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◆オーストリア併合・ズテーテン危機・ミュンヘン会談: Sudeten & Munich Conference 写真(上)1938年9月,ミュンヘン会談に空路やってきた大英帝国アーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)首相を出迎えるドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統の「歴史的瞬間」左の突撃隊の服装がヒトラー首相。
ミュンヘン空港Oberwiesenfeldで,最前列左から,ナチ党管区指導者(Gauleiter)アドルフ・ワグナー、警察局長クルト・ダリューゲ,リッター・フォン・エップ、ヒトラー総統,英首相チェンバレン、右端が英国大使を務めたこともあるドイツ帝国リンベントロップ外相。
チェンバレンは,下院議員,厚生大臣,大蔵大臣など要職を経て,1937年,保守党首となり,英首相に就任。
Scherl: Historische Stunden in München. Landung des englischen Premierminsters Chamberlain auf dem Münchener Flugplatz Oberwiesenfeld. Von links nach rechts: Gauleiter Adolf Wagner, Polizeigeneral Daluege, Reichsstatthalter Ritter von Epp, weiter rechts Premierminster Chamberlain, Reichsaussenminister von Ribbentrop. 12861-38, 29.9.38 II.Text ADN-ZB/Archiv Im faschisitischen Deutschland 1933-45 Münchener Abkommen , September 1938 Nach der Landung des englischen Premierministers Neville Chamberlain auf dem Münchner Flughafen Oberwiesenfeld am 29.9. 1.R.V.l. Gauleiter Adolf Wagner, General der Polizei Kurt Daluege, Reichsstatthalter Ritter von Epp, Chamberlain und der deutsche Außenminister von Ribbentrop. 12861-38 Datierung: 29. September 1938 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1938年9月,ミュンヘン会談に参加したヒトラー総統,フランス共和国ダラディエ首相,シルクハットを手にしたチェンバレン英首相後方には,リンベントロップ外相。ヒトラーは控えめな態度に見えるが,チェコスロバキアのズテーテンラントにすんでいる同胞(民族ドイツ人)を守るためなら,戦争も辞さないという,強硬な姿勢で臨んだ。ただし,これが最後の領土要求であり,要求が聞き入れられるなら,矛を収め,平和を守るとした。第一次大戦の再来,すなわち第二次大戦の勃発を危惧したヨーロッパ中の市民は,このミュンヘン会談の去就に注目していた。チェンバレンもダラディエも,世論を慮って,戦争を回避することを最終目標にしていた。このような連中を弄するには,戦争による威嚇が最も効果的だと,ヒトラーは理解していた。協定から一年もたたないうちに,ポーランドに対して,東プロイセントつながるポーランド回廊を割譲せよ,シュレジエンの同胞,民族ドイツ人への迫害を止めよと要求し,軍を派遣した。ミュンヘン協定は,1年たたないうちに破られる運命にあった。
Sowjetunion, Krim.- Schreibstube im Freien, Horst Grund als Filmbericher der 10. Marinekriegsberichterkompanie an Schreibtisch sitzend Dating: 1941 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられる。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、反英米の国威発揚外交推進、独裁政権獲得という本音のようだ。


1.ナチ党政権獲得への過程

ナチ党は,ベルサイユ体制による賠償金の支払い・軍備制限などドイツの隷属化,失業など社会不安を現政権であるワイマール共和国,ユダヤ人,第一次大戦で革命を起こしたボリシェビキ(暴力革命を肯定する共産主義者)の責任だと主張します。そして,ドイツ国民の不安を煽るプロパガンダを展開しました。

ナチ党は,大衆動員,プロパガンダに努め、そのために資金、資本、労力、技術を投入します。政策論争,党の綱領,マニフェストなど,政策の論理的展開にナチ党は、あまり関心を持たず、自らを党派というより、ドイツ国民を代表する運動である、と主張します。不満だらけの忌むべき現状を痛烈に非難し、それを打破することをめざします。社会不安を呼び寄せた責任を、ワイマール共和国の与党政治家(社会民主党、自由党、カトリック中央党など)、ユダヤ人、共産主義者にし帰して,彼らを排除し新しい秩序と規律を打ち立てるべきだと主張します。

ポスター(右)1924年ごろ,「労働者諸君!あなたの指導として誰を選ぶのか!これがヤツラの本性だ!」と訴えるドイツ社会党(DSまたはDTSP)の反ユダヤ主義のポスター:革命家トロツキーのような悪賢いユダヤ人をドイツの指導者に選ばないように警告する。
DTSP(ドイツ社会党)は,小学校教師・ジャーナリストだったリヒャルト・クンツェ(Richard Kunze:1872-1945)が設立し党首となった。ドイツ社会党は,反ユダヤ主義で,労働者の経営参加,安価な食料品の供給,中小商店の保護などを掲げた。 1924年5月の議会総選挙でDTSPは、4議席を獲得。しかし,1925年以降,DTSPの多くの党員は,ナチ党に移った。
Was sagt Bebel? Arbeiter! Seht Euch Eure Führer an! Datierung: 1919/1933 ca. Grafiker: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv Anlass: Antisemitismus, Mitgliederwerbung, Wahlplakat Drucker / Verlag: Friedenauer Buch- und Kunstdruckerei, Friedenau Herausgeber: Deutsch-Soziale Partei, Richard Kunze; Otto Pieper
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


国家社会主義ドイツ労働者党というナチ党の正式名称が示すように,国粋主義者,資本家,労働者どこにも希望を持たせるような幻想をプロパガンダで徹底します。ナチス反対派に対しては,突撃隊を使って,暴力で弾圧し,排除してゆきます。 これが,ドイツのファシズムです。

◆ナチ党(NSDAP)政権獲得前,プロパガンダは,マスメディアの利用,資金,組織,宣伝対象の上で,限定されたものに過ぎませんでした。大規模なプロパガンダは,ナチ党政権獲得後になって,国家資金,政府機関を通して初めて可能になったのです。

ナチ党(NSDAP)政権獲得の背景には,
?ワイマール共和国(ドイツ)の保守政治家・議会政党人の権謀術数の弊害,
?フライコールのような義勇軍の存続とその暴力を政府が黙認したこと,
?大恐慌による生活悪化,ベルサイユ体制への批判,
?第一次大戦の敗戦,失業などの社会不安をすべてユダヤ人やボリシェビキの責任として,ドイツ人の優越感を満足させたこと,
社会主義・共産主義勢力の拡大を恐れる資本家・アメリカ・イギリスなど外部要因,
が指摘できます。このような背景を踏まえて,ナチスが世論を取り込むことができたのは,ナチスの運動と計略が功を奏したということです。

1932年の総選挙で第一党に選ばれ,1933年には,ナチ党(NSDAP)による一党独裁国家を作りました。この過程で,ナチ党は,反対勢力を,突撃隊,親衛隊によって,威嚇し,暴力で弾圧しています。

ナチ党(NSDAP)は,1932年の総選挙で第一党にはなりましたが,干渉選挙によっても,過半数の得票率を獲得したことは一回もありません。独裁は民主的手続きを遵守していては不可能だったのです。

写真(右)1933-1939年,ヒトラーユーゲント,ドイツ女子同盟の夏至祭:キリスト教の呪縛から脱却させようと,ゲルマン民族の伝統的習俗を取り入れ,農業豊饒を祝う夏至祭を開催した。しかし,このような非キリスト教的エセ宗教儀式に多数のドイツ青少年が参加したのは,1936年12月1日,ヒトラーユーゲント法によって,ドイツ青少年(10歳から18歳の男女)の加入が義務付けられ,他の青少年団体が解散させられたためである。 大戦前に,軍事予備教練団体としての位置づけがなされ,強制加盟となった。
Hitlerjugend, Bund Deutscher Mädel.- Feier zur Sonnenwende Datierung: 1933/1939 ca. Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


そこで,ヒトラーは権力を握るや、1933年2月の国会放火事件を契機に大統領緊急令に基づいてナチスに反対する政治家,共産主義者らを拘束し,暴力の威嚇の下で,3月24日,「全権委任法」(Ermächtigungsgesetz)を可決させます。この全権委任法Enabling Act)は,国会の権能をヒトラーに授権するものでした。そして,6月22日にはドイツ社会民主党(SPD)を解散に追い込み,7月14日には,新党設立禁止法を公布し,一国一党というナチ党独裁を完成しています。

ナチ党による一党独裁,ヒトラー独裁は,一見合法的な独裁国家の成立でしたが,突撃隊や親衛隊を使って反対勢力を暴力で抑え込んだのは明白です。


2.ドイツ国防軍の復活

ドイツワイマール共和国は,第一次大戦の敗北後に結ばれたベルサイユ条約によって,莫大な賠償金(1320億金マルク)を抱え,フランス・ポーランドへの領土割譲,工業地域でもあるライン川の西側ラインラントの非武装化と並んで,厳しい軍備制限を受けました。

ドイツは,監視団を受け入れたうえで,陸軍兵力を10万人に制限され,陸軍参謀本部を廃止させられます。兵器の上でも,戦車,潜水艦の保有禁止,航空部隊の廃止という制限を受けています。

1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると,大統領選挙ではなく,いきなり首相が大統領を兼任する国民投票を強行し,総統となっています。そして,軍の将兵は,全員,総統アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓うように宣誓文を改変しました。

ヒトラーが,このような粗暴な革命を強行できたのは,自分は正しいことをしているとの思い込みと,反対勢力を弾圧すれば,国民は強い者に服従するとした弱肉強食の原則を信じていたからです。

ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになります。そしてドイツ国防軍の兵士は,ドイツにではなく,ヒトラー個人に忠誠を宣誓するようにかわります。これは,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg:1878年9月2日-1946年3月14日)が,ヒトラーの申し出を受諾したためです。

写真(右)1934年8月,ドイツ国防軍の兵士のヒトラー総統への新しい忠誠宣誓式:ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになった。そしてmドイツ国防軍の兵士は,ドイツにではなく,ヒトラー個人に忠誠を宣誓することとなった。これは,国防大臣ブロンベルクが,ヒトラーの申し出を受け入れたためである。
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler! Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler. Dating: August 1934
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1934年8月2日に導入された新しいドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."

「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler! Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler.

写真(右)1936年4月20日,ヒトラー総統と陸軍大臣フォン・ブロンベルク元帥:ベルリンの軍事パレードに参加した海軍提督レーダー博士,ルントシュテット将軍も後方に見える。ヒトラーは,突撃隊SA幕僚長レームら幹部を粛正,国防軍に代わる軍隊を創設するつもりがないことを示し,ドイツ国防軍,陸軍大臣フロンベルクの信頼を得た。この時期,国防軍の威光は,ヒトラー総統でも十分に配慮しなければならないほど,強かった。
ADN-ZB-Archiv Berlin 20.4.1936 Grosse Parade zum 47. Geburtstag des Führers. Hitler nimmt vor den Tribünen am Kleinen Stern, den Vorbeimarsch der Truppen ab. Hinter [Adolf] Hitler von links nach rechts: [Werner] von Blomberg, [Hermann] Göring, Dr. h.c. [Erich] Raeder und General [Gerd] von Rundstedt. 5226-36 [Scherl Bilderdienst] Berlin Date 20 April 1936
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,ヒトラーは,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言します。これは,兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活し,空軍を新設したのです。

1936年3月の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどまっていました。だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認したのです。

実際は,1922年4月のソ連とのラパロ条約秘密議定書で,ドイツはソ連奥地におい軍備を整える兵器開発・訓練をしていました。また,新型火砲の開発も,スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して行っていました。これらの兵器は,ベルサイユ条約調印前の1918年に制式されたように見せかけるために,型式を1918年型と偽称していました。つまり,ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動きは着実に進んでいたのですが,ヒトラーは再軍備を宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴したのです。

ワイマール共和国の軍事組織維持の背景の中で,三軍総司令官となったヒトラー総統は,1935年3月16日,ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して,再軍備を宣言します。この時,国軍(Reichswehr)は,国防軍(Wehrmacht)に戻され,陸軍,海軍に加えて,ヘルマン・ゲーリング率いる空軍が新設されました。

再軍備宣言から2ヵ月後,1935年5月21日に兵役法が施行され,全ドイツの男子に兵役義務が課されます。そして,国防軍の最高指揮者は,総統兼首相 (Führer und Reichskanzler)がとることとされました。

忠誠宣誓については,従来のように国家と憲法に忠誠を誓うのではなく,三軍最高司令官の総統兼首相に忠誠を誓うようになります。これは,親衛隊SSがヒトラー個人に忠誠宣誓をするのとほぼ同じです。

1936年のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合(Anschluß/Anschluss)は,この復活させたドイツ国防軍を使って,達成されたものです。

 近隣諸国に軍事的脅威を与えることで,ヒトラーは,ドイツの領土を拡張します。この時ヒトラーが,隣接した地域をドイツに併合すべきだと主張したに根拠は,隣接した地域にドイツ系住民(Volksdeutsche:民族ドイツ人)が住んでいる,このドイツ系住民が虐待されているという理由です。ヒトラー自身,大ドイツの復活を,政権獲得前から主張しています。これは,962年の神聖ローマ帝国(1404年のオーストリア・ハプスブルク帝国に継承),1971年のドイツ帝国を継承するドイツ第三帝国Drittes Reich)の構想です。


3.1938年3月のオーストリア併合アンシュルス(Anschluß/Anschluss

写真(右)1937年9月,ベルリン,ヒトラー総統,陸軍大臣フォン・ブロンベルク元帥,ヴィルヘルム・カイテル大将
Der Führer bei seinen Truppen im Manöver. Seit Sonntag [den 19.9.1937] weilt der Führer und Oberste Befehlshaber der Wehrmacht im mecklenburgischen Manövergebiet, wo er jeweils auf den Seiten der roten und der blauen Partei den Kampfhandlungen beiwohnt. Die Bevölkerung begrüßt den Führer in allen Orten , wo er im Verlauf der Gefechtshandlungen erscheint, mit grossem Jubel. UBz: den Führer zusammen mit dem Reichskriegsminister, Generalfeldmarschall von Blomberg, bei einer Besprechung der Manöveraufgaben. Scherl Bilderdienst Berlin ADN-ZB/Archiv Faschistisches Deutschland 1933 1945 Hitler bei Truppenmanövern im Mecklenburg im September 1937. - Hitler bespricht mit Reichskriegsminister Generalfeldmarschall Werner von Blomberg (Mitte) und General der Artillerie Wilhelm Keitel (rechts) Manöveraufgaben. Archive title: Mecklenburg.- Adolf Hitler, Werner v. Blomberg, Wilhelm Keitel Dating: September 1937
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けます。これが,ホスバッハ会議で、ヒトラーの戦争方針が示されたのです。

