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◆ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂事件とエルンスト・ハンフシュテングル亡命 ポスター(上)1939年11月8日 21:20,ミュンヘンのビヤホール「ビュルガーブロイケラー」で起きたヒトラー爆殺未遂事件の追悼特集号「ドイツは,1939年11月8日の暗殺事件の首謀者が分かっている」:1944国家社会主義ドイツ労働者党,バイエルン,ミュンヘン発行。英国情報部による組織的犯罪が企てられたが,神の加護によって,総統が守られたことを伝える。
1923年のミュンヘン一揆を記念するナチ党集会が毎年のように開催されていた。それを利用して,指物師・家具職人ヨハン・ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser,1903/1/4-1945/4/9)が,ホールの柱に,自家製の時限爆弾を仕掛け,11月8日,見事に時間通りに爆発した。しかし,ヒトラーは,1時間以上行う演説を30分で切り上げて,退場していた。ヒトラーは,今まで演説していたビュルガーブロイケラーが爆発されたことを,ミュンヘン鉄道駅で,列車に乗り込むときに報告された。ヒトラーは,自分がなすべき運命があり,神の摂理によって,自分の命が守られたと確信して,感慨に浸った。
Deutschland antwortet den Verbrechern des Attentats vom 8. November 1939 Dating: November 1939 Designer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv {Attentat von Georg Elser auf Hitler im Bürgerbräukeller in München anläßlich des Treffens der »Alten Kämpfer« am 8.November 193953/3/3a} Occasion: Bürgerbräukeller Attentat Publisher: Müller und Sohn, München Editor: Gaupresseamt München-Oberbayern der Nationalsozialistischen Deutschen Arbeiterpartei, W. Kellerbauer
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1938年9月,ミュンヘン会談に参加したヒトラー総統,フランス共和国ダラディエ首相,シルクハットを手にしたチェンバレン英首相:後方には,リンベントロップ外相。ヒトラーは控えめな態度に見えるが,チェコスロバキアのズテーテンラントにすんでいる同胞(民族ドイツ人)を守るためなら,戦争も辞さないという,強硬な姿勢で臨んだ。ただし,これが最後の領土要求であり,要求が聞き入れられるなら,矛を収め,平和を守るとした。第一次大戦の再来,すなわち第二次大戦の勃発を危惧したヨーロッパ中の市民は,このミュンヘン会談の去就に注目していた。チェンバレンもダラディエも,世論を慮って,戦争を回避することを最終目標にしていた。このような連中を弄するには,戦争による威嚇が最も効果的だと,ヒトラーは理解していた。協定から一年もたたないうちに,ポーランドに対して,東プロイセントつながるポーランド回廊を割譲せよ,シュレジエン(シレジア)の同胞,民族ドイツ人への迫害を止めよと要求し,軍を派遣した。ミュンヘン協定は,1年たたないうちに破られる運命にあった。
ドイツ人指物師ゲオルク・エルザーは、1938年のミュンヘン会談に失望し、ヒトラーの恐怖政治が終わるどころか、ヒトラーが戦争をはじめようとしていることを悟る。そして、それを食い止めるとためにヒトラー暗殺を決意した。
Sowjetunion, Krim.- Schreibstube im Freien, Horst Grund als Filmbericher der 10. Marinekriegsberichterkompanie an Schreibtisch sitzend Dating: 1941 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆2015年10月16日から映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」原題Elser(Director: Oliver Hirschbiegel)が Sony Pictures Classicsの配給で公開。日本語版リーフレットと映画パンフレットの解説を作成。映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」(Elser)はギャガ配給で2015年10月からTOHOシネマズ シャンテほか日本全国で公開。Trailerは、日本語版(短縮)予告編としてギャガyoutubeで公開。Twitter映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」 も開設されている。
◆2011年出演したBS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー: 影法師と呼ばれた男 ルドルフ・ヘスおよび映画監督 レニ・リーフェンシュター」が公開された。これらは「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess ルドルフ・ヘス」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール」を再検討したもの。

1.ヒトラー暗殺未遂の今日的評価

ヒトラー暗殺未遂事件は,40回以上,企てられました。

1939年11月8日,指物師ヨハン・ゲオルク・エルザーJohann Georg Elser)によるミュンヘンのビヤホール「ビュルガーブロイケラー」爆破事件,ポーランド地下レジスタンスによるヒトラー専用列車爆破計画,ドイツ軍将校によるヒトラー搭乗機の爆破計画,兵器展示場での自爆攻撃など,ドイツ人や敵のポーランド人,イギリス人などによるヒトラー暗殺計画が40回以上も存在しました。1944年7月20日の,シュタウフェンベルク大佐を中心とする「ワルキューレ作戦」もその一環です。

ドイツ人によるヒトラー暗殺(未遂)計画は,ナチスの暗黒時代にあって,ドイツ人が良心が残っており,ドイツ人がすべてナチスに共鳴していたわけではないことを示したとされています。 ドイツ人によるヒトラー排除のレジスタンスの動きは,ドイツが,歴史の審判に耐えることを示した証ともいえます。

たとえば,7月20日は,ドイツ人にとって,シュタウフェンベルク大佐を初めとするドイツ国防軍の将校が,戦争を止めようヒトラー暗殺を企てた記念日とされ,毎年のように,式典が催されています。
ベルリンの中心街にある国内予備軍司令部跡は,現在,国防省の建物となっています。ここでシュタウフェンベルク大佐たち4名のレジスタンスの志士が銃殺されたからで,彼らを讃える記念碑もあります。

国防軍将校を中心とする反ヒトラー・クーデターが賞賛された背景には,ヒトラーやナチスとドイツ国防軍とは別個の価値観に立脚している,第二次大戦の残虐行為は親衛隊によるもので,残虐行為は,ドイツ国防軍の思想的背景は異なっているという主張が見受けられます。第二次大戦後のドイツ再軍備を進める前提として,国防軍はナチスではないとの含意(インプリケーション)が含まれています。

ドイツでは,戦時中の反戦・平和のレジスタンスとしては,白バラ通信を撒いて,反戦レジスタンスを行ったミュンヘン大学生ショル兄妹たちも有名です。彼ら白バラグループは,学生,軍務経験者,大学教授,聖職者らなど,民間人に近い立場でした。スターリングラードにおける膨大な犠牲をもたらしたのは,ヒトラーのせいであると決め付けるのではなく,それを許したドイツ人こそ,現状打破のために立ち上がらなくてはならないと主張しました。

時事ニュース(2009年11月12日6時9分配信 時事通信)「ヒトラー暗殺未遂の記念碑計画=ナチス総統官邸跡地−ベルリン」:
【ベルリン時事】ベルリン市当局は11日までに、ナチス・ドイツ総統ヒトラーの官邸跡地に、ヒトラー暗殺未遂事件を起こしたゲオルク・エルザーの記念碑を建設する計画を明らかにした。
 エルザーは1939年11月、ヒトラーが演説するミュンヘンのビアホールに爆弾を仕掛けた。しかし、ヒトラーは早めに演説を切り上げ、爆発直前に離れたため、難を逃れた。捕らえられたエルザーは拷問を受けた末、45年4月に強制収容所で殺害された。(2009/11/12-06:12)

産経ニュース(2009.11.13 13:17)「ヒトラー暗殺未遂の記念碑 自殺官邸跡に計画」:
 ベルリン市は12日、同市中心部のナチス総統ヒトラーの官邸跡地に、ヒトラー暗殺を企てた家具職人ゲオルク・エルザーの記念碑を建設する計画を明らかにした。「ヒトラーへの反乱の歴史的、道義的な意義を刻む」のが目的という。
 同市は、2010年秋までに2回のデザインコンペを実施。その上で跡地内で具体的な建設場所を決め、早期の完成を目指す。ヒトラーは第2次大戦末期に、この総統官邸の地下壕で自殺した。
 エルザーは1939年11月、ヒトラーが演説するドイツ南部ミュンヘンのビアホールに爆弾を仕掛け、暗殺を計画。ところが、ヒトラーは爆発直前に会場を離れたため、無事だった。エルザーはナチスに拷問され、45年にミュンヘン郊外の強制収容所で殺害された。 (共同)[2009年11月13日]

ドイツ国内におけるエウザー再評価の動きが、日本にも届いているのは嬉しい。

写真(右)大戦直前1938年7月20日,ダッハウ強制収容所の拡充作業を強要される囚人:1937年,親衛隊は,囚人労働を酷使して保護拘禁を大規模拡充,建造物を新築した。翌1938年夏の終わり,第二次大戦1年前,収容所整備がなった。ダッハウ収容所には,キリスト教聖書研究会など,ナチスに忠誠を誓わないキリスト教徒も収監された。ウィーン大学でフロイトの下で精神医学を研究したヴィクトール・フランクル(1905-1997)は『夜と霧』の中で,ダッハウ強制収容所の病棟勤務をしていた。運命,神を呪い,自暴自棄になっては,収容所を生き残ることができない。彼は,「否定的で暗い感情の虜になる」のではなく,「精神のあり方を選択できる自由をつかみ、この絶望的状況下でもなお自分の人生の主人公であり得る」と信じて生き延びた。1945年4月27日,米軍がダッハウを解放。Konzentrationslager / Schutzhaftlager Dachau.- Häftlinge bei Zwangsarbeit, Schieben von Loren Dating: 20. Juli 1938 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツでは、学校で現代史を十分に学び,ヒトラーの著作やナチスの紋章を公にすることは禁止されています。その中で,ドイツ人自身が,ヒトラーへのレジスタンスを行ったことは,ドイツ人が全てナチスであったわけではないことの証であり,ナチスの暴政,戦争に反対したドイツ人もいたことを示しています。

しかし,ヒトラー排除の動きは,決して,シュタウフェンベルク,ショル兄弟に限ったことではありませんでした。エゲオルク・エルザーも,ヒトラーへのレジスタンスを実行したドイツ人として,その名を冠したゲオルク・エルザー校生誕100年記念切手が出されています。

ミュンヘンを中心に1993-1996年にエルザー復権の署名運動があり、1997年には、ミュンヘンにゲオルク・エルザー広場(Georg-Elser-Platz)とエルザーの名前が与えられた広場と通りができています。

写真(右)オーストリアのリンツ郊外マウトハウゼン強制収容所(1936-44年撮影):腕立て伏せのような体罰を受けさせられている。Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Häftlinge bei Sportübungen auf dem Appellplatz des KZ Mauthausen写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
オーストリア内務大臣Günther Platterは「この元強制収容所を保存し、記念館設立が決定したのは、この記憶を残し、後世の人々にありのままを伝えていくことの使命感に対する明確な証です。この回想及びマウトハウゼンがその象徴であるナチの犯行から一線を画することが、オーストリアの新たな国民意識の重要観点となるべきです。マウトハウゼン強制収容所は過去においても将来も国境を超えてヨーロッパ史の結晶点です。マウトハウゼンは、ヨーロッパ内外の国民たちの運命を左右した場所でもありました。その追憶は保存されるべきであり、共通の国際史痕跡として確定し、二度とこのようなことがおこらないように我々はさまざまに検討し努力すべきです。」と述べた。

ゲオルク・エルザー(Georg Elser)は,テロリストとして処刑されたというより、ヒトラーの恐怖政治に反対し戦争を止めようとして処刑されたというようなメディア・学会評価(Georg Elser "Ich habe den Krieg verhindern wollen")や司法評価(Staatsministeriums der Justiz in München vom 23. Februar 1950 - II 23321/49)もなされるされるようになりました。

日本でも海外だよりVol.64「ドイツだより(2)―「ブレーメンの議事堂とゲオルク・エルザ賞」 大野達司(法学部教授)に次のように紹介されています。
「市会議事堂も世界遺産なのは市民の町らしい。15世紀初めに建築された、領邦君主からの独立を象徴するゴシック様式の議事堂で、11月8日に「ゲオルクエルザー賞」の授賞式が催された。
 エルザはナチス時代にヒットラー暗殺を企てた人物である。家具職人であり、独立心の強かったエルザは当初からナチス政権に批判的だったが、1939年、ポーランド襲撃から世界戦争の危機感をつのらせ、ヒットラーの演説会場となっていたミュンヘンのビアホールの柱に、ひと月かけて爆発物を仕掛けた。
 だが、ヒットラーが予定よりも早く会場を後にしたため計画は失敗し(11月8日)、エルザはスイスへの脱出中に拘束。1945年4月9日にダッハウの強制収容所で射殺される。」

「暗殺計画者とはいえ、後に明らかになったその動機や、単独での判断と行動の意義を伝える市民活動が、1988年以降、ハイデンハイム、ミュンヘン、ブレーメンなどで組織され、市民の勇気を示す活動に対する「ゲオルク・エルザ賞」(Georg-Elser-Preis)が2001年に設立された。 授賞は隔年で行われ、今回その3回目がブレーメン(Georg-Elser-Preis wurde in Bremen verliehen "Mütter Courage" ausgezeichnet)で催された。」

