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◆イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機 写真(右)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機(前期型)チコーニャ(Cicogna:コウノトリ):双尾翼式の双発機で、垂直尾翼と水平尾翼に第二次大戦突入前のイタリア三色旗トルコローレの緑白赤の華麗な国籍マークを描いている。主翼には、黒縁白丸にファッシ3本というファシスト・イタリア空軍の国籍マークが描かれている。1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
写真は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.引用。


図(上)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機(後期型)チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の側面構造図:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。



写真(上)1940年6月以降,イタリア、イタリア空軍フィアット(Sparviero)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の戦列
;1936年2月10日初飛行、1939年から部隊配備された。生産機数は合計600機。前期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段だが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 M は、二段の機首ガラス風防で数が多い。垂直尾翼のイタリア国籍マークは、第二次大戦参戦後のもので、白の十字が描かれている。
Title: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork) Corporation Name: Fiat Designation: BR.20 Official Nickname: Cicogna (Stork) Additional Information: Italy Tags: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
写真は, : San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00090890引用。


写真(上)1940年6月,イタリア、飛行中のイタリア空軍フィアット(Sparviero)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の編隊
;1940年9月に、イタリア空軍フィアットBR.20爆撃機はベルギーに派遣されイギリス本土空襲を実施した。双尾翼式で、胴体後上方に銃座が見える。垂直尾翼のイタリア国籍マークは、第二次大戦参戦後のもので、白の十字が描かれている。
Fiat, BR.20, Cicogna (Stork) Title: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork) Corporation Name: Fiat Designation: BR.20 Creation date: 28.06.1940 Additional Information: Italy Tags: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
写真は,  San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00090890およびEuropeana experience Identifier: GuerraG01-001189 引用。

◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


1.フィアット(Fiat)BR.20 双発爆撃機

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍のフィアットBR.20爆撃機(手前の双尾翼)と奥のイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送:BR.20爆撃機の主翼上面には、3本のファッシをあしらったファシスト・イタリア空軍の国籍記章が見える。BR.20の初飛行は、1936年2月10日、総生産機数は530-600機に達し、SM.79に次ぐイタリア空軍の主力爆撃機となった。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 13 x 18
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_264引用。


毎年恒例のイタリア、ミラノ・航空展示会が、1935年10月12-28日,開催された。そのフィアット社セクションには、ジュゼッペ・ガブリエッリ(Giuseppe Gabrielli)技師の設計で1935年3月18日に初飛行したばかりの新鋭機フィアット(Fiat)G. 18 輸送機試作機が展示された。その胴体下面に置かれた新鋭機の展示説明看板には、G.18の諸元が記入されている。また、18座席ある客室を見学できるように、胴体左側面の昇降口にタラップが掛けられて、見学者が内部を除くことができるように配慮されている。G,18の引込み式ゴム主輪と支柱など降着装置の構造は、アメリカのダグラスDC-2/DC-3輸送機に酷似している。しかし、G.18は9機しか生産されなかった。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたフィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ):1936年2月10日に初飛行したBR.20は、胴体後部は羽布張りであるものの、その他は全金属製で、引き込み脚も備え、当時としては最新の技術を取り入れた機体だった。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo da bombardamento Fiat BR 20 con motore A 80 RC 41
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_211 引用。


フィアット(Fiat)G. 18 双発旅客輸送機は、フィアット(Fiat)A.59空冷星型9気筒エンジン700 hp (522 kW) (排気量27.7 L)2基を搭載した双発輸送機で、アメリカのダグラスDC-2と外見が似ている。1937年2月26日に初飛行したが、発動機の出力が低かったため、換装してフィアットA.80空冷星型14気筒エンジン 1,000 hp(750 kW)(排気量45.72L)2基を搭載した発展型G.16Vが作られ、性能は上々だった。しかし、初期型G.16は3基、発展型G.16Vも6機が製造されただけで、少数が使用されただけだった。ただし、1943年年のイタリア降伏後も残った機体が使用されている。

1935年3月18日に初飛行したフィアット(Fiat)G. 18輸送機は、乗客18座席のアメリカ製ダグラスDC-2輸送機のライバルである。発動機は、当初、フィアット(Fiat)A.59空冷星型9気筒エンジン700 hp (522 kW) (排気量27.7 L)2基を搭載し、3機が製造された。後期型G. 18 Vは、発動機をフィアット A.80 空冷星型14気筒エンジン 1,000 hp(750 kW)(排気量45.72L)2基に換装、出力を向上させたが、これがフィアット(Fiat)G. 18 V輸送機である。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍のフィアットBR.20爆撃機(手前の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送:まだユンカースJu-86K爆撃機は到着していない。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_560引用。


イタリア航空(Avio Linee Italiane:ALI)は1926年ミラノで設立、1928年5月に、ローマ=ミュンヘン間の運行を開始した。そして、1931年にはローマ=ベルリンの航路を開いた。運航を開始した運航を始めた。1938年には、ヴェネチア=ミラノ=ツリン=パリ=ロンドン (Venice-Milan-Turin-Paris-London)の国際航路を運航した。1939年のイタリア航空(Avio Linee Italiane:ALIの保有機数は、合計16機で、アメリカ製ダグラスDC-2 (I-EROS)が1機、フィアット(Fiat)G.18/G.18Vが6機,サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)S.73三発輸送機6機である。1952年末廃業。

前年のフィアット(Fiat)G. 18双発機の経験を生かして作成されたイタリアの近代的な爆撃機が、フィアット(Fiat)BR.20双発機である。初飛行は、G.18より1年遅れの1936年2月10日で、G.18と同じく金属製モノコック構造、引き込み式主輪の降着装置、低翼の近代的な爆撃機だった。機体だった。1936年に勃発したスペイン市民戦争には、ファシスト国民戦線を支援するためにフィアットBR.20爆撃機が派遣され、敵の共和派人民戦線政府のソ連製戦闘機I-15、I-152、I-16の迎撃を受けた。戦訓として、高速だけでは敵戦闘機の迎撃からのpがれることはできず、防御用火力の強化が求められた。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍のフィアットBR.20爆撃機(手前の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上のファシスト国籍記章)、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送:中央奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。ユンカースJu-86は、1934年11月4日初飛行.1935年から1939年までに900機が量産された。Ju-86Kは、輸出仕様なので、アメリカ製プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1690ホーネット(Hornet)空冷星形9気筒エンジン740hp(排気量27.7L)2機を装備している。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_573 引用。


フィアット(Fiat)G. 18旅客輸送機は、フィアット A.59空冷星形9気筒エンジン750hpを装備した原型で3機製造された。その後、出力不足と判断され、発動機を強化したフィアットG.18Vは、フィアット A.80空冷星形18気筒エンジン1,000 hp(750 kW )を装備し、6機が製造された。全金属製低翼機、引込み式降着装置を装備し、ダグラスDC-2に匹敵する斬新なデザインだった。フィアット(Fiat)G. 18輸送機は、イタリアの航空機開発技術水準の高さを示した。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機(手前の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上のファシスト国籍記章)、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送:中央奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。ユンカースJu-86は、1934年11月4日初飛行.1935年から1939年までに900機が量産された。Ju-86Kは、輸出仕様なので、アメリカ製プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1690ホーネット(Hornet)空冷星形9気筒エンジン740hp(排気量27.7L)2機を装備している。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_574 引用。


フィアット(Fiat)G. 18の空冷星形9気筒エンジンから18気筒エンジンに強化・換装した発展型が、フィアット(Fiat)G. 18 V輸送機である。G.18Vは、最高速力400 km/h (250 mph)、乗客用18席、航続距離:1,675 km (1,041 マイル)の高性能機で、アメリカのダグラスDC-2輸送機と比較しても遜色のない性能だった。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(ION)とイタリア空軍フィアットB.50戦闘機(右上)、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送:奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_204 212引用。


しかし、世界市場に売り込むにはフィアット(Fiat)G. 18 V輸送機の信頼性、価格が制約となったようで、アメリカ製ダグラスDC-2のように世界各国から発注を受けることはできなかった。生産機数は、フィアット(Fiat)A.59空冷星型9気筒エンジン700 hp 搭載のG.18が3機、フィアット A.80 空冷星型14気筒エンジン 1,000 hp搭載のG.18Vが6機、合計9機にとどまった。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機(左の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上のファシスト国籍記章)、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(ION):中央奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo Fiat G 18 V delle Avio Linee italiane; in posizione sopraelevata aereo da caccia Fiat G 50
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_212引用。


日本陸軍は、1937年7月に始めた日中戦争に際して、川崎キ1双発爆撃機を投入したが、固定脚で低速のうえに、防御火力も弱いこの爆撃機では、戦争を戦うことは困難だった。そこで、既に日本海軍に九六陸上攻撃機をおさめていた三菱に発注された。これが、のちに九七式重爆撃機として制式になる。しかし、新型爆撃機が部隊配備される前の数年間は、ストップギャップとして、先進国の爆撃機を輸入することになった。当初、日本陸軍は、ドイツのハインケルHe111を候補にしていたが、ドイツが新鋭機の輸出に乗り気でなく交渉がまとまらなかった。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機(右奥の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上)、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送(左奥):右端には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)の左翼。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,P_1937_SA_297引用。


1937年の日中戦争に日本陸軍が投入する新型爆撃機に、イタリアのフィアットBR.20爆撃機が新たに候補となった。日本人も、1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会のフィアット社セクションを訪問してフィアットBR.20爆撃機の実機を見たはずだ。そして、この展示会は、イタリア航空機の輸出見本市だったのである。こうして、日本はこの新型爆撃機を100機近く輸入することになったが、これは、フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ初期型で、機首に大型銃座が設けられていた。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア空軍のフィアットB.50戦闘機、右奥のイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機(双尾翼):手前は、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送の左翼エンジン、中央奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Note: In secondo piano, in posizione sopraelevata, l'aereo da caccia Fiat G 50 Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_354引用。


イタリア空軍フィアットG.50戦闘機も、G.18輸送機と同じジュゼッペ・ガブリエッリ(Giuseppe Gabrielli)技師の設計になる。フィアットA.74 RC38空冷星形14気筒エンジン840hp (618 kW)搭載、1937年2月26日に初飛行するので、1937年10月2-17日,ミラノ航空展示会に出品された時期には、試作機はあっても、初飛行前だったことになる。生産期間は1935–1943年で、683機が量産された。

