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盧溝橋事件・上海事変・強制連行の要旨 2005
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◆盧溝橋事件・上海事変・強制連行の要旨/資料 ◇ Summary:Sino-Japanese War
写真(上):1930年頃の上海バンド
;日本の観光用のパンフレットからの転載。中央の緑のとんがり屋根が,The Peace Hote,旧"Sassoon Mansion",Cathay Hotelである。その右側のビルは,中国銀行上海支店で,1936-1937年に建設。Peace Hotel左側が,旧Palace Hotelで1906年に建設。

写真(上):2000年頃の上海バンド
;巨大ビルが林立しているので1920-30年代に建設された洋館は,小さく見えるが,バンドの河岸の一等地に立っている。中央の緑のとんがり屋根が,The Peace Hote,旧"Sassoon Mansion",一部がCathay Hotelである。その右側のビルは,中国銀行上海支店で,1936-1937年に建設。Peace Hotel左側が,旧Palace Hotelで1906年に建設。

写真(上):上海バンドと外灘の米国アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」
: 1930年代の上海バンド(埠頭近く中心街):外国から多数の船が寄航した国際都市。人口300万人。華中の江南地方の大都市上海は、米,英,日などの共同租界とフランス租界とがあった。租界とは,中国の中の外国(治外法権の地)であり、自由と不平等が並存する場所である。三角屋根は上海のユダヤ系英国財閥サッスーンが建てた"Sassoon Mansion"で,1926-1929年に建設。5〜10階はキャセイ・ホテルthe Cathay Hotelである。最上階はサッスーン本人の自宅兼事務所が置かれた。現在の和平飯店。塔のような時計台のあるビルは,上海税務署Shanghai Custom Houseで,1925-1927年建設。左手前の大きなビルは,香港上海銀行Hong Kong and Shanghai Banking Corporation Buildingで, 1921-1923建設。

◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定
 稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言したことについて、「改めて『防衛省・自衛隊、防衛相』の部分は撤回し、おわびしたい」と述べ、公の場で初めて陳謝した。
 発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)

 日本の「保守」であれば、伝統的な家族観を重視し、選挙戦を念頭にしている平和ボケ女性の防衛大臣など認めたくない。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。普段から国防重視の発言をしていても、それは人気取りのポピュリズム的発想から仕組んでいるだけであり、本心は利己的な選挙戦勝利の打算が支配しているようだ。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。

◆2015年10月4日,日本テレビの放送した「NNNドキュメント:南京事件;兵士たちの遺言」について産経新聞が「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である」と批判した。残虐行為は敵中国軍の仕業だという陰謀説が繰り返される背景には「平和ボケ」が指摘できる。日中戦争当時、日本は、中国の混乱・腐敗を正し、東アジア和平をもたらすために聖戦を遂行しているのであり、聖戦で敵を殲滅(殺戮・破壊)した戦士は勇者・英雄で、その戦果は称えられた。この当時の実情を知らずにいるのが「平和ボケ」である。「殺戮は残虐行為だ」との戦後平和教育の常識は、日中戦争当時には当てはまらない。日中戦争当時も敵殺戮が残虐行為として認識されていたという誤解が「平和ボケ」である。戦時中、敵殲滅は英雄的行為として、新聞等のメディアでも国民の間でも称賛されていた。敵殺戮が悪いことだと批判する声は上がらなかった。だから、日本兵も堂々と敵を殲滅・処刑し、それを英雄的行為として誇った。中国兵を殲滅した日本軍の戦果を、捏造されたものだと否定したり、銃殺は敵中国の督戦部隊の仕業だ、捕虜が脱走しようとしたから射殺したと言い放ったりする行為は、日本軍を侮辱するに等しい。こんな侮蔑を放言する日本人は当時いなかった。戦争観・人権の歴史的変遷に無知であれば、「平和ボケ」に陥り、「日本人が敵を虐殺をするはずがない」と誤解してしまう。

遂げよ聖戦 」1938年
作詞 紫野為亥知・作曲 長津義司

皇国(みくに)を挙る総力戦に、成果着々前途の光
蒋政権が瀕死の足掻(あが)き、他国の援助何するものぞ
断乎不抜の我等が決意、遂げよ聖戦長期庸懲(おうちょう)

見よ奮い立つ都を鄙(むら)を、総動員の何も違わず
伸び行く我等の産業力は、広く亜細亜の宝庫開かん
ああ聖戦は破壊にあらず、遂げよ聖戦長期建設

毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。

<盧溝橋事件・上海事変・南京大屠殺の序章>

1937年7月7日の盧溝橋事件(七七事変)は,中国軍兵営近く,実弾を装備した日本軍が夜間演習をしていた時,発砲された事件である。敵陣前の夜間演習に実弾を配備,銃に装填はしないが,実弾は弾盒(弾丸ケース)に持っていたのは,危機管理の常識である。ここで,両軍が友好関係にあれば,事故あるいは陰謀として,決して,戦闘には陥らなかった。しかし,当時の日中両軍は,憎しみあう敵同士だったため,北京,天津で戦闘が解された。

当初の「北支事変」は、7月の第二次上海事変で,首都爆撃を含む大規模な戦闘が発生すると,「支那事変(Second Sino-Japanese War,中國人民抗日戰爭)」と呼ばれるようになる。

戦争ではなく「事変」という理由は、国際法への配慮である。米国の中立法は,スペイン内戦を契機に,戦争に巻き込まれることを回避するために,軍需物資の戦争当事国への輸出を禁じた。また,戦争当事国は,交戦団体の捕虜・民間人の扱いも国際条約に準じる必要もあった。日本も中国も「戦争」ではなく「事変」として,米国から軍需物資の輸入を続け,捕虜の処遇も国際法に拘束されないようにした。天皇の大詔(宣戦布告)は発せられず,「事変」として処理された。

当webは,日中戦争となる「支那事変」初めの1年を検証する。この期間,日本軍は,華北の北京,天津を占領,政治経済中枢の華中の江南地方(上海,南京)も支配下に置いた。大打撃を受けた中国国民党政府は,和平を求め,(条件付き)降伏すると思ったが,戦争は8年も続く。

◆愛国心を濫用した敵への軽蔑・憎悪が広まる契機は、貧困自体ではなく、生活が破壊されることではないか。いつの間にか戦争が始まるのでも、必然的に戦争が勃発したのでもなく、プロパガンダ、戦争をする意志、破壊と暴力が、憎悪を広め、戦争を引き起こしたと考える。

◆2012年1月弘文舎出版刊行『私のサラリーマン生活半世紀』(静岡新聞社編集局出版部制作)第一章に、1935年上海生まれの著者大吉満氏が家族で住んでいたところを、上海の路地に入って見出した時の感慨が書かれている。
「曖昧なのだが確かに覚えがあった。『あれ、これじゃないか』古い街並みの一角にわが家思があった。まるでテレパシーが働いたみたいに、ちゃんとここに着いてしまった。------幼い頃、ここから学校に通い、ここの周りで遊んでいた。異国の古い家は私の帰りを60年以上も待っていてくれた。ただ、記憶にある印象とは少しばかり違っていた。やっとみつけたわが家だったけれど、思っていたよりとても小さかったし、暗くて陰気に見えた。思わず『なんだ、よくこんなところにすんでいたなあ』と呟いてしまった。
----私が生まれた頃、まだ太平洋戦争は始まっていなかったし、日中戦争の舞台は満州や華北だった。だから戦争など全く意識していなかったし、自家用車やオートバイもあって、当時としては贅沢に暮らしていた。
欧米人との交流なら私にも経験がある。ロシア人の阿媽(メード)に連れられてベビーガーデンに通っていたのである。そこには子供たちが集まって遊べるように整備された公園で、欧米人の子女たちと過ごしていた。------そんな環境だったからか、上海では朝食のほとんどがパン食、つまり洋食だった。上海なら中華料理が出そうなものだが、地元の料理を食べたことはまったくなく、それどころか夕食にも洋食を食べたりしていた。当時の日本人といえば必ずコメを食べる国民だったが、上海では和食を食べないことも多かった。」

◆日中戦争当時でも、日本人居留民が、欧米人居留民とともに穏やかに暮らしていたことがわかる。中国人も、たとえ生活が困窮していた人でも、家族の生活を維持することを大切にしていたと思われる。

◆2009年4月、エグゼクティブプロデューサー(总制片人)韩三平、ディレクター陆川(Chuan Lu)による《南京!南京!》City of Life And Death)は豪華なwebsite宣伝は商業的、芸術文化的成功作を目指していた。けれども日本では2011年8月21日、東京で一日上映会が行われただけだった。

◆2011年8月17日asahi.com「古びた従軍手帳」に関する南京事件関連記事を複写保管。
TaiwanToday06/26/2012 によれば、国防部は1937年7月7日に起きた「七七抗戦(盧溝橋事件)」の75周年を記念し、26〜27日の19時30分から国父紀念館で「盧溝暁月」と題した音楽会を開催する。陸・空・海の士官学校の学生による合唱や、歌劇などで抗日戦争の英雄をたたえ、国に貢献した先人をしのぶ。

「日中友好新聞」 2007年7月5日号1面によれば、盧溝橋事件は次のように解説されている。
 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で起きたこの武力衝突事件について、日本の一部の人びとは、「先に発砲したのは中国軍」、「中国側の挑発」などとして、日本軍の行動を正当化する論調を振りまいています。靖国神社「遊就館」の展示もこうした宣伝で、中国侵略戦争美化に努めています。
 しかし、日本政府の対中政策の歴史全体からこの日の事件を切り離し、「どっちが先に発砲?」など、個別の問題だけで正邪の責任を論ずるのは、あまりにも皮相な見方です。先ず、直視すべきことは、主権国家・中国の中心都市北京のひざもとに、当時すでに日本の軍隊が駐留していたという事実です。これは、1889〜1901年の義和団事件(諸外国の中国侵略に反対した民衆運動)を口実に中国へ干渉出兵した日本を含む列強諸国が、当時の清朝との議定書で獲得した駐兵権にもとづくもの。

 日本は1937年当時、約7000人という大軍を華北一帯に派遣し、そのうち1個大隊ずつを北京市内と盧溝橋付近の豊台に駐留させていました。この部隊が挑発的な夜間演習を行い、7・7事件を引き起こしたのです。
 日本軍は、1931年の柳条湖事件(満州事変)によって、1932年「満州国」を建国。これを足がかりに熱河省の占領(1933年)など、華北地域への軍事侵攻・支配を図った流れのなかで盧溝橋事件が発生、これを機に侵略戦争を華北からさらに中国全土へ拡大した歴史の傷跡を、事件70周年に際して改めて見つめる必要があります。(引用終わり) 

「人民網日本語版」2007年7月7日によれば、盧溝橋事件(七七事変)から70年を記念し、「過去を正視し、未来を思考する」と題した講演会が6日夜、日中友好協会、日本平和委員会、日朝協会などの団体から250人が参加して開かれた。参加者・組織は、日本国内にある「慰安婦」、「南京大虐殺」などの事実を否定しようという誤った議論に反論、日本の侵略戦争がアジアの隣国に大きな災いをもたらしたとし、アジア各国の国民が団結を強め、平和への力を大きくしていくようにとの希望を述べた。

◆日本外務省特別展示「日中戦争と日本外交」によれば、盧溝橋事件の発生の概説と主な展示史料で、次のように解説されている。
 昭和12年7月7日,北京郊外で日中間に軍事衝突(盧溝橋事件)が発生しました。日中外交当局は南京で善後処理交渉を行いましたが,事件の責任の所在をめぐって双方の主張は平行線をたどりました。現地では両軍の間に停戦合意が成立しましたが,中国政府は関東軍の山海関集結に対抗して華北方面へ中央軍を北上させたため,17日,日本は中国政府に対して,挑戦的言動を即時停止し,現地解決を妨害しないよう要求しました。

 これに対し中国側は19日,日中同時撤兵と,現地ではなく中央での解決交渉を求めました。その後,北京周辺で日中間の軍事衝突事件が相次いで発生したため,27日,日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った旨を声明,翌28日,華北駐屯の日本軍は総攻撃を開始し,31日までに北京・天津方面をほぼ制圧しました。

 盧溝橋事件の発生直後に,善後措置をめぐる日高信六郎(ひだか・しんろくろう)参事官と王寵恵(おう・ちょうけい)外交部長との会談内容を南京の日本大使館から東京の広田弘毅(ひろた・こうき)外相に報告した電報です。当時,川越茂(かわごえ・しげる)大使は天津に出張中のため,日高参事官が交渉に当たりました。会談において双方は事態不拡大では意見の一致を見ました。しかし,王部長が個人的見解としながら,日本軍が盧溝橋で夜間に実弾演習を行ったことが事件の原因であるかのような発言を行うと,日高参事官は当時の状況に鑑み,日本軍の実弾使用は断定しがたく,演習は条約所定の権利に基づき実施されたものであると応酬しました。

 関東軍は,以前より対ソ作戦準備や満州国防衛の観点から,華北地方に中央政府から分離した独立性の高い地方政権が樹立されることを望んでいました。その意味で盧溝橋事件を契機とする事態の推移は好機であるととらえ,この際,断固として華北問題の根本的解決を図るべきとの「情勢判断」を作成し,陸軍中央などに積極的な働きかけを行いました。在満州国大使館に勤務する沢田廉三(さわだ・れんぞう)参事官は,この「情勢判断」を入手して東京の石射猪太郎(いしい・いたろう)東亜局長に私信とともに送りましたが,その日付は8月3日で,華北駐屯の日本軍が軍事行動を起こして北京・天津方面を制圧した後のことでした。(引用終わり)

義和団事件後に結ばれた1901年北京議定書で、英・米・仏・露・独・墺・伊・白・西・蘭・日の11カ国は、中国清朝に外国の軍隊が駐屯権を認めさせ、居留民の生命・財産の保護、治安の確保を担当することが可能となった。これは、一種の警察軍的役割である。日本は、天津に軍司令部を置き、支那駐屯軍として、歩兵第1連隊と第2連隊を配備した。清国駐屯軍(支那駐屯軍)は、日本が華北に駐留させていた軍隊であり、中国満州の関東軍(日露戦争で獲得した関東州と南満州鉄道付属地の守備部隊が起源)とは同じ日本陸軍の中国大陸派遣部隊ではあるが、命令系統は別の軍隊である。

1936年(昭和11年)5月、支那駐屯軍は、天皇が直接司令官を任命する親補職となった。これは、満州防衛に当たるの関東軍と対等の地位で、関東軍の華北への介入を阻止する目的で、天津軍が設置されたともいえる。天津軍司令官には田代 皖一郎(たしろ かんいちろう:1881-1937.7.1)が任命(新補)された。こうして、1936年、天津に駐屯した支那駐屯軍は、天津軍と呼ばれるようになり、隷下には支那駐屯歩兵第一連隊・支那駐屯歩兵第二連隊があった。そして、華北への勢力伸長を図るために、北京(首都は南京なので形式的には北平)には、天津軍の北平駐屯部隊が置かれ、支那駐屯歩兵旅団司令部支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊が配備された。しかし、このような北京への日本分部隊の駐屯は、中国人のナショナリズムを刺激し、日本の勢力拡大、侵略が中国の主権を脅かすとの反感が高まった。そして、日本製品の不買運動、排日活動、日本人への抵抗運動、抗日活動が広まった。北京を防衛していた中国国民革命軍第二十九軍(司令官宋哲元)の兵士も、傍若無人な振る舞いをする日本人や日本軍に対する反発が高まり、一触即発の状況にまで緊張が高まってゆく。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月7日、支那駐屯軍第一連隊第三大隊と現地の中国国民革命軍第二十九軍(司令官宋哲元)が北京(正式には首都でないので北平と呼称。首都は南京)西郊外、盧溝橋で勃発した日中両軍の銃撃事件である。この事件は、中国では、7月7日に起きたので「七七事変」と呼ぶ。当初、対立していた日中両軍も、戦争にまで事件を拡大するつもりはなく、停戦交渉が行われ、停戦合意までこぎつけていた。しかし、日本軍が、現地への増派を決定し、北支事変となり、さらに上海方面でも戦闘が勃発して、支那事変へと拡大した。当時の日本では、中国を蔑視して「支那事変」と呼んだが、現在は軽蔑的な「支那」を使わず、「日中戦争」と呼びならわしている。

1937年7月6・7日、北京郊外の豊台に新たに派遣された日本軍支那駐屯軍第3大隊は、北平の西南10キロの盧溝橋のかかる永定河付近で演習を実施した。この演習実施を日本軍は事前に中国側に通知してはいたが、中国軍部隊の近隣で日本軍が夜間演習を実施したことで、中国側は、日本軍が威力を誇示し、中国軍を威圧しようとしていると考えたであろう。他方、豊台駐屯の日本軍は、付近の中国軍よりもはるかに劣勢であるが、決して中国軍など恐れてはいないということを示したかったはずだ。こうして、日中両軍が敵対的な状況で、至近距離で対峙し、日本軍が夜間演習を強行したのである。

 こうした状況で、1937年7月7日22時半、夜間演習中の支那駐屯軍第三大隊(大隊長一木清直少佐)に向けて、何者かが発砲してきた。そこで、第8中隊の中隊長清水節郎大尉は、駐屯する豊台に伝令を送り、第三大隊大隊長一木清直(1942年ガダルカナル攻撃で戦死)少佐に銃撃された事件を報告し、中隊を盧溝橋の東方にまで撤退させた。7月8日午前0時過ぎ、豊台で報告を受けた第三大隊大隊長一木清直少佐は、歩兵第一連隊長牟田口廉也(1944年インパール作戦で敗退)大佐に電話した。一木大隊長の慎重な姿勢を電話で一括した牟田口廉也連隊長は、豊台部隊の警戒出動、宛平県城の営長との交渉を命じた。

◆日本外務省『日本外交文書』昭和期II第一部第五巻(上・下)によれば、盧溝橋事件の発生の概説と主な展示史料で、次のように解説されている。 

一 日中外交関係一般
 本項目では日中国交改善交渉を中心に、日本の対中国政策における基調や、日中関係の基本的な展開を示す文書を採録しています。本項目は4つの小項目に分かれています。

1 広田三原則承認問題
 広田弘毅(1878〜1948)外相は昭和10(1935)年秋、中国側に対して日中国交調整のための三原則(広田三原則)を提示しました。昭和11年1月、広田外相は前年の交渉を踏まえ、議会演説において中国側が広田三原則に賛意を示したと述べました。しかし中国側はこれに対して広田三原則に同意を与えていないとのステートメントを発表しました。本項目では広田三原則の承認をめぐって行われた両国間のやり取りに関する文書を中心に採録しています。(26文書)

2 「對支實行策」の策定
 昭和11(1936)年8月4日、四相会議(総理・外・陸・海)において「帝国外交方針」が決定されました。同方針は対ソ政策に外交の重点を置きつつ、極東におけるソ連の赤化進出に対して日満中が共同して防衛するとの政策を打ち出しました。またその具体的施策として「対支実行策」が策定されました。本項目ではこれら関連文書を中心に、4月から8月までの日中国交調整をめぐる両国間のやり取りに関する文書を採録しています。(22文書)

3 川越・張群会談
 本項目では、昭和11年9月から12月にかけて、主に川越茂大使と張群外交部長との間で行われた南京での一連の会談に関する文書を採録しています。

 8月24日に成都事件が発生すると、日本側は同事件の善後処理交渉の中で、中国側に排日取締の不徹底を反省し国交調整への誠意を披瀝するよう要求し、その具体的方法として、日中防共協定の締結や華北への広範な自治制度設定などを求めました。これに対し中国側は、冀東政権の解消、華北密輸の停止などを討議事項として提示し、交渉は膠着状態となりました。10月8日の川越大使と蒋介石行政院長との会談でも事態は打開されませんでした。交渉はその後も防共協定締結問題を中心に続けられましたが、綏遠事件によって中国側の対日態度が硬化すると、川越大使は交渉継続を断念し、12月3日、張部長との会談で交渉打切りを通告しました。(71文書)

4 対中政策の再検討
 本項目では、昭和12年2月に成立した林銑十郎内閣においてなされた対中政策の再検討をめぐる文書を中心に採録しています。

 林内閣佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や前内閣の外交政策再考について言及し、中国側から好感をもって迎えられました。また4月16日に四相(外、蔵、陸、海)によって決定された「対支実行策」では、華北分治や中国内政を乱す政治工作は行わないことを明記するなど対中政策の転換が図られました。しかし、この政策転換には関東軍などの強い反対がありました。6月に林内閣が倒れると、後継の近衛文麿内閣においては、川越大使が新政策を否定するような趣旨の発言を行ったとの新聞報道があり、中国側に大きな反響がありました。(30文書)

