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盧溝橋事件・上海事変◇Sino-Japanese War 2004
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◆日中戦争の序章:盧溝橋事件・上海事変・首都南京攻略 ◇ Sino-Japanese War
写真(上):1930年代の上海バンド(埠頭近く中心街)
:外国から多数の船が寄航した国際都市。人口300万人。華中の江南地方の巨大都市上海は、米,英,日などの共同租界とフランス租界とがあった。租界とは,中国の中の外国(治外法権の地)であり、自由と不平等が並存する。ここを戦渦に巻き込んだ日本は列国から反感を買った

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)は,中国軍兵営近く,実弾を装備した日本軍が夜間演習をしていた時,発砲された事件である。敵陣前の夜間演習に実弾を配備,銃に装填はしていないが実弾は弾盒に持っていた。これは,敵前における危機管理の常識である。ここで,両軍が友好関係にあれば,事故あるいは誰かの陰謀として,決して,国家間の戦闘には陥らなかった。誤射、発砲だけであれば、事態を収拾することは十分可能だった。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)という発砲事件だけで戦争が開始されたわけではな決してない。このことを悟らず、発砲したのは「敵」であり、敵が戦争を仕掛けてきた、と論じるのは単純すぎる。「盧溝橋事件で日本軍からの発砲はあり得なかった」から中国の謀略だという主張は日中戦争へ至る道筋を良くわかっていないための誤解である。1941年10月31日、イギリス輸送船団を護衛していた米海軍駆逐艦「ルーベン・ジェームズ」はドイツ潜水艦U-552の雷撃で撃沈、米兵100名以上が戦死したが、アメリカとドイツは戦争に至っていない。現在、在日米軍基地やドイツ駐留米軍で発砲事件、殺人事件が生じても、即座に対米争が勃発するとは考えられない。1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)は日中戦争の契機ではあるが、発砲事件が原因で戦争まで拡大した、戦争に引き込まれたという主張は完全な誤解である。戦争への道はそれほど安直ではない。

 当時の日中両軍は,敵同士であり,憎しみあっていた。そこで,盧溝橋事件を契機に、それまでの敵意に火がついて、北京,天津で両軍の戦闘が開始された。日本政府、参謀本部も戦闘不拡大を望んだが、現地指揮官、政治家、メディアは、これを機会に中国を完全に屈服させようと、戦争を望む勢力が強かった。彼らは、中国軍を弱いと見下し、中国人は国家意識のない寄せ集めの民だと蔑視していた。そこで、一撃を加えれば、短期間で勝利できると錯覚していた。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)当時、日本軍以外にも外国駐屯軍が中国にあった。これは、1900年に勃発した義和団事件の結果、敗れた清朝が北京議定書に基づいて、日・英・米・仏など8カ国に駐屯権を認めたためだった。しかし、日本以外の駐屯軍は、現地中国と友好的であり、日本軍のように、北京郊外盧溝橋で夜間軍事演習をするといった挑発的な行動をとらなかった。これは、本国から遠征軍を中国に派遣して戦うことを想定していなかったからである。他方、満州事変を引き起こし、中国東北地方を勢力下に置いた日本軍は、華北、北京郊外で中国軍に敵対、対峙していたいた。中国から見れば、日本軍は侵略軍と呼ぶべきものであり、日本から見れば中国は反日、抗日運動を進める敵だった。日中戦争を仕掛けたのは、国民党、蒋介石であり、日本は戦争を望んでいなかった、だから戦争責任は彼らにあると断じているのは、ナショナリズムも歴史も理解していない自分勝手な態度である。自国に深く攻め込まれ、平然としている国民はいない。中国ではナショナリズムが湧き上がり、国難に馳せ参じる勇気ある行動が起こった。江戸時代末期の日本でも、沿岸に外国艦船が来寇して攘夷・尊王思想が広まった。当時、藩こそが国であり、日本の意識は一部の志士に限られており、国内に武力侵攻されたわけでもないのに、草莽が崛起した。このような明治維新前後の日本と比較すると、日中戦争の勃発に至る中国側の抗戦意識・戦意、そして侵攻した外国側の驕り・慢心に思い至る。

写真(右):1937年に日本海軍が引き起こした上海事変で戦死した中国兵:1937年9月3日。上海では日中両群の間で4ヶ月間の市街戦が行われた。小銃,人間(3名以上)も丸焦げ。上海には日本海軍陸戦隊が(国際的にも認めれられ)駐留していた。4ヶ月の戦闘後,日本は中国軍を撤退させ上海を事実上支配。この戦術的成功が、列国の反発を買う。日本軍は,1937年12月までに,北京,上海,南京を占領した。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)が拡大した武力紛争「北支事変」は、7月の第二次上海事変で,首都爆撃を含む大規模な戦闘が発生すると,「支那事変(Second Sino-Japanese War,中國人民抗日戰爭)」と呼ばれるようになる。
戦争ではなく「事変」という理由は、国際法への配慮である。米国の中立法は,スペイン内戦を契機に,戦争に巻き込まれることを回避するために,軍需物資の戦争当事国への輸出を禁じた。また,戦争当事国は,交戦団体の捕虜・民間人の扱いも国際条約に準じる必要もあった。日本も中国も「戦争」ではなく「事変」として,米国から軍需物資の輸入を続け,捕虜の処遇も国際法に拘束されないようにした。天皇の大詔(宣戦布告)は発せられず,「事変」として処理された。

当webは,1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)が拡大した武力紛争「北支事変」「支那事変」、日中戦争の初めの1年を検証する。この期間,日本軍は,華北の北京,天津を占領,政治経済中枢の華中の江南地方(上海,南京)も支配下に置いた。大打撃を受けた中国国民党政府は,和平を求め,(条件付き)降伏すると思ったが,戦争は8年も続く。

◆愛国心を濫用した敵への軽蔑・憎悪が広まる契機は、貧困自体ではなく、生活が破壊されることではないか。いつの間にか戦争が始まるのでも、必然的に戦争が始まったわけではなく、プロパガンダ、戦争をする意志、破壊と暴力が、憎悪を広め、戦争を引き起こした。しかし、プロパガンダに使われたから、捏造だいうのは錯覚である。プロパガンダであっても、歴史的事実が含まれるので厄介である。陰謀があっても、それだけで歴史が進むわけではないのは当然だ。盧溝橋事件は中国の陰謀だ、南京虐殺事件はプロパガンダで捏造だというほど、歴史は単純ではない。

◆2015年10月4日,日本テレビの放送した「NNNドキュメント:南京事件;兵士たちの遺言」について産経新聞が「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である」と批判した。残虐行為は敵中国軍の仕業だという陰謀説が繰り返される背景には「平和ボケ」が指摘できる。日中戦争当時、日本は、中国の混乱・腐敗を正し、東アジア和平をもたらすために聖戦を遂行しているのであり、聖戦で敵を殲滅(殺戮・破壊)した戦士は勇者・英雄で、その戦果は称えられた。この当時の実情を知らずにいるのが「平和ボケ」である。「殺戮は残虐行為だ」との戦後平和教育の常識は、日中戦争当時には当てはまらない。日中戦争当時も敵殺戮が残虐行為として認識されていたという誤解が「平和ボケ」である。戦時中、敵殲滅は英雄的行為として、新聞等のメディアでも国民の間でも称賛されていた。敵殺戮が悪いことだと批判する声は上がらなかった。だから、日本兵も堂々と敵を殲滅・処刑し、それを英雄的行為として誇った。中国兵を殲滅した日本軍の戦果を、捏造されたものだと否定したり、敵兵の死体は中国の督戦部隊の仕業だ、脱走捕虜を射殺したと言い放ったりする行為は、日本軍の勇戦敢闘を認めないことである。これは、当時の日本人には侮蔑的放言に等しい。戦争観・人権の歴史的変遷を理解できない「平和ボケ」が、「日本人が敵に残虐行為をするはずがない」という錯誤に陥らせている。

遂げよ聖戦 」1938年
作詞 紫野為亥知・作曲 長津義司

皇国(みくに)を挙る総力戦に、成果着々前途の光
蒋政権が瀕死の足掻(あが)き、他国の援助何するものぞ
断乎不抜の我等が決意、遂げよ聖戦長期庸懲(おうちょう)

見よ奮い立つ都を鄙(むら)を、総動員の何も違わず
伸び行く我等の産業力は、広く亜細亜の宝庫開かん
ああ聖戦は破壊にあらず、遂げよ聖戦長期建設

挙(こぞ)れ国民心を一に、緊襷(きんこん)一番勇士を偲び
稼げ働け花を去り実に、経済戦に終わりはあらず
我は期すなり永遠の平和
遂げよ聖戦輝く東亜、遂げよ聖戦輝く東亜

◆盧溝橋事件、最後の中国生存兵士亡くなる
 1937年7月7日に北京西南方向の盧溝橋(ろこうきょう)で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件「盧溝橋事件」おいて、8人の日本人兵士を殺害した第二十九軍の兵士の一人・張可宗さん(92)が15日未明、重慶市で亡くなった。同事件に参戦した兵士では最後の生存者だった。四川省成都市の地元紙「成都日報」が報じた。
 張さんが亡くなったことは25日、河北省滄州市南皮県の村に暮らす張さんのひ孫・張法新さんが電話で伝えた。
 張可宗さんは1931年、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が満州を占領した「満州事変」発生後、第29軍の部隊・132師に加入、当時兵力十数万を誇った同部隊の一員となった。「盧溝橋事件」が勃発後、張さんが所属する132師は中日戦争の初期における戦闘「平津作戦」に参戦。南苑(現北京市大興区)附近で日本軍と交戦し、刀で8人の日本兵を殺害したとされる。(編集KN)
 「人民網日本語版」2012年4月27日引用

◆2012年1月弘文舎出版刊行『私のサラリーマン生活半世紀』(静岡新聞社編集局出版部制作)第一章に、1935年上海生まれの著者大吉満氏が家族で住んでいたところを、上海の路地に入って見出した時の感慨が書かれている。
「曖昧なのだが確かに覚えがあった。『あれ、これじゃないか』古い街並みの一角にわが家思があった。まるでテレパシーが働いたみたいに、ちゃんとここに着いてしまった。------幼い頃、ここから学校に通い、ここの周りで遊んでいた。異国の古い家は私の帰りを60年以上も待っていてくれた。ただ、記憶にある印象とは少しばかり違っていた。やっとみつけたわが家だったけれど、思っていたよりとても小さかったし、暗くて陰気に見えた。思わず『なんだ、よくこんなところにすんでいたなあ』と呟いてしまった。
----私が生まれた頃、まだ太平洋戦争は始まっていなかったし、日中戦争の舞台は満州や華北だった。だから戦争など全く意識していなかったし、自家用車やオートバイもあって、当時としては贅沢に暮らしていた。
欧米人との交流なら私にも経験がある。ロシア人の阿媽(メード)に連れられてベビーガーデンに通っていたのである。そこには子供たちが集まって遊べるように整備された公園で、欧米人の子女たちと過ごしていた。------そんな環境だったからか、上海では朝食のほとんどがパン食、つまり洋食だった。上海なら中華料理が出そうなものだが、地元の料理を食べたことはまったくなく、それどころか夕食にも洋食を食べたりしていた。当時の日本人といえば必ずコメを食べる国民だったが、上海では和食を食べないことも多かった。」
◆日中戦争当時でも、日本人居留民が、欧米人居留民とともに穏やかに暮らしていたことがわかる。中国人も、たとえ生活が困窮していた人でも、家族の生活を維持することを大切にしていたと思われる。

「盧溝橋事件・上海事変・南京大屠殺」要約を読む。

1.盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident

1931年9月18日の柳条湖事件以来,日本は満州国を建国し,東北地方(東三省:清代の黒竜江省・吉林省・奉天省[現在は遼寧省]の三省)を支配下に置いた。
1933年1月,日本陸軍の満州防衛の任に当たった関東軍山海関を占領。2月23日,西方の熱河省へ侵攻。翌24日には満州での日本の軍事行動に対する国際連盟の非難に反発した日本は,国際連盟を脱退。

1937年5月7日,関東軍は、万里の長城を超えて,華北に侵攻。北京(首都は南京なので正式には北平),天津を攻撃。

1)南京を首都とする中国国民政府(国民党政府)は,共産主義勢力の排除,内政優先の「安内攘外」を基本方針として採用した。
2)米英列国は,ドイツやソ連への対応を優先し,中国問題に介入しなかった。
3)満州事変は,1933年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定で終結。中国国民政府(中国国民党)は,長城以南に非武装地帯の設定,満州国への通車・通郵手続きの承認など,日本に大幅に譲歩。

塘沽(タンクー)停戦協定によって,中国国民政府(国民党蒋介石政権)は,事実上,満州国の日本支配を黙認した。その理由は、戦車・航空機・軍艦と兵器装備の上で優勢な日本軍との戦闘を回避したこと、対日戦争を開始してもアメリカやイギリスなど列国は中国を軍事支援してくれないこと、である。

写真(右):中国、天津(てんしん)のアメリカ陸軍駐屯部隊:1937年8月23日の第15歩兵大隊。7月7日に北京郊外で盧溝橋事件がおきると,天津も戦火に巻き込まれた。米英など列国は、1900年の義和団事件の鎮圧後、警備任務に就く中国駐屯軍を認めさせていたが、北支事変に際しては武装中立を表明した。Members of the U.S. Army's 15th Infantry Regiment reinforce the defenses of the American Barracks in Tientsen, China. Note the Springfield 1903 rifles and the Browning Automatic Rifle brandished by the soldier at the center of the photo. World Wide Press photo is dated August 23, 1937. The World War II Picture of the Day引用。

1936年2月26日、1400名の日本軍兵士が東京で叛乱,重臣を殺害。しかし,叛乱部隊は原隊復帰、二・二六事件は終結。この半年、1936年8月7日,首相広田弘毅は,国策の基準(五相会議決定)を定め,大陸と南方への進出,ソ連。米国・英国に対する軍備と経済の充実を方針とした。

「帝国が名実共に東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し世界人類の安寧福祉に貢献して茲に肇国の理想を顕現する」として,「根本国策は外交国防相俟つて東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展する
東亜に於ける列強の覇道政策を排除し真個共存共栄主義により互に慶福を頒たんとするは即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむへき指導精神なり
国家の安泰を期し其の発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるへき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実
満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し北方ソ連の脅威を除去すると共に英米に備へ日満支三国の緊密なる提携を具現して我か経済的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とす
而して之か遂行に方りては列国との友好関係に留意す
南方海洋殊に外南洋方面に対し我民族的経済的発展を策し努めて他国に対する刺戟を避けつつ漸進的和平的手段により我勢力の進出を計り以て満州国の完成と相俟つて国力の充実強化を期す
外交機関の刷新と共に情報宣伝組織を充備し外交機能竝に対外文化発揚を活発にす

写真(右):上海事変で対空射撃する中国国民党軍:1937年8月23日スイス人Karl Kengelbacher撮影。

 1937年7月7日,北京郊外で盧溝橋事件(七・七事変Marco Polo Bridge Incident)が勃発。北京(首都でないので正式には北平)郊外に駐屯していた日本軍と中国軍の一時的な武力紛争の契機は,日中両軍接近している中で夜間演習中の日本兵1名が行方不明になり(後日帰還),その捜索中に発砲しあったことである。発砲事件が起こった、仕掛けられたからと言って、それが日中両国の全面戦争を始めた原因ということはできない。発砲事件は戦争の契機ではあるが、戦争を始めた要因では決してない。現在、在日米軍基地で発砲事件が勃発しても、即座に日米戦争が始まるわけではない。「中国共産党の仕組んだ盧溝橋事件によって、日本は踊らされて中国との戦争を始めた」という支那事変陰謀説は、戦争を開始する人間の内面や政治的・経済的要因を考慮していない。

◆闇夜、北京演習中の日本軍への発砲が、中国共産党の仕業であるとして、日中戦争は中国から日本に仕掛けられたとする陰謀説があるが、発砲事件と戦争を同一レベルとみなす無理解、誤認識による未熟な誤りである。発砲が起きたからと言ってそれがすぐに戦争につながるのではない。日中戦争が勃発した要因を検討するには、銃弾を誰が発砲したのかという短絡的思考かでなく、より広範な視点にから、日中両国の軍事的動機・戦略論、政治指導者の意向、経済界の思惑、プロパガンダに晒されている世論の動向を探らなくてはならない。

旧都北京という中国の政治的中心の大都市郊外に日本軍が駐屯し、そこで夜間演習という中国市民から見れば傍若無人な軍事行動をとった。演習が正当化された理由は、義和団事件を解決する国際会議で、イギリス、フランス、アメリカ、日本など列国の軍隊駐屯権・駐留権が国際的に認められたため(北京議定書)である。


1898年に中国で勃発した義和団の乱北清事変)に便乗して清朝は,日,米,英,仏,独,露,伊,墺の列強八カ国に宣戦,北京の大使館を攻撃,包囲。しかし,日本軍1万3000名など7万の八カ国連合軍により北京を占領され,清朝は降伏。列強八カ国は,清朝の賠償金4憶5000万両を関税、塩税を担保として39年間で受け取るほか,公使館区域を設定、その防衛のために軍隊駐屯権を獲得。
義和団事件・満州事変をみる。

写真(右):上海バンドに停泊中のアメリカ海軍重巡「オーガスタ」艦上に整列したアメリカ海兵隊(1937年12月):上海,南京が日本軍の支配下に置かれた直後の撮影。租界の居留民保護を目的に米海兵隊、米海軍艦艇が中国の経済中枢に駐屯した。重巡「オーガスタ」は、1933年11月9日に上海に到着、重巡「ヒューストン」に代わってアメリカ海軍アジア艦隊(司令長官フランク・B・アパム大将)の旗艦となった。アジア艦隊旗艦「オーガスタ」は、1934年6月4日、横浜港に到着した従順オーガスタは、翌6月5日、東郷平八郎元帥の国葬(死亡は5月30日)に出席。
就役: 1931年1月30日、退役: 1946年7月16日、基準排水量: 9,050 トン、兵装: 8インチ三連装3基9門、5インチ砲4門、30口径7.62ミリ機銃8基、21インチ魚雷発射管6門、最高速度: 32.7 ノット、乗員:735名
My father was a private assigned to the Marine Detachment aboard the Augusta, which was commanded by Lieutenant Lewis B. "Chesty" Puller, already legendary and the quintessential Marine. Here my father is sixth from the right in the second row from the front, and Lt. Puller is in the center. the Home Page of Pat and Chuck:My father served in the United States Marine Corps for about forty years, enlisting as a private and retiring as a colonel. These 10 linked pages cover the period from 1933 to 1938, when he served aboard the flagship of the Asiatic-Pacific Fleet, the USS Augusta (CA-31).引用。


中国では,外国人が行政権と警察権を握った租界がアヘン戦争,第二次アヘン戦争(アロー号戦争)以来,大都市,開港場に拡張された。租界には,治外法権があり,中国から鉄道敷設権を得た列国は,鉄道付属地も租界と同様である。列強は中国に圧力をかけ,公使館の護衛,租界の治安維持,鉄道付属地の警備などの名目で,1地域につき800-1400名程度の小規模な警備兵力の駐屯を認めさせた。⇒1937-1941年の中国大陸の作戦地図をみる。

300万人を擁する上海には共同租界International Settlement)があり,外国人ビジネスマンも居住する。この国際都市で武力紛争が起きたら、英米列国の民間人にも多数死傷者が出る。貿易・投資、金融,商業の被害も計り知れない。
こう考えれば,上海では国際協調が求められる。もしも上海で戦闘がおこり、共同租界International Settlement)のビジネスに支障が出れれば、国際社会の反発を受けるのは必至である。だから、上海は安全である。駐留軍も、実際の戦闘を行うよりも,治安維持と外交儀礼や式典パレード用の部隊と位置付けられていた。

広州では反イギリス暴動が起こり,英軍が鎮圧したが,戦闘とはならなかった。しかし,日本は上海を大規模戦闘に巻き込んだ。しかも、陸戦だけでなく、艦砲射撃,空爆をした。駐屯軍の設置当初の目的である居留民保護は拡大解釈され,抗日運動をしたり,暴虐な振る舞いする中国国民党政府を懲らしめるため、日本軍が増員派遣された。

写真(右):上海駐屯の米海兵隊(1930年代中頃):1927年から1941年11月まで駐留した第4海兵隊。国際都市上海の中心街は,共同租界とフランス租界だった。Fourth Marines Band: "Last China Band" Additional Photos and Information About the Fourth Marines引用。

英国は,上海郊外に競馬場をつくり,市街地を結ぶ道路も租界扱いすることを認めさせた。中国には,関税自主権がなく,関税を課す権利は賠償の担保として取り上げられていた。そこで,租界のある都市,上海,天津,重慶(内陸港)には,外国資本が進出,摩天楼が立ち並び,英語看板があふれた。
米英仏日独伊など列国は,中国を半植民地化した。中国革命をへた中国は、列国の主権侵害に屈辱と怒りを覚えた。したがって,日本と列国の差異は,軍事行動の拡大,戦禍,人権侵害,残虐行為など,さらなる惨禍を及ぼしたかどうかにある。

第一次大戦中、1917年の石井-ランシング協定では、日米は中国における機会均等を合意した。これは、中国の主権を無視した外国同士の中国分割協定である。心ある中国人は、日本人に国土と主権を侵されたことに屈辱を感じた。

写真(右):北京紫禁城を観光する米海兵隊員(1930年代中頃):Fourth Marines Band: "Last China Band" Additional China Sight-Seeing Photos引用。
米英も軍隊駐留権を持っていた。1898年の義和団事件を鎮圧して以来,列強には公使館保護のため軍隊の駐留が認められた。中国の官憲も彼らに手出しできなかった。中国でも、はじめから米英軍が歓迎されていたわけではない。中国を半植民地化した尖兵が、外国駐屯軍である。


日本軍は1931年に満州事変を起こし、中国東北地方から満州国を分離・独立させた。こうなると,列国は,国際協調,機会均等の原則に反するとして,日本の行動を批判する。実際,1930年代前半,満州国を承認した列国は,ドイツ,イタリアも含めても一カ国もない。しかし,日本の満州への影響力行使,満州国建国に対して,制裁措置をとる列国もなかった。中国の国民党政府ですら,偽満州国の東北地方を解放するために軍を派遣するつもりはなかった(できなかった)。

1)列国は,中国の辺地に関心が薄かった。華北,華中,華南の時刻権益を侵害されないうちは,日本の支配下にある満州国を黙認していた。(承認はしていない)

2)列国は,日本の国力,日本軍の強さが認識されていたため,極東地域で日本と戦争するつもりはなかった。

3)中国は,国民党,共産党,大小軍閥に分裂しており,団結して日本に対抗することができなかった。そのため,中国国民党政府は、東北地方奪還を1937年の時点では諦め,日本の満州支配を黙認した。

4)中国が列国に半植民地化され、国家意識の芽生えた中国人は、列国の領土と主権の侵害に怒り、抵抗するようになった。


写真(右):19世紀末から1902年の撮影と思われる中国、北京郊外の盧溝橋(Marco Polo Bridge:Lugou Bridge);中国北京市南西15km、永定河(当時は盧溝河)にかけられた石造りアーチ橋。盧溝橋の建設は、金の支配していた1192年で、全長266m、長さ11mのアーチが11基、橋の欄干には合計501基の獅子の彫像がある。
解説 Deutsch: photo from Ein Tagebuch in Bildern 日付 before or in 1902 原典 Ein Tagebuch in Bildern, 1902 作者 Alfons von Mumm
National Institute of Informatics(国立情報学研究所) - ディジタル・シルクロード・プロジェクト 『東洋文庫所蔵』貴重書デジタルアーカイブによれば、「アルフォンス・フォン・ムンムによる北京、上海などの市街地を撮影した写真集。ムンムは1900年7月にジェノバを発ち、同年10月に北京に到着した。ここに収められた写真は、彼のジェノバ出発から1902年7月までの間に撮影されたもの。著者の筆により、1904年1月1日モリソンに寄贈した旨を記す。」とある。Collection of photographs taken in cities including Beijing and Shanghai by Alfons von Mumm. Mumm left in Genova July 1900, and arrived in Beijing in October of the same year. The photographs in this collection were taken between his departure from Genova and July 1902. Includes a handwritten note by the author stating that the collection was presented to Morrison on January 1, 1904.
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Lugou Bridge File: Lukouchiao oder Marco-Polo-Brücke südwestlich von Peking.jpg引用。


1937年7月7日盧溝橋事件(中国では「七七事変」)が勃発した。これは,夜間演習中に日本兵1名が行方不明になり,捜索中の日本軍と中国軍が散発的銃撃を起こした事件である。

