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盧溝橋事件・上海事変◇Sino-Japanese War2004
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◆第一次上海事変と爆弾三勇士 ◇ 文化人の戦争観
写真(上):1930年代の上海バンド(埠頭近く中心街)
:写真(上):上海バンドと外灘の米国アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」:
1930年代の上海バンド(埠頭近く中心街)
:は外国から多数の船が寄航する国際都市の中心だった。人口300万人。華中の江南地方の大都市上海は、米,英,日などの共同租界とフランス租界とがあった。租界とは,中国の中の外国(治外法権の地)であり、自由と不平等が並存する場所である。奥の三角屋根は上海のユダヤ系英国財閥サッスーンが建てた"Sassoon Mansion"で,1926-1929年に建設。5〜10階はキャセイ・ホテルthe Cathay Hotelである。最上階はサッスーン本人の自宅兼事務所が置かれた。現在の和平飯店。塔のような時計台のあるビルは,上海税務署Shanghai Custom Houseで,1925-1927年建設。左手前の大きなビルは,香港上海銀行Hong Kong and Shanghai Banking Corporation Buildingで, 1921-1923建設。


写真(上):1930年頃の上海バンド
;日本の観光用のパンフレットからの転載。中央の緑のとんがり屋根が,The Peace Hote,旧"Sassoon Mansion",Cathay Hotelである。その右側のビルは,中国銀行上海支店で,1936-1937年に建設。Peace Hotel左側が,旧Palace Hotelで1906年に建設。


写真(上):2000年頃の上海バンド
;巨大ビルが林立しているので1920-30年代に建設された洋館は,小さく見えるが,バンドの河岸の一等地に立っている。中央の緑のとんがり屋根が,The Peace Hote,旧"Sassoon Mansion",一部がCathay Hotelである。その右側のビルは,中国銀行上海支店で,1936-1937年に建設。Peace Hotel左側が,旧Palace Hotelで1906年に建設。


写真(左):1920-1940年代、中国、上海バンド(埠頭近く中心街)
:""Shanghai satamasta nähtynä n.s. Bund" Aineistotyyppi ?Kuva Aiheen aika 1920 - 1947, arvio Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Yleisetnografinen kuvakokoelma Suomen Lähetysseura ry:n kuvakokoelma Inventaarionro VKKSLS3127: Kuvaustiedot: ajoittamaton Shanghai,Kiina kiinalaiset
写真は、Museoiden Finna:VKKSLS3127引用。




日本人の撮影した古い上海
1930年代の上海の写真:人物写真

外国人の撮影した古い上海の一覧
上海1930-1945年
上海の日本人:The Japanese World of Old Shanghai
上海の20世紀: Old Shanghai in the 20th century
古い上海 :The many worlds of Old Shanghai
上海イメージ: Shanghai in Images
上海の1930年代: 1930 Shanghai and More Online Order and Inquiry Form
上海:Shanghai
上海バンド:Return to Shanghai Bund main page
1925-1940年の上海:Shanghai 1925-1940
オールド上海:The Bund,Old Shanghai
戦前の上海(1):Pre-World War II China Home Front 1
戦前の上海(2):China Home Front 2
戦前の上海(3):China Home Front 3
戦前の上海(4):China Home Front 4

◆エグゼクティブプロデューサー(总制片人)韩三平、ディレクター陆川(Chuan Lu)による《南京!南京!》City of Life And Death)が2009年4月、華々しく公開された。豪華なwebsite宣伝は、歴史的検証ではなく、商業的、芸術文化的成功作を目指している。
◆2011年8月17日asahi.com「古びた従軍手帳」に関する南京事件関連記事を複写保管。
毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,拙著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』青弓社)が紹介されました。ここでは,日露戦争,世界大戦,スペイン内戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争,国際テロ戦争を分析し,集団自決の問題も取り上げました。
『写真・ポスターで学ぶ戦争の百年』の一部をご覧いただけます。

上海の日本人居留民地区(虹口)の過去と現在については,租界散歩1「日本人の足跡を訪ねて」第一章第二章第三章第四章を参照。

上海の租界、虹口の現在については,KONOKの租界探索−虹口編(前編)−租界探索−虹口編(後編)上海の歴史を歩こうvol.!!(後編)−歴史散歩・南京西路と人民広場周辺編を参照。

半植民地化されつつあった清朝で,1898年(光緒24年)義和団事件が起こったが,この排外運動に便乗するかたちで清朝は,外国勢力に宣戦布告する。しかし,米,英,独,仏,日八カ国連合軍は,北京を占領し,清朝と北京議定書を締結する。このなかで,列国は,北京大使館区域の軍隊駐屯権,北京・山海関の間の軍隊駐屯権を獲得し,逆に中国は,天津周辺の軍隊駐留を禁止されてしまう。

1899年(光緒25年)初頭,山東義和団が蜂起し,清朝への叛乱の意図を感じた政府は,袁世凱に山東義和団鎮圧を命じた。1900年(光緒26年),袁世凱を山東巡撫職を授けた。

写真(左):1930年代の上海バンド(埠頭近く中心街):"Sassoon Mansion",上海税務署Shanghai Custom House,香港上海銀行Hong Kong and Shanghai Banking Corporation Building。

他方,義和団による外国人の駆逐,北京にある大使館攻撃に憤慨した英・独・露・仏・米・日・伊・墺の八カ国連合軍は,義和団鎮圧を決める。八カ国連合軍は,義和団と交戦したが、清朝は外国勢力を放逐する機会が到来したと考え、八カ国に宣戦布告した。

しかし,八カ国連合軍は優勢で、北京を占領してしまい,光緒帝は、西安へ逃亡した。

1901(光緒27)年,義和団事件の戦後処理に関して,清国と列強11カ国とは,北京議定書(辛丑条約)を締結した。

(1)日本,ドイツへの謝罪使の派遣,(2)責任者の処罰,(3)賠償金4億5,000万両の支払い,(4)公使館区域の設定と同地域における外国軍の駐兵,(5)大沽その他の諸砲台の撤去,(6)北京・山海関における外国軍の駐屯,(7)天津周辺20里以内における中国軍の駐留禁止,(8)外国人殺害が行われた地域での5年間の科挙停止,(9)排外団体への加入禁止,(10)各地の官吏に対する排外暴動鎮圧の義務化,からなる。 
写真(左):1930年代の上海;右の歩道に和服を着て草履を履いた婦人が写っている。日本人街の人力車。

清朝に敗北を認めさせた北京議定書によって,列強八カ国は,賠償金4憶5000万両を関税、塩税を担保として39年間で受け取るほか,公使館区域を定め、その防衛のために外国軍隊を常駐させるという駐屯権を獲得した。このとき,地理的にも近かった日本は,列国の中で派兵数も多く,国際強調(=列国への追随)に配慮した。

日本の中国派兵は,小国なのに多大な国際貢献を高くと評価された。「中国に派兵した日本は軍紀厳正で,よく任務を全うしたと列国からもお褒めの言葉を賜った----」という学者もいるほどだ。

アジアの盟主として列国に対抗する先頭に立つのではなく、列国とともにアジアを指導しようとしたという点で、福沢諭吉の説いた「脱亜入欧」を国策として遂行したといえる。

後日、大東亜共栄圏、アジア解放を大義名分として、列国と戦争するが、1930年代初頭に、中国と連携して列国と戦う選択肢は可能だったのか。

第一次大戦終了時のパリ講和会議で、日本の提案した「人種平等案」が列国に認められなかった時、中国と連携する可能性はあった。日本が中国の特殊権益を放棄し、中国と連携して、列国に租界解消、不平等条約撤廃を強行に要求すれば、大儀を主張できたかもしれない。
しかし、1931年の満州事変、それに続く1932年第一次上海事変と、中国との対立が激化した。

写真(上左):1930年代の上海の楊樹浦警察署の正門;日本人街の警察権を持ち治安維持にあたった。写真(上右):1930年代の上海の楊樹浦警察署の警察官;入り口に,日章旗が掲げてあるので,特別な日である。1932年4月29日の天長節爆破事件の起こる朝かもしれない。

<日本海軍上海特別陸戦隊新兵舎>

日本海軍陸戦隊は,艦船からは独立した部隊であり、上海特別陸戦隊は,装甲車も配備された建制の独立した常設部隊である。陸戦専門の「特設鎮守府特別陸戦隊」は鎮守府の下に編成されたが,一時的な編成であり,常設部隊ではない。

日米開戦後に,離島警備のために拡充されたが,サイパン戦,ルソン島マニラ市街戦,沖縄戦でも海軍陸戦隊が活躍し,殲滅させられている。しかし,日本海軍の陸戦隊は,本土決戦用にさらに拡充されていった。これは,戦うべき大型艦艇が撃沈され,兵員を陸上兵力にまわしたためでもある。

海軍陸戦隊の初めの本格的戦闘は、1932年の上海事変での「大活躍」である。満州事変から、列国、国際連盟の目をそらせるための謀略として始まったともいわれるが、実際に上海で戦った陸戦隊隊員、その家族にとっては、圧倒的に優勢な中国軍相手の中国での過酷な戦闘である。また、上海に居住する中国人にとっても、戦乱で大混乱、戦禍を被っており、謀略の一言で片付けることはできない。

上海の日本海軍特別陸戦隊新兵舎の建設は第一次上海事変のあった1932年である。 

上海の日本海軍「陸戦隊新兵舎」とは別のような「海軍陸戦隊租界部隊本部」というビルが虹口の呉淞路と武進路の交差点近くにある。このビルは現在,虹口区政府ビルで、広い中庭があるという。

日本上海史研究会「上海日本人居留民略史」
日清戦争護の下関条約で、日本人居留民は治外法権を有する他の欧米人居留民と同様の特権的な地位を獲得した。上海でも定住する日本人居留民が生まれ,1873年に虹口の米国領事館隣りに移転してきた日本領事館,1883年に虹口に移転してきた東本願寺は,日本人居留民の結節点として、虹口の日本人町の形成に寄与した。

天津,杭州とは違い,上海に正規の「日本租界」はない。しかし,英米などの共同租界の延長上の「越界路」沿いに集中して日本人居留民がいた。そこで,その周辺を便宜的に「日本租界」と言っていた。上海中央を東西に流れる蘇州河より北の「北四川路」(現四川北路)「呉淞路」が日本人居留民の中心街で,外灘から外白渡橋(ガーデン・ブリッジ)を通ると「虹口Hongkew地区」である。

写真(左)J-1:陸戦隊司令部の屋上(と思われる)。旗竿近くに,25ミリ三連装対空機銃あるいは13ミリ四連装対空機銃と神社がある。写真(右)J-2:日本語の看板が多い虹口の日本人居留民地区。


写真(上左):重機関銃の射撃訓練をする日本海軍陸戦隊。一見すると学徒兵のような帽子をかぶっている。陸戦隊司令部は上海虹口地区にあり、そこは,日本人居留民が多く,日本語の看板もあって「日本人租界」ともいわれた。写真(上左):上海バンド近くの南京路。現在の上海では、歩行者天国のショッピング街になっている。



絵葉書J-4:陸戦隊司令部
,写真J-5:在上海の日本総領事館。

絵葉書(左)J-6:ロシア,ドイツ,米国,日本の各国領事館
写真(右)J-7:在上海(旧)日本総領事館;現存する(旧)日本領事館は,1911年に建てられた2代目で,現在は海軍招待所と上海銀行(黄浦大楼)が入っている。すぐ近くには,日本郵船会社ビル,赤い色の屋根の偕行社があった。(ともに現存)。後者は,日本軍将校クラブである。

写真(左)J-8:現在の上海の日本海軍特別陸戦隊新兵舎は,本来なかった6階を増設上乗せしてある。旗竿のあった最上階塔は,そのまま残されている。写真(左)J-9:「陸戦隊租界本部」:新兵舎とは異なるようだ。現在は、虹口地区政府の建物として使用されているという。


<上海特別陸戦隊の出動>

1907年には上海居留民団がつくられ,学校の設立・運営、日本人墓地・火葬場の管理などに当たった。さらに,第一次世界大戦時には,欧州の軍需に応じる形で紡績業が発展し、日本商社や銀行などの支店も開設された。

1915年には日本人居留民は在留外国人数の最上位を占め1万100名を超えた。1923年には長崎・上海定期航路も開設され、1926年には上海の日本人居留民の人口は2万人を超えた。

1931年9月18日の柳条湖事件以来,満州国を建国して,東北地方(東三省)を支配下に置いた日本は,華北に侵攻する。

<1932年第一次上海事変>

写真(右);陸戦隊新兵舎。右の旗は、旭日8本線の上下に縁取りがつく海軍「少将旗」である。上海特別陸戦隊司令官が少将であることを示していると思われる。陸戦隊司令官の時期別名簿をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示願いたい。
Private Collection Raymond Vibien Family Album. Beisichuan road. The Japanese Special Marine Corps Headquarters building is a five storeyed one in modern style。


1月20日0300 青年同志会員の約20名が工場を襲撃放火し,工部局巡捕と衝突し,2名を斬殺した。同志会にも死亡者1名,重傷者2名が出た。居留民大会が開かれ,自衛権の発動,抗日団体の解散を決議した。そして,青年団は,中国人街で暴力,破壊行動に出た。
第一次上海事変への謀略
1932年1月9日 民国日報が,東京における天皇暗殺未遂事件で,暗殺首謀者を擁護する不敬記事が掲載された。
1月18日 上海の日本人僧侶と信者が日本軍の田中隆吉少佐と川島芳子に雇われた暴漢に襲われ,1名死亡、2名重傷をおった。

この1932年1月18日の托鉢僧襲撃事件が契機となって、上海における武力衝突「第一次三杯事変」が始まる。

写真(右);陸戦隊員らしい人物の警備する香港上海銀行の屋上;海軍旗があがっているので、1937年の第二次上海事変に際して、接取したときの撮影と思われる。

1907年、清朝第14王女として生まれた川島芳子は、7歳で父と親交のあった日本人川島浪速の養女となり、17歳で髪を断ち男装を始めたが、当時の日本女性としては異端である。その後、上海に渡り,蒙古王族の甘珠爾札布(カンジュルジャップ)と結婚したが、離婚した。田中隆吉陸軍少佐と交友し、満州に渡り,スパイ元締めとして関東軍の謀略に関わった。

 関東軍の高級参謀である板垣征四郎大佐が、上海駐在武官の田中隆吉少佐に話を持ちかけ、田中隆吉少佐は「男装の麗人」として有名だったモンゴル王族との婚姻関係にある川島芳子と謀って、上海の中国人無頼漢を使って、日本人への襲撃を画策させた。関東軍としても、リットン調査団の派遣もあって、満州事変から国際世論の関心をそらせ、満州を勢力下におくことを企図していた。

川島芳子が関わった1932年1月18日僧侶襲撃事件では、日蓮宗日本山妙法寺の上海布教主任天崎啓昇と僧侶四名が、上海楊樹浦(日本の警察署もここにある)の日系華紡績工場付近において襲撃された。

川島芳子が雇った中国人無頼漢が暴行し、僧1名が死亡したため、上海の日本人居留民の中には,反日活動をする中国人が日本人を憎んで殺害したと考え、中国紙での桜田門事件不敬記載もあって,反日的言動や反日的行動をする中国人を懲罰,報復すべきと考えた。市内は騒然とし、上海市は戒厳令をしいた。

写真(右):1930年代の上海;1920年代から1930年代、中国最大の都市となった上海は、外国資本、外国人が支配しているといってよい租界があり、香港上海銀行など外資系金融業も盛んになっていた。そこで、これと提携する中国系資本として、浙江財閥などの民族資本も台頭した。工場労働者も多いため、ストライキ、デモなど労働運動も起こった。

上海事変:豊中市日本中国友好協会
重光葵中国公使は、上海の急迫した情勢を芳澤新外相に報告し、対策を協議するべく1932年1月上旬上京した。しかし、芳澤外相は、満州事変の処理に忙殺されて、重光と会談できなかった。

しかし、海軍省軍務局長豊田貞次郎少将から、上海陸戦隊指揮官塩澤幸一少将が「上海抗日運動の拠点である北停車場付近を陸戦隊で攻撃したいから承認してほしい」という電報を示され、意見を聞かれた。

中国第19路軍(3-4万人)に対して、日本海軍の上海特別陸戦隊は1800名である。

上海陸戦隊指揮官塩澤幸一少将は、1883年3月5日生れ,松本中出身。海兵32期で192命中2番で、海軍大学13期である。海軍兵学校同期だった縁で山本五十六元帥が国葬された際に司祭長を勤めた。

1929年11月30日第一艦隊参謀長/連合艦隊GF参謀長となった後、1930年12月1日から第一遣外艦隊司令官となり、1932年6月6日には軍令部出仕。1939年11月15日海軍大将。第一遣外艦隊司令長官として1940年4月29日功二級金鵄勲章受賞。1943年11月17日歿。

新兵舎の前に九二式重機関銃あるいは英国式のビッカース社あるいはルイス社の機銃を構えるのは,日本海軍陸戦隊。国際的にも駐屯が認めれられていた。

上海総領事村井倉松は、仏僧殺害に関連して、上海の呉市長に、抗日団体の解散など4項目を要求し、上海呉市長はこれを了承した。しかし、撤兵要求が実施されていないとして、第1遣外艦隊司令官の塩沢幸一少将は、その夜、襲撃事件に激怒したのか、それとも中国軍の威圧を払いのけるためか,陸戦隊に出動命令を出し、日本の警備区域外の閘北に出動させた。ここには、広東派の第十九路軍がバリケードを築いていたため、衝突が起こり、第1次上海事件の勃発となった。2月に入って上海派遣軍(司令官は陸軍大将白川義則)を編成して戦線に投入し、戦火は拡大し、決着がつかないため日本は更なる援軍を送った。

川島の歌

1月8日、大元帥昭和天皇は、満州事変に対する関東軍の越権的行動を追認するかのような勅語を下した。その日、昭和天皇は桜田門で韓国人から狙撃された。上海の中国国民党機関紙「民国日報」は、桜田門事件について「不幸にして爆裂がそれた」との印象の記事を掲載し、上海日本人居留民はこの報道に激怒したといわれる。しかし、中国語ができない日本人居留民が多く,中国の新聞を読む居留民はさらに少ないので、この桜田門事件の論評は、口伝に噂として伝わったのであろう。

1月下旬芳澤新外相と(重光葵公使は会談した後、中国への帰任のため1月29日神戸発の長崎丸で上海に向かった。1月30日、日中両軍の衝突を船上で知った。

 1月31日、上海に着いた重光葵公使は、2月1日、上海の居留民の生命財産を守るために政府に陸軍派兵の要請を公電で行った。この公電は、ジュネーブの国際連盟理事会開催中であることに配慮して、駐英・駐米大使にも転電された。

中国で問題を引き起こせば,逸れが米英を含む国際情勢に大きな影響を与えることを、大日本帝国の優秀な官僚たちは、みな理解していた。

2月2日の閣議で、金沢の第九師団、久留米の第二十四旅団、野村吉三郎海軍中将を司令長官とする第三艦隊を新編成して、上海に派遣することが決定された。

「上海事件ハ飽クマデモ満豪問題と個別ニ取扱ヒ英米ト協調シ上海付近ヲ支那軍ノ駐屯又ハ侵入ヲ許ササル地域タラシムル如ク指導シ速ニ之ガ解決ヲ計ル」。

重光公使は、3月3日のジュネーブの国際連盟総会までに決着をつけなければと、中国側と精力的に交渉を続け、上海派遣司令官には白川義則大将も、停戦命令を出す決断をした。