フィアットG.50戦闘機は、マッキMC200戦闘機と同じエンジンを搭載していたが、若干大型で重量も嵩んだために、飛行性能はマッキMC.200よりも劣っていた。しかし、生産統制が厳しくなかったイタリアでは、自社開発・自社生産が当然のこととされており、同じような性能の飛行機を何種類も少数ずつ生産した。これは、訓練、整備、修理・補給の上でも障害になった。日本軍もイタリア空軍と同じように、似たような飛行機や発動機を、陸海軍が別々に何種類も制式するという経済非効率な失敗を繰り返している。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の正面付近で見学する男性訪問者たち:機首回転式銃座(機関銃1丁の銃身)、左翼エンジン、スピナーなしのプロペラ。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,P_1937_SA_157引用。


イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の初期型は、大型銃座を機首に設けたため、機首が大きく角ばっていた。しかし、後期型BR.20Mチコーニャ爆撃機では、機首を流線型に成形して空気抵抗を減少させ、銃座も人力の簡易なものに変更しているので、区別は容易である。日本陸軍が輸入して使用したのは、フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ初期型で、機首に大型銃座が設けられていた。

写真(右)1937年頃,スペイン、スペイン内戦にフランコ将軍の反乱軍・国民戦線側に立って戦ったイタリア空軍フィアットBR.20爆撃機:胴体には黒丸、垂直尾翼には白地に黒×のファシスト・スペインのマークを記入している。
English: An other nice photo of a Fiat B.R.20 of the "Aviazione Legionaria" Date before 1939
Author Unknown author
写真は,Category:Fiat BR.20 File:Aviazione Legionaria.jpg212引用。


スペインでは、1936年の総選挙でマヌエル・アサーニャ大統領率いる人民戦線政府が成立したが、その自由化政策に反対するエミリオ・モラ(Emilio Mola)やフランシスコ・フランコ(Francisco Franco:1892-1975)将軍ら率いる反乱軍が起こり、1936年7月にはスペイン内乱に発展した。すると、イタリアは、エチオピア侵攻に派遣していた軍をスペインに義勇軍としては派兵し、ドイツもコンドル軍団を義勇軍として送った。義勇軍といっても、志願兵からなる民兵とは異なり、正規軍と同じ装備だった。

写真(右)1937年頃,スペイン、スペイン内戦にフランコ将軍の反乱軍・国民戦線側に立って戦ったイタリア空軍フィアットBR.20爆撃機の4機編隊:斑迷彩塗装を施しているが、背景の大地に溶け込んでその迷彩効果を発揮している。国籍マークは、主翼左右両側に白の×十字を描いている。本来は、黒の×だが、敵味方識別をし易いように目立つ白色で描かれている。翼先端も白色で塗装されている。
English: Note the perfect camouflage of these Fiat B.R.20. This solidly-built metallic airplane started his career as a bomber just in Spain on June 1937
Date June 1937
Author Unknown author
写真は,Category:Fiat BR.20 File:Fiat B.R.20-Spanish Air Force after the war.jpg引用。


ドイツは、ムッソリーニの仲介で、1938年、ミュンヘン協定によって、英仏からズテーテン割譲の合意を取り付けた。イタリアのムッソリーニは、1938年のミュンヘン会談で英仏とドイツの調停役を果たしたのである。しかし、その後も、ドイツ総統ヒトラーは、世界新秩序確立を目指し、ポーランドに対するダンチヒ回廊の領土要求や民族同一人の保護の要求を武力を背景に行った。これは平和ではなく、戦争覚悟の武力威嚇の外交であり、第二次欧州大戦の再来が危惧された。

写真(右)1939年頃,スペイン、スペイン内戦にフランコ将軍の反乱軍・国民戦線側に立って戦ったイタリア空軍フィアットBR.20爆撃機(23-23)
English: One of the Fiat B.R.20 of the "Grupo G-23" maked over to the Spanish Air Force after the war. Date circa 1939
Author Unknown author
写真は,Category:Fiat BR.20 File:Fiat B.R.20-Spanish Air Force after the war.jpg引用。


1936年から1938年には激しいスペイン市民戦争で、人民戦線民主派と国民戦線ファシスト派の激しい戦いが繰り広げられてていた時期だった。しかし、イギリス、フランスは「不干渉政策」を採用し、総選挙で成立した人民戦線政府を助けず、ドイツ・イタリアが、ファシスト派に援軍を派兵して内戦に介入していることを放置した。これはドイツの台頭による戦争の脅威を自ら感じ、自国防衛を優先してスペイン人民政府を見捨てからであるた。ドイツのヒトラーは、スぺウィン内戦に介入できない英仏の弱腰を見て取り、堕落、退廃した政府や国民に戦争はできないと考えた。

写真(右)1938年7月以前,イタリア(?)、スペイン内戦にイタリアが参加していた時期、イタリア空軍フィアットBR.20爆撃機の正面
English: An Italian Regia Aeronautica Fiat BR.20 in 1938. Date 1938
Source Flightglobal 9 June 1938, p. 565 [1] Author Unknown author
写真は,Category:Fiat BR.20 File:Fiat BR 20 front view in 1938.JPG引用。


1936年10月、フランコ将軍が反乱軍の総司令官に指名され、総統(カウディーリョ)として国家元首となり、1937年6月にモラ将軍が死ぬと、フランコによるファシスト独裁政権が確立した。1939年1月には、バルセロナを陥落させ、3月にはマドリードを占領して、3月末にスペイン内乱は、フランコの国民戦線政府の勝利で終息した。ファシスト・スペイン国民戦線政府を軍事支援したドイツ、イタリアの航空隊には、胴体後方側面に黒丸、垂直尾翼には白地に黒×のファシスト・スペインのマークを記入している。

写真(右)1937-1940年頃,イタリア、フィアット(Sparviero)BR.20(側面):銃座はあるが、機関銃は装備されていない。BR.20試作機あるいは民間仕様で製造された機体のようだ。垂直尾翼には、イタリア三色旗トルコローレの緑赤白の国籍マークが描かれている。
Fiat BR.20 Cicogna
Title:Fiat BR.20 Cicogna ( - Catalog: 15_003036 - PictionID: 42003009 - Filename: 15_003036.TIF - Image from the Charles Daniel's Collection Italian Aircraft Album.Repository: San Diego Air and Space Museum Archive)
Cautious Company (deleted) 6y: There was a civil modification of this type (Br.20a) that participated in the Istres-Damascus-Paris race, together with the S.79 Corsa Sorci Verdi.
Another civil machine was Br.20L, Reg. I-FIAT, for Rome- Addis Abebba record (called "Santo Francesco")
写真は, : San Diego Air and Space Museum Archive  Catalog:15_003036 引用。

イタリアのムッソリーニが、1938年のミュンヘン会談で英仏とドイツの調停役を果たしたにも拘わらず、それを反故とするヒトラーのポーランドへの強硬な要求は、ムッソリーニを生からせた。ムッソリーニは、1939年8月9日、娘婿の外務大臣チャーノに「戦争を局地的なものに限定することはもはや不可能であり、全面戦争がはじまれば、あらゆるものにとって壊滅的なである」と語り、8月11日、チャーノをドイツ外務大臣リンベントロップ、ついでヒトラーの下に派遣し、ポーランド侵攻に反対であることを伝えさせた。


写真(右)1937-1940年頃,イタリア、フィアット(Sparviero)BR.20爆撃機
(側面):垂直尾翼には、イタリア三色旗トルコローレの緑赤白の国籍マークが描かれている。
機首に銃座が設けられ、銃身が見えるので、民間輸送機ではなく、爆撃機として生産された機体のようだ。
SDASM ArchivesFollow Fiat BR 20
Manufacturer: Fiat BR 20(Stig Jarlevik 6y Well, this is 100% a Fiat BR.20 This is the first prototype MM274 Stig)
写真は, : San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00076034 引用。


写真(右)1937-1940年頃,イタリア、フィアット(Sparviero)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機
(後方):胴体こ後上方銃座の位置に機関銃は搭載されておらず、試作実験機あるいは民間仕様として製造された機体かもしれない。垂直尾翼が小型で、量産型のより大型の垂直尾翼とは異なっている。垂直尾翼の両面に、イタリア三色旗トルコローレの緑赤白の国籍マークが合計4カ所も描かれている。
SDASM ArchivesFollow Fiat BR 20
Manufacturer: Breda Designation: Fiat BR 20
Notes: Aeronautica Militare Italiana
Stig Jarlevik 6y:No This one is much smaller and has typical Fiat fins. I would say this is the Fiat BR 20 Stig
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00076035引用。

1938年、ドイツは、チェコスロバキアのズテーテン割譲を要求し、英仏は戦争回避のために、ミュンヘン協定を結んで、チェコの犠牲の上に戦争を避けることができた。しかし、軍事力を増強し、周辺地域に勢力圏を拡張していたドイツは、英仏との対立を強め、依然として戦争の勃発のリスクが高かった。当時のイタリアの弱点は、大スト政権による国内統一によ拘わらず、軍事力が脆弱なことで、ドイツに比して空軍力は5分の1、工業生産力は12分の1の水準で、海軍力だけがドイツの2倍の水準で上回っていた。


2.第二次世界大戦で戦ったフィアットBR.20爆撃機

写真(右)1940年6月,イタリア北アフリカ植民地、リビア、給油作業中のイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機
Libia Avieri riforniscono un bombardiere dalla cabina
Creation date: 06.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraG01-000072 引用。


イタリアは世界大戦の準備ができておらず、参戦するには軍備を増強する3年から5年の基幹の平和が必要だった。そこで、1939年5月22日のドイツとの軍事同盟、いわゆる鋼鉄条約を結んだ。これによって、ドイツの軍事力を背景に防衛力を育成し平和をしばらく続けようと企図したのである。

写真(右)1940年6月25日,イタリア北アフリカ植民地、リビア、胴体上に乗った地上勤務整備員がイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機に給油している。
Libia Avieri riforniscono un bombardiere dalla cabina
Creation date: 06.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraG01-000076 引用。


1939年9月から1940年4月まで、英仏独は大戦争の最中で、いくら「ファニーウォー」「座り込み戦争」とはいっても、ノルウェー戦や海上交通破壊戦のような激しい戦いもあった。つまり、中立国のイタリアは、英仏にもドイツにも貸しを作ることができる外交上優位な地位にあったといえる。1940年4月12-27日,第二次大戦参戦2カ月前、イタリア、ミラノ・航空展示会が行われ、平時の民間航空の発達や航空兵器の輸出ビジネスの興隆が窺われる。

写真(右)1940年6月25日,イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、未舗装飛行場に整列したイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の戦列
Mondovì Bombardieri Fiat BR 20 schierati nel campo d'aviazione
Creation date: 25.06.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraG01-001385 引用。


