◆アメリカ合衆国の戦争ポスター
国民を動員する目的から,ポスターが多数作成されました。ここに引用したPosters from World War IIのポスターにも,労働強化,兵員強化,消費抑制,反日感情の扇情という目的があります。
写真(右):米国大統領ルーズベルトが参戦前に掲げた四つの自由:米国は英国との親交を保ち、半ドイツの立場を明確にした。これが、「四つの自由」である。しかし、宣戦布告の権限は、米国議会にあり、議員の多くは、大統領も含めて、「皆さんの師弟を危険な戦争に送ったりはしない」と公約していた。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,拙著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』(青弓社)が紹介されました。
◆アジア太平洋戦争 1931-945年 写真解説
アジア太平洋戦争インデックス:リンク一覧
戦争写真館:リンク一覧
沖縄戦:住民と軍政
沖縄戦における特攻:菊水作戦
米国商船の被害:フィリピンと沖縄で特攻の成果
沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資
神風特別攻撃隊:レイテ沖海戦の特攻
特攻兵器の開発:人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」自爆艇「震洋」
検証:南京事件:捕虜・敵性住民の処刑
盧溝橋事件・上海事変:北京・上海・南京攻略
米中接近:日中戦争と枢軸国
ノモンハン事件:中ソ不可侵条約・フィンランド冬戦争
アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」:対日秘密戦争
真珠湾攻撃:騙まし討ちと英雄
真珠湾攻撃の写真集:被害艦船・復旧写真
東京初空襲と山本五十六暗殺:真珠湾攻撃の仇討ち・報復
写真解説:米国の戦時動員:航空機産業における女子労働者
写真解説:米国の兵力動員:陸軍・海兵隊・民間防衛軍の増強
戦時ポスター:世界の動員:1940年代の連合国・枢軸国
当サイトには,名の訪問者があります。写真やポスターを引用する際は,URLなど出所を明記してください。「平和・人権と戦争」も参照にして下さい。
<侵略者日本人>
反ルーズベルトは,ヒトラー総統も日本の東条英機首相(天皇ではない)も同じ。中央:日本とドイツが,米国をナイフで刺し,拳銃で撃とうとしている。米国本土をに機器が迫っている。右:蛇ごく潰しの日本とドイツを踏み潰せ。
<真珠湾だまし討ちの報復としての太平洋戦争>
真珠湾関連プロパガンダ:左2枚;12月7日(日本時間8日)の報復(アベンジ)を誓う。真珠湾の奇襲攻撃は2000人以上の米国人を殺戮した。「12月7日を忘れるな」宣戦布告もしない卑怯なだまし討ちの真珠湾攻撃。それまで戦争反対で欧州の戦いに武力介入しなかった中立国の米国を,一気に対日宣戦布告を決断させた。議会に宣戦布告の権限があるが,反対票は僅か1票のみ。それも,反対できるという議会の健全性の証明のために投じられたもので,投じた議員は宣戦布告すべきであると主張した。
「君はできることを皆やっているか?」として,星条旗はあなたの協力,徴兵志願を必要としている。
1941年12月8日,ルーズベルト大統領は,a date which will live in infamy「屈辱の中に生きることになる日」として有名になる演説をし,真珠湾12.7攻撃を騙まし討ちとして非難した。この表現は,その後,何度も引用されることになる。ここで真珠湾攻撃が「騙まし討ち」とされた理由は,日本が,日米和平交渉を継続すると見せかけながら,戦争の準備をし,宣戦布告無しに,米国を先制テロ攻撃したからである。
真珠湾の報復をせよ(左):「我々の弾丸で、報復を成し遂げるだろう」;海に投げ出されてた男は,星条旗柄の服を着たアンクル・サム(米国人の象徴)。飛び去る日本機を睨みつけて報復を誓う。第一次大戦に米国が遅れて参戦したときも,アンクル・サムが動員を呼びかけた。
「卑怯なジャップによる真珠湾の騙し討ち先制テロに晒され,米国は報復し,わが身を守るために戦う」というプロパガンダが,展開される。欧州大戦には中立を維持した米国も,日本には報復すべきであるとして,対日宣戦布告する。
1941年12月8日のルーズベルト大統領による演説"Pearl Harbor Address to the Nation"でも、真珠湾攻撃は遥か以前から周到に準備されてきたものであるとして、次のように述べている。
It will be recorded that the distance of Hawaii from Japan makes it obvious that the attack was deliberately planned many days or even weeks ago. During the intervening time, the Japanese government has deliberately sought to deceive the United States by false statements and expressions of hope for continued peace.
「真珠湾攻撃は、何日もあるいは何週間も前から計画、準備されていたものであり、その間、日本は平和を希求している米国と偽りの和平交渉を行い、(攻撃する意図を隠し)騙し続けていた」。このように国民に告げた。真珠湾攻撃の1時間後に、日本の大使たちが持参してきたのは「宣戦布告の最後通牒」ではなく、「ハル・ノート」への回答文書と認識している。
Remember Pearl harbor(右):「ジャップの騙まし討ちの匕首(あいくち)」平和のオリーブの枝を差し出すメガネザル日本軍人だが、自由の女神を背後から(ナチスから貰った)匕首で刺そうとする。女神を守るために戦時公債(War Bond)を買おう。戦争のための資金協力の呼びかけでもある。
「騙まし討ちの真珠湾攻撃」「背後から匕首で刺された自由の国アメリカ」というプロパガンダで,国内外の世論形成,米国議会の支持を得ることこそが重要であり、そのためにどのようにプロパガンダを具体的展開するかがのが問われる。ところが,日本側が宣戦布告をわざと遅らせたのではない--といった末葉にこだわった弁明を外交や国際関係専門家が続けているとしたら、的外れである。戦争と動員,議会の支持,対日戦争、動員に有利なようにプロパガンダを行う米国の前に,宣戦布告に関するテクニカルな弁明は、聞く耳をもたれることはない。(現在ももたれていない)
日本艦隊は11月26日に出撃しており、12月1日の時点までに日米交渉が再開できれば、引き返すつもりでいた。しかし、大艦隊の出撃自体が、動員令と同じく、戦争開始であると指摘されれば,反論するのは難しい。開戦とは、砲火を交える戦闘が起こった時点では決してない。真珠湾が日本から遠く隔てられていることを踏まえれば、問題としているのは、「宣戦布告が1時間遅れた」という短時間のテクニカルな問題では決してない。この点について、日本国内では誤解もある。
ポスター(左):Remember Pearl harbor「星条旗は逃げ出さない。真珠湾を忘れるな。」という勇敢な米兵のプロパガンダ:真珠湾攻撃のさなかにも星条旗が掲げられた。このように,我々は毅然とした態度で,勇敢に戦う。これからは反撃,報復のときだ。
しかし、外交上の別ルートでは、宣戦布告は伝わっている。日本にいる米国のグルーAmbassador Grew駐日大使に、東京時間の12月8日午後(ホノルル時間12月7日午前、正午近く)に通告している。陸海軍を統括する大本営では、ワシントン時間の12月7日午後4時に、海外向けの放送をして、宣戦布告がされたことを通知している。つまり、外交のテクニカルな問題として「宣戦布告」の問題を扱うことは、戦争にあっては、意味をなさない。どのように自国の戦争を正当化するかが、世論を団結させ、厳しい動員を受容させるかがと問われている。宣戦布告もこのような脈絡で議論せざるをえない。
統帥権をもつ日本軍の最高司令官は、大元帥昭和天皇である、宣戦布告の権利も天皇が保有しているし、この大権を犯すことは誰にもできない。正式な宣戦布告とは,大元帥昭和天皇の「大詔」が、東京時間12月8日午前11時40分に発せられたことを持ってするのが適切である。これは、それ以前の軍事行動、攻撃を追認する意味しか見出せないが、攻撃後の宣戦布告となっていることは確かである。
日本の攻撃は、太平洋上、アジア全土で行われているのであって、まさに12.7は、「米国にとって屈辱の日」である。たしかに、「ハル・ノート」への回答では、日米交渉打ち切りを告げてはいるが、明確な宣戦布告を述べていない。そこで、これが真珠湾空襲以前に手交されて、「宣戦布告」が間に合っていた---としても、米国は日本から宣戦布告を受けてはいないという立場を採用したに違いない。
写真(右):ルーズベルト大統領の1941年12月8日の議会演説:Pearl Harbor Address to the Nationでは,議会に対日宣戦布告するように要請した。これを受けて,連邦議会は,反対1票で,対日宣戦布告をした。連邦憲法の下では,宣戦布告の権利は,大統領にではなく,議会にある。最も成功した「正義の戦争」のプロパガンダ(?)で、これによって連邦議会と世論を参戦に一本化し、人員・資源・技術を戦争のために動員することが可能になった。
