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◆ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
写真(上)1939年6月1日(第二大戦勃発3カ月前)、ノルウェー、オスロ飛行場、デンマーク国旗をコックピット上にはためかてタキシングするデンマーク航空のフォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」(Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania")
;後方には、ノルウェー航空(Det Norske Luftfartselskap, Fred. Olsen & Bergenske A/S)のカンプロー二Ca.310輸送機(Caproni Ca.310) LN-DAK "Brevduen" 、オランダ航空 (KLM Royal Dutch Airlines)のダグラスDC-2輸送機(Douglas DC-2-115E) PH-AKI "Kieviet"が見える。
Fra ventre til høyre: Focke Wulf Fw 200 Condor, OY-DAM "Dania" (Det Danske Luftfartselskab A/S), så Caproni Ca.310, LN-DAK "Brevduen" (postfly til Det Norske Luftfartselskap, Fred. Olsen & Bergenske A/S) og til slutt Douglas DC-2-115E, PH-AKI "Kieviet" (KLM Royal Dutch Airlines). Bildet tatt ved åpningen av Oslo/Fornebu, 1. juni 1939. Focke Wulf Condor åpnet den dagen ruten Oslo-Güteborg-København-Hamburg-London og Douglas DC-2 åpnet Oslo-Kristiansand-Amsterdam. Capronien ble brukt på nattpostruten Oslo-Güteborg-København Fotografering: 1939 Identifier: NL.99060005 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697481 UUID: EC002995-5BF6-4CD4-AB35-F1A72BC1360F
写真はForsvarets museer ・Identifier: NL.99060005 引用。

写真(上)1939年、ノルウェー、オスロ飛行場、ノルウェー国旗をコックピット上にはためかせ駐機するドイツ・ルフトハンザ航空フォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ノルドマルク」(Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark")。垂直尾翼に、赤地に白丸に黒のカギ十字(逆卍)のドイツ国籍マークを描いている。
;右側の旅客ターミナルには、視界のよい大きなガラス窓がはめ込まれているが、乗客たちは、すでに駐機場にコンドル旅客機を見物に集まっている。周囲には、ノルウェー国旗をはためかせている。
Oslo Lufthavn. Fornebu. Oslo lufthavn Fornebu, Lufthansa-fly med hakekors, mennesker, flagg Sannsynligvis fotografert ved åpningen av flyplassen 1.9.1939. Focke Wulf 200 Condor D-AMHC med navnet Nordmark. Fotografering: 1939 (ant.) Fotograf: Harstad, Karl Identifier: OB.F12037d (Identifier: NL.98220070の修正写真) Part of collection: Byhistorisk samling Owner of collection: Oslo Museum Institution: Oslo Museum Date published: August 13, 2014 Date updated: March 16, 2018 DIMU-CODE: 011014500310 UUID: 18701574-AE3A-4C98-84EE-E1480CF3D446
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: OB.F12037d 引用。

写真(上)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と乗機となったドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)
;東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」にドイツ総統アドルフ・ヒトラーを表敬訪問し、帰国したところ。1942年6月4日、マンネルハイム元帥は、75歳の誕生日にFw200輸送機に乗ってフィンランドを訪問したヒトラー総統への答礼として、大本営で作戦会議に出席、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥の下で歓迎も受けていた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Joukon ensimmäisenä harmaassa pitkässä takissa marsalkka Carl Gustaf Emil Mannerheim. Taustalla oleva lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3 (tunnus KE+IX).
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13129引用。

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


1.長距離大型輸送機フォッケウルフFw-200コンドル

写真(右)1938年頃、ドイツ、工場から出来上がったばかりの未塗装のフォッケウルフFw 200旅客輸送機:ドイツの国籍識別マーク、登録コードも記載されていない。手前上には、飛行機格納庫の出入り口の一部分が写っているが、このような四発大型機を収納できる大型格納庫は多くはなかったであろう。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079354 Manufacturer: Focke-Wulf .
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079354引用。


1930年代後半になると、アメリカのダグラス DC-3のような大型双発旅客機が登場し、大西洋横断航路、アジア航路の陸上機による空路開拓が本格化した。そこで、ドイツは、長距離大型旅客機の開発を進めることとし、フォッケウルフ社クルト・タンク技師の設計によるフォッケウルフFw200コンドルに着目した。Fw200試作1号機は、1937年7月に初飛行した。

Fw200四発輸送機は、BMW132G空冷星形9気筒エンジン720馬力を4基搭載、低翼式、全金属製の機体で、旅客用としては、乗客25人の乗せて、航続距離3,000Km以上を発揮した。そこで、Fw200の優秀性をアピールする大西洋横断が行われることとなった。

写真(右)1938年8月10日、ベルリンからニューヨークまで無着陸飛行したフォッケウルフFw 200旅客輸送機 試作1号機V1、D-AERE「ザールラント」(Saarland)(Focke-Wulf Fw 200 Condor D-AERE):ドイツの国籍識別マークは、1933年1月のナチ党政権以降、垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)になった。 ベルリンからニューヨークまでは、4,075 マイル (6,558 km)で逆風の中を 24時間55分、平均速力164 マイル (264 kmh)で飛行した。帰路は、順風なので 19時間47分、平均速力205 mph (330 kmh)で、8月13日にベルリンに到着した。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079355 Manufacturer: Focke-Wulf .
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079355引用。


1938年8月10日、フォッケウルフFw200コンドルは、ドイツのベルリンから北大西洋を横断して、アメリカのニューヨークへ飛行時間24時間56分で一気に無着陸で飛行した。帰国は、8月13日で、地球の自転にあった順風の為、飛行時間は19時間47分でベルリンに帰投した。1938年11月28日には、ベルリンから日本の東京への飛行にも成功した。

こうして、、フォッケウルフFw200コンドル輸送機は、ドイツルフトハンザ航空に採用され、さらにデンマーク、ブラジルへも輸出された。 Fw 200(A-0) V3 試作3号機(Werke Nr 3099)は「インメルマンIII」”Immelmann III” (D-2600, 後にWL-2600、26+00)として、アドルフ・ヒトラーの専用機として採用された。

写真(右)1938年8月,8月10日、ベルリンからニューヨークまで無着陸飛行したフォッケウルフFw 200旅客輸送機 試作1号機V1、D-AERE「ザールラント」(Saarland)(Focke-Wulf Fw 200 Condor D-AERE):ドイツの国籍識別マークは、1933年1月のナチ党政権以降、垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)になった。 ベルリンからニューヨークまでは、4,075 マイル (6,558 km)で逆風の中を 24時間55分、平均速力164 マイル (264 kmh)で飛行した。帰路は、順風なので 19時間47分、平均速力205 mph (330 kmh)で、8月13日にベルリンに到着した。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079353 Manufacturer: Focke-Wulf .
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079353引用。


wikipedia「アメリカのダグラス DC-3の成功により旅客機の市場が脅かされていたドイツでは、新たな長距離旅客機の開発を迫られていた。そのような中でルフトハンザ航空向けにクルト・タンクの設計で製造されたのがFw200であった。」確かに、DC-3旅客機は、乗客21名で、機体の信頼性も、堅牢性も高く、1936年から就航し始めた、優秀な双発旅客機で、アメリカン航空、トランスワールド航空、イースタン航空などアメリカの航空会社が採用し、イギリス航空、スイス航空でも導入された。

写真(右)1937-1938年,フォッケウルフFw 200旅客輸送機試作1号機 V1 D-AERE「ザールラント」(Saarland) :試作1号機は、1938年8月10日、ベルリンからニューヨークまで無着陸飛行した。後にFw 200 S-1 (S:sonder= special) D-ACON「ブランデンブルク」(Brandenburg)として再登録された。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives -Wulf Fw 200 Catalog #: 00079350 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 200 Official Nickname: Condor Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079350引用。


他方、フォッケウルフFw200コンドルの初飛行は、1937年7月27日で、量産機が民間航路に就航するのは、早くても1年後の1938年後半から、実際には、1939年からだった。したがって、Fw200の性能が、DC-3と同等であっては、二番煎じで、多数の販売は期待できない。 ドイツ・ルフトハンザ航空、クルト・タンク技師の目指したのは、大西洋を横断し、南北アメリカとヨーロッパとの間を結ぶ大西洋路線に使用できる長距離大型四発旅客輸送機だった。

写真(右)1937-1938年,フォッケウルフFw 200旅客輸送機試作1号機 V1 D-AERE「ザールラント」(Saarland) :この試作1号機は、1938年8月10日、ベルリンからニューヨークまで無着陸飛行した機体となった。後に改修されてFw 200 S-1 (S:sonder= special) D-ACON「ブランデンブルク」(Brandenburg)として再登録された。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Condor D-AERE Charles Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album PictionID:38235670 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002307.TIF .
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:38235670 引用。


フォッケウルフFw200コンドル輸送機は、BMW132空冷星形エンジン720hp4基装備で、乗客は最大25名で、DC-3の21名より僅かに多いだけだが、内装は豪華で、航続距離は3,500kmで、DC-3の2,400 kmより快適な長距離飛行が可能だった。Fw200試作1号機V1 D-AEREのデモ飛行が大西洋横断だったのは、それが可能な長距離輸送機であることを明らかにするためだった。フォッケウルフFw200コンドルの大西洋横断飛行は、1938年8月10日の往路が、ベルリンからニューヨークへ 6371kmを飛行時間24時間56分、平均速力255 km/hで無着陸飛行、8月13日の帰路が 6392 kmを飛行時間19時間47分、平均速力321 km/hで無着陸飛行したのは、
 特別仕様の機体とは言え、世界の注目を浴びた。大西洋横断の高速空路が運航目前に迫ったとの印象を与えたのである。

写真(右)1938年8月,8月10日、ベルリンからニューヨークまで無着陸飛行したフォッケウルフFw 200旅客輸送機 S-1 (S:sonder= special)型 D-ACON「ブランデンブルク」(Brandenburg) :この機体は、試作1号機V1、 V1 D-AERE「ザールラント」(Saarland)と同じで名称を変更。 Focke-Wulf Fw200 Condorは、ベルリンからニューヨークまでは、4,075 マイル (6,558 km)で逆風の中を 24時間55分、平均速力164 マイル (264 kmh)で飛行した。帰路は、順風なので 19時間47分、平均速力205 mph (330 kmh)で、8月13日にベルリンに到着した。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Condor D-AERE Charles Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album PictionID:38235670 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002307.TIF .
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:38235670 引用。


フォッケウルフFw200コンドルは、ドイツ・ルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)、デンマーク航空(DDL: Danish Airlines)、ブラジル航空が採用した。また、1939年9月の第二次世界大戦の勃発で、実機を受け取れなかったが、大日本航空もFw200輸送機を購入する予定だった。しかし、戦時中もルフトハンザ航空は、スペインなど同盟国への民間航路を維持していた。

写真(右)1937-1938年,ドイツルフトハンザ航空フォッケウルフFw 200 A-O旅客輸送機試作4号機 Fw 200 V4 (V = Versuchsflugzeug, test aircraft) (D-ADHR) (W.Nr. 2893) D-ADHR :このFocke-Wulf Fw200 Condor試作4号機は、1938年6月27日、ベルリンからギリシャのサロニカ(Salonica)を経由してエジプト、カイロまで飛行した機体となった。後に改修されてFw 200 S-1 (S:sonder= special) D-ACON「ブランデンブルク」(Brandenburg)として再登録された。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Condor D-AERE Charles Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album PictionID:38235670 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002307.TIF .
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:38235670 引用。


写真(右)1937-1938年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200旅客輸送機「ノルドマルク」 "Nordmark" V3 (V = Versuchsflugzeug, test aircraft) (D-AMHC) :この試作3号機(Wk.Nr. 2895)は、1940年、ドイツ空軍に徴用され"GF+GF"として再登録された。 1943年、スターリングラード空輸作戦に参加し、喪失。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079358 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 200 Official Nickname: Condor Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079358引用。


写真(右)1937-1938年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200旅客輸送機「ノルドマルク」 "Nordmark" V3 (V = Versuchsflugzeug, test aircraft) (D-AMHC)(A-03, W.Nr. 2895):このFocke-Wulf Fw200 Condor試作3号機(Wk.Nr. 2895)は、1940年、ドイツ空軍に徴用され"GF+GF"として再登録された。 1943年、スターリングラード空輸作戦に参加し喪失。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079357 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 200 Official Nickname: Condor Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079357引用。


写真(右)1937-1938年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200旅客輸送機「ウェストファーレン」 "Westfalen" V2 (V = Versuchsflugzeug, test aircraft) (D-AETA) :試作2号機。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079341 Manufacturer: Focke-Wulf Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079341引用。


写真(右)1938年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200旅客輸送機「ブランデンブルク」 "Brandenburg" (r/n D-ACON) (Fw 200 Condor D-ACON) :この機体は、1938年8月11日にニューヨーク(New York)に到着した。その後、マニラで海上に不時着、喪失となった。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079343 Manufacturer: Focke-Wulf Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079343引用。


写真(右)1938年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw 200 A-0 (S8).旅客輸送機「グレンツマルク」 "Grenzmark" (r/n D-ACVH)(Werk Nr. 2893 3098):ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079352 Manufacturer: Focke-Wulf Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079352引用。


写真(右)1938年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw 200 A-0 (S8).旅客輸送機「グレンツマルク」 "Grenzmark" (r/n D-ACVH)(Werk Nr. 2893 3098)と白いコートを着たドイツ首相アドルフ・ヒトラー:ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200 Catalog #: 00079349 Manufacturer: Focke-Wulf Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079349引用。


写真(右)1936年,オランダに売り込みのために飛来したドイツ・ルフトハンザ航空フォッケウルフFocke-Wulf Fw 200 「コンドル」'Condor' 旅客輸送機試作原型(プロトタイプ):金属骨格・外板に2翅プロペラの付いたBMW132 Dc空冷星形エンジン4基を搭載。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Marine Objectnummer 2158_083821 Beschrijving Focke-Wulf Fw200 Condor Prototype in burgeruitvoering voor de Lufthansa Datering van 1936 Trefwoorden vliegtuigen, materieel Specifieke kenmerken BUITENLANDSE VLIEGTUIGEN, Focke-Wulf Fw200 Condor Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2158_083821"引用。


