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◆ノモンハン事件と日米開戦の関連 ◇ Khalkhin Gol 1939/07
写真(左):ソ連の第82歩兵師団第82砲兵連隊
1939年8月ノモンハンで撮影。後ろは122ミリM1910/30榴弾砲。重量1.5トン、射程7500m。写真(右):撃破されたソ連軍のBA-10装甲車:重量5トン、45ミリ20-K砲(弾丸49発装備、最大射程4km)、7.62ミリ機銃2丁。1939年7-8月ノモンハン事件では80両も配備。装甲が薄いために,日本軍の37ミリ速射砲によって撃破された。

写真(右):ソ連赤軍のポスター;赤軍Red Armyは,ロシア革命の成果を守る人民軍として組織されたが,1930年代中頃以降は,反ファシズム,反帝国主義を掲げて,近隣諸国に干渉するようになる。ノモンハン事件は,モンゴルと満州国との国境線におけるモンゴル派遣・駐屯ソ連軍と満州国派遣・駐屯日本軍の戦いである。

当サイトでは, 盧溝橋事件・上海事変以降の日中全面戦争,その後の米中接近とドイツの対米宣戦布告および太平洋戦争の勃発となる真珠湾攻撃と日米開戦と関連させて,ノモンハン事件とソ連の世界戦略を検証します。
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◆モンゴルの草原では、降水量の少なさから川の両岸にある豊富な牧草を利用し、丘陵は、斜面も放牧地となるために、人為的な境界にならないのであって、1939年のノモンハン事件の原因は、遊牧民の境界線についての日本人の誤解が元だったという説がある。たしかにコモンズ利用形態としては、人為的な国境を引くことはできないが、「誤解」というのは誤りである。
ノモンハン事件の原因は、「誤解」という意図せざる過誤ではなく、日本が満州帝国を傀儡化し、モンゴル人民共和国との国境を住民を無視して策定したこと、ソ連がモンゴル人民共和国を傀儡化し、南洲帝国との国境を住民を無視して策定したこと、すなわち「帝国主義」「支配者民族意識」「支配的イデオロギー」という身勝手な思い上がりにある。

1.日本と対立していたソ連だが,1930年代は,反共産主義の敵国に囲まれ,軍備が整わない中,第ニ次五ヵ年計画を進めていた。そこで,日本に対する宥和政策をとった。

1931年9月,日中の戦闘が起きた満州事変に際して,ソ連は中国援助をすることなく,中立を維持すると連絡してきた。そればかりか,東支鉄道(中華民国成立前の東清鉄道)による日本軍の輸送も認めた。12月には,外務大臣の就任が決まった芹沢謙吉フランス駐在大使は,陸路シベリア鉄道で日本に帰国したが,モスクワで外相(ソ連では外務人民委員と呼ぶ)マクシム・リトビノフから,日ソ不可侵条約の提議をされている。

1932年に日本が満州国を建国した翌年,1933年4月には,満州国における日本の特殊利益を認める形で,東支鉄道を日本に売却する申し出をし,1935年3月に譲渡協定が成立している。日ソ中立条約が締結される5年前から,日ソ関係は思いのほか良好だったとも言える。天皇制国家と共産主義国家が,極東で大きな武力紛争なしに,対峙していた。

写真(右):日本の中島九七式戦闘機;当時は内地でも,舗装された滑走路がない飛行場がないところがあった。中国,満州の飛行場は,未舗装が普通だった。

日本では,ソ連は満州支配を目論んでいるとして,批判されているが,実際のソ連の対日政策は,日本の満州国における特殊利益を認め,日本を反ソ行動に出ないように配慮した宥和政策であった。もちろん,これは,ソ連における五カ年計画を促進し,ソ連軍における反スターリン派(その潜在的可能性のある者も含む)の粛清(処刑・処罰)を進めるためであったが,日本は満州国の防衛のために,満州の外郭に対する支配を目指しており,ソ連の共産主義が天皇制と相容れないとして,不可侵条約には懐疑的であった。

写真(左):1943年、イラン(ペルシャ)、テヘラン会談のビッグスリー;The Big Three: Marshal Joseph Stalin, President Franklin D. Roosevelt, Prime Minister Winston Churchill in Tehran, 1943.このときにソ連の対日参戦が決められているが,ソ連は日本への攻撃を2年間も待った。なにしろ,英米はドイツとは,航空戦,潜水艦戦,北アフリカ・中部イタリアのような主戦場でないところの陸戦で戦うだけで,ドイツの大兵力は,ソ連軍が一手に引き受けていた。ソ連の犠牲で,ドイツを弱らせるという英国首相チャーチルの戦略である。Title: Teheran, Iran, Dec. 1943--Front row: Marshal Stalin, President Roosevelt, Prime Minister Churchill on the portico of the Russian Embassy--Back row: General H.H. Arnold, Chief of the U.S. Army Air Force; unidentified British officer; Admiral Cunningham; Admiral William Leahy, Chief of staff to President Roosevelt, during the Teheran Conference Date Created/Published: 1943 Dec. Medium: 1 photographic print. 写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog > Reproduction Number: LC-USZ62-91957 (b&w film copy neg.) Call Number: LOT 11597 [P&P] 引用。 Notes: US Army 12th Air force.

ドイツを早期に降伏させるためには,1944年6月ではなく1943年中に,欧州大陸への上陸作戦を敢行し,ドイツの心臓部のライン地方の工業地帯を攻撃,占領すべきことは明白だった。北アフリカやイタリアが,英米に占領,解放されても,ドイツの軍事力,工業力に支障は及ばない。

大規模な陸軍兵力を東部戦線のソ連軍だけでなく,西部戦線の英米に対峙させることになれば,東部戦線でもソ連軍はいっそう優勢になり,ドイツ降伏は早まる。しかし,まさにソ連がドイツを降伏させ,占領するのを回避するために,英米は欧州大陸上陸作戦を引き伸ばしていた。

このような英米の外交の「汚さ」「巧妙さ」に比較して,日本の外交はまともで正直なようだ。決して国際的な駆け引きに長じていないからといって恥じることはない。堂々と正論であたればいいだけの話である。姑息な外交を「巧妙だ」などと持ち上げる必要はないし、そのような外交官、政治家を日本人の代表としなくともよい。

写真(右):ノモンハンのソ連軍主力戦車BT-5;ソ連戦車の長砲身45mm砲は,日本のあらゆる戦車の装甲を簡単に貫通した。指揮車なので砲弾は72発搭載。

このようなソ連の対日宥和政策は,日ソ不可侵条約で頂点を迎えるが、1938年のミュンヘン会談における英仏の対独宥和政策に類似している。領土要求はもうしない,戦争を回避するといった理由を述べるヒトラーに対して,その申し出を尊重して,英仏は,チェコスロバキアのハーハ大統領に,領土をドイツに割譲するように要求する。これは,ドイツの非戦の誓いを信頼したわけではなく,英仏が自国の軍備が整っていないことを認識し,対ドイツ戦争に備える準備をするための時間稼ぎ,軍備拡張の猶予を得るためであった。英国では,四発中爆撃機の思索が開始されていたが,これは明らかに,ドイツの都市への戦略爆撃,すなわち都市への無差別爆撃を目的にした。このような意図は,もちろん,ドイツにも,英国民にも隠されている。

写真(右):ソ連軍のBA-10装甲車:ソ連は1933年から第ニ次五ヵ年計画で軍備の充実,近代化を図った。軽装甲のため,ノモンハン事件では,大きな損害を出したようだ。

ネヴィル・チェンバレン首相が,ヒトラーとの制約を交わした「紙切れ」を,ロンドンで自慢げに掲げたとき,現在では,なんと間抜けな---と低く評価されている。しかし,紙切れで,戦争開始が1年延びるのであれば,戦備が充実し,ドイツに対抗できる---と考えた末の戦略であったろう。もっとも,英国は冷酷であり,戦争延期の取引材料として,英仏の国益に反しないように,チェコスロバキアの領土・独立という(多大な)犠牲を,見向きもしなかったのであるが。

ソ連も,自国の安全のためには,他国の犠牲を厭わない。ソ連極東地域に攻撃を仕掛けてくる危険のある日本に,中国東北地方(満州)という犠牲において,安全保障を画策したのである。このような日ソ不可侵条約の提案は,日本にとって好都合だったはずである。

写真(右)S-65トラクターに牽引されるソ連軍の152ミリML-20榴弾砲;1941年8月モスクワ近郊の移動中の列車上にて撮影。

日本は,一時的にしろ,歓迎すべき日ソ不可侵条約の締結の機会を自ら放棄した。頑固な天皇制イデオロギーに縛られた政府首脳や外交官には,米仏,ドイツ,ソ連,中国が見せたような「権謀術数」あるいは鮮やかな外交手腕はとても期待できないということである。後に,米国,英国は共産主義のソ連に大量の武器を供与し,ソ連は中国に航空機を供与して日本と戦わせ,ドイツは中国に武器輸出をして外貨を獲得し,中国はソ連に加えて米国からの軍事援助を引き出すことに成功し-----など,国益重視の驚くべき外交戦略を展開する。

ソ連空軍(赤色空軍と呼ばれる)の装備する航空機は,1931年の1,300機から,日本の満州占領後の1932年末2,200機に増加している。この時期から,日本軍と同様,ソ連空軍も自前で航空機を開発,製造できるようになる(エンジンなどはコピー)。

また。軍制改革も行われ,共産党の軍への影響力が大いに増してくる1937年春の大粛清(political purges)では,党の政治委員(Commissar)による集団指導体制が,赤軍にも導入された。その結果,それまでいた(共産党の思想教育を十分に受けてはいない)空軍高位将校の50%以上が粛清された。

写真(右):ソ連赤軍のT-26軽戦車;撃破された1933年型モデル。45mm砲装備。

第ニ次五ヵ年年計画the Second Five Year Plan)は1933年に始まった。1933年1月7日に,ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)は,こういった。

"We had no aviation industry. We have it since now."

