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フランス降伏・反共義勇兵:Vichy France 2008
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◆フランス・ヴィシー政権・反共義勇兵:Vichy France;Antisémitisme 写真(上)1941年11月,対ソ連戦の東部戦線中部に参加した親独派「反ボルシェビズム・フランス義勇軍」フランスの三色旗が掲げられているが,ドイツ軍と共に東部戦線でソ連軍と戦った親ドイツ派フランス人反共義勇兵部隊である。ドイツに敗れたフランスは,ファシズムに傾倒し,党利に走る議会主義,利己的な個人主事,享楽的な自主主義を拝した国民革命を標榜していた。
Sowjetunion-Mitte.- Soldaten der Légion des volontaires français contre le bolchévisme (LVF, 638. Infanterie-Regiment), Appell vor Generalfeldmarschall Hans Günther von Kluge; PK 689 Dating: November 1941 Photographer: Momber撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。/fon

◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
そこでは、フランス侵攻、レジスタンス弾圧、東方生存圏、ソ連侵攻バルバロッサ作戦も解説しました。
◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
◆2011年9月2日・9日(金)21時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。これらは、ZDF「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl」をもとにした番組です。

序.ナチスドイツによる人種民族差別

写真(右)1940年6月14日,凱旋門を行進してパリに無欠入城したドイツ軍歩兵部隊:パリのシャンゼリゼ通りの西端、エトワール広場(現在のシャルル・ド・ゴール広場)にあるエトワール凱旋門は,アウステルリッツ三帝会戦で勝利した記念碑として,1806年,ナポレオン・ボナパルトが建設させた。
エトワール凱旋門が完成したのは,1836年でルイ・フィリップの王政復古の時だった。凱旋門の寸法は,高さ49.5メートル,幅 45メートル,奥行 22メートル。写真に見える凱旋門の彫刻は,La Paix de 1815。
第一次大戦後には,エトワール凱旋門の下に、無名兵士の墓が設けられた。
フランス軍を敗北させたドイツ軍は,1940年6月14日,無防備都市となったパリに無欠入城し,エトワール凱旋門で凱旋式を挙行したが,これはフランス人にとって屈辱であると同時に,フランス降伏を予期させた。
Scherl: Vom Einmarsch deutscher Truppen in Paris. Vorbeimarsch der Truppen vor ihrer Generalität am Arc de Triomphe. PK - Aufnahme: Kriegsbereichter Gutjahr (Sch) 5329-40 am 14. Juni 40 Archive title: Frankreich, Paris.- Westfeldzug; PK 689 Dating: 14. Juni 1940 Photographer: Gutjahr撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ファシズムの軍備拡張、領土拡張につれて、既存の秩序・権益を主張する米英仏と対立が始まった。ヒトラー総統(Führer:フューラー)は,東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得することを1925年の『わが闘争』で公言し,ドイツを弱体化させるユダヤ人は,共産主義者,ペストのようなものであるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝,ユダヤ人への憎悪を煽動した。

反ユダヤ主義に基づいて,1933年4月,公職追放,5月,焚書,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々と出された。1938年4月,財産の登録義務を課し、登録料を徴収。11月,ユダヤ人商店破壊(クリスタルナハトKristallnacht)。

人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的な区分,プロパガンダに基づいている。宗教と人種民族の境界も,曖昧であり,恣意的である。元来,厳格に区分することが不可能な「亜種」にすぎない人種・民族を、為政者は都合よく定義し,特定の人種民族を差別,迫害した。

親衛隊SS長官ヒムラー(警察長官)は,1933年から,下等劣等人種ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシーなどドイツの敵を拘束する強制収容所KL(Konzentrationslager:ラーゲル)を,オラニエンブルク,ダッハウに設置した。

1938年4月,ユダヤ人の財産の登録義務を課し、登録証を徴収。1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が増設。1938年6月15日,ユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。

写真(右):1940年夏,ドイツ軍のIV号戦車;短砲身24口径7.5センチ砲を装備したドイツの最新式戦車だったが,対戦車戦闘能力は低かった。
Frankreich.- Feldwebel der Panzertruppe mit EK vor Panzer IV (kurz) stehend; PK 696 Dating: 1940 Sommer Photographer: Mees 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年9月1日,ドイツで,ダビデの星Star of Davidをつけることについての警察条令が発令:満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。
ユダヤの星Juden Sternは手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左に縫い付けること。


しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示したものも少なくなかった。また,ユダヤ人も「誇りを持って,ユダヤの星をつけよう」"Wear It With Pride, The Yellow Badge" と訴えた。

そこで,ユダヤの星 yellow badge着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示したものに対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。

1941年11月4日,ドイツ帝国財務省令:国民経済に重要な企業で就労していないユダヤ人は,数ヶ月以内に,東方に追放する。追放されるユダヤ人の財産は,ドイツ帝国のために没収する。

1942年1月23日ヒトラー卓上談話 Hitler's Table Talk:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。

------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。


ドイツは占領後,ポーランドに、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何万人ものユダヤ人を狭い空間に押し込めた。ドイツ本国のユダヤ人も追放された。1940年に降伏させたフランス領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討された。

ユダヤ人迫害の理由は,ヨーロッパ・ユダヤ人が,ドイツに敵対する下等劣等人種Untermenschであり,アーリア人の人種汚染Introgression,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与すると考えたためである。

写真(右)1940年5月,フランス,破壊された町並みと乗用車
Westfeldzug, Frankreich, Calais.- zerstörtes Kraftfahrzeug vor zerstörten Gebäuden; KBK Lw 4 Dating: Mai 1940 Photographer: Böcker撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人追放が,軽い差別であるように思うのは誤りである。追放に際して,持ち出せた資産は僅かだった。不動産 (Real Estate),家具などのほかに,仕事も,学籍も失った。たしかにユダヤ人追放というのは,後のユダヤ人絶滅と比較すれば,軽い。しかし,現在の視点から見れば,とてつもない迫害である。

ユダヤ人のゲットーへの追放は,失職・失業Unemploymentし,学校から締め出され,自分の住む家から追い出されることであり,これだけで十分な迫害である。

写真(右)1940年5月,西部戦線でフランスを砲撃するドイツ軍15センチ榴弾砲15cm sFH 18:1934年制式,口径149.1ミリ,重量5.4トン,30口径,砲弾重量 43.5キロ,初速 520メートル/秒,射程 13325メートル,発射速度 4発/分,全長 4.4メートル,全幅 2.3 メートル,全高 1.7メートル。生産数5,403門。砲身はラインメタル社,開脚式砲架はクルップ社で生産。 (150mm sFH 18 L/30引用)

Westfeldzug, Frankreich.- Soldaten beim Laden einer Kanone; PK 670 Dating: Mai 1940 Photographer: Bauer撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。



2.ドイツ軍フランス侵攻−西方戦役「ゲルブ」作戦(Fall Gelb)  

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。

1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチルWinston Churchillが英首相に就任した。

写真(右)1940年5月14日,フランス侵攻時,マース川を渡河するドイツ国防軍兵士:ゴム製の上陸用舟艇を櫂でこぐ歩兵部隊。12名の小隊レベルらしい。ヘルメットには偽装用の木の枝がさしてある。日本陸軍は中国での戦いから,「大型発動機艇」(大発)など船舶機材を整備し,船舶工兵を編成していた。しかし,大陸国ドイツでは,上陸専門の陸海軍部隊は未整備だった。そのために,英本土上陸作戦は,当初から実行するつもりはなかった。
Maas-Übergang bei Aiglemont. Übersetzen im Floss-Sack. Aufnahme am: 14.5.1940 Ort: bei Aiglemont, 3 km ostw. Charleville Land: Frankreich Dating: 14. Mai 1940 Photographer: Lohmeyer撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


西方戦役とも称されるドイツ軍のフランス侵攻は,「電撃戦」の典型であり,大国フランスを1ヶ月半で降伏させたという実績を誇った。第一次大戦では,フランスに敗北したドイツが,逆にフランスを降伏させたことで,電撃戦への注目がにわかに集まった。

また,ポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦が1年半経過して,ドイツの軍事力が再評価され,ナチス,ヒトラー総統の威信が最高潮に達することになった。

このナチスの興隆が,フランスにも議会制民主主義や個人主義を否定し,ファシズムを賛美する傾向を生み出した。フランスは,ヴィシー政権を発足させ,ナチスドイツと友好関係を結び,ヨーロッパ大陸をファシズム支配に委ねることになった。

写真(右)1940年5月,西部戦線でフランスに進撃するドイツ軍最新鋭戦車の?号戦車:当時の主力はII号戦車とチェコ製の38(t)戦車など軽戦車だった。
Frankreich.- Panzer IV in Ortschaft; PK 670 Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Eckert, Erhardt 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ陸軍参謀本部が立案したフランス侵攻作戦「ゲルブ」(黄)計画は,第一次大戦のシュリーフェン計画と同様であった。

しかし,1940年1月10日,ドイツ空軍第二航空軍所属の連絡機Me-108タイフーンが,悪天候によって,ベルギーに不時着する事故が発生した。この連絡機には,ドイツ軍参謀が搭乗しており,その携帯していた参謀本部のゲルブ計画書(フランス侵攻作戦計画)が,ベルギー軍にわたってしまった。本来,このような機密書類を携帯して空路を飛ぶことは禁止されていたが,連戦連勝の中,機密保持についておろそかになっていた。

ベルギー軍が入手したドイツ軍のフランス侵攻作戦計画は,当然,英仏軍に手渡されたことは疑うべくもなかった。飛行機事故で,ドイツのフランス侵攻ゲルフ計画が連合軍に明らかになってしまったために,ドイツ軍は,侵攻変更を余儀なくされた。

写真(右)1940年5月,撃破されたフランス軍のルノーB1戦車:全長 6.4メートル,全幅 2.5メートル,全高 2.8メートル,重量 30トン,乗員4人。短砲身17口径75ミリ砲,30口径47ミリの2門を装備し,最大装甲40ミリ。
Westfeldzug, Frankreich.- Zerstörter französischer Panzer Renault Char B1 (Turmkennung "Bean") in Ortschaft; PK 689 Dating: Mai 1940 Photographer: Fremke, Heinz撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


元来,ヒトラーは旧態依然としたゲルブ作戦に不安を感じていたが,このゲルフ作戦漏洩を契機に,作戦方針を根本的に変更しようとした。これは,独仏ベルギー国境地帯のアルデンヌ森を装甲師団を使って突破するものであった。

ドイツ国防軍のA軍集団参謀長マンシュタイン将軍も,陸軍参謀本部のフランス侵攻計画に反対しており,独自に,主力がアルデンヌ森を通って奇襲する作戦を提出していた。ヒトラーは自分の戦略的直感が正しかったと考え,このマンシュタイン将軍の立案したフランス侵攻計画を採用した。

写真(右)1940年5-6月,フランス侵攻時,装甲車Sd.Kfz. 251/3のハインツ・グーデリアンHeinz Guderian将軍と第8装甲師団アドルフ・クツェンAdolf Kuntzen将軍: アドルフ・クツェン(1889-1964)は,1940年6月に騎士鉄十字章を授与され,1944年末に退役するまで,西部戦線にとどまった。
Frankreich.- General Heinz Guderian im mittlerem Funkpanzerwagen (mittlerer Schützenpanzer Sd.Kfz. 251/3) im Gespräch mit General Adolf Kuntzen, Kommandeur der 8. Panzerdivision; PK OKW Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Borchert, Erich (Eric) 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年5-6月,フランス侵攻時期のドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (SdKfz.251/3 Aust.A APC)と搭載されたエニグマ暗号機:3枚のローター式乱数表が確認できる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-769-0229-11A Archive title: Frankreich.- General Heinz Guderian in mittlerem Funkpanzerwagen (Sd.Kfz. 251/3), vorn Funker am Verschlüsselungsgerät "Enigma"; PK OKW Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Borchert, Erich [Eric] .
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録"File:Bundesarchiv Bild 101I-801-0664-36, Berlin, Unter den Linden, Schützenpanzer.jpg"引用。


エニグマ (Enigma)暗号機とは、第二次世界大戦でドイツが使用した3個のローター式乱数表を活用した換字式電気暗号機械で、1925年にはドイツ共和国軍の制式となった。3個のローターに26文字、それを三重に順次変換することで26の三乗、1万7,576文字に変換できる。ただし、元の文字は必ず他の文字に換字され、元の文字と同じにならない。

エニグマ (Enigma)暗号機が奪われた場合に備えて、ローターの文字は同じだが、暗号機に変更可能なプラグ配線を追加し、文字を一回さらに変更(単文字換字)できるようになっている。

1939年の大戦直前に、ポーランドは、エニグマ (Enigma)の原理を解いており、大戦直前の7月、同盟国のイギリス・フランスに、その原理を伝授している。また、1940年 2月、イギリスはドイツ潜水艦U-33からローターを鹵獲し、5月には、ドイツ空軍・海軍のエニグマ情報を解読できるようになった。1942年 1月、空軍の鍵システムであるFliegerkorps IXとFliegerkorps Xの解読に成功。また、1942年10月には、ドイツに派遣された日本海軍潜水艦伊30がドイツからエニグマ暗号機の譲渡を受けている。

イギリスは、エニグマ暗号機 (Enigma machine )の解読方法を戦後も秘匿したままにし、エニグマを活用したた各国の外交・軍事の暗号をそのまま解読していた。

ドイツ空軍は,アルベルト・ケッセリング将軍の第二航空軍,フーゴー・シュペルレ将軍の第三航空軍をあて,そこに双発爆撃機1120機,単発Ju-87急降下爆撃機シュツーカ342機,複葉Hs-123襲撃機42機,単発Me-109戦闘機1016機,双発Me-110戦闘機248機を配備した。