写真(右)1937-1940年,オランダに売り込みのために飛来したフルフトハンザ航空のフォッケウルフFocke-Wulf Fw 200 "コンドル"旅客輸送機試作原型(プロトタイプ):試作1号機 V1 D-AERE「ザールラント」(Saarland)。金属骨格に2翅プロペラの付いたBMW-Bramo323R空冷星形9気筒エンジン1200馬力4基を搭載。最高速力 360 km/h、航続距離 3560 km、旅客数26名.
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Marine Luchtmacht Objectnummer 2157_029277 Beschrijving Een Focke-Wulf Fw200 Condor passagiersvliegtuig met ingetrokken landingsgestel. Plaats Obekend Datering van 1937 Datering tot 1945 Trefwoorden burgerluchtvaart, passagiersvliegtuigen, vliegtuigen, verkenner-bommenwerpers Specifieke kenmerken D-AERE Bijzonderheden De Focke-Wulf Fw200 Condor was in eerste instantie een passagiersvliegtuig voor 26 personen. In de tweede wereldoorlog is hij ingezet als bommenwerper en lange-afstandsverkenner. Oorspronkelijk beschikte het toestel over 4 BMW-Bramo 323 R Fafnir 9 cilinder radiaalmotoren van 1200 pk ieder. De topsnelheid bedroeg 360 km/u en het bereik was 3560 km. Materiaalsoort Ontwikkelgelatinezilverdruk Kleur/Zwart-wit Zwart-wit.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2158_083821 "引用。


写真(右)1939-1940年,オランダに売り込みのために飛来したドイツ・ルフトハンザ航空のフォッケウルフFocke-Wulf Fw 200 「コンドル」'Condor' 旅客輸送機「ウェストファーレン」:金属骨格に2翅プロペラの付いたBMW132D空冷星形エンジン4基を搭載。航続距離は3560km。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Marine Objectnummer 2158_083820 Beschrijving Focke-Wulf Fw200 Condor in burgeruitvoering voor de Lufthansa Datering van 1939 Datering tot 1940 Trefwoorden vliegtuigen, materieel Specifieke kenmerken BUITENLANDSE VLIEGTUIGEN, Focke Wulf 200 Condor Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2158_083821 "引用。


写真(右)1939-1940年,オランダに売り込みのために飛来したフルフトハンザ航空のフォッケウルフFocke-Wulf Fw 200 "コンドル"旅客輸送機(A-03, W.Nr. 2895)「ノルドマルク」"Nordmark" D-AMHC の売り込みツアー:オランダは、1939年9月に勃発した第二次世界大戦には、当初、中立を守った。しかし、1940年5月、ドイツはオランダの中立にもかかわらず、対フランス侵攻のために、オランダを攻めた。2翅プロペラの付いたBMW空冷星形エンジン4基を搭載。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Marine Objectnummer 2158_083820 Beschrijving Focke-Wulf Fw200 Condor in burgeruitvoering voor de Lufthansa Datering van 1939 Datering tot 1940 Trefwoorden vliegtuigen, materieel Specifieke kenmerken BUITENLANDSE VLIEGTUIGEN, Focke Wulf 200 Condor Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2158_083820"引用。


写真(右)1938年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFocke-Wulf Fw 200 "コンドル"旅客輸送機(A-03, W.Nr. 2895)「ノルドマルク」"Nordmark" D-AMHC 「ノルドマルク」"Nordmark" D-AMHC :ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw200 Condor Catalog #: 00079345 Manufacturer: Focke-Wulf Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079345引用。


写真(右)1937-1939年,ドイツ、ルフトハンザ航空のフォッケウルフ(Focke-Wulf) FW 200 "Condor"コンドル四発大型旅客輸送機の客室内部の様子:ドイツ・ルフトハンザ航空は、FW 200 "Condor"コンドル四発大型旅客輸送機26機も運用していた。このような豪華な長距離輸送機を民間航空で使用するだけの技術力と、旅客輸送の需要があったことに驚かされる。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-R77714 Original title: info Fluggastraum des 4-motorigen Gross-verkehrs-flugzeuges Focke-Wulf Fw 200 der Deutschen Lufthansa für 26 Fluggäste Archive title: Passagier-flugzeug Fw 200, Flugbegleiterin bei den Passagieren Dating: 1937/1939 ca. Photographer: Stöcker, A. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1939年6月1日(第二大戦勃発3カ月前)、ノルウェー、オスロ飛行場、デンマーク国旗をコックピット上にはためかせ駐機するデンマーク航空のフォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」OY-DAM (Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" );後方には、ノルウェー航空(Det Norske Luftfartselskap, Fred. Olsen & Bergenske A/S)のカンプロー二Ca.310輸送機(Caproni Ca.310) LN-DAK "Brevduen" 、オランダ航空 (KLM Royal Dutch Airlines)のダグラスDC-2輸送機(Douglas DC-2-115E) PH-AKI "Kieviet"が見える。
Lufthavn, 3 fly på bakken, flyet foran, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Flyene bak har reg.nr LN-DAK og PH-AKI. Mange personer ved flyene. Fotografering: 1939 Eier: Olsen, Fred sikker Avbildet sted: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220071 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697341 UUID: 3B382801-EFB2-4737-B443-7766DA3FCEFE
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220071引用。


写真(右)1939年6月1日(第二大戦勃発3カ月前)、ノルウェー、オスロ飛行場、デンマーク国旗をコックピット上にはためかせタキシングするデンマーク航空フォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」(Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania");後方には、ノルウェー航空(Det Norske Luftfartselskap, Fred. Olsen & Bergenske A/S)のカンプロー二Ca.310輸送機(Caproni Ca.310) LN-DAK "Brevduen" 、オランダ航空 (KLM Royal Dutch Airlines)のダグラスDC-2輸送機(Douglas DC-2-115E) PH-AKI "Kieviet"が見える。
Lufthavn, 1 fly på bakken, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Sett forfra. Focke-Wulf Fw200 Condor , OY-DAM "Dania" (Det Danske Luftfartselskab A/S), Bildet tatt ved åpningen av Oslo/Fornebu, 1. juni 1939. Focke Wulf Condor åpnet den dagen ruten Oslo-Güteborg-København-Hamburg-London. Flyets nese er forresten rød. I bakgrunn ses i midten Caproni Ca.310, LN-DAK "Brevduen" (Det Norske Luftfartselskap, Fred. Olsen & Bergenske A/S) og Douglas DC-2-115E, PH-AKI "Kieviet" (KLM Royal Dutch Airlines) Fotografering: 1939 Produsent: Olsen, Fred Identifier: NL.98220096 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697365 UUID: EC0A6D22-7ECC-49E5-AF58-BD75922E1B06
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: FMU.402473引用。


デンマーク航空は、フォッケウルフFw-200コンドル輸送機を採用し、Fw-200コンドル"Dania"(登録コード:OY-DAM)と命名して、コペンハーゲンとノルウェーのオスロ、スウェーデンのヨーテボリ、ドイツのハンブルク、ロンドンを結ぶ航路に使用した。しかし、導入から半年もたたない1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発してしまう。

写真(右)1939年、ノルウェー、オスロ飛行場、デンマーク国旗をコックピット上にはためかせ駐機するデンマーク航空フォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」(Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania");右端には婦人旅行者も見えるが、機体の前にいるのは紳士ばかりなので、デンマーク航空など航空会社の社員たちであろうか。 Lufthavn, 1 fly på bakken, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Flrere personer ved flyet. Fotografering: 1939 Produsent: Olsen, Fred sikker Production place: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220079 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697349 UUID: CEC282B1-D0D3-40D9-99DB-8FB8D1FE8B57
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220077 引用。


写真(右)1939年、ノルウェー、オスロ飛行場、デンマーク国旗をコックピット上にはためかせ駐機するデンマーク航空フォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」(Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania")側面;胴体後方の昇降口にはタラップ(階段)がかけられていないが、反対側には梯子がかかっている。機首コックピットに、デンマーク国旗を掲げている。デンマーク航空所属なので、ドイツ製の機体でも、垂直尾翼には、赤帯に白丸のカギ十字のドイツの国籍標識はない。 Lufthavn, 1 fly på bakken, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Sett fra siden. Fotografering: 1939 Produsent: Olsen, Fred sikker Production place: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220077 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697347 UUID: AD61693F-7C0C-4D92-83C0-9BE259FE7FBA
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220077 引用。


写真(右)1939年、ノルウェー、オスロ飛行場の滑走路で、デンマーク国旗をコックピット上にはためかせエンジンを始動しているデンマーク航空フォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」(Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania");乗客昇降用の移動式タラップ(階段)が右端に見える。フォッケウルフFw200コンドル手前には、乗客の大型荷物を運搬する人力カートが置かれたままになっている。まだ乗客は乗り込んでおらず、試験運転をしている様だ。コックピットに、デンマーク国旗を掲げている。 Lufthavn, 1 fly på bakken, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Skrått forfra. Noen personer. Fotografering: 1939 Produsent: Olsen, Fred sikker Production place: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220080 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697350 UUID: 83E0B89A-F866-4B81-AED3-0D33C64EED50
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220080 引用。


写真(右)1939年、ノルウェー、オスロ飛行場の滑走路で、移動式階段(タラップ)をかけて旅客の機内への案内が始まったデンマーク航空フォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」(Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania");白いセーラー服の水兵が、誘導係を務めている。手前には、搭乗員が制服で控えている。乗客の少年がカメラで撮影している。 Lufthavn, 1 fly på bakken, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Flere personer ved flyet. Laandgang.. Fotografering: 1939 Produsent: Olsen, Fred sikker Production place: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220083 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697353 UUID: 9687A98B-B63E-45E2-B4AE-B2F1F7BD801D
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220083 引用。


写真(右)1939年、ノルウェー、オスロ飛行場の滑走路で、デンマーク国旗をコックピット上に掲げたデンマーク航空フォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」(Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania")の正面;四基のBMW132空冷星型9気筒エンジンは、アメリカのプラット・アンド・ホイットニー社R-1690 ホーネット空冷星形エンジンのライセンス生産型。プロペラは2翅で、プロペラ直径も小さく感じるのは、エンジン出力が860馬力と小さいためである。側面から見ると細い機体も、乗客のためのスペースを確保するために、太目に見える。 Lufthavn, 1 fly på bakken, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Sett forfra. 3 personer ved flyet.Fotografering: 1939 Produsent: Olsen, Fred sikker Production place: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220094 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697363 UUID: BE71643E-41BE-454C-BA02-5246144D4543
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220094 引用。


写真(右)1939年6月1日(第二大戦勃発3カ月前)、ノルウェー、オスロ飛行場、デンマーク国旗をコックピット上にはためかせタキシングするデンマーク航空フォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ダニア」(Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania");後方には、ノルウェー航空(Det Norske Luftfartselskap, Fred. Olsen & Bergenske A/S)のカンプロー二Ca.310輸送機(Caproni Ca.310) LN-DAK "Brevduen" 、オランダ航空 (KLM Royal Dutch Airlines)のダグラスDC-2輸送機(Douglas DC-2-115E) PH-AKI "Kieviet"が見える。
Lufthavn, 1 fly på bakken, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Noen personer ved flyet. Annet fly sees i bakgrunnen. Lufthavn, 1 fly på bakken, Focke-Wulf Fw200 Condor OY-DAM "Dania" fra DAL (DDL). Sett forfra. Focke Wulf Fw 200 Condor, OY-DAM "Dania" (Det Danske Luftfartselskab A/S), Bildet tatt ved åpningen av Oslo/Fornebu, 1. juni 1939. Focke Wulf Condor åpnet den dagen ruten Oslo-Güteborg-København-Hamburg-London. Flyets nese er forresten rød. I bakgrunn ses i midten Caproni Ca.310, LN-DAK "Brevduen" (Det Norske Luftfartselskap, Fred. Olsen & Bergenske A/S) og Douglas DC-2-115E, PH-AKI "Kieviet" (KLM Royal Dutch Airlines) Fotografering: 1939 Produsent: Olsen, Fred Identifier: NL.98220096 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697365 UUID: EC0A6D22-7ECC-49E5-AF58-BD75922E1B06
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220096 引用。


写真(右)1939年6月1日(第二大戦勃発3カ月前)、ノルウェー、オスロ飛行場、ノルウェー国旗をコックピット上にはためかせ駐機するフォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ノルドマルク」(Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark" )
Lufthavn, 1 fly på bakken Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark" fra lufthansa. Hakekors på haleparti. Flere personer.Fotografering: 1939 Fotografering: 1939 Eier: Olsen, Fred sikker Avbildet sted: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220073 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697343 UUID: CD6B4E0E-161E-4544-9488-236511455734
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220073 引用。


写真(右)1939年6月1日(第二大戦勃発3カ月前)、ノルウェー、オスロ飛行場、ノルウェー国旗をコックピット上にはためかせ駐機するフォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ノルドマルク」(Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark" );右側の建物は、旅客ターミナルで、大きなガラス窓で視界をよくしている。その前に、乗客たちが新鋭巨人コンドル旅客機を見物している。周囲には、ノルウェー国旗をはためかせている。
Lufthavn, 1 fly på bakken Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark" fra lufthansa. Hakekors på haleparti. Flere personer. Fotografering: 1939 Eier: Olsen, Fred sikker Avbildet sted: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220070 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697340 UUID: 0737E7C5-7708-48FF-B69F-685F3291A4C9
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220070引用。


写真(右)1939年6月1日(第二大戦勃発3カ月前)、ノルウェー、オスロ飛行場、ノルウェー国旗をコックピット上にはためかせ駐機するフォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ノルドマルク」(Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark" );後方では、旅客たちの荷物路カートに入れて飛行機近くまで人力で運んでいる。乗客たちを機内に載せる階段(タラップ)が新鋭巨人コンドル旅客機の胴体後方右側に据え付けられている。
Lufthavn, 1 fly på bakken Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark" fra lufthansa. Hakekors på haleparti. Flere personer. Fotografering: 1939 Eier: Olsen, Fred sikker Avbildet sted: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220082 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697352 UUID: E3589131-A7C9-400D-A413-A96E4565C37C
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220082 引用。


写真(右)1939年6月1日(第二大戦勃発3カ月前)、ノルウェー、オスロ飛行場、舗装された滑走路に駐機するドイツ・ルフトハンザ航空のフォッケウルフ FW 200 コンドル四発大型旅客輸送機「ノルドマルク」(Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark" )
Lufthavn, 1 fly på bakken Focke-Wulf Fw200 Condor D-AMHC "Nordmark" fra lufthansa. Hakekors på haleparti. Sett fra siden. Fotografering: 1939 Eier: Olsen, Fred sikker Avbildet sted: NORGE 1 Fornebu sikker Aksesjon: 1998 Informant : Bodø Luftfartshistoriske Forening Identifier: NL.98220093 Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: December 19, 2014 Date updated: December 19, 2014 DIMU-CODE: 021015697362 UUID: 5913D936-5C3B-4FAC-98F4-CF2AE572D817
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.98220093 引用。