二 日中諸案件交渉
 日中二国間で交渉された様々な案件に関する文書を集めた項目です。本項目は7つの小項目に分かれています。

1 一般問題
 日中間の二国間交渉案件のうち、文書の残存状況などから「2」以下で小項目立てできない問題を集めて構成する項目です。日中航空連絡問題や日本側特務機関の活動に対する中国側抗議などに関する文書のほか、中国における抗日世論の高揚振りに関する文書も採録しています。(56文書)

2 中国関税問題
 日本は以前より中国輸入関税が日本品に対し禁止的高税率であるとして、税率の引下げを要求していました。当該期においては、日華貿易協会児玉謙次会長らの主導により、両国民間ベースでの税率協議が行われ、日本側要望を取り入れた税率改訂案が作成されました。孔祥熙財政部長は同案を基礎とした改訂案を作成し、昭和11年8月、行政院会議に提案しましたが、結局、各方面の賛同を得られず、税率改訂の実施には至りませんでした。本項目ではこの関係文書を採録しています。(21文書)

3 日中経済提携問題
 昭和12年3月、日華貿易協会の児玉会長を団長とする経済使節団の訪中が実現しました。この関連文書のほか、本項目では、華北における紡績業関係、長廬塩の輸入問題、福建省における満州産豆粕の輸入問題などに関する文書を採録しています。また、昭和12年1月に為替管理を強化するための大蔵省令が施行されると、邦人当業者は統制の緩和を強く要望しました。この問題についても関係文書を採録しています。(65文書)

4 成都総領事館再開問題
 昭和11年7月、外務省は満州事変に伴い一時閉鎖されていた成都総領事館の再開を決定し、岩井英一書記生を総領事代理に任命しました。しかし中国外交部は、成都が開港地でないことを理由に総領事館設置を認めず、8月下旬に岩井が重慶に到着すると、現地では激しい反対運動が行われ、その結果、成都事件が発生しました(同事件については項目「三」の「1」に関係文書を採録)。事件発生後、中国側は総領事館再開を原則として認めましたが、様々な理由をつけて日本側外交官の現地赴任実現を延引する態度を続けました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(32文書)

5 上海および青島における紡績罷業事件
 昭和11年11月上旬に上海で発生した邦人経営紡績工場の労働争議は、同月下旬、青島に波及しました。青島市政府の取締りは徹底を欠き、事態を重く見た日本側は12月3日、海軍陸戦隊を青島に上陸させて各工場を警備するとともに、事件関与の物証を得るため、市党部など関係機関の強制捜査を行いました。その後日本側は、青島市長の陳謝、国民党部の解散、事件扇動者の市外追放などを要求し、市長の応諾をもって同月23日、陸戦隊の引揚げを完了しました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(30文書)

6 青島方面への中国税警団移駐問題
 昭和12(1937)年5月、中国税警団2,000名が青島を目指して北上を開始しました。同税警団は抗日意識が強く、その移駐は前年12月の青島紡績罷業に対する日本陸戦隊の上陸に基因するとの情報もあり、日本側ではその実力および背後事情等につき情報収集に努めました。同税警団が青島近郊に到着すると、日本側は不測の事端発生を懸念して、青島市内に進駐しないよう中国側に求めるとともに、兵力の大きい税警団の存在が居留民の不安となっているので、団員数を減少するよう要請しました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(21文書)

7 汕頭における邦人巡査拘引事件
 昭和12年5月、汕頭領事館の青山清巡査が中国側警察当局により捕縛、連行される事件が発生しました。中国側は同巡査が転居に際して届け出をしなかったため、届け出を求めたところ、同巡査がこれを拒否して暴力を振るったので逮捕したと主張し、日本側は元来外国人には届け出の義務はなく、中国警察当局の逮捕は不当であると主張し、新聞紙上に報道されて両国世論に大きい反響を呼びました。事件解決交渉では、日中双方による現地調査も行われましたが、最終決着を見ないまま、日中戦争の勃発に至りました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(23文書)


写真(右):1930年代の上海バンド(埠頭近く中心街)
:"Sassoon Mansion",上海税務署Shanghai Custom House,香港上海銀行Hong Kong and Shanghai Banking Corporation Building。

三 中国における邦人遭難事件
 中国において頻発した邦人遭難事件は、日中関係に多大な影響を与えた当該期における特徴的な事象でした。そこで「二 日中諸案件交渉」から分離・独立した項目として、3つの小項目からなる本項目を設定しました。

1 成都事件および北海事件
 昭和11年8月と9月に相次いで発生した邦人遭難事件です。成都事件は、総領事館再開のため重慶に赴いた岩井書記生に同行した新聞記者2名が、他の邦人2名とともに岩井に先駆けて成都入りしたところ、8月24日、宿泊先で再開に反対する現地群衆の襲撃を受け、記者2名が死亡した事件です。北海事件は9月3日、広東省北海において邦商中野順三が経営する店舗に暴漢が侵入し、同人を殺害した事件です。日本は、川越・張群会談において両事件の善後処理を一括して交渉しました。同会談は12月3日に打ち切りとなりましたが、事件解決交渉はその後も続けられ、同年末、賠償や関係者の処分を取り決めた解決公文が交換されました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(47文書)

2 上海における中山水兵射殺事件
 昭和10年11月に発生した本事件(上海共同租界で日本海軍の陸戦隊員中山秀雄が射殺された事件、事件発生に関する関係文書は昭和期II第一部第四巻に採録)は、昭和11年4月、日本側の捜査に基づき、上海工部局警察が犯人を逮捕しました。5月から開始された公判では、一旦犯行を自供した被告が自白を強要されたとして無罪を主張するなど混迷し、日本側は公正な判決が下るよう中国側に再三注意喚起を行いました。結局、第一審判決は同年10月に言い渡され、主犯格2名には死刑判決が下されました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(34文書)

3 その他の諸事件
 「1」「2」の事件のほか、当該期には本邦人を狙ったテロ事件が続発しました。本項目では被害者が死亡し、重要な外交案件となった4事件、すなわち、汕頭での邦人巡査射殺事件(昭和11年1月21日発生、以下同)、上海での邦商射殺事件(同7月10日)、漢口での邦人巡査射殺事件(同9月19日)、上海での日本人水兵射殺事件(同9月23日)の関係文書を採録しています。(34文書)

四 華北問題
 当該期の華北地方における日中間の交渉案件は、両国関係において特段の重要性を有していました。そこで「二 日中諸案件交渉」から分離・独立した項目として、5つの小項目からなる本項目を設定しました。

1 一般問題
 華北に関する問題の中、「2」以下で採りあげた案件以外の様々な問題を集めた項目です。

 昭和10年の分離工作によって華北地方には冀東防共自治政府と冀察政務委員会が生まれました。陸軍中央は昭和11年1月、「北支処理要綱」を作成し、宋哲元委員長を通じて冀察政務委員会による実質的自治を実現せしめ、自治体制が確立すれば冀東政権を合流させる方針を決定しました。また8月には華北経済開発を重視した「第二次北支処理要綱」を策定し、9月30日、支那駐屯軍の田代皖一郎司令官と宋委員長との間に「経済開発ニ関スル諒解事項」が署名調印されました。一方、外務省では須磨弥吉郎南京総領事の献策に基づき、新たな華北自治機構として「北支五省特政会」の設置が検討されました。この特政会構想は川越・張群会談で提議されましたが、中国側は特殊行政機構の創設は承認できないとして拒絶しました。

 本項目ではこのほか、昭和11年5月の支那駐屯軍増強問題、同年10月に合意の交換公文が調印された華北自由飛行問題、冀東政権解消に関する冀察政務委員会の要望などに関する文書を採録しています。(87文書)

2 内蒙工作と綏遠事件
 華北分離工作の進展に伴い、関東軍の内蒙に対する工作も急速に進展しました。工作の中心人物と目された徳王が、昭和11年5月に内蒙軍政府を設立して、親日満の旗幟を鮮明にすると、国民政府中央も危機感を強め、綏遠省に中央軍を動員して防備を固めるなど軍事衝突は必至の情勢となりました。同年11月上旬、内蒙軍は、田中隆吉特務機関長の計画に基づいて綏遠省攻略の軍事行動を開始しました。しかし、中央軍との本格的な戦闘が始まると内蒙軍は壊滅敗走し、同月23日には軍政府の拠点である百霊廟が陥落しました。さらに同地奪還を試みた内蒙軍は、内部離反を起こして惨憺たる敗北を喫する結果となりました。この綏遠事件をめぐっては、中国国内に全国規模の綏遠援助運動が発生し、抗日気運の高揚を懸念した日本側は21日、日本は事件に関与していない旨を外務当局談話として発表しました。しかし、事件の及ぼした影響は大きく、川越・張群会談は打切りのやむなきに至りました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(60文書)

3 華北密輸問題
 昭和10年末に成立した冀東政権は、関東軍の支持を背景に、昭和11年2月、砂糖や人絹等に対して正規関税の約4分の1に相当する特別税を徴収する制度を導入しました。また、冀察政務委員会も冀東政権の半額の特別税徴収制度を導入するなど華北における密輸が一段と活発化したことにより、関税収入が激減した国民政府は密輸取締を強化し、英国も、海関制度が崩壊の危機にあるとして日本側に是正措置を求めました。4月以降になると、中国税関監視船の武装復活が塘沽停戦協定違反であるか否かとの解釈問題をめぐって日中間で対立し、同監視船による日本側船舶への不法行為も頻発しました。これに対して有田八郎外相は、同年6月の華北密輸問題に関する外務省と軍側との合意を踏まえ、密輸行為と監視船の不法行為とを区別して対処する方針を川越大使に訓令しました。他方、7月以降になると、国民政府による厳重な取締が功を奏し、密輸品価格の低下とあいまって、華北における密輸は低調となりました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(72文書)

4 華北関税および幣制問題
 冀察政務委員会は、国民政府中央との申し合わせで、関税剰余から補助金月額百万元を交付されることになっていましたが、実際には履行されず、経費に充当すべき財政収入に苦慮していました。支那駐屯軍の中には同委員会管轄区域内の税関を実力接収すべしとの強硬論もありましたが、昭和11年6月、日本側関係機関における協議の結果、河北省関税収入の収得を冀察政務委員会と国民政府中央との話し合いによって実現する方針を決定しました。ただし同収得の実現を冀東特殊貿易廃止の条件とすることとしました。

 一方、冀察政務委員会の蕭振瀛らは支那駐屯軍の了解の下に華北自主幣制を画策し、北平・天津より上海への移送を禁じていた現銀を主たる準備金とし、河北省銀行を発券銀行とする華北幣制統一計画を推進しました。蕭の失脚後も、河北省銀行による発券は進められ、巨額の紙幣が乱発されるに至りました。

 本項目ではこれら関係文書を採録しています。(15文書)

5 華北における日本の権益発展策
 滄石鉄道(滄州・石家荘間)計画は、満鉄子会社が持つ敷設優先権の効力をめぐって、従来から日中間の懸案となっていましたが、経済的見地から終端地を天津にすべきとの満鉄主張に支那駐屯軍が賛同したため、昭和11年9月、日本側は冀察政務委員会に建設資金を借款供与し、同委員会に津石鉄道を建設させることを決定しました。しかし国民政府中央は、鉄道建設権は中央にあるとして、冀察政務委員会による建設を承認せず、地方的解決を非難する中国世論の硬化もあり、事態は膠着状態に陥ることとなりました。

 また、日本側は膠済鉄道の経営に対する発言権を保持する観点から、同鉄道国庫証券に関する中国側債務が完済されないような事態をめざしていました。昭和12年末の償還期限を前に、張公権鉄道部長との間に償還期限延長および続借契約に関する交渉を非公式に進めていましたが、昭和12年6月22日、中国外交部は突如公文をもって、1,000万円を償還し、残額3,000万円は新借款に改め、これにより国庫証券は全額完済とする方針を一方的に通告しました。

五 中国政情
 当該期に発生した両広事件、西安事件および国共合作問題は、「抗日」ないしは「容共」をキーワードとして、当該期日中間諸懸案交渉の背景をなした重要事項であることから、「中国政情」という項目を設定しました。本項目は3つの小項目に分かれています。

1 両広事件
 陳済棠を中心とする西南勢力は、胡漢民の死去を契機として、昭和11年6月初旬、国民政府中央に対して抗日決起を促すとともに、抗日救国軍と称して北上を図りました。これ対して国民政府中央は、静観の構えを見せる一方、西南側が統制に服さない場合には断乎武力解決する意向を示しました。他方、日本側は、西南勢力の「抗日」スローガンは反蒋介石勢力結集のための擬装であると観測していましたが、抗日運動が盛り上がりを見せる状況を憂慮し、再三にわたって西南側に対して厳重抗議を行いました。事件は7月18日に陳済棠が香港に亡命したことによりひとまず収束しましたが、李宗仁・白崇禧ら広西勢力が再び国民政府中央に対して対立的態度を見せたことにより、両軍対峙の状況が続き、同年9月、両者に妥協が成立しました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(37文書)

2 西安事件
 昭和11年12月12日、張学良剿共戦を督軍するため西安へ赴いた蒋介石を監禁し、抗日の即時実行、連ソ容共、政府の改組など全8項目を国民政府に対して要求しました。事件発生の報に接した日本側は、蒋介石の安否確認などの情報収集に努めるとともに、居留民保護、権益擁護および容共態度に対しては黙過し得ないとの日本政府の立場を明確にするよう川越大使に訓令しました。国民政府は張学良討伐の方針を決定し、軍を西安方面に集結させる一方、宋子文らは西安に乗り込んで張学良と直接妥協工作を行いました。蒋介石は同月25日に解放され、蒋とともに南京に赴いた張学良は、同年末軍法会議において処分されました(特赦の後軟禁)。

 蒋介石の帰還後、日本側は、蒋が張学良の要求を容認したか否かについての情報収集に努めました。また、西安に残った楊虎城らは反中央的態度を示し、国民政府中央との間で妥協交渉が行われましたが、昭和12年2月初旬の中央軍の西安入城によって中央服従を表明しました。

 本項目ではこれらの関係文書を採録しています。(50文書)

3 国共合作問題
 西安事件における蒋介石の妥協に関して決定的な情報は得られなかったものの、西安方面の赤化状況に関する情報が増加し、日本側は事件後の中国共産党の動向について注意深く見守りました。中国共産党は、昭和12年2月に開催された三中全会に対して国民党に対する妥協を示す通電を発するとともに、同通電を踏まえた「赤化根絶決議」に対しても承諾する旨を表明しました。

 三中全会終了後、国民党と中国共産党との間で妥協点を探りあう交渉が行われ、その進捗状況は日本側も掴んでいました。3月初旬には、中国共産党軍の処理問題など双方の妥協による歩み寄りが進み、妥協が成立したとの情報がもたらされましたが、その後も両者の溝を完全に埋めるには至らないまま、同年7月、盧溝橋事件を迎えることとなりました。

 本項目では、これら西安事件を契機とする国共合作をめぐる問題の関係文書を採録しています。(23文書)

六 中国幣制改革(米中銀協定を含む)
 昭和11年11月、中国国民政府によって断行された幣制改革に対し、日本側は当初、改革は成功しないと予測し、改革に反対の立場をとっていました。しかし、改革から数か月を経ると、リース・ロスや列国の外交官などは、新幣制は当面維持できるとの見通しを示し、日本側においても当初の認識は次第に改められるようになりました。

 国民政府が国有化した銀を海外市場で外貨に換え、為替安定資金を確保できるかどうは改革成否のポイントの一つでしたが、昭和11年2月、米国財務省は中国から5,000万オンスの銀を購入し、その代金をニューヨークの銀行にイヤーマークしたことを公表しました。さらに同年5月中旬には、渡米した陳光甫財政部顧問とモーゲンソー財務長官との間に銀購入に関する協定が成立しました。本項目では、これらの関係文書を採録しています。(58文書)

七 中国をめぐる列国との関係
 日本は当該期、欧米列国による中国建設事業への借款等の資金提供が、結果的に中国の国内統一を妨げ、東アジアの平和維持に影響を及ぼすおそれがあるとの見解に基づき、各国の活動を注視しました。本項目はこのような中国をめぐる列国との関係に関する文書を採録し、4つの小項目で構成されています。

1 英国との関係
 当該期における英国側活動は、リース・ロスが帰国した後に活発となりました(リース・ロス訪日問題については項目「七」の「付」参照)。昭和11年10月には、対中クレジット設定に関する調査を目的として、英国輸出信用保証局代表カーク・パトリックの中国派遣が決定されました。またこの決定と前後して、英中間で鉄道建設・鉄鋼廠開設・海南島開発が議論されているとの情報が日本側の耳目をひきつけました。さらに昭和12年5月、英国を訪問した孔祥熙財政部長は、鉄道建設借款および法幣安定のための借款について英国側と交渉を行い、7月末に鉄道建設借款が成立しました。

 一方、日本側では、日中関係打開のためには中国をめぐる国際関係の改善が必要であるとの佐藤尚武外相の方針にも基づき、吉田茂駐英大使が英国政府との間に、中国における提携問題を中心に日英協調の具体的協議を開始しましたが、日中戦争の勃発により具体的成果を得ることはできませんでした。本項目ではこれらの関係文書を採録しています。(72文書)

2 独国との関係
 昭和11年6月、中独間にクレジット協定が成立したとの情報が流れました。その内容は、独国側から武器や工業製品を供給し、中国側は数年後に代金を中国産品(タングステンや農産物)で支払うというバーター貿易によるクレジットで、額は1億マルクに及んでいました。日本側は、本協定が日独関係に与える悪影響について懸念し、協定内容の詳細開示などをドイツ側に求めました。

 本項目では、この中独バーター貿易協定問題のほか、日中防共協定締結交渉の斡旋に関する独国側申し出や、孔祥熙財政部長が欧州訪問した際に独国要人と行った会談の状況などに関する文書を採録しています。(25文書)

3 ソ連邦との関係
 昭和11年3月12日、ソ連と外蒙古人民共和国との間に相互援助議定書が結ばれました。これは関東軍が満蒙国境での軍事紛争などにソ連が関与しているとして同国への非難を強めていた矢先の出来事でした。また日本側は、ソ連の新疆地方への影響力が増大し、綏遠方面へも赤化工作を進めていることにも注目しました。このようなソ連側の動向に対し日本側は、広田三原則交渉や川越・張群会談などにおいて、中国側に共同防共提携を要望しましたが、ソ連側は、同国を対象とする軍事協定には絶対反対する旨を日本側に伝えました。一方、国共合作が進められていた昭和12年3月には、中ソ間に何らかの了解が成立したとの情報が流れ、翌4月には重光葵駐ソ大使が、ソ連の対中工作は成果を挙げつつあり、日本は楽観すべきではないとの情報を外務本省に報告しました。

 本項目ではこれらの関係文書を採録しています。(37文書)

4 米国およびその他諸国との関係
 本項目では、「1」〜「3」以外の諸国との中国をめぐる関係に関する文書を採録しています。米国との関係では(米中銀協定については項目「六」において採録)、棉麦借款の減額借り換えの実現(昭和11年6月)や、機関車購入代金に関する160万ドルのクレジット成立(昭和12年6月)に関する文書を採録しています。また仏国との関係では、西南時局の解決を受けて、昭和11年7月から広東・ハノイ間の定期航空連絡が実現した問題や、仏国資本による成渝(成都・重慶間)鉄道建設借款が成立した問題などに関する文書を採録しています。(30文書)

付 リース・ロスの再来日問題
 リース・ロスは昭和10年9月に来日した際、中国での調査終了後に再来日すると約束していましたが、日本側の冷淡な態度にも鑑み、来日せず帰国する旨を日本側にほのめかしていました。有吉明大使は同人の帰国後の影響力に鑑み、再来日の実現は有意義であるとの意見具申を行い、外務本省もこれに賛同して、同人に来日を勧め、昭和11年6月に来日が実現しました。

 来日したリース・ロスは、有田八郎外相をはじめ、堀内謙介外務次官、磯谷廉介軍務局長らと会談しました。会談中リース・ロスは、中国の関税制度保全の重要性を指摘し、華北密輸の防止措置を行うよう力説しました。リース・ロスは6月下旬、上海を経由して帰国しましたが、帰国に際して、日中間での政治的了解の必要性を訴えたステートメントを発表しました。このステートメントは、日本滞在中に日本側と協議の結果、作成されたものでした。

 本項目ではこの関係文書を採録しています。(30文書)

八 満州国をめぐる諸問題
 日本と満州国との間の交渉案件や、満州国をめぐる列国と日本との関係を示す文書を集めた項目です。本項目は2つの小項目に分かれています。

1 一般問題
 本項目では、文書の残存状況などにより小項目立てできない問題に関係する文書を採録しています。主に、満州国における治外法権の撤廃に関連して日本と満州国との間で締結された条約に関する文書のほか、昭和11年6月に日本が発動した対豪通商擁護法に対する満州国の協力をめぐる問題、昭和12年1月の為替管理強化のための大蔵省令の満州国適用問題などに関する文書を採録しています。(21文書)