1940年5月10日0430早朝,ケルン郊外の航空基地をユンカースJu-52輸送機41機が離陸,輸送機は各々1機のDFS-230グライダーを曳航していた。グライダーには,1機当たり8-12人の降下猟兵(空挺隊員)が搭乗していた。このドイツ空軍の空挺部隊が,ベルギーのマース川の要衝マーストリヒト近くのエバン・エマール要塞に降下し,ベルギー兵士1200人の守備していた近代的な要塞を,その日のうちに攻略した。

写真(右)1940年5月,フランスに侵攻するドイツ軍騎兵軍
Westfeldzug, Frankreich.- Kavallerie am Ausgang eines Dorfes; PK 670 Dating: Mai 1940 Photographer: Schweizer撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


しかし,オランダでは,ドイツ軍がノルウェー攻略で投入した空挺部隊を警戒しており,航空基地の防備を固め,降下する部隊への障害物も備え付けていた。オランダを攻撃したクルト・シュトゥデントの第7空挺師団は,2個の輸送航空団を投入して,オランダの海岸部のハーグ,ロッテルダムを攻撃,オランダ軍の頑強な抵抗を受けながらも,架橋など要所を占領することができた。

オランダには,水路,運河が張り巡らされているために,渡河地点確保が重要課題だったのである。

ロッテルダムを攻撃したドイツの地上部隊は,B軍集団の第9装甲師団,第22歩兵師団である。

写真(右)1940年8-9月,フランス駐留の第51戦闘航空団(JG51)所属のメッサーシュミットMe109E戦闘機: 機首に7.92ミリMG17機銃 2丁,主翼に20ミリMGFF(エリコン)機銃2丁装備で,ダイムラー・ベンツDB601Aエンジン (1100馬力),最大速度570キロ, 航続距離 660キロ。1935年から1945年まで,総生産数3万3000機で,世界最多の戦闘機となった。
Frankreich.- Vier Jagdflugzeuge Messerschmidt Me 109 E des Jagdgeschwaders 51 "Mölders" (IV./JG 51) auf Feldflugplatz; PK 670 Dating: 1940 August - September Photographer: Eckert, Erhardt 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツの第六軍,フォン・クルーゲ大将の第四軍は,マーストリヒト,リエージュ,ナミュール方面から,ブリュッセルに侵攻,さらにダンケルクに向かった。



写真(右)1940年夏の英本土航空決戦のときの,フランス駐留ドイツ空軍ドルニエDo17爆撃機搭乗員:最終生産型Do17Zは,全長115.6メートル,全幅18メートル,翼面積 55平方メートル,.全備重量8600キロ,最高速度 410キロ,航続距離 1160キロ,ブラモ 323空冷エンジン1000馬力2基装備。武装は,7.92ミリ機銃7丁,爆弾1トン搭載。
Im Westen, Frankreich.- Luftschlacht um England, Do 17. Piloten und Besatzungen beim Kartenstudium. Dornier Do 17 im Hintergrund; KBK Lw.3 Dating: 1940 Sommer Photographer: Spieth 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年5月14日、ドイツの第54,第i57爆撃航空団ハインケルHe111爆撃機100機は,停戦交渉中だったにもかかわらず,ロッテルダムを爆撃した。当日,出撃した第54爆撃航空団のハインケル双発爆撃機に「交渉中のために爆撃延期」が打電されたが,ヘーネ中佐の部隊は,爆撃を中止できた編隊もあったが,ラックナー大佐の部隊は無電を傍受できず,爆撃を行った。

こうして,ドイツ空軍の双発爆撃機57機がロッテルダム中心街のマース川北岸にあったオランダ群防衛陣地を50キロ爆弾1150発,250キロ爆弾158発,合計97トンによって空襲した。

1940年5月14日2030,オランダ軍総司令官ウィンケルマン将軍は,ラジオ放送を通じて,オランダ軍に全面降伏を命じた。ドイツ軍は,空挺作戦などによって,投入したJu-52輸送機430機の三分の二が破壊損傷した。

写真(右)1940年にスピットファイアと戦ったメッサーシュミットBf109戦闘機E型の精巧な模型
SDASM Archives Messerschmitt, BF 109E, Emil Catalog #: 01_00085132 Title: Messerschmitt, BF 109E Emil Corporation Name: Messerschmitt Official Nickname: Emil Additional Information: Germany Designation: BF 109E Tags: Messerschmitt, BF 109E Emil Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,Catalog #: 01_00085132引用。


写真(右)1940年,北フランス,破壊された自動車の列が続く街道:撤退する兵士,戦火を逃れる難民が列を成して敗走し,ダンケルクに追い詰められたり,パリ方面に南下した。それを,ドイツ軍が砲撃,空襲したのであろうか。
フランスの自動車開発者としては,ルイ・ルノー(Louis Renault)が有名である。ルノーは,1898年に商会を設立,最初の自動車を製造。ルノー社は後発メーカーだったが,第一次大戦の軍需増大で,自動車,戦車,航空機エンジンなども発展した。1936年の従業員数は3万2600人という。1938年,ルイ・ルノーはヒトラーに会見している。1940年のフランス降伏後はドイツに協力。終戦後,対独協力の責任を追求されルイ・ルノーは逮捕された死亡。1945年1月にルノー社は国有化された。
Geräumte Vormarsch- Strasse Archive title: Nordfrankreich (ohne Ortsangaben) Allee mit zerschossenen Fahrzeugen am Strassenrand Dating: 1940
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年,北フランス,カレーで破壊されたイギリス陸軍ブレンキャリアー(機銃運搬軌道車)とオードナンスQF2ポンド砲 :英陸軍のブレンキャリアーは,ユニバーサル・キャリアとも呼ばれた。ブレン機銃を搭載した軽装甲車で,軽量砲火の牽引にも使用できた。
Ordnance QF 2 pounder:1936年制式 ,ビッカースVickers社で1936-1944年製造,重量 814 キロ (1,794 ポンド),砲身 2メートル,52口径,砲弾 40ミリ,発射速度22発/分,初速 792 メートル/秒,有効射程距離 914 メートル (1,000ヤード)。
Westfeldzug, Frankreich, Calais.- zerstörte Geschütze und zerstörte englische Schützenpanzer Bren Gun Carrier (universal carrier) am Straßenrand hinter Deich / Wall; KBK Lw.4 Dating: Mai 1940 Photographer: Böcker撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年5月19日、ドイツA軍集団の先頭にあった第2装甲師団は,英仏ドーバー海峡に達した。これによって、連合軍は,ベルギー,フランス北端のダンケルクに包囲されてしまった。しかし、後続の歩兵部隊は展開し終わっておらず,ヒトラーは装甲軍集団によるダンケルク攻撃に躊躇した。

写真(右)1940-41年,総統大本営のヒトラー総統とスタッフ:陸軍最高司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥,国防軍最高司令部(OKW)総長ウィルヘルム・カイテル元帥,陸軍総司令部参謀総長フランツ・ハルダー大将。
陸軍最高司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥と陸軍総司令部参謀総長フランツ・ハルダー大将は,ポーランド侵攻,フランス侵攻,ソ連侵攻バルバロッサ作戦に関わった。ブラウヒッチュは,1941年冬のモスクワ攻略失敗に伴って,ヒトラーと対立。1941年12月解任。陸軍総司令官の後任にはヒトラー自らが就いた。ハルダーも1942年9月24日,参謀総長更迭。1944年7月のヒトラー暗殺への関与を疑われ,逮捕。その後ダッハウ強制収容所に収監。終戦直前に処刑されるところを,米軍に救助された。
Hitler im Hauptquartier des Oberbefehlshabers des Heeres Generalfeldmarschall von Brauchitsch. Vlnr am Kartentisch: Generalfeldmarschall [Wilhelm] Keitel, Generalfeldmarschall [Walther] v. Brauchitsch, [Adolf] Hitler, Gen. Oberst [Franz] Halder Dating: 1940/1941 ca.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


5月24日正午,ヒトラーは,ダンケルクへの装甲師団の投入を控えさせる,ドイツ空軍力に,ダンケルクの連合軍を攻撃することを命じた。しかし,フォン・リヒトフォーヘン将軍の戦術航空軍団やほかの航空団も,ダンケルクを空襲しなかった。

5月26日午後,ヒトラーとA軍集団総司令官ルンテシュテット将軍は,停止命令を解除し,装甲師団は翌朝に終結を許されたが,ダンケルク攻撃は2日間遅れてしまった。このドイツの装甲師団ダンケルク突入停止が,ダンケルクからの連合軍撤退を成功させることになった。

写真(右)1940年,北フランスで破壊された列車:フランス降伏後の休戦協定では,フランスは鉄道を復興し,ドイツ,イタリアとの交通網を整備する義務を負うとされた。ドイツに破壊された鉄道を,フランスは復興し,ドイツの弁を図った。
Schutzpolizei auf Bahnhofswache Archive title: Nordfrankreich (ohne Ortsangaben) Im Hintergrund zerstörter Zug Dating: 1940 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


イギリスのライオン首相と称されたウィストン・チャーチル(Winston Churchill )の下、英海軍本部は,1940年5月26日1857,大陸よりの英軍救出命令ダイナモ作戦Operation Dynamo)を発動した。当時,ダンケルクには連合軍30万人が包囲され撤退を待っていた。

5月27日,英海軍主導の撤退作戦が行われる最中,ドイツ空軍第二航空団,第三航空団が,ダンケルクの市外と港湾に大空襲をかけた。

写真(右):1940年3月20日、建物から建物への移動を訓練するドイツ軍兵士。トルーマン図書館にはドイツ軍から鹵獲した一群の写真が掲載されている。
Description: To prepare themselves for conflict, these German Storm troopers exercise taking cover from house to house. All are unidentified. From a group of captured German photographs. Date: March 20, 1940 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Soldiers; World War, 1939-1945 HST Keywords: World War II - General File 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-588引用。


写真(右):1940年4月29日、ノルウェー、トロンハイム近郊、ドイツ軍の捕虜となったイギリス軍兵士の行進。右側ではドイツ兵が監視・護送の任についている。ドイツ軍はデンマークへの侵攻と並行して4月9日にオスロ、トロンハイムなどへ一斉に上陸したが、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)はドイツを撃破してノルウェーの要港ナルヴィクに侵攻し橋頭保を築いた。ナルヴィクの戦いは、1940年4月9日から6月8日まで続いたが、フランスでの敗北につづいて、6月10日にはドイツ軍によってイギリス軍はノルウェー全土から排除された。
:Description: Near Drontheim, Norway, German troops marching with 20 English prisoners. All are unidentified. From a series of captured German photographs. Date: April 29, 1940 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Prisoners of war; Soldiers; World War, 1939-1945 HST Keywords: Norway; World War II - General File 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-549引用。


写真(右):1940年6月5日、フランス、リール近郊、ラインメタル10.5cm leFH 18軽榴弾砲を射撃するドイツ軍兵士。
10.5cm leFH 18軽榴弾砲の諸元
重量:移動時: 3,490 kg、戦闘時: 1,985 kg (4,376 lb) 全長:6.10 m、砲身長:2.941 m L/28 (28口径)
全幅:1.977 m、全高:1.880 m
操作人員:6名。
Description: Light Feldhaubitze 18 (Howitzer 18) engaging in direct shelling during an urban engagement near Lille, France. All are unidentified. From a series of captured German photographs. Date: June 5, 1940 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Battles; Soldiers; World War, 1939-1945 HST Keywords: France; World War II - General File 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-557引用。


英軍は,ノルウェーでも苦戦していたが、バートラム・ラムゼー海軍中将の指揮によって,主として小艦艇によって英仏海峡を横断し,ダンケルクの連合軍を英本土に搬送しようとした。このダイナモ作戦Operation Dynamo)第一日の夕方まで,連合軍将兵7669名が救出され,5月28日だけで,1万7804人が救出された。5月29日には,4万7310名が後送,5月30日には5万3823人が大陸を去った。うちフランス兵氏は1万4874人だった。5月31日は,6万8014人が,6月1日には6万4429人が英本土に戻ることができた。

写真(右)1940年6-7月,西部戦線フランス,進撃するドイツ軍の自動車化した狙撃兵部隊:奥にはキューベルワーゲン,手前には軍用オートバイ・サイドカーがある。ドイツ軍のオートバイは,ツェンダップとBMWがあった。ドイツ陸軍は,装甲師団に付随する自動車化された歩兵のことを「狙撃兵」として,歩兵と区別した。
Im Westen, Frankreich.- motorisierte Truppen, Motorräder mit Beiwagen, bei Rast in Ortschaft; PK 670 Dating: 1940 Juni - Juli Photographer: Harren撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年5月28日、ベルギーが降伏。A軍集団は,5月24日にダンケルク進軍の停止を命じられていたが,5月27日,再び進撃を開始した。ドイツ空軍が,ダンケルクを大規模空襲したのは,5月27日,5月29日午後,6月1日だけだった。英空軍はスピットファイア,ハリケーン戦闘機を200機準備し,ダンケルク上空に派遣し,ダイナモ作戦Operation Dynamo)に従って、撤退を援護させた。 

他方,ドイツ空軍は,フランス本土へも攻撃をかける必要があった上に,雨,霧など天候の障害もあった。ドイツ空軍の現地部隊は,第1,第4,第54爆撃航空団だったが,連合軍の小型艦船への空襲は,必ずしも大きな効果を挙げなかった。爆撃部隊にとって、小型の船舶を空襲する経験は従来なかったことであり、このような攻撃目標は軽視されていたに違いない。

