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第二次上海事変◇Battle of Shanghai 1937 2005
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◆1937年8月13日 第二次上海事変◇Battle of Shanghai 淞滬會戰
写真(上):1937年,上海、バンドに停泊するアメリカ海軍アジア艦隊の艦船重巡洋艦「オーガスタ」、イギリス海軍軽巡洋艦「ダッチェス」駆逐艦「ファルマス」、フランス海軍巡洋艦「ラ・モット=ピケ」、砲艦「ピエール・ブラザ」「ジュール・デュモン・デュルヴィル」イタリア海軍機雷敷設艦「レパント」オランダ海軍駆逐艦「ヴァンガーレン」、アメリカ海軍砲艦「サクラメント」、日本軍病院船が並んでいる。
Title: Bund in Shanghai, China Description: View of U.S. and foreign naval vessels anchored off the Bund in Shanghai, China, ca. 1937 including: USS Augusta (CA-31), HMS Duchess (CL), HMS Falmouth (PF), French cruiser Lamotte Picquet (CL), French gunboats Savorgnan de Brazza (PG) and Dumont D'Urville (PG), Italian minelayer Lepanto, Dutch destroyer Van Galen, USS Sacramento (PG-19), and an unknown Japanese hospital ship. Accession #: S-425 Catalog #: S-425-H Donor: David R. Curtain Copyright Owner: Naval History & Heritage Command S-425-H Bund in Shanghai, China引用。

写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 ◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,沖縄戦,戦艦大和についても分析しています。
【アジア太平洋戦争オリジナル】
米中接近:日本の孤立化
ノモンハン事件:満州での日本とソ連の戦い
アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」
サイパン島玉砕:捕虜1万7千
マリアナ沖海戦:空母機動部隊壊滅
レイテ沖海戦のマッカーサー将軍
フィリピン戦の神風特別攻撃隊沖縄戦のカミカゼ特攻
沖縄戦と住民
沖縄戦での集団自決:渡嘉敷島・座間味島・チリチリガマ
靖国神社:戦死者慰霊と軍神
中世の戦争画:ブリューゲル,ゴヤ
近現代の戦争画:藤田,ピカソ
文化人と戦争文学:与謝野鉄幹・晶子、斉藤茂吉

1. 近衛文磨首相は,1937年7月7日,盧溝橋事件当時の内閣総理大臣であり,降伏の玉音放送の流れた1945年8月15日のちょうど7年前,1937年8月15日,「暴支膺懲」声明によって,アジア太平洋戦争のきっかけを作った。

近衛文麿近衛文麿(このえ ふみまろ:1891年10月12日生まれ、1945年12月16日自殺):摂関家筆頭で、学習院院長・貴族院議長を務めた公爵近衞篤麿の長男として、1891年に誕生。近衞文麿は、東京帝国大学哲学科と京都帝国大学法科大学に学び、1885年から1890年まで長期間渡欧してボン大学、ライプチヒ大学に留学。帰国後、貴族院の公爵議員、のちに貴族院議長に就任した。1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。1938年11月3日には「東亜新秩序声明:第二次近衛声明」を発した。1940年7月22日に、第2次近衛内閣を組閣後,9月27日、日独伊三国軍事同盟を締結。これを10月には既成政党を解散して挙国一致の大政翼賛会の結成を図る。しかし,一党独裁は日本の国体(天皇制)に相容れないため,新党は結成しなかった。10月12日の大政翼賛会の発足式で「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において奉公の誠を致すのみ」と精神論に終始した。1941年7月18日から10月18日まで第3次近衛内閣の時、1941年7月28日のフランスのインドシナ半島植民地「南部仏印」を軍事制圧し、アメリカの対日制裁が強化された。9月6日の御前会議では、10月下旬に対米英蘭戦争を始めることを決意をした。

近衞文麿は、東京帝国大学・京都帝国大学で学んだ後、1916年に25歳で貴族院議員の席を得ている。1918年には、「英米本位の平和主義を排す」との論文を発表し、政治と外交への関心を示している。。

1918年雑誌『日本及日本人』に掲載された「英米本位の平和主義を排す」では「民主主義・人道主義目指すもので、国内的には民権自由論、国際的に見れば各国平等生存権の主張となる」「現状維持を便利とする国は平和を主張し、現状打破を便利とする国は戦争を唱えるので、平和主義は必しも正義人道に叶うわけでなく、軍国主義だからといって必しも正義人道に反するわけではないのであって、要は各国の置かれた現状に応じているだけである」と述べた。

「英米の平和主義は現状維持を便利とするものが唱える事勿れ主義であり、正義人道主義とは関係ないどころか、植民地支配を見ればわかるように、大国が経済的に小国を併呑し、後進国を永遠に先進国の後にたたせる事態をうむ恐れがある」と主張した。そして、われわれ日本人は第一大戦パリ講和会議で、英米人に非を悔いて傲慢無礼の態度を改めさせ、黄色人種に対して設けた入国制限の撤廃、差別的待遇の一切を改正させるよう、正義人道の上より主張すべきである」と米英に追従しない、日本独自の立場をとることを求めた。

近衛文麿の意見は、「来るべき講和会議は人類が正義人道に基く世界改造の事業に堪ふるや否やの一大試練なり。我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味における正義人道の本旨を貫徹して、正義の勇士として人類史上、永久にその光栄を讃えられるようになるべきだ」という日本人がリーダーとなる平和論の主張である。

1935年1月の段階で、中国国民政府の蒋介石蒋中正)は、中国人と日本人との経済提携促進を訴え、対日宥和の可能性を提示した。岡田内閣の広田弘毅外相は、日本の不侵略を表明したため、蒋介石は国際司法裁判所判事王寵恵を日本に派遣し、岡田首相と日中問題の平和的解決に合意した。3月1日、中国国民党宣伝部長が、排日行動の停止を表明した。

他方、日本陸軍の対中国強硬派土肥原賢二らは、19355月2日、天津の親日新聞社長暗殺事件を問題とし、河北省からの中国軍撤退、排日の禁止を要求した。6月10日、梅津・何応欽協定によって、華北分離の基盤をつくり、土肥原・秦徳純協定によって、チャハル省を日本の勢力圏とした。

写真(右)日中戦争の時期,中国国民党総統蒋介石(Chiang, Kai-shek, 1887-1975)大元帥と蒋介石夫人の宋美齢(Chiang, May-ling Soong, 1897-2003):日中戦争では、アメリカの軍事顧問を受け入れ、中国軍をアメリカ式装備・訓練の部隊とした。アメリカ空軍の援軍は、シェーンノート将軍の指揮する「フライングタイガーズ」である。この原型は、アメリカ義勇部隊(AVG)である。
蒋介石は、1887年、清朝浙江省奉化県渓口鎮で生まれた蒋介石は、1906年に、保定陸軍軍官学校で学んだ後、1907年に来日して東京振武学校に留学、1909年、日本陸軍第十三師団、高田連隊の将校勤務、中国に帰国後、1911年の辛亥革命に加わり、臨時大総統の地位に就いた孫文を指示した。孫文は臨時大総統の地位を袁世凱に譲ることになったが、1924年には、広州の黄埔軍官学校校長に就任し革命勢力の一翼を担った。1945年8月、日本を降伏させたが、中国共産党との国共内戦で毛沢東に敗れ、1949年に台湾に逃亡、大陸反攻の機会を得ることなく、1975年に死去。
夫人宋美齢は、1917年にアメリカのウェルズリー大学卒で英語に堪能。浙江財閥の総三姉妹末っ子で、1927年、30歳で蒋介石と結婚。アメリカではマダム・チャン(Madame Chiang)として有名になる。中国空軍の育成にも関わったのは、アメリカの軍事顧問・外交官とのコミュニケーションに優れていたためである。
Chaning Kai Sheck and wife
Catalog #: 0108
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Chaning Kai Sheck and wife
Chiang, May-ling Soong, 1897-2003; Chiang, Kai-shek, 1887-1975
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo comp SDASM Archives Catalog #: 0108引用。


1935年中頃、中国の世論は、日本の侵略を非難し、日本と宥和的だとして国民政府蒋介石蒋中正)への反発が強まった。1935年8月の第七回コミンテルン大会では、日本帝国主義と宥和しようとする中国国民党政府蒋介石蒋中正)も批判され、中国人民を解放するのは、中国ソビエト地区、中国共産党だけだとした。コミンテルンに従って、1935年8月1日、中国共産党は奴隷状態にある中国人民を解放する抗日救国八・一宣言を出した。上海、北京(北平)などの学生やインテリは、この八一宣言を支持し、抗日運動を活発化させた。

写真(右):1941年、中国、雲南省、中国国民政府の蒋介石(左)と雲南省政府主席の龍雲(Lung Yuen:1884-1962):1937年7月、日中戦争がはじまると龍雲は、抗日戦争を指導し、国民革命軍第60軍を擁し、省都の昆明とフランス領インドシナ(北部仏印)から軍事物資を搬入した。その後、蒋介石が、戦時首都を重慶に設けた時期、アメリカ義勇隊(AVG)を受け入れるために、昆明航空基地を整備した。しかし、軍事化に伴う中央集権化によって、小主席の権限は弱体化した。そこで、龍雲は、国民党の蒋介石に対抗するために、中国共産党に密かに接近した。1945年8月の日本降伏後、国共合作が破綻に向かう中、龍雲の内通を理由に、10月、蒋介石は直径軍を派遣して、省政府主席の龍雲を軟禁させた。その後、1948年12月、クレア・シェンノートらが蒋介石に働きかけ、龍雲はイギリス領香港に亡命した。
Chaing Kai Sheck and Governor Lung Yuen of Yunnan Province in 1941
Northrop : 2E : Gamma
Catalog #: 0151
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Chaing Kai Sheck and Governor Lung Yuen of Yunnan Province in 1941
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0151<引用。

広田弘毅外相は、この中国赤化を危険視し、1935年10月4日、「広田三原則」を表明した。
1)中国の排日取締、欧米依存からの脱却
2)満州国の黙認
3)赤化(共産主義)勢力排除
がこれである。中国側は日本による中国侵略の停止を要望したのに対して、日本の有吉明公使は、「日支間ノ関係改善ノ為ニハ支那カ排日ヲ熄ムルコトカ 先決問題ナリ」として「現在日本カ支那ニ対シ侵略ノ意図無キコトハ日本政府カ既ニ 数々世界ニ向テ声明セル処」と日本側に中国侵略の意図はないと反論した。つまり、中国が率先して排日行動をとっているので、それを根絶することが先決だとした。(内田尚孝(2017)「1935年「華北事変」期における日中外交交渉の再検討 : 「満洲国」問題と「三原則」をめぐる日中間の対立」『同志社大学グローバル地域文化学会紀要』1号参照)

1936年12月、中国国民党政府 総統・行政委員長蒋介石蒋中正)大元帥は、中国共産党包囲殲滅戦を戦う張学良将軍を西安に督戦に訪れたが、逆に張学良に軟禁され、抗日戦争の開始を強要された。これが西安事件である。蒋介石は、反共政策を見直し、第二次国共合作を勧めると約束した。その後、1937年7月7日の盧溝橋事件後、抗日戦争を戦うことを決意した。

写真(右):1935年、中華民国 総統・中国軍総司令官の蒋介石と夫人の宋美齢:General and Madame Chiang Kai-shek Accession Number: 2017-539
蒋介石の経歴:
1935 1887年、清朝浙江省奉化県渓口鎮で生まれた蒋介石は、1906年に、保定陸軍軍官学校で学んだ後、1907年に来日し 東京振武学校に留学、1909年、日本陸軍第十三師団、高田連隊の将校勤務、中国に帰国後、1911年の辛亥革命に加わり、臨時大総統の地位に就いた孫文を指示した。孫文は臨時大総統の地位を袁世凱に譲ることになったが、1924年には、広州に設立された黄埔軍官学校校長に就任に革命勢力の一翼を担った。1927年に浙江財閥の娘 宋美齢と再婚。1932年以来、日本に満州を占領され,山海関を超えて1937年7月には北京でも戦闘が始まるなか,中国軍民の反日感情は高まっていた。このまま,中国の世論を無視することは,中国の最高指導者蒋介石大元帥にはできなかった。抗日戦争を開始しなければ,戦意旺盛な中国軍の支持も受けられなくなり、失脚したであろう。こうして1937年7月17日,廬山で最後の関頭の演説(廬山談話)をして,事実上の対日宣戦布告をする。
1945年8月に、第二次大戦に勝利したものの、中国共産党との国共内戦で毛沢東に敗れ、1949年に台湾に逃亡、大陸反攻の機会を待ったが、そのまま攻勢に移ることなく、1975年に死亡。
Chiang Kai-Shek. Description: Photograph of Chiang Kai-shek. From: Photos used in the 1984 Truman Centennial Exhibit. National Archives Photo Number: 80-A-18643 Date: Date Unknown Related Collection: ARC Keywords: Portraits; Presidents HST Keywords: People Pictured: Chiang, Kai-shek, 1887-1975 Rights: As far as the Library is aware, this item can be used freely without further permission.
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2017-539およびNaval History and Heritage Command 80-G-186434 Generalissimo Chiang Kai-shek, head of the Chinese Government.引用。


日本の外務省、陸軍省、海軍省は 1935年10月4日、岡田啓介内閣の閣議で外・陸・海の三相が会談し日本の対蒋介石中国外交に関して、次の三原則を打ち出した。
(1)中国は排日活動の取り締まりを徹底し、欧米依存より脱却して、善隣友好・対日親善政策を採用すること、
(2)中国は、満州国の独立を事実上黙認し、満州に接する華北・北支方面においては満州国と経済的、文化的な提携を進めること、
(3)ソ連の影響下にある外蒙よりの共産主義・赤化勢力の脅威を排除するために、日満中三国が協力すること。
 岡田啓介内閣の外・陸・海三相対中政策が、後の広田三原則の原形となる。しかし、これを巡る日中交渉中の1936年1月、日本は中国蒋介石政権から華北を分離する「華北五省自治」を進めていたが、広田弘毅外務大臣は、1936年1月21日の第68回帝国議会で、中国に対する広田三原則提示しつつ、これに中国蒋介石総統も同調しているかのような印象を与えた。しかし、中国国民政府総統蒋介石は、日本側の提示した広田三原則を否定し、日本による満州占領のような大陸侵略は、日中関係を険悪にするとした。

岡田啓介回顧録 (中公文庫) [ 岡田啓介著 ]:1868年2月14日(慶応4年)、福井藩士の父の下に誕生。海軍大学校卒業、海軍省人事局長、艦政局長、艦政本部長、海軍次官を経て、大正13年(1924)海軍大将、連合艦隊司令長官に就任。昭和2年(1927)田中義一内閣で海相に就任、4年大臣を辞任し軍事参議官。5年ロンドン海軍軍縮会議の際、日本国内の対立の調停役となる。7年斎藤内閣で海相に就任。9年首相兼拓務相に就任。11年2・26事件で首相官邸で青年将校に襲撃されるが脱出に成功。終戦工作にも参加。娘婿に迫水久常がいる。


岡田啓介政権の時代、日本では、1936年、二・二六事件が勃発、陸軍皇道派のクーデターにより、元首相高橋是清大蔵大臣、五一五事件の処理をした元首相斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。岡田啓介は、内閣総理大臣を辞任し、3月、広田弘毅内閣が成立し、駐華大使有田八郎が帰国して外相に就任した。有田八郎外務大臣は、前任外相の「広田三原則」を継承したため、日本が新任駐華大使としして送り出した川越茂による中国との交渉は頓挫した。

広田弘毅内閣の下、1936年5月、二・二六事件で予備役となった将軍を大臣としないように軍部大臣現役武官制が復活し、11月、日独防共協定が締結された。

 1936年8月、日本が中国内陸の四川省成都に置かれた総領事館を再開したことが契機となって成都で中国人による反日活動が激化し、1936年8月月24日、 岩井英一(総領事代理)に先行して中国成都に入った日本人記者が殺傷される「成都事件」が起きた。そして、1936年9月3日には、広東省北海の商店主の日本人中野順三が、暴徒によって店舗で殺害される「北海事件」が起きた。 こうして、1936年の成都事件北海事件の解決のために、1936年9月から12月まで、南京総領事須磨弥吉郎(1892-1970)と中国国民政府外交部長張群(1889-1990)との間で予備交渉が行われた。また、1936年の成都事件、北海事件の解決のために、中国国民政府外交部長張群と日本駐華大使川越茂との交渉も行われた。

この日中交渉では、日本側は、?排日活動の取締、?満州国独立の承認、?共同防共、という広田三原則を巡って要求したが、これには蒋介石蒋中正)以下国家最高レベルの会談が必要だった。そこで、1936年10月8日、日本の駐中国大使川越茂(1881-1969)と中国国民党総統・行政委員長蒋介石とが会談を持った。会談の結果、成都事件、北海事件については、中国による陳謝、責任者の処罰、被害者の損害賠償が合意され、事件は解決できた。しかし、広田三原則に基づく、中国側への要求、すなわち排日活動の取締、満州国独立の承認、共同防共を、中国側は日本による中国侵略と見なし、認めることはなかった。

翌1937年1月、帝国議会で議員の浜田国松と陸軍大臣寺内寿一の間で「浜田国松腹切り問答」が起きた。そこため、陸軍大臣の協力を得られなくなった広田弘毅閣内は総辞職し、宇垣一成(予備役陸軍大将)も軍部大臣現役武官制によって陸軍大臣が得られず、組閣できなかった。そこで、元朝鮮軍司令官・陸軍大臣の林銑十郎に組閣の対明が下り、1937年2月2日、林銑十郎内閣が成立した。

1937年2月、林銑十郎内閣は、佐藤尚武を外相として、外務・大蔵・陸・海四相が 対中実行策と「華北指導方策」を決定し、華北への勢力拡大を進めたが、林内閣は、5月31日に総辞職し短命に終わった。その後、1937年6月4日、天皇、軍、国民の期待を担って、近衛文麿内閣が成立し、外務大臣には再び、広田弘毅が就任し、対中国外交は広田三原則が継承された。

1937年7月7日、盧溝橋事変が勃発、7月11日、日本側はこれを北支事件と命名し、華北への兵力増派を決定した。そして、 8 月17日、華中で第二次上海事変が勃発し、日本は盧溝橋事変当初取り決めた不拡大方針を放棄した。9月2日、それまでの北支事件支那事変と変更し、10月1日の四相会議では、「支那事変処理綱要」が決定された。ここでは、「日満中の融和共栄」が戦争目的とされた。(臧运祜(2011)「「広田三原則」・「近衛三原則」の創出と日汪関係の確立 」 『環日本海研究年報』 (18), pp.2-16参照)

1937年7月7日の盧溝橋事変の混乱の中で,現地では散発的な戦闘が続くが,決定的だったのは,日本と中国がともに戦争回避を「軟弱外交」として避けて,日中双方の指導者がリーダーシップを発揮し,軍事力を準備したことだった。中国共産党の陰謀で日中戦争が始まったとする評者は,北京郊外に日本軍が駐屯し,中国軍を威圧していたという事実を過小評価している。石炭や農産物など資源が豊富で,市場としても有望な華北は,日本としては,経済的,政治的な特殊権益を認めさせたい地域だった。1936年には『昭和十一年度北支那占領地統治計画』が策定されており、1936年の時点で日本陸軍は華北占領地統治計画をたてていた。

現地で日中両軍の停戦合意がなった1937年7月11日の当日,日本では首相近衛文麿が華北への増援部隊出兵を閣議決定し,午後6時半に華北増派の声明を発表した。大兵力の中国軍に威圧され,怖気づいた日本軍という汚名をそそぐため,衝突から5日もたたない7月11日に、近衛内閣は、中国への増援部隊派遣の閣議決定を下したのである。近衛文麿首相は「出兵を決定して、日本の強硬なる戦意を示せば、中国側は、折れて出ることは間違いないと信じ」ていた。

 7月11日華北出兵声明は次のような内容である。

「関東軍と朝鮮軍(満州と朝鮮半島に駐留するに日本軍)が準備した部隊を急遽,支那駐屯軍に増援する。さらに,内地より部隊を動員して北支に急派する必要がある。東亜の和平維持は,(大日本)帝国の念願するところであり,今後とも局面不拡大・現地解決の方針を堅持して平和的折衝の望みを捨てず,支那側の謝罪および保障という目的を達したるときには,速に派兵を中止すること勿論なり」

