり姿を見せなくなったかわりに,ゲッペルス宣伝相が国民の中に入ってプロパガンダを展開したのである。独裁国家であるからこそ,国民・世論の動向に最大限の注意を払って,「挙国一致」を装う操作をした。
ゲッペルスは,1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件では,レーマー少佐を説得し,反乱側から鎮圧側に寝返らせることに成功した。
Gauleiter Reichsminister Dr. [Joseph] Goebbels, überreichte am Mittwoch (1.9.1943) an 56 Berliner Volksgenossen, die sich bei der Abwehr in der Nacht vom 23. zum 24.8.1943 durch Tapferkeit und entschlossenes Handeln besonders verdient gemacht haben, das Kriegsverdienstkreuz I.Klasse mit Schwertern. Der Kraftfahrer Kurt Fuhrmann erhält aus der Hand des Gauleiters das Kriegsverdienstkreuz I. Klasse mit Schwertern, weil er unter persönlichem Einsatz seines Lebens einen 78jährigen Volksgenossen aus dem obersten Stockwerk eines brennenden Hauses barg. Ausserdem war er an der Bergung von Hausrat hervorragend beteiligt. Durch einen Bombensplitter erlitt er eine schwere Verwundung am Hals. Atlantic-Boesig, 1.9.1943. Dating: 1. September 1943 Photographer: Boesig, Heinz撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1986-100-35引用(他引用不許可)。


1943年2月1日,スターリングラードに包囲されていたドイツ南方軍集団第六軍はソ連軍に降伏,壊滅した。この大敗北によって,ドイツの戦争の前途は怪しくなった。
 スターリングラードでの敗北に直面したナチスは,戦局悪化を率直に認め,銃後・後方のドイツ国民が一丸となって総力戦を戦うべきであると訴えた。

ゲッペルス啓蒙宣伝相は,ベルリンのスポーツ宮殿で大衆を前に総力戦大演説を行い,ドイツが総力戦を戦う決意を決めること,ドイツの勝利の日まで戦い続けることを主張した。
 シュタウフェンベルク大佐が参謀長となった国内予備軍は,民間人,予備役,後備役の軍人を,第一線戦力として準備をする部署である。

 1943年7月,連合軍のシチリア上陸以降,ファシストの内部分裂,パルチザン活動の活発化の中,イタリア国民の厭戦は高まっていた。1943年7月25日,イタリアのファシスト評議会は,ムッソリーニ統領解任・逮捕し,ピエトロ・バドーリオPietro Badoglio将軍(1871〜1956)が国王とともに主導する政権が誕生した。

バドリオ政権は,連合国と戦い続けると表明していたが,これはウソで反ドイツ,枢軸国離脱は明らかだった。

1943年9月8日,イタリア休戦と同時に,ドイツ軍はイタリアを占領し,イタリア軍を武装解除,軍政を敷いた。9月,拘束されていたムッソリーニは,ドイツ軍降下猟兵(空挺部隊)に救出され,ムッソリーニは親独傀儡サロ政権(イタリア社会共和国)首班に据えられた。

ドイツの反乱将軍たちは,イタリアの降伏,寝返りをドイツの和平の一案と考えたかもしれない。しかし,連合国の米英ソは,ドイツの無条件降伏を要求しており,単独講和をするつもりがなかった。この点を反乱将軍たちは理解できなかった。

1943年1月24日カサブランカ宣言,1943年12月1日カイロ宣言で明らかにされている枢軸国への無条件降伏要求に対して,対ソ戦を継続しつつ,西側の米英と講和するというのは,ご都合主義で,実は,1945年になってからヒトラー総統,親衛隊ヒムラー長官,宣伝相ゲッベルスが考えたことと同じだった。

連合軍の内部分裂を誘って,ドイツ軍を残したまま,西側にだけ降伏し,共産主義ソ連ボルシェビキとは戦い続けるという無条件降伏しないという非現実的な幻想である。

連合軍首脳は,対ドイツ戦争を,ドイツの無条件降伏で勝利する確信を抱いていた。ヒトラー総統とはもちろん,反ヒトラー派の将軍・新政権要人とすら,和平交渉などするつもりは毛頭なかった。

ルーズベルト大統領は,戦略事務局OSSドノヴァン長官,スイスに滞在していたOSSヨーロッパ本部長アレン・ダレスAllen Welsh Dulles(1893-1969:後のCIA長官)から,ヒトラー暗殺事件のことを聞いていたが,大統領として,ドイツの無条件降伏を求めることを全世界に公約していた。反ヒトラー派のドイツの将軍・政府の要人とは,交渉するつもりはまったくなかった。ヒトラー暗殺未遂事件についても,総司令部に対して,言及することを禁止する命令を出した。

◆伝統的な貴族的プロシア陸軍の価値観をもっていた国防軍の将軍たちは,粗暴さが足りず,親米英派だったために,ヒトラー総統と個人的に対立していた。しかし,ヒトラーと同じく,反共主義を共有し,ソ連には対決姿勢を崩さなかった。国防軍の将軍たちは,ソ連共産党員政治委員(コミサール)射殺命令に,賛成した。ユダヤ人絶滅には,一定の距離を置いていたが,後方におけるユダヤ人強制移送を阻止するための行動は,とらなかった。反乱将軍たちの関心は,米英との和平を結び,敗戦を回避し,ドイツ国防軍を保全することだったようだ。

プロパガンダによって北アフリカ戦線North African Campaign の英雄とされたエルヴィン・ロンメル将軍は,ヒトラーによって陸軍最年少の元帥に昇進し、ドイツ軍の北アフリカでの降伏前に帰国。

西部方面軍B軍集団司令官に就任したロンメル元帥は,国民的人気を逆手にとって,ヒトラー総統に,戦局挽回は困難であると直言した。また,ロンメル直属の部下で反ヒトラー派のハンス・シュパイデルHans SpeidelB軍集団参謀長は,ナチ党政権を終わりにするために,西部戦線に穴を開け,そこから米英軍をドイツに侵攻させる謀略を計画した。

ロンメル元帥自身は,ヒトラーの暗殺・逮捕が可能な職務にいながら,政権転覆の「陰謀」に積極的にかかわることはなかったが,ヒトラー政権の変革・クーデターを支持していた反乱将軍だった。

ヒトラーは,ロンメルが反乱シンパだとわかると,自決を強要した。ヒトラーは,ロンメルをドイツの英雄として喧伝してきたので,ロンメルの反乱を公言できなかった。そこで,ロンメルの家族を保護する代わりに,ロンメルに自決を強要したのである。1944年10月14日、服毒自殺。

ロンメル自殺の事実は隠蔽された。ロンメルは,戦傷悪化による戦死とされ,盛大な国葬が営まれた。国民的人気の将軍が反乱に加担していたとなれば,ヒトラーへの嫌疑が深くなる。それを恐れたプロパガンダだった。

写真(右)ノルマンディーのオマハ・ビーチ(米軍上陸海岸の暗号):1944年7月,欧州侵攻「オーバーロード作戦」で,米軍は「オマハ・ビーチ」,カナダ軍は「ジュノー・ビーチ」と割り当てられた海岸に上陸した。このオマハだけが,ドイツ軍守備隊の反撃を受け,「血のオマハ」と呼ばれた。米海軍歴史センター Naval Historical Center Photo #: 80-G-252557引用。

1943年末,欧州連合軍最高司令官に任命されたアイゼンハワー将軍の下に,ノルマンディー侵攻 The Invasion of Normandyの地上軍として,米軍21個師団(歩兵師団13,装甲師団 6 空挺師団,英軍 17個師団 (歩兵師団l0 ,装甲師団 5,空挺師団2),戦闘機2700,重爆撃機 1956,中型爆撃機 456,軽爆撃機 171,偵察機128が準備された(予備軍を除く)。米本土から太平洋を横断して,イギリスに物資・兵員を運び,訓練を繰り返していたのである。

米軍の上陸兵力は,1944年6月6日のDデイ第一日目には,9万名,5日後には19万7千名,15日後には41万名,30日後には71万6千名,50日後には96万7千名に達した。(The U.S. Army Center of Military History:http://www.army.mil/:OUTLINE OF OPERATION OVERLORD参照)
 
写真(右)ノルマンディーのオマハ・ビーチで米軍が鹵獲したドイツの誘導小型戦車爆弾「ゴリアテ」 "Goliath" (Sd.Kfz.302/303a/303b):連合軍の欧州侵攻に対抗するためにドイツ軍は来たフランスの海岸に陣地を構築「太平洋の壁」と呼んだ。これはカレー周辺を中心に,海岸線近くにコンクリート壕,砲台,交通障害物を構築したものだった。有線でコントロールされる小型無人戦車爆弾「ゴリアテ」Goliath(巨人の意味)も配備された。
しかし,ゴリアテの遠隔操作は難しく,不調の兵器も少なくなかった。制空権を失ったドイツ軍には,上陸海岸線を防備するだけの兵力を集中することも出来なかった。米海軍歴史センター Naval Historical Center Photo #: 80-G-252557引用。


D-Day(the Normandy Invasion)90日後までに,1日当たり4万トンの補給物資が必要だった。そこで,連合軍は,千トンのコンクリート塊40個を準備して防波堤を作り,砂浜海岸に人工港マルベリーMulberry harbourを建築した。小型の速成桟橋も多数建築し,燃料補給用の英仏横断海底パイプラインを敷設した。

ノルマンディー侵攻時,米軍の上陸兵力は,1944年6月6日のDデイ第一日目9万名,5日後19万7千名,15日後41万名,30日後71万6千名,50日後96万7千名。

ノルマンディー侵攻の死傷者は,米地上軍12万5千名,英・カナダ・ポーランド軍8万3千名,連合軍合計で20万9千名,陸戦で3万7千名,航空戦で1万6千名が死亡。ドイツ軍の死傷者は,20万名,捕虜20万名。連合軍の爆撃で1万5千から2万名のフランス民間人も死亡。