写真(右)1940年,フランスとの係争の地アルザスAlsace,交通整理に当たるドイツ兵士:「シュトラスブルクへ」の道標がドイツ語で表されている。
アルザス・ロレーヌは,ドイツとフランスの国境にあって,鉄鉱石,石炭など資源の産地であり,ライン川を使った水上交通の要衝で工業が盛んだった。そこで,ドイツ人,フランス人が混在していたが,それが独仏国境紛争を惹起した。 首府は,ストラスブール(仏)あるいはシュトラスブルク(独)。1940年のフランス降伏後,ドイツが併合したが,1944年に連合国が奪還し,こんにちはフランス領。
Polizei regelt den Verkehr bei Schlettstadt, Elsaß 1940 Archive title: Verkehrsposten der deutschen Polizei bei Schlettstadt, Elsaß Dating: 1940
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年夏,ドイツ軍に鹵獲されたフランス軍ルノーM.17/18軽戦車:M.17軽戦車は,第一次大戦中に開発された世界初の旋回砲塔を装備した近代的戦車で,7.92ミリ機銃あるいは20口径37ミリ砲装備,重量6.5トン。自動車メーカーのルノー(Renault)が3600両以上大量生産した。1930年代になっても,在庫があったために,搭載機銃を7.5ミリ機銃に更新し,フランス軍に残されていた。
Frankreich.- Französischer Beutepanzer, Panzerkampfwagen Renault M.17/18; PK 689 Dating: August 1940 Photographer: Huschke 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年6月,ドイツ軍のパリ凱旋入城式:後方には,ナポレオンを記念したエトワール凱旋門が見える。フランスは,戦局挽回をあきらめ,6月10日にはパリを無防備都市とし。防衛線を解いた。6月14日,ドイツ軍は,パリに無血入城した。
1944年8月25日,ドイツ軍の占領下にあったパリに自由フランス軍ルクレール将軍が入城した。ドイツ軍の司令官コルティッツ将軍は,パリ破壊命令を無視して,降伏した。パリは,4年2ヶ月ぶりに解放された。
Frankreich, Paris.- Einmarsch, Parade deutscher Truppen. Soldaten auf Pferden; PK 689 Dating: Juni 1940 Photographer: Fremke, Heinz撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年6月18日,パリに無血入城し,エッフェル塔直下に着いたドイツ国防軍:ドイツ軍の車両には対空射撃にも使える7.92ミリ機銃が装備されている。1940年6月22日,フランスが降伏し,ドイツにとって,残る敵は英国だけになった。ヒトラーは,孤立した英国がドイツに休戦を申し込んでくるに違いないと楽観,誤解していた。
Scherl: Die Deutschen Truppen in Paris. Deutsche Flak am Eifelturm, 18.6.40 [Herausgabedatum] ADN-ZB/Archiv: II. Weltkrieg 1939-45 Die französische Hauptstadt Paris wird am 14. Juni 1940 durch die faschistische deutsche Wehrmacht besetzt. Soldaten einer deutschen Flak-Abteilung am Tag des Einmarsches vor dem Eiffelturm. Archive title: Frankreich, Paris.- Deutsche Flugabwehr vor dem Eifelturm in einem PKW sitzend Dating: Juni 1940
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


フランス降伏の止めを刺すような華々しい戦場を求めていたドイツ空軍の精鋭部隊にとって、ダイナモ作戦Operation Dynamo)に従事するダンケルクの地上目標や撤退する小艦船襲撃は、敗残部隊掃討、弱小目標と感じられたのではないか。攻撃力を重視したドイツ空軍だったが、ダンケルクに包囲した地上部隊を補足し、敵の抗戦能を弱体化し、世論を終戦に持ち込むという観念は希薄だったようだ。

英軍によるダイナモ作戦は,6月4日早朝まで,9日間続き,ダンケルクに包囲されていた連合軍兵士を合計33万8226人救出することに成功した。6月4日にドイツ地上軍は,ダンケルクを占領,3万5000人にフランス兵を捕虜にとった。

ドイツ軍によってダンケルクが占領された後,フランスは6月10日にパリを無防備都市として宣言した。政府は,ボルドーに移転したが,同日,ムッソリーニのイタリアが,対英仏宣戦布告をした。

1940年6月14日,ドイツ軍がパリに無血入城,6月21日,ボルドーに退去していたフランス政府フィリップ・ペタン元帥は、ドイツに休戦を申し込んだ。(まだ、ヴィシー政府は成立していない)


3.ヴィシー・フランス Vichy Franceの対独協力

1939年9月1日,ポーランドに侵攻したドイツに対して,連合国の英仏は,宣戦布告して,第二次大戦が始まった。1938年のミュンヘン会談のときにフランス首相だったエドアール・ダラディエは、1939年9月1日の第二次大戦勃発に際して、ドイツの西部戦線で守勢を貫いてポーランドを見殺しにし、フィンランド=ソ連の冬戦争にも消極的で、フィンランドを助けなかった。そこで、1940年3月21日、ダラディエ内閣は総辞職した。

写真(右)1940年5-6月,フランス,ドイツ軍の捕虜となったフランス植民地軍兵士の行進:1940年の対独戦だけでも,フランス植民地のセネガル兵1万7,000人が死傷あるいは捕虜POWとなった。これは,英軍のアフリカ出身兵士「アスカリ」と同じく,植民地からも兵力が動員されたためである。
フランス降伏後に設立された自由フランス亡命政府の自由フランス軍の中核も,フランス人ではなく,フランス植民地出身の兵士であった。植民地兵士は,セネガル兵など西アフリカの出身者が多く,モロッコ兵、アルジェリア兵も動員された。

Marsch in deutsche Gefangenschaft Archive title: Frankreich (?).- Kriegsgefangene französische Soldaten (Kolonialsoldaten) unter Bewachung bei Marsch auf Landstraße; ca. Mai/Juni 1940 Dating: 1940 Mai - Juni 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1940年5-6月,西部戦線でドイツ軍の捕虜となったフランス軍兵士の行進
Frankreich.- kriegsgefangene französische Soldaten auf dem Marsch; PK 670 Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Weber, Robert 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


新内閣を組閣した元大蔵大臣ポール・レノー首相も、対独攻勢をとらずに、守勢を堅持し、5月10日、ドイツ軍によるフランス電撃侵攻を受けてしまう。ドイツ軍は、中立を標榜していたベルギー、オランダ、ルクセンブルグを攻撃し、そこからフランスに侵攻した。

敗退するフランス軍を前に、フランス政府では和平派(終戦派)が主導権をにぎった。1940年5月20日,レノー内閣が改造され、副首相に第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が就任した。

独仏戦では,フランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

写真(右)1940年5-6月,フランス,ドイツ軍の捕虜となった負傷したフランス植民地兵:英軍のアフリカ出身兵士は,アラビア語あるいはスワヒリ語で「アスカリ」と呼ばれた。植民地から動員された兵士は,フランス人とは異なり,人質としての価値が低く,ドイツ軍は過酷に扱ったようだ。しかし,プロパガンダでは,人道的な捕虜取り扱いをして,負傷者を治療しているという写真が喧伝されたのであろうか。
他方,ヴィシーフランスに対抗して樹立された自由フランス軍も,フランス人兵士よりも,セネガルなどアフリカ出身の兵士が多かった。にもかかわらず,自由フランス軍はフランスを亡命した兵士が主流であるかのように装われた。自由フランスの黒人兵士,植民地兵士は,連合国の中でも過小評価された。

Verwundeter französischer Kriegsgefangener Archive title: Frankreich (?).- Porträt eines französische Kriegsgefangene (Kolonialsoldat) mit Turban (?) Dating: 1940 Mai - Juni
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


フランスは,ドイツとの和平交渉で,捕虜の本国送還・帰還を要求したが,ドイツは,捕虜を人質あるいは外国人奴隷労働者として利用しようとした。そこで,ヴィシー政権は,フランス人捕虜の帰還の見返りとして,ドイツが必要としているフランス人労働者をドイツに派遣することを約束した。

1940年5月15日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏と続き、6月10日にはパリが無防備都市を宣言した。このとき、ムッソリーニ統領の指導するイタリアも、南フランスを攻撃した。6月14日、パリにドイツ軍が無血入城した。

1940年に,フランスが降伏すると,ヨーロッパ大陸は,東方ソ連の勢力圏以外,ナチスドイツの支配下に組み込まれた。

写真(右)1940年6月21-22日,独仏休戦協定が締結されたコンピエーニュ:独仏休戦協定は,ドイツにとって屈辱の地,第一次大戦休戦条約締結と同じ場所,コンピエーニュで結ばれた。ここに,第一次大戦休戦協定調印に使用された食堂車が持ち込まれた。休戦協定締結後,休戦協定記念石碑は爆砕された。これは,ドイツの第一次大戦の報復だった。
この協定により、太平洋沿岸を含む北西フランスがドイツによる占領下に置かれ,それ以外の地域がフランス政府の自由地区とされた。この自由地区をドイツの監督下で統治したのが,ヴィシー・フランスである。
Deutsch-französische Waffenstillstandsverhandlungen, Compiégne, 21./22.6.1940: Die französ. Bevollmächtigten, geführt von General Huntziger (Mitte) Archive title: Frankreich, Compiègne.- Deutsch-französische Waffenstillstandsverhandlungen.- General Charles Huntziger Dating: 21. Juni 1940 Photographer: Hoffmann, Heinrich撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年6月22日,コンピエーニュで結ばれた独仏休戦協定Armistice Agreement Between Germany and France) は,24条からなるものだった。

独仏休戦協定の内容:

1.フランスは,欧州,植民地すべての地域に於けるドイツに対する戦争状態を停止する。
2.フランス中北部と海岸部分をドイツ占領地区として,ドイツが統治する。
3.フランス陸海空軍を武装解除する。
4.フランスは,非占領地では軍備を保有できるが,ドイツ,イタリアの監督下におかれる。
5.フランス海軍艦艇は,引き続き存続を許されるが,ドイツ管理下の港に留め置くものとする。
6.フランスは,反ドイツ活動をせず,反ドイツ活動を取り締まる。
7.フランスは,ドイツ,イタリア間の交通を含め,鉄道を十分に機能させるように努める。
8.フランスは,軍事的な活動の一切を控え,ドイツ占領地のために物資を供給する。
9.フランスは,ドイツ人捕虜を解放し,さらにドイツに不利益をなす捕虜・逮捕者をフランスから追放する。

写真(右)1940年6月22日,コンピエーニュに据え付けられた食堂車でフランスに休戦を認める国防軍総司令部統帥部長ヴィルヘルム・カイテル大将:第一次大戦の休戦協定で使用された食堂車が,当時と同じコンピエニュに持ち込まれた。これは,ヒトラーが用意させたもので,第一次大戦の復讐が目的だった。
国防軍総司令部統帥部長カイテル大将はフランス降伏の軍功で元帥に昇進,ヒトラー総統は,フランス降伏後に,多数の将軍を昇進させて喜ばせた。ヒトラーは,人を操る術に長けていた。誰もが,自分の軍功,昇進を誇らしく思ったので,ヒトラーを批判する声は消えてしまった。
Am 22. Juni 40 wurde der Waffenstillstandsvertrag im Walde von Compiegne unterzeichnet. Archive title: Frankreich, Compiègne.- Deutsch-französische Waffenstillstandsverhandlungen.- General Wilhelm Keitel im Eisenbahnwaggon bei Unterschrift des Waffenstillstandsvertrags Dating: 22. Juni 1940
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


第一次大戦の休戦協定では,ドイツが敗北を認めたが,その調印式が行われたのとコンピエニュで,同じ食堂車をヒトラーは用意させた。

カイテル大将はフランス降伏の軍功で元帥に昇進したが,フランス降伏後は,将軍たちの昇進が相次いだ。ヒトラーは,自分を伍長勤務上等兵だと蔑視していた将軍たちを手名づける手段として,昇進,抜擢を人材登用の名の下に駆使した。

しかし,このとき昇進させ,フランス駐留という好条件に置かれた将軍たちの仲から,1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件に多数の関係者を出したのは,皮肉である。

こうして,フランスは対独協力を条件に存続を許され,南部内陸部に,ヴィシー・フランス政府の限定的な統治が認められた。

ドイツがフランスとの休戦条約で企図したことは,
1. 欧州大陸に於ける戦闘を終焉させ,ドイツに対する戦争が再び引き起こされることがないようにすること,
2.フランス降伏を契機に対英和平の糸口をつかむこと,
3.ドイツを中心とした世界新秩序にフランス以下の欧州諸国を組み込んで,ドイツの国力を向上しつつ,東方ソ連に於ける生存圏獲得に寄与させること,
の三点に集約できる。

写真(右)1940年6月22日,コンピエーニュ森でフランス降伏調印式のアドルフ・ヒトラー総統,ルドルフ・ヘス副総統,ヘルマン・ゲーリング空軍元帥,リンゲントロップ外相,陸軍参謀総長ブラウヒッチュ将軍
Original title: ADN-ZB, II. Weltkrieg 1939-1945 Frankreich: Waffenstillstand mit Frankreich im Wald vom Compiégne am 22.6.1940. A. Hitler (2.v.r.) im Gespräch mit Generalen und anderen Führern des faschistischen deutschen Reiches. Links neben Hitler sein Stellvertreter R. Hess u. H. Göring, (links außen) J. v. Ribbentrop, Außenminister des faschistischen Staates, (rechts außen) Generaloberst W. v. Brauchitsch. Archive title: Frankreich, Compiègne.- Deutsch-französische Waffenstillstandsverhandlungen.- vlnr: Hermann Göring, Rudolf Hess, Adolf Hitler, Joachim von Ribbentrop, Walther von Brauchitsch vor Eisenbahnwaggon Dating: 22. Juni 1940撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1940年6月30日,対仏戦勝利の後,パリ・エッフェル塔を訪問したアドルフ・ヒトラー総統
:建築家のアルベルト・シュペール(中央),芸術家アーノルド・ブレカー(右)を引きつれ,ナポレオン廟,オペラ座などパリ名所めぐりをした。ヒトラーの外遊はこれ一回だった。
Zentralbild II. Weltkrieg 1939 - 45 Nach der Besetzung Frankreichs durch die faschistische deutsche Wehrmacht im Juni 1940 besucht Adolf Hitler Paris. UBz: Adolf Hitler mit seiner Begleitung nach der Besichtigung des Eifelturms. vlnr: SS-Gruppenführer Wolff, [Architekt Hermann Giesler], dahinter Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel, SA-Gruppenführer Wilhelm Brückner, Reichsminister Albert Speer, Adolf Hitler, dahinter Reichsminister Martin Bormann, [Bildhauer Arno Breker], Reichspressechef Staatssekretär Otto Dietrich. 5527-40 Dating: 30. Juni 1940
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年6月,フランスの戦局が悪化すると,抗戦を説くポール・レノー仏首相は少数派となり、レノー内閣は倒れた。ポール・レノー首相は辞任し、フィリップ・ペタン元帥が終戦内閣を組織、ドイツに休戦申し込んだ。6月22日、レノーに代わって首相となったペタン元帥のもとで、フランスはドイツと休戦協定を結んだ。