日本軍には支那事変を起こし華北占領の意図があった。根拠は『昭和十一年度北支那占領地統治計画』の存在である。1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北の占領地支配について研究を進めていたのである。これは、日本軍の「華北占領地統治計画」であり,作成部局は支那駐屯軍司令部、文書には「昭和十一(1936)年九月十五日調整」と記されているという。
この甲案は,華北全域に作戦行動が展開される場合(現実にそうなった)であり,河北、山東、山西各省の鉄道に沿って,冀察地区(河北省、北平・天津両特別市、外長城線以南の察哈爾省、黄河以北の河南省),山東地区(山東省と青島特別市),山西地区(山西省)に侵攻し,占領地統治が実行する計画である。華北占領当地の目的は,「国防用資源ノ獲得」と「満州国並内蒙方面ニ作戦スル軍ノ背後ヲ安全」,すなわち対ソ戦争における華北方面の安全確保である。(京都大学大学院文学研究科永井和教授による)

組閣後首相近衛文麿は、「国際正義」に注目して、満州国建国、日本の大陸政策を正当化した。これは、植民地再分割を目指すのもではないという。第71帝国議会における近衛首相の施政方針演説では、国際正義とは、領土と資源の再分割にまで至るべきところだが、今日ではそれは空想にしかすぎない。そこで、実現可能な「人と物の移動の自由」を目指すべきであるとした。これは、持たざる国が、先に権益を確保していた持つ国にたいして、一定の権利を主張することである。議会開会当日、7月27日のラジオ放送で「外に対しては東亜の安定勢力たるの実を挙げて、世界の平和に貢献する重大な使命を有する」としてアジアの盟主としての責任を強調した。第二次上海事変淞滬會戰)の勃発直後、8月15日の帝国政府声明によれば、「日満支三国間の融和提携のノ実を挙げんとする外他意なし」と北東アジアのブロック化を推奨している。

フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt :1882-1945/4/12) :民主党出身の第32代アメリカ大統領を1933年3月4日から1945年4月12日まで務めるが、これはドイツ首相となったアドルフ・ヒトラーの任期とほぼ等しい。世界恐慌の失業対策として、積極財政のニューディール政策を採用し、テネシー渓谷開発公社、公共工事局 などを設けて公共事業を拡大した。マスメディアを活用し、ラジオ演説「炉辺談話 fireside chats」を毎週放送した。1937年10月5日、世界中で行われている侵略行為を憂慮し、このような侵略国は病人と同じく隔離すべきとしたが、これはドイツ、日本を指していた。第二次大戦が始まっても中立を保ったが、1940年7月にスティムソンを陸軍長官に復帰させ、9月に選抜徴兵制を採用し動員を開始した。1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、イギリス、中国に大量の軍事物資を貸与した。のちに、1941年6月に独ソ戦が始まると、ソビエト連邦へも武器貸与を行った。

首相近衛文麿は、支那事変、日中戦争の理由は、中国におけるの抗日運動が激化し、それに対抗する自衛措置として日本が軍事行動をとったと主張した。つまり、「国際正義」を実現するために日本は戦争を始めたと戦争を正当化したのである。

 他方、アメリカは日本が、支那事変という戦争に巻き込まれたのではなく、日本が中国に軍隊を派遣し、勢力下に置き、その勢力圏を拡大した侵略行動が、アジアの平和を乱していると考えた。そこで、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトFranklin Roosevelt)は、1937年10月5日、暗に日本の軍事行動を無法な侵略行為であると非難し、そのような侵略国家を国際社会は隔離する必要があるとの「隔離演説」を行った。

  しかし、近衛文麿首相は、支那事変、日中戦争を侵略戦争とは考えず、1937年11月3日から、ブリュッセルで開かれる中国の主権尊重・機会均等の九カ国条約会議には不参加を通告した。近衛文麿首相は、ソ連や中国共産党の共産主義を警戒しており、中国における赤化防止、国際正義の確立に熱心で、これを実現する日満、日中(親日中国傀儡政権)の連携が必要であるとした。これは、中国への国際介入という九カ国条約を無効とし、「東亜新秩序」の構想へと発展し、「大東亜共栄圏」の建設へと膨張することになる。

この後、近衛文麿は、支那事変、日中全面戦争を起こし、満州、華北・華中に傀儡政権を樹立し、東亜新秩序、新体制など革新的、強硬論を唱える。この革新的方針は、ナチ党アドルフ・ヒトラーのドイツ第三帝国の革新外交を参考にしているようだ。

◆1937年以降のヒトラーの革新的な独裁政治と対外膨張主義は、イタリアのファシスト党ベニート・ムッソリーニのやり方と同じく、全体主義という新体制・新秩序として注目された。近衛文麿は、アメリカに注目していたが、英米中心の旧秩序には反感を抱き、新体制・新秩序を模索していたから、ヒトラーの動向にも注目していたであろう。ヨーロッパの全体主義に刺激された近衛文麿は、日中戦争の勃発後、東亜新秩序、新体制を構築することを目指すようになる。ヒトラーのように強硬な主張をし、軍部の先手を取ることで、内閣が政治の主導権を取り戻すことができると考えた。

The Last EmpressMadame Chiang Kai-Shek and the Birth of Modern China 宋美齡:蒋介石夫人:浙江財閥の大富豪の家庭に生まれる。孔祥熙の妻となる宋靄齢、孫文の妻となる宋慶齢の2人の姉と共に宋家三姉妹として、世界的に有名となる。1908年、アメリカ留学、 1917年、名門のウェルズリー大学卒で、英語力も抜群だった。1927年に蒋介石と結婚し、そのご国民党の要職に就く。1943年のカイロ会談に蒋介石とともに出席した。蒋介石も下で財務・外交を担当した宋子文は兄に当たる。


1937年7月、北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。これを決定的にしたのが,蘆溝橋事件、第二次上海事変淞滬會戰)に関する近衛文麿首相による1937年8月15日「暴支膺懲」の声明である。

帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。
然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。
更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。

1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明の要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,中国南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」

中国で、支那事変、戦火が拡大した理由を整理すると次のようになろう。
?支那事変で、日本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,少数兵力でも,果敢に中国軍と戦闘した。日本軍は,中国軍に弱腰であるとの印象を与える行動をとらなかった。

?中国軍は,日本軍よりも遥かに優勢であり,国内が団結すれば,国際的支援も受けることができ,日本軍の活動を押さえ込むことが可能であると判断した。

?中国軍に敗北を喫するわけに行かない日本軍は兵力を増派し続けたが,これは中国支配を意図しているとみなされた(客観的にもみなされる)。そこで,中国は,軍民一丸となって,日本軍に抵抗し、国際的な名望のある顧維鈞宋美齡(蒋介石夫人)の外交によってアメリカなど列国の中国支援を取り付けることにも成功した。

?日本は,中国の交戦意志,戦意の高さを認識できず,国民党と共産党が統一抗日軍を編成できるとは考えなかった。そこで,中国の政治経済の中枢である北京と江南(首都南京から上海・杭州)を攻略すれば,日中戦争は日本の勝利に終わると誤解していた。政治経済の中枢に戦禍を拡大したことで,日本は列国からも反感を買うようになった。

?米英は,自国権益の維持・拡張に関心があったから,日本の中国支配を認めるわけにはいかない。また,日本による残虐行為を伴う中国侵攻には,米英の一般市民も反感を抱く。民主主義国米英では,反日感情に支えられた世論を背景に,その後の対日圧力を強めていく。

?日本国民も権益を確保し,居留民を保護すべきであるという愛国心が強まり,中国支配が日本の繁栄に繋がると錯覚した。

?満州に隣接する華北で、日本に反抗する動きが中国にあり、満州の安定しない。そこで、日本は,満州の権益を維持するには,中国国民政府を屈服させるしかないと(誤って)判断した。

?中国は国共合作で共産勢力が拡大しており、日本の国体・天皇制には相反していた。そこで、日本は、中国における新政権の建設を目指し、中国の分裂工作、傀儡政権化を図った。

1931年9月18日の満州事変(九一八事変)以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していた。しかし、近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」>(廬山談話)の演説をする。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

翌日7月19日、最後の関頭の演説(廬山談話)が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲がますます高まり、戦争をとめる余地がなくなってしまう。日中対決が日中両首相(最高級の指導者)によって決定されたのであるから,停戦申し込みは,敗北を意味する。愛国心に駆られた国民世論を背景にして,日中全面戦争が開始された。

1937年7月28日,支那駐屯軍は,航空機の協力も得て,北京を攻撃した。しかし,中国軍は,日本の猛攻に会い,歴史ある北京の街を戦火で焼き尽くすのを避ける目的もあって,北京から撤退した。こうして,日本軍は北京を1日で制圧した。
軍の撤退を敗北と同一視している日本軍は,敵中国兵力の10分の1で勝利した,中国軍の士気、戦意は低く弱いと錯覚する。「撤退=転進」であり,新たな軍事行動のための準備かもしれない,とは思わなかった。

1937年7月29日,日本人虐殺事件が通州で起こった。これは、日本に協力的なはずの中国傀儡政権「冀東防共自治政府」の保安隊(軍隊)が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260名を殺害した事件で、「通州事件」と呼ばれ,日本では大々的に報じられた。

盧溝橋事件後、親日(日本の傀儡)政権冀東防共自治政府」に所属する保安隊は、中国国民党政府「冀察政務委員会」の第29軍(司令官宋哲元)と戦闘状態にあった。しかし,日本機が冀東防共自治政府の保安隊を誤爆してしまう。また、7月28日には日本軍は北京周辺を占領し、中国全土で反日感情が高まり、抗日戦争も始まっていた。このような愛国的な活動の広まりに直面し,日本軍に協力すべき保安隊が,日本人を虐殺したのが通州事件といる。

日本の傀儡政権の冀東防共自治政府の下に設けられた冀東保安隊第一総隊長張慶餘は,1937年7月の盧溝橋事件で第 37 師の師長馮治安(河北省主席)に連絡した。師長馮治安は、第29軍の日本軍攻撃に呼応して、通州でも決起するように言った。

愛国的な感情の高まりも作用して、張慶餘ら通州の中国人保安隊は,国民党政府への寝返りを決意した。南京の国民政府への忠誠を証明するために,通州で日本人を殺害した。日本人に残虐行為を犯せば、日本軍とは決別し、中国国民党の下に降ることができると期待したのであろう。中国人保安隊(本来は日本軍の協力部隊)が,中国軍に寝返り,受け入れてもらうためには,日本人虐殺という取り返しのつかない証拠を示す必要があった。

近衛内閣は、第二次上海事変淞滬會戰)の勃発直後、1937年8月18日にまとめた「北支事件ニ関スル各国新聞論調 (二十四) (執務参考用ニ付キ取扱注意アリタシ) 情報部第三課」には次のようにある。
「概説 一、支那紙十六日ノ上海漢字紙ハ日本飛行機、南京、南昌、杭州飛行場ヲ襲撃シタルモ、何レモ大ナル損害ヲ与ヘス、又陸戦ニ於テハ勝利ヲ得タリト例ノ如ク逆宣伝ヲ為シ、領事団ハ、兪市長トノ交渉ニ関スル支那側ノ主張ヲ報シ、各紙ノ論説ハ日本軍ノ租界撤退ヲ主張シツ、煽動的ナ対日強硬論ヲ掲ケタリ。
英字紙ハ、支那飛行機ノ租界内爆弾投下ノ惨状ヲ大々的ニ報シ、戦況ニ付テハ日支両方ノ発表ヲ戦セ居レリ。
十七日ノ上海漢字紙ハ、出雲ヲ撃沈、陸戦隊本部ヲ占領、浦東ヨリノ砲撃及空軍ノ活躍ハ日本軍ニ大打撃ヲ与ヘタリトカ、切リニ逆宣伝ヲ為シ」と外国での日本軍機による中国空襲の戦果を気にしていた。

三菱 G3M3 九六式陸上攻撃機 :1935年7月に試作機が初飛行、翌1936年6月に九六式陸上攻撃機として制式された。1937年の日中戦争(支那事変)で実戦使用。1937年8月の上海事変で,世界初の首都戦略爆撃を実施した海軍機。台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃である。スペイン内戦に派遣されたドイツ機がゲル二カ爆撃をした同年4月26日から4ヶ月でアジアでも戦略爆撃が開始された。太平洋戦争の初期には、イギリス東洋艦隊の主力戦艦を攻撃、撃沈するのに成功している。「中攻」と呼ばれ親しまれた。連合国軍のコードネームは、Nell(ネル)。


外務省の1937年「支那事変勃発ト米英ノ態度」では、「第一 支那事変勃発ト米英ノ態度
(一) 米国ノ態度 支那事変勃発直後、昭和十二年七月十一日、我政府ハ第一次声明ヲ発シ「盧溝橋事件ニ対シ我方ハ局地的解決ニ努力ニ不拘、支那側ハ中央軍ヲ出動セシメ、平和的交渉ニ応スル誠意ナク、武力抗日態度ヲ示セルヲ以テ、我方ハ北支治安維持ノ為派兵ヲ決定セルモ、事件不拡大方針ヲ堅持スルト共ニ、列国ト共ニ、列国ノ権益保全ニツキ十分考慮セントスルモノナリ」トノ趣旨ヲ表明スル
 一方、我在米斎藤[博]大使ヲシテ、米国政府ニ事件ノ経過ト、我方ガ局地的和平解決ニ努力ヲ傾注シアルコトヲ通報セシメタリ。米国側ハ、英国ヨリ日支双方ニ対シ事態拡大防止ノ要望ヲ申入レ」を勧めた問いしている。

1937年7月7日、北京郊外で盧溝橋事件が起こり、日本が華北に陸軍兵力を派遣し、戦闘が激化し、さらに8月13日には、第二次上海事変淞滬會戰)が発生した。列国の権益が錯綜し、多数の外国人居留民のいる上海で、日本軍と中国軍が武力衝突した第二次上海事変の契機は、1937年8月9日、上海海軍特別陸戦隊西部派遣隊長大山勇夫中尉が斉藤与蔵一等水兵を伴い中国保安隊の警備する虹橋飛行場へ突入しようとして銃殺された大山事件である。虹橋飛行場は、1907年に上海中心街から15キロの場所に軍用空港として開港され、1963年になってから民間利用が開始された。1999年の上海浦東国際空港の開港以降は、国内線専用空港となった。虹橋飛行場偵察中、あるいは戦争開始の謀略ともなる大山事件を契機にして、第二次上海事変(淞滬會戰)が勃発し、これが中国の経済中枢の上海、政治中枢の南京を含む日中全面戦争に発展した。


《生死地--1937淞滬抗戦実録》(2):SMG上海電視台官方頻道 SMG Shanghai TV Official Channel

1937年9月15日、枢密院において広田弘毅外務大臣は「日支事変外交経過ニ関スル説明」をした。ここでは、「北支ニ於テ日支両軍ノ衝突発生以来、帝国政府ハ現地解決事態不拡大ノ方針ニ基キ、南京政府ノ反省ヲ求メ、時局ノ収拾ニ努力シ来レルモ、南京政府ハ、毫モ誠意ヲ示サズ、益々中央軍ヲ北支ニ集中シテ、我方ニ挑戦シ来リタル結果、我方ハ遂ニ之ニ対シ、全面的応戦ノ已ムナキニ至リタルガ、其後、偶々八月九日上海ニ於テ、我ガ陸戦隊大山[勇夫]中尉及斉藤[与蔵]水兵ノ支那保安隊ニ依ル殺害事件起ルヤ、支那側ハ我方ノ和平的解決方針ニ対シ、言ヲ左右ニシテ応セズ、却テ益々停戦区域内ニ於ケル其ノ兵力並ニ軍事施設ヲ増大シテ、我方ニ対シ不法ニモ攻勢ニ出デタル為」帝国は反撃したと説明した。

A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.83)弁護文書(1945年敗戦後)では、次のようにある。
上海に於ける大山中尉殺害事件に関する外務省当局声明書」 (一九三七年八月十日)
一、現在上海に於て日支両軍ガ緊迫せる状況に立至つていることは明らかに、支那保安隊が日本海軍陸戦隊の大山[勇夫]中尉及斉藤[与蔵]一等水兵を殺害した事件に起因するものである。
二、大山[勇夫]中尉は斉藤[与蔵]水兵を伴ひ、之に自動軍を操従せしめ、その(上海海軍特別陸戦隊)西部派遣隊指揮官として保護を命ぜられたる地区(日本の投資莫大なる上海市西地区)の視察に赴いた所、租界管轄内にある越界路に於いて、支那保安隊の手によつて虐殺された。 大山[勇夫]中尉は顔面は中半潰され、脳奨内部共に露出していた。中尉の屍体には十八箇所の統創と刀創を認めたが、之は中尉の屍体を損壊しようとしたためである。

写真(右):1937年5月、上海事変前、中国、上海、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡「オーガスタ」USS AUGUSTA (CA-31)艦上、アジア艦隊司令長官ハリー・ヤーネル提督と日本海軍第三艦隊司令長官長谷川清(1883ー1970)提督:福井中学校退学後、正則英語学校を経て海軍兵学校(第31期)入学。席次は入学時196名中7番、卒業時173名中6番。戦艦「三笠」乗員として、日本海海戦に参戦、アメリカで海軍駐在武官として勤務を山本五十六に譲った後、中国駐留の第三艦隊司令長官に就任した。1937年8月の第二次上海事変では、長江の海上交通を保護するだけでなく、南京、重慶の海軍機による空襲も実施した。これが、九六式中攻を主力とする海軍航空隊による都市戦略爆撃である。また、海軍艦上機によるがアメリカ砲艦「パナイ」誤爆、撃沈に際しては、アメリカの反日世論と日本の対米世論の硬化を防ぐために、支那方面艦隊司令長官としてアメリカに謝罪し、補償することを認めた。
Title: Admiral Harry E. Yarnell, USN
Caption: Right, with Vice Admiral Kiyoshi Hasegawa, IJN, aboard USS AUGUSTA (CA-31) at Shanghai, China, in May 1937. Hasegawa was commanding the Japanese 3rd fleet while Yarnell was CINCAF. Note paravane in right background.
Description: Courtesy of Mr. and Mrs. Philip Yarnell, 1975
Catalog #: NH 81617
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 81617 Admiral Harry E. Yarnell, USN引用。

華北の北京は、天津とは繋がっているとはいえ、海上交通は貧弱で、日本海軍の勢力は弱かった。他方、華南の上海は、中国の経済中枢となる国際都市で、内陸との水上交通の要衝でもあり、日本海軍はこの地域への勢力拡張を狙っていた。1932年1月28日、第一次上海事変が勃発した時、上海にあった第一遣外艦隊・第二遣外艦隊への増派が決定し、この時ときに拡大した海軍部隊を第三艦隊としてを編制したのである。8月13日に第二次上海事変淞滬會戰)を起こすと、日本海軍は、華南の勢力範囲を保全し拡張するために、上海にあった第三艦隊を強化する事をきめた。

第二次上海事変後の1937年10月20日、中国方面における権益維持・日本人居留民の保護を強化すると称して、日本海軍は増援部隊を送って、中国に第四艦隊を新たに設け、既存の第三艦隊と併せて「支那方面艦隊」を編制した。

 支那方面艦隊とは、第二次上海事変淞滬會戰)の勃発後の1937年10月20日、中国の日本権益・日本人居留民の保護を目的に、既存の第三艦隊と新編の第四艦隊をもって編成された新艦隊で、中国方面海軍作戦を統一指揮する部隊である。翌1938年2月、広州など華南方面作戦に当たる第五艦隊が新たに編成された。1939年11月には、支那方面艦隊は改編され、第三艦隊(華中)を第一遣支艦隊に、第四艦隊(華北)を第三遣支艦隊に、第五艦隊(華南)を第二遣支艦隊に、そして、附属部隊(上海方面根拠地隊、第二連合航空隊、上海特別陸戦隊)に再編した。また、上海・青島・広東・厦門(アモイ)・漢口に特別根拠地隊を設置し、陸上警備も強化した。後に、南部仏印進駐、南支沿岸封鎖など支那方面艦隊は活動の場を広げ、太平洋戦争緒戦では、香港攻略作戦を担当した。

1934年には,陸軍・海軍大臣など現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督・後援を受けた国防婦人会も結成された。1934年の会員数は750万人である。兵士・兵営を支える家族、社会も戦争に参加しているのだと、彼女は理解できた。日本軍が中国で戦っており、「戦場(軍事衝突の起きる場所)」は中国にあるが、「戦争」には戦闘に加えて、資源採掘、生産、流通、消費、輸送などの局面があり、日本国内でも戦われている。

戦争とは、銃火を交える戦闘、住民虐待行為だけではなく、兵士を送り出す家族、会社員、兵士の食料・軍服・兵器を生産する労働者、軍事費の財源を徴税する行政官、兵士を運送する輸送船乗員によっても、戦われている。戦争に参加しているのは、全国民、植民地の住民すべてである。現在も「イラクで戦争している」ということがあるが、これは戦争=戦闘という矮小化であり、事実の誤解を招く。