1939年大戦勃発4か月前の1939年5月22日の鋼鉄条約は、民主主義国の英仏・米だけでなく、共産主義国のソ連をも牽制するファシスト全体主義国家の安全保障の意味があった。しかし、1939年8月23日の独ソ不可侵条約によって、ソ連ではなく、次の敵として、英仏との戦争が大きく懸念されるようになった。イギリスは1939年8月25日、予定通り、ポーランドとの軍事防衛協定を締結し、ヒトラーはこの日、ムッソリーニにポーランド侵攻を決意したことを伝えてきた。

写真(右)1940年6月28日,イタリア、第二次世界大戦参戦直後、飛行場格納庫前で敬礼するイタリア空軍将校に挨拶する搭乗員、後方にはイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の戦列:燃料用ドラム缶が並んでいるのがわかる。
Italia Alti ufficiali dell'Aeronautica salutano un pilota
Creation date: 28.06.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy Location: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraG01-001187 引用。


しかし、1939年の第二次世界大戦勃発直線、ムッソリーニは、イタリアの戦争準備ができていなことを口実に、ドイツとポーランドとの局地戦争であれば、イタリアからドイツへの経済援助は可能であるが、英仏も含めた欧州大戦に発展した場合、英仏とイタリアとの戦争開始が懸念されるために、ドイツに対する軍事援助はできないことと返答した。実際、ファイスと党幹部もイタリア国民も多くは、第二次欧州大戦が勃発しても、イタリアは参戦しないことを望んでいたのである。

写真(右)1940年6月,イタリア、第二次世界大戦参戦直後、発動機の上に載って燃料をイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機に給油する整備員:コックピットの上には、アンテナ支柱が立っていて、碍子を通してアンテナ線が2本、双尾翼式の垂直尾翼まで張られている。
Italia Un aviere rifornisce un bombardiere dal rotore
Creation date: 28.06.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy Location: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraG01-001272 引用。


他方、ドイツ、ソ連に対する英仏の歩み寄りが不調であることを見抜いていた。ソ連のスターリンは、英仏は、ソ連をドイツに対する対抗力として利用しようとしていると疑った。「英仏は火中の栗をソ連に拾わせようとしている」と考えたのである。そこで、当てにならない英仏の裏をかいて、ドイツと不可侵条約を結んで、数年の平和の期間に軍備拡張をすることができると判断したのである。

写真(右)1940年6月28日,イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、飛行場滑走路に人力で移動、燃料補給準備中のイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の戦列
Avieri lavorano alla manutenzione di un bombardiere BR-20
Creation date: 28.06.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy Location: Italy Sardinia First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraG01-001206 引用。


ドイツにポーランド侵攻を思いとどまるように説得していたムッソリーニとチャーノを待っていたのは、1939年8月23日の独ソ不可侵条約の調印だった。ドイツは、ソ連との不可侵条約によって、ポーランドを片付ければ、東部戦線は起こり得なくなり、東西に二正面作戦を心配することなく、英仏との戦争を進めることができると考えた。

写真(右)1940年7月11-24日,イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、サルジニア、舗装滑走路をトラクターに牽引されて移動するイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機、左後方にはフィアットG.18輸送機(垂直尾翼は1枚):機首銃座下のガラス風防が一段なので、後期型のBR.20Mではなく、初期型のBR.20である。
La torretta superiore con mitragliatrice di un bombardiere Fiat BR20
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002726引用。


イタリアのアフリカ植民地をエチオピアにまで拡張し帝国化したファシスト党ムッソリーニを信頼して、軍事大権、いわゆる統帥権を認めた。こうして、独裁者となったムッソリーニは、この時期、ドイツの対フランス勝利、ドイツ・ソ連の不可侵条約に幻惑され、自ら第二次世界大戦に参戦した。

写真(右)1940年7月11-24日,イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、サルジニア島、ドラム缶の上に乗った地上勤務員からエンジン整備を受けるイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:脇には、燃料用ドラム缶が転がっている。機首銃座下のガラス風防が一段なので、後期型のBR.20Mではなく、初期型のBR.20である。
Avieri lavorano alla manutenzione di un bombardiere BR-20
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy Location: Italy Sardinia First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience GuerraRG00002735 引用。


1940年9月、イタリアは、自国のアフリカ植民地リビアから、西方のイギリス属国エジプトに侵攻した。これは、スエズ運河を占領して、地中海のイギリス海軍の影響力を大幅に低下することを企図したものだった。しかし、イタリア軍は兵力的には勝っていたにも関わらず、イギリス軍の反撃を受けて後退し、1941年2月になると、イギリス軍にリビアの要衝ベンガジを占領されてしまう。

写真(右)1940年7月11-24日,イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、サルジニア島、飛行場滑走路で燃料補給・エンジン整備中のイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の戦列:機首銃座下のガラス風防が一段なので、後期型のBR.20Mではなく、初期型のBR.20である。
Avieri lavorano alla manutenzione di un bombardiere BR-20
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy Location: Italy Sardinia First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002736 引用。


1940年6月、第二次世界大戦にドイツ同盟国として参戦したイタリアだったが、1943年9月に連合国側と休戦、無条件降伏した。しかし、1943年10月には、ドイツを裏切って連合国側に立って再び参戦したが、ファシズムを否定、ファッシの国籍記章を廃止している。その代わり、胴体後方左右側面、主翼左右上下面にイタリア三色旗トルコローレを模した緑、白、赤の同心円を国籍マークとして採用した。

写真(右)1940年7月11-24日,サルジニア島、イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、サルジニア、未舗装飛行場、燃料用ドラム缶を転がして運搬する地上勤務員と待機するイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の戦列
Avieri spingono dei fusti di carburante in un campo di aviazione, il gruppo si allontana da un bombardiere Fiat BR20
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002731 引用。


連合国側に立ったイタリア空軍の国籍指標は、ファシズムを否定し、ファッシのマークは廃止した。その代わり、胴体後方左右側面、主翼左右上下面にイタリア三色旗トルコローレを模した緑、白、赤の同心円を描くようになった。

写真(右)1940年7月11-24日,イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、サルジニア、未舗装飛行場、ドラム缶の上に乗った地上勤務員からエンジン整備を受けるイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機と脇に置かれた爆弾:初期型のBR.20なので機首銃座下のガラス風防が一段である。後期型のBR.20Mの機首ガラス風防は二段で数が多い。
Un bombardiere Fiat BR20 e una serie di bombe e di fusti di carburante in un campo di aviazione
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002728 引用。




1940年6月、第二次世界大戦にドイツ同盟国として参戦したイタリアは、1943年9月に連合国側に降伏し、10月には、ドイツを裏切って連合国側に立って参戦した。その当時のイタリア空軍の国籍指標は、ファシズムを否定、ファッシの国籍記章を廃止した。その代わり、胴体後方左右側面、主翼左右上下面にイタリア三色旗トルコローレを模した緑、白、赤の同心円を国籍マークとして描くようになり、21世紀の現在に至っている。

写真(右)1940年7月11-24日,イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、サルジニア、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の後上方銃座12.7ミリブレダ機関銃
La torretta superiore con mitragliatrice di un bombardiere Fiat BR20
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002729 引用。


イタリアのブレダ SAFAT機関銃は、1930年代から大戦中に主にイタリア空軍機に搭載された航空機用機関銃である後継には7.7ミリと12.7ミリとがある。原型は、アメリカのブローニングM2重機関銃であるが、実包は、ブローニングM1919重機関銃7.62x63mmは、7.7x56mmR(.303ブリティッシュ弾)にランクダウンされ、ブローニングM2重機関銃12.7x99mmは12.7x81mmSR(.50ブリティッシュ弾)にやはりランクダウンされ、軽量化されたものの、射程、弾道安定性、破壊力は原型に劣っている。イタリア空軍フィアットBR.20に搭載されていた12.7ミリ機関銃を無断で流用し日本陸軍が制式した12.7ミリホ103​航空機関銃は、12.7x81mmSR(.50ブリティッシュ弾)にやはりランクダウンされ、射程も破壊力もアメリカの12.7ミリ機関銃より劣っていた。

写真(右)1940年7月11-24日,イタリア、地中海方面、胴体上に乗った地上勤務員から後上方旋回機関銃を整備を受けているイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機
Due avieri caricano una delle mitragliatrici di bordo della parte superiore di un bombardiere italiano
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Mare Mediterraneo
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002703 引用。


それまでのイタリアでは、機関銃はフィアットが受注していたが、これ以後、ブレダでもイタリア軍の機関銃が量産されるようになった。ただし、フィアット子会社のSAFAT(Società Anonima-Fabbricazione Armi Torino)が、ジョヴァンニ・アニェッリ(Giovanni Agnelli)によってブレダに売却されており、フィアットの技術や生産方式は、ブレダに引き継がれている。こうして、イタリアの機関銃は、フィアットではなく、ブレダ-SAFATが担うことになったのである。

写真(右)1940年7月11-24日,イタリア、地中海方面、胴体上に乗った地上勤務員から後上方旋回機関銃を整備を受けているイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機
Due avieri caricano una delle mitragliatrici di bordo della parte superiore di un bombardiere italiano
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Mare Mediterraneo
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002704 引用。


オーストリア帝国の支配の下にあったユーゴスラビアのセルビア人は、支配者と見られたドイツ系を憎悪しおり、セルビア人政治家や高級軍人は、1941年3月27日にクーデターによって摂政パヴルを始めとするぢ親ドイツ政権を倒して、国王ペータル2世を担ぎ出して、親スラブ政権を樹立した。 国だったユーゴスラビアでクーデターが起こり、親ドイツを放逐して、親ソビエト派が実権を握った。新政権はドイツとの武力衝突を望んではいなかったが、ヒトラーは、ドイツを裏切ったユーゴスラビアの激怒し、直ちに1941年4月6日、ユーゴスラビアにドイツ軍を侵攻させ、ユーゴの首都ベオグラードBeograd)を空襲することを命じた。

写真(右)1940年7月11-27日,サルジニア島、イタリアの第二次世界大戦参戦直後、イタリア、サルジニア、未舗装飛行場に待機しているイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機(47-7):胴体後上方の銃座には12.7mmブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃が装備されている。双尾翼には、白十字のイタリア空議運国籍マークが描かれている。
Un bombardiere Fiat BR20 e una serie di bombe e di fusti di carburante in un campo di aviazione
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002730 引用。


写真(右)1940年7月11-24日,ベルギー、ブリュッセル西50キロ、シエーヴル(Chièvres)基地、未舗装飛行場に待機しているイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:手前には多数の燃料用ドラム缶が並んでいる。横倒しになっているのは、転がして人力で運搬するのに便利だからである。イタリアの第二次世界大戦参戦1か月、イギリス本土空襲にイタリア空軍はベルギーに派遣された。初期型のBR.20なので機首銃座下のガラス風防が一段である。後期型のBR.20Mの機首ガラス風防は二段で数が多い。
mediterraneo Bombardieri BR-20 e fusti di carburante in un campo d'aviazione italiano
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940 br>Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy
First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Chievres
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraRG00002737 引用。


