鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
検証:南京虐殺事件 ◇Nanjin Atrocities 2004
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◆検証:南京虐殺事件 ◇Nanjin Atrocities 注意!残虐な画像が多数あり。 写真(上)1937年,第二次上海事変の大火災(1937年10月27日);中国軍は陣地撤退の際,日本軍に利用されないよう,陣地(建築物)を焼き払った。特に、蘇州河の北側、租界対岸の川沿いにあった四行倉庫に立て籠ったドイツ装備・ドイツ式装備の蒋介石の中国軍将兵800名は死守を命じられた。蒋介石は、米英など国際世論の関心を惹きつけ、中国への支援、日本への制裁を取り付けようと考えていた。しかし、日本軍の猛攻の前に、四行倉庫での抗戦も4日間程度しか持たなかった。中国軍は、焦土作戦を覚悟し、撤退する地域にある軍需物資や陣地への転換が可能な建物が日本軍の手に渡らないように火をつけた。それが延焼して,上海各所で大火災が発生した。戦渦に巻き込まれれば、人命や物資の損失は計り知れないが、それは誰の責任とすべきなのか。戦争だから仕方がないのか。

◆2017年4月14日、本研究室に1,007名の新規訪問者があった。その前後3日間で1600名が訪問している。
◆2015年10月4日,日本テレビの放送した「NNNドキュメント:南京事件;兵士たちの遺言」について産経新聞が「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である」と批判した。残虐行為は敵中国軍の仕業だという陰謀説が繰り返される背景には「平和ボケ」が指摘できる。日中戦争当時、日本は、中国の混乱・腐敗を正し、東アジア和平をもたらすために聖戦を遂行しているのであり、聖戦で敵を殲滅(殺戮・破壊)した戦士は勇者・英雄で、その戦果は称えられた。この当時の実情を知らずにいるのが「平和ボケ」である。「殺戮は残虐行為だ」との戦後平和教育の常識は、日中戦争当時には当てはまらない。日中戦争当時も敵殺戮が残虐行為として忌避されていたという誤解が「平和ボケ」である。戦時中、敵殲滅は英雄的行為として、新聞などマスメディアでも国民の間でも称賛されていた。敵殺戮が悪いことだと批判する声は上がらなかった。だから、日本兵も堂々と敵を殲滅・処刑し、それを英雄的行為として誇っていたのである。中国兵を殲滅した日本軍の大戦果を捏造だと否定したり、銃殺は敵中国の督戦部隊の仕業だ、捕虜が脱走しようとしたから射殺したという放言は、日本軍への侮辱行為に当たる。こんな侮蔑を口にするには、治安維持法違反で処罰される覚悟が必要だった。戦争観・人権の歴史的変遷に無知な「平和ボケ」が「日本人が敵を虐殺をするはずがない」との俗説を生んだ。

遂げよ聖戦 」1938年
作詞 紫野為亥知・作曲 長津義司

皇国(みくに)を挙る総力戦に、成果着々前途の光
蒋政権が瀕死の足掻(あが)き、他国の援助何するものぞ
断乎不抜の我等が決意、遂げよ聖戦長期庸懲(おうちょう)

見よ奮い立つ都を鄙(むら)を、総動員の何も違わず
伸び行く我等の産業力は、広く亜細亜の宝庫開かん
ああ聖戦は破壊にあらず、遂げよ聖戦長期建設

挙(こぞ)れ国民心を一に、緊襷(きんこん)一番勇士を偲び
稼げ働け花を去り実に、経済戦に終わりはあらず
我は期すなり永遠の平和
遂げよ聖戦輝く東亜、遂げよ聖戦輝く東亜

国連教育科学文化機関ユネスコ)は2015年10月9日、世界記憶遺産Memory of the World)に中国申請の「南京大虐殺」資料を(僅差で)登録したと発表した。中国による従軍慰安婦資料の登録申請は却下した。一方、日本が申請した第二次大戦後のシベリア抑留者の引き揚げ記録「舞鶴への生還」と京都市の東寺に伝わる国宝「東寺百合文書」は登録された。南京大虐殺資料には、極東国際軍事裁判Tokyo War Crimes Trials)(通称は東京裁判)と南京軍事法廷の記録が含まれている。しかし、東京裁判における記録には、虐殺犠牲者総数に「遺棄された遺体」が含まれていない。この件に関して、中国は南京軍事法廷で30万人が殺害されたことが裏付けられているとするが、これは、世界記憶遺産Memory of the World)とは関係ない。
 他方、日本政府の菅義偉官房長官は「中国はユネスコを政治的に利用している。過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調し、極めて遺憾だ」と批判し、中国に抗議し、国連教育科学文化機関ユネスコ)にも懸念を伝えた。ユネスコは10月4〜6日にアブダビで諮問委員会を開き、各国からの新規申請約90件を審査し専門家の勧告を受けてボコバ事務局長が登録案件を決定した。(毎日新聞 2015年10月10日参照)

習近平(习近平)主席「南京で30万人殺害」…国家哀悼日(国家追悼日)行事(2014年12月13日)
 【南京=鈴木隆弘、北京=五十嵐文】中国の習近平(シージンピン)政権は、旧日本軍による「南京事件」(1937年)が起きた12月13日を「国家哀悼日」に制定してから初めてとなる記念行事を、13日午前、中国江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」で行った。
 習国家主席は演説し、「南京事件」で「30万人の同胞が殺害された」と主張した。さらに「侵略の歴史を顧みない態度や、美化する言論に強く警戒し、断固反対しなければならない」とも述べた。11月に約3年ぶりに日中首脳会談が実現し、経済交流や対話などが動き出したが、来年の「抗日戦争勝利70年」に向け、習政権(Xi Jinping Administration)が歴史問題を巡って対日圧力を維持する姿勢を示した形だ。
 その一方で、習氏は「中日の両国民は代々にわたり友好を続けなければならない」「少数の軍国主義者が起こした侵略戦争によって、その民族(全体)を敵視すべきでない」とも語り、日中関係を重視する方針も強調した。(YOMIURI ONLINE 引用終わり)
◆鳩山氏、南京大虐殺記念館を訪問 館長におわび伝える(2013年1月17日)
 【南京=金順姫】中国訪問中の鳩山由紀夫元首相は17日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪れ、「多くの中国の方、特に南京の民間の方、捕虜の方々を日本兵が殺してしまったことは大変申し訳ない。おわび申し上げたい」と朱成山館長に伝えた。鳩山氏が報道陣に明らかにした。
 鳩山氏は、沖縄県の尖閣諸島は日中の「係争地」だとの認識を菅義偉官房長官が批判したことについて、「(日本)政府もよく勉強されて、その中から早く答えを見いだすべきだ」と述べた。
 中国国営の新華社通信は「当時の日本兵が犯した罪を謝罪する」との鳩山氏の発言とともに、記念館を視察した詳細な様子を配信した。同記念館には首相経験者の村山富市氏、海部俊樹氏が訪問している。(朝日新聞デジタル引用終わり)

チャン・イーモウ(張芸謀: Zhang Yimou:2011)"The Flowers of War "(金陵十三钗)は、南京安全区のミッションの金陵女子文理学院とその礼拝堂をイメージした映画で、中国人男女の英雄的行為、Christian Bale演じるアメリカ人の人道的行為が描かれる。ドイツ式装備の少数精鋭の中国兵が、多数の日本将兵を倒し、九四式装甲車(豆タンク)に、自爆挺身攻撃を仕掛ける。キリスト教会に避難した中国人を救うために、狙撃兵として最後を飾った中国兵士は英雄として描かれる。中国兵が、軍服を脱いで遁走したり、集団投降し捕虜になったりする場面は描かれない。中国兵は死ぬまで戦ったとの俗説は、南京事件の考察には問題となる。
金陵女子文理学院教員のアメリカ人ミニー・ヴォートリンMinnie Vautrin)らは、身を挺して中国人女性を守ったが、映画ではアメリカ人男性(Christian Bale)の活躍が描かれる。当時、日本軍兵士はアメリカとの国際関係の悪化を恐れ、彼らへの粗暴な振る舞いを抑えており、外国人が中国人を守ったともいえるのだが、映画では、勇敢な中国人女性・少年が、中国人少女たちを守ったとされる。映画「金陵十三钗」は作り話だが、張芸謀: チャン・イーモウ監督の映像にはインパクトがある。

◆2009年4月、エグゼクティブプロデューサー(总制片人)韩三平、ディレクター陆川(Chuan Lu)による《南京!南京!》(City of Life And Death)が華々しく公開された。豪華なwebsite宣伝は商業的、芸術文化的成功を目指している。日本で企図を誤解してか、2011年8月21日、東京で一日上映会が行われただけ。 
◆2011年8月17日asahi.com「古びた従軍手帳」に関する南京事件関連記事を複写保管。
毎日新聞2009年9月15日によれば,名古屋市河村たかし市長は,市議会9月定例会の一般質問で、「当時の南京の人口より多いので絶対違う」と否定し、「一般的な戦闘行為はあったが、誤解されて伝わっているのではないか」と述べた。
 「おやじは終戦を南京で迎えた。南京の人に本当に優しくしてもらい、名古屋に帰ることができたと言っていた。30万人の虐殺があったら8年後に南京の人が優しくしてくれるのか」と疑問視。「一般的な戦闘行為で市民が亡くなったことはあった。捕虜収容所で放火があって市民が亡くなったり、残っている日本人を逃がそうとして銃撃戦になり、市民が亡くなった。そういうものが誤解されて伝わっているのではないか。事件そのものについて日中友好のためにきちんと検証し直す必要がある」と述べた。
毎日新聞2009年9月19日によると,河村たかし市長は「(犠牲者)30万人は絶対真実と違いますわ。30万人以下でしたから、人口は。一般的な戦闘行為は残念ながらあった。誤解されて伝わっておるんではないかということを今感じておりまして。きちっともう一回検証し直す必要がある。
 南京の記念館に私も行ってきましたけど、30万人、30万人と、どわーっと書いておりますよ。そこにすごい数の中国の小学生が来て、日本軍は大変残虐なことをしたということを見て帰っていく。今のままの展示だと、中国の皆さんがやはり日本人に対して大きな誤解をするのではないかというふうに危惧しております」とのこと。検証した事のないものを再検証すべきといはおかしな話だ。
◆2007年4月、日本メディアに中国「南京事件」映画続々製作許可の記事が出た。70周年にむけて、国家ラジオ映画テレビ総局が、南京事件を題材にした中国映画3作の制作許可を出した。しかし、その三ヶ月も前、英国メディアはChina angered by Nanjing massacre filmとして南京虐殺事件の映画作成許可を報じていた。

南京虐殺事件慰安婦に関するプロパガンダにより、日本に誤った歴史観が植え付けられたというのは、日本人を愚弄する扇動者である。歴史は、イデオロギー、愛国心など世界観、価値観と結びつき、歴史的事実を単純化することはできない。忌まわしい過去、思い出したくない過去の歴史でも、そこに亡霊が存在すると怯える必要はない。過去の亡霊は現代の扇動者が作り出した。亡霊はプロパガンダ上の虚構の存在である。
◆戦争では、敵を殺害すれば、賞賛される。住民を大量に殺戮した爆撃機の搭乗員、その指揮官は国家英雄として叙勲される。世界各地で殺し合い,奪い合いが行われる中,敵はテロを非難するが、味方からは勇敢な戦士として賞賛される。敵の殲滅は残虐行為とは認識されていなかった。殲滅戦は、メディアでも賞賛されていた。このような「英雄的行為と残虐行為の対称性」に思い至る。
◆残虐行為の目的の一つは,テロの恐怖で人々を服従させることだ。しかし,恐怖で支配され、恨みを抱いた人々は報復にでる。残虐行為をし世間の注目を集め、問題意識を起こさせようとする。「目には目を」「テロにはテロを」の報復を呼ぶ。報復の連鎖を拡大して、戦争を引き起こそうとするのが扇動者である。
◆残虐行為の蔓延は、社会的無関心も影響している。総力戦の本質が、大量破壊、大量殺戮であれば、戦争では残虐行為、テロは頻発するが、だからといって,残虐行為、テロを蔓延させてはならない。残虐行為、テロが行われる背景を理解し,それらを正当化する理由を否定することが重要ではないか。

◆南京虐殺(南京大屠殺)については,当初、日本の新聞などメディアは、敵殲滅、日本大勝利という報道を進めた。日本陸軍士官(少尉)の「敵百人斬り競争」の記事も、勇猛果敢な日本軍が敵中国軍をを蹴散らし快進撃を続けるという状況を活写したものである。敵を斬るのは残虐行為ではなく正当な裁きであると多くの国民が思っていた。これに反対して、多数の敵を軍刀で斬ったなど捏造記事だ、というのは非国民的態度である。日本兵の勇敢さにも敵殲滅・惨殺にも公然と異を唱える者はいなかった。しかし、虐殺事件直後から,外国メディアは、日本軍の残虐行為として,国際的に非難した。外交専門家を任じる各地の日本領事館も南京事件の反響、日本への批判を本省に通報し注意を喚起していた。日本軍部内部にも「行き過ぎ」を、皇軍兵士にあるまじき行為、軍紀紊乱であるとして憂慮するものがあった。

◆1900年に勃発した義和団の乱Boxer Rebellion)を鎮圧するために出動した八カ国連合軍Eight-Nation Alliance)の英米独仏伊墺露日の将兵は、斬首や拷問など敵処刑execution)・処罰Punishment)を見物したり,自ら行ったりした。反徒を処刑し処罰することは正当な正義の裁きであり、それは残虐行為ではない、というのが当時の常識だった。

 19世紀末から20世紀初頭、敵殲滅は、英雄的な戦いであり、斬首・刺殺による敵処刑は正義の制裁であると考えられていた。現在の人権重視の感覚で、斬首や拷問など、残虐な民族のみが行うものだ、まっとうな国民や軍隊は、そんなことをするはずがない、という「平和ボケ」の誤解は、当時の状況・信条を理解していないためにに起こる。本webでは,「中国・朝鮮における敵の殲滅・処刑は、勇敢な振る舞いであり、残虐行為として非難されることはない」という点を理解しない「平和ボケ」を見直して,戦争の中では,誰もが残虐行為を起こしえたこと明らかにしたい。残虐行為は,民族性や国民性という単純なカテゴリー分けで説明できるものではない。

1.中国では,反乱者・重罪人に対する斬首など残虐な刑罰が横行していた。米英仏日など列国の駐屯軍も,中国であるいは,植民地で残虐行為に及ぶこともあった。しかし、犯罪者の逮捕・処罰、反乱を起こす民族への弾圧は、治安維持・平和創設のための措置であり、決して悪行ではない。重罪者の処刑は当然であり、敵を鎮圧した勇敢な戦闘は、英雄的行為とみなされた。

写真(右):中国官憲による斬首(1900年頃);CHINA - Beheading a native (Real photo, Unused Postcard). $80.00 このような絵葉書が世界に出回っていたのが20世紀前半の状況である。人権を無視した行為も、敵・悪・罪とされれば、当然のように晒されたのである。世界各地の極刑は死刑であり、なかには死に至らしめるまで、苦しめたり,晒したりする処刑もあった。

1898年義和団の乱に便乗して,外国勢力を排撃しようとした清朝は,日,米,英,仏,独,露,伊,墺の列強八カ国に宣戦した。しかし、北京の大使館を包囲したが清朝軍は、7万名(うち日本軍は1万3000名)の八カ国連合軍の反撃にあい、1901年に降伏。

清朝を敗北させた列強八カ国は,賠償金,公使館区域、防衛のために軍駐屯権を獲得した。

1900-1901年の北清事変では,八カ国連合軍が,北京など中国各地を占領。中国の地方政府や官憲の協力を得て,義和団加盟者、反政府的人物、罪人を処刑し,治安を安定化しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本がナショナリズムや社会主義思想を徐々に警戒し始めた頃の話である。ロシア革命前で,反共白色テロではないが,中国や朝鮮の排外主義者,民族主義者は、暴徒、邪教崇拝者、反逆者として,処刑された。

中国では,皇帝に対する犯罪は重罪で,公開処刑された。1905年5月25日の皇族殺害事件の容疑者は,身体を切断したり,生皮をはいで肋骨を露出させたり,切り刻んで殺害したりする。

処刑執行者も好んで残虐な殺害したわけではないが,組織の中で,残虐な処刑を執行を明示されれば、逆らうことはできない。1900-1901年の義和団加盟者も,中国官憲に残虐な処刑を執行された。軍隊や処刑部隊に配属された人間が、自分の意思で処刑することを拒否することはできない。決して、民族性から残虐な処刑を好んだと単純化することはできない。日本人だろうとアメリカ人だろうと残虐な人間は,残念ながら,どこにでもいる。

清朝は,八カ国連合軍に宣戦布告したのを後悔し,取り繕うために義和団関係者に残虐な処刑を執行した。「君子は豹変す」である。捕らえられた容疑者は,適切な裁判手続きもなく,公衆の面前で,罪状を書いた大きな札を背負わされ,見世物にされ,処刑された。

写真(右):1900年頃の中国での処刑;フランス領インドシナで使用された絵葉書。フランス領インドシナに派遣されてたフランス官憲や軍人、その家族も残虐行為に見慣れていたわけではないだろう。珍しい「凄い見もの」だから「蛮行」の写真絵葉書を購入し、知人に郵送した。CHINA - Execution of a Chinese man at Nam Quan (Postally Used Postcard in French Indochina). $80.00

公開処刑は,罪人の更生を期待するのではなく,反抗する民衆を抑圧する目的がある。しかし,残虐な処刑を公認すれば,アジア人は「野蛮人」であるとして,中国政府と中国人を軽蔑する外国人も増える。他方,野蛮なアジアを,平和な文明国に作り変えるのが,列国の役割,キリスト者の義務であるという驕りも生まれた。

罪人に対する処刑も残虐であったが,革命家や民族主義者も反社会的で惨禍を招く犯罪者として認識されており,残虐な刑罰も正当化された。人権意識がなく,人権が擁護されていなかった時期,犯罪者は厳罰に処された。この厳罰主義は,1937年の南京事件にも関連してくる。


写真(上):1898-1901年義和団事件の容疑者処刑
;北京1900-1901年頃撮影。米,英,日など列国は,中国は野蛮な国であり,人権の概念がないと考えていた。しかし,自ら処刑したり,中国官憲の処刑を見物したりして楽しんでいた。ジョナサンスペンス『中国の世紀』大月書店によるキャプションは「即刻処刑 救援軍の外国の軍人と清朝の兵士が処刑された義和団の首のない死体の横に立っている。日本の軍人は刀の血をぬぐっている。」

中国人の残虐性を通州事件を例に挙げて指摘する人もいる。しかし,義和団事件とそれを継承する北清事変における米英仏日など列国は, 義和団参加者への処刑,朝鮮半島での反日活動や朝鮮独立運動を武力鎮圧した。これらの植民地での弾圧をみれば,米英仏日など列国も残虐である。

2.日本では,反乱者・重罪人に対する斬首など残虐な刑罰も残っていた上に,特別高等警察が組織され,治安維持法違反に対する拷問・過酷な処罰が横行していた。また,重臣暗殺,皇族暗殺未遂,叛乱も起こっており,思想犯,重罪人には厳罰をもって臨んでいた。治安維持や平和創設のために、厳罰。処刑は必要不可欠と考えられていた。

江戸時代の斬首磔刑,拷問は、明治になって,廃止された。しかし,佐賀の乱など士族の叛乱を鎮圧した後には,江藤新平など多数の謀反人が,晒し首(梟首)に処せられた。

 当時は,過酷な刑罰は,権力や国家に反抗する謀反人には当然で、残忍な処刑をしないと,政府の権力保持が困難になると思われた。犯罪者の矯正には関心がなく厳罰主義が横行していた。

1904年の日露戦争後,ロシアに遠慮なく、日本軍は,朝鮮軍を無力化した。これは,朝鮮軍の武装解除・解体であるが,これに抵抗して朝鮮軍は,日本軍と衝突し,1907年には民衆も巻き込んで大規模な義兵闘争が起こった。朝鮮側も日本側も,お互いをしばしばテロ・処刑の対象にした。


写真(上):朝鮮の反日活動参加者の処刑
:1907年。出典には「日本軍は,朝鮮抗日運動の闘士を鎮圧した。Japanese troops are used to combat the Korean resistance movement fighter.」とある。

日本軍は,反乱者は反社会的な重罪人として,処刑し,斬首や銃殺刑が行われた。日本国内でも,江藤新平による佐賀の乱のなど日本人叛乱首謀者には,斬首・晒し首のような残虐な処刑を特別に課した。もちろん,朝鮮の反乱鎮圧に当たって,反乱容疑者の裁判が適切に行われた形跡はない。日露戦争まで,捕虜を厚遇したように言われるが,朝鮮義兵闘争など反日活動の弾圧・鎮圧は凄まじい。

1910年の朝鮮併合の後は,朝鮮総督府は「国語常用」を強要するために、朝鮮語の使用禁止創氏改名など朝鮮文化の否定,民族アイデンティティ粉砕が行われ,朝鮮王族を必ずしも支持をしていなかった人々までも,朝鮮独立運動に向かわせた。王党派,民族主義者から共産主義者まで,広い階層に支持を得た独立闘争がおこった。日本軍は,反抗が二度とおきないように,抵抗運動の撲滅,反日活動家の殲滅を図る。敵対者や潜在的敵対者を,適切な手続きを経ないまま,見せしめに処刑した。

1919年3月1日の三一独立運動など,併合した後も朝鮮では民族運動が生じた。三一独立運動に参加した朝鮮人のうち,1万8000名が1919年10月までに投獄、処罰の対象とされたという。

併合された朝鮮は日本領であり,「植民地でなく,日本と同じである」と抗弁する方もいる。しかし,朝鮮の人々に(朝鮮の日本人には適用される)大日本帝国憲法の規定は適用されない。だから,朝鮮人に選挙権被選挙権はない。実際、選挙によって帝国議会に選出された朝鮮人代表者は一人もいない。日本人のもっていた参政権,兵役,教育の権利は適用されない。公用語以外でも、韓国語の出版は許されなかった。(「外国語」の英語などの出版は可。)会社法,不動産法規,株取引,商店経営などでも,朝鮮人は差別された。

1925年の治安維持法は,国体(天皇制)変革,私有財産制の否定を企てるものを処罰するが、この制度を担う組織が特高警察(特高)である。1911年に警視庁(東京)に特別高等警察課が設置,1928年、全国に設置された。

大逆事件の翌年、1911年、内務省は、従来の高等警察が扱った危険思想取締りのために、重点地区で専任警部を配置することを勅令で決定した。そして、大阪府に警察部長直属の高等課別室(翌年特高課に昇格)を設置、警視庁の高等課から社会運動の取締りを専門とする特別高等課を設置した。1913年の警視庁官制改正後、特別高等課(特高)は、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当した。こうして、治安維持の取締りをする特別高等警察(特高)は、1922年創設の日本共産党,労働組合,社会主義者,さらには自由主義者,民主主義者まで反政府的とみなし、容疑者を逮捕した。そして,拷問,密偵・密告などによる思想弾圧を行った。

写真(右):1933年2月20日特高により拷問死したプロレタリア文学作家小林多喜二;1925年治安維持法が成立し,1928年には全国に特高が組織される。小林多喜二は小説『1928年3月15日』の中で、特別高等警察(特高)の拷問の凄まじさを描写したことから特高の逆恨みを買っていたらしい。共産党員1932年3月以来、潜伏していたが,1933年2月20日に逮捕され,即日死亡。拷問による死亡である。