2 列国の対満経済発展活動
 当該期において、列国の満州国における経済活動は概して低調だったものの、独国との間においては、満州大豆と独国工業製品のバーター貿易をめぐる満独交渉が行われました。この交渉の成り行きに関しては日本側も注視しており、独国側が「日独の政治的関係」に鑑みて交渉妥結の方向に傾いたことから、同年4月30日、満独貿易協定が締結されました。本項目ではこの満独交渉に関する文書のほか、英国の満州国への経済進出の関心を示す文書、仏国のモパン社が昭和10年に設立した合弁会社「極東企業公司」が昭和11年6月に解散した経緯に関する文書などを採録しています。 (引用終わり)

◆リース・ロス(Frederick William Leith Ross:1887–1968)は、英国オックスフォード大学卒で、満州事変後の1932年から第二次大戦終戦の1945年まで、英国政府の経済顧問を務めた。戦前、中国やドイツとも国際金融にかかわる交渉し、1935年、中国の幣制改革のために、リース・ロス派遣団として赴いた。

◆日中戦争は、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に、本格的な戦争として開始されるが、その前から、日中は衝突を繰り返していた。以下では、その一端を、日中歴史共同研究2010年9月6日、報告書翻訳版:第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで:戸部 良一引用しながら解説する。

1935年11月、上海で海軍陸戦隊の水兵が射殺される事件が発生し、1936年2月、中国の特務組織が犯人であることが判明した。日本海軍は、海上交通や運河水路を重視し、華中・華南の権益や居留民の保護を担当していたから、上海の水兵射殺事件は大問題とされた。

1936年8月、一時閉鎖中の成都の領事館の再開直前、現地に赴いた新聞記者を含む日本人団体が暴徒に襲われ、死者2名、重傷2名の被害を出した(成都事件)。同年9月、広西省の北海で薬局を営んでいた日本人が殺害された(北海事件)。広西省には、反日抗戦を掲げる19路軍があったため、日本海軍は、艦船を北海に派遣して現地調査を行い、中国国民政府が善後策を講じない場合、武力行使を辞さないとの強硬姿勢を示した。

この北海事件の緊張の中、漢口で日本領事館の警察官が射殺され、上海でも再び水兵が殺害される事件が起こり、日中は激しく対立するようになったが、日中双方とも、戦争への発展は避けたいと希望していた。そこで、成都事件を解決するために始まった川越茂大使と張群外交部長との交渉に、北海事件の解決も委ねらることにした。

1936年6月、日本軍は国防方針を改訂し、日本政府も並行して8月、国策の基準として、帝国外交方針、対支実行策、第二次北支処理要綱を策定した。この対支実行策では、国民政府を反ソ・対日依存の方向に誘導し、華北の日本の特殊権益を容認させ、防共協定・軍事同盟の締結、日本人顧問の傭聘、日中航空連絡、互恵関税協定の締結(冀東特殊貿易の廃止とその交換条件として排日高率関税の引下げ)、経済提携の促進等を提案することが方針とされた。 

1934年6月の時点で、ソ連陸軍の極東兵力は日本陸軍の総兵力に匹敵し、対ソ前線に位置する満洲と朝鮮の日本陸軍兵力はソ連極東陸軍の30%以下であった。そこで、ソ連の脅威を感じる日本陸軍は、中国と損層が開始されれば、ソ連に対抗する兵力がますます手薄になることを恐れた。同時に、中国の華北で抗日がはげしくなれば、ソ連に志向できる兵力は減少してしまうから、華北においては、中国国民政府の影響力を弱体化し、新日傀儡政権を樹立することに力を注いだ。日本軍が、華北から中国国民政府を排除しようとした背景には、対ソ戦略バランスの劣勢の中で、後背地の安全保障を確保するという目的があったのである。

1936年2月、陝西省の中国共産軍が一時、山西省に進出し、これに対抗するため3月末、多田駿(はやお)支那駐屯軍司令官は、華北の中国国民党の宋哲元との間で、極秘裡に防共協定を結んだ。また、1936年12月、華北自治に反対のデモが、共産勢力の影響の下で、北平で発生したが、これは、日本による中国国民政府の排除によって、中国国民党の特務組織による苛烈な取締・弾圧が姿を消したことに起因していた。

第二次北支処理要綱では、中国の領土権の否定、独立国家の樹立、あるいは満洲国の延長を図る行動は避けるが、華北の分離を促進して防共親日傀儡政権を樹立し、国防資源の開発と交通施設の拡充を進めてソ連の侵攻に備えること、日本・満洲国・中国の三国提携共助をすすめることが謳われた。華北「分治」は、日本政府の方針となり、国防資源の鉄、コークス用石炭、塩、棉花、羊毛の開発が意図されたのである。1935年12月に満鉄の子会社として、興中公司が設立されたが、これが華北の資源開発を進める機関となった。

南京にあった中国国民政府は、蒙古人の自治要求を受け蒙古地方自治政務委員会(蒙政会)を設置したが、蒙古の徳王は関東軍に接近した。そして、1936年4月、関東軍は、察哈爾省の徳化に徳王を主席とする内蒙軍政府を成立させ、満洲国との間に相互援助条約を結んだ。この内蒙工作を推進したのが、関東軍参謀の田中隆吉である。

内蒙軍政府の徳王は、財政的基盤の強化のため、綏遠省の東部を支配下に入れようと1936年11月、徳王の匪賊部隊が蔣介石打倒を唱えて綏遠省に侵入した。しかし、この部隊は紅格図で敗れ、百霊廟に駐屯していた徳王の内蒙軍も綏遠軍の攻撃を受けて潰走した。これが、綏遠事件である。中国軍は、日本軍に対する初めての勝利として、この綏遠事件を利用し、中国各地で中国国民の支持を得た。綏遠事件によって、中国の抗日意識が昂揚する中、西安事件が勃発した。

西安事件は、1936年12月12日、剿共戦(共産軍包囲攻撃)の督戦のため西安を訪れた蔣介石を、内戦停止・抗日救国を訴える張学良と楊虎城が拘禁した事件である。事件発生の報を受けて延安から周恩来が飛来し、蒋介石夫人宋美齢も西安にやってきて蔣介石は釈放されたが、それは抗日のための国共合作が宣言されたためである。

しかし、国民政府は剿共戦のためにドイツから軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図ったが、兵器購入のために1936 年4月、ドイツとの間に1億マルクの貿易協定を結ん打ばかりだった。ドイツからの武器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定(現物交換協定)である。ドイツと日本は、1936年11月の防共協定を締結したが、蔣介石は対日牽制のために、1932年12月に国交回復したソ連と連携した。

ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。蔣介石は、外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、ソ連の軍事力、兵器を利用したかった。

1937年3月、広田内閣に代わり、林銑十郎内閣の外相に佐藤尚武が就任、陸海軍両省を巻き込んだ対中政策の再検討が行われた。4月、日本政府は、対支実行策、北支指導方策を決定し、華北の分治や中国の内政を乱す政治工作は行わないことを定め、前年の華北分治の方針を否定した。「対支実行策」では、国民政府が指導する中国統一運動に対して「公正なる態度」で臨むことが基本とされ、防共協定や軍事同盟の締結という要求項目はなくなった。反ソ・対日依存への誘導という前年の方針も謳われなくなった。北支指導方策では、目的達成のために華北民衆を対象とした「経済工作」に主力を注ぎ、これに国民政府の協力を求めることが合意された。

西安事件の衝撃を受けて、日本には対中政策の転換を図ろうとする動きが生まれたが、関東軍のように、それに反対する主張も根強かった。また、政策転換の実績を挙げるには時間が必要であった。そして、その実績が挙がる前に、1937 年6 月林内閣は総辞職した。後継の近衛内閣の外相に就任したのは広田弘毅であった。

中国を仮想敵国とした日本陸軍は毎年、中国と開戦した場合の作戦計画を作成した。中国の軍備強化に伴い、1937年度(1936年9月から1年間)の対中作戦計画での使用兵力は、前年度の9個師団から14個師団に増加した。ただし、対ソ戦に備えての軍備拡充を焦眉の急としていた参謀本部では、中国との戦争は極力回避すべきであると考えられていた。支那駐屯軍はこの作戦計画を受け、参謀本部の指示に基づいて華北の占領計画をつくった。作戦計画が華北要地の一時的「占領」にとどまらず、やや長期の「確保」を要求していた。

1936年、日本軍は、北平郊外、豊台に支那駐屯軍の増強部隊を収容する兵舎を建設し、平津地区で支那駐屯軍秋季大演習を行い、中国側の疑惑をかきたてた。北平近郊に駐屯する中国軍第37師は第29軍の中で最も抗日意識が高いとされており、国民革命軍第29軍の高級将校の中には共産党員もあった。1936年9月18日、柳条湖事件5周年の日、豊台の日本軍と第37師の兵士との間に小競り合いが生じた。中国側の謝罪と豊台からの撤退で事は収まった。

この時、日本軍が中国軍に武装解除を要求しなかったのは第29軍を恐れたからだという噂が広まり、これを聞いて連隊長、牟田口廉也は、憤慨し、今後類似の事件が起きたならば、今度こそ仮借することなく直ちに中国軍を膺懲し、侮日・抗日観念に一撃を加えねばならぬ、と部下に訓示したという。中国の「増長」を憎み、国民政府を華北から排除する華北分離工作を目論んでいた対中強硬論者は、中国に一撃を加える機会をうかがっていたともいえる。

1937年の華北は、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会が河北、チャハル両省を統括していた。この冀察政権は国民政府がいわば「緩衝機関」として設置したという成立事情から、冀東防共自治政府とは性格が異なり、支那駐屯軍にはその親日姿勢に不信感を抱く者も少なくなかった。他方、支那駐屯軍による頻繁な夜間演習は宋哲元の率いる第29軍には「挑発行動」と映り、必要以上に冀察政務委員会の警戒心を煽っていた。(日中歴史共同研究2010年9月6日、報告書翻訳版:第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで:戸部 良一引用終わり)

◆外務省外交史料館特別展示「日中戦争と日本外交」によれば、盧溝橋事件の発生の概説と主な展示史料で、次のように解説されている。

I 盧溝橋事件の発生
 昭和12年7月7日,北京郊外で日中間に軍事衝突が発生しました(盧溝橋事件)。日中外交当局は南京で善後処理交渉を行いましたが,主張は平行線をたどりました。その後,現地での軍事衝突が相次ぎ,31日までに日本軍は北京・天津方面をほぼ制圧しました。

II 全面戦争への拡大
 昭和12年8月初旬,時局収拾を目指して,外務省は船津辰一郎元上海総領事を上海へ派遣し,停戦に向けた準備交渉を試みました。しかし,そのさなかに上海で日中両軍が交戦を開始し,その後,全面戦争へと至りました。

III トラウトマン工作と「対手トセズ」声明
 昭和12年11月上旬,広田弘毅外務大臣は,ドイツに和平斡旋を要請し,トラウトマン駐華大使を仲介とした和平交渉が行われました。しかし交渉はまとまらず,昭和13年1月16日,日本政府は「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との声明を発表しました。

IV 汪兆銘工作
 「対手トセズ」声明により,蒋介石(チャンチェツー)率いる重慶政権との和平交渉が事実上打ち切りとなり,日本は新たな和平交渉相手として,汪兆銘(ワンチャオミン)に接触しました。これに呼応した汪兆銘は重慶を離脱し,昭和15年3月には汪兆銘を首班とする南京国民政府が成立しました。しかし,日本政府は同政府の即時承認を行わず,11月30日になって,,日華基本条約日満華共同宣言に調印しました。これにより,日本は正式に南京政府を承認しました。

V 和平工作の蹉跌
  昭和15年7月,第二次近衛内閣が成立すると,外務省は南京国民政府を育成する一方で,重慶政権との和平工作を妨げないことを外交方針として決定し,和平工作は秋に本格化しました。しかし,重慶側代表の来訪が遅れたため日本は先方の誠意を疑い,交渉の打ち切りを決定,南京政府との間に日華基本条約を締結しました。その後, 重慶和平工作は一向に進捗を見せず,昭和16年12月には米英との戦争に突入し,日中戦争は太平洋戦争に吸収される形で,昭和20年夏まで継続されることとなりました。(引用終わり)

◆新華社新華網「名古屋市長が南京大虐殺を否定する発言について記者の質問に答え 中国外務省」 Jp.xinhuanet.com | 発表時間 2012-02-21 12:03:13 | 編集: 王珊宁 には、次の記事がある。

【新華社北京2月21日】中国外務省の洪磊・報道官は20日の定例会見で、日本名古屋市の市長が「南京大虐殺はなかった」と発言したことについて、記者の質問に次のように答えた。

南京大虐殺は日本軍国主義者中国侵略戦争の中で犯した残虐な犯罪行為で、動かすことのできない確かな証拠があり、これについて国際社会も早くから定論がある。日本の一部の人はその歴史を正しく認識し、対処し、切実に歴史から教訓をくみ取るべきだ。(新華網日本語引用終わり)

◆新華社新華網「南京大虐殺には確かな証拠がある 南京市代表団が名古屋市長の発言に反論」 Jp.xinhuanet.com | 発表時間 2012-02-21 13:42:50 | 編集: 李翔华 には、次の記事がある。

【新華社北京2月21日】南京市政府訪日代表団は20日夜、日本の河村たかし名古屋市長が南京市政府幹部との会見の席で「南京大虐殺はなかった」と発言したことついて、動かぬ証拠があり、日本軍による南京大虐殺の歴史的事実を抹殺することは許されない厳しく反論した。

南京市政府訪日代表団は河村市長の発言に対し次のように述べた。動かぬ証拠があり、日本軍の南京大虐殺の歴史的事実を抹殺することは許されない。これについては早くから国際社会の定説がある。河村市長の言論は無責任であり、歴史を歪曲し、南京の人々を尊重する気持ちが欠けている。河村市長が当時の歴史を正しく認識し、歴史の教訓を正確に汲み取り、中日友好と両市民の友情にとって有益なことを行ってほしい。

日本の「産経新聞」の20日の報道によると、河村市長は話の中で「南京大虐殺」に言及し、「1937年に『南京事件』(南京大虐殺についての日本の説明)が起きたとき、通常の戦争行為があったことは否定できない。これは遺憾なことだが、いわゆる『南京事件』というのはなかった」と述べた。

南京市と名古屋市が友好都市になったのは1778年で、すでに34年が経過している。(新華網日本語引用終わり)


◆新華社新華網「日本政府は南京大虐殺の事実を否定しない  横井外務省報道官言明」 Jp.xinhuanet.com | 発表時間 2012-02-27 09:11:51 には、次の記事がある。

新華社東京2月24日】外務省の横井裕報道官は24日、日本政府は旧日本軍が中国の南京で大虐殺を行った事実を否定しないと語った。

横井報道官は24日の記者会見で、新華社記者の質問に答え、次のように述べた。南京大虐殺に関する事実関係については意見の食い違いがみられるが、旧日本軍が南京城に侵入してから、非戦闘員に対して強奪と殺戮を行った事実を否定することはできない。過去の一時期における植民地支配と侵略が多くの国の人々、特にアジア各国の人々に大きな被害と苦痛をもたらしたことを日本政府はよく認識しており、再び戦争を起こすようなことをせず、平和国家としての道を歩むことを決意している。日本政府のこの立場はまったく変わっていない。

名古屋市の河村たかし市長は20日、南京市代表団との会談の席で「南京大虐殺はなかったのではないか」、「犠牲になったのは通常の戦争による死者にすぎない」といた史実を歪曲する発言を行い、南京各界の強い抗議を招いた。

横井報道官は「今年は日中国交正常化40周年にあたり、日中の戦略的互恵関係がさらに発展することを心から期待している。日本政府もそのために最大の努力を払っていく」と表明した。(新華網日本語引用終わり)


1937年(昭和12年)7月7日,北京郊外で勃発した盧溝橋事件(七・七事変Marco Polo Bridge Incident)は,中国軍兵営近く,実弾を装備した日本軍が夜間演習をしていた時,発砲された事件である。敵陣前の夜間演習に実弾を配備,銃に装填はしないが,実弾は弾盒(弾丸ケース)に持っていたのは,危機管理の常識である。ここで,両軍が友好関係にあれば,事故あるいは陰謀として,決して,戦闘には陥らなかった。しかし,当時の日中両軍は,憎しみあう敵同士だったため,北京,天津で戦闘が開始された。

勃発。そして、大日本帝国近衛文麿首相の下で,戦闘地域が華北から華中、江南地方に戦火拡大していく。当初の「北支事変」は、7月の第二次上海事変で,首都爆撃を含む大規模な戦闘が発生すると,「支那事変(Second Sino-Japanese War中國人民抗日戰爭」と呼ばれるようになる。現代でいう日中戦争である。

盧溝橋事件・上海事変・南京攻略(本編)を読む。

戦前,巷の聞き書き:大東亜戦争以前の話「支那事変の事」に,当時の次の証言がある。
昭和十二年七月七日 盧溝橋事件が勃発し、同月二十八日中国との全面戦争に突入しました。老生はこの頃十二歳の坊やでありましたが、新聞なぞを一通り読み、沈痛な表情をした近衛首相の写真なぞ眺めて、暴戻支那の膺懲は、毎度の事でおるから、マァ三か月位で方が着くかと思つていました。物知りの小父さん達も、せいぜい三か月かな・・・・長くて半年よ・・・程度に考えていました。

 世論なるものは大体が、新聞記事の受け売りだから、暴支膺懲、頑迷支那断固討つべし、ラジオ、ニュース映画なぞも、我が正義の皇軍の勝った、勝ったを報道するばかり、三か月もすれば中国の殆ど全土を占領し、蒋介石が降伏すると云うような、根拠のない確信があつたようであります。

写真(右):上海事変で上海市内を警戒する日本海軍陸戦隊:上海には日本海軍陸戦隊が(国際的にも認めれられ)駐留していた。4ヶ月の戦闘後,日本は中国軍を撤退させ上海を事実上支配。この戦術的成功が、列国の反発を買う。

◆暴戻支那の膺懲は、当然であり,毎度の事。したがって、三か月くらいで戦争は終わると,楽観的な世論があった。中国が日本に長期抗戦できるとは,軍事的にも,国際正義の上でもありえない,というのが,当時の見解だったから,戦争長期化に対する危惧もほとんど無かったようだ。

当webは,日中戦争となる「支那事変」初めの1年弱を検証する。この期間,日本軍は,華北の北京,天津を確保し,政治経済中枢の華中の江南地方(上海,南京)も占領した。中国に大打撃を与えたた日本は,中国国民党政府が,和平を求め,(条件付き)降伏するはずだと考えた。しかし,戦争は始まったばかりで,これから8年も続く全面戦争の序章に過ぎなかった。

満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。

写真(左):中国国民党政府総統・蒋介石;満州を占領され,さらに北京も攻撃されるなか,中国軍民の反日感情は高まっていた。このまま,中国の世論を無視することは,中国の最高指導者蒋介石にはできなかった。抗日戦争を開始しなければ,中国軍の支持を失い,失脚したであろう。1937年7月17日廬山の最後の関頭の演説では,事実上の対日宣戦布告をする。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

そして翌日7月19日、この最後の関頭の演説が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲が高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がなくなった。日中両首相(最高級の指導者)によって戦争が決定され,世界に公表された以上、停戦申し込みは,敗北を意味する。日中両首相の戦争宣言は、日中全面戦争の開始となった。

日中双方の世論とも,相手を軽蔑し憎むようになった,あるいは仕向けられた。愛国心に駆られた国民世論を背景に,日中戦争が開始されたのであれば,盧溝橋事件でどちらが咲きに発砲したかなどという陰謀説など取るに足らない契機に過ぎない。敵対的だった二つの軍隊が隣接して、北京にあったことが、問題だった。誰が発砲したかといった些細な事件を,全面戦争開始の口実みなすのは,戦争に至る全体像を,あるいは国民の敵対的世論を見失っている。友好関係にあれば、誤射で済ませられた。

1932年の満州国成立から5年経過しており,中国政府・国民の忍耐の限度を超えて,依然として日本軍が中国に居座り、満州を奪った上に,新たに華北にも日本の軍隊を増援したことがが,戦争の原因になった。中国の領土内で、中国軍が自国の軍隊を擁しているのは、当然である。日本の駐屯軍が北京近くで夜間軍事演習を行い,兵隊が行方不明になったから,市内を夜間捜索するというのは,まさに暴虐な振る舞いである。

華北の中心都市北京(正式には北平)郊外に,満州を占領した日本軍が駐屯していること自体,高まってきた中国の民族意識を大いに刺激することだった。「中国人としての民族意識など無かった」と日本人が認識していたのであれば,そのこと自体,愛国心が沸き立ってきた中国人(漢民族)には許しがたい侮辱だったであろう。満州事変以降,「中国人」による日本製品排斥(ボイコット),反日活動,反日デモ,反日ストライキは,しばしば起こっていたのであって,それが日本人の中国人への反感を高めていたのであるから。