写真(右)1940年7月,ベルギー、シエーヴル(Chièvres)基地、イタリアの第二次世界大戦参戦直後、木陰で偽装網をかけて対空偽装を施したイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:馬車が見えるが、これは牧場を飛行場代わりに使用したドイツ軍は、偽装と人の盾として、現地住民の営農を認めたためである。イギリス本土空襲にイタリア空軍はドイツ軍とともに参加した。
mediterraneo Avieri al lavoro attorno a un bombardiere sistemato sotto un albero, sullo sfondo si vede passare un carro trainato dai cavalli
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Belgio
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004680-man0 引用。


写真(右)1940年7月,ベルギー、シエーヴル(Chièvres)基地、イタリアの第二次世界大戦参戦直後、木陰で偽装網をかけて対空偽装を施したイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の機体後方:イギリス本土空襲にイタリア空軍はドイツ軍とともに参加したが、反撃が厳しいので、基地でも手間と時間をかけて森の中に双発機を引き入れて対空偽装に余念がなかった。
mediterraneo Un bombardiere Fiat B.R.20 sistemato in una postazione situata ai confini di un bosco
Creation date: 11.07.1940-24.07.1940
Dataset: 08602_EFG_Instituto_Luce_Cinecitta Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Belgio
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004671-man0 引用。


1940年6月22日、ドイツはフランスを降伏させ、休戦協定を締結した。しかし、翌日6月23日、フランスを脱出しロンドンにあったシャルル・ド・ゴールは、亡命政権として、自由フランス委員会を設立した。その後、1940年6月27日になって、イタリアはフランスと休戦協定を締結している。これは、あくまでもドイツとは別に「並行戦争」としてフランスと戦ったという意思表示であった。

写真(右)1940年9月1-20日,ベルギー、ブリュッセル西50キロ、シエーヴル(Chièvres)基地、木陰で偽装網をかけて対空偽装を施したイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:イギリス本土空襲にイタリア空軍はドイツ軍とともに参加した。
mediterraneo Un bombardiere B.R.20 sistemato in un riparo mimetizzato sotto gli alberi di un bosco
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy
First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Belgio
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004731-man0 引用。


1940年7月3日、イギリス海軍は、ドイツに降伏したフランス海軍艦艇がドイツに利用されることを恐れて、フランス北アフリカ植民地アルジェリアのメルセルケビールにあったフランス艦隊を攻撃した。さらに、イギリスは、1942年5月5日、フランスア南アフリカ植民地マダガスカルのフランス海軍基地も攻撃している。

写真(右)1940年9月1-20日,ベルギー、ブリュッセル西50キロ、シエーヴル(Chièvres)基地、木陰で偽装網をかけて対空偽装を施したイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:イギリス本土から基地に対する空襲が危惧されたため、イタリア軍爆撃機にも厳重な偽装が施されている。
mediterraneo Un B.R.20 sistemato sotto gli alberi e protetto da un telo mimetico e da una barriera laterale
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy
First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Belgio
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004688-man0 引用。


写真(右)1940年9月1-20日,ベルギー、イタリアの第二次世界大戦参戦3か月、木陰で偽装網をかけて対空偽装を施したイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:イギリス本土空襲にイタリア空軍はドイツ軍とともに参加した。
mediterraneo Avieri al lavoro attorno a un bombardiere B.R.20 sistemato in un riparo mimetizzato sotto gli alberi di un bosco
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Belgio
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004720-man0 引用。


写真(右)1941年1月10日、ベルギー西部、ブリュージュ東20キロのエークロ(Eeklo:Eechlou)基地(?)、イギリス本土空襲時期、雨に濡れた舗装滑走路で作戦準備中のイタリア王国空軍第56飛行中隊第85飛行小隊所属フィアット(Fiat)CR.42ファルコ(Falco)戦闘機(部隊番号:7-85);3翅プロペラは停止しておりエンジンを始動する前。
Fasi preparative della missione sulla Manica del 56° stormo del CAI Creation date 10.01.1941 Timestamp created 2020-11-22T21:25:10.106Z Timestamp created 2020-11-22T21:25:10.106Z
写真はEuropeana experience,Europeana Identifier GuerraGuerraIL0001004710-man0引用。


写真(右)1941年1月10日、ベルギー西部、ブリュージュ東20キロのエークロ(Eeklo:Eechlou)基地(?)、イギリス本土空襲作戦、未舗装の隠匿待機場所から木製板を敷いた誘導路に出るイタリア王国空軍第56飛行中隊所属フィアット(Fiat)CR.42ファルコ(Falco)戦闘機;3翅プロペラを手回しで指導しようとするは地上勤務員。後方の避難待機場所には偽装ネットをかけてある。後方の機体のエンジンカウリングは、ドイツ軍と共通の黄色で味方識別マークである。手前の機体にはない。
Fasi preparatorie dell'avviamento di una missione di volo sulla Manica del 56° stormoCreation date 10.01.1941 Timestamp created 2020-11-22T21:25:10.106Z Timestamp created 2020-11-22T21:25:10.106Z
写真はEuropeana experience,Europeana Identifier GuerraGuerraIL0001004712-man0引用。


写真(右)1941年1月10日、ベルギー西部、ブリュージュ東20キロのエークロ(Eeklo:Eechlou)基地(?)、イギリス本土空襲作戦準備中のイタリア王国空軍第56飛行中隊フィアット(Fiat)CR.42ファルコ(Falco)戦闘機;3翅プロペラを地上勤務整備員が回転させエンジンを始動しようとしている。後方の大型格納庫は屋根が低く偽装ネットをかけてある。
Fasi preparative della missione sulla Manica del 56° stormo del CAI con uomini della squadra impegnati ad avviare le eliche Creation date 10.01.1941 Timestamp created 2020-11-22T21:25:10.106Z Timestamp created 2020-11-22T21:25:10.106Z
写真はEuropeana experience,Europeana Identifier GuerraGuerraIL0001004713-man0引用。


⇒写真集Album:フィアット(Fiat)CR.42ファルコ(Falco)複葉戦闘機を見る。

写真(右)1940年9月1-20日,イタリアの第二次世界大戦参戦3か月、ベルギー、ブリュッセル西50キロ、シエーヴル(Chièvres)基地、木陰で偽装網をかけて対空偽装を施したイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:イギリス本土空襲にイタリア空軍はドイツ軍とともに参加した。
mediterraneo Avieri al lavoro attorno a un bombardiere B.R.20 sistemato in un riparo mimetizzato sotto gli alberi di un bosco
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Belgio
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004719-man0 引用。


1940年7月19日、ヒトラーはドイツ国会議事堂で、イギリスに対して平和か全面的破壊の選択をするしかない”と演説、ヒトラーのラジオ放送による対英講和勧告もあっさり無視された。そこで、1940年8月には、ドイツ空軍によるイギリス空軍撃滅のための空襲を本格化した。しかし、ロンドンの造船所や工場などへの精密爆撃では、都市誤爆が起こるのがふつうである。

写真(右)1940年9月1-20日,イタリアの第二次世界大戦参戦3か月後、ベルギー、ブリュッセル西50キロ、シエーヴル(Chièvres)基地、木陰で偽装網をかけて対空偽装を施したイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:イギリス本土空襲にイタリア空軍はドイツ軍とともに参加した。
mediterraneo Un bombardiere Fiat B.R.20 sistemato in una postazione situata ai confini di un bosco
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Dataset: 08602_EFG_Instituto_Luce_Cinecitta
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Belgio
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004683-man0 引用。


イギリス空軍は、ドイツ相手の航空撃滅戦に苦戦していたが、都市誤爆撃の報復として、1940年8月26日にベルリン夜間空襲を敢行した。首都空襲にメンツを潰され怒ったヒトラーは、報復のため徹底的にロンドンを空襲し破壊することを命じた。こうして、航空撃滅戦で始まったイギリス本土航空決戦は、都市爆撃へと変更されてしまった。

こうした中で、イギリス空襲にイタリア空軍が派遣された。イタリア空軍は、主力のフィアットBR.20爆撃機をベルギーのい派遣した。兵力は、護衛戦闘機、爆撃機など150機以上である。そして、1940年10月25日、BR.20爆撃機70機が、イギリス本土空襲に出撃した。しかし、1941年になると、イタリアのバルカン侵攻、特にギリシャ攻撃が滞ってしまったために、ベルギー派遣のイタリア空軍部隊は、随時、引揚げられ、1941年5月には、ベルギー駐留イタリア空軍機は皆無となった。

写真(右)1940年9月1-20日,ベルギー、工場・鉄道の上空を飛翔するイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機:ベルギー上空を飛行中だが、編隊を組んでいないので、習熟飛行訓練の最中であろうか、それとも機体の試験飛行であろうか。
mediterraneo Un bombardiere Fiat B.R.20Ms sorvola una città del Belgio
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy
First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Italy Belgio
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004664-man0 引用。


写真(右)1940年9月1-20日,イタリア、イタリアの第二次世界大戦参戦3か月、飛行しているイタリア空軍第243飛行戦隊フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機と手前は僚機のコックピットガラス風防
mediterraneo Un bombardiere Fiat B.R.20Ms del 243 Stormo in volo su un banco di nuvole
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004659-man0 引用。


写真(右)1940年9月1-20日,イタリアの第二次世界大戦参戦3か月、イタリア、飛行しているイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機と手前は僚機のコップピットガラス風防
Un bombardiere Fiat BR20 e una serie di bombe e di fusti di carburante in un campo di aviazione
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004660-man0引用。


写真(右)1940年9月1-20日,イタリア北部、アルプス・ロンバルディア上空を飛ぶイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機と手前は僚機のコップピットのガラス風防と主翼・エンジン上面:初期型のBR.20は機首銃座下のガラス風防が一段だったが、この後期型のBR.20Mは、二段の機首ガラス風防で数が多い。
mediterraneo Due Bombardieri Fiat B.R.20M del Corpo di Spedizione Italiano in volo sulle alpi
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Italy Alpi centrali Lombardia
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004656-man0 引用。


写真(右)1940年9月1-20日,ベルギーあるいは地中海の上空を飛行中のイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃のコックピット左の正操縦手と操縦桿:イギリス本土空襲にイタリア空軍はドイツ軍とともに参加した。
mediterraneo Un pilota manovra un Fiat B.R.20Ms in volo dalla postazione destra della cabina
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Belgium 50.75° North, 4.5° East Kingdom of Belgium
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004667-man0 引用。


