◆ナチス優生学の障害者安楽死T4作戦とジプシー・ハンセン病患者の差別
写真(上):1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターの法医学的・人種的な調査を行う-エヴァ・ユースティン:二人の女性と少年から聞き取りをしている彼女は,シンティ・ロマ/ジプシーの研究家で,ロマ語にも通じていた。ジプシーに犯罪的傾向があるのかどうかを調査し,彼らを排除することを提言した。このようなジプシー調査を基とした論文が認められ,博士号を授与された。ナチスは進化論・遺伝学を恣意的に混ぜ合わせ、科学を装う「優生学」によって、人間の「いのち」に優劣があると妄想し、障害者を養護することは、財政の無駄遣い、国家・民族の恥であるとした。そして、アメリカでも日本でも障害者・ハンセン病患者を断種・不妊化した歴史がある。ナチス・ドイツは、障害者を抹殺するまで暴走した。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- Eva Justin vor einem Gebäude sitzend, mit zwei alten Frauen und einem Jungen
Dating: 1936/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
写真はR 165 Bild-244-72:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆NKHwebNewsによれば、2016年7月26日午前2時、相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員植松聖容疑者(26歳)が入所者19人を刺殺する悲惨な事件が起きた。
◆日本テレビニュース2016年7月28日17:39「「ヒトラーの思想が降りてきた」19人殺害」よれば、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、植松容疑者が今年2月、精神科の病院に措置入院していた際、医師に対し「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話していたことがわかった。さらに治療中、「重複障害者がいなくなることで、国家的に経済的な負担が軽くなる。自身が抹殺事件を起こせば、法律が変わるきっかけにもなる」とも話していたという(引用終り)。
◆植松聖容疑者が衆議院議長あての手紙では、総理大臣に相談してほしいと訴え、障害者のように社会に貢献できない役立たずの人間は、国家財政の無駄遣いだ、日本の恥だという人種衛生学や優生思想に基づく偏見をもち、抵抗できない入所者を殺害する「作戦」として実行したと述べている。
ヒトラーの発想は、戦時下の不安、焦燥感を拭い去るために、兵士や労働者として民族共同体に尽くすことができない障害者を抹殺して、障害者支援の国家予算を、戦争に充当せよというものだが、「日本軍の設立」の訴える容疑者の犯行には、ヒトラーの人権無視、人命軽視の歪んだ国家主義、人種衛生学の発想が見て取れる。アメリカも日本も、進化論・遺伝学を恣意的に混在し、科学を装う「優生学」によって、人間の「いのち」・遺伝子に優劣があると妄想し、障害者を支援し養護することは、財政的無駄遣い、国家・民族の恥であると人権を無視した判断を下し、障害者・ハンセン病患者を断種・不妊化した歴史がある。ナチス・ドイツは、障害者を「生きるに値しない命」と見下して抹殺するまで暴走した。この点について2016年7月28日2300の日本テレビNEWS ZERO「19人刺殺「ヒトラー思想降りてきた」 心の闇ナゼ」、2016年7月30日0600フジテレビ「めざましどようび」「19人殺害「ヒトラー」影響か? 」に出演、解説をした。
◆読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、国家貢献しない非国民の排斥、独裁政権獲得という本音のようだ。
◆2011年9月2日・9日(金)NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」の「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)、9/7(水)、9/11(日)、9/13(水)。
◆2009年9月8日(火),9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』にゲスト出演。
⇒ナチス精神障害者抹殺T4作戦/⇒ナチスのジプシー迫害
⇒キリスト教のハンセン病差別と救護/⇒日本のハンセン病患者の差別・断種・隔離
◆多様な文化や価値観を持った人々の共生が,持続可能な平和を構築するのに必要であり、多民族・多人種の共生の視点が重要になってきた。この概念は、人種民族差別,特定グループの迫害,優生学とは,真っ向から対立する。つまり,戦争と平和の問題は,サステイナビリティー(持続可能性)の議論と重なり合う部分が多い。この複合的な分野を扱う学問が環境平和学である。
1.優生学に基づく差別−似非(エセ)科学のまやかし
20世紀前半、イタリア・ドイツのファシズム(全体主義)の独裁政治、軍備拡張、領土拡張が進み、世界秩序の再編成が唱えるようになった。そして、ファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ナチ党総統(党首)ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを、1925年の著作『わが闘争』で公言していた。ドイツを弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,ペストであると主張した。ドイツ人(アーリア人)を支配者民族とし、アンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人への憎悪を広めた。
◆ナチ党は、人種民族差別を正当化する優生学を信奉し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきであり,ユダヤ人やスラブ陣は、ドイツ民族を人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとしているとした。ユダヤ人やスラブ人は、下等民族・劣等人種であり,排除されなけらばならないと訴えた。しかし,アーリア人という「人種」は,恣意的区分にしか過ぎず、実在しない。
ユダヤ人差別には,看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもあるが,法律・規則の上でも,ユダヤ人の人権が制限され,迫害が行われた。
◆ドイツの一連の反ユダヤ法(ユダヤ人排除のための法律)は,1933年のヒトラー首相任命直後から制定された。1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,第一次大戦後移住したのドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の定義と結婚制限),11月,ユダヤ人選挙権の剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。
写真(右)1940年9月,ポーランド,クトゥノ・ゲットーのユダヤ人:ドイツは、1939年に占領したポーランドのワルシャワ,ウッジ,クラコウなどに大規模なゲットーを設置。ゲットーに囲い込まれたユダヤ人は、そこから外に出ることは禁止された。優生学に基づいて、人種民族汚染を防ぐ政策として、ユダヤ人の隔離が行われた。この差別は、国家財政の支援を受けて行われた「人種衛生」のための福祉政策だった。
Generelgouvernement: Die Bewohner des Ghettos in Kutno.
PK-Jäger-Scherl Bilderdienst
655-41
Sep. 1940
Archivtitel: Polen, Kutno.- Jüdische Männer im Getto
Datierung: September 1940
Fotograf: Jäger
Agentur: Scherl
写真はBild 183-L25175:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L25175引用(他引用不許可)。
1935年ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止した。ユダヤ人が定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなった。
写真(右)1938年7月20日,ドイツ、ミュンヘン郊外,ダッハウ強制収容所の囚人:保護拘置所ダッハウ収容で,おそらくユダヤ人収監者(あるいは反ナチスの政治犯)であろう。ソ連侵攻の緒戦,ドイツ軍はソ連赤軍を包囲し,数十万の捕虜を得た。移送途上に亡くなった捕虜も多かったが,収容所の捕虜の命も長くはなかった。食糧不足,過酷な労働,劣悪な衛生・居住条件のために,多数の捕虜が死亡した。
Schutzhaftlager Dachau.- Angetretene Häftlinge (vermutlich Juden).
Dating: 20. Juli 1938
Photographer: Bauer, Friedrich Franz
Origin: Bundesarchiv
写真はBild 152-27-13A:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_152-27-13A引用(他引用不許可)。
親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)は、1933年,ナチス政権の警察を支配し,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク,ダッハウに設置,親衛隊髑髏部隊に管理させた。これは,反ナチス的な人物のための「保護拘禁施設」だったが,後の強制収容所,絶滅収容所へと発展した。
強制収容所としては、1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。1938年4月,ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々出され,財産の登録義務を課し、登録証発行料を徴収するようになった
websiteYahoo上には、次のように障害者保護を非難する見解もある。
障害者って何で健常者よりいい暮らしが出来るのですか?路駐し放題だし。
websiteYahoo上には、次のように優生学に基づき障害者を断種すべきとの見解もある。
障害者でも子供をつくってる人たちいますけど、、、
正直な話、障害って遺伝する可能性が高いわけですよね。それなのに子供をつくるとか何を考えているんでしょうか。 同じ苦しみを子供に背負わせる可能性があるなら 私だったら子供をつくろうとは絶対思わないんですが、、、
websiteYahoo上には、次のように優生学に基づき障害者を抹殺すべきとの見解もある。
「なぜ重度の知的障害者・自閉症を安楽死させる所がないんでしょうか?
軽度ならともかく・・・重度だと人に迷惑かけるし犯罪だって犯しかねない。中には電車で痴漢や線路に突き飛ばしたりして殺害したなど、すべての重度自閉・知的がそうするとは限りませんが。大変なのは本人ではなく親ですよ。同じ質問を繰り返したり、物を壊したり人を叩いたりおかしいという自覚そのものがないからなおさら迷惑です。」
websiteYahoo上には、次のように反社会的な存在である障害者を抹殺せよとの見解もある。
発達障害とか単なる甘え。
原因は脳にあるのではなく心にあり、親のしつけの問題かと思います。発達障害の支援センターとかも「自分の障害を受け入れた方がいいよ」と偽善的なことをいう偽善者団体の集まり、自分のミスを棚にあげるのはいけないのです!発達障害者と呼ばれている人達は健常者と同じですでも、間違いを認めない片付けられない人、猫背であーあー言ってるのと狂った歌熱唱する障害者は失せるべきだとおもいます。この世界は間違ってると思いますがそうですよね?」
写真(右)1933年3月1日,ベルリン,ラストガーテンのヒトラーユーゲントのトランペッター:ヒトラーユーゲントの大会やナチ党大会に,規律ある力強い見世物とした。このような前途ある若者たちが,優秀なアーリア人として,支配者民族,ドイツ軍将兵,親衛隊員となることが期待された。
1. Mai 1933.- Hitlerjugend im Lustgarten, Berlin
Datierung: 1. Mai 1933
Fotograf: o.Ang.
Quelle: Bundesarchiv
写真は,Bild 146-1976-008-05、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1976-008-05引用(他引用不許可)。
◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人「種」はなく,たかだか「亜種」(Subspecies)を区分できるに過ぎない。人種・民族あるいは能力の差異は、遺伝子以上に、後天的な養育・教育に左右される。兄弟でも大きな違いがあるのはそのためだ。人種・民族を意図的に定義し,特定の人種民族を差別,迫害するのが,優生学である。
◆優生学は、人種・民族を意図的に定義し,障害・性格を遺伝子と結び付けて恣意的に特定することであり、それによって、自分の利益を損なうとみなした人種民族・人物の人権・自由を剥奪し、差別,迫害することを正当化する似非科学である。
「人種」の概念は,「種」でない以上,生物学的実体をもたない。しかし,為政者の意図や自己主張の概念が,「人種」を社会的構築物にしてしまった。人種の概念は,20世紀には,ナショナリズム,イデオロギーと結びついて,確固たる社会概念として広められ,社会的リアリティをもつと信じられてしまった。
優秀な人種・支配者民族と下等人種 (Untermenschen) ・劣等民族との存在という偏見ある優生学は、差別を人々に植え付けた。
「概念」は社会の抱く「現実感」と表裏一体の関係にある。肌・目・髪の色,顔面角,鼻の形,体形は,個体差,個人差が大きい。身体的能力・知能も、後天的な教育の効果が大きく影響する。にもかかわらず,優生学では、生まれながらに優劣があると、遺伝子・表象によって、人種民族が意図的に区分されてきた。このような優生学をもとに,支配者の白人と奴隷の黒人、優秀なアーリア人と下等なユダヤ人・ジプシー人、リーダーの大和民族と従うアジア人、健康な人間と欠陥のあるハンセン病患者・精神障害者など勝手に人種民族を選別し,優劣をつけた。下位のものの人権を蹂躙し自由を剥奪し排除した。
写真(右)1933-1939年,ヒトラーユーゲント(HJ)の青少年による騎馬戦:ペンテコステ(イエス復活日から50日目の)聖霊降臨のキャンプで,"騎士の戦い"が模様された。優秀なアーリア人は支配民族として,厳しい訓練を受ける必要があるとされた。
Hitlerjugend.- Im Pfingstlager, "Reiterkämpfe"
Datierung: 1933/1939 ca.
Fotograf: Weinrother, C.撮影。
写真はBild 146-2004-0031、
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-2004-0031引用。(他引用不許可)
◆社会的ダーヴィニズム(社会的進化論)では,下等人種・劣等民族は、社会進化の過程で自然淘汰されるとした。社会的ダーヴィニズムの上では,文明を築いた優秀な人種・民族が繁栄する一方で,役に立たない下等人種・劣等民族は,支配されてはじめて,社会貢献できると差別された。
優生学では,劣等な人間が繁殖力旺盛な場合,優秀な人間に障害となるために,人為的に排除する必要が生まれる。人類の遺伝的素質に注目して,悪性遺伝子を淘汰して,優良な遺伝子を残さなくてはならない。1883年,イギリス人フランシス・ゴルトン(Sir Francis Galton:1822-1911)らが提唱した優生学は,コーカソイド(白人)の優位性,植民地支配を正当化する論理として,帝国主義の中で,広まった。米国は,アジア人移民排斥の理論的根拠にした。
◆人種優生学研究センターは、ドイツの衛生・医療・福祉を扱う国家保健局の下にある人種衛生のための機関である。つまり、ヒト、人種に優劣があるという優生学に基づいて、ドイツ人(アーリア人)を人種汚染するようなユダヤ人、ジプシー(シンティ・ロマ)、精神障害者など下等民族・劣等人種を選別し、その排除を目指していた。人種民族の選別は、国家財政の負担において行われた人種衛生的な福祉政策だった。換言すれば、人種民族の共生ではなく、選別、差別、排除が福祉であった。
写真(右)1944年,ヒトラーユーゲント軍事訓練の一環としての軍用オートバイ乗車:兵器操作を簡単に!,10人の隊員が,武装親衛隊と同じ制服を着て,軍用オートバイの体験乗車で,フィールドを疾走する。ヒトラーユーゲントとしての,騎兵のように,戦場を走り回るための,事前の自動車操縦訓練でもあった。優秀なアーリア人は、国家防衛の義務には努力を惜しんではならず、命懸けで奉仕しなくてはならない。
Waffenwahl leicht gemacht!
HJ als Gäste bei der Kavallerie können sich mit allen Waffen vetraut machen und so aus Anschauung sich für "ihre Waffe" entscheiden.
Zehn Mann hoch geht es nach einer Feldübungsbesichtigung in lustiger Fahrt auf dem Krad durch das Gelände.
Datierung: 1944
Fotograf: o.Ang.
写真は,Bild 146-1981-052-34A:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ人は、支配者民族アーリア人とされたから、健康で優秀でなくてはならなかった。そこで、ドイツの青少年を鍛え上げるプログラム「ヒトラーユーゲント」が全国的に導入された。これは、健康なドイツ人をメンバーとする青年団である。1936年12月、ヒトラーユーゲント法によって、国内の全ドイツ青少年がヒトラーユーゲントに加盟させられた。そして、人種民族差別を説く優生学を学び、肉体的、精神的道徳的に国家と共同体に奉仕する教育をうけることが決められた。
優秀なアーリア人は,支配者民族となるために,ヒトラーユーゲントに加盟させられた。10歳以上の青少年男女に、勤労奉仕、小銃射撃・グライダー訓練などが施された。1939年9月の第二次世界大戦勃発以降は、ヒトラーユーゲントでは軍事教練がいっそう強化された。ただし、日本陸海軍にも15・17歳から少年兵の制度があり、アメリカ海兵隊も16歳から志願兵(ボランティア)を募っていた。
障害者は、非国民扱い、厄介者扱いされた。健常者を遺伝子汚染する、財政負担になる、という理由で差別、排除、迫害されることもあった。
写真(右):1943年,君へのメッセージ、SSメインオフィス、武装SSの募兵事務所」:健康なアーリア人男性は、兵士となり、ドイツに尽くすことが任務となった。ドイツ人は支配者民族であるが、厳しい自己鍛錬、自己犠牲の精神が求められた。
Auch Du
Meldung bei: SS-Hauptamt, Ergänzungsamt der Waffen-SS
Dating:1943 ca.