日本は、暴支膺懲を戦争の理由としたが、盧溝橋事件後の日本軍の強硬姿勢は、中国から見て、暴日膺懲に値する。横須賀郊外で夜間軍事演習をしていた米軍に行方不明者が出たとして、米軍が市内を夜間捜索させろと要請してきたら、日本政府はどうするのか。

1.中国軍の兵力は多いが弱いと過小評価していた日本軍は,高圧的な態度で臨めば,中国が譲歩すると錯覚していた。
⇒駐屯が認められている小兵力しかない日本軍に対峙した中国軍の戦意は旺盛だった。孫文創設の黄浦軍官学校とそれを継ぐ「国民革命軍」には、国民党も,直ぐに共産党も参加、中国人としての戦意は高まった。しかし、日本では、中国は軍閥の私兵により支配されており、中国軍(国民軍)はない、中国人という国民概念は存在しない、と誤解していた。

2.日本の対中国戦争は,全面戦争や中国征服の意図はなかった。しかし,居留民保護以上に,日本の満州での権益などの優位性(特殊権益)を認めさせようとした。
⇒撤退を敗北とみなした日本軍は,苦戦すると増援部隊を派遣する「兵力の逐次投入」の愚を繰り返した。


写真(左):日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機:1937年8月の上海事変で,台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃である。スペイン内戦に派遣されたドイツ機によるゲル二カ爆撃(同年4月26日)から4ヶ月でアジアでも戦略爆撃が開始。

3.中国は,国民党,共産党の対立(国共内戦)はあったが,中国の世論は,英米よりも高圧的な態度で服従を強いる日本に対して反感を抱き,プロパガンダもあって、反日・抗日運動が激化した。中国人としての国民意識が芽生え,交戦意思,戦意も高まった。しかし、日本は、中国人として団結することはありえないと錯覚していた。
⇒中国軍は、兵力が優位にある上海で,攻勢をかけた。

4.中国における日本の勢力範囲が拡張し,紛争が長引くにつれて,米国など列国の権益や貿易・投資の利益が損なわれた。

5.中国の交戦能力を過小評価していた日本は,中国の政治経済の中枢に打撃を与えれば,敵は降伏すると錯覚していた。他方,中国は,江南地方に兵力を集中し,日本軍に打撃を与えれば,和平に持ち込めると日本軍の意図(面子)を読み違えていた。
⇒列国の眼前で中国軍に敗北することは,名誉ある日本軍には絶対に許されない。一戦闘で苦戦すれば,報復するまでである。 


写真(右):日本機に爆撃された上海:日本の上海攻撃は、租界を持つ英米にも経済的大打撃を与えた。

6.日本は,1929年ジュネーブ条約は未批准,ハーグ陸戦規定は批准していたが、遵守しなかった。国際赤十字の活動を締め出し,捕虜・民間人・ゲリラを過酷に扱った。補給が不十分で、徴発(現地略奪)を強行した日本軍は,中国の軍民に頑強な反抗に直面して,多大の損害を被った。勝利・帰国への希望が遠のき,焦燥感,危機感が日本の兵士の心を捉えた。軍紀が紊乱した。善良な日本人でも、長期にわたる過酷な戦いで、冷酷になった。
⇒南京虐殺と呼ばれるような残虐行為の背景には、プロパガンダに煽動された人種民族差別とともに、平穏な生活を奪われた兵士たちの抑圧されたあるいは屈折した反発が指摘できる。兵士たちは、闘わされているとの抑圧感を感じつつ、戦争や指揮官ではなく、戦い抵抗を続ける敵を憎悪した。


写真(右):子供を殺害された中国婦人1937-38年;戦火に巻き込まれたのか,日本軍兵士に刺殺されたのかはわからないが,戦争で子供が殺されたという憎悪は,日本軍・日本人に向かう。暴支膺懲=暴虐な中国を懲らしめる軍事行動が、反日感情を強めた。

日本の近衛文麿政権は、 1937年8月15日、「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為」戦争を開始するとの声明を出したが、対中国戦争の理由が「暴戻シナの膺懲」にあるというのでは、国際理解は得られない。中国共産党領袖の毛沢東も、国共合作をした中国国民党の蒋介石政権も抗日戦争を戦ううえで、ソ連からも米英からも国際的な援助を得ることが容易になった。

7.反日プロパガンダやメディア活動によって,日本軍による残虐行為が(誇張して)中国や列国に伝えられた。世論が重視される民主主義の列国では,反日感情を背景にした外交政策を採用した。日本も反蒋介石,反共プロパガンダを自ら開始するが,外国メディアの自由な取材を認めなかったから、国外への影響力はなかった。
⇒国内への内向きの対策しか考えていなかった戦争指導者でも、日中戦争を通じて、国際的なプロパガンダの重要性を認識した。中国で日本は歓迎されているとのプロパガンダが展開されたが、見え透いた方法であり、権威主義的だったために、国際世論には影響力を持ちえなかった。


<1930年代後半,中国大陸で日中の戦火が拡大した理由>

?日本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,少数兵力でも,果敢に中国軍と戦い、弱腰であるとの印象を与えなかった。

?中国軍は,日本軍よりも遥かに優勢で,国内が団結すれば,国際的支援も受けつつ,日本軍を抑えることができると判断した。

?中国軍に敗北を喫するわけに行かない日本軍は兵力を増派し続けたが,これは中国支配を意図しているとみなされた(客観的にもみなされる)。そこで,中国は,軍民一丸となって,日本軍に抵抗した。

?日本は,中国の高まる交戦意志,戦意を認識できず,統一抗日軍を編成できるとは考えなかった。そこで,中国の政治経済の中枢(北京、上海、南京)を攻略すれば,日本は勝利できると誤解した。政治経済中枢に戦禍を拡大した日本は、列国からも反感を買った。

写真(右):南京を攻撃する94式装甲車1937年12月:「南京の城門に突撃する日本軍の豆戦車」とされる有名な写真である。しかし、狭い城門に向かって、横列10両もの豆戦車が突撃して、混乱は起きなかったのか。城内・城壁上からの中国軍は、日本軍戦車に恐れをなして総崩れになったのか。日本軍は、1937年12月13日に「首都」南京を攻略する。

?米英は,自国権益の維持・拡張に関心があり,日本の中国支配を認めない。日本軍による残虐行為には,米英の一般市民も反感を抱いた。民主主義の列国は,反日感情に支えられた世論を背景に,対日圧力を強めた。

?日本国民も権益を確保し,居留民を保護すべきであるという愛国心が強まり,プロパガンダに影響され,中国支配が日本の繁栄に繋がると錯覚した。

?満州に隣接する華北で、日本に反抗する動きが中国国民党政府、中国軍,中国国民にあるために,満州の安定が望めない。このように、日本は、中国がアジアの安定・平和を阻害していると考えた。満州の権益維持のためにも,中国国民政府を屈服させようとした。

?中国政府における共産党勢力が拡大し、共産主義の思想は、日本の国体・天皇制の護持には相反する。そこで、日本は、中国での新政権樹立を目指す。これは、中国・米英の側からは、中国の分裂工作、傀儡政権である。

8.盧溝橋事件を日中全面戦争に拡大させた契機に、第二次上海事変があるが、これには日本海軍、とくに第三艦隊の役割や、中国各地にいた日本人居留民の保護の問題が大きくかかわっている。

中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清司令長官の率いる第三艦隊であり、第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあった。旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮したためである。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」(『創価大学大学院紀要 』第32号, pp.385-397)に依拠して、上海を中心とした日本海軍の対応をまとめると次のようになる。

中国駐屯の長谷川清司令長官の率いる第三艦隊の役割について、草鹿龍之介第三艦隊参謀副長は以下のように回想している。

「軍艦出雲が第三艦隊の時からの旗艦であり、遊船埠頭に横付けしており、上海という土地柄もあり、海軍以外の人の出入りも多く艦隊司令部も、見様によって、陸上の役所の如き有様であったと言っても、過言ではない。」

1936年12月1日、第三艦隊司令長官として任命されたのは、長谷川清である。彼は、ジュネーブ一般軍縮会議全権委員、無条約時代の海軍次官などを歴任しており、列国の権益が錯綜し各国の艦船が行動している上海における第三艦隊司令官の地位は適任であった。

また、第五水雷戦隊首席参謀の横山一郎によれば、盧溝橋事件勃発以前、華北担当の第十戦隊、長江担当の第十一戦隊の参謀が上海に集められ、「万一の場合」に対する作戦打合せがあったという。

「昭和十二年、私が第五水雷戦隊首席参謀で南支警備の任にあった時、在上海の第三艦隊旗艦出雲に、第十戦隊(北支)、第十一戦隊(長江)の首席参謀と共に召集せられ、長谷川長官の激励を受けた後万一の場合に対する作戦打合せがなされました。」

第三艦隊は7月11日未明には、海軍省・海軍軍令部に航空隊、陸戦隊の派遣準備を要請し、隷下の部隊に次のような出動準備を命じた。

一 十日夕方来盧溝橋方面情勢逆転の兆あり。又中国空軍は秘かに戦備を整えつつあること確かにして情勢真に逆賭を許さざるものあり。各艦は万一に処するの準備を整え、特に飛行機に対し警戒を厳にすべし
二 各級指揮官は極秘裏に在留邦人引揚に対する研究を行い胸算を立ておくべし

杉山元陸軍大臣は中国派兵を要望したが、海軍省を中心とする海軍中央部は派兵に強く反対したが、米内光政海軍大臣は以下のように発言した。

海相ヨリ只今迄ノ情報ニテハ出兵ヲ決スル事ニハ不同意ナリ。内地ヨリ出兵トナレハ、事重大ニシテ全面戦争ニナル事モ覚悟ノ要アリ。国際上ヨリモ重大ノ結果ヲ生ジ、日本ガ好ンデ事ヲ起シタルノ疑惑ナカラシムル為、更ニ事態逼迫シタル上ニテ決シタシ。海軍トシテハ全支ニ対スル居留民保護ノ必要ヲ生シ充分覚悟ト準備ヲ要ス

米内海軍大臣は中国との全面戦争なれば、国際世論の反発を招くが、中国在留日本人(居留民)の保護は、海軍にとって重要であると考えた。

7月11日、杉山元陸軍大臣は派兵を再度の求めた。理由は、5500名の天津軍、平津地方における日本人居留民の保護である。海軍は、派兵反対の立場を崩し、派兵に同意した。

海軍省は全面戦争への拡大することを懸念したがと考え、7月12日、海軍軍令部は「対支作戦計画内案」として、中国の第二十九軍を対象にした第一段の限定的作戦。次いで、中国全土を対象にした第二段の全面作戦とする構想を立てた。

他方、現地の第三艦隊は派兵を契機に日中関係を全面的に改定しようと、次のような具申を行った。

武力により日中関係の現状を打開するには、現中国の中央勢力を屈服させる以外、道は無く、戦域局限の作戦は期間を遷延し、敵兵力の集中を助け作戦困難となる虞大である。故に作戦指導方針に関し「支那第二十九軍ノ膺懲」なる第一目的を削除し、「支那膺懲」なる第二目的を作戦目的として指導されるを要し、用兵方針についても最初から第二段作戦開始の要がある。

中国の死命を制するためには、上海、南京を制するを最重要とし、日本陸軍からの上海派遣軍は五コ師団を要する。

海軍省にとって派兵の目的は日本人居留民保護を名目にしたが、そおうであれば、華北だけでなく、華中・華南と中国全土の日本人居留民が問題となる。

長谷川清 伝によれば、「当時長谷川司令長官が最も心を痛めていた問題は、揚子江の上流一、三五〇哩にある重慶をはじめとして、長沙、沙市、漢口、九江、蕪湖、南京などに在る在留同胞を万一の場合上海へ引揚げさせることであった。」というものであった。

日本人居留民を引き上げるという対策については、居留民の財産・権益を放棄することになり、困難である。また、日本の外務省は、華中の居留民引揚は「不必要な動揺」を与えることになるので、引揚準備に関して公開しないようにとの命令を出し、引揚の可否に関する裁量は現地に任すこととした。

7月20日、広田弘毅外務大臣から川越茂大使宛の訓電には以下のようにある。

北支事変拡大し、万一長江沿岸居留民に引揚を命するの要あるに至る場合は、貴大使の裁量に依り、九江、燕湖、南京、蘇州、杭州各管内の居留民に付ては、上海総領事をして、又漢口上流の居留民に付ては漢口総領事をして、夫々出先領事及び軍側と緊密なる連絡を取り、時期を誤らす必要なる措置を採らしてめられ度く。引揚先に付ては機宜の指示を与えられ差支えなきも、一応下流は上海に、上流は漢口に収容するを適当と認む。本件が事前に洩るるに於ては一般居留民に不必要の動揺を与ふるの虞あるを以て最後迄貴大使及上海漢口両総領事限りの含みとせられたく。

7月21日、第十一戦隊は、居留民の引揚を第三艦隊ならびに外務省へ要求している。この要求事項については引揚に関係する各地域から外務省本省にも連絡が行われており、特に上海においては第十一戦隊が第三艦隊にも引揚許可を求めていた。

7月28日、華北駐留の日本の天津軍は、中国の第二十九軍を総攻撃し、これを受けて海軍省は第三艦隊に漢口上流居留民の引揚に関して指示を下す。

「今後、日支全面作戦迄進展することあるへきを予期する次第にして、此の際差当り、漢口より上流各地居留日本人は、之を引揚くるの要ありと認めらるるに付、外務側と連絡の上現地の状況に応し、機宜引揚を開始せしむる様、取計はれ度き」旨指令ありたる趣にて、右は冒頭貴電と相当開きある処、元来長江筋に於ける海軍側の態度は、中央の指令に基づき当地第三艦隊にて具体的に決定し、各地に訓令する建前にて、部内問題の処理に付、常に当方に相談し来る事情なるを以て前記の如き食違ありては甚だ困却する次第なり」

7月30日、長谷川第三艦隊司令長官談

当地に於て発表の声明は居留民に対し軽率を戒むると共に、支那側に対し慎重対慮方注意を喚起せるものにして、右は直に事態の全面的悪化を暗示る趣旨のものにあらす、但し艦隊側に於ては将来事態進展し日支双方空軍の衝突ともならは其の影響至大なるへきを予想せらるるに付、斯る事態に立至る場合を予期し、全面的引揚を決意する時期もあるへく、之か為には上流居留民は現地の事態を考慮に入れつつも、早目に漢口迄引揚け置くこと然るへしと観察し居るも、漢口よりの引揚は未た其の時期に到達し居らさることは艦隊側にても同意見なり

8月1日、福留繁軍令部第一課長は、陸軍側に次ぎのように答えている。

海軍としては、極めて不愉快なる作戦振りなれど、政府の不拡大方針に抑制せられ尚手出しを慎み支那の出方を見つつあり
居留民を上海付近に引揚げしめ、揚子江部隊を収容したる後か、又は海軍が反撃をせざるべからざる事態生起し、全面作戦開始となれば、直に動き得る兵力を動かして大にやる積りなり
それまでは濫りに手出しを許されざる状況なり

8月6日、漢口の日本人居留民代表は、情勢悪化を理由に松平恒雄総領事に引揚を迫り、田中宣昌領事も同時に引揚の不可避を説き、結果的には21時に全面引揚が発令された。漢口居留民は9日に上海への引揚が完了、同日、大山事件が勃発し、13日、上海における交戦、14日10時、中国空軍により第三艦隊旗艦「出雲」、海軍陸戦隊本部、総領事館への空襲となった。

これを受けて海軍省は、上海での戦闘を決意し、日本政府もそれを認める。こうして盧溝橋事件は、第二次上海事変へと拡大し、全面戦争へと拡大していく。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」『創価大学大学院紀要』第32号, pp.385-397, )引用終わり


不拡大方針放棄ノ閣議決定 昭和12年8月17日

一、従来執り来れる不拡大方針を放棄し、戦時態勢上必要なる諸般の準備対策を講ず。

二、拡大せる事態に対する経費支出の為来九月三日頃臨時議会を召集す。開院式は御都合を伺ひ決定す。尚会期は開院式の日を加へ約五日とす。

国民精神総動員実施要綱 昭和12年8月24日 閣議決定

一、趣旨
挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス

二、名称「国民精神総動員」

三、指導方針
(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍持久」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト
(二)右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト
(三)指導ノ細目ハ思想戦、宣伝戦、経済戦、国力戦ノ見地ヨリ判断シテ随時之ヲ定メ全国民ヲシテ国策ノ遂行ヲ推進セシムルコト
(四)実施ニ当リテハ対象トナルベキ人、時期及地方ノ情況ヲ考慮シ最モ適当ナル実施計画ヲ定ムルコト

四、実施機関
(一)本運動ハ情報委員会、内務省及文部省ヲ計画主務庁トシ各省総掛リニテ之ガ実施ニ当ルコト
(二)本運動ノ趣旨達成ヲ図ル為中央ニ民間各方面ノ有力ナル団体ヲ網羅シタル外廓団体ノ結成ヲ図ルコト
(三)道府県ニ於テハ地方長官ヲ中心トシ官民合同ノ地方実行委員会ヲ組織スルコト
(四)市町村二於テハ市町村長中心トナリ各種団体等ヲ総合的ニ総動員シ更二部落町内又ハ職場ヲ単位トシテ其ノ実行ニ当ラシムルコト


北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱 1937年(昭和12年)9月4日 閣議決定

第一章 総則

第一条 本要綱設定ノ目的ハ今次事変処理ノ為総動員基本計画綱領及第二次総動員期間計画綱領ニ準拠シ総動員実施ノ範囲及程度ヲ定メ以テ実施及実施ノ準備ニ必要ナル基準タラシムルニ在リ
別ニ第三国ノ事変参加ニ因ル最悪ナル場合ヲ考慮シ帝国ノ全面的戦争ニ対スル準備トシテハ現ニ作成中ナル第三次総動員期間計画ヲ現状ニ即応スル如ク速ニ完成スルト共ニ之ニ関連シ国力充実ニ必要ナル諸施設ヲ為スモノトス
第二条 本要綱ニ基キ定ムル事項ハ差当リ第一半年ニ対スル所要計画トシ爾後ニ対スル計画ハ事変ノ進展ニ伴ヒ之ヲ定ムルモノトス
第三条 本要綱二定ムル事項ノ実施ハ適時現況ニ即応スル様之ヲ行ヒ本要綱ニ定メザル機宜ノ措置ニシテ重要ナルモノニ付テハ其ノ都度閣議ニ於テ之ヲ定ムルモノトス
第四条 軍需ハ陸海軍省ノ提示スル数額トス、民需ハ需要増加ノ趨勢ヲ考慮シタル平時需要ノ程度トシ必要アルモノニ付テハ所要ノ節約ヲ加フルモノトス
第五条 総動員実施ノ為必要ナル戦時法令ノ制定又ハ通用ニ付テハ必要ニ応ジ速ニ之ヲ実現シ得ル様措置ヲ講ズ

第二章 資源ノ配当及補填

第六条 特定重要資源ニ付テハ新ニ其ノ需給対照並ニ配当及補填計画ヲ定ム
自余ノ資源ニ付テハ第二次総動員期間計画綱領ニ準拠シ適宜必要ニ応ジ実施スルモノトス
第七条 資源需要官庁ハ取得シタル特定重要資源ニ付毎三ケ月末ニ其ノ数量ヲ総動員統轄事務機関及資源担当官庁ニ通知スルモノトス
資源担当官庁及関係官庁ハ特定重要資源ニ付毎三ケ月末ニ其ノ生産数量、現存額及輸入数量ヲ総動員統轄事務機関及関係官庁ニ通知スルモノトス

第三章 精神作興

第八条 国論ノ統一及国民精神ノ作興ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ

第四章 労務

第九条 労務ニ関シテハ労務者ノ需給調整ヲ目途トシ特ニ之ヲ適時適職ニ従事セシメ得ル様概ネ左ノ事項ニ付必要ナル措置ヲ講ズ
一 技術職員及職工ノ争奪防止
二 労務者需給調整機関ノ整備
三 一部国民登録ノ準備
四 技術職員及職工ノ養成

第五章 産業

第十条 産業指導統制上ノ要項概ネ左ノ如シ
一 重要資源ノ自給ヲ目途トシ特ニ軍需産業ノ生産力拡充ヲ促進ス
二 輸出産業ハ軍事上大ナル支障ナキ限リ極力之ガ維持ニ力ム
三 必要ニ応ジ一部ノ工場又ハ事業場ヲ管理ス
四 重要産業ニ付テハ統制機構ノ整備ヲ図ル
五 輪入抑制ニ伴ヒ国民生活ニ必要ナル資源ノ生産ヲ奨励ス