2001年、著作家・ジャーナリストのヘラ・シュルンベルガー(Hella Schlumberger)博士らが、ナチス恐怖政治に対して反抗したエルザーの勇気を讃えて、5000ユーロの賞金を含む「ゲオルクエルザー賞」を2年ごとに採択、表彰することとしました。採択基準は、卓越した勇気を示したこと、与党の国家権力に対する抵抗を示したことです。「大胆不敵な行動」の人が採択されるわけです。

採択は、陪審員が行い、ここにはドイツ抵抗記念館Gedenkstätte Deutscher Widerstand)、ゲオルクエルザー・イニシアティブGeorg-Elser-Initiative )などが加わっています。

ゲオルクエルザー賞の受賞者(Preisträger)一覧

2009年受賞 (ミュンヘン:München): Beate Klarsfeld(ジャーナリスト;ナチス犯罪の告発、基金創設)
2007年受賞 (ベルリン:Berlin):Elias Bierdel(移民・亡命者の人権保障に尽力)
2005年受賞 (ブレーメン:Bremen): Verband der Kommitees der Soldatenmütter Russlands("UCMSR:ロシア兵士母の会";ロシアのチェチェン戦争に派遣される兵士の苦難を追求)
2003年受賞 (Heidenheim):Dr. Winfried Maier(法律家:武器商人、CDU献金疑惑などを追求)
2001年受賞(ミュンヘン:München): Jürgen Quandt(ルーテル教会牧師:亡命者などの人権保障に尽力)

写真(右)ザクセンハウゼン強制収容所(1936-44年撮影):1936-1945年の間に, 20万人以上が収監された。当初は,共産主義者など政治犯だったが,1939年以降は,劣等人種と差別された人々も収容されるようになった。ADN-ZB Konzentrationslager Sachsenhausen Im Juli 1936 errichteten die Faschisten nördlich von Oranienburg das berüchtigte Konzentrationslager Sachsenhausen, daß mit seinen über 50 Außenlagern besonders während des II. Weltkrieges die Rüstungsbetriebe Norddeutschlands mit billigesten Arbeitssklaven versorgte. UBz: die zum Zählappell auf dem Lagerplatz angetretenen Häftlinge. Dating: 1936/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

「ヒトラー暗殺未遂で記念碑 一般市民の爆弾暗殺計画たたえる」 2011.11.9共同通信社/スポーツニッポン新聞社のニュース

ヒトラー暗殺を企てたゲオルク・エルザーの横顔を模した記念碑=8日、ベルリン(共同)

 ナチス総統のヒトラー暗殺を企てた家具職人ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser,1903/1/4-1945/4/9)の横顔を模した記念碑がこのほど完成し、計画を実行してから72年になる8日、ドイツの首都ベルリンの総統官邸跡地で公開された。

 エルザーは39年11月8日、南部ミュンヘンで仕掛け爆弾による暗殺計画を実行。国民の多くがヒトラーを支持する中、第二次大戦を早期に終結させるため一般市民が単独で起こしたとされ、近年評価が高まっている。

 ベルリン特別市が「ヒトラーへの反乱の歴史的、道義的な意義を刻む」として建設を計画。高さ17メートルの鋼鉄製で、エルザーの横顔のシルエットを表現した。ヒトラーは大戦末期、官邸の地下壕で自殺した。

 エルザーは演説会場に爆弾を仕掛けたが、ヒトラーは爆発直前に会場を離れ難を逃れた。(共同/スポーツニッポン新聞社引用終わり)

◆暗殺はテロであり、重大な犯罪だ、テロリストは卑劣な悪党である、これは常識です。けれども、ナチスは、ユダヤ人への迫害、反対派の権力蹂躙、強制収容所への令状なしの不当な収監と恐怖政治、すなわちテロによる支配を行います。そして、戦争を始めて、大量殺戮を躊躇なく実行します。国家権力を掌握している指導者ヒトラーの下で、言論の自由も、ナチ党以外の政党も、もはや無くなっていました。ナチスに反対を表明しただけで、強制収容所送りなる恐怖政治の中で、たった一人、国家権力による暴政に反対し、その指導者ヒトラーを排除しようとしたヨハン・ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser)は、勇気ある「レジスタンス」としても評価されるようになってきました。


2.1923年11月8-9日のミュンヘン一揆

1939年11月8日のミュンヘンにおけるヒトラー爆殺未遂事件の背景にあった原因を探ってみるために,まずナチ党政権が樹立される10年前,1923年11月8日のミュンヘン一揆勃発にまで遡ってみましょう。11月8日に,ゲオルク・エルザー(Georg Elser)がヒトラー暗殺を企てた場所は,ヒトラーが16年前,政権奪取のクーデターを実行し,大失敗した因縁の場所だからです。

また,ミュンヘン出身のエルンスト・ハンフシュテングルは,実業家でヒトラーのパトロンになりましたが,1937年にヒトラーの戦争を批判したために,命を狙われ,亡命を余儀なくされています。

◆ヒトラーに因縁深いミュンヘンにまつわる二人のドイツ民間人,すなわちヒトラーを暗殺しようとした(Johann Georg Elser,1903/1/4-1945/4/9)と,ヒトラーに殺されかかったエルンスト・ハンフシュテングル(Ernst Franz Sedgwick Hanfstaengl,1887/2/2-1975/11/6)を取り上げます。

写真(右)1931年6月-7月,ミュンヘン,突撃隊SAの帝国指導者学校(RFS)のコースを最初の参加者とアドルフ・ヒトラー総統(ナチ党首の意味):突撃隊SAでは,帝国指導者学校(Reichsführerschule)を卒業したものをフューラー(総統,指導者の意味)と認定したが,突撃隊・親衛隊では,前職・役職に応じた階級を与えた。ミュンヘンがナチ党発展の地のごとく扱われたのは,1923年のミュンヘン一揆を記念してのことである。
München.- Adolf Hitler mit Teilnehmern der SA des ersten Lehrgangs der Reichsführerschule (RFS) Datierung: 1931 Juni - Juli Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ナチスドイツは、1920年に弱小政党として設立されましたが,世界の注目が集まったのは,1923年11月9日,ミュンヘンで政権奪取を目論む一揆(プッチ)が起こってからでしょう。これは,バイエルン地方政府を使って,その行政組織,警察・軍隊を手中に収め,ベルリンを制圧して政権を奪取するというものでした。

ミュンヘン一揆で活躍したのが,突撃隊SAです。突撃隊=SA(Sturmabteilung)は,ナチ党の私兵,党の暴力装置です。労働者のスト,共産主義者のデモ,反政府の一揆・蜂起を鎮圧する義勇軍=フライコールfreicorps)の流れを汲んでいます。もともとはナチ党集会を妨害する反対派を排除する「整理隊」として創設されました。ナチス反対派とは,共産主義者,社会民主党員,労働組合メンバー,自由主義者などです。彼らを会場から暴力を持って実力排除するのが,突撃隊の役目でした。

ヒトラーは,ナチ党の突撃隊SA(Sturmabteilung)を会場整理だけではなく,市街地を隊列を組ませて行進させたり,労働組合のストを破ったり,さらにはユダヤ人に対する迫害を行ったりするのに投入しました。デモンストレーションだけではなく,実力行使をするのが,突撃隊の任務です。

写真(右):1923年9月2日「ドイツの日」,ニュルンベルク,バイエルン軍,突撃隊を閲兵するエーリヒ・ルーデンドルフ将軍:ナチ党の指導下にある国軍をルーデンドルフが閲兵する。本来,敗戦をもたらした負け将軍のはずだったが,ドイツは第一次大戦に負けていなかった,後方のユダヤ人や共産主義者がドイツを降伏に追い込んだ,このような「背後からの一突き」を主張した。
Der Deutsche Tag in Nürnberg zum Andenken an die alte Wehrmacht fand unter riesiger Beteiligung der Nationalsozialisten am 2. September 1923 statt. General v. Ludendorff schreitet die Front der Hakenkreuzler ab. Archive title: Nürnberg.- "Deutscher Tag", Erich Ludendorff beim Abschreiten einer Ehrenformation Dating: 2. September 1923 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1923年11月8日2030,ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で,ヒトラーは,突撃隊に警護され登壇し,国家主義革命の開始を宣言します。そして,演説のためにやってきていたバイエルン州政府の三人の要人,バイエルン州首相グスタフ・リッター・フォン・カール(Gustav Ritter von Kahr:1862年11月29日-1934年6月30日殺害),バイエルン駐屯軍(第七師団)司令官オットー・フォン・ロッソウ(Otto von Lossow)少将,バイエルン州警察長官ハンス・フォン・ザイサー(Hans von Seißer)大佐に,ベルリン進撃,新政権樹立を要請します。

エーリヒ・ルーデンドルフ将軍の説得が功を奏したこと,既にミュンヘン市内の政府機関,バイエルン軍管区司令部などを,突撃隊幕僚長エルンスト・レーム,部下のハインリヒ・ヒムラーなどの突撃隊SAが占拠していたこと,バイエルン州要人三人がもとから,ベルリン進撃の構想を弄んでいたことがあって,要人三人は,一揆に参加することを約束します。

写真(右):1923年11月,ミュンヘン一揆の時のバイエルン軍の戦闘部隊:ミュンヘン一揆には,エルンスト・レーム,ハインリヒ・ヒムラー,ヘルマン・ゲーリングも参加している。ヒトラーは,バイエルン首相カールらを使って,新政権樹立のための武装蜂起を起こした。ルーデンドルフ将軍も,一揆に協力した。彼がいれば,国防軍を味方に引き込めると思ったからである。政府転覆の暴動だったが,ドイツ国防軍,警察の支持をうけることができなかったために,1日で,壊滅した。ヒトラーは,警察と軍を手中に収めることが肝要だと理解した。
Bewaffnete bayerische Kampfverbände der Truppe "Hitler" an der Thüringschen Grenze. Hakenkreuzler halten in den Strassen Neustadt`s mit Maschinengewehren Wache. Dating: November 1923 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_102-00196引用(他引用不許可)。


1923年のミュンヘン一揆は,ナチ党首ヒトラー総統(このときはナチ党の党首の意味しかありません)が中心になって計画した武装蜂起です。ヴェルサイユ体制を打倒し,ドイツ帝国の栄光を取り戻すために立ち上がろうというのですが,本心は,政権奪取にありました。

バイエルン首相のグスタフ・リッター・フォン・カール(Gustav Ritter von Kahr),バイエルン軍指揮官オットー・フォン・ロッソウ(Otto von Lossow)らは,ルーデンドルフ将軍に,州政府・軍に戻って,ベルリン進撃の指揮を執ると進言,「ビュルガーブロイケラー」から離れます。

しかし,カール首相らバイエルン州要人は,ビュルガーブロイケラ脱出に成功すると,ベルリン進撃という武装蜂起は,ヒトラーに脅迫されたために受け入れたのであり,無効であると宣言,蜂起から離反してしまいます。そして,国防軍の意向を受けて,蜂起を鎮圧する側に回ります。

ヒトラー,ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)は,形勢不利を悟りますが,市内に向かって進撃しても,警察と軍はルーデンドルフ将軍の行動を制圧する実力行使はとらることができないはずだと過信し,ミュンヘンの官庁,警察警察を武力制圧することを決意します。そして,11月9日,突撃隊を率いて,ミュンヘン市内への示威行進を決行,勢力挽回を図ります。

、1923年11月9日昼,ヒトラー,ルーデンドルフ,ゲーリングと突撃隊がミュンヘン中心街,将軍廟のあるオデオン広場で,一揆鎮圧を命じられている警察から発砲されます。突撃隊も打ち返し,広場は騒然となりました。

11月9日にミュンヘン一揆は鎮圧され,ヒトラーは軽傷を負い逃亡しますが,逮捕されました。ゲーリングは負傷し,亡命しました。ルーデンドルフは,投降しています。バイエルン軍管区司令部を占拠していたレームも大した抵抗もせず逮捕されました。

では,ヒトラー側16人,警察側3人の死者が出ています。ナチ党は,後にこのときの死者を勇敢な死を遂げた英雄として顕彰し,このときの血染めの突撃隊旗を神聖視し,この旗で新たに配布される突撃隊旗を聖別します。

写真(右):1924年2月,前年のミュンヘン一揆のヒトラー・ルーデンドルフ審理(Hitler-Ludendorff Prozess)(中央×印):右端に,三脚台にニュース撮影用カメラが備え付けられている。ミュンヘン一揆は,ヴェルサイユ体制を打倒し,ドイツ帝国の栄光を取り戻すために起こした,このように被告ヒトラーは主張し,指導者として,その全責任を負うと述べた。他方,ルーデンドルフ将軍は,ミュンヘン一揆に巻き込まれたのであって,自ら政府転覆を策するつもりなどなかったと無罪を主張した。ヒトラーは有罪に,ルーデンドルフは無罪になったが,明らかにヒトラーの人気が高まった。ルーデンドルフの責任逃れは,見苦しく,裁判の聴衆にも共感を得られず,同情を惹かなかった。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_102-00288引用(他引用不許可)。