1900年の義和団事件の後に結ばれた北京議定書によって、列国は清国駐屯軍の権利を手に入れた。これが清国滅亡後の1012年に支那駐屯軍と呼ばれるようになる。盧溝橋事件当時の支那駐屯軍の兵力5,774 名。軍司令部は天津にあり,支那駐屯軍司令官は田代皖一郎中将、参謀長は橋本群少将。天津には,支那駐屯歩兵第1連隊第2大隊・歩兵第2連隊を配備,北京(北平)には、支那駐屯歩兵旅団司令部,支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊510 名を配備。第一連隊長は、後にインパール作戦を指揮する牟田口廉也大佐で、大隊長は後にガダルカナル島戦で戦死する一木清直少佐。その他、通州、豊台、塘沽、秦皇島、山海関に小部隊を配備。

写真(右):北京に入城する日本軍1937年7月31日:7月7日盧溝橋事件当初は不拡大方針を打ち出したが,1ヶ月しないうちに北京を占領。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)当時,北京方面の中国軍は、 宋哲元軍長指揮の第 29 軍。構成は,第 37 師(馮治安師長 1万5,750名),第38師(張自忠師長 1万5,400名) 第132師(趙登禹師長 1万5,000名)など14コ師,独立第39旅他3旅団。
つまり,中国軍の華北総兵力は,軍長宋哲元指揮の第 29 軍を中核とした約 7万5,000名で,日本軍の華北駐留の支那駐屯軍約6000名の10倍だった。

日本軍の華北駐留の支那駐屯軍は、1901(明治三十四年)9月7日、北京(北平)、において調印された『北清事変に関する最終議定書』の第七条および第九条を根拠として派遣する権利を有するもので、北京(北平)に公使館区域(交民巷)の設定もこの条文によるもので、同区域内には中国人に居住の権利を与えず、常置保護衛兵をもって列国公使館を守備することになっている。また北京(北平)、山海関の間における中国側の防備を撤して中国軍の駐屯も禁じている。そして、列国の自由交通を維持するため列国軍隊を鉄道沿線の守備に充てることができるようになった。

列国の支那駐屯軍(清国駐屯軍)派遣の権利を与えることを余儀なからしめた北清事変(義和団事件)、いわゆる団匪事件とは、1900年(明治三十三年)白連教徒がキリスト教宣教師の横暴に憤慨して起ったもので、清朝の排外主義も手伝って、ドイツ公使や日本公使館員を殺害し、列国公使館を包囲するまでに発展した。そこで、列国は連合軍を組織して天津、北京を占領した。敗北した清朝は、列国に対し四億五千万)海関テール(各国通貨の金貨に対する為替相場で決定)の賠償金を支払うことになった。

日本の支那駐屯軍は、1901年(明治34年)北京議定書に関連して清国駐屯軍として設立される。清国滅亡により1912年(明治45年)4月26日付けで「支那駐屯軍」と改称。1936年(昭和11年)4月18日、隷下に支那駐屯歩兵旅団を編制。1937年(昭和12年)7月7日,北京郊外で盧溝橋事件(七・七事変Marco Polo Bridge Incident)が勃発。1937年8月31日、支那駐屯軍は第一軍に改編。同時に隷下部隊は支那駐屯混成旅団に改編された。それから半年たった1937年12月13日に南京入城式が挙行された。そして、1938年3月12日付けで支那駐屯混成旅団は支那駐屯兵団に改編。1938年6月21日付けで同兵団を基幹として第二十七師団に編制された。

支那駐屯軍(軍司令官:田代皖一郎(たしろかんいちろう)中将*、参謀長:橋本群少将)の編成は、
基幹 支那駐屯歩兵旅団(旅団長:河辺正三(かわべ まさかず)少将)
1)支那駐屯歩兵第一連隊団*(連隊長:牟田口廉也(むたぐち れんや)大佐)
2)支那駐屯歩兵第二連隊(連隊長:萱嶋高大佐)
支那駐屯砲兵連隊(連隊長:鈴木率道大佐)
支那駐屯騎兵隊 (隊長:野口欣一少佐)
支那駐屯工兵隊 (隊長:大賀茂久次少佐)
支那駐屯戦車隊 (隊長:福田峯雄少佐)
支那駐屯憲兵隊 (隊長:赤藤庄次中佐)
支那駐屯通信隊
軍病院

(1)田代皖一郎(たしろかんいちろう)中将は 、1881.10.1佐賀生まれ。1903.11陸軍士官学校卒(15期)、1904.2歩兵少尉、1913.11陸軍大学校卒、1915.6参謀本部部員(支那課)、1921.9ワシントン会議随員、1922.4中佐、1923.3参謀本部付(漢口駐在)、1924.12大佐、歩兵第30連隊長、1926.3参謀本部支那課長、1929.10欧米出張、1930.8少将、歩兵第27旅団長、1931.8支那公使館付武官、1932.2臨時上海派遣軍参謀長、1933.8関東軍憲兵隊司令官、1934.8中将、憲兵司令官、1935.9第11師団長、1936.5支那駐屯軍司令官(天津)、1937.7.16死去。病気の為、7月11日付けで軍司令官は香月清司中将が親補された。
(2)支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊長は後の太平洋戦争のガダルカナル島攻防戦に加わった一木清直少佐で、1942年8月18日、ガダルカナル島タイボ岬に無血上陸できたものの、白兵攻撃は失敗し21日には戦死。

写真(右):1937年7月(?)、北京郊外の盧溝橋(Marco Polo Bridge:Lugou Bridge)で守備を固める中国国民革命軍・第二十九軍第37師の将兵;中国北京市南西15km、永定河(当時は盧溝河)にかかるアーチ式石橋の盧溝橋は、1192年に完成。全長266m、長さ11mで、アーチ11基、橋の欄干の獅子像501基。この獅子像の一つが、兵士の後方に見えている。金王朝のときからあるので、元朝のマルコ=ポーロの旅行記にも言及されていて「マルコポーロ・ブリッジ」とも呼ばれている。 清朝の乾隆帝が、盧溝橋で月を愛でたことを記念して碑文「盧溝暁月」が橋の袂に建立されている。これは満州文字で刻まれている。
Description English: In the year of 1937, the Chinese Army 29 was fighting to guard their motherland against the Japanese invaders. Date 17 October 2013, 01:46:23 三連生活周刊
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Lugou Bridge File:Army 29 Fighting 1937.jpg引用。


◆1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)当時、日本の支那駐屯軍(1912年までの清国駐屯軍)の兵力は5771名にすぎないが,満州には,関東軍があった。関東軍の兵力は20万名,中国の第29軍に十分対抗しうる。ただし、日本の満州駐留軍、すなわち関東軍は,満州との国境でソ連軍との戦闘がありうるため,満州から中国へ派遣できる兵力には限界があった。朝鮮半島にも日本軍(朝鮮軍)が配備されていたが、これもウラジ・オストークなど沿海州のソ連軍に対抗する配備である。したがって、関東軍、朝鮮軍を中国華北・華中に全て移動するわけにはいかない。

◆1937年7月7日、北京郊外で盧溝橋事件七七事変)が勃発した当初、中国軍に比較して、陸上兵員数ではるかに劣勢にあった中国駐屯の日本軍だったが、戦車・火砲・航空兵力の質と量は中国軍より優位だった。艦船や海軍力の点では、圧倒的に日本軍が優勢だった。 過去の戦歴からみて、士気が低く装備劣悪な中国兵に対して、士気旺盛な日本兵は五分の一の兵力で対抗しうるというのが経験則となっていた。さらに、日本の船舶保有トン数をもってすれば、日本本土から兵力を派遣することも容易である。(実際、中国に派遣軍を送ることになった。)

◆国家の指導者、国民統合の観点から、中国は分裂状態にあり、「中国人」という国民意識は生まれたばかりであると、日本人は認識していた。日本軍指揮官(政治的指導者も)は、分裂国家中国に軍事的打撃を与えれば、士気沮喪し、宥和的になり、日本に卑屈な態度をとって譲歩すると考えていた。


写真(右):1937年7月(?)、北京で守備を固める中国国民革命軍・第二十九軍の将兵;日本軍と対峙している中国の兵士たちだが、一人は半裸になって土嚢の外に身を晒して、対峙する敵日本軍兵士に威嚇、蔑視の姿勢を三分間もとったという。敵の真ん前での勇ましい姿に度肝を抜かれた日本兵は射撃できなかったというプロパガンダのようだ。
Description 中文(簡体): 在与日軍的対峙中,一名29軍戦士在陸前選出蔑視人敵人的姿勢。三分間后他被撃敵人撃中。 Date 17 October 2013, 01:38:06 歴史网(www.lishi.net)
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Lugou Bridge File:Army 29 Fighting 1937.jpg引用。


1937年8月に起こった第二次上海事変について「上海駐留の日本海軍陸戦隊(上海海軍特別陸戦隊)4000名が、中国軍3万名と戦争を始めるはずがない」というのは、装備も空軍力・海軍力も念頭にない戦略的に無知な発想である。北京では日本軍の5倍近い兵士数を誇る中国軍を日本軍は1か月で駆逐し、北京を占領していた。

日本軍『旅作命甲第1号』(旅団宛の作戦命令)(1937年7月8日1630)「歩兵第一連隊の主力と機械化部隊を確実に掌握した後、これをもって盧溝橋を攻撃す」(『支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報』)。日本政府は、1997年7月11日に今次事件を「北支事変」と命名。日本支那駐屯軍の北平(北京)駐屯部隊は警備隊的存在で,この兵力だけでは日中全面戦争を戦うことはできない(中国軍と戦えば負ける)。1937年の盧溝橋事件時の日本軍の戦闘詳報を見ても,現地で停戦交渉を進めていたことがわかる。7月11日には停戦交渉が成立。

日本陸軍参謀本部は,日本の支那駐屯軍兵力の不足(中国軍の優位),戦闘拡大に伴うの経費・戦備の負担増加,対ソ連の兵力維持の困難,列強の反発を危惧して,華北での戦火を拡大したくなかった(不拡大方針)。

日本の軍部は、やみくもに中国を武力占領しようとしたわけでは決してない。陸軍参謀本部は、下剋上軍紀紊乱の傾向が強まっていた現地駐屯軍と対照的に,中央で国際情勢も含めて冷静な判断をし,中国との全面戦争は望んでいなかった。現地駐屯軍も、兵員数では劣勢であることを自覚し、長期戦を戦うつもりはなかった。


写真(右):1930年代中頃、中国、北京あるいは上海、イギリスの中国駐留スコットランド部隊:;英国が勝利したアヘン戦争が、軍隊の中国駐留権の嚆矢となった。その後,英国は、中国の通貨を金.ポンドにリンクする通貨改革に成功し,経済的に日本よりも有利な立場にあった。
The Seaforth Detachment of the Scots Guards was also present in Shanghai. The US Marines would sometimes engage in "Kilt Hunting." This involved finding a thirsty Scotsman, drinking him under the table, and absconding with his kilt. This was not considered an easy task. the Home Page of Pat and Chuck:My father served in the United States Marine Corps for about forty years, enlisting as a private and retiring as a colonel. These 10 linked pages cover the period from 1933 to 1938, when he served aboard the flagship of the Asiatic-Pacific Fleet, the USS Augusta (CA-31).引用。


現地の支那駐屯軍の日本軍には、牟田口廉也連隊長(1944年インパール作戦指揮官)のような強硬派が幅を利かせていた。満州事変での石原莞爾の成功(参謀本部作戦課長に昇進)以来,軍事行動は,統帥部(参謀本部、大元帥昭和天皇)に事後承認された。厳粛なはずの軍紀が、命令を出しても現地軍が守らないという下克上の心配があった。日本軍では、軍紀の乱れ(軍紀紊乱が深刻だった。上級指揮官が,満州事変の張本人であれば,部下を統制し,武力発動を抑制することは容易ではない。現地指揮官から見れば,上司のかつての独断出兵を見習っているだけである。

中国国民党と共産党の対立もあった。1936年の西安事件が契機となって、翌1937年,「第二次国共合作」がなったが,1937年7月7日、北京郊外での盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident)勃発時,中国国民党「国民革命軍」と中国共産党軍「紅軍」が一体となった国共統一抗日軍(後の国民革命軍)が編成されているわけではない。中国共産党軍「紅軍」が国民革命軍「八路軍」に改編されたのは,盧溝橋事件勃発から1ヵ月半経過した1937年8月25日である。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)では,日本軍に抗日救国学生の一隊が日本軍に発砲することで,中国共産党に対して攻撃を準備していた国民党軍を抗日戦争に転換させた,という陰謀説が唱えられる。統一抗日軍が編成されていない状況では,この陰謀説はわかりやすい。

1937年7月7日、北京郊外での盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident)の混乱の中で,散発的な戦闘が続くが,決定的だったのは,日本と中国がともに戦争回避を「軟弱外交」として避けて,日中双方の指導者がリーダーシップを発揮し,軍隊を動員したことだった。発砲事件が戦争にまで発展する必然性はない。しかし、盧溝橋事件が日中戦争に至った理由は、日中両国が敵対関係にあったからである。現在、在日米軍の不祥事が日米戦争に至らないのは、日米友好関係にあるからである。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)、中国共産党の陰謀で日中戦争が始まったとする評者は,北京郊外に日本軍が駐屯し,中国軍を威圧していた事実を過小評価している。石炭や農産物など資源が豊富で,市場としても有望な華北は,日本が支配下におき,「特殊権益」を認めさせたい地域だった。1936年には『昭和十一年度北支那占領地統治計画』が作られており,華北の占領が画策されていた。1937年7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北占領地統治計画を研究していたのである。したがって、日本軍の戦略が変更されない限り、日中戦争は勃発したはずだ。


写真(右):上海事変で逃げ出す難民
(1937年8月11日 Peter Kengelbacher撮影):盧溝橋事件(北支事変)から1ヶ月で,戦火は華中にも広がった。数千人の難民が,日中両軍の上海市内での戦闘を逃れるために,上海の対岸である長江北岸に避難した。

現地で日中両軍の停戦合意がなった7月11日午後,日本では首相近衛文麿が華北への増援部隊出兵を閣議決定,午後6時半に華北増派の声明を発表。この直後、支那駐屯軍から午後8時に停戦合意した旨の報告が入電。リーダーシップ発揮に囚われた首相に取り消すつもりはない。部隊増派を決定した日本軍に派遣を中止するつもりはなく,2コ師団を現地に派遣。権威を重んじた指導者は,豹変できなかった。

中国軍の大兵力に威圧され,怖気づいた日本軍という汚名をそそぐために,衝突から5日もたたない7月11日、近衛内閣は、中国への増援部隊派遣の閣議決定。世界に向けて、中国に対する強硬姿勢を公表した。ここでは,不拡大方針を謳ったが,近衛文麿首相は「出兵を決定して、日本の強硬なる戦意を示せば、中国側は、折れてくる」と信じていた。この7月11日華北出兵声明は次の通り。

関東軍朝鮮軍(満州と朝鮮半島に駐留するに日本軍)が準備した部隊を急遽,支那駐屯軍に増援する。さらに,内地より部隊を動員して北支に急派する必要がある。東亜の和平維持は,(大日本)帝国の念願するところであり,今後とも局面不拡大・現地解決の方針を堅持して平和的折衝の望みを捨てず,支那側の謝罪および保障という目的を達したるときには,速に派兵を中止すること勿論なり」

写真(左):北京を行進する日本軍(1940年米海兵隊員撮影):1937年7月末以来,中国軍を撤退させ,圧倒的な兵力で北京を支配下に置いた。列国の権益には手を出さなかった(出せなかった)ため,増派された日本軍より兵力的に劣る列国の駐屯部隊は黙っていた。Fourth Marines Band: "Last China Band"(fourthmarinesband.com)引用。

増援決定を喜んだ現地の日本軍(支那駐屯軍)は,1937年7月13日段階で、中国軍に北京からの撤退を求めた。そして,撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。つまり,日本軍の北京進駐という暴挙を中国に要求した。中国やそこに利権を持つ英米列国から見ても,日本軍の侵略性は明らかだった。1941年11月,米国政府が,日本政府に対して,中国・インドシナからの撤兵を求めたハル・ノートと比較するとよい。中国軍が旧都北京(北平)から撤兵できないことを見越した日本の強硬な要求は,戦争を仕掛けるための陰謀とも考えられる。

無理難題を押し付けて,それを遵守しない,誠意のある回答がないとして,戦争の契機を作ることができる。太平洋戦争の勃発と比較すると、米国は日本の明らかな先制攻撃を望んだが,日中戦争の勃発では、盧溝橋事件という日本が中国軍が先に発砲を受けたという小事件が導火線になったという点で違いはある。

1937年7月7日、中国北京郊外での盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident)は、夜間演習中の日本の支那駐屯軍兵士に、中国軍が発砲したらしいという,客観的判断が困難な発砲事件である。しかし、日本は中国へ軍隊を増派し、中国軍に北京からの撤退を強硬に要求した。そして、中国軍が北京から撤兵しないことを理由に、日本は「北支事変」として戦争を始め、国際的な反発を招いた。既に東北三省を奪って満州国を建国し,その後、熱河省を占領した日本は,国際的に孤立し始めていた。義和団事件後の北京議定書で認めさせられた外国軍駐留権、それを論拠にした華北への日本勢力伸長、北京の郊外での日本軍の夜間演習は,中国人の国家・国民意識に照らせば、屈辱的なものであった。ナショナリズムが興隆した中国人は、日本軍の挑発に対して、軍民共同で抗戦すべきであるとの気運が高まった。

日本軍には中国華北占領の意図は,『昭和十一年度北支那占領地統治計画』に明確に述べられている。1937年7月7日、北京郊外での盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident)以前に,日本陸軍は華北の占領地支配を研究し,「昭和十一(1936)年九月十五日調整」の「華北占領地統治計画」を作成した。作成部局は支那駐屯軍司令部。
甲案は,華北全域に作戦行動が展開される場合(現実にそうなった)で,河北、山東、山西各省の鉄道に沿って,冀察地区(河北省、北平・天津両特別市、外長城線以南の察哈爾省、黄河以北の河南省),山東地区(山東省と青島特別市),山西地区(山西省)に侵攻し,占領地統治が実行する計画である。華北占領当地の目的は,「国防用資源ノ獲得」と「満州国並内蒙方面ニ作戦スル軍ノ背後ヲ安全」,すなわち対ソ戦争における華北方面の安全確保である。(京都大学大学院文学研究科永井和教授引用)

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿(1891〜1945):1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとした。息子は米国スタンフォード大学に留学させた。 国立国会図書館:近代日本人の肖像;歴代首相等写真(National Diet Library)引用。

近衛文麿は、1937年第1次近衛内閣を組閣,1937年7月に日中全面戦争を開始し、1938年1月16日、蒋介石の「国民政府を対手(あいて)とせず」の発言と宣言して、戦争を泥沼に引き入れた。近衛は三次にわたり首相を務め、政権を担っことになるが、?1937年7月の日中全面戦争の開始、?1938年11月3日の東亜新秩序建設・新体制の提唱、?1940年9月23日の北部仏印進駐、?1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟の締結、?1941年4月13日の日ソ中立条約、?1941年7月の関特演と東軍南部仏印進駐、?1941年9月6日の帝国国策遂行要領(対米要求が10月上旬までに貫徹できなければ対米英蘭の開戦)の決定、など重要な国策が決まったのは、近衛文麿政権での出来事である。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)は、北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘が華北,華中に戦火拡大した。これを決定的にしたのが,蘆溝橋事件に関する近衛文麿首相による1937年8月15日「暴支膺懲」の声明である。

帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。
然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化(共産党)勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。
更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。

1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,忠告南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」


写真(右):朝鮮・台湾・南樺太・満州を支配する大日本帝国
(1937年頃);盧溝橋事件以前に,日本は内地の本来の領土の2倍以上を勢力下においていた。しかし,さらに中国の華北・華中に占領地を拡大し,華南の沿岸部の都市も攻略した。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)後に、中国で戦火が拡大した理由:
1)日本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,少数兵力でも,果敢に中国軍と戦い、弱腰であるとの印象を与えなかった。

2)中国軍は,日本軍よりも遥かに優勢で,国内が団結すれば,国際的支援も受けつつ,日本軍を抑えることができると判断した。

3)中国軍に敗北を喫するわけに行かない日本軍は兵力を増派し続けたが,これは中国支配を意図しているとみなされた。そこで,中国は,軍民一丸となって,日本軍に抵抗した。

4)日本は,中国の高まる交戦意志,戦意を認識できず,統一抗日軍を編成できるとは考えなかった。そこで,中国の政治経済の中枢(北京、上海、南京)を攻略すれば,日本は勝利できると誤解した。政治経済中枢に戦禍を拡大した日本は、列国からも反感を買った。

5)米英は,自国権益の維持・拡張に関心があり,日本の中国支配を認めない。日本軍による残虐行為には,米英の一般市民も反感を抱いた。民主主義の列国は,反日感情に支えられた世論を背景に,対日圧力を強めた。

6)日本国民も権益を確保し,居留民を保護すべきであるという愛国心が強まり,プロパガンダに影響され,中国支配が日本の繁栄に繋がると錯覚した。

7)満州に隣接する華北で、日本に反抗する動きが中国国民党政府、中国軍,中国国民にあるために,満州の安定が望めない。このように、日本は、中国がアジアの安定・平和を阻害していると考えた。満州の権益維持のためにも,中国国民政府を屈服させようとした。

8)中国政府における共産党勢力が拡大し、共産主義の思想は、日本の国体・天皇制の護持には相反する。そこで、日本は、中国での新政権樹立を目指す。これは、中国・米英の側からは、中国の分裂工作、傀儡政権である。


満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が、日本軍が華北に置いていた支那駐屯軍(1912年清国駐屯軍を支那駐屯軍と改称)に対して先制攻撃しないように指示していた。しかし、1937年7月7日、中国北京郊外での盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident)勃発後、近衛文麿首相の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。

写真(左):中国国民党政府総統・蒋介石;満州を占領され,さらに北京も攻撃されるなか,中国軍民の反日感情は高まっていた。このまま,中国の世論を無視することは,中国の最高指導者蒋介石にはできなかった。抗日戦争を開始しなければ,中国軍の支持を失い,失脚したであろう。1937年7月17日廬山の最後の関頭の演説では,事実上の対日宣戦布告をする。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

そして翌日7月19日、この最後の関頭の演説が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲が高まり、現地中国軍第29軍司令官宋哲元と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がなくなった。日中両首相(最高級の指導者)によって戦争が決定され,世界に公表された以上、停戦申し込みは,敗北を意味する。日中両首相の戦争宣言は、日中全面戦争の開始となった。

日中双方の世論とも,相手を軽蔑し憎むようになった,あるいは仕向けられた。愛国心に駆られた国民世論を背景に,日中戦争が開始されたのであれば,盧溝橋事件でどちらが先に発砲したかという陰謀説など取るに足らない。敵対的だった二つの軍隊、すなわち中国軍第29軍(司令官宋哲元)と日本陸軍支那駐屯軍が隣接して、北京に駐屯していたことが問題を大きくした。盧溝橋で誰が発砲したかといった犯人捜しをて全面戦争開始の原因とするのは、戦争に至る全体像を見失っており、誤りである。国民の敵対的世論、差別感情、政府間の不信感を背景に、盧溝橋事件が日中戦争に拡大した。日中両国が友好関係にあれば、誤射事件で済ませることも可能だった。

1932年の満州国成立から5年経過しており,中国政府・国民の忍耐の限度を超えて,依然として日本軍が中国に居座り、満州を奪った上に,新たに華北にも日本陸軍の支那駐屯軍(1912年清国駐屯軍を支那駐屯軍と改称)を増援したことがが,戦争の原因になった。中国の領土内で、中国軍が自国の軍隊を擁しているのは、当然である。日本陸軍支那駐屯軍(1912年清国駐屯軍を支那駐屯軍と改称)が北京近くで夜間軍事演習を行い,兵隊が行方不明になったから,市内を夜間捜索するというのは,まさに暴虐な振る舞いである。もとをただせば,華北の中心都市北京(正式には北平)郊外に,満州を占領した日本軍が駐屯していること自体,高まってきた中国の民族意識を大いに刺激することだった。「中国人としての民族意識など無かった」と日本人が認識していたのであれば,そのこと自体,愛国心が沸き立ってきた中国人(漢民族)には許しがたい侮辱だったであろう。満州事変以降,「中国人」による日本製品排斥(ボイコット),反日活動,反日デモ,反日ストライキは,しばしば起こっていたのであって,それが日本人の中国人への反感を高めていたのであるから。

1937年7月7日の盧溝橋事件七七事変)後、日本は、暴支膺懲を戦争の理由としたが、盧溝橋事件後の日本軍の強硬姿勢は、中国から見て、暴日膺懲に値する。横須賀郊外で夜間軍事演習をしていた米軍に行方不明者が出たとして、米軍が市内を夜間捜索させろと要請してきたら、日本政府はどうするのか。