写真(右)1942-44年,アドルフ・ヒトラー総統と面談するエルウィン・ロンメル元帥(1891年11月15日 - 1944年10月14日):Wikipediaでは「砂漠のアフリカ戦線において巧みな戦車部隊と歩兵戦術により戦力的に優勢なイギリス軍をたびたびたびたび破り、英首相チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」とまで評された。貴族ではない、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。 数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動・多才な人柄・ナチス党員ではなかった事などから、当時も現在も各国で評価・人気が高い将帥のひとりである。」(wikipedia)と高い評価をしている。
しかし,ロンメルは,1939年のポーランド侵攻では,総統警備大隊長であり,ヒトラーに見込まれて少将に昇進した。1940年のフランス侵攻では,装甲師団長に任命され活躍の場を与えられた。プロイセン貴族でも,陸軍大学・参謀本部勤務経験もないロンメル将軍が,ドイツ最年少の元帥になり,軍司令官に上り詰めたのは,ヒトラー総統が抜擢したからである。このヒトラーの贔屓を身に染みていたロンメルが,ヒトラー暗殺に躊躇し加わらなかったのは当然である。が,米英との和平を進めたのは明らかであり,ヒトラーに自決を強要された。子息は,戦後,政治家・市長になった。
Hitler mit Gen.Feld.Marsch. Rommel Archive title: Generalfeldmarschall Erwin Rommel und Adolf Hitler Dating: 1942/1944 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1977-119-08引用(他引用不許可)。


1944年6月6日の連合軍ノルマンディ上陸時,B軍集団司令官ロンメル元帥は,ドイツ本国で妻の誕生日を祝っていた。悪天候で上陸できないと考えたのであろう。
が,ノルマンディに上陸した連合軍に対する水際反撃が失敗してからは,ロンメルの戦闘指揮に際立ったところがない。これは,西側連合軍との和平を,B軍集団参謀長ハンス・シュパイデルHans Speidel中将とともに模索していたからであろう。

ロンメル将軍は,ノルマンディー防衛失敗後,ヒトラー総統に重大な決断が必要であると直言したが,聞き入れられなかった。つまり,ロンメル将軍は,西側米英と停戦するには,ヒトラー総統の影響力を排除するしかないと理解していた。

1944年7月17日,ロンメルの乗用車が英空軍戦闘機に銃撃され,ロンメルは負傷したのは、ヒトラー暗殺未遂事件の3日前だった。ロンメル将軍は,ヒトラー暗殺に直接加わっていないが,反ヒトラー新政権が樹立されれば,シュパイデル参謀長(戦後の独軍・NATOに指揮官)ととも新政権要職につき,連合国側と和平交渉することになっていた。

1944年6月半ば,東部戦線にいた中央軍集団第二軍参謀長ヘニング・フォン・トレシュコウHenning von Tresckow 少将は,シュタウフェンベルクに「ヒトラー暗殺はいかなる犠牲を払っても決行しなければならない。たとえ失敗する運命にあったとしても,われわれは世界に対して,また将来の世代に対して,ドイツのレジスタンスが大胆に断固たる行動をとったことを示し,いのちをかけて,壮挙を決行したことを示さなければならない」と激励した。

そして,トレシュコウ少将は,シュタウフェンベルクに,B軍集団司令官ロンメル元帥の参謀長シュパイデル中将に会うように促した。シュパイデルは,ロンメルの承認を受けて,政府戦線でドイツ軍を撤退させ,連合軍が進撃しやすい体制を作り,和平を促すこと計画していたのである。

1944年6月末,中央軍集団第二軍参謀長トレシュコウ少将は,ファン・ベラガー中佐を西部方面軍司令官ギュンター・ハンス・フォン・クルーゲ元帥のところに派遣し,西部戦線の意図的な後退をするように要請している。クルーゲとロンメルは,議論の末,西部戦線で戦闘を続けることは道理にかなっていないという結論に達した。これは,西部戦線での和平,事実上の降伏を意味するものだった。しかし,ロンメルは7月17日,英軍機の襲撃を受けて負傷,クルーゲ元帥がロンメルのB軍集団も指揮することになった。

写真(右)1942年6月,東部戦線の南方軍集団司令部で指揮を執るヒトラー総統と軍幕僚たち:左から,参謀本部作戦課長アドルフ・エルンスト・ホイジンガー中将(1897-1982),第二軍司令官マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将(1881-1954),アドルフ・ヒトラー総統(1889年4月20日-1945年4月30日自決),第六軍司令官フリ−ドリヒ・パウルス装甲兵大将(1890-1957),第1装甲軍司令官エバーハルト・フォン・マッケンゼン上級大将(1889-1969),南方軍集団総司令官フェオドル・フォン・ボック元帥(1880-1945年5月4日英軍機の銃撃により戦死)。
Zentralbild An der Ostfront, Juni 1942 Adolf Hitler bei einer Lagebesprechnung im Hauptquartier der Heeresgruppe Süd. Von links nach rechts: Generalleutnant Adolf Ernst Heusinger, General der Infanterie von Sodenstern, Generaloberst Max Freiherr von Weichs, Adolf Hitler, General der Panzertruppe Friedrich Paulus, Generaloberst Eberhard von Mackensen und Generalfeldmarschall Feodor von Bock. Juni 1942 Dating: Juni 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-B24543引用(他引用不許可)。


1944年7月初頭,東部戦線のドイツ陸軍への補充として新たに15個師団を海軍・空軍の兵力と軍需産業の労働者から転出させることをヒトラー総統は,決意した。そして,7月9日,本部としているベルクホーフから,東プロシア(プロイセン)のラステンブルク大本営「狼の巣Wolfsschanze」に空路出向いた。東部戦線のモーデルOtto Model元帥(1891-1945/4/21) ,フリースナー将軍,空軍グライム Ritter von Greim将軍と会談するためである。そして,その日のうちに,ベルクホーフに戻った。

東部戦線では,圧倒的なソ連軍の攻勢の前に情勢が緊迫し,ドイツ参謀本部を当てにできないヒトラーは,ドイツ軍体勢立て直しのために,自らが東部戦線総司令官として,ラステンブルク総統大本営「狼の巣」にとどまる決意をした。

ヒトラー総統は,1944年7月14日,東プロシアのラステンブルク総統大本営「狼の巣」に東部戦線の指揮をとるために再び出かけた。総統大本営の地下壕は,まだ未完成だったので,ヒトラーは臨時に客人用の地下壕に移った。戦争会議は,そこから30メートルほどの仮兵舎を作戦会議室として,開かれることになった。

1944年7月の新たな15個師団の編成に加え,国内予備軍(司令官フロム上級大将)の提供できる兵力も問題になった。そこで,ベルリンの国内予備軍司令部参謀長フォン・シュタウフェンベルク大佐が,総司令部と国内軍の連絡を取りながら,兵力抽出に協力することになった。

(4)総統大本営爆破・ワルキューレ(Valkyrie)発動(1944年7月20日)

写真(右)ヒトラー暗殺事件5日前1944年7月15日,東プロイセン大本営「狼の巣(ヴォルフスシャンツェ)」のシュタウフェンベルクvon Stauffenberg大佐(左端)とヒトラー総統の幕僚:左端からシュタウフェンベルク、総統副官プットカマー海軍少将,空軍連絡将校ボーデンシャッツ大将(ヒトラーと握手),ヒトラー,国防軍最高司令部総長カイテル元帥。
シュタウフェンベルクはフランス侵攻、ソ連侵攻に加わり、第一級鉄十字章を授与された。1941年末に参謀本部に転勤したが,1943年、末期の北アフリカ戦線の装甲師団参謀長として赴任。しかし,19434月7日、英空軍機の機銃掃射によって負傷。その後,国内予備軍フロム将軍,副司令官オルブリヒトOlbricht将軍の下で,国内予備軍参謀長に就任。
国内予備軍は,兵力維持と治安維持を担当していた。そこで,任務の一環として準備していた反乱鎮圧のための「ワルキューレ作戦」によってヒトラー暗殺後の政権奪取を計画した。そして,国内予備軍参謀長としてヒトラー主催の総統大本営作戦会議に出席できるシュタウフェンベルクが,暗殺実行犯となった。
Bei Rastenburg, Führerhauptquartier "Wolfsschanze".- vlnr: Claus Schenk Graf von Stauffenberg, Karl-Jesko von Puttkamer, unbekannt, Adolf Hitler, Wilhelm Keitel am 15.7.1944 Dating: 15. Juli 1944
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1984-079-02引用(他引用不許可)。


1944年7月19日,ヒトラー総統は,東部戦線に新たな2個師団を調達するために,プロイセン州のドイツ人から民兵の国民突撃隊を調達することを命じた。そして,国内予備軍が,翌7月20日,国内軍の状況を報告するように求められ,国内予備軍参謀長シュタウフェンベルク大佐が,7月20日,副官ヘフテン中尉を伴ってラステンブルクの総統大本営Wolfsschanze作戦会議室に出頭することになった。

1)総統大本営での爆発(1944/7/20/1240):
ラステンブルクの総統大本営における作戦会議は,ムッソリーニの訪問があるために,30分繰り上げ7月20日1230に開始されることになった。国防軍最高司令部総長ウィルヘルム・カイテルWilhelm Keitel将軍は,少したってから,国内軍(司令官フロム将軍)参謀長シュタウフェンベルク大佐を,ヒトラー総統に紹介した。作戦会議室には24名いた。シュタウフェンベルクは時限爆弾入りの黄色い折カバンを作戦会議室のテーブルの下においた。そして,素早く会議室を立ち去った。
7月20日1242,爆弾はほぼ予定通り爆発した。

ヒトラー総統は,爆発で吹き飛ばされたが,作戦地図を広げた厚い木製テーブルのためか,軽傷だった。廊下から,カイテル将軍に支えられて,外に出た。従兵のオットー・ギュンシェに付き添われ,総統地下壕に戻った。従僕が侍医モレルを呼びに行った。爆発当初,ヒトラーは,航空機の爆撃かと思ったが,航空機は発見されておらず,トート組織の建設労働者による爆弾テロに遭遇したと推測した。爆発現場の検証,ゲッペルス宣伝相への連絡,そして爆発事件についての秘密厳守を命じた。

写真(右)1944年7月,ヒトラー暗殺事件現場を見学するヒトラーとムッソリーニ:ヒトラーは,このときは,ヒトラー爆殺計画がドイツ国防軍によって企てられらとはわからなかった。軍人の関与は個人として,数名の反抗だと思っていた。しかし,不安な表情のムッソリーニは,これがイタリアと同じくファシスト(ナチス)の裏切り,軍の反乱と考えたのではないか。パルチザン,軍の反乱を経験したムッソリーニは,ナチスの崩壊を予期したであろう。ヒトラーが生き残ったことすら喜ばなかったかもしれない
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1969-071A-03.引用(他引用不許可)。


