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◆ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の飛行機開発
写真(上)1935年9月頃、アメリカ、高速記録を達成したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)ヒューズ H-1(Hughes H-1) (NX18973)
:プラット・アンド・ホイットニー R-1535 14気筒 2重星型エンジンを1,000 hp (750 kW)を搭載、1935年9月13日初飛行し、世界速度記録とアメリカ大陸横断速度記録を樹立した。
Charles M. Daniels Collection Photo Catalog #: 15_000443 Title: Charles M. Daniels Collection Photo Aircraft/Subject: Hughes H-1 Racer Daniels Album Name: H.R. Hughes Album Page #: 1 Repository: San Diego Air and Space Museum ArchiveK
写真は SDASM Archives引用。


写真(上)1938年7月14日、アメリカ、ニューヨーク、世界一周の最速記録を達成したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)ロッキード(Lockheed)14「スーパー・エレクトラ」(Lockheed 14 Super Electra)輸送機 (NX18973)
:1938年7月10日、アメリカ、ニューヨークのフォード・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)をヒューズら4名が搭乗し離陸し、パリ、モスクワと回って14,672 マイル (23,612 km)を3日19時間17 分で地球を一周した。
Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Catalog #: 10_0015725 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938 Repository: San Diego Air and Space Museum ArchiveK
写真は SDASM Archives引用。


写真(上)1947年4月5日前後、アメリカ、ヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機試作2号機(登録コード: 470156)
: 通常4翅可変金属プロペラ装備の試作2号機もヒューズ自らの操縦で1947年4月5日初飛行した。全長:19.94 m (65 ft 5 in) 全幅:30.89 m (101 ft 4 in) 全高:7.06 m (23 ft 2 in) 翼面積:91.3 m2 (983 ft2) 空虚重量:16,800 kg (37,100 lb) 最大離陸重量:26,400 kg (58,300 lb) 発動機:プラット・アンド・ホイットニー R-4360空冷星型28気筒エンジン3,000 hp (2,240 kW)2基 予定最高速力:720 km/h (450 mph)。
Hughes : XF-11 : Catalog #: 00015378 Manufacturer: Hughes Designation: XF-11 Official Nickname: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。

写真(上)1947年11月前後、アメリカ、ヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)
: 1947年11月2日初飛行しただけで、2度と飛行しなかった。試作1機のみ製造された失敗作。全幅: 97.51 m [45] 全長: 66.65 m 全高: 24.18 m、空虚重量250,000 ポンド (113,398 kg)。
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00437 Last Name: Hughes First Name: Howard Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。

<ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)八部作>
ヒューズ(Hughes)H-1レーサー(Racer)世界最速記録
ロッキード(Lockheed)14スーパーエレクトラ(Super Electra)世界一周
ヒューズ(Hughes) XF-11 試作偵察機
ヒューズ(Hughes) H-4 ハーキュリーズ(Hercules)飛行艇の開発 
現存するヒューズ(Hughes) H-4 ハーキュリーズ(Hercules)飛行艇
アメリア・パットナム(Amelia Putnam)とハワード・ヒューズ(Howard Hughes)のロッキード(Lockheed)機による世界一周飛行の検討
ヒューズ(Hughes)のロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)

1.ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)生い立ち

写真(右)1912年4月、アメリカ、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00422 Last Name: Hughes First Name: Howard Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives引用。


ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)は、「古き良き」アメリカ繁栄の時代を代表する実業家兼飛行家で、巨万の富を生かして、飛行技術を習得しただけではなく、特徴ある世界記録をもつ機体を開発した。

ハワード・ヒューズHoward Hughes)は、1905年12月24日、テキサスのヒューストンの名望家の家に生まれた。ハーバード大学に学んだが、偏向的な性格で、地道な学びや勤労を忌避して中退した。そして、スピード、名声を好んで正確だったようだ。若干18歳で親を失い孤児となるも、膨大な遺産を受け継いで、派手な生活を演出した。

有名になりたかったハワード・ヒューズHoward Hughes)の進出したのが映画作成の分野で、自らの資金で自らの監督指導で映画を撮影し、スポンサーの影響を完全に排除した。そして、映画の専門家はハリウッド(Hollywood)で雇い入れ、1920年代後半から、大予算映画を作成した。その初の映画がサイレントの『暴力団』(The Racket) (1928)でハリウッドのパラマウント映画が配給した。ヒューズの反抗的傾向を反映し、警察と行政の腐敗、暴力を描いてた問題作である。

写真(右)1928−1930年代、アメリカ、カリフォルニア州オークランド上空、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の 航空映画『地獄の天使』 Hell’s Angelsに登場するイギリス軍塗装S.E.5a戦闘機とドイツ軍塗装フォッカー(Fokker)D.VII戦闘機の編隊飛行:映画撮影用に購入した。
L218-089 Royal Aircraft Factory S.E.5a and Fokker D.VII over Oakland during filming of Hell's Angels Jun28 Photos from an Album (AL-218) containing images of aircraft taken circa 1930-40 in the bay area. Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


フォッカー(Fokker)D.VII 若くして両親を亡くし孤児となったヒューズは、同族企業のヒューズ・ツール社(Hughes Tool Company)の経営権を得て、若干22歳で映画作成を自ら手掛け飛行機を使った航空映画を撮影した。第一次大戦のドイツ軍パイロットの悲劇を描いた映画『地獄の天使(Hell’s Angels)』を1930年に公開した。

映画と航空機という名声を獲得したヒューズは、飛行機操縦ライセンスも取得し、映画でも自ら飛行機を操縦し、その後も、航空界での目立った派手な行動を楽しんだ。ヒューズは、ヒューズ航空を設立し、自ら開発した飛行機を初飛行し、飛行世界記録を樹立した。

Hughes 飛行家ハワード・ヒューズHoward Hughes)の作成した代表的映画といえば、1927年からヒューズがカリフォルニア州で自ら作成に当たった航空映画『地獄の天使』 Hell’s Angels(1930年公開)である。実機のイギリス軍S.E.5A戦闘機、ドイツ軍フォッカー(Fokker)D.VII戦闘機を使用した。また、その時期にアメリカン航空の航空便輸送をこなして、飛行技術を習得した。

<ヒューズのプロデュースした映画一覧>
1927 Two Arabian Knights 監督
1930 Hell's Angels 監督
1931 The Front Page 
1932 Sky Devils
1932 Scarface
1943 The Outlaw 監督
1943 Behind the Rising Sun
1947 The Sin of Harold Diddlebock
1950 Vendetta
1951 His Kind of Woman
1952 Macao
1955 Son of Sinbad
1956 The Conqueror
1957 Jet Pilot


写真(右)1933−1934年、アメリカ、青年事業家・大富豪ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
:ハーバート大学(退学)入学、身長2メートルの長身、アメリカ有数の青年資産家・青年実業家である。
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00421 Last Name: Hughes First Name: Howard
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


1932年、ヒューズ(Hughes)は自らの名を関した航空製造会社ヒューズ・エアクラフト社(Hughes Aircraft Company)を,それまで親から引き継いできたヒューズ・ツール社(Hughes Tool)から独立させた。この会社は、アメリカ軍用飛行機を回収して、飛行機レースに参加させることが仕事だった。

しかし、すぐに、既存飛行機の改造だけではなく飽き足らなくなり、革新的な飛行機を自ら開発することを夢見るようになり、航空機開発という専門的な最先端分野に進出した。つまり、イノベーションを重視した航空機開発の企業となったのである。そして、ヒューズエアクラフトが、新技術を取り入れた新型機を開発するように技術者たちに発破をかけた。


写真(右)1930年頃、アメリカ、アメリカン航空制服を着用し、副操縦士として勤務したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
:素性を隠してチャールズ・ヒューズ(Charles W. Howard)の偽名でアメリカン航空で飛行機操縦・民間航空会社の経験を積む予定だったが、素性がばれて、退職している。
Arkansas Aviation Historical Society Image
PictionID:54641381 - Catalog:22_000073.tif
Title: Stinson Model A American AL
Filename: 22_000073.tif
Image from the Arkansas Aviation Historical Society, which donated a large collection of archival material to the San Diego Air and Space Museum in 2016
Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
Repository: San Diego Air and Space Museum Howard Hughes in 1934 moonlighting as an American Airways (predecessor to American Airlines) pilot, while using the alias "Charles W. Howard".
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


1933年、ヒューズは商務省(Commerce Department)を説得して、自分の飛行機操縦パイロット・ライセンス番号4223を80に引き下げて登録させた。これは、資金力にものを言わせたゴリ押しかもう知れないが、パイロット登録番号80と古くからのパイロットであることを認めさせて、気分の良くなったヒューズは、自ら航空機開発に乗り出した。

  同じ1933年にヒューズは、素性を隠してアメリカン航空(American Airways)の副操縦士(co-pilot)と働いたが、この時の偽名はチャールズ・ヒューズ(Charles W. Howard)でこの偽名は明らかに、ニューヨーク=パリ間の大西洋横断飛行を成功させたチャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh)を真似したものである。しかし、素性はすぐに明らかになり、話題にされるのを嫌ったヒューズは、アメリカン航空をやめてしまった。


写真(右)1933−1934年、アメリカ、素性を隠してアメリカン航空で飛行機操縦・民間航空会社の経験を積んだハワード・ヒューズ(Howard Hughes)

AL-73C Luqueer Album Image _00222 From the Frank S. "Luke" Luqueer Photo Collection The Frank S. "Luke" Luqueer Photograph Collection is composed of 4 large albums covering from the 1920s to the 1950s. The albums contain historic photos and correspondences from many important historical figures such as Jack Frye, Pat Amelia Earhart, Wiley Post, Howard Hughes, Hap Arnold, Jimmy Doolittle, Art Goebel, Charles Lindbergh, Douglas McArthur, and Ruth Elder to name a few. Many of the images have been autographed. Frank Luqueer is a notable aviation photographer. He bought his first camera in 1903 and devoted much of his life to taking photos of historic personalities and events in aviation history.
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


ヒューズは、その後の人生のほとんど航空に関心を持ち続け、飛行機の開発と製造にかかわり、1930年代には飛行速度の世界最速記録、アメリカ大陸横断最速記録を打ち立てている。


Hell's Angels - A Howard Hughes Production (1930)

図(右)1930年頃、アメリカ、ヒューズH-1レーサー、H-4巨人飛行艇を開発し、自ら初飛行したハワード・ヒューズ(Howard Hughes):飛行機の映画を作成し、飛行機の操縦を覚え、さらに飛行機開発にまで乗り出したが、こんな道楽ができたのはヒュ―ズが富豪だった、という理由だけではない。根っから、時代の変革、新技術への関心、不可能への挑戦が自分の人生だと決めていたからであろう。ヒューズH-1レーサーで陸上機の世界最高速記録を樹立、ヒューズH-4飛行艇を操縦し世界最大の飛行艇を初飛行させた。
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00424 Last Name: Hughes First Name: Howard
図は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。
AL-73C Luqueer Album Image _00222 From the Frank S. "Luke" Luqueer Photo Collection The Frank S. "Luke" Luqueer Photograph Collection is composed of 4 large albums covering from the 1920s to the 1950s. The albums contain historic photos and correspondences from many important historical figures such as Jack Frye, Pat Amelia Earhart, Wiley Post, Howard Hughes, Hap Arnold, Jimmy Doolittle, Art Goebel, Charles Lindbergh, Douglas McArthur, and Ruth Elder to name a few. Many of the images have been autographed. Frank Luqueer is a notable aviation photographer. He bought his first camera in 1903 and devoted much of his life to taking photos of historic personalities and events in aviation history.
Portrait painting of Howard Hughes, circa 1940s Creator: Zamparelli, Mario Armond Date 1940 to 1949 Description The official portrait painting of Howard Hughes. In 1998, Russ Stevenson presented the painting, along with many of his other Hughes Airwest files and memoirs, to the Special Collections Library of the University of Texas at Dallas.
図は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000047 Physical Identifier 0321_0051引用。


ヒューズは、その後の人生のほとんど航空に関心を持ち続け、飛行機の開発と製造にかかわり、1930年代には飛行速度の世界最速記録、アメリカ大陸横断最速記録を打ち立てている。


Hell's Angels - A Howard Hughes Production (1930)



アメリカのマーベル (Marvel)コミック刊行『アイアンマン』の主人公アンソニー・"トニー"・スタークTony Stark)は、大富豪で、機械製造の天才であり、最新科学技術を導入してスーパーマン「アイアンマン」となり、大活躍する。この実在のモデルが、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)である。アンソニー・"トニー"・スターク(Tony Stark)は、軍需生産を「スタークインダストリーズ」の社主であり、経営よりも、技術導入を図って強力な最新兵器を作るのに熱意を傾け、その新兵器を自ら使用することに快感を覚える偏向的な天才として描かれている。トニーは、アイアンマンを着用して、巨悪を退治する強いヒーローとして活躍するがこれは、ハワード・ヒューズを念頭に置いた設定であろう。

1925年のアメリカ小説『グレート・ギャツビー』The Great Gatsby)は, スコット・フィッツジェラルドFrancis Scott Key Fitzgerald: 1896年9月24日 -1940年12月21日心臓発作で急死)の近代小説だが、このドイツ系アメリカ人の主人公ジェームズ・ギャッツ(James "Jimmy" Gatz)もヒューズを彷彿とさせる。禁酒法の下、酒の密輸を始め、富豪となったギャツビーだが、大邸宅の豪華な暮らしと高慢な性格の裏で、実は虚飾に満ち孤独で悲劇的な状況に陥っている。これは、『グレート・ギャツビー』The Great Gatsby)作者 スコット・フィッツジェラルドFrancis Scott Key Fitzgerald)の投影された姿で、作者自身が破天荒な人生の中で、豪華で荒んだ生活を送っていた。ヒューズ同様、アメリカの繁栄と栄光の中で、個人として、その流行に飽き足らず、不満を抱え、時に憎悪と怒りをもって接している。しかし、最後には、女性問題で殺されしまうが、その葬儀には、今までこぞって近寄りになろうとしていた人々は誰も来ず、寂しいものだった。悲劇的な末路を、ヒューズも迎えることになる。

図(右)1930年頃、アメリカ、ヒューズH-1レーサー、H-4巨人飛行艇を開発し、自ら初飛行したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00415 Last Name: Hughes First Name: Howard
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


イギリス、ヴァージンアトランティック航空Virgin Atlantic Airway)のリチャード・ブランソンRichard Branson:1950年生)は、イギリスで高校中退だったが、レコードを中心に音楽業界で成功をおさめ、そこから航空業界に参入する。これが、ブランソンによる1984年のヴァージンアトランティック航空Virgin Atlantic Airway)の設立で、ボーイング747をリースして運用し始め、国際航路にも参入して、超大型機エアバスA380を採用し注目を集め、格安航空会社も傘下に収めるなど斬新で派手な経営方針を打ち出した。

サーの称号を得たリチャード・ブランソンRichard Branson)は、21世紀にはフォーミュラ1のスポンサーとなって、スピードの世界の先頭を目指した。メディアでも大活躍し、世界一周無着陸飛行、熱気球世界一周飛行、民営宇宙旅行企画に参加している。イギリス人リチャード・ブランソンRichard Branson)も、アメリカ人ハワード・ヒューズを念頭に置いて、空の冒険を好み、冒険家・大富豪経営者として積極的な活躍をしているのであろう。

ヴァージンアトランティック航空Virgin Atlantic Airway)は、イギリスの大手航空会社として、国際路線でも世界的な航空y会社となったが、2020年8月4日にアメリカで倒産し、経営再建を図る途上にあるが、このような積極的事業の失敗も、ハワード・ヒューズが繰り返したことだった。


Biography Documentary HD - Howard Hughes
飛行機開発、戦争調達委員会召喚、潔癖症、ラスベガス


2.ボーイング(Boeing)Model 100A 複座スポーツ機(247K)