3月3日1400の停戦命令の決断は,ジュネーブの国際連盟総会開催の8時間前であった。(⇒上海事変:豊中市日本中国友好協会引用)。

写真(右):1930年代の上海南京路;上海の繁華街中心となる南京路。

上海事変と米国海軍の動静レファレンスコード:A03023740400
 作成者: 内閣
 作成年月日: 1932年2月8日
 内容: 上海事変と米国海軍の動静 調査班 緒言
 1.上海事件の勃発に伴ひ、米国亜細亜艦隊の動員及其上海集中、米国連合艦隊のハワイ集中等は我か国民に多大の衝動を奥へ、中には日米海軍の衝突を危惧するものも少くないので、此間の事情を説明して、彼らに疑心暗鬼を描くの要なきを明にしたい。
  2.米国亜細亜艦隊の上海集中 米国か亜細亜艦隊を比島から上に急行集中せしめたのは、上海附近の混乱に伴ひ米国市民の生命財産を保護せんか為の当然の措置である。先年英国の上海出兵に際しても米国は上海に兵力を増加している先例かある。
  3.米国亜細亜艦隊の兵力は一万屯級巡洋艦一(飛行機四搭載)航空母艦一(19250頓給炭船を臨時使用しあるものにして搭載飛行機十二)砲艦十一。

枢密院会議筆記・一、上海事件ニ関スル報告・1932年2月10日)レファレンスコード:A03033731800
 作成者: 枢密院書記官長
 内容: 上海事件ニ関スル報告 会議筆記 宮中東溜間ニ於テ開会
出席員: 倉富議長 平沼副議長 大臣 犬養内閣総理大臣 大角海軍大臣 三土逓信大臣 荒木陸軍大臣 前田商工大臣 秦拓務大臣 芳澤外務大臣 顧問官ほか
 上海事件ニ関シ海軍大臣及外務大臣ヨリ報告アリ 上海事件ニ付申述フヘシ 上海事件ノ起ル前ニ於ケル日本ト各国トノ関係ハ頗ル良好

日本海軍陸戦隊は,日本陸軍に頭を下げて戦車を借りることはしたくなかった。そこで,多分,上海に事務所を持っていた英国の武器製造会社ヴィカース社の商品を扱う商社に,武器を発注した。そして,モデル25装甲車Model 25 Vickers Crossley Armored Carを配備した。上海には1932年当初1000名の陸戦隊が駐屯し,邦人保護の任務に当たった。残された写真から見ると,一枚に7両の装甲車が写っているから,18-24両程度装備したと考えられる。

上海の日本の陸海軍は、2月20日に総攻撃をかけた。2月23日、閣議で四国善通寺の第十一師団、宇都宮の第十四師団の増派を決め、上海派遣司令官には白川義則大将を任命した。

写真(右):1930年代の上海バンド;上海の金融・行政の中心となるバンド。とがった屋根は、キャセイホテル。

上海派遣軍の作戦行動の概要(各種情報資料・満洲及支那事変ニ関スル新聞発表)レファレンスコード:A03023778500
 作成者: 内閣
 作成年月日: 1932年5月11日
 内容: 昭和七年五月十一日 陸軍省発表 上海へ派遣軍の作戦行動の概要
  1.上海陸軍の派遣 上海事件発生以来我が海軍は連日奮戦苦闘を続けていたが、海軍兵力の陸上派遣には自ら一定の限度あるを以て、二月初頭廟議一決允裁を経て陸軍を上海に派遣し居留民の保護の万全を期して、併せて租界防備に関する国際的義務全うせしむることとなった。
  2.第九師団を主体とする部隊を派遣すると共に現下急迫せる情況に応せしめんがため、別に混成第二十四旅団を二月六日第二艦隊艦艇に搭乗せしめ佐世保出発上海に急派した。
  3.第二十四旅団は七日呉淞鎮附近に上陸兵力を集結し、尓後第九師団長到着まで、第三艦隊司令官の指揮下にあつて時々支那軍と鉄砲火を交へつつ諸偵察に従った。
  4. 第九師団は九日より二梯団に分かれ宇品乗船出発十四日より十六日迄に上海埠頭に上陸を終り、共同租界東部などに展開。

英国には,ほかにも英国ロールスロイス社装甲車Rolls Royce Armored Carがあり、世界中に輸出していた。

外国にあった海軍特別陸戦隊は、英国製の装甲車などを購入したが、これは日本陸軍の兵器を譲渡されて、風下に立つのを嫌ったからであろう。日本陸海軍の対立は、機銃弾、小銃弾、砲弾も共通ではなく、兵器を二重に配備するという煩雑な編成をもたらした。

陸軍装備を借り受ける海軍陸戦隊静
1932年4月28日の陸普第二七四八号では、「鉄兜外六点器材ノ取扱方変更ニ関スル件陸軍一般ヘ通牒」として「従来兵器タリシ鉄兜、防毒面、防毒衣、防毒外套、馬匹防毒脚絆、同防毒面及防弾具ノ七点ハ之ヲ被服品ニ移シ且其名称ヲ別紙ノ如ク改ム」として、旧名称「鉄兜」を改正名「鉄帽」に改めた。

 「兵器」だから「兜」、「被服」だから「帽」と論法らしい。しかし、陸軍内部の公的文書以外では、1937年になっても「鉄兜」の名称が使用されている。

英国ヴィッカース社25型装甲車(Model 25 Vickers Crossley Armored Car)のデータ;
重量 5.4 tons,全長 16フィート 6インチ,全幅 6' 2" ,全高 8' 6"
乗員 4名
兵装 2門×Vickers機銃(3500発),装甲 5.5mm
エンジン4サイクル, 50 馬力,最高速度 40マイル/時間。

 官房機密第三三八六号(1937年8月25日)
海軍次官山本五十六、陸軍次官梅津美治郎宛てに「鉄兜繰替渡ノ件照会」がされた。

「今次(第二次上海)事変ノ為、左記兵器緊急所用ニ付、貴省保管ノ分ヲ繰替渡相受度候条可然取計相成度(略) 鉄兜(陸軍制式ノモノ)四、〇〇〇個」。

つまり、1937年の第二次上海事変のとき、海軍の上海特別陸戦隊には鉄兜が不足していたため、海軍に陸軍の鉄兜4000個を譲渡するようにと要請である。

海軍陸戦隊に配備されていた兵器や被服は、臨時の措置として日本陸軍から譲渡されたものが使用されることも多く、備品だけで海軍陸戦隊と陸軍部隊とを判別するのは困難である。

海軍陸戦隊は,英国製兵器を購入して装備しているが,これは日本陸軍制式兵器を使いたくないという海軍の対抗心,面子の現れであろう。アルゼンチンも1927年に6台購入し,1945年まで使用しているし、イタリア軍も購入している。ビルマのラングーンの英国文駐屯部隊にもヴィッカース装甲車部隊があり,1936年撮影の記念写真に,同形式の装甲車が写っている。

写真(右):1930年代の上海バンドのギュッラフ気象信号灯/50m。;工部局が1884年に設置した徐家匯天文台からの気象情報を信号旗で示すもの。現在、外灘歴史陳列室。バンド沖には、日本海軍の「出雲」が見える。

上海事変と帝国海軍の行動(種村氏警察参考資料第16集)レファレンスコード:A05020127000 
 作成者: 海軍省
 作成年月日: 1932年2月22日
 内容: 今回の上海事変に関し、支那側その他の宣伝や虚報の為に、我海軍の行動に就て色々の誤解があるやうに見えるので、茲に事実の真相を明かにして正しい認識を与へんとするものである。
  我要求に対し支那側が承認の回答を発したる後に於て、日本は何故に積極的軍事行動に出てたりやとの非難に就いて。
  僧侶傷害事件は、呉上海市長が我要求全部を承認せる事に依つて片付いた。 此数時間後に十九路軍の我陸戦隊攻撃事件が起つた。

上海の呉淞路は1856年に建設され、虹口地区の主要道路となり,大正時代には、呉淞路周辺が「日本人街」の中心として栄えていた。日本人の商店が並んでいた。

1927年の上海日本総領事館の調査によると、呉淞路周辺の人口は7582人という。後に「日本租界」とまで言われた北四川路(現四川北路)は、「北虹口」「虹口」という二大日本人地区を形成していた。

実際には、英米を中心とする共同租界であるが、そこに日本人街が形成されており、住民の自治組織、学校教育施設、治安警察、宗教施設が整っていた。そして、日本人居留民の生命財産を保護するのが、日本海軍の上海特別陸戦隊1800名である。

上海には、日本陸軍の部隊は駐屯しておらず海軍の上海特別陸戦隊がいた。陸戦隊は、銃隊・砲隊・付属隊のような陸軍の歩兵中隊と同じような単位をもって編成されていたようだ。陸戦隊の編成で陸軍と異なる点は、陸軍のような各々独立した相互支援体制を持たずに各陸戦隊が単体の軍艦のように編成・運用されている点である。

上海駐屯の日本海軍特別陸戦隊は,ヴィカ−ス-カーデンロイド社1933年4型装甲車Vickers-Carden-Loyd Mk VI をも装備していた。装甲車の兵装は,7.7mm機銃1丁,重量 1.4 t,エンジン出力 23馬力,最高速度 45km/h,乗員 2名。日本以外に,イタリア軍も1933年に装備した。

  日本海軍陸戦隊も上海にあっては,英国製の神戸新聞 1931.9.4-1931.9.24(昭和6)Vickers-Carden-Loyd Mk VI / Model 1933を購入に装備した。1932年の第一次上海事変当時、日本陸軍の九四式装甲車は,1934年制式なのでまだ実用化されていない。

神戸新聞 1931.9.4-1931.9.24(昭和6)
「満蒙鬼話【一】鉄枴公 魔舌鬼語を発す」

今昔の奇事を想起しては悉く新しきを感ずる事となり、ゆくりなくも魔筆を揮って鬼語を綴ることとなった、已に魔筆であり、鬼語である、従って世を益するものとしての保証は困難であるが、毒を以て毒を制するという事もある、殊に近年、学者と称し、記者と称する一部には『飜訳』という思想毒薬を服して中毒し、怖るべき危険症状を呈して居るものがある、これ等は已に□人となり頭脳は朦朧として夢遊病者の如く、エデンの魔果を盗み喰っては、その日その日の緊張を求むるもので、この人に対し、若し日本国民への還元の覚醒薬ともならば望外の収穫であろう。

米国に到りては解決すべき何物をも所有しないが、支那をして日本へ何物をも与えしめざれば、即ち能事終るもので、日支合同劇に対する、楽屋裏の半畳であって、誠に余計なおせっかい、両国共に迷惑千万な発言者である。

他国の事は何うでもよい、我が国民は満蒙を何うするか、ちか頃気楽な論客があって、満蒙に対する王正廷等支那政客の主張を理由ありとし、之を支持する者がある、又幣原外交を以て、当然の帰決と心得て居るものもある、而もこれ等の主張が公々然として新聞紙上の出現し、公会に於て臆面も無く唱えらるるに到って、鉄拐等の如き明治生れの人間をして呆然たらしめずには置かぬ。

その頃長作霖は奉天にあり、関内へ兵を動かし、その子学良に郭松齢を添えて出陣せしめたが、松齢矛をさかしまにして作霖を逆撃する事になり、長く暴横、擅恣到らざるなき作霖の命旦夕に迫って居た、

而して鉄拐を動かさんとする紳士の企図は、この妙機に於て、満蒙問題を一挙に解決せんとするもので、作霖をして来襲逆徒の陣前に於て、東三省独立の宣言を為さしむるにある、即ち独立したる作霖の国家は、満鉄の横わる地域であり、この区域内に於て兵火を交え、在住人民の生命財産を危殆ならしむるは帝国守備隊の傍観し得ざるところ、平和維持の為に作霖を援助すと主張し、郭松齢を打払うにある、

而して平乱の後、作霖は三省の住民に一般投票を以て、東三省の向背を問い、その賛同を得て、拍手喝采裡に、慶出度く三省の運命を解決せんというにある、而して鉄拐に、この奇怪なれども、支那式な、興味あり、且つ重大なる使命を托したものであった。

その夜遼陽に下車して、鎌田弥彦将軍の率いる姫路軍の、南満守備隊を敬訪して、郷土青年諸士を慰問する事にした、将軍の勧めに依って営庭に青年諸士と相会した、冱寒は利刀の様である、解碧名工の青磁をその儘の大空に、皎々として照り渡った満月の夜である、際涯も無き大荒野の終端に、月光の落ちるところ、微茫として、橙青両色の交錯した薄絹の如き幕が掛る、月光の下、凍地の上に立ち、懸軍万里の異郷の空、郷土の青年を前にして、鉄拐満身の血はその時異様に沸き立った、

何が為に、この数千の青年が、旅の空に新年を迎えなければならぬのであるか、年々これ等の青年が滞留するが為に、千五百万円の国帑を要する、而もこの地域は二十五億の軍費を投じ、百万の同胞を動かし、明治国民の鮮血を塗った、貴しも貴き土壌である、その石ころの一個、その枯草の一本、悉く重大な意義を有し、国民の心を緊密に繋ぐもので無くて何であろう。

口頭の愛国禅は聞き厭いて居る、政党の幹部と称する人々から、又大官、紳商等から、耳蛸が石になるほど聞かされて居る、而もその愛国精神はいつ発露したか、然るに今遼陽の寒夜、月光の曠原に於て、郷土の青年の前に立ちて、幸福にもそこに数千の活々とした、燃ゆる如き愛国のインカーネーションを個々の眉頭に見ることが出来た、鉄拐の眼は、俄に熱くなった、而して青年の皇国に献ぐる霊肉の犠牲に思い到って、はらはらとして止め度なく涙が落ちた、声涙共に流れて、厚い感謝の演説をしたのである。

その時、戛然として胸奥を撃つものは、鉄拐をこの満洲の凍野に送った紳士の企図である、その企図は郭松齢の梟屍に依って、施すの困難とはなったが、而もその企図は正当である、またこれを達成するは帝国民の使命である、断じて成就しなければならぬ『支那は日本の領土にあらず』などと主張し、我が満洲の駐兵を以て国際情義に反するが如く思惟する外交業者−敢て業者という−存在するは、満洲に対する国民犠牲の実際に盲目であり、常に霞ケ関の弛緩した空気の間に処して、巴里流の恐米恐英と頽敗外交に憂身を窶して居る結果であろう、

豪壮にして強健なる明治国民の気宇は何処へ行った烈々として国家守護の為には世界を敵として恐れざるその勇敢なる精神は何処へ行った、

首領よ、代議士よ、大臣よ、教授よ、お前たちは、国民の魂−今ここに立つ郷土の青年達が、祖先伝来の殊玉として、天地にも替えず、大切に所有するもの−を何処へ持って往ったのか、この場を去っては、再びこの崇高、壮烈なものに逢うことは出来まい、彼此相想うて恍として低徊去ることを得ないのであった。

青年諸士の純真なる心は鉄拐の心に焼印を押した、而して鉄拐の熱涙は、青年諸士の内臓に注いだ、両者は不図愉快なる一致点に到着した、それは断乎として満洲は人手に渡さないと云う事である、又祖先の面目、現代国民の名誉、我が国民の生存、経済上の必求、これを思う時、いよいよその信念を強固にせざるを得ない、

米国が何であるか、露西亜が何であるか、支那の騒擾が何であるか、我が国民を承服せしむべき、我等の正義以上の正義を持来らざる限り、満鉄は何処までも、我国民の満鉄である、又我が国民の優越して生存し得る満洲である、奉天へ行こう、速に奉天へ行こう、そうして張作霖に逢おう、又我が駐在の文武諸官にも逢おう、我等はこの転機に於て、空しく張を擁し、旧態を維持して満足すべき秋ではない。

ここに満洲特務機関として、奉天に滞在する軍人に、菊池武夫という男が居る、この男は日向米良山の城主、菊池家の御曹司である、明治維新に際し、皇事に尽して華族となり、後嗣たる武夫は少将を以て男爵という事になって居る、菊池家が肥後の大守となってから七八世紀にもなろう、大昔からの殿様であり、御領主様であるのだから、元亀天正以後の成金領主とは門地が違う、従ってより多く馬鹿殿であり、ウス麿であろうというものだが、この武夫男爵は、世上の華族とは代物が著しく異って居る。

夙く陸軍大学を出で、諸外国の公使館附武官となり、中にも支那の駐在武官としては最も令名があった、満洲に派遣せられてからは、得意の壇場なりとして、縦横に進出し、出没の自在なる殿様芸とは思われぬ、酒は底なきが如くして底あり、放縦不羈の如くして自ら節度あり、という状態で、練達驚く許りである、殊にこの男の座談に至っては、当人の所有する最も勝れたるものの一つであって、用語、引例の巧妙なる聞者をして感歎せしむるものがある。

始め、郭松齢関内に反すと聞き、張作霖の命、日と共に窘迫するに及んで、天津から這々の体で海路逃げ帰った張学良を旅順に迎えたのが、その時の司令官白川中将、児玉秀雄などで、学良は両人に対し、父作霖の救援を哀願し、両人これを承諾して、奉天駐在の菊池少将に、一切を委托することとなった、長鋏徒らに美羞なく、腕を撫して久しき無事をかこつ我が男爵閣下は、得たりと許り、直に作霖軍を督励し、自ら陣頭に立ちて、郭討滅の作戦を樹てた、敵軍所持の軍器弾薬は悉く作霖の供給せるものであるから、その種類、威力は掌中に明瞭である、これを防禦すべき陣地を築造するに手数はかからぬ、又敵の銃砲を沈黙せしむべき、優勢なる軍器を集むるにも困難はない、学良に命じて奉天城外二里の敵前に塹壕を掘り、砲列を布き、工兵を動かして電話を通じ、数千の苦力を督して諸材料を蒐集する、その敏捷神速なる驚く許りである。

戦闘準備調いたりと云う報を得て自動車を駆って、戦線の視察を遂げた、闘いは最早作霖の勝ちと見て、疎髯を捻って微笑みながら運転手を叱咤し、高梁畑を疾走しての帰るさ、何うした把手の間違いやら、自動車がズデンドウと横倒しとなり、当人遥かの彼方に放げ出されたが、幸いに擦り創も無く、直に立ち上って哄笑一番、作霖の泣き虫め、南朝以来の名家菊池家の若様に飛んだ難儀をさせ居るわい、までは無難であったが都々逸を鼻歌で歩き出す、その後から支那兵が鉄砲を横ちょに担いでヨチヨチと随いて来る恰好は、支那兵漫画の好風景であった。

この菊池将軍の作戦及び援助に依って、郭松齢は一撃の下に叩き付けられ、而かも菊池将軍指揮の如く呉俊陞老人をして一万の馬隊を率いて、北方から郭軍の背後を断たしめ、郭を捕獲して、直に斬罪梟屍の惨刑に処した、郭は追放して生命は助けろと将軍が命じて置いたのではあるが、素性賤しき作霖のいかでかこれに聴従すべき、生捕ったら北方の物だ、余計なおせっかい置いて呉れと許り、言語道断の惨刑を加え、その妻女までも道伴れにしたは、殿様菊池の甚しく御機嫌を損じたところであるが、これも支那人天禀の特性である以上、致し様もあるまい。