Designer:Anton, Ottomar作成。
写真はPlak 003-025-011、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
どこの国でも、若くて健康な肉体は、兵士に最適である。社会の裏表を知らない純真な青少年は、愛国心に訴えるプロパガンダに最も影響される存在である。先天的な特性,遺伝的人格,生まれながらの生物学的な能力よりも,後天的な教育の力が強い影響を与えたようだ。
人種民族差別の「世界新秩序」は,既に,オーストリア,チェコスロバキアにも軍事的威嚇・併合によって推し進められていた。それが,第二次大戦勃発で,ポーランドがドイツの生存圏へと改編された。
フランスの高校2年(Lycée 1)の文学・社会経済コース『仏独共同教科書』 No.20 には、次のような記述があるという。フランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第4節 ナチスドイツにおける暴力、テロそして弾圧(1933年−1939年)
<国家はいかにして、政治的反対者の根絶を組織したか?>
1933年から始まった強制収容所の建設、またテロ機構の設置と国家保安本部の監視体制に決定的な役割を果たした。
「危険分子」の迫害
ナチスは「人民に有害な者」として、特定のグループを他と区別した。戦争が始まる前においても、彼らを権利剥奪の状態に置き、殺害まで含めた迫害をおこなった。迫害は、政治的、民族的、宗教的あるいは社会的な理由でおこなわれる。犠牲者はとくにユダヤ人であり、エホバの証人の信者、ジプシー(Sinti/Roms)、同性愛者、労働拒否者、社会生活非適応者、アルコール依存症(アルコール中毒)であった。
写真(右)1937年,ドイツの国民啓蒙宣伝相大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels )博士と妻マグダ、長男(自分の子)ヘルムート、長女ヘルガ、次女ヒルデガルド:ヨーゼフ・ゲッペルス博士は、ヘルガ 1932年生、ヒルデ 1934年生、ヘルムート 1935年生、ヘッダ 1937年生、ホルデ 1938年生、ハイデ 1940年生と6子をもうけた。マグダ前夫の子ハラルト(母マグダ19歳の出生)も養子としたから、総勢7名の子どもがいたことになる。子供は全員Hから始まる名前だが、これはゲッペルスが密かにヒトラーのHを継いだものとして意識していた。ヒトラーは独身だったために、ナチ党に古くから参加していたマクダが、ナチ政権のファーストレディとして、夫の監督するメディアで取り上げられた。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-1987-0724-503
Original title: info Magda und Joseph Goebbels mit Kindern
13518-37
Archive title: Magda und Joseph Goebbels mit Kindern Helga, Hildegard und Helmut, auf einer Bank sitzend
Dating: 1937
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Goebbels183-1987-0724-503引用(他引用不許可)。
1933年7月14日の遺伝病子孫予防法(優生断種法)は、「ドイツ民族共同体の純血性を危機に陥れる可能性を持つ」精神障害者(心身障害者)に対する予防措置(断種)をとらせることになった。この法律は、安楽死の法律的基礎を提供した。
ユダヤ人に対する差別の法律的な基礎は、1935年9月15日に制定されたニュルンベルグ法である。この法律は、ドイツ民族共同体からユダヤ人排除の方針を決めたものである。
写真(右)1939年夏,ドイツ、バイエルン州オーバーザルツベルク、ベルクホーフ山荘で、建築家アルベルト・シュペールに、生まれ故郷オーストリアのリンツ都市改造計画の説明を受けるアドルフ・ヒトラー:ナチ党支持のインテリ作家ディートリヒ・エッカートが、ヒトラーをオーバーザルツベルクに連れて行ったが、ヒトラーはオーバーザルツベルクが気に入り、1928年には山荘を月100マルクで借りることにした。この山荘の管理は、異母姉アンゲラ・ヒトラー(姪アンゲラ・ラウバルもいた)に任せた。1929年5月、ヒトラーは山荘を購入し、ベルクホーフと名付け、改名した。そして、1933年1月の政権獲得後しばらくしてから、ベルクホーフ周辺を買い占めたヒトラーは、山荘を拡張、大規模なエレベーターを含む近代的な施設に建て替えた。1939年の時点で、ヒトラーは、ポーランド侵攻を国防軍に命じており、イギリス・フランスを巻き込む第二次世界大戦を戦う覚悟をしていた。
Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-2004-1103-500
Original title: info [Scherl-Text]
Der Führer mit Prof. Speer auf d[em] Obersalzberg [Berghof] b[ei] d[er] Besprechung von Plä
nen für das neue Opernhaus in Linz.
6049-39
Dating: 1939 Sommer
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
Geography Germany: Berchtesgaden
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild183-2004-1103-500引用(他引用不許可)。
第二次大戦勃発直前の1939年1月の国会演説において,ヒトラーは,第一次大戦と同様、ユダヤ人によって戦争が仕掛けられれば,それはユダヤ人を殲滅する戦争となると予言した。ユダヤ人がアーリア人のドイツに攻撃を仕掛けてくるので、戦争にならざるを得ないというのである。
ポーランド人によるポーランド在住ドイツ系住民の虐待,ポーランド軍によるドイツ側放送局の襲撃を理由に,1939年9月1日,ドイツはポーランドに侵攻した。こうして,ドイツ本国の50万人を数えるドイツ・ユダヤ人に加えて,何百万人もの「東方ユダヤ人」(Ostjuden)がドイツの支配下に入ることになった。
写真(右):1939年9月,ベルリンで開催されたドイツ帝国議会で戦争を宣言するアドルフ・ヒトラー総統:第二次大戦は,9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻,9月3日の英仏によるドイツへの宣戦布告で始まった。
ドイツでは,1933年1月30日,第一党の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)総統(党首)ヒトラーを主要とする内閣が成立した。しかし,2月末,ドイツ国会議事堂放火事件が発生したために,大統領緊急令によって,礼状なしに共産党幹部を逮捕し,国会議員を威嚇しながら,3月に「民族・国家危機排除法」(全権委任法)を成立させた。全権委任法によって,行政府が立法権を議会から授権された。ナチ党政権の権力濫用を戒める対抗勢力は解散させられたために,ナチ党一党独裁の道が開かれた。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-E10402引用(他引用不許可)。
1939年10月6日、ヒトラーはヨーロッパにおける民族新秩序の創出を宣言し、その達成のために、ユダヤ人問題を挙げ、諸民族の再定住を進めることになった。そして、ヒトラーは、親衛隊国家長官親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)に敵性民族(ユダヤ人、スラブ人など)の排除を求め、「ドイツ民族強化のための国家全権委員」に任命した。
民族再定住のために、親衛隊員以外にも、行政官、医師、看護婦、ソーシャルワーカー、大学教授、建築家などが動員された。
写真(右)1941年,ゼップ・ディートリヒ(Sepp Dietrich)を指揮官とする武装親衛隊「ライプシュタンダルテ・アドルフヒトラー」を訪問した親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler):親衛隊は、警察組織を管理しており、その配下の武装親衛隊は、陸軍とは別の指揮系統の軍隊でり、親衛隊の下でナチ党の精神を体化して戦うヒトラーの私的軍隊である。敵の捕虜やユダヤ人や敵性住民のゲリラ活動に対して厳しい扱いをしたが、これは親衛隊の伝統でり、名誉でもある。
Inventory: Bild 101 III - Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS
Signature: Bild 101III-Mayr-033-33
Old signature: Bild 146-2005-0079
Archive title: Griechenland.- Sepp Dietrich und Heinrich Himmler bei einer Besichtigung der Waffen-SS-Division "Leibstandarte SS Adolf Hitler"
Dating: 1941
Photographer: Mayr
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Mayr-033-33引用(他引用不許可)。
ヒトラーの戦争の本質は、エセ科学の優生学を信奉して、人種民族差別、下等人種・劣等民族の排除、人種汚染の防止に基づいてた。そして、財政負担を投じて、ユダヤ人、ジプシーと並んで、ドイツ人精神障害者を差別し、排除しはじめた。
1939年、第二次世界大戦が勃発し、ドイツはポーランドに侵攻,西部のシュレジエンをドイツ帝国領に併合した。そして、ポーランド東部は、総督領として,ドイツ人総督ハンス・フランクの支配下に置いた。ユダヤ人は,住んでいた場所を追われ,都市一角に作られたユダヤ人居住区「ゲットー」に囲い込まれた。
社会を監視するために、ナチスの体制は密告とスパイ活動を配置した。密告者は常に、親衛隊保安部(Sicherheitdienst:SD)に情報を提供した。親衛隊保安部は1934年から、国民の中に存在する「体制に合致しない」活動についての情報を収集し、国内の情報活動とスパイ対策の全体に責任を持った。社会の自主的な監視は、国家介入なしに機能した。すなわち出世、報復感情、民族共同体の構成員であることからくる優越感から、多くの住民が密告者になった。
写真(右)1941年,ゼップ・ディートリヒ(Sepp Dietrich)を指揮官とする武装親衛隊「ライプシュタンダルテ・アドルフヒトラー」を訪問した親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler):武装親衛隊は、自分にも厳しく、他人にも厳しく扱った。優秀なアーリア人は、国家防衛の義務には努力を惜しんではならず、骨になるまで戦うものであり、憐憫や人間愛は弱さの表れであると軽蔑され、押し殺すべきであるとされた。
Inventory:Bild 101 III - Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS
Signature: Bild 101III-Mayr-033-32
Old signature: Bild 146-2005-0102
Archive title: Griechenland.- Sepp Dietrich und Heinrich Himmler bei einer Besichtigung der Waffen-SS-Division "Leibstandarte SS Adolf Hitler"
Dating: 1941
Photographer: Mayr
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Mayr-033-32引用(他引用不許可)。
中央集権化した警察機構とナチスの体制は、SSとゲシュタポGestapoなど抑圧と迫害の手段として国家に役立った。好ましからざる敵を排除するためにナチスがとった手段は、不当に自由を剥奪「保護拘束:Schutzhaft )し、物理的排除にいたる身体的および精神的虐待を職務としておこなうことである。こうした警察やユダヤ人迫害の頂点に立ったのがナチス親衛隊であり、その最高指揮官が親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)である。
(ナチ党政権獲得直後)1933年春以降、ナチス体制への政治的反対者は、ドイツの各地に設置された強制収容所に収容され、親衛隊SSによって監視された。その後各地のゲシュタポ司令部も留置場になった。これら収容所の中では、囚人の権利は全く認められず、軍隊的な規律を強制され、拘束状態に置かれ、肉体的および精神的暴力を加えられ、ついには命を落とすこともあった。(イル・サンジェルマンの散歩道『仏独共同教科書』引用終わり)
講談社現代新書『優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(米本昌平、鰓島次郎、松原洋子、市野川容孝)によれば,優生学に対して,ナチスやファシズムの専売特許だったかのように扱うのは間違いであり,社会主義者,自由主義者も,優生学が革命や社会の改良に科学的な正当化をしてくれるように錯覚していた。
「優生学をヒトラーとナチスにだけ閉じ込めて理解するならば、歴史的事実の多くを逆に見落とすことになる。」
「ドイツでは、ナチス以前のワイマール共和国の時代に、優生政策の素地が徐々に形成されていった。北欧のデンマークでは、ナチス・ドイツよりも早く断種法が制定され、スウェーデンでも、最近の問題となったように、実質的には強制と言える、優生学的な不妊手術が1930年代以降、1950年代に至るまで実施された。ワイマール期のドイツと30年代の北欧諸国に共通するものは、福祉国家の形成ということである。」
写真(右):1934年9月23日,ドイツ処女団(BDM)「国家スポーツの日」:健康なアーリア人女性は、兵士・労働者となるべき夫に仕え、健康なアーリア人の子孫を生むことが任務となった。ドイツ人は支配者民族であるとはいっても、ジェンダー不平等から、女性の地位は男性の下とされた。
Im Bund Deutscher Mädel: Reichssporttag des B.D.M.
Dating:September 1934
Designer:Hohlwein, Ludwig作成。
写真はPlak 003-011-040、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ズザンネ・ハイム (Susanne Heim)川喜田敦子訳「ナチ体制下のホロコーストと科学」(続き)
「優生学と人種衛生学の興隆はナチに特殊な現象でもドイツだけに見られた現象でもなかった。----しかしナチズムに特徴的であったのは、科学と実践が密接に結びついており、優生学や人種学の科学的提言がすぐさま政策に反映されたことであった。
カイザー・ヴィルヘルム財団の科学者もその専門知識をナチの人種政策のために提供し、新たに設立されたあまたの委員会で政策顧問として活躍した。人類学、遺伝学、優生学関連のカイザー・ウィルヘルム研究所の指導的科学者たちは‘ユダヤ人問題’ を検討したり、専門家会議で‘ユダヤ人問題の全体解決’ について協議したりした。----」
「また‘東方諸国の人種的生物学的調査’を行った者もいた。ほぼすべての学問分野が占領下の東欧の従属と長期的変革に関与したといえる。科学者は、すでに占領下に置かれた、もしくは間もなく占領下に入る国々の人口比率、社会的経済的状況、食料供給、国内資源に関するデータを提供した。たとえば統計学者は、ユダヤ人とシンティ・ロマを国勢調査でそれぞれ独立した項目として登録したり、ヨーロッパ全土のユダヤ人をマダガスカルに移送する可能性を算定するために三種類の異なる証明書を用いたりした。経済学者は供出割り当てを決定したが、これはつまり占領地域の住民を飢えさせることである。
栄養生理学者はレニングラード包囲を、大都市の住民を飢えさせるためにはどれだけの日数がかかるかという実験ととらえていた。社会学者は ‘民族境界の適正化’や‘小規模市場都市の非ユダヤ化’などの提案を行った。内科医はゲットーは疫病の危険な温床であるとして、ゲットーを厳格に分離するか、望むらくは移送によってゲットーを解体すべきであると主張した。
ナチの統制計画の策定に政策顧問として関与したこれらの科学者は、一般にきわめて若い世代の知的エリートであった。この世代は ヴェルサイユの恥辱、世界恐慌時の失業の恐怖を経験した後、ナチ国家の勢力拡大によって思わぬ機会をえたのである。」(「ナチ体制下のホロコーストと科学」ズザンネ・ハイム (Susanne Heim)川喜田敦子訳引用終わり)
日本では、第二次大戦直後、現人神天皇陛下の治める神国日本、優秀な大和民族という優生学が否定された。これが、天皇の人間宣言である。
『年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)』:昭和天皇による人間宣言;昭和21年(1946年)1月1日
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我カ国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル、今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効スベキノ秋ナリ
惟フニ長キニ亙レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ
然レドモ朕ハ爾等臣民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス
我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、倫ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ(『年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)』引用終わり)
2.人種民族差別に基づくジプシー(シンティ・ロマ)の迫害
写真(右)1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査
:スカーフの女性(ローマ/ジプシー?)と国家保健局人種優生学研究センターの研究者が会話しているが,法医学的、人種的な衛生学・優生学は,下等人種・劣等民族を選別,排除することが最終目的だった。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- zwei Frauen mit weißem Kittel (Krankenschwestern, u.a. Eva Justin?) beim Abformen des Gesichts eines Mannes (Sinti/Roma?)
Dating: 1936/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-65 ,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・R_165_Bild-244-65_Rassehygienische_Forschungsstelle引用(他引用不許可)。
ヨーロッパでは,移動生活を好む文化的集団を「ジプシー」と呼び習わしていた。ドイツでは,ナチ党政権下で、優生学が信奉され、ジプシーを下等人種、劣等民族として扱うようになった。現在、「ジプシー」は差別用語に当たるとして,「シンティ・ロマ」あるいは「ロマ」と呼ぶことが多くなった。
写真(右):1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査:エヴァ・ユースティンらしい女性が、シンティ・ロマ/ジプシーの目の色を検査検査している。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- Frau mit weißem Kittel (Krankenschwester Eva Justin?) bei Bestimmung der Augenfarbe einer jungen Frau (Sinti/Roma?)
Dating:1936/1940 ca.
写真はR 165 Bild-244-64,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆1936年、ドイツ国家保健局人種優生学研究センター(民族衛生住民病理研究所とも訳される)は、所長のロベルト・リッター(Robert Ritter)博士の下で、人種汚染を防ぐための人種衛生活動を開始した。ジプシーは、反社会的混血人種とされ、ドイツ民族共同体にとって、人種汚染を引き起こす危険な存在とみなされた。1939年『ドイツ医師報』の「反社会的集団としてのジプシー」の中で、ジプシーのような「人種が劣等遺伝子の素質を次世代へ伝えることが必要であるが、目標は、このような性格上欠陥のある住民分子を容赦なく始末することである」とされた。
写真(右)1936-1940年,ドイツ人ロベルト・リッター(Robert Ritter)博士によるジプシー/ローマ(?)女性の調査;ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査の一環で,目的は,法医学的、優生学的に,下等人種・劣等民族を選別,排除する資料を作ることだった。当時はこの人種民族の選別が福祉につながると考えられていた。国家が、人種民族を選別することを財政上も推し進めていることからすると、人種民族の選別は福祉財政の一環ということになる。
Dr. Robert Ritter mit Aktenmappe und einer alten Frau (Sinti/Roma?), und Inspektor (?) der Ordnungspolizei
Datierung: 1936/1940 ca.
Fotograf: o.Ang.
Quelle: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・R_165_Bild-244-71_Dr__Robert_Ritter_mit_alter_Frau_und_Polizist引用(他引用不許可)。
エヴァ・ユースティン(Eva Justin:1909/08/23-1966/9/11)は,ドレスデン生まれで,1934年から看護訓練コースに出席し,ロベルト・リッター(Robert Ritter)の下で精神医学を学ぶ。そして,国家保健局人種優生学研究センターの研究者として,ジプシー/ロマの調査を行った。課題は,ジプシーの子どもたちと,その子孫の繁殖に関してであった。
エヴァ・ユースティンは、ロマ/ジプシーに関する専門家のロベルト・リッター医師の助手を務めつつ、ジプシーの子供たちを研究対象として人種的特徴に関する博士論文を作成した。調査対象のジプシーの子供たちは、ドイツのムルフィンゲンにあるカトリック教会の孤児院「聖ヨーゼフの家」に収容されていた。エヴァ・ユースティンは、この孤児院のジプシーをカラー映像で撮影させている。
写真(右)1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族のサンプル採取:国家保健局人種優生学研究センターの白いコートを着たエバ・ユ−スティンEva Justin(?)がジプシー/ローマの顔の成形模型を作っている。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- zwei Frauen mit weißem Kittel (Krankenschwestern, u.a. Eva Justin?) beim Abformen des Gesichts eines Mannes (Sinti/Roma?)