写真(右)1927年以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス南、イングリウッド(Inglewood)、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.)のボーイング(Boeing)Model 100 A複座スポーツ機(247K):航空映画『地獄の天使』 Hell’s Angels作成時期に購入したのであろう。ボーイング(Boeing)Model 100複座機は、1928年6月25日に初飛行したアメリカ陸軍のボーイング(Boeing)P-12戦闘機のアメリカ海軍仕様ボーイング(Boeing)F4Bの民間型だが、この機体はエンジンカウリング、車輪カバーがなく、操縦席後方のカバーも膨らみが少ない。ヒューズ仕様に改造される前の撮影と思われる。
Boeing 100 Special, 1094, N247K, Howard Hughes SDASM.CATALOG: 01_00092491 SDASM.TITLE: Boeing 100 Special, 1094, N247K, Howard Hughes SDASM.CORPORATION NAME: Boeing SDASM.DESIGNATION: Model 100 SDASM.TAGS: Boeing 100 Special, 1094, N247K, Howard Hughes Boeing 100 Special, 1094, N247K, Howard Hughes Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1927年以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス南、イングリウッド(Inglewood)、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.)のボーイング(Boeing)Model 100A複座スポーツ機(247K):ボーイング(Boeing)Model 100複座機は、1928年6月25日に初飛行したアメリカ陸軍ボーイング(Boeing)P-12戦闘機のアメリカ海軍仕様ボーイング(Boeing)F4Bの民間型で、この機体はエンジンカウリング、車輪カバーが付いており、操縦席後方のカバーも膨らみもある改装後の仕様になっている。ヒューズ仕様に改造された後の撮影である。塗装は、胴体がグリーン、主翼がオレンジという派手なレーサー塗装である。
AL-73B Luqueer Album Image _00171 From the Frank S. "Luke" Luqueer Photo Collection The Frank S. "Luke" Luqueer Photograph Collection is composed of 4 large albums covering from the 1920s to the 1950s. The albums contain historic photos and correspondences from many important historical figures such as Jack Frye, Pat Amelia Earhart, Wiley Post, Howard Hughes, Hap Arnold, Jimmy Doolittle, Art Goebel, Charles Lindbergh, Douglas McArthur, and Ruth Elder to name a few. Many of the images have been autographed. Frank Luqueer is a notable aviation photographer. He bought his first camera in 1903 and devoted much of his life to taking photos of historic personalities and events in aviation history. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1927年以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス南、イングリウッド(Inglewood)、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)のボーイング(Boeing)Model 100A複座スポーツ機(247K):航空映画『地獄の天使』 Hell’s Angels作成時期に購入したのであろう。ボーイング(Boeing)Model 100複座機は、1928年6月25日に初飛行したアメリカ陸軍のボーイング(Boeing)P-12戦闘機のアメリカ海軍仕様ボーイング(Boeing)F4Bの民間型で、上主翼に燃料タンクを搭載した。ボーイング(Boeing)Model 100複座機は、4機生産されたが、ヒューズ特注機はボーイング(Boeing)Model 100Aと呼ばれ製造番号(247K)を垂直尾翼に記入している。
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00419 Last Name: Hughes First Name: Howard Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1927年以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス南、イングリウッド(Inglewood)、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)のボーイング(Boeing)Model 100A複座スポーツ機:塗装は、胴体がグリーン、主翼がオレンジという派手なレーサー塗装である。
ボーイング(Boeing)Model 100 A 複座スポーツ機の原型アメリカ陸軍のボーイング(Boeing)P-12戦闘機は、全長:6.19 m 全幅:9.12 m 全高:2.95 m 全備重量:1,401 kg 発動機:P&W R-1340D 空冷星型9気筒エンジン 500hp1基 最高速力:296 km/h 航続距離:1,131 km。
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00419 Last Name: Hughes First Name: Howard Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
Title: Howard Hughes, 1905-1976 Date Created/Published: [194-] Medium: 1 photographic print. Summary: Full lgth., standing, facing slightly right; in front of his new Boeing Army Pursuit Plane, Inglewood, Calif. Reproduction Number: LC-USZ62-63333 (b&w film copy neg.) Rights Advisory: Rights status not evaluated. For general information see "Copyright and Other Restrictions..." (http://lcweb.loc.gov/rr/print/195_copr.html). No copyright found; checked by staff 12/00. Call Number: LOT 2644-H [item] [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540写真は,Library of Congress> Prints & Photographs Online Catalog引用。


ハワード・ヒューズHoward Hughes)は、映画化した航空機だけではなく、実機の開発にも資金を投じ、1935年にヒューズ・エアクラフトを設立した。そして、同1937年、ハワード・ヒューズHoward Hughes)は自ら操縦桿を握って、ニューヨーク=ロサンゼルスを7時間29分25秒で飛行し、最速アメリカ大陸横断記録を樹立した。そして、1938年には、世界一周飛行を91時間で達成して、世界最速の世界一周記録を樹立している。

Hughes 1946年、ハワード・ヒューズHoward Hughes)は自らが開発した双発高速機XF-11試作機を操縦中に事故を起こし、ロサンゼルス郊外に不時着し、負傷している。

1939年、ハワード・ヒューズHoward Hughes)はトランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空(TWA)を買収し、そこに自らが開発にかかわったロッキード コンステレーション旅客機を採用してた。そして、世界最大の飛行機ヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)飛行艇を、ヒューズ・エアクラフトで1機試作した。

H-4飛行艇は、全幅 97.51 m、全長 66.65 m、全高 24.18 m、 空虚重量113,398 kg、発動機はプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-4360 "ワスプ・メジャー" 4列28気筒空冷星型エンジン3,000 hp (2.2 MW) 8基で、1947年11月2日に初飛行させた。しかし、機体が重すぎたために、それ以上の飛行は行われず、試作1機のみで失敗に終わっている。

1950年、「トランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空」(TWA)を「トランス・ワールド航空」(TWA)と改名し、国際旅客路線に大々的に進出した。この時、ロッキード コンステレーション輸送機をニューヨーク=パリ直行便に使用している。


3.1935年ヒューズ(Hughes)H-1 レーサー(Racer)(NX 258Y)


写真(右)1935年8月17日以降、アメリカ、カリフォルニア州、滑走路で待機するハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアとヒューズ(Hughes)H-1 レーサー(Racer)(NX 258Y)
:プラット・アンド・ホイットニー R-1535 14気筒 2重星型エンジンを1,000 hp (750 kW)を搭載、1935年9月13日初飛行し、世界速度記録とアメリカ大陸横断速度記録を樹立した。
Photograph of Howard Hughes with the H-1 Racer, circa 1935-1937 Description Howard Hughes, holding a pilot's helmet, is seen standing beside the H-1 Racer. The plane's registration number, NR 258Y, is painted on its rudder. Date 1935; 1936; 1937 Date Digitized 2005-02-11
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000047 Physical Identifier 0321_0051引用。


飛行機戦争映画『地獄の天使』を製作中、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)は映画に登場させる数10機の航空機の整備をグレン・オデカークに託した。その縁で、この2人は飛行世界記録を樹立できる新型機を開発したが、これがヒューズ(Hughes) H-1 レース機 (NX 258Y)である。リチャード・パーマー(Richard Palmer)の設計も取り入れ、ヒューズ航空社の最初の機体としてヒューズ (Hughes) H-1レーサーが開発されたのである。開発中の1934年にカリフォルニア工科大学の風洞試験もされたが、そこで、最高時速365マイル(mph)が達成できる見込みが立ったのである。

ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.)の操縦したヒューズ(Hughes)H-1 レーサー(Racer) (NX 258Y)の機体表面は、無塗装で空気抵抗を少なく留めることができた。鏡のように周囲が反射している。


写真(上)1937年1月17日以降、アメリカ、カリフォルニア州、滑走路で待機するハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアとヒューズ(Hughes)H-1 レーサー(Racer)(NX 258Y)
:プラット・アンド・ホイットニー R-1535 14気筒 2重星型エンジンを1,000 hp (750 kW)を搭載、1935年9月13日初飛行し、世界速度記録とアメリカ大陸横断速度記録を樹立した。
Hughes Racer at the Newark Airport, New Jersey, January 1937 Description The black and white view of spectators viewing Hughes Racer located in front of the Administration Building at the Newark Airport. Date 1937-01 Date Digitized 2013-08-21
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000530 Physical Identifier 0373_0252引用。


1935年8月17日、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)は、ヒューズ(Hughes)H-1レーサー(Racer)を自ら操縦し初飛行に成功。
1935年9月13日、ハワード・ヒューズは、短主翼型ヒューズ H-1レーサー(Racer) (NR 258Y)で陸上機の世界最高速記録 352.39 mph (567.12 km/h) を樹立。
1937年1月19日、ハワード・ヒューズは、長主翼型ヒューズ H-1レーサー(Racer) (R 258Y)でアメリカ大陸横断(2,490マイル)飛行を7時間 28分25秒、平均速力322 mph (518 km/h)で最速記録を樹立。

Hughes 1930年代中頃、大半の飛行機は、複葉機で、低出力の発動機を搭載していた。これに対してハワード・ヒューズHoward Hughes)は、アメリカ陸軍航空隊(USAAF)に採用も視野に入れて、ヒューズ(Hughes) H-1レーサーを新鋭機として売り込んだ。その理由は、自信満々のハワード・ヒューズHoward Hughes)は、アメリカ陸軍航空隊の新技術への信頼性が低かったこと、換言すれば、軍は革新的な新型機を理解できない、保守的な設計思想に囚われていたと考えていた。

ハワード・ヒューズHoward Hughes)が開発したヒューズ H-1(Hughes H-1)レーサー(Racer)(NX 258Y)の搭載発動機は。プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535ツインワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)R-1535 14気筒 2重星型エンジンは、気筒のボア132 mm×ストローク132 mmは同じで、排気量は25.17 リットル、出力は1,000 hp (750 kW)である。

ハワード・ヒューズHoward Hughes)は、ヒューズ H1-W(Hughes H1-W)レース機 (NX 258Y)で大陸横断高速記録に挑戦しようとした。ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)はH-1を改修し、翼面荷重を軽減するために全幅を延長し、揚力を向上し、主翼面積も増加した。

世界最速記録は1934年10月に、イタリアのマッキM.C.72水上レース機の樹立した709 km/h (440 mph)であった。これに挑んだのがハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)の開発したヒューズ(Hughes) H-1 レーサー (N 258Y)である。

ヒューズ(Hughes) H-1レーサー(Racer)は、ヒューズ自らの操縦によって1935年8月17日、初飛行。1935年9月13日、陸上機の世界最速飛行を樹立、1937年1月19日、アメリカ大陸横断最速記録を樹立。

写真(右)1937年1月19日、アメリカ、ヒューズ H-1(Hughes H-1)レース機 (尾翼方向舵にR 258Y)の尾部に立ったハワード・ヒューズ(Howard Hughes):無塗装で、重量軽減と空気抵抗削減を図り、1935年9月13日、短翼型H-1で、陸上機の世界最速記録を達成しているが、この時よりも、H-1の翼幅を延長し高アスペクト比の主翼に変更されている。1937年1月19日、翼幅を延長した長距離飛行用改造型でアメリカ大陸裁断時間横断記録を達成。
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00416
Last Name: Hughes First Name: Howard
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は SDASM Archives引用。


ヒューズ(Hughes) H-1レーサーの基本形状は、細長く絞った胴体に強力なエンジンを搭載し、主翼は低翼単葉で、流線型の尾部を持っている。材質は、金属骨格にアルミニウム金属外皮を張ったが、平滑さを保ち皿頭リベットを採用して機体表面の空気抵抗を減らしている。さらに、降着装置の主輪は、引込み式とされた。

ヒューズH-1の採用した全金属製、低翼単葉、引込み式膠着装置は、すでに1933年2月8日初飛行のボーイング(Boeing)247双発輸送機、1934年2月23日に初飛行したロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)双発輸送機も採用しており、1935年初飛行のH-1が初めてではないが、単発機としては新しかった。H-1は、主車輪と尾輪は、油圧作動の完全引込み式である。

ヒューズH-1の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー R-1535 14気筒 2重星型エンジンだが、この定格出力700 hp (522 kW)だったものを、一時的に臨時出力として1,000 hp (750 kW)に向上したレース用規格に改造したものを搭載した。

ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)は自ら開発に加わったヒューズ H-1(Hughes H-1)レーサー(Racer) (NX 258Y)で1935年8月、陸上機の世界速度記録を樹立した。その1年半後、1937年1月19日にヒューズは、ヒューズ(Hughes) H-1レーサー(Racer) (NX 258Y)を操縦しロサンゼルスからニューヨークまでを7時間28分25秒で無着陸飛行を行い、自身が2年前に打ち立てた9時間27分の記録を2時間短縮して大陸横断速度記録の新記録を樹立した。平均速度は518km/h (322mph)を超えていた。


Howard Hughes’ H-1 Racer - Decades TV Network

試作1号機ヒューズ (Hughes) H-1レーサー(Racer)は、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)の操縦で陸上機の世界最高速力を樹立したが、その1年半後の1937年1月19日、ロサンゼルスからニューヨークまでノンストップで7時間28分25秒で無着陸横断飛行した。そして、2年前にハワード・ヒューズHoward Hughes)自身の成し遂げた9時間27分の旧記録を、2時間短縮して大陸横断高速記録を更新した。その移動平均速力は518km/h (322mph)である。

写真(右)1945年11月14日、アメリカ、カリフォルニア州(?)、密閉式ガラス風防・単排気管・エンジンカウリング付きヒューズ H-1(Hughes H-1)レーサー(Racer)(NX 258Y)左後方側面:H-1レース機の胴体はアルミ合金製外皮で、無塗装として鏡のように周囲の風景を反射した。空気抵抗は塗装しているよりも少なかった。尾橇は小さく、未舗装滑走路にのめり込まりやすいように見える。垂直尾翼の方向舵下方に登録コード(NX 258Y)を記入している。ヒューズH-1の実機オリジナルは、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。
Hughes : H1-W : Racer Catalog #: 00067702 Manufacturer: Hughes Designation: H1-W Official Nickname: Racer Notes: NX-258Y--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は SDASM Archives引用。


ヒューズ H-1(Hughes H-1)レーサー(Racer)(NX 258Y)
乗員:1名
全長:8.23 m (27 ft )
全幅:9.67 m (31 ft 9 in)
全高:2.4 m (8 ft)
翼面積:12.80 m² (138 ft²)
翼面荷重:195 kg/m² (40 lb/ft²)
空虚重量:1,620 kg (3,565 lb)
全備重量:2,496 kg (5,492 lb)
エンジン:プラット・アンド・ホイットニー R-1535空冷星型エンジン700 hp (521 kW)
最高速力:566 km/h (352 mph)
馬力重量比:210 W/kg (0.13 hp/lb)

ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)が開発したヒューズ(Hughes) H-1レーサー(Racer)搭載発動機は。プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535ツインワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)R-1535 14気筒 2重星型エンジンは、気筒のボア132 mm×ストローク132 mmは同じで、排気量は25.17 リットル(1,535 cu in)、全長 53.27 in (1,353 mm)、直径 44.13 in (1,121 mm)、乾燥重量 1,087 lb (493 kg)、離昇出力825 hp (615 kW)/ 2,625 rpm、圧縮比(Compression ratio) 6.75:1、燃費 0.49 lb/(hp•h) (295 g/(kW•h))、出力重量比 0.76 hp/lb (1.25 kW/kg)出力は1,000 hp (750 kW)である。

ヒューズ(Hughes) H-1レーサー (NX 258Y)の発動機は、1932年に開発されたプラット&ホィットニー・ツインワスプJr.空冷星型エンジン700hp、エンジンカウリングは直径を絞った円形で、胴体と主翼のつなぎ目を整形し、飛行中の空気抵抗を減少するために、油圧作動の引込み式降着装置を採用した。金属外皮には、空気抵抗を減らすための沈頭鋲を採用している。これらの技術はその5年後の第二次大戦で活躍した戦闘機が踏襲したものである。

⇒写真集Album:ヒューズ(Hughes)H-1レーサー(Racer)を見る。 


4.1938年ヒューズ(Hughes)のロッキード・スーパーエレクトラ14最速世界一周


写真(上)1938年7月14日、世界一周早回り新記録を達成したロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra ”New York World’s Fair 1939.”:登録コード NX18973)とオーナーのハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行
:無線通信士リチャード・スタッダート(Richard R. Stoddart)、航法士ハリー・コナー(Harry P. McLean Connor)、ヒューズ、副操縦士トーマス・サーロウ(Thomas L. Thurlow)中尉、機関士エドワルド・ルッド(Edward Lund)
Photograph of Howard Hughes and crew, New York, July 1938 Description Photograph of a newspaper clipping featuring Howard Hughes and his crew. Typed onto a piece of paper attached to the image: ""Crowd waits for glimpse of Howard Hughes as he leaves the home of Al. Lodwick and enters automobile. 7/38."" Date 1938-07 Date Digitized 2013-10-04
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000897 Physical Identifier 0373_0612引用。


ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N「1939年ニューヨーク万国博覧会(“New York World’s Fair 1939.”)(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973):ニューヨーク万国博覧会は、1939年4月30日から10月31日まで開催された。その前年の1938年7月10-14日、アメリカの大富豪ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は愛機ロッキード・エレクトラ14(登録コード:NX18973)で世界一周早回りの記録を達成していたので、機体の名称は、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)と連携して、世界一周後の万博興行を意識しての命名である。

女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)は、1932年、ロッキード・ベガ(Lockheed Vega)"Little Red Bus"を単身操縦士の大西洋無着陸横断飛行を成功させたが、大統領夫人エレノア・ルーズベルトの後押しを受けて、赤道を回る世界一周旅行を計画した。

1937年にアメリアが世界一周に使用した愛機ロッキード・エレクトラ10E の改良型ロッキード・エレクトラ14N(Lockheed Model 14-N Super Electra)は、翌1938年7月にアメリカの大富豪ハワード・ヒューズHoward Hughes:1905-1976)の愛機として世界一周に成功している。

ハワード・ヒューズHoward Hughes)は、1932年、20代にして、ヒューズ・エアクラフト社を創立し、ボーイング(Boeing)P-12B複葉戦闘機を改良し1933年、ロサンゼルスで時速212マイルの直線飛行記録を更新した。そして、世界一周飛行記録を出そうと、長距離飛行可能なシコルスキー(Sikorsky)大型飛行艇、1933年7月初飛行のダグラス(Douglas DC-1)双発輸送機(乗客12人・巡航速度180マイル (289 km/h) )を購入したが、航続距離は問題がなくとも、巡航速力が遅くなり、飛行時間記録を上回ることができなくなるリスクがあった。そこで、より高速のロッキード・エレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)を購入した。

写真(右)1938年7月10日以前、アメリカ、アメリカ、カリフォルニア州(?)、ニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場に向かうために、ロッキード・スーパーエレクトラ14N "New York World's Fair 1939"(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)のまつ飛行場に向かう白パンツのハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行:1938年7月10日、白パンツのヒューズ一行はロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra ”New York World’s Fair 1939.”:登録コード NX18973)に登場し世界一周高速飛行に出発する。
Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Catalog #: 10_0015724 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


Lockheed Model 14-N2 Super Electra NX18973, “New York World’s Fair 1939,” arrives at Floyd Bennett Field, Long Island, New York, 2:34 p.m., 14 July 1938. (Associated Press) Representative performance figures are maximum speed of 250 miles per hour (402 kilometers per hour) and a service ceiling of 24,500 feet (7,468 meters). NX19783 had an estimated maximum range of 4,500 miles (7,242 kilometers).