写真(左):上海駐屯の米海兵隊(1930年代中頃):「国際都市」上海では中心街は,英米日などの共同租界で占められていた。左隅には,店主の孫氏の贈とある。金払いのいい外国人を(半植民地化していると批判したり,外国商品をボイコットしたりするのではなく),顧客として歓迎する中国人商店やビジネスマンも多数いたに違いない。友好的関係が結べるかどうかは,政策だけではなく,個々人の意識,金銭感覚の問題でもある。The cosmopolitan nature of Shanghai in those days is evident in the signs displayed by this store. The picture is inscribed from the shopkeeper to "Mr. Mack." the Home Page of Pat and Chuck:My father served in the United States Marine Corps for about forty years, enlisting as a private and retiring as a colonel. These 10 linked pages cover the period from 1933 to 1938, when he served aboard the flagship of the Asiatic-Pacific Fleet, the USS Augusta (CA-31).引用。

1937年7月7日、中国北京郊外で盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident)が勃発し,すぐに「暴支膺懲=中国を罰する」ために日本軍が増援されることになれば,中国軍は,増強される前に日本軍へ反撃を計画する。もし攻撃するなら,敵が弱体なうちに叩くべきなのは軍事常識である。盧溝橋事件が、日中戦争に拡大したことを、中国の好戦的な攻勢に求めるのは、明らかに無理がある。

写真(左):1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件で生じた北平市附近、宛平(えんぺい)県上城の壁に残る砲弾の破壊跡;781年に唐朝により幽都県として設置されたが、1012年に遼朝により宛平県と改称された。宛平県城は、大半が破壊、撤去されていたようが、現在では宛平古城として復元されている。宛平県には、1987年に廬溝橋事件(7・7事変)50周年を記念して中国人民抗日戦争紀念館が開館した。館長のごあいさつでは、「中国人民の抗日戦争は世界反ファシズム戦争の重要な構成部分であり、それは最も先に始まり、続いた時間も最も長く、世界反ファシズム戦争の東方戦場における主戦場でした。中国人民は世界反ファシズム戦争のためにきわめて大きな民族犠牲を払い、きわめて大きな貢献をしました。中国人民の抗日戦争の勝利は中国人民の日本軍国主義の侵略に抵抗する勝利ばかりでなく、同時に世界の正義と平和勢力の勝利でもありました。それは中国の民族独立に対し偉大な歴史転換の意義をもつのみならず、古い植民地的侵略と支配を変え、平和共存、公正で合理的な国際関係の新しい構造を確立することに対しても、同様に重要な影響を及ぼしました」とある。展示面積は6700平方メートル。戦利品として鹵獲した日本軍の九四式山砲、九二式歩兵砲、九二式重機関銃、十一年式軽機関銃、九九式歩兵銃、三八式騎銃、ガス弾、防毒マスク、銃剣などが収蔵されている。
Description 中文: 七七事変坑日址。 Date 15 May 2016, 12:50:10 Source Own work Author 三?
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Lugou Bridge File:七七事??坑?址.JPG引用。


1937年7月25日には,北京-天津間でも新たに戦闘が始じまり,日本軍の増援部隊の到着後、7月26日には支那駐屯軍(1912年清国駐屯軍を支那駐屯軍と改称)が北京市内(城内)に突入しようとしたため,日中両軍が衝突した。日本軍は,北京城内に立て籠もる中国軍第29軍(司令官宋哲元)に鉄槌を加えて,日本軍の強さを見せつける懲罰(お仕置き)を試みる。

1937年7月28日,支那駐屯軍は,航空機の協力も得て,北京を攻撃した。しかし,中国軍は,日本の猛攻に会い,歴史ある北京の街を戦火で焼き尽くすのを避ける目的もあって,北京から撤退した。こうして,日本軍は北京を1日で制圧してしまう。軍の撤退を敗北と同一視している日本軍は,敵中国兵力の10分の1で勝利した,中国軍の士気、戦意は低く弱いと錯覚する。撤退は,「転進」,すなわち新たな軍事行動の準備かもしれない,とは思わなかったようだ。

写真(右):1938年3月出征する兵士(京都東山区);出典に「番頭さんの出征を、主家にて見送った時の記念撮影です。店の間の奥に、昭和天皇の写真(御真影)を中心に祭壇を拵えています」とある。京都府website「写真で見る人と自然環境・地域共同体とのかかわりの変化」引用。

7月29日には日本の反中国感情を一気に高める日本人虐殺事件が通州で起こった。これは、日本に協力的なはずの中国傀儡政権「冀東防共自治政府」の保安隊(軍隊)が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260名を殺害した事件で、通州事件と呼ばれる。

盧溝橋事件後、親日(日本の傀儡)政権「冀東防共自治政府」に所属する保安隊は、中国国民党政府が1935年に設置した「冀察政務委員会」(きさつせいむいいんかい)の第29軍(司令官宋哲元)と戦闘状態にあった。しかし,日本機が、冀東防共自治政府の保安隊を誤爆してしまう。また、7月28日には日本軍は北京周辺を占領し、中国全土で反日感情が高まり、抗日戦争も始まっていた。このような愛国的な活動の広まりに直面し,日本軍に協力すべき保安隊が,日本人を虐殺した。これが、通州事件で、暴支膺懲(ぼうしようちょう)に繋がってゆく。

冀東防共自治政府保安隊の第一総隊長張慶餘(1895-1963)は,1937年7月の盧溝橋事件で第 37 師の師長馮治安は(河北省主席でもある)に連絡し、師長馮治安は第29軍の日本軍攻撃に呼応して、通州でも決起するように言ったともいう。中国国民党政府(南京政府)は、兵力的には日本軍よりも10倍以上優位であり,7月17日の廬山における最後の関頭演説にみるように、蒋介石の抗日戦争への意思も強い。そこで、愛国的な感情の高まりも作用して、張慶餘ら通州の中国人保安隊は,馮治安師長の決起命令を受けて国民党政府への寝返りを決意した。南京政府への忠誠を証明するために,通州で日本人を殺害したのであろう。日本人に残虐行為を犯せば、日本軍とは決別し、中国国民党側につくことができると期待した。中国人保安隊(本来は日本軍の協力部隊)が,中国軍に寝返り,受け入れてもらうためには,日本人虐殺という取り返しのつかない証拠を示す必要があった。


写真 (右):惟襟に侵攻した日本軍の九四式装甲車
『歴史写真』1939年4月号。 7.7ミリ機銃1丁を搭載した一種の豆戦車。偵察・捜索と歩兵部隊への攻撃が任務であり、対戦車戦闘は考慮されていない。

1937年(昭和12年)7月29日の通州事件は、大々的取り上げられ、暴虐な支那を懲らしめよとして、暴支膺懲(ぼうしようちょう)の世論を盛り上げた。中国軍の残虐性を訴え、日本軍の華北侵攻を正当化する反中プロパガンダも行なわれる。しかし,このような局所的な非正規軍による日本人虐殺事件を持って,中国政府と全面戦争を始めるとしたら,筋違いであろう。通州事件の報復であれば,この保安隊を攻撃殲滅するか,保安隊をかくまう国民政府に対して,その引渡しを要求すべきである。しかし,通州事件に対処する外交交渉は一切ない。日本軍の対応は、中国国民党政府への武力攻撃であった。

日本の対中国戦争は,国民政府が1937年7月29日の通州事件の首謀者であると判断したための報復措置なのか。中国人が日本人を殺したから,日本人が中国人を殺しても良いと考えたのか。妊婦の腹をえぐり、レイプした女性の陰部を銃剣で刺し、2歳の子供を射殺する---。このような中国での日本人残虐事件に対しては,現在でも非難が続けられているが,これはアイリス・チャン(Iris Shun-Ru Chang:1968-2004)の南京虐殺に対する反応The Rape of Nankingと対比される。

義和団事件とそれを継承する北清事変でも同じような虐殺事件が通州で起こったが,この1937年7月29日の通州事件の惨事を目撃した奥村五百子女史は、寺院で仏教の陶冶を受けていただけに、兵士が命がけの任務をこなしてくれているからこそ、日本の家庭生活の安定があると覚醒した。そして、生死をかけて戦ってくれる兵隊さんのために, 奥村五百子は「私たち日本の女子にもできることをすべきである」と、帰国後,日本全国で訴えた。1901年、貴族院議長近衛篤麿(近衛文麿の父)が後援し,愛国婦人会が創立された。公家・旧大名の近衛篤麿は、1863年文久3年、京都に生まれ、1904年1月1日に亡くなった 五摂家筆頭の家柄で、1885年から渡欧し、ボン、ライプチヒ両大学に学び、対外硬派として、東亜同文書院を設立し、学習院長、枢密顧問官を歴任した。 五摂家筆頭近衛篤麿が後援した愛国婦人会は、上流婦人のみを対象とした構成で、兵士の見送り,留守家庭や戦死者を出した軍人遺族の支援を行った。1937年には会員数380万人である。

写真(左):京都市の国防婦人会の不要品供出活動(1935-38年京都市中京区烏丸一条);張り紙には「力を合わせて愉しく生活御奉公・これまでのやうに、一軒づつバラバラの生活では、ずゐぶん無駄や間違ひが多かった。みんなが協同してやれば、まだまだ物も力も生まれて来るし、明るい愉しい気持ちで,もっとお国のお役に立つことができる。…」と書かれている。女子も戦争の一翼を担っているとしたら,それを攻撃する無差別爆撃も正当化されるのか。日本は米国に,中国は日本に無差別爆撃される。(但し,京都は爆撃されていない。公益財団法人京都市文化観光資源保護財団引用。


1934年には,陸軍・海軍大臣など現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督・後援を受けた国防婦人会も結成された。1934年の会員数は750万人である。兵士・兵営を支える家族、社会も戦争に参加しているのだと、彼女は理解できた。日本軍が中国で戦っており、「戦場(軍事衝突の起きる場所)」は中国にあるが、「戦争」には戦闘に加えて、資源採掘、生産、流通、消費、輸送などの局面があり、日本国内でも戦われている。

戦争とは、銃火を交える戦闘、住民虐待行為だけではなく、兵士を送り出す家族、会社員、兵士の食料・軍服・兵器を生産する労働者、軍事費の財源を徴税する行政官、兵士を運送する輸送船乗員によっても、戦われている。戦争に参加しているのは、全国民、植民地の住民すべてである。現在でも激戦地にだけ注目して「イラクで戦争している」ということがあるが、これは戦争=戦闘という矮小化であり、戦争の本質を誤解に導く言い方である。

2.中国の政治経済の中枢である江南地方に広がる戦火

写真(右):上海駐留の米海兵隊第4連隊(1930年代か):「海兵隊は,中国軍も日本軍に威圧されたり脅えたりしたことはない。戦火を恐れて撤退したことは一度もない」と主張する。しかし,本格的な戦闘が仕掛けられたらば,1,600名程度の歩兵だけ(航空機も重砲もない)では,勇敢に抵抗しても,瞬時に壊滅してしまうであろう。あるいは、降伏して捕虜になるかである。米国をはじめとする列国の中国駐屯軍は,優秀なバンドを結成するなど,国を代表する見栄えのいい儀仗兵的な役割が重視されていた。Fourth Marines Band: "Last China Band" ,Additional Fourth Marines Band in China Photos and Information引用。
The cosmopolitan nature of Shanghai in those days is evident in the signs displayed by this store. The picture is inscribed from the shopkeeper to "Mr. Mack." the Home Page of Pat and Chuck:My father served in the United States Marine Corps for about forty years, enlisting as a private and retiring as a colonel. These 10 linked pages cover the period from 1933 to 1938, when he served aboard the flagship of the Asiatic-Pacific Fleet, the USS Augusta (CA-31).引用。


中国側は,日本の真の意図は,北京一帯、華北の占領,さらに,中国主要部を支配下に置くことではないかと思案せざるを得ない。こうなると中国国民党蒋介石総統は,中国諸派の団結を図らなくてはならなくなる。蒋介石総統は、国共合作(中国国民党と共産党の連携によって日本軍に対抗する)には反対していた。しかし、蒋介石は共産軍を攻撃していた部下の中国国民党の将軍張学良(満州事変の契機となる鉄道爆破で日本軍に殺害された張作霖の息子)によって,1936年、西安で軟禁されてしまう。これが西安事件であり、軟禁された中国国民党蒋介石は、共産党の周恩来と交渉することを強いられてしまう。

中国国民党総統蒋介石は,1936年の西安事件からも分かるように,不本意ながら,国共合作に合意を表明しただけであった。しかし,日本の強硬姿勢(軍事的恫喝),北京への攻撃が迫ってくれば,中国国民の反日感情が高まり,抗日運動も盛んになる。このように愛国的感情が蔓延する状態で,一致抗日,日本反抗ができない中国の指導者は,もはや指導者の器にあらず,リーダーシップは期待できない--と見放されてしまう。中国国民党の国民政府を率いる蒋介石といえども、内外の一致抗日の愛国的世論を汲み取って,抗日戦争を決意しなければ,退陣、放逐を余儀なくさてしまう

写真(左):上海駐屯フランス軍部隊(1937年上海事変の時):仏軍も英軍同様に,植民地人(外国人)部隊を組織した。外国に駐留するのに,宗主国フランス人自らが武力で中国人を威嚇するのではなく,支配下にあるベトナム兵(傘を被っている)にやらせたほうが。フランス人が中国人の反感を買わない。ベトナム人が中国人と反目することはかまわない----ということ。

英米も,繁栄を遂げている租界や貿易・投資に悪影響がでるために,国際協調を無視した日本の軍事行動を支持しない。もともと,米国、イタリア、ポルトガルなどの中国駐留軍は,各々200-1600名程度で、日本軍は3000名、最大の英軍も1万3000名程度(多数ある海軍艦艇の乗員やインド義勇軍も含む)であり、増援を受けた数万の日本陸軍に対抗できる規模の兵力ではない。駐屯部隊は,警備,儀仗兵として認識され,中国や日本など一国の軍隊と戦うことはもとから想定されてはいない

しかし,英国は植民地インドにはインド兵,特にシーク教徒、グルン族のグルカ兵、ビルマのカレン族兵士を擁しているし,シンガポールには造船所,良好な軍港・砲台・要塞を整備してある。英国は,香港を99年間借地し,自国と同じように管理,支配し,やはり要塞を築いている。フランスも植民地インドシナ(現在のベトナム,ラオス,カンボジア)ベトナム人部隊をもっている。米国も,植民地フィリピンに米軍が駐留し,フィリピン兵からなるフィリピン軍(比軍)も米軍の配下においている。オランダは,植民地インドネシアで資源採掘,商品作物の強制栽培を行い,中国への進出はあまり考えていないが,マラッカ海峡の重要性と欧州における対ドイツ政策の上から,英国軍との連携を重視している。

写真(左):中国共産党「八路軍」兵士:共産党は,八路軍と新四軍の二軍を整備した。1941年8月、Ma Baoyu, Hu Delin他5兵士は,河北省の山野で日本兵を駆逐した英雄として賞賛された。この先頭で活躍した八路軍兵士5名のうち3名は死亡し、生還したのはこの写真の2名のみ。

ソ連も中国共産党に,コミンテルンの指令として,中国国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように指令している。実際,西安事件で中国共産党も,国共合作に合意し,国民党の張学良将軍が軟禁した蒋介石を釈放することを認めている。ソ連は、中国の共産主義化よりも、軍国主義の日本に対抗することを優先するという現実主義路線の路線を採用したのである。そればかりではない。後に日本と防共協定,国民党三国軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,三国軍事同盟締結の機運が盛り上がった1938年までは、中国に軍事顧問団や武器を提供していたのである。

ドイツは1898年、山東半島太平洋岸に位置する良港青島(チンタオ)を租借するが,青島は,第一次大戦の時,1914年8月15日に日本軍・英軍に包囲された。青島のドイツ軍兵力は4000名にすぎなかったから,10倍以上の敵日本軍に1914年11月7日に降伏する。したがって,第一次大戦の対日敗戦を、20年後のドイツ軍人は怨恨をもっており、日本への報復の意味を込めて,中国軍を支援してもおかしくはない。1927年以来、ドイツは、第一次大戦敗北で失職した軍人が,傭兵的に中国に雇われ,軍事技術,戦術面で指導をしていた。

写真(右):「長征」した毛沢東,朱徳(軍司令官),周恩来(政治・渉外);1934-1936年にかけて,国民党が共産党に対し「囲剿」攻撃をかけたため,共産党は長躯転進(長征)し,最終的には陜西省延安に根拠地を設けた。これを根拠地の移動・共産党の勢力拡大とみるか、共産軍の敗退とみるかで、長征の評価は分かれる。

ドイツの対中軍事協力は,1927年に戦略動員局のマックスバウアーMax Bauer)大佐が,蒋介石と会談したことから本格化する。1928年に中国軍の兵力は225万もあったが,訓練が行き届いていなかったため、バウアーは小規模の中核となる軍隊の創設を提案する。1933-1935年,ワイマール共和国のドイツ陸軍総司令官だったゼークト将軍も中国に滞在した。目的は,中国における共産党軍の討伐、戦地における戦術実地研究と兵器の性能テストである。公的なドイツ軍事顧問団も中国国民党政府に派遣された。軍事顧問団は、フォン・ファルケンハウゼンvon Falkenhausen 将軍など20数名の元将校と10数名の民間人からなっていた。第一次大戦で,ドイツは山東省において,日本軍と戦い敗北を喫していたから,ドイツ軍人の中には,日本に対する報復や攻撃を躊躇するものはほとんどなかった。

中国との兵器取引のために、1935年貿易会社HARPO(Handelsgesellschaft zur Verwertung industrieller Produkte)が設立され,ドイツは兵器を中国に大量に供給し始める。1936年に独中政府はハプロ条約を締結した。これは、ドイツは中国に武器を供与する見返りに、モリブデン,タングステンなど兵器生産に必要な希少金属を輸入することを取り決めた条約である。加えて、ドイツから1億マルクの対中借款協定も成立した。外貨資金手当てが可能になった中国は、小火器、火砲などを、ドイツから輸入した。ドイツ軍事顧問団も、国民党軍に、陸戦、特に陣地構築に関する有益なアドバイスをしたらしい。1937年8月以降,上海事変や南京攻略で苦戦した日本陸軍は、ドイツの軍事顧問団のおかげで、本来は二流の中国軍でも頑強な抵抗ができたのだと、言い訳をするほどであった。ドイツと中国の取り決めでは,1937-38年に中国軍20コ師団を訓練することになったいたが,1937年の上海事変の際には、訓練中の師(団)は8コだけであった。


写真(左):ドイツ式ヘルメットを被り、ドイツ式軍服を着て、ドイツの7.92ミリ口径モーゼル小銃(騎銃)を持つ中国兵
(1937年第二次上海事変の時の撮影):中国の国民党政府は、1927年からドイツ軍事顧問団を受け入れ,ドイツから借款によって大量のドイツ製武器を輸入し、日本軍、共産党軍と戦った。

イタリアも1932年にムッソリーニの腹心(娘婿)の外相チアノCiano中伊友好をすすめた。そして,中国政府は,イタリアから,少数ではあるが,フィアットFiat社の航空機を購入する事を決めている。イタリア海軍も,中国水兵の訓練を行っている。

米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。さらに,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの軍用機を入手できるるようになった。

 蒋介石の中国国民政府は、1937年7月の日中戦争勃発の時点で、ドイツ、イタリアなど親日的な国からも、資本主義のアメリカからも、軍事援助を受けていた。さらに、1937年8月21日に締結したした中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に締結した蒋介石は、共産主義のソ連からも軍事援助を受けた。これほどの有力な列国からの軍事援助を得られたことは、中国外交が日本の孤立化に成功した証である。同時に、中国外交の成功は日本の指導的外交官のコミュニケーション能力の低さ、発想の貧弱さを示しているようだ。

写真(右):ドイツ式装備の中国国民党軍:蒸気機関車で前線に向かう中国軍が,見送りの中国人を前に歓声を上げる。

1936年の日独防共協定には,翌年からイタリアも参加し,日独伊三国防共協定となった。そこで,ソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため,同じ反日の中国との友好を求めたといえる。そして,蒋介石の反共的性格を知りながらも,中国共産党にコミンテルンを通じて,国共合作を促すなど,イデオロギーに囚われずに,自国の利益を追求している。独ソ不可侵条約日ソ中立条約,米英からの援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。また,1940年8月中国共産党は、100コ師団(日本軍の大隊規模で10万人程度か)の兵力を投入し,華北の日本軍守備隊陣地,主要な交通機関・鉄道に攻勢を加える「百団大戦」を行った。これも,国民党軍の抗日戦意を高める,抗日戦争に共産党も寄与していることを示す,といった理由のほかに,日本の対ソ兵力を牽制する目的があるかもしれない。

蒋介石は,中国軍民の支持,国際世論,列国の軍事支援をも当てにして「最後の関頭」によって抗日戦の覚悟を,世界に公言した。

華中の江南地方は,首都南京,国際都市上海,豊かな穀倉地帯と政治経済の中枢部である。1937年8月9日(攻撃目標の)上海の飛行場をスパイ中の日本軍人が殺害さたことを契機に,8月13日,日本海軍陸戦隊(上海租界駐屯)は上海で中国軍と大規模に戦火を交えた。

写真(右):上海事変の日本海軍陸戦隊(1937年7-8月?):ヴィッカース社Vickers Crossley装甲車10台以上を輸入、保有していたが,兵力は3000名程度で、中国軍よりも遥かに劣勢だった。これは、駐屯軍は、警備,居留民保護の警察力しか認められなかったからである。そこで,上海事変の際も、日本陸軍の増援部隊の派遣が決定された。

1937年7月7日、中国北京郊外で盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident)が勃発した当初、戦闘は華北にとどまっており、日本も「北支事変」と銘打った戦争を戦った。しかし、中国支配を企図するのであれば、華北よりも、華中江南地方こそが中国経済の中枢であり、占領するに値する。こうして、1937年(昭和12年)8月13日、中国江南地方の中心、上海で日中両軍の武力衝突が発生する。これが、第二次上海事変淞沪会戦)であり、日中全面戦争に拡大してゆく。

1)日本は、江南地方が中国の政治経済の中心であることを認識しており,上海共同租界の利権も、居留民の生活基盤も手放すことはできないと考えた。(これは、単なる経済進出ではなく、中国の主権侵害を厭わないということである。) 
2)上海に駐屯する海軍陸戦隊を「撤収」することは,軍人の名誉(面子)にかけてできない。列国の眼前で,アジア最強を誇る日本軍が,退却しては,沽券にかかわる。さらに,弱い中国軍,反日行動を煽動する中国政府を増長させてしまう、と日本は考えた。 
3)日本軍は,軍事的切り札として,長距離爆撃機隊を保有していた。台湾,朝鮮の済州島、九州の日本軍航空基地から,江南地方を往復して爆撃可能であり、これによって,陸上兵力の劣勢を補うことができる。上海には海軍特別陸戦隊も駐屯しており,海軍航空隊に所属する長距離爆撃機との攻撃目標に関する空地連携にも都合が良い。


写真(左):江南地方を爆撃した九六式陸上攻撃機:皇紀2496年(1936年)の下二桁の96年に制式となった新鋭「攻撃機」(日本海軍では雷撃と爆撃をする機種をこう呼ぶ)。あまり指摘されないが,この高性能爆撃機を実用化していたことが,日本・満州から遠くはなれた江南地方で戦闘を行う自信となっていた。なにしろ,敵戦闘機より高速の時速185ノット(340km)を出し,戦闘の援護は不要である(と思われていた)。

国民党蒋介石Chiang Kai-shek)の国民政府下の中国軍は,日本軍の高い戦意,優秀な経験をつんだ指揮官・兵士と強力な兵器(戦車,爆撃機,軍艦の艦載砲)の前に屈服するであろう。このように日本軍は考えていたために、江南地方に増援部隊を派遣し、兵力を集中して,短期で中国を降伏させるつもりでいた。

実は,中国側からみても,日本軍と江南での戦闘には,戦略上の重要である。

1)江南地方は,国際都市上海もあり,政治経済の中枢である。したがって,ここを日本軍に渡すことはできない。

2)中国軍の兵力を集中するには,兵力配備状況,交通の便から見て,江南地方が有利である。長江・大運河の水運、鉄道も利用できる。

3)満州・朝鮮に近い華北で中国軍が作戦を展開しても,日本による支那駐屯軍への増援は容易である。しかし,江南地方では,日本本土・満州・朝鮮にある日本軍を船舶を準備して,輸送しなくてはならず時間がかかる。江南地方では、日本は迅速な軍の展開が出来ない、と考えた。(実際、南京攻略戦では、補給が追いつかず、兵士は疲労困憊した。)

4)江南地方の日本軍兵力は上海租界の駐屯軍程度で,中国軍よりもはるかに劣勢である。中国軍が迅速に行動すれば、(十分には増援されていない)劣勢の敵日本軍を,兵力を集中し撃破できる。 