第十一条 差当リ生産ノ促進又ハ生産力ノ拡充ヲ要スル重要物資概ネ左ノ如シ
一 金
二 鉄鋼及製鉄用原鉱
三 銅、鉛、亜鉛、錫、ニッケル、アンチモン、水銀、アルミニウム、マグネシウム等ノ非鉄金属類
四 ベンゾール及トルオール
五 石炭酸
六 硫安
七 パルプ
八 工作機械
九 石炭
一〇 石油及其ノ代用品
一一 鉄道車輌及船舶
一二 貨物自動車
一三 航空機

第十二条 左記物資及之ヲ材料トスル成品ニ付テハ一般ニ消費節約ヲ奨励スルノ外用途ノ制限、代用品使用ノ指定等必要ナル措置ヲ講ズ
一 鋼材
二 銅、白金、鉛、亜鉛、錫、ニッケル及アンチモン
三 ゴム
四 皮革
五 綿花
六 羊毛
七 紙類
八 木材
九 然料特ニ石油及其ノ代用品
一〇 電力
右ニ関連シ所要代用品ノ増産及研究ニ付特ニ考慮スルモノトス

第十三条 差当リ左記物資ニ付配給ノ適正円滑ヲ図ル為必要ナル措置ヲ講ズ 一 米麦及飼料
二 鉄鋼
三 化学肥料
四 工作機械
五 石炭
六 石油
七 前各号以外ノ主要輸入物資

第十四条 左記物資及之ヲ材料トスル成品ニ付国民運動其ノ他適切ナル方法ニ依リ回収ノ措置ヲ講ズ
一 屑鉄
二 銅
三 鉛
四 錫
五 アルミニウム
六 ゴム
七 綿花
八 羊毛
九 紙

第十五条 電力ニ関シテハ需給ノ円滑適正ヲ図ル為必要ナル措置ヲ講ズ

第十六条 暴利ノ取締其ノ他物価、運賃、料金等ノ規正ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ
物価ノ規正ニ付テハ鉄鋼、化学肥料、石炭、石油、電力等ノ重要物資及生活必需品ニ付考慮ス
第十七条 補填計画実施ノ為必要ナル資金ニ付テハ緩急ヲ考慮シ之ガ調達ニ便宜ヲ与フ

第六章 貿易

第十八条 輸入ニ関シテハ重要資源ノ需給状況及国際収支ノ状況ヲ考慮シ輸入優先順位ヲ定メ適切ナル指導統制ヲ行フ
第十九条 輸出ニ関シテハ特ニ必要アルモノヲ除クノ外差当リ制限又ハ禁止ヲ行ハズ 第二十条 支那ニ対シテハ兵器其ノ他作戦資材ノ輸出ヲ禁止スルノ外経済的打撃ヲ与フルニ有効ナル貿易上ノ措置ヲ講ズ
第二十一条 対支貿易変化ノ状況ニ応ジ之ガ対策ヲ講ズ
第二十二条 米国ノ中立法発動其ノ他ニ因ル輸入杜絶ノ場合ヲ考慮シ適時之ニ対応スべキ方途ヲ講ズ

第七章 食糧

第二十三条 食糧二関シテハ其ノ生産、配給等ニ付所要ノ指導統制ヲ行フ外概ネ左ノ措置ヲ講ズ
一 輪入食糧ニ付消費節約及代用品ノ使用
二 応召者多数ナル農山漁村ニ於ケル生産維持ニ関スル指導援助
三 肥料及飼料ノ自給奨励並ニ購入肥料及飼料ノ消費節約

第八章 運輸

第二十四条 鉄道及船舶ニ依ル重要物資ノ輸送ニ付必要ニ応ジ優先順位ヲ定メ且各輸送ノ連絡ヲ確保シ運輸全般ノ円滑ヲ図ル
第二十五条 船舶ハ必要ニ応ジ政府之ヲ管理ス
尚之ニ関連シ必要ナル措置ヲ講ズ
第二十六条 船腹ノ増加ニ付テハ左ノ措置ヲ講ズ
一 造船能力ノ拡充ヲ図リ造船材料ノ供給ニ付便宜ヲ与フ
二 外国船ノ傭購入ニ関シテハ現在及将来ノ関係ヲ考慮シテ之ヲ行フ
第二十七条 海上保険ニ関シ機宜ノ措置ヲ講ズ
第二十八条 自動車徴発ニ伴フ補充ニ関シ機宜ノ措置ヲ講ズ
第二十九条 航空施設ノ整備ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ

第九章 財政金融

第三十条 中央、地方及外地ヲ通ジ不急ノ既定経費ノ節約ヲ断行ス
第三十一条 戦費ノ調達ハ主トシテ公債ニ依ルモ一部増税ヲ併用ス
両者ノ調整ニ関シテハ国民負担ノ公平ニ付特別ノ考慮ヲ払フ
尚公債消化ニ関シテハ適切ナル措置ヲ講ズ
第三十二条 金融ノ混乱及恐慌防止ニ対シ適時必要ナル措置ヲ講ズ
第三十三条 国防其ノ他公益上ヨリ観テ不急ナル事業ニ対シテハ投資、増資及起債ヲ抑制ス
第三十四条 非常時産業金融ノ便ヲ図ル為資金統制其ノ他必要ナル措置ヲ講ズ
第三十五条 為替維持ノ為適時必要ナル措置ヲ講ズ、特ニ対外決済ニ充当スベキ資金ノ充実ヲ図ル
第三十六条 北支ニ対スル金融政策ニ付機宜ノ措置ヲ講ズ

第十章 社会施設

第三十七条 出動軍人並ニ其ノ家族及遺族ノ慰問、保護及救済ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ、之ガ為考慮スべキ事項概ネ左ノ如シ
一 応召者ニ対シ召集前ノ勤務先ヨリ給与ノ支給
二 応召者ノ保険ニ関スル特別措置
三 応召者ノ家族及遺族ノ診療、職業紹介、扶助、救護等
四 農山漁村ニ於ケル応召者ノ家族及遺族ノ生業助成及負債整理ニ関スル必要ナル措置 五 応召商工業者ノ家族及遺族ニ対スル金融
六 入営者ニ対スル職業保障
七 戦傷者ニ対スル職業再教育
八 出征者及戦死傷病者ニ対スル慰問
第三十八条 事変地罷災者及避難者ノ救済ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ
第三十九条 物資ノ徴発其ノ他事変ノ為生業困難ヲ来シタル者ニ対シ必要ナル保護救済ノ措置ヲ講ズ

第十一章 防疫

第四十条 防疫ノ徹底ヲ図ル為必要ナル措置ヲ講ズ、之ガ為特ニ考慮スベキ地域概ネ左ノ如シ
一 戦地トノ交通頻繁ナル地域
二 衛戍地、軍港及要港
三 主要港
四 重要工場地帯
五 食糧ノ大集散地
六 重要都市

第十二章 総動員ニ必要ナル警備

第四十一条 中央、地方及外地ニ警備協議会ヲ設置シ迅速適切ナル総動員警備ノ実施ニ当ラシム
第四十二条 機密保護上各主務官庁ハ必要ナル措置ヲ講ズ、特ニ我国在留外国人、特定本邦人及此等周囲ノ人物ノ言動ニ注意ヲ払フ
第四十三条 反軍、反戦的ノ記事言論ノ取締及外国ヨリスル思想工作防止ニ重点ヲ置ク出版物ノ検閲ヲ厳ニシ流言蜚語及運動ノ取締、銃砲火薬類其ノ他危険物ノ取締等特ニ治安維持上必要ナル措置ヲ講ズ
第四十四条 警察職員、消防職員及刑務職員ノ召集ニ伴フ補充ノ為必要ナル措置ヲ講ズ
尚警察力補助ノ為必要ニ応ジ地方諸団体利用ノ措置ヲ講ズ
第四十五条 要警備対象物ノ警備ニ付各主務官庁ハ必要ナル措置ヲ講ズ
第四十六条 警備用通信網ノ整備及通信取締ニ付必要ナル措置ヲ講ズ
第四十七条 空襲ノ虞アル地方ニ於テハ防空ニ対スル準備ヲ行フ、防空実施ノ時期ハ別ニ命ゼラルル所ニ依ル
第四十八条 私設無線電信電話施設ノ取締ヲ厳ニス

第十三章 情報及宣伝

第四十九条 今次事変処理ノ為必要ナル情報及宣伝ニ関シ所要ノ措置ヲ講ズ

第十四章 其ノ他<

第五十条 科学研究ノ指導、発明ノ助成等ニ付必要ナル措置ヲ講ズ
北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱 昭和12年9月4日 閣議決定引用終わり。

9.首都南京を陥落させたても、蒋介石総統の国民政府は、重慶に遷都をして、抗日戦争を継続した。こうした戦争の長期化のなかで、日本政府は、国民政府との外交関係を断絶し、新たに擁立した傀儡政権と和平交渉を進めようとした。これは、日中戦争の終結の目算が立たないで戦争を拡大することであり、近衛文麿首相の外交の大失敗だった。

大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。そして、南京効力後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。

 抗日戦争を継続する国民党蒋介石総統の重慶政権との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明にと呼ばれる。

  1938年1月14日,ドイツのトラウトマン駐華大使の仲介になるトラウトマン工作に関する中国政府の回答が日本へもたらされたが、それは講和条件の詳細な内容を照会したにすぎないと日本は判断した、そして、中国は和平交渉を引き延ばし、遷延策によって戦備を整え、諸外国からの援助を期待していると考えた日本政府は、中国側に交渉の誠意が認められないとして、和平交渉を打ち切った。これが、1938年1月16日「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との政府声明、いわゆる第一次近衛声明である。日本側は、1937年末の南京陥落によって、トラウトマン工作に基づいた和平交渉は、条件が中国側に有利であり、敗北まじかの蒋介石の国民政府は、事実上の降伏を求めるつもりであり、それが和平交渉を打ち切る理由だったと思われる。

 1938年1月16日,第一次近衛声明「爾後国民政府ヲ対手トセズ」によって、近衛文麿首相は川越茂駐華大使に帰国命令を出し、蒋介石も許世英駐日大使を中国に召還した。こうして、日中の外交は断絶、国交断絶によって、日本政府は自ら戦争終結の手段を放棄することになった。中国国民政府、すなわち蒋介石政権国民党政府)との断交は、戦争終結の手段を失うことに繋がり、和平・終戦の見通しをますます暗転させることになったのである。

中国華南からの日本人居留民、邦人の引揚げがひと段落下後、日本は、引き続き抗日戦争を続ける蒋介石重慶政権に対して、鉄槌を加えることを発表する。これが、1937年8月15日の近衛文麿首相による「暴支膺懲の声明」である。

「帝国は、つとに東亜水遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に、力をいたせること、久しきにおよべり。しかるに南京政府は、排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と、 帝国の実力軽視の風潮と相まち、さらに赤化勢力と苟合して、反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。
 近年、いくたびか惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も、また、かくのごとき気勢がその爆発点を、たまたま永定河畔に選びたるにすぎず。通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由、またここに発す。さらに中南支においては、支那側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆に瀕し、わが居留民は、多年、営々として建設せる安住の地を涙をのんで一時撤退するのやむなきにいたれり。

 かえりみれば、事変発生以来、しばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に隠忍をかさね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対して、 わが支那駐屯軍は交通線の確保、および、わが居留民保護のため、真にやむをえざる自衛行動にいでたるにすぎず。
 しかも帝国政府は、つとに南京政府に対して、挑戦的言動の即時停止と、現地解決を妨害せざるよう、注意を喚起したるにもかかわらず、南京政府は、わが勧告をきかざるのみならず、かえってますますわがほうに対し、 戦備をととのえ、既存の軍事協定を破りて、かえりみることなく、軍を北上せしめてわが支那駐屯軍を脅威し、また肩口、上海その他においては兵を集めて、いよいよ挑戦的態度を露骨にし、上海においては、ついに、われにむかって砲火をひらき、 帝国軍艦に対して爆撃を加うるにいたれり。

 かくのごとく、支那側が帝国を軽侮し、不法暴虐いたらざるなく、全支にわたるわが居留民の生命財産危殆におちいるに及んでは、帝国としては、もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。
 かくのごときは、東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として、衷心より遺憾とするところなり。しかれども、帝国の庶幾するところは日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に、日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより豪末も領土的意図を有するものにあらず。 また、支那国民をして、抗日におどらしめつつある南京政府、及び国民軍の覚醒をうながさんとするも、無事の一般大衆に対しては、何等敵意を有するものにあらず。」

したがって、日本の占領地に、日本の威光を背景に樹立された親日政権、中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)が、日本の和平交渉相手になるいう、傀儡政権(puppet government)相手の滑稽な外交を展開するしかなくなった。その後、中国に作った傀儡政権が人望を集めることができないことを知った近衛首相は、1938年11月3日、第二次近衛声明により「東亜新秩序建設」が国内外に発表する。

10.戦争が激化するにつれて、総力戦遂行のために、中国・朝鮮から労働力移入が図られるようになった。これは、当初、募集の形式をとったが、次第に、動員・強制になり、労働者への扱いも過酷なものになってゆく。

事件番号 平成19(ネ)150
事件名 損害賠償請求控訴事件
(通称 不二越強制労働損害賠償
裁判年月日 平成22年3月8日
裁判所名・部 名古屋高等裁判所 金沢支部 第1部
結果 棄却
原審裁判所名 富山地方裁判所
原審事件番号 平成15(ワ)79
原審結果 棄却

判示事項の要旨
 第二次世界大戦中に朝鮮半島から女子勤労挺身隊の募集又は徴用により来日し,労働に従事した女子勤労挺身隊員又はその遺族及び徴用工である控訴人らが,被控訴人らにより強制連行され,強制労働させられたとして,被控訴人らに損害賠償と謝罪広告の掲載を求めたのに対し,控訴人らの不法行為ないし被控訴人会社の債務不履行を理由とする請求権は,いずれもいわゆる日韓請求権協定によって裁判上訴求する権能を失ったとして,控訴人らの請求を棄却した原判決を維持した事例

国家総動員法(昭和13年法律第55号,同年5月5日施行)を制定し,戦時の際に勅令等によって人的物的資源を統制することを可能とした。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開始以降,日本ではより多くの労働力が必要となり,昭和14年以降終戦までに朝鮮から日本へ推定66万人以上が戦時動員され,炭鉱,鉱山,土建,工場等での労務に従事した。朝鮮からの労務動員については,当初募集方式で行われたが,1942年(昭和17年)2月13日付け閣議決定「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」及び同月20日付け朝鮮総督府の「労務動員計画ニ依ル朝鮮人労務者ノ内地移入斡旋要綱」により,官斡旋方式での労働者動員も行われるようになった。

朝鮮人労務者活用ニ関スル方策 昭和17年2月13日 閣議決定

収載資料:在日朝鮮人関係資料集成 第4巻 朴慶植 三一書房 1976.6 pp.24-25

第一 趣旨

軍要員ノ拡大ニ伴ヒ内地ニ於テハ基礎産業ニ於ケル重労務者ノ不足特ニ著シク従来此ノ種労務者ノ給源タリシ農業労力亦逼迫シ来リタル結果応召者ノ補充スラ困難ナル実情ニ在リ茲ニ於テ此ノ種労務者ノ需給ニ未ダ弾力ヲ有スル朝鮮ニ給源ヲ求メ以テ現下喫緊ノ生産確保ヲ期スルハ焦眉ノ急務タリ而シテ従前ヨリ朝鮮人労務者ニ依存セルコト少カラザリシ土建、運輸等ノ事業ニ於テモ最近之ニ期待スルコト益々大ナリ

然ルニ朝鮮人労務者ノ内地送出並ニ之ガ使用ニ関シテハ複雑ナル事情交錯シ内鮮ノ指導必ズシモ一致セズ之ガ為生ジタル弊害亦少カラズ、今ヤ内地労務者ノ資質ニ鑑ミ所要ノ朝鮮人労務者ヲ内地ニ於テ活用スルハ不可決ノ要請ナルヲ以テ此ノ機会ニ於テ既往ノ経験ヲ省察シ其ノ施策ニ統一ト刷新トヲ加ヘ内鮮共ニ真ノ指導性万全方策ヲ確立シテ速ニ之ヲ実行スルコト最モ必要ナリ而シテ其ノ要ハ労務ノ活用ト同時ニ教化ヲ重ンジ以テ朝鮮統治ノ大方針ヲ推進スルト共ニ此等育成セラレタル労務者ハ之ヲ朝鮮ニ還元シ朝鮮ノ我ガ大陸前進基地タル地位ノ強化ニ資セシムルニ在リ

第二 方針

一、本方策ハ軍要員ノ拡大ニ伴フ内地労務動員ノ実情ニ鑑ミ朝鮮ニ於ケル適材ヲ内地総動員業務二活用シ以テ人的国力ノ総合発揮ニ遺憾ナカラシムべキ基本観念ノ下ニ之ヲ実施スルモノトス

二、本方策ニ基ク朝鮮人労務者ハ有為ナル青少年ヲ選抜シ必要ナル訓練ヲ加ヘ之ヲ送出スルモノトス

三、右朝鮮人労務者ハ十分ナル国家ノ指導保護ノ下ニ之ヲ使用セシメ優秀ナル皇国労務者トシテ之ヲ育成シ一定期間(概ネ二年)ニ之ヲ補充交代セシメ以テ朝鮮ニ於ケル人的国防資源ノ強化ニ資スルモノトス

四、本方策ニ基ク労務者ノ送出ハ朝鮮総督府ノ強力ナル指導ニ依リ之ヲ行フモノトシ所要ニ応ジ国民徴用令ヲ発動シ要員ノ確保ヲ期スルモノトス

五、本方策ニ依ルモノノ外朝鮮人労務者ノ内地ニ於ケル就労ハ内地及朝鮮ニ於ケル労務統制ノ強化ニ伴ヒ此ノ統制下ニ行ハルル如ク従来ノ方針ヲ統一スルモノトス

六、本方策ノ実施ニ伴ヒ現ニ内地ニ在住スル朝鮮人ニ対シ徴用又ハ国民勤労報国隊へノ参加等労務動員ノ強化ヲ図ルモノトス

第三 要領

一、朝鮮ニ於テハ要員ノ選抜及之ガ訓練ニ関シ左ノ如ク施策スルモノトス

イ 要員ハ年齢概ネ満十七歳乃至二十五歳ノ男子ニシテ心身健全ナルモノヲ選抜ス但シ要員ノ選抜困難ナルトキハ年齢ノ範囲ハ之ヲ拡大スルコトヲ得

ロ 要員ニハ青年訓練施設等ヲ活用シ精神教育、国語教育等ノ外特ニ団体行動並ニ共同生活等ニ必要ナル基礎的訓練ヲ加ヘ且所要ノ幹部ヲ養成ス

ハ 要員ハ隊組織ヲ編成セシメ各単位ニハ国語ヲ解スル者ヲ配置ス

二、内地ニ於テハ本方策ニ依ル朝鮮人労務者使用ノ為特ニ左ノ如ク施策スルモノトス

イ 本要員ヲ使用セシムル工場事業場ハ特ニ重労務者ヲ必要トシ且之ガ使用ニ適スル施設ヲ具備スルモノニ付重点的ニ之ヲ選定シ漸次其ノ範囲ノ拡大ヲ図ル

ロ 徴用ニ依リ要員ヲ配置スル場合ヲ顧慮シ関係工場事業場ヲシテ速ニ之ニ適応スル態勢ヲ整備セシム

ハ 本要員ノ処遇ヲシテ形而上下ニ亘リ内地人ト異ル所ナカラシム

三、本方策ニ依リ内地ニ送出スべキ労務者ハ食糧、住宅、輸送等ノ実情ニ鑑ミ家族ヲ携行セシメザルヲ例トス

四、本方策実施ノ為朝鮮ニ於テハ人員動員機構ヲ充実シ警察機能ヲ強化スル等必要ナル対策ヲ実施スルモノトス

又本方策ノ実施ニ当リテハ朝鮮ニ於ケル青年訓練並ニ志願兵制度等トノ関連ニ特ニ留意シ互ニ推進助長ヲ期スルモノトス

五、本方策実施ノ為必要ナル施設ニ就テハ努メテ既存ノモノヲ活用スルモ已ムヲ得ザルモノニ就テハ別途予算的措置ヲ講ズルモノトス 尚朝鮮ニ於ケル本方策実施ニ伴フ人員動員機構及訓練機関ノ要員ノ充足ニ就テハ其ノ実情ニ鑑ミ関係各庁十分之ニ協力ヲ与フルモノトス

六、本方策ノ実施ニ方リ食糧並ニ輸送ノ問題ニ就テハ特ニ研究善処スルモノトス

七、本方策ニ依ルノ外労務者ノ内地渡航ニ付朝鮮総督府ニ於テハ内地関係官庁ニ認可ノ有無ヲ確ムル等労務ニ関スル統制法令運用ノ方針ニ即応スル如ク必要ナル措置ヲ講ズルモノトス