日露戦争では明確な宣戦布告を(戦闘開始後に)出していたが、1930年以降の中国侵攻には一切宣戦布告はしていない。中立国の米国から軍需物資を輸入するためにも、戦争ではなく「事変」として扱われたのである。また、1941年12月7日0755の真珠湾空襲については、1週間前から日本は米国に開戦することを決めていた(12月1日の天皇臨席の御前会議で)。したがって、ハワイ攻撃を隠すために、偽りの日米交渉を行ってきたのであって、これは米国から見て明らかに「握手するそぶりをして、後ろに匕首を突き出す準備をしている」騙まし討ちである。
日米和平を望まないのに,偽りの交渉を担当してきた日本に対して,米国は憎悪を抱き,復讐しようとする。米国政府も,実は戦争準備のため,外交交渉を時間引き延ばしと考えていたが,そんなことは国民や議会には黙って隠し通している。米国政府・メディアによる反日プロパガンダも展開される。真珠湾攻撃が「宣戦布告無しの先制攻撃」であることは(事実?)明白だ。「卑怯なやり方で、残虐行為を働くジャップJapは、人間ではない。ケダモノだ。テロリストどもは,殲滅しなくてはならない」と考えた。「いいジャップは,死んだジャップだけだ」と。
写真(左):ハワイで銃撃された民間の乗用車;赤十字をつけた救急車もオアフ島で銃撃された。この他,乗用車に乗った民間人3名も,日本機に銃撃され殺害されている。真珠湾攻撃で日本人は,無辜の米国民間人40名ほどを殺害た。(「真珠湾攻撃の民間人死傷者は約40名」を米国の反日プロパガンダの流儀で表現するとこうなる)。
真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説は、演説巻頭でつぎのように「屈辱の日」の表現が使われている。(→演説音声を聞く)。
"Yesterday December 7 1941-a date which will live in infamy-the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan. "
写真(右):世界を侵す化け物ダコの日本;1943年の米国のコミックの表紙。日本人は,蛸の化け物で,世界に触手を伸ばすが,米国海兵隊の火炎放射器に焼かれてしまう。化け物には,都市無差別爆撃をしても当然である。
真珠湾攻撃が「宣戦布告無しの先制攻撃」であることは(事実?)明白だったので,反日プロパガンダによって,米国人は「卑怯なやり方で、残虐行為を働くジャップJapは、人間ではない。テロを起こすジャップは殲滅しなくてはならない」と考えた。「いいジャップは,死んだジャップだけだ」と。
ジャップは、野獣、化け物、間抜け猿、タコ、悪魔などのたとえられた。ジャップの子供、娘を視野に入れることはしない。「時代劇」は、敵の侍の「生活」を視野に入れさせない。敵にも妻や子供がいる。年老いた親を介護している。このような人道主義的考えを抱いたら、もはや敵の人間を殺害することはできなくなってしまう。敵はヒトではない。このように思い込ませることが重要である。
真珠湾攻撃は,米国人は日本人に対する憎悪を一気に高めた。報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化された。米国本土に住んでいる日系人を(米国籍を取得していようと),財産没収の上,強制収容所に隔離するのも当然だ---,と米国人は考え,実行する。
雑誌表紙(左):ジャップの野獣:「ジャップが世界をレイプしてきた道」「検閲なしの写真」。
真珠湾攻撃については、(日本の)戦果・(米国の)被害を扱う場合、日本では、真珠湾の大戦果はラジオ放送もされた。
「戦艦5、給油船1を撃沈、戦艦3、軽巡2、駆逐艦2を大破、戦艦1、乙巡(軽巡洋艦)4を中破、航空機450機炎上、撃墜14機,撃破多数、格納庫18棟を炎上または破壊」
他方,米国では,真珠湾攻撃で殺害された犠牲者2400名に最大限の敬意を払っている。正確に言うと,犠牲者というよりは,英雄の扱いである。米軍兵士は,正々堂々とした闘いでは,負けるはずがない。しかし,日本人が平和のオリーブの枝を差し出しているので,それを信じた。なのに騙まし討ちで背後から刺された。化け物蛸の日本人は,多数の善良な米国人を殺害し,世界を奴隷にしようとしているので,焼き殺してもかまわない。
米国では,真珠湾攻撃の死傷者氏名年齢一覧、真珠湾攻撃の民間人殺害者名簿、死傷者氏名階級一覧など、人名録が多数作成され、現在も公開されている。ホノルル郊外の真珠湾にある戦艦アリゾナの残骸は、1962年に国営「アリゾナ・メモリアル」に指定された。これは,米国版「靖国神社」であり,英霊の精神を偲ぶ聖地である。
真珠湾攻撃の日米の人員被害・艦艇被害一覧からみると、日本海軍航空隊の空襲は,爆撃と魚雷攻撃[雷撃]によって、戦艦5隻撃沈など撃破12隻以上の大戦果を上げている。さらに,敵国の軍人2300名以上を殺傷できた。米国に与えた人的被害は,死傷者(死亡と重傷者の合計)3500名である。日本では敵をこれだけ殺傷したのに戦果とは認識していなようだ。しかし,米国では物的被害以上に、人的被害を重視し,人命を奪った日本人を敵として憎んでいる。
日本は,民間人、一般市民を標的にしていなかったことを武士道に沿ったもののように主張する。実際,都市としてのホノルルの爆撃は,作戦計画にはなかった。しかし,新聞では「ハワイ海戦」における「ホノルル爆撃」として報道された。メディアの統制が,完備していない証拠である。自ら民間人を攻撃していることを,世界に向かって公示したのだから。
実際に,民間人が乗用車走行中に日本海軍機に銃撃され殺されている。真珠湾攻撃では,米国人2400名の命が奪われているが,これには民間人48-54名が含まれている。負傷者は1178名で,民間人負傷者は38名である。つまり,真珠湾攻撃の米国人の死傷者は3500名以上である。
真珠湾攻撃以前,米国は,孤立主義の立場で,ポーランド・フランスはもちろん,英国をも攻撃したドイツに宣戦布告していない。しかし,真珠湾攻撃は,米国議会に,対日宣戦布告を決意させ,日米開戦に導いた。そして,プロパガンダを有効に展開できる土壌を提供し,米国政府が,国民を大規模に動員することを可能にした。真珠湾攻撃の意味としては,この点が最も重要であろう。
写真(左):雷撃機TBF「アベンジャー(復讐者)」のパイロット,当時のジョージ・ブッシュ(大統領);1944年撮影。「復讐者」を操縦していたブッシュは,撃墜されたが,潜水艦に救助され九死に一生を得ている。
「真珠湾の報復」の東京発空襲のプロパガンダ
1931年満州事変以降、中国侵攻には一切宣戦布告はしていない。中立国の米国から軍需物資を輸入するためにも、戦争ではなく「事変」として扱われたのである。しかし,日中は全面戦争に突入しており,貿易取引や輸出規制などの観点から,法的には戦争ではないとしているだけである。事実上は,宣戦布告のない戦争であると誰もが知っていた。日本は,宣戦布告なく一方的に先制攻撃を仕掛ける好戦的な軍事国家である,捕虜や機民間人の保護を謳ったジュネーブ条約に加わらない野蛮な国である,という評価がされていた。
後の米国大統領ジョージ・ブッシュは,太平洋戦争に雷撃機「復習者=アベンジャー」搭乗員として日本軍と戦った。硫黄島付近で撃墜されたが,米潜水艦に救助され,真珠湾に送られた。彼の搭乗した2人乗り雷撃機が,グラマンTBF「アベンジャー」Avenger(復讐者)である。真珠湾攻撃の後になって,アベンジャーは,実用化されているので,明らかに「真珠湾テロへの復讐者」の意味である。真珠湾の復讐者の息子(ジュニア)も米国大統領に就任した。
醜い日本人として「ガリ勉の醜悪な鬼日本人よりも素早く働け。そうすれば,ジャップの東京をそれだけ早く打ち倒すことができる。」「ド近眼の卑怯者にパンチを食らわせろ」というプロパガンダポスターも作られた。
「真珠湾を忘れるな」とは,騙まし討ちのテロを行った日本人に報復せよという意味である。この報復は,民主主義と自由を守るための「正義の戦争」である,とみなされた。
したがって,米国の対日戦争は,日本が降伏するまで続けると,大統領,議会,国民は当然のように考えた。正義は勝つ。米国人は,日本との戦争に負けると思ったことは,(緒戦で敗北しても)一度たりともない。
真珠湾攻撃は,米国人は日本人に対する憎悪を一気に高めた。報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化された。米国本土に住んでいる日系人を(米国籍を取得していようと),財産没収の上,強制収容所に隔離するのも当然だ---,と米国人は考え,実行する。
真珠湾攻撃が米国に与えた影響の第一は,(植民地ではなく)米本土の民間人80名以上を死傷させ、軍人も合わせて3500名もの死傷者を出したことで,これをもって「卑怯なテロ」という(米国による)判定が下る。
真珠湾攻撃の米国から見た評価は、次のようにまとめることができる。
?騙まし討ちの卑怯な攻撃である(宣戦布告なく,和平交渉を続けるそぶりをして,攻撃を仕掛けてきた)
?民間人を含む米国人2400名の命を殺害したテロ行為である
?米国の本土を攻撃した(米植民地フィリピンや中国駐留米軍への攻撃ではない)
?米兵は(犠牲者も生存者も)は,我々のために勇敢に戦った英雄である(Aftermath: They died for you and me.)