写真(右)1939年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200旅客輸送機「ノルドマルク」 "Nordmark" V3 (V = Versuchsflugzeug, test aircraft) (D-AMHC)(A-03, W.Nr. 2895):この試作3号機(Wk.Nr. 2895)は、1940年、ドイツ空軍に徴用され"GF+GF"として再登録された。 1943年、スターリングラード空輸作戦に参加し喪失。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
transport, fly, Focke-Wulf 200 Condor, eksteriør, Fornebu, på bakken, menn Avbildet sted: Norge Akershus Bærum Fotografering: 1939 Identifier: PMF.3.4.00269 Part of collection: Norges Postmuseum Owner of collection: Norges Postmuseum Institution: Norges Postmuseum Date published: December 6, 2010 Date updated: December 18, 2017 DIMU-CODE: 011011735688 UUID: C7E7E6D4-E1A1-4A67-8CEC-617D193BFDE2
写真は,Norges Postmuseum , Identifier: PMF.3.4.00269 引用。


コンドル機の優秀性能 : 流線型の極致を行き”四発”に誇る安全性 : 正に最大級の豪華客室 : トピック解剖
東京日日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 61 出版年 1938-12-03

[図表(コンドル機の内部 1機首(方向探知用無電枠を備う)2操縦室3無電室4前部荷物室5配膳室6前部客室7客室(大)8洗面所9郵便室10大荷物室)あり 省略]

防共の友邦ドイツのナチス魂と、親善とを、鵬翼一杯にのせたフォッケ・ウルフFW二〇〇型「コンドル」ブランデンブルグ号は三十日午後十時十分五十二秒、立川飛行場到着、同三十四分二十界に誇る国際新記録を樹立した、この記録の正確な数字はF・A・I(国際航空聯合会)で審査し正式承認の上発表されるであろうが、本紙が計算した記録は
総所要時間四十六時間十五分五十二秒、実飛行時間四十一時間五十二秒、平均時速三〇六・六キロ、実飛行時速三四五・八五キロである

同機の記録は世界的にも誠に驚異に値するが何がこの記録を完成させたか、といえば
第一にその使用機の性能、装備(無電等の)が優秀であったからといえよう、

第二にヘンケ機長以下五名の乗員がそれぞれに優秀な技倆の持主であり、長距離(海洋をも含む)飛行に多くの経験を有する老練家揃いであったことにある、

第三にこの日独親善飛行という新世界創造の二大友邦を空によって結ぶ大使命に天が与えたか全コースを通じて良好な気象であったことである

写真(右)1939年,ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200旅客輸送機「ノルドマルク」 "Nordmark" V3 (V = Versuchsflugzeug, test aircraft) (D-AMHC)(A-03, W.Nr. 2895):この試作3号機(Wk.Nr. 2895)は、1940年、ドイツ空軍に徴用され"GF+GF"として再登録された。 1943年、スターリングラード空輸作戦に参加し喪失。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
transport, fly, Focke-Wulf 200 Condor, eksteriør, Fornebu, menn, på bakken Avbildet sted: Norge Akershus Bærum Fotografering: 1939 Identifier: PMF.3.4.00271 Part of collection: Norges Postmuseum Owner of collection: Norges Postmuseum Institution: Norges Postmuseum Date published: December 6, 2010 Date updated: December 18, 2017 DIMU-CODE: 011011735691 UUID: D6FDBEC4-3063-42CC-B79D-D45BE56F5984
写真は,Norges Postmuseum , Identifier: PMF.3.4.00271 引用。


 このFW二〇〇型コンドル機が初めて発表されたのは昨年[1937]十月二日友邦イタリーのミラノ市で開催されたミラノ第二回国際航空機展覧会であった、勿論それ以前に完成したのであろうがフォッケ・ウルフ航空機会社の設計部長クルト・タンク氏が苦心設計に成るもので、巡航速度に対する馬力当り荷重の関係値を出来るだけ少いように、即ち発動機の馬力は出来るだけ小にしかつ搭載量、巡航速度は出来るだけ大にするという相反した要求を最大限にこの大型旅客機によって顕現しようと苦心したのである

この故に同機はその形態から見ても最上の流線型をなし、航空力学的に微細な点まで注意がゆき届いているといっている、しかも旅客機である以上客室は最大級の設備を有し喫煙室(九名)と禁煙室(十七名)の両室ともに第一流の建築技師が設計して冷暖房、防音、装飾は正に豪華版である、安全性もまた旅客機としての重要な要素であるから発動機四基のうち一基が故障しても高度四、〇〇〇メートルを保ち、時速二九五キロの巡航速度を有し、更にまた一基即ち二基の発動機が故障しても高度三、〇〇〇メートルを保ち巡航速度二三〇キロで飛行することが出来るという驚異的な性能である

訪日コンドル機は今夏ベルリン−ニューヨーク間六、四〇〇キロの大西洋横断、欧、米両大陸連絡往復飛行に成功した『ブランデンブルグ号』そのままで、発動機はBMW一三二G型七二〇馬力四基を装備している、同機は増設燃料槽を装備し、翼内燃料槽と合せて一〇、一三〇立のガソリンを搭載し得て優に八千キロ以上の航続力を有する、最大速度は高度零で三七五キロ、巡航は高度三、〇〇〇メートルで三三〇キロで全備重量十四トンである

発動機はBMW一三二H型八二〇馬力または同DC型八七〇馬力をも装備することが出来DC型を装備すれば最大速度四三〇キロ、経済巡航速度三七〇キロという性能向上が期し得られる、

写真(右)1938年以降,ドイツのフォッケウルフFw-200コンドルのコックピット:左の席が、正操縦士(パイロット)、右の席が副操縦士だが、機長は正操縦士とは限らない。貴重として、乗機の操縦には関わらず、航空機の運航に関するすべての指揮と責任を担う場合も多い。また、航法・通信の担当を兼ねる場合もある。日本陸軍では、正操縦士が機長の場合が大半だが、日本海軍では、航法・通信担当者が機長の場合も少なくない。
het cockpitinterieur van een Focke Wulf FW 200 "Çondor" Onbekend Datering 1938 / 1944 Collectie Beeldbank NIMH Organisatie Nederlands Instituut Militaire Historie
写真はNetwerk Oorlogsbronnen引用。


大西洋横断往復飛行では
ベルリン−ニューヨーク二四時間五四分、平均時速二六〇キロニューヨーク−ベルリン一九時間五四分、時速三一六キロ

であるがこの数字に比すれば今回の記録は遥かに優れたものといえよう、
これは勿論東廻り飛行の場合高度を三千米以上で飛行すれば西の追風を受けて快速を出すのではあるがバラス−カラチ間は時速四〇五キロ、最後のコースハノイ−立川間では四〇二・八キロという快速であったから同機が若しBMW一三二DC型八七〇馬力四基を装備していたとすれば更に日独両首都間を時間的に短縮してさきに世界早廻りで米国のハワード・ヒューズ一行がロックヒードスーパーエレクトラで作った平均三二九・六キロの記録を完全に破ったであろう

 世界航空輸送界の要求は年毎に高速度の大型機である、列国の代表的陸上大型機を列挙すれば

△米国 ダグラスDC四型四二人乗ボーイング三〇七型三三人乗
△英国 アームストロングホイットワース「エンサイン」型[Armstrong Whitworth Ensign]四〇人乗
△ドイツ ユンカースJU九〇型四〇人乗フォッケ・ウルフFW二〇〇型二六人乗
△フランス ファルマンF二、二二三型二五人乗

があり何れも発動機四基を装備したいわゆる四発型の単葉金属製機である、この詳細にわたる性能の比較は省略するとしても「コンドル機」がこの中で断然輝いていることは事実であり「コンドル機」誕生以来一年間に作った幾多の航空記録によっても実証されている、

同機は完成間もなくデンマーク航空会社が常備として使用ドイツでもルフト・ハンザ会社がユンカースJU五二型に代って同機を採用、ベルリン−ロンドン線、アフリカ線等に就航せしめている(コンドル機の優秀性能 : 流線型の極致を行き”四発”に誇る安全性 : 正に最大級の豪華客室 : トピック解剖引用終わり)


2.長距離哨戒機フォッケウルフFw-200コンドル

写真(右)1940年、ノルウェー北部、ナルビクの中心街ブランバッケン上空を飛行するドイツ空軍フォッケウルフ FW 200 コンドル輸送機;ナルビクは不凍港で、スウェーデンのキルナ鉱山の鉄鉱石をドイツに船積み輸送する交通の要衝だった。そのナルビクにイギリス軍が上陸したため、ドイツ陸海空軍を巻き込む激闘が戦われた。このFW200コンドル輸送機は、哨戒偵察ではなく、兵士・医薬品などの緊急輸送に投入されたのであろう。
Fly over Narvik: "Heivings fotoalbum: "Innledning til flyangrep i Narvik den"Fokker Wulf Condor FW-200 over Brannbakken. Foran til v: Ofotens tidende og Ivers Foker Woef Condoe FW-200 over Brannbakken. Fotoserie: Narvik 1940 Produksjon: 1940 Giver/siste eier: Eriksson, Fritjof Identifier: NAB2003030003 Part of collection: Museum Nord Owner of collection: Museum Nord Institution: Museum Nord Date published: July 13, 2016 Date updated: February 4, 2018 DIMU-CODE: 021016511409 UUID: FB268F78-9042-46BF-B8D6-5D16D9212AAB
写真はMuseum Nord ・Identifier: NAB2003030003 引用。


1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

写真(右)1940-1941年,ドイツ空軍フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-1型(Fw 200C)の下面 :最初の軍用型となったC-1型は、BMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジン4基を搭載、胴体下面に細長いゴンドラを設けて、その前・後の銃座に7.92ミリMG15旋回機関銃各1丁を装備した。機首にはレーダーを搭載していない初期型。
Fw 200 Focke-Wulf 'Kurier', Beeldbank WO2 Organisatie NIOD Instituut voor Oorlogs-, Holocaust- en Genocidestudies Rechten Copyright niet bekend
写真はNetwerk Oorlogsbronnen引用。


1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻、理由は、スウェーデンの鉄鉱石を不凍港ナルビクNarvik)を通じて安定して輸入するためだったが、イギリスがノルウェーの機雷封鎖や保障占領を企図していることもあった。このノルウェー侵攻「ウェーゼル演習作戦」では、四発大型旅客輸送機ユンカースJu-90が、オスロに兵員を輸送した。デンマークは侵攻初日の4月9日、国王クリスチャン10世Christian 10)、デンマーク政府が即座に降伏したが、ノルウェーは、イギリス軍の支援を受けて、激しく戦った。しかし、ドイツ軍のフランス侵攻で、5月下旬にはフランスの危機、イギリスの孤立化が確実になったため、ノルウェーの連合軍は6月に撤退した。ノルウェーには傀儡ヴィドクン・クヴィスリングVidkun Quisling)政権が樹立され、ドイツ潜水艦Uボートの基地となった。

写真(右)1941年2月16日,ドイツ空軍フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-1型(Fw 200C)の下面 :最初の軍用型となったC-1型は、BMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジン4基を搭載、機首にはレーダーを搭載していない初期型。
Fw 200 Der Schrecken der britischen Schiffahrt. Der viermotorige Langstreckenbomber der deutschen Luftwaffe Focke-Wulf FW 200 C 'Condor', der aus dem durch seine Weltrekordflöge nach New York und Tokio bekannten Verkehrsflugzeuge FW 200 'Condor' entwickelt wurde, hat in der letzten Zeit durch zahlreiche Schiffsversenkungen weit im Atlantik der britischen Schiffahrt erhebliche Verluste zugefögt. Die Besatzung dieses mit zahlreichen MGs und Kanonen bewaffneten Flugzeuges, das gewaltige Bombenlasten über weite Entfernungen trägt, besteht aus sechs Mann, eine Enteisungsanlage ermö glicht die Durchführung von Angriffen bei allen Wetterlagen. 1941-02-16 Collectie Beeldbank WO2 Organisatie NIOD Instituut voor Oorlogs-, Holocaust- en Genocidestudies
写真はNetwerk Oorlogsbronnen引用。