ブロンベルク国防相とフリッチュ陸軍総司令官は,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対しました。ドイツが、英仏連合軍と戦っても勝ち目は無いと考えたからです。

しかし、ヒトラーは軍備を拡張して権限を強化してきた国防軍の将軍たちが、戦争を欲していないことを理解できませんでした。二将軍は、パレード用の軍隊を整備したつもりなのかと訝(いぶか)り、将軍とは臆病な生き物だと、彼らを軽蔑し始めます。ヒトラーは、二将軍を戦争を回避しようとする弱腰だと蔑視し,戦争を始めるには、二将軍を失脚,更迭する必要があることを悟りました。

ヒトラー総統は,大ドイツ「グロス・ドイッチュラント」の復興を目論みます。アーリア人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指すヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなしたのです。すなわち,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域が,ドイツに併合されるべきだと主張します。

写真(右):1938年アンシュルスAnschluß(オーストリア併合)を宣言したドイツ国会のアドルフ・ヒトラー総統:"Hitler accepts the ovation of the Reichstag after announcing the `peaceful' acquisition of Austria. It set the stage to annex the Czechoslovakian Sudetenland, largely inhabited by a German- speaking population." Berlin, March 1938. 1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けた。これが,ホスバッハ会議である。ブロンベルクとフリッチュは,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対した。そこで,フレームアップされたスキャンダル事件によって二将軍は,失脚,更迭されてしまう。
1938年2月、ヒトラー総統はオーストリアのシュシュニク首相とベルヒテス・ガーデンで会談し,オーストリア・ナチ党首ザイス・インクワルトを内相に任命するよう強要した。シュシュニク首相は,ドイツ合併を国民投票にかけようとしたが,ドイツは武力攻撃すると脅迫し,1938年3月,インクワルトを首相とし,彼はドイツ軍のオーストリア進駐を要請。ヒトラー総統は,3月10日、ドイツ軍のオーストリア進駐を命じた。3月12日,アンシュルス(Anschluß/Anschluss)が宣言された。NARA( National Archives and Records Administration): 208-N-39843.引用。


1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチ党首だったオーストリア人ザイス=インクワルト Arthur Seyss-Inquartを内務大臣に任命させます。

シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりでしたが,選挙権を巡る国内内紛が起きてしまいます。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐します。

ポスター(右)1938年11月,オーストリア・ナチ党首コンラート・ヘンラインがドイツのアドルフ・ヒトラー総統にオーストリア併合を要求する。1938年2月、ヒトラー総統はオーストリアのシュシュニク首相とベルヒテス・ガーデンで会談し,オーストリア・ナチ党首ザイス・インクワルトを内相に任命するよう強要します。シュシュニク首相は,ドイツ合併を国民投票にかけようとしたが,ドイツは武力攻撃すると脅迫し,1938年3月,インクワルトを首相とし,ドイツ軍の進駐を要請しました。ヒトラー総統は,3月10日、ドイツ軍のオーストリア進駐を命じ,3月12日,アンシュルスが宣言されました。ヒトラーは,オーストリアを強奪したり,無理やりドイツに併合したりしたのではなく,オーストリア国民による大ドイツ復興の総意に基づいて,オーストリアを併合したとの建前をとった。
Konrad Henlein einte uns! Der Führer befreite uns! Dating: November 1938
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1938年3月13日のオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,それまで反対していたイタリア,ムッソリーニの理解を得て,武力進駐を行っています。

シュシニク首相は亡命し、代わりに首相となった内相ザイス=インクワルトは、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出します。皮肉なことに,オーストリアを亡命することになるシュシュニク(Kurt von Schuschnigg)は,TimeMar. 21, 1938のカバーを飾っています。

1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
Ich proklamiere nunmehr für dieses Land seine neue Mission. Sie entspricht dem Gebote, das einst die deutschen Siedler aus allen Gauen des Altreiches hieher berufen hat: Die älteste Ostmark des deutschen Volkes soll von jetzt ab das jüngste Bollwerk der deutschen Nation und damit des Deutschen Reiches sein.
オーストリアの独立という戯言(ざれごと)は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルク(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」

写真(右)1938年3月,オーストリア併合(アンシュルス)に加担したオーストリア人法律家アルトゥル・ザイス=インクヴァルト(Dr. Arthur Seyss-Inquart)、オーストリア内務大臣としてドイツ軍の進駐を要請した :ザイス=インクヴァルトはオーストリア人だがオーストリア併合後は、オーストリア(オストマルク)の州国家代理となったものの、第二次大戦勃発前に指導的立場を追われてしまう。第二次世界大戦が始まり、1940年にドイツがオランダを占領すると、オランダの国家弁務官(Reichskommissar)に就任。戦後、ニュルンベルク戦犯裁判で絞首刑。
Metadata Collection / Archive: Spaarnestad Description: Portret van Dr. Arthur Seyss-Inquart, Oostenrijker, door Hitler als Reichskommissar benoemd in Nederland. Personal names: Seyss-Inquart, Arthur Fotograaf: Onbekend.
写真はオランダ・アーカイブNationaal Archief 2010-2017Collectionから引用。

1938年初頭,ドイツは,オーストリアのナチス勢力を使って,オーストリアを暴力で混乱させ、ドイツとの合併を企図した。そこで、1938年2月12日、ヒトラーはオーストリアの独立について話し合うとの名目で、オーストリアのクルト・アロイス・シュシュニックKurt Alois Schuschnigg:1897-1977)首相を、ヒトラーの巨大な山荘ベルヒテスガーデンに呼びつけました。そして、オーストリア・ナチ党の活動を認め、その指導者アルトゥル・ザイス=インクヴァルトArthur Seyss-Inquart:1892-1946)を内務大臣に就任させるように迫りました。

  シュシュニク首相もオーストリア大統領ヴィルヘルム・ミクラスWilhelm Miklas)もオーストリア・ナチスの勢力の政権参与を拒否したものの、ドイツ軍の武力進駐の脅しに、シュシュニク首相はその要求をやむを得ず認めました。しかし、彼とヴィルヘルム・ミクラスWilhelm Miklas:1872-1952)大統領は、ヒトラーに対抗して、オーストリア独立の可否を問う国民投票を実施すると公表しました。「独立」という尊厳ある標語を使えば、オーストリア独立、すなわち合併反対が採決されると皆が予測したのです。

 ヒトラーは、大いにあわてて、国民投票前にオーストリアに進撃する事を決め、ドイツ軍に準備をさせました。実はドイツ参謀本部は、オーストリア侵攻計画を持っていなかったのです。しかし、オーストリアのハプスブルク家元皇太子オットーの復辟(退位した君主が再び王位につく王政復古)を予期しこれを妨害する軍事計画「オットー」を活用して、急遽、オーストリア侵攻計画を立案しました。

 ヒトラーは,国民投票を中止しなければ、武力進駐するとオーストリア首相クルト・アロイス・シュシュニックKurt Alois Schuschnigg)を恫喝しました。そうなれば、無益な流血事件が起きる、オーストリアを混乱の淵に陥れるとの脅しに、オーストリア首相クルト・シュシュニックKurt Schuschnigg)は、1938年3月10日、断腸の思いで国民投票を中止しました。しかし、ヒトラーはそれでは満足せず、シュシュニックが首相を辞任し、内務大臣アルトゥル・ザイス=インクヴァルトArthur Seyss-Inquart)を首相に昇格させることを強く求めました。相手が譲歩すれば、さらに大きな要求を突き付けるのがヒトラーの外交です。

オーストリア内務大臣アルトゥル・ザイス=インクヴァルトArthur Seyss-Inquart)は、警察を支配し、ナチス勢力の騒擾的な倒閣運動を鎮圧しなませんでした。オーストリアは、内戦さながらの混乱に陥ってしまうとの不安が漂ったからです。そこで、ヒトラーは、この混乱を沈めるという理由をでっち上げて、オーストリアの新内務大臣に、ドイツ軍の派兵による治安維持を要求させました。1938年3月12日のドイツ軍進駐は、事実上、オーストリアの占領です。ここで、ヒトラーは、大歓迎でオーストリアに迎え入れらたことで、勝利を確信し、1938年3月13日、ザイス=インクヴァルトとの取り決めによって、ドイツへのオーストリア併合、Anschluss)を宣言しました。ドイツとオーストリアの合併は、ベルサイユ条約で禁止されていたことでした。

1938年初頭,ドイツは,オーストリアのナチス勢力を使って,オーストリアを暴力で混乱させ、ドイツとの合併を企図します。そこで、1938年2月12日、ヒトラーはオーストリアの独立について話し合うとの名目で、オーストリアのクルト・アロイス・シュシュニックKurt Alois Schuschnigg:1897-1977)首相を、ヒトラーの巨大な山荘ベルヒテスガーデンに呼びつけました。そして、オーストリア・ナチ党の活動を認め、その指導者アルトゥル・ザイス=インクヴァルトArthur Seyss-Inquart:1892-1946)を内務大臣に就任させるように迫りました。

首相もオーストリア大統領ヴィルヘルム・ミクラスWilhelm Miklas)もオーストリア・ナチスの勢力の政権参与を拒否しましたが、ドイツ軍の武力進駐の脅しに、シュシュニク首相はその要求をやむを得ず認めてしまいます。しかし、彼とヴィルヘルム・ミクラスWilhelm Miklas:1872-1952)大統領は、ヒトラーに対抗して、オーストリア独立の可否を問う国民投票を実施すると公表し裏をかきます。「独立」という尊厳ある標語を使えば、オーストリア独立、すなわち合併反対が採決されると皆が予測できたのです。

 ヒトラーは、大いにあわてて、国民投票前にオーストリアに進撃する事を決め、ドイツ軍に準備をさせますが、ドイツ参謀本部は、オーストリア侵攻計画を持っていませんでした。しかし、オーストリアのハプスブルク家元皇太子オットーの復辟(退位した君主が再び王位につく王政復古)を予期しこれを妨害する軍事計画「オットー」を活用して、急遽、オーストリア侵攻計画を立案します。

 ヒトラーは,国民投票を中止しなければ、武力進駐するとオーストリア首相クルト・アロイス・シュシュニックKurt Alois Schuschnigg)を恫喝しました。そうなれば、無益な流血事件が起きる、オーストリアを混乱の淵に陥れるとの脅しに、オーストリア首相クルト・シュシュニックKurt Schuschnigg)は、1938年3月10日、国民投票を中止します。
しかし、ヒトラーはそれでは満足せず、シュシュニックが首相を辞任し内務大臣アルトゥル・ザイス=インクヴァルトArthur Seyss-Inquart)を首相に昇格させることを求めました。

オーストリア内務大臣アルトゥル・ザイス=インクヴァルトArthur Seyss-Inquart)は、警察を支配することで、ナチス勢力の騒擾的な倒閣運動を鎮圧しませんでした。オーストリアは、内戦さながらの混乱におちいるかのような不安が漂い、ヒトラーは、この混乱を沈めるためという理由で、オーストリアの新内務大臣に、ドイツ軍の派兵による治安維持を要求させます。1938年3月12日、ドイツ軍進駐は、事実上、オーストリアの占領でしたが、オーストリア出身のヒトラーは、大歓迎でオーストリアに迎え入れらたことで、勝利を確信し、1938年3月13日、ザイス=インクヴァルトとの取り決めによって、ドイツへのオーストリア併合、Anschluss)を一方的に宣言しました。

1938年4月10日、アンシュルスAnschluss)によるオーストリアのドイツ併合の可否に関する国民投票の結果が報じられ、99%以上の支持を得たと投票結果が発表されました。そして、ハプスブルク王朝に引き継がれていた神聖ローマ帝国の皇帝標章(冠,笏など)をドイツに返還させ,1938年9月6日に開催されたニュルンベルクのナチ党大会を「ドイツ大会」と称して,ヒトラーはドイツ第三帝国の復活を宣言,帝国は千年続くと大見得をきります。

◆ヒトラーは,軍の統帥権を一手に把握し,誰も介入することをできなくしたのです。ヒトラー総統は,自分以外,軍高官の承認を得ることなく,作戦から軍備まで,決定できるようになったことで、戦争を始めることが可能となりました。

1938年,陸軍総司令官フリッチュ、国防大臣ブロンベルク、これに続く陸軍参謀総長ベック上級大将の追放によって、ヒトラーは国防軍最高幹部の勢力を抑制し、自らの最高司令官としての権威を高めた。国防省が解体され、陸軍総司令官の地位がヒトラー次第になったことで、国防軍の最高指揮権、統帥権は、ヒトラーが完全に掌握するようになりました。ヒトラーは、国防軍最高幹部の将軍たちの顔色を伺いながら、戦争の準備をするのではなく、自らの戦争準備を遂行するように命令を下せるようになったのです。


ヒトラーは国防軍と並んで,自分の護衛部隊として育成してきた親衛隊を,国防軍に次ぐ第二の軍事組織に拡張してゆきます。大戦直前,親衛隊は,軍と並ぶ第一線戦闘部隊も編成し,その後,武装親衛隊として,陸海空三軍に次ぐ軍隊となります。SSの特徴は,ナチズムを信奉するヒトラー直属の政治的兵士であることです。SSには,最終的に30万人の警察,各々4万人の強制収容所看守とゲシュタポ,90万人の武装親衛隊が所属したといわれます。こうして,ヒトラーは,国防軍の権威も失墜させていったのです。