写真(右):南寧の軍事訓練中学校の女子(1937年1月17日): "Girls of a middle school military training corps", ポスターには「打倒日軍,日(本)帝(国主義)」とスローガンが張ってある。6人もの少女がポスターをみている---との写真に仕上げている。女子も抗日戦争に参加せよとの反日プロパガンダともいえるが、国民党蒋介石Chiang Kai-shek)の国民政府が,抗日戦のための思想・軍事教育をし,軍民がそれに共感していたのは事実である。

1)上海,南京のある江南地方には,列国の権益が集中しており,貿易・投資の中心である。そこで,江南地方に大規模な戦闘が生じることを列国は認めないはずだ。列国を恐れる日本軍が増援部隊を輸送して,長期に渡って中国軍と大規模戦闘を続けるとは思われない。

2)歴史ある北京を日本軍に占領され,江南地方にも戦火を広げた近衛文麿政権、日本軍に対して,中国軍民の戦意・士気はかつてないほど高まっている。中国国民の交戦意志の高まり,世論を背景に,軍民一体となって動員,抗日戦争を遂行できる。

3)抗日戦争を開始することによって,中国国民党政府の指導者蒋介石総統に行政,軍事の権限を集中でき,動員も容易になる。対日戦に勝利すれば,国民党蒋介石Chiang Kai-shek)の国民政府の地位はいっそう確固たるものになる。

このような理由から,日中両国が江南地方で戦闘を引き起こし、1937年8月13日に第二次上海事変淞沪会戦)が始まった。


3.第二次上海事変と無差別都市爆撃

写真(右):1937年8月14日中国空軍に誤爆された上海:日本海軍の海防艦「出雲」を爆撃に向かった中国機が誤爆したらしい。この場所で死傷者400名以上。1日で1300名が死傷し「血の土曜日」といわれた。スイス人カメラマンKarl Kengelbacher撮影。この同じ場所を,日本機の爆撃による被害としている解説もある。どちらが真実か。両軍とも爆撃していたのか。上空を通り過ぎる爆撃機の国籍を識別することも難しいが、爆弾を落とした瞬間を目撃して、国籍を突き止めることはもっと難しい。被爆者は、爆撃機を目撃することはなく、負傷するか死ぬのみである。

日中全面戦争になった以上、中国の政治経済の中枢への攻撃、中国軍主力の撃破、国民党政府の降伏が、日本の戦略目標になる。1937年8月14日、日本海軍航空隊は、植民地台湾(併合でも,大日本帝国憲法は台湾人には適用されず、日本人としての権利は認められていない)から杭州を爆撃し,続いて長崎県大村基地から南京を渡洋爆撃した。これは、三菱九六式陸上攻撃機(中攻)による都市爆撃である。

しかし、日本海軍の爆撃部隊は、悪天候のために上海沖の航空母艦「加賀」の艦上戦闘機による護衛を受けられなかった。そのために、爆撃機を迎撃してきた中国空軍機のカーチス・ホーク戦闘機は、中攻撃墜に成功する。しかし,日本海軍は,装甲艦(旧式戦艦)を改造した海防艦「出雲」9700トンや砲艦(ここでいう海防艦も事実上は砲艦)を中核に遣支艦隊を派遣していた。これら艦艇で、上海の中国軍陣地(市街地)を砲撃した。中国空軍は,上海にあった海防艦「出雲」も攻撃した。

日本軍の航空兵力、海軍兵力は、中国軍よりもはるかに優勢だった。中国軍よりはるかに兵力に劣っている日本軍が,中国軍との全面戦争を企図するはずがないという議論は、陸上の歩兵にのみ注目している点で誤りである。日本軍は、航空兵力、海軍兵力で圧倒的に中国軍よりも優勢であったし、陸上機動力(戦車・トラック),艦船・上陸用舟艇による輸送力から見ても、優位であった。つまり,近代的な装備により中国軍の弱点と思われる地点に兵力を集中でき、局所的優性を占めることができた。

中国を作戦範囲とする艦隊として、第三艦隊が編成されたのは、1932年2月の第一次上海事変の時で,ここには、航空戦隊、上海特別陸戦隊(3000名)も含まれる。初代司令長官は、(1941年日米開戦の通告問題を起こした)海軍中将野村吉三郎で。1937年8月13日に始まった第二次上海事変淞沪会戦)の真っ最中の1937年10月には、新しく第四艦隊(外洋作戦用の艦隊)と第五艦隊を編成し、それを第三艦隊の指揮下に入れた支那方面艦隊を新たに編成、陸軍の杭州湾(上海南方)上陸作戦援護、中国沿岸の封鎖作戦を実施した。


写真(右):海軍大臣米内光政
;第三艦隊司令長官にも就任したことがある。1936年連合艦隊司令長官、1937年2月林内閣の海軍大臣(海相)となり、第1次近衛内閣、平沼内閣までの期間(1939年8月まで)海軍大臣に留任。1940年1月-7月は首相に就任。

当時の海軍大臣は、海軍大将米内光政、在任期間は1937年2月2日(当時は海軍中将)から1939年8月30日で、1937年4月1日には大将に昇進している。8月9日、海軍特別陸戦隊の大山中尉と斉藤一等兵が、上海の虹橋飛行場をスパイ偵察中に、中国保安隊に殺害された。翌10日の閣議で海軍側から陸軍に動員要請を行い、四相会議で陸軍部隊の上海への派兵が決定した。1937年8月13日に、日中両軍は上海市内で衝突し、その日のうちに、閣議で派兵が承認された。これが第二次上海事変淞沪会戦)である。

米内光政海軍大臣は、後年、日独伊三国軍事同盟に反対し、日米開戦に反対した人物として、日本での評価は高い。米内光政は、盧溝橋事件に際して、増援部隊派遣に賛成し、第二次上海事件で陸軍増援を要請し、南京・上海・杭州などの都市爆撃を行ない、戦火を華中に拡大した。そして、翌1938年には華南の広東、台湾の対岸も攻略し、中国を海上封鎖するなど、中国全土に戦禍をもたらした。

海軍大将米内光政海軍大臣は、米国は強いから攻撃は仕掛けてはいけないと冷静に考えていた。日本の海軍艦上爆撃機が米海軍砲艦「パネー」(パナイ)を誤爆したときには、即座に謝罪し、賠償金も支払っている。日本の中国侵攻で、米国が中国と接近、反日政策をとることはしないと予測できたのである。他方、弱いと見抜いた中国には積極的攻勢をした。

後に、日米和平に尽くす米内光政海軍大臣、海軍中将野村吉三郎といった海軍の将軍たちは、中国に対しては、米国とは全く異なった認識を持っていた。中国の海軍は、小規模で、日本海軍とは比較できないほど劣勢である。つまり、日中の海軍兵力の格差から、日本「海軍」は負ける事はないとし、中国での戦闘を拡大していく。しかし、陸軍兵力を比較すれば、日本軍の10倍以上の兵力を中国軍は擁している。これは、海軍航空隊で処理できると考えたのか、それとも、大陸戦は陸軍の領分なので、関知しないつもりだったのか。

写真(右):1938年3月に起工された戦艦「武蔵」(1942年8月の竣工後撮影):無条約時代の新型大型戦艦は、1937年11月に1番艦「大和」が、次いで2番艦「武蔵」が建造された。排水量6万9000トン、46cm砲三連装砲塔3基装備。完成までに3年以上かかった。しかし、戦艦は、中国、ソ連を相手にする戦争ではなく、米英を仮想敵国とした場合に必要とされる。中国と全面戦争を開始したときに、このような大型戦艦を起工したのは、このままでは米英との戦争になると予想していたからなのか。
Wikimedia Commons戦艦武蔵の写真(File:1938 Japan Navy battleship.jpg)の出所はこの鳥飼研究室で、この写真は日本語、英語、ドイツ語。中国語、スペイン語、ハンガリー語版のwikipediaが引用している。世界のウィキペディアンが鳥飼研究室を参考にしてくださるのは大変光栄です。

戦艦・補助艦(巡洋艦を対象とし、航空母艦は制限外)保有制限を定めたワシントン条約・ロンドン条約は、1936年12月末をもって失効した。そこで,1937年から無条約時代、すなわち海軍軍拡の年となった。米英仏日など海軍国は、揃って新型戦艦の建造に乗り出している。なにしろ、日本でも排水量3万トン級以上の戦艦は、明治から大正にかけて建造された。戦艦に、大改装(近代化工事)を施したが、艦齢は18年以上の老齢戦艦しかなかった。そこで、日本海軍は、1937年の軍縮条約期限切れを睨んで、6万トン級の新型戦艦を計画、準備していた。これが、世界最大の戦艦「大和」「武蔵」である。1937年11月に呉海軍工廠で1番艦「大和」を、1938年3月には長崎三菱造船所で2番艦「武蔵」を極秘裏に起工した

海軍の貧弱な中国やソ連相手に、日本軍の新型戦艦は不要である。にもかかわらず日本が海軍力を増強したのは,このまま中国に兵力を展開していけば、いずれは米英などアジアに植民地を保有する列国と戦争になる事を適切に理解していたためである。たしかに,日本が大海軍を建設するのは、戦争抑止力として期待したともいえるが,中国との全面戦争を開始した以上、新たに米英との戦争を想定せざるをえない。つまり、日中全面戦争に至れば,米英列国が反日的行動を強め,戦争に至ると日本の首脳たちは的確に予期していたのである。


写真(右):上海沖の海防艦「出雲」
(1937年撮影):明治33年にイギリス、アームストロング社が竣工させた軍艦「出雲」は、日露戦争、地中海に派遣された第三艦隊として第一次大戦に参加。1937年10月以降は支那方面艦隊旗艦で,排水量1万トン、主砲は20.3cm砲 連装2基4門の旧式艦。上海の日本人居留民保護を目的に,上海の中国軍を砲撃した。

芥川賞作家林京子(1930-2017)女史が,太平洋戦争開戦当時、上海で女学校に通っていた時,英会話で人気のあった英国人の先生とこの日を限りに別れた辛い記憶が「軍艦「出雲」物語」にある。
1941年12月8日上海の守備についていた軍艦「出雲」を旗艦とする日本海軍は、降伏勧告をうけいれなかった英艦「ペテレル」を撃沈し、敵対国になったためである。

明治33年竣工の「出雲」は、1898年に英国アームストロング社(Armstrong)で建造された9970トンの装甲巡洋艦で、日露戦争、第1次大戦の地中海派遣第三艦隊旗艦として活躍した。その後,幹部候補生をのせて世界周航をする練習艦船の任務に就いた。


写真(右):上海沖の米国アジア(極東)艦隊旗艦の軽巡洋艦オーガスタ
(1937年7-8月):日本海軍航空隊の爆撃によって,あるいは中国空軍機の爆撃によって炎上中の上海。

後日談が軍艦「出雲」物語で,次のように語られている。

1973年に軍艦「出雲」(Japanese cruiser Izumo)の世界一周航海記念杯が,海岸に漂着し、古賀市歴史資料館(石井館長)が展示している。1978年に漂着した杯には、大正10,11年世界周航記念、軍艦出雲と書かれていた。第2次大戦では、中国長江に砲艦として常駐して、1942年日本にもどり、江田島の海軍兵学校生の練習艦となったが、1945年7月28日の米軍攻撃で江田島沖に沈没し、戦後引き上げられ解体された。エッセイでは上海で英艦を砲撃したのは「出雲」と思っていたが、最近の調査で国産の駆逐艦「蓮」ということがわかったと林さんは書いている。 英国製の「出雲」が英艦を撃沈したのでなかったのはせめてものすくいであると、 林さんにお知らせしたい。林さんは上海から郷里長崎に帰国され原爆に被災されたことを知り、60年前の同じ戦争体験世代のものとして、「出雲」の運命に哀愁を感じる。

1937年の上海事変で日本軍は、上海の日本人居留民を守ることを理由に、中国軍と交戦した。したがって、1937年当時でも、日本人居留民が上海の中国人との親交が断たれて悲しんだということがあったかもしれない。

1937年8月13日に勃発した第二次上海事変淞沪会戦)に参加した日本海軍の出征兵士の写真帳に、上海沖の海軍艦艇よりの砲撃、煙幕放射の画像がある。そこでは,「昭和12(1937)年9月○○日、○○地、敵前上陸の際、○○○○掩護ノ煙幕展張」「聖戦砲口正ニ火ヲ吐カントス 」とある。日本海軍第三艦隊(1937年10月以降は支那方面艦隊)には、日本から新たに軍艦が派遣された。そして、上海の日本人居留民保護を目的に中国軍を砲撃したり,杭州湾への日本陸軍部隊上陸を支援するような砲撃をしたりと、大型艦船も航行できる長江流域では、海軍艦艇が活躍した。

日本の海軍陸戦隊や増援された陸軍部隊の兵士たちも,淡々と課せられた義務を果たしたようだ。個人の意図、戦争への思いは,政府・軍の戦略・政策の前で議論されることはない。個人と国家の意思とが乖離していても、兵士は、命令に従い戦闘に加わるのみである。個々の兵士に戦略・政略を説明し,合意を得てから,戦争をする国は、どこにもない。兵士としては,否が応でも銃をとり、敵を殺すしかない。「やらなければ、こっちがやられる」状況に投げ込まれてしまう。こうでなければ,善良な市民や農民が、ヒトを殺すことはできないであろう。


写真(右):中国空軍のボーイング281戦闘機
(1936年):米国から購入した戦闘機で日本軍機と戦った。米国人義勇パイロットも個人の資格で戦っていた。

1937年8月14日には中国空軍ノースロップ爆撃機カーチス・ホーク急降下爆撃機など40機は、上海西方200km基地から上海沖の日本艦艇、市街の日本軍陣地を爆撃に発進する。積極的な航空攻撃には、米国陸軍航空隊の退役軍人で、中国空軍の顧問となっていた米国退役軍人シェンノートの助言があったと思われる。空襲した8月14日を国民政府は空軍節としたほどだった。しかし、悪天候も災いして、中国機が投下した450kg爆弾は目標を逸れて、市街地で爆発した。この日は誤爆で00人以上の中国人が死傷していた。6日後には軍艦「出雲」(Japanese cruiser Izumo)と誤認したのか、アメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」への誤爆によって米水兵1名が殺されている。しかし,現代中国の出版物では,中国空軍が対日戦で大きな戦果を挙げたように記している。虚報を報じあうのは戦争の常である。


写真(右):上海事変に出動した日本海軍陸戦隊
(1937年7-8月):3000名程度の兵力では中国軍に正面から対抗できないので,華北に続いて,華中へも日本軍は増援部隊を派遣する。

日本軍は,1937年7月に華北で北支事変が勃発すると,華中でも厳戒態勢をとり,中国軍と対峙していた。8月になって,日本軍スパイ処刑(国際法上は正当?)事件、いわゆる大山大尉虐殺事件(虹橋飛行場事件)を機に,上海で日中武力衝突が起こる。日本では8月14日の中国機による爆撃を、租界の外国勢力を攻撃したものと見なしているようだ。また,中国,米国などでは,当事から日本軍による爆撃とみなし,記録写真の解説でも日本軍による「殺戮」を伝えている。現在もこの爆撃被害の写真絵葉書などがweb上で公開され,日本機による爆撃と誤って(?)伝えられている。

写真(右):1937年上海バンドの巡洋艦「オーガスタ」:上海駐留の米国艦艇で,米国アジア艦隊の旗艦。1937年夏の上海事変で、中国空軍爆撃機に日本艦艇と間違えられ誤爆された。そこで、日本軍の艦艇と誤って爆撃されないように、砲塔に巨大な星条旗を描いて,アメリカ海軍艦艇(USS)であることを明確に表示した。USS Augusta CA-31 の8インチ55口径砲は,30トン,砲身長11.4m。徹甲弾APCは 260 lbs. (118 kg),炸薬量は40kg。1937年12月12日には、同じく長江(揚子江)で、日本海軍第二連合航空隊所属の九六式艦上爆撃機がアメリカ海軍砲艦「パネー号」USS Panay)を誤爆、撃沈した事件が起きている。
This close call prompted the crew of the Augusta to paint large American flags on the upper surfaces of the ship's gun turrets. the Home Page of Pat and Chuck:My father served in the United States Marine Corps for about forty years, enlisting as a private and retiring as a colonel. These 10 linked pages cover the period from 1933 to 1938, when he served aboard the flagship of the Asiatic-Pacific Fleet, the USS Augusta (CA-31).引用。


誤爆は日本軍にもあり,12月12日には、南京近くで日本海軍の北支事変アメリカ海軍砲艦「パネー号」USS Panay)を撃沈し、死者2名、負傷者48名を出した。これも,日本が故意に爆撃したと論じられる場合がある。実際は、米国砲艦「パネー」が小型だったため,日本機は中国艦艇とみて誤爆したのであろう。巡洋艦オーガスタは、撃沈されたパネー号の生存者をフィリピンのマニラに輸送した。1941年11月,第二次大戦直前,オーガスタ号は,上海駐屯の海兵隊第4連隊をフィリピンのバターン半島Bataan Peninsula)に撤収させた。しかし,日本軍のフィリピン攻撃で、1942年4月9日、バターン半島Bataan Peninsula)に立て籠ったアメリカ=フィリピン軍もアメリカ海兵隊も降伏し、捕虜となってしまう。

中国軍機による上海市街地の誤爆は,日本にとって格好の反中プロパガンダ、報復材料となる。日中戦争当初からの戦争計画に従って、1937年8月15日に「渡洋爆撃」の名のもとに,日本海軍航空隊が中華民国の首都南京を爆撃した。スペイン内戦に派遣されたドイツ軍コンドル軍団の爆撃機約40機がスペインバスク地方のゲル二カ爆撃をしたのは1937年4月26日。都市へのテロ無差別爆撃として、国際非難を浴びたゲルニカ爆撃から5ヶ月たたない1937年8月から、アジアでも無差別爆撃がより長期間、大規模に行われるようになった。

写真(左):日本の爆撃目標になった上海飛行場(1930年代中頃);中華航空のダグラスDC-2輸送機Douglas DC-2)の民間空路ネットワークが内外に張られていた。中国の民間航空、中国空軍は米英独など列国から機体を輸入して使用していた。

日本海軍航空隊は、1932年の第一次上海事件でも空母「加賀」を派遣し、艦載機による対地攻撃を行った。そして,1932年2月22日,蘇州上空で三菱十三式艦上攻撃機1機がアメリカ人義勇軍パイロットRobert Shortの中国軍戦闘機ボーイング218に撃墜された。この戦闘機は、ボーイング社が中国空軍への売り込みと、実戦テストを兼ねて、中国空軍に譲渡したものである。その直後、日本の中島三式艦上戦闘機3機がこれを撃墜した。ショートは、空中戦で日本人に殺害された最初の米国人である。日本の単発艦載機による爆撃は、1937年の第二次上海事変でも再度繰り返される。

写真(右):日本海軍の三菱九六式陸上攻撃機(1937-40年頃):1937年に南京,上海,杭州を長距離飛行後,無差別爆撃した。三菱の世界的傑作機である。

1937年7月7日、北京郊外で盧溝橋事件七七事変)が勃発すると、上海に駐留している陸戦隊や海軍艦隊を支援する目的で、第一連合航空所属の木更津航空隊を朝鮮半島南の済州島に、九州の鹿屋航空隊を台湾の台北に進出させた。そして、1937年8月14日から1週間、上海の中国軍航空基地を爆撃し、首都南京、南昌を空襲した。

1937年8月15日の長崎県海軍大村基地からの渡洋爆撃では、基地を発進した三菱九六式陸上攻撃機(中攻:G3M)20機が、南京まで960kmを往復4時間で飛行した。爆撃機は、1機当たり60kg陸用爆弾12発を搭載、2ヶ所の飛行場を爆撃目標としていた。しかし、周辺にそれる爆弾も多く、無差別爆撃であると非難される。海軍航空本部教育部長大西瀧治郎大佐(後の海軍特攻隊の司令官)は、「南京に対してどの位空襲をおこなったかと申しますと空襲回数36回で飛行機の延機数は600機、投下爆弾は約300トン」と述べた(1937年11月15日経済倶楽部にて)。

都市への無差別爆撃は、商業施設に打撃を与え,労働者を殺傷し、軍需生産を停滞させ,生活難に市民を陥れて厭戦気分を起こさせる目的で行われる。ここで,無差別というのは,目標を決めずに爆弾をばら撒くという意味ではない。都市爆撃にも,工場,住宅,繁華街など爆撃目標・爆撃予定地区は,爆撃機部隊ごとに定められている。無差別というのは,市民がいても軍人と同等に,無差別に扱うということ,すなわち爆撃目標に市民がいても一切関知しないということである。1937年8月28日、日本海軍九六式陸上攻撃機(中攻:G3M)が上海南駅を無差別爆撃。その場で死者200余人・無数の負傷者が出た。雑誌Lifeには、上海の鉄道駅で爆撃に見舞われ,片腕を失ったものの生き残った一人の子供の写真が掲載された。子供は,カメラマンに救出され、その写真も残っている

日本海軍九六式陸上攻撃機(中攻:G3M)による無差別爆撃は「戦略爆撃」として英軍ハリス、米軍ルメイもその有効性に注目し、連合軍によるドイツ,日本への都市爆撃が激化する。それに5年も先んじる1937年8月の南京空襲は,世界初の首都への本格的な戦略爆撃(スペイン内戦のマドリッド空襲は小規模)である。もちろん、日本機の無差別爆撃は、上海にも行われたし,1940年には遷都した中国の新たな首都重慶に対して,より大規模に繰り返される(→1940年代の歴史記録映像を見る;九六式陸上攻撃機の爆撃映像爆撃された重慶市民の映像)


写真(左):1937年9月3日、日本機の空襲を受けた上海バンド(埠頭近く中心街)
:長江(揚子江)は,三峡手前の中流まで,大型船が航行でき,船を横付けできる港湾,埠頭もあった。上海のバンドに停泊するのは米国海軍巡洋艦「オーガスタ」AUGUSTAである。

北京はもちろん,上海,南京が大きな戦果に包まれていた1937年8月22日,中国共産党領袖毛沢東林彪朱徳,張聞天ら軍高級指揮官が,延安から70kmの洛川で会議を開き,中国共産党軍「紅軍」を抗日戦争に投入し,遊撃戦を主戦法とすることを決めた。そして,8月22日に,中国国民党の南京政府から,紅軍(中国共産党軍)を国民革命第八路軍に改編することに同意するとの電報が届いた。

洛川会議最終日の1937年8月25日,中国共産党中央革命軍事委員会は,紅軍を国民革命第八路軍(八路軍)に改編し,国民党軍と連携して抗日民族統一戦線を形成する命令を出した。総指揮官は朱徳,副総指揮官は彭徳懐,政治部副主任は?小平が任命された。 中国共産党領袖の毛沢東は,「抗日救国十大綱領」を発表し約3万人の八路軍が抗日戦に投入されることになった。

1937年9月上旬には、上海の公大飛行場が日本軍に使用可能になり、日本海軍航空隊は、9月19日、艦載機による南京空襲も実施する。この南京空襲の際に、第三国人と市民に南京から避難することを勧告した。日本海軍九六式陸上攻撃機(三菱G3M)も九州大村からの東シナ海を越えての渡洋爆撃ではなく、中国本土に進出した。そして、9月25日までの7日間に11回、延べ289機が南京の市街地、産業基盤の鉄道・橋などを攻撃したという。もちろん,爆撃の事前警告をすれば,無差別爆撃が許容されるわけではないが

松井石根大将の日記から、上海事変の推移を見てみよう。1937年8月15日に,松井大将は宮中において大元帥から上海派遣軍司令官に親補の大命を拝受、8月17日に宮中で拝謁し、勅語を拝した

朕卿に委するに上海派遣軍の統率を以てす。
宜しく宇内の大勢に鑑み速に敵軍を戡定し、皇軍の威武を中外に顕楊し以て朕の倚信に答へよ。

写真(左):日本の砲艦「出雲」を爆撃し逸れた爆弾が上海の英米合併タバコ会社を破壊(1937年11月4日):日本軍は11月には上海を占領しているが,中国軍は南京を防衛するためにも,後方の上海の日本軍を攻撃,牽制したかったはずだ。

1937年8月31日には,華北の日本軍は,北支方面軍に編成され,華中でも中支方面軍が編成された。しかし,中国への派兵を進める一方で,ドイツを通じた中国との和平交渉も進めていた。これが,駐中国ドイツ大使トラウトマンを仲介する日中和平交渉で,1937年11月から始まった。

日本陸軍参謀本部は,中国との戦争が長引けば,兵力を中国に拘束せざるを得ず,それではソ連に対する満州の防備が困難になると考えた。しかし,1937年12月13日の南京攻略によって,日本政府は和平交渉の条件を吊り上げて,中国に対してより厳しい態度で臨んだ。それでも中国は和平交渉について打診してきたが,誠意がないと判断した日本政府は,1938年1月中旬には,ドイツを仲介する中国との和平交渉を打ち切ってしまう。