写真(右):1937年8月14日(土曜)、中国、「ガーデンブリッジ」(外白渡橋)を通って、上海外灘(バンド)、上海国際共同租界に流れ込んできた中国人避難民:左は長江支流の黄浦江、手前は支流の蘇州河で、橋の袂にある22階建てブロードウェイマンション(1934年竣工)から撮影したようだ。奥の上海外灘(バンド)には、時計塔のある江海関(1927年竣工)が見える。
Title:Chinese refugees streaming over Garden Bridge onto the Bund, Shanghai
Notes: University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s67. Photograph taken from Broadway Mansions.
Caption on mount
Aug 14, 1937. refugees streaming out of Hongkew etc.
Collection:Lang, Archibald
Identifier:AL-s67
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

中国華南の上海、杭州、蘇州、南京などの歴史的大都市は、長江(揚子江)南に広がるという意味で江南と呼ばれ、中国の経済的、政治的中枢である。その中心地上海で、1937年8月13日、日中両軍が武力衝突する第二次上海事変が勃発した。この戦乱は人々を慌てさせた。上海にいた中国人は、列国資本のホテルやビルが立ち並ぶ上海国際共同租界(International Settlement)であれば、日本軍も中国軍も攻撃してこないと考え、中国人街から「ガーデンブリッジ」(外白渡橋)を渡って、外灘(バンド)、国際共同租界に流入してきた。

写真(右):1937年8月、中国、上海事変の最中、上海国際共同租界に土嚢で築かれた防御拠点とその前を走る東洋車(人力車:リキシャー):土嚢をどのように積むかで、防御力や堅固性が違ってくるが、短時間で構築することが重要な場合もある。人力車は、日本から中国の上海に19世紀末に伝わったため、「東洋車」と呼ばれた。黄色いホロを掛けるようになったので、黄包車とも呼ばれている。
Title: Shanghai, China
Caption: Sandbagged positions in the International Settlement of Shanghai during the Sino-Japanese War period, 1937. Note rickshaw man pulling his vehicle and Socony (Mobil) gas pump on the right.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77753
写真は Naval History and Heritage Command NH-77753 Shanghai, China引用。

1840年のイギリスは中国に対してアヘン戦争で勝利し、1842年に南京条約を結んだ。この結果、イギリスは、香港を割譲させ、中国の鎖国を解いて、上海など5港を開港させた。上海のガーデンブリッジ(外白渡橋)は、バンドが面している長江支流の黄浦江に注ぐ蘇州河の上に架けられた鉄橋である。1907年(明治40年)に建設されたガーデンブリッジは,現在でも復元処理がされて元の場所に残されている。写真の手前は、蘇州河北側で、日本人街のあった「虹口(ホンコウ)」地区である。上海国際共同租界(上海公共租界)との境界となる蘇州河は、北側が日本人街の虹口区や北四川路、南側が国際共同租界のあるバンドや南京路・エドワード7世通りなどで、ガーデンブリッジで繋がっている。

写真(右):1937年8月、中国、上海事変の最中、日中両軍の衝突の被害から逃れようと、家財を荷車に積んで退避する中国避難民。1937年11月に上海南市難民区が設置されたが、それ以前から上海共同租界なら、西洋人が多く住んでおり列国の権益の下にあり、安全はないかと避難民が押し寄せた。
Title: Shanghai, China
Caption: A refugee cart, piled high with personal belongings and furniture, is pulled by a man fleeing the fighting between Chinese and Japanese forces. View taken in the International Settlement, Shanghai, in August of 1937. Note the rocking horse.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77756
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77756 Shanghai, China引用。

上海国際共同租界では、上海公共租界工部局の下に、上海義勇部隊(Shanghai Volunteer Corps:S.V.C.)が編成されており、共同租界の警察力、警備兵力となっていた。火器や装甲車を装備しており、日本海軍特別陸戦隊と同じような役割を担っていた。

日本は、江南での権益と居留民の生命財産のために、日本海軍の上海海軍特別陸戦隊を設けていた。海軍陸戦隊は、第一次上海事変後の1932年10月1日に、海軍特別陸戦隊令によって正式に上海常駐が決定し、日本権益や在留日本人の生命財産保護を任務とする部隊である。上海特別陸戦隊司令部は、日本人街から少し離れた閘北の江湾路にあった。上海には正規の日本人租界はないが、上海国際共同租界の北側の虹口(ホンコウ)区には、日本人街があってこれが「日本人租界」と呼ばれることもある。日本人街「日本人租界」の南境界は、蘇州河Suzhou River)で、別名は呉淞江Suzhou Creek)である。蘇州河は、下ると黄浦江Huangpu River)に合流し、黄浦江は下ると長江(揚子江)に合流する。

上海市中心部、外灘(バンド)北の外白渡橋近くで黄浦江に合流する呉淞江(蘇州河)は、全長120kmほどだが、その過半は上海市内を流れている。長江、運河と結ばれた呉淞江は、重要な水上輸送路をなしていた。

写真(右):1937年8月、中国、上海事変の最中、日中両軍の衝突の被害から逃れようと、戦闘区から家財を荷車に積んで退避する中国避難民。1937年11月に上海南市難民区が設置されたが、それ以前から上海国際共同租界なら、西洋人が多く住んでおり列国の権益の下にあり、安全はないかと思われており、中国人避難民が押し寄せた。:荷車を曳いているのは、中国人だが、彼らの多くは雇われた労働者で、荷車に積んでいる家財道具は雇い主の財産である。
Title: Shanghai, China Caption: Refugees flee the battle zone, circa 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77980
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77980Shanghai, China引用。

1937年8月に第二次上海事変Battle of Shanghai)が勃発し、上海市内での戦闘がひと段落下11月になって、上海南市難民区が設置された。しかし、難民区が設定される前から、上海国際共同租界であれば、イギリス、アメリカなど西洋人が多く住んでおり、列国の権益の下にあるため、日中両軍が共同租界で戦闘を始め、列国の権益や居留民の生命財産を侵害する恐れは少ないと考えられていた。そこで、安全はないかと思われた上海国際共同租界に、多数の中国人避難民が、家財道具を運んで押し寄せてきた。ただし、荷車を曳いているの中国人は、雇われた労働者が大半であり、荷車に積んでいる家財道具は雇い主の財産であり、曳いている中国人の持ち物ではない。

写真(右):1937年8月、中国、上海事変の最中、上海共同租界、日中両軍の衝突の被害から逃れようと、僅かな家財を天秤棒で担ぎ子供の手を引いて退避する中国避難民。上海共同租界なら、列国の権益の下にあり、安全はないかと避難民が押し寄せた。
Title: Shanghai, China Caption: Refugees in the International Settlement, August 1937.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77760 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-77000/NH-77760.html引用。

上海にいたフランス居留民、カトリック教会ジャキノ神父は、第二次上海事変の紛争に巻き込まれた中国人避難民住民のための難民区を設定することを、日本と中国に提案した。この提案に基づいて、1937年11月に設置された上海南市難民区は、フランス人・イギリス人・スウェーデン人から成る難民区救助国際委員会が管理することになった。難民区では、武器の持ち込み・携帯は禁止され、日中両軍はここでの戦闘を行わないことを約束した。

写真(右):1937年8月以降、中国、上海のフランス租界に流れ込んできた中国人避難民:フランス軍兵士が警備にあたっている。
Title:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0004. See also Ro-n0005 and Ro-n0006
Notes: University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0004. See also Ro-n0005 and Ro-n0006Photograph taken from Broadway Mansions.
Collection:Rosholt, Malcolm
Identifier:Ro-n0004
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

1840年から1842年まで続いたアヘン戦争は、イギリスと清国の戦いだが、イギリスと不平等条約の南京条約を1842年に調印したことで、列国は最恵国待遇を求め、上海,寧波,福州,厦門(アモイ),広州の5の開港による居留地設定の動きが出てきた。1849年、上海フランス租界が設けられ、フランス人の居住区が設定されたが、この時期、にイギリスもイギリス人居住区として租界を設けようとしていた。その後、フランス以外の上海租界は、イギリスとアメリカの租界を中核に上海国際共同租界として統合されたが、フランス租界は統合に参加しないまま、単独で維持された。フランスは、租界をフランス独自植民地として、自国の文化を移植すべく、言語、建築などもフランス風にした。

写真(右):1937年8月以降、中国、上海のフランス租界に流れ込んできた中国人避難民:フランス軍兵士が警備にあたっている。黄浦江に面する外灘(ワイタン:バンド)から淮海路(ワイカイロ)には、現在でもフランス風建築が残っている。東西に長く拡がるフランス租界のほぼ中央を横断するのが、淮海路で、メインストリート。思南路と香山路の交差点にある孫中山故居記念館には、孫文が妻の宋慶齢と過ごした洋館も復元されている。革命家は、清国や袁世凱の警察力が及ばない上海フランス租界で身の安全を確保すると同時に、メディアや列国との関係を強化しようとした。
Title:Refugees in French Concession, Shanghai, with soldiers
Notes: University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0005. See also Ro-n0004 and Ro-n0006.
Identifier:Ro-n0004
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月以降、中国、上海国際共同租界、外灘(バンド)、第二次上海事変の戦火が広がり遠方に避難しようと外灘(バンド)に一時避難して移送を待つヨーロッパ人(フランス人?)と思われる避難民:後方の黄浦江には、軽巡洋艦クラスの白色の船体と艦橋・マストが見えている。ヨーロッパ人は、バンドから船舶で本国やインドシナ植民地などに避難していったようだ。
Title:Evacuees waiting, the Bund, Shanghai
Notes: University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0033. See Ro-n031..
Identifier:Ro-n0033
Copyright:2012 Mei-Fei Elrick and Tess Johnston
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月以降、中国、上海国際共同租界、外灘(バンド)、第二次上海事変の戦火が広がり遠方に避難しようと外灘(バンド)に一時避難して移送を待つスーツを着込んだヨーロッパ人(フランス人?)と思われる避難民:黄浦江に面した外灘(バンド)で避難先まで運んでくれる船舶を待っている。
Title:Evacuees waiting, the Bund, Shanghai
Notes: University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0036. See Ro-n0034, Ro-n0035, Ro-n0037, Ro-n0077.Copyright:2012 Mei-Fei Elrick and Tess Johnston

写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

1935年当時、上海市の人口は370万人で、中国各地から職や教育を求めやってくる移住者や、租界の外国人がすむ国際巨大都市だった。日本人は1922年から1928年の出入国管理記録によると、8,600人が住んでいた。1935年時点で、上海の国際共同租界とフランス租界あわせて、居留外国人は3万8,915人というが、これには日本人は含まれていないようだ。租界には、中国の統治権が及ばない治外法権地帯であった。

  写真(右):1937年8月以降、中国、上海国際共同租界、外灘(バンド)の岸壁(左)からフェリー(右)に乗り移るヨーロッパ人(フランス人?)と思われる避難民:子供たちやバックをフェリーに手渡している。
Title:Children and bag handed onto a packed ferry
Notes: University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0034. See Ro-n0035, Ro-n0036, Ro-n0037, Ro-n0077.
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

 上海の租界は、貧富の格差、人権の格差を感じさせると同時に、中国の主権や介入が及ばないことで、、政治的、経済的、文化的自由を享受しやすい側面があり、共産主義者、自由主義者、宗教家・宣教師、テロリスト、強盗団、密売人など様々なクラスの人々が居を構えた。また、経済的自由やタックスヘイブン的な脱税など、商業、金融などサービス業から、出版や新聞などメディアまで発展した。

写真(右):1937年8月以降、中国、上海フランス租界、鍔と突起の付いたアドリアンヘルメット(M15 Adrian Helmet)やケピ帽(円筒型制帽)を被った フランス軍兵士と可愛い子犬:第一次世界大戦でドイツに勝利したフランス軍だったが、4年以上の総力戦によって140万名の死者を出し、フランス北部も荒廃した。しかし、アフリカのアルジェリアやコートジボアール、アジアのインドシナ半島など植民地を確保しており、原料、市場、労働力など経済面では恵まれていた。また、中国には、アヘン戦争後に開港された上海など重要拠点に租界を設置し、治外法権や警察権も有する支配を行った。
Title:French army soldiers with a puppy
Notes:Rosholt, Malcolm
Identifier:Ro-n0082 Location:Shanghai
Estimated date:1937
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

中華民国空軍(中国空軍)の創設は、1932年で,ほとんどの機体は、諸外国から輸入したものだった。中国における飛行機の軍用利用は、中国国民党軍による軍閥の討伐、いわゆる「北伐」の時期だったが、空軍として戦争に加わったのは、1932年の上海事変の時だった。1930年代初頭、中国空軍は、イタリアから飛行機を輸入し、訓練を依頼しながら成長していったが、機材は少なく、部品も滞りがちで、稼働率も信頼性も低く、人材にも不足した。したがって、強大な日本の航空兵力に対抗するのは困難だった。そこで、宋美齡Soong Mei-ling)は蒋介石に自ら空軍の育成に乗り出したいとする意見を出した。そして、中国空軍を改善して、敵に勝つことのできる有效な武器を準備したいと希望を述べた。蒋介石はこれに同意し、こうして中国空軍の揺籃期が始まったのである。

1935年,宋美齡が督促したことで、中国はアメリカからの武器と飛行機を大規模に取り入れることが決まった。1937年,1936年,蒋介石夫人の宋美齡は、「軍事委員会航空秘書長」に就任したが、これは事実上、中国国民党空軍司令長官の地位と同じだった。この時期、宋美齡が掌握した空軍に彼女が招聘したアメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault陳納徳)将軍が中国にやってきて、中国空軍を育成することになった。

1937年8月13日,第二次上海事変が勃発すると、中国航空委員会は、「空軍作戦第一号令」を出し、1938年5月20日には、中国空軍の双発爆撃機マーチン139WC(B-10の中国輸出仕様)爆撃機(両架轟炸機)によって、日本本土に飛来し、上空で伝単(ビラ)を散布することを命じた。

 宋美齡Soong Mei-ling)に従う副官だった夏公権の回想では、居所の客間には、抗日戦争初期、南京大校飛行場で、空軍飛行兵に論功行賞をしている巨大な写真が掲げてあったという。宋美齡は、1937年3月12日,「航空の統一」の一文を発表し文、その中で「中国統一を新展開し促進するために、飛行機の果たすべき役割が大きい」とした。

1938年春, 宋美齡Soong Mei-ling)は、健康上の理由で航空委員会秘書長の職務から離れ、兄の宋子文に任務を任せた。しかし、宋美齡は始終、空軍の人事に対して影響力を奮い、訓練、作戦などの大権を保持していた。宋美齡は、中国航空委員会秘会長として、当時の中国空軍の組織編制に尽力し,日後、空軍から栄誉をもって“中国空軍之母”と呼ばれるようになった。宋美齡による中国空軍への卓抜な功績に鑑み、青天白日勲章を授与されたが,これは女性では唯一の受賞である。

宋美齡Soong Mei-ling)は、空軍へのアメリカからの軍事援助に関わっており、英語も堪能でアメリカの軍事顧問とも交流を図っていたから、空軍の作戦を独自の見解で進める気概を持ち、それを誇りにしていたようだ。その後も長い間、胸に空軍飛行徽章を飾っていた。そして、自分が空軍の母であると考え、それを愛し、国民党空軍を「我的空軍」と呼んでいた。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路にあるキャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。上海事変での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海共同租界には及ばないと考えた中国人が多数、国際共同租界に流入してきた。しかし、中国空軍は、日本海軍装甲巡洋艦「出雲」などを攻撃しようとして、誤って共同租界内に爆弾を投下した。そのため、避難していた中国人が誤爆で多数死傷した。
Title:Accidental bombing, Nanking Road, Shanghai
Caption: View of Nanking Road, Shanghai, as it looked after the bombing in the International Settlement by Chinese planes, on 14 August 1937. The Cathay Hotel is on the right.
Catalog #: NH 50892
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は NH 50892 Accidental bombing, Nanking Road, Shanghai 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路のキャセイ・パレスホテルに中国空軍のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。実は、中国人の多くは、第二次上海事変Battle of Shanghai)での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海共同租界には及ばないと考えた。しかし、中国空軍がバンドの日本海軍装甲巡洋艦「出雲」を空襲したが、投下した爆弾は、共同租界内に落下し、繁華街で爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと共同租界に避難していた中国人がこの誤爆で多数死傷した。
Title:Shanghai, China
Caption: Aftermath of Chinese bomb explosion at the Cathay and Palace Hotels, Nanking Road, Shanghai, on 14 August 1937.
Description: Courtesy of Vice Admiral M.L. Deyo, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77845
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は NH 77845 Shanghai, China 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路、キャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。
Title:Casualties and debris, Cathay Hotel bombing, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s53. Chinese bombers were apparently trying to bomb the Japanese cruiser Izumo (Idzumo), when two bombs fell between the Cathay and Palace Hotels in Nanking Road. Approximately 400 people were killed or wounded. Known as “Bloody Saturday”. Side entrances to the Cathay Hotel are on the right. See AL-s59. Cathay & Palace Hotels : Aug 14 1937
Location:Shanghai Date:Saturday 14 August 1937
Identifier:AL-s55
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

1937年8月13日、第二次上海事変Battle of Shanghai )で日中両軍の武力衝突が起こったが、実は、中国人の多くは、上海での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海国際共同租界には及ばないと考えた。しかし、1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国空軍がバンドの日本海軍装甲巡洋艦「出雲」を空襲し要としたとき、投下した爆弾は、共同租界内に落下し、繁華街で爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと上海国際共同租界に避難していた中国人がこの誤爆で多数死傷した。第二次上海事変Battle of Shanghai)では共同租界のグランドパレスホテルも誤爆され、投下された爆弾によって、上海の戦闘から逃れ避難していた中国人など400名が死傷してた。ニューワールド娯楽街でも1000名が死傷した。中国空軍機による上海国際共同租界の誤爆は、大惨事をもたらし、「血の土曜日」と呼ばれるようになった。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、中国空軍のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機の投下した爆弾が爆発し大きな被害を受けたキャセイ・パレスホテルの脇出入口附近。 中国空軍がバンドに停泊していた日本海軍第三艦隊旗艦の装甲巡洋艦「出雲」を空襲したが、爆弾は目標を外れて、共同租界のグランドパレスホテルに落下、爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと共同租界に避難していた中国人など400名が誤爆で死傷して「血の土曜日」と呼ばれるようになった。
Title:Casualties and debris, Cathay Hotel bombing, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s59. Chinese bombers were apparently trying to bomb the Japanese cruiser Izumo (Idzumo), when two bombs fell between the Cathay and Palace Hotels in Nanking Road. Approximately 400 people were killed or wounded. Known as “Bloody Saturday”. Side entrances to the Cathay Hotel are on the right. See AL-s53.
Location:Shanghai Date:Saturday 14 August 1937
Identifier:AL-s59
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海共同租界、南京路にあるキャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。多くの中国人が上海事変での戦闘に巻き込まれるのを避けるために、列国の利権の錯綜した上海共同租界に退避した。しかし、中国空軍が日本海軍装甲巡洋艦「出雲」を空襲した時に、誤って投下した爆弾が、共同租界内に落下し、繁華街で爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと共同租界に避難していた中国人がこの誤爆で多数死傷した。
Title:Casualties and debris, Cathay Hotel bombing, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s55. Chinese bombers were apparently trying to bomb the Japanese cruiser Izumo (Idzumo), when two bombs fell between the Cathay and Palace Hotels in Nanking Road. Approximately 400 people were killed or wounded. Known as “Bloody Saturday”.
Cathay & Palace Hotels : Aug 14 1937
Location:Shanghai Date:Saturday 14 August 1937
Identifier:AL-s55
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路にあるキャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。列国資本のホテルやビルが立ち並ぶ上海国際共同租界であれば、日本軍も中国軍も攻撃してこないと考え、多数の中国人が租界に避難してきた。しかし、国際共同租界は上海バンドの近くで、バンドには、日本海軍装甲巡洋艦「出雲」など艦艇が停泊していたため、中国空軍機が攻撃してきた。中国空軍戦闘員にとって、実戦は初めてであり、艦船攻撃も初めてだった。そこで、投下した爆弾は目標を外れて、キャセイホテルで爆発した。
Title:Casualties and debris, Cathay Hotel bombing, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s57. Chinese bombers were apparently trying to bomb the Japanese cruiser Izumo (Idzumo), when two bombs fell between the Cathay and Palace Hotels in Nanking Road. Approximately 400 people were killed or wounded. Known as “Bloody Saturday”.
Cathay & Palace Hotels : Aug 14 1937
Location:Shanghai Date:Saturday 14 August 1937
Identifier:AL-s57
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、エドワード7世通り(Ave Edward VII)に中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。列国資本のホテルやビルが立ち並ぶ上海国際共同租界であれば、日本軍も中国軍も攻撃してこないと考え、多数の中国人が租界に避難してきた。しかし、国際共同租界は上海バンドの近くで、バンドには、日本海軍装甲巡洋艦「出雲」など艦艇が停泊していたため、中国空軍機が攻撃してきた。中国空軍搭乗員たちにとって、初の実戦経験で、目標とする艦船は識別も困難だったはずだ。そこで、投下した爆弾は目標を外れて、エドワード7世通り(Ave Edward VII)で爆発した。
Title:Victims of 'Bloody Saturday' bombing, Ave Edward VII, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s63. Carnage due to a bomb dropped from a Chinese aeroplane, on “Bloody Saturday”.
Location:Victims : Av. Edward VII. Aug 14 1937.
Identifier:AL-s63
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月14日16時27分、中国、上海共同租界、エドワード7世通り、ニューワールド娯楽街に中国空軍ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。実は、中国人の多くは、上海事変での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海共同租界には及ばないと考えた。そこで、日中両軍の衝突の被害から避けるように、共同租界のニューワールド娯楽街に一時避難していた。そこを、中国空軍に誤爆され大きな被害を出してしまったのである。
Title:Shanghai, China
Caption: The New World amusement center, on Avenue Edward VII, in the international settlement of Shanghai, on 14 August 1937, after a Chinese aerial bomb explosion at 4:27 in the afternoon. The amusement center had been a temporary shelter for refugees fleeing the Sino-Japanese fighting.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77940
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77940 Shanghai, China 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時27分、中国、上海共同租界、エドワード7世通り、ニューワールド娯楽街に中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。
Title:Shanghai, China
Caption: Devastation and carnage at Avenue Edward VII, in the international settlement, where a Chinese bomb exploded on 14 August 1937, at approximately 4:27 pm, killing nearly 1,000 people on the "Bloody Saturday."
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973. Catalog #: NH 77837
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77836 Shanghai, China引用。