蟹工船』で過酷な収奪に喘ぐ漁船労働者を描き,社会悪を追求した小林多喜二は,1931年、合法の日本共産党に入党。1932年2月20日に特別高等警察(特高)に逮捕された。そして築地警察で拷問され、監獄内で倒れた。 特別高等課(特高)は、日本人の治安維持法違反(罪人)を厳しく取り調べ、拷問もしていから、暴戻なる敵中国軍の兵士や日本に反旗を翻す暴虐な中国人(ゲリラや反日活動家など)など蔑視したアジア人に対しては,情け容赦のない処置をとっても,残虐行為とは認識されなかった。

独立運動弾圧では、反乱参加者だけではなく,反乱に参加する恐れのある人物,反日的傾向の人物まで,事前に弾圧し、拷問した。「反乱の芽は、小さなうちに摘み取る」のが予防戦争である。

列国は,中国,朝鮮,日本など,アジアを「野蛮な国」と軽蔑した。野蛮な国を「文明国」に作り変えるのが,列国,欧米人の役割,キリスト者の義務であるという,思い上がりも生まれる。欧米列国のアジア、アフリカ植民地における残虐行為は、棚上げにされる一方で、アジア人、アフリカ人の残虐行為だけが、非難の対象となった。

日本は,野蛮なアジアから抜け出て,米英列国の仲間入りを目指す。民間人・教育者を貫いた福沢諭吉は「脱亜論」(アジアを脱して,文明国に仲間入り)を国是とすべきと考えた。他方,文明国にふさわしい刑罰を定めるため、取り調べに伴う拷問は当然で、斬首や晒しなど、残虐な処刑は、穏当な方法に変更された。

写真(右):「1927年第一次共産革命」の時の処刑者の連行;国民党兵士に捕まった共産主義の反政府活動容疑者のようだが,写真の裏には「私は,中国共産主義武装組織が,中国婦人を連行し,処刑した写真をいくつか見た。彼らは,裸にしてから斬首した。女子には,銃殺し,吊るし,首を切ることはしない。」とある。手前には男子二人が,奥に女子一人が連行されている。しかし,軍装から見ると共産軍ではなく国民党軍が連行している。国民党が革命を企てた共産主義者を鎮圧したと発表したから、絵葉書の文章をしたためた外国人は、中国語が不十分で,伝聞を勘違いしたようだ。Shanghai : Real photo postcard of a woman being led to execution in Shanghai in 1927 (First Communist revolt). The sender of the card added "I have seen photos of executions of women by these Communist troops depicyting spears being thrown at their naked bodies. Shooting, hanging & beheading were not used on women" (Real photo, Unused Postcard written on reverse). $180.00(処刑写真・絵葉書で,由来を記した当時の書き込みがあるものは特に高価である)

3.1927-1930年の上海反共クーデターでは,中国国民党軍とその下の保安隊・ギャングによって,多数の共産主義者とその容疑者が残虐な方法で処刑された。しかし、敵取り調べに伴う拷問や容疑者の処刑は、中国の統一と繁栄のために必要な措置であり、当時、非難されるべきこととは認識されていなかった。

蒋介石 中国国民党の蒋介石総統は、上海を拠点とする浙江財閥や国際金融界の協力を維持するため、国共合作で強調していた中国共産党を切り離す決意をする。これが、1927年4月12日に国民党蒋介石Chiang Kai-shek)が起こした上海反共クーデター四一二事件)である。

 1927年4月12日の上海白色クーデター四一二反革命政変)では,蒋介石Chiang Kai-shek)の国民党が共産主義者や反国民党的な人物を,上海で処刑し,政権から中国共産党の影響を排除しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本が,ロシア革命以来影響力を持ち始めた社会主義思想を警戒したためである。中国国民党も,政権強化と中国財閥,外国資本の支援・支持を期待して,反共クーデターに及んだ。こうして、国民党政府は、国際社会に公認された。

当時の人々には、敵取り調べに伴う拷問公開斬首のような処刑方法は、重罪人には当然であった。公開斬首には、多数の見物人がきたから、「凄い見もの」であったことは確かである。しかし、重罪人の処刑方法が残虐であり、人道に背く行為であるから、廃止したほうが良いと考えたのは、少数派だった。悪人には、残虐行為は当然の報いだった。

写真(右):1927年上海反共クーデターの公開斬首;市街地での斬首は、見せしめの効果を期待しての行為。しかし,CNNが伝えるにPhotos document brutality in Shanghai:September 23, 1996で同じ映像を,1937年の第二次上海事変における日本人居留民・漢奸(対日協力者)の処刑としたドイツ人 Tom Simmenの子息John Simmenの証言を採用している。

残虐な処刑が、治安維持、反乱鎮圧に有効だとの思想は古くからあった。中国に限らず、20世紀に入っても,公開斬首によって敵対者を怯えさせ,抑圧しようとする組織的活動があった。残虐行為を犯罪抑止力と考え、残虐行為を行った中国人,日本人,米国人は,何万人もいるわけではない。どのような国の市民、民族であっても、人間をいとも簡単に殺害すること、残虐に処刑することには、「いのちを奪う」という恐怖が伴う。殺人は簡単にできることではない。その意味で、中国人は戦争慣れしているから残虐だ、欧米人は狩猟民族だから残虐だ、というステレオタイプの議論は単純すぎる。戦争となれば、自分のいのちが脅かされるのであれば、誰でも残虐になる可能性がある。

敵取り調べに伴う拷問や残酷な処刑など野蛮な行為を嫌悪し,中国の内紛を政治的力量不足として中国を軽蔑していた列国は,1931年の満州事変以降,対中国認識を徐々に好転させた。これには,次のような理由がある。

?国際協調,機会均等の下で,米英列国による中国の半植民地化が進んでいたが,日本だけは,単独で満州を支配し,中国にさらなる特殊権益を求めるようになる(対華21か条要求など)。そこで,中国,列国では,日本の中国進出への反感が高まり、日本の単独行動を阻止する国際的介入・斡旋・仲介を行う。列国による親中国政策の採用,米中接近の契機となった。
そして、中国への親近感を、次のような変化が、呼び起こした。
?中国国民党国民革命軍が群雄割拠する軍閥を打倒し,北伐を完了した。国民党政府の下に中国(満州を除く)を統一することに成功した。1924年の五四運動以来、中国の国民連帯感も高まりつつあり、統一中国が現実のものとなった。
?列国の中国居留民,駐屯軍が,高い教養を身につけた中国人、親切な庶民としての中国人とコミュニケーションをとるうちに,中国に好意的となった。
?国民党は、共産党を排除することによって、国際社会から信頼を勝ち得、中国を代表する政府として公認された。大日本帝国首相近衛文麿は、中国国民政府、すなわち蒋介石政権国民党政府)を「対手(あいて)とせず」として、傀儡政権を作った。のちに、ソ連も国民党政府を公認する。

したがって,中国蔑視が残ってた列国でも、反日感情の高まり,国民党・中国政府への信頼,中国人に対する親近感が育っていた。
300万人を擁する上海には1842年のアヘン戦争後に結ばれた南京条約に起源をもつ共同租界International Settlement)、フランス租界があった。1854年、既存のイギリス租界とアメリカ租界が再編成され、その後、日本も参加して、イギリス5人、日本とアメリカにより2人ずつの計9人の参事会員が管理す上海共同租界ができたのである。上海共同租界International Settlement)には、多数の外国人も居住していた。上海反共クーデター四一二反革命政?)に際しては、蒋介石Chiang Kai-shek)の国民党が、共産党員や共産主義者と見なした市民を、市内で処刑するなど残虐行為が多数目撃され,映像に残され、本国政府,メディアにも報告された。

アジアの人種民族差別・残虐行為を読む。

4.1937年7月7日の盧溝橋事件、8月13日に始まった第二次上海事変淞沪会戦)と戦火が広がり,日中全面戦争に突入した。この背景には,中国における国民意識の高まりがある。中国の国民意識の萌芽は,英,日など外国からの中国侵略が契機となった。1931年の満州事変以降,中華民国の教養人に「中国人」という意識が芽生え,国民意識が(たとえ漢民族中心であっても)広く市民・農民にも浸透し始めた。日英などに対しては,商品ボイコット,抵抗運動,租界返還運動、そして盧溝橋事件後には,抗日戦争へと発展した。中山先生孫文の創設した黄浦軍官学校とそれを引き継ぐ「国民革命軍」には、中国共産党も国民党も参加し、国民意識は着実に育っている。しかし、日本では、中国は軍閥・私兵により支配されており、中国軍(国軍あるいは国民軍)も中国人という国民意識も存在しない、と誤認していた。


義和団事件後に結ばれた1901年北京議定書で、英・米・仏・露・独・墺・伊・白・西・蘭・日の11カ国は、中国清朝に外国の軍隊が駐屯権を認めさせ、居留民の生命・財産の保護、治安の確保を担当することが可能となった。これは、一種の警察軍的役割である。日本は、天津に軍司令部を置き、支那駐屯軍として、歩兵第1連隊と第2連隊を配備した。清国駐屯軍(支那駐屯軍)は、日本が華北に駐留させていた軍隊であり、中国満州の関東軍(日露戦争で獲得した関東州と南満州鉄道付属地の守備部隊が起源)とは同じ日本陸軍の中国大陸派遣部隊ではあるが、命令系統は別の軍隊である。

1936年(昭和11年)5月、支那駐屯軍は、天皇が直接司令官を任命する親補職となった。これは、満州防衛に当たるの関東軍と対等の地位で、関東軍の華北への介入を阻止する目的で、天津軍が設置されたともいえる。天津軍司令官には田代 皖一郎(たしろ かんいちろう:1881-1937.7.1)が任命(新補)された。こうして、1936年、天津に駐屯した支那駐屯軍は、天津軍と呼ばれるようになり、隷下には支那駐屯歩兵第一連隊・支那駐屯歩兵第二連隊があった。そして、華北への勢力伸長を図るために、北京(首都は南京なので形式的には北平)には、天津軍の北平駐屯部隊が置かれ、支那駐屯歩兵旅団司令部支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊が配備された。しかし、このような北京への日本分部隊の駐屯は、中国人のナショナリズムを刺激し、日本の勢力拡大、侵略が中国の主権を脅かすとの反感が高まった。そして、日本製品の不買運動、排日活動、日本人への抵抗運動、抗日活動が広まった。北京を防衛していた中国国民革命軍第二十九軍(司令官宋哲元)の兵士も、傍若無人な振る舞いをする日本人や日本軍に対する反発が高まり、一触即発の状況にまで緊張が高まってゆく。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月7日、支那駐屯軍第一連隊第三大隊と現地の中国国民革命軍第二十九軍(司令官宋哲元)が北京(正式には首都でないので北平と呼称。首都は南京)西郊外、盧溝橋で勃発した日中両軍の銃撃事件である。この盧溝橋事件は、中国では、7月7日に起きたので「七七事変」と呼ぶ。当初、対立していた日中両軍も、戦争にまで事件を拡大するつもりはなく、停戦交渉が行われ、停戦合意までこぎつけていた。しかし、日本軍が、現地への増派を決定し、北支事変となった。そして、1937年8月13日に第二次上海事変淞沪会戦)が始まった。中国江南地方は、中国経済の中枢であり、中でも上海は国際都市として、金融業・製造業の中核だった。その上海でも戦闘が勃発して、支那事変へと拡大した。当時の日本では、中国を蔑視して「支那事変」と呼んだが、現在は軽蔑的な「支那」を使わず、「日中戦争」と呼びならわしている。

1937年7月6・7日、北京郊外の豊台に新たに派遣された日本軍支那駐屯軍第3大隊は、北平の西南10キロの盧溝橋のかかる永定河付近で演習を実施した。この演習実施を日本軍は事前に中国側に通知してはいたが、中国軍部隊の近隣で日本軍が夜間演習を実施したことで、中国側は、日本軍が威力を誇示し、中国軍を威圧しようとしていると考えたであろう。他方、豊台駐屯の日本軍は、付近の中国軍よりもはるかに劣勢であるが、決して中国軍など恐れてはいないということを示したかったはずだ。日中両軍が敵対的な状況で、至近距離で対峙し、日本軍が夜間演習を強行したのである。

 こうした状況で、1937年7月7日22時半、夜間演習中の支那駐屯軍第三大隊(大隊長一木清直少佐)に向けて、何者かが発砲してきた。そこで、第8中隊の中隊長清水節郎大尉は、駐屯する豊台に伝令を送り、第三大隊大隊長一木清直(1942年ガダルカナル攻撃で戦死)少佐に銃撃された事件を報告し、中隊を盧溝橋の東方にまで撤退させた。7月8日午前0時過ぎ、豊台で報告を受けた第三大隊大隊長一木清直少佐は、歩兵第一連隊長牟田口廉也(1944年インパール作戦で敗退)大佐に電話した。一木大隊長の慎重な姿勢を電話で一括した牟田口廉也連隊長は、豊台部隊の警戒出動、宛平県城の営長との交渉を命じた。

1937年(昭和12年)7月7日,北京郊外で盧溝橋事件(七・七事変Marco Polo Bridge Incident)が勃発。そして、大日本帝国近衛文麿首相の下で,戦闘地域が華北から華中、江南地方に戦火拡大していく。

 中国支配を企図するのであれば、華北よりも、華中江南地方こそが中国経済の中枢であり、占領するに値する。こうして、盧溝橋事件から1か月後、1937年(昭和12年)8月13日、中国江南地方の中心、上海で日中両軍の武力衝突が発生する。これが、第二次上海事変淞沪会戦)であり、日中全面戦争に拡大してゆく。

 南京攻略後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。国民党蒋介石主導の国民政府を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。

 抗日戦争を継続する国民党蒋介石Chiang Kai-shek)総統の国民政府との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明と呼ばれる。

  1938年1月14日,ドイツのトラウトマン駐華大使の仲介になるトラウトマン工作に関する中国政府の回答が日本へもたらされたが、それは講和条件の詳細な内容を照会したにすぎないと日本は判断した、そして、中国は和平交渉を引き延ばし、遷延策によって戦備を整え、諸外国からの援助を期待していると考えた日本政府は、中国側に交渉の誠意が認められないとして、和平交渉を打ち切った。これが、1938年1月16日「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との政府声明、いわゆる第一次近衛声明である。日本側は、1937年末の南京陥落によって、トラウトマン工作に基づいた和平交渉は、条件が中国側に有利であり、敗北まじかの国民党蒋介石Chiang Kai-shek)の国民政府は、事実上の降伏を求めるはずで、それが日本側が和平交渉を打ち切る理由だったと思われる。

 1938年1月16日,第一次近衛声明「爾後国民政府ヲ対手トセズ」によって、近衛文麿首相は川越茂駐華大使に帰国命令を出し、蒋介石も許世英駐日大使を中国に召還した。こうして、日中の外交は断絶、国交断絶によって、日本政府は自ら戦争終結の手段を放棄することになった。中国国民政府、すなわち蒋介石政権国民党政府)との断交は、戦争終結の手段を失うことに繋がり、和平・終戦の見通しをますます暗転させることになったのである。

当時の海軍大臣将米内光政大将は、1937年8月9日、上海特別陸戦隊の大山中尉と斉藤一等兵が、上海の虹橋飛行場をスパイ偵察中に、中国保安隊に殺害された事件を重く見て、翌10日の閣議で海軍側から陸軍に動員要請を行い、四相会議で陸軍部隊の上海への派兵が決定した。そして、1937年8月13日に、日中両軍は上海市内で衝突し、その日のうちに、閣議で派兵が承認された。これが第二次上海事変淞沪会戦)である。

1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とした日中戦争の勃発で、日本人居留民は、排日、抗日戦争の危険に直面し、邦人の引揚げが始まった。そして、日本人居留民の引き揚げがひと段落した時期、1937年8月13日に第二次上海事変淞沪会戦)が始まった。ここで日本は、引き続き抗日戦争を続ける国民党蒋介石Chiang Kai-shek)政権に対して、鉄槌を加えることを発表する。これが、1937年8月15日の近衛文麿首相による「暴支膺懲の声明」である。

「帝国は、つとに東亜水遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に、力をいたせること、久しきにおよべり。しかるに南京政府は、排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と、 帝国の実力軽視の風潮と相まち、さらに赤化勢力と苟合して、反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。
 近年、いくたびか惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も、また、かくのごとき気勢がその爆発点を、たまたま永定河畔に選びたるにすぎず。通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由、またここに発す。さらに中南支においては、支那側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆に瀕し、わが居留民は、多年、営々として建設せる安住の地を涙をのんで一時撤退するのやむなきにいたれり。
 かえりみれば、事変発生以来、しばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に隠忍をかさね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対して、 わが支那駐屯軍は交通線の確保、および、わが居留民保護のため、真にやむをえざる自衛行動にいでたるにすぎず。
 しかも帝国政府は、つとに南京政府に対して、挑戦的言動の即時停止と、現地解決を妨害せざるよう、注意を喚起したるにもかかわらず、南京政府は、わが勧告をきかざるのみならず、かえってますますわがほうに対し、 戦備をととのえ、既存の軍事協定を破りて、かえりみることなく、軍を北上せしめてわが支那駐屯軍を脅威し、また肩口、上海その他においては兵を集めて、いよいよ挑戦的態度を露骨にし、上海においては、ついに、われにむかって砲火をひらき、 帝国軍艦に対して爆撃を加うるにいたれり。
 かくのごとく、支那側が帝国を軽侮し、不法暴虐いたらざるなく、全支にわたるわが居留民の生命財産危殆におちいるに及んでは、帝国としては、もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。
 かくのごときは、東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として、衷心より遺憾とするところなり。しかれども、帝国の庶幾するところは日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に、日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより豪末も領土的意図を有するものにあらず。 また、支那国民をして、抗日におどらしめつつある南京政府、及び国民軍の覚醒をうながさんとするも、無事の一般大衆に対しては、何等敵意を有するものにあらず。」

日本政府は、対中国戦争の理由が「支那軍の暴戻を膺懲すること」にあると公言したが、これでは国際理解は得られない。中国共産党領袖の毛沢東も、国共合作をした中国国民党の蒋介石政権も抗日戦争を戦ううえで、ソ連からも米英からも国際的な援助を得ることが容易になった。

したがって、日本の占領地に、日本の威光を背景に樹立された親日政権、中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)が、日本の和平交渉相手になるいう、傀儡政権(puppet government)相手の滑稽な外交を展開するしかなくなった。その後、中国に作った傀儡政権が人望を集めることができないことを知った近衛首相は、1938年11月3日、第二次近衛声明により「東亜新秩序建設」が国内外に発表する。


写真(上左):中国兵を捕らえた日本兵(1937-1938年);正規の軍服を着用していないゲリラ兵やスパイが横行していた。そこで,日本兵は民間人らしい中国人にも疑心暗鬼,神経質になり,容疑者を容赦なく処刑した。写真(上右):電話線を踏んだとして日本兵に捕まった中国人少年2人(1937年);Look 1938年11月22日号掲載「大きな少年は電話線を踏んづけたという理由で処刑された。しかし、小さな少年の命はとらなかった。食糧の節約のために、刑場で多くの捕虜が処刑された。日本人の顔も中国人の顔も西洋人を驚かす冷静さである。」 敵対的行動,破壊工作を行った民間人は,容赦なく処刑された。日本軍は敵性住民に断固たる処置を取り治安維持を図ったと考え,「残虐行為」とは認識していない。平和のための処置と考えた。

1937年8月15日、近衛文麿(このえ ふみまろ)首相の「暴支膺懲」声明の要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,中国政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」

松井石根大将の日記によれば,「支那官民は蒋介石多年の抗日侮日の精神相当に徹底せるにや、到る処我軍に対し強き敵愾心を抱き、直接間接居留民か敵軍の為めに我軍に不利なる諸般の行動に出てたるのみならす、婦女子すらも自ら義勇軍員となり又は密偵的任務に当れるものあり」であった。つまり,民間人による反日活動(中国側からみれば,愛国心あふれるレジスタンスが頻発した。日記では「自然作戦地域は極めて一般に不安なる状勢に陥り、我作戦の進捗を阻害」と述べている。

写真(左):1937年ゲリラとされ,杭に縛り付けられた中国の少年(1937年);日本軍は,敵地に乗り込んだため,住民の中を進軍し,補給物資を運んだ。そこで,占領地の治安維持に気を使ったが,徴発・略奪・暴行を受け,あるいは戦火で財産を破壊れた住民は,「中国を侵略する日本軍」という国際的な認識がなくとも,日本軍に好意的にはなれなかった。日本軍に両親や子供を殺害された中国住民が親日的になるとは考えられない。当時、ルック、ライフに掲載されたこのような写真を見た米国人は、日本人を残虐民族であるとみなしたであろう。

中国軍民の抵抗に苦しみ、それゆえ憎悪した日本軍将兵の中には、捕虜・住民やゲリラ兵の処刑が広まった。これいは,古兵による度胸や刀さばきの誇示,新兵の度胸試しなど,個人的な振る舞いもあった。同時に,反抗した中国軍民に,日本は過酷な処置をとることが、威嚇となり、反乱平定、治安回復に繋がると「抑止力」を意識した行為でもあった。

日本軍は,中国に侵攻して,中国人の住む農村・都市を占領し続け、占領地の治安維持に配慮して,住民に対する暴行、強姦掠奪(略奪)を禁じた。しかし,価値のない軍票・通貨・空手形での支払いは,事実上の略奪であった。戦闘部隊は,後続の補給部隊が支払うとして,物資食糧を徴発して,支払い約束書をおいていったこともあった。この多くは反故にされたようだ。

数十万人の日本軍将兵は、毎日,野宿してのではない。毎回のように,飯盒炊飯していたのではない。大多数の日本軍は,中国の住民から徴発した民家で食材(家畜・家禽)・食糧を集め,彼らの調理器具を勝手に使い,蓄えられた薪炭を無断利用し調理した。住民に食事の用意をさせた。数百人,数千人単位の日本兵が宿泊した中国農村には,トイレはほとんどない。大半はノグソである。これが水源を悪化させ,飲料水,洗濯水など給水不足を引き起こした。

中国農村や都市を通過したり,滞在・宿泊した日本軍は,民家や集落で見つけた貴重品や便利な道具を略奪した。略奪品や食糧を住民を使役し運ばせた。少年を丁稚・小間使い・奴隷のように連行した。支払いなしに使役し,行軍に従わせた中国人に,日本軍将兵は,「温情」を示し「殺さないで、使役しただけで許してやった」。

 運搬手段・宿泊施設、補給物資を十分に準備、動員しできなかった日本軍は,兵士個人の中国人への感情や態度如何にかかわらず,中国の住民から憎まれる略奪を行うしかなかった。多数の中国住民が暴行、強姦掠奪(略奪)を受け,徴用・使役された。戦火で財産を破壊された。住民は、国民意識や国際認識ともイデオロギーとも関係なく,日本軍に反感を持った。日本軍に家族を殺害された中国住民は、日本軍を憎んだ。中国住民を適切に扱った日本軍部隊も多かった。

しかし,悲惨な経験をした住民は,「日本軍は残虐である」と憎悪し、その所業を許さない。日本軍は全て敵とみなされた。両親,配偶者,子供,家族,友人を殺し,暴行した「日本人の集団」を許すことはない。特定集団のメンバーが犯した罪は、メンバー全員=集団に責任が負わされた。こうして、日本軍将兵も,中国住民を信用できなくなり、敵性住民として処遇した。厳しい態度で接することで、日本軍と中国住民の関係はいっそう悪化した。「アジア,中国の平和と安定を目指す日本は,暴虐な現在の蒋介石政権中国国民政府)に反省を求めるために派兵した」という近衛声明は、中国では誰も信じなかったであろう。