4.オーストリア併合アンシュルス後のユダヤ人迫害

ヒトラー総統は,大ドイツ「グロス・ドイッチュラント」の復興を企図します。アーリア人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指すヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(Volksdeutsche:民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなし,オーストリア,次いでチェコのズテーテン,さらにポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域が,ドイツに併合されるべきだと次々に主張しました。

写真(右)1938年3月,オーストリア、アンシュルス(併合)のためにウィーンに進駐したドイツ軍の四輪軽装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 6-Rad)
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-1987-0922-503 Archive title: Österreich, Wien.- Einmarsch deutscher Truppen, jubelnde Menschen mit Hitlergruss vor Warenhaus Leitner, auf der Straße Panzer-spähfahrzeuge (Sd.Kfz. 221) Dating: März 1938.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 183-1987-0922-503"引用。

1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニク(Kurt von Schuschnigg)墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチ党首だったオーストリア人ザイス=インクワルト(Arthur Seyss-Inquart)を内務大臣に任命させました。

写真(右)1938年3月13日,オーストリア・アンシュルス("Anschluss", 併合)のためにドイツ=オーストリア国境パッサウを通過するドイツ軍の四輪軽装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 6-Rad)
Inventory: Bild 137 - Deutsches Ausland-Institut Signature: Bild 137-049270 Original title: info Ober-Österreich: motorisierte Truppen auf der Fahrt zwischen Schärding und Passau 13.3.1938
Archive title: Österreich.- "Anschluss", Grenze Ober-Österreich. Motorisierte deutsche Truppen überqueren die Grenze, Zollstation Schärding. Panzerspähwagen Sd.Kfz. 222 bei der Durchfahrt durch ein Tor Dating: 13. März 1938.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 137-049270"引用。


シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせようとします。しかし、ナチスは、国民投票の結果、オーストリア独立が採決されると危惧して、選挙を巡る国内内紛を起こします。これは、国民投票を妨害する意図から出たもので、これの騒ぎを誇張したヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐しました。

1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けました。これが第二次大戦後のニュルンベルク戦犯裁判で、ホスバッハ大佐の記録からはんめいしました。この「ホスバッハ会議」でブロンベルクとフリッチュは,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対しました。そこで,弱腰とみられたに将軍は、フレームアップされたスキャンダル事件によって失脚,更迭されてしまいます。

1938年2月、ヒトラー総統は、オーストリアに派遣していた前首相パーペンの進言を受け入れて、オーストリアのシュシュニク首相とベルヒテス・ガーデンで会談し,オーストリア・ナチ党首ザイス・インクワルトを内相に任命するよう強要します。

 1938年2月、ヒトラー総統はオーストリアのシュシュニク首相とベルヒテス・ガーデンで会談し,オーストリア・ナチ党首ザイス・インクワルトを内相に任命するよう強要しました。シュシュニク首相は,これを拒もうと、ドイツ合併に絡めて、オーストリアの独立を問う国民投票にかけようとします。「独立」が選択されるのは必至とみたヒトラーは武力攻撃すると脅迫し,1938年3月,インクワルトを首相とし,ドイツ軍の進駐を要請させます。ヒトラー総統は,3月10日、ドイツ軍のオーストリア進駐を命じ,3月12日,アンシュルスアンシュルス(Anschluß/Anschluss)が宣言されました。ヒトラーは,オーストリアを強奪したり,無理やりドイツに併合したりしたのではなく,オーストリア国民による大ドイツ復興の総意に基づいて,オーストリアを併合したとの建前をとったのです。

写真(右) 1938年3月16日,ベルリン,併合したオーストリアから首都に帰ってきて総統官邸バルコニーで市民の歓呼に応えるヒトラー総統とゲーリング空軍大臣:水曜日の午後,、首都ベルリンでは,大群衆が情熱的に,統一ドイツの国家指導者ヒトラーとゲーリングを迎えた。「百万の同胞のために歓呼して彼を迎える」観衆に,オールトリア併合の旅から意気揚々と引き上げて来て,ヴィルヘルム広場(Wilhelmsplatz)に現れた。
Die Reichshauptstadt Berlin empfing am Mittwochnachmittag den Führer der geeinten deutschen Nation mit einer überwältigenden Begeisterung. Millionen Volksgenossen säumten den Weg, den der Führer nahm, um ihn mit ihren Jubelrufen zu begrüßen.
Nach der Triumphfahrt durch das Spalier der Millionen mußte sich dann der Führer und Reichskanzler im Laufe des Abends immer wieder den jubelnden Hunderttausenden auf dem Wilhelmplatz zeigen, die ihm und seinem Generalfeldmarschall begeisterte Dankeskundgebungen bereiteten. Scherl Bilderdienst 16.3.38
Archivtitel: Berlin.- Adolf Hitler und Hermann Göring auf Balkon der Reichskanzlei nach der Rückkehr aus Österreich Datierung: 16. März 1938 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl
写真は、ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)

「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国Großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。
 私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルクOstmark(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」


GERMANY INVADES AUSTRIA WORLD WAR II NEWSREEL ANSCHLUSS 70792

写真(右)1938年3月,オーストリア、ウィーン、ドイツによるオーストリア共和国の併合(アンシュルス)によってドイツ空軍に編入された元オーストリア空軍を閲兵するドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)元帥、後方には、元オーストリア防空大臣アレクサンダー・レーア少将、ドイツ空軍フーゴ・シュペルレ少将(右):ヘルマン・ゲーリングは、1935年5月21日、空軍大将 (General der Flieger)の階級が与えられ、その後、1936年4月20日、上級大将 (Generaloberst)、1938年2月4日、元帥 (Generalfeldmarschall)、1940年7月、フランスを降伏後、国家元帥 (Reichsmarschall)に叙されている。
Inventory:Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-H04020 Old signature: Bild 146-1986-086-28
Original title: info Generalfeldmarschall Göring in Wien
Der Generalfeldmarschall schreitet nach Eintreffen auf dem Flugplatz Aspern die Front der Ehrenkompagnie der oesterreichischen Luftwaffe ab. Phot Wag
Archive title: Österreich, Wien.- Besuch von Generalfeldmarschall Hermann Göring bei der österreichischen Luftwaffe. Von links: General Alexander Löhr, General Hugo Sperrle, Generalfeldmarschall Hermann Göring Dating: März 1938
Photographer: Wagner Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1938年3月13日のオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,実は、それまでドイツのオーストリア併合に反対していたイタリアのムッソリーニの理解を得て,可能になったのです。

ナチス・ドイツのユダヤ人差別には,突撃隊・親衛隊による辱めだけではなく,法律。規則の上でも,人権が制限され,迫害が開始されます。反ユダヤ法としては,1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の結婚制限)制定,11月,ユダヤ人選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続きました。

ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止しました。ユダヤ人を孤立させ,ユダヤ人を差別・迫害しやすくした措置でした。

写真(右)1938年3月,ドイツのオーストリア併合(アンシュルス)によって,親衛隊によって登録を強いられ、迫害されるウィーンのユダヤ人
Juden-Razzia in Wien im israelitischen Gemeindehaus. März 1938 Archive title: Österreich, Wien.- Razzia der SS in der israelitischen Gemeinde (Gemeindehaus) Dating: März 1938 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆ユダヤ人問題は,宗教の問題でも国籍の問題でもない。「ユダヤ人」はキリスト教徒に改宗しても,ドイツ軍兵士として第一次大戦に出征しても、迫害されています。宗教差別と人種民族差別の境界は,多くの場合,恣意的ですし、厳格に区分することなど不可能な人種・民族を現状批判や問題の原因追究のために、為政者に都合の良いように「ユダヤ人」を定義し,特定の人種民族を差別,迫害したのです。

1939年5月23日,ベルリンの帝国官房(総統官邸)で,三軍総司令官が出席した会議で,ヒトラー総統は,「適当な機会があり次第,ポーランドを攻撃する」ことを宣言しています。こうして,戦争準備を始めるヒトラーですが,ドイツ国防軍,陸軍の兵力はどの程度だったのでしょうか。

ヒトラーは,共産主義者・国際金融界の劣等人種ユダヤ人が,第一次大戦を敗北させたとして,犯罪者と決め付けており,世界大戦で,ドイツの敵となる劣等人種・ボリシェビキのユダヤ人を抹殺することを決意しています。したがって,戦争を前提に軍事を整えたのですが,その兵力は,「強大」というほどではなかったのです。

「ひとつの民族,ひとつの国家,一人の総統」を主張して,オーストリアをドイツに組み込んだのはヒトラーです。オーストリアのブラウナウで生まれ,リンツに育ったアドルフ・ヒトラーにとって,オーストリア併合Anschluß/Anschluss:union アンシュルス)は悲願でした。併合直後のドイツ国会,オーストリアのヒトラー総統の演説は,ナチスの下での大ドイツ再興を連想させる大演説,プロパガンダでした。

写真(左)1938年3月,ナチスドイツのオーストリア併合(アンシュルス)によって,追い立てられるウィーンのユダヤ人:ユダヤ人老紳士を捕まえて得意満面の兵士たち。弱いものいじめではなく,ドイツの敵を捕らえたという感覚があっただろう。
オーストリアを併合したヒトラー総統は,ハプスブルク家の皇帝標章をニュルンベルク党大会(第一回ドイツ大会)に持ち込んで,第三帝国の成立を宣言した。ナチス支配下のオーストリアでもユダヤ人迫害が始まった。
Juden-Razzia in Wien im israelitischen Gemeindehaus. März 1938
Archive title: Österreich, Wien.- Razzia der SS in der israelitischen Gemeinde (Gemeindehaus) Dating: März 1938
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_152-65-04引用(他引用不許可)。


アンシュルス後,ナチス・ドイツの行われていたユダヤ人への組織的な迫害が,オーストリアでも開始されます。ドイツ支配地域では,ユダヤ人はドイツ人を人種汚染する,ドイツに戦争を仕掛けてくる,共産主義者で社会不安を引き起こす,金融・メディアを支配して世論を煽動する,このようなプロパガンダによって,迫害されてゆきます。

ナチス・ドイツのユダヤ人差別には,突撃隊・親衛隊による辱めだけではなく,法律。規則の上でも,人権が制限され,迫害がなされました。反ユダヤ法としては,1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の結婚制限)制定,11月,ユダヤ人選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いています。

ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止しました。ユダヤ人が定義して,ユダヤ人を差別・迫害しやすくしたのです。

◆ユダヤ人は,宗教問題だと考えることもできません。キリスト教徒に改宗しても,ユダヤ人とされ迫害されたからです。宗教差別と人種民族差別の境界は,多くの場合,恣意的なのです。もともと厳格に区分することなど不可能な人種・民族を為政者に都合よく定義し,特定の人種民族を差別,迫害したのです。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分といわれます。けれども,実際には,人種も民族も,厳格な区分は,できません。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,身長,肌の色,目の色,鼻の形,髪の毛の質・色,肢体のバランス,足の形まで,さらには性格にしても,個人差は著しく大きいのです。

◆人種相互あるいは民族相互の境界は恣意的なのは,人種民族差別が,為政者の裁量を基準に行われ,似非科学な偏見,錯覚,プロパガンダに基づいているかです。

近隣諸国に軍事的脅威を与えることで,ヒトラーは,ドイツの領土を拡張してゆきます。この時ヒトラーが,隣接した地域をドイツに併合すべきだと主張したに根拠は,隣接した地域にドイツ系住民(Volksdeutsche:民族ドイツ人)が住んでいる,このドイツ系住民が虐待されているという理由でした。ヒトラー自身,大ドイツの復活を,政権獲得前から主張していますが,このころは,962年の神聖ローマ帝国(1404年のオーストリア・ハプスブルク帝国に継承),1971年のドイツ帝国を継承するドイツ第三帝国Drittes Reich)の構想が出てきます。

1938年3月,ドイツが,オーストリアのナチス勢力を使って,オーストリアを併合の要求を出させ,武力進駐してオーストリアを併合します。これをアンシュルス(Anschluss)と呼びましたが,この時,ハプスブルク王朝に引き継がれていた神聖ローマ帝国の皇帝標章(冠,笏など)をドイツに返還させ,ニュルンベルクのナチ党大会をドイツ大会と称して,ドイツ第三帝国の復活を宣言,帝国は千年続くと大見得を切ります。

ニュルンベルク党大会では夜間集会では,シュペーアの演出によって,サーチライトの光の波がはるか上空まで何十本もドイツの天空を照らし出した。ヒトラー総統は,ドイツの栄光を回復するまで軍服を脱がず,総統の地位にとどまると公言したが,実際,1945年5月にベルリンの地下壕で自決するまでその職にあった。

◆ナチスの第三帝国(Drittes Reich)を「第三帝国」と訳すのは適切ではないという人もいます。皇帝・皇族が世襲するのが帝国であれば,党首が大統領・軍総司令を兼ねても「独裁国家」に過ぎず,帝国ではありません。しかし,歴史的使命感を妄信するヒトラー総統は,共和国ではなく,神聖ローマ帝国,ハプスブルク王朝,ドイツ帝国を引き継ぐ正統な「第三の帝国」にこだわったのです。

写真(右)1938年3月,オーストリア、ウィーン,ユダヤ人教会区を捜索する親衛隊SS:ユダヤ人コミュニティは教区を中心にしていたので,ここのユダヤ人登録や名簿を利用して,ユダヤ人を特定,拘束した。立派なテーブルに,油彩の肖像画が壁にかかっている。
オーストリアにおけるユダヤ人迫害は,ナチス・ドイツがオーストリアを併合した1938年からすぐに開始された。
Österreich, Wien.- Razzia der SS in der israelitischen Gemeinde (Gemeindehaus).- vrnl: SS-Mann, SS-Untersturmführer und Gemeindemitglied an Tisch, Ölgemälde (Porträts) an der Wand Datierung: März 1938 Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,そのために140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝の王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣が,ニュルンベルクに運び込まれました。

「四種のハプスブルク皇帝標章(四種の神器)」は,1848年,二月革命の最中,フランクフルト国民議会で廃止されたものです。

神聖ローマ帝国を引き継ぐ皇帝の象徴は,剣、宝珠、笏、王冠であり,それをつけた「双頭の鷲」が,ハプスブルク帝国の国章でした。ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地のニュルンベルクに永遠に留まると誓約します。