菊池将軍との会談に依って、当時の情勢の大略を知ることが出来たので、直に黄慕将軍を訪ぬることとなった、黄慕将軍と呼ぶは、張学良麾下の砲兵旅団長で、用兵の巧妙、砲術の正確、而もその胆斗の如く、戦場に臨むでは苟くも退転を如らざる猛将である、支那軍人としては類例のない人物であるが、もともと日本国民であるから怪しむに足らぬ、帰化して満洲人となって居るので、その生殺与奪は一に作霖、学良の二人の手に委して居る、曾て欧洲戦争の末期同志を糾合して比律賓征討を企て事未然に露現して軍籍を剥奪せられ、満洲に移住して張作霖の部下となり、奉直戦争にはその砲術を以て戦功を樹てた、その勲功を嘉みすとあって、作霖元帥学良の軍事顧問として配属せしめ、少将に任じて砲兵隊長としたものである郭松齢討伐に際しては、又々大功あって作霖元帥いよいよ機嫌よく十万元の大賞を出して、破格にその戦功を顕揚したのである、奉天官場の人気は今黄慕の一身に集って居るという形勢である。

素より作霖は君子でもなく、尭舜を以て論ずべき代物ではない、さりながら東三省二千万人の満洲住民に君臨するには余りにお粗末と云わざるを得ない、支那の王者となり、覇者と称するもの、その始めに於ては多く作霖と択ぶところ無く、土賊の首魁であり、匪徒の頭目である、漢の高祖、唐の李淵、悉くこの類であるが、さてその位に登っては、徳を以て黎民に臨み、恩沢四方を霑おし、王威辺陬に光被すという事となる、然るに作霖君に至っては、身を緑林に起し、今満洲の大守となって、奉天府に二十万の手兵を置き、自ら元帥と称しながら、その為すところは依然として馬賊張頭目の域を脱しない。

 人民の生命を軽んずること、犬豕を屠るが如く、その昔、彼が朔風に駕して、白馬を飛ばし、拳銃を乱射して良民を苦しめたると同様の態度である、最も甚だしきは奉天票を印刷して、これを以て奥地の農産物を買受け、大連に輸送してその代価を金貨で受取って来るという一事である、不換紙幣であり、而して信望なき作霖の発行手形である以上、額面価格の通用など思いもよらぬ、日と共に低落し遂には片々たる紙屑を以て、粒々辛苦の作物を捲上げられたことになる。

 この作霖に対し、菊池武夫等、人命救助の謝恩をなすべしと迫り先ず満鉄の競争線の布設を断念せよと主張し、次には商租権を解決せよと迫り、曰く何、曰く何、或は等、々、々と数え上げるが、作霖冷然として澄して居る、まアそう急ぎなさんナという調子なのだから、米良山の城主、菊池奉天の守武夫、松の間の長矩公をそのままに、青筋を立てて怒り立てる、怒られては作霖いよいよ横を向き、後には会見を申込んで□□□□称して逃げを張るという姿である、忘恩、背恩、云おう様なき人非人と、歯を噛み、拳を握って、口惜しがるが、今更何と詮術もあるまい。

一両年が、米良山城主を始め、在留邦人の官民を憤慨せしめながら過ぎた、その間に於て、南方その他支那に対する我が外務省方面の仕事は、正体の知れぬ変態なものとなった、北に於ては奉天の林、南にあっては上海の総領事、これ等の外交使節の為すところを以てポスト外交と称し、軽石外交と呼ぶ事になった、ポスト外交とは外務省の文書を取次ぐに過ぎないと云う事であり、軽石外交とは、これを毀つに世話はなく、而も軽くて投げ付けられても無痛無痒一切手応えがないというのである、我が幣原君の如きは軽石大人として王正廷先生から名号を頂戴する仕儀となった。

いずこの国家にも、その基礎には哲学があり、宗教があり、歴史がある、その一をも所有しないのが作霖の天下であって、斯る政権の存続しないのは、プラート以来不変不動の定則である、近年蒋介石等孫文の三民主義というものを担ぎ出し、晴天白日旗を掲げて、この旗竿の下に集合せしめようとして居るが、その三民主義は孫文が一身を護る煙幕に過ぎないものであるけれども、已に主義となって多量に哲学的価値を所有する上から、国家建設の要具として大に珍重し得よう、それは南方の事で、宗教も哲学も一切お断り申して居る作霖の天下には何の効目もあるまい。

ファッショのムッソリーニは誠に蓋世の英雄である、その始め団員をして黒シャツを着用せしめ、大ステッキを提げて横行せしめる、純然たる暴力団でなくて何であろう、斯る一団が、政界に進出して有力なる地歩を占め得ようとは何人も予想し得ざるところであった、而も政界に突入するに及んでは、全然威嚇政治を行い、国民の不安はいう迄も無く、旧勢力は恟々として生きた心地もない、それでも一度び政権を攫取して宰相の印綬を帯びては、伊太利の興隆、国内産業の急進、積弊の打破、これ等を旗幟にして、伊太利国民を糾合し、今正にその途上にあって、治政大に見るべきものがある、作霖も馬賊であろうが、匪徒であろうが、その出処の如きは何うでもよい、我が国民の援助に依って三省の司となった以上、ムソ宰相と同様の心掛けで出発すると、住民の幸福である許りでなく、我が国民後援の主旨にも叶い、日満間の諸懸案も、無雑作に結末を告げた事と思われる。

燎原の火の如く北京に蓆捲したる作霖は、再び得意の絶頂に身を置く事となった、その間張宗昌の山東確保、学良の徐州進出なんど軍事的彼れの活躍は、明末に於ける北兵の威風をその儘で、愛親覚羅の再現かとも思われたが、尾大振わず又奉天帰還の止むなきに到った、その帰途奉天城外二里、満鉄京奉両線の交叉点に於て、帝政時代露西亜に流行した、革命流の爆殺に逢う事となった、親日派の老武人、呉俊陞翁も遭難し作霖に伴死するに至ったのは、日満両国人の大に哀惜したところであるが、彼の惨死に対しては、何人の同情をも贏ち得ない許りか、中には手を拍って快哉を叫ぶものさえあった。

同情するものが無いとしても、学良を以てすれば、骨肉の父である、これを殺すものを以て不倶戴天とするであろう、俄然として彼が精神に一大衝動を生じたる時、南方党部の首脳部等、大河の如く奉天に入込み、学良を説いて青天白日旗を掲揚せしめ、国民党に加担して、その統一の下に新局面を打開する事とした、青天白日旗を掲ぐるは、こと内政に属するものであるから、学良の自由勝手たるべきであるが、南方政府に合体は、我が軍部の大に忌諱するところである、

抑も蒋介石、王正廷等が、宣教師の手を経て、米国財閥の後援を受け、その煽動と使嗾に依って、日本の悪宣伝に憂身を窶し、日貨排斥に不断の努力を継続せるは、英独の外交界は素より、在支各国使節の知悉するところで、知らぬは霞ケ関許りと云う形勢であるから、在満の我が軍部が、北方の南方合流を承服し得ないのは、理由なしとは云えぬ。

当時已に日支の懸案三百余件、而も重要安件として商租権がある、今奉天政府にして南方と合流する時は、米国の支持を受くる南方要人等、この諸懸案の解決をして今日以上に困難ならしむるは当然であって、学良の南方加担は我国の権益をして危機に立たしむることとなる、而かも学良は断じて、白日旗を樹てると云う、南方党部の要人も、学良の左右に附き切りの姿で、その敢行を迫って居る、この形勢を旅順で知った司令官村岡長太郎、烈火の如く怒り出し、この背恩、忘恩の青二才、目にもの見そうと時を移さず奉天へ入城、学良に会見して青天白日旗などとは以ての外、満洲は満洲人の満洲だ、親譲りの身代が気に入らぬとあらば、貰い手には楊宇霆、張作相等幾らでもある事、お前さんは素裸身で南京へ行くが善いと捲し立てる、学良色青褪めて南方党部の圧迫甚だしく、到底この儘では押切ることの困難を力説し、只管に承認を頼んだが、頑鉄と仇名の付いた村岡の事だ、『断じてなりませぬ』の一点張りに、学良シクシク泣き出すという硬派ながら濡場の一幕さえ出して見せるという仕儀、それでも頑として承知しない、外務省の態度は何うあろうとも、この村岡が成らぬと云ったら、金輪際罷り成らぬと、強調一本に押切って引揚げたのであった。

大阪毎日新聞 1932.8.2(昭和7)
「シー・ポスト 郵政封鎖に苦しむ在支各地邦人の弁法」

大連本社特電【一日発】国民政府の郵政封鎖は在支各地居留民に非常な苦痛を与えており上海、青島、芝罘等の居留民は関東庁逓信省局に対し大連局扱いによる弁法取扱につき照会または処置を依頼し来りつつあるが、天津居留民代表平野喜久太郎氏は右折衝のため天津より来連、一日大連郵便局の長谷川外国郵便課長と協議した、右につき長谷川氏は語る

船内郵便すなわちシー・ポストという国際的に認められた合法的方法が存在しているが、これを利用すればよいのである、不便な奥地の田舎ならともかく港に近いところは大連に入港する船舶に船内郵便として積み込めば何の面倒もなく大連に着くからこの弁法を利用すれば問題でない、天津在住の欧洲人も領事館の手によって纏めそれぞれ大連にある領事館あて送附して来ることになるだろうと思っている。

その頃奇怪千万な主張が、長江沿岸在住の日本人一部から持出された、それは米国財閥の不断の煽動に依って、不断に行わるる排日及び日貨排斥の為に、南方の我が商民等その煩に耐えずとし、若しこの排日、排貨を遁れ得るならば、如何なる犠牲も惜むところで無いというのである、斯る奇怪なる空気の在留民一部の間に醗酵せるを見て取ったは米の悪財閥とこれに連継する王正廷一味で、日排の根本的消滅は、満鉄放棄にあると宣伝し、満鉄放棄論や我が居留民間に起すと共に、一方米国系新聞をして熾んに満鉄保有の不合理を強唱せしめたものである、斯る非国民的軟論の居留民中に存在する限り、北方に於ても軍部の強調に反比した軟派の生ずるのも無理ではあるまい。

さて村岡、林両人の訪問に逢うて、悲喜こもごもの学良は、父作霖の葬儀を行わねばならぬ、亀卜に従い、日時を定め、その準備に多忙を極めて居る折柄、日本に於ては学良青天白日旗を樹立するという報道に、著しく朝野を驚かす事となり、親張作霖の恩人なりという林権助男を特使とし、作霖の葬儀に列せしむるを名として、樹旗禁止の役目を負うて出発せしむる事となった、権助男爵、衣冠堂々として奉天城に乗込み、直に学良邸に入り、頭から呶鳴り付ける、通訳ありと雖も、支那人の事とて、真赤になって早口に噛み付けるのだから充分に解訳が出来ぬ、例の如く云うだけ云うと風の如く引揚げて了う、後には学良、日本参謀の誰彼れを顧み、『今の爺さん何云うありますか、大サン腹立ち顔あります』などとやって居る、

権助男と入れ違いに又しても林領事の入来、学良、爺さんの腹立ちを物語ると、領事は平然として取り澄し、あれは僕などの方面とは違った方面から派遣せられたもので幾ら呶鳴っても問題ではない、外務省に於る貴下に対する方針に何等変更はない、安心して葬儀の大礼をお勤めなさいと云ったのだから、何が何だか分らないと云う事になる、学良も世の間に不思議なものも数あるが、日本の官吏ほど不思議なものはないと云って怪訝な顔をして居たという事であるが学良よ、貴公許りじゃない、本国に於ても満洲駐在の文官、満鉄の幹部、この二つのものは正体の知れぬ変怪、化性の妖物として居るのだ。

さて斯くの如き経過の後、青天白日旗掲揚の時期が迫って来た、軍部は飽迄承知しない、腕を以て押えて見せると意気込んだか、本国の言論−与論ではない−が張作霖爆殺の張本を詮索して騒々しくなって来た、この騒々しいのは政争の具にこれを供する者と、職業言論屋の商売道具に供せられた結果であった、これが為に時の内閣総理田中義一君は、軍部の積極的進出を禁ずるの歇むなきに到った、在満の猛者共、忽ち窮地に立って、施す途が無くなった、得たりと学良、田舎婆さんの腹巻その儘の旗をクルクルと奉天元帥府の屋上、高々と巻上げて、これ見よと許り、満悦の体である。

軍部を中心とする硬派の主張に従い、張学良が親譲りの身代に棒を引いて下野し、支那流の生活に営むとすると、五千万円の財産が必要である、更に学良の部将を解任し、又之を慰撫するに八千万円を必要とする、合計一億三千万円を以て東三省の司を辞退する事となるので、退けば長者が二人とはこれだ、遖れの名案誰に異存もない筈である、さてこの名案実行に要する一億三千万円の金は何処にある、天山南路の砂金でも拾って来るか、それも成らぬ相談であろう何れにしても東京へ乗込んで時の総理大臣田中義一閣下に委細を報告し、この手で金策する外はないとあって、問題を東京へ移す事となった。

東京へ来て、田中総理閣下に一切の径路を語り、学良も已に承認するところで、この上は只これに要する一億三千万円の軍資金の才覚である、これを閣下の威力、信望を以て御調達を願いたいとやった田中総理首を捻って考えた、一億三千万円とは安いものだな、広袤三十五万方哩の大曠野、我領土に比して十数倍の大地域を我が歳入の一割に充たぬ端銭で手に入るとは福徳の三年目、這奴は近頃面白い、久原にやらせるか、それとも乾から借金するか、新兵衛老人も一億三千万円の担保に満洲を入れると聞いては吃驚仰天する事であろう。

何をいうにも板垣退助以来五十年の歴史を育った政友会を滅茶々々にして除けた程の気楽な頭脳であるから、無造作に引受けて、金は俺が作らえる、貴公等は一刻も早く帰満して、邪魔者の這入らぬ様学良を監視するが善いと云う、然るにその邪魔者は田中閣下の帷幕にあって、災い脚下に起ろうとは誰知る由もない。

満洲在留の軍人の一部に大倉組を嫌忌する伝統的気風がある、甚しきは之を非国民などと呼び、支店長若くは代表者の訪問を受けても面会を断るものさえある、何が原因であるかは明かでないが、兎に角満洲に於る軍人は大倉組が嫌いである、学良下野問題に際し、誰云うとなく、事成就に至れば、満洲は吾々の方寸に依って統治せらるる事となろう、その時はあの邪魔者の大倉組を駆逐しなければならぬという話になった、これを聞いた大倉組の驚きは一通りでない、蒙古には喜八郎老人の経営する大水田があり、軍器の売込みやら張家の御用達やら、最も利害の重大な満蒙から駆逐されては莫大な損害を蒙ることになる、こりゃ這うしては居られないと、門野重九郎君、自ら陣頭に立って、その防止に狂奔する事となった。

中外商業新報 1932.10.9(昭和7)
「銀塊宙に迷う 上海復興資金」

去る八月の臨時議会で上海在留民の復興資金として貸付に決定した政府の銀五百万貫(時価九百五十万テール七百万円)はその後居留民の矢の催促で早速大阪の造幣局から上海に送り出された、ところが上海の銀鉱では排日気勢依然濃厚で日本の銀塊なるが故に馬蹄銀に鋳造することを拒絶してしまった。

もちろん銀塊のままでは通用出来ず頭をしぼった結果政府ではこれをロンドンに廻送して同地市場で売却、この資金を引当てに上海においてポンド為替を売却して両資金を得、危く宝の持腐れを免れたというややこしいことになってしまった。

この資金は上海が七割(三百八十五万両、五百万円)ホンコンその他が三割の割で十五ヵ年賦の貸付をなすことに決定したが、この復興資金部長には正金銀行頭取席の桜内篤敬君が年俸一万二千ドル(一万一千円)で迎えられることになって為替銀行あたりでは羨望の的になっているが、同君近く同地民団の長に祭り上げられるかも□れない模様とは、矢張り地獄の時世には珍しい果報者だとの評判もつぱら。

大阪毎日新聞 1936.5.2(昭和11)
「犯人は支那人 中山水兵狙撃事件」

【上海一日発同盟】上海第一特別法院は一日中山水兵狙撃事件(昨年十一月九日わが陸戦隊員中山水兵が何者かに狙撃されて死亡せる事件)に関する審議を行ったが、その結果犯人は広東人楊文道、同広東人葉海晴と判明した。

写真(上):1935年11月9日、日本の中山兵曹狙撃事件以降の上海共同租界の交通遮断を報じる新聞記事。日本海軍一等水兵中山秀雄が中国人により殺害され、死後に進級。1932年4月29日の天長節爆破事件など、上海では、中国の抗日運動が激しかったが、外国人に中国の経済中枢を奪われた中国人としては、愛国的行動だった。

大阪時事新報 1935.11.13(昭和10)
「汪狙撃、反日テロ背後関係判明す 陳果夫一派の指嗾 戴天仇氏の一言から暴露」

【広東電通十二日発】汪兆銘狙撃事件の背後関係に就ては国民政府内の一切の発表を禁じているがはからずも中央の西南説得使節戴天仇が広東で某要人に打ちあけたところにより、陳果夫が指嗾したことが判明した、しかして蒋介石氏はこの事件とは何等関係なしと戴氏は言明しているが、西南派ではそれを信ぜず万一を慮って五全大会にも実力派各巨頭は一切北上せざることに決定したものである、又上海の中山水兵射殺の兇器も汪狙撃に使用したものと同型のスペイン製モーゼル拳銃なること判明、昨日の日本人商店襲撃も陳果夫の藍衣社一派の指示によるとの情報あり、右事件の裏に蒋介石や陳果夫等の魔手が動いていることは最早決定的となった。

大阪朝日新聞 1936.2.16(昭和11)
「居留民団長らと朗らかな交歓 法人の活躍振りを聴く 上海□本社日支国際電話の第一声」

東亜の空を結ぶ待望の日支国際無線電話の開通の日−十五日午後一時本社では真先に民間第一通話を獲得して国際都市上海へ輝かしい交歓通話を行った「もしもし」と呼出しの挨拶に応じて海を隔てる二千キロの電話口にまず現われたのは上海日本人居留民団長甘濃益三郎氏、それから上海工部局警視総監補田島昶氏−いずれも日支親善の佳き日を喜ぶ力強い声が手に取るようにはっきり伝わる

本社 モシモシ甘濃さんですか、こちらは朝日新聞社ですが本日はどうもお目出度うございます
甘濃 ハア私が甘濃です、どうも有難う存じます
本社 今回は居留民団長の大役を引受けられ、さぞ御面倒なことでしょう……
甘濃 いやどうも私も出来るだけ誠意をもってやる覚悟です
本社 最近の日本人居留民の数はどれくらいですか
甘濃 昨年の国勢調査によると二万八千人です、上海事変前と大差なく却って多少増加しています、欧米人の方は増加しませんその原因は上海の財界不況のため欧米人の仕事がなく引揚げるものが多くて新しく来るものがないからです