Dating: 1936/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-66,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
博士号の学位論文で,エヴァ・ユースティン(Eva Justin)は、ジプシーたちは多かれ少なかれ反社会的傾向を持つ人種であるとして、社会適応性の低さのために,アーリア人にとって有害な存在であるとした。ほぼ全てのジプシーとジプシーの混血を排除すべきであるとの結論に達している。
Lebensschicksale artfremd ersogener Zigeunerkinder und ihrer Nachkommen(ジプシーの子どもたちとその子孫)
Justin, Eva. - Berlin, (1943)
Lebensschicksale artfremd erzogener Zigeunerkinder und ihrer Nachkommen(ジプシーの子どもたちとその子孫)
Justin, Eva. - Berlin : R. Schoetz, 1944
写真(右)1936-1940年,国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族のサンプル採取:国家人種優生学研究センターの白いコートを着た看護婦がジプシー・ロマ/ジプシーの髪のサンプルを採取する。サンプル調査は、優秀なアーリア人(ドイツ人)にとって、下等人種・劣等民族のジプシーが人種汚染しているかどうかを計測するためのものである。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- Frau mit weißem Kittel (Krankenschwester?) bei Entnahme einer Haarprobe von einer Frau (Sinti/Roma?)
Dating: 1936/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・R_165_Bild-244-67_Haarproben-Entnahme引用(他引用不許可)。
カトリック教会の孤児院「聖ヨーゼフの家」に収容されていた子供たちは、研究調査が終了すると、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所にに移送された。そして、大半が殺害された。
第二次大戦後,1948年3月,ユースティンは,児童心理学者としてフランクフルトアムマインで働いたが,上司は,戦時中と同じロベルト・リッター博士だった。
第二次大戦中(1939-45年)、ドイツのナチ党政権は、アーリア人の純血を守るとしょうして、主にヨーロッパのユダヤ人600万人を殺害し、さらにシンティ・ロマ・ジプシー50万人、精神障害者25万人以上、同性愛者、ソ連軍捕虜など多数を強制収容所で殺害した。
ナチス・ドイツの同盟国・傀儡国家クロアチアでは、ウスタシャ(クロアチア人の国家主義者団体)が、ユーゴスラビアのジプシー・ロマ/ジプシー5万人を殺害している。
写真(右)1940年5月22日,ドイツ警察の指示に従って、移送されるシンティ・ロマ/ジプシーの行列:犯罪、スパイ行為など反社会的傾向が危惧されたジプシーは、優生学上、下等人種とみなされ、追放された。これから、強制収容所へ移送される。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug
Dating: 22. Mai 1940
写真はR 165 Bild-244-43、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1939年10月、第二次世界大戦勃発から1か月後、ドイツ国家刑事警察局は、 ジプシー拘束を進め、国外追放するか、収容するかを検討した。そして、1940年5月には、ジプシーが放浪して敵のスパイとなり、窃盗をする危険を踏まえ、ドイツ西部国境地帯から離れた場所に移送することになった。
移送(追放)の対象となったのは、2500名のシンティ・ロマ/ジプシーである。西部国境地帯のジプシーが危険視されたのは、ドイツがフランスに侵攻するルートとなっていたためである。1940年5月15日の夜から、ドイツ警察がライン、ヘッセン、ファルツの500名のシンティ・ロマ/ジプシーを逮捕、移送(追放)した。
1940年には、既に国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査がなされていたため、作成されていた登録名簿にしたがって、ジプシーが検挙され、年齢別・男女別に収容された。この時、専門家によって、22名が"非ジプシー"と判定され、帰宅を許されたという。
写真(右)1940年5月22日,小銃で武装したドイツ警察の監督下、移送されるシンティ・ロマ/ジプシー:ドイツ帝国内であるためか、親衛隊SSやドイツ軍兵士ではなく、警察官が追放に参加している。しかし、警察は、親衛隊国家長官の指揮の下に置かれ、身分の上でも、親衛隊の階級を授けられている景観も少なくなかった。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug
写真はR 165 Bild-244-46、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆シンティ・ロマ/ジプシーは、優生学上の人種民族的差別からナチ党政権下で迫害の対象となり、収容、移送、強制労働に付され、絶滅収容所にも送られた。アインザッツグルッペン(特別行動部隊)は、ソ連のドイツ占領地で、何万人ものシンティ・ロマ/ジプシーを銃殺、殺害した。 戦前にヨーロッパに住んでいたシンティ・ロマ/ジプシー約100万人の内、20万人から50万人が殺害されたと推測される。
◆シンティ・ロマ/ジプシーは、ヨーロッパに数百万人居住しているが、「ジプシー」のの公式区分はなく、東欧諸国もEU(欧州連合)に加盟して、シンティ・ロマはEU市民となった。定住が大半で、伝統的な放浪生活を営む集団は少なくなった。ルーマニアには、シンティ・ロマ/ジプシーは200万人が住んでいる。
EU市民権が認められるようになったシンティ・ロマ/ジプシーではあるが、依然として、貧困、差別に苦しみ、教育の機会も十分でない場合も多い。また、不況や将来への不安から、EU市民の中には、シンティ・ロマ/ジプシーを犯罪に手を染める反社会的人種と見做したり、怠惰で不謹慎な民族として蔑視したりしている者もある。国家主義者、ナショナリストの政治家・専門家には、ナチ党と同じく、シンティ・ロマ/ジプシーを追放すべきであると公言している者もいる。
2010年7月28日、サルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領は、メルケル首相が彼に来週には違法なシンティ・ロマ居住区を排除したいと思っていると語ったと記者会見で述べた。しかし、フランスの外務大臣は大統領がブリュッセルでメルケル首相と話をしたとは聞いたことがないと述べた。ドイツのメルケル首相は欧州委員会、ブリュッセルでのサルコジ大統領との首脳会談などで、シンティ・ロマについて非難したことはない。
写真(右)1940年5月22日,ドイツ本土西部から列車で強制収容所に移送されるシンティ・ロマ/ジプシー:移送を監視する警察も、ジプシーの運命を概ね予測できた。彼らを研究対象とし、犯罪的傾向ゆえに排除すべきであると提言したリッター博士、ユースティン女史など専門家は、明らかに彼らが殺されることを知っていた。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug
Dating: 22. Mai 1940
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-57、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
2013 NY Times Co.
:2010/08/20; France sends nearly 100 Gypsies back to Romania;「フランス、100名近いジプシーをルーマニアに送還」
Washington Post:2010/08/20; France sends nearly 100 Gypsies back to Romania「フランス、100名近くのジプシーをルーマニアに追放」
BBC News:2010/08/20;France sends Roma Gypsies back to Romania:「フランス、ロマ・ジプシーをルーマニアに送還」
フランス政府が、ロマ(ジプシー)をルーマニアに送還したため、数十人のロマ(ジプシー)が、ルーマニアに到着した。ロマ86人がフランスを去り、さらに何百人ものロマが、ここ数週間で、キャンプを引き払いフランスを去ることになっている。
ルーマニア大統領トラヤン・バセスクは、フランス政府の状況は理解している、ルーマニア人の旅行者の権利を制限しないことを望む、と述べた。
退去させられるロマは、ルーマニアには、機会も仕事も何もない、と述べた。
「本日、86人は自主的に帰国した。61人はリヨン空港からフランス出入国管理事務所の手配した特別機に乗せられ、10人と15人はロワシー=シャルル・ド・ゴール国際空港から二機の民間機によって送り返された、とベソン局長は述べた。
ロマは、EU市民であり、多くはルーマニアかブルガリアの出身であるが、フランスの法律では、就労許可がない限り、3か月以上、フランスに滞在することはできない。就労許可を取得するのは難しいため、ロマの多くは、自動的に不法滞在者とみなされてしまうのである。
送還に合意したロマには、300ユーロが支払われ、子供には一人当たり100ユーロ追加される。
フランス政府は、違法なロマのキャンプ300カ所を、今後3か月以内に閉鎖する計画であると述べた。
ロマの51カ所のキャンプが警察によって撤去され、居住者たちは、一時避難所に移送され、収容された。
◆1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ジプシーは、反社会的分子として排除されはじめた。ドイツ国家保健局は、ドイツ人の精神障害者を安楽死させるT4作戦にも関与していた。優生学の福祉政策は、人種衛生学に結び付き、人種汚染、反社会的分子の遺伝子を排除する、すなわち隔離・追放、断種、抹殺を促すものであった。現在でも、その優生学的・人種衛生学的「福祉政策」=人種民族差別、は根強く残っている。
3.ドイツの精神障害者安楽死「T4作戦」:人種衛生学に基づく福祉政策
精神障害者とは、精神を病んでいる気の違った人、狂人と呼ばれてきたが、現在では、精神病も病気の一種であり、治療対象となっている。鬱病、ストレス性障害など様々な精神病にかかった人でも、会社勤めをしていることもあるし、一般市民の生活に順応していることもある。しかし、態度が急変したり、他人に危害を及ぼしたりする危険人物とみなされたり、子孫に遺伝する危険があるとされたり、排除の対象とされてきた経緯がある。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設(サナトリウム)に隔離されている精神障害者;1934年、ナチ党政権ドイツで、遺伝性疾患子孫防止法が制定された。国家に貢献できない「生きるに値しない命」を排除する法律である。
Heilanstalt Schönbrunn b./ Dachau. - SS-Foto, 16.2.1934
Aufnahmen von Idioten verschiedenen Alters zum Gesetz für Verhütung erbkranken Nachwuchses
Archive title:Heilanstalt Schönbrunn bei Dachau.- Gruppe geistig behinderter Kinder
Dating:16. Februar 1934
Photographer:Bauer, Friedrich Franz
写真はBild 152-04-31:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設(サナトリウム)に隔離されている精神障害者の若者(正面);親衛隊SSの記録写真。遺伝性疾患子孫防止法の施行にあたって、隔離・断種の対象となるのは、もはや国家に貢献できないにも拘わらず、国家財政に基づく福祉負担を必要とする障害者である。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
精神病の原因は、外傷など外因性、メンタルな心因性とに区分されるが、その原因は不明確である場合が多い。分類上は。精神病の半分が分裂病と躁うつ病であり、脳炎・頭部損傷・高熱による脳障害から、アルコール、一酸化炭素、有機水銀など毒物による中毒も精神病を引き起こす。
◆優生学は,人間の性格,能力が生まれながらの遺伝子的特性に支配されているという前提に立っている。そこで,人間の性格,能力に差異があれば,それは生物学的なもので,教育や生活環境など,後天的な影響はほとんど受けないことになる。
優生学の立場では,人間の価値自体が,生まれながらにして,生物学的基礎によって決まっていることになる。生存競争に勝ち残った,社会的優位性を保っている人間・人種民族が,指導者,支配者となって,劣った人間・人種民族を指導し,服従させることを,正当化する。この人間の優位・劣位の段階的枠組みの中では,人種,民族のほかに,女性,障害者,病弱者なども劣位に置かれる。つまり,社会的な弱者,少数民族に対する差別が,科学の名の下に正当化される。これはエセ(似非)科学である。
生命倫理学資料関西医科大学法医学講座/関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室「優生学の錯綜」によれば,第二次大戦前、優生学思想に基づく精神障害者の排除、そのための断種など優生手術は,ドイツ、スウェーデンなどの西欧、アメリカ、日本でなど世界各地で行なわれている。
1907年アメリカ合衆国インディアナ州で断種法が制定。1923年までに優生手術(断種・妊娠中絶・堕胎)を実施する断種法は、全米32州で制定 された。カリフォルニア州などでは梅毒患者、性犯罪者も、反社会的人物として、優生手術(断種・妊娠中絶・堕胎)の対象とされた。
ナチスドイツは政権を得た1933年にカリフォルニア州を参考にした遺伝性疾患子孫予防法(遺伝病子孫予防法:Prevention of Progeny with Hereditary Diseases)を公布。これは、精神障害者を支援するための経済・国家財政の負担軽減が目的だった。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設(サナトリウム)に隔離されている精神障害者の若者(正面);遺伝性疾患子孫防止法の制定された1934年、親衛隊SSは、精神障害者の頭部、全身など特徴を把握するために記録写真を撮影した。
写真はBild 152-04-36、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆1939年10月、ヒトラーは、精神障害者安楽死計画の実行を指示したが、この文書の日付は(開戦と同時、9月1日付とされた。1936年に総統官房長官フィリプ・ボーラー(Philippp Bouhler)は、全国健康保険局の連絡担当官にヴィクトル・ブラック(Viktor Brack
)を任命した。ブラックは、1939年12月、自分のベルリン、ティアガルテン4番地にある事務所を、精神障害者安楽死計画の本部とした。全国保健局本庁舎内ではなく、ブラックの事務所を使ったのは、政府が精神障害者を抹殺していることを秘匿するためである。
障害者安楽死計画は、「T4作戦」の秘匿名称でようになり、終戦までに、27万5,000人の障害者をガス殺、投薬注射などによって殺害した。
1942年には、アーリア人(ゲルマン民族)優生思想の下、ホロコースト (ユダヤ人虐殺) を開始し、終戦までに600万人を殺戮した。
◆スウェーデン
では福祉国家の確立を訴えたハンソン社民党政権下で優生学
基づいて、1935年に「特定の精神病患者、精神薄弱者、その他の精神的無能力者の不妊化に関する法律」、すなわち断種法が制定された。第一条では、精神疾患、精神薄弱、その他の精神機能の障害によって、子どもを養育する能力がない場合、もしくはその遺伝的資質によって精神疾患ないし精神薄弱が次世代に伝達されると判断される場合、その者に対し不妊手術を実施できる、とした。
断種法の制定理由は、生まれてくる「生きるに値しない命」を淘汰することによって、そこに投入されることになる福祉財政の負担を軽減し、健康な児童の福祉・社会貢献した老人の年金などに充当し、国力向上、福祉国家の形成を図るためである。つまり、福祉国家を形成する財政基盤を強化するために、財政支援の対象となる「不要な人間」を減らすという優生学的発想に基づいて、国家の福祉を充実するのである。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設(サナトリウム)に隔離されている精神障害者の若者(側面);親衛隊SSの記録写真。1934年遺伝性疾患子孫防止法の隔離・断種手術の必要性を検証するために、同じ精神障害者の頭部、全身など角度を変えて撮影している。
Heilanstalt Schönbrunn b./ Dachau. - SS-Foto, 16.2.1934
Aufnahmen von Idioten verschiedenen Alters zum Gesetz für Verhütung erbkranken Nachwuchses
Archive title:Heilanstalt Schönbrunn bei Dachau.- Gruppe geistig behinderter Kinder
Dating:16. Februar 1934
Photographer:Bauer, Friedrich Franz
写真はBild 152-04-37、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆断種手術(優生手術)は、「生きるに値しない命」を排除するという優生学的な出生の差別化・選別によって、福祉国家を作ろうとする国家的戦略の一環だった。
スウェーデンでは、1941年に断種手術の同意を必要とするが対象者を反社会的生活者まで拡大したが、実情は半強制的な優生手術(断種、場合によっては妊娠中絶・堕胎)だった。
スウェーデンの断種法は、1935年から1975年まで施行され、合計計6万2,888件の優生手術(断種)が実施された。手術対象は、米独と異なり女性が多い。1990年代後半に賠償問題に発展した。
日本では東京帝国大学教授・日本性学会会長永井潜医学博士がスウェーデン
を視察後、1930年に日本民俗衛生學會を設立。永井潜を委員長とする委員会が建議案を内閣に提出し、1940年に国民優生法が成立、任意申請による断種が合法化。1941〜1945年で435件実施。ただし優生学が本格化するのは戦後の優生保護法成立後。(「優生学の錯綜」引用終わり)
『年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)』:昭和天皇による人間宣言;昭和21年(1946年)1月1日
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我カ国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル、今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効スベキノ秋ナリ
惟フニ長キニ亙レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ
然レドモ朕ハ爾等臣民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス
我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、倫ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ(『年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)』引用終わり)
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設;親衛隊SSの写真で、キリスト教会から人材・資金の支援を受けて運営されていたようだ。
写真はBild 152-04-21:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
Süddeutsche Zeitung Digitale Medien GmbH(2011/03/14)、DER SPIEGEL 26/2010(2010/06/28)、Daily Mail, Associated Newspapers Ltd(2008/05/26)によれば、当サイトで掲載しているシェーンブルン療養施設などで精神障害者安楽死計画に参加したハンス・ヨアヒム・ゼーヴェリング(Hans Joachim Sewering)医師は、1973年から1978年までドイツ医師会会長だった。バイエルン医師協会でも、1972年から1992年にも会長だった。
ハンス・ヨアヒム・ゼーヴェリング(Hans Joachim Sewering)医師はナチス時代の1933年、17歳の時から親衛隊SSのメンバーで、のちにナチ党にも加盟した。そして、ダッハウ近郊のシェーンブルンの療養所の医師として、障害児殺害のための安楽死計画に1942年から参加していた。
ハンス・ヨアヒム・ゼーヴェリング(Hans Joachim Sewering)は、1942年からバイエルンのシェーンブルン病院で医師として働いていた。そこに、14歳の精神障害者が収容され、1943年に殺害されているが、当時のぜーヴェリングの移送命令書が残っている。ゼーヴェリングは、精神障害者安楽死計画を遂行した医師であり、合計900人の障害児の殺害に関わっている。
現在でもユダヤ人虐殺などナチ戦犯を捜索しているイスラエル首都エルサレムのサイモン·ウィーゼンタール·センターによると、ハンス・ヨアヒム・ゼーヴェリング(Hans Joachim Sewering)医師はミュンヘンのダッハウの近くのシェーンブルン精神病院(療養施設)で、戦時中に、何人かの精神障害の患者を持っていた。そのうちの3人は、医師によってそこに殺害された。
戦後、ハンス・ヨアヒム・ゼーヴェリング(Hans Joachim Sewering)を起訴するための捜査は中止された。
しかし、戦後、ミュンヘン工科大学医学部で名誉博士号と名誉教授を授与されている。ドイツの医師会は、名誉会員ギュンター・ブデルマンメダル(金メダル)とバイエルン自由州の功労十字章を授与している。
ハンス・ヨアヒム・ゼーヴェリングは、2010年6月18日に死亡した。94歳だった。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設の精神障害者;この施設には、キリスト教会のシスターもいたので、祈りのジェスチャーをしているのであろうか。神の前の平等、生死をつかさどるのは神のみとの信仰があれば、精神障害者を「生きるに値しない命」と断定するのは、思い上がった、高慢で不遜な行為である。ハンス・ヨアヒム・ゼーヴェリング医師は、シェーンブルン療養院で働いていた。
Heilanstalt Schönbrunn b./ Dachau. - SS-Foto, 16.2.1934
写真はBild 152-04-14:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
松原洋子(2000)「優生学」『現代思想』(臨時増刊:現代思想のキーワード)によれば,優生学とは次のようなものである。
優生学は、きわめて政治的な概念である。それは、「優生学」が二重の意味で価値判断を伴う境界設定を前提としているためである。
第一に、繁殖が望ましい人間とそうではない人間の区別。あるいは、出生が望ましい人間とそうではない人間の区別であり、基本的に特定の性質が子孫に伝達されることが望ましいか否かで判断される。ただし、それは必ずしも遺伝子を媒介とした伝達に限らない。「遺伝性」とみなされた性質(疾患、障害、犯罪性向、体質など)ばかりでなく、感染症(梅毒、ハンセン病など)、中毒(アルコール、麻薬など)、生育環境(貧困など)もまた、優生学における子孫の適否の判断基準となりえた。
これらの身体的条件には、-----選別の優先順位がつけられていった。-----最近では、選別に際して親の個人的な要望が重視されるようになり、それは近未来における生殖細胞系列の遺伝子治療の方向性を左右するとみられている。(松原洋子(2000)「優生学」『現代思想』引用終わり)
境界が不確実な良い遺伝子と悪い遺伝子といった判断は、恣意的なものである。権力者・政策担当者が自分の都合のいいように解釈して、優生学が正しいとして、区分する。しかし、優生学の根拠となる遺伝子、さらに人種民族の境界は、連続的に変化しており、明確な線引きはできない。ナチスの優生学は、ドイツ民族・アーリア人を至高の存在とし、ユダヤ人を人種汚染するペストのような存在とみなした。精神障害者・重度の身体障害者を国家のお荷物に過ぎない無能な存在として、人権を認めなかった。ハンセン病患者についても、基本的人権を認めず、過度に感染の恐れが強調して、治療よりも、隔離・断種(優生学的手術)が推進された。優生学では、遺伝子、人種民族、障害・病気が、人間の基本的権利を形成する重要な要素とされる。
写真(右)1931年7月,「ベルリン、街の子供たちの楽園。ベルリン·シャルロッテンブルクでは、乳幼児死亡率引下げのために、国立研究所皇后アウグスタ・ビクトリア・ハウスでは将来のドイツを担う子供たちに、医学的管理と愛情のこもったケアを行っている。」(写真オリジナル解説):第一次大戦後のドイツ・ワイマール共和国の時代(1933年1月末まで)で、ドイツ人新生児のための福祉は重視された。しかし、1933年ナチ党政権樹立以降、恥ずべき障害者は、無駄な存在であり、国家財政節約のためにも排除すべきだとの優生学が公式見解となる。
Ein Kinderparadies in der Großstadt Berlin. In der Reichsanstalt zur Bekämpfung der Säuglings- und Kindersterblichkeit in Berlin-Charlottenburg werden kleine Grossstadtkinder über die ersten Wochen und Monate hinweggebracht. Unter ärztlicher Leitung und liebevoller Pflege der Schwestern werden die zukünftigen deutschen Staatsbürger betreut.