1924年に開かれた,ミュンヘン一揆裁判では,著名人の被告ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍は,ミュンヘン一揆に巻き込まれただけであって,自ら政府転覆を策するつもりなどなかったと無罪を主張します。

他方,被告ヒトラーは,裁判を自己宣伝の場所に変え,ヴェルサイユ体制による呪縛から祖国を解放し,ドイツの栄光を再び実現するのがミュンヘン一揆の目的だったと大見得を切ります。そして,ドイツの栄光ために行動することが自分に運命付けられているとして,ミュンヘン一揆の指導者として,その全責任を負うと述べました。

ヒトラーは有罪に,ルーデンドルフは無罪になりましたが,明らかにヒトラーの人気が高まってきました。司法担当者ですら,ヒトラーの主張する国粋的傾向を好ましいと判断していたのです。他方,ルーデンドルフの責任逃れは,明白でしたから,聴衆にも共感を得られず,同情を惹かなかったのです。

ミュンヘン一揆裁判では,バイエルン州政府司長官だったフランツ・ギュルトナーFranz Gürtner は,ナチスへ共感していました。そこで,一揆首謀者ヒトラーを9ヶ月の軟禁状態においただけで釈放してしまいます。フランツ・ギュルトナーは,1933年のヒトラー政権樹立後,司法長官として迎え入られ,5月,新たに民族法廷を開設しました。民族法廷(人民法廷)は,反逆裁判のための法廷で,審理は非公開,上告は事実上できませんでした。

ミュンヘン一揆裁判を公開審理したことで,一揆首謀者「犯罪者」のプロパガンダが,思想・言論の自由の下で,広まりました。メディアが好意的に報道したことで,犯罪者は英雄になったのです。

ミュンヘン一揆の後に開かれたヒトラー裁判で,ヒトラーは,裁判を使って自分の主張をドイツ全土に伝えます。そして,ヒトラーは,一揆の責任を取って,収監されました。これが,ヒトラーを殉教者,英雄とする過大評価につながってしまいます。それを熟知していたナチ党指導者は,1933年5月設立の民族法廷を秘密裏に迅速に裁く場所とし,反ナチス的人物を,闇の中で抹殺することを決めました。

◆1923年11月8日に開始されたミュンヘン一揆は,失敗に終わりましたが,1924年のミュンヘン一揆裁判は,ナチ党ヒトラー総統を一躍世界の有名人にして,その主張をドイツ全国に広める役割を果たしました。ヒトラーは,あたかもドイツの殉国者のように,獄につながれることになります。つまり,ミュンヘン一揆はヒトラーにドイツの指導者になる運命を告げたともいえる大事件だったのです。ナチ党にとって11月8日は,祖国への情熱を実行に移した記念すべき日であると同時に,ナチ党ヒトラーにカリスマ性を与えた日ともなりました。ナチ党の記念日になったのは当然のことだったのです。


3.ナチ党政権獲得への過程

写真(右)1932年,ベルリン,スポーツ宮殿で演説する元ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世皇太子アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (Prinz August Wilhelm von Preussen:1887–1949):ベルリンのスポーツ宮殿で開催されたナチス集会に鉤十字の腕章をつけて演説する皇太子は,保守派の支持を得るのに有利だった。
アウグストは,ドイツ皇帝と妻オーガスタ・ビクトリアの間に,ポツダム宮殿に生まれた。1930年,ナチ党入党,1933年国会議員となる。
ヒトラーは、彼を利用したが,皇太子もヒトラーを使って,王政復古を企てていた。空席の王位継承を狙っていたのである。しかし,ヒトラーは,王政復活を拒否した。
1939年6月,アウグストは突撃隊大将に任命されたが,1942年には失脚。戦後,米軍に逮捕され,懲役3年の刑を宣告された。1949年,シュトゥットガルトの病院で死去。
Prinz August Wilhelm im Sportpalast Archivtitel: Berlin, Sportpalast.- Rede Prinz August Wilhelm von Preussen mit Hakenkreuz-Armbinde bei einer NSDAP-Kundgebung Datierung: 1932 Fotograf: Weinrother, Carl撮影。 Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・-P046293引用(他引用不許可)。


1939年11月8日のミュンヘンにおけるゲオルク・エルザー(Georg Elser)によるヒトラー爆殺未遂事件の背景にあった原因を解き明かすには、ナチ党の政権獲得前1923年11月9日のミュンヘン一揆、1938年の領土拡張にさかのぼる必要があります。これは、彼が逮捕されてからゲシュタポ本部が尋問、拷問して聞き出した調書の中で、エルザーは
?1938年のミュンヘン会談の結果に失望して、暗殺を考え始めたこと、
?ヒトラーが始めようとしている自分の戦争を阻止するためには、ヒトラーを暗殺するしかないと考えるに至った、
と述べているからです。

そこで、第一に、エルザーによるヒトラー暗殺事件の背景として、ナチ党の政権獲得の過程を簡単に検証してみようと思います。

写真(右)1933年1月22日,ナチ党ホルストヴェッセル祭典の突撃隊の行進を警戒・警護する武装した警察部隊:突撃隊SAは,大衆の煽動,労働者デモの襲撃など挑発的,暴力的な行動をとったので,突撃隊パレードを警戒。後方の見物は,リープクネヒトハウス。
Zentralbild Berlin, Januar 1933. Aus Anlass der Horst-Wessel-Feier der NSDAP veranstaltete die SA am 22.1.33 einen provokatorischen Aufmarsch zum Bülowplatz in Berlin. Ein riesiges Polizeiaufgebot gegenüber dem Liebknecht-Haus am Bülowplatz zum Schutz der faschistischen Provokation. Datierung: 22. Januar 1933 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl Bilderdienst
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-H26170引用(他引用不許可)。


ナチ政権獲得に大活躍したのが,突撃隊SAです。突撃隊=SA(Sturmabteilung)は,ナチ党の私兵,党の暴力装置です。労働者のスト,共産主義者のデモ,反政府の一揆・蜂起を鎮圧する義勇軍=フライコールfreicorps)の流れを汲んでいます。

突撃隊は,ナチ党集会を妨害する反対派を排除する「整理隊」として創設されました。ナチス反対派とは,共産主義者,社会民主党員,労働組合メンバー,自由主義者などです。彼らを会場から暴力を持って実力排除するのが,突撃隊SAの役目です。

ヒトラーは,ナチ党の突撃隊SA(Sturmabteilung)を会場整理だけではなく,市街地を隊列を組ませて行進させたり,労働組合のストを破ったり,さらにはユダヤ人に対する迫害を行ったりするのに投入しました。デモンストレーションだけではなく,実力行使をするのが,突撃隊の任務です。

ヒトラーも、後に啓蒙宣伝大臣に就任するゲッペルスも、「街頭を支配するものが、政治を支配する」と述べました。これは、大衆基盤をもつ組織的な実力行使が政治の根幹にあるという考えで、大衆を動かすには、煽動などプロパガンダが決定的に重要になります。

写真(右)1935年,ベルリン,市民へナチ党の勢力を見せつけ,反対派を黙らせるために行ったナチ党突撃隊SAの示威行進:ベルリン管区,指導者はヨーゼフ・ゲッペルスだった。突撃隊SAは禁止された党の私兵(暴力団)であり,示威行進をして,市民を威圧し,労働者のストライキやデモを鎮圧した。暴力装置であることを明確にするために,軍服のような制服を着用。
Sowjetunion, Krim.- Schreibstube im Freien, Horst Grund als Filmbericher der 10. Marinekriegsberichterkompanie an Schreibtisch sitzend Dating: 1941 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-2004-0812-500引用(他引用不許可)。


ナチスは,煽動,プロパガンダによって,突撃隊に選挙干渉,ユダヤ人迫害,示威行進させました。今から思うと,圧倒的に力強く,衝撃的な映像がそれを記録しているかのごとくみえます。しかし,初期のナチスのプロパガンダは,演説会,突撃隊による行進,党機関紙の発行,若干のポスターの配布程度にすぎません。

1933年1月30日のナチス政権樹立後,広範囲の大衆を大動員できたのも,一般市民の中に(ナチ党だけではなく)国家的行事に参加しないわけには行かないという集団心理が働いたためです。パレードに声援を送り,党大会に出席しなければ,反ナチスとみなされ,政府機関や就職先企業でも不利益を被る恐れが出てきのです。

党レベルでは難しい大規模な飛行機,探照灯,消防・軍用車両あるいは,警察・軍隊の利用も,政権につくことで可能になりました。映画・ラジオ・発行部数の多い新聞・雑誌で宣伝できたのも,国家予算を投入したから,ナチ党の独自資金では困難だったのは当然です。ナチスのプロパガンダが,政権獲得前から,効果的だったかどうかは,非常に疑わしいわけです。

ナチスの主張は,現状の打破,すなわちベルサイユ体制による賠償金の支払い・軍備制限などドイツの隷属化,失業など社会不安を現政権,ワイマール共和国,ユダヤ人,第一次大戦で革命を起こしたボリシェビキの責任にして,ドイツ国民の不安を煽るプロパガンダでした。

写真(右)1930年9月,ベルリン,スポーツ宮殿で開催されたナチ党選挙集会に集まった大群衆
Massendemonstration der nationalsozialistischen deutschen Arbeiterpartei im Sportpalast in Berlin ! Blick in den überfüllten Sportpalast während der nationasozialistischen Wahlversammlung Dating: September 1930 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_102-10391A引用(他引用不許可)。


ナチスは,大衆動員,プロパガンダに努め、そのために資金、資本、労力、技術を投入します。政策論争,党の綱領,マニフェストなど,政策の論理的展開にナチ党は、あまり関心を持ちませんでした。不満だらけの忌むべき現状を、並べ立て、それを打破することをめざします。社会不安を呼び寄せた責任を、ワイマール共和国の与党政治家(社会民主党、自由党、カトリック中央党など)、ユダヤ人、共産主義者にし帰して,彼らを排除し新しい秩序と規律を打ち立てるべきだと主張します。

こうして、ドイツ帝国の栄光を復活させようという主張,ユダヤ人,共産主義者によって,ドイツは貶められ,彼らがドイツを搾取している,だから,ユダヤ人,共産主義者を排除すべきだ,という(仮想)現状否定の政党でした。

国家社会主義ドイツ労働者党というナチ党の正式名称が示すように,国粋主義者,資本家,労働者どこにも希望を持たせるような幻想をプロパガンダで徹底します。ナチス反対派に対しては,突撃隊を使って,暴力で弾圧し,排除してゆきます。 これが,ドイツのファシズムです。

写真(右)1931年10月11日,バットハルツブルク,突撃隊の集会に参加した突撃隊と家族ドイツ中部の観光地Bad Harzburgで,1931年10月、ナチスは,共闘していた右翼の国家人民党,準軍事団体「鉄兜団」と警察予備隊に相当する準軍事組織を創設。この「ハルツブルク戦線」(国民戦線)によって,財界、軍と提携を深める機会を獲得できた。ナチ党政権獲得前は,大規模な集会とはことなり,あふれかえるばかりの突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントや大群衆を動員できたわけではない。カトリックをまねて,悪趣味な旗・紋章,血染めの旗の洗礼式など,似非宗教的儀式を考え出した。
ヒトラー政権では,ヒムラーは親衛隊国家長官に,ゲーリングは空軍大臣になるが,レームは,突撃隊SAを国防軍に取って代わるような軍隊にしようとして,国防軍と対立したために,ヒトラーに粛正された。1931年当時,ヒムラーは,レームの部下だったが,親衛隊に入り,「長いナイフの夜」では,ヒトラーの命令で元上官のレームを粛正する側に回った。突撃隊の粗暴さは民衆に反発を受けた,そして国防軍に取って代わる新しい軍隊を目指したことで,ドイツ国防軍から忌み嫌われた。ヒトラーは,大衆,ドイツ国防軍の支持を得るために,旧友であるレームと突撃隊幹部を抹殺した。これが,「長いナイフの夜」である。
Bad Harzburg, Jubelnde NSDAP-Anhänger Description: Der große Aufmarsch der nationalen Opposition unter Führung von Hugenberg und Hitler in Bad Harzburg ! Nationalsozialistische Enthusiasten mit dem jüngsten Parteimitglied beim Aufmarsch der Verbände in Bad Harzburg. Oktober 1931 Extra information: Harzburger Front, Tagung der nationalen Opposition in Bad Harzburg.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-12405引用(他引用不許可)。