ポスター(右):「東條首相を卑下したような日本兵士」では「軍務についている人への贈答」「もしも日本兵に会ってしまったら---。ロープをそいつの首に巻け。ロープの端を握って,引っ張れ。ヒック!」このような反日プロパガンダが展開された。
「東京キッド」では、「使えるものが捨ててあるぞ。見つけたジャップは,得意げである。」米国市民が物資を粗末にすれば,ジャップを利することになる。物資節約に心がけ、戦争に協力しよう。牙の生えた醜悪な姿を写しご満喫ジャップ、やつらを喜ばせるような無駄はやめよう。
テロには報復せよ,「ならず者国家」を倒せ,として,米国の連邦議会では,真珠湾攻撃の翌日,1941年12月8日に,日本へ宣戦布告する。これは,反対僅か1票で可決された。反日プロパガン流に言えば,野獣には,話し合いは通用しない。米国人を殺害しに来たテロリストは,殲滅するしかない。
真珠湾攻撃から1週間たつと,日本では「ハワイ海戦」で大戦果を挙げたと,メディアで大々的に宣伝する。新聞には「米太平洋艦隊全滅」の見出しが躍り,国民は強い(と思われていた)米国に勝ったと大喜びする。その中で,ハワイ攻撃を立案した連合艦隊司令長官山本五十六大将が,高く評価され,英雄として扱われる。日本海軍も,山本提督を海軍の英雄として,真珠湾の大勝利のプロパガンダを展開する。
醜い日本人のポスターでは、「時間厳守で働こう。無駄な時間は敵日本の思う壺だ。数秒あれば爆弾を投下できる。あなたは何分を無駄にしたか。」と勤労を訴えている。「サムライを卑下した日本兵士」のポスターでは、血塗られたナイフで人殺しをする侍。「地獄の死者がわが国を脅かす」と煽っている。
真珠湾攻撃「12.7テロ」は、「9.11テロ」と米国側から見れば同じ文脈で、「屈辱の日」である。平和な生活を破壊する一方的な無差別攻撃は,断じて許されない。テロを図る「ならず者国家」には報復すべきである。
真珠湾攻撃は,米国本土(米国領という意味で)の正規軍に対する奇襲攻撃で,海軍艦船,航空機,人員に甚大な被害を与えた。これは,軍事的な敗北という意味でも「屈辱の日」である。勇敢な米兵が,劣った日本人に負けるはずがないのに,大損害を被って負けた。なんとしても雪辱戦に勝たなくてはならない。そうしないと,膨大な国家予算を獲得してきた米国海軍,陸軍の面子は丸つぶれである。
政治指導者としても,何とかして,日本軍に反撃し,世論に米国の強さを認めさせたい。米政府や軍の高官は,地位保全のためにも,真珠湾攻撃の「屈辱の日」とそれ以降の敗北を帳消しにできるような,大戦果を国民に示す必要があった。国民に耐乏生活,労働強化,志願兵応募など戦時協力を求めるプロパガンダは,戦果と連動してこそ効果が上がる。。
米陸海軍は,真珠湾攻撃の敗北,「屈辱の日」の恨みを晴らすために,そして反撃する強い米軍というプロパガンダを成功させるために,日本本土空襲という報復攻撃をかけた。
写真(上左):航空母艦「ホーネット」から日本空襲に飛び立ったB-25爆撃機;1941年4月18日に,爆弾を搭載した16機が全機無事(?)日本を爆撃した。写真(上右):日本本土空襲をするB-25爆撃機を搭載した航空母艦「ホーネット」;真珠湾空襲から4ヵ月後,1941年4月18日に,米軍陸軍航空隊所属のB-25爆撃機16機が,東京,名古屋,神戸の市街地を空襲。これは,真珠湾先制テロ攻撃に対する報復で,民間人殺害を躊躇しない都市幣別爆撃である。
他方,陸軍航空隊でもアーノルド司令官の下で,日本の大都市への爆撃計画が検討された。そのスタッフの一人がドゥーリットルJames Harold ("Jimmy") Doolittleである。彼は,1942年4月中旬までに空母「ホーネット」から飛び立つことができる長距離飛行可能な双発爆撃機を準備することに全力を傾けた。海軍には,単発(エンジン1基)の艦上機しかなく,日本を空襲するには機体の航続距離が足りない。そこで、より長距離飛行が可能な双発爆撃機を空母から発進させることのにした。
写真(右):航空母艦「ホーネット」で空襲部隊司令官ドゥーリットル陸軍中佐が爆弾に,日本の勲章を結びつける;1941年4月18日に,爆弾とともに日本の勲章をたたき返した。
こうしてジェームズ・ドーリットルJames Harold ("Jimmy") Doolittle中佐を中心に考え出されたのが,航空母艦に長距離飛行の可能な陸軍の陸上爆撃機を搭載し,太平洋上から日本を爆撃する計画「ドゥーリットル空襲Doolittle Raid 」である。そして日本空襲後は,母艦には戻らず,そのまま東進して(日本と戦っている)中国に着陸すればよい。大型の陸上機は航空母艦に着艦できないし,こうすれば,攻撃隊を待つために指定海域に留まっていなくとも良い。爆撃機を発進させた後,すぐに西進,退避できる。これは,軍事的な価値よりも,米国や連合国の世論への影響を考慮したプロパガンダでもある。
この作戦は,日本では「東京初空襲」と称されるが,東京以外に,横浜,横須賀,名古屋を攻撃目標としている。空母部隊は,航空母艦「ホーネット」が米陸軍航空隊のB-25爆撃機16機を搭載し,その護衛に艦上戦闘機を搭載した航空母艦「エンタープライズ」が付いた。
写真(左):日本に空輸されてきたドゥーリットル空襲の捕虜とその写真を使った反日プロパガンダ;帝都を爆撃され,敵機を撃墜できなかった日本軍は,面子を潰される。そこで,捕虜を公開して,爆撃機はほとんど撃墜したと,国民を欺こうとした。しかし,大半の乗員は,中国で助けられ,米国に帰還し,英雄扱いされた。この爆撃で捕まえた敵機搭乗員の将校は,テロ爆撃を企てた咎により処刑された。しかし,米軍は「血も凍るような残虐さ処刑」として,日本の残虐行為を非難するプロパガンダを始めた。
第18任務部隊The Task Force 16では,部隊員全員が見守る中を,空襲部隊司令官ドゥーリットル陸軍中佐が500ポンド爆弾に,日本の勲章を結びつけた。この勲章は,空襲部隊メンバーのステファン・ジュリカ中尉が,海軍武官として日本に滞在中,授与された友好勲章である。この日本政府から贈答されたメダルを,日本に投下する爆弾とともに日本に送り返すのが「東條へのエアメール」だという。
1941年4月18日,爆撃機発進予定地点より手前で,哨戒任務中の,黒潮部隊の第23日東丸が米艦隊を発見され,無線通報する。そこで,米攻撃隊は,直ちにB-25爆撃機16機を発進させた。真珠湾攻撃の仇討ちのために,16機で日本本土空襲を行ったが,1機が中立国ソ連に着陸・抑留された以外,15機が中国で機外脱出,不時着した。つまり,16機全部が喪失である。
「敵を打ち倒せ。ジャップの旗を鹵獲してくれ。」:戦利品として米兵に一番人気があったのは,軍旗である。日本兵は寄せ書きをした日章旗も私物として,故郷から戦場に持参したが,米兵は鹵獲した公私の軍旗を,全て米軍勝利の象徴としてもっとも価値のある戦利品とみなした。ジャップの軍旗鹵獲は,最大の料理のプロパガンダに使われる。
友好の勲章も,いまや日本人を殺害する爆弾の一部となった。戦争となったとたん,米国人の空襲部隊のメンバーは,日本人との個人的親交も否定してしまった。
プロパガンダに使われたB-25爆撃機16機の搭乗員(各機5名)合計80名は,日本から見れば,婦女子を殺害したテロリストである。しかし,米国では「80名の勇士」80 Brave Menとして,当時も現在も顕彰されている。
中佐ドゥーリットルLt. Col. J.H. Doolittle以下,日本への出撃前に,各機ごとに搭乗員のプロパガンダ用写真,映像が撮影されている。全16機の搭乗員は,真珠湾の仇討ちをした英雄として扱われることは,プロパガンダの上で既定の方針だった。
<「真珠湾騙まし討ちの報復」の山本暗殺>
テロにはテロで報復するのが効果的だ。真珠湾攻撃で大損害を被った米国には,「先制テロ攻撃の首謀者」として山本五十六を憎む者も多い。米国の世論は,テロの成功者がいつまでも光栄ある地位にあることを苦々しく思う。誇りある米国に「屈辱の日」を演じさせた軍人を許さないということだ。負け戦だった真珠湾の報復をするために,首謀者(立案者)は消し去らなくてはならない。英雄は,真珠湾で勇敢に戦った米国人だけであり,「いいジャップは死んだジャップだけだ」。
米陸海軍は,真珠湾攻撃の敗北,「屈辱の日」の恨みを晴らすために,真珠湾攻撃の発案者(先制テロ攻撃の首謀者)の山本提督を暗殺した。
写真(右):ハワイ攻撃の立案者,連合艦隊司令長官山本五十六;ハワイの米艦隊を撃滅し,米国の戦意喪失を狙ったという。1919-23年ハーバード大学に学び,1925-28年駐米日本大使館付武官米国。知米派と見られていた。1943年4月18日,米軍陸軍航空隊は,暗号解読により,戦闘機で待ち伏せ攻撃し,山本五十六大将の搭乗機を撃墜,暗殺に成功する。真珠湾の仇討ちである。
山本提督は,1919-23年ハーバード大学に学び,1925-28年駐米日本大使館付武官米国。知米派と見られていた。1939年の連合艦隊司令長官に就任する前から,日独伊三国軍事同盟に反対しており,日本軍の中でも空軍力をもっとも重視した将軍であった。また,日米開戦にも懸念を表明するなど,日本海軍の英雄,日本の逸材という評価も得ている。
しかし,真珠湾攻撃によって米軍に大損害を与え,大敗させた山本五十六大将は,米国では憎むべき敵である。「先制テロ攻撃の首謀者」であれば,「屈辱の日」の恨みを晴らすためにも,殺害なければならない。米国でも日本の名将として尊敬されているという日本の主張は,少なくとも当時は当てはまらない。
写真(左):騙まし討ちの山本提督:「私(日本海軍の山本)は,ワシントンDCホワイトハウスで,米国との和平をまとめるのを楽しみにしています」「貴様は,今アメリカ人になんというつもりだ」。偽りの和平交渉の裏で,真珠湾テロ先制攻撃をした山本を許すな。
山本提督が,米国に長らく滞在した知米派であっても,米国を騙すつもりで,親交を深めていたスパイであり,裏切り者である。米国では,このように決め付けられてしまったようだ。現在でも,戦略や太平洋戦争に通じている人物の一部が,敬意を払っているに過ぎないのではないか。日本語の本やwebでは,米国でも尊敬されているように述べているが(一部の知日派を除き)誤りである。
1943年4月18日0600、「前線視察と将兵の激励」のため長官の一行は一式陸上攻撃機(G4M)2機に分乗しラバウル基地からブーゲンビル島ブイン基地に向け飛び立った。この最前線視察は,い号作戦打ち切りに伴って,山本長官が,ラバウルから後方基地のトラック諸島に帰還するための花道のようである。1番機に山本長官、2番機に参謀長宇垣纏中将が搭乗したが、護衛戦闘機は熟練パイロットの操縦する零戦6機のみだった。
ラバウル基地とブイン基地はともに日本の戦闘機部隊があり,その間の秘密飛行なので,米軍が山本長官の前線訪問を知らない以上,長官襲撃はありえないと判断していた。そこで,護衛機は僅か6機であった。日本は,暗号が解読され,山本五十六暗殺計画が急遽策定されたとは,思ってもいない。山本長官が暗殺されてからも,暗号を変えなることはなかった。
「フィリピン解放の勇士マッカーサー将軍」のプロパガンダ
写真(左):1944年10月20日,レイテ島上陸を演じるマッカーサーDouglas MacArthur元帥(1880年1月26日生 - 1964年4月5日没);2005年にレイテ攻略50周年を祝う米国国防省のバナー。フィリピン亡命政府大統領オスメニャを引き連れて何回も撮影し,取り直したヤラセの映像である。右には,CBS特派員のダンが,タイプライターを抱えて上陸している。敵前上陸ではない。When Americans stormed ashore at Leyte, it fullfilled a promise made by Gen. Douglas MacArthur
made in the dark days following the fall of the Philippines to the Japanese in 1942.