Morgenvisite des Arztes bei einem viertelstündigen Sonnenbad im Garten der Reichsanstalt zur Bekämpfung der Säuglings- und Kindersterblichkeit in Berlin-Charlottenburg.
Archive title:Berlin.- Kaiserin Auguste Victoria-Haus, Reichsanstalt zur Bekämpfung der Säuglings- und Kindersterblichkeit, Schwestern und Arzt mit Säuglingen.
Dating:Juni 1931
Photographer:Pahl, Georg
写真はBild 102-15681、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1935年12月,「これこそ社会主義だ。ベルリン·ウェディング保健局、主治医によるドイツ同胞の乳幼児の診断。健康で幸せな若々しい都市を形成する。日光浴は母親の心がけ。」(写真オリジナル解説):Sozialismus der Tat! Höhensonnebestrahlung für Kleinkinder minderbemittelter Volksgenossen im Gesundheitsamt Berlin-Wedding, um einen gesunden und frohen Großstadtnachwuchs heranwachsen zu lassen.
Na wo fehlts denn! Der leitende Arzt des Gesundheitsamtes in Berlin-Wedding bei der Untersuchung der kleinen Großstadtkinder für die Höhensonnenbestrahlung unter Beisein der Mütter.
Dating:Dezember 1935
Photographer:Pahl, Georg.
写真はBild 102-17299、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
八藤後忠夫・水谷徹(2005)「障害者の生存権と優生思想―障害児教育への示唆と展望」(『教育学部紀要』文教大学教育学部、第39集)に依拠すれば、ナチ党が政権獲得直後の1933年7月14日に公布した断種法(遺伝病子孫予防法)は,次のような優生学が背景にある。
当時のドイツで優生学は人種衛生学とも呼ばれ、生物種の生存闘争と淘汰が、人種・社会にも当てはまる原則であると考えられた。人種民族の生存は、一人の人間の生存よりも価値がある、すなわち国家は個人を超える思考の存在である。アーリア人の優秀さを引き継いだドイツ民族共同体は、個人を超えた存在であり、個人主義・民主主義にとって代わって、全体主義・指導者原理が信奉された。これは、優秀なアーリア人だからこそ機能するというわけである。
したがって、ドイツ民族共同体にあって、精神障害者はアーリア人の恥であり、排除すべき存在である。そこで、精神障害者を排除するために、遺伝性疾患子孫防止法(Prevention of Progeny with Hereditary Diseases)を制定し、個々人が劣等遺伝子を保有することがないように、人種民族とその生殖を管理しようとした。
たとえアーリア人(ゲルマン人)であっても、生まれながらの精神障害者の劣等遺伝子は排除しなければならない。精神障害者は、生殖不能にするために、不妊手術=断種を強要されたのである。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設の精神障害の少女;親衛隊SSの記録写真。
Heilanstalt Schönbrunn b./ Dachau. - SS-Foto, 16.2.1934
Photographer:Bauer, Friedrich Franz
写真はBild 152-04-03:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
第一次世界大戦に敗北したドイツでは、戦争賠償支払、世界恐慌と困難に直面したが、このような逼迫した財政状況の下で、社会に貢献できないような生きるに値しない命を、財政負担の養い続けることは、国家財政上の無駄である。したがって、精神障碍者の生命維持に配分する予算は無駄であり、その無駄を省くためには、障害者を抹殺することが望ましい。少なくと、そのような精神障害者が増えないようにすべきである。
ヒトラーが政権を握った1933年の遺伝病子孫予防法は、本人の同意内に障害者への不妊手術を実施することを認めるものであり、ドイツ国家保健局の下で、専門家・行政官・医師の協力によって、財政支援を受けて進められた。その主な対象は,先天性精神薄弱・精神分裂病・躁鬱病・遺伝性てんかん・遺伝性舞踏病を患っている精神障害者である。不妊手術は、40万件に達すると推測される。
同じ時期、大日本帝国でも人種民族と兵士としての健康維持を背景に、優生学が信奉されており、1940年に国民優生法が成立し、優生学に基づいて、国家奉仕、社会貢献できないような精神障害者・ハンセン病患者の断種を強制するようになった。国民優生法は、日中戦争が続く中で、戦争遂行のために国家の資源、財政が必要とされているのに、国家奉仕できない精神障害者を養っておくことはできないという、冷徹な国家判断の反映である。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区、ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設の精神障害者たち;親衛隊SSの記録。ナチ党政権では、ドイツの州は解体され、自治権はなくなり、ナチ党から派遣された指導者を長とする「大党管区」が設置された。遺伝性疾患子孫防止法において、精神障害者の療養施設は、国家財政の無駄遣いであり、そのための資源・人材も無駄遣いであると見做した。
Heilanstalt Schönbrunn b./ Dachau. - SS-Foto, 16.2.1934
Photographer:Bauer, Friedrich Franz
写真はBild 152-04-23:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区、ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設の精神障害者。親衛隊SSの写真。
写真はBild 152-04-07:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
「優生学とは何か」によれば,ナチ党が政権獲得直後の1933年7月14日に公布した断種法は,次のようなものである。
ドイツの1933年遺伝性疾患子孫防止法: Prevention of Progeny with Hereditary Diseases
第1条
1 遺伝病者は、医学的な経験に照らして大きな確度をもって、その子孫が重度の肉体的・精神的な遺伝疾患に悩まされることが予想できるときは、外科的不妊手術(断種)を受けることができる。
2 本法にいう遺伝病とは以下の疾病の一つに患った場合をいう。
?先天性知的障害
?精神分裂病
?周期性精神異常(そううつ病)
?遺伝性てんかん
?遺伝性舞踏病(ハンチントン舞踏病)
?遺伝性全盲
?遺伝性ろうあ
?重度の遺伝性身体奇形
3 また、重度のアルコール依存症である場合も断種できる。
日本の1940年国民優生法
第一条 本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防遏スルト共ニ健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加ヲ図リ以テ国民素質ノ向上ヲ期スルコトヲ目的トス
第二条 本法ニ於テ優生手術ト称スルハ生殖ヲ不能ナラシムル手術又ハ処置ニシテ命令ヲ以テ定ムルモノヲ謂フ
第三条 左ノ各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ハ其ノ子又ハ孫医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキハ本法ニ依リ優生手術ヲ受クルコトヲ得但シ其ノ者特ニ優秀ナル素質ヲ併セ有スト認メラルルトキハ此ノ限ニ在ラズ
一 遺伝性精神病
二 遺伝性精神薄弱
三 強度且悪質ナル遺伝性病的性格
四 強度且悪質ナル遺伝性身体疾患
五 強度ナル遺伝性畸形
2 四親等以内ノ血族中ニ前項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ヲ各自有シ又ハ有シタル者ハ相互ニ婚姻シタル場合(届出ヲ為サザルモ事実上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル場合ヲ含ム)ニ於テ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキ亦前項ニ同ジ
3 第一項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル子ヲ有シ又ハ有シタル者ハ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキハ亦第一項ニ同ジ
◆1933年7月14日公布の断種法(遺伝病子孫予防法)の背景は、?優生学に基づく差別、?財政負担の軽減、の2点があげられる。
優秀であるはずのアーリア人・ドイツ民族にとって、精神障害者は恥であり、同時に、健常者を人種汚染する恐怖の存在である。
また、世界恐慌の中で、1932年1月、プロシア州議会で「遺伝による身体的もしくは精神的な障害をもつ者のために財政が圧迫されているとの認識から、福祉コストを削減できる何らかの措置を早急に講ずることが必要」と決議されたが、福祉予算を充実するためにも、無駄な障害者治療・養護の予算は削減するという意図もあった。
第一次世界大戦後の1920年、法学者カール・ビンディング(Karl Binding)と精神科医アルフレート・ホッヘ(Alfred Hoche)は『生きるに値しない命の抹消の解禁』という著書で、優生学に基づいて「?病気や負傷などで救済の見込みのない者、?不治の白痴、?重い病が原因で無意識状態に陥っているか快復してもその不幸に悩む者に対する安楽死」を求めているがこの当時は、まだそこまで実施できる状況にはなかった。
◆1933年遺伝病子孫予防法「断種法」の制定後、1937年、遺伝病患者に対する鑑定審査をする秘密組織として、帝国委員会が組織された。その後、1939年、子供の安楽死計画が開始されるとともに、断種から安楽死へと措置権限が強化・拡充された。
精神障害者安楽死計画は、総統官房の「重度遺伝性・先天性患者の学問的把握のための国家委員会」が担当したが、これは学問的な研究を装いつつ、障害者大量殺戮を進める部署である。
写真(右)1939年9月1日付,ヒトラーが国家長官ボーラーと医師ブラントの二人に、精神障害者を安楽死させる医師の選定を認めた命令書:
Adolf Hitler 1.Sept.1939
Reichsleiter Bouhler und Dr. med. Brandt
sind unter Verantwortung beauftragt, die Befugnisse namentlich zu bestimmender Ärzte so zu erweitern, dass nach menschlichem Ermessen unheilbar Kranken bei kritischster Beurteilung ihres Krankheitszustandes der Gnadentod gewährt werden kann.
-- A. Hitler
"given to me by Bouhler on 27.8. [August] [19]40; Dr. Gürtner".
写真はFile:Aktion brand.jpg:Wikimedia Commons引用。
「1939年9月1日付 総統指令
国家長官ボーラーと医師ブラントに、
治癒の見込みがないほど病状が重い(不治の病の)と判断される場合、その患者に病状に関して厳格に鑑定をした上で、特別に指名した医者に、恩寵の死(Gnadentod:安楽死)の措置を許可する権限を与える。
A.ヒトラー 39年10月[自署]
[メモ]1940年8月27日にボーラーから手交、[法務大臣]ギュルトナー([Franz] Gürtner)博士」
◆T4作戦の運用については、国家保健局長官フィリップ・ボーラー(Philipp Bouhler)の連絡担当官ヴィクトル・ブラック(Viktor Brack)の事務所が使われた。この事務所が、ベルリンのティアガルテン4番地(Tiergartenstr.4)にあったため、精神障害者安楽死計画は、T4作戦と呼ばれた。
「安楽死」とは、慢性的な苦しみや末期症状の症状の患者に、苦痛のない死をもたらすことを意味する。しかし、ナチ党政権下のドイツでは、「安楽死」とは、ドイツおよびドイツに併合された領土(オーストリア、ズテーテンラント、チェコなど)における精神障害者を政府が組織的に殺害する極秘殺人プログラムの隠語であった。
ナチス親衛隊SSはハインリヒ・ヒムラー国家長官に率いられて、1941年秋以降、ホロコースト、ショアーと呼ばれるヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮を、絶滅収容所を設置して遂行した。しかし、それが本格化する約2年前、1939年9月の第二次世界大戦勃発当初から、重度の障害者を養うのは国家の損失であり、彼らは生きるに値しない命であると見下した安楽死計画が政府の手で実行された。
障害者安楽死で用いられた一酸化炭素によるガス殺、秘密保持の在り方は、従事した専門家たちを通じて、ユダヤ人殺戮ホロコーストに引き継がれてゆく。ドイツ帝国のアーリア人(ゲルマン人、ドイツ人)を世界で最も優れた人種民族とすれば、精神障害を負ったアーリア人は、国家的恥、民族の敵であり、排除すべきである。アーリア人の純血を守るためには、精神障害者の遺伝子を取り除くべきであるとの優生学が作用した。
ナチ党が政権を獲得する1933年以前から、優生学者とそれを支持した医師・学者・行政官は、重度の精神障害者、身体障害者を、「生きるに値しない命」をと考えた。障害者排除は、国家財政にとって余分な経済的負担となり、人種汚染を引き起こす害毒であり、障害者の排除は、国民福祉にとって正しいこととされた。
写真(右)1936年,総統官房長官フィリップ・ボーラー(Philipp Bouhler):第一次大戦後の1919年、ミュンヘン大学で文学を学び、1922年7月にナチ党に入党した古参党員。ナチ党政権獲得直後の1933年4月、親衛隊に入隊、1934年からナチ党総統官房長官に就任。1939年9月1日付、すなわち第二次世界大戦が勃発したときに、ヒトラーから極秘命令を受け、治癒の見込みのない障害者に対して、「人道的見地から慈悲死を与える権限」を医師に与えることを認められた。これが、精神障碍者安楽死のT4作戦になる。
Porträt Philipp Bouhler
Dating:1936 ca.
Photographer:o.Ang.