ナチ党(NSDAP)政権獲得前,プロパガンダは,マスメディアの利用,資金,組織,宣伝対象の上で,限定されたものに過ぎませんでした。大規模なプロパガンダは,ナチ党政権獲得後になって,国家資金,政府機関を通して初めて可能になったのです。

写真(右)1942年夏,ナチ党(NSDAP)大会の開催されたニュルンベルク・スタジアム:現在,トップのカギ十字は爆破されてないが,スタジアム自体は残っている。
Nürnberg 1942 Archive title: Nürnberg.- NSDAP-Reichsparteitagsgelände, Ehrentribüne mit Kanzel des Führers auf der Zeppelinwiese Dating: 1942 Photographer: Gasser, Karl Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-2008-0028引用(他引用不許可)。


ヒトラーユーゲント(Hitler Jugend)も,大きな組織となったのは,ナチス政権下で,他の青少年団体が解散させられ,全ドイツの青少年のHJ(Hitler Jugend)加盟が義務付けられて以降です。カトリックがナチ党加入を公認したのも,政権獲得以降であす。ニュルンベルク大スタジアムの大式典も政権獲得以降です。飛行機・軍用車両を利用したパレードも,ヒトラー総統が,三軍総司令官となり,その後,再軍備宣言をして以降です。

ナチ党(NSDAP)政権獲得の背景には,
?ワイマール共和国(ドイツ)の保守政治家・議会政党人の権謀術数の弊害,
?フライコールのような義勇軍の存続とその暴力を政府が黙認したこと,
?大恐慌による生活悪化,ベルサイユ体制への批判,
?第一次大戦の敗戦,失業などの社会不安をすべてユダヤ人やボリシェビキの責任として,ドイツ人の優越感を満足させたこと,
社会主義・共産主義勢力の拡大を恐れる資本家・アメリカ・イギリスなど外部要因,
が指摘できます。このような背景を踏まえて,ナチスが世論を取り込むことができたのは,ナチスの運動と計略が功を奏したということです。

1932年の総選挙で第一党に選ばれ,1933年には,ナチ党(NSDAP)による一党独裁国家を作りました。この過程で,ナチ党は,反対勢力を,突撃隊,親衛隊によって,威嚇し,暴力で弾圧しています。

写真(右)1933年11月,事実上最後となった総選挙のポスター,ドイツ大統領ヒンデンブルク元帥と首相ヒトラー:パウル・ルートヴィヒ・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig von Hindenburg, 1847年10月2日−1934年8月2日)は,第一次大戦の対ロシア戦タンネンベルク会戦の英雄,ドイツ陸軍参謀総長で,ドイツの軍人、政治家。ヴァイマル共和国第2代大統領(在任:1925年‐1934年)。ヒンデンブルクもヒトラーも,第一次大戦のドイツ敗戦は,広報の裏切り者,共産主義者の主導するドイツ革命が「背後からの匕首」となったとして,敗北を認めなかった。ヒトラーを首相に任命し、ナチ党独裁への道を開いたともいえるが,第一次大戦敗北時(1918年)の陸軍参謀総長が1925年の第二代ドイツ大統領に選挙で選出されたこと自体,ドイツ国民が第一次大戦敗戦のトラウマを払拭したがっていたことを証明している。それを過激に煽動したのが,ナチ党,突撃隊,フライコールだった。ヒンデンブルクが頻繁に発した大統領緊急令を効果的に使って一党独裁を果たしたのが,ナチ党だった。
Die große Feier des 1. Mai des Tages der Nationalen Arbeit im Lustgarten in Berlin! Reichspräsident von Hindenburg und Reichskanzler Adolf Hitler begeben sich im Auto zur Feier der Nationalen Arbeit in den Lustgarten. 1933 Archive title: Berlin, Lustgarten.- Reichspräsident Paul v. Hindenburg und Reichskanzler Adolf Hitler (beide in Zivil) im offenen Wagen sitzend Dating: 1. Mai 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_102-15183引用(他引用不許可)。


ナチ党(NSDAP)は,1932年の総選挙で第一党にはなりましたが,干渉選挙によっても,過半数の得票率を獲得したことは一回もありません。独裁は民主的手続きを遵守していては不可能だったのです。

そこで,ヒトラーは権力を握るや、1933年2月の国会放火事件を契機に大統領緊急令に基づいてナチスに反対する政治家,共産主義者らを拘束し,暴力の威嚇の下で,3月24日,「全権委任法」(Ermächtigungsgesetz)を可決させます。この全権委任法Enabling Act)は,国会の権能をヒトラーに授権するものでした。そして,6月22日にはドイツ社会民主党(SPD)を解散に追い込み,7月14日には,政党新設禁止法を公布し,一国一党というナチ党独裁を完成しています。

ナチ党による一党独裁,ヒトラー独裁は,一見合法的な独裁国家の成立でしたが,突撃隊や親衛隊を使って反対勢力を暴力で抑え込んだのは明白です。

他方,軍と財界の反発を恐れたヒトラーは,1934年,過激化してゆくSA指導者のレームらが,反乱(一揆)をたくらんでいるとして,彼らを粛清してしまいます。これが,「長いナイフの夜」です。

SA("Storm detachment" )の暴力を引き継いだのが,ヒトラーの護衛隊としてスタートした親衛隊=SS(Schutzstaffel)です。

写真(右)1938年6月28日,ドイツ本国のダッハウ強制収容所の囚人。1933年のナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)政権獲得直後に開設されたダッハウ強制収容所は,反ナチス的な人物を保護拘禁し,矯正する施設とされた。実際は,反ナチスを弾圧する方針を見せ付ける恐怖による威嚇,テロである。このダッハウ強制収容所「司令官」が,テオドール・アイケで,彼は強制収容所の看守警備部隊として,親衛隊SS髑髏部隊を編成し,その最高指揮官となった。ダッハウ収容所は,当初は,政治犯を中心に収容したが,後に,ユダヤ人,同性愛者,聖書研究会のキリスト者も収監された。ダッハウ収容所は,他のドイツの収容所と同じく,ガス室を備え大量殺戮を行う絶滅収容所ではないが,食糧不足,不衛生な環境,虐待,奴隷労働,処刑によって,多数の囚人が死亡している。トレブリンカ,ゾビブルのような絶滅収容所は,ダッハウ収容所の運営経験を踏まえ,1941年以降,ポーランドに設置された。
Konzentrationslager / Schutzhaftlager Dachau.- angetretene Häftlinge, 28.6.1938
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_152-21-05引用


親衛隊SS長官ヒムラーは、1933年,ナチス政権後,警察を支配下に置き,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク,ダッハウに設置しました。強制収容所を管理したのが,親衛隊髑髏部隊です。これは,反ナチス的な人物を収監する「保護拘禁施設」で,ここでの囚人の取り扱い,拷問,懲罰などの経験が,大戦中のユダヤ人やソ連軍捕虜を収容,管理する方法のモデルになりました。ユダヤ人を虐殺する以前,反ナチスの人物は,ドイツ人も虐待されていたわけです。下等人種,劣等民族を排除,殺戮する方針は,ナチ党の政権獲得直後の強制収容所で芽生えました。

ナチスの時代,戦前でもユダヤ人への温情は,違法行為であり,言論の自由がない状況で、政府批判は,強制収容所送りになりました。大戦前,ドイツ市民は,ユダヤ人迫害は仕方がないと諦めあるいは是認してしまいます。これは,自分の無力さ,諦めを認めるニヒリズムです。

ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊は,ヒトラー護衛だけではなく,党内警察としても拡充されます。親衛隊のメンバーは,1929年末の1000人,1930年末の2700人から,1932年末の5万2000人と増員されますが,これは突撃隊に対抗するためでもありました。

1933年1月,ナチ党(NSDAP)政権が樹立されると,すぐに反ナチスを拘禁する強制収容所を設置します。この管理を任されたのも,SS(Schutzstaffel)ドクロ部隊です。

1933年2月27日に起きた国会放火事件を契機に,ナチ党は,ドイツ共産党など反ファシスト勢力を根絶やしにしようとする強権的な取調べを開始します。1933年2月には,最初の強制収容所がザクセンハウゼンとダッハウに作られます。社会民主党の指導者は,1933年8月,逮捕され,さっそくオラニエンブルグのザクセンハウゼン強制収容所に収監されています。

1933年4月,ゲーリングは,プロイセン州秘密警察局を創設し,ここに秘密警察「ゲシュタポ」が誕生します。1934年,既にドイツ各州の警察権力を握っていた親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーにゲシュタポ指揮権が譲渡され,ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)がゲシュタポ局長に任命されます。ゲシュタポは,後に,アーリア人を人種汚染するとして,ユダヤ人の迫害にも,積極的な役割を果たします。

ナチスは,共産主義者,社会民主党員,労働運動指導者,自由主義者,ユダヤ人など反ナチス的人物を拘束し,保護拘禁してゆきます。

ナチ党は,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定をプロパガンダにして,躍進します。ナチ党は,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張します。

ヒトラー政権の下で,親衛隊は,従来の警察組織を,組み込んでゆきます。そして,に秘密警察のゲシュタポが設置され,反ナチスの人物を拘束するようになります。

ゲシュタポ(Gestapo:Geheime Staatspolizei)とは,反ナチス派の人物・組織を摘発し,ナチス独裁を安定ならしめるための秘密警察で,日本の特高(特別高等警察)に相当します。

1933年1月,ナチ党(NSDAP)政権が樹立された直後,まだベルリンを中心とした都市では,共産党,労働組合の勢力は強いものがありました。そこで,ヒトラーは,ベルリンを含むプロイセン州の内務大臣ヘルマン・ゲーリングを任命します。2月,国会放火事件が起こると,その背後に,ドイツ共産党員による一揆,政権奪取の陰謀があるとして,ヒンデンブルク大統領に大統領緊急令を出させ,共産党を違法化し,共産党員を逮捕させます。このときゲーリングが使ったのが,プロイセン州警察の政治警察の一部だった秘密警察部署です。


4.ドイツの軍備拡張

1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると,大統領選挙ではなく,いきなり首相が大統領を兼任する国民投票を強行し,総統となっています。そして,軍の将兵は,全員,総統アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓うように宣誓文を改変しました。

ヒトラーが,このような粗暴な革命を強行できたのは,自分は正しいことをしているとの思い込みと,反対勢力を弾圧すれば,国民は強い者に服従するとした弱肉強食の原則を信じていたからです。

ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばせます。そしてドイツ国防軍の兵士は,ヒトラー個人に忠誠を宣誓するように変えることに成功します。

1934年8月2日導入の新しいドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."

「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler! Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler.

ドイツワイマール共和国は,第一次大戦の敗北後に結ばれたヴェルサイユ条約によって,莫大な賠償金を抱え,フランス・ポーランドへの領土割譲,工業地域でもあるライン川の西側の非武装化と並んで,厳しい軍備制限を受けました。

ドイツは,監視団を受け入れたうえで,陸軍兵力を10万人に制限され,陸軍参謀本部を廃止させられます。兵器の上でも,戦車,潜水艦の保有禁止,航空部隊の廃止という制限を受けます。

写真(右)1934年以降,ナチ党集会におけるヒトラー総統(左端):1935年3月の再軍備宣言以降,軍事力を増強し,親衛隊を警察を支配する組織にまで拡張した。
大規模なプロパガンダを展開して,ドイツ国民を煽動するとともに,反ナチスの動きに対しては,親衛隊下の警察を使って,弾圧した。強制収容所に収監し,「更生」させた。これが批判を許さない全体主義,ファシズムである。ニュルンベルク大会でもそうだが,規律してドイツ式敬礼(ナチス敬礼)をすべきときに無視したり,ナチスに批判的な言動を吐いたりすれば,処罰の対象となった。密告が横行していたのである。しかし,内心で,ナチスに反対する人々は少なくなかったが,それが顕在化することは,稀だった。
Kundgebung der NSDAP Dating: o.Dat. Photographer: o.Ang.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild-F020811引用(他引用不許可)。


ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,ヒトラーは,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言します。これは,義務兵役制を復活し,兵力36個師団,50万人を動員,戦車を開発しました。そして,陸軍参謀本部を正式に復活し,空軍Luftwaffeを新設したのです。

ここで,1936年3月の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどまっていました。だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認したのです。

実際は,1922年のソ連とのラパロ条約秘密議定書で,ドイツはソ連奥地におい軍備を整える兵器開発・訓練をしていました。また,新型火砲の開発も,スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して行っていました。これらの兵器は,ベルサイユ条約調印前の1918年に制式されたように見せかけるために,型式を1918年型と偽称していました。つまり,ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動きは着実に進んでいたのですが,ヒトラーは再軍備を宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴したのです。

1936年のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合アンシュルスは,この復活させたドイツ国防軍を使って,達成されたものです。