ヒトラーの個人秘書トラウデル・ユンゲによれば,爆発音が不安を感じたのは,爆破の大音響のためではなかった。総統大本営では,銃や高射砲の射撃訓練,工事なので騒音に慣れていたからである。しかし,従兵が必死で使者を呼んでおり,「爆弾が爆発した。たぶん総統ブンカーだ」との情報に接して,動揺と恐怖のどん底に陥れられた。個人秘書シュレーダーが「ヒトラーが死んだら私たちはどうなるの」と聞くので,総統ブンカーと隣のバラックに向かった。

国防軍統帥部長ヨードル将軍の顔は血だらけでカイテル元帥の副官ヴァイツネッカーの軍服にも赤いしみがついていた。道の先は通行禁止になっていて秘書は追い返された。ヒトラーが死んだら,彼の後を継ぐのはヒムラー,ゲーリング,ゲッペルス? 彼らはヒトラーに照らされる月であり,無理だろう。ヒトラーの敵が新政権を樹立するのか。

好奇心から総統ブンカーに向かい,髪の毛が全て逆立って,腰蓑のようなズボンをまとっているヒトラ-を見て,ユンゲは吹き出しそうになった。ヒトラーは,右手を軍服のボタンの間に入れ,左手で挨拶した。「さあ,ご婦人方,今度もうまくいきました。やはり私は天命を授かった人間なのですね。そうでなければ,この世にはもういませんよ

ヒトラーは爆発の原因について「卑怯者が企てた暗殺計画だ」「爆弾を仕掛けたのはトート機関の技師だ。他の可能性は考えられない」と述べた。

総統侍従ハインツ・リンゲが,時計を見ながら「総統,ズボンを履き替えにならないと。1時間以内にドゥーチェ(ムソリーニ)がいらっしゃいます。」ヒトラーは,背筋を伸ばして部屋に戻っていった。

ヒトラーが部下たちと暗殺事件について話していた時,シュタウフェンベルク大佐がその場にいなかった唯一の将校で,彼が電話をしに外に出たことに言及された。その時。電話係のアダム上等兵が,「総統,シュタウフェンベルク大佐は爆発直前に会議実を出ましたが,電話をしようとしたのではなりません。バラックを出て行ったのです。私は,彼が犯人だということもありうるとご忠告申し上げたいと思います」と述べた。

しばらく沈黙が支配した。誰もそれまでドイツ国防軍の将校,それもヒトラースタッフが,暗殺未遂実行犯だとは疑っていなかったからである。ヒトラーは,訝しげにシュタウフェンベルクを取り調べるように命じた。(トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった』pp.191-195草思社参照)

7月20日1315,新しい制服に包帯をしたヒトラー総統は,大本営の通信責任者ルドルフ・サンダー大佐を呼びにやり,ドイツ国民にできるだけ早く自らの声を聞かせる準備をさせた。放送用の自動車がケーニヒスベルクから派遣されることになった。

写真(右)1944年7月20日のヒトラー爆殺未遂現場を見学する官房長官マルチン・ボルマン,空軍大臣ヘルマン・ゲーリング元帥,ブルーノ・レルツァー上級大将:ヴォルフスシャンツェ作戦会議室における大爆発にもかかわらず,軽症で済んだヒトラーは,これを「どでかい幸運」,運命の摂理と考えた。ヒトラーは,連合軍相手に徹底抗戦する意思を固めると同時に,第一次大戦敗戦の原因と彼が指摘してきた「背後からの一突き」「後方の裏切り者」が第二次大戦中のドイツにもいると考えた。反逆者に対する血なまぐさい報復が始まった。
Attentat vom 20. Juli 1944 Besichtigung der zerstörten Baracke im Führerhauptquartier "Wolfsschanze" bei Rastenburg, Ostpreußen (v.l.n.r.: X, Bormann, X, Göring, Bruno Loerzer - Generaloberst der Luftwaffe; X)
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1972-025-10引用(他引用不許可)。


1944年7月20日1242,総統大本営の作戦会議室における爆発によって,ギュンター・コルテンGunther Korten上級大将(7月22日死亡),ドイツ国防軍副官ルドルフ・シュムントRudolf Schmundt少将(大将昇進後10月1日死亡), 参謀本部ハインツ・ブラントHeinz Brandt大佐(7月22日死亡), 速記者ハインリヒ・ベルガーHeinrich Berger(7月20日死亡)の4名が殺害された。

そして,ヴァルター・シェルフ,Walter Scherff少将(敗戦後1945年5月24日自決), 海軍副官プットカーマーKarl-Jesco von Puttkamer提督(1900-1981) , ボルクマンHeinrich Borgmann大佐(1945年4月6日空襲で戦死),空軍参謀総長ボーデンシャッツ Karl Bodenschatz大将(1890-1979),参謀本部作戦部長アドルフ・ホイジンガーAdolf Heusinger中将(1897-1982)が負傷した。

写真(右)1934年、ヒトラー総統と個人秘書から権力を掌握したマルチン・ボルマン Martin Bormann (1900年6月17日 - 1945年5月2日?):1933年7月4日に副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書となり、1941年にヘスが和平交渉をしようとイギリスに単独飛行で飛び失脚した後、ナチ党官房長官に就任。ナチ党の総務担当者となった。ヒトラーの言葉をメモをとり、それを実行に移すことで、ヒトラーの信頼を得た。そして、ヒトラーとの面会を取り付けようとする人物の選択を任されたことで、ボルマンはヒトラーの代弁者あるいは仲介者として権力を握るようになる。ヒトラーがドイツ軍最高司令官としての多忙な軍務に当たったため、ナチ党による一党支配の政治は党官房長官のボルマンが事実上統括するようになった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-R14128A Original title: info Zentralbild Reichsleiter der NSDAP Martin Bormann, Leiter der Dienststelle des Stellvertreters Hitlers. Aufnahme 1934. 3799-34 Archive title: Porträt Martin Bormann Dating: 1934 Photographer: o.Ang. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ヒトラー暗殺が失敗したテクニカルな理由:
?シュウタンフェンベルク大佐は,総統大本営で,作戦会議の直前,カバンに爆弾を詰め,信管をセットしたが,作戦会議時間がムソリーニ来訪のために繰り上がり,用意した爆弾2個のうち1個しかカバンに詰めることはできなかった。
?ヒトラーの足元近くに爆薬入りのカバンを置いて,電話を掛けることを口実に会議室を出たが,その後,カバンがぶつかったブラント大佐がカバンを奥に押しやり,テーブルの分厚い脚の陰に入ってしまった。
?会議室の窓が開け放たれていて,爆風が戸外に出て,爆発威力が削がれた。
しかし,このようなテクニカルな理由は,ヒトラー暗殺の本質ではない。これは,反乱将軍たちが,断固たる決意を持ってヒトラー暗殺の行動をとれなかったことに由来する。

1944年7月20日1242,総統大本営の会議室で轟音とともに爆発が起き,シュタウフェンベルク大佐も,吹き飛んだ作戦会議室の中でヒトラーは死んだと確信した。爆発後の作戦会議室は,壁が壊れ,家具が散乱するなど,大損害を受けている。

当時の携帯用の小型時限爆弾技術を使って,ヒトラーを確実に暗殺することは困難だった。ヒトラーの行動が的確に予測できない上に,厳重な警護がされているのであるから,暗殺者がその場にいないで,ヒトラーを殺害できる確証は得られなかったはずだ。

にもかかわらず,ヒトラー暗殺に時限爆弾を使ったのは,ヒトラーに近づいて,暗殺し,無事にその場を離れることが不可能に近かったからである。

ヒトラー総統の従兵が警護する中,その場に暗殺者がいれば,無事で反すまない。つまり,暗殺者は,その場で死ぬ覚悟が必要である。

シュタウフェンベルク大佐は,ヒトラー暗殺のために犠牲をいとわなかったであろうが,暗殺後のワルキューレ作戦による政権奪取の中心人物だった。また,新政権誕生後は,官房長官の要職を務めることになっていた。したがって,シュタウフェンベルクは,ヒトラーを殺して,その場で死ぬわけにはかなかった。

総統大本営では,国防軍通信連絡局長エーリッヒ・フェルギーベル大将も,ヒトラーに用意に接近できた。また,将官クラスなら,ヒトラーに自ら面会を求めて接近することも十分に可能だった。しかし,反乱将軍たちは,いずれも新政権における要職に就くことを重視し,ヒトラー暗殺に命を懸けることはできなかった。

しかし,親衛隊も国家保安本部も,反ヒトラー(反体制)グループの将官や政治家については,既に多くのことを知っていた。保守的官僚カール・ゲルテラーCarl Goerdelerと退役将校ベック大将のグループ,キリスト者と社会主義者からなるヘルムート・フォン・モルトケ伯らのクライザウ・サークルについて,反ヒトラー行動を監視,警戒していたのである。

反ヒトラーの重鎮たちは,1938年以来,ヒトラーに対する謀略を長く続け過ぎたために,その動向は,親衛隊・国家保安本部に察知されていた。

写真(右)1944年7月20日のヒトラー爆殺未遂事件で破損したヒトラーのズボン:東プロイセン総統大本営ヴォルフスシャンツェ作戦会議室における大爆発に破損したヒトラーの衣服。
ヒトラーの個人秘書トラウデル・ユンゲ(1920年3月16日 - 2002年2月10日)は,ヒトラー愛人エヴァ・ブラウンに容姿・性格が似ていて,ヒトラーの気に入っていたミュンヘン出身者だったために,秘書に採用された。彼女は,爆破直後のヒトラーが,腰蓑のようになったズボンを履いていたことを証言している。ヒトラーは,これほどの損害を与えた爆発でも,軽症ですんだ。
Hitler-Attentat am 20. Juli 1944, Führerhauptquartier "Wolfsschanze" bei Rastenburg, Ostpreußen, Hose eines der durch das Attentat Verletzten Dating: Juli 1944
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラーの個人秘書の一人だったトラウデル・ユンゲTraudl Jungeは,ズボンが裂けて腰蓑のようだったヒトラーが,元気だったのを目撃した。ヒトラーは,戦局悪化に不安感を高めていたが,「どでかい幸運」をもたらしたとムッソリーニにも話した。生かされているという天の摂理を身をもって感じたヒトラーは,自分の戦争が正しいものであり,ドイツの勝利を再び確信した。