フランス降伏後,第一次大戦の英雄ペタン元帥(ドゴール将軍の上官)が,敗戦国フランスの復興の中心人物となった。ヴィシーフランス政府を組織し,ドイツの圧力の中でフランスの立て直す「国民革命」を開始。敵はアフリカのフランス植民地を奪おうとするチャーチル首相率いる大英帝国だった。

英国は,降伏したフランス人に同情したものの,ドイツに協力的な親ドイツ派ヴィシー政権は,嫌われた。「降伏は,奴隷,飢餓,そして死を意味する」----占領したフランス人を強制労働に従事させるドイツ。これが英国,米国が抱いた敗戦国フランスのイメージだった。

写真(右)1940年6月,フランスで食事を摂るフォン・ルントシュテット将軍(左)とマキシミリアン・フォン・ヴァイクス将軍:フランス侵攻では,ルントシュテット将軍はA軍集団司令官として参加,アルデンヌ突破を図る主力を率いた。フランス戦勝の功績によって,1940年7月,カイテルと同じく,元帥に昇進。1940年10月には西方軍総司令官に就任。1941年の対ソ侵攻バルバロッサ作戦では,南方軍集団司令官として戦ったが,冬季構成に失敗して,予備役となる。しかし,連合軍の欧州侵攻を防衛するために,1942年3月,西方軍総司令官に再び就任。1944年6月6日,連合軍ノルマンディー侵攻を跳ね返すことができなかった。
Frankreich.- General Gerd von Rundstedt und General Maximilian von Weichs an gedecktem Tisch unter Bäumen sitzend; PK 670 Dating: Juni 1940 Photographer: Harren 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。



German Tank Panzer Division parades on streets of Paris in France. パリでの対フランス勝利パレード

ドゴール 1940年6月22日、フランスは降伏した。休戦調印式は、パリ近郊コンピエーニュ林で行われた。第一次大戦の対ドイツ勝利を飾ったフランスは、当時ドイツが降伏調印した列車で、降伏調印させられた。

この屈辱的な休戦協定によって、フランスは、北西海岸部、パリなど中央部を全てドイツに占領され、南部海岸、マルセイユなどはイタリアに占領されることになった。

ドイツに降伏したフランスは,勝者ドイツ軍に反発しては生きて行けない。同時に、ドイツを手本にして、フランス人の優秀性を誇示して権威主義的・家父長的性格の新国家を創設しようとした。これがヴィシー・フランス政府で、権威主義・家父長的なイデオロギー推進する「国民革命」を率いることになったのが、第一次大戦の勝利者で、フィリップ・ペタンPhilippe Pétain)元帥である。1856年生まれ84歳の老元帥フィリップ・ペタンPhilippe Pétain)は、フランス英雄であったから、その「対独協力」は、ヒトラーのヨーロッパ支配にとっても有用だった。このような時局に乗った裏切り行為は、当時のフランス人にあっては、決して例外ではなかった。

ヴィシー・フランス政府は、1940年7月1日、中部の内陸都市ヴィシーを首都として発足した。これが、ヴィシー政権であり、ペタン元帥が国家主席、ピエール・ラヴァルが副主席に就任した。

休戦条約によって,フランスはアルザス・ロレーヌをドイツに割譲した。また、ヴィシー政府はフランスに駐留するドイツ軍25万人に対する駐留経費の負担を求められ、労働者をドイツに派遣して、軍需生産に従事させることとなった。これに対抗したのが、ロンドンに亡命したドゴールらの自由フランス政府である。

写真(右)1940年6月,フランス指導者(フランス国家主席)フィリップ・ペタン元帥と握手するドイツ総統・首相アドルフ・ヒトラー:Picture caption: "Auf der Rückreise empfing Adolf Hitler in einem mittelfranzösischen Ort den französischen Staatschef Marschall Petain.This infamous handshake between Marechal and Führer during their meeting at Montoire confirmed the opinion of many French citizens that their leader was an active collaborator. What was not made public about the meeting was how Petain had refused to allow German troops into Vichy French territories in North Africa. Title translates German picture caption. Date Issued:1940 Division:The Miriam and Ira D. Wallach Division of Art, Prints and Photographs: Picture Collection Photographer:Hoffmann, Heinrich撮影。
写真は,New York Public Library・ Digital Public Library of America 引用


写真(右)1940年,フランス,フランス女性と自動車に乗ったドイツ兵士:フランスに駐留したドイツ軍兵士とフランス女性との交流は,戦争直後から始まったようだが,フランスの敗北が明らかになると,勝者ドイツ軍に反発しているだけでは,生きて行けない。商売上手になるためにも,ドイツ兵を顧客にしなければならない。いざというときのために,ドイツ兵士の友人を持っていたい。このように考えたフランス庶民の行動を「対独協力」とすれば,それは大半のフランス人にあてはなることであろう。
Westfeldzug, Frankreich.- Deutsche Soldaten im Auto, im Gespräch mit einer Frau; PK 670 Dating: Juni 1940 Photographer: Weber, Robert撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


他方、ヴィシー政府は、フランス海外植民地であるアフリカのアルジェリア、モロッコ、マダガスカル、セネガル,カメルーン、あるいはアジアのインドシナ、上海租界などは、引き続き領有することを許された。

実際,フランス陸軍は武装解除されたが、フランス海軍は、モロッコ、アルジェリアに脱出していた海軍艦艇が多かったために、引き続き存続が許された。フランス海軍の艦艇が保有を許された理由は,ドイツが無理にフランス海軍艦艇を接収しようとすれば、フランス艦艇が英国に脱出・逃亡してしまうと考えられたためめある。フランスを懐柔して,ドイツへの協力を引き出すこと,アフリカ,インドシナのフランス植民地を,ヴィシー政府の下において,英軍を阻止する目的もあった。

写真(右)1940年8-9月,フランス,シャンパーニュ,フランス婦人と交歓するシャンパンを手にしたドイツ軍兵士:ドイツは,ユダヤ人を下等劣等人種として差別したが,占領地のフランス人に対しては,必ずしも,見下したわけではなかった。勝者の驕りと,敗者の追従が友好関係に至ることもあったかもしれない。
Im Westen, Frankreich.- Deutscher Soldat mit einer Zivilistin Sekt/Champagner trinkend; PK 670 Dating: 1940 August - September Photographer: Harren撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


wikiipediaでは、「ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。」と違った説明をしている。

ヒトラー総統は、ドイツが海外植民地を支配することよりも、ヨーロッパ大陸、特に東方ソ連に生存圏を確立することを悲願としていた。海外植民地に依存すれば、貴族や成金のように、労働を蔑視する堕落した民族にアーリア人が成り下がると懸念していた。また、インドシナのようなアジア植民地は、日本に併呑されることを危惧していた。

写真(右)1940年8月,フランス,アルザスからコニャックへの難民
Frankreich während der Besetzung durch die faschistischeen deutschen Truppen im August 1940. Vor der Ortskommandantur in Cognac stehen Flüchtlinge aus dem Elsaß an. (Bauer) 7066-40 Archive title: Im Westen, Frankreich, Juni/Juli 1940; PK 670 Dating: August 1940 Photographer: Bauer 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


しかし、ヒトラー総統は、フランス海軍艦艇を接収しようとしており、それに気づいた英チャーチル首相は、フランス艦隊に連合国に脱出するように呼びかけたが、ヴィシー政府に忠誠を誓ったフランス海軍は無視した。

フランス海軍への脱出・合流の申し出を無視された英国は,フランス艦艇攻撃のためのカタパルト作戦を発動、1940年7月2日、アルジェリア北岸のメルセルケビールMers-el-Kébirに停泊していたフランス艦隊を艦砲、空爆によって攻撃し、多数を撃沈破、無力化した。

写真(右):1940年6月末,フランス降伏直後のパリに進駐したドイツ軍兵士と牽引車:牽引車の荷台には、後方のドイツ軍ご用達レストランで使用するらしい薪・石炭炊きの調理台が乗せられている。
Frankreich, Deutsche Soldaten in Paris Krieg im Westen: Deutsche Soldaten in Paris PK-Teschendorff/Scherl Bilderdienst Juni 1940 8020-40 II.Text-ADN ADN-ZB/Archiv II. Weltkrieg 1939-45 Frankreich während der faschistischen deutschen Okkupation Nach dem deutschen Einmarsch am 14. Juni 1940 in Paris bestimmen deutsche Soldaten das Straßenbild; Angehörige einer schweren Artilleriereinheit während eines kurzen Halts beim Marsch durch die französische Hauptstadt, Ende Juni 1940 (Aufnahme: Tschendorff) 8020-40 Depicted place France Date June 1940 Photographer: Teschendorf
写真は Wikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv: File:Bundesarchiv Bild 183-L12788, Frankreich, Deutsche Soldaten in Paris.jpg引用。


フランス国民議会は、1940年7月9日の憲法改正によって、「全権力をペタン将軍に委任する」としてファシズムを採用、フランスの栄光を復活させるために個人主義を廃して、国家への忠誠、宗教の復興を掲げる「国民革命」を標榜した。また、強制労働・ユダヤ人への迫害・秘密警察による監視が方針とされ、強いフランスを復活させようとした。

写真(右)1940年7月14日,パリのレストランに遊ぶドイツ軍兵士:ドイツ占領地フランスでは、ペタン将軍率いる政府のもとで,親ドイツ的な行政運営がなされた。そのため、パリ市内では反ドイツの積極的なゲリラ戦は起こらなかった。それどころか、ユダヤ人は居住地から追放され,強制収容所に移送されることになった。これは,ドイツ人だけではなく,親衛隊に参加したフランス人,フランス警察なども加担した。
Original title: Zentralbild: 2. Weltkrieg 1939-1945 Pariser Strassenbild (Juni 1940) ADN-ZB/Archiv: II. Weltkrieg 1939-45 Frankreich während der faschistischen deutschen Besetzung; Ende Juni 1940 Nach dem deutschen Einmarsch in Paris am 14. Juni bestimmen deutsche Soldaten das Straßenbild; hier vor einem Cafe. Aufnahme Teschendorff 8020-40 Dating: Juni 1940 Ende Photographer: Teschendorf撮影。 Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヴィシー・フランスの国家主席に就任したフィリプ・ペタン(Henri Philippe Pétain, 1856年4月24日−1951年7月23日)は、第一次大戦の1916年ヴェルダンの戦いで、ドイツ軍を撃退し、1917年、フランス陸軍総司令官に就任した。1918年、第一次大戦にフランスが勝利すると、11月、元帥に昇進した。第一次大戦の英雄が、敗戦国フランスの新たな国家主席に就任した。

写真(右):1940年9月,フランス降伏直後のパリに進駐したドイツ軍兵士;ドイツ占領地フランスは、海岸部と北部はドイツ群生したの怒れた。しかし、南内陸部はペタン将軍率いるヴィシー政府のもとにおかれ,ドイツと協力して行政運営がなされた。そのため、パリ市内では反ドイツの積極的なゲリラ戦は起こらなかった。それどころか、ユダヤ人は居住地から追放され,強制収容所に移送されることになった。これは,ドイツ人だけではなく,親衛隊に参加したフランス人,フランス警察なども加担した。追放されるユダヤ人は,家屋・土地など不動産はもちろん,資産,家具から仕事・教育,移動の自由まで失った。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L13991 Original title: info Reichs-organisation-sleiter Dr. Ley besuchte in Paris die Diensstelle der NS-Gemeinschaft KdF. PK-Scherl Bilderdienst, 8272-40 "Fr." OKW Sept. 1940 Archive title: Paris.- Besuch Robert Ley, vor "Passage Marginan" Dating: September 1940 Photographer: Schneider
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右):1940年10月,パリ,コンコルド広場前,ドイツ軍司令部として摂取したホテル・クリロンにおける衛兵交代:1940年6月のフランス降伏で,フランスの主要部は,ドイツ軍政のしたに置かれた。パリは,1940年5月,フランス降伏前に,無防備都市を宣言していたので,戦火を被るのを免れている。パリ市民は,新しい支配者,ドイツ軍に従うしかなかった。
Change of guard at hotel Crillon place de la Concorde. Releve de la garde au Crillon. Credit Line (ACME), Paris Oct. 7/40, Chas. Baulard. Archive title: Paris.- Wachablösung vor dem Hotel Crillon am Place de la Concorde Dating: Oktober 1940 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


親独フランス・ヴィシー政権は,プロパガンダを展開、フランス国内に秘密をかぎつけようとする敵のスパイがいる,沈黙を護れと国民に呼びかけた。

「枢軸国ドイツの兵士」はヨーロッパのために戦っている,ドイツの戦争に協力し,軍需品を供給するために工場で働こう,とフランス労働者に訴えた。ヴィシー政権は、中立を建前とはしていたが、完全な対独協力政府だった。