5.1937年の日中全面戦争開始後、中国兵士の頑強な抵抗,不十分な補給・休養,ゲリラ活動のために、日本軍は適正住民、捕虜に厳しく当たった。こうして、残虐行為が広まり、1937年から、中国、米英列国はマスメディアを巻き込んで反日プロパガンダを展開した。日本政府、在外公館、日本軍は、このような中国、列国の反日感情の高まりを直ぐに察知し、警戒していた。

1937年8月4日 日北支事変ニ関スル各国新聞論調概要 
(十六)情報部第三課 (執務参考用ニ付キ取扱注意アリタシ)
概説 一、支那紙
三十日ノ南京漢字紙ハ重要面ニ蒋介石ノ談話ヲ大々的ニ掲載シ、----天津各地ノ激戦、日本飛行機カ市内各所ヲ爆撃シ、無事ノ良民ニシテ死傷一、二千ニ達スト報ス。
又八月一日及二日ノ上海漢字紙ハ、天津ノ文化機関ヲ破壊シ無抵抗ノ市民ヲ殺戮シ、佛國兵ヲ射殺セリ等ノ悪宣伝ヲ為シ、
論説ニ於テモ人道的立場ヨリ、日本ノ残虐行為ニ抗議スル旨及政府ノ方針ノ決定セル以上、之ヲ疑倶シ又ハ論議スルコトナク、全国一致政府ヲ支持シ之ニ従フヘシト論スルモノ多シ。

写真(右):1937年ゲリラとされた中国少年を斬首する日本兵(1937年);出征した兵士は,敵対的行動をとった中国人を処刑した。近代戦では,電話線など通信網の破壊されれば,作戦に大きな支障がでる。破壊活動は少年にも可能で,火器の発達・普及によって少年兵でも兵士となれる。

「陸軍省令第二十四号」1937.7.31(→「新聞記事掲載差止命令」) 「新聞紙法第二十七条ニ依リ当分ノ内軍隊ノ行動其他軍機軍略ニ関スル事項ヲ新聞紙 ニ掲載スルコトヲ禁ス但シ予メ陸軍大臣ノ許可ヲ得タルモノハ此ノ限ニ在ラス」

陸軍省報道検閲係新聞掲載事項許否判定要領
   作成時期:1937年8月1日
「四、左記該当事項ハ掲載ヲ許可セス
6、支那兵又ハ支那人逮捕訊問等ノ記事写真中虐待ノ感ヲ与フル虞アルモノ
7、惨虐ナル写真但シ支那兵ノ惨虐ナル行為ニ関スル記事ハ差支ナシ


松井石根大将は「江南附近一帯を掃蕩---駆逐するの必要を認め、遂に南京攻略に進展する」ことを決心したが、中国に権益を有する列国は、戦火を拡大し、ビジネスを停滞させる日本軍に反感を抱く。列国は「直接間接に支那軍の作戦に便宜を与へ、時には之を援助するの行動」をとった理由は、民間人の多数居住する市街地で戦闘を停止させ、ビジネスを再開したかったためだけで、中国人の生命・財産は二の次だったかもしれない。しかし,日本軍は、中国に友好的な行動をとる英米仏を憎むようになる。( 松井石根大将の日記引用)

上海、南京では,中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が租界、難民区(安全区)に流入した。1937年から、残酷な仕打ちが目撃され,Time,Lifeなど有名誌で、映像や記事が何回も報告された。

写真(右):第二次上海事変に出動した日本軍:1937年11月9日撮影。1937年7月7日の盧溝橋事件から,半年もたたないうちに,日本軍は北京と,中国の経済中枢江南地方上海,南京を支配下に置いた。Japanese Officers and soldiers on Hongqiao Road

1937年の第二次上海事変では、艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行っている。建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷し、悲惨な目にあった住民の姿が、外国人にも目撃された。欧米列国に日本軍による残虐行為として報告された。日本軍は,上海の外国租界には介入せず、中国地区占領を図り,11月9日、接収を完了する。

都市を占領しても,そこに住む中国人住民が日本に従順になるわけではない。反日感情,抗日(地下)運動を警戒して,日本軍は,兵力を配備しなくてはならない。人の精神,行動を支配する用意ではない。

写真(左):第二次上海事変時、上海の鉄橋「外白渡橋」(ガーデン・ブリッジ)を避難する難民の行列(1937年8月14日);中日両軍ともに上海の敵陣地を爆撃し,1000名以上の市民が殺害された。戦火を逃れようと上海市民は,安全と思われるフランス租界,共同租界に逃げ込もうとした。郊外に脱出を図った市民もいる。1907年に建設された上海の鉄橋「外白渡橋」(ガーデン・ブリッジ)の南半分(長さ50m)は、分離修理のために、撤去され、大型の艀で搬出された。修理撤去前、多数の市民が記念撮影に訪れたという。

日本陸軍の人的被害は甚大で、1937年10月14日までに死者3900名、負傷者1万5843名をだした。上海の戦闘がほぼ終了した1937年11月8日まで死者累計9115名、負傷者累計3万1259名に達した。死傷者4万名以上とは,2コ師団壊滅に相当する。南京攻略には、新たな日本軍を増派するしかない。

日本軍も中国軍民すべてを敵に回すほど愚かではない。「分割して統治せよ」と,満州,華北に複数の傀儡政権をつくり,治安工作をした。
中国民衆の生活を破壊したり,隷属させたりするつもりはなく「反米反共の亜細亜共栄圏」構想をもった日本軍人、孫文に敬意を抱いていた日本軍人もいた。孫文は,日本に亡命し清朝打倒を企図し,蒋介石も 日本陸軍士官学校で学んだ。しかし、中国側に対する日本の自治政府樹立工作は、中国から見て,傀儡政権による分離工作,植民地化に他ならない。日本軍は爆撃や残虐行為によって市民を苦しめているという反日プロパガンダもあって、中国軍民は一丸となって抗日戦争を遂行する決意を固めた。

日本軍は、上海で頑強な抵抗を排除するために、大部隊を増援した。首都南京を攻略を目前にし,占領を確信したとき,『大陸命第8号』(1937年12月1日)「中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」との命令が、日本陸海軍最高司令官軍民すべてを敵に回すほど愚かではない。「分割して統治せよ」と,満州,華北に複数の命令が大元帥昭和天皇ら発せられた。

写真(右):第二次上海事変、フランス租界の難民(1937年8月14日);中国軍,日本軍ともに上海の敵陣地を爆撃した。巻き添えをくった市民たちは,安全と思われるたフランス租界に避難してきた。

中国国民党も共産党が「南京大屠殺」という固有名詞を使わなかったことをもって、「南京虐殺事件」は東京裁判(極東軍事裁判)でつくられたとはいえない。しかし、中国も反日プロパガンダを行った。中国軍は1937年10月に上海から撤退する際、自ら市街地の一角(頑強に抵抗していた倉庫など)に火を放った。これは、スイス人のカメラマンに撮影もされた。しかし、日本軍の爆撃によって大火災が生じたように報道した。現在残っている写真でも、中国軍による撤退時の人為火災、中国空軍の誤爆現場を、日本軍の攻撃によるとしている資料が多い。

物的被害,身体的障害,肉親殺害などから,中国人の反日感情が高まり,抵抗運動、テロへと繋がる。情報操作や憎悪を煽動する。プロパガンダpropaganda)も関連してくる。残虐行為の写真も,転載されるうちに,撮影時期・場所が不明確になってり,不適切な解説がつけられたりした。真偽不明あるいは捏造写真とされたりした。写真だが事件の証拠というわけではないが、議論をすり替え、エセ写真、プロパガンダpropaganda)だから、ウソと単純なごまかしが横行している。

プロパガンダpropaganda)は、主張を世論に広めるため、自分の都合の良い部分は過大に、都合の悪い部分は黙殺する。プロパガンダには、ウソも真実も包含している。中国、日本、米国、どこの政府・軍も行う。「プロパガンダだからウソだ」という主張は、単純すぎて成り立たない。事実が混じっていることでプロパガンダpropaganda)の影響力が行使できる。

 どのような国でも、戦争には際しては、カネ・モノ・ヒト・ワザの動員を効果的に行い,戦争を正当化するためにプロパガンダを行う。したがって,南京事件のようなインパクトのある事件は,格好のプロパガンダ材料である。国民党の宣伝部が関与しており,反日プロパガンダに使用されたから「南京大虐殺は存在しなかった」という主張は,戦争における動員やプロパガンダの本質を無視したものである。真実でも虚偽でも情報流布・情報操作・報道管制・誇示行動(デモ,集会,葬儀,追悼式,参拝)によって,特定の思考を植えつけ,特定の行動をとらせるのがプロパガンダである。真偽が入り混じっているプロパガンダでは,都合の良い事実が誇張され,不利な事実は歪曲される。それを見破るだけのメディアリテラシーMedia Literacy)の能力が求められる。メディアリテラシーMedia Literacyの力があれば「敵のプロパガンダは捏造だ」という単純な発想を回避することができる。

6.中国兵士の頑強な抵抗,不十分な補給・休養,ゲリラ・敵性住民による破壊活動,捕虜収容のための準備・食料物資の不足から,多数の捕虜・ゲリラが処刑された。これが,南京事件である。当時、暴虐な敵兵・ゲリラ、反逆者の処刑は,残虐行為として非難されなかった。


写真(右):百人斬り競争の日本軍少尉たち
(1937年東京日日新聞):二人の少尉がどちらが先に日本刀で敵を100人斬れるか競争をし,引き分けたことを伝える新聞。百人切った真偽よりも、この報道が検閲で不許可にならず平然と全国紙に掲載されたこと、残虐行為と非難されない当時の戦争慣れが恐ろしい。

南京攻略の過程で,「百人斬り競争」の新聞報道が,1937-38年の東京日日新聞に4回登場した。しかし,この記事の信憑性を疑う識者も少なくない。
?日本刀で戦場の銃を持った敵兵を切り殺すことは不可能
?日本刀が損傷するので人間を100人も切り殺すことは刀剣の性能・物理的条件からみて不可能
?二人は郷里に自分の活躍が伝えられるのを願って手柄話を新聞記者に捏造した
と考えて,この「百人斬り」報道は事実ではないとみる識者も多い。

東京日日新聞」では南京攻略時に「百人斬り競争」の日本陸軍将校二人の記事が昭和12年11月30日,12月4日、6日、13日の4回記載された。二人とは,第16師団(師団長中島今朝吾中将)歩兵第9連隊(隊長片桐護郎大佐)第3大隊(大隊長冨山武雄少佐)所属の大隊副官野田毅少尉と歩兵砲小隊長向井敏明少尉。戦闘中、銃を構えた敵兵士を斬殺などできないから、敵兵を斬るには,抵抗できないよう縛ったか,武装解除したかしたはずだ。

1937年11月30日『東京日日新聞』報道記事
 「(常州にて廿九日、浅海、光本、安田特派員発)
 --神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後、早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果したといふ。一人は高山部隊向井敏明少尉(二六)="山口県玖珂郡神代村出身=。
 一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)==鹿児島県肝属郡田代村出身=。銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀『関の孫六』を撫でれば、野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

 ---出発の翌朝、野田少尉は無錫を距る八キロの反日プロパガンダ無錫部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬って先陣、名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。

 その後、野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者が駅に行った時、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった。

 向井少尉 この分だと、南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬って刃こぼれが、たった一つしかないぞ。
 野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます。僕は○(副)官をやってゐるので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ。 

1937年12月13日『東京日日新聞』報道記事
「(紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発)
 南京入りまで『百人斬り競争』といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士、向井敏明、野田毅少尉は、十日の紫金山攻略戦のどさくさに、百六対百五といふレコードを作って、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。

 野田『おいおれは百五だが、貴様は?』向井『おれは百六だ,・』・・・・・・両少尉〃アハハハ〃結局いつまでに、いずれが先きに百人斬つたかこれは不問、結局『ぢやドローンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや』と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人断つがはじまった。十一日昼、中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が『百人斬りドロンゲーム』の顛末を語ってのち、『知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや。俺の関の孫六が刃こぼれしたのは、一人を鉄兜もろともに唐竹割りにしたからぢや。戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午後三時、友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しに、俺もあぶり出されて、弾雨の中を『えい、ままよ』と刀をかついで棒立ちになってゐたが、一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ』と飛来する敵弾の中で、百六の生血を吸った閲の孫六を記者に示した


写真(右):南京軍事裁判
;1947年南京軍事裁判では,南京虐殺で起訴された日本軍四将校が裁かれた。法廷に孫文肖像、中華民国の青天白日旗が掲げられている。中国共産党の影響力はなかったようだ。

戦後1946-1947年の南京軍事裁判(東京裁判とは別個開廷),いわゆる南京虐殺裁判Trial of the Nanking Atrocitiesでは,4名の日本軍将校が裁かれた。第16師団(中島今朝吾中将[病死])指揮下の第19旅団(草場辰巳少将)歩兵第9連隊第3大隊(冨山武雄少佐)所属の大隊副官野田毅少尉と歩兵砲小隊長向井敏明少尉は,無抵抗の中国人を斬殺したとして,死刑の判決。1948年1月28日銃殺。百人斬りの記事捏造が,二人の処刑に繋がったとして、『東京日日新聞』現毎日新聞)浅海一男記者を非難する声,無実の武人を殺したとする訴訟もある。

南京軍事法廷に1947年12月20日、向井敏明・野田毅両少尉が提出した最後の申弁書では,「新聞記事の百人斬りは,戦闘行動を形容したもので、住民俘虜等に対する残虐行為ではない。残虐行為の記事は、日本軍検閲当局を通過することはできなかったことは,記者の証言書で明白である。したがって,法廷で,記事が日本軍の検閲を経て、被告の残虐行為であると認定したのは妥当ではない。以上のように、新聞記事は全然事実ではない。」と論じている。

遺書では「捕虜住民や非戦闘員を殺害せる事は全然なく,南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男児として立派に中国の土となります。世界平和が到来することを喜ぶものであります。日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです」という内容を伝えた。つまり,二人の日本軍士官は「百人斬り」は,戦闘行為の一環であり,軍刀・刀剣によって敵兵を斬ったと主張した。

日本の「百人斬り」記事:中国兵が小銃を発砲しているのに,そこに刀剣・軍刀を手にして斬り込みをかけること,そして何人も敵の武装兵士を斬り殺すことは,現実には不可能である。ありうる斬殺とは,
?敵陣に突撃した際に,降伏してきた敵兵を,捕虜とせずにその場で処刑
?大規模な敗残兵狩りの最中に,捕らえた敵兵(俘虜)を集団処刑
?敗残兵狩りで捕縛された民間人を便衣隊とみなして処刑
ということになる。

実際に中国人を斬ったのであれば,無抵抗の捕虜・民間人を斬殺したと考えられるが、現在の視点では「残虐行為」の斬殺であるが,当時の日本国民には,日本軍の強さ・勇敢さを示すものであった。敵を斬り殺す行為は,残虐行為ではなく勇敢な行為であったため,日本軍による検閲にかからずに記事にできた。この当時の常識を忘れると、「百人斬り」の記事が荒唐無稽な捏造記事に思えてしまう。

現代的視点では,降伏した敵兵,敗残兵,ゲリラ容疑者を裁判もなしに即刻処刑,それも軍刀・刀剣で斬殺・斬首するのは,残虐行為である。しかし,「百人斬り競争」「五十五名を斬り伏せた」「生血を吸った刀剣(閲の孫六)」といった残虐な表現は,勇猛果敢さを示すもので、検閲にはかからない。「僕等は二人共逃げるのは斬らない」なら,逃げることのできない敵(=捕虜?)を斬殺していることになる。

戦後、南京虐殺を裁いた南京軍事裁判では,第36師団(牛島満少将[沖縄戦で自決])歩兵第45連隊中隊長だった田中軍吉少佐は、300人斬りで,銃殺。雑誌『皇兵』巻頭グラビアで,「悲願三百人斬りの田中隊長の愛刀助廣」と載せられ。

戦地における日本軍将兵の常識として,暴虐な敵兵が捕虜となれば,日本・天皇陛下に反乱を起こした重罪人として処断された。捕虜処刑は,残虐行為とは認識していなかった。捕虜処刑を口頭命令としたのは,自らが敵の捕虜になった場合に処刑される,あるいは敵の暗殺テロの標的になることを恐れたためである。他方,下級将校が命令に逆らって,捕虜を釈放すれば,捕虜を逃亡させた罪で処断されたか,私的制裁・懲罰・部隊内の不利益取り扱いを受けた。

斬殺の記事に登場して記録が残ってしまったこと
戦後の「人道に対する罪」というと戦争当時の日本にはなかった事後的な罪状で裁かれたこと
?捕虜処刑を命令し,推奨した指揮官が責任回避したこと
?当時の戦地では少なからぬ日本兵士が,上官の命令・黙認のもとで,捕虜を処刑していたこと
の4点に配慮すれば,南京軍事裁判の処刑は不公平な処罰である。新聞記者という仲介者よりも,上官・同僚の責任回避のほうが,二人にとって不幸であったのではないか。,軍事裁判の当初から,戦時の捕虜・ゲリラの処刑は,残虐行為とは認識していなかったと,旧軍,政府が明確に主張すべきではなかったか。それでも「人道に対する罪」というならば,軍最高指揮官が,治安回復のために,部下に捕虜処刑を命じたと公言して,全責任を一身に引き受けることができたのではないか。日本軍には,部下の行為の責任を引き受けて,堂々と処刑された将校・将軍もいた。


写真(左):第六師団長谷壽夫中将の処刑
;1947年南京軍事裁判で死刑の判決を受け4月26日に処刑される。堂々と銃殺され,後に続くものに見本を示した。谷師団長は,事件期間中の南京中華門付近は,激しい戦闘であったために,住民は避難した後でいなかった。だから,住民虐殺はしていないと,弁明書で主張したが,認められなかった。12月16日,日本軍南京入場式に,多数の南京市民が動員され,日章旗を振って,日本軍を歓迎させられた。

南京軍事裁判の最高位の被告は,上海派遣軍朝香宮鳩彦王中将が,追訴されなかったので,その指揮下にあった熊本第六師団長谷壽夫中将である。1937年12月13日-21日の中華門付近で,谷壽夫部隊による中国民間人を含む殺害の責任を取らされた。谷寿夫陸軍中将は,1940年4月29日(昭和天皇誕生日) に勲一等旭日大綬章を受章した。敵首都攻略の褒賞といえるが,大将には進級できず。

1947年1月15日の谷寿夫陸軍中将による申弁書は,次のように述べている。

被告の聞知する所にては南京大屠殺は、中島部隊の属せる南京攻略軍の主力方面の出来事にして、其の被害者に対しては真に気の毒の至りなるも、柳川軍方面の関係なき事項にして、即ち被告の部隊に関係なき事項なり。----

中華門付近の戦闘に際し、安全地域に退避することなく残留したるものは、被告は之を見聞せざりしも、若し之れありとせば其中には砲撃銃撃等を受け、死没するに到りたるものもあるべきも、之は気の毒ながら被害者独自に責を負ふべきもの ---
南京戦の前後にも繰返し軍紀風紀の厳正を部下に要求訓示せり。---

御提示の九百余名の殺人及び四十余名の強姦事件が、被告の部下により行はれたりとせば、一人を一件と見做し師団の各兵科一中隊二十五件以上、大隊に六十件以上、連隊に二百件以上の割合となり、中隊長大隊長連隊長は素より四百件以上に関する旅団長必ず之を知る。----

斯くては最高指揮官又は、其直下の軍司令官ならざる一部隊長に過ぎざる被告が、他部隊の責任を負ひ、又は部隊に関係なき住民の被害乃至は造言に係はる偽損害の責を負ふこととなり、真に不合理にして、遺憾至極なり。---
被告の裁判以前に南京戦参加の他の部隊長を召還訊問せられ度、尚被告の言に疑問あらば証人を召喚せられ度し。----

起訴書に中島今朝吾(第十六師団長)と相共に、南京大暴行を発動実施せる如く記されあるも、此考察は根本に於て誤れる論断にして、之が延いて各種の暴行を被告の行為なりとせらるる誤解の根本原因をなせり。
中島部隊と被告の部隊とに関し、両指揮官としての性行及び南京戦前後に於ける両部隊の行動に於ては、根底より相違せる事実は、日本内地には幾多の証人あり。
 然るに此須知の事項を混同、若しくは被告側に移して、同一視せらるるは真に遺憾千万なり。
 是れ被告が訊問を受けたる当初より、再三他の部隊長及び証人の召還及び訊問を検察官並に国防部に要請せし所以にして、未だ之を容れられざるは心外なり。


之が為め伏して懇願するは、南京戦に参加せる各部隊長以下、暴行指導者実行者たる懸念ある将兵並に、中日両国側幾多の証人を尋問精査し、徹底的に調査判明の上、公正なる裁判を行はれ度、止むを得ざるも日本内地より証言到着後、公判を実施せられんことを切に切に願ふ次第なり。

   谷寿夫中将は、陸軍大学教官時代に『機密日露戦史』を戦史教科書として使うためにまとめ,1928-1929年の山東半島に進駐した第三師団参謀長時代の『第三師団特殊研究記事』をあらわすなど,研究肌の将官であった。

1947年3月10日に南京軍事裁判で,谷寿夫陸軍中将は,死刑判決を受け,4月26日に銃殺刑となった。谷寿夫陸軍中将は,堂々と処刑され,後に続くものに見本を示した。

しかし,南京軍事裁判(国防部审判战犯军事法庭)で、谷中将に1年後に続いたのは,野田,向井,田中の三下級将校のみで,第十軍軍司令官柳川平助中将、第十六師団長中島今朝吾中将は、1945年に病没し、他に責任をとるべき将官クラスは,南京軍事裁判では一人もいなかった。中支那方面軍長松井石根大将は、東京軍事裁判で絞首刑になった。部下の責任を取らされたとも言われる。谷寿夫中将のような将軍であっても、「最高指揮官・軍司令官でない」以上は「一部隊長に過ぎ」ないと弁明したが、将官が責任を負わないなら、誰が責任をとるのか。最高司令官が悪いのか。

写真(右):中国人を斬殺する日本兵(1937-1938年頃):治安回復を図る日本軍への破壊工作は,重罪である。暴虐な敵の処刑は,やむをえない。当時,敵の斬首は、残虐行為ではあっても、正当化された。斬首できるのは,一流の刀剣の使い手である証明でもある。日本国内では不可能な斬殺を,中国で敵と認定した中国人には行った。

米英列国から,日本軍の残虐行為を非難されると「斬殺の手柄話」の記事は掲載されないようになる。日本軍将兵の軍事郵便にも,当時の「手柄話」が登場していたが,これも,検閲により削除された。

1937年7月7日、北京郊外で盧溝橋事件七七事変)が勃発、その半年後の12月13日、日本軍は,中国の首都南京を陥落(形式上、陥落前に漢口に臨時首都を移し、それから重慶に遷都)させた。退却してきた中国兵士は、軍服を脱ぎ、市民にまぎれ逃亡を図った。日本軍は、当初予定しなかった南京攻撃のために,補給が不十分だった。日本軍将兵も疲労し、戦友を殺した中国人への憎悪が高まった。

 過酷な戦闘を経て南京に突入した日本軍は、中国人を処刑、殺害,暴行する。これが、南京事件である。この死者数は中国側は、崇善堂埋葬記録や証言などから20万-30万人とする。損傷した多数の遺体を数えるのは困難である。日本人研究者は,日本軍部隊が捉え処刑した捕虜の数を基にして,3万から20万名の殺害と推計している。

写真(左):南京駅占領;1937年。落書き「十二月十三日午前十時 小池部隊,林隊占領,客車八輪,汽関車三輪」とある。正しくは「輌」。

大阪朝日新聞 昭和十二年十二月三十日』には,1937年後半の南京攻略作戦に関して,次の記事がある。
敵の遺棄死骸八万四千,我方の戦死傷は四千八百」
この報道は,前日に発表された日本軍公表の数値を基にしている。

上海特電二十九日発 上海軍発表(二十九日午後六時)
南京本防御戦攻撃に関して彼我損害が,公表された。 
一、我が方戦死八百、戦傷四千 
二、敵方遺棄死骸八万四千、捕虜一万五百 
三、鹵獲品の主要なるもの 
小銃十二万九百、重軽機関銃三千二百、迫撃砲、曲射砲二百九十九、野戦砲四十、高射砲四十、重砲百十、拳銃百二十、戦車十、自動貨車四十、機関車三、客貨車六十、砲弾各種約合計四百七十万発その他食料品など莫大。

近衛文磨首相は,南京陥落後、1938年,「国民党政府を対手にせず」と暴支膺懲を公言した。中国政府は,徹底抗戦の意思を固め,首都南京を攻略されても,首都を漢口,重慶に遷都し,頑強に日本軍に抵抗した。

写真(右):中国兵捕虜と日本兵(1937年12月南京YMCA会長で,南京安全区国際委員会International Committee for the Nanjing Safety Zoneの委員ジョージ・フィッチGeorge A. Fitch所蔵)南京安全区国際委員会のフィッチの娘Mrs. Marian Extersが、父から受け継いだ写真30名ほどを、彼女が79歳の時(1991年7月7日)に寄贈した。彼女の記憶によれば,これらの写真は,日本兵自身が撮影し,中国人や韓国人の写真店で現像された際,日本の残虐行為を訴えるために密かに焼き増しされて持ち出されたという。.... According to her memory, she was told that these photos were believed to have been taken during the Massacre by Japanese soldiers themselves and were developed by a photo studio run either by a Chinese or a Korean, who or whose clerk secretly made reprints and smuggled them to a foreign friends in order to expose Japanese crimes of atrocities." 「20万人中国兵捕虜と民間人が1937年南京大虐殺で殺された。殺害された総計は最大限30万人に達するともいわれる。捕まったか降伏した中国兵捕虜は、この写真が撮られた後、疑いなく殺害された。なぜなら捕虜は生かさぬ方針だったから。支那事変と南京虐殺では、400万人近い中国人が殺害された。」In total, 200,000 Chinese POWs and civilians likely were murdered during the Japanese Rape of Nanjing in 1937; the total may even be as high as the 300,000 given in one of my sources. The Chinese POWs shown in the photo were captured (or surrendered) in Nanjing, and no doubt were murdered shortly after this photo was taken, since no POWs were allowed to survive. For documentation on Japan's murder of near 4,000,000 Chinese during the Sino-Japanese War (which in 1941 merged into World War II) and the Nanjing massacres.