連合軍相手に徹底抗戦し,東西対立が生じて,米英あるいはソ連と和平,同盟関係に入ることができると信じ込んだ。フリードリヒ大王Friedrich II. が七年戦争Siebenjähriger Kriegの敗北直前,ロシアでピョートル3世即位という政変がおき,ロシアが戦線を離脱したために,講和できた。ヒトラーは,七年戦争の逆転勝利を念頭に置いた「歴史的確信」を抱いた。

ヒトラーの個人秘書クリスタ・シュレーダーChrista Schroeder(1908-1984) は,暗殺未遂の直後,総統と食事をともにした。彼女によれば,総統は「事件はドイツの転機になる。事態は好転する。卑しい連中の仮面が剥がれたのが嬉しい」といった。

1944年7月20日(暗殺未遂当日)1430,ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini(ドイツ語ができる)をラステンブルク鉄道駅に出迎えたヒトラー総統は,生涯で最大限の幸運を手に入れたとに語りかけた。列車から降り立ったイタリアのムッソリーニと自動車で作戦会議室まで行き,自ら現場を案内した。

ヒトラー総統は,神が世界の歴史を作るために自分を選んだと確信し,強気になった。神に逆らう反乱者を根絶やしにしてやると,報復を誓った。女子供も強制収容所にぶち込んでやると喚きだした。

シュタウフェンベルク夫人ニーナ・シェンクNina Schenk Gräfin von Stauffenbergは,シュタウフェンベルク23歳の誕生日に婚約,3年後の1933年9月結婚,1934年から1945年にかけて5人の子供をもうけた。ヒトラー暗殺事件翌日の7月21日,彼女はゲシュタポに逮捕,収監された。シュタウフェンベルク大佐の子供たちは,幼かったために孤児院に送られた。シュタウフェンベルクの家族は収監されていたが,生き残ることができた。Nina Schenkは, 2006年4月2日,バイエルン州バンベルク (Bamberg)で死去。92歳。

2)総統大本営からベルリンに帰還したシュタウフェンベルク大佐:
1944年7月20日1240,シュタウフェンベルク大佐は,爆音を聞き,会議室が破壊されたのは見たが,ヒトラーの死亡を確認してはいない。
7月20日1313,ラステンブルク飛行場から,ベルリンに向けて,ハインケルHe-111爆撃機(輸送機として使用)で出発した。

写真(右)1940-1941年,ドイツ空軍の主力爆撃機ハインケルHe-111:戦争後期には,燃料不足,性能低下,制空権喪失によって,ドイツ空軍の爆撃機は出撃困難だった。そこで,He-111は輸送機としても使用された。
1944年7月20日,総統大本営からベルリンまで,シュタウフェンベルクが搭乗したのもハインケルHe-111爆撃機だった。しかし,アメリカ映画「ワルキューレ」では,この空中移動を,ユンカースJunkers Ju-52/3m輸送機で行ったことにしている。これは,飛行可能なJu-52をロケに使用したからである。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_101I-408-0803-12引用(他引用不許可)。


実は,ラステンブルクの総統大本営には,反乱側の陸軍通信隊司令官エーリヒ・フェルギーベル Erich Fellgiebel将軍が残っており,爆発後にヒトラーが生存していることを知った。
1944年7月20日1500,フェルギーベル将軍は,国内予備軍司令部のフリードリヒ・オルブリヒトFriedrich Olbricht将軍にヒトラー存命を伝えた。このころ,シュタウフェンベルクはベルリンの飛行場に到着した。

フェルギーベル将軍は,反乱計画通りに総統大本営から外部への通信を完全に遮断することができなかった。あるいは,ヒトラーが生きていて怯えたのか,通信遮断をしなかった。ワルキューレ作戦では,ヒトラー生存の時にも断固反乱を続行するという申し合せがなかった。そこで,反乱失敗に備えて,言い逃れができるように振舞ったのかもしれない。

総統大本営では,作戦会議に参加していたシュタウフェンベルク大佐が電話をすると部屋を出たまま立ち去ったことから,彼に爆破容疑がかかった。

7月20日1640,ラステンブルクから3時間,シュタウフェンベルクは,ベルリン・ベンドラー街の国内予備軍司令部に到着,国内予備軍副司令官オルブリヒトFriedrich Olbricht将軍に暗殺成功を伝えた。

写真(右)フリードリヒ・オルブリヒトFriedrich Olbricht 陸軍大将(1888 – 1944/7/21):1939年9月ポーランド侵攻に参加,2月,大将に昇進。陸軍総司令部陸軍局長。1943年以降、国防軍最高司令部国防予備局長。 ルートヴィヒ・ベック元参謀総長、カール・ゲルデラー,ヘニング・フォン・トレスコウ少将を中心とする反ヒトラー・グループに参加し、ヒトラー暗殺計画に加わる。 Generalleutnant Friedrich Olbricht mit Ritterkreuz (verliehen am 27. Oktober 1939; Beförderung zum General der Infanterie am 15. Februar 1940) Dating: 1939/1940
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


3)ベルリンの国内予備軍司令部の動向:
ベルリンにいた反乱側のオルブリヒト国内予備軍副司令官は,総統大本営にいたフェルギーベル将軍からヒトラー存命を伝え聞いていたために,ヒトラーの生死の確証が得られず,ワルキューレ作戦発動を躊躇していた。

1944年7月20日1600,部下のフォン・クヴィルンハイムAlbrecht Ritter Mertz von Quirnheim大佐は,シュタウフェンベルク大佐がベルリンに帰還する前に,ワァルキューレ作戦の発動を強行した。オルブリヒト将軍の名前で,各部隊にワルキューレ発動をテレタイプで伝えた。
その中で,ヴィツレーベン元帥が国防軍総司令官となり,非常事態の中,秩序を回復し,元陸軍参謀総長ベック大将が,国家の最高権力を掌握したと伝えた。

シュタウフェンベルク大佐が,オルブリヒト大将に爆発成功,ヒトラー死亡を直接伝えた。そこで,オルブリヒト将軍も,国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将にヒトラーが死んだために,フロムの名でワルキューレを発動するように求めた。

4)国内予備軍司令官フロム上級大将の動向:
1944年7月20日1600,国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将は,ベルリンから電話して,総統大本営の国防軍総司令部総長ウィルヘルム・カイテルWilhelm Keitel 元帥に,ベルリンでは流言飛語を抑えるために,緊急事態宣言を出してもよいかどうか,問い合わせた。

カイテル将軍は,「総統は存命である。シュタウフェンベルク大佐はいるか。」と尋ねた。フロム将軍は「いません。総統大本営にいると思っていました。」と答えた。

写真(右)1940-1944年,ドイツ国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム(Friedrich Fromm) 上級大将(1888年10月8日‐1945年3月12日):1939年4月砲兵大将,9月陸軍補充局長に就任。第二次大戦勃発後の1940年7月騎士鉄十字章受章,上級大将。その後,国内予備軍司令官に任命。1944年7月20日,部下のヒトラー暗殺未遂,反乱に対して優柔不断だった。ヒトラー暗殺計画に積極的に参加していなかったが,反乱側が不利になると,即座にシュタウフェンベルクら実行犯を即決裁判で銃殺。しかし,これは自ら反乱共謀の証言者を抹殺したかのようだった。1944年9月14日,軍を除籍,人民法廷で死刑判決。1945年3月12日,銃殺。
Porträt Generaloberst Friedrich Fromm mit Ritterkreuz (verliehen 6. Juli 1940) Dating: 1940/1944 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1969-168-07引用(他引用不許可)。


総統大本営のカイテル元帥は,フロム上級大将にヒトラー生存を主張し,シュタウフェンベルク大佐の所在を追及した。フロム上級大将は,シュタウフェンベルクが暗殺実行犯だと感づいた。

7月20日1615,ラステンブルクの総統大本営のカイテル元帥は,ヒトラーの生存と,ヒムラーが国内予備軍司令官に臨時就任したことを,各方面の軍に通達した。

国内予備軍の副司令官オルブレヒト大将,参謀長シュタウフェンベルク大佐は,国内予備軍司令官フロム上級大将の部下だったが,上官のフロム将軍に,反乱鎮圧計画「ワルキューレ」に即して,親衛隊など親ヒトラー分子を拘束することを要求した。

国内予備軍司令官フロム上級大将は,部下の不服従に怒り,オルブレヒト,シュタウフェンベルクに自決せよと激昂した。しかし,オルブレヒトらによって,逆に,フロム大将は監禁されてしまう。

国内予備軍司令官フロム上級大将は,部下たちのヒトラー暗殺計画に事前に参加してはいなかったが,反乱が順調に展開すれば,部下の指示を受けて,反乱後の主導権を握ることを期待した。

しかし,ヒトラーが存命しており,反乱鎮圧の動きが顕在化し,反乱側が不利になる。レーマー少佐率いるベルリン防衛隊がヒトラーに忠誠を誓ったことで,ベルリンの形成は逆転し,地方の軍司令官も反ヒトラー・クーデターに同調しなかった。

7月21日1030,ベルリンの国内予備軍司令部では,反乱軍に対して,ヒトラー忠誠派が銃撃を開始し,監禁されていたフロム上級大将を解放,副司令官オルブリヒト大将,参謀長シュタウフェンベルク大佐らは逮捕,拘禁された。フロム将軍は,急遽,軍法会議を開き,国内予備軍副司令官オルブレヒト,国内予備軍参謀長シュタウフェンベルク大佐など4人を反乱罪(反逆罪)で銃殺する判決を言い渡した。元陸軍参謀本部参謀総長ベック大将には,経歴を考慮して,自決を要求した。

深夜,オルプリヒト,シュタウフェンベルク,シュタウフェンベルク大佐の副官ヴェルナー・カール・フォン・へフテンWerner Karl von Haeften中尉,国内予備軍参謀(国内予備軍参謀長に内定)アルプレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイムAlbrecht Ritter Mertz von Quirnheim大佐の反乱将校4人が,国内予備軍司令部の中庭で銃殺された。

国内予備軍フロム上級大将は,副司令官,参謀長など部下を反乱罪で処刑した。しかし,このような部下の将校を性急に処刑する行為は,フロム大将が自ら反乱に共謀したていた,反乱計画を知っていた,との容疑をうける原因になった,反乱共謀を証言する部下を口封じに抹殺したとの容疑を受け,フロム将軍も逮捕された。

1944年9月14日,フロム将軍は,軍籍を剥奪され,人民法廷で裁判に付され,死刑判決。1945年3月12日,銃殺された。縛り首でないのは,反乱将軍とはみなされなかったためだったが,優柔不断だったために反乱将軍と同罪,死刑になった。