フィリピン攻略には,連合軍西南太平洋方面総司令官マッカーサーDouglas MacArthur将軍の執念が込められていた。マッカーサーは,フィリピン軍元帥として長らく米国植民地フィリピンの米軍と新たに編成したフィリピン軍を統率していた。日米開戦前の1941年7月26日,マッカーサーは米軍極東陸軍司令官に就任している。
しかし,ルソン島リンガンエン湾に日本軍が上陸すると,マニラを放棄し,バターン半島に籠城した。持久戦を戦い,米国本土からの援軍を待ち受けるつもりが,日本軍の猛攻の前に,米比軍(米軍とフィリピン軍)は敗退してしまう。バターン半島南端のマニラ湾口に浮かぶコレヒドール島の要塞を死守することなく,1942年3月31日に日本軍包囲下のからオーストラリアに逃げ出した。
写真(右):レイテ島に上陸した米軍司令官ダグラス・マッカーサー;1944年10月,フィリピンの亡命政権の大統領オスメニャ(手前)を引き連れて上陸。かつて日本軍に駆逐されたフィリピンに復帰することは,雪辱を晴らすために絶対必要なことだった。しかし,この有名なレイテ島上陸の写真・映像は,完全な演出(ヤラセ)である。1回目の上陸シーンは,威厳が保てず宣伝効果が薄いと判断し,何回も撮り直して仕上げたものである。
マッカーサー司令官とは,部下のウェンライト将軍に敗軍の省の責任を押し付けた恥ずべき逃亡将軍である。ウェンライト将軍は,終戦まで日本軍の捕虜になり,痩せこけた姿で,勝者マッカーサー元帥に会った。戦艦「ミズーリ」艦上での日本降伏調印式にも参列を許されているが,逃亡将軍が勝者として振舞うのを見て,心中は如何ばかりであったろう。
米軍極東陸軍司令官マッカーサー将軍は,司令官就任から半年もたたない1942年3月31日、日本軍に包囲されつつあるフィリピンのコレヒドール島を脱出して,オーストラリアに逃げ延びた。このとき“I shall return.”「私は帰ってくる」と言い放ったが,どうみても「敗軍の将」だった。
マッカーサーは,1942年4月19日に米・オーストラリア・オランダ連合軍西南太平洋方面総司令官に就任し,太平洋戦争を指揮した。これは,彼の能力の高さ,政治手腕と並んで,政府が米国の最高位の将軍が,敗戦の将となる汚名を負うのを避けたためであろう。政治的に見て,最高司令官が捕虜になるのを米軍は好まなかった。部下は見殺しにされた。
<残虐な動物に見立てられた日本人の侵略行為>
「スパイを警戒せよ」。メガネをかけたイエローモンキー日本兵が,落としている情報を拾って,無警戒な米国人に,ありがとうのカードを配るという皮肉(左)。中央は,女を陵辱するメガネをかけたイエローモンキーの軍人で,「これが敵だ」(WW2)。右は,メガネをかけた蛇のような日本を,「握った手を緩めるな」。同情したり,哀れんだりしたら噛み付かれる。
第二次大戦の反日プロパガンダの定番。野蛮なサルは,米国女性を陵辱にやってくる。奴らを「叩き潰せ」(右)。不気味なサルのような日本人が,女性を襲う。
ネズミ捕りにかかった近眼メガネのジャップ鼠(左)。ローストチキンとして丸焼きにされるヒトラーと東条。敵のボスを生きたまま焼き殺す焚刑に処す(中央)。メガネ細い目は,時の首相東条英機のカリカチュア(右)。
「不気味な得体の知れない日本人」では、兵士,陸将,提督,シルクハットの政治家,坊主,勤労者,芸者,労働者,みんな生気のない人でなしの様だ。「蛮刀を振り上げ斬首を楽しむ悪鬼日本兵」では、日の丸も富士山も鬼の住処である。捕虜になれば,処刑するのが日本兵だ。「貴様,12月7日の真珠湾騙まし討ちを忘れたのか!」では、「アメリカの自由を守ろう。写真(上右)「お先にどうぞ。休みをとれよ。」休みをとって怠ければ,下劣な日本兵を喜ばせるだけだ。だあら,懸命に働こう。と呼びかけた。
<報復されて当然。憎むべき日本人>
死骸の山を築く,不気味なゾンビのような日本人(左)。野蛮な日本兵が君たちを狙っている(右写真)。「ジャップのヤツを撃ち殺せ。そうすれば,仕事はお終いだ。」
「殺人者日本軍を追い払え」(左)。「次に狙うのは,日本本土だ」(中央)。日本の兵士は敗退し,倒れ,地獄への道をたどるのみ(右)。
<生産を増強して,戦備を整えよう>
生産増強を叫ぶときも,反日が強調される。日独伊の軍人を描いたポスターで,ムッソリーニ,ヒトラーに対して,日本は無名の軍人。国債の購入を促すポスター(左)。爆弾を生産して,日本にナチスに投下しようというポスター(右)。
<暴虐な敵:日本とドイツ>
反キリスト者のナチスは,教会を踏み潰す。人権を無視して,拷問,虐殺を行う。暗黒の警察国家。婦女子を陵辱するナチスと日本。やつらからわが故郷を守るために「戦時公債を買おう。」
「降伏は,奴隷,飢餓,そして死を意味する」----占領したフランス人を強制労働に従事させるドイツ。
<戦備を整えるために一致団結しよう>
黒人と白人の労働者がともに軍需生産に寄与している。「枢軸国(Axis)を握り潰せ」ナチス,日本,イタリアの旗が握りつぶされる。(右)。
黒人も兵士として動員された。「天にも地にもはたすべき義務がある」。右の二等兵のジョールイスは,語る。「我々は,我々に与えられたものをこなして勝利する。なぜなら,神の側にいるからだ。」ただし,白人とは別に黒人部隊として,多くは物資輸送,飛行場建設など後方任務に就かされた。しかし,国内の宗教・人種差別を撤廃すべきであるとの声が,戦争を契機に盛り上がったことも事実である。“We say glibly that in the United States of America all men are free and equal, but do we treat them as if they were? . . . There is religious and racial prejudice everywhere in the land, and if there is a greater obstacle anywhere to the attainment of the teamwork we must have, no one knows what it is.”「アメリカでは人は自由というが本当にそうだろうか。我々は,宗教や人種によって人を差別していないだろうか-------」Arthur Upham Pope, Chairman of the Committee for National Morale, in America Organizes to Win the War.
<戦備増強のための女子労働者の大動員>
女性も動員される。タイピストとして指を使うのも立派な協力。女性も仕事を持とう。生産して,爆弾をナチスや日本に投下する。 Rosie the Riveter(金属板をつなぐリベットを打つリベッターのロンジー)--the strong, competent woman dressed in overalls and bandanna--was introduced as a symbol of patriotic womanhood.船舶や飛行機は,電気溶接もあったが,金属板にリベットを打ってつなげる部分が多く,リベット打ちに女子も参加した。
看護婦募集と動員を賭ける。「女のくせに----」という非難は,戦時中は聞かれない。農産物・食糧の増産を図ろう。(右)。
「庭先でも農産物を栽培をしよう」(左)。自分のものは,自分で育てる。だから,こんなに食べ物も豊かにあるとでも言いたげなポスター(右)。
<高まるアメリカの愛国心>
「まず日本人を叩こう。そのために節約せよ」(左)。女子も工場労働者として動員された。「アメリカは自由の国。自由を守ろう。」(中央)。写真(左)は,「私はアメリカ人」とあるが,上の売却soldとは何か。実は,日系人が強制収用されるに当たり,自分の資産・雑貨店を捨て値で売却しているのである。
<残酷な日本人とは対照的な平和なアメリカの家庭とそこで豊かに暮らす人々>
大戦時の米国ポスターは,スミソニアン博物館/米国歴史国立博物館(the National Museum of American History, Smithsonian Institution)でも,web展示されている。ここの写真やポスターは,PRODUCE FOR VICTORY:Posters on the American Home Front (1941-45)から引用したもの。
World War II posters helped to mobilize a nation. Inexpensive, accessible, and ever-present, the poster was an ideal agent for making war aims the personal mission of every citizen. Government agencies, businesses, and private organizations issued an array of poster images linking the military front with the home front--calling upon every American to boost production at work and at home.