写真(右)1938年7月10日以前、アメリカ、カリフォルニア州(?)、ニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場に向かうために、ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973)に乗り込む白パンツのハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行。搭乗直前の送迎挨拶:1938年7月10日、ニューヨークから、ヒューズらは世界一周高速飛行に飛び立ち14日にニューヨークに帰国して、3日19時間の世界一周早回りの記録を達成する。
Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Catalog #: 10_0015713 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


  写真(右)1938年7月10日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field )、世界一周に出発直前、第一目標パリに1938年7月10日に到着すると電話で伝えるハワード・ヒューズ(Howard Hughes):SDASMは多数の写真を保管展示しているが、残念なことに撮影時期や解説が少なく、実証的な根拠は、複数の写真を比較検討して見つけるしかない。
Catalog #: 10_0015720 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938
Creator: Press Association Inc. Date 1938-07-10 Description The black and white view of Howard Hughes on the telephone. Typed on a piece of paper attached to the image: "Howard Hughes a short while before taking off from Floyd Bennett Field on his hop to Paris 7-10-1938."
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。解説は、 University of Nevada, Las Vegas Digital ID whh000638 Physical Identifier 0373_0358引用


  青年時期から映画作成、航空機開発と資金をつぎ込んでのめり込んでいったヒューズは、世界高速を目指してヒューズH−1レーサーを完成させた。そして自らが操縦桿を握り、H-1レーサーで陸上機による世界最速記録を樹立したのである。

こうして、名実ともに飛行家アビエイターとして受け入れられたヒューズは、1937年には世界最速の地球一周飛行を計画する。そのための飛行機を作りたかったかもしれないが、世界一周をする大型機をすぐに開発するのは無理であり、その時間を待つことができず、既存の高速ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra)を購入した。そして、この機体に長距離飛行のための燃料タンク増設など改造を加えて、1938年7月10日にニューヨークを飛び立った。そして、91時間後の1938年7月14日、アメリカ独立記念日に世界一周してニューヨークに帰国するという演出を成功させた。

  写真(右)1938年7月10日、アメリカ、ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)を出発するハワード・ヒューズ(Howard Hughes)。見送ったのは1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長ウォーレン(左端のスーツ)、後方は愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra ”New York World’s Fair 1939.”:登録コード NX18973):胴体後方左側に昇降用のドアがついているが、開いた状態でインタビューが行われている。左から機関士エドワルド・ルッド(Edward Lund)、ハットを被ったヒューズ、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、航法士ハリー・コナー(Harry P. McLean Connor)、無線通信士リチャード・スタッダート(Richard R. Stoddart)、右端の副操縦士トーマス・スーロウ(Thomas L. Thurlow)中尉。
The flight crew of Howard Hughes’ around-the-world flight, left to right: Howard Robard Hughes, Jr., wearing a fedora and a white shirt; 1st Lieutenant Thomas L. Thurlow, U.S. Army Air Corps; Harry P. McLean Connor; Richard R. Stoddart; and Edward Lund. Standing at the far left of the photograph is Grover Whalen, president of the New York World’s Fair 1939 Committee, who christened the airplane. (Tamara Thurlow Field via Air & Space Smithsonian)
The flight crew of Howard Hughes’ around-the-world flight, left to right: Howard Robard Hughes, Jr., wearing a fedora and a white shirt; 1st Lieutenant Thomas L. Thurlow, U.S. Army Air Corps; Harry P. McLean Connor; Richard R. Stoddart; and Edward Lund. Standing at the far left of the photograph is Grover Whalen, president of the New York World’s Fair 1939 Committee, who christened the airplane. (Tamara Thurlow Field via Air & Space Smithsonian)
写真は,National Air and Space Museum Archives・Local number NASM-163076引用。


写真(右)1938年7月10日、アメリカ、ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)、世界一周早回りに旅立とうとするハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973):搭乗員5名が後部昇降口から機内にはいる前に報道陣に囲まれインタビューを受けている。見送りに3万人が集まったという。機体は、燃焼節約のため、スタート地点まで滑走路をトラックで牽引される。奥には、ダグラスDC-3双発輸送機が駐機している。
Photograph of the Lockheed 14 aircraft at Floyd Bennett Field, New York, July 10, 1938 Description The black and white view of the Lockheed 14 aircraft being surrounded by people at Floyd Bennett Field in New York. Date 1938-07-10
Date Digitized 2013-09-11
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000676 Physical Identifier 0373_0396引用。


ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)のロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973)による世界一周飛行(Round-the-World Flights)の経路

出発日時;1938年7月14日19:10 p.m.アメリカ、ニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)
1)フランス、パリ郊外、ル・ブルジェ空港(Le Bourget Airport) 3,641 マイル (5,860 km) 16 時間38分
2)ソビエト連邦ロシア、モスクワ(Moscow)1,640 マイル (2,639 km) 7時間51分
3)シベリア(Siberia)、オムスク(Omsk) 1,400 マイル (2,253 km), 7時間27分
4)ヤクーツク(Yakutsk;Yakut) 2,158 マイル (3,473 km), 10時間31分
5)アラスカ(Alaska)、フェアバンクス(Fairbanks) 2,457 マイル (3,954 km), 12時間17分
6)アメリカ、ミネソタ州(Minnesota)ミネアポリス(Minneapolis) 2,441 マイル (3,928 km) 12時間02分
到着日時;1938年7月14日14:34 p.m. フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)1,054 マイル (1,696 km) 4時間26分
世界一周(Round-the-World Flights)飛行距離:14,800 マイル (23,818 km) 飛行時間:3日19時間14分 平均飛行速力: 206.1 マイル/h (331.7 km/h)

写真(右)1938年7月10日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン(Brooklyn)、ロングアイランド西端、バレン島(Barren Island)、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)、世界一周早回りに旅立とうとするハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973):3万人の見送りを受けて、燃焼節約のため、スタート地点まで滑走路をトラックで牽引されている。周囲をモーターバイク警備隊員に囲まれている。
Photograph of Howard Hughes in New York, July 1938
Description A view of crowds waiting to see Howard Hughes arrive at Floyd Bennett Field in New York. Typed onto a piece of paper attached to the image: ""Flight's End - Floyd Bennett Field, N.Y. -- Propellers still whirling, the plane which carried Howard Hughes and four companions on their dramatic Round-The-World flight, taxis to a stop, on a runway there, flanked by an escort of motorcycle policemen. Part of the crowd of 30,000 which was on hand to greet the fliers, may be seen. Credit Line (ACME) 7/14/38.""
Date 1938-07-14
Date Digitized 2013-10-04
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000881 Physical Identifier 0373_0597引用。


しかし、フランスに本部のある国際航空連盟(Fédération Aéronautique Internationale:FAI)の規定では、世界一周飛行とは、一方方向に、赤道と同じ距離すなわち 22,858.729 マイル (36,787.559 km)を飛行するとされ、ヒューズ(Howard Hughes)の世界一周は、北半球(Northern Hemisphere)のアメリカ、ユーラシア大陸を回っただけで、飛行距離も規格より8,058 マイル (12,968 km)も不足した短距離だった。つまり、ヒューズの世界一周最速記録は、本当の世界一周には相当しないので、公式の世界一周記録とは認定されなかった。換言すれば、アメリカ人が世界一周早回り記録を樹立したという国威発揚は、アメリカ国内向けに通用し、世界の話題を放ったが、国際的には未公認である。

1938年7月10日から14日、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)は,正操縦士・飛行機所有者として、信頼できる4人の搭乗員(クルー)、すなわちアメリカ陸軍航空隊(U.S. Army Air Corps)中尉トーマス・サーロウ(Thomas L. Thurlow)副操縦士, ハリー・コナー(Harry P. McLean Connor)航法士、リチャード・スタッダート(Richard R. Stoddart)通信士、エドワルド・ルッド(Edward Lund)機関士とともに、特別仕様のロッキード・エレクトラ14NLockheed Model 14-N2 Super Electra ”New York World’s Fair 1939.”:登録コードNX18973) を使って、世界一周早回りの世界記録を作った。

写真(右)1938年7月14日、アメリカ、ミネソタ(Minnesota)州ミネアポリス(Minneapolis)郡立空港(municipal airport)「ワールド=チェンバレン空港 」(World-Chamberlain Field)、世界一周早回りの最後のストップオーバー、ロッキード・スーパーエレクトラ14(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973)で世界一周飛行中、降機したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は機体の燃料補給について、ノースウェスト航空(Northwest Airlines)の職員と話をしている。:到着時には、ヒューズはハット、白Yシャツ、ネクタイなし、髭をはやしている。3日間、髭を剃っていないので、髭を生やしたままである。
Description printed on photograph's accompanying sheet of paper: ""Howard Hughes talks over refueling at Minneapolis with a Northwest Airlines attendant."" Catalog #: 10_0015715 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


Hughes 1937年7月の世界一周飛行経路は、アメリカ、ニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)から、パリ、モスクワと燃料給油もかねてストップオーバーし、シベリヤのオムスク(Omsk)、ヤクーツク(Yakutsk)(立ち寄った?)、アメリカのアラスカのフェアバンクス、ミネソタ州ミネアポリス(カナダのエドモンドは計画のみ?)を経由して、再びニューヨークに戻ってくるルートである。1938年7月14日14:34、空路2万3,612キロを3日19時間14分で世界一周飛行(Round-the-World Flights)した。

現在のニューヨーク飛行場とは、ブルックリン南東マリンパーク地区、ジョン・F・ケネディ国際空港(John F. Kennedy International Airport)のことだが、戦前は同じブルックリン南東でも、ケネディ国際空港の西10キロにあたるフロイド・ベネット飛行場が拠点だった。

ハワード・ヒューズHoward Hughes)がロッキード・エレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra) "New York World's Fair 1939"で1937年7月10日から14日、高速世界一周をし、着陸した時に、実際の距離にはあと125マイル不足している可能性があった。

そこで、急遽の再離陸で、公式記録は3日間23時間35分ともされるが、ハワード・ヒューズHoward Hughes)が世界一周早回り飛行記録(Round-the-World Flights)を更新したことに違いはない。それ以前の世界記録は、1931年にウィリー・ポストによる8日間の世界一周だったので、その二分の一の早さだったが、これは飛行家の熟練技術ではなく、ロッキード・エレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra)の性能が向上していたためである。

写真(右)1938年7月14日、アメリカ、ニューヨーク市ブルックリン(Brooklyn)、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)、世界一周早回りに成功したロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973)の開いた昇降ドアから、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)ら搭乗員5名が降機する。:出迎えの中には、黒の礼服の1939年ニューヨーク万博組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)がいるはずだ。
Photograph of crowds at Floyd Bennett Airfield, New York, July 14, 1938 Description The black and white view of Howard Hughes' Lockheed 14 aircraft after performing its final landing on the Round the World flight at Floyd Bennett Airport, New York. Description printed on photograph's accompanying sheet of paper: ""Police circle Lockheed-14 at Floyd Bennett Airport."" Date 1938-07-14
Date Digitized 2013-10-03
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000870 Physical Identifier 0373_0586引用。


ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)と4人の搭乗員(クルー)、すなわちアメリカ陸軍航空隊(U.S. Army Air Corps)トーマス・サーロウ(Thomas L. Thurlow)中尉, ヘンリー・コナー(Harry P. McLean Connor)、リチャード・スタッダート(Richard R. Stoddart)、エドワルド・ルンド(Edward Lund)は、1938年7月10日、ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)に同乗して、ニューヨーク州ロングアイランド、フロイド・ベネット飛行場から世界一周高速飛行に飛び立ち、7月14日に帰国して、3日19時間の世界一周早回りの記録を達成した。

写真(右)1938年7月14日、アメリカ、ニューヨーク市ブルックリン(Brooklyn)、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)、世界一周早回りに成功したロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra ”New York World’s Fair 1939.”:登録コード NX18973)からハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が降機した瞬間。:先頭に、無線通信士リチャード・スタッダート(Richard R. Stoddart)、次が機関士エドワルド・ルッド(Edward Lund)、ハットを被ったヒューズ、右にグローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、その後ろに副操縦士トーマス・スーロウ(Thomas L. Thurlow)中尉。
Photograph of crowds at Floyd Bennett Airfield, New York, July 14, 1938 Description The black and white view of Howard Hughes' Lockheed 14 aircraft after performing its final landing on the Round the World flight at Floyd Bennett Airport, New York. Description printed on back of photograph: ""Howard Hughes leaving his plane after flight around the world in three days, 19 hours and 17 minutes 7/14/38"" Date 1938-07-14
Date Digitized 2013-10-03
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000836 Physical Identifier 0373_0552引用。


写真(右)1938年7月14日のアメリカ独立記念日、アメリカ、ニューヨーク市ブルックリン(Brooklyn)フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)、世界一周をしたロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)から降機して出迎え挨拶を受ける背広姿の飛行家・富豪のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)と4人の搭乗員(クルー)、すなわちアメリカ陸軍航空隊(U.S. Army Air Corps)中尉トーマス・サーロウ(Thomas L. Thurlow)副操縦士, ヘンリー・コナー(Harry P. McLean Connor)、リチャード・スタッダート(Richard R. Stoddart)、エドワルド・ルッド(Edward Lund):1938年7月10日、ヒューズらは世界一周高速飛行に飛び立ち14日に帰国して、3日19時間の世界一周早回りの記録を達成する。 到着時には、ヒューズは3日間、髭を剃っていないので、髭を生やしたままである。
Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Catalog #: 10_0015716 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


1938年7月14日、アメリカ、ニューヨーク州ロングアイランド、フロイド・ベネット飛行場、世界一周をしたロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)からニューヨークに降り立ったハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、飛行中の3日間、髭を剃っていなかったので、顎に髭を生やしたままにしていた。

写真(右)1938年7月14日、アメリカ、ニューヨーク市ブルックリン(Brooklyn)、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)、世界一周早回りに成功したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が自動車で、1939年ニューヨーク万博組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)邸宅に向かう。:隣には、黒の礼服のグローヴァ・ウェーレンの背中が見える。
Photograph of Howard Hughes in New York, July 1938
A view of Howard Hughes sitting with two unidentified men in the back of a car, likely being driven to a New York hotel, after landing the Lockheed 14 at Floyd Bennett Field.
Date 1938-07
Date Digitized 2013-10-04
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000870 Physical Identifier 0373_0586引用。


1938年7月14日のアメリカ独立記念日、世界一周早回り世界記録を達成し、ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973)からスーツを着て飛行機を降りてきたハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、待ち構えていた政府要人の出迎えを受け、メディアのインタビューに応じた。その後、送迎の大型乗用車で1939年ニューヨーク万博組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)邸宅に行き、スーツを脱いで髭を剃った。そして、気取らない態度をとりたくなってか、スーツを脱いでままYシャツ姿で、要人と記念写真を撮った。翌日7月15日、その後、オープンカーに乗ってのニューヨーク凱旋パレードでは、大衆に礼儀を尽くすために、髭を剃って、スーツ姿、ネクタイ着用で手を振っている。

写真(右)1938年7月15日、アメリカ、ニューヨーク市送迎の大型乗用車で1939年ニューヨーク万博"New York World's Fair 1939"委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)邸宅、世界一周早回りから帰還したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行らの記念写真:左から、副操縦士トーマス・サーロウ(Thomas L. Thurlow)中尉、政府関係者、機関士エドワルド・ルッド(Edward Lund)、機長ヒューズ、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、無線通信士リチャード・スタッダート(Richard R. Stoddart)、航法士ハリー・コナー(Harry P. McLean Connor)
Description Description printed on photograph's accompanying sheet of paper: ""Group at [Gover] Whalen's home 7/14/38. (Daily News)."" Howard Hughes is standing fourth from the left. Date 1938-07-14
Date Digitized 2013-10-03
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000888 Physical Identifier 0373_0604引用。


1938年7月14日のアメリカ独立記念日、世界一周早回り世界記録を達成し、ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973)からハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、背広・ネクタイ姿で飛行機を降りてきた。そして、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)の出迎えの中、メディアのインタビューに応じた。そして、送迎車でウォーレン邸宅まで行ってから、ヒューズはスーツを脱ぎ、髭を剃って白Yシャツに姿になった。飛行場到着時には、ヒューズは3日間、髭を剃っていなかったので、髭を剃ったのである。しかし、邸宅では、他の4人の搭乗員たちは、主役ヒューズの演出を妨げないように、スーツ姿でかしこまっている。

写真(右)1938年7月15日、アメリカ、ニューヨーク市、世界一周早回りから帰還したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行らのオープンカーに乗っての凱旋パレード:周囲には、オートバイ警官が警護し、メディアの動画撮影も2台の自動車を使って行われている。紙吹雪は、オフィスの紙屑が材料のようだ。ヒューズ左の黒服は、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、右の白服はアル・ロドウィック(Al Lodwick)。
Photograph of a parade procession, New York, July 15, 1938
Date 1938-07-15
Description An overhead view of a parade procession celebrating Howard Hughes' completion of his round-the-world flight.
写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000927 Physical Identifier 0373_0642引用。