ヒトラーは,栄光ある大ドイツの復活を宣言しますが,同時に,ドイツ国内,併合したオーストリアのユダヤ人への迫害もすぐに始めます。ドイツ帝国にはないナチスの人種民族差別を採用しておきながら,第三帝国だの,栄光あるドイツの復興だの,伝統に見せかけたエセ歴史学を展開したのが,ナチスでした。


Pogromnacht 9. November 1938 (ZDF History)

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言してます。
1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言しています。

写真(右),1942年,オーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所に裸で整列させられた収容所囚人たち:体力が衰弱して労働不能と判定されれば,医薬品もない病棟送りにされ,食事も摂れなくなったり,収容所棟で放置され起きられなくなる「ムーゼルマン」となったり,死ぬにまかせられた。裸で整列させた目的は,辱めると同時に,同道可能かどうかを判定する検査だったと思われる。
Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Jugendliche auf dem Appellplatz im Lager Mauthausen, 1942 Dating: 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


大ドイツ,ドイツ第三帝国のユダヤ人迫害は,過激な表現ではなく,ヒトラーの本心です。オーストリア併合によって,オーストリア・ユダヤ人に対する迫害が急速に始まりました。

親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーは、1933年,ナチス政権の警察を支配し,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク,ダッハウに設置,親衛隊髑髏部隊に管理させています。これは,反ナチス的な人物のための「保護拘禁施設」だったが,後の強制収容所,絶滅収容所へと発展しました。

写真(右)1936-1940年,オーストリア、リンツ郊外に設置されたマウトハウゼン強制収容所の練兵場。若い受刑者が芸をさせられている。:オーストリア政府のMauthausen-Memorial公式ページには「終戦間際の数ヶ月間は、このマウトハウゼン強制収容所の定員人数をはるかに上回る囚人の収容や日に日に悪化する食料不足などにより、収容所の状態は悲惨なものとなりました。多くの囚人たちが解放後拘留中に損なった健康がもとで野戦病院で亡くなり、収容所を生き延びた人たちも、その後彼らの人生の大きな部分を失ったことに対していまだに癒えない心の傷と戦っているのです。」とある。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Jugendliche Häftlinge am Appellplatz des KZ Mauthausen Datierung: 1939/1944 ca. Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1938年4月,ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々出され,財産の登録義務を課し、登録証発行料を徴収するようになります。強制収容所も増設された。1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置されました。1938年6月15日,ユダヤ人1500名が強制収容所に送られています。

第二次大戦中,ポーランド総督ハンス・フランク博士は,戦後,自分自身を含めて「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのでだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」と書いています。(ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー 4 奈落の底へ』122-123頁)


5.1938年のズテーテン危機

ヒトラーは,1938年に国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク大将を、スキャンダル事件をフレームアップして追い出し,国防省を解体してしまいます。そして,国防軍最高司令部(OKW:Oberkommando der Wehrmacht)を設けて,伝統的に軍を支配していた参謀本部の勢力を低下させました。この契機となったのが,ズテーテン危機,ミュンヘン会談です。

◆ヒトラーは,軍の統帥権を一手に把握し,誰も介入することをできなくしたのです。ヒトラー総統は,自分以外,軍高官の承認を得ることなく,作戦から軍備まで,決定できるようになったことで、戦争を始めることが可能となりました。

1938年,陸軍総司令官フリッチュ、国防大臣ブロンベルク、これに続く陸軍参謀総長ベック上級大将の追放によって、ヒトラーは国防軍最高幹部の勢力を抑制し、自らの最高司令官としての権威を高めます。国防省が解体され、陸軍総司令官の地位がヒトラー次第になったことで、国防軍の最高指揮権、統帥権は、ヒトラーが完全に掌握するようになったのです。ヒトラーは、国防軍最高幹部の将軍たちの顔色を伺いながら、戦争の準備をするのではなく、自らの戦争準備を遂行するように命令を下せるようになりました。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,軍事力を機械化部隊の整備,新型火砲の配備,地上攻撃用航空部隊の編成を行って近代化します。それを背景にして,ラインラント進駐,オーストリア併合,ズテーテンラント(Sudetenland)割譲と領土要求を次々と呑ませてゆきます。英仏二国の軍とは互角以下でしたが,近隣のオーストリア,チェコスロバキア,ベルギー,オランダと比較するれば,強力な軍備を整えたのです。

チェコスロバキアCzechoslovakia)は,多民族国家で,民族ドイツ人300万名が居住していました。ヒトラーは,民族ドイツ人の多いズデーテンラントSudetenlandは,ドイツ領に編入されるべきことを主張します。

ドイツは,チェコスロバキア(Czechoslovakia)のズテーテンラントをドイツに割譲するように強硬に要求を続けました。チェコスロバキアは不当な領土割譲要求を拒否し,ドイツの恫喝に屈せず,1938年9月23日,動員令でこたえました。チェコスロバキアとの同盟関係にあったのは,フランス(1924年),ソ連(1935年)でしたから,ドイツの領土要求は,第二次世界大戦に発展する可能性があったのです。

チェコスロバキアは,ドイツ軍を迎え撃つために,総動員を開始したのですが,ドイツは,ズデーテンラントを即時引き渡すことを求め,9月28日までにチェコスロバキア軍をズテーテンラントから撤退させることまで,要求します。これは,ドイツからチェコスロバキアへの最後通牒です。

1938年9月24日,チェコスロバキアと同盟を結んでいたフランス首相エドアール・ダラディエEdouard Daladier:1884-1970)は,チェコスロバキア支援のために,動員令を発します。イギリス首相アーサー・ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain)もフランスに加勢することになるのではないかと,1938年9月,第二次世界大戦の危機にヨーロッパ中が慄いたのです。


6.1938年9月,ミュンヘン会談

写真(右)1938年9月15日,ベルヒテスガーテン会談のため,空路やってきた大英帝国アーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)首相を出迎えるドイツ帝国外務大臣アヒム・フォン・リンベントロップ:左から親衛隊の黒服のフォン・エバスタイン男爵,英首相チェンバレン,外務大臣リッベントロップ,ミュンヘン警察署長カール・フェイラー
:9月15日のベルヒテスガーテンにおけるヒトラーとチェンバレンのズテーテン帰属問題の話し合いは,ミュンヘン会談に引き継がれた。ここではドイツ、英国、フランス、イタリアとの間で交渉がされたが,チェコスロバキアはよばれなかった。
リンベントロップは,英国大使を務めたこともある。
アーサー・ネヴィル・チェンバレンArthur Neville ChamberlainMarch 18, 1869−November 9, 1940)は,下院議員,厚生大臣,大蔵大臣など要職を経て,1937年,保守党首となり,英首相に就任。
Zentralbild Die Verhandlungen zwischen Deutschland, Großbritannien, Frankreich und Italien über die Sudetendeutsche Frage und die Tschechoslowakei.
UBz.: Der britische Ministerpräsident Neville Chamberlain wird am 15.9.1938 auf dem Flughafen [Oberwiesenfeld bei München zum Gespräch auf dem Obersalzberg] empfangen. V.l.n.r.: SS-Obergruppenführer Frhr. von Eberstein, Polizeipräsident von München, Neville Chamberlain, Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop, dahinter Reichsleiter Karl Fiehler [Oberbürgermeister von München]. 12205-38[Scherl Bilderdienst]
Datierung: 15. September 1938 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl Quelle: Bundesarchivs
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivs登録・引用(他引用不許可)。


ズテーテン危機によって,独仏戦争を誘発することを恐れたフランス首相エドゥアール・ダラディエは,イギリス首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain:1869/3-1940/11)に対して,英独仏を含む首脳会談を開くことを提案し,チェンバレンは,1938年9月15日,ベルヒテスガーデンに飛び,ヒトラーとズテーテン危機について話し合いました。

当時のイギリス首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)は,戦争回避を望む世論を重んじ,同時に,軍事力を強化するドイツを,ソ連ボリシェビキに対抗させるために利用しようとします。実際には,チェンバレンの下で,英空軍の四発重爆撃機が開発,量産準備中でした。イギリスは,軍事力強化の時間稼ぎをするために,対ドイツ宥和政策を採用してでも,戦争を回避あるいは先延ばしにしようと考えます。

写真(右)1938年9月15日,ベルヒテスガーテン会談のため,空路やってきた大英帝国アーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)首相と出迎えたドイツ帝国外務大臣アヒム・フォン・リンベントロップ:左から親衛隊の黒服のフォン・エバスタイン男爵,英首相チェンバレン,外務大臣リッベントロップ,ミュンヘン警察署長カール・フェイラー。
チェンバレンは,下院議員,厚生大臣,大蔵大臣など要職を経て,1937年,保守党首となり,英首相に就任。9月15日のベルヒテスガーテンにおけるヒトラーとチェンバレンのズテーテン帰属問題の話し合いは,ミュンヘン会談に引き継がれたものの、当事国のチェコスロバキアは無視された。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-H27146 Original title: info Zentralbild
Die Verhandlungen zwischen Deutschland, Großbritannien, Frankreich und Italien über die Sudetendeutsche Frage und die Tschechoslowakei. UBz.: Der britische Ministerpräsident Neville Chamberlain wird am 15.9.1938 auf dem Flughafen [Oberwiesenfeld bei München zum Gespräch auf dem Obersalzberg] empfangen. V.l.n.r.: SS-Obergruppenführer Frhr. von Eberstein, Polizeipräsident von München, Neville Chamberlain, Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop, dahinter Reichsleiter Karl Fiehler [Oberbürgermeister von München].
12205-38 [Scherl Bilderdienst] Dating: 15. September 1938
Photographer: o.Ang. Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivs登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1938年9月22日,ミュンヘン会談に臨むためミュンヘン空港に到着したイギリスのアーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)首相とエドワード・ウッド (ハリファックス伯爵:Edward Wood;Earl of Halifax)外務大臣(中央正面)を出迎えたドイツ帝国外務大臣アヒム・フォン・リンベントロップ(左後ろ向き):チェンバレンは双発ロッキード L-14 スーパーエレクトラ輸送機(Lockheed L-14 Super Electra)に乗ってミュンヘンにやってきた。
ロッキード L-14 スーパーエレクトラ輸送機は、アメリカのロッキード社が開発し1937年7月初飛行した。イギリス軍はこの輸送機を哨戒爆撃機ハドソンとして採用しているが、アメリカ軍も軍用輸送機としては採用していない。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-H12701 Original title: info Zentralbild / Archiv Der zweite Besuch des britischen Ministerpräsidenten Chamberlain in Deutschland zu den Vorverhandlungen zum Münchener Abkommen, das die Annexion der Tschecheslowakai besiegeln sollte.
UBz: Reichsaussenminister Joachim von Ribbentrop begrüßt am 22.9.1938 den englischen Gast auf dem Kölner Flughafen um ihn nach Godesberg zu begleiten.
12571-38 [Scherl Bilderdienst] Archive title: Köln, Flughafen.- Begrüßung von Neville Chamberlain durch Joachim v. Ribbentrop vor Flugzeug Dating: 22. September 1938 Photographer: o.Ang.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivs登録・引用(他引用不許可)。


ここで,イギリス首相ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain)は,英仏独の首脳会談の約束を取り付け,ヒトラーも首脳会談開催まで,チェコへの武力進駐は行わないと約束します。

こうして,英独の話し合いの結果,チェコスロバキアにズテーテンラントをドイツに割譲させるという犠牲の下で,世界戦争を回避する方針が決まりました。
1938年9月18日,ロンドンで,ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)英首相とダラディエ仏首相とが協議,英仏ともに,ドイツのズテーテンラント併合を認めるようチェコスロバキアに要請し,早期に世界戦争を始めるのを避けることに合意します。

写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘン中央駅、ミュンヘン会談に臨む独伊代表、左から、プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)空軍総司令官イタリア首相ベニート・ムッソリーニ、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano):右から、外務大臣ウルリヒ・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Ulrich Joachim von Ribbentrop)、ヒトラーの副官ユリウス・シャウプ(Julius Schaub)
29.09.1938: Hitler + Mussolini treffen in München ein. lks. Göring, rechts Graf Ciano München.- Hermann Göring, Benito Mussolini, Adolf Hitler und Graf Galeazzo Ciano ( v.l.) beim Verlassen des Hauptbahnhofs, 2.Reihe, rechts hinter Hitler: Heinrich Himmler
Depicted people Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien Ciano, Galeazzo Graf: Außenminister, Italien (GND 119178362)
Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938 Photographer Unknown wikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051622-0023引用。


1938年9月19日,プラハ駐在の英仏大使は,チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュのところに出向き,ズデーテンラントのドイツ割譲を勧告する本国指令を伝達しました。

主権を侵害されたチェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュEdvard Beneš:1884-1448)は,怒り,落胆してズテーテン割譲勧告を拒否します。けれども,勧告が受諾されない場合,イギリスは,チェコスロバキアの運命に関連しない,とのチェンバレンの圧力がかけら,9月21日、ベネシュは勧告受諾声明を発表しました。

写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘンの中央通りをミュンヘン会談に向かうイタリア首相ベニート・ムッソリーニと話すアドルフ・ヒトラー首相、左からプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)空軍総司令官、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano):通りには儀仗兵と衛兵が配置され、警備している。
Scherl: Historische Stunden in München Heute begannen in München die Besprechungen des Führers mit den führenden Staatsmännern Europas über das Schicksal des sudetendeutschen Landes.
UBz: den Führer und der italienische Regierungschef Benito Mussolini kurz nach dem Verlassen des Münchener Hauptbahnhofs. Hinter dem Führer der italienische Aussenminister Graf Ciano und Generalfeldmarschall Hermann Göring. 29.9.1938 12861-38
Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 146-1976-033-06引用。