1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

写真(右)1941年頃,ドイツ空軍のフォッケウルフFw-200コンドルC型のBMW132空冷星形エンジンの点検をする整備士:BMW132空冷星形エンジンの原型は、アメリカのプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)のR-1690 ホーネット空冷星形9気筒エンジン、排気量は27.7L(1690立方インチ)で、BMW(Bayerische Motoren Werke)は、1928年1月からR-1690 ホーネットのライセンス生産を始めていた。BMW132は、R-1690 ホーネットと破棄量も構造も同じだが、燃料供給は、R-1690 ホーネットがンスキャブレター方式なのに対して、BMW132は直接噴射だった。
Die mächtige Motorhaube eines deutschen Langstreckenbombers vom typ 'Condor'. De 'Condor' was een ontwerp van Focke Wulf, (type-aanduiding Fw 200). Beeldbank WO2 Organisatie NIOD Instituut voor Oorlogs-, Holocaust- en Genocidestudies
写真はNetwerk Oorlogsbronnen引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-1型(Fw 200C-1) :最初の軍用型となったC-1型は、BMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジン4基を搭載、胴体下面に細長いゴンドラを設けて、その前・後の銃座に7.92ミリMG15旋回機関銃各1丁を装備した。ゴンドラは爆弾倉となっており、爆弾倉扉を開閉して、搭載した250キロ爆弾(最大5発)を投下する。短距離であれば、主翼両翼の3・4番エンジンのナセル外側に爆弾懸架があり、そこにも250キロ爆弾を搭載可能。機首上面には、観測用のブリュスターを設けているが、これは7.92ミリMG15旋回機銃1丁の銃座ともなる。機首にはレーダーを搭載していない初期型。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:43934881 - Catalog:16_005202 - Title: Focke-Wulf Fw 200C-1 Pete Bowers photo - Filename:16_005202.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934881引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-1型(Fw 200C-1) :最初の軍用型となったC-1型は、BMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジン4基を搭載、胴体下面に細長いゴンドラを設けて、その前・後の銃座に7.92ミリMG15旋回機関銃各1丁を装備した。ゴンドラは爆弾倉となっており、爆弾倉扉を開閉して、搭載した250キロ爆弾(最大5発)を投下する。短距離であれば、主翼両翼の3・4番エンジンのナセル外側に爆弾懸架があり、そこにも250キロ爆弾を搭載可能。機首上面には、観測用のブリュスターを設けているが、これは7.92ミリMG15旋回機銃1丁の銃座ともなる。機首にはレーダーを搭載していない初期型。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image
PictionID:43934819 - Catalog:16_005197 - Title: Focke-Wulf Fw 200 Nowarra photo - Filename:16_005197.TIF
- - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934819引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200哨戒輸送機C「コンドル」"Condor" :BMW323(1000hp:BMW-Bramo-Motoren)空冷星形9気筒エンジン1000馬力4基を装備し、胴体下面ゴンドラに爆弾倉を設置した。細長いゴンドラの前部の銃座に7.92ミリMG15旋回機関銃1丁が装備されている。機首にはレーダーを搭載していない。
Title: Der viermotorige Langstreckenbomber der deutschen Luftwaffe Focke-Wulf Fw 200-C "Condor" mit 4 BMW-Bramo-Motoren Caption: Flugzeug, Militärflugzeug, Flugaufnahme, mit Swastika auf Seitensteuer, Wolken Dating:ca. 1938 Kassel : Kunstverlagsanstalt Bruno Hansmann Photography : gelatine silver print
Special Size: 10,5 x 15 cm Categories: View Collection, Military aircraft, Unknown, Product photography
写真はETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv / Fotograf: Unbekannt , Record Name: Ans_05035-495引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-2型(Fw 200C-2) :C-1型のエンジンナセル外側の爆弾懸架を、空気抵抗の少ない改良型とした。ここには、250キロ爆弾あるいは300リットル入増槽燃料タンクを懸架できる。機首上面には、観測用のブリュスターを設けているが、これは7.92ミリMG15旋回機銃1丁の銃座ともなる。機首にはレーダーを搭載していない初期型。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image
PictionID:43934832 - Catalog:16_005198 - Title: Focke-Wulf Fw 200C-2 - Filename:16_005198.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934832引用。


写真(右):1940年11月、フランス、第40爆撃航空団のフォッケウルフ(Focke-Wulf) FW 200 "Condor"コンドル哨戒爆撃機「シリウス号」:大西洋を広範囲に哨戒して、イギリス周辺の輸送船の動きを探知した。自ら艦船を爆撃したり、海上のドイツ潜水艦Uボートを船団に誘導したりした。戦前から、大型旅客機で活躍していた搭乗員がこの長距離哨戒活動に充てられることが多かった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-405-0555-06
Archive title: Frankreich.- Feldflugplatz, Bodenpersonal / Mechaniker vor Flugzeug Focke-Wulf FW 200 "Condor" mit Bezeichnung "Sirius" des Kampfgeschwader 40 (KG 40) / Wartung; KBK Lw5
Dating: November 1940
Photographer: o.Ang.
Photographer: Kestner Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年7月23日、イギリス空軍ロッキードLockheed ハドソン(Hudson) Mark V哨戒機に撃墜され、海上に不時着したフォッケウルフFocke-Wulf Fw 200コンドル(Kondor)哨戒機:アメリカから武器貸与法で貸与されたハドソン哨戒爆撃機は第二233戦隊に所属し、船団護衛に任じていたが、襲ってきたFw-200哨戒爆撃機を銃撃で撃墜した。撃墜されたコンドルの搭乗員の一部がライフラフト(救命筏イカダ)で脱出した。
Catalogue number: C 1988, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Production date1941-07-23 Subject periodSecond World War,
Alternative Namesobject category: Photography, Creator: No. 233 Squadron RAF,
Object description: A Focke-Wulf Fw 200 Kondor sinking in the Atlantic Ocean west of Ireland, after being shot down by a Lockheed Hudson Mark V of No. 233 Squadron RAF based at Aldergrove, County Antrim, while trying to attack a convoy, 23 July 1941. This oblique aerial photograph was taken from the victorious Hudson (AM536) and shows the crew of the Kondor swimming for their liferaft which is inflating to the right of the tailplane.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 1988)


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-3型(Fw 200C-3) :C-2型までのBMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジンを、より高出力を発揮できるブラモ323R(1200hp)に強化した。機首上面には、観測用のブリュスターを設けているが、これは7.92ミリMG15旋回機銃1丁の銃座ともなる。機首にはレーダーを搭載していない初期型。
SDASM Archives PictionID:43934844 - Catalog:16_005199 -
Title: Focke-Wulf Fw 200C-3 Nowarra photo - Filename:16_005199.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934844 引用。


フォッケウルフ FW 200 コンドル長距離哨戒偵察機「クーリエ」は,C-1型、C-2型までは、発動機はBMW132H空冷星形9気筒エンジン880馬力4基だったが、C-3型はエンジンの出力を向上させたブラモ323R空冷星形9気筒エンジン1200馬力4基に強化した。BMW132(830hp)とBMW323(1000hp)とは、エンジンカウリングの形状が異なるの、判別は容易である。

フォッケウルフ FW 200 コンドルは民間輸送機から、軍用の長距離哨戒爆撃機に転用されたが、この改修に伴う爆弾層の追加、兵装の強化など重量増加に対応するため、機体構造を強化する必要があった。しかし、民間輸送機として設計されたFw200には、重量増加に対応できるような機体構造、堅牢性はなかったため、離着陸時や急激な作動を行った時に、強度不足から事故が起こりやすかった。胴体が折れたり、主翼が曲がったりする大きな事故が、些細な操縦ミスで起きたのである。

写真(右)1940-1941年、ノルウェー上空を飛行するドイツ空軍フォッケウルフ FW 200 コンドル長距離哨戒偵察機「クーリエ」C-3型(Brame空冷星形エンジン搭載);C-2型までのBMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジンを、より高出力を発揮できるブラモ323R(1200hp)に強化した。 機首上方の銃座には7.92ミリMG15旋回機銃1丁が見えるが、胴体後上方の観測窓・銃座、胴体下面のゴンドラ前後の銃座には機関銃が見えない。
Luftfoto. Ett fly i luften, Focke-Wulf 200 "Kurier", fra Luftwaffe. Albumtekst: Et nytt farlig våpen mot England!
Det tyske Luftwaffes firemotors langtrekkende bombefly Focke-Wulf "Kurier", som er utviklet fra det kjente frakteflyet FW 200 "Condor", etter dennes
verdensrekordflyvning til New York og Tokyo. Dette storkampflyet som frakter voldsomme bombelaster over store avstander, har i den siste tiden påført britisk skipsfart uhørte tap gjennom tallrike skipssenkninger i Atlanteren. Besetningen på dette flyet, som er bevæpnet med tallrike maskingevær og kanoner, består av 6 mann. Utstyrsnivået muliggjør gjennomføringen av angrep under alle typer vørforhold. 4 BMW-Brame-motorer forsyner Focke-Wulf "Kurier" med stor hastighet.
Giver/siste eier: Solberg, Sigurd sikker Fotografering: 1940 - 1941 Identifier: NL.03150146
Part of collection: Norsk Luftfartsmuseum Owner of collection: Norsk Luftfartsmuseum
Institution: Norsk Luftfartsmuseum Date published: November 21, 2014 Date updated: December 18, 2014
DIMU-CODE: 021015548510 UUID: EE04F204-38CD-4C93-8227-F6E9848A577F
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.03150146引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-3/U4型(Fw 200C-3/U4 ) :C-3型初期型までの7.92ミリMG15旋回機関銃を、13.1ミリMG131機関銃に変更した武装強化型。15.1ミリMG151/15機関砲を搭載し、機体上部前方の動力銃座の20ミリMGFF機関銃を、より高初速の20ミリMG151/20機関銃に強化した。機首にはロストック(Rostock)対艦船レーダーを搭載している海上哨戒型。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image
PictionID:43934856 - Catalog:16_005200 -
Title: Focke-Wulf Fw 200C-3/U4 with Rostock device (ship detector) Nowarra photo - Filename:16_005200.TIF- - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934856引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-4型(Fw 200C-4) :C-2型までのBMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジンを、より高出力を発揮できるブラモ323R(1200hp)に強化した。機首上面には、観測用のブリュスターを設けているが、これは7.92ミリMG15旋回機銃1丁の銃座ともなる。機首にはFuG200レーダーを装備した海上哨戒型。
SDASM Archives PictionID:43934893 - Catalog:16_005203 -
Title:Focke-Wulf Fw 200C-4 Pete Bowers photo - Filename:16_005203.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934893 引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-4型(Fw 200C-4) :C-2型までのBMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジンを、より高出力を発揮できるブラモ323R(1200hp)に強化した。機首上面には、観測用のブリュスターを設けているが、これは7.92ミリMG15旋回機銃1丁の銃座ともなる。機首にはFuG 200「ホーエントヴィール」(Hohentwiel)レーダーを装備した海上哨戒型。
SDASM Archives PictionID:43934905 - Catalog:16_005204 -
Title:Focke-Wulf Fw 200C-4 Pete Bowers photo - Filename:16_005204.TIF - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934893 引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200哨戒偵察機C-4型(Fw 200C-4) :C-2型までのBMW132H(830hp)空冷星形9気筒エンジンを、より高出力を発揮できるブラモ323R(1200hp)に強化した。機首上面には、観測用のブリュスターを設けているが、これは7.92ミリMG15旋回機銃1丁の銃座ともなる。機首のFuG 200「ホーエントヴィール」(Hohentwiel)レーダー支柱は、小型化されている。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image
PictionID:43934869 - Catalog:16_005201 -
Title: Focke-Wulf Fw 200C-4 Hohentwiel Radar Nowarra photo - Filename:16_005201.TIF - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934893 引用。


写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200哨戒輸送機C :BMW132(830hp)空冷星形9気筒エンジンをBMW323(1000hp)4基に強化した機体。エンジンカウリンが異なるのですぐわかる。胴体下面には貨物が置かれているが、雪の中、スターリングラード方面への緊急空輸を行っているのであろうか。細長いゴンドラの前部の銃座に7.92ミリMG15旋回機関銃1丁が装備されている。機首にはレーダーを搭載していないので、哨戒任務ではなく、輸送任務に従事していると考えられる。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200
Catalog #: 00079346 Manufacturer: Focke-Wulf
Designation: Fw 200 Official Nickname: Condor
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:43934819引用。



3.要人輸送機フォッケウルフFw-200コンドル

写真(右)1940-1942年,ドイツ空軍(Deutsche Lufthansa)フォッケウルフFw-200哨戒輸送機C型 :BMW132(830hp)空冷星形9気筒エンジンをBMW323(1000hp)4基に強化した機体で、エンジンカウリンが異なるので判別できる。胴体下面のゴンドラ、その途中から昇降用の梯子が下りている。レーダーを搭載していないので、哨戒任務ではなく、輸送任務に従事していると考えられる。手前の主翼もFw200輸送機のもの。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 200
Catalog #: 00079359 Manufacturer: Focke-Wulf
Designation: Fw 200 Official Nickname: Condor
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079359引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーがフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に訪問した時に使用したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9;要人輸送機なので、胴体側面には外を眺めることのできる四角のガラス窓がついている。胴体前上面にも、小型銃座があり、7.92ミリ機関銃1丁が備わっているようだ。胴体下面の細長いゴンドラ後端にも、ガラス風防があり、監視と銃座の役割を兼ねている。
Hitlerin vierailu Suomessa. 1942.06.04. Lähde:Sa-kuva Malmi 1944.06.27.
写真はMuseot Finna・Kuvan numero:89603引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーがフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥75歳の誕生日に訪問した時に使用したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9;輸送機だが、要人もために防御火器が充実している。胴体前上面には、小型銃座があり、7.92ミリMG15機関銃1丁が備わっている。胴体下面の細長いゴンドラ先端にも、ガラス風防があり、7.92ミリMG15機関銃1丁が備わった銃座が見える。
Valtakunnankansleri Adolf Hitlerin lentokone Focke Wulff FW 200 Condor Immolan lentokentällä
koneen ohjaamossa SS-eversti Hans Baur vaaka, mustavalkoinen
Aineistotyyppi: ?Kuva
Aiheen paikka: Imatra, Immola
Aiheen aika: 4.6.1942 Aiheen toimija: Baur Hans
Organisaatio: Museovirasto - Musketti
Kokoelma: Historian kuvakokoelma Inventaarionro: HK19781018:13
Kuvaustiedot: 4.6.1942 Imatra,Immola.
写真はMuseot Finna・HK19781018:13引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に訪問のため、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)。国賓として、ナチス同盟国フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)が出迎えた。;後方のFw200は、着陸の時にブレーキをかけすぎて右側主輪が発火し、タイヤが焦げて、煙が上がった。ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、降りてきて、フィンランド側の出迎えを受けた。
Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15970引用。


1942年6月4日、、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9で飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、フィンランドのイマトラ空港に到着した。出迎えたのはフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥など、フィンランド最高指導者だった。当時、ナチスとフィンランドは、共産主義者の支配するソ連と戦う枢軸同盟国として軍事同盟を結んでいた。ヒトラーは、フィンランドに対して、ソ連に対する一層激しい攻勢をかけるように要望した。枢軸国が勝利するのは確実で、ヨーロッパ支配をする日も遠くないというのである。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ空港、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラー・元帥杖を右手にした国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥(右)を出迎えたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)[中央の黒コート、後姿]。後方は、ヒトラーを運んだドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9
Hitlerin vierailu Suomessa.
Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-129568引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ空港、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラーを出迎えたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)[中央奥の黒コート]。後方は、ヒトラーを運んだドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-129568引用。


1939年の冬戦争で失ったカレリア地方を奪還するために、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻をチャンスととらえたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、7月には、ナチスと同盟して、ソ連を敵として、攻撃を開始した。これは、事実上、フィンランドが枢軸同盟国の一員として、第二次世界大戦に参加することを意味した。フィンランドは、ナチスと組んで軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開した。