4.反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍


写真(右):1940年,フランスの対独協力者「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」総裁ジャック・ドリオ(1888-1945):ドリオは,コミンテルン執行委員を務めたが,その後もトロツキーの世界革命論を支持して,1934年に除名された。その恨み,反動もあってか,1934年に人民党を結成した。フランス敗北後は,軍事的,政治的にドイツと協力。「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」の一士官として東部戦線に従軍した。
反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍結成から5ヵ月後,1942年2月にドリオは,ヴェル・ディヴで東部戦線の従軍報告をしたが,ソ連での「戦いは困難でいっぱい」であることを認めた。零下40度「この温度では一切が変わる。人はその機能を失う。指がかじかみ,四肢が痺れる。土は石のように固く,道具を使って掘ることはできない。土地を占領しても,土地は歩兵を防いではくれない。自動操作の兵器の使用は困難になる。戦車や補給車両の発動機が,操縦する人間の意に応じない。食糧,弾薬の補給,病人,負傷者の後送が脅かされる。氷のような風が雪の波をかき立て,美知や足跡を隠してしまう。このような時,近代的な偉大な軍隊も,その技術的優秀性の本領を発揮できない。」
原資料解説:Jaques Doriot (Porträt), einer der führenden Männer der französischen Erneuerungsbewegung. Dating: 1940 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ヴィシー政府は、鎌とハンマーに象徴されるボルシュビキ,共産主義は,労働者に首枷をはめている敵であるとして,反ボリシェビキを唱えた。フランス降伏から1年後、1941年6月22日,独ソ戦が勃発すると,米英は,ソ連を軍事支援を開始した。そこで,ドイツやヴィシー・フランスでは、米英の背後には,ユダヤ人がいて世界戦争を扇動し,共産主義を助けているという非難のプロパガンダが強化された。

ドイツは,フランス人にパルチザンやレジスタンスの鎮圧と並んで,対ソ連戦争に参加させようとし,反共産主義の義勇兵を募集した。また,フランス人からなるナチス武装親衛隊SSも募兵した。フランス人の反ボリシェビキ義勇軍や武装親衛隊は,ドイツ軍の指揮下の東部戦線で,ソ連軍と戦った。

1930年代のフランスでは,共和制や人民戦線内閣に反対する火の十字(クロワ・ド・フー)やカグールなどの権威主義の民族団体が,反共産主義,反ユダヤ主義を主張していた。

1927年結成の退役軍人組織「火の十字」は、退役軍人ラロック中佐を指導者として、共和政体支持、対独宥和反対、反ユダヤ主義の忌避を特徴としていた。フランス降伏後に樹立されたヴィシー政権は,これらの保守的組織を引き継ぎながら,ドイツに協力,国民革命による団結・反共産主義・反議会主義を主張した。

写真(右)1941年11月,対ソ連戦の東部戦線中部に参加したフランス人義勇兵:兵器,軍服,携行装備はいずれもドイツ軍と同様のもので,まるでドイツ国防軍兵士のようだ。フランスの三色旗の下に,ボリシェビキに単体する武装勢力としてフランス人義勇兵部隊が編成された。ドイツ軍の指揮の下で,東部戦線でソ連軍と戦った。
Sowjetunion-Mitte.- Soldaten der Légion des volontaires français contre le bolchévisme (LVF, 638. Infanterie-Regiment), Appell vor Generalfeldmarschall Hans Günther von Kluge; PK 689 Dating: November 1941 Photographer: Momber撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


他方,ナチス親衛隊SSは,武装親衛隊を編成し,反共十字軍として,ヨーロッパ軍を編成,指導しようと画策した。親衛隊は,ノルウェー,デンマーク,ベルギー,オランダ,フランスなど,占領したヨーロッパ諸国で,親ドイツの兵士として,武装親衛隊への義勇兵(志願兵)を募集した。

1940年にフランスが敗北した時,国民革命を起こしてフランス復興を目指す動きが強まり,親独派は,フランスの愛国心を復活させる核として,反共産主義・反ユダヤ主義(アンチ・セミニズム)を掲げたのである。

1941年6月22日、ドイツ軍はソ連侵攻バルバロッサ作戦に際して陸軍兵力を、国境の北、中央、南の三方面に各1個軍集団、合計3個軍集団分用意した。
 北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。
中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。

写真(右)1941年11月,対ソ戦の東部戦線中部に参加した反共フランス人義勇兵:ヴィシー政府ではなく、ドイツ占領地で反共フランス義勇兵の募集が行われた。ヴィシー政府は、敗戦後、独自の陸軍を保有しようとしたが、フランス復活を恐れるドイツはそれを認めなかった。
Sowjetunion, bei Wjasma.- Soldat der Légion des volontaires français contre le bolchévisme (LVF, 638. Infanterie-Regiment ?) im Winter mit Panje-Schlitten und Pferd, Soldat im Vordergrund Zigarette rauchend; PK 694 Dating: November 1941 Photographer: Gebauer撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


特に,1941年6月22日,対ソ戦「バルバロッサ」作戦が開始されると,フランスも反ボリシェビキの立場から,反共義勇軍を派遣することになった。このフランス人の兵士は,ナチ武装親衛隊の外国人義勇兵として,東部戦線に参加した。

1941年7月18日,独ソ戦勃発から3週間後,反共産主義のフランス人マルセル・デア(1894-1955),ジャック・ドリオ(1888-1945),ドロンクルらが指導する「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」が編成されることになり,志願兵募集のキャンペーンが開始された。8月28日,対ソ戦に派遣される「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」の壮行会が開催されたが,終了後,ラヴァル,デアが狙撃,負傷するテロが勃発した。

写真(右)1941年11月,対ソ戦の東部戦線中部に参加したフランス人義勇兵:ドイツ占領地区で志願したフランス人が、共産主義国ソ連を打倒するために義勇兵に志願した。
Sowjetunion-Mitte.- Soldaten der Légion des volontaires français contre le bolchévisme (LVF, 638. Infanterie-Regiment) an einem Geschütz (Pak?).- Bildmitte: Antonio Iogna Prat; PK 689 Dating: November 1941 Photographer: Momber 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」には,フランスのドイツ占領地区で,1941年6月から1943年5月までに,1万1000人が志願し,6500人が採用された。義勇兵の給与(月給)は,独身者1800フラン,妻帯者2400フランで,このほか戦時加俸が1日20フラン,児童手当350フランが支給された。この給与水準は,ドイツへの出稼ぎ労働者のそれを上回っていた。

しかし,反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍は,後年募集されたドイツ武装親衛隊やフランス民兵団とは異なって,ドイツ国防軍に従属する正規軍の扱いを受けた。ドイツ国防軍の一員として,ドイツ軍指揮官に従属させられた。つまり,ドイツ人の指揮下に置かれており,バルバロッサ作戦に従軍したイタリア軍,ルーマニア軍,ハンガリー軍とはことなって,フランスの独自の指揮は認められていなかった。

写真(右)1941年11月,対ソ連戦の東部戦線中部で反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍参加した最年少15歳の少年兵:近代的な銃器をもてば、少年でも一人前の兵士になることができる。日本でも、ドイツでも少年兵がいた。少年のうちから、自動車、戦車、航空機の操縦適正を伸ばすことは、運動能力の発達を促すことであり、エリート教育を施すことも意味する。ただし、現場のエリートであり、作戦を練る参謀のようなスタッフのエリートではない。さらに、ドイツのヒトラーユーゲント師団や、日本の郷土防衛隊・鉄血勤皇隊などが、戦争の末期、1944年以降に、実線投入された。
Scherl: An der Sowjetfront: Köpfe der im Osten eingesetzten französischen Legion. Léon M. ist mit seinen 15 Jahren der jüngste Soldat der Legion. Er ist in Tiflis geboren. 203-42 Archive title: Sowjetunion, bei Golowbowo.- Soldaten der Légion des volontaires français contre le bolchévisme (LVF, 638. Infanterie-Regiment) im Winter, u.a. 15jähriges Kind ("Kindersoldat"); PK 689 Dating: Dezember 1941 Photographer: Momber 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」は,連隊規模の5800人がソ連軍と戦うために東部戦線に派遣され,ドイツ軍の指揮下でソ連赤軍と戦った。「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」は、ドイツ占領下のフランスで募兵されたが,ヴィシー政権はこの「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」をドイツ占領地での募集に限定しており,ヴィシー支配の自由区では,募集を認めなかった。

「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」の代わり,ヴィシー独自の軍隊として,1942年7月に「三色旗軍」を創設した。しかし,ドイツは,フランス正規軍の強化に繋がりかねない「三色旗軍」を12月に解散させてしまう。

オランダでも,1940年9月,オランダ人の武装親衛隊義勇旅団Volunteer Legion「ネーデルラント」Niederlandeが編成されることになった。このSS部隊「ネーデルラント」には,オランダ人2,600名が志願し,ドイツSS武装親衛隊の下で,レニングラード方面でソ連軍と戦った。

オランダに結成されたオランダ・ナチ党(NSB)は,ラントヴァハト・ニーデルランデLandwacht Niederlande、すなわち祖国オランダ防衛部隊)の編成をナチスに認められ,治安補助部隊として、オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)とともに,ユダヤ人,反政治活動家などの捜索,逮捕に当たらせた。

写真(右)1941年11月,対ソ連戦の東部戦線中部に参加した親独派「反ボルシェビズム・フランス義勇軍」将兵:1941年7月,独ソ戦開始3週間後に募兵された反共産主義ヨーロッパ十字軍の位置づけがなされた。フランスのドイツ占領地区で,1941年6月から1943年5月までに,1万1000人が志願し,6500人が採用された。義勇兵の給与(月給)は,独身者1800フラン,妻帯者2400フランで,このほか戦時加俸が1日20フラン,児童手当350フランが支給された。この給与水準は,ドイツへの出稼ぎ労働者のそれを上回っていた。しかし,実際には,ドイツ国防軍の一員として,ドイツ軍指揮官に従属していた。
Sowjetunion-Mitte.- Oberleutnant der Légion des volontaires français contre le bolchévisme (LVF, 638. Infanterie-Regiment ?), Porträt; PK 689 Dating: November 1941 Photographer: Momber撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


フランス・ヴィシー政権の軍隊としては,このほか,1943年1月に南フランスで編成された民兵団がある。民兵団は,ヴィシー政権公認の軍事組織で,ラヴァルが指導し,ダルナンが指揮を執った。1943年春には,民兵団ははやくもナチス武装親衛隊の傘下に入り,月給4000-5000フランが支給された。民兵団の兵力は,1943年秋に1万人を超えた。

さらに,1943年7月,ナチス親衛隊SSの主導で,フランス人からなる武装親衛隊が募集された。これは,8000人の連隊規模で,後のナチス武装親衛隊「第6SS義勇兵旅団シャルルマーニュ」で,これは1944年10月には第33武装親衛隊擲弾兵師団「シャルルマーニュ」へと再編成された。

米、英、カナダを主力とする連合軍がノルマンディーに上陸した大陸反攻が開始され4日後、1944年6月10日、フランス中部のオラドゥール・シュル・グラヌ(Oradour-sur-Glane)村において、ドイツ武装親衛隊による住民虐殺事件がおきた。これは、ノルマンディー侵攻に呼応するフランス・レジスタンスの反ドイツ活動が活発化する中で行われたレジスタンス掃討作戦の一環だったが、フランス人642人が殺害された。

オラドゥール虐殺事件は、ドイツ武装親衛隊が引き起こしたものだが、そこにフランスの民兵団(ミリス)が加わっていた。フランス人虐殺にフランス人が加担していたのである。

1944年6月10日早朝、フランス人密告者の情報を元に、オラドゥール村がレジスタンスにかかわっていると判断した。交通・通信破壊工作、銃撃・暗殺などレジスタンスにって被害を受けていたナチス武装親衛隊第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」(帝国)は、フランス人民兵とともに、レジスタンス討伐に出動した。

ポスター(右):1944年8月,ベルギーにおいて,アーリア人とされたワロン人に対する武装親衛隊の募兵ポスター:武装親衛隊は,当初はドイツ人のみの部隊だったが,大戦勃発によって,ドイツ占領下のアーリア人,民族ドイツ人あるいは捕虜とした兵士から募兵した。大ドイツ主義への共鳴,祖国の自治拡大,反共産主義などさまざまな理由から,武装親衛隊に加わった外国人がいた。
Viens â nous! Dating: 1944.
ポスターはドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1944年6月10日早朝、フランス人密告者の情報を元に、オラドゥール村がレジスタンスにかかわっていると判断した。交通・通信破壊工作、銃撃・暗殺などレジスタンスにって被害を受けていたナチス武装親衛隊第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」(帝国)は、フランス人民兵とともに、レジスタンス討伐に出動した。

ドイツ軍は、オラドゥール村を包囲、村民を中央広場に集合させ、レジスタンス捜索・掃討のため、検査・拘束した。そして、成人男性を全員テロ容疑者として、約200人を納屋に押し込め、火をかけた。
オラドゥールの婦女子約440人は、教会に拘束されたが、この教会にも火がかけられた。逃亡しようとしたものは、銃撃された。

1944年6月,それまでスロベニアでパルチザン掃討戦を戦ってきた第19SS警察連隊は,フランスに侵攻した連合軍を迎え撃つためにフランスへ移動した。7月,西部戦線で敗退するドイツ軍を再編するために,補充兵として配属された。

ドイツ軍の親衛隊、武装親衛隊、国防軍は、対ソ戦の東部戦線やバルカン半島では、ユダヤ人、パルチザンの掃討として、多数の容疑者を殺害してきた。ソ連やバルカンの住民は、下等劣等人種として、人権を認めていなかったからである。過激な人種民族差別が住民虐殺につながったといえる。

1941年4月27日,バルカンで戦うドイツ軍指揮官に対して「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」との命令が出された。そして,「ドイツ軍が占領したユーゴスラヴィア領土は、ドイツ軍政下に置く。軍司令官は,軍隊の安全および治安・秩序の安定のために必要な措置を取る。」とされた。

小規模な部隊展開をしたドイツ軍は,頻繁にパルチザンに襲撃された。これは,地域住民がドイツ軍の情報をパルチザンに流していること,住民がパルチザンをかくまって,食糧を提供していること,住民自身がパルチザンとして破壊くさく活動に従事していることが原因だと考えた。そこで,治安維持,パルチザン鎮圧のために,テロを企てたものがいた場合,住民も含めて,厳重な処罰を与えると,テロ(恐怖)による支配を宣言した。