写真(右):捕らえられた中国人;1938年頃に日本兵が撮影した写真が,現像した中国人あるいは韓国人の写真店から密かに持ち出された。それを,南京安全区国際委員会の委員で南京YMCA会長だったジョージ・フィッチGeorge A. Fitchが米国に持ち帰った。右には青龍刀を持った日本兵。一市民が便衣兵・ゲリラとして捕まったのかもしれない。中国語の読み書きをできない日本兵が,中国人の取調べをしても,詳しいことはわからない。容疑者は,潜在的な敵とされた。This photo appears to show a flicking sword cut (the white blur) by the Japanese soldier on the left. Whether by sword cut or decapitation, the poor Chinese prisoner will soon be murdered.

「大阪朝日新聞」昭和十二年十二月十七日(幕府山事件 資料集引用)
両角部隊は、第13師団(萩洲立兵中将)隷下の歩兵第103旅団(山田栴二少将)の両角業作大佐の指揮する歩兵第65連隊(会津若松)のこと。

<未聞の大捕虜群「殺さぬ」に狂喜し拍手喝采>


南京にて横田特派員 十六日発
  「両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地にて捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は、なにしろ前代未聞の大捕虜群とて捕へた部隊の方が聊かあきれ気味で、こちらは比較にならぬほどの少数のため手が廻りきれぬ始末、まづ銃剣をすてさせ附近の兵営に押しこんだ。
 一ケ師以上兵隊とて寿司づめに押しこんでも二十二棟の大兵舎があふれるばかりの大盛況、○○部隊長が皇軍はお前達を殺さぬ」とやさしい仁慈の言葉を投げると、手をあげてをがむ、しまひには拍手かつさいして狂喜する始末で、あまりに激変する支那国民性のだらしなさにこんどは皇軍の方で顔まけの態だ
 それがみな蒋介石の親衛隊で、軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、

 一番弱つたのは食事で、同隊でさへ現地で求めてゐるところへ、これだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので第一夜だけはたうとう食はせることが出来なかった、部隊では早速、大小行李の全駄馬をかり集めて食物をかき集めてゐる」

新聞記事からわかるように,南京攻略で,徹底した掃討戦を行い,1万5000名近い敵兵捕虜を得たが,収容施設も食糧も不足していた。 中国兵捕虜の食糧調達、監視など、捕虜収容が負担であれば、捕虜を釈放するか、処刑するかである。中国兵は,住民と一丸になって反日活動,抗日戦争を戦うつもりであるから、捕虜釈放は,敵兵力を増強するに等しい。戦友を殺害した敵兵であれば,処刑したほうがよい。こう考えたのではないか。

写真(右):十四年式拳銃による射殺(1937-38年頃);拳銃は,日本軍が支給したのではなく,将校が偕行社などで,購入、自弁した。コルト社,ブローニング社,モーゼル社の拳銃に比して,日本製は高価だった。しかし,拳銃では,小銃を持つ敵兵に負ける。実戦で拳銃で敵を倒した将兵はまずいない。(操作ミスで自ら怪我をし、戦友を負傷させた将兵はある。)そこで,捕虜を拳銃で撃ってみようという気になる。拳銃の試射,威力の証明という意識もあったはずだ。

大半の日本国民は、中国兵捕虜を斬首、処刑すべきであるとは考えなかったであろうし,中国民衆の生活を破壊し,隷属させるつもりもなかった。しかし,貧乏な日本軍にとって,多数の中国兵捕虜を収容することは,費用,施設,食糧,監視兵力の限界から,不可能である。釈放すれば,再び日本軍に反抗する。

捕虜を収容施設で管理しようとすれば,収容所の建設・運営,捕虜のための水・食糧の準備,捕虜の糞尿処理まで,費用・資金・人手がかかる。命がけで戦闘している日本軍将兵には、憎むべき敵の捕虜を養うより処刑せよとの反感もあった。

捕虜を収容する施設・食糧・監視兵力の負担,戦友を殺害した(であろう)敵兵への憎しみ、武勇の誉れとしての敵殲滅の栄光、天皇陛下に逆らった重罪人の処罰の視点から、敵捕虜を処刑したと考えられる。

写真(右):1937年中国兵捕虜を獲得した日本兵;出征した兵士は,中国まで来て敵を負かし,捕らえた記念に写真を撮った。一世一代の名誉である。このような捕虜の扱いが,捕虜を虐待する残虐行為とは考えなかった。捕虜の取り扱いについて,教育を受けたこともなかった。日本軍は,日中戦争の初期に,捕虜のための食糧,収容施設も準備していない。

1932年の満州国建国後、満州に移民した日本人は,「満州国人」にはならなかった。日本語の生活圏を形成し,中国人,朝鮮人,満州人とは一線を画していた。租界でも,傀儡満州国でも,日本人は,公務員採用・昇進,会社設立,不動産取得,住居,教育,医療で優遇された。この日本人の優遇措置が,日本人の優越感の支えとなり,中国人に対する蔑視を生んだ。優遇されたる日本人は,それが政策によるというよりも,民族の優秀性に依存していると考えた。非日本人に対する差別意識が増幅された。

日本の満州,華北での行動をみて,中国側は,日本軍の侵略、残虐行為を非難した。反日活動,抗日戦争を続けるためにも,日本は中国支配を目指す東洋鬼であると,反日プロパガンダを展開した。国は,軍民を動員して,プロパガンダを流しながら戦争を続けようとするが、プロパガンダだから、ウソだとは限らない。

写真(右):杭に縛り付けられた中国人(1938年頃);便衣兵や敵性住民として,多数の民間人も捕縛された。中国軍民の一体となった抗日活動は,日本軍に大きな損害を与えたから,懲罰として厳しい処置がなされたようだ。

八巻竹雄『南京攻略戦』では,南京占領後の第103旅団(山田栴二少将の山田支隊)の下の 歩兵第65連隊(両角業作大佐)の活躍は,次のように記されているという。(幕府山事件 資料集引用) 
 連隊は、山田旅団長の下に、山砲一ケ大隊、工兵一ケ中隊と共に山田支隊を編成して、南京攻略戦に参加することになった。仝十二日大なる戦斗もなく南京城外にせまった。
 途中沿道各所より敗残兵が群がり、武器を捨てて投降して来る。中隊だけでも千数百名の捕虜を得た。隊の後方を続行させた。我が軍も余り早い進撃で補給がなかった。したがって敵の捕虜に対しては、三日も四日も食糧がなく、餓死寸前の状態だった。食事時になると我れ勝に残飯を奪い合っている。

 その中にいた人品骨柄いやしからず、柔し皮の外套を着た将校らしい者がいた。残飯を兵隊の前で与へ様とすると、鄭重に辞退された。考えてみると支那人は面子を重んずる国民と聞く、多数の兵の前では、残飯は貰へないのだと思い、人前を避けて家屋の後ろで与えた処、結構喰べ終った。彼は我々が持つている倍もの大きさの名刺を差し出した。見た処、中央軍軍官教導総隊参謀少佐劉某と印刷してあった。彼れは既に覚悟をしていたものか、それとも単に恩義を感じたものか、着て居た立派な外套を脱いで、私に呉れようとしたが、自分は官給品ではあるが、着ているのでいらないと断った。連隊だけでも投降した捕虜は、一万数千名位いあったろう。

 これらは南京城外の上元門と云う敵の兵舎に収容した、収容はしたが食糧がない、我々だけでも容易でない状態だったのは、後方の道路が破壊されていたので、車輌の運行ができないためであった。そのうち要塞の洞窟の中に食糧倉庫が発見されて、何んとか給与することができた。十四日敵の首都南京は陥落した。


写真(右):上海北20kmを進撃する日本兵(1937年後半);Japanese troops marching about 12 miles (20 km) north of Shanghai.

敵愾心と優越感を背景に,残虐行為が起こる。将兵は,敵を負かし,捕らえた記念に写真を撮った。海外渡航が珍しかった時代,中国大陸における戦勝の証拠である戦利品・敵捕虜の写真は,一世一代の名誉の品である。捕虜取り扱いに関する国際条約(ジュネーブ条約ハーグ陸戦規則)など,日本兵には無縁である。捕虜になった際の教育も,捕虜を獲得したときの教育も受けていない。

  中国人は,日本人の中国居留民に暴行を働いた。日本商品ボイコットや日系工場での破壊工作、ストライキなど反日行為を繰り返した。そして,アジアに平和を構築しようとする日本の誠意を踏みにじり,全面戦争を仕掛けてきた。このように考える日本人が,中国軍将兵を捕虜にすれば,その人権を一切配慮しないのは当然である。(中国軍でも同様だったであろう。)

写真(右):南京の長江(揚子江)沿岸に捨てられた死体(1937-1938年頃南京の下関埠頭で撮影)ここには多数の幕府山事件による捕虜大量殺戮の犠牲者が含まれているようだ。「ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。
揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。----揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていました。虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょうか。」(村瀬守保(2005)『私の従軍中国戦線一兵士が写した戦場の記録』(新版)引用)


長江(揚子江)沿岸に山積みになった屍は,戦闘により殺害された中国兵,便衣兵であるとも主張される。対岸に泳いで渡ろうとした、あるいは,対岸に収容するつもりが,パニックになって集団脱走を図り、銃殺されたとも(戦争犯罪を避ける弁明がなされる)。しかし,後手に縛られている死体がある,便衣兵の銃殺・焼却の証言がある,中洲にも対岸にも捕虜収容施設を設置してはいない。捕虜管理に困難を感じた日本軍が,現地の判断で処刑したようだ。

中洲や対岸に捕虜を輸送する命令があったとする日本兵証言がある。指揮官は,混乱を回避し捕虜殺害を秘匿するために「捕虜移送命令」とした。軍隊は部下に任務を命じても,説得や作戦目的の公開は不要である。捕虜を移送しろとの命令があったが、処刑命令はなかったというのは、兵卒レベルの受け取る命令としては最もである。しかし、移送後の措置としては、別の命令が別の部隊に出ていたのである。

?中洲にも対岸にも,「捕虜収容施設」を設置してはいない。
1)数千人の捕虜を移動させる船は準備していない。
2)捕虜の周囲を,機関銃部隊が取り囲んでいた。
つまり,兵士個人の判断による捕虜処刑ではなく,連隊・大隊レベルの(口頭)命令による処刑である。

中支那方面軍編成に依拠しながら、研究者による「軍命令に反する捕虜解放」を引用し、捕虜大量殺戮「幕府山事件」の真相を検証してみよう。

第13師団(師団長萩洲立兵中将)麾下の歩兵第103旅団(旅師団長山田栴二少将)歩兵第65連隊(連隊長両角業作大佐)は、南京攻略時に1万5000名もの捕虜を獲得し、長江近くの仮施設に収容した。しかし、臨参命第一〇一号(1937年9月11日) により戦闘序列が発令された上海派遣軍は、歩兵第103旅団(山田支隊と呼ばれる)を長江北岸の第13師団本隊に合流させようと、捕虜を第16師団に管理させる方針を示した。

中支那方面軍司令官松井石根大将は不在のため、その麾下にある上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将と参謀長飯沼守少将が、第16師団中島今朝吾中将に対して、「南京の捕虜を後送するために、捕虜を引き取ること」を命じた。

捕虜を引き取るという余計な命令を受けた第16師団を率いた中島今朝吾師団長は、捕虜はとらぬ方針を公言し、南京に進撃途上、捕虜を処刑してきた。ここにきて、1万5000人も捕虜を引き受けるのは、屈辱である。師団長の誤りを失笑され、部下の統率力が低下してしまうかもしれない。「師団長も軍司令官には逆らえず、捕虜をとらぬ方針を撤回した」と。また、捕虜受領は、食料の調達、捕虜の監視など負担が増えるだけと判断した。そこで、命令違反とは受け取られないように、捕虜受領を遅らせ、捕虜は始末してしまえと「放言」する。
 1万5000人の捕虜を収容していたのは、第13師団の指揮下の山田栴二支隊(第13師団麾下)であるから、指揮権のない第16師団長が「捕虜を始末しろ」と山田支隊に言っても、それは命令でなく「放言」である。第16師団長中島今朝吾中将が第13師団麾下山田栴二支隊に「越権」命令をしたのではなく、自分の所信を表明しただけと言い逃れが出来る。軍隊の命令は,階級が上なだけではダメで、戦闘序列に示された指揮権が必要である。文部大臣が東海大学長を通さず、学部長を素通りして、東海大の平教員に命令できないのと同じである。指揮権の及ばない部隊に高級将校(将軍や参謀)は放言してもよい。ただし、高級将校のご威光を恐れる部下が、その方言を命令と解釈して従ったとしても不思議ではない。日本軍は上級指揮官の命令は「朕の命令」と同一であり、絶対視、絶対服従が美徳・伝統とされた。太平洋戦争でも、大本営参謀が現地に派遣されて、フィリピンで捕虜虐殺を放言したり、ガダルカナルで飛行場突撃の方言をしたりしている。

上海派遣軍司令部は、再度、第16師団中島今朝吾中将に命令するのは、統率力不足となり、司令部としての沽券に関わると考えた。そこで、上海派遣軍司令部は第16師団長中島今朝吾中将に督促する代わりに、山田支隊に対して「第16師団に捕虜の引き渡すこと」という同じ趣旨の命令を出す。捕虜引受け側の第16師団中島今朝吾中将が動かないので、引渡し側の第13師団の山田支隊(歩兵第103旅団長山田少将)に、同様の趣旨を実行させようとした。しかし,中島師団長が捕虜を引受けないために,処置に困った山田支隊は,捕虜を処分した。

 上海派遣軍司令部から、捕虜の引き渡しを命令された山田支隊は、第16師団中島師団長が引き取りをしないために、捕虜引渡し命令が宙に浮いてしまう。山田支隊は、12月19日までに渡河して対岸の第13師団本隊に合流する命令も受けている。いつまでも1万5000人もの捕虜を収容し続けることは出来ない。

捕虜の釈放は、陸軍刑法の抗命罪、捕虜(俘虜)逃亡の罪に相当する。そこで、期限の迫っている渡河命令を実行するには、捕虜を処分するしかない。しかし、捕虜引渡し命令があるために、捕虜処刑には偽装工作が必要となる。捕虜を対岸・中州に収容するとして、長江沿岸に連れ出し、捕虜の脱走、叛乱が起こったように見せかけて、捕虜を殺戮した。 

山田支隊は、1万5000人の捕虜を処刑し、長江へ死体を投棄。しかし、12月の長江は水量が少なく、岸辺に大量の死体がたまってしまった。 

南京郊外での日本軍は、中国軍捕虜をクリークや池の近くに追い込んで銃殺したり、壕を掘らせた近くで殺害した。各地で殺害された死体は放置され、死体処理は、中国人に任された。他方、山田支隊は、長江沿岸で大量殺害した捕虜を、長江に流し、沿岸に堆積した死体を焼却した。わざわざ日本軍がしたい処理をしたのはなぜか。死体を放置、現地中国人に死体処理を任せなかったのはなぜか。

山田支隊の捕虜殺戮は、上海派遣軍の「捕虜を後送するために、第16師団に捕虜を引き渡すこと」との命令違反で、抗命罪に相当する。捕虜殺戮は事故でなくてはならない。捕虜が逃亡を企て、それに発砲した。その結果、捕虜を大量に銃殺し、一部の捕虜は逃亡に成功したという偽装工作を行った。死体を長江に投棄したが、沿岸に堆積した死体が、捕虜大量殺戮の証拠となることを恐れて、死体の身元を隠すために、死体を焼却した。船を使って長江下流へ死体を投棄した。

「山田らがそこまで死体の焼却にこだわったのは捕虜の後送が軍司令部の一貫した方針であり、捕虜の殺害は命令違反であるから、殺害の露見は絶対避けねばならぬと覚悟していたことを示している。」(⇒「軍命令に反する捕虜開放」引用)

幕府山事件(1万5000人の捕虜大量殺戮)以外にも、日本軍の小部隊ごとの捕虜処刑、民間人・敗残兵への砲撃などによって、上海・杭州から南京攻略までに、あるいは南京入場式あとの捕虜処分・新たな掃討戦などさまざまな状況で、中国人殺戮が行われた。南京事件の死傷者とは,期間,場所、範囲で大きく差異が出る。

写真(右):南京でくつろぐ日本軍兵士(1937年12月22日);捕虜の処刑場所から遠くないところで,食事をとる。中国の民間人が,既に営業を開始していたようだ。占領軍に武器をとって反抗する民間人,ゲリラはいつでもどこでも少数であろう。強い日本軍に逆らっては占領地域の住民の生活は,成り立たない。生きるためには,占領国の軍隊相手に商売する。内心では,日本兵に反感を持ったかもしれないが,親切な日本兵にあって安心したり,庇護を求めたりした中国民間人も多かった。『支那事変画報(朝日判)』第十一輯,pp.14-15の見開き写真,林特派員撮影。

奥宮正武『私の見た南京事件』より研究者のwebからの「下関の光景 」引用を記す。

 戦死した飛行機搭乗員たちの遺体捜索の第一日目は12月25日、第二日目は12月27日であった。-------- 
  下関は、南京と揚子江の対岸にある浦ロとともに、交通の要衝であった。浦ロは、私が上海着任直後に、最初に、爆撃したところでもあった。下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。-----
 構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。

 岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。

 この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私がロを出す余地はないと感じた次第であった。-----

  人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しぼらくその場にいると、次第に異常さを感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。
 また、現場にいた将兵の中には、上海から南京に至るまでの間に、自らの上官、同僚、部下などを失ったための憤りにも似た特異な感情を持つていた人々がいたことであろう。---

写真(右):1937年12月南京の遺体処理;何万人も死体を処理できないと主張する人もいる。確かに,死体の焼却・埋葬は大変な作業なので,正規の処理ではなく,死体を船で繋いで,長江の沖で流し,打ち捨てた。1945年の日本本土空襲でも同じように処理された無残な遺体がある。

 12月27日。----下関の処刑場に近づくと、この日もまた、域内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。 
 再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。----「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」と質問したところ、上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」との答が返ってきた。

 このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の25日と27日に手際よく行なわれていた。もっとも、26日と25日前と27日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが、二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興奮状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。(引用終わり)-----

北支に於ける俘虜取扱に関する件(1937年(昭和12年)「陸支密大日記 第4号」)
 作成者: 軍務課、次官、甲集団参謀長
 作成年月日: 1937年9月2日
受領番号 陸支密受第一五五三号 起元庁(課名) 軍務課
件名 北支ニ於ケル俘虜取扱ニ関スル件
主務局課 番号 軍務課第四三四号 提出 昭和十二年九月二日
大臣官房 受領 九月二日 結了 九月十六日
次官ヨリ北支那方面軍参謀長ヘ電報(陸支密)
貴軍ニ於ケル俘虜ノ取扱方種々ノ関係上承知致度ニ付回示アリ度---
陸軍省送達 陸支密電二六六 昭和十二年九月二日 ---
次官宛 甲集団参謀長 陸支密電第二六六号返
武装解除セル敵兵(捕虜)ハ解除後殆ント離散ノ状況ニアリ
北平衛戌病院入院兵中治癒セルモノハ 後送隊トシテ道路構築等ニ使用シアリ


北支(華北)では、日中両軍が数万の規模で戦闘することなかった。これは、中国政府が、上海・南京方面に兵力を集中、反撃するつもりでいたからである。政治経済の中心で、列国の企業進出も多い江南地方の防衛は、北京よりも重要と判断した。

写真(右):南京の長江(揚子江)沿岸で死体処理(1937年12月頃);中国人の死体が,長江(揚子江)沿岸に多数堆積し,異臭を放っていた。日本軍は,自ら,あるいは中国人を強要し,船に死体を繋いで長江沖に運んで流した。

 第65連隊第1大隊分隊長の証言によれば,次のよう,南京攻撃,捕虜収容・処刑をした(山田支隊・栗原利一証言引用)。

  1937年10月3日、上海近郊の呉漱に上陸し,6キロばかり歩いたところで一週間ほど野営し、中国兵の死体が浮くクリークの水で炊事しながら小隊訓練・分隊訓練。----部隊は一〇日の夜最前線へと移動し、11日から攻撃にかかった。----三方から中国軍(国民党軍)精鋭部隊の猛射を受けながらの苦戦である。攻撃陣地としていた竹ヤプの竹が、敵弾のため一本のこらずなぎ倒されてしまうほどだった。この日から二週間のあいだに一コ中隊198人のうち65人もが戦死した。負傷して後方へ送られる兵はもっと多く、補充されては戦ったものの、最初からいた者で無事だったのは中隊のうちわずか23人であった。中隊長も負傷して退き、将校6人中3人が戦死している。