写真(右)1940年9月1-20日,ベルギーあるいは地中海の上空を飛行中のイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃のコックピット右の副操縦手と操縦桿:イギリス本土空襲にイタリア空軍はドイツ軍とともに参加したが、戦火は小さく、被害は大きかった。
mediterraneo Un pilota manovra un Fiat B.R.20Ms in volo dalla postazione destra della cabina
Creation date: 01.09.1940-20.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Location: Belgium 50.75° North, 4.5° East Kingdom of Belgium
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001004668-man0 引用。


写真(右)1940年頃,イタリア、イタリア空軍フィアットBR.20M爆撃機:スペイン内戦に参加して実戦経験を積んだイタリア空軍だったが、第二次世界大戦が1939年9月に勃発した時には参戦せず、1940年6月になってから同盟国ドイツの側に当たって参戦した。初期型のBR.20は機首銃座下のガラス風防が一段だったが、この後期型のBR.20Mは、二段の機首ガラス風防で数が多い。
Description English: Fiat B.R.20M of 242 Squadron, 99 Group, 43 Wing Date 1940
Source Scan of reproduction of original photo, from Italian State Archive Author Regia Aeronautica
写真は,Category:Fiat BR.20 File:BR.20M 242 Squadriglia Colori.jpg引用。


写真(右)1940-1941年頃,イタリア、フィアット(Sparviero)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機のエンジンにプラスチック(ビニール)製大型パイプで温風を送り込んで暖気している地上勤務整備員たち:機首には、蛇の目・頭が描かれていて、その口の部分がガラス風防に覆われた爆撃手席で、爆撃照準器が設けられているはずだ。左端には、エンジンに暖気送る温風機が写っている。初期型のBR.20は機首銃座下のガラス風防が一段だったが、この後期型のBR.20Mは、二段の機首ガラス風防で数が多い。
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Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
Title: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
Corporation Name: Fiat
Designation: BR.20
Official Nickname: Cicogna (Stork)
Additional Information: Italy, maintenance
Tags: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
写真は, : San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00090893引用。

イタリアは、1943年9月に連合国側に降伏し、10月、同盟国だったドイツに宣戦布告した。そして、イタリア空軍の古いファッシの国籍記章を廃止し、イタリア三色旗トルコローレを模した緑、白、赤の同心円を国籍マークとして採用した。

イタリアのファシスト独裁政権の首相ベニート・ムッソリーニは、1939年9月に勃発した第二次世界大戦に1940年6月8日に参戦し、フランスを攻撃した。イタリアは、1940年5月のドイツによるフランス侵攻で、フランスが降伏する直前の1940年6月8日にイタリアは参戦し、フランスに勝利した戦勝国として、フランスの占領の利益を確保しようとした。


写真(右)1940-1941年頃,イタリア、フィアット(Sparviero)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機への小型爆弾積み込み作業をする地上勤務整備員たち
:機首には、爆撃手席があって、爆撃照準器が設けられているはずだ。
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Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
Title: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
Corporation Name: Fiat
Designation: BR.20
Official Nickname: Cicogna (Stork)
Additional Information: Italy, maintenance
Tags: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
写真は, : San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00090892引用。

フィアットBR.20(Fiat B.R.20 Cicogna) 爆撃機の諸元
乗員:5 名
全長: 16.10 m
全幅: 21.56 m
全高: 4.30 m
主翼面積:74.0 m2
空虚重量: 6,400 kg
全備重量:9 900 kg
発動機:フィアット(Fiat)A82RC41空冷星型14気筒エンジン 1,250hp2基
最高速力:432 km/h (250 mph)
上昇時間:4 000 m /14分
実用上昇限度:9,000 m
航続距離:2,800 km
兵装:12.7ミリ ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃1丁、7.7ミリブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃2丁 爆弾搭載量:1,600 kg


写真(右)1940-1941年頃,イタリア、フィアット(Sparviero)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の前で任務の打ち合わせをする搭乗員たち
:機首には、"La Torrida"と記入され、拳銃を持った隻眼の犬が描かれている。
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Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
Title: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
Corporation Name: Fiat
Designation: BR.20
Official Nickname: Cicogna (Stork)
Additional Information: Italy, maintenance
Tags: Fiat, BR.20, Cicogna (Stork)
写真は, : San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00090894引用。

写真(右))1941年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション「労働と兵器」、イタリア空軍イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の機首付近で見学する多数の訪問者たち:背景の大看板には、フィアット航空機工場の3枚の写真が貼られている。
Fiera di Milano - Campionaria 1941 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1941 - 27/04/1941
Misure: 13 x 18
Note: Folla di visitatori in piazza Italia presso l'area espositiva all'aperto della Fiat (allestimento di Mario Sironi). nell'area è esposto il bombardiere Fiat BR 20 Cicogna in dotazione dell'Aeronautica
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,PAL_1941_127引用。


イタリアは、第二次世界大戦に参戦せず、中立を保持し続け、戦争をやり過ごすことができたであろうか。もし中立のままであれば、スペインのフランコ・ファシスト政権と同じく、イタリアのムッソリーニ(60歳)・ファシスト政権もさらにさらに長続きしたかもしれない。

写真(右)1941年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍のフィアットBR.20M爆撃機の機首付近で見学する多数の訪問者たち:機首回転式銃座、左右エンジン、プロペラ。イタリアが第二次世界大戦に参戦して1年が経過していない時期、北アフリカ、ギリシャで勝利した時なので、まだミラノの市民も生活に余裕があったようだ。

Fiera di Milano - Campionaria 1941 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1941 - 27/04/1941
Misure: 9 x 12
Note: Folla di visitatori presso l'area espositiva all'aperto della Fiat in cui è esposto il bombardiere Fiat BR 20 Cicogna in dotazione dell'Aeronautica
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,N_LS_1936-1946_265引用。


ムッソリーニは、戦闘的ファシストとして、盛んにイタリアの国威発揚、戦争を辞さない強い精神力をイタリア国民に求めてきたにも拘わらず、戦争に怯えているのかと疑われ、屈辱的な思いをしていた。ドイツの西方侵攻で1940年6月初旬にフランスが大敗北する中で、ムッソリーニは、ドイツに大打撃を受けたフランスに侵攻し、その降伏を要求し、フランス南部を占領しようとした。しかし、フランス軍の抵抗のために、進撃は停止してしまった。そこで、ヒトラーに頼み込んで、フランスに対する過大な領土要求をしたのである。これを求めるために、ムッソリーニは、戦闘に勝利したヒットラーに会いに出かけた。

写真(右))1941年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション「労働と兵器」、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の機首付近で見学する多数の訪問者たち:背景の大看板には、フィアット航空機工場の3枚の写真が貼られている。飛行機の周りを反時計回りに一周して見学ができる。左奥に続く産業大通りには、大企業のパビリオンが並んでいる。看板の掲げられたこの展示エリアは、マリオ・シローニの設計になる。左後方に多数の訪問者が見えるのが産業大通りであり、産業大通りの右側に、アドリア海安全保障を謳ったパビリオン、INA(国立保険研究所)のパビリオンが見える。
Fiera di Milano - Campionaria 1941 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1941 - 27/04/1941
Misure: 9 x 12
Note: In primo piano folla di visitatori in piazza Italia presso l'area espositiva all'aperto della Fiat in cui è esposto il bombardiere Fiat BR 20 Cicogna in dotazione dell'Aeronautica. L'allestimento dell'area è opera di Mario Sironi. Sul fondo il viale dell'industria con numerosi visitatori e sulla destra del viale il padiglione della Riunione adriatica di sicurtà e il padiglione dell'INA (Istituto nazionale assicurazioni)
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,PAL_1941_113引用。


第二次大戦は1939年9月に勃発していたが、イタリア参戦は1940年6月でまだ中立国だった。1940年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会は、中立国で平和だったイタリア最後の航空祭典だった。航空展では、フィアット社セクションに、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane:ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ENEI)が広場に展示された。展示広場の背後の大看板には「ファシストALI航空は世界を繋ぐ」と書かれていた。そして、拠点ローマから北アフリカ、バルカン半島を繋ぐ国際航路が、平時の偉業として、誇らしく図解されていたのである。

「労働と兵器」大看板の掲げられたフィアット野外展示エリアは、マリオ・シローニの設計になり、迷彩塗装を施したフィアットBR.20双発爆撃機が展示された。この飛行機を正面に見て、左側が「産業大通り」であり、産業大通りの右側には、アドリア海安全保障を謳ったパビリオン、INA(国立保険研究所)のパビリオンが並んでいる。イタリアが第二次大戦に参戦したのは1940年6月で、既に1年経過していたが、枢軸国とソ連との対ソ戦が始まるのは1941年6月以降であり、北アフリカでもドイツ・アフリカ軍団の支援を得て、イギリス軍を攻撃していた時期だったので、イタリア市民も余裕を感じていたのであろうか。戦時にもかかわらず、労働強化、兵役拡大の心配なく、余暇時間を満喫しているのであろうか。

写真(右)1941年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション「労働と兵器」、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の機首付近で見学する多数の訪問者たち:背景の大看板には、フィアット航空機工場の3枚の写真が貼られている。飛行機の周りを反時計回りに一周して見学ができる。訪問客の中で女性は3名程度で、全体では10%未満しか来訪していない。初期型のBR.20は機首銃座下のガラス風防が一段だったが、この後期型のBR.20Mは、二段の機首ガラス風防で数が多い。
Fiera di Milano - Campionaria 1941 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1941 - 27/04/1941
Misure: 13 x 18
Note: Folla di visitatori in piazza Italia presso l'area espositiva all'aperto della Fiat (allestimento di Mario Sironi). Nell'area è esposto il bombardiere Fiat BR 20 Cicogna in dotazione dell'Aeronautica)
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,PAL_1941_361引用。


1939年9月1日に第二次世界大戦が、ドイツがポーランドに侵攻し、それを契機に、9月3日、英仏がドイツに宣戦布告して第二次欧州大戦がはじまった。当初、イタリアは、1939年5月22日のドイツとの軍事同盟、いわゆる鋼鉄条約を結んでおり、ドイツと行動を共にし、参戦するのではないかとの観測もあった。しかし、ムッソリーニは、英仏がイタリアを攻撃することはないと確信し、バルカン半島のユーゴスラビア、アルバニア、ギリシャに対するイタリアの影響力を保持したがった。また、英仏と戦っているドイツは、中立国イタリアがあってこそ資源エネルギーを輸入できるのであり、英仏によるドイツ包囲は、イタリアのために不完全なものであった。つまり、中立国イタリアは、ドイツにとっても、英仏にとっても味方にしたい国であり、国際政治上のムッソリーニ優位性が際立っていると考えられていた。