本社 日本人は何故殖えるのですか
甘濃 勿論不況ではありますが紡績方面の影響がなく、まア自然増加ですね在留法人の景気はよくなくとも踏み留まって頑張っているのです、土着の商人も非常に困っているが是非とも上海で復興する悲壮な決心を固めているのです
本社 排日の状況は?
甘濃 これは一口でいうと表面的には好転しています、商売人の方から見ても排日貨は現在見えないようです

本社 上海事変救済の復興資金の活用はどうですか
甘濃 総額は五三十万ドルですが現在四百五十万円貸出されています、不景気のため償還期間延期の運動が起きていることは事実です
本社 上海の四月の市参事会員選挙には現在日本人二名が三名に勢力を増大するそうですね
甘濃 それはまだ確定しませんが日本人の市参事会員三名を是非出したいと目下準備中で候補者を選定しています、私は在留日本人を代表して内地の皆様に朝日新聞を通じてよろしく御礼申上げます

続いて上海工部局警察警視総監補田島昶氏が電話口に出る、まるで市内電話でインターヴューするほどの明瞭さだ
本社 もしもし田島さんですか、こちらは朝日新聞ですが実は「犯罪の都」といわれる上海の最近の犯罪状況についてお聴きしたいのですが
田島 実は先程も甘濃さんからもお話がありましたが、なにしろ最近の不況からこそ泥が非常に多くなって悩まされておりますしかし上海特有の犯罪だといはれていた人浚いとかその他の大事件はだんだん少くなっているように思われます
本社 中山水兵狙撃事件の犯人については……
田島 あの事件については懸賞付で捜査を続けていますが遺憾ながらまだ目星もついておらない始末ですが、十分捜査する心算です、また外交次長唐有壬氏の暗殺犯人についても何分事件が仏租界に起ったことではあるし捜査に困難を来していますが、未だに犯人逮捕の端緒も掴み得ないような状態です

本社 過般起った上海らしい犯罪郵便局を襲ったギャング団はその後どうなりましたか
田島 あの事件は既に犯人も捕われてそれそれ判決も下って落着しました、主犯は江蘇省生れの坊さんだったが、これらは上海らしい犯罪のように思われますその他租界警察や支那警察との聯楽協調、それから共産党の動静、日本人巡査の活躍振などについても詳しく申上げたいと思うが時間がありませんのでこの次ぎの機会に譲りましょう、どうぞ皆さんに御紙を通じてよろしくお伝え下さい

上海派遣軍の行動レファレンスコード:A03023742500
 作成者: 内閣
 作成年月日: 1937年3月4日
 内容: 上陸より停戦まで
 1.陸兵派遣の経緯 (二月二日): 事件勃発以来上海の状勢は益々悪化し約三万の我居留民の生命財産は刻一刻危殆に瀕し我海軍連日連夜の奪戦苦闘を以てするも尚保護することが困難となつたので二月二日廟議一決陸軍を上海に派遣し海軍と協力し邦人の保護及我権益の確保に任せしむることになつた。

  2.第十二師団よりの混成旅団呉淞に上陸 (二月七日): 七日我海軍陸戦隊は呉淞鎮の敵を攻撃したが敵は徒渉困難なる呉淞クリークを利用し堅固に陣地を設備し頑強に抵抗せる為之を撃破するに至らなかつた。この戦闘間第十二師団より派遣せる混成旅団は海軍陸戦隊の援護の下に午后一時頃より呉淞附近に上陸を開始。

上海事件に対する欧米宣教師及婦人団体の運動各種情報資料・満洲及支那事変ニ関スル新聞発表)レファレンスコード:A03023771500
   作成者: 内閣
 作成年月日: 1932年4月1日
 内容:本記事は各方面より入手せるものを総合せるものにつき陸軍省新聞班の発表として外部へ交付せさることに取計相成度
  在支欧米宣教師の決議 19332年2月12日、在支欧米宣教師百五名は上海に於ける日本人側及日本軍の惨虐行為を非難せる決議文を欧米各国に配布せるか右に対し視察の為め上海に赴きたる日本人宣教師は左の如き回答文を発表した。

  訳文 在支欧米宣教師の「アツピール」に対する日本宣教師の回答 昭和七年二月十二日在支欧米宣教師百五名は日本軍が支那に於て惨虐行為を恣にしつつあり等我国を非難せる声明書を欧米諸国に発せるに対し我宣教師のなせる回答文なり。

ところで、上海特別陸戦隊というと、精鋭部隊のように感じられるが、海軍軍人としては,第一に司令部勤務、第二に艦隊勤務であり、陸上歩兵勤務は最低であったようだ。

次のような「赤褌哀話」の記述がある。

私がお屋敷勤め(戦艦の勤務)を経験したのは、先にお話致しました「陸奥」だけで、矢張りと云ふか当たり前と云ふか、大湊警備府勤務を振り出しに、漢口の陸戦隊、呉の防備戦隊勤務とドサ廻りばかりで御座ゐました。

呉防備戦隊司令官は柴崎恵次少将(海兵43期)で、この後ギルバート諸島のタラワの守備に当たる海軍第三特別根拠地隊司令官に転出となり、其の地で玉砕、戦死なさいました。

ある日柴崎司令官直々の呼び出しがあり、司令官室に参りました。「君は、もう直ぐ中尉だらう。ドサ廻りは嫌か。」「・・・」

「実は私も、ドサ廻りなんだよ。」「えっ。」「開戦時は上海の特別陸戦隊の参謀長でな、コレス(同期生)は艦隊勤務で艦長や参謀に為っておって、人事局長の中澤佑少将、呉鎮の人事部長の田中菊松少将、それに、君の乗ってゐた「陸奥」の今の艦長、三好輝彦大佐もコレスだ。」

「艦隊勤務をさせてやらうと思ったのだが、君の成績ではなぁ。」「致し方ありません。」「海上護衛隊に転任の手続きを取っておいた。しっかり頑張りたまへ。」私は一瞬目の前が真っ暗になってしまいました。海上護衛隊とは聴こえが良いやうですが、その実、海軍で徴用した輸送船勤務なのです。自室に戻ると寝台にうつ伏せになって、涙も涸れ果ててしまうのではないかと思ふぐらい泣き、柴崎司令官を恨みました。(⇒「赤褌哀話」引用終わり)。

写真(右):1930年代の前半の上海バンドの女神像。;この女神像は、第一次世界大戦で戦死した欧米居留民を記念して共同租界とフランス租界の境界付近のバンドに建造された。

第一次上海事変
1月21日 在上海日本総領事が呉上海市長に対し抗議文書を手交した。
抗議では,
?市長の陳謝,
?加害者の逮捕処罰,
?被害者に対する慰藉料治療費負担,
?反日団体の解散,
を要求した。

第一次上海事変への謀略
1932年1月23日 軽巡洋艦「大井」,第十五駆逐隊および呉特別陸戦隊450名が上海に到着,翌24日 水上機母艦「能登呂」が上海到着。

1937年1月の時点では,日本側は海軍陸戦隊の上海海軍特別陸戦隊と佐世保・呉鎮守府からの陸戦隊増援部隊の上海の海軍陸戦隊は合計1800名、中国側は第19路軍3万名である。上海で海軍特別陸戦隊が中国第十九路軍と市街戦を戦ったが、劣勢のために危機に陥った。

そこで、海軍陸戦隊の増援1000名が派遣された。日本政府は,上海への陸軍部隊の派兵を決定し、2月2日,久留米の第二十四旅団、金沢の第九師団に動員令が出された。

増援部隊である第二十四旅団は、1932年2月7日に上海に到着、第九師団各部隊も2月18日には上陸。2月後半までには、日本陸軍の歩兵3個師団、独立混成1個旅団が上海に派遣された。

「第一次上海事変以来 戦争に明け暮れた人生」 栃木県 中嶋武司氏の回顧録

私は明治四十一年八月十五日生まれで、生地は日光市ですが、原籍は福井県でした。昭和三年徴集ですが、輜重輸卒が兵隊となり、昭和四(1929)年四月一日、輜重兵特務兵として原籍の金沢の輜重兵第九大隊(当時は未だ、工兵も輜重兵も連隊でなく大隊である)へ入隊、五月二十八日兵業終業で除隊したのです。その二ヵ月間の訓練は輸送業務が主で、駄載(荷物を馬に載せる)、輓馬(馬に車を輓かせる)等に就業、また兵隊としての基礎訓練も受けましたが、小銃は三八式騎兵銃でした。

私の青壮年期時代は、戦争に明け暮れたと言っても過言ではないでしょう。満州事変後、上海の共同租界には戒厳令が敷かれ、英・米・仏軍は警備につき、日本の陸戦隊も居留民保護のため上海に上陸して警備をしているという新聞記事も見ていました。それは昭和七年の一月頃でした。そのうちに、中国の第十九路軍が発砲挑戦をし、閘北一帯は戦闘状態になったといいます。上海には少数の海軍陸戦隊しかおらず、新聞の写真で白いゲートルをつけ市街戦をしている陸戦隊の姿を見て緊迫した気持ちになった記憶があります。

(1932年)二月四日、突然召集令状を受け取り、原隊の金沢輜重兵第九大隊第三中隊に入隊、二月十五日上海に上陸、直ちに輸送業務に就いたのです。これが第一次上海事変です。私が参加したのは、廟江鎮の爆弾三勇士戦死直後の戦闘でした。当時の上海派遣軍司令官は、白川義則大将でした。

上海の楊樹甫路に駄馬をつれて一時駐屯して、糧秣、弾薬を第一線に輸送するのにクリーク沿いに行くのですが、クリークの脇で日本兵が負傷して倒れている所を通ります。中国軍の抵抗が強くて、連日の戦闘のため日本軍の犠牲が多く出ました。しかし、特に弾薬が不足していたので、我々は弾薬や糧秣の輸送を任務としていたため負傷兵を助けることも出来なかったのです。負傷兵の後送は間に合わないので、クリークの畔に寝かせてあったわけです。戦争の初めは海軍の上海陸戦隊だけだったのですが、陸軍が救援したわけです。最初は久留米の師団(第十二師団の混成第二十四旅団)が上陸、続いて我々の金沢の第九師団でした。

前線には鉄條網があり、重機関銃を撃ってくるので突入することが出来ません。その鉄條網を切るため、久留米の工兵が破壊筒(中に火薬を詰める)を持って払暁に爆破しました。その時に自爆して鉄條網を切り開いたのが有名な爆弾三勇士です。廟江鎮のその場所は、竹矢で囲んであり、生々しい戦場でした。

続いて大場鎮へ進むと、塹壕の中で青い軍服に笠を被ったまま、生きているような形で中国兵数人が死んでいました。そういう場所を越えながら前線へ補給物資を輸送したのです。前線では馬は使えないので、塹壕から次の塹壕へと弾薬を持って行きます。その時は、塹壕を出る瞬間瞬間に猛烈に射撃されるのです。我々の仲間は比較的やられませんでした。狙われるのだから弾は近くを飛んでいくのですが、気が張っているためか案外当たらないで、むしろ、輸送途中で流れ弾などにやられたものです。

上海近郊は湿地帯なので、輸送には馬は使えず、背負ったり、手で持って運んだりしました。また在留邦人が義勇隊を編成して協力していました。敵は戦闘力のない我々輜重隊を待ち伏せして攻撃してくる時もありました。夜になると敵は日本軍の夜襲を恐れ、小銃や機関銃をあたかも豆を煎るように撃ってきます。弾が身近にピシピシと来たり、頭の上を通ったりします。まさに雨霰のよう、弾丸雨飛とはこのことと実感しました。砲は迫撃砲が多かったので、畑の中などには不発弾が随分埋まっていました。

我々の第九師団の後に奇襲上陸したのは第十一師団(四国)だったといいます。第二次、第三次と攻撃しましたので、頑強に抵抗していた敵も段々と逃げていき、我々も追撃を止めました。お陰でそこで一息入れることができたわけです。

(1932年)三月になって停戦命令が出ました。上海付近も大分平静となり、日本軍は遂次内地へ帰還していきました。その時の天長節(四月二十九日)式典の最中に、白川軍司令官、重光公使等が朝鮮人に爆弾を投げられ重傷を負うという事件はありましたが、五月には停戦協定が成立して、全部隊が内地へ帰還することになりました。私も金沢へ帰って、たしか五月二十八日だと思いますが、召集解除となりました。 私たちが二月に出征した時は、勤務していた古河電工では出征兵士を送り出すということは初めてのことで、清瀧神社まで一キロメートルぐらいをブラスバンドで華々しく送ってくれました。また金沢で、出征部隊が大通りを行進する時なども盛大なものでした。

当時は日米関係も悪く、日米戦争の予想もあり、新聞や雑誌にも書かれたり、講演会も開かれたりで、出征は盛大に華やかなものでした。また、当然凱旋の時も盛大で華やかでした。帰ってからは古河電工に復職していたのですが、昭和十六年(1941年)の春に退職しました。すると、(1941年)七月には、対ソ戦の準備というか、例の関特演召集が来ました。今度は前回とは全然違って、ひっそりと秘密で、京都の深草の練兵場で部隊が編成された独立輜重兵第五十八大隊に入隊しました。

<欧米人の見た第一次上海事変>
写真(最上左):中国第19路軍の兵士。写真(最上右):日本海軍陸戦隊ノ射撃
写真(中左):電話線を準備する日本海軍特別陸戦隊。写真(中右):中国軍のヴィッカース重機関銃。
写真(最下左):八九式戦車。写真(最下右):呉松らしい砲台を占領した日本軍。



The Shanghai War, 1932

In January 1932, five Japanese monks, started singing Japanese patriotic songs in a Chinese factory in Shanghai to celebrate Japan's successes in taking over Manchuria the northeast of the Chinese capital. This provoked a riot during which one of the monks was lynched.

In reprisal, the Japanese landed 1,200 marines and ordered the Chinese Nationalist garrison commander, General Cai Tingkai, to withdraw his Nineteenth Route Army. He refused, and the Japanese attacked. For 34 days the Chinese resisted bravely and only retreated when the Japanese brought in an extra 55,000 reinforcements.

In the fighting, 18,000 civilians were killed or missing and 240,000 people lost their homes. Shanghai was a city under siege. The foreign-controlled areas, the International Settlement and the French Concession, were packed with Chinese refugees trying to escape the Japanese.

写真(上):中国第19路軍と日本海軍陸戦隊の交戦。写真(中右)米国海兵隊

第一次上海事変の謀略
1月28日、第一水雷戦隊および佐世保特別陸戦隊470名が上海に到着。
第一遣外艦隊司令官声明後,2130 上海の日本海軍艦艇に搭乗していた陸戦隊を揚陸し,中国軍と戦闘開始。

1月30日 軽巡洋艦「龍田」第二十六駆逐隊および佐世保特別陸戦隊1個大隊上海到着。

写真(上):中国軍と日本海軍陸戦隊の交戦

中国軍は,国民政府の国民革命軍第十九路軍3個師団(3万人)で,共同租界の境界線付近に集結しいた。村井倉松上海総領事は,上海市長に撤退を約束させるが,日本海軍陸戦隊は,優勢な中国軍に怯えていると見下されるわけにはいかず,陸軍に対する面子も合った,交戦に至ったようだ。戦闘開始後は植松少将が上海陸戦隊司令官となった。

写真(上左):上海の難民。日本海軍陸戦隊。写真(上右)支那遣艦隊の旗艦「出雲」。写真(下左):軽巡洋艦「大井」

写真(右):上海沖の海防艦「出雲」(1937年撮影):日本海軍の第3艦隊(1937年10月以降は支那方面艦隊)旗艦で,排水量1万トン、主砲は20.3cm砲 連装2基4門の旧式艦。上海の日本人居留民保護を目的に,上海の中国軍を砲撃した。


海防艦出雲には,戦後,後日談が軍艦「出雲」物語で,次のように語られている。

出雲は1898年に英国(アームストロング社)で建造された9970トンの装甲巡洋艦で、日本海海戦活躍、第1次大戦では地中海マルタ基地で旗艦となっている。その後は幹部候補生をのせて世界周航をする練習艦船の任務に就いていた。


写真(上4枚):上海の中国軍将兵。写真(下2枚):日本海軍陸戦隊の将兵。

<第一次上海事変の戦闘>
第一次上海事変では,第一遺外艦隊より編成された艦船陸戦隊が増派されたが,結局は,圧倒的に不利な日本軍は,2月には上海派遣軍(司令官は陸軍大将白川義則)を編成,石川県金沢より第九師団(師団長植田謙吉中将)を派遣する。

2月8日 第三艦隊旗艦海防艦「出雲」上海到着。11日 「長崎丸」下江中呉淞付近にて敵の機銃射撃を受ける。

2月20日0730 第九師団総攻撃開始。海軍航空隊も協力し,巡洋戦隊は駆逐艦と共に陸軍と策応し,長江を遡江し,中国軍砲台を艦砲砲撃。

上海派遣軍の第九師団は,2月20日に中国軍と大規模な戦闘に入った。2月22日,アメリカ人義勇兵の中国空軍軍戦闘機ボーイングP218が,日本のは空母「加賀」三菱十三式艦上攻撃機1機を撃墜した。そして,日本の中島三式艦上戦闘機3機が,ボーイングP218に反撃,撃墜した。これは,最初の空中戦による戦果である。

第一次上海事変の肉弾三勇士は有名である。

2月20日朝、総攻撃が開始されたが、中国第十九路軍の抵抗のため、第24旅団は中国軍の廟行鎮にある陣地を突破できなかった。中国軍は陣地正面に鉄条網を張り、壕を設けて屈強に抵抗したからである。

そこで、2月22日、工兵第二中隊から36名の決死隊が選ばれ、爆薬を装填した破壊筒をかかえに突撃した。この時、作江伊之助、北川丞、江下武二の三兵士は、銃撃の中を破壊筒を鉄条網に突入し、自らは戦死しながらも鉄条網の破壊に成功した。ここに爆弾を持って突撃する陸軍の「肉弾三勇士」の伝説が生れた。銅像と墓が、東京の青松寺に造られた。

四年式15サンチ榴弾砲の写真が残っている。海軍陸戦隊も1915年(大正4年)陸軍制式の15cm榴弾砲を装備していたのか。それとも陸軍の部隊なのか。砲撃力があれば,爆弾三勇士はいらないのだが。

3月1日 陸軍第十一師団七了口敵前上陸。海軍軽巡洋艦も支援。陸軍第三次総攻撃。

3月1日には,日本は満州国を建国し,独立宣言をさせる。満州国の元首は,執政の愛新覚羅溥儀,すなわち清朝最後の皇帝宣統帝で,1911年辛亥革命で退位していたのを,日本の満州駐屯軍である関東軍が擁立したのである。(後,1934年満州帝国皇帝に就任)

3月2日 中国軍撤退,3日 呉淞砲台占領。1400 戦闘中止命令。

第一次上海事変引用。

その後,中国軍は撤退し戦闘は終結した。日本軍の戦死者は769名。

 地上戦闘の終結後、5月5日に停戦協定が成立した。この停戦交渉中の4月29日に、上海において尹奉吉による日本軍に対する爆弾テロ事件が起きている。

日本上海史研究会「上海日本人居留民略史」
虹口Hongkewは第一次上海事変以前は中国人街であった。虹口では、日本語をだけを使って日本様式の生活が可能であったが,同時に中国人で小商売を営むものも多数いた。しかし,虹口の中国人は第一次・第二次上海事変で,排除されていった。その結果として虹口では急激な日本化が進展し、その景観の上でも日本人街となった。