飛行家としての快挙を成し遂げたヒューズは、翌日1938年7月15日、ニューヨーク市内に凱旋し、そのご実力を示した名士として、巨大輸送飛行艇の開発に取り組んでいる。民間航空路線についても、自ら大手航空会社T&WA(後のTWA/トランスワールド航空)を買収し、社主として、新型機の導入を祖先して進めた。第二次大戦後には、国際航空路線にも大々的に進出し、グローバル化に一役買ったのである。

 写真(右)1938年7月15日、アメリカ、ニューヨーク市、1939年ニューヨーク万博"New York World's Fair 1939"委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)らと、世界一周早回りから帰還したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行が凱旋パレードをした。:ヒューズ左の黒服は、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、右の白服はアル・ロドウィック(Al Lodwick)。
Photograph of a parade procession for Howard Hughes, New York, July 15, 1938 Description A view of Grover Whalen, Howard Hughes, and Al Lodwick riding in the back of an automobile during a parade procession. Date 1938-07-15
Photograph of a parade procession for Howard Hughes, New York, July 15, 1938 Description Photograph of Grover Whalen, Howard Hughes, and Al Lodwick during a parade procession for the completion of Hughes' Round-the-World flight. Date 1938-07-15
写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000942 Physical Identifier 0373_0657引用。


写真(右)1938年7月15日、アメリカ、ニューヨーク市、世界一周早回りから帰還したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行らのオープンカーに乗っての凱旋パレード:ヒューズ左の黒服は、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、右の白服はアル・ロドウィック(Al Lodwick)。
Photograph of a parade procession for Howard Hughes, New York, July 15, 1938 Description A view of Grover Whalen, Howard Hughes, and Al Lodwick riding in the back of an automobile during a parade procession.
Creator: Wide World Photos, Inc. Date 1938-07-15 Description A view of Grover Whalen, Howard Hughes, and Al Lodwick riding in the back of an automobile during a parade procession. Creator: Wide World Photos, Inc. Date 1938-07-15 Description A view of Grover Whalen, Howard Hughes, and Al Lodwick riding in the back of an automobile during a parade procession.
写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000950 Physical Identifier 0373_0665引用。


写真(右)1938年7月15日、アメリカ、ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場に世界一周飛行から帰国したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)オープンカー中央に乗せたパレードが行われた。:飛行場到着時にはヒューズも背広を着ていたが、1939年ニューヨーク万博組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)の邸宅に移動してからは、髭を剃ってざっくばらんな気取らない演出をしたくなって、背広を脱いだままにしていた。しかし、翌日に開催されたパレードでは、大衆に礼儀を尽くすために、髭を剃ってネクタイを締めてスーツ姿で手を振っている。 隣には、黒の礼服の1939年ニューヨーク万博組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)が座っている。
Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Catalog #: 10_0015722 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1938年7月15日、アメリカ、ニューヨーク市、世界一周早回りから帰還したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)とニューヨーク市長フィオレロ・ラガーディア(Mayor La Guerdia)がオープンカーに乗っての凱旋パレード:前の席に黒服の、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、白服のアル・ロドウィック(Al Lodwick)が移って、ニューヨーク市長ラガーディアに花を持たせている。フィオレロ・ヘンリー・ラガーディアは、共和党議員で、1934年〜1945年の3期、ニューヨーク市長を務めた。それ以前は1916年と1918年、及び1922年〜1930年に連邦下院議員議員だった経験もある。イタリア系市長として、移民の支持も得る大衆政治ポピュリズムに精通し、公共交通、公共住宅、公共施設(運動場・公園・空港)整備士、業績主義の行政職員の昇進をおこなった。
Photograph of Howard Hughes at his parade for Round the World flight, New York City, July 15, 1938
Date 1938-07-15 Description The black and white view of Howard Hughes (waving) seated in an automobile that was used in a parade dedicated to Hughes' completion of his Round the World flight in New York City, New York.
写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001025 Physical Identifier 0373_0740引用。


写真(右)1938年7月16日以降、アメリカ、テキサス州、世界一周早回り飛行から帰国したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)と歓迎する少女:世界一周早回りに成功したヒューズは、ニューヨーク市のパレードに参加した後、シカゴ、ミネアポリスの凱旋パレードにも参加した。これは、ヒューズが、ニューヨーク州からカリフォルニア州に飛行機で戻る途中に立ち寄ったからである。パレードでは、出迎えの大衆に礼を尽くそうと、きちんと髭を剃って、ネクタイ姿で手を振った。ただし、暑かったのか、スーツは来ていないで白Yシャツだった。
Photograph of a parade for Howard Hughes, Texas, 1938 Howard Hughes standing in between two unidentified individuals at a parade dedicated to Howard Hughes in Texas.
Archival Collection Howard Hughes Public Relations Photograph Collection
Catalog #: 10_0015714 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938
写真は,San Diego Air and Space Museum ArchiveおよびUniversity of Nevada, Las Vegas Digital ID whh001157 Physical Identifier 0373_0872引用。


1938年7月14日、アメリカ、ニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場にロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)による世界一周飛行から帰国したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行は、飛行場で大歓迎を受け、政府要人の出迎えを受けた。

ヒューズ一行は、飛行場から乗用車に乗って移動し、ヒューズは髭をそった。そして、オープンカーに移乗したヒューズ一行は、ニューヨーク市内パレードに向かった。このときは、ヒューズは、歓迎してくれる大衆にサービスして、ネクタイとスーツ姿で臨んでいる。ただし、SDASM(San Diego Air and Space Museum Archive)の保管公開する写真撮影の正確時間、順番がわからないので、機外で歓迎の握手をしたときには、スーツ、ネクタイ着用だったのであるが、自動車で1939年ニューヨーク万博組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)の邸宅に招待され、ヒューズは髭を剃ったようだ。その翌日、ニューヨーク市街のパレードでは、スーツにネクタイ姿で臨んでいる。

Hughes ロッキード(Lockheed)モデル 14-H「スーパーエレクトラ」輸送機(Model 14-WF62 Super Electra)諸元
初飛行:1937年7月29日
生産機数: 354機
乗員: 3名
乗客: 12名
全長: 13.52 m
全幅: 19.97 m
全高 3.48 m
主翼面積: 51.2 平方メートル
空虚重量: 4,886 kg
全備重量: 7,114 kg
最大離陸重量: 7,955 kg
エンジン: Wright SGR-1820-F62 空冷星型9気筒エンジン 760 hp (567 kW) 双発 最大速度: 250 mph (402 km/h)
航続距離: 2,125 mi (3,420 km)
最大上昇高度 24,500 ft (7,649 m)
翼面荷量: 28 lb/ft2 (139 kg/平方メートル)

日本航空輸送(大日本航空)は、高速双発機ロッキード L-14 スーパーエレクトラを1938年に30機輸入し、日本陸軍は「ロ式輸送機」として制式した。そして、ライセンス生産を立川飛行機に委託して国産化したが、発動機はハ26空冷星型14気筒エンジンに換装している。これを参考にして、1939年に、多目的に利用可能な高等練習機の試作が立川に命じられ、1940年に初飛行したのが、キ五四 一式双発高等練習機である。

⇒写真集Album:ヒューズ(Hughes)のロッキード(Lockheed)14スーパーエレクトラ(Super Electra)世界最速一周を見る。 

写真(右)1938年7月21日、アメリカ、ワシントンDC、アメリカ陸軍航空隊参謀長や政府高官、メディアの前で航空機開発の重要性を訴えるハワード・ヒューズ(Howard Hughes):7月14日、アメリカ独立記念日に世界一周早回り飛行から帰国したヒューズを、1週間後、アメリカ連邦政府高官が首府ワシントンD.C.に招待し、演説する機会を与えた。 1935年に初飛行を行したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の開発したヒューズ H-1(Hughes H-1)レーサー (NX 258Y)レース機 (NX 258Y)は、直ちにヒューズ自身が操縦して、標識間4回航過の平均速力566 km/h (352 mph)を記録し、陸上機による世界最速記録を樹立した。1938年7月14日14:34、空路2万3,612キロを3日19時間14分で世界一周飛行(Round-the-World Flights)した。
English: Title: Howard Hughes speaking before the Press Club. Washington, D.C., July 21. Howard Hughes, speaking at the National Press Club today, before hundreds of government officials and representatives of foreign governments. Hughes today envisioned a future in aviation when giant flying boats, almost as large as modern ocean liners, will fly the Atlantic under conditions in which the element of luck will play no part, speaking at the luncheon in his honor, he described in detail the type of flying craft and equipment he believes the future will see but which is now nothing more than an aeronautical engineers dream, 7/21/38 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 21 July 1938 Source Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.24844. Author Harris & Ewing, photographer
写真はWikimedia Commons, Howard Hughes File:Howard Hughes speaking before the Press Club. Washington, D.C., July 21. Howard Hughes, speaking at the National Press Club today, before hundreds of government officials and representatives LCCN2016873815.jpg引用。


飛行家としての世界一周早回りという快挙を成し遂げたアメリカ人ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、アメリカの誇りとして大歓迎され、ニューヨーク、シカゴでは、大規模な凱旋パレードが行われた。FAI公認の世界一周最速記録ではなかったにもかかわらず、アメリア・イヤハートの世界一周途中の行方不明で落胆していたアメリカ人は、ヒューズの快挙を大喜びし、大きな声援をした。こうして、アメリカの世論の支持を固めたヒューズに対して、国際公認記録も問題は黙殺され、メディアに取り上げることもされなかった。アメリカでは、大富豪の飛行家名士として、ヒューズは、大人気になり、ロッキード社は、その宣伝効果を重視して、無償で世界一周をしたロッキード(Lockheed)14-N2 スーパーエレクトラ(Super Electra)登録コード NX18973をヒューズに貸与している。また、政治家たちもヒューズの名声を利用しようと、1938年7月21日、アメリカ、ワシントンD.C.にヒューズを招待し、ハル国務長官など政府高官ら自ら出向いてヒューズと会談し、握手をし、メディアに大々的に報道させた。

写真(右)1938年7月21日、アメリカ、ワシントンDC、アメリカ陸軍航空隊参謀長オスカー・ウェストオーバー(Oscar M. Westover ;1883 – September 21, 1938)と面談したハワード・ヒューズ(Howard Hughes): 7月14日、アメリカ独立記念日に世界一周早回り飛行から帰国して1週間のヒューズを、アメリカ連邦政府高官が首府ワシントンD.C.に招待し歓談した。
English: Title: Chief of Army Air Corps congratulates Howard Hughes. Washington, D.C., July 21. Gen. Oscar Westover, Chief of the Army Air Corps, right; Congratulates Howard on his round the world flight, Hughes was a visitor in Washington today, and the chief of the Air Corps was one of the first to congratulate him, 7/21/38 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1938 Source Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.24845.
写真はWikimedia Commons, Howard Hughes File:Chief of Army Air Corps congratulates Howard Hughes. Washington, D.C., July 21. Gen. Oscar Westover, Chief of the Army Air Corps, right; Congratulates Howard on his round the world flight, LCCN2016873816.jpg引用。


1936年にスペイン政府軍とファシスト反乱軍との内戦、スペイン市民戦争が勃発し、1937年4月26日には、スペインにドイツから「義勇兵」の名目で派遣されたコンドル軍団のドイツ爆撃機が、ゲルニカを空襲した。これは、無差別爆撃の恐ろしさを世界に伝えることとなった事件である。

1937年7月3日には、女流飛行家アメリア・イアハートと航法士のフレッド・ヌーナンの搭乗した)ロッキード 10 エレクトラ(Lockheed Model 10 Electra)の世界一周飛行の途上、ニューギニア島東部ラエからハウランド島<への飛行中に行方を断って遭難した。この汚名をそそぐためにも、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)のロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra)による世界一周早回りは、アメリカ政府・アメリカ軍が世界的に喧伝したいアメリカ飛行機の技術と人材の快挙だったのである。

写真(右)1938年7月21日、アメリカ、ワシントンDC、アメリカ国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull:1871-1955)と握手を交わすハワード・ヒューズ(Howard Hughes):ハルは891カンバーランド大学ロー・スクール卒、1893-1897テネシー州議会下院議員、1903-1907テネシー州巡回裁判所判事、1907-1921,1923-1931連邦議会下院議員、1930連邦議会上院議員当選、1933.3-1944.11国務長官、1945ノーベル平和賞受賞、サンフランシスコ国際連合会議米国代表。
English: Title: Sec. of State greets Hughes on his arrival in Washington. Washington, D.C., July 21. Sec. of State Cordell Hull, ranking cabinet member in the Capitol, officially greeted Howard Hughes and his crew upon their arrival in the Capitol, they are shown in the office of the Secretary of State, left to right; Richard Stoddard, Lieut. Thomas Thurlow, Howard Hughes, Sec. of State Hull, Harry Conner, and Ed. Lund, 7/21/38 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1938 Source Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.24849.
写真はWikimedia Commons, Howard Hughes File:Sec. of State greets Hughes on his arrival in Washington. Washington, D.C., July 21. Sec. of State Cordell Hull, ranking cabinet member in the Capitol, officially greeted Howard Hughes and LCCN2016873820.jpg引用。


1937年7月の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争では、アメリカは中立の立場をとっていたが、1937年12月、日本軍が、中華民国の首都南京を陥落させ、南京事件が非人道的行為として喧伝されるにつれて、日本脅威論が高まった。1937年8月13日から、日中戦争が上海にも拡大(第二次上海事変)し、日本海軍航空隊は、九州・台湾から東シナ海を超えて杭州・上海・漢口を空襲する「渡洋爆撃」を開始、1938年12月からは、日本陸海軍による国民政府の臨時首都・重慶への連続空襲が開始されている。

1938年2月15日〜27日、アメリカ陸軍航空隊の新型四発大型機ボーイングB-17フライイング・フォートレス重爆撃機6機が、ペルーのリマ、アルゼンチンのブエノスアイレス、チリのサンチャゴを周回する1万9,000 kmの南米親善飛行に成功している。

写真(右)1938年7月21日、アメリカ、ワシントンDC、アメリカ国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull:1871-1955)と握手を交わすハワード・ヒューズ(Howard Hughes):後方の肖像画は、ヘンリー・ルイス・スティムソン(Henry Lewis Stimson:1867‐1950)で1929年3月28日-1933年3月4日にハルの前任国務長官。ただし、1940年7月10日 - 1945年9月21日には二度目の陸軍長官に就任する。
English: Title: Sec. of State greets Howard Hughes. Washington, D.C., July 21. Secretary of State Cordell Hull, congratulates Howard Hughes on his round the world flight, photographed at the State Dept. today, 7/21/38 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1938 Source Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.24847.
写真はWikimedia Commons, Howard Hughes File:Sec. of State greets Hughes on his arrival in Washington. Washington, D.C., July 21. Sec. of State Cordell Hull, ranking cabinet member in the Capitol, officially greeted Howard Hughes and LCCN2016873820.jpg引用。


 飛行家としての世界一周早回りという快挙を成し遂げたアメリカ人ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、ニューヨーク、シカゴと凱旋パレードに参加し、アメリカ国民の大声援を受けた。その世論の支持も得た大富豪の飛行家名士として、ヒューズは、ロッキード社から世界一周をしたロッキード(Lockheed)14-N2 スーパーエレクトラ(Super Electra)登録コード NX18973の無償提供を受けた。また、1938年7月21日、アメリカ、ワシントンD.C.に呼ばれて、ハル国務長官など政府高官とも会談し、航空機開発の重要性を訴えている。

写真(右)1938年7月21日、アメリカ、ワシントンDC、アメリカ国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull:1871-1955)と面談したハワード・ヒューズ(Howard Hughes):コーデル・ハルは、1933年から1944年までフランクリン・ルーズベルト大統領の下で国務大臣として外交に力を尽くした。1945年ノーベル平和賞を受賞した「国連の父」である。
English: Title: L to R: Howard Hughes & Sec'y Hull Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1938 Source Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.24903.
写真はWikimedia Commons, Howard Hughes File:L to R- Howard Hughes & Sec'y Hull LCCN2016873874.jpg引用。


1938年7月14日、アメリカ独立記念日に世界一周早回り飛行から帰国したヒューズを、1週間後、アメリカ連邦政府高官が首府ワシントンD.C.に招待し、演説する機会を与えた。これは、世界一周早回りは、グローバル化を先導するアメリカの国威発揚の一環として、リンドバークの単独太平洋横断飛行と並ぶ快挙とされた。アメリカの技術力とアメリカ人のチャレンジ精神の心意気を世界に示すものとして称賛されたのである。

ヒューズは、航空機開発の重要性を訴えたが、そんなことより政治家は、自分がヒューズと懇意であるとして、リンドバークの歓迎と同じく、内心では秘かに自分の政治的売名行為を優先していたようだ。

  写真(右)1938年7月21日、復興金融公社ジェズス・ジョーンズ(Jesse Jones:1874–1956) 、駐米フランス大使ルネ・ドワネル・サン・カンタン(René Doynel de Saint-Quentin:1883-1961)[右端]と面談したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
English: Title: L to R: Howard Huges, Jesse Jones, Rene St. Quentin Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 21 July 1938 Source Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital hec.24843.
写真はWikimedia Commons, Howard Hughes File:L to R- Howard Huges, Jesse Jones, Rene St. Quentin LCCN2016873814.jpg引用。