1937年8月13日、第二次上海事変淞滬會戰)での日中両軍の戦闘は、当初は一時的なものであり、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツなど列国の利権が確立されている上海共同租界に、日中両軍が不法侵入することはないと考えられた。そこで、日中両軍の衝突の被害から避けるように、多数の中国人が、国際共同租界に避難し、ニューワールド娯楽街も避難民でいっぱいになった。しかし、1937年8月14日(土曜)16時27分、中国、上海国際共同租界、南京路、キャセイ・パレスホテル、エドワード7世通り(Ave Edward VII)、ニューワールド娯楽街に中国空軍機所属のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機が飛来、誤爆した爆弾が爆発して、1000名近くの多数の死傷者を出す大惨事になった。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時27分、中国、上海国際共同租界、エドワード7世通り、ニューワールド娯楽街に中国空軍ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。上海事変で二中両軍の戦闘が始まっても、列国の居留民が多く、利権も錯綜した上海共同租界なら安全だと考えた中国人が、ニューワールド娯楽街など共同租界に避難していたが、そこに中国空爆撃機が日本軍の拠点と錯覚して爆弾を投下した。
Title:Shanghai, China
Caption: Carnage on Avenue Edward VII, in the international settlement of Shanghai, 14 August 1937. Bomb dropped on the "New World" amusement center, where refugees had been housed, the resultant blast killed nearly 1,000 people. Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77836
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77836 Shanghai, China引用。

写真(右):1937年8月14日、中国、上海国際共同租界(International Settlement of Shanghai)、上海事変で中国空軍爆撃ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆され殺害された中国人避難民:中国空軍は、アメリカ製、ソ連製の軍用機を輸入し、軍事顧問も招聘して、空軍部隊の訓練を行った。特に、蒋介石夫人の宋美齢は、英語に堪能だったため、中国に対する国際的な軍事援助を引き出すために尽力し、空軍の創設にも関わった。しかし、第二次上海事変Battle of Shanghai)で初めての本格的出撃で、誤爆による大惨事を招いたのは、空軍が血気にはやり、訓練不足・準備不足の中で、初の実戦攻撃を仕掛けたためであろう。
Title: Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.
Caption:View of four Chinese victims of an accidental bombing by Chinese Air Force Planes, in the International Settlement of Shanghai, 14 August 1937. Catalog #: NH 50880
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 50880 Shanghai, China引用。

写真(右):1937年8月14日、中国、上海国際共同租界、上海事変で中国空軍のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆され殺害された遺体を片付ける作業
Title:Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.
Caption: The intersection of Avenue Edouard VII and Thibet Road a few minutes after Chinese bombs dropped into the heart of Shanghai's International Settlement. Rescue efforts are attempting to identify the injured, 14 August 1937.
Catalog #: NH 50888
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真はNaval History and Heritage Command NH 50888 Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.引用。

第二次上海事変Battle of Shanghai)に際して、日本の『ジヤパン・タイムズ』は、1937年8月16日、「支那の暴戻」として、「支那空軍租界爆撃の暴挙は世界を驚かせたり、支那が之によりて諸外国の干渉を招かんとしたりとせば甚しき近眼と云はざるべからず、此の罪悪に対して支那を罰し租界に於る各国人を守るは日本軍の義務なり」と非難した。

1937年8月16日の『東京朝日新聞』は「上海租界爆撃事件の反響」「世界・暴虐支那を怒る」として「支那飛行機の租界爆撃はイギリスにも非常なセンセイションを起して昨日の夕刊も今朝の各新聞にも大々的に報ぜられています、 イギリスに達した上海電報によればその支那飛行機の爆撃によって五百余名の死者と九百名の負傷者を出し、その中イギリス人の死亡者が四名、負傷者が七名であると報ぜられて居ります」と中国空軍機の誤爆を喧伝した。

写真(右):1937年8月14日、中国、上海国際共同租界、上海事変で中国空軍のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆された中国人の遺体を片付ける上海国際義勇隊(Shanghai Volunteer Corps:S.V.C.)
Title: Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.
Caption: View of members of the Shanghai Volunteer Corps, working to clear the streets by loading corpses aboard trucks. Hundreds were killed and injured when an accidental bomb fell from Chinese planes, near the Palace and Cathay Hotels in the International Settlement of Shanghai, 14 August 1937.
Catalog #: NH 50891
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真はNaval History and Heritage Command NH 50891 Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.引用。

写真(右):1937年8月14日、中国、上海事変で中国空軍のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆された上海国際共同租界(上海公共租界)で遺体を運搬する上海国際義勇隊(Shanghai Volunteer Corps:S.V.C.):この誤爆で居留外国人には被害が出なかったのか。
Title: Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.
Caption: View of members of the Shanghai Volunteer Corps, working to clear the streets by loading corpses aboard trucks. Hundreds were killed and injured when an accidental bomb fell from Chinese planes, near the Palace and Cathay Hotels in the International Settlement of Shanghai, 14 August 1937.
Catalog #: NH 50890
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 50890 Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China. 引用。

写真(右):1937年8月14日午後16時半、上海バンド、中国空軍ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆されるアメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」USS AUGUSTA (CA-31) :ノースロップ ガンマ2E爆撃機は、アメリカ重巡「オーガスタ」に2発の爆弾を投下し、爆片と爆風で損傷したが、負傷者はなかった。
Title: USS AUGUSTA (CA-31)
Caption: Shortly after two bombs fell off her starboard quarter from a Chinese Air Force Northrop 2E bomber. The incident took place shortly after 4:30pm on the afternoon of Saturday, 14 August 1937. There were no casualties but fragments showered the ship. The AUGUSTA was mistaken for a Japanese ship.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77705
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77705 USS AUGUSTA (CA-31) 引用。

日本海軍将校大山勇夫海軍中尉と運転手の斎藤與蔵一等水兵が乗用車で、上海の中国軍虹橋飛行場(機場)に突入し、敬語の中国警備兵に射殺された「大山事件」(虹橋機場事件)を契機に、1937年8月13日、第二次上海事変淞滬會戰)が勃発した翌8月14日午後、中国空軍ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機は、上海の日本軍装甲巡洋艦「出雲」あるいは付近の陣地を空襲するために、上海上空に飛来した。しかし、初陣で実戦での目標識別に慣れていなかったためか、16時30分、アメリカ重巡「オーガスタ」を誤爆した。中国機は、2発の爆弾を投下し、アメリカ重巡「オーガスタ」を爆片と爆風で損傷させたが、負傷者はなかった。

同日16時27分、中国空軍の別のノースロップ ガンマ2E爆撃機は、上海国際共同租界のキャセイ・パレスホテル、ニューワールド、エドワード7世通りも爆撃したが、これも目標を誤って誤爆であり、1000人近い中国民間人の死傷者が出たという。

写真(右):1937年8月14日午後16時半、上海バンド、中国空軍ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆されるアメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」USS AUGUSTA (CA-31) :ノースロップ ガンマ2E爆撃機は、アメリカ重巡「オーガスタ」に2発の爆弾を投下し、爆片と爆風で損傷したが、アメリカ人乗員に負傷者はなかった。
Title: USS AUGUSTA (CA-31)
Caption: View taken as two Chinese bombs are dropped off her starboard quarter by a Northrop 2E of the Chinese Air Force. The incident took place at 4:30pm on the afternoon of 14 August 1937, five miles downstream from Shanghai proper.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77687
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77687 USS AUGUSTA (CA-31) 引用。

写真(右):1935-1936年頃、中国空軍がアメリカから購入したノースロップ社製造のノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):胴体後方と主翼下面両端には「青天白日」の中華人民共和国の記章が描かれている。前金属製、単葉の新型爆撃機は、国防空軍力の急速な増強を図っていた中国、イギリス、ソビエト連邦に輸出、売却された。ノースロップ爆撃機前期シリーズの特徴となる主翼下面の車輪収納用の巨大なスパッツが物々しく、これではかえって空気抵抗が増えたり、空中機動性が低下しないかと心配になる。このようなスパッツは、整備する上でも、タイヤ交換や点検に不便である。
Ray Wagner Collection Image
Northrop : 2E : Gamma Catalog #: 00069781
Manufacturer: Northrop
Official Nickname: Gamma
Designation: 2E
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
SDASM Archives By: SDASM Archives Follow Friend Family
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069781引用。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、その前のガンマ2C(Gamma 2C )の爆弾搭載量1,600 ポンド (727 kg)とした輸出軍用仕様で、1938年まで中国空軍で使用された。また1933年に1機(K5053)がイギリス航空機兵装装備実験施設(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)に、2機が日本海軍航空隊(Imperial Japanese Navy Air Service)にノースロップ(Northrop)BXNとして輸出、試験された。その後、アメリカ海軍が改良型の開発を指示したのがXBT-2である。ノースロップ社はダグラス社に吸収され、改良型XBT-2は、SBDドーントレスの原型機として完成した。

ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機「中華民国軍」:1930年代にアメリカのノースロップ社が開発しノースロップ・ガンマは全金属製高速郵便/レーサー機として少数が使われた。ガンマ2Eは、中国空軍仕様の単発爆撃機で、1937年8月の第二次上海事変Battle of Shanghai)に際して、上海の日本海軍艦艇、陣地攻撃のために実戦に投入された。1930年代に実用化された機体としては、抜群に洗練された空力的設計で、高性能だったために、アメリカ陸軍も軍用型を開発した。日本海軍は、軍用機設計の参考にするために、「ノースロップ飛行機」として研究用に輸入している。奇しくも、日中両軍が同じアメリカのノースロップ機に関心を示していたのである。1937年、このノースロップ機の発展型として、アメリカ海軍の急降下艦上爆撃機「ドーントレス」(Douglas)が実用化される。軍の需要も限られるなか、各種の飛行機が少数ずつ製造されて、飛行機の技術も着実に進歩していた時期なので、戦争時期のような大量生産に至らないままの飛行機が多かった。


第二次上海事変淞滬會戰)の時期、上海のような大都市で、陣地や艦船など軍事目標を空襲しようとしても、当時の軍用機では正確な攻撃は困難である。そこで、戦闘員だけでなく民間人も誤爆され、大きな被害を受けることになる。

1937年8月14日・23日、第二次上海事変では、中国空軍ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機が日本海軍装甲巡洋艦「出雲」を狙った時も、アメリカ・イギリスの艦艇が誤認され攻撃されそうになった。また、陣地と間違えたのか、ホテル・繁華街が誤爆され、多数の中国民間人が死傷した。

ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機は、軍用仕様で、1933年にアメリカ陸軍用に試作したガンマ(Gamma)2C (YA-13)の発展型。ガンマ(Gamma)2C (YA-13)は、カーチスA-12(Curtiss A-12 Shrike)と同じく、主翼に0.30インチ(7.62ミリ)機関銃4丁を固定装備し、後席に0.30インチ(7.62ミリ)旋回機関銃1丁を防御用に装備した。爆弾搭載量は、1,100ポンド (500 kg)で主翼の下に懸架、吊り下げる。

カーチスA-12(Curtiss A-12 Shrike)も 1936年に20機が中国空軍(Republic of China Air Force)の第9軍の第27・第28飛行中隊に配備され、実戦参加した。

1933年に中国軍とスペイン軍に提供されたノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2Eは、ノースロップ社が、25機分のの部品を中国で組み立て、中国空軍に納入した。ガンマ2Cに比べて、爆弾搭載量は1,600 ポンド (727 kg) に増大されている。中国空軍(Republic of China Air Force)では軽爆撃機(light bomber)として、1938年まで中国で製造された。ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2Eは、イギリス航空装備実験所(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)がK5053として使用し、日本海軍(Imperial Japanese Navy Air Service)が1933年にノースロップ(Northrop)BXNとして性能試験に使用した。

写真(右):1936-37年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)第四大隊高志航大隊長のカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk):1934年9月13日に試作機が初飛行、その後中国が購入、輸入し中国空軍に主力戦闘機として配備した。
English: 1930s Hawk III of China Air Force.
中文: 本機為第四大隊大隊長高志航鷹三型戰轟機。鷹三型戦轟機為抗日戦争初期,中国国空軍主力戦機,又稱霍克三 (Hawk III)。第一次公開在国人面前是在民国二十五年十月卅日,為慶祝蒋公五十歳生日,由第四大隊大隊長高志航少校率卅五架霍克三,在南京市明故宮機場上空編成「中正」二字的空中分列式。並在民国26年8月14日筧橋空戦時,曾創下撃落日機3架的紀録!
Date 1930s
Source http://lov.vac.gov.tw/
Author ROC government
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:1930s Hawk III of China Air Force.jpg引用。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団(20PG)のボーイング(Boeing) P-26A ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 17th Pursuit Group):1931年にボーイング社がボーイング・モデル248として設計した初めての全金属性の戦闘機(追撃機)。固定脚、開放式コックピット、張線式主翼と従来の保守的構造も残している。「ピーシューター(Peashooter)」とは豆鉄砲を意味する。
PictionID:46703819 - Catalog:16_007892 - Title:Boeing P-26A 20PG Headquarters flight - Filename:16_007892.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---
Ray Wagner Collection Image
Catalog #: 00005685
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は SDASM Archives Catalog #: 00005685引用。

中国空軍は、アメリカから輸入し訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月14日から第二次上海事変淞滬會戰)に実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイング P-26戦闘機8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

写真(右):1938年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊のマーチンB-10爆撃機(Martin B-10):1930年にマーチン社は、自主開発で123型を試作、これは前金属製、胴体内に爆弾槽を設けた双発爆撃機だった。1932年3月にXB-907試作機が完成、最高速力317 km/hは当時としては高速だった。1933年にYB-10の名称で48機の発注がなされた。日中戦争中、1938年5月19日に中国空軍のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)2機は、重慶を発進、で漢口と寧波を中継して九州の熊本県人吉に宣伝ビラを撒き、玉山と南昌を経由して漢口に帰還した。これが日本本土初空襲となった。
マーチン B-10爆撃機諸元:
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m、全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル、全備重量: 7,460 kg、発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基、最高速力: 343 km/h、実用上限高度:7,365 m、航続距離: 1,996 km、爆弾搭載量 1,050 kg、兵装:7.62ミリ機銃3丁、乗員 4名。
Title: Martin, B-10
Catalog #: 00005685
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は SDASM Archives Catalog #: 00005685引用。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:ポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納される。対空偽装のためにポリカルポフ I-153戦闘機の上に樹木が置かれている。
1937年8月21日の中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)によって、中国空軍はソ連空軍から供与された全金属製・引込み脚の新鋭機として、ポリカルポフ (Polikarpov) I-153、I-16戦闘機、ツポレフ(Tupolev ) SB(エスベー)爆撃機を購入し、部隊配備した。
フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20616引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてI-15を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China b
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01358引用。

ポリカルポフ(Polikarpow)I-153bis戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

1930年代後半、ソ連空軍戦闘機の主力戦闘機となったポリカルポフ I-16戦闘機は、1936年のスペイン内戦に共和国軍への軍事援助のために派遣され、ファシスト軍のドイツやイタリアの軍用機と空中戦を行った。そして、1937年8月の第二次上海事変淞滬會戰)、日中戦争にも、中国国民政府に派遣され、中国空軍戦闘機として、日本軍との戦った。特に、第二次上海事件に際して、江南上空で、新型の九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機、渡洋爆撃で喧伝された九六式陸攻など日本海軍機を攻撃して戦果を挙げた。wikipediaは「いずれの戦闘でも敵方により新しい高性能の戦闘機が現れたことで、不運にもある意味で「やられ役」を演じることとなってしまった」とあるが、これは初めての実戦投入1936年から5年以上も経過してからの第二次世界大戦の中盤の時期の出来事であり、ソ連空軍は、その後、ラボーチキン、ミグ、ヤクの各新鋭戦闘機に改編している。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)供与も受けている。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A):出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていた。
Description The SB, known to Tupolev as the ANT-40, first flew in 1934. It was designed as a high speed bomber and had a maximum speed of 280mph, which was faster than fighters of the time such as the Polikarpov I-15 which could only reach 220mph. A successful machine, it was flown by ten countries and was not finally retired from Spanish service until 1950. Despite over 6,600 being built and many surviving the war, this is now the only remaining example. In 1939 it had force landed during a snow storm near the Yuzhne Muiski Mountain range in the Baikal Region. The remains were recovered in the late 1970’s and restoration was carried out by a volunteer group of Tupolev employees. It first went on display at Monino in April 1982 and after several years outside in all weathers it is now safely under cover in the new Hangar 6B, which has been built behind the main entrance building. At the time of our visit the hangar had not been officially opened to the public, but we were given special permission to access it from Hangar 6A. Central Air Force museum, Monino, Moscow Oblast, Russia. 27th August 2017
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機の諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架1トン

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)供与も受けている。

満州事変、盧溝橋事件、第二次上海事変淞滬會戰)と、中国の北部から華中の上海にまで日本軍が侵攻してきた。愛国心の高まりの中で、中国人の中にも対日戦争を開始すべきだという世論が高まった。国民との蒋介石は、国内の中国共産主義勢力を封じ込めることを優先し、日本による中国侵攻に対しては、国際的圧力により日本の行動を抑制しようとしたが、上手くいかなかった。最後の関頭に至って、蒋介石も対日戦争を開始することを決意した。日中戦争は、中国から仕掛けられた、だから日本は悪くないというのは、戦争を決意することがいけないという戦後日本の平和教育(彼らの言う洗脳教育)の成果である。反中国の立場で、戦後日本の平和教育・占領軍の洗脳教育を批判する者こそ、自らの矛盾に全く気づいていない。侵略者(として決めつけた敵)に対して抵抗して戦うのは英雄的行為である、世界にはこのように考える人々も多い。1938年9月の対ドイツ宥和のミュンヘン協定Munich Agreement)は、イギリス・フランスの外交的失敗として反省され、1939年11月のソ連とフィンランドの冬戦争Winter War)は、フィンランの戦争決意が讃えられている。この状況が理解できないと、戦争を決意した国は悪い国だという短絡的発想に落ちてしまう。

写真(右):1937年、中国、上海北鉄道駅、中国国民党の蒋介石隷下の兵士
Title:Nationalist troops in show of defence of Shanghai North Railway Station
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0102. The soldiers have posed for a set up photograph. See Ro-n0103, Ro-n0104, Ro-n0105, Ro-n0106 and Ro-s071.
Collection:Rosholt, Malcolm
Identifier:Ro-n0102
Copyright:2012 Mei-Fei Elrick and Tess Johnston
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