◆日本の特攻賛美は,第一次上海事変の「爆弾三勇士」など日米開戦前から,大陸で開花していた。与謝野鉄幹は,爆弾三勇士を賛美した。

犠牲的精神の発露による「特攻自然発生説」は,1932年1月に勃発した第一次上海事変で,日本陸軍「爆弾三勇士」という美談となって主張されている。2月22日,日本陸軍第24旅団(久留米)が中国軍十九路軍の陣地を攻撃した際に,中国軍陣地前面にある鉄条網を破壊する破壊筒(4mの筒に爆薬20キロを装填)を運搬した兵士たちの突撃が,犠牲的精神の発露であるとされた。

長崎県出身の北川丞一等兵,佐賀県出身の江下武次一等兵、長崎県出身の作江伊之助一等兵は,第24旅団の下級兵士であり,名前はそれほど人口に膾炙したわけではないようだが,三軍神あるいは三勇士と讃えられた。

写真(右):靖国神社大灯篭基盤のレリーフ「爆弾三勇士」;第二鳥居と神門の参道両脇に,日本陸軍と日本海軍の物語を彫った大燈籠(富国生命保険の寄進)がある。灯篭の基壇に,戦争の名場面の青銅レリーフがある。太平洋戦争時,大鳥居は金属供出されたが,このレリーフは供出されずに,残された。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致 三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

北川丞一等兵,江下武次一等兵、作江伊之助一等兵という下級兵士は,『爆弾三勇士』として,荒木貞夫陸相、鳩山一郎文相、薄田泣董など有名人からも絶賛された。

1932年2月22日,第一次上海事変で,中国軍陣地の鉄条網を爆破するために,破壊筒をもって突撃した「爆弾三勇士」の行動は,犠牲的精神の発露であるとされた。三名の一等兵は,三軍神と賞賛され,マスメディア,教科書,軍歌でも頻繁に取り上げられた。


写真(左):「爆弾三勇士」の歌を作詞した歌人与謝野鉄幹;(1873年2月26日 - 1935年3月26日)京都府岡崎の生まれ。山口県徳山女学校で国語教師を4年間勤めるも女生徒と問題を起こし、退職。20歳で上京。1899年「東京新詩社」を創立し、翌年「明星」を創刊した。3度目の妻の与謝野晶子と浪漫主義運動を展開。

写真(右):「君しにしにたもうことなかれ」「みだれ髪」を残した歌人与謝野晶子;(1878〜1942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」との評価がある。


「三勇士の歌」は,『朝日新聞』『毎日新聞』が公募し,三勇士の突撃から1ヵ月後の1932年3月25日に入選作が発表された。『毎日』の「爆弾三勇士の歌」には、総数8万4177編の応募があり、この中から、与謝鉄幹の作品が選ばれた。

「爆弾三勇士」与謝野寛作詞・辻順治作曲
 一、廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣 われの友隊すでに攻む 折から凍る二月(きさらぎ)の 二十二日の午前五時
 二、命令下る正面に 開け歩兵の突撃路 待ちかねたりと工兵の 誰か後れをとるべきや
 三、中にも進む一組の 江下北川作江たち 凛たる心かねてより 思うことこそ一つなれ
 四、我らが上に載くは 天皇陛下の大御稜戚(おおみいつ) うしろに負うは国民(くにたみ)の 意志に代われる重き任
 五、いざ此の時ぞ堂々と 父祖の歴史に鍛えたる 鉄より剛(かた)き「忠勇」の 日本男子を顕すは
 六、大地を蹴りて走り行く 顔に決死の微笑あり 他の戦友にのこせるも 軽く「さらば」と唯一語

 七、時なきままに点火して 抱き合いたる破壊筒 鉄条網に到り着き 我が身もろとも前に投ぐ
 十、 忠魂清き香を伝え 長く天下を励ましむ 壮烈無比の三勇士 光る名誉の三勇士

鉄幹は当選歌を発表後、(三)の「答えて『ハイ』と工兵の」の文句が「これでは上官が命令したことになり、事実と相違する」と軍から指摘され、修正したといわれる(静岡県立大学前坂俊之教授http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/maesaka/maesaka.html引用)。

爆弾三勇士など,当時の日本人の戦争観に大きく影響をされた,あるいは大きな影響を与えた文化人も多い。芸術など戦争の前には動員されるに過ぎない存在なのか,戦争など芸術に資金と活動の場を提供する存在に過ぎないのか。

歌人として有名な與謝野鉄幹は,1894年日清戦争を契機に朝鮮に渡る。招かれて漢城(現ソウル)の「乙未義塾」日本教員として赴任。詩歌草新運動を唱えて1894年「亡国の音」を発表、『二六新報』に国民士気鼓舞の詩歌をしきりに掲載。「韓山(からやま)に秋かぜ立つや太刀なでて われ思うこと無きにしもあらず」1895年10月8日に三浦梧楼ら日本官憲・右翼壮士とともに朝鮮王妃の閔妃暗殺に関与したとされる。朝鮮をロシア,清国の傀儡となるのを避ける日本に必要な国防上の措置と考えたようだ。護送されて帰国する。

時代閉塞感に苦しんだ石川啄木も門下生とされるが,1909年(明治42)年4月12日の啄木日記には「---予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。---予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。---」とある。

鉄幹の妻で,歌人としての評価が高い与謝野晶子は,『君死にたまふことなかれ』によって反戦歌人とされる。しかし,1932年『支那の近き将来』では「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」と,『日支国民の親和』では「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」と述べた。夫鉄幹が,第一次上海事変の「爆弾三勇士の歌」をつくったのは,同じ1932年である。芸術家,文人とは,その作品に宿る心情を本質としており,実生活の行動はもちろん戦争観には拘泥しなくてもいいのかもしれない。ドラマチックな戦争が,芸術家の才能をきらめかせ,プロパガンダが芸術家に活躍の場を提供することが多い。

与謝野鉄幹・晶子が,存命であったのであれば,特攻に赴いた若者をどのような意識で捉えたのか。文学作品として,短歌として名作を残すことができたのか。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致―三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

第五期国定教科書「アサヒ読本」初等科国語二の二十一に「三勇士」が記載されるようになり,次のよな美談が子供たちにも広められた。(津久井郡郷土資料館引用)
 敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。そこで班長は、まづ破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
 作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりとかかへ、鉄条網めがけて突進しました。-----すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人はぐっとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただ、その間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
 北川は、決死の勇気をふるって、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやうに、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
 三人の心は、持った破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
 もう死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」作江は答えました。「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」とさけびました。
「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。

重光葵(しげみつ まもる、1887-1957)1930年、駐華公使、1931年9月の満州事変には軍部の暴走が、日本の対英米国際協調を破綻させると危惧したが、1932年1月の第一次上海事変では、英米と強調して中国への停戦要求を貫徹した。しかし、天長節(天皇誕生日)4月29日、上海虹口公園で開催された天長節祝賀式典で、朝鮮独立活動家・尹奉吉の投げた爆弾で重傷を負い、片足を失った。満州事変に対する国際連盟の決議を不服として、日本が国際連盟を脱退することに関しては、英米のアジア植民地主義を引き合いに出して、国際的不公正を非難し、独自外交主張する。これは、英米追随が裏切られたと感じたナショナリストの転向といえるかもしれない。


神戸新聞 1933.2.13-1933.2.15(昭和8)
「小売制度は移る 立遅れた相撲 余りにも無計画 神戸商大教授 平井泰太郎」


一杯のコーヒを飮む時に、自宅で飮むのと喫茶店で飮むのと、美しいサロンで飮むのとは味が違う同じ鮪の刺身でも、器によって甘さが違う。酌人によって酒の味が違う様なものである。

 つまり、我々は一杯のコーヒを飮むのでも、コーヒだけを飮むのではない。壁紙の色も飮めば、間接照明の光線も飮む。運ぶ給仕人のキルク草履の塵も飮む。草履代を飮むと云う意味である。これをしもサービスとは言うのである。

 所がサーヴィスには経費が掛る入用な経費と提供するサーヴィスとを睨み合して商売をする。不要な時には電灯の一つも消して置く。細かい心使いが商売繁昌の秘訣である。

 お客だって算盤玉にのせて物を買う。いくらサーヴィスを提供して呉れるからと云って「なんぼ何でも、向うのカフェはボリ過ぎる」と云う様な声が出る。同じ柳の下に泥鰌は居ぬと云うが、同じ商売の遣り方が何時までも持ちこたえられるものではない。

 外国の翻訳や、人真似だけで商売が成立つ訳のものではない。最初の着想は、意味のあったことでも、事情が変れば、意味も変る。必要も変る。ましてや、この目眩しい変革の世の中には、昔乍らの商売の方法が成立つ訳がない。伝統と因習とだけを楽しむべく現代人は余りにも忙し過ぎる。暖簾と老舖だけで寄着くべく、余りに現代人はコスモポリタンであり過ぎる。

 物価が高くなれば、公設小売市場が要求せられる。商人がボリ過ぎると考えれば、消費者さえもが自ら消費組合を造る勇気を持ち合せて居る。近くで高ければ、遠く足を運ぶのに電車賃僅六銭で事が足りる世の中である。
 さればこそ、元町通りがボンヤリして居る間に、百貨店が二軒、三軒と建って行った。時代の波は激しく打ち寄せる。此処に無限に押寄せて来る理法を悟られなければならない。

 日本人は大和魂で戦争をする国民である。さればと云って大和魂だけでは戦争は出来ない。肉弾戦に入る前には、兵器と科学と深慮遠謀とが戦争をする。さればこそ参謀本部の人々は涙ぐましい迄に細心の注意を払って、人知れぬ研究に研究を重ねる。昭和の御代になっても爆弾三勇士が飛び出す所に大日本帝国の誇りがある。然し乍ら、廟行鎮の楼台高く、朝日を浴びて輝かし気に日章旗のひらめくことがなかったならば、三勇士の功績さえもが後世に称えられる事はなかったであろう。廟行鎮の勝利は、決して肉弾だけで出来たものではないのである。

 小売商問題解決の為めに、腹を切った『勇士』が神田ッ児の中にある。悲壮と云うよりも敬虔な気持に打たれる。昭和の宗吾の出現はよし。さり乍ら、日夜、研究に研究を重ね、適切な指導の任を果して居る小売商の参謀本部の無かったことが、大東京市たるものの為めに如何にも残念でならない。
 小売の制度は移る。昔乍らの小売の制度は、其儘の形に於ては、残存し得るわけがない。

 二十世紀は、組織と統制と秩序との時代だと称せられる。昔乍らの暖簾がものを言わないが如く、漫然たるあてすっぽうは現代の商業道ではない。  欲求ある所に始めて商品は動き購買力ある所にこそ始めて売買が成立つ。引力ある所に客は集り、必要ある所に始めて、これに照応する制度が出来上る。旧き小売の制度は、新しき?市生活の変遷と消費経済の欲求とに伴って変革を受けざるを得ない。

 百貨店の成功は、組織と統制との勝利である。
細密なる研究に基いて、其規模を定め、商品を吟味し、顧客の欲求に適う『時代の戦術』を工夫した所に、其成功の基がある。さればと言って、世の中の総ての小売が百貨店だけで事が足りるものではない。一百貨店に仮りに五万円の売上があり、十万のお客が集ったとしても、五十万の残りのお客は百貨店では現に買物をして居ない人である。何もかも一ヶ所で買物が出来ないからの事である。品物によっては、一ヶ所に集る事が不便でもあり、必要にも適わないからのことである。

 此虚を覘った新しき組織に、例えばチェーンストアがあるとする仮りにチェーンに属して五十個の店舖があり、各店に一千人宛の顧客が集るとしても、たかが五万人である。残りは、これ又、其他の小売商にバラ撒かれる訳である。バラ撒かれたお客は、夫々其必要に応じた買物をするので、千篇一律に鈴蘭灯の下に集るものとは限らない。御用聞きも未だ入用掛売りもまだ入用。物によっては月賦も入用、場合によっては配逹も入用、地方なら通信販売によると言う事もあろう。その品物と、其人物と、場合場合の考慮が必要となって来る所以である

 一騎打の勝負は徒らなる無駄である。漫然たる経費の支出が、必ずしも客の要求する適切なるサーヴィスを供給する所以でない、と言う事がわかれば、此間に一定の組織と統制と、科学的な調査研究に基く新しい工夫とが必要となることも亦、わかる筈である。

大阪毎日新聞 1934.3.16(昭和9)
「行動が示す日本精神の真義 加藤寛治大将」

私は尊厳なるこの神都に全国からお集りになった優良青年諸君に所感を述べる機会を得て欣快に堪えない、私の申上げる日本精神についてのことは歴史や哲学のごとき学究的なむつかしいことではない、もっとも簡単にいえば日本精神というものは国民のすべてに生れながらに存在しているものである、われわれの血と肉のうちに植附けられているものであって何ゆえという理屈なしにわれわれ日本人に自然に湧くもので、つまりわれわれの至誠の心とでもいおうか説明して人にわからせることは出来ない、ただ実践躬行のみによって現わされるものである、

かつて米国から帰った人が私の友人に近ごろ唱えられている日本精神ということが、どうもよくわからないといったそうだが私の友人はこれに答え、それは夜一人端坐瞑目して自分の心に聞いてみたまえといったそうである、その後その帰朝者は日本精神が何であるかをこれほど適切に教えてくれるものはないといったそうだ、

維新のころにも丁度今日のような状態があっていろんな問題がやかましく論ぜられ、私の生国の藩(福井)でも特に日本国是ということが論議されたがこれに対して維新のころ至誠奉公東奔西走していた橋本左内先生は藩のお国家老に「日本の国是は建国のはじめから厳然と存している、実行の方法と制度の改善を要するのみでただ人は忠、武士は武を尚ぶ、この二つがわが国是だ」との一書を寄せている、これをもって政治を行えば教育、財政など何事か振わざらんや、そして左内先生は「自分は憂国念君の病気に罹った」といっていた、この気持は西洋流の思想でわかるものではない、

爆弾三勇士や上海の陸戦隊で石油缶を背負いそれに火を点じて敵地に飛込んだ勇士なども言葉や文字ではわからぬ。日本人であればこそ湧いて来る思想である、

なおわが海軍はワシントン条約の不条理に対して非常な責任を感じ、この欠陥を補うため日本軍人であるからこそ出来るはじめて行える猛訓練をやって個々の能力をあげている、暗夜に全灯火を消して非常な速力で両軍が演習をやるのでそれを思えば事故のないのが不思議なおどである、この間の友鶴の椿事などもこれに原因する彼ら軍人は身を潔め演習にも臨む、そしてまた喜んで死地に進む観念は日本人だけである。

大阪時事新報 1932.7.15-1932.7.24(昭和7年)
「死せる三勇士米兵を走らす 航空母艦襲撃の夢物語 軍部の悲壮決意」


海軍のことでモー一つ云わして貰わねばならぬことがある、世間には往々にしてアメリカが持久戦を採った場合その無尽蔵の資源を云云して、恰も日本はこれに敵し兼ねるようなことをいうものがある呆れた者共じゃ、世界における関税戦を知らぬか、そして其の結果は当然同一民族の経済ブロック樹立となることを知らぬか、先ずイギリスを中心とした英帝国経済ブロック、フランスを中心とする中欧経済連盟、ロシアを中心とするソヴィエット連邦、それからアメリカ―モンロー主義のアメリカ経済ブロック―こうしたものが徐々と発生過程を辿りつつあることを知るものは、必ずや東亜における一大経済ブロックの樹立が自然的運命の下に今や正にその発展段階にあることを知るに苦しまぬであろう、またその樹立を促進させねばならぬこと、そしてわが日本がこの中心となるべきこと又ならねばならぬことを痛感するであろう、

然らば東亜否その前程の第一歩として日満経済統制が叫ばれていることを諸君は知っているであろう、然らばアメリカの資源は何だ、ソレが日米戦争に何程の決定的意義あるか、富士川の水禽の羽ばたきに驚いたのはアレは平氏の若殿原じゃ、昭和の武士はモット確りしているぞ

ソコで俺は打診の結論から前にいうが、米国怖るるに足らず、又曰く日本怖るべしさ(これは米国水兵の言草じゃ)上海事変が未だ納らぬ三月頃アメリカの大西洋艦隊が太平洋に出動して大演習か対日示威かをやるというので大艦隊が大西洋をアトにしてやって来たことは諸君も未だ忘れはしないだろう、

あの時のことさ、軍艦がハワイに寄港したものだ、土に憧れている水兵諸君は喜んで上陸したものさ、ところがイザ帰艦という間際に心境変化してそのままドロンを極め込んだものが全艦隊の四分一あったそうじゃ、俺は見たわけじゃないから確にそうとは断言出来ぬが、当時そういう噂は伝わったのじゃ、

ナゼ水兵がドロンしたか?日本怖るべしさ、詰り富士川の水禽に驚いた平氏の若殿原を真似たわけさ、世の譬えにもウドの大木というじゃないか、図体の大きいのが怖ろしけれア、奈良の大仏さまはおろか、浅草の仁王さまの前も通れんじゃないか。

 爆弾三勇士の歌は愉快じゃのう、今では六つ七つの子供まで歌ってるぞ、あの爆弾三勇士、死せる三勇士生ける米国の水兵を走らす―という愉快な話を知ってるかい、ナニ知らぬ、

 そうかアメリカの海軍の奴らが若し日米戦争が起った場合、三勇士が再び現れて、空中から爆弾を抱いて航空母艦の甲板に飛込んで来る、イカナ大母艦でも忽ち沈没、航空母艦が何十隻あったとてこれじゃ堪ったものでない、日本将校飛行機から爆弾抱いて母艦でも大巡洋艦でも我身諸共海の藻屑となる、上海の爆弾三勇士に脅えているアメリカ水兵更に一層驚いたものだ、

 どうじゃ日米軍人の士気の相違はお話にもならん程じゃ、而も日本海軍には沈黙の英雄東郷元帥あり、ニッポン怖るべし怖るべしと彼等はビクビクものであるのじゃ、而もわが東郷元帥は対米七割比率放棄のコンドン条約を以てわが国防力に欠陥を生ずと断じた人じゃ。

軍部の決心は悲壮なものじゃぞ、現役も在郷軍人も国策遂行に一大決心を抱いているのは同じじゃ、唯だその表現の仕方が違うのみじゃ、この場合陸軍の小磯次官を忘却しちゃならんぞ、アレはなかなかの利け者じゃ、何れは小磯時代というものが来る、永い眼で見ていたまえ。

報知新聞 1933.9.26-1933.10.1(昭和8)
「政治家に操られた世界経済会議 本社特派員 青木得三」


二十一日夜本社講堂で開かれた世界経済講演会において世界経済会議準備委員篠原陸朗氏は「国際経済と主要国の地位」について、また経済学博士高木友三郎氏は「世界経済の動向と来るべき日本経済」について講演せられ、最後に本社特派員青木得三氏よりロンドン経済会議の実質、裏面の真相等について詳細なる報告講演があったのでここに青木氏の講演速記全文を掲載します(中略)