写真(右),1938年9月29日,ミュンヘン空港,フランス共和国エトワール・ダラディ(Edouard Daladier)首相による親衛隊SS儀仗兵の閲兵:正面、帽子を手にしたドイツ帝国リンベントロップ外相が、中央の黒服のフランス首相ダラディエを出迎えた。右の突撃隊の服装を着ているのはガウライター(大党管区長)のアドルフ・ワーグナー(Adolf Wagner)。 後方には、ダラディエを運んだエールフランスDC-3輸送機が見える。DC-3は、アメリカのダグラス社が開発し1936年から就航している大型輸送機で、大戦の勃発する1939年までに、600機が生産された。日本を含め世界各国が採用したのは、輸送力が大きい割に取り扱いが容易で、旅客運賃による収益向上が可能になったためである。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-H12946
Original title: info Historische Stunden in München. Die Landung des französischen Ministerpräsidenten Daladier auf dem Münchener Flughafen Oberwiesenfeld. von links nach rechts: Reichsaussenminster v. Ribbentrop, Ministerpräsident Daladier, Gauleiter Adolf Wagner, Oberbürgermeister Fiehler.
29.9.38 12861-38 [Scherl Bilderdienst] [2. Text:] ADN-ZB/Archiv
Unterzeichnung des Münchener Abkommens am 29.9.1938, Empfang des französischen Ministerpräsidenten Daladier (2.v.l.) durch den deutschen Außenminister von Ribbentrop (1.v.l., den Oberbürgermeister von München, Fiehler (4.v.l.) und den Gauleiter der NSDAP Adolf Wagner (3.v.l.) auf dem Flughafen Oberwiesenfeld. 12861-38
Dating: 29. September 1938 Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右),1938年9月30日,ミュンヘン空港,フランス共和国エトワール・ダラディ(Edouard Daladier)首相による親衛隊SS儀仗兵の閲兵:左端にいるドイツ帝国リンゲントロップ外相が出迎えた。左中央の黒服は,警察署長 [カール・フリードリヒ・フォンエバスタイン男爵。
黒服は,ドイツ国防軍の将兵ではなく,親衛隊SSのもの(ただし戦車兵は黒服)。外交官など官僚も親衛隊に形式上,入隊する場合が多かった。リンベントロップもナチ党員かつ親衛隊将官だった。
Münchener Konferenz vom 29. September 1938: Der französische Ministerpräsidet [Edouard] Daladier schreitet vor seinem Abflug vom Flughafen Oberwiesenthal die Front der Ehrenkompanie der SS-Standarte "Deutschland" ab. Ganz links Reichsaussenminister [Joachim] v. Ribbentrop, Mitte der Polizeipräsident von München, Frhr. [Friedrich Karl] v. Eberstein. 30.9.38 [Scherl Bilderdienst] Datierung: 30. September 1938
Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivs登録・Bild_183-H12974引用(他引用不許可)。


ダラディエ(Edouard Daladier)は,1933-1934年,1938-1940年にフランス首相を勤めていますが,共産党に反対し,1937年のフランス人民戦線内閣を瓦解させています。しかし,1938年9月24日,ドイツがチェコスロバキアにズデーテンラント割譲の最後通牒を突きつけると,国防大臣も経験していたダラディエは,国際的信頼関係を維持するためにも,チェコスロバキアとの相互援助条約を遵守し,フランス軍を総動員します。

ヒトラーは,ベネシュとダラディエの総動員発令を威嚇とみなしますが,ドイツ国防軍の将軍たちは,チェコスロバキアとフランス連合軍との戦闘に勝つ自信はありませんでした。第二次世界大戦が懸念される中,イタリアのムッソリーニ統領(ドゥーチェ)の斡旋で,9月29日に,ミュンヘンで英仏独伊四カ国会談が開催される運びになります。これがミュンヘン会談です。

写真(右),1938年9月29日,ドイツ、バイエルン、ミュンヘン空港,ミュンヘン会談に向かうフランス共和国エトワール・ダラディ(Edouard Daladier)首相。親衛隊SS儀仗兵の閲兵:左端はドイツ帝国リンベントロップ外相。左中央の黒服は,警察署長 [カール・フリードリヒ・フォンエバスタイン男爵。
黒服は,ドイツ国防軍の将兵ではなく,親衛隊SSのもの(ただし戦車兵は黒服)。外交官など官僚も親衛隊に形式上,入隊する場合が多かった。リンベントロップもナチ党員かつ親衛隊将官だった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-H13009 Original title: info ADN-ZB/Archiv Münchener Konferenz vom 29. September 1938: Der französische Ministerpräsidet [Edouard] Daladier schreitet vor seinem Abflug vom Flughafen Oberwiesenthal die Front der Ehrenkompanie der SS-Standarte "Deutschland" ab. Ganz links Reichsaussenminister [Joachim] v. Ribbentrop, Mitte der Polizeipräsident von München, Frhr. [Friedrich Karl] v. Eberstein. 30.9.38 [Scherl Bilderdienst] Datierung: 30. September 1938
Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-H13009引用(他引用不許可)。


ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)英首相とダラディエ仏首相のミュンヘン会談の狙いは,
1)対独宥和を進めて,ナチス・ドイツを東方のソ連ボリシェビキの防波堤として,反共陣営に活用する,
2)戦争の猶予の時間稼ぎをして,その猶予期間の間に,英仏軍を強化,拡張する,
このような二つがありました。したがって,対独宥和を戦争に恐れおののいた弱腰外交だと批判するのは正鵠を得ていません。実際,1939年9月1日にドイツのポーランド侵攻が起きるとドイツに対して宣戦布告すると,9月3日,英仏は自らドイツに宣戦布告しています。ドイツのほうから,英仏に宣戦布告したり,戦争をしかけたりしたのではありません。しかし,ヒトラーは、民主主義の英仏は弱腰外交で戦争をする覚悟ができていない、というものだったのです。

写真(右),1938年9月,ミュンヘン空港から市内に向かうフランス共和国エトワール・ダラディ(Edouard Daladier)首相とドイツ帝国外務大臣ヨアヒム・リンベントロップ:ミュンヘン会談において,フランスは,イギリスに追随したと二次的な印象しか残さなかった。しかし,西部戦線が開かれれば,ドイツの主な脅威は,フランス陸軍と海軍だった。ドイツの同盟国イタリアも,地中海を「われらの海」と読んだが,ツーロン港,タンジール港のフランス艦隊,アレクサンドリア港,ジブラルタル港,マルタ島バレッタ港の英海軍地中海艦隊に対峙しなければならなかった。
Title: Münchener Abkommen, Ankunft von Daladier Description: HIstorische Stunden in München, Bildtelegramm aus München von der Fahrt des französischen Ministerpräsidenten Daladier mit Reichsaussenminister v. Ribbentrop vom Flughafen Oberwiesenfeld nach München. 29.9.39 [Scherl BIlderdienst] ADN-ZB/Archiv
Unterzeichnung des Münchener Abkommens am 29. September 1938 Der französische Ministerpräsident Daladier (l.) und der deutsche Außenminister von Ribbentrop während der Fahrt vom Flughafen Oberwiesefeld nach München.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivs登録・Bild_183-H12948引用(他引用不許可)。


ヒトラーは,民主主義国は,安楽な生活を望む国民の重んじているために,堕落しており,世界戦争を戦う意思はなく,厭戦気分が蔓延していて,戦争に突入できないと楽観していました。ミュンヘン協定によって,ヒトラーは民主主義国の軍事的脆弱性が明らかになったと確信します。軍事力を背景に強気に交渉する,戦争で威嚇して強硬な主張をすれば,それを貫徹できると考えたのです。

写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘンの中央通りをミュンヘン会談に向かうフランス首相エドゥアール・ダラディエ(左後席)を迎えた航空大臣ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)空軍総司令官:フランス首相ダラディエ1は、1919年、急進社会党の選出の下院議員となり、1924年にエリオ内閣の植民地大臣となる。1933年に首相、1936年に急進社会党の党首となり、首相レオン・ブルム率いる人民戦線内閣の国防大臣に入閣。1938年、3度目の首相に就任、9月のミュンヘン会談に参加。
Frankreichs Ministerpräsident mit Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München.
Nach der ersten Besprechung im Führerbau in München begleitete Generalfeldmarschall Hermann Göring den franzäsischen Ministerpräsidenten Daladier im Kraftwagen zu dessen Hotel. Daladier und Göring waren Mittelpunkt lebhafter und herzlicher Kundgebungen der Tausende, die die Strassen umsäumten.
UBz.: Ministerpräsident Daladier und Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Scherl Bilderdienst, Berlin 29.9.39 Photographer Unknown
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-H12963,引用。


1938年9月29日から30日に開催されたミュンヘン会談において,英仏は,戦争回避を優先しており,それを見越したヒトラーは,ドイツ民族の再統合のためであれば,戦争を辞さない覚悟を表明し,会談をリードしました。

写真(右),1938年9月,ミュンヘン,イタリア統領(ドゥーチェ)ベニト・ムッソリーニをミュンヘン会談の会場となるカール皇太子宮殿に送迎するドイツ副総統ルドルフ・ヘス(後部座席右):ミュンヘンから画像が配信された。最初の会議へ移動するムッソリーニ(後左)。
Scherl: Bildtelegramm aus München. Der Duce begibt sich nach der ersten Besprechung begleitet von Rudolf Hess nach dem Prinz Karl-Palast, wo er Wohnung genommen hat, zurück. 29.9.1938 Datierung: 29. September 1938 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-H12954引用(他引用不許可)。


英仏独伊は,チェコスロバキアを弱小国扱いして,会談に参加させず,チェコスロバキアのズテーテンラント割譲を話し合います。ミュンヘン会談では、1938年9月29日にミュンヘン協定が署名され,ドイツ系住民(民族ドイツ人:Volksdeutsche)が住んでいたズテーテンラント割譲をチェコスロバキアに要求することになりました。

写真(右)1938年9月30日、ドイツ、ミュンヘン会談でミュンヘン協定に署名するアドルフ・ヒトラー首相、後方にイタリア首相ベニート・ムッソリーニと話すプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)空軍総司令官:右から、外務大臣ウルリヒ・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Ulrich Joachim von Ribbentrop)、ヒトラーの個人的副官ユリウス・シャウプ(Julius Schaub)
Hitler unterschreibt das Abkommen von München am 30.9.1938, v.r.n.l.: Joachim von Ribbentrop, Julius Schaub, Adolf Hitler, Benito Mussolini, Hermann Göring Depicted people Hitler, Adolf: Führer und Reichskanzler, Deutschland Schaub, Julius: SS-Gruppenführer, persönlicher Adjutant Adolf Hitlers, Deutschland Ribbentrop, Joachim von: Außenminister, NSDAP, Deutschland Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien Göring , Hermann: Ministerpräsident Preussens und Oberbefehlshaber der deutschen Luftwaffe, Deutschland Depicted place Mönchener Abkommen Date 30 September 1938 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 146-1976-033-06引用。


写真(右),1938年9月29日,ミュンヘン協定に署名するイタリア統領(ドゥーチェ)ベニト・ムッソリーニ,それを見守るドイツ外務大臣リンベントロップ(右端):原文表題では「平和のために署名。木曜日[1938年9月29日]午後遅くなって,ミュンヘンで四大国間で正義と平和のための協定が署名された」とある。ミュンヘン協定は,チェコスロバキアのズテーテンラントをめぐる世界大戦再発の危機を回避した条約として,ヨーロッパ市民に理解された。しかし、1年と経過しないうちに,チェコスロバキアはズテーテンラントを割譲しただけでなく,解体されてしまい、世界大戦が勃発することになる。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-2003-1128-500 Original title: info Scherl: Unterzeichnung fär den Frieden. In den späten Abendstunden des Donnerstag [29.9.38]wurde das Abkommen für Gerechtigkeit und Frieden zwischen den vier Mächten im Führerbau in München unterzeichnet. Der Duce unterzeichnet, rechts Aussenminister von Ribbentrop. 30-9-38 12895-38 Dating: 29. September 1938 Photographer: Hoffmann, Heinrich 撮影。 Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・Bild_183-2003-1128-500引用(他引用不許可)


チェンバレン チェンバレン ミュンヘン協定を締結できた背景には、ムッソリーニの仲介の労が大きく、ヒトラーに最大級の恩を売ったムッソリーニは、第二次大戦中もヒトラーの指示を失ったことはありません。現在では、ナチスや枢軸諸国に妥協して大失敗だったとされるミュンヘン協定ですが、1938年当時,チェコスロバキアを巡る世界大戦の再発を防止したとして、欧州各国で大歓迎されました。

ムッソリーニだけでなく、帰国したイギリス首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)も国民から大歓迎を受け、国王から直接交渉の成功を感謝されることになります。イギリス国王もミュンヘンから帰国したチェンバレンをそのまま面会に来るように要請するほどで、チェンバレンの和平の業績を讃える歌まで広まりました。ミュンヘン協定を締結させて,ヒトラーに最大級の恩を売ったムッソリーニは,チロルのイタリア帰属をヒトラーから保障されました。

英仏は,ミュンヘン会談で宥和政策を採用し,チェコスロバキアにズテーテンラントの割譲を認めさせました。ズテーテンラントの民族ドイツ人は,ドイツに併合,保護されました。

ミュンヘン協定では,チェコスロバキアの国家主権・領土保全を保障した一方で,ドイツへのズデーテンラント割譲を認めさせます。英仏のドイツへの譲歩,すなわち対独融和政策の頂点が,ミュンヘン会談といわれるゆえんです。

写真(右)1938年9月29日,ミュンヘン会談のときの,英首相チェンバレン,仏首相ダラディエ,ドイツ総統ヒトラー,イタリア統領ムッソリーニ,イタリア外相(ムッソリーニ娘婿)チアノ:チェコスロバキアの代表を呼ばないまま,ドイツへのステーテンランド割譲を,チェコスロバキアに要請することが決まった。チェコスロバキアは,英仏と同盟関係を結んでいたから,このドイツへの「宥和政策」は裏切りともいえる措置だった。
Zentralbild Das Münchner Abkommen vom 29.9.1938. Das am 29.9.1938 in München zwischen dem britischen Ministerpräsidenten Neville Chamberlain, dem französischen Ministerpräsidenten Edouard Daladier, dem italienischen Staatschef Benito Mussolini und Adolf Hitler geschlossene Abkommen ermächtigte das faschistische Deutschland zur Annexion tschechoslowakischen Gebietes. UBz: von links: Chamberlain, Daladier, Hitler, Mussolini, und der italienische Außenminister Graf Galeazzo Ciano. Im Hintergrund von Ribbentrop und von Weizsäcker. 12 766-38 [Scherl Bilderdienst] Dating: 29. September 1938 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-R69173引用(他引用不許可)。