ヨーロッパでは、ドイツが、1935年3月16日にヒトラーが、べルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、ドイツ再軍備宣言をし、1936年3月7日に、ロカルノ条約で非武装地帯とされたラインラントに軍を進駐させ占領した。このラインラント進駐では、そのアーヘン、ザールブリュッケンに軍を駐留させて、フランス軍に対峙した。1938年3月11日〜13日にオーストリアを併合、アンシュルスを実施し、オーストリア市民から拍手喝采で迎えられている。

また、当時のドイツはチェコスロバキア共和国ステーテンラントに住む民族ドイツ人がチェコ人に迫害されているとして、ズテーテンラント割譲を要求していた。1938年7月21日に、ワシントンD.C.でヒューズをむかえたアメリカの公式行事に参加した駐米フランス大使ルネ・ドワネル・サン・カンタン(René Doynel de Saint-Quentin:1883-1961)もこのチェコ危機を当然知っていた。この問題は、1938年9月29日、イタリア統領ムッソリーニの仲介で、ドイツ、イギリス、フランスが、チェコスロバキア共和国にスデーテンラントのドイツへの譲渡を強制するミュンヘン協定で幕を開けた。その後、1939年3月には、チェコ全土がドイツに占領されてしまう。

写真(右)1938年7月21日、復興金融公社ジェズス・ジョーンズ(Jesse Jones:1874–1956) 、駐米フランス大使ルネ・ドワネル・サン・カンタン(René Doynel de Saint-Quentin1883-1961)[右端]と歓談するハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
English: Title: L to R: Howard Hughes, Jesse Jones, Rene St. Quentin Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1938 Source Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.24904.
写真はWikimedia Commons, Howard Hughes File:L to R- Howard Hughes, Jesse Jones, Rene St. Quentin LCCN2016873875.jpg引用。


 ヒューズは、後にアメリカ軍からの受注を受け、XF-11高速偵察機、H-4輸送飛行艇の開発に取り組んでいる。民間航空路線についても、自ら大手航空会社T&WA(後のTWA/トランスワールド航空)を買収し、社主として、新型機の導入を率先して進めた。第二次大戦後には、国際航空路線にも大々的に進出し、グローバル化に一役買ったのである。

  写真(右)1940年頃、アメリカ、ワシントンD.C.、ホワイトハウス大統領官邸、表彰されるダグラス飛行機(Douglas Aircraft Company)社主ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.:1905-1976)と握手するフランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領:ヒューズ社の社主で飛行家だったハワード・ヒューズは、自ら興した飛行機メーカーで、世界最速記録を目指す飛行機や世界最大の輸送飛行艇などを開発したが、飛行機メーカーとしては大成しなかった。
Howard Hughes with President Franklin D. Roosevelt Howard Hughes shakes hands with President Franklin D. Roosevelt in Roosevelt's office, after Hughes received the Harmon Aviator Trophy. Roosevelt is sitting behind his desk. Several unidentified men are standing by. Digital Publisher University of Nevada, Las Vegas Libraries Access and Ordering Information Contact UNLV Digital Collections and provide digital ID number below Digital Collection Name Welcome Home Howard See this item at UNLV's Digital Collections Digital ID whh_000045
写真は, SDASM Archives・引用。



5.ヒューズ(Hughes) XF-11 試作偵察機

写真(右)1946年7月7日前後、アメリカ、ヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機(登録コード: 44-70155)試作1号機(二重反転8翅金属プロペラ装備)斜め上正面: ヒューズ自らの操縦で1946年7月7日初飛行したが、その時、不時着し大破した失敗作。左後方は1943年1月9日に初飛行した三枚垂直尾翼ロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)。
Hughes : XF-11 : Photo Recon Catalog #: 00067693 Manufacturer: Hughes Designation: XF-11 Official Nickname: Photo Recon---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は SDASM Archives引用。


アメリカのヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機(登録コード: 44-70155)試作1号機は、発動機はプラット・アンド・ホイットニー R-4360空冷星型28気筒エンジン3,000 hp (2,240 kW)2基。ハミルトン(Hamilton Standard)の4翅金属プロペラを2組1セットとし、二重反転式8翅金属プロペラを装備し、1946年7月7日、社主ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の操縦で初飛行した。

ヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機(登録コード: 44-70155)試作1号機は、1946年7月7日、社主ハワード・ヒューズHoward Hughes)の操縦で初飛行したが、この時もヒューズの向こう見ずな性格が反映して、慎重さを欠いた操縦となり、機体は住宅地に不時着し、大破した。ヒューズ自身も重傷を負った。

写真(右)1946年7月7日、アメリカ、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス西、カルバーシティ (Culver City)近郊 、ヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機(登録コード: 44-70155)試作1号機(二重反転8翅可変ピッチ金属プロペラ装備)とコックピット操縦席のハワード・ヒューズ(Howard Hughes): 右遠方は1943年1月9日に初飛行した三枚垂直尾翼ロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)で、後にヒューズが社主を務めるTWAトランスワールド航空が採用している。
Title Photograph of Howard Hughes' XF-11, California, circa 1946 Description A view of Howard Hughes sitting in his XF-11 near Culver City, California. Date 1905-04-29 Publisher University of Nevada, Las Vegas. Libraries Date Digitized 2013-12-18
写真は University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001429 Physical Identifier 0373_1137引用。


ハミルトン(Hamilton Standard)の4翅金属プロペラを2組1セットとし、二重反転8翅可変ピッチ金属プロペラを装備した。

アメリカ陸軍航空隊の高速長距離偵察機の要求仕様に対して、リパブリック社はXF-12レインボーを開発し、ハワード・ヒューズHoward Hughes)はヒューズ(Hughes) XF-11 試作偵察機を開発した。この時、アメリカ陸軍航空隊は、100機の発注を予定していたが、1945年8月に日本の降伏で第二次世界大戦が終了したために、発注はキャンセルされた。しかし、ヒューズ社はXF-11偵察機を2機試作した。

写真(右)1947年4月5日前後、アメリカ、舗装滑走路に待機するヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機試作2号機(4翅可変ピッチ金属プロペラ)(登録コード: 470156): 試作1号機(二重反転プロペラ8翅金属プロペラ装備)が大破、廃棄された後、負傷したヒューズの快復を待って、試作2号機は1946年7月7日初飛行した。
Hughes : XF-11 (R-11) Catalog #: 00031689 Manufacturer: Hughes Designation: XF-11 (R-11)---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は SDASM Archives引用。


ヒューズ(Hughes) XF-11 試作偵察機の外部構造はロッキードP-38 ライトニングと同様な形状で、双胴式、機首に前輪式降着装置を装備、与圧操縦席コクピットを備えている。双胴の全金属製胴体に取り付けられた主翼は、P-38よりも高いアスペクト比で、主翼面積も大きく、高高度性能の向上を企図している。

1946年7月7日、ハワード・ヒューズHoward Hughes)自身が操縦したXF-11試作1号機(登録コード:44-70155)初飛行は、二重反転プロペラの不調により、機体安定性が失われたため、ヒューズは不時着を試みたが、住宅地に墜落し、機体は全損、ヒューズ自身も負傷する失敗に終わっている。この二重反転プロペラの不調を重視したヒューズは、試作2号機では通常の4翅プロペラを採用している。

写真(右)1947年4月3日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス西、カルバーシティ (Culver City) 、滑走路に引き出されたヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機試作2号機(通常4翅可変ピッチ金属プロペラ装備)(登録コード: 470156)の操縦席コックピットに繋がる昇降用梯子下のハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日):1946年7月7日の試作1号機(二重反転プロペラ8翅金属プロペラ装備)墜落事故で負傷したヒューズの快復を待って、試作2号機は1947年4月5日に初飛行する。
Photograph of Howard Hughes and the second XF-11, April 3, 1947 Description Howard Hughes standing on a ladder beneath the second XF-11 prototype before his April 4, 1947 flight. Date 1947-04-03 Date Digitized 2012-06-21
Howard Hughes Professional and Aeronautical Photographs, 1916-1997. PH-00321. Special Collections, University Libraries, University of Nevada, Las Vegas. Las Vegas, Nevada.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000098 Physical Identifier 0321_0040引用。


1946年7月7日、ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr)は自ら開発したヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機試作1号機(登録コード: 470155)試作1号機(二重反転プロペラ8翅金属プロペラ装備)の初飛行で墜落している。

しかし、ヒューズは怪我から回復し、XF-11試作1号機のリベンジとして、1947年4月5日に再び自らXF-11試作2号機のテスト飛行を行った。飛行機の欠陥はないとの照明を自ら再度操縦して示したかったのである。

 墜落事故にもめげず、再度の試作機飛行は、無謀さとも勇気ともとれるが、大富豪として安泰生活をおくるよりも、熱情をもち挑戦できる飛行機開発と操縦に人生の意味を見出していた。

写真(右)1947年4月5日前後、アメリカ、ヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機試作2号機(登録コード: 470156)(通常4翅プロペラ装備): ロッキードP-38双発戦闘機と類似の形状で明らかにその影響を受けたようだ。
Hughes : XF-11 : Catalog #: 00015379 Manufacturer: Hughes Designation: XF-11---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は SDASM Archives引用。


1946年7月7日初飛行のヒューズ(Hughes)XF-11試作偵察機の仕様
全長:19.94 m (65 ft 5 in)
全幅:30.89 m (101 ft 4 in)
全高:7.06 m (23 ft 2 in)
翼面積:91.3 m2 (983 ft2)
空虚重量:16,800 kg (37,100 lb)
最大離陸重量:26,400 kg (58,300 lb)
発動機:プラット・アンド・ホイットニー R-4360空冷星型28気筒エンジン3,000 hp (2,240 kW)2基
予定最高速力:720 km/h (450 mph)

⇒写真集Album:ヒューズ(Hughes) XF-11 試作偵察機を見る。 


6.ヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇

写真(右)1947年11月2日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス港、海上に引き出されたヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602):陸上での移動ができないために、沿岸部まで運搬されそこで最終組み立てがなされた。 1947年11月2日初飛行しただけで、2度と飛行しなかった。試作1機のみ製造された。
Photograph of Howard Hughes' Flying Boat, Long Beach, California, November 02, 1947
Creator: Acme Newspicture (New York, N. Y.)
Date 1947-11-02
Description A view of Howard Hughes' Flying Boat being prepared for a test run in Long Beach, California.
写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001643 Physical Identifier 0373_1351引用。


ヒューズ(Hughes)H-4 ハーキュリーズ (Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)は全幅 97.51 m、全長 66.65 m、全高 24.18 m、空虚重量250,000 ポンド (113トン)の巨体大重量だったために、初飛行するためには、海岸で組み立てる必要があった。そこで、最終段階では、ロスアンゼルス港埋め立て人工島ターミナルアイランド沿岸にドックを作り、そこに工場で製造した胴体、左右の主翼、尾翼を別個に陸路運搬しで組み立てた。その後、仮設式の専用飛行格納庫が設けられ、機体整備が続けられた。

全幅97.51 m、全長66.65 m 、全高24.18 m、空虚重量250,000 ポンド (113トン)のヒューズ H-4 ハーキュリーズHughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)は、水上からしが離着水できないために、沿岸部まで運搬され、そこで組み立てられた。沿岸部の仮設飛行格納庫で整備され、1947年11月2日にドックから進水し、ヒューズの操縦で初飛行した。H-4巨人飛行艇は、海面からわずかに離れ、離水しただけで、すぐに着水し、飛行は終了した。

ヒューズ H-4 ハーキュリーズHughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)巨大飛行艇の発動機は、ヒューズXF-11試作偵察機と全く同じプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-4360 "ワスプ・メジャー" (Wasp Major)4列28気筒空冷星型エンジン(排気量4,362.5 立方インチ=71.5 L)4,300 hp (3,200 kW)8基である。


H- 4 Hercules (Spruce Goose) | Howard Hughes is contracted to build the world's largest plane by the US Government.

ヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)は。プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-4360 "ワスプ・メジャー" (Wasp Major)4列28気筒空冷星型エンジン(排気量4,362.5 立方インチ=71.5 L)4,300 hp (3,200 kW)8基を稼働して水上滑走し、ている。1947年11月2日初飛行しただけで、2度と飛行しなかった。試作1機のみ製造された。

写真(右)1947年11月2日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス港、進水し初飛行の準備をするヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602):写真の裏の説明「ターミナルアイランドで昨日11月1日に進水したばかりのH-4飛行艇は、世界最大級の巨人機で、垂直尾翼は海面上80フィート(24m)もある。まさに今日、ヒューズの操縦で海面上をタキシングのテストをすることになっている。」
Photograph of the HK-1, Hughes Flying Boat, returning from its historic test flight, November 2, 1947Date Digitized 2005-01-05 1947-11-02 Description Transcribed press release from back of photograph: "Howard Hughes' flying boat, world's largest plane, rides free off Terminal Island in Los Angeles Harbor immediately after its launching yesterday. The plane's vertical stabilizer tip rides about 80 feet above the water as the air giant floats for the first time. With Hughes at the controls, the colossal craft will get first water taxi tests today." Date Digitized 2012-08-17 写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital I whh000283 Physical Identifier 0321_0303引用。


ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の過剰な潔癖症、無謀さ、孤独な秘密志向も、エキセントリックな性格を表している。長身の6フィート3インチ(190cm)で瘦せ型のラフな服装を好んだ大富豪は、映画作成も手掛けて女優や有名人から大いに人気があったが、彼ら彼女ら自分の本当の姿に惚れたのではないことを知っていたたようで、生涯孤独だった。


写真(上)1947年11月3日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス港、海上に引き出されたヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)
:世界最大級の巨人機を見物しようと、たくさんの物見遊山の客が船に乗ってやってきた。
1947-11-02 Description The Hughes Flying Boat in Los Angeles Harbor, November 2, 1947. A small boat, crowded with people, is seen in the harbor nearby. Los Angeles Harbor (Calif.) Date Digitized 2005-01-05写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000058 Physical Identifier 0321_0093引用。


ヒューズ H-4は、木製の胴体骨格、木製の主翼で、H-4製造工場の外壁も木製だった・これは、アメリカ参戦当初、1941年末にはゴム・鉄・石油を節約し非戦略物資の木材をもって金属代用する方針が打ち出された。H-4のような巨人機の場合、尾翼も既存機の主翼ほどの大きさがあり、尾翼だけなら木製構造も可能だったろう。しかし、巨大な胴体・主翼の木製化は、強度の維持、重量の節減、労働力の節約、大量量産には不向きである。飛行機の材料となる木材は、特級・一級に限られ、天然乾燥させ、加工・張合わせ・湾曲には、熟練の技能者も必要になる。手間と時間がかかる木製大型機は、大量生産にも、飛行性能向上にも向いていない。

さらに、飛行艇は、海水に船体木材が接すから、海水の浸水対策も重要で、船底の汚れ落とし、整備のために木造船のように頻繁に陸揚げが必要になる。修繕・整備する飛行艇引き上げ場所やドックを準備しなければならないが、これが既存の飛行艇のものを兼用できないほど大きな期待だったと思われる。海上にある100トン以上のH-4の機体をランプ坂道から陸上に引き上げるのは、ウインチやクレーンを使っても困難で、乾ドックが用意されなければならない。既存の飛行艇メインテナンスの施設・人材。施設が、H-4巨人飛行艇機では利用できないのである。

全幅 97.51 m、全長 66.65 m、全高 24.18 mのヒューズH-4 ハーキュリーズは、空虚重量25万ポンド (113トン)もあり、巨大で重い飛行艇であり、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-4360 "ワスプ・メジャー" (Wasp Major)4列28気筒空冷星型エンジン(排気量4,362.5 cu in :71.5 L)4,300 hp (3,200 kW)8基搭載といっても、巡行速力 250 mph (400 km/h)程度、大量の貨物を搭載して、長距離飛行するのは難しかったであろう。

写真(右)1947年11月1-2日、アメリカ、ヒューズ(Hughes)H-4 ハーキュリーズ (Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)の操縦室コックピットのハワード・ヒューズ(Howard Hughes): ハットを被っていない上に、笑顔のは珍しい。初飛行の時の撮影ではないようだが、写真カタログ番号から見ると、一連のH-4操縦席のヒューズの写真は連続して撮影された可能性が高い。
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00426 Last Name: Hughes First Name: Howard Repository: San Diego Air and Space Museum Archiv
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


木造技術の制約を緩和するには、H-4木造巨人飛行艇の場合、木製外板の表面に金属外皮を張ることが対策として考えられる。水密性・整備・修繕を容易にするには、金属外皮を張ることが有効で、H-4飛行艇が何十年も長期間保管できたのも、金属製部品のおかげだったと考えられる。

ヒューズH-4巨人飛行艇は、第二次世界大戦当初の多数の船舶が失われていた危機的状況で、戦時中の資源節約の要請から木製機体とする計画だったが、実際のH-4飛行艇の表面は金属外皮、内部構造も金属桁・骨格も取り入れていたようだ。

つまり、政府の当初の要請で、非戦略物資の木造飛行艇する計画だったが、設計、迅速性、量産の観点から大量生産に移すには、金属製の機体に設計しなおす必要がある。他方、戦争初戦の海上輸送遮断の脅威は、戦争中盤1943年になれば、なくなっていた。