1933年1月30日,アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は,ドイツ首相に任命され,2月4日には,陸海軍の最高司令官となった。ソ連は西のドイツと東の日本というに二大敵国に加えて,シベリア出兵のように共産主義に干渉してくる危険のある英仏,そして米国,中国とも対峙しなくてはならない。ソ連の周囲は,ソ連の外界は敵国だらけである。

ソ連の第ニ次五ヵ年計画には,航空機産業育成も計画に盛り込まれていた。そして,1933-1938年の間に,航空機の配備数は2,000機から1938年の5,400機に大幅に増加した。1937年でも,4,200機は新型機で占められていたのである。1931-1938年にかけて,ソ連は,日本には宥和政策で望んだが,背後では,国防,安全保障に遺漏がないように戦備を充実させていた。これは,米英も,日本も中国も同じである。

写真(右):1936年のスペイン内戦に使用されたソ連製ポリカルポフI-15戦闘機(1936年):最高時速367km,7.62mm機銃4丁装備。

ソ連が周囲を敵国に囲まれ,安全保障,国防を優先しており,そのために軍事力を増強していたが,このソ連の戦略を単に,極東方面の兵力配備という局所的な戦略で,見据えたと思い込んだのが,日本軍である(今でもそういう異見はある)。日本陸軍参謀本部が見積もった1934年の極東兵力は,歩兵師団(ソ連では狙撃師団あるいはライフル師団と呼ぶ)11コ,騎兵師団2コ,で兵力23万,戦車650両,航空機500機である。これに対して,満州の日本軍は,歩兵師団3コ, 機械化旅団1コ(戦車70両?),その他独立守備隊も合わせて,兵力5万,航空機70機と明らかに劣勢である。

第ニ次五ヵ年計画を進めたソ連は,ますます極東方面の兵力を拡充する。日本陸軍参謀本部は,1936年末の極東方面ソ連軍を,歩兵師団16コほか兵力29万,戦車1200両,航空機1200機を配備していると見積もっている。これに対する満州・朝鮮方面日本軍は,歩兵師団5コほか兵力8万,(戦車140両?),航空機230機である。

写真(右):1936年のスペイン内戦に使用されたソ連製ポリカルポフI-16戦闘機5型(1936年):ソ連は,スペイン内戦時に共和国軍に対しても,軍事支援した。最高時速440km,7.62mm機銃4丁装備。高速の一撃離脱による攻撃に向いていたが,1937年7月のノモンハンでの日本軍との空中戦では,格戦闘に巻き込まれて,大きな損害を被った。

しかし,日本は本土,朝鮮,中国から兵力を対ソ戦に鉄道,船舶を使って移動,集中が容易である。ソ連は,ロシアからのシベリア鉄道Trans-Siberian Railway)による輸送がなくては極東方面で長期戦は戦えない。しかも,ロシアの兵力を,極東方面にすべて回すことはできない。モスクワ,キエフなどロシアの政治経済の中枢をドイツから防衛するためである。極東方面に,ソ連軍大部隊を集中させれば,鉄道による長距離大量輸送が必要になり,鉄道駅から部隊に物資を運搬するトラックも大量に必要になる。実際,ノモンハン事件でも,ソ連は3400両以上のトラックを配備して,5万名以上の兵士,430両の戦車,340両の装甲車への補給を行った。

写真(右):ノモンハンで活躍したソ連のZISトラック;1939年8月には極東方面のソ連軍には,ZIS1433両のほかに,米国のフォードトラックと同型のGAZ1843両があった。つまり,トラックは合計で3246両が配備されていた。歩兵や燃料ほかの物資を運搬。しかし,ノモンハンにおける8月,トラックの損害は,496両に達している。

他方,日本は,満州を支配しており,ソ連軍が外線にあるのに対して,内線の利益がある。鉄道によって,短距離で,各所に攻撃をかけ,補給をすることができる。さらに,日本の海軍力は,ソ連を圧倒していた。極東の制海権を日本海軍は把握しているから,輸送船による海上輸送,河川航行も行うことができる。そして,ウラジ・オトークなど沿岸部の港湾や都市を,日本軍は空爆あるいは艦砲射撃によって破壊するか,占領することも容易であろう。また,外線を大きく湾曲しているソ連のシベリア鉄道を,満州から攻撃して,随所で遮断できるという利益がある。日本がロシア内陸部に進撃することも,シベリア出兵の事例から見てもありえる。とすれば,ソ連は,モンゴル方面にも,沿海州にも,シベリア鉄道沿線にも軍隊を配備しなくてはならないのであって,分散配置となる。日本軍は兵力集中によって,個撃破可能である。

モスクワやウクライナの工業地帯・穀倉地帯を占領されることはないであろうが,日本軍とソ連軍との戦闘は,兵力的には日本が劣位にあるが,内線にあり兵力集中が有利な日本軍は,少ない兵力で,ソ連軍に対抗できると考えられた。

写真(右):ソ連製76.2mm野砲76 K 02-30(1936年):30口径砲で,1930年代に広く使用された。これは,1940年,ソ連とフィンランドとの「冬戦争」に使用され,フィンランド軍が鹵獲したもので現在フィンランドで展示されている。

そこで,日本は,ソ連の極東兵力の増強を,満州,中国支配を目指すソ連の戦略と思い込んだ。極東方面の兵力配備という局所的な事柄で,ソ連の世界戦略を見据えたと思い込んだ。ソ連が周囲を敵国に囲まれ,安全保障,国防を優先しており,そのために軍事力を増強していた。特に,日本は,1931年に満州を占領,支配した危険な国で,天皇制イデオロギーに従って,共産主義のソ連を倒すことが望みであると読んでいた。つまり,日ソ両国がお互い相手を隙あらば倒そうとする危険な敵であると認識していた。独ソ,米ソと同じく,いずれは戦争に至ってもおかしくない状況であった。

2.ソ連は,日本に対抗するため,中国共産党が中国国民党政府に対立するのをやめさせ,国共合作を採用することを望んだ。また,国民党政府へ軍事支援も行うようなる。

写真(右):中国空軍所属のソ連製ツポレフSB-2爆撃機:ソ連は1930年代から多数の航空機を中国に有償譲渡している。

1937-38年当時,ソ連はもちろん,中国に比しても日本軍の兵力が優位であったというわけではない。もともと兵力は中国軍が数倍上回っている上に,米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れしていた。また,中国の権益が侵害され,中国とのビジネスが衰退してしまう危険があるから,政治的,経済的にも日本の中国進出は望ましくはない。日本だけが,自国から中国に容易に軍隊を派遣し,補給を維持できる位置にあったからである。

ソ連は,自国の安全保障を確保するために,(軍事増強や第一次コか年計画の推進のためにも)近隣国との友好,宥和政策をとる。日本とも中ソ不可侵条約の締結を望んだが,日本側は,共産主義と天皇制イデオロギーが相容れないと考えたのか,提案を時期尚早として断ってしまう。外交は国益に則った権謀術数であると割り切れば,ソ連の意図が極東の平和と繁栄にではなく,満州支配にあると日本が考えても,日ソ不可侵条約を締結すべきだった。中国へのソ連の支援を断ち,満州方面の安全保障を確保してから,中国侵略を本格化すれば良かったのである。

写真(右):ノモンハンに出動した日本軍の九四式装甲車;7.7mm機銃1丁を搭載しているだけで,ノモンハンでは偵察任務に使用されたようだ。

日本との不可侵条約を諦めたソ連は,今度は中国に狙いをつける。中国国民党政府は,以前から共産主義を嫌悪しており,1927年の蒋介石による上海クデター,すなわち共産主義者粛清は記憶に新しいし,中国共産党とその支配地域を攻撃する内戦を戦っているほどであった。国民党政府に対しては,国共合作を呼びかけ,1936年の西安事件で,共産党へ武力攻撃が収まってきた時期である。

1937年7月7日の盧溝橋事件とその後の日中戦争は,ソ連のスターリンにとって,僥倖である。日中が協調し,平和的に共存すれば,日本の攻撃の矛先は,満州からソ連極東方面に向かう。しかし,華北,華中,さらに華南と中国全土に日本軍が暴支懲罰のために,軍隊を派遣すれば,日本軍は中国で手一杯になり,満州からソ連を攻撃する余力はなくなる。

写真(右):ノモンハンのソ連軍主力「快速戦車」BT-7;1938年頃の演習場。長砲身45mm砲を装備し,日本のあらゆる戦車の装甲を簡単に貫通した。指揮車なので砲弾は72発搭載。しかし,快速の代償として装甲が薄く,日本軍の37mm速射砲に撃破された。

日本には中国通,陸戦戦術専門家,戦略大家が何人もいたようだが,日中戦争を開始することが,ソ連を大いに利することになることに気がついたのは,石原莞爾くらいだったのか。さっそく,ソ連は,中国への圧迫を強め,モンゴル人民共和国THE MONGOLIAN PEOPLE'S REPUBLICを支配下に置いてしまう。

日本が満州を支配するなら,ソ連はモンゴルを支配するという暗黙の了解あるいは機会均等である。しかし,ソ連と日本とは,1930年代から,対中国政策で決定的に異なってくる。日本は中国を攻撃し,中国は同盟国として,共産主義のソ連を選択する。そこで,ソ連に対してモンゴルへの特別な関心(特殊権益)を理解し,満州を日本に手放したのと同様,モンゴルも手放すことを決める。

写真(右):ソ連人によるモンゴルへの技術協力;1930年代後半から,ソ連の技術者によって,モンゴル人民共和国の近代化を促した,という評価もある。The Communist government - with help from its Soviet allies - accomplished a lot in Mongolia. It destroyed feudalism, fostered industrialization and urbanization, introduced modern medicine, and achieved almost universal literacy. Herders' standard of living - measured in health, education, and material comforts - was much higher than in feudal times.