写真(右)1938年9月30日,ミュンヘン,オープンカー車中の同盟国イタリア統領ベニート・ムッソリーニとアドルフ・ヒトラー;ミュンヘン協定を締結させて得意満面のヒトラーと,ヒトラーに最大級の恩を売ったムッソリーニの笑顔。ムッソリーニは,英仏からズテーテンラント譲渡させるのみ協力した。ミュンヘン会談は,チェコスロバキアのズテーテンラントをめぐる世界大戦再発の危機を防ごうとした和平会談として,ヨーロッパ市民に理解されていた。
この会談がミュンヘン協定が成立,ムッソリーニがドイツの味方を演じてくれたことに,ミュンヘン市民は歓呼で応えている。後に,ズテーテンラントを無血占領したヒトラー総統,それを支持したムッソリーニ統領は,ドイツ復興の英雄として大歓迎を受ける。
Münchener Abkommen.- Ankunft Benito Mussolini am 29.9.1938, Benito Mussolini und Adolf Hitler im Auto. Datierung: 28. September 1938 Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv登録・/Bild_146-1969-065-24引用(他引用不許可)。


写真(右)1938年9月30日、ドイツ、ミュンヘン、ミュンヘン会談に尽力したイタリア首相ベニート・ムッソリーニが帰国する際、花束を贈るドイツ処女団(Bund Deutscher Mädel: BDM)の隊員と見守るアドルフ・ヒトラー首相、航空省大臣ヘルマン・ゲーリング空軍総司令官
1936年のヒトラーユーゲント法によって、全てのドイツ人未成年男女がヒトラーユーゲントに参加することが強制され、女子はドイツ処女団(Bund Deutscher Mädel::BDM)に加わった。BDMは、男性優位社会の中で、家族を支える「良妻賢母」を育成すること、兵士・労働者を増やす「産めよ育てよ」を目標としている。また、戦争のための軍事訓練として、体育を養うスポーツや徒歩行軍、看護・衛生訓練、防災訓練、軍歌練習などが取り入れられた。
Der Duce nahm herzlichen Abschied von München Unmittelbar nach Beendigung der Viermächtebesprechung im Führerhaus in München, begab sich der Duce in Begleitung des Führers zum Bahnhof, um seinen Zug zur Rückfahrt nach Italien zu besteigen. Kurz vor der Abfahrt überreichte ein BDM-Mädchen dem Duce einen Blumenstrauss. Die beiden Staatsmänner verabschiedeten sich darauf in einer besonders herzlichen Weise. UBz: den Führer, Mussolini und (ganz rechts) Generalfeldmarschall Göring. Scherl Bilderdienst, Berlin 30.9.1938 Depicted place Münchener Abkommen Date 30 September 1938 Photographer Unknownwikidata:Q4233718
写真はWikimedia Commons File:Bundesarchiv Bild 183-2005-0502-502引用。



6.1939年3月,チェコスロバキア解体:チェコ併合・スロバキア独立傀儡化

写真(右)1938年9月,チェコスロバキア,ズテーテンランド併合に伴い国境標識を引き倒す民族ドイツ人(ズテーテン・ドイツ人):第二次大戦前年,ミュンヘン協定で,英仏合意の上で,チェコスロバキアの四分の一をドイツに併合することになった。ドイツ系民族(民族ドイツ人)が居住しており,彼らがチェコ人に迫害されている,というのがその理由である。
Nach der Unterzeichnung des Münchener Abkommens am 29.9.1938 durch Hitler, Daladier, Chamberlain und Mussolini okkupierte das faschistische Deutschland bedeutende Grenzgebiete der tschechoslowakischen Republik. UBz: wie Henlein-Faschisten (Angehörige der Nazipartei im Sudetenland) die Grenzpfähle an der deutsch-tschechoslowakischen Grenze in Erwartung des deutschen Einmarsches beseitigen. Archive title: Besetzung des Sudetenlands.- Entfernen eines tschechoslowakischen Grenzpfahls; ca. Ende September / Anfang Oktober 1938 Dating: 1938 September - Oktober
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1938年10月3日,チェコスロバキアのズテーテンラント侵攻の準備をするドイツ軍の六輪装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 6-Rad) :チェコスロバキアは,ドイツ軍を迎え撃つために,総動員を開始したが,ドイツは,ズデーテンラントを即時引き渡すことを求め,9月28日までにチェコスロバキア軍をズテーテンラントから撤退させることを要求しる。これは,ドイツからチェコスロバキアへの最後通牒である。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1986-042-13 Original title: info Einmarsch in das Sudetenland. Die Panzer-spähwagen voraus, überschreiten deutsche Truppen um 8.00 Uhr die Zollgrenze des tschechischen Staates. Armored cars taking the lead German troops crossed the frontier of the Czech state on the 10th of march, 1938 3.10.1938 8.00 Uhr Schirnding. Sudetenland Dating: 3. Oktober 1938.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-1986-042-13"引用。

写真(右)1938年10月3日,チェコスロバキアのズテーテンラント侵攻の準備をするドイツ軍の六輪装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 6-Rad) : 1938年9月24日,チェコスロバキアと同盟を結んでいたフランス首相エドアール・ダラディエEdouard Daladier:1884-1970)は,チェコスロバキア支援のために,動員令を発した。こうして,1938年9月,第二次世界大戦の危機にヨーロッパ中が慄いた。
Inventory: RH 82 Bild - OKH / Heeresfilmstelle.- Bildbestand Signature: Bild 146-2003-0041 Original title: info Heeres-Filmstelle. Bildabt. Einmarsch in das Sudetenland. Unmittelbar an der Reichsgrenze stehen die deutschen Panzerspähwagen bereit zum Einmarsch in das Sudetenland. German armored cars standing by the Reich frontierare waiting to enter the Sudeten. 3.10.1938, 7.30 Uhr. Schirnding. Sudetenland. Archive title: Bei Schirnding.- Besetzung des Sudetenlands, deutsche Spähpanzer (Sd.Kfz. 231 6-Rad, Sd.Kfz. 232 und Sd.Kfz. 222 ?) auf Straße Dating: 3. Oktober 1938 .
Photographer: Dick, Walter 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2003-0041"引用。

1938年10月,チェコスロバキアのズデーテン地方は,ドイツに割譲され,ヒトラー総統の権威はいっそう高まりました。1938年10月1日 ドイツがズデーテンラントをドイツに併合し,残された地域では,1939年3月15日,スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に,組み入れられてしまいます。チェコスロバキアは,ナチスドイツによって,解体されてしまいました。

写真(右)1938年秋,チェコスロバキア,ズテーテンランド(Süeddeutschland)併合に伴い現地視察をするプロイセン内務大臣ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)博士(左二人目)とオーストリア・ナチ党首コンラート・ヘンライン(Konrad Henlein)博士(右から2人目):民族ドイツ人(ズテーテン・ドイツ人)の住む地域はドイツに併合するのがヒトラーの方針だった。第二次大戦前年,ミュンヘン協定で,英仏合意の上で,チェコスロバキアの四分の一相当のズテーテンラントをドイツに併合。ドイツ系民族(民族ドイツ人)が居住しており,彼らがチェコ人に迫害されている,というのがその理由である。オーストリア・ナチ党のコンラート・ヘンラインは,ナチ党管区指導者(Gauleiter)とズテーテンラント帝国弁務となった。
Staatsbesuch des Reichs- und Preußischen Ministers des Innern Dr. Wilhelm Frick in Süeddeutschland Dr. Stuckart, Dr. Frick (2.v.l.), v. Bomhard, Henlein (2.v.r.), Krebs Archive title: Staatsbesuch des Reichs- und Preußischen Ministers des Innern Dr. Wilhelm Frick in Süddeutschland (ohne Ortsangaben) Dr. Wilhelm Frick; Adolf von Bomhard; Dr. Konrad Henlein, Gauleiter der NSDAP und Reichskommissar für das sudetendeutsche Gebiet Dating: 1938 Herbst Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1938年10月9日,チェコスロバキアのズテーテンラントに侵攻したドイツ軍の六輪装甲車Funkwagen (Sd.Kfz. 232 6-Rad)
Inventory: RH 82 Bild - OKH / Heeresfilmstelle.- Bildbestand Signature: Bild 146-2006-0021 Original title: info Heeres-Filmstelle. Bildabt. Einmarsch in das Sudetenland. Spähtruppführer stellt 2 Pz.-Spähwagen auf die Brücke und legt K-Rolle zwischen die tschechischen Brückensperren. The leader of a German Reconn. party posts two armored cars on the bridge and lays barbed wire 9.10.1938 Aussig, Sudetenland Archive title: Sudetenland, Aussig.- gepanzerter Funkwagen (Sd.Kfz. 232) auf Brücke Dating: 9. Oktober 1938.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2006-0021"引用。

チェコスロバキアの時代から、同国の世界有数の兵器メーカーであるシュコダ社Škoda)は、1859年の創立以来、火砲、戦車から機関車、飛行機まで、チェコのプルゼニに本社を置いて生産していました。特に1935年制式のLT-35は35(t)戦車、1938年のLT-38は38(t)戦車として、占領後のドイツのためにも生産が続行され、1940年5月のフランス侵攻、1941年6月のソ連侵攻にも大量投入されています。

写真(右)1938年10月9日,チェコスロバキアのズテーテンラントに侵攻したドイツ軍の六輪無線指揮装甲車Funkwagen (Sd.Kfz. 232 6-Rad) :国境ではズテーテンに居住する民族ドイツ人がドイツ歓迎の垂れ幕を掲げている。
Inventory: RH 82 Bild - OKH / Heeresfilmstelle.- Bildbestand Signature: Bild 146-2006-0014 Original title: info Heeres-Filmstelle. Bildabt. Einmarsch in das Sudetenland. Panzerspähwagen als Spitze der Truppe. German armored cars leed the troops as they enter Aussig in the Sudeten. Nördl. Aussig, Sudetenland 9.10.1938 Archive title: Sudetenland, Aussig.- Einmarsch deutscher Truppen (u.a. gepanzerter Funkwagen (Sd.Kfz. 232)). Transparten über der Straße mit Text "Wir danken unserem Führer" Dating: 9. Oktober 1938.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2006-0014"引用。

写真(右)1938年10月9日,チェコスロバキアのズテーテンラントに侵攻したドイツ軍の六輪装甲車Spähpanzer (Sd.Kfz. 221))
Inventory: Inventory: RH 82 Bild - OKH / Heeresfilmstelle.- Bildbestand Signature: Bild 146-2003-0042 Original title: info Heeres-Filmstelle Einmarsch in das Sudetenland. Tschechische Soldaten stehen auf der Brücke zum Abrücken bereit. Unter der Brücke: Deutsche Panzer-Spähwagen als Bröckensicherung. Aussig. Sudetenland. 9.10.1938 Archive title: Tschechoslowakei, Aussig.- Besetzung des Sudetenlands, Spähpanzer (Sd.Kfz. 221) unter Brücke mit tschechoslowakischen Soldaten Dating: 9. Oktober 1938.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 146-2006-0021"引用。


チェコスロバキアは、第二次大戦後に再び独立するも、冷戦崩壊に伴って、チェコスロバキアに分離独立した。

ミュンヘン会談でのヒトラーの外交的勝利と,ヒトラーに対抗できた国防軍のブロンベルク元帥,ベック上級大将の追放によって,ドイツ第三帝国の政治的・軍事的指導者は唯一,アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)だけになりました。

写真(右)1939年2月,オーストリア,キッツビュール・スキー選手権大会,内務大臣(MdR, Reichsinnenminister)ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)博士(右2人目のコート,手袋)とチロル=フォアールベルク(Tirol-Vorarlberg)のナチ党管区指導者フランツ・ホーファー(Franz Hofer) (左前列2人目の制服):1939年スキー大会の名誉のゲストとしてナチ党管区指導者(Gauleiter:ガウライター;知事相当)のホーファー,内務大臣フリックなどナチ党幹部が観戦した。
Skimeisterschaften Kitzbühel 1939 Ehrengäste ... Gauleiter Hofer, Frick Archivtitel: Ehrengäste u.a. Dr. Wilhelm Frick (mit Schlägerkappe), Franz Hofer (3.v.l.) , Gauleiter der NSDAP im Gau Tirol- Vorarlberg und Reichsstatthalter für Tirol- Vorarlberg Datierung: Februar 1939 Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

戦争前、ドイツの支配地域となったオーストリア、チェコスロバキアでは、すぐにユダヤ人迫害が開始されました。ユダヤ人の首に看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもなされました。しかし、より深刻だったのは,法律・規則の上でも,ドイツ支配下のユダヤ人の人権が制限され,迫害されたことです。

ナチスドイツによる反ユダヤ法としては,1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の結婚制限)制定,11月,ユダヤ人選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と、ナチス政権樹立後に矢継ぎ早に制定されています。

1935年ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止しました。ユダヤ人が政治的に定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなったのです。

写真(右):1939年2月,ポーランド,ドイツからロンドンに亡命したユダヤ人一家:第二次大戦前からドイツの国土回復運動を進めていたがが,ラインラント,オーストリア,チェコスロバキア(ステーテンランド)と続いて,ポーランドに対して,領土要求,民族ドイツ人への迫害中止を訴えた。
Großbritannien: Kinder polnischer Juden aus dem Gebiet zwischen Deutschland und Polen bei Ihrer Ankunft mit der "Warschau" in London. Aufn. Februar 1939 Dating: Februar 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-S69279引用(他引用不許可)。

突撃隊粛清後,ヒトラーに対抗できたのはドイツ国防軍だけでしたが,反ヒトラー派の将軍たちを軍から追放して,ヒトラーは,国防軍を自ら操ることができるようになります。こうして,1939年8月,ポーランドのシレジエン,東プロシアへのポーランド回廊の割譲を要求し,それが拒否されると,ドイツ側放送局がポーランド人に襲撃されたと自作自演し,これを口実に,9月1日,ドイツ軍をポーランドに侵攻しました。