写真(右)1941年,ベルギー、オステンドから西に通信用ケーブルを敷設する強制労働
Belgien.- Verlegung eines Kabels von Ostende nach Westende; Arbeitseinsatz von Zwangsarbeitern Datierung: 1941 Fotograf: Herrmann, Ernst Quelle: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


実際,1941年4月28日,バルカン方面の戦いでは,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書として,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ」とされた。
そして,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」とテロによる支配を告知した。

また,ドイツ軍によるソ連侵攻の2週間前,1941年6月6日,政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)が出た。これは,ボリシェビキの残忍さ,アジアの野蛮性という人種民族差別を前提とした殲滅戦を宣言したものだった。ソ連共産党員からソ連赤軍に派遣された政治将校「コミサール」は,パルチザンの温床であり,処刑すべきことを命じた。そして,親衛隊SSアインザッツグルッペ特別行動部隊は,コミサールなどテロリストや敵性住民の殲滅を担った。

1941年5月31日,エーゲ海クレタ島の英軍が抗戦する最中,クレタ島北岸西部コンドマリではパルチザンにより,ドイツ軍降下猟兵が殺害された。翌日,部隊はパルチザンの捜索,報復を企図した。この報復は,村の燃焼,全地域の男性の排除を考慮していたが,手続きの上でも,軍事法廷など特別裁判所を通すことなしに迅速に決定された。

1941年6月2日、ギリシャ,クレタ島西部の村コンドマリの男性住民23-25名が裁判所の審理なしに銃殺された。村は破壊された。

バルカン侵攻:ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン鎮圧を読む。

フランス人はラテン系だったが、アーリア人と同等に扱われた。しかし、オラドゥール虐殺事件を引き起こした武装親衛隊は、1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ」作戦に参加し、翌1942年6月まで東部戦線に従軍した。その後、ドイツ・フランスで休養・訓練に従事し、1943年1月に再び東部戦線で、ソ連軍、パルチザンと戦った。そして、1944年2月に、西側連合軍のヨーロッパ反攻に備えるために、フランスに移り、侵攻してくる米英連合軍を迎え撃つ準備をした。

つまり、武装親衛隊「ダス・ライヒ」は、ソ連における過酷なゲリラ戦を経験し、容赦のない措置こそが、レジスタンスを鎮圧する手段であると考えていたと思われる。親衛隊は、ユダヤ人であると理由で、反ドイツ活動を行い、ドイツ人を人種汚染する潜在的なテロリストと考えていた。フランス、オラドゥールの住民に対しても、連合国の大陸反抗に便乗して反乱を煽動しようとしたテロ容疑者と考え、住民虐殺を正当化したのである。そして、そのなかに、フランス人の民兵団(ミリス)、それも少年兵が加わっていた。

第二次大戦中、フランス国内における大規模虐殺の事例は多くはない。そこで、オラドゥール虐殺事件は、戦後の戦犯裁判で注目されたが、東欧・ソ連では、パルチザン掃討やユダヤ人殺害は、頻繁に起きていた。第二次大戦当初のポーランドでのゲットー設置もその一環とすることができる。

ユダヤ人への迫害を進めたドイツ,それに協力したフランスが存在するのであれば,オラドゥール虐殺事件にフランス民兵団が加担していたとしても,決して不思議なことではない。人種民族差別,ユダヤ人迫害を原点として,その延長線上に,オラドゥール虐殺事件があると考えられる。


ヒトラーは,下等劣等人種が団結すれば,ドイツに反する行動をとるとして警戒していた。そして,ユダヤ人を排除するという目的のためには,手段を選ばなかった。そこで,戦争で破壊された市街の清掃・整備など労役をユダヤ人に課すとの布告をし,この労役を断れば処罰すると脅した。

軽度の労役なら,ユダヤ人も承諾し,家族の安全を守るために,労役に応じた。この嘘偽りの姦計によって,ユダヤ人を登録し,その後にゲットーに登録したユダヤ人を強制移送した。こうして,ユダヤ人たちは,外界との接触を断たれ,隔離された。

写真(右)1940年,ドイツ占領下のフランス労働者の奴隷状態を示す反ドイツポスター:「われわれフランス労働者は,諸君に忠告する,敗北は,奴隷化,飢餓,そして死滅を意味すると。」
米議会図書館引用


独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人1万9953名が第一陣として、ポーランドのウーチ・ゲットーに強制移送された。1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなるとされた。

ユダヤ人問題の「最終解決」は,戦前は,ユダヤ人のドイツからの追放だったが,戦時中は,強制収容所に拘束し奴隷労働に従事させ,疲弊し病気になった労働不能者を処分することだった。

アーリア人を人種汚染し,ユダヤ人共産主義者がソ連を,ユダヤ人金融資本家・マスメディアがアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域もない。このような状況で,ヨーロッパのユダヤ人排除とは,ユダヤ人殺戮に至ってしまう。

1942-43年中に,ゲットーのユダヤ人は全員,強制収容所あるいはトレブリンカなどの絶滅収容所に移送された。

◆ナチス指導者,一般市民は,収容所に送り込まれたユダヤ人の運命を察することができた。しかし,誰もその責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズムNihilism ,不穏当でだっても現実を受け入れてしまう不当現実主義である。

ゲットーのような悲惨な状況にユダヤ人が囲い込まれた理由は,ドイツ民族の敵,ドイツ人を人種汚染する下等劣等人種とした差別があったからである。優秀なアーリア人は,冷徹な使命感を持って,このようなユダヤ人を排除しなければならず,同情するのは,弱さのしるしとして,軽蔑された。こうして,エセ科学で粉飾された差別観が,特定人種民族に対する迫害,虐殺に繋がっていった。

ナチスは,ゲットーに囲い込み管理できるようになったユダヤ人を,東方ソ連に追放,移住させれば,ドイツにとっての災いの種になることを知っていた。そこで,ナチスは,ゲットーに集めたユダヤ人を,困窮するに任せた。物資不足の中で,貧しく弱いユダヤ人たちから,順次,死んでいった。

トレブリンカ絶滅収容所への強制移送は,独ソ戦開始1ヵ月後の1941年7月20日から開始された。しかし,労働力として使えるユダヤ人をヒトラーが殺すわけはない,と考えるユダヤ人も多かった。ゲットー住民は,行き倒れ,病死,餓死しているのを,ドイツが放置している状況をみていた。

ワルシャワ・ゲットー写真解説を読む。


5.フランスからのユダヤ人移送 

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。
これはあくまで過激な表現のプロパガンダに過ぎない,と誤解したドイツ人,連合国指導者もいた。

写真(右)1940年,ドイツ占領下のパリで辱められるユダヤ人:ユダヤ人は「この土地にユダヤ人は望ましくない。純粋なアーリア人と取引しよう。」と書いてある看板をぶら下げて晒し者にされた。1940年6月22日,フランス降伏で,ドイツ軍に占領されたパリでは,ユダヤ人迫害が始まった。第一段階は,1933年のナチス政権奪取直後と同じく,富裕なユダヤ人を辱める行為である。ユダヤ人を孤立させ,登録させてから,収容所に移送した。このようはユダヤ人迫害には,親衛隊だけではなく,ドイツ国防軍,フランス警察も加わった。
Frankreich, Paris, 1940, Zivilist mit einem Schild: "In diesem Lokal Juden unerwünscht! Rein arischer Betrieb" Dating: 1940 Photographer: Ege, Hermann 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1933年,ナチス政権奪取直後から,敵性住民・下等劣等人種として,ユダヤ人を迫害したナチスは,占領地のユダヤ人を排除しようとした。その第一歩が,強制収容所やゲットーへのユダヤ人強制移送である。

◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。

ドイツ軍はモスクワ前面で敗退したが,これは決して,ロシアの厳寒「冬将軍」のためではない。?ソ連軍が厖大な予備兵力を擁していたこと,
?極東方面の第一線部隊をモスクワ前面に移送・配置したこと
?ソ連侵攻中の虐殺事件にドイツ軍将兵の中に殲滅戦争継続への疑問がうまれたこと
が指摘できる。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした。

◆国際金融・マスメディア・ボリシェビキを支配するユダヤ人がドイツを破滅させようとルーズベルト,チャーチル,スターリンを操っているのであれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである。妄想的な宿命論を信じたヒトラーは,参戦義務がないにもかかわらず,対米宣戦布告をした。いままで,宣戦布告など一切問題としなかったヒトラーだが,世界のユダヤ人相手の最終戦争は,自ら宣戦布告すべきであると判断した。ドイツ占領下のユダヤ人が排除される方針が決定した。

写真(右):1941年8月,フランス,パリでユダヤ人を登録するフランス官憲;ドイツ占領地フランスでも,ユダヤ人は居住地から追放され,s強制収容所に移送されることになった。これは,ドイツ人だけではなく,親衛隊に参加したフランス人,フランス警察なども加担した。追放されるユダヤ人は,家屋・土地など不動産はもちろん,資産,家具から仕事・教育,移動の自由まで失った。
原資料解説:Zentralbild II. Weltkrieg 1939 - 1945 In dem von der faschistischen deutschen Wehrmacht besetzten Frankreich, im August 1941. Französische Polizei verhaftet auf Weisung der deutschen Besatzer die Juden und nimmt die Personalien auf. 8281-41 Dating: August 1941
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1940年のフランス降伏のとき,フランスにはユダヤ人33万人が居住していたが,その半数は外国ユダヤ人だった。そして,ペタン元帥が国家主席に就任した1940年7月11日,国際ユダヤ資本が,フランスを弱体化したとして,公式に反ユダヤ主義を国家目標に掲げることになった。

1940年9月27日,ドイツはフランス占領地区で,ユダヤ人の登録,ユダヤ企業の深刻を命じるユダヤ人取締法を出し,ヴィシー政権も,管轄している内陸南東部「自由フランス地区」で,同様の法律を制定した。これによって,ユダヤ人と定義されたものは,公務員,教師,将校,雑誌編集,劇場支配人など,数パーセントの最大限の就業枠が定められ,それを超えるユダヤ人は排除された。

1941年5月14日,パリ在住の外国ユダヤ人3747人が,フランス国内の強制収容所に収監された。このとき逮捕されたユダヤ人が,一般フランス人と接触することを避けるために,収容所にぬかう列車には「伝染病注意の黄色い旗」が掲げられた。伝染病予防を理由とするユダヤ人隔離は,ポーランドのゲットー収監と同じ理由である。

1941年8月下旬,フランス警察,ドイツ軍野戦憲兵2400人が,ユダヤ人,共産主義者など4232人を逮捕し,ドランシー収容所に送った。(渡辺和行(1994)『ナチ占領下のフランス―沈黙・抵抗・協力 (講談社選書メチエ)』引用)

写真(右):1941年,フランス,パリ南50キロ、ピティヴィエの強制収容所に一時収監された5000人のフランス系ユダヤ人;ドイツ占領地フランスでも,ユダヤ人は居住地から追放され,ポーランドに設置された強制収容所に移送されることになった。これには,ドイツ親衛隊だけではなく,フランス官憲も加担した。追放されるユダヤ人は,家屋・土地など不動産はもちろん,資産,家具から仕事・教育,移動の自由まで失った。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L18974 Original title: info Scherl Bilderdienst Konzentrationslager für Juden in Frankreich [1941] In der Gegend von Orleans ist ein Konzentrationslager für ca 5000 Juden, die aus den besetzten Sudeten, Polen, Tschechoslowakei etc nach Frankreich geflüchtet waren, eingerichtet worden. 5332-41, Fulgur ADN-ZB-Archiv Frankreich in der Periode der deutschen Okkupation und des Vichy-Regimes 1940/44 Ein neuer Transport ausländischer Juden, die in Paris festgenommen wurden, ist im Internierungslager Pithiviers im Departement Loiret eingetroffen. (Auf.: 1941, Fulgur) 5332-41 Dating: 1941 Photographer: o.Ang. Französische Polizei verhaftet auf Weisung der deutschen Besatzer die Juden und nimmt die Personalien auf. 8281-41 Dating: August 1941
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1941年12月,ユダヤ人著名人1000名が逮捕され,ユダヤ企業に10億フランの罰金が課せられた。
1942年2月2日,ユダヤ人は住所変更が禁止され,20時以降の外出も禁止された。5月29日,ユダヤ人は胸に黄色のダビデの星を着用することが命じられた。

7月8日,ユダヤ人は,レストラン,映画館,劇場,美術館,コンサート,図書館,スポーツ施設,公衆電話,定期市を使用禁止とされた。

このように,フランス国内に於ける反ユダヤ主義,ユダヤ人虐待には,ナチス親衛隊だけではなく,フランス人の果たした役割が大きい。1942年5月,フランスに駐留するナチス親衛隊は2千人弱,ドイツ国防軍兵士も25万人だった。

親衛隊2千人に対して,フランス警察はパリだけでも3万人が,ドイツの監督の下に置かれていた。親衛隊の下にある秘密警察ゲシュタポのスパイ・傭兵(民兵)となったフランス人は,3万2千人だった。フランスに於けるユダヤ人排除やレジスタンス弾圧には,ドイツ人よりもはるかに多数のフランス人が加わっていた。ヴィシー・フランスは,敗戦後のフランスの統治,対独協力に大きく寄与していた。