ソ連とモンゴルは、1934年11月に、日本・満州からの脅威に対処するため、相互援助に関する紳士協定を結び、ソ連とモンゴルの間に、締約国の一方に対して武力攻撃が加えられた場合、軍事的援助を含む一切の援助を相互に与えることを約束することとなった。これは、事実上、モンゴルへのソ連軍駐屯軍を認める根拠となった。また,この時期から,ソ連の技術協力を得て,教育制度の確立,衛生・医療の整備,牧場の集団化などの政策がとられるようになる。現在でも,モンゴルの公式サイトでは,1930年代におけるソ連によるモンゴルの近代化支援とモンゴル人の改革・革命への取組みを高く評価している。

写真(左):ホルローギーン・チョイバルサン(Khorloogiin Choibalsan)元帥;1942年。モンゴル人民共和国の英雄とも独裁者とも評価されている。

他方、日本側は、ソ連のモンゴル浸透が、満洲・内蒙古への勢力拡大となり,日本の戦力圏を脅かすものと考えた。そして,対ソ戦を関東軍の第一の任務とし,ソ連の南下・東進政策に対抗する緩衝国として、モンゴルを位置づけようとした。このため、モンゴルを日本の勢力範囲に取り入れる政治工作が,徳王など親日派モンゴル勢力に対して行われた。これは,内蒙古の自治運動,独立運動への軍事援助である。

日本の対ソ作戦戦略は、モンゴルから東進して,シベリア中部を制圧し,シベリア鉄道を寸断することで,こうすれば,極東方面,特に沿海州のソ連軍は孤立してしまう。つまり,ソ連ザバイカルへの攻撃路としてモンゴルは重要であり,ソ連としてもモンゴルを日本の勢力圏に入れることは絶対に許されないのである。

写真(右):チョイバルサン元帥;モンゴル人民共和国の軍人であり,共産党を基盤とした社会主義国を建国した。モンゴルは,ソ連に継ぐ社会主義国となったのである。

1936年3月にモンゴルとソ連は,期間10年の,ソビエト・モンゴル相互援助議定書を調印した。これは,ソ連とモンゴルとの間で、締約国の一方に対して武力攻撃が加えられた場合、軍事的援助を含む一切の援助を相互に与えることを約定している。

1937年に盧溝橋事件が勃発すると,ソ連は,モンゴルには日本のスパイ網が張り巡らされている,あるいは「革命と敵」がいるとして,ソ連軍を大規模に進駐させ,共産主義のモンゴル人とともに,親日派を中心にモンゴル高官やラマ僧を粛清する。そしてチョイバルサンChoibalsan元帥を首班とする傀儡政権を樹立する。このような手法は,満州国を建国した日本と同じである。

ソ連軍を背景に,1937年9月にモンゴル全土で親日派やそれと思われる人物の大粛清が敢行された。「6万8,000名の僧, 900名の貴族, 7,000名のブリヤート族Buryats, 6,289名の商人・密輸業者が処罰の対象になる」と内務大臣のチョイバルサンは公言した。そして,1939年までに2万6000名,そのうちラマ僧1万7000名を処刑したという。これは,モンゴル人口の3%に相当する。また,1940年までに3万6000人が処刑されたり,収監されたりしたとして,この時期はテロの時代とする資料もある。

写真(右):中国空軍のポリカルポフI-152戦闘機(1937年頃):着陸に失敗したのか、上下さかさまに不時着している。ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できた。ソビエト連邦の航空機設計所の主任が、ニコラエヴィチ・ポリカルポフで、1944年7月30日に死去したが、設計局はラボーチキン設計局に吸収された。この他、ソ連にはミコヤン・グレヴィッチ設計局があった。長い間本拠地をモスクワの航空機工場#1(現Dux工場)においており、現在でもその建物を見ることができる。

1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるるようになった。

ソ連のコミンテルンは,1935年の世界大会で,反ファシズム・反帝国主義を掲げ,各国で人民戦線を結成して団結することを呼びかけた。そして,中国共産党にも反ファシズム戦線の結成のため,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,西安事件で中国共産党も国共合作に「合意し,蒋介石の釈放を認めている。

写真(右):1937年延安の毛沢東:中国は1937年に北京,上海,首都南京も攻略され,江南地方で日本軍と激闘を続ける。日本軍には,主に中国国民党軍の兵力が当てられている。そこで,1938年「持久戦論」を執筆した。中国共産党軍は,なにもしないという批判をかわすためにも,現在は,日本軍を内陸部に追い込み,ゲリラ戦,遊撃戦を行う時期であると主張したようだ。

ソ連は,中ソ不可侵条約の締結によって,中国国民党への軍事支援を開始した。これは,従来まで反共政策を推し進めてきた中国国民党が,国共合作を取り入れたこと,共産党への攻撃ではなく,中国が日本に対する抗日戦争を優先したことが背景にある。満州や華北から,日本の影響力や勢力を排除したいという点で,中国とソ連は利害が一致したのである。

例えば,1937年以降,ソ連は,自国のポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になった。中国共産党に国共合作をさせ,両党が一致抗日,対日戦争を戦うのであれば,満州に駐屯する関東軍からの脅威を減じることになる。新ソビエトとなった中国を軍事的にも支援することで,日本軍を牽制し,ソ連への攻撃を抑制することのが得策である。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

東西を日独という強力な軍事国家に挟まれたソ連は,極東アジア方面の主敵日本に対抗するため,反日姿勢を強めてきた中国との友好を図った。蒋介石の反共的性格は,1927-30年の反共クーデターで証明されたが,ソ連はイデオロギーに囚われる国家体制ではなかった。国益,国防を重視する権謀術数の外交を展開するヨシフ・スターリン書記長の指導の下にある独裁国家である。そこで,スターリン書記長は,国民党蒋介石の反共的性格を承知の上で,第三インターナショナルのコミンテルンを通じて,中国共産党に国共合作を促した。そして,忠告国民党政府と,中ソ不可侵条約を締結し,軍事支援を開始したのである。イデオロギーに囚われずに,自国の利益を追求する外交として,中ソ不可侵条約,独ソ不可侵条約,日ソ中立条約,米英からの軍事援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。それだけの柔軟性と権謀術数を身に着けた指導者,外交官たちがいたのである。

写真(左):ノモンハンにも出動したに日本陸軍の九二式10センチ加濃砲(カノン砲);1939年頃の演習。皇紀2492年(1932年)制式の長砲身105mm砲。最大射程1万8000mの長距離砲だが,砲架が強度不足で故障が頻発したらしい。日本軍は長期間の砲撃戦を想定した訓練も弾薬準備もしていなかった。

1940年8月中国共産党は、100コ師団(日本軍の大隊規模で10万人程度か)の兵力を投入し,華北の日本軍守備隊陣地,主要な交通機関・鉄道に攻勢を加える「百団大戦」を行った。これも,国民党軍の抗日戦意を高める,抗日戦争に共産党も寄与していることを示す,といった理由のほかに,日本の対ソ兵力を牽制する目的で,ソ連から対日攻撃を強いられたのかもしれない。中国共産党も,この時期にはスメドレー女史などを通じて,米国との友好関係を築こうとしていた。そして,太平洋戦争の勃発後には,中国共産党の根拠地の延安に,米軍の軍事視察団を呼び寄せ,歓待することになる。

3.ノモンハンで大規模戦闘を経験した日本軍,ソ連軍は,ともに大損害を被り,お互いの強硬路線を抑え,直接戦闘,全面戦争を回避する。 

第二次世界大戦が勃発する4ヶ月前の1939年5月、満州とモンゴル国境でノモンハン事件が起こり、ゲオルギー・ジューコフGeorgy ZhukovA>)将軍に率いられたソ連・モンゴル軍は,日本・満州軍と戦火を交えたが,これには双方の戦車、航空機も投入された。ノモンハン近くのハルハ河での戦火は,1939年6月の第一次ノモンハン事件と8月の第二次ノモンハン事件の2回に分けることもできる。第一次で,劣勢のソ連・モンゴル軍をソ連支配下のモンゴルと、日本支配下の満州が接する地点で、日ソ両軍が大規模な戦闘を行ったのである。

写真(左):満州帝国皇帝溥儀Pu Yi(1906-1967)1940年撮影の肖像写真に着色:ノモンハン事件は,満州帝国とモンゴル人民共和国の国境紛争のはずが,ともに傀儡国家のため,日本軍とソ連軍の戦闘であった。

1939年4月に満州を守備する日本軍,すなわち関東軍の関東軍司令官植田謙吉大将は,「満ソ国境紛争処理要綱」を作成し,対ソ連の国境紛争の基本方針を定めていた。ここでは,「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」しとして日本軍の現地司令官のイニシアチブを重視し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」とした。つまり、日本側の主張する国境線を越境してきた敵に対しては,即座に攻撃,撃退するという強硬な方針を示している。

しかし,中国東北地方(満州)の外周は,ソ連とモンゴルに境を接しており,国境には,流れを変えるハルハ河,アムール川,中州,丘陵,草原があり,この所属が,中国,ソ連,満州国(日本),モンゴルの間で,必ずしも合意できていなかった。

ソ連軍はモンゴルに駐屯していたが,その不明瞭な国境で,ハルヒン河にモンゴル軍兵士をパトロールに出し,満州軍国境監視哨と銃撃戦になった。実際には100名もいなかったようだが,日本軍は,現地から700名の捜索隊が越境してきたと報告をうけると,断固排除することを命じる。そこで,倍する兵力で攻撃を仕掛けたが,それを,ソ連側は,威嚇攻撃として,反撃してきた。こうして,ハルハ河を挟んで,植田謙吉隷下の日本軍とゲオルギー・ジューコフGeorgy Zhukov)が指揮するソ連軍が戦闘を開始したのがノモンハン事件(第一次)である。

写真(右):ソ連の主力戦車BT-5(1939年頃?):粛清後のソ連軍では,命令絶対で,政治委員による稚拙なっ作戦指導をした。1939年8月には,毎日のように100両以上の戦車を日本軍陣地に突撃させたが,航空機や歩兵との連携がとれず,日本軍の砲撃にあって大損害を出した。1939年8月極東方面ソ連軍にBT-5,BT-7戦車は370両配備されていたが,214両が撃破されている。(ただし,回収された戦車を含む)

1939年5月13日,満州ハイラルの小松原道太郎第23師団長は,越境したモンゴル兵を撃退すべく、師団捜索隊の1000名近くと満州国軍300名の兵士に攻撃を命じた。日本軍は,満ソ国境紛争処理要綱」の強硬路線にしたがって,国境守備を万全ならしめるために,一気に攻撃を仕掛け田んぼである。これは,ソ連軍の戦意・装備を探る威力偵察程度の意識で行った攻撃化も知れないが,モンゴル軍(日本では外蒙軍あるいは外蒙古軍と呼ぶ)はすぐ退却し,ソ連軍の介入もないと思ったかもしれない。