したがって、木製の大型輸送飛行艇を制式する必要は、戦争中盤には、なくなっていた。戦争末期、いや戦後2年もたって、このH-4飛行艇を完成させる必要は全くなかった。それどころか、1947年にH-4飛行艇を1機のみ完成させ、初飛行させることは、カネ・モノ・ヒト・ワザ、すなわち資金・資本・技術・人材の無駄遣いになる。1943年に戦局が好転すると、わざわざ手間暇かけて木製巨人機を開発、量産する必要性はなくなっており、H-4飛行艇のような輸送用大型飛行艇の量産は、事実上、放棄されていたのであるから。

ヒューズの奇想天外な凄さは、このようなH-4飛行艇を戦後2年もたった1947年11月に完成、初飛行させてしまう経済力と意志の力強さである。

写真(右)1947年11月1日、アメリカ、ヒューズ(Hughes)H-4 ハーキュリーズ (Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)の操縦室コックピットの正操縦席でポーズをとるハワード・ヒューズ(Howard Hughes)(ハットを被っている): 正面フロントシールドが広がっていて、操縦席にカバーがかけれれている。明るい撮影なので、なので初飛行の時の撮影なのであろうか。写真番号から見ると、一連のH-4操縦席のヒューズの写真は連続して撮影された可能性が高い。
Hughes, Howard Catalog #: BIOH00429 Last Name: Hughes First Name: Howard Repository: San Diego Air and Space Museum Archiv
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、早くに両親を失い、膨大な資産を受け継いだが、その経営は、部下に任せて、資金を何に投下するか、自分の夢を追うことに費やした点が興味深い。映画作成、飛行機開発を進めたが、成功作よりも失敗のほうが多い。

しかし、それでも諦めずに自我を貫く点が興味深い。自ら手掛けた飛行機の初飛行を行ったが、成功したのはヒューズH-1レーサくらいで、大金を投じた新鋭機XF-11偵察機、H-4巨人飛行艇は失敗作だった。

写真(右)1947年11月1日、アメリカ、ヒューズ(Hughes)H-4 ハーキュリーズ (Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)のフライとデッキ・通信航法室で監督するハワード・ヒューズ(Howard Hughes)(ハットを被っている): 正面フロントシールドが広がり、操縦席にカバーが掛かっている。遠方海上の先にロサンゼルス港湾の施設シルエットが見える。
hughes h-4 hercules spruce goose pictionid74523815 - titlehughes h-4 hercules spruce goose - catalog0100094355 - filenamehughes h-4 hercules spruce goose
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


 XF-11試作1号機の初飛行を1946年7月7日、ヒューズ自らが担当したが、試作機の初飛行という困難で慎重さと熟練を要する仕事は、熱意と資金だけではこなすことはできない。

 試作機の初飛行を担当するほどの飛行操縦技術はないことをヒューズ自身わかっていたはずだが、それでも空威張りのように自ら一番乗りを目指してしまい、墜落事故を起こしてしまう。この1946年XF-11試験機は、操縦中にロサンゼルス郊外の住宅地に突っ込み、ヒューズは大火傷で瀕死の状態になった。

しかし、それから1年半と経過していない1947年11月2日、ヒューズはヒューズ(Hughes)H-4 ハーキュリーズ (Hercules)飛行艇(登録コード:NX37602)を海面から浮かして、飛行させ、欠陥機でないことを証明した。

ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、自ら手掛けた世界最大級の飛行機、ヒューズH-4ハーキュリーズ (Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)の初飛行に成功(?)した。しかし、H-4の実用化は不可能になっていた上に、アメリカ政府予算の不正使用が疑われたヒューズは、そのまま33年間、H-4を人に見せず、特設格納庫で保管していた。非公開にしたのは、誰も自分の熱情と才能を評価せず、金儲けや不適切な政府資金の使い方など、ろくでもない議論ばかりしかしないと憤っていたからであろう。

写真(右)1947年11月2日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス港、海上に引き出されたヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602):陸上での移動ができないために、沿岸部まで運搬されそこで最終組み立てがなされた。 1947年11月2日初飛行しただけで、2度と飛行しなかった。試作1機のみ製造された。
Photograph of Howard Hughes' Flying Boat, San Pedro, California, November 02, 1947
A view of Howard Hughes (wearing headphones, left) inside and at the controls of the Spruce Goose in San Pedro, California.
写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001669 Physical Identifier 0373_13791引用。


H-4 ハーキュリーズ 1939年、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)はトランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空(TWA)を買収し、そこに自らが開発にかかわったロッキード コンステレーション旅客機を採用した。そして、世界最大のヒューズ H-4 ハーキュリーズHughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)巨大飛行艇を、ヒューズ・エアクラフトで1機試作した。

ヒューズ H-4 ハーキュリーズHughes H-4 Hercules)"Spruce Goose"飛行艇(登録コード:NX37602)巨大飛行艇は、機体が重すぎたために、それ以上の飛行は行われず、試作1機のみで失敗に終わったが、アメリカ政府の公聴会で、経費の無駄遣いや不正を疑われて、政府と対立したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、H-4飛行艇を非公開で保管することを決めた。

⇒写真集Album:ヒューズ(Hughes) H-4 ハーキュリーズ(Hercules)"Spruce Goose"飛行艇を見る。 


Howard Hughes: Insane Genius? (Jerry Skinner Documentary)


7.ヒューズX-11偵察機とロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)

写真(右)1943年、アメリカ、カリフォルニア州、ヒューズ飛行機工場で試作中の高速偵察機X-11の製造過程を点検する社主ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
Date 1943 Description A view of Howard Hughes and his workers building airplanes.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001288 Physical Identifier 0373_0998引用。


アメリカ陸軍航空隊は、1943年後半に高速長距離偵察機の開発要請をしたが、要求性能は最高速力400 mph (640 km/h)、航続距離 4,000 nmi (7,400 km)、上昇限度 40,000 ft (12,000 m)だった。これに応じたのが、リパブリック(Republic) XF-12レインボー(Rainbow)四発偵察機とヒューズ(Hughes)双発偵察機である。

アメリカ陸軍は、高速長距離高高度偵察機の実用化を促進するために、1943年にはヒューズ(Hughes)XF-11偵察機100機の発注をしたが、1945年9月には第二次世界大戦が終了、実機が未完成の裡に、発注はキャンセルされた。にもかかわらず、ハワード・ヒューズは、XF-11を2機の開発を続行し、1946年に2機の試作機を完成させた。

写真(右)1943年、アメリカ、カリフォルニア州、ヒューズ飛行機工場で試作中の高速偵察機X-11コックピット左側で技師と話し合う社主ハワード・ヒューズ(Howard Hughes):二重反転プロペラを装備し大出力エンジンのトルクを打ち消そうとしたが、開発が大幅に遅れて、第二次世界大戦中には完成しなかった。しかし、ヒューズは、戦後になっても独自の経費負担で開発を続行し、施策1号機を自ら初飛行させている。ただし、機体を墜落し、ヒューズは重量を負った。
Date 1943 Description A view of Howard Hughes and his workers building airplanes.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001292 Physical Identifier 0373_1002引用。


アメリカ陸軍航空隊の高速長距離偵察機として、ヒューズはX-11を提案し、施策を開始した。X-11は、二重反転プロペラを装備し大出力エンジンのトルクを打ち消そうとしたが、開発が大幅に遅れて、第二次世界大戦中には完成しなかった。しかし、ヒューズは、戦後になっても独自の経費負担で開発を続行し、試作1号機を自ら初飛行させている。

ヒューズ(Hughes)XF-11偵察機(登録コード: 470155)試作1号機(二重反転8翅可変金属プロペラ装備)は、発動機にプラット・アンド・ホイットニー R-4360空冷星型28気筒エンジン3,000 hp (2,240 kW)2基搭載、新機軸の二重反転8翅可変ピッチ金属プロペラを搭載して、1946年7月7日ハワード・ヒューズ自らが操縦し初飛行した。しかし、プロペラ不調ですぐに墜落し、ヒューズは重傷を負った。

⇒写真集Album:ヒューズ(Hughes)XF-11試作高速偵察機

写真(右)1943年、アメリカ、カリフォルニア州、ヒューズ飛行機工場、自社の飛行機製造工程を点検している社主ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
Date 1943 Description A view of Howard Hughes and his workers building airplanes.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001280 Physical Identifier 0373_0990引用。


大富豪のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、会社経営だけではモノ足らず、自ら飛行機の操縦を学び、自社の飛行機開発も主導するとともに、自社の試作1号機を危険を承知で、自ら初飛行させている。

1939年に、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は自分が社主を務めるトランス・ワールド航空(TWA)で採用する与圧客室キャビン装備の高速長距離旅客輸送機を開発することとし、ロッキードのカリフォルニア州バーバンク工場で「L-49」と命名した新鋭機の開発を始めた。これが、ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)である。

ロッキード(Lockheed) L-1049スーパーコンステレーション(Super Constellation)旅客輸送機の原型は、1943年初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)でボーイング(Boeing)B-29超空の要塞(Superfortress)と同じライト(Wright)R-3350デラックス・サイクロン(Duplex-Cyclone)空冷星形2200馬力4基を装備、巡航速力555 km/hを誇り、乗客60-81名の与圧キャピン(高高度でも客室気圧は低地と同じ)を持っている。

ロッキード(Lockheed) C-121 コンステレーションConstellation)輸送機は、1947年3月14日初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)の軍用仕様で、1948年11月から、アメリカ陸海軍の航空隊に採用された。民間機としては、戦時中、1942年に初飛行したダグラスDC-4輸送機が量産中で、コンステレーションは高価で量産されなかった。


写真(上):1943−1944年、アメリカ、TWAトランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー(Transcontinental & Western Air)ロッキード(Lockheed) L-049コンステレーション(Lockheed Constellation)輸送機 (登録コード:310310?)の正面
:ロッキード(Lockheed) L-1049スーパーコンステレーション(Super Constellation)旅客輸送機の原型は、1943年初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)でボーイング(Boeing)B-29超空の要塞(Superfortress)と同じライト(Wright)R-3350デラックス・サイクロン(Duplex-Cyclone)空冷星形2200馬力4基を装備、巡航速力555 km/hを誇り、乗客60-81名の与圧キャピン(高度6100mでも客室気圧は高度2400mと同じ)を持っている。後方にはダグラスDC-3双発輸送機が駐機している。
Photograph of the TWA Transcontinental plane, circa 1943 Date 1942 to 1944 Description A view of the Trans World Atlantic (TWA) transcontinental plane landing.
写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001302 Physical Identifier 0373_1012 引用。


TWAトランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー航空(Transcontinental & Western Air)は、1950年2月22日には国際路線拡充に乗り出し、社名もTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)に変更している。ただし、第二次大戦中のTWAトランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー航空(Transcontinental & Western Air)は、民間航空需要の低迷から、活躍できなかった。本格的に民間航空旅客輸送を担うようになったのは、1946−1947年から、特に国際民間航路の運航に先駆けた功績が認められる。ヒューズ自身、アメリカ大陸横断トランスコンチネンタル(Transcontinental)は重視してきたところだが、戦後は、国際航空が重要だと考えていた。そこで、社名も同じTWAを残しつつも、TWAトランス・ワールド・エアライン (Trans World Airlines: TWA航空)と変更した。

正規の社名変更は、1950年だが、TWAの略称は変わらない。そこで、1946年頃にはすでにTWA機の機体には、TWA Trans World Airlines と赤字で記入している。それまで、TWA航空の機体は、トランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー(Transcontinental & Western Air)と記入していたが、それをTWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)と書き換えたのである。つまり、正規の社名変更前に、宣伝的な機体の塗装に、TWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)を先んじて取り入れたのではないかと考えられる。 

写真(右)1944年4月17日、アメリカ東部、バージニア(Virginia)州、アーリントン(Arlington)、国立飛行場(National Airport)滑走路、ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)でロスアンゼルスから到着したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)とTWA社長ジョン・ジャック・フライ(John "Jack" Frye)を出迎えた中央の商務長官(Secretary of Commerce)ジェシー・ジョーンズ(Jesse Holman Jones):民間機としては、戦時中、1942年に初飛行したダグラスDC-4輸送機が量産中で、ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)は、B-29重爆撃機と同じ強力なエンジンを搭載、客室キャビンを与圧室とし豪華な内装も施したので、機体は高価であり、戦時中は民間仕様は量産されなかった。
Howard Hughes in front of the instrument panel of his Lockheed Model 14-N2 Super Electra (A/C No. NX18973) after his around the world flight July 10-14, 1938, which started and ended at Floyd Bennett Field, New York. ⇒ A view of Howard Hughes installing a radar safety system for passenger planes in Culver City, California. Date 1947-05-03 Lockheed Constellation)
写真は,National Air and Space Museum Archives・Local number NASM-163077引用。


1946年2月15日、TWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)は、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)で、アメリカ西岸バーバンク(Burbank)からアメリカ東岸ニューヨーク(New York)、ラガーディアン空港(La Guardia Field)に無着陸8時間38分で到着した。

1928年創設TWAトランスコンチネンタル・エアー・トランスポートは、大西洋横断飛行を成功させたチャールズ・リンドバーグを顧問に迎えた。そして、1930年10月1日、他社を吸収して、TWAトランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー航空Transcontinental & Western Air)として飛躍した。 そして、1932年には、全金属製、低翼単葉、引込み式膠着装置のダグラス DC-1を導入、その改良型ダグラス DC-2、DC-3を配備した。しかし、1939年、社主ジャック・フライの友人だったハワード・ヒューズが買収し、1965年まで社主を務めた。戦時中に民間旅客需要は見込めなくなっていたが、戦後、社主のヒューズ自らがアメリカ大陸無着陸横断飛行が可能な大型旅客機ロッキード・コンステレーションの開発を促し、1950年2月22日には国際路線拡充に乗り出し、社名もTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)として世界有数の航空会社を目指した。

⇒写真集Album:ヒューズ好みのロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)旅客機を見る。 


8.1946−1947年のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)

写真(右)1946年9月11日、深夜、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルスのカルバーシティー、自家用B-23輸送機の主操縦席の事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes):自家用飛行機ボーイングB-23でカリフォルニア州からカンザス経由、ニューヨーク(New York)、ラガーディアン空港(La Guardia Field)に向かう。
Date 1946-09-11 Description A view of Howard Hughes sitting inside of a B-23 converted bomber before taking off for New York City in Los Angeles, California.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001448 Physical Identifier 0373_1156引用。


写真(右)1946年9月11日、深夜、アメリカ、カンザスシティー、自家用B-23輸送機左エンジン前の事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes):自家用飛行機ボーイングB-23でカリフォルニア州からカンザス経由、ニューヨーク(New York)、ラガーディアン空港(La Guardia Field)に向かう。途上の休憩地点での撮影。
Creator: Acme Newspicture (New York, N. Y.) Date 1946-09-11 Description Description given with photo: "Before Hughes Took Off For New York, Los Angeles, Calif. - Multi-millionaire movie producer and aviator Howard Hughes is shown in front of this B-23 converted bomber before taking off for New York Sept. 10th. Hughes, piloting the plane, landed at Kansas City to rest before continuing with the flight. He is the seal of approval on a film he made. Creditline (ACME) 9/11/46."
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001442 Physical Identifier 0373_1150引用。


1932年、ヒューズ(Hughes)は自らの名を関した航空製造会社ヒューズ・エアクラフト社(Hughes Aircraft Company)を,それまで親から引き継いできたヒューズ・ツール社(Hughes Tool)から独立させた。この会社は、アメリカ軍用飛行機を回収して、飛行機レースに参加させることが仕事だった。

ヒューズは、すぐに、既存飛行機の改造だけではなく飽き足らなくなり、革新的な飛行機を自ら開発することを夢見るようになり、航空機開発という専門的な最先端分野に進出した。

つまり、イノベーションを重視した航空機開発の企業となったのである。そして、ヒューズエアクラフトが、新技術を取り入れた新型機を開発するように技術者たちに発破をかけた。そして、自ら開発した飛行機の初飛行を進んで実行したのである。

ダグラス(Douglas)B-23 ドラゴン(Dragon)爆撃機の諸元
乗員:6名
全長:58 ft 4+3⁄4 in 17.8m
全幅: 92 ft 28.0m
全高:5.6m
主翼面積: 993 sq ft (92.3 m2)
空虚重量:19,089 lb (8,659 kg)
総重量: 26,500 lb (12,020 kg)
発動機:ライト(Wright)R-2600空冷星型14気筒エンジン 2基1,600 hp (1,200 kW)
最高速力: 282 mph (454 km/h, 245 kn) / 12,000 ft (3,660 m)
航続距離:1,400 mi (2,300 km, 1,200 nmi)
兵装:7.62mm機銃 3挺、12.7mm機銃 1挺、爆弾 4,000 lb (1,814kg)

写真(右)1946年9月12日、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルスのカルバーシティーからニューヨークに自家用ダグラス(Douglas)B-23輸送機で到着した事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes):ニューヨーク(New York)、ラガーディアン空港(La Guardia Field)に自家用ダグラス(Douglas)B-23輸送機を操縦して向かったヒューズ。B-23は、1939年7月23日に初飛行し、アメリカ陸軍航空隊が制式したが、輸送機として使用された。
Date 1946-09-12 Description given with photo: "Hughes Arrives In New York: La Guardia Field, New York, N.Y. -- Howard Hughes, airplane designer, pilot and movie producer, steps down from his converted B-23 bomber at La Guardia Field following his transcontinental flight from Culver City to New York, the first since he narrowly escaped death in the crash of an experimental plane July 7. Hughes personally piloted the B-23 over the 3,000-mile route."
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001450 Physical Identifier 0373_1158引用。