1941年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット野外展示セクション「労働と兵器」は、マリオシローニが接地したスペースで、イタリア広場(ピアッツァイタリア)に集まった多数の訪問者たちが、イタリア空軍のフィアット新鋭爆撃機の展示を感心して見学している。飛行機の後ろの大看板には、フィアット航空機工場内部の写真3枚が大きく引き伸ばして貼られている。BR.20爆撃機の周囲の歩道を見学者は反時計回りに一周して見物することができる。ミラノ航空展示会の訪問客は、成人男性が大半で、女性訪問客は10%未満であろう。総力戦の下、男性が労働にも兵役にも就かずに、このような娯楽的要素のイベントに多数参加できたのは、イタリアの動員・統制が弱かったからなのであろうか。

写真(右))1941年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、「爆撃機 フィアット BR20」の表示があるイタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の正面付近で見学する多数の訪問者たち:この後期型のBR.20Mは、二段の機首ガラス風防である。他方、初期型のBR.20は機首銃座下のガラス風防が一段で数が少ない。 背景の大看板には、フィアット航空機工場の3枚の写真が貼られている。飛行機の周りを反時計回りに一周して見学ができる。訪問客の中で女性は10名程度しかうつっておらずでは10%未満しか来訪していないと思われる。
Fiera di Milano - Campionaria 1941 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1941 - 27/04/1941
Misure: 13 x 18
Note: Folla di visitatori in piazza Italia presso l'area espositiva all'aperto della Fiat in cui è esposto il bombardiere Fiat BR 20 Cicogna in dotazione dell'Aeronautica
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,PAL_1941_362引用。


1939年9月に勃発した第二次大戦から1年半、フランスがドイツに降伏する直前の1940年6月8日になって、ベニート・ムッソリーニは、娘婿で外務大臣チアーノ伯爵と一緒に、ミュンヘンに到着、アドルフ・ヒトラーと戦争の行く末について話し合った。西側連合国との戦争が始まっても、参戦していなかったイタリアの立場は、狡猾な外交と評価された一方で、戦争のできないファシストとして評判を下げてしまったと考えた。なによりも、ドイツがフランスを降伏させ、そのごイギリスも屈服させてしまえば、ドイツによるヨーロッパ支配という新世界秩序にイタリアも服従するしかなくなってしまう。戦争せず傍観していることは、ドイツの一人天下を承認するに等しく、イタリアの戦後の国際的立場を脆弱なものとする。ムッソリーニは、第二次世界大戦がドイツ勝利で終わったしまう前に、イタリアも参戦し、戦勝国の一翼を担おうと狡猾に考えたのであろう。


図(右)イタリア空軍フィアット(Fiat )B.R.20Mチコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機の三面図
:この後期型のBR.20Mは、二段の機首ガラス風防である。他方、初期型のBR.20は機首銃座下のガラス風防が一段で数が少ない。
English: 3-view drawing of Italian WWII medium bomber Fiat B.R.20M "Cicogna". Italiano: Tavole prospettiche del bombardiere medio italiano della seconda guerra mondiale Fiat B.R.20M "Cicogna" Русский: Три проекции итальянского среднего бомбардировщика Fiat B.R.20M Cicogna Date 16 July 2014, 10:32:44 Source Own work Author MLWatts
写真はWikimedia Commons, Category:Fiat BR.20 File:Fiat B.R.20 3-view.svg引用。

フィアットBR.20(Fiat B.R.20 Cicogna) 爆撃機の諸元
乗員:5 名
全長: 16.10 m
全幅: 21.56 m
全高: 4.30 m
主翼面積:74.22 m2
空虚重量: 6,400 kg
全備重量:9 900 kg
発動機:フィアット(Fiat)A.80 RC 41空冷星型18気筒エンジン1.000 PS (735 kW) 2基
最高速力:432 km/h (250 mph)/高度5000m
実用上昇限度:9,000 m
航続距離:3,000 km
兵装:12.7ミリ ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃1丁、7.7ミリブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃2丁 爆弾搭載量:1,600 kg

フィアットBR.20bis(Fiat B.R.20bis) 爆撃機の諸元
乗員:5 名
全長: 16.10 m
全幅: 21.56 m
全高: 4.30 m
主翼面積:74.22 平方メートル
全備重量:11,500 kg
発動機:フィアット(Fiat)A.80 RC 42空冷星型18気筒エンジン1250 PS (919 kW) 2基
最高速力:460 km/h
実用上昇限度:9,200 m
航続距離:3,000 km
兵装:12.7ミリ ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃1丁、7.7ミリブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃2丁 爆弾搭載量:1,600 kg
生産機数:BR.20 (233機)/BR.20M(279機)


図(上)イタリア空軍フィアット(Fiat )B.R.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機初期型の識別用三面図
:この初期型のBR.20は機首銃座下のガラス風防が一段で数が少ない。他方。後期型のBR.20Mは、二段の機首ガラス風防である。
FIAT "BR-20" Source FIAT "BR-20" Author USGov Military Navy
写真はWikimedia Commons, Category:Fiat BR.20 File:FIAT "BR-20".jpg引用。

第二次世界大戦中、西側連合国では、枢軸国軍の飛行機の識別図を作成し、部隊に配布していた。接近したり、攻撃したりするときの注意点として、胴体後上方銃座、機首前方銃座、胴体下後方銃座に注意を促している。双尾翼式に注目して識別を促している。国籍識別マークは、イタリアのファシストマークと日本の日の丸を比較している。人間の身長をイメージしてスケールをわかりやすく説明している。

全幅:70フィート6インチ(21.49m)、全長52フィート10インチ(16.10m)、最高速力255マイル(410km)/時、高度1万3500フィート(4115m)、とある。


3.フィアット(Fiat)BR.20カタログ・マニュアル

写真(右)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)のカタログ:1937年イタリア航空省刊行のフィアット(Fiat)BR.20のカタログのカバー。
Fiat BR. 20 a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A. - TORINO (1937 Torino Anno XV.)引用。


写真(上)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ):この初期型のBR.20は機首銃座下のガラス風防が一段で数が少ない。他方、後期型のBR.20Mは、二段の機首ガラス風防である。双尾翼式の双発機で、大戦突入前のイタリア三色旗トルコローレの緑白赤の華麗な国籍マークを描いている。1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
写真は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。


初期型フィアット(Fiat)BR.20は機首銃座下のガラス風防が一段で数が少ない。他方、後期型フィアット(Fiat)BR.20 M は、二段の機首ガラス風防である。

図(上)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の側面構造図:双尾翼式の双発機で、日本陸軍も90機輸入して、1938年に日中戦争に投入した。1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
図は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。


図(右)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の上面構造図:1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
図は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。


イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)は、双尾翼式の双発機である。双尾翼式を採用した理由の一つは、胴体後上方の回転銃塔の射撃範囲(射界)、特に真後ろから接近する敵戦闘機の撃退を重視したためである。この回転式銃塔には、1930年代としては非常に強力な12.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁が搭載されていた。

図(上)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体金属製溶接鋼管骨組みの側面構造図:1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
図は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。



写真(右)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の右主翼
:主翼後縁の補助翼は取り外されている。1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
図は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。



写真・図(上)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の尾部の垂直尾翼と垂直尾翼後縁の方向舵の分解図
:1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式図。
図は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。


図(右)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)のエンジンル、3翅プロペラ、エンジンカウリング、エンジンナセル、エンジン取付け架、エンジン集合排気管などの部品分解図:1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式図。詳細な部品まで、分類用通し番号付きで図解されている。
図は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。


写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の主翼後縁に取り付ける補助翼の構造図:1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式図。
図は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41)  AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。


イタリアのフィアット(Fiat)BR.20は、1936年2月10日に初飛行し、スペイン内戦にも実戦投入され、、その高速と強力な防御火力が高く評価された。その後、第二次世界大戦が勃発し、イタリアは三国同盟でドイツ側に立って参戦すると思われたが、非参戦国を選択し、「中立国」ではないが、直接戦闘には参加せず、参戦に向けて、軍備を整備していた。


写真・図(上)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の尾部の尾輪(ゴムタイヤ)とその取付け支柱と部品の部品分解図
:1937年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式図。
図は,CATALOG NOMENCLATORE per FIAT B.R. 20 (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO(1937 Torino Anno XV.)引用。


写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 Cicogna(コウノトリ)マニュアルのカバー:1940年イタリア航空省刊行マニュアルの写真。
Fiat BR. 20 a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio
写真は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


1940年イタリア航空省刊行マニュアルの掲載写真を見ると、1940年6月の第二次大戦突入前のイタリア機の国籍マーク、イタリア三色旗トルコローレの緑白赤の華麗な縦縞を描いているので、写真撮影の時期は、1940年6月以前であることが分かる。

ファシスト・イタリア王国では、西暦のほかに、ファシスト党が1922年10月31日に起こしたローマ進軍、これを契機にしたファシスト・ムッソリーニ政権樹立を記念して、新歴を導入した。

フィアット(Fiat)BR.20爆撃機の1940年刊行のマニュアルにも、Anno XVIII、すなわち18年が記載されている。西暦1940年は「ファシスト政権18年」である。

ただし、ファシスト独裁政権が確立したのは、1924年12月31日のムッソリーニによる独裁宣言の後で、この時からは、統領ムッソリーニの権限が強化され、ファシスト党以外の政党は解散され、一党独裁となった。

写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の側面写真:垂直尾翼に1940年6月の第二次大戦突入前のイタリア機の国籍マーク、イタリア三色旗トルコローレの緑白赤の華麗な縦縞を描いている。中央の白の中央には、イタリア王サヴォイ家の紋章が記入されている。 1940年イタリア航空省刊行のマニュアルの写真。
写真は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


初期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段で数が少ない。他方、後期型フィアット(Fiat)BR.20 M は、二段の機首ガラス風防である。


図・写真(上)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の正面
:前期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段だが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 M は、二段の機首ガラス風防で数が多い。 1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
写真は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINOMINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。



図(上)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の側面図
:前期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段だが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 M は、二段の機首ガラス風防で数が多い。1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINOMINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


図(上)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の正面図:前期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段だが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 M は、二段の機首ガラス風防で数が多い。1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINOMINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


図(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の上面図:1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


フィアット(Fiat)BR.20爆撃機の試作機は、スペイン内戦が勃発した時期の1936年2月10日に初飛行した。BR.20の機体は、全金属製骨格で、引込み式降着装置のついたゴム主輪を採用して、飛行中の空気抵抗を抑える設計だった。これは、1930年中頃としては、高速が求められる戦闘機でも採用されていなかった最新技術だった。