写真(右):ノモンハンの日本軍主力戦車八九式戦車;短長砲身57mm砲は,貫通力は弱い歩兵砲。装甲も薄く,ノモンハンでは大損害を受ける。1939年8月,日本軍は,戦車は役に立たないと悟ったためか,貴重な戦車を失うことを回避するためか,ノモンハンから戦車を撤退させてしまう。

モンゴル軍総司令官ホルローギーン・チョイバルサンKhorloogiin Choibalsan)元帥は、国境警備隊にハルハ河で日本軍を阻止するよう命じ、モンゴル第6騎兵師団を派遣し,ソ連軍とともに,日本軍捜索隊の撤収後の東岸に陣地を気づいた。そこで,日本側の主張する国境に入り込んだ敵を撃退するために,小松原道太郎師団長は再び岸のソ連軍・モンゴル軍を兵2500名で攻撃する。これは,航空機も使用する越境攻撃である。

激戦の中,日本軍の出動した兵力の半数が死傷する大損害を受けたが,ソ連側も同じように大きな被害を受けた。そこで,日本軍は撤退し,ソ連軍も5月30日にはハルハ河西岸に撤退した。こうして,第一次ノモンハン事件は終了したが,日本軍は,これでソ連側は再度の越境をしてこないと判断したらしい。

写真(右):ノモンハンに出動したに日本陸軍歩兵部隊;1939年5-8月。九二式重機関銃を射撃するまねをしている演出写真であろう。後方には,ソ連軍のBA-10装甲車が破壊されて構図をきめ,兵士はみな頭を上げており,ポーズをとっている。

後に現地に赴いた辻政信参謀(後にガダルカナル攻撃時の参謀,戦後は参議院議員)は,「ソ軍の不法越境に対しては周到なる準備のもと、徹底的にこれをこらしめ、ソ軍をおそれせしめ、その野望を初動において封殺撃破す」とした。関東軍としては,ソ連軍が出てきても,反撃下のであるから,日本軍の意図が伝わったと考えた。

現地の植田謙吉軍司令官も同様に 「国境に進入して来るものがあれば、諸官は断固としてこれを撃退せられたい」と述べたが,これらの発言から,ソ連軍に対する日本軍の優位を確信していることが窺われる。断固打てば,戦意のない赤軍は退却するとの思いがあったかもしれない。しかし,ソ連軍より日本軍が兵力で劣勢であることを認識していたから,ソ連軍を恐れているとの認識を,ソ連軍に知られてはならない。劣勢にあっても,果敢に攻撃を仕掛けることで,ソ連軍は日本軍の断固たる姿勢を認識し,国境も安泰になる。これが,満州防衛の戦略であった。

ソ連軍は,6月にハルハ河東岸の国境を守備し,日本軍への反撃を準備するために,ロシア西部にいたジューコフ中将を新たな第一軍集団司令官に任命した。

1937年7月1日,植田謙吉司令官隷下の日本軍はハルハ河の東岸から西岸へ架橋を架け、3日に西岸のソ連軍を攻撃した。ソ連戦車を速射砲と火炎瓶による肉薄攻撃によって100両撃破したというが,ソ連側の資料では火炎瓶攻撃による損害は10%以下で,戦車の多くは砲撃によって撃破されている。また,日本軍の戦車部隊も攻撃に加わったが,鉄条網により移動の自由を奪われ,砲火により撃破された。

7月23日には,日ソの砲撃戦も始まった。これは,日本軍の7センチ半九〇式野砲九二式十糎加農九六式十五糎榴弾砲など充実し他火力での攻撃だったが,ソ連軍はそれを上回る火砲を揃えていた。日本軍よりも豊富な弾薬を準備していたソ連軍は,砲撃戦で日本軍を圧倒したため,前線の日本軍は持久戦を覚悟した。

『アサヒグラフ』1939年7月26日発行は,「ハルハ右岸に敵影なし」と題して「関東軍司令部十一日午後五時差三十分発表=軍はハルハ河右岸に越境挑戦しつつありし外蒙ソ軍に対し,七月二日以来の攻撃により,徹底的打撃を与え,十一日これを国境外に撃攘夷せり」と伝えた。

そして「広茫千里炎天下に敵を追って今待望のハルハ河畔に達す。対岸の敵陣より今尚砲撃が続けられている。しかし,支那事変の黒幕ソ連は又しても我が敵ではないことを実証した。」
日本軍はハルハ河のはるか後方から出撃し,越境したモンゴル・ソ連軍を攻撃したような記事だった。ソ連軍を圧倒した日本軍という虚報は,日本陸軍自体に,軍の近代化を遅らせ,白兵突撃主義を信奉させ続けることにつながった。

単機で低空を飛翔する九七式戦闘機の写真には,「群がる敵機をたたき落として,悠々基地に帰る」と説明がつけられ,「第一次ノモンハン事件以来十一日までにお空中戦闘で我が陸鷲に撃墜された敵機は確実に五百二十九機。」と続けた。

写真(右):ノンハンで撃破されたソ連軍のBA-10装甲車;1939年8月20日のノモンハンでのソ連軍の総攻撃には,装甲車380両配備されているが,損害も大きく,138両が撃破された。BA-20装甲車も配備された80両のうち51.3%の41両を撃破されている。

8月20日早朝,ソ連第一群集団は全正面にわたって総攻撃を開始した。これは,76.2mm野砲160門,105-152mm砲130門,戦車430両,装甲車350両を要した総攻撃である。8月20日から8月30日まで,1日当たり戦車200-300両,多いときには350両もの戦車による突撃である。この機動攻撃によって,小松原師団は壊滅的な打撃を受け,戦線の維持も困難となった。そこで,全滅(という汚名)を避けるため,関東軍軍司令官の命令によって8月31日に,戦線を離脱,退却した。かくして、ソ連軍によって壊滅的打撃を受けた日本軍は、ソ連・モンゴル側の主張する国境線の外に撃退された。

この戦闘には,日本軍の航空兵力として戦闘機77機,爆撃機36機もが参加している。そして,ソ連空軍を圧倒したように伝えられている。しかし、低鉄条網で,日本の戦車は行動を阻まれ,ソ連軍の圧倒的な火力に陸上戦闘では大損害を被った。日本軍兵力7万5000名のうち、死者8440名、負傷者8766名の大損害である。

写真(右):ノモンハンに出動したソ連のポリカルポフI-153Chaika戦闘機;複葉機だが最高速度444km/h,7.62mm機銃4丁装備。1939年7-8月。総生産3437機。

ポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機(bis)の諸元
全長: 6.29 m(6.33 m)、 全幅: 9.13 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)、 主翼面積: 12.9 平方メートル
自重: 1,012 kg、 全備重量: 1,422 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(448 km/h)
実用上昇限度: 7,250 m、乗員: 1名
兵装: ShKAS 7.62mm機銃4丁
爆弾50kg2個またはRS-82ロケット弾6個

写真(右):1934-35年頃,中国空軍に配備されたソ連空軍のポリカルポフI-15 複葉戦闘機の原型となった TsKB-3(?):1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対してポリカルポフI-15 戦闘機を供与した。
The aircraft is TsKB-3 No. 7 (W.No. 33907), prototype built in 1935 with a straight upper centre-plane section. The I-15bis design appeared in early 1937 and prototypes were built in the spring of 1937.
ソ連空軍のI-15シリーズは同系列の複葉戦闘機だが、次のような差異がある。I-15は、ガル翼でエンジンカウリングが短い。I-15bis (I-152)は、直線翼で、エンジンカウリングが長め。I-153は、ガル翼でエンジンカウリングが長く、引込み脚。
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Title:Polikarpov I-15 - Filename:16_007245.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
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写真はSDASM Archives PictionID:45938961引用。


写真(右):1938-1940年,中国、中国空軍に配備されたソ連製ポリカルポフI-153複葉戦闘機:1937年8月の中ソ不可侵条約に基づいて、ソ連は日本軍に対抗できるように中国空軍に、ソ連空軍の制式軍用機を貸与した。ここには、I-153戦闘機、I-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが含まれ、日本の軍用機に十分対抗できた。
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PictionID:45939176 - Catalog:16_007262
Title:Polikarpov I-153 in China - Filename:16_007262.TIF
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写真はSDASM Archives PictionID:45939176 - Catalog:16_007262 引用。


ソ連は,中国共産党にコミンテルンでは反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,西安事件で中国共産党も国共合作に合意し,蒋介石を釈放認めている。そして,中国国民党への軍事支援を開始している。1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結したソ連は、1937年以降,ソ連製ポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

日独軍事同盟によって,東西を強力な軍事国家に挟まれたソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため,同じ反日の中国との友好を求めたといえる。そして,蒋介石の反共的性格を知りながらも,中国共産党にコミンテルンを通じて,国共合作を促し、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を結んで蒋介石に軍事援助をした。イデオロギーに囚われずに,自国の利益を追求している。独ソ不可侵条約,日ソ中立条約,米英からの援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:対空偽装のために樹木の枝を機体の上に置いて姿を隠している。フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:ポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20616引用。

ポリカルポフ I-15は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻の当日、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。
対空偽装のためにポリカルポフ I-153戦闘機の上に樹木が置かれている。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側につけている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20618引用。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1942年6月12日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻1年後、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
Kuva moottoritorpedovenelaivueen toiminnasta, syvyyspommin pudottamisesta, yhteistoiminnasta lentokoneiden kanssa jne. Suomenlahti 1942.06.16
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:91680引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:中国空軍は、1937年後半からソ連機を輸入したが、当初はポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)複葉戦闘機で、固定脚だった。その後、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機、I-16 戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。中国に譲渡されて4-5年以上は経過しているが、1944年になっても、複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦の機体を保存していたのか、練習機として使用していたのか。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary2引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:中国空軍は、1937年後半から輸入したポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用し、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。中国に譲渡されて4-5年以上は経過しているが、1944年になっても、複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦の機体を保存していたのであろうか。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P.7250, China a引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1引用。

1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてI-15を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてI-15を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1引用。