八、本方策ハ速ニ之ガ実行ニ着手スルモ其ノ時期、方法等ニ就テハ関係各庁ニ於テ別途具体的ニ協議スルモノトス

九、本方策ハ必要ニ応ジ順次外地ニ適用スルモノトス
朝鮮人労務者活用ニ関スル方策引用終わり


昭和14年度労務動員実施計画綱領 昭和14年7月4日 閣議決定

収載資料:国家総動員史 資料編 第1 石川準吉著 国家総動員史刊行会 1975.8 pp.324-328

第一章 総則

第一 本綱領ハ昭和十三年九月十三日閣議決定「昭和十四年度国家総動員実施計画設定ニ関スル件」ニ基キ昭和十四年度労務動員実施ノ基準トナルベキ事項ヲ定ムルモノトス 第二 本綱領ハ長期戦態勢下ニ於ケル労働力ノ根基ニ培フト共ニ特ニ左ニ掲グル事項ノ達成ヲ目途トシテ労務ヲ統制運用スルヲ以テ目的トス

一 軍需ヲ充足スルコト
二 生産力拡充計画ヲ遂行スルコト
三 輸出ヲ復興スルコト
四 国民生活ノ必需ヲ確保スルコト
第三 各庁ハ本綱領ニ基キ速ニ各庁実施計画ヲ設定シ之ヲ実施スルモノトス
満支関係諸機関ニ於テハ本綱領ノ趣旨ニ準ジ労務動員実施計画ヲ設定シ夫々適切ナル対策ヲ講ゼシムル様措置スルモノトス
第一項ノ各庁実施計画及前項ノ労務動員実施計画ノ要領ハ速ニ之ヲ企画院ニ提出スルモノトス
第四 労務動員実施ニ当リ特ニ重要案件ヲ生ジタルトキハ其ノ処理ハ労務動員委員会ニ依リ之ヲ調整スルモノトス

第二章 一般労務者需給調整方策

第五 昭和十四年度一般労務者ノ需給計画ハ内地ニ於ケル工業、鉱業及交通業労務者ノ新規需要ヲ基礎トシ之ニ対スル供給力ヲ推測シテ設定スルモノトス
前項ノ計画ニ付テハ満洲移民等ニ関スル需給ヲモ考慮スルモノトス
第六 前記ノ需要数ハ左記各号ノ員数ヲ合算シタルモノトス
一 軍需産業、生産力拡充計画産業及其ノ附帯産業、輸出及必需品産業並ニ運輸通信業ニ於ケル需要増加数
二 工業、鉱業及運輸通信業ニ於ケル減耗ノ補充ニ要スル数
三 満洲移民
前項ノ需要数ハ附表第一及第二ノ如ク之ヲ予定スルモノトス
第七 前記ノ需要ハ左記各号ノ給源ヨリ之ヲ充足スルモノトス
一 昭和十四年三月新規小学校卒業者
二 物資動員計画遂行ニ伴フ離職者
三 未就業者(手助ヲ含ム)
四 農業従事者
五 商業其ノ他ニ於ケル労務節減可能ナル業務ノ従事者
六 女子無業者
七 移住朝鮮人
前項各号ノ給源ヨリ供給スベキ目標数ハ附表第三ノ如ク之ヲ予定スルモノトス
第八 需給ノ適合ヲ図ルガ為就職ノ指導斡旋ニ付一層積極的方法ヲ講ズルコトトシ特ニ新規小学校卒業者其ノ他年少者ノ就職ニ付之ガ統制ヲ強化スルモノトス
第九 物資動員計画ノ遂行ニ伴フ離職者其ノ他青壮年者ノ転就職ニ付テハ必要労務ノ充足ニ資スル為職業補導施設ヲ拡充スル等ノ方策ヲ講ズルモノトス
第十 農村ヨリ労務ヲ供出スルニ当リテハ農業ニ於ケル青年労力ノ急減並ニ其ノ地方的偏倚ノ実情ニ鑑ミ之ガ供出ヲ計画化スルト共ニ地方ニ於ケル労務行政機関ト経済更正委員会等トノ連繋ヲ一層緊密ナラシムル様措置スルモノトス
農業生産確保ノ為ニハ農業労力調整計画ヲ設定シ作業及施設ノ協同化、集団的移動労働、勤労奉仕、共同託児共同炊事其ノ他ノ家事労働施設、畜力機械力利用ノ拡充等ノ諸方策総合シテ労力ノ能率的利用ヲ図ルト共ニ農村及都市ノ間ニ於ケル労力ノ季節的調節ヲモ行フモノトス
第十一 商業其ノ他ニ於ケル比較的労務ノ節減可能ナル業務ニ付テハ経営改善等ノ方法ニ依リ労務ノ節減ヲ図ラシメ特ニ青年男女ノ使用ヲ緊要トセザルモノニ付テハ国家総動員法第六条ノ規定ニ依リ之ガ雇入ヲ制限シ其ノ他適当ナル方策ヲ講ズルモノトス
第十二 女子ノ労務ニ関シテハ職場ノ選択ニ付適切ナル指導ヲ行ヒ輸出産業等特ニ女子ノ労務ヲ必要トスル産業ノ需要ヲ充足スルコトヲ第一議トシテ未婚ノ不就業女子ニ付就業勧奨ヲ積極的ニ行フモノトス
第十三 朝鮮人ノ労力移入ヲ図リ適切ナル方策ノ下ニ特ニ其ノ労力ヲ必要トスル事業ニ従事セシムルモノトス
第十四 一般労務者ノ不足ニ因リ労務動員実施計画ノ遂行上重大ナル支障ヲ生ズルノ虞アル場合ニ於テ之ガ充足ニ付他ニ適当ナル方策ナキトキハ徴用ノ手段ニ依ルモノトス
第十五 外地ニ関シテハ本章ノ趣旨ニ準ジ一般労務者需給調整方策ヲ樹立スルモノトス

第三章 技術者並ニ熟練労務者需給調整方策

第十六 昭和十四年度技術者ノ需給計画ハ概ネ日満支ヲ通ジ工業、鉱業及交通業ノ新規需要ヲ基礎トシ之ニ対スル供給力ヲ推測シテ之ヲ設定スルモノトス
第十七 前記ノ需要数ハ左記各号ノ員数ヲ合算シタルモノトス
一 日満支ニ於ケル生産力拡充計画産業ノ需要増加数
二 日満ニ於ケル生産力拡充計画附帯産業及軍需産業ノ需要増加数
三 内地ニ於ケル輸出及必需品産業並ニ運輸通信業ノ需要増加数
四 日満支ニ於ケル工業、鉱業及運輸通信業ニ於ケル減耗ノ補充ニ要スル数
前項ノ需要数ハ附表第四ノ如ク之ヲ予定スルモノトス
第十八 前記ノ需要ニ充ツベキ昭和十四年三月新規学校卒業者数ハ附表第五ノ如ク之ヲ予定スルモノトス
第十九 技術者ノ不足ヲ補フ為不就業技術者ニ付組織的調査ヲ行ヒ其ノ就業及使用ノ勧奨斡旋ニ努ムルモノトス
第二十 現行検定制度ヲ拡張活用スルト共ニ特別ノ技術認定制度ヲ創設シテ技術者補給ノ途ヲ拓クモノトス
第二十一 技術者ノ能率的利用ヲ図ル為左ノ方策ヲ講ズルモノトス
一 同一系統企業間中小工場間等ニ於テ技術者ノ融通又ハ共同利用ヲ為サシムルコト
  二 下請工場ニ対スル親工場ノ技術的指導範囲ヲ拡大セシムルコト
三 製品及製作方法ノ単純化、標準化等ヲ促進スルコト
第二十二 技術者分布ノ現況ニ付組織的調査ヲ行ヒ其ノ配置ヲ適正化スル為積極的斡旋ニ努ムルモノトス
第二十三 技術者ノ不足ニ因リ労務動員実施計画ノ遂行上重大ナル支障ヲ生ズルノ処アル場合ニ於テ之ガ充足ニ付他ニ適当ナル方策ナキトキハ徴用ノ手段ニ依ルモノトス
第二十四 熟練労務者ノ不足顕著ナル現状ニ鑑ミ経験労務者ニ対スル再教育施設ヲ拡充スルモノトス
前項ノ他熟練労務者ノ需給調整ニ付テハ概ネ技術者ノ場合ニ準ジ措置スルモノトス
第二十五 工鉱業関係ノ技術者及熟練労務者、土木建築技術者、医療関係者、獣医師、高級船員、無線通信士等ニ付計画的養成ヲ行ヒ後年度ノ需要ニ応ズルモノトス


第四章 労働力ノ培養及能率増進方策

第二十六 労務者ノ精神鍛錬及規律訓練ヲ一層徹底スルト共ニ保健、衛生施設ヲ拡充シ特ニ青少年労務者ニ付体質増強ヲ図リ以テ労働生産性ノ向上ヲ期スルモノトス
第二十七 災害防止ノ徹底ヲ図ル為労働過重ノ抑制、新入労務者ニ対スル安全教育ノ徹底、設備ノ改良等有効適切ナル方策ヲ講ズルモノトス
第二十八 女子ノ時局産業ヘノ進出著シキ実情ニ鑑ミ特ニ其ノ保護ヲ強化スル為適当ナル方策ヲ講ズルモノトス
第二十九 能率ノ増進ヲ図ル為作業ノ方法及設備ノ改善並ニ技能ノ公開、競技、表彰ヲ行フ等適切ナル方策ヲ講ズルモノトス
第三十 賃金ノ統制ヲ行フニ当リテハ労務動員ノ見地ヨリ特ニ左ノ諸点ニ留意スルモノトス
一 労務者ノ生活ノ恒常性ヲ確保スルコト
二 労働ノ生産性ヲ向上スルコト
三 労務需給ヲ適正円滑ナラシムルコト
第三十一 労務者ニ対スル生活刷新運動ヲ一層徹底シ特ニ其ノ生活ヲ現実化スル為有効適切ナル方策ヲ講ズルモノトス
第三十二 労務者ノ住宅問題及交通問題ハ労務動員遂行上急遽之ガ解決ヲ図ルコトトシ之ニ関連シテ工場ノ移転新設等ニ付適当ナル対策ヲ講ズルモノトス

第五章 労務動員機構其ノ他

第三十三 労務動員計画ノ実施ヲ確保シ其ノ運用ヲ円滑ナラシムル為内外地ニ亘リ中央地方ヲ通ジ労務行政機構ヲ整備改善スルモノトス
第三十四 労務動員計画ノ遂行ニ協力セシムル為労務管理ノ機構ヲ整備セシムルト共ニ産業報国会ノ拡充ヲ図リ其ノ活動ヲ促進スルモノトス
第三十五 労務動員ノ基礎資料ヲ整備スル為左ノ方策ヲ急速実施スルモノトス
一 特ニ必要ト認メラルル労務者ニ関シ登録ノ範囲ヲ拡張スルコト
二 労務ノ需給ニ関シ定期的報告ヲ徴スルコト
三 都市及農村ヲ通ジ労務ノ実情及給源ヲ定期的ニ調査スルコト
北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱引用終わり


第168回国会(臨時会)質問主意書 質問第八七号 平成十九年十二月十二日

室蘭の強制連行犠牲者の遺骨返還に関する質問主意書

  朝鮮の少年が徴用され労働者として日本へ強制連行されることとなるのは、一九三九年の閣議によって日本政府が「労務動員実施計画」(昭和十四年度労務動員実施計画綱領 昭和十四年七月四日閣議決定 第十三 朝鮮人ノ労力移入ヲ図リ適切ナル方策ノ下ニ特ニ其ノ労力ヲ必要トスル事業ニ従事セシムルモノトス)を決定したことによる。また、「民間徴用者」の毎年の動員許可を与えたのも日本政府である。その結果として室蘭に強制連行された少年たちは艦砲射撃で死亡したのである。ところが、日本政府は過去において個々の遺族に対し一度も謝罪していない。遺族への遺骨返還に当たり、個々の遺族に対し日本政府の謝罪が行われるべきと考えるが、政府の認識を示されたい。

二 「民間徴用者」の遺骨の返還に際しては、遺族に対し葬祭費など必要な経費を日本政府が負担すべきと考えるが、政府の認識を示されたい。
室蘭の強制連行犠牲者の遺骨返還に関する質問主意書引用終わり


不二越強制労働損害賠償続き

また,日本国政府は1939年(昭和14年)7月8日,国家総動員法4条を発動して国民徴用令(昭和14年勅令第451号,同年7月15日施行)を制定し,徴用命令を発令して徴用者の職場を強制的に転換させることができるようにした。この国民徴用令は当初から朝鮮でも軍の施設等における労働のため発動されていたが,1944年(昭和19年)8月8日には半島人労務者ノ移入ニ関スル件」が閣議決定され,朝鮮において,一般企業等への労働者動員にも国民徴用令が発動されることになった。募集方式あ るいは官斡旋方式の動員も官による動員という性格を有していたが,国民徴用令による徴用では間接的とはいえ法的強制が加わり,徴用に応じない者には,国家総動員法36条により懲役又は罰金が課せられることになっていた。

昭和19年には日本における労働力不足が一層深刻化し,同年8月16日の閣議決定「昭和十九年度国民動員計画策定ニ関スル件」では,学校について通年動員を徹底し,中等学校2年以下及び国民学校高等科の学徒をも動員の対象とし,学徒動員の強化に即応し受入工場事業場の管理体制を整備充実すること,女子についても動員手段を強化し,これに伴い交替制による女子の夜間作業に関する制限を緩和することなどが決定された。
不二越強制労働損害賠償引用終わり

盧溝橋事件・上海事変・南京攻略(本編)を読む。


◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年の、モスクワにおける第7回コミンテルン世界大会で、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線の砲身を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明し、1937年7月の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まった直後、1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。こうして、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からの軍事援助も受けて、日本との抗日戦争を戦うことができた。国際的支援を受けることができた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信できた。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。

軍事力に関しても,1937-38年当事,中国に比して日本が優位であったというわけではない。もともと兵力は中国軍が数倍上回っている上に,米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。さらに,あまり言及されないが,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるるようになった。

バルティ(Vultee)V-11軽爆撃機の諸元
初飛行: 1935年9月17日
制式: 1937年
最高速力: 370 km/h
全長: 12 m
全幅: 15 m
ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機I-153は、1939年から実戦使用されている。ソ連最後の複葉戦闘機で、操縦席からの視界を良好にするために、上翼はガル型で折れまげて胴体に連結されている。そこで、英語のガル(かもめ)と同じく、ロシア語でチャイカ(かもめ)の明用が付けられた。
Vultee V-11 and Polikarpov I-15.
Catalog #: 0406
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0406引用。

ポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機(bis)の諸元
全長: 6.29 m(6.33 m)
全幅: 9.13 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 12.9 平方メートル
自重: 1,012 kg
全備重量: 1,422 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(448 km/h)
実用上昇限度: 7,250 m
乗員: 1名
兵装: ShKAS 7.62mm機銃4丁
爆弾50kg2個またはRS-82ロケット弾6個

ソ連は,中国共産党にコミンテルンでは反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,西安事件で中国共産党も国共合作に「合意し,蒋介石を釈放認めている。そして,中国国民党への軍事支援を開始している。例えば,1937年以降,ソ連のポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

日独軍事同盟によって,東西を強力な軍事国家に挟まれたソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため,同じ反日の中国との友好を求めたといえる。そして,蒋介石の反共的性格を知りながらも,中国共産党にコミンテルンを通じて,国共合作を促すなど,イデオロギーに囚われずに,自国の利益を追求している。独ソ不可侵条約,日ソ中立条約,米英からの援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:対空偽装のために樹木の枝を機体の上に置いて姿を隠している。フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:ポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20616引用。

ポリカルポフ I-15は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻の当日、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。
対空偽装のためにポリカルポフ I-153戦闘機の上に樹木が置かれている。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側につけている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20618引用。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1942年6月12日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻1年後、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
Kuva moottoritorpedovenelaivueen toiminnasta, syvyyspommin pudottamisesta, yhteistoiminnasta lentokoneiden kanssa jne. Suomenlahti 1942.06.16
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:91680引用。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:中国空軍にのソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は1937年11月、日中戦争の華中上空の航空戦に参戦している。
フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:全金属製の主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66678引用。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機が搭載したエンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。

1937年の日中戦争で中国空軍が使用し、日本海軍の九六式戦闘機と戦い、1939年のノモンハン事件ではソ連空軍が使用し、日本陸軍の九七式戦闘機と戦った。格闘性能では劣ったが、高速を活かして善戦したようだ。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66679引用。

1930年代後半、ソ連空軍戦闘機の主力戦闘機となったポリカルポフ I-16戦闘機は、1936年のスペイン内戦に共和国軍への軍事援助のために派遣され、ファシスト軍のドイツやイタリアの軍用機と空中戦を行った。そして、1937年の日中戦争にも、中国国民政府に派遣され、中国空軍戦闘機として、日本軍との戦った。特に、第二次上海事件に際して、江南上空で、新型の九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機、渡洋爆撃で喧伝された九六式陸攻など日本海軍機を攻撃して戦果を挙げた。

wikipediaでは、ポリカルポフ I-16戦闘機「いずれの戦闘でも敵方により新しい高性能の戦闘機が現れたことで、不運にもある意味で「やられ役」を演じることとなってしまった」との感想があるが、これは初めての実戦投入1936年から5年以上も経過してからの第二次世界大戦の中盤の時期の出来事であことを忘れている。1943年には、ソ連空軍は、ラボーチキン、ミグ、ヤクの各新鋭戦闘機を前線に配備している。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

中国(中華民国)の空軍は、アメリカから輸入機と軍事・技術顧問を雇い入れてスタートしたが、国共合作(国民党と中国共産党との共闘)がなり、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)以降は、共産主義国ソ連から、全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機を輸入して、空軍力を増強した。これは、国境を接する陸路あるいは黒によるものであり、アメリカから船積みした軍用機を日本の封鎖を突破しながら輸入するよりも迅速に行われた様だ。

写真(右):中国空軍所属のソ連製ツポレフSB-2爆撃機:ソ連は1930年代から多数の航空機を中国に有償譲渡している。

1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。

1937年の遅くには、共産主義国ソ連から中国空軍に軍用機が供与された。中国軍は、ソ連空軍の制式だったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141380引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

出現当初の1930年代、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れており、スペイン内戦でも日中戦争でも活躍した。合計で6500機も大量生産されている。

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出撃数1000回の生還記念の花輪を地上勤務整備員からもらったクルー。1941年夏頃に鹵獲したと思われるソ連機を2年以上も使い続け、その結果、1000回出撃となった。出撃回数を使用期間で割れば、1日1回から2回は出撃したことが分かる。天候が急変しやすい極北の地での戦いは、精密なレーダー航法が困難だった時代、目標を見失い、府遅着を余儀なくされることも珍しくなかった。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141387引用。

中国国民政府(南京政府)蒋介石は、西安事件後、中国共産党との連携して、抗日戦争を戦う国共合作を認め、ソ連との連携も強化しようと、 1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)を締結した。

中ソ不可侵条約によって、中国はソ連から引込み脚の新鋭高速軍用機のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)、ツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)などを購入し、1937年の日中戦争で、日本陸海軍機と戦った。これらのソ連製の軍用機は、日本機と比較して性能的には遜色なかった。

⇒1937年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争とその背景は,盧溝橋事件・上海事変・南京攻略で詳述した。

上海でも南京でも,租界には中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が流入してきた。そこで、市内での激しい戦闘、残酷な仕打ちが多数目撃され,映像に残され、本国のメディアにも報告された。タイム,ライフといった有名雑誌も、このような映像や記事を何回も掲載している。

日本では南京事件が有名だが、その直前の上海事変では、陸戦だけでなく、海上の艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行って空襲・空中戦が戦われ、いる。そこでは、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。各地で多数の死傷が外国人にも目撃され、欧米に知らされていたのである。日本軍は,上海の外国租界には介入せずに、中国地区占領を図り,11月9日、接収をほぼ完了する。


2015.10.11【台湾演義】百年空軍伝奇 | Taiwan History


◆日米の太平洋戦争勃発前のアメリカ義勇部隊と中国空軍による対日戦争 ◇ American Volunteer Group

写真(右):中国でAVGの指揮官となったクレア・リー・シェンノート:AGVはアメリカ陸軍航空隊の支援を受けていたが,形式上は中国空軍として,中国西部で日本軍と交戦した。

1937年8月に、中国江南で第二次上海事件が起こり、日中全面戦争へと突入すると日本国内では、戦争勝利を目指して、戦争体制を確立しようと様々な政策が採用された。1937年12年8月24日に国民精神総動員実施要綱が定められた。これは、挙国一致、尽忠報国の精神を国民がもつために、プロパガンダを行うものである。 統制経済を強化する必要性も認識されており、1937年9月4日には北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱が閣議決定している。これは、総動員実施するために、必要な戦時法令を制定・通用するための措置を講じようというもので,資源配分の調整、精神作興、労務管理の強化、産業指導統制、貿易統制、食糧統制、運輸統制、財政金融における経費節約・増税・公債消化促進、応召軍人・軍人遺族のための社会施設充実、防疫強化の基本方針を定めたものである。つまり、日本経済は北支事変の段階で,軍備,作戦行動を支えることが重い負担となっており,その経済基盤を戦争経済に順応できるように作り変えようというのである。