高木先生(高木友三郎氏のこと)は自由貿易ということは現代においては全く既にすたれたる古き主義であって、今日左様なものは通用しない、それだのにそういうものを標榜して経済会議をやるのだから初めから失敗するにきまっている、失敗しないと思うのが余程どうかしているというお話しがありました、(中略)

私は僅か四ヶ月半の旅行であるけれども、この国際連盟の主宰しました世界経済会議を傍聴して国際連盟に入って居る国々が日本の満洲事件のために我国を経済封鎖するということは断じてないということを確信して帰りました、これは今高木博士がいわれた藤原博士の天気予報のようなもので当らないかも知れませんが、私はこのことはかたく信じます、

 世界各国は今自国の利益をはかるに日も足らない時日本を満洲事件でいじめてやれということはどうしても思えないのである言葉を換えていえば満洲事件についての日本に対する反感というものはもう世界各国においては段々と忘れられつつある、そして私は今是非諸君に御報告しなければならないことがある、それは海老名弾正さんの長男に当り、私と高等学校時代を共にして今カリフォルニアで日米朝日新聞の社長をしている人から頼まれたことであるが、こんど君が日本に帰って講演する時には是非こういうことを我同胞に伝えてほしい、

 それはアメリカの太平洋岸サンフランシスコやシアトルに居る日本人は、従来は移民々々といってアメリカの軽蔑を受けたものであるが、日本が今度国際連盟を脱して以来というものはそういう軽蔑するなどということが絶えてなくなった、今までジャップジャップといって侮ったものが、今は日本人に恐れをなして来たということである

これは海老名氏がそういうばかりではなく、私自身としても香港、シンガポール等を通って見ますにそういうことが大分感ぜられる、私が上海に寄って紅湾鎮の古戦場(先日の新しい戦場であるが―爆弾三勇士の跡へは時間の都合で行けませんでした)を弔った時でもそうであった、警官がいわれるには上海事件が起る前にはその近所は危くてしょうがなかったが、今日では日本人は恐れられて居って危害を受けることはありませんから安心して紅湾鎮に行っておいでなさいと、このことを特に私が諸君に申し上げる理由は各国と自国のことに汲々として何も日本をいじめようという意思はないという半面を諒解して貰いたいがために外ならないのである、

 日本と英国との経済競争の問題についても、日印通商破棄ということがあったけれどもこれは日本の頭が出ているから一つたたいてやれという風にいじめにかかっているのだと思っている人があるかも知れませんが、我々は左様に卑下する必要は少しもない、あらゆる情勢は日本人をいじめるというような場合ではないと思っている、日本の競争に遭ったマンチェスターやランカシアの業者が七顛八倒の苦しみをやり、もがきにもがいた揚句にやっているのであって、我々はいじめられているなどそんな小さな考えを持つ必要はない、

 私は日本人というものがこの世界の舞台に立って我は東洋の盟主なりという大なる抱負と覚悟を持つならば、経済上といわず日本は世界に優越した立場を獲得することが出来ると思うのである、

 昔平維盛は富士川対陣の時水鳥の羽音に驚いて逃げたということであるが、今日の日本民族はこの水鳥の音に驚いて周章狼狽する時ではない、日本は三千年という力強い歴史を持っているのであって、国際連盟を脱退したから世界各国が寄ってたかっていじめるというそんないじけた考えは捨ててあらゆるものにおいて世界に優勢なる地歩を占めすつあるのだという少くともそれ位な国民の襟度を持して着々と開拓して行かねばならぬということを私は実に痛感して居る次第であります

写真(右):田川水泡『のらくろ二等兵』;1962年11月の普通社の名作リバイバル14。(定価100円が古書で1260円)。「のらくろ」作者田河水泡(本名:高見澤仲太郎)は,明治32年(1899)2月10日、東京市本所区林町に生まれ,1989年12月12日没、享年90歳 。

『少年倶楽部』昭和7年5月号(1932年)田川水泡の漫画「のらくろ」では,次のような「爆弾三勇士」の場面がある。(津久井郡郷土資料館引用)
ブル連隊長「あの鉄条網はどうしても爆弾で爆破せねば攻めとることは難しいな」
決死隊「連隊長殿 自分達三人で決死隊になります」,
ブル連隊長「爆弾を投げに行ってくれるか えらいぞ」
決死隊「御国のためだ 命はいらない」
爆発音
ブル連隊長「それッ このひまに突ッ込めェ」,
兵隊「突ッ込めェ」,
モール中隊長「あの三人を犬死にさせるなァ」
のらくろ「一番乗り のらくろ一等兵 ここにあり」
戦死した猛犬連隊の3匹の勇士は金鵄勲章の栄誉を受ける。
似通っている別の単行本版の「のらくろ」爆弾四勇士もある。
 ここでも「連隊長殿,自分たち四人で決死隊になります」「猛犬連隊の名誉のためだ」「命を捨てに行くのだ。勇ましく敵陣に肉迫しろ。」と,特攻自然発生説が採用されている。

1931年から講談社『少年倶楽部』に連載された田川水泡「のらくろ」は,戦争賛美とも捉えられるが,戦争漫画は、太平洋戦争が始まった当初から次々に休刊している。「のらくろ」の連載も,昭和6年1月号から昭和16年(1941年)10月号までで,日米開戦(1941年12月)直前に執筆中止となった。決戦時期に漫画で娯楽とは不謹慎であり,用紙統制令に応じて,発行部数の多い漫画をやめ資源節約と文学報国翼賛に協力するためであろう。「戦争漫画は戦中に戦意を高揚させるためにあったのではなく、今と変わらない虚構の物語を楽しむために存在した」ともいわれる。「のらくろ」のような「出自不詳の孤児の黒いノラ犬」が,大日本帝国の将兵と対比されるのでは,娯楽というより悪ふざけが過ぎる,と軍は考えたのか。

海軍陸戦隊は,太平洋戦争では戦域が広がるにつれて,増員された。島嶼や局地防衛の必要から根拠地隊、特別根拠地隊、警備隊、防衛隊などの名称で次々と編成された。

 開戦当初7個編成だった陸戦隊が終戦時には250以上にもなった。また、空挺隊(パラシュート部隊も編成され,1942年1月にセレベス島メナドで太平洋戦争最初の空挺降下作戦を実施した。戦車隊も編成、特式内火艇の名称で、37mm砲装備の水陸両用戦車を配備した部隊もあった。

当初は例外的だった海軍陸戦隊であるが、1945年のアジア太平洋戦争末期には、大型艦船は撃沈されたり,燃料不足で動けなくなり,航空機の量産も滞ってしまったために、陸戦隊が急増した。ただし、そこに配備された兵器は、貧弱だった。

<陸戦隊新兵舎での葬儀>
1932年の第一次上海事変後の葬儀。1931年3月18日 上海事変中の海軍戦病没将士慰霊祭が開催された。四階建ての陸戦隊新兵舎中庭に,横40名×縦25名が整列しているので約1000名の陸戦隊の兵士が集合していることになる。上海特別陸戦隊は、1800名程度だったらしいから、非番のものがほぼ勢揃いしたことになる。

位牌を置き祭壇を整えている。建物の中庭に面した窓は、すべて開け放たれているが、まずめったに雪も降らない場所であるから,寒くはないのであろう。屋上には、階段の出入り口が、左右に二ヶ所あるのは、屋上での作業に集合しやすくするためか。別の陸戦隊新兵舎らしい写真では、屋上には、神社の鳥居と、対空連装機銃が備えられている。

3月20日 上海事変後,第一次内地帰還部隊が上海を出発。23日 侍従武官實視終了し,上海出発。

1945年の話であるが、雷撃機の訓練中に衝突して死亡した6名の搭乗員の。海軍葬の次第が次のように述べられている。

「訓練中の殉職では、昇任や叙位叙勲などない。父親が、『なんとか戦死にしてください、殉職では遺骨を持って故郷には帰れません……』と、涙ながらに訴えた。

当時の世相としては、戦死は軍人の最高の名誉であるが、事故による殉職は身の不始末と考えられ、恥辱とされた時代である」

 「海軍葬は厳粛にしかも簡素に実施された。格納庫の中に黒白の幕を張り巡らし、その奥に祭壇が設けられた。そして、遺骨が安置され遺影が飾られた。関係者の整列が終わるとご遺族が入場され最前列に着席された。そして、司令をはじめ飛行隊長及び分隊長が次々に弔辞を述べた。卒業を目前にしての別離に、同期生一同ただただ頭を垂れるのみであった。

   次に、礼式曲『水漬く屍』が吹奏され、整列した衛兵が弔銃を発射した。空包だが格納庫の内部に反響し轟音となって響き渡った。

 終わって士官バスに遺骨を抱いたご遺族が乗車された。格納庫から隊門までの道路に総員が整列して見送る中、礼式整列した衛兵の『捧げ銃』の礼を受け、ラッパ『葬送行進曲』の調べに送られて寂しく離隊された。初めて体験する事故処理や厳粛なる海軍葬に、改めて飛行機搭乗員としての身の処し方に自覚を求められた思いであった。」(⇒蒼空の果てに「人間爆弾」引用)。

1931年3月18日 上海事変中の海軍戦病没将士慰霊祭。その位牌には,故海軍一等機関兵曹 黒波正 外 三十八名」「故海軍機関三等兵曹中村」「安井」のが見える。第一次上海事変戦没者慰霊祭の婦人も参加し,1931年3月18日? 57名くらいの着物を着た婦人が揃っている。黒羽織を身につけている人といない人がいる。「故海軍一等機関兵曹 黒波正 外 三十八名」なので、遺族と近親者の婦人が焼香している場面と思われる。

焼香台があるようだが、10名以上の僧も出席しており、神式ではなく、仏式の葬儀のようだ。上海の日本人街には、本願寺などお寺もいくつかあったのだから。

前方には、男性の遺族が着席している。婦人の後方には、白の制服をきた水兵が勢ぞろいしている。写真後方には、花輪が12本並んでいる。

戦死者38名というのは、第一次上海事変での「上海特別陸戦隊」の死者総計なのであろうか。場所は,海軍陸戦隊新兵舎の中庭と思われる。

第一次上海事変戦没者慰霊祭は仏葬か。最前列には葬儀を取り仕切る仏教僧が15名写っている。

第一次上海事変のように戦死者が少ないうちは、立派に戦った英雄として、個人名を列記しての葬儀,慰霊祭が行われた。

日中戦争が激しくなるころには、防諜、スパイ対策もあって、派手な出陣式、送迎、葬儀などの儀式を行わなくなる。

太平洋戦争の時期になると、緒戦からアッツ島守備隊玉砕まではともかく、サイパン島陥落、ペリリュウー陥落、レイテ決戦敗北、フィリピン失陥、沖縄陥落と、多数の日本軍将兵、民間人が戦死しても、それを弔う儀式は、簡略化された。

日本海軍の下士官以下の階級は、次のとおり。 
仕官:少尉;奏任官六等 :海軍少尉候補生
准尉:海軍兵曹長;判任官一等
下士官:海軍上等兵曹;判任官二等官
下士官:海軍一等兵曹 、海軍二等兵曹;判任官三〜四等
兵:海軍兵長、海軍上等兵、海軍一等兵、海軍二等兵。

写真撮影に残された上海特別陸戦隊の新兵舎中庭での葬儀は、「故海軍一等機関兵曹 黒波正 外 三十八名」なので、下士官以下を大将としたものだが、堂々とした立派の儀式である。

奏任官の将校でないからといって、葬儀を軽く扱うのではなく、忠君愛国のために命を捧げた英雄として処遇している。

1932年の第一次上海事変戦没者慰霊碑も作られた。1931年3月18日 海軍戦病没将士慰霊祭。葬儀後の建設になるであろうが,石造りの立派な石碑なので,葬儀よりもかなり後になって作ったものと思われる。

第一次上海事変の日本軍将兵たちは、戦死すれば丁重な葬儀を執り行われ,遺族にも敬意と軍人恩給の支給があった。一人一人の生命が、それなりに尊重されていた時期と考えられる。銃後の国民の戦意高揚を図るためにも、犠牲的精神を発揮して戦死した勇敢な将兵に対しては、軍も政府も当時としては最大級の敬意を払ったとも考えられる。

しかし、そのような表面的な敬意で、戦病死者遺族や傷痍軍人が、十分に慰められたかどうかは、疑問である。

兵器である装甲車,榴弾砲などを接近して撮影し,慰霊際にも上から見下ろすような位置で撮影していることから,海軍陸戦隊から撮影場所や被写体許可について便宜を図ってもらった人物であろう。

特定個人に着目した記念写真ではなく,陸戦隊の記念・報道として撮影したような行事・事件の写真が多い。とすれば,陸戦隊の身近にいた家族の方というよりも,海軍陸戦隊から写真撮影の委託処理を受けた写真家ではないかと推測できる。

<海軍陸戦隊の内地帰還>
陸戦隊新兵舎の外観:正門に海軍旗(?)と国旗が掲揚され,見送りの水兵も白の制服を着ている。
海軍旗のように見えるが、旭日の筋の本数が8本で、上下に筋がない「大将旗」かもしれない。あるいは、写真の見栄えがいいよう旭日の光線を写真に書き加えた修正なのか。白川義則大将は陸軍だが、上海派遣軍司令官に敬意を表して大将旗を掲げたのか。

トラックに乗って,バンドの輸送船に向かうのか。遺骨の内地帰還の時と思われる。

「陸戦隊新兵舎」を出動するトラックに乗車する白服の陸戦隊員であるが,見送りの整列の中,事前に撮影しやすい場所で待ち構えて撮影している。内地帰還のときの記念撮影であれば,撮影時期は1932年3月下旬か。

このような繁華街の真中に大きなビル型の兵舎を建設し、1000名以上陸戦隊を置いているが、ここはあくまで中国の共同租界である。日本と同規模の兵力を駐屯させていた英国軍は、兵士の多くはインドのシーク兵・グルカ兵でり、フランス租界のフランス軍もベトナム人兵士が多い。米国軍は日本の兵力の半分程度である。

海軍陸戦隊戦死者を見送る。水兵が整列している。中国人の見送りはないようだ。中国人を入場させなかったのか,中国人にとっては見送るべきものではないからか。平和や正義のために派兵した外国軍は,どのように現地に受け入れられるのか考えさせられる。

したがって、距離的に補給や派兵が容易な日本は、日本本土からの航空援護が可能なことも相俟って、中国では、列国随一の兵力を誇っていた。

中国最強の日本軍が、中国の経済的中心である上海を戦渦に巻き込んだのが、第一次上海事変であり,列国の経済界は、日本の中国侵攻、経済的混乱の招来を強く非難した。また、欧米の宣教師も日本軍の残虐行為を糾弾した。

 3月20日 上海事変後,第一次内地帰還部隊が上海を出発。23日 侍従武官實視終了し,上海出発。

1932年3月下旬,海軍陸戦隊戦死者を移送する輸送船あるいは海軍所属の補助輸送艦。水兵が各々一つの遺骨入った白木の箱を抱いている。写真に撮影時期などは明記されていないが,慰霊祭の後に本土に無言の帰還をするときの記念撮影と思われる。

4月1日 租界内の交通制限が解除され,中国人商店が一斉に開店。

4月11日 第二次内地帰還部隊が上海出発。23日 第三次内地帰還部隊が上海を出発。

このころの外交文書を見ると、上海事変で米英など列国の保有する不動産・資本・資産を損傷させ、その賠償が話題になっている。

日本では、物的損害を復旧するのに、多額の復興資金・賠償支払いを行ったようだ。しかし、人間の経済的価値(概ね賃金で計測できる)の低い日本では、死傷した兵士や民間人への補償は、軍人恩給を含めても、特に兵・下士官の場合は僅かであったろう。そのかわりに、立派な慰霊祭、葬儀を営んだのではないかと、疑いたくなる。

陸戦隊を輸送する補助輸送艦は,3月20日 上海事変後,第一次内地帰還部隊が上海を出発。23日 侍従武官實視終了し,上海出発。

1932年6月4日,大阪朝日新聞の号外は、聖旨伝達に「りばぷうる丸」を訪れた阿南惟幾侍従武官と第九師団植田師団長が対面する写真を掲載し,翌5日の同紙夕刊は大阪埠頭に入港する「りばぷうる丸」と歓迎飛行をする大坂朝日新聞社機の写真を掲載しす。

大阪港第三突堤には、仮設の凱旋門が建設され「どよめく歓呼,萬歳々々の爆発,人,人,旗,旗,人,人,旗,旗――」「沸湯をぶちまけたやうに狂喜の大渦巻」と形容された。斉藤大阪府知事,関大阪市長、大阪朝日新聞社岡野取締役もで迎えに出た。

「戦ひ勝ちて帰るものの心」という見出しがある。

日本海軍の補助艦あるいは民間徴用船で,陸戦隊が帰国する。第一上海事変で死亡した海軍兵士38名も慰霊祭を陸戦隊新兵舎で行った後に、遺骨になって,この輸送船で故国日本に帰国したようだ。

1.植田師団長が率いた金沢第九師団が、1932年1月の第一次上海事変に出動して支那軍と激戦を交えたが、この時、廟行鎮の攻撃の際に,「肉弾三勇士」「爆弾三勇士」の伝説が生れた。

2.停戦交渉が進行中の4月29日,上海で天長節祝賀会で爆弾事件が発生し、上海派遣軍司令官白川義則陸軍大将が死亡,重光葵公使は片足を失い、植田司令官も負傷した。将軍を失い、傷つけられた師団が内地帰還、凱旋するという悲壮な物語に、日本国民は感激した。

このような理由から、内地の人々は、第九師団の内地帰還、大阪凱旋を大挙して向かえた。)

新聞報道は、「沸湯をぶちまけたやうに狂喜の大渦巻」と形容し、大阪府知事,大阪市長、大阪朝日新聞社取締役など民間人も英雄と英霊を出迎えたが、過熱気味であった。

「戦ひ勝ちて帰るもののふ」と報じられたように、上海で中国軍を撤退させたという戦術的成功が、戦勝というより過大評価に転化した。米英列国の調停圧力、国際連盟の決議重視といった国際世論の圧力に日本が屈したという側面を完全に忘却させるものであった。

少数精鋭の日本軍が、優勢な中国軍を敗退させたという過大な評価が、今後の日本の中国に対するより強行的な態度を推し進めることになる。

このような戦勝気分の高まりの中で,最高峰の褒章が、上海派遣軍が大元帥昭和天皇による勅語を賜ったことである。

ある日対潜哨戒に出た飛行機が予定時刻を過ぎても帰還しない。数日経っても何の手掛 かりもなかった。---エンジンの故障による不時着と認定された。百里原航空隊の衝突事故と違い、遺体のない「海軍葬」である。洋上では墜落場所も確認できないのである。

 仮に現場が推定できたとしても、 当時は遺体の捜索や収容などは積極的ではなかった。搭乗員の戦死の空しさを実感として味わった。デッキでは、遺品の整理も終わり、海軍式のお通夜が行われた。遺影を飾ってその前に毛布を敷き、 車座になって酒盛りを始めたのには驚いた。

 またある日、八丈島派遣隊へ要務飛行で飛ぶ準備をしている飛行機があった。見ている と六番(六十キロ爆弾)を搭載している。人員輸送が目的なのだから爆弾を積まない方が 身軽なのにと思った。