「これほどひどくやられていました。すべて『お国のため』の戦死です。この激戦の延長としての南京進撃だったことを考えてほしい。描虜が降参してきたからって、オイソレと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。この気持ちほ、あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います。仮に10万殺そうと20万殺そうと、あくまで戦闘の継続としての処理だった。あのときの気持ちに、?虐殺?というような考えはひとカケラもありません。みんな『国のため』と思ってのことです

  1937年12月14日,南京城北側の幕府山砲台を占領したとき、---膨大な中国兵が投降してきた。各中隊はこれを武装解除すると、着のみ着のままのほかは毛布一枚だけ所持を許し、中国兵の「廠舎」だった土壁・草屋根の大型バラックのような建物の列に収容した。

 収容されてかちの捕虜たちの生活は悲惨だった。一日に、小さな?支那茶碗″に飯一杯だけ。水さえ支給されないので、廠舎のまわりの排水溝の小便に口をつけて飲む捕虜の姿も見た。

 上からの「始末せよ」の命令のもと、この捕虜群を処理したのは入城式の17日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」と説明した。大群の移動を警備すべく、約1コ大隊の日本軍が配置についた。---

 四列縦隊で、4キロか5キロの道のりを歩いた。あるいは銃殺の気配を察してか、あるいは渇きに耐えきれずか、行列から突然とびだしてクリーク(水路か沼)にとびこんだ者が、目にした範囲では2人いた。ただちに水面で射殺された。頭を割られて水面が血に染まるのを見て、以後は逃亡をこころみる者はいなかった。

 捕虜の大群は、こうして長江の川岸に集められた。ヤナギの木が点々としている川原である。分流の彼方に川中島が見え、小型の船も二隻ほど見えた。---川中島へこの大群を移送するといっても、それらしい船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もないまま日が暮れようとしている。それどころか、捕虜が集められた長円形状のかたまりのまわりは、川岸を除いて半円形状に日本軍にかこまれ、たくさんの機関銃も銃口を向けている。

 --捕虜に反抗されて少尉が一人殺されたらしい。「刀を奪われてやられた。気をつけよ」という警告が伝えられた。---うしろ手に縛られていたとはいえ、さらに数珠つなぎにされていたわけではないから、たとえば他の者が歯でほどくこともできる。---

 一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。  半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であった。---いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な?人柱?である。---次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか。そんな?人柱″が、ドドーツと立っては以朋れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。

  ----生きて逃亡する者があれば捕虜全員殺戮の事実が外部へもれて国際間題になるから、1人でも生かしてはならない。大隊は、それから夜明けまでかかって徹夜で「完全処理」のための作業にとりかかった。死体は厚く層をなしているので、暗やみのなかで層をくずしながら万単位の人間の生死を確認するのは大変だ。そこで思いついた方法は火をつけることだった。綿入れの厚い冬服ばかりだから、燃えだすと容易に消えず、しかも明るくて作業しやすい。着物が燃えるといくら死んだふりをしていても動きだす。

 死体の山のあちこちに放火された。よく見ていると、死体と思っていたのが熱さに耐えきれずそっと手を動かして火をもみ消そうとする。動きがあればただちに銃剣で刺し殺した。---靴もゲートル(脚秤)も人間の脂と血でべとべとになっていた。

 こんなひどい「作業」も、「敵を多く殺すほど勝つのだ」「上海いらいの戦友の仇だ」「遺族へのはなむけだ」という心境であれば疑問など起こる余地もなかった。動く者を刺すときの脳裏には、「これで戦友も浮かばれる」と「生き残りに逃げられて証拠を残したくない」の二つの感情だけしかなかった。これも作戦であり、何よりも南京城内の軍司令部からの命令「捕虜は全員すみやかに処置すべし」であった。

 ---死体の山のあとかたづけで、この日さらに別の隊が応援に動員された。この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。銃殺・刺殺のまま川に流しては、何かとかたちが残る。可能なかぎり「かたち」をかえて流すためであった。しかしこの大量の死体を、火葬のように骨にまでするほどの燃料はないので、焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。これを長江に流すための作業がまた大変で、とても18日のうちには終えることができない。ヤナギの枝などでカギ棒をつくり、重い死体をひっかけて川へ投げこむ作業が、あくる19日の昼ごろまでつづいた(引用終わり)。

写真(右):南京の長江(揚子江)沿岸に捨てられた死体(1937年12月頃):銃殺,刺殺された中国兵士は,埋葬されず,投棄された。Unburied bodies along the Yangtze. Photo taken by Murase.

    白井茂『カメラと人生』(pp.137-138)には、事件研究者によると次の記述がある。 (「南京事件」と報道規制引用)
  中山路を揚子江へ向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々とならんでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、持っているしわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。
 ---これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの哀願だったのである。---

 柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が実赤に血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。

とにかく家財道具から何から町の真中にみんな置きっぱなし。
 まだ城内ではどっか隅の方で兵隊は戦っていた。音がしたり、なにか気配があった。ぼくらは司令部の命令で南京銀行の三階へ陣取った。みんな、見当つけてピストル一挺持って探索に出かける訳だ。いつやられるか分からない。銃殺しているところだとか、いろんなところを見た。

 翌日から少し撮影を始め、飛行機の落ちていくのを撮影したり何かしている内に、松井石根の入城式になった。向うの住民も手を振って迎えている。しょうがないから手を振りまわす。メイファーズ( 没法子=どうしょうもない)というわけだ。
 見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。

 さきの延々と並んでいる人たちに対し、兵隊が一人ぐらいしか付いてない。逃げ出したらいいだろうと思った。そうかと思うと、町の真中で、向うが川の所に、こっちへ機関銃一挺据えてある。兵隊一人で。で、向うに百人ぐらい群集がいる。

 あんなものは、一人か二人犠牲になったならば、みんな逃げ出せたと思う。それでも逃げないのはやっぱり、機関銃の前で怖いのか、逃げないのである

 よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が当ってるのに死なないのだ、なかなか。そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたとこをボンと殺る。揚子江に流れていく。---

 戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼付けられて忘れることが出来ないで困った。私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の眼にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。(引用終わり)


写真(右):南京で処刑された捕虜
(1937年12月頃);1万-2万名の捕虜を収容する施設も不備で,食糧・食器も不足していた。捕虜監視・収容所維持のために,いつまでも日本軍兵力を拘束するわけにもいかない。捕虜殺害ではなく,後送する命令も出た。進軍のために捕虜収容などできない部隊は,捕虜が脱走を図ったように見せかけ,長江(揚子江)沿岸で処刑。

第16師団経理部予備主計少尉"><『小原立一日記』 (事件研究者web引用)
十二月十四日
(中山門外にて)
最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人づつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す-----
中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた

個人の意図、戦争への思いは,政府・軍の戦略・政策の前で議論されることはない。個人と国家の意思とが乖離していても、兵士は、命令に従い戦闘に加わるのみである。個々の兵士に戦略・政略を説明し,合意を得てから,戦争をする----といった国や軍は、どこにもない。兵士としては,否が応でも銃をとり、敵を殺すしかない。「やらなければ、こっちがやられる」状況に投げ込まれてしまえば、どのような兵士でも、敵兵を殺すことができるのか。

7.日本でも中国でも報道の自由を認めれば、戦争遂行に支障が出る。これは、軍事機密、軍の交戦意志、国民の士気、動員、政府・軍の権威に関わるからである。敵によるプロパガンダにも配慮しなくてはならない。したがって、日本軍・中国軍ともに、新聞記者や従軍カメラマンを対象に報道規制をし、自らに都合の良い報道をさせた。中国が、日本軍の残虐行為を非難し、中国による抗日活動を激化させ、列国の反日感情を高める目的であり、極めて当然なプロパガンダである。プロパガンダだからウソだというのは、単純に過ぎる。


写真(右):裸にされ殺害された中国人男子
(1937-1938年):兵士かどうかは不明瞭。金品や私物を取り上げてから処置。日本軍は、捕虜の収容所,食料の用意をしていなかった。日本に反抗する敵の人権は認めなかった。安易に重罪人の処刑が横行し,暴虐な中国反乱者の処刑は,残虐とは思わなかった。

日本軍残虐行為は,列国のメディアにも知れ渡った。日本政府は,領事館からの報告で、日本軍残虐行為が,反日プロパガンダとして巧妙に利用されていると考えた。米国のNew York Times「日本軍の蛮行」の記事に,日本政府も注目していた。1937年の「支那事変関係情報綴」の中に次の資料が見受けられる。

 内閣情報部一二・一八 情報第一四号 ニユーヨーク・タイムス紙「日本軍の蛮行」を誣ふ
同盟来電 不発表 ニユーヨーク十八日発
New York Times南京特派員テイルマン・ダーデイン氏は十八日南京から上海に帰還したが、南京の市内に於ける日本兵の行動につき、左の如く報じている
「南京占領に当つて日本兵は残虐と蛮行の限りを尽した、日本兵は上官の面前で金銭と言はず、貴品と言はず、欲しいものは何でも掠奪して憚らない有様だ、多数支那人住民が第三国人に語る所によると、日本兵は支那人の既婚、未婚の婦人を誘拐、強姦していると言ふ話で、捕虜は勿論一人前の男はすべて容赦なく虐殺されていると言はれる」

北支事変関係情報綴(作成者:内閣, 作成年月日: 1937年7月14日)
 内容: 情報委員会 同盟来電 (十四日着) 不発表
ロンドン十三日発 北支事変勃発後最初の英紙社説として十三日マンチエスター・ガーデアン紙「北支事変は或るは戦争に迄発展するかも知れないがこの場合日本が右事変を以て戦争の原因なりとした所でそれは単に口実に過ぎない、一九〇一年の北清事変に関する最終議定書に依り日本は北支特定地点駐兵権を持つてゐる、駐兵数に制限はないが関係国将兵全数は八千二百人に限定されてゐる、在北支日本将兵数を見るに実際数は判明せぬがその割合が不均衡なるは明白で、或は右将兵数を越えてゐるかも知れぬ 又条約上各国は演習権を有する---。」

◆日本が中国に持つ特殊権益(軍隊の駐屯権,演習権)など口実にして,中国に侵略戦争を仕掛けているとの列国マスメディアの非難を,日本政府は正確に認識していた。盧溝橋事件直後から、列国では反日報道がなされていた。


写真(右):南京で捕虜を連行する日本兵
(1937年12月);南京で大量の捕虜を獲得した。日中戦争当初は,降伏した捕虜に対して過酷な処置が取られるとは,捕まり,降伏した中国兵士たちも予測していなかったようだ。捕虜となった夫についてきた家族もいたと記録されている。

支那事変関係一件/世論ならびに新聞論調/支那側宣伝関係 第四巻
 作成者: 在ホノルル総領事 水澤孝策 
 作成年月日: 1938年12月1日
昭和十三年十二月一日 在ホノルル総領事水澤孝策 外務大臣有田八郎殿
支那総領事ノ反日運動ニ関スル件
当地駐在支那総領事梅景周ハ随時反日的言動ニ出テ居ル次第ハ十月二十二日附拙信機密第三六三号ヲ以テ申進ノ通ナル処十一月二十日二十七日ニ至ル間当地支那難民救済基督教委員会発企ノ募金運動行ハルルヤ同総領事ハ二十四日当地両英字紙スターブリチン及アドヴアタイザー紙上ニ「宣教師ハ対支援助ヲ高唱ス」ト題シ別添切抜ノ如キステートメントヲ発表シ其運動ニ対シ誠意ヲ表スル一方在支一般外人宣教師ノ難民救済振ヲ紹介激賞シタルカ右ハ其反面ニ於テ日本軍ノ残忍野蛮ヲ暗示スルカ如キ書振ヲ為シ居レリ

 在ホノルル総領事は,南京攻略までに日本軍による残虐行為が実際に行われたのかどうかを判断する具体的な材料を持っていない。支那総領事の反日プロパガンダ,現地のマスメディアなど残虐事件の報道記事,世論を紹介した。しかし,報告をしてきたのは,インパクトがあったからである。日本の総領事は,日本軍兵士による残虐行為を気にかけていた。

『南京事件の真相』(第六師団戦記)(pp.191-192)には,次の報道規制・検閲記述があるという。

  未検閲記事は銃殺だぞ
 藤原武情報主任少佐参謀が出発直前に、熊本駅長室に従軍記者代表として、大毎記者五島を命令受領に呼び出す。
 「五島、わが六師団はいよいよ出発征途にのぼるが、オレが情報主任参謀としていっさいの報道関係の責任者だ。従軍記者諸君に伝えろ。よいか、軍に不利な報道は原則としていっさい書いてはいかん。現地では許可された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は即時内地送還だぞ。記事検閲を原則とし、とくに軍機の秘密事項を書き送った奴は戦時陸軍刑法銃殺だ」

写真(右):中国戦線における日本軍の不許可写真:1938年5月頃撮影。毎日新聞社の従軍記者が自ら撮影したり,戦地で兵士が撮影した写真を集めたりして,報道写真とした。公開前に,陸軍の報道部で検閲を受けた。不許可になった写真は,公開できなかった。ここは,津浦戦線の写真の検閲状況である。上は「胡山付近の敵陣を陥入れた田村戦車隊の万歳」。中2枚の日本兵が中国人捕虜を銃剣で刺している参考写真は不許可。下は「作戦をねる田村戦車隊」。隊名は○○、砲身は消す指示がある。
参考写真とは、不許可となる予想がついている写真(死体など)に現地特派員がつけたもので、検閲にまわさず社内極秘として保存されたものだが、この2枚の写真がなぜ検閲にまわったのかはわからない。」と記されている。


東京日日新聞写真部員佐藤振寿氏の従軍カメラマンの証言には次のよう当時の写真撮影の意味と検閲が記されている。

 「中国に従軍カメラマンとして赴いたのは、1937年(昭和12年)9月から1938年2月までです。僕はカメラマンとして入社5年目の24歳でした。まず東京の第101師団の上海戦線に従軍しました。この101師団は、全く訓練を受けていない町の八百屋や魚屋の旦那を召集してつくった特設師団で、残念だが弱かった。そりゃ本気でやる気ないですよ。1カ月6円ほどの月給で、命を投げ出さないです。本来の現役兵で編成された常設の第1師団は満州での対ソ警備についたためつくられたのです。

 上海戦線は平地でそこにクリークがある。隠れる所がないので、塹壕戦です。その前線まで、上海支局からは約30km。毎日、新聞社がチャーターした自動車で通っていました。
 前線で写真を撮り、夕方支局に戻るとすぐ、日本租界にあったDPE屋に9×12のフィルムを渡す。それを毎日繰り返した。戦争に休日はありません。

 さて、前夜DPE屋にフィルムを出すと、翌朝現像されていて、前線へ行く前に、僕はそれにキャプションを書く。この原稿を支局がまとめて、1日おきに出ていた上海―長崎間の連絡船に渡す。長崎支局がそれを受け取り、門司支局へ届け、そこからすぐに東京、大阪、名古屋へと電送されます。と同時にオリジナルのフィルムはすべて大阪本社に送られました。軍は当時、従軍許可を出し、軍の作戦に妨げにならない範囲で戦場での撮影も許可しましたが、撮ったものは必ず検閲を受けなければばならず、検閲を通ったものだけ発表を許すということになっていました。

 当時、現場の僕たちは新聞が読めないから、何が不許可になったのか、一切知りませんでした。当時、撮っても検閲に通らないと教えられていたのは、日本兵でも中国兵でも死体の写真でした。他は何もなかった。戦車などの写真も、ある程度いけないと思いましたが、万が一許可されるかもしれないと思い、角度を変えたりして、撮っていました。が、そもそも検閲とか不許可ということは、あまり念頭になかった。
 不許可になったことを、戦後知ったもので、---。当時の検閲の基準は曖昧というか、検閲官によって違っていました。いい加減な印象を持っちました。

 12月12日は、南京の中山陵(紫金山麓の孫文[孫中山]の陵墓)近くの中山文化教育館というところにいました。13日、中山門が落ちたと聞いて現場に向かったが、途端に右手の山上からチェコ機銃(1926年チェコ陸軍がブルノZB vz.26軽機関銃として制式)に撃たれ、身動きできない。やっとの思いで中山陵(紫金山麓の孫文[孫中山]の陵墓)に着き、孫文の像を撮った。その最上階から参道を見おろす写真を撮り、同時に南京城の全景も撮った。この時、城内からは大した物音は聞こえなかったが、火災の煙のようなものがあがっていた。

 さらに中山門(1928年孫文の国葬時に建設)へと走ったが、途中、徒歩で来た兵隊が大勢いた。中山陵The Sun Yat-sen Mausoleum)を背景に記念写真を撮り、上海―南京街道に出た。そこには車両部隊が渋滞していたが、道路に止まっている豆戦車はアンテナに小さな日の丸の旗をたなびかせていた。これらの渋滞する車両部隊の間をすりぬけて中山門へ行こうとしたが、中山門はこちら側の城壁が大きく崩れていた。近づくと、中山門の鉄扉に「昭和12年12月13日午前3時10分 大野部隊占領」と白墨の文字があった。中山門に登り、「南京陥落」を象徴するものとして、日本兵の万歳を撮ったが、まだ何か足りない。中山門の崩れた城壁の下には、歩兵部隊が大勢集まって、登る順番を待っていた。

 中山門から下りて中山東路に向かったが、そこには中国兵の姿は見えなかった。---国民政府のあった建物へ連れていってもらった。兵隊たちに門の上に登ってもらい、門の上の柱に小さな日の丸を掲げ、写真を撮った。これらの写真のフィルムは南京陥落のニュース映画のフィルムなどとともに、本社の飛行機が上海まで来るため、連絡員が終夜オートバイを飛ばして上海に届けたのです。飛行機は福岡に運ぶのですが、福岡から大阪、名古屋、東京へと電送されて「南京占領写真画報」として、新聞表裏2ページの写真号外第1号、第2号と、2回にわたって発行されたのです。(引用終わり)

写真(右):中国捕虜の処刑あるいは捕虜を使った銃剣刺殺の訓練(1938年夏頃);日本から出征した兵士たちは,中国兵を降伏させ,敵を打ち滅ぼす。処刑も勇猛果敢な日本兵の行為として認識されており,「残虐行為」ではない。捕らえた敵兵に対する人権は,認められていなかった。1938年の夏、南京近郊で日本軍将兵による銃剣刺殺の様子とされる。

南京城内の敵兵掃討を命じられた第十六師団長『中島今朝吾日記』には次のようにある。(事件研究者web引用)

十二月十三日 天気晴朗
(中略) 
捕虜掃蕩
一、十二日夜仙鶴門堯化門付近の砲兵及騎兵を夜襲して甚大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有したるが如きも其後漸次戦意を失ひ投降するに至れり 
  一、十二日夜湯水鎮附近にも敗残兵の衝突ありたりとて軍司令部衛兵、警備中隊が戦闘したりとて師団輜重の通行中、弾薬補給を要求せられたりと云ふ
  一、宮殿下の御身辺を警護するの必要を感じたるを以て参謀長は一−二中隊を増派せんとして之を軍参謀長に打合せしめたるに既に第九師団より歩兵一こ聯隊を出したりと云ふことを聞けり
  己れの作戦地境内にあらず又第九の隊は第十六の隊より近きにあらず敗残兵に対する目的を以て歩兵一コ聯隊を派遣したる人の心の底は真に同情に値するものあり依りて我方は手を引きたり

一、此日城内の掃蕩は大体佐々木部隊を以て作戦地境内の城門を監守せしめ草場部隊の二大隊を以て南京旧市より下関に向かつて一方的圧迫を以て掃蕩せしむこととせり
  一、然るに城内には殆んど敵兵を見ず唯第九師団の区域内に避難所なるものあり老幼婦女多きも此内に便衣になりたる敗兵多きことは想察するに難からず

  一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも一部の外国人が居りて辛ふじて面倒を見あり
   出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く何れ兵は自然に死して往くならん
   此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
 依りて師団は使用の目的あれば何れへなりと立退くことを要求せり
   又日本軍が手当てすることは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて至る処に捕虜を見到底其始末に堪へざる程なり
  一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず
   唯彼等が全く戦意を失いゾロゾロついて来るから安全なるものの之が一旦騒擾せば始末に困るので部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ
 十三日夕はトラックの大活動を要したり
 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず
   斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に至りて知る処に拠りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇
 其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり

一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云う暇なくして東奔西走しつつあり

一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵器の収集も之を為さざるべからず兵器弾薬の如き相当額のものあるらし
   之が整理の為には爾後数日を要するならん

写真(右):高山流の刀剣の形の見本演技(1935-1944年頃);日本では,武士の魂として刀剣が尊重され,陸軍戸山学校では銃剣術が訓練され、将校・下士官は軍刀の形ぐらいは練習していた。高山剣士に第16師団長中島今朝吾中将は「大体捕虜はせぬ方針なれば」としたが、自らの刀剣を貸して,その場で捕虜の試し斬りをしたら,見事に切れた、との記述がある。敵兵を斬れない将兵は臆病者とされた。

武士の魂を映す美しい日本の軍刀・刀剣を戦場に持っていった日本軍兵士も多い。これは,伝家の名刀,新規に購入した刀剣,日本軍の制式軍刀などがあった。刀剣は,将校下士官の個人装備であり,軍が無償支給する武器ではなく,自弁(自ら購入)しなくてはならない。海軍にも海軍式軍刀があった。

軍刀・刀剣は,下級の兵は持てず,下士官や将校の権威の象徴である。現在も軍刀・刀剣のコレクター向けに販売されている。
当時,中島今朝吾中将と同じように「将校・下士官たるもの,軍刀・刀剣くらい使えなくては一人前の兵士ではない」「軍刀・刀剣を佩用しているのに,敵を斬ったことのない者は,臆病者だ」という意識があった。

1924年(大正14年)に陸軍戸山学校両手軍刀術は考案された。これは,斬撃(正面より刀を振り上げ、左足を十分に踏み切り、右足より素早く進出して切り込む),刺突(右足より素早く進出して勢い良く敵に刀を付きこむ,面,籠手,胴,反撃突(敵の攻撃を刃又は鎬で払い除け、其隙に乗じて攻撃を加える)がある。従来のサーベル型軍刀(片手軍刀術)から日本刀型軍刀(両手軍刀術陸軍戸山学校でも日本最後の実戦剣術とされる。

小銃や機関銃で武装している敵兵に,軍刀・刀剣を手に斬り込んでも,すぐに撃ち殺されてしまう。「斬り込みをかける」は,勇敢な突撃の表現である。 軍刀・刀剣を研き、軍刀術を修めることは日本軍兵士・武人の誇りである。大日本帝国の将校・下士官として,軍刀・刀剣は,武人の象徴として,戦場に持ち込まれた。

軍刀・刀剣を使わない飾りとするのは惜しい。一度は実戦に使いたい。射撃している敵兵に刀で立ち向かうことはできない。けれども,戦闘の延長とみなし,降伏した敵・捕虜を斬殺することはできる。斬殺に怖気づく兵士は、「武士の魂」の刀剣を保持する資格はない臆病ものであろう。

人を斬殺すれば,返り血を浴びる。一撃で倒すのも難しい。軍刀・刀剣を上手に使用するのは、難しく、多くの将校・下士官の刀は権威の象徴,飾りだった。しかし、一流の刀剣の使い手は,一撃で敵を倒す。その証明のために、斬殺、斬首した人物がいた。斬首できる勇猛な兵士が,一流の軍人とされるのは、現代の感覚では、恐ろしい。