中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ること、すななわち「日本の中国支配」は断じて認められない。世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、反日、排日のプロパガンダが行われる。真珠湾テロ攻撃より前に、日本は中国においてテロ行為と見なされてもしかたのない軍事行動・残虐行為を行った。このような日本が欧州支配を目指すドイツと同盟するのであれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。

1931年8月に米国は,中国は航空機80機とオパイロット80名がいると推測していたが,パイロットのうち一流といえるのは,10-12名に過ぎなかった。
そこで,1932-35年に米国は非公式の空軍顧問団を派遣した。John H. Jouettたちは,カネ,一族,政治力が支配していた中国空軍の体質に改善を試みたが,不十分なままで終わっしまう。
他方,ドイツ,イタリア,英国,ソ連と米国以外にも,多数の国が,中国空軍に航空機を輸出しており,中国空軍の機体は,世界の軍用機の陳列上のようになってしまう。つまり,多数の機種を少数ずつそろえたために,機体の整備,部品の交換,操縦方法の習熟が煩雑になってしまったため,効率的な運用が困難であった。

1937年の盧溝橋事件以降,日本軍の中国への侵攻が激化してくると,空軍を再編成する必要性が,中国でも認識され,米中双方の高官が協議し,特別航空部隊を編成することが企画された。これが,AVGに繋がってゆく。

AGVには,1941年夏に米国の最新戦闘機カーチスP-40トマホーク供与された。

米国では,航空製造会社大手のセバルスキー社が倒産したのを引き継いで,リパブリック社が立ち上げられた。1939年3月にセバルスキーは,AP-4戦闘機30機の発注を米陸軍から受けていただけであったが,1939年末と1940年初めに,セバルスキーを引き継いだリパブリックが,P-43戦闘機の大量発注を受けた。これは,中国にキャンセルされたのと同数の54機のP-43戦闘機の発注と,新たな80機のP-43戦闘機の発注である。1939年9月に,欧州での第二次大戦が勃発しており,これを踏まえて空軍強化には,議会も反対はしない。

しかし,1939年にセバルスキーは複座に改造したP-35を20機,日本に売却する契約を結んでいる。The company made a controversial sale to the Japanese government in 1939 of 20 SEV2PA-B3 two-seat fighters which were based on the basic P-35 design. 1941年になるとさらに125機のP-43戦闘機が発注された。これは,武器貸与法によって資金を入手した中国空軍の購入になり,実際に108機のP-43戦闘機が船積み,発送された。残り17機は,オーストラリア空軍の発注になる。



リパブリックP-43戦闘機は,当事最新式のターボ・スパーチャージャー(過給機),パイロット背後の防弾版,防弾燃料タンク(アジア到着当初は不調だったが)を装備していた。1939年8月には中国側もP-43の事を知っていたが,後になって,軍事機密保持のため(ターボ・スパーチャージャーのことか),P-43の輸出は米国に禁止されてしまう。しかし,1938年時点では,米国は,中国に対してよりも,仮想敵国の日本に対して,より多くの兵器を輸出していたのである。1939年には,中国へのライセンスは500万ドルで,日本への輸出は80万ドルとなったが。しかし,1938年の日本への兵器輸出は,1938年の10倍もあったのである。

1.日本は,アジアは自国の勢力圏内にあり,日本に従属する大東亜共栄圏の建設し,これを新秩序とするべきであると認識していた。

1940年にフランスがドイツに降伏すると、まずフランス領北部インドシナに、ついで南部インドシナ(仏印)に日本軍は進駐する。ハル・ノートは、この時期に渡されたのであるが、それ以前の日中戦争における日本の軍事的、政治的、経済的な中国への侵略・進出を、米国は、機会均等を侵すものとして、排除したかった。さらに、日本の残虐行為・敵対的行為についても、1937年12月の南京事件(市民や兵士の死者10-20万人)、中国にあった米国砲艦パネー号への日本海軍機による爆撃(米国人2名死亡)、日本の動員法令の整備など、いずれも米国の戦略に反する動きが強まっている。

写真(右):中国がにおけるドイツのJu52輸送機とアメリカ義勇部隊:1930年代、中国はドイツ軍事顧問を招聘しユンカースJu52輸送機を郵便機として採用した。中国はドイツから購入する一方で,アメリカ義勇兵(傭兵)を雇い、のちにアメリカ陸軍航空隊は、アメリカ義勇部隊款を支援し準正規のアメリカ陸軍航空部隊として日本軍と戦った。

1937年の防共協定,1940年の三国軍事同盟などドイツと日本の接近は、米国には好ましくない。日本は、中国に対する姿勢を増長させ、1940年には、ドイツの対フランス戦勝のおこぼれとして、フランス領インドシナに進駐し、のちの「大東亜共栄圏」と言われる日本の南方生存圏を確保しようとする。これは、米国には、忍耐の度を越えた行動となった。米国は、日本との戦争も辞さないかまえで、日本の在外資産の凍結、石油・鉄屑の禁輸など、強硬な対抗手段をとる。

写真(右):1929-1933年頃、ボーイング(Boeing) P-12 戦闘機
PictionID:41897737 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000762 Boeing P-12 29-355 - Filename:16_000762 Boeing P-12 29-355.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41897737 引用。

アメリカ陸軍のボーイング(Boeing) P-12 複葉戦闘機の兵装は、当初は.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)と第一次大戦時の戦闘機と同水準の火力に過ぎなかったが、後期型では .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)と大口径機関銃を1丁とはいえ装備しており、他の戦闘機よりも強力な火力を誇っていた。

写真(右):1929-1933年頃、ボーイング(Boeing) P-12E 戦闘機
PictionID:41898653 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000790 Boeing P-12E 27PS AAC 17901 A - Filename:16_000790 Boeing P-12E 27PS AAC 17901 A.C.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41898653 引用。

1932年2月、第一次上海事変に際して、日本海軍の航空母艦「加賀」から日本海軍十三式三号艦上攻撃機3機、三式艦上戦闘機3機が江南で、中国軍のボーイングP-12E戦闘機と空中戦を行った。ボーイングP-12E戦闘機の操縦士は、アメリカ義勇部隊のロバート・ショート(Robert Short)で、日本の三色艦攻搭乗員を死傷させたものの、三式艦戦によって撃墜された。

写真(右):1934-1936年頃、ボーイング(Boeing)P-12F戦闘機
PictionID:41899368 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000803 Boeing P-12F Hensley Field AAC 151282 - Filename:16_000803 Boeing P-12F Hensley Field AAC 151282.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41899368 引用。

ボーイング(Boeing)P-12E戦闘機の諸元
全長:6.19 m、全幅:9.12 m、全高:2.95 m
全備重量:1,401 kg
発動機:P&W R-1340D 空冷星型9気筒エンジン 出力500hp
最高速力:189 mph (304 km/h)、巡航速力: 160 mph (257 km/h)
航続距離: 570 miles (917 km)
上昇限度: 8,020 m (26,300 ft)
兵装:.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)
または .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)
爆弾搭載量: 244 lb (111 kg)
航続距離:1,131 km
乗員:1名

1931年に開発した固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展がカーチス(Curtiss)ホークIII(BF2C-1)戦闘機だった。同じ複葉機で、エンジンも同じライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだったが、ホークIII(BF2C-1)戦闘機の主輪は引込み式になった。BF2C-1の試作機は、1934年9月13日に初飛行した。 引込み脚として空力的に洗練され、エンジン出力も若干強力になったため、性能は向上した。アメリカ海軍の艦上戦闘機としても開発された。

Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、カーチス複葉艦上機シリーズの最終型で、それ以前のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展型で、車輪を胴体中央部側面に引き込むために、手動油圧ポンプを備えている。そのため、エンジンはライト空冷星形サイクロンエンジンで馬力数はあまり変わらないが、空気抵抗が減少して最高速力は、カーチスF11Cよりも30kmほど向上した。主翼はカーチスホークの原型以来のテーパー翼で、兵装は、ブローニング機関銃2丁、小型爆弾架である。訓練用航空母艦「レンジャー」でも艦上機の発艦・着艦訓練をした。

主翼が二枚あり、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きな複葉機カーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の固定脚だった車輪を、胴体の付け根に引込みむことのできるように改良したのが、カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。この引込み脚のおかげで、空気抵抗を減少させて、最高速力や旋回性能などを固定脚よりも改良できた。中国空軍は、カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)をホークIII戦闘機(鷹三型戦轟)として採用したが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、輸入機と見なすことができる。中国空軍の主力戦闘機になった。

カーチス社のアメリカ海軍艦上戦闘機の最後を飾ったのがカーチスホークII戦闘機だった。カーチス社は、1933年から固定脚だったF11C戦闘機の改修を始め、カーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)では、車輪を手動油圧ポンプで引き込むようにし、最高速力を30Km向上させた。

写真(右):1937年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)第四大隊高志航大隊長のカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk):1934年9月13日に試作機が初飛行、その後中国が購入、輸入し中国空軍に主力戦闘機として配備した。
English: 1930s Hawk III of China Air Force.
中文: 本機為第四大隊大隊長高志航鷹三型戰轟機。鷹三型戦轟機為抗日戦争初期,中国国空軍主力戦機,又稱霍克三 (Hawk III)。第一次公開在国人面前是在民国二十五年十月卅日,為慶祝蒋公五十歳生日,由第四大隊大隊長高志航少校率卅五架霍克三,在南京市明故宮機場上空編成「中正」二字的空中分列式。並在民国26年8月14日筧橋空戦時,曾創下撃落日機3架的紀録!
Date 1930s
Source http://lov.vac.gov.tw/
Author ROC government
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:1930s Hawk III of China Air Force.jpg引用。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団のボーイング281戦闘機P-26(Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 20th Pursuit Group):1931年にボーイング社がボーイング・モデル248として設計した初めての全金属性の戦闘機(追撃機)。固定脚、開放式コックピット、張線式主翼と従来の保守的構造も残している。「ピーシューター(Peashooter)」とは豆鉄砲を意味する。
Description English: Boeing P-26As of the US Air Corps 20th Pursuit Group Source: United States National Archives
Source USAF
Author USAF
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:20th-p26as.jpg引用。

ボーイング社は、複葉機全盛の時代の1930年代初頭に、単葉、スパッツ付き固定脚で、斬新な設計のP-26(Boeing P-26)戦闘機の原型を開発した。1933年から100機以上の発注を受け量産され、中国も、ボーイング P-26を輸入し、1937年の日中戦争で実戦投入した。ただし、 P-26配備機数は少なく、主力戦闘機はカーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。1940年代には旧式化していたものの、アメリカ軍は、アメリカ領フィリピンに配備していた。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団のボーイング P-26A (Boeing P-26)No 101 ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 17th Pursuit Group):ボーイング社は、現在世界最大の旅客機メーカーになっているが、第二次大戦世界大戦前後、B-17、B-29 など大型爆撃機の大量生産で成長したが、1920年代は、ボーイングは戦闘機メーカーだった。
Description P-26A No 101 assigned to headquarters, 17th Pursuit Group
Date 15 March 2009, 16:21
Source P-26Ano101
Author Bill Larkins
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:P-26Ano101 (4526389411).jpg引用。

中国空軍は、アメリカから輸入し、戦闘機部隊で訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変の時、実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイング P-26戦闘機8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、全金属製・単葉の斬新な設計のガンマ2A(Gamma 2A)の発展型である。ガンマ2C(Gamma 2C :YA-13)は、ノースロップが自主企画の攻撃機で、カーチス(Curtiss)A-12 シュリンク(Shrike)の対抗馬となった。兵装は、7.62ミリ(0.30 cal)機関銃4丁を主翼に装備、後方に7.62ミリ(0.30 cal)機関銃1丁を防備用の旋回機銃として装備した。爆弾搭載量は、最大で 1,100ポンドlb (500 kg) で主翼下面に搭載する。1933年にアメリカ陸軍航空隊(USAAC)で試験された。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、その前のガンマ2C(Gamma 2C )の爆弾搭載量1,600 ポンド (727 kg)とした輸出軍用仕様で、1938年まで中国空軍で使用された。また1933年に1機(K5053)がイギリス航空機兵装装備実験施設(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)に、2機が日本海軍航空隊(Imperial Japanese Navy Air Service)にノースロップ(Northrop)BXNとして輸出、試験された。

中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の軽爆撃機の主力として45機を購入した。主翼、胴体、エンジンを分解したまま船積み輸入し、中国に組み立て工場でそれらの部品から実機を完成させた。これは、部品輸入に依存したノックダウン方式である。

ブレゲー(Breguet)27偵察爆撃機
乗員:2名(操縦士・偵察員)
全長:9.76 m、全幅:17.01 m、全高:3.55 m
翼面積:50.0平方メートル
自重:1,756 kg、全備重量:2,393 kg
発動機:イスパノ・スイザ 12Hb1基500馬力
最高速度:236 km/h
航続距離:1,000 km
実用上昇限:7,900 m
兵装:前方固定:7.7 mm(.303 in)ヴィッカース機銃1丁
後方旋回:7.7 mm(.303 in)ルイス機銃2丁
爆弾:120 kg

写真(右):1938年、アメリカ陸軍ノースロップ (Northrop)BT-1爆撃機の急降下
Title: NORTHROP BT-1 (Bu# 0614)
Caption: Coded 5-B-18, seen in a dive, circa 1938. Note "Winged Satan" insignia of "Bombing 5".
Description: Original in Aviation History Branch, 1980.
Catalog #: NH 91165
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command NH 91165 NORTHROP BT-1 (Bu# 0614) 引用。

ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機 の発展型が、ノースロップ社のBT爆撃機である。ノースロップ BT爆撃機 (BT‐2ができた時点でBT-1)は、全金属製・単葉・引込脚で、当時の新しい攻撃方法である「急降下爆撃」を取り入れた。開発の契機は、アメリカ軍が国内各社に急降下爆撃機の開発を要求したことである。ノースロップ社の開発した試作機は1935年8月に初飛行に成功し、アメリカ海軍に感情急降下爆撃機として採用された。その後、アメリカ海軍が改良型の開発を指示したのがXBT-2である。ノースロップ社はダグラス社に吸収され、改良型XBT-2は、SBDドーントレスの原型機として完成した。

写真(右):1934-1935年頃、アメリカ、ロングビーチ、アメリカ陸軍航空隊のマーチンB-10A爆撃機(Martin B-10):1930年にマーチン社は、自主開発で123型を試作、これは前金属製、胴体内に爆弾槽を設けた双発爆撃機だった。1932年3月にXB-907試作機が完成、最高速力317 km/hは当時としては高速だった。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、YB-10の名称で48機の発注がなされた。
Description Martin B-10 Long Beach 1938 Date 25 July 2008, 13:24
Source Martin B-10 Long Beach 1938
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10 Long Beach 1938 (4800374631).jpg引用。

1930年代初め、アメリカのマーチン社は、後にマーチンB-10爆撃機となる原型をマーチン・モデル123(Martin Model 123)として開発したが、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。そして、マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。これは当時としては高速で、当時のアメリカ戦闘機よりも早かったため、高速爆撃機として注目を浴びた。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aが、YB-10の名称で、アメリカ陸軍により、48機が発注された。

後にマーチンB-10爆撃機となるモデル123(Martin Model 123)爆撃型として、機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、アメリカ陸軍から1933年に48機の発注を受けた。これがアメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機として制式になる。アメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機の量産は、1934年からで、陸上用車輪式降着装置を撤去して、双フロート(浮舟)を装着した水上爆撃型も試作された。

1931年1月から、アメリカ陸軍は、アメリカ本土防衛のために海岸線を防衛する任務も担っており、あまりか陸軍は、数機のB-12Aを改造して、巨大な双フロート(float)を付けて、水上で離発着できるB-12A水上機を試作し、1935年8月24日に完成させている。

写真(右):1940年、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ東20キロ、オークランド飛行場、アメリカ陸軍航空隊第91偵察中隊のマーチン B-10B偵察爆撃機
Description This is a rare and unusual photo taken with two of the large GE #21 flash bulbs on a time exposure. It really shows the underwing detail and all of the rivets that you don't see in a normal daytime photo. B-10 of the 91st Observation Squadron at Oakland Airport 1940
Date 13 December 2008, 10:48
Source Martin B-10BM Night flash photo
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

1933年1月17日、アメリカ陸軍は48機の マーチン・モデル(Martin Model)139単葉爆撃機(monoplane bomber)を発注し、この中で合計32機がYB-12とB-12A(7機がYB-12、25機がB-12A)である。この両機の差異は、搭載エンジンの種類で、YB-10の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)R-1690-11空冷星形エンジン「ホーネット」(Hornet)で、B-10爆撃機は、ライト(Wright)社の空冷星形エンジン「サイクロン」(Cyclones)である。

最初のYB-12試作機は、1934年4月に完成し、ホーネットエンジンの出力が高かったために、YB-12の最高速力は、B-10Bよりも時速5マイル(8km)程度早かった。しかし、新モデルB-12は、B-10とほとんど変わるところがなかった。形状の上では、B-12は、B-10と異なってエンジンナセルの側面に、潤滑油冷却器空気取入れ口(oil cooler intake)がついているので識別できる。B-12Aは、胴体下部の爆弾槽(bomb bay)に256米ガロン(960L)の追加燃料タンク(extra fuel tank)を設けて、通常の燃料搭載量よりも、226米ガロン(850L)追加増量できるので、それだけ航続距離を伸ばすことができた。

 アメリカ陸軍で初めての全金属製単葉双発爆撃機としてマーチンB-10を制式したが、オランダ、中国、アルゼンチン、トルコへの輸出仕様マーチン139Wが生産された。オランダ向けは、マーチン139WH、中国向けはマーチン139WCと区別し、いかにも購入国に配慮したような名称と、上手な売り込みを図っている。なんといっても、アメリカ陸軍航空隊が採用しているのであるから、その爆撃機は優秀であるに違いない。

しかし、アメリカ陸軍としては、各国の軍隊がアメリカ軍と同じ優秀な飛行機を装備する事には警戒心が強かった。そこで、友好国のみに輸出するとして、居改正を取っている。オランダ、中国はこの許可を得ることができ、トルコなどマーチンB-10爆撃機は輸出されている。マーチンB-10 爆撃機の初の実戦参加は、1937年8月、第二次上海事変・日中戦争の時、中国空軍に配備されていたマーチン139WC爆撃機が日本軍を攻撃したときである。その後、オランダ空軍が蘭印(インドネシア)に配備したマーチン139WH爆撃機も日本軍を攻撃している。

中国に船積みされた輸出仕様マーチン(Martin)139WC爆撃機は、上海に到着し、大型木製箱に梱包されたまま、上海、虹橋飛行場で組み立てられたようだ。飛行場の片隅に、現地で調達した棕櫚ゴザ・筵、竹で囲い込み式、屋根を葺いた作業用の小屋が作られたが、これは臨時の大きな掘立小屋である。一つの作業小屋での組み立て作業は、つなぎ作業服を着た中国人技師・整備士8人以上で、ここに、中国軍将兵やアメリカ軍人も随時、参加、協力したようだ。主翼を取り付けると、作業小屋には入らなくなるの、臨時の掘立小屋を撤去して、マーチン(Martin)139WC爆撃機の最終組み立てを行ったと考えられる。

1930年代初期に実用化されたマーチン(Martin)B-10爆撃機は、革新的なデザインの全金属製、単葉(主翼1枚)、引込み式脚の設計だった。胴体が太く、風貌や銃座の張出も無粋で空力学的に洗練されているとはいいがたいが、当時の世界各国の実用化されていた戦闘機よりも高速だった。1936年にマーチン社は、許可を得て二国に対する輸出型の販売を行った。これはオランダ向けのマーチン139WHと中国向けのマーチン139WCである。139の後のWは世界、Hはオランダ、Cは中国を示している。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。輸出仕様のマーチン139W爆撃機は、合計200機が生産されたが、中国にも引き続き販売され、中国だけでも数十機のマーチン爆撃機を中国空軍に部隊配備したものと考えられる。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。マーチン139WC爆撃機は、1936年から1939年にかけて、中国に向けて合計数十機が輸出されたようだ。1937年の中国空軍における配備部隊は、第14志願飛行隊(14th Volunteer squadron)、第10爆撃戦隊などである。

マーチンB-10爆撃機は、増加試作まで当初ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン(675hp)を搭載していたが、量産型のマーチンB-10B爆撃機は、カーチスR-1820-33エンジン(775hp)と若干馬力を強化して、100機以上生産された。ライトR-1820サイクロンのR1820とは、エンジン排気量(シリンダー容積:Displacement)が 1,823立方インチ (29.88 L)であることからきている。ただし、YB-12として、エンジンをライト社ではなく、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)社のR-1690「ホーネット」空冷星形エンジン(775hp)に換装した機体も30機程度若干生産されている。これがB-12A偵察爆撃機で、爆撃型YB-12の胴体下面の爆弾倉を追加燃料タンクとして、航続距離を延長した。