ところが、これには別の魂胆があった。空身(からみ)で飛行して不時着などで死亡すれば殉職である。しかし、爆弾を搭載して飛行目的を「対潜哨戒」にしておけば、事故によって死亡しても戦死として処置できるからである。

 これ以外にも、夜間飛行での墜落事故による殉職などで「海軍葬」は再三実施された。新入りのわれわれは、海軍葬の準備や遺品の整理それにお通夜など、雑用に追い回される日々が多くなった。そして、死に対する感覚が次第に麻痺してしまったのである(⇒蒼空の果てに「戦死と殉職」引用終わり)。

写真(右):1930年代の上海バンドのキャセイホテル(サッスーンハウス:Sassoon House);1階から3階はオフィス。サッスーンが4階。キャセイホテルは、5階から7階。8階はバー。9階はナイトクラブ。最上部の三角屋根は、レストラン。

陸戦隊の運動会でのパン食い競争の写真がある。運動会が行われた可能性があるのは,「虹口新公園」である。1896年、工部局が租界境界外の北四川路の土地を買収し、子場(射撃場)を建てた。1905五年、工部局は更に土地を買い広げ、英国のグラスゴー体育公園をモデルに虹口娯楽場(Hongkew Recreation Ground)建設に着工、1909年に竣工した。

虹口娯楽場には、陸上競技用グラウンド、ゴルフ場とテニスコート十面、グラスボーリング場五ヶ所、サッカーグラウンド三ヶ所に、バスケットボールコート、野球用グラウンド、グラスホッケー場などがあった。

各球技は利用可能期間が定められており、毎年3月1日から10月15日まではテニス、バスケットボール、野球のグラウンドとして使用可能に、10月15日から3月15日はサッカー、ホッケーが楽しめた。1921年、工部局はこのこの虹口娯楽場を虹口公園と改名した(⇒上海ウォーカー「公園」引用)。

「虹口新公園」にあるスポーツ施設の周辺にはヨーロッパ産の樹木や草花が植えられ、四季折々の自然を楽しむことができるようになっている。

当時、上海には公立の大型スポーツ施設がなかったこともあり、第2回遠東運動会(1915年5月15日〜22日)、第5回遠東運動会(1921年5月30日〜6月4日)が虹口公園を借りて催されている。

虹口公園は完成間もなくは、上海居留の西洋人のために開放されており、まだ数少なかった居留邦人たちは大規模なイベントを催すこと典などは全て日本領事館内で開いていた。

1908年に落成した日本式庭園の「六三花園」は、居留邦人たちの娯楽場として使われた。1911年、虹口公園が「整った洋服を着た華人の入園を許可する」と規定したため、居留邦人もまた西洋式の庭園を活用できるようになった。

1928年7月、虹口公園が正式に中国人にも開放されると、居留邦人の大型式典も同公園で開催されるようになった。1928年11月10日、京都の紫宸殿で即位礼と大嘗祭(天皇の即位後初の新嘗祭)が行われた。同日、上海居留邦人たちも虹口公園に集まり、祝賀式典を実施。この式典が日本人が虹口公園で行った初の大規模なものだった。

式典は午前と午後の2部構成。午前9時、日本総領事館の遥拝式が行われた後、80歳以上の老人による天杯授与式、居留民団に所属する各学校の拝賀式、マラソンや相撲の競技が行われた。

午後になると礼砲の後に、隊列儀式や演劇、奇術などのステージがあり、即位を祝して公園内の草地でダンスをした。上海居留民団行政委員長の河端貞次(のちに1932年天長節爆弾テロで死亡)は日本の宮内大臣に向け、即位を祝う電報も打っている(⇒上海ウォーカー「公園」引用)。

<バンド>
上海のバンド沖には,米国アジア艦隊巡洋艦 Augusta (CL-31→CA-31)が停泊していた。1928年6月2日に Newport News Shipbuilding and Dry Dock Co.で起工され,1930年2月l日に,Miss Evelyn McDaniel of Augustaの手で進水した。

そして,Norfolk Navy Yardで1931年1月30日に竣工した。1931年に軽巡洋艦から重巡洋艦に変更された。

1932年初頭からキューバのグアンタナモ湾Guantanamo Bayにあったが,パナマ運河を通過して,太平洋岸カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外のSan Pedroに移った。

米海軍のアジア艦隊旗艦として活躍し,陸戦を行う海兵隊も乗船している。
1941年のルーズベルト大統領とチャーチル首相のニューファウンドランド島沖の会談では、大西洋憲章を打ち出し、ファシズム,軍国主義に対抗することを宣言したが、この時の大統領が乗艦したのが巡洋艦「オーガスタ」である。チャーチル首相の乗艦したのは、新鋭戦艦「プインス・オブ・ウェールズ」である。


写真(左):重巡洋艦「オーガスタ」:ハワイで1933年に撮影。

In a gesture that presaged Roosevelt's retention of the Fleet at Pearl Harbor in 1940 after Fleet Problem XXI, the Hoover Administration kept the Fleet concentrated on the west coast throughout 1932 in the forlorn hope that it might restrain Japanese aggression in China.

In fact, Scouting Force was still on the west coast almost a year later when the time came for Fleet Problem XIV in February 1933, and the Roosevelt Administration, which took office in March, proceeded to keep it there indefinitely.

Consequently, Augusta continued to operate in the eastern Pacific until relieved of duty as Sco uting Force's flagship late in October 1933. The heavy cruiser sailed for China on 20 October.

Steaming via the "Great Circle" route (the Northern Pacific) from Seattle to Shanghai, Augusta moored in the Whangpoo River, at Shanghai, on the morning of 9 November 1933. That afternoon, Admiral Frank B. Upham, Commander in Chief, Asiatic Flee t (CinCAF), broke his flag on board the newly arrived heavy cruiser, and his old flagship, Houston (CA-30), sailed for the United States, trailing a long homeward-bound pennant in her wake.

Soon after she broke Admiral Upham's flag and Houston sailed for home, Augusta proceeded south from Shanghai in December 1933, and, over the next few months, operated in the Philippines interspersing training with her yearly overhaul at C avite and Olongapo.


写真(左):重巡洋艦「オーガスタ」。

That spring, Augusta returned to China waters, "showing the flag", and then steamed to Yokohama, Japan, arriving there on 4 June. At 0730 the following morning, Admiral Upham left the ship to attend the state funeral ceremonies for the late Flee t Admiral Heihachiro Togo, Augusta commenced firing 19 one-minute guns in honor of the Japanese naval hero at 0830.

Departing Yokohama with Admiral Upham embarked on 11 June, the heavy cruiser then visited Kobe (12 to 15 June) before she proceeded to Tsingtao, arriving there on 17 June.

写真(右):重巡洋艦「オーガスタ」:排水量:9,050トン 全長:182m 全幅:20m 最大速:32.7 ノット 乗員:735名 兵装:8インチ砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門、7.62mm機銃8丁、21インチ魚雷発射管6門。1928年7月2日にバージニア州のニューポート・ニューズ造船所で起工、ノーフォーク海軍工廠で竣工、1931年1月30日就役。

重巡洋艦「オーガスタ(USS Augusta, CL/CA-31)

Augusta remained in Chinese waters until 5 October 1934, when the heavy cruiser departed Shanghai for Guam, arriving there on the 10th. Sailing the next day, she proceeded to Australian waters for the first time, reaching Sydney on the 20th. She remained there a week, while Admiral Upham visited the capital of Australia, Canberra, on 25 and 26 October.

With CinCAF back on board on the 26th, Augusta cleared Sydney the following day for Melbourne, arriving there on 29 October. She remained in that port, observing the centenary ceremonies for that Australian port city, until 13 November, when she sailed for Fremantle and Perth. Winding up her visit to Australia on 20 November, the heavy cruiser sailed for the Dutch East Indies.

写真(右):1928年中国威海衛の英国巡洋艦「ケント」:HMS Kent photographed at Wei Hai Wei in 1928. County Class Heavy Cruisers:Kent Class「ケント」はChatham Dockyardで1924年11月15日起工,1926年3月16日浸水,1928年6月25日竣工。基準排水量: 9,750 tons 満載排水量; 13,450 tons,Dimensions: 590 pp, 630 oa x 68.25 x 16.25 feet。 エンジン出力80,000馬力 = 31.5 knots。航続距離: 3,100 マイル/ 31.5 knots, 13,300 miles/ 12 knots; 重油搭載量 3,400 tons,乗員: 700名。兵装: 連装4基 8-inch砲 / 50口径 Mk 8; 単装4門× 4-inch / 45QF Mk 5 HA (後に 4基× 連装4-inch / 45 QF Mk 16 HA); 2 quad 2 pdr; 2 quad 0.5-inch MG (added 1936-1939); 2 quad 21-inch TT (later removed from all but Kent); 艦載機水上機 1機 (1930年以降,後に 3機)。装甲: 1 to 4 inch 弾薬庫; 1.375 inch 甲板; 1 inch 砲塔基部 (4.5 inch narrow belt and 4 inch internal boiler room sides added 1936-1940)。


写真(上):重巡洋艦「ケント」重巡洋艦「ケント」は基準排水量 9,750トン、 満載排水量 13,450トン、全長630 ft (192 m)、全幅68.25 ft (20.8 m)、吃水16.25 ft (4.9 m)、ギアード・タービン4軸 8万馬力、最大速 31.5ノット、乗員700名。

日本人居留民の生命財産を守るという名目で日本海軍の「妙高」型重巡洋艦も上海外灘に派遣されたことがある。

満州事変関係年表(昭和7年1月) 
1932年1月2日 「北上」艦長および砲術長、福州城内で傷害
3日 福州事件(日本人小学校教員夫妻射殺)、第二十師団、錦州占領
7日 張景恵、黒龍江省長就任、独立を宣言。呉鉄城、上海市長に就任
スチムソン米国務長官、満州の新事態に関する不承認政策
8日 転送暗殺未遂の桜田門事件
9日 民国日報「不敬事件」上海で発生
14日 外務大臣芳沢謙吉任命。国際連盟、リットンらの調査委員会委員任命を承認
18日 上海で日蓮宗僧侶に対する暴行事件
19日 上海で三友実業社事件
20日 上海で第四回居留民大会解散後、日本居留民と租界巡捕と衝突
21日 村井上海領事、日蓮宗僧侶事件に関し中国側に要求提出
27日 村井上海領事、日蓮宗僧侶事件に関し中国側に最後通牒
  米政府、上海問題につき日本政府に警告
28日 午後三時、中国側は村井上海領事の日蓮宗僧侶事件に関する要求を受諾
  上海事件(夜半、閘北で日本海軍陸戦隊と十九路軍が衝突)
29日 日本海軍機、閘北方面を爆撃。英米総領事の斡旋により日中両軍間に戦闘中止の協定成立
 第十九路軍「国土保衛」宣言、外交部「自衛宣言」
30日 日中両軍、上海で戦闘再開。国民政府、一時洛陽に移転を宣言
  国際連盟理事会、上海事変に規約第15条適用を決定 31日 吉林の抗日ゲリラ李社らが「抗日宣言」。英米上海総領事ら日中両軍の停戦を斡旋

満州事変関係年表(昭和7年2月)
  1932年2月1日 第三艦隊編成、野村大将が司令長官に任命 第三艦隊編成、野村大将が司令長官任命。
   閣議、混成第24旅団と第九師団の上海派遣を決定。伏見宮軍令部総長に就任
   日本海軍陸戦隊、閘北攻撃
   米英仏三国、日中両国に調停案提示。国際連盟理事会、上海事変のため緊急招集
3日 第二師団、ハルビンを攻撃開始(5日ハルビン占領)
4日 日本は、米英仏三国の日中両国への調停案に対して軍事行動の自由を留保と回答
国民政府、米英仏三国の日中両国への調停案を接受
宋子文、中央銀行総裁に復職
5日 混成第24旅団と第九師団の上海派遣に関し、奉勅命令伝宣
7日 下元旅団(混成第24旅団)、呉淞付近に上陸
9日 前蔵相・井上準之助、血盟団によって暗殺。
  野村第三艦隊司令長官、ケリー英艦隊司令長官と会見
16日 第九師団、呉淞付近に上陸完了
  国際連盟理事会、日本に上海における戦闘行動停止を警告
18日 ランプソン駐華公使の斡旋で日中両軍代表が会見。第九師団長、第十九路軍に最後通牒手交、第十九路軍は拒否
20日 第十九路軍通電「鉄血を以って日本の通牒に答える」 。外交部宣言「東北独立および一切の偽行政組織の否認」
23日 閣議、二個師団以内の兵力の上海増派を決定
参謀本部、上海派遣軍司令部、第十一・第十四師団基幹の上海増派に奉勅命令伝宣
28日 英艦ケント艦上で、日中両軍代表会見、停戦を論議
29日 リットン調査団来京。

満州事変関係年表(昭和7年3月)
  1日 第十一師団先遣兵団、七了口上陸、攻撃開始。満州国建国宣言書発表
2日 第十九路軍総退却
3日 上海派遣軍白川司令官、各兵団に停戦を命令。日華紛争審議のため招集の臨時国際連盟総会が開催
4日 国際連盟総会、日中両国に停戦商議の開始を要請
6日 団琢磨、血盟団に暗殺。中央政治会議、蒋介石を軍事委員会委員長に任命
9日 溥儀、満州国執政に就任
11日 国民政府、「東北偽組織否認」を宣言。国際連盟臨時総会、日華紛争に関する決議案採択
18日 蒋介石、参謀総長を兼任
19日 日中両国間に上海停戦に関する基本協定が成立。

24日 上海における停戦本会議が開始
満州事変関係年表(昭和7年4月) 11日 中国側、上海停戦問題を国際連盟に提訴し、上海停戦本会議延期を申し出る
19日 国民政府、何応欽を掃匪総司令に任命。19ヶ国委員会、上海停戦に関し決議、日本側はこれに不満
20日 リットン調査団が満州に入る
22日 第十・第十四師団による反吉林軍掃蕩作戦開始
26日 三井・三菱と満州国間に2000万円融資契約。中国共産党の瑞金政府、対日宣戦を通電
29日 上海天長節祝賀会爆弾事件、白川大将・野村大将・重光公使が受難
30日 陸軍中央部、第十四師団を上海から北満に転用することを決定。国際連盟総会、日華停戦決議案可決(日本代表棄権)。

満州事変関係年表(昭和7年4月) 
  5日 上海で停戦協定成立
15日 5.15事件・犬養内閣瓦解
21日 蒋介石、豫鄂皖掃匪総司令兼任 (河南省/鄂=湖北省/皖=安徽省)
23日 国民党軍事委員会、十九路軍に福建の共産軍討伐を命令
26日 斉藤内閣成立・外相は斎藤首相が兼任・荒木陸相は留任
31日 上海派遣日本軍、駐屯海軍部隊を残して引揚完了

<1932年4月29日天長節上海爆弾事件>
天長節(昭和天皇誕生日4月29日)の式典が現在の魯迅公園で開催されたが、朝鮮独立過激派による爆弾事件が起こる。
1932年4月29日、虹口公園で天長節の閲兵祝賀式典が行われた。これには、日本人居留民数万が出席し、園内に紅白布をはり、階段と台に緋色の絨毯を敷いた。そして、高さ2メートル、縦4メートル、幅12メートルの閲兵台が設けられた。

壇上には上海派遣軍司令官白川義則軍大将、日本駐中国公使重光葵大将、第九師団長植田兼吉陸軍中将、第3艦隊司令野村吉三郎海軍中将、日本駐上海総領事村井倉松、日本居留民団団長河端貞次、居留民団書記長友野盛の7人が揃った。

閲兵式は午前9時半に開始、11時半に終了。引続き日本人居留民による共同祝賀式典が始まり、海軍軍楽隊の伴奏で参加者たちが国歌斉唱したが、この時、尹奉吉が壇上に向かって爆弾を投げつけた。


写真(左):天長節爆弾事件の犯人尹奉吉(ユン・ボンギル)[右の人物]:大韓民国の国旗「テークッキ」を掲げての記念写真。
Yun Pong-Gil throws a bomb at a Japanese ceremony in Hingkew Park killing several Japanese officials and wounding scores of others, including the top military man in China, Gen. Shirakawa (who is to sign the surrender doc ument in 1945, with one leg crippled by Yun's bomb) - Chinese boycott of Japanese goods leads to the Battle of Shanghai; Japanese aircraft carriers go into action for the first time in the world's history. The League of Nations condemns Japanese aggression in Manchuria.

尹奉吉は、水筒と弁当箱に爆弾を仕掛けたものを身につけ、祝賀会場にいた。祝賀会の途中、尹奉吉は水筒型の爆弾を壇上に投げた。爆弾は爆発し、白川大将は重態(その後5月に死亡)、河端居留民団長は重態で翌日死亡、重光公使は片足を失うなど重傷、野村海軍中尉は右目失明、村井総領事・植田謙吉中尉は負傷をした。

犯人は抗日組織、韓人愛国党党員尹奉吉(ユル・ポンギル)である。尹奉吉(ユン・ボンギル)は、19088年6月21日、韓国 忠清南道禮山郡徳山面生まれ。徳山普通学校に在学中の1919年に起きた三・一独立運動を契機に、学校を退学し書塾で漢文を学んだ。


写真(右):天長節爆弾事件の爆弾爆発直後の様子

 1922年、?用順と結婚。1928年から農村啓蒙運動に力を注いだため、日本の弾圧を受け1930年、妻子を残して満州に亡命し、さらに上海に向かった。当時、上海にいた金九は、大韓民国臨時政府を形成を目指し、1931年、韓人愛国団を組織した。尹奉吉は、韓人愛国団に加わった。

金九は大韓民国臨時政府の活動が、日本の弾圧により困難になっている状況を打開するため、天皇や日本の政府・軍部の要人を暗殺することを企てた。その第一弾が1932年1月8日、李奉昌が桜田門外で昭和天皇を狙った爆弾暗殺未遂事件「桜田門事件」であり、第二弾が尹奉吉による「上海虹口公園爆弾事件」である。

映像【上海 天長節祝賀会場爆弾事件】を見る:1932年4月29日、上海の天長節祝賀式場に朝鮮独立党員・尹奉吉が爆弾を投げ、参列していた白川軍司令官らを死亡させた他、野村艦隊長、駐華公使・重光葵ら日本人幹部の殆どに重傷を負わせその場で逮捕された。この映像は雛壇の白川、野村、重光、混乱する会場の状況。

尹奉吉は、その場で逮捕され5月25日上海派遣軍軍法会議で死刑判決を受け、11月18日 大阪へ移監された。その後、12月18日陸軍第9師団の駐屯地である石川県金沢市へ連行され、練兵場のある三小牛山で12月19日銃殺刑に処され、隣山である野田山の陸軍墓地通路に埋葬された。

野田山に埋葬されていた遺体は、1946年3 月発掘され本国に帰還した。1992年12月尹義士が埋葬されていた場所が、「尹奉吉義士暗葬の跡」として保存 第三艦隊編成、野村大将が司令長官に任命された。


写真(左):爆弾事件の現行犯尹奉吉(ユン・ボンギル)の逮捕

朝鮮人独立運動(テロ活動)家の尹奉吉〈ユン・ボンギル〉が投げた爆弾を受けて負傷、片足を失った重光葵は、1936年駐ソ大使、駐英大使経て、南京(傀儡)汪兆銘政府駐在大使、1943年東条・小磯内閣の外相、1945年東久邇内閣の外相を勤め、降伏文書に署名した。