中国国民党蒋介石は、ドイツから軍事顧問団を招聘した。これは1934年4月、中国に向かったヨハネス・フォン・ゼークト(Johannes von Seeckt、1866-1936)将軍、エルンスト・フォン・ファルケンハウゼン(Ernst von Falkenhausen, 1878-1966)など著名な参謀本部経験者や実戦経験者だった。彼らは、プロシア式訓練、ドイツ式装備を中国軍(蒋介石の直径軍隊)に施した。さらに蒋介石は、反共であるにもかかわらず、1937年8月21日、中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)を調印して、軍事的支援をソ連赤軍にも求め、ソ連の軍用機、航空機搭乗員を中国軍に招いた。そして、アメリカ軍の軍用機、イギリス軍の戦車などを輸入し、国民党の直系軍に配備し、軍を近代化、訓練した。そして、列国の利権が錯綜する江南地方で日本軍との戦闘が、第二次上海事変淞滬會戰)となって始まれば、列国は権益保護のために戦争に介入し、日本の侵略行為を抑制しようとすると考えた。

写真(右):1937年、中国、上海北鉄道駅、中国国民党蒋介石隷下の中国軍兵士:1896年にマウザー社が開発した大型軍用モーゼル(マウザー) C96 自動拳銃 Mauser C96 )は、ドイツ陸軍制式拳銃で、第一次世界大戦で使用された。使用した弾薬は、7.63x25mmモーゼル弾あるいは.30口径(0.3インチ)モーゼル弾である。しかし、当時ドイツ陸軍の拳銃弾の9mmパラベラム弾を使用するM1916型もある。M1916型は7.63ミリ弾との混同を防止するために、グリップ(銃把)に「9」の赤色刻印がされていた。中国では、軍閥や有力馬賊が好んで購入したが、中国軍は、一号拳銃の名称で使用し、弾薬を中国軍が使用していた.45ACP弾に改めている。中国で国内生産もなされ、漢陽兵工廠、後には太原兵工廠で製造された。
Title:Nationalist soldiers with Mausers, amid barbed wire
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0105. The soldiers have posed for a set up photograph. See Ro-s0102, Ro-n0103, Ro-n0104, Ro-n0106.
Collection:Rosholt, Malcolm
Identifier:Ro-n0102
Copyright:2012 Mei-Fei Elrick and Tess Johnston
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年、中国、上海北鉄道駅、中国国民党蒋介石隷下の中国軍兵士:手にしているのはドイツ陸軍制式のモーゼル(マウザー) C96 自動拳銃( Mauser C96 )でストックを装着している。このストックは、拳銃を入れる収納ケースにもなった。
モーゼル(マウザー) C96 自動拳銃 Mauser C96 の諸元
口径 7.63mm 、銃身長 140mm
使用弾薬 7.63x25mmマウザー弾
全長 308mm(ストック装着630mm)
重量 1,100g(ストック装着1,750g)
銃口初速 430m/s
Title:Nationalist soldier, North Railway Station, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0103. The soldiers have posed for a set up photograph. See Ro-n0102, Ro-n0104, Ro-n0105, Ro-n0106 and Ro-s071.
Collection:Rosholt, Malcolm
Identifier:Ro-n0103
Copyright:2012 Mei-Fei Elrick and Tess Johnston
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年、中国、上海北鉄道駅、中国国民党蒋介石隷下の中国軍兵士:手にしているのはドイツ陸軍制式のモーゼル小銃(Gew98)。モーゼル小銃(Gew98)は、手動、弾倉供給方式の槓桿式装填(ボルトアクション)小銃で、全長1,250mm、銃身長740mm、重量4.09kg。弾倉には7.92mm×57弾を5発装填。 銃口初速878 m/s、有効射程500 m。
Title:Soldier at bomb damaged North Railway Station, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0116. See Ro-n0115, Ro-n0117, Ro-n0118, Ro-n0119, Ro-n0120, Ro-n0492, Ro-n0493, Ro-n0494, Ro-n0495, Ro-n0496, Ro-n0720, Ro-n0721, Ro-n0722, Ro-n0723, Ro-n0724, Ro-n0725.
Collection:Rosholt, Malcolm
Identifier:Ro-n0116
Copyright:2012 Mei-Fei Elrick and Tess Johnston
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年、中国、上海近郊、塹壕を掘って、ブルーノZB26軽機関銃を手にした蒋介石隷下の中国軍兵士:手にしているチェコスロバキア陸軍制式ブルーノZB26軽機関銃ZB vz. 26)を日本軍兵士は、その性能を評価しチェコ機銃と呼んだ。
オーストリア=ハンガリー帝国から独立して間も無いチェコスロバキアは、国土防衛を強く意識して、兵器の近代化、国産化に着手した。陸軍は1923年に新型軽機関銃の仕様を出し、ブルーノ兵器廠で設計・施策が行われた。使用弾薬は、オーストリア時代か使用していた小銃弾(7.92 mm×57モーゼル弾)で、1926年、ブルーノZB vz.26軽機関銃としてチェコスロバキア陸軍に制式された。
ブルーノZB26軽機関銃の諸元
口径 7.92mm
銃身長 503mm
使用弾薬 7.92×57mm
装弾数 20/30発箱型弾倉
作動方式 ガス圧作動方式
全長 1130mm 、 重量 9.6kg
発射速度 550発/分。
Title:Nationalist soldiers in trench, with machine gun
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0109. See Ro-n0110, Ro-n0111, Ro-n0112, Ro-n0113.
Collection:Rosholt, Malcolm
Identifier:Ro-n0109
Copyright:2012 Mei-Fei Elrick and Tess Johnston
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年、中国、上海近郊、塹壕を掘って、ブルーノZB26軽機関銃の射撃姿勢をとる蒋介石隷下の中国軍兵士:チェコスロバキア陸軍制式のブルーノZB26軽機関銃は、構造が簡単で、作動も安定していたため、信頼性が高かった。使用弾薬を.303ブリティッシュ弾仕様に改造したブレン軽機関銃は、イギリス陸軍に正式された。中国戦線で「チェコ機銃」「ブルーノ機銃」に苦戦した日本軍は、中国軍から鹵獲したチェコ機銃を重宝にしていたが、これは日本陸軍の制式機銃である十一年式軽機関銃が、ホッパーマガジンに砂塵やほこりが入り、弾薬油と一緒になって作動不安定で故障が頻発していたためである。そこで、日本軍は戦車や装甲車の車載器中を開発するに際して、名古屋工廠でZB26を無断複製して、九七式車載重機関銃として採用している。
Title:Nationalist soldiers in trench, with machine gun
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: Ro-n0109. See Ro-n0110, Ro-n0111, Ro-n0112, Ro-n0113.
Collection:Rosholt, Malcolm
Identifier:Ro-n0110
Copyright:2012 Mei-Fei Elrick and Tess Johnston
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

さらに、中国の国内世論も、満州事変、盧溝橋事件と日本の中国における傍若無人な振る舞い、主権侵害の侵略的行為に反発を強めていた。蒋介石が日本との融和、国内共産主義者の掃討ばかりを優先していれば、中国国民党の支持も世論の支持も失ってしまうのは確実である。そこで、上海事変が勃発した時点で、江南地方で抗日戦争を開始することを決意した。

第二次上海事変淞滬會戰)開始時点で、装甲巡洋艦「出雲」は、長谷川清中将司令官の指揮する第三艦隊の旗艦として、上海にあった。1937年7月7日の盧溝橋事件以降、上海で戦闘が始まると、装甲巡洋艦「出雲」は8月14日、中国空軍機の空襲に遭った。

写真(右):1937年、中国、上海外灘(バンド)、長江(揚子江)支流の黄浦江に停泊する日本海軍千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」:1934年3月12日、佐世保沖の夜間演習中、荒天のために水雷艇「友鶴」は転覆した。その後、艦艇の武装強化によるトップヘビーを改め、復元性能回復の改造が行われた。千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」は、1932年11月11日起工 、1933年10月1日進水、1934年2月24日竣工、改装後は、基準排水量 772トン、全長 82.00m 、全幅 7.40m、吃水 2.30m、ロ号艦本式缶2基・艦本式タービン2基2軸、1万1,000馬力、最高速力 28ノット、航続距離 14ノットで3,000マイル、乗員 120名、兵装:45口径三年式12センチ単装砲3門、53センチ魚雷連装発射管1基2門(魚雷2本)
Title: TOMODZURU (Japanese Torpedo Boat)
Caption: View taken at Shanghai, China, circa 1937. Note detail of bridge and splinter protection (with the use of mattress padding). The TOMODZURU was commissioned in 1933.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77725
写真は Naval History and Heritage Command NH 77725 TOMODZURU (Japanese Torpedo Boat) 引用。

写真(右):1937年4月、中国、上海外灘(バンド)のブロードウェイマンション(上海大廈:1934年竣工)をバックにした日本海軍軽巡洋艦「夕張」 :長江(揚子江)支流の黄浦江に停泊中。22階建てのブロードウェイマンション(上海大廈)の袂には、蘇州河にかかるガーデンブリッジ(外白渡橋)があり、その北側には、虹口(ホンコウ)と呼ばれた日本人街があった。
軽巡洋艦「夕張」の諸元
起工1922年6月5日、進水1923年3月5日、竣工1923年7月31日
満載排水量 竣工時:4,377トン
全長139 m、水線長137m、全幅12 m、吃水 4.5 m
ロ号艦本式缶重油専焼ボイラー
ギアードタービン3基3軸
出力6万馬力、最高速力 34.7ノット
航続距離3,310マイル/ 14ノット
兵装:50口径14センチ連装砲2基4門
61センチ連装魚雷発射管2基(搭載魚雷10本)
Title: Yubari
Description: (Japanese Light Cruiser, 1923) Off Shanghai, China, in April 1937. Photograph was sent to the Navy Department with a Commander Asiatic Fleet (CinCAF) report. Note laundry hung over the ship's lifelines. The building in the left distance is the Broadway Mansion hotel. The original print came from Rear Admiral Samuel Eliot Morison's World War II project working files. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 82098
写真は Naval History and Heritage Command NH 82098 Yubari 引用。

国際都市上海には、アメリカ海軍艦艇も停泊しており、日本の情報収集も行っていた。その一環として、艦艇などの写真撮影を組織的に行っていた。他方、日本海軍は、上海で他国海軍などの艦艇の写真撮影を組織的に行っていい。個人的な関心から撮影しているのみだったことは、福井静雄氏の思い出にも触れられている。

写真(右):1937年8月18日、中国、上海外灘(バンド)、長江(揚子江)支流の黄浦江に停泊する日本海軍軽巡洋艦「由良」 :船尾にカタパルトを装備し、その上に九五式水上偵察機を搭載している。背景には、イギリス海軍駆逐艦「ダンカン」HMS Duncanも見える。バンド陸上の右後方は、中国GM(General Motors China:ジェネラルモーターズ)の倉庫で、屋根に白色ペイントで社名が描かれているのが分かる。
5500トン型軽巡「由良」は、1921年5月21日起工、1922年2月15日進水、1923年3月20日就役の旧式艦。
満水排水量5,570トン、全長 162.15 m、全幅 14.17 m 、吃水 4.80 m 、出力 9万馬力、最高速力 36.0ノット 、乗員 450名、兵装:50口径三年式14センチ単装砲7門、40口径三年式8センチ(76.2ミリ)単装高角砲 2門、 八年式61センチ連装魚雷発射管 4基8門、呉式二号三型射出機 1基、艦載機 九五式水上偵察機 1機
Title: Yura Description: (Japanese Light Cruiser, 1923) Off Shanghai, China, on 18 August 1937, during hostilities between Japan and China. The British destroyer Duncan is steaming in the opposite direction, beyond Yura's stern. Note General Motors China, Inc., godown (warehouse) in the right background, Holt's Wharf in the left distance, and sampan in the right foreground. Courtesy Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (Retired), 1973. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 77699
写真は Naval History and Heritage Command NH 82098 Yubari 引用。

写真(右):1937年8月18日、中国、上海外灘(バンド)、長江(揚子江)支流の黄浦江に停泊する日本海軍第三艦隊旗艦装甲巡洋艦「出雲」 :装甲巡洋艦「出雲」諸元:排水量:9,773トン 全長 123.0m、全幅 20.9m、機関出力 1万4,000馬力、最高速力 20.8ノット、航続距離 10ノット/7,000マイル、乗員 648名、舷側装甲:178mm、上部水線帯:127mm、甲板装甲:102mm、バーベット 152mm 司令塔:356mm、兵装(新造時) 20.3センチ45口径連装砲2基、15.2センチ40口径単装砲14門。
Title: IDZUMO (Armored cruiser, Japanese, 1899)
Caption: View taken on 18 August 1937. Note mattress padding around machine gun and control positions, and boats tied up alongside. View probably taken from USS AUGUSTA (CA-31) as she was on her way up river to moor off the bund. IDZUMO was, at the time, the Third Fleet flagship, Vice Admiral Kiyoshi Hasegawa, Commander in Chief.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77838
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Wed, Aug 18, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77838 IDZUMO (Armored cruiser, Japanese, 1899) 引用。

1932年1月28日、第一次上海事変の時、中国駐留の第一遣外艦隊・第二遣外艦隊を中核に上海特別陸戦隊など増派部隊も含めて、第三艦隊が編制された。第三艦隊(長谷川清提督)の任務は、長江(揚子江)流域の日本の権益・居留民の保護で、河川砲艦が主力だった。しかし、江南地方は、中国の経済社会の中枢で、上海国際共同租界のような列国の権益も錯綜していたため、国際関係上も重要な役割を担った。

1937年7月7日の盧溝橋事件、1937年8月13の第二次上海事変淞滬會戰)で日中戦争が激化すると、1937年10月、第四艦隊が中国に編成され、既存の第三艦隊と統合した支那方面艦隊が編制された。第三艦隊司令部(長谷川清提督)が支那方面艦隊司令部を兼ねたため、当面は、第三艦隊の名称が続いた。しかし、1939年11月15日、支那方面艦隊隷下の艦隊3個は、第三艦隊が第一遣支艦隊のように変更され、第三艦隊の名称は使われなくなった。

写真(右):1937年10-11月、中国、上海事変時、外灘(バンド)、長江(揚子江)支流の黄浦江に停泊するイギリス海軍カウンティ級重巡洋艦「カンバーランド」 (HMS Cumberland, 57)四本煙突の「カンバーランド」は1924年10月18日にバロー・イン・ファーネスのヴィッカース・アームストロング社造船所で起工し、1926年3月16日進水、1928年2月23日に就役 :満載排水量:1万3,450トン、Mark VIII 8インチ(20.3cm)50口径連装砲4基、Mark V 4インチ(10.2cm)45口径高角砲 4門、2ポンド(4cm)39口径4連装ポムポム砲 2基、 12.7ミリ4連装機銃 2基、53.3センチ4連装魚雷発射管 2基
手前は、オランダ海軍駆逐艦「ヴァンガーレン」VAN GALEN、右側にフランス海軍スループ ( SAVORGNAN DE BRAZZA または DUMONT D'URVILLE)、イギリス海軍重巡「カンバーランド」 の奥に隠れているのがアメリカ海軍重巡「オーガスタ」(USS Augusta: CA-31) 。排水量: 9,050 トン 全長: 600 ft 3 in (182.96 m) 全幅: 66 ft 1 in (20.14 m) 吃水: 16 ft 4 in (4.98 m) 最高速力: 32.7 ノット 乗員: 735名 兵装: 8インチ(20.3?)砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門 7.62mm機銃8基 21インチ魚雷発射管6門。
Title: HMS CUMBERLAND (British cruiser, 1926)
Caption: In center of picture, moored behind (upstream) of USS AUGUSTA (CA-31) and ahead of French sloop (either SAVORGNAN DE BRAZZA or DUMONT D'URVILLE). Dutch destroyer VAN GALEN is moored at a point just below the center of the picture. View taken in Shanghai, China, in October of 1937. Broadway Mansions Hotel is above the right center of the picture, beyond "man-of-war row."
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77870
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Wed, Aug 18, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77870 HMS CUMBERLAND (British cruiser, 1926) 引用。

写真(右):1937年8月、中国、上海事変で火災炎上する上海外灘(バンド)と長江(揚子江)支流の黄浦江に停泊するアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)
Title: USS Augusta (CA-31)
Description: Anchored off Pootung Point, Shanghai, China, during Sino-Japanese hostilities, circa August 1937. Fires from combat action are burning ashore, beyond the ship. Courtesy of Captain P. Henry, Jr., USN (Retired), 1973. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 78379
写真は Naval History and Heritage Command NH 78379 USS Augusta (CA-31)引用。

アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31) は、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。アジア艦隊司令長官はハリー・ヤーネルHarry E. Yarnell:1875-1959)海軍大将(提督)だった。

写真(右):1937年9月29日、中国、上海国際共同租界(上海公共租界)、上海外灘(バンド)のドームのある香港上海銀行ビル(1921年5月起工、1923年6月竣工、現在の上海浦東発展銀行)と時計塔のある江海関(1927年竣工)をバックにしたアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)艦上のアメリカ海軍アジア艦隊司令長官ハリー・ヤーネル (Harry E. Yarnell)海軍大将とヤーネル提督夫人:1893年、海軍兵学校入学、卒業後の1898年、サンチャゴ・デ・キューバ海戦に戦艦オレゴン (USS Oregon: BB-3)で参戦。米比戦争にもフィリピンで参戦、1900年の義和団事件に参戦。第一次大戦中は、ジブラルタル勤務。1927年に空母サラトガ (USS Saratoga,:CV-3) 艦長に就任。1930年、ロンドン海軍軍縮会議に参加。1936年10月に海軍大将に昇進、アジア艦隊司令官を1939年7月まで3年間務めた。その後退役したが、1941年11月1日、太平洋戦争直前に対中国軍事援助顧問。
Title: Admiral Harry E. Yarnell, USN
Caption: With his wife Emily, view taken on 29 September 1937 at Shanghai, China, aboard USS AUGUSTA (CA-31).
Description: Yarnell collection, 1975
Catalog #: NH 82016
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Creator: Lieutenant Commander Kincaid, photographer
Original Date: Wed, Sep 29, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 82016 Admiral Harry E. Yarnell, USN引用。

1941年8月9日、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31) は、大西洋会談に際して、ニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地にルーズベルト大統領を運んだ。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官を乗せアントワープに向かった。

写真(右):1937年8月、中国、上海事変の最中の上海国際義勇部隊(Shanghai Volunteer Corps:S.V.C.)が塹壕を掘削し、陣地を構築している。
Title: Shanghai Volunteer Corps
Caption: Digging trenches and erecting earthworks in their defense sector. Circa 1937, at Shanghai, China, international settlement.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77947
写真は Naval History and Heritage Command NH 77767 Shanghai, China引用。

上海国際共同租界(上海公共租界)を警備する唯一の京義兵力として上海公共租界工部局によって組織されたのが上海義勇部隊(Shanghai Volunteer Corps:S.V.C.)で、中国では上海万国商団と呼ぶ。1853年の太太平天国の乱で,アメリカ領事館が外国人居留民から編成した。1854年以来活動しており、上海光復、五四運動、「一・二八」事件、上海事変など歴史的重大事件で、列国の権益と居留民保護のために出動した。

写真(右):1937年8月、中国、上海事変の最中の上海国際義勇部隊(Shanghai Volunteer Corps:S.V.C.)と機関銃砲塔を搭載した装甲車:装甲車の荷台の兵士は、イギリス軍・アメリカ軍のヘルメットを被っているのは、義勇軍とはいっても装備・軍服などは正規軍から援助されていたためである。
Title: Shanghai, China Caption: Armored car, Shanghai Volunteer Corps (S.V.C.), August of 1937.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77767
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Creator: Lieutenant Commander Kincaid, photographer
Original Date: Wed, Sep 29, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77767 Shanghai, China引用。

1941年,日本軍の上海共同租界進出、1942年,日本軍による上海共同租界の占領で、上海義勇部隊(Shanghai Volunteer Corps上海万国商団)は、上海公共租界工部局の命令で解散されることになった。

写真(右):1937年8月20日頃、上海事変時の上海外灘(ワイタン:バンド)で、フィリピンのキャビテ軍港から大型客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)で到着するアメリカ第4海兵隊への増援部隊を待つトラックの群れ(右中央)。上海外灘(ワイタン:バンド)に上陸した海兵隊員は、これらの迎えに来たトラックに乗車して基地に移動した。:この写真には、アメリカ海兵隊を運搬するトラックが10台以上写っている。
Title: Shanghai, China
Caption: Trucks await the embarkation of the Cavite Navy Yard detachment. Along the bund, circa August 1937. The detachment of Marines was to reinforce the 4th Marines in protecting American lives and property in "C" sector..
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77949
Original Date: 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77949 Shanghai, China引用。