<四つの自由を守るために戦う>
ルーズベルトは,対日・対独戦の目標を,四つの自由を守るための戦いと位置づけた。「言論の自由」,「欠乏からの自由」,「恐れからの自由」,「信仰の自由」 。Norman Rockwell による写真合成を基にした有名な絵画。 ルーズベルト大統領President Franklin D. Rooseveltは,日本と戦争する以前の1941年1月6日,次のような四つの自由を訴える年初の議会演説Message to Congressを行った。
”We look forward to a world founded upon four essential human freedoms. The first is freedom of speech and expression--everywhere in the world. The second is freedom of every person to worship God in his own way-- everywhere in the world. The third is freedom from want . . . everywhere in the world. The fourth is freedom from fear . . . anywhere in the world.”President Roosevelt was a gifted communicator. On January 6, 1941, he addressed Congress, delivering the historic "Four Freedoms" speech. At a time when Western Europe lay under Nazi domination, Roosevelt presented a vision in which the American ideals of individual liberties were extended throughout the world.対日戦争よりも欧州でのナチスの支配を排除したかったことが窺われる。
<守るべきものは何か>
豊かなアメリカ家庭。働き者のアメリカ人。威厳のある父親。「自由を守れ」。これを破壊しようとする日本人は敵。
家庭の大切さを訴えることもプロパガンダでは大切。暴虐で野蛮な日本人と対照的な,平和で温和なアメリカ家庭。これを壊そうとする野蛮人は殺されて当然ということになる。
アメリカの美しい家族は,女性が代表する。これが,残虐な日本人に犯されることは許せれない。
<公債の購入を促すポスター>
協力するアメリカ「皆で公債を買おう」(左)。「パイロットを飛ばし続けるには,公債を買おう」。資金調達に公債を購入することは,誰でもできる(中央)。子供を守るためにも戦時公債(War Bond)を買おう(左)。
<労働者としての動員>
左は,「ともに働こう。やればできる。敵を殲滅せよ。」中央は,「お前さんはボトルネック(隘路)になるなよ。」右は,「遅れないことはいいことだ」。これらは,積極性をアピールするとともに,敵愾心も利用する。
「怠けることは,利敵行為。」(左)「銃を持つのも,スパナを持つのも同じ」敵に立ち向かおう。(右)
「ドリルを取るのも,武器を取るのも同じ」生産=戦闘を訴え,銃後を引き締める(左)。「武器を取るもの,工具を持つのも同じ」生産者と兵士は一致協力しよう(中央)。敵を叩き落せ。そのために生産だ。(右)。
左は,「勝利のために武器を作れ」。右は,「熱くなれ。働き続けよ。1分でも貴重だ。」これらも,やる気を起こさせ,仕事の効率性を高めるための宣伝。
<勝利のための,敵への憎しみ・恐れを抱かせ,労働に向かわせる>
生産増強のための隘路(ボトルネック)になるな(左)。「働くことは,敵を殺すこと」(中央)。「こんなことが本土に起こる------」。そうならないように敵を近づけるな(右)。これらのポスターには,敵への憎しみを煽る表現が含まれている。
<1930年代後半の日中戦争におけるプロパガンダ>
大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火が拡大していく。こうした中で、日本の残虐行為を糾弾するプロパガンダが、中国、米国で行われるようになった。
写真(上左):中国兵を捕らえた日本兵(1937-1938年);正規の軍服を着用していないゲリラ兵やスパイが横行していた。そこで,日本兵は民間人らしい中国人にも疑心暗鬼,神経質になり,容疑者は容赦なく処刑したようだ。写真(上右):電話線を踏んだとして日本兵に捕まった中国人少年2人(1937年);米国の写真雑誌Look1938年11月22日号掲載。「大きな少年は電話線を踏んづけたという理由で処刑された。しかし、小さな少年の命はとらなかった。食糧の節約のために、刑場で多くの捕虜が処刑された。日本人の顔も中国人の顔も西洋人を驚かす冷静さである。」 敵対的行動,破壊工作を行った民間人は,容赦なく処刑されたようだが,それを日本軍としては敵性住民に断固たる処置を取り治安維持を図ったと考え,「残虐行為」とは認識していない。平和のための処置と考えたのか。
1937年8月15日近衛首相は、「暴支膺懲」声明を発表した。
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,中国政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」
写真(左):1937年ゲリラとされ,杭に縛り付けられた中国の少年(1937年);日本軍は,敵地に乗り込んだため,住民の中を進軍し,補給物資を運んだ。そこで,占領地の治安維持に気を使ったが,徴発・略奪・暴行を受け,あるいは戦火で財産を破壊れた住民は,「中国を侵略する日本軍」という国際的な認識がなくとも,日本軍に好意的にはなれなかった。ましてや,日本軍に両親や子供を殺害された中国住民が親日的になるとは考えられない。
松井石根大将の日記によれば,「支那官民は蒋介石多年の抗日侮日の精神相当に徹底せるにや、到る処我軍に対し強き敵愾心を抱き、直接間接居留民か敵軍の為めに我軍に不利なる諸般の行動に出てたるのみならす、婦女子すらも自ら義勇軍員となり又は密偵的任務に当れるものあり」であった。つまり,民間人による反日ゲリラ活動が頻発していた。中国側からみれば,愛国心あふれるレジスタンス活動である。日記では「自然作戦地域は極めて一般に不安なる状勢に陥り、我作戦の進捗を阻害」と述べている。
中国国内における抗日戦争のプロパガンダが有効に機能していることは、日本軍の将軍も認識していた。それに対して、日本人、日本軍将兵は、中国を懲らしめるために戦わせられることに、納得できたのか。日中戦争の初期の1937年の時点で、日本の戦争プロパガンダは、軌道に乗っていなかった。
このような「残虐行為」の写真によって、中国側、米国側は、次第に日本を憎み、抗日戦争を戦い抜く決心を固める。そこで、中国軍民の一丸となった抵抗に対して憎悪を抱いた兵にのなかには捕虜・住民あるいはゲリラ兵の処刑を行うものがあった。これは,古兵の度胸の誇示,新兵の度胸試しなど,個人的な振る舞いもあったが,反抗した中国軍民に,日本は過酷な処置をとる。これが,治安対策と思っていたようだ。中国の民衆を敵に回すような行為は、明らかに、日本の親日を目指す戦争プロパガンにとってマイナスであった。
写真(左):1938年中国兵捕虜を刺殺する日本兵(1938年頃):斬首する刀剣の腕前がない日本兵の度胸試しが行われたのであろうか。刺殺を命じられ,拒否すれば差別待遇をされたり,私的制裁(リンチ)を受けることを覚悟しなくてはならない。したがって,刺殺命令を拒否できる日本兵はほとんどいなかった。刺殺は道義に反すると考えた日本兵で「臆病なので刺殺できない」と装って刺殺を免れたものもいるようだ。
1930年代後半の日中戦争当時,海外旅行は一般人には不可能であったから,中国に出征した記念に,戦地での写真を購入した日本兵も多い。そこで,このような写真も残虐行為とは認識されずに,記念写真として販売されていたようだ。つまり,自分の出征記念写真としてだけでなく,写真を販売すれば,儲かるので,収益を目的にした記念写真撮影も行われていた。
しかし、1938年10月末以降,中国、米国の写真雑誌にも、新たな「残虐写真」は公開されなくなった。この理由は,日本軍が反日プロパガンダに対抗し始めたからである。
日本側は、残虐行為を行っているとの反日プロパガンダに対抗するため、写真の管理を徹底しようとした。米英のメディアは,日本軍の中国での残虐行為の写真を新聞・雑誌に掲載し,公開したが,これは,列国の対日感情を大いに悪化させた。そこで,日本政府・日本軍も,残虐行為の取り締まりと並んで,残虐行為の撮影。残虐行為を映した写真の公開を規制強化した。上海でニューズキャスターをしていた Carroll Alcott(1943)My War With Japan, NY,Henry Holt And Company, p.304では、日本軍によって残虐写真の販売が禁止され、ついで撮影も禁止されたと述べている。
写真(左):中国人生き埋め公開処刑を見物する日本兵(1938年):Pictorial Review1943年10月1日号Five Chinese Prisoners are Buried Alive in this, one of the most gruesome of all wartime pictures. Enraged by the stoic calm with which the Chinese defenders are meeting their attack, the Japanese are more determined than ever to bring them to their knees. This war, now in its third
year, is one of the most brutal in history.
こうして,都市でも農村でも多数の中国人(ゲリラ,敗残兵を含む)に囲まれて,日本軍兵士は,中国住民を信用せず,敵性住民として扱うしかない。中国の住民に厳しい態度で接し,そこで摩擦がますます激しくなってゆく。補給物資も,運搬手段・宿泊施設も準備していない日本軍は,兵士個人の中国人への感情や態度にかかわらず,大半の中国の住民から排除されるべき存在だったのである。治安回復に繋がったとして,中国の住民たちに歓迎された日本軍もいたそうだが少数であろう。
元来,占領軍から見て,敵国住民は,妨害工作やスパイ活動をする可能性が高いので,正確な判別ができない以上,怪しい人物や潜在的敵対者は,全て便衣隊・ゲリラ・スパイとして,処刑したほうが,治安維持に好都合である。これは「やられる前にやっておく」予防戦争でもある。軍司令官が判断すれば,逃亡中の兵士,捕虜,便衣隊,敵性住民の処刑は組織的に行われるであろう。これは虐殺という悪い意味はなく,戦争で敵を殺したとして褒められてしかるべき行為である。したがって,検閲された軍事郵便に,中国兵の斬首や視察など残虐行為がかかれるはずがないという現代的あるいは米英列国的な批判は,当時の日本には当てはまらない。
写真(上):PICTORIAL REVIEW表紙と写真で日本軍による生き埋めを伝える。;PICTORIAL REVIEWは,日本軍による残虐行為を写真入で「南京虐殺」として報じた。左の絵は,写真から新たに構図を創造した空想画。穴が浅い上に,中国人の婦人が生き埋めの手伝いをさせられている。``The village were then forced to bury this man alive as they repaired the highway by filling in the ditch.`` ---From an original oil painting by Dan Content. 右の写真は,生き埋めにされる中国民間人とされる。しかし,軍服を脱ぎ捨てた敗残兵や民間人の平服を着たゲリラ兵かも知れない。確めようがないが,反日プロパガンダとしては,無辜の民を虐殺する日本軍と解説をつけたほうが効果的である。しかし,プロパガンダに使われたからといって,事実無根の虐殺事件の捏造であるとはいえない。THESE JAP SOLDIERS are burying Chinese civilians alive in other to make a horrible example for the invaded people . The atrocities are boomeranging with a resultant strengthening of Chinese morale. ---Paul Guillumette , Inc.