首都を攻略されたのに,中国は降伏しようとしない。日本は,首都を失った中国の降伏を認めてやるという譲歩の姿勢をとったが,降伏条件を話し合いたいとは敗戦国のとる立場とは思えない。このさい,徹底的に敵を壊滅させたほうがよいと考えて,和平交渉を打ち切ったのであろう。日本政府は、暴支膺懲を貫徹することを決めが、その相手は中国共産党領袖の毛沢東と手を組み、国共合作をした中国国民党の蒋介石政権である。

写真(右):第二次上海事変:1937年10月14日に日本機に爆撃されたトラム(市電)。死傷者多数。Karl Kengelbacher撮影

最高司令官である大元帥の命令をうけて,陸軍参謀本が作成する作戦計画に従って,日本陸軍は行動する。その際、江南地方は列国の権益が集中していること,国際的反発を受けたくないことから,列国外交団、駐屯軍との連絡を密にし協力して、速に上海附近の治安を回復することを決意したという。

『昭和天皇独白録』でも,中国と戦うにも,米英など列国の動向に気を配っている日本は,中国の権益回収運動を支援したり,中国を半植民地の状況から解放する(軍事)作戦は,全く考えていない。列国に反発するつもりはなく,「大東亜戦争」を植民地解放戦争とし,「大東亜共栄圏」構築をアジア平和共存の礎とするというプロパガンダは,大義名分の宣伝に過ぎない。植民地解放のために,中国への利権を保持する列国への開戦はありえない。それどころか,日本は,中国,満州の特殊権益を中国(傀儡政権に形式上返還したが)で拡大し,財政,外交,軍事の大権を握っていた。列国に宣戦しても勝ち目がないというなら,1941年12月に米国を攻撃したときには勝ち目があったのか。

列国は,率先して中国を半植民地化していたとして,日本は非難する。中国と連携して,(自ら利権を中国に返却し)列国に権益放棄を求めたのであれば,「皇軍の威武を中外に顕楊」したことになったであろう。たとえ列国と戦争となり,敗北したとしても,歴史的に高い評価を受けたであろう。しかし,実際には列国に媚び諂いながら,「弱いと見下した」中国の反日感情,抗日運動を押さえ込もうとしたのであって,アジアの盟主とはいえない。「欧米列国も中国を半植民地化したので,日本だけが非難される筋合いはない」という抗弁がある。暴支膺懲という不可解な理由で、中国を攻撃した日本が、国際理解を得たことはない。日本が下手な対中国戦争の理由を公言したことで、中国共産党領袖の毛沢東も、国共合作をした中国国民党の蒋介石政権も抗日戦争を戦い、ソ連からも米英からも国際的な協力を得ることが容易になった。


4.軍民一丸となった中国の反撃と共産党の譲歩

写真(左):中国共産党の指導者毛沢東と軍司令官朱徳(1937年):中国国民党と戦闘を繰り返していた中国共産党だが,ソ連のコミンテルン(第3インターナショナル)の指導もあって,国共合作を行った。これによって,中国国民党軍に攻撃されることはなくなり,国民党軍が抗日戦争に兵力を集中している間,中国共産党軍は,兵力を温存できた。

江南地方に大規模に侵攻してきた日本軍に対して,中国では,国民革命軍に国民党軍も中国共産党の紅軍(中国工農紅軍)も加わり、さらに文民一体となって抗日戦争を戦う。中国共産党も,1936年の「西安事件」で国共合作に合意たのちは,中国国民党の討伐を受けることも(あまり)なくなり,抗日戦争に兵力を集中できたはずだ。1937年の国民党は,江南地方で,日本軍の正面から攻撃したが,中国共産党の二つの軍(八路軍新四軍)は,後方での破壊工作だけで,積極的な攻撃を行っていない。中国国民党からみれば,1937年の抗日戦争は矢面に国民を立たせる一方,中国共産軍は遊激戦(ゲリラ戦)と称して兵力を温存した。

しかし,国民党の激しい抗日戦闘は,世論の支持を得た。そこで,消極的な抗日姿勢のために世論の支持を得られなくなりつつあった中国共産党軍、すなわち紅軍(現在は中国人民解放軍)は,抗日戦争を中国国民に見えるように戦う必要があった。1940年8月中国全土の日本軍に,波状攻撃を仕掛ける中国協賛軍による「百団戦」は,こうして開始された。

写真(右)(1940年前後):共産党が組織した女子防衛団;生産従事,生活・教育支援,抗日妨害などを担う。:

中国の女子も抗日破壊工作,スパイ活動に参加するのであれば,日本軍としては,住民を弾圧し,懲罰を課してもかまわない。日本軍兵士は,敵性住民には,女子であっても過酷な措置をとったが,これは「残虐行為」とは認識していなかった。

他方,中国共産党は,日本軍による中国住民の弾圧を徴発した。日本軍兵士が中国住民に嫌悪され,憎悪されるほど抗日活動を主導する中国共産党軍は,住民から食糧・使役・情報の協力を得やすくなる。共産党軍が住民を守る「正義」となる。

中支那方面軍軍司令官である松井石根大将の日記によれば,「支那官民は蒋介石多年の抗日侮日の精神相当に徹底せるにや、到る処我軍に対し強き敵愾心を抱き、直接間接居留民か敵軍の為めに我軍に不利なる諸般の行動に出たるのみならす、婦女子すらも自ら義勇軍員となり又は密偵的任務に当れるものあり」であった。つまり,中国民間人による反日ゲリラ活動が頻発していた。中国側からみれば,紅軍(中国共産党軍)も含めた愛国心あふれるレジスタンス活動である。松井石根大将日記では「自然作戦地域は極めて一般に不安なる状勢に陥り、我作戦の進捗を阻害」と述べている。

写真(右):上海事変に出動した日本海軍陸戦隊(1937年8-9月):中国軍とは,上海市内で対峙したが,市街戦とあり,民間人に大きな被害が生じた。日本軍の第一線部隊は中国軍の10分の1未満の歩兵兵力しかなかったが,増援部隊が到着するまで,海軍艦艇の砲撃,航空機の支援を得て,中国軍と対峙した。

中国軍民の一丸となった抵抗に対して憎悪を抱いた兵の中には捕虜・ゲリラ兵あるいは民間人(ゲリラ兵容疑者)の処刑を行うものがあった。捕虜の処刑は,戦友を殺した敵兵への報復,ゲリラ兵の処断のほかに,兵士の腕試し・度胸試しから行われる場合もあった。日本・天皇陛下に武器をとって反抗する中国人は謀反人・重罪人であり,その処刑は当然である。日本の警察,特別高等警察(特高)は,治安維持法違反の者には,同じ日本人でも拷問を加えた。武器をとって日本に反抗した中国人の処刑や刺殺・斬首の訓練は,日本では,決して残虐行為とは認識されていなかった。

蒋介石は各地の部隊を江南地方に集結し,反撃を始める。これは,日本軍が兵力劣勢で,補給も困難な状況にあることを見越した攻撃で,軍事的に当然である。ここで,勝利すれば,連敗していた中国軍の士気も上がり,日本が講和を求めてくるかもしれない。日本の立場と決定的に違うのは,中国は自国で戦い地の利を占めていることだけではない。

写真(右):上海駐屯の米海兵隊と中国軍(1937年9月12日Peter Kengelbacher撮影):米英日などの共同租界と中国地区の境界には,鉄条網が張られている。手前の米海兵隊員と左奥の中国兵は友好的な関係にあるようだ。

中国軍には,兵員を輸送できる十分な艦船も航空機も戦車もなく,日本への侵攻は不可能である。中国軍は日本に侵攻することができない以上,中国軍が日本軍に大損害を与え,日本が中国に停戦,和平を求めても,日本は安泰である。だから,中国国民党軍は,一戦に勝利すれば,日本軍と和平を結べるとと考えた。中国は兵力を江南地方に集中して,日本軍に打撃を与えて,日本との和平を成立させる戦略だったと思われる。蒋介石が,列国支援を当てにして,日本の兵力の乏しい江南地方で全面戦争を仕掛けてきたのは,日本軍を敗退させ,和平を結ぶためである。

蒋介石の好戦的性格を批判し、暴支膺懲を正当化するのは,的外れである。敵兵力の手薄な地点に兵力を集中して攻勢をかけ,敵軍を撃滅し,敵の交戦意志を打破するのは,軍事の常識である。「好戦的」といった善悪の判断は,「獣兵」「日本鬼」「東洋鬼」といった表現と同じく、プロパガンダでは使われるが、事実認識としては誤解を招く。

しかし,中国で日本軍が大損害を被っても,日本軍が中国に降伏することは,無敵皇軍,天皇の名誉を汚すことである。国民党軍と紅軍(中国共産党軍)とからなる中国軍が日本軍を苦戦させるほど,日本軍は,中国への増援を繰り返し,死傷者を増やし,その死傷者の犠牲を正当化するためにも,和平から遠ざかってしまう。


5.高まる列国の日本への反感

日本軍は,中国に住む日本人居留民を保護するとして派兵したが,この当初の目的がふさわい。しかし,松井大将は,日本軍の兵力を増強して「江南附近一帯を掃蕩---駆逐するの必要を認め、遂に南京攻略に進展する」ことを決心する。その間、中国に権益を有する列国は、戦火を拡大する日本軍に反感を抱き、中国側に便宜を図る。松井大将の日記によれば,列国は 「直接間接に支那軍の作戦に便宜を与へ、時には之を援助するの行動」をとった。これは民間人の多数居住する市街地の戦闘の終了を願う以上,当然だったが,日本軍は、中国軍の味方をして,敵対的行動をとる英米仏を憎悪するようになる。

軍司令官松井大将が言うように、英米が日本の上海における中国軍への攻撃を快く思っておらず,日本軍に妨害まで加えてきた理由は,自国の権益・居留民を守り,中国ビジネスの繁栄、平和な生活を望んだためでもある。上海には、米,英,日,伊などの共同租界とフランス租界があり、3万人以上の外国人が暮らし,駐屯していた。地上戦、空爆、艦砲射撃によって、上海は破壊され,中国地区と隣接する外国租界も大きな被害を受けた。金融,商業を担う上海の租界は,中国の経済中枢で,その市街地破壊,交通途絶などの戦禍は,資本逃避,ビジジネスの衰退,水道・医療・納税など行政サービスの停滞,教育機関の閉鎖など,中国,英米に大きな損害を与えた。日本の中国侵攻のために,アジアビジネスの中枢上海,首都南京が危機に直面した,というのが列国の認識で,経済活動を阻害させ,企業と市民に損失を与えた日本を非難する。暴支膺懲を日本は主張したが、列国は暴日膺懲に移っていく。


写真(右):上海に到着した輸送艦USS Chaumont (AP-5) 。米海兵第6連隊を増援。
(1937年9月19日):ルーズベルト大統領は,日本と中国の戦争が,自国の中国における権益を侵害し,自国の居留民の生命・財産を脅かすとして,中国へ海兵隊を増援した。しかし,派兵は,小規模な部隊にとどめた。大規模兵力を派兵しても日本軍との開戦する口実はなかった。既に駐屯している海兵隊第4連隊とあわせて,第2旅団を編成した。:Arriving off the Bund at Shanghai, China, with the 6th Regiment, U. S. Marine Corps, on 19 September 1937. The Marines had been sent to reinforce the 4th Marine Regiment in guarding the U. S. sector of the International Settlement during the Sino-Japanese war. The tug is St. Sampson or St. Dominic. Courtesy of Vice Admiral M. L. Deyo, USN (Ret.), 1973. Online Library of Selected Images:USS Chaumont (AP-5), 1921-1948引用。

GMジェネラルモーターズは,1929年に中国支社の本部を上海に置いている。上海と米国の間には、航空会社パンナムの四発飛行艇が、空路も開いていた。電気,水道、道路,港湾,空港などのインフラの破壊は市民生活も成り立たなくなってしまう。アメリカ海兵隊など外国駐留軍だけでなく、居留民も中国人の住民も、戦闘中止を望んでいたはずだ。しかし、上海事変では,日本が上海の中国地区の武力占領を,治安維持の名目で、強引に推し進めている。このような状況で,上海でビジネス,宣教を行っている列国の居留民や報道関係者が,反日感情を抱くようになるのは自然の成り行きである。

 北京は中国の首都ではなかったため、正式には北平と呼ばれていた。中国の首都は上海西方の南京である。この中国の政治経済の中枢「江南地方」に戦禍を招いた日本は、中国はもちろん、英米仏の反感を買ったのは当然である。米国は1937年8月29日にカリフォルニア州サンディエゴから輸送艦Chaumontで、アメリカ海兵隊の増援部隊を上海に派遣した。ルーズベルト大統領は,日中戦争が,自国の中国における権益を侵害し、上海租界を中心として自国民(居留民)の生命・財産を脅かすと危惧し,中国へ海兵隊を増援した。つまり、アメリカ海兵隊派遣は、上海租界の自国居留民を保護することを第一の目的とするもので、日本軍と戦う意図をもつものではない。しかし、当時の米国兵士は日本軍の振る舞いは暴虐であると非難を隠そうとしない。中立は維持しつつも,多くは中国側に同情,好意的であった。日本の「暴支」膺懲を米英は信じなかった。

写真(右):盛家橋部落の宣撫工作:(出典)『アサヒグラフ』(支那事変写真全輯 中 上海戦線) 1938年3月1日発行 朝日新聞社 定価2円50銭《井上俊夫・架蔵》出典にはこうある。「戦火の余燼未だ収らぬ揚子江附近、宝山県の片隅に、我が軍の温い庇護の手で平和に蘇つた部落がある。その名もゆかしい「日の丸部落」といはれる盛家橋部落で、村長さん格に納つているのが田窪忠司部隊長、村民からは先生々々と慕れてゐる。村民は約四百名で敗残支那兵の掠奪もなく、土を耕し、綿を摘み、朝夕を平和に楽しむ桃源郷である。(十月十四日撮影)」「夕になれば白一面の綿の花畑から嬉々として我家に帰る」。これは,日中戦争における日本軍の中国での住民保護を謳ったプロパガンダである。南京攻略の最中(1937年10月)に日本軍による中国住民の警護が,広範に行われたとは信じがたい。しかし,「日の丸部落」のように日本兵が中国の住民を保護することもあったようだ。中国国民党軍,日本軍ともに,住民からの略奪や民間人への暴行をしばしば行った。国旗は,友軍に居所を明らかにするために使用される。写真の日本兵は,他の部隊の日本兵の暴行・略奪から,中国の住民(良民)を守っている。「日章旗」を掲げているので、日本兵は攻撃しないが,中国兵の標的にはなりやすい。

上海でも南京でも,租界には中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が流入してきおり,市内での激しい戦闘、死傷者が多数目撃され,映像に残された。タイム,ライフ,ルックといった有名誌でも、悲惨な状況が何回も報道された。

<1937年12月13日TIMEの外国ニュースとして,「勝利・爆弾・侵略」”Victory, Bomb, Invasion”と題して,次のように日本の中国侵略を記述している。
Dc. 13, 1937
「中国は448万992平方マイルあるが,日本の占領した面積は,今週は63万9272平方マイル,先週は63万5322平方マイル,先月は62万107平方マイル,昨年は50万平方マイルだった。ロンドンの英国外務省が伝えるところでは,先週上海からの緊急警告として,日本の侵略は,凱旋行進新の段階に入ったが,10対1の確率で,(1932年の第一次上海事変の爆弾テロと同じく)愛国的中国人の爆弾攻撃にあうだろう。これが,起こるべきベストのことだ。黒ずくめの英国行政官は,このように見ている。-------実際に、上海の日本軍戦勝パレードで、中国人による襲撃が起こった。このテロリストは現行犯で射殺。

Of China's 4,480,992 square miles, Japanese forces held: This week 639,272 Week Ago: 635,322 Month Ago: 620,107 Year Ago: 500,000 Satisfaction was discreetly shown at the British Foreign Office in London last week as dispatches from Shanghai urgently warned that its Japanese conquerors were about to stage a blatant "Victory Parade," with chances 10-to-1 in favor of some aggrieved Chinese patriot hurling a bomb. "That might be the best thing that could happen,'' sagely observed an eminent, striped-trousered, black-jacketed British civil servant.

しばらくすると,中国や列国の日本の残虐行為の写真に対抗するように,日本軍と中国住民との友好関係を示す写真が,日本の雑誌で紹介されるようになる。つまり,日中プロパガンダ戦が,米英列国も巻き込んで行われたのである。

写真(右):1937年被爆地の不許可写真:上は上海戦線、閘北への爆撃。南京空爆後の破壊された中央病院看護室は「敵の根拠地」と修正されたが不許可に(中)。ロックフェラー研究院(下)の写真も不許可になった。左上の丸いハンコは,大阪新聞写真部にフィルムが届いた年月日。1937/10/15。日本陸軍報道部で検閲して不許可になった写真は,新聞紙上などでの公開は一切許されない。『毎日新聞』新聞社の倉庫に陸軍・海軍・内務省・情報局の検閲をかいくぐり、残された、第2次上海事変から日中全面戦争にかけての毎日新聞社秘蔵の不許可写真から引用。

立命館大学教員北村稔『「南京事件」の探究』を紹介した女流ジャーナリスト桜井女史は,1938年にWhat War Means : the Japanese Terror in Chinaで、南京事件を世界に知らしめた英国「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員ティンパーリー(オーストラリア人)について次のように述べている。

------南京大虐殺の日本断罪は、この書物から始まったともいえる。

北村氏が発掘した事実は、ティンパーリーHarold John Timperley)の隠された素顔に関するものだ。彼は公平なジャーナリストなどではなく、蒋介石の国民党の対外宣伝工作に従事していた----
---国民党中央宣伝処の曾虚白処長の自伝---のなかで曾は次のように書いている。

ティンパーリーHarold John Timperley)は都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた3人の重要人物のうちの1人であった。------我々は秘密裡に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。----」
こうして極めてタイムリーに日本断罪の書が出版されていった。公平な第三者の著作のはずが、じつは国民党宣伝部の資金を受けていた人物によって書かれたものだったのだ。それが元になって南京大虐殺説が生まれてきた。(引用終わり)

 プロパガンダpropaganda)だから南京大虐殺は嘘だ、偽りの作り話だ、というほど歴史は単純ではない。プロパガンダpropaganda)には、真実・本当らしいもの・偽りが混在している。それを組み合わせて、組織的な取り組みとし、自己主張を正当化する、影響力を行使するのがプロパガンダだ。戦時報道は、すべて客観的な事実を伝えるものではなく、プロパガンダであるといったほうが適切であろう。歴史には真実が含まれるが、その一部を取り出して、過大評価したり、その一部を隠して過小評価するのが、プロパガンダpropaganda)であるから、その扱いには、メディアリテラシーMedia Literacy)の力量が必要となる。それが欠けたままプロパガンダpropaganda)を受け入れても、全面否定しても正当な評論とはならない。

中国捕虜の刺殺;1938年2-3月に,津浦線沿いに南下した北支那方面軍は,台児荘で中国軍に反撃され後退する。このような日本軍の苦戦の中で,三八式小銃の先につけた銃剣で捕虜を刺殺した。捕虜の刺殺は,度胸試し,弾薬節約,見せしめなどの効果を期待して行われた。アジアの平和をもたらそうという日本に抵抗したり,天皇を否定する共産主義者に対して,処刑は当然であり,残虐行為とは認識されていなかった。これは,大阪毎日新聞の収集した写真で,日本陸軍報道部が検閲した結果,不許可になった写真のうち一枚である。

どこの国も戦争には動員を効果的に行い,戦争を正当化するためにプロパガンダを行う。したがって,南京事件のようなインパクトのある事件は,格好のプロパガンダ材料である。国民党の宣伝部が関与しており,反日プロパガンダに使用されたから「南京大虐殺は存在しなかった」という主張は,戦争における動員やプロパガンダの本質を無視したものである。真実でも虚偽でも情報流布・情報操作・報道管制・誇示行動(デモ,集会,葬儀,追悼式,参拝)によって,特定の思考を植えつけ,特定の行動をとらせるのがプロパガンダである。そこには,真偽が入り混じっているが,都合の良い事実が誇張され,不利な事実は歪曲される。それを見破るだけのメディアリテラシーMedia Literacy)の能力が求められる。メディアリテラシーMedia Literacyの力があれば「敵のプロパガンダは捏造だ」という単純な発想を回避することができる。

ジャーナリストは,いつの時代でも公明正大な第三者ではない。ジャーナリストは,企業経営や収入を考慮した報道し,販売部数,広告収入,出世など商業主義にかかわり,報道規制の下で政府の取材許可・資材割り当てを得るため,政治的取引をする。画家、映画監督,楽団指揮者,作曲家など芸術家もジャーナリストと並ぶプロパガンダの担い手である。こんなことを、ジャーナリスト自ら公言することはないであろうが。

写真(右):南京城壁から見た城内の中国軍兵士の死体;1937年12月13日東京日日新聞(現毎日新聞)社カメラマン撮影。死体と小銃が散乱している。出典では「メモは激戦の跡としているが誤りである。死体の周辺の体液がすでに死体自体の面積を上回っている。これは銃弾命中死後少なくとも20時間は経過していることを示す。---死体は門へ向かうものもみられることから、逃亡を図った市民を中国軍が射殺したもの--。--同士撃ちの死体とみられる。」としている。中国軍には督戦隊という兵士の逃亡を抑える部隊があったようだが,軍上層部が逃亡しているときに,督戦のために多数の自国軍兵士を処刑できたのか。最高司令官蒋介石も,軍司令官も逃亡し,中国軍守備隊全軍が浮き足立った。このような時に,銃を保持する兵士たちがおとなしく捕縛,処刑されるはずがない。(兵士の反抗を恐れて)処刑を試みる指揮官もいないであろう。

報道姿勢は,ジャーナリストや情報提供者の個人的な思想・認識にも,大きく影響される。米英独の宣教師・ジャーナリスト・ビジネスマン・外交官の中には,中国人の友人・教え子・弟子・部下・取引相手をもち,中国に親近感を抱いている人物が多かった。その中国人を戦闘とはいえ殺したり,降伏した中国兵を処刑したりすれば,日本軍を非難する声が上がるのは当然である。

つまり,米英独などの列国居留民には,反日感情が高まり,それが中国国民党政府や米英のメディアによる反日プロパガンダに利用されたことはあった。しかし,プロパガンダだから事実でない、偽りだという単純な発想は改める必要がありそうだ。

南京虐殺に関しては,勇敢で名誉あるに日本軍による虐殺はなかったとする否定派が,多数の写真のうち数十枚を検討し,解説間違い,捏造あるいは合成写真とした。さらに,中国側の虐殺であると非難した。日本軍には,中国兵を捕虜として収容する施設はもちろん捕虜を後方に送る護送兵力・ドラックもない。戦闘の障害になる捕虜や敵性住民は,部隊毎に即刻処刑した場合が多かった。その後,1000名を超える大量の捕虜を獲得すると,一時的に,建物や馬屋などに収容した。しかし,捕虜のための食糧・水,食器などは準備しておらず,日本軍にとっては捕虜は大きな負担になる。

占領地の治安回復をするには,敵兵の掃討戦,敗残兵狩り,敵性住民への徹底的な弾圧だけでなく,住民を味方につけ,対日協力者とする宥和政策や親日プロパガンダも行われる。つまり,敵味方の双方でプロパガンダが行われる。

写真(右):南京安全区国際委員会International Committee for the Nanking Safety Zone;1937年12月撮影。民間人難民を受け入れる安全区を南京に設置した安全区国際委員会(International Committee for Nanking Safety Zone)は,米英などの列国の宣教師やNGO団体(YMCA)の長から構成された。安全区国際委員会の長は,日本と友好関係にあったナチス・ドイツのビジネスマン,ヨハン・ラーベ John Rabeである。かれは,南京事件について,重要な証言を残している。

1937年10月ともなると,南京には,日中両軍の戦闘から逃れて多数の避難民が流入していた。これは,国民党蒋介石Chiang Kai-shek)が,中国の首都を死守するつもりで防備を固めていたためである。1937年11月22日,南京に駐留していた米英仏独などの列国の宣教師・ジャーナリスト・ビジネスマン・外交官は,中国の難民と自国民の声明・財産を守るために,戦闘員の立ち入りを制限する安全区を,中国の同意の下に設置した。これを管理するのが,安全区国際委員会International Committee for the Nanking Safety Zoneである。

南京の中国人は最後まで南京が放棄されたと知らない者も多かったようだ。首都南京を日本軍が占領できるとは考えていなかったのであれば,あるいは南京の自宅など資産の移転が困難で,南京から避難しなかった市民もいるであろう。しかし,戦局が不利になったことを真っ先に知った中国軍の最高級司令官たちは,部下に死守を命令じて,南京を撤収,逃亡してしまう。これは,中国軍兵士の士気を大きく阻喪させた。南京の防備を固めていた中国軍も南京城内に敗走し,撤収・逃亡を始めた。日本軍の攻撃はすばやく,中国軍は南京で組織的抵抗はできなかったようだ。

こうして,中国の避難民,敗残兵,正規軍で溢れていた南京は,日本軍の攻撃の前に,南京から脱出しようとする人々で大混乱となる。入場してきた日本軍も,兵士と民間人の区別は容易でなく,区別できても軍民が混交していれば,中国軍兵士だけに砲撃・銃撃をすることも不可能である。したがって,中国軍民あわせて,砲撃・銃撃を加えるしかない。さらに,部隊長の統率力不足から,兵士たちの軍紀が乱れており,略奪,暴行が横行することもあった。南京の外国人ビジネスマン、宣教師、教師などからなる安全区国際委員会(International Committee for Nanking Safety Zone)が組織され、安全区が設置され、無辜の市民を保護する試みが開始された。

写真(右):南京安全区で保護された中国の子供たち;1938年3月撮影。中国の民間人難民を受け入れた安全区は,中国人にとっての唯一の市内の避難所といえた。安全区国際委員会ヨハン・ラーベJohn Rabeは,ドイツ本国に日本軍の残虐行為を批判した報告書を送った。しかし,ヒトラーは,米英ソを牽制できる日本との軍事同盟の締結を望んでおり,日本軍の中国における残虐行為は黙認したである。ドイツでは,ユダヤ人,共産主義者,ロマへの弾圧が始まっていた。

南京に設置された安全区は,米英の宣教師や南京YMCA代表からなる安全区国際委員会(International Committee for Nanking Safety Zone)が運営した。安全区国際委員会(International Committee for Nanking Safety Zone)委員長には,中国シーメンス社Siemens China Corporation代表ヨハン・ラーベ John Rabeが選出された。ラーベは,1936年に日本と防共協定を締結したドイツ人であり,日本と友好関係を保ちながら,安全区を運営することを期待されていた。委員会は,日本・国際赤十字とも連絡を取りつつ,第三国の居留民,中国人難民,特に婦女子を保護した。安全区は,中国国民党の指示はうけない自治的な組織であり,人道的立場から日本軍の暴行や中国兵の交戦活動から中国人を守り,食糧・居住区を確保した。

安全区国際委員会(International Committee for Nanking Safety Zone)は,南京市街西部の8.6平方�の区域で,日本は公認しなが,中国軍が安全区を占領しない限り, 安全区を尊重し,攻撃しないとした。そして、安全区に侵入しようとする中国敗残兵・ゲリラ兵,日本軍兵士を阻止する目的で、安全区の巡回を実施した。しかし,安全区の外では,日本軍兵士による略奪・暴行が頻発し,さらに捕虜となった敗残兵・逃亡兵・敵性住民の処刑も行われていた。

写真(右):南京郊外の避難民の小屋;1938年3月撮影。安全区に入れない中国民間人のほうが多かった。戦火が収まって帰ってきた住民たちも,食糧不足,暖房用の薪炭の不足に苦しんだ。"Refugee huts at Tse Hsia Shan, outside Nanking. March 1938."