フロムの後任の国内予備軍Ersatzheer司令官には,親衛隊のハンス・ユットナーHans Jüttner将軍がついた。

写真(右)1940-1944年,狩猟で大鹿をし止めた国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム Friedrich Fromm 大将:フロム将軍は,ゲーリング国家元帥にお供をして,狩猟に加わった。
豪勢な生活を好むゲーリングは,戦時中にも狩猟を楽しみ,絵画など芸術品を収集・略奪し,豪邸を建てていた。そのような人物と狩猟を楽しんでいたのが,フロム大将である。反乱軍に組して,反ヒトラー政権を作り出そうという意思は弱かったであろう。
しかし,反乱軍に対する優柔不断,日和見的態度が災いして,処刑されてしまう。縛り首を免れ,銃殺されたのは,反乱将軍とはされなかったからだが,それが現代における彼の人物評価を低くしている。
Generaloberst Fromm (Herr) auf einer Jagd mit Göring Archive title: Friedrich Fromm auf der Jagd mit erlegtem Hirsch Dating: 1940/1944 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


5)ワルキューレ作戦の本格的発動:
1944年7月20日1700,オルブリヒト,ヘプナー将軍は,国内軍司令官フロムFriedrich Fromm大将を監禁し,後戻りできなくなった。そこで,オルブレヒト将軍も,自ら各地の軍司令部に,国防軍総司令官にヴィツレーベン元帥が就任したことをテレタイプや電話で伝えた。ワルキューレValkyrieが全ドイツ軍に発動され,ヘプナー大将が国内軍司令官に任命された。

ワルキューレ作戦発動とヒトラー総統の生存・オルブレヒトの命令無効の指示が錯綜して,各地のドイツ軍は混乱した。総統大本営や国内予備軍司令部に命令確認の連絡が殺到した。

ヒトラー死亡が,国内予備軍司令部という軍の権威から伝えられたことで,後継者による新政権誕生が予期された。 

パリでは,西部軍司令官シュチルプナーゲルStülpnagel将軍が,親衛隊と突撃隊を拘束した。
7月20日1820,ウィーンの第17軍管区参謀長ハインリヒ・コドレ大佐は,ナチ党の過激派が前線部隊を襲撃し,政権奪取をッ企てていると理由で,ナチ党事務所を占領,党管区指導者(ガウランターGauleiter),親衛隊,警察高級官僚を逮捕すべきとの命令を受け,実行した。

このとき,各地の軍司令官たちが,反乱側につけば,状況は一変したであろう。しかし,例外を除いて,軍司令官たちは,日和見だった。形成が不確かなうちは,軽挙妄動を慎んだ。

6)総統大本営の反撃:
1944年7月20日1600,総統大本営では,国内軍司令部から「ヴァルキュレー」Valkyrieの暗号で,地方の軍管区に異常な命令が出されているのを傍受した。そこでは,解任されたヴェツレーベン元帥が国防軍最高司令官となり,退任したエーリヒ・ヘプナー将軍が国内軍司令官に任命されたと伝えていた。

反乱軍の首謀者たちは,通信隊司令官フェルギーベル将軍も含め,軍管区に伝えられる命令は,すべて総統大本営にも伝達されるシステムになっていることに気づかなかった。総統のいる大本営の通信を遮断できなかったことが,ヒトラー暗殺失敗に継ぐ反乱の第二の失敗だった。

1944年7月20日1645,大本営の国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥は,反乱軍の命令を打ち消すために,「総統は存命している。安全で元気だ。親衛隊国家長官ヒムラーが国内予備軍の新司令官になった。ヴェツレーベン元帥,ヘプナー将軍の出す命令には服従することを禁止する。」と軍管区に指示を伝えた,親衛隊には,陸軍の反乱者たちを逮捕・鎮圧することを命じた。

写真(右)1944年7月,ベルリン,官庁が集中するベントラー街,ワルキューレ作戦が発動し,ドイツ国防軍がナチス親衛隊SSを拘束した。親衛隊は親ヒトラー派とされていたから,反乱軍は親衛隊の行動を規制した。これは,ベルリンで通行を禁止された親衛隊。名目は,クーデターの尾誤記があるので,治安維持のため部隊行動を規制するとのことだった。しかし,親衛隊には,大本営・宣伝相を通じてヒトラーの命令が伝わってきた。反乱軍は,ヒトラーの連絡網を処断することに失敗した。
Berlin, Bendlerstraße.- Soldaten und Männer der Waffen-SS im "Bendlerblock" Dating: Juli 1944 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1972-109-19A引用(他引用不許可)。


ベルリン防衛軍ハーゼ司令官は,部下のベルリン警護大隊長レーマー少佐にベルリンのナチ党事務所,親衛隊を占拠するように命じた。しかし,兵力が過小で,ベルリンを押さえることはできなかった。ベルリン放送局,啓蒙宣伝省,ゲシュタポ本部も事実上,放置されたままだった。

ヒトラー総統は,親衛隊と陸軍が対決し,内乱となることを絶対に避けることを厳命した。そして,新聞局長を呼び,「総統を爆弾で殺そうとする試みが今日なされた。小さな火傷と打ち身のほかは総統に怪我はなかった。

総統は再び執務をとられ,予定通りドゥーチェを迎えて,長時間会議を行った。」というコミュニケをラジオ放送せよと命じた。
7月20日1828,総統暗殺未遂のコミュニケが,ニュース速報として突然流された。

写真(右)1945年1-2月,反ヒトラー派を鎮圧し少佐から特進したオットー・エルンスト・レーマーOtto Ernst Remer 少将:反乱軍から,ゲッペルス大臣,啓蒙宣伝省を占拠する命令を受けたベルリン警護隊大隊長レーマー少佐は,ゲッベルスに総統大本営に電話連絡することを許した。この電話にヒトラー自信が出て,レーマー少佐に反乱軍を鎮圧を命じた。
レーマー少佐は,ヒトラーに忠誠を誓っていたから,反乱を容赦なく鎮圧し,その功績によって,ヒトラーから最年少の将官に昇進させられた。戦後は,スペインに逃れ,ファシズムを擁護,ホロコーストを否定する煽動を行った。
Generalmajor Otto Ernst Remer mit Orden (Deutsches Kreuz, Ritterkreuz mit Eichenlaub) und Ärmelband "Grossdeutschland", nach Januar 1945 Dating: 1945 Januar - Februar
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-2004-0330-500引用(他引用不許可)。


7)ベルリン警護隊レーマー少佐によるベルリン反乱鎮圧:
ベルリンの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス大臣も,ヒトラーの死後,新政権に参加するべきか迷ったかもしれない。しかし,ヒトラー総統から直接電話を受けると,一転して,断固たる態度で,反乱鎮圧を指導し始めた。反乱軍に組み入れられ,ワルキューレ(Valkyrie)作戦の一環として,ゲッペルス逮捕命令を受けてやってきたオットー・レーマーOtto-Ernst Remer(1912-1997)少佐に,ヒトラーと直接電話で会話させた。

レーマー少佐は,樫葉付き鉄十字勲章をヒトラーから直接授与されたこともあったので,ヒトラーから直々に,その場でベルリンにおける反乱鎮圧を遂行する全権を与えられた。レーマーは,上官を裏切って,迅速に反乱鎮圧の行動を開始した。

◆ドイツ陸軍ベルリン防衛軍ハーゼ中将隷下の警護大隊長オットー・レーマー少佐は,反乱側から体制側に寝返った,この裏切りによって,ドイツ陸軍自ら陸軍の反乱を鎮圧することになった。陸軍と親衛隊の対立,内乱に至る心配はなくなった。

(5)優柔不断だったワルキューレ(Valkyrie)の反乱軍将軍

将軍たちが反乱遂行の断固たる意志に欠け,率先して軍を指揮しなかった。将軍たちは,若手将校に頼りきって,政権を手に入れようとしているかのようだ。

反乱に際して,当然支配下に置くべき放送局,ナチ党・政府機関、親衛隊本部,秘密警察ゲシュタポ本部を占領せず,総統本営に対する通信・交通遮断をしなかったが,これらは部隊に反乱鎮圧として命じるだけでなく,自ら要所に出向いて,司令官として直接指揮する必要があった。

◆ナチ党・親衛隊,ヒトラー派将校など軍官要人の逮捕は,現場下級指揮官には,容易なことではない。反乱将軍たちの行動力・積極性の欠如が,暗殺計画後のクーデター「ワルキューレ」を失敗に終わらせた。

物資不足の戦時にあっても,闇市,隠匿保管物資があつまったパリでは,略奪も含めて,ドイツ軍将兵の生活は豪華だった。東部戦線と比較できないような緩やかな軍隊生活,緊張感の乏しい軍務は,過酷な東部戦線とは大違いだった。

西部戦線のドイツ軍将軍たちは,1944年6月6日の連合軍のフランス侵攻で,総崩れになってしまう。物資供給の上で不自由感じたことのない、安定した西部戦線の将軍たちが,反ヒトラーの陰謀を巡らした。

ワルキューレ作戦が発動された後も,現場の反乱部隊は,高位高官に苦言を呈されると,事実上の勤務室に軟禁するだけで,通信を遮断しなかった。オットー・レーマーOtto-Ernst Remer少佐は,上官ハーゼ将軍の啓蒙宣伝省占拠命令を実行せず,ゲッペルス宣伝相と総統本営との電話を許した。レーマー少佐も,上官の命令を疑った不誠実な将校だった。

写真(右)1944年7-8月,西部方面軍総司令官ギュンター・フォン・クルーゲGünther von Kluge元帥(1882年10月30日 - 1944年8月19日):1941年6月ソ連侵攻バルバロッサ作戦に,第四軍司令官として参加。12月以降,フォン・ボック元帥の後任として中央軍集団司令官。1943年10月,事故で重傷。1944年7月,ノルマンディー上陸作戦によって敗走するドイツ軍を立て直すために,西部戦線の西方軍司令官に就任。
部下だったヘニング・フォン・トレスコウ少将のヒトラー暗殺計画を黙認するが,1944年7月20日のシュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺計画には,加わっていない。8月17日,西部方面軍司令官を解任,召喚されることになったが,その途上で,自決。
Generalfeldmarschall von Kluge im Westen Der neuernannte Oberbefehlshaber West, Generalfeldmarschall von Kluge, befand sich in den letzten Tagen auf einer Besichtigungsfahrt an der Kanalküste. Er besuchte die dort eingesetzten Divisionen und informierte sich über den Stand der Verteidigungs- und Abwehrmaßnahmen im Falle einer erneuten Landung des Feindes. Unser Bild zeigt den Generalfeldmarschall auf einem Besichtigungsgang Archive title: Porträt Hans-Günther von Kluge; ca. Juli/August 1944 Dating: 1944 Juli - August Photographer: Scheck 撮影。
ドイツ連邦アーカイブに登録・Bild_146-1995-002-09A引用(他引用不許可)。