語弊はあるが,暴虐で残酷な獣兵は人間以下の存在であるから,殺しても,残虐行為とは認識されない。従って,暴虐な中国軍兵士やスパイ容疑者を処刑をしても,残虐行為ではなく,検閲にもかからなかった。
検閲が強化され,斬首・刺殺・捕虜の写真撮影やそれに関する記事・手紙が規制されるようになるのは,1938年に中国,米英列国のマスメディアがそれらの行為を,日本軍の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し,反日プロパガンダが盛んになった後である。反日プロパガンダに利用されないように従軍記者・カメラマンなどのメディアによる報道とならんで,兵士個人の写真撮影・現像,郵便の規制を厳しくして,捕虜の虐待,住民虐殺などの反日プロパガンダを利する情報を管理し始めた。
写真(左):南京近郊の処刑された捕虜(1937-1938年):半裸で,後手に縛られているので,戦闘による死者ではない。一ヶ所に集められて処刑されたようだ。日本軍は,捕虜収容所も捕虜の運送手段も捕虜の食事・食器もなにも準備していなかった。
南京における日本軍による捕虜の処刑,市民への暴行など残虐行為は,国際的にも批判されたことから,外務大臣広田弘毅は,陸軍大臣杉山元に注意を喚起した。そして,陸軍参謀総長閑院宮から中支那方面軍司令官松井岩根に,軍紀振作の訓戒が出され,参謀本部第二部員本間雅晴少将(将軍)が南京に調査に向かったた。したがって,日本政府も軍も,南京で(事件の規模は不明瞭だが,かなりの件数の)残虐行為が行われたらしいことはわかっていたのである。
中支那方面軍司令官「松井石根大将支那事変日誌抜粋」によれば,現地最高司令官も南京「虐殺」を認識していた。
「上海附近作戦の経過に鑑み南京攻略戦開始に当り、我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め各部隊に対し再三の留意を促せしこと前記の如し。
図らさりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行掠奪事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。
是れ思ふに
一、上海上陸以来の悪戦苦闘か著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。
二、急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと。
等に起因するも亦予始め各部隊長の監督到らさりし責を免る能はす。
因て予は南京入城翌日(十二月十七日)特に部下将校を集めて厳に之を叱責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るへき旨を厳命せり。」
1938年10月24日軍人軍属寫眞撮影製作取締規定では,軍機漏洩を警戒するとともに, 残虐性、軍紀違反、国際法違反と思われる恐れのある写真を撮影禁止にしている。また,写真の流布を管理するために,指定邦人の写真店で日本人が処理することを定めた。残虐行為の写真が,写真店から流布していたことは,日本軍も感づいていた。
写真器材店は1932年と1937年の上海事変の戦場写真を、いそがしく商っていた。
彼らは、彼らの軍隊が引き起こした破壊だけでなく、彼ら自身の軍隊によって行われた残虐行為の写真を売ることも躊躇しなかった。
米国の刊行物に掲載された日本軍の残虐行為の写真の多くは、日本兵自身、あるいは日本のカメラマンのどちらかによって撮影されたものである。
私が上海で購入したこの手の写真のほとんど全ては、日本のカメラマンのために働いていた浪人によって、私に売られたものである。ひざまずいた中国人の首に刀を振り下ろしている日本軍の部隊の写真、あるいは縛られた捕虜の背中に狙いをつけている写真は日本軍自身によって撮影されたものである。------
日本人カメラマンは、頻繁に戦地や捕虜が捕らえられている後方を移動し、このような写真を、兵士達から料金を取って撮影した。しかし、多くの場合、兵士達は自分自身のカメラを持っていて、現像と焼付けのために、フィルムを日本人のカメラ店に持ち込んだ。店はネガやプリントを作り、更に余分に焼付けをして売りに出した。
写真が反日宣伝として世に出るまで、日本軍司令部は、この悪習を止めさせる努力をしなかった。(写真が反日宣伝に使われた)このことは特異なことであり、そのような写真の販売を即時停止する命令が出された。軍人であろうと民間人であろうと、違反したカメラマンは厳しい処罰で脅かされた、そして、当局は一歩進んで、そのような写真を兵士が撮影することを禁止して、日本人の習わしに干渉した。
(引用)
[Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, pp.302-304]
残虐写真を使用した中国・列国での反日プロパガンダの影響の大きさに驚愕した日本軍は、残虐行為を含むあらゆる写真撮影を厳格に管理し、反日プロパガンダを抑えようとした。また、自ら写真を用いたプロパガンダを展開した。
「グルー」米国大臣ハ廣田外務大臣ヲ来訪シ南京、杭州及其他ノ地点ニ於ケル軍事行動中日本兵ハ米国権益ヲ無視シ又米国国旗対シ穏当ナラサル行為ヲ為シタトノ報道ニ接シタトテ右報道ニ基キ米国政府ノ正式抗議ヲ申入ルル所カアツタ。
依テ帝国政府ハ直チニ外務官憲ハ勿論出先陸軍官憲ヲシテ事実ノ徹底的調査ヲ遂ケシムルト共ニ現地ニ於ケル米国官憲トモ密接ナル連絡ヲ取ラシメ右ノ結果ニ基キ対米回答ヲ発スルコトトシタ為
バンコクにおける排日暴力団圧迫の状況に関する件(大日記甲輯 昭和12年)
作成者: 暹羅国在勤帝国公使館附武官 田村浩
作成年月日: 1937年11月11日
盤谷(バンコク)ニ於ケル排日暴力団圧迫ノ状況ニ関スル件報告(通牒) 昭和12年11月11日
暹羅国在勤帝国公使館附武官 田村浩
陸軍次官 梅津美治郎殿
首題ノ件別册暹羅臨時報第十号ヲ以テ報告(通報)ス
暹羅臨時報第十号 盤谷ニ於ケル排日暴力団圧迫ノ状況
暹羅国在勤帝国公使館附武官
田村浩 盤谷ニ於ケル排日暴力団圧迫ノ状況
要旨 10月下旬ヨリ盤谷市ニ於ケル排日貨益ニ盛ントナリ遂ニ暴力団生レ市内各所ニ於テ「テロ」行為續出シ邦商取引皆無ノ実状トナレリ 茲ニ於テ小官之カ反対運動ヲ起シ
1937年10月12日上海方面の陸軍作戦行動写真の掲載禁止の件
タイの首都バンコク中心街には,中国人街がある(現在もある)。日本とタイは後に日泰攻守同盟を結ぶほど友好関係にあったが,シンガポール(英領),ペナン(英領マレー),クチン(英領ボルネオ),マニラ(米国領フィリピン)などと並んで,東南アジアでは中国人の多い町である。日本軍もタイにおける中国系住民の動向(反日活動)を気にしていた。
中国でも同じように反日感情が高まり、抗日活動が激化していた。
第三章 支那事変関係(執務報告 昭和十三年度東亜局第一課)
作成者:東亜局第一課,記述単位の年代域:1938年
排日行動過激化 共産主義的色彩濃厚
第三章 支那事変関係 第一節 華僑ノ排日行動 第一款 排日暴力団ノ策動
支那事変勃発当時ノ在暹華僑ノ排日状態並ニ暹羅政府当局ノ取締振ニ関シテハ客年度執務報告記述ノ通リナル処其後事変ノ進展ニ伴ヒ華僑ノ排日モ悪性且組織的トナリ党テ行ハレサリシ邦人生命財産ニ対スル直接暴行モ行ハレルニ至レリ
即一月(イ)三井支店取引先ノ支那人「チーク」材商ノ腕ヲ切ラレル者アリ
(ロ)一邦商取扱牛皮八千枚(価格約邦貨三万円)ヲ積載セル二隻紛失事件アリ
其後更ニ(ハ)暴力団ヨリ我公使館及邦人商社ニ脅迫状ヲ送リ
(ニ)夜中日本帝国主義打破ノ宜傅「ビラ」撒布
(ホ)三井倉庫放火事件等アリテソノ行動漸次過激化スルト共ニ
(ヘ)日貨排斥実行員ト称スル暴力団更ニ百数十名新嘉坡ヨリ入込(海路ヨリ来レル者六十名ハ警察当局ニヨリ波止場ニ於テ検束、追放セラレタル由
写真(左):南京の反日壁ポスター(1937年12月頃に村瀬氏の撮影);日本軍は,中国軍兵士だけではなく,民間人,婦女子にも過酷な処刑,暴行を加えた。A Chinese propaganda poster on the wall that shows "Cruelty of the Japanese Devils!" Photo taken by Murase.