火野葦平 (本名玉井勝則)の手紙を紹介した文化人と「南京事件」では,次のように紹介している。火野葦平は,第18師団第114連隊に伍長として従軍し、のちには軍報道部に勤務し、『麦と兵隊』 を書いた文学者である。

昭和十二年十二月十五日、南京にて
 それから、戸口の方へ廻ると、中でがやがや声がして居ます。戸を破らうとしたが、頑丈で破れない。コンクリイトの厚さは二尺近くもあります。見ると、扉の横から電話線が通じてある、これは相当な奴が居ると思つたです。戸口を銃剣でつついて、「ライライ」とどなりました。支那語は知らんし、来い来い、といふ言葉で、出て来いといふ意味を云ふ外なかつたのです。
 ライライと何度もどなつてゐると、中の奴が、戸口の方へ来る様子です。出がけに打たれてもばからしいと思つてゐると、戸が内側からあいて、若い支那兵の顔が見え、向ふから銃をさし出しました。(中略)
 つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。

 中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。(引用終わり)

写真(右):南京で処刑された便衣隊・敗残兵;1937年12月米国人宣教師Ernest Forster撮影。民間人のようにみえても,ゲリラ兵,敗残兵,逃亡兵がいるかもしれない。捕虜として兵士はもちろん,体つき・顔つきから敵性住民を選別して,拘束した。これは,治安対策の一環である。拘束後,1万名以上の捕虜を管理できなくなった日本軍の現地部隊は,捕虜を処置するほか選択の余地がなくなってしまう。Persons executed by Japanese soldiers in Ku Ling Temple. Photo taken by an American missionary, Ernest Forster.

南京事件の直前の上海事変では、陸戦、海上の艦艇からの砲撃,空爆によって市街地に大きな損害が出た。これは、市街にあった中国軍の陣地があったためでもあるが、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。この被害を目撃した外国人によって、メディアを通じて被害が列国に知らされた。銃殺,刺殺,斬首,砲撃,爆撃による殺戮、無抵抗な捕虜や武装解除された兵士,民間人の処刑は,現在から見れば残虐行為である。
日本軍は,上海の外国租界には直接介入はせずに、中国地区占領を図り,11月9日、接収をほぼ完了する。

写真(右)中国捕虜刺殺の公開処刑(1938年代中頃):外国雑誌に,日本兵が屍を埋める壕で,中国兵捕虜を銃剣で刺殺した。出征記念写真が,現地写真館で現像された際,働いていた中国人が密かに写真を焼き増して,米国メディアに持ち込んだり,売却したりした。

しかし,都市・農村を占領しても,そこに住む中国人が日本に従うようになるわけではない。反日感情,抗日(地下)運動,破壊工作が存在していれば,日本軍は以前にもまして,占領地の治安維持のために,厳しい処置をとるであろう。また,ゲリラ,便衣兵の探索のために,兵力を追加配備しなくてはならない。土地を占領し続けるのも難しいが,人の精神,行動を支配するのはより困難である。

日本軍兵士は、自ら撮影した「勇猛果敢な戦闘」の記念写真を,上海や南京の写真館で現像した。その際,働いていた中国人が「残虐行為」に憤り,写真を無断で焼き増しして持ち出した。それが,米英メディアの手に渡り,1938年から残虐行為(勇猛果敢な戦闘)の写真がLifeTimeLookのような雑誌メディアで公開されるようになる。

それまで,日本軍は,従軍記者(war correspondent)や従軍カメラマンには厳重な報道管制を強いていたが,残虐行為の写真は,この公式ルートでなく,日本軍兵士の個人的な写真撮影から流出していた。上海など中国でカメラを購入し,戦場にカメラを持ち込むような日本軍兵士が少数いたし,中国に住む日本人居留民の中には,記念写真撮影を商売として写真屋もあった。彼らが日本軍の攻略した南京で,勇ましい行為や凱旋勝利記念の写真を撮影し,日本軍兵士に販売していた。

このような事情を知った日本軍は,1938年後半になると,従軍カメラマンだけではなく、兵士個人の写真撮影や現像を,軍によって厳しく規制するようになる。米英メディアの反日プロパガンダの反響が大きかったことを懸念した日本が,個人撮影の勇猛果敢な戦闘の写真を含め,幅広い範囲に厳格な情報管理を始めたのである。

写真(右):南京攻略時の日本軍の捕虜;民間人のようにみえても,便衣隊・敗残兵,ゲリラ兵,逃亡兵がいるかもしれない。体つき・顔つきから敵性住民を選別して,拘束した。これは,治安対策の一環である。1937年12月に南京を陥落させたが,日本軍は多数の中国兵捕虜を収容する施設も,護送兵力も,食糧も用意していなかった。捕虜拘束後,管理できなくなった現地部隊は,捕虜を処刑したようだ。Pictrial Reviewに掲載された写真。

また,日本軍の内部にも,南京事件のような敵を利するような行動を抑制する必要性が理解されてきた。これは,慰安所の拡充にも繋がるが,日本軍兵士による残虐行為を抑制するようになったと思われる。さらに,中国民衆と日本軍兵士の親交や新たな平和の構築を謳った写真入の親日プロパガンダも行われた。こうして,1938年の写真規制,婦女暴行の取り締まり,慰安所の拡充以降,新たに撮影された残虐行為(勇猛果敢な戦闘)の写真は,ほとんど公開されなくなる。

「南京事件」以外に斬首や刺殺が写真公開が少ないのは,従軍カメラマンではない一般個人による写真撮影の規制強化による。南京攻略以降,日本軍自らが残虐行為取締りを強化したことも事実であろう。実際の日本軍兵士の中にはあって,斬首や刺殺を勇猛果敢な戦闘の延長とは考えず,残虐行為,婦女暴行,略奪として,嘆かわしく感じ,やめさせたいと思った者も少なからずいたに違いない。

他方,厳しい戦いを続けてきた日本軍兵士は,斬首,刺殺,銃殺は勇猛果敢な戦闘あるいはその延長と考え,残虐行為を犯したとは認識していないものが多かった。軍の指揮官も,捕虜収容所,捕虜の護送,捕虜の食事・食器の準備など,何一つしていなかった。また,婦女暴行や略奪のように陸軍刑法で処罰の対象になっていても,軍の指揮官の中にもそのような行為を犯すものがあった。第一,日本の軍法違反を取り締まるべき憲兵(軍の警察)は,中支那方面軍の前線には,ほとんどいなかった。

写真(右):南京攻略時の日本軍による捕虜の処刑;Pictrial Reviewに掲載された写真。日本・天皇の軍隊に武器を取って反抗する暴虐な敵兵を処断することは,勇猛果敢な戦闘の延長であり,決して残虐行為とは認識されなかった。また,斬首できないと軍刀や刀剣の一流の使い手とは認められないので,一回ぐらいは実戦(捕虜の処断も実戦の延長)で試したいと思ったかもしれない。実戦に使われな軍刀・刀剣は飾り物として軽んじられたのか。

1937年12月に南京の掃討戦を指揮した第16師団長中島今朝吾中将は,第16師団の作戦地で,捕虜をとらない方針で臨んだが,逃亡兵の捕虜を多数獲得し,捕虜の始末ができないほどであった。中島中将指揮下の1937年12月14日の歩兵第30旅団命令(旅団長 佐々木到一少将)では、「[各隊は担当区域を]掃蕩し支那兵を撃滅すべし。各隊は師団の指示あるまで俘虜を受けつくるを許さず」とした。

現地指揮官は,軍法違反となる略奪や陵辱など,部隊の名誉,治安の維持にも配慮する必要があった。陸軍刑法では,次のような罪状を規定していた。

叛乱  組織・制度を破壊するため武器を使用すること
専権  命令なしの戦闘開始・休戦後の戦闘 辱職  司令官の部下を率いた逃避・降伏
     鎮定を徹底しないこと
抗命  上官に対する反抗・不服従
暴行脅迫  上官・哨兵への暴行・脅迫
侮辱  上官・哨兵への侮辱 逃亡  戦線離脱・利敵行為
軍用物損壊 武器・機材破壊
掠奪[略奪] 私有物をの略奪・凌辱・強姦等
俘虜 捕虜の隠匿・逃亡幇助
違令 虚偽発言・規律違反・造言飛語

しかし,軍法会議を開いて,略奪(掠奪),陵辱(民間人暴行),強姦)(婦女暴行)などの犯罪をやたらに処分して,公の記録として残すことは,自らの指揮官としての統率力の不足を示すことになる。日本の軍上層部にそれが知れれば,自分の出世の道が閉ざされてしまう。結局,部隊の名誉と自分の出世を優先して,既に行われてしまった軍法違反者の処罰はほとんど行われない。また,捕虜,ゲリラ兵,便衣隊の処刑や処刑方法(斬首,刺殺,銃殺)等に関して,軍刑法(陸軍刑法及び海軍刑法)では定められていないようだ。

治安を回復するために,勝手な捕虜の処刑,残虐行為,婦女暴行,略奪を厳正に取り締まるのが望ましいが,実際にはこれがなかなか困難なのである。日本軍では1937年(昭和12年)の軍法会議受理数内訳は521名,1943年(昭和18年)は、上官殺傷暴行342名 逃亡1023名 掠奪207名 殺人56名等であったという。南京事件に関して軍法会議で処罰された日本軍兵士は,ほとんどいないようだ。日中戦争開始以降,少佐以上の階級の将校の軍法会議は,上官の統率力不足と認定されてしまうリスクが高いから,犯罪にはほとんど問われなかったようだ。将官クラスでは,一人もいない。

しかし,日本軍の兵士は,捕虜を処刑せよと命じられて従わなければ陸軍刑法第四章抗命ノ罪で処罰され,捕虜を取り逃がせば 陸軍刑法第九十一條俘虜を逃亡せしむる罪(俘虜ヲ逃走セシメタル者ハ十年以下ノ懲役ニ處ス)に問われてしまう。軍法会議には回されなくとも,部隊内部で私的制裁(リンチ)を受ける覚悟をしなくてはならない。したがって,上官の意に反して,捕虜を釈放したり,捕虜の処刑を取りやめたりすることは,下級兵士にはできないのである。

写真(右):南京攻略時の朝日新聞(1937年12月);「凄絶 随所に白兵戦」とあるが,これは日中兵士の接近戦のことだが,事実上,日本軍兵士による中国兵の掃討戦および捕虜の処刑を意味しているようだ。戦意高揚に繋がる記事は書くことができるが,厳しい報道管制しかれており,報道の自由など戦争当初から認められなかった。

南京攻略についても,中国に派遣された日本陸海軍は,敵の首都を攻略したとして,最大級の名誉を賜っている。大元帥昭和天皇から,39名もの将軍が栄光の恩賞を授けられた。大元帥自らの親授式も盛大に開催された。したがって,せっかく名誉の勲章を受けたのに,それを汚すような残虐行為や破廉恥な行為は,隠蔽され,処罰の対象からも外されてしまったと考えられる。軍や政府の公式報告・軍事裁判の記録だけを取り上げても,残虐行為の実態が見えてこないのは当然といえよう。

百人斬り競争をした2人の日本軍将校(少尉)の記事が,1937年から東京日日新聞に4回ほど登場した。しかし,白兵戦とはいっても,軍刀で戦場の銃を持った敵兵を切り殺すことは不可能である,日本刀が損傷するので100人も斬り殺すことは物理的に不可能である,二人は郷里に自分の活躍が伝えられるのを願って手柄話を新聞記者に捏造した,と考えてこの報道は事実ではないとみる識者も多い。


写真(右):百人斬り競争をした日本軍将校
(1937年12月13日東京日日新聞,現在の毎日新聞):二人の少尉がどちらが先に日本刀で敵を100人斬れるか競争をしたことを伝える新聞報道。いかにも白兵戦で敵兵を倒したような記事だが,敵兵が小銃を持って発砲してくるのに,軍刀を構えて突撃したとでも言うのであろうか。銃を持って抵抗している敵兵を斬り殺すことができるはずがない。

1938年1月25日『大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版』報道記事
二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願
 南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立つて、壮烈無比、阿修羅のごとく奪戦快絶百人斬り競争に血しぶきとばして鎬を削つた向井敏明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたがその血染の秋水に刻んだスコアは一○六 ― 一○五、いづれが先きに百人斬つたか判らずドロンゲームとなつたが、その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙千人斬をめざし野田部隊長は□□の敗残兵掃蕩に二百五十三人を斬つた、かくして熱血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく血刃行はどこまで続く?……

 このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島県枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまヽの痛快さがあふれてをり、猛勇野田の面目躍如たるものがある――

 目下中支にゐます……約五十里の敵、金城鉄壁を木ッ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまつた、極楽に行きかヽつたのは五回や十回ぢやないです、敵も頑強でなか〜逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで百五斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて二百五十三人叩き斬つたです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました

百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)
一、今宵別れて故郷の月に、冴えて輝くわが剣
二、軍刀枕に露営の夢に、飢ゑて血に泣く聲がする
三、嵐吹け/\江南の地に、斬つて見せたや百人斬
四、長刀三尺鞘をはらへば、さつと飛ぴ散る血の吹雪
五、ついた血口を戎衣でふけば,きづも残らぬ腕の冴え
六、今日は口かよ昨日はお□、明日は試さん突きの味
七、國を出るときや鏡の肌よ、今ぢや血の色黒光り……(中略)

 まだ極楽や靖國神社にもゆけず、二百五十三人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、武運長久(われ/\は戦死することをかく呼んでゐます)を毎日念じてゐます、小生戦死の暁は何とぞ路傍の石塊を捨ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、最後に大元帥陛下万々歳。……

掲載記事は,兵士の本心に読み替えて,解読する必要があろう。記事における「敵も頑強でなかなか逃げずだから」百人斬りができたとあるが,これは「敵が逃亡せず投降して捕虜となったから」百人斬りができたと読める。「武運長久(われわれは戦死すること)を毎日念じてゐます」とは,「武運長久=無事帰郷を毎日念じている」という意味である。

この兵士が100人以上の敵を斬ったという残虐と思われる記事が軍の検閲を通って平然と掲載されていることに注目したい。

百人斬りを千人斬り競争にするというのも,勇猛果敢な精神の発露として尊重され,「飢えて血に泣く聲がする」「血の色黒光り」「さつと飛ぴ散る血の吹雪 明日は試さん突きの味」のような表現も,決して大言壮語,事実無根とはみなされない。だからこそ,過剰に勇猛果敢さを表徴した新聞記事が検閲にかからず報じられた。報道管制の中で敵の斬殺する日本兵という「建て前」記事は,日本軍の勇猛さを称えるものとして,掲載されている。

写真(右):三十年式銃剣を装着した三八年式歩兵銃:日本軍の主要小銃は,明治38年に制式された三八式歩兵銃で,銃の先(銃口)に,明治30年に制式された三十年式銃剣をつけることができる。

銃剣とは,小銃の銃口に装着する刀剣であり,世界の軍隊で採用されていた。これは,現在の国体における銃剣道と同じく,相手を銃剣で刺突して倒す武器である。しかし,発砲してくる敵兵に対して,銃剣だけを構えて戦うことはできない。したがって,実際の戦闘で敵を刺殺することはまず不可能である。突撃精神を鍛えるために,銃剣訓練を行う程度であった。

小銃を持っている中国兵に対して,刀剣・銃剣だけでは白兵戦を戦うことはできないから,実際に中国人を斬った,刺殺したのであれば,格闘ではなくて,無抵抗の捕虜を斬殺・刺殺したと考えるしかない。百人斬りが,完全に捏造であれば,日本軍は戦意向上のために4回も全国紙に虚偽の報道を許したことになる。当時,日本国内には,多数の実戦経験を積んだ兵士や兵役を終えて除隊した兵士がいた。彼らは,この記事の示す状況を明確に理解できたであろう。

敵を殲滅,屍の山を築くような内容の記事でも,当時は残虐行為とはみなされなかった。現在からみれば「残虐行為」の百人斬りも,当時の日本軍・日本国民は,日本軍兵士の強さ・勇敢さあるいは敵の弱さを示すものとして,高く評価していた。その意味では,百人斬りに近い状況があれば,軍としても積極的に報道させたかったであろう。あるいは,新聞社・記者が,軍の情報開示,紙配給(物資統制で資源は配給・割り当て制度の下にあった)を有利にしてもらえるように,軍に媚を売って書いた記事なのであろうか。

当時の状況では,白兵戦で(降伏してきたり捕まえたりした)敵兵を斬り殺すことは,勇敢な兵士の証であり,賞賛に値する。たとえ無抵抗な捕虜であっても,暴虐な中国兵,日本に反抗した重罪人,大御心を及ぼす天皇に逆らう謀反人として,処罰したのであり,検閲にかからずに記事にできた。日本では,重罪人を打ち首,斬首してきた刑罰の伝統もあり,敵兵の暴虐な振る舞い(武力闘争)は,大日本帝国への叛乱,天皇陛下への謀反であり,極刑に処して当然である。当時の認識では「百人斬り=処刑」である。百人斬りの記事の信憑性を論じる識者は多いが,なぜこのような過激な記事が何回も登場するのかという時代背景を認識すべきであろう。

しかし,後になって,米英列国から,日本軍が中国人の斬殺・民間人殺害のような残虐行為をしていると非難されると,反日プロパガンダを警戒して,斬殺の手柄話の記事は見当たらなくなる。しかし,太平洋戦争に突入すると,外国メディアへの遠慮はなくなり,鬼畜米英を殲滅せよという過激な記事が再び登場する。

兵士の差し出す軍事郵便にも,当時の「手柄話」(現在の残虐行為)が登場する。敵を殲滅した(=殺害)行為は,日本軍兵士・日本陸軍の検閲官にとって,検閲で削除すべき不利な情報とはみなされなかったからである。

写真(右)南京で便衣隊・敗残兵を捜索する日本兵;1937年12月撮影。民間人の平服を着たゲリラ兵や敗残兵・逃亡兵は,日本軍にとって潜在的な脅威であるから,捜索して拘束しようとした。南京で入場式典の準備万端のためには,治安確保が必要である。捕虜を釈放しては危険である。Japanese troops intensively searched for stragglers and plain-clothes soldiers. A scene from Nanking.