写真(右):1936年-1938年、ソ連、飛行中のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:大きな空冷星形エンジンを搭載したが、エンジンカウリングの処理は、後年の空冷星形エンジン搭載の新鋭機と同じく、排気ジェットを活用した斬新な設計となっている。エンジン前面の扁平なスピナーや橇式固定尾輪はともかく、尾翼や機尾の処理は空力的に滑らかである。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46167883 - Catalog:16_007289
Title:Polikarpov I-16. T17 - Filename:16_007289.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:46167883 - Catalog:16_007289 引用。

写真(右):1936年-1938年、ソ連(?)、木造の掩体壕から発進一に地上勤務員に導かれて移動するソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:大きな空冷星形エンジンを搭載したために、地上での前方視界が悪く、地上勤務員による誘導が必要になった。エンジン前面にはシャッター式の空気取入れ口の切り欠きがある。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46167922 - Catalog:16_007292
Title:Polikarpov I-16. T29 - Filename:16_007292.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:46167922 引用。

写真(右):1936年-1938年、スペイン共和国政府に供与されたソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:スペイン市民戦争に際して、共和国政府軍側に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。Polikarpov I-153, China, c44-45, Jack Canary
Jack D. Canary Special Collection Photo
PictionID:45939251 - Catalog:16_007268
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, China, c44-45, Jack Canary引用。

写真(右):1936年-1938年、中国国民政府に供与されたソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機に掲げられた中華民国の国旗「青天白日」:日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46167846 - Catalog:16_007286
Title:Polikarpov I-16 - Filename:16_007286.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:16_007286引用。

写真(右):1936年-1938年、中国国民政府に供与されたソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機と中国空軍パイロットのリュウ・チー・スン大佐:カーチスホークIII(Hawk III)を駆って中国空軍第21飛行戦隊でトップエースとなったリュウ・チー・スン大佐は、ポリカルポフI-16戦闘機をも乗機とした。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Title: Col-Liu Chi-Sun by I-16
Catalog #: 01017
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01017引用。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:中国空軍にのソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は1937年11月、日中戦争の華中上空の航空戦に参戦している。
フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

ソビエト空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、中国に対して、金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。ノモンハン事件でこれらの戦闘機、爆撃機がソ連空軍の主力として活躍した。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:全金属製の主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66678引用。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機が搭載したエンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。

1937年の日中戦争で中国空軍が使用し、日本海軍の九六式戦闘機と戦い、1939年のノモンハン事件ではソ連空軍が使用し、日本陸軍の九七式戦闘機と戦った。格闘性能では劣ったが、高速、強力な火力を活かして善戦したようだ。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66679引用。

1930年代後半、ソ連空軍戦闘機の主力戦闘機となったポリカルポフ I-16戦闘機は、1936年のスペイン内戦に共和国軍への軍事援助のために派遣され、ファシスト軍のドイツやイタリアの軍用機と空中戦を行った。そして、1937年の日中戦争にも、中国国民政府に派遣され、中国空軍戦闘機として、日本軍との戦った。特に、第二次上海事件に際して、江南上空で、新型の九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機、渡洋爆撃で喧伝された九六式陸攻など日本海軍機を攻撃して戦果を挙げた。

wikipediaでは、ポリカルポフ I-16戦闘機「いずれの戦闘でも敵方により新しい高性能の戦闘機が現れたことで、不運にもある意味で「やられ役」を演じることとなってしまった」との感想があるが、これは初めての実戦投入1936年から5年以上も経過してからの第二次世界大戦の中盤の時期の出来事であことを忘れている。1939年のノモンハン事件当時、決して日本軍の中島九七式戦闘機と比較して、速度も火力も上回っており、格闘戦闘能力が劣っていても、十分に対抗できた。ソ連空軍は、1943年には、ラボーチキン、ミグ、ヤクの各新鋭戦闘機を前線に配備している。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

中国(中華民国)の空軍は、アメリカから輸入機と軍事・技術顧問を雇い入れてスタートしたが、国共合作(国民党と中国共産党との共闘)がなり、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)以降は、共産主義国ソ連から、全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機を輸入して、空軍力を増強した。これは、国境を接する陸路あるいは黒によるものであり、アメリカから船積みした軍用機を日本の封鎖を突破しながら輸入するよりも迅速に行われた様だ。ノモンハンで日本軍と戦う前に、ソ連は日本軍との戦いの準備、訓練に入っていたともいえる。

写真(右):中国空軍所属のソ連製ツポレフSB-2爆撃機:ソ連は1930年代から多数の航空機を中国に有償譲渡している。

1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。ソ連は、ノモンハンでの日本軍と戦いに至ったが、これは決して予期せぬ事件ではなく、十分に準備されていた戦いだった。

1937年の遅くには、共産主義国ソ連から中国空軍に軍用機が供与された。中国軍は、ソ連空軍の制式だったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。これらの戦闘機、爆撃機は、1939年のノモンハン事件でも大量投入されている。

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141380引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出撃数1000回の生還記念の花輪を地上勤務整備員からもらったクルー。1941年夏頃に鹵獲したと思われるソ連機を2年以上も使い続け、その結果、1000回出撃となった。出撃回数を使用期間で割れば、1日1回から2回は出撃したことが分かる。天候が急変しやすい極北の地での戦いは、精密なレーダー航法が困難だった時代、目標を見失い、府遅着を余儀なくされることも珍しくなかった。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141387引用。

中国国民政府(南京政府)蒋介石は、西安事件後、中国共産党との連携して、抗日戦争を戦う国共合作を認め、共産主義のソビエト連邦との連携を強化しようと、 1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)を締結した。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A):出現当初の1930年代、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れており、スペイン内戦でも日中戦争でも活躍した。合計で6500機も大量生産されている。
Description The Tupolev SB was a very successful bomber design which served with ten air forces and was in service during the Spanish Civil War and WW2. It's Tupolev designation was ANT-40. Of the 6,500 produced, this is the only known survivor. Recovered from the Yuzhne Muiski mountain range in the late 1970's, it was restored by a volunteer group of Tupolev employees and went on display, initially outside, in 1982.
Date 13 August 2012, 07:45
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

中ソ不可侵条約によって、中国はソ連から引込み脚の新鋭高速軍用機のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)、ツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)などを購入し、1937年の日中戦争で、日本陸海軍機と戦った。これらのソ連製の軍用機は、日本機と比較して性能的には遜色なかった。1939年には旧式化していた機材も多かったが、ソ連軍はノモンハン事件にこれらの軍用機を投入している。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A):1934年に試作機が初飛行した機体で、日中戦争が勃発した1937年には全金属製、低翼・単葉の高速爆撃機だったため、日本機による迎撃をかわして被害を小さくすることができた。
Description The SB, known to Tupolev as the ANT-40, first flew in 1934. It was designed as a high speed bomber and had a maximum speed of 280mph, which was faster than fighters of the time such as the Polikarpov I-15 which could only reach 220mph. A successful machine, it was flown by ten countries and was not finally retired from Spanish service until 1950. Despite over 6,600 being built and many surviving the war, this is now the only remaining example.
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A)
Description In 1939 it had force landed during a snow storm near the Yuzhne Muiski Mountain range in the Baikal Region. The remains were recovered in the late 1970’s and restoration was carried out by a volunteer group of Tupolev employees. It first went on display at Monino in April 1982 and after several years outside in all weathers it is now safely under cover in the new Hangar 6B, which has been built behind the main entrance building. At the time of our visit the hangar had not been officially opened to the public, but we were given special permission to access it from Hangar 6A. Central Air Force museum, Monino, Moscow Oblast, Russia. 27th August 2017
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

⇒1937年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争とその背景は,盧溝橋事件・上海事変・南京攻略で詳述した。

日中戦争では、上海でも南京でも,租界には中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が流入してきた。そこで、市内での激しい戦闘、残酷な仕打ちが多数目撃され,アメリカ、イギリス、フランスといった欧米諸国のメディアの映像に残され、本国のメディアにも報告された。タイム,ライフといった有名雑誌も、このような映像や記事を何回も掲載している。それと対照的に、ノモンハン事件は、アメリカ、イギリス、フランスといった欧米諸国のメディアには、報道されないうちに終息した。

ノモンハン事件は,ハルヒン丘の戦闘と呼称されるが,ソ連赤軍Red Armyの第一軍集団の装備(1939年7月20日/8月20日)の配備兵力は,5万2,000名、戦車(主力はBT-5,T-26)438両,装甲車(主力はBA-10)385両、45ミリ以上の火砲559門,トラックなど軍用車両5523両,航空機350機が戦闘に加わった。 1936年のモンゴルとソ連の相互援助議定書に基づいて,ソ連は外蒙古に軍を駐屯させていたのである。

したがって,ノモンハン事件は,満州の日本軍と,モンゴルのソ連軍が,満州国とモンゴルの国境でぶつかった戦闘である。

写真(右):日本陸軍航空隊九七式戦闘機(キ27);1939年7-8月にノモンハンに出動したのと同型。最高速度時速470km,7.7mm機銃2丁装備。

日本側のノモンハン関連写真は,苦戦したためか,少ない。この出典にも「北海道本別町出身の上野氏がこの作戦に参加され持ち帰ったものです。前ページの植渕氏によれば、写真業者が従軍し、兵士相手に一枚1円程度で販売していたそうです。当時の兵士の給料は、10日で1円40銭ということで大変な高額なものでした。」とある。

航空戦も行われ,日本の戦記では,中島九七式戦闘機が速度も旋回性能も勝っていたため,ソ連軍のI-153チャイカ戦闘機,I-16モスカ戦闘機を圧倒したとする。ノモンハンの航空戦では,太平洋戦争よりずっと短期間でも,陸軍航空隊最高のエースが生まれている。陸軍航空隊のトップエースは1939年ノモンハン事件で58機を撃墜した篠原弘道准尉である。太平洋戦争でも篠原准尉を超えるエースは生まれなかった。ただし,当時は,ガン・カメラは装備されていない上に,軍部は,地上戦で苦戦している分だけ,航空戦での勝利を喧伝したかったはずだ。また,敵機が地上に墜落したのを確認するのも,草原では困難であり,空中戦から離脱して,撃墜を確認することも困難である。ソ連側の損害と照らし合わせると,どこの国でもそうであるが,撃墜を過大に見積もる傾向がある。