写真(左):刀剣の形(1935-1944年頃);日本の高山流。白兵抜刀術として訓練されたが,精神修養に重きがあるのか。

軍刀佩用の名誉を許された将校・下士官でも,軍刀の実戦使用率は低い。研究者によれば,支那事変時の支那派遣軍(北支那方面軍・中支那派遣軍等)は約60万人中,将校約1万6,000人、下士官約6万6,000人以上である。軍曹・伍長も帯刀しているので、中国には約8万2,000本振りの軍刀・刀剣があったようだ。

成瀬関次『戦ふ日本刀』では,中国に軍刀修理班として9ヶ月滞在,1,681振りの修理時点で、戦闘損傷30%(約500振り)、残り70%は全く戦闘に関係ない無茶な試し斬りや行軍中の事故であるとした。柄に拘わる損傷は全修理数の60%(約1,000本)で、戦闘ではほぼ最初の一撃で発生している。総軍刀数90,000振りに対して、成瀬関次の修理班担当は約500振りで、実戦使用率は0.5%と極めて低い。

白兵戦,肉弾戦,接近戦とは,敵味方が銃剣・刀剣を用いた斬り合いではなく,戦時中刊行の成瀬関次『戦ふ日本刀』は,軍刀の損傷に実戦でのものが少ない,と嘆いている。しかし「白兵戦こそ皇軍の真髄」と建前を書くのも忘れない。

1944年満州・ソ連国境付近の駐屯部隊で、中山泰三郎氏は、刀剣と銃剣の形を指導している。そこで,白兵戦を刀で斬り合い戦いと錯覚している識者もいる。しかし、砲火,銃弾が飛び交う戦場で,敵兵を刀で斬り倒すことはまずできない。夜間の隠密行動で,敵兵に接近して斬り殺す(映画のような)潜入襲撃など至難の業だ。

白兵戦とは,敵の砲火を恐れず,(火砲を持たない)部隊が小銃だけで,勇ましいしかし無謀な突撃をし、軍人精神を発揮する戦闘である。戦車はもちろん,機関銃も不十分な火力の乏しい歩兵部隊が,敵に打ち勝つには白兵戦しかない。そこで,日本陸軍でも陸軍戸山学校でも,白兵戦を重視し,軍刀・刀剣を否定するような言動を許さなかった。白兵戦を戦ったとは,勇猛な軍人精神を称える表現である。

日本軍では,報道規制、陸軍『歩兵操典』の建前から,白兵戦の勇猛果敢な「斬り込み」、斬り合いイメージに疑念を抱かせる表現は,突撃精神を阻害するものとして許されない。実際の「斬り込み」とは,降伏した敵を有無を言わさず即座に銃剣,軍刀で斬った遭遇戦であろう。

肉弾戦という表現は,日本陸軍の建前の上,否定できない。しかし,小銃と火砲が戦いの主力であり,刀剣は脇役ですらない(拳銃が脇役)。白兵戦,肉弾戦,接近戦で,銃剣・軍刀は主力兵器ではない。つまり,刀を使って一方的な「白兵戦」「斬り込み」が可能なのは,敵兵に戦意が無いとき、降伏してきたとき,あるいは銃をもたない逃亡兵・民間人を斬る場合に限られる。

成瀬関次『戦ふ日本刀』からは,軍刀の実戦使用率が低いといが,損傷している軍刀が1600振りもあることに驚かされる。木立の試し切り,砲車や荷持にぶつけた損傷のほかに、捕虜や民間人の斬殺もあったのか。

 南京攻略では,予定外の進撃で,補給が滞り,ゲリラ戦にも悩まされた。20世紀前半の人権軽視の世論の中で、敵兵士、ゲリラ兵など反抗するものを処刑しても、それは残虐行為とはみなされず、メディアンの報道でも、それを隠さずに、敵に斬り込み、敵を「殲滅」「全滅」したと述べていた。ここでの殲滅・全滅とは、兵力が半減したことを指す軍事用語ではなく、惨殺、銃剣での刺殺、皆殺しを含む敵の「排除」を意味している。

歩兵銃で撃てば済むのに、銃剣と軍刀・刀剣をつかって敵の逃亡兵・捕虜を処刑するのは,?弾薬節約,?一流の使い手・勇猛な兵士としての証明,のためである。白兵戦で銃を撃ってくる敵兵に斬り込み、惨殺するのは不可能だが,戦闘の延長としての捕虜の斬首なら,可能である。

 1938年ごろ、南京近郊の刀剣による公開処刑「記念写真」が残っている。刀剣による斬首は,一流の使い手、「サムライ」の証明である。刀剣・軍刀を持っているからには、一度くらいは実戦使用したい。その姿を記念写真に残したい。

写真(左):九四式軍刀;皇紀2494年(1934年)に日本陸軍に制式された美しい刀剣だが,兵士に無償で支給されたのではなく,将校・下士官が自弁した。片手で使うサーベルや指揮刀もあった。

銃剣は,小銃や日本では軽機関銃の銃身の先に装着する刀剣である。近代になって,小銃が主要兵器になったが,接近戦の場合,発砲する余裕がないままに,相手を刺し殺すことが考えられた。つまり,白兵戦で,最後の武器として銃の先に装着した銃剣を使う。銃剣の訓練も行われ,わら人形やバックなどを突き刺した。銃剣は実戦で使用するというよりも,兵士の勇猛果敢さ,突撃の意思を鍛え上げる銃剣刺殺訓練に用いられた。

しかし,第一次大戦でも,歩兵にとって,戦闘中に銃剣を使って敵兵を倒した経験は,ほとんどない。銃剣は,食材切断,塹壕堀,偽装あるいは薪用採取に使われた。敵兵を刺殺するした経験のある兵士は少ないのである。そこで,銃剣を実際に使うために,あるいは銃剣刺殺実地練習にとして,憎むべき敵兵の捕虜をあてがうこともあった。現在でも、闘志を養うために、自衛隊で銃剣突撃・刺殺練習が行われている。

日本の代表的な銃剣は三十年式銃剣である。三十年式とは,明治30年(1897年)に三十年式歩兵銃の先端に着装する白兵戦用兵器として制定されたためである。全長 51.2?・剣身長40?,刀身はゾーリンゲン鋼又は陸軍刀剣鋼で,刃は19?。三十年式銃剣は,明治30年から1940年(昭和20)年の終戦まで、約50年間も製造され,日本の代表的な小銃である三八式歩兵銃、九九式小銃に装着。全長52.5cm、刃渡り40cm、重量は約700g。兵士からは「ゴボウ剣」と呼ばれた。

着剣し銃剣を使う銃剣術は,現在も銃剣道として国体の制式種目である。白兵短剣術では,刀剣としても使用する。「戦地で動物などを捕獲、解体する際にも用いられた」が,捕虜処刑に刺殺が多用された理由は,度胸試し銃剣術の訓練、弾薬節約のためである。

  写真(右):米軍のM1905銃剣の訓練(1942年6月カリフォルニア州の海兵隊基地撮影);フランス軍に起源を持つ銃剣Bayonetは,実戦用というより,勇猛果敢さ,突撃精神の鍛錬である。世界の軍隊で現在でも小銃に銃剣が装着されている。Bayonet training on Parris Island, S.C., June 1942. Notice the M1905 bayonet on the left is Parkerized while the M1905 on the right is bright bladed. The recruits are wearing the pith type sun helmets. The trainee in the center background has the M1917 bayonet scabbard mounted on his rifle belt under his ammo pouch?

事変当初は、従軍カメラマンが、捕虜処刑の写真を撮影しても,「勇猛さ」を示す行為は、検閲で不許可,新聞掲載差止めになることはなかった。残酷な写真の流出は,プロパガンダのようだが,人権軽視の状況で、逆徒は,裁判なしに処刑された。日本兵が敵中国人を処刑した勇猛な記念写真を,中国、列国は反日プロパガンダとして使用した。事実を誇張したプロパガンダは説得力がある。処刑は一部軍人の「勇猛さの顕示行為」だったが、残虐性を示すものでもあった。

捏造プロパガンダ説の盲点は次のとおり。
?「残虐行為」が日本軍兵士の持つカメラによって,「勇猛な行為」、出征記念として写真撮影された。
?戦友を殺害し,抗日活動をした中国兵・ゲリラ・敵性住民・捕虜を成敗することは,日本軍兵士として勇猛な行為として賞賛されていた。(だから百人斬り新聞報道も歓迎された。)
?写真の現像焼増は,現地の写真館で個人的に行われ,「残虐行為」を怒った人の手によって無断で持ち出された。
◆敵殲滅、敵兵処刑という味方の「勇猛な行為」は、敵からは「残虐行為」、南京大虐殺事件としてプロパガンダに利用された。


8.中国兵捕虜、便衣隊容疑者などの処刑は、捕虜収容施設、捕虜のための食料、監視兵力に関わる負担が重く、日本軍には準備できない。潜在的敵対者は釈放せず、処刑するのが「予防戦争」である。(反抗勢力が成長する前に退治。)

日本軍兵士の大半は,敵兵捕虜の取り扱いについて,教育を受けていない。日本軍は,日中戦争の初期に,捕虜のための食糧,収容施設も準備してはいない。1938年9月29日の支那派遣部隊補充員戦用糧秣供給の件では,「食糧を捕虜のために交付する必要はない」と命じていた。日本軍用の食糧も不十分な状況で,兵士たちは,現地住民宅で,物資調達,徴発をする。支払いをしたり,支払いを約束する手形を書いたりしもしたが,略奪が多かった。


写真(右):南京で捕虜を縛る日本軍兵士
(1937年12月頃に米国人宣教師エルネスト・フォスター撮影);日本軍は,掃討戦と称して,便衣兵,敗残兵,逃亡兵を捜索し,捕虜とした。しかし,正規軍の中には,部隊として降伏,投降した例も多い。日本軍兵士は,中国人蔑視の感情に加えて,捕虜収容の準備不足のために,捕虜を収容は続けなかった。A Chinese soldier captured by Japanese troops.In Nanjing, the remnants of the defeated army, whether they voluntarily surrendered or whether they got captured as they straggled, were mercilessly killed in the name of "mopping-up" operations.

現地の日本軍にも,戦友を殺害した敵捕虜を優遇するつもりはない。食料など補給物資の不足の中で、更なる作戦を継続するためには、捕虜をいつまでも生かしたままにすることはできない。

支那派遣部隊補充員戦用糧秣供給の件(昭和13年「陸支密大日記」 64号)
 作成者: 留守第八師團淺川一衙
 作成年月日: 1938年9月29日
軍事機密 陸軍省受領 陸支密受第11051号
弘經動第六六号支那派遣部隊補充員戰用糧株供給ノ件
報告 昭和13年9月29日 留守第八師團長 淺川一衛
陸軍大臣 板垣征四郎殿
昭和十二年十月陸支密第一、三九七号ニ基ク首題ノ件別紙ノ通報告ス
本表@@爲十三年四月三十日陸文發一、三六五号シヨリ交付シタルモノヲ充当シタル
捕虜ノ為メ交付ヲ要セス


写真(右):南京で遺体を焼却処分
(1937年12月);南京で大量の捕虜や便衣兵を殺し,遺体を償却しようと石油をかけて燃やした。これは,?無抵抗な捕虜を大量に処刑する行為は,国際法違反に問われかねないと,日本軍の指揮官が危惧したこと,?銃撃で死亡したかどうかの確認のために,木綿服を着た中国人に火をかけて確かめたこと,?殺害の責任追及・報復を回避するために,死体の身元確認を困難にすること,が理由として考えられる。南京には,スタンダード石油なども営業していたので,鹵獲した石油を遺体にかけた。貴重なガソリンであるが,帳簿外の戦利品であり,本部に(獲られてしまう)ガソリンを運搬する手間はかけたくない。日本全体の戦略を下に行動するのではなく,所属部隊の利益を優先する部隊エゴイズムを踏まえれば,鹵獲ガソリンを死体焼却に使うこともありえる。

第十六師団長中島今朝吾日記(所収『南京戦史資料集1』pp.219-220または『南京戦史資料集』旧版pp.325-326)(中島今朝吾日記第十六師団長・陸軍中将)引用) 
十二月十三日 天気晴朗
一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり 支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり
  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く 何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除(退)くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底始末に堪えざるなり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず
 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので
  部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ 
  十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず
 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず
 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理
する予定なり

一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり

一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ(器)の収集も之を為さざるべからず
兵キ弾薬の如き相当額のものあるらし
 之が整理の為には爾後数日を要するなり。

写真(右):1937-38年
:『南京大屠殺与国際救援図集』p65。「侵略した日本軍が虐殺した中国難民の死体の山」後手に縛られ,左を向いて崩れているために,並ばされて殺害されたと思われる(引用)。

第十六師団第三十旅団長佐々木到一少将『ある軍人の自伝』勁草書房(pp.334-335)には次の記述がある(事件研究者のweb佐々木到一「ある軍人の自伝」引用)。 
 (1937年)十二月二十六日、宣撫工作委員長命ぜらる。城内の粛清は土民にまじる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するにあるとともに我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじすみやかに秩序と安寧を回復するにあった。予は峻烈なる統制と監察警防とによって概ね二十日間に所期の目的を達することができたのである。

 (1938年)一月二日、敵機五機大校飛行場を空襲。損害なし。

 一月五日、査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容。外に宣教師の手中にありし支那傷病兵を俘虜として収容。
 城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す
 南京攻略戦における敵の損害は推定約七万にして、落城当日までに守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せられる。

9.中国兵捕虜は,天皇陛下に逆らい、日本兵・日本人居留民を殺害した暴虐な謀反人である。敵の公開処刑は、残虐行為ではない。敵を打ち滅ぼす勇ましい行為,刀剣の一流の使い手として、誇るべきものとされた。

刀剣による処刑銃剣による刺殺など日本では決して実行できない処刑が,中国では,日本兵によって行われた。殺害規模については,議論がある。

中国戦線では,内地と違い、斬首,刺殺が可能だった。腕を試す,腕を磨く兵士もいた。戦友が殺害され,日本人が暴行されたとして,中国人に対する憎悪を抱いた日本軍兵士にとって,敵兵への報復は,残虐行為とは認識されない。荒廃した戦場を経て,斬首や刺殺を行うことができる精神状態になった兵士もいた、度胸試しとして,刺殺を強要された日本軍兵士もいた。

写真(右):軍刀の手入れをする日本兵(1937-1938年頃):軍刀・刀剣は,日本軍が支給したのではない。兵士が自弁し持参した(拳銃も同じ)。日本刀は,武士の魂であり手入れを怠らない。戦闘が,一段落して,手入れしているのか。それとも,使用するために,あるいは使用後に手入れしているのか。

写真(左):南京の公開斬首(1938年頃);捕虜をいつまでも収容することは,収容施設の不備,食費の負担,監視兵力の不足からできない。戦友を殺害した敵兵は憎悪された。したがって,敵捕虜は,処刑する。

南京から退却しようとした中国兵の中には,長江に沿って西進したり,対岸に渡ろうとしたりした逃亡兵も多かった。敗残中の逃亡兵を殺害する行為も,戦闘による殺害に含めることは可能である。

降伏して捕虜にした中国軍の兵士,中国民間人の服を着た便衣兵容疑者は,武人とは認められない。しかし,抵抗できない捕虜を惨殺しても,刀剣・軍便衣兵容疑者なども,殺害された。日本軍は,捕虜収容施設,食糧を準備していなかったから,数千人に達する捕虜を得たものの,やむをえず処刑したようだ。

捕虜の処刑が国際法違反であると感じた指揮官もいた。自らが便衣隊の暗殺テロの標的になることを恐れ,捕虜の処置を,部下任せにした責任回避も行われた。食糧物資の補給も不足したまま過酷な戦闘を強いられた日本軍兵士の中には,戦友を殺害した中国兵への報復の感情もあった。

写真(右):南京の公開斬首(1937-1938年):中国軍から頑強な抵抗を受けた日本兵は,戦友を殺したであろう敵兵捕虜に対して,同情を感じなかった。報復の意味もあって,容赦なく処刑した。

公開斬首でも,対象は成人男子の中国兵(容疑者)である。女子を試し切りにしても,刀剣・軍刀の一流の使い手,武人とは認められないからである。しかし,抵抗できない捕虜を惨殺しても,刀剣・軍刀の一流の使い手,武人とは認められない、と感じた日本人もいたに違いない。

10.中国に出征した日本軍兵士のなかには、中国で無税の安価な高級カメラを購入して、出征記念写真を撮ったり、他の兵士に販売したりした。勇敢な行為、敵撃滅なのど写真も、中国の写真店で現像・焼き増しされ、現地雇用者が無断で焼き増しした。こうして、残虐行為の写真が、世界に流出した。

 1937-1938年頃に、日本軍兵士・従軍カメラマンによって自らの残虐写真が撮影された理由は,どのようなものだったのか。これについて,兵士の写真熱として,専門的に解説されている研究者もいる。この考察に値する議論を引用して,残虐行為の写真撮影について,解説してみよう。

中国戦線にカメラを持参した日本人としては,第一に,従軍カメラマンがあげられる。例えば村瀬守保カメラマンは『私の従軍中国戦線』を公刊できるだけの写真を撮影していた。さらに,日本軍兵士自らが,カメラを持参して撮影した写真も多数ある。これについては,事件研究者webには,麻生徹男(1983)『上海より上海』石風社(pp.72-74)に,次の記述がある。

南京陥落の頃、上海では、高級カメラが日本の3分の1の値段で買うことができ、しかも、カメラの購入が勧められていた。自らのあるいはカメラを持たない大半の兵士にも,「出征記念帳」が販売されていた。

 昭和十二年の暮、南京は既に陥落し、当時上海に在った私達は、これで戦争も終った、もうすぐ内地帰還と、凱旋気分に浮々していた。そして何が土産物に相応しいかと血眼であった。そのためには何と云ってもカメラが第一であり、陸軍武官府経理部に行って、一枚のガリ版刷りの免税用紙を手にすれば、高級カメラが日本内地の三分の一ぐらいの値段で、容易に買い取れた。

 従って在上海の部隊長達も、若い連中が金を使って悪い遊びをするより、この方が余程よいと云ってカメラ購入を奨励されていた。然しこのカメラ熱も、後程、上海地区警備担当の、東京百一師団が、九州師団と交代した頃で終り、以後はカメラの機種に、身分相応の但書きがつき、私達見習士官では新鋭高級機は及びもつかなくなり、又、免税証の入手も困難に成ってしまった。

?写真現像の場所
 上海のカメラ店と言えば、先ず第一に千代洋行で、本店は蘇州河の彼方(川向い)の南京路にあって、日本軍の占領地域外の為、日本軍人は到底行ける所ではなかった。
 聞けば田中君は千代洋行の暗室作業をしていられるので呉淞路の同店に行けば分るとのこと。そして行って見ると店の前と後は兵隊の黒山である。カメラ漁りの群集の他に、店の裏にある風呂屋に集る内地や北支から転進して来た兵たちで一ぱい。

 この一角のアパートの一階の住宅が、田中君の作業場で、大きな木製の風呂桶が、定着タンクになって沢山のフィルムが処理されていた。田中君は、本来なら陸戦隊本部の前にある完備した暗室にて、自動処理仕上げが出来るのだがと、些かぼやいていられ、当時兵隊さんの依頼するDPに、正視に耐えない残酷なものが多くて困るとも、洩らされていた。

写真(左):南京での捕虜斬首:従軍カメラマン以外にも,中国で安価に購入したり,略奪したりした写真機を持つ日本兵もいた。度胸を示す行為として,刀剣の一流の使い手の証明として,斬首を撮影することに抵抗はなかったようだ。複数の日本兵がカメラを持ち,さまざまな角度で写真を撮影した。写真を現像した写真店の中国人が,無断で焼き増しし秘蔵した。

『浅羽町史近現代資料編』に掲載された軍事郵便に,天津や南京攻略のときのゲリラ討伐・敗残兵狩りを記述した次の手紙がある(1999年12月10日−12日東京,「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」小池善之南京大虐殺と軍事郵便 引用)。

兵士は軍事郵便を、天津→杭州湾上陸地点→南京→安慶→漢口で書いており、それは同時に兵士の属する部隊の移動コースでもあった。小池善之氏の調査により『支那事変第二軍兵站関係書類』 の移動コースと部隊長名から第三師団第二陸上輸卒隊 の所属と判明。

  第三師団第二陸上輸卒隊の行動は,次の通りである。
1937年7月20日〜10月18日:天津;軍需品の輸送業務・鉄道警備
1937年10月20日〜1938年2月18日:天津より華中の金絲娘橋上陸。南京へ。南京では鋤柄兵站司令部に所属。
1938年2月18日〜7月7日:南京・安慶作戦;病馬廠の業務援助。
1938年7月7日〜1939年1月25日:武漢攻略作戦;戦間、安慶で池田龍兵站司令部に所属。漢口攻略直後、漢口へ。
1939年1月25日〜3月8日:漢口から復員(帰郷)

写真(左):辱められ殺害された中国女性;1937-38年撮影。日本軍にも婦女暴行罪はあったが,軍紀の弛緩した部隊では,処罰されない場合が多かったようだ。

第三師団第二陸上輸卒隊所属の兵士の出した軍事郵便
 「今いるところは天津であるが、毎日天津より南西の二十里位の所の列車警備に行くのですが、実弾がビューと音立てて走って来るのですこぶる気持ちが悪いよ。-----天津でも毎日毎日便衣隊が我々の手に捕われるのですが、道路上で皆銃殺してしまいます。幾日も幾日も置いて紫色にくさった様を見て、初めは食事もとれませんでした。しかし今は何とも思いません。故郷の方でも相当騒いだことでしょう。天津の戦いは、大きな建物は我が空軍の為に全部破壊されまして見るも哀れな姿です。---」

 「このころは毎日、保定永定河近くに自動車にて残兵狩に出ています。今いる自分等のところから近いので、自分等の夜も安心するように毎日出ていくのです。毎日五人や十人くらい殺して帰ります。中には良人も殺しますが、何分気が立っているので、いる者は皆殺しです。哀れな者さ、支那人なんて全く虫だね。」

 「杭州から南京まで百里の余りも毎日毎日行軍で苦労したよ。全くこの時ほど国のためにはこんな苦労もするのかと思ったよ。米なぞも都合悪く、汽車の便もないので内地から来ず、毎日生塩に南京米の腐ったようなものを食べて十日も暮らしたよ。」

 「自分等のいるところは此の城外である。城外でも揚子江の沿岸で中国銀行。家は五階であるが、三階までは焼けている。自分等のいる隊は乙兵站部で、隊長は青木少佐であって良い人です。兵站部は食糧等の分配をして各部隊にやるところである。揚子江を船で来る全全部の荷物が自分等の所に来るのです。沢山な荷物を五十人足で歩哨に立つのでなかなか苦労は多いよ。去年の三十一日まで支那兵の捕まえたのを、毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に、手を縛って落としておいて、上から銃で撃ったり刀で首を切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるで鶏でも殺すような気がするよ。十二月二十七日の夜は、兵站部に食糧を盗みにきたので七人捕まえて銃剣で突き殺したが面白いものだったよ。全く内地にては見られない惨状だよ。」

 「平和になった南京市には南京市民が続々と帰ってくるよ。来てもだね、夜が来ても寝るところも無し。此の寒さにふるえて死んでいく者も一日に何百人ですよ。哀れな支那人ですね。」(1938年1月年賀状)

 「俺達の居る南京地方は、此の頃は暖かになりました。一週間前は雪が降っていたが、此の頃は毎日春だよ。襦袢一枚で毎日暮らしているよ。もう支那兵の死人が暖かになって腐るので、悪臭が鼻を切るように匂ってくるよ。全く戦地だね。揚子江の隅には死人の山で□の如くだよ。一寸内地の人が見たら驚くね。腐ってどろどろになって居るよ。」