アメリカは、1937年8月13日、第二次上海事変が勃発すると、過小な兵力では、アメリカの居留民や財産を保護することはできないと考え、上海共同租界に駐留する第四海兵隊"China Marines"を早急に増強する決定を下した。そこで、急遽、フィリピン、マニラ南郊外のキャビテ基地に駐屯していた海兵隊を、ダラー蒸気船ラインDollar Steamship Line)の大型客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)でフィリピンから上海に増派した。

写真(右):1937年8月20日、上海事変勃発後、フィリピンのマニラ郊外キャビテ軍港から上海外灘(ワイタン:バンド)に到着したアメリカ第4海兵隊への増援部隊:ダラー蒸気船ライン(Dollar Steamship Line)の客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)乗って、フィリピンから中国に移動し、アメリカ人中国居留民の生命財産を保護する任務に就いた。ただし、1941年12月8日の太平洋戦争開戦時、中国方面のアメリカアジア艦隊も中国駐留アメリカ海兵隊も、フィリピン方面に撤収していた。
Title: Shanghai, China
Caption: U.S. Marines arrive from Cavite, reinforcements to aid the 4th Marines in guarding U.S. lives and property in the international settlement of Shanghai, China. Passage was in the dollar liner PRESIDENT HOOVER, circa August 1937. USS AUGUSTA, in the river in the background, is visible under the roof of the customs jetty.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77873
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77804 Shanghai, China引用。

1937年8月13日に勃発した第二次上海事変淞滬會戰)の時は、アメリカ人中国居留民の生命財産を保護する任務を完遂するために、フィリピンのキャビテ軍港から海兵隊を中国の上海バンドに迅速に増派した。しかし、太平洋戦争直前の1941年11月には中国駐留アメリカ軍(主力は"China Marines")は、フィリピンに引揚げることが決定した。日本軍の攻撃を受けたら支えきれないアメリカ領グアム島にもアメリカは兵力を駐屯させていなかった。

写真(右):1937年8月20日、上海事変時の中国、上海外灘(ワイタン:バンド)、フィリピンマニラ郊外のキャビテ軍港からダラー蒸気船ライン(Dollar Steamship Line)の客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)で上海に到着したアメリカ第4海兵隊への増援部隊。上海外灘(ワイタン:バンド)に上陸して、迎えに来た無蓋トラックに乗車しようとしている。:右後方には、倉庫の屋根の向こうに薄っすらとアメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」の前楼(マスト)が見えている。
Title: U.S. Marines
Caption: Arriving from Cavite in the SS PRESIDENT HOOVER to reinforce the 4th Marines in Shanghai, circa August 1937. Foremast of USS AUGUSTA (CA-31) visible in background. Note Marines' trucks and uniforms, etc. .
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77874
Original Date: Fri, Aug 20, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77874 U.S. Marines引用。

1937年8月13日に勃発した第二次上海事変淞滬會戰)は、国際的な枠組みの中でも大きな出来事だった。8月14日、中国空軍機の空爆で、上海国際共同租界が誤爆され大きな被害を蒙った。この空爆は、江南地方に進出していた日本海軍第三艦隊の艦船を攻撃するものだったため、米内光政海軍大臣は、中国泡の空襲に激怒し、近衛文麿首相も8月15日深夜1時半、「帝国政府声明」を発表し、日本が事件不拡大の方針で平和的、局地的処理を企図してきたにも拘わらず、支那が帝国を侮辱し不法暴虐を行い、日本人居留民の生命財産が侵害された。帝国は隠忍の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、南京政府の反省を促すため、断固たる措置をとる」とした。

1937年8月13日に勃発した第二次上海事変淞滬會戰)で、8月14日の深夜、日本海軍は隷下の「空襲部隊は全力を挙げて敵航空基地を急襲、敵航空兵力を覆滅すべし」との命令を台湾の台北基地の鹿屋航空隊、九州の大村・長崎の木更津航空隊に発している。

写真(右):1937年8月20日、上海事変時の中国、上海外灘(ワイタン:バンド)、フィリピンマニラ郊外のキャビテ軍港からダラー蒸気船ライン(Dollar Steamship Line)の客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)で到着したアメリカ第4海兵隊への増援部隊。上海外灘(ワイタン:バンド)に上陸後、迎えに来たトラックに乗り込んだ。これからアメリカ海兵隊の駐屯地に移動する。
Title: Shanghai, China
Caption: U.S. Marines from U.S. Marine Corps Detachment Cavite embark on trucks after arriving in Shanghai on 20 August 1937 after arriving from Manila on SS PRESIDENT HOOVER. These troops were the first U.S. reinforcements in large numbers for the 4th Marine Regiment which had the task of defending the U.S. ("C") Sector of the International Settlement from possible harm during the Sino-Japanese fighting there in the summer of 1937. .
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77800
Original Date: Fri, Aug 20, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77800 Shanghai, China 引用。

中国空軍機の空爆後になされた近衛文麿首相の「暴戻膺懲」の声明は、日中戦争の目的のを国内外に掲げたものだったが、これはかえって日本を国際的孤立に追い込むことになった。

中国国民政府蒋介石は、ソ連と中ソ不可侵条約を調印し、ソ連軍から戦闘機、爆撃機などの供与を受けることになった。中国は、国共合作によって、アメリカ・ドイツからの兵器輸入だけなく、ソ連からの軍事援助を獲得し、国際的な援助を受けて、日中戦争を戦うことを決意した。

写真(右):1931年、中国、上海、長江(揚子江)支流の黄浦江、ダラー蒸気船ライン(Dollar Steamship Line)の新鋭大型客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)総トン数2万2000トン:長江は全長は6300kmの大河であるが、上海にいた外国人は、最下流部を指す「揚子江」(ようすこう: Yangtze River)の名称を使った。上海バンドの面した黄浦江Huangpu River)は、長江(揚子江)と支流の一つである。
Title: SS PRESIDENT HOOVER Caption: At Shanghai on her maiden transpacific voyage, 1931.
Description: Collection of Lieutenant Oscar W. Levy, USN SC ret.
Catalog #: NH 94172 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 94172 SS PRESIDENT HOOVER引用。

客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)は、1930年12月竣工の総トン数 2万1,936 トン、乗客988名・乗員370名(船員・給仕)、巡航速度20ノットの新鋭大型客船で、ダラー蒸気船ライン(Dollar Steamship Line)の太平洋航路(極東航路)の花形で、姉妹船には客船「プレジデント・クーリッジ」(President Coolidge)だった。戦時兵員輸送の倍は、兵士5,000名以上を運搬すことができた。

写真(右):1937年8月30日、上海事変時の中国、上海沖合の長江・黄浦江合流地点に停泊中の大型客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)総トン数2万2000トンが中国空軍機の誤爆を受けた。:フィリピンのキャビテ軍港から上海にアメリカ第4海兵隊への増援部隊を輸送した客船「プレジデント・フーバー」は、当時、長江の最下流部「揚子江」(ようすこう: Yangtze River)と上海バンドに面した黄浦江Huangpu River)の分流地点に停泊していた。中国軍の空襲で爆弾が1発命中、3発至近弾となり、客船の船員7名が死傷(1名死亡)、乗客3名が倒れた。
Title: SS PRESIDENT HOOVER
Caption: Attacked by Chinese bomber aircraft while anchored in the estuary of the Yangtze River at 5:40pm on the afternoon of 30 August 1937. Seven crew members were injured (one later died) and three passengers were stunned as a result of the one hit and three near misses on the Dollar Line ship.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77702
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Mon, Aug 30, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77702 SS PRESIDENT HOOVER引用。

1937年8月13日に勃発した第二次上海事変淞滬會戰)に際して、中国、上海のアメリカ権益と居留民を保護するために、アメリカは、フィリピンにあった海兵隊の一部を、上海に派遣した。その時に使用したのが、「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)総トン数2万2000トンで、ダラー蒸気船ラインDollar Steamship Line)の花形大型客船だった。

輸送後、フィリピンのキャビテ軍港から上海にアメリカ第4海兵隊への増援部隊を輸送し、長江(揚子江:Yangtze River)と上海バンドに繋がる黄浦江Huangpu River)の合流部に停泊していた。黄浦江は、長江の支流の一つである。1937年8月30日、突如、中国空軍機が飛来し、日本軍船舶とみなして誤爆した。中国空軍機の投下した爆弾は1発命中、3発が至近弾となった。爆発によって、乗員7名が負傷、うち1名は後に死亡し、乗客3名が卒倒した。

写真(右):1937年9月19日、上海外灘(ワイタン:バンド)に到着したアメリカ海軍輸送艦「ショーモン」USS Chaumont AP-5。:上海事変に際してアメリカ海兵隊第4連隊の増援に派遣されたアメリカ海兵隊第6連隊の兵士たちは、アメリカ海軍輸送艦「ショーモン」USS Chaumont AP-5で上海に到着した。左端は、ドームのある1923年建築のイギリス香港銀で上海税関の関税の預託銀行として最有力の銀行だった。右隣は、時計塔のある江海北関(現在の上海税関)で1927年建築、外国船への徴税を担当しが、管理権は列国にあった。右の三角屋根は、サッスーンハウス(Sassoon House :沙遜大厦)で1928年建築、上海の不動産王サッスーン財閥の本拠地、11階建、高さ72m、パーマー&ターナー事務所による上海アールデコ様式の摩天楼。現在は、現在和平飯店北楼。
Title: USS Chaumont
Description: (AP-5) Arriving off the Bund at Shanghai, China, with the 6th Regiment, U. S. Marine Corps, on 19 September 1937. The Marines had been sent to reinforce the 4th Marine Regiment in guarding the U. S. sector of the International Settlement during the Sino-Japanese war. The tug is St. Sampson or St. Dominic. Courtesy of Vice Admiral M. L. Deyo, USN (Ret.), 1973. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77810
Original Date: 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77810 USS Chaumont 引用。

アメリカ海軍輸送艦「ショーモン」USS Chaumont AP-5の諸元
1921年11月竣工
排水量 1万700トン、満水排水量:1万3,400トン
全長448' 全幅 58' 吃水 26'
カーチスタービン1軸 6,000馬力、最高速力: 14 knots
乗員: 249 -286人、輸送人員:1,350人
1943年9月にアメリカ海軍輸送艦「ショーモン」USS Chaumont AP-5は、病院船「サマリタン」USS Samaritan (AH-10)に改修。

写真(右):1937年9月19日、上海外灘(ワイタン:バンド)に到着した、上海事変に際してアメリカ海兵隊第4連隊の増援に派遣されたアメリカ海兵隊第6連隊の兵士たち。乗船しているのは、アメリカ海軍輸送艦「ショーモン」USS Chaumont AP-5。:フィリピンのキャビテ軍港からの増援部隊は、大型客船「プレジデント・フーバー」(SS President Hoover)で到着したが、その後の増援部隊は、アメリカ海軍輸送艦で上海外灘(ワイタン:バンド)まで運ばれた。
Title: USS Chaumont
Description: (AP-5) Men of the 6th Regiment, U. S. Marine Corps, watching the ship arrive at Shanghai, China, on 19 September 1937. They had been sent to reinforce the 4th Marine Regiment in guarding the U. S. sector of the International Settlement during the Sino-Japanese war. Courtesy of Rear Admiral J. P. Walker, USN (Ret.), 1973. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 77949
Original Date: 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77949 Shanghai, China引用。

1941年12月8日の太平洋戦争開戦時、中国方面のアジア艦隊は、フィリピン方面に撤収していた。フィリピンのアジア艦隊の兵力は、キャビテ軍港を中心に、重巡1隻、軽巡2隻、駆逐艦13隻、潜水艦29隻、水上機母艦4隻、潜水母艦3隻、掃海艇5隻、魚雷艇6隻、砲艦6隻、飛行艇36機などだった。中国方面の兵力の大半は撤収していたのは、日米開戦の危機が認識されていたためである。日本軍の攻撃を受けたら支えきれないアメリカ領グアム島にもアメリカは兵力を駐屯させていなかった。

1927年2月、中華民国の内戦で、国民党軍が北部の軍閥を討伐する「北伐」を実施し、上海近郊でも戦闘が始まったため、日本海軍は、上海の権益と居留民保護を名目に、陸上警備兵力として、呉鎮守府特別陸戦隊1個大隊(300人)を上海に派遣した。その後、佐世保鎮守府、横須賀鎮守府からも特別陸戦隊を各1個大隊を派遣した。1932年1月の第一次上海事変の時点では、上海海軍陸戦隊は中国十九路軍と対峙した。1937年の第二次上海事変の当初も、上海の陸戦隊は2400名程度の兵力しかなかった。

上海海軍特別陸戦隊は、海軍部隊であるために、海軍艦艇により日本本土からの増援や補給を迅速に受けることができ、機動力のある部隊だった。また、装備についても、都会や港湾の警備のために、市街戦用に装甲車や軽火器など少人数ではあったが、充実した装備を誇っていた。陸軍の大隊よりも少数ではあっても、装甲車などによってそれを補うことができたのである。市街戦用に、当時の日本陸軍は装備していなかったイギリス陸軍のビィッカース・クロスレイM25 装甲車(7.7ミリ機銃2丁装備の半球形砲塔搭載)、ドイツ陸軍のMP18/28ベルグマン機関短銃(短機関銃)も配備していた。

写真(右):1937年8-11月、上海事変時期の中国、上海、中国人地区を巡回する日本海軍陸戦隊の兵士たち:一見すると学生服のようだが、実は、日本の旧制中学以来の学生服は、軍服を素地にデザインされたものである。女学生のセーラー服も、文字通り、水兵の軍服のデザインを採用している。
Title: Shanghai, China
Caption:Japanese Navy personnel tour the devastated Chinese sector of Shanghai in the wake of Sino-Japanese fighting there in August through November of 1937.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77741
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77741 Shanghai, China引用。

1937年8月、上海特別陸戦隊第一中隊長(西部派遣隊)大山勇夫中尉が部下とともに虹橋飛行場正門に突入を計り、警備していた中国兵士に銃撃、殺害された大山大尉事件が勃発した。これを契機に、上海特別陸戦隊司令官大川内傳七海軍少将は、あえて優勢な中国軍に果敢に戦いを挑み、日本海軍による中国江南地方、華中への進出を開始した。

笠原十九司(2017)『日中戦争全史』上によれば、北支事変の停戦交渉のために船津辰一郎による工作が功を奏する前に、日本海軍は、中国の経済・政治中枢で水上交通の要衝でもある華中の勢力圏を拡大しようとした。そこで、日中間の武力衝突を正当化するために、日本人が中国軍兵士に理由なく殺害されるという謀略を仕組んだ。上海海軍特別陸戦隊司令官大川内伝七は部下の大山勇夫中尉に「お国のために死んでくれ、家族の面倒はみる」と約束し、1937年8月9日に中国軍の警備する虹江飛行場に突入するように懇願した。これは、無防備の日本軍将校が、中国兵に一方的に不法殺害されたという事件を仕組むことで、開戦の口実を得ようとするものだというのである。大山勇夫中尉は独身で忠勇至誠の生真面目な愛国者であり、事件の前日、書類整理を焼却し風呂に入り身を清め襦袢と褌を着替えた。

 1937年8月9日当日の午前中、中隊全員を集合させ最後の訓話をした。「皆は今、戦死をしても何の心残りのない者は手をあげよ、----中隊長は感謝に耐えない、それでこそ立派なご奉公ができるものである」とし、感極まって言葉なく目は異様に光って居たという。そして、陸戦隊将校とわかる制服で武器も携行せずに出かけ、9日午後18時半頃に殺害された。

その夜、8月10日午前3時20分発電に海軍省人事局から大山中尉の実家への電報「大山中尉昨9日午後6時30分頃上海ニ於テ戦死ヲ遂ゲラレシ旨公電アリタリ取リ敢ヘズ」、8月10日午後19時50分発電 海軍省人事局から大山中尉の実家までの電報「大山中尉9日附、大尉ニ進級正七位ニ叙セラル」、8月10日午後21時55分発電 米内光政海軍大臣から大山中尉の実家までの電報「大山海軍大尉名誉ノ殉職ヲラレシ候痛惜ニ耐ヘズ慎ミテ弔意ヲ表ス」

 大山事件の詳細もわからないうちに、日本海軍は、事件に対し迅速に対応したが、これは計画通りの行動だったというわけである。

写真(右):1937年、上海事変時期の中国、上海虹口(ホンコウ)区中部、四川北路、日本軍の将校たちは、軍刀を持ち、双眼鏡を首からさげている。1937年8月23日に呉淞に上陸した日本陸軍第三師団の将校のようだ。:四川北路は、虹口区で古くからある商店街を南北3.7キロほどの長さの道路。この北は魯迅公園、南は蘇州河がある。
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese officers at north Szechuan Road in Shanghai, circa 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77939
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77789 Shanghai, China引用。

日本陸軍の将校は、陸軍士官学校(陸士)に入学し、職業軍人として停年まで奉職することが原則だった。士官学校の兵科では、歩兵が主力で、騎兵・砲兵があったが、工兵・輜重兵・憲兵は人気がなかった。特に、輜重(しちょう)は補給を担う総力戦では重要な兵科であるが、士官学校や将校の間では、輜重は最下位の扱いを受けた。最前線の戦闘だけを花形として重視した歪んだ士官学教育のために、日本軍の将校の能力は低いままで、アメリカ・イギリス軍からも評価されなかった。対照的に、日本軍の下士官・兵は、忍耐強く、戦意が高いとして高く評価された。これは、現代の日本の大規模な組織にも当てはまろう。

写真(右):1937年夏後半、上海事変時の中国、上海、南島(黄浦江から北200m、日本人街東)、日本海軍陸戦隊の所属の八九式中戦車:1932年の第一次上海事変でも八九式戦車が配備され実戦参加したが、その戦車をそのまま上海に残しておき、日本海軍陸戦隊に譲渡したのではないか。1937年8月23日、第二次上海事変では、日本陸軍第三師団が上海の呉淞に増派されたが、上陸場所に12トンもある戦車を荷揚げできるクレーン設備はなく、船のデリックでも困難だった。その時に戦車揚陸がされなかったとすれば、やはり第二次上海事変の勃発前から海軍の上海特別陸戦隊が保有していたのであろう。
Title: Shanghai, China Caption: Japanese medium tanks in Nantao, the southern suburb of Shanghai, during Sino-Japanese fighting there in the late summer of 1937. Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired) Catalog #: NH 77804 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77804 Shanghai, China引用。

第二次上海事変に投入された八九式中戦車は、陸軍造兵廠大阪工廠で1929年(紀元2589年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成。陸軍の八九式軽戦車は、試作段階だったようだが、実用試験を兼ねて、1932年の第一次上海事変で、独立戦車第二中隊に配備され実戦参加した。マスメディアでは「鉄牛部隊」として喧伝された。しかし、機動力と信頼性が低いために、不整地での行動が制限され、日本陸軍も戦車の大量配備は行わなかった。その後、改良を重ねて1935年になって制式された。

 八九式戦車は国産初の量産戦車で、当初八九式軽戦車として制式されたが、その後、改修され八九式中戦車として制式された。甲型はガソリンエンジンを搭載、その後に出現した乙型はディーゼルエンジンを搭載した。ガソリンエンジンよりもディーゼルエンジンのほうが燃費が良く、被弾にも強いが、重量が課題になる傾向にある。太平洋戦争前、映画「西住戦車長」にも登場し、大戦中には第七戦車連隊の八九式戦車がアメリカ軍とも戦った。

八九式中戦車の諸元
全長 5.75 m、全幅 2.18 m、全高 2.56 m 、全備重量 12.7 t
懸架方式:リーフ式サスペンション
最高速度 25 km/h(整地)、8 km/h(不整地)
航続距離 140 km
主砲 18口径九〇式五糎戦車砲(携行100発)
九一式6.5ミリ車載機関銃(十一年式軽機関銃の車載型)
最大装甲 17ミリ
乗員 4名

写真(右):1937年、上海事変時期の中国、上海、日本海軍陸戦隊司令部、上海の戦闘で、日本軍が中国軍から鹵獲したイギリス製ビィッカース 6トン戦車(ビッカース軽戦車):
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese medium tank leaves naval landing force barracks in the Japanese sector of Shanghai, circa 1937. Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77915
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77915 Shanghai, China引用。

ビッカース6トン戦車は、ソ連赤軍も導入し、T-26軽歩兵戦車として製造していたが、原型は、イギリスのビィッカース・アームストロング社が開発した中型戦車である。1928年に開発されたビッカース6トン戦車は、輸出用に製造されたのみで、イギリス陸軍では制式になっていない。中華民国は1934年に ビッカース6トン戦車維克斯六頓坦克)を購入し、陸軍装甲兵団戦車営第一連に配備した。