5.1937年のナチ党外国報道部長エルンスト・ハンフシュテングルの亡命

写真(右)1932年夏,ベルリン,テンペルホーフ空港,ヘルマン・ゲーリング,アドルフ・ヒトラー,ヒトラーの後援者で実業家のエルンスト・ハンフシュテングル(Ernst Hanfstaengl)
Adolf Hitler, der Führer der Nationalsozialisten im regen Gespräch mit seinen Mitarbeitern, diskutieren die Regierungskrise! Von rechts nach links, Hauptmann Hermann Göring, Adolf Hitler und der Pressechef der Nationalsozialisten Dr. Ernst Franz Hanfstaengl Archive title: Flughafen Berlin-Tempelhof, Sommer 1932? Dating: 1932 Sommer Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_102-14080引用(他引用不許可)。


エルンスト・ハンフシュテングル(Ernst Hanfstaengl)は,ミュンヘンの芸術出版社の子息で,1921〜27年の間,アメリカ合衆国に滞在,ハーバード大学で学んでいます。ヘンリーフォードなど実業家とも知己を得ています。ドイツ帰国後,ミュンヘン大学でカール・フォン・ミュラーの下で1930年に博士号を取得。博士論文は,フランス革命のマールボロ・ミラボーについてのものでした。その後,主にパリに滞在し,ピアノ演奏を趣味とする芸術家,実業家として活躍します。

1922年,ヒトラーの演説を聞きに行ったとき,エルンスト・ハンフシュテングルは、労働者からなる聴衆がヒトラーに完全に魅惑されていることに感銘を受けます。「ヒトラーは2時間半の間に聴衆に対して1万年かけても与えることのできないような一時を与えた」と彼は記しました。そして,大ドイツ帝国を復興させるのは,大衆・庶民から支持を得ている強固な意志を持った指導者だと確信します。

写真(右)1934年,エルンスト・ハンフシュテングル博士:1932年,ハンフシュテングル(Ernst Hanfstaengl:1887/2/02-1975/11/06)は、ナチスのナチ党の外国報道部長(外国人記者室長)となった。戦前にヒトラーと決別しアメリカに亡命、CIAにヒトラーやナチ党の情報を提供した。
Dr. Ernst Hanfstaengl, Auslandspressechef der NSDAP 5748-34 [1934; Scherl Bilderdienst] Archivtitel: Porträt Datierung: 1934 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


   エルンスト・ハンフシュテングルは,ナチ党に入党し,ヒトラーと実業界の間を取り持つことに尽力します。ミュンヘン一揆後に,逃走するヒトラーを匿ったこともあります。ヒトラーの出獄にも力を尽くしました。同じ大卒・博士のインテリであるヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)は,失職など経済的困難な状況で,ヒトラーにひきつけられましたが,ハンフショテンングルは,資産家でヒトラーのパトロンになったのです。二人はともに,反ユダヤ主義においては,共通点がありました。

ミュンヘン一揆の裁判でヒトラーは有罪判決を受け,投獄されますが,僅か9ヵ月後に釈放されます。この時点で,ヒトラーは演説活動を禁止されていました。そこで,エルンスト・ハンフシュテングルは,ヒトラーに対して,数ヶ月の間,アメリカ,日本など世界視察旅行を勧めました。しかし,ヒトラーは,成り上がり者の享楽的生活,堕落した民主政治,アジア下等人種を嫌悪していて,「彼らから何か学ぶことがあるとでも思っているのかね」と外国視察の必要を認めませんでした。

1930年,ヒトラーは,エルンスト・ハンフシュテングル(Ernst Franz Sedgwick Hanfstaengl,1887/2/2-1975/11/6)にナチ党の外国報道部長を引き受けてくれるよう依頼しています。

1932年、エルンスト・ハンフシュテングル(Ernst Hanfstaengl)は,ヒトラーと再度の面会を試みて,ウィンストン・チャーチルとの間を取り持ち,ミュンヘンで会議を手配しようとしました。しかし、ヒトラーは、チャーチルに引け目を感じたのか,ハンフシュテングルの提案を拒否しました。ハンフシュテングルは,ヒトラーのチャーチル面談拒否の理由について「彼はおそらく、党内の反対を恐れていた」と述べています。

1934年,ヒトラーの英仏・米相手の対外侵略の準備,そのための軍備拡張を戒めました。しかし,戦争を始めるつもりのヒトラーの反感を買います。プロパガンダを優先するヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)博士は,ヒトラーに忠節を尽くし,彼に服従していましたが,ハンフシュテングルは,ヒトラーの粗暴さを一流政治家らしい優雅なものに変え,ドイツの繁栄と平和を求めてもらいたかったようです。

写真(右):1940年,啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)博士(1897年10月29日-ベルリンで1945年5月1日自殺):ヨーゼフゲッベルスは,ファシスト政治家で大規模な戦争犯罪を煽動した。プロパガンダの先達者の文学博士として,1933年に帝国啓蒙宣伝大臣に,1944年に"帝国総力戦全権"に就任。
Joseph Goebbels, faschistischer Politiker und Hauptkriegsverbrecher, geb. 29.10.1897 in Rheydt, gest.(Selbstmord) 1.5.1945 in Berlin, u.a. Propagandaleiter der NSDAP, Reichspropagandaminister (seit 1933) und "Reichsbevollmächtigter für den totalen Kriegseinsatz" (seit 1944). [Aufnahme 1940] Archivtitel: Joseph Goebbels, sitzend Datierung: 1940 Fotograf: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L04035引用(他引用不許可)。


1936年,ハンフシュテングル(Ernst Hanfstaengl)は,スペイン内戦にフランコ反乱軍側に参加したドイツ軍兵士の士気を批判したと,ヨーゼフ・ゲッペルスJoseph Goebbels)啓蒙宣伝大臣がヒトラーに告げました。ヒトラーは,ドイツ兵士の勇敢さを批判する資格などない,臆病者に目に物見せてやる,と激怒します。そして,ハンフシュテングルに,内戦中のスペイン共和国側(赤色共産地区)に赴く,フランコ反乱側の連絡員として,空路,派遣されることになりました。

スペインに向かうユンカースJu-52輸送機/爆撃機に搭乗した,エルンスト・ハンフシュテングルでしたが,実は,スペイン共和国政府の地域に,ハンフシュテングルをパラシュート降下させる命令が,空軍大臣ゲーリングから下っていたというのです。ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)啓蒙宣伝大臣との確執もあって,ハンフシュテングルは,ナチ党内部では,邪魔者扱いされていたのです。このJu-52のパイロットは機体不調で不時着したと偽って,エルンスト・ハンフシュテングルを逃がしてくれました。その後,1937年3月,彼はスイス経由でイギリスに亡命しました。長男エゴン(Egon)は,父の連絡でスイスに亡命,そこで,落ち合い助かりました。

エルンスト・ハンフシュテングル(Ernst Hanfstaengl)は,第二次世界大戦が始まると逮捕されますが,連合軍のためにヒトラーに関する情報を提供,アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトのために働くことになります。1972年,自伝『白い家と褐色の家の間で』Zwischen Weissem und Braunem Haus をあらわして,突撃隊の制服の色である褐色革命に参加したが,良心的に行動したことを主張しています。

フランコ反乱側の連絡員としてハンフシュテングル(Hanfstaengl)が派遣された話は,ヒトラーの友人で建築家だったアルベルト・シュペーア(1905-1981)によれば,ヒトラーとヨーゼフ・ゲッペルス(1897-1945)が仕組んだ狂言であって,ヒトラーの食卓で大爆笑を引き起こしたと述べています。

しかし,たとえパラシュート降下命令が狂言であったとしても,ヒトラーは,自分のパトロンとして尽力した実業家の友人ハンフシュテングルを,悪質な冗談で苦しめたのです。ヒトラーは,ハンフシュテングルが不時着した後,命が狙われたことに気づいて,恐怖に襲われ,消息を絶ったことを,臆病者だと大笑いしたのです。讒言するようなパトロンは必要ない,必要なのは服従する部下だけだというのが,ヒトラーの考えです。これは,ドイツ国防軍の将軍たちにも当てはまります。

ヒトラーを支持していたハンフシュテングル(Hanfstaengl)のような実業家も,ヒトラーの国家社会主義の主張がユダヤ人迫害,ボリシェビキに対する侵略戦争を優先していることを悟り,産業・金融が戦争に奉仕することを求められ、強要されることを理解しました。しかし,実業家が,ヒトラーの戦争を警戒し始めた時,既に政権を握ったヒトラーに逆らえなくなっていました。ヒトラーは,実業家を自分の野望のために服従させることに成功したのです。実業家も、ナチ党に服従しなければ,排除されてしまったのです。


6.1938年の領土拡張と戦争の危機

1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けます。これが,ホスバッハ会議で、ヒトラーの戦争方針が示されたのです。

ブロンベルク国防相とフリッチュ陸軍総司令官は,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対しました。ドイツが、英仏連合軍と戦っても勝ち目は無いと考えたからです。

しかし、ヒトラーは軍備を拡張して権限を強化してきた国防軍の将軍たちが、戦争を欲していないことを理解できませんでした。二将軍は、パレード用の軍隊を整備したつもりなのかと訝(いぶか)り、将軍とは臆病な生き物だと、彼らを軽蔑し始めます。ヒトラーは、二将軍を戦争を回避しようとする弱腰だと蔑視し,戦争を始めるには、二将軍を失脚,更迭する必要があることを悟りました。

ヒトラー総統は,大ドイツ「グロス・ドイッチュラント」の復興を目論みます。アーリア人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指すヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなしたのです。すなわち,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域が,ドイツに併合されるべきだと主張します。

ポスター(右)1938年11月,オーストリア・ナチ党首コンラート・ヘンラインがドイツのアドルフ・ヒトラー総統にオーストリア併合を要求する。1938年2月、ヒトラー総統はオーストリアのシュシュニク首相とベルヒテス・ガーデンで会談し,オーストリア・ナチ党首ザイス・インクワルトを内相に任命するよう強要した。
シュシュニク首相は,ドイツ合併を国民投票にかけようとしたが,ドイツは武力攻撃すると脅迫し,1938年3月,インクワルトを首相とし,ドイツ軍の進駐を要請しました。ヒトラー総統は,3月10日、ドイツ軍のオーストリア進駐を命じ,3月12日,アンシュルスが宣言された。
ヒトラーは,オーストリアを強奪したり,無理やりドイツに併合したりしたのではなく,オーストリア国民による大ドイツ復興の総意に基づいて,オーストリアを併合したとの建前をとった。
Konrad Henlein einte uns! Der Führer befreite uns! Dating: November 1938
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Plak_003-003-097引用(他引用不許可)。


1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニク(Kurt von Schuschnigg)オーストリア首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチスのオーストリア人ザイス=インクワルト Arthur Seyss-Inquartを内務大臣に任命さます。シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりでしたが,選挙権を巡る国内内紛が起きてしまいます。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐しました。

1938年3月13日のオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,それまで反対していたイタリア,ムッソリーニの理解を得て,武力進駐を行っています。

写真(右)1938年3月,ナチス・ドイツのオーストリア併合(アンシュルス)によって,追い立てられるウィーンのユダヤ人:ユダヤ人老紳士を捕まえて得意満面の兵士たち。弱いものいじめではなく,ドイツの敵を捕らえたという感覚があっただろう。
オーストリアを併合したヒトラー総統は,ハプスブルク家の皇帝標章をニュルンベルク党大会(第一回ドイツ大会)に持ち込んで,第三帝国の成立を宣言した。ナチス支配下のオーストリアでもユダヤ人迫害が始まった。
Juden-Razzia in Wien im israelitischen Gemeindehaus. März 1938 Archive title: Österreich, Wien.- Razzia der SS in der israelitischen Gemeinde (Gemeindehaus) Dating: März 1938 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_152-65-05A引用(他引用不許可)。


1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
Ich proklamiere nunmehr für dieses Land seine neue Mission. Sie entspricht dem Gebote, das einst die deutschen Siedler aus allen Gauen des Altreiches hieher berufen hat: Die älteste Ostmark des deutschen Volkes soll von jetzt ab das jüngste Bollwerk der deutschen Nation und damit des Deutschen Reiches sein.
オーストリアの独立という戯言(ざれごと)は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルク(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」

「ひとつの民族,ひとつの国家,一人の総統」を主張して,オーストリアをドイツに組み込んだ。オーストリアのブラウナウで生まれ,リンツに育ったアドルフ・ヒトラーにとって,オーストリア併合(Anschluss:union アンシュルス)は悲願でした。併合直後のドイツ国会,オーストリアのヒトラー総統の演説は,ナチスの下での大ドイツ再興を連想させるプロパガンダででした。

1938年3月,ドイツが,オーストリアのナチス勢力を使って,オーストリアを併合の要求を出させ,武力進駐してオーストリアを併合します。これをアンシュルス(Anschluss)と呼びましたが,この時,ハプスブルク王朝に引き継がれていた神聖ローマ帝国の皇帝標章(冠,笏など)をドイツに返還させ,ニュルンベルクのナチ党大会をドイツ大会と称して,ドイツ第三帝国の復活を宣言,帝国は千年続くと大見得を切ります。