しかし、フィンランド側は、イギリス、アメリカには戦争を仕掛けたいとは思っていなかった。そこで、あくまで、ソ連に対して1939年の冬戦争で奪われた国土の回復を求めた防衛戦争であるとの立場を主張した。しかし、ソ連がドイツの攻勢を一国で受け止めている状況で、イギリスもアメリカも、フィンランド側の言う「継続戦争」であり、イギリス・アメリカと戦う第二次大戦への参戦ではないという身勝手な論理は受けつかなかった。これを梃子にして、ヒトラーはフィンランドに対して、ソ連への軍事的攻勢を強化するように強く要請した。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥75歳の誕生日を祝うために、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラー・国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥[中央影]を出迎えたフィンランド駐留ドイツ国防軍司令官たち:Fw-200コンドル輸送機の主輪から、煙が上がり、消火作業を行っているのが見える。これは、着陸時にブレーキが利きすぎて車輪が滑走路を擦り、摩擦熱で発火し、ゴムタイヤに火がついたため。
Hitlerin vierailu Suomessa. Tervehtimässä lähettiläs Water Hewel, keskellä kasvot kameraan päin Adolf Hitler. Taustalla sammutetaan lentokoneen palavaa rengasta.
Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:5引用。


アドルフ・ヒトラーは、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9に乗って、1942年6月4日、フィンランドを訪問した。その目的は、マンネルハイム元帥の75歳の誕生日をいわうた目とされたが、実際には、フィンランド軍によるソ連へお攻撃を強化するように要請するためだった。ヒトラーの乗機は、イマトラ空港に着陸したが、その際に、右主輪のブレーキが利きすぎたため、車輪と滑走路の間の摩擦熱で、右輪ゴムタイヤが過熱、発火した。Fw200コンドル輸送機が停止した時、車輪からは煙が上がり、ゴムの焼ける匂いが広まった。

ヒトラを出迎えにイマトラ空港にきていたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)もこのヒトラー乗機の失態を目撃したに違いない。つまり、ヒトラー乗機の着陸鵜事故は、ドイツの威信を落としかねない大失態だった。しかし、ヒトラーは、タイヤの燃える匂いも、煙も気にせずに、平然として、フィンランドに降り立った。乗員たちは大慌てで、ヒトラーが出迎えを受けている間、携帯用消火器をつかって大急ぎで、Fw200輸送機の車輪の火災を消し止めた。

Fw-200コンドル輸送機を操縦していたのは、ヒトラー専属パイロットの"ヨハン・"ハンス"・ペーター・バウアJohann "Hans" Peter Baur)である。バウアーにとって、ヒトラー乗機の着陸失敗は、大失態であり、これがフィンランド元首の御目前で起こったことは、罷免・処罰されても当然な過失だった。しかし、ヒトラーは、乗機の着陸事故を全く問題にせず、"ハンス"・バウア("Hans" Baur)に対して咎めは一切なかった。

予備機兼囮の影武者としたハインケルHe111爆撃機輸送機型が控えている。<着陸の時にブレーキをかけすぎて主輪が発火し、タイヤが焦げている。ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、降りてきて、フィンランド側の出迎えを受けた。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に訪問のため、イマトラ空港にヒトラーを運んだドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9のヒトラー専属バウアーとパスポートを確認しているフィンランド国防軍兵士。後方は、通訳を兼ねているドイツ駐フィンランド大使ヴァイパエルト・ファオ・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士。;Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15963引用。


1942年6月4日、フィンランド、マンネルハイム元帥の75歳の誕生日に訪問のため、アドルフ・ヒトラーは、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着した。しかし、着陸に際して、主輪のブレーキをかけすぎたためか、ゴムタイヤが過熱して、発火、煙を上げる事故が発生した。

フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥が見守る中、これはドイツの威信を喪失しかねない大事件のはずだが、ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、フィンランド側の出迎えを受けている。乗員たちは大慌てで、携帯用消火器を手にして、車輪の火災を消し止めた。Fw-200コンドル輸送機を操縦していたのは、ヒトラー専属パイロットのヨハン・"ハンス"・ペーター・バウアJohann "Hans" Peter Baur)である。バウアーにとって、とんでもない大失態であり、罷免されてもおかしくない事態だった。しかし、ヒトラーは、この件を不問に付し、バウアーには何の咎めもなかった。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ空港にヒトラーを運んだドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9のヒトラー専属バウアー。
;後方のFw200は、着陸の時にブレーキをかけすぎて右側の降着装置の主輪が発火し、ゴムタイヤが焦げて煙が出た。ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、降りてきて、フィンランド側の出迎えを受けた。しかし、ヒトラー専属パイロットのバウアーとしては、これは国際的大失態であり、内心穏やかではなかったはずだ。しかし、ヒトラーは、この件を不問に付した。
Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Immolan lentokentällä, Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitler vieraili Immolassa 4. kesäkuuta 1942 tullessaan onnittelemaan Suomen marsalkkaa, C. G. E. Mannerheimiä tämän 75-vuotispäivänä.
Aiheen paikka Ilmola, Ruokolahti Aiheen aika 4.6.1942 Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK8109:5 Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:5引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)・ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥をドイツから空輸してきたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9;Fw200は、着陸の時にブレーキをかけすぎて右側の降着装置の主輪ゴムタイヤが発火し、煙が出た。そこで、搭乗員と整備員たちが、タイヤを点検している。
Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Immolan lentokentällä, Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitler vieraili Immolassa 4. kesäkuuta 1942 tullessaan onnittelemaan Suomen marsalkkaa, C. G. E. Mannerheimiä tämän 75-vuotispäivänä.
Aiheen paikka Ilmola, Ruokolahti
Aiheen aika 4.6.1942
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK8109:2
Kuvaustiedot: 4.6.1942
写真はMuseot Finna・HK8109_2引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場にFw200輸送機で到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)、元帥杖を手にしたドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥、ドイツ駐フィンランド大使ヴァイパエルト・ファオ・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士(ナチス・ドイツ式敬礼)が、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)に先導され、フィンランド国防軍兵士を閲兵している。
Saksan Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15986引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場にFw200輸送機で到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)・ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥(ヒトラーの真後ろ)、ドイツ駐フィンランド大使ヴァイパエルト・ファオ・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士が、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)に先導され、フィンランド国防軍兵士を閲兵している。
Saksan Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15987引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヒトラーをフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム元帥75歳の誕生日に訪問のため、イマトラ飛行場に空輸したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9と随伴機のハインケルHe111爆撃機輸送機型(左後方);Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15970引用。


ヒトラーは、戦争中、暗殺には特に気を使い、行動予定を厳重に秘匿するとともに、搭乗機に対する防御や脱出装置を完備させ、乗機を判読させないように囮機や影武者機を用意したりしたという。1942年6月4日、ヒトラーが、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥の75歳の誕生日祝いの名目で、フィンランド、イマトラ空港に飛来した際も、ハインケルHe111爆撃輸送機型を随伴させ、予備機であると同時に、ヒトラーの乗機を特定されないようにする囮の影武者機とした。

当時、フィンランド側は、ヒトラーの空路訪問に際しては、十分な数の護衛戦闘機を派遣する予定だったが、実際には、数機しか派遣していない。ヒトラーが、ソ連空軍機に撃墜されたり、乗機の故障・事故により、ヒトラー乗機が墜落したりすることを望んだ可能性も僅かだが残る。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヒトラーをフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム元帥75歳の誕生日に訪問のため、イマトラ飛行場に空輸したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9と随伴機のハインケルHe111爆撃機輸送機型(左後方);フィンランド訪問に備えて、ヒトラーの乗機は塗装を塗り直したように真新しく見える。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Kuvan lentokone on Focke-Wulf C-3/U9. Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15844引用。


写真(右)1944年6月4日、フィンランド、イマトラ空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳誕生日の祝いに飛来し、レセプションに出席、会談し、当日のうちに乗ってきたドイツ空軍フォッケウルフFw-200コンドル輸送機C-3/U9で帰国した。;左端に、随伴するハインケルHe111爆撃機輸送機型の胴体後部、尾翼が見える。1941年6月26日から、ソビエト連邦と「継続戦争」を戦い、緒戦では、スターリンに奪われたカレリア地峡を取り戻しつつあったが、1944年には戦局が悪化し、ソ連と講和せざるを得ない状況になった。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä. 1942.06.04. Lähde:Sa-kuva Malmi 1944.06.27.
The Finnish Defence Forces登録・Kuvan numero:157041引用。


ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北していた。冬戦争に敗北したフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、今度は、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の2カ月前から、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。

 1941年7月、フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻しつつあった。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、イマトラ空港までヒトラーを乗せたリムジン。左奥に、ヒトラー乗機のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9の胴体後半が見える。;ヒトラーとマンネルハイムが、降車後に歓談している。
Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Immolan lentokentällä, Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitler vieraili Immolassa 4. kesäkuuta 1942 tullessaan onnittelemaan Suomen marsalkkaa, C. G. E. Mannerheimiä tämän 75-vuotispäivänä.
Aiheen paikka Ilmola, Ruokolahti Aiheen aika 4.6.1942 Aiheen toimija Hitler Adolf Ryti Risto Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK8109:4 Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:4引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とドイツ総統アドルフ・ヒトラーとが会談した。中央は、ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥。;ヒトラーは、マンネルハイムの75歳誕生日を祝う名目で、急遽、フィンランドを訪問した。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1942-06-04 Aiheet 1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-16058引用。


1942年6月4日は、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日だった。そこで、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、フィンランドに彼を訪問した。ヒトラーは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9に乗って、フィンランドのイマトラ空港に飛び、そこで、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)や駐フィンランド・ドイツ大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士の出迎えを受けた

マンネルハイムは、自分の75歳誕生日にヒトラーが訪問しに来たので、ヒトラーの到着時にイマトラ飛行場に出迎えには来なかった。イマトラ空港にからリムジンに乗ったヒトラーは、マンネルハイム元帥の待つ豪華列車の停車場に向かった。列車の食堂車では、ドイツ指導者を招いた誕生会が開催された。また、ヒトラーと、フィンランド大統領リスト・リュティ、フィンランド軍総司令官マンネルハイム元帥を交えた会談が開かれた。ヒトラーは、フィンランドにソビエト連邦に対し、より強力な攻撃を仕掛けることを訴えたが、フィンランド側は、軍事的資源の不足を理由に、攻勢困難を訴えた。ヒトラーにとって、成果のない会談だった

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)[左奥黒スーツ]がドイツ総統アドルフ・ヒトラーを列車に案内しフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム元帥[左手前]を紹介した。
右奥は、ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥。ヒトラーは、マンネルハイムの75歳誕生日を祝う名目で、急遽、フィンランドを訪問し、このような列車でもてなされた。
Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04 .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-16052引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の誕生会に出席したドイツ総統アドルフ・ヒトラー、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Ryti)[ヒトラー正面・黒スーツ]、フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)[ヒトラー隣・黒スーツ]、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム元帥[ヒトラーの斜め前];フィンランド大統領リスト・リュティはドイツ語に堪能なので、通訳係も引き受けたのであろう。
Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04 .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15992引用。


ヒトラーは、誕生会と会談の後、マンネルハイム元帥とリムジンに乗って、ふたたびイマトラ空港に帰ってきて、Fw200コンドルに乗ってドイツ帰国した。イマトラ飛行場でのヒトラーの見送りには、マンネルハイム元帥、フィンランド大統領リスト・リュティだけでなく、フィンランド(ラップランド)方面のドイツ軍山岳兵団司令官エデュアルト・ディートル大将や駐フィンランド・ドイツ大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー博士も参列して、ナチス・ドイツ式敬礼で見送っている。当時のナチスとフィンランドは、ソビエト連邦を宿敵とする枢軸同盟国として、連携作戦を展開して戦った。ドイツと日本の連携作戦は事実上なかったから、フィンランドは、日独伊三国同盟を結んだ日本以上にナチスと親密な関係にあった。日本は、ドイツの要請にもかかわらず、ソビエト連邦との戦争を回避し、1941年4月以来、日ソ中立条約を順守していたのであるから。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥75歳の誕生日に訪問し、帰国するドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のため、イマトラ空港まで見送りに来て別れの握手をするマンネルハイム元帥。後方は、ヒトラーの乗機、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9。
valtakunnankansleri Hitler saapuu marsalkka Mannerheimin 75-vuotispäiville Immolaan.
Aiheen paikka Imatra, Immola
Aiheen aika 4.6.1942
Aiheen toimija Mannerheim Carl Gustaf Emil Hitler Adolf
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19520417:4
Merkinnät kirjoitus kuvan käänt&oml;puolella vasemmassa yläreunassa
Puolustusvoimat N:o 89614 Kuvaaja: TK-Sj&oml;blom
Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:5引用。


1941年6月22日に、ドイツは、不可侵条約を保護にして、共産主義のソビエト連邦に侵略を開始した。すると、フィンランドは、ナチスと同盟を組んで、1939年の冬戦争で敗北して失ったカレリア地方を奪回し、ソ連ボリシェビキに報復しようと、ドイツと同盟を結んで、1941年7月からソ連に侵攻を開始した。

フィンランド国防軍は、総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥の指揮の下、ソ連相手に善戦し、レニングラードを包囲し、住民を疲弊させ、北部の不凍港ムルマンスクを攻撃して、西側連合軍の補給物資がソ連に届かないようにする作戦を展開していた。つまり、ナチスとフィンランドは、連携して共産主義・ボリシェビキのソ連を屈服させるために共闘しており、密接な軍事同盟関係にあった。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)に同行したドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥と別れの握手をするフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)(後方、黒のコート);二人とも元帥なので、元帥杖を手に挨拶している。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15848引用。


1942年6月4日、ヒトラーのフィンランド訪問当時、フィンランド大統領は、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti:1889‐1956)で、彼はフィンランド銀行総裁を務めるなど実務家だった。リスト・リュティは、1939年11月、対ソ連防衛戦争「冬戦争」が勃発した翌日に首相に就任し、その後、1940年12月には、フィンランド第5代大統領に就任して、継続戦争末期までフィンランドの元首だった。

フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日の1942年6月4日、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ( Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥と会談して、その日のうちに、空路、ドイツに帰国した。

フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ヒトラー到着時も帰国時も、イマトラ空港に送迎に出てきている。他方、マンネルハイムは、自分の75歳誕生日にヒトラーが訪問しに来たので、ヒトラーの到着時にイマトラ飛行場に出迎えには、来ていない。しかし、ヒトラーのドイツ帰国に際しては、イマトラ飛行場まで見送りにやってきている。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)に同行したドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥と別れの握手をするフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)(後方、黒のコート)はヒトラー(右後姿)のほうを見ている様だ。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13149引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥75歳の誕生日に訪問し、帰国するドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のため、イマトラ空港まで見送りに来たマンネルハイム元帥とフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Ryti)[黒のコート];後方のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9にヒトラーは乗って、ドイツに帰国する。右手側に、フィンランド国防軍の衛兵が警備している。
Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Immolan lentokentällä, Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitler vieraili Immolassa 4. kesäkuuta 1942 tullessaan onnittelemaan Suomen marsalkkaa, C. G. E. Mannerheimiä tämän 75-vuotispäivänä.
Aiheen paikka Imatra, Immola
Aiheen aika 4.6.1942
Aiheen toimija Mannerheim Carl Gustaf Emil Hitler Adolf
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19520417:7
Merkinnät kirjoitus kuvan käänt&oml;puolella vasemmassa yläreunassa
Puolustusvoimat N:o 89614 Kuvaaja: TK-Sj&oml;blom
Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:5引用。