日本刀を戦場に持参した兵士も多かった。そこで,武士の作法として,あるいは勇猛さを誇示するために,敵兵を斬首した。斬首には度胸とワザがいるから,何回も試し切りの練習を必要とする。斬首を公開し,戦友・同僚に誇示したいと感じた日本兵もいたであろう。戦場における勇ましさを尊ぶ心理が,ゆがんだ形で具現した。

南京近郊で処刑される中国兵捕虜(1938年頃)をみても、捕虜に対しては,戦友を殺害し,日本人居留民を虐待し,東アジアの平和を撹乱した中国人として,情け容赦なく処刑したようだ。公開処刑,銃剣による刺殺,斬首など今日では残虐な行為と見えるが,当時の中国兵士は、皇軍にとって聖戦を妨害し、天皇陛下に謀反する逆徒であり、憎むべき敵は当然処刑された。

戦場に来ても,敵兵斬殺を見た将兵は少ないであろう。処刑を日本で見ることもできない。そこで、戦地に来た記念に,1回ぐらい「凄い見もの」を見物することも,後学のためになる,あるいは土産話になる。このように考えた物見高い日本兵もいた。

日本軍の残虐行為の写真が公表されたのは、1937年末から1938年という。しかし、China Weekly Review 1938年10月29日号以降は、新しい写真が雑誌や新聞に掲載されなくなったという。この理由は,既に研究者の検証がなされているが、中国が「残虐行為の写真」をつかった反日プロパガンダを展開し、それを日本側が極度に警戒したためである。


写真(左):破壊された南京の南部で
(1938年3月17日に米国人宣教師エルネスト・フォスター撮影);日本軍は,南京を空爆し,砲撃した。War damage in the southern section of Nanking. Photo taken by an American missionary, Ernest Forster, in March 17, 1938

 「残虐行為」の写真が1938年から掲載された理由は、南京が陥落し、戦闘が一段落して写真を撮影したり現像する余裕が生まれためである。大日本帝国の敵、天皇陛下への叛徒であり,東アジアの平和を撹乱する暴虐な中国人を処刑することは,当時の感覚では,決して残虐行為ではなく、当然のアジア更生のための措置である。また斬首は,刀剣の慣れた使い手、勇猛な兵士の証明ともなった。

戦場にあって,武器をとって反抗した敵兵の斬首・刺殺は,残虐行為ではなく,それができれば,一流の刀剣・銃剣の使い手として認められた。
日本では,日本兵・日本人に対する斬首・刺殺は,軍法における処刑手続き・方法のの遵守,国民団結を阻害し,天皇の赤子という意識のためにまず不可能である。しかし,中国で中国人相手であれば,日本兵は,同情の余地なく,斬首・刺殺できた。そこで,今まで斬首・刺殺の経験がない日本兵の中に,持参した武士の魂を映す刀剣で,天皇に叛旗を翻す暴虐な敵重罪人を試し切りにしたくなった。これは,銃剣による刺殺も同様である。

銃剣突撃,白兵戦は,精神的鍛錬・肉体的鍛錬であったが,中国戦線では,戦時捕虜を刺殺,斬殺する「実戦訓練」も行われた。「試し斬り」「そえ物斬り」という冷酷な表現もある。

戦闘中の斬殺・刺殺経験者は少数で,まず不可能な経験であるからこそ,敵捕虜相手に実行する。斬首・刺殺は,勇猛さ,度胸を誇示でき,刀剣・銃剣の一流の使い手の証明にもなる。このように考えた将兵がいた。

残虐な性質を持つ国民が、斬首や刺殺を楽しんだという安易な認識では,残虐行為を説明できない。日本兵を(戦闘で)殺した中国兵は,報復するべき敵兵であり,それを処刑することで,将兵の勇猛さ,度胸,腕前が証明される。1938年後半まで,「百人斬り」のような(今日的)残虐行為も新聞記事にして公開された。勇敢な日本軍将兵の手柄話として報道された。百人斬りは,検閲を通り全国的に流された。処刑・殺害・敵の人権への当時の認識は、現在とは異なり、現在の視点からは残虐行為である戦時捕虜の斬首・刺殺,裁判無しの捕虜の銃殺は,平然と遂行された。1942年シンガポール陥落でも「敵兵の屍山血の河」という新聞見出しが平然と出された。敵を成敗した勇猛な日本軍は賞賛された。

 当時,敵兵の処刑は,多くの日本兵にとって「残虐行為」とは認識されていない。日本から見て「残虐行為」をしたのは,戦友や日本の民間人を殺した中国兵や抗日テロリストである。アジアの平和構築を妨害する中国人には,懲らしめが必要であると,日本政府も主張していた。オーストラリア人捕虜の斬首も、憎むべき敵の処刑あるいは戦闘の延長として行われ、記念撮影された。

敵兵を捕虜にしたり,処刑したりすることは,勇敢な行為として褒められるべきである。捕虜や戦利品の獲得,憎むべき敵兵の処刑は,名誉,勇猛さの誇示のために,記念写真として,土産物屋や自分の経験として残すに値する。

敵兵への報復を記念写真として,記録し,土産物にしようとした日本兵は,写真撮影を自ら行い,あるいは他の兵士や日本人居留民に撮影を依頼した。中国人や日本人の経営する中国写真店に現像・焼き増しを依頼した。

しかし,中国人処刑の写真を見た中国人は,「日本兵の残虐行為」に,日本への憎悪が沸き起こり,写真店で働く中国人の中には,日本軍の残虐行為を世に知らしめるために,依頼した日本人に無断で写真を複製し、外国報道機関に譲渡・売却した。 

写真(右):中国兵捕虜を刺殺する日本兵(1938年の夏、南京の近郊にいた日本軍が新兵の銃剣刺殺訓練をしたとき撮影と思われる):村瀬守保『私の従軍中国戦線』撮影。捕虜を斬首したのと同じ感じの場所。斬首する刀剣の腕前がない日本兵の度胸試しが行われたのであろうか。刺殺を命じられ,拒否すれば差別待遇をされたり,私的制裁(リンチ)を受けることを覚悟しなくてはならない。したがって,刺殺命令を拒否できる日本兵はほとんどいなかった。刺殺は道義に反すると考えた日本兵で「臆病なので刺殺できない」と装って刺殺を免れたものもいる。

 当時,海外旅行は一般人には不可能であったから,中国に出征した記念に,戦地での写真を購入した日本兵も多い。そこで,このような写真も残虐行為とは認識されずに,記念写真として販売されていたようだ。つまり,自分の出征記念写真としてだけでなく,写真を販売すれば,儲かるので,収益を目的にした記念写真撮影も行われた。

1938年10月末以降,新たな残虐写真が公開されなくなった理由は,日本軍が残虐行為を行っているとの反日プロパガンダ(media literacy)に対抗するためである。米英のメディアは,日本軍の中国での残虐行為の写真を新聞・雑誌に掲載し,公開したが,これは,列国の対日感情を大いに悪化させた。そこで,日本政府・日本軍も,残虐行為の取り締まりと並んで,残虐行為の撮影。残虐行為を映した写真の公開を規制強化した。上海でニューズキャスターをしていた Carroll Alcott(1943)My War With Japan, NY,Henry Holt And Company, p.304では、日本軍によって残虐写真の販売が禁止され、ついで撮影も禁止されたと述べている。

写真(右):中国人生き埋め処刑を見物する日本兵(1938年):Pictorial Review1943年10月1日号Five Chinese Prisoners are Buried Alive in this, one of the most gruesome of all wartime pictures. Enraged by the stoic calm with which the Chinese defenders are meeting their attack, the Japanese are more determined than ever to bring them to their knees. This war, now in its third year, is one of the most brutal in history.

 1938年10月24日軍人軍属寫眞撮影製作取締規定では,軍機漏洩を警戒するとともに, 残虐性、軍紀違反、国際法違反と思われる恐れのある写真を撮影禁止にしている。また,写真の流布を管理するために,指定邦人の写真店で日本人が処理することを定めている。残虐行為の写真が,写真店から流布していたことは,日本軍も感づいていた。

 写真器材店は1932年と1937年の上海事変(January 28 Incident)の戦場写真を、いそがしく商っていた。
 彼らは、彼らの軍隊が引き起こした破壊だけでなく、彼ら自身の軍隊によって行われた残虐行為の写真を売ることも躊躇しなかった。 
 米国の刊行物に掲載された日本軍の残虐行為の写真の多くは、日本兵自身、あるいは日本のカメラマンのどちらかによって撮影されたものである。
 私が上海で購入したこの手の写真のほとんど全ては、日本のカメラマンのために働いていた浪人によって、私に売られたものである。ひざまずいた中国人の首に刀を振り下ろしている日本軍の部隊の写真、あるいは縛られた捕虜の背中に狙いをつけている写真は日本軍自身によって撮影されたものである。------

 日本人カメラマンは、頻繁に戦地や捕虜が捕らえられている後方を移動し、このような写真を、兵士達から料金を取って撮影した。しかし、多くの場合、兵士達は自分自身のカメラを持っていて、現像と焼付けのために、フィルムを日本人のカメラ店に持ち込んだ。店はネガやプリントを作り、更に余分に焼付けをして売りに出した。

 写真が反日宣伝として世に出るまで、日本軍司令部は、この悪習を止めさせる努力をしなかった。(写真が反日宣伝に使われた)このことは特異なことであり、そのような写真の販売を即時停止する命令が出された。軍人であろうと民間人であろうと、違反したカメラマンはは厳しい処罰で脅かされた、そして、当局は一歩進んで、そのような写真を兵士が撮影することを禁止して、日本人の習わしに干渉した。
(引用) [Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, pp.302-304]

11.残虐写真を使用した中国・列国での反日プロパガンダの影響の大きさに驚愕した日本軍は、残虐行為を含むあらゆる写真撮影を厳格に管理し、反日プロパガンダを抑えようとした。また、自ら写真を用いたプロパガンダを展開した。

グルー」米国大臣ハ廣田外務大臣ヲ来訪シ南京、杭州及其他ノ地点ニ於ケル軍事行動中日本兵ハ米国権益ヲ無視シ又米国国旗対シ穏当ナラサル行為ヲ為シタトノ報道ニ接シタトテ右報道ニ基キ米国政府ノ正式抗議ヲ申入ルル所カアツタ。
依テ帝国政府ハ直チニ外務官憲ハ勿論出先陸軍官憲ヲシテ事実ノ徹底的調査ヲ遂ケシムルト共ニ現地ニ於ケル米国官憲トモ密接ナル連絡ヲ取ラシメ右ノ結果ニ基キ対米回答ヲ発スルコトトシタ為

バンコクにおける排日暴力団圧迫の状況に関する件(大日記甲輯 昭和12年)  作成者: 暹羅国(シャム)在勤帝国公使館附武官 田村浩  
 作成年月日: 1937年11月11日
 盤谷ニ於ケル排日暴力団圧迫ノ状況ニ関スル件報告(通牒) 昭和12年11月11日
暹羅国在勤帝国公使館附武官 田村浩
陸軍次官 梅津美治郎殿
首題ノ件別册暹羅臨時報第十号ヲ以テ報告(通報)ス
暹羅臨時報第十号 盤谷ニ於ケル排日暴力団圧迫ノ状況
暹羅国在勤帝国公使館附武官
田村浩 盤谷ニ於ケル排日暴力団圧迫ノ状況
要旨 10月下旬ヨリ盤谷市ニ於ケル排日貨益ニ盛ントナリ遂ニ暴力団生レ市内各所ニ於テ「テロ」行為續出シ邦商取引皆無ノ実状トナレリ 茲ニ於テ小官之カ反対運動ヲ起シ

1937年10月12日上海方面の陸軍作戦行動写真の掲載禁止の件

タイの首都バンコク中心街には,中国人街がある(現在もある)。日本とタイは後に日泰攻守同盟を結ぶほど友好関係にあったが,シンガポール(英領),ペナン(英領マレー),クチン(英領ボルネオ),マニラ(米国領フィリピン)などと並んで,東南アジアでは中国人の多い町である。日本軍もタイにおける中国系住民の動向(反日活動)を気にしていた。

中国でも同じように反日感情が高まり、抗日活動が激化していた。

第三章 支那事変関係(執務報告 昭和十三年度東亜局第一課) 
 作成者:東亜局第一課,記述単位の年代域:1938年
排日行動過激化 共産主義的色彩濃厚
第三章 支那事変関係 第一節 華僑ノ排日行動 第一款 排日暴力団ノ策動
支那事変勃発当時ノ在暹華僑ノ排日状態並ニ暹羅政府当局ノ取締振ニ関シテハ客年度執務報告記述ノ通リナル処其後事変ノ進展ニ伴ヒ華僑ノ排日モ悪性且組織的トナリ党テ行ハレサリシ邦人生命財産ニ対スル直接暴行モ行ハレルニ至レリ

即一月(イ)三井支店取引先ノ支那人「チーク」材商ノ腕ヲ切ラレル者アリ
(ロ)一邦商取扱牛皮八千枚(価格約邦貨三万円)ヲ積載セル二隻紛失事件アリ
其後更ニ(ハ)暴力団ヨリ我公使館及邦人商社ニ脅迫状ヲ送リ
(ニ)夜中日本帝国主義打破ノ宜傅「ビラ」撒布
(ホ)三井倉庫放火事件等アリテソノ行動漸次過激化スルト共ニ
(ヘ)日貨排斥実行員ト称スル暴力団更ニ百数十名新嘉坡ヨリ入込(海路ヨリ来レル者六十名ハ警察当局ニヨリ波止場ニ於テ検束、追放セラレタル由


写真(左):南京の反日壁ポスター
(1937年12月頃に村瀬氏の撮影);日本軍は,中国軍兵士だけではなく,民間人,婦女子にも過酷な処刑,暴行を加えた。A Chinese propaganda poster on the wall that shows "Cruelty of the Japanese Devils!" Photo taken by Murase.

支那事変関係一件/与論並新聞論調/支那側宣伝関係 第三巻
 作成者: 警視総監 安倍源基  
 作成年月日: 1938年3月24日
1、国内ニテ入手情報 秘 外秘第六〇〇号
警視総監安倍源基 内務大臣末次信正殿 陸軍大臣杉山元殿 海軍大臣米内光政殿 各庁府県長官殿 東京刑事地方裁判所検事正殿 東京憲兵隊長殿
支那共産軍ノ散布セル邦文反戦「ビラ」入手ニ関スル件
本月中旬、目下出征中ノ管下砂町署員ヨリ同署宛、去ル三月六日山西省娘子関付近ノ戦闘ニ於テ、支那共産軍カ散布セルモノナリトテ別添ノ如キ不穏ナル反戦「ビラ」三種ヲ郵送越セルカ右ハ何レモ日本軍ヲ対象トシテ
其(一)ハ支那共産軍トノ連合
其(二)ハ日本平和同盟ノ名ヲ以テ日支同志ノ連合
其(三)ハ国民革命第八路軍政治部ノ名ヲ以テ日本俘虜ノ優遇ヲ強調シ、日本軍閥、財閥打倒ヲ使嗾セルモノニ有之何等カ御参考迄


写真(左):親日プロパガンダ
『アサヒグラフ−支那事変写真全輯 中 上海戦線』1938年3月1日 朝日新聞社 定価2円50銭「朝ともなれば親切な掛かりの兵に護られいそいそと野良へ出て行く」中国農村の治安回復を図る日本軍兵士が毎日のように中国農民が野良仕事に出て行くのを護衛すれば,中国ゲリラ兵は,中国農民を裏切り者(対日協力者,漢奸)として処遇するかもしれない。華北の大同・臨邑で中国人住民の歓迎を受ける日本軍(1937年8月/写真中央)大同では,子供にまで中国にない日章旗を持たせてくれた。子供の笑顔にうそはない。(1938年1月1日/写真右央)臨邑では,旧暦ではなくわざわざ日本の新暦を調べ,日章旗も準備し歓迎させた。

このような状況で、日本軍も本格的な情報操作、報道管制を行ない、プロパガンダ対策を徹底してゆく。中国や米英では残虐な日本軍という主張を,斬首,刺殺,虐待の写真を使って喧伝したから,それに対抗するために,日本軍は治安を回復し,秩序と安定をもたらす頼もしくもやさしい存在として主張された。

1938年には厳格な写真撮影・現像の仕組みを構築するために、次の写真撮影製作取締り規定を設定した。

写真(左):親日ポスター絵葉書
(1938年頃に作成);日本軍は,現地の平和を回復し,礼儀正しく,地元の子供とも親交を深めている。子供のもっている旗は,袁世凱が中華民国の国旗として定め、満州国にも引き継がれた「五色旗」。ただし、汪兆銘の南京臨時政府でも、孫文の伝統を引き継いで「晴天白日旗」を採用。Japanese soldiers playing with children.

軍人軍属写真撮影製作取締規定(昭和13年「陸支密大日記59号」
 陸軍省受領 陸支密受第一二一六五号
 作成期日:1938年10月24日


軍隊及軍人軍属寫眞撮影製作取締規定本冊ノ通定ム
 昭和十三年十月二十四日 中支那派遣軍司令官 畑 俊六

軍人軍属寫眞撮影製作取締規定
  第一総則
一、本規定ハ軍隊及軍人軍属ノ寫眞(活動寫眞ヲ含ム)撮影竝製作ニ關シ必要ナル事項ヲ規定シ軍ノ機秘密ヲ保護シ且軍ニ不利ナル宣傳材料ヲ外人ニ獲得セラレ若ハ日本国内ニ配布セラルルヲ防止スルニ在リ
二、各隊長ハ部下ノ寫眞撮影及製作ノ取締ニ關シ責任ヲ有スルモノトス
   第二撮影禁止
個人ニ於テ撮影ヲ禁止スヘキモノ左ノ如シ
一、軍ノ機秘密ニ關スルモノ一切
二、逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノ
 イ、殘虐性ヲ感セラルル寫眞
 ロ、不軍紀ナル状況ヲ感セラルル寫眞
   若ハ日本軍ノ戰意ヲ失ヒタルカ如キ感ヲ抱カシムルモノ
 ハ、國際法違反ト感セラルルモノ(外國権益地内ニ於ケル行動等)---
 ホ、戰死傷者ノ寫眞ニシテ悲惨ナル感情ヲ惹起セシムルモノ
 ヘ、支那軍ノ宣傳用傳単若ハ文章ヲ撮影セルモノ
   第三現像及焼付
一、現像及焼付ハ部隊内ニ於テ行フカ若ハ其地ノ指定寫眞店ニ於テ行フモノトス
二、指定ノ寫眞店ハ軍人軍属ノ寫眞ハ必ス日本人ノ手ニ依リテ處理(現像焼付)ヲ行フモノトス 三、部隊ニ於テ撮影セルモノノ中本規定第二ニ示セル事項ニ該當スルモノヲ現像若ハ焼付ヲ行フ場合ニ於テハ軍ノ寫眞製作所ニ於テ行ヒ市井ノモノニ註文セサムルモノトス
  状況己ムヲ得ス市井ノ指定寫眞店ニ依托セントスル場合ニ於テハ必ス監視者ヲ製作現場ニ配置シ監督セシムルモノトス
五、寫眞原板ハ依頼者ニ全部返付スルモノトス又焼付ノ過数ハ總テ焼却スルモノトス
六、寫眞店ハ原板中機秘密ニ属スルモノ若ハ逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノヲ發見セル場合ニハ直ニ最寄憲兵部隊ニ届出テ其指示ヲ受クルト共ニ該寫眞ノ散逸セサルコトニ責任ヲ負フモノトス

  第四寫眞店の指定
一、憲兵ハ其地ニ於ケル日本人寫眞店中適當ナルモノヲ指定寫眞店トナシ之ニ其ヲ付輿ス---
三、指定寫眞店ハ見易キ位置ニ「陸軍指定寫眞店」ノ標札ヲ掲クルモノトス
   第五檢閲 一、指定寫眞店ニ對シテハ憲兵ハ随時檢閲ヲ實施スルモノトス
二、取締上必要アリト認メタル寫眞ハ憲兵ノ各隊長ハ製作ヲ禁止シ又ハ没収ス
没収セル寫眞中宣傳ニ利用シ得ルト認ムルモノハ憲兵ヨリ報道部ニ送付スルモノトス
三、指定寫眞店以外ニ於テ處理セル場合ハ該寫眞ハ凡テ没収スルモノトス---

写真(左):中国人捕虜の公開処刑の報じたPictrial Review(1943年号だが写真は1938年頃撮影);本サイトの公開処刑は,同じ場所での刺殺・斬首の場面が,多数写真撮影された。カメラを持つ何人かの日本兵が記念写真を撮影し,現地写真館から密かに流出し,米英メディアにわたり,残虐写真として公開された。

日本軍は,中国の抗日排日運動や米英列国の反日プロパガンダを警戒していた。日本軍がアジアの平和のために,暴虐なる中国政府に反省を促すとして中国に派兵したものの,中国の官民一体の抵抗を受け,日本の試みが,中国側には侵略として認識されていることを理解した。

◇⇒米英からみた南京事件と日本大使館・領事館の現地通報

南京虐殺の国際的非難を浴びたことから,閣議で外務大臣広田弘毅は,陸軍大臣杉山元に注意を喚起した。陸軍参謀総長閑院宮から中支那方面軍司令官松井岩根に,軍紀振作の訓戒が出され,参謀本部第二部員本間雅晴少将(将軍)が南京に調査に派遣された。

中支那方面軍司令官「松井石根大将支那事変日誌抜粋」によれば,南京事件に関して,「虐殺」とは認識していないが,次のような対処をした。

上海附近作戦の経過に鑑み南京攻略戦開始に当り、我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め各部隊に対し再三の留意を促せしこと前記の如し。
 図らさりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行掠奪事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。
 是れ思ふに
 一、上海上陸以来の悪戦苦闘か著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。
 二、急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと。
 等に起因するも亦予始め各部隊長の監督到らさりし責を免る能はす。

 因て予は南京入城翌日(十二月十七日)特に部下将校を集めて厳に之を叱責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るへき旨を厳命せり。
 然れとも戦闘の混雑中惹起せる是等の不祥事件を尽く充分に処断し能はさりし実情は已むなきことなり。


 因に本件に関し各部隊将兵中軍法会議の処断をうけたるもの将校以下数十名に達せり。
 又上海上陸以来南京占領迄に於ける我軍の戦死者は実に二万千三百余名に及ひ、傷病者の総数は約五万人を越えたり。(欄外)

南京事件については、太平洋戦争後,1945年の極東軍事裁判「東京裁判」で,松井石根大将が起訴された。オーストラリアのキーナン検事は「無警告に南京を攻撃せり」と称して、松井軍司令官の降伏勧告文の散布と24時間の停戦猶予すら認めていない。しかし,ハーグ陸戦法規に違反する便衣隊や「空室清野作戦」(日本軍に使用させないために,退却時に自国の家屋・インフラを焼き払う)に日本軍は悩まされた。経済的先進市域である江南地方の米英列国の権益が錯綜する中で、日本軍は中国民間人の保護を行うだけの余裕はなかったが、それが列国に対して暴虐な日本という印象を広めてしまった。中国の抗日排日運動を敵視し、嫌悪していた日本人は、中国人を懲らしめるべきだと感じていたから、武力反抗(power policy )を試みる中国人を重罪を起こした犯罪者と見なし、その処罰・処刑は当然と考えた。処刑は極刑・死刑と同様、正義の鉄槌であり、残虐な行為とは思っていなかったのである。

松井大将の真実を吐露は,日本軍人として大元帥の責任に帰することなく,統率者の軍司令官として,自ら部下の勇猛なしかし恥ずべき行為の責任を引き受けたもので立派である。松井に大将が極刑となった理由は、軍司令官として「責任無視」の不作為があったとするもの(訴因第55項)であって「俘虜及び一般に対する違反行為の命令・受権・許可による戦争法規違反」(訴因第54)では無いとされている。

「虐殺」は松井大将の命令による組織的、計画的なものではないとの判決であるが,部下の師団長,連隊長の一部は,捕虜の処刑を口頭で命令したり,処刑せざるを得ないように,後方での捕虜の収容・管理を拒否し,食糧の支給もしなかった。1937年12月16日の南京入場式では,1932年の上海における天長節式典での爆弾テロのような突発事件を是が非でも回避しなくてはならなかった。中支那方面軍司令官松井石根大将を先頭に敵の首都南京に入場するためには,敵性住民も完全に排除しなくてはならない。南京には,一人の敵兵,逃亡兵,敗残兵,ゲリラがいてはならない。間近に迫った南京入場式典を滞りなく実施するには,逃亡兵,敗残兵,ゲリラ,敵性住民を徹底的に取り締まり,捕縛して,治安を回復しなくてはならない。そのために,大量の中国人が路上で処刑されたり,捕縛されたりした。

しかし,捕虜のための収容所・食糧・監視兵力は,不足しているが,日本に憎しみを抱くようになった捕虜を解放することはできない。そこで,厳しい捕虜の処刑という措置が採用された。

  「南京大虐殺」は,東京裁判のいう「人道に対する罪」を前提として成り立つものである。戦時中の日本には,武器をとって日本・天皇陛下に反抗する暴虐な敵国人に対して,重罪人・反乱者とみなした。人権を認めていなかったから,人道的な扱いも期待できなかった。当時,捕虜(=重罪人)処刑は,虐殺でも残虐行為でもない。「南京大虐殺」は,捏造事件という認識は,当時の国軍(皇軍)にも存在したはずだ。しかし、戦争を戦う上で、「残虐行為」は世界の世論を敵に回してしまうことを理解した。


絵葉書(左):親日プロパガンダ絵葉書
(1938年頃に作成);日本軍は,現地の平和を回復し,礼儀正しく,地元の子供とも友好を深めている。Japanese soldiers playing with Chinese children.