対地攻撃では,ソ連軍の航空機が活躍した。 ツポレフSB-2爆撃機は,最高速度445km,爆弾等裁量も1tで日本の九七式重爆撃機よりも勝っていた上に,ソ連軍の戦闘機は,爆弾200kgを搭載でき,陣地,飛行場などの小型目標を攻撃できた。

写真(右):ポリカルポフI-16戦闘機10型:最高速度440km/h,操縦席後方に8mm装甲版を装着。7.62mm機銃4丁。ノモンハンで使用されたI-16は5型,6型,10型である。1937年から中国空軍に200機が譲渡されている。

ソ連軍は,第1軍集団を,ノモンハン方面に配備していた。そこには,歩兵師団(ソ連では狙撃師団あるいはライフル師団と呼ぶ)だけではなく,戦車師団もあり,BT-5戦車を中心に日本軍戦車に数倍する400両以上を配備していた。

ソ連軍のノモンハン方面第一軍集団の配備と損害



1.ソ連側の戦車攻撃と損害(1939年8月20日-1939年9月1日)

日時

戦車(台)

戦車(%)

参加

破壊

損傷

回収

修理

破壊率

損傷率

8月20日

210 9 17 20 0 4.29 8.10

8月21日

351 6 15 12 2 1.71 4.27

8月22日

348 14 33 9 15 4.02 9.48

8月23日

270 2 17 12 8 0.74 6.30

8月24日

302 6 14 11 14 1.99 4.64

8月25日

285 63 6 12 8 22.11 2.11

8月26日

253 3 23 3 12 1.19 9.09

8月27日

197 1 7 1 15 0.51 3.55

8月28日

210 1 11 8 7 0.48 5.24

8月29日

171 0 8 5 6 0.00 4.68

8月30日

137 1 5 4 4 0.73 3.65

9月1日

40 0 2 0 0 0.00 5.00

合計

2774 106 158 97 91 3.82 5.70


2.ソ連側の兵員と小火器の配備と損害(1939年8月20日-1939年9月1日)

 

兵員

小銃

マキシム銃

迫撃砲

 

小型砲

 

 

(死亡)

(負傷)

軽機関銃

7.62mm重機関銃

対空機銃

12.7mm機銃

ソ連側兵力

51950

51950

41371

1429

597

99

30

58

225

損害

9703

15952

1390

2264

225

1

8

損害率(%)

18.7

30.7

3.4

158.4

37.7

3.3

13.8



3.ソ連側の火砲・戦車の配備と損害(1939年8月20日-1939年9月1日)
 

火 砲

戦車

装甲車

76mm 野砲

76-152mm火砲

76mm 高射砲

45mm対戦車砲

ソ連側火砲

162

130

87

180

438

385

損害

25

41

20

243

138

損害率(%)

15.4

31.5

11.1

55.5

35.8



4.ソ連側の戦車(形式別)の配備と損害(1939年8月20日-1939年9月1日)
 

BT-5, 7

T-26

T-37

BA-20

FAI

BA-3

BA-6

BA

ソ連側戦車

370

24

15

93

80

9

62

80

損害

214

8

17

19

21

3

44

41

損害率(%)

57.8

33.3

113.3

20.4

26.3

33.3

71.0

51.3



5.ソ連側の車両の配備と損害(1939年8月20日-1939年9月1日)

トラック

特殊車両

自動車 

戦車運搬 

牽引車 

バイク 

ソ連側装備

3276

1285

225

597

140

233

損害

496

99

32

40

25

損害率(%)

15.1

7.7

14.2

28.6

10.7


出所)http://rkkaww2.armchairgeneral.com/battles/khalkhin_gol/1armygroupequipment_jul20.htmおよびhttp://rkkaww2.armchairgeneral.com/battles/khalkhin_gol/1armygroupequipment_aug20.htmより作成。。


写真(左):ソ連赤軍T-37偵察戦車;大砲を装備していない上に,装甲は薄かった。
写真(右):GAZ-AAトラック;ソ連は、アメリカ製フォードトラックをコピーしてGAZ-AAトラックとして制式、量産した。

写真(右):1939年8月日独伊三国軍事同盟の立役者松岡洋右とリンベントロップ外相;1941年ベルリンにて撮影。松岡はこの後,モスクワに赴き,日ソ中立条約の締結に成功する。

松岡洋祐は、1904年に外務省登用試験に合格、入賞し、中華民国の領事官補、満州の関東都督府などに赴任し、その時に、満鉄総裁の後藤新平、三井物産の山本条太郎らと知り合った。そして、寺内内閣の外務大臣後藤新平の下で、総理大臣秘書官兼外務書記官として外交舞台で活躍し、1919年の第一次大戦後の講和会議であるパリ講和会議にも随員として近衛文麿らとともに参加している。これは、外国仕込みの英語能力を買われたためでもあるが、日本外交のスポークスマンとしての活躍を見せた。その後、中国総領事に就任したが、1921年、41歳の時に外務省を退官した。そして、山本条太郎の招きによって、南満州鉄道の理事に就任し、1927年に副総裁となった。しかし、1930年には満鉄を退職して、2月の第17回衆議院議員総選挙に政友会から郷里山口2区で立候補し、当選し、議会では強硬外交を主張した。1932年、国際連盟がリットン調査団報告書で、満州国を認めず不当な対日勧告をしたとして、1933年2月24日、国際連盟脱退の演説をした。

ノモンハンNomonchanの大規模な国境紛争は、1939年8月31日,なんと第二次大戦勃発の直前に停戦となる。ソ連はドイツがポーランドに9月1日に侵攻することを知っていたし,その後,ソ連はドイツとの秘密協定に基づいて,ポーランドの東半分を軍事占領してしまう。英仏の参戦は9月3日で,これは英仏とポーランドとの相互援助条約に基づいたドイツに対する宣戦布告である。ただし,ソ連には宣戦布告していないのであって,外交の権謀術数を見る思いがする。

ノモンハン事件では,ソ連側は死傷者9284名の損害を出したとされていた。しかし,ソ連崩壊後明らかになったソ連側死傷者の数は,2万3,926名であり、その内、死者は6,831名、行方不明1,143名、重傷1万5,952名であった。つまり、日ソ両軍とも大損害を被っている。日本がソ連を恐れたように、ソ連も日本軍の強さを認めざるを得なかった。

4.第二次世界大戦の勃発後,ソ連は欧州情勢を重視し,日本はアジアの英仏蘭の植民地支配を重視する。ともに,極東方面で積極的攻勢に出る必要性は低下した。

図(右):1939年8月23日の独ソ不可侵条約で独ソに分割された東欧;ソ連はバルト三国を併合し、ドイツはポーランド侵攻を開始。ソ連はポーランド東半分を保障占領する。そのご、フィンランドに侵攻する。いずれもノモンハン事件以後、1939年11月までの動きである。

1939年12月28日,「対外施策方針要綱」でソ連に対しては関係の平静化を計り,国境紛争に武力に訴えることなく平和的折衝によって解決を図ることを決めた。このほうしんは,ソ連への宥和政策のように認識されているが,作成に関与したのは,外相野村吉三郎,陸相畑修六,海相吉田善吾という政府首脳陣であり,陸軍参謀本部や関東軍の意向とは相容れない可能性があった。もともと,ノモンハン事件以前から,政府はソ連との戦争はもちろん,武力衝突も望んでいなかったのだから。1937年以来,中国との全面戦争に突入しており,中国に加えて,ソ連と二面戦争をする国力など,日本にないことは自明だった。

日本軍は,ノモンハン事件で負けたとは思っていない。また,勝利できなかった闘いには,再起をかけた復讐戦が準備されるものである。

さらに,グローバルな認識についても,1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し,ポーランドと相互援助条約(軍事同盟)を締結していた英仏が9月3日に,対独宣戦布告をしている。そのような状況で,ソ連軍は,ポーランドの東半分を軍事占領し,ドイツとポーランドを分割する。

写真(左):1939年8月23日,独ソ不可侵条約に署名する外相リンベントロップ;後方には,スターリン,ソ連外相モロトフ。写真(左):独ソ不可侵条約に署名する外相モロトフ;後方には,スターリン,ドイツ外相リンベントロップがみえる。独ソ不可侵条約は,第一次大戦の途中にドイツとの和平条約(ブレスト・リトフスク条約)を締結し,戦争から抜け出たレーニンの精神に沿っているのか。

ポーランド分割占領は,ヒトラーとスターリンであらかじめ合意された独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいていた。ポーランド攻撃は,ポーランド在住のドイツ人(民族ドイツ人)が,ポーランド政府に迫害されていること,離れドイツ領である東プロイセンとの回廊を領土として要求し,拒否されたこと,ポーランド軍によるドイツ放送局の襲撃事件(実際は自作自演)などである。ヒトラーは,生存圏の確保のために,勢力を拡大したいだけであったのか。

しかし,ソ連は,ポーランド占領をしても,ドイツが盾となり,英仏の干渉を受けないと考えたようだ。バルト三国の併合の後,1939年11月には,フィンランドへも「冬戦争」を仕掛けている。

1939年8月23日,独ソ不可侵条約THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT が締結された。これは,
?相互に相手の領土の不可侵,
?一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない
?相互間の紛争の平和的解決
を骨子とした,期限10年の条約である.