フィアット(Fiat)BR.20は、この高速を活かして,1936年もイストル・ダマスカス間エアレースはレース仕様のBR.20Aが参加した。

フィアット(Fiat)BR.20Lは、1939年にローマとイタリア領東アフリカ植民地の浴びシニア首都アディスアベバとの間の無着陸飛行試験に参加している。

図(上)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の三面構造図:1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINOMINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


図(上)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の側面と断面の骨格構造図:1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の左主翼:主翼後縁の補助翼は取り外されている。1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真, AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A. -TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。



写真・図(上)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体左側面・左主翼の骨格とエンジンナセル下の引込み式降着装置(ゴムタイヤ)とその取付け支柱と部品番号
:1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINOMINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。



写真・図(上)1937年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体左側面・左主翼の骨格とエンジンナセル下の引込み式降着装置(ゴムタイヤ)とその取付け支柱と部品番号
:1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINOMINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。



図(上)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の左右エンジンと引込み式降着装置のゴムタイヤ主輪の取付け図
:1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINOMINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


航空機が地上にある際には、待機するにも離着陸のために地上滑走するにも、ゴム製主輪のついた降着装置が必要である。ただし、水上機では浮舟フロートで、雪上・氷上を滑走路とする機体は、スキー式橇の降着装置を備えていた。


図(上)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の左主翼後方のフラップと胴体左後方側面の搭乗員出入り口扉
:1940年イタリア航空省刊行マニュアルに掲載された公式図面。
図は,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINOMINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の尾部(双尾翼・尾輪): 1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


1940年6月の第二次大戦突入前のイタリア機には、垂直尾翼と水平尾翼に、イタリア三色旗トルコローレの緑白赤の華麗な国籍マークを描いている。中央の白の中央には、イタリア王サヴォイ家の紋章が記入されている。

写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)コックピットの正副操縦士席:左が正操縦士、右が副操縦士で、各々に切り替え式操縦桿がついている。1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真, AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A. -TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)コックピットの正副操縦士席の計器盤:左が正操縦士、右が副操縦士で、各々に切り替え式操縦桿がついている。計器盤の相違は僅かだが、正操縦士の左側が充実している。1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真, AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A. -TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)コックピットの正副操縦士席の中央上部の計器盤とフロントシールド:中央に羅針盤(コンパス)が取り付けられている。1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真, AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A. -TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


フィアット(Fiat)BR.20爆撃機コックピット操縦席は、左席が正操縦士、右席が副操縦士の複式操縦装置がついているが、これは、操縦桿を片方だけ稼働状態にする切り替え式操縦桿である。計器盤の相違は僅かだが、正操縦士の左側が充実している。ただし、中央上部の契機は左右で異なっている。


写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の機首前方の7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁搭載の機首銃座と機首銃座・爆撃手席の内部
:前期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段だが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 M は、二段の機首ガラス風防で数が多い。機首下方ガラス窓に爆撃照準装置が据えつけられている。機銃射撃照準装置は、まだ光像式ではなく、普及していた環状式の簡単なものだった。1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


爆撃機の搭載した防御用の小口径旋回機関銃は、迎撃してくる敵戦闘機を撃墜するというよりも、敵機に反撃しその攻撃戦意を挫き、接近を阻むことに用いられた。しかし、防弾装甲板のない銃座の爆撃機の銃手が、大口径機関銃、多数の機関銃を装備し防弾装甲板・防弾ガラス風防に守られた強力な敵戦闘機と対峙するには、勇気と忍耐とが求められた。

写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体後上方に設置された12.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁搭載の回転銃塔:主翼には、黒縁白丸にファッシ3本というファシスト・イタリア空軍の国籍記章が描かれている。後上方を射撃するに際して、垂直尾翼が射撃の支障になるが、双尾翼式なので、敵機が接近する公算の最も高い真後ろの射撃には障害物がない。 1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)は、胴体後上方に当時としては強力な12.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁搭載の回転銃塔を設けていた。ここから後上方を射撃する場合、垂直尾翼が射撃の支障になるが、双尾翼式なので、敵機が接近する公算の最も高い真後ろの射撃には障害物がないという利点があった。

写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体後上方に設置された12.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁搭載の回転銃塔: 射撃照準装置は、まだ光像式ではなく、普及していた環状式の簡単なものだった。1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体後上方にあった12.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁搭載の回転銃塔は、当時としては大型の銃塔であり、空気抵抗が大きくなった。そのために、後期型では銃塔の高さを抑え、空気抵抗を減少させた形状に変更になった。

写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体後下方の7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁搭載の後下方旋回機関銃銃座:1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。


フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体下面の爆弾倉の後方に、胴体後下方から接近する敵機を銃撃する7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁が据えつけられている。機銃射撃照準装置は、まだ光像式ではなく、普及していた環状式の簡単なものだった。


写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体後下方の7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁搭載の胴体後下方銃座と胴体胴体後下・胴体後下方銃座の内部
:機首下方ガラス窓に爆撃照準装置が据えつけられている。機銃射撃照準装置は、まだ光像式ではなく、普及していた環状式の簡単なものだった。1940年イタリア航空省刊行のマニュアルに掲載された公式写真。
写真,AEROPLANO B.R. 20 (Motori FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA-S.A.-TORINO MINISTERO DELL'AERONAUTICAI(ROMA 1940 Anno XVIII.)引用。



4.フィアット(Fiat)BR.20 M カタログ・マニュアル

写真(右)1940年,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)のカタログ:フィアット(Fiat)BR.20 Mマニュアルだが、フィアット(Fiat)BR.20 マニュアルと全く同じ写真も使われている。写真撮影の時期は、2通りの国籍マークから1940年6月以前であることが分かる。マニュアル刊行年は、Anno XVIII、すなわち18年が記載されているが、これは西暦1940年に相当するは「ファシスト政権18年」の意味である。<

1940年イタリア航空省刊行のフィアット(Fiat)BR.20のカタログのカバー。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


イタリアは、大戦参戦直前の時期、1940年初頭に機首を若干延長し、形状も流線型としたフィアット(Fiat)BR.20 Mが完成した。しかし、搭載したエンジンは同じ、火力も爆弾搭載量も同じで、性能的な差異はほとんどなかった。前期型BR.20爆撃機は233機、後期型BR.20M爆撃機は264機が量産された。

1940年イタリア航空省刊行のフィアット(Fiat)BR.20 Mマニュアルの掲載写真を見ると、1940年6月の第二次大戦突入前のイタリア機の国籍マーク、イタリア三色旗トルコローレの緑白赤の華麗な縦縞を描いているものと、参戦後の白十字を描いているものが混在している。したがって、撮影時期は、1940年6月の前後に渡っている。

フィアット(Fiat)BR.20 Mマニュアルと唱っているが、写真は、フィアット(Fiat)BR.20 マニュアルと全く同じものも掲載されている、これは、輸出や販売用であっても、イタリア航空機生産従事者や空軍兵士用であって、初期型と後期型では同じ構造なので、写真が同一でもは問題にならないと判断されたためであろう。


写真(右)1940年6月以前,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)側面
:前期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段のみだったが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 Mでは、機首ガラス風防が二段となり数が増えた。尾翼に大戦突入前のイタリア三色旗トルコローレの緑白赤の華麗な国籍マ記章を描いている。主翼には、黒縁白丸にファッシ3本というファシスト・イタリア空軍の国籍マークが描かれている。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


前期型BR.20は全長16.176メートルだったが、後期型BR.20Mは全長16.710メートルと65センチ延長されている。前期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段のみだったが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 Mでは、機首ガラス風防が二段となり数が増えた。


図(上)1940年6月以前,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)側面図
:BR.20は全長16.176メートルだったが、BR.20Mは全長16.710メートルと65センチ延長されている。初期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段のみだったが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 Mでは、機首ガラス風防が二段となり数が増えた。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。



写真(上)1940年6月以前,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)正面
:双尾翼式の双発機で、日本陸軍も90機輸入して、1938年に日中戦争に投入した。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。



図(上)1940年6月以前,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)正面図
:双尾翼式の双発機で、主翼には、黒縁白丸にファッシ3本というファシスト・イタリア空軍の国籍記章が描かれている。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。



図(右)1940年7月以降,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)正面図
:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


1936年2月10日に初飛行したフィアット(Fiat)BR.20は、1940年に機首を若干延長し、形状も流線型としたフィアット(Fiat)BR.20 Mが開発された。生産機数は、 初期型BR.20爆撃機は233機、後期型BR.20M爆撃機は264機でほぼ同数の量産だったが、両者の識別上の差異はBR.20の全長16.176メートルに対して、BR.20Mの全長16.710メートルと65センチ延長されている程度であり、飛行性能はほぼ同じである。


図(上)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)胴体側面と縦断面の構造図
:BR.20の全長16.176メートル、BR.20Mの全長16.710メートルで、65センチ延長されている。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。



図(上)1940年7月以降,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体と主翼の上面構造図
:BR.20は全長16.176メートルだったが、BR.20Mは全長16.710メートルと65センチ延長されている。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。



写真(右)1940年7月以降,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)胴体後端と双尾翼式の垂直尾翼と水平尾翼部
:イタリアが第二次世界大戦に参戦した1940年6月以降の国籍マーク、白十字を垂直尾翼に描いている。同じマニュアルの中には、参戦前のイタリア三色旗トルコローレ緑白赤の縦じまを描いている写真もある。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


ユーゴスラビア摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチPrince Paul of Yugoslavia)は、1941年3月25日、フランスを敗北させ西ヨーロッパの支配者となっていたヒトラーのドイツと同盟条約を締結した。


写真(右)1940年7月以降,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)胴体後端の水平尾翼とタブ構造図
:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
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写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


しかし、1941年3月27日、ドイツの同盟国だったユーゴスラビアで親ロシア派セルビア人将校によるクーデターが起こり、親ドイツを放逐して、親ソビエト派が実権を握った。この裏切りに激怒したヒトラーは、1941年4月6日、ユーゴスラビア侵攻を指令し、ユーゴの首都ベオグラードを破壊することを命じた。


写真(右)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)胴体後端の尾輪とそのフェアリング
:尾輪は空気抵抗を抑制するように、流線型の覆い(フェアリング)が付けられている。 1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


フィアット(Fiat)BR.20もBR.20 Mもともに胴体後端の尾輪降着装置は、固定尾輪式で、尾輪は空気抵抗を抑制する流線型のフェアリングで覆われている。このようなフェアリングは、舗装滑走路であれば問題ないが、未整地の滑走路では、泥や砂塵が車輪に絡まって、離着陸時の地上滑走に障害となる事が多い。