ヒューズは自ら開発した機体に愛着と自信があり、それが高じて、試作機の初飛行も行った。自ら開発したXF-11は、軍の所有になる新鋭機ははずだが、その初飛行を(独断で)、自分の愛機のように実施した。しかし、ヒューズの飛行機操縦技術については十分な計画性と慎重さが足りなかったようで、墜落事故を起こしている。

1946年9月11日、ヒューズは自家用飛行機ボーイングB-23を自ら操縦して、カリフォルニア州カルバー市を出発し、カンザスシティー(Kansas City)にストップオーバーして4時間38分で到着した。ラジオ放送レポーターが"Just A Few Words Please"「どうか一言お願いします」と声をかけると、ヒューズは本当に一言だけ答えたという。

写真(右)1946年9月12日、深夜、アメリカ、ニューヨーク(New York)、ラガーディアン空港(La Guardia Field)、自作映画「アウトロー」の放映権について説明する事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes):後方は、自家用飛行機自家用ダグラス(Douglas)B-23輸送機旅客機で、これでカリフォルニア州カルバー市からカンザスシティー経由で到着した。ダグラス(Douglas)B-23輸送機胴体左後方の乗客用搭乗口が開いたままになっている。
Title Photograph of Howard Hughes, New York, New York, September 12, 1946 Description Description given with photo: ""Hughes Arrives In New York: La Guardia Field, New York, N.Y. -- Completing his first air journey since his near-fatal test-flight accident July 7, Howard Hughes, airplane designer, pilot and movie producer, is interviewed by reporters after piloting his converted B-23 transport to a midnight landing here tonight at La Guardia Field. Hughes interrupted his convalescence to fly here from Culver City, Calif., with a stop-over in Kansas City. In New York, Hughes planned to cover with his attorneys regarding steps to protect his property rights in connection with the motion picture, ""The Outlaw"", which recently had its seal of approval revoked by the Motion Picture Association."" Date 1946-09-12 Date Digitized 2013-12-18
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000435 Physical Identifier 0321_0426引用。


1939年、ハワード・ヒューズHoward Hughes)はトランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空(TWA)を買収し、そこに自らロッキード コンステレーション旅客機の開発にも関わり。戦後になって、民間航空路線拡張時に、これを採用している。


写真(右)1946年9月12日、深夜、アメリカ、ニューヨーク(New York)、自家用ダグラス(Douglas)B-23輸送機でラガーディアン空港(La Guardia Field)降りた事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)がインタビューを受けている。
:自家用飛行機ボーイングB-23でカリフォルニア州カルバー市からカンザスシティー経由で到着した。B-23胴体左後方の乗客用搭乗口が開いている。
Date 1946-09-12 Description Description given with photo: "Hughes Arrives In New York: La Guardia Field, New York, N.Y. -- Completing his first air journey since his near-fatal test-flight accident July 7, Howard Hughes, airplane designer, pilot and movie producer, is interviewed by reporters after piloting his converted B-23 transport to a midnight landing here tonight at La Guardia Field. Hughes interrupted his convalescence to fly here from Culver City, Calif., with a stop-over in Kansas City. In New York, Hughes planned to cover with his attorneys regarding steps to protect his property rights in connection with the motion picture, "The Outlaw", which recently had its seal of approval revoked by the Motion Picture Association."
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001462 Physical Identifier 0373_1170引用。



Henry Kaiser, Howard Hughes and Ralph Brewster speak on investigation of the 40 million in war planes in Washington.
Senate's investigation of the 40 million war time airplane contracts in Washington, United States. Several officials seated at a desk discuss. Industrialist Henry John Kaiser talks about the early period of World War II when the Axis destroyed Allied ships and airplanes and they were defeated. An airplane parked on an airfield. American aviator and industrialist, Howard Robard Hughes speaks into a microphone. He talks about investigation of a case and his two airplane project. United States Senator from Maine Ralph Owen Brewster speaks against Hughes and asks about the 40 million dollars. Location: Washington DC. Date: July 31, 1947.

ハワード・ヒューズHoward Hughes)は、アメリカ上院の戦争調査委員会で審問を受け、ヒューズは横柄な態度で応答し、4000万ドルのヒューズへの調達経費などの予算措置について、アメリカ陸海軍の航空機調達、政府の核兵器を含む兵器開発の調達があったとして、批判した。

写真(右)1947年8月、アメリカ、飛行機事業家・富豪ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)と後方のダグラス(Douglas)B-23輸送機の左主翼後方:解説では「ダグラスDC-3輸送機」とするが、ドアの開閉状況、降着装置の車輪カバーからみて、ダグラスB-23輸送機であろう。TWAは、ダグラスDC-3を保有していたようだが、この堅実堅牢な量産機はヒューズ好みではなかった。オーウェン・ブリュスター(Owen Brewster)を委員長とする上院戦争調査委員会(Senate War Investigating Committee)の審問を受けた時期と思われる。
Title Photograph of Howard Hughes with a Douglas DC-3[⇒B-23], circa 1947 Description Howard Hughes and an unidentified man stand in front of a Douglas DC-3. Date 1905-04-30 Date Digitized 2012-09-29
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000435 Physical Identifier 0321_0426引用。


写真(右)1947年8月6日、アメリカ、ワシントンD.C.、オーウェン・ブリュスター(Owen Brewster)を委員長とする上院戦争調査委員会(Senate War Investigating Committee)の審問を受けに首都に到着したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)と後方のダグラス(Douglas)B-23輸送機の左主翼後方
Title Photograph of Howard Hughes with reporters, Washington, August 06, 1947
Description given with photo: "102,246 - Watch Your Credit - International News Photo. Slug - (Howard Hughes) Hughes Ready For Senate Investigators, Washington, D.C. Howard Hughes, right, is interviewed by reporters at Washington National Airport after his arrival in a converted B-23 bomber from Culver City, X California. Hughes, there to face Senate Investigators, said he would be "most happy" to repeat under oath charges he has made against chairman Owen Brewster, (R) of Me., of the Senate War Investigating Committee now probing his wartime plane contracts. -Photo by G.B. Kress- 8/6/47."
Date 1947-08-06 Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001532 Physical Identifier 0373_1239引用。



写真(右)1947年8月7日、アメリカ、ワシントンD.C.、上院議員オーウェン・ブリュスター(Ralph Owen Brewster)委員長に上院戦争調査委員会(Senate War Investigating Committee)の開始を待つハワード・ヒューズ(Howard Hughes)(左手前)と弁護士

Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, August 07, 1947
Description A view of Howard Hughes at the Senate War Investigating Subcommittee hearing in Washington.
Date 1947-08-077
Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001571 Physical Identifier 0373_1278引用。


国防計画特別調査委員会(Special Committee to Investigate the National Defense Program)は、1941年3月1日、第二次大戦中、中立だったアメリカで、当初、ミズーリ州選出上院議員だったハリー・トルーマン(Harry Truman)のもとに設けられ、トルーマン委員会」(The Truman Committee)と呼ばれた。そして、この調査委員会は、1941年12月8日の参戦で権限が拡大し、戦後も膨大な軍事予算による兵器開発・調達の適正化を図っていた。戦後、1946-1947年の委員長が上院議員オーウェン・ブリュスター(Ralph Owen Brewster)である。

写真(右)1947年8月9日、アメリカ、ワシントンD.C.、上院議員オーウェン・ブリュスター(Ralph Owen Brewster)委員長に上院戦争調査委員会(Senate War Investigating Committee)の質問を聞くハワード・ヒューズ(Howard Hughes):ヒューズは耳が不自由だったようだ。
Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, August 09, 1947
Description Description given with photo: ""Hughes' Fourth Day On Stand, Washington: Bored or tired after four days on the stand before the Senate War Investigating Subcommittee, Howard Hughes listens on his headset, Aug. 9. Credit (ACME) 8/9/47.""
Date 1947-08-09
Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001573 Physical Identifier 0373_1280引用。


ヒューズは、共和党・上院議員オーウェン・ブリュスターRalph Owen Brewster: 1888-1961)を委員長とする委員会から、戦時中のヒューズXF-11高速偵察機など兵器開発の経費4000万ドルの受給について不正を疑われ、査問を受けることになった。

ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、戦時中の4000万ドルのヒューズへの飛行機・資材など軍需用品の調達経費に不適切な措置があったとして、1947年8月から11月にアメリカ上院の戦争調査委員会で調査を受け、ワシントンDCで公開答弁に立った。この時、ヒューズは、アメリカ陸海軍の航空機・軽空母の調達、ルーズベルト大統領の核兵器関連部品の調達などについて、発言したが、不正は認めなかった。

写真(右)1947年8月7日、アメリカ、ワシントンD.C.、上院議員オーウェン・ブリュスター(Ralph Owen Brewster)委員長に上院戦争調査委員会(Senate War Investigating Committee)で立ってやり合うハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, August 07, 1947
Description A view of Howard Hughes at the Senate War Investigating Subcommittee hearing in Washington.
Date 1947-08-07
Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001576 Physical Identifier 0373_1283引用。


オーウェン・ブリュスター(Ralph Owen Brewster)は、1925–1929年メーン州知事を務め、パンアメリカン航空と癒着し、贔屓にしており、第二次世界大戦後のアメリカの民間国際航路・国際線をパンアメリカン航空の独占支配の下に置こうとした。そのために、同じく国際路線に進出してきたヒューズのTWAトランス・ワールド航空と競合し、ハワード・ヒューズを標的にし批判した。しかし、パンアメリカン航空との癒着から、世論・メディアに汚職疑惑を批判され、ブリュスターは上院議員を辞職せざるを得なくなった。

写真(右)1947年8月9日、アメリカ、ワシントンD.C.、共和党上院議員オーウェン・ブリュスター(Owen Brewster)を委員長に上院戦争調査委員会(Senate War Investigating Committee)で審問を供述するハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, August 09, 1947
Description A view of Howard Hughes at the Senate War Investigating Subcommittee hearing in Washington.
Date 1947-08-09
Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001575 Physical Identifier 0373_1282引用。



Howard Hughes testifies before a Senate Subcommittee investigating war contracts,in Washington, DC, United States
Howard Hughes testifies before the "Brewster" Senate Subcommittee, investigating war contracts. He talks about a war contract involving ordering of planes, light aircraft carriers and atom bomb by President Roosevelt during World War II. Location: United States. Date: August 1947.


Howard Robard Hughes is questioned during the investigation of 40 million in war time plane contracts in Washington.
Senate's investigation of 40 million war time plane contracts to Howard Hughes firm in Washington, United States. Several officials seated at desks in a building. American aviator and industrialist Howard Robard Hughes is asked about various things. He talks about Senator from Maine Ralph Owen Brewster. The probe is adjourned. Location: Washington DC. Date: August 11, 1947.

写真(右)1947年8月12日、アメリカ、ワシントンD.C.、見送りに来たファンのサインに応じる飛行機事業家・富豪ハワード・ヒューズ(Howard Hughes):共和党上院議員ハリー・ケイン(Harry Cain)を委員長とする戦争調査委員会の予算執行について、召喚を受けたヒューズが、ワシントンD.C.にから自宅のカリフォルニア州ロサンゼルス西、カルバーシティ (Culver City) に飛び立った。
Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, August 12, 1947
Description given with photo: ""Hughes Leaves For California, Washington: Howard Hughes signs autographs as he arrives at Washington Airport Aug. 12 for return trip to California following the adjournment of the Senate hearing on his plane contracts. Hughes said he would be back on Now. 17 to finish his story before the Senate Subcommittee if the inquiry is resumed on the date. Creditline (ACME) 8/12/47.""
Date 1947-08-12 Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001586 Physical Identifier 0373_1293引用。


写真(右)1947年8月15日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス西、カルバーシティ (Culver City) 、非公式の取材に応じる飛行機事業家・富豪ハワード・ヒューズ(Howard Hughes):共和党上院議員ハリー・ケイン(Harry Cain)を委員長とする戦争調査委員会の予算執行について、召喚を受けたヒューズが、ワシントンD.C.に飛び立つ前、インタビューを受けている。右下にハンドマイクが見える。
Title Photograph of Howard Hughes after hearing, Culver City, California, August 15, 1947
Description A view of Howard Hughes attending an informal press conference in Culver City, California, after Hughes left the Senate War Investigating Subcommittee hearing in Washington.
Date 1947-08-15
Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries  引用。


ヒューズは、共和党・上院議員オーウェン・ブリュスターRalph Owen Brewster: 1888-1961)を委員長とする戦争調達調査委員会から、戦時中のヒューズの兵器・飛行機の開発経費4000万ドルの受給について不正を疑われ、査問を受けることになった。

ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)カリフォルニア州の在住だったので、1947年8月、11月に召喚先のワシントンD.C.まで自家用飛行機ボーイングB-23旅客機で合計3回は往復飛行したようだ。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-23 ドラゴン(Dragon)爆撃機

写真(右)1947年8月16日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス西、カルバーシティ (Culver City) 、飛行機事業家・富豪ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)と共和党上院議員ハリー・ケイン(Harry Cain):ハーバート大学(退学)入学、身長2メートルの大柄、アメリカ有数の青年資産家・青年実業家ヒューズ。XF‐11試作機の検分がなされた時の撮影。
Title Photograph of Howard Hughes with Senator Harry P. Cain, Culver City, California, August 16, 1947 Description
A view of Howard Hughes (right) being asked about his controversial XF-11 photo reconnaissance plane by Senator Harry Cain (left), Republican of Washington, in Culver City, California. An unidentified man sits between the two.
Date 1947-08-16
Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001601 Physical Identifier 0373_1308引用。


写真(右)1947年8月16日(15日?)、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス西、カルバーシティ (Culver City) 、共和党上院議員ハリー・ケイン(Harry Cain)による事情聴取が終了した後、寛いだハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
Project Name Welcome Home, Howard
Title Photograph of Howard Hughes, Culver City, California, August 16, 1947
Description A view of Howard Hughes after being interviewed about his controversial XF-11 photo reconnaissance plane by Republican of Washington, Senator Harry Cain in Culver City, California.
Date 1947-08-16
Date Digitized 2013-12-19
写真は, Howard Hughes Public Relations Photograph Collection, 1930-1950. PH-00373. Special Collections, University Libraries, University of Nevada, Las Vegas Digital Identifier whh001605 Physical Identifier 0373_1312引用。


ハワード・ヒューズHoward Hughes)は、映画化した航空機だけではなく、実機の開発にも資金を投じ、1935年にヒューズ・エアクラフトを設立した。

1937年、ハワード・ヒューズHoward Hughes)は自ら操縦桿を握って、ニューヨーク=ロサンゼルスを7時間29分25秒で飛行し、最速アメリカ大陸横断記録を樹立した。そして、1938年には、世界一周飛行を91時間で達成して、世界最速の世界一周記録を樹立している。

写真(右)1947年8月16日(15日?)、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス西、カルバーシティ (Culver City) 、共和党上院議員ハリー・ケイン(Harry Cain)による事情聴取が終了した後、笑顔のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
Citation [Photograph of Howard Hughes, Culver City, California, August 16, 1947]. Howard Hughes Public Relations Photograph Collection, 1930-1950. PH-00373. Special Collections, University Libraries, University of Nevada, Las Vegas. Las Vegas, Nevada.
Title Photograph of Howard Hughes, Culver City, California, August 16, 1947
Description A view of Howard Hughes after being interviewed about his controversial XF-11 photo reconnaissance plane by Republican of Washington, Senator Harry Cain in Culver City, California.
Date 1947-08-16
Date Digitized 2013-12-19
写真は, Howard Hughes Public Relations Photograph Collection, 1930-1950. PH-00373. Special Collections, University Libraries, University of Nevada, Las Vegas Digital Identifier whh001605 Physical Identifier 0373_1312引用。


1947年には、第二次大戦中の大量軍事物資の輸送を担う世界最大の飛行艇開発に乗り出し、ヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)飛行艇を、ヒューズ・エアクラフトで1機試作した。このH-4飛行艇は、全幅 97.51 m、全長 66.65 m、全高 24.18 m、 空虚重量113,398 kg、発動機はプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-4360 "ワスプ・メジャー" 4列28気筒空冷星型エンジン3,000 hp (2.2 MW) 8基で、1947年11月2日に初飛行させた。しかし、機体が重すぎたために、それ以上の飛行は行われなかった。

つまり、第二次大戦の戦局が好転し、海上船舶輸送が大船団で大量軍事物資の円滑な輸送を実現できてからも、仏用亡くなったH-4大型輸送飛行艇の開発を続行し、試作1機を戦後になって完成し、初飛行させたが、これは資金と設備の無駄遣いと批判されても仕方がないヒューズの「道楽」だった。1947年11月2日、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)自ら操縦しヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)初飛行したが、飛行を続けることは技術的に困難で、完全な失敗作だったことが明白になった。

写真(右)1947年11月7日、アメリカ、ワシントンD.C.、飛行機事業家・富豪ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が上院戦争調査委員会にに召喚された際に、インタビューする報道陣レポーター:カリフォルニア州ロサンゼルス西、カルバーシティ (Culver City) から飛来した時の撮影でこれから上院議員オーウェン・ブリュスター(Owen Brewster)委員長に戦時予算について、釈明を求められることになる。
Title Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, D.C., November 07, 1947
Description given with photo: ""Howard Hughes talking to reporters.""
Date 1947-11-07
Date Digitized 2013-12-19
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001681 Physical Identifier 0373_1394引用。


H-4飛行艇の初飛行直後、1947年11月18日の政府の飛行機開発予算の調査をハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が受けたとき、上院議員の審問者ホーマー・ファーグソン(Homer S. Ferguson)が不正な予算の話ばかりした。ヒューズは、アメリカ陸軍航空隊の調達官だったベネット・マイヤーBennett E. Meyers)少将は、ヒューズに航空機調達数量・価格の見返りに5万ドルのカネを渡せといったと主張した。メイヤー将軍は否定したが、飛行機調達の他の不正にもかかわったことが明らかになった。

ヒューズは飛行機の操縦はもちろん、技術や開発にほとんど興味をもっていないことを見抜いたヒューズは、彼らはゲシュタポのような尋問者だとこきおろした。


1947/11/18 Senator Ferguson heads the senate group which hears Mr. Hughes, former General Meyers and other key figures in Washington DC.
Investigation of Howard Hughes's warplane contracts in Washington DC. Senator Homer S. Ferguson heads the senate group which hears Mr. Hughes, former General Meyers and other key figures. Mr. Hughes and General Meyers speaking behind a battery of microphones. Location: Washington DC. Date: November 18, 1947.