写真(右):1939年11月-1940年3月にソ連軍と戦ったフィンランド軍;ソ連は1939年8月にノモンハンで日本軍に攻勢をかけた。その背後で、独ソ不可侵条約を結び、東欧の勢力圏を?大黒で軍拡していた。そこで、バルト三国を併合し、従わなかったフィンランドに攻勢をかけた。これが、「冬戦争」である。この戦いは、1940年にフィンランドの降伏で終わった。しかし、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1941年6月26日に、ドイツと同盟して、ソ連に侵攻した。そして、1942年6月27日にナチス・ドイツを訪問した。これは、同時期のヒトラーによる枢軸国フィンランド訪問に比較して、対ソ連戦争、第二次世界大戦の中で、より重たい意味を持つと考えられる。しかし、ヒトラーのフィンランド訪問、マネルハイム元帥との会談に比較して、現代では、フィンランドでもドイツでも、紹介や解説も少ないままである。


実は,独ソ不可侵条約で最も重要だったのは、秘密議定書の部分である。これは,東欧における独ソの勢力圏を定めた。ソ連の勢力圏は,フィンランド,バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニアのソ連隣接地域ベッサラビアである。ドイツの勢力圏は,バルト三国のリトアニアのごく一部である。そして,ポーランドは分割され,ナレフ川、ビスワ川、サン川を境界として,東西がソ連とドイツに分割されることになった。

ドイツとソ連の間に締結された独ソ不可侵条約は期限10年であるが,1週間後には,ドイツがポーランド侵攻を開始し,遅れて,ソ連もポーランドを占領した。

第二次世界大戦の勃発によって,世界情勢は大きく変化してきており,今後のソ連,米国の動向が注目されていた。そのような時期に,日本としては,好き好んで,独ソ不可侵条約を締結したソ連に攻勢を掛ける必要はない。それどころか,ソ連は,ドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり,欧州方面の安全保障が確保されている。ということは,東欧方面,バルト諸国,フィンランド,極東方面に兵力を集中し,攻撃できるというイニシアチブを握っている。

写真(右):フィンランド陸軍が鹵獲したソ連のBA-10装甲車1939年11月-1940年3月のソ連とフィンランドの「冬戦争」の撮影。ソ連赤軍は,ノモンハン事件と同型の装甲車を使用している。1941年6月22日に、ドイツは、不可侵条約を保護にして、共産主義のソビエト連邦に侵略を開始した。すると、フィンランドは、ナチスと同盟を組んで、1939年の冬戦争で敗北して失ったカレリア地方を奪回し、ソ連ボリシェビキに報復しようと、ドイツと同盟を結んで、1941年7月からソ連に侵攻を開始した。
フィンランド国防軍は、総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥の指揮の下、ソ連相手に善戦し、レニングラードを包囲し、住民を疲弊させ、北部の不凍港ムルマンスクを攻撃して、西側連合軍の補給物資がソ連に届かないようにする作戦を展開していた。つまり、ナチスとフィンランドは、連携して共産主義・ボリシェビキのソ連を屈服させるために共闘しており、密接な軍事同盟関係にあった。



1939年9月1日、ドイツがポーランドに突如侵攻、3日には、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスがドイツに参戦して、第二次世界大戦が勃発した。その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土要求をし、併合する構えを見せた。しかし、フィンランドは、この要求を断固拒否、そこで、ソ連赤軍は、1939年11月30日、フィンランド南部に攻撃を加えた。こうして、フィンランド冬戦争が始まった。

1939年11月30日,ソ連はフィンランドとの「冬戦争」を始める。これは,1918年にソ連に脱出したフィンランドのソ連傀儡O.W. Kuusinenを政府首班とするように要求し,断られると,フィンランドの倍以上の兵力で攻撃を仕掛ける。しかし,フィンランドは,国内での頑強な抵抗に直面する。

ドイツもフィンランドも、ソ連に戦争を仕掛けた1941年の夏、短期間でにソ連が降伏すると考えていた。フィンランドは1939年11月の冬戦争を、一国で戦い続け、ソ連軍の侵攻を食い止めることができた。となれば、1940年6月にフランスを1カ月で降伏させた世界最強のドイツ軍の加勢を受ければ、ソ連を速やかに打倒できると考えても不思議はない。さいかし、1940年末、ドイツ軍はモスクワ攻略に失敗し、モスクワ前面でジューコフ将軍率いるソ連軍に大敗した。これは、旭東方面に配置されていた対日戦争用の極東軍を配置転換し、兵力を増強できたこともあるが、基本的にソ連軍の予備兵力が膨大で、その軍需生産能力(エネルギーから兵器まで)が強大だったことが要因である。戦術的失敗のために、1939年の冬戦争ではソ連軍はフィンランド軍に苦戦したに過ぎなかった。

写真(右):フィンランド空軍のオランダのフォッカー戦闘機1939年11月-1940年3月のソ連とフィンランドの「冬戦争」の撮影。フィンランド軍は,1918年以来,青の鉤十字を国籍マークとして使用している。自前の戦闘機はないので,英国、オランダ,イタリア,米国などから輸入して使用した。1939年のソ連との冬戦争の際、フィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなく、長期戦となれば敗北は明らかだった。そこで、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。この復讐戦が、マンネルハイムが1941年7月に始めた「継承戦争」である。

スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。

フィンランド軍のシンボル・マークは,「フィンランドの青い鉤十字」The Finnish blue swastika である。これは,スウェーデン系フォン・ローゼンCount von Rosen一族の幸運の家紋であった。ローゼンは,1918年,フィンランド独立戦争(ロシアより)に際して,フィンランド白衛軍 "White Army"に,初めて飛行機を贈与した。そこで,フィンランド空軍のマークに採用され後に陸軍も採用した。しかし、鉤十字はナチスの紋章であり、悪の象徴とさていたことから、第二次大戦後、フィンランドは、白地に青十字のマークに変更している。

共産主義者の野心を憎んだ英仏は,スウェーデンに軍を展開して,フィンランド軍を援助する姿勢を見せる。すでに,10万名の死傷者を出していたことに加え,英仏の介入が,ソ連を孤立化させてしまうと悟ったスターリンは,1940年3月12日,フィンランドとの和平条約に調印する。ここでは,ソ連に隣接したフィンランドのカレリア地峡Karelian Isthmus を領土として編入したが,傀儡政権の樹立は諦めた。フィンランドは,失地回復を目指して,軍備を拡大する。

写真(右):フィンランドの首都ヘルシンキ:1939年11月30日撮影。ソ連赤軍は,都市を無差別爆撃した。つまり,1939年には,スペイン(ゲルニカなど),中国(南京,上海など),フィンランドで,さらにイタリア空軍によってエチオピア(アジスアベバ)でも多分,都市無差別爆撃が行われている。フィンランドを民主主義国として、横暴な大国ソ連ボリシェビキ(Bolshevism)抵抗した勇敢な国家として、高く評価する識者が多いが、その一方で、ナチス・ドイツに積極的に出かけ、共闘していたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の姿は、隠されている。1942年当時、アメリカは参戦したものの、ヨーロッパでナチス・ドイツの主要な軍事的圧力を受け、ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げていたのは、ソビエト連邦であり、イギリスはドイツ軍をソ連に向かわせて安心して軍需生産に励んでいた。
ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルに第二戦を開くように要求したが、チャーチルは、脇道でしかない北アフリカで手いっぱいだとして、ヨーロッパ反攻を先延ばしして時間を稼いでいた。イギリスにとって、国益を守るためには、共産主義のソ連をドイツと正面から戦わせて、両者に犠牲を強いるのは理にかなったことであり、戦略として当然だった。



ノモンハン事件よりも大規模な本格的な戦争である。日本の歴史では,触れられることが少ないが,フィンランドに侵攻するつもりで,ソ連は極東方面では一時休戦の構えを取ったといえる。

日本が中国との全面戦争に突入している以上,大国(英独仏,中国,米国)との戦争に巻き込まれていないソ連は,日本に対して,有利な立場にあった。しかし,ヨーロッパに於ける戦乱の予測と,対ファシズム宥和・ドイツとの軍事的対立回避を優先し,ポーランドの独ソ分割を密約していた。
日本にも,ソ連にも,局所的な戦闘だったノモンハン事件よりも,第二次大戦開始後の世界の動きのほうが,より大きな影響を与えたことは間違いない。両国とも,ノモンハン,モンゴルを巡って,大規模な軍事的対立を続けることは,日本にとっては,対中国戦争,ソ連にとっては,対ヨーロッパ戦争準備にとって,大きな負担となってしまう。日ソ両国とも,ノモンハンでの軍事衝突を,はやく解消したいという動機があった。

ノモンハン事件は,ソ連と日本双方が,国境を境にして,武力衝突を起こし,お互いの軍事力を高く評価したことが,第一の意義として認められるであろう。そして,ソ連も日本も,国境から大きく外れて地上軍を侵攻させることはなく,武力が抑止力となると改めて再認識したといえる。

写真(左):パリを唯一度だけ訪問したヒトラー総統;1914-1918年の第一次大戦の西部戦線でヒトラーは,英仏軍相手に最前線で勇戦したが,ドイツ国内の裏切りで敗北したと感じる。しかし,復讐戦に勝利した。1940年6月にフランスを降伏させ,エッフェル塔,ナポレオンの墓も見学した。右は、彫刻家アルノ・ブレーカー、は,後に軍需大臣となる建築顧問アルベルト・シュペーア。

したがって,ノモンハン事件によって,ソ連の兵力に恐れをなし,「対外施策方針要綱」のように宥和政策に転換したとの見解は,
?日本は,中国とソ連と同時に戦うだけの兵力はないと以前から認識していた,
?第二次大戦の勃発で欧州の動向が不確実になった
?ソ連は,ドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり,欧州方面の安全保障が確保されており,極東方面に兵力を集中できた,
という3点を無視しており,誤りである。


1940年に入ると,このようなグローバルな認識から,日本からソ連との不可侵条約締結の動きが表面化する。
1940年5月には,ドイツ軍はベルギー,オランダを攻撃し,6月22日には,フランスも降伏させてしまう。この電撃戦の成果のおこぼれを期待した日本は,火事場泥棒よろしく,フランス植民地のインドシナに大規模な日本軍を派遣することを考え始める。産業界もオランダ植民地のインドネシア(蘭印)石油,石炭,スズなど地下資源に注目しはじめる。日本の関心は現在の東南アジア地域に向いてきたのであり,日本は南方熱にうかされたように,東南アジアへの進出・進駐を期待するようになる。

ここにおける重要事項は,日独関係である。日本は自力でフランス,オランダを攻撃,降伏させたわけではないし,仏印,蘭印には,植民地政府,軍も残存している。したがって,植民地を治める本国政府,それを降伏させたドイツとの関係を無視して,植民地に軍を派遣したり,経済的支配を目論んだりすることは,ドイツとの関係悪化を招来する。

そこで,1940年9月27日に,近衛文麿内閣は日独伊三国軍事同盟を締結する。この同盟締結の目算がついていた9月23日には,フランス領インドシナ北部(北部仏印)に日本軍を派遣している(北部仏印進駐)。