写真(上)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)左主翼エンジンナセル・エンジン取付け架と右エンジンナセルへの引込み式降着装置
:主輪は二十四中に支えられており、エンジンナセル効能の主輪スペースに引き上げられ、格納される。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。



写真(右)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)コックピット正面計器盤
:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
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写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ爆撃機は、コックピット左側に正操縦士席が、右側に副操縦士用席があり、各々正副操縦士用の操縦桿が並んでいる。つまり、BR.20は並列式複式操縦装置を備えている。これは、操縦桿を移動するものではなく、あらかじめ正副2本の操縦桿があって、操作を切り替えるタイプである。


図(右)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)コックピット正面計器盤配置図
:飛行機の操縦席の計器盤は、機体の姿勢を表示する水平儀、高度計(気圧によって計測)、速力計(ピトー管に流入する空気圧力で計測)、方位計(磁気コンパスあるいはジャイロ・コンパス)、燃料計、エンジン回転計などがある。
1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式図解。
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写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ爆撃機は、カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃機と同じく左右に正副操縦士の操縦席が並ぶ複式操縦であるが、左の正操縦士の計器盤に比較して、右の副操縦士の計器盤は数がに少ない。これは、右側の副操縦士用の計器が簡略化されたためである。


写真(右)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)コックピット左側の正操縦士席と操縦桿
:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
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写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


飛行機の操縦席の計器盤は、機体の姿勢を表示する水平儀、高度計(気圧によって計測)、速力計(ピトー管に流入する空気圧力で計測)、方位計(磁気コンパスあるいはジャイロ・コンパス)、燃料計、エンジン回転計などがある。


写真(右)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)コックピット右側の副操縦士席と操縦桿
:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
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写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機の正副操縦席は、胴体の左側によっているが、並列式の複式操縦装置で、左右の正副操縦士席の計器盤もほぼ同様であるが、副操縦士計器盤(向かって右)は、若干の計器が省略されている。


写真(右)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)胴体後部の内部
:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
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写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


第二次大戦緒戦で中立を守っていたイタリアは、1940年5月のドイツのフランス侵攻でフランスの命運が尽きようとしていた1940年6月10日にフランスに侵攻した。そして、僅か2週間で、対フランス戦勝利を味わったが、実際の戦闘での成果ではなく、ドイツ軍に敗北したフランスが、イタリアとの戦争を続けられなくなったためであった。


写真(上)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)胴体中央内部と胴体下面爆弾倉・扉(開放状態)
:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


1930年代の爆撃機は、前線近くの敵地上兵力を空襲することが目的であり、大型爆弾を数発搭載するよりも、50キロから100キロの小型爆弾を多数搭載するのが一般的だった。フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機の爆弾倉も、小型爆弾を多数搭載するような爆弾懸架(ラック)であり、爆弾倉・爆弾倉扉の構造は、小型爆弾多数搭載を前提とした構造だった。


写真(上)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の機首銃座と機首の爆撃手席
:爆撃手席の下面は、ガラス窓で下方視界を確保し、爆撃照準器が装備されている。BR.20は全長16.176メートルだったが、BR.20Mは全長16.710メートルと65センチ延長されている。1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


前期型BR.20は全長16.176メートルだったが、後期型BR.20Mは全長16.710メートルと65センチ延長されている。前期型フィアット(Fiat)BR.20は、機首銃座下のガラス風防が一段のみだったが、後期型フィアット(Fiat)BR.20 Mでは、機首ガラス風防が二段となり数が増えた。


写真(上)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体後下方銃座の側面と後下方銃座の内部
:1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


爆撃機が装備している旋回機関銃は、防御火力ではある。しかし、小口径で、数も多いとは言えないために、迎撃・接近してくる敵戦闘機を撃墜するのは困難であった。しかし、機銃により反撃を受けた敵戦闘機は、火力を恐れて戦意を挫かれることがあった。つまり、防御用旋回機関銃の目的は、敵機撃墜ではなく、敵戦闘機の攻撃精神の弱体化である。


写真(右)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)胴体後上方に設けられた回転銃塔
:イタリア航空省刊行のカタログ1937年版と1940年を比較しても、同じ背の高い回転銃塔が掲載されている。に掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


イタリア空軍爆撃機では、防弾装甲板・防弾ガラスのない旋回銃座・回転銃塔が大半だったので、大口径機関銃、多数の機関銃を装備し敵戦闘機が、防弾装甲板・防弾ガラス風防に守られて攻撃してくると、大きな被害を被った。防御する爆撃機の銃手には、より強力な火力で攻撃してくる敵戦闘機と対峙する強靭な神経が要求された。


写真(上)1940年6月頃,イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20 M 爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)の胴体後部の通信手席と航法用の天測窓
:天測窓とは、太陽・星の位置なら方位を推測したり、気流・雲を見て風向・風速を観測したりするのに使用するほか、敵機を警戒するための見張り用窓である。 1940年イタリア航空省刊行のカタログに掲載された公式写真。
Fiat B.R. 20 M a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,AEROPLANO B.R. 20 M. (Motor FIAT A.80 R.C.41) AERONAUTICA D'ITALIA - S.A. -TORINO(1940 ROMA Anno XVIII.)引用。


飛行機でも船舶でも正確な航法には、羅針盤(コンパス)、夜間の星の位置、海面を見ての風向・風速の観測などが不可欠である。


5.サヴォイア・マルケッティSM.79爆撃機

写真(右)1940-1942年頃,イタリア、イタリア空軍サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-79三発爆撃機:ファシスト独裁国家イタリアの国籍マークは、主翼上面と下面にファッシ(束ねた武器)、垂直尾翼にイタリア軍の国籍マークは、緑・白・赤の三色旗の三色旗を描いた。SM-79は雷撃機として、胴体下面に航空魚雷を搭載するもできた。性能は芳しくなかったが、実用性が高く、艦船攻撃にも成果を上げた。
Savoia-Marchetti, SM.79, Sparviero (Sparrow Hawk) Manufacturer: Savoia-Marchetti
Designation: SM.79
- Official Nickname: Sparviero (Sparrow Hawk) Notes: Italy
写真はÖsterreichische Nationalbibliothek,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00087245引用。


サボイアマルケッティSM79爆撃機サボイア・マルケッティSM-79Savoia Marchetti SM.79)は、元来はスピードレース参加用する旅客輸送機機として開発され、原型機は1934年10月に初飛行した。その高性能からイタリア空軍はSM.79輸送機を爆撃機として使用することを考えたが、これはドイツで民間機のハインケルHe-111輸送機、ユンカースJu-86輸送機、Do-17郵便機がいずれも双発爆撃機に転換されたのと同じである。サボイア・マルケッティSM-79爆撃機試作機が初飛行は、1936年7月に初飛行したが、1937年のスペイン内戦に実験的に実戦使用に投入され、その高い飛行性能と信頼性が高く評価された。

⇒写真集Album:サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti )SM-79爆撃機を見る。


6.ファシスト・ムッソリーニ政権の動向

写真(右)1942年3月28日、イタリア、ローマ、ボッカデッラヴェリタ広場、ファシスト・イタリア空軍19周年大会、イタリア軍人父親遺族に記念にメダルを贈呈するイタリア統領(Duce)ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)
Roma Mussolini consegna medaglie alla memoria nel corso della celebrazione del XIX annuale dell'Aeronautica
Creation date: 28.03.1942 Location: Italy Piazza Bocca della Verità Tempio della Fortuna Virile
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22 .
写真は,Europeana experience Identifier: AttualitaA139823 引用。


1943年5月7日、アメリカ軍がビゼルト、イギリス軍がチュニスに突入したことで、チュニジア戦線の枢軸軍は、5月13日には全面的に降伏した。北アフリカ戦線で降伏して捕虜となった枢軸国軍は 27万人と膨大であり、これは3ヶ月前にソ連スターリングラードの敗戦時の2倍以上の規模だった。

1943年7月24日の西側連合軍のシシリー島上陸「ハスキー作戦」で、枢軸国の勝利の希望が持てなくなった状況で、7月25日開催のファシスト大評議会で、クーデーター的にムッソリーニ首相退任要求の決議が採択された。これを受けて、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ムッソリーニを首相から解任し、その直後に警察によって逮捕させた。

1943年7月25日、ファシスト大評議会で首相解任要求が採択され、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によってベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)は首相を解任され、その直後に逮捕された。そして、アペニン山脈山中のホテルに幽閉された。

1943年9月12日,幽閉中のベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を救出するために、1943年9月12日,グランサッソ奇襲ムッソリーニ救出作戦が決行された。

⇒写真集Album:グランサッソからのムッソリーニ救出作戦を詳しく見る。

ムッソリーニ失脚後、後継首相ピエトロ・バドリオ元帥は、ドイツに介入されないように戦争の継続を公約したが、9月2日、西側連合国と密かに休戦協定を結び、9月8日にヨーロッパ方面の西側連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将は、これを公表した。

写真(右)1945年4月29日,イタリア北部、ミラノ、ロレト(Loreto)広場、スタンダード・オイル(Esso)ガソリン・スタンドの梁の上から吊るされたベニート・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)、愛人クラーラ・ペタッチ、ファシスト党書記長アレッサンドロ・パヴォリーニ、ファシスト前党書記長アキッレ・スタラーチェ:イタリアの追随者や高官の中には、最後までムッソリーニ付き従った政治家・軍人が残っていた。彼らは、それまで弾圧されていたイタリアのパルチザンによって、報復され、裁判なしで処刑された。
Milano - Piazzale Loreto - il cadavere di Mussolini esposto accanto a quello di Claretta Petacci e di altri fascisti// veduta animata, folla di osservatori
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia Materia/tecnica: gelatina ai sali d'argento/carta Misure: n.d. Note: Milano - Piazzale Loreto - il cadavere di Mussolini esposto accanto a quello di Claretta Petacci e di altri fascisti// veduta animata, folla di osservatori
Criador Photopress Zürich
写真はRegione Lombardia &LombardiaBeniCulturali -Collocazione: Milano (MI), Raccolte Grafiche e Fotografiche del Castello Sforzesco. Civico Archivio Fotografico, fondo Foto Milano, FM A 436引用。


ベニート・ムッソリーニBenito Amilcare Andrea Mussolini:1883年7月29日-1945年4月28日)、連合国に徹底抗戦した。しかし、1945年4月、逃げ延びようとしたところ、イタリア・パルチザンに引き渡され、彼らに処刑された。

⇒写真集Album:ムッソリーニの処刑(Mussolini Execution)を詳しく見る。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇 サボイアマルケッティSM-79爆撃機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カント(CANT)Z.501飛行艇
カント(CANT)Z.506水上機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.212輸送機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.82輸送機
ピアジオP.108重爆撃機
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑

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