写真(右)1940年6月,ナチスドイツの武装親衛隊,第3SS装甲師団「トーテンコプ」(髑髏):第3SS装甲師団は「髑髏」Totenkopfとよばれ,強制収容所の看守や警備員などを中核とした親衛隊からなる。
1940年5月のドイツ軍フランス侵攻に際しては,第3SS装甲師団3rd SS Division Totenkopfは,陸軍のA軍集団に配属され,参戦した。このとき,師団の一部隊が,英軍ロイヤル・ノーフォーク連隊の捕虜99人のうち97人を処刑した。生き残った2名が,承認となり,戦後1948年に指揮官が絞首刑に処された。
髑髏師団は,フランス侵攻に際して,フランス北端カンブレーで1万6,000人の捕虜を得た。その後,英軍の頑強な抵抗にあった髑髏師団は,対戦車戦闘に苦戦し,ドイツ空軍の急降下爆撃機によって救われた。そして,フランス降伏後,1941年4月まで,フランス南部に駐留した。
SS-Totenkopf-Division Küstenschutz 1.6.-7(?)6.1940; S-Art.Abt./SS-T.Div Dating: Juni 1940 Photographer: Ege, Hermann撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年9月にヴィシー政権は,ドイツ企業によるフランス人労働者の募集を認め,ドイツの出稼ぎを奨励した。ドイツは,フランス人労働者25万人を要求した。そこで,ドイツ軍の捕虜となっているフランス兵士1人の釈放・本国送還と引き換えに,フランス人労働者3人をドイツに派遣する「交代制」が決まった。

交代制に応じるフランス人労働者は5万3000人しかなかった。そこで,1942年9月,ラヴァルは,全国労働局を設置して,国家労働義務化制度を導入,12月までに18万6000人の労働者を動員し,ドイツに派遣した。(渡辺和行(1994)『ナチ占領下のフランス―沈黙・抵抗・協力 (講談社選書メチエ)』pp.142-147引用) 

ポスター(右)1940年代初期,ヴィシー・フランスの反ユダヤ主義プロパガンダ:悪賢い金持ちのユダヤ人は,星条旗とソビエト共産党旗の背後にいて,アメリカ大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltや共産主義者を操って,世界戦争を仕掛けている。国際金融界を牛耳るユダヤ人は,アンクルサム Uncle Sam(アメリカの象徴)を金で,ロシア人をイデオロギーで操って,対ドイツ戦争を仕掛けようとしている。

フランスのドイツ協力派閥であるペタン主席のヴェィシー・フランスも,世界大戦は,ユダヤ人金融資本家が仕組んだ陰謀であると主張した。フランス国内でもユダヤ人狩りが行われた。
Nazi Posters: 1933-1945;the German Propaganda Archive引用。


加藤克夫(2006)「第二次世界大戦期フランスの「強制収容所」とユダヤ人迫害の「再記憶化」」『社会文化論集』 島根大学法文学部紀要社会文化学科編には,次のような記述がある。

フランスでは,1939-45年の間,収容所に収容された者の数は60万人にのぼると推定されている。アウシュヴィッツの「控えの間」として知られるパリ郊外のドランシー収容所もこうした収容所のひとつである。ドランシー収容所の起源は,もともとは低家賃住宅(H.L.M.)として建設中であった建物を1939年10月から共産主義者やその支持者の収容所として用いたことにある。

フランスが敗北した1940年6月以降,ドイツ軍によるフランスやイギリスの戦争捕虜収容所となり,1941年8月から1944年8月までは文字通りユダヤ人の強制収容所として機能した。この間,ドイツの占領地区,非占領地区を問わず全国からユダヤ人がドランシー収容所に送られ,その多くは数日滞在しただけで,ドランシー/ル・ブルジェ駅から特別列車に乗せられてアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られていった。 

写真(右)1941年8月,パリで検問されるユダヤ人:手前に座ってパスポートを検査しているのは,ドイツ国防軍兵士。このようなユダヤ人摘発には,フランス警察も協力している。オリジナル解説には「ファシストのドイツ国防軍兵士が,フランス占領下,ナチスの人種法を適用した。パリのユダヤ人のパスポートを検査し,拘束している。」とある。
Nach der Besetzung Frankreichs durch die faschistische deutsche Wehrmacht werden die nazistischen Rassengesetze auch in Frankreich eingeführt. Die Pässe festgenommener Juden in Paris werden geprüft. 8281-41 August 1941 Dating: August 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドランシー収容所には総計約8万人のユダヤ人が収容されたが,そのうちの88% にのぼる約6万7千人のユダヤ人が絶滅収容所に送られた。ドランシー収容所は,全国のユダヤ人を集めて絶滅収容所に送るための「一時滞在収容所」(le camp de transit)であり,フランスにおけるユダヤ人迫害を象徴する場だったのである。

敗戦後フランスを占領したドイツ占領軍当局は,1940年9月27日,占領地区におけるユダヤ人の人口調査を命じるオルドナンスを発布してユダヤ人にたいする抑圧の姿勢を示した。

一方,ヴィシー政府も外国人にたいする規制強化策を講じていたが,1940年10月上旬に相次いでユダヤ人に関する法を制定して抑圧を強化していった。10月3日に制定された「ユダヤ人の地位に関する法」では,ユダヤ人を「3人のユダヤ人種(race juif)の祖父母を有する者,あるいは2人のユダヤ人種の祖父母を有し,かつ配偶者がユダヤ人の場合ユダヤ人とみなされる」と規定し,ユダヤ人が大臣や高級官僚,軍の将校などの公職,あるいは自由業,ジャーナリズム,映画,演劇などの職業に従事することを禁止,ないしは規制した。また,10月4日の「外国出身のユダヤ人種に関する法」は,外国出身のユダヤ人を「特別収容所」(des camps spéciaux)に収容したり,居住地を指定する権限を県知事に与えた。

写真(右)1941年8月,パリから移送されるユダヤ人の集団:フランス降伏後,ユダヤ人迫害は,フランスにも及んだ。このようなユダヤ人の強制収容所あるいはゲットーへの強制移送は,親衛隊SSに加えて,ドイツ警察さらにはフランス警察も協力した。
Im besetzten Gebiet. (Frankreich) Festnahme von Juden in Paris. - Die Festgenommenen im Sammellager. PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Wisch (Sch) 82814-41 Aug. 41 Dating: August 1941 Photographer: Wisch 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年,フランス,ボーヌ・ラ・ロランドの一次的な収容所バラック:囚人はユダヤ人のようで,これからドイツあるいはポーランドの強制収容所に送られた。
Frankreich.- Beaune-la-Rolande, Gefangene (Juden?) vor Baracken / Unterkünften; PK 696 Dating: 1941 Photographer: Dieck撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年3月には,反ユダヤ主義政策を推進する中心組織「ユダヤ人問題総合委員会」(CGQJ)が設置された。こうして外国籍ユダヤ人を中心に数多くのユダヤ人が拘束され,各地の収容所に収容されるようになった。そして,1942年6月,ドイツ占領軍当局がユダヤ人10万人の移送を割り当て,ヴィシー政府が協力を約束したのを契機に,ユダヤ人の一斉検挙と強制移送が本格化した。

写真(右)1943年1月24日,南フランス,マルセイユ、ユダヤ人居住地区の爆破を準備をするドイツ軍兵士:金属鍋に可燃性の燃料を入れて運搬しているのか。親衛隊SS配下の警察,フランス軍・官憲がフランス在住ユダヤ人を摘発、強制収容所に移送し、彼らの居住地区を爆破した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-027-1480-18 Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649 Dating: 24. Januar 1943 Photographer: Vennemann, Wolfgang Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年1月24日,南フランス,マルセイユ、ユダヤ人居住地区の爆破準備をするドイツ軍兵士:ドイツ軍兵士は、石油缶や塗料缶に可燃物を入れて運搬し、マルセイユのユダヤ人居住地区を破壊しようとしている。ユダヤ人は、アーリア人を人種汚染し、アーリア人に戦争を仕掛けてきたとヒトラーやナチスシンパは邪推していたから、彼らを排除するのは民族共同体の利益に適った行為だった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-027-1480-19 Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649 Dating: 24. Januar 1943 Photographer: Vennemann, Wolfgang Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年1月24日,南フランス,マルセイユのユダヤ人居住地区がドイツ軍兵士によって爆破、破壊された。:Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-027-1480-29 Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649 Dating: 24. Januar 1943 Photographer: Vennemann, Wolfgang Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 親衛隊SSは配下の警察,フランス軍・官憲の協力を得て、フランス在住ユダヤ人を摘発し強制収容所に送り込んだ。彼らの居住区は、敵性地区、スパイ地区として爆破された。ユダヤ人は、アーリア人を人種汚染し、アーリア人に戦争を仕掛けてきたとヒトラーやナチスシンパは邪推していたから、彼らを排除するのは明らかに民族共同体(アーリア人の大ドイツ帝国)の利益に適った行為だった。

フランス・ユダヤ人実施された人種的理由(ユダヤ人問題最終解決)の一斉検挙の最大規模のものは,1942年7月16日から17日にかけてパリで行われた一斉検挙である。

フランス警察庁長官ルネ・ブスケのパリの代理人ジャン・ルゲーを実行責任者とするこの一斉検挙(ヴェルディヴ事件)は,「春の嵐作戦」と名付けられ,約4600人のフランス人警官や憲兵を動員して実施された。二日間で,子供4051人を含む1万2884人が検挙され,約6000人がドランシー収容所に送られ,子供を含め約7000人はヴェルディヴに仮収容された。非占領地区でも8月26日から28日にかけて一斉検挙が実施され,約6600人が検挙された。

写真(右)1943年1月24日,南フランス,マルセイユ、フランス官憲に警護する中、強制収容所に移送されるフランス・ユダヤ人:親衛隊SSだけでなく、それに協力したフランス軍・官憲がユダヤ系フランス人を摘発し、強制収容所することに協力した。地理や言語、行政や治安の上からも、フランス人の協力なくしてフランスのユダヤ人を排除することはドイツ人にはできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-027-1477-21 Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649 Dating: 24. Januar 1943 Photographer: Vennemann, Wolfgang Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツに降伏したフランスでも、ユダヤ人排斥が始まった。ユダヤ人を逮捕し強制収容所に送る作業には、ドイツ親衛隊SSだけでは十分な人員が確保できなかった。そこで、フランス軍・官憲がユダヤ系フランス人を摘発し、強制収容所に拘束するのに参加することになった。このようなフランス人による対ドイツ協力は、地理や言語、行政や治安の上からも、ドイツのユダヤ人問題の最終解決に大いに貢献した。ドイツ占領下のフランスでも、傀儡ヴィシー政権下のフランスでも、フランス人の協力なくしてフランスのユダヤ人を排除することはドイツ人にはできなかった。

写真(右)1943年1月24日,南フランス,マルセイユ、フランス官憲に警護する中、強制収容所に移送されるフランス・ユダヤ人:親衛隊SSがマルセイユ駅に整列して、ユダヤ系フランス人が自動車で運ばれてくるのを待っている。これから列車に乗り換えて、フランスの中継収容所に移送される。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-027-1476-18A Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649 Dating: 24. Januar 1943 Photographer: Vennemann, Wolfgang Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年1月24日,南フランス,マルセイユ、ドイツ軍兵士にフランス軍兵士・官憲が協力してにマルセイユの鉄道駅まで運ばれてきたフランス系ユダヤ人。彼らは、このマルセイユの駅で、列車の貨物車に載せられて、フランスあるいは東部の強制収容所に輸送される。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-027-1476-21A Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649 Dating: 24. Januar 1943 Photographer: Vennemann, Wolfgang Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年1月24日,南フランス,マルセイユ、ドイツ軍は、ユダヤ系フランス人を自動車でマルセイユの鉄道駅まで運んできた。ここで、列車の貨物車に載せ換えて、フランスあるいは東部の強制収容所に輸送する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-027-1476-22A Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649 Dating: 24. Januar 1943 Photographer: Vennemann, Wolfgang Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


人種的理由だけでギュルス収容所に収容されたユダヤ人の数は,1940年10月24日から1944年11月1日にかけて1万9185人にのぼる。その中の3907人(この期の全収容者の18%)が,1942年8月6日から1943年3月3日にかけて計6本の特別に仕立てられた列車に乗せられて,目的地も告げられぬまま近くのオロロン駅から移送されていった。彼らは,ドランシーを経由して,アウシュヴィッツに強制移送されたのである。これに,他の収容所に移送された後に絶滅収容所に送られた者を加えれば,約1万4000のユダヤ人が直接あるいは間接的にドランシーをへて絶滅収容所に送られていった。(加藤,克夫 「第二次世界大戦期フランスの「強制収容所」とユダヤ人迫害の「再記憶化」」引用終わり)

写真(右)1943年1月24日,南フランス,強制収容所に移送されるフランス・ユダヤ人:親衛隊の警察,フランス軍兵士が,鉄道駅で,フランスのユダヤ人を自動車から降ろし,貨物列車に移乗させている。フランスの軍・警察の協力があって,フランスに住んでいたユダヤ人を特定し,彼らを登録して,強制収容所に収監することが可能になった。
Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649 Dating: 24. Januar 1943 Photographer: Vennemann, Wolfgang Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


2006/08/29【共同通信:パリ】には,次の記事がある。

第二次大戦中、ナチスの命令に基づきフランスから各地のユダヤ人収容所に送られたユダヤ人の家族やその遺族ら計約200家族が、移送を請け負ったフランス国鉄に損害賠償を求めることを決めた。

賠償を求めるのはフランスのほかイスラエル、ベルギー、米国、カナダに住むユダヤ人の家族ら。国鉄はユダヤ人が殺害される可能性があることを知りながら、水や食事を与えずに劣悪な環境の家畜用貨車で運んだ責任があると主張している。
請求額は総額数100万ユーロ(1ユーロ=約149円)になる見込み。

遺族らは今月中に国鉄に賠償を求める書簡を送付。回答に2カ月の猶予を与え、賠償に応じない場合は提訴する意向という。フランス政府にも賠償を求める方針。(引用終わり)

戦前、フランスには約33万人のユダヤ人が居住、うち約7万6000人が第二次大戦中に強制収容所に移送された。生還者は約2500人だった。(2006読売新聞2006年9月6日