支那事変関係一件/与論並新聞論調/支那側宣伝関係 第三巻
作成者: 警視総監 安倍源基
作成年月日: 1938年3月24日
1、国内ニテ入手情報 秘 外秘第六〇〇号
警視総監安倍源基 内務大臣末次信正殿 陸軍大臣杉山元殿 海軍大臣米内光政殿 各庁府県長官殿 東京刑事地方裁判所検事正殿 東京憲兵隊長殿
支那共産軍ノ散布セル邦文反戦「ビラ」入手ニ関スル件
本月中旬、目下出征中ノ管下砂町署員ヨリ同署宛、去ル三月六日山西省娘子関付近ノ戦闘ニ於テ、支那共産軍カ散布セルモノナリトテ別添ノ如キ不穏ナル反戦「ビラ」三種ヲ郵送越セルカ右ハ何レモ日本軍ヲ対象トシテ
其(一)ハ支那共産軍トノ連合
其(二)ハ日本平和同盟ノ名ヲ以テ日支同志ノ連合
其(三)ハ国民革命第八路軍政治部ノ名ヲ以テ日本俘虜ノ優遇ヲ強調シ、日本軍閥、財閥打倒ヲ使嗾セルモノニ有之何等カ御参考迄
写真(左):親日プロパガンダ『アサヒグラフ−支那事変写真全輯 中 上海戦線』1938年3月1日 朝日新聞社 定価2円50銭「朝ともなれば親切な掛かりの兵に護られいそいそと野良へ出て行く」中国農村の治安回復を図る日本軍兵士が毎日のように中国農民が野良仕事に出て行くのを護衛すれば,中国ゲリラ兵は,中国農民を裏切り者(対日協力者,漢奸)として処刑するかもしれない。華北の大同・臨邑で中国人住民の歓迎を受ける日本軍(1937年8月/写真中央)大同では,子供にまで中国にない日章旗を持たせてくれた。子供の笑顔にうそはない。(1938年1月1日/写真右央)臨邑では,旧暦ではなくわざわざ日本の新暦を調べて,そのうえ日章旗までたくさん準備して歓迎させている。
このような状況で、日本軍も本格的な情報操作、報道管制を行ない、プロパガンダ対策を徹底してゆく。中国や米英では残虐な日本軍という主張を,斬首,刺殺,虐待の写真を使って喧伝したから,それに対抗するために,日本軍は治安を回復し,秩序と安定をもたらす頼もしくもやさしい存在として主張された。
1938年には厳格な写真撮影・現像の仕組みを構築するために、次のような写真撮影製作取締り規定を設定した。
写真(左):親日ポスター絵葉書(1938年頃に作成);日本軍は,現地の平和を回復し,礼儀正しく,地元の子供とも親交を深めている。子供のもっている旗は,満州の五色国旗か。日本の協力でできた汪兆銘の南京臨時政府は孫文の伝統を引き継ぎ、晴天白日旗を使用した。Japanese soldiers playing with children.
軍人軍属写真撮影製作取締規定(昭和13年「陸支密大日記59号」
陸軍省受領 陸支密受第一二一六五号
作成期日:1938年10月24日
軍隊及軍人軍属寫眞撮影製作取締規定本冊ノ通定ム
昭和十三年十月二十四日 中支那派遣軍司令官 畑 俊六
軍人軍属寫眞撮影製作取締規定
第一総則
一、本規定ハ軍隊及軍人軍属ノ寫眞(活動寫眞ヲ含ム)撮影竝製作ニ關シ必要ナル事項ヲ規定シ軍ノ機秘密ヲ保護シ且軍ニ不利ナル宣傳材料ヲ外人ニ獲得セラレ若ハ日本国内ニ配布セラルルヲ防止スルニ在リ
二、各隊長ハ部下ノ寫眞撮影及製作ノ取締ニ關シ責任ヲ有スルモノトス
第二撮影禁止
個人ニ於テ撮影ヲ禁止スヘキモノ左ノ如シ
一、軍ノ機秘密ニ關スルモノ一切
二、逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノ
イ、殘虐性ヲ感セラルル寫眞
ロ、不軍紀ナル状況ヲ感セラルル寫眞
若ハ日本軍ノ戰意ヲ失ヒタルカ如キ感ヲ抱カシムルモノ
ハ、國際法違反ト感セラルルモノ(外國権益地内ニ於ケル行動等)---
ホ、戰死傷者ノ寫眞ニシテ悲惨ナル感情ヲ惹起セシムルモノ
ヘ、支那軍ノ宣傳用傳単若ハ文章ヲ撮影セルモノ
第三現像及焼付
一、現像及焼付ハ部隊内ニ於テ行フカ若ハ其地ノ指定寫眞店ニ於テ行フモノトス
二、指定ノ寫眞店ハ軍人軍属ノ寫眞ハ必ス日本人ノ手ニ依リテ處理(現像焼付)ヲ行フモノトス
三、部隊ニ於テ撮影セルモノノ中本規定第二ニ示セル事項ニ該當スルモノヲ現像若ハ焼付ヲ行フ場合ニ於テハ軍ノ寫眞製作所ニ於テ行ヒ市井ノモノニ註文セサムルモノトス
状況己ムヲ得ス市井ノ指定寫眞店ニ依托セントスル場合ニ於テハ必ス監視者ヲ製作現場ニ配置シ監督セシムルモノトス
五、寫眞原板ハ依頼者ニ全部返付スルモノトス又焼付ノ過数ハ總テ焼却スルモノトス
六、寫眞店ハ原板中機秘密ニ属スルモノ若ハ逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノヲ發見セル場合ニハ直ニ最寄憲兵部隊ニ届出テ其指示ヲ受クルト共ニ該寫眞ノ散逸セサルコトニ責任ヲ負フモノトス
第四寫眞店の指定
一、憲兵ハ其地ニ於ケル日本人寫眞店中適當ナルモノヲ指定寫眞店トナシ之ニ其ヲ付輿ス---
三、指定寫眞店ハ見易キ位置ニ「陸軍指定寫眞店」ノ標札ヲ掲クルモノトス
第五檢閲
一、指定寫眞店ニ對シテハ憲兵ハ随時檢閲ヲ實施スルモノトス
二、取締上必要アリト認メタル寫眞ハ憲兵ノ各隊長ハ製作ヲ禁止シ又ハ没収ス
没収セル寫眞中宣傳ニ利用シ得ルト認ムルモノハ憲兵ヨリ報道部ニ送付スルモノトス
三、指定寫眞店以外ニ於テ處理セル場合ハ該寫眞ハ凡テ没収スルモノトス---
日本軍は,中国による抗日活動,中国,列国による反日プロパガンダを警戒していた。日本軍が東アジアの平和のために,暴虐なる中国政府に反省を促すとして中国に派兵したのであるが,中国の官民一体の反抗を受けてた。日本による和平の試みは,中国側には侵略として認識されていることは、日本側も理解していた。
南京虐殺として国際的非難を浴び,閣議で問題視されたことから,外務大臣広田弘毅は,陸軍大臣杉山元に注意が喚起された。そして,陸軍参謀総長閑院宮から中支那方面軍司令官松井岩根に,軍紀振作の訓戒が出され,参謀本部第二部員本間雅晴少将(将軍)が南京に調査に派遣された。
中支那方面軍司令官「松井石根大将支那事変日誌抜粋」によれば,南京事件に関して,「虐殺」とは認識していないが,次のような対処をした。
上海附近作戦の経過に鑑み南京攻略戦開始に当り、我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め各部隊に対し再三の留意を促せしこと前記の如し。
図らさりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行掠奪事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。
是れ思ふに
日本軍の犯した行為に対して、世界的名非難が沸き起こったが、これは反日プロパガンダに影響を受けた側面もある。特に、日本将兵による中国人斬首、刺殺などインパクトの強い画像が用いられた。
日本もこれらの写真を用いた反日プロパガンダの影響力を警戒し、残虐行為そのものを抑制しようとしたり、その行為が広く知れ渡らないように配慮し始めた。そして、親日的名土壌を作り上げるために、プロパガンダを展開した。
しかし、日本の対中プロパガンダは、孤立して行われており、真実を伝える努力に乏しかったようだ。米国、英国、ソ連などの支援、信頼を得ることはついにできなかった。
1942年初頭に,フィリピンに駐屯していた米軍は,日本軍の猛攻の前に降伏,投降した。この時,ルソン島で最後まで頑強に抵抗していた米比軍(米軍とその指揮下にあるフィリピン軍)は,日本軍から過酷な取り扱いを受けた。バターン半島に立てこもり持久戦を図ったが,降伏後は,鉄道のある地点まで,徒歩行軍させられた。日本軍では当たり前の徒歩による強行軍も,機械化されていた米軍には,厳しいものであり,さらに籠城戦で疲弊していた米比軍には,過酷な紅軍であった。そのため,戦時中から米軍では,これを「バターン死の行進」として,日本軍による組織的な捕虜虐待を徹底的に非難した。マッカーサー将軍が部下を見捨てて遁走したことには触れないで。
日本でも、
「人を貪り食う鬼畜米英のチャーチル首相とルーズベルト大統領」のプロパガンダでは「平和を口にし人道正義をいう彼らこそ,その真実の姿は鬼畜野獣である。」「病院船攻撃という国際法無視の米軍」では「わが病院船も13回の攻撃を受けた。敵はわが国将兵や白衣の勇士たちの命を奪うけだものだ。」武士道を持たない敵は,情け容赦なく民間人も殺害する。このように煽動し敵愾心を煽った。「鬼畜米英」である。
他方,日本軍の側でも,米軍の非道振りを非難する反米プロパガンダを展開した。「鬼畜米英に捕らえられれば,暴行され,処刑される」という宣伝は,日本軍将兵だけではなく,日本の一般市民にも浸透していった。実際,サイパン島や沖縄の住民には,「米軍の捕虜になり壕港・処刑されるよりは,潔く自決すべきである」「名誉ある皇国臣民として,日本軍の足手まといにならないよう行動すべきである」というプロパガンダを実行に移した人々があった。
米国でも同じような反日プロパガンダが,大々的に展開されていた。これは,日本人を冷酷非道なケダモノとして,婦女暴行,殺人,放火を行う敵として認識させる試みである。米軍兵士はもちろん,その両親,兄弟,友人,子供と家族みんなが,自らに迫る危機を払いのけるために戦い,資金提供をし,物資を生産すべきである。
総力戦では,兵士だけでなく,敵も見方も,銃後・後方の国民も,資金,生産,労働,消費節約によって,戦争に参加する。そのためには,戦争目的が重要であり,「正義のための戦争」「平和のための戦争」「ファシズムを倒す戦争」「民族解放・国家独立のための戦争」「家族を守る戦争」「人々を恐怖に陥れる敵=ケダモノを殺す戦争」が正当化されてゆく。敵を倒すために団結して戦うという世論を形成するためには,敵は悪魔のような存在でなくてはならない。
<戦争ポスター>
戦争で国民を動員するため,さまざまなポスターが作成されました。ここでは,米国アーカイブズ(National Archives and Records Administration)のオンラインギャラリー,Powers of Persuasion:Posters from World War IIから作成しました。
写真やポスターを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
Thank you for visiting our web site. The online information includes some photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials, are requested to credit the owning instutution or the URL of this site, if they wish to reproduce them from TORIKAI LAB.