写真はBild 146-1983-094-01:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
アメリカホロコースト記念博物館(United States Holocaust Memorial Museum)のホロコースト百科事典によれば、「安楽死プログラム」は次のように解説されている。
「1939年の春と夏、ヒトラーの官邸長官であったフィリップ・ボーラーPhilipp Bouhler,と、ヒトラーの主治医カール・ブラントKarl Brandtが率いる多くの立案者が、障害を持つ子供を対象とする秘密の虐殺作戦の準備を開始しました。 1939年8月18日、国家内務省は、すべての医師、看護婦、助産婦に対し、重度の精神的または身体的障害の兆候がある新生児および3歳未満の子供の報告を強制する布告を出しました。 1939年10月からは、公衆衛生当局は障害を持つ子供たちの保護者に対し、ドイツとオーストリア国内に特別指定された小児診療所に子供を入院させることを奨励し始めました。 実際には、これらの診療所は特別に採用された医療担当員が子供たちに致死量の薬剤を過剰投与したり、子供たちを餓死させたりした子供の虐殺病棟でした。」
「当初、医療専門家や臨床管理者は乳児と幼児だけをこの作戦の対象にしていましたが、この政策の範囲が広がるにつれ、17歳までの年少者が含まれるようになりました。 控えめに見積もっても最低5,000人の心身障害を持つドイツの子供たちが、戦争中の子供「安楽死」プログラムの結果として殺害されました。」
写真(右)1942年8月27日,精神障害者安楽死計画の中心人物の二人、左は国家保険局長官レオナルド・コンティ博士(Leonardo Conti:1900/8/24-1945/10/6収監中に自殺)、右はヒトラーの侍医カール・ブラント(Karl Brandt:1904/1/8-1948/6/2処刑 )博士:コンティは、フンボルト大学で医学を学び1923年、ナチ党突撃隊SA入隊、1927年にナチ党医師協会を組織。ナチスの医学者・科学者は、進化論・遺伝学を恣意的に混ぜ合わせ、科学を装う「優生学」によって、人間の「いのち」に優劣があると妄想し、障害者を保護することは、国家財政の無駄、国家の恥であると断定した。アメリカでも日本でも障害者・ハンセン病患者を断種・不妊化した歴史があるが、ナチス・ドイツは、障害者を抹殺するまで暴走した。
Dr. [Leonardo] Conti und Professor Dr. [Karl] Brandt
Durch den Erlaß des Führers über das Sanitäts- und Gesundheitswesen wurde der Staatssekretär im Reichsministerium des Innern, Reichsgesundheitsführer Dr. Conti, für alle einheitlich zu treffenden Maßnahmen im Bereich des zivilen Gesundheitswesens verantwortlich gemacht und ihm hierfür die zuständigen Abteilungen der obersten Reichsbehörden und ihre nachgeordneten Dienststellen zur Verfügung gestellt.
Für Sonderaufgaben und Verhandlungen zum Ausgleich des Bedarfs an Aerzten, Krankenhäusern, Medikamenten usw. zwischen dem militärischen und zivilen Sektor des Sanitäts- und Gesundheitswesens hat der Führer nach demselben Erlaß Professor Dr. Karl Brandt bevollmächtigt. Er ist dem Führer persönlich unterstellt und erhält von ihm unmittelbar Weisungen.-
Unser Bild zeigt Dr. Conti (links) und Professor Dr. Brandt (rechts) im Gespräch.
Scherl-Bilderdienst (Reichsgesundheitsverlag)
27.8.42 [Herausgabedatum]
Dr. Leonardo Conti, Staatssekretär im Reichsministerium des Innern und Reichsgesundheitsführer (links)
Professor Dr. Karl Brandt, Leibarzt Adolf Hitlers (rechts)
Dating:August 1942
Photographer:o.Ang.
写真はBild 183-B21967:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1938年12月3日,ベルリン、パリ広場、"国民連帯の日"、航空機乗務員ために寄付を集めている医師カール・ブラント(Karl Brandt)博士。親衛隊SS中佐の制服を着用。ブラントは、1932年1月、ナチ党入党、1934年7月、親衛隊SSに入隊、ヒトラーの侍医となるとともに遺伝性疾患子孫防止法制定に関与。1939年9月1日、T4作戦の障害者安楽死の権限を医師に付与した。アメリカも日本も、進化論・遺伝学を恣意的に混在し、科学を装う「優生学」によって、人間の「いのち」・遺伝子に優劣があると妄想し、障害者を支援し養護することは、財政的無駄遣い、国家・民族の恥であると人権を無視した判断を下し、障害者・ハンセン病患者を断種・不妊化した歴史がある。ナチス・ドイツは、障害者を「生きるに値しない命」と見下して抹殺するまで暴走した。
Berlin, Pariser Platz.- "Tag der nationalen Solidarität", Sammlung für Flugzeugbesatzung u.a. durch Dr. Karl Brandt in Uniform (Sturmbannführer der SS)
Dating:3. Dezember 1938
Photographer:o.Ang.
写真はBild 183-19000-0722:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1947年5月14日,医師の戦争犯罪裁判で発言するヴィクトル・ブラック(Viktor Hermann Brack:1904年11月9日−1948年6月2日処刑 ):1929年、ナチ党入党、親衛隊SSに入隊。1936年、総統官房長官フィリプ・ボーラーを国家健康保険局につなぐ連絡担当官に任命。1939年12月、ヴィクトル・ブラックの事務所は、精神障害者安楽死計画T4作戦の本部となった。国家保健局本庁舎内ではなく、ブラックの事務所を使ったのは、精神障害者抹殺を政府が推進していることを秘匿するためである。
December 1939, Brack gave August Becker the task of arranging gas killing operations of mental patients and other people that the Nazis deemed "life unworthy of life." This operation later became known as Action T4.
Viktor Brack als Zeuge bei dem Nürnberger Ärzteprozess - Mai 1947
Das Eingeständnis, an der Durchführung des "Euthanasie-Programms" beteiligt gewesen zu sein, machte am 14.5.1947 in der Verhandlung des Ärtzeprozesses in Nürnberg der Angeklagte Viktor Brack, der als Zeuge in eigener Sache vernommen wurde. Durch dieses Programm wurden insgesamt 50.000 bis 60.000 unheilbar geisteskranke Patienten in deutschen Heil- und Pflegeanstalten vom 4.12.1939 an bis zur Einstellung des Programms im Augsut 1941 getätigt.
U.B.z.: Unser Bild zeigt den Angeklagten Viktor Brack im Zeugenstand in Nürnberg.
Archive title:Viktor Brack im Zeugenstand
Dating:14. Mai 1947
Photographer:o.Ang.
写真はBild 183-H25145:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
「安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。
ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官(総統官房長官)のフィリップ・ボーラーPhilipp Bouhlerと医師のカール・ブラント(Karl Brandt)が虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。」
「質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。」
「これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。」
(ホロコースト百科事典「安楽死プログラム」 引用終わり)
佐野 誠(1998)「ナチス「安楽死」計画への道程
− 法史的・思想史的一考察」浜松医大、および佐野 誠(2001)「ドイツ・ナチズム期のユダヤ人立法と安楽死法草案の研究」奈良教育大学、によれば、障害者安楽死計画は、次のように検証されている。
写真(右)1947年8月,ニュルンベルクの戦犯裁判の被告となったヒトラー主治医カール・ブラント医師(Karl Brandt):ドイツ敗戦後の国際戦犯裁判で死刑。
Sieben Todesurteile im Nürnberger Ärzteprozeß
UBz: Karl Brandt, Hitlers Begleitarzt, ehem. Generalkommissar für das Sanitäts- und Gesundheitswesen, Angeklagter Nr. 1 im Nürnberger Ärzteprozeß, wurde am 20.8.47 zum Tode durch Erhängen verurteilt.
Archive title:Nürnberger Ärzteprozess.- Angeklagter Karl Brandt stehend, mit Kopfhörer
Dating:August 1947
Photographer:o.Ang.
写真はBild 183-19000-0722:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチスの障害者安楽死計画(Euthanasia in Nazi Germany - The T4 Programme)は、1939年、ライブツイッヒ大学の児童病院の身体と精神に障害のある子供の殺害から始まった。1939年7月(第二次大戦勃発直前)、ヒトラーは、障害児の安楽死を同様に遂行することを総統官房長官フィリップ・ボーラー(Philipp Bouhler)と自分の主治医カール・プラント(Karl Brandt)博士とに次のように命令した。
「1939年9月1日付 総統指令
国家長官ボーラーと医師ブラントに、
治癒の見込みがないほど病状が重い(不治の病の)と判断される場合、その患者に病状に関して厳格に鑑定をした上で、特別に指名した医者に、恩寵の死(Gnadentod:安楽死)の措置を許可する権限を与える。
A.ヒトラー 39年10月[自署]
[メモ]1940年8月27日にボーラーから手交、[法務大臣]ギュルトナー([Franz] Gürtner)博士」
このアドルフ・ヒトラーによる口頭での障害者安楽死命令を受けて、国家的事業として「安楽死計画」が発動し、1939年8月18日、手始めに「奇形児などの新生児に対する申告義務」が課され、障害者の氏名・生年月日・住所などの情報が集められた。そして、その障害者情報をもとに安楽死対象を選定するために、ドイツの小児科医や精神科医を中心に「重度の遺伝性および先天性疾患の患者の学問上の把握のための国家委員会」が設置された。
「重度の遺伝性および先天性疾患の患者の学問上の把握のための国家委員会」の任務は、障害者登録に基づき安楽死させるべき子供の選別することであり、後年のユダヤ人絶滅収容所における労働不可能な移送者(主に障害者、老人、子供、は乳呑児を抱えた母親)を選別し、ガス殺した方法の先駆・さきがけとなった。
1939年9月1日、ドイツがポーランド侵攻し、イギリス・フランスが同盟国ポーランドのために、ドイツに宣戦布告して、第二次欧州大戦がはじまった。その中で、治癒の見込みのない障害児の安楽死、さらに成人障害者の安楽死が実行されることになったが、その理由は、
?優秀なアーリア人が兵士として出征し血を流しているのに、国家に貢献しない障害者を無益に生きながらえさせれば、アーリア人が遺伝子汚染され、国力が低下する、
?障害者が国防上に必要なカネ・モノ・ヒト・ワザ、すなわち物資・資金・人材・技術を食いつぶしており、これは、戦時中の無駄な行為である、
という2つの優生学的な判断である。
◆総力戦の遂行に必要な資源エネルギーや資金を、障害者のために投入することをいっさい拒否し、無駄をなくすために、障害者を優生学の上、「生きるに値しない命」とみなし、ガス殺、致死注射により抹殺・排除した。このT4作戦は、障害者に対する財政負担を軽減し、戦争遂行に寄与する立派な兵士を手厚く養育するという国防上の目的もあった。
◆第二次世界大戦は、総力戦であり、ドイツが勝利するために、カネ・モノ・ヒト・ワザを円滑に総動員しようとし、障害者安楽死計画T4作戦を進めて、国家の財政負担を切り詰めた。財政の最優先順位は、戦争遂行、国防であり、それに寄与できない障害者をガス殺、致死注射により切り捨てた。
それと同時に、優生学に基づいて、精神障害者を、優秀なアーリア人・ドイツ民族の恥部とみなし、抹殺することで、人種汚染を防止しようとした。これは、人種民族差別の延長線上にある非人道的措置である。
写真(右)1935年,親衛隊医師カール・フランツ・ゲルプハルト(Karl Franz Gebhardt):1897年11月23日‐1948年6月2日処刑。ハインリヒ・ヒムラーの父ゲープハルト・ヒムラー校長のランツフート・ギムナジウム卒、第一次大戦に歩兵として出征、1919年ミュンヘン大学医学部入学、1933年5月ナチ党入党、ヒムラー率いる親衛隊SSに入隊。1936年ベルリンオリンピックの医長、1937年ベルリン大教授、、1938年ヒムラー侍医、戦時中は、強制収容所の囚人を使った医学実験・解剖を行う。戦後の国際軍事裁判で死刑。
Dr. Gebhardt, der bekannte Leiter der Klinik für Sport- und Arbeitsschäden in den Heilstätten Hohenlychen. Bekannt sind auch seine Schulungskurse für Körperbehinderte
Karl Gebhardt, Prof. Dr. med. geb. 23.11.1897
Ordinarius für orthopädische Chirurgie an der Charié in Berlin, Leiter der Madizinischen Abteilung der Reichsakademie für Leibesübungen, Chefarzt der Heilanstalt Hohenlychen, Oberster Kliniker beim Reichsarzt der SS, SS-Brigadeführer, Generalmajor der Waffen-SS. Er war u.a. verantwortlich für die Sulfonamidversuche im KZ Ravensbrück. Gebhardt wurde am 20.8.1947 durch den I. Amerikanischen Militärgerichtshof in Nürnberg wegen Verbrechens gegen die Menschlichkeit zum Tode verurteilt und am 2.6.1948 hingerichtet.
Gebhardt 1935 in Hohenlychen.
Archive title:Heilanstalt Hohenlychen.- Dr. Karl Gebhardt im Arztkittel
Dating:1935.
写真はBild 183-1986-0428-502:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発するが、その直前、成人障害者に対する「安楽死」がヒトラーの命令により検討され始める。ナチスの安楽死は「優生思想と経済負担の軽減」を目的にしていた。国家が、(障害者という)無能な人々を余計な苦労をしてまで生かしておくために莫大な費用を投下し、そのため健康者の医療が貧弱になりかえって多くの犠牲者が生まれている、と考えられていた。人権は問題にされなかった。
写真(右)1935年,「世界的に有名なベルリンのホルスト・ヴェッセル病院で治療する患者は「歓喜力行団」の訪問を喜んでいる。笑いは、みなさんを健康にする!」(写真オリジナル解説):歓喜力行団」の道化師ミュージシャンが入院患者たちを慰問し楽しませている。ホルスト・ヴェッセルは、ベルリンの突撃隊SAで、ナチ党歌「旗を高く掲げよ」の作詞者。1930年に共産党員との戦いで死亡し、ナチ党は英雄扱いした。
Die Weltberühmten drei Fratellinis geben eine "Kraft durch Freude" Vorstellung vor den Kranken im Horst-Wessel-Krankenhaus in Berlin.
Lachen macht gesund! Kranke des Horst-Wessel-Krankenhauses während der Vorstellung der drei Fratellinis.
Dating:August 1935
Photographer:Pahl, Georg.
写真はBild 102-15662:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆国家、善意の市民、NPOの持つカネ・モノ・ワザを、生きるに値しない命の精神障害者に投じることは非効率な無駄遣いであり、そのカネ、モノ、ワザを治癒の見込みのある病人・負傷者、健康児童の教育、公共事業、国防に充てるべきである。このように人権・基本的権利の平等を認めず国家主義的、全体主義的に考えれば、精神障害者も身体障害者も、無用の存在であり、戦時であればなおさら、彼らへの物資・資金・人材の投入は無駄使いとみなされる。
◆国家財政の余分な負担として、「5000人の痴呆者は一人当たり年間2000ライヒスマルクの経費負担となる。経費は合計すれば、年間1000万マルクとなり、これは2億マルクの貯蓄の5パーセントの利息収入に相当する」と計算された。財政上の非人道的な効率主義によって、国家に貢献できず、物資・資金・人材・技術を食いつぶすだけの障害者は排除すべきだとの結論に至った。換言すれば、生きるに値しない、財政上も無駄な障害者は、抹殺されるべきであり、それが福祉財政上も合理的な措置であると極論された。
ナチ犠牲者はユダヤ人、スラブ人、ポーランド人、ジプシー(シンティ・ロマ)、精神障害者、同性愛者など反ドイツ的みなされた人々である。戦後、大量殺戮は、ドイツの恥であり、国民も忘れたいと思った。しかし、1980年代以降、「忘れ去られた犠牲者」の記憶が公の場にも登場している。第二次大戦が1945年に終戦して40年ほどたってから、忘れ去られたナチ犠牲者の記憶として、ドイツの安楽死・ジプシー殺戮の歴史追悼記念碑が建設されるようになった。「忘れようとし忘れかかった記憶の記念碑」ともいえる。
写真(右)1934年3月,「遺伝!遺伝的に健康な子孫について教育するために興味深い展示会がベルリンの公衆衛生サービス国家委員会で開催!精神病患者を養護すれば、恐ろしい遺伝病を蔓延させる」(写真のオリジナル解説);優生学を奉じる専門家や行政官は、遺伝性疾患子孫防止法によって遺伝的な病気の子孫の増加を防止することが図られ、これが福祉の充実につながると確信していた。第二次大戦が始まると直ちに、精神障害者を抹殺するT4作戦が発動された。健全なアーリア人が戦死しているのに、遺伝子汚染の源である障害者を養護することは許されないとされた。
Erbkrank! Eine interessante Ausstellung zur Aufklärung des Volkes über erbgesunden Nachwuchs wurde vom Reichsausschuss für Volksgesundheitsdienst in Berlin eröffnet!
Ein erschreckendes Bild von Erbkranken in einer Idioten-Anstalt.
Dating:März 1934
Photographer:o.Ang.