1942年6月4日、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥75歳の誕生日を祝うために、ナチス・ドイツ総統兼首相アドルフ・ヒトラーは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9に乗って、フィンランドのイマトラ空港に到着した。フィンランド側は、最大級の国賓として、同盟国のヒトラー総統を迎え、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Ryti)、フィンランド首相エドウィン・リンコミエスEdwin Linkomies)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥が、直々に飛行場に出迎えた。そして、同じ反共産主義・反ボリシェビキを奉じて、ソ連と戦う枢軸同盟国として固い握手を交わしている。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ( Risto Heikki Ryti)[黒のコート]、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥[中央、Fw200昇降口]と会談し、その日のうちに、帰国した。左の黒のコートは、フィンランド大統領リスト・リュティのもの。マンネルハイムは、自分の75歳誕生日にヒトラーが訪問しに来たので、ヒトラーの到着時にイマトラ飛行場に出迎えには、来ていない。しかし、ヒトラーのドイツ帰国に際しては、イマトラ飛行場まで見送りにやってきている。;ナチスとフィンランドは、ソビエト連邦を宿敵とする枢軸同盟国として、連携作戦を展開して戦った。ドイツと日本の連携作戦は事実上なかったから、フィンランドは、日本以上にナチスと親密な関係にあった。
Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Immolan lentokentällä, Saksan valtakunnankansleri Adolf Hitler vieraili Immolassa 4. kesäkuuta 1942 tullessaan onnittelemaan Suomen marsalkkaa, C. G. E. Mannerheimiä tämän 75-vuotispäivänä.
Aiheen paikka Imatra, Immola
Aiheen aika 4.6.1942
Aiheen toimija Mannerheim Carl Gustaf Emil Hitler Adolf
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK8109:6
Merkinnät kirjoitus kuvan käänt&oml;puolella vasemmassa yläreunassa
Puolustusvoimat N:o 89614 Kuvaaja: TK-Sj&oml;blom Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:6引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日を祝った後、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9乗ってイマトラ空港を発つドイツ総統アドルフ・ヒトラー・国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥[中央右]を見送っているフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti) [中央奥の黒コート]、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥[中央左、長身]。右の黒い制服は、ドイツ駐フィンランド大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士。ナチスは、ソ連を敵とする枢軸同盟国としてフィンランドと連携して軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開していた。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Taustalla Hitlerin lentokone Focke Wulf Fw 200 Condor (tunnus KE+IX). Vasemmalta: tasavallan presidentti Rytin adjutantti B&oml;rje Lennartson S&oml;derstr&oml;m, marsalkka Mannerheim, tasavallan presidentti Risto Ryti, selin Hitler, kenraalisotamarsalkka Wilhelm Keitel ja oikealla mustassa asepuvussa Saksan Suomen suurlähettiläs Wipert von Bl¨cher.
Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:5引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)・ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥を見送るドイツ第20山岳兵団司令官エデュアルト・ディートル(Eduard Dietl)大将(前列手前、ナチス・ドイツ式敬礼)、黒の制服のドイツ駐フィンランド大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士(前列中央、ナチス・ドイツ式敬礼)、敬礼するフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥(前列中央)、帽子を振るフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)(後方、黒のコート);手前上は、Fw200コンドル輸送機の主翼。ヒトラーたちは、胴体後方の窓際に乗っているのであろう。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15841引用。


写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)のマルミ(Malmi)空港から飛来したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)を降りるフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。ヒトラーに答礼しにラステンブルクの総統大本営にでかけたので、東プロイセンのラステンブルクの飛行場からの帰り道である。マンネルハイム元帥は75歳、降機するときに支障のないように、木製の頑丈な階段が作成され、手すりも設けられている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13030引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、チャーチルと同じく、反ボリシェビキ(Anti-bolshevism)の立場で、ソ連を憎んでいたが、それはソ連による国土侵害の中で、ナチス・ドイツ以上に嫌悪していたのである。

フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1917年、ロシア革命の時期にフィンランド独立のためにロシア人・フィンランド人から成る赤軍を粉砕した経験があり、反共産主義のためならナチスとも同盟を厭わない、ナチスのイデオロギーについて批判しない人物だった。マンネルハイム元帥の反ボリシェビキ(Bolshevik)の心情をのぞかせるのが、彼のヒトラー大本営「狼の巣」訪問というナチスへの軍事作戦協力の姿である。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ、東プロイセンのラステンブルク飛行場に降り立つフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥、見送っているのはドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥;二人は軍人最高位の元帥で、その象徴として元帥杖を持って挨拶している。後方は、マンンネルハイム元帥が搭乗してきたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13057引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月4日、フィンランドに飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラー訪問に答礼するために、1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)のマルミ(Malmi)空港からドイツ空軍差し回しのフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に搭乗してドイツに到着した。マンネルハイム元帥は75歳、Fw200コンドル輸送機を降りるのが便利なように、木製の階段が設置された。この階段には、頑丈な手すりも片側につけられている。

アーカイブの解説には、マンネルハイム元帥が飛来した場所、飛行場について記載がないが、到着後にマンネルハイム元帥が、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」でヒトラーと一緒に作戦会議に臨んでおり、ドイツの地を踏んだのは、ラステンブルクの飛行場だったのは確実である。ラステンブルク飛行場には、ヒトラーはおらず、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がマンネルハイム元帥を出迎えている。そして、そこからリムジンンにのって、森林地帯の中に秘匿されていた総統大本営「狼の巣」に向かった。

写真(右)1942年6月27日(?)、ドイツ、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)に同行したの訪問に敬意を表するために、返礼としてドイツを訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥を出迎えたドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥。後方は、マンネルハイムを運んだドイツ空軍フォッケウルフFw-200コンドル輸送機C(登録コード:GC+AE);二人とも元帥なので、元帥杖を手に挨拶している。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13184引用。


写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ、東プロイセンのラステンブルク飛行場に到着したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)から降機したドイツ国防軍将校(正面前列2名)と出迎えに敬意を表して敬礼するフィンランド国防軍の随員(階段上4名)。 ;真っ先に、主賓のフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が降機して、それをドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が出迎えた。そのマンンネルハイム元帥が下りた後に、Fw-200からドイツ軍将校、フィンランド国防軍の随員が下りてきた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13057引用。


Fw 200輸送機には、C-4/U1 (製造番号:Werk-Nr 137)という特別機があるが、この機体はそれまでの長距離哨戒偵察に使用していたFuG200(Lorenz FuG 200 Hohentwiel)レーダーを撤去し、胴体下面に設けていた長大なゴンドラ突出部も撤去した要人輸送専用機で、アドルフ・ヒトラー、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツなどの要人輸送専用とされたという。しかし、実際には、ゴンドラの撤去による高速化といっても、それまでの最高速力 350 km/hが360km/h程度に向上するだけで、大型機ゆえに、飛行性能の向上は僅かだった。そこで、旧来の哨戒偵察機の武装強化を活かして、内装を豪華にした要人輸送機が使用され続けた。

ドイツもフィンランドも、ソ連に戦争を仕掛けた1941年の夏、短期間でにソ連が降伏すると考えていた。フィンランドは1939年11月の冬戦争を、一国で戦い続け、ソ連軍の侵攻を食い止めることができた。となれば、1940年6月にフランスを1カ月で降伏させた世界最強のドイツ軍の加勢を受ければ、ソ連を速やかに打倒できると考えても不思議はない。さいかし、1940年末、ドイツ軍はモスクワ攻略に失敗し、モスクワ前面でジューコフ将軍率いるソ連軍に大敗した。これは、旭東方面に配置されていた対日戦争用の極東軍を配置転換し、兵力を増強できたこともあるが、基本的にソ連軍の予備兵力が膨大で、その軍需生産能力(エネルギーから兵器まで)が強大だったことが要因である。戦術的失敗のために、1939年の冬戦争ではソ連軍はフィンランド軍に苦戦したに過ぎなかった。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ、東プロイセンのラステンブルク飛行場に到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥、出迎えたドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が現地の護衛・案内係の親衛隊SS兵士を紹介している。;後方の、マンンネルハイム元帥乗機のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)は、窓枠に遮光カーテンが取り付けられている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13057引用。


ドイツ、東プロイセン州ラステンブルク(Rastenburg)飛行場は、現在のポーランド領で、ポーランド語ではウィラモー(Wilamowo)飛行場というが、ワルシャワから205キロ北に離れている。ここには、1935年に一般用の飛行場が作られた。

第二次大戦の勃発から1年近くたった1940年7月、ヒトラーの総統大本営が密かにこの地に建設されることが決まると、急速に開発がなされた。これがいくつかある総統大本営のうち、最も使用された総統大本営「狼の巣」( the Wolf's Lair:Die Wolfsschanze)である。ここには、防空壕、バラック兵舎、発電施設、飛行場など200個の建築物から成っている。

ラステンブルク(Rastenburg)飛行場は、小型で、フィーゼラー(Fieseler)Fi156シュトルヒ(Storch)連絡機の離着陸ができる程度のものだった。

しかし、1941年12月、東部戦線で対ソビエト連邦の戦いが長引くことが明らかになると、ユンカースJu-52/3m三発輸送機、フォッケウルフ(Focke-Wul)f FW-200コンドル(Condor)四発輸送機のような大型機を離着陸が可能な滑走路が整備された。ラステンブルクには大小ふたつの飛行場が整備されたのである。

ラステンブルク(Rastenburg)行場では、1942年2月8日、ヒトラーのフィンランド訪問4カ月前に、兵器弾薬大臣でトート建設機関の長であるフリッツ・トート(Fritz Todt)が墜落事故で死亡している。また、1944年7月20日、ヒトラーを総統大本営(Die Wolfsschanze)で爆殺したと信じたクラウス・フォン・主たウフェンベルク(Claus von Stauffenberg)大佐が、ラステンブルク飛行場をハインケルHe-11爆撃機輸送機仕様で出発し、ベルリンに到着後、ワルキューレ作戦を発動している。

ヒトラー自身は、この総統大本営で2年強800日間を過ごしたが、ソ連軍が接近してきたために、1945年1月20日、ラステンブルク飛行場から、空路ベルリンに脱出している。そそて、1945年1月24日、ラステンブルクの総統大本営(Die Wolfsschanze)は、高性能爆薬20トンを用いて、主要な大型建築物が破壊された。其の2日後、 ソ連赤軍が総統大本営を無血占領している。

写真(右)1942年6月27日、ドイツ、東プロイセンのラステンブルク飛行場から総統大本営「狼の巣」に到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥)を出迎えるドイツ総統アドルフ・ヒトラー;中央後方にはラステンブルクの飛行場からマンネルハイム元帥に随伴してきたドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が控えている。周囲には、総統大本営のドイツ軍兵士が多数歓迎に集まっている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13060引用。


1939年のソ連との冬戦争の際、フィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなく、長期戦となれば敗北は明らかだった。そこで、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。この復讐戦が、マンネルハイムが1941年7月に始めた「継承戦争」である。

1942年6月4日、ヒトラーはマンネルハイムとフィンランドの列車で会談した。その1942年夏、ヒトラーもマンネルハイムも、ソ連の持つ生産力の高さ、予備軍の膨大さ、動員可能性の大きさを十分に認識していたはずだ。

にもかかわらずヒトラーは、イタリア軍の不甲斐なさをマンネルハイムに訴え、イタリア軍を支援するために、バルカン方面、北アフリカ方面に派兵したことで、対ソ連戦争への動員が不足したと言い訳をし、ソ連指導者スターリンの考えは、ヨーロッパのボルシェビズム(bolshevism)による支配・赤化であると述べて、その危険からヨーロッパを守ること戦いを、俄然として決意すべきだとした。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」の作戦室、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が統括する作戦会議に、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥(左後方)が参加している。;左手前には、ドイツ国防軍総司令部作戦部長アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl)大将が説明している。ヒトラーの隣には、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が控えている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13203引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」の作戦室、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が統括する作戦会議に、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥(ヒトラーの頭の影)が参加している。;左手奥のドイツ国防軍総司令部作戦部長アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl)大将が、稚樹上で部隊の動きを説明している。ヒトラーの手前には、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が控えている。突き当り奥には、ヒトラーの肖像画が掛けられているが、ヒトラーは自分の肖像画を自ら進んで置かせたのであろうか。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13206引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」から列車に乗ってドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥の下に到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;二人とも元帥で元帥杖を持って挨拶を交わしている。ナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統のいる大本営ばかりか、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも参じて、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合ったマンネルハイムが、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3231引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月4日の誕生日にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統の表敬訪問を受け、彼も誕生会に招待し、対ソ戦争について会談した。そして、6月27日、ドイツの東プロイセン州ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」を訪れ、そこで開かれていた最高指導作戦会議に出席した。マンネルハイムは、総統大本営のヒトラーを訪問しばかりではなく、引き続いて、列車でドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも馳せ参じて、彼の下で祝宴に参加している。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がゲーリング国家元帥に別れの握手をしている。;マンネルハイムは、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。対ソビエト連邦との戦争協力を話し合ったマンネルハイムは、1942年6月時点で、ヨーロッパを支配するドイツ後押しを受けられることを大変に喜んだはずだ。、フィンランドは、、恨み重なるソ連打倒の好機として、継続戦争を自ら開始したのである。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3283引用。