イギリスから中国軍が輸入したビッカース6トン戦車維克斯六頓坦克)は、第二次上海事変(淞滬會戰)初期に、日本軍に対して実戦使用された。ただし、歩兵、砲兵との協同作戦が十分にできず、構成は失敗し、3輌が撃破され、8両が損害を蒙った。その上、少なくとも2両が日本軍に鹵獲されている。過大な損失のために、上海事変後は、残ったビッカース6トン戦車維克斯六頓坦克)は、陸軍200師と新編成の突突縦隊に配備され、蘭封会戦に投入された。その結果は、日本軍に3両が撃破された。その後、余剰戦車は、装甲兵学校の教育用機材として使用された。その中の1両は1950年代まで、台湾の国民政府樹立時期まで残っていたという

写真(右):1937年8月、中国、上海での中国軍との戦闘の最中に、土嚢を作り運搬する日本軍将兵:日本海軍陸戦隊が装備したビィッカース・クロスレイM25四輪装甲車 (Vickers-Crossley M25 Armoured Car) が左奥に見える。
ビィッカース・クロスレイM25四輪装甲車 (Vickers-Crossley M25 Armoured Car) の諸元
全長 5.01 m、 全幅 1.88 m
全高 2.61 m、 重量 4.85 t
ビィッカース・クロスレイM25四輪装甲車 (Vickers-Crossley M25 Armoured Car)
最高速度 64 km/h、航続距離 128 km
兵装:7.7ミリ機関銃2丁(搭載弾数3,500発)
装甲厚 5.5mm
クロスレイ直列水冷4気筒ガソリン50馬力
乗員 4名
Title: Shanghai, China Caption: Japanese troops drag sandbag forward to build barricade during street-fighting against Chinese troops, circa 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77929
写真は Naval History and Heritage Command NHNH 77929 Shanghai, China引用。

開戦時、上海海軍特別陸戦隊5000名が司令官大川内傳七(1886-1958)海軍少将の下、中国国民政府軍8万名の部隊と対峙することになった。しかし、日本陸軍が上海派遣軍を増派し、共同租界・フランス租界など列国の権益は保障しつつ、上海を占領した。東亜新秩序を建設するといっても、イギリス、アメリカ、フランスなど列国の権益には手を付けない、アジアの二番煎じの侵略に過ぎなかった。

上海方面の日本軍は、海軍陸戦隊が担っていたが、それでは兵力不足のため、日本陸軍の兵力も派遣されることになった。1937年8月23日早朝、第三師団歩兵第六連隊第二大隊は、駆逐艦「夕立」「五月雨」に乗せられて、上海沖に到着した。そこで、日清汽船2隻に移乗し直ちに上陸した。「八月二十三日午前六時十五分第二大隊ハ駆逐艦夕立、「サミダレ」ノ二隻ヨリ呉淞不当ニ横付セラレタル日清汽船二隻ニ移乗シ直チニ上陸スルヤ第一回上陸部隊タル海軍陸戦隊、歩兵第六十八連隊第五中隊及連隊ノ第三大隊ハ上陸地点附近ニ地歩ヲ確保シ前方約八百米ニアル敵ト交戦中ナリ」(第二次上海事変における呉淞上陸(1937年8月23日)に関する件 参照)

1937年8月23日早朝に上陸した第三師団歩兵第六連隊第二大隊に次いで、第三師団歩兵第六八連隊第三大隊が、8月23日午後11時に呉淞鉄道桟橋に上陸した。「大隊ハ第二次輸送部隊トシテ海軍ト聯合ノ下ニ八月二十三日敵ノ流弾ヲ受ケツツ午後十一時呉淞鉄道桟橋に上陸ス」(第二次上海事変における呉淞上陸(1937年8月23日)に関する件 参照)

写真(右):1937年8月、上海事変時の中国、上海、中国人地区で戦闘行動をとる日本軍の兵士たち:日本海軍上海特別陸戦隊の兵士ではなく、その増援部隊として1937年8月23日に呉淞上陸をはたした日本陸軍第三師団の兵士のようだ。兵士の手にするのは、口径6.5ミリ、全長1,276mm(三十年式銃剣着剣)の三八式歩兵銃。兵士たちは、脛に脚絆(きゃはん)・ゲートルを撒いている。ゲートルは、フランス語由来で、幕末以来軍事顧問として日本軍を指導したフランス軍人が取り入れたものと思われる。
Title: Shanghai, China Caption: Japanese infantry moving up a street in China during fighting in the Chinese sections of Shanghai, circa August 1937.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77790
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77790 Shanghai, China引用。

1937年8月の大山事件を契機に、上海海軍特別陸戦隊司令官大川内傳七少将は、海軍による中国江南地方、華中への進出を開始した。日本海軍は、北京・天津を中心とした華北では経済的にも、交通的にも魅力がないと判断していたようだ。

他方、華中の江南地方(長江南の南京から杭州までの地方)経済中枢であり、河川・運河を利用した水上交通の要衝だったため、日本陸軍が上海、杭州など長江南部の経済中枢「江南地方」に進出、勢力圏を独占するのを恐れ、中国側に攻勢をかけたとも推測できる。その後の、華南の広東、フランス領インドシナへの日本軍の派遣には、日本海軍は積極的だった。

写真(右):1937年9月14日午前中、中国、上海国際共同租界(International Settlement of Shanghai)、フーフン製粉工場、第二次上海事変で混乱した租界を警備し、秩序維持にあたるアメリカ海兵第4連隊隊:解説にある4th Marineとは4th Marine Regiment、すなわちアメリカ海兵隊第4連隊"China Marines"のことであろう。
Title: 4th Marines
 Marines stand by, awaiting orders, as International Settlement Police and Shanghai Volunteer Corps members take their positions to quell a Coolie riot at the Foo Foong Flour Mill, Shanghai, China, on the morning of 14 September 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral O.P. Lattu, USN (RET-SC), 1973.
Catalog #: NH 80188
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Tue, Sep 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 80188 4th Marines 引用。

1937年8月13日、上海海軍特別陸戦隊西部派遣隊長(中隊長)大山勇夫中尉(海軍兵学校60期卒)の中国軍の警備する虹橋飛行場正門前への突入・殺害事件があったが、これは北支事変を上海に拡大する海軍の策謀ともされる。大山大尉事件(死後昇進)を契機に第二次上海事変が勃発、中国の経済中枢上海を含む日中全面戦争がはじまった。

写真(右):1937年9月14日、中国、上海国際共同租界(International Settlement of Shanghai)、フーフン製粉工場、第二次上海事変で混乱した租界を警備し、秩序維持にあたるアメリカ海兵第4連隊隊が警棒を使って、上海国際共同租界警察を支援して暴動鎮圧にあたろうとしている。:警察や軍隊にる暴徒鎮圧には、暴徒に対抗するため武装集団が編成されるが、武器は警棒、楯から放水車などさまざまである。ここでは、第二次上海事変の際には、暴徒鎮圧用に催涙ガスも用意されていた。現在では、暴徒鎮圧に、ゴム弾、催涙弾、放水銃などが使われている。
Title: 4th Marines
Marines with riot sticks move in to assist International Settlement police in quelling a Coolie riot at the Foo Foong Flour Mill, Shanghai, China, 14 September 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral O.P. Lattu, USN (RET-SC), 1973.
Catalog #: NH 80187 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command

Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Tue, Sep 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 80187 4th Marines 引用。

1937年8月13日、第二次上海事変淞滬會戰)が勃発し、中国華南にも戦火が拡大した。そこで、1937年9月2日、日本の内閣臨時閣議で、7月7日の盧溝橋事件を契機にした「北支事変」の呼称を、華南への戦火拡大に応じて「支那事変」と改名したが、これは日中戦争の激化、本格化を示している。日本海軍も、それまで中国方面に駐留させていた第三艦隊に、9月5日、第二艦隊を加えて、中国沿岸の海上封鎖作戦を開始した。これは、中国国民党の蒋介石が輸入しようとする軍事物資を阻止するのが主な狙いである。10月10日、親編成の第四艦隊と第三艦隊を合わせて、支那方面艦隊を編成し、第三艦隊司令長官長谷川清提督がそのが司令長官を兼務することとなった。11月3日から、中国の主権尊重・機会均等を謳った九カ国条約Nine-Power Treaty)とケロッグ=ブリアン不戦条約Kellogg?Briand Pact)に関わる国際会議がブリュッセルで開催された。中国の国際連盟特別代表顧維鈞Wellington Koo)法学博士は、日本の中国侵略に対して即時停戦を求めると同時に、列国による日本への物資・資金の提供の停止、経済制裁と中国絵の軍事援助を求めた。しかし、11月15日の本会議でも、列国は、日本の国際法違反を非難しただけで、経済制裁をすることはなかった。日本側は、列国の介入、中国への軍事援助を危惧していたから、このブリュッセル会議の結果は、日本を安堵させるものだった。第二艦隊は、11月まで海上封鎖の任に当たってから、内地に帰還した。11月20日、日本は陸海軍統帥部を統括する「大本営」を設け、宮中で大元帥昭和天皇の臨席する御前会議が開かれた。

写真(右):1937年9月27日、中国、上海、日本軍機の爆撃で炎上する上海:中国国民革命軍第88師に対する空中攻撃を仕掛けたが、付近に引火して火災を生じてしまったようだ。中国側1個師は、日本軍の「師団」と比較して兵員で5割、火器・自動車など装備は3割程度の兵力だった。後年、太平洋戦争で、日本軍はアメリカ軍の火力、機械化兵力、航空兵力など装備で遥かに劣っているように言われるが、対中国戦争にあっては、中国国民党軍、中国共産党軍に比較して、装備は遥かに優れていた。
Title: Shanghai, China
Caption:Chapei in flames, 27 September 1937. Fires were the result of massive aerial bombardment from Japanese aircraft involved in the air strikes on the Chinese 88th Division which held this sector until being driven out by early October.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77692
Original Date: Mon, Sep 27, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77692 Shanghai, China 引用。

アメリカは、1927年、中国国民党の北伐によって上海で紛争が起きることを懸念し、アメリカ領グアム(Guam)にあった海兵隊第4連隊の一部を、上海に派遣した。1937年7月の盧溝橋事件、8月の大山事件、第二次上海事変に際しては、日中両軍が衝突したため、アメリカ海兵隊第4連隊"China Marines"は増派を受けて、両軍がアメリカ人居住地区に入らないように警告した。上海国際共同租界では、国際租界警察、上海国際義勇軍との共同任務にも就いた。ただし、第二次上海事変の当初、日本海軍の上海特別陸戦隊も、2400名程度の兵力しかなかったため、海軍艦艇、陸上兵力、航空兵力を派遣しての兵力増強が迅速に行われた。

写真(右):1937年10月、中国、上海北部郊外、閘北区(こうほくく:Zhabei, Chapei)、日本軍機の爆撃で炎上する上海
Title: Shanghai, China
Caption:View of Chapei, The Northern Suburbs, under bombardment by Japanese aircraft and artillery taken in October of 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral O.P. Lattu, USN (RET-SC), 1973.
Catalog #: NH 80199
Original Date: Mon, Sep 27, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77692 Shanghai, China 引用。

1937年末になって、日本が上海を支配するようになると、アメリカ海兵隊は、第4連隊が唯一のチャイナ・マリーン"China Marines"となり、それ以外の中国駐留アメリカ軍は1938年2月17日、中国を後にした。

第二次大戦が勃発し、1940年6月にフランスが降伏すると、イギリスは上海租界のための警備兵力を引き上げたため、アメリカ海兵隊第四連隊"China Marines"は上海で日本軍に対抗する唯一の兵力となった。

写真(右):1937年10月、中国、上海北部郊外、閘北区(こうほくく:Zhabei, Chapei)、中国軍陣地を粉砕しようと、日本軍が飛行機による爆撃と火砲による砲撃を加えた。
Title: Shanghai, China
Caption:A Chinese stronghold in Chapei under bombardment by Japanese aircraft and artillery, circa October 1937.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77784
Original Date: Mon, Sep 27, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77784 Shanghai, China 引用。

1937年8月13日に勃発した第二次上海事変において、日本海軍の九六艦上戦闘機、九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機といった新鋭機が、中国華南に進出した。これらの機体はともに、航空母艦「加賀」と陸上基地を出撃して、江南地方の中国軍に対する空襲に参加したのである。主な攻撃目標は、地上の軍事施設だったが、河川航行する艦船も攻撃対象とした。

写真(右):1937年9月、中国、上海北部郊外、閘北区(こうほくく:Zhabei, Chapei)、日本軍機の爆撃で炎上する上海:日中両軍の戦火が上海国際共同租界に飛び火しないように、共同租界「C区」との境界線には鉄条網が張られた。
Title: Shanghai, China
Caption:A building burns in Chapei, the northern suburb of Shanghai, circa September 1937. Soochow Creek runs by in the foreground. Barbed wire is marking the boundary of the International Settlement's "C" Sector, held by U.S. Marines.
Description: Courtesy of Rear Admiral O.P. Lattu, USN (RET-SC), 1973.
Catalog #: NH 77829
Original Date: Mon, Sep 27, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77829 Shanghai, China引用。

1937年8月13日の第二次上海事変では、日本海軍が江南地方にある上海特別陸戦隊、第三艦隊や中国居留日本人の生命財産を保護するとして、8月14日、15日、16日に九州から中国への長距離爆撃を「渡洋爆撃」と命名して、マスメディアを通じて喧伝した。陸上基地専用の三菱九六式陸上攻撃機は、長大な航続力と信頼性を活かして、九州から中国大陸の杭州などを東シナ海を越えて爆撃した。この爆撃は、「渡洋爆撃」と呼ばれ、世界でも例のない長距戦略爆撃だった。

写真(右):1937年、中国、上海上空を三機編隊2組で飛行する複葉機は、日本海軍の九六式艦上爆撃機あるいは九六式艦上攻撃機:1935年、愛知時計電機の航空部は既存の九四式艦上爆撃機を大幅に改良した機体を開発し、1936年11月、日本海軍は九六式艦上爆撃機(D1A2)として制式した。他方、日本海軍の九試艦上攻撃機の競争試作の要求に、中島、三菱、空技廠が応募し、九四式水上偵察機の構造を流用した堅実な設計を採用した空技廠製のB4Yが1936年11月、九六式艦上攻撃機として制式された。
Title:Kawanishi type 94 "Alf" (Japanese Navy floatplane)
Caption:Japanese aircraft over Shanghai, circa 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 77866
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77866 Shanghai, China 引用。

1937年12月12日、日中戦争が、交通動脈の長江中流・上流にまで拡大していた時期、長江にあったアメリカ海軍アジア艦隊河川砲艦「パナイ」を中国艦と誤って攻撃して撃沈してしまった「パネー号事件」が起こった。この空襲は、十三空の奥宮正武大尉の九六式艦上爆撃機6機、十三空の村田重治大尉の九六式艦上攻撃機3機が主力で、村田大尉は、真珠湾攻撃の時の艦上攻撃機部隊の体調である。日本は誤爆であるとし、アメリカに陳謝し、賠償金も支払った。

写真(右):1937年9月27日、中国、上海上空を飛行する日本海軍川西九四式水上偵察機(Kawanishi type 94 "Alf"):川西九四式水上偵察機は、水上機や飛行艇を手掛ける川西航空が開発した艦載三座水上偵察機で、胴体・翼は金属骨組みに羽布張りの複葉機で、前期型は水冷エンジンを搭載、後期型は空冷星形エンジンを搭載した。ジュラルミン製浮舟(フロート)が2本あり、水上から離発着したが、艦載された機体をカタパルトに乗せて発射することも可能だった。川西J型試作機は1933年2月に初飛行試験を行ったが、水上・空中の安定性がよく、航続距離も長かったために、1934年年5月に九四式水上偵察機として制式され、1940年までに川西航空機473機、日本飛行機57機、合計530機が量産された。
Title:Kawanishi type 94 "Alf" (Japanese Navy floatplane)
Caption:Seen over the Shanghai area, 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 78058
Original Date: Mon, Sep 27, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 78058 Kawanishi type 94 "Alf" (Japanese Navy floatplane) 引用。

写真(右):1937年9月27日、中国、上海上空を飛行する日本海軍川西九四式水上偵察機(Kawanishi type 94 "Alf")
川西九四式水上偵察機(E7K1)の諸元
全長:14.41m、全幅:14.00m、全高:4.735m
主翼面積:43.6平方メートル
全装備重量:3,000kg
最高速度:239km/h(高度500m)
乗員:3名
発動機:九一式水冷W型12気筒(離昇750hp)1基
航続距離:2,200km/12時間
兵装:7.7ミリ機銃1丁、7.7ミリ旋回機銃2丁(後方・下方)
爆弾搭載量:60キロ爆弾2発あるいは30キロ爆弾4発
Title:Kawanishi type 94 "Alf" (Japanese Navy floatplane)
Caption:As seen over Shanghai, China, circa 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 78058
Original Date: Mon, Sep 27, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 78058 Kawanishi type 94 "Alf" (Japanese Navy floatplane) 引用。

川西九四式水上偵察機は、第二次上海事変に際しては、地上部隊の支援任務につき、偵察・爆撃などに活躍した。初期型は水冷エンジン、後期型は空冷星形エンジンを搭載した。戦艦・巡洋艦のような大型艦艇に搭載されたが、射出は火薬式のカタパルトを用いるのが普通だった。水上機基地にあって、封鎖や敵艦船捜索・索敵のために使用された。旧式な複葉機、羽布張りの旧式構造だったが、信頼性が高く使用しやすかったために、太平洋戦争でも実戦配備されて活躍した。

写真(右):1937年10月初旬、中国、上海北西部郊外、日本軍と中国軍の戦闘が最高潮に達した時期、パークホテルから見渡した夜間炎上する上海:火災の範囲は、呉淞江(Soochow Creek)に沿って5マイル(8km)の距離に及んだという。呉淞江(ごしょうこう、ウーソンチヤン)は、別名「蘇州河」といい、上海バンドの面している黄浦江に、ガーデンブリッジのかかる地点で合流する。呉淞江(蘇州河)の北側に虹口(ホンコウ)区があり、そこには日本人街があったが、この日本人街は正規の租界ではない。しかし、日本人の間では、虹口の日本人街を「日本人租界」と呼び習わしていた。
Title: Shanghai, China
Caption:Flames are from fires in Chapei, the northwestern suburb of Shanghai, in late September to early October of 1937 as fighting was reaching its height between Chinese and Japanese forces there. View taken from the Park Hotel, a frequent vantage point which overlooked the city. The fire covered a stretch of territory five miles in frontage along Soochow Creek.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77715
Original Date: Mon, Sep 27, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77692 Shanghai, China 引用。

しかし、日本軍に比べて非力なアメリカ海兵隊第4連隊"China Marines"を上海に駐留させれば、日米開戦と同時に殲滅、捕虜とされてしまう。そこで、開戦1カ月前の1941年11月10日、上海に駐留するアメリカ軍を引き上げることが決まった。撤退先は、防衛すべきフィリピンだった。

写真(右):1937年11月11日、第一次世界大戦の休戦記念日、上海、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」USS AUGUSTA (CA-31) と日本海軍の勢多級河用砲艦3番艦「保津」:上海事変の時でも、アメリカと日本は戦勝国として共に第一次世界大戦の)休戦記念日 の11月11日を祝った。
Title: USS AUGUSTA (CA-31)
Caption: On Armistice Day, 11 November 1937. Note Japanese gunboat in foreground heading upstream to bombard Nantao. Gunboat is the HODZU. Also note that the AUGUSTA has "dressed ship".
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77706
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Thu, Nov 11, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77790 Shanghai, China引用。

勢多級河用砲艦「保津」諸元(竣工時)
起工 三菱神戸造船所1921年8月15日、1922年4月17日(漢口に資材輸送後着工)
進水 1923年4月19日(漢口)、就役 1923年11月7日
基準排水量:330t 、常備排水量:338t 、公試排水量:383t
全長 56.08m、全幅 8.23m、吃水 1.02m
混焼缶2基 2軸 2,100hp
最高速力 16.0kt 、航続距離 1,750マイル/ 10.0kt
燃料:石炭20t 重油74t、乗員 62名
兵装 40口径8センチ(76.2mm)高角砲2門、留(ルイス)式7.7ミリ機銃6挺

1932年2月、第三艦隊(第1遣外艦隊)編入、艦長小島正少佐(兵学校40期)
1933年6月、第三艦隊司令長官米内光政中将(兵29期)旗艦
1935年11月、艦長高尾儀六少佐(兵46:36.12中佐)
1937年3月、艦長上田光治中佐(兵45)、1937年12月15日、水雷艇「鴻」「鵲」を率いて、日本海軍艦上機が誤爆、撃沈したアメリカ砲艦パナイ(PR5)を救難。
1944年12月5日、支那方面艦隊揚子江方面特別根拠地隊の砲艦「保津」は、中国空軍機の爆撃を受けて大破着底。