◆ナチスのDas Dritte Reich(ライヒ)を「第三帝国」と訳すのは適切ではないという人もいます。皇帝・皇族が世襲するのが帝国であれば,ヒトラーの独裁国家は,帝国ではありません。しかし,歴史的使命感を妄信するヒトラーは,共和国ではなく,神聖ローマ帝国・ハプスブルク王朝,宰相ビスマルクの立てた第二帝政を引き継ぐ正統な「第三の帝国」にこだわったのです。

1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国Großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルクOstmark(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」

写真(右):1934年,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク大将(Werner Eduard Fritz von Blomberg :1878/9/2–1946/3/14) :1933年、ヒンデンブルク大統領によって国防大臣に任命され,ナチ党の突撃隊の過激化,拡大を抑制しようとした。これが,1934年8月の長いナイフの夜の粛清につながる。
他方,1938年には,ナチスによる,国防軍からユダヤ人の追放を承認し,忠誠宣誓の対称を総統・軍最高指揮官のアドルフ・ヒトラーに対して行うように改変。1936年,陸軍元帥に昇進。
このようなヒトラー追従にもかかわらず,1937年11月,ヒトラーが,オーストリア,チェコスロバキアへの侵攻準備を命じると,軍の準備不足,英仏の介入を危惧して,ヒトラーの戦争方針に難色を示した。
1938年,陸軍総司令官フリッチュとほぼ時期を同じくして,ヒトラーにより軍から追放された。こうして、国防省が解体され、陸軍総司令官の権威が弱体化させることによって、ヒトラーは、国防軍を完全に掌握できるようになった。軍幹部の将軍たちの顔色を伺いながら、戦争の準備をするのではなく、自らの戦争準備を遂行するように命令を下せるようになった。
Scherl: Auf dem Foto: Blomberg in der Uniform eine Generaloberst ADN-ZB/Archiv Werner von Blomberg, Generalfeldmarschall geb.:2.9.1878 gest.:14.3.1946, seit 1935 Reichskriegsminister und Oberbefehlshaber der faschistischen deutschen Wehrmacht, 1938 von Hitler entlassen. Auf dem Foto: von Blomberg in der Uniform eines Generaloberst,Dezember 1934. Aufnahme: Presse Illustration Hoffmann Dating: Dezember 1934 Photographer: Hoffmann, Heinrich Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
NARA( National Archives and Records Administration): 208-N-39843./Bild_183-W0402-504引用。


ナチス政権樹立後,ヒトラーはドイツ国民から圧倒的支持を得た----,こういわれていますが,本当でしょうか。実は,国防軍内部でも,ヒトラーと彼の戦争指導に対する不満が高まっていたのです。

ヒトラーは,1938年に国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク大将を、スキャンダル事件をフレームアップして追い出し,国防省を解体してしまいます。そして,国防軍最高司令部(OKW:Oberkommando der Wehrmacht)を設けて,伝統的に軍を支配していた参謀本部の勢力を低下させました。

◆ヒトラーは,軍の統帥権を一手に把握し,誰も介入することをできなくしたのです。。ヒトラーは,自分以外,軍高官の承認を得ることなく,作戦から軍備まで,決定できるようになったことで、戦争を始めることが可能となりました。

1938年,陸軍総司令官フリッチュ、国防大臣ブロンベルク、これに続く陸軍参謀総長ベック上級大将の追放によって、ヒトラーは国防軍最高幹部の勢力を抑制し、自らの最高司令官としての権威を高めます。国防省が解体され、陸軍総司令官の地位がヒトラー次第になったことで、国防軍の最高指揮権、統帥権は、ヒトラーが完全に掌握するようになったのです。ヒトラーは、国防軍最高幹部の将軍たちの顔色を伺いながら、戦争の準備をするのではなく、自らの戦争準備を遂行するように命令を下せるようになりました。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,機械化部隊の整備,新型火砲の配備,地上攻撃用航空部隊の編成を行って軍を近代化します。それを背景にして,ラインラント進駐,オーストリア併合,ズテーテンラント(Sudetenland)割譲と領土要求を次々と呑ませてゆきます。ドイツは,近隣のオーストリア,チェコスロバキア,ベルギー,オランダと比較して,強力な軍備を整えたのです。

チェコスロバキアは,多民族国家で,民族ドイツ人300万名が居住していました。ヒトラーは,民族ドイツ人の多いズデーテンラントSudetenlandは,ドイツ領に編入されるべきことを主張します。

ドイツは,チェコスロバキアのズテーテンラントをドイツに割譲するように強硬に要求します。チェコスロバキアは不当な領土割譲要求を拒否,ドイツの恫喝に屈せず,1938年9月23日,動員令で応えました。そこで,チェコスロバキアとの同盟関係にあったフランス(1924年),ソ連(1935年)でした。1938年9月24日,チェコスロバキアの同盟国たフランスのダラディエ首相は,チェコスロバキア支援のために,動員令を発します。こうして,1938年9月,第二次世界大戦勃発の危機にヨーロッパ中が慄(おのの)いたのです。

しかし,ドイツは,ズデーテンラントを即時引き渡すことを強行に主張し,9月28日までにチェコスロバキア軍をズテーテンラントから撤退させることを要求します。これは,ドイツからチェコスロバキアへの最後通牒となります。

写真(右)1938年9月,ミュンヘン会談に空路やってきた大英帝国アーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)首相を出迎えるドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統の「歴史的瞬間」:左の突撃隊の服装がヒトラー首相。
ミュンヘン空港Oberwiesenfeldで,最前列左から,ナチ党管区指導者(Gauleiter)アドルフ・ワグナー、警察局長クルト・ダリューゲ,リッター・フォン・エップ、ヒトラー総統,英首相チェンバレン、右端が英国大使を務めたこともあるドイツ帝国リンベントロップ外相。
チェンバレンは,下院議員,厚生大臣,大蔵大臣など要職を経て,1937年,保守党首となり,英首相に就任。
Scherl: Historische Stunden in München. Landung des englischen Premierminsters Chamberlain auf dem Münchener Flugplatz Oberwiesenfeld. Von links nach rechts: Gauleiter Adolf Wagner, Polizeigeneral Daluege, Reichsstatthalter Ritter von Epp, weiter rechts Premierminster Chamberlain, Reichsaussenminister von Ribbentrop. 12861-38, 29.9.38 II.Text ADN-ZB/Archiv Im faschisitischen Deutschland 1933-45 Münchener Abkommen , September 1938 Nach der Landung des englischen Premierministers Neville Chamberlain auf dem Münchner Flughafen Oberwiesenfeld am 29.9. 1.R.V.l. Gauleiter Adolf Wagner, General der Polizei Kurt Daluege, Reichsstatthalter Ritter von Epp, Chamberlain und der deutsche Außenminister von Ribbentrop. 12861-38 Datierung: 29. September 1938 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-H12947引用(他引用不許可)。


当時の英国首相は,ネヴィル・チェンバレン(1869年3月-1940年11月)です。チェンバレンは,戦争回避を望む世論を重んじ,同時に,軍事力を強化するドイツを,ソ連ボリシェビキに対抗させようとします。実際には,チェンバレンの下で,英空軍の四発中爆撃機が開発,量産準備中だったのですが,イギリスは,軍事力強化の時間稼ぎが必要でした。そこで,イギリスは,対ドイツ宥和政策を採用してでも,戦争を回避あるいは先延ばしにしようとしました。

写真(右),1938年9月,ミュンヘン空港,フランス共和国エトワール・ダラディ(Edouard Daladier)首相による親衛隊SS儀仗兵の閲兵:左端にいるドイツ帝国リンゲントロップ外相が出迎えた。左中央の黒服は,警察署長 [カール・フリードリヒ・フォンエバスタイン男爵。
黒服は,ドイツ国防軍の将兵ではなく,親衛隊SSのもの(ただし戦車兵は黒服)。外交官など官僚も親衛隊に形式上,入隊する場合が多かった。リンベントロップもナチ党員かつ親衛隊将官だった。
Münchener Konferenz vom 29. September 1938: Der französische Ministerpräsidet [Edouard] Daladier schreitet vor seinem Abflug vom Flughafen Oberwiesenthal die Front der Ehrenkompanie der SS-Standarte "Deutschland" ab. Ganz links Reichsaussenminister [Joachim] v. Ribbentrop, Mitte der Polizeipräsident von München, Frhr. [Friedrich Karl] v. Eberstein. 30.9.38 [Scherl Bilderdienst] Datierung: 30. September 1938 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-H12974引用(他引用不許可)。


ヒトラーは,民主主義国は,安楽な生活を望む国民世論を重んじるために,堕落しており,世界戦争を戦う意思はなく,戦争に突入できないと楽観していました。ミュンヘン会談では,ヒトラーは軍事力を背景に強気に交渉し,戦争勃発で威嚇すれば,要求を貫徹できると考えたのです。万が一,チェコスロバキアとの戦争に入っても,英仏は戦争を仕掛けてこれないと見下していたのです。

写真(右),1938年9月,ミュンヘン空港から市内に向かうフランス共和国エトワール・ダラディ(Edouard Daladier)首相とドイツ帝国外務大臣ヨアヒム・リンベントロップ:ミュンヘン会談において,フランスは,イギリスに追随したと二次的な印象しか残さなかった。しかし,西部戦線が開かれれば,ドイツの主な脅威は,フランス陸軍と海軍だった。ドイツの同盟国イタリアも,地中海を「われらの海」と読んだが,ツーロン港,タンジール港のフランス艦隊,アレクサンドリア港,ジブラルタル港,マルタ島バレッタ港の英海軍地中海艦隊に対峙しなければならなかった。
Title: Münchener Abkommen, Ankunft von Daladier Description: HIstorische Stunden in München, Bildtelegramm aus München von der Fahrt des französischen Ministerpräsidenten Daladier mit Reichsaussenminister v. Ribbentrop vom Flughafen Oberwiesenfeld nach München. 29.9.39 [Scherl BIlderdienst] ADN-ZB/Archiv Unterzeichnung des Münchener Abkommens am 29. September 1938 Der französische Ministerpräsident Daladier (l.) und der deutsche Außenminister von Ribbentrop während der Fahrt vom Flughafen Oberwiesefeld nach München.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-H12948引用(他引用不許可)。


1938年9月29日から30日に開催された,ミュンヘン会談において,英仏は,戦争回避を優先し,それを見越したヒトラーは,ドイツ民族の再統合のためであれば,戦争を辞さない覚悟を表明し,会談をリードします。

写真(右),1938年9月,ミュンヘン,イタリア統領(ドゥーチェ)ベニト・ムッソレーニをミュンヘン会談の会場となるカール皇太子宮殿に送迎するドイツ副総統ルドルフ・ヘス(後部座席右):ミュンヘンから画像が配信された。最初の会議へ移動するムッソリーニ(後左)。
Scherl: Bildtelegramm aus München. Der Duce begibt sich nach der ersten Besprechung begleitet von Rudolf Hess nach dem Prinz Karl-Palast, wo er Wohnung genommen hat, zurück. 29.9.1938 Datierung: 29. September 1938 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-H12954引用(他引用不許可)。


英仏独伊は,チェコスロバキアを弱小国として会談に参加させず,チェコスロバキアのズテーテンラント割譲を話し合っています。そして,1938年9月29日,ミュンヘン協定が署名され,ドイツ系住民(民族ドイツ人:Volksdeutsche)が住んでいるズテーテンラント割譲をチェコスロバキアに要求することになりました。

英仏は,ミュンヘン会談で宥和政策を採用し,チェコスロバキアにズテーテンラントの割譲を認めさせました。ズテーテンラントは,ドイツに併合されることになりました。


写真(右)1938年9月30日,ミュンヘン,オープンカー車中の同盟国イタリア統領ベニート・ムッソリーニとアドルフ・ヒトラー;ミュンヘン協定を締結させて得意満面のヒトラーと,ヒトラーに最大級の恩を売ったムッソリーニの笑顔。ムッソリーニは,英仏からズテーテンラント譲渡させるのみ協力した。ミュンヘン会談は,チェコスロバキアのズテーテンラントをめぐる世界大戦再発の危機を防ごうとした和平会談として,ヨーロッパ市民に理解されていた。
この会談がミュンヘン協定が成立,ムッソリーニがドイツの味方を演じてくれたことに,ミュンヘン市民は歓呼で応えている。後に,ズテーテンラントを無血占領したヒトラー総統,それを支持したムッソリーニ統領は,ドイツ復興の英雄として大歓迎を受ける。
Münchener Abkommen.- Ankunft Benito Mussolini am 29.9.1938, Benito Mussolini und Adolf Hitler im Auto. Datierung: 28. September 1938 Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1969-065-24引用(他引用不許可)。