『浅羽町史近現代資料編』に掲載された軍事郵便に,天津や南京攻略のときのゲリラ討伐・敗残兵狩りを記述した次の手紙がある(南京大虐殺と軍事郵便 引用)。

この兵士は軍事郵便を、天津→杭州湾上陸地点→南京→安慶→漢口で書いているが,この移動コースは,研究者による『支那事変第二軍兵站関係書類』と部隊長名から,第三師団第二陸上輸卒隊と判明した。陸上輸卒隊は,補給物資の運搬と部隊への配給をつかさどる部隊で,前線部隊からは,敵と直接戦闘しないために蔑視されていたが,後方でゲリラ・敗残兵狩りにも従事していたようだ。

  第三師団第二陸上輸卒隊の行動は,次の通りである。
1937年7月20日〜10月18日:天津;軍需品の輸送業務・鉄道警備
1937年10月20日〜1938年2月18日:天津より華中の金絲娘橋上陸。南京へ。南京では鋤柄兵站司令部に所属。
1938年2月18日〜7月7日:南京・安慶作戦;病馬廠の業務援助。
1938年7月7日〜1939年1月25日:武漢攻略作戦;戦間、安慶で池田龍兵站司令部に所属。漢口攻略直後、漢口へ。
1939年1月25日〜3月8日:漢口から復員(帰郷)

写真(右):南京長江河岸を埋める裸や後手に縛られている死体;1937-38年南京の下関(シャーカン)埠頭。目黒輜重連隊兵站自動車第17中隊で非公式の写真班を務めていた二等兵村瀬守保撮影。出典には「ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。
揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。----揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていました。虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょうか。」とある(村瀬守保(2005)『私の従軍中国戦線一兵士が写した戦場の記録』(新版)引用)


第三師団第二陸上輸卒隊の兵士の出した手紙(南京攻略時の軍事郵便 引用)
 「今いるところは天津であるが、毎日天津より南西の二十里位の所の列車警備に行くのですが、実弾がビューと音立てて走って来るのですこぶる気持ちが悪いよ。-----天津でも毎日毎日便衣隊が我々の手に捕われるのですが、道路上で皆銃殺してしまいます。幾日も幾日も置いて紫色にくさった様を見て、初めは食事もとれませんでした。しかし今は何とも思いません。故郷の方でも相当騒いだことでしょう。天津の戦いは、大きな建物は我が空軍の為に全部破壊されまして見るも哀れな姿です。---」

 「このころは毎日、保定永定河近くに自動車にて残兵狩に出ています。今いる自分等のところから近いので、自分等の夜も安心するように毎日出ていくのです。毎日五人や十人くらい殺して帰ります。中には良人も殺しますが、何分気が立っているので、いる者は皆殺しです。哀れな者さ、支那人なんて全く虫だね。」

 「杭州から南京まで百里の余りも毎日毎日行軍で苦労したよ。全くこの時ほど国のためにはこんな苦労もするのかと思ったよ。米なぞも都合悪く、汽車の便もないので内地から来ず、毎日生塩に南京米の腐ったようなものを食べて十日も暮らしたよ。」

 「自分等のいるところは此の城外である。城外でも揚子江の沿岸で中国銀行。家は五階であるが、三階までは焼けている。自分等のいる隊は乙兵站部で、隊長は青木少佐であって良い人です。兵站部は食糧等の分配をして各部隊にやるところである。揚子江を船で来る全部の荷物が自分等の所に来るのです。沢山な荷物を五十人足で歩哨に立つのでなかなか苦労は多いよ。去年の三十一日まで支那兵の捕まえたのを、毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に、手を縛って落としておいて、上から銃で撃ったり刀で首を切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるで鶏でも殺すような気がするよ。十二月二十七日の夜は、兵站部に食糧を盗みにきたので七人捕まえて銃剣で突き殺したが面白いものだったよ。全く内地にては見られない惨状だよ。」

 「平和になった南京市には南京市民が続々と帰ってくるよ。来てもだね、夜が来ても寝るところも無し。此の寒さにふるえて死んでいく者も一日に何百人ですよ。哀れな支那人ですね。」(1938年1月年賀状)

 「俺達の居る南京地方は、此の頃は暖かになりました。一週間前は雪が降っていたが、此の頃は毎日春だよ。襦袢一枚で毎日暮らしているよ。もう支那兵の死人が暖かになって腐るので、悪臭が鼻を切るように匂ってくるよ。全く戦地だね。揚子江の隅には死人の山で□の如くだよ。一寸内地の人が見たら驚くね。腐ってどろどろになって居るよ。」

写真(右):1937年10月26日の中国軍撤退時の上海の火災:中国軍が市街地から撤収していく際,自ら火をつけた。これは,日本軍の追撃をかわし,敵に軍事拠点を使用させないための手段である。翌日に日本軍に残されたのは全長9kmの大火災のみ。この大火災については,日本軍の爆撃によると解説してある資料もある。日中米英の各陣営でプロパガンダが展開され,事実が不明瞭になってくる。

上海事変においては、四行倉庫の中国軍守備隊のように、死守、徹底抗戦の構えで日本軍と戦った将兵がたくさんあった。蒋介石は、蘇州河の北側、租界対岸の川沿いにあった四行倉庫に立て籠ったドイツ装備・ドイツ式装備の蒋介石の中国軍将兵800名に対して死守を命じた。蒋介石は、米英など国際世論の同情を惹きつけ、中国への支援、日本への制裁を取り付けようと考えていたのである。蒋介石は、ソ連やドイツへも軍事支援を求める働きかけをしていた。しかし、日本軍の猛攻の前に、四行倉庫の抗戦は、4日間しか続かなかった。中国軍は、焦土作戦を覚悟し、撤退する地域にある軍需物資や陣地への転換が可能な建物が日本軍の手に渡らないように火をつけた。それが延焼して,上海各所で大火災が発生した。しかし、陸上での銃撃戦に加えて,日本軍の爆撃,砲撃,中国機の爆撃に加えて,中国軍が撤退するときに,火をかけ,大火災が発生している。放棄する陣地を敵に使わせないように破壊するのは常識だが,上海での市街戦では,繁華街に大火災が生じてしまっている。

上海事変における日本陸軍の人的被害は甚大で、1937年の10月14日までに死者3900名、負傷者1万5843名を、上海の戦闘がほぼ終了した11月8日までの累計で死者9115名、負傷者3万1259名を出している。死傷者4万名以上というのは,2コ師団壊滅に相当する大損害である。攻撃する日本軍の兵士は,戦友を殺害した中国軍に憎しみを抱く。捕虜とした兵士が戦友を殺したのであれば,即刻処刑したくなるであろう。

6.日本の総攻撃と首都南京攻略

写真(右):出征した兵士への慰問袋の作成風景か(1940年前後(?)の香川県仁尾町):「兵隊さんは命がけ、私たちは襷がけ」「捧げよ感謝、守れよ銃後」のスローガンのもと節約と配給生活。兵士だけが戦争を戦っているわけではない。

日本国内では、上海で苦戦する日本軍を支え,これを契機の戦争体制を確立しようと様々な政策が採られている。1937年12年8月24日に国民精神総動員実施要綱が定められた。これは、挙国一致、尽忠報国の精神を国民がもつために、プロパガンダを行うものである。

写真(右):1939年5月支那出征兵慰問写真帖;福島県新鶴村。カメラを持つ村人はほとんどいないだろうから,村役場か青年同盟が手配してたのだろうか。出征兵士自信,中国出兵の是非を論じる余裕などない。応召後,兵役を務め,無事帰郷したかったであろう。これが俗に言う「武運長久」の意味するところは「無事帰郷」であった。

統制経済を強化する必要性も認識されており、1937年9月4日には北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱が閣議決定している。これは、総動員実施するために、必要な戦時法令を制定・通用するための措置を講じようというもので,資源配分の調整、精神作興、労務管理の強化、産業指導統制、貿易統制、食糧統制、運輸統制、財政金融における経費節約・増税・公債消化促進、応召軍人・軍人遺族のための社会施設充実、防疫強化の基本方針を定めたものである。つまり、日本経済は北支事変の段階で,軍備,作戦行動を支えることが重い負担となっており,その経済基盤を戦争経済に順応できるように作り変えようというのである。

写真(右):五台山を進撃するに日本軍:出典には「1937年秋、日本軍、五台山の名刹に闖入」とある。日本の中国攻撃は、首都を攻略しても終わらなかった。中国各地を占領したが1938年末になると,ソ連,米国に備える兵力を残すために,中国奥地への攻撃をやめて,持久戦体制をとるようになる。

日本陸軍は,兵力劣勢を自覚していたからの中で,中国軍民すべてを敵に回すほど愚かではない。分割して統治せよで,満州に,華北に傀儡政権を次々と作ったり,支援したりと治安工作,政治工作を進めてきた。「東アジアの平和と安定を目指す日本は,暴虐な現在の中国国民政府に反省を求めているだけ」と日本の中国派兵理由を謳っていたのだから。後には,「国民党政府を相手にしない」というが,中国民衆の生活を破壊したり,中国人を奴隷にするつもりはない。

日本の中国侵略ではなく,「反米反ソ連のアジア共栄圏」の構想をもっていた軍人も政治家もいた。中国の英雄孫文に,中国国旗「青天白日」に,敬意を抱いていた日本人もいた。孫文は,日本に亡命して清朝を倒し共和国を創設する計画を実行したし,蒋介石も日本陸軍の士官学校で学んでいる。

しかし,「列国に半植民地にされた中国を青天白日旗の下に解放する」つもりは毛頭ない。日本は,アジアの解放を唱えても,中国にある特殊権益を維持し,それを中国に返還するつもりはない。それどころか,中国側からみれば,満州,華北,江南地方を軍事占領して,さらに,「日寇」を続けて残虐行為を行った。中国人は,日本が信義の国であるとは思わなかったであろう。かえって,日本を中国支配を目指す東洋鬼,日本鬼と憎むようになる。日本は,中国側に対して,自治政府樹立をはかり,和平工作を進めてはいたというが,これは,分割統治,分離工作であり,中国を引き裂く行為とみなされた

中国共産党軍は「紅軍」,日本陸軍は「皇軍」(正式には「国軍」)だった。そこで、中国人は、皇軍を「蝗軍=イナゴの軍隊」と揶揄し、現地の食糧・物資を食いつくし,奪いつくす略奪軍とみた。

上海での日中の戦闘は、日本海軍航空隊の南京爆撃、これに続く南京攻略へと急遽、拡大していく。日本軍は、上海で頑強な抵抗を受けたため、大規模な陸軍部隊を増援に送った。上海戦が10月下旬にほぼ終了の見込みがついた時点で,さらに一押しして、首都南京を攻略し,「支那事変」に勝利しようとした。この時点では,中国の首都南京を陥落させれば,中国は降伏すると,日本政府も日本軍も大元帥も考えていた。

写真(右):中国共産軍の抗日軍政大学:共産軍の根拠地の延安に設立した。1937年1月に大学自体は創立されていたが,中国国民党軍との内戦で,長征(退却?)後,1938年に延安に到着し,根拠地とした。抗日軍政大学では,思想教育と持久戦・ゲリラ戦術を重視して,中国民衆の協力・動員の下で,抗日戦争を遂行しようとした。

1937年11月18日『昭和13年軍令第1号』によって,大本営が設置された。大本営は,本格的な戦争を進める陸海軍を統帥する機関である。
朕大本営令ヲ制定シ之ガ施行ヲ令ズ
大本営令(軍令第1号)
第 1 条 天皇ノ大纛下二最高ノ統師部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス
大本営ハ戦時又ハ事変二際シ必要二応ジ之ヲ置ク

大本営設置後,統帥権を持つ大元帥が『大陸命第8号』(1937年12月1日)によって,「中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」と命じた。命令時期が遅いが,これは南京攻略が確実になった時点で,完遂できる命令を出したかったためであろう。大陸命が実施できなければ,方面軍司令官は最大限の責任を負うことになるし,命令を発した大元帥の権威も傷ついてしまう。

写真(右):きょうぞ南京城完全占領「包囲下に大殲滅戦展開」:東京日日新聞1937年12月14日。殲滅戦とは,敵兵力を撃滅することで,敵兵士の殺害を伴うのは当然である。殺害方法は,武装した敵兵士との戦闘,無抵抗の民間人の戦闘巻き添えなど様々である。1942年にシンガポールを攻略したときも新聞紙上で「敵の屍山血の河」として,大戦果を高らかに謳っていた。敵の屍が多いほど,日本軍の強さの証明になる。敵を殲滅し,屍の山を築く行為は,残虐行為とは認識されていない。したがって,敵を殲滅し,屍の山を築いた日本軍の「勇猛果敢な戦闘」の記事が検閲で不許可になることはない。

日本軍は,「11月下旬に至り上海方面軍をして南京攻略を決行するに決す」こととにした。航空兵力,艦隊戦力において中国軍に勝っている日本軍であるが,歩兵兵力は数分の一であり,蒋介石は淅江省方面より新たに兵力を上海方面に派遣し、ドイツ軍事顧問団の指導を受けながら塹壕陣地を構築して頑強に抵抗する。中国軍の粉砕と南京攻略は,両立させるのは容易ではない。

その後、南京攻略の目途が立った12月5日、新設の上海派遣軍司令官に任命された朝香宮鳩彦中将が前線に到着した。この任命は,名誉ある南京入場式に,現地の指揮官として皇族(昭和天皇の叔父)を出席させたいという大元帥の意を察しての人事であろう。朝香宮鳩彦は後に大将に進級した。しかし,同じ年の東久邇宮が防衛総司令官に就任したにもかかわらず,南京事件で統率力不足を咎められたためか,軍事参議官という閑職に留め置かれてしまう。

写真(右):高山流の刀剣の形(1935-1944年頃);南京城内の中国敗残兵を掃討して,捕虜を得た第16師団長中島中将は,自分の刀剣の切れ味を試すために,高山流の剣士に捕虜2人の斬首をさせた。その結果,見事に斬れたと感心している。(『中島今朝吾日記』1937年12月13日より)

日本軍は,苦戦の末、敵中国の首都南京を陥落(形式上、陥落前に重慶に遷都)させたことで、日中戦争は日本の勝利に終わると錯覚した。南京では,退却してきた中国兵士が、軍服を脱ぎ、市民にまぎれて逃亡しようとし,避難民も流出入していた。南京の人口は,平素20-30万人よりも多かったようだ(2000年は624万人)。しかし、追撃する日本軍は、当初の作戦にはなかった南京攻撃を実施ししたため,補給が不十分だった。こうした背景から、日本の兵士は、激しい戦闘で疲労し、中国人への憎悪が高まっていた。

南京に突入した日本軍は、掃討戦と称して,敗残兵・便衣隊狩りを徹底的に行う。ここでは,個人的に降伏してきた敵兵を後方に護送することもできず,即座に処刑してたこともあった。また,集団投降してきた敵兵に対しても,日本軍は捕虜収容所も,捕虜の食料も準備していない。実際,掃討戦の指揮をとった第16師団長は「捕虜はとらぬ方針」を示し,民間人多数を含む中国人を殺害した。また,南京に一番乗りすればしたい放題だと煽られていた現地部隊は,南京攻略以前から,婦女に暴行を加えていた。首都陥落入場式には,皇族も出席するために,治安維持に万全を期すために徹底した掃討がされた。これが、「南京事件」である。

南京攻略で虐殺された死者は,中国側は埋葬記録を元に30万人と主張するが,日本の識者は2万-20万人である。日本人には「南京虐殺などなかった」と抗弁するものもいるが,これは戦闘での殺害や捕虜の処刑は当然起こるべきものであり,「残虐行為」ではないという実戦を戦った勇猛な兵士の証言としてはもっともである。虐殺と戦闘による死者を区別するのは,混乱時期にあって,非常に困難である。

写真(右):高山流の刀剣の形と銃剣(1935-1944年頃);日本では,武士の魂として刀剣が尊重され,将校・下士官では刀剣の形を練習していたようだ。銃剣は,小銃を持つ歩兵なら全て銃剣術や銃剣突撃の訓練を受けた。敵兵を刺殺・斬殺できない兵士は臆病者とされてしまう

第16師団(中島今朝吾師団長)は,南京城内の敵兵(敗残兵)掃討を命じられた。陸軍中将『中島今朝吾日記』の1937年12月13日の記述には,次のようにある。

十二月十三日 天気晴朗
早朝20i〔連隊〕の将校斥候は中山門に入りて敵兵なきを発見し茲に南京は全く解放せらりたりと知る----
一、天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕へ彼が地雷の位置を知り居たるところを承知したれば彼を尋問して全般の地雷布設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはカナワヌカナワヌ

一、本日正午高山剣士来着す
 捕虜七名あり直に試斬を為さしむ
   時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸二つを見込〔事〕斬りたる
---

捕虜掃蕩
十二日夜----敵も亦相当の戦意を有したるが如きも其後漸次戦意を失ひ投降するに至れり---

此日城内の掃蕩は大体佐々木部隊を以て作戦地境内の城門を監守せしめ草場部隊の二大隊を以て南京旧市より下関に向かつて一方的圧迫を以て掃蕩せしむこととせり
城内には殆んど敵兵を見ず唯第九師団の区域内に避難所なるものあり老幼婦女多きも此内に便衣になりたる敗兵多きことは想察するに難からず----

敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて至る処に捕虜を見到底其始末に堪へざる程なり
大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず
唯彼等が全く戦意を失いゾロゾロついて来るから安全なるものの之が一旦騒擾せば始末に困るので部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ---
斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

佐々木部隊丈にて処理せしもの約1万5千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約1300
 其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る

此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり

此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云う暇なくして東奔西走しつつあり

南京掃討戦を指揮した陸軍中将中島今朝吾師団長は,陸軍中央の指令としてではなく,現地の高級指揮官として,敗残兵狩りを行い,口頭命令で捕虜を処分させたことが窺われる。

 当時、中国の抗日排日運動を敵視し、排除しようとしていた日本軍人は、中国を戦争で屈服させるべきだと信じていたから、武力抵抗を試みる中国人は、軍人でも民間人であっても、重罪を起こした犯罪者、ゲリラ兵(便衣兵)とみなし、処罰・処刑すべきと考えた。処刑は極刑・死刑と同様、正義の鉄槌であり、残虐な行為とは、思っていなかった。

20世紀前半の人権軽視の世論の中で、敵兵士、ゲリラ兵など反抗するものを処刑しても、それは残虐行為とはみなされず、メディアンの報道でも、それを隠さずに、敵を「殲滅」「全滅」したと述べていた。ここでの殲滅・全滅とは、兵力が半減したことを指す軍事用語ではなく、惨殺、銃剣での刺殺、皆殺しを含む敵の「排除」を意味している。

写真(右):銃剣の刺殺訓練をする大学生(1942年頃);獨協大学だけではなく,日本全国の大学・中学校(5年生)には軍から教官(配属将校,退役将校)が派遣され,軍事教練を指導した。

当時,南京にいた外国人の中には,南京虐殺を報じた外国人もかなりいる。アジア歴史資料センターTIMEアーカイブには,たくさんの報告資・命令などの資料がある。諸外国の日本大使館・領事館は,南京虐殺の反日プロパガンダが,各国で展開されていることを本国の日本政府に報告していた。米英で普及していた雑誌LIFEも,中国の対日防衛の特集を1938年5月に組んでいるし,同じくTimeも1937年の「時の人」は蒋介石夫人宋美麗Madame Chiang Kai-Shekであり,1938年2月には「南京虐殺」を引き起こしたとして日本を非難した。それ以前から,日本の聖戦を「中国侵略」として非難していた中国や米英ジャーナリズムは,南京事件を反日プロパガンダに利用した。

写真(右):LIFE 1938年5月16日号;ドイツ式の鉄帽を被った中国兵の表紙。中には,南京虐殺を報じる写真が掲載されている。米英のメディアは,日本軍の残虐行為を写真も添えて伝えた。見方によっては,反日プロパガンダとして,米英の反日感情を高める役割も果たした。中国の国民党政府の反日プロパガンダの影響もあった。しかし,中国在住の米国人宣教師・ジャーナリスト,さらに米国大統領や米国陸海軍高官は,1931年の満州事変以来,ファシズム日本を敵視し始めており,1937年の日本軍による中国捕虜の処刑,婦女暴行は,日本軍の残虐性を示す証拠のように思われてしまう。

TIME Feb. 14, 1938
「目撃者Eyewitness」

日本は,先週の時点で,依然として外国人の南京への入城を禁じているが,シカゴ・デイリーニューズは,先週「南京虐殺」の目撃者証言を入手した。
With Japanese last week still forbidding foreign correspondents to go to captured Nanking (TIME, Dec. 20, et seq.), the Chicago Daily News received last week one of the best eyewitness accounts thus far of the "Nanking atrocities" from its Far East Ace Reporter A. T. Steele.

日本が南京を占領したとき,そこに居合わせたスティール氏は,今回の事件の詳細について次のように述べている。
Writes Mr. Steele, who was in Nanking when the Japanese captured it and has been trying to get out the grim details ever since:

「中国人はみな軍服を着ていたり,銃を保持していたりすれば,それが死刑を意味することがわかっていました。ライフル銃は捨てられ山積みされて,焼却されました。街路には,軍服が脱ぎ捨てられました-----。
"All [the Chinese] knew that to be found in possession of a uniform or a gun meant death. Rifles were broken up and thrown into piles to be burned. The streets were strewn with discarded uniforms and munitions. . .

(日本兵に怯えた中国の逃亡兵は,南京市民から平服を剥ぎ取ろうともしている。)
"As the Japanese net tightened some of the soldiers went nearly crazy with fear. I saw one suddenly seize a bicycle and dash madly in the direction of the advancing Japanese vanguard, then only a few hundred yards distant. When a pedestrian warned him of his peril he turned swiftly about and dashed in the opposite direction. Suddenly he leaped from his bicycle and threw himself at a civilian and when I last saw him he was trying to rip the clothes from the man's back, at the same time shedding his own uniform. . . .

アメリカ大陸西部のウサギ狩りのように,ハンターがウサギに近づいて,罠に追い込み,そこで妻丸か撃ち殺されてしまいます。日本が南京を占領してからの光景は,人間が犠牲者でしたが,このウサギ狩りと同じでした。
"I have seen jackrabbit drives in the West, in which a cordon of hunters closes in on the helpless rabbits and drives them into a pen, where they are clubbed or shot. The spectacle at Nanking after the Japanese captured the city was very much the same, with human beings as the victims. . .

日本兵たちは,中国の兵士が,一人残らず動かなくなるまで満足しませんでした。日本兵は,銃撃した兵士たちが一塊に山積みになった上に立ち,動いている兵士に弾丸を見舞っていました。
"The Japanese were bent on butchery. They were not to be content until they had slaughtered every soldier or official they could lay hands on. . . . One Japanese soldier stood over the growing pile of corpses with a rifle pouring bullets into any of the bodies which showed movement.

これは,日本人にとって戦争かもしれませんが,私には殺人のように見えました。
"This may be war to the Japanese, but it looked like murder to me."

最善の推計によれば,日本人は2万人を南京で処刑し,11万4000人の中国兵を上海-南京攻略の戦いで殲滅した。他方,日本人は1万1200人が死亡した。
Best estimates are that the Japanese executed 20,000 at Nanking, slew 114,000 Chinese soldiers in the Shanghai-Nanking phase of the war, lost 11,200 Japanese in this phase.


写真(上):斬首し,その首と遺体を眺める日本兵
(1937-1938年);中央の写真は,南京安全区国際委員会の委員であった南京YMCA会長フィッチの持ち帰った写真としてPhotographs of Democideで,次のように解説された。Decapitation was a favorite and traditional manner of Japanese execution, or, as in Nanjing, murder by the military, as shown in this Nanjing photo. For documentation on Japan's murder of near 4,000,000 Chinese during the Sino-Japanese War (which in 1941 merged into World War II) and the Nanjing massacres, see China's Bloody Century Source: "Alliance in Memory of Victims of the Nanjing massacre."

写真(右):第二次上海事変の難民:戦闘や爆撃を恐れた難民が、郊外や英米仏などの租界地に逃げ込もうとした。これら外国の駐留軍もいたから、日本軍も外国を租界攻撃するつもりはなかった。

中国軍も、日本軍の上海での惨禍、南京占領に際して行われた婦女暴行、捕虜・潜在的敵対者の処刑を、南京レイプ、南京大虐殺として非難した。プロパガンダとして写真の編集・公開も当然行われたう。中国軍は1937年10月に上海から撤退する際、自ら市街地の一角に火を放っている。これは、スイス人のカメラマンKarl Kengelbacherに撮影もされている。しかし,このような中国に不利な事件は,中国自らが公表することはない。それどころか,日本軍の爆撃による被害として宣伝したこともあったようだ。

中国人の間では,次第に日本人に対する反感が高まり,反日感情が,反日行動,抗日戦争へと繋がった。これは,日本の中国侵攻とならんで,残虐行為に対する憎悪やそれを煽動するようなプロパガンダが関連してくる。日本兵による斬首は,その一例で,撮影時期・場所不詳の写真が,今でも出回っている。日本刀を振り上げたポーズなどで,撮影されているが,適切な手続きを経た適切な方法で処刑しているのであろうか。敵国兵士の軍服を着た兵士は,国際法でも処刑が正当化される。軍服を脱いだり,民間人の服装で武器を隠し持つゲリラ兵・民兵・便衣隊であればどうか。妨害活動や敵対的態度をした民間人であればどうか。今後,潜在的な敵となりうる人間であれば,どのように扱えばよいのか。「やられる前にやっておく」予防戦争としたようだ。

写真(右):女子救国委員会の女性リーダーたち:住民に対する諜報や宣撫活動に従事する共産党系のグループであるが,日本軍から見れば,抗日運動を煽動する便衣隊ということになる。この写真を撮影したのも,米国人女流ジャーナリスト・作家のアグネス・スメドレーである。スメドレーは,毛沢東・朱徳など中国共産党の要人に直接会うことができるほど,中国共産党に評価された米国人女性である。共産党は,スメドレーを通じて,中国における共産党の重要性を,米英に訴えたかったのであろう。"Leaders of Women's National Salvation Association in Central China - in guerrilla territory." 1930s Photographer: Agnes Smedley

便衣兵(ゲリラ兵)は,ハーグ陸戦法規違反であり,交戦資格を有しないとされる。交戦資格を有しない者は,敵対的な軍事行動に従事し捕らえられても,捕虜としての待遇は与えられない。スパイ,犯罪者として処罰されてしまう。つまり,交戦団体として資格なき敵対行為は,重罪として死刑に処せられる。軍服を脱いで市民に紛れて逃亡しようとした中国兵士が捕虜になった場合,民間人の服を着て密かに敵対的行動をとる便衣隊(びんいたい)であるみなし,日本軍は処刑している。これは,ハーグ陸戦法規に則った適法な処刑であり「虐殺」とはいえない---とも抗弁できる。

女子,老人,子供も,軍服を着用せず,反日的妨害工作や諜報(スパイ)活動を行っているようであれば,あるいはこれから行うのであれば,便衣隊とみなすことができる。近現代戦では,女性兵士,女性ゲリラ,少年兵も,前線で,あるいは後方撹乱・破壊工作,暗殺テロ活動,諜報活動で大きな戦力になる。したがって,女性兵士,女性ゲリラ,少年兵は,無抵抗で捕虜になっても,便衣隊として処刑してよい。これは,適切な処刑であり,「虐殺」「残虐行為」ではないというのである。

日本軍は,中国に侵攻し,農村・都市を通過した。農村・都市を占領し続けることもあった。占領地の治安維持に配慮して,住民への暴行,略奪を禁じた。しかし,対価の支払いを伴うあるいは支払いを約束する徴発でも,価値のない軍票・空手形では,事実上の略奪である。戦闘部隊は,後続の補給部隊が支払うとして,物資食糧を徴発し,支払い約束書を書いたこともあったが,これは反故にされた。

略奪は,陸軍刑法の掠奪罪で,本来は軍事法廷で裁かれる。その意味で,陸軍刑法で犯罪とされた略奪に関して(わざわざ)略奪を禁じる命令が出ていてるとすれば,軍の指揮官が部下の略奪が頻発し,処罰できないでいることを示している。

写真(右):池で処刑された中国の捕虜(1937年12月頃米国人宣教師のフォルスター)撮影;大量の捕虜を処分するには,大きな穴に埋めるか,池や河川に投棄するかしかない。食糧や施設も不十分な日本軍には,大量の捕虜を長期間管理することはできなかった。捕虜の移動,交通機関も不十分だった。したがって,日本に反抗したり、動けない捕虜は,処刑された。A pond filled with corpses. "This is a scene typical of many of the ponds inside the city after the occupation of the city by the Japanese," noted Forster.