ワルキューレ(Valkyrie)反乱の失敗後,反乱に参加を誘われたあるいは,反乱に誘われ参加する決断をしなかった将軍たちは,ヒトラーに国防軍将兵として,個人的に忠誠を誓っていたことが,反乱参加への大きな障害になったと,言い訳をした。

これは,反乱に参加する利益と反乱失敗のリスクを比較考量した日和見主義を隠蔽するかのごとき遁辞である。

国防軍将兵たちが,総統個人に忠誠を誓うのは,1934年にヒトラー首相が導入した新しい掟(総統個人への誓約)のためである。伝統あるドイツ参謀本部の掟ではない誓約を,古くから軍籍にあった将軍たちが重視したとは思えない。

◆由緒ある貴族出身の(フォンがつく名称の)将軍たちにとって,兵卒の上がりヒトラー総統への忠誠の誓約が,大きな心理的負担にはなるはずはない。忠誠の誓約をしたので,反ヒトラー陰謀に参加できなかったというのは,クーデタ失敗のリスクを恐れていることを気取られない為の遁辞に過ぎない。

写真(右)1943年8月17-18日,ペーネミュンデ秘密兵器実験基地,V-2ロケットの実験を見学する啓蒙宣伝省ゲッペルス大臣(前列中央),軍需省アルバート・シュペール大臣(右端):シュペール軍需相の秘密兵器は,実は,ユダヤ人,捕虜など強制収容所の奴隷労働を投入して建設された地下工場で,奴隷労働によって生産されていた。
シュペール軍需相は,回顧録によれば,ヒトラー暗殺後の新政権でも軍需相を務めることが予定されていた。しかし,反乱計画には,軍需相の就任にシュペール(?)と疑問符がつけられていたために,反乱の嫌疑を受けなくて済んだという。
シュペールは,V-2ロケットよりも,迎撃戦闘機,ジェット戦闘機の開発・量産に力点を置くべきだったとしているが,これは,軍需大臣として,奴隷労働者によるV-2生産を自画自賛できないというジレンマから,発せられた反省だろう。
Peenemünde, 17./18. August 1943 [?].- hohe Offiziere und NS-Führer, u.a. Joseph Goebbels und Albert Speer (mit Armband "Org. Todt"), in den Himmel schauend Dating: August 1943 Photographer: Hubmann, Hanns撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1992-093-13A.引用(他引用不許可)。


現場のワルキューレ反乱部隊は,上官の将軍・将校の命令・指揮に従っているだけであり,これはニ・ニ六事件の東京第一師団の将兵と同じである。しかし,二.二六事件では,現役将校が自ら反乱軍を指揮し,部隊将兵1400人は最後まで,指揮官に付き従った。そして,首相官邸を襲撃,内大臣斎藤実,蔵相高橋是清,陸軍教育総監渡辺錠太郎ら銃を向け,発射した。政治・軍事中枢の永田町・三宅坂一帯を占拠し,投降勧告に従わなかった。ただし,皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎将軍は,ご都合主義で,断固たる意志を示さなかった。この優柔不断は,ドイツ軍の反乱将軍と同じである。

写真(右)1945年3月,ドイツの国民啓蒙宣伝相のヨーゼフ・ゲッペルス博士がベルリンの戦いに臨むヒトラーユーゲント兵士に第二級鉄十字章を授与し激励している。:ヨーゼフ・ゲッペルス博士は、ドイツをナチ党文化に同質化し、ユダヤ人差別を推し進めた。そして、ヒトラー暗殺未遂事件の時は、自分を逮捕しに来た陸軍のベルリン守備隊レーマー少佐を翻意させ、ヒトラーの側に立たせることに成功した。ゲッペルスは、最後まであきらめることなく、ドイツ国民を戦争に煽り立てることに力を注いで、それが叶わないとソ連へ和平を打診し、それが無駄だと判明したとき、子供たちを死の道連れに妻マグダとともに自殺した。
Auszeichnung des Hitlerjungen Willi Hübner ADN-ZB/Archiv 9.3.1945 II. Weltkrieg 1939-45 Deutsch-Sowjetische Front: Reichspropagandaminister Goebbels begrüßt in Lauban (Niederschlesien) den mit dem EK II ausgezeichneten 16jährigen Willi Hübner, der während der Kämpfe um die Stadt im März 1945 im Schützengraben eingesetzt wurde. [Joseph Goebbels, Willi Hübner] Depicted people Hübner, Willi: Hitlerjunge, Deutschland Goebbels, Joseph: Reichsminister für Volksaufklärung und Propaganda, Gauleiter Berlin, Deutschland GND 118540041 Depicted place Lauban Date 9 March 1945
写真はWikimedia Commons, File:Bundesarchiv Bild 183-J31305, Auszeichnung des Hitlerjungen Willi Hübner.jpg引用(他引用不許可)。


◆ ヴァルキューレ作戦を使ったヒトラー暗殺とその後のクーデターは,現役将軍・将校たちの現場指揮が低調だった。反乱将軍たちは,部下の若手将校任せきりで,反乱失敗のリスクに怯え,大胆な行動をとれなかった。若手将校は,シュタウフェンベルク大佐も含め,参謀職が多く,自ら率いる部隊を持っておらず、現場で部隊指揮ができなかった。

ヒトラー総統は,後にアルバート・シュペールAlbert Speerに,暗殺計画に加わった将軍たちは,私がいても,後ろ手を組んでたっているだけで,自ら手を出す勇気がなかったと,その弱腰を冷笑した。自分だったら,ピストル1丁で確実に殺すと断固たる意志を誇示した。これは,伍長勤務上等兵として,第一次大戦を戦い,ミュンヘン一揆で反乱を企て収監されたヒトラーの本心だった。

写真(右)1941年5月21日,パリ,参謀総長ヴァルター・ブラウヒッチ将軍(左)とカール・ハインリヒ・フォン・シュチルプナーゲル将軍(右):フランスを降伏させ,フランス軍政長官に就任したフォン・シュチルプナーゲル将軍。
Der Oberbefehlshaber des Heeres, Generalfeldmarschall Walter von Brauchitsch trifft am 21.5.1941 auf dem Luftwege in Paris ein. Er wird von dem Militärbefehlshaber in Frankreich, General der Infanterie Otto von Stülpnagel, vom Flughafen abgeholt. UBz: die beiden im Kraftwagen auf der Fahrt in die Stadt. 54551-41 Dating: 21. Mai 1941
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-H29377引用(他引用不許可)。


フランスのドイツ軍政長官カール・ハインリヒ・フォン・シュチルプナーゲルKarl-Heinrich von Stuelpnagel将軍は,反乱軍に内通しており,ヴァルキューレ作戦の発動をまって、パリの親衛隊やゲシュタポを武装解除,パリを制圧した。

しかし、シュチルプナーゲルル将軍は,ヒトラーの生存が知らされると、弱腰になり,部隊の指揮をあきらめ,親衛隊に逮捕された。徹底抗戦する断固たる意思に欠けていた。もしかすると,逮捕されても,反乱鎮圧ワルキューレ作戦の命令に従っただけだとして,言い逃れができると思ったのかもしれない。1944年8月30日処刑。

大爆発で4人が死亡したが,ヒトラーは軽傷だった。自分の幸運な運命を確信したヒトラーは,訪独中だったムッソリーニを,自ら爆発現場に案内した。

7月20日深夜(7/21),ヒトラーは自らラジオ演説をして、暗殺計画があったが,神の加護により無傷だったことを伝え,暗殺者の処罰を宣言した。しかし,ドイツ国防軍の将軍たちが反乱に参加していたは,ヒトラーを疑心暗鬼にさせた。

写真(右)1944年,ヒトラー暗殺未遂事件の人民裁判に出廷した被告カール・ウェンツエルと裁判長ローラント・フライスラーRoland Freisler(中央着席,1893年10月30日‐1945年2月3日):軍人は軍法会議で裁かれるが,反逆者はみな軍籍を剥奪され,非公開の人民裁判にかけられた。裁判長になったローラント・フライスラーは,第一次大戦でロシア軍捕虜となったが,1917年ロシア革命に際して,ボリシェヴィキに加わった。1925年ナチ党入党。1934年プロイセン州法務省次官。1945年2月3日,米軍の空襲で死亡。
ウェンツエルCarl Wentzel は,1943年11月,外務省のカール・ゲルテラーCarl Goerdelerにヒトラー暗殺後の政府に加わるように要請されたが,断っている。 しかし,ワルキューレ作戦では,本人の同意のないまま,次期政権に入閣させることになっていた。親衛隊は,ウィンチェルを好ましからざる人物と見ていたから,暗殺未遂事件を契機に彼を逮捕した。1944年12月20日処刑。
Berlin.- Volksgerichtshof, Prozess nach dem 20. Juli 1944, Carl Wentzel Dating: 1944
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_151-53-21A引用(他引用不許可)。


◆ヒトラー暗殺未遂事件を,「軍の反乱」というのは禁句だった。軍最高司令官ヒトラーの統率の乱れ,軍紀紊乱の証となってしまうからである。そこで,国内外に向けて,「ちっぽけな犯罪者」による邪悪な暗殺の陰謀が失敗したと伝えた。

国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将は,反乱軍に参加すると見込まれていたが,国防軍最高司令部総長カイテルWilhelm Keitel元帥に電話連絡をし,暗殺失敗を悟ると,変節した。

7月20日深夜,解放されたフロム上級大将は,部下の国内予備軍副司令官オルブリヒトOlbricht大将,参謀長シュタウフェンベルクvon Stauffenberg大佐ら将校5名を逮捕、反逆罪として,国防省中庭で,即決銃殺してしまう。首謀者と目された元陸軍参謀総長フリードリヒ・ベック上級大将には,前歴を配慮して,自決を強要した。