中国が輸入したマーチン139WC爆撃機6機は、1937年2月に上海虹橋飛行場に到着した。この上海中心部近くにある虹橋飛行場は、1937年8月9日、日本海軍の中国駐屯警備隊である上海特別陸戦隊大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が自動車で突入しようとして惨殺された場所である。この大山事件を契機に、8月13日、第二次上海事変が勃発し、華北の北支事変は、華中、江南を含む支那事変に拡大してしまった。マーチン139WCは、創設間もない中国空軍第30爆撃戦隊に配備され、第二次上海事変では上海に駐留していた日本海軍部隊、第三艦隊を攻撃することになる。

日中戦争中、1938年5月19日に中国空軍のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)2機は、重慶を発進、で漢口と寧波を中継して九州の熊本県人吉に宣伝ビラを撒き、玉山と南昌を経由して漢口に帰還した。これが日本本土初空襲となった。

ルーズベルト大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論と連邦議会とを参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相チャーチルも、ドイツに首都モスクワも占領去れそうなソ連の指導者スターリンも、日本軍に北京・上海・広東を占領され、東北地方に傀儡「偽満州国」をつくられた、さらに首都重慶の爆撃や内陸への侵攻に苦しんでいる中国の指導者蒋介石も、同様に、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。当然、米国参戦に向けて、諜報活動を含む外交を展開していたのである。

米国は、中立をたもっていたが、武器貸与法によって、英国・ソ連に大量の航空機・戦車を含む軍需物資を提供していた。英国連邦の一員のカナダは参戦しているが、カナダから英国への輸送船団には、米国海軍の駆逐艦・掃海艇が護衛についていた。そして,1940年には米国の駆逐艦50隻を英国に譲渡している。中立とはいっても,ルーズベルト大統領自身が,反ファシズムを明確に宣言していた。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。それまで、共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込んだ。したがって、日米開戦は、ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にも都合が良かった。

写真(右):中国空軍のリパプリックP-43戦闘機:中国駐留のアメリカ義勇軍に装備された。しかし,今日の米国では,二流として無視される場合が多い中国人パイロットによる操縦もあったらしい。

第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年には船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、密かに「参戦」した。

米国は,1940年以降,アメリカ義勇部隊AVG,のちのフライングタイガーズによる,中国にある日本軍への航空攻撃を繰り返していた。これは,米軍によるものではなく,あくまで,退役軍人が個人の資格で中国空軍に入隊して,傭兵として,戦闘に参加するという建前をとっていた。しかし,装備された航空機は,当事の最新鋭機であり,アメリカ国内の陸軍航空隊で,組織的な義勇軍募集リクルートが行われていたし,米陸軍航空隊は,中国空軍にAVG向けの武器供与をおこなっていた。もちろん,これは米国大統領の承認を得た秘密作戦である。

2.米国は,1940年代から,軍備拡張・動員を行って,対日独への戦争準備をした。

1939年の米国陸軍総兵力は40万人であるが,同年9月に欧州大戦が開始されると,航空兵力の増強を中心に5億7500万ドルの陸軍予算が必要とされた。ルーズベルト大統領は現役の軍人を22万7000名に,郷土防衛軍を23万5000名に増強することを決め、1940年5月には(エンジン)四発大型戦略爆撃機B-17を含む5万機の航空機を要求した。米陸軍の予算は,1940年80億ドル,1941年260億ドルに急増した。そして,1941年6月までに150万名の兵力が動員されることになる。このよう戦備増強が日本はもちろん,米国でも行われている。戦争に備えてきたのは、日本ばかりでなく、米国もそうである。日本委任統治領の南洋諸島に大艦隊をもって侵攻する「オレンジ」作戦、すなわち後の「レインボー」計画も、周到に準備された。航空兵力の大拡充も、対ドイツ戦、英国への軍事支援が第一の目的であろうが、中国、英国植民地ビルマ(現ミャンマー)やインドに対する軍事支援にも結びつけられている。

3.アメリカは、第二次世界大戦に自ら参戦する以前から、イギリスへの輸送船団を護衛し、軍需物資を貸与していた。そして、1941年から,本格的に中国に対する軍事援助も開始した。アメリカ人の軍事顧問を派遣し、アメリカ義勇部隊(AVG)を創設して,中国側の空軍として、主に中国駐留の日本軍に対して航空攻撃を仕掛けた。これは、アメリカ義勇部隊(AVG)やフライングタイガーズによる、アメリカの宣戦布告なき対日戦とみなすこともできる。

1937年8月、上海事変が始まると、中国にいた米陸軍退役軍人Claire Lee Chennaultは、「もし中国に100機のまっとうな航空機と100人の腕の立つパイロットがいれば、ジャップの航空兵力を一掃できるのに」と言った。

"Boy, if the Chinese only had 100 good pursuit planes and 100 fair pilots, they'd exterminate the Jap air force!"

の夫人宋美麗の米国への協力姿勢も大きく影響している。

クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault :1893-1958)は、1937年4月にアメリカ陸軍航空隊を退役して、蒋介石とその夫人・宋美麗(浙江財閥出身でアメリカ留学、英語に堪能なクリスチャン)の支援と給与を得て、中国が購入した戦闘機を操縦して、中国空軍パイロットとなった。そして、中国空軍の顧問となり、自ら日本機を迎え撃った。その傍ら、アメリカ軍にも連絡を取り、義勇部隊を組織するように、パイロットと優秀な航空機を送ってくれるように要請したのである。クレア・リー・シェンノート(Claire Chennault)は、中国空軍大佐として、年1万5000ドルで雇われた。中国空軍を増強して、日本を攻撃すべきであると考えた。

クレア・シェンノート(Claire Chennault)がアメリカに中国支援を訴えのため,1940年11月にシェンノートの案が財務長官ヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)に示され、受け入れられたという。しかし,これは現在の米国の一般的見解であって,退役軍人の意見が大きく反映されたというよりも,中国政府高官,特に宋美麗など一流の外交術を備えた中国人の支援要請も,ルーズベルト大統領や軍に大きな影響を与えたに違いない。中国への特別航空隊創設は,1940年11月30日にソーンT.V.Soong が財務省モーゲンソーに働きかけた結果,1億ドルものローンが認められ,武器貸与法による兵器購入が促された。シェンノートは、航空機500機を配備した特別航空部隊Special Air Unitを編成すれば、中国の日本軍を壊滅させるだけでなく、東京をも爆撃できるとの意見が注目されたのであろう。これが、アメリカ義勇部隊American Volunteer Groupの始まりである。

AVGの給与は月500ドル-700ドルで、上級指揮官ほど高い給与が設定されている。また,日本機を1機撃墜(確認要)するごとに、500ドルのボーナスがでた。これは現在の月給で1万ドル以上に相当する。米国で募集されたAVG第一陣は1941年7月10日にサンフランシスコを出発した。そして、1941年夏にはAVG、後の「空飛ぶトラ」 Flying Tigersが中国とビルマで活躍することになる。

AVGパイロットは,アメリカ陸軍所属の航空隊パイロットで志願したものである。つまり,陸軍航空隊がリクルートしたパイロットが,同意の上で,AVGとして,中国空軍に所属して,日本軍と闘うのである。AVGに参加するには,誓約書Loyalty chitに署名しなくてはならない。その内容な次のようなものである。

写真(右):AVG誓約書:1941年7月29日ビルマの首都ラングーンで署名されたもの。日米戦争の開始は1941年12月8日であるから、その4か月前には、アメリカ人の義勇兵が参戦に馳せ参じたことになる。

署名場所
署名期日
私は,ボランティア(義勇軍)として,中国空軍に------日から---日まで勤務いたします。
この期間の間,私は中国に忠誠を誓い,指揮官の命令に服従し,さらに中国の軍法・規則に従うすることを誓います。
任務終了後は,この任務に関するいかなる軍事的事項も秘匿し洩らすことはありません。
本人署名
証人署名

この誓約書にAVGのメンバー全員が署名するように求められたしたのである。

日本の攻撃に苦しめられている中国は、中立国米国の支援を受けていたが、これはつつもフランクリン・ルーズベルト大統領を初め、多数の米国軍人市民が、日本の対アジア戦略を脅威と感じていたからである。そこで、米国は、世界の兵器庫として、中国に対しても、英国にしたのと同様、軍需物資の提供をした。日本が広東、海南島など中国南岸を占領した後は、物資の運搬は、ビルマから中国雲南省・四川省に抜ける道路(ビルマ公路)が中心になった。ビルマは英国植民地であり、英国への軍需物資といっしょに、中国にも、険しい山道をうねるようなビルマ公路によって運ばれた。そして、日米開戦後の1942年からは ハンプ(こぶ)と 呼ばれた山岳域空路も加わって、支援の手が差し伸べられたのである。

ルーズベルト大統領は、1940年末から1941年初頭に、リパブリックRepublic社の戦闘機P-43「ランサーLancer」108機を武器貸与Lend-Leasedし、特別部隊"Special Air Unit"創設するように指示している。そして、これらの戦闘機がアメリカ義勇部隊American Volunteer Groupに配備された。日本も英国植民地のビスマのラングーンから中国への補給路ビルマルートを遮断しようと、航空兵力による爆撃、偵察も行った。フランス領インドシナへの進駐もこの中国への援助ルート「援蒋ルート」の遮断が大きな目的である。そこで、米国も日本軍に対抗して、中国南西部とビルマで、中国と英国の協力のもとで、米国義勇部隊American Volunteer Groupが組織した。これは、米国軍人や退役軍人が、個人の資格の義勇部隊として、日本軍と戦うのであるが、歩兵であれば(スペイン内戦の国際旅団のように)ともかく、個人で戦闘機を購入、運搬、整備、燃料・弾薬補給できるわけがない。中国軍だけではなく、米軍の支援が不可欠である。

1941年12月2日付AVG報告書では、AVGは3コ中隊(飛行隊)、パイロット82名、航空機79機(稼動機62機)を保有していた。 武装した航空機は60機、通信装置を装備した航空機は60機あった。トマホーク発送資料によれば、1941年1月〜3月の3ヶ月間に中国支援のために、戦闘機カーチスP-40「トマホーク」100機が送られたが、これらの機体は同年5〜7月に月々約30機ずつビルマのラングーン港に到着している。分解されて運ばれた機体はここで組み立てられ、テストされた後、AVGに引き渡された。この戦闘機組み立てには、中国南西部から航空機組み立てになれた中国人熟練労働者175名がつれてこられている。AVGの戦闘機は、ビルマ北部あるいは中国南西部の基地からビルマルートの護衛や中国の日本軍攻撃を行った。ただし、1941年11月7日付けのラングーンからの手紙には、友人が3機も友軍の飛行機を壊したことが述べられ、雇用条件、勤務管理体制が不備なことが改善点として述べられている。


◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆2011年7月、『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(268頁,2100円)を青弓社より刊行しました。
【目次】 ドイツ・ワイマール共和国の誕生から第三帝国の崩壊まで/アドルフ・ヒトラーの第一次世界大戦/ドイツ革命とその反動/ドイツ・ワイマール共和国の混乱/共和国安定期から世界大恐慌へ/ナチ党ヒトラー独裁の始まり/ナチスの再軍備・対外膨張/第二次ヨーロッパ大戦の勃発/対ソビエト連邦ボリシェビキ戦争/ユダヤ人殲滅のための世界戦争/ヒトラー第三帝国の崩壊/ナチ・プロパガンダ神話の真実
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスの優生学:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー総統・ナチスの独裁者・扇動者・殺戮者:Hitler
ヒトラー暗殺ワルキューレ作戦:Valkyrie
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
反ナチス・白ばら抵抗運動:White Rose resistance
NHK BS-hi 世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画:人民裁判長ローランド・フライスラー,西部方面総司令官ルントシュテット元帥,シュタウフェンベルク大佐の副官ヘフテン中尉など多数の写真を掲載。
ナチスドイツの参考文献・資料引用


◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定
 稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言したことについて、「改めて『防衛省・自衛隊、防衛相』の部分は撤回し、おわびしたい」と述べ、公の場で初めて陳謝した。
 発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)

 日本の「保守」であれば、伝統的な家族観を重視し、選挙戦を念頭にしている平和ボケ女性の防衛大臣など認めたくない。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。普段から国防重視の発言をしていても、それは人気取りのポピュリズム的発想から仕組んでいるだけであり、本心は利己的な選挙戦勝利の打算が支配しているようだ。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。

花降る里 (It’s all right!)2013/10/26 07:27 に次のようにある。
「産経新聞を応援する意味でも、ここで書くのが一番!」と思って飛び込んだブログの世界でしたが、ブログをやってると、書いたものが消えたり、編集画面と実際の画面が違ったり、グチャグチャになったり、意味不明のトラックバックが多量に送りつけられたり…とイロイロ不可解なこともあるな〜とは思っていたものの、まさか2年も経たない内に、サイト自体が無くなるなんて… 「日本のネット社会に、脅威を感じた中国の圧力でない事を祈りたい」と咲く也さんも書いて居られますが、ユーザーが自由に存分にモノが云える場所を運営するにあたって、何か特別な支障でも出て来た…のでしょうか?

j-123気になること イザ!ブログ閉鎖に伴う移転先 2013/09/21 10:25 に次のようにある。
当ブログをご覧頂いてる皆様へ 皆様存知のようにイザ!ブログは9月30日で閉鎖されるようです。過去、韓国や中国、特に在日韓国人に不利になる情報はことごとく削除され、やっとこちらで安住の地を見つけられたと思っておりましたが、ここも9月30日で閉鎖となってしまいました。

日本教育再生機構 光の集い  EXAPON Becky! はちま寄稿まとめwiki 2010-06-22に次のようにある。
つくる会内紛――「プロジェクトJ」周辺のイザブログが、全て閉鎖されている。CommentsAdd Star
それらの内容は、以下のようなものでした。(拙ブログ6/18分でも一部紹介)
・★自由社と文科省をつなぐ官僚OBの名前
・★藤岡信勝元教授、白表紙本見せちゃダメですよ
・★スクープ! 自由社「賃金不払い」で訴えられた
・★藤岡信勝元教授「正論」7月号でも肩書詐称
内容が部分的に再生機構側に抵触したのか、藤岡氏側から圧力がかかったのかは不明です。多分後者でしょう。然しながら、最も強烈なネガティヴキャンペーンであろう、 「藤岡信勝元教授のwiki」は無傷です。
wikiは下手に改竄すると書き手の情報が残ってしまうので、荒らしや歪曲行為はし難いように出来ています。圧力をかけた者が誰かは不明ですが、wikiに足跡ひとつ残すことも出来ないチキンであることは確かなようです。経営基盤の弱い産経を虐める事しか出来ない卑劣漢であると、私は断言します。

◆権利侵害で削除された違法動画
鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者
違法動画:捏造犯を追い詰める。重慶虐殺、南京虐殺 ねずさんのひとりごと
違法動画:捏造犯を追い詰める 3 南京重慶淮海虐殺 ねずさんのひとりごと
違法動画:捏造犯を追い詰める 4 重慶虐殺、南京虐殺 ねずさんのひとりごと
違法動画:捏造犯を追い詰める 4 重慶虐殺 ねずさんのひとりごと...
南京重慶虐殺記録 平津 - YouTube
違法動画:【動画集】南京大虐殺は存在しない。元日本兵たちの証言を記憶せよ。急げ!時間はもうあまり残されていないNanjing Massacre (南京大虐殺 난징대학살): 2012年10月17日
違法動画:【動画集】南京大虐殺は存在しない。元日本兵たちの証言を記憶せよ。急げ!時間はもうあまり残されていないNanjing Massacre (南京大虐殺 난징대학살): 2012年10月17日
違法動画:【動画集】南京大虐殺は存在しない。元日本兵たちの証言を記憶せよ。急げ!時間はもうあまり残されていないNanjing Massacre (南京大虐殺 난징대학살): 2012年10月29日更新
◆権利侵害で削除された違法ブログ(2012/10/19)
ねずさんの ひとりごと 重慶空爆被災写真は捏造写真
大和食研社長テレビ出演(2004年):ねずきちさんの勝負キャンディ販売、大和食研株式会社小名木伸太郎社長テレビ出演(2008年)、日本の心をつたえる会代表・小名木善行,ミリアのブログ:かぐやひめさんの「日本の心をつたえる会」からの自主退会

◆著作権侵害kazuko38959は全て削除、kazuko389は次のメッセージを受け取っています。
 第三者から YouTube に著作権侵害の申し立てがあったために動画が削除された場合は、次回 YouTube アカウントにログインすると次のようなメッセージが表示されます:
 あなたの動画が著作権を侵害していると第三者から申し立てがあった場合、著作権侵害を受けて対象の動画は削除されます。このような場合は、メール通知が届き、その侵害情報が [アカウントの管理 ] ページの [アカウント設定] に表示されます。著作権学校を無事に卒業されているユーザーの場合、6 か月間新たな著作権侵害の通知が届かなければ、著作権侵害は無効になります。削除の詳細については、YouTube アカウントの [著作権情報] セクションもご覧ください。
 YouTube では、著作権侵害を非常に重大な問題と考えています。著作権侵害の通知を 3 回受けたアカウントは停止され、アップロードしたすべての動画が削除されます。このような事態を避けるには、他者の著作権を侵害している動画をアップロードしないようにしてください。
 アカウントに通知が届いていないにもかかわらず動画が削除された場合は、YouTube のコンテンツ ID システムによってブロックされた可能性があります。
 コンテンツ ID システムによる自動検出は、著作権侵害の通知とは別のプロセスです。つまり、使用許可を得ていないコンテンツは、コンテンツ ID システムで検出されたかどうかに関係なく、今後コンテンツ所有者が著作権侵害を YouTube に通知した場合に著作権侵害と判断される可能性があります。(引用終わり)

◆米Google傘下のYouTubeは2011年4月14日(現地時間)、動画のアップロードで著作権を侵害したユーザーを再教育するプログラムを立ち上げたと発表した。著作権について学ぶ著作権学校を開設し、著作権に関するヘルプセンターを刷新した。YouTubeは著作権者から著作権法を侵害しているコンテンツの削除申請を受けると、対象となる動画の投稿者に著作権学校に行くよう通知する。通知を受けたユーザーは、動画を見て、幾つかの質問に正しく答えないとYouTubeへの投稿を続けることができない。

◆違法動画を拡散した違法ツイッター(一部)

捏造犯を追い詰めた 4 重慶虐殺 鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者
Facebook Ez Masataka-2012年10月21日 21時45分

すべて日本のせいにしとけと。この簡単な構図を作り上げる為にこのような人たちがうようよしてるんだろう『淮海戦役の虐殺は全て日本に濡れ衣を着せなければならない。鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者」: youtu.be/JKJYmmff_eI @youtubeさんから
Twitter (パンダマンショー)-2012年10月21日 08時12分

「捏造国家日本」?:「ロケットランチャー」から「スパイ天国日本」まで!?bit.ly/QBfe7n (井口先生のブログから)←鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者  国会で鵜飼教授に事情聴取すべきではないか?と私個人は思う。
Twitter peponaaru(ペポッチ)-2012年10月20日 05時11分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者 youtube.com/watch?v=JKJYmm…
Twitter hirosi754(森田博 (ハンドル:森田ひかる))-2012年10月20日 00時44分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtu.be/JKJYmmff_eI @youtubeさんから
Twitter lupinxyz2(偏向報道反対!)-2012年10月19日 23時45分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者 quasimoto.exblog.jp/d2012-10-19/ 井口氏のサイトから
Twitter happynaratyan(そろばん星人)-2012年10月19日 21時12分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtu.be/JKJYmmff_eI @youtubeさんから
Twitter lupinxyz2(偏向報道反対!)-2012年10月19日 19時53分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者    拡散よろしくお願いします。blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/…
Twitte rbellavoce3594(美しい歌)-2012年10月19日 19時50分

ねずさんの ひとりごと 重慶空爆被災写真は捏造写真 nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-167…#鳥飼行博#東海大学
鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtu.be/JKJYmmff_eI @youtubeさんから
Twitter keiko0753(みいちゃん)-2012年10月19日 10時42分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者 - YouTube: 捏造犯を追い詰める 3 南京重慶淮海虐殺 ねずさんのひとりごとby kazuko38959 views ·... dlvr.it/2LJ6k7 #newsJP #韓国実態 #Korea

Twitter LIveJAPAN2013(LIveJAPAN2013)-2012年10月19日 01時17分
鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtu.be/JKJYmmff_eI
Twitter akas_sanga(SANGA)-2012年10月16日 23時32分

YouTube:鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtube.com/watch?v=JKJYmm…#神奈川県 #goen
Twitter kanyagawan(神奈川県)-2012年10月10日 04時01分


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