数万人の日本軍が毎日,野宿したわけではない。徴発した民家で食材・食糧を集め,調理器具を勝手に使い,薪炭や木製家具をたきつけにした。住民が残っていれば,食事の用意に使役した。中国農村には,トイレはない。日本軍の大半はノグソだった。糞尿投棄は不衛生な状況を悪化させ,飲料水,洗濯水の給水困難にした。水源が汚され,回復できなくなった。

中国農村・都市を通過し,滞在・宿泊した日本軍は,民家で見つけた貴重品や便利な道具を略奪した。略奪品や食糧を住民を勝手に使役し強制的に運ばせた。便利な少年を丁稚・小間使い奴隷のように連れて行った。支払いもせずに中国人を荷物・略奪品運搬に使役して,行軍に従わせた。日本軍としては,殺したり,暴行したりすることなく,温情で中国人を生かしてやったと考えたが,何日も強制的に使役されて中国人が親日感情を抱くはずがない。使役した中国人を「解放してやったらお礼を言って笑顔で帰郷した」としてもである。

写真(右):日本兵に捕まった中国軍兵士(1937年8月23日頃の上海);狭い鉄条網の柵中に立ったまま閉じ込められている。全員,後手に縛られているようだ。出典の解説にはA massacre in progress in Shanghai on August 23, 1937. The seal on the left side of the photo was placed by the Japanese News Censorship Bureau. It reads, "Not permitted." とある。新聞などでの公開は「不許可」という意味である。

敵地に乗り込んだ軍隊は,現地で徴発を行い嫌われるだけでなく,財産,家屋,家畜を破壊することで,住民に恨まれる場合が多い。したがって,徴発・略奪・暴行を受け,住居を勝手に使われ,使役された住民が破壊され,あるいは戦火で財産を破壊された住民が多数,いたるところにいた。このような住民は,「中国を侵略する日本軍」という国際的な認識がなくとも,日本軍に好意的にはなれなかった。ましてや,日本軍に両親や子供を殺害された中国住民が親日的になるとは考えられない。

日本軍の中にも,適切に中国の住民を扱った部隊も多かったであろう。しかし,ひとたび悲惨な経験をした住民は,決してそれを忘れない。日本軍をひとまとめにして,憎い敵であると認識してしまう。両親,配偶者,子供,家族,友人を殺したり,暴行したりした人物を許すことはない。その人物が特定集団のメンバーであれば,メンバー全員が憎悪の対象になる。

1937年12月23日「佐々木到一少将私記」、同盟通信社の配信(南京事件引用)

国際難民区域内における支那良民は23日自発的に自治委員会を結成するに至ったが、一方同区内にはその二割が逃げ場を失った支那正規兵の便衣に着替えて混入するものと推定され、かかる多数の敗残兵を放棄するにおいては将来治安維持上由々しき大問題を生ずるおそれがあるので、我が軍ではかねて便衣正規兵の狩り出しにつとめているが、さらに24日を期して徹底的粛正工作を施すこととなった」

写真(右):中国共産軍である八路軍の宣撫工作隊:1938年米国人女性ジャーナリスト,アグネス・スメドレー撮影。武器を使わなくとも,住民を動員して,諜報活動,破壊工作,物資・労働力の徴収などによって抗日戦争を遂行できる。Two Chinese speakers at the 8th route Army" ca 1938, Photographer: Agnes Smedley

都市でも農村でも多数の中国人(ゲリラ,敗残兵を含む)に囲まれて,日本軍兵士は,中国住民を信用せず,敵性住民として扱うしかない。中国の住民に厳しい態度で接し,そこで摩擦がますます激しくなってゆく。補給物資も,運搬手段・宿泊施設も準備していない日本軍は,兵士個人の中国人への感情や態度にかかわらず,大半の中国の住民から排除されるべき存在だったのである。治安回復に繋がったとして,中国の住民たちに歓迎された日本軍もいたそうだが少数であろう。

元来,占領軍から見て,敵国住民は,妨害工作やスパイ活動をする可能性が高いので,正確な判別ができない以上,怪しい人物や潜在的敵対者は,全て便衣隊・ゲリラ・スパイとして,処刑したほうが,治安維持に好都合である。これは「やられる前にやっておく」予防戦争(Preventive war)でもある。軍司令官が判断すれば,逃亡中の兵士,捕虜,便衣隊,敵性住民の処刑は組織的に行われるであろう。これは戦争で敵を殺したとして褒められてしかるべき行為である。したがって,検閲された軍事郵便に,中国兵の斬首や視察など残虐行為がかかれるはずがないという現代的あるいは米英列国的な批判は,当時は当てはまらない。


写真(上):PICTORIAL REVIEW表紙と写真で日本軍による生き埋めを伝える
。;PICTORIAL REVIEWは,日本軍による残虐行為を写真入で「南京虐殺」として報じた。左の絵は,写真から新たに構図を創造した空想画。穴が浅い上に,中国人の婦人が生き埋めの手伝いをさせられている。``The village were then forced to bury this man alive as they repaired the highway by filling in the ditch.`` ---From an original oil painting by Dan Content. 右の写真は,生き埋めにされる中国民間人とされる。しかし,軍服を脱ぎ捨てた敗残兵や民間人の平服を着たゲリラ兵かも知れない。確めようがないが,反日プロパガンダとしては,無辜の民を虐殺する日本軍と解説をつけたほうが効果的である。しかし,プロパガンダに使われたからといって,事実無根の虐殺事件の捏造であるとはいえない。THESE JAP SOLDIERS are burying Chinese civilians alive in other to make a horrible example for the invaded people . The atrocities are boomeranging with a resultant strengthening of Chinese morale. ---Paul Guillumette , Inc.

語弊はあるが,暴虐で残酷な獣兵は人間以下の存在であるから,殺しても,残虐行為とは認識されていなかった。それどころか、敵を殲滅した立派な行為として称賛された。従って,暴虐な中国軍兵士やスパイ容疑者を処刑をしても,残虐行為ではなく,検閲にもかからなかった。

検閲が強化され,斬首・刺殺・捕虜の写真撮影やそれに関する記事・手紙が規制されるようになるのは,1938年に中国,米英列国のマスメディアがそれらの行為を,日本軍の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し,反日プロパガンダが盛んになった後である。反日プロパガンダに利用されないように従軍記者・カメラマンなどのメディアによる報道とならんで,兵士個人の写真撮影・現像,郵便の規制を厳しくして,捕虜の虐待,住民虐殺などの反日プロパガンダを利する情報を管理し始めた。

写真(右):南京近郊の処刑された捕虜(1937-1938年):半裸で,後手に縛られているので,戦闘による死者ではない。一ヶ所に集められて処刑されたようだ。日本軍は,捕虜収容所も捕虜の運送手段も捕虜の食事・食器もなにも準備していなかった。 

1937年(昭和12年)12月13日に執り行われた南京入城式により日中戦争の大勢は決まったかに思えたものの、南京における日本軍による捕虜の処刑,市民への暴行など残虐行為は,国際的にも批判されたことから,外務大臣広田弘毅は,陸軍大臣杉山元に注意を喚起した。そして,陸軍参謀総長閑院宮から中支那方面軍司令官松井岩根に,軍紀振作の訓戒が出され,参謀本部第二部員(情報部)本間雅晴少将(将軍)が南京に調査に向かった。日本政府も軍も,南京で(事件の規模は不明瞭だが)残虐行為が行われたことはわかっていた。

中支那方面軍司令官「松井石根大将支那事変日誌抜粋」によれば,現地最高司令官は,図らずも日本軍による暴行掠奪事件が起きたことを認め,次のような対処をした。

上海附近作戦の経過に鑑み南京攻略戦開始に当り、我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め各部隊に対し再三の留意を促せしこと前記の如し。
 図らさりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行掠奪事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。
 是れ思ふに
 一、上海上陸以来の悪戦苦闘か著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。
 二、急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと。
 等に起因するも亦予始め各部隊長の監督到らさりし責を免る能はす。

 因て予は南京入城翌日(十二月十七日)特に部下将校を集めて厳に之を叱責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るへき旨を厳命せり。
 然れとも戦闘の混雑中惹起せる是等の不祥事件を尽く充分に処断し能はさりし実情は已むなきことなり。
 因に本件に関し各部隊将兵中軍法会議の処断をうけたるもの将校以下数十名に達せり。
 又上海上陸以来南京占領迄に於ける我軍の戦死者は実に二万千三百余名に及ひ、傷病者の総数は約五万人を越えたり。(欄外)

写真(右):南京での日本軍による敗残兵・敵性住民・ゲリラの選別(1937年12月頃):宣教師マギーが撮影したフィルムに,敵性住民を選別しているらしい映像がある。1937年(昭和12年)12月13日の南京入城式の安全を確保するために徹底,大急ぎで杜撰な中国人の取締りを行った。

南京事件については、太平洋戦争後,1946年5月から始まった極東軍事裁判「東京裁判」で松井石根大将が起訴された。オーストラリアのジョセフ・キーナン検事は「無警告に南京を攻撃せり」と称して、松井軍司令官の降伏勧告文の散布,24時間の停戦猶予を認めていない。しかし,ハーグ陸戦法規に違反する便衣隊や「空室清野作戦」(日本軍に使用させないために,退却時に自国の家屋・インフラを焼き払う)に日本軍は悩まされた、米英列国の権益が錯綜する中で、日本軍は中国民間人を保する余裕はなかった。

松井石根大将は,日本の軍人として大元帥の責任に帰することなく,軍司令官として,自ら部下の勇猛な恥ずべき行為の責任=死刑を引き受けた。この態度は立派である。松井大将が極刑となった理由は、軍司令官として部下の統率をする責任を果たせなかったという「不作為」を問うものであって,「俘虜及び一般に対する違反行為の命令・受権・許可による戦争法規違反」では無いとされている。

「虐殺」は松井石根大将の命令による組織的、計画的なものではないとの判決であるが,部下の師団長,連隊長には,中島,佐々木のように捕虜の処刑を口頭で命令した将校があったようだ。また,現地の捕虜監視部隊に,食糧の支給もしなかったし,後方での捕虜の収容・管理を拒否した指揮官もあったようだ。

写真(右):日本軍の南京入場式(1937年12月16日):敵の首都南京に入場パレードするためからには,敵敗残兵・ゲリラ兵はもちろん敵性住民も完全に排除されているはずだ。12月13日に陥落させられた母国のど真ん中で,南京市民は,敵国日本軍の入場を歓迎したのは,自己保身のためか,それとも日本軍に強制されたためであろうか。

1937年(昭和12年)12月13日に南京入城式が行われることになったが、1932年の上海における天長節式典での爆弾テロのような突発事件を是が非でも回避しなくてはならなかった。中支那方面軍司令官松井石根大将を先頭に敵の首都南京に入場するためには,敵性住民も完全に排除しなくてはならない。南京には,一人の敵兵,逃亡兵敗残兵,ゲリラがいてはならない。間近に迫った南京入場式典を滞りなく実施するには,逃亡兵,敗残兵,ゲリラ,敵性住民を徹底的に取り締まり,捕縛して,治安を回復しなくてはならない。そのために,大量の中国人が路上で処刑されたり,捕縛されたりした。

しかし,捕虜のための収容所・食糧・監視兵力は,不足しているが,日本に憎しみを抱くようになった捕虜を解放することはできない。そこで,厳しい捕虜の処刑という措置が採用された。

  「虐殺」は,東京裁判のいう人道に対する罪を前提として成り立つものである。戦時中の日本には,武器をとって日本・天皇陛下に反抗する暴虐な敵国人に対して,重罪人(反乱者)とみなして人権を認めていなかったから,人道的な扱いも期待できなかった。その意味で,当時の日本では,重罪人(捕虜)の処刑は,虐殺でも残虐行為でもない。したがって,「南京大虐殺」は,捏造であると言うのは,当時の国軍(皇軍)の立場からは当然である。

写真(右):南京の中国人の屍(1937年12月頃同盟通信社不動健治氏提供):「両腕を後手に縛られているので、戦闘による死体ではないようだ。不動健治(1955)『画報 近代百年史』第十五集,国際文化情報社,p.1146に掲載されているという。

南京陥落で1937年(昭和12年)12月13日の「南京城頭日章旗翻」として南京入城式が執り行われ,日本人は中国が降伏すると思った。しかし、中国軍民は一丸となって,抗日戦争を戦った。日本兵は,勝利の凱旋,帰郷を楽しみにしていたが,中国のために,引き続き血みどろの戦いを続けさせられた。すべて,中国が日本に反抗して戦争を仕掛けたせいであり,中国の反日感情・反日活動が諸悪の根源である。このように一方的に考えた日本軍兵士は,暴虐な憎むべき敵を容赦しなかった。 

どこの国でも,除隊したり,本国に帰国した兵士たちには,戦争で敵をやっつけ大活躍をしたという自慢話,手柄話を残している。戦争における敵の撃滅は,勇敢な行為,母国のための働きであり,決して虐殺として,非難されるべきものではない。国家の栄光,平和,正義のための戦争では,敵撃滅(敵兵殺害・捕虜処刑)は,戦闘行為の延長であり,残虐行為とは認識されていない

ここで、言及すべきは、赤十字国際委員会(International Committee of the Red Cross)の救護活動である。日中戦争が起こると、翌1938年8月には、被災者救済事業緒を始めようとしたが、この申し出は、日本赤十字社(総裁は代々皇族)に断られてしまう。そこで、国際赤十字は、ICRC代表使節Charles de Wattevilleを上海に派遣することを決める。彼は、スイス人医師で中国に住んでいたルイス・カーメール(ルイ・カラム:Louis Calame)に変更された。

写真(左):上海事変中,中立地帯を設置した神父(Father)Jacquinot(1937年10月31日):民間人,難民を庇護する中立地帯を上海にフランス租界に設置した。神父隣はTelfer-Smollet(仏駐屯軍将校?)。Karl Kengelbacher撮影。

1863年の創設以来、国際人道法にもとづく戦争・内戦の犠牲者への人道的支援を続けてきた赤十字国際委員会(International Committee of the Red Cross)は、紛争地域の市民や難民を保護するため、病院を視察し、中国赤十字などが設置した難民センターを訪問した。1937年(昭和12年)12月13日の南京入城式が終わり、1938年になって捕虜の扱い(捕虜に関する情報交換,捕虜への救援物資配給,捕虜交換)が問題になっても、国際赤十字は交戦国(中国と日本)に何も支援できなかった。

日本は,1929年ジュネーブ条約(傷病者の状態改善に関する赤十字条約)を批准したものの、1929年ジュネーブ条約(捕虜の待遇に関する条約)には加入しなかった。そのために,赤十字国際委員会(ICRC)の活動が制約された(太平洋戦争でも)。国際赤十字が日本に訪問を許されたのは,アモイの捕虜収容所2ヶ所だけであった。そこには、数百の中国人捕虜のほかは、中国人受刑者32名、日本人受刑者22名がいただけである。

写真(右):1937年12月、敵首都南京陥落を祝い皇居に遥拝に出かけた獨協大学の学生たち:出典web『苦悩の学園』にはこうある。「昭和12年12月,南京陥落祝賀行進(田村教頭以下全生徒が宮城二重橋前へ)。この時、市内のどの中学・高等女学校もみな宮城前へ行進参拝、「大日本帝国万歳」「天皇陛下万歳」を三唱した。」南京陥落で中国との戦争に勝利し,戦争が終わったように感じた日本国民は大喜びした。抹殺したい過去を公開する姿勢には感服する。

赤十字国際委員会(ICRC)は、1938年3月には,戦線後方にいる民間人の爆撃禁止、住民のいる地域を軍事目標としないことをに日中双方に要請したが,どちらの政府からも回答はなかった。日中戦争では、国際赤十字の救護活動は、不十分にしか行うことはできず、中国人民間人への救援も困難になったが,これが日本軍による中国の支配、残虐行為を際立たせる。

中国住民に歓迎されているのであれば,第三者として『国際赤十字』の活動を占領地で認めるべきであった。日本軍宣撫(プロパガンダ)班の報道だけで,日本軍が占領地の中国人に歓迎されていると主張しても,その情報は信頼できるものではない。

中国側の利点は,米英メディアの取材を積極的に認め,情報公開をした点である。スメドレーAgnes Smedley女史,ティンバリー記者など,多数の米英ジャーナリストが,中国共産党,国民党の中枢に接触しながら自由な取材・報道を行った。1937年以降のプロパガンダ戦で,日本がすぐに敗北したのは,国際機関,米英など列国のメディアに一方的に都合の良い情報を提供するだけで,取材の自由を認めなかったことに一因がある。

占領軍に武器をとって反抗する民間人,ゲリラはいつでもどこでも少数であろう。強い日本軍に逆らっていては,被占領地域の住民の生活は,成り立たない。生きるためには,占領国の軍隊でも,商売相手にするしかない。内心では,日本兵に反感を持ったかもしれないが,親切な日本兵に会って安心したり,庇護を求めたりした中国民間人も多かったであろう。しかし、家族や友人を殺害され、家屋や財産を略奪された中国人が少なからずあれば、日本人による多少の親切くらいで補償することはできないのである。すべての日本人が残虐であったわけではもちろんないが、だからと言って親切な日本人の行動が、残虐行為を相殺することはできるはずもなかった。

写真(右)中国浙江省、湖州で寛ぐ日本軍兵士(1937-1938年冬);日本兵は,捕虜の処刑を行ってばかりいる獣兵ではない。郷里の村を思い浮かべながら中国農村で楽しく過ごしたこともあったであろう。後方の農民は,自分の水牛に大人が3人も乗ったら弱ってしまうと内心迷惑がっているはずだ。しかし,水牛を略奪され,家に放火されるのに比べれば,笑って我慢できる。『支那事変画報(朝日判)』(朝日判)』第十一輯,pp.16-17の見開き写真。

親日プロパガンダに登場した記事や写真が,捏造,やらせばかりとはいえない。武力を持った集団に反抗して,民衆が生きていくことは困難である。現状に応じて,自分の生命,財産を守るために,占領軍と共存する道を選択した中国の人々を,協力者,良民として,日本軍・傀儡政権は,庇護する方針だった。戦後,日本に協力した中国人には「漢奸」として処罰されたものも多い。
しかし,自画自賛の報道をいくら流しても,国際的には全く信頼,信憑性は得られない。第三者の批判的視点を排除した情報提示は,戦争プロパガンダとしては,国内向けにも通用しない。

南京占領、1937年(昭和12年)12月13日の南京入城式の後、近衛内閣は、国民政府を正当な中国政府とは認めなかった。日本は、中国に新たにつくった自治政府,傀儡政権との交渉を念頭に置いた。これが1938年1月16日の「国民政府対手ニセズ」の政府声明である。

帝國政府ハ南京攻略後尚支那國民政府ノ反省ニ最後ノ機會ヲ與フルタメ今日ニ及ヘリ
然ルニ國民政府ハ帝國ノ眞意ヲ解セス漫リニ抗戰ヲ策シ、内民人塗炭ノ苦ミヲ察セス、外東亞全局ノ和平ヲ顧ミル所ナシ
仍テ帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス、帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ、是ト兩國國交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス
元ヨリ帝國カ支那ノ領土及主權竝ニ在支列國ノ權?ヲ尊重スルノ方針ニハ毫モカハル所ナシ
今ヤ帝國ノ責任愈々重シ
政府ハ國民カ此ノ重大ナル任務遂行ノタメ一層ノ発奮ヲ冀望シテ止マス。

写真(右):中国の指導者蒋介石と妻の宋美麗(1930年頃):蒋介石は軍閥を打倒する内戦(北伐)がひと段落した1927年,上海で共産党員とそのシンパを粛清する。宋美麗は,浙江財閥出身で,米国留学もしている。米国に渡り,抗日戦争を遂行する中国への支援を呼びかけた。このようなインパクトのある対外活動を実施できた日本人外交官・軍人は一人もいない。昭和天皇が米国を訪問すれば対抗できたであろう。夫妻は第二次大戦後,共産党支配の中国大陸から台湾に逃れ,米国の軍事支援を得て大陸反抗を計画する。

大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。そして、南京効力後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。

 抗日戦争を継続する国民党蒋介石総統の重慶政権との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明にと呼ばれる。

  1938年1月14日,ドイツ駐華大使オスカー・トラウトマンOskar P. Trautmann :1877-1950)の仲介になるトラウトマン工作(陶?曼?停)に関する中国政府の回答が日本へもたらされたが、それは講和条件の詳細な内容を照会したにすぎないと日本は判断した、そして、中国は和平交渉を引き延ばし、遷延策によって戦備を整え、諸外国からの援助を期待していると考えた日本政府は、中国側に交渉の誠意が認められないとして、和平交渉を打ち切った。これが、1938年1月16日「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との政府声明、いわゆる第一次近衛声明である。日本側は、1937年末の南京陥落によって、トラウトマン工作(陶徳曼調停)に基づいた和平交渉は、条件が中国側に有利であり、敗北まじかの蒋介石の国民政府は、事実上の降伏を求めるつもりであり、それが和平交渉を打ち切る理由だったと思われる。

 1938年1月16日,第一次近衛声明「爾後国民政府ヲ対手トセズ」によって、近衛文麿首相は川越茂駐華大使に帰国命令を出し、蒋介石も許世英駐日大使を中国に召還した。こうして、日中の外交は断絶、国交断絶によって、日本政府は自ら戦争終結の手段を放棄することになった。中国国民政府、すなわち蒋介石政権国民党政府)との断交は、戦争終結の手段を失うことに繋がり、和平・終戦の見通しをますます暗転させることになったのである。

中国華南からの日本人居留民、邦人の引揚げがひと段落下後、日本は、引き続き抗日戦争を続ける蒋介石重慶政権に対して、鉄槌を加えることを発表する。これが、1937年8月15日の近衛文麿首相による「暴支膺懲の声明」である。

「帝国は、つとに東亜水遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に、力をいたせること、久しきにおよべり。しかるに南京政府は、排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と、 帝国の実力軽視の風潮と相まち、さらに赤化勢力と苟合して、反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。
 近年、いくたびか惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も、また、かくのごとき気勢がその爆発点を、たまたま永定河畔に選びたるにすぎず。通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由、またここに発す。さらに中南支においては、支那側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆に瀕し、わが居留民は、多年、営々として建設せる安住の地を涙をのんで一時撤退するのやむなきにいたれり。
 かえりみれば、事変発生以来、しばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に隠忍をかさね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対して、 わが支那駐屯軍は交通線の確保、および、わが居留民保護のため、真にやむをえざる自衛行動にいでたるにすぎず。
 しかも帝国政府は、つとに南京政府に対して、挑戦的言動の即時停止と、現地解決を妨害せざるよう、注意を喚起したるにもかかわらず、南京政府は、わが勧告をきかざるのみならず、かえってますますわがほうに対し、 戦備をととのえ、既存の軍事協定を破りて、かえりみることなく、軍を北上せしめてわが支那駐屯軍を脅威し、また肩口、上海その他においては兵を集めて、いよいよ挑戦的態度を露骨にし、上海においては、ついに、われにむかって砲火をひらき、 帝国軍艦に対して爆撃を加うるにいたれり。
 かくのごとく、支那側が帝国を軽侮し、不法暴虐いたらざるなく、全支にわたるわが居留民の生命財産危殆におちいるに及んでは、帝国としては、もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。
 かくのごときは、東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として、衷心より遺憾とするところなり。しかれども、帝国の庶幾するところは日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に、日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより豪末も領土的意図を有するものにあらず。 また、支那国民をして、抗日におどらしめつつある南京政府、及び国民軍の覚醒をうながさんとするも、無事の一般大衆に対しては、何等敵意を有するものにあらず。」

したがって、日本の占領地に、日本の威光を背景に樹立された親日政権、中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)が、日本の和平交渉相手になるいう、傀儡政権(puppet government)相手の滑稽な外交を展開するしかなくなった。その後、近衛首相も、これら傀儡政権が頼りにならないことを認識する。そして1938年11月3日になって、第二次近衛声明を出し、大日本帝国を中心とした「東亜新秩序建設」を国内外に大々的に発表し、人望を集め巻き返しを図ろうとする。

日本に協力し傀儡政権を作ったとして糾弾された筆頭は,南京に駆り政府を樹立した汪精衛である。中国人から裏切り者「漢奸」として軽蔑されたが,彼らも外国勢力と協力して,自国の平和,民生向上を企図したのかもしれない。
中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ることである。このような「日本の中国支配」は,米英には断じて認められない。そこで,国民の世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、米英でも反日プロパガンダが行わた。
真珠湾攻撃より前に、日本は中国においてテロ行為と見なされてもしかたのない軍事行動・残虐行為を行った。日本が欧州支配を目指すドイツと同盟するのであれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。




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ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
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