口封じのような処刑だったが,フロム将軍への反乱参加の嫌疑は晴れることがなかった。フロム将軍も、翌7月21日、国内予備軍司令官を解任、逮捕された。親衛隊国家長官ヒムラーが新たに国内予備軍司令官に仮任命された(後にユットナーが就任)が,逮捕されたフロム将軍は,人民法廷(民族裁判)で死刑判決。1945年3月12日。ブランデンブルク刑務所で銃殺。

(6)ヒトラー暗殺事件の評価

現在のドイツでは,ワルキューレ(Valkyrie)作戦は,悪の帝国ナチスに反旗を翻した勇気ある行動であり,自由主義を復活しようとした教養あるドイツ将軍たちは,記念切手にも登場するほど,高く評価されている。

たしかに,連合国がナチス打倒を目指しており,戦後,西側国際社会の仲間入りしたい西ドイツとしては,反ナチスを率先して主張する必要があった。戦時中,心あるドイツ人が,人々を戦禍に巻き込み,大量殺戮を止めようとした----,このようにワルキューレValkyrie作戦をみなし,ドイツ人の良心・良識が残っていたことを証明しようとした。

ナチの行った悪行を,反ナチの正義のドイツ人が阻止するというテーゼは,現代のドイツにあっても重要な主張である。ドイツが悪いのではなく,ナチスが悪いのであって,第二次大戦中でも,ドイツとナチは区別されるべきであるとの主張である。「ナチ・ドイツ」の悪行はあったが,ドイツのそれではないとの見解である。

しかし,当時の連合国では,ヒトラー暗殺事件に関与したドイツ人への評価は,低かった。

日刊紙New York Timesは,反ヒトラー派を,「不気味な暗黒街のギャング」の犠牲者としながらも,最高位の指導者の死に喝采を送る兵士だけで,戦争に勝てるわけがない」と批判した。
日刊紙 New York Herald Tribuneは,将軍が下士官を殺害しようが,下士官が将軍を殺害しようが,勝手にやらせておけばいい。双方が共倒れになるのが望ましいだろう,と反感をにじませている。
英国務次官代理(英外相イーデンの官房長)オリヴァー・ハーヴェイOliver Harveyは,われわれの敵は,ナチスと将軍の双方である。どちらとも講和を結ぶつもりはない,と述べた。英国のドイツ専門家ウィラー・ベネットは,ドイツ人がドイツ人を始末することによって,将来の面倒ごとがなくなると期待し,ヒトラー総統が,反ナチ異分子を大粛清したことを歓迎した。

ブルック内閣府次官が書き残した1942年7月6日の閣議での発言要旨録によれば,ウィストン・チャーチル英首相は,閣議で戦争犯罪が議題となった時、「ヒトラーがわれわれの手に落ちたら必ず死刑にしてみせる」「この男は悪の根源だ」などと話した。
そして,1945年4月12日の閣議では、ナチス幹部の戦争犯罪をどう裁くかについて議論する中で,戦争裁判が「茶番」になるとして反対した。そして,ナチ幹部を「反逆者」として裁判なしで処刑するよう主張した。

1944年7月21日のアンネ・フランクの日記:「やっと本当の希望が湧いてきました。ついに全てが好転した感じです。素晴らしいニュース!ヒトラー暗殺計画が実行されました。しかも今度は,ユダヤ人の共産主義者が企んだものでも,英国の資本主義者が企んだものでもありません。純粋なドイツの将軍,伯爵でかなり若い人だそうです。「神の摂理」で,総統の命に別状はなく,あいにくか軽い傷とやけどっだけで済みました。同席していた数人の将軍,将校から何人かの死傷者が出て,計画の首謀者は銃殺されたとのとのことです。
いずれにせよこの事件は,ドイツにも戦争に飽きて,ヒトラーを権力の座から引き摺り下ろそうとしている将軍や軍人たちが大勢いることを物語っています。-----
たぶんヒトラーを引き摺り下ろした後は,誰かが軍事独裁政権をつくり,連合国側と和平を結んで,また20年後に再軍備をはじめて,改めて戦争を戦うつもりでしょう。----無敵のドイツ軍同士がお互いに殺しあってくれれば,連合軍にははるかに有利です
し,戦いが楽になります。

⇒隠れ家で国内外の放送を盗み聞いていた15歳の少女アンネは,ヒトラー暗殺事件とその意義を理解しただけではなく,反乱将軍の意図を見抜いていた。チャーチルを尊敬していたアンネは,ヒトラー暗殺計画によってドイツ軍内部が分裂することを歓迎するとした西側連合国のコメントを受け入れた。

ヒトラー暗殺事件については,1944年8月2日,チャーチル英首相は,第三帝国の最高指導者たちは,連合軍が殺到し,支配地が奪還され,運命が尽きようとしている時に,互いに殺し合い,殺しあおうと画策している,と述べた。チャーチルは,ドイツの指導者を,ヒトラー派も反ヒトラー派も区別する必要を認めていない。

ソ連共産党機関紙『プラウダ』Pravdaは,反ヒトラー派の陰謀は,地位と金が目当ての反乱分子に過ぎないと断じた。


写真(右)1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件の人民裁判(民族裁判)の傍聴者:カルテンブルンナーなど親衛隊や国防軍の要人が傍聴している。ヒトラー暗殺派ではないとの証明し,ヒトラーに忠誠を誓うことを示すためにも,裁判に出かけた。
しかし,反乱に加担しなかったドイツ海軍,空軍からの傍聴者は,ほとんどなかったようだ。1944年後期,ナチスの崩壊を予期するどころか,ナチス組織抜きには生き残ることができないナチ党員,親衛隊,国防軍人が多数いたことに驚かされる。
Berlin.- Volksgerichtshof, Prozeß nach dem 20. Juli 1944, Zuschauer, 4.v.l. Dr. Ernst Kaltenbrunner Dating: 1944
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_151-15-12引用(他引用不許可)。


◆第二次大戦中,連合国にとってドイツ=ナチス,枢軸国=悪の帝国,であり,ドイツや枢軸国に良識ある人々,軍人が残っていると,公の席で認めることはできなかった。戦争初期から,連合国は,単独不講和,無条件降伏の「要求をすう儀九国にしていた。したがって,枢軸国が和平交渉を求めてきたとしても,それを取り上げることはなかったはずだ。正義と自由のための聖戦を戦っている(と主張した)連合軍は,正義と自由を確保するまで,聖戦を貫徹する。単独不講和,条件降伏は,そのための大前提であり,たとえドイツで反ヒトラー派の政権が誕生しても,それを交渉相手とする和平交渉はありえなかった。

写真(右)1944年8月,ヒトラー暗殺未遂事件に加担した元西部方軍司令官エルウィン・ヴェツレーベン元帥(手前平服)とベルリン防衛軍司令官ハーゼ中将(奥平服)の人民裁判(民族裁判):ヒトラー暗殺未遂事件で,最高位の元帥の名前貸しをしたエルウィン・ヴェツレーベン将軍は,1934年のレーム粛清「長いナイフの夜」に連座して処刑されたシュライヒャー元首相など将官の不法処刑,1938年の陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ罷免事件に抗議した。
実際,チェコスロバキア侵攻によって,世界大戦が再発すると考え,国防軍参謀本部ベック参謀総長,カナリス諜報部長などの将官たちと反ヒトラー・クーデター実施を計画。しかし,ミュンヘン合意(チェコの犠牲)によって戦争は回避され,クーデターも起こらなかった。
第二次大戦勃発の翌年,西部戦線の第一軍司令官に任命されると,1940年6月,フランスを降伏させ,元帥に昇進。しかし,1941年6月以降のソ連侵攻バルバロッサ作戦で,戦線整理を主張して罷免。
Erwin von Witzleben, dahinter: Paul von Hase Archive title: Berlin.- Volksgerichtshof, Prozess zum 20. Juli 1944.- Erwin von Witzleben als Angeklagter; 7./8. August 1944 Dating: August 1944 Photographer: Hoffmann, Heinrich 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_151-02-08引用(他引用不許可)。

写真(右)1944年8月,ヒトラー暗殺未遂事件に加担した元西部方面軍総司令官エルウィン・ヴェツレーベンの人民裁判(民族裁判):右後方に着席しているのはベルリン防衛軍司令官ハーゼ中将。将官クラスに限らず,軍人は本来,軍事法廷で裁かれるべきだが,軍籍を剥奪され,非公開の人民法廷で裁かれた。裁判では,軍服を着用することは許されず,私服だった。
しかし,裁判に臨むに当たって,ズボンのベルトをもらえず,ズボンがずり落ちてしまった。フライスラー裁判長は,反乱将軍が,惨めな姿を晒すよう仕向け,反徒を嘲笑した。
Berlin.- Volksgerichtshof, Prozess zum 20. Juli 1944.- Erwin von Witzleben als Angeklagter; 7./8. August 1944 Dating: August 1944
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_151-03-06引用(他引用不許可)。


ヒトラー暗殺未遂計画に関連した反逆軍人の裁判は,本来,軍事法廷(軍律法廷)で裁かれるべきである。しかし,ヒトラーに忠誠を誓うルントシュテット元帥,カイテル元帥,グーデリアン大将らによって軍籍を剥奪され,非公開の人民法廷(民族法廷:Volksgerichtshof)で裁かれた。

写真(右)1944年8月10日,ベルリン,反逆罪で人民裁判にかけられたベルトルート・フォン・シュタウフェンベルクBerthold Schenk Graf von Stauffenberg:軍籍を剥奪され,平服(右)の被告となったベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは,1905年生まれで,クラウス・フォン・シュタウフェンベルクClaus Schenk Graf von Stauffenberg 大佐の2歳年上の兄。クラウス左に着席している平服被告4人は不詳。
Berthold Schenk Graf von Stauffenberg Archive title: Berlin-Plötzensee.- Berthold Schenk Graf von Stauffenberg und andere Angeklagte am 10. August 1944 beim Prozess gegen die Hitler-Attentäter des 20. Juli 1944 vor dem "Volksgerichtshof", zwischen Polizisten sitzend Dating: 10. August 1944
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-2008-0185引用(他引用不許可)。


エルンスト・カルテンブルンナーErnst Kaltenbrunner大将(1903-1946/10/16刑死)は,国家保安本部長官・ボヘミア保護領総督代理だったハイドリヒが暗殺された後,国家保安本部長官に就任していたから,ヒトラー暗殺未遂計画を事前に察知できないことを咎められる恐れがあった。そこで,事件にかかわる人民裁判(民族裁判)には熱心に傍聴した。