写真(右)1947年11月8日、アメリカ、ワシントンD.C.、上院戦争調査委員会支部に召喚され証言者たちと待機しているハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
:上院戦争調査委員会支部で戦時予算について疑いをかけられたため、公聴会で説明しようとしている。
Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, D.C., November 08, 1947
Description given with photo: ""Howard Hughes sits with his witnesses at Senate War Invest. Hearing. 1st row (l to r): Glen Odekirk & Thomas Slack; 2nd row (l to r): E. A. Peterman, Richard (?), & Howard Hughes; 3rd row (l to r): Edward Schwartz, John Parkinson, & John R. (?)."" Date 1947-11-08."
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001686 Physical Identifier 0373_1398引用。


写真(右)1947年11月8日、アメリカ、ワシントンD.C.、上院戦争調査委員会支部に召喚され質疑に応じるハワード・ヒューズ(Howard Hughes):上院戦争調査委員会支部で戦時予算について、説明した。
Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, D.C., November 08, 1947
Description A view of Howard Hughes at the Senate War Investigating Subcommittee hearing in Washington. Written on back: ""Howard Hughes, 11/08/47.""
Date 1947-11-08 Date Digitized 2013-12-19
"Testify On Behalf Of Hughes, Washington: Four of the nine witnesses summoned before the Senate War Investigating Subcommittee to testify on behalf of Howard Hughes stand behind the plane builder (seated, right) and his attorney, Thomas A. Slack (seated, left), November 8. they are (left to right) John B. Parkinson, listed as representative of the national Advisory Committee for Aeronautics; Edward Schwartz, listed as a former member of the Air Force Evaluation Boar; E. A. Peterman, and Glen Odekirk, an executive of the Hughes' Plant. Credit (ACME) 11/08/47."
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001687 Physical Identifier 0373_1399引用。


ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、1930年設立の航空会社のトランス・ウェスタン・エアラインズ(TWA:Transcontinental & Western Air)の株を買収して大株主となり、航空運輸業界にも確固たる基盤を作った。

しかし、TWA株式名義と取得を巡って訴訟を起こされた。同社は、国際路線を拡張し、社名も1950年にトランス・ワールド航空(TWA:Trans World Airlines)と変更されている。

写真(右)1947年11月8日、アメリカ、ワシントンD.C.、上院戦争調査委員会支部での召喚され彼流のユーモアと笑顔で質疑に応じたハワード・ヒューズ(Howard Hughes):上院議員オーウェン・ブリュスター(Owen Brewster)委員長の下にある上院戦争調査委員会支部で戦時予算について、釈明を求められた。
Photograph of Howard Hughes at hearing, Washington, D.C., November 08, 1947
Description given with photo: "Hughes In Good Humor As He Takes The Stand Again, Washington, D.C. - Howard Hughes, millionaire plane builder and movie maker, takes the witness stand this morning before the Senate committee which is investigating his wartime plane contracts. His huge seaplane has taken to the air in the interim between his first appearance in Washington and the current visit, a fact that might account for his undeniable good humor and broad smile. Photo by G.B. Kress. 11/10/47."
Date 1947-11-08
Date Digitized 2013-12-19
"Testify On Behalf Of Hughes, Washington: Four of the nine witnesses summoned before the Senate War Investigating Subcommittee to testify on behalf of Howard Hughes stand behind the plane builder (seated, right) and his attorney, Thomas A. Slack (seated, left), November 8. they are (left to right) John B. Parkinson, listed as representative of the national Advisory Committee for Aeronautics; Edward Schwartz, listed as a former member of the Air Force Evaluation Boar; E. A. Peterman, and Glen Odekirk, an executive of the Hughes' Plant. Credit (ACME) 11/08/47."
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001700 Physical Identifier 0373_1412引用。


the Las Vegas Years ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、社主を務めるトランス・ワールド・エアラインズ(TWA)の株式取得、政治献金疑惑を巡る金銭裁判に、激怒して裁判の出廷を拒否した。そして、被告人ヒューズの欠席のまま、ヒューズは保有するTWA株の売却命令を受けた。

諦めの悪いハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、TWA株売却の資金で、それまで先住民居留区としてカジノ賭博が公認され、マフィアも関与していたラスベガスSUniversity of Nevada, Las Vegas. Libraries )にあって、そこのホテル、カジノ、ゴルフ場、テレビ局、空港、土地を買収して、ラスベガスのデザート・イン(Desert Inn)、サンズ(Sands)、キャストウェー(Castways)フロンティア(Frontier)、ランドマークカジノ(Landmaek Casinos)など、ラスベガスへの大きな影響力を手に入れた。

少年時代から飛行機が好きだったハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、富裕な資産を生かして、飛行機映画を作り、自分で飛行機を操縦するようになった。しかし、既存の飛行機を購入するだけでば飽き足らず、ヒューズ自らが、飛行機を開発・製造に乗り出し、ヒューズ航空機社を設立した。さらに、民間航空路線にも参入し、航空会社を買収し、TWAトランスワールド航空の社主になって、新鋭機の導入を進めた。また、航空関連の利潤に対する法人税を節約するために、寄付控除をすすめ、その資金で1953年にハワード・ヒューズ医学研究所(Howard Hughes Medical Institute)を設立した。

ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、特別扱いされないように大富豪である素性を隠してアメリカン航空で飛行機操縦・民間航空会社の経験を積んだハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、自ら操縦桿を握っている。 Las Vegas ヒューズH-1レーサーでアメリカ大陸横断の最短記録をつくり、新型高速試作機の初飛行を担当して事故を起こし重傷を負った。また、ヒューズH-4飛行艇を操縦し世界最大の飛行艇を初飛行している。

1950年、「トランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空」(TWA)を「トランス・ワールド航空」(TWA)と改名し、国際旅客路線に大々的に進出した。この時、ロッキード コンステレーション輸送機をニューヨーク=パリ直行便に使用している。

⇒写真集Album:ロッキード(Lockheed)L-049 コンステレーション(Constellation)旅客機

ハワード・ヒューズ(Howard Hughes:1905-1976)に関する連邦捜査局(FBI)の捜査資料は、古いものはアメリカが第二次大戦に参戦する1941年の軍用機の委託生産に係るもので、ヒューズ近くの人物の内部告発で、航空機生産、不動産事業、所得税不正に関する疑惑が持ち上がった。さらにヒューズの晩年には、ハリウッド女優との女性関係、晩年の失踪事件、ヒューズ死後の遺産分与の疑惑などの捜査資料もある。なかには、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の公私の文書、自筆書簡も収録されている。

第二次世界大戦中、ヒューズ航空がアメリカ政府から軍用機の製造委託を受けるに伴い、会社は軍需景気に沸いて急成長した。しかし、多額の法人税の支払いは政府の無駄遣いだと感じていたハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、節税のために、ヒューズ航空の資産を社外に移転し、法人税の寄付控除を受けることのできる公益重視のハワード・ヒューズ医学研究所(Howard Hughes Medical Institute)を1953年にメリーランド州に設立した。

Richard Nixon 1956年、副大統領リチャード・ニクソン(Richard Nixon)実弟ドナルド(Donald)・ニクソン経営のレストラン事業への救済資金20.5万ドルを負担し、医学研究所に対する税制上の便宜を図ってもらう見返りを目的としたとの疑惑が浮上した。また、ラスベガスに住んでいたために、核爆発の悪影響を非常に心配したヒューズは、地下核実験をやめさせることに政治的、資金的な伝手を使った。また、スピルバーグもヒューズの映画・飛行機・性格に強い関心を示し、映画作成の話も出てた。

リチャード・ニクソンの大統領選挙出馬に伴って、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は選挙資金を提供し、ハワード・ヒューズ医学研究所(Howard Hughes Medical Institute)への税控除を維持することができた。

しかし、晩年のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、映画作成や航空機開発の熱意を失い、ラスベガスのホテル最上階スイートで自堕落な生活を送った。これは、健康を損ね、精神病の発症を伴うもので、孤独な変人生活へと変貌する。経営権を手放し、関連企業も売り払ったハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、経営権を手放し、一線から引退した孤独な放浪と隠遁生活を過ごし、精神病で死亡した。

FBI File on Howard Hughes


9.ヒューズ XH-17 フライングクレーン(Flying Crane)ヘリコプター

写真(右)1952年10月23日、アメリカ、カリフォルニア州カルバーシティ(Culver City)、ヒューズ XH-17 フライングクレーン(Flying Crane)ヘリコプター:1952年10月23日に初飛行した。左から2番目が、ヒューズである。
Photograph of Howard Hughes and others in front of the XH-17 helicopter, Culver City, California, October 23, 1952 Date 1952 Description Howard Hughes (second from left) standing in front of the experimental helicopter XH-17, Flying Crane, with others (from left to right): Rea Hopper, Director of the Aeronautical Division, Hughes Aircraft Company; Hughes; Clyde Jones, Director of Engineering, Hughes Tool Company Aeronautical Division; Warren Reed, Assistant; Colonel Carl E. Jackson from Air Research and Development Headquarters, Baltimore; Gale J. Moore, Pilot; possibly Chal Bowen, Flight Engineer/Co-pilot; and an unidentified man, October 23, 1952.
写真は Wikimedia Commons, Category:TH-55 Osage Digital ID whh000247 Physical Identifier 0321_0276引用。


写真(右)1952年10月23日、アメリカ、カリフォルニア州カルバーシティ(Culver City)、ヒューズ XH-17 フライングクレーン(Flying Crane)ヘリコプター:左から2番目のヒューズが社主を務めたヒューズ・ツール社飛行機部門(Hughes Tool Company Aeronautical Division)が開発した大型貨物用ヘリコプターである。
Date 1952 Description Howard Hughes (second from left) standing in front of the experimental helicopter XH-17, Flying Crane in October 1952. From left to right: Rea Hopper, Director of the Aeronautical Division, Hughes Aircraft Company; Howard Hughes; Clyde Jones, Director of Engineering, Hughes Tool Company Aeronautical Division; Warren Reed, Assistant; Colonel Carl E. Jackson, Air Research and Development Headquarters, Baltimore; Gale J. Moore, Pilot; and Chal Bowen, Flight Engineer/Co-pilot.
写真は Wikimedia Commons, Category:TH-55 Osage Digital ID whh000175 Physical Identifier 0321_0170引用。


ヒューズ XH-17 フライングクレーン(Flying Crane)ヘリコプターの発動機は、ジェネラル・エレクトリック( General Electric)J35 軸流式ターボジェット(turbojets)3,480 hp (2,600 kW) 2基だが、直径40m近い大型回転翼(ローター)を稼働するために、回転翼先端にまでハブを経由してジェット噴流を送るティップ・ジェット(Tip jet)方式を採用した。つまり、高温高圧の圧縮空気を中空の回転翼(ローターブレード)内の配管を通して噴射する方式である。チップジェットのために、直径40mのローター回転数は毎分88回転 (88 rpm)と低いが、大直径で浮上した。そのため、回転翼の振動と空気抵抗が小さいために、騒音が緩和され、トルク(torque:反作用で胴体が回転してしまうトルク)もなかったのが利点である。半面、回転翼の飛行効率が低くなり、燃費が悪化する欠点があった。

写真(右)1952年10月23日、アメリカ、カリフォルニア州カルバーシティ(Culver City)、ヒューズ XH-17 フライングクレーン(Flying Crane)ヘリコプター:左から2番目のヒューズが社主を務めたヒューズ・ツール社飛行機部門(Hughes Tool Company Aeronautical Division)が開発した大型貨物用ヘリコプターである。
Date 1952 Howard Hughes (second from left) standing in front of the experimental helicopter XH-17, Flying Crane, with others (from left to right): Rea Hopper, Director of the Aeronautical Division, Hughes Aircraft Company; Hughes; Clyde Jones, Director of Engineering, Hughes Tool Company Aeronautical Division; Warren Reed, Assistant; Colonel Carl E. Jackson, Air Research and Development Headquarters, Baltimore; Gale J. Moore, Pilot; possibly Chal Bowen, Flight Engineer/Co-pilot, and an unidentified man, October 23, 1952.
写真は Wikimedia Commons, Category:TH-55 Osage Digital ID whh000246 Physical Identifier 0321_0275引用。


ヒューズ XH-17 フライングクレーン(Flying Crane)タンデム・ヘリコプターの形状は、中央部に科目空間が確保されており、大型貨物の吊り下げが可能になったが、全高が高くなるためにい、整備に手間がかかった。1952年10月23日に初飛行したが、試作1機のみで終わり、1955年12月に退役。

hughes xv9a ヒューズ XH-17 フライングクレーン(Flying Crane)ヘリコプターの諸元
乗員:3名(操縦士、機関士、観測員)
全長:53 ft 3.6 in (16.246 m)
全高:30 ft 1.2 in (9.174 m)
回転翼直径:2翅130 ft (40 m)
回転翼面積:2翅13,274.95 sq ft (1,233.283 m2)
燃料搭載量: 635 US gal (2,404 L)
空虚重量:28,562 lb (12,956 kg)
全備重量:31,270 lb (14,184 kg)
最大離陸重量:43,500 lb (19,731 kg)
発動機: アリソン J35 ターボジェットエンジン 2基
最高速力:90 mph (140 km/h)
巡航速力:85 mph (137 km/h)
航続距離:30 mi (48 km)/ペイロード10,284 lb (4,665 kg)
実用上昇限度:13,100 ft (4,000 m)
上昇率:1,650 ft/min (8.4 m/s)


10.ヒューズTH-55オセージ(Osag)小型ヘリコプター

写真(右)1966年4月、アメリカ、カリフォルニア州エルトロ(El Toro)基地、アメリカ陸軍ヒューズTH-55 オセージ(Osage)練習ヘリコプター
Description A U.S. Army Hughes TH-55A Osage helicopter (s/n 64-18148) parked on the flight line at the U.S. Marine Corps Air Station El Toro, California (USA). Department of Defense. American Forces Information Service. Defense Visual Information Center. 1994 Title A left front view of a U.S. Army TH-55A Osage helicopter parked on the flight line Description The original finding aid described this photograph as: Base: Marine Corps Air Station El Toro State: California (CA) Country: United States Of America (USA) Scene Camera Operator: CPL. Johnson Release Status: Released to Public Date 23 April 1966 Source U.S. DefenseImagery photo VIRIN: DM-SN-85-02979 Author Cpl. Johnson
写真は Wikimedia Commons, Category:TH-55 Osage File:TH-55 Osage.jpg引用。


1959年4月2日、ヒューズ・モデル 269の形式が与えられた小型ヘリコプターは、民間仕様で、モデル 269Aとして1961年から生産が開始され、1963年半ばには月産20機、1964年春までに314機が量産された。他方、アメリカ陸軍は、モデル 269は堅牢でなく、搭載量も少ないために戦闘用には採用しなかったが、1964年からTH-23の後継機として練習ヘリコプターとして採用し、TH-55A オセージ(Osage)と命名した。

写真(右)2010年8月、ドイツ、ハノーバー西方、ビュッケブルク、ビュッケブルク・ヘリコプター博物館 (Hubschraubermuseum)で展示されているヒューズTH-55 オセージ(Osage)練習ヘリコプター
Deutsch: Hubschraubermuseum Bückeburg Date 27 August 2010 Source Own work Author Bin im Garten
写真は Wikimedia Commons, Category:TH-55 Osage File: Hubschraubermuseum Bückeburg 2010 0779.JPG引用。


1956年10月初飛行、ヒューズTH-55 オセージHughes TH-55 Osage)練習ヘリコプターの諸元
乗員:2名
全長:8.8m(28ft 11in)
全高:2.4m(7ft 11in)
主ローター直径:7.6m(25ft)
主ローター旋回面積:18.1m2(196.8ft2)
空虚重量:406kg(896lb)
全備重量:703kg(1,550lb)
発動機:ライカミング HIO-360-B1A 水平対向エンジン、180hp(134kW)1基
最高速力:78kts=M0.23(90mph)
巡航速力:65kts=M0.19(75mph)
航続距離:203nm(233miles)

ヒューズTH-55 オセージ(Hughes TH-55 Osage)は、アメリカ陸軍の軍用無線機、標準計器が搭載された。1961–1983年に総計2800機が生産された。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇


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