ミュンヘン協定では,チェコスロバキアの国家主権・領土保全を保障した一方で,ドイツへのズデーテンラント割譲を認めさせました。これが,ミュンヘン会談が,英仏のドイツへの譲歩,すなわち対独融和政策の頂点だったといわれるゆえんです。

写真(右)1938年9月,チェコスロバキア,ズテーテンランド併合に伴い国境標識を引き倒す民族ドイツ人(ズテーテン・ドイツ人):第二次大戦前年,ミュンヘン協定で,英仏合意の上で,チェコスロバキアの四分の一をドイツに併合することになった。ドイツ系民族(民族ドイツ人)が居住しており,彼らがチェコ人に迫害されている,というのがその理由である。
Nach der Unterzeichnung des Münchener Abkommens am 29.9.1938 durch Hitler, Daladier, Chamberlain und Mussolini okkupierte das faschistische Deutschland bedeutende Grenzgebiete der tschechoslowakischen Republik. UBz: wie Henlein-Faschisten (Angehörige der Nazipartei im Sudetenland) die Grenzpfähle an der deutsch-tschechoslowakischen Grenze in Erwartung des deutschen Einmarsches beseitigen. Archive title: Besetzung des Sudetenlands.- Entfernen eines tschechoslowakischen Grenzpfahls; ca. Ende September / Anfang Oktober 1938 Dating: 1938 September - Oktober
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1938年10月,チェコスロバキアのズデーテン地方は,ドイツに割譲され,ヒトラー総統の権威はいっそう高まりました。1938年10月1日 ドイツがズデーテンラントをドイツに併合しました。

しかし,ヒトラーは,ズテーテン併合には飽き足らず,ミュンヘン協定を無視して,残された地域をも侵食していきます。
1939年3月15日,チェコスロバキア共和国から,スロバキアだけを独立させ、チェコ(ボヘミア・モラビア)をドイツ保護領に,組み入れてしまいました。こうして,ミュンヘン会談から半年で,チェコスロバキアは,ナチスドイツによって,解体されてしまったのです。

写真(右)1939年2月,オーストリア,キッツビュール・スキー選手権大会,内務大臣(MdR, Reichsinnenminister)ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)博士(右2人目コート,手袋)とチロル=フォアールベルク(Tirol-Vorarlberg)のナチ党管区指導者フランツ・ホーファー(Franz Hofer) (左から前列2人目の制服):1939年スキー大会の名誉のゲストとしてナチ党管区指導者(Gauleiter:ガウライター)のホーファー(知事相当の役職)、フリックなどナチ党幹部が観戦した。
Skimeisterschaften Kitzbühel 1939 Ehrengäste ... Gauleiter Hofer, Frick Archivtitel: Ehrengäste u.a. Dr. Wilhelm Frick (mit Schlägerkappe), Franz Hofer (3.v.l.) , Gauleiter der NSDAP im Gau Tirol- Vorarlberg und Reichsstatthalter für Tirol- Vorarlberg Datierung: Februar 1939 Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_121-0063引用(他引用不許可)。


突撃隊粛清後,ヒトラーに対抗できたのはドイツ国防軍だけでしたが,反ヒトラー派の将軍たちを軍から追放して,ヒトラーは,国防軍を自ら操ることができるようになります。

ミュンヘン会談でのヒトラーの外交的勝利,ヒトラーに対抗できた国防軍のブロンベルク元帥,ベック上級大将の追放によって,ドイツ第三帝国の政治的・軍事的指導者は唯一,アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)だけになったのです。

1939年8月,ヒトラーは,ミュンヘン会談ではもはや領土要求はしないといっていたのですが,それを反故にして,ポーランドのシレジエン,東プロシアへのポーランド回廊の割譲を要求します。そして,それが拒否されると,ドイツの放送局がポーランド人に襲撃されたと親衛隊を使って自作自演事件を起こし,これを口実に,9月1日,ドイツ軍をポーランドに侵攻させました。

英仏はポーランドと同盟を結んでいましたから,1939年9月3日,ドイツに宣戦布告し,第二次世界大戦が勃発します。

ドイツが戦争を続けるのは,ヒトラーが,次のような歪んだ世界観を持っていたからです。

?ドイツ人を人種汚染し,背ドイツに戦争を仕掛けてくるユダヤ人は排除しなければならないという人種民族差別をもっていた,
?ヨーロッパ大陸を包含し,ドイツの完全に自給できる範囲の領土を生存圏として確保し,そこにドイツ人が支配者として君臨する,住民は労働者,農民として服従させる,
?広大な生存圏を支配するドイツ人が堕落しないように,10年に一度は戦争をして英気を養い,武威を新たに,軍備を固める,
このような妄想的な世界観を根底に,ヒトラーは,戦争を始めます。したがって,戦争に終止符を打つためには,ヒトラーを排除するしか方法はありませんでした。


一方で,ヒトラーは,彼に忠誠を尽くす親衛隊,国防軍将兵に囲まれています。ですから,ヒトラーを逮捕することも,無理でした。
国防軍は,ヒトラーを排除して,合法的な権威の継承を望んでいましたが,このような手段は容易に計画,実行できるはずがありません。実際,1943年のヒトラー搭乗機爆破計画,自爆攻撃,1944年のワルキューレ作戦は,みな失敗します。

ドイツ人指物師エルザーが,ヒトラーを暗殺しようと無法なテロを決意したのは,これ以外,彼個人にはヒトラーを排除する手段がなかったからです。

ヒトラー暗殺以外,ヒトラーの戦争をとめることはできない,これは,1943年,1944年になって,国防軍の反ヒトラー派将校たちが到達した結論でした。この単純しかし重大な結論に,ドイツ人労働者エルザーは,1938年のミュンヘン会談後に気づきました。



7.1939年11月8日のビュルガーブロイケラー爆破事件

1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻のがはじまり,3日には,英仏がドイツに宣戦布告します。これが,第二次世界大戦で,エルザーが考えたように,英仏のミュンヘン会談での譲歩,対独宥和は,ヒトラーをますます強気にさせ,戦争への道を敷くことになったのです。ポーランド侵攻のとき,親衛隊の保安警察特務部隊(のちのEinsatzgruppen)が投入され,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害しました。ポーランドの主だった都市(ワルシャワ,ウッジなど)に、ユダヤ人居住区ゲットーを設けて、ユダヤ人を狭い空間に押し込めました。

写真(右):1923年,ミュンヘン一揆の始まったビヤホール「ビュルガーブロイケラー」
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-1978-004-12A引用(他引用不許可)。


1939年11月8日,ヒトラーが,ミュンヘンのビヤホール「ビュルガーブロイケラー」で開かれた1923年ミュンヘン一揆の記念演説を切り上げた15分後,大爆発が起こりました。

ヒトラーは,演説を早く切り上げて助かったことを知ると,これは自分に偉大なことを成し遂げさせる神の摂理が働いたのだと,妄信します。

犯人は,家具・時計職人のヨハン・ゲオルク・エルザーでした。彼は一人で,1939年8月から11月まで,30回以上,ビュルガーブロイケラー(Bürgerbräukeller)に密かに物置部屋に隠れて潜み,夜に懐中電灯を手掛かりに,柱にノミで時限爆弾を仕掛ける細工をしました。

ヨハン・ゲオルク・エルザーは,1903年,ドイツ南西部東ヴュルテンベルクWürttemberg)のヘルマリンゲン村に材木商の長男として誕生しました。1917年に中等学校を終えると,父の仕事の手伝いをしてから,地元の鋳物工場で徒弟となり,ついで指物師の徒弟となりました。技術学校を主席で卒業後,22歳で指物師の資格を取得し,家具・時計職人として雇われます。

労働者,職人の生活を擁護することを重視したのか,投票ではテールマンの指導するドイツ共産党に入れていました。エルザーは,イデオロギーや政治学への関心が低く,技能を重んじる職人として,生活をしています。

1938年5月,故郷でナチ党の行進を見たとき,ヨハン・ゲオルク・エルザーも見物に出かけましたが,見物人がヒトラー敬礼Hitlergruß,当時はドイツ式敬礼:Deutscher Gruß)をしたとき,それを拒否しています。同僚が従ったほうがよいと言いと忠告すると「くそ食らえ」と答えます。そして,これ見よがしに向きを変え,口笛を 吹き始めました。臨時雇いの身で,独身だった彼は,ナチ党の恩恵を受けているとはとても思えなかったのでしょう。

ナチスは,執拗なプロパガンダと統制,威嚇を用いて,世論の支持と反対派の弾圧をしていました。ドイツ国民は,ナチスの行進を見物し,ナチ党のポスターを見て,ナチ党の検閲する新聞を読んで,ゲッペルス啓蒙宣伝大臣のラジオ放送を聴かされていました。ナチスのプロパガンダに取り込まれて行きました。

しかし,ナチスの,プロパガンダの真意は,国民をヒトラーとナチ党に服従させること,ドイツの生存圏(Lebensraum)として領土を拡張すること,ドイツ人を人種汚染し戦争を仕掛けてくるユダヤ人・ボリシェビキを排除すること,ナチスに反対するものは弾圧し排除すること,であると理解していました。個人の自由はなく,豊かな生活・休暇・旅行は,ヒトラーとナチ党に奉仕した「ご褒美」でしかなかったのです。

現在では,ナチスの本性が理解されていますが,当時のドイツでは,思想・文化・情報が統制されており,ナチスの本性を理解するのは,容易ではありませんでした。本性を理解しつつあったドイツ国民も,世界大戦が起こってしまったために,祖国のために,兵士となり,労働者となるしかありません。総力戦が開始された以上,動員に従わなくてはならず,これはヒトラーを指導者として,服従することを意味していました。

しかし,ヨハン・ゲオルク・エルザーは,ヒトラーの本性,ナチスの真意を見抜いていたようです。たった一人でヒトラーとナチスに立ち向かう手段,最後の手段としての,ヒトラー暗殺が浮かんできます。

写真(右):1939年11月8日 21:20,エルザーの仕掛けた時限爆弾で破壊されたミュンヘンのビヤホール「ビュルガーブロイケラー」:ヒトラーが演説を切り上げて退出した15分後に,大爆発が起こった。8人が死亡し、60人以上が瓦礫の下で負傷した。死者には、ナチ党員だけでなく、ビヤホールの従業員もいた。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-E12329引用(他引用不許可)。


1938年に,ミュンヘン会談でズテーテンラントのドイツへの割譲を英仏が認めると, エルザー(Johann Georg Elser)は,戦争が回避されたと喜ぶ周囲とは反対に,ヒトラーの侵略の意思,膨張主義が,英仏との戦争を辞さないほど,強硬なものであると悟り,ヒトラーが生きている限り,戦争突入は不可避であると考えました。

ゲオルク・エルザーJohann Georg Elserは,ヒトラーの戦争と侵略の野心を憎悪し,1938年のミュンヘン会談後に,ヒトラーの排除,暗殺を決心したようです。1938年11月,爆破1年前,ミュンヘン一揆(ビヤホール・プッチ)の記念式典を偵察するために,ミュンヘンのビヤホール「ビュルガーブロイケラー」(Bürgerbräukeller)に客として出向きます。こうして,エルザーは常連客となって,ビヤホールに入りびたり,夜間にひそか物置に隠れて残って,客がみな帰宅した後,ホールの梁に時限爆弾を仕掛ける作業を少しずつ続けたのです。時限爆弾も1年以内に自分で製造,準備することを決意したのです。

1939年11月5日深夜,ヨハン・ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser)は翌朝6時までかかってビュルガーブロイケラーの柱の穴に時限爆弾を仕掛けます。用心深いエルザーは,翌7日,時限爆弾の作動を確かめるためにビュルガーブロイケラーに再び身を潜めます。そして,11月8日朝,そこを後にしてスイスに逃亡しようと列車に乗り込みました。

ヨハン・ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser)は,密出国しようとして,11月8日21時過ぎ,爆発時刻と同じころ,ドイツの国境警備隊に逮捕されてしまいます。戦争開始前に国境を視察したときは,警備は手薄だったのですが,9月1日に戦争が勃発すると,警備は強化されていたのですが,エルザーはそれに気づきませんでした。

エルザーは逮捕された当初,ビュルガーブロイケラーでのヒトラー爆殺未遂事件との関係は,疑われませんでした。けれども,時限爆弾の設計図や仕掛けた場所の図面が発見され,犯人と断定されます。エルザーも,そのご,自分の犯行であると自白します。

1939年11月14日ごろ,親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler )は,ビュルガーブロイケラー爆破犯人の調書,写真を,ヒトラーに持参しました。ヒトラーは,エルザーの容貌に関心を示しましたが,彼が一人で大それた爆発を準備できるわけがない,背後に英国秘密諜報機関がかかわっているはずだとして,エルザーの取調べ続行を命じます。ナチ党は,労働者階級を取り込もうと勤めていましたから,エルザーのような堅実な家具職人が一人でヒトラー暗殺の陰謀を企てるとは,考えたくなかったのでしょう。