写真はBild 102-15662:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチス優生学に依拠した安楽死計画は、まさに第二次世界大戦と同日(1939年9月1日)、秘密裏に開始された。精神障害者安楽死には、全国保健局がかかわっていたが、作戦本部は、ベルリンの全国保健局本庁舎内ではなく、ベルリン・ティアガルテン通り(Tiergartenstraße)4番地に置かれた。そこで、精神障害者計画は、秘匿名称で「T4作戦」と呼ばれた。
1941年8月3日、グラフ・フォン・ガーレン司教は、生きるに値しない命の安楽死を批判し、後に逮捕されるがT4作戦にも同月24日中止命令が出される。しかしこれも表向きに過ぎず、T4作戦は戦争末期まで続けられた。戦後のニュールンベルグ国際軍事裁判によればT4作戦(Action T4 [Aktion T4] )によって虐殺された人々の数は27万5千人とされている。(「優生学とは何か」引用)
◆精神障害者安楽死T4作戦は、優生学的は発想に、医師、行政官が賛同し、国家戦略の一環として国家保健局を中心に進められたが、これは決してナチス、ヒトラーの時代にしか起こらない不祥事である、と短絡化することは危険である。優秀な民族、誇りある国家、優れた人種のような優生学を過度に主張すれば、障害者、特に精神障害者は、その範疇に収まらず、国家の恥、下等人種として隠すべき存在である。このような者たちが増えないように、断種(生殖能力を絶つ)べきである。さらに、治癒する見込みがなく、国家に奉仕し、社会貢献できないガス殺を養うことは、財政上の無駄である。福祉財政を進めるためには、かえって生きるに値しない命や致死量の薬剤注射・投与によって、障害者の安楽死を促進すべきである、との極論になりかねない。
クリスチアン・クリスチアン・プロス/ゲッツ・アリ(1989)『人間の価値−1918年から1945年までのドイツの医学』によれば、重度の遺伝性および先天性疾患の患者の学問上の把握のための帝国委員会には、医師のハインツェ、ヴェンツラーが名を連ね、民族衛生学(ナチス優生学)の権威フリッツ・レンツ、安楽死障害者の脳神経実験を行ったハイデルベルク大学精神医学教授カール・シュナイダー、親衛隊SS保安諜報部長官ラインハルト・ハイドリヒも参加している。国家政策として、優秀な医学・警察の頭脳が、障害者安楽死のために動員されたのである。
第二次世界大戦勃発とともに本格化した障害者安楽死「T4作戦」(The T-4 Euthanasia Program)は、ポーランド・ユダヤ人、フランス・ユダヤ人、オランダ・ユダヤ人、ソ連在住ユダヤ人、ソ連赤軍捕虜、ジプシーの大量殺戮、絶滅収容所のガス殺につながってゆく。
つまり、障害者・ユダヤ人・ジプシーの殺害は、同一論理に則っており、人種民族差別の行き着く先は、排除・殺戮であるといえる。
写真(右)1935年3月,ベルリン、カイザーダム、「生命の奇跡」大博覧会のパネル;「そうやって、終わることになる! 生命の奇跡について興味深い統計がある」「優秀性の弱い遺伝によってに、劣等者の人口が定常的に増加する。(優秀な子と劣等な子が同数いたとすれば、劣等な人間の繁殖力は強いので、年がたつにつれて、劣等な人間の人口が、優秀な人間の人口を遥かに上回るようになる。)劣る4人の子供と、優秀な2人の子供を持っているとき、そういうことが起こる。」
優生学の立場から、障害児がいれば、その繁殖力が旺盛なために、優秀な人間が呑み込まれてしまうと、危機感を煽っている。
Die große Ausstellung "Das Wunder des Lebens" am Kaiserdamm in Berlin!
So würde es enden! Ein interessantes statistisches Anschauungsobjekt auf der Ausstellung "Wunder des Lebens".
Archive title:Berlin.- Ausstellung "Wunder des Lebens". Ausstellungstafel mit Grafik und Text "Qualitativer Bevölkerungsanstieg bei zu schwacher Fortpflanzung der Höherwertigen. So wird es kommen, wenn Minderwertige 4 Kinder und Höherwertige 2 Kinder haben."
Dating:März 1935
Photographer:Pahl, Georg
写真はBild 102-16748:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチ党政権下の母子保健ポスター(右)1940年‐1944年,「あなたの子供を守る。 母親は医師を信頼し、カウンセリングを受けよう。」:精神障害者、ユダヤ人などは排除されたが、優秀なアーリア人の子供は、ドイツの国力を向上させるために、人口増加が求められた。人口が減少すると大変だとの概念は、常に人口増加が経済力、政治力など国力を低下させるという国家主義をはらんでいる。
Schütze dein Kind
Vertraue dem Arzt
Komm zur Mütterberatungsstunde
Dating:1940/1944
Designer:o.Ang.
Publisher:Straßburger Neueste Nachrichten, Straßburg
写真はPlak 003-015-012:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆1942年、「個々の施設で措置もしくは消毒されたもの」との表題の報告書が出された。そこでは、精神障害者安楽死計画の下で、ハダマール精神病院、ハルトハイム城、ブランデンブルク刑務所、グラーフェンエック、ピルナ、ベルンブルクのガス室などで、殺害された「生きるに値しない命」が、国家財政にどの程度寄与したかが計算されている。
◆T4作戦の第一段階が終了した1941年8月までに、精神病患者7万273人を消毒(=殺戮)することで、ジャガイモ、肉、パン、バター、チーズ、パスタ、コーヒー、砂糖など食費が1日当たり24万5955.5ライヒスマルク節約でき、これは1年で8854万3980ライヒスマルク、10年で8億8543万9800ライヒスマルクの財政負担軽減になると推計している。
1942年春、第二次大戦勃発から二年半たったころ、ドイツ小児科病院協会が設立された。目的は、住民1万人当たり小児科の児童ベット数を現行3.9床から8床に引き上げることである。ドイツ国家保健局長官レオナルド・コンティ(Leonard Conti)は、ドイツ小児科病院協会を講演し、協会設立総会には、総統官房を代表してビクトア・ブラックが出席した。総統官房長官フィリップ・ボーラー(Philipp BouhlerConti)は、1939年9月、ヒトラーの侍医ブラントとともに、障害者安楽死計画を遂行するよう命じられた人物で、ブラックはその代理である。
当時のドイツでは、巨大な児童施設はあったが、そこでは治療の中で、児童の心理・教育的看護が軽視されおり、それを改めることが、主張されている。専門医師が、児童に実際に面談するためには、児童が来院するのを待つのではなく、自ら児童のところへ出かけるべきであるとした。「指導的医師は、個々の児童の全人格に責任を負わなければならない」とされたのである。(クリスチアン・クリスチアン・プロス/ゲッツ・アリ(1989)『人間の価値−1918年から1945年までのドイツの医学』pp.75-95参照)
写真(右)1940年9月,ドイツ帝国ウィーン警察病院。新生児病棟が完成し、アーリア人の赤ちゃんを抱く母親と看護婦。1938年にオーストリアは、ドイツに併合され、オストマルクという一つの州となっていた。多数のオーストリア人が、ドイツ併合によって、新しい時代が始まると期待して喜んだ。しかし、ユダヤ人はすぐに迫害の対象となった。1940年当時、アメリカ、ソ連は参戦しておらず、ドイツはヨーロッパの覇権を掌握していた。
Polizei-Krankenhaus Wien
Archive title:Wien.- Einweihung des Polizei-Krankenhauses; Neugeborenenstation, Mütter mit Baby und Krankenschwester
Dating:September 1940
Photographer:o.Ang.
写真はBild 102-04672:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチ党政権下のドイツでは、戦時中、画期的な児童福祉の取り組みが行われたが、その裏では、精神障害者、特に精神障害児童が何万人も安楽死させられていた。ドイツの財政を健全化するために「生きるに値しない命」とされた精神障害者の福祉的、医療的措置が削減・停止される一方で、そこで余裕の生じた資金・資源・人材・技術を、将来、兵士となり、ドイツに奉仕できる健康な児童に充填することが企図された。精神障害者への無駄な財政支出を、障害者をガス殺、致死注射により切り詰め、代わりに健康なアーリア人を兵士と労働者に養育することが選択されたのである。
◆ブランデンブルグの安楽死施設では、9,772人がガス殺され、殺害された障害者の公式記録には、「急性統合失調症の発作」により部屋で死亡した、というように真相は隠されていた。障害者の安楽死は、障害者の苦しみや社会的な介護負担を取り除くという意味でガス殺、致死注射による「恩寵の死」(安楽死)とみなされたが、優生学の上の「生きるに値しない命」を国家政策として、施設・資金・人材・技術を投じて抹殺した「正反対の福祉政策」を意味していた。
T4作戦本部のあった首都ベルリンのティアガルテン4番地(Tiergartenstraße.4)は、現在、世界的な楽団ベルリン・フィルハーモニーの玄関である。このベルリン・フィルハーモニーの玄関前の道沿いには、T4作戦で抹殺された精神障害者を追悼するために、たくさんの花が捧げられている。
写真(右)1941年,現メクレンブルク=フォアポンメルン州シュテルンベルガー湖、精神障害者安楽死計画に加わった専門家たち:運転手エーリヒ・バウアー(Erich Fritz Erhard Fuchs:1900—1980)、ルドルフ・ロナウェル(Rudolf Lonauer:1907-1945自殺) 博士、ビクトル・ラッカ(Victor Ratka:1885-1966)博士、フリードリヒ・メネック(Friedrich Mennecke:1904-1947獄中自殺)博士、教授パウル・ニーチェ(Paul Nitsche:1876-1948処刑)博士、ゲルハルト・ヴィッシャー(Gerhard Wischer:1903-1950)博士
エーリヒ・バウアーは1933年ナチ党入党、1940年にT4作戦に加わり当初運転手として活動、1942年にユダヤ人殺戮のためゾビブル絶滅収容所のガス殺に関与。
ルドルフ・ロナウェルは1940年にT4作戦に参加、その後、マウトハウゼン、グーセン、ダッハウ、ブーヘンワルトの強制収容所で囚人の生死の選別任務に就く。
フリードリヒ・メネックは、1932年ナチ党入党、1942年に14f13作戦、すなわちポーランド人、ユダヤ人、ジプシーなど囚人殺害任務に就く。
ビクトル・ラッカは、大戦初期、ポーランド人捕虜の殺害に加わり、T4作戦では生死の選別に関与。1943年にナチ党入党。
パウル・ニーチェは、1933年ナチ党入党、1940年にT4作戦本部の次長、戦後の戦犯裁判で処刑。
ゲルハルト・ヴィッシャーは、1937年ナチ党入党、1941年にT4作戦に参加。
Sternberger See.- Fahrer Erich Bauer, dann die Gutachter Dr. Rudolf Lonauer, Dr. Victor Ratka, Dr. Friedrich Mennecke, Prof. Dr. Paul Nitsche und Dr. Gerhard Wischer
Dating:September 1941 Anfang
Photographer:o.Ang.
写真はB 162 Bild-00680:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
障害者安楽死計画は、ドイツのヒトラー総統の下で、法的根拠なしに秘密裏にガス殺、致死注射が実施されたのであるが、この計画が実施できた理由は、総統官房の行政官、一流の精神科医、優生学者(民族遺伝学者)の協力、国家財政の負担と施設の設置、物資の投入があったためである。
遺伝的な病気の子孫を排除し、健康で優秀なアーリア人に対する福祉を充実させることで、ドイツの人口増加、国力向上を図った。決して、個人の幸福を追求する目的ではなく、ドイツ民族共同体という全体に奉仕するためである。個人主義・民主主義は、弱者の安楽追求として放棄され、国家の強化を図る全体主義・ファシズムが信奉された。
日本は、戦後1948年の優生保護法においても、優生学の立場を堅持し、第一条で「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性
の生命健康を保護することを目的とする」としている。
そして、優生保護法第三条「医師の認定による優生手術」では優生手術、すなわち生殖腺を除去せず生殖を不能にする手術で、精管あるいは卵管の結紮(けつさつ)による断種・避妊手術を、次の場合に行うとした。
第一号 本人若しくは配偶者が遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患若しくは遺伝性奇形を有し、又は配偶者が精神病若しくは精神薄弱を有しているもの
第二号 本人又は配偶者の四親等以内の血族関係にある者が、遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患又は遺伝性畸形を有しているもの
第三号 本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの
第四号 妊娠又は分娩が、母体の生命に危険を及ぼす虞れのあるもの
第五号 現に数人の子を有し、且つ、分娩ごとに、母体の健康度を著しく低下する虞れのあるもの
第十一条 前条の規定によつて行う優生手術に関する費用は、政令の定めるところによつて、国庫の負担とする。
1996年(平成8年)6月26日「法律第105号 優生保護法の一部を改正する法律」によって、優生保護法(昭和二十三年法律第百五十六号)は、母体保護法と改称され、らい予防法廃止と同時に、優生保護法から優生学的条項を除き、次のように条文を変更した。
第一条中「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに」を「不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により」に改める。
第二条第一項中「優生手術」を「不妊手術」に改める。
「第二章 優生手術」を「第二章 不妊手術」に改める。
第三条の見出しを削り、「優生手術」を「不妊手術」に改め、「精神病者又は精神薄弱者」を削り、同項第一号及び第二号を削除した。
◆1993年11月30日、オランダで、世界初の安楽死を許容する法律(改正遺体埋葬法)が成立した。
病院以外の場所で変死した人が出た場合、遺体埋葬法の改正に基づいて、医師は死亡証明書を発行、検視官の承認を経て埋葬を許可することになった。つまり、医師が患者を安楽死させた後、?検視官への届け出・報告書提出、?検視官から検察への所見提出、?検察による医師の不起訴 という手続きで、末期患者の安楽死が認められる。この改正遺体埋葬法によって、安楽死は刑法犯罪ではあるが、この手続きを経れば違法性がないとされ、検察は起訴をせず、「安楽死」が公認されることになる。
◆1994年、アメリカ合衆国オレゴン州で尊厳死法 (Death with Dignity Act)が住民投票により、法制化された。
オレゴン州尊厳死法でも、末期患者が苦しんでいるために医師が注射などによって積極的に安楽死をさせたり、患者が要請もしないのに「苦しんでいるのを見るに堪えられない」と第三者が判断して末期患者を死に至らしめる「慈悲殺」は、禁じられている。しかし、死にたいと思う患者が自発的に医師に懇請して、致死量の薬物の処方箋を書いてもらうことを法的に認めている。つまり、末期患者が、その致死量の薬物を服用する自由を認め、医師が処方箋を与えたことを処罰しないのである。
そこで、オレゴン州尊厳死法の下で、薬剤師が、自殺幇助のための薬剤の処方箋で薬剤を出すときには「この薬剤は、生命を終焉させる」と明記する決議をしている。これは、末期患者の死亡について、オレゴン州尊厳死法による免責を確実にするための措置である。
◆2001年、オランダで医師による安楽死を認める刑法改正を盛り込んだ終末期自殺幇助法(Termination of Life on Request and Assisted Suicide)、2002年、ベルギーで安楽死法、2008年、ルクセンブルクで安楽死法、1994年、アメリカ合衆国ワシントン州で尊厳死法 (Death with Dignity Act)が成立している。
写真(右)1941年,ベルリン、「東部建設計画」展示会;総統ルドルフ・ヘスによる検閲。
ベルリン、ハルデンベルク通で開催。左から親衛隊全国長官ハインリヒ・ヒムラー、その後方に国家保健局長官フィリップ・ブーラー、副総統ルドルフ・ヘス、背後に秩序警察長官クルト・ダーリュケ、ドイツ民族性強化国家委員事務局の局長ウルリッヒ・グレイフェルト、兵器弾薬大臣・建築家フリッツ・トート、ベルリン大学教授農学者コンラート・マイヤー。
Ausstellung in Berlin, 1941
Planung u. Aufbau im Osten, Besichtigung durch Rudolf Hess
Fotograf: Zeymer
Archive title:Berlin, Hardenbergstraße.- Ausstellung "Planung und Aufbau im deutschen Osten" in der Staatlichen Hochschule für bildende Künste. V.l.n.r. Heinrich Himmler (hinter Himmler Philipp Bouhler), Rudolf Heß (hinter Heß etwas verdeckt Ulrich Greifelt links im Gespräch mit Kurt Daluege), ?, Fritz Todt, Konrad Meyer
Dating:1941
Photographer:Zeymer
写真はR 49 Bild-0023:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆ナチスの医学者・科学者は、進化論・遺伝学を恣意的に混ぜ合わせ、科学を装う「優生学」によって、人間の「いのち」に優劣があると妄想し、障害者を保護することは、国家財政の無駄、国家の恥であると断定した。アメリカでも日本でも障害者・ハンセン病患者を断種・不妊化した歴史があるが、ナチス・ドイツは、障害者を抹殺するまで暴走した。