1940月,米内光政内閣のソ連への中立条約の検討要請を引き継いで,1940年7月には東郷茂徳駐ソ大使が,日ソ中立条約を提議した。また,次の近衛文麿内閣では,独ソ不可侵条約,日独伊三国軍事同盟の存在を踏まえて,日ソ不可侵条約を提議している。
しかし,ソ連の外相(ソ連では外務人民委員)モロトフは,日露戦争の失地回復を放棄した不可侵条約はありえないとする。ソ連は,独ソ不可侵条約の締結によって,日本との同盟関係を必ずしも必要としなくなっていたのである。

写真(右):1939年と1941年の2度にわたってソ連と戦ったフィンランド軍マンネルハイム元帥;「冬戦争」でソ連の攻撃からフィンランドを防衛したが,ソ連にカレリア地峡を取られてしまう。この失地回復のため,独ソ戦とともにソ連を攻撃。フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月4日の誕生日にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統の表敬訪問を受け、彼も誕生会に招待し、対ソ戦争について会談した。そして、6月27日、ドイツの東プロイセン州ラス店ブル区の総統大本営「狼の巣」を訪れ、そこで開かれていた最高指導作戦会議に出席した。マンネルハイムは、総統大本営のヒトラーを訪問しばかりではなく、引き続いて、列車でドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも馳せ参じて、彼の下で祝宴に参加している。マンネルハイム元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。しかし,1944年早々にソ連と和平する変わり身の早さを見せた。

しかし,世界情勢は変転する。ドイツは,英国との戦争には勝利できないでいたが,これは米ソの存在のためである。ヒトラーは,
?英国が米国の武器や軍需物資の供与を受けていること,
?共産主義のソ連がドイツに無言の軍事的圧力を加えていること,
この2点のために,英国はドイツに降伏しないと考えていた。確かに,共産主義のソ連はドイツにとって脅威である。そして,ソ連の国土に存在する資源・農地・労働力は,ドイツにとって,利用価値がある。つまり,ソ連ソ占領することでドイツの東方生存圏ガ確保できる。このことは,すでにヒトラーの著書『我が闘争』でも公開されていたし,ドイツの基本方針であった。スターリンのソ連もそれは承知しているが,英仏,米国,日本との勢力バランスを考えて,ファシズム,反共産主義のドイツと不可侵条約を結んだ。独ソの間に信頼関係はもとよりない。

1941年になると,チャーチル,ゾルゲなど外国からの秘密情報,ソ連の情報機関,ドイツの情報機関の裏切りなどから,スターリンの手元には,ドイツのソ連侵攻が迫っているとの情報が届いていた。しかし,これは,英米の策謀かもしれない。ソ連にドイツを攻撃させ,自分たちが嫌悪感を抱いているニ大陣営,ファシズムと共産主義が殺し合うように仕向けているのではないか。

写真(左):ドイツ総統ヒトラーと外相リンベントロップ;1941年ごろ。松岡は二人に会い,日独伊三国軍事同盟にソ連を加える四国同盟案を提起するが,二人に関心はなかった。

1941年2月,日本の外相松岡洋右は,南方に侵攻する際の障害となる英国を打倒するために,ソ連を日独伊三国軍事同盟に加盟させる四国同盟案の可能性を模索する。これによって,日本は極東方面のソ連兵力の脅威を取り除き,中国との戦争を続けつつ,英国の植民地であるマレー,ビルマを攻撃し,資源を手にいれ,中国への援助物資を遮断できる。

外相松岡洋右は訪独し,外相リンベントロップJoachim von Ribbentropと交渉するが,ヒトラーは既にソ連攻撃を決意しており,四国同盟には関心がない。しかし,松岡外相が,ドイツからの帰途,モスクワに立ち寄った際,スターリンとの直接交渉によって,なんと「日ソ中立条約」の締結に成功する。

ソ連にとって,ドイツが共産主義ソ連を憎悪し,東方生存圏を提供できるソ連を,いずれ攻撃してくることは確かであった。スターリンは,ソ連西方からの脅威を意識して,急遽,極東方面の安全保障,すなわち日本との中立条約を有用と判断したのである。第二次大戦の勃発で,日本が南方熱に浮かされており,北方のソ連へ攻撃してくる可能性は低い。しかし,日独伊三国軍事道目を重視すれば,ドイツのソ連侵攻とともに,日本もソ連に攻撃を仕掛けてくる可能性がある。そこで,日本を,中国と東南アジアに侵攻させるために,北方の安全保障を約束したのである。ソ連の優先事項は,ドイツ,欧州方面であり,極東方面は二次的でしかなかった。日本にとっても,優先されるのは南方侵攻であり,満州以北ではなかった。共産主義国家とファシズム天皇制国家との国益は一致した。

戦略ことをは変わっていないことを無視して,望むようになったと評価するのは,既にを受けと荒れているが,

写真(左):アメリカ海軍の重巡洋艦旗艦「オーガスタ」がウラジ・オストークを訪問(1930年代後半):米国極東艦隊の旗艦の艦上で交歓するロシア海軍水兵と米国海軍水兵。ともに日本の憎むべき敵国人である--,とされていた。

5.ドイツの攻撃を受けていたソ連は,ソ連極東地域の安全保障のために,中国に軍事援助をするだけでなく,日本を牽制するために,日米開戦を画策するようになる。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。しかし,共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。ソ連は1930年代末には,バルト三国を併合し,フィンランドに領土要求を拒否されると,戦争を仕掛けるなど,英米の反感を買っていた。英国首相チャーチル自信,反共主義者である。しかし,敵の敵は見方であるとして,悪魔とも手を結ぶことを厭わないと公言した。もっとも忌むべき敵は,ナチスドイツである。そこで,英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込む補給作戦を開始した。

ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にとって,英米の支援物資は役に立ったが,依然として,極東からの日本の攻撃が危惧される。ソ連としては、欧州で戦っている以上、極東でも戦火を交える二正面戦争は避けなくてはならない。そこで、日米開戦を説に望むようになる。日中は全面戦争に突入していたが,中国だけでは極東における日本の軍事力行使を牽制できないと読んだのである。そこで,日米開戦が望まれる。

日米開戦となれば、既にソ連を支援している米国が、ソ連の味方になる。そして,米国の日本への軍事行動によって,日本はソ連への攻撃を抑制し,米国に反撃せざるを得ない。つまり,日米開戦は,極東地域のソ連の国防に大いに寄与することになるといえる。

6.1941年11月の米国の日本への最後通牒ハル・ノートの起草には,米国大統領ルーズベルトの開戦の意向に,ソ連の謀略が加わり,中立国米国と日本との開戦が促された。

写真(右):日本陸軍航空隊の三菱九七式爆撃機(キ21)(1940年頃):重爆撃機といっても爆弾等裁量は800kgに過ぎない。全幅22.5m,全長16m,翼面積69.6m²,全備重量1.1t,乗員 7名,最高速度478km/h,航続距離 2400km,エンジン1500馬力×2,武装: 7.7 ミリ機銃 ×5(前方 1、後下方 1、後側方 2、尾部 1)、12.7ミリ機銃 ×1(後上方)

ソ連が日米開戦を望む中で、「ハル・ノート」にまつわる諜報活動が行われる。ソ連のスパイであったハリーホワイトは、ハル・ノートの起草、さらに財務長官モーゲンソーの腹心として、戦後ドイツの非軍事、農業国化を企図した「モーゲンソー案」を作成した人物である。しかし、ホウィトは、戦後1948年の米国下院「非米活動委員会」において、E・ベントレーとW・チェンバース(いずれも元米国共産党員)ソ連の諜報員(スパイ)であると告発されてしまう。しかし、ホワイトは公聴会でソ連スパイ疑惑を否定し、その直後、不可解な死を遂げてしまった。

最近公開された米陸軍電信傍受機関のソ連暗号解読資料「VENONA資料」によってホワイトが「ジュリスト」「リチャード」というコードネームを持つソ連のスパイであったことが判明した。とすれば、ホワイトが起草に関わったハル・ノートは、日本に対米戦争を仕掛けさせるためのソ連の策謀に利用されたと考えられる。

 写真(右):ソ連軍のI-16戦闘機部隊;1939年7-8月ノモンハン事件でも,日本軍と航空戦を演じた。写真は1941年ロシア東部で撮影されたもの。全幅8.9m,全長6.1m,エンジン750馬力,最高速度455 km/h,航続距離650km,武装7.62ミリ機銃×4.

第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年にはレントアンドリース法によって,船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を99年間の期限で貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、議会の承認を得ずに,密かに「参戦」した。

6.日本の対中国戦争が米国の態度を硬化させた。中国における米英の権益侵害,戦火によるビジネスの衰退、反人道的行為に対する怒りがこれである。

従来から指摘されているが、日米開戦は、ノモンハン事件に於けるソ連の脅威の認識,対照的に,中国の軍事力を過小評価した1937年の日中戦争の拡大を抜きには,語ることはできない。大日本帝国の対米英戦争は,対ソ戦,対中国戦とをにらみながら戦われたのである。
⇒米国は,機会均等の原則を掲げながらも,当初は,中国に不平等条約を押し付け,権益の維持・拡大を図った。また,中国の共産勢力を敵視していた。しかし,日本の大陸侵攻が進むと,米国の対中認識は好転した。このような米中関係は,「義和団の乱から盧溝橋事件にかけての対中認識の変化」を参照されたい。
また,米国の太平洋戦争に備えた戦備拡充については米国の戦時動員で詳述した。

写真(右):ノモンハン方面のソ連軍最高指揮官ジューコフ将軍;ノモンハンの戦闘での功績が評価され,後の独ソ戦では,ドイツ軍への反抗作戦を指導し,ベルリン陥落という偉業を成し遂げた。しかし,それゆえにスターリンの反感を買った。

"The Government of the United States has decided to withdraw the American Marine detachments now maintained ashore in China, at Peiping [Beijing], Tientsin, and Shanghai. It is reported that the withdrawal will begin shortly."
President Franklin D. Roosevelt, Press Conference, 14 November 1941

米国のルーズベルト大統領は,1927年から中国に駐屯していた第4海兵隊を1941年11月14日に,撤退させると公表しており,これでソ連は,米国が日本との戦争を決意したのではないかと,感づいたであろう。日本にも,ゾルゲや尾崎など有能な間諜(スパイ)が,近衛,木戸など政府要人から直接得た情報を提供してくれていたのであるから。



ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車

VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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