マンネルハイム元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。

このような対ソビエト戦争の戦意高揚を無視して、マンネルハイム元帥は、ヒトラーとの共闘を臨んでいなかった、ヒトラーによる誕生日訪問を迷惑に思っていたなどと邪推するのは、見当違いであろう。1917年のロシア革命後、ボリシェビキ勢力が伸長し、赤軍を組織して共産主義革命を進めたとき、フィンランドでは、、ロシア共産党のボリシェビキに賛同したフィンランド共産主義者、共産党員、赤軍が政権奪取を図った。それに対して、反革命軍、白軍を組織して、革命派を武力鎮圧したのが、マンネルハイムである。この経緯を踏まえれば、マンネルハイムもヒトラーも、フィンランドもナチス・ドイツも、ともに反共産主義として、ソビエト連邦、ヨシフ・スターリンを警戒し、チャンスがあれば、彼らを無害化、中立化したかったに違いない。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がドイツからフィンランド、マルミ空港に帰国する。;1939年のソ連との冬戦争の際、フィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなく、長期戦となれば敗北は明らかだった。そこで、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。この復讐戦が、マンネルハイムが1941年7月に始めた「継承戦争」である。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13033引用。




1939年11月に始まった冬戦争で、フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦した。しかし、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、長期戦には耐えることはできなかった。

フィンランド国防軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港までの飛行途中、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥をドイツから帰国させるドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)Focke-Wulf Fw200 Condor huollossa MalmillaSot.virk. Olavi Linnus, valokuvaaja Sotamuseo Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-06-27 Sot.virk. Olavi Linnus, valokuvaaja Aiheet: 1944-06-27.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-129568引用。


wikipedia日本語版の言う「冬戦争の際に連合国はフィンランドに介入しようとしたが、その援軍を隣接国のノルウェー、スウェーデンが通過させず、連合国もそれ以上の介入はしなかった」と誤解を招く表現をしている。これは、イギリス・フランス市民がフィンランドに同情的であったため、イギリス政府・フランス政府が、ソ連への圧力をかけない理由を他のスカンジナビア諸国の責任とした言い訳に過ぎないのである。両国とも、ドイツ打倒を第一の目標としており、北欧の小国のために、自国の安全保障を犠牲にするつもりはなかった。その証拠に、フィンランドが継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港までの飛行途中、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥をドイツから帰国させるドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)
Focke-Wulf FW 200 ``Condor ? ? laskeutuu Malmille.
Sot.virk. Olavi Linnus, valokuvaaja
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1944-06-27
Sot.virk. Olavi Linnus, valokuvaaja
Aiheet 1944-06-27.
写真はSotamuseo ・sa-kuva-129567引用。


フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)まで、ドイツから帰国するフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)コックピットのハンス・バウアー(右);マンネルハイム元帥は、75歳の誕生日にヒトラーの祝福を受け、鉄十字章を授けられた。その答礼に、Fw200コンドルに乗ってドイツ、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」にドイツ総統アドルフ・ヒトラーの訪問に敬意を表して、答礼した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13032引用。


写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツに向かうフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)コックピットのハンス・バウアー(右);マンネルハイム元帥は、75歳の誕生日にヒトラーの祝福を受け、鉄十字章を授けられた。その答礼に、Fw200コンドルに乗ってドイツ、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」にドイツ総統アドルフ・ヒトラーの訪問に敬意を表して、答礼した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13104引用。


写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港までの飛行途中、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)コックピット
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13103引用。


1942年6月4日、フィンランド軍総司令官カール・マンネルハイム元帥の75歳の誕生日に、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、フィンランドにFw200コンドル輸送機で出かけ、マンネルハイムを祝福し、鉄十字章を授けた。

これは、日帰りの旅行だったがそこで、マンネルハイム元帥は、その答礼に、1942年6月27日、ヘルシンキのマルミ飛行場からドイツの派遣したFw200コンドルに乗ってドイツ、東プロイセン州ラステンブルクにある総統大本営「狼の巣」にドイツ総統アドルフ・ヒトラーを訪問した。

当時、フィンランドは、枢軸国のナチス・ドイツの同盟国であり、反ボリシェビキ(Bolshevik)を掲げて、共産主義のソビエト連邦と戦っていた。ヒトラーは、マンネルハイムに一層激しい攻勢をソ連に仕掛けることを強く要請した。しかし、マンネルハイムは、フィンランドの国力の低さ、作戦地域の地形や天候の要害を理由にして、攻勢をかけることの困難さを訴えた。マンネルハイムは、同盟国ドイツと運命を共にするつもりは全くなく、フィンランドの国益、すなわち独立の保障の最優先していた。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に向かうフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)コックピットへの通路
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13057引用。


1930年代後半、フォッケウルフ社は、ドイツ・ルフトハンザ航空向けに、クルト・タンクの設計するFw200大型長距離輸送機の開発に着手した。これまで、大型機は、ユンカースG38四発輸送機、ドルニエDo-X12発飛行艇などがあったが、アメリカでダグラス社DC-4E四発輸送機の開発が進むなど、フォッケウルフ社も四発以上の大型長距離輸送機を開発し、一流航空会社への脱皮を図ろうとの思惑もあったようだ。

そこで、フォッケウルフ社は、当時、既に量産されていて信頼性も高く、出力も大きいBMW132エンジン750馬力4基を装備した四発機に、乗客25名を収容して、航続距離3,000Km以上の長距離飛行が可能な機体を目指した。

しかし、ユンカースG38輸送機、ドルニエDo-X飛行艇、ダグラスDC-4E輸送機は、いずれも数機しか生産されず、量産には至らなかった。これは、技術的な問題もあったが、旅客需要が増加したとはいっても、既存のドイツのユンカースJu52/3m三発輸送機、アメリカのDC-3双発輸送機など中型の旅客・貨物輸送機が大量生産され、それらの機体が多数就役していたために、改めて大型四発の旅客機・貨物輸送機の必要性が、未だに低かったためであろう。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に向かうフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)コックピットへの通路
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13054引用。


Fw200輸送機は、1937年7月に試作機の初飛行に成功した。そして、1938年8月10日、Fw200はベルリンを出発し、無着陸で24時間56分後にニューヨークに到着し、帰国は8月13日にユーヨークを発って、順風(偏西風)に乗っては19時間47分後に、ベルリンに帰着するという大西洋横断の世界記録を成し遂げた。こうして、Fw200コンドルは、優秀な飛行性能を国内外に顕示することができ、高性能な民間輸送機として、世界の主要な航空会社への売り込みが可能になった。

しかし、それから1年、1939年9月1日、ドイツ軍は突如ポーランドに侵攻し、ポーランドと相互援助条約を結んでいるイギリス・フランスは、ドイツに最後通牒を出し、9月3日、ドイツに宣戦布告した。第二次大戦の勃発で、ヨーロッパ大陸は戦火に巻き込まれ、Fw200コンドル輸送機の民間航路での活躍は、ほとんど絶望的になった。しかし、ドイツ空軍は、Fw200コンドル輸送機の攻勢の二注目し、長距離哨戒偵察機、要人輸送機として採用し、合計270機以上が量産されることとなったのは、皮肉である。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に向かうドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)の通信装置を操作する通信士;フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がヒトラーに答礼に行った帰りにFw200コンドルに搭乗している。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13058引用。


フォッケウルフFw 200コンドル C型哨戒偵察機は、目標のない洋上を遠距離飛行するために、航法装置を充実させた。また、ドイツ海軍潜水艦Uボートとの共同作戦を実施するため、潜水艦や基地との通信装置も整えられていた。

Fw200コンドル長距離哨戒機C-3型のラジオ無線機材としては、FuG 10無線機, エールストリング敵味方識別装置(FuG 25), 周波数変調機(FuG N 101), 無線方向探知機(Peil G V), 計器着陸装置(盲目飛行装置:FuBl 1) が装備されていた。

1939年9月1日、ドイツがポーランドに突如侵攻、3日には、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスがドイツに参戦して、第二次世界大戦が勃発した。その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土要求をし、併合する構えを見せた。しかし、フィンランドは、この要求を断固拒否、そこで、ソ連赤軍は、1939年11月30日、フィンランド南部に攻撃を加えた。こうして、フィンランド冬戦争が始まった。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に向かうドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に搭乗しているフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥に随行するフィンランド国防軍の将官たち。ヒトラーに答礼にラステンブルクの総統大本営に出向いた帰り道。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13038引用。


写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に向かうドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に搭乗しているフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。ヒトラーに答礼にラステンブルクの総統大本営に出かけた帰りの機内。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13030引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日にナチス・ドイツを訪問した。これは、同時期のヒトラーによる枢軸国フィンランド訪問に比較して、対ソ連戦争、第二次世界大戦の中で、より重たい意味を持つと考えられる。しかし、ヒトラーのフィンランド訪問、マネルハイム元帥との会談に比較して、現代では、フィンランドでもドイツでも、紹介や解説も少ないままである。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に向かうドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に搭乗しているフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。ヒトラーに答礼にラステンブルクの総統大本営に出かけた帰り道。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13030引用。


フィンランドを民主主義国として、横暴な大国ソ連ボリシェビキ(Bolshevism)抵抗した勇敢な国家として、高く評価する識者が多いが、その一方で、ナチス・ドイツに積極的に出かけ、共闘していたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の姿は、隠されている。1942年当時、アメリカは参戦したものの、ヨーロッパでナチス・ドイツの主要な軍事的圧力を受け、ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げていたのは、ソビエト連邦であり、イギリスはドイツ軍をソ連に向かわせて安心して軍需生産に励んでいた。

ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルに第二戦を開くように要求したが、チャーチルは、脇道でしかない北アフリカで手いっぱいだとして、ヨーロッパ反攻を先延ばしして時間を稼いでいた。イギリスにとって、国益を守るためには、共産主義のソ連をドイツと正面から戦わせて、両者に犠牲を強いるのは理にかなったことであり、戦略として当然だった。

1942年12月3日(昭和十七年十二月三日)、大日本帝国は、フィンランドの「元帥フライヘル、カール、グスタフ、エミル、マンネルハイム外二名叙勲ノ件では 内閣総理大臣東条英機は、大元帥昭和天皇に対して、「ボリシェビキ(Bolshevik)政権打倒のため本邦との携帯政策を提唱し之がため誠意努力しつつあり」として、マンネルハイム元帥に勲一等旭日桐花大綬章の、ヨハン・ランゲル内閣総理大臣(首相)、ロルフ・ウィッティング外務大臣に勲一等旭日桐花大綬章の叙勲を、次のように上申している。

「フィンランド」国元帥「フライヘル、カール、グスタフ、エミル、マンネルハイム」外二名ハ孰モ同国ノ枢要ノ地位ニ在リテ、曩ニ満洲国ノ承認及ビ防共協定ニ参加スル等我国ニ対シ常ニ親善政策ヲ執リ来リタルガ、更ニ我国ノ大東亜新秩序建設ノ偉業ニ深ク共鳴シ、之ガ達成ヲ哀心翹望スル等日本及ビ「フィンランド」両国ノ親善関係増進ニ貢献セル功績顕著ナリトス、仍テ此際外務大臣[谷正之]ク奏各頭書ノ通叙勲被仰出可然哉此段允裁ヲ仰グ

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの訪問に敬意を表して、ドイツに向かうフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);コンクリート舗装された滑走路をタキシングするコンドル輸送機を旗を手にした地上勤務員が誘導している。
4-moottorinen Focke Wulf Condor sapuu Malmille. Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja 4-moottorinen Focke Wulf Condor sapuu Malmille. Lentokone on Focker Wulf Fw 200 C, GC+AE. Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-06-28 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja.
写真はMuseot Finna・HK19781018:13引用。


日本外務省の国際日誌 第一号(1943年4〜6月)でも、芬蘭(フィンランド)の情報として次の記述がある。
1) 五月九日 瑞西(スウェーデン)ニテ保養中ナリシ「マンネルハイム」芬蘭元帥帰国ス(短波)
2)五月十日 芬蘭警察ハ在「ヘルシンキ」独公使館出入ノ一商人、往年ノ芬蘭共産党夫人(女流作家)及芬蘭新聞記者外三名ヲ敵探嫌疑ニ依リ逮捕セル趣ナリ(公電)
3)五月十七日 独立戦争二十五周年記念日ニ当リ「リンコミエス」芬首相ハ全国放送演説ヲ行ヒ芬国民ノ現戦争ニ対スル固キ決意ヲ表明

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);滑走路をタキシングするコンドル輸送機を旗を手にした地上勤務員が誘導している。胴体下面のゴンドラは、機体右側によっているが、これは正パイロットが左座席につくため。ただし、ゴンドラ側方は湾曲して機体左にまでかかっている。 4-moottorinen Focke Wulf Condor sapuu Malmille. Lentokone on Focker Wulf Fw 200 C, GC+AE.
Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-06-28.
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Aiheet: 1944-06-28 .
写真はMuseot Finna・HK19781018:13引用。


写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と乗機となったドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);;出迎えているのはフィンランド国防軍兵士のようだ。;
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Kättelemässä harmaassa pitkässä takissa marsalkka Carl Gustaf Emil Mannerheim. Taustalla oleva lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3 (tunnus KE+IX)..
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13137引用。


フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim)元帥は、ソビエト連邦を相手に1939年に冬戦争を、1941年7月から第二次世界大戦時にソ連と戦ったが、その時期にフィンランド国防軍総司令官を勤めた。

1941年1月4日にフィンランド首相となったヨハン・ウィルヘルム・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻を契機として、ソ連に攻め入った。これは、1939年の冬戦争で敗れ失った国土カレリア地方を奪還するというのが目的だったが、共産主義者の反乱を鎮圧して独立したフィンランドは、当初からソビエト連邦を警戒、仮想敵としていたから、これは、脅威となっているソ連に対する弱体化の戦争とも考えられる。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)で帰国した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aiheet.
写真はSotamuseo ・sa-kuva-13136引用。


第二次大戦末期のフィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の誕生日、1942年6月4日は、ヒトラーが空路お祝いに駆けつけ、マンネルハイム元帥自身が出迎えをした。フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡を奪還すると称して、1941年6月26日、「継承戦争」をはじめ、ソ連を攻撃した。

フィンランド政府は、第二次大戦へ枢軸国(ドイツ)側として参戦したのではないとの形式論を主張したが、イギリスはドイツ軍の兵力のほとんどを相手に地上戦を戦うソ連を軍事支援しており、ソ連に対する政略の上からも、フィンランドがイギリス、アメリカとは戦うつもりがないとの一方的な宣言を認めなかった。