英仏はポーランドと同盟を結んでいましたから,1939年9月3日,ドイツに宣戦布告し,第二次世界大戦が勃発します。

ドイツが戦争を続けるのは,ヒトラーが,次のような歪んだ世界観を持っていたからです。

?ドイツ人を人種汚染し,背ドイツに戦争を仕掛けてくるユダヤ人は排除しなければならないという人種民族差別をもっていた,
?ヨーロッパ大陸を包含し,ドイツの完全に自給できる範囲の領土を生存圏として確保し,そこにドイツ人が支配者として君臨する,住民は労働者,農民として服従させる,
?広大な生存圏を支配するドイツ人が堕落しないように,10年に一度は戦争をして英気を養い,武威を新たに,軍備を固める,
このような妄想的な世界観を根底に,ヒトラーは,戦争を始めます。したがって,戦争に終止符を打つためには,ヒトラーを排除するしか方法はありませんでした。



8.1939年9月、第二次世界大戦の勃発

写真(右)1930年代,ドイツ陸軍I号戦車Pz Kpfw Iによる演習:ここに見える13輌のI号戦車Pz Kpfw Iは訓練用に砲塔を撤去して、5名の乗員を載せている。I号戦車Pz Kpfw Iは、前席の操縦席を見学するように後席に3名が腰かけている。このように、ドイツ陸軍には戦車の砲塔を撤去して訓練用に利用する方法が戦前から採用されていた。そこで、そのスペースに注目して、大口径砲を搭載する自走砲の発想が早くから生まれたと考えられる。その後、I号戦車Pz Kpfw Iには15センチIG-33歩兵砲や4.7センチ対戦車砲が搭載されている。
Catalogue number: STT 6356A, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION, Subject period: Interwar, Alternative Names: object category; Black and white, Object description: Group of German Pz Kpfw I training tanks. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 6356A)


1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻のがはじまり,3日には,英仏がドイツに宣戦布告します。これが,第二次世界大戦で,エルザーが考えたように,英仏のミュンヘン会談での譲歩,対独宥和は,ヒトラーをますます強気にさせ,戦争への道を敷くことになったのです。

写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入されたI号戦車:歩兵を追い越してゆくI号戦車だが,機銃しか装備していないうえに,装甲も薄かった。右の煙突のある貨車は,食事を作る調理車両。
Polen.- Panzer I und Infanterie auf schlammiger Straße; PK 637 (Ost) Dating: September 1939 Photographer: Wagner 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-012-0035-11A.引用 (他引用不許可)。


ヒトラーが,東方にドイツの生存圏を確保する戦争は,
?大量破壊,大量殺戮を伴う総力戦,
?領土拡張を求めた帝国主義戦争
?下等人種・劣等民族を排除する人種戦争
?反共産主義,反自由主義のファシズムに基づく世界新秩序を建設するイデオロギー戦争
という四つの側面がありました。特に,大量殺戮というジェノサイドの側面は,ヒトラーによるポーランド,ソ連など東欧ロシアへの侵攻に現れています。

写真(右):1939年9月,ポーランド侵攻時,ドイツ国防軍I号戦車指揮車に続くI号戦車:装軌式装甲車(ハーフトラック)も見える。開戦当初,電撃戦で使用された主力戦車は,戦争中期以降に搭乗した重戦車とは異なり,火砲も口径3.7センチ以下,重量も20トン未満で,決して,フランス軍,イギリス軍の戦車を凌駕した戦争を誇っていたわけではない。ドイツ国防軍の将軍たちは,開戦直前の1939年になっても,戦車の威力が,英仏に優位にあるとは考えていなかった。
Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Vorne Befehlspanzer 1 Ausf. B auf Basis des Panzer I, dahinter Panzer II; KBK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Rascheit撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-318-0083-29引用(他引用不許可)。


ドイツ軍の戦後初めての戦車であるI号戦車は,トラクター改造で,砲塔はありますが,搭載しているのは機銃だけです。小型砲塔だったので,ここに大砲を装備することはできなかったのです。後に,砲塔を撤去して,大型のアンテナと固定密閉式の戦闘指揮室を設け,通信設備を備えた指揮用戦闘車両に転換されてゆきます。

1939年9月1日,ポーランド侵攻の時,主力は?号戦車,?号戦車,チェコ38t戦車でした。

?号戦車は,主力となる?号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から量産されています。
全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。 2センチ砲装備。エンジン140馬力,乗員3人。

1938年ズテーテン侵攻から1939年ポーランド侵攻まで,ドイツ国防軍の主力戦車は,?号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)でした。これらの戦車は,フランス,イギリスの戦車と比較して,火砲の威力と装甲の厚さで劣っていました。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言します。

世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである,このようにヒトラーは考えます。そして,東方ソ連を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴として支配しようとします。ドイツ国防軍は,このドイツの生存圏を確保するための戦争の道具です。 

ポーランド進攻からフランス侵攻まで,ドイツ国防軍は戦車の機動力を活用した集団用法と空軍による地上近接支援によって,電撃戦を戦い,勝利します。しかし,開戦前,ドイツ軍戦車には,対戦車戦闘は重視されていなかったのです。

写真(右)1940年夏,フランス,ドルニエDo-17爆撃機:第76爆撃航空団(KG76)所属のDo-17が飛行中。機首に乗員が集中して搭乗したので,相互の連絡がとりやすかった。機首と操縦席から7.92ミリMG17機銃が装備されている。
Frankreich.- Bomber Dornier Do 17 des KG 76 im Flug; Lw.Polen und KBK Lw.3 Datierung: 1940 Sommer Fotograf: Spieth Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍ドルニエ(Dornie)Do-17爆撃機の諸元
初飛行 1934年11月
全長 16.3メートル,全幅 18メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量7650キロ,エンジン:ブラモ323;1000馬力2基
最大時速 420キロ,航続距離 1160キロ
兵装 7.92ミリMG15機関銃5丁,爆弾1トン。
乗員4人(操縦手,爆撃手,航法・偵察員兼機銃射手2名)

写真(右)1941年,北アフリカ,ヘンシェルHs-126偵察機:パラソル翼の視界のよい近距離偵察機。戦車と飛行機とを組み合わせて,電撃戦を行った。しかし、開戦前,ドイツ国防軍の将軍たちはチェコスロバキア侵攻にも大いに不安を感じていた。1939年には第二次大戦が始まった。
Nordafrika.- Wartung eines Aufklärungsflugzeugs Henschel Hs 126 (Kennung 5F+FK) der Aufklärungsgruppe 14 / Nahaufklärungsgruppe 14 in der Wüste; KBK 7 Datierung: 1941 Fotograf: Doege Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。------成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。

1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。

◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持っています。生存圏を確保するためには,弱肉強食の戦争に勝ち残ることが必要です。

写真(右)1940年,ポーランド,ウッジ(リッツマンスタット)・ゲットーをオープンカーに乗って撮影するドイツ軍宣伝班:ウッジをアーリア風にリッツマンスタットと改名した。ゲットーで,宣伝用あるいは記録用の映像を撮るドイツ武装親衛隊宣伝班。カメラは,写真と動画の2台以上が用意されている。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Soldaten der Waffen-SS Propaganda-Kompanie im offenen Wagen fahrend, jüdische Bewohner am Straßenrand fotografierend und filmend (PK-Bildberichter und PK-Filmberichter) Dating: 1940 ca. Photographer: Schilf撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランド侵攻のとき,親衛隊の保安警察特務部隊(のちのEinsatzgruppen)が投入され,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害しました。ポーランドの主だった都市(ワルシャワ,ウッジなど)に、ユダヤ人居住区ゲットーを設けて、ユダヤ人を狭い空間に押し込めました。

写真(右)1939年11月,ポーランド,ボーゼンのヒトラー・ユーゲントの行進:ポーランドの民族ドイツ人は,ポーランド東部がドイツ帝国領に編入されたことで,フリック内務大臣の指導の下,ドイツ人として組織化された。ヴィルヘルム広場からの示威行進は,ポーランド人からは冷ややかに見られたであろう。
Die feierliche Amtseinführung des Reichsstatthalters und Gauleiters Greiser durch Reichsinnenminister Dr. Frick in Posen. Der Marsch der deutschen Jugend Posens vom Wilhelmplatz zum Festakt im Schloß. Fot. Ho. 3.11.39 12915-39 Dating: November 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-E12089引用(他引用不許可)。


他方,シュレジエンなど,ポーランド領に住んでいたドイツ系住民(民族ドイツ人)は,優遇され,ユダヤ人,ポーランド人よりも上の権限と地位を与えられました。そして,ドイツ人の手先となって,ポーランド支配に協力するようになります。

たとえば,ポーランド第二の工業都市ウッジは,ドイツ帝国に編入され,総督領として支配されることになり,ウッジの名称は,「リッツマンスタット」とアーリア風に改名させられました。そして,ウッジ市内には,ユダヤ人を隔離するウッジ・ゲットーが設置されました。


9.ドイツ軍主力戦車となったチェコ製戦車35(t)・38(t)戦車 Panzer 38(t)

◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。

写真(右)1941年10月,対ソ戦の東部戦線北部,チェコ38(t)戦車:38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。チェコスロバキアを併合したドイツがスコダ社で生産していたチェコスロバキア軍の戦車を,ドイツ軍も引き続き第一線で使用した。
Sowjetunion-Nord.- Panzer 38(t) und Infanterie in einen Birkenwäldchen; PK 694 Dating: Oktober 1941 Photographer: Gebauer撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-213-0267-12引用(他引用不許可)


ドイツ陸軍38(t)戦車(チェコスロバキア軍LTvz.38)の諸元
全長 4.6メートル,全幅 2.2メートル,全高 2.3メートル
重量 9.5トン。 時速 40キロ,航続距離 200キロ
主砲 3.7センチ砲(Škoda A7 37.2mm L/47.8),7.92ミリ機銃2丁
砲塔・車体の前面装甲 50ミリ,側面30ミリ
エンジン125馬力,乗員4人

写真(右)1941年10月,雪の降り始めた東部戦線を進撃するドイツ陸軍のチェコ製35t戦車 :38tはチェコのシュコダ社の設計,生産になる戦車で,tはチェコを意味する。チェコは,大戦勃発前にドイツに占領されたため,シュコダ社の戦車・火砲などは,ドイツ軍のために生産が続行された。
Sowjetunion.- Panzerkolonne, deutsche Soldaten auf Panzern 35t in Fahrt im Schnee; PK 697 Dating: Oktober 1941 Photographer: Böhmer撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-268-0185-05A引用(他引用不許可)


世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである。

ヒトラー総統は,東方ソ連を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴扱いしたためである。ドイツ軍のソ連侵攻後,東方ソ連でもユダヤ人迫害が開始された。


写真(右)1941年6-7月,ソ連,指導者ヨセフ・スターリンのポスターがあるゲートを潜るドイツ陸軍のチェコ製38(t)戦車
:38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。Joseph Stalin( 1878年12月18日-1953年3月5日)は,独ソ戦の開始直後から,ソ連人民のドイツ軍への利敵行為を危惧していた。そこで,ウクライナ人,チェチェン人,タタール人をシベリア,中央アジアへ強制移住させた。彼らの分離独立,反共産主義が、侵略者のはずのドイツ軍を,同盟軍としてしまうことを心配したのである。このような圧制には,内務人民委員(NKVD)が活躍した。
Sowjetunion.- Panzer 38 (t) vor dem Eingang eines mit Porträts sowjetischer Politiker (links Josef Stalin) geschmückten Lagers; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Bieling 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0035A-26A引用(他引用不許可)

ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べています。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。-----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」

写真(右)1942年8-9月,チェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍マーダーIII自走砲:チェコ製のチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,開放式戦闘室を設けて,そこにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲7.62cmPak36(r)を装備した対戦車自走砲"Jagdpanzer Marder III" 。全長 5.9メートル,全幅2.2メートル,全高 2.5メートル,重量10.7トン。占領国チェコ製の車体に,ソ連製の火砲をつけたハイブリッド型の戦闘車両だった。
Sowjetunion-Süd.- Soldaten auf Jagdpanzer Marder 2 (Sd.Kfz. 132); PK 694 Dating: 1942 August - September Photographer: Scheffler撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-217-0485-28引用(他引用不許可)


1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。
◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。

1941年11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。>」

写真(右)1942年夏,チェコ製スコダ38(t)戦車を原型とする76.2ミリ砲搭載のドイツ陸軍対戦車自走砲マーダーIII型:旧式化したチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,車体上部に戦闘室を設けて,ここにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲を装備したのがマルダーIII Ausf. M。歩兵の火力支援ではなく,応急の対戦車自走砲を製造した。対戦車能力はあるが,装甲が薄く,戦闘室は開放されているために,防御力はきわめて弱い。
ソ連侵攻でT-34など強力なソ連軍戦車に直面したドイツ軍は,対戦車能力の低い戦車しかなかったために,急遽,対戦車自走砲を生産したのである。その後, II号戦車の車体を改造したマーダー II(Marder II)も生産された。新型戦車が登場するまでの繋ぎのはずだったが,対戦車自走砲は,敗戦まで使用された。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Jagdpanzer Marder III ; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Seibold撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-218-0526-28引用(他引用不許可)


◆ドイツ軍司令官は弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならず、生存闘争に勝利するには,力が必要であるとされました。

1941年6月22日以降のドイツのソ連侵攻は,ユダヤ人など下等劣等人種の殲滅戦争の第二段階だった。

既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていました。

1941年4月28日,第二軍団マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていたのです。


写真(左)1943年2-3月,チェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍76.2ミリ砲装備の対戦車自走砲マーダーIII型:武装親衛隊「アドルフ・ヒトラー」師団の対戦車自走砲で,チェコ・シュコダ38(t)戦車の車体に,ソ連軍76.2ミリ野砲を搭載。
Sowjetunion, Kampf um Charkow.- Männer des Panzer-Regiments 1 der Waffen-SS-Division "LSSAH" (Leibstandarte-SS Adolf Hitler) beim Angriff auf Charkow, Panzerjäger "Jagdpanzer Marder III" und Infanterie in Wintertarnanzügen in verschneitem Gelände; SS-PK Dating: 1943 Februar - März Photographer: Roth, Franz撮影。Bild_101III-Roth-173-01
写真(右)1941年10-11月,ソ連中部,通信装置をつけたドイツ軍戦車兵
Rußland-Mitte.- Soldat der Panzertruppe mit Eisernem Kreuz (Band; Porträt); PK 689 Dating: 1941 Oktober - November Photographer: Götze 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-140-1210-03A引用(他引用不許可)


ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こりました。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも,現地のポーランド人,ウクライナ人の間に起こったのです。

ユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人が,ソ連共産党ボリシェビキの下で,政治的,経済的に優位にあった,現地のポーランド人,ウクライナ人を抑圧したという偏見でした。

しかし,ナチスドイツは,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与する下等劣等人種は全て排除するつもりだったのです。

写真(右):1942年8-9月,武装親衛隊「ヴィーキング」(バイキング)師団のチェコ製対戦車自走砲マーダーIII型:この武装親衛隊には,ノルウェー,スウェーデンなど北欧の反共産主義者などが対ソ連戦に志願していた。
ノルウェーは,ドイツに占領され,クィスリング(元国防省)の傀儡政権が樹立された。ノルウェーの自立と強化を目指すために,あるいは仕事や出世の機会を得るために,武装親衛隊に参加したノルウェー人などがいた。
Sowjetunion-Süd.- Division "Wiking" der Waffen-SS der beim Vorstoß zum Kaukasus; 2 SS-Männer vor "Jagdpanzer Marder III" Dating: 1942 August - September Photographer: Möbius撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Moebius-117-27引用(他引用不許可)


バルバロッサ作戦の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出しています。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされました。

◆一度隔離した敵ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜は,労働可能であっても,解放することは考えられません。強制収容所に拘束したユダヤ人,ソ連軍捕虜は,奴隷労働者として使い捨てにするか,殺戮することが決まっていたのです。

写真(右)1943 年頃、東部戦線で技能を施したドイツ陸軍のチェコ製マーダー Marder III 対戦車自走砲H型( Sd.Kfz.138 Panzerjäger 38 f?・r 7.5cm PaK40/3 Ausf.H Marder III H ):チェコ38(t)戦車G/H型の車台をそのまま生かして7.5cm砲Pak40を搭載した。マーダーIII H型はM型とは異なり、車体中央にトップヘビーに対戦車砲を搭載しており、アンバランスな感がある。ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載したマーダー自走砲もある。
Catalogue number: STT 3785, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 3785)


◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めました。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会っいます。この時期は,独ソ戦でドン川西岸にあった南方軍集団が,ロストフから,カフカスに南下し,スターリングラードに東進していた時期でした。東方ソ連で[ブラウ」作戦が発動した時期に,ユダヤ人絶滅政策が本格的に始動しました。これは,ロシアのボリシェビキ殲滅戦と対比できます。

写真(右)1943 年頃、チェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲H型:記録用写真。チェコ38(t)戦車G/H型の車台中央に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載。マーダーIII H型はM型とは異なり、エンジン位置を原型の戦車から変更していない。
Catalogue number: STT 4605, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 4605)


写真(右):1944年1-2月,東部戦線、ドイツ陸軍のチェコ製対戦車自走砲マーダーMarder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138):Sd Kfz 138 マルダーIII Ausf. Mは、シュコダ38(t)戦車を母体とした対戦車自走砲の最終版で、7.5cm40式3型対戦車砲を搭載している。この38(t)対戦車自走砲マルダーIII M型は、戦車よりも防御力は遥かに劣るが、生産が容易であり、多用された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0885-05 Archive title: Sowjetunion.- Marder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138) in Fahrt auf Straße; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0885-05"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年4-5月,イタリア戦線、チェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍対戦車自走砲マーダーMarder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138):Sd Kfz 138 マルダーIII Ausf. Mは、チェコのシュコダ38(t)戦車を母体とした7.5cm40式3型対戦車砲を搭載した対戦車自走砲。しかし、対空戦闘能力はなく、戦車のよう防御用の装甲板もなかったので、敵に発見されないように偽装に注意を払う必要があった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-313-1050-28 Archive title: Italien.- Getarnter Marder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138) auf einer Landstra?・e an einem Hang; PK 1944 Dating: 1944 April - Mai Photographer: Micheljack Origin: Bundesarchiv  写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-313-1050-28"引用(他引用不許可)


bd74aa5.jpg
https://archive.md/dn1nk/2a5b78471324bb5e6b2911c87cf1581b4964d181.jpg写真(右)1944 年頃、ドイツ陸軍のチェコ製マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd. Kfz. 138):真横から見た記録用写真。チェコ38(t)戦車の車体に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載した。ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載した自走砲、ドイツ軍の7.5cm砲Pak40を搭載したH型に続き、エンジンを前方に移動して後方に7.5cm砲Pak40砲搭載したのがマーダーMarder III 最終型のM型である。
Catalogue number: STT 7224, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7224)


写真(右)1944 年頃、ドイツ陸軍のチェコ製マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd. Kfz. 138):記録用写真。チェコ38(t)戦車の車体の後方に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載するためエンジンを前に移動している。1943年5月に生産を開始し、マーダー最終型として駆逐戦車ヘッツァーと交代するまで942輌生産された。
Catalogue number: STT 7227, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7227)



10.第二次大戦末期に活躍したチェコ製スコダ38(t)戦車を原型とする駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) ヘッツァー"Hetzer" Panzerjäger 38(t)

写真写真(右)1944年,バルカン半島ハンガリー、ドイツ軍がチェコ製スコダ38(t)戦車をベースに開発した駆逐戦車ヘッツァー(勢子)Sd.Kfz.138/2:機械化されたのは一部の部隊であり、戦争後期のドイツ軍にも馬匹による輸送は重要な役割を担っていた。馬は弾薬箱を運搬しているようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-715-0212A-06A Archive title: Balkan, Ungarn.- Jagdpanzer 38(t) "Hetzer" (Panzerjäger 38(t), Sd.Kfz.138/2) in einer Ortschaft neben beladenen Pferden / Mulis; KBZ HGr S?・dukraine Dating: 1944 Photographer: Kreutzer, Wilhelm撮影。 Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-715-0212A-06A"引用(他引用不許可)。


写真(右)1944 年に登場したチェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍駆逐戦車ヘッツァーSd.Kfz.138/2:チェコのBMM社は、小型のスコダ38(t)の生産ラインを活用して、攻撃力を増した駆逐戦車を生産することになった。既に生産されていた?号突撃砲の重量25トン以上だったが、新たな駆逐戦車は38(t)戦車を基にしているためにその半分の重量だった。
Catalogue number: STT 7560, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t). Label: German Jagdpanzer 38(t) tank destroyer. Also known as the 'Hetzer'. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7560)


写真(右)1944 年頃、西側連合軍が撃破したチェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍駆逐戦車ヘッツァーSd.Kfz.138/2の後部:開けた草地にある駆逐戦車ヘッツァーは右側のキャタピラが破損して外れており、周囲には後部に装備された部品が散らばっている。戦闘爆撃機(ヤーボ)に襲撃され撃破されたのであろうか。
Catalogue number: STT 7564, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t). 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7564)


写真(右)1944 年頃、西側連合軍に撃破されたチェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍チェコ製駆逐戦車ヘッツァーSd.Kfz.138/2:側面上方よりの形状。1943年12月に設計完了、1944年1月24日にはモックアップ完成と、設計から生産までの期間は短縮されたのは、資源節約型の対戦車車両として有望だったためで、一年後の国民戦闘機(フォルクス・イェーガー)HE-162ジェット戦闘機と類似したコンセプトである。
Catalogue number: STT 7662, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Knocked-out Jagdpanzer 38(t). Label:Knocked-out Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7662)


駆逐戦車ヘッツァー諸元:
全長:6.27 m、車体長:4.87 m、全幅:2.63 m、全高:2.17 m
重量:15.75 t
速度:路上42 km/h、路外15 km/h、航続距離:177 km
主砲:48口径7.5cm PaK39 L/48(41発)、車載機銃:7.92mm MG34機銃1丁
装甲:車体前面60mm、側・後面20mm、底面10mm
動力:マイバッハ Hl 203 P 30直列6気筒液冷ガソリンエンジン 160 馬力
乗員:4 名

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1944 年頃、西側連合軍が撮影した鹵獲されたチェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍駆逐戦車ヘッツァーSd.Kfz.138/2:前方上よりの形状。駆逐戦車ヘッツァーの戦闘室内は狭いために、左の運転席のスペースを確保するために、主砲の7.5センチ砲を中心線上に搭載できず、右に寄せて搭載した。そのため、左右の重量バランスが悪化して機動性が低下した。 駆逐戦車ヘッツァーは、戦争末期に登場したが、1944年から1945年5月のドイツ降伏までに、チェコのBMM社とシュコダ社で合計2,827輌が量産された。

Catalogue number: STT 7562, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t).
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7562)


写真(右)1944 年頃、西側連合軍が撮影した鹵獲されたチェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍チェコ製駆逐戦車ヘッツァー:斜め後上方よりの形状。駆逐戦車Jagdpanzer 38(t)ヘッツァーの搭載した48口径7.5cm PaK39 L/48(41発搭載)は、?号戦車の後期型が搭載した戦車砲と同じである。
Catalogue number: STT 7566, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t).
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7566)


写真(右)1944 年頃、チェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140:記録用写真。チェコ38(t)戦車の車体を利用しているが、エンジン位置は重心のバランスをとるために、マルダーIII M型、グリレと同様に、中央に移動している。装備した対空兵器は、65口径2センチFlaK 30対空機関砲2 cm FlaK 30 L/65)1門で、車体後部の開放式の戦闘室に装備した。 機関砲1門搭載なので、戦闘室内で360度の車角が確保されており、戦闘室前部の装甲板を折りたたむことで、対地射撃も可能。
Catalogue number: STT 7486, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer Flakpanzer 38(t)
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7486)


写真(右)1944 年頃、チェコ製スコダ38(t)戦車を原型とするドイツ陸軍38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140:真横から撮影した記録写真。65口径2センチFlaK 30対空機関砲(2 cm FlaK 30 L/65)は、1934生産開始、発射速度毎分280発。 全長:4.95 m、全幅:2.15 m、全高:2.25 m、重量9.8 t。乗員4名。生産数は1943年11月から1944年2月まで140輌程度。
Catalogue number: STT 7484, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer Flakpanzer 38(t)
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7484)


ヒトラーは,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定を唱え,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張しました。

ユダヤ人・スラブ人を下等人種・劣等民族として迫害したドイツ人ですが,習俗・言語の違いこそ,人類の文明・文化を多様な豊かなものにします。敵性住民・下等劣等人種として,迫害しても,そこで生まれるのは,報復と,自分を貶める人間性の喪失だけでしょう。

戦争は政治の延長だというクラウゼビッツの教えに,ヒトラーは政治的遺書で言及し,ユダヤ人に対する戦争を継続することを命じました。この遺言は,ヒトラーの死後,無視されましたが,その理由は,戦争の延長が大量破壊・大量殺戮である以上,戦争と政治はことなることに国民が気づいたからです。人種民族差別のもたらす惨禍に誰もが嫌悪感を抱いたからです。

写真(右)1939年末,ポーランド,クラコウを追放されるユダヤ人:野外の柵の中に収監されたユダヤ人男性。着の身着のままで追放されれば,家屋,土地を失い,家族とも引き離されてしまうかもしれない。食事,睡眠,排泄もままならない状況に置いて,ユダヤ人を辱めた。
Polen, Krakau.- Verhaftete / internierte polnische Juden (für Arbeitseinsatz in Deutschland ?) in einem Lager, ca. Ende 1939 Dating: 1939 Ende
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-0296引用(他引用不許可)。


人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものです。けれども,多数の国民の支持,資源,資金がない限り継続することはできません。決して,一握りの政治家たち,軍人たちが,政治を左右できるわけではないのです。祖国のため,国民のために,暴虐な敵から家族を守るために正義の戦争を戦う,このように敵と味方が主張しあうのが,総力戦です。大量破壊,大量殺戮も正義のため,戦争を終わらせるためだとして,正当化されてしまいました。

近現代の総力戦は,大量破壊・大量殺戮を伴う戦争です。そして,それを煽動し,戦争を指導する人物に服従している限り,戦争を止めること,戦争を廃絶することはできません。総力戦では,世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているのですが,その事実が敵への憎悪を煽り,報復を叫ぶプロパガンダ隠蔽されてきたのです。

軍人も民間人も動員され,戦争に協力し,その結果,軍民を区別しない大量破壊,大量殺戮を引き起こす野蛮な戦争自体が、犯罪であると認識し,行動することは,持続可能な平和の構築につながると思います。

写真(右)1939年9月, ポーランド,木造の家屋の前には座っている髭のあるポーランド・ユダヤ人男性
Polen.- Menschen (Juden?) vor einem Holzgebäude, alte Männer mit Bart, sitzend; PK Lw 1 Datierung: September 1939 Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-320-0938-15引用(他引用不許可)。



自分が一人では無力であるとあきらめるのは,ニヒリズムです。ここから国民が主導する平和は構築できません。

しかし,国民が力を合わせて,大量破壊・大量殺戮に組しないで,国際関係を少しでも友好的なものに変えてゆくことができれば,それに越したことはないのです。そして,そのためには,戦争・平和の主導権を握っているのが,我々一人ひとりなのだという自覚と覚悟が大切です。戦争は避けられない必然的なものだ,昔から戦争は繰り返し戦われており,人類の歴史から戦争をなくすことはできない,このようなニヒリズムに基づく戦争必然説は排除しなくてはなりません。戦争必然説を説くプロパガンダを糾弾しなければなりません。


戦争・平和の主権者である我々一人ひとりが平和構築への目配りをして,プロパガンダに流されずに行動する,こんな単純なことを諦めないことが,大切なのではないでしょうか。


ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車

VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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