◆精神障害者の排除については、人権を認める必要のない胎児の段階で排除することが一般化しつつある。妊婦子宮内の胎児のダウン症候群については、妊婦の血液検査をすることによって、胎児がダウン症候群があるかどうかを診断できる。このダウン症の検査によって、胎児がダウン症候群である確率が高ければ、出産ではなく堕胎を選択することができる。こうして、比較的簡単な血液検査を通して、ダウン症候群患者を人工妊娠中絶という「命の選別」によって、社会に出さない、排除すること家族も増えてきた。
ヒトゲノム解析研究というバイオテクノロジーは,疾病の診断、予防、治療法の開発を目指すが、これも優生学に通じるものがある。生物学的に人間の全遺伝子構造を調べるヒトゲノム研究は、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センターなどで推進されているが、ここは「医学・生物学研究の将来にとって欠くべからざるプロジェクトを推進していくためのわが国の中心拠点」であるという。ヒト悪性腫瘍治療、乳癌・腎癌・膀胱癌・軟部組織腫瘍の発癌メカニズムの解明、ワクチン療法・抗体療法のための標的遺伝子のスクリーニングは、健康増進につながるものの、同時に、悪性遺伝子を排除することになる。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設(サナトリウム)に隔離されている精神障害児;親衛隊SSの記録写真。優秀なアーリア人、ドイツ民族にとって、遺伝子汚染を引き起こす精神障害者は、排除、断種すべきだとされ、さらに第二次世界大戦が勃発すると、優秀なドイツ兵士が血を流しているのに、ただ飯ぐらいの精神障害者に余分な財政負担は必要ないと、障害者の抹殺が決まった。
Archive title:Heilanstalt Schönbrunn bei Dachau.- Gruppe geistig behinderter Kinder
Dating:16. Februar 1934
Photographer:Bauer, Friedrich Franz
写真はBild 152-04-12:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆ドイツのT4安楽死計画(The T-4 Euthanasia Program)は、家族の出産の意思決定、福祉財政負担の許容範囲医療負担の許容範囲、障害者の人権・ベーシックニューマンニーズの充足、生死の自己決定権(尊厳死)、遺伝子研究、断種、人工妊娠中絶の正当化という点で、現代的な課題も内包している。法律上、医学上の問題だけでなく、教養ある市民としてどのように障害者の人権、安楽死を捉えるかが問われている。
◆厚生労働省『障害者白書』によれば、2005-2008年現在、日本には、知的障害者は合計54.7万人(人口比0.4%)、うち在宅が41.9万人(0.3%)、施設入所が12.8万人(0.1%)おり、精神障害者は合計323.3万人(2.5%)、在宅が290.0万人(2.3%)、入院が33.3万人(0.3%)いる。これに老人を中心とした身体障害者351.6万人を加えると、複数の障害者も含め、日本人の5%は障害者である。
ただし、精神障害者は、身体障害者や知的障害者とは異なり、実態調査がなされておらず、厚生労働省の統計は、病院利用者から精神障害者人数を推計しており、一時的な患者も含んでいる。
◆障害者が安穏として生きながらえている、それも生産的な活動することなしに、福祉財政の負担によって遊んでいるという状況に、憤りを感じる人がいるかもしれない。戦時であれば、負傷し、身体障害を負ったり、戦死したりした命と比べて「生きるに値しない命」とみなしてしまうかもしれない。礼儀知らずで治安を悪化させる繁殖力旺盛な外国人が祖国を跋扈しているのをみて、外国人は排除すべきだ、自分の国に帰れと憤る人もいる。
安定した定職に就けず、福祉予算が削減される中で、働く気もない怠け者を生活保護で賄い、フリーターやすぐ転職するようなやる気のない若者の職業訓練を行い、出社できない引きこもりに医療・治療を行う、勉強もしない学生・留学生に奨学金を給付するなど、財政負担がかかり過ぎる、税金の無駄遣いだ、と憤りを感じるものも少なくない。
他人を自分よりも劣った存在と見做している点で、このような発想は、優生学に通じるものがある。自分は優秀で勤勉で学力もあるが、それに比べて、あいつらはダメな連中だ、このような差別・偏見が、優生学を受け入れる背景として指摘できる。
◆ナチスの医学者・科学者は、進化論・遺伝学を恣意的に混ぜ合わせ、科学を装う「優生学」によって、人間の「いのち」に優劣があると妄想し、障害者を保護することは、国家財政の無駄、国家の恥であると断定した。アメリカでも日本でも障害者・ハンセン病患者を断種・不妊化した歴史があるが、ナチス・ドイツは、障害者を抹殺するまで暴走した。
写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区,
ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設(サナトリウム)の男性精神障害者たちと養育係のシスター(後方);親衛隊SSの記録写真。遺伝性疾患子孫防止法において、精神障害者の介護・治療が、国家財政の無駄遣いであり、障害者養護員は人的資源の無駄遣いであると見做した。
Heilanstalt Schönbrunn b./ Dachau. - SS-Foto, 16.2.1934
Photographer:Bauer, Friedrich Franz
写真はBild 152-04-38、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
『年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)』:昭和天皇による人間宣言;昭和21年(1946年)1月1日
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我カ国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル、今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効スベキノ秋ナリ
惟フニ長キニ亙レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ
然レドモ朕ハ爾等臣民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス
我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、倫ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ(『年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)』引用終わり)
◆精神障害者や特定の人種民族を差別・排除しようとする思想は、?優生学的偏見、?財政負担軽減、?治安回復、などを正当化の根拠としている。そして、現在、人間を生殖細胞、遺伝子レベルで詳細に分析し、生命力や治癒力の優劣を区分するという恣意的な研究も進んでいる。ヒトゲノムの解読、バイオテクノロジーの進化は、再び先端技術を装って、似非(えせ)科学の優生学を蔓延させる危険がある。 「生きるに値しない命」を選別するような優生学思想は、特定グループが自分たちの利益を損なうと考える都合の悪いグループを選別するために、恣意的に用いられるに違いない。科学的な装いの下に、自分勝手な傲慢な意図を隠して、気に入らない人間を排除することを許してはならない。
◆現段階で、末期患者の安楽死は、優生学的発想に基づいて、行われているわけではない。高齢社会にあって、苦しみ、家族に迷惑をかけるのであれば、自ら安楽死を願う、といった「尊厳死」である。しかし、安楽死を尊厳死として公認すれば、医療費、社会保障など福祉財政負担を軽減することにつながる。老人・患者など意見表明が困難な人間にとって、専門家の医師が「肉体的な激しい苦痛の連続」「不治の病」といった恫喝をしているように思うかもしれない。安楽死=尊厳死、と簡単に見做すことはできない。
◆優生学の側面から下等人種・劣等民族の排除、経済的側面から国家財政負担の軽減、福祉国家の側面から、優良な人間への国家財政の一層の充当、富国強兵の側面から人口増加による国力向上という発送は、現在でも放棄されたわけではない。再び「生きるに値しない命」の選別が正当化される危険が残っている。
4.日本の癩病(ハンセン病)患者の強制入所と断種
「日本書紀」「今昔物語集」以来「癩(らい)」、すなわちハンセン病患者(1980年代まではハンセン氏病)は、頭髪・まゆ毛・爪が抜け,次いで指,手足,鼻,目が腐って醜い容姿となることから恐れられていた。らい病患者は、就職を認められず、地域・家庭で隔離されて、世の中から隠れた暮らすことを強いられた。場合によっては、隔離されることもあった。また、家族から疎まれたり、家族に迷惑をかけるのを恐れて、家を出て、旅に出る「放浪癩」と呼ばれる患者もあった。
国立ハンセン病資料館は、「ハンセン病に対する正しい知識の普及啓発による偏見・差別の解消及び患者・元患者の名誉回復を図ることを目的とし」た国立施設であるが、トップページで、らい病を次のように説明している。
「らい菌による慢性の感染症です。
初期症状は皮疹と知覚麻痺です。治療薬がない時代には変形を起こしたり、治っても重い後遺症を残すことがありました。そのため、主に外見が大きな理由となって社会から嫌われてきました。現在では有効な治療薬が開発され、早期発見と早期治療により後遺症を残さずに治るようになりました。」
国立ハンセン病資料館のハンセン病(らい病)の説明では、一言、感染症であると述べてたあと、不治の病ではないことを強調している。しかし、患者に触ればうつる怖い病気であれば、患者は隔離すべきだ、となりかねない。
1897(明治30)年の第1回国際らい会議においてハンセン病の予防には隔離が有効であると提言されているが、それ以前から、日本では、異様な容姿となるらい病患者を隔離することが家庭、地域で行われていた。これを追認する形で、1907(明治40)年に癩(ライ)予防ニ関スル件、が政府で決まった。これは第一に、家庭を離れて放浪するらい病患者(放浪癩)の収容・隔離から始まったが、すべてのらい病患者を死ぬまで完全に隔離する方針を示しているといえる。1931(昭和6)年、これは「癩(らい)予防法」に改正されて、「絶対隔離」への方法が明確になった。実は、世界では、ハンセン病患者に対するプロミンの治癒効果が明らかになりつつあり、絶対隔離について、疑問も出されていたのである。
しかし、日本では、絶対隔離が有効性が強調され、第二次世界大戦後もその放心を継承し、治癒者の社会復帰に対する支援もなされなかった。また、政府は、国民の間に行き渡っていたらい病は恐ろしい伝染病であるとの偏見を一掃するような啓蒙活動、社会啓発を行なわなかった。医学会も、らい病患者隔離を容認した。このような状況が1996年まで続いたのである。
国立ハンセン病資料館では、このようなハンセン病患者への差別は、政府、専門家、医師が悪いのではなく、国民、地域に広まっていた根強い偏見にも焦点を当てている。これについて、次のように述べている。
「このようなハンセン病対策の歴史について、「(絶対隔離を主張した)光田(健輔)が悪い」、「国も悪い」、「ハンセン病患者は気の毒だった」というように、ご自身は第三者の立場であるかのように考えてはいませんか?
1951(昭和26)年1月に、山梨県下において、長男がハンセン病と診断されたのを苦にして一家9人が青酸カリによる服毒心中を遂げるという、あまりにも痛ましい事件が起きました。この一家が、当時たった5つだった、末の女の子まで道連れにしたのは、ハンセン病をむやみに忌み嫌う村人から、一家もろとも村八分にされることをおそれていたからでしょう。
この事件からすでに半世紀以上が過ぎ、ハンセン病についての常識も大きく変わりました。現在では、治療を開始して数日もすると菌は感染性を失います。未治療の患者と乳幼児との濃密な接触が頻繁にくりかえされた場合を除いて、感染・発病することはまずありません。つまりハンセン病は、ほかの慢性の感染症に比べて、さらに安全な〈普通の病気〉のようなものです。
こうしたハンセン病の常識を念頭に置いて、もう一度、山梨県での一家心中事件を思い起こしてみましょう。現在の常識からすると、このような事件は起こるはずがありません。なぜなら、今の私たちは、現に治療中の患者であるか回復者であるかを問わず、一緒にいることも、ともに暮らすことも、何の問題もないことをよく知っているからです。」(国立ハンセン病資料館「ごあいさつ」引用終わり)
◆ハンセン病(らい病)は、1873年にノルウェーのマルマウェル・ハンセンが発見した「らい菌」による慢性伝染病であるが、日常生活で感染する可能性はほとんどない。感染力が弱く、感染しても発病は稀である。また、遺伝病でも、不治の病でもなく、適切な治療をすれば、完治する。
20世紀前半の日本では、ハンセン病患者の絶対的な強制終生隔離の方針が行政・専門家によって採用され、患者を根絶して子孫を残さないための断種措置が強行された。断種手術は強制的であり、独身の男性も対象になった。また、断種手術は、患者の人権を軽視していたため、医師以外の看護士が担当することもあった。
日本で隔離施設に囲い込んだハンセン病患者に断種手術を進めたのは、次のような理由からであると考えられる。
?優秀な大和民族の血を汚す劣等遺伝子の根絶
?優生学思想に基づく「支援するに値しない人物」に対する社会保障・福祉の財政負担軽減
?断種を条件に通い婚(入所結婚:男性入所者が別棟で生活している女性入所者の雑居 部屋に通う形をとる結婚。当時、夫婦部屋はなかった)を許して、入所者の逃走を防止するという管理上の姦計
日本は、戦後1948年の優生保護法においても、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」とし、優生保護法第三条「医師の認定による優生手術」で優生手術、すなわち生殖腺を除去せず生殖を不能にする手術で、精管あるいは卵管の結紮(けつさつ)による断種・避妊手術を行うとした。
ハンセン病に正しい知識を持たない国民の偏見や無知は、ハンセン病患者の隔離・断種という人権無視を引き起こした背景として指摘できる。しかし、ハンセン病の治癒方法や伝染力の低さを認識していた専門家や政府・行政、特に厚生省は、どのような理由から、隔離を続けたのであろうか。その理由を次にあげる。
◆ナチスの医学者・科学者は、進化論・遺伝学を恣意的に混ぜ合わせ、エセ科学「優生学」に基づき、人間の「いのち」に優劣があると判定し、障害者を養護することは、国家財政の無駄、国家の恥であると妄想した。アメリカでも日本でも障害者・ハンセン病患者を断種・不妊化した歴史があるが、ナチス・ドイツは、障害者を抹殺するまで暴走した。
日本の専門家・行政官が癩病患者の隔離・断種を1996年まで長期継続した理由
?らい病(ハンセン病)患者の絶対隔離が専門的立場からも誤りであったと認めるだけの責任感が、専門家・行政に欠如していた。
?らい病患者の絶対隔離が誤りであったと認めれば、患者やその家族の補償問題が持ち上がり、それに対処する資金・財政上の負担を回避したかった。
?らい病患者の治療を続け社会復帰を試行錯誤する長期的、個別的対応よりも、完全隔離・断種のほうが、一まとめに対応でき、資金・財政上の負担が軽くて済む。したがって、財政負担軽減の立場からは、らい病患者完全隔離のほうが安上がりであり、その方針を、ハンセン病患者・家族の犠牲を覚悟で続行した。
?専門家・行政官自身が、優生学的発想から、下等・劣等な人物に対して「生きるに値しない命」と考え、その人権やベーシックヒューマンニーズを満たすための費用を節約した。らい病患者に資金・財政負担するよりも、健康な児童、学力の高い学生、優秀な科学者、社会貢献した退職者の年金など、他分野の福祉・社会保障に財政負担をしたほうが、日本の国力を向上させると判断した。
この?の理由は、優生学に基づく精神障害者排除と全く同じ理論となっている。国民の無知蒙昧よりも、専門家の優生学的、非人間的な財政的発想のほうが、ハンセン病患者への差別が長期間に渡った理由としては、適合的である。
国立感染症研究所IASR Vol.22 No.1 January 2001によれば、ハンセン病は、抗酸菌の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)による感染症である。現在までらい菌の培養には成功していない。ハンセン病は主に皮膚、末梢神経に病変をおこす。有効な抗ハンセン病剤での治療が行われていなかった時代(1955年頃まで)には四肢や顔面などの変形が重度になったことなどで、患者は偏見や差別を受けてきた。
感染と発病、病型:人への感染は乳幼児期に、らい菌を多数排菌している患者との濃厚接触によって、らい菌が経気道的に入り起こる。感染後数年から十数年の潜伏期を経て発病する。
1907年(明治40年)にハンセン病に関する「癩予防ニ関スル法律」が公布され、家族から離れたらい病患者、「放浪癩」は療養所に入所させることとし、一般社会から隔離することとした。この理由は、患者救済よりも、ハンセン病の伝染予防を意図したものであった。しかし、ハンセン病患者隔離が、かえってハンセン病は伝染する恐ろしい病気であるという誤解を力が強いという誤解が広まり、ハンセン病患者が市民とともに暮らすことへの嫌悪感を強めた。つまり、ノーマライゼーションに逆行する差別を強めたといえる。
1929年 (昭和4年)には、ハンセン病患者の選別・隔強化され、強制入所を促進する「無癩県運動」が全国的に展開された。1931年(昭和6年)、癩予防法が改正され、強制隔離によるハンセン病絶滅政策が進められた。つまり、在宅ハンセン病患者を療養所へ強制入所させた。入所患者者が結婚を希望する場合は、断種手術を受けなければならなかった。こうして国立療養所を全国に設置して、全てのハンセン病患者を強制入所させる隔離体制が確立した。
日本政府のハンセン病患者強制隔離・断種の方針に対して、ハンセン病治療の可能性を探っていた医師小笠原登は、強制隔離や強制入所、断種に反対したが、医学界はこのような見解を避けた。第二次大戦後の1948年に成立した優生保護法(法律第156号)では、ハンセン病患者を劣等者として、強制入所を継続した。ハンセン病は遺伝疾患でないが、断種や妊娠中絶が続行され、さらに新生児を職員が殺害した場合もあった。
ハンセン病患者は、犯罪者のような扱いに抗議し、1951年、全国国立らい療養所患者協議会を結成して、優生保護法の改正を要求した。
1907年の癩予防ニ関スル法律は、数回の改正を経て、1953年(昭和28年)に「らい予防法」になり、療養所中心の医療が行われてきた。「らい予防法」には強制入所や、外出制限、秩序維持のための所長の権限などが規定されていた。医師が患者を診察した際に、「伝染」させるおそれがある患者は療養所入所となり、そこで生涯を終えることが多かった。
1953年のらい予防法の目的は、第一条で、「らいを予防するとともに、らい患者の医療を行い、あわせてその福祉を図り、もつて公共の福祉の増進を図る」とされ、一般市民の予防に重点を置き、患者治療と救済は二次的であった。
第二条では、「国及び地方公共団体は、つねに、らいの予防及びらい患者の医療につとめ、患者の福祉を図るとともに、らいに関する正しい知識の普及を図らなければならない」とらい病を特別視した。
第三条では、患者と家族の不当な差別的取扱を禁止したが、第四条では、依然として医師による患者情報の開示を義務付けた。そして、第六条で、「都道府県知事は、らいを伝染させるおそれがある患者について、らい予防上必要があると認めるときは、当該患者又はその保護者に対し、国が設置するらい療養所に入所し、又は入所させるように勧奨することができる。