ナチス親衛隊や国防軍の要人は,ヒトラー暗殺未遂に連座させられたり,未然に暗殺計画を防げなかった責任を取らされたりする恐れがあった。そこで,人民裁判を寝真に傍聴し,ヒトラーへの忠誠心をアピールした。ヒトラー暗殺派ではないとの証明し,ヒトラーに忠誠を誓うことを示すためにも,裁判に出かけたのである。他方,反乱に加わらなかった(とされた)ドイツ海軍,空軍からの傍聴者はほとんどなかったようだ。

1944年秋,戦争末期になって,軍事的趨勢が明らかになっても,ナチスの崩壊を予期するどころか,ナチス組織抜きには生き残ることができないナチ党員,親衛隊,国防軍人が多数いた。

写真(右)1944年8月10日,ヒトラー暗殺未遂事件に加担したベルトルート・フォン・シュタウフェンベルクBerthold Schenk Graf von Stauffenbergの人民裁判(民族裁判Volksgerichtshof):クラウスの兄のベルトルート・フォン・シュタウフェンベルクも,ヒトラー暗殺,反乱に加わっていたとして,逮捕された。そして,8月10日に人民裁判所で死刑判決を言い渡され,即日,処刑された。
Berlin-Plötzensee.- Berthold Schenk Graf von Stauffenberg am 10. August 1944 beim Prozess gegen die Hitler-Attentäter des 20. Juli 1944 vor dem "Volksgerichtshof", zwischen Polizisten stehend Dating: 10. August 1944
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-2008-0184引用(他引用不許可)。


◆ヒトラー暗殺に成功し,反ヒトラー新政権を樹立,西側連合国と和平交渉したとしても,単独不講和,無条件降伏を決定していた連合軍にとって,和平の申し出は,戦争の早期終結に繋がらなかったはずだ。悪の帝国ナチスを敗北させるという聖戦に,敵の助力を加えることは汚点である。聖戦は最後まで貫徹・完遂されなければならない。ナチス・ドイツが,自壊しては,連合軍の軍事力を誇示できず,戦勝という極上の果実を手に入れることができない。ドイツ人自らの反ナチス政権樹立は,連合軍の聖戦貫徹の戦略から見て,障害となったと考えられる。

西側連合国は,本来,枢軸国には無条件降伏しか認めないと宣言していたが,劣勢なイタリアには,事実上,条件降伏を認めた。これは,ドイツを打倒するのに利用できるからである。ドイツに赤色革命,日本に共産主義革命が起これば,ソ連は密かにそれを支持し,傀儡政権化する切り崩しにかかったかもしれない。そこで,イタリアを西側に完全に取り込み,連合国側に寝返らせた。

◆米英は,反共的な謀略を遂行するには,あまりにもファシズムのドイツ,日本の軍事力を過大評価していた。米英は自国民の人命を尊重し,攻撃に伴う損害を最小化するように,慎重に行動した。この自国の人命重視が,枢軸国の降伏を遅らせる原因になった。ノルマンディ上陸作戦や沖縄攻略など,実際よりも半年から1年前に実行できたであろう。

◆ソ連軍は厖大な人的損害を被りながら,領土を奪還し,東欧を「解放」した。その見返りを求めるのは当然だった。西側連合軍が,今日の視点で,戦後のソ連の覇権を見透けなかったというのは容易だが,実は,西側連合軍は,ソ連の人命損失の上に,少ない損害でドイツを敗北させたことに満足していた。

写真(右)1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件で負傷したプットカーマKarl-Jesco von Puttkamer准将(1900 – 1981) を見舞うヒトラー総統:第一次大戦中の1917年,ドイツ海軍重巡洋艦に乗艦,敗戦後は愛国義勇軍フライコールFreikorpsに参加。第二次大戦中は,海軍連絡将校としてヒトラーに仕えた。
Nach dem Attentat vom 20. Juli 1944.- Hitler besucht Verletzte im Krankenhaus, v.l.n.r.: Adolf Hitler, Admiral [Karl-Jesko von] Puttkamer Dating: Juli 1944
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1969-069-29引用(他引用不許可)。


ヒトラー暗殺未遂事件,負傷した総統副官フォン・プットカーマーKarl-Jesco von Puttkamer准将(1900-1981)などのスタッフは,戦傷章を授与され,名誉の負傷とされた。これは,ヒトラーに忠誠を保障されたことを意味する。他方,暗殺に関与したと嫌疑をもたれた人物は,自分の身の潔白を証明するために,ヒトラーの元にはせ参じ,反逆容疑者を密告し,反逆者の人民裁判を熱心に傍聴した。

ヒトラー暗殺未遂事件における将官の処罰・進退
国内予備軍副司令官フリードリヒ・オルブリヒトFriedrich Olbricht大将:1944年7月21日0015,銃殺
元ドイツ参謀本部参謀総長ルートヴィヒ・ベックLudwig August Theodor Beck上級大将:1944年7月21日0015,拳銃自決
元第四装甲軍司令官エーリヒ・ヘプナーErich Hoepner上級大将:1944年8月8日,絞首刑
ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼPaul von Hase中将:1944年8月8日,絞首刑
国防軍通信連絡局長エーリッヒ・フェルギーベルFritz Erich Fellgiebel大将:1944年9月4日,絞首刑
中央軍集団第二軍参謀長ヘニング・フォン・トレスコウHenning von Treskow少将:1944年7月21日,手榴弾自決
国内予備軍司令官 フリードリヒ・フロムFriedrich Fromm上級大将:1945年3月12日,銃殺刑
西部方面軍B軍集団司令官エルウィン・ロンメルErwin Rommel元帥:1944年10月14日,服毒自殺
西部方面軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲGuenther von Kluge元帥:1944年8月19日,服毒自殺
砲兵総監フリッツ・リンデマンFritz Lindemann 大将:1944年9月22日,銃撃戦後死亡
陸軍主計総監エドワルト・ワーグナーEduard Wagner大将:1944年7月23日,自決
元西部方面軍司令官エルウィン・フォン・ヴィッツレーベンErwin von Witzleben元帥:1944年8月8日,絞首刑
フランス軍政長官フォン・シュチルプナーゲルCarl-Heinrich von Stülpnagel大将:1944年8月30日,絞首刑
参謀本部編成課長ヘルムート・シュティーフ Hellmuth Stieff少将:1944年8月8日,絞首刑
国防軍諜報部長カナリス Wilhelm Franz Canaris提督:1945年4月9日,絞首刑
ベルリン警視総監フォン・へルドルフWolf-Heinrich Graf von Helldorf伯爵:1944年8月15日,絞首刑
刑事警察局長アルトゥール・ネーベArthur Nebe中将:1945年3月21日,絞首刑

写真(右)1944年7月21日0015分,ヒトラー暗殺を企てた夜に,国内予備軍副司令官オルブリヒト大将,国内予備軍参謀長シュタウフェンベルクvon Stauffenberg大佐らが銃殺されたベルリンの国防省中庭:左端が鎖で繋がれた男の像(The statue depicts a young man in chains.)右端がレジスタンス記念碑。
反ヒトラークーデタへの参加を要請し軟禁していた国内予備軍司令官フロム上級大将は,解放されると,反乱を起こしたオルブレヒト大将ら反乱将校4人を即決裁判で死刑の判決を下し,ここで銃殺した。
戦後,ドイツでは,反ナチス教育を重視する中で,ヒトラー著『わが闘争』は発禁とされる一方で,シュタウフェンベルク大佐など,反ヒトラー派将校は,ドイツ人の良心を証明するものとして,英雄的に扱われている。写真は,Berlin Photos引用。


現在、ベルリンの国防省跡には「1944年7月20日記念碑」があり,国内予備軍司令部のあったベンドラー街はシュタウフェンベルク街へ改名、記念館が開設された。ヒトラー暗殺未遂事件にかかわったレジスタンス記念切手も発行されるなど,ドイツ連邦共和国における彼らの評価は高い。

他方,ヒトラー暗殺事件に加わった将軍の多くが,ドイツの再軍備を進め,近隣の民族ドイツ人の居住領域を自国に併合し,対ソ戦で共産主義者の抹殺を承諾したことは,特に問題にされていないかのようである。


5.レジスタンス Resistance

◆ヒトラーが,反乱将軍たちが断固たる意思があれば,自分の暗殺は容易だったというのは,上等兵や素人の考えなのであろうか。情熱・勇気を持って行動できたのは,フォン・シュタウフェンベルク大佐や彼らの友人だけだったのか。

◆多数の前線・後方の有力な将軍たちが参加しても,1944年7月20日のヒトラー暗殺は失敗,ワルキューレ作戦は初動で躓いた。将軍たちの大規模反乱を,武器もほとんどないポーランド・ユダヤ人によるワルシャワ・ゲットー蜂起,微力な大学生たちによる反戦レジスタンス白バラ運動と比較すると,目指したもの,方法の差異が明瞭になってくる。


  ⇒ヒトラーの最期:政治的遺書を読む。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っている。ここにレジスタンスの意義が見出せる。

1944年5月3日のアンネ・フランクの日記:「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」→戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈している。
 
 「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。」と,戦争に協力している一般人の重要性,総力戦の現実を認識しつつ,「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いている。

 しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記の末尾に「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。
        じゃあまたね,アンネ・M・フランク
 
人種民族差別と戦争がもたらした惨状に向き合うことなく、戦争の大義,人種民族の優秀性,祖国の栄光を説いても,平和の本質はつかめない。人種民族的イデオロギー,まがい国益,利権の前に,俗説を捏造したり,人種民族差別を煽動したりする者もいる。しかし,大戦中,良心を保とうとしたレジスタンスがいた。その記録を読めば,平和人権の確立がいかに大切かが,情熱を持って,冷静に理解できる。

ベルリン,旧国内予備軍司令部の中庭の壁にある追悼碑文

    1944年7月20日に ドイツのために ここに死す

 ルートヴィヒ・ベック上級大将
 フリードリヒ・オルブリヒト歩兵大将
 クラウス・グラーフ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐
 アルブレヒト・リッター・メルツ・ヴォン・クヴィルンハイム大佐
 ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉

あなた達は恥辱に甘んじなかった
あなた達は抵抗した
あなた達は送った
改心の偉大で目覚めた合図を
自由と正義と名誉のために
あなた達の熱い命を犠牲にして

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日露戦争,スペイン内戦,国際テロ戦争のほか第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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東海大学社会環境課程HK 鳥飼 行博
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