戦後、極東軍事裁判にかけられ,「平和に対する罪」の訴因に基づき禁固7年の有罪判決を受けた。1950年に仮釈放となり、翌1951年刑期満了。1952年に改進党総裁となり、1954年鳩山内閣(1次〜3次)の外相を勤めた。1957年1月死亡。

尹奉吉「義士」の中国上海「義挙」はテロではなく、交戦中の戦闘行為だったという主張(強弁?)もある。

天長節爆弾事件の白川義則大将戦傷死と判断した理由
1.尹奉吉の傷害の目的(別紙事件公判調書に依拠する)
朝鮮独立運動を促進するために、白川大将、植田中将を殺害し、日本軍を撹乱すること。

2.爆傷が、死亡原因である(カルテに依拠する)
?顔面及び前膊の化膿は長期の間、治癒しなかった。弾丸数十個が体内に残留し、鉛毒を発生させた。
?爆傷に対する各種の治療・血清注射により、血清病を併発した
以上の理由から胃潰瘍を発症して遂に動脈出血で死亡した。

三、止める事が出来ない軍務のために発症した。受傷及び発症後、病床にいても絶えず軍事統帥に関する重要業務に従事した。軍帰還の命令が下ると心身を疲弊させた。

写真(左):天長節爆弾事件を報じる雑誌写真(左):爆弾テロの犯人尹奉吉(ユン・ボンギル):朝鮮独立過激派闘志でもある。

上海の「天長節兇変爆弾事件」で、外務省報告書が1932年9月にだされた(アジア歴史資料センター:レファレンスコードB02030474600;表題:上海ニ於ケル天長節式中ノ爆弾兇変事件)。

これは、死亡した上海派遣日本軍司令官白川義則大将に公務遂行中死亡ではなく、戦傷死として処理するという文書である。それによれば、尹奉吉の上海での「天長節爆弾事件」は 交戦中の戦闘行為として認められるという主張を裏付ける日本の公的文書であるという。

「本傷害事件は 上海戦闘過程で私たち軍首脳者殺害を目的にしており 敵国暗殺団活躍中に発生した事件」と言いながら「下手人は 朝鮮不逞人だが, 彼らは中国軍及び抗日暗殺団と一脈相通じて, 中国軍便衣隊と同一視する理由がある」とした。

ユンの暗殺行為とその意思を個人的次元のテロリストではなく、戦闘員として認め、「上海派遣軍軍司令官白川大将の死は、単純な公務死亡ではなく, 戦傷者として判定するべきである」と結論している。

1937年の第一次上海事変は、中国が国際連盟に1月29日に提訴し、翌1月30日15条適用となり米英は、日本の侵略に抗議した。

1932年5月5日,国際連盟19カ国委員会の決定にもとづいて、日本と中国は停戦協定を結んだ。第一次上海事変の停戦に至るまでは、リットン調査団の入京,1932年2月20日攻撃の際の「肉弾三勇士」伝説、3月1日総攻撃開始日の満州国建国宣言,4月29日の上海の天長節祝賀会場爆弾事件などが起きている。

この後、5月15日には、海軍将校によるクーデター未遂事件「五・一五事件」が起きている。

中国軍の頑強な抵抗、米英の抗議の前に,日本は停戦した。しかし、中国国民党政府(南京政府)も、反日民衆運動の高揚が抗日戦争・租界回復要求にむすびつくこと、民衆運動が中国共産党の指導力・影響力の発揮に結びつくことを懸念していた。日中双方とも、全面戦争を開始するつもりはなかった。これは、5年後の盧溝橋事件、第二次上海事変とは大きく異なる点であろう。

1932年5月31日、日本軍増援部隊は、上海より総引揚げをすることとなった。これは、内地への勝利の凱旋という形をとった。

第二次大戦の後半における大本営発表は、事実からかけ離れて、日本軍の善戦振りを伝えていたことで有名になった。しかし、事実の一面しか伝えないという情報操作やプロパガンダは、1931年の満州事変、1932年の第一次上海事変でもまったく同じであったといえよう。

<神社>
「諏訪神社」「滬上神社」「上海神社」と名称変更してきた 神社
1908年、白石六三郎、西江湾路230号に料亭「六三園」を設立。
1912年4月14日、白石六三郎ら六三園内に「諏訪神社」を建立。
1912年7月5日、上海日本総領事の有吉明によって諏訪神社を「滬上神社」と改称。「滬」は上海の別称。

1932年1月28日、第一次上海事変勃発。戦火の為、滬上神社の社殿炎上

1933年11月、焼失した滬上神社を「上海神社」と改名して北四川路(現、四川北路)118号に再建。

上海海軍特別陸戦隊ヘ勅諭下付ノ件レファレンスコード:A04018345300
 作成者: 内閣総理大臣子爵 齋藤實、海軍大臣 岡田啓介
 作成年月日: 1932年12月13日
 内容: 上海海軍特別陸戦隊ヘ勅諭下付ノ件 右謹テ裁可ヲ仰ク
 昭和七年十二月十三日 内閣総理大臣子爵齋藤實 海第一九八号
起案:昭和七年十二月十二日、裁可:昭和七年十二月十三日、 施行:昭和七年十二月十四日下付。

絵葉書(右):「上海神社」とあるので1933年以降発行の絵葉書:1912.4-1912.7「諏訪神社」、1912.7-1932.1「滬上神社」と名称変更し、第一次上海事変で焼失後、1933年11月、上海神社として再建された。

1932年12月、勅語を賜った植松練磨(うえまつとうま)海軍少将
 1883年生れ、1948年没
1883年福島県相馬郡鹿島町に父琢磨、母フミの三男として生まれる。鹿島小学校、安積中学校、海軍兵学校、海軍大学校を経て海軍少将となる。

第一次世界大戦では軍艦「樫」の艦長として地中海へ出動する。上海事変後、上海海軍特別陸戦隊指揮官に命ぜられ戦功を飾った。昭和7年には昭和天皇より勅語を賜る。

植松練磨(うえまつとうま)
海軍少将が、1932年12月、勅語を賜る以前の3年間の経歴。

1929年11月10日 巡洋艦「妙高」艦長
1930年12月1日 軍令部出仕
1931年12月1日 海軍少将、 第二水雷戦隊司令官
1932年2月4日 第三艦隊司令部附:中国方面を担当する海軍艦隊として新設された。
1932年6月1日 上海特陸隊司令官
(第一次上海事変は、5月には終了している)
1932年6月6日 軍令部出仕。

勅諭下付は、軍人として最高級の名誉であり,それを下付された臣下に対する批判、その忠臣の行為に対する疑問は、許されなくなる。上海事変の問題点やその後の課題、特に列国との協調関係強化、中国民衆の抗日運動への認識、中国国民党の交戦意思の高さなどは、綿密に分析まま、日本軍の自画自賛に終始してしまった印象がある。

盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident への道

写真(右):上海事変の日本海軍陸戦隊(1932年あるいは1937年7-8月?):ヴィッカース社Vickers Crossley装甲車10台以上を保有していたが,兵力は3000名程度で、中国軍よりも遥かに劣勢であった。これは、駐屯軍は、警備,居留民保護の警察力しか認められなかったからである。そこで,上海事変の際も、日本陸軍の増援部隊の派遣が決定された。

第一次上海事変後,中国国民党政府は,日本に対して懐柔的な対応をする。この理由は次の通り。

?南京を首都とする中国国民党政府は,共産主義勢力の排除,内政優先という「安内攘外」を基本方針として採用した,
?海軍と航空兵力で優位に立つ日本軍との戦闘で敗北した中国軍は,日本軍の軍事力を恐れるようになった,
?米英列国がヒトラーを首相とするナチス・ドイツの誕生に関心を向け,中国問題に介入しなかった。

こういった理由から1933年5月31日に日中は停戦協定(タンクー協定)を結んだ。タンクー協定では,中国国民党政府は,長城以南に非武装地帯の設定,満州国への通車・通郵手続きの承認など,日本に大幅譲歩した。つまり,1933年5月31日のタンクー停戦協定によって,中国は,事実上,満州国の日本支配を黙認したのである。

写真(左):上海事変に出動した日本海軍陸戦隊(1932年1-3月か1937年7-8月?):2000名程度の兵力では中国軍に正面から対抗はできないので,日本は増援部隊を派遣する。

GMジェネラルモーターズは,1929年に中国支社の本部を上海に置いている。上海と米国の間には、航空会社パンナムの四発飛行艇が、空路も開いてい中国では,外国人が行政権と警察権を握っていた地域,すなわち租界がアヘン戦争以来,大都市,開港場各地に設けられた。これは,治外法権の当てはまる地域である。また,中国から鉄道敷設権を得た国は,鉄道付属地を租界と同じようにみなした。

列強は中国に圧力をかけ,公使館の護衛,租界の治安維持,鉄道付属地の警備などの名目で,1地域につき800-1400名程度の小規模な警備兵力を,駐屯権の枠組みで認めさせていった。たとえば,天津の米国陸軍駐屯部隊は,第15歩兵大隊である。

1936年8月7日,首相広田弘毅は,国策の基準(五相会議決定)を定めた。これは,大陸と南方への進出,ソ連。米国・英国に対する軍備と経済の充実を方針とした次のようなものである。
「帝国が名実共に東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し世界人類の安寧福祉に貢献して茲に肇国の理想を顕現する」として,「根本国策は外交国防相俟つて東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展する」ことである。
東亜に於ける列強の覇道政策を排除し真個共存共栄主義により互に慶福を頒たんとするは即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむへき指導精神なり
国家の安泰を期し其の発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるへき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実
満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し北方ソ連の脅威を除去すると共に英米に備へ日満支三国の緊密なる提携を具現して我か経済的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とする。


上海フランス駐屯軍
:1932-37年頃。フランス租界の治安維持にあたるフランス駐屯軍。

中国では,外国人が行政権と警察権を握っていた地域,すなわち租界がアヘン戦争以来,大都市,開港場各地に設けられた。これは,治外法権の当てはまる地域である。また,中国から鉄道敷設権を得た国は,鉄道付属地を租界と同じようにみなした。そこで,列強は中国に圧力をかけ,公使館の護衛,租界の治安維持,鉄道付属地の警備などの名目で,1地域につき800-1400名程度の小規模な警備兵力を,駐屯権の枠組みで認めさせていった。

300万人の人口を擁する上海には,外国人ビジネスマンも居住するが,この国際都市を攻撃したら、強力な軍備を誇る英米列国の民間人にも多数死傷者が出る。貿易・投資、金融,商業の被害も計り知れない。

写真(左):上海上空の中華航空DC-2旅客機(1937年):米国のダクラス社製の大型旅客機を購入して,中華航空が中国内外に空路を開いた。米国のパンナム社も上海と米国を結ぶ空路を,飛行艇によって維持していた。

つまり、国際協調が求められる租界で戦闘を起こせば,国際社会の反発を受けるのは必至である。だから、上海は安全である。駐留軍も、実際の戦闘を行うよりも,治安維持と外交儀礼や式典パレード用の部隊と位置付けられていた。

広東省広州では反映暴動が起こり,英軍が鎮圧もしたことはあったが,戦闘とはならなかった。

しかし,日本は,1932年に上海を大規模戦闘に巻き込んだ。さらに5年後の第二次上海事変でも、陸戦だけでなく、海上から砲撃し,空から爆撃した。駐屯軍の設置当初の目的である居留民保護は拡大解釈され,抗日運動をしたり,暴虐な振る舞いする中国国民党政府を懲らしめるために、軍隊が増員派遣されたのである。

写真(左):上海駐屯の米海兵隊(1930年代中頃):1927年から1941年11月まで駐留したのが第4海兵隊。国際都市上海の中心街は,共同租界とフランス租界で占められていた。

上海にあった、英国は,市外はずれに競馬場をつくり,市街地を結ぶ道路も租界扱いをするように強要した。また,中国には,関税自主権がなく,関税を課す権利は賠償の担保として取り上げられていた。したがって,租界のある都市,上海,天津,重慶(内陸港)などには,外国資本が投下され,摩天楼,巨大ビルが立ち並び,英語看板もあふれていた。

日本だけが中国を侵略したのではなく,米英仏独伊など列国は中国を半植民地化したというのは正しい。問題は,軍事行動の拡大,戦禍,人権侵害,残虐行為など,さらなる惨禍を及ぼしたかどうかにかかってくる。

第一次大戦中、1917年の石井-ランシング協定では、日米は中国における機会均等を合意していた。これは、中国の主権を無視した、外国同士の中国分割協定とも位置づけられる。しかし,日本軍は1931年に満州事変を起こし、日中の対立が激化する中,日本が中国東北地方で「満州国」を中国から分離、独立させる。
こうなると,列国は、本の対中国政策を国際協調,機会均等の原則に反するものと批判する。1930年代前半に満州国を承認した列国は,ドイツ,イタリアも含めて一カ国もない。

しかし,日本の満州への影響力行使,満州国建国に対して,裁措置をとる列国もなかった。中国の国民党政府ですら,偽満州国のある東北地方を解放するために軍を派遣するつもりがなかった(できなかった)のである。

たしかに、強大な軍事力を保持し、明確な意思を表示している強国に対しては、当時、自国の利益を犠牲にしてまで「正義」「平和」「人権」を求めてくる国はなかった。

上海でダンスに興じる米国駐屯軍軍人と中国民間人:1937年頃。米国アジア極東艦隊旗艦は軽巡洋艦オーガスタで,上海に根拠地としている。その将兵たちと中国婦人との交歓が盛んに行われた。

上海バンドに停泊中の米軽巡洋艦「オーガスタ」上に整列した米海兵隊(1937年12月)は、米国租界の居留民保護を目的に米海兵隊兵士と同様、上海に上陸した。

こうして、米国と中国は接近して行く反面、日本と中国は対立を深化させる。

1933年1月1日、万里の長城の東端海岸部にある山海関で,日中両軍の武力衝突が起こり,日本軍(満州を防衛することになった関東軍)が山海関を占領した。
1933年2月23日には,日本軍は西方の熱河省へ侵攻する。この翌日24日には国際連盟を脱退している。

満州国をつくり、第一次上海事変に「勝利」したといっても、実は、日本と中国との対立は、まだまだ深化し、いそう激しい戦いをむかえることになる。1932年の上海事変は、大規模な戦闘であったが、あくまで第二次上海事変への前哨戦に過ぎなかったのである。

写真(左):朝日新聞1937年2月4日号外「三日午前十時工部局射撃場に陣地を敷いたわが砲兵隊は野砲数門をもって猛烈に陸戦隊裏側済路踏切付近敵正規兵陣地を砲撃した。

「装甲車を先頭に駆ける勇敢なる姿が見える,続いて大西部隊の一部突撃隊が踏切を超え左前方三百メートルの密集した家屋に拠る敵に突撃した,」

「今更いうまでもないが,日本兵の勇敢さには,ただ感激のほかにはない。敵弾に身を曝し鉄条網を刎ねのけつつ君国に捧げた命の如何に軽きかを知って奮戦している有様を目のありに見て感激した。
わが軍は綱を取り退け土嚢を積んだ敵陣を踊り越えて家屋の密集した道路を塩のように攻めかかる。これに隠れていては新聞記者の恥だ,たとえ一人でもわが忠勇なる将士の死線に臨んで国民に伝えるべきだと思って再び駆け出した。」

第二次上海事件に於ける第十一師団戦記(各種情報資料・満洲及支那事変ニ関スル新聞発表)レファレンスコード:A03023773100
 作成者: 内閣
 作成年月日: 1937年4月8日
 内容: 一、本編は第十一師団司令部の編集にかかり上海派遣軍司令部より発表せるものである。
  二、部余号(戦略輩位を除く)、上陸地点期日、上陸効程及其状況を新聞雑誌等に掲載することを禁す。
  第十一師団司令部編集 先遣梯団の揚子江口到着より七了口敵前上陸
  皇軍の武威を知らずして同胞播護の正当なる我が国の要求を容れず、而も曩に上海附近に於て我が海軍陸戦隊己むなく其挑戦に応じ、
   次に急派せられた混成旅団並第九師団に対して頑強なる抵抗を持続すると共に益々其力を増大し、明に積極的敵対行為を露はし江南の事態日を遂ふて険悪と化した。

   我国は極力平和裏の解決に進まんとしたが---- 。

1937年2月24日善通寺第十一師団に出動命令
2月25日応召者を見送る人達が高松駅にあふれた。高松尋常高等小学校等,各地で壮行会。
2月27・29日第十一師団 詫間港等から上海に向かう。
3月1日揚子江 七了口に上陸、総攻撃開始。
3月3日停戦
3月26〜30日第十一師団 高松港に凱旋。

盧溝橋事件・上海事変・南京攻略 ◇ Sino-Japanese War を見る。

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◆違法動画を拡散した違法ツイッター(一部)

捏造犯を追い詰めた 4 重慶虐殺 鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者
Facebook Ez Masataka-2012年10月21日 21時45分

すべて日本のせいにしとけと。この簡単な構図を作り上げる為にこのような人たちがうようよしてるんだろう『淮海戦役の虐殺は全て日本に濡れ衣を着せなければならない。鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者」: youtu.be/JKJYmmff_eI @youtubeさんから
Twitter (パンダマンショー)-2012年10月21日 08時12分

「捏造国家日本」?:「ロケットランチャー」から「スパイ天国日本」まで!?bit.ly/QBfe7n (井口先生のブログから)←鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者  国会で鵜飼教授に事情聴取すべきではないか?と私個人は思う。
Twitter peponaaru(ペポッチ)-2012年10月20日 05時11分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者 youtube.com/watch?v=JKJYmm…
Twitter hirosi754(森田博 (ハンドル:森田ひかる))-2012年10月20日 00時44分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtu.be/JKJYmmff_eI @youtubeさんから
Twitter lupinxyz2(偏向報道反対!)-2012年10月19日 23時45分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者 quasimoto.exblog.jp/d2012-10-19/ 井口氏のサイトから
Twitter happynaratyan(そろばん星人)-2012年10月19日 21時12分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtu.be/JKJYmmff_eI @youtubeさんから
Twitter lupinxyz2(偏向報道反対!)-2012年10月19日 19時53分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者    拡散よろしくお願いします。blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/…
Twitte rbellavoce3594(美しい歌)-2012年10月19日 19時50分

ねずさんの ひとりごと 重慶空爆被災写真は捏造写真 nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-167…#鳥飼行博#東海大学
鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtu.be/JKJYmmff_eI @youtubeさんから
Twitter keiko0753(みいちゃん)-2012年10月19日 10時42分

鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者 - YouTube: 捏造犯を追い詰める 3 南京重慶淮海虐殺 ねずさんのひとりごとby kazuko38959 views ·... dlvr.it/2LJ6k7 #newsJP #韓国実態 #Korea

Twitter LIveJAPAN2013(LIveJAPAN2013)-2012年10月19日 01時17分
鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtu.be/JKJYmmff_eI
Twitter akas_sanga(SANGA)-2012年10月16日 23時32分

YouTube:鳥飼行博 東海大教授 重慶南京虐殺 画像捏造者: youtube.com/watch?v=JKJYmm…#神奈川県 #goen
Twitter kanyagawan(神奈川県)-2012年10月10日 04時01分



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与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
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