「都道府県知事は、前項の勧奨を受けた者がその勧奨に応じないときは、患者又はその保護者に対し期限を定めて、国立療養所に入所し、又は入所させることを命ずることができる」と国立療養所への強制入所を認めている。
第七条は、ハンセン病患者の従業禁止、第八条は、患者による汚染箇所の消毒、第九条は、患者の持ち物消毒を定めている。
◆らい予防法のために、ハンセン病患者はたとえ治癒したとしても、国立ハンセン病療養所に隔離された。これは、収容所やゲットーと同じく、人権を認めない空間であり、社団法人 好善社によれば、次のような特殊差別がある。
1)国立ハンセン病療養所が設置された場所は、離島、山中、海岸など人里離れた場所であり、それは囲い込み施設である。
2)ハンセン病療養所入所者の多くが実名を名乗らず、仮名・偽名で通していた。たとえ夫婦であっても別姓が当然だった。
3)ハンセン病療養所入所者は、家族と隔離あるいは絶縁しており、ふるさと・故郷がない。
4)入所者は、死亡しても一般墓地に埋葬されることはない。所内納骨堂に葬られる。ただし、所内には所内教会のような宗教施設はある。
5)入所者は、正規に結婚していても、優生手術として断種、妊娠中絶・堕胎を強要され、子供を産めない。夫婦であっても子孫を残せない空間だった。しかし、入所者胎児ホルマリン漬け標本は作製された。
6)国立ハンセン病療養所では、子供が生まれず、治癒・予防が進み子供が入所者がないために、子供のいない大人だけの高齢化施設である。
7)入所規定はあっても、退所規定がない。したがって、いったん入所したら、出ることができない絶対的終身強制隔離の施設だった。
⇒ハンセン病患者に対しては、家族や地域における差別・偏見はあったが、政府と専門家が、ハンセン病患者を絶対的強制隔離・断種・堕胎する政策を採用したことが、ハンセン病患者とその家族の人権を蹂躙したと考えられる。
日本のハンセン病患者数:1900年(明治33年)の3万人、1919年(大正8年)の約1万6千人へと減少した。戦後は1955年頃から公衆衛生の向上、治療剤によって新規患者数は減少し、2000年前後は毎年10名以下である。他方、外国人患者は1991年頃から増加し、毎年10名前後である。
日本人の新規患者は半数以上が高齢者(60歳以上)であるが、外国人では20〜30代の患者が多い。2000年、全国15のハンセン病療養所には約4,500名が入所している(平均年齢74歳)。ほとんどは治癒しているが、後遺症や高齢化などのため引き続き療養所にとどまっている。なお現在患者は通常半年〜数年の治療で治癒するが、再発や後遺症の経過観察のため、700名余(元療養所入所者や外来患者など)が通院している。
初めてのハンセン病療養所が1909年に設置されて以来、2008年現在、全国に療養所は13カ所、患者2764人が入所している。入所者が多かったのは、1960年で1万2000人が全国各地の療養所に入所していた。らい予防法が廃止されたのは1996年である。
WHO推奨のMDT(Multi-drug Therapy:多剤併用治療)により、1985年から1999年末までに全世界でハンセン病患者1,000万人以上が治癒した。2000年当初の有病者数は75万人、有病率は1.25/人口1万人と、1985年に比べ86%減少した。再発率は年間0.1%程度である。
ハンセン病は、「らい菌」の感染によって、皮膚や末梢神経が侵されるが、感染力は強くはない。しかし、触ったらうつると恐れられた。また、1943年のプロミンなど化学療法剤によって治癒可能となった。これは、「病原体を化学物質の働きで殺し、またはその発育を阻止するとともに、感染を受けた人のもつ免疫力と協力し合って感染症から生体を治癒させること」であり、3種の医薬品のカクテル(ジアフェニルスルホン、リファンピシン及びクロファジミンの併用)を組み合わせた多剤併用療法(Multidrug Therapy:MDT)で行われている。
しかし、末梢神経の障害から後遺症が残り(200〜300万人)、社会生活困難な患者も多い。また、WHO推奨のMDTにもかかわらず、新規患者数はいまだに毎年約70万人である。
年間の新規ハンセン病患者登録数が多い国はインド(約52.7万人)、ブラジル(約7.3万人)、インドネシア(約2.9万人)、バングラデシュ、ミャンマー、ネパール、ナイジェリア(各約1.3万人)、フィリピン(約0.9万人)など。
1998年(平成10年)7月、熊本地裁に、「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」が提訴され、翌1999年には東京、岡山でも訴訟が提訴された。2001年(平成13年)5月11日、熊本地裁で原告(患者・元患者)が勝訴、政府は控訴をあきらめた。そこで、201年6月、 衆参両院で次のハンセン病問題に関する決議(第一五一回国会、決議第五号)が採択された。
その後、新たに補償法が制定された。日本政府が患者・元患者に謝罪し、2002年4月、国立ハンセン病療養所を退所した元患者のための福祉政策として、国立ハンセン病療養所等退所者給与金事業が始まった。厚生労働省の平成21年度(2009年)のハンセン病対策別予算は、社会復帰・社会内生活支援33.3億年、謝罪・名誉回復措置17.2億円など合計52億9122万円である。
2001年5月11日、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟の熊本地裁判決
1998年来の「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決
2003年ハンセン病患者宿泊拒否事件
◆ハンセン病患者・元患者の人権回復が公式に認められたが、依然として差別・偏見は根強い。差別・偏見は、必ずしも犯罪ではなく、処罰の対象ではないからである。同じことは、HIVの感染者、精神障害者についても言える。入学拒否、診療拒否、就業拒否など人権侵害が起こっているが、これに対しては、差別によって人間の尊厳や人権を損なうことが害悪であるという認識を広める啓蒙・社会啓発が必要となる。そのための教育強化、差別を禁止する法整備、人権侵害の救済機関の設置、さらには教育・医療・雇用機会の斡旋・提供、補助金支給も求められる。したがって、少数者の人権確保するために、財政負担がなされなければならない。
5.ユダヤ人迫害の理由
◆ドイツのソ連侵攻2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)
?満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。
?ユダヤの星は手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左旨に縫い付けること。
しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示した人もいた。そこで,ユダヤの星着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示した人物に対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。
1941年11月4日,ドイツ帝国財務省令:国民経済に重要な企業で就労していないユダヤ人は,数ヶ月以内に,東方に追放する。追放されるユダヤ人の財産は,ドイツ帝国のために没収する。
国家財政を投じて行われた福祉政策が、優生学の枠の中で実施された結果、下等人種・劣等民族や精神障害者を排除することが、健康な国民養成に必要であるとされた。
◆ユダヤ人共産主義者はソ連を,ユダヤ人国際金融資本家・マスメディア経営者はアメリカを各々操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域は,東方ソ連にはない。逆に,東方ソ連のユダヤ人,スラブ人が,強制収容所や東方労働者として,ポーランドやドイツに連れてこられていた。ヨーロッパのユダヤ人,東方ソ連のスラブ人は,同じようには差別,迫害された。ユダヤ人,スラブ人は,奴隷労働者として酷使され,労働不能となれば死ぬにまかせられた。
ドイツが占領したポーランド東半分を統治したポーランド総督ハンス・フランクは,後に,非アーリア人虐殺を「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」(ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー 4 奈落の底へ』122-123頁)
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラーは,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。これはナチズムの本質だった。
写真(右):1941年7月,ウクライナのレンベルク(リボフ)
でドイツ兵に誇りあるヒゲを刈られているユダヤ人:老人の痛々しい表情と楽しそうなドイツ人の表情が対比される。今日の視点では,弱いものイジメであるが,敵の下等列島人種に情け無用という事なのか。
1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で,ドイツ占領地のユダヤ人は,辱めを受けたり,強制連行されたり,あるいは虐殺されたりした。ドイツ兵は,ユダヤ人を辱めるだけで,この場で殺さなかったのは,慈悲を施してやったつもりなのか。
Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur); PK 691
Dating: Juli 1941
Photographer: Gehrmann, Friedrich 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-187-0203-09引用(他引用不許可)。
20世紀前半,ロシアの田舎の人々とドイツ人が出会う機会はまずなかったから、ソ連に侵攻したドイツ軍兵士にとって,世界旅行のような気分の時もあったと思われる。しかし、兵士の個人的感傷は、軍隊の中では通用しない。ドイツは,ユダヤ人を下等人種・劣等民族と見下し,初めに,戦禍の後片付けの作業を強要した。ユダヤ人に戦災で荒廃した市内を整備させる作業を担わせた。そして,ユダヤ人労働部隊を編成すると称して、現地のユダヤ人の住民登録をした。登録の終わったユダヤ人は,これで家族の身の安全が保障されたように錯覚し、ドイツ人の使役に出ることで,身の安全を確保しようとした。
親衛隊,ユダヤ人を戦禍の後片付けの使役するために登録するとしたが,これは現地のユダヤ人を完全に掌握するための姦計だった。
ドイツ軍占領地域におけるユダヤ人登録や使役の監督作業には,親衛隊,ドイツ警察さらにはウクライナ人や反ユダヤの現地住民も協力した。逃亡しようとすれば,反ユダヤ的な現地住民に密告されるリスクもあった。
また,ユダヤ人の使役するだけでなく,ユダヤ人の資産没収,不動産・家具の強奪など,ユダヤ人を迫害して,利益を上げようとするものもいた。
ドイツ国防軍以上に,武装親衛隊では,優生学に基づく政治・世界観の教育(人種民族差別)が徹底していた。このような人権軽視,非アーリア人蔑視の人種民族差別が,残虐性を引き出した。
日中戦争に際して,中国軍は,日本軍による殺しつくす(殺光),焼きつくす(焼光),奪いつくす(槍光)ような治安対策を,「三光」と呼んだ。日本軍は,便衣(パルチザン)の掃討,治安回復のために,敵性住民に対して,三光作戦を展開した。捕虜や抵抗運動の幇助者に対する厳しい取り調べ(拷問)や処断(処刑)は、裁判・司法を経ずしても行われた。日本にも、支那人(中国人)・朝鮮人(コリアン)に対する蔑視、大和民族の優位という優生学的発想があった。そして、初等教育から高等教育まで、このようなえせ科学の優生学に基づく大和民族の優秀性を教え込んでいた。
<ユダヤ人抹殺の理由>
1.中世以来,市民権を持っていないユダヤ人は,土地所有権・貸借権もなかった。そこで,農民は少なく,都市の商業・教育・医療・金融などに就業せざるをえなかった。権利が制限されている人々が困難な状況を克服しようとする「マージナルマンの論理」を認めないナチスは,ユダヤ人の成功を卑怯な陰謀のためであると邪推した。
2.不況や敗戦などの国家的困難は,政治的,軍事的指導者の責任・無能さ・失敗が原因であり、事業の失敗は経営者の責任である。しかし,多数のドイツ人は,第一次大戦の敗北を、1918年ドイツ革命、それを仕組んだユダヤ人のせいにした。これは,少数派を選んで,責任を転嫁する「スケープ・ゴート(生贄のヤギ)の論理」である。
3.第一次大戦では、前線のドイツ軍兵士が勇戦していたのに,後方のユダヤ人政治家や共産主義者が1918年ドイツ革命を起こし,ドイツを敗戦に陥れたと考えたドイツ人は,ドイツ敗戦のトラウマから逃れるために,ユダヤ人・共産主義者による「背後からの匕首(アイクチ)の一突き」、すなわち敗戦の原因は、ユダヤ人の陰謀・裏切りにあると信じ込んでいた。
4.ナチスは,自分たちを至高のアーリア人であると妄想し,人種汚染を引き起こすユダヤ人や知的障害者を迫害した。これがアーリア人優位の裏返しの「下等人種民族(ウンターメンシュ)排除論」である。
5.ナチスは,ユダヤ人は,?優秀なドイツ民族を人種汚染し,?共産主義を広めて革命の混乱に落としいれ,?ソ連・アメリカ・イギリスを操って,反ドイツの戦争を起こし、世界支配をたくらんでいると考えた。共産主義者としてソ連を動かし,金融資本家・メディア経営者として民主主義=衆愚政治の米英を操っているユダヤ人は,ヨーロッパから排除しなくてならない。ヒトラーは、1939年1月の開戦直前の国会演説から,1945年4月の政治的遺書まで,ユダヤ人殲滅戦争の遂行を公言している。
6.ユダヤ人の共産主義者・金融資本家・メディアの陰謀によって、第一次大戦のように「背後の裏切り」によってドイツが敗北しないように,ヨーロッパ・ユダヤ人を排除すべきである。しかし,独ソ戦の戦局悪化,日米戦争の勃発で,アメリカ・ユダヤ人もドイツ人に戦争を仕掛けてくる。三国軍事同盟による参戦義務はなく、それまでポーランドやソ連に宣戦布告していないにも拘わらず、ヒトラーは国会で対米宣戦布告をした。その理由は、ユダヤ人殲滅の世界戦争開始という最終段階を知らせるためだった。
7.ヒトラーは,?ユダヤ人絶滅の崇高な使命をクリスチャンのドイツ人は理解できない、?ユダヤ人絶滅の実行が敵に知れ渡れば敵の攻撃力を高める、の2点に配慮し、ユダヤ人絶滅を公言はしても,実際に絶滅を開始したことは秘匿した。
8.ユダヤ人絶滅は,人種汚染を防ぎ,優秀なドイツ人の血を維持するためであり、労働力としてユダヤ人を活用する場合も,病死・過労死・虐待死するまで働かせた。
9.女子供まで殺害するユダヤ人虐殺は,名誉を重んじる軍の任務でも、キリスト教徒の仕事でもない。殺害は、親衛隊SSあるいは煽動されたウクライナやバルト諸国の反ユダヤ主義者に任された。
10.1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数100名が抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人反抗は,士気を乱すため、ヒトラーも武力排除はできなかった。1943年3月6日、啓蒙宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。結局、混血結婚したユダヤ人は釈放された。ヒトラーはドイツの世論が反ナチスに変化することを恐れた。1942年、障害者安楽死(T4)を表向き中断したのも,子供を殺された親類・宗教関係者の発言・世論を恐れたためだった。ドイツ一般市民が従順で,世論の反対がない場合,ユダヤ人殺戮は着実に遂行された。
ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。多数の将兵も,虐殺の噂を聞いていたし,自ら後方の治安維持作戦を支援したこともあった。多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。不確実で,確かなことはわからないと,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と自分の無力と諦め気分のニヒリズムに陥っていた。
『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)
『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)
◆ J-CASTテレビウォッチヒトラーに傾倒していた植松聖・・・「T4作戦」を真似た?障害者を大虐殺(2016/7/29)によれば、「神奈川・相模原市の「津久井やまゆり園」を襲って45人を殺傷した元職員・植松聖容疑者は犯行前から「ヒトラーの思想が降りてきた」と話していたというが、ナチスを研究している東海大・鳥飼行博教授は植松の犯行とヒトラーの思想には「類似点がある」という。
“「一番気になるのは(植松が衆院議長に届けた手紙にある)『安楽死できる世界』という部分です。この言葉はまさにヒトラーが使った言葉です。ヒトラーは障害者に税金を使うことを無駄遣いと考えていたんです」
大学でも「ヒトラー研究の講座」受講: ヒトラーは「T4作戦」と称し、知的障害者や精神障害者を安楽死と称して虐殺した。これをマネたのか、植松の手紙にも「作戦」の文字が出てくる。大学時代の友人によると、植松はヒトラーを取り上げた講義を受けていた。講義では障害者や人種差別を取り上げたディスカッションも行われた。そうしたことを通じて、植松はヒトラーの思想に傾倒していったのだろうか」
◆日本テレビNEWS ZERO(2016年7月28日放送23:00)と日本テレビ「スッキリ!!」(同年7月29日8:00放送)
19人が刺殺された津久井やまゆり園の前に設置された献花台には多くの花が手向けられ、訪れた人は哀悼の意を表す一方、事件への怒りを示した。また発達障害のある元利用者は悲嘆に暮れ、犠牲者へ涙を流していた。殺人などの疑いで逮捕された同施設の元職員は今年に入ってから言動の異常さがエスカレートし、2月19日には他人を傷つける恐れがあるとして措置入院させられた。その際に独裁者・ヒトラーに傾倒する発言をし、友人には障害者を殺害すると口にしていたという。ナチスを研究する東海大学の鳥飼行博教授は容疑者が今年2月に衆議院議長に宛てた手紙に着目し、安楽死という言葉がヒトラーの思想に通ずると指摘。容疑者は障害者に税金を使うことは無駄遣いで、国にとっては無用な存在と考え、ヒトラーもT4作戦において知的障害者、精神障害者を安楽死と称して虐殺したとされる。弱者は無用という考えは戦争中に広がりやすいといい、今月上旬に配信された動画内で容疑者は今は戦時下にあるなどと力説していた。容疑者は大学時代にヒトラーを取り入れた講義を受講したことがあり、障害者や人種差別のディスカッションを通してヒトラーを崇めるようになっていったという。津久井やまゆり園の園長は容疑者の口ぶりから、ナチス・ドイツの考え方を感じたという。また措置入院の際に容疑者からは大麻の陽性反応が出て、昨日の家宅捜索によって植物片が発見された(NEWS ZERO引用終り)。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒アンネの日記とユダヤ人
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
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