1941年6月26日にソ連侵攻「継続戦争」を指揮したフィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥だったが、戦局悪化の中、1944年8月4日、第6代フィンランド大統領に就任した。そして、1944年9月19日、ソ連と講和し、ドイツ軍を裏切った。フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の誕生日(1867年)6月4日を「フラッグ・デー」と定めている。6月4日は、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥を記念して、軍事パレードが行われる。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、イマトラ空港、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)は、1867年6月4日生まれのフィンランドの軍人で、第二次世界大戦が戦われていた時期の1939年から1945年の間、フィンランド軍の最高司令官だった。当時、ソビエト連邦と戦い苦戦していた同盟国のドイツ総統ヒトラーとしては、フィンランドに対ソ戦を継続させる必要があった。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Joukon ensimmäisenä harmaassa pitkässä takissa marsalkka Carl Gustaf Emil Mannerheim. Taustalla oleva lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3 (tunnus KE+IX).
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13130引用。


スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)で帰国した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aiheet.
写真はSotamuseo ・sa-kuva-13133.引用。


1941年6月のドイツのソ連侵攻にあわせて始めた継続戦争だったが、1943年に入ると、明らかに戦局はフィンランド、ドイツに不利になってきた。ソ連に対しては、イギリス、アメリカが膨大な軍事物資を貸与しており、ソ連の生産力増強と相まって、フィンランド、ドイツは、ソ連軍の攻勢を防ぐことも困難になっていた。戦局が悪化する中で、1943年3月5日、フィンランド首相ヨハン・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は辞任し、新たにエドウィン・リンコミエスEdwin Linkomies)がフィンランド首相に就任したが、彼も、ソ連に降伏できない以上、ナチスとの同盟を堅持するしか選択肢はなかった。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)で帰国した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aiheet.
写真はSotamuseo ・sa-kuva-13134.引用。


1944年6月のノルマンディ侵攻で、西側連合軍地上軍が西ヨーロッパでドイツ軍を圧倒し、ドイツの敗戦が確実になる中、1944年8月8日にエドウィン・リンコミエス首相(日本の勲一等旭日大綬章佩用)は辞任、後任首相には、アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)が就いた。そして、フィンランド大統領フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)も辞職し、8月4日にフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥が後継の大統領に就任した。

1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);マンネルハイム元帥は、東プロイセン、ラステンブルク(Rastenburg)にあるヒトラー大本営「狼の巣」'Wolfsschanze' を訪問し、さらにドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥に主催する祝宴に招かれた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Keskellä harmaassa pitküssü takissa marsalkka Carl Gustaf Emil Mannerheim. Taustalla oleva lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3 (tunnus KE+IX).
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13128引用。


  フィンランド大使館「最近の出来事・お知らせ, 2012/06/07:フィンランド国防軍の記念日を祝って」によれば、「フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の誕生日をフラッグ・デーと定め、軍事パレードが行われている。マンネルヘイム元帥は、冬戦争や第二次世界大戦時にフィンランド国防軍総司令官、戦後に第6代大統領を務めた。70回目となる今年のパレードは、フィンランドの首都ヘルシンキで開催された」とある。フィンランドがソビエト連邦に侵攻して、第二次大戦を始めたこと、ソ連と講和して、ドイツとの同盟を破棄して、攻撃したことについて、触れていない。重要なのは、フィンランドは、フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、「民主主義」「自由」を貫いたということか。

写真(右):1943年4月,ソ連,ハリコフ,武装親衛隊装甲師団「ダス・ライヒ」(帝国)を視察するため、フォッケウルフFw-200コンドル輸送機で東部戦線を訪問した親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー。:ヒトラーも同型のFw-200輸送機に搭乗して,スモレンスクに飛び東部戦線を視察した。
Sowjetunion, Raum Charkow.- Reichsführer-SS Heinrich Himmler beim Aussteigen aus einem Flugzeug.- Besuch / Inspektion der schweren Pz. Abt. 502 der Waffen-SS-Div. "Das Reich"; April 1943; SS-PK Datierung: April 1943 Fotograf: Zschäckel, Friedrich Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


フォッケウルフFw-200コンドルの諸元
エンジン BMW-Bramo 323 R-2 mit je 1000 PS (1200 PS mit MW-50-Einspritzung) 4基
全幅: 32,84 m 全長: 23,87 m 全高: 6,30 m
空虚重量: 14.180 kg 全部重量: 22.600 kg
乗員: 7 人,生産機数 276機
巡航速度: 384 km/h 高度 3970 m, 405 km/h 重量17.600 kg
上昇限度: 6600 m
航続距離: 3550 km (標準) C-3/U2 最大 6400 km
武装: 2基×MG 151/20 (20 mm), 5基×MG 15 (7,92 mm)
爆弾1000 kg (爆弾倉) + 主翼下面 1400 kg,最大搭載量1800 kg

1937年7月に初飛行したフォッケウルフFw-200は、1938年8月10日にベルリンを出発、24時間後にニューヨークに到着し、帰路は20時間でベルリンに戻った。その後、東京へも訪問している。これは、商業的な売り込みのためでもあり、Fw200は、ルフトハンザ航空のほか、スウェーデン、ブラジルでも使用された。ナチ党高官も利用した。

1939年9月、第二次世界大戦の勃発後、Fw-200は長距離偵察機として軍に採用され、艦船攻撃用に250kg爆弾を搭載できるように改造された。

1940年6月、フランス占領後、フォッケウルフFw-200は大西洋の船団哨戒と船舶攻撃に活躍した。しかし、機体構造の脆弱な民間輸送機であり、作戦行動の厳しい操作性には、機体がもたなかったため、破損や機体劣化が激しく、哨戒爆撃機としての運動性には限界があった。その後、1942-43年冬、スターリングラードに孤立包囲されたドイツ第六軍への空輸任務にも投入された。

写真(右):1943年9月-10月,ソ連,北ウクライナの前線をフォッケウルフFw-200コンドル輸送機で訪問したドイツ総統アドルフ・ヒトラー:Fw-200輸送機に搭乗して,スモレンスクに飛び東部戦線を視察した1943年3月13日、ヒトラーは暗殺未遂に遭っている。これは、東部戦線のドイツ中央軍集団司令部主席参謀へ二ング・フォン・トレスコウ少将が仕組んだもので、ヒトラー歓迎昼食会において、総統副官ブラント中佐に、ベルリン郊外ツオッセンの陸軍参謀本部に勤務する友人シュ―ティフ大佐に賭けに負けたのでコニャックを渡してほしいと頼んだが、この箱には、時限爆弾が仕掛けられていた。これは、コンドル輸送機がベルリンへの帰還飛行中に爆発する予定だったが、信管は起爆せず、ヒトラー暗殺は失敗に終わった。暗殺失敗が露見するのを恐れたトレスコウ少将は、手渡した時限爆弾入りの箱を、翌朝、回収した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-705-0251-01A Archive title: Sowjetunion, Smolensk.- Adolf Hitler beim Verlassen einer Focke Wulf Fw 200 "Condor" (Kennung: CE+IB) der "Fliegerstaffel des Führers".- KBZ HGr Nordukraine Dating: 1943 September - Oktober Photographer: Mahla Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1939年の冬戦争、1941年の継承戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。

wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便か、カギ十字を好む人物の誤解に基づく思い込みである。

写真(右):フォッケウルフFocke-Wulf FW 200 "Condor"コンドル輸送機を視察に使用したアルベルト・シュペール:アルバート・シュペーアは、アドルフ・ヒトラーが寵愛した建築家であり、ベルリン整備計画、リンツ再建計画など都市建築だけでなく、1942年2月7日に軍需大臣(兵器・弾薬大臣)のフリッツ・トートが飛行機事故死した後、後任の軍需大臣に就任した。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-2005-0011 Archive title: Albert Speer (3. v.l.) auf einem Flugplatz vor einem Flugzeug Focke-Wulf FW 200 "Condor" Dating: 1941/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右):1942-1943年、フォッケウルフFocke-Wulf FW 200 "Condor"コンドル:機体下面に長大なゴンドラを装着して、そこに偵察員席、爆撃照準器、防御用機関銃を配備し、爆弾搭載のスペースも設けた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-619-2663-06 Archive title: Frankreich.- Flugzeug >;Focke-Wulf Fw200 C-4 "Condor" im Flug; KBK Lw zbV Dating: 1942/1943 Photographer: Kestner Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1943年3月13日,東部戦線を視察したヒトラーの乗ったフォッケウルフFocke-Wulf Fw200 Condor専用輸送機に,スモレンスクの飛行場で,時限爆弾が仕掛けられた。

ドイツの中央軍集団参謀のヘニング・フォン・トレシュコウ(Henning von Tresckow)大佐(当時)と同志で副官フェビアン・シュラーブレンドルフ中尉が,ヒトラー搭乗機を酒ビンに仕掛けた時限爆弾を組み込んだ。そして,それを友人の参謀本部編成課長シュティーフ(Hellmuth Stieff)大佐との賭けの負け商品だと偽って,参謀本部のハインツ・ブラント中佐にヒトラー専用機のフォッケウルフFw200 Condor機内への持込を頼んだ。

しかし,ロシア上空の低温のせいか,時限爆弾の信管が完全に作動せず,ヒトラーが搭乗するFw200 Condor輸送機爆破計画は失敗。Fw-200輸送機は,スモレンスクを出発して,無事にラステンブルクに到着した。

時限爆弾入りの酒瓶は,回収され,トレシュコウ大佐たちの暗殺計画は発覚しなかった。


Focke-Wulf FW 200 Condor "Grenzmark"


4.ユンカースJu90輸送機/Ju290長距離哨戒偵察機

写真(右)1940-1942年頃,飛行中のユンカースJu90V8輸送機V8 DJ+YE(Ju290哨戒偵察機):Ju 90V-8試作8号機は、V7と同様、空冷星形14気筒エンジン(1700hp)を搭載したJu90最終型で、Ju 290長距離哨戒偵察に改修された。兵装は、機首上面に動力銃座20ミリMG 151/20機関銃機1丁、ゴンドラ前後、両側方、尾部に13.1ミリMG131機関銃を装備している。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:44220656 - Catalog:16_005473 - Title:Junkers Ju 90V-8 became Junkers Ju 290V-1 Junkers files - Filename:16_005473.TIF
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:44220656引用。


ユンカースJu-290A-7諸元
全長: 28.6メートル,全幅:42.0メートル, 翼面積:203平方メートル
自量:3.3トン,全備重量: 4.5トン
エンジン: BMW 801D 空冷14気筒 1700馬力4基
最大時速:420キロ,航続距離:6000キロ,上昇限度:6500メートル
原型Ju90輸送機は1938年8月初飛行,Ju-290試作機1942年7月初飛行,就役1942年8月,生産数:52機

⇒写真集Album:大戦中のユンカースJu290長距離哨戒偵察機 の詳細を見る。


5.アメリカのダグラス(Douglas)DC-4E試作旅客輸送機

写真(右)1938-1939年、飛行中のアメリカ、ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機
SDASM Archives Douglas : DC-4E Catalog #: 00065802 Manufacturer: Douglas Designation: DC-4E Official Nickname: Notes: Original DC-4 - Triple verticals - exported to Japan ? 1938 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真はSDASM Archives・Catalog #: 00065802引用。


ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機
搭乗員: 3名、乗客: 42名
全長: 29.83 m、全幅: 42.16 m
全高: 7.40 m、翼面積: 200.2 平方メートル
自重: 19,308 kg、最大離陸重量: 30,164 kg
発動機: プラット&ホイットニー R-2180ツインホーネット空冷星形エンジン(1,450馬力)4基
最高速力: 394 km/h
航続距離: 3,540 km
実用上昇限度: 6,980 m

ダグラスDC-4E旅客輸送機 プロトタイプ(NX18100, s/n 1601)は開発中止になったものの、1939年10月、大日本航空が購入した。これは、民間航空用途という名目だったが、実際は日本海軍が、長距離飛行可能な対艦船用哨戒攻撃機を考案中で、その原型としてDCV-4Eを選んだのである。大日本航空が購入したDC-4Eは、中島飛行機において日本海軍向け十三試大型陸上攻撃機「深山」の原型となった。

⇒写真集Album:1930年代アメリカの巨人機ダグラスDC-4E輸送機 の詳細を見る。


6.アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54輸送機

写真(右)1942年以降、貨物を積み込むアメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機(シリアルナンバー: 42-32936):トレーラーで貨物を輸送機の下に運搬してきた。青丸白星の中央に赤丸を付けたアメリカ軍の国籍マークは、1942年前半で、白星中央の赤丸を削除された。
SDASM Archives
Douglas : C-54
Manufacturer: Douglas
Designation: C-54.
Official Nickname: Skymaster.
写真はSDASM Archives・Catalog #: 00013412引用。


1944年には、ダグラス(Douglas)C-54A スカイマスター輸送機うち一機がVC-54C、アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルト (Franklin D. Roosevelt).専用機として選ばれ、VC-54Cの形式を与えられ愛称「セイクリッド・カウ」 (Sacred Cow)が1944年6月に生産された。同機は、アメリカ初の大統領専用機であり、今日の「エアフォース・ワン」" (Sacred Cow "に当たる。ルーズベルト大統領が亡くなった後は、ハリー・トルーマン大統領( Harry Truman )が使用した。

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7.ユンカースG38 大型輸送機


写真(右)1930-1931年頃、ドイツ、ベルリン・テンペルホーフ飛行場のルフトハンザ航空のユンカース(Junkers)G38 大型旅客輸送機D-2000
;エンジンは主翼内側は大出力なので4翅プロペラ、外側は小出力なので2翅プロペラである。D-2000は1号機、総生産数は2機のみ。
D-2000は1号機、D-2500は2号機で、総生産数は2機のみ。

SDASM Archives Junkers, G.38 Catalog #: 01_00081573 Title: Junkers, G.38 Corporation Name: Junkers Additional Information: Germany .
写真はSDASM Archives・Catalog #: 01_00081573引用。


世界最大の巨人機・ユンカースG.38旅客輸送機は、試作1号機(登録コードD-2000)が、L55型 V型12気筒エンジン2基とL8型 6気筒エンジン2基の合計4基(1970馬力)を搭載して、1929年11月6日に初飛行した。

ユンカース(Junkers)G38 旅客輸送機の諸元
;D-2000は1号機、D-2500は2号機、総生産数2機。
乗員:7名
乗客:30名(D-2000/D-AZUR)/34名(D-2500/D-APIS)
全長:23.21 m、全幅:44 m
全高:7.2 m、翼面積:290 平方メートル
空虚重量:14,920 kg
全備重量:24,000 kg
最高速力:225 km/h、巡航速力:175 km/h
航続距離:3,460 km、巡航高度:3,690 m

⇒写真集Album:ドイツ巨人機ユンカースG38輸送機 を見る。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC

アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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