1942年11月8日,ドイツ軍が東部戦線スターリングラードに包囲されていた時期,米英連合軍は,北アフリカに上陸,北アフリカにきていたフランス海軍ダルラン提督は,連合軍と休戦に合意した。

しかし,対独協力派のフランスのダルラン提督に対して,抗戦派の自由フランスやレジスタンスの反発は強く,クリスマスには,ダルラン提督暗殺事件が起きた。自由フランスを率いた亡命将軍シャルル・ドゴール将軍は,前年からレジスタンスはすべて自分の指揮する自由フランス軍に統合されるとの方針を打ち出していた。ドイツ軍はフランス全土を占領下に置いた。


6.ユダヤ人を助けたフランス人・イタリア人

(1)ユダヤ人5000名を庇護した南仏シャボン・スル・リニュン村

 1940年6月,フランスが降伏すると,北フランスは独軍占領下におかれたが,南仏は一時期,親ドイツのヴィシー政府の管轄となった。

キリスト教ユグノー派Huguenotの多いシャボン村では,牧師アンドレ・トロクメが,中心となって,匿っている村人のネットワークを作り,協力し合った。

 オランダのニーウラントでも,1942-1944年に数百名のユダヤ人に避難所を提供したという。

(2)ユダヤ人を虐殺しなかったファシスト・イタリア

 ベニート・ムッソリーニBenito Amilcare Andrea Mussolini統領(ドゥーチェIl Duce:1883-1945)率いるファシスト党は,枢軸国として連合軍と戦ったが,戦時中,ムッソリーニが権力をにっぎている間,ユダヤ人迫害は行わなかった。イタリアのユダヤ人口は,0.1%と少なかったが,ドイツによるフランス占領後,多数のユダヤ難民がイタリアに流入してきた。

イタリア軍が占領したフランス,クロアチア(すぐ独立しイタリア人の国王を形式的に樹立),ギリシャの地域では,ユダヤ人は迫害されなかった。イタリア支配下では,ユダヤ人に黄色のダビデの星をつけることもしなかった。

ファシスト党のムッソリーニは,外国籍あるいは無国籍のユダヤ難民をフェラモンティと,カンパーニャの抑留者収容所に送った。しかし,イタリア・ユダヤ人には,自宅軟禁の措置しか取らなかった。実際,イタリアでは,ドイツのような似非科学によるユダヤ人の定義・厳格な住民登録はなく,規則の運用に注意が払われていなかった。

 ムッソリーニは,尊大な自尊心,ローマ帝国以来の偉大なイタリアで,ユダヤ人迫害のような品位に悖る行為を犯したくなかったのかもしれない。あるいは,イタリア国民の統合,カトリック総本山のバチカン(ラテラーノ宗教協約)との関連から,宗教的な紛糾を避け,国民の団結を重視したとも考えられる。

一般合理性に基づけば,ユダヤ人を排除・絶滅するという行為が,国力や軍事力を高めることはないことは,明白だった。ユダヤ人が,人種汚染している,ユダヤ人が共産主義,金融資本家,マスメディアを操って,戦争を仕掛けてくる,とでも妄想しなければ,ナチスのユダヤ人排除論を実行に移す理由はないのである。

 ヒトラー総統は,1933年のドイツ再軍備宣言直後,英仏伊のストレーザ戦線(再軍備宣言したドイツへの対抗)を脅威に感じ,イタリア統領(ドゥーチェ)ムッソリーニとの協力関係を重視した。領土要求の中では,唯一完全に譲歩して,民族ドイツ人の住んでいたチロル領有を放棄し,イタリア領とすることに合意した。ユダヤ人問題についても,ムッソリーニの意向を無視することはできなかったのである。

 しかし,1943年,連合軍のシチリア上陸以降,ファシストの内部分裂,パルチザン活動の活発化の中,イタリア国民の厭戦は高まっていた。1943年7月25日,イタリアのファシスト評議会は,ムッソリーニ統領を解任・逮捕し,ピエトロ・バドーリオPietro Badoglio将軍(1871〜1956)が国王とともに主導する政権が誕生した。バドリオ政権の反ドイツ,枢軸国離脱は明らかだったので,ドイツ軍は,即座にイタリアに侵攻した。1943年9月8日,イタリアが連合国と休戦すると同時に,ドイツ軍はイタリアを占領し,イタリア軍を武装解除し,軍政を敷いた。9月,拘束されていたムッソリーニは,ドイツ軍降下猟兵(空挺部隊)に救出され,ムッソリーニは親独傀儡サロ政権(イタリア社会共和国)首班に据えられた。

 1943年秋から1944年にかけて,イタリア・ユダヤ人の一斉検挙,強制移送が始まった。イタリア警察も謙虚に動員されたが,必ずしも親衛隊に協力的ではなかった。4万名のイタリア・ユダヤ人のうち,殺害されたのは,8000名だった。

ジュリエッタ荘の幽霊 (文学の森)ベアトリーチェ・ソリナス・ドンギ『ジュリエッタ荘の幽霊』小峰書店は,第二次世界大戦の末期の北イタリアを舞台にした小説である。

母親と八歳の弟フレードと一緒に母親の故郷の山村に疎開していたリッリは,父がドイツ軍の捕虜としてポーランドの収容所に送られててしまった。村にもドイツ軍兵士とその協力者であるイタリア人ファシストが来ることもあった。山中では,ハンファシストのイタリア人パルチザンが潜んでいた。

山村には,ファシストに通じる者もあったが,パルチザンに食糧を届けたり,ユダヤ人を匿ったりしている村人もいた。闇取引や中立国スイスとの密貿易を盛んだった。リッツは,ジュリエッタ荘に匿われていたユダヤ人の少女と友達になり,その窮地を救い,スイスに逃亡させる手助けをした。

1943年9月にドイツ軍に救い出されたムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国は,北イタリアを支配し,そこでユダヤ人迫害を行ったが,『ジュリエッタ荘の幽霊』は,ファシスト支配下の北イタリア山村の物語である。

連合国とイタリア軍によるイタリア解放は,思いのほか遅れ,ローマ解放は1944年6月4日,フィレンツェ解放は1944年8月だった。連合軍はイタリア戦線を,ノルマンディ上陸作戦の下位においたから,遠征兵力は手薄であり,航空支援も貧弱だった。ドイツ軍は,ケッセリング将軍に率いられ,アペニン山脈に幾重もの防衛線を構築して抵抗した。ミラノ,トリノ解放は,1945年4月25日のことだった。

ムッソリーニは,敗北を悟り,コモ湖畔にまで逃亡したが,パルチザンに発見され,拘束された。4月28日銃殺。そして,ムッソリーニの死体は,愛人クラレッタ・ベタッチの遺体と共に,4月29日,ミラノのロレート広場で逆さ吊りにされた。ここは,前年,パルチザンがファシストによって晒し者にされた場所だった。

4月25日は第一義的には、イタリア人がドイツ軍・ファシズムに打ち勝った「本土決戦」による解放記念日となり,対ファシズム戦争を戦ったパルチザンを讃える日である。1946年に国民投票では,ムッソリーニ政権を許した王制を選択せず,共和制を選び,ファシズム体制を一新した。やはり,イタリアは「戦争に勝った」のである。

実際,ドイツ傀儡政権の下でも,ユダヤ人の逃亡を見逃したり,助けたりしたイタリア人は少なくなかった。この理由は,
?イタリア型のユダヤ人強制移送が開始されたのが,1944年後半で,ドイツの敗色が濃くなっていたので,戦後の世罰を恐れた
?イタリアにおける親衛隊の操作能力が低く,イタリア人がドイツに反感を高めていた
?イタリアにおけるアンチセミニズムは強くはなく,ユダヤ人虐殺が実行されているの情報が共有される中,人間の品格を失わせる行為に加担しなかった
ということが考えられる。一部の識者は,ヒトラー総統同様に,イタリア軍は弱い,イタリア人には規律がないと非難するが,ユダヤ人迫害を押しとどめようとした点で,イタリア人の勇気と良識には感服する。その反骨精神,人生謳歌には,同感できる。


7.ユダヤ人問題の最終解決:殺戮

◆ヒトラー総統は,ソ連に侵攻,領土を拡張したのであって,ウクライナの独立・自治を認めるつもりはなかった。プロパガンダとして,ウクライナ独立を期待させ,協力させる武装親衛隊を編成することに譲歩しただけだった。
したがって,占領した東方ソ連の肥沃な大地に,ユダヤ人を追放することは考えられない。

英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画されたことはあるが,戦時中,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。また,早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。収容したユダヤ人の処置が緊急問題となった。

同盟国イタリアのユダヤ人に対しては,ドイツも直接介入できなかった。しかし,1943年後半,ムッソリーニ政権が倒されると,ドイツ軍はイタリアを占領した。空挺部隊を派遣して,監禁されていたムッソリーニを救出したヒトラーは,ムッソリーニを再び傀儡政権を樹立,ユダヤ人狩りを開始した。

ユダヤ人絶滅の方針は,最高機密とされたが,それは,殺戮を行っていることが知れれば次のような支障が生じるからである。

?ユダヤ人が殺害されると知れば,反乱を起こす。そこで,ユダヤ人の積極的な抵抗を防止するために,東方への移送,収容所での労働を偽りの名目として,絶滅収容所へ移送した。

?ユダヤ人絶滅のような残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。

?後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人殲滅戦争は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にもユダヤ人殺戮を秘匿する必要があった。
 

写真(右)1941年末,ソ連、?号戦車D型の雪中運行の支援:雪,氷の厳寒を進軍するのは大変だった。右側に,カメラを構えた宣伝班員が見える。中央の長身の兵士は,東部戦線に派遣された反共フランス人義勇兵かもしれない。
Sowjetunion.- Panzer IV Ausf. D mit weißem Tarnanstrich im Schnee steckend.- Soldaten beim Freischaufeln des Panzers; am rechten Bildrand: Kriegsberichter (Kameramann der Propagandakompanie) mit Filmkamera; PK 694 Dating: 1941 Ende Photographer: Gebauer 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


  1943年1月,第二次大戦における最大規模の決戦となったスターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった時期,ゲットーでユダヤ人が生きながらえていることに,ヒトラーは耐えられなかった。ついに親衛隊ヒムラー長官に,全ユダヤ人を殲滅する口頭命令を下した。

第二次大戦中,軍需生産を拡大するには,労働力が必要で,そのために,ナチス・ドイツでも,ユダヤ人を労働者として雇い入れる,このような姦計・策略を親衛隊SSは行った。当初は,絶滅収容所に到着したユダヤ人が投函した「労働収容所」に関する手紙もゲットーのユダヤ人に着いたようだ。もちろん,これは,親衛隊が,一部のユダヤ人を労働任務につかせて,ゲットーのユダヤ人を欺いたものだった)。

同盟国ファシスト・イタリアのユダヤ人に対しては,ドイツも直接介入できなかった。しかし,1943年後半,ムッソリーニ政権が倒されると,ドイツ軍はイタリアを占領した。空挺部隊を派遣して,監禁されていたムッソリーニを救出したヒトラーは,ムッソリーニを首班とする傀儡政権を樹立させ,ユダヤ人狩りを開始しさせた。

ヒトラーは,1941年12月11日,対米宣戦布告の国会演説を行った。ここで,独ソ戦で獲得した380万人余の捕虜,2万台余の戦車,1万7000機余の飛行機の破壊について言及した。そして,続けて,ドイツの戦死者16 万人,負傷者57万人,行方不明者3万3千人と大きな損害を公表した。

その翌日,ヒトラーは,ナチ党幹部(大管区指導者ガウライターなど)を集めて会議を開き,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で償わせなければならない」と述べた。

写真(右)1945年5月12日,マウトハウゼンMuhlhausen強制収容所グーセン Gusen 支所の囚人遺体:米軍が解放した強制収容所では,岩石採掘場での過酷な労働,栄養失調・病気などで,多数の囚人の死亡した。米軍は,ドイツ市民にいたいの埋葬を命じた。T4c. Sam Gilbert. (Army) NARA FILE #: 111-SC-204811,T4C. SAM GILBERT撮影。米国防総省 ID: HD-SN-99-02776引用。

ユダヤ人大量殺戮には,次のような障害があった。
?殺戮に伴う処刑者の精神的負担
?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
?大量殺戮発覚によるユダヤ人などの抵抗勢力の増大とユダヤ人の武力蜂起
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,ユダヤ人殺戮が事実上行われていた。労働に適しないユダヤ人は,ガス室が完備する前から,処分の対象だった。

ヒトラー総統や親衛隊にとって,ユダヤ人絶滅は与えられた宿命だったが,その障害は大きい。現在でも,その障害の大きさ故に,ユダヤ人絶滅が実施されたはずがないと誤解する者もいる。これは,当時のドイツやドイツ占領の一般市民,連合国の一般市民についても当てはまる。常識に即して考えれば,ユダヤ人絶滅に資源・国力を投入することは,無駄である。ヒトラーやヒムラーは,ユダヤ人絶滅を公言しているが,それは誇張されたプロパガンダで,ユダヤ人絶滅を実施するはずがない,このように考えるのは,当時の常識だった。

◆ヒトラー総統の政治的遺書には,ドイツ人を抹殺しようと戦争を仕掛けてきたユダヤ人を殲滅すべきであるとの人種民族差別が示されている。ヒトラーは,1939年1月の国会演説,1914年12月の対米宣戦布告の国会演説でも,ユダヤ人の共産主義者と国際金融資本が,ソ連と米英政治家を操ってユダヤ人世界支配のための戦争をドイツに仕掛けている,よってユダヤ人を殲滅するために世界戦争を戦うと公言した。1945年4月のヒトラーの政治的遺書でも,戦争に責任があるユダヤ人に対する絶滅戦争を継続するように指示し,自決した。

虐殺という忌むべき情報は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。 虐殺の事実を明確に認めようとしなかった,認めたくなかった人々は,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と不当な現実を肯定する無力なニヒリズムに陥っていた。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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