<動員:兵士の募集>
Navy(海軍)に志願しよう。「彼らを戦い続けさせよう。生産が勝利を導く。」砲弾を運ぶ水兵。Masculine strength was a common visual theme in patriotic posters. Pictures of powerful men and mighty machines illustrated America`s ability to channel its formidable strength into the war effort. American muscle was presented in a proud display of national confidence.筋肉体質の男は,強いアメリカの象徴として使われる。
<アフリカ系アメリカ人の黒人も戦争に動員される>
黒人も兵士として動員された。「天にも地にもはたすべき義務がある」。右の二等兵のジョールイスは,語る。「我々は,我々に与えられたものをこなして勝利する。なぜなら,神の側にいるからだ。」ただし,白人とは別に黒人部隊として,多くは物資輸送,飛行場建設など後方任務に就かされた。しかし,国内の宗教・人種差別を撤廃すべきであるとの声が,戦争を契機に盛り上がったことも事実である。“We say glibly that in the United States of America all men are free and equal, but do we treat them as if they were? . . . There is religious and racial prejudice everywhere in the land, and if there is a greater obstacle anywhere to the attainment of the teamwork we must have, no one knows what it is.”「アメリカでは人は自由というが本当にそうだろうか。我々は,宗教や人種によって人を差別していないだろうか-------」Arthur Upham Pope, Chairman of the Committee for National Morale, in America Organizes to Win the War.
<資源エネルギーの民需を節約して,戦備に動員する>
兵士のためにガソリン(gas)を節約しよう。一人乗りは,隣にヒトラー総統を乗せてるのと同じで,ガソリンの浪費。節約した生活に心がけて,資源エネルギーを戦争に動員しようということ。
<うわさ話をやめよ。その一言が兵士の命を奪う。>
「誰かが見ている」----いたるところにスパイがいる。「誰かが話したからだ」----その一言で秘密が漏れ,溺れるアメリカ兵士。犬は噂話をしないから表彰に値する。女性であっても秘密を漏らすものは「殺人者(murder)のお尋ね者(wanted)」となる(左)。
犠牲者のことを考えよ。There is a lighter side to the war picture, particularly among Americans, who are irrepressibly cheerful and optimistic. But war means death. It means suffering and sorrow. The men in the service are given no illusions as to the grimness of the business in which they are engaged.戦争には勝利や増産など明るい側面と暗い死の側面がある。戦時情報局Office of War Informationでは, 死の側面もポスターで活用し,戦争協力を訴えた。
<アメリカでの動員>
大戦時の米国ポスターは,ミネソタ大学図書館/ミネアポリス公立図書館が保有するもので,教育用にデジタル展示されている。ポスターの引用は,デジタルライブラリーA Summons to Comradeship:World War I and II Postersからのもの。
The University of Minnesota Libraries owns six thousand items and the Minneapolis Public Library's collection consists of nearly two thousand posters. Both collections contain posters from government, commercial, and charitable organizations.
<敵は誰か>
東条英機を模した残虐な「日本人の獄吏が,故国や家庭を脅かす」。「空腹(belly)を追放せよ。ミンチにしてやるから,もっと卑怯で残虐な日本人(JAP)を送ってくれ。」「1分でも時間を無駄にすれば,日本軍に有利になる」東条英機を模した日本兵はメガネ低脳動物であらわされる。「ヒトラーの奴のパンツ(Panzers:戦車部隊,装甲師団)を引きずりおろせ。」
<兵士の動員>
陸軍兵士の募集。パイロットの募集。米国では,1943年まで1日当たり1万2000人もの男子が徴兵されている。
<兵器生産を増強せよ>
「工場でのミスが,戦場での故障に繋がる」「連合国の軍需労働者(munition workers)は,英国の工場を通じて,ヒトラーと対峙することになる」
「兵士の命は,お前の働きにかかっている」-----航空機を増産せよ。「空中では機関銃(guns)を修理できない。だから,銃を正しく組み立てろ。----彼らを飛び続けさせよう。」
「航空機を送ってくれ」と前線で電話連絡する兵士。米国兵士の命を救うためには,増産への協力が求められる。
<公債の購入を促すポスター>
「公債(米国の国債)を買おう」。「飛行機を送ってくれ。-----それには公債(国債)を買って資金調達だ」。資金調達に公債を購入することは,誰でもできる(右)。
子供を爆撃から守るために疎開させる。自由の国アメリカでは情報公開。ロシアに物資を送れ。
【女子の動員】
<兵士としての動員>
女性兵士に応募しよう。1942年には,米国では,日本やドイツの空襲を監視するために,6000人の女性が対空監視哨で働いていた。女性陸軍予備隊法は,1942年5月(真珠湾だまし討ちの5ヶ月後)に成立した。資格は,21歳以上,健康で性格がよいことである。女性海軍予備隊は,WAVE(Women Accepted Volunteer Emergency)と呼ばれた。資格は大卒あるいは2年以上大学に在籍して実務経験をもつものである。沿岸警備女性予備隊は,1942年11月に成立したが,21歳以上,高卒以上の資格である。ただし,これらの入隊年齢制限は,後に20歳に引き下げられた。海兵隊の女子入隊が法的に認められたのは1943年1月である。1943年7月には,女性陸軍予備隊は「女性陸軍部隊」となったが,給与,年金,住宅手当などの待遇は男子よりも悪かった。そのために,1943年の15万人の動員目標に対して,6万人しか集まらなかった。それ以前の動員も含めて,女性陸軍予備隊は,8万人であるが,1943年10月15日〜1944年12月末までに,2万7047人が航空女性陸軍部隊に応募し,1830人が女性パイロットとして仕事を許された。海軍が黒人の募集を始めたのは,1944年10月で,戦争末期である。
<労働者としての動員>
女性も労働者として動員されなくてはならない。女子も航空機生産に従事。「リベット打ちのロンジー」は,航空機製造や造船では鉄板を繋ぐためにリベット(鉄の鋲)を打った。1944年に米国は,14万機もの航空機を製造したが,航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。リベット打ちは金属に刺繍するようなもので,女性に向いた仕事であると認識された。1942-43年に「全国戦争奉仕法」が提案されたが,これは妊婦,18歳以下の子どもを扶養するもの,障害者を除いて,18〜50歳の女子を登録させ,労働力として徴用(動員)する義務制度である。しかし,戦局の好転,反ルーズベルト派への配慮,女子の緩やかな動員が功を奏しているなどの理由のために,投票にかけられなかった。女性労働者は,1940年の1200万人から1945年の1900万人に700万人も増えている。
女子も爆弾(左)や砲弾(shell,右)の製造に従事する。「働くことは,敵を殺すこと」。
<看護婦としての動員>
「看護婦に応募しよう」
<世界各国での動員>
米国が参戦する1941年12月以前から,参戦していたソ連,中国も連合国の同士。日本,ドイツを叩くには,特に,中国,ソ連への支援が重要である。「彼らは飢餓に直面している」という食糧支援ポスター(右)では,イタリア,インドへの支援も呼びかけられている。
蒋介石は,敵国日本と10年以上も戦ってきた中国の英雄として扱われる。中国での戦線には,「ヒト」が中心となる。ポスターに戦車,航空機は登場しないのは,なぜか。米国・英国でのポスターに比べて,中国でのポスターは,web上では公開されていないし,ソ連のポスターも業者の販売に任され,教育目的の使用が困難。
日本に占領された米国植民地のフィリピンも,自由,解放を旗印に,反日に立ち上がる(左)。中央は,英国の保護国エジプトに駐留するインド仁バイク部隊。
ファシズム・イタリアと戦ったエチオピアも,反枢軸の仲間として扱われる(右)。
<戦争資料・ポスターリンク集>
アジア太平洋戦争写真集
IWMメディアと戦争:メディアリテラシーと宣撫工作
ミッドナイトワッチ大戦中の英国女性
ミッドナイトワッチWW2の配給制度
ミッドナイトワッチポストカード集「空襲を受けたロンドン」
【大戦中の英国のポスター集】
【大戦中の世界のポスターリンク集】
【大戦中の米国のポスター】
【大戦中の反日ポスター】
【大戦中の戦争協力ポスター】
【WW1・WW2の英国ポスター】
【大戦中の世界のポスターリンク】
【大戦中の日本のポスター】
【大戦中のイタリアのポスター】
【大戦中のフィンランドのポスター】
【大戦中のドイツのポスター(ナチス,軍事,反ソ連)】
【大戦中のソ連のポスター】
【大戦中のアメリカ合衆国のポスター】
【大戦中ののポスター】
【ナチスのプロパガンダのポスター】
【大戦中の枢軸国】(クロアチア,ブルガリア,スロバキア,ハンガリー,ルーマニア,フィンランド)
【大戦中の武装SSのポスター】
【第三帝国のポスター】
【日本の古典的ポスター】
【大戦中の反日のアメリカポスター】
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東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
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