写真(右):1937年11月11日、第一次世界大戦の休戦記念日、上海、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」USS AUGUSTA (CA-31) と後続のイギリス海軍カウンティ級重巡洋艦「カンバーランド」 (HMS Cumberland, 57) :上海事変の時でも、アメリカと日本は戦勝国として共に第一次世界大戦の)休戦記念日 の11月11日を祝った。しかし、第二次世界大戦後、1946年、イギリスでは、記憶すべき日(Remembrance Day) と、1954年、アメリカでは、Veterans Day(退役軍人記念日)に記念日の名称が変更された。
Title: USS AUGUSTA (CA-31)
Caption: To left of center, with CUMBERLAND (British cruiser) astern. Armistice Day, 11 November 1937. Shanghai, China.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #:NH 78053
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Thu, Nov 11, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 78053 USS AUGUSTA (CA-31) 引用。

イギリス海軍カウンティ級重巡洋艦「カンバーランド」 (HMS Cumberland, 57) 諸元
起工 1924年10月18日、進水 1926年3月16日、就役 1928年2月23日
基準排水量:9,750トン、 満載排水量:13,450トン
全長 630 ft (190 m)、全幅 68 ft 3 in (20.80 m)、吃水 16 ft 3 in (4.95 m)
重油専焼タービン 4基4軸、出力 8万0,000馬力
最高速力 、31.5 ノット、航続距離 12ノット / 1万3,300マイル
乗員 :679名
兵装 Mark VIII 50口径8インチ(20.3cm)連装装砲 4基 Mark V 45口径4インチ(10.2cm)単装高角砲 4基、39口径4センチ4連装ポムポム砲 2基、 Mk.III 50口径12.7ミリ4連装機銃 2基、53.3センチ4連装魚雷発射管 2基 。

支那事変の勃発は、中国に利権を持つ列国を慌てさせた。そこで、中国の主権尊重・機会均等を定めた九カ国条約の署名国は、ブリュッセルで九カ国条約会議を開催することとなった。九カ国条約とは、1922年のワシントン会議において、アメリカ・ベルギー・イギリス・中国・フランス・イタリア・日本・オランダ・ポルトガルが「極東ニ於ケル事態ノ安定ヲ期シ支那ノ権利利益ヲ擁護シ且機会均等ノ基礎ノ上ニ支那ト他ノ列国トノ交通ヲ増進セムトスルノ政策ヲ採用スルコトヲ希望」して調印された。九ヶ国条約の第1条では、中国の主権・領土の尊重を定めている。

しかし、日本は、署名国ではあったが、列国の干渉を受け付けないとして、ブリュッセル会議への不参加を決定し、ドイツに日中交渉の調停を依頼した。これは、ドイツの駐華大使オスカー・トラウトマンOskar Trautmann)を介したトラウトマン工作である。しかし、日本は、支那事変で快勝し続けて、12月13日には、かつての首都南京も占領した。そこで、日本はトラウトマン工作Trautmann mediation)により厳しい条件を出した。

1937年12月21日、近衛文麿首相は日中和平交渉の原則として、次の条件を出した。
1)中国は容共抗日満政策を放棄し日満両国の防共・赤化防止に参加すること。
2)要所に非武装地帯を設けそこに日本の特別権益を設定すること。
3)日満支三国間に密接な経済協定を締結すること。
4)中国は日本への戦争賠償をすること。
このような決定は、四原則の前述三項と同じく、「広田三原則」を踏襲したものであったが、四相会議の決定より更に苛酷な条件となってしまった。

1938 年1月11日、大元帥昭和天皇の臨席の御前会議で、支那事変処理根本方針が決定 された。「支那事変処理根本方針」は、政府と統帥部(軍部)の最高方針である。
支那事変処理根本方針は、日本は、満州国と中国の提携による和平を核心として世界の平和に貢献するとして、日中が互いに主権・領土を尊重しつつ次の方針を示した。
1)日満支の相互の友好、
2)日満支が連携した防共・赤化防止、
3)日満支の産業開発の連携

他方、トラウトマン工作に対して、日本は1938年1 月15日を期限としていたが、それまでに中国側の回答はなく、近衛文麿首相は、日本に対して中国は交渉する誠意がないと判断し、1月16日、「国民政府を対手にせず」との政府声明を発表した。(臧运祜(2011)「「広田三原則」・「近衛三原則」の創出と日汪関係の確立 」 『環日本海研究年報』 (18), pp.2-16参照)

写真(右):1938年1月1日、南京自治委員会発会式、陶錫三会長のかけ声による南京自治委員会委員たちによる万歳三唱:この時に行われた祝賀行列には、日本軍歓迎を姿勢を示す中国人が多数参列している。これは、日本軍を本心から歓迎し支持しているわけではなく、自らの生命・財産を保全しようとする占領下の市民の知恵である。それを理解できない者の中に「中国国民政府を追い出した日本軍は治安を回復し中国民衆から大歓迎された」写真が多数残っていると信じている。写真に写っているのは、占領軍の様子を窺いながら生きてゆく抑圧された住民が表面的に迎合している姿である。このような写真を、占領軍が歓迎されていた証拠だとするのは、プロパガンダであり、真実の世論や態度を示しているとは言えない。日本が敗北した時に、一緒に日本軍とともに撤退した占領下の中国人などいなかった。
Description English: Three cheers for the Nanking autonomous commission by lead of chairman Tao Hsi-shan at its inaugural ceremony(January 1, 1938) 日本語: 南京自治委員会発会式における陶錫三会長のかけ声による自治委員会万歳三唱(1938年1月1日)
Date 26 April 2008 Source English: China Incident Photograph Album Volume 2(Shina Jihen Shashin Zenshu Vol. 2), published in 1938 by Asahi Shimbun.
日本語: 支那事変写真全集<中>(朝日新聞、昭和13年発行)
写真は Wikimedia Commons, Category:Nanking Autonomous Commission, File:Nanking Autonomous Commission inaugural ceremony01.jpg引用。

 
1937年12月13日,中華民国の首都だった南京を日本軍が攻略した。首都を陥落させたのであるから,戦争は終わったと,日本人は勝利を確信これは、日本の大陸侵略の常套手段で、現地傀儡政権には統治能力も警察力・軍事力もほどんどないままに、日本軍の威光を背景にした植民地的、軍政的な占領統治をおこなった。

写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝した凱旋行進をする日本陸軍将兵:左側には、衛兵所にイギリス軍兵士が歩哨に立っている。
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese Army "Victory Parade" through the international settlement on 1 January 1938. Note British Sentry at left.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 78002
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 78002 Shanghai, China 引用。

南京自治委員会の会長は、南京紅卍字会会長だった陶錫三が選ばれて、日本軍の統治下で1937年12月23日、南京自治委員会発会委員長に就任した。陶錫三が会長をしていた世界紅卍字会(World Red Swastika Society)とは、中国の宗教関連修養慈善団体で、中国では「紅卍会」の別称で呼ばれ、赤十字社に準拠した援助機関と見なされていた。1938年1月1日、南京中心部で、南自治委員会宣言式、慶祝の旗行列もこの日に実行され、中国民間人が多数動員された。

写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝した凱旋行進をする日本陸軍将兵
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese Army "victory parade" through the international settlement on 1 January 1938.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 77996
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 77995Shanghai, China 引用。

1938年1月1日、日本軍将兵は、南京占領を祝した凱旋行進を上海国際共同租界を通って行った。中心街のはずだが、凱旋行進をする日本軍を歓迎する住民がいない。上海国際共同租界は、列国の警察権の下にある半植民地であり、日本による介入には限界があった。上海で凱旋行進をする日本軍を歓迎するために中国人や外国人の住民を動員することも共用できなかった。大通りには人気がなく、日本軍兵士に対する中国人・在留外国人の冷たい態度を示しているようにみえる。

写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝した凱旋行進をする日本陸軍将兵に対して、朝鮮独立派の韓国人が爆弾を投げつけ負傷者が出た。:第一次上海事変が終息した時、1932年4月29日、上海の日本人街のある虹口公園で、天皇誕生日を祝う観兵式・天長節祝賀会が開催されたが、その時にも、虹口公園に集まっていた日本要人に対して爆弾が投げつけられた。襲撃犯は、韓国人の尹奉吉で、中国人の立ち入りができなかった会場に日本人であるかのように入って、演壇に爆弾を投げつけた。被害は、上海派遣軍司令官の白川義則と上海居留民団会長の河端貞次が死亡、第9師団長の植田謙吉中将、第三艦隊司令長官の野村吉三郎海軍中将、上海公使の重光葵、上海総領事の村井倉松らが負傷した。重光公使は右脚を失い、野村中将は右目を失った。
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese soldiers attend to their wounded comrades after a bomb explosion interrupted the "Victory Parade" of Japanese Army units through the international settlement on 1 January 1938. Note medical equipment.Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 78000
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 78000 Shanghai, China 引用。


写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って凱旋行進をする日本陸軍将兵が、朝鮮独立派の韓国人が投擲した爆弾によって負傷した。:1932年4月29日、第一次上海事変に際して起きた上海虹口公園での天長節祝賀爆破事件は、襲撃犯は独立を求める韓国人尹奉吉だったが、1938年1月1日の上海凱旋行進爆破事件の襲撃犯も韓国人だった。襲撃後、襲撃犯の尹奉吉は拘束され、日本の裁判で死刑となったが、今回の爆破事件では、襲撃犯はその場で殺害された。
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese soldiers wounded by a bomb thrown into the Japanese Army's "victory parade" on 1 January 1938, through the international settlement.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 77998
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 77998 Shanghai, China引用。


写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝した凱旋行進をする日本陸軍将兵に対して、朝鮮独立派の韓国人が爆弾を投げつけ負傷者が出た。この襲撃犯の死体が、後方の歩道の上に転がっているのが見える。:上海国際共同租界の警察権は、列国の組織した上海国際共同租界警察にあるので、日本軍は上海凱旋行進爆破事件について、租界の警察と交渉して善処を求めた。
Title: Shanghai, China
Caption: Conference between settlement police and Japanese Army officers in the aftermath of a bomb-throwing incident where two Japanese soldiers were injured. The bomb-thrower, a Korean, lies dead on the sidewalk in the background. 1 January 1938.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 77997.
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 77997. Shanghai, China 引用。


1937年12月13日,中華民国の首都だった南京を日本軍が攻略した。そこで、1938年1月1日、正月元旦、上海でも、日本軍の凱旋行進が行われた。日本軍の歩兵、騎兵、砲車が、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝した凱旋行進をしたのである。これは、イギリス、アメリカなど列国の注視する中で、日本が中国に対して勝利をおさめ、東洋の平和を回復したことを示威する目的があった。そのために、参加兵力は少なくとも数個大隊分、1000名以上、おそらく1個連隊規模だったとではないか。

しかし、1938年1月1日、上海際共同租界での日本軍の行進に向かって、朝鮮独立派の韓国人が爆弾を投げつけ、日本兵2人が負傷した。爆弾テロ犯は、その場で殺害された。この上海凱旋行進爆弾事件は、第一次上海事変後の上海の虹口公園で起きた天長節爆弾事件を思い起こさせる。敵国中国は降伏していなかった上に、占領下の上海ですら治安維持ができない、それも日本の植民地の朝鮮半島出身者、韓国人のテロリストを生み出している、このような日本に平和を回復する力量があるとは思えないーーーーこのような疑念が列国の居留民や外国軍に広まったかもしれない。日本は敵国首都陥落の大ニュースに喜び沸き立ったが、実は日中全面戦争は始まったばかりであった。

写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝した凱旋行進をする日本陸軍が三八式野砲の砲車を曳航する。:馬を使って三八式野砲の砲車と弾薬収納車の2台を連結して曳かせている。日露戦争の始まった1904年(明治37年)、日本陸軍がより強力な野砲を求め、ドイツのクルップ社に設計を依頼した。バネ圧復座で75ミリ砲弾を発射する野砲は、1905年(明治38年)制式となり、三八式野砲と命名された。このときは明治38年の意味で皇紀ではない。大阪砲兵工廠で単脚式の三八式野砲3000門が生産されたが、砲脚を中央部を二又にして空間を開け、砲の仰角を大きくし、砲身を上に向けて遠距離射撃を可能にした改造三八式野砲も500門生産された。しかし、強度の問題があり、結局、実用性の低下満足した出来ではなかった。
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese horse-drawn artillery in the streets of the International Settlement in a "Victory Parade", New Year's Day, 1938.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 77821
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 77821 Shanghai, China 引用。

写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝して三八式野砲を曳く日本陸軍の凱旋行進
三八式野砲諸元
口径 75mm
重量 947kg、1,135.7kg(改造三八式野砲)
銃身長 2.286m(31口径)
装薬:固定式薬莢
砲尾:水平鎖栓式
液圧駐退・バネ圧復座式
仰角-8度から+16.5度(三八式野砲、-8度から+43度(改造三八式野砲)、旋回角 7度
発射速度 8-10発/分
初速 510 m/秒
有効射程 8,350m(三八式野砲)
最大射程 11,600m(改造三八式野砲)
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese Army artillery and interested spectators, during "Victory Parade" through the international settlement on 1 January 1938.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 78005
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 78002 Shanghai, China 引用。

日本軍は、火砲の移動を一部は、牽引車を使って機械化していたが、牽引車の数が少なかったために、大半の火砲を駄馬や牽引馬車により移動させた。また、自動車を使った牽引は、高速移動が可能であるが、そのためには、砲車の車輪をゴム輪にしたり、砲架の構造を堅固にしたりと、衝撃に耐えられる砲車を作る必要があった。このように砲車を堅牢な構造とすれば、砲車の重量を過大にする事態を招いてしまい、馬による移動が困難になる。こうしたジレンマのために、日本軍の砲兵の機械化・自動車化は進展しなかったようだ。三八式野砲は、車輪の構造がもろいために、馬匹による牽引のみで、自動車化、機械化した牽引はできなかった。

写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝した凱旋行進をする日本陸軍将兵:繁華街のビルの中を威風堂々と更新して、中国軍に勝利した日本軍、中国の最強の実力者日本、上海など江南地方を勢力圏においた日本を演出している。
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese Army "victory parade" through the international settlement on 1 January 1938.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 77994
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 77994Shanghai, China 引用。

1938年1月11日には、御前会議で支那事変処理根本方針として、対中和平交渉を検討したが,1月16日「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の近衛声明を発表してしまう。敵対する蒋介石を和平交渉の相手としないという,まさに無条件降伏要求を突きつけた。事実上、日本の傀儡政権ともいえる汪兆銘南京政府を樹立した。
1938年5月5日、支那事変解決のために、国家総動員法を成立させ、統制経済に基づく物資と兵員・労働力の動員を開始した。これは,日本の全体主義,ファシズムの表れといえる。

写真(右):1938年1月1日、上海、上海国際共同租界を通って、南京占領を祝した凱旋行進をする日本陸軍将兵:右には、指揮官が抜刀して日本軍の更新を閲兵している。
Title: Shanghai, China
Caption: Japanese Army "victory parade" through the international settlement on 1 January 1938.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 77995
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Jan 01, 1938
写真は Naval History and Heritage Command NH 77995Shanghai, China 引用。

広田弘毅外務大臣、1938年1月22日、第73帝国議会で「東亜の新たなる秩序の建設」を望んでいると発表した。それから半年、日本軍は華中の要衝武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)、華南の要衝広州に侵攻し、1938年10月に占領した。これによって、中国国民政府は、内陸に閉じ込められた地方政権となり、降伏も近いと考えられた。日本の対中国外交は、1938年11月3日の第二次近衛声明の発表で頂点を迎えた。

1938年11月3日に近衛首相は東亜新秩序声明を発表した。これが第二次近衛声明である。
「今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。
帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。
この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。

帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。---固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。

---東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。---政府は帝国不動の方針と決意とを声明す」

第一次近衛声明を大きく変化させ、中国国民政府が地方政権に転落した状況で、日本は支那事変の目標を第二次近衛声明で「東亜新秩序」の建設にある明確に提示した。東亜新秩序建設とは、「日満支三国の連携によって、政治・経済・文化の相互連関を樹立し、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済ブロックの確立を目指すというものである。第二次近衛声明の発表の背後では、中国国民政府の汪精衛(汪兆銘)の指示を受けた高宗武・梅思平という親日派が、日本側の外交官重光守・陸軍影佐禎昭・今井武夫と交渉したのである。ここでは、東亜新秩序を確立するために、「善隣友好、共同防共、経済提携」を目指すとし、第二次近衛声明を基盤とした。

1938年11月30日、大元帥昭和天皇臨席の御前会議では、日中新関係調整方針が決定された。これは、日満支は東亜における新秩序建設の下、1)善隣友好、2)共同防共、3)経済提携、を進めるとした。

他方、1938年12月6日、陸軍省・参謀本部は「昭和十三年対支処理方法」を決定した。これは、日本が占領した武漢・広州も含めて、新中国の建設を指導し、そのために興亜院を設立した。そして、1938年12月20日、中国国民党の要人、汪精衛らが蒋介石政権の重慶から、フランス領ベトナムのハノイに脱出した。これは、近衛文麿首相が、中国からの日本軍の撤兵という条件をふくむ「第三次近衛声明」を前提にした新政権樹立の試みだったが、近衛首相は中国からの日本軍の撤兵を約束しなかったために、汪精衛の親日政策に賛成する中国要人はいなくなってしまった。

1938年12月22日に発表された「第三次近衛声明」(近衛三原則)は、日満支は東亜新秩序の建設のために、善隣友好、共同防共、経済提携を進めるとしただけで、中国を新秩序建設の分担者として認めたものの、中国に侵攻した日本軍撤兵についての言及はなかった。盧溝橋事件(七七事変)前に決まっ 広田弘毅の提案になる広田三原則は変更され、近衛三原則が発表されたものの、中国側には第三次近衛声明を認めることは、日本軍の侵略を容認することを意味したのである。しかし,近衛首相は政治責任を放棄するかのように1939年1月5日に辞職する。

中国国民党の蒋介石は、1938年12月26日、国民党記念週において、第三次近衛声明に反駁した。日本の東亜新秩序とは、「東亜の国際秩序を転覆し、奴隷的中国を作り、太平洋の独覇を達成し、世界を分割する総名称」であるとし見なし、反論したのである。近衛首相の設置した興亜院は「中国を滅亡させる計画を実行する総機関」であり、中国各地で犯罪を行う特務機関を集大成したものと危険視した。そして、従来の広田三原則よりも、近衛三原則のほうが何倍も悪辣であると明言した。近衛首相の真意は、大陸と海洋、北進と南進を合わせて侵略政策で、中国を併呑し、国際秩序を破壊し、東亜を独占して覇権を掌握し、欧米の勢力を駆逐することにあるとした。

他方、重慶からハノイに逃亡した国民党の元要人 汪精衛は、1938年12月29日、第三次近衛声明近衛三原則)に呼応して、「国民政府は、近衛三原則を根拠とし、日本政府と誠意を交換 し、和平の恢復を期する」と訴えた。この親日政策をとなる汪兆銘の「艶電」に対して、蒋介石は、売国投敵の象徴とした。1939年1月1日、汪精衛の党籍と一切の職務を剥奪し、国民党から追放処分にした。

しかし、第三次近衛声明近衛三原則)に対する中国側の反駁が表明されて1週間も経過しない1939年1月4日、近衛内閣は総辞職し、1月5日、平沼騏一郎内閣が成立した。平沼内閣は、1938年12月の第三次近衛声明(近衛三原則)について「勿論此の帝国不動の方針に基づき」外交を進め、東亜新秩序の建設に一路邁進する、と述べた。

中国との戦争が終わらないうちに,日本は1941年12月8日,ハワイの真珠湾を攻撃して,米国に宣戦する。これは,英国との戦いを続けながら,ソ連を侵攻したナチス・ドイツと同じ構図である。一国との戦争が終わらないのは,その敵国を援助する国があるからであり,それを倒せば戦争に勝利できる,と考えた。

しかし,日本陸海軍は,中国同様,米国にも勝利できなかった。太平洋戦争開始後,東条英機首相を中心に、東亜新秩序を拡大した大東亜共栄圏の構想を打ち出した。しかし、3年後の1944年末には,日本の敗北は決定的だった。しかし,連合国は,連合国首脳会談を何回も開催して,単独不講和,無条件降伏の要求を主張した。日本は,大東亜共栄圏の建設は諦めて、国体を護持するために最後の一兵まで戦うと,全軍特攻化,一億国民総特攻を最高戦力として決定した。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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