中国戦線に関する新聞記事掲載禁止を,1937年10月12日に出したが,10月25日をもって解除した。しかし,一切の部隊名,地名,方位に関しては,陸軍省・軍司令部(報道部を含む)の発表したもの以外,新聞には掲載禁止である。1937年11月15日には新たなる作戦方針につき一切の新聞記事写真を掲載禁止とした。



日本国内における厭戦気分が高まり、反戦運動が起こったり、戦争を指導する郡への反感が高まらないような報道規制もされた。これは、戦死者・負傷者が保有していた写真や写真長にも監視をするとともに、戦死者・負傷者など戦争の惨禍を表象するような写真にも警戒したようだ。戦死者の遺品や負傷者の内地送還は、日本軍の名誉、家族・遺族の戦争協力・軍への忠誠心にも関わってくる。むやみに写真を取り上げることは出来ないが、上手に騙して反戦、反日に結びつくような写真を取り締まろうとしたのである。

支那事変ニ於ケル戦病死将兵其ノ他ノ写真御手許ニ御収蔵ノ御内意アラセラルヽニ付蒐集方ニ関シ移牒ノ件
(公文雑纂・昭和十三年・第二十三巻・枢密院・枢密院、宮内省・宮内省、外務省一・外務省一)
 作成者: 内閣書記官長、宮内大臣 松平恒雄
 作成年月日: 1938年12月20日
 内容: 宮甲第五号 起案昭和十三年十二月十七日 決定十三年十二月二十日 昭和十三年十二月二十日 内閣書記官長 対満事務局総裁 興亜院総裁 宛(各通)
今般宮内大臣ヨリ支那事変ニ於ケル戦病死将兵其ノ他ノ写真御手許ニ御収蔵ノ御内意アラセラルルニ付右 写真蒐集方ニ関シ別紙ノ通依頼越有之候条可然御配意相煩度依命此段及移牒候
宮内大臣

昭和十三年十二月十六日 宮内大臣 松平恒雄 内閣総理大臣 公爵 近衞文麿殿
今般支那事変ニ於ケル戦病死将兵其他ノ写真ハ御手許ニ御収蔵ノ御内意アラセラレ候処右写真ノ蒐集ハ容易ナラザル次第ニシテ時期遅延スルニ於テハ資料散逸ノ処アルベク今ヨリ適当ノ措置ヲ講ズルノ要アリ---。

写真(右):辱められる中国女性;1937-38年撮影。戦利品と同じ感覚で,帝国に逆らう暴虐な中国人を懲らしめた。近衛首相の中国への日本軍は兵の理由は,暴虐な中国を懲らしめて,反省を求めるためである。指揮官の統率力がなく軍紀の弛緩した部隊では,婦女暴行罪が処罰されないままだった。

日本軍にも婦女暴行罪はあったが,軍紀の弛緩した部隊では,処罰されない場合が多かった。多数の兵士が暴行をしていれば,一部の兵士のみを軍法会議にかけるといった不公正な取り扱いはできない。兵士の上官への批判も回避しなくてはならない。1930年代後半から中国に多数の慰安施設を設置したのは,婦女暴行によって,中国における反日感情が高まり,日本に対するゲリラ活動,破壊工作が活発になるのを抑える目的もあった。

「各地における慰安所の開設は当時の軍当局の要請によるものであるが、当時の政府部内資料によれば、旧日本軍占領地域内において日本軍人が住民に対し強姦等の不法な行為を行い、その結果反日感情が醸成されることを防止する必要性があったこと、性病等の病気による兵力低下を防ぐ必要があったこと、防諜の必要があったことなどが慰安所設置の理由とされている。」このように外務省の従軍慰安婦に関する見解が,公開されている。

軍の指揮官にとっても,婦女暴行罪を取り締まり,その取り締まり件数が軍上層部に知れ渡ることは,出世の妨げになる。婦女暴行のような不名誉な罪を犯すのは,上官がたるんでいて統率力がないからだと判断される危険がある。そこで,現地の指揮官は,婦女暴行をやめさせたいと思っても,ひとたび蔓延してしまった後では,自分の評価にも繋がってしまうので,治安回復のために取締りを強化することはあっても,既に起きてしまった婦女暴行罪で処罰は行わないと考えられる。

写真(左):日本兵に辱められる中国女性;1937-38年撮影。獲得した戦利品として,記念写真を撮る。一人の人間の人権を蹂躙している,それが露見すれば厳しい処罰を受けるのであれば,暴行することも,その記念撮影もできない。このような婦女暴行は,明日の命をも知れない兵士には世界共通に起こることだという識者も多い。

しかし,「軍」慰安婦の存在が,日本国内の家族に知られることは,風紀,銃後の士気の上からは好ましくない。また,戦争中の敵地における慰安婦設置や婦女暴行は,名誉ある勇敢な日本軍には相応しくない。したがって,慰安所を軍が直轄管理するのではなく、民間業者の管理にまかせた。軍は慰安所の監督にとどまったようだ。また、婦女暴行の記事や写真は,日本への武勇伝を汚すもので、聖戦の趣旨にも反しているのは常識である。したがって、婦女暴行は、当初から日本のメディアに登場することはない。しかし、中国,米英のメディアでは,日本軍の残虐行為への怒りとして,あるいは反日プロパガンダとして,婦女暴行が取り上げられた。

つまり,日中戦争に関する作戦や兵器の軍事機密はもちろんのこと,残虐行為や戦争の悲惨さを訴える反政府的な記事・写真を差し止める報道管制がしかれており,報道の自由は認められたことはない。にもかかわらず,南京攻略(1937年10-12月)について自由に報道できたと主張する日本人記者がいる。これは新聞社内ではものが言えたという意味であろう。報道としての公開は別の次元である。

対照的に,中国,米英独など列国の外交官や報道関係者は,日本軍の報道管制の下にはない。当時の米英のマスメディア(新聞,雑誌,ラジオ放送)は,日本軍の中国侵略,残虐行為を非難していた。反日プロパガンダも盛んに行っていた。そのことは,日本の在外領事館の外交担当者も熟知していて,本国に各国の世論や新聞論調が反日的傾向を強めていることを警告してきている。

12.ゲリラ・便衣隊・敵性住民の処遇は難しい。潜在的敵対者は、大きな脅威にならない前に処刑する予防戦争が行われた。兵士と市民の区別がつかないまま、すべて兵士とみなして処刑した、という説がある。住民も兵士も、「敵か味方か」「悪か正義か」で区分された。抗日勢力は全て敵=悪であり、謀反人は処刑に値する。このような戦争観が蔓延する中で、軍人と民間人の区別という人権思想は介入の余地が無かった。

江南地方に大規模に侵攻してきた日本軍に対して,中国は,文民一体となって抗日戦争を戦う。中国共産党も,1936年の西安事件で国共合作に合意した後は,中国国民党の討伐を受けることも(あまり)なくなり,抗日戦争に力を集中できた。ただし,1937年の国民党は,江南地方で,日本軍の正面から攻撃したが,中国共産党の二つの軍(八路軍と新四軍)は,国民革命軍に改変されたとはいっても、地域住民を巻き込んだゲリラ戦を戦った。

花@総領事 作成: 1938年8月14日
秘 南京 八月十四日後発 本省 十四日後着
宇垣外務大臣 第二九一号 8月一三記念日ヲ期シ遊撃---南京ヲ@@スヘシトノ風設モアリ日本軍ハ十日以来---各城門ノ出入リヲ制限反動分子ノ潜入ヲ防グ--一斉検索---徹底的取締ヲ為シタル結果城内ハ極メテ平静----。
午前一時頃中山門外---便衣ノ遊撃隊----当地警備隊(一コ中隊)及憲兵(三十名)ハ「トラツク」ニテ出動シタルモ既ニ何レカヘ逃走後ナリシ---。

中国のゲリラ兵に対抗するために,日本軍の兵士もは自ら中国民間人の服装をして,便衣兵として活動していた。たしかに,中国の戦場で,中国人と似ている日本兵が中国民間人の服を着用していれば,中国のゲリラ兵から攻撃される確率は著しく低下する。また,1937年7-8月に中国に派遣された日本軍は,夏服であり,11月以降の寒さを凌ぐために,民間人の衣類を略奪して着用したかもしれない。

適切な手続きを経た適切な方法での処刑なのか。敵国兵士の軍服を着た兵士は,国際法でも処刑が正当化されるが,軍服を脱いで逃亡したり,民間人の服装で武器を隠し持つゲリラ兵・民兵・便衣隊であればどうか。妨害活動や敵対的態度をした民間人であればどうか。民間人に対する無差別爆撃は,労働力の削減のためであり,戦意喪失の目的であれば,許されるのか。

子供まで,親の代の犯した「侵略」「残虐行為」「大量破壊兵器の製造」などの罪のために,爆撃で殺されなくてはならないのか。それとも,今後,潜在的敵対者となりうる人間・子供であれば,「やられる前にやっておく」予防戦争として,無抵抗なうちに処置したほうがよいのか。

1945年3月10日東京大空襲の焼死者の写真がある。米国陸軍航空隊のB-29重爆撃機 300機以上が東京を夜間空襲したが、米軍爆撃機の米国人搭乗員が焼死体を直接見ることもない。焼死体を見たとしても,米軍兵士や中国の民衆を虐待した日本人が受けるべき報いであるとして,同情すらしないかもしれない。

便衣兵(ゲリラ兵)は,ハーグ陸戦法規違反であり,交戦資格を有しないとされる。そこで,交戦資格を有しない者が,敵対的な軍事行動に従事して捕らえられれば,捕虜としての待遇は与えられない。犯罪者として処罰されてしまうのである。つまり,交戦団体として資格なき敵対行為をは,重罪として死刑に処せられる。軍服を脱いで市民に紛れて逃亡しようとした兵士は,いまだに敵対的行動をとろうとしている便衣隊であるみなし,捉えられた場合,処刑されるかもしれない。これは,適法な処刑であり「虐殺」とはいえないと抗弁できる。女子,老人,子供も,軍服を着用せず,妨害工作や諜報(スパイ)活動を行っているようであれば,あるいはこれから行うのであれば,便衣隊とみなしてしなうほうがよい。無抵抗ではあっても,適切な処刑であり,「虐殺」ではなくなるのか。

写真(左):ベトナム戦争時の虐殺記念写真(1960年代);南ベトナム軍・米軍の連合軍による敵性住民の虐殺。Viet-Nam "Postcards" 。ベトナム戦争でも,南ベトナム軍兵士による「首狩り」,米軍兵士による「耳削ぎ」,北ベトナム兵士による「拷問」など,残虐行為が蔓延していたらしい。

敵地に乗り込んだ軍隊は,現地で徴発を行い嫌われるだけでなく,財産,家屋,家畜を破壊することで,住民に恨まれる場合が多い。治安回復に繋がったとして,中国の住民たちに歓迎された日本軍もいたそうだが。そこで,占領軍から見て,敵性住民は,妨害工作やスパイ活動をする可能性が高いので,怪しい人物や潜在的敵対者は,全て便衣隊として,処刑したほうが,治安維持に好都合である。これは「やられる前にやっておく」予防戦争でもある。軍司令官が判断すれば,逃亡中の兵士,捕虜,便衣隊,敵性住民の処刑は組織的に行われるであろう。これは虐殺という悪い意味はなく,戦争で敵を殺したとして褒められてしかるべき行為である。

どこの国でも,除隊したり,本国に帰国した兵士たちには,戦争で敵をやっつけ大活躍をしたという自慢話としてたくさん残している。これは,戦争における勇敢な行為,母国のための働きであり,決して暴虐な振る舞いや虐殺として,非難されるべきものとは考えられていないのである。

1929年ジュネーブ条約を日本が批准していないため,国際赤十字( International Committee of the Red Cross)の活動が制約された。国際赤十字が日本に訪問を許されたのは,アモイの捕虜収容所2ヶ所だけで、そこに数百の中国人捕虜のほかは、中国人受刑者32名、日本人受刑者22名がいた。国際赤十字は、1938年3月には,戦線後方にいる民間人の爆撃禁止、住民のいる地域を軍事目標としないことをに日中双方に要請したが,どちらの政府からも回答はなかった。日中戦争では、国際赤十字の救護活動は、不十分にしか行うことはできず、中国人民間人への救援も困難になった。これが日本軍による中国の支配、暴虐な振る舞いを、際立たせることにつながった。

写真(右):セルビア民兵によるRogove虐殺(1991年1月);Serb massacres: Drenica , Racak , Lybenicの虐殺もある。

パガンダ,作家を用いた文章・スローガンによるプロパガンダを行う。プロパガンダによって,敵国への憎悪・非道さ,自国への信頼・正当性,「悪と正義」が作り出され,個人的な感情や意識はそのなかに埋没させられてしまう。さらに,諜報活動,謀略が行われれば,物事の事実,真実を把握したり,当事者の心理・意図を推し量ったりすることは,容易ではない。

1937年後半,南京攻略を目指す日本軍は,撤退する中国兵・民間人に加えて,軍服を脱いで民間人を装う便衣隊・逃亡兵を容赦しなく狩り出しただ。通州で日本人200名以上を殺害し,ゲリラ戦や頑強な抵抗で,日本軍に大きな犠牲を負わせたのだから。二度と日本の居留民を殺害したり,反日活動をできないようにしてやる---という報復のつもりだったのか。それとも,爆撃の死傷者を,日本軍のレイプとする中国・米国のプロパガンダなのか。議論というより,非難合戦が続いている。

写真(左):ベルギー兵士によるソマリア民兵の火あぶり(1993年);国連平和維持軍による残虐事件。死体切り刻みの写真もある。Operation "Restore Hope" (1993): Belgium blue berets roast a child 1, then urinate on the body of a dead somaly 2.
2003年の米軍のイラク侵攻では焼夷弾によるファルージャ攻撃によって民間人の焼き殺しが行われている。(→Rainews24
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宣撫活動残虐行為も双方で行われたと考えられる。残酷な仕打ちは,反抗する人間への見せしめとして古くから認識されてきた。他方,兵士と市民,子供,女子とが交歓する風景は,和やかに見える。兵士が戦火から市民・財産を守ってくれるようにみえる。日中両国政府も軍も,このことが既知であれば,双方ともカメラマン・画家・デザイナーを用いた映像・画像・ポスターによるプロパガンダを行う。

中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ること、すななわち「日本の中国支配」は断じて認められない。世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、反日プロパガンダが行われる。日本が欧州支配を目指すドイツと同盟すれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。

写真(右):米軍によって空輸されるタリバン兵士(1990年代);家畜並みの扱いとして顰蹙をかった。キューバの米領グアンタナモ基地での取調べでは、米軍の男女看守・兵士による破廉恥な捕虜虐待が明らかになった。

中国で残虐行為が頻発した理由を整理すると次のようになろう。
?日本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,少数兵力でも,果敢に中国軍と戦闘した。頑強な抵抗を受けた日本軍兵士は,戦友を殺した敵兵を憎み,報復を行なおうとした。
?日本軍よりも遥かに優勢な中国軍を恐怖によって威圧する目的で,捕虜の処遇を厳しくし,残虐な処刑も執行した。日本軍に抵抗せず,撤退,逃亡するように仕向けた(つもりだった)。しかし,実際には,残虐な日本軍を中国から駆逐せよとして士気を高めるた。
?中国の軍民一丸となった抗日活動,反日感情に直面した日本軍は,中国人に敵意を抱いた。特に,便衣隊(ゲリラ部隊)の攻撃に悩まされたために,ゲリラ容疑者,敵性住民に厳しく対処した。
?日本は,中国の交戦意志の高さを認識できず,政治経済の中枢である江南地方,特に首都南京を攻略すれば,日中戦争は日本の勝利に終わると誤解した。頑強な抵抗にあって,中国軍への敵意が高まった。敵が抵抗するために,帰国,帰郷できないとして,中国人を逆恨みした。
?日本軍のプロパガンダにも影響され,中国軍民による日本人居留民への暴虐な振る舞い,反日活動を嫌悪し,中国への報復が正当化された。
?日本軍兵士は,十分な食糧・弾薬の補給を受けられず,現地調達,すなわち徴発・略奪を行った。そこで,中国民間人も日本兵を嫌悪し,反日感情を高め,抗日活動に参加した。そこで,日本軍兵士は,敵性住民に厳しく対処した。
?中国政府における共産党勢力が拡大しており,共産主義は、日本の国体・天皇制の護持には相反する。共産主義に対する反感から,共産ゲリラへの処遇は厳しいものになった。日本人に対しても,大逆事件,人民戦線事件のように,共産主義者には,拷問も含む厳しい処遇をした。


13.中国兵捕虜,便衣隊,民間人の処刑,暴行などの軍紀紊乱は(残虐行為ではなくとも)、日本軍中央(参謀本部)高官から見て、現地指揮官たちの統率力不足と映った。その証拠に,南京事件を起こした中支那方面軍指揮官たちは,首都南京攻略という最大級の功績を挙げたにもかかわらず,その後の昇進では冷遇された。これは、最終的には,大元帥昭和天皇の判断であり、南京事件の影響は、軍上層部も震撼させたと思われる。

研究者web「中支那方面軍高級指揮官の人事考課」では、陸軍中央が,北支那方面軍に比較して,中支那方面軍の統帥に対して,辛い評価を下していたことを示している。

北支那方面軍(北京,天津攻略)の高級指揮官
 方面軍司令官1、軍司令官2、兵団司令官1、参謀長2、師団長9(内2は中支那方面軍へ転出)、独立混成旅団長・航空兵団長4:計19人
 現役大将1、現役中将16、予備中将2:計19人、現役率:17/19(88%)
 1937年以降の進級  大将1人→元帥、中将9人→大将,進級率:10/17=58%。

中支那方面軍(上海,南京攻略)の高級指揮官
 方面軍司令官1、軍司令官2、師団長10:計13人(内2は北支那方面軍から転入)
 予備大将1、現役中将8、予備中将4:計13人 現役率:8/13(61%)。

 1937年以降の進級 中将1人→大将(皇族の朝香宮鳩彦王,昭和天皇の叔父),進級率:1/8=13%

   皇族の朝香宮鳩彦王を除いて一人も大将に進級できなかった。これは,南京攻略戦で残虐事件を起こし軍紀紊乱を招いたためである。つまり、人事考課で上海・南京攻略の戦功を相殺され、引責処分されたと考えられる。これは最終的には統帥権を保持する大元帥昭和天皇の判断である。

1933年、朝香宮は近衛師団長、東久邇宮は第二師団長であった。部内評価は朝香宮のほうが上だったのか、日清戦争以来40年ぶりの皇族外征軍軍司令官には、東久邇宮でなくて、朝香宮が就任した。

しかし,南京攻略後,朝香宮は、軍事参議官という形式的名誉職についた後,引退させられた。上海派遣軍司令官を拝命した時点で,満50才なので,早すぎる引退である。

他方,同い年の東久邇宮は入れ替わり、第二軍司令官に就任。1938年の武漢作戦では,上海派遣軍だった第三師団、第13師団、第16師団を率いた。その後,2人とも大将に進級し、軍事参議官となった。

東久邇宮稔彦王は,1941年太平洋戦争を前にして防衛総司令官(内地の陸軍の総司令官)に就任、終戦内閣をも率いた。二人の皇族に対する大元帥昭和天皇・軍の内部評価の差異は、中国戦線での軍司令官としての統率への評価の差に由来する。(高級指揮官の人事考課引用)

南京事件を大元帥昭和天皇も憂慮されていたことが窺われる。


本サイトの依拠した資料や画像は下記websiteを参照。
「南京事件」日中生存者証言「南京事件」資料一覧郷土部隊戦史に見る「南京事件」
「南京事件」資料引用「南京事件」資料置き場南京事件資料集南京事件 小さな資料集「南京虐殺」否定派資料南京事件はウソだ!画像資料検証専用板(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改)南京事件関連リンク集

◆権利侵害で削除された違法動画
鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者
違法動画:捏造犯を追い詰める。重慶虐殺、南京虐殺 ねずさんのひとりごと
違法動画:捏造犯を追い詰める 3 南京重慶淮海虐殺 ねずさんのひとりごと
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南京重慶虐殺記録 平津 - YouTube
違法動画:【動画集】南京大虐殺は存在しない。元日本兵たちの証言を記憶せよ。急げ!時間はもうあまり残されていないNanjing Massacre (南京大虐殺 난징대학살): 2012年10月17日
違法動画:【動画集】南京大虐殺は存在しない。元日本兵たちの証言を記憶せよ。急げ!時間はもうあまり残されていないNanjing Massacre (南京大虐殺 난징대학살): 2012年10月17日
違法動画:【動画集】南京大虐殺は存在しない。元日本兵たちの証言を記憶せよ。急げ!時間はもうあまり残されていないNanjing Massacre (南京大虐殺 난징대학살): 2012年10月29日更新
◆権利侵害で削除された違法ブログ(2012/10/19)
ねずさんの ひとりごと 重慶空爆被災写真は捏造写真
大和食研社長テレビ出演(2004年):ねずきちさんの勝負キャンディ販売、大和食研株式会社小名木伸太郎社長テレビ出演(2008年)、日本の心をつたえる会代表・小名木善行,ミリアのブログ:かぐやひめさんの「日本の心をつたえる会」からの自主退会

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ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
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