ベルリンのゲシュタポ(Gestapo)本部で行われたエルザーの取調べには,親衛隊国家長官ヒムラー(Heinrich Himmler )自らがあたったこともありました。

1939年11月9日,ミュンヘンの爆破事件の翌日,ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)の親衛隊保安本部SDは,オランダ(当時,中立国)にいたイギリス人諜報員リチャード・スティーブス(Richard Stevens),シギスマンド・ベスト(Sigismund Payne Best)の2人を誘拐する作戦を実行に移します。彼ら2人は,英国諜報機関MI6から指令を受けていた対ドイツ諜報員で,親衛隊保安本部のシェエレンベルクは,2人に,反ヒトラー派の高官と交渉させるからと,国境のフェンローにおびき寄せます。翌10日,保安諜報部の武装隊員たちが,英国諜報部の2人を急襲,銃撃戦の末,車に押し込め,ドイツ側に連れ去りました。これは,エルザー(Georg Elser)と英国諜報部のつながりを解明するものと,期待されたのです。

写真(右):1939年11月,ミュンヘン,ビュルガーブロイケラー(Biirgerbraukeller)爆破事件の調査と善後策を話し合う親衛隊SS最高幹部:親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(中央奥)を中心に,ミュンヘンでのヒトラー警護の問題点を,警察最高責任者ラインハルト・ハイドリヒSS中将(右奥)と彼の刑事警察局長アルトゥール・ネーベ(Arthur Nebe)SS准将(左奥),フランツ・ヨーゼフ・フーバー(Franz Josef Huber)SS中佐(左手前),ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラー(Heinrich Müller)SS准将(右手前)と話し合った。
Der Reichsführer SS Heinrich Himmler bespricht [in München] mit dem Chef der Sicherheitspolizei Reinhard Heydrich und dessen Mitarbeitern des bisherige Ermittlungsergebnis über den Bombenanschlag im Bürgerbräukeller in München am 8.11.1939 und legt die Grundlinien für die weitere Bearbeitung fest. UBz: v.l.n.r.: SS-Obersturmbannführer [Franz-Josef] Huber, SS-Oberführer [Arthur] Nebe, Reichsführer-SS Heinrich Himmler, SS-Gruppenführer Reinhard Heydrich und SS-Oberführer [Heinrich] Müller 27.11.1939 [Herausgabedatum] Dating: November 1939 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-R98680引用(他引用不許可)。


第二次大戦初期,英仏との戦いをひかえていたドイツは,1939年の冬から,イギリスの不誠実さを非難し,共産主義者,亡命者,そして英国諜報機関が,エルザーによる爆破事件の黒幕であると公表しました。(実際は,エルザーの単独犯行です。)

ビュルガーブロイケラー爆破事件は,すべてのドイツの新聞で,第一面に掲載することを命じられ,「総統奇跡の脱出−チェンバレンの悲願は叶わず」として,英国が策謀した国家元首の暗殺事件とされました。これは,イギリス人に対する憎悪をかきたて,戦意を高めるのが目的です。

ヒトラーが助かったことで,ドイツの新聞は,「神の摂理に感謝する」との記事を掲載し,ヒトラー総統が爆破事件から生き延びたのは,神の摂理の証であると褒め称えます。各国の国家元首も,ヒトラーに祝意を表明しました。

法王ピウス12世(Pius PP. XII)は,総統が生き延びたことを祝福する電報を送りました。枢機卿ファウルハーバー(Michael von Faulhaber)は,ヒトラーの無事を神に感謝する祈祷を執り行いました。プロテスタント教会も,感謝祈祷をささげました。

1939年11月11日,ヒトラーはミュンヘンで行われた爆破事件犠牲者の葬儀に出席し,追悼の意を表しています。爆破に生き残ったヒトラーは,自らを神に選ばれたドイツの救世主であると,本気で信じるようになります。

写真(右):1940年6月22日,コンピエーニュ林で行われたフランス降伏調印式に参加したドイツ帝国ヒトラー総統,空軍総司令官ゲーリング元帥(後ろ向き):並ぶのは,海軍総司令官エーリヒレーダー提督、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣、ルドルフ・ヘス副総統、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラー。
第一次大戦のドイツ降伏調印式を行った鉄道車両をフランスから接収して,ここでフランスに屈辱的な降伏調印式をさせた。
ヒトラーは,半年前の爆破事件で命拾いし,フランスに大勝利したことは,まさに神の摂理,自分の果たすべき運命であったと妄信したはずだ。ヒトラー対仏勝利に幻惑された日本も,1940年9月,日独伊三国軍事同盟に調印。
Frankreich, Compiégne.- Deutsche und französische Verhandlungsdelegation beim Eintreffen im Wald von Compiégne; Adolf Hitler, Hermann Göring, Erich Raeder, Joachim v. Ribbentrop, Rudolf Heß, Heinrich Himmler sowie Offiziere der Waffen-SS bei der Ankunft am Verhandlungsort. Datierung: 22. Juni 1940 Fotograf: Pleißer Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヨハン・ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser)は,1941年,ザクセンハウゼン強制収容所(KZ Sachsenhausen)に移送され,特別待遇で拘束されます。待遇がよかったために,他の囚人からは,ヒトラーが暗殺から生き残ったという奇跡の演出,自作自演を仕組んだのではないかと疑われるほどでした。

戦争末期,1945年2月,エルザー(Johann Georg Elser)は,ザクセンハウゼンからダッハウ強制収容所Dachau Concentration Camp)に移送されます。そして,解放直前の4月9日23時,「国家最上層部」の命令を受けたゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーの指示によって,エルザー(Georg Elser)は,後頭部を撃たれ殺されました。エルザーは,5年半,収監された後,ダッハウ強制収容所で、親衛隊SS軍曹テオドール・ハインリッヒによって後頭部を撃たれて処刑されました。

写真(右)1941年12月11日,ベルリン,クロル・オペラのドイツ国会、アメリカ合衆国に宣戦布告演説をするドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統:後上方には,国会議長ヘルマン・ゲーリング。国会は審議機能を停止し,ヒトラーの施政方針演説の場に過ぎなくなっていた。ポーランドとの戦争,ソビエト連邦との戦争を始めたとき,宣戦布告などしなかったヒトラーだが,世界戦争を自ら開始し,ドイツ第三帝国を千年安泰にするための戦争,すなわち世界のユダヤ人=国際金融資本家=共産主義者(ボリシェビキ),に対する戦争は,最終戦争であり,自ら戦線を布告した。これは,ヒトラーの歪んだ世界観,人種民族差別が生んだ妄想だった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B06275A Original title: info Die welthistorische Sitzung des Grossdeutschen Reichstags am 11. Dezember 1941. Immer wieder muss der Führer dem ihn entgegen brandenden Jubel des ganzen Hauses danken. Archive title: Berlin, Kroll-Oper.- Adolf Hitler vor dem Reichstag.- Rede zur Kriegserklärung an die Vereinigten Staaten von Amerika Dating: 11. Dezember 1941 Photographer: Hoffmann Origin: Bundesarchiv Photographer: Hoffmann Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 183-B06275, Berlin, Reichstagssitzung, Rede Adolf Hitler.jpg引用。


ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser)の殺害命令は,ゲシュタポ長官に「国家最上層部」と言わしめた人物,すなわちヒトラーじきじきに下したものでした。

ヒトラーがエルザーを5年間以上も,処刑せずに拘束していた理由はなんでしょうか。

第一は,エルザー(Johann Georg Elser)による爆破の企てから生き残ったという神の摂理をヒトラーが信じていて,エルザーが生きていれば,自分も死なないと恩寵を確信していたことです。
しかし,1945年4月ともなると,ドイツの戦局は絶望的で,もはや形成挽回の望みは無くなってしまいます。そこで,エルザーも道連れにしたのです。

第二の理由は,エルザー(Georg Elser)を活かしておいて,イギリス人との取引に使うか,戦後の裁判で,英国諜報部の行った謀略を暴いて,その非道な企てを,世界に向かって訴えるための証人に使うことです。
しかし,戦争に勝てない以上,戦後裁判で英国の暴虐さを訴える機会は与えられないでしょうから,エルザーの証人としての価値はなくなります。

ヒトラーは,1945年初頭までは,「ラインの守り」(Die Wacht am Rhein)作戦の成功,東西陣営の分裂を期待しており,戦勝の契機を掴もうとします。しかし,1945年4月に入って,ベルリン目前に迫ったソ連赤軍に抗しきれない,ドイツの勝利は不可能になったと悟り,ダッハウ強制収容所にいたエルザーの処刑に指示したのです。


8.国民の全面的支持を得られたわけではない総力戦

ヒトラーは,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定を唱え,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張しました。ユダヤ人・スラブ人を下等人種・劣等民族として迫害したドイツ人だが,習俗・言語の違いこそ,人類の文明・文化を多様な豊かなものにします。敵性住民・下等劣等人種として,迫害しても,そこで生まれるのは,報復と,自分を貶める人間性の喪失だけでしょう。戦争は政治の延長だというクラウゼビッツの教えに,ヒトラーは政治的遺書で言及し,ユダヤ人に対する戦争を継続することを命じました。この遺言は,ヒトラーの死後,無視されましたが,その理由は,戦争の延長が大量破壊・大量殺戮である以上,戦争と政治はことなることに国民が気づいたからです。人種民族差別のもたらす惨禍に誰もが嫌悪感を抱いたからです。

写真(右)1942年3月-4月,ソビエト連邦,強制収容所に移送されるロシア・ユダヤ人:ソ連の民間人が、男性と女性に分けられて,貨物列車に乗せられようとしている。
Sowjetunion.- Evakuierung / Deporation [?] sowjetischer Zivilisten, Männer und Frauen beim Besteigen von Güterwagen auf einem Bahnhof; PK 689 Dating: 1942 März - April Photographer: Menzendorf Origin: Bundesarchiv
写真は, Wikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchivFile:Bundesarchiv Bild 101I-146-1542-10A, Russland-Mitte, Zivilisten vor Güterwagen.jpg引用。


総力戦では,軍人も民間人も動員され,戦争に協力し,その結果,軍民を区別しない大量破壊,大量殺戮が起こりました。それを食い止めようとヒトラー暗殺に命を懸けたドイツ人がいたわけです。

野蛮な戦争を犯罪であると認識し,行動することは,持続可能な平和の構築につながると思います。一人でヒトラーの戦争をやめさせようとした指物師ヨハン・ゲオルク・エルザーの行動は,爆破テロともいえ,その意味では犯罪的行為,殺人犯です。けれども,ヒトラーとナチ党が,突撃隊の暴力,強制収容所への拘束,ユダヤ人の虐殺,戦争による大量破壊・大量殺戮を続けたことをふまえると,それを食い止める手段が他にあったのでしょうか。幾十倍も大きい大量殺戮,暴力,迫害の前に,独裁者相手であっても暗殺は殺人であり刑罰対象だと騒ぎ立てることに違和感を伴うのも事実です。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、
プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものです。けれども,多数の国民の支持,資源,資金がない限り継続することはできません。決して,一握りの政治家たち,軍人たちが,政治を左右できるわけではないのです。祖国のため,国民のために,暴虐な敵から家族を守るために正義の戦争を戦う,このように敵と味方が主張しあうのが,総力戦です。大量破壊,大量殺戮も正義のため,戦争を終わらせるためだとして,正当化されてしまいました。

近現代の総力戦は,大量破壊・大量殺戮を伴う戦争です。それを煽動し,指導する人物に服従している限り,戦争を止めること,戦争を廃絶することはできません。総力戦では,世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、戦争と平和の主導権を握っているのですが,その事実が,敵への憎悪を煽り,報復を叫ぶプロパガンダによって隠蔽されてきたのです。

ここで,自分が一人では無力であると諦めるのは,ニヒリズムです。ここから国民が主導する平和は構築できません。
一人だけでできることは,戦争を扇動する要人を排除する「暗殺」だ,と考えれば,ゲオルク・エルザーのような選択になります。

しかし,国民が力を合わせて,大量破壊・大量殺戮に組しないで,国際関係を少しでも友好的なものに変えてゆくことができれば,それに越したことはないのです。そして,そのためには,戦争・平和の主導権を握っているのが,我々一人ひとりなのだという自覚と覚悟が大切です。戦争は避けられない必然的なものだ,昔から戦争は繰り返し戦われており,人類の歴史から戦争をなくすことはできない,このようなニヒリズムに基づく戦争必然説は排除しなくてはなりません。戦争必然説を説くプロパガンダを糾弾しなければなりません。


戦争・平和の主権者である我々一人ひとりが平和構築への目配りをして,プロパガンダに流されずに行動する,こんな単純なことを諦めないことが,大切なのではないでしょうか。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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